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不機嫌な態度になる夫との接し方について
本当にしょうもないと分かっているんですけど
勝手に再配達の日時を変えられたとき

神社仏閣珍道中・改

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旅人さん
24/01/20 11:13(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。





No.3818310 23/06/23 06:18(スレ作成日時)

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No.1 23/06/23 20:07
旅人さん0 

速報であります。
吉報であります。
朗報であります。

私どもが大好きな大好きな群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんが、【国指定重要文化財】に指定されましたぁぁ。

本日、六月二十三日、国の文化審議会が開催され、群馬県内の寺社建築の重要文化財指定が答申されましたぁ。

桐生天満宮二棟。
本殿・幣殿・拝殿の一棟、並びに末社春日社一棟。

とても立体感ある精巧な彫刻が施されていて、それこそ何度行っても、…ではなくて参拝させていただいても、長いこと居座ってその彫刻を覗いたり、見上げたりしては感嘆しているおばさんであります。

創建当初の極彩色こそは失われていますが、その彩色をかなぐり捨てた、彫りだけの美しさ、素木の美しさがまたこの上なく良い味を醸し出しているのです。


この桐生天満宮の見事な彫刻は、桐生市黒保根町生まれの【関口文治郎有信】とそのお弟子さんの手によるもの。
関口文治郎はあの日光東照宮の彫刻で名高い左甚五郎から数えて九代目の弟子に当たる人で、桐生天満宮のほかにも、高崎市の【榛名神社】さん、埼玉県秩父市の三峰神社さん、同じく埼玉県妻沼の聖天宮さんなどの彫刻を手がけました。
妻沼の聖天宮さんは国宝指定を受けています。
その他にも桐生市の黒保根町にある栗生山の山腹にある【栗生神社】さん、同じく黒保根町の【医光寺】さんもまたこの関口文治郎が彫刻を手がけていますが、どれもため息しか出ないほど美しいものであります。


ただ、今はこれで良い味を出してはいるものの、何年か先、朽ちてくることを恐れてもおりました。
そろそろ維持するための手を加えなければいけないのではないかと、行くたびに気を病んでいるおばさんでもありました。(あ、参拝の度に、ですね 笑)

一度、「維持するための修復等の予定はないのですか」と、社務所にまで伺ってお聞きしたくらいでありました。なんならクラウドファンディングなどもお薦めしたくらい。

あぁぁ、よかったぁ♡
国の重要文化財ともなれば、きっとそういった保護活動も行われて、無事後世に残すことができるでしょう。

あぁ嬉しい♡

なんなら山中で剥き出しのままの栗生神社さんの社殿も、セットで国指定にしてはくれないかしら。

日本人はセットに弱いんですよ、国の文化審議会の委員さん♡



   (捩花)

No.2 23/06/24 11:04
旅人さん0 

…。反省。

実は。

この新しいスレの一レス目は、お読みくださっている方々への感謝の思いを綴ろうと、あれこれ文章を練っては唸り、唸ってはまた推敲するを繰り返していたのです。

こんなおバカなおばさんが書く駄文の羅列でしかないスレを開けてくださり、長々と文字制限ギリギリまで書かれたものをお読みくださる方々へ、拙いながらも御礼を申し上げる良い機会だと思ったわけであります。

が。
群馬県桐生市の大好きな桐生天満宮さんの国指定重要文化財指定に舞い上がり、つらつらと書き連ね、ぽちっと『投稿する』をクリックして満足し、一晩明けて、気づいたのです。

御礼の文から始めるつもりだったんじゃないか、と。

ああ、もう本当に情けない。


せめてもの思いは筆頭に添えさせていただくことといたしました。
が、思いを伝える文章が上手く書けなくて…。


これは…やっぱりチャットGPT導入かなぁ。

うーん。

でも、私に送られてくるメールをみていて思うことに、〝いかにも〟って感じな文章が増え。
これはやっぱりチャットGPTなんだろうな、と思うことがあります。

そこに〝私〟らしさはないのです。


やっぱり、駄文だろうと、意味不明だろうと、私の文章をこりもせずお読みくださる方には、この怪文のままでいこう!

今後もお読みくだされば幸いです。

No.3 23/06/25 22:24
旅人さん0 

NHKスペシャルを観た。

胸が抉られるような苦しさと、
自らの部屋にいながらにしていたたまれない思い、そして本当に胸が痛くなって、つらかった。

息子が何気なく部屋に来てくれて、その空気を変えてくれて、今ようやく息を吸い込んだ、気がする。

ずっと息をひそめていたのだな。


リアルな戦争の怖さを物語る記録であった。

世界に新たなる記録はもういらない。


早急に、終戦せよ!

No.4 23/06/26 00:06
旅人さん0 

何年前からか、ミクルさんの片隅をお借りして、あれこれ好き勝手なことを、もはやコンセプトもさだかでなくなった駄文を書き連ねております。

〝わたしの居場所〟を与えてくださったミクルさん、ありがとうございます。
…まぁ、拒否することもできず居座られているのではありましょうが 笑。

そしてなにより。
こんな愚かな人間の書いた駄文をお読みくださる方には、感謝しかございません。
寄り添うようにお読みくださる方もおられますことにいたりましては、どう申し上げたらよいのか、…もはや感謝の言葉すらも見当たりません。


神社・仏閣、神道や仏教に関してはいい歳をしてほとんど関わることなく過ごしてまいりましたので、冒険RPGに例えれば、手にした武器の使い方も呪文もわからない、しかもゲームセンスすらも皆無な人間が、歩き出したところから書かせていただいていました。

当の本人はもはやそんな怪しい過去を振り返るのはこわいので、読み返すこともあまりありませんが、こんな愚かな人物の書く、しかも文章力もない駄文の羅列に過ぎないスレを懲りることなく見守ってくださる方がおられますことに、感謝しかありません。
感謝してもしきれないです。

しかも回を重ね、歳を重ねて、少しずつでも何かしらの進歩でもあれば救われるのでしょうが、むしろ退化しかなく、申し訳ないことこの上ないスレであります。


いつも寄り添うようにお読みくださり、本当にありがとうございます。

これからも愚かなまま、チャットGPTでも導入しない限りは駄文でわけのわからないレスを重ねるおばさんではありますが、今後もお読みいただければと、ずうずうしくも願い祈る私であります。

No.5 23/06/26 10:10
旅人さん0 

【大師(だいし)】とは。

中国・日本において、高徳な僧に対する尊称。
朝廷から勅賜の形で贈られる事が多く、多くは諡号(本人の死後に送られる尊称、おくりな)であります。

他に天人師、善知識、大導師などとも訳されるといい、経典の用法として、釈迦を「釈迦大師」と呼ぶ例や、仏法そのものを大師と呼ぶ例があるといいます。

わが国では、貞観八(866)年に
最澄に伝教(でんぎょう)大師、
円仁(えんにん)に慈覚(じかく)大師と追諡(ついし)されたのが始まりでありました。
以後、空海の弘法大師など、近世に至るまで高徳の師に与えられました。


わが国で大師と呼ばれる十八人は「十八大師」と総称され、
その中でも
弘法(空海)・
伝教(最澄)・
慈覚(円仁)・
智証(円珍)・
慈慧(良源)・
円光(法然)
の六名は特に「六大師」と総称されます。
このうち慈慧大師・元三大師の名で知られる良源は大師号の宣下を受けていないが、平安時代後期より大師として扱われることが多いのです。


単に「大師」といった場合、特に空海(弘法大師)を指す事が多く、それに対してよく、
『大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる』といわれています。

『お大師さま』といえば通常『弘法大師』さまを指すことが多いですが、他にも上記のようにたくさん大師さまはおられます。

また太閤も同様に、関白という位を辞した者、あるいは関白を子に譲った者を指す尊称であり、豊臣秀吉のほかにも『太閤』はおりますが、太閤といえば秀吉しか思い浮かばないほどであります。
同様に黄門というと水戸光圀公を指すが如きに扱われますが、『黄門』というのは武家官位の『権中納言』の別称であり、つまりは他にも『黄門』さまはたくさんおられたのですが、黄門といえば水戸黄門、水戸光圀公を指すことがほとんどであります。

明治維新後、一時皇室の神仏分離の影響で、大師号宣下などの仏教への関与は行われないようになったのですが、修正され、明治九(1878)年に親鸞への大師号宣下が行われたことで、天皇による師号宣下が再開され、明治十六(1883)年には「大師号国師号賜与内規」が制定され、大師号は宗名公称の宗(天台宗、真言宗、浄土宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、浄土真宗、日蓮宗、融通念仏宗)の宗派の祖や中興の祖に与えられるものと定義されました。


No.6 23/06/26 15:05
旅人さん0 

国の宝とはなにか

宝とは道心なり
道心ある人を
名づけて国宝と為す

故に古人の言わく
径寸十枚、これ国宝に非ず
一隅を照らす
此れ則ち国宝なりと

・・・


【伝教大師最澄(でんぎょうだいし・さいちょう767~822)】さまが『法華経』を基調とする【日本天台宗】を開かれるに当たり、人々を幸せへ導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいという熱い想いを著述し【嵯峨天皇】に提出されたものの書の冒頭であります。

この原本は天台宗の総本山である比叡山延暦寺にあり、それを(たいへん俗物的な物言いをいたしますが)カラーコピーし、きちんと掛け軸に仕立てられたものが、桐生市黒保根町の【正円寺】さんの御本堂に飾られています。
これだけ見ても、こちらのご住職さまが心から伝教大師さまを敬愛し、天台宗の教えを大切になさっておられるかが伝わってまいります。
実際にお話をうかがっていても、言葉の端々にそういった思いがあふれておられる方でありました。


偉大な教育者でもあった伝教大師は、仏教の教えに基づいて『自ら進んで善行に努力する人、与えられた持ち場や役割を誠実に務めるリーダー(指導的人格者)』
すなわち『大乗の菩薩を育成すること』に心血をそそがれた方であられたようです。

天台宗のお寺さんに参拝いたしますと【一隅を照らす】と書かれたものが祀られていたり、あるいは壁に貼られていたりいたしますので、それを見るだけで、一目で(ああこちらは天台宗のお寺さんなのだなぁ)とわかるくらい、有名なお言葉であります。
不滅の法灯があることでも知られる比叡山でありますが、なによりこの伝教大師ののこした教えこそが、不滅のものであるのだなぁと、強く強く思えたのがこちらのご住職さまのお話であり、姿勢でありました。


国の宝である人、すなわち
『人間に生まれたことを喜び、受け継がれてきた生命を体してご先祖様や子孫を大切にし、自らも尊い人生を大切に活かそうとする人物』
『自分の持てる能力を発揮して一隅を照らす人』が集まれば、平和で明るい社会が実現するに違いありません。


私が人として尊敬いたしておりますお坊さんはいく人もおられます。
ただ、ここまでのご自分の宗派の教えを根底に道を説かれた方はおそらく初めての方であったかと思います。

こちらのご住職さまに出会えたことに感謝しかありません。



No.7 23/06/26 15:31
旅人さん0 

ちなみに。

こちらの境内にあります、わかりやすい例えで言うなら、時計台のある建物に見える…時計はないしそもそもが四面ガラス張りですので、確実に時計台でないことのですが、…そして横に長く、奥行きはあまりない建物についても、今回お聞きすることができました。

これは、『門』であり、『鐘楼』であり、人をもてなしたり、物を備蓄したりしていた建物であったといいます。
なるほど、そう言われてみれば、そうとしか見えないものでありました。
石造の寺標を建てるにあたり、昭和十二年に今のように参道のむかって左側に参道に向けて移動したのだといいます。

まぁ、ご住職さまにしても生まれた時からすでにそういう建て方で建っていた物なので、何も不思議に思うことはなかったけれど、訪れる人には不思議な建物のように思われるようで、よく聞かれてきたようでありました。

