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神社仏閣巡り珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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で。
昔の〝一休さん〟の歌を知る者としては、ですよ。
♪ アハハッハハ オッホホホ
ですから、ね。
子供向けの歌って、なんかいきなり脈絡のない言葉が突然、出てきたりするものだと、すでにこれまでの童謡でイヤというほど刷り込まれていた者でありまして。
♪ 好き好き好き好き好きっ好き
愛してる ♪
にもはや違和感など感じない子供になっていた、わけです。(…そういうことにしておこう)
考えてみると、子供向けの歌、だけでなくて、昔の歌謡曲とかもそうだったかもしれない。
…ん?
今のヒット曲もそうかもしれない。
歌って、必ずしも歌詞を詩として重視して作るのではなく、あくまでも歌として、曲に乗せたときの感覚をも考えていて、それで歌として成り立つもの。
その〝歌〟を聴いて、歌って、
そこに聴いた人、歌う人がそれぞれに、そこに情景やら、情感を感じるのが大切なのだと思います。
でも…。
初めてこの♪ 好き好き好き…を、母親の歌歌う歌として聴いたわが家の子どもたちって…。
やっぱり衝撃的、だったのかなぁ。
自分でも少し心苦しくは思っているのですが、最近少しも神社仏閣のことを書かずに、脱線ばかりしております。
さては…飽きたか?
いやいや決して。
ですが、再々拝の神社さんやお寺さんのことを何度も書くのはさすがに気がひけるのです。
もちろん本人としては、新たな出会いであったり、発見であったりはあるのですが、正直、このコロナ禍となって、遠出をして今まで出向いたことのない神社さんやお寺さんをお訪ねし参拝することを極力控えておるのです。
…えっ?本当に?
そうだったっけ?
…ええ、東北に行ったのはたしかにコロナ禍となってからでありました。
それでもN95のマスクを何千円もかけて購入し、フェイスマスクも持って、使い捨ての手袋も持って、それをフル活用してのものでした。
帰宅後は同居の息子に私たちからの感染ということが万が一にもないようにと、それこそ、感染者と非感染者のような動線分けをしたくらい、私どもにとっては最大級の感染対策をとってのものでした。
…正直、あの感染対策は疲れました。
その後、withコロナの時代を迎えて、ワクチン接種を推奨されたり、さまざまな試行錯誤と紆余曲折をしつつ、〝今〟という時を人類は、日本国は過ごしております。
一度きりの人生、さまざまな我慢があって、
…でも明らかにコロナ前とは生活は一変し、さまざまな我慢、かつてならあり得ない我慢が人類に課せられています。
またこのコロナの第八波がやってきてもいます。
罹患しないための努力はどこまで通用するものなのか、正直、運すらがそこにあるような気がしてならないのです。
とても感染対策を重視して行動されておられる方が罹患されることも多々あります。
私が罹患したくはない理由は、夫にうつしたくないから。
夫が呼吸器疾患を持ち、定期受診をしており、強い薬を何種類も服用しているのにも関わらず、それでもここ数年は年に一回は肺炎や気管支炎を起こしています。
彼は間違いなく、重篤化しやすい対象でありましょう。
私からうつしてはならないという気持ちが強いのです。
それこそ私は一生後悔して生きることとなる気がするのです。
…小心者でビビりだから。
あともう一つはもっともっと重いもの。
つらつらと連なる駄文の数々。
しかもタイトルとは異なり、寄り道ばかり。
まるでいっばしの詐欺師のようです。
でも、何度も何度も同じところのことを書かれても、つまらなかろうとか思い。
群馬の片田舎の道端におられる石仏さまのことを魅力的な文章で書ける能力は皆無で。
それでも認知症予防…進行予防のためにも、駄文な上に誤字脱字、言い間違い等々の駄スレ恥スレを、徒然ならまま、ひぐらし綴らせていただいております。
お目苦しいことしかありませんが、ミクルの片隅を引き続きお借りして、書き続けていることをお許しください。
昨日は二十八日ということで、お不動さまのお縁日。
このところほとんど毎月のようにお参りさせていただいている石造りのお不動さまは、元は足場も危ないような川岸の斜面におられたといいます。
そんな危ないところにおられるにも関わらず、参拝される熱心な信者さんが何人もおられ、その方々が高齢となられ参拝しやすいようにと、橋のたもとにお移りいただいた経緯があるといいます。
本当ならば、そこにお不動さまのお像を建立するだけの理由があったのだろうし、お不動さまもその理由を知ってその辺りをお護りくださっておられたのでありましょうに、なんだか人間の身勝手で申し訳ない気がいたします。
とはいえ、きっとその信者さん方は確実にお参りしやすくなったことでしょうし、私などは以前鎮座されておられた場所にあっては一生涯お目にかかれることもなかったでしょうから、ありがたい面もたくさんありますが。
そもそもお不動さまのお力は、人の手によって移動されたぐらいでは変わろうはずもなく、かえって広い範囲をお護りくださるようになったのかとも思うのですが、そこに建立した方の思いとは違う形となったことだけはたしかではあります。
小さな石造りのお不動さまは、全長で三十センチくらい。
移動した際に彩色を施したようで、私としては元のお姿が拝見したかった。
このお不動さま、本当にお優しい気を発せられておられます。
間違いなく癒しの気であります。
何度も荒れた川の岸の斜面に建てられたお不動さまは、河川の氾濫を鎮めると共に、亡くなられた御魂と、大切な方を亡くされた方の気持ちを癒しておられたのではないでしょうか。
そして今もなお、その河川の氾濫を抑えつつ、お参りする者の気持ちをほぐし癒してくださっておられる。
大好きなお不動さまの、大好きな御像の一つです。
石仏さまの大好きな私。
とはいえ、さまざまな理由から道端に鎮座されておられる石仏さまはほとんどお見受けすることがなくなっております。
少なくとも私の住む辺りでは〝皆無〟
なので石仏さまにお会いできるとしたらやはりお寺さん、となるのでありますが…。
石仏さま、じつにさまざまな御仏が彫られております
多いのはやはりお地蔵さま。
そして馬頭観音さま、青面金剛さま、如意輪観音さまがおられます。
中には石仏さまの光背の横に、戒名が彫られているものもあり、「おおっ!お墓でありましたか」となることがあります。
お墓の制度がなかったころ、亡くなった人の供養のため石仏をつくらせたのでありましょう。
川のそばなどはことに多くみられたようでありましたが、今は、その御仏の立たれるそばのお寺さんなどに奉納され安置されるようになったのかもしれません。
群馬には信州伊那などから石仏を彫る職人さんたちが来ていたようです。
石仏さまを見ているうちに、いくら調べても わからないことも多く。
誰かにお聞したい、
でも誰にきいたら良いの?
とりあえず地元群馬の石仏に関する本はないかな?と、さまざまな市や町の文化財の資料などを購入しております。
でもそれを見ても分からないことも多く…。
そんな私に一筋の救いの糸が♡
石仏さまを愛する方々が集い運営している【日本石仏協会】なるものが存在することを知ったのです。
…ただ。
年会費が八千円、とのこと。
無職の専業主婦はあきらめるしかないかなぁ。
石仏さまが大好きな私。
時々無性にお会いしたくなる石仏さまがおられます。
その中の一体が、今なお道端にお祀りされているお地蔵さまなのです。
普通に生活していては絶対に通らない道ですので、なかなかお参りすることは叶いませんが、初めてお目にかかったとき、涙が出そうになるくらいに一目で大きな癒しを与えていただいたお地蔵さまでございます。
それは応永十六(1409)年に造られた、高さ70センチメートル、幅35センチメートルの石に浮き彫りされたお地蔵さまであります。
道端に、それでも簡素ながらも屋根と囲いを作って、お祀りされているのです。
石の一面を研磨して平面とし、下の方は平面にするべく直角にけずり取り、背部の突出部はそのまま残して安定をよくし、上部は円形で、あたかも円形光背状にみえるようにつくられております。
像容は、大変趣向をこらしたものであると思われます。
六角形の台座が簡素な彫り方で、…まるで彫刻刀の三角刀で一気に一彫りで彫られ、その上に蓮華座がやはり陰刻されています。
そしてその上部に、右手に杖をにぎり、左手に宝珠をもった地蔵菩薩さまの座像が陽刻されているのです。
そのお顔のお優しいことといったら。
そして上半身部は円形光背が大きく描かれていて、まさにお座りになられたお地蔵さまから大きな満月のような後光が差しているように造られているのです。
はあぁ♡
お参りさせていただいた日には、まさに備えられたばかりの豪華な仏花が生けられていました。
いつもお参りしてくださる方がおられるのだなぁ。
私まで嬉しくなりました。
またまいります。
といつもそうご挨拶をして、参拝を終えます。
…ただ こちらの参拝、路駐するしかないんですよね。
そこだけが心苦しい。
ある老僧の法話を。
秋になり、いよいよ冬が間近となって、見上げる木々にはもうほとんど葉が残っていません。
つい先日までは赤や黄色の美しい姿を見せていてくれたのに。
こうした光景を見ると、木の一年が終わったと思います。
春葉をつけて、生い茂り、紅葉して散る。
そうして来年の春、また新しい葉をつけて新たな一年が始まります。
私が、私たち人間の一生も同じだなぁと感じる時です。
私はもう後期高齢者。いつ逝ってもおかしくはない年頃を迎えています。
私たち人間も、〝生老病死〟という、時を過ごして逝きます。
人はどうやって、次の春に繋げていくのか。
それは後に生きる者たちへ、〝老〟老いていくとはどういうことなのかを〝教材〟となって見せ、〝病〟病んだときの生きざまを見せ、そして、…死にゆく姿を見せて、何かを学んでもらえるように、良き〝教材〟として生きることだと思うのです。
木々が芽生える姿、
生い茂る姿を見て、
そして美しい紅葉を見せてくれること。
そんな一つ一つに感謝する思いを持って、
自分はどう生きるかを学び、後の者に繋いでいく、学びの心を持って生きたいと思います。
それはあちらの世界に旅立つ日までずっと。
みなさんも木々を見上げてそのように思っていただければと思います。
若き人たちの〝教材〟となって生きてまいりましょう。
季節外れの暖かい日が続く、高く聳える木々に、ほんの少し葉の残る、そんな野外で、時折木々を見上げながらお聞きしたお話です。
朔日のお参り。
御神木の銀杏は参道の真上の一枝にほんの少しの葉を残すのみで、わずか十五日の間にすっかり様相を変えていました。
黄色い葉が広がる木。
ハラハラと散る特徴ある葉。
銀杏は大好きな木の一つです。
…ただ、ギンナンは辟易します。
食いしん坊でありますが、ギンナンの味わい、美味しさもいまだにまだ分かりません。
大きな大きな御神木を見上げていて、ハッとまずは参拝をしなくてはと、視線をまっすぐに正しました。
あ。
その散った葉を掃き集めておられる、年配の男の方が二人おられました。こうした神域のお掃除は、神さまへの御奉仕。行いの御供えとなるといいます。
…それにしても、すごい量。
これは大変だ。
お二人に頭を下げて、二の鳥居をくぐり神橋を渡りました。
うーん♡
大好きな拝殿が見えました。
この日までお守りいただきましたことを感謝して、また無事に過ごせますようにとお祈り申し上げました。
参拝を終えて。
御神木の横までまいりました。
先ほどよりもだいぶ葉の量が減っております。
「だいぶ進みましたねぇ。量が半端ないから大変ですね。
昨日まで暖かだったのに、打って変わって今日は寒くて…本当にありがとうございます」
とお声がけさせていただくと、
「そうなんだよぅ」
とニコニコ笑いながらお答えくださいました。
「やってもやってもキリがなくてなぁ。でも寒くとも風がないから全然いいんだ」
「でもこうしたお掃除も神さまへの御奉仕だとか」
「ぷっ。
…このさぁ、イチョウってのは始末におえないんだよ。普通の落ち葉よりずんと重いんだ。ツルツルして集めるのも大変だし」
「あら、そうなんですかぁ。そういえばイチョウは油分か多いから滑りやすいって」
「お、よく知ってるじゃん。そうなんだよ。重くって滑るし、最悪な葉っぱだよ」
!!
