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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣巡り珍道中・改

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旅人さん
23/06/23 06:04(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3666755 22/11/06 23:54(スレ作成日時)

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No.500 23/06/23 06:04
旅人さん0 

お灯明を灯すためにわざわざ御本堂にお越しくださったご住職さまは、御朱印に墨書きくださるため再び庫裏へと向かわれました。

まずは正面のご本尊さまにお線香をあげさせていただき手を合わせます。
正面の、香炉の置かれた几の前に椅子が置かれておりました。
あぁ、足腰が不自由な方のためにご用意されたのだなぁ。以前には無かったものです。
一つ一つが思いやりとおもてなしの思いが込められた、心温まる御本堂であります。

まだご住職さまはお戻りになられないので、失礼してお隣の間に祀られている阿弥陀如来さまの御前に。
通路に座って合掌しているとご住職さまがお戻りになられました。
…本当はこちらの元本尊さまの御前にいたくて、ここに座らせていただいていただけなのですが。

御朱印帳を手渡して下さりながら、
「こちらはもともとのご本尊さまなのですが、なかなかこちらまで気づく方がおられないんですよ。本堂の規模が小さくて内陣にお祀りすることができなくて」
「こちらは今までに三度焼けておりまして、最後が明治の末だったのですが。
なんとか再建したいと思ってもお金が無くて。もっと上(かみ)にあったお寺の建物を持ってきて建てたものなのですよ。
そのお寺さんの建物も建ててどのくらいのものなのかわからないものなので、まあ、そのおかげであちこちいじることもできたんですけどね。
文化財などとなるとどこもいじることができなかったですから」

「そのお寺さんの名前はなんと?実は最近『黒保根の民話』という本を読んでいろいろなお寺の名前が出てきたものの、ネットで調べると黒保根には三つのお寺さんしかないようで寂しく思ったものですから…」
と私が申し上げますと、即座に
「〇〇さんの、ですね」
とご住職。

「そうなんですよね。以前はもっともっと黒保根にもお寺があったのですが…。明治の時代にも合併があって、その時に檀家も整備されて、たたんだお寺がいくつもあったんですよ。規模は小さなものではあったのですがね。このお寺の建物は〝せいけい寺〟といいました」


…そうかぁ。明治の合併かあ。というよりも、あの私の憎むべきあの悪令によるお寺さんへの風当たり、弾圧もあったのではないかなぁ。
小さなお寺さんではひとたまりも無かっただろうしなぁ。

No.499 23/06/22 18:00
旅人さん0 

まっすぐな青竹をまっすぐに切って、参道の両サイドに等間隔に綺麗に並べ、まるでずっとそこに埋められていたかのようにまっすぐ植えられた花差し。
その〝おもてなし〟の心に私は深く心打たれました。
誰が来るため、ということもなく、ただ、もしかしたら訪れる人のためにと、生けられた花。
ゆっくりと参道を歩き、そこに生けられた花を、生けられた方のお心をありがたく思いながら鑑賞させていただきました。

そうはいっても、そう長い参道ではありませんので、すぐに御本堂の前に。
すると何か外で作業をされておられたのか、帽子を被られたご住職さまが御本堂ひだりてからタオルで汗を拭きながら歩いてこられました。

「こんにちは。お参りさせていただきます」と私。
「ああ、どうぞお入りになっておまいりください」

…まさか?まさか一年以上前に御本堂を除いていた夫婦なのを覚えておられた?
ま、まぁそんなことはない、かなぁ、…少なくともこの時点では。
いくらなんでも、会話もせずに、一年以上も前にたった一度お話しを聞かせていただいただけの二人組を(ああ、あのときの)とは、思わないでしょう、…たぶん。

「あ、ありがとうございます」
そう申して、御本堂の戸に手をかけ、、うん?
(あ、開いてないんですが?)

ま、いいか、前回ゆっくりおまいりさせていただいているし。
御朱印をお授けいただいて帰ろう。

「御朱印をお授けいただけますか?」
「ああ、それでは中でお待ちになってて下さい」
(…中で、かぁ、外をうろついていてもいいかな)
御本堂の戸が開いていないと言えない私。別にそう申し上げても失礼ではないのだと思うのですが、なぜか、そういうときは遠慮がちなおばさん。
遠慮していると思われたのか、わざわざ戻ってこられたご住職さまが、そこで初めて御本堂の戸が開いていないことに気づかれるのですが…。
(こんなことなら素直に開いていないと申し上げた方がこの気まずさはなかったか)と思いつつ。

ご住職さまは再び庫裏の方へ。

ああ、大好きな阿弥陀如来さまにお会いできた♡


すると庫裏の方からご住職さまが現れて、お灯明を灯して下さいました。
ありがたいことです。

No.498 23/06/22 06:54
旅人さん0 

この【正円寺】さんを初めて参拝させていただいたときのことを書いたレスが、

https://mikle.jp/viewthread/3321842/
のNo348から始まるものとして残っております。
(うまくピンポイントでレスにリンクするよう貼り付けられなくてごめんなさい)

そこに書いたものをあらためて今回の視点で書いていくのも良いかとも思ったのですが、万が一、そのころのスレからお読みいただいた方には、重複しておりますことをお伝え申し上げておきたくて貼り付けてみました。

これから書くこと、そのときのレスとおそらく重複する内容が多々含まれることとなります、ご了承ください。

…まぁ、書き手の私はザル頭なので、本人的には前回書いたこともあまり覚えてはいないところもあるのでありますが、苦笑。

No.497 23/06/22 06:30
旅人さん0 

実は。
このいただきました菩提樹の花、大変珍しい咲き方をしております。

ただ、暑い中持ち帰ったものですから萎れてしまい、ここに写真をアップするにはしのびないものとなってしまいました。
しかたなく一番その特徴がわかりやすい…かなぁと思われた画像をお借りして添付させていただいたのですが…。

上の方に写っている緑が、いわゆる〝葉〟で。
花の上にある薄緑の葉、のように見えるもの、葉腋から垂れ下がった細い花柄に集散状に、黄白色の花が数個付いているのです。
花序には『長さ8cm~12cm程で、へら形の狭い〝苞(ほう)〟』が1枚。

例えるなら、葉の葉脈の中央脈から
直接茎が出て、10cmくらいの茎の先がさらに枝分かれして小さな黄白色、黄色寄りの花々を咲かせている、という感じ、ですかね。
…伝わらない?
ですよね。

こんなときこそチャットGPT、なんだろうけれど 笑。


ところで。
お釈迦さまが悟りを開いたとされるのは、クワ科のインドボダイジュあるいはベンガルボダイジュの木の下とされます。
インドに行くとこの菩提樹の葉をスケルトンリーフ(葉脈だけ残したレースのような葉)を観光客向けに高い値段で売ってあるのだとか。

しかし日本にあるのは中国産のもの。
熱帯性であるこれらは中国で育たなかったため、葉が似た本種を代用し、それが日本に伝播したといわれます。

中国を原産とする菩提樹は、アオイ科の落葉樹。
その来歴には、12世紀半ばに臨済宗の開祖である栄西が、中国の天台山にあった菩提樹の種子を持ち帰ったことを起源とする説と、筑紫の国(福岡県)に渡来したものが全国に広がったとする説があるといいます。

花の後には直径7~8ミリの果実(「菩提子」という)ができ、10月ごろになると黄褐色に熟す。果実は硬質の球形で、念珠を作るのに使われることも本種が菩提樹と呼ばれる所以の一つ、なのだと。

実は日本で菩提樹と呼ばれる木は、結構種類があって、この中国からきたもの、インドゴムノキ、ネンジュボダイジュの三種があるのだといいます。
これらは性質も形態も異なる。仏教的にはインドボダイジュが本家本元。
ネンジュボダイジュは実が高級な念珠の材料になることから関連付けられたようです。
これらのほか、オオバボダイジュ、セイヨウボダイジュ、インドボダイジュ、ベンガルボダイジュなどがあり大変ややこしい。

No.496 23/06/21 22:20
旅人さん0 

今日、大変変わったお花をいただきました。
ひとつの花を一折り、長さにして10センチくらいのものをいただいただいただけだというのに、甘い香りが部屋中にただよっています。

それは【菩提樹】の花。

群馬県桐生市の【正円寺】さんの境内で、ご住職さまが自らの手で手折ってくださいました。

寺標の柱を境に、向かってみぎてに菩提樹が、ひだりてにはナツツバキ、日本ではこのナツツバキを沙羅として扱うこともあり、それが二本、なので沙羅双樹が植えられていました。
…とは言っても、ナツツバキくらいならわかるのですが、菩提樹はご住職に教えていただくまで存じませんでしたくせに。

お釈迦さまが悟りを開かれたのが菩提樹の木の根元。
沙羅双樹はお釈迦さまがお亡くなりになられたときにその横たわるお釈迦さまのお亡くなりになられたとき、おそばに生えていた木であります。
お寺さんらしい木を選んで植えられたとおっしゃっておられました。

その…門ともいえる寺標をくぐると。
高さ40センチ直径7〜8センチほどの青竹を切ったものに、紫陽花やナツツバキの活けられたものが参道の左右等間隔に植えこんでありました。
ああ、お花もお好きでらっしゃるのだなあ。

こちらのご住職さまは、大変まじめで気配り心配りのできるお方でありまして…。
いつ伺っても庭の手入れをされておられ、また偶然にも違うお寺さんでお見かけしたときにも、いつもいつでも、まわりの動きを察しては細々と動かれて働いておられました。

お花もお好きなのでしょうが、それ以上に人が喜んでいただきたいと思われてのことでしょう。

ご住職さまは私どもに対しても、本日、御本堂の中、そして境内を歩きながら、お寺のこと,天台宗のこと、お花のこと、アポ無しで訪れたというのに、それは大変長いことお時間を割いておはなしくださいました。

No.495 23/06/19 17:33
旅人さん0 

母の祥月命日。

今年は泰山木の花が少ないようで、それゆえ、当然のことながら香りもあまり感じられない。
それでも今まさに開こうとするつぼみがあって、その可憐さにため息が漏れた。

夏椿が咲いて、枇杷がたわわに実っている。


季節ごとに咲く花が私を癒してくれる。
来月には睡蓮が咲いているだろうな、咲いているといいな。



(『隅田の花火』という品種の
  紫陽花)

No.494 23/06/18 18:32
旅人さん0 

今日は暑い。

梅雨はもう明けたのか?というくらい暑い。
暑い最中に水やりをしてもかえって良くないと思い、今になって外に出たら、紫陽花が花はおろか葉まで萎れている。
現在の室温三十二度。

紫陽花、そしてメダカから
メーデー・メーデー・メーデー
と救助要請がかかる。

ちなみに本日の日最高気温の高いランキングは(気象庁発表、15時時点)
一位 群馬県 前橋市
二位 群馬県 伊勢崎市
三位 群馬県 高崎市 上里見
四位 群馬県 桐生市
と、
ありがたくないランキングの上位三位、どころか四位まで群馬県が独占しているようで。


そんな今日午前中、何年か前からあじさい寺を名乗る、群馬県みどり市の【松源寺】さんの、紫陽花を訪ね行ってまいりました。

初めてこちらを参拝した時は、どの紫陽花もまだプランターの状態で、ご住職さまがすまなそうに
「今はまだこんななんですが、いずれは本当のあじさい寺になっていきますので、懲りずにまたお越しください」とおっしゃっておられましたのに、今はそのまさにその時ご住職さまが目指しておられた〝あじさい寺〟になられたようです。

今では御朱印でも有名なお寺と変貌を遂げており、紫陽花のころでなくとも、平日であっても、お寺の境内はいつ伺っても境内は人が何人も訪れています。

色とりどりの紫陽花。

そして、花びらが可愛らしくカールして、可愛い小皿のような花びらのもの、
〝隅田の花火〟と名づけられた、まさに花火を思わせるもの、
一つ一つの花が八重咲きのものなどなど、品種もさまざまなようです。

参道は通るのがやっとなくらいに両側から紫陽花が咲き乱れ、まさに紫陽花の寺。
まるで紫陽花が乱舞しているかのようでした。

御本堂前の香炉にはお焼香が用意されていて、そこで紫陽花に気を取られがちな思いを一旦引き締めて、ご本尊さまにご挨拶。


ただ…贅沢を言うならば、以前のように、気さくにご住職さまとお話しできるお寺だった時の方が心弾んだのだけれどなぁ。


No.493 23/06/18 06:08
旅人さん0 

とある仏教宗派さまのリーフレットより、心に残ったものを書き留めておきます。


【祈りのかたち『合掌』】

仏教では仏様に祈るとき、合掌をします。仏教の合掌は、お釈迦さまの時代のインドで敬意と感謝の気持ちを表して行なっていた作法がその由来といわれています。

(…中略)

祈りは「反省」「感謝」「誓い」「願い」です。合掌し祈ることで、(子どもたちは)自らを省み、感謝と思いやりの気持ちを持って、目標に向かって清々しく歩んでいく姿勢を自然と身につけていきます。

(…以下略)


右手と左手を合わせて少しふくらませ、両手の中に宿る温かい温もりに仏さまを感じるこの合掌を『虚心合掌』といいます。
合掌にはいろいろなかたちがありますが、この虚心合掌が合掌の基本のかたちです。



このリーフレットはどうやら子ども向けのもののようで、仏教で一番大切にしている祈りのかたち『合掌』を子どもたちに伝えるもののようですが、なるほどと思うこと然り。

私は何よりも今自身が学んでいる状況ではあり、わが子たちに伝えるような烏滸がましい立場ではありません。
また、子どもたちももはや手元を巣立っておりますので、なかなかそうした機会はありません。
それでも、共にお墓参りをしたり、法事であつまったときなどに、そうした事を態度で、あるいは言葉で伝えていけたらいいなと思ってはおります。

子どもを育てるとき、私は無我夢中で駆けぬけるように過ぎてしまいましたが、もっともっと、〝育む〟という言葉が与えるイメージのように、まさに『虚心合掌』の両手のうちの温もりの中で子育てをするべきであったなぁと、反省するばかりです。
それでも、今からであっても伝えることはできる。
遅ればせながら、ではありますが、伝えなければ伝わらないままです。
こうしたことはたとえ遅れようと、手遅れはないことと思います。

ま、私などはこのような歳をして、お寺さんのこうしたリーフレットやパンフレット、お寺さんに貼られたポスターや立て看板、そしてネットから学んでいるくらいですし。
学びもまた遅いということもないでしょう。

今月は、母の三回目の祥月命日となります。
いまだに墓のない母の御魂に手を合わせて参ります。
泰山木の甘い香りに包まれながら…。

No.492 23/06/16 03:19
旅人さん0 

昨日は十五日。

鎮守の社へ、そして両家の父たちの月命日ということでそれぞれのお寺さんへ訪れる日。

父のおかげで、弘法大師空海さまのお誕生日を、そのお膝元ともいえるお寺さんでひそかにお祝い申し上げることができました。
父の眠るお寺さんの空海さまのお像は、希望と情熱に満ちあふれた、笑顔で日本中をまわられた頃の、…若かりし日の空海さまでありました。

いつもは閉ざされている御本堂の扉が開けられていました。
ご住職の、お誕生を祝うお気持ちと感謝して、御本堂のご本尊さまの前、手を合わせました。
ご住職さまはおられませんでしたが…。

真言宗でお唱えする「南無大師遍照金剛」を七回、お像の前でお唱えしして、ささやかながらお誕生日をお祝いしました。

『遍照金剛』とは空海さまが唐で授かったお名前。『遍照』は仏さまの光が全てを照らして見守ってくださることを、『金剛』はダイヤモンドのように硬い仏さまの智慧をあらわすのだそうです。
『南無大師遍照金剛』は【御法号】というのだそうです。
空海さまを敬い、心から祈りを捧げる言葉だといいます。

いつか、空海さまのお誕生日を祝う『青葉まつり』の行われているお寺さんで、青葉まつりに参列したいなぁ。


No.491 23/06/15 21:45
旅人さん0 

今年は東日本大震災のあった三月十一日から、十二年目、十三回忌でありました。
その法要に、群馬県みどり市の光榮寺の副住職さまが参列されたことを以前書かせていただきました。

そのお話をお聞きし、お土産までいただいた私でありましたが、先日ある方から、その際副住職さまが小名浜の海に入って供養をして下さったことをお聞きしました。

三月のまだ寒い時期に、海に入って。

実は私、幼少時、父方の祖父母に連れられて毎年小名浜の親類宅に泊まりに行っておりました。
しかしながら、父と母の離婚により、その時から祖父母とも会うことなく、会えることなく過ごすことになり…。
当然ながらその小名浜の親類ともそれっきりとなりました。

あの震災のとき、
あの津波のとき、
小名浜の、お世話になった親類たちはどうなったのだろう、思ったところで知る術もなく、私はずっとずっと、心の隅で無事を祈り、…祈っておりました。

親類宅は三軒。
お世話になった方々は震災前にお亡くなりになられていた可能性は高いものの、私と歳の近かった方もおり、海に行ったりお祭りに行ったり、喧嘩したりしたものです。

三軒のうちの二軒は海から遠かったものの、一軒は海にかなり近く…。
あのとき小名浜に到達した津波は六メートルを超えていました。
小名浜ではどれほどの被害があったのだろう。
気になるものの、知りたくない思いの方が強く、ネットで検索することもせず。

その小名浜の海に…。

海に入って、読経し、お札を流して供養してくださった方が、こんなにも間近におられたなんて。

亡くなった方の供養。
ご遺族の心に寄り添う法要。
これは僧侶にしかできません。

…ありがたい。

十二年間、誰にも言わず、誰にも言えず気になっていた小名浜の遠い親類たちのこと。
安否を知ることはできずとも、少しだけ心から荷がおりた気がした、瞬間でありました。


「まだ寒い時期に、冷たかったでしょう、ありがとうございました」
そう申し上げたら、副住職さまは
「それが、あのとき何日も暖かい日が続いていたから、水もさほど冷たくなくて。少し前は氷水だったと地元の方に言われました」


いまだに海におられる方、そして海で亡くなられた御霊は優しかった。

供養してくださる僧侶たちのために、そんな配慮、努力をされたんだな。

No.490 23/06/14 03:55
旅人さん0 

今日は御仏像を彫るご指導を受ける日。

いまお不動さまを彫らせていただいております。

お不動さまの火焔で、私の怒りを鎮めていただきましょうか。
いや、いっそのこと、お不動さまのお力のこもった火焔をもって、もっと燃え上がらせていただいた方がいいかもしれない。

No.489 23/06/14 03:44
旅人さん0 

マイナンバーカード保険証法案が可決された日、テレビで速報が流れました。
まぁ、どうせ通ってしまうのだろうな、とは思ってはいたので、そこまで読んだだけでは(ああ、やっぱり…)と思っただけだったんです。
速報自体も全国民注目すべきことなので、流れて当然だとも思いました。

注目し、声をあげるほど落胆し失望したのはそれに続いて流れたテロップ。
賛成した政党、反対した政党。

…こんなの私が記憶している限り流されたことはないんです。
そしてその中身こそが、私を落胆させ、失望させたのです。

反対した政党がたった一党だったんです。

あんなにも声高に問題点を指摘してくれていたのに、まだその問題が表面化しつつある段階でしかない今なのに、何故…。

ああ、バカにはわからないのが〝政治〟ですか。
バカなんでわかんないです。


マイナンバーすら理解できない人がいること、理解しても自ら動けない人の存在、知ってます?
そうした人の中には子供も含まれますが、そうでない、高齢の方とか、障がいをお持ちの方とか、おられるのはお分かりでしょうか?

写真の添付が必須条件、ですよね?
しかも結構な条件付き。
背景がどうの、正面向きであること、だの。

寝たきりの方、重症で動かせない方の、『正面を向いた、背景が指定された写真』が、どれだけ困難か、…知りもしないんじゃないですか?

あんなにも数多くいる国会議員さんが中に、一人もお身内にそういった…正面を向いて指定の背景で写真を撮ることが難しい方が、かつても今も一人もいないなんて、…確率としてはゼロではないけれど、本当にいないんですか?

寝たきりで何年も過ごされておられる方の中には、お身体に変化があって横向きにしか寝られない方だって結構おられるんですよ。
枕に顔をつけた正面向きの写真、認めてくれます?
寝たきりでなくとも、変形がある方は座っている姿勢がともすれば正面向きの写真が難しいって知っておられます?

あの法案が可決して、早々にスタートする予定、ですよね?
そうしたらその方たちって、スタートしたその時点から保険証を使うんですよ。

しかもそういった方の中には、お身内が一人もいないケースだってあるはず。
法定代理人さんが動くんですか。
保険証だけだって自らの手で保管するのが難しい方もおられますが?


どうする?内閣
どうする?日本

No.488 23/06/11 12:16
旅人さん0 

見慣れない笠を被った旅姿の僧の像。
珍道中を始めた今ではそれがどなたのお姿であるかすぐにわかるものでありますが、当時は本当にわからなかった。
そのお寺さんの宗派についてすら理解していなかったし、正直関心すらありませんでした。

そう、祖父母、そして父、叔父の眠るお寺さんに静かにお立ちになっておられる旅姿の方は…、
【弘法大師】さま、お大師さまでありました。


ええ、そうなんです。
この私の神社仏閣珍道中は、まさにまさにそこからのスタートだったのです。
真言宗のお坊さまたちの深い深いため息、嘆きの声が聞こえそうです。


そのお寺さんの弘法大師さまの石像は、脚絆に草鞋、笠を被り(正確には網代笠(あじろがさ)と言われるそうです)を被っておられ、そのお姿はまさに禅宗の修行の僧が旅をする時の【如法[正式]】な姿だといいます。
小袖に直綴(じきとつ)といわれる衣を着て、手巾(しゅきん)といわれる丸ぐけの帯を締め、白脚絆に草鞋(わらじ)、絡子(らくす)といわれる五条袈裟を肩に掛け、頭陀袋を前に吊し、その上から袈裟文庫を前に、後付け行李を振分けに持っておられます。

禅宗伝来以来変わらぬ姿であるといい、今でも雲水、…行雲、流水のごとく所定めずに行脚する意で雲水と呼ばれる禅宗の修行の僧が、旅をする時は正式にはこの姿をされるのだといいます。


こちらのお寺さんのお大師さまは右手には数珠を持ち、左手には錫杖をついておられます。
石像ではありますが、この錫杖、音を鳴らす金属部分はリアルに金属製でありますし、お数珠も本物をお持ちであります。

お大師さまと知る以前にも、そのお坊さんの像になんともいえぬ癒しを与えていただいており、手を合わせることこそありませんでしたが、そのお顔を見上げては心の中でご挨拶を申し上げておりました。


そんなことから、珍道中は珍道中なりに、その宗派宗派でお祀りされている宗祖は異なるのは当然でありますが、宗祖さまの像があればその前で足を止めて手を合わせるようになりました。


今年、弘法大師空海さまはお誕生からちょうど千二百五十年とのことで、真言宗の、いくつかある総本山では大きな記念の行事が執り行われているようで。
珍道中おばさんは歯軋りしそうな勢いで、そこへ行けぬことを悔しがっております。



No.487 23/06/11 04:29
旅人さん0 

私は〝なぜ〟〝なに〟を基本納得がいくまで聞くタイプの子供でしたので、当然母には「どうして母はお墓参りに行かないのか」と問うたのです。その記憶ははっきりあります。

「妹たちが小さいから」とか「留守番がいないと困るから」と、
そのときの情勢で理由は変わっていましたが、あるいはキリスト教が関わっている問題だったのかもしれません。
母が行かないのか、祖母が伴わなかったのかはもはや知る由もありませんが…。

神社さんに行くのも、.とはいえ露天商のお店の多く並ぶお祭りではありましたが、やはり祖父母や叔父叔母と、でありました。

唯一父と母に連れられ行ったのが七五三の時のこと。
まぁそれとてもお祖父さんは一緒でありましたが。
七五三の思い出は、慣れないポックリで歩くのに四苦八苦していた私に母が追い打ちをかけるように「歩きが遅い」だの、「歩き方が下手」だの叱られた記憶しかないので、ひそかに、母とは神社仏閣に詣でるものではないなと思ったものです。

すれ違う七歳の女の子の履き物はみな普通の草履で、あるいは私とてあの草履であれば上手く歩ける気がしたもので、
「みんなは草履で私だけこんな歩きずらい履き物なのだから上手くなんて歩けない。私も草履で歩きたい」
と訴えたのですが、
「うちはうち!」
というのみで、父が写してくれていた写真には半べそをかくか、顔を顰めた私ばかりが写っていました。
後日その写真を見てまた母に叱られたのですが、ね。

閑話休題。


そんな祖母との思い出の詰まったお寺さん、そして先祖代々のお墓。
まぁ、母曰く、そのお墓には記名はしてあるものの〝中には誰もいない〟、いなかったお墓だということでしたが、今は祖父母、父、そして何年か前には叔父もこの墓に入ったようで、私を可愛がってくれた人たちが眠っています。


そんな人たちの眠るお墓におまいりするようになって、当時とは違う新しい御本堂、新しく建てられた六地蔵さま。
見慣れない、菅笠を被り草履で旅姿の人物の大きな像も建っていました。

お寺さんのことも、仏教のことも学ぶ気も学ぶ機会もなく、ただ記憶にあるお墓参りを遂行するのがやっとでしたので、その像が誰なのかは知らず、知ろうとも思わず。

曽祖母、祖父ともに会うことが叶わなかった私の小さな子供たちを連れ、一人でのお墓参り。
お参りがやっとであったのも事実ですが。

No.486 23/06/11 03:54
旅人さん0 

お墓参りでの思い出はだいぶん薄れてきてしまっています。

それでも、まずは御本堂に寄ってお参りをしていたこと。
次に手桶に水を汲んだこと。
井戸水を汲み上げる水道だったため、ポンプの音が大きくていつもそれが怖かったこと。

石段をあがってお墓に着くと、まずは掃除をしてお墓にたっぷりとお水をかけて、お花をいけて。

そうして、あのお菓子屋さんで私に選ばせてくれたお菓子と、他にも家から持参したお菓子を供げて。

…その他にも自宅から持ってきた何かを供げていたことは覚えているのに、それが何だったかは少しも思い出せないのです。
おそらくはそう特別な何かではなく、他の家でもよく供げられる、とはいえそれはこの家らしいお供物だったのだとは思うのですが、ある意味そんな肝心なことが思い出せない。
お盆には祖母お手製のぼたもちをあげていました。和菓子全般が苦手だった私はぼたもちを食することはありませんでしたがね。

そうしてお線香をあげて手を合わせます。


まぁ、どこにでもある一般的ともいえるお墓参りのスタイルです。
それを毎年お彼岸やお盆になると、私を伴ってお墓にもうでて、必ず教えてくれていた祖母でありました。


家では毎朝毎晩夫婦揃って仏壇に向かいお経を唱えていました。
…だからやっぱりそれなりに信心深かったのでは、と思ったりもするのですが、かつての日本はみなそうだったのかもしれないし、そこはもう今となってはわからないことであります。
そうそう、父の弟にあたる叔父も共に読経していたなぁ。

私たち一家は私が小学生になってから祖父母の家の隣の家が引っ越した跡に移り住んだので、ずっと同居していたわけではなかったので、そうした記憶はむしろ転居してくる前、私と母、妹で泊まりに来ていたときのもの。
なのでその席に父がいないのは当然ではあるのですが、母は一度も列席しませんでした。

お墓参りにも共に出かけることはあまりなかったように記憶しています。
それもそのはず、父と母は結婚前から教会に通い、教会で結婚式を挙げていた人たちだったのですから。

でも当時の私はそんなことは微塵も知らなかったし、転居してくる前に住んでいた土地では父と母とが教会のミサに参列していた記憶などなかったし、だから子供ながらに信仰心の薄い親たちが恥ずかしくもあり寂しくもあったのです。

No.485 23/06/10 05:05
旅人さん0 

幼いころは、それでも、信心深い…かったかどうかは今となってはわからないこととなってしまったけれど、お彼岸やお盆といえば、孫たちを連れてお墓参りをする祖母がいてくれました。

当時住んでいた家の隣の隣にあったお花屋さんで花を買い、家を出てしばらく歩き…ちょうど子どもたちが一休みしたいだろう頃にちょうどあるお菓子屋さんによって、
「お墓参りが終わったら、ね」
と私たち用のお菓子も買ってくれました。

妹や従姉妹も一緒に行くからとなると、祖母一人ではさすがに大変だろうと叔母もついて来るようになり、まるで小さな遠足の行列のようになりました。

祖母に買ってもらったお菓子は私の好きなものを選んでいたこともありますが、今でも懐かしく、スーパーなどで見かけると時折買って食べている私。
ただ…製法なども時代と共に変わっているのかもしれませんし、当時とは格段に美味しいお菓子が生まれて、舌が肥えたこともあるのかもしれませんが、あの、祖母に買ってもらったお菓子の美味しかった味にはその後会えたことがありません。

祖母と一緒に歩いたこと、
好きなお菓子を買っていいよと見守る祖母の優しい包むような視線を浴びながら、あれこれと悩んで、これっと選んだお菓子という付加価値と。
そんなかけがえのない思い出が詰まったお菓子にはもう出会えないのかもしれません。

それはそれで祖母の買ってくれたお菓子か〝一番〟であるようで、もう出会えないでもいい気がして。


…中学にあがって一変した生活。
それからずっとお墓参り…お寺さんから遠のいてしまったのだなぁ。

あの頃の祖母は何歳だったのだろう。
祖母は歳を聞くといたずらっ子のような笑みを浮かべて決して教えてはくれなかったので、祖母の歳も知らずにいたけれど。


祖父母は毎年毎年、親族のところへ行くとき、私を伴ってくれたものです。
海の近くの親戚の家。
それから庭に大きな石が置かれ池まであるような親戚の家。
そしてお菓子屋さんを営む親戚の家。

あの時からずっとずっと続くかに思えた習慣は、まるで遮断されたかのようにブツっと途絶えてしまったのでした。

お世話になった親戚のあった辺りは、あの東日本大震災の折大きな被害を受けた地域で、…でも私にはその安否をたずねる手段もなく、ただただ心で無事を祈ることしかできなかったのでした。

No.484 23/06/09 17:53
旅人さん0 

とあるお寺さんでいただいた暦にあった、生まれた干支による長所・短所が、私にしろ、夫にしろ怖いくらい当たっていてドキドキしてしまう。
一体どなたがお書きになったのだろう。

子どもたちのものも怖いもの見たさで見てみると、やはりズバリ当たっている。

まぁ、これは占いというわけではないので、その干支生まれの人間の性格をより多く分析し、その結果をまとめてみれば、そうなるのかもしれないのだけれど。


いやぁ、ほんと当たっている、当たっている。
わが家の場合に関して言えば、本当に誰一人についても反論する余地のないくらいに当たっている。

あまりにも当たっているので、なんだか[〇〇年生まれの人間はこうである]とハンコでも捺されたかのような感覚すら覚えたくらいである。


私はお寺さんやら神社さんにある、『ご自由にお取りください』という小冊子に実に弱いのである。
なんなら有料であってもついつい買ってしまう。

それにしても、こんな凄いものに出会うとは。

これだから、こういった小冊子をいただくのはやめられない。


ここに書かれていた長所・短所が当たっていたのは、あくまでもわが家の人間に関しては、でありますが、ね。念のため…。

No.483 23/06/09 08:40
旅人さん0 

いつまで経っても、神社仏閣、神道仏教について初心者のままのおばさん。それなのに毎日図々しく祈願しています。

祈ることしかできない、祈らずにいられない。
そんな思いにさせるのは、させているのは、他ならぬ日本という国。

「この日本の国をお守りください」と。


自然災害も然り。
そこには疫病も含むのですが…。

大荒れの国会。
でもそれは荒れて当たり前。
荒らして、なんならひっくり返して欲しい事ばかり。

通してはならないものを力づくで通してしまう与党自由民主党、どこをどうとって〝民主〟を名乗っているのか、自由厚顔無恥党なんじゃ?
国会中継を観ていると戦前に逆行していくような不安しか抱けない。
本当に涙が出るほど歯がゆいし、口惜しいし、悲しい。

…馬鹿でしかない一おばさんですけどね、そこをきちんとわかるように解説して、内閣の大臣さま達に切り込んでくれてる人たちがいるんですよ。
それが事実であることはのらりくらりと交わしたばかりの応答ぶりをみればわかるんですよ、馬鹿でもね。

でも通っちゃう。
通しちゃう。

日本の未来を任せてはおけないと、このままではいけないとしか思えない、感じられない。

将来ある若い世代、その子供たちに申し訳ない。


祈るだけではいけないと、何ができるだろうと、思ってはみるものの、実際にそれを動かす直接の権利を持つ議員たちが身体を張って闘ってもダメだなんて…。


どうなる日本…。


この法案を通さないとどうなってしまうと考えていて通した?
そこまで語ってくださいよ。



マイナンバーだって不安でしかないし、実際すでに問題が露呈しているにも関わらず、保険証と紐づけぇ?
紐づけして何をしようとしているの?
私たちの未来はどんな予報図をえがかれているのか、まるで見えない。

No.481 23/06/08 09:55
旅人さん0 

【薬師如来】さまの正式名称は
【薬師瑠璃光如来】さま。

お薬師さまは、左手に瑠璃色に光りを放つ不思議な霊薬が入った『薬壷(やっこ)』を持ち、あらゆる病気やケガなどを癒やすお医者さまのような仏さまです。
『薬師本願功徳経』という経典によれば、お薬師さまは衆生を救うため、十二の誓いをたてたといわれています。

それについてはかつてのレスで書かせていただいておりますので、今回は割愛いたします。
薬師如来さまが何故十二の誓いを立てられたか。

それは仏教の開祖、釈迦如来さまに由来するのではないでしょうか。

お釈迦さまは説法により私たちの心の病を治し、悟りに至らせる『医王』とされてきました。
そうした性格を表すのが先の誓いであり、医王としての釈迦を特化して仏化したのが〝薬師如来〟なのではないか、ともいわれてもいます。


それゆえ…かどうか、定かではありまさ、お釈迦さまとお薬師さまは実によく似ておられ、一見見分けがつきにくいのです。

まずお二方は右手で【施無畏印(せむいいん)】、左手は【与願印】をむすぶ同じ印相だからであります。違っているのはお薬師さまは左手に薬壺をお持ちだということ。

薬師如来さまは『東方浄瑠璃世界』の教主であるとされ、対して西方は『極楽浄土』、教主は【阿弥陀如来】さまであります。
この浄瑠璃世界の大地が七宝のひとつ『瑠璃』でできており、それが光り輝く様から、『薬師瑠璃光如来』さまと呼ばれるようです。


地球も瑠璃色だと、歌にもされていますが、瑠璃色の紫陽花といわれることもあります。
…瑠璃色、ねぇ。

我が家にある紫陽花は、
一つは薄緑から白となり、いま薄い水色であるものと、
赤紫(買ったときはちょうど今このスレの画像にあるようなピンク色だったのですが、ねぇ)のもの。
土がアルカリ性か酸性かで色が変わるものではありますが、瑠璃色はなかなか見かけません。


ところが。
今朝、ゴミ出しをしながらぼぉーっとご近所に咲く花を眺めてあるいておりましたところ、…あったのです。
まさに瑠璃色の紫陽花が!


お薬師さまのお縁日に、なんだかとても縁起の良いものを見させていただいた気がして、…外は曇り空でありますが、私の心はとても晴れ晴れとしております。



No.480 23/06/08 07:15
旅人さん0 

本日八日は【薬師如来】さまのお縁日。

これは薬師如来さまの徳を講讃する法会『薬師講』に由来すると考えられている、といいます。

…薬師講?
初薬師の祭日に参列したこともあるのだけれど、…はて?
そこで執り行われていたかどうかさえわからない、万年神社仏閣初心者マーク。


あ、そういえば…。
群馬県の吾妻郡中之条町四万温泉にある【日向見薬師堂】で、四月八日に【日向見薬師講】を開催すると書いてあったことを記憶している。
茅葺きのとても存在感のある御堂です。


ん?
そうそう、八月八日には栃木県の日光市にある輪王寺さんの別院、温泉寺】さんの【薬師講】が営まれ、
その後、通称『立木観音さま』と呼ばれている【中禅寺】さんのすぐ横の中禅寺湖の湖畔で【野天採燈大護摩供】が執り行われるんだった。

何年か前に、偶然この日『中禅寺』さんに参拝で訪れた際、その野天大護摩供の準備をされる〝山伏〟の方を見かけたのですが…。
一般の者がその場に居合わせることが可能かどうかもわからず、しかもまだまだ始まりそうな様子もなく、お声をかけるのも憚られ、その場を立ち去ってしまったのです。

家に帰ってから調べてそれを知り、何故その場に戻らなかったかと悔やんだんだった。


【薬師講】とは薬師如来さまを信仰し念誦(ねんじゅ)する法会。
『薬師経』を講義解説(講説)して『仏讃歎(さんだん)』したりするといいます。

念誦って?
仏讃歎って?
難しい言葉ばかりですが…。


〝念誦〟とは。
〝心〟に仏さまの姿を思い描き、〝口〟に仏さまの御名や経文などを唱えること。念仏誦経。

〝讃歎〟とは仏徳を褒め称えること。


…ふぅ。


本当、まだまだ初心者です。
…〝初心〟は大切ですけれど、ねぇ。ヤレヤレ

No.479 23/06/06 13:58
旅人さん0 

紫陽花は浄化の花とも言われています。
また、七変化する色味から『七つの病を吸い取る』と珍重されてきたともいいます。


紫陽花の花は私の好きな花の一つ。

しばらくは活けられた紫陽花を見てはニヤニヤ、庭は出てネズミの額ほどの庭に咲いたいく種類かの紫陽花を見てはニヤニヤして過ごす日々が続きましょう。


ことに庭では通りかかった人に不気味に思われないようにくれぐれも注意しなくては。


No.478 23/06/06 13:54
旅人さん0 

ご近所で親しくしていただいている方がかつてキエフに短期留学されていた方で、このような事態になる以前からその留学先に向けて寄付活動を続けておられました。

今回キエフに寄付をするためチャリティーイベントを行うお話をいただきました。

ただ、そのイベントの日はどうしても外せない用があって行けないため、わずかながらの気持ちをその方のお宅へ届けにまいりました。

すると
「ねぇ、おたくの紫陽花は青だったわよね、この色の紫陽花はあるかしら」と。
見るとそれは赤紫の大きな額紫陽花でありました。
「いいえ」と私。

「今朝ね、少し切ったのだけれど、どなたかが見えたらあげようと思っていたのよ」と少し嬉しそうにおっしゃると、私のいる玄関をぬけてお家の裏手へと向かわれました。

おしゃれな鉢にまるで活けるよう入れられた紫陽花は、小さな鉢植えのそれよりももっとたくさんの花でありました。
「差し上げるわ」

…ちなみにその方はいつもそのようにお話になられる方です。
もちろん、私は当然違います。


赤紫の紫陽花、どう活けよう。
とはいえ、ご想像通り生花もフラワーアレンジメントも無縁で生きてまいりました私。
信楽焼の花瓶を引っ張り出して、下の方の葉をちぎり、まさに、さしただけ。
それでも少しだけ向きを整えると、紫陽花が勝手に美しく活かってくれました。


そういえば…。
この間読んだネットのブログで六月六日は紫陽花のおまじないをする日だと書いておられた方がいました。

この紫陽花のおまじないの日付は諸説あるのですが、その方は

『6月の6がつく日(6日・16日・26日)に、紫陽花の花を半紙でくるみ、水引で縛って軒下や玄関に逆さに吊るすと、【厄除け・開運】になる。
またトイレに吊るすとケガレが払われ、清められるとされている』

と書いておられました。

私が知るものは年に一度、六月のとある日に、というものでありました。(…ええ、例によってガサツな脳みそのおばさん、その日付を失念したようで。ヤレヤレ)


まさに今日、六月六日。
紫陽花の日に素敵な紫陽花をいただかことができました。
そんな意味もあり、大変嬉しく思い赤紫の紫陽花を眺めてはニヤニヤして過ごしております。


No.477 23/06/06 12:23
旅人さん0 

話を国瑞寺さんに戻して…。

国瑞寺さんの山門は形のみならず瓦に特徴があり、『摩伽羅(まから)』と呼ばれる怪魚が乗っています。
これは、シャチホコの原型なのではと言われているようです。

摩伽羅は摩竭魚とも書くといいます。
魔除けとして黄檗山総門の屋根に乗せられている想像上の動物だということです。
鯱(しゃち)に似ているが鰭(ひれ)の代わりに足が生えており、インド辺りにその原型が求められるといいます。
水辺の動物の中で最強であるとされ、アジアでは聖域の結界にあたる入り口の門、屋根などに置かれるといい、仏像の装飾にも用いられることがあるといいます。


黄檗山萬福寺の総門、かぁ。
…今は思ったらすぐにネット、スマホで調べられてなんとも便利な世の中であります。

パッ。

お、おお!
…ま、まさに瓜二つ!
萬福寺さんにはまだ参拝したことはありませんので大きさはいざ知らず、その形はまさに同じ、といってもかごんではありません。

なるほど、黄檗宗の…。


ちなみに群馬県では有名な、高崎市にあります『少林山達磨寺』さんも『黄檗宗』であります。
達磨寺さんはどうだったかしら…。


ポチっ。


おおっ!
やっぱりこの形!

なるほど…。
黄檗宗さんのお寺さんはこういった山門なのだなぁ。





No.476 23/06/06 11:54
旅人さん0 

国瑞寺さんのの山門はたいそう立派なものであります。
初めて訪れたときにはあまりの立派さに思わず立ち止まってしまったほどです。
大きなものではありませんが、青空を突くような、高さのあるもので、あまり見たことのない造りであります。
この山門、東京都三鷹市の『禅林寺』さんから移築されたものといいます。

時代の流れで、禅林寺さんは車が通れる山門が必要となり、黄檗宗繋がりでこちらのお寺が譲受けることになったのだとか。

東京三鷹の禅林寺さんといえばあの【森鴎外】と【太宰治】のお墓がある事で知られています。


あ。

…太宰の亡くなったとされる日まであとちょうど一週間だ。
亡くなったとされる日は六月十三日だけれど、桜桃忌は太宰の誕生日、六月の十九日に太宰を偲ぶのだよなぁ。
桜桃忌には全国各地の太宰ゆかりの地で今なお太宰を偲んだ催しが営まれているといいます。
群馬県の利根郡みなかみ町にある旅館も太宰が転地治療をした縁で記念碑があり、やはり桜桃忌には記念碑に花をたむけるのだといいます。

そして。

太宰の墓と鴎外の墓はなんと向かい合ってたっているといいます。
これは偶然ではなくて、鴎外を尊敬していた太宰の希望であったといいます。

とはいえ、鴎外の家、森家は、代々の津和野藩主亀井家の典医であったため、津和野にも鴎外の墓があります。
そのどちら墓も鴎外の遺言「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」に従って、一切の称号や栄養を排し『森林太郎墓』と刻まれています。



あ。
また大きく脱線してしまった。





No.475 23/06/06 06:50
旅人さん0 

『笠掛野御用水』は、宿用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされました。

当時原野であった笠懸野は、水利が悪く耕作できない荒れ果てた土地であったといい、景能公は水を灌漑するため渡良瀬川より水を引き、寛文十二(1672)年から十年以上費やし岡登用水堀を完成させます。

用水路の長さは二十四キロメートルにも達し、笠懸野には本町村のほか久々宇村・桃頭村などの新田村がたくさん生まれることになりました。
ちなみに現在もあります『岡登用水』は明治時代に至り、景能の開削した『笠懸野御用水』の流路を変えて再興されたものだといいます。


しかし、景能公はこの大事業達成による大きな功績や名声を妬む心なき人々の悪口、同僚官吏による嫉妬による讒言、下流域住民の余水の湧水問題などへの苦言により讒言により、幕府から江戸への召喚命令を受けその途次、切腹を申し付けられ駕籠の中で自刃(切腹)したと伝えられます。
貞享四(1687)年十二月三日、享年五十余歳であったと云われております。

江戸に召喚された理由については諸説あり、用水路建設の費用に年貢米を流用してしまったこと。
そして年貢米を流用したと同僚からの讒訴にあったといいます。

また、水利権の既得等で揉め、事業内容や湧水問題で讒訴にあった、等。

他にも、岡上景能公は苦労して用水を造ったものの維持管理ができず、同時に用水としての効用が発揮されず、下流農民からは悪政と騒がれ訴えられた等々があったとされます。


景能公は、生来剛直、淡白で国のため、人のためならば世論に関せずただ実行に命をかけても遂行する開拓人であったといいます。


景能公は土木技術を父景親と帰化僧『独湛性瑩禅師』に学び、灌漑・治水工事に優れた手腕の代官でありました。

その縁あって、国瑞寺の開山は独湛性瑩禅師となりました。


景能公の自刃を受け、当時の国瑞寺の住職であった桃巖(とうがん)禅師は、妬みなどという個人的な感情だけで景能公を自刃するに追いやった人々のいる世情にあっても、正しき眼により景能の人柄・功績を称え【岡上雪江伝】という書物を残されました。

国瑞寺には「岡上雪江伝」のほか、景能が切腹した際の短刀、御位牌があります。
(これらは常時公開はされておりません)




No.474 23/06/06 06:28
旅人さん0 

ところで。

この国瑞寺さんのあります、群馬県みどり市の笠懸町の〝笠懸〟は笠懸とはご想像通りにあの馬上から矢を射る騎射のことで、【源頼朝】公がこの地で笠懸をした事が地名の由来になっているといわれています。

平成の合併前までこの辺りは『新田郡笠懸町』という地名でした。
残念ながらかの合併で【新田義貞】公に由来するという由緒ある地名は消滅してしまったのでした。


あらためて地名というものはその地の由来を残した貴重なものであったなぁと、実に残念に思うのであります。

同じく合併でみどり市となった大間々町にしても、そもそもが歴史自体が異なるものであったように私などは思うのですが、実はこの笠懸町と大間々町を繋ぐ存在が江戸時代におられました。

その人物こそがこの国瑞寺さんの開基であり、その方のお墓が国瑞寺さんにあるのです。


それは徳川四代将軍家綱のころ。
江戸時代初期の寛文七(1667)年に笠懸野の開発をされたときの代官、【岡上景能(おかのぼりかげよし)】公であります。
景能公が師事していた独湛性瑩(どくたんしょうけい)禅師により開山されました。
禅師は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派、黄檗宗の僧であり、福建省興化府莆田県の出身。黄檗宗四代官長を務められた方といいます。

【岡上景能】公は、みどり市はもちろん、桐生市においてもその伝記を学ぶほど地元の偉人として知られた人物。

景能公は武蔵国児玉郡高柳村(現 埼玉県本庄市)の農家白井家に生まれ、岡上家の養子となります。
岡上家は、徳川幕府開設以来の十八代官の一家として、代々代官職を務める家柄でした。

景能公は養父である岡上景親の跡をついで幕府代官となり、寛文二(1662)年、幕命により笠懸野に陣屋を築き代官として移住します。


寛文八(1668)年、足尾の銅山奉行を兼ねると、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図りました。

銅輸送の効率化では、大間々〜平塚河岸間に、最短ルートとなる笠懸野の原野を縦断するルートを新たに設け、中心の宿として大原宿(現 太田市大原町)を設置し、『足尾銅山街道(あかがねかいどう)』を整備しました。


また、それとともに本町宿に水を引くため、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行いました。





No.473 23/06/05 23:09
旅人さん0 

版画刷りされた印は実にさまざまです。
たくさんの花が緻密に重なることなく、しかもどの花も同じ顔をしておらず、美しく描かれているもの。

六地蔵さまが中央にある〝なにか〟を守るようにお立ちになられるお姿であるとか…。

ご住職はたいそう絵心のある、そして大変手先の器用なお方のようです。
そうそう絵はがきもお作りになっておられ、そのうちの一枚を例にあげると、たいそう可愛らしいお地蔵さまの描かれたものに一言メッセージが添えてあるというもの、でありました。


また、版画は篆書(てんしょ)で書かれた文であったりも。
その…篆書でなんと書かれているのかさっぱりわからない私。いくつかの文字は読めるのですがね、全体的にはわからないものが大半です。

ご住職さまになんと書かれているのかをお聞きしたいと思ってはいるのですが、なかなかそんな機会に恵まれることなく。

そんな版画絵の上に墨書きくださるお手もまた見事な草書体。
ご住職の書に対する深い思いを感じます。

そして。
それこそ御朱印ブームがまだ訪れていなかったころであったにも関わらず、御朱印を求める参拝者に対して
その者たちから喜ぶようにと工夫され編みだされた国瑞寺さんのご住職の深い愛情を感じます。

本当に本当にありがたいことです。





No.472 23/06/05 18:33
旅人さん0 

まだ世が御朱印ブームを迎える以前から、こちら国瑞寺さんの御朱印は一般的ないわゆる〝御朱印〟とは一見して異なるものでありました。

それは一面淡い朱色の印の捺された用紙に、『奉拝 南無釈迦尼佛』と一枚一枚筆書くださったものであります。
その朱の印はご住職自らのお手でお彫りになった、用紙大の版画であります。
その版画印を毎回毎回朱印帳に捺すことはたいへん手間もかかり、ともすれば上手く捺せないといったことまで起きてしまうことから、こちらの御朱印は書置きのみとされているのだと、日付をお書きくださった後、お盆に乗せてお渡しくださりながらそうご説明をなさっていました。

奥さまがそっとお教えくださったことに、
御朱印は一年間はこの図柄で、来年になるとまた図柄を変えたものになるとのこと。

さらには、
『お正月限定のもの』、『お盆・お彼岸限定のもの』、『秋彼岸限定のもの』があるとのことで、
「よろしければそのころにもお越しください」
とおっしゃってくださいました。


さすがに何回か伺ううち、初めてお受けしたときの図柄に戻ってはおりましたが、こちらのご住職さまと奥さまの誠実なお人柄が心地よくて、何度も再拝している私であります。

この版画がまたとても見事なものであることも、私が何度となく再拝し、御朱印をお授けいただいている一因でもありますが。


刺繍、切り絵、ポップアップなど、変わり種御朱印は増えたものですが、一枚一枚版画刷りをされ、筆書された御朱印は、この御朱印ブームとなって久しい今でも、他に例を見ないものであります。


No.471 23/06/05 07:57
旅人さん0 

お詫び)誤記を訂正しただけで、ほぼ同内容の文面です。
お詫びして訂正いたします。

誤)今回
正)今後




群馬県みどり市の国瑞寺さんへ参拝させていただきました。

こちらを初めて訪れたときはまだ御朱印をいただきはじめたばかりのころのこと。
ただひたすら、神社仏閣を参拝させていただき、今まで神仏に無縁な生き方をしてまいりましたことをお詫びして、宗教というものを学ばせていただき、今後の生き方を考えていこう、できうるなら神さま仏さまに正しい道へと導いていただきたいと思ってあちこちの神社さん、お寺さんを闇雲にまわっていたころで。

大変失礼なことに宗派もご本尊さまも存じ上げないまま、ただただ参拝をさせていただいておりました。
(そうは言っても今とてさほど変わりはないのが、なんとも情けなくそしてかなしいところでありますが…)

こちらのお寺さんの御朱印は大変こだわりのある御朱印であります。
でも、当時は御朱印のなんたるか、その御朱印が変わっているのか、スタンダードなのかすらわからない、超初心者。

ご住職のおっしゃることにただただうなずくだけでありました。
今なら、なぜそのような御朱印となさったのかとか、いつから御朱印をそのようになさったのか、とか、うかがいたいことはたくさんあります。
ですが当時の私は、いままでずっと無縁であった、お寺さんという特殊で特別な場所を訪れるというだけで緊張しておりましたし、敷居も高いように感じておりました。


そんな国瑞寺さんこだわりの御朱印とは。



No.469 23/06/04 06:12
旅人さん0 

家に帰り、(そういえば全東院さんの絵の描かれた御朱印ってどんな感じだったっけ)、そう思って開いたネット。
手書きの大きめの文字の書かれた紙を画面いっぱいにうつしただろう写真が目に入りました。

『都合により御未印の対応は終了いたしました
今後の対応の予定はございません
たくさんの方々にご参拝いただきありがとうございました
合掌  』

えっ…。

え、えぇっ!

私、書いていただいてしまいました。

…。

何があったんだろう。
何かあったのだろうな。

…そもそもこの画像、いつのことだったんだろう。昨年の春にはまだ絵の描かれた御朱印を紹介したものがみられます。

見れば丁寧に描かれた愛らしい画と、よく書をされる方のお手であります。
混んでいなければ基本直書きしてくださったようです。
書き置きもたくさんご用意があったようです。

…何かあったのだろうな。
こんなに一つ一つ思いを込めて描かれて、一字一字丁寧に描かれておられた方(々)だもの。

私は今回お授けいただいた画の無い御朱印で満足ですが、いつかまた、そんなお気持ちになれる時が来るとよいのになぁと、思わずにはいられないほど、美しい画と、美しいお手でありました。

おつらい思いをされてしまわれたのかもしれない…と、心を痛めないわけではありません。
そのお心が癒えて再び、と思うだけであります。

そう思わせるだけ、気持ちの…〝愛〟のこもった絵入り御朱印でありましたから…。


…あの受付くださった方の戸惑いを秘めたお顔には、こうしたものが隠れていたのですね。





No.468 23/06/04 04:45
旅人さん0 

さて。

タクシーが走り去っていった、ということは…お客さまがお帰りになったということで、ゆるゆる庫裏へと向かいます。

先ほどお話しをしました方が対応してくださいました。

「文字だけの御朱印ですがよろしいですか?」
「ええ。こちらこそお客さまの対応をしておられた直後ですのに、わがままを申し上げお手を煩わせて申し訳ないです。ありがとうございます」

その方が奥へ入られた後、「文字だけの御朱印〜」とおっしゃられたことに妙に引っかかりを覚えました。

絵の描かれた御朱印のご用意をされているお寺さんですと、その見本のようなものが掲示されていることがほとんどですが、こちらは美しく掃除された上品な玄関先でしかありません。
あれ?
御朱印の対応をされる窓口が他にあったのだろうか、それは申し訳ないことをしてしまったぞ。

などと考えながら、座るよう言われた椅子に腰かけて見るとはなしに玄関の下駄箱の上を見て、その横に目を向けると…。

!!

錫杖だ!

それも歩いて使う錫杖です。
本来はそれが当たり前ですが、最近では手持ちの丈の短いものしか見ることがなかったものですから…。

使い込まれた錫杖と。
外でお使いになる手に待つタイプの鐘と木魚が置かれています。
…ああ、托鉢をして、その浄財で六地蔵さまをお建てになったということでありました。

そんな感動に浸っているうちに私の御朱印帳を手に、先ほどの方がお戻りになりました。
見事なお手であります。

こちらは納経して御朱印をお授けいただくと【奉納経】と書いてくださるようです。


お礼を申し上げ、お寺をあとにいたしました。

No.467 23/06/04 04:19
旅人さん0 

タクシーの運転手さんはエンジンをかけたままです。
庫裏で御朱印の拝領の希望をお伝えいたしますと、来客中なので待つことができるならば、とのことで待たせていただくことに。


こちらのお寺さんは寺伝でも創立年代不詳といいます。

以下は上毛新聞社刊「ぐんまのお寺曹洞宗Ⅱ」の内容を拾い書きしております。

『鑑翁観察和尚』の開山ということがわかっており、こちらの方は『法長寺』も開山された僧で、『同聚院』の四世であったといい、そのことから承応年間(1652〜1655)ごろの創建とみてよいのであろうと書かれておりました。
そしてそんな関係から全東院は同聚院の末寺でありました。

村の郷土史にある由緒に『宝永の頃(1704〜1711)2回の火災に遭い、酒井侯より拝領の品々、和尚の蒐集せし漢籍、荘厳なりし堂宇も烏有に帰したりとう』と記してあるのだといいます。

御本尊の十一面観音は江戸期のものと推定されているようです。その台座内部には『阿久津』の 墨書があるといいます。

御本堂は昭和五十六年(1981)に改築され、茅葺きからトタン葺きになったそうです。


境内にある安永八(1779)年銘の丸彫り如意輪観音像さまは二十二夜塔で『当村中』の建立。
また紀年銘の無い石彫りの舟に丸彫り地蔵尊が立つ石船地蔵がありましたがお顔の部分が欠損してしまっておられました。

 三郷村『郷土調査』の中に次のような記述があるといいます。

 『子育地蔵ハ韋駄天尊天神ヲ祭レルモノニシテ、百日風邪治療ノ祈祷ヲナシ其ノ効果覿面二驚カザルモノナシ』

こちらのお地蔵さまは『出口地蔵』とも呼ばれているとのことでここでの『出口』とは八坂村の村はずれの意味で、富士山古墳裏の路傍にあったといわれます。
四月十六日が縁日といいます。


六地蔵は現住職の托鉢によって浄財を得て昭和六十二年(1987)に建立されたものであるといいます。
これは…!
これはすごい!
ご住職が托鉢をされるとは。
…とはいえ、万年神社仏閣についての知識レベルが初心者の私、宗派によっては当たり前のことだったり、…するのかなぁ。
最近はこの托鉢僧も見かけることはほぼなくなりました。
…今私が田舎に住んでいるせいかしら?


現在は『お地蔵さまと蓮の寺』をキャッチフレーズに百地蔵建立が進められているのだといいます。

No.466 23/06/03 09:37
旅人さん0 

さて。

群馬県伊勢崎市の『全東院』さんは、あの前橋市の『前橋厄除け大師 蓮花院』さんからほど近いところにありました。

まあ、今回本当に偶然通りかかったのですが、こちらのお寺さんは群馬県で御朱印をお授けいただく方には有名で、県外からも参拝しては御朱印をいただく方が多くおられたといいます。

御朱印も可愛らしい画の描かれたものが何種類もあり、掲示してあったくらいなようでした。

私もネットで時折こちらのお寺さんに行かれたという記事を読んでその名だけは存じ上げておりました。


この日もタクシーが一台、境内に停まっておりました。
…タ、タクシー、かぁ。

たしかに、こちらのお寺さんは最寄りの駅もバス停もないところであろうかと思いますので、こちらへ車以外で来ようとすれば、タクシーになるのだとは思います。

やっぱり御朱印、なのかなぁ?


境内には新しい石仏さまや石碑が数多くあったことは書かせていただきましたが、なかには(ん?…?)と、思うような像も。
二宮金次郎の像もありました。

ただ、六本の牙のある石造りの像は大小三体、お祀りされていました。

この六つの牙の象は、 お釈迦さまの御母堂『摩耶夫人』がこの象を夢に見て釈迦を懐妊したとされ、釈迦の入胎を象徴する仏教では大変ありがたい存在であるといいます。
こちらのお寺さんのご本尊さまは釈迦如来さまのようですので、そうしたことからこの、六つの牙をもつ象を大切にお祀りされておられるのかと思いました。

ちなみに普賢菩薩さまのの乗っておられる白象もまた、六本の牙を持つようです。

参拝を御本堂の前で済ませ、庫裏へと向かいます。

No.465 23/06/03 05:20
旅人さん0 

このたびの大雨により全国各地で被害が出ております。
西日本を中心に各地で多くの豪雨災害が発生しているようです。

被災された方々に、
そして
今なお激しい雨が降り、まさに今まさに被災されておられる方々のご心労やご不便を拝察し案じております。

どうかご自愛くださいますよう心よりお祈り致します。

このたびの豪雨被害を被られた方々に謹んでお見舞い申し上げますとともに、一日も早いご復興を祈念致します。


また降雨や土砂災害による被害の拡大も懸念されております。
これ以上の被害がないことを祈るしかありません。

No.464 23/06/02 17:38
旅人さん0 

線状降水帯が発生し、緊急安全確保が出され、その警戒レベルが最も高いレベル5の出ている地域もいくつかある。
土砂災害警戒情報や、氾濫危険水位を超えている河川もまた、あちこちで発表されている。

そして各地広い範囲で雨雲は発達を続けていて、今後夜間になって状況が悪化するおそれがある。


年々、そんな状況が時期を早めて発生し、回数も増えてきているように思う。


コロナといい、この異常気象、自然災害といい、それだけとっても、
日本の、地球全体の未来を思っては不安になる。
今年の夏は早い。
ということは今年の夏は長い、ということであろう。


人は自然を前にあまりにも無力である。
それは太古の昔からなんら変わらない。
実朝が八大龍王に祈った時代と、同じ思いで自然のなすさまをただ見守り、無事を祈るしかない。


だからこそ、やめられる人為的な問題、人為的要因は一刻も早く解決させるべきであるというのに…。


「八大龍王雨やめたまえ」

人の心に降る雨も…。

No.463 23/06/02 04:24
旅人さん0 

御朱印で人気の…特にお寺さんなどで多かった気がするのですが、
御朱印帳をお預けして後日拝受しに伺う、あるいは郵送していただく、という、本来なら双方にとって(?)有利ともとれるこのシステム。
私はどうもこれが受け入れられず、今までそうしたことがありません。

とはいえ、今はコロナ禍のせいで書き置きの御朱印が増え、そうしたシステム自体衰退してきているようにも思えるのですが…。


私がそこに引っかかりをおぼえたのは、今まで一文字一文字をお心を込めてお書きいただいてきた御朱印帳を、何冊もの御朱印帳と一緒に山積みにされることとか、ましてやそれをゆうパックとして他のたくさんの荷物と一緒にカゴに入れられたり、バイクに積まれて運搬されたりということに抵抗を感じたから。

どんなに心ときめいても、矜持を持ってきたことであります。


参拝せずにお書き置きの御朱印を郵便等で拝受するのも違うと考え、それはあくまでも私一個人ののポリシーであります。

コロナ禍、参拝できずにいる人たちに手を差し伸べてくださったご好意であることは本当にありがたいことだと思ったものです。


群馬県でもいくつか御朱印で人気のお寺さんがあります。

その中で、
…なにかがあってのことなのでしょう、御朱印を終了されたお寺さんがありました。

とても可愛らしいお地蔵さまや動物の絵が描かれ、さらにそこには書家のように見事なお手の文字の書かれた御朱印でありました。


そのお寺さんの前を偶然通りかかり、初めて参拝させていただきました。

お寺を囲う塀にお地蔵さまの可愛らしいレリーフが、くどくない上品な感じにはめ込まれていました。

思っていたよりも小さなお寺さんでありました。

石仏さまの他、大小さまざまなたくさんの石造物が、境内の中、整然と配置されています。


その石造物にはネットでよく拝見していた、あの、見事なお手の文字が彫られていました。

No.462 23/06/01 15:38
旅人さん0 

…。

『開運なんでも鑑定団』というテレビ番組でも、価値あるもの、贋物、ほとんどくべつがついたことがない私。

この正円寺さんの山門もどう見てもそんなに古い物には見えません。

いま、写してきた写真をあらためて見なおして見ても、やはりそんなに古くは見えないのです。
白木のまま(あるいは天然の防腐剤で自然な仕上がりのものが塗られているかもしれませんが)の木製の門、
どう見てもせいぜい昭和の末くらいのものにしか見えない。
むしろ木の香りすらしそうなほどです。

室町時代ですよ、室町時代。

そんな古い時代のものをせいぜい昭和の末に造られたものだろって鑑定しちゃうおば(か)さん。
この人はぜったい骨董品とかに関心を持ったり、ましてや購入とかしてはなりませんね。

とはいえ、この山門は平成九(1997)年に大改修を行ったといいます。
その改修の度合いがかなりのものであったとするならば、…当たらずといえども遠からず?

その門の前には美しいお顔立ちの六地蔵さまが並んでおられ、その手前には大きな石造りの薬師如来さま(文政ニ年)が座しておられます。
こちらがまたそれはそれはたいそう美しいお顔立ちをなされています。
(ええ、ご想像の通り、ここでぽぉっとしていて、御由緒の書かれた説明板を読まず、古墳があることにまるで気づかなかったのです)

山門のうちにはいりますと、ほぼ正面に御本堂。
大変きれいに掃き清められた境内であります。
藤棚があり、その横には何やら小径が設けられていてそう古くない…たぶん…石仏さま、十三仏さまがその小径の傍らにお祀りされていました。

天台宗宗歌の石碑があったり、あの元三大師さまが鬼になられた際のお姿を写しとられたという〝あの〟画を彫られた大きめな石碑もあります。

どなたもおられない様子で、御朱印のお授けもかないませんでした。

そして。
古墳の方まで出向いていれば、たくさんの石造りのお地蔵さまがおられたようで、とてもとても残念なおばさんでありました。


ちなみに。
夫に聞きますと、正円寺さんの古墳のことを知っていたとのこと。
だてに歴オタをしてはいない。

はあぁぁ。

No.461 23/06/01 13:04
旅人さん0 

群馬県前橋市の【正円寺】さんへ参拝させていただきました。

正円寺さんの山号は『施無畏山』。これは「無畏を施す」即ち、こころに安らぎを与えることを本誓とする『聖観音』さまを御本尊とされていることに由来するといいます。
また、院号の『延命院』は『子安延命地蔵尊』を古代本尊とすることに由来しているそうです。

こちらのお寺の北の小山は堀之下二子塚古墳と呼ばれる前方後円墳だといいます。
正円寺古墳とも呼ばれているといい、この古墳は古墳時代後期の6世紀前半頃のものと推定されています。
規模は全長約65m、高さ約7mで竪穴式石室と横穴式石室が確認されています。

幕末直前頃に盗掘されたらしく副葬品等は皆無であったそうですが、遺骨五体が確認されたことから『五霊大明神』と呼ばれたこともあったといい、明治維新後は神社として扱われていたといいます。

かつては全域が正円寺さんの寺域であったようですが、古墳頂上の後円墳のみ(約八十坪)は現在は寺の管理を離れ、大胡神社の所有となっているといいます。

…と、こちらの山門の前にある説明版に書いてあったのですが…。
石仏さまに気を取られ、あとでいいかなと写真におさめて帰宅してから読んだので、古墳らしきものには一切気がつくことなく、お寺さんをあとにしてしまっておりました。

こちらの山門はたいそう立派で、そしてあまり見かけない風の門でありました。
さもありなん、こちらの山門、近く(もないのですが…)にあった『大胡城』の北門を移築したものなのだといいます。
棟木が萩の木と考えられ「萩の門」の名があるのだそうです。

古来、前橋市上泉町以東は『大胡城』(天文年間(1532-1555)のころに築城されたとされる)の所領時代が長かったといい、正円寺さんは大胡城の鬼門に当たる『応昌寺』さんの末寺であるといい、そういった意味で大胡城との関係は深いものであったといいます。

元和二(1616)年に、この地を約二十五年間治めていた『牧野氏』が越後に転封され、前橋城主の『酒井氏』の管轄になり、
大胡城はその時をもって上部構造物が撤去され廃城となったといいます。

その際に正円寺さんに北門が移築されたのだといいます。
この門の型は『薬医門』と言われるものだといい、室町時代初期の構造と推定されるもの、だといいます。


No.460 23/06/01 05:14
旅人さん0 

閻魔大王さま巡りのつもりで意気込んで家を出たというのに、なかなかうまくはいきませんでしたが、…まあ、いずれはお会いせねばならないお方でありますので。

群馬県には三途の川、『三途川』もありますし、現世でもまだまだ閻魔大王さまや奪衣婆さまにお会いできることと思います。


実は『閻魔詣で』や『奪衣婆参り』などが、江戸時代には諸願が叶えられるとして大いに賑わっていたようです。

江戸時代には群馬県内の各所で奪衣婆さまが〝子供の病気を治してくれる〟特に咳止めや虫封じに霊言かあるとお参りされていたといいます。
医療の未発達であった時代、こうした信仰がうまれることもありましょう。

…ただ、なぜか群馬県の一部地方では閻魔大王さまや奪衣婆さまの石像のお口元に〝味噌〟を塗るというものがあったようで。
しかも、恐れ多くも閻魔大王さまのお像を〝味噌なめじじい〟、奪衣婆さまのお像を〝味噌なめばばあ〟と呼んでいたとするところまであるくらいです。
…いやぁ、罪深いおばさんは恐れ多くてとてもとても、…ってここにそう書いた時点でそう呼んでいることになりますか、…ひえぇ。


それにしても閻魔さまのお像と奪衣婆さまのお像はなぜか共に祀られていることがたいそう多いように感じます。
十王さまのすべて揃った石仏のそばにも奪衣婆さまが祀られていたり。
奪衣婆さまのペアといえば『懸衣翁(けんえおう)』さまだと記憶しているのですが。

俗説では閻魔大王さまと奪衣婆さまがご夫婦だ、とかご兄妹だという説もあるのだとか。

十王さますべてを存じ上げなくとも、〝地獄〟行きを決定するとされ地獄にお住まいの閻魔さまは誰もが知る存在でありましょうし、
『死んだら三途の川を渡る』ということ、その三途の川のにほとりで死者の衣を剥ぐという奪衣婆さまも認知度の高い存在でしょう。
そんなことからこのお二方を共にお祀りされることとなったこともあるでしょうか。


閻魔さまや十王さまたちがお祀りされているお堂は『閻魔堂』『十王堂』と呼ばれ、奪衣婆さまが中心のお堂は『姥子堂』『聖塚『しょうづか)堂』などと呼ばれています。
そうそう、奪衣婆さまを〝聖塚のばあさん〟と呼ぶところもあるといいます。
…あっ、また奪衣婆さまをばあさん呼ばわりしてしまった。

…。

No.459 23/05/31 15:28
旅人さん0 

至れり尽くせりで、あらゆるお願いごとができそうな、こちら
『蓮花院』さんは、栃木県の【出流山千手院満願寺】の末といいます。
今、蓮花院さんとしてはどちらかというと『川崎大師第一分身』と大々的に名乗っておられますが…。
正式には【今宮山蓮花院龍泉寺】さん。
まあ、通称『前橋厄除け大師』ですか。

 
由緒沿革記によりますと、天文二(1533)年勢多郡荒砥村大室(現・前橋市大室)の住人玉泉坊の開基という。
その後、十世の間は各宗の僧侶が相続し、宮城村鼻毛石(現・前橋市宮城町)の赤城寺(せきじょうじ)を本寺としたといいます。

享保四(1719)年に、下野出身の第十一世宥尊上人が、下野出流山千手院住職宥盛に従って求法を継ぎ、今宮山蓮花院増田寺と称したとのこと。

元禄三(1690)年、十二世舜賀上人(中興開山)の代に堂を改築したが、宝暦年間(1751~1764)に類焼にあい、本堂を残して、土蔵、鐘楼、山門などを焼失してしまいまったといい、本堂のみ今に伝わるといいます。

ちなみにこの舜賀上人は大黒天を自ら刻んでおられるといいます。

明治二十五(1892)年、本堂改築の際に知事の許可を得、
『武州大師河原平間密寺、川崎大師』の第一分身、甲子大黒天を安置したといいます。

ご本尊の聖観音菩薩は天文二(1533)年京都の仏師の作といい、この仏像は開山の玉泉上人が依頼して作らせたものだといいます。
ほかに明応七(1498)年作という観音菩薩像もあるということです。


驚くべきは、
『〜…その後、十世の間は各宗の僧侶が相続し…〜』のくだり。

そ、そんなこともあるんだ…。
本寺があるならばその宗派を名乗る、…というか、だからこそ、そこのお寺さんが『本寺』なのではないかと思っていました。

今は逆にそんなことなど決してないであろうと思われますが、ね。


至れり尽くせり、なのでしょうか、境内にピカチューに類似した石像があったり、トゥイーティーを思わせる石像があったり。


玉手箱のようなお寺さんでありました。


No.458 23/05/31 13:43
旅人さん0 

境内を若いご住職があちこちお掃除をされながら移動しておられます。

さぁ、久しぶりのエックスキューズミーおばさんの出動です。
「すみません。お掃除をされておられるところお邪魔して申し訳ない。
あの、閻魔大王さまのお像は山門の外で間違いなかったでしょうか」

「ああ、今はそこではなくて写経堂にあるんですよ。
でも今はコロナ禍ということで写経もやっていないので見られないんですよ」

ガーン。


せっかくの閻魔大王ツアーだというのに、二軒目にして早くも頓挫、ですか。

それでもあきらめの悪い私たち夫婦はあえてぐるっとお寺さんの外周を一周して(お隣の神社さんを過ぎて道路まで出てまわることとなります)、今はどなたがそこに鎮座されたのかを見に参りました。

そこには新しそうな仁王像が左右に。
…ご奉納でもあったのでしょうか。
例の『ぴんころ地蔵尊』もご奉納されたものでありましたし。

うーむ。
それではこちらの閻魔大王さまには当分お会いできない、のだなぁ。

五類に分類が変更されたとはいえ、コロナが〝終息〟、どころか〝収束〟すらされてもいないし。
今現在、コロナ禍だから、という理由で閉鎖されているということは、写経再開がいつになることかわかりません。


うーん。





No.457 23/05/31 05:49
旅人さん0 

御本堂へと向かいます。

立派な石造りの仁王さまが見下ろしておられます。

御本堂は改修されており、一見新しくも見えますが、古い造りのもののようです。
バリアフリーにされていて、そこは私はとてもとても大切なことだと思っております。誰もがお詣りできること、誰もが祈れること。

御本堂のなか、見上げた天井にその古さを感じて思わずホッとした私です。

御本堂に入るとすぐに…ガラス張り。
その前に両手で一抱えほどの大きな金色(こんじき、とお読みください)の五鈷杵が置かれています。
これは触って良いと書かれています。
さすが弘法大師さまを祖とするお寺さんであります。

ガラス張りの向こう側はかなり広い間で、内陣はかなり遠くにみえます。
手前に大きなお護摩の炉があるように思われます。

ご本尊さまは聖観世音菩薩さま、なんですけれど、ね。
そこは『厄除け大師』さんですから、ね。

一般参拝者はそこまで。

それでも今年はお大師さまの生誕を祝って御開帳されているようです。
五月の日曜日の決められた時間となるようです。
あれっ、ではもう…。

さてさて、今日のひそかなメインは、閻魔大王さまにお会いして懺悔すること。


山門の外ってことは、かなりかなり歩くようだな。
山門の内側にいるのだけれど、なぁ、



No.456 23/05/31 05:40
旅人さん0 

御本堂と、本来の正門である山門とは一直線。
正規の山門から入ればいたってシンプルでありました。

とはいえ何やら鐘楼とは別に楼があります。(なんだろう?)
見上げるとそこに…弘法大師さま、お大師さまがおられるではないですか!
お大師さまを拝してなんだかとてもホッとした私。(…いや、あんたさっき大師堂をお詣りしてるから)と心の声。
お大師さまの前に大きな七福神さまの像がおられて、なんだかあまり『大師堂』という感じがしなかったのが本音で。そうそう、お賽銭箱がカエルの形をしていて、カエルの口にお金を入れるものでありました。
これは好きかも。

一旦山門へと向かいます。

そこで衝撃の事実を知る私ども。
…山門が閉鎖されているではないですか!

