神社仏閣巡り珍道中・改

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2023/06/23 06:04(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3666755 (スレ作成日時)

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No.101

昨日は初薬師さん。
薬師如来さまの一年の初め、最初のお縁日であります。

毎年恒例となって久しい、群馬県みどり市の【光榮寺】さんへと参拝してまいりました。
こちらではコロナ以前には参拝者は皆御本堂へ入ることを許され、御護摩法要に参列させていただけたものですが、コロナ禍となって以降は僧侶の方のみの法要となっております。

このところ、可能なときは朝まだ日の昇らない、一番護摩に間に合うように五時起きをして支度を整え出かけるのですが、今年はなんと夫も参拝するとのこと。
…朝に滅法強い妻と、完全夜型人間の夫。
その、夫の宣言に、私は朝一番のお護摩をあきらめ、朝起きていつもの通りに洗濯を始め、お風呂掃除をしておりました。

ん?
な、なんと夫の寝室のドアの開く音が!
えっ?、ええぇっ!まだ五時半ちょっと過ぎたところですが?

本気だったんだぁぁ!

ええ、先日の同じく群馬県みどり市の【貴船神社】さんへの初詣も
「起きられないから一人で行って」
との賜った夫です。しかもその時の時刻は六時半。
到底期待できず、一人で行こうか、それとも諦めるしかないかとまで思っておりましたものを。

それでも寝ぼけているやもしれない夫に運転させるのはためらわれ、私の(!)運転で光榮寺さんへと向かいました。

コロナ以前には花火の打ち上げの合図のあった光榮寺さんの初薬師大祭も、コロナと共に様変わりを余儀なくされ、花火の合図もなくなりました。

静かな、まだ暗い町、車を走らせていると、海外出張に向かう夫をバスターミナルまで送っていたときのことを思い出します。
…今年はどうなのかなぁ。
アフターコロナの時代が流れ出して、海外出張もまたありそうな話をしておりましたが。


などと考えている間に光榮寺さんのそばまで。

はっ!
駐車場!
こんなそばまで来てしまった!

来年、こんな側では停めるところがなくて、遠くの駐車場から歩いてきていたというのに、…夫と一緒だとどうも調子がくるいます。
(おい!いつもいつもあちこちの神社さんやお寺さんに連れて行ってもらっているであろうに!)




No.103

コロナ禍ということと、たまたま今年は休みの日が当たったこともあり、一番護摩目指しての参拝の方も少なかったようで、通常の光榮寺さんの駐車場に停めることができました。
ホッ。
ここに停められなかったら一番護摩に間に合わなくなるところでした。

駐車場から見ると、何やら篝火が焚かれているかに見えます。

おおっ!
なんと幻想的な!


…。

山門近くまで来て、それが古いお札等を焚き上げるためのドラム缶であったことを知り、ガックリ。
いや、そう思い込んだ自分が悪いだけであろう。


今年は御本堂前に順番に列をなして並ぶ方式をとったようです。



あれ?
あれは…火焔?火焔光背?

おおっ!

なんと!
お不動さまが御本堂前までお出ましになってくださっておられます。

篝火かと思っていたものがドラム缶に焚かれた炎であったことで意気消沈したおばさん、さっさと立ち直り、それどころか思いっきりテンションが上がって、思わず胸の前で手を組んでおりました。
…いや、それは教会のお祈りのポーズでしょう。


いつもはご住職と副住職さまの光榮寺さんですが、この日は御二方を含めて僧侶の方も十人近くいらっしゃるようです。
…法要が始まりました。

今年もまた法要の段取りもいつもとは多少異なるようです。

やがて。お護摩の火が灯されると、御本堂前に副住職さまが灑水器(しゃすいき)を手にお越しになり、
「それではお授けいたします」
とおっしゃって、前の方から一人づつ香水(こうずい)をおかけくださいました。
そして護摩加持の代わりにと昨年よりお授けいただいている護摩の炭をいただきました。

ああ、なんとありがたい。


一回目の護摩法要を終え、お灯明を上げていただき、護摩木をお供えいたしました。

家から持参した昨年のお札や福飾りのお焚き上げをお願いし、福鈴を授与していただいて山門を出ました。


駐車場で、今一度振り返ると。





す、凄い!!

満月がちょうど御本堂の真上にかかっているではないですか!
なんと美しく、幻想的な光景でしょう。
早起きは三文の得とは申しますが、これはまさに千両の価値もあろうかと。


帰り道、夫に早起きの得を説いたところ、あっさり却下されました。


すれ違い夫婦はすれ違いのまま。
今年も珍道中となりそうです。

No.104

昨日群馬県伊勢崎市の【伊勢崎神社】さんへお詣りいたしました。

伊勢崎市の街中にある今から800年以上も前の健保元(1213)年に創建されたと伝えられる歴史ある神社さんです。

こちらではちょうど明日、伊勢崎市の初市と同日の一月十一日に、群馬県のソウルフードとも言われる、大きな焼き饅頭にちなんだ『上州焼き饅祭』というお祭があり、焼き上がった焼き饅頭は『福分け』として無料でお授けいただけるようです。


三浦介義澄によって創建されたと伝えられているようですが、創建当時の社地は明らかではないようです。

それからおよそ100年後の元徳元(1329)年に、当時の国司・【新田義貞】が現在の地に遷したといわれています。

こちらは代々の明石城城主の崇敬厚く、かつて伊勢崎の地は『明石の郷』と呼ばれていたそうです。
元亀年間(1570〜73)に、『伊勢大神宮』を勧請奉祀し、それより【伊勢崎】と云うようになったようです。
宝暦九(1759)年に造営された社殿は火災により焼失、
現在の本殿が建立されたのは嘉永元(1848)年だといいます。


社殿には非常に緻密で壮麗な彫刻が施されています。
人物個々に豊かな表情があって、かつ動きがある彫りとなっておりますし、龍はどこから見ても目が合うような気のする生き生きとした彫りであります。

拝殿は昭和十一(1848)年に建立されたもので、本殿に覆いかぶさるようにして造られています。

拝殿正面の上部にはな、なんと!
木製のプロペラが飾られています。
第二次世界大戦中、『飛行機が戦争から無事に帰って来るように』と、中島飛行機(富士重工の前進)の社員が奉納したものだそうです。
現在では転じて【渡航安全・航空安全】の象徴となっているといいます。


伊勢崎神社の主祭神は【保食神(うけもちのかみ)】さま。農作物や魚、獣、蚕など生活に不可欠なものを生み出したといわれる、食物と産業の神さまです。

また、ほかに交通安全の神・【八衢比古命(やちまたひこのみこと)】さまなど、全部で28柱の御祭神が祀られており、さまざまなご神徳があるといわれます。


No.105

伊勢崎神社さんでいただいた御由緒書きを拝見して、びっくりしたことが一つ。
こちらの境内地、な、なんと約七百坪あるとのこと。

そんなのさして珍しいことではないでしょ?…そう思われますよね。
もっともっと広い境内をお持ちの神社さんはたくさんあると思うので。

ただ…。
どちらかというと伊勢崎神社さん、どちらかというと手狭な感じがしていたので、広い神社さんといった感覚が全然なかったのです。
境内いっぱいいっぱいにいろいろな建物があり、鳥居からの参道も短く、神社によくある樹木もどちらかというと少なくて、林や森という感じのものではないですし。

なので本日開かれるという『上州焼き饅祭』、人が詰めかけたら入りきれるのかなぁと心配していたくらいなのです。
今回参拝した際も、一月ももう九日というのに、たくさんの人がひっきりなく訪れていたくらい、人気の神社さんなので。


ちなみに。毎年、伊勢崎の初市で鏡開きの日に開かれるこの『上州焼き饅祭』という祭事は平成十五年に始まったもの。
『幸せが大きく膨らむように』との願いを込めて、直径55cmある大きな饅頭が焼かれる『福まん神事(?)』。
なんでも、その神事の後は、その年の年女年男が饅頭に文字を書く「願い文字の儀」がおこなわれ、福分けとして饅頭が無料配布されるようです。


…焼き饅頭って…。焼いていて膨らむものだったかなぁ?

ま、そ、その辺はおいておき。

祭日、成人の日とはいえ、あの混みようであった伊勢崎神社さん、心配性のおばさんは老婆心ながらドキドキいたします。


また、伊勢崎神社にちなんだ神社コロッケというものもあるそうです。
「秘密のケンミンSHOW」というテレビ番組にも登場したという群馬B級グルメなのだそう。…私は食したことがないのですが。
そのテレビ番組も観ていないし。

なんでも戦後の子供たちに食べてほしいと、その当時、伊勢崎神社前で屋台販売されていたため、神社コロッケと呼ばれるようになったとのことです。

衣にはたっぷり濃厚なソースがしみ込んだ絶品のコロッケとのことで、コロッケ好きのおばさんとしては是非食べてみたい一品なのですが、今は境内で販売されてはおらず…。

今日のようなお祭りの日には屋台販売もあるのかなぁ?


No.106

【伊勢崎神社】さんは、前述した【上州焼き饅祭』のように、参拝される人々が喜ぶような行事、心に沿う神社を目指されておられるのか、ここ五、六年でまた様変わりをされてきておりました。

その一つが伊勢崎銘仙を使った授与品であります。


群馬県民ならそのほとんどの人がその読み札を暗唱できる【上毛かるた】で、伊勢崎市を詠んだものは
【『め』 銘仙織り出す伊勢崎市】。

伊勢崎市はかつては『伊勢崎銘仙』でその名を轟かせた町でありました。明治から昭和初期にかけて、伊勢崎銘仙は大変人気があったといいます。

今見ても斬新でポップなデザインの織物でありますが、時代の流れとともにその需要は減少し、ついには生産が無くなってしまいました。
艶やかな色合いを扱うのですが、糸に色や柄を付けてから織るため、かすれた模様なのがまた、今見ても斬新な感じを表しています。
見た目だけでなく、縦糸と横糸の両方に色を付けてから柄を織るという技法は大変難しいものなのだそうで、全国でもこの伊勢崎銘仙だけのものであったといいます。


そんな伊勢崎銘仙、今ではもう〝作れなくなってしまった〟ものとなってしまいました。
高度な技術を必要としたという伊勢崎絣の織り方ももう失われてしまったのです。

それを伝えていこうということで、立ち上がったのがこちら『伊勢崎神社』さんの神職の方でありました。

御朱印帳にその伊勢崎銘仙を使って、まずはこの伊勢崎銘仙の良さを知ってもらい興味をもってもらい、後世にこの伊勢崎銘仙の文化を残したいと考えたとのことでありました。

その頃まさに世は『御朱印ブーム』。世界に一つだけのオリジナルの御朱印帳に伊勢崎銘仙を使ったものをと考えられたのです。

この御朱印帳に使われたのは昭和初期から中期にかけて生産されたアンティーク生地。
今では大変希少な伊勢崎銘仙を新たに織って作るとなると大変高額な御朱印帳となってしまうこともあったといいますが、これが大変美しい御朱印帳となっておりました。

