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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣巡り珍道中・改

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旅人さん
23/06/23 06:04(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3666755 22/11/06 23:54(スレ作成日時)

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No.251 23/03/08 23:27
旅人さん0 

ちなみに、
【上野国延喜式内十二社】

【一之宮 】 貫前神社(ぬきさきじんじゃ)富岡市一之宮

【二之宮 】二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)前橋市二之宮町
【二之宮 】三夜沢赤城神社(みよさわあかぎじんじゃ)前橋市三夜沢町
【二之宮 】大洞赤城神社(だいどうあかぎじんじゃ)前橋市富士見町
 ※要は【赤城神社】さんが二之宮

【三之宮 】伊香保神社(いかほじんじゃ)渋川市伊香保

【四之宮 】甲波宿祢神社(かわすくねじんじゃ)渋川市川島

【五之宮 】大國神社(おおくにじんじゃ)伊勢崎市境

【六之宮 】榛名神社(はるなじんじゃ)高崎市榛名町

【七之宮 】小祝神社(おぼりじんじゃ)高崎市石原町

【八之宮 】火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)佐波郡玉村町

【九之宮 】倭文神社(しとりじんじゃ)伊勢崎市田中島町

【十之宮 】美和神社(みわじんじゃ)桐生市天神町

【十一之宮 】賀茂神社(かもじんじゃ)桐生市広沢町

【十二之宮 】宇芸(藝)神社(うげじんじゃ)富岡市神成

となります。

『延喜式』の巻九・十、つまり『延喜式神名帳』に名前が記載されているということは国がお祀りする重要な神社であったということのようです。


ところで。
『式外社』という神社さんもあります。
東北を旅したとき参拝させていただいた【塩竈神社(宮城県塩竈市)】がそうであり、ほかに【北野天満宮(京都市)】・【八坂神社(京都市)】・【岩清水八幡宮(京都府八幡市)】【熊野那智大社(和歌山県)】…などがあります。

『式外社』とは当時すでに存在していたにもかかわらず、延喜式神名帳に名前の記載がない神社さんのことで、名前の載っていない理由としては、
・国(朝廷)の勢力外の場所に鎮座していた
・独自の勢力を持っていた
・僧侶が管理していた

などが考えられるようです。




No.252 23/03/09 11:44
旅人さん0 

と。

しなくてもいい脱線を、どうしてもしたいおばさんが一人。
式内社を挙げたところで、頭の中をぐるぐるして止まらない唄があるのです。
これを〝イヤーワーム〟、もしくは〝ディラン効果〟というようですが、そんなことはどうでもいいのです。

止めるには…ここで語りたいことを語ればいいのではないか、と思う私。

語りたいこと?

それはその唄について。
…以前も語っているんですがね。


♪ 一番初めは一之宮〜っ

タイトルも知らない、誰から聞いたかも忘れてしまった唄で、しかもこの唄を知った頃には…子どもにはありがちですが、意味もわからず覚え歌っていたのですが、ここへきて(どこへ来た?)「おおっ!」と納得がいった歌詞が、このタイトルすらもわからない、
♪ 一番初めは一之宮〜っ
…なのであります。

そう、一之宮。
式内社を語るとき必ずやふれる〝一之宮〟。
が、この唄は二之宮に続くわけではなく、


♪一番はじめは一の宮
二は日光東照宮
三は讃岐の金比羅さん 
四は信濃の善光寺
五つ出雲の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さん
十で東京心願寺


…と続くのであります。
が、実は歌詞は多種多様。

♪ 二は日光中禅寺、であったり、
♪ 八つ大和の東大寺/法隆寺、
♪ 十で所の氏神さん/東京泉岳寺/東京本願寺
…など様々なバリエーションが地域ごとに見られるのだといいます。
また、地域は同じでも年代によって歌詞が変わる場合もあるようです。


この唄、明治後期から昭和時代にかけて、全国で歌われていた手まり歌・お手玉歌のひとつ。

実は曲は、明治時代に日本軍隊の指導のために来日したフランス人が作曲した軍歌「抜刀隊」のメロディーを借用したものなのだといいますが
、歌いやすいように変えられていることがあるといいます。

歌詞は、口承による童歌のため、作詞者は未詳で、また、歌詞には前述したようにいろいろなパターンがあります。

共通して唄われていたものは、御利益のありそうな神社仏閣尽くし。
…信心深い家に育っていない私がこの歌詞がそういった意味合いであることを知ったのは、実にこの神社仏閣珍道中を始めてから、なのでありました。

ちなみに同じ曲で ♪ 一かけ二かけて三かけて〜っ  というやはりお手玉歌があります。

No.253 23/03/09 18:31
旅人さん0 

…結局止まらない ♪ 一番初めは一之宮〜っ。


というわけで。

だいぶ遠回りし、みちくさまで食って、ようやく上野国延喜式内十二之宮【宇藝神社】さんのお話に戻ります。

宇藝神社さんは、社伝では、飛鳥時代の天武天皇御代の天武天皇元年~朱鳥元年(672-686)の創建とされます。
式内社ということは、延喜年間(901〜923)よりも前の創建で、なおかつ人々の信仰を集める社でなければならないわけであります。

当初は現在地より西に五百メートルほどのところにある『神成山』山頂付近の岩壁の割れ目に倉稲魂神(うかのみたまのみこと)さまの分霊を勧請したとされます。

江戸時代後期の天明年間(1781〜1789)に火災で焼失し、享和元(1801)年に現在地に移転したといいます。


国道254号線を走っていると石の鳥居があり、そのすぐ先に、な、なんと!その参道の途中に上信電鉄の踏切りがあるのです。

おおっ!

神さまに失礼、といったらこの上なく失礼かもしれませんが、何故かこのシチュエーション、ワクワクしちゃうおばさんなんです。

あまり電車で移動することがない、ということも関係するのかもしれませんが、電車とか機関車とかにワクワクするところがありまして、しかもこの上信電鉄、いろいろなデザインの列車で、通るたびに電車が異なるんですよ。

そこに鳥居という、あまりない取り合わせ。…でも別に撮り鉄さんが集うようなものではないようです。

ここから神社まで、結構な距離があります。
この一の鳥居からは宇藝神社は影も形も見えないのです。

No.254 23/03/10 00:58
旅人さん0 

【宇藝神社】さんは江戸時代後期の天明年間(1781-1789)に火災で焼失し、享和元年(1801年)四月二十一日、現在地に移転したのだといいます。
古記録等が一切失われてしまっており、細かな御由緒等わからないこととなってしまっております。


長い参道を走り見えてきた宇藝神社さんの第一印象は町内の小さな小さな公園のように見え、駐車場という区分もない空間に建物と木がある、…そんなふうに見えて、(ここでいいの…だよなぁ)と思うくらい。
大きな石碑はあるもののそれは別段神社、という感じを醸し出すものではなく、一見にして一昔前の公民館といった建物が一棟あって、昭和を思わせるブルーのベンチがあって。
それだけの空間でありました。

車を停めて、ここが宇藝神社さんであることを確かめるような感覚でその公園のような空間を歩き出しました。
まずはその大きな木の下に。

ん?
…!
む、ムクロジ?
うわぁぁ ムクロジの木だぁ♡

いつかこの木を見てみたいとずっと願い夢みたムクロジの木が目の前にある…♡

私も腐っても一応母親のひとり。
背の丈すらとうに私を超えた大きな〝おとな〟になっているとはいえ、親にとって子はいつまでも子どもで。
(…どちらかというとすでに子ども返りが始まった私の方が、ある意味、子どもたちにとっては心配な対象なのかもしれませんが。)

このムクロジ、漢字で書くと『無患子』。
『子が患わ無い』と書くのです。
子どもたちや孫が〝患わない〟、これ以上の望みはありません。

ただずっと前からこのムクロジの木に出会いたいと、できたらその実を手に入れて御守りにしたいと思っていたものの、なかなか出会うことができずにおりました。
そのムクロジの木が、諦めかけてまでいたムクロジの木が、思ってもいなかったところで私の目の前に!


樹齢三百年余りと推定されるというムクロジの大木であります。

平成二十二(2010)年に『宇芸神社のムクロジ』として富岡市の指定天然記念物に指定されたといいます。
大きさは樹高14メートル、目通り周3.95メートル 、東側幹2.20メートル、西側幹 1.75メートル とされ、枝張りは東西 13メートル、南北 15メートルとのこと。

木の下にはムクロジの黒い実がたくさん落ちています。



…が。
神社さんの物はたとえ落ちているものでも神さまのもの。



No.255 23/03/10 11:36
旅人さん0 

と。

無患子愛を熱く語ったところで、はたと気づいたことがあります。

…もしかしたら、もっと身近にムクロジの木はあったのかもしれない、と。
もしかしたら、ムクロジの木の真横を通り過ぎたことすらあったかもしれない、と。

植物に(も!)疎い私は、真横にムクロジの木がありながら、足元に誰にも拾われないムクロジの実がありながら、ずっとずっと気づかずに過ごしてきていたんじゃないかと。


ありえないことではありません。

木の実を隠すなら森の中。
…とは言われますが、無知な人間にかかったら、望みのものが目の前にあっても気づかないかもしれません。
こういった場合は
…灯台下暗し?
…魚の目に水見えず?



 (ムクロジの木となっているムクロジの実)

No.256 23/03/10 12:05
旅人さん0 

あふれる無患子愛をもう少しだけ。

正確に書くならばムクロジの実は黒くはありません。
ムクロジの実は黄金色、とでもいいましょうか、とはいえ実際に見たことはないので(…たぶん。自分としては 笑)、今回ネットで画像を見て初めて知ったくらいでありまして。
ただ宇藝神社さんの境内にあったムクロジの木の根元に落ちていたのは黒い実…種でありました。

私はツゲの木の実のように黒い実だとばかり思って…思い込んでおりました。
ゆえに見逃して生きてきた可能性は〝大〟であります。


このムクロジの実、…乾燥しきっていないムクロジの実をを割ってみるとペタペタした水飴のような粘液が出てくるのだそうです。
このペタペタしたものは『サポニン』で、何と!かつては石鹸やシャボン玉にも使われていたという優れものです。

そして、私が実だと思い込んでおりましたムクロジの黒い種子は、あの〝羽根つき〟の羽根の〝黒い玉〟として使われていたのだそうです。
今は…というよりうちの子どもの小さい頃に使った羽根つきの羽根はもうプラスティック製でありましたので、今はもうきっとムクロジの種が使われていることは稀有なのでありましょうが。

羽根つきの羽根の黒い玉って結構硬いもの、ですよね。
ムクロジの種子の堅牢さは種子の中でもトップクラスの優れもの。少々叩いたくらいではビクともしません。
大きさは14mmぐらいで、硬い所に落とすと小気味良くはね返ります。
羽根つきの羽根の玉として、打ってつけの素材だったんですね。