立派な山門、八脚門ですのに、…いったい何故?
こちらにお会いしに来た閻魔大王さまが祀られているといいます。
これは…また一旦外へ出て山門の表にまわるようですね。

それでも、山門の内側に実はもう一方お会いしたかった仏像がおられまして。
それは子育て地蔵さま。
こちらは、
江戸時代、飢饉などで子べらしをしていた悲しい風潮に、やはりそれはどうあってもいけないことなのだという思いを込めて造られ奉納されたというお地蔵さまです。

お優しいお顔で、安心しきって手足を広げて寄りかかる赤子を抱いておられる御像でありました。
赤ちゃんをお抱きになるためにか、お地蔵さまには珍しくお着物をお召しになられています。

お護りくださっているお地蔵さまと、
そうした強い信念を持ってこの像を建立した方に対して、感謝の思いを込め合掌いたしました。


先ほどの楼、ここに鰐口が付いています。なるほど、そういった意味合いの楼でもありましたか。
今はコロナ禍であるため、その紐ははずされてしまっておりますが…。

ひだりてに手水舎があって、その奥、手水舎の向こう側にお不動さまがおられました。
水かけ不動尊のようですが、…これもコロナ禍だからでしょうか、柄杓等ははずされていました。
…そもそも手水舎のお水でいいのかなぁ、と素朴な疑問。
ま、まあ水はあくまでも水でしかないので、ただおばさんがそう思っただけ、なんですがね。


御本堂へと向かいます。

No.455 23/05/30 14:55
旅人さん0 

いつにない(いつもとあまり変わらない?)乱文ぶりに、私の戸惑いを感じ取っていただけますか?

その、天狗さまのお堂の右奥には
石造りの、いかにも楽しげな躍動感ある動物たちが飾られています。

干支のようです。

石の動物たちの遊ぶ後ろには少し高台となって写経堂があります。

天狗さまの奥、正面には水子堂。

もうまるでわけがわからなくなっている私です。

一番最初には御本堂におまいりがしたいのだけれど、これは裏手から入ってしまったのが大きな間違いだったようで。

その天狗堂の裏手には水琴窟。

どこにも近づくことなく、もと来た道…といっても行ってせいぜい十数歩に過ぎないのですが、戻ります。

先ほどの御堂は大師堂。
弘法大師さまが祀られています。

中央に弘法大師さま。
むかって左にお不動さま。
むかって右に千手観音さま。

こういった配置も初めて見た気がいたします。

その三体の前には弘法大師さまやお不動さまより大きな、大きな七福神さまのうちの二体が祀られていました。
もはやその神さまがどなたであられたかも思い出せません。

お堂の前にも笠を被られ行脚姿のお大師さまが祀られています。

そして…そこを少し…五、六歩歩くと、大きなお地蔵さまが見下ろすようにお立ちになられています。


あ、御本堂だ。


…ようやく御本堂が見えました。


No.454 23/05/30 14:50
旅人さん0 

…なんと形容したらよいのだろう。

裏門を入るとひたりてにまたまた大きな大きな観音さまがそびえ立っておられます。
その隣には石造りの十何十かの塔。

目の前は…墓地。
ええ、いきなり墓地、なんですよ。
たしかに私ども裏門から入って入るんですけれど、ね。

みぎてには…これまたびっくりなお不動さまが三人。
しかもどことな〜く、…失礼なことは百も承知で申せば、あの、学校とかの廊下にある洗面台(?)に似た感じの壁面に三人。
右手に剣をお持ちになられた、まるで三つ子のような、はたまた分身の術を使われたかのようなお不動さまが三人。
しかもそこには『身代わり不動』と銘打ってあります。

水かけ不動尊さまではなくて?

…わからない。

そもそもいったいどういったお寺さんなのだろう。
いまだかつてこのようなお寺さんを参拝したことがない気がいたします。

と、とにかく進もう。




す、すごい!

これでもかというくらい仏さまが祀られています。

いま風の(現代風ともいう)お地蔵さまが二体、仲良く寄り添うようにお祀りされていて、
そのお地蔵さまへと向かう道に石標が建ちそこには『右手で握手』『ぴんころ地蔵尊』と刻まれています。
そしてそのお地蔵さまのそばにも
『ぴんころ地蔵 右手で握手健康長寿』と書かれています。

うーん。…ぴんころ、ピンピンころりは憧れの人生の締めくくりな気もするけれど、…いっかなぁ。


そして、そのお隣には金色の不動明王さまと二童子像が。
金色のお不動さまは初めてお目にかかった気がいたします。
こちらのお不動さまは『一願不動』と刻まれています。
手を合わせて。
一願は…思いもつかない。


そのお向かいにはペットの納骨堂があり…。ああ、大事よね。

私はもういっぱいいっぱいな感じです。

そんな私の目の前に、も、門が。

この門はいったい?
赤い門です。

くぐろう。門をくぐれば御本堂がある。
御本堂が…。

目の前にはまたあれこれたくさんの仏像が。
どうやらお堂の側面のようです。
このお堂は?
お堂の前へとまわり込もうと二歩歩くと左側から鋭い視線!

…大きな大きな赤い天狗さまのお顔が祀られています。天狗さまの祀られたお堂から鼻が突き出しています。
まぁるい可愛らしい鼻の先です。
天狗さまは『魔除け天狗』さま、だそう。

No.453 23/05/30 11:44
旅人さん0 

『閻魔さまを訪ねて』

…ということで、次に参拝に訪れたのは同じく群馬県前橋市の【蓮花院】さん。こちらも初めての参拝となります。
こちらでは珍しく山門に閻魔大王と奪衣婆像が鎮座されているとのことで、山門に…。

…あれあれまた裏門ですか。
本当に、珍道中をより珍道中としてくれる優秀なナビです。

とはいえ、裏手の入り口には丈六の石造りのお地蔵さまがおられて、山門側の駐車場に行っていたらこのお地蔵さまにお会いすることはなかったでしょうから、今回に関しては本当に優秀、だったといえましょう。

駐車場に…。
……。
…大きい。

駐車場の端に、大きな、こちらもまた丈六でありましょうか、石造りの七福神さまがならんでおり、さらには黄金に輝く大きな大きな観音さまが、お立ちになられています。


はあぁ…。


裏門も立派です。
真っ赤な門で、その門へと連なる道の壁の両サイドにはレリーフがはめ込まれています。
向かって右側には弘法大師さまをはじめとする真言宗の(おそらく)著名な大師さま方の、…『八祖』と刻まれていますレリーフが。
左側には六観音さまのレリーフがお祀りされています。


「…ここ、もしかしたら。もしかして前橋厄除け大師かも」と夫。

えっ?そ、そうなの?


…蓮花院さんの中に足を踏み入れて、私たちは思わず足が止まり、…絶句しました。

No.452 23/05/29 07:47
旅人さん0 

…今巷で話題のチャットGPT。

ネットGPTに添削してもらうだけでも、この拙い駄文も、誤字誤文だらけの文面も、飛躍的に良い文章となって、みなさまにもう少しは読みやすいものをお届けできるのでは…と、思わないわけでなく。

ま、あくまでも『添削』しか考えてはいないのですがね。
そしてそれは、私の文章のおかしなところを直してもらうということで、私自身の学びともなる。


…なんですがねぇ。
長いこと、こんなおばさんのおかしなスレに寄り添うように読んでくださっておられる方にとってはどうなのかな、と思わないこともないのです。

つまらない文という意味では変わらないんです。誤字誤文や、より良い表現を示してくれる、というだけですので。


だとしたら。
〝おかしなおばさんのおかしな文章という個性〟を失ってしまう気が…しないでもないのです。

えっ?
そんなものは無い方がいい?

…で、ですよねぇ。


最近はアクセスの集中も解除されたようで、夫のスマホにはすでにネットGPTが存在しているようです。


だったら。

私を怒らせたとき、どうしたら良いか、どんな謝罪文を送るといいかを聞いて実行すればいいのに。
…そんなくだらない事には使う気にもならないようです。

キーっ!

No.451 23/05/29 05:49
旅人さん0 

タイサンボクという花を知っていますか?
『泰山木』と書きます。

泰山木は梅雨の頃に、それはそれは芳しい香りを放つ大きな白い花を咲かせる樹です。

花の大きさはちょうど手のひらいっぱいの大きさでしょうか、それはそれは大きな白い花です。

泰山木は、花の咲くを見る前に、その遠くまで届く甘く爽やかな香りを嗅いで近くに泰山木の花が咲いていることを知るほどです。

開花時期は六月上旬から七月上旬で憂鬱な梅雨空を爽やかにしてくれる、そんな花です。
最盛期の花は凛として、気高いまでの美しさです。

この泰山木、背丈がかなり大きくならないと花が咲かないといいます。
なので花の時期にその甘い香りのもとをたどって行って、泰山木のあるところを知ったりします。

葉の形は大きな長い卵形。

ただ。
泰山木は花が終わっても花弁は散らず、いつまでも枝先に残っているので、枯れ色の花は少し汚く思えてそれに何ともいえない哀れを覚えるのであります。


そんなまさに泰山木の咲くころ、帰らぬ人となった母の菩提寺の山門のすぐそばにこの樹があって…。
祥月命日にお寺を訪ねるときまってこの泰山木の香りが私を癒してくれるのです。

No.450 23/05/28 23:22
旅人さん0 

そんな夫が言うことに、
「お堂の扁額は『三仏堂』と書いてあるんだけれど、他にもどなたかがお祀りされているのかなぁ。
ガラス越しに見てみてもあまり見えないのだけれど」

「…」

…そう私に言われましても…。

閻魔堂というバスストップにはなっているので、それで良いのでは?


こちらのお寺さんでの閻魔さまのお縁日は、一月と七月の十六日と〝バスストップ〟の標識に書いてあります。
そのときにお邪魔させていただくことができれば、少しはそのようすがわかるかもしれません。


山門の隣には優しげなお顔のお地蔵さまが何体か、それから如意輪観音さまが並んでおられます。

いつかまた。



No.449 23/05/28 04:36
旅人さん0 

さて。

こちらのお寺を訪ねさせていただくこととなった【閻魔堂】へと向かいます。

閻魔堂は山門をくぐった向かって左側。
お堂の前で手を合わせ、またまたおばさんの得意技を。…こんなおかしな話はないですよね。
閻魔さまに自らの罪を詫びんがためにこちらを訪れている身が、よりにもよってここ、閻魔さまの御前で、『覗き』という罪を重ねるなんて。

…まぁ、そんな浅ましいおばさんです。

そぉっと覗いたお堂の中。


大きな…やはり丈六になるのでしょうか、大きな軀の閻魔大王が正面に座しておられます。
鮮やかな色彩で彩色された御像であります。

そして何よりも。
弾けるばかりの笑顔、なのです。

えっ。

…たしかに栃木県益子町にあります【西明寺】さんの閻魔さまも、『笑い閻魔』と呼ばれるくらいに、一見笑っておられるように見えるお像であります。

が。
たしかに、西明寺さんの俗名『笑い閻魔』さまも破顔一笑されておられますが、西明寺さんの閻魔さまは、「片腹痛いわ!」といった感じで笑いを浮かべた瞬間を切り取ったかにも見えるのです。
傍らに事務官も控えておりますし。

こちらの、玉泉寺さんの閻魔さまはどう見ても…笑っておられる。

にこぉっと、まるで「よく来たなぁ」とでもおっしゃっているように見えます。

…まぁ、閻魔さまにお会いするってことは『地獄』ですので、閻魔大王に「よく来たなぁ」と笑顔で言われることは、それはそれで身も凍るほど恐ろしい事態、なはずなんですけれど。


…和むんです。
どう拝しても、…和むんです。


それでも。
それはそれで和んだ気持ちのままに自分の犯した罪のあれこれを認め、今後少しでも正しい道を歩んで行こうと思っておりますことを伝えさせていただきました。

特記するならば、こちらの閻魔さまの前には、大釜が置かれていました。
『地獄の釜』、なわけですね。

地獄の釜の蓋はしっかりと閉じられておりましたが、ね。

参拝を終えて、貼り紙を見つけ読みますと、な、なんと!
扉は開いていたとのこと。

覗きという罪をまた一つ重ねたというのに、フタを開けたら、覗かなくとも戸が開くとかいうオチが。

はぁ、やれやれです。
さすが珍道中おばさんです。

ちなみに夫は、180センチという身長なため普通にお堂の前に立つだけで、閻魔さまのお顔が見えるのでありました。





No.448 23/05/27 17:33
旅人さん0 

そんなハイテクな石仏さまに驚いたのち、向かいましたのは御本堂。

庫裏がお留守、ということで、まあ、当然のことながら御本堂もしっかり施錠されておりました。

で、久しぶりに、おばさんの得意技が。
…そう、ガラス越しに御本堂をそっと覗き込みました。

と。

お、大きいっ

おおぉぉ〜っ!三尊像さまです!!

しかも、お寺さんの、あの高い天井にぶつかるやもしれないほどの大きな大きな三尊像!
丈六、でありましょうか。

大きな御像でありますので、遠くてもそのお優しい美しいお顔立ちが見てとれます。

しかも鴨居の彫刻も細やかな彫りが施されています。


うー、素敵♡
なんて素敵なんでしょう♡

No.447 23/05/27 04:42
旅人さん0 

ガシャポンのおみくじにたいそうびっくりはしたものの、おみくじをひくことはなく。
…ああ、こちらのおみくじはひく、ではなくて回す、ですかね。

まずは御本堂へお参り、お参り。

すると目の前にまた初めて見るような石造りの御仏の像。

【金剛聖水受處】とあります。
ん?
おおっ!

こちらの石造りの石仏さまは二段になって、下はキューブ状になっていて、そのキューブの中におさまるように浮き彫りされた御仏がおられ、その上に『大日如来』さまがお座りになられておられるのです。
下の段におられる御仏も坐像であります。

大日如来さまが坐する台にはそれぞれの面に一体づつ御仏が彫られております。
阿閦如来さま、
宝生如来さま、
阿弥陀如来さま、
不空成就如来さまが彫られていて、これで金剛界を表わしている…のだといいます。

ん?
上に座しておられる大日如来さまのお膝の下、…お身体の下から静かに、ゆるやかに水が溢れ出ているではないですか!

えっ?
ええぇっ?!


な、何のために?
聖水受處、って、文字通りなんだぁ!

No.446 23/05/26 22:37
旅人さん0 

私のような罪の多い人間は、早くから閻魔さまに罪を認め謝っておかなければならないと日頃より思っており、今日は閻魔さまへお目にかかりに行ってまいりました。

群馬県前橋市の【玉泉寺】さんの閻魔堂におられる閻魔さまにお会いしてまいりました。

玉泉寺さんは応永二十六(1419)年、頼慶僧都の開山、上泉城主・上泉憲綱公の開基とされています。

その後、利根川洪水や戦乱などにより天正二(1574)年に現在地へ移転しているといいます。


玉泉寺さんに着いて。
(これは…?)

古い車掌車両が庫裏の前方に置いてあるではないですか。
…何故?
しかも庫裏のそばにいたっては、〝象〟はとにかく、〝サイ〟の石像があるではないですか。

うーん。
お、お寺さんは、…本堂はどこだろう。
木々の隙間から御本堂らしき建物が見えました。
よかったぁ。

庫裏にはどなたもおられない様子で、いったん二本の寺標を出て駐車場に戻りました。

寺標や庫裏とは隔たれた、墓地の中にいったん入ってから、山門があるようで。
建て直し、…再建の際にこういった造りになったのでしょうか。

新しそうな山門です。
山門の前に仁王さまがお立ちです。

そして山門の内には。
山門の内には…。
ガシャポンが四機。

ガ、ガシャポン。

おみくじのようです。

た、たしかに、ガシャポンはある意味くじ、ですよね。
こ、これは。

栃木県佐野市の佐野厄除け大師さんにはおみくじや御守りの自販機が置いてあったくらいです。その点ガシャポンなら…ガシャポンかぁ。

山門を入ってすぐの所にガシャポンが置いてあろうとは。

人生うん十年、まだまだびっくりさせられることがたくさんあります。







No.445 23/05/25 17:19
旅人さん0 

ただ…。


私の中で釈然としない思いはずっと燻り続けておりました。

その後、他の〇〇宗のお寺さんを参拝しても、どこも写経をすれば般若心経でしたし。


かつて写経をさせていただいたお寺さんがもし〇〇宗であれば、それは間違っている、そんな風にもお話しになっておられました。

私はその、かつて写経をさせていただいたお寺さんで、大変親切にしていただき、とても居心地の良い思いをさせていただきましたので、そちらのお寺さんまで否定されたようで、正直どうしても納得がいかなかったのです。

つい先日、とある〇〇宗のお寺さんの奥さまとお話をする機会を得ました。
しばらくお話させていただいたあと、ずっと燻り続けていた疑問を、
そっと奥さまにお聞きしてみました。

…やはり〇〇宗では般若心経をお唱えするとおっしゃって、むしろびっくりされておられたくらいでありました。


「そのお寺さん、ということではなくて?〇〇宗とおっしゃられたので?」
「はい」

「〇〇宗の寺族の集まりでも皆で般若心経をお唱えしておりますよ。うちのお寺では法要の際に参列者の方たちにも般若心経を共にお唱えいただいているくらいですし、お唱えいただいて大丈夫ですよ。良い事なのでどんどんお唱えになられてください。っていうか…どのお経をお唱えになるっておっしゃるのだろう」
「〇〇経だけだとおっしゃっていました」
「いや、それは確かにそのお経もお唱えするけれど、それだけってことはないですから」
…ですよね。
般若心経をお唱えにならなくとも、お経はたくさんあるので、〇〇経だけ、というのもおかしな話だと…、思っても決して口には出しませんでしたけれど。


そのお寺さんではそこまではっきり断言されているので、何故か?などよもや聞くこともできないですし。

ただ、〇〇宗のお寺の奥さまのおかげでようやく私のモヤモヤはスッキリいたしました。

ちなみに…もう一つお聞きしました。
〇〇宗は宗派で分かれていてそういう宗派もある、とかではないですか、と。
…それも否定されました。



母の菩提寺は〇〇経しかお唱えしない、そうした慣習がある…のかもしれません。

ただ。
〇〇宗は、という言い方は間違いだということ。

写経をさせていただいたお寺さんは決して間違ってはいない、いなかったのです。 

No.444 23/05/25 16:39
旅人さん0 

…長々と枕経について調べたのには実は少しだけ意味があります。

母が亡くなったあと、通夜の席までお坊さんはお見えにならないということを知り、枕経のない宗派があるのかどうか等々、母の遺体の傍らで調べてみたりしたのです。
すると枕経という言い方をしないまでも、通夜の前のお勤めはどの宗派でも存在するようです。
それがお寺さんの方針なのか、喪主を務める者が断ったのか、そのときはもうそれを確認するのも憚られ、
言い出したところでその時点ではお寺さんにお越しいただくのにはもう夕方となってしまっていました。


母の菩提寺の宗派では【般若心経】をお唱えすることをあらかじめ調べ、
なおかつ、お寺さんに失礼がないことを確認しようと、
素人の娘がそばで般若心経をお唱えしても良いものかどうかを確認するためお寺さんにお電話を差し上げたのです。

すると、
「こちらの宗派では般若心経をお唱えすることはないから。ただ、あげたければあげてもらって全然良いと思います。当寺に失礼ということはまるでありませんし、どうぞお唱えしてあげてください」

えっ?

「〇〇宗では般若心経は唱えないんですよ」


…ま、まぁ、私はど素人でありますし、そう言うことであれば、かえって母の御魂を混乱させても良くはないし。
一人、ただただお線香をあげて時を過ごしておりました。



ただ、般若心経をお唱えしない宗派がある事は存じ上げた上で、お電話差し上げたので、どうもそこが釈然としなかったのも確かでありました。

葬儀を終えて、あっという間に四十九日の法要を迎えました。

法要を終えたお坊さんが
「般若心経をお唱えしたいと電話くれたのはどなたでしたか?」
私がそっと手を挙げますと
「般若心経は簡単に唱えられ大変良いお経ではあるのですが、〇〇宗では般若心経をお唱えすることはないんですよ」

「出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした。ただ、〇〇宗のお寺さんで写経をさせていただいたとき、お唱えしたのも写させていただいたお経も般若心経だったものですから」

「はあ?どこのお寺です?」
「〇〇市の」
「それはおかしい。〇〇宗では般若心経を唱えることはないです。間違いではないですか?」

…決して間違いではなかったのです。

でも出過ぎた真似であったのも確かなことなので、すみませんと謝ってその場を過ごしました。




No.443 23/05/25 16:07
旅人さん0 

(前レスに引き続き、亡くなられた故人を送る際の枕経について書いております。
おつらい思いを抱えておられる方は思い出され、さらにまたおつらく感じられる事もあろうかとも思いますので、ここまででこのレスはお閉じください)







【枕経】には宗派によって違いがあるといいます。

『天台宗』の枕経では「阿弥陀経」や「般若心経」が読まれ阿弥陀仏のご加護と、故人がさまようことなく極楽浄土へ往生することを願うのだといいます。

『真言宗』の枕経では般理趣経を読み、慈救の呪・陀羅尼・光明真言・御宝号を唱えるといいます。


『浄土宗』は枕経の代わりになる『枕のお勤め』があるといいます。
まずはじめに『十方如来世尊・世尊・釈迦如来』を勧請し仏に懺悔をするのだといいます。
剃刀を故人の頭に当てて(今はあまり行われないといいます)十念を読み上げ、仏門に帰依させ戒名を授けるといいます。
それが終わると「開経偈」を読み、その後読経では、「四誓偈」や「阿弥陀経」「仏身観文」「聞名得益偈」「発願文」「摂益文」を順に読み上げていき、その後『南無阿弥陀仏』を繰り返して唱えます。
この『南無阿弥陀仏』は来迎仏や掛け軸、屏風などに向かって唱えるといいます。

浄土宗では亡くなった後にすぐに極楽浄土へ召されると考えられるためで、故人にではなく仏壇や掛け軸へ向けて読経するのだといいます。


『浄土真宗』では枕経ではなく『臨終勤行(りんじゅうごんぎょう)』を行うといいます。
お勤めも、故人の枕元では行わずに、仏壇や掛け軸に向かって行います。読経を読み上げる前に仏壇の燈明に火を灯して、故人に法名を授けるのだといいます。
読経では、「正信偈」や「仏説阿弥陀経」を読み上げるそうです。


『臨済宗』では『枕経諷経(ふぎん)』と言い、観音経、大非心陀羅尼(だいひしんだらに)などのお経で故人に対し〝仏教徒の教え〟を伝えるのだといいます。


『曹洞宗』では『臨終諷経(りんじゅうふぎん)』、といい、三回の読経で仏弟子の心構えを故人に伝えるのだそうです。


『日蓮宗』では、読経の前に、勧請を行い諸仏や諸尊を招いて、「開経偈」を読み上げ、読経後、「祖訓・唱題・宝塔偈」の順に読み上げて、回向します。
日蓮宗では一般的に使われる木魚は使わず、甲高い音をだす木証(もくしょう)を使い読経するのだといいます。

No.442 23/05/25 06:45
旅人さん0 

(前レスに引き続き、亡くなられた故人を送った際の光景を書いております。
おつらい思いを抱えておられる方は思い出されて、おつらく感じられる事もあろうかとも思いますので、ここまででこのレスはお閉じください)







白い布がかけられた台には一膳飯や水、香炉・燭台・花立などを用意し、簡易的な小さな祭壇として設置します。

これらには亡くなったばかりの故人の魂が食という欲から解放され心残りなく成仏でききるようにとの願いが込められているといいます。

お線香とろうそくは故人の浄土への導きの意味があるので、納棺まで絶やさぬように注意しなければなりません。


そんな中、檀那寺のお坊さんがお越しくださいました。
お姿を見ただけで、無宗教の私でもなんともありがたい思いがしたものです。

【枕経(まくらぎょう)】と呼ばれる儀があることもここで、義実家で初めて知りました。

【枕経】とは、臨終後故人の浄土への旅の道しるべとするために、枕元でお経を読むことといいます。

仏式の葬儀で納棺の前に故人の枕元で読経すること、です。

【枕経】の起源は諸説あり、平安時代にまでさかのぼると言われます。

もともとは、危篤状態からの回復を願って家族が仏にすがる想いで枕経を僧侶に依頼することもあったようで、源氏物語などを読むとそのあたりの描写がよく出てまいります。
危篤状態の人の枕元でお経を読むことで不安を鎮めるといった意味もあったようです。

その後時代を経て、臨終後に、迷わず成仏するよう導くといった意味や、親族の心を落ち着ける意味で行うように変化してきました。

古くはインドにもあった習わしだといいます。

ただ、宗派によっては死生観の違いから枕経を行わず、臨終勤行(りんじゅうごんぎょう)、または無常経(むじょうきょう)といった呼び名で読経が行われることもあるようです。


身内しか列席しないものであり、何よりお坊さんのご都合でお見えになられるため、何時にお越しになられるかわからないこともあって、必ず列席できるとも限らないもので、貴重な体験をさせていただけたのかもしれません。



が、母のときはこの枕経がありませんでした。
喪主が断ったのかもしれませんが、そのへんは定かではないのですが、私はとてもそれが寂しくもあり、母にも礼を欠いているような、気すらしたものです。

No.441 23/05/25 06:08
旅人さん0 

神仏にほぼ関わりをもつことなく人生を送ってきたとはいえ、縁あった方の葬儀に参列する事もありましたし、嫁ぎ先や身内の法要や葬儀もありましたので、そういうことを機に…仏教がほとんどではありますが、宗教にふれる機会はありました。

ことに身内である、嫁ぎ先ではそれこそ危篤の時にもそこに共におり、今まで知らずにいた、人が亡くなられた際のお寺さんとの関わりを、少しだけではありますが学ばせていただく機を得ました。

亡くなられた方の枕辺にお供えする枕飾り、いつも開けられたままの仏壇の扉は閉ざされ封印が施され、神棚にも白い半紙がかけられること、など。

そんな非日常となった義実家の光景の中で、一番衝撃を受けたのは、…いつもと変わらないように見える穏やかな顔で横たわる義祖母や義父が、まばゆいくらい白い包布でおおわれた、これまたまばゆい銀糸で織られた立派な立派な布団を掛けていたこと、でした。
…えっ?
そんなところに?、ですか?

いつも使っていた煎餅布団、木綿に印刷されただけの布で作られた掛け布団とは打って変わった、ふわふわで、どこまで沈むんだぁ〜ってくらいの敷き布団に、まばゆいくらい贅を凝らした掛け布団。

寝心地が悪くて目を覚ましてくれるんじゃないかと思うくらいの差で、死んでからこんな良い布団に寝かせるくらいなら、生きているうちにもっと良い布団に寝ていただきたかったなぁと、思わずにはいられませんでした。

ま、昔もんのおばあさんと爺さん(義父のこと 笑)でしたから、もったいない、要らないと言うんですけど、ね。


あ。
…それでも爺さん、入院中に私が持っていった肌掛けをたいそう喜んで掛けていてくれたなぁ。
病院は暑いから調節用の布団や掛け物があるといいんだよなぁと思ってのことだったのだけれど、私まで嬉しくなるくらいに喜んでくれたっけ。


山盛りにしたご飯に箸を刺してお供えして。
(ああ、これがあの「ご飯に箸を立てるんじゃない!」って叱られる由縁だなあ)と思ったり。


【枕飾り】とは故人が棺に納まるまでの間、遺体の枕元に用意するお供えのことをさします。
白い布がかけられた台に一膳飯や水、香炉・燭台・花立などを用意し、簡易的な小さな祭壇として設置します。…葬儀社の方が、なんですよね、今は。

テキパキと用意されるさまを、ただボォっと見ていただけ、なんですけど、ね。


No.440 23/05/24 17:50
旅人さん0 

黄泉の物を食べることを『ヨモツヘグイ』といいます。
〝黄泉(よみ)の国にある竈(かまど)で作ったものを、食べること〟を意味します。
「ヨモツヘグイ」をすると黄泉の住人であると認められ、現世へ帰ることができないと言われています。

これはイザナミの死を悲しんだ夫イザナギが、彼女を連れ帰そうと黄泉の国へ迎えに行った際、
イザナミが
「黄泉の国の物を食べたため、元の世界へは戻れない」と断った、あの話が元となり「ヨモツヘグイ」が”黄泉の物を食べること”という意味で広く使われるようになったといいます。


「ヨモツヘグイ」は漢字で『黄泉竈食い』と表します。
『黄泉』はそのまま黄泉国を、『竈』はかまどを、そして『食い』で食べることを表しています。
『黄泉戸喫』と書いて「ヨモツヘグイ」と表すこともあります。

「黄泉戸喫」の場合『戸』が”かまど”を、『喫』が〝口を通して腹に収めること〟を意味します。


この「ヨモツヘグイ」には『供食信仰(きょうしょくしんこう)』が関係しているとも言われています。
供食信仰とは〝家族や地域などのコミュニティのなかで同じものを食べ、一体化を図ること〟を意味します。
よく言われる「同じ釜のメシを食べる」、ですね。

「ヨモツヘグイ」では黄泉の国の食べ物を外からきた者が口にすることで、黄泉の国の一員であると認識されるのです。


日本の「ヨモツヘグイ」に似た話として前述したギリシャ神話に登場するペルセフォネの話をさらに詳しく書きますと、
春の女神ペルセポネは、冥界でザクロを食べてしまいます。
十二粒あったザクロの内の四粒を食べた彼女は、一年のうち四カ月を冥界で過ごすことになったのです。

地上へ出られる、という点は異なっていますが、その地の物を口にして元いた場所へ戻れなくなるという点では「ヨモツヘグイ」と共通しています。


「ヨモツヘグイ」は、怖い話や映画に扱われることもあるといいます。
迷い込んだ見知らぬ土地で食事をしてしまい、元の世界へ帰れなくなったという話や、異界の物を食べなかったために元の世界へ戻れたという話など、「ヨモツヘグイ」をテーマにした話は数多くあるようです。

私などは食い意地がはっているので、これは気をつけないと…。

夫は好き嫌いが激しいので大丈夫、かと。

お、これは…私だけ帰れない?

No.439 23/05/24 13:53
旅人さん0 

先ほど帰宅したら、私に宛てて封書が届いておりました。
特段絵などない、いわゆる普通の淡いグレーの封筒です。

裏を返すと、【日光山輪王寺常行堂】と書かれているではないですか!
ぽわぁ♡

ラブレター…ほどではありませんが、それは確かにラブレターほどではないのではありますが、…なんとも嬉しく、ワクワクしたのも確かであります。
檀那寺さんのない私にお寺さんからお便りをいただくなど、とても嬉しく、なんだか光栄に思えたのです。

…えっ?変わったおばさん?
まぁ、そのへんは何レスかお読みくださった方はすでにご承知のことではございましょうが…。
仏縁、とまではいかないのでしょうが、お寺さんとご縁ができたようで、とても嬉しく思えたのです。

まぁ、理由は単純。
昨年、常行堂さんで回向の法要をお願いしたご縁から、なのですがね。


ああ、行きたいなぁ、日光。


 (そろそろネズミの額ほどの庭
  にも咲きはじめた紫陽花)

No.438 23/05/23 22:59
旅人さん0 

イザナギが黄泉国へと行く話、そして…黄泉国の食べ物を食べたイザナミが帰れないというくだり、実はそれとよく似た話が、ギリシャ神話にも登場しています。

死んだ妻を訪ねて冥界へ行くけれども、「見てはいけない」という〝禁〟を犯したために連れ戻せなくなったオルフェウスの話と。
冥界の食べ物を食べたペルセフォネが生者の世界に戻れなくなる話です。

昔話と呼ばれますものにも似たような…よく似た話が存在します。

なかなかこれは興味深いこと、ではないですか?
遠く、遠く離れた地の神話がこうも似ている…共通点があるなんて。


…もしかして。
もしかしたらこれは。
…人智を超えた真実、なのかもしれません。
殊、神話に関する限り。

世界を創造し、人間をつくりたもうた〝神〟のお話です、からねえ。



ちなみに。

日本書紀においてイザナミは〝神避られる〟ことになっていない、ということで。
当然、黄泉国のくだりも、イザナギの禊もありません。

イザナギとイザナミは、アマテラスノオオミカミとツクヨミに相当する『日の神』さま『月の神』さまをお産みになられます。

その次にヒルコ。
ヒルコを産んで流したのち、スサノオが誕生する、ということとなっているようです。

No.437 23/05/23 04:57
旅人さん0 

ここに祓詞を書き込めるほど、私は何ら修行等していないので、書くことはできないものと思っておりますが、まさにこの、黄泉国から戻られたイザナギが禊をなされた場所などがそっくりそのままに述べられていることに、驚きました。

ただ、…日本書紀ではイザナミがお亡くなりになられることはないとのこと。
つまりはこのくだり一切が無いということになるはずです。

日本書紀まではもう手も頭も回らない状態のおばさん、それでもはたと悩むのであります。
…ここのくだりは一体どうなっているのだろう。


それは…イザナミさまが〝神避る〟ことなど無い方が良いです。
でも、子供向けの『古事記』を読んで育ち、しかもすでに頭が凝り固まって今さら直せない(治せない)おばさんとしてはそこが気になって仕方がない。

だってかなりの衝撃でしたもの。
(神さまもお亡くなりになられるんだ)って。
…まぁ、それを言ったらもういろいろ衝撃的な内容であるんですが、ね。

うーむ、日本書紀、かぁ。

古事記だってかいつまんで書かれたものを最初の方を読んでいるところで止まっているというのに。
…そういった意味では子どもの時の方が一冊丸々読んでいる分、しっかりしていたなぁ。
まぁ、子供向けのその本とて、全三巻の古事記の全てではなく、神話の部分だけ、つまりは一巻分であったのだろうし、所詮はかいつまんで書かれたものであったのだろうけれど。

あの子供向けの本、今は中古市場ですら見かけなくなっていますが、今なおお持ちの方とかおられるのだろうか。
地元の図書館はもとより近隣の市の図書館にまで出向いてはみたものの出会えたことがないのだけれど、もう一度全シリーズ読んでみたいなぁ。
もともと、そのシリーズ作品はみな、学校の図書室で借りて読んだだけだったので、何度も繰り返して読めたわけでもなかったし。


母は私の大切にしていた本やらお人形やおもちゃなどを断りもなく、突然いとこにあげてしまうような人だったので、あの中にはきっと今でも手元に置いておきたかった本があったのになぁ。

学校から帰るとゴソっと大切に並べて置いた本やらお人形やらが無くなっている恐怖ったら無かったなぁ。母に「これは大切な物だから」と宣言し、念のため隠して学校に行っても、繰り返しそういったことがあったし。


ああ、『男』だけでなく『子どももつらいよ』ね。

No.436 23/05/22 20:56
旅人さん0 

さらにイザナギは、「ここから、こちらの世界には来るな」と、杖を投げられました。

その杖が神となり、岐神(フナトノカミ)、
また帯を投げられるとその帯がまた神となり、長道磐神(ナガチワノカミ)と申されます。
衣を投げられると煩神(ワズライノカミ)、
褌(はかま)を投げられると、開くい神(アキクイノカミ)、
履(くつ)を投げられると神となり、道敷神(チシキノカミ)と申されます。

そして、坂を塞いでいる磐石を、泉門塞之大神(ヨミドニフタガリマスオオカミ)またの名を道返大神(チガエシノオオミカミ)ともいいます。


イザナギは
「私は穢れたところに行ってしまったので、この身の穢れを洗い清めよう」
と、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の小戸(おど)の橘のあはぎ原に行って禊祓をされました。

その時、「上方は瀬の流れが速すぎ、下方は瀬の流れが緩すぎる」とおっしゃって、中ほどの瀬で身をすすがれました。

これによってヤソマガツヒの神が出現し、次にそのまがっているのを直そうとして神直日神(かむなおひのかみ)、次に大直日神(おおなおひのかみ)が出現します。

また、海の底に潜って身をすすがれた時に、底津少童命(ソコツワタツミノミコト)という港の神さまが産まれ、
海の中ほどで身をすすがれた時には、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、
海の上で身をすすがれた時には、表筒男命(ウワツツノオノミコト)
が出現しました。 
この三柱の神が住吉大神であります。

その後、イザナギが左目を洗われた時に、天照大神(アマテラスオオミカミ)が
右目を洗われた時に、月読尊(ツクヨミノミコト)が、
鼻を洗われた時に、素戔嗚尊(スサノオノミコト)がお生まれになりました。


イザナギが禊をなされた際、数多く産まれた神さまの中に、『瀬織津姫』やその他三柱の神様からなる【祓戸大神】さまという、
私たちの罪や穢れを消し去ってくださる神様も生まれたとされます。
しかしながらこの四柱の神々は、古事記や日本書紀ではその表記はないのですが…。

その神様に、私たちの罪や穢れを祓ってくださいという意味を持つのが【祓詞】、であります。



No.435 23/05/22 18:22
旅人さん0 

…今の人は…蛆虫など見たことは無いことかと思います。
私とてそんなには見たことはありませんが、蛆虫の無数に蠢く様は確かにたいそう、たいそう気持ちの悪いもの。

愛する妻であったがこそ、余計にその変わり果てた姿にショックを受けたのでしょう。
しかしながら、子どもであった私は、…蛆虫の蠢く様を見たこともあったにも関わらず、そんなイザナギを冷たく思うのでありました。
だって、イザナミを失った悲しみと怒りから、カグツチを斬り殺してしまうほどだったんですよ?
…まぁ、蛆虫だけではないわけですが、…私は未だもってそんな様を目にしたことは無いですからね。

簡単にはイザナギを責められはしない、ということで。

それにしても…。
イザナギ、イザナミと尊称も省いて書いてしまっております事もあって、まあまぁ国産みの神さまたちに、好き放題の発言を…。



さて。その大きな岩を隔てて。

イザナミは、
「いとしい私の夫よ。
あなたがこんなことをするのなら、
あなたの国の人を一日千人、殺しましょう」
と言います。

えっ。
あなたの国って…。
…貴女もちょっと前までそこに住み、なにより一緒に造って(産んで)きた国、ですよねぇ。
むしろ産んでいる分、愛情が深かったりはしないものでしょうか。


イザナキはそれに応えて、
「いとしい妻よ。
あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう」と。

というわけで、この日本の国では、一日に千人が死に、千五百人が生まれることとなるのです。


こうしてイザナミは、【黄泉津大神】という名になります。


ちなみにこの話に出てくる黄泉比良坂は、出雲国の「伊賦夜坂」 のことであると言われています。


No.434 23/05/22 17:58
旅人さん0 

イザナギは、亡き妻に会いたい気持ちが募り、死者の国である黄泉国までイザナミを追って行きました。

そして黄泉の国の御殿の内側にいる妻のイザナミ神に向かって、
「いとしい私の妻よ。
私とあなたで作っている国は、まだできあがっていない。
どうか、帰ってきておくれ」
と言います。

しかし、イザナミは、
「残念です。
私は、黄泉の国で作った食べ物を
食べてしまいましたので、もう帰らことができないのです。
でも、いとしい夫のあなたが来てくださったのですから、 黄泉の国の神と相談いたしましょう。
その間、けっして私を見ないでください」
と言って、御殿の奥に入って行きました。

どのくらい時が過ぎたのか、長く待ちますがイザナミは現れません。

待っていられなくなったイザナギは、ついに髪の左の鬟(みずら)にさしていた、櫛の歯を一本折って火を灯し、御殿の中に入ります。

そこで見たイザナミの姿は。
…。
イザナミの体には蛆虫がたかり、頭、胸、腹などに八雷神がいるではないですか。

それを見たイザナギは恐れおののき、黄泉の国から逃げ帰ろうとします。

イザナミは
「よくも私に恥をかかせましたね」と怒り、ヨモツシコメに、イザナギの後を追わせました。

イザナギが逃げながら黒蔓草でできた髪かざりを投げると、地面に落ちて山ぶどうの木が生え、瞬く間に実がなりました。

シコメたちが山葡萄の実をむさぼり食べている間に、イザナギは逃げます。が、山葡萄を食べ尽くしまだ追いかけてくるので、今度は右の鬟にさしていた竹のくしの歯を折って投げ、今度はそこにたけのこが生えました。シコメがそれを抜いて食べている間にイザナギはまた逃げました。

そこで今度は自分の体にいた八種類の雷神達に千五百の軍勢をつけて追いかけさせました。

イザナギは、剣を抜いて体の後で振りながら逃げましたが、雷神は追いかけてきます。

イザナギが黄泉比良坂のふもとに来た時に、そこに生えていた桃の木から実を三つ取り、待ちかまえて投げつけたところ、雷神達はそれを嫌がり黄泉の国に帰っていきました。

それを知って今度はイザナミ自身が追いかけてきました。

イザナギは、千人で引くほどの大きな重い岩で、黄泉比良坂を塞いでしまいます。

その岩を間に、イザナギとイザナミと向かい合って立ちました。



No.433 23/05/22 16:56
旅人さん0 

イザナミさま=伊邪那美神さまは、火の神を生んだことで、苦しみながらついに〝神避(かむさ)って〟しまわれます。
苦しみのなかでも金属、陶器、農業などに欠かせない神々が現れました。
…すごいなぁ、神さまは。

イザナギ、イザナミの二柱の神が共に生んだ島は十四島、神は三十五柱であるといいます。
(これはイザナミが、まだ神避らぬうちに産んだ神々の数であります)

神産みが上手くいかないと葦の葉で織った船に乗せて流してしまわれた、蛭のように骨のないヒルコ(蛭子)と、次に産まれたアワシマ(淡島)は子の数には入れません。

子供と引き換えに妻を失い、泣き叫ぶイザナギの涙からも新しい神さまが出現します。

イザナミは出雲国と伯耆国の境にある比婆山に葬られました。

妻を死に追いやったカグツチを許せないイザナギは息子カグツチの首を長剣で斬り落としてしまいます。
この刀から飛び散った血や、殺されたカグツチの頭部や胸、腹、両手両足などからも、山にまつわる八柱の神が現れます。

…子どもの頃、この辺りのくだりを読んで、その残虐さに言葉を呑み、それでもそこから神さまが産まれる不思議に、神の力の偉大さというものを思い知らされたものです。



No.432 23/05/22 13:37
旅人さん0 

そう、神産みでたくさんの神々がお生まれになられます。

まず最初に『オオコトオシオノカミ』さま。
カタカナで書くとその長さに、もう覚えられないという先入観が生じてしまうおばさんでありますが、言葉に出すとさほどでも無さそうな…、本当かな?

次いで『家宅六神』と呼ばれる、住まいに関係の深い神々が生み出されました。
石の神、土砂の神、門の神、それから、屋根を葺く神、屋根の棟の神。(このような神さまがおられましたか。さすが八百万の神さまがたでございます)

続いて、海や水に関わる神々、自然現象の神々が産まれます。
このなかにオオワタツミ(大海神)、オオヤマツミ(大山祇)ほかがおられ、これらの神々の間から、さらに新たな神が生み出されます。

イザナギ、イザナミは、船や交通をつかさどる神(トリノイワクスフネ)、食物の神(オオゲツヒメ)を産んだのち、火をつかさどる【カグツチ】別名『ヒノヤギハヤオノカミ』を誕生させます。

この燃えさかる『カグツチ』を産んだイザナミは致命傷となる火傷を負ってしまうのです。
これは「古事記」の中でも有名な話の一つであろうかと思うのですが、実は日本書紀の神産みには、イザナミがカグツチを産んだことで致命傷を負い命を落とすといったくだりはないといいます。
したがって、これに続くかの有名なイザナギが【黄泉国】へと訪れるといった事も、『古事記』だけのエピソードなのだといいます。

えっ。

……。


じゃあ…。
あの黄泉国のくだりは?



No.431 23/05/22 06:03
旅人さん0 

別天津神さまのあと、(日本書紀では書かれない神さま方、ですので古事記において、となります)『神世七代(かみよななよ)と呼ばれる神さま方が現れます。

古事記においては、二柱の独り神さまと、五組の男女一対(双び神(ならびがみ))さま。
日本書紀では、三柱の独り神さまと、四組の双び神さまが『神世七代』となっているといいます。

クニノトコタチノカミさまは共通しておられ、また『イザナギノミコト』『イザナミノミコト』もおられます点は同じです。

ここでも古事記とは異なっています。
あわせて『記紀』と呼ばれることもあるという(私は初めて知りました…私の記憶の中では 笑)この二書、前述の通り編纂された時期も同じ時期であり、ともに『日本という国をつくった神々から天皇へとどのように系譜がつながっているか』が語られていますのに、結構違いも多いよう感じます。
編纂した人が異なることと、主として国内に向けてのものである『古事記』、対して『日本書紀』は、当時の国際的なスタンダードに準拠した立派な『正史』をまとめることを目的としていたといいます。

これ以前にも『日出処の天子』と称し、文書を送っていることもありますが、『日本書紀』は海外、特に中国に対して国としての権威を示そうという政治的な意図から編纂されたと考えられています。

そんなこと…からなのか、その辺は定かではないようですが、こと神話に関しては異なる点が多々あることは確かです。


イザナギノミコトとイザナギノミコトによる『国産み』も、
古事記では別天津神に国産みを命じられますが、日本書紀では別天津神が存在しておりませんので、自分たちの意思で国産みを開始しますし、
その国産みで思うようにいかなかったとき、
古事記ではイザナギとイザナミが高天原を訪れて別天津神に相談していますが、これも日本書紀では自分たちで考えてやり直しています。


『国産み』を終えて、次に行われたのが『神産み』でした。

ここでたくさんの神々が産まれます。

No.430 23/05/22 04:35
旅人さん0 

ところで。
(またまた誤りを発見したため、ほぼ同一内容のものとなります。ごめんなさい。千文字を超えて書き直した際、残ってしまった
『古事記と』と書いた部分を削除してあります)


前述させていただいた別天津神(ことあまつかみ)さま方は『古事記』における神話であります。
『古事記』と、『日本書紀』は世界の始まりについての記述、神話が異なっているといい、『日本書紀』においての神話は、[天地も定まらない混沌]から始まります。

まず天ができて、次に地ができる様子が描かれ、そののち天地の間に『クニノトコタチノカミ(国之常立神)』さまをはじめとする神様たちが誕生します。
『クニノトコタチノカミ』さまは古事記にも『別天津神』さまのあとに登場されておられます。


『古事記』と『日本書紀』はともに同じくらいの時代に編纂されたものでありますが、同じ神話であっても取り扱いがこのように異なっています。
【天武天皇】の意により編纂されたものであると伝えられるものであるのですが、実際にはそれははっきりとしたことはわかっていないとされます。
『古事記』は全三巻で神代(かみよ)から推古天皇の代までが記され、神話が一巻分を占めていますが
、一方『日本書紀』は全三十巻で神代から持統天皇の代までが記されており、神話部分は二巻、割合からすると古事記より少なくなっています。

日本書紀では五柱の別天津神さまが存在せず、日本書紀で最初に現れる『クニノトコタチノカミ』さまを含む三柱の神さまと四組の神さまを総称した『神代七代』と呼ばれる方々から描かれ、この『神代七代』の神さまたちの御名も『古事記』とは異なっています。


まぁ、神代、ですからね。
別天津神さまにおかれましては天上界【高天原】のことですし。


ここまで書かせていただきました神さまがたは、神社さんにお祀りされておられますことはまずないことかと思います。

…たぶん。
…間違っていたらごめんなさい。

No.428 23/05/19 18:00
旅人さん0 

このおばさん、ご承知のの通り頭が悪く、しかも記憶力もない人物。


神社さんに参拝するには、
御祭神はどなたであられるかをあらかじめ確認して参拝したいとおもいつつも、学んだつもりの神さまのお名前は本を閉じてすぐにさらさらと砂のようにこぼれ落ち始め、先ほどまでの時間はなんのために費やしたものなのかと、悲しむばかり。

八百万といわれる神さまでございますし。
まぁ、それほどの神々にお護りいただく日本の国であると思うと、ただただありがたく思うばかりなのですが。


日本の神さまは、よく三つのグループに分けられます。
【古事記】【日本書紀】に登場なさる神さまがたがそのうちの一つのグループ、であります。
この、【古事記】【日本書紀】だけで、三百二十七柱の神さまの御名が出てくるといいます。

…三百二十七であってもそのお名前を全部覚えるのは私には到底無理だわ。

流石に、これでも日本人の端くれ、ですので、有名な神さま方のお名前くらいは存じ上げておりますが…。

古事記の最初に、神さまたちの誕生が描かれており、
天と地がひらけたとき、高天原と呼ばれる天上界に出現されたという神さま、
『アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)』さまが出現されます。
…すでにここでもう、つまづいてしまいます。

ここでは、三柱の神さまが出現されるのですが、一柱目の神さまのお名前でつまづいているくらいですので、当然そのあとに続かれる二柱の神さまのお名前も当然、無理で。

この三柱の神様がたを【造化三神】とお呼びするのだといいます。
ただこの三柱の神さまがた、何故かすぐに姿を消してしまわれたとされます。

地上界は、まだ水に浮かんだ脂のように漂っているころとされます。
そんななか、地上界にも二柱の神さまが出現されるのですが、やはり姿を消していかれます。

その名も
『ウマシアシカビヒコジノカミ』と『アメノトコタチノカミ』
…ええ、長いんです、御名前。

薬剤の名前もやたらと長くて、しかもカタカナというところも似ていますが…。


…無理だわぁ。


この五柱の神さまがたは【別天津神(ことあまつかみ)』と総称されます。
造化三神であるとか、別天津神くらいまでならなんとか覚えられるんですけどねえ(…たぶん)。

No.427 23/05/18 09:37
旅人さん0 

このおばさん、最近は神社仏閣には行っていないのだろうか?

というくらい、なんだかつまらない呟きばかりが続いております。
…行ってるんです。
行かせてはいただいているんですが、毎月、へたをすると月に二回参拝させていただいているお寺さんや神社さんのことを毎回毎回つらつらと書き連ねても、せっかくこんな駄スレを、こんな間違いさがしの特典があるのか?っていうくらい誤字、誤文のレスをお読みくださる方々に、それでは面白みもないだろうと、書いていないだけでありまして。

でもそれって神社仏閣を訪ねるにあたり大切なことの一つなのではないかなぁとも思ってもおります。
いつも同じところを定期的にお参りさせていただいて、お礼や反省を述べること。
…本当は、こうしたことを頑張りたいと思います、とか申し上げられれば一番良いのでしょうが、なかなか、それこそ神仏を前に嘘をつくことになりそうで、滅多なことは申し上げられずにはおりますが。

まぁ、いまだに知らないことがたっくさんあって、相も変わらず失礼なお参りをしていそうで、毎回緊張してお参りをしているのですが、
そんなことも少しずつ調べて、確かなものにしていけたらと思う次第であります。

とりあえずの課題であり目標は、
茅の輪くぐりを正確に覚えスムーズにとりおこなうことができる。
かな。
あとは…もしその機会を得ることがあれば、となりますが、玉串の奉納の正確な手順をしっかりと習得し、落ち着いて臨むことができる。
ですかね。


…ええ、相変わらずそこで停滞しております。
あまり機会もないし、家で練習しても変なおばさんMAXなだけだし。
何より神事を家で意味もなく繰り返し練習するなんて失礼極まりないし。

こうしてきっと、その機会を得ると、あたふたあたふたして、パニックのままどう動いたかすら覚えていないくらいのまま、貴重な瞬間を終えるんですよね。

やれやれ。

No.426 23/05/17 17:19
旅人さん0 

お不動さまを彫らせていただく。

…。
……。

…キョンシーになっていくようにしかみえない。

いくらなんでもキョンシーはないでしょう。
凄まじいまでの不器用さだ。


お不動さま。
どうかお姿を写しとらせてください。



まさか、キョンシーが宿ってる?

やめて。

No.425 23/05/17 04:07
旅人さん0 

明日五月十八日は博物館の日。

私は何年か前のこの日に群馬県みどり市にある『岩宿博物館』に、この日は無料で入れるからと同僚に誘われて行ったことがあり、どの博物館もこの日は無料で入れるのだと勘違いをしていました。

今年、妙にその〝無料で入れる博物館の日〟にスイッチが入って、一カ月も前からワクワクして過ごしていました。
(どうせならいつもは行かないような博物館に行きたいな)とあれこれ思いを巡らせて。

いくつかの候補を絞って、今どんな企画展をしているかをしらべようと、〝博物館の日〟で検索をかけたところ、…!
衝撃の事実が判明いたしました。

『すべての博物館が無料で入館できることとなるわけではない』ということ、であります。


ええぇっ?!

しかも、しかもです。
群馬県はただ一つ、まさにその『岩宿博物館』のみが無料で入れる施設なのだといいます。
嘘ぉ〜。

さして関心を持っていなかった博物館に無料で入って、それで新たな発見、出会いがあるかもしれないことに多大なる期待をしてしまっていた私。

…お金を払ってまで見たい所って、そういう出会いが…ないわけではないけれど、正直、(うーん、ここでお金を払ってまでは見たいものはないかな)って思っている博物館には一生行くことはないだろうし。


…はあぁ。
ま、ひとえに自分の早とちりがいけない。

…栃木県は?

でました!
おばさんの悪あがき。

『足利市立美術館』と那須。
那須はなぁ、…遠いよなぁ。

足利市立美術館は、去年、まさに〝お金を払って〟観に行っているし。

…。


と、東京は?

おおぉ〜!
さっすが東京だあ!
国立博物館も美術館も無料だぁ。

トーハク、かはく、西美と三カ所まわって、上野公園に行って上野東照宮!
夢のようだ。


…ダメだ。
最近やたらとため息の多い、怒りっぽい相棒が、そんなことをしたら僻んで僻んで大変だ。
殊に上野東照宮は行きたがっているからなぁ。


…。
ああぁぁ、博物館の日ぃ〜。




No.424 23/05/16 08:57
旅人さん0 

そんな館林城。

江戸時代、館林城主は徳川四天王の一人、榊原康政公となり、ここで大きく改修整備されます。

その後、城主は榊原氏から松平氏、徳川氏、松平氏…などなど変遷を経て、そして最後の城主『秋元氏』と代わります。
いずれも徳川家とのかかわりの深い大名家が館林を治めてきました。

特に、五代将軍【徳川綱吉】公が、将軍になる前の二十年間、館林城主となっていたことは、この館林が江戸幕府にとって重要な拠点であったといえましょう。


…戦国時代に上杉氏、武田氏、北条氏が攻防戦を繰り広げ押さえようとした城でありますし、それだけの土地であったのだと思います。


館林市が好きで、なおかつ前橋の総社藩主秋元氏が大好きで、コツコツと自分で調べたくらい、なのです。


…珍道中ペアの片割れは、すでに館林は廻りつくしているのかなぁ。
「江戸時代にはあまり興味がなくて詳しくはないんだよ」と言ってもいたし、だから、なのかなぁ。
…あ、もちろん、そうは言っても私の数千倍は詳しい、んですがね。


県立美術館も常設の作品のほか、イベントや期間限定の展示など、美術に(も)あまり…まるで詳しくはないおばさんも楽しめるものであります。

雷さんの怖い私の大切な神社さん、【雷電神社】も館林市のお隣で、『館林名所(などころ)七所(ななしょ)に数えられているくらいです。
この名所七所に選ばれている神社仏閣さんは
この雷電神社さんをはじめ、
善道寺さん、
善長寺さん、
尾曳稲荷神社さん、
長良神社さん、
茂林寺さん、
普濟寺さん。

普濟寺さん以外はみな、参拝させていただいておりますが、再拝、再々拝させていただいており、どちらも居心地の良い、素敵な神社仏閣であります。


あー。
これはもう行かなくては。
行くしかない!


さぁて、今日は家事を頑張るぞぉ!


あ、ツツジの盛りが過ぎてからでないと、すっごく混むんだと聞いたことがあります。
…それが過ぎてから、だなぁ。

No.423 23/05/16 08:24
旅人さん0 

春の陽気に誘われて、一人のんびり出かけたい気持ちがウズウズ…。

そんな私が好きな街、ゆっくりと散策したり、のんびりと時を過ごしたいと思う街、群馬県館林市に行きたいと強く思うようになりました。
夫にもそう折りに触れては伝えているのに、何故か採用してもらえない。

ほんと、何故なんだろう。
まぁ夫婦といえども、珍道中ペアといえども関心のあるところは異なるもので、だとしたらやっぱりここは一人で行くしかない。

えっ?
大丈夫なの?
と思ってくださった方、…ありがとうございます。

が。
大丈夫。…だと思うのであります。
道はさほど複雑ではなく、何よりかつての同僚は毎日の勤務、館林市から通っていたくらいなので。
…まぁ、そんな通勤、若くても無理〜っ!な私ではありますが。

なんなら電車に乗って、という選択も可能。


あ〜っ、行きたい!



【館林市】は、かの群馬県民の愛してやまない(?)上毛かるたで『鶴舞う形』といわれる群馬県の、東南部、ちょうど鶴の頭の部分にあたり、関東地方のほぼ中央に位置しています。

北には渡良瀬川、隣接する邑楽郡明和町を隔てた南には利根川と、南北に大きな河川が流れ、城沼、多々良沼、近藤沼や茂林寺沼といった多くの池沼が点在するなど、豊かな水資源と自然環境に恵まれ、多様な動植物の生息地となっています。

城沼と多々良沼では越冬のため白鳥たちが訪れます。

桜の花とこいのぼりの競演で春が幕を開け、その後、群馬県では有名なツツジの名所、県立つつじが岡公園でツツジの花が一斉に花開きます。
今年はそれが一時に楽しめたようです。

そして館林市には今なお城下町であった名残が色濃く残っています。

といいますのも、この館林市にかつてあった【館林城】はさまざまな変遷を経ながらも、明治の廃藩置県まで、城主のいた城であったため、なのです。
この館林城は十五世紀に築城されたと伝えられます。

中世には館林城をめぐって大きな戦乱があったといい、越後上杉氏、甲斐の武田氏、相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで、上杉勢によって館林城は攻められ、足利長尾氏が城主となります。

次いで北条氏、そして榊原氏へ領主が変わり、榊原氏所領の時代に10万石の館林藩が成立するのです。


(つづく)

No.422 23/05/15 23:30
旅人さん0 

人の噂も七十五日とかいうけれど、本当はそんなことはなくて。

何年経っても消えない噂はあると思うのです。そういう噂は…たしかにあると思うのです。


まだ助けてと言うことすらできない、歩くことどころか座ることすらできない赤ちゃんが、…それもゴミ捨て場に捨てられた事件がありました。

保育園の隣という場所であり、すぐさまその保育園で保護したこともあり、幸にしてこの赤ちゃんは命に別状はないとのことではありますが。

母親である女性はそれでもどこかに罪悪感があったのでしょう、すぐに警察に連絡しているようです。
とはいえこの案件、この母親である女性の元に返されることはまずないだろうと思うのです。

おそらくは乳児院なような施設に入れられることとなるのだとは思うのですが…。

大きくなったとき、
「自分にはどうして両親がいないのだろう」と思わない日はないと思うのです。

そうしたとき、ゴミ捨て場に捨てられたことを知ったら、どれだけショックを受けることでしょう。

たしかにロッカーでは呼吸も難しいし、トイレでは発見が遅れたかもしれない。
そういった意味でこの母親である女性は保育園の隣という場所を選んでいたのかもしれません。
生きていてほしい思いはあったのだと信じたいのです。

でも…。

そもそもが赤ちゃんを遺棄すること自体が言語道断で、どこであろうとその捨てられた立場の者からしたら、これ以上ないショックなことで。
産まれてきた自分の生が否定されたことに他ならないのです。

何かの拍子で、この事件を知ったらこの子はどう思うのか…。

物価の高騰、失業と、生活に困窮する人は増える一方です。
生活に困ってこのような方も増えているのが現状です。

こうした思いにとらえられたとき、
…赤ちゃんを捨てたいと思ったとき、相談窓口を知ってさえいれば、そこでいろいろ制度を知ってさえいれば…
くやまれて、ただくやまれてなりません。





No.421 23/05/15 16:56
旅人さん0 

上野公園内に神社さんがあること、ご存知の方も多いかと思いますが、私は子どもたちが小さい頃には、まるでその神社さんの存在に気づきもせずにおりました。
ええ、まさに真横を通っていたにもかかわらず、です。

さすがうかつもので名を馳せるおばさんです。

時を経て、子どもが大人になってからも一緒に上野公園に行ったりもした家族なのですが、神社さんの存在を知らなかったのは両親だけで、その日一緒に行った子どもたちはそこに神社さんが鎮座されていることを知っていたそうな。

…ありがたいことです。
うかつな両親から産まれ、うかつな両親に育てられたというのに、ちゃんと気づいていたなんて、子どもたちにはうかつな遺伝子は伝わっていなかったということで。


そんな上野公園内に鎮座される神社さんはその名も【上野東照宮】さん。
そうです、徳川家康公をお祀りしております。

その存在に気づいたのは、『上野国立博物館』の運慶展に行ったのちに上野公園に寄ってのこと。
ただ、この日はせっかく嫁いだ娘も一緒に来てくれていたので、ついつい上野の動物園を楽しんだり、街中のお店をのぞいたりすることに重きを置いてしまったのです。

その後はなかなか上野に行く機会もなく、そして…コロナ禍に突入してしまったのです。


行きたいなぁ、東京。
行きたいなぁ、上野。

以前、ここに行きたいなぁとつぶやくと、近いうちに行けたジンクスがありました。


上野東照宮さんに行きたいぞぉ!
葛飾柴又の帝釈天さまに行きたいぞぉ!
巣鴨のとげぬき地蔵尊、高岩寺さんに行きたいぞぉ!
深大寺さんに行きたいぞぉ!
深川のお不動さまに行きたいぞぉ!
小網神社さんに行きたいぞぉ!

浅草寺さんにも再々再々拝したいぞぉ!
愛宕神社さんにも再々拝したいぞぉ!

東京に行きたいぞぉ〜!

No.420 23/05/15 10:17
旅人さん0 

神社さんやお寺さんにほぼ関わることなく生きてきた私。
そもそも自分の結婚式って?
…。

ホテルで挙式・披露宴をしたことは確かなんだけれど、うーん…。

ウェディングドレスでもなければチャペルでもなかった、それは確かなんだけれど。

仏前でもなかったけれど、神前…だったかどうか。
なんちゃって神前、だったのかもしれない。ホテルの方がセッティングしてくださってるので確かなことはわからない。

玉串をお供えしたおぼえもないのだけれど、それは私の記憶がないだけの可能性も大で。

捨てる捨てないで揉めて保留となっているビデオもあるにはあるが、捨てたい派の私は今さら見る気などさらさら無い。
写真とてそお〜っと捨てているくらいだ。


今となっては、ホテルの挙式なんかより、神さまや仏さまに失礼のない装いで神社さんやお寺さんでの結婚式の方が良かったなぁ〜などと思ってはみるけれど。
そんな挙式すらを知らなかったしなぁ。


時々、神社さんの境内を婚礼衣装に身を包んで、幸せそうに二人で歩かれるカップルに出会うことがあるけれど、偶然居合わせた人たちみんなを幸せな気持ちにしてくれて、そんな人たちからも祝福されて、本当にいいなって思うのです。

『子どもたちの結婚及び結婚式には一切口出しはしない』
それは自分の結婚式で学んだこと。
それでもご長男に嫁いだ娘には「嫁ぎ先のご意向に耳だけは傾けて」と言ってしまったけれど。

成人式にもご挨拶に行くことはなかったなぁ。


両親の離婚で父方のお墓参りは、私が嫁いで勝手にお参りするようになるまで中断することとなってしまったし。

神社さんに至っては、うーん。
お祭りには行っていても肝心の参拝をしていなかった気がする。

とすれば七歳の七五三まで遡るのかしら。


…やれやれ。

本当に神さま、仏さまに申し訳ないことでございました。
その分も今から学び、参拝させていただかなくてはいけないな。

No.419 23/05/14 15:10
旅人さん0 

母の日。

名ばかりの母である私だというのに、子どもたちからは先週や昨日、プレゼントを贈られ、この物価高騰の折、申し訳ないという思いが強いのが正直なところ、なのですが。

私の母は他界していて。

今、私の中で母というと、子育てに奮闘する娘が頭に浮かぶのです。

頭が下がるくらい、
我が子ながら尊敬するほど、
頑張って頑張って子育てをしております。
母の日ありがとう。

そして。
なんちゃって母ちゃんの私の元に生まれたのに、しっかりと立派に育ってくれた子どもたち、本当にありがとう。

No.418 23/05/14 15:00
旅人さん0 

昨日、今日。

群馬県山名八幡宮高崎市の安産子育ての宮・【山名八幡宮】さんが、母の日の週末に、ということで今年、初めての『母為祭(ははためさい)』 を執り行っておられます。

平安時代末期に創建されてから、現在まで約850年間続く、安産子育ての宮・山名八幡宮さん。
安産祈願や初宮参りなど、 女性に寄り添う神社として、日々多くの参拝者が訪れています。
正直、田舎という雰囲気のところにある神社さんでありますが、七五三の近い頃にはびっくりするくらい参拝の親子連れが待合室に詰めていました。

境内には子育て中のママさんに寄り添うように併設された施設があり、そこには私が感動したくらい、小さなお子さんの夜泣きなどに悩むママさんへそっと語りかけるような、手紙のような書面が、子連れで訪れているママにも読みやすい長さの文章と、大きさの文字のものが、何枚も何枚も設置されていました。

そんな、もともと子育て中のママさんに寄り添う神社さんであった山名八幡宮さん。

山名八幡宮さんが鎮座する、高崎市山名町には特別史跡【山上碑(やまのうえひ)】があります。
この碑は今から約1300年前に建てられた石碑であり、現存する日本最古の碑と言われています。

当時、長利(ちょうり)という名の僧によって、 母を想う気持ちを意味する“母為記”の文字や母との系譜が、碑に刻まれているといいます。


五月十三日、十四日の⼆日間、山名八幡宮さんでは【母為祭】と名付けた、新たなお祭りを執り行うこととされたとのことで、御朱印や御守等の授与所で、
「山上碑 オリジナルレターセット」と、⻩⾊のダリアをイメージした「母為記 御守」に一輪の花を添えた三点からなる『母の日特別セット』や、母為祭限定御朱印の授与を行っておられるとか。
…新聞の情報はここまで、なので実際参拝しないと、どんなお祭りなのか想像すらつかないんですがね。



ちなみにここ、ナビさえ使えば私も一人で行けるんですよ。
まぁ、わが家のメーカー純正ナビはじゃじゃ馬ナビなので、「近くだがそこには着かない」場所へ案内するんですけど、ね。


ただ、あいにくの雨、なんです。
こちら駐車場もすごい混みようですし、境内もきっと…○▲⭐︎✖️。


出不精、人ごみ嫌いのおばさんは遥拝しています。
…方角、合ってればいいのだけれど。



No.417 23/05/14 02:22
旅人さん0 

…違うんです。
もう自分一人でまわれるであろう範囲にある神社さんやお寺さんの御朱印を受けても充分なくらい、御朱印帳がすでに手元にあるんです。

御朱印を集めていることを知っている息子からも二冊プレゼントされていますし、余剰気味なのを知っているはずの夫からも何故かプレゼントされ。
東北路で一冊、ある神社さんの社殿を刺繍したオリジナルのものがどうしても欲しくて拝受したものもまだ手つかずのままなくらいで。

あ、それでも息子にもらったものは一冊は結ぶことができ、もう一冊は今使っているので、夫からのものとその東北の神社さんのものが手つかずであるのみ。
あとはもうどんなに欲しい御朱印帳を見かけても涙を飲んで我慢してきたので。


…といいたかったのですが、昨年そこにBS日テレの神技スペシャルという番組と桐生市のコラボ企画で行われていたスタンプラリーの景品で見事二等賞を当て、その景品こそが群馬ちゃんの小さく織り込まれた桐生織の御朱印帳。

欲しいと思う御朱印帳があったところで、すでに三冊も抱えこんでおり、これ以上は増やせないのが現状、なのです。


でも、御朱印帳を集めるのを楽しみにされておられる方も多くいらっしゃるようで、中にはそんな御朱印帳を神社さんに奉納された方がおられると、ある神社さんのサイトに書いてありました。
その神社さんでは、その御朱印帳を希望の方にお譲りしてその代金は神社の修繕などに使わせていただく旨書かれていました。(ちなみにその使途については…私の記憶違いでなければ 笑)


さらにさらに。
この神社さんやお寺さんの御朱印ブームに便乗して…なのかどうかはさだかではないのですが。
お城印、ですとか、鉄道の駅印、ですとかもあるようで。


現在わが家などはこの物価の高騰であっぷあっぷしている状況で、御朱印自体をセーブするくらいな状況ですので、この御朱印帳、使い切れるかどうか…。


物欲が治まった、のではなく、物欲により余剰していること、ツケが溜まった状態、そんな現状からのこと。

あいも変わらずこまったおばさん、なのです。やれやれ。

No.416 23/05/14 02:06
旅人さん0 

そんな御朱印帳の大きさといえば、ほんの少し前、ちょうど私が御朱印を始めたころは二種類で、大判と呼ばれるB6サイズ、縦18cm 横12cmのものと、
小さい方が文庫本のサイズで縦16cm 横11cm
といったものでありました。

それが『見開き』と呼ばれる御朱印帳を二ページ使ったものがあらわれたかと思えば、四ページ、なかには六ページなどとダイナミックにページを使っての御朱印が現れ、
ことに二ページを使う、見開きのものについては、そのサイズのノートタイプの御朱印帳までが用意されるにいたりました。
そういえば、その少し前から大判と呼ばれるものよりももっと大きい判のものが見かけられるようになっていました。

また、書き置きの御朱印の対応が増えたことに対応して差し込みタイプの御朱印帳もあるようです。


私は頑なに大判と呼ばれるサイズのものしか使わないので、どこでそういったサイズのものが購入できるのかは存じ上げないのですが、見開きのものに関しては見開きの御朱印を多くお書きくださっている神社仏閣でお取り扱い…というよりはオリジナルのものをご用意されているようです。

さらに、…私のような井の中の蛙は見たこともないのですが、どうやら『手のひらサイズ』と呼ばれるものもあるようです。

今年の一月に、あるお寺さんでお坊さんにお聞きになられていたのを聞きつけて知っただけなので、こちらに関しては現物すら見たことがないのですが、そのお坊さんもご存知でしたので、御朱印帳の界隈では有名なもののようでした。


うーん。
私はやっぱり『大判』と呼ばれる一般的なサイズのものだけでいいかな。
…おっ、珍しく物欲が薄い、と思われたかしら。


No.415 23/05/13 19:33
旅人さん0 

御朱印帳は御朱印ブームを受けて、実にさまざまなものがあります。

お寺さんや神社さんのオリジナルのものはもちろん、キャラクターのものなどもありますし、和紙などの紙を特産としているところであったり、刺繍やら織物で有名なところであったりと、本当に煩悩のかたまりである誰かさん(ま、わたし、なんですがね)の物欲を実に見事なまでに刺激してやまないもので。

そんな煩悩おばさんの誕生日の花は『三椏(みつまた)』という花。
実に地味な花ではありますが、和紙の材料として有名で、あの大蔵省紙幣としても採用されている優れもの。

そんな三椏入り和紙を使用したオリジナルの御朱印帳を授与しておられる神社さんがあるようです。
柄も三椏。
これは!