こうして神社さんが保有する伊勢崎銘仙の生地から、書き置きの御朱印用紙の柄にもなり、さらには伊勢崎銘仙を使った御守袋も作られ、授与されるようになりました。




No.107

伊勢崎銘仙を使った伊勢崎神社さんの御守は『御守り袋』と『御内符(おんないふ:神様の御利益があるお札)』の頒布というもの。
気に行った柄の御守り袋に、叶えたいお願い事の御札を入れて、自分だけの御守りを作る、といったものであります。

約30種類の生地で御守り袋を作成なさったということで、さらには同じ生地でも裁断場所により全く違う柄となりますので、それぞれが二つとない柄であるといいます。

御守り袋は技術が途絶え生産できない貴重な生地ですのでもあり、ずっと大切に使って、中の御内符だけ取り替えて待つ、ということで、御内符の種類は
【身体健康】【交通安全】【開運招福】【仕事成就】【良縁成就】【厄除開運】【方除祈願】。

お守り袋一つに四つ程度まで御内符が入るとのことです。

一体一体お受けするより、コンパクトに所持することができ、また、その年その年でカスタマイズできることを考えると、なかなか秀逸な御守ではないでしょうか。


また、かつては一種であった御朱印も今はこの伊勢崎銘仙御朱印のほか、その年一年限定の御朱印と、ふた月ごとに図柄の変わる御朱印、
〝例の〟『神玉』御朱印、切り絵御朱印等々、大変種類が増えておりました。


この切り絵御朱印、今ブームとなっているようですが、高価なこともあり、基本お受けしないスタンスでおりますが、今回の切り絵が伊勢崎神社さんの社殿であり、さらには鳥獣戯画のウサギも使われていることもあって、一目惚れ。
夫に相談してお授けいただきました。

前回の切り絵の『虎』も大変かっこよかったです。
〝煩悩の塊おばさん〟は、御朱印帳を胸に、自らの煩悩と戦いながら今年も神社さん、お寺さんを巡らせていただいております。


No.108

「藤岡の【富士浅間神社】さんに行ってみたいんだよなぁ」とは夫。
…御意。

ということで、この日は伊勢崎神社さんから藤岡市に鎮座されます【富士浅間神社】さんへとむかいました。
こちらは初めての参拝となります。

例の『神玉』のお授けをなさる神社さんの一つではありますが、実は夫以前からこちらへ参拝したいと申しておりました。

藤岡市って私どもはあまり行くことのない土地。
花と写真の好きな息子は藤の綺麗な時期に藤の名所に何度か行っているようなのですが。

そういえば藤岡市の神社仏閣って、参拝させていただいたことがないかもしれません。


それにしても、どこをどうしてこちらへ?
藤岡というあまり行かない土地を調べてのことなのか、それとも【富士浅間信仰】からなのか。

おそらくは富士山をご神体とされる桜の女神、【木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)】さまをお祀りされる神社なのだと思うのだけれど…。

夫のクルマ、夫の運転でいつものように移動いたします。

見えてきた道路に面した石造の鳥居には『富士山』という扁額があります。
そこを少し通り過ぎると駐車場の入り口になります。
広い広い駐車場です。
そして…さらに広い境内にびっくり。

車から降りるとまず神楽殿が目に入ります。神楽殿の方へ足を進めると、コンクリートを横1メートル半くらい縦30センチ、高さ40センチくらいの長方体に固めた、なんとも懐かしいベンチがあります。
「うーん、これこれ、懐かしいっ!」
写真を撮るほど懐かしがっている妻を置いて、スタスタと神楽殿に向かう夫。
そんな夫を置いて二の鳥居へと向かう妻。
二の鳥居にたどり着こうとする夫をさらに置いて、手水舎へと向かう妻。

木花之開耶姫命さまも、初めての珍参拝客、珍道中夫婦にはちょっとびっくりされたかもしれません。


こちらの手水舎もまた花手水となっておりました。
葉牡丹をメインに、なんと下からブルーの光が漏れ光っております。
その手水鉢に龍が絶えず水を注いでおります。

と。

そこから少し視線をずらすと。

手漕ぎポンプ式の井戸があり、『御神水・手水』と書かれているではないですか!

私の子供の頃でもほとんどその姿を見なくなっていた手漕ぎポンプ式の井戸。
スタスタスタっと早足でそちらへ向かいます。

…嬉しいとすぐにそうなるおばさんで…。

No.109

「ねぇ?この間連れて行ってもらった富士浅間神社さま、だいぶ前から行きたいって言っていた気がするのだけれど、何か訳でもあったの?」

今さら聞く…。

「だって『藤岡』っていう地名の由来となった神社さんだよ」
ふ、ふーん。そう、みたいだね。

『富士岡』が変じて『藤岡』となったと云われています。
実はそれ以前はこの辺りは『常が岡(ときがおか)と呼ばれていたようで、隣接する『富岡』とまぎらわしかったこともあり、
【富士浅間神社】さんが建てられたのをきっかけに『富士岡』となり、現在の『藤岡』となっていったようです。


こちらの神社さん、実はいつの頃から神社があるのか、詳しく分かっていないといいます。
ただ、千年ほど前の平安時代、小高い丘の上に神をまつる建物を建てたのが始まりと考えられているそうです。
このころは『従五位上郡御玉明神(じゅごいかみごおりみたまみょうじん』という名前の神社であったといいます。


鎌倉時代、日蓮上人が佐渡へ流されて、そののち赦され帰る途中、藤岡市のあたりに立ち寄ったといいます。
富士山の神を厚く信じていた日蓮はこの地にも富士の神を祀りたいと考え、神の御霊を勧請したといいます。
そしてその際にこちらを【富士浅間神社】と名前を改めたといいます。

戦国時代の終わりごろ、この辺りを治めた『芦田泰貞』公が『藤岡城』の築城と同時に、土地の守り神であるこちらの社殿を建て直し、大きく広げたとされています。

その後時は流れ。
昭和四十(1965)年にこちらは火災に遭い、現在の社殿はその四年後の昭和四十四(1969)年に建てられたものだといいます。


昔、本当の富士山へは気軽にお参りできなかったので、日本各地に富士山に見立てた丘の上に神社が建てられたといいます。

この、丘の上に建つお社を見て、日蓮上人は富士の神さま、木花之開耶姫命さまをお祀りしたいと思ったのでありましょうか。


No.110

こちらの神社の建つ丘は、実は古代に当地を治めた有力者を祀る墳墓であり、【浅間神社古墳(藤岡1号墳)】と言われる前方後円墳に当たり、現在の状態は後円部のみとなっているようです。

江戸時代には庶民の間で富士講が盛んに組織され、多くの人が当神社を中心にして富士山詣でを行ったと伝えられています。

元を糺せばお墓、…なんですけど、ね。


こちらは、富士山を御神体とする『富士山本宮浅間大社』さんが総本宮。
浅間大神(あさまおおかみ)であられる【木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)】さまが主祭神さまであります。

木花之開耶姫命さまは山神の【大山祇神(おおやまつみのかみ)】さまの娘で、桜の花の化身でたいそうお美しい女神さまであることで知られています。

天照大神の孫【瓊瓊杵命(ににぎのみこと)】さまの夫人であり、海の幸の神・山の幸の神たちの御母堂であらせられます。

火を放った産屋で無事に子を産んだ言い伝えにより、子授け、安産、子育ての守り神として古くから信仰を集めてきました。


また、富士山は日本一美しい山ですが、かつては火山としてたびたび噴火を繰り返していました。
浅間大神である木花之開耶姫命さまを御祀りして以来その激しい噴火が鎮まったことから神徳が知られることとなったと云われます。

No.111

シャボ、シャバ、シャババババァ、ジャバッ!

手押しポンプ式の井戸は結構重くて、すぐには動かず。
助走をつけるように少しづつ少しづつ、押してぇ、上げてぇ。

少しだけ流れ出た水に、思わず感動して、押してぇ、上げてを繰り返すおばさん。
それを見ている、だけの夫。
「ねぇ、一生懸命出してるんだから、手を浄めてよ」
「えっ?…ああ、俺のために出してくれてたんか」

…いや、ただ純粋にポンプを押して水を出したかっただけだけど。

でもそれではやっぱり〝恵みの水〟がもったいないし、水を恵んでくださっている神さまに申し訳ない。
そんな後付けに過ぎないけれど。

夫は手を浄め、さらに口に含もうとします。

私「口はダメだって書いてあるよ。井戸水は常に状態が変化しているから、口には含まず手のみを、って」
夫「えっ、そうか、どうしよ口に含んじゃった」

…おい。
のんきに、無邪気にポンプを押しては水を出す初老の妻を見守っていただけだったの?

やれやれ。

そして「俺も水を出したい」と。
…そら、そうだ。
わかる。

でも私がポンプを押す手を止めても、まるで変わろうとはしないので、再度ポンプの押し手を握り、片手でやりずらいのを頑張って手を浄めたばかり。
なので夫は本当に水を出しただけ、でした。

普通、両手でポンプを押すのだから、水を出す者と手を浄める者とに分担するものなんじゃないのかなぁ?

そ。そんなところでもすれ違う、珍道中ペアであります。やれやれ。

No.112

こちらの井戸のお水はたいへんサラサラとしたもので、浄めさせていただいた手は驚くほどすべすべになりました。

身を浄め本殿への階段を上ります。

こちらの社殿のある丘、丘全面が小さな石を積んだ石垣になっておりまして、その迫力に思わず立ち止まって見上げたほどです。
どれだけの時間をかけ、どれだけの人の力、時間をかけたのだろう。
愛されている神社さんなのだなぁと、その石垣を見ただけで思われます。

広い境内には小、中学生が、子どもたちだけで遊びに来ている様子もみてとれます。

ああ、そうか。木花之開耶姫命さまは子どもの守り神さまであられるから。
その優しく守ってくださる〝気〟にひかれて、親の手を離れて遊ぶ年頃となっても、こちらへ足が向かうのだなぁ。


階段を登った丘の上はさほどには広くはない空間で。さもありましょう、墳墓の上、であります。
そこには新しく綺麗な、小ぶりの社殿が建っておりました。
本当は昭和四十四(1969)年に建てられた社殿、もう五十年以上経つ社殿なのですが、これが全くそうは見えず、つい近年に建てられたものにすら見えるのです。

木花之開耶姫命さまのお力のほかありません。

明るくて、綺麗で、優しい〝気〟が社殿から溢れて、丘の上全てに広がり、さらには広い広い境内全体にまでその気が満ちています。

手を合わせて。

と。降り口とされた階段を、浅葱色の袴と白い着物をおつけになった若い神職の方が降りていかれます。
黙礼をし、社殿の裏へとまわります。

本殿の後ろで再び手を合わせます。
藤岡の町が見渡せる気持ちのいい丘の上であります。

拝殿のすぐそば、ちょうど階段を登り終えたあたりには、広めのあずまやが建てられています。
長い階段を登ってこられた方が一休みできるような、そんな配慮から、でしょうか。

今度は境内を見下ろして…。
降り口から降りようとすると、先ほどの若い神職の男の方がちょうど上がって来られ、会釈をなさって社殿の中にお入りになって行かれました。

こんなに神職の方にお会いできると、なんだか縁起が良いような気がいたします。

さあ、社務所へと向かいます。
御朱印と、神玉をお受けいたします。

桜の花の舞う可憐な御朱印でありました。
御朱印をお受けして、こちらの御由緒の書かれたものを読もうと石垣の方に歩いていくと、…!
またまた先ほどの神職の方が!