ムクロジは漢字で『無患子』と書くことから、子が患わ無いという願いが込められ、
さらに羽子板は厄をはね返す、はねのけるという事から縁起物として扱われていたようです。
また、ムクロジの黒い種子を豆に見立てて、『魔滅 (まめ) 』で魔除けになるとか、マメに暮らせるという縁起かつぎも上乗せされていったようです。


ちなみに。
羽根つきは室町時代から宮中の正月遊びとしてあったそうですが、一般にも盛んに遊ばれるようになったのは江戸時代以降のようです。

今は…売ってはいるんですがね。

私とて子供の頃に遊んだのはたった一回、お友だちの家で遊ばせていただいた時だけです。

ただ、…この時の羽根の方が弾力があって打ちやすかったと、うちの子どもたちとした時に思ったものです。
あの体感は正しかったんですね。

No.257 23/03/10 12:13
旅人さん0 

…最後に。
これは無患子愛であり、仏教のこぼれ話でもあります。


【お釈迦さまと無患子】

「もし、煩悩・業苦を滅し去ろうと欲するなら、ムクロジの実、百八個を貫き通して輪を作り、 それを常に持って行住坐臥に渡って一心に佛法僧三宝の名を唱えてムクロジの実を一つ繰り、 また唱えて実を一つ繰るということを繰り返しなさい」とおっしゃって、
お釈迦さまはムクロジ百八個を繋いだ数珠をお作りになり、弟子たちに与え、訪れた国々でお配りなられたといいます。
お釈迦さまから無患子のお数珠をいただいた国は平和になったといわれて、ムクロジの数珠は縁起物であるといわれるようです。


無患子の数珠、かぁ♡


…新たな煩悩が生まれた気がする。

No.258 23/03/10 18:03
旅人さん0 

明日三月十一日は、東日本大震災から十ニ年目。
大きな被害も受けずに過ごせた私どもとはいえ、それでも震度五強。
その揺れの凄さに共に働いていた人に「この揺れの凄さはこのあとどうなるかわからないから、すぐデスクかその台の下に!」と言ったこと。
すぐに連絡をくれた息子。
そのあとは何をどうしても誰にも連絡が取れなくなったこと。
揺れがおさまったと思えたのち、すぐ職場内をまわり、お客さまの対応をしたこと。
帰った方がいいか出ない方がいいかと聞かれて「とりあえずは建物の端の方で窓のそばでないところで待機していてください」といい、外の様子を見たときもうすでに信号が止まっていて、混乱した様子がみてとれたこと。
就業時刻が来てもなかなか帰れず、ようやく帰途に着いた薄暗い道の反対方向から、心配した娘が迎えに来てくれていたこと。(娘はそのまま一人暮らしの祖母の家まで行ってくれていた)

家に帰ると私と娘以外は皆家におり、地震がおさまった頃に学校も仕事先もそのまま終業とされ帰宅をしたのだという。
それはそれで怖かっただろうなと思ったこと。
私と別れた娘がいつになっても戻らず心配したこと。

思い出せばいくらでも思い出せる…そんな気がするのだけれど。

何よりも忘れられないのはあの津波の映像。


…でももう十二年が経つ。


阪神淡路大震災の映像も衝撃的だったが、あの津波のおどろおどろしたうねりと大きな大きな破壊力には息をのんだ。
映像という動きあるものでその恐ろしさを見たこと、一生忘れられない。

ましてやそれを体験された方。
命を落とされた方、いまだに行方のわからない方。
…いまだにおかけする言葉を持ち合わせていない。

ただ忘れないこと。
それはできる。


三月十一日の午後ニ時四十六分の震災発生時刻にはせめてもの思いを込め黙祷をする。

仕事をしていたときも職場に放送が入り一分間の黙祷をした。
お客さまから偽善と言われたり、自己満足と言われたこともある。
それはその人その人の感じ方、捉え方だ。
一分間お待ちいただくお客さまのお声である。素直にそこは申し訳ないと思えた。
ま、だからといって決して譲りもしないけれど、ね。
…おばさん、なんで。笑。


亡くなられた方たちは十三回忌となる。丸十ニ年だがこれから十三年目に入るので『十三回忌』と称すという。
もう十二年、なんだなぁ。


No.259 23/03/11 05:34
旅人さん0 

…やっぱり地震だったのだな。
下からの短い揺れだったけれど。


どうしてよりにもよって今日。

以前もこの3・11、三月十一日に、東北地方で地震があった。

せめてこの日はやめてほしい。
心の奥底に隠している、深い傷を抉るような、そんなことは。



No.260 23/03/11 07:44
旅人さん0 

ムクロジの木からまっすぐの位置に、石段が作られ、…結構な段数であります。

石段の昇り口に立派な杉の木が両サイドに植えられており、枝が目の前にまであります。
おりからも杉の花も花ざかり。

…ええ、よりにもよって目の前に満開の杉の花が!!!
花粉が!
花粉がぁ!

時はまさにコロナを感染症第五類に段階を下げようと、マスクを外すことを推奨するかの時ではありますが、…私は花粉対策のためダブルマスクを継続中。
それでもこのいきなりの、目の前スギ花粉という状況には恐れをいだきました。
ええ、魔物に出会った感覚に近かったかもしれません。…魔物に会ったことがないので、本当に魔物に出会ったらこんなびっくりレベルではないでしょうが、ねぇ。


まずは短い石段を上がります。
右側には手水舎と納屋があります。
手水舎の水盤はたいそう立派なものでありまして、大きな丸石をくり抜いて造ったものでありました。
左側には倉庫…なのでしょうかね?周りに比べかなり新しいものであります。
さらに続く石段の脇には石垣が組まれています。なかなか立派な石垣です。

参道に二つめの鳥居があります。
こちらは赤い…と言っても朱ではなく、少し黒みかかった赤であり、両部鳥居となっていました。

扁額は二つ。

鳥居をくぐると石段の途中踊り場となってみぎてに神楽殿がありました。
ほぼ石段の踊り場に、ほんの少しだけ空間があるだけでそびえるように立つ神楽殿であります。
少し年季を感じるもので、…ここで舞を舞って大丈夫なのかなぁ?とほんの少し不安になるようなそんな建物ですが、それでも令和に一度修理修繕がなされているようです。
ここで舞が奉納されても、観客はその踊り場で、でありますので当然立ち見、しかもスペースがほとんどない!
拝殿も遠く、拝殿とは建てられた向きが異なりますので、奉納舞として神さまもみずらいこととなるかと…。

さらに見上げる石段。


鳥が鳴く音が聞こえています。

No.261 23/03/11 16:49
旅人さん0 

以前、ミクルの中で、三月十一日の十四時四十六分に、お寺の鐘を撞いたとおっしゃっておられた方がいらしたのが、私の心に大変響き、深く心に残りました。

今年は十三回忌。

鐘の撞けるお寺さんに行って、
もしその時間にどなたも撞かないようだったら、
あるいは何人かででも撞くようなこととなっていたらそこに混ざって、
私も鎮魂の鐘を撞こうとひそかに思っておりました。

結局夫にそのことを伝えることとなり、夫もそうしたいとのことで、二人でとあるお寺さんに参拝いたしました。
そのお寺さんは鐘を撞くにあたり百円を納めれば誰でも鐘を撞くことができ、なおかつ御本堂にも入ることのできるお寺さんであります。

少しだけ緊張して。
そのお寺さんの山門をくぐりました。

もしかしたら東日本大震災の被害者の方の慰霊の法要を営んでおられるかもしれないし、その辺、全く調べずにおりましたもので。


鐘のそばにはどなたもおられず、御本堂にも然り。

その時間まで、夫は鐘楼に上がって静かに手を合わせておりました。
ゴーン。

そこへ黒い衣をお召しになられた年若いご住職がスタスタと歩いてお越しになりました。
(ああ、ご住職さまより先に撞いてしまったなぁ)

急ぎ足でお越しになり、急ぎ足で鐘楼の階段を登って、
一回。
余韻が消えるまで手を合わせて、
もう一回。
そのあとお経をお唱えになられ、私どもはその間、手を合わせて…祈りました。

鐘楼より降りてこられたご住職に「ご住職より先に撞いてしまうことになってしまってごめんなさい」と申し上げました。
いつもの笑顔で「いえいえ、全然問題ないですよ」と。


そのあとは御本堂で般若心経をお唱えいたしました。

私にできることはあの日を忘れないこと。
命を繋がせていただいていることに感謝して生きること。


御本堂の上にひろがる青空を見上げました。
空を見上げることのできる〝いま〟をありがたいと思いました。

No.262 23/03/13 14:04
旅人さん0 

…。

…今さら、宇藝神社さんに話を戻すのもどうかなぁとは思いもします。
するにはするんですが、そも、それはひとえに私の話が脱線ばかりしているからいけないのであって、(ま、いいかぁ)と途中でやめるのはそれこそ失礼にあたります。(神さまの住まわれるお社のことを私の駄文で書かせていただくこととどちらが失礼か、ということを考えたらら…どちらだろう)

で、そもそもどこまで書いたかというと、…そう拝殿が見えたところまでなんです。

珍道中録、ですからね。
そこで終わっていても不思議はないのかもしれませんが、認知症予防、…もしかしたらすでに始まっているかもしれぬ認知症進行予防のために綴っておりますので、ここでやめてはいけないのです。


というわけで。
宇藝神社さんの拝殿前に立ったところから。

石段を上りつめると、すぐに拝殿、であったことまで書きました。

こちらの拝殿は…あまり今までに見たことのない社殿、もしかしたら珍しい建て方なのかもしれません。

ただ…立派な屋根に対して、拝殿に登る階といい、はめられた、正面の木でできた戸や壁が、結構質素な造りでありまして。
その立派な屋根はかなり迫り出した造りとなっていて、濡れ縁(ほんとに濡れ縁なんです)や階をすっぽり覆っています。
軒天は隙間があき、さらには穴もあいていましたが、もしかしたら隙間自体は最初に建てた当初から?
ただ、柱の木は木目を活かした丸く削られた木を使ってあり、大変立派なものです。

うーむ…。
幕板などは細かな彫刻が施されておりますし、どちらかというと彫刻自体は多いかと思われます。
虹梁はうねり凝った造りとなっています。

…いつぐらいに造られた社殿なのだろう。火災によりこの地へ移られてきた江戸時代、なのでしょうか。
造られた年代も、この神社さんを建てるにあたって大きく関わった人物等も御由緒には一切触れられていません。

幣殿があって、本殿があります。

ん?
耐震補強?違うか?