梵鐘はかの第二次世界大戦のおり、供出したまま帰っては来ず、そのまま梵鐘のないまま今を迎えているとのことでありました。

また、こちらの水屋はなんとも不思議な造りでありまして、御堂のように思えたので、今回お聞きしたところ、なんと!…御堂どころか搾った乳を集めておく場所であったのだとおっしゃる。

「壊してしまうのもなんだから、水屋に改修して使っているんですよ」と。

いやいや、そうはおっしゃるのでありますが、実際お地蔵さまを中心に両サイドに(なぜか)石造の奪衣婆さまが祀られており、やっぱりどう見ても水屋を兼ねた『御堂』にしか見えないのですが。

意味ありげにお地蔵さまの化身である閻魔大王の位置にお地蔵さまの石仏が祀られ、その両サイドに奪衣婆さま。
これに意味がないと言われましても…。まして水屋、三途の川でこそありませんが、ね。

ちょっぴり怖い水屋であったのですが、…そうですか、集乳場、でしたか。
これでだいぶ怖さは薄れ…たかどうか。

なにぶんにもこちらは上杉勢と北条勢、由良勢がせめぎ合った地とのこと。
激戦で人が大勢命を落とし、かつてはたくさんの火の玉が舞ってそれを鎮めたのが、ここ正円寺さんのご住職さまであったとか。

いやぁ、やっぱり一人で来るのは怖いかも。

No.8 23/06/26 16:01
旅人さん0 

本日は『雷の記念日』とされているのだとか。
私は大の雷嫌い。
何をもって雷記念日などを制定したのでしょうと調べてみたところ、
平安時代延長八年六月二十六日に平安京の清涼殿に落雷があり、多くの犠牲者が出た日、とされています。

その落雷によって命を落とした方々が、菅原道真公の左遷に関わっていたため、道真公の祟りと恐れられるようになったというのは有名なお話で。
また、そのとき落雷は京都中を襲うものでありましたが、ただひとつ被害がなかった場所があったといい、それが、菅原道真公の邸宅があった場所だったということも道真公の祟りとされた由縁となっているといいます。

その場所は『桑原』(クワバラ)。
今でこそそんなことをすら知らない方が多くなったこととは思うのですが、かつては雷が近くに落ちたりするとと『クワバラ、クワバラ』とおまじないを唱えていました。
なんでも「ここは菅原道真公の土地『クワバラ』なので雷を落とさないでほしい」と祈るようになったということだとか。


のちに、菅原道真公は『天満大自在天神』として祀られ、火雷神とも習合し『火雷天神』や『天満宮』『天神さま』と呼ばれていきます。

雷を操る神さまという認識から、雷避けや天変地異を防ぎ、豊穣を司る神さまとされていましたが、道真公の徳にあやかり、学問の神さまとして寺子屋などに祀られ、現在では『合格祈願』や『就職祈願』などのお参りがほとんどであります。
うーん、妬まれて職を追われた道真公でありますが…?

京から左遷先の太宰府までの長い距離を無事に旅したということから、【桐生天満宮】さんなどは『交通安全』『旅行安全』の神さまとしても崇敬してお祀りしておられます。
うーん。


道真公、いろいろ頼まれごとが多くて大変そうです。

ですが私の中での道真公は、頼まれるとそう努力され、いつしかそうしたお力もそなわり頼んだ者のため願いを叶えてくださる方のように思えてなりません。

ただ、なんでもかんでも頼むのはこれ以上はちょっと…と、安らかに眠らせてあげて欲しいなぁと思う思いもございます。

かように申してはおりますが、勝手に学問の神さまから転じて、認知症に罹らなくしてくださる神さま、認知症進行防止の神さまのように思い込んでは、お願いごとをしている私、なのであります。

雷をお鎮めくださるだけでも充分でございますが…。




No.9 23/06/28 08:18
旅人さん0 

毎月二十八日は【不動明王】さまの縁日で、お不動さまとご縁を結びやすく、願いが届きやすい日とされています。


不動明王さまは梵語で【アチャラ・ナータ】、
アチャラは『不動』、ナータは『守護者』の意味があるといい、〝動かざる尊者〟から、『不動尊』とも、大日如来の使者でもあるので『不動使者』とも呼ばれています。

明王は全て、如来や菩薩の変化(へんげ)なので、慈悲をお具えになられています。
慈悲とは単に〝やさしい〟という意味ではなく、私たちの苦しみを抜き去り、楽を与える【抜苦与楽(ばっくよらく)】が本質的な解釈であるといいます。
また真言明咒の王の意味ですので、密教を代表する尊格とされています。

密教には、ひとつの仏が【自性輪身(じしょうりんじん)】、【正法輪
身(しょうぽうりんじん)】、【教令輪身(きょうりょうりんじん)】という、三段階に変化する独自の仏身説があるといい、『輪身』とは法輪を転じる身、つまり説法をする姿をいうといいます。

『自性輪身』は【如来】、その存在自体が真理であり、悟りの世界そのもので、『正法輪身』は衆生に応じて正しい教えを説法する【菩薩】なのだといいます。
『教令輪身』は仏法に従わない救いがたい(うっ)強情な衆生を、恐ろしい姿で降伏(ごうぶく)させ、強い力で強制的に導く『折伏(しゃくぶく)』をもって強化(きょうけ)する【明王】のことだといいます。

真言宗においては、大日如来さまをご本尊とし、脇侍に不動明王さまと弘法大師さまをお祀りすることがあります。
また不動明王さまがご本尊さまをお勤めになられ、矜羯羅童子さんと制吒迦童子さんを脇侍とされることもあります。
このニ童子さんのほか、八大童子さんという眷属がおられます。また三十六大童子という眷属もおられます。

お恐いお顔をされているとよく言われるお不動さまですが、私は昔からお不動さまに惹かれておりました。

今、『握り仏』という彫りを習っております。
その入門としてお不動さまを彫らせていただくことが嬉しくて嬉しくてたまらないおばさんです。
ただ…まだ始めたばかりなので、難しいお顔を彫ることができず、お顔のないお不動さまが増えていくばかり、なのでした。

No.10 23/06/28 09:23
旅人さん0 

仏教にはたくさんの明王がいますが、その中でも不動明王は中心的な存在です。不動明王と他の四つの明王を含めて、【五大明王】と呼び、中心に不動明王を据えて、他の明王が東西南北の四方を守ります。

(中央)不動明王さま
(東)降三世明王さま
(西)大威得明王さま
(南)軍荼利明王さま
(北)金剛夜叉明王さま

この他にも、愛染明王、孔雀明王、烏枢沙摩明王などがいます。


不動明王さまの像容には、次のような実にたくさんの特徴があります。

▶手に持つ武器【剣と羂索】

不動明王さまは、右手に【剣】を握っています。この剣は、私たち衆生の邪悪な心や煩悩を断ち切ってくれます。
『九徹剣』と呼ばれる九本の炎が出ているものと、『倶利伽羅剣」という龍がまとわりつき、今にも剣先を飲み込もうとしているものがあります。

また、左手に持っている網は【羂索】と呼ばれ、私たちの中にある邪悪な心を縛り上げることにより、善き心を呼び起こさせます。

▶眼【天地眼】
不動明王の表情は常に厳しく、右目は天に向けられ、左目は地面に向けられています。【天地眼】と呼ばれているこの眼は、天地の隅々まで睨みをきかせ、私たち衆生を見守っている姿を表しています。

▶口元の牙
右牙が上を向き、左牙は外側を向いている口元も特徴です。仏さまの多くは柔らかく穏やかな表情をしていますが、不動明王は恐ろしい顔で憤怒を表現しています。救いがたい衆生を、力ずくで救おうとして、睨みをきかせながら、常に人々のことを守り続けているのです。

▶青黒い身体
不動明王の身体は青黒い色で表現されます。それは煩悩という名の泥にまみれもがく人々を救おうとしているからです。

▶髪の毛【莎髻(しゃけい)】
不動明王の髪は頭頂部で髷(まげ)を結い、この髷が七つ結ばれていることから「七莎髻」(しちしゃけい)と呼ばれます。
そしてその弁髪は左肩に垂れていますが、これは頭の上を仏の世界、髪が垂れた左肩を人々が暮らす世界とし、不動明王さまが常に人々のことを気にかけ、いつでも救うことができることを表しています。

No.11 23/06/28 09:34
旅人さん0 

▶【火焔光背】
不動明王さまは背中に火焔を背負っています。
これを『火焔光背(かえんこうはい)』と呼び、吹き出す炎はわれわれの煩悩そのもの。
その炎の中に、鳥の姿があることがあり、これは『迦桜羅(カルラ)』と呼ばれる伝説上の鳥で、毒蛇や悪龍ですら食べ尽くすとされています。
この迦桜羅が、人々にとっての毒である煩悩や欲望を燃やし尽くしてくれるのです。

▶大盤石と瑟瑟座(しつしつざ)
不動明王さまは足を組んで、大磐石という大きな岩、あるいは、石材を井桁に組んだ(瑟瑟座)という台の上に座って、あるいは立っておられます。
これは、常に心に迷いがない「不動」の状態を、またすべての人を救うまではその場を動かないという決意を表しているとも言われています。


不動明王さまの御利益は多く、現世利益が得られる仏として知られています。
現世利益とは、生きている間に得られるよいことを意味します。

◎煩悩退散
不動明王に祈願することで、煩悩を断ち切ることができ、悪しき心を燃やし尽くしてくださるといわれています。

◎厄除け
不動明王の剣は、あらゆる邪悪なものを打ち砕くことができることから、厄除けに効果があるとされています。

◎学業成就

◎身上安全

◎立身出世

◎商売繁盛

◎修行者守護
不動明王は仏道を修行する者を常に守護し、障害となるものを滅ぼすとされています。

◎健康祈願

◎戦勝
戦国時代に武将のなかでは、不動明王に祈願し勝利をおさめたという者がいたことから、戦勝のご利益があるとされています。

◎国家安泰


などが挙げられます。

No.12 23/06/28 13:57
旅人さん0 

「人は生きている限り【煩悩】から逃れることはできません。

毎日うまくいかない事も多々ある。
煩悩は人間の心身の苦しみを生み出す原因で、肉体や心の欲望、他者への怒りなど、それこそたくさんあって、でも逃れることは無理なのです。
自分でそれをどう受け入れるかで楽になるしかないのです」


今日の、はねたき道了尊の法要での群馬県みどり市ので光榮寺さんのご住職さまの法話のほんの一部です。


そう…かあ。
妙に心に刺さりました。

…まぁ、他ならぬ『煩悩のかたまりおばさん』、ですからね。
かたまりが他の方より多かったり大きかったり、ですから。
だからこそ余計に生きづらい。
そしてそこからまた産まれる煩悩。

で、その煩悩は生きている限り無くならないという。


『受け入れて、なんとか納得して生きていく』

目の前には、そんなお話をなさるご住職さま、そしてはねたき道了尊さまの石像。

はねたき道了尊さまは烏天狗のお顔をされています。
右手にお持ちなのは杖のように長いねじれた木、そして心のねじれた心に宿ろうとする悪鬼を踏みつけ、悪鬼を懲らしめるため左手に綱をお持ちになっておられます。

すでに大人の私のねじ曲がった心も直りますか?、と心の中で問いかけ、そして問いかけるだけでなく図々しく、(治してやってください)とお願いをし。

大人も大人、孫もいるおばさんです。
…孫がいたらおばさんではなくて〝おばあさん〟ですが、そこも煩悩おばさんなので 笑。

一説によると煩悩の数はもっともっと多いとかなんとか…。
そしたらこのおば(か)さん、間違いなく、百八超えの煩悩の持ち主であります。

【受け入れて納得していく】

…受け入れてキャパオーバーしたら脳から溢れて少しは消えていくかしら。











No.13 23/06/28 15:52
旅人さん0 

『煩悩』について調べるともなくボーッとネットをながめていると、「しんどいを作る三大煩悩」と書かれたものを見つけ、手を止めました。

それは【貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」】だといいます。
仏教ではそれを三毒といい代表的な煩悩だと続きます。

…あれ?
これ…、これ私、毎日声に出して読んでいる!