これはなにかの思し召し。
ぜひとも参拝させていただき、拝受しなくては!

おおっ!
しかも栃木県!

お隣の県ではないですか!

…茂木?
Motegiぃ⁈
も、もてぎ、ですか!!

こ、これは…。
一人では二日くらいかかりそう。
あ、普通なら日帰りで夕方になる前には帰れますが、ね。
普通の人、ならば。

下道を使って、道に迷うことを考えたら、まあ、二日あれば…。
…ダメかぁ。


あ、待てよ。
モビリティリゾートもてぎに行くわけではないんだ。

電車で…。
駅員さんが泣くなぁ。

No.414 23/05/13 02:57
旅人さん0 

やはり眠れずにいる。
そんな夜なんだと思うことにしたけれど。

藤の香のお香を焚きました。

良い香りが部屋中に広がっていきます。

私はお香の白い煙がゆるやかに穏やかに広がっていくさまを見るのがなによりも好きなのです。

眠れない夜、こんなことができるのも一人の部屋でいるからこそ。

あたたかなジンジャーティーも飲もうっと。
こんな夜には軽くなにかを読むとしよう。



明日は朝早くから孫のもとへと行って半日預かることとなっているのだけれど。

眠れないと焦るより穏やかに過ごそう。

No.413 23/05/13 01:18
旅人さん0 

心がなんだかざわついて眠れないで、ふと枕元に置いていた彫りかけのお不動さまを握りしめてみました。

私が彫ったものだから、なんのお力も備わってはいないはずですのに、とても優しい気が伝わってきました。

木の温もりなのかとも思いつつ、こんな愚かな人間が彫ったものであっても、お不動さまを思って一彫り一彫りしたものには、お不動さまの御慈悲が備わってくださるものかもしれないと、うれしく思えたものです。


もう少し。

寝相の悪い私がそのまま眠るとお不動さまに大変なご無礼をしでかしそうなので。

No.412 23/05/12 14:15
旅人さん0 


一つ前のレスで誤字脱字どころか脱文があり、訂正して再レスいたしました。
せっかくお読みくださった方申し訳ありませんです。
(慣れた。とおっしゃられそうなくらいいつもいつもで、本当にすみません)

そして今なおおかしな部分。
…本当に申し訳ありません。

No.411 23/05/12 14:07
旅人さん0 

観音霊場の一つに、坂東三十三観音霊場があります。

三十三という数字は、観世音菩薩さまが衆生の苦しみを救う際、相手に応じて三十三の姿に変化して救済するとされているからです。
西国観音霊場、坂東観音霊場、そして秩父と合わせてちょうど百観音となるよう、秩父は三十四観音霊場となっているといいます。

観音霊場巡りは、まず西国三十三ヶ所から始まったものと思われるといわれます。
伝説では、奈良時代、奈良の長谷寺を開いた徳道上人が閻魔大王の勧めで始めたのが最初、とされています。
その後、平安時代後期になって花山法皇が自ら巡礼して広めたとされます。
坂東の札所も西国同様、花山法皇が巡ったのが始まりと伝わります。

とはいえ、これはあくまでも伝説、実際どのように札所が定まったかを明らかにする資料はないといいます。
ただ。鎌倉時代には現在のように三十三の寺院が札所としてほぼ定まっていたのではないかと推定されています。

坂東の霊場は、神奈川県鎌倉市の【杉本寺】が一番札所であること、源頼朝が観世音菩薩に深い信仰をよせていたこと、多くの札所が鎌倉、相模、武蔵に位置すること、などから鎌倉時代の成立と推測されます。

おそらく平家追討のため、京に攻め入った坂東武者が、すでに巡礼の始まっていた西国札所を見聞きし、坂東に広めたのであろうと考えられています。

坂東三十三観音巡礼が庶民に広まったのは室町時代とされます。
栃木県足利市の鑁阿寺などに三十三観音巡礼をしたという巡礼札が残されているといいます。
巡礼がもっとも盛んにおこなわれ、札所が賑わったのは江戸時代であっったとされています。

巡礼路は全行程約千三百キロ。
東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、栃木県、群馬県にわたり札所が点在しています。


いつか坂東三十三観音霊場巡礼もといいながら、コロナのせいで果たせず。
ただ、あらためて坂東三十三ヶ寺を見直してみますと、御朱印こそは拝受していないものの、結構まわっていたことをしりました。

茨城県、千葉県が未踏ではあるものの、あとはほとんどお詣りさせていただいておりました。

もちろん、三十三観音霊場巡りは、目的をもって、発願(ほつがん)し結願(けちがん)するのが目的ですので、当然再拝となるお寺さんがたくさんあるということ、…なのですが。


さて。
珍道中の相棒はどう思うのだろう。

No.409 23/05/12 05:59
旅人さん0 

最近、なかなか遠くの神社さんやお寺さんに行けていない。

一人で行くことも減っています。
…えっ?
運転技術的にとか致命的な方向音痴のせいで、行けないのでは?…

あうあぅ…。
いやいや、行けないところが多い、というだけで、道を覚えた、山道でもない、高速を使うわけでもない、秩父とか、行けるところはあるにはあるのです。(たぶん…)


ただ、やはりコロナが大きなブレーキをかけたかもしれません。
慢性の呼吸器疾患を持ち、毎月の受診が欠かせない夫にはコロナ罹患はできうる限り避けたいこと。


それと…。
以前にも書いたのですが。

まだ訪れたことのない神社仏閣に私が一人で訪ねようものなら、すぐさま直近で予定を立て、そこに行く夫。
一人で行ってくれるならとにかく、私も一緒。へたをすると数日後同じところへ行くことになる。

それって…。
何度も続くと、結構気持ちがそがれるもので…。


それでも、春らんまんの今日このごろ。
どこかに行きたいなぁと。

コロナが感染症法上の位置づけが5類感染症となり、夫のテレワークも週三回となり、正午ちょうどまでのお昼の支度もしなくてよい日が増えたこともあって、少しだけ気持ちがウズウズ。


ま、まぁとりあえずは紙の上で。

No.408 23/05/11 16:11
旅人さん0 

午前中、気持ちのよい青空が広がっていました。

家の者が使っている敷布団全てと毛布やらを干し、うーんと一声唸ったのち。
生垣の柘植と、灯台躑躅を刈って、それからそれを全てゴミ袋につめて。
遅めのお昼ごはんを食べていましたところ…。

大きな羽音の羽虫が。
殺虫剤だぁ!と立ち上がり、何気に窓の外を見ると。
あの青空はどこはやら、今にも雨が降りそうな空であります。

慌てて布団をしまい、洗濯物をしまった途端に、サラサラと雨音がし、
すぐにザーザーという雨音へ。

ようやく落ち着いて、今さらと思いつつ羽音の主を探しましたがどこにもいません。
神さまか仏さまが羽虫を使って私に教えてくださった?
本当にそう思えたタイミングでありました。

ん?
えっ?雷!!

雷電神社さまの雷よけの御守、御守!

雷よけの御守がいつもバッグに入れてあるくらい私は雷が大の苦手。
今年は雷よけのお札もお受けしようかしら。


群馬県板倉町に鎮座する【雷電神社】さんは、関東地方に多い『雷電さま』の総本宮です。
そういえば昨年はお詣りしていなかったかもしれない。

こちらは『聖徳太子』さまにより創建されたと伝わります。
徳川綱吉公が社殿を再建しており、屋根にはあの徳川家の『三ツ葉葵』の紋章がみられます。

特記すべきはこちらの社殿に施されたなんとも美しく見事な彫刻であります。
実に精巧な彫りであります。
あぁ、行きたい!
こちらの神社さんの境内には、群馬県最古といわれる木造建築物であります、『八幡宮稲荷神社』さんがあり、さらにこちらは全国で七ヶ所しかないという珍しい造りの建物であります。
扉の真ん中に一本柱が立っている『二間社造り』と呼ばれるものだといいます。


…などとあれこれつぶやいている間に、雷電神社さんの御守が雷を去らせてくださいました。
なんと霊験あらたかなことでしょう。なんとありがたい事です。

今年はぜひお詣りさせていただかねば!
…そうして…館林名物の『鯰の天ぷら」をいただけたらなぁ。

No.407 23/05/11 06:57
旅人さん0 

NHK大河ドラマ「どうする家康」の木彫りのウサギさん。
この七日の放送にも登場したようです。(あとで見なくては♡)

素朴で可愛らしくて好きなのですが、実はあのウサギの彫刻、群馬県前橋市出身の仏師の方が彫られており、主演の松本潤さんに木彫りの演技指導もされています。

関侊雲(本名・勇一郎)さんは仏師の道に入られて約30年となられるとのこと。
現在は、富山県にお住まいで、富山県南砺市に主な工房を構え製作活動、弟子の育成をされておられますが、群馬県内にも二か所木彫教室をお持ちになられています。

以前からこちらの教室に通いたかった私だったのですが、近くの教室は曜日の都合がどうしてもどうしてもつかないため、泣く泣く諦めたもので。

関侊雲先生のお仏像や木彫、仏画は前橋市や高崎市のお寺さんで拝見することができるのですが、どれも心打たれぽあぁっとしばし立ち尽くす私。

木彫りのウサギは少年の頃の家康が彫ったものということで、あのような素朴なものになっていますが、素朴なものであっても均整のとれたものとなっていますよね。
あれを初めて見たとき、(家康、うますぎじゃない?)と思ったくらいでしたので。

第一話では、松潤演じる少年期の家康が木を削ってウサギの木彫りを作るシーンであったため、少年という設定に合わせて身体を小さく見せる構えなども教えられたといいます。
また松潤に基本的な彫り方も教えておられ、
「(松潤は)思った以上に手つきが上手だった。一生懸命、練習をされるので、(けがをしないか)不安だった」と振り返っておられました。

引き続き今後もドラマのために新たに製作した作品も登場する予定だといいます。
侊雲先生は「松本さんやスタッフの方と話し合いながら、その時その時の心情に沿った手つきや気合を模索していきたい」とおっしゃっておられました。


うーむ。
…少しだけ遠いけれど、やっぱり侊雲先生の教室に通おうかなぁ。


あ、ちなみに私は松潤のファンではなく、あくまでも侊雲先生のファンなので。

No.406 23/05/10 15:04
旅人さん0 

しかしながら。

追記させていただくならば、この里見兄弟の悲話は近世期に作られた戦記物語に登場する史話であり、確実に存在したという史実は見あたらないのだといいます。

里見兄弟に関する唯一の遺跡として、この阿弥陀堂の墓地が存在しています。
五輪塔の数は約三十数基分、それ以外に宝篋印塔、永禄年号の石殿等があり、中世の武士団の墓地であることは間違いないであろうとされるのみで、里見兄弟の墓と称される五輪塔も『逆修 天正六季 随見」「道壽 八月廿九日」と刻まれているとのことなのですが、みどり市の教育委員会の調べによると、
これらの五輪塔は凝灰岩製であり、形式的には鎌倉時代から南北朝時代にかけてのもので、時代が一致しないのだといいます。

こういったことから、里見兄弟にまつわる史話は伝承の域を出ないものであるということを、伝えておかねばならないと思い、追記しておきます。


私は里見兄弟の話を信じている一人なのですが、ね。

夫は「そういう説があって、俺が読んだ関八州の本にも書かれていたけれど、山田氏ののことか、仁田山里見氏とかは出てこなかった。
このあたりの歴史は立証されることもなかなかないし、『わからない』というのが正しいんだと思うよ」
と。


ちなみに。
余談ではありますが、あの城好きで有名な、【笑点】の司会者、春風亭昇太師匠は、この高津戸城の城跡、要害神社を訪ねているとのことでしたよ。

…すごいなぁ。

私などここ数年の間にようやく、
そういった歴史があったことやら、幼稚園の時バス旅行で来た『ながめ余興場』のすぐそばの橋を渡って左側にそびえる山にお城があったことを知ったばかりだというのに。

その『ながめ余興場』にお仕事でみえて、地図にある『要害』という土地名から、城跡であろうと推測して
お仕事の前に登った、というのですから。

私よりも年上の昇太師匠、お若いなぁ。



No.405 23/05/10 12:59
旅人さん0 

ところがこれが、
『上杉謙信』に二子を預けたことが『桐生親綱』に誤解され元亀元(1570)年に、詰め腹を切らされることとなります。

上杉謙信の元にいた兄弟『勝政』と『勝安』は親の仇を討ちたいと天正四(1576)年に、謙信の援助を受けて高津戸城に入ったといいます。

実はその間に桐生氏は由良氏に討たれ滅亡してしまいましたが、父を陥れ自害させた桐生氏の家臣は由良氏に残っていたため、その翌年『用命の砦』を襲います。
しかしながら念願果たせず、由良国繁の怒りを受けることとなり、天正六年、勝安(二十五歳)は討死、
兄勝政(二十八歳)は城兵の助命を条件に自刃したといいます。

その里見兄弟の墓や山田氏の墓がこの高津戸城のあった『要害山』のふもと『阿弥陀堂』に静かに眠っていると伝えられており、阿弥陀堂の向かって右側にはたくさんの墓石が身を寄せ合うように並んでおります。

また、兄弟二人の戒名の彫られた大きな石碑がこの阿弥陀堂の入り口にそびえています。

この房州里見氏こそが、かの【南総里見八犬伝】のモデルとなったあの里見氏で。
私どもと、それより少し上の世代が夢中になって観たテレビ人形劇【新八犬伝】はこの南総里見八犬伝をもとに作られております。

こんなに身近なところに、里見氏が、そしてここで滅亡していたなんて…。
当時の私は、…どころかこの神社仏閣巡り、珍道中を始めるまで知りもしなかったこと。

うーん、歴史って、…深いなぁ。

そうそう、その【新八犬伝】で、誰もが忘れられないキャラクター、『玉梓』の人形を、昨年日テレの番組のおかげで、桐生市で見ることができたっけ。

つながって…はいないか。

No.404 23/05/10 12:33
旅人さん0 

山田氏に由来して山田郡大間々町であったのか、もともと山田という土地であったから『山田』を名乗ったのか、前レスを投稿してから、(あれ?もしかしたら…?)と思ったり。

そもそもが山田氏のゆかり自体がよく分かってはいないということであるといい、まぁ、分かっていないことをあれこれ考察したり調べたりするのが、歴史のロマンなのかもしれません。

そんな二百数十年続いた山田氏が滅んだと言われるのが天正六(一六五一)年六月のことであるといわれています。

その後この高津戸城に『里見家』の七代義連の三男『氏連』。

氏連が『仁田山八郷(高津戸、須永、東、西小倉、上、中、下仁田山、名久木)』 に入ったのは、建徳二年(一三七一)であったといい、『桐生国綱』の娘が氏連の正室となりその縁で仁田山八郷を国綱から任されたのだといいます。
 
仁田山城は、以前は山田氏の居城であったといい、仁田山里見氏と呼ばれたといいます。

その氏連より四代後の『宗連』は、越後の『上杉謙信』に攻められ自刃したといい、それが天正二(一五七四)年のことであったといいます。
…何故?
その辺、私が調べたものではわからなくて。

うーん、戦国の世は、その名の通り、国取りのため人が簡単に殺されていたし、戦略、戦さばかりの世であったからなぁ。


そんな頃、房州の里見実尭(勝広)は、仁田山に住む一族の宗連の許しで身を寄せていたといいます。

宗連の没後桐生に移って桐生氏の客分となったのですが、実尭は二人の子ども『勝政』と『勝安』を上杉謙信に託します。
…ここでまた、身を寄せていた仁田山里見氏が謙信に攻められ自刃したというのに?という疑問が。

この辺を歴オタの夫に聞いたところ、
「よくわかんないんだよな、実は。その辺の歴史って、調べてみると史実と異なることが結構あるんだよね」とのことで。

なるほど…。
ま、歴オタの血に火がついたようで、仕事の昼休みに「調べてみる」と夫。
…いや、そんなにまで調べなくとも。
みんな説明している人が触れない、濁しているところをみれば、やはりよくわからない、というのが正しいところ、なのでしょう。

 

No.403 23/05/10 06:31
旅人さん0 

出不精で人混みの嫌いな珍道中ペア。
このゴールデンウィークはどこもかしこも混んでるようでしたので、私どもは、のんびりゆったり過ごそうという計画を立てていました。…それを計画というかどうかは定かではないのですが…。

アウトドアチェアを持って出ては行った先でのんびりゆったり。
川のせせらぎや鳥の声。
滝の落ちる音を聴きながら、のんびりゆったり。

石仏さまや道傍に建つお堂を訪ねて手を合わせて。

そんな日々を過ごしておりました。

群馬県みどり市東町花輪の辺りはそういう石仏さまやお堂があり、田植え前の田や葉の色を濃くしつつある果物の樹木、路端に咲く草花を見ながら歩いて、お堂や石仏さまをお訪ねいたしました。


群馬県みどり市大間々町にあります阿弥陀堂にも参拝いたしました。
この阿弥陀堂は、この辺りにあった高津戸城との関係の大変深いもののようで、以前書かせていただきました要害神社さんのある要害山の麓となっており、その要害神社さんこそがその高津戸城のあった城跡そのもの、であります。


高津戸城は後三年の役のあと、寛治ニ(1088)年に山田氏が築いたと伝えられています。

ちなみにこのみどり市大間々町は平成の大合併以前までは『山田郡大間々町』。
この山田郡という名称はここから来ている…のではないかなぁと私は思っているのですが。
合併により、歴史あるものがいくつも失われていきましたことを、なんとも切ない思いで振り返る私でありますが、もともとそんなには(いや、むしろまるで)歴史に詳しくない人間。
地元を愛する方々、歴史に詳しい人たちはどんなに悔しく歯がゆい思いをされたことでしょう。

そんな山田氏により二百数十年にわたりこの高津戸の地は治められていたのですが、南北朝時代の観応ニ(1351)年、桐生国綱に攻められて滅亡してしまいました。

この阿弥陀堂に安置されておられる阿弥陀石仏さまこそが、この山田氏のものであったと伝えられているものであります。
阿弥陀堂のそばにある凝灰岩製の大きな五輪塔も山田氏のものであると伝えられます。

年一回四月に、こちらのお堂を管理されている群馬県みどり市大間々町の『自音寺』さんが御開帳され法要を営まれているようです。

No.402 23/05/08 18:40
旅人さん0 

「ギンリョウソウって珍しい花が咲いているの、ご覧になった?」

ウォーキングによく行く地元の低山を歩いていて同年輩の女性に不意に声をかけられました。

「えっ、も、もう一度お願いできますか?」
「ギンリョウソウ、っていうの。珍しいから是非見たほうがいいわよ」
「ありがとうございます」

と、その方はわざわざ道を戻ってくださって、ギンリョウソウの咲くところへと案内してくださいました。

…。
…ニョロニョロ?

「ユウレイダケとも呼ばれるのよ。馬の立髪に見えるっていう人もいるらしいわ」

…私はニョロニョロに見えます、とは言えなかったですが。


ギンリョウソウは銀竜草と書くようです。
名前の由来は白く光りまっすぐに伸び、首をかしげたような姿が銀の竜のように見えるから、だといいます。
確かに。
形はタツノオトシゴとよく似ています。

薄暗い林の中、木の根元に張られたロープの中で、ニョロニョロの集団がいくつか。

この低山、実は数々の花の咲く花の名所なのだそう。
まるで知らなかったです。
気づきもしなかった。

花言葉は「はにかみ、そっと見守る」。たしかに林の中、うつむく姿はたしかに、はにかんでいるようにも見えます。
私に言わせると、…ニョロニョロが、なんですけど、ね。


こちらのお山。
実は小さな祠があって、北向観音さまと呼ばれています。

いつもお花やら飲み物がお供えされています。

この、ギンリョウソウを教えてくださった方にお会いできたように、
この北向観音さまのいわれをご存知の方にいつかお会いできる日はくるかしら。


No.401 23/05/08 15:08
旅人さん0 

群馬県みどり市の東町花巻というところにある【祥禅寺】さんは、埼玉県にある興禅寺さんというお寺さんの末寺に当たるとのことですが、この花輪には三つの末寺を持つお寺さんです。

ご本尊は延命地蔵菩薩さま。
大同年間(806〜823)、赤城山麓の二の鳥居に開創され、建久年間(1190〜1198)にこの地に移設されたとのことです。

なんでも、祥禅寺さんには、流行の風邪が治るといわれる『綿神様』という神さまがお祀りされているようだったのですが、亡くなられたご住職にお手を合わせるためと山門をくぐらせていただいたため、境内をうろうろするのはどうかと思い、御本堂と太子堂、それから石仏さまと金仏さまをお参りしただけにとどめ、綿神さまがどちらにおられたのか分かりませんでした。

この地の出身で童謡の父と呼ばれる『石原和三郎』氏もここに眠られているとのことであります。

そんな祥禅寺さんの境内、山門を入ってすぐのひだりてにうろうろしなくとも目に飛び込んでくる、そんな巨大なモニュメントがありました。
古い墓石を集め、まるでピラミッドのように組んで、そのてっぺんにお地蔵さまと思われる石仏さまが祀られていました。

隣にある庁舎とほぼ同じ高さですので、三階建ての、公共の少し天井の高い建物と同等の高さということになろうかと思います。

こういったモニュメントはみどり市の東町や桐生市の黒保根辺りでは見かけることがあるのですが、こちらではこの塔を『無円塔』と呼ばれているようです。
墓石の他に石仏さまや石灯籠などもバランスよく組まれてあります。
『無縁仏を集めた霊地』とも表現されておられます。

また、個人の墓所にご先祖の供養とためとのことで建立された丈六の大仏さまが祀られていました。
モニュメントも目をひきますが、私はどちらかというとこの大仏さまが目につき、なおかつ建立された方とその目的を知り、びっくりいたしました。
いろいろな供養があるものです。


ご住職を失われて、すっかり静まりかえった境内にはさまざまな色の牡丹の花が風に揺れていました。
華やかな花であるはずの牡丹がなんだかとても寂しげでありました。


No.400 23/05/08 06:47
旅人さん0 

               
今の政府が何を目指しているのか、私のような 狂牛病?ってくらいスカスカふかふかの脳みそでは理解できていないのかもしれない。

けれど。

自然災害も恐いです。
ですが、国会での質疑応答を見聞きすると、不安で怖くてたまらなくなります。

私は毎日、この国を、
「日本の国をお護りください」と祈っています。

一国民はもはやそんなことしかできないのかな。

江戸時代並み…それも、生活が困窮して直訴やら打ち壊しやらが多発した時代と同じくらいの課税をかけようとしているのに、目先に一見良さそうなことをぶら下げ、国民が「ほおぉ〜」と思ってる間に、だーっと悪い方向へと一気に舵を取ろうとしているようにしか思えないのです。

物価の高騰で暮らしはすでに苦しいのに。


ただ、…そんなスカスカふかふかな脳みその私にもわかるように問題な点を提起してくれる政治家がいてくれ、政党がある。
ありがたいことです。

ただ、スカスカふかふかな脳みその私にはうまく伝えることができず、一番身近にいる夫にすら理解してはもらえない。
「国会中継、観た方がいいよ」
という私に、
いかにもそんな暇人じゃないという口調で
「仕事しててそんなの観られない!」

YouTubeであがってるはずだから、観られるよ。
ニュースでは全貌は見えないんだよと伝えても、まるで虚しく散るばかり。

それなら子供たちに…、本来ならそうすべき事ではあるのに、彼らの直面する将来が悲観的でしかないことを伝えることとなりそうで、言えないでいる。
…そのくらい危機感を抱いている私は、やはり祈ることしかできないでいる。

でも、地元の市の市議の方で一人、そんな情勢について詳しく説明してくださる方がおられる。
国の単位、市の単位で、きちんと語ってくださいます。
国会で問題を提起し、戦ってくれている政党に所属する方。
普段はニコニコとして、温和な方。

政党に対する偏見も強いようで、そこがたまらなく歯痒い。


もちろん、自己満足でしかない朝の祈りは、神社さんに出向いてのものでもなくて、ただただ言葉に出しているに過ぎないもの。

でも、祈らずにいられない。
日本の行く先。
日本の未来。

未来ある若者たち、子供たちのために。

No.399 23/05/06 06:17
旅人さん0 

町役場以外には、桜の並木と、広く間をおいて建てられた民家と、さほどは大きくはない畑や田んぼの続く道。

そんなのどかな光景の中にしては、大きく立派なお寺、祥禅寺さん。

なかなかこの辺りでは見受けられない立派な造りの山門前には『不許葷酒入山門』と大きく彫られた石碑が建っております。

『葷酒山門に入るを許さず』

…大丈夫です。
普段から飲酒はしませんし、本日はネギもニラもらっきょうもニンニクも食べてはおりません。

…普段でしたら、心の中でそんなことをつぶやいて、一礼して門をくぐるのですが…。


山門前に、真新しい立て札が設置されています。
白木の木に大きく黒い文字で四文字、『山門不幸』と書かれています。


…あ。
これは…。


お寺さんのご住職やそのご家族が亡くなられた時に掲げられるものだ。

横に小さな文字で、ご住職さまがこの一月に入寂された旨が書かれています。

…どうしよう。

入っていいものか、悪いものか…。


…いや、入る。
入るべき。

このお寺さんにお参りしたいという導きがあってここまで来ています。

御本堂の前でご本尊さまに手を合わせ、ご住職のご冥福をお祈りせずに帰っては、むしろ失礼に当たりましょう。


と、勝手に思って。
山門で深く頭を下げて、お参りをさせていただきました。

No.398 23/05/05 22:27
旅人さん0 

「花輪のお寺に行ってみたいと思うんだけど」
と夫。

私は私で、ちょうど群馬県みどり市にあるお寺さんの住所や、電話番号、宗派や本山、ご本尊さま、開山や開創の頃などを調べ終えたところでありました。

これが…みどり市の笠懸町や大間々町のお寺さんですと、ホームページのあるお寺さんがあったり、実際に伺っての資料があったりと、もっと詳しい情報も書けたのですが、東町のお寺さんは本当に最低限の情報のみ。
これは実際に行って見聞きしないとわからないことばかりだなぁと、思っていたところでありました。

以心伝心のようでお互いがちょっとびっくりいたしました。


そんなわけで。
みどり市大間々町の町を通り抜けて、日光へと続く道を走りました。
あるところでは川に沿い、またあるところでは線路に沿って。

新緑の気持ちのよい道路であります。

以前にも書きましたが、この線路というのが『わたらせ渓谷鉄道』の列車が走るもの。
休日にはトロッコ列車なども走り、また温泉のある駅などもあって、都会の喧騒を離れてこの列車に乗るためだけに群馬県を訪れる方もおられるくらいであるようです。

この辺りは平成の大合併でみどり市と桐生市とが飛地状態でそれぞれ合併をしたため、わたらせ渓谷鉄道も桐生市を走っているとみどり市となって、また桐生市になったかと思えば、またみどり市となる、といった風にまさに混乱しそうな状況で…。

『花輪』というのは、元は勢多郡東村。江戸時代、銅を運んだ『あかがね街道』の花輪宿のあったところであります。
今でもその風情が残り、のどかな自然あふれるところであります。

そんな東町の役所のすぐ隣にあります【祥禅寺】さんというお寺さんに参拝させていただくべく、新緑の中、車を走らせました。(もちろん、夫が)

祥禅寺さんは今回初めて訪れたお寺さん。パッと見る限り駐車場が見当たりません。
私が車を降りて駐車場を探すこととしました。

立派な御門です。
白い漆喰の壁が続いています。

『曹洞宗』と書かれた札と『祥禅寺』という札が、左右の門の柱に掛けられています。
扁額には『赤城山』と書かれています。

No.397 23/05/05 02:30
旅人さん0 

このあと行ったのは、菜の花畑。

まさに一面菜の花!
全周菜の花!でありました。


こういう風景を前にして、すぐ浮かぶのが、山村暮鳥の詩
「風景」 
    
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     かすかなるむぎぶえ
     いちめんのなのはな



ただただ繰り返される「いちめんのなのはな」。

「かすかなるむぎぶえ」
「ひばりのおしやべり」
「やめるはひるのつき」
と、連ごとに挟まれるところが、プロの詩人であります。


が。
実は飯山の菜の花畑は、「菜の花畠に入り日薄れ..♪」と唱歌【おぼろ月夜】に歌われた場所なのだそう。


普段はロマンのかけらも感じられないくせに超ロマンチストな夫は、まさに〝菜の花畠に入日薄れ〟る頃までいたかったようなのですが…。

たしかに、遠く残雪の山々と、優雅に蛇行する千曲川と一面の菜の花。

こんな贅沢な思いをしてよいものかと思うくらいの光景ではあるのですが、さすがにあと三、四時間ここにいるのは、ちょっと…かなり、私が無理、かな。

温暖化の影響から開花の時期が早まっているようで、ちょうど一週間前くらいが満開の時だったようで、ちょうどこの日から菜の花畑祭りだったようなのですが、その開花状況はすこぉし、残念な感は否めませんでした。

その千曲川を挟んだ向こう岸に一面黄色い風景が見えます。
あそこも菜の花畑?

しかし、ロマンチストのスイッチが入った夫はあくまでも【朧月夜】の
菜の花ばたけに 入り日うすれ
  見わたす山のは かすみ深し
  春風そよ吹く 空を見れば
  夕月かかりて においあわし

の風景を味わっていたいよう。

実に五回、「あちらの菜の花はまだ盛りの時期みたいだから移動してみない?」と申し、ようやく、それでも名残惜しそうに『菜の花畠』を後にした夫。
ごめんね、ロマンのかけらもないおなごで。

移動した場所はその名も『花の駅 千曲川』。

この写真の菜の花畑です。

ちなみに。
菜の花は、菜種油を取るアブラ菜の花が一般的ですが、この地域では信州らしく、野沢菜の花、とのこと。小松菜なども収穫せずにおくと菜の花になります。


No.396 23/05/03 22:41
旅人さん0 

新潟県では道路上に【矢羽根付きポール】を生まれて初めて見ました。
豪雪地帯では降り積もった雪によって道路の車線が見えなくなってしまうため、車線がどこにあるかを把握しやすくするために置かれているもの、なのだといいます。

10センチでも雪が積もろうものなら、たちまち交通障害が起き大騒動となる地域の者には珍しいものとなりますが、これがなくてはならないのが豪雪地帯、日本の広さをあらためて感じさせられました。

新潟を抜けて入った長野県もやはり豪雪地帯で、栄村、そしてお地蔵さまの立たれる飯山市西大滝地区も雪深いところなのだといいます。

それゆえお地蔵さまの立たれる台が私の背の高さに対してもかなりの高さまでありました。
それでも雪の季節にはお地蔵さまはすっかり埋もれてしまうのだそう。

ただただびっくりするばかりです。


震災から十二年が経って、被災地の復旧、復興は進んだのでしょう、特に被災された傷跡が残るような場所を見かけることはありませんでした。
ただ…。どなたも住まわれていないだろうおうちがいくつもあり、調べてみたところ、やはり震災後地域人口は大きく減少してしまっているのだそうで。

それでもお地蔵さまのお召し物は新しそうな手編みの大きなお掛けとお帽子で、今なおこのお地蔵さまが地域で大切にされていることがわかるものでありました。

「もうそろそろ、向きを元に戻したら?」という声もあったともいいます。
しかしながら地域を大きな被害から守り、復旧、復興を励まし続ける六地蔵さまは現状のまま存置していく考えだといい、ホッとした思いのした私であります。


No.395 23/05/03 06:11
旅人さん0 


…画像だけのアップで申し訳ありませんでした。


このお地蔵さまの向き、何か不思議な感じがしませんか?

たしかに同じ方向を向いてお立ちになられていらという意味では他の六地蔵さまと同じではあるのですが、普通ですと横並びに立って同じ方向を向いてお立ちのはず、です。
この六地蔵さまは整列されて並び、同じ方向を向いておられます。


実はこの六地蔵さまもかつては他の六地蔵さまのように、横並びに立っておられたといいます。
それがある日を境にしてこのような向きになっておられたというのです。

よくある伝説?


…ではないんです。
何故ならばそれはわずか十二年前のことであるから。


このお地蔵さまがおられるのは長野県飯山市の西大滝地区というところ。飯山市西大滝ダムにほど近い、道端にお立ちになられています。


あの東日本大震災の翌日三月十二日の未明に起きた『長野県北部地震』で、この飯山市西大滝地区に隣接する栄村はニ時間足らずの間に震度6の揺れに三度見舞われました。
道路や鉄道は寸断され、村の九割にあたる804世帯2042人に避難指示が出たほどの大きな被害がありました。

栄村に接する飯山市西大滝地区にある、この六地蔵さまはこの地震を境に高さ約70センチの石の地蔵七体のうち、土台を固めた一体を除く六体が90度向きを変え、栄村を見つめるようになっていたのだといいます。

隣接するこの西大滝地区でも、地震で住宅の倒壊などはありましたが、栄村の被害に比べれば大きな人的被害もなくすんだといい、このお地蔵さまの異変にいち早く気づいた方は「あの地震でこの被害で済んだのは、地蔵さんのおかげ」とおっしゃっておられたといいます。
被害からこの地区を護りつつ、栄村を心配して向きを変えられたお地蔵さまとして、当時は大変話題となりテレビや新聞のニュースに取り上げられたといいます。

私はこの六地蔵さまのことをまったく知らずにおりましたが、夫はそれを知って以来、いつかはこの六地蔵さまにお参りしたいと思っていたのだといい、今回ようやく、…実に十二年後となりましたが、夫念願の参拝ができました。


新潟経由で長野に入り(今回は息子の運転です)、栄村を通ってこのお地蔵さままでまいりました。




No.394 23/05/03 04:49
旅人さん0 




No.393 23/04/30 22:39
旅人さん0 

先日、群馬県みどり市の光榮寺さんのご住職さまの法話を伺って、今までずっと疑問に思っていた謎がスッと解けました。

それは、般若心経についてのことであります。

私がいたします写経は、お寺さんでさせていただくにしろ、自宅でするにしろ、全て般若心経。
その般若心経で、
『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』
となるものと
『摩訶般若波羅蜜多心経』
というものがあるのです。

そう、つまり『仏説』とつくものと、つかないもの。

光榮寺さんは真言宗智山派に属するお寺さんです。こちらのお寺さんで写経をさせていただくと『仏説』が付きます。
実は真言宗は『仏説』を付けてお唱えましますし、当然経本も、それを元にした写経用紙にも『仏説』と付くわけである、というのです。

それに気づいたのは市販の写経用紙を購入してのこと。

光榮寺さん、そして栃木県足利市の『最勝寺』さんで写経させていただくときにはきまって
『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』と始まっておりました。

それが市販の写経用紙では
『摩訶般若波羅蜜多心経』で始まっているのです。

何故?
文房具屋さんのものだから?

それはおかしな話でありましょう。
いくら文房具屋さんで売っているからといって、大切なお経の一部を変えることはあり得ない、あってはならないことだと思うのです。

…それだったのか。



全ての謎は解けた!


そもそもこの『仏説』とは、文字通り文字通り〝仏陀が説いた〟という意味。

元のサンスクリット語では、仏説は雄ついていませんし「摩訶』すらも付いていません。

『摩訶』とは「大きい」とか「偉大な』とか『素晴らしい』という意味だといいます。

つまりは『仏説』も『摩訶』も、後の世の人が、般若心経は仏陀の教えであるという意味を付けたくて付けたものとなるといいます。

なるほど。


手本が薄く印刷された写経用紙であれば、その通りになぞるしかありませんが、私の使うのは罫線だけの写経用紙。
『仏説』をつけるかどうかは、納経するお寺さんに合わせて…ということになるのでしょうかね。


あ、ちなみに私が罫線だけの写経用紙を選んだのは、なぞることすら下手だから、というなんとも情けない理由でありました。

No.392 23/04/30 06:14
旅人さん0 

(つづき)

えっ?
ちょっと待って?
すぐ帰るからと言っていたのにまた会ったということは〝嘘〟をついていたということになるのでは?
…そう思われた方もおられるかと思います。
たしかに「すぐ帰るから」という言葉だけ取り出してみれば〝嘘〟になるかもしれません。
すぐ帰るからという言葉が無くとも、小さな子どもとおばあさんはありがたいと思ったことでしょう。

しかしながら、この「すぐ帰るから」という言葉があったため、私は、
少年に、まだそのボールをまだ使いたいと思う思いを我慢させて譲らせてしまったと思う罪悪感も抱かずに過ごすことができました。
小さな子どもといえどもルールはルールと教える場面でもありました。

この少年の言葉、「すぐ帰るから」というものが添えられただけで、状況はこれだけ変わることができたのです。

それでも〝嘘〟は〝嘘〟と言ってしまえばそれまでです。

しかしながら、この少年の行いや心には大人でも学ぶべきものが備わっていると思いました。


仏さまの教えには【四摂事】【四摂法】と呼ばれるものもあります。

【四摂事】とは

1. 布施(ふせ)・・・物質的、精神的に得たものを独り占めしないで、分か ち合うこと。

2. 愛語(あいご)・・・優しいことば、慈愛に満ちたことば、愛情のこもった ことばをかけること。

3. 利行(りぎょう)・・・見返りを求めずに、人のためになることをする。

4. 同事(どうじ)・・・相手の立場に立って、物事を行うこと。


…私にはこの少年の行い、心、言葉には、この全てが込められていると思えるのです。

これこそが仏教のいう
「生きとし生けるもの全て仏性(ぶっしょう)を持つ」というものであろうと思ったのであります。


人は何気なく生きていても、その瞬間瞬間に学ぶものが存在しているのだなぁとあらためて思いました。


ありがたい出会いでありました。

No.391 23/04/29 22:57
旅人さん0 

今日は孫を預かり、ファミリーパークなる公園に参りました。

そこで、十歳くらいの少年の行いから、まさに仏さまの教えだなぁと、これぞ人の心にある仏心というものだなぁと思わされる出来事がありました。


仏さまのお教えに十善行というものがあります。

善戒行とは、仏教における【十悪(十不善業道)】を否定形にして、戒律としたもの。とされます。
日本では主に真言宗系で重んじられるが、四国遍路の大衆化により宗派を問わず普及してきているといいます。


不殺生:生き物をむやみに傷つけない。殺さない。
不偸盗:盗まない。与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫 :道徳に外れた男女の交際をしない。
不妄語:嘘をつかない。悪意や敵意を持って誤った言葉や偽りの言葉を口にしない。
不綺語:中身の無い言葉を話さない。へつらわない。
不悪口:乱暴な言葉を使わない。
不両舌:他人を仲違いさせるようなことを言わない。
不慳貪 :激しい欲をいだかない。
不瞋恚:激しい怒りをいだかない。
不邪見 :道理を無視した誤った見解を持たない。

というもの。

このうちの一つ『不妄語』、嘘をつかないというものがあります。

今日孫と行ったファミリーパークではボールやバトミントンセット、三輪車や補助付き自転車など無料で自由に使えることとなっています。

いくつもボールはありますのに、孫はその少年の持つボールを使いたく思ったようで、少年が足元に置いたボールにそっと手を伸ばしました。
そのボールだけが他のものより大きなものでありました。
「ごめんなさいね」
と私が申しますと
「使ってください、もう僕は帰るので返そうと思っていたところなので」と少年が言ってくれたのです。
言葉づかいも大人で、本当にありがたい言葉でした。

孫はそのボールを嬉しそうに使っておりましたが、そのうち飽きたようで二人でボール置き場に返しに行きました。



先ほどの少年がバトミントンのラケットを持っているではありませんか。
帰るのだはなかったのかぁ…。

なんと大人の対応でありましたでしょう。
少年はまだまだ帰らず遊んでいたようです。

No.390 23/04/29 21:48
旅人さん0 

本日四月二十九日は、【昭和の日】。

この四月二十九日ほどその名が変わった祝日はないのではないかと私は思います。
昭和の前半においては【天長節】。その後【天皇誕生日】と呼ばれるようになり、昭和天皇崩御後は〝自然の恩恵に感謝する日〟と意味づけされて【みどりの日】となって、2007年に【昭和の日】と呼名が変更され今にいたります。


昭和の前半まで、天皇誕生日は【天長節】と呼ばれていました。
「天は長く地は久し」という老子の言葉からとったもので、
『天地が永久であるように天皇の治世も続くように』という意味が込められていたといいます。
天皇誕生日を天長節として祝う慣習は実に八世紀から続く伝統でした。

そのため天長節は、天皇の代が変わるごとに日付が変わり、
明治天皇の誕生日の十一月三日、
大正天皇の誕生日である八月三十一日、
そして昭和天皇の誕生日の四月二十九日、というものでありました。


昭和二十三(1948)年に『国民の祝日に関する法律』が制定されると、それまで『天長節』と呼ばれた日が『天皇誕生日』に改められました。この祝日法にはそれぞれ祝日の意味が定められていますが、『天皇誕生日』は『天皇の誕生を祝う』といたってシンプルなものです。

昭和天皇が崩御されると、『天皇誕生日』は明仁上皇の誕生日十二月二十三日に移動します。
しかしながら、在位期間が長かったこともあり、国民の間ではすっかり休日として定着していたこともあって、四月二十九日は【みどりの日】という祝日になります。
祝日法には「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」と定められました。これは昭和天皇が植物学に秀でておられたこともあります。

その後『みどりの日』は平成十七(2005)年の祝日法改正で【昭和の日】に改められ、2007平成十九(2007)年から施行されました。

【昭和の日】は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と祝日法に定められています。
戦前の『天長節』から数えると三回の名称変更であり、これほどの変遷はやはり異例なのだといいます。

私などはさきの天皇陛下のお誕生日を『みどりの日』と呼ぶようになったことに違和感しかなく、一人憤慨しており、
それが『昭和の日』となったとき「ほらごらん!」とまで思ったものです。 …やれやれ。

No.389 23/04/29 02:18
旅人さん0 

昨日は群馬県みどり市の光榮寺さんの境外堂でありますはねたき道了尊の御縁日でありました。

何度かはねたき道了尊のことについては書かせていただいておりますが、現在地の近くにあった道了尊さまが台風で流されてしまったといいます。
それでも熱心な信者さんは道なき道をたどって道了さまの祀られていたところにお参りしていたのですが、整備されないまま時間だけが経過し、信者さまたちも歳を重ねられ、参拝が危ないということもあり、今の位置に光榮寺さんの境外堂として新たにお祀りされた経緯があります。

こちらでは毎月二十八日に法要が営まれます。

境内にはやはり川のそばにおられた不動明王さまも移動されお祀りされています。
お不動さまもやはり二十八日が御縁日ですので、同時に法要を営まれます。

その席で今回、なんとあの手彫りのお不動さまの握り仏を御授けいただけました。


まさに掌のお不動さま♡

そっと手に握らせていただくとそれだけで心が温かく、軽くなります。

帰り道、お不動さまを胸元に握りしめスキップしそうな私がおりました。

No.388 23/04/28 03:48
旅人さん0 

昨日、朝の民放のニュースで見たのですが

『NHK大阪放送局は26日、今年秋スタートのNHK連続テレビ小説の撮影中、国の重要文化財に指定されている滋賀県東近江市の【百済寺(ひゃくさいじ)】の本堂の床を破損したと発表した。

NHKなどによると、同寺の許可を得て25日午前から境内で撮影を実施。本堂の濡れ縁で、出演者10人がダンスの練習をするシーンのリハーサルを始めた直後、床板を支える木材が折れ、床板約20枚が最大30センチ沈んだ。出演者らにけがはなかったという』

私はその後NHKのニュースを何度か見たのですが、…見逃した可能性も多々あるにはあるのだが…この件に関する謝罪どころかニュースすらなかった。
見逃した可能性も多々、あるにはあるのですがね。


【百済寺】さんは聖徳太子の創建によるものと伝承されるものといいます。文献上の初出は1089年、安曇川・北船木若宮神社大般若経銘に残るものしかなく真偽はわからないとはされています。

かつての御本堂は別の場所にあったようで、規模は現存の物より大きかったようですが焼失しており、今回の事件で破損した御本堂は、慶安三(1650)年に再建されたもので、国の重要文化財であります。


…国の重文とかは二の次にしても、築三百年以上経つ建物の縁側で十人で暴れたらどうなるか。
その作成に携わっていた人たちの中、どうして誰一人気づかなかったのだろう、考えなかったのだろう。
お寺さん側としてはただ撮影の許可をしただけ、だったのではないだろうか。

…NHKは去年も熊野古道を重機で壊したりしてるんですよね。


重要文化財に対してなされる修復作業では元のお姿を損うことのないよう、人目に触れないところまで細心の注意を払われていると聞きますが
そのような作業もできそうもない惨状にしかみえません。

決して賠償したからいい話ではないのです。


No.387 23/04/28 00:02
旅人さん0 

明日から三日間、群馬県内において「G7デジタル技術大臣会合」なるものが開催されるらしい。

はあぁ?
なんで群馬県なんかで?
G7サミットって、広島でしょ?
サミット後の観光にしては飛地過ぎるんじゃ?

と最初にそれを知ったとき、私は思わず呟いた。
そもそも観光するところもないであろう。

いや、そうではないらしい。
「G7サミット」が広島で開催され、サミットにあわせて、各分野の国際課題について議論される関係閣僚会合が全国十四の都市で開催されるらしく、その一つが群馬県ということらしい。

日本の田舎都市の視察目的というわけでもないのに、なんだか申し訳ない気すらする。
二十九・三十日に伊香保温泉をご利用されるご予定の方には事前にご案内してあるのだろうけれど、
念のため、この三日間は高崎、渋川、伊香保方面は一時的に交通の混雑が予想されるようです。

No.386 23/04/27 15:35
旅人さん0 

宗教的なことをもう少しだけ。
1968年に『五榜の掲示』なるものを提示した明治政府。
これは明治政府が国民に対して出した最初の禁止令となります。
新政府の当初の暫定的な姿勢を表明したものとなりますが、このうち三つは江戸幕府の統制をそのまま踏襲しており、そのうちの一つが『切支丹邪宗の禁制』でありました。
ちなみにこの年に神仏分離令も出されています。

1870年に明治政府は『大教宣布の詔』を出し、神道が日本の国教だとします。
しかし、仏教界からの反発もあって修正され、キリスト教も黙認せざるを得なくなり、神道国教化政策は中途半端に終わります。


ただし廃仏毀釈の波は収まることなく、明治三(1870)年にピークを迎え明治九(1876)年くらいにようやくほぼ収まったようであります。


また明治三(1870)年には陰陽寮が廃止され、陰陽師は民間宗教者となっていきます。

明治五(1872)年には、今度は修験道が廃止されます。
修験者たちは天台宗や真言宗の寺院に属したり、還俗して神職や民間の宗教者になっていきました。

さらに社寺の女人結界廃止、僧侶の肉食妻帯の解禁なども発令されました。


という訳で、明治維新により日本の宗教界も激変していきました。

また、明治政府は江戸時代の土地の所有制も解消を進め、明治四年、『社寺領上知令』により、
〝社寺の境内〟を除き、これまで経済的基盤を支えてきた朱印地、黒印地等の社寺領や社寺が保有していた田畑・山林などを収公しました。

明治四(1871)年、
神社は寺院や教会のような宗教施設としてではなく、国家の宗祀=つまり国と国民が尊ぶべき公的な施設と位置付けられました。

それにより、これまで世襲されていた神社の祠官社家は一旦職を解かれ、官吏(公務員)に準じ、神職の定員や地位が定められました。

全国の神社は社格によって区分され、官社とそれ以外の諸社に区分されました。

祈年祭・新嘗祭・例祭に太政官から(明治10年より皇室から)幣帛が奉られる官幣社と、
国庫から奉られる国弊社に分けられ、
それぞれ「大社」「中社」「小社」に分けられました。

官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社という分類がされ、
「神宮」はこの制度を越えたものとして位置づけられました。

No.385 23/04/27 14:40
旅人さん0 

『らんまん』というNHKの朝の連続テレビ小説の主人公が子供の頃がちょうどこの辺りの時代。…のはず。

すでに英語まで学んでいた主人公が小学校に入学し、ひらがなを学ぶことから始まることに疑問を投げかけ、そのまま中退してしまうシーンがありましたので。

国民は等しく教育を受けるべきだとする『国民皆学(こくみんかいがく)』を目指し、明治四(1871)年に文部省が設置され、翌年には学制が出されて小学校の義務教育が始まっています。

また主人公が東京の博覧会に出向いたときにその名を大きく帳面に書いてきた『東京大学』は1877年に発足します。内国官業博覧会もこの年でありました。


朝ドラを観るのにも時代背景がわかって一粒で二度美味しい思いをした気分となり、怒りも落ち込みもすっかりどこかへ飛んでいきました。


明治五(1872)年には群馬県の、のちに世界遺産となる、官営模範工場の【富岡製糸場】が開業します。
新橋・横浜間に鉄道が引かれたのもこの年です。

なお、明治五年には従来の『太陰太陽暦』をやめて『太陽暦』を採用したため、明治五年十二月三日が明治六年元旦となっています。

この年、『明治六年の政変』で政府は分裂します。
明治九(1876)年には、武士に対し秩禄処分(経済的な保証、禄を与えられていたものが撤廃された)と廃刀令とが出され、名誉に関する特権をも奪われた不平士族の反乱が起きます。
自由民権運動が起こり、
1877年には鹿児島で西南戦争が勃発し、激戦の末、敗れた西郷隆盛は自刃しています。


うーん、この時代を生きた方々は大変なことも多かっただろうけれど、たしかに、たしかに文明開花、だなぁ。


…これは頭に入らないわけだ。

No.384 23/04/27 05:51
旅人さん0 

この廃仏毀釈によって、日本全国で奈良朝以来のおびただしい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊されました。

文化財の破壊という点のみでいえば、イスラム原理主義者による文化財の破壊より規模ははるかに、それこそ比較にならないくらい大きかったのです。
あのイスラム原理主義者による破壊映像がテレビ流されたとき、私どもはただただ身を固め言葉を失ったものです。

それ以上のことがわずか百五十年ほど前の日本で、それも規模の大小はあれ全国各地で起こっていたのです。


以前にも書いておりますが、奈良の興福寺だけで二千体以上の仏像が、破壊されたり、焼かれたりしたことが分かっています。
経典は、町方で包装紙として使われるというゴミ同然の扱いを受け、五重塔は二十五円(一説には十円)という値段で売りに出されたのです。
それも薪(たきぎ)にするために…。
薪にするための解体費用が高くついたがために難を逃れただけのことであったようです。
多くの宝物は、混乱に乗じた略奪等によって散逸してしまいました。

我が国四大寺の一つという格式を誇った内山永久寺に至っては、徹底的に破壊され尽くし、今その痕跡さえ見られないのです。
この世から抹殺されてしまったという、戦慄の事実です。

しかもこれはほんの一例に過ぎないのです。

明治維新、といわれるこの時点において、仏教伝来から既に千四百年近く経っていたわけで、この日本という国は仏教という宗教、そしてその影響を受けた文化的、精神的諸要素たるや、既に風土を創り上げていたといってもいいほど浸み込んでいた…だったはずなのです。


千年以上の永きにわたって『神仏習合』というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきたはずであったのです。

神社には仏さまもお祀りし別け隔てなく敬ってきたのです。
道端のお地蔵さまは人々の心を癒し日々を見守る存在であったはずなのです。


やっぱり日本史史上における一大悪令であったとしか言えない!





ただ…。
その行動自体はあくまでも神官であったり、一般の民衆であったりということも隠しようのない事実…なのです。



…つらいなぁ。

おばさんはまたも怒り、そして悲しむのでありました。

No.383 23/04/27 04:41
旅人さん0 

【廃仏毀釈】は、明治新政府の神道国教化政策に基づいておこなわれた仏教排斥運動であり、神仏分離令の布告・通達にともない、仏堂・仏像・仏具・経巻などにたいして各地で起こった破壊行為であります。

ちなみに『廃仏毀釈』の「廃仏」は文字どおり仏教・仏法を廃すること、
「毀釈」の「毀」は壊す、あるいは悪口を意味し、「釈」は釈迦のこと、釈迦の教えのことで、「仏を廃して釈を毀る」と訓読されるようです。

廃仏毀釈に至るまで、神仏分離以前の時代の神と仏の関係は、一般的に「神仏習合」という言葉で表されます。
神仏習合とは、日本列島固有の神さま(「神道」という名で宗教化される以前の「カミ」と呼ぶべき観念も含めた)にたいする信仰と、
六世紀に大陸から伝来した仏教とが長い年月を経て密接に結びつくことで成立していった状態・現象を指しています。
たとえば神社の本殿に仏像を祀る、仏教寺院の境内に神殿を構えるといった状況であります。
それはもはや当たり前に見られる状況ともなっていました。


そんな「神さまと仏さまとを分離する」だけのはずだったのが「仏さまを排除する」へと激化し広まってしまったのです。

この時、廃仏毀釈が起こったのにはいくつかの理由がありました。

・神道に従事する人、神道を信仰する人たちにとって仏教は邪魔な存在であった。
・神仏分離令は、寺院の所領を奪う口実になった。
・民衆の寺請制度への不満が爆発した

この辺りに関しては以前も書かせていただいており、繰り返しとなりますが、ことこの寺請制度が人々を苦しめていたようでありました。

寺請制度によって人々は必ず寺院に属することとなり、檀家としてお布施によって寺院を経済的に支援する代わりに、寺院から寺請証文をもらうことで社会的信用を得ることとなりました。
その実態は寺請証文がないとその地に住めなくなるほどのものであったようです。

そして、寺請制度で、寺院が各々の家の状況が把握できるようになり、『宗門人別改帳』と呼ばれる戸籍のようなものを作成して、江戸幕府に提出するようになっていきます。

宗門人別改帳を通じて幕府との関係を深めた寺院の中には、幕府の後ろ盾を背景にやりたい放題する寺院も多くあらわれ、寺請制度に不満を持つ人々が増えていったのです。
江戸時代にもすでに、飢饉の際など寺院を襲うようなことが起きていたようです。




No.382 23/04/27 00:47
旅人さん0 

新政府は王政復古の大号令で天皇親政を宣言します。


遡ること江戸時代、平田篤胤という人物が復古神道という新たな神道を完成させました。

篤胤は、日本古来の、人々が本能的に思う「自然や祖先への畏敬の念」を基に発展してきた神々への信仰を『古事記』や『日本書紀』の内容を中心に理論を統一します。
理論の統一によって多くの人が同じ考え方や目標を持てるようになり、復古神道は爆発的に各地へ広がりました。

復古神道は仏教や儒教を否定して「神こそが至高。だから、天照大神の子孫である天皇は偉大な存在である」といった考えであり、この考え方は「江戸幕府でなくて、天皇自らが政治を行うべき!」という尊王攘夷論にまで発展し、明治維新の大きな原動力となっていったのです。

それゆえ王政復古の大号令により天皇親政が開始されると、
復古神道の考え方に基づいて天皇親政が実現したのであるから、復古神道を全国に広め国教化すべきで、そのためにも、神仏習合は廃止しなければならない!
という発想になるのは自然な流れであったようです。

しかも、神道を布教させるための強力な抵抗もなかったため、明治維新の数ある改革の中でも宗教改革は比較的早い段階で実施されることとなったようで、こうして発令されたのが『神仏分離令』であったのです。


とはいえ1868年に出された神仏分離令の本来の目的は、「純粋な神道を信仰するために、神さまと仏さまを別々に信仰するようにしよう」というものであったのです。

そこから、神仏習合では当たり前だった、
僧侶が神社の仕事(社務)をする
神社に仏像を置く
神さまを『権現』と名付ける

などといった仏教と神道がごちゃ混ぜになっている風習を全て禁止していきます。

社務を担っていた僧侶は僧位の返上を迫られ、
神社に置いてある仏像は撤去されました。
結果として神仏分離令は、仏教は弾圧する形になってしまったが、これは神道を国教化する以上、致し方のないことではありました。

『神仏分離令』によって仏教側がやむを得ずに不利益を被ることはありましたが、新政府には仏教を積極的に弾圧する意図はありませんでした。

しかし、新政府の意図に反し、仏教への弾圧は激しくなり、廃仏毀釈と呼ばれる過激な仏教破壊運動に発展していくのです。


No.381 23/04/26 16:34
旅人さん0 

なんか壮大な明治の幕開けっぽい内容となってきてしまい、私自身がどう収拾をつけるものか、まるで先か見えなくなってきましたが。

もともと幕末において天皇を尊ぶ『尊王』という動きが盛り上がっていました。
大政奉還を受け入れ政権返還したということで、徳川の時代は終わり、新時代を迎えた、…と思っていた私。それは実は間違いであったことを知るのは大人になってからのこと、でありました。
実に子どもの学ぶ教科書とか参考書を見てのことでありました。

こんなヤツがよく志望した公立の高校、公立の学校に入学し卒業できたものだと、本当に運が凄まじく良かったんだなぁとあらためて思うのでありますが、その辺はまぁ、…過去のことですし、すっかり水に流れておりましょう。
ここでこれだけのおバカっぷりを披露しておりますことですし。

そう、徳川慶喜公は幕府存続のため政権を天皇に返すという、公武合体の路線を生かす方策を受け入れたのが現実であったようで。

討幕路線がとれなくなり、起死回生の方策として、薩長は天皇の名で王政復古を宣言し、慶喜に対し政権だけでなく土地も一部を朝廷に返してさらには官職を辞めるように命じることと決定します。

これに憤激した旧幕府兵が鳥羽・伏見の戦いを起こし、戊辰戦争へとなるのですね。

そんな戊辰戦争の最中にありながら、新政府は前述した五箇条の誓文で方針を発表し、神仏分離令を発令するのですよ。
時は1868年。

明治元年は1868年一月二十五日から、とする説もありますが、明治天皇が『一世一元の詔』を発布した時、十月二十三日からとする説もあり、後者をとるならば神仏分離令は明治となる前、慶応四年三月の発令、なのです。

1869(明治二)年の版籍奉還もまだですし、廃藩置県や戸籍法は1871(明治四)年。

何も整わないうちから、神仏分離令を発令しているんですよねぇ。





No.380 23/04/26 14:49
旅人さん0 

私のような不信心の者は、祝日も祭日も一緒くたで、休日扱いの日、でしかありませんでしたが、
こうして(…珍道中でしかありませんが)神社さんを参拝させていただくようになって、皇室と神社の関係は大変深いものであったことを肌で知ることとなるのでありました。

神さまをお祀りする神社は今なお皇室と深く寄り添い、皇室と国民の
『信頼と敬愛とによって結ばれた』関係が継続することに努めている…のかもしれません。

象徴となられたとはいえ、神代の時代まで遡って連なる天皇家でありますし。


そんな天皇が現人神として崇め奉られた時代の終息は、他ならぬあの第二次世界大戦のは敗戦国となってからのことではありますが、とはいえ、
昭和天皇は戦前すでに側近に対して、
「私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういうことを云われては迷惑だ」
と述べられておられました。

戦後自らの神性を否定された『人間宣言』を宣明され、新憲法における、『国の象徴』というお立場に立たれますが、かの戦争があろうがなかろうが、早かれ遅かれ、時代はそう動いた、…天皇自らが変えられたかもしれません。

象徴という、今までとは一変した、とはいえ、そのあり方があまりにも曖昧なお立場となられ、昭和から平成、平成から令和へと、天皇陛下は自らのお立場と立ち位置を常に模索して来られて今があるのかもしれません。

No.379 23/04/26 14:14
旅人さん0 

より実質的な祭政一致を目指して神祇官が廃止され、『神祇省』に改組されます。
その際に、『皇霊』が宮中の【賢所(かしこどころ)】に遷座されました。
賢所は宮中で天照大御神をお祀りするところで、東京奠都とともに京都御所からお移しされました。

また宮中で行われる祭典が定められました。
これにより、
【皇太神宮遥拝(神嘗祭)】、
【新嘗祭】、
【元始祭】、
【神武天皇祭】、
【先帝祭】が、
天皇自らお祀りする天皇親祭の国家大祭として斎行されることになりました。

さらに明治五(1872)年には八神と天神地祇も賢所に遷座され、天神地祇として祀られることになりました。
現在にも続く【宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)】がここに成立します。

あの皇室の大きな行事の際に映し出される『宮中三殿』は明治二十二(1889)年に、新嘗祭が行われる『神嘉殿(しんかでん)』ととも建てられたものでありました。


皇室の恒例祭祀は、明治六(1873)年に制定された『祝祭日制度』によって国民にも浸透していきます。

一月三日 元始祭
一月五日 新年宴会
一月三十日 孝明天皇例祭(先帝祭)
二月十一日 紀元節(神武天皇即位相当日)
四月三日 神武天皇祭
十月十七日 神嘗祭
十一月三日 天長節 明治天皇誕生日
十一月二十三日 新嘗祭

が祝祭日とされたのです。

明治十一(1878)年には、さらに
春季皇霊祭の春分の日と
秋季皇霊祭の秋分の日が
加えられました。


元日の朝に天皇が神宮及び四方の神々を遥拝される『四方拝』と、
『紀元節』、
『天長節』は
『三大節(昭和2年より明治節を加え四大節)』とされ、全国の学校や各種団体などで式典などが行われました。


現在の祝日とはだいぶ趣きが異なり、まさに『現人神』であった天皇を中心として制定されています。

とはいえ、
よくよく見ると、
今なおいくつかの祝日は名を変え残されており、

『元旦』
二月十一日の『紀元節』は『建国記念の日』
『春分の日』、『秋分の日』
十一月三日の『天長節』は『文化の日』
十一月二十三日の『新嘗祭』は『勤労感謝の日』

など、今なお祝われ…ているかどうかは別として、祝日とされ、休日扱いとなっております。

No.378 23/04/26 03:07
旅人さん0 

お寺さんで無惨にお首を無くされた石仏さまを見るたびに、
「あの明治の悪令さえなければ」と怒りに震えているおばさん。
以前にも、その『明治の悪令』を調べてはみました。

そもそも明治の頃って、歴史の授業で、先生は違ってもいつも時間が足りなくなって端折られ出すことが多く、しかもこのざる頭おばさんともなれば、断片しか残らない。
もう一度、もう少し長めに…学び直してみました。


慶応三(1867)年十月、十五代将軍徳川慶喜公は大政奉還の上表を朝廷に提出します。
同年十二月には『王政復古の大号令』が発せられ、『神武創業』の理念に基づいて政治を行う事が謳われました。
これにより二百六十年以上続いた江戸幕府に終止符が打たれます。

翌年四月には、五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)が示されます。
これは明治天皇が京都御所紫宸殿に出御し、天神地祇に誓われて発布されたもので、公議世論の尊重、開国和親など明治政府の政治の指針とされました。
そして江戸が東京と改められ、年号が「明治」となり「一世一元の制」が定められます。

明治二(1869)年には、東京奠都(てんと)。
え? て、奠都?
平城京遷都とか『せんと』って言っていたのでは?
東京に天皇陛下が移られ政治の中心の場になったのだから遷都じゃないの?と思いましたが、
『奠都』とは新たに都を定めることを言い、この時点では京都を都として残す形で行われたため、遷都ではなく奠都といい、その後徐々に政府機関が東京へと移されていったから、なのだそう。
…奠都、ねぇ。
言葉としては覚えられそうだけど、字は無理かもなぁ。

また、同じ年には諸大名の『版籍奉還』が。明治天皇に対してと称し、版図・領地と戸籍・領民の返還をさせます。
さらに明治四(1871)年には『廃藩置県』が行われ、中央集権の体制が整えられていきます。

基本方針として四民平等も示されます。
武士に代わって武力で国を維持して治安を保つ存在として徴兵制がとられ『徴兵令』が出されます。


政府組織の整備も進められました。
祭政一致・天皇親政の方針から、『大宝令』を参考に、『神祇官』と『太政官』が置かれ、太政官の下には政務を分担する各省を配置した組織となりました。

宮中祭祀についても整備されて行きます。


No.377 23/04/25 17:33
旅人さん0 

神社仏閣珍道中と銘打っているくせに、かなりの割合でお寺さんのことを書いている私。
そろそろお気づきの方もいらっしゃるかと思うのですが、…それは私がビビりだから。

えっ?
そろそろどころかもうずいぶん前から?…ありがたいことです。
本当に長いこと、内容も薄っぺらいこのような駄文を、寄り添うようにお読みくださる方がおられること、感謝しかありません。
ビビりでちっぽけな人間の、しかも少しも成長のないおばさんのつぶやきですのに、本当に本当にありがとうございます。



八百万の神々の名すらをなかなか覚えられないおバカは、なにかしらの失礼をしでかしそうで、なかなか神社さんへお参りすることもできないでいた時期すらありました。

まぁ、今だってなんらそれは変わってはいないのですが、神さまのもとへ参拝にうかがわない失礼も気になりましたし、何よりそんな理由で長いこと不信心であった者が、せっかく(…珍道中ではありますが)神社さんを参拝するようになったのに、また元に戻るのか?と、反省し、今はちょこちょこと参拝をさせていただいております。

多少の失礼があっても神さまはそう簡単にはお怒りにはならないと、ビビりなおばさんは気づいたのです。


失礼がないように、と、いろいろな本を読んでは学んでいる私を横目でみてきた珍道中の相棒は、あるとき、小さなパンフレットを神社さんからいただいてきました。
『神社検定』と書かれていました。

検定?
はっ?だれが?

最近はなんでも検定があるものだなぁと、感心するものでありますが、神社さんについての知識を検定試験を受けるんですか。

「受けてみれば?」

へっ?
わ、私が?

…いや、ビビりなんで下準備期間が無さすぎるのと、息子に買ってもらった新しいパソコンに不慣れ過ぎて、オンライン検定であることもあり、受けないんですけど。


考えてみると私、検定って学校で受けた水泳の検定とかスポーツ検定とかぐらいしか受けたことなくて、履歴書とかに書く資格がほとんどないんです。

といって、このあと履歴書を書くこともないような気もするし、書いたところで「神社検定ってなんですか?」と、せいぜい話題がふくらむくらいかなぁと思うのです。

でも学ぶということは良いことだと思うし、パソコンの操作を覚えるためにも、うーん、…どうかなぁ。

そもそも自分(夫)は?



No.376 23/04/23 14:06
旅人さん0 

あるスレのスレ主さんが書いておられました。
〝質素で丁寧な暮らし〟

うーん、これだ。
これだよなぁ、これ。
この一文を読むだけで清々しくなります。
目指すものは同じ。
私は…まずは断捨離せねばなりませんが。



心が洗われるというのはまさにこういうことを言うのだなぁと、思ったお部屋を拝見したのを思い出しました。
質素で丁寧な暮らし…生活を思わせるお部屋は、秩父にある椋神社さんの社務所のお隣にあるお部屋でありました。

なにも置かない、置かれていないお部屋に、自然のままに差し込む陽の光と、
開け放たれて静かに静かに流れる気。

椋神社さんは十五時にはもう社務所は閉まり、神社の関係者さんにはお会いすることは叶わなかったのですが、その神々しいまでのお部屋に、煩悩おばさんは社殿にたどり着く前から圧倒されたのでありました。

いつか再拝したいと思いながら、時ばかりか流れております。


秩父に行きたいぞぉぉ〜っ!
おやっ?
これは煩悩だなぁ。
しかも…現実逃避?