なにやら幣殿と本殿は、覆屋のように屋根がもう一つあるようで、その屋根を支えるような斜めに、ちょうど二等辺三角形のように支え合うような木があって、コンクリートの土台に横木を渡して、覆い屋根を支えて…いるのでしょうかねぇ。


No.263 23/03/13 15:00
旅人さん0 

本殿はかなり彫刻が施されておりました。柱から横木から扉以外は全て、…なんじゃないかっていうくらいに。
妻などは屋根に接するところまで、本当に至る所に彫刻が施されています。
ただこの彫刻、おそらくは作り手が何人もいるだろうと思われます。
作風から精巧度、精密度が大きく異なっているのです。

本殿の大きな壁の部分は大きな板を繋いで嵌め込んだ感じがよく分かります。しかもこの壁だけ色が異なる木が嵌め込んであって、一見するとニスなどがなられているんじゃないか、というくらいに色が異なっています。

社殿の左右に摂社や末社がありましたがどのような社がお祀りされているかはわかりませんでした。
石垣が組まれ、その上にズラーっとかで造られたお社が祀られており、また赤く塗られたそれとはかなり大きさの異なるお社が一つと、同じように赤く塗られたそれよりは小ぶりのお社が一つ。


上野国の式内社、一之宮のほかはそのほとんどが神職の方がおられない状況となっており、長い歴史を持つ神社さんでありますが、その管理は地元の方が支えているようであります。
大祭などでは兼務されておられる神職の方がお越しになって神事を執り行われていたり、日常のほとんどは地域の方々が管理維持されておられることが多いようです。

ちなみに宇藝神社さんなどは、神社さんのある地区の全戸が宇藝神社さんの太々神楽保存会の会員となっておられるとのことで、それは神楽の踊り手や太鼓・笛などの伝承だけでなく、お祭りの運営も携わっているとのことです。

由緒ある神社さん。
歴史が長ければ長いほどその維持・管理が難しいこととなっているようです。
千三百年を超える祈りの歴史を将来の世代に引き継いでいっていただけたならと、切に切に祈ります。

そんな思いを込めて、お賽銭箱にお賽銭をお納めいたします。

No.264 23/03/13 15:28
旅人さん0 

宇藝神社さん、なんと御朱印をお受けできると、境内に貼り紙がありました。
連絡先の案内があり、どちらかが不在にされても対応できるように、とのことか、二箇所の連絡先が書かれています。
百メートル離れたところと、三百メートル離れたところとのことで、そちらに連絡を入れて伺う感じになっているようで、そのうち一軒のお宅が代表を務められておられると書いてあります。
もしかしたら御由緒などがお聞きできるかと思い、そちらに連絡を入れさせていただきました。

「場所はわかるかい?」
「よくはわかってはいないのですが、神社さんにある(略)地図を頼りに伺ってみます」と私。
電話を切った途端に不安になる私。
ちゃんと着けるのだろうか。
なにせ方向音痴の師範代であります。
電話でお聞きしたことをそのまま復唱し続けて。
なにやら細い道を行きますが、とにかく書いた通り、言われた通り。

向かったところな、なんと、道端に出て待っていてくださったではないですか!

不安そうな私の様子がスマホという機器を通してダイレクトに届いていたようです。

このコロナ禍にお家の中にご案内くださって…広い土間、でしたが、そこには御朱印対応用を兼ねているのかテーブルと椅子が置かれていました。
御朱印はお書き置きとのことで、倉稲魂神(うかのみたまのみこと)さまを描いたものに朱印が捺されたものでありました。

「これ…」
え?
「これさあ、神社におっきい木があったろ?、あれムクロジって木なんだけどさ。近所の人がそれでちょっとしたものを作ったやつなんだ。もうこれしかないんだけど、よかったら持っていっておくれ」


!!

ムクロジの実…種だぁ。

どこかの神社さんなりお寺さんで御守になっていないかと、ずっとずっとこの手にしたいと思い願っていたムクロジを、くださる!!♡

なんて嬉しいことでしょう。
小さな鈴までついた根付けです。
こんなに素敵なものを?

あまりの嬉しさに私、声が裏返っていました。

おかげで、御由緒をお聞きすることなどすっかり頭から消えてしまって。

車の中でいつまでも掌で包んで胸に抱いておりました。…次の目的地に着くまで。

No.265 23/03/13 15:39
旅人さん0 

宇藝神社さんの氏子総代さんからいただいた、ムクロジの実(種)を手放したのは、次の目的地。



夫がどうしても寄りたいと言ったのは…。
上信電鉄『南蛇井(なんじゃい)駅』



…「なんじゃいっ!」

ええ、うちの夫、ダジャレ好きなおじさん、なんです。

No.266 23/03/13 17:14
旅人さん0 

大江健三郎氏の訃報にふれて。


大江健三郎氏の作品で心に残ったものといえば、私はおそらくは他の方とは異なって、特殊かもしれないけれど【死者の奢り】です。
まだ十代の私には、心にささるどころか心を掴まれたほどの衝撃を受けた作品でした。

読後に実際にその匂いを嗅いだような感覚が残る作品で、ほかの作品も後味が良いとはいえない、そんな印象だけが蘇ります。
でも、なんだか惹かれて、何度も読み返した若かりし私。

ノーベル賞を受賞されたというだけでなく、扱っておられるテーマは実に多種多様で、その度その度に、私を引きつけ、その度唸らせる作家さんでありました。


社会問題にも積極的に取り組んでこられ、憲法改正に反対する会を立ち上げ活動されておられた方でもあります。
私にもわかる言葉で、私にもわかる内容で語ってくださる方でありました。

今、とんでもない形で憲法を改ざんしようとされていることに恐怖に似た気持ちを抱いています。
この動きに一石を投じてくださる大きな力を失ったと感じております。

いろいろ私とは異なる世界を、世界観をお教えくださった大江健三郎さん。


ご冥福をお祈り申しあげます。

No.267 23/03/14 15:25
旅人さん0 

最近、どうしても聴きたいなぁと心に引っかかっていたアルバムがありました。

1977年リリースのさだまさしさんの【風見鶏】というアルバムであります。

多感な年頃だった私の心に響く、そして今なお聴きたいと思うくらいのアルバムの楽曲たち。
でも、これはその当時かなり売れたアルバムだったので、別段、とりたてて私が多感だったから、というわけでもなく、おそらく日本人の心に響く楽曲の数々、であったのだと思います。

実はこれ、このLPレコード盤がわが家には存在している…はず…かもしれないんですよね。

かつての、繊細な心に響いたのでしょう…実は夫、さだまさしさんの大ファンであったようなのです。

…でもどうだろう。
実際に実在するか否か…ダンボール箱にでーんと入れたままになった彼の私物を私が触ることなくウン十年。
私の推測によると、というところ。

たださすがにこのLPレコードを再生して聴くことはない。
…というか、聴かない、聴けない、ならば棄ててよ!って話であります。


…でもそんなのスマホで聴けばすぐ。
…いやいや、そうではない、んですよねぇ。

せめてCDとか、…純粋に音楽を聴くだけのための機械で、ゆっくりと聴きたかったんです。
途中で電話のかかるかもしれない、LINEが入るかもしれないスマホでは、おばさんはどうもソワソワして落ち着いて聴けないんです。

CDは…ある。
もちろん夫のものだけれど。
だが。
CDを聴くプレイヤーが、ない。
そんな状況から、家にCDもなんならLPレコードまでありながらにして聴けない、そんな時がただただいたずらに過ぎていたのです。


が。
このたび、めでたくCDプレイヤーを手にすることができたのです。
それは夫からのバースデイプレゼント、でありました。

やった♡
よぉ〜し♡

念願だったさだまさしさんの風見鶏をかなりかなり久しぶりに、ようやく聴くことができます。

夫のいない、一人の日に。
夫の話しかけや、ましてや夫の歌など混ざることのなきように。


…これが、ね。
LPだったら、そぉっとLP盤の溝に針を落とすんですよねぇ。
あの感覚がまたたまらないんですけれど、ね。




No.268 23/03/14 15:46
旅人さん0 

…泣きました。

私は当時もさだまさしさんのファン、というわけではなく、ただただ情景が目の前に広がるような詞と曲と、そして演奏には魅せられていましたが。


…凄いなぁ。
…なんにも変わらない。

私はあれからだいぶ歳を重ねて、いろんなことがあって。
…なのにまるで変わらないあの頃のままの気持ちで聴けるんです。

むしろ歳を重ねただけ、よけい心に響き、心に沁みます。


凄いなぁ。


この【風見鶏】が出たときって、さだまさしは何歳だったのだろう。


…はあぁ、二十五歳、ですか。

二十五歳、…私は二人のこどもを授かって、忙しく時を過ごしていましたかね。



…私がこの【風見鶏】について何か語ろうとすると、もうそれは混じりものだらけなもので、純粋な【風見鶏】ではなくなってしまうし。
歌詞をここに転記したところで、それもまた違う。


それにしても。
何故さだまさしさんの【風見鶏】のスイッチが入ったんだろう。

そこは私自身にも謎、であります。


No.269 23/03/15 08:11
旅人さん0 

二月の『はねたき道了さま』の例祭で副住職さまが3・11には陸前高田市の法要に参列されるとおっしゃっておられた、群馬県みどり市の光榮寺さん。

ネットを見るとはなしに見ていて、こんな記事を見つけました。


「『奇跡の一本松』で知られる岩手県陸前高田市の松原に打ち上げられた松材を使い、群馬県みどり市大間々町の光榮寺の檀信徒らが制作した小型の握り仏像120体が10日、陸前高田市の金剛寺(小林信雄住職)に寄進される。
金井住職らは同寺で開かれる大震災13回忌法要に参列する。

光榮寺では5年ほど前から、群馬県前橋市の仏師を講師に迎え、檀信徒らを対象にした仏像の制作講座を月1回開いてきた。
この前橋市在住の仏師は東日本大震災翌年の2012年、同市の松原に打ち上げられた松材を知人に依頼して入手。
講座ではこの松材を使い、参加者約10人が手のひらに収まる握り仏像120体を制作した。

指導にあたった仏師が
「松材は津波で海中を漂い、陸に打ち上げられた。無念に亡くなった人の魂が乗り移った材で作られた仏像を現地に届けたい」と提案。

光榮寺の副住職が、真言宗智山派青年会のつながりから金剛寺に寄贈を申し出たところ、快諾された。

陸前高田市の金剛寺は津波で本堂や位牌堂などを流失。
檀家250戸のうち220戸が被災し、檀信徒126人が犠牲となった。
高台に移転して2017年10月に本堂が再建された。10日に大震災13回忌法要を開く。 (以下略)  」


…あぁ。
こういうこともあっての陸前高田行きでありましたか…。


私も仏像の制作講座に参加させていただきたかったなぁ。
実は独学で始めようと木材を探したりもしたくらいでありました。
木材の処理等が難しいようで、何年も寝かせてから彫り出すと聞き、また彫るのに適した木材の入手も難しくて、断念したのでありましたが。

でも…私は檀家さんじゃないしなぁ。

でもとりあえずお聞きするだけでも。
そ、おばさんは図々しいという武器を持っているんで。


No.270 23/03/15 15:19
旅人さん0 

今日は十五日ということで、神社さんと、両家の父たちの月命日ということでお墓参りで二ヶ所のお寺さんへ行ってまいりました。
これは仕事をしていたときも十五日が休みならしていた、
…もはやルーティンみたいなものと化しています。