…お、おじさん、これ御神木の葉、なんだけど。しかも社殿の、神さまの真ん前で大きな声で…。
小心者の私は、
「あ、ありがとうございます。お邪魔してすみませんでしたぁ」と、そそくさとおじさんたちに別れを告げました。
『木』つながりで、もう一つ木のお話を。
それはクリの木。
宮大工さんがお話されたというお話です。
「クリというヤツは、あらゆる木の中で一番の暴れん坊でねぇ、アイツばかりは、手がつけられねぇ」
というのです。
普通、山から切り出した木は池や川に一年、ニ年と水に浸けてから乾燥させて建築材料にするのだそうです。こうすることによって狂いが少なくなるのだというのですが、クリの木だけは、そうやったのちにも、使用後数ヶ月すると狂いが生じるのだそうです。
経験を積んだ腕のいい大工さんはそれを見越して細工するといいます。
「近頃は、クリを使いこなす大工が少なくなった」と、その宮大工さんはおっしゃったのだとか。
クリは力の強い木で、木肌が緻密で、鉄分を含んでいるので長年使い込むとカタクリの花のような薄い紫色になってくるといいます。
ヒノキと並んで建築材料としては一級品なのだそう。
いつか行きたい青森県の、『三内丸山遺跡』では、クリの巨木が柱として使われているといいます。
でも、群馬県から仙台までと同じくらいの距離離れているのだというんですよね、青森県。
つまり、仙台まで行って、そこからまた今来た道のりと同じだけの距離を移動することになるのだとか…。
うーん。
青森県に行きた〜〜い!
(前レスをお読みになられてしまわれた方、誠に申し訳ありませんです。
メモするものがなく、動転しながらここしか思いつかず、メモ書きをしてしまいました。
今は違和感のみです。
とりあえず削除させていただきました)
切なくて、切なくて、悔しくてなんとも腹立たしい事件がまた起きていた。
しかも故意だ。
不注意などではない、故意の虐待だ。
書くことすら不快な悍ましい事件だ。胸が悪くなる。
複数人の保育士による園児に対する虐待だ。
複数人というのがおそろしい。
虐待行為が常態化していたことすら考えられる。
表面化した虐待などおそらくほんの氷山の一角に過ぎないに違いない。
保育士という職業がどんなものであるか、イメージして、夢見て、その職業に就いたかもしれない。
でも、実態は一瞬も気を抜けない毎日の仕事である。命を預かり、大切な、未来を持つ子どもの心をも育てる仕事である。
命がけで産んだ、大切な大切なわが子を、信頼して預けているのが親たちなのだ。
「こんなはずじゃなかった」
そう思って辞めていかれる若い保育士さんも多い。
それは決して適正ではない。
その人がどんなに保育士として素晴らしいものを持っていようとも、環境など、さまざまな要因がそこにある。
「こんなはずじゃなかった」
そう思う理由は人それぞれであろう。
ただ、適性を含めて、その職業の選択を誤ったと思ったら、勇退すべきである。
子どもを可愛いと思えない時が来たら、すぐに辞めて欲しい。
たしかに人手も重要な職ではある。
でもそこに悪の手は要らない。
保育園も、自分の園を辞めさせるよりも前に、虐待の通報をするべきだったのではないのだろうか。
そういった姿勢こそに、信頼できるものを感じると思う。
きっと人々の記憶から消えてしまうの日が来るのであろうし、この加害者たちはまたなんらかの職に再就職もするのだろう。
だがその保育士という資格を持っての再就職は禁じて欲しい。
逮捕というからには前科となるのだろうが、この加害者たちが本当に心から悪いことをしたと思い、悔い改めることができるかの見極めも難しい。
繰り返されるテレビのニュースを見てはキーキー怒り狂っているおばさんであります。
『鎌倉殿の十三人』を部分部分、観ているおばさん。
今回は昼寝をしてその時間に備えたという徹底ぶりで。(…孫の方が夜に強いようだ)
今回最後に尼将軍政子と妹の実衣が抱き合って「おんたらく〜そわかぁ」と唱えているシーンがありました。
うん?
これは…どなたか御仏の御真言なのでは…?あとで調べてみよう。
そう思ったところへ、別室で『鎌倉殿』を観ていた夫がやってきました。
夫「今回は起きてられた?」
私「うん、『おんたらくそわか』のところまで」
夫「最後だけ観られたの?」
私「ちゃんと全部観られました!蹴鞠のとこも。時元のところも」
夫「時元のところ、さらっとしたね」
私「…ねえ、『おんたらくそわか』ってなあに?」
夫「ああ、それはねえ。木曽義仲のねぇ、…頼朝と政子の子どもの大姫とねぇ……義仲が討たれ、義高も殺されてしまうんだ。それでねえ…」
…イライラ!
「……で、今回で三回目」
…全然、全く、答えになっていないでしょ!『鎌倉殿』に毒されたおじさんに聞いた私がバカだった。
やっぱり困ったときはGoogle先生だわ。
答え:【おんたらく そわか】とは【虚空蔵菩薩】さまの御真言です。
へ?
私が知っている虚空蔵菩薩さまの御真言と違う…?
…ああ、不動明王さまの御真言のようにいくつか御真言があるパターンなのかもしれない。
Google先生いわく。
「ちなみに『おんたらく そわか』は真言の一部で、フルバージョンは『おん ばざらあらたんのう おんたらく そわか』」
そうそう、それそれ!
御真言というのは「人間の言葉で表現するのは難しいけれど、仏様の本質を表した言葉」であり、「唱えることで法力やご加護が得られる護身の呪文」とでもいうものでありましょうか。
ちなみに。
虚空蔵とは虚空≒宇宙の母胎を表し、無限の広がりをもった宇宙のような知恵と慈悲をお授け下さる菩薩様として、広く信仰を集めています。
うーん。
何故、あのシーンで虚空蔵菩薩さまの御真言を唱えることになるのかは私にはさっぱりわかりませんが…。
宇宙のような御慈悲を求めて…のことなのでしょうか、ね。
自分の運転には全く自信のない私は、まず山道の運転は向いていないと自覚しており、もしもどうあっても、一人でも行きたいと思うと、細い山道を走らずに済むよう、かなり麓の駐車場から歩いて登るようにしております。
なので山寺となるとなかなか一人で参拝することはできずにいるのですが。
夫婦揃って大好きなお寺さんなのにも関わらず、幾度となくそのお寺さんの名前をどちらともなく口に出してはいるくせに、行くことができずにいるお寺さんがあります。
それは栃木県足利市にあります、【行道山浄因寺】別名「関東の高野山」とも言われ、関東四霊場の一つに数えられ古刹であります。
【行道山浄因寺】
創建は8世紀前半(和銅七年)、奈良時代の名僧・行基が開き、弘法大師が第二世といわれている。特徴としては、天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗の四宗兼学の道場であったという点。
後に法徳禅師により禅寺とし、室町時代には学問の道場となり大勢の修行僧がここに集結した。
17世紀前半(元和9年)に、雷火により堂塔の焼失という悲劇があったものの、江戸幕府から寺領20石の朱印をうけ寺勢を盛り返した。
しかしその後明治に入り、本堂、鐘楼、経蔵、仏堂などの建築物をはじめ、経巻、仏像、寺宝などの大半を焼失してしまう。
そんな浄因寺さんは、もともとが修行の場であるため、そこに辿り着くまでの道が細くて対向車などが来ようものなら、すれ違うことも難しく、脱輪の危険と隣り合わせの道を登って行くような…そんな、典型的に私が一人では行けないお寺さんの一つなのです。
そして。
今は無住となって久しいお寺さんでもあります。
そこに…実は猫が数匹、身を寄せ合って暮らしているのです。
最後のご住職が飼っておられた猫たちで、ご住職が亡くなられたのち、麓に住む方がその猫たち皆を引き取ってくださったのですが、猫たちはご住職と住んでいた山を目指し、ひたすら移動して移動して、元住んでいた庫離へと戻ってしまったのだというのです。
猫たちの気持ちを汲んで、その方はその後は毎日山に登っては餌をあげてくださっておられるといい、なんともありがたいことであります。
今は修行ではなく観光でもない、ハイキングで登ってくる方がほとんどの浄因寺さん、訪れる人たちを癒してくれる存在の猫たち。
…そんな浄因寺さんの近況を知ることができました。
【浄因寺】さんは明治の大火で本堂、鐘楼、経蔵、仏堂など、境内に残っていた堂宇のほとんどを失っており、かつて『関東の高野山』といわれるほど繁栄していた時代の面影はありません。
残っているのは…心洗われ優しさに包まれるような、そんな清らかな澄んだ気であります。
明治の大火後に建てられた山門と、鐘楼、そして御本堂は、おそらくかつてのものとは比較にならない質素な造りとなっているだろうと、そう思われる質素なものであります。
庫裏はさらに質素な、明治から昭和初期にかけて建てられたごくごく一般的な民家、であります。
ただ境内の巨石の上に建つ【清心亭】、そこに行くために掛けられた橋は、その火災を免れ、江戸の時代の繁栄を伝えています。
この清心亭とそこにかかる橋は、葛飾北斎が『諸国[名橋奇覧十壱橋]足利行道山雲のかけはし』として描いたくらいであります。
かつて修行の場であった頃は女人禁制で、現在駐車場になっているところまでしか女性は来られなかったのですが、
江戸時代には清心亭が建てられたくらいにその門戸が開かれ、信仰の場であると同時に観光地としても栄えたようでありました。
平成の頃にはその清心亭を建て替え、再び観光化を目指した時もあったようですが、今はその景観を愛する人たちが訪れるのみとなっているようです。
そこに、主なき家を守るかのように残る猫たち。
境内を案内するかのような動きもしてくれる、そんな猫たち。
ですが、無住となって久しく、猫たちも年を重ねておりました。
私たちは…その猫たちすら居なくなってしまった浄因寺さんが見たくなくて、心の中で祈り手を合わせるだけになっていました。
その浄因寺さんの猫たちの情報をネットに配信してくださった方がおられました。
庫裏に貼り紙がしてあるのだといいます。
【茶トラ猫をご心配の皆様へ
冬の寒い時期に一時保護をして春には帰す予定でいましたが、慢性的な猫風邪と口内炎で体調が安定せず、良くなったり悪くなったりの繰り返しで帰すタイミングがありません。
高齢でもあり凄く元気という訳にはいきませんが、食べたい時に食べて日々穏やかに過ごしていますので、その点はご安心ください。 2022年8月 】
なんと、なんとありがたい。
思わずその方に向かって手を合わせる私でありました。
…よかった。
(雲のかけはし)
栃木県足利市の【浄因寺】さんは、清らかに澄んだ気に満ちた、自然に囲まれ、よく日のあたる、大変居心地の良い空間であります。
そして。
何千とも言われる石仏さまがおられる、私の大好きな大好きな癒しの空間です。
どうかまた、私を参拝させてください。
十二月八日。
…ああ、お薬師さまのお縁日だ。
そう思い玄関を開けて。
私の目に飛び込んできたのは、大きな大きなまぁるいお月さまでありました。
やや見上げる高さに、すこぉしだけ柔らかで優しい黄色みを帯びた、神々しい、それでいて私を優しさで包んでくださるような、そんなお月さまでありました。
…ありがたい。
思わず手を合わせました。
今日は間違いなく良い日です。
…。
……うーん?十二月八日?