さ、断捨離、断捨離。





No.375 23/04/23 06:09
旅人さん0 

(つづき)
【如意輪観音】さまのお手の話の続きを…。

六臂の如意輪観音さまのそれぞれのお手の持つ意味を説いたものがあります。それは『六道』すべてに功徳を施す様であるといいます。

如意輪観音さまの右のお手の第一手は前回のスレで書かせていただいておりましたが、
右の第二手は『如意宝珠』をお持ちになり、無量の宝を降らせて餓鬼道に施してくださるといいます。
第三手は『念珠』を。
念珠は正しく数を数えることができるので〝仏の智慧〟を表しているとされ、〝愚痴の世界〟畜生道の衆生を導くためとされます。

左の第一手は、観音さまの住まわれる【補陀落山(ほだらくせん)を抑える姿勢を表していて、これは修羅道を救うためといいます。
修羅道は常に心が動乱している世界なのだといい、不動の山を押しているということから、その動乱の心を鎮める、という意味を表しているといいます。
…地面にそっと、その姿勢を保たれる補助をされるかのように、手をついておられるかに見える、それが第一手であります。

第二手は『蓮華』をお持ちになられます。
人間道において、人間が本来持つ清浄(しょうじょう)な仏性(ぶっしょう)を開こうとなさることを表しているとされます。
第三手は『輪宝』を。
『輪宝』は古来インドの武器であったといい、転じて仏の説法が〝力強く人々を感化〟することを示しているといい、最も感化しにくいであろうと考えられる天道に対して説法をすることを示すのだといいます。


如意輪観音の信仰としては、 月待ちの『十九夜講』など女人講の本尊であり『女性の守り観音』とされ、女性の悩み事を聞き届けてくださると伝えられます。

また、『如意宝珠』で願いを叶え、『輪宝』でご縁の輪を広げることから、『福徳』、
そして『良縁成就』『子宝安産』の観音さまとされています。


拝するだけで幸せな気持ちになれたのには、そんな深い、ありがたい功徳をお待ちの御仏の御像であったからだったのでしょうか。

拝するだけで幸せな気持ちになれる…それだけでありがたいことでございます。
如意輪観音さまの御像を拝してそう思うのは私だけでなく、珍道中ペアの片割れ(を担がされている)夫もそうであるようです。

No.374 23/04/22 14:38
旅人さん0 

本日、二十二日は如意輪観音さまのお縁日。

私はずいぶんと長いこと神仏に関わらず生きてまいりました。
お参りの仕方もネットで調べるくらい、何一つわからないような、情けないおばさんで、何よりも情けない母でありました。

そんな私がなにが失礼で、どうお参りすればいいのかもわからない状態で、おそるおそるお詣りをしておりました頃、(…今もわかっていないことはたくさんあり、相変わらず礼を欠いたお参りをしている可能性すらある…)
お寺さんをお参りすると、如意輪観音さまの石像をよく見かけるのです。

当然、その御仏がなんとおっしゃる御仏かもわからないまま、ただ手を合わせておりました。

アンニュイな眼差しとアンニュイないポーズと。…なんとお美しい御仏でもありましょう。
私は一目でこの御仏さまのとりこになりました。
石造の如意輪観音さまにお会いできるたびに、…それだけでウキウキしてしまうのです。

【如意輪観音】さま。
如意輪とは梵語『チンターマニ・チャクラ』の意訳なのだそうで、チンターマニが『如意宝珠』、チャクラが『輪宝』のことだといいます。
そのお姿は二臂あるいは六臂の二種。
『臂』とは手から肘までの部分をさすといい、つまり二本の腕、あるいは六本の腕を持つお姿をされているということであります。

そのいずれにしても、
如意輪観音さまは小首を傾げられ、傾げた右の側の頬に人差し指をそっと当てて、片膝を立てたお足にその膝の部分を置くともなく、そっと付けた姿勢でおられます。
いかにもなにかをお考えになられている、というお姿であります。
また、如意輪観音さまは『輪王座』という独特な座り方をしておられ、一説には足の裏と裏を合わせて足で合掌している姿とも言われているそうです。
それがまたなんともアンニュイな…。

なんとも優しげな、いかにも女性を、殊に〝母〟を思わせるようなお姿であります。


如意輪観音さまの腕が六本あるお姿でありますのは、六道すべてに功徳を施すさまを表しているといいます。

右の第一の手は先ほど申し上げた、小首を傾げた頬に当て、いかにもなにごとかをお考えになられているご様子。
さもあらん、これは地獄道に堕ちた衆生をいかにすくうべきか考えておられる〝思惟(しゆい)〟のお姿であります。

No.373 23/04/21 13:48
旅人さん0 

土用の期間の間日、ということで、朝の六時から買ってきた苗を植え、草むしりをして過ごしました。

ビビりなので、この期間に土いじりをすると神さまの怒りにふれる、などと言われると○△⭐︎♫✖️。

『土用』『土用の期間』というものを知ってからは、気になる雑草があっても抜かないように、抜かないように気をつけて、気をつけて。

いつ終わるんだ?と気にしつつ、でも土公神さまに失礼なきよう、感謝の気持ちを忘れぬように、気をつけて、気をつけて過ごしておりました。


土公神さまは『どこうしん』あるいは『どくしん』『どくうじん』と読むのだとか。
陰陽道で土をつかさどる神さまで、春は竈、夏は門、秋は井(井戸)、冬は庭の地中におられるといい、
仏教では『堅牢地神(けんろうちしん)』=地天と同体とされるといいます。(…うーん、まるで読みこなれてはいません)。
また仏教における『普賢菩薩』さまを本地とするとする、と言われるそう。…普賢菩薩さまが化身して、堅牢地神さまであり、土公神さまになって現れた、…ということなのでしょうか。
書いていてもまるで読みこなれていませんが。

土用の期間自体は、
一年十二カ月を〝季節と十二支〟、〝五行(木・火・土・金・水)〟の原素で分け、

春: 寅月(2月)・卯月(3月)・辰月(4月)

夏: 巳月(5月)・午月(6月)・未月(7月)

秋: 申月(8月)・酉月(9月)・戌月(10月)

冬: 亥月(11月)・子月(12月)・丑月(1月)となり、

五行の中の土気は、『辰月』『未月』『戌月』『丑月』の終わりの十八日間に配当されて、この十八日間が【土用】なのだといいます。

と、いうことで、土用は年に四回あり、
『土用』にはひとつの季節を他の季節に転換させる力があり、
季節と季節の中間に配置されているとも言える、といいます。

土用は、ひとつの季節を滅し、新しく次の季節を生み出す強力な作用があるため、古来から、この期間中の建築・動土などはタブーとされてきたのだ、といいます。

うーん。

ま、まぁ…。
年四回土用と呼ばれる期間があって、その期間を土公神さまがお護りくださって、その期間は十八日間。
その間は、基本、土をいじったり、工事をしたり、引越ししたりということを極力避ける、ということで、いいでしょうか。

…よくわかってはいないのが現実で。

No.372 23/04/20 19:57
旅人さん0 

今年は何か野菜を庭で育てたいと、思っていました。
今まさに、野菜の苗があちこちで売られており、今日行ったスーパーでも良さそうな苗が売られておりました。
ミニトマト。
きゅうり、ナス、ししとう、とうがらし。

ミニトマトの苗ととうがらしの苗を購入してまいりました。


あっ!

…土用の期間だった。


帰宅してさっそく調べると、今年の春の土用は、4月17日~5月5日、とのこと。


いえ、ね。

私、本当のことを言えば、
つい最近まで、土用ってなんなのかまるでわかっておらず。
とはいえ今だってあまりわかってはいないのですが…。

土用って、実は年に四回ある季節と季節の変わり目のこと、なのだそうで、今年の春の土用は、立夏の前の約十八日間なのだそうです。

ええ、ご想像どおり、私、土用といえば土用の丑の日っていう日があって、その日に鰻を食べると夏バテしないだとか、風邪をひかないとか、なんとかという知識しかなかった人間であります。

それも。
実は夏場客足の落ちるうなぎ屋に、なんとか売り上げ増を、と、頼まれた平賀源内のキャッチコピーが元だったとかで。

それを知ってからは、
(バレンタインデーのチョコみたいなものか)
と思うようになり、土用の丑の日と聞いても、あまり好きではない鰻が食卓にのぼることは激減したのが、わが家なのでありました。

さて。
そんな土用。

なんでも、【土用】の期間は、『土を司る神の【土公神】が土の中にいるので、「土いじり」をすると、怒りにふれるとされているのだそう。


…買ってきちゃったよ、苗。


春は植物の手入れに適していますが、
土用の期間には庭に植物を植えたり、木を移動することも『土を動かすこと』になり、当然草むしりなどのガーデニングも出来るだけ控えた方が良いのだと言います。


…買ってきちゃったし、苗。

ただ。
土用には、間日(まび)という日があり、その日は、土いじりをしても大丈夫なのだそうで。

ちなみに。今年の春の土用の間日は、
4月17日、18日、21日、
29日、30日、5月3日、なのだそうです。

おおっ!
明日は大丈夫な日じゃないですか

No.371 23/04/20 06:17
旅人さん0 

認知症予防(認知症進行予防?)のためもあり、こちらに駄文、珍文を綴らせていただいております私。
そのあまりの珍文ぶりに、嫌気のさすことといったら。

最近巷で話題の『Chat GPT』。

これで添削してもらうのはどうだろう。
文章はあくまでも書いて。
その駄文・珍文を直してもらい、学ぶ。…いいんじゃない?


夫曰く。
今アクセスが集中していて、アプリ(?)の取得までに至らないのだとか。

あ、そうだった。
彼はその手のことに関連した仕事してるんだったな。
まぁ、いずれの職業においても、言語を使って生きている限りどこかは関連していることだけれど。


…というわけで、相も変わらない駄文をアップすることとなりますが、…申し訳ありません。

こんな駄文・珍文をお読みいただき、本当にありがとうございます。

No.370 23/04/19 23:12
旅人さん0 

木の香りが部屋に広がって、なんとも豊かな気持ちで、心が穏やかになります。
その香りの元は、私の彫りかけの木。

夕食が済み、洗い物を済ませて、彫刻刀を手に少しだけ掘り進めてみました。

彫り進めることがまた、心を穏やかにしてくれます。

…。

が。


少しも思うようにはならないのが現実で。

彫っているのは不動明王さま、…のはずなのですが、そのお姿にはとうていほど遠いものであります。

…思わず心の中で祈りました。
(どうぞ、お姿を彫らせてください)


仏師の方は木片を見て、そこに、その木に宿られておられる御仏のお姿が見えると言います。

…当然、私には全くそのようなことはありません。
おそらく一生、木片の中におられる御仏が見えることなどないでしょう。

先輩にあたる方の彫られたお不動さまを見るごとに、その素晴らしさにため息がこぼれます。

頬の辺りのカーブ。
右手にお持ちの刀剣のいかにも〝刀身〟といった感じ。
右手。
おすわりになられた膝のカーブの感じ。



すごいなぁ。

「すぐに追いつきますよ」
先生をはじめ、先輩にあたられるみなさんが異口同音におっしゃってくださったけれど。
彫れば彫るほどその大きな差を痛いほど肌で感じて、その大きな背中に思わず深いため息をつく。

でも彫ることは好き。
木の香りも好き。
御仏のお像は大好き。


一歩一歩。


No.369 23/04/19 14:34
旅人さん0 

新しい前橋東照宮さんの社殿はガラス張りの社殿であるため、本殿を拝することはできるのですが、とはいえ距離もあり、高い位置でもあるため、彫刻まで見ることはかないません。
…まぁ、それでも残されているというありがたさといったらありません。


これからもさまざまな神社さんやお寺さんが新しくなっていく様を見ることがあるのでありましょう。

こちらの東照宮さんのように、古きを生かして建て替えていただくことができたなら、後の世の人たちにとってもまことに良いかたちがとれたということとなりましょう。


素晴らしい彫刻が経年し、色褪せ、剥離し、朽ち果てていくさまは、切なくて、本当に切なくて哀しいもの。

しかしながら何事にも修理修復はお金がかかるもの。
ましてや神社仏閣のような特殊な建物に関してはことさら費用がかかります。
特別な材料や特別な塗料であったり、それを治すことのできる特殊な技術を持つ職人さんであったり。
建物の大きさも一般の家庭の比ではありません。


どうか良い形でひとつでも多くの神社仏閣の古い貴重な社殿や彫刻が、保護され、後世に残されていきますように。

No.368 23/04/19 14:18
旅人さん0 

十六日の日曜日、群馬県前橋市の【前橋東照宮】に参拝いたしました。
こちらは十七日が月次祭でありますのでその前日となります。(四月の十七日は例祭、であったようです)

こちらは私の好きな神社さんのひとつ。近くを通ります折には参拝させていただいております神社さんであります。
『東照宮』、でありますから、御祭神は当然のことながら徳川家康公。
また、
木花咲耶姫さま、菅原道真公、
長壁さまがお祀りされております。


こちらは、
寛永元年六月、御祭神徳川家康公の孫、松平直基公(家康公の第二子、結城秀康の五男で大和守と称し、前橋藩主の祖)が『越前勝山城』内に祭祀したのに創まります。

以降、松平氏は十三回に及ぶ移封に遇いますが、その都度奉遷して、藩主をはじめ士民の篤き崇敬を集め、今日に至っています。

享保二十年には社領二百石が寄進され、
慶安元年播州姫路、
寛文七年播州姫路、
元禄五年奥州白河、
同十年奥州白河、
宝暦四年上州前橋、
安永六年武州川越、
嘉永八年武州川越においてそれぞれ社殿の造営が行われており、
慶安二年武州川越より再び上州前橋に奉遷され明治を迎えました。

明治以降は、旧前橋藩士居住区域八箇町、三千戸の鎮守として崇敬を集め、昭和四年県社に列せられました。

 
現在の社殿は令和の大改修が行われ、令和三(2021)年に新社殿が竣工しました。

以前の社殿は、
本殿以下五棟、総て川越より移築したもので、一本の欅の巨木で造られたと伝えられるものでありました。
この社殿の用材の美しさは実に見事なもので、本殿の彫刻は江戸の有名な彫工島村源蔵の作として知られ、前橋市民の崇敬を集め、愛されたものでありました。


それゆえ、建て替えることが決まった際には大変な反対運動が起こり、かく言う私も壊されていく姿を見るのが嫌で、さらには無くなってしまった社殿跡に建つ新しい社殿を見るのもなんともつらく思え、新社殿になってしばらく参拝できずにいたくらいであります。

ですが新社殿もお参りさせていただきますと、良い気の満ちた境内であることはなんら変わることなくて。
こと本殿に至っては、新社殿が覆屋まで兼ねており、新しくなっても、新たな、大好きな社殿に生まれ変わっていただけでありました。

No.367 23/04/18 14:18
旅人さん0 

本日、かねてよりの念願でありました、木で彫る仏像彫刻をしてまいりました。

もう表現的には「仏像彫刻をしてまいりましたぁ〜♡」といった感じ。

幸せ♡!のひとことです。


とはいえ、生来の不器用おばさん、ですので、厳密に申し上げますなら、「小刀の使い方を教えていただいてまいりました」、となるのですが、ね。


指導してくださる仏師の方の彫られたお仏像の美しいことといったら♡。
そのお写真を拝見させていただいただけで幸せ〜っ♡。

お寺さんに納める前に撮ったという貴重な貴重な一枚だそうで、その後は彫られたご本人すら見られていないということで。
と言いますのもその御仏は厨子に納められているから、なのであります。

御仏像の写真集を何冊も何冊も持つおばさんですが、絶対にどの写真集にもおさめられていない、貴重なる一枚なのです。


嗚呼幸せ♡。


私が彫らせていただきます御仏は『不動明王』さま。
嗚呼、幸せ♡。


すっかりテンションがおかしいことになっているおばさんであります。(まぁ、普段からおかしなおばさんでしかありませんけれど、ね)

自分で彫って削って、少し角がとれただけの木片を手に持つだけで幸せ気分。


肺が、最大限に拡張している感覚です。
私、こんなにも仏像造りをしたかったんだなぁ。


No.366 23/04/18 05:02
旅人さん0 

この群馬県桐生市の桐生仏教会さんの作られた小冊子のような資料が、他の群馬県の市町村さんにはないものかと、ひそかに探して見ていたのですが…。

まぁ、もともとがザルのような目をしており、強い風風雨にあおられて壊れた傘のようなアンテナしか持ち合わせていない人間でありますので、目の前にあるものが、もしかしたら目に入ってこなかったのかもしれないのですが…。

無い、かもしれない。
他の群馬県内のいくつかの市町村さんのお寺さんやら神社さん、観光案内所から市役所まで行ってみて、そういった類のものは見当たらないように思えました。


なら。
自己満足でしかないけれど、
誰に見せるものでも無いけれど、
…作ったらどうだろう。

そういつしか思うようになっていたのです。

とはいえ、当初はフルタイムで働いていたし、母の介護もあり、なかなかそのような時間までは持てずにおりましたが…。


今、できるんじゃ、ない?


そう、もしかしたら私のライフワークになるかもしれないことをようやく見つけたのです。(忘れてたんだね 笑)

No.365 23/04/18 04:43
旅人さん0 

群馬県桐生市には、
『積善 桐生のお寺』という桐生仏教会が発行された小冊子があります。
桐生仏教会百周年事業の一つとして再発行されたとのことであります。
とはいえ、この小冊子、私ども珍道中ペアが神社仏閣巡りを始める以前に発行されていたもののようです。

また『桐生のお寺散策マップ』、なるものも作成されており、いずれも旧桐生市内の寺院について書かれたものであります。
旧桐生市内とは、かの平成の合併以前の桐生市ということで、新里町と、黒保根町を含まない、ということのようです。

この二つがあったため、私のような超ド級の、地理音痴、方向音痴、地図音痴の者であっても、桐生市のお寺さんを一人まわらせていただくことができたのです。

それゆえに地元よりもまず旧桐生市街のお寺さんをまわらせていただくこととなったのでありますが。


私がたまに御朱印をお見せいただいていたご年配のご婦人は、
「近場はいつでも、歳をとってからでも行けるけど、遠いところは足腰が元気なうちでなければ行けないから」とおっしゃって、息子さんと二人、秩父観音霊場は二回、坂東観音霊場も二回目をまわり始めておられていました。

そう、それも一理ある。
一理あるのだけれど。

私が一人で回れるのは群馬県内がやっとかもしれないなぁとも思えたし、何よりもまずは自分の住まう群馬県をお詣りさせていただいての方が、今まで(今も…ですが 笑)まるで信仰と無関係な次元で生きてきて、ご挨拶すらできていなかったお詫びも申し上げることができるだろうとも思えたものですから。

最初は一人で始めた神社仏閣巡りも、すぐに夫が賛同して現在のようにペアで(金魚のほにゃららのように)動くこととなったのですが。
めんどくさいことに私が一人で行った所へすぐに行ってみたくなるという夫。
一週間もあけることなく同じ神社さんやお寺さんに参拝することとなると、ことに丁寧にご説明いただいた先の神職の方やお寺さんの方にお会いすると、まず私を覚えていてくださっており。
なんとも…恥ずかしい。

少し季節でも移ろってからならまだしも、なんなら二日前とかに行ったばかりの神社仏閣に、参拝することとなるのです。

それで新しい神社仏閣に一人で行くことがついぞ無くなってしまった私、なのですが…。


No.364 23/04/15 16:43
旅人さん0 

四国遍路はあまりにも有名ですが、実際、四国まで行くには、そしてなにより、八十八カ所の霊場をまわるには非常に日数がかかります。

この新四国霊場は、ある一人の富豪によって四国のうつし霊場として作られましたが、今なお各寺院が存在し、 巡礼できるようになっているということ。
それどころか専用の納経帳も整い、いずれの寺院でもご朱印をもらうことができます。

…これならば。

そう、これならば。
なんなら私一人でもできそうです。
…歩き遍路、というわけにはいきませんが。


調べたところ、群馬県の伊勢崎市、そして東毛とよばれる地区である太田市、桐生市、みどり市にある寺院となっているようで。
その中には何度も参拝させていただいているお寺さんも含まれております。

…これならば。

歩き遍路どころか、自転車でも無理な気はいたしますが、車を使えば全て一人でまわれそうです。

弘法大師さまのご生誕から1250年の記念の年でもあるといいます。
うーん、なんだかワクワクいたします。


あ、…でも…。
お遍路さんのしたくは…無理だなぁ。
輪袈裟だけでも付けましょうか。


No.363 23/04/15 16:21
旅人さん0 

今年は弘法大師空海さまの生誕1250年目にあたるといいます。
真言宗の檀信徒でなくとも誰もがその名を知る高僧であります。

また、お遍路で有名な四国八十八カ所霊場も、弘法大師ゆかりの寺院であります。


私ども珍道中ペアが、いつかは行きたいと語る巡礼ではありますが、いかんせん群馬県から四国は遠く。
しかも八十八カ所をまわるとなるとそれなりの日数もかかり、決しておいそれと始められるものではありません。

まだまだ現役で働いて(くださって)いる夫はなかなかそこまでの長期の休みを取ることはできません。

といって、あまり先延ばしになると今度は体力的に厳しいものともなりましょう。
全八十八カ所の総距離は約千四百キロ。

さらには、正直、交通費、食費、宿泊費と、かかるだろう費用もばかにはなりません。


そんな珍道中ペアが、ぽつぽつと群馬県内のお寺さんを二人、あるいは私一人でまわらせていただく中、時折『〇〇霊場』『〇〇〇霊場』といった、かつて作られた県内、あるいは県内をいくつかの区分に分けての霊場の中の一カ寺を訪れることがあります。

そんななかに、『新四国八十八ケ所霊場』といったものがあることに気づきます。


調べたところ、この新四国八十八カ所霊場、万延元(1860)年に群馬県新田郡阿久津村(現在の太田市阿久津町)の白石栄左衛門という人物がが、
四国の八十八ヶ所霊場におられるご本尊を群馬県の太田市、伊勢崎市などの寺院に呼びかけ写し、創設したものでありました。

白石栄左衛門という人は米穀や肥料、日用雑貨の販売、蚕種の輸出、中でも油販売を中心した商売で大富豪となり、油長者という異名を持ったという人物でありました。

一方で、群馬県各地の寺院や神社、また多くの霊場を巡り、さまざまな奉納をされた方でもありました。
特に大光院さんや冠稲荷神社さん、榛名神社さんや伊香保神社さんといった県内の寺院や神社はもちろん、伊勢神宮さんや琴平神社さんなどにも大灯篭を寄進しているといいます。

このような信心をもとに、新四国霊場の発願をしたといいます。

この新四国霊場は一時衰退したものの、明治二十七(1894)年に彼の娘婿の庫之輔によって、さらに、昭和七(1932)年太田市沖野町の延命寺(六十番札所)の住職によって再興されており、今もその全ての札所が残っているというのです。


No.362 23/04/15 14:01
旅人さん0 

またもこの日本という国で、日本国民によるテロが起きたようだ。

どれほど政治的に不満があっても、このような暴力は断じて許されない!
今のところその目的がなんであったかはわかってはいないが…。

あのように人の大勢集まったところで。
無関係な人間が巻き込まれたらと思うと鳥肌がたつ。

現在の政策は誠に不満と不安しかないし、政治家に対する批判はあって然るべきものだと思うが、このような行為は断じて許されるものではない。


近くにいた男性の方の動きがなんとも機敏で、それがあって犯人の早い確保に至ったようだが、それもまた犯人が自爆するような装置を持っていたら、と思うとゾッとする。

単独犯かどうかもわかっていない。


日本は一体どうなっていくのか…。

No.361 23/04/14 17:27
旅人さん0 

                               
仕事を辞めた喪失感は実はまるで癒えていない。

そこに塩を塗る人がいるのもまた悲しい。

最大血圧が七十台って、どんだけ動くのがつらいか、…まぁわかってくれとも思いはしないけれど。
普通なら最低血圧の値でしかない。


そんな私に今日、何かにつけてお声がけくださるご近所の方が、
何気ない会話から、
「貴女はとてもあのお仕事が合ってる人よ」
とおっしゃってくださった。

…嬉しかった。

心の、傷ついて癒えないところにあったかな手を当ててくださったような、私の奥深いとこまで届くような言葉だった。



裏の裏側も嫌というほど見聞きし、体験もし、人間不信になるほどであったし、…それでもやっぱり好きだった。

もうあの職には戻ろうとは思ってはいないものの、結婚前も、子育て中もずっと同じ仕事しかしてこなかった自分だから、他の仕事をすることにまるで自信が持てない。

…そんな足踏み状態。

健康か、というと病的な低血圧症。しかも実はこれといった治療法がない。

悪あがきせずに今のままの自分を受け止めて歩めばいいのに、自分よりも明らかに年上の方が働いておられるのを見かけると、劣等感で胸が締め付けられる弱い私。


あの仕事が合っていると、まるで私の前にまだその道が続いているような表現をなさってくださったこと。

さりとて、もったいないだの、若いのに!だのとは続かない、今の私をそのまま受け止めてくださった言葉で、やわらかな温かな言葉で。
…繰り返し、繰り返し。

今思い出しても涙が出そうになる。



私は…あの方のように人を癒すような生き方をして、生きていきたい。

No.360 23/04/14 15:25
旅人さん0 

藤つながりで鬼滅の刃の胡蝶しのぶのことにふれるにあたり、この世界に愛される漫画で誤りを書いてもいけないと、ネットを開いたところ…。



胡蝶しのぶの出身地から誕生日、身長・体重まで出ているではないか!

…人気の漫画によくある事ではあるものの、鬼滅の刃であるが故に少しびっくりいたしました。
おそらくは作者さんは意図しなかったことなのではないか…かように思うところであります。

…などと言っているくせに、その後、主人公や主人公の妹のプロフィールもチェックしたおばさんでありますが。


ところで。

私はこういった漫画で、「誰が好き?」「誰のファン?」と言われると大抵が困ってしまう、そんな人間であります。

ことにこの鬼滅の刃に関しては、一人一人、一つ一つに大変深い人生やら成り立ちが描かれていて、とても誰のファンだとか簡単に言えるものではないと、思った作品でありました故。

なんなら、鬼になった元人間が、いかに生きてきて、どうして鬼になることとなったのかまでが描かれていて、そこにすら感情移入してしまうくらい、深い深い物語が描かれているのです。

作者の方も実に謙虚な方で、いつも周りの方に感謝をされ、この爆発的な鬼滅の人気に、戸惑われ困惑されておられるのが伝わってくるような、…そんなお人柄が手にとるように伝わる、言葉がコミックの欄外等にそっと書かれていて、私はこの作者さんの大ファンとなりました。


これ、神社仏閣になにか関連するの?と言われたら、まるで、まるっきりしておりません。

まあ、鬼滅の刃風の、…たとえば黒と緑の市松模様であったり、ピンクの地に茶色の線の麻の葉模様であったりの御守りやら御朱印帳、御朱印帳袋が授与所に並んでいたりいたしますので、そこから無理に紐付ければ、ちょっとだけ関係してる?

この模様一つにしても、流行りだから、と一言では言えない、模様に込められた意味がありますし、ね。


私が子供を授かりベビー服を着せるにあたって、すでにその頃もう時代遅れであったようで、なかなか入手が難しかったのが『麻の葉模様』の産着。

麻の葉模様は『子供の健やかな成長』を願う厄除けや魔除けといった意味があるとされるもの。
江戸時代には流行の着物の図柄でもあり、それこそ産着としてはすでに定番でありました。




No.359 23/04/14 08:48
旅人さん0 

藤の花が咲き始めています。
あっという間に藤の季節に。

早い春を愛でながらも、この季節の早まりに不安を覚えないではありませんが…。


私はお線香を数種類用意しており、今メインで使っているのは〝藤の香〟。
それとは別に藤のお香も持っております。


鬼滅の刃の新シリーズの放映が始まったようで、再び鬼滅の刃が脚光を浴び出しているようであります。
まあ、ファンの方々にとっては待ち侘びての放映、であるだけのことでありましょうが。
この鬼滅の刃でも、〝藤〟は重要な位置づけにあります。

藤には鬼が近寄ることのできない力があるということ。

蟲の柱である胡蝶しのぶは藤の花から毒を抽出し鬼を殺す毒を開発しております。
さらには自分自身を藤の花の毒の塊とし、鬼に自らを吸収させ直接高濃度の毒を体内に取り込ませることで上弦の鬼を倒すことも考えたという人物…柱であります。


私は二回ほど鬼滅の刃のコミックを読んだに過ぎず、アニメに至っては一話を観たくらい。
鬼滅の刃については決して詳しいといえないおばさんに過ぎませんが、鬼滅の刃はおばさんの魂を揺さぶる、すばらしい作品であることは確かであります。

閑話休題。


そんな藤の花。

薬が毒としての一面を持つのはよく知られていますが、藤は、花にも、木にも、香りにも薬効成分が認められているといいます。

藤の花の香りには、筋肉の緊張を和らげて疲れを癒してくれたり、痛みを和らげたり、頭をスッキリとさせる作用があるとされます。
『抗酸化効果(フリーラジカル消去能)』を有することが科学的に証明されているとのことです。

私の使っているお線香やお香のほかに、香水や入浴剤も開発され販売されておりますが、やはり天然自然の植物、青空の下咲く藤には叶うものはありません。

甘い優しい香りです。

この甘い香りにつられた蜂が飛んできます。
クマンバチのような大きな蜂も飛んできますが、何故か藤の下にいると、(これは逃げよう!)と思わず、景色の一つとしてみつめている私がおります。
これも藤の香りの効果?

…夫はクマンバチを見かけたときのいつもと同じよう反応を示すので、ただ私がのんきなだけ、かもしれません。

No.358 23/04/13 06:34
旅人さん0 

本日は【虚空蔵菩薩】さまの御縁日。

毎月十三日は虚空蔵菩薩さまの縁日となりますが、四月十三日は特別な縁日で『十三参りの日』とされているといいます。

地域によってはこの時期に、数えで十三になる子供が虚空蔵菩薩へ参拝する『十三参り』という風習があって、虚空蔵菩薩さまに参拝することで、厄除けと、知恵と記憶力を授かるとされています。


…この十三参りをしていなかったがために…と、愚かな私は自分のいたらなさ、努力の足らなかったことを棚に上げては思うのでありますが。


虚空蔵菩薩さまは、十三という数字に縁がある仏さまで、
毎月の縁日は十三日、
十三夜の月待ちの御本尊、
十三仏信仰では十三番目・三十三回忌の御本尊となります。


虚空蔵菩薩さまは虚空に煌めく星とも関係が深く、虚空蔵菩薩の修法『求聞持法』では結願の日に、流星や日月食の日を選ぶとされています。

また、明星(金星)を神格化した『明星天子』さまを虚空蔵菩薩さまの化身とする説があるといい、
明星天子さまは陰が極まる丑の刻から、陽の始まりである寅の刻に現れることから、干支守りで虚空蔵菩薩さまは丑寅の守護尊とされているのだといいます。

星との繋がりから、虚空蔵菩薩さまには天変地異を防ぐ力があると言われ、災いを虚空の彼方に消し去ってくださるとされています。


なるほど。
…そういえば虚空蔵菩薩さまをご本尊とされているお寺さんが本日を大祭とされているのを見た気がいたします。
十三参りがされているお寺さんではないようですが。


時すでに遅しとはいえ、本日四月十三日、◯十◯(年)参りをいたすこととしましょう。
…少しは賢くなるかしら。


『神仏崇めて神仏頼らず』…でしたね、はい。




No.357 23/04/13 04:14
旅人さん0 

日本の寺院にある菩提樹は中国原産の〝シナノキ〟で〝インドボダイジュ〟とは別種のものといいますが…。

ちなみにシューベルト作の歌曲『菩提樹(リンデンバウム)』は〝ヨーロッパシナノキ〟というこれまた異なる種類のものだといいます。


『沙羅』は、お釈迦さまがこの木の下で涅槃を迎えた…亡くなられたことで知られています。
仏典にはこの木の間に寝台を設え最期のときを迎えられた、と記されており、それに基づいた画が『涅槃図』となっています。
このことから釈迦は二俣、あるいは二本の沙羅の木で涅槃を迎えられたと考えられ『沙羅双樹』と呼ばれるようになったといいます。
沙羅はインドではよく見られる木で、三月ごろ白い小さな芳香のある花を咲かせるといいます。

日本で見られるのはインドのものとは違う〝ナツツバキ〟という木で、日本の気候の中、花のない七月に可憐な白い花をつけるこの木を沙羅の木にたとえたものと考えられているようです。

ちなみに我が家の庭にあったこのナツツバキの木を切ってテラス屋根を付けた時、烈火の如く怒ったのは義母。
「せっかくの沙羅双樹を切っちゃうなんて!」

いやいや、ナツツバキですってば。
しかも同居している家ではないというのに。
…ザ・御姑様。
それこそ二十年近く文句を言われ、さすがに苛ついた私、顔に表れるようになっていたことでしょう。
間に立ってくれたのはいつも義父。
その義父が亡くなって今年で十五年になります。

九十近いというのに手術も無事に乗り切る義母は「灯台躑躅を切るようなことは絶対許さないからね」
「…」
…二本ほど切っちゃったけど。

とはいえ、高齢の方の入院や手術は認知症を急加速させると言われているのに、まぁありがたいことです。

でもねぇ、私たちも歳をとってきたので、庭木も今のうちにある程度整理しておきたいんですよ。
毎年毎年何回かの剪定、いつまでできるかわからないこと、なので。

…とか言っておいて、紫陽花や木瓜など増やしていたり。
まだ若いんだから、好きな草木に囲まれて過ごしたい、とか言っちゃう私。もちろん義母には言いませんが、ね。

「いまさら花なんか増やすもんじゃない」
と私の買った木瓜や紫陽花には文句を言うくせに、毎年いろいろ鉢植えを買っている義母。


…たしかに、草木を通して、人間模様も描かれていますわ。





No.356 23/04/13 03:28
旅人さん0 

お寺さんの境内には実にさまざまな草木が植えられています。
『花の寺』という巡礼霊場まであるくらいであります。

そんな『東国花の寺』のHPに心に残る言葉がありました。一部抜粋したものですが、

〜「咲いた花みて喜ぶならば 咲かせた根元の恩を知れ」という言葉があります。
花は、自分だけの力では決して咲きはしません。
植物が花を咲かせるまでには、雨、風、鳥虫獣などの様々な危害があります。
土や水や光や空気……大自然の恵みを受けて精一杯に咲かせていただいているのです。

我々人間も決してひとりでは生きていけません。

親をはじめ、数え切れない人々の恩恵を受け、気がつかないほどに大きな働きのなかで、因と縁によって生かされているのです。

しかし、咲いた花ばかりに気をとられ、見えない部分には、なかなか気がつかないものです。

花木をとおし、仏さまはたくさんのことを気づかせてくださいます。〜


東国だけでも百ヶ寺あり、あえてそのお寺さんを意識し目指しての参拝をしたことはありませんが、先日伺わせていただいた群馬県甘楽郡の寶積寺さんの桜は本当に見事で心に訴えるものがあり、そして癒されるものでありました。


お寺さんに植えられた草木のなかには仏教ゆかりの草木も見られます。

『蓮の花(蓮華)』などはまさにその一例でありましょう。
仏典には五種の蓮華が登場するのだといいます。

白蓮華は蓮華の中でも最上のものとされているといいます。
紅蓮華は〝豊穣〟を象徴する花として重んじられているといい、このほか仏典には赤、青、黄色などの蓮華が挙げられているといい、これらは熱帯性の睡蓮のことです。
…まぁ、私などは蓮も睡蓮も同じだと思っていたくらい、花にも詳しくない人間でありますが。

『菩提樹』はお釈迦さまがこの木の下で悟りをひらいたとされる樹木です。
インドのブッダガヤーという町には、今から約二千五百年前、まさにお釈迦さまが悟りをひらいたときのものと伝えられる菩提樹があり、多くの仏教徒の礼拝の対象となっています。
日本のお寺からもツアーを組んでインドを訪ねる旅をされるところがいくつもあり、とあるお寺さんでその際にお買い求めになられたという菩提樹の葉をいただいたことがあります。

No.355 23/04/10 18:31
旅人さん0 

長野県の善光寺さんのお賓頭盧さまが元どおりに御本堂に安置されたといいます。
しかも目立った損傷はなかったということで、まずはよかった、本当によかった。

いろいろなところにおられる賓頭盧尊者さまの御像でありますが、善光寺さんのお賓頭盧さまは…とても可愛らしいのです。

三百年という長い年月、多くの方が撫で元のお姿がわからないほどになっておられますが、まるでそんなお姿を誇らしく思われておられるかのように、優しい、やわらかな笑みを浮かべておられるように見えるのです。
頭の形も可愛らしい、ありがたい御像、というよりは、本当に愛すべき可愛らしさをお持ちの御像であります。

ほぼ実物大。

第一報を仕事から帰った息子から聞いて、
「はっ?嘘でしょ?
だって、善光寺さんのお賓頭盧さまは御本堂の中におられるんだよ?
御本堂の隅とはいえ、広い御本堂なのでそれなりに奥まっているし、そもそもほとんど人と同じくらいの大きさがあるんだよ?」
…おばさん、どうどう。
(あ、あの馬を鎮めるときに言われると思われる、あの、フレーズです)

…それにしても。
朝、日が昇ってすっかり辺りが明るくなってからの犯行とのことで、
「一体どうやって?」

運び出す姿があまりに堂々としていて、参拝の方々は(業者さんであろうか)と思われたのかもしれません。

窃盗に及んだ理由が転売目的でなかったことが良かったのかどうか…、
犯人は埋めてしまおうと思っていたとのことなので、もしそのようなとこまでいってしまっていたら、損傷はまぬがれなかったことでしょう。

なんにせよ無事に見つかって本当に良かった。


ところで。
ここ近年、御仏像もですが、手水舎の水盤に水を注いでいる、あの『龍』、正確には『吐水龍』と呼ばれるようですが、その龍の盗難事件も結構起きていることのようです。
この龍を何に使うか?
こちらはもう、十中八九『転売目的』と考えられるようで。

真鍮製や青銅製、金属の需要が高まり、価格が急速に高騰しているといい、他にも金属のノズルやら、中には神社の屋根の銅板が剥がされた、などということも起きているようで。


貧すれば鈍する。

バチがあたるなどということより、今日明日の生活、という人が増えているということなのでしょうか。




No.354 23/04/10 16:46
旅人さん0 

花まつりはめでたいお祝いでありますし。
「ぜひ花まつりにまたお越しになってくださいな」ともおっしゃっていただきましたし、ね。

ただ。
コロナ禍ということで、ずっとそうした行事が中止されていたここ数年。
もしかしたら久しぶりの村内のお祭りになるかもしれません。
顔見知りの方々が久しぶりに集まる、そんな内内のお祭りかもしれないと思い、今年は遠慮しておこうと思った次第で…。

ネットで検索してヒットしたり、その市の観光案内にでも出るようなお祭りであれば、行かせていただいたのですが、ね。

…いつか♡


ちなみに。
この白い象の像。
このお寺さん独自、というわけではもちろんなくて。
たまたま私が知らなかっただけで、花まつりでは、花御堂と誕生仏を背中に乗せた白い象が登場することが結構あるようであります。
寺院によっては、小さい子どもたちが白い象を引っ張って境内や町内を練り歩く『稚児行列』を行っている場所もあるといいます。

なかなか子供ができなかったお釈迦様の母親のマーヤ王妃の夢の中に、ある日白い象が現れ、王妃の右脇からお腹の中へと入ってきたといいます。夢から覚めた王妃はお釈迦様を身ごもっていた、…お釈迦さまの誕生はそのような伝承となっております。
象はその当時からすでに神聖な生き物とされ、また〝白〟はけがれのない清浄な色とされていました。

この言い伝えから、花まつりに白い象が登場することは多々あるようです。


コロナ禍ということもあり、花まつりのデビューは昨年が生まれて初めてのことでありました私。
少しづつ、花まつりのいろいろを楽しんでいこうと思います。

花御堂におられる誕生仏さま。
これだけで充分心が満たされるものであります。

ちなみに夫は信心深いおばあさまに連れられて花まつりに参列したことがあったようで。
ただ、どこのお寺さんだったかは忘れたそうです、がね。






No.353 23/04/10 16:23
旅人さん0 

ところで。

今年の花まつりは土曜日でありました。
と、いうことは、珍道中ペアでの参列ということで。

別に私一人で十分珍道中…というか、私がいるがために珍道中となっているだけで、夫が一人で参拝するならば(おそらくは)ごくごく普通の参拝でしかありません。

…別に別行動でもいいと思うのに、一緒に花まつりに参列させていただくという。

常日頃運転手として、またガイドとしてこき使っているくせに?

…いやいや、別に恩知らずでそう言っているわけではなくてですね、神社仏閣を巡る休日だけでなくとも、そしてそれは別行動で、ぜんぜんいいと思うのですよ。


まるで金魚のほにゃららペアのようで、これはこれで今後の課題、であると正直、私は思うのでありますが…。

閑話休題。

まぁ、そんな金魚のほにゃらら珍道中ペア。
私がいつも参拝させていただいているお寺さんの花まつりに参列させていただくこととしました。


…本当は、あるお寺さんで見かけた白い象の立派な象が気になってはいたのですが、ね。

そのお寺さんでは、御本堂の隅の方に白い、結構大きな、立派な造りの象の像が置いてありまして。
大きいうえに、白い象に金をベースにさまざまな色の装飾品が飾られていて、隅に置かれているとはいえ、なかなか目立つものでありました。

そのような白い象の像を私は実に初めて見たのでありました。

お寺さんにありがちな幼稚園やら保育園の併設でもあれば、広い本堂、ちょっとお遊戯ででも使う大道具を置いてしまったのかなぁと思ったりもしたのでしょうが、…それもない。
この白い象の像は…なに?
何故お寺さんに?


聞けば、お寺のお留守番をされておられるという女の方は、花まつりで使うものだと、いとも『当たり前のこと』だとばかりにおっしゃいます。

は?は、花まつり?

花まつりに何故象?

…たしかにお釈迦さまはインドのお生まれ。
象もありかもしれません。…が。

…象の像?

「あのぉ、どうやってこの象を使うのですか?」

そのご婦人はご婦人で
はあぁ?というお顔をされて
「引っ張って歩くのよ」と。

引っ張って?

引っ張ってどこを歩くというのだろう。
不思議でならない私。
けれど、あまり質問攻めにしては、お留守番のご婦人が困っておしまいになられましょう。

そんなお寺さんが、あるにはあったのです。





No.352 23/04/10 06:46
旅人さん0 

ところで。
世界的に有名な『東京卍リベンジャーズ』というマンガでも、特攻服に「天上天下唯我独尊」と書いてあるといいます。
今『東京リベンジャー2』として上映されている話題の映画の原作であるようです。

私はそのどの作品も(…アニメもあるようですので、それを含めて、であります)みておりませんので、事実と異なるようでしたら申し訳ありません。


この【天上天下唯我独尊】という言葉は有名なものでありますが、このお釈迦さまがお生まれになられたときにおっしゃったとされるこの言葉、字面から受ける印象で、まるで異なった意味で浸透してしまっているようです。
…などと申しております私も、かつてはその一人でありました。


そもそも辞書で調べても『天上天下唯我独尊』とは、

「世の中で自分一人だけがすぐれているとすること。ひとりよがり。
宇宙間に自分より尊いものはないという意」
(引用:『広辞苑』第七版)

「自分だけがすぐれていると自負すること」
(引用:『岩波国語事典』第七版)

とあるのです。

誤った解釈と言われても、広辞苑のような辞書ですらそのように書いてあれば、もはや誤解と言えないものでありましょう。



そもそも「自分で自分が偉い」という人は、まだそんなに人格を高めているとはいえません、よね。

お釈迦さまといえば、世界の四大聖人、三大聖人といわれてもトップにあげられる方で、こんな、大人なら誰でも知っているようなことが分かられないはずはないのです。


お釈迦さまのおっしゃられた【天上天下唯我独尊】は、
「オレがこの世で一番偉いんだ」
という意味ではないのです。

…まぁ、これも有名になりつつあり、私のような者でも知るようになったことではありますが。

〝我〟というのはお釈迦さまご自身を指すのではなく、我々人間というふうにとらえるとよいとされます。
〝天上天下、この広い大宇宙で、私どもは唯一無二の尊い存在である〟ということ、と だと。


そもそも特攻服にそこまでの意味を込めて背負っている人がいないとも限りませんし、ね。

No.351 23/04/10 06:07
旅人さん0 

…まあ、お生まれについてだけでもいろいろと逸話はありますが、お生まれになられる前から、常人ではなかったということを伝えたかった、というところも無きにしも非ず、なのかなぁと思いもするのですが…。

むしろそんな逸話がなくとも、高貴な生まれであった王子が、なされた修行はすさまじいものでありましたし、むしろ普通にお生まれになられた一人の人、常人であった方が、
そうしたつらくすさまじい修行を積まれて悟りを開かれた、という方が凄いのでは、とも思いもするのですが、…私だけでしょうか、ねえ。


実在されたことは確かであるとされるお釈迦さまでありますが、あまりにも古いことであり、なにが事実で、なにが事実と異なるかなどは、もはやわかる術すらないものであります。

お生まれになられてまもなく歩かれ、話されたというお話が、事実であろうとなかろうと、お釈迦さまが素晴らしい人物であられたことだけは間違い事実であります。

その教えは今なお世界中で信仰され伝えられております。


No.350 23/04/10 05:49
旅人さん0 

今から約2500年前、ヒマラヤ山脈の麓にシャカ族という部族が住んでいました。部族の王の名前はシュッドーダナ、その妃をマーヤといいました。

ある日、マーヤ夫人は不思議な夢をみます。夢の中で夫人は、天から現れた神さまに抱えられ、空をぐんぐん昇っていき、気がつくと広い草原に降り立っていたといいます。そこは心地よく、夫人の心を穏やかにさせました。
思わず横になり休んでいると、どこからか鼻に白い蓮の花を持った白い象が現れました。夫人がそれをぼんやりと眺めていると、次の瞬間、象が夫人の右脇にスッと入りました。
ハッとして夢から覚めた夫人は、身体の異変に気がつきました。そう、新しい命が宿っていたのです。

このことを聞いたスッドーダナ王は大変喜びました。神聖な動物とされる象が夢に現れたということも、その喜びを大きくさせました。


月日は流れ、出産をひかえた里帰りの途中、夫人はルンビニーという庭園を散歩していました。そこは色とりどりの花が咲きほこり、鳥たちはやさしい声で歌っています。
夫人はふと立ち止まり、梢に咲く花をとろうと右手をあげました。すると突然、右の脇が光り輝きだし、大勢の天女が舞い降りてきたのです。そして、次の瞬間、右脇から男の子が産声をあげました。
これがお釈迦さまの誕生でありました。

この時、生まれたお釈迦さまの頭上には、龍王よって清らかな水=香水(こうずい)が灌がれ、その誕生を祝福したとされています。


こうした故事に習い、花まつりでは、お生まれになられた地、花々たくさん咲いていたルンビニーをイメージたくさんの花で飾られた花御堂を立てて、
そしてその花御堂の内に右手で天を、左手で地を指して立つお釈迦さまのお像(誕生仏)に、
龍王が誕生を祝って降り注いだという甘露水に見立てた甘茶をかけ、その誕生をお祝いするのだといいます。


このとき、お生まれになられたばかりの釈尊は七歩歩まれ、『天上天下唯我独尊』とお唱えになられた、とされます。

この七歩、というのにも、深い意味があるとされてもいるようです。


No.349 23/04/09 23:52
旅人さん0 

昨日は【灌仏会(かんぶつえ)】。

【灌仏会】とは、お釈迦様のお誕生日を祝う仏教の行事で、『仏生会(ぶっしょうえ)』『浴仏会(よくぶつえ)』『竜華会(りゅうげえ)』『花会式(はなえしき)」ともいわれ、【花まつり】ともいわれています。

お釈迦様がお生まれになったといわれる四月八日を中心に行われ、日本では種々の草花で飾った【花御堂(はなみどう)】を作り、中に灌仏桶を置いて甘茶を入れます。

その甘茶の入った灌仏桶の中央に誕生仏を御安置し、ひしゃくで甘茶をおかけする、というものです。

お釈迦さまがお誕生されたとき、竜が天からやってきて香湯をそそいだという話に基づくもので産湯に相当するものですあろうといわれています。
宗派に関係なくどの寺院でも行われています。

甘茶で習字すると上達するともいわれているといい、害虫よけのまじないを作ったりとかもするようです。

なお【花祭り】の名称は、明治時代に浄土宗で採用したもので、以来、宗派を問わず灌仏会の代称として用いているといいます。


中国では四世紀の後趙で行われ、
唐や宋の時代に広まったとされます。

日本で最初に花祭りが行われたのは、聖徳太子が活躍していた606年の4月8日とされています。

その後、奈良時代には、大きなお寺に広まり、
平安時代には、お寺の年中行事として一般化します。

【灌仏会】といわれたのは、840年の4月8日が最初です。
内容は現在とは違っていて、 まず僧侶が磬けいという金属を木で打つ楽器を鳴らします。
次に、準備してあった五色の水を混ぜて讃嘆し、誕生仏に3回注ぎます。
それからまた3回讃嘆し、続いて参詣者も水を注ぐというものです。

現在のような、花で飾った誕生仏に甘茶をかける形になったのは、江戸時代の中頃に始まったものだといい、その頃、庶民にも広まっていったといいます。


私がこの【花まつり】に参列することができたのは、仕事を辞めてから、つい最近のことです。
この四月八日という日は私の住まう辺りでは入学式であることが多く、と同時に始業式でもあり、学齢期のお子さんのいる同僚の休み希望の集中する日であり、子どもたちが育ったのち仏閣を参拝するようになってからの私はなかなか休むことができない日で、花まつりに参列することは大変難しい日でありました。

No.348 23/04/07 17:26
旅人さん0 

前レスに類似した内容の言葉を、瀬戸内寂聴さんが遺されています。

『とにかく人のことが気になって気になってしょうがない、これが物事にとらわれている心です。
そういう心を無くさない限り、心は安らかになりません。』

…スパッとおっしゃる。

たしかに、だから安らかにならないのだなぁ。
わかってはいるけれど、愚かな私は同じところにとどまっております。


話はそれますが、とあるサークルの案内にも、心に響く言葉が書かれていました。

【菜根譚】より
…『人生はけっして難しくない』

●『ごくふつう』のよさを大切にする。
●毎日を淡々と生きているのが一番いい。
●『ゆとりの心』が怒りと憎しみを消す。
●一日一回、必ず『笑う時間』をつくる。
●『どちらでもいい』という寛大な心をもつ。
●『何事もなかった日』こそ『最高の一日』


菜根譚とは『洪自誠』という人物の随筆集で、中国古典の一つであるといいます。
内乱や政争が相次ぎ混迷を極めた明代末期、万歴帝の時代(1572〜1620)に生まれたものだといい、人との交わりを説き、自然と閑居の楽しみを説いた書物であるといいます。田中角栄、川上哲治などが座右の書として愛した書だといいます。

良書や心に響く言葉というのは、ありがたいことにこの世にはたくさんあるようです。

心に響かせてこれからの人生、生きていかねばなぁ。


No.347 23/04/07 14:28
旅人さん0 

【布施行】
無条件に見返りを求めない行為。

【布施】とは。

『財施』…金銭、財物などを施すこと。
『法施』…仏法を説いて人々を悟りに導くこと。
『無畏施』…心の不安を取り除いてあげること。


【無財の七施】実践としての布施
①眼施…優しい眼差しを人に向けること。
②顔施(げんせ)…笑顔で人に接すること。
③言施(ごんせ)…優しい言葉を人にかけること。
④身施…労を厭わず身体を使って人に尽くすこと。
⑤心施…なにごとにも心を込めて人のためにつとめること。
⑥床座施…座席を人に譲ること。
⑦房舎施…部屋で人を休ませてあげること。


お寺さんでいただいたパンフレットに書いてあったものです。
そして『布施行』は。理屈では簡単なことだが、その時々の状況や、『私』という心が入るとなかなか難しくなる、と書かれています。

…法施は僧としての修行を積んで初めてできるものでしょうし、無畏施なども人としての徳を積んではじめてできるものでありましょう。
財施も、普通に生活をしていたら、なかなか難しいことかと思うのです。
では無財の七施は…?
どれも心掛ければできそうなことが書いてあるよう思われます。
そんな思いもあり、自分でここを見返すたびに心にあらためて刻めることかと書いてみました。


そのパンフレットにはさらに
〜私たちは『私』という自我の上に成り立ち、それは常に変化を続けています。
喜びを感じる自分、怒りに満ちた自分、悲しみに打ちひしがれる自分、楽しい気持ちの自分。
このようにさまざまに変化する『私』を内に秘めながら、自分と同じく『私』を持つ他の人との関係性において、日常は成り立っている、と書いてあります。
『私』に深くとらわれてしまうと、人は傷つき、苦しむことが多くなると。
『私』の思い通りにならないと苦しむ心の状態とは、『私』に深くとらわれてしまっている状態で、身と心を調え続けないと、人はよりよく生きられないのだ、と綴られています。
そのための修行が『布施行』で、この実践を通して、同じ命を授かる他者との絆を深め、命を大切にできると。

お釈迦さまは『すべての命は常に変化の中にあり、それ一つでは存在せず、多くの関係性の中で初めて存在する』と示されたといいます。〜

とも綴られていました。


なるほどなぁ。
苦しむ理由、かぁ。
…たしかにそうかもしれません。

No.346 23/04/07 07:16
旅人さん0 

【加持土砂】というものについては、昨年参拝させていただいた真言宗豊山派のお寺さんで初めて知りました。

そのお寺さんでは御守としてお分ちいただけ、ビンに入れられたもの、通常一般的な御守り袋に納めたものなどがありました。
なんでも、土砂は身につければお守りになり、神社仏閣などに少量撒けば神仏が喜ばれ功徳甚深と言われていると書かれていました。
そして。墓所に撒けば亡者は必ず成仏するとも書かれていました。


密教で行なう修法の一つで、清水で洗いきよめた白砂を本尊の前に置いて、光明真言を誦して護摩(ごま)をたいて加持するもの、だといいます。
これを病人に授ければ苦悩を除かせることができるといい、
また御遺体や墓に撒くことで、亡者の罪を滅ぼさせる、罪障が消滅して死体が柔軟になり、極楽往生できるという。

中国,唐代から行われ,日本でも鎌倉時代以後盛んとなった、といいます。


加持土砂をお授けいただいたかというと、まぁ、罪多き身ではありますが、さすがに土砂を被るのは怪しいかとも思いましたし。(いや、生者は御守り袋を持つんだってば 笑)
宗派の異なるお墓に撒くのもどうなのかなぁと思いましたもので。


私自身の犯してきた大小の罪というのは、そのようなことで消滅するとも、消滅させていいものとも思ってはいないので。
せめて生きている間に償えるものは償い、気持ちを改めて生きることしかないと思ってもおりますので、かようにありがたい御守りをお受けすることではないと思っておりますため。


加持土砂は、まさにこのように罪もない命が、突然の災害で奪われたときに、使われ、使うべきものだなぁと、あらためてご冥福をお祈りしながら思ったしだいでありました。

No.345 23/04/06 19:21
旅人さん0 

三月十日に陸前高田の金剛寺さんの東日本大震災の十三回忌追悼供養に参加された群馬県みどり市の光榮寺さんのご住職さまと副住職さまは、次の日の、震災発生の三月十一日には、福島県いわき市に移動され、いわき市内のお寺さんで執り行われた十三回忌法要に参列され、その後加持土砂を散じながら海へと向かい、紙塔婆を海に流して御供養をなされたといいます。

僧侶というのは今の世においても、全国を股に歩かれるものなのだなぁ。

No.344 23/04/06 19:09
旅人さん0 

何十体を超える【握り仏像】が彫られた頃、仏師の方からあらためてお話があったといいます。
被災された現地の方にこの握り仏像をお渡しするようできないものかと。

相談を受けて副住職さまはいろいろ考えられたようです。
ですが、どこも的外れな気がされたといい、頭を悩ませておられたといいます。
そんな時、真言宗智山派青年会の僧侶として参列された、陸前高田の金剛寺さんの七回忌追悼法要のことを思い出されたといいます。

七回忌法要の折にはまだ本堂もなく、ようやく瓦礫が撤去されたくらいの復興状態だったという金剛寺さん。
その後、ようやく御本堂が建てられたということを聞き知って、ふと、(津波の被害に遭われた、金剛寺さんの檀信徒さんへお贈りするのはどうだろう)と思い立ったといいます。

金剛寺さんに連絡をとったところ、「喜んで」というお話をいただき、十回忌に、とも考えたといいますが、折しもコロナ禍という状況で、握り仏像を届けに行くことが叶わなかった、といいます。


今年三月、握り仏像百二十体を、ようやく金剛寺さんへと届けることができたといい、十日、全国から集まった真言宗智山派の青年会の僧侶らが参列し、追悼供養を執り行ったといいます。
握り仏像は震災の発生した十一日の慰霊法要で御遺族である檀信徒さんたちに配られたといいます。



金剛寺さんは、津波で本堂や位牌堂などを流失。檀家二百五十戸のうち、二百二十戸が被災し、檀信徒百二十六名が犠牲となったとお寺さん。
宗教法人のため公的機関からの補助は望めず、全体の九割近くが被災した檀家からの寄進も求めることなく、自力で再建工事に踏み切り、震災から六年半後、裏山を切り崩した高台に移転新築工事を終え、ようやく落慶したものといいます。

檀家有志の方々から寄付されたアカマツやヒノキ材、津波で全壊した庫裏の部材なども活用したという御本堂には、他のお寺さんに仮保管をお願いしていたご本尊さまをはじめとする御仏像、仏具を搬入されたといいます。

外陣の格天井にはご住職さまが一枚一枚梵字をお書きになられたといいます。


東北三十六不動尊の札所になっているという金剛寺さん。

いつか私も参拝できたらなぁ…。

No.343 23/04/06 07:02
旅人さん0 

群馬県みどり市の【光榮寺】さんの副住職さまが、境内外の御堂であります【はねたき道了尊堂】での二月の例祭において、
「三月には東日本大震災の十三回忌ということなります。陸前高田と、福島のほうでの追悼供養の法要に参列させていただくこととなっておりますので、次の例祭ではそのご報告などさせていただけることかと思っております」とおっしゃっておられました。

あの、手彫りの握り仏像百二十体を岩手県の陸前高田市にある【金剛寺】さんへお届けすることとなったいきさつをはじめ、今の陸前高田、そして福島県いわき市の様子をお話しくださいました。


そもそもの始まりは、現在光榮寺さんで握り仏像の指導にあたられておられる仏師の方のもとに通っておられた方が、かの東日本大震災のあと
、陸前高田市へボランティアに行かれたことから。
津波に呑み込まれ影も形もなくなった陸前高田に波に乗って打ち寄せられる物を、粉砕処分をするという作業を担当されたようです。

中には根こそぎ流された樹などもあり、あの【奇跡の一本松】となってしまった松とかつては並木を成していた松の木々もふくまれていたといいます。

仏師のお弟子さんであるそのお方はそのまま粉砕処分をすることをしのびなく思い、師である仏師の方に電話をされたのだといいます。
仏師の方はとりあえず丸太のままこちらへ持ってくるようにと指示なさったといい、たくさんの松の丸太が群馬県前橋市の富士見村にあるという工房に運びこばれたのだそうです。

海に流され再び戻った松は、津波で命を奪われた方の魂を連れてきたのではないかと、仏師の方も陸前高田でボランティアにあたられたお弟子の方も思わずにいられなかったといいます。


時は流れて。

光榮寺さんの檀信徒さんの中で、仏像を彫りたいという声があがったといいます。
その声を受けて今回の仏師の方に声をおかけしたことから、今回、握り仏像を彫り、それを陸前高田の被災者の方々にお届けすることとなっていったといいます。

ご指導にあたられる仏師の方は、津波の被害を受けた方の魂を連れて海岸へと戻ってきた松の木であることを告げ、そういった思いを受け止め心を結んで仏像を彫っていきたいのだとお話になられたといいます。

そして…いつか被害者の方へそんな思いを込めた仏像をお届けしたいと思っていることを。

No.342 23/04/06 05:03
旅人さん0 

それにしても。

書置きの御朱印よりも直書きの御朱印の方が高いという新しいルールができていたり。

直書きを希望した場合、二、三ヶ月先の仕上がりという凄さであったり。

私がたまにしか御朱印をお受けしなくなってから、ずいぶんと『御朱印界』は変わっていました。


なかでもコロナ禍が産んだ、そのお寺さんを参拝せずに御朱印を郵送していただけるというニュービジネス。
これはコロナ禍で、毎月お受けしていた月替わり御朱印が中断してしまうことに嘆いた声に、お寺さんや神社さんが応えた形、なのでありましょうが、それを発端として今では普通に、お寺さんやら神社さんのネット販売の〝商品〟として掲げられるようになっています。

「御朱印はスタンプラリーではない」とお怒りになられたご住職がおられるとネットで読んだ時代が今は懐かしいくらい。

お寺さんではかつては納経の証であったはずの御朱印ですが、今は納経を求めないどころか、困惑されたり、お断りになられるお寺さんもあるくらいです。

商品化された御朱印に、画やら、刺繍やら、切り絵やら、ポップアップやらと多種多様化された御朱印事情。

お寺さんの敷居が低くなって、お寺離れしつつあるという時代の大きな架け橋になってはいるでしょう。
が。


それでも…。
なんだか…。
なんだか御朱印が御朱印でなくなってきている気がしてならないのは…、私だけ?


ビジネスはビジネスでかまわないんです。
神社や仏閣はその維持にたいそうお金がかかるものですから、ね。

ただ、信仰心を持って参拝された方の気持ちを削ぐようであってはならない、ということだけは根底にあって欲しい。
まぁ、私の場合はそんな強い信仰の心を持ってはいないので、煩悩との戦いという修行をするくらいでありますが。


この度私がお受けした不動明王さまの切り絵御朱印もネットで五〜六倍の価格で転売されていました。

そんな転売されるくらいなら、お寺さんやら神社さんが直接ネットで販売される方が…いい?


やっぱり、御朱印がいろいろな意味で変化してきていることは確かなようです。

No.341 23/04/06 00:46
旅人さん0 

そんな私のもと、姉が鎌倉土産を手に遊びに来てくれました。
何故か御朱印帳まで持って…。

私がまだ訪れていない神社仏閣の御朱印がたくさん。

さらには、私が訪れたときには存在しなかった、〝春の特別御朱印〟だの〝刺繍御朱印〟だのが、…コロナ禍を経て…なのでしょうか、たくさんの神社仏閣で授与されるようになっていたではないですか!


…これはもはや修行のようです。
姉の御朱印帳に貼られた大仏さまの美しい横顔の刺繍御朱印を、(あぁなんて素敵なんでしょう♡)と思った私。


…どうかこの誘惑に打ち勝って、鎌倉三十三観音霊場巡りと十三仏巡りとを結願できますように。


No.340 23/04/06 00:26
旅人さん0 

〝三十六童子修理特別御朱印〟をスパッと諦めた私、…ではあったのですが。
あったのですがねぇ。
…ハッと心惹かれるほどお美しい不動明王さまの切り絵御朱印は、どうしてお受けしたく、その場で葛藤はしたものの、自らの心の弱さに間もなく完敗いたしました。
やれやれ、です。

かくなる上はこの不動明王さまの焔をもって私の煩悩を焼き払っていただきましょう。

はあぁ、物欲との戦いは難しいものです。

No.339 23/04/06 00:14
旅人さん0 

今回、御本尊の不動明王さまをはじめとする五大明王さまと三十六童子さまの修復に際し、先例にならい現代に生きる者の願い事を御仏像の内部に納入することができるといいます。

令和の大修理、令和の願い文と称し、これからの修理となる童子さまの胎内に願い事を納入できる、というものであります。
希望の童子さまを選ぶこともできるようで、願い文をお預けするとご住職さまが直接仏像胎内に納入し祈願の儀式を執り行ったのち、閉じられ仕上げの作業にかかることとなっているといいます。


御本堂には修理を終えた童子さまたちが、手を伸ばせば触れられそうなくらいそばに並んでおられます。
御本堂…というよりはまるでミュージアムのような、華やかで厳かな御内陣であります。

さらには、童子さまの御御影がそれぞれ描かれた『三十六童子修復特別御朱印帳』というものがあり、修理を終えた童子さまのご芳名を隣に墨書きしていただくという御朱印も始められているようで。
…本当はこれをお授けいただきたかったのですが、ねぇ。


最近、御朱印をお受けするようになったころに自らを律するためにと打ち立てた、〝特別御朱印や、限定御朱印は極力お受けしないこと〟といったものが、どうも緩みがちな気がしておりまして。
これは煩悩、物欲ではないかと、悩むようにもなっておりました。

小さなお寺さんやら神社さんで、御朱印をお授けいただく時くらいしかご住職や神職の方とお話しさせていただく機会がもてない、というようなときは、その手段としても御朱印をお受けさせていただくのでありますが、御朱印用の受付があり、受付の方との対応のみで、ともすれば書き置きの御朱印をお金をお渡しして受け取るような場合は、それにも当てはまらないわけです。

毎月変わる月替わり御朱印。
美しい切り絵御朱印。
刺繍御朱印。
ポップアップ御朱印。

ついつい心奪われる私でありますが、それなりに値もはるものでありもします。

三十六童子さまの御朱印は、その〝三十六童子修理特別御朱印帳〟を購入しなければお受けできません。
二ヶ月ごとに一童子さまの御朱印をお受けしに通うことともなります。

…あ、通うのは私一人でも可能なのですがね 笑。

今、諸物価の高騰で胸がドキドキするようなスリリングな生活を送る国民として、何よりも無職という立場としては、…ねぇ。

No.338 23/04/05 15:11
旅人さん0 

この次に向かったのは、…この稚拙な駄文を書き始める以前に参拝させていただいたことのある、群馬県高崎市の【大聖護国寺】さん。

ちょうどその時はご住職さまはじめ、ご家族のどなたもおいでにならず、御本堂前で手を合わせて参拝を終わらせたものでありました。

なんでも、昭和五十三年(1978)に再建されたという御本堂、平成二十八(2016)年に開山八百年を機に改修されたといいますから、ちょうどその、御本堂ができたばかりの頃、であったのだろうと思われます。

広い境内に真新しい御本堂がぽつんと建っていたこと、どなたもおられない広い境内がなんとなく居心地が悪くて、早々にお寺さんをあとにしたことを覚えています。

隣に御鎮座されている【八幡八幡宮】さんをゆっくり参拝し、随身門を出たところ、並びにいかにも新しいお寺さんがあるのが見え、そのまま参拝させていただいたのがはじめでありました。


今回参拝させていただく前にこちらのお寺さんのことがずいぶんとネットに取り上げられておりました。

八幡八幡宮さんとこちらの大聖護国寺さんの『ふたとこ詣り』と称してコラボ御朱印をなさったり。

広い御境内に平成二十九(2017)年には客殿、令和元(2019)年には阿弥陀堂と書院と次々と新しい建物が建立されたことであったり、と。

なかでも私が心惹かれたのが、『桂昌院』さまが御寄進されたという、明王さまと三十六童子さま。

なんでも御本堂改修時に、前御本堂納戸から手足がばらばらになった五大明王・三十六童子、計四十一体の御仏像が見つかったといい、しかしながらその破損は激しく、全てを合わせると2000もの部位に分かれていたといいます。

現在進行形で富山県井波の『関こう雲仏所』さんにて修復をされておられます。

実はこの修復作業の過程で桂昌院さまの御寄進てあることが確認されたといいます。

不動明王さまの胎内には『綱吉同御母儀桂昌院建立之』と書かれており、また他の御仏像の胎内からも多くの『願い文』が発見されたということでありました。

もともと木製の御仏像の内部は、割れを防ぐために空洞で造られます。
内壁に来歴や施主の名が記され、御遺骨や写経した経、数珠などが納められでいる場合も多くあるといいます。


No.337 23/04/04 08:21
旅人さん0 

群馬県安中市の【咲前神社】さんは、


〜安閑天皇元(534)年に、神石『雷斧石』三柱の御出現を仰ぎ、時の朝廷に上奏したところ、奉幣使、磯部朝臣小倉季氏と共に高椅貞長、峯越旧敬を伴い上毛野国に御下向があり、抜鉾(ぬきほこ)大神『健経津主命(ふつぬしのおおかみ)』さまをお祀りし、社を建てられた。

それ以後、磯部朝臣が祭司を司った。

敏達天皇元(572)年第3代磯部朝臣小倉邦祝は磯部郷小崎の里に居を構え、以降小崎を名乗る。

白鳳元(650)年第十一代小崎邦平は、神託により抜鉾大神を神楽の郡(甘楽郡)蓬丘菖蒲谷に御遷座する。

供奉の道筋では、七五三原(しめきはら)でまず神事があり、明戸坂で夜明けがあり、宇田で御旅所となり御遷宮された。現在の一之宮貫前神社である。
磯部郷前宮(さきのみや)跡は、先の宮として崇め咲前神社が祀られた。
引用:「鷺宮咲前神社 公式HP」〜


咲前神社の主祭神さまは
健御名方神(たけみなかたのかみ)さま・
大己貴命(おおなみちのみこと)さま・
保食命(うけもちのみこと)さま。

この三柱の神々が、『神石』として御出現なされた、ということで、奉幣使が下向した折、神剣を神格化する「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」さまを合祀されて、社を建てられた、ということであり、…ますかね。

そして。

第十一代の神職のときに御神託があって御遷座されることとなり、その御遷座先が富岡市の上野國一之宮貫前神社さん。
今までのお社『磯部郷前宮』が『咲前神社』さんとなった。

と書いてあるんだと思うのだけれど…。…どうかな?

No.336 23/04/04 05:40
旅人さん0 

※あまりにも酷い誤字がありほぼ同じ内容を再掲させていただきます。



また、今回はさらに。

やはり拝殿のすぐ右に、透明の三十センチ四方くらいの大きさの箱が置かれており、中に直径四センチほどのややピンクがかった丸いものがいくつも入っており目を惹きました。

その球体、一つ一つセロファン系の袋に入っております。
『厄割桃みくじ』、と書いてあります。

この球体、『厄割桃』と呼ばれるもののようで、厄・災いを込めて、『厄割石』でこの厄割桃を割って、厄落とし、また、自身の魂の浄化をする、といいます。

〜古来、桃は厄除けの果実とされており、『古事記』では伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が桃を投げつけて、魔物を追い払う様が描かれています。
厄割桃は、土でできており、土に還る陶器です。 〜

とのこと。

魂の浄化は是非とも必要、な、歩く煩悩おばさんは、早速この〝厄割桃みくじ〟を引き、〝厄割石〟で割ったのでありました。


咲前神社さんには四社の境内社があります。

社務所の左横を少し行くと『絹笠神社』さんがあります。
名称からも想像できるように、蚕の神「絹笠様」が祀られており、豊蚕や安産子育てに功徳があるとされています。


養蚕県群馬の中でも、碓氷(うすい)・安中地方は特に養蚕の盛んな事で知られていました。

お蚕の神さまという『絹笠様』。
ですが実はこの神のことはよくわかっていないのだといいます。


神道の蚕神は大きく二つに分けられ、
一つは保食神(うけもちのかみ)・大気津比売神(おおげつひめのかみ)・稚産霊神(わくむすひのかみ)などの蚕を産んだ神であり、
もう一つは天照大神(あまてらすおおみかみ)・稚日女尊(わかひるめのみこと)・天棚機姫神(あめたなばたつひめのかみ)・木花開耶姫(このはなさくやひめ)などの機織に関係する神であるといいます。

機織に関係する神は織物業に従事する人々などに多く信仰され、養蚕に従事する人々は蚕を生んだ神の方をより信仰の対象としているようです。

そのどちらにも当てはまらないという絹笠さま、ということになりましょうか。


群馬県は養蚕の神さまや仏さまに対する信仰があちこちにあり、実は前述いたしました『寶積寺』さんにも『カイコの仏さま』の石仏がお祀りされておりました。
こちらも〝カイコの仏さま〟と呼ばれているだけでありました。


No.334 23/04/04 03:42
旅人さん0 

咲前神社さんの拝殿の両脇にあります、養蚕の神様が宿るとされる『根子石(ねこいし)』。

養蚕業が盛んだったこの地域で、かつて養蚕を生業とする人々が商売繁盛を祈願した石だそうで、現在はさまざまな願いを込めて〝まゆ小石〟なる石が置かれているようです。

かつて私どもが訪れたときにはこの〝根子石〟には普通の小石が置かれており、…とはいえこちらの境内はよく掃き清められており、また敷石等もなくて、境内の中で石を探すのは困難でありましたが、その時も実はこの〝根子石〟の上に置くという〝まゆ小石〟というものが存在することは書かれておりました。
が。
そのとき、その〝まゆ小石〟の入れられているという箱は空であり、『根子石』に願をかけるのに困った参拝者が、来る前にどこかで普通の小石を調達し、その小石を積んだ、ということ、だったのでしょうかね。

今は拝殿のそばに願掛け用に準備されてた〝まゆ小石〟と呼ばれる白い玉石があるので、初穂料百円を納めて根子石に載せることができるようになっていました。

かつて訪れた際には技術を要するほどに積まれており、念願成就の祈願に訪れた人々の思いの深さを物語っている気がしました。

そのとき疑問であった〝まゆ小石〟とはどういうものなのか、というものについては、今回は潤沢に用意されておりましたし、養蚕の神さまに対しての願掛けの儀式であったことはわかりました。

…養蚕の神さまは、祈願の内容が多岐に及んで、困惑されておられるのではないかと、少し心配になり、申し訳なくも思うのでありましたが。

No.333 23/04/03 18:48
旅人さん0 

咲前神社さんでチャイムを鳴らして、出てこられたのは…おそらく高校生のお嬢さん。

「御朱印をお授けください」と私。
キビキビとした対応をしてくださいます。

「それではお待ちください」と、掛けられた暖簾の奥に戻っていかれました。
楽しそうな会話が聞こえます。
仲の良いご家族のようです。

お聞きしたかったことは、しばらく来なかった間に境内が整備されて、案内板に書かれていました。

それは…。

『根子石』という拝殿の左右に置かれていた石。
この石、何故かたくさん小石が載せられており、初めてこちらの咲前神社さんを訪れたとき、さらにこのあと何度か訪れたときには、この根子石についての説明書、案内板などはありませんでした。
群馬県ではさほど多くは見られないのですが、長野県であったり東北地方であったりでは、このように小石を積む、載せてある〝石〟〝岩〟〝御仏像〟などを、結構見かけるのでありますが…。
どういった理由、意味合いをもって石を積むのかが、ずっとずっとわからないでいたのです。


実はこの〝根子石〟、小石をのせて願をかけると、願いがかなうという養蚕の神さまにまつわる『奇石』、でありました。
さらにお聞きすることが可能であったなら。
社殿の左右に対になっている理由とか、…もしかしたら神社の建立よりも先にここにあったのかもしれませんし。
何故〝根子石〟と呼ぶのか、とか。
何故石を積むのか、とか、お聞きしたいと思ったものは本当は他にもあったのですが…。

健気に家の神社の社務を手伝う女子高校生を困らせたくはなかったので、そんな私のちっぽけな疑問はそっと胸のうちに封印いたしました。

いつかまたお聞きする機会もありましょう。

No.332 23/04/03 08:20
旅人さん0 

最近、お寺さんも神社さんも、花手水をなさるところが増えています。

コロナ禍が手水の習慣を変えてしまったことも一因しているかと思います。
その花手水を愛でに参拝される方も増え、コロナの分類が第五類となろうとしている今ではありますが、果たして今まで通りの手水に戻ることかどうか…。

以前はこの手水鉢からの水を口に含むことが嫌で嫌で、それでも神さまや仏さまへの礼と考え、努力してそこを我慢しその作法を守っていたものです。
それが全く無くなったコロナ禍。

それだけではなく、やはり衛生面であったり、カラスが食べ物を水に入れてしまうなどの害もあって、どんどん手水は無くなりつつあったのではありますが…。


今、桜の季節。
水をたたえた手水鉢に、桜の花びらがいくひらも舞っています。
ひらひらと浮かぶ桜の花びらはまさに自然が作りたもうた花手水。
私が一番感動し、大好きな花手水であります。

No.331 23/04/02 23:05
旅人さん0 

さて。
この日はさらに。

向かったのは群馬県安中市の東部、鷲宮地区に御鎮座する【咲前(さきさき)神社】さんです。
少し珍しい、初めて目にするとなんと読むのか悩んでしまう名前の神社さんですが、実は富岡市にある【一ノ宮貫前神社】の前宮とされている神社さんであります。

実はこちらへは何度か参拝させていただいております。
ただ何度参拝させていただいても神職の方がご不在で、御朱印はともかく、お聞きしてみたいことがあり、こちらの方面に来ると寄らせていただいていた、という神社さんであったのです。

道路に面した鳥居をくぐった先はすぐに石段が続きます。
登りきると一気にパァっと明るく華やいだような気に満ちた境内となります。

以前来た時から少し間が開いており、その間に少し境内の様子が変わったような…。
以前参拝させていただいたときも、参拝の方が少ないときでも明るい華やいだ雰囲気の境内でありましたが、今回はさらに明るい雰囲気なように感じます。

どうやらその原因の一つは、社務所の建て直しにあったかも。
真新しい、感じの良いショップのような、広い間口の全面ガラス張りの社務所となっておりました。

まずは拝殿に向かいます。
ひだりてに神楽殿があります。

参拝を終えて、ふと見ると四月一日が春の例大祭と書かれたものが貼ってあります。
おおっ!
御神楽の奉納もあるようです。

さて。
社務所へと向かいます。

…⁈
だ、誰もいない!