今日は雲ひとつなく、穏やかな日で、絶好のお墓参り日和でありました。

「来たよ〜」
「いつも守ってくれてありがと」
「今日はお花ないけど、ごめんね」

…自分の祖父母や父の眠る墓前ともなると、毎回こんな感じで。

「いいとこにお墓建ててくれたね。じいちゃん頑張ったんだね。いいお寺さん選んでくれてありがとう」
下手すると声に出してあります。

こちらのお寺さんは広い墓地なうえ、広々と見通しのよい墓地なので、自分以外誰も墓所にいないのが一目でわかるのであります。


まずは御本堂へお参りしてから。

と。
どなたかが近づく足音がします。
フッと振り向くと作務衣姿のご住職さまでありました。
「ああ、やっぱり。ようこそお参りくださいましたね。どうぞごゆっくりお参りください」

…はあぁぁ。
檀家でもない私を後ろ姿で気づいてくださったんだぁ…。

私など(あれ?誰だったかな?いまの人…。)などということばかりだというのに。
そして、バチ当たりなことに、お寺さん以外の場所でご住職さまにお会いしても分からないんじゃないか?ってくらい、若いときと違ってひとの顔を覚えることが不得手となりました。

…ありがたいことですし、本当に嬉しい。

こちらのご住職さまはいつもニコニコとされておられ、そしてとてもフレンドリーな口調でお話なさる方であります。
威厳を保つとか一切ない。
人の目をしっかりとみて、その方の懐に入って話をお聞きになられる方です。
だから檀家でもない私だというのにきちんと覚えてくださっていて、…どこの身内の者かってことまで、ですからね、並大抵な努力とかでできることではありません。


ここを檀那寺、菩提寺とすることを夫には相談してみたりもしたのですが、ね。
いまはまだそんな気分ではないようで。


夫には夫の考えもありましょうし、ね。
次男だから、と言われてはきたし、当然墓所は先祖代々の父親の眠る墓地とはいかないのではありますが、お寺さんは同じところ、って思っているかもしれないし。

…たぬき爺さんだからなぁ。
夫の本音がみえないのです。

No.271 23/03/16 17:47
旅人さん0 

木瓜の花が咲きました。

わが家のネズミの額ほどの庭に白い八重咲の木瓜の花が咲くと、春がきたなぁと思うのであります。

八重咲の淡いピンク色の牡丹の花が次から次へと咲いています。

ご自宅に不動堂をお持ちの農家の方からいただいたパンジーがいつ見ても満開です。
白。
紫。
薄紫。
赤紫。

去年咲いた花からこぼれた種から、ビオラがたくさん咲いています。
まるで買ってきたものを鉢植えしたかのような、元気な花たちです。

福島から移住されたという女の方が、お寺さんの縁日の出店で見かけた花を見て懐かしいと泣いておられるのを見て、その方の目に触れることなどないとは思ったものの、わが家の庭でも咲かせようと思って買った河原撫子もだいぶ背丈が伸びました。
あちこちから目を出して、移植に精を出しています。

ネモフィラ。
コスモス。
みんなみんなこぼれた種から芽を出しています。

紫陽花の葉もむくむくと芽吹いています。

春が来たのがなんだかとても嬉しくて、それだけなのに書き込んでしまいました。

No.272 23/03/17 14:57
旅人さん0 

さて。
このあとは群馬県の富岡市へ。

♪ 一番はじめは一之宮とつい歌いたくなる今日このごろでありますが、
群馬県の一之宮であります【貫前神社】さんへ。
平日ということもあって、駐車場に車は少なく、人影もまばらでありました。
山の上に建つ大きな鳥居。
そしてそこから見渡す景色の素晴らしさ。
何度来ても気持ちのよい景観です。

そして、赤い門をくぐると!
長い石段がくだっていきます。
そう、こちら貫前神社さんは下り宮であります。
正面にみえているのはさらに大きな…そびえ立つ楼門であります。

石段をおりていく途中、ひだりてに月読神社さんが御鎮座されています。

石段をおりきると左側に手水舎。
そして見上げてみて、その視界に入りきらないほどに大きな大きな楼門、であります。

お詣りをして。
末社のある高台の境内へと向かいました。
こちらには伊勢内宮・外宮、日枝神社、そして二十二末社をお祀りしてあります。
日枝神社さんのお社は寛永十二年以前の旧御本社の本殿を移築したと伝えられます。
実はこの日枝神社さんの向拝に『見ざる・聞かざる・言わざる』の三猿の彫刻があるのです。知る人ぞ知る、らしいのですが、もともと大きな彫刻ではないうえ、経年の劣色で、なかなか気づく人は少ないようです。

そして。この空間がまたたいそうよい気が満ちた空間であります。


この日最後に向かったのは、富岡市上高尾の崇台山(そうだいさん、標高299m、ぐんま百名山)の麓にあるという【長學寺】さんというお寺さんでありました。
のどかな山村、といった風情の町並みをすら通り過ぎて、山の麓、というよりはまさに山の中に、長學寺さんはありました。

No.273 23/03/18 03:27
旅人さん0 

山道、というほどではない山へと向かう道を走っていると、いきなり石標が。
…いや、これは。
これは寺標だ。
左側には六地蔵さまが並んでおられます。

え、でも今来た道となんら変わりのない山へと向かう道が続いているだけです。
建物も何も見えてはいないのですが?

しばらく狐につままれたような思いでその…山へと向かう道を走ります。もちろん、運転は夫、です。笑。
そもそも山へと向かう道って…私たち、山に向かうわけではないはず…。

やがて…。
ようやく見えてきた駐車場と思しき空き地、ああ『長學寺第ニ駐車場』と書いてあります。
えっと…?

建物、まだ見えていないんですけれど?

あ、あぁ、小さな池があります。石の隙間から絶えず水が流れています。湧き水でしょうか?
そのわきに上へと向かう石段があります。

あ、…お寺さんです。
いやちがいますね、お寺さんへと向かうっぽい石段が続いています、です。

No.274 23/03/18 07:00
旅人さん0 

とはいえ、確実にお寺さんの境内にはいる私たち。
池の横には小さな太鼓橋が架けられています。
橋の上から、二十段弱の、石段をのぼりきったところに小さな御堂が見えました。
「へえぇ、窯があるんだ」と夫。
…はぁ?
「窯、じゃないけど」
「えっ?」

あとで写真を通してみると、なるほど夫が〝窯〟と言ったのも無理はない、コンクリートを…言葉は大変悪いのですが…適当に固めただけ、にしか見えない新しめの台座のうえに、同じ頃に造られたであろう蓮座を乗せ、その上に、もっと古い年代に造られた、乳飲み子を抱かれた観音さまが御鎮座されておられたのでありました。
〝窯〟に見えたのは、写真を通すとその前に置かれた香炉が、まさにちょうど窯の火を焚べる口に見えるので、夫はちょうどそう見える視線であったの…かもしれません。


観音さまは本来は男の方、といわれます。御仏ですのでそういった性別もおかしな話、となるのかもしれませんが。
これはさすがの私も子どもの頃そう聞かされておりました。
とはいえそのお美しさに、
「えっ違うでしょ!、だってこんなに綺麗で、いっぱい飾りをつけてるし、綺麗な着物を着ているし」
と反論したものでありますが。

慈母観音さまで検索しても、お召し物をきちんと纏われて赤ちゃんを抱っこしておられる像が描かれていたり、彫られていたり、であります。


が、こちらの観音さまは乳房があり、その両の乳房を露わになされて、乳飲み子が乳首に戯れる、そんな御像となっております。
秩父札所四番の『金昌寺』さんと同じように…。

秩父の金昌寺さんの慈母観音さまの御像を模写されたのでしょうか?

御堂のすぐ横に『子安観音のいわれ』という案内板が設置してあります。
ちなみに『環境庁・群馬県』の設置したもののようです。

…昔、付近の村で豪族の争いがあり、(敵対する一族に)襲われた豪族の妻(敵対するもう一方の一族から嫁いだ)は妊娠中で、このお寺に救いを求めて逃れてきたのですが、石段脇の『薬師の池』にたどり着いたとき、急に産気づき赤ちゃんを産み落としたのだといいます。
ちょうど運悪くそこに追っ手が追いついて、母子もろとも殺害されてしまったということがあったといいます。

はあ…。


悲話としか言いようがないです。
昔はそんな残忍なことが当たり前のように起きていましたが、…それにしても…。

No.276 23/03/18 11:10
旅人さん0 

(いつものこと、ではあるのですが、だいぶ気になる誤字を見つけ、そこを改め掲載し直しついでに、少し補足をいたしました。…前回のスレをお読みくださった方、申し訳ありません)

いつごろこの慈母観音さまが建てられたものかは、ご住職さまがご不在でありましたので不明でありますが、石段を隔てた反対側には古い笠塔婆があり、そこに刻まれた文字が『階供養』とあり、おそらくはこの母子の菩提を弔い供養するため建てられたもの、かと思われました。

…この先の石段が実は結構長い。
長くて見上げると思わずため息がこぼれるくらいで、産月間近だったのか、身重の女性が(どこからかはわかりませんが)ここまでおそらくは駆けてようやくここまで辿り着き、この石段を見上げたら、…それは陣痛も起きましょう。

せめてもう少しこの石段が短ければ。
本堂のそばまでたどり着いていれば、あるいは寺の方に気づいてもらえ、保護されていたかもしれないというのに。

…あまり階を供養する、といったことを見聞きしたことがありませんので、よりこの話が真実起きたことであることを物語っています。
実際、この階供養はこの殺害された事件をうけて建てられたものだと、のちに先代のご住職さまからお聞きする機会を得ることができました。

お寺さんの境内にあっても、そうした行いが止められない。
人とはさまざまな側面を持つものだと、あらためて思う私たちでありました。


その、長い石段をのぼって行くと、見えてきた…今までにあまり見たことのない山門。
思わず言葉をうしない、しばし足が止まりました。

お寺さんでいただいたパンフレットの表紙となるくらい、でありますし、またそのパンフレットには[珍しい中国風の山門はエキゾチックな姿です]と書いてありました。

わかりやすくいえば、白い大きな角を丸くした長方形の台座が門となっており、その上に、壁のある鐘楼が建つ、といったものであります。
壁で梵鐘の姿は隠れています。

うーん…。
目立つというか、珍しいというか、変わっているというか。

山門の中には台風で倒木してしまった大銀杏の一部が祀られていました。
この銀杏の木がこのお寺さんと深く関わった人物のお手植えだったということです。

No.277 23/03/18 11:49
旅人さん0 

この【長學寺】さんの歴史ははるか一千年も昔にさかのぼることができるといいます。

そもそもの始まりは、奈良時代、『弓削道鏡(ゆげのどうきょう)』が勅命により戒壇院建立を計り、
関東諸国を巡ったときに、現在の六地蔵付近に薬師如来を請じたという記録があるといいます。

平安時代初期の承和二(835)年に山城国(現 京都府)高尾山神護寺の真済(しんぜい)という真言宗の僧で、空海の十大弟子の一人という方が、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられたのだといいます、