あっ!成道会(じょうどうえ)だ!
そうだ、お釈迦さまが悟りを開かれた日とされる、成道会の日だ!
しかも今日のぼるお月さまは満月。
最高な日の始まりです。
今から約二千五百年ほど前に、インドの一地方の王子としてお生まれになったシッダルタ(後のお釈迦さま)は、その地位を捨て、妻子を捨てて、二十九歳で城を出て、修行者の群れに身を投じ、難行苦行を重ねました。
しかし、どんなに難行苦行を重ねようとこの世の中の生・老・病・死の苦しみから抜け出すことは出来なかったのです。
お釈迦さまは六年間続けた苦行をやめ、尼蓮禅河(にれんぜんが)で身体を洗い清め、村の娘スジャータの乳粥の供養を受け、菩提樹の下に座って瞑想にふけりました。その間、いろいろな悪魔に悩まされ続けましたが、その悪魔を追い払い、十二月八日の日の出前、明けの明星を眺められ、悟りを得られたのであります。
お釈迦さまが、この世の中の苦しみを如何に滅するかという最大の課題を、遂に解決することが出来たのが今日この日と言われているのです。
いわゆる悟りを開かれた日で、この時お釈迦さま三十五歳、明けの明星の美しく輝く時であったといわれており、これ以後シッダルタ太子は『仏陀』と呼ばれます。
仏陀は、この日の悟りの喜びを、自分だけのものとしないで、人々に弘めようと決意されました。
仏陀は人間は二つの極端に陥っていると考えました。
ある人は快楽を追い求め、またある人は苦行に身体を苛(さいな)んでいる。その両方とも悟りに至ることは出来ない。
苦と楽の両極端を捨てて【中道】を選ぶ、即ち「調和のとれた努力」を続ければ悟りが開けるということを弘めていかれたのでありました。
この、お釈迦さまが〝悟り〟の境地に入られたことを記念する法要が【成道会】なのであります。
そ、そうだなぁ。
私は両極端な人間かもしれない。
『中道』かぁ。
私は御仏の御像が大好きで、御本堂におられる立派な御像も、風雨にさらされておられる石仏さまも、それこそ本に掲載された写真のお姿すらも、心癒され、時が経つことを忘れたいほど拝見させていただいてしまいます。
断捨離を兼ねた大掃除をしてみて、神社仏閣の本の多さに我ながら呆れたくらい、本がありました。
もちろんこの本たちは、当然、決して、手放すことはありませんが、私がボケて身の回りのこともおぼつかなくなったり、この世を去るようなこととなったなら、この本を見た人たちはさぞ呆れることだろうなぁとは思うのですが、ね。
ご興味のない方には同じような本でしかなく、(何冊も同じような本ばかり買って、結構前からボケていたんだなぁ)と思うに違いありません。…まあ、結構前からボケているんですけど、ね。
今年は結構高頻度で土日に孫の面倒を見させてもらえ、あまり神社仏閣を巡ることがなかったのだなぁとスマホの写真をみるとあらためて思いました。
それもあってなかなかどこどこの神社仏閣にうかがいましたといったレスが少なかったようです。老化による意欲の喪失かと密かに心配していたのですが、違ったようで一安心いたしました。…たぶん。
とはいえ孫を連れてですら、神社さんをお参りしており、この週末と来週末は土日とも、二日連続預かれるので、お天気さえ良ければ少し遠いですが、
『少彦名命』さまをお祀りされている神社さんに参拝させていただけたらなぁと思っている私であります。
ただ、やはり初めて参拝させていただく神社さんには子供を連れては行けず、参拝したことのある神社さんとなるため、同じところの記事となることとなりレスをためらうこともあります。
…ただ。
再拝ですとそれなりに珍道中率が少なくもなり(本当に?)、その分、神さまや周りの方々には失礼なく参拝できている…のかなぁ、…どうかなぁ。
私の癒しであり、大好きな仏像。
そんな仏像のはじまりはいつ頃だったのでしょう。
もともとは尊い存在を形にすることを〝不敬〟とする考えがありました。
お釈迦さまが入滅されたのち、その遺志を継いだ弟子たちは教団を引き継ぎ、信者たちと共に釈迦の遺骨を祀ったストゥーパ(仏塔)を崇拝していました。
ストゥーパの周りの石の柵にはお釈迦さまの生涯がレリーフに刻まれたといいます。
しかしそのレリーフにお釈迦さまのお姿を刻むことはなかったようです。不敬であると考えたからです。
それゆえ〝仏足石〟や〝宝輪〟を釈迦と思って崇めたのでありました。
仏像が初めて造られたのは、紀元前一世紀頃と言われています。
インドの西北、ガンダーラ(現パキスタン)で釈迦如来像が造られたのが始めだと言われています。
シルクロードに繋がるガンダーラ地方で、ギリシャの神像彫刻の技法と、仏のイメージが結びつき写実的な仏像が生まれました。
……これがまたお美しい。
実にお美しいんですよ。
東京国立博物館に、ニ〜三世紀頃に、ガンダーラで造られたという【如来坐像】がおられるんです。
…これまたコロナ禍となって。
もう何年もさして遠くもない東京や神奈川などにも行けずに過ごしておりますが…。
神社仏閣だけでなく、行きたいところはまさに星の数ほどあるのですが…。
今また新規感染者数が増えてきてある状況を踏まえますと、私どもは出かけることを控えます。
♪ 行きたかった、行きたかった、行きたかった YES!
〇〇に…
…と歌って踊って、自分を誤魔化し…
…たりは決してしてはおりませんが。
せめて写真の御仏を拝観し。
せめて写真で日本各地を巡って。
まあ。
貧乏なのでコロナ禍でなくとも日本各地はまわれないだろうから、な。
(東京国立博物館の【如来坐像】)
昨日は『漢字の日』。
日本漢字能力検定協会は、漢字の奥深さと意義を再認識するための活動の一環として、毎年年末に今年一年の世相を表す漢字一文字とその理由を全国から募集し、その中で最も多かった漢字を選んでいるとのこと。
そしてその選ばれた漢字を、京都【清水寺】の貫主の揮毫により発表し、奉納の儀式を行なっていることは、すでにもう国民的な行事として浸透し、年末の風物詩ともなっているかと思われます。
今年の漢字は『戦』。
なんとも複雑な気持ちになります。
『戦』という文字から直結し思い浮かぶのはやはり今年の二月から現在まで続くロシアによるウクライナへの侵略戦争であります。
またそれに付随して頭によぎるのが、北朝鮮による相次ぐミサイルの発射。
一日も早く「戦」争がおさまり、平和が訪れることを日々祈っております。
とはいえ、つい最近のサッカーワールドカップでの日本代表の活躍で、『戦』という文字が、『熱戦』という使い方があることをあらためて認識することができ、少しだけ心が和むものとしていただけました。
『熱戦』『挑戦』
良い意味での、『戦』という文字を使いたいものです。
ところで。
お経は、漢字が多く使われています。
お経を漢文で唱えるようになったのは、様々な要因があると言われています。
仏教経典はインドから中国に入り、漢文に訳され、日本に伝えられました。
日本には仏教伝来と共に漢文のお経が入り、進んだ文化を学びたい先人達はすでにその時には漢文を理解できていたのです。
何回も訳すことで意味が変わってしまうことを恐れたとも考られています。
インドの言葉は分からなくても、漢文なら理解できるため、伝来したままの形で、お経を漢文で唱えることが定着したとの説があるといいます。
今日は虚空蔵菩薩さまのお縁日。
虚空蔵菩薩さまは智慧や記憶力、知識をお与えくださるとされています。
漢字の日つながりで、漢字のドリルでもしてみようかしら。
いや、今日も今日とて大掃除!
今日は事始めの日とのことで、広く『煤払い』などがされる大掃除には最適な日のようです。
よお〜し!
…片づけも、物を捨てることも苦手なおばさんだけれど、今日も頑張るぞ!
本日は虚空蔵菩薩さまのお縁日。
虚空蔵菩薩さまは丑・寅年生まれの方の守り本尊であります。
【干支の守り本尊とお縁日】
子年 千手観音菩薩 17日
丑・寅年 虚空蔵菩薩 13日
卯年 文殊菩薩 25日
辰・巳年 普賢菩薩 24日
午年 勢至菩薩 23日
未・申年 大日如来 8日
酉年 不動明王 28日
戌・亥年 阿弥陀如来 15日
となるようです。
この干支の守り本尊さまが勢揃いなさっているお寺さんもあります。
善光寺さんの御本堂の中にも守り本尊さまが勢揃いなさっておられました。
干支の石仏さまが並んでおられるお寺さんもあります。
守り本尊さまがそれぞれおられる言われても、欲張りな私は自分の干支の守り本尊さまだけではなく、夫や子供たちの守り本尊さまもお参りさせていただきますし、大好きなお不動さまにも手を合わせます。
なにしろ大好きな仏像が並んでおられるのですから、それはもうワクワクです。
ところによっては初詣は守り本尊さまがおられるお寺さんをお詣りするという地方もあるようです。
さて、わが家は来年どちらに初詣することになるのだろう。
もうここまで年の瀬となれば、来年のことを申していても鬼に笑われることはないでしょう。
とりあえず、私は毎年必ず夫の実家のお寺さんと、私の父方の祖父母と父の眠るお寺さんにはお参りしております。
またここ何年かは土地神さまにも夜中一人でお詣りしております。
えっ?