No.113

短時間に三回も神職の方にお会いできたのは、ただただタイミングがあっただけのこと。
…なんですけれど、ね、なんとなく心弾むものであります。 

良いことがありそうな♡

境内を散策させていただいていると、境内社の並ぶ一角がありました。
四社ほど並んでいるのですが、その全ての扁額の文字がすっかり消えてしまっており、ただ一社のみ、小さな陶器でできた狐さんがたくさんおられることから、そちらの社は稲荷社であることが分かったのですが、あとの三社はどちらの神さまがお祀りされているか、わからないままでありました。
…もう少し修行を積んであれば、建物や屋根のかたちなどから、どの神さまがまつられているか、わからずじまい。
手を合わせて、境内社の前をあとにいたしました。


隣接する土地にもずっと参道がつづいております。
やはり小高いところにお社が見えてまいります。ネットで調べると八阪神社さんのようです。

八阪神社さんへの参拝は今回控えさせていただきました。

お神輿を納めた社殿もあります。
なんでもこちらのお社には二基のお神輿があって、お祭りの時には一年交代で八阪神社さんと、こちらの
富士浅間神社さんのお神輿を出すのだそうです。


さて。

実はこちらの富士浅間神社さんの、駐車場入り口に小さな御堂があり、そちらが気になっておりました。
そのお堂の脇には円錐形をしたモニュメントとも思われる塔(?)が見えていました。

例によって早足でそのお堂目指して歩く私。

…。
……これは…円錐形をしたモニュメントだ!そうとしか思えないものが三つ。
うーん、なんだろう。
しいて言えば『境外社』のようにもとれますこちらの御堂。

まずは御堂にお参りです。
『延命子育地蔵』という額が掲げられています。
なんとも欲張りなご利益です。

おおっ!
大小のお地蔵さまがいくつかある棚にぎっしり一面にお祀りされています。

No.114

こちらの『延命子育地蔵』の創建は天正十八(1590)年に、信州佐久(現在の長野県佐久市)から藤岡へ配置転換となった『芦田康貞(芦田五十騎の一人、藤岡城の城主)』公を慕って追ってきた旧領民達が、地元で信仰していた地蔵尊も背負ってやってきたことに始まるといいます。
お地蔵さまを背負ってここまで来たところ、この地で急に動けなくなったので、ここが霊地と悟り、お地蔵さまをここに安置したのが始まりと伝えられています。

ご本尊である石地蔵さまは無名で、顔面が削られてしまっております。
隣に並ぶお地蔵さまに『文政三年辰十月吉日岩邑田』と刻まれているといいます。
岩邑田、というのは信州佐久の地名だといいます。


芦田氏はこの地蔵尊を含め、この土地の鎮守である富士浅間神社を庇護し、社領の寄進などを行い、その土地を貸し付け、小作料で、社殿の改修や例祭費を賄ったようです。

文政十二(1829)に地蔵堂が建立され、その後五十年〜七十年ごとに改修し、明治元(1868)に現在の御堂が再建されたといいます。
お堂にある二つの鰐口のうち、大きな方の鰐口には文久三年(1863)の年号が有ります。

例祭は毎年八月二十三・二十四日で、往時は奉納相撲、その後野球となり、その後には盆踊りが行われ多くの参拝者で賑わったといいます。

こちらの地蔵尊は『子育地蔵』『夜泣き地蔵』と呼ばれ、子供の夜泣きや夜尿、ひ弱な体質などに効験があるとされ、現在でも篤く信仰されているといい、願いがある人は地蔵堂から地蔵を借り受けるのだといいます。
借り受けたお地蔵さまにお水やお線香を供え、念願成就するとお地蔵さまを二体にして奉納するといった習わしがいまだものこされているのだとか。


なるほど。
この大小さまざま、たくさんのお地蔵さまはそういった奉納で集まったものでありましたか。

隣に祀られたモニュメントも、よく見ると御礼に奉納された古いお地蔵さまがモニュメントとされお祀りされたようです。
こちらにも花が手向けられ、お線香の台もありました。

なんか、こういうのって良いなぁ。
私どもの住まう地域にはこういったところがないので、こちらの地蔵堂や、老若男女が集う富士浅間神社さんのようなところにとても憧れます。

No.115

「次はね、諏訪神社さんに行きたいんだ」

ぎょ、ぎょぎょ?!


殿!(ちなみにここでは夫、であります)
せっかくこうしてお連れいただけるのであれば、出立前にその日のご予定なり、行きたいと思っておられるところを事前にお教えください!

私、布団干したまま出かけております。ここから家まで一時間半はかかるかと…。


…。

……ま、いっか。
行きましょう。


というわけで次に向かいましたのは【上州藤岡 諏訪神社】さんであります。
全国に、それどころか同じ市内でもいくつかある『諏訪神社』さん、差別化を図り『上州藤岡』と冠するようです。


例のじゃじゃ馬ナビはこの日も絶好調。いつも通りに裏にあたる、たぶんそこからは諏訪神社さんの境内に歩いてもいけない、駐車スペースすらないところへと案内しております。
が。
このじゃじゃ馬ナビのクセにもいい加減慣れた夫、早くからその案内に気づいて、ただ修正し。
左折の指示を無視して直進します。
その通り沿いに看板が出ており、すぐに分かりました。
…どうしてこんなにも分かりやすすぎる神社さんへの案内をこうも捻って伝えるのだろう。まるで人格があるかのようです。…えっ?私に似ている?いやいや、これは開発者か…持ち主の夫でありましょう、ウンウン。

『車入り口』という案内まであります。


おおっ!
こちらもまた広いっ!

No.116

境内に車で入った瞬間から、その活気を感じるこちらは、『上州藤岡をお鎮めするお諏訪様』と称される神社さんで
【健御名方神(たけみなかたのかみ)】さま、
【八坂刀売神(やさかとめのかみ)】さまを御祭神とされます。

上毛の三山を一望できる、諏訪神社の神山、『前方後円の諏訪古墳』上に社殿が建ちます。

…こちらも古墳の上。

まぁ、古墳など、なかなかその土地を開拓・開墾しづらい、そこに家屋などを建てづらいところへは、人は神を祀ったり、寺を建てたりしたものだということがあるようですので、藤岡の地でも同様であったということなのでありましょう。
そしてこの藤岡もまた古墳が築かれるような勢力のある豪族のいた土地であった、ということなのでしょう。


こちらの御由緒は古く、およそ1100年前、上野国緑埜郡正四位椙山明神(こうづけのくにみどのぐんしょうしいはしらやまみょうじん)として、明神の『荒魂』と『和魂』をそれぞれにお鎮めし、上、下のニ社としてお祀りされていたといいます。

永享三(1431)年、当時の豪族『有田大舎人小属定景(ありたおおとねびとしょうぞくさだかげ)』が『常岡城(平井城の支城、「常岡」は「藤岡」の旧名)』に居城するにあたり、
【諏訪大社】の上社・下社を勧請して、上社は男神、下社は女神として、ニ社を崇敬祭祀したといいます。
永禄九(1566)年、芦田下野守信守が藤岡城に居城するにあたり、【信濃国一之宮諏訪大社】の上社、下社から『剣一口』『鏡一面』を請い受け、神霊として南山に上社、現在の諏訪神社の場所に下社を奉斉しました。

慶長五(1600)年、芦田氏は故あって藤岡城を廃されることとなりましたが、郷民はなお崇敬し祭祀を継続し、藤岡の総鎮守として崇められました。

しかしながら、例の明治初年の神社制度改正の砌、各町村に村社が置かれることとなり、
この土地のある当町を除く他の十七村は『氏子』と称せず『信徒』として、祭礼には獅子舞や神楽舞等を奉納し、当社より各村毎戸に神符を頒布するを例としたといいます。

さらに明治の神社制度改正に倣い、上社は下社に合祀されたのだといいます。
はあぁ…。
…かえすがえすも明治政府の悪令を憎み恨みます。

なお明治元(1866)~明治三十四(1901)年迄、こちらはその地域の名から、「高山神社」という社名であったということであります。

No.117

せっかく【信濃国一之宮諏訪大社】さんから勧請させていただき、上社、下社から『剣一口』『鏡一面』を請い受けるまでに至りながら、その地域の名から『高山神社』って…。
かの悪令はどこまで悪令であったのか。

群馬県の織物業に大きく貢献した高山社さんとの繋がりでもなんでもなく、ただ単にその地の名!


私などはこの高山神社という名前を聞いてまず頭に浮かんだのは群馬県太田市にある高山神社さんでしたが、こちらは実在した明治維新に大きく貢献したという高山彦九郎氏を祀ったものであり、
(どうして『高山神社』さん?) と、太田の高山神社さんを勧請したのかと思ったくらいでありました。


諏訪大社さんからの勧請をそんな理由で改名するなんて、もう罰当たりとしか思えないんですけど、
神職の方をはじめ、氏子の方々、信徒の方々はあくまでも名のみの改め、その実は何も変わらない『御諏訪様』として崇め、お祀りしておられたのでしょう。

そして名のみ、とはいえ、明治元年から三十四年間、その名であった高山神社さんにもなんとも失礼なこと。


しかしながら日本の国が大きく変わるために暗中模索した結果だと、神さまは苦笑いしながら見守ってくださったのでしょう。
大きなお護りくださるお力の〝気〟と、おおらかであたたかな〝気〟を全身に感じる、…【上州藤岡 諏訪神社】さんは、そんなすばらしい神社さんでありました。

No.118

…というわけで。

どうしても遠方ともなると車での参拝となり、往々にして境内内にある駐車場へと一旦車を停めることとなり、鳥居をくぐることもなく(神社さんによってはヘタをすると車で鳥居をくぐったり、参道を車で通ったりと、ありえないほど失礼にあたることをせざるおえなく)いきなり境内にいる状態からの参拝となってしまいます。

こちらの諏訪神社さんでも境内内に一旦入った無礼をお詫びしながら、まず外に出て、鳥居の前に立ちました。

お。
こちらでは鳥居をくぐる前に手水舎を設けてくださっておられます。ありがたい。
手水舎に近づくと、手水鉢の中にさまざまな柄の浮き玉が浮かべてあります。うーん雅な感じです♡
龍の口から流れ出る水を受けてくるくると浮き玉が回ります。
そんな光景にしばし目をとられ、ハッとなり手を清めました。