空海の詩文を集めた『性霊集』を編集しており、勅命により関東諸国に一切経を納めたといいます。

上野国については、貫前神社宮司に適地を選定させ、そのとき当地に一堂を建てたと伝えられています。この時、地名を高尾山、寺号を祝融山高尾寺と呼び、「祝融」は火の神であり、楓谷の紅葉にちなむものとされるのだといいます。

その後、鎌倉時代に入り、『曽我十郎、五郎兄弟』の死を悲しんだ大磯の『虎女(とらじょ、:虎御前、鎌倉時代初期の遊女、曾我祐成の妾。のちに出家して妙恵禅尼)』が、鎌倉時代初期の建久四(1193)年、信州善光寺への途路、当地へ来て兄弟の菩提を弔い、寺号を「長學寺」と改めたと伝えられています。

以後、甘楽郡内に勢力を持っていた藤原氏が、南北朝時代の応安二年(1369年) に曹洞宗高祖道元禅師の法孫、通海良義を招いて開山第一世としました。

室町時代末期(戦国時代)の永禄年中(1558-1570)に小幡宝積寺九世儀山沅考が開山良義禅師の徳を慕って再興して現在に至っているといいます。



群馬百名山『崇台山』の麓にニ万二十五㎡の境内に美しい楓並木をめぐらせたお寺さん【長學寺】さん、であります。

No.278 23/03/18 13:09
旅人さん0 

江戸時代初期の元和二(1616)年、『前田利孝(上野七日市藩の初代藩主。七日市藩前田家初代。【前田利家】の五男)』が七日市に移封されると、こちら【長學寺】さんは前田藩の支配地になるとともに、藩主の菩提寺となって厚い保護を受けたといいます。

長學寺さんが菩提寺となった理由は、加賀藩が曹洞宗であり、七日市藩の領内では長學寺さんだけであったこと、なおかつ名刹で、かつ景色が良い点、そのため前田家の菩提寺となったと考えられているといいます。
七日市藩主の前田家は、元和二年(1616年)から明治に至る二百五十有余年、十二代にわたりこの地を治めました。

長學寺さんの前田家藩主霊廟には、斜面を上下二段に造成して独立した墓所となっていました。
墓所には承応元年(1652年)から明治十七年(1884年)までの二十二基の墓碑がり、上段中央には、二代、三代、五代、六代、十代の五人の藩主の墓碑が大型の五輪塔で建てられいました。

その、七日市藩主前田家の墓所前には、鎌倉時代に曽我兄弟の死を悲しんだ当寺の開基虎御前が自らの手で植えたとされ古くから『虎銀杏』と親しみを込めて呼ばれた、大銀杏の木がありました。
この木は杖を挿したものが根づいたとのいわれから『逆さ銀杏』とも呼ばれていました。樹高は31m、根回り周囲8.5mもあったといわれます。
夫はこの木を見たくて、このお寺さんを訪ねたところもあったようです。

しかし、平成二十九(2017)年八月初旬に富岡市を襲った台風五号の風雨と腐朽菌の影響でこの大銀杏が倒木してしまったといいます。
すぐに虎銀杏の再生プロジェクトが組まれ再生保護部位の治療および周辺の土壌改良、そして再生保護部位以外の撤去という再生保護工程が終了し、あとは大銀杏の再生を願う、というところだといいます。
その一部が、あの山門の中に祀るように飾られた年輪、だったのですね。

山門のそばに石…コンクリート、だったりするのかなぁ、十三重層塔があり、その塔の周りが『釈迦四大聖地お砂踏み』となっておりました。

お砂踏みをすませて。
まだまだ『前田家の墓所』・『虎銀杏』の辺りをしげしげと拝している夫を待つとはなしに、山門のそばにおりますと。

!!!

自動で時を告げる梵鐘が鳴り響いたのです。

その音の大きかったことといったら!

たぶん自覚なしに軽く飛び上がったのではないかと。

No.279 23/03/18 13:54
旅人さん0 

寺宝である梵鐘は、総高112センチ、口径64センチといいます。

ま、壁で覆われて見えないんですけどね。

龍頭、胴ぶくれのないずんどう型のやや細身の鐘身で、四段四列の乳、下帯の唐草模様の特徴がみられ、撞木座は十六弁の菊花模様が使われているとのこと。

製造年代は不詳とのことですが、特徴から室町時代に制作されたと推定されているといいます。


…十六弁の菊花って…天皇家の家紋、なんでは?
梵鐘も(笑)詳しくない私ですが、鐘木座って…撞座のこと、でしょうかね。
だとしたら梵鐘を木で撞くとこ、ですよね。…天皇家の家紋、撞いちゃって、いいのかなぁ?

ま、造られた年代によっては、まだ天皇家の家紋も確立してはいなかったみたいなので…、先にできてたら、これはもうしょうがないことだし。
まぁ、しかも戦前ならいざ知らず、令和の時代、ですしね。


こちらは御朱印にも力を入れておられるようです。
ご住職さまがご不在でありましたので、お授けいただくことはできませんでしたが。

ロシアのウクライナ軍自信略の集結を願って、群馬県内の曹洞宗のお寺さんに呼びかけて、協賛されたお寺さんの全ての御朱印が集まると、平和を祈るお経となるという、そんな企画もされたようです。
この御朱印での志納金は全てポーランドへの寄付という形で、ウクライナからの難民支援にあてられたといいます。

もうこの企画は終えられているようですが、…知っていたならなぁ。

長學寺さんでは今、東日本大震災の被災者の方、ポーランドにおられるウクライナからの難民の方々への募金等、さらには今、使い道を指定できる赤い羽募金と協賛した御朱印を頒布されています。

No.280 23/03/18 16:15
旅人さん0 

「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるとおり、お彼岸は年に二回。
春は春分の日、秋は秋分の日のそれぞれをお中日とし、その前後三日間をあわせた七日間がお彼岸となります。

この日を機に厳しい冬の寒さや夏の暑さに別れを告げる、という目安に、上記の言葉が昔から使われ伝えられていましたが、あいにく今日の日本列島は雨か、雪。
せっかく彼岸の入りの日が多くの人が休みの日となる土日の土曜日があたったというのに、今までの温かな日が嘘のような冷え込んだ一日となってしまいました。

実は春分の日、秋分の日は、国立天文台が前年のニ月に官報で、翌年の日程をが掲載された暦要項を発表することで決まるそう。


この期間に寺院では、彼岸会(ひがんえ)として法要を行われます。

お彼岸の期間中は、ご先祖様への感謝の意味を込め、お墓参りや仏壇・仏具の掃除、お供えなどの供養を行い、それにあわせて自分自身の日頃の行いを振り返り、見直すのが古くからの習わしといいます。

私の場合、親から伝えられたことがほぼ皆無で、子どもの頃祖母から教えるともなく伝えられたことを思い出すか、ネットなどで知るしかなく、言いかえると私の子どもたちは祖父母からも教えられずに育ってしまっており、今になって申し訳ない思いでいっぱいであります。

もちろん宗教の自由はありますので、そうしたことに意志を持って、〝何もしない〟というのであればそれはそれで良いのですが、一般常識として、世間はこうだ、ということとか、お墓参りに行ったならこうするのだ、という常識とか、何も知らず親元を離れることとしてしまったことに対して、親として申し訳なかったなぁと今さらながらに後悔しているというわけです。

忙しく働く子どもたちに今となって伝えることは容易ではないのです。

とはいえ、私も今が学び中。
しかもなかなか新しいことが頭に入ってこなくなってくるお年頃。
しかも檀那寺さんを持たない身としては、お教えを乞うお坊さまとどうしても疎遠であります。

ネットからもだいぶ学ばせていただきましたが、やはりお坊さまからお教えいただくことは全然違うのです。




No.281 23/03/18 16:47
旅人さん0 

このお彼岸、もともとは季節や期間を表す言葉ではありません。

春分の日は、太陽が真東から出て真西に沈む日。
浄土思想では、極楽浄土は西方にあり、西方に沈む太陽を礼拝することが習いであります。
煩悩を払うため西に沈む太陽に祈りを捧げ、極楽浄土へ想いを馳せるのだといいます。

…そうでありましたか。
今日は雨ですので無理そうでありますが、明日からぜひ夕陽を拝またいたしましょう。


春分、秋分の日は
『仏さまの世界である【彼岸】と、私たちの住む世界である【此岸】の距離がもっとも近づく』
と考えられたことから、この日に西に向かって拝むと、功徳が施されるとも信じられたのだといいます。

そこから、春分、秋分の中日を中心に供養を行い、悟りの境地に達するのに必要な六つの徳目=【六波羅蜜(ろくはらみつ)】を一日に一つずつ修める日とされていったといいます。

それが時代を経て、ご先祖様を供養する『お彼岸』となり、私たちの生活に欠かせない大切な行事となっていったようで、〝お彼岸〟という行事は日本独特のものであるといいます。

ちなみに、【六波羅蜜】とは、
『彼岸に到るための六つの修行』のことで
布施(ふせ)、
持戒(じかい)、
忍辱(にんにく)、
精進(しょうじん)、
禅定(ぜんじょう)、
智慧(ちえ)または般若(はんにゃ)
を指すのだといい、

【布施】とは『見返りを求めず善行をすること』
【持戒】とは『約束事を守って行動すること=戒律を守ること』
【忍辱】とは『何が起こっても耐え忍ぶこと』
【精進】とは『努力を惜しまないこと』『たゆまず仏道を実践すること』
【禅定】とは『心を落ち着かせること』
【智慧】もしくは【般若】とは『仏さまのような考え方を持つ=真理をみきわめ、悟りを完成させること』

一言でいうと『六つの善』のことだといいます。

…。


うーむ。


しかしながら、この六波羅蜜、『菩薩の徳目』ということでありますので、一つづつ、少しづつ、ということで…。
…これが一日一善、ですか。


なるほどなぁ。

No.282 23/03/18 17:14
旅人さん0 

【布施】…親切
 反対語…慳貪(けんどん)=ケチ

【持戒】…言語一致
 反対語…破戒=約束を破る

【忍辱】…忍耐
 反対語…瞋恚(しんに)=短気

【精進】…努力
 反対語…懈怠(けたい)=なまくら

【禅定】…反省
 反対語…散乱=落ち着きがない

【智慧】もしくは【般若】…修養
 反対語…愚痴=ねたみ,そねみ・
       うらみ

ネットに、こんな一覧がありました。

…つまり、この六波羅蜜の反対とは、
ケチでいい加減で約束を破り、短気でヒステリック、なまけ者で飽きっぽく、嫉妬深くて人を恨んでいる人

って…うー、私だいぶ当てはまっておりますが…。


お釈迦さまが一生涯説かれた教えは【因果の道理】だといいます。
『すべての結果に必ず原因がある』
ということだと。
蒔かぬ種は生えないが、蒔いた種は必ず生える、ということだと。