欲張りですかね?
でも私、それこそ何年もどこにもお参りしない年がありましたので、その分もお参りしているって事で。
昨日は群馬県前橋市の【前橋東照宮】さんのそばまで行きました。
大変な混みようで、建て替え前は険悪とも思われるほどに反対されていたのが嘘のような賑わいをみせていました。
私なども以前の社殿に大変愛着があり、建て替えの寂しさでなかなか参拝できずにいたほどでありました。
遠回しに参拝したい旨を夫に伝えたのですが、うまく伝わらず、参拝はかないませんでしたが、そういえば今年大注目のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も本日をもって最終回で、次回は若き日の家康公を描いた作品となるようです。
まぁ、初回からずっと欠かさず観てきて、一週間『鎌倉殿』を楽しみに仕事をしてきた(!?)夫などは、もう側(はた)で聞いていて、〝ウザい〟と思うくらい「あと何回で終わってしまう」とつぶやくくらい早くも鎌倉殿ロスとなっておりますので、次回作を受け入れる心の寛容さはないんじゃないかと密かに思っております。
あ、だから『東照宮』さんにお詣りしなかったということは決してありません。
うちの夫は大変ニブいんです。ストレートに「行きたい!」と言わないとまず伝わりません。
それがわかっていてストレートに言わなかった私がいけないのです。
その点、息子たちは空気で察する能力に長けており、夫とのギャップに戸惑うこともしばしばあるくらいです。
「こういう所は寄りたい人なんだよな」「あ、今この景色を見ていたいようだぞ」とか、口に出さずともクルマをスッと停めてくれたり、Uターンしてくれたり…。
こういうものは遺伝ではないのだなあと、そう育ってくれた息子たちに感謝してしまうくらいです。
あ、話がだいぶ逸れてしまいました。
そもそも神社さんへのお詣りは、ついでに伺うものではないので、伺いたいと思った気持ちを大切にして、是非近々参拝させていただきたいと思います。
忙しくできることも、生きていて、身体が健康であればこそ。
神さまのおかげであります。
感謝の意をお伝えすべく、年内に一度お参りしたいのだけれどなぁ。
…あと一週間でクリスマスなんですって。
…気づいておられました?
プレゼント交換もしない年頃となりましたので、すっかり失念しておりました。
クリスマスは、イエス・キリストの【降誕を記念する祭日】。
実はキリストの誕生日ははっきりしておらず、正しくは『降誕を記念する祭日』となり、クリスマス当日の4つ前の日曜日から『アドベント』と呼ばれるキリストの降誕を待ち望むシーズンのはじまりとなるのだといいます。
…たしかに先月末にカトリック教会の前を通りがかったとき、すでにクリスマスの飾りつけがなされていました。
そして。
この期間に入ると、
チョコや小さなギフトがしこまれた「アドベントカレンダー」の中身を一日ごとに開封してクリスマスを楽しみにすごします。
…。
.……実は。
思い出したのですが。
私が小さかったとき、こうしたアドベントカレンダーが飾られていた家庭であったのです。
子供って自分の家が中心ですので、それが当たり前、どこの家のクリスマスもそうだ、と思って過ごすものじゃないですか。
クリスマスシーズンにご近所の家やお友達の家に伺って、多少自分の家の飾りつけは派手だなぁと思うことはありましたが、よそのお宅のアドベントカレンダーのあるなしなど気にもしなかったし、自分の家からアドベントカレンダーがいつの間にか消えたのも、妹が生まれて忙しいか、ギフトを開けるのは誰だという壮絶な戦いを避けたのかなぁと、勝手に子供心に思っていたのですが…。
そもそもが教会に通う習慣などは物心ついてからは一切、無かったので、その時点でのアドベントカレンダーは子供が喜ぶ姿を思い、父が用意していただけだったのでしょうね。
今ではこのアドベントカレンダーの周知度もあがり、一般的にもこれを飾られる方は増えているようですが、私の小さい頃となると入手自体もかなり大変だったのではないかなぁ。
ネット通販もありませんし…というかインターネット自体がまだですし。
アドベントカレンダーっていくつになってもワクワクして、ちょっだけ(欲しいなぁ)と思う私がおります。
ちなみにわが家の子どもたちの小さい頃は、夫に鼻で笑われて、購入することはかないませんでした。
キリスト教系の保育園卒なくせに、あくまでもそういったことに流されない夫でありました。
ちなみに、キリスト教徒の間では12月25日から 1月6日【公現祭】までを『十二夜』と呼び、アドベントの日から十二夜までが 本来のクリスマスシーズンとなるようです。
…鎌倉に行きとうございます。
昨夜最終回を迎えたNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』をすでに二回観ており、あの時代、鎌倉の世を支えた方々の足跡を辿り、墓前に詣でたい思いでいっぱいです。
とはいえ、あの冒頭の戦のシーンは息を呑み、目を逸らし、二度目の時は画面を停めて早送りをしたくらいでありますが。…しかしながらあれが戦、戦争であることを、私たちはあらためて胸に刻み、目に焼き付けておかねばなりません。…たとえドラマという作られた〝作品〟の1シーンであろうとも。
血塗られた時代でありました。
血で血を洗うような時代でありました。
そんな過去を知り大人になって夫と歩いた鎌倉は、正直怖くもありました。
…そんなことを言ったら全国どこも歩けやしないんですけどね。
とはいえ私は鎌倉が好きです。
それはきっと坂東の血?
今回の『鎌倉殿の…』は、北条義時が主人公として描かれたもので、(でもどの登場人物も大変丁寧に描かれそれを演じた方々がまた丁寧に演じて、一人一人すべて主人公にも思えるほどの出来栄えの作品でありましたが)、
基本的には『吾妻鏡』が元とはなっていたようですが、『愚管抄』やその後の研究によるなども取り入れたものであったようでありました。
私は密かに分かりやすく短く書かれた吾妻鏡を手元に置いて『鎌倉殿の…』を観ていたので、それもあって大変興味深く観ることができました。
命がいとも薄っぺらいものとして扱われ、そしてそれが当たり前であったのがかつての日本で、そして鎌倉時代でありました。
人間には完全なる善、などというものはなくて。
『鎌倉殿の…』で敵方として描かれたとしても裏を返せば、立場を換えれば愛すべき人間であり、愛する者を持つ人間たちでありました。
私は歴史に(も)疎く、そんな状態のままで鎌倉を訪ねておりましたし、そもそもが歴史的な足跡を辿るのではなく、ただただ神社仏閣をお参りすることを目的としておりましたので、源氏ゆかりも、北条家ゆかりも、比企ゆかりも、何も関係なくただただ詣で、そこに伝わる縁起を聞き、その場所場所で、そこにゆかりある方々に手を合わせて来ることができていたのです。
それって実は大変貴重な体験だったのではないかなぁと思うのであります。
♪ さ霧(ぎり)消ゆる
湊江(みなとえ)の
舟に白し 朝の霜
ただ水鳥(みずとり)の 声はして
いまだ覚めず 岸の家
烏(からす)啼(な)きて 木に高く
人は畑(はた)に 麦を踏む
げに小春日(こはるび)の
のどけしや
かへり咲(ざき)の 花も見ゆ
嵐吹きて 雲は落ち
時雨(しぐれ)降りて
日は暮れぬ
若(も)し灯火(ともしび)の
漏れ来(こ)ずば
それと分かじ 野辺(のべ)の里
この歌をご存知でしょうか。
私ども夫婦の好きな歌、【冬景色】という【唱歌】であります。
さらに詳しくいいますと、大正ニ(1913)年刊行の『尋常小学唱歌 第五学年用』に掲載された文部省唱歌、ということになるようです。
私の親ですら〝尋常小学校〟時代ではないくらい古い歌でありますので、だいぶ歌詞が古文調で、この歌を聴いてスッと意味がわかる子どもはまずいないと思います。
それでも私どもも…たぶん…小学校の音楽で習い、今なお心に残る歌となっています。
平成十九(2007)年に『日本の歌百選』に選ばれているようです。
小学生の時分、歌詞の意味は…習ったのかどうか記憶はないのですが、その歌詞がよくは理解できていなくともなんとも心に染み入る、日本の原風景を思わせる歌詞、そして曲調でもあるのです。
歌詞の季節は冬の初め頃、
一番は水辺の朝、ニ番は田園の昼、三番は里の夕方が描写されていますので、今より少し前の季節の歌であるかと思います。
そもそもが出だしから『さ霧』ですからね。〝さ霧〟って何?って思いますよね。
※『さ霧』とは、霧のこと。
秋の季語。狭霧とも書く。「さ」は語調を整えるための接頭辞。「さ霧消ゆる」で秋の終わりを意味している。
ほぉ。
そしてすぐに『みなとえ』ですよ。みなとえって何よ?
※『湊江(みなとえ)』と書く。湊江とは、港になっている入江のこと。
二番の歌詞には『げに』が出てきていますから。
私どもが小学生の頃には難解でしかない歌詞でありました。
でも今でも心に残り、『好きな歌』なんですよね。
こんな名曲、一体誰が作られたのだろう。さぞ名のある方々の作品になるのでありましょう。
…実は。
この歌、作詞・作曲者ので名がなく、『文部省唱歌』『尋常小唱歌』とのみ記され、あるいは『作者不詳』とされているだけなのです。
…それでも。
辿ればきっとどなたが作られたか、分かるものだと思っていたのですが…。夫いわく、何も資料として残されなかったのだそうです。
ええぇっ?!
この名曲を残して、名も残さず、名乗りもせずに、この世を去られたということですか?
ど、どうして?
子孫ぐらいは知ってるんじゃないの?