…嘘でしょ?嘘だと言って欲しいんですが?

『御用の方はチャイムを鳴らして下さい』
と書かれています。

押す、押します!
時間は?
…大丈夫、まだようやく二時、といったところです。

ドキドキドキドキ。



No.330 23/04/02 05:05
旅人さん0 

ところで。

あの隋神門ではないのではないか…と疑問を抱いた『笹森稲荷神社』さんの問題でありますが、思えば形や規模こそ違えど、いくつかの神社さんでこうした門をくぐったことがあったことを思い出しました。

怪しい頭の怪しいおばさんの、さらに怪しい記憶のみをたどってのものではありますが、

たとえば群馬県桐生市のかなりの山中に建つ『栗生神社』さん。
たとえば宮城県仙台市青葉区八幡にある『大崎八幡宮』さん、など。

『大崎八幡宮』さんのものは『長床』と呼ばれていたような気がいたします。

その『長床』を調べていって。
【割拝殿】と呼ばれる門に似た形の建物があることを知りました。

これは『中央が吹き抜けになっていて、左右に床間がある。これは回廊形式の中門と左右の回廊が変形した結果だと考えられる。』(by ウキペディア)
とあり、また別のものでは『平安末期ころに現れた拝殿の形式で、横長の平面の中央を土間をとって通路としたもの。』ともありました。

もしかしたらこれが一番近い形をしたもの、なのかもしれません。

これはあくまでも、怪しいおばさんの一考察に過ぎませんので、ふふんと鼻で笑い流してやってくださいね。

No.329 23/04/02 04:38
旅人さん0 

笹森稲荷神社さんの建物は基本赤、…少し色褪せて朱色に近い色あいです。
規模的には小さな社殿なのでしょうが、拝殿、幣殿、本殿とあり、ところどころ彫られている彫刻には元は色鮮やかであったろう彩色が見てとれます。
こちらの社殿は江戸時代中期の明和八(1771)年に再建されたものだということでありました。

社殿左側には少しコンパクトな神楽殿、そしておそらく神輿舎と思われる建物と、…たくさんの陶製のおキツネさまが祀られた稲荷社もありました。

社殿の前、石段を上がって少し右側に、初めて見る形の石塔がありました。
五角柱の石塔の各面に神さまの芳名が刻まれております。
五角柱なので五柱の神さまのお名前が力強い字体で刻まれておりました。

こちらの主祭神さまは、
倉稲魂神(うかのみたまのみこと)さま
豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)さま

この二柱の神さまとは別のご芳名であります。
ともするとPOP風にも見える字体でもありますが、天明の時代に建てられた石塔でありました。

これだけの社殿でありますが、神職の方は常駐されておられない様子で、社務所等もありませんでしたが、境内内に結構大きな、公民館のような建物が建てられており、来る選挙に備えて決起大会?なのでしょうか、内側ではありますが一人の候補者の選挙用のポスターが何枚か貼られ、人が忙しそうに動いていました。

今年は大大神楽の奉納されるという春の大祭はなかったのかなぁ…。
お祭りのあと、という雰囲気は一切残されていませんでした。



No.328 23/04/01 07:50
旅人さん0 

…こ、これは…隋神門、ではない、ような気がいたします。
隋神さまがおられないのみならず、元々隋神さまをお祀りするような形で造られていない気がいたします。
おそらくは最初から上から柵で覆う形で造られていますし、隋神さまを祀るような少し高くした段?台?なども無いようにみうけられます。(あくまでも覗いて、なんですがね)
そしてこの門の通路部分の天井には、不思議なことに二枚の全く異なる天井画が描かれているのです。
それも手前半分と社殿に近い方の半分と、スパッと異なる画であります。手前は龍、奥は鳥。
初めて見る形です。

「ねぇ見て見て」

考察中(爆笑)の私に、夫がいかにものんきな声をかけます。
夫が視線を送る先はこの門の上の部分。
すぐに屋根ではなく楼門のように、まぁそこは壁のない吹き抜けの空間なのですが…そこに仲良さそうなキツネさまがこの門を通る者を見ておられるではないですか。
それなりに大きなおキツネさまです。
頬寄せ合って眺めておられるように見えます。
「きゃあ♡ なんて可愛らしい!」

声に出して騒ぐ私。
…これは不敬にあたらない?

考察中だったことは頭から一切すり抜けてしまい、さっさと門をくぐり、拝殿に向かいます。
この、キツネさまがお護りになられている門の先には石段があり、二ノ鳥居がありました。

高台に建てられた社殿は思いの外小さく感じられました。
拝殿の向拝部分にもやはり仲良さそうなキツネさまが二頭、じゃれ合うようなお姿で彫られています。
可愛いっ♡

と思う気持ちを鎮めて鎮めて。
厳かな思いで拝殿に向かって手を合わせました。

参拝を済ませて。
あらためて門の方を振り返ると、やはりいかにも仲良さげに、ちょうど陽もあたりちょっと桟敷で日向ぼっこでもしているかのような風にも見え、より一層可愛いらしく感じられます。

狛狐さま(…とお呼びして良いのでしょうか?)は大きなマスクを着けられており、お顔がほとんど見えません。
(世の中ではマスク着用は三月十三日をもって個人の判断となっているのに、なぁ)
と、またまたいかにも私らしいことを考えつつ。

いつものように拝殿の横にまわらせていただきました。

No.327 23/04/01 07:00
旅人さん0 

駐車場から神社さんの方を見ても、その古墳の大きさを感じ取れ、圧倒されます。
もちろん、そこには神社さんが建ち、森があり、一見して古墳とは…わかるかもしれない。
少なくとも、古墳というものを知っている方なら(あれっ?)とすぐに思うことかと思うくらいで、何よりも…オーラが違うのです。

うーむ。
そういえば石室もしっかりと残されていて、事前に連絡すればその石室も見学できるとかできないとか…。
おばさんのビビりセンサーのアンテナが一本 笑。


駐車場からも直接境内に入れそうではありましたが、ここは鳥居を目指します。穢れを祓って、しっかりとした手順でお参りせねば!


おおっ!

大きな大きな鳥居です。

鳥居の前に立つと、下り坂で、(ん?下り宮?)と一瞬は思ったのでありますが、その先にある隋神門(?)は少し高台となっており、さらにその先にある社殿はむしろ高台にあります。

これだけの大きな古墳を、たぶんほぼそのまま保存された状態で(そもそも私は古墳の知識が無さすぎて、どこからどこまでをもって古墳とするのかがわからない)神社を建て、すっぽりその古墳ごとを境内としているとしたら(…のだと思うのです。全周を見て歩いたわけでもなく、石室の位置すら確認していないので、あくまでも憶測、ではありますが)あえて、そのままの形を残して、残したままに神さまに失礼は無きよう建てた、のだと思います。

まぁ、変にいじらない方が労力もお金もかかることなく建てられますし。
それに創建がかなり古い神社さんでありますので、古墳がなんたるかを知った上で、神さまにお護りいただこうとしていた、とも考えられる?(あくまでも私の考察です)

ま、まぁ、そんなわけで、隋神門をめざします。(どんなわけ?)


No.326 23/04/01 03:54
旅人さん0 

広い広い駐車場です。

駐車場に降り立つだけでこの【笹森稲荷神社】さん、同義で【笹森古墳】の大きさを感じとることができます。

笹森稲荷神社は、群馬県甘楽郡甘楽町福島に鎮座、小幡八幡宮からは本当にあっという間であります。
(…まあ、私どもはかなり遠回りをしたのですが、ね 笑)
最近すっかり観光スポット化したヨコオデイリーフーズの「こんにゃくパーク」も近いようです。

神社は、甘楽・富岡地域では最大規模で六世紀後半に造られた前方後円墳の上にあります。
この古墳は、当時の甘楽地方を支配した、豪族の墓だと思われます。

古墳の規模は、全長約101メートル、前方部幅約61メートル、後円部径約60メートル、高さ約10メートルとのこと、埋葬施設は後円部にあり全長16メートルの横穴式石室で、群馬県内で二番目に大きい規模です。

笹森稲荷神社は後円部西側からくびれ部にかけて建っています。


笹森稲荷神社の草創は、平安時代初期の天長二(825)年と云われています。

江戸時代に入り、元和元(1615)織田信長の次男の信雄(のぶかつ)は大和宇陀藩三万石と上野甘楽郡二万石を与えられます。
元和二(1616)から翌年まで藩主を務めた永井直勝を経て、信雄の四男の信良(織田信長の孫、北畠晴具の曾孫)が小幡藩を立藩し、当初福島の地に仮陣屋を造り、元和二年~寛永十九年の二十年あまりそこに居住したといいます。
その場所が稲荷山東学院の境内と云われ、この東学院が笹森稲荷神社の別当を勤めたことから、小幡藩の鎮守として歴代藩主は篤く信仰するようになったといいます。

また、信良がこの福島に在館中、笹森稲荷神社に安産祈願を行い三代藩主となる信昌が無事誕生した事から、特に笹森稲荷神社を鎮守神として崇敬しました。

それ以来織田氏はここに武運長久と領内安全を祈念したといい、さらに、小幡陣屋の整備の際には安全祈願のため『神楽』を奉納したとされています。

こうして始まった『太々神楽』、幕末から明治初めにかけて一時中断していたが、明治九(1876)年、
吉井町神保の【辛科神社】さんより、また甘楽町白倉の【白倉神社】さんの太々神楽と一緒に伝授され、氏子さんや関係者の努力によって、明治十一(1878)年に再興されたといいます。



No.325 23/03/31 23:29
旅人さん0 

この次に向かうのは…。

理由は何故なのかさっぱりわからないのですが、家を出るときから、
「あとは笹森稲荷神社さんだな、やっぱり」と盛んに言っていた夫。
あまりにも熱く語るものだから、遠回しに何故なのか聞いてはみたのです。
「えっ?笹森稲荷さんだよ?」

…私、なにか重要なことが頭からすっぽり抜けているのだろうか。
こんなにも熱く語られる理由がさっぱりわからない。

いろいろなところへ参拝させていただいてはおりますが、こんなにも熱い情熱をもって語る彼をあまり見たことがないような…。
うーん、そういう時は大抵私もテンション高いから気づかなかっただけ、なのかなぁ。

笹森稲荷神社さん、…そおっと開いた『群馬県の歴史散歩』という本には「笹森稲荷神社の境内に、笹森古墳がある…」と書かれています。

「笹森稲荷神社さんて古墳に建てられているんだね」と私が言うと、
「えっそうなんだ」と夫。

えっ?
古墳でもないんだ。

…いや、別に神社さんへお参りするのに理由なんていらないのです。
彼のこだわり、ちょっと異様なテンションの高さが気になるだけなので。

結局わからないまま、車は笹森稲荷神社さんへと向かいます。

…ナビを見間違えて、だいぶ遠回り…というかUターンするくらい町を間違えて、ですが。

こんもりと高いお山が住宅地の一角に見えてきました。

…古墳だぁ。



No.324 23/03/31 06:13
旅人さん0 

そんな癒しの御本堂、向かって左側に、おっ、と足を止めるくらい大きな大きな石があります。
背の高い石ではなく、ちょっと足を掛けて登れるくらいの高さで、それがほぼ平らかな断面で、畳二、三畳ほどあるのでしょうか。
(このおばさんの目検討はまるで当てにはならないので、決して正しくはないことはご承知おきください 笑)

この石、古より多くの僧侶が、この石を使い修行を行ってこられた石だといいます。

その名を『天狗の腹切り石』といいます。
なんとも物騒な名前ですが、ここにもまた悲しい過去がありました。

伝説によると永禄六(1563)年、小幡氏の内紛により『宝積寺合戦』なるものが起こったといいます。
寺の僧・巌空坊は大きな巨体で敵兵に丸太をふり回し応戦したが、諸堂に火を放たれ,力尽き果て、この石の上で切腹したと伝えられている、というのです。

この時からこの岩を『天狗の腹切り石』といわれているといいます。

石自体に縄を巡らせ、いくつもいくつもの紙垂が付けられ、石の前にはいつも、いつ行っても新しい卒塔婆が立てられています。

この石、まるで液体が垂れでもするかのような苔が生えていて、それ以外は一切苔むすことなく、石肌(岩肌?)のままなんです。

小心者の私はこの天狗の腹切り石が怖くて怖くて…。

戦国時代より前からあるお寺さんは大なり小なり、そんな血生臭い歴史があったりすることもあって、ビビりのおばさんはピッと身が引き締まるのであります。

No.323 23/03/31 05:52
旅人さん0 

花の咲かない時期でも思わず目を奪われる枝垂れ桜の樹。
花の時期はことさらで、まずは御本堂にお参りを、と思う心をもつい気づくと引かれてしまっています。

まっすぐ、まっすぐ!

御本堂の中もたくさんの参拝の方がおられます。

こちらは土間の部分から一段縁を設けて、そしてぐっと高い位置に内陣があります。
ご本尊の釈迦如来さまは高い位置からやわらかなまなざしを向けてくださっておられます。
私どもが本堂に入って手を合わせるとき、ちょうど目の合うようお立ちになられているのだと思います。

そしてそのせいもございましょう、寒さの残る頃に来ても、暑い夏に訪れても、いつもいつも心地よい御本堂であります。
高い高い天井です。

お書き置きの御朱印と、御守り。
あの身替地蔵札もここにありました。
お寺の方が中をほどいて見せてくださったことに、包み紙の中に小さな小さな紙片に描かれたお地蔵さまのお姿があり、これを天然のお水で飲むのだといいます。
そして包み紙をさらなる御守りとしていつも身につけておくのだといいます。
内臓病に効くという御利益は、退化するばかりの脳にも効いてくださるのかなぁ。


寛政五(1793)年に建てられたというこの御本堂、少しも古さを感じない、いつも澄んだ明るい気に満ちた、いつまでもいたいと思うくらいの、私の癒しの空間のひとつです。

…ただ、土間の部分は奥行きはさすがにあまり広くはなく。
あまり長くいられはしないのですが。

ご本尊さまから尊い紐が御本堂の外の柱もありがたく、いつもしっかり五色の紐を握りしめて癒しをいただいております。
はたから見るとそれこそ長々願いごとをしているように見えるくらいに。

こちらではもう、そんなお願いことなどする気持ちにすらならないんですよね。
ただただ癒していただいたことに感謝するばかりで。


これって…すごい御利益でしょう?
この煩悩の塊のおばさんが、ひとときとはいえ、煩悩がない状態になるということでしょう?


いくつかそんなお寺さんがあります。

そこへ足繁く通ったならば、煩悩が少しでも消えていくのかしら。
…と思うことがすでに、煩悩?


No.322 23/03/31 02:58
旅人さん0 

寶積寺さんは開創まもない頃、領主であった小幡公が、轟地内(寶積寺さんのある町が甘楽郡〝轟〟といいます)に厳島神社を建立し安芸の宮島の弁財天を勧請しました。
宝積寺境内にも池を設けその中心の島に弁財天を迎えました。

多くの宝、…仏様の教え・財宝(後付けで家族・結婚相手・容姿等々)を、弁財天のお力により授けてくださいとの願いで勧請され、『宝を積む』というところから寶積寺という寺名の元であるとの言い伝えも残るといいます。

そんな弁財天様ですが、実は久しくその所在が不明で、平成元年に新たに碑としてお迎えされた、とのことであります。
…なるほど。
そんなところからの寺名でありましたか。

この弁財天さまの碑は、建立からすでに三十五年が経とうというのに、つい最近建てられたかのように美しいのです。
そして刻まれた弁財天さまのお美しいこと、お美しいこと!
ついつい見とれてしまい、ハッと見とれて足を止めている自分に気づくくらいです。

『容姿端麗祈願の方は、きれいな布を持参いただき、弁財様のお顔をその布でなでてお参りください。』

とありますが…実際布でなでておられる方を見かけたことはありません。
それに…顔だけ撫でていたら、長い年月経つうちにそこだけ擦れてしまいそうですが?
そんな弁財天さまを見たくはないなぁ。

No.321 23/03/31 02:25
旅人さん0 

お菊さまは亡くなった時、殿様の子供を身ごもっていたことから、「子供を世に出してあげたかった。」との願いを強く持っています。
子宝安産・子育ての仏さまとして広く信仰されています。


…とはお寺さんのHPから。

うーむ。
これは…これについてはコメントは避けよう。
私だったら…を当てはめていいことではない。

ただただお菊さまの冥福をお祈り申し上げるだけです。

No.320 23/03/30 20:51
旅人さん0 

この大きな大きな聖観音さまの御像は平成五(1993)年に造られました。

実は…この聖観音さまはある一人の女性の慰霊のために建てられたものだもあるのです。

その方の名はお菊さま。
『菊女伝説』、『菊女観世音菩薩・霊験記』として語り継がれるのは、以下のようなお話であります。
(以前も同じお話を紹介させていただいているのですが再掲いたします)
 
戦国時代の末期、この辺りを治めていたのが国峯城主・小幡上野介信貞公でありました。
その腰元に、美しく聡明なお菊という女性がいました。
信貞公はお菊を寵愛し、給仕係として片時もそばから離そうとしませんでした。
それに不満を持った奥方や腰元が嫉妬のあまり殿様の留守の折、あい図らって奥方のお膳の中に絹針を入れてお菊に運ばせました。
そして「これはお菊の仕業」と奥方が怒り、お菊は無実の罪に貶められ「蛇責めの刑」にあうのです。
毒蛇や百足(むかで)を入れた石棺の中に閉じ込められ、お菊は天正十四(1586)年九月十九日に十九歳で息絶えたのです。その時お菊はお腹に子どもを宿していたといいます。

お菊の死後、悪いことが続きます。小田原攻めで小田原方に味方した小幡家は滅び、寶積寺もたびたび火災に遭いました。
これはお菊の祟りであろうと追善供養を行い、「菊ヶ池権現」としてお祀りしました。

以後、成仏の功徳を現し、観音様として崇められた、という伝説であります。
(菊女伝説は、「番町皿屋敷」の一つの源流伝説でもあるといいます)


悲しいかな、日本の昔話にはこの手の話がたくさんあります。
石棺に封じ込められ、毒蛇やむかでって…。

本当に人の妬みとか僻みとか恨みとかという感情の悍ましいことといったら…。
何度この話を書いても背筋がぞぉーっとし、強い怒り、憎しみに近い感情しかわいてきません。


小幡氏が滅んだあと、この地を治めた織田家も、このお菊さまを哀れんで、寶積寺の境内にお菊さまとその生母のお墓を建てています。


…そんな悲しいお話からうまれたのが、この観音像なのでありました。

No.319 23/03/30 13:44
旅人さん0 

寶積寺さんは山の中腹にありますので、鳥の鳴き声が聞こえ、緑が綺麗で、いつ参拝してもとても良い雰囲気のお寺さんであります。

御由緒によると、創建は不明になりますが、現在のお寺より南に四キロほど行った山の中腹にある天寿庵(てんじゅあん)と言う庵が始まりとされています。

お寺の境内には、弘安三年(1280年)、正安四年(1302年)、延慶二年(1309年)の板碑が建立されており、その時代にはすでに天台宗の寺として、広い寺領を持ち、栄えていたようです。


宝徳二(1450)年、領主の『小幡実高(おばたさねたか)』公が中興開基となり、茨城県の即庵宗覚禅師を請いて曹洞宗とし再興されます。

その後、小幡氏とともに戦乱の渦に巻き込まれながら栄枯盛衰を繰り返したといいます。
室町時代後期の永禄四(1561)年(史実)と天正十八(1590)年(伝承)、と二回の戦火にあい伽藍の全てを焼失し、その後極度に寺は衰退したとされます。
またこの間、永禄六(1563)年には小幡氏の内紛により「宝積寺合戦」が起こっています。

小幡氏が滅ぶと、元和2年(1616年)に織田信長の孫『信良』公が小幡藩の藩主となり、菩提寺を寶積寺と定め毎月日を決め(月に八度)参詣されたといいます。
その後、信昌から信久と続いたが、信久公の代に小幡氏の陰膳の事でお寺さんと口論となり、信久公は立腹のあまり墓地その他すべてを祟福寺に引移してしまったのだといいます。

江戸時代初期の寛永七年(1630年)十四世石室和尚によって、それまでの東向きから現在の本堂を北向として建立されました。

江戸時代中期の寛政二(1790)年に伽藍のすべてを焼失、寛政五(1793)年に三十一世大和尚が再建されたのが現在の本堂だといいます。


寶積寺さんは近年まで修行道場として栄え、特に二十七世万仞(ばんじん)禅師(…あの身替地蔵さまをお祀りになられた方ですね)が住職として入山すると、全国から八十余名の修行僧が参集し禅風を大いに振るったといい、今もなお末寺や門葉がたくさんあるお寺さんだといいます。


御本尊さまは「釈迦如来」さま。

ただ、東国花の寺であったり、上州観音霊場やふれあい観音の札所でもあり、聖観音さまもまた御本尊であります。

この聖観音さまはあの、石段を登った先にある大きな大きな石仏さまであります。

No.318 23/03/30 06:09
旅人さん0 

…身替地蔵さまと『幸福の王子』ではだいぶ話がちがうのですが、身を削って人々に幸福を与えた御像、という点では共通する、かしら。
怪しいおばさんの、すっかりあやしくなった頭の中が、そう思ったことなのでどうか流して読んでやってください。

ちなみに、子供の頃にこのお話を読んだとき、幸福の王子さまは銅像になっても〝王子様〟なのだなぁと思ったのを今あらためて思い出しました。
越冬のためにエジプトに向かうと言っているツバメに自分が考え思ったことを伝えてはあれこれお願いして、結果ツバメは命を落としてしまったことに対して、子どもの頃の私は少し怒りを抱いたようでした。
…あらためて可愛げのない子供だったなぁと思うことしかり。
ま、その可愛げのないまま大人になっておりますけれど。

今はね、少し違うことも思ったわけで。
無憂宮と呼ばれる宮殿に住み、自らも、生前は悲しみに触れることなど一切ない生活を送っていたと話し、それを幸福と呼ぶならば、自分は紛れもなく幸福であっただろうと語っている王子。
銅像になって悲しみを知り、それを自分の身につけられた金や宝石を使って幸福を分け与えて、つかの間心を満たしていた王子の像が、自分の手となり足となり、目となってくれたツバメの死によって、心が砕け散るほどの悲しみを知ることとなり。

ああ、人はこうして学び、成長するものなのだなぁと。
そこにはそのために犠牲になってくれた存在もあるということを忘れてはならないのだなぁと、あらためて思ったのでありました。


ちなみに。
この幸福の王子が初めて日本に、子供向けに紹介されたのは昭和十年くらい、といいます。
昭和六年の満州事変、同七年の五・一一事件、そして同十一年には二・二六事件と、世の中が乱れ日常生活も困窮していた頃といいます。
そんな中、その頃育ちつつある子らに広い広い世界というものを書物を通して伝えたいという思いが込められてのものだったと、大人になって知りました。

その企画をされた人物は作家の【山本有三】氏。編集主任には【吉野源三郎】氏があたられていたといいます。
『少年少女の感性の陶冶(とうや)と知性の訓練に役立つ書物』というコンセプトのもとに作られた【世界名作選】。幸福の王子はこの中の一作品です。


うーん、…ごめんなさい。
ちょっと規格外の子供が混じっていました。

No.317 23/03/30 05:34
旅人さん0 

このお地蔵さまの話を書いていて、ふと子どものころに読んだ『幸福の王子』を思い出しました。
オスカー・ワイルドの、金箔の銅像とツバメのお話を。



あるところに「幸福な王子様」と呼ばれる王子がいました。
王子が亡くなったあと、王子の銅像が建てられました。
銅像の体には金箔が貼られ、青い瞳はサファイア、腰の剣には大きいルビーがつけられていました。

ある日、一羽のツバメが王子の像で一休みしていると、王子の銅像がツバメに願い事があると話しかけました。
王子は、「熱で苦しんでいる男の子がここから見えるけど、男の子の家は貧しくて薬が買えないでいる。それどころか欲しがっているオレンジ一つすら。僕の剣についているルビーを男の子に渡してほしい」と言いました。
ツバメは王子の言う通り、腰の剣についたルビーをはずして熱で苦しむ男の子の元へ届けました。

次に王子は、目のサファイアをはずして、一つは才能のある貧しい若者へ、もう一つはマッチ売りの少女に渡すように頼みました。
王子は両目を失ってしまいましたが、とても清々しい気持ちでした。

エジプトを目指していたツバメは、人の幸せのために自分の目を失った王子を見て、これからは自分が王子の目の代わりになると決めました。
それからツバメは町中を飛び回り、貧しい人を見ては王子に話して聞かせました。
王子は、自分の体に貼られた金箔をはずして貧しい人々に配るように伝え、ツバメは言う通りにします。
やがて王子の体の金箔は全てはがされ、ついに灰色の王子になってしまったのでした。
そして町にも冬が訪れ雪が降り出し、寒さに弱いツバメは王子に別れを告げると力尽きて王子の足元に落ちました。
ツバメを失った哀しみから王子の鉛の心臓ははじけてしまいました。


すっかり汚くなってしまった幸福な王子を見た町の人は、像を溶かそうとしました。
しかし王子の鉛の心臓だけはどうしても溶けなかったので、ツバメの死体とともにゴミとして捨てられてしまいました。


そんなころ、神様にこの町で一番美しいものを持ってくるようにと言われた天使は、ゴミ捨て場から王子の心臓とツバメを手に取りました。
それを受け取ると神様はうなずき、王子とツバメは天国で永遠の命を授かり、天国で幸福に暮らしました。


…というお話です。

No.316 23/03/30 03:28
旅人さん0 

ここで(忘れそうなので 笑)『身替地蔵』さまについてもう少し。

宝積寺の二十七世万仭(ばんじん)様は、元禄十一(1698)年九州の佐賀県に生まれ、厳しい修行を積まれ、その後佐賀・岡山・愛知で多くの寺院を開山、寺院住職を歴任し、五十九歳の時最後の住職地として宝積寺に赴任された方といいます。

ちょうどその頃、甘楽の地では内臓病に苦しむ人が絶えず、多くの人々がその病に苦しんでいました。
万仭様は『身替地蔵菩薩』を、苦難にあえぐ人々の病を癒す仏様としてお迎えされました。
このお地蔵さまは「病を癒してくれる。」と評判になり、人々は押すな押すなの大行列をつくりお地蔵さまにお参りをしました。
いつの頃からか、誰が始めたのか、人々は砂岩でできたお地蔵様の背中を削り、その粉末を飲み、病を癒すようになったといいます。
あっという間にお地蔵さまの背中の石は削られ、人々は左首を削るようになりました。
ある時お地蔵様の首は落ちてしまったといいます。

歴代住職が何代にも渡る研究により、生み出されたのが『身替地蔵札』だといいます。
とても変わったお札で、小さなお地蔵さまの描かれた紙片を飲む、というお札です。
天然水で飲むのが良いと伺っています。そしてお地蔵さまの像のそばで飲むと良いともお聞きしました。

えっ?
そのお札をお受けしたか、ですか?

一瞬は心が動いたものの、取り立てての不調は無いので、やめておきました。
…めまいとか低血圧とかはどうした?ですか?
おほほほほほ。



No.315 23/03/29 22:30
旅人さん0 

寶積寺さんの枝垂れ桜とそのほかのいくつかの桜はまさに満開の時を迎えていました。

なんと美しい…。

本堂前の樹齢百五十年と言われる枝垂れ桜を中心に、境内や周辺の山々に山桜やしだれ桜、ソメイヨシノにおかめ桜…。
少し時をずらして八重桜が咲くことでしょう。

桜の花の時期でもなく、紫陽花の頃でもないときに参拝させていただいても、大変居心地のよいお寺さんでありますというのに、この桜の花の頃を知ってしまったら、また欲が出てしまいますというのに。
これはなんとも罪作りな桜であります。
(いやいやおばさんが欲深いだけでしょう)

なだらかな坂を登っていくと、石段が見えてきます。

石段の途中にはお地蔵さまがおられるのですが…。

こちらのお地蔵さま、お顔がぼやけるくらいに摩耗してしまっています。手や膝などは削り取られており、痛々しい傷痕となっています。
大きな白い布で覆われた肩から背中、首にかけてはさらに大きな傷となっているのだとか。

実はこちらのお地蔵さま、みがわり地蔵さまとして大変名高い御像なのだとか。
かつて人々はこの石造のお地蔵さまの身を削り、その石の粉を飲んだのだそう。
みがわり地蔵信仰と呼ばれたものといい、今でもその信仰は形を変えて続いています。

今は『身替地蔵札』なるものをお分ちくださっています。

お地蔵さまから視線を左にずらしますと大きな大きな白い観音さまが見えてまいります。
そしてその後ろには枝垂れ桜が。


No.314 23/03/29 17:17
旅人さん0 

小幡には織田家七代の墓があります。
以前は小高い丘の上に風雨にさらされた状態であった墓に今はそれぞれに覆屋が造られ、その前には、まだ新しい公園が整備されています。

今回はこちらへは参拝せず。

東国花の寺の霊場札所となっている、同じ甘楽郡甘楽町にあります【寶積寺】さんへ参拝させていただきました。

【寶積寺】さんへは何度目かの参拝、ですが、花の寺の札所でありながら、いつも花の時期を外しての参拝でありました。
今回は…どうかなぁ。
実はこちら、二百本の様々な桜が植えられる〝桜の寺〟。
なかでも見ものは御本堂の前に聳えるように立つ枝垂れ桜、であります。


…!

…目指す寶積寺さんはあそこだ。と、わかるくらいにさまざまな桜色何一つの山を織りなすかのように、かたまったところがあるではないですか!
「うわぁ!」

私ども、こちらのお寺さんが大好き、であります。

お墓は通り越して参りましたが、お墓のあります、崇福寺さんを菩提寺と定めるまでこちらの寶積寺さんが織田家の菩提寺でありました。

四代信久が廃寺であったという崇福寺さんを再度建立するまではこちらが菩提寺さんであったようです。

No.313 23/03/29 15:51
旅人さん0 

そんな織田家も、明和三(1766)年、藩政の立て直しをめぐって重臣間で内紛が勃発し、たまたまその頃山県大弐の尊王思想の『明和事件』に関わっていたことにかこつけた幕府の処分を受けるかたちで、織田氏は出羽高畠に転封となります。
織田氏による支配は八代信邦まで、約百三十年間続きました。

以後、版籍奉還までの約百年間、松平氏が小幡藩主となります。

発掘調査の結果、藩邸内で使用されている石は織田氏の方が立派で、松平氏は通路や水路などを縮小していることなど、織田氏と松平氏、それぞれの時代の違いがわかるとされます。

広大な武家屋敷地区など、二万石の小大名には不似合いな規模のものは、織田宗家の格式を思ってつくられたと考えられています。

小幡では、そのかつての織田氏の時代を今に伝えるべく、毎年春に『城下町小幡さくら祭り武者行列』が盛大に開催されます。
そのさくら祭り、コロナ禍ということで何年か中止されましたが、今年は今度の日曜日、四月二日に開催されます。

小幡という町の人口や規模から考えるとかなり大きな大きな、大々的なお祭りで、まさに町をあげての一大イベントとなっているかと思います。

桜の花の時期は…今回のお祭りの時期には少し散ってしまうかなぁ。
…桜の花の盛りは短いですからねぇ。


…どうかなぁ。


No.312 23/03/29 13:28
旅人さん0 

群馬県甘楽郡甘楽町小幡は、かつては、鎌倉時代から名の知られた豪族・小幡氏の本拠地として栄えていたといいます。
しかし、本能寺の変以降勢力を弱めた小幡氏は、徳川家康公に甘楽の地を明け渡して信州へ逃れます。

その後二十五年間で五度、領主が入れ替わった後、慶長二十(1615)年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると、天下統一を果たした徳川家康公が、【織田信雄(のぶかつ)】公に奈良県の大和国宇陀郡(やまとのくにうだぐん)三万石と、群馬県の上州小幡二万石を与えました。

ここから織田氏八代、百五十二年間にわたる歴史が続きます。


【織田信雄】公は、織田信長の次男。
本能寺の変後に行われた、信長の後継者を決める『清洲会議』では、秀吉の意見により信長の孫が選ばれたため、織田信雄は織田家の後継者となることができませんでした。
ですがその後織田宗家を継ぎ、名家織田の血筋を現代まで残したのは、唯一、信雄公の系統だけといわれています。

元和ニ(1616)年、織田信雄公の四男・信良(のぶよし)公が後を継いで福島地区の仮陣屋に入ると、織田氏による小幡藩政が始まりました。
しかし仮陣屋では手狭となったため、旧小幡氏の重臣だった熊井戸氏の屋敷跡を利用した小幡藩邸への移転が行われ、この時から小幡藩の中心は小幡となりました。


織田氏は養蚕などの産業育成に力を注ぎ、小幡の発展に尽力する一方で、群馬県で唯一の大名庭園【楽山園(らくさんえん)】を残しました。
楽山園は、池の周りの園路をめぐって観賞する『池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園』。
周囲の山並みを借景として取り込み、その美しさから国指定名勝にもなっています。

園路には『梅の茶屋』や、全国でも珍しい五角形の形状をした『腰掛茶屋』など、複数の茶屋を配しています。
茶道の心得がある者が作庭に関わったと考えられ、織田氏と茶事との関連も感じさせます。

石材の宝庫である甘楽町の銘石を使った庭は、数万両を費やし、完成まで七年もかかったといい、群馬県内で最も江戸時代の雰囲気を色濃く残す、歴史・文化的にも貴重な庭園です。



No.311 23/03/29 04:00
旅人さん0 

群馬県に織田家が?!

…と、このものを知らない(知らなすぎる)おばさんは、ついほんの何年か前にそうここでつぶやきました。

いやぁ、夫と結婚してその時だってすでに二十何年経っていましたが、夫の口からそれを聞いたのは実にそぉーんなにも時が過ぎてからのこと。

なんでそんな貴重な歴史を知っていながら、子どもたちに伝えようとか思わないもんかな!と当時は立腹したくらいでありました。

この辺りに来ることになった経緯はすっかり忘れた…というか、夫が自分でその地を歩きたいと思った…のだとは思うのですが。
その地を訪れることになるまで自分の中で眠らせておく辺りがなんとも我が夫らしい。
そ、温めておくんじゃないんです。
眠らせておく。
それが夫。
だからこそ珍道中ペアの立派なかたわれ、なんですけどね。
(可哀想なのはわが子たち。泣)

その織田家ゆかりの小幡(おばた)の地は、高崎市に隣接した…高崎市に合併した吉井町に隣接したところであり、つまりは辛科神社さんからそう遠くないところに位置します。

ということで次に夫が向かったのはその小幡。

小幡は、群馬県南西部に位置する甘楽町(かんらまち)にある城下町で、今もなお武家屋敷や町家が残る古い町並みが広がっています。
「名水百選」や「世界かんがい施設遺産」などにも選ばれた雄川堰(おがわぜき)がある、情緒あふれる町です。
初めてそこを訪れたときの感動といったら…。

ゆったりとした景色、そこを流れるゆったりとした時間。
町ごとが癒しの空間なのであります。
そして!
その小幡は『桜の里』でもあるのです。

No.310 23/03/28 16:22
旅人さん0 

こうして…。

辛科神社さんへ何度も通い、夫はようやく念願だった【辛科神社と羊伝説】という、辛科神社さん発行の小冊子を手に入れたのでした。

その念願の小冊子は、な、なんと無料で配布されておられるものとのことで、なんだかおねだりしたようで申し訳ない思いがありました。
でもきっとこの小冊子が在庫が尽きたなら、再版はなさらないものでありましょうから、やっぱりこうしてお授けいただくことができたのは神さまのおかげ、なのかもしれません。

ちなみにこの小冊子は【平成】と元号が変わって二年目の大祭を記念してのものだったようで、その小冊子がわが家のものとなったことは、まさに奇跡のようなもの、だったかもしれません。

No.309 23/03/28 08:02
旅人さん0 

昨日は、季節の変化を細かく分けた『七十二候』で『桜始開(さくらはじめてひらく)』とされ『桜の日』。
今年は日本全国で例年よりもかなり開花が早く、私の住むところでもすでに七分咲き、…しかもこの開花、むしろ近隣よりはだいぶ遅そうであります。

あいにくの雨で終わった土日休み、短い桜の花の時期を思うとまさに恨みの雨ともなりました。
でも本来植物にとっては恵みの雨、あくまでも人間目線ではありますが…。


そんな昨日。

実はうちの夫、計画休でありました。そう、三連休。
ですが土曜日は孫の守子日で、昨日はその疲れを癒しつつ家でゴロゴロする心身の休息日、あいにくの雨、ではありましたが、有益な過ごし方…だったのかなぁ?
そもそも計画休で少なくとも二連休、なのだから、なんならどこかに泊まりがけで出かける計画とかがあってもおかしくはないのではありますが…。
いかにもズボラで出不精な私どもでありましょう?


そして昨日の朝。
夜派の夫は八時過ぎても起きては来ず、私は先一昨日・一昨日そして昨日の洗濯物を全て外に干し終えて、どこにも出かけないなら、庭いじりでも始めようか、そんなふうに思ったところ、ようやく夫の寝室のドアが開く音が。

…とりあえず朝ごはんの支度か。
あ、ちなみに私も朝ごはんはまだ。
先に食べようと思った、まさに絶妙なタイミングでありました。

食事を終えて。
「今日の予定は?」と私。
「何かある?」
「天気が良さそうだし庭でもいじろうかと思ってたとこ」
「どっか出かけるか」

…💢。
…おいおい、休みというと出かけることばっか考えてるんじゃないよ。
屋根や足場に登ってペンキ塗ってる女子って、あんまりいないし、…そもそもそれを好きでしているのではなく必要に駆られ仕方なくしているわけで。

…と内心は思ったものの無言の行を頑張る私。

「…辛科神社さんに電話してみるかなぁ」
…はいはい。

と言いつつ、この二人辛科神社さんに電話が通じるとあまり思ってはいなかったのです。あの参拝のあと、何度かお電話差し上げてみたものの一度としてお出になられたことはなく、今日は平日ということもあり、よもや出ることはないだろう、そう思って、私は食器を洗っておりました。

夫の寝室から少し高い声で話す夫の声が聞こえてきます。
(おっ?通じた?)





No.308 23/03/28 05:40
旅人さん0 

落ちつけ落ちつけ。
年に一度の大祭、お祭りじゃない。
いろんな形があっていいでしょ。

こちらのお寺さんは御朱印で有名なお寺さんで、人たちのニーズに応えてくださっているから、こうした特設の受付があったりしているのだし、みんな笑顔で楽しそうではないか。

御本堂へと上げていただき、年に一度だけの御開帳の御仏に合わせていただけたのも、この大祭あってのこと、檀家でもない私がなにをブツブツと。
秘仏公開ということで訪れたただのミーハーではないか。
こちらのお寺さんのご本尊さますら知らないではないか。

…そうだった。

そうなんです。
こちらの、この秘仏の御仏さまがてっきりこちらのご本尊さまとばかり思い込んでいた私。

ご本尊さまは御簾のなか。
そんな自分をお詫び申し上げてもう一度手を合わせてから帰りましょう。

私「あのぉ〜、こちらのご本尊さまは?」

「あ、今日は〇〇さまの御開帳なんですよ。私たちもいつもは見られないので、…ぜひお参りください」
私「あ、〇〇さまへはお参りさせていただきました。ご本尊の仏さまはどなたなのかと…」
「…」

あれ?
「ご本尊さまは…?」
シーン。

「聞いてきます」

えっ。
その場におられた方のどなたもご存じなかったようで、走って聞きに行ってくださいました。

…ごめんなさい。
〇〇さまの御開帳ということで、お手伝いに来られている方々ばかりだったようでありました。

ご住職はじめお寺の関係者の方々はこの大祭の運営で忙しくなされておられることなどわかることでしょ。
どちらのお寺さんも御開帳だからといって特別な法要を一般に向けて営まれるわけではなかったし。
自分で調べても来ず、なんでも人に頼るものではない。


そんな反省をしつつ、こちらのお寺さんをあとにした私でありました。


ちなみにこちらの今回御開帳された御仏は、仏教の教えに正しく導いてくださる御仏さま。
私の過ちにその場で気づかせてくださるほど、霊感あらたかな御仏でありました。

No.307 23/03/27 06:38
旅人さん0 

とあるお寺さんで…。

年に一度だけの御開帳とはお聞きしておりましたものの、なかなか出向くことができずに、今年ようやくその日に参拝をすることができましたお寺さん。

すでに長蛇の列。境内からはみ出して道路にすら列ができているではないですか!

が、あくまでもこの御開帳にあわせて行われるイベントに対してのもののよう。御本堂の前はガラガラでありました。
ということはもうご本尊さまには自由参拝をさせていただけるということ?

が、御本堂前にいる方にお聞きすると「整理券をお渡しします」とのこと。

…!!。

こ、これは、とんでもない御開帳だった!

整理券って。


そもそも御開帳自体がまだのようです。一体何時になったら拝観できるのだろう。
と、渡された整理券のナンバーを見ると『No.1』
…?

一番…ってこと?
ま、まぁそれはそれでありがたいことですけれど?
それ以前にこの整理券、特別御朱印の整理券のようです。

私「あ、あのぉ〜、私御朱印ではなくて参拝させていただくために…」
「はぁ?…まぁ、それなら十一時からだから」
私「並んでお待ちすればよろしいのでしょうか?」
「そこらへんで待ってれば時間になったら入れるから別に並んでなくても大丈夫」

はあ。


十一時になると、なるほどかって知ったるというていで御本堂に上がって行く方たちが。
そうですよね、檀家の方々がおられますものね。
靴もそろえず、お辞儀もせずに?

すこぉし違和感を抱いて御本堂へ。
ご本尊の前は素通りするような形で、〝進路〟と書かれた紙があちこちに貼られています。

まずご本尊さまを拝して。

進路を進みました。



…えっ!

…たしかに御開帳されています。
御厨子の扉が開けられています。
が。
あの、よく御本堂や社殿の害獣や鳥の糞よけの為にかけられている金網がかけられています。


…。

ま、まぁ、万が一の盗難等、対策はしておくに越した事はない、ですよね。

この日御開帳された御仏は、それはそれは優しいお顔をされた美しい像でありました。

金網越し、ですけれど、ね。

そして。
その後私が何よりもびっくりしたのは…。
進路に特設御朱印の授与所が含まれていることでありました。
それだけでなく、中古品や手作り品の販売コーナーまで。


えっ?
これ、年一回の御開帳の御仏の真ん前でする?


No.306 23/03/26 18:30
旅人さん0 

年齢を重ねると今までまるで関心のなかった書に惹かれるようにもなります。

その一冊が【おくのほそ道】であります。

東北に行ったことが何よりも大きなことだと思います。
そこには自分で見た情景が、時代を超え美しく、そしてなんとも的確な言葉で綴られているではないですか。

また俳句という、わずか三句十七音からなる定型詩。さらにその中に季語を詠み込むという決まり事まであるというのに、そこに著される句のなんと素晴らしいことか。

今までもそこに自分にはない感性と才能とを見てはきたのではありますが…。


かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚(たいはいくうきょ)の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。


うーん。
これを読みながら、中尊寺をゆっくりゆったりと歩きたいなぁ。
できうるならば、芭蕉の訪れた季節に。
…さらに。叶うならば春の花の時期、冬の雪の降り積もる中。


…まさに、『予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ…』…だなぁ。


また、芭蕉の句碑は実に身近なところにあります。
それは芭蕉の句に惹かれた人の多さもありましょうが、やはり何よりもこの芭蕉の歩んだ〝おくのほそ道〟に惹かれる日本人の血が、そうさせずにはいられなかったのかもしれません。

神社や仏閣を訪れて詠まれた句を、その地に碑として建てられているものもあります。
身近に感じられる〝風景〟の詠まれた句を愛し、自分の家の敷地に建てたといった人もいたようです。


神社やお寺さんを巡るようになって、そうした句碑を目にする機会も増えたことも一因なのかもしれません。

とはいえ、その足跡を辿ることはないことは断言できますが、ね。

あんなに歩くのは絶対、ぜーったい無理です。






No.305 23/03/26 16:51
旅人さん0 

今日も雨。

それでも朝はほんの霧雨で、このくらいの降りならばと、秩父へ行こうと準備を進めていました。
今まで行ったことのない神社さんやお寺さんへと行くのもそれはそれは心はずむものでありますが、私は今まで行かせていただいた神社仏閣に再拝させていただくのも大好きで。

秩父ならば道も覚え(…本当に?本当か?)、なんとか私の運転でも行くことができる(かもしれない)ことも一因するのかもしれませんが、何より、あの心癒される御仏の御像や心和む景色、あの温かい人たちとの触れ合いも、また秩父へ行きたいと思わせるのであります。

私一人で行ったら、…もしかしたら一寺あるいは一社にずっとぼぉーっと居続けることもありえないと思われます。
さすがにそれでは訝しむ方がおられるかもしれませんし、食事もいたしましょうから、その移動に合わせてもう一ヶ所…、そんなゆったりとした神社仏閣巡りをするかもしれません。
一寺一社に時間をかけてお参りさせていただくのは珍道中ペアであっても同じこと、なのではありますが、ね。


けれど準備を進めている間にどんどん雨足が強くなり、秩父行きは早々に断念して、買い物を済ませたのちは家でぼおーっとして過ごしております。


そうそう、一冊の本を読みました。
有吉佐和子さんの【華岡青洲の妻】であります。
これは高校生の時分に読んだ古い文庫本を再再再、再読(くらい)。

小説というのはその本を読んだ自分の年齢によって、だいぶ受け取り方が変わるものであり、その変化がまた感慨深くもあり、おもしろいのですが、この文庫本、なんと値段が二百二十円。
今の物価とは当時はずいぶんと異なってはいますが、それにしてもびっくり。
何よりもそんな本を後生大事にいまだに持ち続けていることの方がびっくり!という話もありますが。

学生時代に寮に入り、就職して一人暮らしをし、その後嫁いで、何度かの引越しを経ているというのに、そのたびに何十冊もの本と移動している、という、…物持ちがいいというか、ケチというか。

今は電子書籍というものがあり、そうでなくとも図書館で借りることだって可能なわけで。
終活をするべく、かつての本たちと再会をしているというところもあります。


とはいえその懐かしさに、なかなか処分できずにいる私。
…やっぱりただのケチ、でしたかね、笑。

No.304 23/03/26 14:02
旅人さん0 

仏教覚書

中国に仏教が伝えられたのは紀元一世紀ごろのことと考えられていますが、その仏教伝来について、次のような伝説があるといいます。

後漢の『明帝』(57〜75年在位という皇帝が夢に金人を見て、その夢の意味を占わせたところ、仏教が中国に伝来する時期が満ちている、という答えが出たそうです。
『金人』とは金色の人の意で『仏』『仏身』を指します。

そこで明帝は早速インドに使者を遣わしましたが、使者が中央アジアの砂漠地帯にさしかかったところで、二人のインド人僧侶に出逢います。

二人の名は『迦葉摩騰(かしょうまとう)』と『竺法蘭(じくほうらん)』といい、まさに中国に仏教を伝えに行くところだというのです。
奇遇に喜んだ使者たちは踵をかえし彼らと共に洛陽の都に戻ります。

洛陽にやって来た二人の僧侶は、とりあえず『鴻臚寺(こうろじ)』という役所の施設に滞在します。
当時の中国では【寺】というのは外国の使節などを接待する〝役所〟のことで、のちの〝迎賓館〟のような役割を果たしていました。

明帝はこの二人のインドの僧侶のために〝寺〟を建てることを命じ、ここで彼らは経典の翻訳や布教に務めることとなったといいます。
彼らのために建てられた施設は【白馬寺】と名付けられます。この二人の僧侶が白馬に乗ってインドからやって来たことに由来するといい、これ以降、仏教の僧院のことを【寺】と呼ぶようになったというものです。
ただし、これはあくまでも伝説的な話ということで、史実とは異なるといいます。


また【寺院】の〝院〟とは回廊や塀で囲まれた立派な建物のことで、当時の外交使節を接待する〝寺〟には必ず回廊が備わっていたので、〝寺院〟と呼び習わすようになったといいます。


No.303 23/03/24 17:20
旅人さん0 

あ、一つどうしても書いておきたいことがあります。

観音院さんの風雅御朱印は、絵も文字も、一枚一枚が手書きです。

あのクオリティの高い絵が御朱印帳に直書きだった時期すらあるのです。しかもその日のうちに手渡ししていただけました。

癒しの絵、癒しの文字。
手渡しいただくときの癒しの会話。


一カ月に一度の贅沢な時間でありました。

No.302 23/03/24 14:20
旅人さん0 

御本堂での参拝を済ませて。

地蔵堂へ向かいます。
こちらの日限地蔵さまもまた秘仏のようです。
こちらの御堂で御祈祷をお願いできるようです。

…私は…こちらに限らず御祈祷とかお祓いとかを生まれてからたった一度だけしか受けたことがないので、こちらの御堂に上がらせていただいたことはないのですがね。

お灯明はいつもお願いしております。そして、まるでお焚き上げのようになる香炉にお上げするお線香を一束。
いつも元気な年配の女性の方々が対応してくださいます。
このうちのお一人がまさに癒しの方。
やわらかい笑顔を向けていつも丁寧な対応をしてくださいます。そして、きっとその向き合った顔に何か淋しげな影とかを見出すお力をお持ちの方、なのだと思うのです。
そんな心に秘めた思いがあるときはきまって一言二言、会話をしてくださり、小冊子をくださったりなさるのです。

今日も御堂の窓口におられ、いつもの笑顔で対応してくださいました。

そして、あの、風雅御朱印の美しい絵をお描きくださった方ともお会いしてお話をすることもできました。
あれだけ見事な絵を短時間で仕上げる画家さんは、やっぱり笑顔の素敵な方でありました。

こちらへお勤めになられている僧侶が、ぽつんとこぼれ話をされたことに、書いても書いても山のようなご朱印帳だったこと、預かることになってからは御朱印をお書きになられる部屋が御朱印帳でいっぱいになっていたことを明かしてくださったのですが、そんな大変だったことなどおくびにも出さず、ずっとニコニコとお話しくださいました。

「今までありがとうございました」と丁寧にお辞儀をされ、
「こちらこそ本当にありがとうございました」と申し上げましたが…。


…こうしたお寺さんの行事に関わっておられる方というのは、それだけでたいへん良い修行をなされているのでありましょうね。
会話を通して、この方々は魂が綺麗なのだろうなぁとつくづく思ったものです。


来月からは四国霊場ご本尊さまの御姿御朱印となるようです。

…うーん。
うーん。
うーん、これは…。

私の物欲が大変なことになっております。
これも修行と諦めるか。
…御御影としておわかちいただこうか。

ま、来月に悩むとしましょう。


 (観音院さんの風雅御朱印)

No.301 23/03/24 13:41
旅人さん0 

今日はお地蔵さまのお縁日。

久しぶりに群馬県桐生市の観音院さん、通称【日限地蔵】さまへ参拝させていただきました。
風が強かったせいでしょうか、あまりの参拝者さんの少なさに驚いたものです。

あ。
お花見?

桐生市の町を通り抜けて観音院さんへとまいりましたが、桐生市の桜の花は五分咲きから満開といったところでありました。
(…たぶん桜?…アーモンドの花でだいぶ慎重になっております、笑)

…風が強いのに?


…こんな淋しいお縁日、ずっとだと嫌だなぁ。

そんなちょっぴり沈んだ思いで山門をくぐりました。こちらの山門はまだまだ新しいもので、赤い大きな提灯が山門の真ん中に掛けられています。
境内も人がまばらです。
まるで活気がありません。

「どうぞ」とチラシを渡されました。
『沙羅パークオープン』と書かれています。先代が亡くなられて整備を進めていた公園がいよいよ完成するようです。
お寺さんの敷地内でありながら全くの公園で、唯一お寺さんらしいといえば、先代が大変心を寄せておられた『寝釈迦』の像が置かれること。

寝釈迦のお像はそのときのお披露目を待つのかまだそのお姿は見えません。
「いや、まだ無いんだよ」

完成まであと一カ月。
寝釈迦さまはまだこちらへはお越しになっておられないそうで。

まずは御本堂へと向かいます。

こちらは御本堂へ上がらせていただけます。お焼香も用意されています。
ご本尊さまは『聖観世音菩薩』さま。秘仏であります。
御開帳があるのかどうか…。
檀家ではないのでその辺はよくわかってはいませんが御開帳の声を聞いたことがなく、御前立の観音さまが閉じられた厨子の前にお立ちになっておられます。

お地蔵さまで有名なお寺さんではありますが、ご本尊さまは『聖観世音菩薩』さま、であります。

こちらのお寺さんもう一つ有名なものがありまして、それは『御朱印』。
それはそれは美しい、大変見事な水彩画、癒しの花の絵が描かれております。

御本堂の中、貼り紙がされております。『風雅御朱印は今回をもちまして終了させていただきます』

えっ。

…それは淋しい。

本当に本当に美しい、癒しの絵なのです。
月替り御朱印とか、限定御朱印とかにこだわるのはやめようと以前心に決めましたものの、こちらの御朱印だけは心惹かれるものでありました。


No.300 23/03/24 04:39
旅人さん0 


自分は…。
何をしたいのだろう。
何をしなくてはならないのだろう。
自分の生きている上での役割は。

などと考えると足が止まり、動けなくなってしまう。

もうそうしたことに囚われず、生きようではないか。

今したいことを、我慢する。
…我慢する理由は何か。
人の目だったり、思惑だったりするのならば、それはもうやめよう。

しなくてはならぬことなど、目の前にある。
目の前の事が片付いたとても、次から次へと湧いてくるのが今まで生きてきた人の世の常だったではないか。

とりあえず進もう。

今までの人生に悔いがあるのだから、それを悔いだけで終わらせず、バネとしろ。

他人が起因して起きた過去のつらかったことなど棄ててしまえ。
棄てることでその者との縁が切れると思えばむしろ喜ばしいことではないか。

前へ、前へ。

休むこともいい。

前へ前へ。

人生は思いのほか短いのだ。

No.299 23/03/23 18:25
旅人さん0 

毎日、それも三十もの仏さまを日替わりでお参りすることなどとても困難なことでありますし、お仏像として滅多にお祀りされていないような仏さまもおられます。
これは毎日のお縁日を欠かすことなく、などと欲張りすぎないようにしないと、それこそ『煩悩』であります。


また、他には十二支によって決められた縁日もあり

甲子の日…大黒天
寅の日…毘沙門天
巳の日…弁財天
庚申の日…帝釈天
午の日…稲荷明神
亥の日…摩利支天

であります。

地蔵菩薩や不動尊などは、本来の縁日以外にも、下一桁が同じ日付けに縁日を行うところもあります。


三十日秘仏は、三十日を周期として、特別な日にだけ開帳することを許された秘仏のこと、とする記述もありました。
…秘仏、と付くのです、やはりこの方がしっくりきます。

この『三十日秘仏』、特別なご利益が受けられる日として、多くの人が寺院にあつまり、境内に縁日が起こるきっかけにもなったといいます。

秘仏は、縁日など一定の期間をおいて特定の日に開帳する寺院もあれば、数年から数十年に一度のみ開帳する寺院もあります。
三十日秘仏の場合は、一カ月周期で開帳されます。

一般的には、毎月一回、
年に一回、
七年に一回、
三十三年に一回、
六十年に一回といった周期に行われるといいます。

ちなみに御開帳は、仏像のある寺院で行うことを「居開帳」、その寺院以外の場所に出張して行う御開帳を「出開帳」といい、江戸時代からは興行としても発達しました。

出開帳は今でこそあまり聞きませんが、江戸時代にはだいぶ盛んだったようで、あちこちのお寺さんでそのような記事を目にすることがあり、石碑が建てられていたりもします。

三十日秘仏とは話は逸れますが、秘仏とされる御仏は午年の御開帳が多いのです。

ああ、午年まであと三年♡

秩父三十三観音霊場が一斉に御開帳となります!
群馬県内にも六十年に一度、やはり午年の御開帳となるお寺さんがあります。


No.298 23/03/23 17:12
旅人さん0 

『三十日秘仏』の内容


1日… 定光仏(じょうこうぶつ )
2日… 燈明仏(とうみょうぶつ)
3日… 多宝仏(たほうぶつ)
4日… 阿閦如来(あしゅくにょらい)
5 日…弥勒仏
6 日…二萬燈明仏(にまんとうみょうぶつ)
7 日…三萬燈明仏(さんまんとうみょうぶつ)
8 日…薬師如来
9日… 大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)
10 日…日月燈明仏(にちがつとうみょうぶつ)
11 日…歓喜仏(かんぎぶつ)
12日… 難勝仏(なんしょうぶつ)
13日… 虚空蔵菩薩
14日… 普賢菩薩
15 日…阿弥陀仏
16 日…陀羅尼菩薩(だらにぼさつ)
17 日…龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)
18 日…観世音菩薩
19日… 日光菩薩
20 日…月光菩薩
21日… 無盡意菩薩(むじんいぼさつ)
22日… 施無畏菩薩(せむいぼさつ)
23 日…大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)
24 日…地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
25 日…文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
26 日…薬上菩薩(やくじょうぼさつ)
27 日…盧遮那仏(るしゃなぶつ)
28 日…大日如来(だいにちにょらい)
29 日…薬王菩薩(やくおうぼさつ)
30 日…釈迦如来(しゃかにょらい)


…初めて拝見したお名前もあるくらいなんですけれど…。

No.297 23/03/23 17:08
旅人さん0 

【三十日秘仏】という言葉に出逢いました。
初めて目にした言葉でありますが、実は他ならぬ自宅にある書籍にあったもの。本当、〝積ん読書〟ばかりなおばさんであります。

さっそく、いつものGoogle先生にお教えを乞います。
これが、ですね、「三十日ひ」と入れただけで『秘仏』という言葉が一番先頭にヒットするんです。
…もしかして、世間一般では誰もが知るようなこと?
うーむ。

でGoogle先生曰く。

『三十日秘仏とは一か月三十日に日替わりで仏菩薩を割り当てることによってその日を縁日とし、特別な御利益が得られるとされる暦のことです』
とあります。

ん?御縁日のこと、なのでしょうか。三十日分ある、ということなのですかね。
ちなみに『御縁日』とは仏さまの御縁にまつわる特別な日のことで、その日にお参りすれば特別な御利益があると昔から言い伝えられてきた日のことであるようです。

たとえば、私のように知恵をお授けいただきたい者は毎月十三日の日が御縁日の知恵を衆生にお授けくださる『虚空蔵菩薩』さまをお参りして、御利益を願う、ということだったりいたします。

三十日分、ですか。
毎日違う御仏にお護りいただき、ご縁をいただく、ということですかね。

三十日分、ですかぁ♡

…いや、だとしたら三十一日ある月はどうしたらいいというのでしょう。
…。

そ、このおばさん、こんなにも知恵もなければ考えも浅はかなんです。


三十日秘仏は実は経典に根拠は無いそうですが、旧暦で決められた仏が現在でも仏の縁日として使われているといいます。

中国の五台の頃に五祖山戒禅師が始めたと言われ、一日定光仏、二日燃灯仏、三日多宝仏などの仏を毎日供養することで罪障消滅と祖先の冥福を祈ったことが由来であるとされます。



No.296 23/03/23 03:53
旅人さん0 

【アーモンドの花】

私はいい歳をして花の名を知らない人間です。
知りたいとは常日頃思ってはいるのですがなかなか覚えられずにいます。

とはいえ、今は便利な世の中となり、スマホ一台あれば、見た花をかざしてものの数秒でその花の名を知ることができるようなっています。(必ず合っているかというと、機械の認識なので似た花を挙げることも結構な確率でありはしますが。そもそもその花が登録されていなければそうなっても不思議ではありません)

とりあえず花の写真を撮って、その場で調べ、写真にその名を記しておくようにしており、写真を見ては自分一人でクイズのようにして確認し、少しづつではありますが覚えつつあり…忘れもし…。

見上げた花。
足元に人知れず咲く花。
その名を知っていたなら、なにか人生に膨らみが持て、ゆたかな気持ちになれるよう思うのであります。


今、桜が咲きはじめました。

梅を見れば梅の花だってこんなに綺麗なのに、世の中はどうして桜の花ばかりを愛でるのだろうと憂いたりするものの、時期をずらして桜が咲き始めると心が浮き立つ…愚かなおばさんであります。
それは毎年のことで、梅は梅、桜は桜、比べることが間違っており、愛でられることなど何一つ期待せず、命のままに咲いてくれる花たちは全て愛おしい存在でありますというのに。

そういえば花桃の咲く時期でもあるなぁ。
花桃を今年も愛でに行かなくては♡


ところで。

桜の花って、それこそ何百とあるようで、それを一言で『桜』といって済ませているおばさんであります。

それでも、河津桜やソメイヨシノやヤマザクラ、大島桜くらいはわかるようになってきました、…と思っていたんですけれど、ねぇ。


眠れないまま、…ええ決してしてはならないと言われてはいるのは重々承知しているんですが、ね、ミクルさんをはじめネットをパラパラと見ていたんです。


衝撃。

私、この花を見かけたら、
「ああ、やっぱり桜の花は良いなぁ♡」と足を止めてしばしその花を愛でると思うのです。
…桜、として。


桜じゃないんだそうで。

今まで思い込みで桜と信じて過ごしていたこともあったかもしれません。


なんと!


アーモンドの花なのだそうで。


これは…。
これからもきっと区別なんてできない自信しかありませんが。
名札でも付いていれば別ですが…。


No.295 23/03/22 10:37
旅人さん0 

そこでまた生まれる疑問。
『古義』派と『真義』派って?
私の知るところの智山派や豊山派はどちらに属するのだ?

【新義真言宗】は、真言宗中興の祖覚鑁(興教大師)の教学を元に、覚鑁派の僧正頼瑜に連なるものであるといいます。
高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれたのが始まりのようで、広義では、

根来寺を本山とする新義真言宗、

智積院を本山とする真言宗智山派、

長谷寺を本山とする真言宗豊山派、

室生寺を本山とする真言宗室生寺派

などを含む、といいます。

狭義では真言宗十八本山の一つで、『根来寺』を総本山とする『新義真言宗』を指すようです。

従来の真言宗(いわゆる古義真言宗)では本地身説法(真言宗最高仏である大日如来が自ら説法するとする説)を説くのに対して、
新義真言宗では加持身説法(大日如来が説法のため加持身となって教えを説くとする説)を説くことが教義上の違いである…ようです。



その歴史的背景は、平安時代、僧侶の堕落停滞による真言宗没落の危機が発生し、高野山金剛峯寺の高僧だった覚鑁が宗派建て直しの緊急策を敢行したことに発するようです。
しかし現状維持を望む保守派(本寺方・金剛峯寺方)と覚鑁派(大伝法院方)による決定的な対立が発生、その結果、覚鑁派は高野山を去り、大伝法院の荘園であった岩手荘の豊福寺に拠点を移す。根来での覚鑁の活動がここにはじまったのだといいます。

覚鑁入寂後、覚鑁派は再び大伝法院を高野山に戻したが確執は収拾せず、百四十五年後の正応元(1288)年、同派の実質的指導者であった頼瑜は門弟を連れて根来山に戻ると共に覚鑁の教義を発展させ、それまでの教義と一線を画した「新義」を打ち立て新義真言宗が確立したといいます。

ほ、ほう。

ま、前回調べたもので、追われた、などという表現にビビっておりましたおばさん、少しだけ落ちつきを取り戻し(元のレベルが低いのであまり落ちついた感はありませんが)、
とりあえず。

智山派や豊山派はこの広義における真義真言宗に属するということで。

なるほど、ねぇ。

やっぱり長い歴史の中、いろいろとあるものであります。


とはいえ、あくまでも弘法大師空海さまを宗祖とすることは変わりなく、仏教の教えもよくわかっていないおばさんとしては、ここまでわかればいいかなぁと思います。


No.294 23/03/22 09:24
旅人さん0 

【円満寺】さんで高野槙を拝見してから、万年初心者のおばさんは思い悩むことがありました。

この高野槙は空海さま、弘法大師さまが供花としたことから広まったといいます。
円満寺さんは高野山真言宗。

弘法大師空海さまが開かれた真言宗。
が、真言宗もいくつかの宗派に分かれております。
…真言宗と一言で言うことって…どうなのだろう。
どこかで違いがあって分かれたのだと思います。

この高野槙をお供えするのって…高野山真言宗限定?と思ったことからさらに抱いた疑問。

今年、弘法大師空海上人の生誕1250年目といいます。真言宗について学ぶには良い機会を得たものと考えました。


私が知る限り、思いつく限りでもでも『高野山真言宗』『真言宗豊山派』『真言宗智山派』などが挙げられます。
真言宗ってどれだけ枝分かれしているものなのでしょう。

真言宗の主な宗派は十六あり、その総大本山が十八あるため、真言宗十八本山と呼ばれているといいます。
…ほえぇ、そんなにありましたか。

代表的な宗派と本山は、次のとおりでありました。


高野山真言宗…金剛峰寺(和歌山県伊都郡)

醍醐派…醍醐寺(京都市伏見区)

東寺真言宗…教王護国寺(京都市南区)

泉涌寺派…泉涌寺(京都市東山区)

御室派…仁和寺(京都市右京区)

大覚寺派…大覚寺(京都市右京区)

善通寺派…善通寺(香川県善通寺市)

智山派…智積院(京都市東山区)

豊山派…長谷寺(奈良県桜井市)

新義真言宗…根来寺(和歌山県岩出市)


真言宗は、古義真言宗・新義真言宗・真言律宗の三つに大きく分けることができるのだといいます。
このうち古義真言宗は、空海が開いた最初の教えを重視しており、十三宗派が当てはまるといいます。


これに対し、宗派を再生しようとして高野山を追われた覚鑁(かくばん)が始祖となった宗派が、新義真言宗。
また、真言律宗は仏教の一派である律宗と真言宗が融合したものといい、このほかにも多くの派が誕生しています。


…なるほど。

No.293 23/03/21 19:14
旅人さん0 

【浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)】さまは、『妙法蓮華経(法華経)』に登場する菩薩で、釈尊から末法(まっぽう)の時世に『法華経』を弘めることを付嘱(ふぞく)され命じられた「本化地涌(ほんげじゆ)の菩薩」と呼ばれる菩薩衆のひとりであります。

その呼称から、日蓮宗では古くより、衆生の身心を浄らかにする徳を有した菩薩として信奉されているといいます。
人々は、浄行菩薩の身体を洗い浄めることで、自身の汚れた六根を清浄にし、迷いの煩悩から解脱することを祈念しました。

水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩というところから、
古来、自身の悪いところ、病気、怪我などで痛む箇所を、浄行菩薩さまのご尊体を「南無妙法蓮華経」と一心に唱えながら磨くことにより治してくださり、身体の病いも、心の病いも洗い清める計り知れない功徳を授けてくださる菩薩さまであります。


…合ってたんだぁ。
本当に日蓮宗独自の仏さま、だったんだぁ。

No.292 23/03/21 18:46
旅人さん0 

妻のことを怪しげに見ていた夫を見返そうと、…調べてみました、【浄行菩薩】さま。


『浄行菩薩』は日蓮宗では四大菩薩に数えられる。
『四大菩薩』とは法華経で教主釈尊の召命により大地から涌き出した本化地涌の菩薩の中でも上首唱導の師となる菩薩の事で、『上行菩薩』、『無辺行菩薩』、『浄行菩薩』、『安立行菩薩』をいう。
『本化の四菩薩』とも称し末法濁世に現れる法華経を弘通すべき仏勅を受けた菩薩とされる。

…よくわからない。

これだけ読むと浄行菩薩さまは日蓮宗独自の仏さまととれてしまうんですけれど。

困ったときの〜Google先生〜っ。

【四菩薩(しぼさつ)】とは、『四名の菩薩』の意であり、仏教の信仰・造像の対象である菩薩の組み合わせの一つである。その意味するところは宗派や依拠する経典によって異なる。…とあります。

つまり宗派でも異なるし、依拠する経典によって四菩薩はいく通りもあるってこと、ですよね。

密教における四菩薩は、密教の『胎蔵曼荼羅』では、曼荼羅の中央に位置する「中台八葉院」に表される四体の菩薩、すなわち【普賢菩薩】【文殊菩薩】【観音菩薩】【弥勒菩薩】を四菩薩と称する。
通常、四菩薩といえば、この密教における四菩薩を指す場合が多い。

天台宗系では、阿弥陀如来の脇侍として【金剛法】【金剛利】【金剛因】【金剛語】の四菩薩を安置することがある。
金剛法・金剛利・金剛因・金剛語の各菩薩は単独では造像されることのまずないものだが、密教の金剛界曼荼羅では五仏(五智如来)の一つである阿弥陀如来の東・南・北・西に上記四菩薩が配されている。

日蓮宗・法華宗では、『法華経』に登場する【上行(じょうぎょう)】【無辺行(むへんぎょう)】【浄行(じょうぎょう)】【安立行(あんりゅうぎょう)】を四菩薩(あるいは四士)と称する。

釈迦如来が説法をしていた際に大地が割れ、そこから涌き出た無数の菩薩(これを総称して地涌の菩薩と称す)の筆頭が上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩であり、これらの菩薩は釈迦亡き後の末法の世において仏法を護持するものとされている。日蓮は、世が乱れ災害が起きるのは邪教を奉ずるからだと主張し、鎌倉の街頭で法華経の教えを説いたが、自己をこうした上行菩薩になぞらえていた。


…本当だ。

本当に宗派によってこんなにも異なるんだぁ。

No.291 23/03/21 09:21
旅人さん0 

こちらの寂光院さん、急な登り坂を登り終えた正面辺りに柱だけで屋根のある御堂に安置されている『浄行菩薩』さまがおられます。
浄行菩薩さまは人の心や身体を浄め、煩悩を断ち切ってくれる菩薩さまであるといい「なで仏」「洗い仏」とも呼ばれるといいます。
初めてこちらを訪れたとき、びしょ濡れに濡れた石仏さまを見てたいそうびっくりしたものです。
水かけをするお不動さまやお地蔵さまはおられますが、こちらは水をかけるのではなく〝洗う〟。
なので濡れ方も違います。
たわしまで置いてあります。
私達の病む所と同じ所を洗う事によって抜苦与楽を願うのだといいます。
前回までの二回には気づかなかったのですが、天井にはきれいな緑色の龍がおられました。

「どうして水をかけるの?」
訝しげな夫。
えっ、…だって水かけ不動さまとか、水かけ地蔵尊さまとかのときはそんなこと聞かないじゃない?
どうしてって…そんな聞かれて答えられるほどに修行積んでるわけないでしょう?