あらためて鳥居の前に立ちます。
まっすぐ前に石段があり、社殿の屋根が少し見えております。
なんと気持ちの良い、まっすぐな参道でしょう。

まっすぐ歩きますと石段の少し手前の向かって右側に背の高い神楽殿があります。
そしてそれに合わせたのか、かなり高い位置となるように、石垣を組みその上にさらに背の高い台座を組んでの狛犬さまが鎮座されていました。


と。
そこへ神職の方が。
ひだりての狛犬さんのお膝元で、どうやら車のお祓いをされるようです。
立派な高級国産車のそばには大きな体を小さくして神妙にお祓いを待つ男の方と、さらに控えめにお立ちになる奥様と思われる女の方が。
そのご様子もまた微笑ましく…。
思わずその方々と車のご無事をお祈りしておりました。

そのそばには大きなカエルの石像が。〝無事カエル〟さんでしょうか。無事カエルさんに私どもの無事もお願いして。


気持ちを新たに石段の前で一礼して、登りはじめます。
…狛犬さま好きのおばさんが立ち止まって左右の狛犬さまにニコニコしながらお声がけしたのはいうまでもありません。

No.119

気の散りやすい困ったおばさん、それでも(でき得る限り)まずは御本殿へのお詣りを心がけております。

夫より一足遅れて拝殿前へと到着いたしましたところ、
「すごく可愛らしい狛犬さまだよ。…なんだか猫さんみたいな可愛らしさなんだけど。大きさも小さいし」

私が喜ぶだろうと声をかけてくれている夫をとりあえず無視して(!)
まず拝殿の前で手を合わせました。
祝詞をあげて初めて参拝させていただきましたことを御礼申し上げて。
ふと目をあげると。
…。
……?
なにやら拝殿ではあまり見かけないパステルカラーのカラフルな色合いのものがまさに真正面にあるのが目にはいりました。



あっ!、アマビエさまだ!
アマビエさまのおそらくだるまさん。
どなたかの奉納か、あるいは神職の方が参拝に訪れる方の健康を祈願し拝殿の中、参拝者の方に向けて置かれたのでしょうか。

ニ礼ニ拍手一礼のご挨拶を済ませてはおりましたが、今一度手を合わせてコロナの収束(できれば終息)を祈らずにはいられませんでした。


夫はもうくだんの狛犬さまのところにはおりませんでしたが、すぐに戻ってきて
「ね、可愛らしいでしょ」

…たしかに。
大きさといい、姿かたちといい、なによりもそのお顔立ちと表情がなんとも愛らしい♡
猫のよう…とまでは思いませんでしたが、たしかに普通一般の狛犬さまとはひとあじちがいます。

あとで社務所でお聞きしたところ、こちらの狛犬さん、その名も〝狛寅〟さま。なのだそうで。

No.120

見れば見るほど可愛らしい。
しっぽはシマシマ、よく見ると身体にもしま模様が見てとれます。

なるほど。
狛寅さんですか。

この狛寅さん、元陸軍大将で第26代内閣総理大臣田中義一氏と藤岡出身である文子夫人が、ご神縁に感謝し、大正九(1920)年に結婚記念としてこちら【上州藤岡 諏訪神社】さんにご奉納されたものなのだそうです。
夫人が寅年生まれだった事から、トラの狛犬『狛寅』になっているそうです。

以来、諏訪神社の縁結びの象徴として社頭から見守り続けておられる『狛寅』さま。

しかしながら、この狛寅さま、大谷石という柔らかい石で彫刻されており、奉納されてすでに百年という年月を経過しており、どうしても経年ので劣化を止めることはできません。
また、こちらの社殿は古墳の上にあり、階段を上がらなければ見ることができず、足の不自由な氏子や信徒の方たちはお詣りすらが難しい立地。

鎮座百年という節目に二代目の狛寅さまを造られたとのことでありました。

この二代目狛寅さんは、なんともユーモラスな二頭で、一代目の狛寅さまとはまるで似てはおりません。
それでも二頭が向き合って安置された姿はやはりなんとも微笑ましいもので、こちらは撫で丑ならぬ『撫で寅』さんともなっており、広い境内のあまり奥まっていないところに、それでも控えめな位置に立っておりました。


さらにはこの狛寅さんの奉納百周年ということで『狛虎御守』も作られ、こちらは〝寅〟の顔を刺繍した御守となっておりました。
これがなかなかカッコのよい御守で。

狛寅さまなので、『阿』の虎守と、『吽』の虎守があり。
除災招福・一年安泰の他に、[大切な人と『阿虎』『吽虎』一対で持つと二人の絆がより深いものとなる]
という御守だということで。


どれをお授けいただこうかと、阿がいいか吽がいいか、何色にしようかまで思っていたというのに、社務所の方のそんな説明を聞いた途端、
…はあぁ?

何度も何度も繰り返し[二人の絆]がより一層深いものとなると、社務所の方が繰り返しおっしゃるのに対し、おばさん、
「ああ、これ以上深くならなくとも大丈夫です」と笑いながら社務所を後に。


「狛虎御守、カッコよかったし、二人でお受けしようと思ってたのに」とは夫。
「いやいやこれ以上深くなったら困りますがね」
(…なにを言ってるんだ?この人は)



No.121

私どもは神社さんの拝殿での参拝のあと、社殿の造りにもよりますが本殿の裏手へとまわります。
本殿の裏手でも手を合わせて、ご挨拶を申し上げるのです。

と、同時に、…やっぱりその社殿の彫刻であるとかを見させていただいてもいるのですが、ね。

神社さんによっては、裏手に摂社末社がお祀りされていることもありますが、こちらの神社さんは特段そのようにお祀りされてはおらず。
ただ、みぎてには降りていく階段があり、ひだりてには大きな池があって大きな赤い太鼓橋がかかっているのが見えました。その池のある方へとおりられるようやはり階段が設けられていました。

…ど、どうする?
(ちなみに、この「どうする?」は、自問自答で、珍道中ペアは個別行動が暗黙の了解、もはやそれが当たり前、なので)

一周まわって狛寅さまと、拝殿に向かってご挨拶を申し上げて。
…みぎての階段を降りることといたしました。

階段を降り…ながらびっくりしたことに、駐車場よりも広い境内が広がっていて、立派な摂社が三社もあります。小さな神社さんならこのくらいの建物…社殿かもしれないくらいの大きさです。

す、凄い!


そして。
階段を降り終わってまたまたびっくり。
こちらの社殿の建つ丘も『藤岡富士浅間神社』さんと同様、古墳の上なのは存じ上げていたのですが、石室がぽっこりあるではないですか!



【諏訪神社古墳(諏訪古墳・藤岡町3号墳)】は、神流川左岸の段丘上に存在している前方後円墳。
円墳(後円部)が前方部となるとのことですが、この部分は痕跡は有りますが、現在は消滅してます。
藤岡諏訪神社社殿が鎮座しているのが、後円部になります。

先ほど見えていた赤い太鼓橋のかかる『諏訪池』になっているのが、『周濠』の痕跡のようです。

現状では全長57m、後円部径37m、高さ4m。
明治三十九年に墳丘北側から東にかけて、円筒埴輪のほか靫、鞆、人物といった形象埴輪が見つかっているといいます。


凄っ!
あまりにもリアルな古墳感に、圧倒される私を尻目に、たいそう興味深そうにその横穴式石室を覗き込む夫。

だ、だからそこってお墓なんだってば!
覗かないでよぉ、…私が怖いから!

No.122

今日…。

忘れられない阪神淡路大震災の日。

私はその日も、一人早く起きて、ほんのひとときの自由な時間をたのしんでいた。
喘息もちで肺炎を起こして退院したばかりの生後三ヶ月半の子どもと、保育園児と、小学生。
ゆっくり自分だけで過ごすほんの少しだけ作ったスキマ時間。

観るとはなしにつけておくテレビから、何が起きたのか、どこのことなのか、衝撃でしかない映像が飛び込んできた。
釘づけになった私の目には、徐々に、さらにさらに拡大していく火災の映像が映る。

体験ではなく、映像からであるというのに、受けた衝撃は今も忘れられない。

あれから二十八年経ったのか…。


今日は祈りの日。

No.123

【上州藤岡 諏訪神社】さんに話を戻します。

…と、言いつつ。
前々述となるレスで、【摂社】という表現をいたしましたが、
こちらの御祭神は【健御名方神(たけみなかたのかみ)】さまと【八坂刀売神(やさかとめのかみ)】さま。

神社さんには、主祭神さまのお祀りされた社殿(拝殿・幣殿・本殿)のほか、境内に小さな社をお祀りされていることがほとんど。
それを摂社あるいは末社とお呼びしております。


この使い分け、戦前の旧官国幣社(きゅうかんこくへいしゃ)においては、明確に『摂社』と『末社』を区分する基準が設けられました。『摂社』に該当する条件として、まず本社御祭神の荒魂(あらみたま)や后神さま・御子神さまを祀った社であること、
または御祭神と関係のある神さまや現社地の地主神(じぬしがみ)さまなど特別な由緒がある社となっていました。

こうした基準に当てはまらないのが『末社』であり、摂社は末社より上位に置かれていたといいます。

そして現在でも摂社・末社の呼称は、戦前の基準による区分をそのまま用いていることがありますが、特に本社との由緒の深い社には【摂社』の呼称が用いられています。
 (神社本庁のHPより一部引用)

ということは、こちらの主祭神さまとの関係から申し上げますと、
『建御名方神』さまは『大国主命』さまの御子神でありますので、
こちらの境内にお祀りされている『大国神社』さん、『八坂神社』さん、『神明宮』さんは大きさに関わらず【摂社】となるのではないかと。
…そう思ったのですが、こちらの諏訪神社さんのHPによりますと『大国神社』さんも『八坂神社』さんもみな『末社』と書かれておりまして。

本殿の裏手にあります『三峯社』、『神明社』、『阿夫利社』、『稲荷社』さんもみな『末社』とのことで。


いまは『摂社』と『末社』の区分けは神社さんの考え方でいろいろとなり、『摂末社』なる表現もあるようです。


ということで。
諏訪神社さんの境内に話を戻します。

古墳の横、主祭神さまのお祀りされた社殿の横に建てられた『大國神社』さん、そしてその隣に『八坂神社』さん、
そしてそこから離れて向きも変わって建てられている『天満宮』さんは、それぞれに鳥居があり、参道がある、しっかりとした造りの社でありまして、境内全体が広々とした配置、ゆったりとした〝気〟。

素敵な神社さんであります。

No.124

その広々とした境内、神輿庫のほか、五つもの山車庫がありました。
それもまたゆったりと整然と建てられているのです。
どこを見ても掃き清められ、整然と整理されており、古札を収めるところですらもきちっと蓋がされて、古札庫という立て札を見なければ分からなかったくらいに整っています。

箒一本とて出たままにされてはいない、大変きれいに整えられた、そういった美しさの神社さんでありました。

なかなか広い池にかかった赤い太鼓橋。
それとは別にもう一つ控えめな橋がかけてあり、そこに小さなお社が祀られております。

どこをとっても悠々とした、大変居心地の良い神社さんで、ぜひまた参拝させていただきたいと願うおばさんでありました。


夏越の祓に、…来られるといいなぁ。
うん、ここなら来れる…かも。



No.125

一日と十五日は神社に参拝する「お朔日参り(おついたちまいり)」と「十五日参り」という風習があるということを、神社さんを巡らせていただくようになってかなり経ってから知りました。