こんな名曲を作られた方の他の作品にも、触れてみたいと思うじゃないですか。
そもそも『唱歌』とは。
明治維新後に、学校の音楽教育のために西洋音楽を取り入れて作られた歌のことで、旧制学校の音楽の授業を指す科目の名前であり、そこで教える歌のことも『唱歌』と言いました。
『文部省唱歌』とは、上記の唱歌の中でも、明治から昭和にかけて当時の文部省が編纂した『尋常小学校』『高等小学校』『国民学校』などで使用する音楽の教科書に掲載された歌のこと。
但しこの『文部省唱歌』という呼称は文部省が定めた正式名称ではないのだといいます。
文部省唱歌には「作詞・作曲者」名がなく、「文部省唱歌」あるいは「作者不詳」と記されている歌が多い理由、それは以下の理由によるといいます。
『尋常小学唱歌』などに収録された唱歌(全120曲)は、全て、当時日本人による新作でしたが、当時の文部省は『国』が作った歌であるということを強調したいがために、
「作詩・作曲者に高額な報酬を払う代わりに作者名は公表せず、また作者本人も口外しない」という契約を交わしたということであったようなのです。
…はあぁ。
でもいかにも当時の日本らしい、ことですかね。
しかし検定教科書制度になって、作者名が必要になり、はっきりと確認できる場合は作者名が掲載されることとなりました。
しかし何一つ資料として残されなかったこれらの唱歌は、作者不明または作者名の根拠がはっきりしない場合は、今でも「文部省唱歌」あるいは「作者不詳」とされています。
つまり、それを作ったことを家族が知っていたとしても、その証拠がない限りは〝根拠がはっきりしない〟わけで。
きっと、どんな形であれ、自分の作った〝歌〟が子どもたちに歌われ、日本中に広まることだけを喜びとしていた人々が、この唱歌を支えたのでしょうね。
ちなみに、私は同年代の人よりずいぶんと唱歌を知っている者であります。
夫によく「はぁぁ?そんな歌聴いた事もないけど?」と言われています。
小学校の音楽授業で扱われる歌唱共通教材には、日 本の四季や風景を歌ったものが多いといいます。
今なお歌唱共通教材の中で多数を占める唱歌の多くは、いわゆる文部省 唱歌で、明治期より今日まで、音楽教科書の中で取り扱われているようです。
私どもなどはこれらの『文部省唱歌』に触れると、どこか懐かしさを感じ、日本古来の風景を眺めてみたいという気持ちが湧きあがってきます。
ですが。
逆に、これらの曲 の中には、現代の子どもたちが目にしたことのない情景が描かれている曲も増え、時代の変遷とともに歌われなくなった唱歌も多数存在しているといい、興味関心を示さない児童生徒も増えているといいます。
…たしかに。
そうだよなぁ。
目にしたことのない情景。
もしかしたらそれは、現在教員となっている方々にとってですら、すでに〝目にしたことのないもの〟なのかもしれません。
これら歌唱共通教材は、昭和三十三年に
『文部省著作の歌曲や日本民謡から特に児童に親しまれてきたもの、しかも家庭や社会で親、兄弟や大人、お年寄りとともに楽しく歌えるなつかしいもの 』
という趣旨で選ばれているといい、このような趣旨によって 選ばれた歌唱共通教材は、現在では取り扱われていないものもあるといいます。
たとえば【村のかじや】については、
『文語体と生産方法が転換した現代には通用しない 』ということでありました。
〝生産方法自体が転換している〟それは至極ごもっとも。
『かじや(鍛冶屋)』って?
私自身がその質問を父にしたくらいであります。
ただし、この歌、私たちの子供時代には『ゴム段飛び』という遊びの中で使われていたため、歌としては子供の世界では大変メジャーな歌でありましたが。
それでも。
文語体の歌、『唱歌』が、現代の子供達に受け入れられないかというと、そうではないようで、
今回あげさせていただいた【冬景色】は今の子供達にも〝歌詞以外〟は好きだと述べる子が多いのだといいます。
うん♡
いつまでも歌い継がれていってほしい。
【冬景色】も
【朧月夜】も
【故郷】も。
音痴なくせに、孫をおんぶして私はやたらと歌を歌います。
「そんな歌聴いたこともない」と夫に言われながら。
それはそれで音程が多少(?)ハズレても夫にバレないので、私にとってはラッキー、ですがね。
明日十二月二十二日は【冬至】。
冬至はご承知の通り一年で一番昼が短い日であり、この日を境にまた日が一日一日と長くなってきます。
この日は、太陽が地球に与えるエネルギーが地球陰から陽に転ずるのと
同様に、人も自分の運を陰から陽に転ずるチャンスの日とされているようです。
冬至には『だいこん』『れんこん』などの「ん」のつくモノを食べることで開運を願うようです。
「ん」のつくものは、『運盛り』といい、縁起が良いとされていて、さらに、「ん」がニつつくものは、運も倍増するとされ、
【冬至の七草】と呼ぶこともあるとされる食べ物があるようです。
『冬至の七草』は、
なんきん(かぼちゃ)、
れんこん
にんじん
ぎんなん
きんかん
かんてん、
うんどん(うどん)です。
…たしかに私の住む地方でも冬至には、かぼちゃを食べる風習があります。
もっとも、私の住む辺りでは、冬至にかぼちゃを食べると風邪をひかないということが言われていた気がします。
たしかにかぼちゃには野菜類トップクラスのビタミンEが含まれており、ビタミンEは末梢血管をひろげることで血液循環を整える働きがあり、血行不良による冷えや肩こり、頭痛などの改善に効果があるとされています。
また、冬至には、柚子湯に入る風習もありますが、これもまた「冬至に柚子湯に入ると風邪をひかない」と私の住む地方ではよく言われています。もっとも、子供の頃私の家には柚子の木はなく、当時柚子を八百屋さんで買うことができたものなのかどうか…。
柚子湯に限らず菖蒲湯などもする習慣のない家でしたので、あまり柚子湯とは縁がなかったのですが、最近は柚子をいただくことがあり、ありがたいことにここ何年かはわが家も冬至に柚子湯をたてることができています。
なんでも柚子というのは実るまでに
時間がかかるということで、
「長い苦労が実りますように」と願うといった意味もあるといいます。
柚子湯自体は江戸時代から始まった習慣のようです。
柚子湯自体に風邪をひかないといった効能はないようですが、乾燥肌の予防や肌を守るバリア機能の効果は科学的に実証されているようで、また柚子の香りでリラックス効果も期待できそうです。
昨日、栃木県足利市の大岩山最勝寺さんから一通の大きな封書が届きました。
寺紋が封筒の中央に大きく印刷された品のあるお洒落な封筒でありました。
今年の四月に御寄進させていただいた勧進の御礼状でありました。
本来はクラウドファンディングという形で進められておりますが、夫の強い意志で返礼品はお断りしてあったので、あくまでも寄進でありました。
実はクラウドファンディングであれば頂くことができた品々の中に、子どもたちが好んで読んでいた漫画家のちばてつやさんがお描きになった、こちら『大岩山毘沙門天』さまの御本尊さまの絵と、毘沙門天さまの使いとされる虎の絵がございました。
欲深で煩悩のかたまりの妻は、(本当はこの絵だけでも欲しいのだけれどなぁ)と思ったものでありました。
今年もあと少しで終わるというこのタイミングで、な、なんと、私の心の声が届いていたかのように、ちばてつやさんの二種類の絵をポストカードにしたものが封書に入って届いたのでありました。
夫の意思を尊重して、でも欲深な妻の欲しがっていた絵だけが届けられたという、まさに奇跡のような出来事で。
夫などは欲深な妻が最勝寺さんにそっと連絡でもして送らせたとでも思ったかもしれません。
いやいや、これは毘沙門天さまが私の心の声を聞きつけて(しょうもないやつだ)とお思いになられ、私の欲しがっていた特製のハガキのみ、送るように仕向けてくださったのではないかと。
だって本来ならばこの他にもクラウドファンディングの返礼品は掲げられておりましたのに、他のものは含まれずそれだけが送られてくるのは不思議とか言いようがないではないですか。
今、御本尊毘沙門天さまと吉祥天さま、善膩師童子さまは、京都におられるとのこと。
京都市の国立博物館内にある『公益財団法人美術院国宝修理所』において、すでに修理が始まっているといいます。
お山をあとにされる際には、【開眼戻し】という儀式、法要を営み搬出されたといいます。
今、御本堂の須弥壇には、毘沙門天さま、吉祥天さま、善膩師童子さまの梵字が大きく書かれた紙に書かれ貼られています。
修復の完了は令和七年三月頃といわれているといいます。
待ち遠しいことでございます。
ちなみに。
本日は寅年最後の寅の日で、今年最後の毘沙門天さまのお縁日となります。
大岩山多聞院最勝寺さんでは今日、寅の日開運金運護摩祈祷が営まれます。
毘沙門天のご縁年である寅年の今年は、寅年寅日と縁日が重なる全ての日に金運隆昌と開運を祈る護摩祈祷をされています。
うーん。
あの山道はなぁ…。
といって歩いていくにはこの季節、もっと危険な気もするしなぁ…。
この間の雪も残っているだろうしなぁ…。
…遥拝いたします。(T-T)
(栃木県足利市大岩山毘沙門天様)
今日また栃木県足利市の【大岩山毘沙門天】さんから年末年始のご案内の通知が届きました。
檀那寺を持たない私にとって、お寺さんからのお便りをいただくことは大変嬉しく思われることであります。
頂戴したお葉書の内容は、年末年始のご案内のお知らせ。
コロナ禍となって中止せざるおえなかった恒例の行事を、今年、そして新春に執り行うことをお知らせくださいました。
こちらの年越しの行事は…かつて過去スレでも書いたことではありますが、『奇祭』として知られる【悪態祭り】であり、【滝流し式】であります。
大晦日の夜、大岩山を練り歩きながら大声で『悪口』をつく祭り。
いかにも『奇祭』でありますが、それでも、同様のお祭りが、
京都の祇園社さん、
茨城郡岩間村の愛宕神社さん、
上野北甘楽群磐戸村の檜澤岳神社さん、
出雲案来の瑞光山清水寺さん、などでも執り行われているといいます。
大岩山毘沙門天の一年の最後を締めくくる【悪口祭り】は江戸末期、慶応年間より始まった奇祭として広く知られており、大晦日の夜十一時より、大岩山毘沙門天のふもとにあります男坂口駐車場から登山道を出発し、大声で悪口をつきながら大岩山毘沙門天本堂まで歩いて行くというもので、その一時間前には『悪口大声コンテスト』も開催されています。
本堂までの道中参加者が「ばかやろう」をはじめとした悪口を言いながら登っていきます。
こうして一年間の厄を落とし、また溜まったうっぷんを晴らして、清々しい新年を迎えるという行事であります。
また受付で授与される、『厄落としの木札』に一年間の厄(災いや苦しみ、災難)を書き込み、毘沙門天本堂の西側にあるお焚き上げで木札を焚き上げ、厄落としを致します。
悪口祭りでは言ってはいけない悪口があり、
「びんぼう」や「どろぼう」などの「ぼう」のつく悪口は言ってはならないとされています。それ以外であれば何を言ってもかまわないとされています。うーん、その由来は一体?