般若心経を御唱えする前に、最初に唱える『懺悔文(ざんげもん)』にある一節、
『皆由無始貪瞋痴』だ。


『貪』は欲望のこと。
『瞋』は怒り。嫉妬もまた『瞋』だといいます。
『痴』は愚かである状態。『無明』、と言ったりもするのだといいます。

あれ?『無明』は般若心経そのものに出てくる。

…まぁ、煩悩という言葉自体が仏教の言葉なので、当たり前といえばそうなのですが、でも毎日毎日お唱えしていた言葉こそが、三大煩悩、だったなんて、…お経ってすごくないですか?
というか、懺悔文自体はお経を唱える前置き(?)、なんですけど。


今日の光榮寺さんのご住職さまのお話と合わせると、この煩悩が自分たちのしんどさを生み出す原因になるので、それを受け入れて納得していくということ、ですよね。


この三大煩悩、ああ、たしかに私の中に大きく蔓延ってるものであります。

まぁ、懺悔文は、仏の御教えを知らなかった頃犯した罪を懺悔している、という内容で、私がこれを読み上げるのは〝嘘つき〟ということになるのでは?と毎日思いながらも、読経前の決まりみたいだから…と読み上げさせていただいているのですが。

だって私、貪瞋痴真っ只中、ですもの。
昔造った諸々の悪業(あくごう)は貪瞋痴によるものなのはたしかだろうけれど、今も貪瞋痴に振り回されて人に迷惑をかけて生きていますもの。

わかったなら直せ、というのが仏さまの御教えでありましょうが、愚か度が高くて、なかなか…。


そうですかぁ。
三大煩悩、三悪ですか。
どうりで日々しんどいわけです。



(セイヨウキンシバイ)

No.14 23/06/28 17:17
旅人さん0 

今日のはねたき道了尊さまの月祭はじつに豪華で、副住職さまからも法話がありました。

弘法大師さまがお生まれになってから1250年が経ち、そのお大師さまのお誕生日が六月の十五日であったことから弘法大師さま伝説についてお話くださいました。


全国にいくつもある弘法大師さまの伝説の中、地元みどり市の【袈裟丸山】の山名の由来についてでありました。

赤城山群馬県側のみどり市東町に次のような伝説があります。

『弘法大師さまが赤城山を開山しようとしたところ、赤城山の山神さまは仏教の地となることを嫌い、一つ谷を隠して九百九十九谷しか現わさないようにしたといいます。
こうして赤城山は開山に必要な千谷に満たなかったこととなります。
大師は残りの一谷を探して袈裟丸山まで来ましたが、ここでも見付けることができず、大師は着ていた袈裟を丸め山に投げ付けて開山を諦めて帰られた』、というものです。

このお話を聞いて、偉大で賢明な弘法大師さまが、頭にきて袈裟を脱ぎ丸めて山に投げつけて帰られたというところが、なんとも可愛らしくて、お大師さまをますます好きになったとおっしゃっていました。

…山の神さまもとても可愛らしくないですか?

この袈裟丸山には寝釈迦の像があるといいます。
あるといいます、という表現からおわかりでしょうが、この寝釈迦、車では行けない所にあり、しかもなかなかプチ登山なようで。
「これ以上歳をとったらもう行けない気がするんだけど!」
と夫に訴えてはみたものの、悪い冗談でも聞いたかのように「無理だね」と一言。

じゃあ一人で、とも思いもするのですが、遭難の危険もなくはないようなお山だとか。
しかも今年はクマの目撃情報が連日送信されてまいります。
…無理かぁ。

そんなたいそうな山のどこかに、けっこう大きそうな寝釈迦さま、ですよ?造られた方は凄いなぁ。

お大師さまと山の神さまが守ってくださるから大丈夫じゃない?
…ま、そうあっても、無理だろなぁ。一人はだめだ。
やれやれ。


No.15 23/06/28 18:05
旅人さん0 

雷怖いから、くわばらくわばらって言ってみようかと思うけど怖すぎて言えない。

No.16 23/06/30 13:55
旅人さん0 

今日は夏越の大祓。

茅の輪の設置された神社さんに伺って、少しでも多く私の穢れを取り除いていただこうと思いもしたのですが…。
やはり、まずはいつも参拝させていただいている神社におられる神さまに御礼申し上げることが何より大切かと思い、いつもの神社さんへと向かいました。

やはりいつもうかがう神社さんには茅の輪はありませんでしたが、雨が降って、私の穢れを洗い流してくださったかなぁと…。

明日は一日。
いつも夫の休みの日が当たったときは、早朝夫が起きる前にお参りさせていただいております。

一緒に行ければ一番良いのですが、夫が何か予定でも立てているとお参り自体ができなくなってしまうので


No.17 23/07/01 03:44
旅人さん0 

今NHKで番組を変更して、九州地方の大雨情報を報道しております。
記録的短時間大雨情報です。

危険度が急激に増しているとのことで、今まさにレベル5となり、緊急安全確保が発表されているところもあるようです。
1時間に100ミリを超える雨な上、満潮の時間を迎えるとか。


よりにもよってこんな時刻に…。

どうかくれぐれもお気をつけて、少しでも安全な場所で命を守ってください。






No.18 23/07/01 15:07
旅人さん0 

先月重要文化財指定が答申されました、群馬県桐生市の「桐生天満宮」さんに参拝いたしました。

?!
駐車場に車がいっぱい、なんですけど。
ま、まさか国指定の重要文化財になったから?!

「骨董市なんじゃない?」と夫。
えええっ、聞いてないけど。
…そもそも、毎日参拝している人間でもない者に誰が、どういったルートをもって伝えるというのでしょう。

そ、そうかあ、一日詣りの日であっても第一土曜日、定例の『古民具骨董市』はやるんだぁ。

それにしても。

なんという…。

秩序も何もあったもんじゃない出店で、駐車スペースなんて当たり前で、参道の上だろうが、境内社の鳥居の中も中、拝殿の真ん前にさえ店開きされています。(あとでよくよく見ると境内社さんは物置にすらされていました)

裏手にある駐車場にすら出店があり、昨日夏越の大祓で
「怒りっぽいところ、ねじれた心根を直す努力をしてまいります」と、今年の今後の抱負を申し上げたばかりだというのに、プンスカプンスカ💢。
それでも一台出て、さほど待つことなく境内に入ることができました。

静まりたまえぇと、自らに念じて 笑。

落ち着いたかと思った瞬間、手水舎を占拠した出店者が目に飛び込んでまいりました。

神社さんはこれを知っているの?
こんな無秩序でいいの?!

オーマイゴッド!!


それでもさすがに神門の中はとりあえず出店してはいないようです。



No.19 23/07/02 06:52
旅人さん0 

境内のいつもとはまるで違った光景、まるで違った雰囲気の中であっても、一日詣りの方はひっきりなく訪れていました。
どなたも私のように心乱すことも無い様子で、手を合わせておられました。
うーん、未熟者だな。

それでも神前で手を合わせると、スッと辺りの様子が気になることがなくなりました。

参拝を終え、あいにくの雨ではありましたが、【桐生天満宮】さんのみごとな彫刻を見させていただくことに。

付け焼き刃で調べた、彫刻の内容を夫に伝えつつ、二人であれこれ語り合っておりますと、…本殿の裏手にあります、同じく今回国の重要文化財に指定された【春日社】の前で、春日社について説明をされておられる方がおられました。

おや?
赤い帽子を被って、首から名札をおつけになられています。
『桐生案内人の会』とあります。

耳を傾けて…そおっと盗聴しておりますと、ダンボの耳をしたおばさんにお気づきになられたご様子です。
ああ、いけない、いけないっ!

よくよく考えたら、もしかしたら有償でこの案内をお願いされたお客さまへの解説をなさっていたのかもしれません。

聴きたい気持ちを封印して、囲いの中の本殿を拝観させていただいておりますと…。
先ほどの案内人の会の方がお声をかけてくださいました。

「あのぉ〜、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
出ました!
相変わらず図々しいおばさんです。

「こちらの神社さんは岩の上に建つと伺ったのですが、よくわからなくて…」と私。
「ああ、それは。ここから覗いていただくと岩が見えると思いますよ」
と、その、岩の上に建つ様子がわかるゾーンをお教えくださいました。

「それから、その岩の先、左側に大きく尖った岩があるのが見えるかと思うのですが、あれは鬼門の方角に立てたと言われているんですよ。一説によると、なんですがね」

おおっ♡

なるほど、背伸びし教えていただいた場所から覗いてみますと、さまざまな岩が組まれた土台の上に建てられているのがわかりました。


私は〝岩の上〟という言葉から、埼玉県秩父市にある【岩之上堂】さんのような、大岩を想像してしまっていたのですが、こちらは岩を組んで造った土台の上に建てられていたようでした。

No.20 23/07/02 14:20
旅人さん0 

桐生天満宮は桐生市民に篤く信仰されてきた神社さんであります。
『重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)』の【桐生新町】の北端に位置しています。

もともとの起源は、第十二代の景行天皇の時代に、『上毛野国造』が【天穂日命】さまを奉斎した【磯部明神】であり、その後文治三(1187)年から当地を支配した【桐生氏】が代々の守護神として崇敬し、観応年間(1350年頃)に、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して『桐生天満宮』と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められました。

その後、天正九(1581)年に【徳川家康】公が東征の折りに、徳川家代々の祈願所として朱印地を賜わります。
天正十九(1591)年には、【桐生新町】の宿頭として整備され、境内地や社殿は壮大なものとなります。
慶長五(1600)年の『関ケ原合戦』には、【軍旗】に用いる旗絹を当宮の御神前に供えて戦勝祈願し、
その勝利凱旋を吉例として境内には織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となります。


今回、国指定重要文化財に認定された『本殿・幣殿』は安永七年(1778)年に起工し、約十五年の歳月を経て完成しています。

注目すべきは壁面の見事な彫刻で、
中国より伝わる【二十四孝】、【唐子遊び】といった物語、『伝説の動物』と、神社彫刻で有名な題材を精緻で濃密な彫刻や彩色で埋め尽くされている点、
さらにはその彫刻が土台や柱まで広範囲に及んでいるのが特徴であるといわれています。

この彫刻は桐生市黒保根町生まれの名彫刻師、関口文治郎氏が彫物棟梁を務め、神社建築装飾の発達と高い技術力を示していると評価されています。

創建当初の極彩色こそ失われてしまってはおりますが、少し前に述べた通り、それによって、むしろより彫刻の技術の素晴らしさが際立ったものとなってもいます。

また、【岩の上の天神】と称されるように、本殿・幣殿は岩の上に建ち、社殿すべてが当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物として、今回国の重要文化財指定とされた所以のようであります。


一説によるとこの彫刻群の中には、左甚五郎の彫った猫がはめ込まれていると伝わるようですが、時代的考証からは疑問視されるものでもあるとのことでありました。

かつてはめ込まれている彫刻の一部が盗難の被害に遭い、それはおばさんの目でもわかるくらいにすっぽり抜き取られています。





No.21 23/07/02 18:03
旅人さん0 

『重要伝統的建造物群保存地区』と呼ばれる地区は正確には『桐生新町伝統的建造物群保存地区』というようです。
長い名称であることもあり、もっぱら『重伝建』と呼ばれていますが。

なんでもこの『重伝建』、桐生市本町一、二丁目という区分の地域には江戸初期に創設された『桐生新町』の敷地割りが残っているとのことで、江戸末期から昭和初期までの織物産業の繁栄を象徴する土蔵や町屋、長屋、煉瓦倉庫、長屋門、井戸、屋形、祠、板塀など様々な歴史的建造物がところどころに残されています。


ここでよく出てくる【桐生新町】。実は【徳川家康】公の命を受けた代官 『大久保長安』の手代 『大野八右衛門』により。流通の拠点としてつくられたものといいます。

かつて『桐生氏』や『由良氏』の領地であった辺りは流通には不便であるということから、天正十九(1591)年から慶長十一(1606)年までの十五年かけて新しい町、桐生新町を作ることとなった、と言われます。
初めは本町一丁目から三丁目までが、その後四丁目から六丁目までが整えられたといいます。