この間の日曜はまさにその十五日。
いつもですと自分の住む市の総鎮守と言われる神社さんに一人出向くのでありますが、今回、家族全員が久しぶりに二連休であったこともあり、かねてから参拝したいと思っておりました埼玉県大宮市に鎮座されます【大宮氷川神社】さんに参りました。


松の内も過ぎ、さすがに少しは初詣の参拝も落ち着いたであろうと言いながらも、私はその〝十五日〟であることで、もしかしたら混んでいるかもしれないと、心配しておりました。
コロナの新規感染者数は過去最高を記録しており、第八波と言われて久しい年末年始であります、できうるなら混雑したところへの外出は避けたいところです。

そんな心配を何度か口に出していたところ、
「…あのさぁ。何人の人が一日と十五日に決まって神社さんに行ってるって言うの。俺、そんなの今まで知らなかったし、そうしてるって人の話も聞いたこともないよ。平気、平気」と夫。
「いやいや、それは私たちが知らなかっただけじゃない。一日とか十五日にいつも私が行っている神社さんだって、引っ切りなしに参拝の方が訪れているよ?見知ったお顔の方もできたくらいだし、行くたびに見かける東京ナンバーの車だってあるんだよ?」

「それだって初詣の比ではないでしょ?」と言われて、
「それはそうだけど…」

これ以上口に出してもお互い不快な思いをするだけなので、それきりその話はせずに…。

ただ。
大きな神社さんのはずなのに、大宮に入って、到着まであと一キロを切っても、氷川神社さんの案内の看板を見かけないので、例の我が家のじゃじゃ馬ナビがきちんと案内をしてくれるかどうかが二人の一致した心配事となってまいりました。

氷川神社さんの駐車場は第三まであり、夫の調べによるとさらにもっとありそうな…。
とりあえず、スマホのGoogleマップも併せて氷川神社さんの駐車場を目指しました。


ははあぁぁぁ。

なんだか人がやけに歩いています。
田舎から来た私たちには多く感じるけれど、大宮はこんななのかな?
まさか氷川神社さんの参拝に来ている人たちってわけじゃないよね。

おお、赤い大きな鳥居が道路に!



…えっ?

No.126

ここ、埼玉県の大宮という地名は、この武蔵一宮氷川神社が『大いなる宮居』と称されていたことから名づけられたものといいます。

その大いなる宮は、桁違いに、…大きかった。


私どもは車で参りましたので、当然まずは駐車場を目指します。
必ずしも一の鳥居から参道を歩けることとならないことが多く、私が目にした鳥居は二の鳥居でありました。
二の鳥居ですから、本来ですと当然参道の途中であります。が、
昨今の道路状況、住宅状況などにより道路上にポツンと鳥居だけがあることもございます。

こちらは立派な参道が、おそらくは一の鳥居からずっと続いていると思われます。
その参道を申し訳なさそうに突っ切るよう、道路が設けられています。
信号などという無粋なものはありません。
あくまでも参道を歩く方が優先です。

もっとも、このくらいのことは他の神社さんの参道でも見られなくはないことかもしれません。もともと参道あっての道、道路ですから。

ただ…。
この参道、通常の道路においての一車線分はゆうにあり、
何よりも驚くべきはそのサイドに設けられた道、
通常の感覚からすると配置的にも、その幅から見ても、〝歩道〟としか思われない道が、参道脇に造られた車道である、ということ、でありました。

しかもその参道を歩く人の多さと言ったら!


「ここ、ここはたしかに氷川神社さんの参道ではあるけれど、…全員が氷川神社さんのお詣りに来てる人たち…じゃあないよ…ね? …。」

「… …わからないけど、でも大多数の人が氷川神社さんに向かって歩いているし、氷川神社さんの方から歩いて来てるよ?」

「…」
「…」

その後調べたところによりますと、氷川神社さんの参道は、全国一長い参道、なのだそうで。
ケヤキを中心とした六百五十本もの樹木が植えられた、約二キロの参道であるということでありました。

今までに参拝させていただいた神社さんでも、長い参道はいくつもありましたが、そこが道路と化していたり、それどころか、かつては参道であったという扱いとなって車道になってしまったところも多々ありました。

大いなる宮居、そしてそこに住まう方々全てが、そんなことを考えることすらなく、あくまでも参道ありきで町を作り、道を作った、ということなのでありましょう。

神の住まうところはかくあるべきと、
あらためて知らされた思いです。

No.127

そして。

私どもの車は第二駐車場を目指して進むのですが…渋滞しております。嫌な予感しかしません。
(空き待ちしてる?)
いえいえ、交通指導員というか駐車場指導員というか…少し派手めな制服を身に纏った人たちが何人も立っており、
「駐車場はすべて満車となっております。近くの駐車場をお探しになってください」
…それすら窓を開けておばさんが聞いてのこと。
ただただ手で駐車場をふさぎ、先へと進むよう指示するのみです。

ひえぇぇ。空いてる駐車場って?
今まで通ってきた民間の駐車場みたいなところってこと、ですかね。
初めて訪れた地、呆然としかけたその時、ナビに周辺施設の案内ができることを思い出したのです。

『駐車場』
ポポポポポッ!
出たぁ!

駐車場はどうやらたくさんあるようです。
もちろん無料駐車場とかではありませんし、もはや値段の比較とかしている場合でもありません。
空いていたら入れる!


…結局、けっこう離れた、時間制のコインパーキングに駐めることに。それでも駐められてラッキー、なのかもしれません。




(大宮氷川神社さんとその参道の写真)

No.128

【大宮氷川神社】さんの御祭神は、
【須佐之男命(すさのおのみこと)】さま、その妃であられます
【稲田姫命(いなだひめのみこと)】さま、
そして
【大己貴命(おおなむちのみこと)】さまでございます。

境内地は約三万坪!

かつては隣接する【大宮公園】も氷川神社さんの所有した土地であったといいます。ちなみにこの大宮公園もまた広大な土地で67.8ヘクタールあるといいます。
…どれだけ大きな社であるか。
境内に埼玉県神社庁もあるくらい、であります。
はあぁぁ。


その御由緒は、その社記によると、
今からおよそ二千有余年(!)第五代孝昭天皇の御代三年の御創立と伝えられます。

…二千年以上前から、ですか。
今年が2023年、なんですよね。
凄い。

そして第十二代景行天皇の御代に日本武尊さまが東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっているといいます。
日本武尊命さま、ですよ?!
日本武尊命さまを御祀りする神社さんも数多くあるという中、そのご本人がお参りをされている神社さんでありますか…。

第四十五代聖武天皇の御代に【武蔵一宮】と定められ、
第六十代醍醐天皇の御代に制定された『延喜式神名帳』には【名神大社】として、
「月次新嘗案上の官幣に預かり、又臨時祭にも奉幣に預かる等、歴朝の崇敬を殊の外厚く受けてまいりました」(大宮氷川神社さんHPより)
今も宮中の四方拝の際に遥拝される神社さんだといいます。


武家時代においても、鎌倉・足利・北条・徳川氏等相次いでこちら大宮氷川神社さんを尊仰し、社殿の再建や造営を行ってきたといいます。

そして明治天皇は都を東京に遷された際、この氷川神社さんを武蔵国の鎮守勅祭の社と御定めになり、三度こちらを行幸されたといいます。



…今回、私、こちらの氷川神社さんを訪れるにあたり、御祭神と、武蔵国一之宮であることくらいしか調べずに訪れましたこと、のちに深く深く…後悔したのでありました。

No.129

車を停めた駐車場から、歩いて歩いて…、鴨の泳ぐ池がありました。
そのすぐそばに多くの人たちが出て来られる社門とも思われる出入り口を見つけました。
公園と思われる出入り口も近くにみてとれます。

ちょうどそこから出てこられた方に「こちらが氷川神社さんの入り口ですか?」
ひさびさのエックスキューズミーおばさんの登場です。

「ええ」


おお、ここかぁ。
いよいよ氷川神社さんだ。

身を引き締めて、背筋を伸ばして。
歩いて行くと…。


!!


大きな大きな、大きな楼門です。
青い空に朱色の映える、素晴らしい楼門です。


おおっ♡

No.130

しばしその【大宮氷川神社】さんの素晴らしい楼門を見上げほうけていた私。

… !?

と、鳥居が…まだだよ?
鳥居を一つもくぐっていないんだけど。

たしかに。
先ほどの氷川神社さんの入り口かと問うた入り口は、氷川神社さんに通ずる口ではありました。
そして、こんなところで「入り口か?」などと聞いてくるのはあまり信心深くはない、近道を希望している初老の人、みたいに思えたのかもしれないし、コロナ禍ということもあって会話を控えている方も多いのかもしれません。
間違いはない。
間違ってはいない。
が、私の望んだ、鳥居手前の道ではなかった、ただそれだけのこと。

(行けばわかる)という他力本願で訪れている私がいけない、ただただそれだけのこと。


そして。
楼門に続く道を振り返ってみたところ、…朱色の池にかかる神橋があるではないですか。
でもその先に見えたのは、鳥居ではなく、押し寄せるかにも見える多くの参拝の方々の姿でありました。

ここを…逆行するのは不可能に近いです。
今来た道を戻って、鳥居の見えたあたりから合流するしかないのだと思います。


…が。

No.131

このあまりにも多くの人たちが訪れている状況に、少し恐怖にも似た感情があることもたしかでありました。
行動制限のない状況なのはたしかですが、コロナ禍最大の流行の波第八波の真っ只中であることもたしかなことなのです。

アフターコロナの道を歩み出している今、どうこのコロナという疾患と向き合うかを個々にも問われているのだと思われます。

今の罹患率を考えると、誰がいつ罹っても決して不思議のない状況ではあります。
そこで〝どう生きるか〟〝どう行動するか〟。
コロナ罹患を恐れて最低限の行動をしていても罹患する人は罹患するし、コロナ前と変わらない行動をとっていてもうつらない人はうつらない。


とはいえ今、この春、早ければ四月にもコロナはインフルエンザと同じ第五類という感染症扱いとされることが決まりつつあります。
おそらくこの先は、個々の判断によるというよりは、コロナを怖れること自体が〝おかしい〟ことという世間一般の考えになり、今まで通りマスクをしアルコール消毒をしていることが奇異にも思われる日も近くなるのかもしれません。
〝自由〟とはいえ、やはり異端視される風潮は起こるのでありましょう。

慢性呼吸器疾患の夫を持つ私は、今のまま…マスクをし、手洗いをこまめにし、アルコール消毒をして過ごすことと思います。
まぁ、行く先々に設置されているアルコール消毒は早々に撤去されることとなるのでしょうが。


とはいえ。

この時選択するとしたら、戻って鳥居に行くか、楼門をくぐって参拝とするかの二択。


どうする私?
どうする夫?