大岩山毘沙門天『悪口祭り』の由来
縁起は諸説あり、
そのうちの一つに架空の動物「獏(ばく)」に関するものがあります。
江戸末期、当時は厄病で亡くなる人が多く、沢山の人が亡くなっていく中で、悪夢を食べる架空の動物「獏」にこの悪夢を食べてもらい、 厄病退散の祈願が届くよう願ったとされます。
はじめはこの「獏」を「ばくさま」と祈っていたものが「ばくやろう」、「ばかやろう」と訛っていったという説です。
…うーん、少しそれはキビしいかも。
この他に飢饉などで年貢を納められずに苦しむ農民に粋な計らいで悪口をつく御許しがあった説などがあり、いずれも定かではないといいます。
悪口祭りでは、悪口を言いながら山道を登っていく際、暗い山道を提灯で照らして行列を作っていたことから、『提灯行列』とも呼ばれているといいます。
登山道が整備された(…でも、結構厳しい道のりですよ)現在も、街灯はまばらにしかございません。希望者には提灯と、かつては毘沙門天のお面を授与致していたといい、アフターコロナにおいては拡散防止のため、御本尊毘沙門天の御姿とフェイスシールドをお授けしておられたようです。
また、大晦日の深夜十二時(元日0時)より、国家安泰ならびに家内安全、商売繁盛をはじめとした諸願成就の大護摩の祈願をし、その際【滝流しの式】を執り行います。
この行事は江戸時代前期の寛永年間(1624年~1643年)からと言われているといいます。
お神酒を「滝のように」額から受け、大盃で飲み干すことで、福やご利益が滝のごとく尽きることのないように、という縁起で執り行う儀式であります。
参加者の方は御本尊毘沙門天さまの前に正座し、直径30cm以上もある大きな朱盃を両手に捧げ、その盃を口にあてがいます。そこへ住職がお神酒なみなみとたてた酒器を持ってまいります。
初めは鼻の頭から酒を注ぎ、額、頭へと、酒器をだんだんと高くして酒を休まず注いでいくといいます。最後には頭のてっぺんから、額、鼻へと、滝のようにお神酒が朱盃に流れていくといいます。
…貧困な想像力ではすこぉしもイメージできないのですが、うーん。
ただ…私は運転が無理、夫は運転が義務付けられ飲酒が不可。
見ることすらできない。
コロナの感染対策を行いながら、一体どんな形で【滝流しの式】を執り行う計画をお立てになられたのか…。
【大年の 力づけつゝ 夫婦かな】
うーん。
深い。
深いなぁ。
今日は大晦日。あっという間であったような、もがきにもがき、足掻きに足掻いて、ようやくこの年の瀬のような…。
…いろいろあった一年でした。
今は辛かったことしか頭に浮かばないし、今なお心に重たいものを抱えたままであります。
そして、正直、年明けを目前とした本日大晦日を迎えたところで、正直、いつも通りに夜を迎えて、明日が来て、日が昇る、今までの続きの人生を歩んで行くことに、なんら変わりはないと思う私がいないわけでもありません。
それでも人並み…とは言えないかもですが、大掃除をし、玄関に新年を迎えるしめ飾りを飾りました。
【大年の 力づけつゝ 夫婦かな】
とは滝井孝作さんという方の句であります。
この大晦日の朝、大変心に沁みた句でありました。
長い結婚生活において喧嘩も多くあった夫婦でありますが、歳をとって夫婦らしくなったように感じるしばしばございます。
…それはお互いに多大な期待をせずに、良い距離を保てるようになった、だけかもしれませんが、それでも、互いに力づけつゝ生きてきた気はいたします。
【大晦日 定めなき世の 定め哉】
井原西鶴・句
【大晦日 こゝに行きとし生けるもの】
高浜虚子・句
これもまた深い!
今年も一年、わたしの駄文におつきあいくださり、本当に本当にありがとうございました。
寒さも厳しさを増しており、年末のお疲れも溜まっておられる折、どうぞくれぐれもお身体を大切に、お健やかにお過ごしください。
幸多き年でありますようお祈りいたします。
【神玉(かみたま)】
【神玉】とは、神社を巡拝する風習が始まった平安時代より、大願成就を祈念して神社を巡拝し、巡拝の証として神様の御力が宿った玉を奉製されたといいます。
その玉を神玉と呼び、お授けいただくとと願い事が叶うと言い伝えられています。
…そんな神玉を、今茨城県の神社さんでお授けいただけることをネットで知りました。
うーん。
茨城県、かぁ。
いつになっても煩悩の塊のおばさんの心をなんとも揺さぶるものでございます。
しかしながら、この方向音痴にして運転音痴のおばさんには茨城県はなんとも遠方、諦めるしかありません。
そんな思い(=煩悩)を封印したところで、一年間の御礼にと昨日群馬県前橋市の【前橋東照宮】さんへ参拝してまいりました。
境内はもうすっかり初詣の準備が整っているかに見えました。
テントがいくつも設置され、御神籤をくためのおしゃれなゾーンが造られていました。
参拝を終え、今回は特に授与品をお授けいただく気はなく、それでもあのお優しい巫女さんに会えるかも…と思い授与所へと向かいました。
片隅に『上州神社巡り観光マップ』なるものが置かれています。
『合わせて受けたい御朱印&御守特集』とサブタイトルが付いています。
ふーん。
ん?
ん⁈
『上州神社巡礼〜神玉巡り〜』ぃ〜⁈
えっ?
ええぇっ!
こちらの前橋東照宮さんでもお授けいただけるではありませんか!
「す、すみません!か、神玉ください!」
それでも、この神玉、受付の巫女さんが戸惑うくらい、お授けいただく方はそうはおられぬようでありました。
そのとき、決して「神玉、ゲットだぜ!」などとは決して思いませんでしたが、茨城県の神玉巡りを〝ドラゴ○ボール集め〟のようだと書いたサイトがありましたことは確かです。
が。茨城県の神玉は全部で十。ドラゴ○ボールとは数が異なります。
あれっ。群馬県の神玉は全部で七つだ。
群馬県の神玉こそドラゴ○ボールと同じ数ではないですか。
しかもながら。
すこぉしだけ大人になった(歳だけはすでにもう立派な大人、なんですが…苦笑)おばさん。
さすがにこの巡拝をコンプリートするつもりはないのです。
神さまとご縁を結ばせていただくことは光栄なこととは存じますが、きちんと御礼参りのできない失礼をしてはならないと思うのです。
あとは…。…オイオイ!
令和五年、2023年を迎えました。
穏やかな元旦、いつものように夫の実家と、私の祖父母と父の眠る菩提寺にお参りをしてまいりました。
夫の実家の菩提寺さんは御本堂の扉が開け放たれており、そこに上がらせていただいて、昨年一年の御礼と今年もまたお守りくださいとお願い申し上げてまいりました。
私ども二人だけでご本尊さまに向かう、なんとも贅沢で、心が静かに穏やかになるひとときでありました。
観音堂でお燈明をあげ手を合わせて。
義父とそのご両親、お兄様の眠る墓前にまいりました。
かき分けるほどの落ち葉はすっかりなくなり、綺麗好きだった義父が不快でないよう、…それでもガサツな嫁ですので、「ああぁ、もうそんな手抜きな掃除して!」と嘆いていたかもしれませんが…、墓石を磨き、落ちていた小枝を拾って清めてから、手を合わせました。
私の父の眠るお寺さんでは御本堂とかつての仮本堂であった御堂をお参りいたしました。
すると…。
ご住職さまがひょいっと御本堂のすみから斜めに、まるで外を覗かれるように、お顔をお出しになられました。
そして私どもの顔をご覧になり、すぐさま、
「おお、こんにちは。いつもお参りありがとうございます」
とおっしゃってくださいました。
ちなみに私の両親は、私が中三の三月に(受験の超直前、ありえない時期で)離婚しておりまして、それ以降、ほとんど顔を合わせることなく、自然とお墓参りからも遠ざかっていたという経緯があるのです。
そんな経緯をすらご存知の上で、私の顔を覚えていてくださり、いつも温かな笑顔と、時にはお言葉までくださる、優しくて、そして記憶力のすごいご住職さまであります。
「少しだけ、お待ちいただいていいですか?」
とおっしゃると、一旦その場から去り、再び戻られると、須弥壇の前にお座りになられ、
「お手を合わせてください」
とおっしゃいました。
!
なんと読経をしてくださるではないですか!
御真言もいくつかお唱えくださり、回向文までをお唱えになられました。
!
「いつもなかなかゆっくりお話し出来ずにおりましたので、今日は本当に良い機会で」
…。
なんと人の心に寄り添う方でありましょう。
檀家でもない、どこの馬の骨ともわからない私などお心におとめくださって。
顔を覚えてくださっておられるだけで十分すぎるというのに、なんと尊い。
まだ陽の昇らない、少し明るくなり始めた頃、一人車を走らせて初詣に行ってまいりました。
群馬県みどり市にあります【貴船神社】さん。
えっ?…一人で?とお思いですか?
そうなんです、一人で、です 笑。
夫は朝に大変弱く、対して私は夜に弱い分完璧な朝型人間で。
この時間差、実に時間がもったいない!
休みの日など私が洗濯を終えて、トイレや玄関の掃除を終えてもまだ起きない。良妻の(爆笑)私はそのあとずっと彼が起きるまでご飯も食べずに待つのです。
ほおっておけばそれこそ十時!
朝九時には開くスーパーで買い物まで済ませることができてしまいます。…さすがにご飯も食べずにスーパーにまでは行けません。
〝歳をとると朝が早くなる〟、とはよく聞くのですが、夫の家系は違っておりました。
ことに義母がそうでありまして。
義母が一人暮らしになってからなどは、来て欲しいと言われて十時過ぎに行っても寝ていて、電話をかけても起きないといったことがそれこそ何度もあったくらいであります。
かつてそんな義実家に、行儀見習いと言われて同居していたときなど、義父より遅く起きる義母にかなりの衝撃を受けたものです。
…昭和一桁生まれですからね、義母。ましてやその頃は義祖母…つまり義母の義母も健在で同居していたので、気の小さい私など、そういった日常に慣れるまでドキドキしていたくらいです。(結局慣れませんでしたが…)
義母が起きてこない間にも、黙々と掃除をする義祖母と義父(と私)。
私には朝からすでにちょっと耐えがたい〝時間〟でありました。
(…これって…行儀見習いにならないんじゃない?)そう密かに思っていた私でしたが、義父もそう思ったらしく、早々に行儀見習い期間終了を言い渡されましたが 笑。
…この行儀見習いというのも、かなり時代がかっておりますし、なんなんだ⁈ と思うことばかりの新婚時代でありましたが、「ひとり親家庭で育ったから夫を立てる事などを知らないだろう」という言い分で強制的に義務付けられたものでありました。…凄くないですか?まさに前時代!