『桐生新町』の町立ては、旧桐生領総鎮守天満宮を遷座し、そこを基点として,南に向かって一直線の道(現:本町通り)が引かれ、間口6~7間,奥行き約40間の敷地割りが行われました。
この保存地区は、歴史を経て形成されてきた建造物や環境が良好に残され、特に町の骨格は江戸初期以来のものが踏襲され大きな変化を受けていないのだといいます。

で。

ここで出てくる天満宮、〝旧〟という字が使われていることからも分かりますが、この桐生新町の町立てをしたのは、繰り返しになりますが天正十九(1591)年から慶長十一(1606)年までのこと。
そして現在の【桐生天満宮】は『本殿・幣殿』は安永七年(1778)年に起工しされています。

つまり、この桐生新町における天満宮は現在のものではなかったということ、であります。

この桐生新町を作るにあたって、本町六丁目にあります【浄運寺】さんなどはこの新町の北を護るためにと、慶長年間に市内の別所から誘致されています。


それから遅れること百七十年ほど経ってから桐生天満宮は起工されますから、新町が作られたときは今ある社殿ではなかった、ということであります。








No.22 23/07/02 22:24
旅人さん0 

この桐生天満宮さん。
実は地元の人たちの浄財でできているものだといいます。
町づくりまでしているし、あまりにも贅を尽くした彫物がなされているため、てっきり徳川幕府によるものなのかと思っておりました。

今でいうクラウドファンディングのようなものだったのか、画工『狩野益広の描いた『天満宮本社幣殿拝殿妻之図』と呼ばれる完成予定図を広く知らしめ、寄進を仰いだようです。

ところが今の社殿、そのいわゆる完成予定図とは異なるもの。
実は本殿、幣殿は寛政元(1789)年、拝殿は1802年享和ニ(1802)年に建立されており、その間に何かあったかでもしたのか、本来予定図では拝殿にも豪華絢爛な彫刻が施されるわけであったものができなかったようで。

資金面であったか、あるいは…。


とはいえ拝殿内には、建設当時の色彩を残す彫刻を見ることができます。
社殿外側の彫刻と違い室内なので外気にさらされず、保存状態が良いために鮮やかな色が残っているのです。
拝殿内正面に施された龍の彫刻は「貴龍」といい、「桐生」の語源になったとも伝えられています。
その躍動感は今にも動き出しそうなほどでありました。

拝殿で見ることができるのは彫刻だけではありません。
近世の流通経済を知る貴重な史料として多くの文献に取り上げられる、絹織物の市を描いた『紗綾市之図』。約180cm×270cmもある大きな絵馬で、明治二十七年の御開帳の際に奉納されたものだといいます。
ちなみにこの『紗綾市之図』の作者・大出東皐(おおいでとうこう)は、桐生天満宮の十六代目宮司・前原互瀬(まえはらこうらい)のお弟子さんなのだとか。

さらには師匠である前原互瀬の描いた流鏑馬の大絵馬も拝殿内に飾られています。併せて拝見することができます。

こちらは昇殿しないと拝見することはかないません。


それにしても。
神社さんでも御開帳があるんだぁ。
どうやら最後の御開帳が昭和三十六(1961)年だったようで、私もまだ生まれてすらおらず。

神社さんでは秘仏さまなどがあるわけでもないだろうし、御神体を人目に晒すはずもなく。なにをもって御開帳とするのだろう…気になるおばさんであります。

No.23 23/07/03 04:44
旅人さん0 

以前、桐生市を訪れた際、たまたま手に入れた『桐生天満宮の彫刻』というリーフレットがありました。

この日そのリーフレットを持つことなく訪れてしまったのですが、ほんの小さなリーフレットなのに、写真も内容も素晴らしいもので♡
…ただ惜しいかな、印刷した用紙が茶色みがかったもので、…いや決して質が悪いというほどのものではないのですが、写真の印刷には少しだけ惜しいもの、ではありましたが。
むしろ無料でこれだけのものをいただき、ありがとうございますのレベルであることは間違いないです。


そんなリーフレットに、いくつかクイズがありました。
その一つが、例の〝一説によると〟の猫の彫り物がどこにあるか?でありました。
…この猫が見つからない💦

何度見ても見つけられず、今回夫と来られたので、視点が変われば、…人が変われば見つけられるものかと期待して参りました。

他にも二つクイズがあったのですが、そちらには私が興味があまりなかったので記憶すら無くなっており、ひたすら猫を探して、探して。

…無い。

リーフレットさえ持ってくれば〝ヒント〟が書かれていたものを…。相変わらずマヌケな珍道中おばさんでありました。


💡…この桐生案内人の会の方ならばご存知に違いない!
姑息ではありますが、この方々にお会いできるチャンスなど滅多にないこと!
で、姑息なおばさんはお聞きしました。
「猫の彫刻があると知って、何度も探しているのですが見つからず、今回夫とくれば視点が変わって見つかるかも、と思ってやって来たのですが、やはり見つからなくて、ご存じでしたらお教えくださいますか?」

「ああ、あれは少しわかりづらいんです。写真を撮ることは出来ますか?」
?「は、はい」

「ここ、なんですが…」

「この下の方にあるんですけど、人によってはこの囲いのせいで見えないんです」


…。
どおりで。

私の身長では背伸びしても見えないところにありました。
なので写真で確認するしか無いのだと。
肉眼で見るには台持参で来るしかない…。

スッと覗いて「ああっ♡」
とか言っている夫の憎たらしいこと。(←心の中での八つ当たり)
写真撮ろうにも見えない人間では玉砂利を撮ることにだってなりかねません。

夫は百八十センチ。
私は百五十八センチ。

あ〜っ悔しい!

No.24 23/07/03 15:20
旅人さん0 

この猫の彫刻こそが、あの日光東照宮の眠り猫の作者左甚五郎さんが彫ったもの、と伝えられるともいうものなのだそうです。
…あくまでもそう伝承される説がある、というレベルなものだといいますが。

写真で見るこの猫の彫刻、例のリーフレットでは『眠っていない(?)猫』と称されていました。
残念なことにこの猫の彫刻、木自体がかなり劣化してしまっており、一部などは剥落してしまっていました。
土台に近い、下の方にはめられていたため、湿気を受けたり、虫の被害も受けやすかったのかもしれません。

とにかく彫り物の多い神社さんですので、それこそ『日暮らしの門』ならぬ『日暮らしの天満宮』といえる、のかもしれません。

東照宮の日暮らしの門『陽明門』にもある龍馬(りゅうば)もほられておりますが、龍の彫刻がかなり多いのが桐生天満宮の本殿であります。
そこはやはり桐生という土地、地名からのものでありましょうか。
本来なら龍は上の方に彫られていることが多いといい、というのも、龍は水を操るため火災から護るというまじないもあるとのこと。

そういった彫刻にも霊獣にもまるで詳しくはない珍道中ペアは(主に妻が)「あれは白澤(はくたく)かしら?」
「あれは麒麟かな」
「あ、あそこは鯉の滝登りだね」
などとまさに時を忘れたかのごとくにその彫刻を愛でておりました。

唐獅子もかなり高い位置、屋根に近い位置から下を見下ろし、この聖域に何事かあればすぐにでも駆け降りてきそうな躍動感あるものもありましたし、その足元には梅の花が一枝咲いていたり。

そうそう、牛も多く彫られているのはやはり天満宮だから、でしょうか。
鳥も多く彫られています。

こちらの特徴として挙げられるのは柱などの細部にまで彫刻が施されていることだといいます。
あの東照宮の陽明門で有名な『魔除けの逆柱』と同じ模様、『グリ紋』と呼ばれる渦巻き状の地紋が彫られています。
まぁ、桐生天満宮さんはさすがに逆柱にまではしていないのでしょうが、ね。




No.25 23/07/03 15:43
旅人さん0 

『二十四孝』という中国の親孝行に関わる物語を題材とした彫物は、他の神社さんでも実に多く見られるものです。
とはいえ、私がパッと見てすぐわかるのは『孟宗』という、竹林で喜んでいる人物が描かれているものと『唐夫人』というものくらいですが…。

この「孟宗』も『唐夫人』も、天満宮さんの本殿の中段にありました。

この彫り物を見て、「これはこういう物語なんだよ」…なんて言える人になれたらいいと思ってはいるのですが、なかなか道は遠く険しいものです。

ちなみに桐生天満宮さんの本殿の側面の胴羽目の二十四孝の彫刻は二枚あって、本殿右側面の胴羽目の彫刻は

【二十四孝 大舜】
大舜の母親は早く亡くなり、義母は義弟を可愛がり、大舜に辛く当たった。大舜は自分を愛さない義母や父のために不平も言わず一生懸命に働いた。その徳によって、大舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、農作業を助けたという。時の皇帝である堯王は大舜の孝行に感心し、娘を娶らせ、後に皇帝の座を大舜に譲ったという。

【二十四孝 楊香】
ある日のこと、楊香は父と一緒に山へ薪を取りにいきました。すると、虎が出てきて父を食べようとしました。それを見た楊香は自分の身の危険もかえりみず、急いで虎の首に両手で飛びかかりました。虎は楊香の捨て身にの行動に驚いて逃去り、父は虎に食われることなく、助かったという。

といったもの。


左面の胴羽目は
【二十四孝 老莱子】
老莱子という親孝行な人がいました。我が子が年を取った姿を見れば両親は寂しかろうと、老莱子は既に70才になっても、子供が着るような色鮮やかな服を着たり、水運びの途中にわざとつまずき転んで子供のような仕草をしました。その天真爛漫な姿に両親も年を忘れ笑いが絶えなかったといいます。
【二十四孝 唐夫人】
唐夫人は、姑の長孫夫人によく仕え、姑の髪を毎朝整え、歯が無い姑のために自分の乳を与えるなどして尽くしました。ある時、姑は死期を悟り、一族を集めて「唐夫人の恩に報いることができず、今死のうとしているのが心残りだ。唐夫人孝行を真似れば、必ず繁栄するでしょう」と言いました。この話は「乳姑不怠」として知られるようになり、姑に孝行なのは珍しいと、皆褒め称えたと言います。

…ちなみに初めてこの内容を知ったとき鳥肌が立つくらいに「無理」と思った私です。

No.26 23/07/03 17:58
旅人さん0 

背面の胴羽目は三枚あります。

背面の胴羽目、向かって左側は
【二十四孝 郭巨】
郭巨は貧困のため母と子供を養えなくなり、悩んだすえに「子供は再び得られるが、母は再び得られないのだから、子供を捨てる」と決心し、妻にそう告白した。夫の悩む姿を見続けていた妻も頷きました。郭巨が子供を埋める穴を掘ると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨に天から与える。役人も他人も盗ってはいけない」と書かれた札が入っていました。郭巨は黄金の釜を売り、子供を養いながら更に母に孝行しました。


背面中央の胴羽目、
【二十四孝 孟宗】
中国三国時代、呉国に孟宗という親孝行の息子がいました。幼い頃に父を亡くし、高齢の母は重い病にかかっていました。彼は医者から母に新鮮な筍のスープを作るようにと言われました。時は冬、筍は春にならないと生えてきません。なす術もなく竹林に入った彼は、竹にすがって泣き出しました。すると大地が揺れ始め、地面がひび割れたかと思うと、数本の筍が生えてきました。大喜びした孟宗は筍を家に持ち帰り、筍のスープを母に飲ませまると、母の病気が治ったといいます。


背面の胴羽目向かって右側
【二十四孝 漢文帝】
漢文帝は、初代皇帝である高祖劉邦の皇子で、幼名を恒といい、母親に孝行でした。恒は自ら毒味をした上で母に食事を運んでいたといいます。兄弟も多くいましたが、彼ほど仁義に厚く孝行な皇子はなく、そのため臣下の者たちは彼を皇帝として推薦しました。皇帝となった彼は漢文帝を名のり、孝行の道を知る彼の治世は、豊かで民衆も住みやすい時代になったといいます。