No.132

初めて訪れた神社、
そしてなによりそこに御鎮座されておられる、
【須佐之男命】さま、その妃であられます
【稲田姫命】さま、
そして
【大己貴命】さま
には大変失礼なことかとは思ったのではありますが。

…そして、この埼玉の地まで運転して連れてきてくれた夫に対しても、(せめて一番近くの鳥居くらいはくぐりたいだろうし、境内もいろいろみてあるきたいだろうな)
とも思ったのです。

ですが。

やはり、やっぱりコロナ罹患の危険をできうるだけ避けたかった。


来てしまっていて、実際もうこれだけの人混みに身を置くこととなっているのに?

…外でマスクを外すことなく、手指の手洗いやアルコール消毒も欠かすことなく、最低限の外出しかしなかった方がうつられていることもある、そんな〝新型コロナウイルス感染症〟、これほどの人混みに身をおけば、感染のリスクはすでに発生していようというもの。

こういうのを悪あがきというのかも知れないけれど、別に今回に限らずいつもあがいて生きているおばさんですし。


そのままそこから楼門をくぐって。

参拝させていただくことといたしました。

No.133

手水舎はこの混雑を考えてなのでしょう、手水を中止いたしますと立看板が立てかけられています。
手水舎に一礼し、手水鉢からの〝水の気〟で清めていただいた〝つもり〟とします。…手水舎くらいでは祓えないのが私の穢れ、ましてそんな自己満足に過ぎない行いはまるで意味もなさないのではありますが、〝気は心〟とこれまた自己満足な考えを。やれやれなおばさんです。

さて。
あらためて楼門の前に立ちます。

そのあまりにも立派な楼門に、私のような者がくぐらせていただくことにただただおそれおおい思いを抱きつつ、深く一礼してくぐります。


と。

目の前には。
四方が開け放たれた建物がありました。
ん?あまり見かけない建物です。

あ。

私の記憶違いでなければ神奈川県鎌倉市に鎮座される【鶴岡八幡宮】さんにあったかも知れない。
鶴岡八幡宮さんではそこで結婚式が執り行われていた記憶があります。
たしか…たしか舞殿、と言ったような気がいたします。

その横に今年の干支の大きな絵馬が飾られていて、そこにすら列ができています。
帰宅後調べたところ、やはりこの建物もしか『舞殿』でありました。
ここで舞や雅楽が奉じられるのでありましょうか。

舞殿を通り過ぎると。
そこには大きな、それでいて決してそびえるような威圧感はない、ただ大いなるお力の気をひしひし感じる社殿が建っておりました。


おおぉ。

この語彙力のないおばさんの感嘆詞。
ただし、今回はその社殿に向けての「おぉ」ではなくて。
その社殿へとまるで近寄ることができぬかのように置かれた、大きな大きな大きなお賽銭箱が設置されていることに対して、でありました。


No.134

大宮氷川神社さんの拝殿前に置かれた巨大なお賽銭箱は、しっかりとした丁寧な造りで、そんなところに感心していたおばさんですが、
それでも、やっと参拝できた拝殿の全貌がほぼ見えなかったことにはがっかり。
しょぼんとしたおばさん、ハッと我をとり戻し、その巨大な賽銭箱の前へと進みました。

大変な人出ではありますが、さすがに(おそらく)初詣のさかりは過ぎていて、お賽銭箱の前に列ができているようなことはなく、逆に好きなところから、好きなだけ、神前に手を合わせることが可能であります。
(あれ?これって次の方とかまわりの方に気を使わずに拝殿の前で神さまにお話させていただくことができて、いつもよりずっといいかも…)
…まぁ、前述どおり初詣の大変な人出ではなかったからのことではありましょうが。

と。

あまりに広く、さまざまな建物がある境内で、拝殿の横につながる通路にたくさんの人が集っています。
それこそそこには結構な列ができ、拝殿横にある屋根のある空間にも人がたむろしております。
えっ?
並べば拝殿の中にはいれるの?


…違いました。
このたくさんのたくさんの人の列は、御祈願をお願いして昇殿を待つ人たち、だったのです。

ひ、ひ、ひえぇぇぇっ!

No.135

…。

……!

そこで順番を待たれる方は、軽く見積もっても八十人はゆうにおられ、その後もどんどん増えていくのです。
もはや、どこで受付をされ、何のために並んでおられるのか(昇殿されるのが目的なことはわかってはおりますが、それが祈祷なのかお祓いなのか、あるいはそれ以外なのか)を知ろうと話しかけることすらを、躊躇ったというのか…、その厚い気持ちにのまれたというか…。

ましてやこの列に並ぼうとすることなど、畏れ多いような気までし、聞いてもその列に並ばないなら、お聞きするだけ失礼なのかなと思い。
それでも未練がましく覗いた拝殿の中には…。

!。
!!!っ

ぎゅうぎゅうに参拝された方々がおられるではないですか!

赤ちゃんや小さな子も抱っこやおんぶで参列されています。

ひえぇぇぇぇぇぇぇ!


…コロナ禍でなくとも並ぶことが嫌いな私には、もったいない御神徳で信仰の厚い神社さんなことが痛いほどわかりました。

そして。一月というのに何組もの七五三と思しき支度をした親子連れもおられます。
早撮りなのか、あらためてのご挨拶に来られたのか。


ははあぁぁ。


一生にあと何度訪れることが出来るか、これが最初で最後になるかもしれない私などは、大きな大きなお賽銭箱の前でご挨拶させていただくことくらいがちょうどいい。

No.136

それでも、【大宮氷川神社】さんで、どうしてもお授けいただきたい御守がございました。
『鉄勾玉守』という御守です。

鉄?

そう、鉄製の勾玉の形をした御守です。

思えば武蔵国二之宮【金鑽神社】さんでは、『火打守』をお受けしており、一之宮、二之宮ともに鉄に縁のある御守があり、かつては埼玉という土地でも〝砂鉄〟が採れたのでありましょうか?
(これはあくまでも私が思っただけのこと、あくまでも、小学校の社会科レベルにも至っていないおばさんの考察に過ぎませんので、くれぐれもご記憶にはお残しになりませんよう)


本当は、今年の干支のうさぎの土鈴や、うさぎの一刀彫りも欲しかったのですがちょうどこの日の早い時間帯に品切れとなってしまったようで。

それでも一番お受したいと思ってまいりました『鉄勾玉守』はお授けいただけたので、ありがたかったです。

この『鉄勾玉守』、もちろん普通のお守と同じように袋に入ったまま持つのも良いとされるのですが。


実はこの少し大きめの鉄製勾玉を、お湯を沸かすとき、やかん等に入れて使うという、なんとも特殊な『御守』、なのです。

東北を旅したときお土産物として、やはりお湯を沸かすときにやかん等に入れて鉄分の補給となるというものが販売されておりました。
結婚したばかりのとき、同様の商品を使用していたこともあります。

…本当は中学生くらいから『南部鉄瓶』を使うのが夢であったのですが、一生物、とはいえ、扱いも大変難しく、何よりも重い。

これからはどんどん歳を重ね、重たい物を持つのも大変な時が来るかもしれない。


南部鉄瓶を使いたいという風雅なものからきている趣旨からは離れますが、鉄の関わったお湯は実にまろやか、なのです。

それは科学的にも立証されており、鉄から溶け出した〝鉄イオン〟が、残留塩素と反応して、塩素を分解・除去してくれるのです。

し・か・も!
『鉄分』が摂れる!
しかも鉄から溶け出した鉄分は『二価鉄』。これは〝身体に吸収されやすい鉄分〟なのです。

水分を摂るだけで『鉄分』が補給でき、サプリメントや鉄剤といったものとは異なり、過剰摂取の心配もなく、〝自然な形〟で鉄分を補給できるんです。

つまりいいことづくめ!
しかも御守!


最高の御守じゃないですか?


毎日この『御守』を、ワクワクいそいそ使っておりますおばさんであります。

No.137

【大宮氷川神社】さんは、武蔵国の総鎮守で、『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)に『大社』として記載されています。
戦前の社格は『官幣大社』で、現在は神社本庁の別表神社。武蔵国を中心に約二百八十社ある氷川社の総本社でもあります。

孝昭天皇の御代三(473)年、
島根県出雲市の【出雲大社】(出雲国簸川の杵築大社)を勧請して創建されたと伝えられているようです。(この件に関して出雲大社側には伝承等は存在しないと言われているようですが、島根県雲南市の『斐伊神社』には出雲大社が大宮氷川神社の勧請元だとの社伝が残るといいます)。

もとは広大な見沼(御沼)を神池そのものとみたて、現在地にある氷川神社を『男体宮』、緑区にある【氷川女体神社】を『女体宮』、その中間点にある見沼区の【中山神社】(通称中氷川神社)を簸王子(ひおうじ)宮とする、三社一体の壮大な規模を持つ〝社〟であったといいます。
今でも氷川三社巡りと称し、これをもって氷川神社の参拝とする方もおられるようです。

ちなみに、現在の大宮氷川神社さん境内の神池(遠目で見ただけの私どもではありますが)は、見沼の名残だといわれるそうです。

中世には源頼朝・執権北条氏、足利尊氏、岩槻太田氏、小田原北条氏ら武将の篤い尊崇を受け、江戸時代には徳川家康から社領三百石と神輿一基を寄進され、神事祭礼に葵紋つきの提灯の使用を許されていたといいます。

その後、明治時代の神仏分離の方針により、社内にあった『観音寺』は【満福寺】(さいたま市北区)に移り、また、明治十五年までは神社の主体として境内に男体社(祭神は須佐之男命)、女体社(祭神は稲田姫命)、簸王子社(祭神は大己貴命)の三社殿があったものが、同年に男体社に合祀され一社殿となったといいます。

毎年の祭礼には勅使が下向し(見てはいませんが、三之鳥居の手前に『勅使斎館』があるようです)、昭和戦前期に国費で造営した社殿が並ぶ、関東有数の大社であります。

三の鳥居から楼門まで続く敷石は、東京都電の軌道に使用された石とのことで、大隈重信や渋沢栄一らを筆頭に奉納されたものといいます。


参道は南北直線だが、神社の拝殿、本殿は参道の直線から西にずれており、また南北に対して約三十度傾いているといいます。
三の鳥居をくぐり境内に入ると、参道は左手に少し弧を描き、神池を渡って楼門に至るといいます。