…まぁ、そんな嫁が(自分の妻より)早く起きて掃除もし、料理も一通りできることに気づいたら、いくら離婚してひとり親家庭で育った事を小馬鹿にして下に見ている義父だって、〝行儀見習い〟にならない事には気付かざるおえないってもので。
風光明媚な群馬県みどり市大間々町。
わたらせ渓谷沿いの山間の地に鎮座する【貴船神社】さんは古生層の断崖上に鎮座し、赤城山の雄姿を仰ぐこともできます。
全国で約450社ある貴船神社さんの一つで、この地域一帯において信仰深い神社であり、また群馬有数のパワースポットとしても知られています。
例年20万人もの初詣参拝者が訪れるとも言われている貴船神社さん。
元旦を過ぎた二日の早朝、陽の昇らないうちであれば、少しは空いているかもしれないと思い、それでもそれなりに覚悟して車を走らせました。
大間々の町中を、朝早い時間だというのに、車が同じ方向に集中して走っています。
貴船神社さんへは山間の町へと向かう橋を渡るのですが、みな一様にその橋を渡り、貴船神社方向へと向かいます。…うーんやっぱり、そう…ですよね。
アップダウンのある道、下り坂の上から一列に列をなした車の列が続いているのが見えます。
神社から少し…五百メートルほど離れた特設駐車場に車を停めて、ゆるゆる歩き出しました。この特設駐車場には今のところ車はまだ三、四十台くらい…でしょうか。(空いている?)
そう思ってゆるゆる歩き出したところ、走って追い抜く若い人たちが何グループか。
えぇっ?そ、そんな?
でもここ、ずっと登り坂なんですよね。マイペース、マイペース!
…ようやく鳥居が見えてまいりました。
あ、並んでない♡
たぶん混んでいる時には鳥居のかなり前から列ができ、鳥居前に置かれたコーンの誘導に沿って並ぶこととなるのでしょうが、2023年二日の早朝、どうやらそういった混雑はなさそうです。
鳥居をくぐって、一回目の手水舎で手を浄めて。
二つめの鳥居、三つめの鳥居と石段を登ります。…ここが混雑していたら結構怖いことだろうな。
さらに鳥居をくぐって、ようやく狛犬さまがお出迎えくださる境内となります。
石段を登りきるとすぐ、拝殿が見えてまいります。
パァっと胸が開くような、明るい気が一気に私の中に入ってきます。
【貴船神社】さんは、平安時代の天暦十(956)年、東国(関東地方)がひどい干ばつに襲われたとき、
山城国(京都)の貴船神社の御祭神が、古来より祈雨・止雨祈願の神として信仰されてきた高龗大神で、
その分霊を奉り降雨と五穀豊穣を祈願したところ、それがかなえられたので、関東平野の最北端、渡良瀬川流域の山地に祭られ、
現在地に建立されたのは、江戸時代の寛文八(1668)年といわれています。
『御祭神』は
高龗(タカオカミ)神さまのほか、
大山祇(オオヤマヅミ)神さま、
大穴牟遅(オオナムチ)神さまが合わせておまつりされています。
高龗神さまは水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められております。
大山祇神さまは山々の精霊を統括支配し、五穀豊穣をもたらす神さま。
大穴牟遅神さまは、国土をつくり治め、守護する神で、人々の病めるのを治し、不幸を救うとされます。
『貴船大神』は、関東地方を干ばつから守り、古くから水の神さまとして信仰されてきました。人類をはじめ地上に生育する全ての生物は一として水の恩恵を受けないものはありません。
ですから貴船大神を崇敬し、その御神徳に浴すことは、衣食住の安全、即ち生活の保証を得ることになり、家内安全、商売繁盛、水の浄化力から厄除の神、また水の力は願い事を成就させるとして心願成就の神、そして交通安全の守護神として篤く崇敬されています。
この貴船さまを信仰する『貴船信仰』と呼ばれるものがあるようです。
貴船の神さまは開運の神・心願成就の神として信仰されています。
『貴船神社』の「きふね」は、昔は「気生根」とかかれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰です。水神の鎮まる貴船神社に参拝すると、気力が生じて願い事を成就できることから縁結び、恋愛成就の神としても知られています。
このように貴船の神さまは、衣食住の源である水を司る神、その水の源である雨をもたらす神として、また開運・心願成就の神として人々の崇敬をうけてまいりました。
貴船神社さんの境内は、いつ伺っても掃き清められ塵はおろか枯れ葉すら落ちていないほどに綺麗な境内であります。
そこに建つ社殿はさほど大きなものではありません。ただ、こちらの社殿はその姿を見るだけで心が和み落ち着く、そんな社殿であります。
社殿の中から流れてくる〝気〟によるものはたしかであります。
ただその社殿自体の佇まいもまた、上品で心を癒すものであるのです。
彫刻とかの飾りはほとんどなく、向拝の部分に天狗さまが祀られているのがこちらの社殿の特徴であります。
白い壁に梁や柱の赤が映える美しい社殿なのです。
私はいつも石段を登って社殿のある境内に立つと、しばらくその社殿を見上げて心の中で御礼を申し上げています。自然に、意識せずそうしている自分がいるのです。
そしてハッと気づいて、拝殿前へと向かうのです。
今年は卯年。大きなうさぎの絵馬が飾られていました。
拝殿でお参りを済ませて。
お札や御守等の授与所へとむかいます。
こちらは実に御守の種類が豊富であります。
御守にカンガルーのお腹のポケットのように小さなポケットがあって、そこからカエルが覗いている、そんな可愛らしい御守もありました。
今年は干支の土鈴と、鏑矢遠お受けし、例の神玉をお授けいただきました。
早朝貴船神社さんへ一人参拝した日の午後には、夫と息子とで、群馬県高崎市にあります【榛名神社】さんへと参拝いたしました。
知る人ぞ知る漫画『イニシャルD』の聖地【榛名山】にある神社さんであります。とはいうものの、舞台となる山とは場所が異なり、こちらは聖域。
今回は伊香保温泉方面から登ってまいりましたところ、こちらの道路は昨年のクリスマス・イブに降った雪でかなり路面が凍結しておりました。
ここ何年もお正月というと榛名神社さんへお詣りさせていただいておりましたが、伊香保温泉あたりから路面が凍結していたのは初めてでありました。
これは…。
「諦めよう!」
運転の苦手な母はすぐにそう口にしました。
しばらく走行し、息子たちもUターンして戻ることを口にし始めましたが、その実運転をしている本人が
「あと少しだけ行ってみよう。次の展望台まで行ってみよう」
とクルマを走らせるのでした。
久しぶりに実家の家族と出かけることを楽しみにしていたのかもしれません。
結局榛名湖畔まで走ってくれて…。
「ここから先はもう行くしかないからね」とニコッと笑う息子。
…大変な道を運転させてごめんね。
この息子、榛名神社さんへは初めてとのこと。
これから先の路面状況も予測すらできずにさらにクルマを走らせることとなります。
ただ、息子たちはこういった山道の運転には慣れているようで、まるで流れるように山を登って行くのです。私に似なくて本当よかった。
それでもコップに水を入れてこぼさず走ることはできないと笑っておりました。(これは前述した漫画のネタです)
湖畔の道を抜けて少し登ったのち、下りとなって。
そうするとそこから先は全てもう榛名神社さんの境内となります。
お山一つが神社なのであります。
下って下って。
赤い大きな鳥居が見えたら、そこからは再び登りとなります。
榛名神社さんの参道沿い、土産店や宿坊の並ぶ道となるのです。
今回はそこまで行く前の、かなり遠い駐車場にクルマを停めることといたしました。
ここからだとかなり歩くこととなるのですが、参道で渋滞していたら、Uターンもできずひたすら待つこととなるのです。
クルマを降りてしばらく歩いて。
参道が見えないうちからもうすでに渋滞の列ができていました。
「英断してくれてありがと」
群馬が誇る上毛三山のひとつが【榛名山】。
その中腹に位置し、信仰を集めるお社さんが榛名神社さんであります。
創建は六世紀後半と言われ、延長五(927)年に完成した延喜式の記録に『式内社』として位置付けられる神社さんであります。
榛名川沿いの境内は深い森とたくさんの奇岩や巨岩に囲まれて、近年はその強力なパワーから関東屈指のパワースポットとも言われます。
榛名神社さんのの所在地は群馬県高崎市は榛名山町。
榛名山町って、なんだかとても素敵な町名ではありませんか?…榛名神社さんの大好きな、榛名山の大好きなおばさんは、もうそれだけでそう思うのであります。
榛名神社さんの目印でもある大鳥居は、最高高さ15.912m、笠木長さは20.31m、とのことで、榛名神社さん遠目指してきたなら見逃すことはまず不可能な大きなもの。
そこからさらに続く登り坂は前述した通りお茶屋や宿坊、お土産屋さんの並ぶ参道で、この坂を登ってようやく見えてくるのが二の鳥居。
青銅製の立派な鳥居であります。
この鳥居の前に立つと目の前に立派な随身門が見えるのです。
榛名神社好きな人はもうここに立つだけで心がはずみます。
この随身門がまたたいそう立派なもので♡
赤い一つ目の神橋を渡ると随身門となります。
ただ、随身さまは今、お身形を整えるため旅に出ており、しばらくは隋神さまお二方にはお目にかかれないのであります。
こちらの随身門、実は元々は仁王門。弘化四(1847)年に建てられたもので、多彩な彫刻や組物が施された仏教色が残る建物であります。当然ながらかの神仏分離令以前は仁王さまが祀られていたといいます。
…その、仁王さまたちは一体…。
明治政府のバカぁ!