ニコッと笑って、ただ水をかけさせていただく妻を何か怪しいものでも見るかのような目で見て、夫はその御仏の像に手を合わせるだけでありました。

日蓮宗のお寺さんって、この辺りではあんまりないんだから、日蓮宗独自のものだとしたらわかるわけないじゃない?
郷に入れば郷に従うもんですよ。
抜苦与楽、ありがたいじゃないですか。
こんな暖かな陽気です、御仏も風邪をひかれることはないでしょう。


こちらの日蓮上人のお像はなんだかやたらと緑色で、少し怖いのですが?
何故緑?

以前はこんな色じゃあなかった気がするのですが…。



No.290 23/03/21 07:57
旅人さん0 

つまりはその陣屋跡に建っている、ということはこちらの【寂光院】さんは少なくともそれ以降に開山されたもの、ということでありましょう。
なるほど 寂光院建立は明治十三(1880)年でありました。
こちらの開基は桐生市出身の新居日薩(あらいにっさつ)上人であるといいます。上人は日蓮宗管長であったといい、日薩上人の祖父らが桐生に日蓮宗寺院が一ヶ寺もない事を嘆き建立を発案したといいます。

上人は天保元年(1830年)桐生の機業家、新居惣左ヱ門の六男として生れたといいます。
明治元年、政府は神仏分離令をもって仏教弾圧に乗り出しますが(キィーっ!)その混沌とした時代に、日薩上人は明治七(1874)年に日蓮宗総本山身延山久遠寺七十三世法主となり、同十一年、日蓮宗初代の管長となられたといいます。
その後、同十九年大本山池上本門寺六十五世の貫首となり同二十一年八月二十九日五十九歳で遷化されたとのこと。
うーん、お若くして亡くなられておられるのだなぁ。

この寂光院さんの開堂供養には管長である日薩上人自ら桐生に赴き導師をつとめたといいます。
当時、上人は日蓮宗管長であったため、池上本門寺六十二世大車院日軌上人(日薩上人の師僧)を開祖とし、日薩上人は開基・二祖であったといいます。

また折しも桐生二丁目の町衆が祇園祭踊屋台を新調することになり、旧屋台を譲り受け、旧屋台の彫刻品を荘厳具などに使用したといいます。

そういえば秩父の三十三観音霊場の【少林寺】さんがやはり秩父夜祭の屋台の彫刻や金具が転用されていたなぁ。
宗派は異なりますが、日薩上人、秩父のお寺さんにおられたこともあったとか。
そんな関係からそうしたお寺さんがあることを知っておられたのかしら。

…と思い、調べてみたところ、秩父の少林寺さんの方が若干遅い時期の建立…再建となっておりました。
その屋台の見事さに、このまま失うことを惜しむ気持ちが同じだったということなのでしょうか。


No.289 23/03/21 07:11
旅人さん0 

群馬県桐生市にあります【寂光院】さんに参拝いたしました。
こちらも山手通り沿いにあり、『妙音寺』さんに隣接しています。
山の斜面にあるので、かなり急な坂を登ります。
なかなか急な斜面のため、車で境内に上がるには結構アクセルを全開で踏み込む必要がありそうです。
帰りがけに一台の車がかなりの勢いで上がってきて、坂を歩いて上がってきた人たちにかなり接近して、恐いなぁと思う光景を目にしました。(歩いていた方々はご立腹され、その車の運転手さんに意見されていました。私たちも思わず声が出たくらいでしたので、体験した方々は本当に恐かったでしょう)

境内はどちらかというと狭い感じのように,思われますが保育園が敷地内にあるためとも言えます。
境内は隣の妙音寺さんよりも高い位置にあり、円満寺さんとこのニつのお寺さんは一つの山を分け合って建っているのかなぁと思いました。

さて。
こちらのお寺さん、『桐生陣屋跡』という案内板があります。

桐生陣屋跡って、…何?

桐生市の歴史とかには当然疎い私であります。
さっそく夫に聞いたのですが、聞いている内容がすでにちんぷんかんぷん、さっぱりわからない。


なんでも『桐生陣屋』は、江戸幕府が天領である桐生を管理するために設置した陣屋、なのだといいます。

桐生は安土桃山時代の天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の後、桐生にいた由良国繁を常陸国牛久へ移し、その後桐生の地は徳川家康の所領となりました。(のですって)
徳川家の代官であった大久保長安の命を受け、桐生領に派遣された手代の大野八右衛門によってこの陣屋は築かれたといいます。
桐生領の拠点として桐生新町を造営し、新町に隣接した丘陵地に陣屋を設置したのだ、といいます。

幕府直轄領であった桐生新町は、
後に上野館林藩・徳川綱吉領、
旗本・神尾元清領、
幕府直轄領、
旗本・神尾元籌領、
出羽松山藩・酒井忠休領と変遷し他のだそうです。

安永八(1779)年、出羽国松山藩主酒井石見守忠休が五千石の加増を受け、桐生の地を領したといい、天明五(1785)陣屋の屋敷が新築され大政奉還まで出羽松山藩の上州分領であったようです。
現在、その陣屋の跡地が寂光院の境内となっているのだといいます。

No.288 23/03/21 06:14
旅人さん0 

高野槙は、かつては世界中に分布していましたが、現在は北米・欧州ともに絶滅し、集団で自生しているのは日本だけなのだといいます。
愛知県新城市の甘泉寺にある高野槙が最高齢とされ、樹齢400年とも600年とも推定されているのだそうです。

水に強く丈夫で朽ちにくいため、古代より木棺や水桶、橋杭などに使われてきたといいます。また関西地区では、真言宗を開いた弘法大師・空海が生花の代わりに高野槙の枝葉を供花(霊木)としたことから、今でも仏前や墓前、神前にも使われているといいます。

たしかに、関東圏では高野槙だけでお墓に供えられている光景は見たことがありません。…というか、あまり高野槙自体を見かけることがなかったよう思うのです。

なるほど、こちらのお寺さんの宗派は『高野山真言宗』だった…。

生花と比べると華やかさには欠けますが、なんとこの高野槙、世界三大美木の一つとなっており、仏花や「祈り」の樹としてはもちろん、日々の生活を彩る観葉植物としてリビングや玄関先に飾っても良いといいます。


…うーん、やっぱり、購入してくればよかったなぁ。

No.287 23/03/20 21:56
旅人さん0 

前レスで『北辰堂』と書かれていますものは『北辰殿』の間違いです。

お詫びして訂正いたします。

No.286 23/03/20 17:50
旅人さん0 

はやる気持ちを抑えつつ、長い石段を無事下りて、早足で向かったのは『北辰堂』。

北辰堂さんの正面には螺鈿で作られた『涅槃図』があります。…が。
うーん?
ここは妙見さまをお祀りになっていると伺っております。
涅槃図の前には白木のお位牌がたくさん並んでいて、お仏像は一切見当たらないのです。

ご住職さまはお一人で花を販売されたり電話対応されたりとお忙しそうです。
うーむ、今日お聞きするのは無理だな。

お花と、…杉?松?
針葉樹だけの束が売られているようです。
【高野槙】と書かれています。

ああ、高野槙、ですか。
お花を買い求めている年配の女の方たちが「これはなんだい?」とご住職さまにお聞きしていました。
耳をダンボにして聞いたことに、
〝高野槙〟はその群生地である『高野山』に由来した名称で、高野山真言宗の総本山・金剛峯寺からほど近い山中からも出荷されているのだといいます。
「真言宗を開いた弘法大師・空海さまが生花の代わりに高野槙の枝葉を供花(霊木)としたことから、仏前や墓前、神前にも使われていて、関西では有名なんですが、関東の人は、高野槙が仏花になると言っても恐らくピンと来ないでしょうね。

暑さ寒さも関係なくなかなか枯れないし、花の少ない時期にも美しい緑だし。何より水が無くなってもしばらくは緑だし、経済的にもなかなかいいものなんですよ」
とのこと。

ほう。


関西と関東は結構そうした違いがあって、関西では葬儀の際必須であるという『樒(しきみ)』も関東では知名度は低く、入手自体が困難なのだといいます。
樒は魔除けになるというのだから、もっと広がってもいいような気がするのですが、入手すらが困難なのではいたしかたありません。


…欲しかったなぁ、高野槙。

でも私、松のアレルギーがあるんですよね。高野槙なら大丈夫なのかしら。

あ、…また煩悩、物欲、でありましょうか、ね。

No.285 23/03/20 14:23
旅人さん0 

群馬県桐生市のお寺さんが密集する山手通り。
夫はそのいくつかのお寺さんにまだ行ったことがないといいます。

桐生市内の山手通りの道に沿う小高い所にある寂光院さんと、妙音寺さん。
私はこちらには二度ほど参拝させていただいております。

近くには高野山真言宗【円満寺】さん、そしてその名を近隣に知られる『桐生ゑびす請』のひらかれる【桐生西宮神社】さんがあり、そちらへは共に参拝させていただいております。

実は。
この円満寺さんの墓地の裏手に桐生が岡動物園があり、そこに『レッサーパンダ』が来たというのです。
とはいえ、コロナ禍ということもあり、何よりもおじさんとおばさんが二人で行くのもどうなのかなぁとためらわれ、なかなかそこへ行くことはありませんでした。

それでは、ということで、円満寺さんと寂光院さん、妙音寺さんに参拝し、なんならレッサーパンダも見てこよう、ということで、まずは円満寺さんへと向かいました。


山手遠くの道路からかなり運転技術を要する山道を少し登って、駐車場に停めますと、五十段近い石段を登ると、六地蔵、鐘楼堂、正面にそびえるように建つ御本堂。
そして妙見堂=北辰殿があります。

梅や桜などさまざまな木々が植えられていて、いつ行っても綺麗に整った境内であります。


と。
…あれ?

お彼岸ということで普段は閉ざされた御本堂の扉が開けられているのですが…何より!
以前は使われておらずいつも閉ざされたままであった北辰堂の戸が開けられているではないですか!

えっ?

はやる気持ちを抑えて抑えて、まずは御本堂へと向かいます。
この石段を登るのが大変な檀信徒さんのためにと、しばらく前に御本堂の横にスロープがつけられており、石段よりも楽であろうとこのスロープから登ってみました。


こちらは今からおよそ約千百年前平城天皇の御世で平安時代初期の大同年間(806-810)の開創と云われております。
しかしながら幾度も火災にあい特に明治三十一年四月二十二日の火事で妙見様(北辰殿)と鐘楼のほかは、皆焼けてしまったといい、その後の一時期は北辰殿が仮本堂になっていました。現在の本堂は、昭和四十八年(1973年)に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。




御本尊さまは虚空藏菩薩(脇仏弘法大師、脇仏不動明王さま)。
御本尊さまたちは変わらずそこに鎮座されておられます。


No.284 23/03/19 22:34
旅人さん0 

お彼岸といえば…ぼたもち♡

…というほどにはわが家ではぼたもちを用意はしません。
まず、生まれてからぼたもち(あるいはおはぎ)を作ったことなど、わずかに一回、しかもそれは祖母が采配をふるい最初で最後に執り行われた行事のなか、であったに過ぎません。
それも「ぼたもちというものを食べてみたい」、と言った孫のため(それは私)に急遽決まったイベントであったくらいでありました。

そもそももち米を蒸す、とかいっても、蒸し器とか持っていないし。
買ってくるのが関の山です。

両親の離婚後、ぼたもちなど用意されることもない家となり、嫁ぎ先はぼたもちを頼むお店が決まっているくらい、自宅で作る家ではありませんでしたので。
嫁ぎ先はお彼岸にお線香あげに行くとぼたもちを買ってくれました。


世間では『入りおはぎに明け団子、中の中日に小豆飯(あずきめし)』といわれているとか?
…そんな言葉はネットで初めて知りました。

おはぎ、もしくはぼたもちといえばたしかにお彼岸の定番のお供物。
ちなみにどちらも、もち米とあんこを使用しますが、その違いは漢字にするとわかりやすい。
春はこしあんで牡丹餅(ぼたもち)、秋はつぶあんのおはぎ(萩)というのが一般的だとされています。
あんこの種類が違うのは、季節の花、ということもありますが、あずきの収穫時期の違いからといいます。
収穫したばかりの秋の小豆は、皮ごと食べられるのでつぶあんなのだそう。

小豆は邪気を払い、魔除けの効果があると信じられていることから、ご先祖様への供物として普及したようです。

小豆飯、明け団子にいたっては初めて聞いたくらいであります。

小豆飯とはあらかじめ煮ておいた小豆と煮汁、うるち米を一緒に炊きあげる。または、ゆでた小豆を炊きあがりのご飯に混ぜてもよいのだという。
小豆を萩の花に見立て、萩ごはんということもあるようです。
もち米に小豆やササゲを加えてせいろで蒸した赤飯とは異なるもの、のようです。

明け団子とは文字通りお彼岸の明けの日に、串についた団子を供え、食す風習なのだとか。

またご先祖様へのおもてなしの一つとして、いなり寿司や五目寿司を準備することもあるといいます。


ほおぉぉ。

ちなみに。
わが家は今年のお彼岸にいまだぼたもちを食していないくらいであります。

No.283 23/03/19 06:47
旅人さん0 

【お彼岸】という言葉の由来は、【波羅蜜多】からきているのだといいます。

この世の苦しみや煩悩から逃れ、悟りと安らぎの境地に至ることをサンスクリット語で【パーラミター(波羅蜜多)】というのだそうで、その漢訳【到彼岸】を略した言葉が、【彼岸】になったといわれているといいます。
直訳すると『向こう岸へ渡る』。

またこの言葉には『悟りを開く』『成就する』という意味もあるといいます。
三途(さんず)の川を挟んだ向こう側は、仏さまの住んでおられる世界。
そこが『彼岸』で、『涅槃』があるといわれます。
あらゆる煩悩が消滅し、苦しみを離れた安らぎの境地、涅槃。
それは悟りの世界であり、本来、仏教ではその境地に達するためにさまざまな修行を行います。


ところで前述もいたしましたが、仏教の本場インドや中国には彼岸行事がなく、お彼岸は日本独自の信仰と結びついて発展した仏教的習慣といいます。
それでは、日本ではいつから彼岸行事は行われるようになったのか。
さかのぼると【日本後紀】に、大同元(806)年に早良(さわら)親王の怨念を鎮めるために仏教行事が行われたとあったと記されているといい、これが後に彼岸会に発展したようだという説が有力なようです。

お彼岸(行事)のルーツは、実に平安時代であったようです。
その頃…平安時代というと、政権争いによる混乱が続き、天災や飢饉、疫病の流行など人々には多くの不安があったといいます。
そんななか【末法思想】が社会現象となり、極楽浄土を願う祈りと先祖供養が結び付き、お彼岸が行事として日本人に定着していったのかもしれません。


さて。
昨日の雨が嘘のような青空が広がっています。お墓参りツアーには絶好のお天気です。
…ただ。
わが家は朝にはめっぽう強い私と、夜派の夫。へたをするとあと二時間は起きてこない。
…一ヶ所はゆうに行って来られるよなぁ。

これは歳をとってもお互い絶対譲れない長年の習慣のようです。

No.282 23/03/18 17:14
旅人さん0 

【布施】…親切
 反対語…慳貪(けんどん)=ケチ

【持戒】…言語一致
 反対語…破戒=約束を破る

【忍辱】…忍耐
 反対語…瞋恚(しんに)=短気

【精進】…努力
 反対語…懈怠(けたい)=なまくら

【禅定】…反省
 反対語…散乱=落ち着きがない

【智慧】もしくは【般若】…修養
 反対語…愚痴=ねたみ,そねみ・
       うらみ

ネットに、こんな一覧がありました。

…つまり、この六波羅蜜の反対とは、
ケチでいい加減で約束を破り、短気でヒステリック、なまけ者で飽きっぽく、嫉妬深くて人を恨んでいる人

って…うー、私だいぶ当てはまっておりますが…。


お釈迦さまが一生涯説かれた教えは【因果の道理】だといいます。
『すべての結果に必ず原因がある』
ということだと。
蒔かぬ種は生えないが、蒔いた種は必ず生える、ということだと。


…これはすごくわかるなぁ。
わかるけど…今取り返しがきかないことから身をもって学んでいるということなので…。

はあぁ。

『お彼岸』からも学ぶことは多いものです。

No.281 23/03/18 16:47
旅人さん0 

このお彼岸、もともとは季節や期間を表す言葉ではありません。

春分の日は、太陽が真東から出て真西に沈む日。
浄土思想では、極楽浄土は西方にあり、西方に沈む太陽を礼拝することが習いであります。
煩悩を払うため西に沈む太陽に祈りを捧げ、極楽浄土へ想いを馳せるのだといいます。

…そうでありましたか。
今日は雨ですので無理そうでありますが、明日からぜひ夕陽を拝またいたしましょう。


春分、秋分の日は
『仏さまの世界である【彼岸】と、私たちの住む世界である【此岸】の距離がもっとも近づく』
と考えられたことから、この日に西に向かって拝むと、功徳が施されるとも信じられたのだといいます。

そこから、春分、秋分の中日を中心に供養を行い、悟りの境地に達するのに必要な六つの徳目=【六波羅蜜(ろくはらみつ)】を一日に一つずつ修める日とされていったといいます。

それが時代を経て、ご先祖様を供養する『お彼岸』となり、私たちの生活に欠かせない大切な行事となっていったようで、〝お彼岸〟という行事は日本独特のものであるといいます。

ちなみに、【六波羅蜜】とは、
『彼岸に到るための六つの修行』のことで
布施(ふせ)、
持戒(じかい)、
忍辱(にんにく)、
精進(しょうじん)、
禅定(ぜんじょう)、
智慧(ちえ)または般若(はんにゃ)
を指すのだといい、

【布施】とは『見返りを求めず善行をすること』
【持戒】とは『約束事を守って行動すること=戒律を守ること』
【忍辱】とは『何が起こっても耐え忍ぶこと』
【精進】とは『努力を惜しまないこと』『たゆまず仏道を実践すること』
【禅定】とは『心を落ち着かせること』
【智慧】もしくは【般若】とは『仏さまのような考え方を持つ=真理をみきわめ、悟りを完成させること』

一言でいうと『六つの善』のことだといいます。

…。


うーむ。


しかしながら、この六波羅蜜、『菩薩の徳目』ということでありますので、一つづつ、少しづつ、ということで…。
…これが一日一善、ですか。


なるほどなぁ。

No.280 23/03/18 16:15
旅人さん0 

「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるとおり、お彼岸は年に二回。
春は春分の日、秋は秋分の日のそれぞれをお中日とし、その前後三日間をあわせた七日間がお彼岸となります。

この日を機に厳しい冬の寒さや夏の暑さに別れを告げる、という目安に、上記の言葉が昔から使われ伝えられていましたが、あいにく今日の日本列島は雨か、雪。
せっかく彼岸の入りの日が多くの人が休みの日となる土日の土曜日があたったというのに、今までの温かな日が嘘のような冷え込んだ一日となってしまいました。

実は春分の日、秋分の日は、国立天文台が前年のニ月に官報で、翌年の日程をが掲載された暦要項を発表することで決まるそう。


この期間に寺院では、彼岸会(ひがんえ)として法要を行われます。

お彼岸の期間中は、ご先祖様への感謝の意味を込め、お墓参りや仏壇・仏具の掃除、お供えなどの供養を行い、それにあわせて自分自身の日頃の行いを振り返り、見直すのが古くからの習わしといいます。

私の場合、親から伝えられたことがほぼ皆無で、子どもの頃祖母から教えるともなく伝えられたことを思い出すか、ネットなどで知るしかなく、言いかえると私の子どもたちは祖父母からも教えられずに育ってしまっており、今になって申し訳ない思いでいっぱいであります。

もちろん宗教の自由はありますので、そうしたことに意志を持って、〝何もしない〟というのであればそれはそれで良いのですが、一般常識として、世間はこうだ、ということとか、お墓参りに行ったならこうするのだ、という常識とか、何も知らず親元を離れることとしてしまったことに対して、親として申し訳なかったなぁと今さらながらに後悔しているというわけです。

忙しく働く子どもたちに今となって伝えることは容易ではないのです。

とはいえ、私も今が学び中。
しかもなかなか新しいことが頭に入ってこなくなってくるお年頃。
しかも檀那寺さんを持たない身としては、お教えを乞うお坊さまとどうしても疎遠であります。

ネットからもだいぶ学ばせていただきましたが、やはりお坊さまからお教えいただくことは全然違うのです。




No.279 23/03/18 13:54
旅人さん0 

寺宝である梵鐘は、総高112センチ、口径64センチといいます。

ま、壁で覆われて見えないんですけどね。

龍頭、胴ぶくれのないずんどう型のやや細身の鐘身で、四段四列の乳、下帯の唐草模様の特徴がみられ、撞木座は十六弁の菊花模様が使われているとのこと。

製造年代は不詳とのことですが、特徴から室町時代に制作されたと推定されているといいます。


…十六弁の菊花って…天皇家の家紋、なんでは?
梵鐘も(笑)詳しくない私ですが、鐘木座って…撞座のこと、でしょうかね。
だとしたら梵鐘を木で撞くとこ、ですよね。…天皇家の家紋、撞いちゃって、いいのかなぁ?

ま、造られた年代によっては、まだ天皇家の家紋も確立してはいなかったみたいなので…、先にできてたら、これはもうしょうがないことだし。
まぁ、しかも戦前ならいざ知らず、令和の時代、ですしね。


こちらは御朱印にも力を入れておられるようです。
ご住職さまがご不在でありましたので、お授けいただくことはできませんでしたが。

ロシアのウクライナ軍自信略の集結を願って、群馬県内の曹洞宗のお寺さんに呼びかけて、協賛されたお寺さんの全ての御朱印が集まると、平和を祈るお経となるという、そんな企画もされたようです。
この御朱印での志納金は全てポーランドへの寄付という形で、ウクライナからの難民支援にあてられたといいます。

もうこの企画は終えられているようですが、…知っていたならなぁ。

長學寺さんでは今、東日本大震災の被災者の方、ポーランドにおられるウクライナからの難民の方々への募金等、さらには今、使い道を指定できる赤い羽募金と協賛した御朱印を頒布されています。

No.278 23/03/18 13:09
旅人さん0 

江戸時代初期の元和二(1616)年、『前田利孝(上野七日市藩の初代藩主。七日市藩前田家初代。【前田利家】の五男)』が七日市に移封されると、こちら【長學寺】さんは前田藩の支配地になるとともに、藩主の菩提寺となって厚い保護を受けたといいます。

長學寺さんが菩提寺となった理由は、加賀藩が曹洞宗であり、七日市藩の領内では長學寺さんだけであったこと、なおかつ名刹で、かつ景色が良い点、そのため前田家の菩提寺となったと考えられているといいます。
七日市藩主の前田家は、元和二年(1616年)から明治に至る二百五十有余年、十二代にわたりこの地を治めました。

長學寺さんの前田家藩主霊廟には、斜面を上下二段に造成して独立した墓所となっていました。
墓所には承応元年(1652年)から明治十七年(1884年)までの二十二基の墓碑がり、上段中央には、二代、三代、五代、六代、十代の五人の藩主の墓碑が大型の五輪塔で建てられいました。

その、七日市藩主前田家の墓所前には、鎌倉時代に曽我兄弟の死を悲しんだ当寺の開基虎御前が自らの手で植えたとされ古くから『虎銀杏』と親しみを込めて呼ばれた、大銀杏の木がありました。
この木は杖を挿したものが根づいたとのいわれから『逆さ銀杏』とも呼ばれていました。樹高は31m、根回り周囲8.5mもあったといわれます。
夫はこの木を見たくて、このお寺さんを訪ねたところもあったようです。

しかし、平成二十九(2017)年八月初旬に富岡市を襲った台風五号の風雨と腐朽菌の影響でこの大銀杏が倒木してしまったといいます。
すぐに虎銀杏の再生プロジェクトが組まれ再生保護部位の治療および周辺の土壌改良、そして再生保護部位以外の撤去という再生保護工程が終了し、あとは大銀杏の再生を願う、というところだといいます。
その一部が、あの山門の中に祀るように飾られた年輪、だったのですね。

山門のそばに石…コンクリート、だったりするのかなぁ、十三重層塔があり、その塔の周りが『釈迦四大聖地お砂踏み』となっておりました。

お砂踏みをすませて。
まだまだ『前田家の墓所』・『虎銀杏』の辺りをしげしげと拝している夫を待つとはなしに、山門のそばにおりますと。

!!!

自動で時を告げる梵鐘が鳴り響いたのです。

その音の大きかったことといったら!

たぶん自覚なしに軽く飛び上がったのではないかと。

No.277 23/03/18 11:49
旅人さん0 

この【長學寺】さんの歴史ははるか一千年も昔にさかのぼることができるといいます。

そもそもの始まりは、奈良時代、『弓削道鏡(ゆげのどうきょう)』が勅命により戒壇院建立を計り、
関東諸国を巡ったときに、現在の六地蔵付近に薬師如来を請じたという記録があるといいます。

平安時代初期の承和二(835)年に山城国(現 京都府)高尾山神護寺の真済(しんぜい)という真言宗の僧で、空海の十大弟子の一人という方が、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられたのだといいます、


空海の詩文を集めた『性霊集』を編集しており、勅命により関東諸国に一切経を納めたといいます。

上野国については、貫前神社宮司に適地を選定させ、そのとき当地に一堂を建てたと伝えられています。この時、地名を高尾山、寺号を祝融山高尾寺と呼び、「祝融」は火の神であり、楓谷の紅葉にちなむものとされるのだといいます。

その後、鎌倉時代に入り、『曽我十郎、五郎兄弟』の死を悲しんだ大磯の『虎女(とらじょ、:虎御前、鎌倉時代初期の遊女、曾我祐成の妾。のちに出家して妙恵禅尼)』が、鎌倉時代初期の建久四(1193)年、信州善光寺への途路、当地へ来て兄弟の菩提を弔い、寺号を「長學寺」と改めたと伝えられています。

以後、甘楽郡内に勢力を持っていた藤原氏が、南北朝時代の応安二年(1369年) に曹洞宗高祖道元禅師の法孫、通海良義を招いて開山第一世としました。

室町時代末期(戦国時代)の永禄年中(1558-1570)に小幡宝積寺九世儀山沅考が開山良義禅師の徳を慕って再興して現在に至っているといいます。



群馬百名山『崇台山』の麓にニ万二十五㎡の境内に美しい楓並木をめぐらせたお寺さん【長學寺】さん、であります。

No.276 23/03/18 11:10
旅人さん0 

(いつものこと、ではあるのですが、だいぶ気になる誤字を見つけ、そこを改め掲載し直しついでに、少し補足をいたしました。…前回のスレをお読みくださった方、申し訳ありません)

いつごろこの慈母観音さまが建てられたものかは、ご住職さまがご不在でありましたので不明でありますが、石段を隔てた反対側には古い笠塔婆があり、そこに刻まれた文字が『階供養』とあり、おそらくはこの母子の菩提を弔い供養するため建てられたもの、かと思われました。

…この先の石段が実は結構長い。
長くて見上げると思わずため息がこぼれるくらいで、産月間近だったのか、身重の女性が(どこからかはわかりませんが)ここまでおそらくは駆けてようやくここまで辿り着き、この石段を見上げたら、…それは陣痛も起きましょう。

せめてもう少しこの石段が短ければ。
本堂のそばまでたどり着いていれば、あるいは寺の方に気づいてもらえ、保護されていたかもしれないというのに。

…あまり階を供養する、といったことを見聞きしたことがありませんので、よりこの話が真実起きたことであることを物語っています。
実際、この階供養はこの殺害された事件をうけて建てられたものだと、のちに先代のご住職さまからお聞きする機会を得ることができました。

お寺さんの境内にあっても、そうした行いが止められない。
人とはさまざまな側面を持つものだと、あらためて思う私たちでありました。


その、長い石段をのぼって行くと、見えてきた…今までにあまり見たことのない山門。
思わず言葉をうしない、しばし足が止まりました。

お寺さんでいただいたパンフレットの表紙となるくらい、でありますし、またそのパンフレットには[珍しい中国風の山門はエキゾチックな姿です]と書いてありました。

わかりやすくいえば、白い大きな角を丸くした長方形の台座が門となっており、その上に、壁のある鐘楼が建つ、といったものであります。
壁で梵鐘の姿は隠れています。

うーん…。
目立つというか、珍しいというか、変わっているというか。

山門の中には台風で倒木してしまった大銀杏の一部が祀られていました。
この銀杏の木がこのお寺さんと深く関わった人物のお手植えだったということです。

No.274 23/03/18 07:00
旅人さん0 

とはいえ、確実にお寺さんの境内にはいる私たち。
池の横には小さな太鼓橋が架けられています。
橋の上から、二十段弱の、石段をのぼりきったところに小さな御堂が見えました。
「へえぇ、窯があるんだ」と夫。
…はぁ?
「窯、じゃないけど」
「えっ?」

あとで写真を通してみると、なるほど夫が〝窯〟と言ったのも無理はない、コンクリートを…言葉は大変悪いのですが…適当に固めただけ、にしか見えない新しめの台座のうえに、同じ頃に造られたであろう蓮座を乗せ、その上に、もっと古い年代に造られた、乳飲み子を抱かれた観音さまが御鎮座されておられたのでありました。
〝窯〟に見えたのは、写真を通すとその前に置かれた香炉が、まさにちょうど窯の火を焚べる口に見えるので、夫はちょうどそう見える視線であったの…かもしれません。


観音さまは本来は男の方、といわれます。御仏ですのでそういった性別もおかしな話、となるのかもしれませんが。
これはさすがの私も子どもの頃そう聞かされておりました。
とはいえそのお美しさに、
「えっ違うでしょ!、だってこんなに綺麗で、いっぱい飾りをつけてるし、綺麗な着物を着ているし」
と反論したものでありますが。

慈母観音さまで検索しても、お召し物をきちんと纏われて赤ちゃんを抱っこしておられる像が描かれていたり、彫られていたり、であります。


が、こちらの観音さまは乳房があり、その両の乳房を露わになされて、乳飲み子が乳首に戯れる、そんな御像となっております。
秩父札所四番の『金昌寺』さんと同じように…。

秩父の金昌寺さんの慈母観音さまの御像を模写されたのでしょうか?

御堂のすぐ横に『子安観音のいわれ』という案内板が設置してあります。
ちなみに『環境庁・群馬県』の設置したもののようです。

…昔、付近の村で豪族の争いがあり、(敵対する一族に)襲われた豪族の妻(敵対するもう一方の一族から嫁いだ)は妊娠中で、このお寺に救いを求めて逃れてきたのですが、石段脇の『薬師の池』にたどり着いたとき、急に産気づき赤ちゃんを産み落としたのだといいます。
ちょうど運悪くそこに追っ手が追いついて、母子もろとも殺害されてしまったということがあったといいます。

はあ…。


悲話としか言いようがないです。
昔はそんな残忍なことが当たり前のように起きていましたが、…それにしても…。

No.273 23/03/18 03:27
旅人さん0 

山道、というほどではない山へと向かう道を走っていると、いきなり石標が。
…いや、これは。
これは寺標だ。
左側には六地蔵さまが並んでおられます。

え、でも今来た道となんら変わりのない山へと向かう道が続いているだけです。
建物も何も見えてはいないのですが?

しばらく狐につままれたような思いでその…山へと向かう道を走ります。もちろん、運転は夫、です。笑。
そもそも山へと向かう道って…私たち、山に向かうわけではないはず…。

やがて…。
ようやく見えてきた駐車場と思しき空き地、ああ『長學寺第ニ駐車場』と書いてあります。
えっと…?

建物、まだ見えていないんですけれど?

あ、あぁ、小さな池があります。石の隙間から絶えず水が流れています。湧き水でしょうか?
そのわきに上へと向かう石段があります。

あ、…お寺さんです。
いやちがいますね、お寺さんへと向かうっぽい石段が続いています、です。

No.272 23/03/17 14:57
旅人さん0 

さて。
このあとは群馬県の富岡市へ。

♪ 一番はじめは一之宮とつい歌いたくなる今日このごろでありますが、
群馬県の一之宮であります【貫前神社】さんへ。
平日ということもあって、駐車場に車は少なく、人影もまばらでありました。
山の上に建つ大きな鳥居。
そしてそこから見渡す景色の素晴らしさ。
何度来ても気持ちのよい景観です。

そして、赤い門をくぐると!
長い石段がくだっていきます。
そう、こちら貫前神社さんは下り宮であります。
正面にみえているのはさらに大きな…そびえ立つ楼門であります。

石段をおりていく途中、ひだりてに月読神社さんが御鎮座されています。

石段をおりきると左側に手水舎。
そして見上げてみて、その視界に入りきらないほどに大きな大きな楼門、であります。

お詣りをして。
末社のある高台の境内へと向かいました。
こちらには伊勢内宮・外宮、日枝神社、そして二十二末社をお祀りしてあります。
日枝神社さんのお社は寛永十二年以前の旧御本社の本殿を移築したと伝えられます。
実はこの日枝神社さんの向拝に『見ざる・聞かざる・言わざる』の三猿の彫刻があるのです。知る人ぞ知る、らしいのですが、もともと大きな彫刻ではないうえ、経年の劣色で、なかなか気づく人は少ないようです。

そして。この空間がまたたいそうよい気が満ちた空間であります。


この日最後に向かったのは、富岡市上高尾の崇台山(そうだいさん、標高299m、ぐんま百名山)の麓にあるという【長學寺】さんというお寺さんでありました。
のどかな山村、といった風情の町並みをすら通り過ぎて、山の麓、というよりはまさに山の中に、長學寺さんはありました。

No.271 23/03/16 17:47
旅人さん0 

木瓜の花が咲きました。

わが家のネズミの額ほどの庭に白い八重咲の木瓜の花が咲くと、春がきたなぁと思うのであります。

八重咲の淡いピンク色の牡丹の花が次から次へと咲いています。

ご自宅に不動堂をお持ちの農家の方からいただいたパンジーがいつ見ても満開です。
白。
紫。
薄紫。
赤紫。

去年咲いた花からこぼれた種から、ビオラがたくさん咲いています。
まるで買ってきたものを鉢植えしたかのような、元気な花たちです。

福島から移住されたという女の方が、お寺さんの縁日の出店で見かけた花を見て懐かしいと泣いておられるのを見て、その方の目に触れることなどないとは思ったものの、わが家の庭でも咲かせようと思って買った河原撫子もだいぶ背丈が伸びました。
あちこちから目を出して、移植に精を出しています。

ネモフィラ。
コスモス。
みんなみんなこぼれた種から芽を出しています。

紫陽花の葉もむくむくと芽吹いています。

春が来たのがなんだかとても嬉しくて、それだけなのに書き込んでしまいました。

No.270 23/03/15 15:19
旅人さん0 

今日は十五日ということで、神社さんと、両家の父たちの月命日ということでお墓参りで二ヶ所のお寺さんへ行ってまいりました。
これは仕事をしていたときも十五日が休みならしていた、
…もはやルーティンみたいなものと化しています。

今日は雲ひとつなく、穏やかな日で、絶好のお墓参り日和でありました。

「来たよ〜」
「いつも守ってくれてありがと」
「今日はお花ないけど、ごめんね」

…自分の祖父母や父の眠る墓前ともなると、毎回こんな感じで。

「いいとこにお墓建ててくれたね。じいちゃん頑張ったんだね。いいお寺さん選んでくれてありがとう」
下手すると声に出してあります。

こちらのお寺さんは広い墓地なうえ、広々と見通しのよい墓地なので、自分以外誰も墓所にいないのが一目でわかるのであります。


まずは御本堂へお参りしてから。

と。
どなたかが近づく足音がします。
フッと振り向くと作務衣姿のご住職さまでありました。
「ああ、やっぱり。ようこそお参りくださいましたね。どうぞごゆっくりお参りください」

…はあぁぁ。
檀家でもない私を後ろ姿で気づいてくださったんだぁ…。

私など(あれ?誰だったかな?いまの人…。)などということばかりだというのに。
そして、バチ当たりなことに、お寺さん以外の場所でご住職さまにお会いしても分からないんじゃないか?ってくらい、若いときと違ってひとの顔を覚えることが不得手となりました。

…ありがたいことですし、本当に嬉しい。

こちらのご住職さまはいつもニコニコとされておられ、そしてとてもフレンドリーな口調でお話なさる方であります。
威厳を保つとか一切ない。
人の目をしっかりとみて、その方の懐に入って話をお聞きになられる方です。
だから檀家でもない私だというのにきちんと覚えてくださっていて、…どこの身内の者かってことまで、ですからね、並大抵な努力とかでできることではありません。


ここを檀那寺、菩提寺とすることを夫には相談してみたりもしたのですが、ね。
いまはまだそんな気分ではないようで。


夫には夫の考えもありましょうし、ね。
次男だから、と言われてはきたし、当然墓所は先祖代々の父親の眠る墓地とはいかないのではありますが、お寺さんは同じところ、って思っているかもしれないし。

…たぬき爺さんだからなぁ。
夫の本音がみえないのです。

No.269 23/03/15 08:11
旅人さん0 

二月の『はねたき道了さま』の例祭で副住職さまが3・11には陸前高田市の法要に参列されるとおっしゃっておられた、群馬県みどり市の光榮寺さん。

ネットを見るとはなしに見ていて、こんな記事を見つけました。


「『奇跡の一本松』で知られる岩手県陸前高田市の松原に打ち上げられた松材を使い、群馬県みどり市大間々町の光榮寺の檀信徒らが制作した小型の握り仏像120体が10日、陸前高田市の金剛寺(小林信雄住職)に寄進される。
金井住職らは同寺で開かれる大震災13回忌法要に参列する。

光榮寺では5年ほど前から、群馬県前橋市の仏師を講師に迎え、檀信徒らを対象にした仏像の制作講座を月1回開いてきた。
この前橋市在住の仏師は東日本大震災翌年の2012年、同市の松原に打ち上げられた松材を知人に依頼して入手。
講座ではこの松材を使い、参加者約10人が手のひらに収まる握り仏像120体を制作した。

指導にあたった仏師が
「松材は津波で海中を漂い、陸に打ち上げられた。無念に亡くなった人の魂が乗り移った材で作られた仏像を現地に届けたい」と提案。

光榮寺の副住職が、真言宗智山派青年会のつながりから金剛寺に寄贈を申し出たところ、快諾された。

陸前高田市の金剛寺は津波で本堂や位牌堂などを流失。
檀家250戸のうち220戸が被災し、檀信徒126人が犠牲となった。
高台に移転して2017年10月に本堂が再建された。10日に大震災13回忌法要を開く。 (以下略)  」


…あぁ。
こういうこともあっての陸前高田行きでありましたか…。


私も仏像の制作講座に参加させていただきたかったなぁ。
実は独学で始めようと木材を探したりもしたくらいでありました。
木材の処理等が難しいようで、何年も寝かせてから彫り出すと聞き、また彫るのに適した木材の入手も難しくて、断念したのでありましたが。

でも…私は檀家さんじゃないしなぁ。

でもとりあえずお聞きするだけでも。
そ、おばさんは図々しいという武器を持っているんで。


No.268 23/03/14 15:46
旅人さん0 

…泣きました。

私は当時もさだまさしさんのファン、というわけではなく、ただただ情景が目の前に広がるような詞と曲と、そして演奏には魅せられていましたが。


…凄いなぁ。
…なんにも変わらない。

私はあれからだいぶ歳を重ねて、いろんなことがあって。
…なのにまるで変わらないあの頃のままの気持ちで聴けるんです。

むしろ歳を重ねただけ、よけい心に響き、心に沁みます。


凄いなぁ。


この【風見鶏】が出たときって、さだまさしは何歳だったのだろう。


…はあぁ、二十五歳、ですか。

二十五歳、…私は二人のこどもを授かって、忙しく時を過ごしていましたかね。



…私がこの【風見鶏】について何か語ろうとすると、もうそれは混じりものだらけなもので、純粋な【風見鶏】ではなくなってしまうし。
歌詞をここに転記したところで、それもまた違う。


それにしても。
何故さだまさしさんの【風見鶏】のスイッチが入ったんだろう。

そこは私自身にも謎、であります。


No.267 23/03/14 15:25
旅人さん0 

最近、どうしても聴きたいなぁと心に引っかかっていたアルバムがありました。

1977年リリースのさだまさしさんの【風見鶏】というアルバムであります。

多感な年頃だった私の心に響く、そして今なお聴きたいと思うくらいのアルバムの楽曲たち。
でも、これはその当時かなり売れたアルバムだったので、別段、とりたてて私が多感だったから、というわけでもなく、おそらく日本人の心に響く楽曲の数々、であったのだと思います。

実はこれ、このLPレコード盤がわが家には存在している…はず…かもしれないんですよね。

かつての、繊細な心に響いたのでしょう…実は夫、さだまさしさんの大ファンであったようなのです。

…でもどうだろう。
実際に実在するか否か…ダンボール箱にでーんと入れたままになった彼の私物を私が触ることなくウン十年。
私の推測によると、というところ。

たださすがにこのLPレコードを再生して聴くことはない。
…というか、聴かない、聴けない、ならば棄ててよ!って話であります。


…でもそんなのスマホで聴けばすぐ。
…いやいや、そうではない、んですよねぇ。

せめてCDとか、…純粋に音楽を聴くだけのための機械で、ゆっくりと聴きたかったんです。
途中で電話のかかるかもしれない、LINEが入るかもしれないスマホでは、おばさんはどうもソワソワして落ち着いて聴けないんです。

CDは…ある。
もちろん夫のものだけれど。
だが。
CDを聴くプレイヤーが、ない。
そんな状況から、家にCDもなんならLPレコードまでありながらにして聴けない、そんな時がただただいたずらに過ぎていたのです。


が。
このたび、めでたくCDプレイヤーを手にすることができたのです。
それは夫からのバースデイプレゼント、でありました。

やった♡
よぉ〜し♡

念願だったさだまさしさんの風見鶏をかなりかなり久しぶりに、ようやく聴くことができます。

夫のいない、一人の日に。
夫の話しかけや、ましてや夫の歌など混ざることのなきように。


…これが、ね。
LPだったら、そぉっとLP盤の溝に針を落とすんですよねぇ。
あの感覚がまたたまらないんですけれど、ね。




No.266 23/03/13 17:14
旅人さん0 

大江健三郎氏の訃報にふれて。


大江健三郎氏の作品で心に残ったものといえば、私はおそらくは他の方とは異なって、特殊かもしれないけれど【死者の奢り】です。
まだ十代の私には、心にささるどころか心を掴まれたほどの衝撃を受けた作品でした。

読後に実際にその匂いを嗅いだような感覚が残る作品で、ほかの作品も後味が良いとはいえない、そんな印象だけが蘇ります。
でも、なんだか惹かれて、何度も読み返した若かりし私。

ノーベル賞を受賞されたというだけでなく、扱っておられるテーマは実に多種多様で、その度その度に、私を引きつけ、その度唸らせる作家さんでありました。


社会問題にも積極的に取り組んでこられ、憲法改正に反対する会を立ち上げ活動されておられた方でもあります。
私にもわかる言葉で、私にもわかる内容で語ってくださる方でありました。

今、とんでもない形で憲法を改ざんしようとされていることに恐怖に似た気持ちを抱いています。
この動きに一石を投じてくださる大きな力を失ったと感じております。

いろいろ私とは異なる世界を、世界観をお教えくださった大江健三郎さん。


ご冥福をお祈り申しあげます。

No.265 23/03/13 15:39
旅人さん0 

宇藝神社さんの氏子総代さんからいただいた、ムクロジの実(種)を手放したのは、次の目的地。



夫がどうしても寄りたいと言ったのは…。
上信電鉄『南蛇井(なんじゃい)駅』



…「なんじゃいっ!」

ええ、うちの夫、ダジャレ好きなおじさん、なんです。

No.264 23/03/13 15:28
旅人さん0 

宇藝神社さん、なんと御朱印をお受けできると、境内に貼り紙がありました。
連絡先の案内があり、どちらかが不在にされても対応できるように、とのことか、二箇所の連絡先が書かれています。
百メートル離れたところと、三百メートル離れたところとのことで、そちらに連絡を入れて伺う感じになっているようで、そのうち一軒のお宅が代表を務められておられると書いてあります。
もしかしたら御由緒などがお聞きできるかと思い、そちらに連絡を入れさせていただきました。

「場所はわかるかい?」
「よくはわかってはいないのですが、神社さんにある(略)地図を頼りに伺ってみます」と私。
電話を切った途端に不安になる私。
ちゃんと着けるのだろうか。
なにせ方向音痴の師範代であります。
電話でお聞きしたことをそのまま復唱し続けて。
なにやら細い道を行きますが、とにかく書いた通り、言われた通り。

向かったところな、なんと、道端に出て待っていてくださったではないですか!

不安そうな私の様子がスマホという機器を通してダイレクトに届いていたようです。

このコロナ禍にお家の中にご案内くださって…広い土間、でしたが、そこには御朱印対応用を兼ねているのかテーブルと椅子が置かれていました。
御朱印はお書き置きとのことで、倉稲魂神(うかのみたまのみこと)さまを描いたものに朱印が捺されたものでありました。

「これ…」
え?
「これさあ、神社におっきい木があったろ?、あれムクロジって木なんだけどさ。近所の人がそれでちょっとしたものを作ったやつなんだ。もうこれしかないんだけど、よかったら持っていっておくれ」


!!

ムクロジの実…種だぁ。

どこかの神社さんなりお寺さんで御守になっていないかと、ずっとずっとこの手にしたいと思い願っていたムクロジを、くださる!!♡

なんて嬉しいことでしょう。
小さな鈴までついた根付けです。
こんなに素敵なものを?

あまりの嬉しさに私、声が裏返っていました。

おかげで、御由緒をお聞きすることなどすっかり頭から消えてしまって。

車の中でいつまでも掌で包んで胸に抱いておりました。…次の目的地に着くまで。

No.263 23/03/13 15:00
旅人さん0 

本殿はかなり彫刻が施されておりました。柱から横木から扉以外は全て、…なんじゃないかっていうくらいに。
妻などは屋根に接するところまで、本当に至る所に彫刻が施されています。
ただこの彫刻、おそらくは作り手が何人もいるだろうと思われます。
作風から精巧度、精密度が大きく異なっているのです。

本殿の大きな壁の部分は大きな板を繋いで嵌め込んだ感じがよく分かります。しかもこの壁だけ色が異なる木が嵌め込んであって、一見するとニスなどがなられているんじゃないか、というくらいに色が異なっています。

社殿の左右に摂社や末社がありましたがどのような社がお祀りされているかはわかりませんでした。
石垣が組まれ、その上にズラーっとかで造られたお社が祀られており、また赤く塗られたそれとはかなり大きさの異なるお社が一つと、同じように赤く塗られたそれよりは小ぶりのお社が一つ。


上野国の式内社、一之宮のほかはそのほとんどが神職の方がおられない状況となっており、長い歴史を持つ神社さんでありますが、その管理は地元の方が支えているようであります。
大祭などでは兼務されておられる神職の方がお越しになって神事を執り行われていたり、日常のほとんどは地域の方々が管理維持されておられることが多いようです。

ちなみに宇藝神社さんなどは、神社さんのある地区の全戸が宇藝神社さんの太々神楽保存会の会員となっておられるとのことで、それは神楽の踊り手や太鼓・笛などの伝承だけでなく、お祭りの運営も携わっているとのことです。

由緒ある神社さん。
歴史が長ければ長いほどその維持・管理が難しいこととなっているようです。
千三百年を超える祈りの歴史を将来の世代に引き継いでいっていただけたならと、切に切に祈ります。

そんな思いを込めて、お賽銭箱にお賽銭をお納めいたします。

No.262 23/03/13 14:04
旅人さん0 

…。

…今さら、宇藝神社さんに話を戻すのもどうかなぁとは思いもします。
するにはするんですが、そも、それはひとえに私の話が脱線ばかりしているからいけないのであって、(ま、いいかぁ)と途中でやめるのはそれこそ失礼にあたります。(神さまの住まわれるお社のことを私の駄文で書かせていただくこととどちらが失礼か、ということを考えたらら…どちらだろう)

で、そもそもどこまで書いたかというと、…そう拝殿が見えたところまでなんです。

珍道中録、ですからね。
そこで終わっていても不思議はないのかもしれませんが、認知症予防、…もしかしたらすでに始まっているかもしれぬ認知症進行予防のために綴っておりますので、ここでやめてはいけないのです。


というわけで。
宇藝神社さんの拝殿前に立ったところから。

石段を上りつめると、すぐに拝殿、であったことまで書きました。

こちらの拝殿は…あまり今までに見たことのない社殿、もしかしたら珍しい建て方なのかもしれません。

ただ…立派な屋根に対して、拝殿に登る階といい、はめられた、正面の木でできた戸や壁が、結構質素な造りでありまして。
その立派な屋根はかなり迫り出した造りとなっていて、濡れ縁(ほんとに濡れ縁なんです)や階をすっぽり覆っています。
軒天は隙間があき、さらには穴もあいていましたが、もしかしたら隙間自体は最初に建てた当初から?
ただ、柱の木は木目を活かした丸く削られた木を使ってあり、大変立派なものです。

うーむ…。
幕板などは細かな彫刻が施されておりますし、どちらかというと彫刻自体は多いかと思われます。
虹梁はうねり凝った造りとなっています。

…いつぐらいに造られた社殿なのだろう。火災によりこの地へ移られてきた江戸時代、なのでしょうか。
造られた年代も、この神社さんを建てるにあたって大きく関わった人物等も御由緒には一切触れられていません。

幣殿があって、本殿があります。

ん?
耐震補強?違うか?

なにやら幣殿と本殿は、覆屋のように屋根がもう一つあるようで、その屋根を支えるような斜めに、ちょうど二等辺三角形のように支え合うような木があって、コンクリートの土台に横木を渡して、覆い屋根を支えて…いるのでしょうかねぇ。


No.261 23/03/11 16:49
旅人さん0 

以前、ミクルの中で、三月十一日の十四時四十六分に、お寺の鐘を撞いたとおっしゃっておられた方がいらしたのが、私の心に大変響き、深く心に残りました。

今年は十三回忌。

鐘の撞けるお寺さんに行って、
もしその時間にどなたも撞かないようだったら、
あるいは何人かででも撞くようなこととなっていたらそこに混ざって、
私も鎮魂の鐘を撞こうとひそかに思っておりました。

結局夫にそのことを伝えることとなり、夫もそうしたいとのことで、二人でとあるお寺さんに参拝いたしました。
そのお寺さんは鐘を撞くにあたり百円を納めれば誰でも鐘を撞くことができ、なおかつ御本堂にも入ることのできるお寺さんであります。

少しだけ緊張して。
そのお寺さんの山門をくぐりました。

もしかしたら東日本大震災の被害者の方の慰霊の法要を営んでおられるかもしれないし、その辺、全く調べずにおりましたもので。


鐘のそばにはどなたもおられず、御本堂にも然り。

その時間まで、夫は鐘楼に上がって静かに手を合わせておりました。
ゴーン。

そこへ黒い衣をお召しになられた年若いご住職がスタスタと歩いてお越しになりました。
(ああ、ご住職さまより先に撞いてしまったなぁ)

急ぎ足でお越しになり、急ぎ足で鐘楼の階段を登って、
一回。
余韻が消えるまで手を合わせて、
もう一回。
そのあとお経をお唱えになられ、私どもはその間、手を合わせて…祈りました。

鐘楼より降りてこられたご住職に「ご住職より先に撞いてしまうことになってしまってごめんなさい」と申し上げました。
いつもの笑顔で「いえいえ、全然問題ないですよ」と。


そのあとは御本堂で般若心経をお唱えいたしました。

私にできることはあの日を忘れないこと。
命を繋がせていただいていることに感謝して生きること。


御本堂の上にひろがる青空を見上げました。
空を見上げることのできる〝いま〟をありがたいと思いました。

No.260 23/03/11 07:44
旅人さん0 

ムクロジの木からまっすぐの位置に、石段が作られ、…結構な段数であります。

石段の昇り口に立派な杉の木が両サイドに植えられており、枝が目の前にまであります。
おりからも杉の花も花ざかり。

…ええ、よりにもよって目の前に満開の杉の花が!!!
花粉が!
花粉がぁ!

時はまさにコロナを感染症第五類に段階を下げようと、マスクを外すことを推奨するかの時ではありますが、…私は花粉対策のためダブルマスクを継続中。
それでもこのいきなりの、目の前スギ花粉という状況には恐れをいだきました。
ええ、魔物に出会った感覚に近かったかもしれません。…魔物に会ったことがないので、本当に魔物に出会ったらこんなびっくりレベルではないでしょうが、ねぇ。


まずは短い石段を上がります。
右側には手水舎と納屋があります。
手水舎の水盤はたいそう立派なものでありまして、大きな丸石をくり抜いて造ったものでありました。
左側には倉庫…なのでしょうかね?周りに比べかなり新しいものであります。
さらに続く石段の脇には石垣が組まれています。なかなか立派な石垣です。

参道に二つめの鳥居があります。
こちらは赤い…と言っても朱ではなく、少し黒みかかった赤であり、両部鳥居となっていました。

扁額は二つ。

鳥居をくぐると石段の途中踊り場となってみぎてに神楽殿がありました。
ほぼ石段の踊り場に、ほんの少しだけ空間があるだけでそびえるように立つ神楽殿であります。
少し年季を感じるもので、…ここで舞を舞って大丈夫なのかなぁ?とほんの少し不安になるようなそんな建物ですが、それでも令和に一度修理修繕がなされているようです。
ここで舞が奉納されても、観客はその踊り場で、でありますので当然立ち見、しかもスペースがほとんどない!
拝殿も遠く、拝殿とは建てられた向きが異なりますので、奉納舞として神さまもみずらいこととなるかと…。

さらに見上げる石段。


鳥が鳴く音が聞こえています。

No.259 23/03/11 05:34
旅人さん0 

…やっぱり地震だったのだな。
下からの短い揺れだったけれど。


どうしてよりにもよって今日。

以前もこの3・11、三月十一日に、東北地方で地震があった。

せめてこの日はやめてほしい。
心の奥底に隠している、深い傷を抉るような、そんなことは。



No.258 23/03/10 18:03
旅人さん0 

明日三月十一日は、東日本大震災から十ニ年目。
大きな被害も受けずに過ごせた私どもとはいえ、それでも震度五強。
その揺れの凄さに共に働いていた人に「この揺れの凄さはこのあとどうなるかわからないから、すぐデスクかその台の下に!」と言ったこと。
すぐに連絡をくれた息子。
そのあとは何をどうしても誰にも連絡が取れなくなったこと。
揺れがおさまったと思えたのち、すぐ職場内をまわり、お客さまの対応をしたこと。
帰った方がいいか出ない方がいいかと聞かれて「とりあえずは建物の端の方で窓のそばでないところで待機していてください」といい、外の様子を見たときもうすでに信号が止まっていて、混乱した様子がみてとれたこと。
就業時刻が来てもなかなか帰れず、ようやく帰途に着いた薄暗い道の反対方向から、心配した娘が迎えに来てくれていたこと。(娘はそのまま一人暮らしの祖母の家まで行ってくれていた)

家に帰ると私と娘以外は皆家におり、地震がおさまった頃に学校も仕事先もそのまま終業とされ帰宅をしたのだという。
それはそれで怖かっただろうなと思ったこと。
私と別れた娘がいつになっても戻らず心配したこと。

思い出せばいくらでも思い出せる…そんな気がするのだけれど。

何よりも忘れられないのはあの津波の映像。


…でももう十二年が経つ。


阪神淡路大震災の映像も衝撃的だったが、あの津波のおどろおどろしたうねりと大きな大きな破壊力には息をのんだ。
映像という動きあるものでその恐ろしさを見たこと、一生忘れられない。

ましてやそれを体験された方。
命を落とされた方、いまだに行方のわからない方。
…いまだにおかけする言葉を持ち合わせていない。

ただ忘れないこと。
それはできる。


三月十一日の午後ニ時四十六分の震災発生時刻にはせめてもの思いを込め黙祷をする。

仕事をしていたときも職場に放送が入り一分間の黙祷をした。
お客さまから偽善と言われたり、自己満足と言われたこともある。
それはその人その人の感じ方、捉え方だ。
一分間お待ちいただくお客さまのお声である。素直にそこは申し訳ないと思えた。
ま、だからといって決して譲りもしないけれど、ね。
…おばさん、なんで。笑。


亡くなられた方たちは十三回忌となる。丸十ニ年だがこれから十三年目に入るので『十三回忌』と称すという。
もう十二年、なんだなぁ。


No.257 23/03/10 12:13
旅人さん0 

…最後に。
これは無患子愛であり、仏教のこぼれ話でもあります。


【お釈迦さまと無患子】

「もし、煩悩・業苦を滅し去ろうと欲するなら、ムクロジの実、百八個を貫き通して輪を作り、 それを常に持って行住坐臥に渡って一心に佛法僧三宝の名を唱えてムクロジの実を一つ繰り、 また唱えて実を一つ繰るということを繰り返しなさい」とおっしゃって、
お釈迦さまはムクロジ百八個を繋いだ数珠をお作りになり、弟子たちに与え、訪れた国々でお配りなられたといいます。
お釈迦さまから無患子のお数珠をいただいた国は平和になったといわれて、ムクロジの数珠は縁起物であるといわれるようです。


無患子の数珠、かぁ♡


…新たな煩悩が生まれた気がする。

No.256 23/03/10 12:05
旅人さん0 

あふれる無患子愛をもう少しだけ。

正確に書くならばムクロジの実は黒くはありません。
ムクロジの実は黄金色、とでもいいましょうか、とはいえ実際に見たことはないので(…たぶん。自分としては 笑)、今回ネットで画像を見て初めて知ったくらいでありまして。
ただ宇藝神社さんの境内にあったムクロジの木の根元に落ちていたのは黒い実…種でありました。

私はツゲの木の実のように黒い実だとばかり思って…思い込んでおりました。
ゆえに見逃して生きてきた可能性は〝大〟であります。


このムクロジの実、…乾燥しきっていないムクロジの実をを割ってみるとペタペタした水飴のような粘液が出てくるのだそうです。
このペタペタしたものは『サポニン』で、何と!かつては石鹸やシャボン玉にも使われていたという優れものです。

そして、私が実だと思い込んでおりましたムクロジの黒い種子は、あの〝羽根つき〟の羽根の〝黒い玉〟として使われていたのだそうです。
今は…というよりうちの子どもの小さい頃に使った羽根つきの羽根はもうプラスティック製でありましたので、今はもうきっとムクロジの種が使われていることは稀有なのでありましょうが。

羽根つきの羽根の黒い玉って結構硬いもの、ですよね。
ムクロジの種子の堅牢さは種子の中でもトップクラスの優れもの。少々叩いたくらいではビクともしません。
大きさは14mmぐらいで、硬い所に落とすと小気味良くはね返ります。
羽根つきの羽根の玉として、打ってつけの素材だったんですね。


ムクロジは漢字で『無患子』と書くことから、子が患わ無いという願いが込められ、
さらに羽子板は厄をはね返す、はねのけるという事から縁起物として扱われていたようです。
また、ムクロジの黒い種子を豆に見立てて、『魔滅 (まめ) 』で魔除けになるとか、マメに暮らせるという縁起かつぎも上乗せされていったようです。


ちなみに。
羽根つきは室町時代から宮中の正月遊びとしてあったそうですが、一般にも盛んに遊ばれるようになったのは江戸時代以降のようです。

今は…売ってはいるんですがね。

私とて子供の頃に遊んだのはたった一回、お友だちの家で遊ばせていただいた時だけです。

ただ、…この時の羽根の方が弾力があって打ちやすかったと、うちの子どもたちとした時に思ったものです。
あの体感は正しかったんですね。

No.255 23/03/10 11:36
旅人さん0 

と。

無患子愛を熱く語ったところで、はたと気づいたことがあります。

…もしかしたら、もっと身近にムクロジの木はあったのかもしれない、と。
もしかしたら、ムクロジの木の真横を通り過ぎたことすらあったかもしれない、と。

植物に(も!)疎い私は、真横にムクロジの木がありながら、足元に誰にも拾われないムクロジの実がありながら、ずっとずっと気づかずに過ごしてきていたんじゃないかと。


ありえないことではありません。

木の実を隠すなら森の中。
…とは言われますが、無知な人間にかかったら、望みのものが目の前にあっても気づかないかもしれません。
こういった場合は
…灯台下暗し?
…魚の目に水見えず?



 (ムクロジの木となっているムクロジの実)

No.254 23/03/10 00:58
旅人さん0 

【宇藝神社】さんは江戸時代後期の天明年間(1781-1789)に火災で焼失し、享和元年(1801年)四月二十一日、現在地に移転したのだといいます。
古記録等が一切失われてしまっており、細かな御由緒等わからないこととなってしまっております。


長い参道を走り見えてきた宇藝神社さんの第一印象は町内の小さな小さな公園のように見え、駐車場という区分もない空間に建物と木がある、…そんなふうに見えて、(ここでいいの…だよなぁ)と思うくらい。
大きな石碑はあるもののそれは別段神社、という感じを醸し出すものではなく、一見にして一昔前の公民館といった建物が一棟あって、昭和を思わせるブルーのベンチがあって。
それだけの空間でありました。

車を停めて、ここが宇藝神社さんであることを確かめるような感覚でその公園のような空間を歩き出しました。
まずはその大きな木の下に。

ん?
…!
む、ムクロジ?
うわぁぁ ムクロジの木だぁ♡

いつかこの木を見てみたいとずっと願い夢みたムクロジの木が目の前にある…♡

私も腐っても一応母親のひとり。
背の丈すらとうに私を超えた大きな〝おとな〟になっているとはいえ、親にとって子はいつまでも子どもで。
(…どちらかというとすでに子ども返りが始まった私の方が、ある意味、子どもたちにとっては心配な対象なのかもしれませんが。)

このムクロジ、漢字で書くと『無患子』。
『子が患わ無い』と書くのです。
子どもたちや孫が〝患わない〟、これ以上の望みはありません。

ただずっと前からこのムクロジの木に出会いたいと、できたらその実を手に入れて御守りにしたいと思っていたものの、なかなか出会うことができずにおりました。
そのムクロジの木が、諦めかけてまでいたムクロジの木が、思ってもいなかったところで私の目の前に!


樹齢三百年余りと推定されるというムクロジの大木であります。

平成二十二(2010)年に『宇芸神社のムクロジ』として富岡市の指定天然記念物に指定されたといいます。
大きさは樹高14メートル、目通り周3.95メートル 、東側幹2.20メートル、西側幹 1.75メートル とされ、枝張りは東西 13メートル、南北 15メートルとのこと。

木の下にはムクロジの黒い実がたくさん落ちています。



…が。
神社さんの物はたとえ落ちているものでも神さまのもの。



No.253 23/03/09 18:31
旅人さん0 

…結局止まらない ♪ 一番初めは一之宮〜っ。


というわけで。

だいぶ遠回りし、みちくさまで食って、ようやく上野国延喜式内十二之宮【宇藝神社】さんのお話に戻ります。

宇藝神社さんは、社伝では、飛鳥時代の天武天皇御代の天武天皇元年~朱鳥元年(672-686)の創建とされます。
式内社ということは、延喜年間(901〜923)よりも前の創建で、なおかつ人々の信仰を集める社でなければならないわけであります。

当初は現在地より西に五百メートルほどのところにある『神成山』山頂付近の岩壁の割れ目に倉稲魂神(うかのみたまのみこと)さまの分霊を勧請したとされます。

江戸時代後期の天明年間(1781〜1789)に火災で焼失し、享和元(1801)年に現在地に移転したといいます。


国道254号線を走っていると石の鳥居があり、そのすぐ先に、な、なんと!その参道の途中に上信電鉄の踏切りがあるのです。

おおっ!

神さまに失礼、といったらこの上なく失礼かもしれませんが、何故かこのシチュエーション、ワクワクしちゃうおばさんなんです。

あまり電車で移動することがない、ということも関係するのかもしれませんが、電車とか機関車とかにワクワクするところがありまして、しかもこの上信電鉄、いろいろなデザインの列車で、通るたびに電車が異なるんですよ。

そこに鳥居という、あまりない取り合わせ。…でも別に撮り鉄さんが集うようなものではないようです。

ここから神社まで、結構な距離があります。
この一の鳥居からは宇藝神社は影も形も見えないのです。

No.252 23/03/09 11:44
旅人さん0 

と。

しなくてもいい脱線を、どうしてもしたいおばさんが一人。
式内社を挙げたところで、頭の中をぐるぐるして止まらない唄があるのです。
これを〝イヤーワーム〟、もしくは〝ディラン効果〟というようですが、そんなことはどうでもいいのです。

止めるには…ここで語りたいことを語ればいいのではないか、と思う私。

語りたいこと?

それはその唄について。
…以前も語っているんですがね。


♪ 一番初めは一之宮〜っ

タイトルも知らない、誰から聞いたかも忘れてしまった唄で、しかもこの唄を知った頃には…子どもにはありがちですが、意味もわからず覚え歌っていたのですが、ここへきて(どこへ来た?)「おおっ!」と納得がいった歌詞が、このタイトルすらもわからない、
♪ 一番初めは一之宮〜っ
…なのであります。

そう、一之宮。
式内社を語るとき必ずやふれる〝一之宮〟。
が、この唄は二之宮に続くわけではなく、


♪一番はじめは一の宮
二は日光東照宮
三は讃岐の金比羅さん 
四は信濃の善光寺
五つ出雲の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さん
十で東京心願寺


…と続くのであります。
が、実は歌詞は多種多様。

♪ 二は日光中禅寺、であったり、
♪ 八つ大和の東大寺/法隆寺、
♪ 十で所の氏神さん/東京泉岳寺/東京本願寺
…など様々なバリエーションが地域ごとに見られるのだといいます。
また、地域は同じでも年代によって歌詞が変わる場合もあるようです。


この唄、明治後期から昭和時代にかけて、全国で歌われていた手まり歌・お手玉歌のひとつ。

実は曲は、明治時代に日本軍隊の指導のために来日したフランス人が作曲した軍歌「抜刀隊」のメロディーを借用したものなのだといいますが
、歌いやすいように変えられていることがあるといいます。

歌詞は、口承による童歌のため、作詞者は未詳で、また、歌詞には前述したようにいろいろなパターンがあります。

共通して唄われていたものは、御利益のありそうな神社仏閣尽くし。
…信心深い家に育っていない私がこの歌詞がそういった意味合いであることを知ったのは、実にこの神社仏閣珍道中を始めてから、なのでありました。

ちなみに同じ曲で ♪ 一かけ二かけて三かけて〜っ  というやはりお手玉歌があります。

No.251 23/03/08 23:27
旅人さん0 

ちなみに、
【上野国延喜式内十二社】

【一之宮 】 貫前神社(ぬきさきじんじゃ)富岡市一之宮

【二之宮 】二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)前橋市二之宮町
【二之宮 】三夜沢赤城神社(みよさわあかぎじんじゃ)前橋市三夜沢町
【二之宮 】大洞赤城神社(だいどうあかぎじんじゃ)前橋市富士見町
 ※要は【赤城神社】さんが二之宮

【三之宮 】伊香保神社(いかほじんじゃ)渋川市伊香保

【四之宮 】甲波宿祢神社(かわすくねじんじゃ)渋川市川島

【五之宮 】大國神社(おおくにじんじゃ)伊勢崎市境

【六之宮 】榛名神社(はるなじんじゃ)高崎市榛名町

【七之宮 】小祝神社(おぼりじんじゃ)高崎市石原町

【八之宮 】火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)佐波郡玉村町

【九之宮 】倭文神社(しとりじんじゃ)伊勢崎市田中島町

【十之宮 】美和神社(みわじんじゃ)桐生市天神町

【十一之宮 】賀茂神社(かもじんじゃ)桐生市広沢町

【十二之宮 】宇芸(藝)神社(うげじんじゃ)富岡市神成

となります。

『延喜式』の巻九・十、つまり『延喜式神名帳』に名前が記載されているということは国がお祀りする重要な神社であったということのようです。


ところで。
『式外社』という神社さんもあります。
東北を旅したとき参拝させていただいた【塩竈神社(宮城県塩竈市)】がそうであり、ほかに【北野天満宮(京都市)】・【八坂神社(京都市)】・【岩清水八幡宮(京都府八幡市)】【熊野那智大社(和歌山県)】…などがあります。

『式外社』とは当時すでに存在していたにもかかわらず、延喜式神名帳に名前の記載がない神社さんのことで、名前の載っていない理由としては、
・国(朝廷)の勢力外の場所に鎮座していた
・独自の勢力を持っていた
・僧侶が管理していた

などが考えられるようです。




No.250 23/03/08 23:04
旅人さん0 

【延喜式内神社】というものも、神社さんにご縁をもって生きてこられた方であれば、ご存知のことであるかもしれませんが、なにぶんにもそういう生活を長年に渡りしてこなかった私は、夫に延喜式内神社さんのことを言われた時、恥ずかしながら夫が何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。

またいつものように夫が分かりやすく説明をしてくれた…はずだったのですが、さすがに妻が『延喜式』のことすら知らないとまでは思わなかったらしく、最初の説明ではまったく〝ちんぷんかんぷん〟でありました。

もう何年も前のことにはなるのですが、夫は以前から延喜式内神社さんを訪れてみたいと思っていたようで、この妻と神社仏閣珍道中を始めたのをこれ幸いと、群馬県の式内社を巡りたいと申したのであります…が。

夫「延喜式の延喜っていうのは元号で、延喜の時代に当時の朝廷の政治の仕組みを定めたもので、…知らない?」
「知らない」
「…」

「…要はその延喜式の中に名前のある神社さんを『延喜式内神社』っていうんだよ。群馬県には十二社あるんだけどね」
「ほうほう」
「…」

…という会話があって、しばらくは精力的に群馬県の式内社さんを参拝していた時期がありました。

ちなみに『延喜式内社』とは『延喜式』の第九・十に名前の載っている二千八百六十一社の神社さんのことで、延喜式の巻九・十のことを『延喜式神名帳』というのだそうです。
〝延喜〟とは言っていますが編纂が始められたのが延喜であったために『延喜式』という名になっていますが、実際にまとめられたのは次の元号〝延長〟になってからのことであるようです。


今回その『上野国延喜式内十二社』の十二社目にあたる【宇藝神社】さんに参拝してまいりました。
「あと二つ残っていたうちの一社だね」と嬉しそうな夫。
(そういえばそうだったか)と内心思ったことはここだけの話です。笑。

No.249 23/03/08 15:11
旅人さん0 

今日はお薬師さまのお縁日。
諸用あって薬師如来さまご本尊のお寺さんに行くことができず、〝仏壇もどき〟で遥拝いたしました。

…やっぱり、行けば良かったのでしょう。
とても嫌な思いをいたしました。


今年の花粉の飛散量はたいへん酷くて、車がとんでもない色になっていたため、外出から帰った午後一番に洗車をしておりました。

すると、そのうち、ご近所のうるさ方のお一人が、自転車で町内の見回り(あくまでも自発的な、…傍迷惑な見回りですが)をし始めました。
…一周どころかそれこそ何周も、悪天候以外は必ず!必ず何度も何度も同じところをローリングされます。

と、唐突に。
「なんで車が3台も必要なん」

「?」…何か問題でもありましょうか?
「ずっと置きっぱなしじゃないか。なんでそんなに車が必要なん?」

(はあぁ、出た。自分の尺度で考えて意見する得意技)

私「リモートワークなので車はあまり使わないことが増えたけれど、まだ必要なんですよ(だからなに?)」
と笑顔まで添えてお答えしたのですが、くいつくことくいつくこと!
何度同じことを繰り返して聞いてくるんだか。

納税もしてます。
路駐ではなくきちんと駐車場に停めています。
どれもごくごく一般的な大きさの国産車で、排気量も少ない、音も極めて普通な車です。
たしかに私は無職ですが、だからって車を所有していてはいけないんですか?
うちの事情はうちの事情、あなたにはなあ〜んにもわからないでしょう。


どうも私の住まう辺りには『何様』が何人もお住まいで。
その方々は遠巻きに『長老』とか『お代官様』とか言われているようで、それを知って少しは自分だけ嫌な思いをしているわけでないのだなぁと気持ちが晴れるのでありますが。


言い返したところで、どうなるものでもない。
偏屈な頑固爺と、頑固婆さんとうまく付き合うか…それこそ引っ越すしかない。

ああはなりたくはないなぁと、思えば〝先生〟であります。

それでもやっぱり。

「くそジジイ、うるさいんだよっ!」

ああ、だいぶ落ち着きました。
暴言をごめんなさい。

さぁて、仏壇もどきにお線香をあげてこようっと。
お気に入りの香りのお線香を。

No.248 23/03/07 18:08
旅人さん0 

一万坪という広い寺域を持つ仁叟寺さんには、二十五もの諸堂・塔があります。

御本堂や坐禅堂の他にも、延寿堂、薬師堂などがあり、殊に文殊堂は高台にあり、ちょっとした展望台となっており、広い境内が一望できます。

古照堂と呼ばれる御堂は『仁叟寺多胡碑』の覆屋であります。
開山当時より絶えることなくこんこんと湧き出る井戸は、今も御水屋として使われており、当時の井戸も現存し覆屋に覆われているとのことです。


高台の文殊堂へと向かう途中に、立派な銅像が立っており、そのそばにとある一族の方の墓所がありました。
仁叟寺さんは昭和六十三(1988)年から平成十二(2000)年の間に、諸堂の改修と建設が進み、現在の伽藍整備された寺に面目を一新したといいます。
この際に、特に多大な功績を尽くされた最高顧問檀家である寺本欣正翁に再中興開基と曹洞宗管長表彰が贈られたとのこと、この銅像はこの寺本翁であるとのことでありました。


No.247 23/03/07 17:13
旅人さん0 

仁叟寺さんの境内、御本堂の前に榧(かや)の大木が聳えたっています。外周が4.8m、根周り外周は10.0m、樹高約21.0mの大きさだといいます。
この榧の木は仁叟寺の開山『直翁裔正禅師』の手植えの木と云われています。
樹齢は約五百年。
『天宮守護神の休み木』として、また『仁叟寺の御神木』として崇められ、大切に管理、保存され現在に至っています。
平成四(1992)年には樹勢が衰えたが、保護養生の結果もちなおしたものといいます。昭和二十七(1952)年に「仁叟寺のカヤ」として県指定天然記念物に指定されています。

また、本堂裏の駐車場、東隅に梢を伸ばして雄大な樹形を見せている樹があります。
『モク』と呼ばれていますが、これは『椋(むく)』の木で、吉井町では椋をそう呼ぶのだといいます。
こちらは根周り7.0m、目通り1.5m、高さ29.0m、地上7.0mのところで幹が二つに分かれ、灰白色の木肌が荒くれて下の方にはツタが巻きつきいかにも古蒼を帯びています。
五月になると新しい枝の下に、上部に雌花、下部に雄花が淡緑色に群がって咲き、秋になると一センチほどの黒い実となり椋鳥が好んで食するのだといいます。
椋の材は粘り強く割れにくいので、槌の柄などに利用されるといいます。
こちらも高崎市の天然記念物として登録されています。

また、同じく本堂裏手の開山堂の近くに『五輪桜』と呼ばれる『コヒガンザクラ』があり、こちらは市指定の保存樹木とのこと、樹齢は約八十年、高さ十五メートルを超える大木です。
地中から五本の幹が輪のように伸びていることから名付けられたのだといいます。

この桜が咲いたらそれはそれは見事であろうと、咲いていない木を見上げては思うのですが、人混みが苦手な珍道中ペア、口に出すだけで、その頃こちらへ参拝をすることなく今に至っております。

この三本の樹、『仁叟寺の三大名木』、と呼ばれ、地元の方や檀家の方々から愛されているのだといいます。

No.246 23/03/06 17:57
旅人さん0 

このお地蔵さまはおそらく等身大かそれより少し大きいサイズ。
台座が高いためかなり高い位置にお顔があります。

元禄十三年に建てられたこのお地蔵さまは、当時のこの辺りの藩主『黒沢藤助』が内方が病にて逝去したことを深く悲しみ、菩提寺である仁叟寺に〝法界之教主地蔵菩薩尊像〟を立て、心情を石碑文に刻し菩提を供養したもの、とありました。


…〝内方〟って?