No.138

『大宮氷川神社』さんは、
旧見沼の周辺から旧荒川流域に濃く分布し、見沼を神体とする『氷川神』と呼ばれる水神を祀っていたとも言われているといいます。

荒川も江戸時代の土木工事により河道が変えられ、旧荒川は現在の荒川よりも東を流れていたといいます。

見沼の水神を祀るにしても、荒川の水神を祀るにしてもこの氷川神社の信仰の根源には、太古から崇められた水神の存在があったようだと考えられているといいます。

神池の浮島に鎮座する宗像神社に白蛇伝説があるといい、卵がお供えされることもあるようですが、そのあたりもこうした長い歴史を経ての信仰でありましょう。


手水舎の奥を右へ入ると「蛇の池」があるのだといいます。

蛇の池は見沼の源流の1つといわれる湧水で、神池、ひょうたん池、白鳥の池へ注がれるのだといいます。神池に浮かぶ宗像神社の白蛇伝説にも繋がるのでありましょうか。

蛇の池は元々は禁足地だったというが、現在は参拝することができるといいます。…うーん。

…うーん。

手水舎の奥、ですかぁ。

手水舎自体が閉鎖されていたくらいだから、その奥とか、普段なら行きそうな私どもではありますが、氷川神社さんのあまりの大きさと、楼門の大きさと、そして人の多さに圧倒されて、楼門からなかの社殿と、二つの摂社に参拝するのがやっとだったからなぁ。

ちなみに、この手水舎の御神水は氷川神社の地下からくみ上げている水で、以前は楼門の中にあったそうですが、昭和十五年に現在地に移動したといいます。
この御神水をペットボトルなどで持ち帰る方もおられるようです。

…まあ、私どもが訪れたこの日は水自体が止められておりましたが。


 

No.139

『氷川神社』の社名の由来は二つの説があるようです。

一つは、『氷川大宮縁起』や『新編武蔵風土記稿』に、
『出雲の国の杵築大社(出雲大社)を遷して氷川神社の神号を賜ると伝わる』とある事から、出雲の大河である斐伊川にちなむ、というものである。

二つめは、鎮座地『高鼻』が、見沼の低地に突き出た大宮台地上にあり、古代からの湧水地で、湧き出る清冽な泉は原始の〝氷川祭祀〟の対象であり、
古語で霊験あらたかな泉を表す『氷川』が社名となったというものである。

現在の祭神は出雲神であることから、氷川神社さんでは一つめの説を採っているようでありますが、湧水があることや見沼の畔に祀られることから二つめも捨てがたいものとされています。

No.140

大宮氷川神社さんは楼門と回廊に囲まれた中に社殿があります。
 
楼門を入ると、舞殿、拝殿・本殿と一直線に並ぶが、流造の本殿は玉垣の中にあるため拝することはできませんでした。

拝殿の左側の回廊辺りは人が多すぎ、そこから先は見ることができませんでしたが、社殿右側には神輿舎が建ち、神輿舎の右横には『力石』なるものが七個ほどきれいに並べて置かれていました。
かつて力自慢の者がこの石を持ち上げたことを記念して奉納したものともいわれているようですが、書いてある文字を読むと、必ずしもそうではなかったような…。
同じような形、大きさに見えますが、重さが彫られており、四十五貫目から六貫目の重さがあるようでした。
また、そのそばには小さな籐籠が置かれていて、中には小さな白い石が入っており、そばに『歯固め石』と立看板がありました。
歯固め石は、お食い初めの儀の際、「石のように丈夫な歯が生えて長生きできますように」という願いを込めて、実際に口に含ませたり、あるいはお膳に備えたりするものですが、…なるほど、神社さんによっては、かようにいかにもありがたい石を用意して下さっているものなのですね。
わが家ではその辺の石を拾ってきて。さ、きれいに洗いさらに煮沸消毒して使ったものです。(しかも上の子のときだけだったかもしれない…)

そして拝殿につながる回廊はいかにも新しそうな建物へとつながっており、そこは祈祷待合室となっていました。
その並びに神札授与所があり、そこで御朱印の対応や、神札や御守の授与をされておりました。

ちなみにこちらの神社さんでは『神楽土鈴』なるものが販売されておりまして、全部で九種の神楽の人形の土鈴がありました。

なるほど、これらの神楽が、あの舞殿で奉納されている、ということなのでしょうね。

ちなみに舞殿は前述したように鶴岡八幡宮にもありましたが、関東ではあまり目にしないものであります。
やはり出雲国の出雲大社を遷した関係から、そうしたものも伝わっている、ということなのでしょうか。
…などと書いてはおりますが、私、出雲大社に参拝させていただいておらず、そちらに舞殿があるかどうかは存じ上げてはいないのですが、ね。

こちら氷川神社さんの舞殿は元々、例祭で神事芸能の「東游(あずまあそび)」を奉納するためだけに建立されたということでありますが、今は多様に使われているようです。

No.141

御守もお受けし、御朱印もお授けいただいたので。
…本来ならここから摂社末社をお参りさせていただくところではありますが、今のこの感染拡大した状況を鑑み、こちらの社殿だけのお詣りで帰らせていただくことといたしました。

神札授与所のならびに、東門といわれる赤くて美しい門がありました。
ここをくぐって氷川神社さんを後にすることといたします。
この東門は大正七年竣功の神門を移築したものだといいます。


おっ♡

東門から外へ出ると、『門客人神社』と『御嶽神社』が並んで鎮座しておりました。

やったぁ!

『門客人神社』の御祭神は、『足摩乳命』さまと『手摩乳命』さまで、こちらの主祭神の稲田姫命さまの親神とされます。

『御嶽神社』の御祭神は【大己貴命』さまと『少彦名命』さま。
主祭神であられる大己貴命さまが、社殿のすぐそばであるこの御嶽神社にもお祀りされているのは何か不思議な気もいたしますが、このお二柱は国づくりの神さま。お二人で諸国をまわられ国をつくってこられた間柄で、これはこれ、それはそれ、といったところでありましょうか。
私もこのお二人、二柱が共にお祀りされている方が嬉しく思います。

二社ともさほど大きくはないお社ですが、みなさん列をなし参拝されておりました。


…本来なら。
…本当のことを申せば、氷川神社さんの隅から隅まで、まわりたかったなぁ。

コロナの馬鹿!

しかしながらこの感染拡大した状況下、五月の八日を以て新型コロナウイルス感染症は季節性インフルエンザと同様の扱い、となることが決定したようです。

感染を怖れる私どもは、今まで通り、…今まで以上に各地の神社仏閣を巡らせていただくことは難しいものとなる気がしております。

ま、とか言っているのは今だから、なのかもしれませんが、ね。(…。)

No.142

大宮氷川神社さんを後にして。
駐車場へと急ぎ歩き出すと、息子がふと歩をゆるめました。

「次に行くところの予定とかつまってる?」
「いや」
「こっちに動物園とかあるみたいだよ
「!♡」

心が弾むと身もはずむおばさん、
またまたフワンフワンと踊るように早足で息子の指さす方へと歩きだしました。
ピンクの梅が七分咲きとなっています。

うーん♡

まず目にはいったのは…ブタ。
ブ、ブタ、ですか。
まぁ、ミニブタ、なんですけどね。

…。
少しテンションが下がったおばさん。
ミニブタ、可愛いんですけどね。
ブタからはじまる動物園かぁ。

隣の檻には山羊がいます。
茶色い山羊が少し高くなったところでポージング。微動だにしません。
ちなみに、動物園を一周して戻っても、私の記憶によるとそのままの場所で、そのままのポーズでおりました。…まぁ、私の記憶によると、なんですけどね。
あとは耳の長い黒山羊がいました。
この子はその茶色い山羊の周りをウロウロしています。

少し進むとサル舎。
コモンリスザルが檻の中を飛び回っています。フサオマキザルも。
早すぎてどんな顔をしているのかもわからないくらいで、この子たちは山羊とは対照的に動きっぱなしでありました。そのほかにもニホンザルなど何種類かのサルがいました。

続いて並んでいたのは小獣舎。
でもさすがに冬ということで、アナグマもスカンクもハナグマも、みな寝ておりました。

ブタによく似た『クビワベッカリー』という動物がいました。群れをなすかのように沢山います。
なかなか可愛らしい子たちです。

カピバラが二頭広い檻の中におります。
一頭は小屋のなか。もう一頭はやはり何故かポージング。
カピバラの耳はくるんくるんと回らように見えて大変チャーミング。
ぼーっとしたところに癒される動物です。

猛獣舎にはなんとブチハイエナ。
なんとなくボヤーとした顔で、同じところを行ったり来たりしています。
そして隣にはツキノワグマ。
檻の中をぐるぐると回り、やっぱり行ったり来たり。…こうして見ている限りは可愛らしいんですけどね。


動物好きな私たち、おばさんのテンションは最高です。


No.143

ミニブタから始まった動物園ということで、下がったはずのテンションはどこへやら。
スキップでもしそうな足取りの、ご機嫌なおばさん。

長い長いベンチがあります。
ふと見るとそのベンチがまた洒落ています。
長いベンチなので途中途中に脚が入っていて、その上に繋ぎ目があるのですが、その繋ぎ目に金属でできた小さなリスが付けられているのです。
よくよく見ないとわからないくらい小さな小さなリスなのですが、その小ささがまたさりげなくておしゃれです。

そして。そのリスの飾りの前に…。
やはり小さな松ぼっくりがぽつんと置かれているではないですか♡

なんて可愛らしい♡
お子さんかなぁ。
それとも…。
心温まる光景です。

ベンチ一つでこれだけ時間をかけている、動物の好きな私たち親子。
…といっても、三十すぎた息子とその親、なんですけど、ね。


こちらの公園、さり気ない小さな動物のモニュメントがそこここに散りばめられています。
なかなか遊び心のある、そしてたいへん動物好きな方が造られた公園のようです。

そして。

動物園の周囲を囲むようにずっと石垣が組まれています。
えっ?
お城の跡とか…ではないよな、氷川神社さんの土地をいただいての公園、だものな。
石垣を組むってなかなか大変な作業だと思うのだけれど…。

いろいろ見どころが満載です。

No.144

大宮公園の動物園の中。
心の中でスキップしているかのようなおばさんです。

…このスレ、…神社・仏閣のスレ、なんじゃあ?

生きとし生けるものの全てを統べ、恵みを与えてくださり、全てを護ってくださる神さま、そして仏さまのおられる神社、仏閣のこと。
そして、そこからはじまる、そこに関係する全てを書いちゃう、
…そんななんでもやっちゃう、(いろいろやらかす)おばさんのスレ、なので、…まぁつまるところ、大目に見てやってください。

久しぶりに訪れることができた動物園。
初めて訪れた動物園、そして初めて見た動物。
おばさんの興奮は止まらないんです。(そして暴走も。)

『とりたちの楽園』という広い広いスペースがあり、ここは結構距離がある上に、中が広いがために鳥たちは見えても遠くて、よく見ることはできません。
フラミンゴがいるようです。

さらに進むと、小さな鳥舎となりました。
…私、鳥は(鳥も)あんまり詳しくないんです。
そして、羽っていう自分にはないもの、鳥の種類によってはなんとも怖い目が、苦手だったりするのです。

それが、最近は息子の撮った写真を見て鳥のかわいさを知りつつあり。

以前は素通り、というより目をそらして早足で歩いていたゾーン、鳥舎をゆっくりと覗いて見るようになりまして。

シラコバト、という白い鳩がいます。私の苦手なのが実は〝鳩〟。
それが…、このシラコバトという鳩は首がシュッとしていて目も可愛らしいのです。
そしてこのシラコバトという鳥は、埼玉県のゆるキャラのモデルなのだそうです。
なんでも、シラコバトというのは生息地の限られた珍しい鳩で、しかも年々減少傾向にあるようです。

動物園というのは動物を展示して、それを楽しみに見にくる客がいて。
そのほかの役割として、希少動物や、絶滅危惧種の動物を保護し繁殖させる役割もあるといいます。

楽しむだけでないこの大切な大切な役割を私にできる応援をしつつ、何より動物たちから癒しをもらう。

私は大人になってから、子どもの頃よりもずっと動物園が好きになっています。


ジュズカケハト、という種類もおりました。

うーん♡フクロウと目が合いました。しかも二羽一緒に、です。
やったぁ。

No.145



…ニ、ニホンリスぅ?