何故この【二十四孝】が画として選ばれているかというと、一説に江戸時代に寺子屋教育の教材として使われたというものもあるのだとか。
まぁいずれにしても親孝行を勧めるためにあるのだとは思うのですが…。


今現代の感覚からいうと、正直明らかにおかしいものが多いです。
【老萊市(ろうらいし)】など、歳をとった自分の姿を見て親が悲しむのを避けるために子供の服を着て子供のように遊ぶ姿を見せるって…いやいや、余計に嘆くでしょう。お笑いのネタならいざ知らず。

まぁ、時代も、ましてや国も異なりますからね。
でも…いくら時代が異なるとはいえ、江戸の時代の人たちって、これを親孝行って思えたのかなぁ。




No.27 23/07/03 18:33
旅人さん0 

柱にまでこだわって彫刻を施した【桐生天満宮】さんの本殿・幣殿は胴羽目だけでなく、腰羽目、幣殿なども力を入れて彫刻しています。

腰羽目は唐子遊びが何枚か。
本殿の背面は、
【鬼ごっこ】、
【花車】=草花を大八車に乗せ、町中を巡っているもの。
【獅子舞】、
左側の側面の腰羽目には
【双六】
が描かれています。

この唐子遊びはやはり日光東照宮の陽明門にも施されていますが、これには平和への願いが込められているとされます。
子どもたちがのびのびと遊ぶことのできる世界こそが平和な世界であり、そして次の平和な世界を築くのも子どもたちである、と。

No.28 23/07/03 21:19
旅人さん0 

いつまでもウロウロと本殿の周りにいる私どもに、桐生案内人の会の方が声をおかけくださいました。

「ぜひ見ていっていただきたいところがあるのですが」
おおっ✨

「太鼓橋と鳥居の間くらいに末社があるのはご存じですか?『機神神社』という…」
はい。
「実はあの建物の中にお社があるんですよ」
「ええっ?」

「横から覗けるのでぜひ覗いてみてください。こんな(…と写真をお見せになりながら)立派なお社があるんです」
おおっ。

所狭しとまでに広げられた古民具の出店のあいだを縫うように歩いて機神神社のところへ。

窓から覗いてみるとそこには。

…覗けない。
また私の背の高さではよく覗けないのです。
しかしながらスマホを使って覗き見ると…。

おおっ✨

小さなお社ではありました。
が、天満宮の社殿に負けないくらいの立派な彫刻の施された素晴らしいものでした。
…なんですけれど!

例の古民具骨董市の人が鳥居の中にお店を広げ、拝殿の真ん前で商いをしているのですよ。
しかも軒下は物置き状態です。

きーっ!
ありえない!


それからもう一つ、桐生案内人の会の方が教えてくださったこと。
「石でできたベンチが置かれているんですが、あれ、初代の太鼓橋を再利用したものなんですよ。ぜひ見ていってください」

なるほど、石でできたベンチはいくつもあって、そう言われてみれば確かにいろいろな形をしていて一つとして同じ形のものはないのです。
それでも太鼓橋を使ったんだなぁとすぐにわかるものは一つくらいではありましたか。


すごいなぁ、案内人の方々。
たくさんのお話でたちまち桐生天満宮を宝にしてしまいました。
こんな案内ができるなんてすごいなぁ。

年配の案内人の方がスカウトしてくださいましたが、もう何年も前から神社仏閣をまわせていただいているというのに、ちっとも覚えるということができない脳みその持ち主には、到底人さまに説明して質問に答えられるだけの情報を頭に入れることなど不可能なので。


そういえば…。
他の方には必ず説明されていた春日社について、私たちには何も語らなかったなぁ。

No.29 23/07/04 06:13
旅人さん0 

『末社春日社は、本殿の後方に南面して建つもので、一間社流造りの小規模な社殿である。
社殿は、身舎、庇の軒桁や垂木に見られる反り増しをはじめ、要所に用いられている彫刻の装飾に、室町時代後期の建物の特徴をよく残している。一部に菊と唐草・流れに紅葉などの文様が描かれてあり、各部には彩色が施されていた痕跡が見られるが、ほとんどは不明である。
県内における類似する建物としては、板倉町の雷電社末社稲荷社社殿があり、象鼻彫刻が発生した早期の建築と考えられる。
このことから、建築年代は天正(1573)年から慶長(1615)年間と推定され、現存する桐生市内の建造物としては、最古のものであるとともに、当地方における古建築の遺例として貴重である。』

(桐生天満宮 公式ホームページより)


実はこちらも見事な彫刻が施されたものであります。

ただ、残念なことに経年劣化もあり、そして経年の劣化によるものなのか悪戯や悪意なのか、正面の扉に施された彫刻は一部剥落してしまっています。
それはよく見ると藤の下に鹿がいる構図のようです。
その左右の鹿の上半身のみが、ない。
もしかしたら…と思わずにはいられない剥落です。

その扉の横には龍の巻きついた倶利伽羅剣が施されています。こちらはしっかりと残っています。
実に精巧で、龍の表情も大変こだわりのある作りです。
左の剣は蓮花、右は岩座(?)の上に立っていてとても洒落ています。


こちらの春日社さんも今回国指定重要文化財となったのですが、今までは桐生市指定の文化財にとどまっておりました。
前回の県の指定文化財からは漏れていたようです。
文化財指定されたから良いもの、そうでないから大したものではないものということは決してありません。
良いものは良いし、個人的に好きなものとかは各々の心にあるものであります。
しかしながら、国指定の文化財ともなればある程度はその維持、保存に対する資金が得られるのかもしれないと、おばさんは思うわけで。
この素晴らしいものがこのまま朽ちていくのはあまりにももったいないと、是非後世に残したいものだと思っていたものでありまして。

ただ…機神神社さんのように覆屋ですっぽり覆われてしまうと、その素晴らしさはほぼ封印されてしまいますし…。
難しいところではあります。

No.30 23/07/04 17:44
旅人さん0 

このあとさらに、埋まってしまっている〝力石〟な場所までご案内くださって。

少しだけ夏越の大祓について雑談をいたしました。

「こちらは夏越の大祓では茅の輪を作らないけど、年越のはあるんだっけ?」
私「あ、あります、今年ありました」
私「穢れが多いので本当は茅の輪をくぐりたかったんですが、この辺りで夏越の大祓で茅の輪をお作りになる神社さんがわからなくて、できなかったんですよ」
と申しますと、
「あれ?常祇稲荷さん作ってあったけど」

ああぁ、そうだったんだぁ。

常祇稲荷神社さんはやはり桐生市にあります。
一度だけお参りさせていただきましたが、明るくて、何より宮司さまご一家がこの常祇稲荷さまが大好きという感じなのが伝わってくる、とても感じのよい神社さんでありました。

が。
惜しいかな、私にはナビなしでは到底こちらへ到達することができる自信がない。
それこそまるっきり。
へたをすると、狭い、一方通行の道路で立ち往生しそうなくらいです。

…いや、別にこれは私、という人物限定でしかありませんが、
まあ、とりあえず、こちらは住宅街にあって、狭い道路だったり、一方通行だったりという場所にあるのだけは確かです。

夫はわかるのかなぁ。
できたら一日過ぎてはしまったけれど、茅の輪をくぐりたいのだけれど。

案内人の方がさらに、
「茅の輪をくぐるにも、唱え言葉とかくぐり方とか決まりごとかあるよね。たしか…。
たしか『左足で入って左に回り、右足で入って右へ。もう一度左側へ回ってから抜けていく』んだったっけ」

おお、ありがたい。
「覚えたつもりが半年とか一年あくうちに忘れちゃうんですよ」

「祓詞はたしか、『水無月の なごしの祓 する人は ちとせの命 のぶといふなり』って言うんだったと思ったけどな」

…さすが案内人さん、なんでも知っておられます。できたら一緒に来ていただきたい、行ってレクチャーしていただきたい。

まぁ、そんなことは到底無理なので。
ナビをセットして群馬県桐生市の【常祇稲荷神社】さんへと向かいます。
やはり夫も自信がなかったようです。

No.31 23/07/05 06:53
旅人さん0 

常祇稲荷神社さんはやはり分かりづらいところにありました。
が、地元の方にはなんでもない、いたってわかりやすいところ、なのかもしれません。

桐生市のメインストリート、『本町通り』から一本道を入った所、なようです。
しかしながら、常祇稲荷神社さんからは見える本町通り、こちらからは行けるものの、本町通りからは入れない一方通行。
ナビが無ければどうしたらいいのか…。

と、東側にある鳥居から見えるところに行列が出来ている。どうやら飲食店のよう…ソースカツ丼と大きく書かれた看板が見えます。
なるほど、桐生市はソースカツ丼で有名です。
ただ、そこは私の知らなかったソースカツ丼屋さん。
お店の名前さえ覚えられれば、その道から入ってこられそうです。
…覚えられれば、ですが。
しかもそのお店に来るにはやはりナビが必要、だな。

駐車場はびっくりするくらいに広いです。…無料の駐車場、「ここにちょっと置かせていただいて…」なんて人がいるんじゃないかなぁ、…と思っていたら、やっぱり何台かそういう車が停めていました。ヤレヤレ。

車を停めると、あちこちにいろいろな種類、さまざまな色の紫陽花が咲いていました。
わが家の紫陽花はもう花の盛りを過ぎていましたが、常祇稲荷さんの紫陽花はほとんどが今が盛り。

どうやらこちらは四季折々いろいろな花が咲いている神社さんのようです。

社殿が東向きになっている、…とのことですが、私はそういうのは方位磁針でも使わないとわからないタイプの人間。
夫や子どもたちが、車の中で、とか車から降りてすぐに、方角をスポンと言えることが信じられない人種です。というか方角とかを考えて生きていない。
何故方角が必要なのか、…わからない人間だから方向音痴、なんでしょうね。
わが家の子どもたちが全て、私に似なくて良かった、良かった♡


閑話休題。

東向きの社殿に対して、東からの入り口と、南と北からの入り口があります。
北側は例の本町通りから来る道に面していて、石の鳥居の内側にある小さな赤い鳥居がいくつも並んでいるのが可愛らしかったです。
ただ、その可愛らしい、小さくて細い鳥居の列をくぐる自信が無くて、近寄ってくぐってみようとは思えなかった私でありました。




No.32 23/07/05 07:36
旅人さん0 

こちらは稲荷神社さん、なので御祭神は【倉稲魂命(うかのみたまのみこと)】さまで、古くから五穀生産衣食住の守護神として知られています。

こちらは江戸の初期に、旧今泉村に小社が建立されたものがはじめ、と伝えられている、とのことです。
慶長十八(1613)年に現在地(今泉町常木)に遷座し、稲荷明神として村民から崇敬されました。

『正保四年(1647)九月十三日火災のため社殿が全焼し、このとき、内陣にあった幣帛が、たちまち空に舞い上がり、神木の枝に止まった。
これを見た村民は、不思議に思い群集して礼拝したといわれている。
宮司の息子がこの幣帛を下ろして仮屋に奉遷した。
この不思議な御神徳に、村人は協力し、わずか一年後の慶安元(1648)年には、社殿が再建された。
正徳三(1713)年にも社殿を建替え、同五年(1715)正一位に叙せられた。
こうして当社は、今泉村の氏神であったばかりでなく、桐生新町の町民にも崇敬され、祭礼の日には、全町神灯をかかげて祝ったということである。

なお嘉永元年に、当社の神主小島氏が、江戸域内で行われた、将軍の病気平癒の祈祷に、精進したともいわれている。

明治初年ふたたび火災にあい、社殿を焼失したが、翌二年再建され、今日に至った。
さらに同四三年七月諏訪神社・八坂神社などを合祀し、大正八年四月村社となった。』


(常祇稲荷神社さん由緒書きより)