…これはすごくわかるなぁ。
わかるけど…今取り返しがきかないことから身をもって学んでいるということなので…。

はあぁ。

『お彼岸』からも学ぶことは多いものです。

No.283 23/03/19 06:47
旅人さん0 

【お彼岸】という言葉の由来は、【波羅蜜多】からきているのだといいます。

この世の苦しみや煩悩から逃れ、悟りと安らぎの境地に至ることをサンスクリット語で【パーラミター(波羅蜜多)】というのだそうで、その漢訳【到彼岸】を略した言葉が、【彼岸】になったといわれているといいます。
直訳すると『向こう岸へ渡る』。

またこの言葉には『悟りを開く』『成就する』という意味もあるといいます。
三途(さんず)の川を挟んだ向こう側は、仏さまの住んでおられる世界。
そこが『彼岸』で、『涅槃』があるといわれます。
あらゆる煩悩が消滅し、苦しみを離れた安らぎの境地、涅槃。
それは悟りの世界であり、本来、仏教ではその境地に達するためにさまざまな修行を行います。


ところで前述もいたしましたが、仏教の本場インドや中国には彼岸行事がなく、お彼岸は日本独自の信仰と結びついて発展した仏教的習慣といいます。
それでは、日本ではいつから彼岸行事は行われるようになったのか。
さかのぼると【日本後紀】に、大同元(806)年に早良(さわら)親王の怨念を鎮めるために仏教行事が行われたとあったと記されているといい、これが後に彼岸会に発展したようだという説が有力なようです。

お彼岸(行事)のルーツは、実に平安時代であったようです。
その頃…平安時代というと、政権争いによる混乱が続き、天災や飢饉、疫病の流行など人々には多くの不安があったといいます。
そんななか【末法思想】が社会現象となり、極楽浄土を願う祈りと先祖供養が結び付き、お彼岸が行事として日本人に定着していったのかもしれません。


さて。
昨日の雨が嘘のような青空が広がっています。お墓参りツアーには絶好のお天気です。
…ただ。
わが家は朝にはめっぽう強い私と、夜派の夫。へたをするとあと二時間は起きてこない。
…一ヶ所はゆうに行って来られるよなぁ。

これは歳をとってもお互い絶対譲れない長年の習慣のようです。

No.284 23/03/19 22:34
旅人さん0 

お彼岸といえば…ぼたもち♡

…というほどにはわが家ではぼたもちを用意はしません。
まず、生まれてからぼたもち(あるいはおはぎ)を作ったことなど、わずかに一回、しかもそれは祖母が采配をふるい最初で最後に執り行われた行事のなか、であったに過ぎません。
それも「ぼたもちというものを食べてみたい」、と言った孫のため(それは私)に急遽決まったイベントであったくらいでありました。

そもそももち米を蒸す、とかいっても、蒸し器とか持っていないし。
買ってくるのが関の山です。

両親の離婚後、ぼたもちなど用意されることもない家となり、嫁ぎ先はぼたもちを頼むお店が決まっているくらい、自宅で作る家ではありませんでしたので。
嫁ぎ先はお彼岸にお線香あげに行くとぼたもちを買ってくれました。


世間では『入りおはぎに明け団子、中の中日に小豆飯(あずきめし)』といわれているとか?
…そんな言葉はネットで初めて知りました。

おはぎ、もしくはぼたもちといえばたしかにお彼岸の定番のお供物。
ちなみにどちらも、もち米とあんこを使用しますが、その違いは漢字にするとわかりやすい。
春はこしあんで牡丹餅(ぼたもち)、秋はつぶあんのおはぎ(萩)というのが一般的だとされています。
あんこの種類が違うのは、季節の花、ということもありますが、あずきの収穫時期の違いからといいます。
収穫したばかりの秋の小豆は、皮ごと食べられるのでつぶあんなのだそう。

小豆は邪気を払い、魔除けの効果があると信じられていることから、ご先祖様への供物として普及したようです。

小豆飯、明け団子にいたっては初めて聞いたくらいであります。

小豆飯とはあらかじめ煮ておいた小豆と煮汁、うるち米を一緒に炊きあげる。または、ゆでた小豆を炊きあがりのご飯に混ぜてもよいのだという。
小豆を萩の花に見立て、萩ごはんということもあるようです。
もち米に小豆やササゲを加えてせいろで蒸した赤飯とは異なるもの、のようです。

明け団子とは文字通りお彼岸の明けの日に、串についた団子を供え、食す風習なのだとか。

またご先祖様へのおもてなしの一つとして、いなり寿司や五目寿司を準備することもあるといいます。


ほおぉぉ。

ちなみに。
わが家は今年のお彼岸にいまだぼたもちを食していないくらいであります。

No.285 23/03/20 14:23
旅人さん0 

群馬県桐生市のお寺さんが密集する山手通り。
夫はそのいくつかのお寺さんにまだ行ったことがないといいます。

桐生市内の山手通りの道に沿う小高い所にある寂光院さんと、妙音寺さん。
私はこちらには二度ほど参拝させていただいております。

近くには高野山真言宗【円満寺】さん、そしてその名を近隣に知られる『桐生ゑびす請』のひらかれる【桐生西宮神社】さんがあり、そちらへは共に参拝させていただいております。

実は。
この円満寺さんの墓地の裏手に桐生が岡動物園があり、そこに『レッサーパンダ』が来たというのです。
とはいえ、コロナ禍ということもあり、何よりもおじさんとおばさんが二人で行くのもどうなのかなぁとためらわれ、なかなかそこへ行くことはありませんでした。

それでは、ということで、円満寺さんと寂光院さん、妙音寺さんに参拝し、なんならレッサーパンダも見てこよう、ということで、まずは円満寺さんへと向かいました。


山手遠くの道路からかなり運転技術を要する山道を少し登って、駐車場に停めますと、五十段近い石段を登ると、六地蔵、鐘楼堂、正面にそびえるように建つ御本堂。
そして妙見堂=北辰殿があります。

梅や桜などさまざまな木々が植えられていて、いつ行っても綺麗に整った境内であります。


と。
…あれ?

お彼岸ということで普段は閉ざされた御本堂の扉が開けられているのですが…何より!
以前は使われておらずいつも閉ざされたままであった北辰堂の戸が開けられているではないですか!

えっ?

はやる気持ちを抑えて抑えて、まずは御本堂へと向かいます。
この石段を登るのが大変な檀信徒さんのためにと、しばらく前に御本堂の横にスロープがつけられており、石段よりも楽であろうとこのスロープから登ってみました。


こちらは今からおよそ約千百年前平城天皇の御世で平安時代初期の大同年間(806-810)の開創と云われております。
しかしながら幾度も火災にあい特に明治三十一年四月二十二日の火事で妙見様(北辰殿)と鐘楼のほかは、皆焼けてしまったといい、その後の一時期は北辰殿が仮本堂になっていました。現在の本堂は、昭和四十八年(1973年)に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。




御本尊さまは虚空藏菩薩(脇仏弘法大師、脇仏不動明王さま)。
御本尊さまたちは変わらずそこに鎮座されておられます。


No.286 23/03/20 17:50
旅人さん0 

はやる気持ちを抑えつつ、長い石段を無事下りて、早足で向かったのは『北辰堂』。

北辰堂さんの正面には螺鈿で作られた『涅槃図』があります。…が。
うーん?
ここは妙見さまをお祀りになっていると伺っております。
涅槃図の前には白木のお位牌がたくさん並んでいて、お仏像は一切見当たらないのです。

ご住職さまはお一人で花を販売されたり電話対応されたりとお忙しそうです。
うーむ、今日お聞きするのは無理だな。

お花と、…杉?松?
針葉樹だけの束が売られているようです。
【高野槙】と書かれています。

ああ、高野槙、ですか。
お花を買い求めている年配の女の方たちが「これはなんだい?」とご住職さまにお聞きしていました。
耳をダンボにして聞いたことに、
〝高野槙〟はその群生地である『高野山』に由来した名称で、高野山真言宗の総本山・金剛峯寺からほど近い山中からも出荷されているのだといいます。
「真言宗を開いた弘法大師・空海さまが生花の代わりに高野槙の枝葉を供花(霊木)としたことから、仏前や墓前、神前にも使われていて、関西では有名なんですが、関東の人は、高野槙が仏花になると言っても恐らくピンと来ないでしょうね。

暑さ寒さも関係なくなかなか枯れないし、花の少ない時期にも美しい緑だし。何より水が無くなってもしばらくは緑だし、経済的にもなかなかいいものなんですよ」
とのこと。

ほう。


関西と関東は結構そうした違いがあって、関西では葬儀の際必須であるという『樒(しきみ)』も関東では知名度は低く、入手自体が困難なのだといいます。
樒は魔除けになるというのだから、もっと広がってもいいような気がするのですが、入手すらが困難なのではいたしかたありません。


…欲しかったなぁ、高野槙。

でも私、松のアレルギーがあるんですよね。高野槙なら大丈夫なのかしら。

あ、…また煩悩、物欲、でありましょうか、ね。

No.287 23/03/20 21:56
旅人さん0 

前レスで『北辰堂』と書かれていますものは『北辰殿』の間違いです。

お詫びして訂正いたします。

No.288 23/03/21 06:14
旅人さん0 

高野槙は、かつては世界中に分布していましたが、現在は北米・欧州ともに絶滅し、集団で自生しているのは日本だけなのだといいます。
愛知県新城市の甘泉寺にある高野槙が最高齢とされ、樹齢400年とも600年とも推定されているのだそうです。

水に強く丈夫で朽ちにくいため、古代より木棺や水桶、橋杭などに使われてきたといいます。また関西地区では、真言宗を開いた弘法大師・空海が生花の代わりに高野槙の枝葉を供花(霊木)としたことから、今でも仏前や墓前、神前にも使われているといいます。

たしかに、関東圏では高野槙だけでお墓に供えられている光景は見たことがありません。…というか、あまり高野槙自体を見かけることがなかったよう思うのです。

なるほど、こちらのお寺さんの宗派は『高野山真言宗』だった…。

生花と比べると華やかさには欠けますが、なんとこの高野槙、世界三大美木の一つとなっており、仏花や「祈り」の樹としてはもちろん、日々の生活を彩る観葉植物としてリビングや玄関先に飾っても良いといいます。


…うーん、やっぱり、購入してくればよかったなぁ。

No.289 23/03/21 07:11
旅人さん0 

群馬県桐生市にあります【寂光院】さんに参拝いたしました。
こちらも山手通り沿いにあり、『妙音寺』さんに隣接しています。
山の斜面にあるので、かなり急な坂を登ります。
なかなか急な斜面のため、車で境内に上がるには結構アクセルを全開で踏み込む必要がありそうです。
帰りがけに一台の車がかなりの勢いで上がってきて、坂を歩いて上がってきた人たちにかなり接近して、恐いなぁと思う光景を目にしました。(歩いていた方々はご立腹され、その車の運転手さんに意見されていました。私たちも思わず声が出たくらいでしたので、体験した方々は本当に恐かったでしょう)

境内はどちらかというと狭い感じのように,思われますが保育園が敷地内にあるためとも言えます。
境内は隣の妙音寺さんよりも高い位置にあり、円満寺さんとこのニつのお寺さんは一つの山を分け合って建っているのかなぁと思いました。

さて。
こちらのお寺さん、『桐生陣屋跡』という案内板があります。

桐生陣屋跡って、…何?