(閑話休題)
ここから…本殿までの距離は五百五十メートル。ここまでもそれなりの距離、緩やかな登り坂を登ってまいりましたが、参拝はようやくここからがスタートであります。
ひだりてに山、みぎてには川を隔てて岩山が見えます。
その心洗われる風景といったら…♡
せせらぎと鳥の声。木々の風にそよぐ音。
非日常の、聖なる空間であります。
境内は大きな木々と深い緑…。
随身門を過ぎると、大きな大きな杉の並木があり、川が流れ、多くの奇岩や巨岩に囲まれます。
マイナスイオンを全身に受けながら歩く道は、ずっと登りの道であるにも関わらず足取りも軽く、呼吸が乱れることもありません。
石段があり、その上に三重塔がそびえ立つのが見えます。
狛犬さんが石段の左右を護っています。
三重塔はむかって左側にあり、参道側にその入り口があります。
この三重塔は神宝殿。
人々の寄進によって明治ニ(1869)年に竣工されました。
とはいえ、この時期こそがまさにあの、神仏分離令が発令された頃。多くの人々の陳情があって、榛名神社で唯一残された仏教色でありました。
ちなみにこちらは県内で唯一現存する木造塔婆建物、なのだそうです。
ここを過ぎるとまもなく、座って休憩のとれる建物と、軽い汁物などの取れるお食事どころが見えてきます。
日本人の食欲を刺激する、だしやお醤油、お味噌の香りが漂います。
冬には温かい汁物や味噌おでんが、夏にはかき氷のほかよく冷えた塩きゅうりやスイカが食べやすいように串刺しになって売られています。
水神籤などもあります。
またここからほんの少し離れたところに、山中だというのに掃除の行き届いた水洗のトイレがあります。
そうして…さらに先へと進みます。
ここから先、…おそらくは左側の岩山が迫り出していて、その岩の下をくぐるような参道であるために、カーポートのような屋根と柱を作ったのではないかと、…そう思われる通路となります。
このゾーンでは、背の高い人などは頭をぶつけそうなくらいの高さまで岩が迫り出している部分があります。
そうかと思えば、くり抜いたかのように奥行きのある部分があって、そこには【塞神社(さいのかみしゃ)】といわれる小さなお社が鎮座しています。
こちらの神さまは『〝他界〟より侵入して災厄をもたらす邪神、悪魔等を防ぎ止め、追い返すことを掌どっておられる神さまだそうです。
特に道路の四つ辻、分岐点などをお護りくださり、悪霊などを防ぐ大きなお力を発揮される、〝道路交通安全の守護〟〝悪魔除け〟の神さまとして尊崇せられておられるようです。
きっとこのような岩場の道をお護りいただこうとお祀りされたのではないかと思うのです。
が。
こちらのお社からは、なんともいえない、それこそまるで優しい視線のようなオーラを感じるのです。
「みているよ。大丈夫だよ」
…そんなお声すら聞こえそうなほどの優しい、優しい気のあふれるお社であります。
さもありなん。
塞(さい)の神という、音(おん)から転じて、「幸神」「妻神」として、特に女性の良縁、妊娠出産守護、幼児守護の神さまという、日本固有の信仰が生まれ、そういったお力を持つ神さまとしてもお祀りされているようなのです。
前を通るだけで優しい気を感じるくらい、優しい優しい、そしてお護りくださるお力の強い神さまであります。
このポートのようなゾーンを抜けると、また神橋がかけられています。
こちらはすぐそばに小さな滝が流れています。
冬にはほぼ凍っているこの滝の上には、大きな岩があるのですが、その岩は二つあり、その隙間から奥に山肌のようなものが見えます。
実はここ、この神橋の上の辺り、かつて役行者が修行したといわれ『行者渓』という名がつけられているようです。安藤広重がここを描いたようで『上野国榛名山雪中図』というタイトルの絵があります。
その絵を見ると、今とは景観が大きく異なり、かつてはこの神橋の下は小さいながら渓谷となっていて今よりもっと水量が多かったのがわかります。
この神橋を渡ると、左手の岩山に扉があるのがみてとれます。
ガッチガチの、正真正銘の、山という呼び方しかない大きさの岩山です。
そこに〝扉〟。
そもそもそこに行く道、どころか足場すら無い、そんな岩山に〝扉〟。
初めて見たときの衝撃ったらありませんでした。
扉だけとってつけたわけではなく、その岩山をくり抜いての〝中〟があるわけで。
もうこの〝扉〟があるだけで神秘。
『東面堂』という建物の名残なのだそうです。かつてはここに秘仏の『千手観音』さまが安置されていたといいます。
そう…〝かつて〟。
秘仏だったんだから、見逃してくれたっていいじゃない!
わざわざあんな足元も危ない(かつてはそうだったかどうか…)御堂くんだりまで行って、御仏の尊像を引き出して破壊するなんて。
キーっ!! 明治政府のバカぁー!!!
御水屋(ごすいや)と呼ぶという手水舎が見えてきました。
その手前、曲がり角とも言える場所に『萬年泉(まんねんせん)』。
ここは水源神さまであられる榛名の神さまの雨乞講で取水する所であっようで、今でも神事の際はここから取水されるようです。
赤く塗られた背の高い木の柵で囲われ、真上は大岩。大きな大きな岩のちょうど下、人が頭を少し下げて入れるくらいの空間に、萬年泉はあります。
覗いて見ると(おばさんの得意技 笑)木の箱のようなもので覆われています。
古来、日照りで苦しむときにこの『御神水』を、竹筒にいただいて御祈願を受けて、村に帰り田畑にまけば、必ず霊験あり、といわれた水であるようです。
そのすぐそばには『矢立杉』。
曲がり角を曲がって石段を数段登った辺りにある、根本のくっついた二本の大きな大きな樹齢千年ともいわれる杉の木があります。
武田信玄が箕輪城攻略のみぎり、榛名神社さんを参拝し、この杉に矢を立てて戦勝祈願をした木ということでその名がつけられたようです。
…えっ?、その箕輪城攻めの結末?
…。
……。
たった今調べたところによりますと、この祈願は果されたようです。
さ、御水屋、御水屋!
ここのお水もお山からの湧き水。
夏でも冷たいこのお水、冬にはよく凍ってツララになりますが、今年はまだ凍ってはおりませんでした。
ちなみに…手がサラサラになる、良質なお水です。
神さまのご褒美、みたいですよね。
石段を登り始めてまもなく見えてくる【神幸殿】は榛名神社の矢立スギから石段を登った左側に、安政六(1859)年に建てられた建物だといいます。
石段の途中に…。
空いた土地がなかったわけではないと思われますのに、石段の途中、しかも石段からすぐに建物があります。
大変不安定なんですけど…。
境内の建物の中ではもっとも簡素な形式だといわれ、塗装も施されておらず、古式の仏堂の形式を踏襲しています。
毎年春の大祭(5月8日~15日)の際に、榛名神社の御神体が本殿から神輿に移され神幸殿に遷座されるのだといいます。
私はこの神事を拝見したことはありませんので、ホームページに書かれた事からしか語ることはできません。
が。
前述しました通り、石段の途中、なんです。
途中、岩があり、お神輿の大きさによっては通れないのではないかと、思うのですが、ね。
しかもなんだかんだ急な石段ですし、大きな岩の迫り出したところもありますし。
そうそう、この先に神門もあるんです。
そんなに大きなお神輿ではない、って事なのでしょうかね。
…コロナ禍となり、神事は神職の方のみで執り行われることがほとんどで、中止される行事もそれなりにあります。
うー。
この榛名神社さんの神輿渡御、私生きてる間に見られるのかなぁ。
そして。
いかにも新しい神門をくぐると、そこは榛名神社さんにしては珍しい、フラットな、平らな空間であります。
そこに社務所があり、授与所があります。
…御本殿は?
初めて訪れると大体の方がそう思われるのではないかと思うのです。
御本殿はあとまだ少し先。
えっ?、どこどこ?
…と振り向いた瞬間に、今来た神門の真横にこれまた結構急な、細い石段があるのが目に飛び込んで。
その先にまた門があること。
何よりその門の先に、やたらと立派な尖った岩山があるのが見えます。
おおっ!!
門の左にそびえる高く尖った岩は『鉾岩』、ローソク岩とも呼ばれるようです。
この岩がまた素敵なんです。
そして。
見えてきていた門は【双龍門】。
安政ニ(1855)年に造られた四脚門で総欅造りであります。
正面と背面に千鳥破風、四面に軒唐破風をつけ、四枚の扉にはそれぞれ丸く文様化された龍の彫刻が施されており、そこから双龍門と呼ばれるようになった『唐門』です。
羽目板の両面には『三国志』にちなんだ絵柄が彫られており、天井の上り龍、下り龍とともに双龍門の風格を高めています。
この門がまた好きでありまして。
ただ石段の途中にあるこの門、さほど間口の広いものではなく、後続の方がおられるとそうは長くは見てはいられないのです。
そして、さらにはここから先は一方通行。
もう一度ゆっくりと見たいと思ったら、参拝を済ませて、先ほどの社務所・授与所があるところまで戻ってまた、石段を登らなければならないのですよ。
これが結構な距離なんです。
…なかなかできない。
距離も、なんですが、ということで時間もかかる。同行者をたい〜へん、待たせることとなるのです。
それでも何年か前には修復工事をしておりましたので、ようやくまた大好きな双龍門に会うことが(見ることが)できるようになったのです。
ただ…。
私としては以前の方が好きだったなぁ。
ここから先、ほんの少しまた石段を登ると、ひだりてに神楽殿が見えてまいります。
そして。神楽殿を案内するかのように、等身大の天狗さまがお立ちになられています。
こちらの神楽殿は明和元(1764)年に再建されたものといいます。
北面が唐破風造、南面が切妻造銅板葺で、北側が吹き放ちの舞台、南側を楽屋となっています。
双龍門を登った正面がその南側の楽屋に当たるという部分になるために、そこからの見え方も考えての設計、だったのでしょうか。
神さまに奉納する神楽を演じる場であることを考慮して、本殿と向かい合い、床の高さを同じくするなど様々な工夫を凝らしたものとなっています。
朱塗りの神楽殿で舞が奉納されるさまを、一度でいいから見てみたいとは思うのですが、残念ながらまだそういった機会に参拝したことがないのです。
ただ…。
この神楽殿の前のスペースって、さほど広いものではありません。
神楽殿の後ろもまた岩がせまっており、拝殿との間も広くはとられておりません。拝殿の左にはほぼ隣接するかのように国祖社と額殿と呼ばれる建物が建っております。
…どう考えても狭いこのスペースに初詣の比でない人がここに集結することとなるのではないだろうか?
初詣であれば少しづつではあるものの人の流れがありますし、誘導の方もおられます。
何より神さまに奉納する舞を見るためにそこに立つということは、大半の人が拝殿、そして御神体であります『御姿岩』に背を向けて立つことになるはず。
たしかに舞自体は、拝殿の高さで舞われているため、神さまの視線を遮ることにはならないし、拝殿も石段を登った先にありますので、直にお尻…背を向けることとはならない、とは思うのですがね、…思うのですが。
うーむ。
せっかく連れて行ってもらって(自力では行けない〝山〟であります)、大好きな榛名神社さんで神さまに失礼な事だけは(私が気づく限り)したくないし。
神楽を観たくて行ってみられないのも悲しいし…。
…人混みが嫌いな珍道中ペアだし。
コロナ禍でなくとも来なかった珍道中ペア。
おそらく榛名神社さんの御神楽を拝することは限りなくゼロに近く…無い、のだろうなぁ。
(榛名神社さんの双龍門と鉾岩)
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