もっと優しい、誰が読んでもわかる御由緒書きが、拝殿の正面にも掲げられています。



この日も私どもは東側の鳥居をくぐらせていただきました。
参道の横には紫陽花の他にも季節の木々や花が植えられています。

左側には「竹次郎稲荷」と彫られた碑がありました。
竹次郎さんとはどなたなのでしょう。

またその先には、阿夫利神社が鎮座していました。
こちらは『大山阿夫利神社』だと思われます。

境内に入ると少し奥まったところに手水舎があります。
目の前に茅の輪が設置されていることもあり、今回はつい見落としがちでありましたが、お狐さまが私にピピっと教えてくださったかのように、パッと手水舎が目に入りました。

こちらの手水鉢には龍が水を注いでいるのですが、その手水鉢の鉢の中に、稲荷神社さんに見られる実ような、小さな焔のようなお印が立体として彫られています。
うーん、このこだわり♡好きだなぁ。

No.33 23/07/05 14:38
旅人さん0 

さていよいよ念願の茅の輪くぐりです。
本当にワクワクしております。

少し茅の輪が長かったのか下が四角の茅の輪です。

おお、茅の輪くぐりの唱えことばが書いてあります。
『一周目
「水無月の なごしの祓 する人は ちとせの命 のぶといふなり』
ニ周目
『思ふ事 皆つきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓へつるかな』
三周目
『蘇民将来 蘇民将来 蘇民将来』


…これは神社さんによって異なるようです。

まず一礼して。
左足から左回りに茅の輪を左足でまたぎながらくぐって、茅の輪の左側を回ってから正面に戻って一礼します。
次はまた一礼して、右足から右回りに。
もう一度、左足から左回りに
もう一度、左足で茅の輪をまたいで左側へ回り、最後に茅の輪の正面に立って一礼して、茅の輪をくぐり抜けて拝殿の前でお参りをいたします。


うっ。

…誘惑がいっぱいですが。


それでも頑張ってまずはお参りさせていただきます。

お参りの仕方も図解したものが見やすい位置に貼られています。
…それが、ですね。
可愛らしいんです。
…絵心がある方がお描きになられているのでしょうね。

キツネさんの横向きの絵が四つ。
・鈴を鳴らし姿勢を正します
(キツネさんは姿勢を正します。しっぽが太くて長く、なんともバランスよく後ろ足で立っています)

・深く二礼します
(キツネさん、深くお辞儀をしております)

・胸の高さに手を合わせニ拍手し祈ります
(キツネさん、誇らしげに拍手しています)

・最後に深く一礼します

筆か筆ペンで、字も絵も描かれています。
あまりの可愛らしさに、夫など写真を撮ってきたくらいです。


正面に【皆孔(=孔皆 こうかい)】
と板書されたものが掲示されています。
はて?
どんな意味があるのでしょう。

『豐年(ほうねん) 』という漢詩の中に"降福孔皆" という言葉が出てきます。
『大いに福がもたらされように』の意味だそうです。
深いです。


さて誘惑とは。

まずはお賽銭箱の上に置かれた、今まで見たことのないおみくじです。

もしかしたら神社さんの手作り?でしょうか。

太い竹を縦に割ったものを横にして、そこに小さな穴をいくつも開けて、おみくじの巻かれた竹串をそこに刺してある、といったもの。
あの一般的な焼き○りの串、と思われます。







No.34 23/07/05 17:40
旅人さん0 

この日は一日。

小さな伝言の紙が置かれていました。

『お一日参り。
お燈明(百円)
昇殿参拝
↗︎ ↗︎ ↗︎ 』

この矢印 ↗︎ はどうやら社務所を指しているようです。

行く!
お昼を過ぎてしまったので、昇殿参拝はできなくとも、お燈明だけお願いしたい!
おばさん、まっしぐら!

社務所の呼び鈴を押すとそれはそれはにこやかな、素敵な笑顔の女性が現れました。
「あの、お燈明だけお願いしたいのです」
「あら、そうおっしゃらず。どうぞ昇殿なさってください」

…ああ、一時間くらい待てばよかった。ごめんなさい。

上がらせていただき、お燈明をお願いして。
神さまへお供えするものだからと、夫と別々にお燈明代を支払うと、お声を出して笑われました。
「わかるけど、おもしろい」
…すみません、お手数かけました。

正座して拝みますと、太鼓をたたいてくださいました。

…急な昇殿参拝、もちろん…ちゃんとできなかったどころか、どういった行動をとったかすら思い出せません。

リベンジ、お一日参り!


おキツネさま、ぜひお導きくださいね。


七夕の笹飾りがすでに飾られていました。
何十年かぶりに短冊を書いて飾らせていただきました。

可愛らしいうさぎの絵馬は書かずに持ち帰りました。

あと、可愛らしいキツネさんの人形のおみくじを引いて。
それが…なんとも当たっている。

強制的に夫も引かされて…、二体のおキツネさんにわが家にお越しいただきました。

神さまのもとをお訪ねもうしあげたのに、なんだかとても楽しく過ごさせていただきました。


No.35 23/07/06 05:03
旅人さん0 

ところで。

この日【桐生新町】という言葉を何度も聞き、言葉を聞かずとも桐生新町に深く関わっているものであったり。
たしかに、訪れた地が群馬県桐生市であったのだから、当たり前と言ったら当たり前で、何よりもこの日訪れた【桐生天満宮】さんが、その『桐生新町』をつくるにあたり、地区の北端を護るべくここを起点としていることから考えたら、もはやそれを語らずしては語れないものであるのではありますが。

この日導かれるように訪れた【常祇稲荷神社】さんも、まさにこの町づくりの頃に現在地に遷座し、桐生新町の住民からも深く崇敬されています。
実はこの『常祇稲荷』さん、桐生新町の町からは外れてはおりますが、ほんの少し奥まったところに位置するだけで、桐生新町の南端に位置する【浄運寺】さんの山門に対し、背中を向けるように位置しており、言い換えると浄運寺さんを護るように建っている、とも言えるのです。
そしてこの浄運寺さんは桐生新町の町立てに際して現在地に移転して来ており、まさに同時期に両社寺が現在地に移されているのです。


…おばさん、頭が悪いくせに、こだわると変に深く掘り下げるところがありまして。

なので夫から「なんでそんなこと知ってるん?」と言われることがあるくらいで、へたをすると「なんでそう思ったの?」と。
なんでそう思ったの?というのは良い意味でではなく、どうやら思い込みで語るなという言葉を柔らかくオブラートに包んで言っていたらしいということをまさにこの、『桐生新町』について語っていて言われた口調と会話の流れで気づいたのでありますが…。

おいっ…なんなら桐生案内人の会の方に私の言ってることが実は正しいって証明してもらおうか?
…とまで一瞬思ったほどで 笑。


No.36 23/07/06 11:06
旅人さん0 

桐生新町の件で、夫と不穏な空気になったのは『桐生天満宮』さんの狛犬さんを奉納した町の名前。

…なんとくだらないことで、と思われた方々、わが家の口論などは実に低俗でどうでもいいことばかりであります。
なのにヒートアップする、譲らない二人。
上州女は〝かかあ天下〟で知られていますが、この私のような気の強さとはまるで異なるもの。
真の上州女、かかあ天下の女性は気ではなくて、芯が強いのだと思います。
男の人を縁の下から支えて、さらには壁となりなんなら屋根ともなる、それが本当の上州女さんであり、かかあ天下と呼ばれる女性なのであります。

閑話休題。

そんなくだらな過ぎる理由で不穏な空気に包まれる、常に一触即発状態の夫婦であります私ども。
私を妻に娶らなければ、彼はもっと穏やかであったのだろうか、などと思うこともあったりなかったり。

その今回の原因となった、桐生天満宮さんに狛犬を奉納された町の名前は【横町】。
調べるとそのままの名前では現存しないようであります。現在は【横山町】と名を変えています。

それを夫は私が勘違いしてそう思い込んでいるとバッサリ。
そもそも狛犬さんの台座の文字すら見逃しているくせに。

私はキチンと横町という町が現存してあるかどうか、今はどうなっているのかを調べてものを申しているというのに。

そんなどうでも良…くはないけれど、たいしたことでもないことで、案内人の方に案内をお願いするのも申し訳ないこと。
スマホでWikipediaのページを表示して、水戸黄門の側近のように、これを見よと手渡すと、
「ふーん、こんなことまで出てるんだぁ」

出てるんだぁ、じゃない!

…とさらに食ってかかると、近所迷惑な喧嘩に発展致しますので、そこはそこで抑えて(ああ、なんと大人な対応でしょう 笑)。


狛犬の奉納、という、大きなことをしている町でもあります『横町』。実はこの横町という町、桐生新町のメインストリートから外れた地にありながら、桐生新町であったという、注目すべき(なのかどうかは不明ですが)町、なのです。

No.37 23/07/06 11:54
旅人さん0 

その、かつての横町『横山町』にはお寺さんが一軒あります。
その名は【栄昌寺】さん。

このお寺さん、かつてやはり同じく桐生市にある【光明寺】さんのご住職さまからお教えいただいたものでありました。

「江戸時代桐生が徳川家直轄であったから、その流れで作られた栄昌寺さんは徳川の御紋が許されているお寺なんだよ」と。

その足ですぐに栄昌寺さんに向かったのは何年前のことだったか、…たしかに大きく葵の御紋がお寺の建物の飾りとして付けられていました。


天正十八(1590)年、徳川家康公が、この桐生の地を【徳川家直轄地】としたことが、栄昌寺開山に向けての始まりとなるとお寺さんのホームページに記されています。

家康公は領地とした桐生の町を機能的な環境に整備するべく、家臣で代官の大久保長安に町づくりを行うよう命じます。この大久保長安という人物は、桐生の他にも江戸や八王子の町づくりに参画し、さらには主要な金山銀山の管理開発もまかされるなど、まさに八面六臂の活躍をした才人であったといいます。
この大久保長安、手代の大野八右衛門を実践役として、桐生の町づくりをすすめます。

桐生新町は江戸の町を引き合いにイメージするとわかりやすいといわれます。
江戸の町というのは江戸城を中心として、北に【湯島天神】、南に【増上寺】を配した町で、北の神さまと南の仏さまに町をまもっていただく配置となっておりました。
さらに、江戸城の東北の方角の、いわゆる鬼門にあたる上野の位置に天台宗【寛永寺】を創建し、江戸の町と江戸幕府に安泰をもたらすよう祈念し考えられた町づくりになっていたといいます。

なるほど。
桐生の町も北に【桐生天満宮】を、南に【浄運寺】を配しています。

この時代、徳川直営地というだけで桐生には江戸のようにお城はありませんでしたが、【陣屋】が北西の位置にあたる見晴らしのいい丘陵地にあったとされます。
今ここにはお寺さんが建てられています。

『桐生天満宮』から始まり『浄運寺』を終点とする、南北を結ぶ通りからほぼ直角に『桐生陣屋』へと向かう通り、…当時の桐生の町のメインストリートのほぼ中央に、『寛永寺』にならって町の安泰を期して創建されたのが、この【栄昌寺】さんであった、ということで、開山は寛永二(1625)年、寛永寺さんと同じく天台寺のお寺さん、でありました。

No.38 23/07/06 16:36
旅人さん0 

栄昌寺さんには当時をしのぶ書物としての手がかりは一切残っていないといいます。
しかし、境内にある弁天堂と権現堂の二つのお堂こそが寛永寺にならって創建されたというその証しであるのだといわれます。
ことに『徳川家康』公をお祀りする、権現堂の開き扉の両側に三つ葉葵の御紋こそが、ゆるぎのない証しであるといえるのではないかと。

権現堂自体は当時のものかというと、もう少し新しい時代のものに見えましたが、その開き扉に付けられた葵の御紋はいかにも建物よりも古いもので、しかもかなり大きな物であります。
葵の御紋の偽物は数多くあるとも言われますが、徳川家康の定めた徳川花直轄の桐生にあり、しかも町づくりの関係、こと陣屋のお膝元という立地を考えても、私はこれは伝承通りと信じております。

 
こちらが模した、と言われる江戸『寛永寺』を創建したのは、【天海大僧正】。
天海大僧正は、天台宗の高僧で家康公の知遇を受け、江戸幕府創建時に内外の政務に参画したことで広く知られています。
栄昌寺さんを創建したのは、その天海大僧正の法弟の『覚盛法印』と伝えられています。

またこちらには天海大僧正が着用したとされる燕尾帽とお袈裟があるといいます。
 
天海大僧正は、永眠された後の家康公を、久能山から日光へと改葬することにご尽力をされた経緯があり、日光への移動の際、その途中にある徳川家直轄の桐生の地、そして深いご縁のある栄昌寺さんにに寄らないと考える方が不自然、ということから、天海大僧正は少なくとも一度は、こちらを訪れたことがあると考えられております。
その際、こちらにご寄進されたものなのかどうか、それは記録としては残されてはいないようですが。

たとえ裏付けする書面がないとしても、おばさんはこれを信じます。
だって壮大なロマンを…感じません?