内方って普通他人の奥様を敬って使う言葉じゃなかったかしら?
…調べてみたところ、他人の妻に対して使うことが多いだけで、奥さまを指すこともあるといいます。
あら…。
…黒沢藤助公、ごめんなさい。

心を込めて書かれた石碑文は劣化が酷く、しかも一度斜めに折れているようで、ほぼ読めませんでした。

山門をくぐると左側に鐘楼があります。
立派な背の高い鐘楼なのですが、いかんせん周りにあるものが大きなものばかりで、なんだか小さく見えてしまいます。
そばにある山門が大きいことと、御本堂前の樹齢五百年を超えるという榧(かや)の木、そしてやはり大きな御本堂。

なかなか形の良い鐘楼で、鐘楼の天井にも天井画があるようです。
こちらの鐘は二代目のものとのこと。それでも平成十何年かまでは創建当時からの鐘が使われていたのだといいます。
ほとんどのお寺さんで鐘を失った戦争による供出も、こちら仁叟寺さんではなかったようです。

こちらの御本堂、大変大きなものであります。
大きな大きな瓦葺きの屋根。
屋根の方が大きく見えます。
もともとが茅葺きであったからこその大きさでありましょう。

大永ニ(1522)年に建てられたものとのことですが、いい意味でそれほどに古いものと思えない。
外観も、そして内観も、古さを感じさせない、美しいものであります。


御本堂は扉が開いていて、中に入ってお参りができます。

床の高い御本堂。
きれいに拭き清められ、美しく輝いています。
たいへん居心地の良い御本堂であります。

今回はお賽銭箱の手前でのお参りだけといたしました。

No.245 23/03/06 11:13
旅人さん0 

そうそう、あまりにも山門が立派にそびえ立っているものだから、ついそちらに目が行きがちでありますが、惣門を入るとひだりてに
六地蔵さまがお出迎えくださっておられます。

その並びの奥まったところに坐禅堂があるのですが、座禅石と称したさざれ石と天竜石がおかれていました。

「これで座禅を組んだ方がおられるってこと…なのかなぁ。これで座禅組むのは斜めだし、ごつごつしてるし、ちょっと…かなりの修行になりそうだけど、ね」とは私。
一瞥しただけでしっかりスルーされました。

六地蔵さまの後ろには『白山妙理権現』さまがお祀りされています。白山妙理権現さまは『十一面観音』さまを本地仏とされておられるといいます。

座禅堂の前には大きな背丈のお地蔵さまが一体。

No.244 23/03/06 01:32
旅人さん0 

山門をくぐる前には向かってみぎてに手水舎、ひだりてには坐禅堂があります。

座禅堂の隣、さらに惣門にほど近いところには以前から石仏さまが祀られていましたが、今回訪れたところ屋根で覆ってくださってありました。
こちらにまとめてお祀りされた石仏さまたちはたいへんお優しいお顔立ちの御像ばかりで、私はこちらにおられる石仏さまにお会いするだけでホッとするような癒しをいただくのでありました。
今回伺って、実はこちらにお祀りされた石仏さまたちは『八束山観音寺御移転佛』であったようで、そのように墨書きで書かれたものが立てられていました。
…廃寺となられたお寺さんなのでしょうか。
諸事情あるかとは思うのですが、廃寺となってしまったり、無住のまま衰退したお寺さんを見るとなんとも切なく虚しい…寂しい思いがいたします。


こちらの山門は楼門で宝暦十一(1761)年のものであるといいます。やはりかつては茅葺きのものであったようで写真が残されています。
金剛力士像はやはり石像。
かつては石仏ではなかったのか、結構新しい仁王さまであります。
そしてこの楼門の閉ざされた二階の扉の中にはどのようなものが納められているのか…たいへん気になるおばさんでありました。

一階部分の天井には四方に雲のような模様が描かれていて、なにか意味でもあるのかどうか…。

ちなみに惣門は寛文三(1663)年
本堂:大永二(1522)年
鐘楼:天和三(1631)年
開山堂:平成元(1989)年
座禅堂:昭和六十三(1988)年
など堂宇が建ち並びます。

No.243 23/03/05 10:22
旅人さん0 

【辛科神社】さん、そして【仁叟寺】さんは高崎市吉井町神保にある、ということは前述させていただいておりますが、この二つの寺社は結構離れており、なんだかんだでニキロ強くらい離れております。

そもそもこの『吉井町』という町はもとは『群馬県多野郡』に所属しておりましたが、あの平成の大合併で高崎市となりました。
平成の大合併で倉渕村・箕郷町・群馬町・新町・榛名町が合併し、遅れること二年後に吉井町が合併となったようです。

すぐそばには織田宗家ゆかりの城下町であった甘楽郡甘楽町小幡があり、高崎市旧市街よりずっとこの小幡のほうが近いくらいであります。


【仁叟寺】さんの正式名称は、
【天祐山公田院(てんゆうざんくでんいん)仁叟寺】。

かつて安芸国(広島県)の『赤松則景』という人物が、1180年の頼朝の挙兵に応じて鎌倉に上り、その子・『氏行』が甘楽郡司となって奥平郷(高崎市吉井町下奥平)に城を築き、『奥平』氏を称したのだといいます。

六代『奥平定政』は1333年の『新田義貞』の鎌倉攻めに参陣して南朝方として活躍しますが、八代『貞俊』は北朝方に押され奥平城を出、三河国作手郷に移り、徳川氏家臣となったといいます。


『仁叟寺』は、奥平郷に残った貞俊の弟・『貞訓』が1428年頃に奥平郷に創建し、三河国に移った奥平氏の子孫・『貞能(さだよし)』が1522年に現在地に移して本堂を再建したと伝わります。
渋川市中郷にあります同じく大きな寺院であります【雙林寺】さん第四世の高僧、直翁裔正禅師を初代住職に請して開山されました。

その後、各時代の藩主、領主から手厚い保護を受けます。
戦乱の世にも厳然として格式を保ち続け、安土桃山時代の天正十八(1590)年には『奥平信昌(おくだいら のぶまさ)=上野小幡藩初代藩主』公の夫人『亀姫(かめひめ、徳川家康長女)』さまより寺領を寄進され、
さらに長根城主小幡公、宮崎城主奥平公、吉井城主菅沼公、地頭長谷川公同じく溝口公などの帰依と手厚い保護を受けたとされます。
江戸時代に入り幕府からも庇護され特に三代将軍【徳川家光】公の代には寺領及び御朱印二十五石を改めて賜ったといいます。

こちらの御本堂は五百年の間、一度も兵火等に遭うことなく改修護持された建物であるとのことで、また本堂裏手には樹齢五百年以上と伝わる『仁叟寺のカヤ』があります。



No.242 23/03/05 08:14
旅人さん0 

裏急後重の真っ只中にある私の時を一瞬止めるほどのインパクトを与えた『天邪鬼立像』。

同じ〝天邪鬼〟の身にありながら、仏前を照らすというなんとも光栄な役を与えられたから…というわけではありません。

それが適応されるか否か、…まぁ日本の法令、〝著作権〟、という視点で見たら、とうの大昔に満了しておりましょうが…宗派が異なるんです。
そしてもう一つ言えば、こちらには対になるもう一つの像が〝無い〟、無いのです。
それは『龍燈鬼像』と呼ばれる御像であります。


この天邪鬼立像は、鎌倉時代、奈良県奈良市にあります【興福寺】さんの『西金堂』須弥壇に安置されていた像で、四天王像に踏みつけられる邪鬼を独立させ、仏前を照す役目を与えられたものであります。


『天邪鬼』と『龍燈鬼』。

阿と吽、赤と青、動と静とが対比的に表現された鬼彫刻の傑作で、私はこの『天邪鬼立像』がたいへん好き、なのであります。

『天燈鬼像』は、2本の角と3つの目を持ち、口を大きく開き、やや横目で前方をにらみ、左肩に乗せた燈籠を左手で支えます。

一方『龍燈鬼像』は、腹前で左手で右手の手首を握り、右手は上半身に巻きついた龍の尻尾をつかみ、頭上に乗せた燈籠を上目づかいににらんでいます。


天邪鬼立像の一ファンとはいえ、対である像が片方しかないことは大変な違和感で、ましてやこの像たち、左右を受け持つ、燈籠であるはずなのに、片方だけって、…まさに片手落ち、ではないですか?

まぁ、おそらくは奉納された石像でありましょうし、この像を奉納された方が私同様『天邪鬼立像』のファンの方であったのかもしれません。
石像一体がどれだけの金額となるものか貧乏人の私などは知る由もありませんが、かなり高額なものでありましょうし、一体の奉納で充分とお考えになられたのかもしれません。

宗派の違いも、元を糺せば『仏教』。
なんら問題はないわけなのでありましたね。


まぁ…いろいろあって、ここ仁叟寺さんの境内山門前の参道には石造の天邪鬼立像がおられるのでありましょう。

No.241 23/03/05 06:31
旅人さん0 

さて。


高崎市の吉井町にあります『辛科神社』さんの参拝のあと、同じく吉井町神保にあります【 仁叟寺】さんへ参拝させていただきました。
こちらも前回〝トイレの神さまへの参拝〟が主となってしまった私の中の黒歴史に刻まれてしまったお寺さんで、夫が新たな歴史を刻んでくれようと再拝の計画を立ててくれたものです。

とはいえ、 仁叟寺さんの記憶がないわけでは決してありません。
とにかくこちらは広い!
群馬県ではおそらく五本の指にも入ろうかと(私の私観)思われるお寺さん。
前回かなり熱く語った記憶があります。
とはいえ、なにせ「私の」参拝録、トイレの神さま巡りの記述の多いものではありましたが…。

でも一通りは境内を巡らせていただいてはあります。
その広さを物語るものとして、境内に三か所もトイレがある!…ということでしょうか。
しかも一か所一か所、複数のトイレが設置されたもの、あまり積極的に書くものではないでしょうが、これもまた境内の広さと参詣者の多さを物語る指標にも…なりますよね。

前回は一人(=私)が非常事態、緊急事態にありました都合と、じゃじゃ馬ナビがまたロクでもない案内をしたおかげで、御本堂の裏手に案内され、正式に門をくぐるでなく裏手からの〝侵入〟となったのでありましたが、今回はきちんと惣門から。

こちらの惣門がなんとも歴史を感じさせてくれる、趣のある、心和む門であります。
…ちなみにこの惣門も、逆行とはなりましたが一応前回もくぐらせていただいております。

惣門をくぐると。
そびえ立つ山門に圧倒されます。
かなり離れて建てられておりますのに、その大きさに圧倒されるのです。
一見新しく見えるこの山門も以前は茅葺きの屋根であったようで、近くにまいりますと古いものであることに驚きます。

新しいもの、といった錯覚におちいるのはその山門の前に新しめな石像が立っているからなのかもしれません。

まず惣門から山門へと向かう参道のど真ん中に『天燈鬼立像』が建てられております。
あの有名な慶派、運慶の三男康弁の作とされる、国宝の、あの興福寺さんの作を模造した石像であります。

初めて見たときなどは「はっ?なぜ?何故ここに?」と、裏急後重のお腹と戦いながらも、そこで一瞬時が止まったくらい衝撃を受けたものです。

No.240 23/03/04 05:04
旅人さん0 

で。

世間一般では昨日で終わったひな祭り。
どこか人とズレたおばさんはひな祭りもズレて、これからがひな祭り月間。
ついつい口をついて出るお雛さまの歌。

♪ あーかい毛氈敷き詰めてぇ

「なにその歌?聴いたことないんだけど」

…いや、世間一般の方ならいざ知らず、あなた(=夫)は間違いなく聴いたことがある!
毎年恒例で妻が歌っているし、あなたのお母さまも歌っておりましたから。
それは認知障害…もとい記憶障害…どっちでもいいけれど。

まぁ、ご存知ない方は多いことかと思います。うちの子供たちは母親がよく歌っていたので、歌えず、とも聴いたことはある曲ですが。
そしてもし母の歌うもので覚えてしまっていたなら、世間一般とはだいぶ音程が違うものではありましょう、…申し訳ない。

…あるんですよ。もう一つのお雛さまの歌。


【おひなさま 】
<林 柳派 作詞・平井 康三郎作曲 文部省唱歌>


1.赤いもうせん しきつめて
  おだいり様は 上のだん
   金のびょうぶに 銀の台


2.五人ばやしや 官女たち 
  そろって並ぶ 下のだん
   どれもきれいな おひなさま


3.あられ・ひし餅・お白ざけ
  ぼんぼりかざる おもしろさ
   今日は三月 ひなまつり



♪ あかりをつけましょ ぼんぼりに~ 
の出だしで有名な、『うれしいひなまつり』は、

<山野 三郎(サトウハチローのペンネームの一つ)作詞・河村 光陽作曲>で、昭和十一(1936)年にレコードが発売されたのだそう。

この歌、〝うれしい〟はずなのに、悲しげな曲調がまた味わい深い。
なんでもこの曲調は日本古来の”ヨナ抜き音階”というものなのだそうです。

サトウハチローの姉は嫁ぐ前の十八歳でこの世を去ったといい、この姉を想いこの詞が生まれた、との一説もあります。


♪ 赤いもうせん しきつめて~ の『ひなまつり』は、『うれしいひなまつり』とは違い、とても明るい曲調です。


No.239 23/03/03 17:48
旅人さん0 

おひな祭りに欠かせない雛人形も、古くは『流し雛』として、自身に降りかかる災難を人形(ひとがた)に肩代わりしてもらい、厄や穢れを水、…川などに流していたものです。

そしてひな祭りと言えば桃の花。
旧暦の三月は、ちょうど桃の花が咲く頃でもあり、それなので『桃の節句』とも呼ばれます。
桃の木も厄除けや鬼門除けとして邪気を祓うとされます。

…じゃあ旧暦のおひな祭りっていいこともあるのでは…?

いやいや、カレンダーの三月三日に『おひな祭り』って印刷されるくらい、ほぼ全国的におひな祭りなわけで、桃の花もちゃんとお雛さまを飾る二月に間に合うように農家さんは咲かせてくださっており、そして三月三日くらいまでが販売のピーク。

と、いうことで、家に桃の木のないわが家は『桃の節句』でありながら桃の花が飾れたことがほとんどないんです。

さらにはお雛さまの防虫剤も季節商品なので入手困難、これは三月のおひな祭りの時期に入手しておかないとならず、いろいろ大変なこともあるんですけれどね。

とはいえ、大人になって聞いたことに、群馬県の随所随所では旧暦でおひな祭りをする地域があるようで。
今住んでいる辺りでは、何軒か旧暦おひな祭りのお宅があるみたいでした。

そして。
ひな祭りを終えるとすぐに雛人形を片付ける風習がありますよね。
私の住む辺りですと〝嫁に行くのが遅くなる〟とか言われております。

まあ、そういった意味では、もう娘は嫁いでおりますので、なんなら一年中飾らせていただいてもいいんじゃ…。
いやいや出戻りでもされたら大変なことなので、やっぱり佳き日に速やかぁに片付けている…毎年恒例のおばさんのおひな祭り事情でした。



  (河津桜)

No.238 23/03/03 17:22
旅人さん0 

本日三月三日は『ひな祭り』、そう、わが家の予定を書き込むカレンダーにもそう印刷されています。

が。

何故かは知らないのですが、私の生まれ育った家は旧暦でお雛さまを祝うという家でありまして、小学生の時分、二月から三月にかけてお友達の家に遊びに行くと、お雛さまが飾られているものですから、家に帰っては大騒ぎをしたものでありました。
まぁ、群馬県は〝お盆〟は〝旧暦〟でありますので、おひな祭りが旧暦でもなんらおかしくはないのでしょうけれど、ね。

そして。
何故かは知らないくせに、自分で子どもを産んでからも、そのひな祭りは旧暦で、という慣習を引き継いでいる私。

女の子も男の子も授かった私は、子どもたちの小さな時に、時間を作っては一人せっせと雛飾りやら兜やらを飾っていて気づいたんです。
旧暦でおひな祭りをして、それをしまいつつ、兜を出すと〝楽〟だということに。

と、いうわけで、わが家ではこの三月三日前後の大安にお雛さまをお出しするのでありました。

娘はすでに嫁いでおり、子どももおるような〝お年頃〟、もう飾らなくてもいいのではないかって…思ったりもするにはするんです。

でも毎年毎年、お雛さまのお顔を拝見しては和み癒されている自分であることを知っているんですよね。

本当は、娘さんが嫁いだ時に持たせたり、あるいはその時を区切りとしてお人形供養をされる方もおられることも耳にはしているのですが、ね。
あるいは娘さんが厄年を終えた年とかに。

でも私、お雛さまが大好きなんですもの♡


そんな【おひな祭り】を【上巳の節句(じょうしのせっく)】ともいい、古くは旧暦・3月の最初の巳の日に行われていて、のちに三月三日に定められたといいます。

その『上巳の節句』は、水にまつわる行事とされ、水辺で祓い清め、無病息災を祈る儀式でありました。

…なんかこれを知ると旧暦でおひな祭りでいいんじゃない?と思えたりしたのですよね。

私の生まれ育った家でどうして旧暦ですひな祭りをしていたかは謎解きのまま、なんですけれど、ね。

ちなみに。
すぐそばに住んでいた従兄弟の家は三月のでおひな祭りでありましたし。



No.237 23/03/02 17:30
旅人さん0 

いつもですと(などと申していますが、この例祭に通い始めて二年ほどで九回、〝いつも〟などと申すのはあまりにずうずうしいのですが)
ご住職さまと副住職さまのお二人で執り行われるのですが、今回はご住職のお姿がみられません。

お身体になにかあったのではなければよいのだけれど、と心の中で心配しつつ、でも口に出すのも憚られ。

副住職さまもいつもとはなにか様子が少し異なります。
一つ一つ丁寧に確認して事を進める方ではありますが、どこか落ち着かなく見え、(あっ)という感じで何かを取りに戻られたり、先ほどおっしゃっておられた内容とその後が少し違っていたりと、終始いつもとご様子が違うのです。

内心の心配が少しドキドキに変わりつつある頃に、副住職さまがお言葉を述べられはじめました。

「本日住職が所用で来られず私一人での法要となりましたが、このたび住職が大僧正を拝受することとなり、昨日本山の方でその儀式があり、私も列席して参ったのでありますが…」

…!
なんだ、おめでたいことで今日はここにお越しになれなかったんだ!


優しい話し方をされる、決して昂らないご住職さまで、位が上がられたこと、私まで本当に嬉しくなりました。

この席で少し前に檀家代表の一人の方から配られたお饅頭はそのお土産物でありました。
その名も『阿闍梨餅』(あ、お饅頭ではないようです)。

何回か前の例祭では、総本山の智積院の『不動明王紫燈護摩供』のお札をお授けいただきました。


いろいろ物をいただいたから、というわけでは決してありません。
そのお気持ちがほんとにありがたくて、そのお授けで本当に心が洗われる思いがするのです。
そして檀家の方々も優しくて、また、こちらの檀家さんは皆さんが大変仲が良くて、部外者ではあるのですがこの例祭はとても居心地が良いのであります。

さらに副住職さまが続けられたことには
「今年、あの震災から十二年経ちますが、あの時の思いを忘れることなく、亡くなられた方々の鎮魂と被災された方々への思いを込めて私もその日には陸前高田の地と、福島に行かせていただき、法要に列席させていただくこととなっております。次の例祭ではその時の報告もさせていただけるかと思っております」


あぁ、ありがたいことです。
なんとありがたいことでしょう。

お坊さまにしかできないことは確かにあると思うのです。

No.236 23/03/02 16:29
旅人さん0 

【光榮寺】さんは、群馬県みどり市大間々町にある『真言宗智山派』の寺院です。

慶長八(1603)年に『大間々六人衆』の筆頭・『高草木対馬則継』の請により僧・『良瑜』が、
四国讃岐国屏風ヶ浦(現・香川県仲多度郡多度津町)の海中より出現した行基作の薬師如来の尊像を移遷し開山したと伝えられています。

今回お邪魔させていただきました【はねたき導了尊】さんは前回述べましたようにこの『光榮寺』さんの境外堂の一つになります。

平成十五(2003)年に光榮寺開山四百年を記念して、かつてこの近くの地で篤く信仰されていた『道了尊』さまをこの地に移転、勧請したものであります。


『どうりゅうさん』の呼び名で親しまれております『はね瀧道了尊』さまは、〝諸願成就〟殊に〝子育ての仏さま〟として江戸時代から現在に至るまで、時代を越えてたくさんの信仰を集めてこられたといいます。

こちらにお祀りされている『道了尊』さまは、宝暦二(1752)年五月、光榮寺第十世寿賢の代に、神奈川県足柄市にあります『大権現最乗寺』より、ここ大間々の渡良瀬川沿岸にお迎えされたと記録に残されています。
以前は、現在地よりも北側、およそ百メートルの斜面を下がった所にあったのだといいます。
当時は縁日は毎月二十七日、二十八日の二日間で、道了堂参道には『滝の湯』という湯屋や茶店が並び、たいへん賑わっていたといいます。
天保二(1831)年には、渡辺崋山も当地を訪れ、要害山から高津戸一帯を描いたことが『毛武游記』に記されているそうです。

それが昭和二十二(1947)年のキャサリン台風による水害で、渡良瀬川沿岸にあった道了堂は、周辺にあった滝の湯、茶店もろとも一瞬のうちに濁流に飲まれ、跡形も無く流されてしまったのだといいます。
災害復旧は果したものの、道了堂の再建は叶わず、残念ながら道了尊信仰は衰微していくこととなります。しかしながら篤信者の方々により参拝は続けられてきました。ただ落石、崩落の危険が絶えず、篤信者の方も歳を重ね参詣が困難となり、再建に対する地元民の強い要望を受けて平成十五年に道了尊をこの地に移転、勧請されたのだといいます。


No.235 23/03/02 11:12
旅人さん0 

実は、この日には同じく群馬県高崎市の『仁叟寺』さん、
群馬県富岡市に御鎮座される『宇藝神社』さん、同じく富岡市の『長学寺』さん、などの神社さん、お寺さんに連れて行ってもらっておるのですが、それはまた後ほど、ということで…。

先日、お縁日に参列させていただきました、群馬県みどり市の『光榮寺』さんの境外堂の【はねたき導了尊】さまでのことを書いてみたいと思います。

何故なら…記憶がとぶから、ですね。苦笑。


No.234 23/03/02 11:00
旅人さん0 

ちなみに。

辛科神社さんでは、例大祭は春季が四月九日、秋季が十月九日に、特殊神事として一月十五日の『御筒粥神事』、そして七月の『みそぎ流し(茅の輪神事)』が斎行されているといいます。

明治維新前までは多胡郡二十七ヶ村を御幣を立てて捧げ廻り、御供米を納めさせた『御供米神事』、旧暦二月の浄闇の深夜に、折茂鎮座の稲荷神社の井戸で斎行された『御鎮神事』があった、…と辛科神社さんの案内板に記されておりました。

No.233 23/03/02 10:36
旅人さん0 

史跡看板には、【辛科神社】から『禊殿』まで『茅の輪』を送る神事のことが書かれています。

『…七月三十一日、辛科神社では伝統神事の【茅の輪神事(みそぎ流し)】が行われます。
この神事は『茅の輪(チガヤで作った輪)をくぐることによって、一年の罪・穢れ・災疫を祓うものです。、
『茅の輪神事』は午後七時半より、辛科神社で神事が行われたのち、『かまくら』と呼ばれる神楽曲が奏でられながら、上神保の神社から1kmほど東に離れたここ下神保の〝禊殿〟へかけて御神幸が行われます。
『かけながす、おおやまもとの五十鈴川、祓えたまえ清めたまえ』
『かけながす、おおやまもとの五十鈴川、八百万代の罪は残らじ』
と神唄を唱えながら、〝茅の輪〟で沿道及び禊殿で待っている人々を祓い清めます。

御神幸のあと、神輿は禊殿に安置され、全ての神事が終了する午後十時に、〝茅の輪〟は大澤川に流されます。』
      …禊殿案内板より

この『茅の輪神事』、太陽暦前は六月三十日であったが現在は七月三十一日夜に執り行われているとのことです。
なんでも、直径六尺(約1.8m)の〝茅の輪〟を神主さまが奉持して、「かけながす大山本の五十鈴川…」という前述した神唄を唱えつつ、沿道の男女を輪くぐりさせて、その年の疾病災厄を祓い去る神事で、神輿の渡御とともに辛科神社を出発し、一キロ。
一キロ、ですよ!?
神主さまはもしかしたら一人で茅の輪を奉持され、一キロの道のりを歩かれるわけでしょうか?

直径1メートル八十センチの茅の輪って、かなりの大きさですし、茅の輪って、…持ってみたことはないですけれど、見た限りではどう考えても、重いとしか思えませんが…。

うーん、参列してみたい。
見てみるだけでもいいですけれど、欲を言えば、この煩悩のかたまりおばさんの罪穢れもお祓いいただけたらなおありがたい。
…などと言うあたりがすでに煩悩、欲、ですよね。困ったものです。

とはいえ、夫の読んでみたいと熱望する小冊子と、窓越しに見えた『茅の輪守り』をお授けいただきにまた再拝はさせていただきます。

茅の輪神事に参列できないにしても、茅の輪守りをお授けいただきましょう。

えっ?、それも〝欲〟でしょう?
…はい、〝欲〟ですよねぇ。やれやれ。

No.232 23/03/02 08:29
旅人さん0 

「ちょっと今回は道を変えてこちらから行くね」
と夫。
…いやいや、前回どこをどう走って辛科神社さんに行ったかなどさっぱり覚えておりませんって。
そう、あのときの私は緊迫した時を過ごしつつの移動でありましたから。
何が悪かったのか、…急にお腹の調子が悪くなり、その日はその後のお詣りに伺った神社さんの拝殿前、お寺さんの御本堂前に詣でることがやっとで、ただひたすらトイレの神様に詣でているような状況でありましたから。

同じ道でないのかどうかもわからぬおばさんは、それを胸の内に秘めたまま、助手席でちょっとだけ体を縮こめておりました。

吉井町神保を流れる川に架かる橋を渡ったとき、
「へえぇ。城橋っていうんだ、この橋」と夫が言いました。
へっ?
走りながらの、ほんのちょっとした瞬間、よく見逃さなかったなぁ、としっかり見逃した私はまたまた心の中で思いました。

「この辺りに植松城ってお城ががあったから『城橋』なんだろなぁ」
…はあぁ。
同じ群馬県内とはいえ、私などは今初めて聞いたような、お城の片鱗すらないようなところのことを、よくまぁ知っていること!
わが夫ながらあいかわらずすごいなぁ。

後続車も対向車もない道、とはいえ路駐は無理な道をゆっくりゆっくり走行させる夫。
その橋の袂に、古びて朽ちかけた道しるべが建っています。
『左辛科神社』と刻まれています。
「辛科神社」はここから西へ直線距離で1kmほどだと夫。


『城橋』を渡ると。
道は右にカーブしますが、その正面の石垣の上に一軒建物が建っています。
一見、民家か集会所のように見え、私などは、建物があるな、と思っただけで。
なので夫が、
「ここかぁ。ここを見たくて今日はこちらから来てみたんだ」
といったとき、その建物を指しているとすら思わなかったくらいです。
「そこに案内板があるの、読めるかな?」

へっ?
あぁ。

…案内の看板すら目に入らないくらい、ごくごく普通の、ごくごく目立たない建物です。しいて言えば高台にあることくらい。

【辛科神社禊殿(みそぎでん)】

へっ?!

あらためて建物を見上げて軒下を見ると彫り物があります。

一見、集会所のような建物です。
しかも一キロも離れた…。
ここで禊をされているんだぁ。

No.231 23/03/01 13:41
旅人さん0 

隠居してから、時間ができたこともあり国会中継をよく観ている。

知らずにいたことがあまりにも多くて、今さら隠居したのではなくてもともと日本国民としては隠居していたのじゃないかと、反省しかり。

しかしながら注目すべきは、その知らなかったことを気づかせてくれるのは『野党』と呼ばれる方々であるということ。

ニュースで切り取られるものとはまるで違う。
しどろもどろな内閣の大臣たちが、今更ながら…今まで以上になんとも情けなく、信頼ならないきがしてならない。



『知ること』は、よい社会をつくる第一歩。

いま、日本人が知るべき3つの事柄。
 1.憲法とは
 2.人権とは
 3.民主主義とは


とはいえ、国会中継を観ていると内容は大変重要で大切なことであるにもかかわらず、時間がかかるものだから、家事もせずテレビを観ているおばさんにみえてしまう。
もともと〝気にしぃ〟のおばさんである。

それは夫に対して、のことでもある。
どうも観たいドラマや映画、歌番組(この言い方がとても昭和で大変好きであります)を観ていると、好ましげな目で見てくれるのだが、国会中継だと〝はぁ?〟という視線に感じる。

長いこともあるし、やはりそれはニュースで切り取られる国会のごくごく一部の場面、発言の影響も大きいだろうし。
過去の大変お馬鹿な国会の様子もやはりそのニュースの報道で観てきているし。


『野党』の方々は発言している方の意見も大変真剣に聞いておられます。
そうした人物ウォッチングもなかなか、興味深いものの一つである。

今も総理の真後ろでネクタイをいじったり、書類ペラペラと触ってみたり、(ああ、この人聞いてないよな)という人が映し出されている。
その席で、テレビで中継されているというのに。
簡単にはクビにならない、お給料は信じられないほど高額、年金も凄い額、という、まさに選ばれし者は違うよなぁ。


国会中継を観ていて思うことの一つに、
なんか内閣って…「パンが無ければケーキを食べればいい」と言いそうな人ばかりな気がする。


選挙って大事なんだなぁ。
あらためて思う。
たった一票だけれど。
…〇〇党県の群馬だけれど。

No.230 23/03/01 08:14
旅人さん0 

…といいますか、辛科神社さんは別段特別変わった神社さんとかでは一切無く、ただただ随身門に〝神獣〟さまが安置されておられるというだけであります。
その神獣さまのインパクトがあまりにも強いためと、歴史の長さから、文章力も歴史の知識もないおばさんがあれこれと書き散らかしているだけ、であります。

まぁ、青銅製の、青や緑やクリスタルといった飾りをたくさんつけた、異国風の、結構大きな神獣さまが唐突に随身門におられるというので、知らずに訪れた方は誰もびっくりされるのではないかと思うのではありますが…。

ただただ長いことこの吉井の地をお護りくださっておられる神社さんであります。
随身門に隋神さまがおられれば、ごく普通のゆかりの古い郷社さん、であります。

寛文元(1661)年に当時の領主倉橋久盛によって社殿が…一間社流造の本殿と入母屋造の拝殿が再建されております。
本殿の左右と背面の壁は細やかな彫りがはめ込まれております。
見る方が見れば、なんの題材で彫られた〇〇の図、と語れるものなのでありましょうが、一枚は松の木の下、大きな壺のそばに、ふくよかな頭巾を被った翁が大きな盃を持ちくだけた座り方をしているもの。
向かって右側のもう一枚は、同じく松の木の下で、左端に大きくかなりリアルな雄鶏が後ろを振り向きながら歩か姿が描かれ、それを背後から…私の目には結構貴族風な男の人が追いすがるように描かれているように見えます。
本殿の後ろは…よくわからなかったです。人物は描かれておらず、松などもなく、植物や想像上の動物等でもなく…。

その社殿の向かって左隣には神楽殿があります。
黒い瓦屋根に真っ赤な建物の神楽殿はかなり目を引きます。
この神楽殿は慶応ニ(1866)年の建立で、春秋の祭日には京都で伝習された太太神楽が氏子により舞われた…とされています。
今はどうなのか、なにせ宮司さまにお会いしたことがないのでその辺の確認はできておりませんが、この近くにある神社さん二社にそのお神楽は伝わり、そちらではお神楽が伝承されているようで、まさに三月にそちらで大祭が開かれお神楽も奉納されるようであります。

ちなみに、隋神門は寛政九(1791)年に修復されたもの。

こちらはみなその時のままの建物であるとのことです。

No.229 23/02/28 18:24
旅人さん0 

こちらの随身門にはいくつかの大きな奉納額が掛けられています。
かなり褪色してしまっておりますが、どれも武士の姿が描かれております。

馬上で一騎打ちしている画などは色褪せてさえいなければかなりカッコいい、迫力ある画であったかと思われます。

もう一つにいたっては色褪せすぎて、二人の人物がいて一人は座ってこちらを向き、もうひと方はその人物に向かって立っていることしかわかりません。
立っている人物は腰に刀を二本差し、おそらく兜をつけているように見えるのですが…。座っている人物も鎧は付けているように思われます。
ただ状況がさっぱり想像できない…。

もう一枚は三人。
桜か、あるいは梅か、満開の花の下であります。
やはり三人とも鎧をつけています。
一人は完全に馬上にいるのがわかりますが、その隣の人物の馬はほとんど見えなくなってしまっています。
体勢から馬上なのだろうと判断できます。

どれも画力のある絵師の描いたものだったろうと思われ、その褪色が惜しまれます。

随身門を抜けるとまもなく拝殿となります。
拝殿前には一般的な狛犬さまがおられます。

No.228 23/02/28 03:48
旅人さん0 

と、いうわけで、あまりにインパクトの大きな随身門に気を取られてばかりいるおばさんであります。

それほどに〝神獣〟さんは本当に何度拝見してもインパクトが強いです。
正直、初めて見た時は…怖かったです。
神社さんの随身門の中におられるといえば、…という思い込みがあったのも否めませんが、金属製の、異国風…というより、未来的というか、なんなら異星的…とも。
何度も言うこととなりますが、息をのんで立ち尽くしたくらいです。

しかも最近つくられた〝作品〟であれば、おおっ! と思っただけかもしれませんが、いかにも古いもので、それがいつのものなのか、いつからここに〝君臨〟しているのやらわからず…。

初めて見た時ほど〝怖い〟といった感覚はありませんが、この門でしばし足が止まるのは変わりません。

…凛としてかっこいいんですよ?
全体のフォルム的には。


どこを見ているかわからない目と。
大きくあけられた口と鋭い牙と。

お召しになっている衣の柄も、お身体に、前足後ろ足に付けられた大きなアクセサリーとか。

どなたがいつ作られて、いつ奉納されたものなのか…。
どうも詳細がわかっていなそうなところがまたどうにも怖いおばさんなのでありました。





No.227 23/02/28 03:21
旅人さん0 

…お詫びして訂正いたします。

こちらの鳥居のことを白木造りと書いてありますが、正しくはコンクリート製、であります。
随身門の神獣のこと、白木の板に墨書された由緒書きのことばかりが頭にあって、先を急いで、〝白木〟と書いていたようです。

本当困った頭のおばさんです。


…もっと困るのは周りの人間で。




脳トレしよっと。

No.226 23/02/27 04:42
旅人さん0 

【辛科神社】さんの社家〝神保氏〟についてもう少し。

歴代領主や為政者からも崇敬庇護され、鎌倉時代初期の建久八(1197)年には【源頼朝】公が懸仏(銅板製)を寄進されており、こちらの神社さんの社宝となっております。
境内の案内板にその写真がありましたがなかなか類を見ない観音さまと僧が、そして、なにやら動物…もしかしたら狛犬のような獅子のような動物が描かれたもののようでありました。


中世は多胡郡の地頭職を歴任した神保氏がこの〝辛科神社〟さんに大きく関わり、支配層から没落した後も、この神保一族が現在に至るまで辛科神社の神官を担っておられます。

神保氏についての詳細は不詳のようですが、度々資料等に散見される氏族で、当地の神保氏が本流とするならば、室町時代中期以降は白井長尾氏に従い、武田信玄の上州侵攻で長尾氏の居城である箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)が落城後、武田家に従っています。
永禄十(1567)年に武田信玄により奉納された『生島足島神社起請文』には西上州の諸将61名の中に長根衆として『神保昌光』も名を連ねているといいます。

その後、神保氏は武田家の滅亡や、【本能寺の変】、北条家の侵攻、【小田原の役】などで領主としての権益を失い、辛科神社の神職に専念するようになったと考えられているようです。
なお庶流としては、戦国時代に越中半国の守護代まで上り詰めた一派や、江戸幕府の旗本として名を残した一派もいるといいます。

江戸時代に入ると辛科神社は幕府から庇護を受け、寛永十三(1636)年には三代将軍【徳川家光】公により社領九百坪が安堵、寛文元(1661)年には当時の領主倉橋久盛によって社殿が再建されています。


辛科神社さんは古くから神仏習合し『常行院』という寺院が別当寺院を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が廃され、明治三十九(1906)年に郷社に列しています。

No.225 23/02/27 00:09
旅人さん0 

ちなみに、こちらの神社さんの一角に、手書きの墨書きで書かれた社伝では〝速須佐之男命〟・〝五十猛命〟とされています。

相殿神として、
金山比古命・品陀別命・中筒男命・大山津見命・伊邪那美命・建御名方命・大物主命・八坂刀売命・大日霊命・宇迦之御魂命・木花佐久夜毘売命・天児屋根命・市寸嶋比売命・菅原道真公・塩光清をお祀りされています。

塩光清(鹽光清)は〝羊太夫〟の家臣である『塩野光清』のことで、こちらで合祀した吉井町塩の鎧神社の御祭神であられるといいます。


…普通の白木の板に、下書きの跡など一切無く、それはそれは美しい墨書きで、その由来が書かれております。
御祭神には小さな振りがなをふってくださっています。

…和銅四(711)年からと、歴史が長いですから当然その由来も長く、沿革からなにから十四の項目に分けて書いておられますが、一切の訂正の跡がない墨書きなのです。

凄いなぁ…。


計三回こちらを詣でておりますが、いまだにお会いできずにおります現在の宮司さまが平成十四年にお書きになられたもののようです。
『宮司神保侑史藤原和泉謹誌』
とありました。


…おいくつぐらいの方なのだろう。
ぜひお会いしたいなぁ。

こちらの『神保』家は代々こちら【辛科神社】さんの宮司さまを務められておられる一族であり、かつては、かの『吾妻鏡』にその祖先の名があるというお家柄で。

『承久三(1221)年の承久の変の際の宇治合戦に上野國の鎌倉幕府御家人として、〝神保与一〟〝与三〟〝太郎〟名名が見える。
文和三(1353)年の「足利義詮御教書案」に多胡郡地頭職として神保太郎左衛門尉の名がある。』

とその板書に書かれております。

なお、境内地は社家神保氏の館跡であるといい、単郭城で、西南・西北・北東・東南などに濠・土塁の一部が残存する。
とありました。市指定史跡であります。


…凄いなぁ。
これを由緒あるお家柄、っていうんだよなぁ。

No.224 23/02/26 23:28
旅人さん0 

神門におられる神獣は、双方口があいて、いわゆる〝阿吽〟の形をとっていません。
角付で金属や綺麗な石が象嵌されているいかにも神獣らしい青銅製の像です。

…なにか近未来的な要素もある、異国情緒いっぱいの神獣でありませんか?
胴体には不思議な模様が施されていて、尻尾の先は宝珠のように丸くなっています。
神社さんでなくとも類似した像を見たことがありません。
初めて拝見した際には吸い込んだ息をしばし止めたほどびっくりしたものでありました。

表皮の風化具合をみるとかなり古そうにも見えますが、造られ奉納された年月については不詳なのだそうです。
神獣はやせ形で腹の下が全部空間になっているのだそうです。

新羅系の渡来人の方々の信仰の場であったと聞けばさもありなんと思うのがまさにこの〝神獣〟さん、であります。


社伝によると、大宝年間(701~)、朝鮮半島の新羅系渡来人によって創祀された神社で、『上野国神名帳』に「従二位 辛科明神」とある古社であります。

御祭神は新羅渡来神と考えられる須佐之男命と御子神の五十猛命。

…へっ?
し、新羅渡来?
須佐之男命さまって素戔嗚尊さま、のこと、ですよね。
素戔嗚尊さまって、イザナギノミコトさまとイザナミノミコトさまのお子さん、ですよね?
新羅渡来って…どういうこと?

…調べてみました。

五十猛(いそたける・いたける)命さまですが、五十猛命さまは古事記には紹介されておらず、日本書紀の八岐大蛇(やまたのおろち)のところで紹介されているのだといいます。

『スサノヲが高天原から追放される時、「その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降りられて・・・」と書かれ、続いてスサノヲが「私はこの地には居たくないのだ」と言い、「土で舟を作り出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の峯についた」と書かれています。
その上で「五十猛神が天降られるときに、たくさんの樹の種を持って下られたが、韓地(からくに)に植えないで全て持ち帰って、筑紫から植え始めて・・・紀伊国においでになる大神はこの神である」となっています。』


あっ…。
そうなんだ。
スサノヲノミコトさまが高天原を追われたのは存じあげておりましたが、そこは〝新羅〟だったんだ…。
…知らなかった。

小学生のころ子供向けの古事記とか日本書紀とか読んだんだけどなぁ。

新羅から、ではなく新羅へ渡来、なんですね

No.223 23/02/26 05:28
旅人さん0 

またこの〝多胡碑〟の碑文は「続日本紀」にも書かれているのだといいます。

多胡碑は、奈良時代初めの和銅四(711)年に上野国の十四番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑となります。

建郡に際しては、【羊】という渡来人とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったとされます。
碑を建てたのも、この羊であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げています。

多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯で、かつて緑野屯倉(みどののみやけ)や佐野屯倉(さののみやけ)というヤマト政権の直轄地が設置されていた領域と重なり、当時は先進的な渡来系技術が導入され、窯業、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地域であったとされます。


…いつになったら神社さんの話になることやら…。
ただ、そうした背景があっての『辛科神社』さんであるということは、殊、歴史オタクである夫にとっては重要なことで、彼は再拝である今回もまた宮司さま不在のためいまだに購入に至らない、こちらの神社さんの社務所において売られている『辛科神社と羊太夫』(…というタイトルだったかと思うのですが…)をどうしても読みたいのだと熱く語るのでありました。

なんでも、こちらの(まだお会いできていない)宮司さまは多胡碑記念館長であったそうで、その名も神保さん。
神社さんに関係する方は〝神〟の文字を含んだ姓の方が多い気がしますが、実はこの辛科神社さんの住所が〝吉井町神保〟でありまして、その辺りからも本当に古くからの土地であり、ここを守られておられる一族の方なのであろうなと、感銘いたしました。



白木の鳥居をくぐって。
随身門(切妻、銅板葺、三間一戸、八脚門)は江戸時代後期の寛政九(1791)年に修復されて現在に至るものだとされます。

こちらには、本来いるはずの隋神さまの姿はありません。

こちらには、随神さまの代わりに、『神獣』が祀られているのです。


…神獣って、凄くないですか?
でもそれを拝するともっともっと凄いと思うのですよ。

そのお写真をご覧いただけば、一目で私の語彙力の無さは一気に解消されましょう。



それがこちらであります。

 (辛科神社さんの神獣さま)

No.222 23/02/26 00:13
旅人さん0 

この【辛科神社】さんのことは以前の参拝の時にも書かせていただいておりますが、歴史が長いこともあり、また【多胡碑】、そしてそれに出てまいります『羊太夫』と、いろいろなことが絡み合い、これを紹介するとなると、確実に一冊の本を出版できるほどのものになります。
この語彙力のない、頭の回らないおばさんが書いたものでは意味不明なものとなること必須です。

それでも少しだけ。


群馬県甘楽(かんら)郡というところに韓級(からしな)と言う郷があり、特に加羅渡来人が多く住んだので韓級郷と呼ばれた、といいます。
この韓級が多胡郡設立の際に甘楽郡から分割され多胡郡に編入されました。
そして、かつての地名、多野郡吉井町の『多野郡』はこの『多胡郡』が転訛した地名で、渡来人(胡)が多く住んだと言う意味でこの地を『多胡郡』としたそうです。

この韓級郷に鎮座していた神社が『韓級(からしな)神社』で、のちの『辛科(からしな)神社』であります。
この地に住んだ〝加羅系新羅渡来人〟が祀った神社だといいます。

多胡郡 → 多野郡吉井町 → 高崎市吉井町と移り変わり、韓級神社→ 辛科神社となっていったようです。
そしてこの辺りの郡司が『多胡羊太夫』で、その事を刻んだ石碑が『多胡碑』、ということになる…のかなぁ。

ちなみに神社の境内にはこの地区の住民の方が奉納されたレプリカの多胡碑があり、多胡碑の実物はやはり吉井町にあります。

碑文の内容は要約すると次のような事が書かれております。「朝廷の命令により、上野國片岡郡、緑野郡、甘良郡から三百戸を分割して新たに郡をつくり、羊を統治者とする。郡名を多胡郡とする。」と言った内容です。
ここに書かれている「羊」は名古屋の「羊神社」を建てた、新羅渡来人「多胡羊太夫(たごひつじだゆう)」の事ですがこちら安中市に羊太夫を祀ったと思われる羊神社があります。
何故羊太夫と言う名前なのかと言いますと、生まれが未年の未の日だからだそうです。

多胡碑は国指定特別史跡でありいわゆる国宝扱いであり、日本で最も古い石碑の一つとされています。


この辛科神社さんの周辺には小規模の円墳群があり古い地名が韓科郷や甘楽(韓・伽羅)郡など朝鮮半島を彷彿させることからも当時の渡来人達の聖域となっていたと思われます。

No.221 23/02/25 04:46
旅人さん0 

実は昨日夫は有給休暇をとっており、二人そろって募金してまいりました。
そしてお決まりの珍道中。

…ではなくて神社さんへのお参りをしてまいりました。

向かったのは群馬県高崎市。
正確には高崎市吉井町であります。
吉井町は平成の大合併で高崎市に編入されましたが、それ以前は多野郡吉井町でした。
吉井町は古代の和銅四(711)年に多胡(たご)郡が置かれ、その由緒が刻まれた石碑、世界文化遺産の『多胡碑』が有名であります。

その碑文に、多胡郡を「羊に賜ふ」とあり、羊が何を意味するかについては諸説あるのだといいますが、人名説が有力です。
そして。
多胡郡は朝鮮半島からの渡来人を入植させた朝廷の記録があり、渡来人が多くいたと言われています。


…神社さんへのお詣り、だって言ったよね?と言われそうな…。

実は今回、参拝させていただきましたのはこの流れからも推測される〝吉井町〟にあります【辛科(からしな)神社】さんでありまして、こちらはその大宝年間(701〜703)に大陸から渡来した人々によって創建されたと伝えられている神社さんなのであります。

No.220 23/02/25 04:24
旅人さん0 

昨日は二十四日ということで〝お地蔵さまのお縁日〟、通常ですと群馬県桐生市にあります【諏訪山観音院能満寺】さんにお参りに行かせていただくことが多いのですが…。

昨日二月二十四日は、ロシアがウクライナに軍事侵略、戦争を仕掛けてちょうど一年が経過した日、であります。
〝世界〟という規模では、悲しいことに第二次世界大戦後においても、あちこちで戦争が勃発しておりましたが、それでもどこか私の中では遠くの国的な感覚があったことを、今回のこのロシアが起こした軍事侵略で自覚したくらい、衝撃を受けたものでした。

それでも、こんな愚かしいことはすぐに終わるであろうと、ロシアの国力を考えたらそう長くは続かないであろうと思っていたのです。
そこには祈りも願いもありました。

が。
とうとう一年、一年が経過してしまいました。


私にできることは祈ることと、忘れないこと。
そしてささやかな募金をすることでしかありませんので、昨日もささやかという言葉も申し訳ないくらいの雀の涙ほどの募金をしてまいりました。


このたびトルコ・シリアで起きた大きな地震、それによる大きな大きな被害。
かつて東日本大震災のときに、トルコの救助隊はいち早く日本入りし救助活動にあたってくださった、そして外国からの救助隊としては最後まで日本に残ってくださった国でもあります。
今私にできることは募金することくらいでしかありません。それも身の丈にあわせたちっぽけな金額でしかない。
そして、忘れないこと。

目に見えないことはどうしても記憶が風化しがちであることは否めません。
ましてや認知症の疑い色濃い私です。

でも忘れないでおくこと。
心にとめておく。
そして…祈る。

そして微々たる金額でも継続して募金していくこと。
それはどこか自己満足で、偽善なのかもしれません。

でも世間からは忘れられているような存在ですので、偽善と言われることすらない存在でもあります。
偽善だって、金額が少なくったっていいから、継続していく。


継続は力なり。

No.219 23/02/24 06:17
旅人さん0 

さぁ♡
火焔光背が出たら私の大好きな不動明王さまのお話でしょう。


【明王】
七世紀の後半、インドで密教が成立すると『明王』という密教独自の仏が生まれます。
密教では『真言(陀羅尼)』という一種の呪文を重んじ、これを【明呪】といいます。
明王はこの明呪を巧みに伝えることから『明呪の王』といわれ、略して『明王』と呼ばれます。

また密教では、仏は衆生を教化(きょうけ)するときに、
〝自性輪身〟〝正法輪身〟〝教令輪身〟の三通りの現れ方をすると考えられています。
これを『三輪身』といい、
〝自性輪身〟は如来、
〝正法輪身〟は菩薩、
そして〝教令輪身〟は明王の姿だとされます。

如来や菩薩の慈悲に満ちた穏やかな姿で諭しても効き目のない強い煩悩を持った者を導くときに〝教令輪身〟をとる、といわれています。

『教令』とは『あらゆる衆生を教え導けという大日如来さまの命令』のことで、明王はこの命令に従って有無をいわさす強引に衆生を〝教化〟
するといわれます。

明王が恐ろしい表情をしているのはそのためなのです。



…私のためには火力をさらに上げていただかないといけません。

No.218 23/02/23 16:38
旅人さん0 

インドでは仏教が興起する以前より、偉大な人物には凡人と異なるさまざまな特徴があると考えられていました。
そして。
仏像が盛んに造られるようになると、その非凡なる特徴が【三十二相・八十種好】という形でまとめられました。
如来の三十ニの大きな特徴とそれに付随する八十の特徴です。
この中には目には見えないものもありますが、私たちが拝する御仏の御像にもこれらの特徴が備わっています。

たとえば…。
そう、あの仏の体は常に金色に輝いている、といったものもそのうちの一つですし、手足の指の間に〝水掻き〟のような膜があるとか。
これはあの奈良の大仏さまの指にも表現されております。
御仏像の頭にはボツボツと豆粒のようなものがたくさんあり、パンチパーマのようにも見えますが、これを『螺髪(らほつ)』といい、これは如来像だけに見られる特徴です。
そしてこのあいだ書いたように髪の色は〝青紺色〟きれいな群青色です。仏典には『青珊瑚』の色と記されています。

その特徴の一つに、『丈光相』というものがあります。
経典には「仏は四方に一筋の光があり、仏は常にその中にいる」と書かれているのだといいます。
これを表したのが御仏像の背後に付けられている【光背】で、光を造形的に表現したものとなります。

初期の光背は『円光』と呼ばれるシンプルなものでありましたが、時代とともにさまざまなデザインのものが作られるようになりました。
この円光は【地蔵菩薩】さまの御像によくみられます。

この円光に何本かの光の筋を表した『輪光』。蓮華の花弁の形を模した『蓮弁光』。
船の舳先(へさき)にも似ていることから『舟形光』と呼ばれる光背もよく見うけられます。

蓮弁光にたくさんの仏(千躰仏)をあしらったものを『千仏光』と呼ぶのだといいます。


そして。
不動明王をはじめとする『明王』さまは『火焔光』という光背を背負っています。
これは文字通り燃え盛る炎を表したもの。
明王さまはこの炎で〝煩悩〟を焼き尽くす、と言われています。

火焔光の一種に『迦楼羅光』というものもあり、これは炎を迦楼羅(神さまの乗り物とされる伝説の鳥)の形に表されています。時代が下ると炎の中に鳥の顔を表した光背もあります。

本来光背は仏像には欠かすことのできないものだといいますが、千手観音だけは放射状のたくさんの手が光背の代わりとなっています。

No.217 23/02/23 13:22
旅人さん0 

【菩薩】はもともとお釈迦さまの前生での修行時代の呼称であり、それゆえお釈迦さまが出家する前の姿がモデルとなっています。
このため、きらびやかな装飾品や宝冠を身につけた〝王子〟としての裕福な姿に造られます。

二世紀の中ごろには菩薩像も造られるようになっていたようです。
最初はただ菩薩像とだけいわれ、〇〇菩薩などという区別はありませんでした。
三世紀ごろ観音菩薩や弥勒菩薩が登場し、時代とともにさまざまな菩薩が誕生しました。

後世、大乗仏教では、菩薩は如来の衆生救済の手伝い(補佐)をする、と考えられ、
『弥勒菩薩』さまをはじめ、『文殊菩薩』さま、『普賢菩薩』さま、『観音菩薩』さまなど、実に多種多様な菩薩が生まれました。
これら菩薩の中で、特に多様な発展を遂げたのが観音菩薩さまで、『十一面観音』さまや『千手観音』さまなど、さまざまな姿の観音像が造られるようになりました。


ちなみに。
サンスクリット語で「バーディサットヴァ」、これを音写して『菩提薩埵』と書き、これを略して『菩薩』と呼ぶのだそうです。
『菩提』は悟り、『薩埵』は衆生の意味で、菩提薩埵で「悟りを求める衆生」、という意味であるといいます。

No.216 23/02/23 10:08
旅人さん0 

【如来像】
如来像は出家後のお釈迦さまをモデルにしております。
お釈迦さまは王子という地位や財産、係累など、一才のものを捨て衣一枚で出家したといい、このことから如来像は衣だけをまとい、装飾品や宝冠などは一切身につけないのが原則です。
大乗仏教ではお釈迦さま以外にも薬師如来さま、阿弥陀如来さまなど、さまざまな如来が生まれましたが、こちらの如来像も同じく一枚の衣だけを身につけ、装飾具などは身につけていません。
これを『如来の通相(つうぞう)』というのだそうです。

如来像は初期の修行僧が身につけていた『三衣(さんね)』という衣服(えぶく)をまとうのが原則です。

三衣とは文字通り大中小の三枚の布のことで、小さな布は下半身を覆う下着で『裙(くん)』と呼ばれます。次に『掩腋衣(えんえきい)』という中くらいの布で胸までを覆います。〝掩〟は覆うという意味だということです。
そして『大衣(だいえ)』という大きな布で肩から全身を覆います。

大衣の着用法は〝通肩(つうけん)〟と〝偏袒右肩(へんたんうけん)〟とがあり、一般に長上(=ちょうじょう、偉い人)は通肩にするのだそうです。
如来は一番位が上ですので通肩に着るのが普通ですが、実際の如来像は偏袒右肩が多くみられます。

ただ、七世紀の半ばごろ
インドで『密教』が興ると、如来を統括する『大日如来』さまが生まれます。
大日如来さまはすべての如来に対して超越的な立場にあるため、特に豪華な装飾品や宝冠を身につけています。

No.215 23/02/22 22:33
旅人さん0 

…大好きな御仏像の話をしていたはずなのに、どこをまわりまわって〝小乗仏教〟・〝大乗仏教〟のことまでに?
われながら、その回り道、寄り道の凄さに呆れております。

…うーん、でもまさにそういう子どもだったかもしれません。三つ子の魂百まで、ってやつでしょうか。


御仏像がたくさんおられるから大乗仏教の国でよかった、などと申してはおりますが、お釈迦さまの説かれた『万人救済の道』を、大乗仏教は大乗仏教でやはり少し過大評価をし過ぎている点も否めない気がいたします。

正直に言えば、お念仏を御唱えすれば救われるとか、極楽往生できるとか、そんなに甘いものではないと思っております。
そうでないことは、何よりも仏教で説かれる『善因善果 悪因苦果』『自業自得』などという言葉が教えております。
六道というものが存在することを説くのも仏教であります。

年齢を重ねて、最近思うことに
「生きてきたように道はできる」のだなぁと、本当に切実に実感いたします。

それでも。今まで生きてきた道を反省し、今この時から悔い改めて生き方を変えるならば、という教えに救われるところは大きいと思うのです。


無宗教である私が御仏像のお姿に心癒され、神さまに畏れを抱く。
でもこれって、長い年月をかけて培われた神仏習合の日本という国の根本にあるものとなっているのではないかなぁ。

そこにクリスマスが加わって、なんならハロウィンまで加わって…。
良いものは良い。
楽しいものは取り入れて。
Japanese people万歳!って思ってみたり。


…あっ、またまた脱線してきてしまった。

No.214 23/02/22 18:15
旅人さん0 

お釈迦さまが亡くなられてしばらくのあいだ、人々は、お釈迦さまと同レベルの悟りの境地に達し、迷える人を救うことなどはできないことと考えました。
あまりにも偉大な釈迦と同じことなど到底できないと考えたのです。

そこで。
初期の仏教徒たちは熱心に修行することによって、せめて自分だけでも悟りを開こうと考えました。出家して、僧院にこもり修行に励み、自分だけ悟りを開いて救われることを願ったのです。

しかし、出家して修行に専念できる人はごく一握り。多くの人が不可能です。
まず何よりも家計を支えなければなりません。
それに、大半の人が出家してしまったら生産活動がストップして、世の中が成り立たなくなってしまいます。

しかしながら、それではほんの一握りの人しか救われないこととなり、釈迦が説いたはずの〝万人救済の教え〟にはほど遠いものとなってしまいます。

そんな中、ちょうど紀元前後あたりから、「お釈迦さまは万人救済の道を説いたのだから、すべての人が救われるのでなければ仏教本来の存在価値がない」と考える人々が現れます。

彼らは、お釈迦さまも元は自分たちと同じ人間なのだから、仏教の教えに従えば誰もが釈迦と同じ悟りを開き、人々を救済することができると考えました。

そして。
彼らは自らを『菩薩(悟りを求める者)と呼び、万人を救うことができる自分たちの仏教に誇りをもって『大乗』と呼んだといいます。

この〝小乗〟〝大乗〟の〝乗〟は乗り物、という意味で、悟りの世界『彼岸』に渡るための〝船〟のようなもの。
〝大乗〟は『大きな乗り物』、『優れた乗り物』の意味で、多くの人々が一緒に悟りの世界に行ける巨大な乗り物を意味し、『ノアの方舟』のようなもの。
一方初期の仏教はごく一握りの人しか救うことのできない、一人乗りの手漕ぎボートのようなものであるとし、『小さな乗り物』『劣った乗り物』という意味で『小乗』と呼んだのです。
つまり、この呼称は大乗仏教を唱えた人々が初期の仏教徒に対して使われた蔑称であったのです。


そこで小乗という言葉ではなく『上座部仏教』という言い方があります。『上座』とは〝長老〟の意味で、初期の仏教を保守的な長老たちが中心になって形作ったことに由来するのだといいます。

No.213 23/02/22 16:52
旅人さん0 

小乗仏教では基本『釈迦如来像』、お釈迦さまをモデルにしたもの、とのことでしたが、私は御仏像が大好きですので、他の如来さまや菩薩さま、明王さまや〝天〟さまなど、さまざまな御仏の御像のある大乗仏教の国でよかったなぁと、あらためて思ったものであります。


…とはいえ。
そもそも、小乗仏教、大乗仏教という言い方をされてはおりますが、元をただせばあくまでも一つ。
お釈迦さまの説かれた教え、であります。

もともと、すでに釈迦の在世中に、仏教はインドにおいて一大宗教へと発展しておりました。

人々がお釈迦さまが入滅されてからの時代、どうその御教えを守っていくか、…それこそ今の世に伝えられている『経』を作成したりし、なんとか釈迦の伝えようとしたものを守ろうと試行錯誤して、その中で少しづつのズレが生じ、分裂することとなりました。
教えの解釈自体にも少しずつのズレもあったり、広めたい思い、修行して深めたい思い、…いろいろあったと思います。

その大きく分かれた二つが、この〝小乗仏教〟〝大乗仏教〟と呼ばれるものでありましょう。
釈迦入滅後、長い長い年月を経て。大乗仏教の伝わった、この日本という、世界規模で見れば小さな狭い国でさえ、たくさんの宗派、十三宗五十六派が存在しています。


釈迦亡き後、仏教はアジアの広い地域に伝えられていきました。
大きく分けてインドを中心に南に伝えられたものと、北に伝えられたもの。
前者を南伝仏教、後者を北伝仏教と呼びます。

南伝仏教は釈迦が亡くなられてから二百年ほど経た紀元前三世紀ごろに〝セイロン島(現在のスリランカ)〟に伝えられ、その後タイやビルマ(現在のミャンマー)、カンボジア、ラオスなどの東南アジア諸国へ。
これらの地域にはいわゆる『小乗仏教』が伝えられています。

一方、北伝仏教は古代ガンダーラ(現在はパキスタン領)からシルクロードを通って中央アジア諸国に広まり、紀元一世紀には中国に伝えられました。
そして四世紀には朝鮮半島に、六世紀(538年)には朝鮮半島から日本へと伝えられます。
これらの地域には『大乗仏教』が伝えられました。
大乗仏教は中国からチベットに、さらにはモンゴルにも伝えられました。






No.212 23/02/21 14:05
旅人さん0 

初めて造られた仏像は、出家後の釈迦をモデルにした〝如来像〟でありました。最初の仏像が造られた『ガンダーラ』は古代インドの北西部にあたり、現在はパキスタン領、かつての都であった〝プルシャプラ〟は現在〝ペシャワール〟という都市にあたるといいます。

古くからシルクロードの要衝として発展し、東西文化の〝十字路〟として栄えたといいます。
さまざまな民族がやって来ては住みつき、なかでもギリシャ人は早くからこの地に定住し、ギリシャ神話に登場する神々の像を造っていたそうで、初めての仏像はその神像制作の技術を活かして造られたと考えられています。
このことから、ガンダーラの仏像は彫りの深い、西洋人的な風貌に造られています。

ガンダーラで最初の仏像が造られてから約百年後、マトゥラーでも仏像が造られます。
マトゥラーはインド北部に位置する古くからある国で、インド古来の民間信仰など、さまざまな宗教が栄えたといいます。

後に仏教が盛んになり、ガンダーラに少し遅れて仏像が造られるようになった、といいます。

二世紀の後半のカニシュカ王の出現によってクシャーナ王朝の領地となり、仏教美術の黄金期をむかえるこになります。

この頃になるとガンダーラとマトゥラーの仏像は相互に影響し合いながら、
全く違う様式の優れた仏像を次々と造り出すようになったのだそうです。

三世紀の半ばクシャーナ王朝が衰退し、その後新たに起こった王朝も仏教を排斥することはなかったようでしたが、旧来の『バラモン教』の復興に力を注いだとされます。



その結果、量的には仏像制作は量的には下降線をたどることとなったようですが、質的には全時代を凌ぐ傑作が造られたといい、インド仏教の嚆矢としての一時代を画することになったのです。

薄絹の質感を表した優美な衣の線を彫り出した仏像は、この時代の、『マトゥラー仏』の典型とされている、もいいます。

紀元前三世紀にはセイロン島(スリランカ)に。さらにはカンボジアやミャンマー、タイなど東南アジアに伝えられますが、これらの地域には『小乗仏教』が伝わり、仏像はかなり後になってから造られるようになります。

今でも小乗仏教の信じられている仏教国で造られる仏像はほとんどが〝釈迦如来像〟なのだといいます。

それ一つみても〝小乗仏教〟と〝大乗仏教〟は異なるものであります。

No.211 23/02/21 13:14
旅人さん0 

ガンダーラ、といえば、ゴダイゴ歌うところの『ガンダーラ』を思い浮かべます。
大好きな歌であり、この歌がエンディング曲でありました『西遊記』もまた大好きなドラマでありましたし。
日本の〝地理〟ですら小学生にすら及ばない私、パキスタン領のガンダーラといって思い浮かぶものなど何一つない人間ですので、当然のようにここ、この『ガンダーラ』、という曲にたどり着くのです。

同じく『ゴダイゴ』が歌った『銀河鉄道999』もまた大好きな曲であります。


このたび、国民的漫画家であります松本零士さんがお亡くなりになられたことが報道されました。

心に残る歌は、心に残る映像があってより心に残るものとなっております。

銀河鉄道999のメーテルの神秘的な美しさと、謎めいた人物像はそれだけでも心を釘づけにいたしました。
さらには鉄郎の勇気ある行動が、これから大人になる自分の目指す生き方、歩み方を示してもくれました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

No.210 23/02/21 03:53
旅人さん0 

京都市内、北は今出川通りから南は九条通りまで、西は西大路通りから東山の麓までの範囲に立つ三十三の寺院と、そこにお祀りされている観音さまを拝んで巡る【洛陽三十三所観音巡礼】というものがあるという。
この観音巡礼、平成に再興されたものなのだといいます。
平安時代に起源をもち、数度の衰退を経て、平成十七(2005)年に百数十年の時を経てよみがえった霊場巡りは、その再興に尽力された『東向観音寺』の上村副住職と、『城興寺』の上原住職、『椿寺 地蔵院』の伊藤住職のお三方によるものだったという。

『洛陽三十三所観音巡礼』は明治の神仏分離令によって廃れ、寺院それぞれに古い石碑や古文書は残っていたものの、札所同士の交流も長らく途絶えていました。

その切れてしまった縁を再び結びつけたのは、椿寺 地蔵院に保管されていた古い資料だったといいます。

もともと古い文献を調べることがお好きで「洛陽三十三所観音巡礼」に興味をもたれていた東向観音寺の上村副住職、と椿寺のご住職、城興寺のご住職は、この記録から現存する寺院を調べ、同じ宗派や知り合いをたどって、各寺へ声がけを始められたといいます。
これが再興への第一歩となり、賛同する寺院が徐々に拡大していったのだといいます。


お三方は、宗派も異なり、たどるつてもない寺院へは、なんと"アポなしの突撃訪問"をされたのだといいます。
この行動を始めたところ、実は以前から檀信徒さんたちに再興を望まれていたお寺や、独自で調べていたというお寺も多数あったことがわかり、この好機の到来は「まさに観音さまのお導き」だったとおっしゃっておられるそうです。


うーん♡
洛陽かぁ。

京都♡
ひと月泊まり込んでも廻りきれない、見切れないだろうなぁ。
そこに洛陽三十三所観音霊場巡りを加えたら、ふた月?