初めて聴く名前です。
エゾリスとか、シマリス、台湾リスとかは見たことがあったのですが、
ニホンリス、ですかぁ。

…いない、じゃん。
冬だからなぁ。
リスって冬眠するんだよなぁ。
…。

うん?
あれ?
出、出てきたぁぁ♡

…うわあ♡…かわいい!

シマリスよりも少し大きくて、台湾リスより少し小さい。
シマとかはなくて、うす茶色の身体でおなかの部分が真っ白です。

一つ一つのしぐさの可愛らしいこと。
お顔も可愛く、目も可愛らしい。


…おばさん、どれだけここにいたんだろ。

はっとわれにかえるまで、リス舎の前におりました。

えっ?
一緒に行っていた夫や息子はどうしてたのか?ですか?

もちろん!
一緒に見てました。

母を動物園に連れて行ったらどうなるか、知っていてあえて教えた息子です。そして息子もまた動物好きでありますし。
彼の撮る動物や鳥、花の写真は結構イケてるんです。



  (ニホンリス)

No.146

と、語彙力のないおばさんが大好きな動物のことでたいへん取り乱し、なかなか収拾がつかず申し訳ありませんでした。

このあと。
大宮をあとにして、浦和へと向かいました。

目的は【調神社】さん。『調』と書いて〝つき〟と読みます。

こちらも駐車場の空きが全く無く、ならない土地で右往左往いたしました。


が。
とりあえず、こちらのお話はまたの機会とさせていただき、本日参りました群馬県渋川市の【宮田不動寺】さん、というか通称は【宮田不動尊】さんのお話をさせていただくことといたします。

本日【初不動】、今年初のお不動さまのお縁日。一年でこの日のみ御開帳されるのがこの『宮田不動尊』さん、なのです。


私はこちらのお不動さまがたいへん好きでありまして。
なかなか土日に当たることのないお縁日が、今年は土曜日ということで、夫に
「どうしても行きたいところがあるのだけれど」
とお願いして、本日連れて行っていただきました。

No.147

朝の八時から車を走らせて(いただき)、群馬県渋川市の郊外、名山・赤城山の中腹をめざします。

【宮田山不動寺】さんはすぐそばを線路が走り、以前夏にうかがったときには、撮り鉄さんが二人ほどおられました。
上越本線の敷島駅近くの渋川市赤城町宮田地区。
走ってきた通り沿いにはあまり民家はみあたらない宮田地区と呼ばれる地域に、国の重要文化財したいともなっている【宮田不動尊】さま=【石造不動明王立像】がおられます。

曹洞宗のお寺さんであります【宮田山不動寺】さんは無住のお寺。
この地区に住んでおられる方たちの自治会と、『宮田不動尊保存会』の方々がお寺とお不動さまを管理されています。


古来こちらのお不動さまは村内はもちろん、近郷近在の尊信が極めて厚く、かつて初不動の祭典には数千人もの人々が参拝に訪れたと伝わるといいます。

それが。
明治のあの『廃仏毀釈』で状況は一変してしまったのです。(キィーっ!)

無格の小さな神社さんとともに、新しく作られた『宮田神社』に吸収され、それまで認められていた独立仏堂の扱いも無効とされてしまいます。
奥の院や仁王門は解体(!)・売却(!)され、県の仏堂台帳から削除されてしまったのです。

お不動さまと地域住民にとってそんな不遇の時代が四半世紀も続くこととなります。

そんな宮田地区と宮田のお不動さまに、昭和九年、転機が訪れました。
当時行われたという『陸軍特別大演習』の記念事業として、
村内の名所や旧跡をまとめた書籍を制作することとなったとかで、関係者がこの宮田のお不動さまのおられた断崖絶壁の洞窟内に入ったところ、な、なんと、無惨にも倒れて胴体部分が真っ二つに割れた状態で発見されたのだといいます。



No.148

真っ二つ!

が。
こちら【石造不動明王立像】さまは、石造であるのに等身大という大きなものであり、鎌倉時代に造られたこの像、山の中腹の洞窟内に安置するには、彫り上げてからでは万が一落としての破損等を考えたなら到底人力では無理と、…おそらくは考えてのことでしょう。
…当時は人力くらいしかないですものねぇ。
しかもこちらのお山ってかなりの急斜面なんです。
石として運び込んで、洞窟内で制作しようとしたところで、その重量は像として完成したものより重いことは間違いないですし。

長々と(いつものように)語っておりますが、要はこちらのお不動さまの像、なんらかの理由で、
元々、脚の付け根あたりまでのところで分かれる2パーツ、で作成されていたのです。

なので、真っ二つといっても、ただ倒れたことで元々二つだった2パーツに分離しただけ、しかも倒れた事による破損等はなかったようなのです。

びっくりされた方、申し訳ありません。


ただ、そんなお姿で発見されたことで、こちらの石造のお像の継ぎ目に銘文があったことが判明したということで、今まで何一つわからずにいた、
〝造立年代〟、〝作者〟、〝願主〟などの御由緒が一気に判明することとなったのです。

しかも。
閉鎖され、秘仏としてではなく、あくまでも政府の方針、県の方針で二度と日の目を見ないよう封印されていたお不動さまが、再び人たちの目にふれることのできることとなった瞬間でもあったのです。

……奇跡、というより、やはりお不動さまのお力でございましょう。


こちらの『石造不動明王立像』は、

建長三(1251)年、『掃部権助源朝臣氏義(かもんごんのすけ みなもとのあそんうじよし)公の発願により、
仏師『院隆』と『院快』によって造られた

ということが(その銘文を写した写真のコピーのコピーを見るともっともっと長文であることだけはわかるのですが)書いてあったといいます。

その銘をもとに発見された数年後には文部省から『重要美術品』の指定を受けたといいます。

No.149

宮田のお不動さまは、宮田山不動寺の裏手、本堂に接する洞窟内に安置されています。

高さ166センチ、腰回り156センチ、ほぼ等身大で、流紋岩質軽石凝灰岩(りゅうもんがんけいせきぎょうかいがん)を、丸彫りした石仏さまであります。
石のことは(石のことも)さっぱりわからない私ですが、私が見るにはすべすべした表面にみえる、白い石のように思われます。
彫りやすい石なのかどうかも、これまたさっぱりわからないのではありますが、
おさげの髪が身体に流れるようについているさまとか、
肩の丸みとか、
あごのラインとか、
肘の曲げ方、
手足の指の超リアルな感じとか、
アンクレットとか、etc…
石を彫って造られたものとしてはたいへんリアルなものであります。

石工ではなく仏師に造らせた、クライアント(願主)のこだわりも伝わってまいります。

不動明王像の下半身上面に記されているという銘文には、どのような不動明王像を望むかまで記してありました。
ま、おばさん、その全文のほんのわずかな部分しか読解できなかったんですが、ね。

願主であります『掃部権助源朝臣氏義』公は、『所奉忿怒形像也』とそのお顔の相を、
片目を半眼(薄目を開く)、片目をかっと開いた【分怒相】をはっきりと指定されています。

そしてこのお不動さまを建立し奉納するにあたっての誓いと願いが書かれていました。
魔縁・災難を速く除いていただきたいこと、
求めるものが叶いますよう、
法界において全て平等の利益が得られますように
…と、私なりの解釈はこんな感じだったんですが。
要は現世利益、仏法興隆、ということ、ですか。

現代の日本語すら使いこなせていないおばさんが、鎌倉時代の文章を読もうとすることがもうすでに、無茶なこと、なんですが、ね。


ところで。
実はこの願主さま、源朝臣氏義公は、新田荘を立荘した【新田義重】公の曽孫にあたる人物であるとのこと。

この氏義公の領した土地は【里見】と呼ばれた現在の高崎市の一部。
この頃は領した土地を姓としていたため、氏義はこの頃【里見氏義】公となります。


ただ、ここで不思議なことが。

高崎市と渋川市って、わずかに隣接はしているものの、『里見』と『宮田』は群馬県の名山【榛名山】を挟むほどに離れた土地、なんですよね。

『宮田』は氏義公にとって所領外、なんです。

何故?

No.150

…などと、おばさんがない頭を捻ったところで、今まで専門家の方が調べてわからなかったこと。

しかも、このお不動さまは遠くの地まで名を轟かせ人々の尊崇は厚かったものの、願主や造られた年等は一切不明であったお像です。
さらには明治の廃仏毀釈以降、人に顧みられぬこととなってしまった。

それが昭和九(1934)年に、たまたま村史跡を調査することとなって、倒れておられた不動明王さまが発見され、二分された胴体部の上下両面と、台座下面に墨書きの銘文があったことが発覚し、そこで初めて由来…御由緒がわかったくらい、謎に包まれていた時代の長かったお不動さまです。

今となっては誰にもその謎を解明することは難しいことなのでしょう。


そして、このお像、胴体中央部上下に漆の塗られた空洞があるのだといい、そこには曼荼羅と、いろは歌を書いた紙片が納められていたといいます。
さすが仏師の造った石仏さまです。

そして、これだけ立派な彫りが施され、さらにはそのような細工もされていたということは、きっとこのお不動さまを彫った石はやわらかく彫りやすいものなのでしょう。

ですが、それにしては欠け等も見あたらず、美しいままのたいへん保存の良い状態の御像であります。
それはこの洞内に安置されていることと何か関係があるのでしょうか。

そして。
このお不動さまは今、白いお像でありますが、実はところどころ黒い部分があり、おそらくはかつては全面黒く塗られていたのではないか、と述べておられる方もおられ、その塗られていた塗料が劣化を抑えていたのかもしれません。


前述したように、こちらのお不動さまは地元の方々にたいへん大切にされている存在であります。
一年に一回のご開帳にはこの近隣の方にとどまらない、実にたくさんの多くの方が参拝に訪れておられます。

こちらのお不動さまは力強いながらも温厚な雰囲気をただよわせており、優美で重厚な鎌倉期の特徴がうかがえるお像です。
一度こちらの参拝に訪れた方は多くの方がまた再拝されておられるほど人を魅了するお姿です。
またお不動さまの、悪魔を降伏させ、行者を護り、知恵と長寿をさずけてくれるというご利益もありましょう。

愛され尊崇される『宮田のお不動さま』であります。

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