直轄地ということであちこちから商人を誘致し、織物の技術を高め、江戸という時代から飛躍的に発展した桐生という地。
…ロマンを感じません?

まぁ、桐生新町作りくらいまでで、その後の近代史にはとんと興味がないおばさん、なんですがね。

No.39 23/07/07 04:00
旅人さん0 

桐生天満宮にかつて『御開帳』があったと知り、神社さんの御開帳とは?と気になって調べておりましたら、以前夫から聞いた話、『天満宮の起こり』とされる話が文章化されたものを見つけました。

御開帳については私の知りたいところの、「何を御開帳されるのか?」は未だにわからないままなのですが、その文章には昭和三十六(1961)年に開催された最近の御開帳の様子を見てとらえた写真が一枚添えられていました。
馬に引かせた屋台が町を練り歩く様子でありました。

昭和三十六年であれば、当時を知る人はまだ多くおられるのではないかと思われますし、参拝の折に宮司さまにお聞きしてみてもよいのかなぁと…。
なんでもその本によりますとこの昭和三十六年の御開帳では、飾り物は天満宮からはじまって各町内化豪勢な飾り付けで人々を楽しませたといい、各町内が称賛して、〝人形を飾り、水車や電力などを利用して動く仕掛け〟など、趣向を凝らした飾り物をしたといい、桐生名物の一つであったといいます。


…そういえば。
そういえば桐生天満宮のかな境内社『機神神社』さんの裏手にある堀に小さな水車がありました。
なんだかそれでからくり人形芝居をするとかしないとか書いた立て札がありましたっけ。
…再興したのかなぁ?
人形芝居が開催されることがあるのかしら。
とはいえ今はそこには水は流れておらず、水車自体が機能しない気がするのですが…。

からくり人形劇といえば、この旧桐生新町の通り沿い、現本町通りから少し入ったところに『からくり人形芝居館』とかいうものがあったような…。
あの、BS日テレの番組『発見ニッポンの神業スペシャル』とコラボしたスタンプラリーでそこを訪れたような、訪れなかったような…。

からくり人形芝居、かぁ。

そういえば…昨年か一昨年か、桐生市は市政百年とかでなにやらあれこれ記念行事が開催されていたようでした。

そのときに人形芝居って行われたのかしら。
…それこそそれを機に天満宮の御開帳もしていただけばよかったのに。

そんな時でもなければ、「いつするの?」ですが。


ちなみに。
この桐生天満宮さんの御開帳、『何年に一度』とか『(十二支の)何歳の年に』とかいう決まり事はなかったようで、景気高揚を祈念したり、景気の良いことに感謝したりとかで祭礼していたようです。

No.40 23/07/07 06:49
旅人さん0 

『桐生天満宮』さんの御開帳の飾り物として上演されたからくり人形による芝居は、『からくり芝居』と呼ばれ、江戸の伝統文化の桐生の織物技術が結び付き、桐生の地に根付いたものと考えられる、といわれます。

天満宮の御開帳は、嘉永五(1852)年に始まり、昭和三十六年を最後に計八回が記録として残されています。
御開帳の飾り物としてからくり芝居がいつ頃から興行さらていたのかは明らかではないようですが、江戸での興行の影響を受け、いち早く、受け入れしていたことが想像できます。
(というよりからくり人形芝居はもはや『見世物』でありますね 笑)


相変わらず御開帳の真の内容はわからないままでありますのに、この飾り物については結構ネット上に資料を見出すことかできます。
中でも興味深いのは、桐生新町の一町だけで御開帳、というか飾り物の披露をした年もあったこと。
それが明治十一(1878)年のことで
『《四町目》
「西郷桐野篠原奮戦の場」
“(餝物師) 佐野町 新藤駒吉”』
とだけあるのです。

この資料ではこの回に関してもカウントされてはおりますが、実は(肝心の)天満宮さんでは飾り物はなく、この四町目さんのみが記載されているだけでありました。
まあ、御開帳と飾り物は必ずしも一致しないものではありましょうが…。

ちなみにこの四町目のみ飾り物であった年以降、出し物、見世物が増えていきます。
次の御開帳の際にはやはり《4町目》による
“(生人形師) 浅草 竹田縫之助”
“(器機師/水車応用) 岩崎英造”
…これがからくり人形の始まり、ではないんで、…しょうね。

嘉永五(1852)年、初の御開帳の際にはもうこういった飾り物はあったようですが、この時は題目を見るに
《横町》「石狗犬奉納」という奉納もあり、以降も鳥居の奉納等が行われています。

明治末から昭和初期には桐生市中の社寺が飾り物や奉納をしている様子がみてとれます。

最後の御開帳は戦後の復興も進んだ頃でもあり、

《天満宮》「羽衣/コロンビアローズ、朝倉ゆりの人形が歌をうたう」
《1町目》「歌磨」
《2町目》「大阪夏の陣」
《3町目》「ディズニーランド」
《4町目》「曽我の夜討」
《5町目》「八百屋お七」
《6町目》「一本刀土俵入り」 
《錦町》「竹原人形」
《末広町》「潮来笠 橋幸夫の人形が潮来笠をうたう」

とあります。

No.41 23/07/07 07:04
旅人さん0 

…すごくないですか?

人形が歌ってますよ。
飾り物にはディズニーランドがあるではないですか。

今でこそ日本ディズニーランドがあり、身近なものでありますが、当時はディズニーランドと言ったら海外のものに行くしかなかったですし。

とはいえ、海外の文化に憧れ、海外の文化をどんどん取り入れて飛躍的に復興していった戦後の日本。

昭和二十年代後半ともなれば、素人が日常を撮った写真を見ても、今でもの素敵だなぁ、カッコいいなぁと思うファッションであったり、風景であったりがみてとれます。
間違いなく、今の私と夫よりずっとずっとおしゃれで粋です。


御開帳かぁ。
景気高揚を祈念して御開帳されたこともあったようですが…。
現代は…そんな信仰心もないですかね。(まぁ、その最たる人間に言われたくはないですよね。すみません)
というか、それだけのお金をかける余裕も正直ないのが現状でしょうか。
悪疫退散も今さら、ですよね。

うーん。
桐生天満宮さんの御開帳♡

No.42 23/07/07 15:59
旅人さん0 

●民話「天神様の由来」

これは『桐生天満宮』にまつわる民話です。

その前に少しこの民話の地理について触れておきます。
(ご存知の通り地理音痴なので、詳しく知りたいと思われた方はネット検索を 笑)

群馬県と栃木県の県境を流れる「桐生川」という川があります。
この川の上流部は桐生川源流林として、『森林浴の森百選』『水源の森百選』に選ばれ、自然豊かな渓流美遠味わうことができます。

この川を、ひたすら上流に追い続けると、桐生川の川沿いの県道337号線も道幅が細くなり、もう民家の見えなくなる辺りの、石垣が擁壁となっている擁壁上の斜面に『石鴨天満宮』があります。

その石鴨神社さんに伝わる民話となります。



『ひとしきりの雨足が軒を強くたたき始め、あたりの木々が頭を左右に大きくふりだしました。
石鴨の弥平は、降り続く雨のため木樵仕事に出られず、ここ十日間ばかりはからだををもてあましていました。

天満宮の斜面には石碑や石像が集められています。

いろりにたきぎをくべながら、女房のおゆきと「早くあの青い空をみたいもんだね」と話していました。
いつもは遥か下の方から清らかなせせらぎの音を響かせる桐生川も、長雨にすっかりその優しさを失っていました。

清流が赤く濁って逆巻き、牙をむく恐ろしい大河に変身している桐生川を見続ける弥平に、いろりの火をかきまわしていたおゆきが「お前さん、お茶にしないかね」と、言葉を掛けたそのとき、腹の底まで響くような異様な地鳴りがして、二人の目の先の窓外を何やら大きな黒い固まりが、ゴーッとよこぎっていきました。

びっくりした二人は、慌ててその場へ伏しましたが、とっさに目と目で合図し合って、恐る恐る窓辺に寄って外を見ました。
すると軒下近くまでザックリとえぐりとられ地面が赤肌を見せ、荒れ狂って流れる桐生川にまでも続いていました。
そしてさっきまで長雨を耐えていた村の鎮守、天神さまのお社が、後かたもなく消え去っていました。

長かった雨がようやく上がり、桐生川は、まだ濁ったうねりを見せていましたが、村人たちは自分たちの家や畑の手入れを後まわしにして、鎮守様を探しに下流へと向かいました。

お社は、ほどなく見つかりました。
流れ流れて梅原、という地に打ち上げられていたのです。


(つづく)

No.43 23/07/07 16:26
旅人さん0 

(天神さまの民話・つづき)

十二キロ余りも濁流に流され続けてきたというのに、お社はどこも傷んでいませんでした。

早速、村人が集められ、お社の引き上げにかかりましたが、村人たちが気勢をあげてお社を引き上げているというのに、小さな木造の社はピクリとも動きません。

そこで近くの神主を招いてお払いをしてもらったところ、
「御神体が釜が淵の底に沈んでいる。その御神体をお救いしない限りは、この社を動かすことはできない。」
とのお告げが得られました。

村人たちは、まず御神体発見に力を注ぎ、まもなく釜が淵に眠るご神体を見つけだすことに成功しました。

御神体が引き上げられると、根が生えたように重かったお社が、わずかに残っていただけの村人の手で楽々と引き上げられたといいます。

この不思議さあらたかさを目のあたりにした大勢の人たちは、更に天神さま崇敬の念を強くしたのでした。

これを見ていた桐生の人々は、天神さまの霊験に深く心打たれ、「ぜひとも譲ってほしい」と石鴨の人たちに頼みこみ、梅原の地に祀らせていただいたといいます。
その地に祀った『梅原天神』といいます。

そして天神さまはやがて桐生新町の総鎮守として、赤城明神の森に祀られることになり、現在に至ることとなりました。

そのため、昔は天神さまの祭礼には必ず石鴨の人たちの代表を招待し、上座にあげるのが定例となっていたそうです。

石鴨では新たに石鴨天満宮をお祀りしましたが、石鴨地域の人たちは、この天神さまは桐生天神の本家だと今も誇りに思い、孫子の代に伝えているといいます。

夫は何度かこちらの石鴨天満宮さんをお参りしているといいますが、私は通りから見上げて遥拝をしたのみで。
お店が一軒あるのみで、それも閉じていることが多いという、民家一つない通りにある神社さんにしては立派な社殿であったと記憶しております。

なるほど…、そんないわれのある神社さんだったのであれば、それは立派に造られることでしょう。

No.44 23/07/08 06:14
旅人さん0 

長々と【桐生天満宮】さんについて書いてまいりました。
まぁ、神社における御開帳、天満宮さんの御開帳とはどういったものなのか、という答えが出ましたら、あらためて書かせていただくこととして、いったん筆を置きましょう。


ところで、昨日は七夕。
私の住まう街では雨こそ降らなかったものの全天に雲が広がって、何度か時を変えて空を見上げては見たもののかすかに一つ星がみえたにとどまりました。

まあ、雲の上には満天の星たちがいつも通りに輝き、恥ずかしがり屋の織姫と彦星は雲の上で一年に一度の逢瀬を果たしたことでしょう。

七夕といえば短冊に願いごとを書いて笹の葉に飾り付けて祈ったり、織姫や彦星の伝説もよく知られるところです。
すでに書かせていただいた群馬県桐生市の【常祇稲荷神社】さんでは朔日詣りの折にすでに笹が拝殿の前に立てられており、何十年かぶりに短冊に願いごとを書いてまいったのですが、神社さんやお寺さんに縁なく長きを過ごしてきてしまったおばさん、(神社さんは七夕飾りをするんだぁ)と思ったもので。
それでも、(ああ常祇さんは月に二回ラジオ体操をしているくらい、地域の方々との交流を大切になさっておられる神社さんだからな)と思ってそれ以上は深くは考えなかったのです。

ところが、先日参拝いたしました同じく群馬県前橋市の【産泰神社】さんにも短冊が置かれておりました。
おや?
…やっぱり神社さんと七夕って関係があるものなのかしら?