桐生市の歴史とかには当然疎い私であります。
さっそく夫に聞いたのですが、聞いている内容がすでにちんぷんかんぷん、さっぱりわからない。


なんでも『桐生陣屋』は、江戸幕府が天領である桐生を管理するために設置した陣屋、なのだといいます。

桐生は安土桃山時代の天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の後、桐生にいた由良国繁を常陸国牛久へ移し、その後桐生の地は徳川家康の所領となりました。(のですって)
徳川家の代官であった大久保長安の命を受け、桐生領に派遣された手代の大野八右衛門によってこの陣屋は築かれたといいます。
桐生領の拠点として桐生新町を造営し、新町に隣接した丘陵地に陣屋を設置したのだ、といいます。

幕府直轄領であった桐生新町は、
後に上野館林藩・徳川綱吉領、
旗本・神尾元清領、
幕府直轄領、
旗本・神尾元籌領、
出羽松山藩・酒井忠休領と変遷し他のだそうです。

安永八(1779)年、出羽国松山藩主酒井石見守忠休が五千石の加増を受け、桐生の地を領したといい、天明五(1785)陣屋の屋敷が新築され大政奉還まで出羽松山藩の上州分領であったようです。
現在、その陣屋の跡地が寂光院の境内となっているのだといいます。

No.290 23/03/21 07:57
旅人さん0 

つまりはその陣屋跡に建っている、ということはこちらの【寂光院】さんは少なくともそれ以降に開山されたもの、ということでありましょう。
なるほど 寂光院建立は明治十三(1880)年でありました。
こちらの開基は桐生市出身の新居日薩(あらいにっさつ)上人であるといいます。上人は日蓮宗管長であったといい、日薩上人の祖父らが桐生に日蓮宗寺院が一ヶ寺もない事を嘆き建立を発案したといいます。

上人は天保元年(1830年)桐生の機業家、新居惣左ヱ門の六男として生れたといいます。
明治元年、政府は神仏分離令をもって仏教弾圧に乗り出しますが(キィーっ!)その混沌とした時代に、日薩上人は明治七(1874)年に日蓮宗総本山身延山久遠寺七十三世法主となり、同十一年、日蓮宗初代の管長となられたといいます。
その後、同十九年大本山池上本門寺六十五世の貫首となり同二十一年八月二十九日五十九歳で遷化されたとのこと。
うーん、お若くして亡くなられておられるのだなぁ。

この寂光院さんの開堂供養には管長である日薩上人自ら桐生に赴き導師をつとめたといいます。
当時、上人は日蓮宗管長であったため、池上本門寺六十二世大車院日軌上人(日薩上人の師僧)を開祖とし、日薩上人は開基・二祖であったといいます。

また折しも桐生二丁目の町衆が祇園祭踊屋台を新調することになり、旧屋台を譲り受け、旧屋台の彫刻品を荘厳具などに使用したといいます。

そういえば秩父の三十三観音霊場の【少林寺】さんがやはり秩父夜祭の屋台の彫刻や金具が転用されていたなぁ。
宗派は異なりますが、日薩上人、秩父のお寺さんにおられたこともあったとか。
そんな関係からそうしたお寺さんがあることを知っておられたのかしら。

…と思い、調べてみたところ、秩父の少林寺さんの方が若干遅い時期の建立…再建となっておりました。
その屋台の見事さに、このまま失うことを惜しむ気持ちが同じだったということなのでしょうか。


No.291 23/03/21 09:21
旅人さん0 

こちらの寂光院さん、急な登り坂を登り終えた正面辺りに柱だけで屋根のある御堂に安置されている『浄行菩薩』さまがおられます。
浄行菩薩さまは人の心や身体を浄め、煩悩を断ち切ってくれる菩薩さまであるといい「なで仏」「洗い仏」とも呼ばれるといいます。
初めてこちらを訪れたとき、びしょ濡れに濡れた石仏さまを見てたいそうびっくりしたものです。
水かけをするお不動さまやお地蔵さまはおられますが、こちらは水をかけるのではなく〝洗う〟。
なので濡れ方も違います。
たわしまで置いてあります。
私達の病む所と同じ所を洗う事によって抜苦与楽を願うのだといいます。
前回までの二回には気づかなかったのですが、天井にはきれいな緑色の龍がおられました。

「どうして水をかけるの?」
訝しげな夫。
えっ、…だって水かけ不動さまとか、水かけ地蔵尊さまとかのときはそんなこと聞かないじゃない?
どうしてって…そんな聞かれて答えられるほどに修行積んでるわけないでしょう?

ニコッと笑って、ただ水をかけさせていただく妻を何か怪しいものでも見るかのような目で見て、夫はその御仏の像に手を合わせるだけでありました。

日蓮宗のお寺さんって、この辺りではあんまりないんだから、日蓮宗独自のものだとしたらわかるわけないじゃない?
郷に入れば郷に従うもんですよ。
抜苦与楽、ありがたいじゃないですか。
こんな暖かな陽気です、御仏も風邪をひかれることはないでしょう。


こちらの日蓮上人のお像はなんだかやたらと緑色で、少し怖いのですが?
何故緑?

以前はこんな色じゃあなかった気がするのですが…。



No.292 23/03/21 18:46
旅人さん0 

妻のことを怪しげに見ていた夫を見返そうと、…調べてみました、【浄行菩薩】さま。


『浄行菩薩』は日蓮宗では四大菩薩に数えられる。
『四大菩薩』とは法華経で教主釈尊の召命により大地から涌き出した本化地涌の菩薩の中でも上首唱導の師となる菩薩の事で、『上行菩薩』、『無辺行菩薩』、『浄行菩薩』、『安立行菩薩』をいう。
『本化の四菩薩』とも称し末法濁世に現れる法華経を弘通すべき仏勅を受けた菩薩とされる。

…よくわからない。

これだけ読むと浄行菩薩さまは日蓮宗独自の仏さまととれてしまうんですけれど。

困ったときの〜Google先生〜っ。

【四菩薩(しぼさつ)】とは、『四名の菩薩』の意であり、仏教の信仰・造像の対象である菩薩の組み合わせの一つである。その意味するところは宗派や依拠する経典によって異なる。…とあります。

つまり宗派でも異なるし、依拠する経典によって四菩薩はいく通りもあるってこと、ですよね。

密教における四菩薩は、密教の『胎蔵曼荼羅』では、曼荼羅の中央に位置する「中台八葉院」に表される四体の菩薩、すなわち【普賢菩薩】【文殊菩薩】【観音菩薩】【弥勒菩薩】を四菩薩と称する。
通常、四菩薩といえば、この密教における四菩薩を指す場合が多い。

天台宗系では、阿弥陀如来の脇侍として【金剛法】【金剛利】【金剛因】【金剛語】の四菩薩を安置することがある。
金剛法・金剛利・金剛因・金剛語の各菩薩は単独では造像されることのまずないものだが、密教の金剛界曼荼羅では五仏(五智如来)の一つである阿弥陀如来の東・南・北・西に上記四菩薩が配されている。

日蓮宗・法華宗では、『法華経』に登場する【上行(じょうぎょう)】【無辺行(むへんぎょう)】【浄行(じょうぎょう)】【安立行(あんりゅうぎょう)】を四菩薩(あるいは四士)と称する。

釈迦如来が説法をしていた際に大地が割れ、そこから涌き出た無数の菩薩(これを総称して地涌の菩薩と称す)の筆頭が上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩であり、これらの菩薩は釈迦亡き後の末法の世において仏法を護持するものとされている。日蓮は、世が乱れ災害が起きるのは邪教を奉ずるからだと主張し、鎌倉の街頭で法華経の教えを説いたが、自己をこうした上行菩薩になぞらえていた。


…本当だ。

本当に宗派によってこんなにも異なるんだぁ。

No.293 23/03/21 19:14
旅人さん0 

【浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)】さまは、『妙法蓮華経(法華経)』に登場する菩薩で、釈尊から末法(まっぽう)の時世に『法華経』を弘めることを付嘱(ふぞく)され命じられた「本化地涌(ほんげじゆ)の菩薩」と呼ばれる菩薩衆のひとりであります。

その呼称から、日蓮宗では古くより、衆生の身心を浄らかにする徳を有した菩薩として信奉されているといいます。
人々は、浄行菩薩の身体を洗い浄めることで、自身の汚れた六根を清浄にし、迷いの煩悩から解脱することを祈念しました。

水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩というところから、
古来、自身の悪いところ、病気、怪我などで痛む箇所を、浄行菩薩さまのご尊体を「南無妙法蓮華経」と一心に唱えながら磨くことにより治してくださり、身体の病いも、心の病いも洗い清める計り知れない功徳を授けてくださる菩薩さまであります。


…合ってたんだぁ。
本当に日蓮宗独自の仏さま、だったんだぁ。

No.294 23/03/22 09:24
旅人さん0 

【円満寺】さんで高野槙を拝見してから、万年初心者のおばさんは思い悩むことがありました。

この高野槙は空海さま、弘法大師さまが供花としたことから広まったといいます。
円満寺さんは高野山真言宗。

弘法大師空海さまが開かれた真言宗。
が、真言宗もいくつかの宗派に分かれております。
…真言宗と一言で言うことって…どうなのだろう。
どこかで違いがあって分かれたのだと思います。

この高野槙をお供えするのって…高野山真言宗限定?と思ったことからさらに抱いた疑問。

今年、弘法大師空海上人の生誕1250年目といいます。真言宗について学ぶには良い機会を得たものと考えました。


私が知る限り、思いつく限りでもでも『高野山真言宗』『真言宗豊山派』『真言宗智山派』などが挙げられます。
真言宗ってどれだけ枝分かれしているものなのでしょう。

真言宗の主な宗派は十六あり、その総大本山が十八あるため、真言宗十八本山と呼ばれているといいます。
…ほえぇ、そんなにありましたか。

代表的な宗派と本山は、次のとおりでありました。


高野山真言宗…金剛峰寺(和歌山県伊都郡)

醍醐派…醍醐寺(京都市伏見区)

東寺真言宗…教王護国寺(京都市南区)

泉涌寺派…泉涌寺(京都市東山区)

御室派…仁和寺(京都市右京区)

大覚寺派…大覚寺(京都市右京区)

善通寺派…善通寺(香川県善通寺市)

智山派…智積院(京都市東山区)

豊山派…長谷寺(奈良県桜井市)

新義真言宗…根来寺(和歌山県岩出市)


真言宗は、古義真言宗・新義真言宗・真言律宗の三つに大きく分けることができるのだといいます。
このうち古義真言宗は、空海が開いた最初の教えを重視しており、十三宗派が当てはまるといいます。


これに対し、宗派を再生しようとして高野山を追われた覚鑁(かくばん)が始祖となった宗派が、新義真言宗。
また、真言律宗は仏教の一派である律宗と真言宗が融合したものといい、このほかにも多くの派が誕生しています。


…なるほど。

No.295 23/03/22 10:37
旅人さん0 

そこでまた生まれる疑問。
『古義』派と『真義』派って?
私の知るところの智山派や豊山派はどちらに属するのだ?