七夕祭りの由来は、年に一度、七月七日の夜に、天の川の両岸の牽牛星(彦星)と織女星が、橋を渡ってめぐり会うという中国の伝説が始まりだといわれます。
『七夕』と書くのは『七月七日の夜』の意味。
古代の中国では、その日、女性たちによって針仕事の上達が祈られ(『乞巧奠(きつこうてん)』ともいうそうです)華やかな行事だったともいいますが、中国でも七夕の祈りは、もとは農作物の収穫を祖霊に祈ったものだろうといわれています。

七夕は、日本でも古くから受け入れられ、万葉集の恋の歌にも詠まれています。
日本でこの字をタナバタと読むのは、機織(はたおり)を意味する『棚機(たなばた)』からきたもので、日本では特に古代の水辺の祭壇で神に着せる機を織った巫女のような女性を『棚機女(たなばたつめ)』と言ったことから、その名となったともいわれているといいます。


(つづく)

No.45 23/07/08 06:15
旅人さん0 

奈良時代や平安時代の都では、星に祈りを捧げる風習にもなりましたが、七月のお盆の前の同じ時期には、日本ではもともとこの時期古くから、祖霊や水の神に収穫を祈った行事があったといいます。
お盆にこの世にやってくる祖先の霊を迎えるために、水辺で心身を清める禊(みそぎ)の行事も行なわれました。
こうした年に一度水辺で祖霊を迎えることが、天の川をはさんでのめぐりあいの話を受け入れやすくしたのでしょう。

恋の話だけではなく、子どもたちが学芸の上達を祈ったりするのは、日本の祖先の神に対しての祈り、なのです。


…なるほどぉ。

No.46 23/07/08 07:05
旅人さん0 

群馬県前橋市に鎮座します【産泰神社】さんは、各地にある産泰神社の総本社さんであります。
起源は遡ること約十三万年前、赤城山の『石山なだれ』によって出現したといわれる『盤座』から始まっています。
自然が偶然に生んだこの盤座に、現代に生きる私でもその自然の大きな大きな力に感嘆いたしますくらいです、これを見て、いにしえの人たちは神の力を感じずにはいられなかったことと思います。
大きなたくさんの岩が高く高く絶妙なバランスでそびえ立つ様には何度見ても圧倒され感動いたします。

この盤座を以て原始古代からこの地は信仰の土地とされ、二百六十年前に本殿が建造されました。

こちらの御祭神さまは木花之開耶姫さま。

いつ訪れても…曇りの日でも雨の日であっても、明るくて爽やかな、そして優しく包まれるような気を感じることのできる神社さんであります。

社殿もそれは美しくみごとな彫刻と、美しい天井画の施されたもの。
いつまででもいられるくらい居心地の良い神社さんです。

ただ令和元(2019)年に祈祷殿を建設されて以降は、こちらの拝殿に昇殿しての御祈祷はなされなくなってしまいました。

それでも娘が安産祈願の御祈祷をお願いした際には、昇殿しての参拝ができたと聞いています。(ちなみに嫁ぎ先の意向で行われたものでしたので私どもには声は掛かることなく…一度もその機会を得ることなく憧れの産泰神社さんの拝殿への昇殿は叶うことなく幕を閉じられたのでした 泣)

前橋市のはずれ、抜け道として使われることも多い道路から少し入ったところに鎮座されており、あまり大きな社殿とはいえないこちらですが、参拝の方、御祈祷をお願いされる方は多く、広い駐車場に県外ナンバーの車もズラリ。

そんな人気の神社さんであります産泰神社さんが、今年社紋を一新されました。

頭が古くてしかも一部認知障害が疑われるかもしれないおばさん。
この社紋を変えるという大胆な動きをなかなか受け入れられず、しばらく参拝の足が遠のいていたくらいでした。
祈祷殿ができたことで、常に開け放たれていた拝殿の扉が閉ざされたままになったことも大きな原因でありました。


「少子高齢化が進み、神社も時代とともに変わっていく必要がある。参拝するだけでなく、ご祈祷をとおして神様を感じてほしい。そんな理由からデザインの刷新を決めた」
とは宮司さま。


No.47 23/07/08 07:30
旅人さん0 

神社さんがどう変わろうと、それはあくまでも人の世でのことで。
神さまは、木花之開耶姫さまは何もお変わりありません。

そう思って、思い返してからまた参拝のため産泰神社さんを訪れるようになりました。
まぁ…おばさんはもはや〝安産祈願〟とは縁のない人間ではありますが、ね 笑。


それが…訪れるごとに、元の雰囲気に戻っているのです。
見慣れたのでは?

いやいや優しいあたたかな包み込んでくださるような気は変わっていなかったということ。

木花之開耶姫さまは祈祷殿ができようと、社紋が変わろうと、そんなことにこだわられるような神さまではなかった。
そんなつまらないことにこだわるのは、愚かなおばさんだけでありました。


今回、夏越の大祓の済んだ茅の輪が残された文月の境内、誰一人参拝の方のいない状況で、ゆっくりと茅の輪をくぐらせていただき、少しは私の分厚く纏った穢れも落とせたかと…。

ゆっくりゆったりと境内社をまわらせていただき、盤座を見上げ、社殿の彫り物を楽しませていただきました。


そして。
風鈴の授与も兼ねた御朱印をお授けいただき、七夕の短冊に願いごとを書かせていただいて、豊かな気持ちで今きた道を爽やかな風を受けながら車を走らせました。


えっ?
車を走らせた?
…ええ、この日の参拝は一人でしたので。
山道と高速道路の運転が嫌いなだけですってば、…たぶん。

己を知るのも大事だと、それは素晴らしいことですよと、若いお坊さんに言われたんですってば。
私は運転が下手…。
えっ?


No.48 23/07/09 05:26
旅人さん0 

ちなみに。
お寺さんで軒場で笹の葉をさらさら揺らし短冊に願いごとを書いて飾っているのを私は見たことはないのですが、なんとなく仏教に関係しているような記憶がありました。

何故、と言われると、(うーむ、なんでだろう)と思う、…揺れているのは私?

…日本へは中国から仏教が伝来しているから、そこで結びつく(失礼!)可能性かある?

調べてみました。

たしかに、仏教では、織姫と彦星はそれぞれ『女宿(じょしゅく)』『牛宿(ごしゅく・ぎゅうしゅく)』
という星の神さまとされているといいます。

女宿や牛宿は、白道という月の軌道に位置する二十八の『星宿(せいしゅく)=星座のこと)』に当てられていて、『胎蔵界曼荼羅』に描かれているといいます。

二十八宿は、東西南北の四つ、
青龍・白虎・朱雀・玄武に区分され、牛宿と女宿は『北方玄武七星』に含まれているのだとか。
…もうここまでくると鵜呑み状態、というか飲み込めもせず調べたままを書いていますが…。

これには『宿曜経(しゅくようきょう)』というお経が元になっているといいますので、七夕は仏教と関係があると「思い込んでいただけ」のおばさんですが、あながち間違いではなかったようです。

ところで。
七月七日は旧暦では、今の八月中旬から下旬頃で、七夕はその頃の季節行事であったといいます。

七夕は、現在は新暦で営まれることが多い行事ですが、一方で、月遅れの旧暦に準じて行われることが多いのが、【お盆】です。
旧暦の七月十三日から始まるお盆の準備を、七夕の日から始めたといい、今はまったく別の行事という印象が強いのですが、七夕とお盆は、旧暦においては同じ時期に行われ、密接な関係にありました。

仏教、お寺さんとの関係もなく大人になった私でしたし、ありがたいことに、なんと結婚するまで身内で亡くなった人間もおらず、お盆の飾りとも無縁で過ごしてまいりましたので、『盆棚』というものも実に大人になるまで見ることなく過ごしてきた人間でありまして。

盆棚に笹の葉が祭られたものを見て(なんとなく七夕に似ている)と思ったのが私の中で(仏教と七夕は関連がある)と結びついたのかもしれません。

(つづく)

No.49 23/07/09 05:29
旅人さん0 

(つづき)

そうめんをお盆にお供えすることがあることと、七夕にそうめんを食べると長生きできるという言い伝えもきっと私にそう思わせた原因の一つかもしれません。
ちなみにこのそうめんをお盆のお供えにする理由に、一説として
『ご先祖さまがこちらに帰ってくる際の馬の手綱とするため』とか
『彼岸に戻られる際お土産など荷物をまとめるため』
というものがあるのだとか。


日本でいう【お盆】とは、
仏教の『先祖供養』、
そして神道の『祖先崇拝』
が混ざり合った行事であるため、七夕自体には宗教的な意味はなくても、ご先祖さまへの供養や、豊作を祈り感謝するその精神が、仏教そして神道とも結びついていたのですね。

No.50 23/07/10 10:40
旅人さん0 

本日は六十日に一度巡ってくる『己巳の日(つちのとみのひ)』で『弁天さま』のお縁日。

ところで。
七日から昨日までは群馬県前橋市の七夕祭りでありました。
八、九日と二日続けて前橋市に行っておりましたが、ここへきて、コロナ以外にもたくさんの感染症が流行しており、あまりの人混みにお祭りの通りを歩くことはできませんでした。

まぁ…コロナ禍うんぬんというよりはもともと混雑した場所、人混みの苦手な珍道中ペア、コロナ禍以前にお祭りに行ったのは一体いつのことやら…。今流行りの露店などさっぱりもってわからない。
お祭りに行くようなことがあれば、きっと浦島太郎のような二人でありましょう。

そんな前橋七夕祭り、こちらは前橋市三大祭りの一つであります。
それこそ前橋市七夕祭りに行ったのなんて、もしかしたら大学生の時分?いや、もしかしたら露店でひみつのアッコちゃんのお面やコンパクトが売っていた頃のことかも。

まぁそれはさておき。
この前橋市七夕祭り、会場となっている通りの一つに【大蓮寺】さんというお寺さんがあります。
こちらには『弁天さま』がお祀りされており、お祭りの日には夜にもこのお寺さんの門が開けられ弁天堂の扉も開けられているのだとか。

コロナ禍になる以前、何度も何度も夫にそのことを話したのですが、どうにもその重い腰が上がらず。
そのくせ花火大会は好きで、四年前くらいにも出向いている夫。
私は弁天さまにお会いしたいのですが。
ならば一人で行けばよいのですが、夕飯の支度をして一人で電車に乗るなり車で出向くなりは結構面倒くさいもの。(しかも人混みが嫌い)
そんなわけで今年も前橋にいながらお祭りに行かなかった二人でありました。


大蓮寺さんは駐車場が見当たらず、前を何度か通りながらもまだ参拝に至っておりませんので、ぜひいつか参拝させていただきたいと思っております。
しかしながらなかなかその日は訪れず。
もうすでに何年越しかの、ささやかな望みであります。

あ、今日、とか?

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