【新義真言宗】は、真言宗中興の祖覚鑁(興教大師)の教学を元に、覚鑁派の僧正頼瑜に連なるものであるといいます。
高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれたのが始まりのようで、広義では、

根来寺を本山とする新義真言宗、

智積院を本山とする真言宗智山派、

長谷寺を本山とする真言宗豊山派、

室生寺を本山とする真言宗室生寺派

などを含む、といいます。

狭義では真言宗十八本山の一つで、『根来寺』を総本山とする『新義真言宗』を指すようです。

従来の真言宗(いわゆる古義真言宗)では本地身説法(真言宗最高仏である大日如来が自ら説法するとする説)を説くのに対して、
新義真言宗では加持身説法(大日如来が説法のため加持身となって教えを説くとする説)を説くことが教義上の違いである…ようです。



その歴史的背景は、平安時代、僧侶の堕落停滞による真言宗没落の危機が発生し、高野山金剛峯寺の高僧だった覚鑁が宗派建て直しの緊急策を敢行したことに発するようです。
しかし現状維持を望む保守派(本寺方・金剛峯寺方)と覚鑁派(大伝法院方)による決定的な対立が発生、その結果、覚鑁派は高野山を去り、大伝法院の荘園であった岩手荘の豊福寺に拠点を移す。根来での覚鑁の活動がここにはじまったのだといいます。

覚鑁入寂後、覚鑁派は再び大伝法院を高野山に戻したが確執は収拾せず、百四十五年後の正応元(1288)年、同派の実質的指導者であった頼瑜は門弟を連れて根来山に戻ると共に覚鑁の教義を発展させ、それまでの教義と一線を画した「新義」を打ち立て新義真言宗が確立したといいます。

ほ、ほう。

ま、前回調べたもので、追われた、などという表現にビビっておりましたおばさん、少しだけ落ちつきを取り戻し(元のレベルが低いのであまり落ちついた感はありませんが)、
とりあえず。

智山派や豊山派はこの広義における真義真言宗に属するということで。

なるほど、ねぇ。

やっぱり長い歴史の中、いろいろとあるものであります。


とはいえ、あくまでも弘法大師空海さまを宗祖とすることは変わりなく、仏教の教えもよくわかっていないおばさんとしては、ここまでわかればいいかなぁと思います。


No.296 23/03/23 03:53
旅人さん0 

【アーモンドの花】

私はいい歳をして花の名を知らない人間です。
知りたいとは常日頃思ってはいるのですがなかなか覚えられずにいます。

とはいえ、今は便利な世の中となり、スマホ一台あれば、見た花をかざしてものの数秒でその花の名を知ることができるようなっています。(必ず合っているかというと、機械の認識なので似た花を挙げることも結構な確率でありはしますが。そもそもその花が登録されていなければそうなっても不思議ではありません)

とりあえず花の写真を撮って、その場で調べ、写真にその名を記しておくようにしており、写真を見ては自分一人でクイズのようにして確認し、少しづつではありますが覚えつつあり…忘れもし…。

見上げた花。
足元に人知れず咲く花。
その名を知っていたなら、なにか人生に膨らみが持て、ゆたかな気持ちになれるよう思うのであります。


今、桜が咲きはじめました。

梅を見れば梅の花だってこんなに綺麗なのに、世の中はどうして桜の花ばかりを愛でるのだろうと憂いたりするものの、時期をずらして桜が咲き始めると心が浮き立つ…愚かなおばさんであります。
それは毎年のことで、梅は梅、桜は桜、比べることが間違っており、愛でられることなど何一つ期待せず、命のままに咲いてくれる花たちは全て愛おしい存在でありますというのに。

そういえば花桃の咲く時期でもあるなぁ。
花桃を今年も愛でに行かなくては♡


ところで。

桜の花って、それこそ何百とあるようで、それを一言で『桜』といって済ませているおばさんであります。

それでも、河津桜やソメイヨシノやヤマザクラ、大島桜くらいはわかるようになってきました、…と思っていたんですけれど、ねぇ。


眠れないまま、…ええ決してしてはならないと言われてはいるのは重々承知しているんですが、ね、ミクルさんをはじめネットをパラパラと見ていたんです。


衝撃。

私、この花を見かけたら、
「ああ、やっぱり桜の花は良いなぁ♡」と足を止めてしばしその花を愛でると思うのです。
…桜、として。


桜じゃないんだそうで。

今まで思い込みで桜と信じて過ごしていたこともあったかもしれません。


なんと!


アーモンドの花なのだそうで。


これは…。
これからもきっと区別なんてできない自信しかありませんが。
名札でも付いていれば別ですが…。


No.297 23/03/23 17:08
旅人さん0 

【三十日秘仏】という言葉に出逢いました。
初めて目にした言葉でありますが、実は他ならぬ自宅にある書籍にあったもの。本当、〝積ん読書〟ばかりなおばさんであります。

さっそく、いつものGoogle先生にお教えを乞います。
これが、ですね、「三十日ひ」と入れただけで『秘仏』という言葉が一番先頭にヒットするんです。
…もしかして、世間一般では誰もが知るようなこと?
うーむ。

でGoogle先生曰く。

『三十日秘仏とは一か月三十日に日替わりで仏菩薩を割り当てることによってその日を縁日とし、特別な御利益が得られるとされる暦のことです』
とあります。

ん?御縁日のこと、なのでしょうか。三十日分ある、ということなのですかね。
ちなみに『御縁日』とは仏さまの御縁にまつわる特別な日のことで、その日にお参りすれば特別な御利益があると昔から言い伝えられてきた日のことであるようです。

たとえば、私のように知恵をお授けいただきたい者は毎月十三日の日が御縁日の知恵を衆生にお授けくださる『虚空蔵菩薩』さまをお参りして、御利益を願う、ということだったりいたします。

三十日分、ですか。
毎日違う御仏にお護りいただき、ご縁をいただく、ということですかね。

三十日分、ですかぁ♡

…いや、だとしたら三十一日ある月はどうしたらいいというのでしょう。
…。

そ、このおばさん、こんなにも知恵もなければ考えも浅はかなんです。


三十日秘仏は実は経典に根拠は無いそうですが、旧暦で決められた仏が現在でも仏の縁日として使われているといいます。

中国の五台の頃に五祖山戒禅師が始めたと言われ、一日定光仏、二日燃灯仏、三日多宝仏などの仏を毎日供養することで罪障消滅と祖先の冥福を祈ったことが由来であるとされます。



No.298 23/03/23 17:12
旅人さん0 

『三十日秘仏』の内容


1日… 定光仏(じょうこうぶつ )
2日… 燈明仏(とうみょうぶつ)
3日… 多宝仏(たほうぶつ)
4日… 阿閦如来(あしゅくにょらい)
5 日…弥勒仏
6 日…二萬燈明仏(にまんとうみょうぶつ)
7 日…三萬燈明仏(さんまんとうみょうぶつ)
8 日…薬師如来
9日… 大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)
10 日…日月燈明仏(にちがつとうみょうぶつ)
11 日…歓喜仏(かんぎぶつ)
12日… 難勝仏(なんしょうぶつ)
13日… 虚空蔵菩薩
14日… 普賢菩薩
15 日…阿弥陀仏
16 日…陀羅尼菩薩(だらにぼさつ)
17 日…龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)
18 日…観世音菩薩
19日… 日光菩薩
20 日…月光菩薩
21日… 無盡意菩薩(むじんいぼさつ)
22日… 施無畏菩薩(せむいぼさつ)
23 日…大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)
24 日…地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
25 日…文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
26 日…薬上菩薩(やくじょうぼさつ)
27 日…盧遮那仏(るしゃなぶつ)
28 日…大日如来(だいにちにょらい)
29 日…薬王菩薩(やくおうぼさつ)
30 日…釈迦如来(しゃかにょらい)


…初めて拝見したお名前もあるくらいなんですけれど…。

No.299 23/03/23 18:25
旅人さん0 

毎日、それも三十もの仏さまを日替わりでお参りすることなどとても困難なことでありますし、お仏像として滅多にお祀りされていないような仏さまもおられます。
これは毎日のお縁日を欠かすことなく、などと欲張りすぎないようにしないと、それこそ『煩悩』であります。


また、他には十二支によって決められた縁日もあり

甲子の日…大黒天
寅の日…毘沙門天
巳の日…弁財天
庚申の日…帝釈天
午の日…稲荷明神
亥の日…摩利支天

であります。

地蔵菩薩や不動尊などは、本来の縁日以外にも、下一桁が同じ日付けに縁日を行うところもあります。


三十日秘仏は、三十日を周期として、特別な日にだけ開帳することを許された秘仏のこと、とする記述もありました。
…秘仏、と付くのです、やはりこの方がしっくりきます。

この『三十日秘仏』、特別なご利益が受けられる日として、多くの人が寺院にあつまり、境内に縁日が起こるきっかけにもなったといいます。

秘仏は、縁日など一定の期間をおいて特定の日に開帳する寺院もあれば、数年から数十年に一度のみ開帳する寺院もあります。
三十日秘仏の場合は、一カ月周期で開帳されます。

一般的には、毎月一回、
年に一回、
七年に一回、
三十三年に一回、
六十年に一回といった周期に行われるといいます。

ちなみに御開帳は、仏像のある寺院で行うことを「居開帳」、その寺院以外の場所に出張して行う御開帳を「出開帳」といい、江戸時代からは興行としても発達しました。

出開帳は今でこそあまり聞きませんが、江戸時代にはだいぶ盛んだったようで、あちこちのお寺さんでそのような記事を目にすることがあり、石碑が建てられていたりもします。

三十日秘仏とは話は逸れますが、秘仏とされる御仏は午年の御開帳が多いのです。

ああ、午年まであと三年♡

秩父三十三観音霊場が一斉に御開帳となります!
群馬県内にも六十年に一度、やはり午年の御開帳となるお寺さんがあります。


No.300 23/03/24 04:39
旅人さん0 


自分は…。
何をしたいのだろう。
何をしなくてはならないのだろう。
自分の生きている上での役割は。

などと考えると足が止まり、動けなくなってしまう。

もうそうしたことに囚われず、生きようではないか。

今したいことを、我慢する。
…我慢する理由は何か。
人の目だったり、思惑だったりするのならば、それはもうやめよう。

しなくてはならぬことなど、目の前にある。
目の前の事が片付いたとても、次から次へと湧いてくるのが今まで生きてきた人の世の常だったではないか。

とりあえず進もう。

今までの人生に悔いがあるのだから、それを悔いだけで終わらせず、バネとしろ。

他人が起因して起きた過去のつらかったことなど棄ててしまえ。
棄てることでその者との縁が切れると思えばむしろ喜ばしいことではないか。

前へ、前へ。

休むこともいい。

前へ前へ。

人生は思いのほか短いのだ。

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