うーん Σ(-᷅_-᷄๑)。

No.209 23/02/21 03:31
旅人さん0 

(前回のものとほぼ内容は同じなのですが、誤字等あり、直したものです。すみません。)

十大弟子はインド風の風貌、でもそれをモデルとしたという十六羅漢は容貌、風体ともに中国風、というところになんだか矛盾を感じるものであります。

それでも、十大弟子さまの御像、そして羅漢さんのお像は明らかにその雰囲気は異なるものです。
羅漢さんは見ていて飽きないくらい、喜怒哀楽の表情を見せていたり、ユーモラスなすがたのものも少なくありません。
だから、逆に「学ぶべきことを全て学び尽くし、これ以上学ぶことがなく、聖者の境地に達したもの」とされ、『修行の目標』としていると言われると、…うーん。
この像を造った人って、そういうことを知っている? と思ってしまいます。


実は、もともとは仏教も『偶像否定』といった方針でありました。
実在の人物であったとはいえ、あまりにも偉大な存在だった釈迦をわれわれと同じ姿かたちで表すことは,畏れ多いと考えられていたからです。

イスラム教などは厳格な偶像否定で、絶対神である『アラー』の姿を造ることは厳しく禁じられていますし、
キリスト教でも『イエス・キリスト』や『聖母マリア』の像は造られますが、全知全能の神『ヤハウェ』の姿は造られることはありません。


このような偶像否定の中で、仏教徒は釈迦の遺骨を納める仏塔(ストゥーパ)を礼拝の対象として信仰を保っていました。
その後まもなく、その仏塔の周りに釈迦の生涯を表した『仏伝図』が『レリーフ』で描かれ、仏教徒たちはそれを見て釈迦の遺徳を偲びました。

仏伝図には釈迦の人生における重要な時期である【釈迦八相】(『降率(ごうとそつ)』・『托胎』・『出胎』・『出家』・『降魔(ごうま)』・『成道』・『転法輪』・『入滅』をモチーフにしたものが描かれてます。
それでも、この頃はまだ、釈迦の姿は表されていません。
菩提樹や法輪、仏足石などのシンボルで表されたり、釈迦のいるところをわざと空白にしたりして表現されているといいます。

しかし。
時代が下ると人々の釈迦への思慕の念が高まり、それが原動力となって仏像から誕生したとも言われています。
最初の仏像は紀元一世紀の半ば頃ごろ、現在のパキスタン領のガンダーラで造られたといいます。

No.207 23/02/20 04:49
旅人さん0 

十大弟子が羅漢像のモデルとなった、というお話がでましたので、【羅漢】についても記しておきます。

【羅漢】とはサンスクリット語の『アルハット』を音写して『阿羅漢』といい、それが略され『羅漢』と呼ばれます。
『価値あるもの』『尊敬すべきもの』の意味だといい、仏の教えを学び、修行して『聖者』の境地に達した者のこと。
また学ぶべきことを全て学び尽くし、これ以上学ぶことがないことから『無学』ともいわれます。


…。
「アラカン」ともいえる年を迎えたというのに学ぶべきことが山ほどあり、「無学無教養」の私とは対極した存在でありました。

…話を元に戻します。


お釈迦さまの眷属として仏法を護る十六人の阿羅漢を選んで『十六羅漢』といい、五百人の羅漢を『五百羅漢』と呼び、石などで像を造られます。
『羅漢』を修行の目標として重視する『禅宗』では特に重要視されているといいます。

…なるほど、十六羅漢像のある寺院は禅宗であることが多かったんだなぁ。…そう言われてみれば、…たしかに。


ちなみにこの羅漢像、インドでは造られることはなく、中国で盛んに造られるようになったといいます。それゆえ容貌・風体ともに中国風に造られるのが特徴といいます。

また、禅宗の中でも【黄檗宗】の寺院では二羅漢を加えて『十八羅漢』をまつるといいます。


十六羅漢は単体でまつられることはありませんが、例外的に【鬢度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ)尊者】のみが単独で寺院の縁先などにまつられています。
そうあの【お賓頭盧(びんずる)さま】、であります。


賓頭盧尊者は出家して悟りを開き、神通力を得たといいます。
しかしその神通力を濫用したために釈迦に厳しく戒められ、西方の地に留まって衆生を救済するように命じられた、といわれています。

賓頭盧尊者はその神通力で病気を治すともいわれ、そこから「自分の病んでいるところと同じ部分を撫でると治る」という俗信が生まれました。
それが江戸時代、『撫で仏』となった経緯のようです。

ところが江戸時代に『眼病』が流行した時に、人々が競ってお賓頭盧さまの目を撫でたため、眼病に罹っていない者も目を患い、かえって眼病が蔓延してしまったという事態が起きたといい、そのため周囲を金網を張った柵で覆われてしまったり、しまわれてしまった時期があったといいます。

No.206 23/02/20 04:11
旅人さん0 

涅槃図の覚書 その4

【摩訶迦旃延(まかかせんねん)】
お釈迦さまがお生まれになったときに、仏陀になるだろうと予言した【アシタ仙人】の弟子でありましたが、釈迦が悟りを開いた後は、アシタの命により仏弟子になりました。論議に優れていたため「論議第一」といわれます。


【優波離(うばり)】
もとは宮廷に仕える理髪師でしたが、その国の国王と共に釈迦のもとで出家したと伝えられます。戒律に精通し、仏弟子中もっともよく戒律を守ったことから「持律(じかい)第一」といわれています。


【羅睺羅(らごら)】
釈迦の実子。
『仏子羅睺羅』とも呼ばれます。
父が悟りを開いたのち、出家して仏弟子となります。
釈迦の子どもとして特別視されることを嫌い、一際厳しく戒律を守ったと伝えられます。このため「密行(厳しく戒律を守って修行すること)第一」といわれます。


そして前述しました『阿那律』と『阿難(陀)』は釈迦の従兄でありました。

『阿難』または『阿難陀』について書き添えますと、阿難は十大弟子の中最も修行の進展が遅かったといわれ、そのため釈迦が亡くなったとき、他の仏弟子たちがその死を粛然と受け止めたのに対し、阿難は号泣して失神したと伝えられます。

また、お経では【如是我聞(にょぜがもん)】=「このように私は聞きました」と書き出されることが多いようですが、この『我(=私)』は、「多聞第一」といわれた阿難のことだといわれています。

No.205 23/02/19 23:28
旅人さん0 

涅槃図の覚書 その3

お釈迦さまが亡くなられたときの光景ですので他の弟子たちも描かれていますが、釈迦に先立って亡くなった『舎利弗(しゃりほつ)』と『目犍連(もっけんれん)』、そして布教の旅に出ていて釈迦の臨終に間に合わなかった大迦葉(だいかしょう)の三人は描かれないこととなります。


釈迦の弟子のうち、卓越した十人を『十大弟子』といい、いずれも実在の直弟子をモデルにしたものといわれ、経典にしばしばその名が登場します。
端正なインド人風の風貌に造られるのが一般的で、十六羅漢は十大弟子をモデルにしたものといわれています。


その他のお弟子さんについても簡単に書き添えておきます。

【大迦葉】
弟子の中で最も信望が厚く、釈迦亡き後リーダーとなって教団をまとめたと伝えられます。
非常に厳しい修行(頭陀行)をしたことから「苦行第一(頭陀第一)」といわれています。


【舎利弗】
目犍連と共に仏弟子になったそうで、出家前から学徳が優れ、優れた智慧を持っていることから「智慧第一」とされています。
仏弟子になって間もなく高弟の一人に数えられました。
『般若心経』の中に「舎利子」という名が二回出てきますが、これが舎利弗のことです。


【目犍連】
舎利弗の隣村出身で早くから親交があり、共に出家したと伝えられます。
神通力(超能力)に優れていたことから「神通第一」といわれます。
餓鬼道に落ちた母親を救うため、釈迦の指導に従って、日を決めて僧侶たちに飲食を供養したといわれ、
これらが【盂蘭盆会】の起源となったといわれています。
目犍連は外道(仏教以外の宗教の信者)の恨みをかって釈迦に先立ち殺されたといいます。


【須菩提】
長者の子でしたが、祇園精舎で出家して仏弟子になったといわれています。
大乗仏教の中心思想である【空(くう)】に精通していたことから「解空(げくう)第一」といわれています。


【富楼那(ふるな)】
釈迦の父である【浄飯王(じょうぼんのう)】の家臣でしたが出家し仏弟子となります。
説法が巧みだったことから「説法第一」といわれています。

No.204 23/02/19 06:58
旅人さん0 

さて。
暦を見ると本日は『雨水(うすい)』。

目覚めてすぐ、雨音の調べが聞こえました。うーん、これくらいの降り方がまさに『ショパンの調べ』、なのかなぁ。(かつて『雨音はショパンの調べ』という流行歌がありました 笑)

雨水は、二十四節気のひとつで、雪より雨が多くなり、雪や氷が解け始めて水に変わる頃とされています。
草木に芽吹きの兆候が見え始める時期でもあります。

たしかに、ねずみの額ほどの庭にある草木も、こんなにも寒い中たしかな芽吹きが見受けられます。
紫陽花の木には赤黒い小さな小さな新芽が。
ボケの木には蕾が。
溢れた種からネモフィラの芽がいくつもいくつも芽吹いています。

春遠からじ。

まだまだ寒い日が続きますが、皆さま、どうかお身体にお気をつけてお過ごしください。

No.203 23/02/19 06:44
旅人さん0 

そして。
早虎稲荷さまの社殿のお膝元には、小さくともたいへん立派な『金毘羅』さまのお社が建てられています。鳥居もあり、人こそ入れませんが縮小しただけとも思われるくらい立派なお社です。


こちらの【片貝神社】さんの境内にはそれはそれはたくさんの石祠、石碑が祀られています。
石仏さまもおられます。

四月には三社の大祭が開催されているようです。
行けたらいいのだけれど…。
普通の参拝ですら駐車場が無くて困ったくらいなので…うーん、ちょっと難しいかなぁ。

No.202 23/02/19 06:36
旅人さん0 

【片貝神社】さん【虚空蔵堂】【早虎稲荷神社】さんは、全て同じ明治三十五年に建てられています。

同じ敷地内で、三社がほぼ同じ面積を使って建てられた、建てられている、のではないかと勝手に推測しました。

決して広くはない敷地内に、地元の方々や信者の方々の篤い、そして熱い思いが込められ詰められて建てられているなぁと、三社をそれぞれ拝させていただき、あらためて思います。

早虎稲荷さんは立派な赤い鳥居が連なっています。敷地にしてはかなり多い数が、奉納されています。
稲荷神社さんではよく見かける光景ですが、なんでも、
願いごとが「通る」あるいは「通った」お礼の意味で、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降広まったから、ということだそうで、鳥居がたくさんある稲荷神社ほど、願い事が「通る」「通った」ということ。
なるほど〜。

ちなみに先ほども述べましたが、こちらの社殿は明治三十五年に建てられていますから、それ以降の奉納、ということになろうかと。
願いを叶えてくださる霊感あらたかな神社さんなのですね。
ただ…これ以降は敷地的にもう鳥居の奉納は無理かもしれません。

鳥居の形は物覚えの悪い私が覚えられた形の一つ『両部鳥居』。
柱にさらに補助のように小さな柱が柵のように前後に二本が付けられているタイプです。
赤い鳥居が連なっている様は、それだけでそこに鎮座されておられる神さまのお力と、崇拝者の思いの強さを感じ、あらためて身を引き締めます。

ところで。
覗きぐせのあるおばさん、ですが、実は大変なビビりでもあるので、基本神社さんの拝殿の中は覗きません。
目を凝らすことはありますが、近くまで行って拝殿の中を覗くまでは畏れ多くてできないのです。

ネットの情報によりますと、拝殿の中には大きな大きな棚が左側の壁一面を使って設けられていて、小さな…あの稲荷神社さんでよく見る陶器製の白いきつねさまが棚一面に並んでいるのだといいます。

鳥居の奉納が難しくなって、こうしてきつねさまの像を納めるようにしたのでしょうか?
ですが、それももう壁一面使った棚にいっぱいなようで、今後はどうしていくのやら。
…まぁ、これはあくまで私の推測からの話ですがね




No.201 23/02/18 23:25
旅人さん0 

ちなみに。

松平朝矩公は1738年午年の生まれ。
十一歳で前橋藩藩主となったのは1749年、巳年のことでありました。

【片貝神社】さんは神職の方が常駐されておらず、ネットで調べられた範囲では、【早虎稲荷神社】さんがいつ造営されたかを知ることはできませんでした。


さらには、群馬県渋川市の【木曽三社神社】さんにも鎮座されていた早虎稲荷神社さんについては資料がなく、片貝神社さんとの関連性の有無すらもわかりませんでした。
こちらはネットで宮司さまのお家がどこかを知ることができましたので、再拝の折御朱印をお願いするという名目で、宮司さまのお宅にお邪魔して、お聞きしてみたいと思っております。

なにか分かりましたら、随時こちらに書いてまいりたいと思っております。

No.200 23/02/17 13:07
旅人さん0 

が。

…何故『寅』なのか。

丑寅年生まれの守り本尊であられる『虚空蔵菩薩』さまが祀られる『片貝神社』さんだから、にしても。
前橋城から『丑寅』の方角にあるから、にしても、〝丑〟だっていいわけです。

…まぁ、うしとトラだったら、誰がどう考えてもトラの方が早いし。
あ、でもこの場合走る速さとかってなんら関係もないのですよね。

午(うま)よりも早い干支っていったら、どこからのスタートかにもよりますが、たいていが『子・丑・寅・卯・辰・巳…』とくるわけで。

なんとなく辰(龍)とかの方が速そうだし、(だから速さは関係していないのだって!)

干支のスタートという意味から言ったら当然『子(ネズミ)』ですし…。
丑(うし)の方が順番的に早いわけですし。

何故?

いろいろ調べてみたんです。

松平朝矩公の、前任地(正確には父の)である播磨の姫路に『早虎稲荷神社』さんはあるか、とか。
生まれ年の干支は何かとか。
前橋藩主になられた年の干支は何かとか。

ぜ〜んぶ、空振り。

奥方さまの…とも思ったのですが、奥方さまの資料はhitせず。

朝矩公って父松平明矩公の急逝により十一歳で姫路藩を継ぐのですが、『姫路』が西国の要所であったため、幼少であることを理由に、その時前橋藩主であった酒井忠恭公(なおかつ、この方は幕閣の重鎮であります)と交代で前橋藩への転封となっておりまして。

朝矩公の頃にはもう〝あの〟名城とうたわれた前橋城も城郭の破壊が進んでいて、本丸まで侵食してしまっておりました。
なので、前橋城におられた期間は十八年。

その間のどこかでこの【早虎稲荷神社】さんを造営されたわけであります。
これがいつだったのか。
巳年の年に前橋藩に転封され、九年後、九年後であればちょうど寅年にあたるのですが…。


まぁ、わからないものはわからない。なにせ二百五十年以上前のことです。

能満虚空蔵尊さまの御堂の前に立つ『狛寅』さんに笑われてしまいましょう。
そしてなにより『虚空蔵菩薩』さまに。

No.199 23/02/17 04:43
旅人さん0 

【片貝神社】さんの社殿の向かって左側にお祀りされているのが
【早虎稲荷神社】さんです。

以前も書きましたが江戸時代中期の寛延二年(1749年)、播磨国姫路藩から前橋藩に転封してきた松平朝矩(まつだいら とものり)公が、前橋城の丑寅の方角にある片貝神社に虚空蔵菩薩が祀られていた事から鬼門除けとしてこちらを造営したと伝えられています。

で。
『早虎』の謎。
な、なんとこの出自、地元の子どもたちが作ったカルタに書いてあったのです。
あ、ちなみにこれはあの『上毛かるた』ではなく、この辺りの小学生が郷土カルタとして作ったもので、市販されてもいないものなのですが、実に丁寧に作られています。

カルタの読み札としては
『の・ 農業の守り神さま 早虎稲荷』。
その裏面に『早虎稲荷神社』さんについて解説があり、それこそに『早虎』の謎が書かれていたのです。

『【早虎稻荷 】
昔、お稲荷様のお祭りは一般に はその年の豊作を祈って、農作業 にとって大事な馬にちなんで二月の初午の日とされていました。
ところが、片貝では、十二支で午 (馬)より順番の早い虎(寅)の 日にお稲荷様のお祭りを行い、より豊かな実りをと祈りました。
そこで、ここのお稲荷様は、「 早虎稲荷大明神」と名付けられたと考えられます。
「早虎稲荷」は、特に 養蚕の神様として崇められていました』
    
     …桃瀬カルタより


…すごくないですか?
いろいろ調べてわからなかったことが、カルタ読み札の裏面の解説でわかったなんて。

ちなみにこの桃瀬カルタは、前橋市立桃瀬小学校の開校30周年記念事業として2001年に作成されたものであります。

私、実は前橋の小学校に通っていたのですが、小学校低学年で転出しており、その直後に開校したようです。まぁ、学区もちがったので、引越ししないでいたところで、この小学校に通うこともなかったし、当時の小学生の情報網で新しい小学校が開設される情報を知り得たかどうか。
…全くの余談でありますが…。(いつもの脱線)


お稲荷様のお縁日、午の日よりも早い虎の日にお祭りを執り行うこととしたことにちなみ『早虎』。
…まぁ、こちらには丑寅の守り本尊さまの『虚空蔵菩薩』さまもお祀りされておりますし、前橋城から丑寅の方角にありますし、寅にご縁のある土地柄であったこともあるのでしょうね。

No.198 23/02/17 04:07
旅人さん0 

書き散らかす、といった言葉がまさに私のこのスレにはピッタリ。
正確には〝書き散らす〟なようですが、〝散らす〟という表現ですと、何か、…たとえば花びらであるとか、少し美しい響きもある気がして、私のそれはまさに、〝散らかす〟。

語彙力もないおばさんが徒然、思い立ったことを思ったままに書き連ねるものだから、話の途中でも〝書きたい〟と思ったことを優先してしまい、戻り様を模索して、なんだかみんな尻切れとんぼのような、尻窄みのもので終わっていたり。

書いた文章に人柄が出ると言われたら、まさに『散らかし屋』『散らかし魔』。
なんとも恥ずかしいことで。

〝等身大〟などというと聞こえはいいですが、ね。まぁ、ありのままの私であります。
それこそお風呂から出たばかり状態。
匿名で好き勝手に書き連ねているからこそ、書いていられるようなもので、それこそ本当にミクルさんならでは、のこと。
感謝しかありません。



で。
何が言いたいか。

とりあえず、あの【片貝神社】さんに話を戻したいなぁと。

ええ、本当にすみません、散らかし魔で。

片貝神社さんに三社ある内の一社が欠けたままでは、もう本当気持ちが落ち着かなくて。
だったらきちんと書き終えてから、次を書けばいいのに、書きたい衝動が抑えられない。…子どものようです。
いや、昨今のお子さまは大変賢く、小学生でも私よりしっかりしていると思うお子さんもおられ、文章なども私より上だと思うこともしばしば。
…まぁ、歳をとると子ども返りするっていうし。

…等身大の私だし。


何よりも、ですね。
〝あの〟『早虎』の謎が解けたんですよ!
これって、以前書かせていただいた【木曽三社神社】さんにも通じる、大切なことなので。

と。いうわけで、群馬県前橋市の【片貝神社】さんに話を戻します。

No.197 23/02/16 18:34
旅人さん0 

涅槃図の覚書 その2

【阿難尊者】
お釈迦さまの側で悲しみのあまり卒倒している人物が十大弟子の一人、阿難尊者です。
長くお釈迦さまの身近でそのお世話をした方で、最も多く教えを聞いた人物であることから「多聞第一」の異名をもちます。容姿端麗な人として模写されることが多く、涅槃図においていかに阿難尊者を美男子に描くかが、絵師の腕の見せ所なのだといいます。



【純陀(じゅんだ)】
集まって来ている人々の中で、唯一、供物を持っている人が純陀です。
実はお釈迦さまはこの純陀から受けた食事が元で亡くなったと伝えられており、一説には、食材の中に入っていた茸による食中毒であったとされています。

容態が悪化するお釈迦さまを見た阿難尊者は、純陀の食事を受けるべきではなかった、と嘆きます。
しかし、お釈迦さまは「私は純陀の食事によって寿命を迎えることができた。臨終の前に食事を捧げることは最も尊い行いなのだ」と諭しました。
この言葉には、純陀を思いやる〝慈しみの心〟と、〝死は厭うべきではない〟という仏教の大切な教えが表現されています。

【阿ぬ楼駄尊者(あぬるだそんじゃ)】

倒れた阿難尊者を介抱しているのが十大弟子の一人、阿ぬ楼駄尊者です。
実はこの阿ぬ楼駄尊者は、阿那律尊者と同一人物だとされます。
多くの弟子たちが悲しみに暮れる中、阿那津尊者だけはお釈迦さまの入滅の意味をよく理解され、当惑する人々にその死を伝えました。
お釈迦さまの葬儀を営んだ際の中心的存在であったとも伝えられています。
仏伝においては、お釈迦さまとその教えを聞く人々との間を繋ぐ重要な人物として描かれています。



前述した通り、涅槃図には人間の他にも多くの動物や虫たちが描かれていますが、その中に猫はいません。
これは、ねずみがお釈迦さまの使いとされていることに由来するとされます。
しかし、絵師が自分の飼い猫をそっと入れたり、依頼主が猫を入れてくれとお願いしたなどの理由によって、猫が描かれている涅槃図もあるといいます。

このような『遊び心』は嘆き悲しむ人々の中にも見受けられ、絵師や依頼主とおぼしき人物が描かれている場合もあるのだといいます。
これには、単に遊び心というだけではなく、お釈迦さまの最期の場面に自分も立ち会いたいという願いも込められているのだといいます。


No.196 23/02/16 18:20
旅人さん0 

涅槃図の覚書。

【阿那律尊者(あなりつそんじゃ)】
摩耶夫人を先導している人。
阿那律尊者は、お釈迦さまの十大弟子の一人で。お釈迦さまの説法中に居眠りをしてしまったことを恥じて、絶対に寝ない、という誓いを立てます。
結果、視力を失ってしまいますが、そのことがかえって智慧の目を開くきっかけとなりました。十大弟子にはそれぞれ異名が付されており、阿那律尊者「天眼第一」の異名をもっています。


【摩耶夫人(まやふじん)】
図の右上に描かれているのがお釈迦さまの生母、摩耶夫人です。
摩耶夫人はお釈迦さまの生後七日目に亡くなったと伝えられています。今まさに涅槃に入ろうとしているお釈迦さまに長寿の薬を与え、もっと長く多くの人にその教えを説いてほしいとの願いからやって来ました。


【薬袋】
お釈迦さまの枕元の木にぶら下がった状態で描かれている赤い袋が、摩耶夫人がお釈迦さまのために投じた薬の入った袋です。『投薬』という言葉はこの故事が元になったとも言われています。
薬は摩耶夫人の願いもむなしく、お釈迦さまに届く前に木に引っかかってしまいました。
なお、この袋の背後に錫杖が描かれていることから、当時の僧侶が許されていた最低限の持ち物(三つのお袈裟と一つの器)を入れたものであるともいわれています。


【沙羅双樹】
お釈迦さまの周りを囲んでいるのが沙羅双樹の木です。
向かって右側の四本は白く枯れています。これは、お釈迦さまが入滅されたことを人間や動物だけでなく、植物も悲しんだことを示しています。
一方、左側の四本は青々と葉を広げ花を咲かせています。お釈迦さまが入滅されてもその教えは枯れることなく連綿と受け継がれていくことを示しているといいます。
葬儀の際、祭壇に飾られる【四華花】は、この沙羅双樹の故事が元になっているのだといいます。


【お釈迦さまに触れる人物】
多くの人々の中で、唯一、お釈迦さまのお体に触れている人物がいます。
お釈迦さまに乳粥を施したスジャータ、
または、お釈迦さまの教えを聞こうと訪れたが時すでに遅く、悲しみに暮れる老女など、諸説存在するといいます。
鎌倉時代の構図の中には、お釈迦さまと阿難尊者、そしてこの人物だけが描かれている涅槃図もあり、重要なメッセージが込められた人物であることは確かなのですが、真相は謎に包まれているようです









No.195 23/02/16 16:17
旅人さん0 

偉大な、仏教の開祖が実在の人物であったかどうか、などと疑うなどとんでもないこと。…とは思うのですが。
髪の色が鮮やかな青色であるとか、体は金色に輝く、とか言われると、それはどうかと思う私がおります。

これは偉大であるが故に、時代とともにさまざまな伝説が加わっているから、でありましょう。

そのほかにも、お釈迦さまはお母さまである摩耶さまの右脇から産まれた、であるとか、生まれてすぐに七歩歩いて『天上天下唯我独尊』とおっしゃった、とかいった類の話であります。

私と違って純粋で素直な多くの人たち、仏教徒の多くはそれらの伝説もほとんど疑うこたなく信じていたのです。
今でも、お坊さんのお話を聞けば、やはりお母さまの右脇から産まれたと言い、生まれてすぐに歩いて話したとはっきりとおっしゃいます。
(苦笑いしながらそう語るお坊さんもおられますが… 笑)

ですが、十九世紀に、インドに進出したヨーロッパ人の中に、インドの歴史や文化、仏教に興味を持つ人々が現れ、彼らは仏典を他の古文書と同様に学問的に研究し、さまざまな考古学的資料を発掘して史実を確認していきました。
実はこれが仏教を科学的、学問的に研究した最初であるのです。


1898年、イギリスのペッペという人物が釈迦の遺骨をまつった仏塔を発掘し、その中から壺に入った人骨を発見しました。
…仏教と関わりない生き方をしてきた人種であるからこそできたことでありますよね。

その壺にシャカ族の聖者をまつったという銘文が刻まれており、その後文献などと照合した結果、これは釈迦の本物の遺骨であることが判明しました。
これにより、釈迦は歴史的人物であることが証明されたのです。

…歴史的発見、ですよね。
でも仏教徒にしてみれば、当然のこと、当然の結果、でしかありませんけれど。


ちなみに。
このとき発掘された釈迦の御遺骨=仏舎利はタイ国王が譲り受け、その一部が日本に贈られて、愛知県名古屋市にある【覚王山日泰寺】におさめられています。

その御遺骨がちょうど米粒くらいの大きさだったことから、…畏れ多いことではありますが…、日本では米つぶのことをシャリと呼ぶようになったようです。

ちなみにサンスクリット語では〝シャリーラ〟といいます。

No.194 23/02/16 06:09
旅人さん0 

そういえば、お寺さんで五色のものといえば、垂幕であったり、吹き流しであったり、旗であったりがあります。

これも青・黄・赤・白…樺色(かばいろ)であったり、緑であったり、紫であったりしますが、いずれにしても五色、なようです。

まず青はお釈迦さまの髪の毛の色、だといいます。…。
青?
むかぁし、むかしの方だから、そんなこともあったのでしょうか。
うーん。
…たしかに、御仏像の髪の毛(?)は青であることが多いです。
が、仏典に〝釈迦の髪の毛は鮮やかな青色である〟とはっきりとき説かれているとのこと。
うーん。

そして黄色はお釈迦さまの体の色。…これも仏典に〝釈迦の体は金色に輝く〟と説かれているようです。
ええ、仏像も金箔などで金色に輝いておられます、はい。

赤は血液の色。
うん、よかった。これが緑だったらもはや信じないところです。
お釈迦さまが人々を教え導こうとする情熱を象徴しているとのことです。

白は歯の色で、仏典に〝釈迦の歯は純白でこの上なく美しい〟と説かれているといいます。

残りの…樺色だったり、紫だったり、緑だったりは衣の色、だといいます。…お坊さんの、なようです。


まぁ、これも諸説あるようですが、ね。



No.193 23/02/16 04:42
旅人さん0 

食い意地のはったおばさんは、まだまだ涅槃団子を引っ張ります 笑。

そう、いただいたお饅頭に付けられた赤・黄・緑の点。

以前、先代のご住職の代にうかがった涅槃会では、赤・黄・緑に白の四色のお団子をいただきました。

この色の意味って…。

実は涅槃団子は、仏舎利(ぶっしゃり)を模したものといわれているのだといいます。

仏舎利とは、お釈迦様が亡くなって火葬をしたあとの御遺骨のこと。

『仏舎利を巡って、お釈迦様のお弟子さんたちの間で争いが起こらないように平等に分配した』という話に倣い、涅槃会では集まった人々に、仏舎利に見立てた涅槃団子を配ったり撒いたりするのだといいます。


以前こちらのお寺さんで涅槃団子をいただいた際、食べると一年間無病息災で過ごせるといわれ、お守りとして小さな袋に入れておくのも良いということをうかがいました。
生まれて初めてお授けいただいた涅槃団子が嬉しくてありがたくて、離れて暮らす子どもたちにも食べさせたくて、冷凍しておいて帰ってきたときそんなことを言い伝えながら食べさせたものです。


…涅槃団子の色の意味は?

そうそう、この色の意味。
涅槃団子が仏舎利を模したものとするならばそんな色があってはおかしいだろうと思うのです。

その色はなんと、赤・黄・緑・白のほか、黒といった全部で五色、なようで。
黒を除いての四色であることもあるともいわれています。

…だって、仏舎利、…御遺骨、でしょ?

実は釈迦の骨が五種類の色に輝いたからという説があるのだとか。
うーん、そ、そう、そうかなぁ…。
そんなこともある、のかなぁ。


また、仏教において宇宙は『空・風・火・水・地』の五つの要素によって構成されており、
空=緑、
風=黒、
火=赤、
水=白、
地=黄を意味しているという説もあるといいます。

そ、そうだね、それが良い、かな。
そっちの方がいいかな。
お骨が五色って、…たしかに有難きこと、有難いことが起こるほどの偉大さとか、非凡さとかに通ずるかもしれないけれど。

五色の骨って…なんか不気味な気がするのは、私だけ?ですか?





No.192 23/02/16 04:04
旅人さん0 

涅槃会の法要のあと。

涅槃団子、ならぬ涅槃饅頭をいただきました。
掌で包み込めるかどうか、くらいの、ちょうど十五夜などでお供えするお団子くらいの大きさの、赤・緑・黄色の小さな点のついたお饅頭でありました。

これがほどよい、上品な飽きのこない甘さのこし餡で。
これをなんと八個もいただきました。

参加費とかは一切ないので、檀家でもない私は申し訳なさにお賽銭箱にいつもよりかなり多めにお金を入れてまいりました。

一般にはお団子であることが多いようですが、京都のあるお寺さんではな、な、なんと!『お釈迦さまのはなくそ』と呼ぶお供物をお配りしているところがあるのだとか。

…よりにもよって、…はなくそ。

そういうことにくいつく辺り、お里が知れるといいますかね。

でも、びっくりしませんか?
かなりのインパクト、ですよね。
…京都では別のものを示すことがあるのでしょうか?

漢字で『花供曽』と書くのだといいます。

京都の左京区にある天台宗のお寺【真如堂】(=真正極楽寺(しんしょうごくらくじ))さんの、御本尊である阿弥陀さまへの供物とした鏡餅を、細かく刻み、軽く焼いて黒砂糖をからめた『あられ』だといいます。

寺伝によれば、仏さまへの供物を意味する「花供御(はなくご)」に由来するとされるようですが、これも定かではないといいます。

こちらでは、古くから涅槃会に際して参拝者に授与しており、供物の「御下がり」として、食べれば一年、無病息災で過ごせるといわれているといいます。
ちなみにこの製造は老舗の和菓子屋さんだそうですので、今もこの鏡餅が使われているかどうかは定かではありませんが。

現在では、同じく京都の【東福寺】さんの涅槃会でも『はなくそ』は授与されているといいます。
ただし、こちらは黒豆やあられを飴でからめたものだとのことで、やや形状は異なるといいます。
.京都以外の涅槃会でも、こうした『はなくそ』をお配りされるお寺さんはあるのでしょうか、ねぇ。

それにしてもやはり『はなくそ』とは、なんとも大胆な呼び名であります。

ただ。こうしたありがたいお供物にユーモラスな名前を付けるところに、京都の人々にとっての『涅槃会』やお釈迦さまに対する親近感が伝わってくる気がいたします。

こうした宗教と人々との密接かつ日常的なつながりがあるのが、京都という町の特質でもあるだろう。

No.191 23/02/15 19:21
旅人さん0 

涅槃図はそのお寺さんお寺さんで異なり、おそらく同じものは一枚としてないのでしょう。

ただ、涅槃図の基本的な決まりごととして、
十五夜の満月が中央に描かれ、右上の雲間に、お釈迦さまの生母である摩耶夫人が駆けつける姿がえがかれています。
そして。
八本の沙羅双樹(四本は入滅の悲しみで枯れ、残り四本は供花として花が咲いている)の根元に、北を頭に、西を向いて横たわるお釈迦さまが。

そのまわりを数多くの仏弟子たちが取り囲み、そのなかには菩薩などの姿もみられ、その光景は荘厳なものであります。

弟子のみならず動物も駆けつけ、お釈迦さまの死を悲しむ姿が描かれています。
本来の「涅槃絵」では描かれることが稀な魚類、昆虫などが描かれたものもあります。(夫の実家の檀那寺さんのものがまさにそれでありました)

描かれる姿もとても写実的であり、動物たちは手向けの花を口にくわえたり、手に持ったりして、お釈迦さまの死を悼んでいる姿はけなげなものであります。


また「涅槃図」には本来猫が描かれることはないのだといいますが、それでもあえて猫を描いたものもある、のだといいます。
京都東福寺の日本最大とされる『大涅槃図』(縦15m、横8m・室町期・明兆作)にも、猫が描かれているといいます。
(ただ、この明兆作の涅槃図は現在修理中のため、今年の涅槃会では呉道子作の『八相涅槃図』が公開されたといいます)

猫を描かない理由は諸説あるといい、
危篤を聞き駆けつけた、摩耶夫人の投げた薬が木にひっかかり、それを鼠が取りに行くことを妨げないためとも、
猫は鼠を捕って殺生をするためともいわれるそうです。

なお、この摩耶夫人の薬を投げるという行為から、【投薬】という言葉が生まれたという説もあるといいます。


私どもは動物好きで、猫も大好きです。
なので猫のいる涅槃図を見てみたいと思うのですが、なかなか出会えません…というより、涅槃図自体を拝する機会があまりないとも言えますが。


いつか東福寺の大涅槃図を拝見できたらいいなぁ。

No.190 23/02/15 16:49
旅人さん0 

涅槃会に参列させていただきました。

このコロナ禍で、檀家でもない私ですのに本当に本当にありがたいことです。

若いご住職さまが初めて執り仕切る涅槃会。
いつもこちらのお寺さんに通っておられる、同派のお寺さんの跡継ぎとなられる、やはりお若いお坊さまと、お二人での法要でありました。

はじめに少しお話をされ、そのなかで涅槃図を拝しながら
「実はこのお釈迦さまが入滅され、その亡き骸を囲んで、ある者は泣き、ある者はその功績を讃え、ある者は感謝の言葉を述べる、この涅槃図に描かれたシーンが、『お通夜』のルーツとも言われています」
とのこと。

…初めてお聞きしました。
まぁ、私の場合、神仏に関わることなく生きてきた期間が長いため、当たり前のことすら知らなかったりするのでありますが。

「お釈迦さまは人。生きる苦しみを知り、生きるということは苦しみばかりだと説いたお方です。修行をされ悟りをひらき、それを生きとし生けるもの全てに、自らが悟り得たことを、個々に合わせてその者が理解できる手段を選んで伝えてくださった方でありました。
その教えを受けた者たちが、お釈迦さまの亡くなられたのち、教えをまとめ、たくさんの経という形にまとめました。
お通夜という席は、そういった故人の人柄や功績を語り合う席であるのだと考えていただければと思います」

「これから法要のなかで、数あるお経の中の一つ、般若心経を皆さんにもお唱えいただきます。般若心経では全ては空(くう)であると説かれています。生きていると落ち込んでくよくよしたりすることもあるかと思いますが、それもまた空(くう)。今日はこの涅槃絵の前で本質を受け止め,真摯に向き合っていけば良いのだというお釈迦さまの説かれた悟りを噛みしめながら般若心経を唱えてみてください」

とおっしゃって、法要を始められました。
お二人ともよく通る澄んだお声であります。御本堂の隅まで響く、ああ、これが修行された方のお声なのだなぁと、しみじみと感じ入りました。

…せんのご住職のときとはまるで異なる、ご自分なりの、今の自分に合った法要をとお考えになられたようです。

No.189 23/02/15 08:07
旅人さん0 

落ち葉が溜まった御堂の前でありました。

御堂の前に香炉があったり、お地蔵さまが屋根でお守りしてあることもあって、ほぼ空間に余裕がないことと、赤城おろしと呼ばれる群馬県特有の強い風が原因かと思われます。

ですが。

そんな落ち葉の上に立ち、御堂の前で姿勢をただしたその時、スッと清らかで研ぎ澄まされた気を全身に受けた気がいたしました。
その気を受けてハッとしたくらいでありました。


そのあまりにも高貴な気に、いつものよう(頭を良くしてください)とか(認知症になりませんように)とかの自分の願い事などをすることなどすっかり頭から飛んでしまい、心の中(いつもお見守りいただきありがとうございます)と申し上げるのがやっとでありました。
いつもでしたら御真言もお唱えさせていただくのですが、それすらもできず、本当にいつもの御礼を申し上げ頭を下げるのがやっと。

小さな御堂であります。
片貝神社さんの社殿と同じ頃に建てられたものと思われます。
軒に〝危ないので乗らないで下さい〟と世話人の方が書いておられたくらいです。


建物など何も関係しないのだ。
神さまや御仏は、敬い崇める気持ち、大切に思う気持ちを見てくださっておられるのだ。
…もちろんこれは私ではない、この地の方々、そして信仰し常にここを訪れお詣りする方々のこと。

そんな風に強く強く感じました。

祈願するのではなく、自ら考えて努力するよう、お教えくださった。
そんなふうに思えました。
…たしかに。
何よりも大切な大切なことです。

それをお教えくださる虚空蔵菩薩さまにお詣りできたこと。
それは何よりもすごいご利益であります。



今日は涅槃会。
いつもお詣りさせていただいているお寺さんの涅槃会の法要に参列させていただきます。
十五日ですので神社さんへのお詣りと。
そして、父たちのお墓参り。

今日は中身の濃い一日になりそうです。

No.188 23/02/14 16:14
旅人さん0 

さて。

次はみぎてにあります【虚空蔵菩薩】堂へ。
片貝神社さんの社殿前から石段を降りて、虚空蔵堂の前にある石段をあらためて登ります。

正確には【能満虚空蔵菩薩】さま、であるようで、立派な大きな石塔が建てられ、【片貝 能満虚空蔵菩薩】と彫られています。

ちなみに、能満虚空蔵菩薩とは虚空蔵菩薩の〝5つの智恵〟を5体の菩薩像=五大虚空蔵菩薩であらわしたうちの『宝光虚空蔵菩薩』のこと、だといいます。


ここから赤城山を見ると、丑寅の方角に赤城山の小沼があり、赤城信仰においては小沼の神である高野辺大明神の本地物は虚空蔵菩薩とされることから、里宮として創建されたのではないかとの考察もあるといいます。

石段を登った一番上のところには、ミントグリーンの金属製のアーチが架けられていて、円の中にそれぞれ一文字づつ、〝虛〟〝空〟〝蔵〟〝尊〟と、レタリングされたような文字が書かれています。

そのアーチをくぐると正面に香炉があり、左右に…!
左右に狛犬ならぬ『狛寅』さんと『狛丑』さんがおられるではないですか♡

先日『狛寅』さんや『狛卯』さんは拝見いたしましたが、こちらは右側に『丑』、左側に『寅』が配置されています。
これは『虚空蔵菩薩』さまが丑・寅年の人の守り本尊とされることから、〝牛像〟と〝寅像〟を建てた、ということなのでしょう。
なかなかセンスが良い♡
しかもこの石像の出来がまたなかなか良くて。
躍動感があってガオォっと大きく口を開けた寅像が〝阿〟で、春の陽だまりでくつろいで座っているような柔軟な顔をした牛像が〝吽〟、となっています。
例によって例の如く、あちこちさまざまな方向からじっくりと拝見させていただきました。

そして中央に大きな香炉があり、その右側には二体のお地蔵さまの像が祀られていました。

一体は結構新しめなもので『子育て・子授け地蔵尊』とされていました。
もう一体はおそらくあの明治時代の悪しき行いで首を落とされてしまわれたものを、新たな首を継いだお地蔵さまの石像でありました。
こちらのお地蔵さま、大きな亀の上に立っている像であり、特記すべきは亀の上でさらに舟に乗られてお立ちになっておられる…といったもの、なのであります。

惜しい。本当に惜しい。
せめて原形をとどめる場所でもあれば…。

No.187 23/02/14 14:32
旅人さん0 

境内右端に神楽殿があります。
大祭にはここで太々神楽が奉納されるのでしょう。
舞台の前面にある柵が軽くカーブをえがいていてオシャレな感じがいたしました。

こちらもコロナ禍だからなのか手水舎の水はありませんでした。

そして。
中央に建つ【片貝神社】さんの社殿前に、七、八段の石段があり、そこを登っての参拝となります。
両隣にある『早虎稲荷神社』さんの社殿、『能満虚空蔵尊』の御堂は同じ高さの境内となります。


まずは片貝神社さんへ。
あまり大きくはない、明治から昭和にかけて建てられた建物と思われる社殿です。
それでも、村社であったことを考えると、三つの、それぞれが同じくらいの建物であることを考えると、かなり立派な神社さんだと思います。
建物は白木のまま、なのですが、龍や花などの彫刻の部分を平成くらいの時代で塗り直しているのでしょうか、鮮やかな色が目を引きます。

原色の赤やら青やら黄色、黒、水色、緑…、すこぉし現代的アートの色合いの強い、インパクトのある配色です。
社殿自体は白木のものが経年変化したものなので、余計にその彫刻…というよりはその色が目につきます。

虹梁に梅の枝が彫られているのですが、花が赤く塗られ、若い枝は緑で彩色されていて、たいへん目立つものとなっていました。
その上で睨みをきかす龍は、ガンダムのザク(グレーを混ぜたようなグリーン)の色に紺の鱗、お腹の部分はクリーム色と、やはり現代的な彩色で。
語彙力のない私がガンダムのザクの色、などという表現をするから余計に現代風に感じられますかね。ご存知の方でしたら一番イメージしやすい色合いかと思います。とにかく私は一目見て「ザクの色だ」と思ったもので。

扁額には金属製の社紋が付けられていてその下に『片貝神社』と書いてあり、中央上部に『神祭』と右から左に書き、その下に大きく【天之御中主神】と墨書きされています。
厚い板に直接墨書きしてあるよう見えました。
壁面に奉納額が所狭しとまつられていて奉納額の多い神社さんだなぁと思いました。

裏手は石垣が組まれており、その石垣に沿って小さな祠がきれいに並んで祀られておりました。

No.186 23/02/14 08:18
旅人さん0 

昨日は遠く青森の地へ出張に出向いていた息子が、近くまで来たからと、お土産を届けてくれました。

一日早いバレンタイン♡

と思っていたら、今朝は今朝で同居の息子からチョコレート♡

うーん♡
歳をとるのも良いこともある。

No.185 23/02/14 03:06
旅人さん0 

【片貝神社】さんは、群馬県前橋市東片貝町に鎮座し、片貝神社の社殿を挟み、西に『早虎稲荷神社』、東に『虚空蔵堂』のある神仏混合の神社です。

神社のある東片貝町は、江戸時代頃からある地名であり、前橋藩領でした。もとは西片貝村(現 西片貝町)と一村で片貝村と称されていました。
地名の由来は、昔、この辺りを利根川が流れていましたが、水が静かで片方の櫂で漕いで進めたことに由来すると云います。地域は、桃ノ木川右岸の広瀬川低地帯に位置します。
…そう、まさにあの『ブラタモリ』で紹介された。

『桂萱村誌』によると、平安時代初頭の弘仁二(811)年に『伝教大師(最澄)』の弟子【宥海上人】がこの地に庵を結び、自ら彫った虚空蔵菩薩の像を安置したのが創始とされています。

古くは星宮とも称していたといいますが、明治元(1868)年の太政官布告によるかの【神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)】により、
【天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)】さまを御祭神とし、
【虚空蔵菩薩】さまは分離して社殿隣の虚空蔵堂に祀られる事になったといいます。

当初は【桂萱大塚古墳(かいがやおおつかこふん)】の頂に祀られていたのだといい、それを神仏判然令によって分離された際、古墳の前方部を切り崩して本殿を造営したとも記されています。

この『桂萱大塚古墳』は、全長約五十七メートル、後円部高さ約七メートルの前方後円墳。
社殿脇に横穴式石室が開口しているのだといいます。
前方部は神社の社殿で完全に削平され、後円部も前方部側に社殿があり一部墳丘が削られ石垣で法面が覆われています。
それでも後円部残存部は高さのある墳丘を残しており、墳頂部には月山大神、湯殿山大神、出羽大神、猿田彦大神など石塔が多数祀られているといいます。

また、片貝神社社殿の西隣の境内にある【早虎稲荷神社】は、江戸時代中期の寛延二(1749)年、播磨国姫路藩から前橋藩に転封してきた【松平朝矩公】公が、『前橋城』の丑寅の方角にある片貝神社に虚空蔵菩薩が祀られていた事から、鬼門除けとしてこの稲荷社を造営したと伝えられています。

No.184 23/02/13 17:37
旅人さん0 

その鳥居の手前に。
鳥居手前の右側に、周囲十メートル程の、八角形の【虚空蔵尊鰻池】と称された池がありました。

あっ!

そうだ!
ここだったんだ。
群馬県前橋市のある地域では、いまだに昔からの言い伝え通り『鰻』を食さない地域があると。


『…その昔、この地域で洪水が発生し、古くからこの辺りの人々の信仰の対象であった仏像の虚空蔵菩薩が流されそうになりました。
するとどこからか鰻が現れ、流されそうな虚空蔵菩薩像にぐるぐると体を巻きつかせ、洪水から守ったというのです。以後、鰻は虚空蔵菩薩の化身として人々の信仰を集め続けました。

このように鰻は虚空蔵尊の化身として信仰者から特別の保護を受けてきました。
もちろん片貝の住民は鰻は虚空蔵菩薩の化身なるが故に絶対に食する者はおりませんでした。片貝の水を三日間飲用した者は向う三年間は鰻を食用しなかったとの云い伝えも有った程であります。

特に眼病治癒に霊験あらたかな事から、当時医学の進歩しなかった時代でもあり、難病や眼病の治癒祈願のために鰻を奉献する事を誓い、大願成就して鰻をこの池に放流したといいます。
そのためかこの池の鰻は祈願奉納した患者の身代りとなって眼を患い、片目の鰻となっていたと伝えられています。
また、昔からこの池の鰻を捕ると目が見えなくなると云われていました。
ある時「そんなことがあるはずがない」と言って池の鰻を捕ったところたちまち目が見えなくなってしまったと云われています。


この様な霊験を知って医学の進んだ現在でも、沢山の信仰者からこの池に鰻が奉納されています。』


 
この前橋市の片貝町以外にも「虚空蔵さまの使者や化身である」という理由から、
『虚空蔵さまを祀る地域』および『丑・寅年生まれの人』は鰻を食べないという伝承は日本全国で数十ヶ所もあるといわれております。

それら地域の特徴としては、洪水が多発した・水害が多かったということが共通しているようです。


そして。
少なくともコロナ禍前まで、こちらの神社さんでは四月の祭礼日には『太々神楽』の奉納と共に『奉納鰻』がこの池に奉納=放流されていたとのこと。

ただ、こちらの池、鉄製の結構背の高い柵で囲われていて、しかもポンプで泡がたてられており、鰻がいるかどうかまるで見えなかったのですが。

No.183 23/02/13 16:40
旅人さん0 

こちらの【片貝神社】さんは、鳥居から入る入り口と、祭事のときなどに開けられるであろう門扉があるのですが、入り口はそこだけ。
鳥居からの車の乗り入れはもちろん、鳥居の幅のみが入り口であり、車は境内に入ることは想定しておられない神社さんであります。

鳥居を車でくぐったり、参道をタイヤで踏みつけたりすることに大変抵抗があるものですから、これはこれで大変好感を持てました。
が。
車…、どうしましょ。

ごみステーションのそばにスペースがあるのと、例の門扉の前にちょうど一台車を停められるくらいのスペースがあります。

車で来られた方って、どうされているのだろ。

で。
結局、この日は土曜日ということで、ゴミの回収はされないという判断のもと、ゴミステーションのそばのスペースに置かせていただくことに。
門扉の前ってやっぱり抵抗があるじゃないですか。

ここに停めると決めるまで、実に車で片貝神社さんの横を行ったり来たり。
ぐるっと一周どころか二周してしまいました。
近くに公民館とか無いんですよね。


と、いうわけで、なんとか、近隣の方にも、道を走る車の方にも迷惑をかけないだろうところへ車を停めて…。

ようやく【片貝神社】さんの鳥居の前に立つことができました。

No.182 23/02/13 12:57
旅人さん0 

さて。

前橋市富士見町に鎮座される【八大龍神宮】さんの参拝の後、妻思いの夫は、以前から私が参拝を熱望してありました、同じく前橋市の片貝町というところにある【片貝神社】さんと、【虚空蔵菩薩】さまのお祀りされた御堂に向かってくれました。

【虚空蔵菩薩】さまは、知恵の菩薩とも評され、人々に知恵を授けてくれるともいわれる仏さま。

同じように知恵を司る仏さまに【文殊菩薩】さまがおられますが、一般に、
学問などの知恵を司るのは『虚空蔵菩薩』さまで、『文殊菩薩』さまは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味する『智慧』を司っているといわれています。

自慢ではありませんが(…どうしてこういう言い回しをするのか、いまだに理解していないのに、この言い回しをあえて使う)、知恵も智慧もない私。

私の、微少しかない知恵を司るという『虚空蔵菩薩』さま、智慧を司る『文殊菩薩』さまが祀られていると聞けば、すがる思いで詣でたいと思う。
そんな切実な思いを抱く妻のために、今回はかねてから熱望しておりました虚空蔵菩薩さまをお祀りすることで有名な片貝町へ連れて行ってくれました。

…まぁ、祈るばかりではいけないことは充分承知はしているのです。
してはいるのですが、やっぱり『虚空蔵菩薩』さま、『文殊菩薩』さまがお祀りされていると聞けば、参拝させていただき、あやかりたいと願う。
…そんな切実な思い、願いを抱く妻を乗せて…到着いたしました【片貝神社】さん…でありました。


…ない。

駐車場が、ないっ!

No.181 23/02/13 08:43
旅人さん0 

昨日、ブラタモリで紹介されたコースを車で走って。

岩神稲荷神社さんは駐車スペースが少ないので、車の中からの遥拝いたしました。

何気なく車で走っていた道が、なんだかとても新鮮で、それだけで得した気持ちになりました。

県庁もいつも以上に人出が多く、春の陽気に誘われてやって来られた方々なのか、ブラタモリの影響なのかはわかりませんが。

県庁のすぐそばの敷島公園は、スタジアムに向かう車が渋滞の列をなしていました。敷島公園は薔薇で有名ですが、一昨日からの春の陽気に梅の花が咲いていました。
白梅、淡い桃色の梅、濃いピンクの梅。


暦の上では〝春〟でしたね。

No.180 23/02/12 06:26
旅人さん0 

昨晩のNHKのブラタモリ、予約していたにもかかわらず、何故か時刻を迎えてもチャンネルが変更されず、焦ったところからスタートするあたり、こんなとこまで珍道中?と思わずにいられなかった私。

慌ててチャンネルを変えて。

いきなり『岩神稲荷神社』さんの【飛石】からのスタートに思わず(やったぁ!)と、心躍るおばさんでありました。

画面からはよく散策しているコースが映し出されます。
県庁の辺りから前橋東照宮すぐそばの公園、そしてもう一つ予想していた【臨江閣】。

古墳もあつかわれて、すっかり上機嫌なおばさんでありました。
まぁ、古墳は吉永小百合さんが訪れたものとは違う古墳が紹介されていましたけれど、ね。

お城も総社の方のものではなく、前橋城の方でありましたが。

「前橋市に所在する県庁は、かつての『前橋城』の建物をそのまま利用していた…」

あ、そうだ、そうだったよ。
すっかり忘れていましたが、私の小学生の頃はまだその前橋城の建物を利用したもので、そこへ社会科見学に行ったものでした。
夫は行かなかったらしいんですが、その頃通っていた小学校(教諭)にもよりますし、ね。…その話をしたところ、たいそう悔しがっていた夫でありました。

ただ、ね。
前橋城って、川の氾濫を受けて一部が流されてしまい、当時の殿様が違う県に移り住んだくらいの、なんとも哀れな感が私の中には強くて。
その前橋城が名城だったことなんて、すっかり頭から抜け落ちていました。

それを、土地を見て
「ここは城を建てるには絶好の土地じゃないですか」
というあたり、タモリさんの学の深さに改めて頭が下がりました。
本当に頭のいい方なんだなぁ。

どうしても自分が子供の頃、お笑いタレントだった頃のタモリさんの芸風を知る者としては、びっくりするところから始まることが多いけれど、本当にすごい知識を持つ方だと思います。


さて。
そんな昨日は、【建国記念の日】ということで、珍道中ペアは近くにある【神明宮】さんを参拝させていただきました。
梅が咲いて、春らしい陽気であった昨日、神明宮のお社もいつも以上に明るくみえました。
一昨日の雪の日から一転して穏やかであたたかな日となりましたことも、神さまのお力と強く感じて、あらためての感謝をお伝えいたしました。

No.178 23/02/11 05:28
旅人さん0 

(寄り道の長いおばさんですみません)

この石にまつわる伝承で、

昔、石工達がこの岩を削って石材にしようと考えたことがあった。そこである石工がこの石にノミを当てて打ち込んだところ、その部分から血が噴き出してきたという。そして打ち込んだ石工は急死し、誰もこの石を削ろうという者はいなくなり、やがて祟りを鎮めるために神社を建立したという。



ものがあります。

その後、厩橋藩初代藩主の酒井重忠公が稲荷大神さまを勧請し、『岩神稲荷神社』さんとなったようです。

この石(岩)、見るだけで本当に神秘を感じ、自然の大きさに畏敬の念を抱かずにはいられないのであります。


有名か、と言われたら、うーん、どう、かなぁ。

でもこのロマン。


…タモリさん、好きかなぁ。

岩神稲荷神社さんと、岩神の飛石が大好きな私としては、ぜひ見ていただきたいと思うのであります。


No.177 23/02/11 05:19
旅人さん0 

寄り道のつもりで書いた【岩神稲荷神社】さんの【飛石】のことがどうしても語りたくなってしまいました。
ブラタモリで扱われるかどうかもわからないし、遠回りして寄り道しているみたい。(…思えばそんな子供時代であった気がする私です。)

岩神稲荷神社さんは町によくある、地元の方が管理している神社さんであります。
お社は大変新しくて、そこを見るだけでも地元の方がいかに大切にされているかを計り知ることのできる、神社さんであります。

【飛石】と呼ばれる岩に、上野厩橋(前橋)藩初代藩主であり、雅楽頭系酒井家宗家初代の『酒井重忠(しげただ)』公が稲荷大神を勧請したことから岩神稲荷神社と称され今に至ります。

神社の背後に小さな山のような巨大な石が見えます。
これが『岩神の飛石』と呼ばれる巨石で、その大きさは周囲約70m、地表に出ている部分の高さは約10m、そして地中にもさらに約10mも埋もれているといわれています。
相当遠景からでなければ石全体を写真におさめることは出来ず、神社の背後から見るとほぼ完全に社殿が隠れてしまう程の大きさであります。
赤褐色の火砕岩と溶岩で構成されているといいます。

昭和十三(1938)年に国指定天然記念物に指定されました。

この『飛石』、長らく赤城山由来とされてきましたが、2016年の科学的分析調査の結果、約2万4,000年前の浅間山大崩落による火山泥流で流されてきた、浅間山由来だと判明したとのことです。

群馬県に住む者としては、この飛石から浅間山までの距離を考えると、その壮大さにビックリいたします。
直線距離でもおそらく五十キロはゆうに離れていると思われるのです。

いわゆる『赤土』と呼ばれる、『関東ローム層』が形成された時期と同じ頃に火山から噴出された岩石であるといい、それが故に、この飛石も全体が赤褐色に近い色をしています。
関東ローム層って…いつごろ?
なんでも第四紀と呼ばれる、今から約三万〜一万二千年前とも言われる時代のことのようです。
(…あってるかなぁ)


この石にまつわる伝承の中で最も有名な話も、実はこの〝赤色〟が重要な役目を果たしているのです。


No.176 23/02/10 13:29
旅人さん0 

明日ニ月十一日、NHKのブラタモリは群馬県前橋市が舞台といいます。

「前橋って…何を紹介するんだろ」
と夫。
「私なら…、まぁ『臨江閣』とか、『総社』の辺りとか?
あまり他では見られないだろう珍しいものとしては『岩神稲荷神社』の飛石とか?…マイナー過ぎかなぁ。でもタモリさんって地質とか好きなんでしょ?岩はダメかな。前橋市って大きな岩があちこちにごろごろしてるじゃない」

「まぁ臨江閣はあるだろうな」

臨江閣は明治時代に群馬県令であった楫取素彦や前橋市の有志で建てた、迎賓館であり、貴賓館。
私は一度も観なかったのですが、かなり前にNHKの大河ドラマの舞台の一つであったはずです。
ブラタモリ、NHKですしね。

前橋市は結構古墳も多いけれど、ブラタモリのテーマとなるのがどんな視点なのかがいまいちよくわからない。

あ、タモリさんって吉永小百合さんの大ファンなんでしたっけ?
JR東日本のCMで小百合さんが訪れた古墳の一つが前橋のものだったよな。

あまり誇るところのない群馬県ではありますが、どんなところが紹介されるのか、生まれも育ちも群馬県という生粋の群馬県民は、群馬県が取り上げられるというだけで、ちょっと心が弾んでしまう、のであります。

火山の噴火とかでかなり地形の変化もあった土地でもあります。
うーん、楽しみです♡

No.175 23/02/09 18:04
旅人さん0 

群馬県前橋市の富士見町というところに、以前からずっと気になっていた神社さんがありました。
通り沿いに鳥居が突然あらわれるところも、そして走り去る窓の景色の中ようやく読み取れたその神社さんの名前も、とても気になっていたものでありました。

ただどう見ても駐車場があるように見えず、路駐も無理な所であり、ずっと諦めていた参拝でありました。

ところが。
だいぶ前になりますが、この前を通ったとき、駐車場があるという小さな看板を見つけたのです。

その神社さんは【八大龍神宮】さん。


…龍、好きなんですよ。
龍って、生物としては存在してはいないということもあって、その存在は畏れ多いけれど、なんとも心がワクワクするような存在ではないですか?

八大龍神、八大龍王さまといえば思い出すのが、
『時により 
  過ぐれば民の嘆きなり
    八大龍王雨やめたまへ』
源実朝の有名な和歌の一つです。


この歌には『建暦元年七月、洪水漫天、土民愁歎せむことを思て、一人奉向本尊、聊致祈念云』との詞書があります。

実朝二十歳の時の作品であります。

八大龍王は法華経に出てくる龍の王。雨をつかさどり、主に雨乞いの対象であったといいます。
その神、龍王に向かって、民の嘆きを訴え、祈りを捧げる歌です。

以前にもこの歌については書いておりますが、若干二十歳の若き将軍が、民の嘆きを憂い、神に祈り、歌を作っていることに私はそれこそ小学生のころから感動し、以来実朝公のファンでありますくらいです。


その八大龍神さまをお祀りしている神社さんですよぉぉ。


ようやく念願叶って、参拝することができました。

No.174 23/02/09 10:34
旅人さん0 

一刻も早く一人でも多くの人が救助されますように。

救助隊の方々も二次災害にお気をつけて。
ご無事を祈ります。


地理にも疎い私はトルコやシリアの気温を調べないとわからない。
昼でも一桁台の気温のようだ。
まさに今の日本と同じ気温ということ。

救出後の避難場所が一刻も早く確保されますように。


今朝、臍の緒、胎盤のついた状態の赤ちゃんが救出される映像が流れた。
おかあさんは亡くなられていたそうだ。



わたしには募金くらいしかできないけれど。

大使館に送ることを訴えるツイートをみた。
スマホにスクショして、郵便局へ行く。


トルコ・シリア地震に寄せて

No.173 23/02/09 06:14
旅人さん0 

ちなみに。
拝殿の中は覗けないようなった造りでありましたため、覗きの気(け)のあるおばさんもさすがに覗くことはできませんでしたが、『木曽義長(義仲の子孫・江戸幕府の鍼医師=葦原検校)』の木像も安置されているようです。
木曽三社神社さんの駐車場にあった『箱田の史跡』なる案内の立て看板に書いてありました。

又、ここでは獅子舞の奉納が代々伝えられているとのことで、例祭日に古式豊かに執り行われているそうです。

境内社は八坂神社さん。
いかにも神輿舎、といった風情ではありましたが。

少し離れて池があり、池の周りも草木が植栽され、四阿もあって感じいい境内です。
元文五(1740)年の庚申供養塔、安政年間に建てられた猿田彦大神さまの大きな石碑、寛政年間の道祖神 なども祀られています。

木曽三社神社さんと木曽三柱神社さんに分かれた経緯については、三社神社さんの方で書かせていただきましたので割愛いたします。


…ところで。
こちら『三柱』とあるくらいです、主祭神さまはどなたなのだろう。
ずっとそこが気になっておりました。

主祭神さまは…素戔嗚尊さま・彦火々出見命さま・豊玉姫命さま・宇気母知神さま・恵原山大神さま・御嶽山大神さま・武尊山大神さま・猿田彦太神さま、とあります。
…全然三柱どころじゃないじゃない。
三社神社さんは三つの神社さんの御神体をお祀りしたので『三社』と、私でもわかる社名です。

…三社の分霊を勧請した、ということで三柱としたということでいいのでしょうかねぇ。


この近くには路上に石仏さまがお祀りされているようで、そんな案内板がありました。

石仏さまを拝ませていただこうと歩いていると、先ほどの男性が一輪車(ネコ)に溢れんばかりの大根を積んでご自宅へ向かって歩いてこられました。
みずみずしい見事な大根です。
思わず「みごとな美味しそうな大根ですね」とお声がけすると、
「持ってぐかい?」と。
「いえいえ、あんまりみごとなものだからたいそう申しましただけですので」としどろもどろに述べました私に、
「いいじゃない、こぉんなにいっぺぇあるんだから。もう残りなんだ。あとは切り干しにでもしようと思って採ってきただけだから、よかったら持ってぎない」と。

立派な大根を二本もいただいてしまいました。

まるで神さまがご褒美に下さったかのような気持ちになりました。

No.172 23/02/09 04:56
旅人さん0 


…。
ここへ来て駐車場が無いなんて…。

おっ、隣接した空き地があります。おそるおそる車を入れると、地域の方々が資源を持ち寄り保管している倉庫の駐車場のようで、神社さんとは地続きです。
そこへちょうど前にあるお宅の方が外に出て来られたため、お聞きすると、ここに停めて良いのだと教えてくださいました。ほっ。

あらためて【木曽三柱神社】さんの鳥居の前に。

あたたかな気の満ちた、いかにも地元の方たちに愛されている神社さん、という感じです。
境内はそう広くはありませんが、よく整備され、浄められております。

社殿はさほど大きなものではなく、いかにも昔ながらの村社といった趣であります。
が。
特記すべきはその拝殿から幣殿、本殿にかけての傾斜。
驚くほどに高い位置に本殿があります。

本殿につながる石段が設けてあります。
普段ですとその石段を登って裏手に回り、そこからも御祀りされておられる神さまにご挨拶を申し上げるのですが、何故か私のセンサーが行くなという反応をします。本能が行くなと伝えてくるというか…。

さもありなん、後に知ることに、本殿は『将軍塚古墳』の墳丘上にあるのだといいます。
畏れ多くもお墓(古墳)の上であり、畏れ多くも本殿の建つ場所、センサーが反応したのはそんな理由であったようです。
…今までだって古墳の墳丘の上に建つ神社さんやらお寺さんにいくつも参拝させていただいておりましたものを…。
でも今回はセンサーがそう起動したので 笑。


『将軍塚古墳』は直径約21m、高さ約4mの円墳で、横穴式石室は旧北橘村で確認されている中では最大規模を誇るものだといいます。
その古墳から、縄文時代の石剣が出て文化財指定されています。

『将軍塚』という名の由来は、木曽義仲が近江国粟津で討ち死にされ、家臣とともに当地に落ち延びた三男・義基が、義仲の首級と遺品を納めたからといわれるとのこと。

…なるほど納得。
木曽義仲の首級や遺品を納めたとはいえ、古墳を造るには至らないだろうし、そもそもすでに古墳の時代は終わっていたんじゃないのかなぁと思っていたものですから。

ちなみにこの石剣はかなり出来栄えも良く、かつ保存状態も良いものだったようで、今は渋川市の歴史資料館に陳列されているとのことでした。

No.171 23/02/08 06:14
旅人さん0 

「次はね」

へっ?

今日、渋川市に来ることになったのって、わがままな妻が唐突に「宮田のお不動さまの大祭に行きたい」と言い出したから、ですよね。
前から計画されていたものではない。
次はね、って…。

ま、そんな二人だからこそ珍道中が繰り広げられているわけで。

次に向かったのはやはり渋川市にある【木曽三柱神社】さん、です。
「こんどは三『柱』だからね」
はいはい、字で見てるわけではないので、言わずともわかっていますって。

こちらは畑や民家の広がる中にあり、例のメーカー純正の、何故かへそ曲がりといった人格を持つナビでは検索できませんでした。

こうしたときにも『Google先生』の出番です。

Google先生の指示に従い向かった先には、いきなり通りに面した鳥居、そしてすぐそこに見える社殿。

…駐車場は…?

No.170 23/02/08 06:00
旅人さん0 

この不動堂をさらに奥へと向かうと、【涌玉】と呼ばれる泉があるようでした。

泉の底から小さな気泡が絶え間なく生まれてくるのだといいます。
水のなかで玉が湧くから『湧玉』と名付けられたようです。
そばには『厳島明神』さまがお祀りされているといいます。


絶対再拝できるように。
願をかけてあえてそこへは行きませんでした。

渋川は私の好きな街。
春、そして夏、季節を変えて訪れたいと思っている、そんな街です。

No.169 23/02/07 14:10
旅人さん0 

境内社は、小さな石宮がきれいに並んでおりますものと、稲荷社と、不動堂がありました。

小さな石宮のひとつは、こちらの宮司さまの開いていた寺子屋的な教育の場の教え子が奉納したものもありました。

こちらの稲荷社は『早虎稲荷神社』という扁額が掲げられておりました。
早虎稲荷神社さんというのはどういういわれの神社さんなのか、調べてはみたのですが、わかりませんでした。ただ、前橋市にある『片貝神社』さんにも境内社として『早虎稲荷神社』さんがお祀りされていました。
…実はこの日、偶然にもこの『片貝神社』さんも参拝させていただいています。
なんという偶然なのでしょうか。他では早虎を冠する稲荷神社さんをあまり見たことがないといいますのに。


滝のそばにある御堂には扁額はなく、…覗きの気のあるおばさんが覗いてお不動さまがお祀りされていることを拝見したのでありますが、
明治の神仏分離令を憚って扁額無しでお祀りさせていただいていたのでしょうか。

滝のそばにはお不動さまがおられる、そんな古からの決まりごとわ,どうしても守り続けたかったのでしょう。

木曽義仲公の遺臣の末裔の方々が多く暮らすこの地では、そうしたことも守れたのかもしれません。

No.168 23/02/07 13:46
旅人さん0 

ようやく社殿のお話です。

明治の初期に造られたという拝殿は、白木のままに木目を生かした彫刻が施されていました。


木曽義仲公を失った遺臣たちが、
主君が厚く崇敬した木曽の神さまたちを、七重の箱にお入りいただき、神さまの望んだ土地までご案内申し上げた、
『木曽三社神社』さん。

木曽からはるばるお越しくださった神さまたちは、もともとこの地を守っていた滝の宮の神さまとここにご鎮座くださり、爾来ずっとこの地とこの土地を訪れるすべての者をあたたかく穏やかな目で見守ってくださっておられますことを、拝殿の前に立つだけで実感する、そんなお宮でありました。

前で手を合わせるだけで、拝殿から、ふわぁっとあたたかで穏やかな気が包んでくださるのです。
境内にはまだ雪が残るというのに、まるで春の陽を全身に浴びているかのような。

思えば。
小さな小さな神橋ですが、そこを渡ったあたりからあたたかな気が満ちています。

遺臣たちはここに土着し四方に広がっていったといいます。
義仲公を慕う遺臣たちの思いもこの地に残っているのでしょう。

爾来、今日に至るまで木曽一族の祈願所であるは勿論、所縁ある武将の崇敬も厚かったといい、観応年間、管領上杉憲顕社外の田を寄進し、上杉謙信は武運長久の誓書を奉ったといいます。
徳川の世となっても、領主の尊崇は変わらず、社地の御修復と称して、前橋城主は代々公費を以って営繕をし、さまざまな献納をしたといいます。
また明治時代には皇室からさまざまな御下賜があったといい、お手植えの木がいくつかあるといいます。

そんなご縁から明治四十一(1908)年には宮内省御用生洲として、利根川でとれた鮎をここで清め、天皇に献上したといいます。

昭和十七年六月、大東亜戦争御祈念のため、昭和天皇より金二十円也御下賜あらせられたといいます。

地方の、しかも山村にある、皇室ゆかりの神社でもないというのに…。



こちらの神社さんの霊験あらたかなことが皇室にまで伝わっていたということなのでしょうか。


No.167 23/02/06 21:16
旅人さん0 

文献によると、

『元暦元(1184)年に木曾義仲が滋賀県の粟津で源義経に討たれた後、その遺臣であった今井氏、高梨氏、根井氏(根井行親妻子)、楯氏(楯親忠妻子)、町田氏、小野沢氏、萩原氏、望月氏、串渕氏、諸田氏等が、義仲の三男木曾義基を匿い、群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延びたとされる。
義仲が崇敬した信濃国(長野県)の延喜式内社である筑摩郡の三座「岡田・沙田・阿礼神社」を、勧請して創建したと伝えられるのが【箱田神社】、後の【木曽三社神社】である。

その後、安政二(1855)年、滝之宮=木曽三社神社の神主になった『高梨宮之亮(養子)』は、
養祖父『高梨八千穂』と合わず、宮之亮が社殿を荒廃させ、
この争いが北橘村箱田・下箱田両村の争いに発展した。

宮之亮は実家に帰り、八千穂は箱田村の『今井家』直系子孫が守護してきた『箱田将軍塚古墳(木曾義仲の遺品・首塚)』上に一社を創設した。

これを拝殿と称して箱田村民はここで神拝を始めた。
後に箱田村は新宮を建立、滝之宮(木曽三社神社)より分立、【木曽三柱神社】を創設した』

とあるといいます。


…つまりは、木曽三社神社がまだ滝之宮であり箱田神社であった安政の時代に、跡取りを失った高梨家が養子をとったところ、かえってその社を荒廃させてしまうこととなり、高梨家は新たに『箱田将軍塚古墳』上にお社を造り、…そこの神官を務めることとなった?

今井の家はそれまで守ってきた義仲の遺品等のある『箱田将軍塚古墳』を高梨家に託し、代わって現在の『木曽三社神社』さんを治めることとなり、
高梨家はこの時から『木曽三柱神社』の神官を務めることとなった?…ということ、なのでしょうか?


が。
木曽三柱神社さんの宮司さまが今なお『高梨』家であるかどうかはわかりません。

ただわかっているのは、現在の『木曽三社神社』さんの神官を務めておられるのは『今井』さんとおっしゃる、木曽義仲の遺臣の末裔にあたる方だということです。





No.166 23/02/06 14:50
旅人さん0 

まるで袈裟懸けに斬られたかのように欠損している石像は、遺臣のうちの一人『高梨南学院』の像だと書いている人がありました。
この高梨氏は維新のみならず、木曽義仲が信仰していた三社の神社の神官でもあり、ここに【木曽三社神社】さんを建立したのち、ここの神官を務めた方でありますので、なかなか信ぴょう性のあるお話かと思います。

ところで。

こちらの宮司さま、木曽義仲の遺臣である『今井氏』の末裔に当たるのだといいます。
たしかに『今井』という名の遺臣もこの一行におられましたし、
この今井氏というのが、義仲の四天王の一人であったといい、盤若野の戦いでは今井兼平の軍が盤若野で兵を休めていたところへ奇襲をかけ他がゆえ平氏は退却を余儀なくされたという、いわば切込隊長だったとか。

その今井家の末裔がこの『木曽三社神社』の神官をお勤めでおられてもあまり不思議ではありません。

ただ。神官であった高梨氏は?
いつから今井家が神官を務めていだというのでしょう?


うーむ。


No.165 23/02/06 09:30
旅人さん0 

【木曽三社神社】さんは谷のようになった低い土地に、湧き水から流れ出た水が滝となり川を成し、池をつくっている低い所から、石段を登って拝する社殿が建てられております。
その社殿に向かう石段の両脇には狛犬等の神使の石造でもなく、石燈籠でもない、こちらならでは、物がお祀りされておりました。

むかって右側には腰掛石が、左側には…。
左側には、まさにちょうど袈裟懸けといった感じに上半身を失った坐像がありました。『木曽氏遺臣之像』と刻まれた小さな石碑があり、それを金属の…朽ちた柵が覆ってはいるのですが…。いかにも痛わしいお姿のままお祀りされておりました。
ここまで損傷が激しくては、元の資料がないとなかなか修復も難しいものでありましょう。
そしてどうしても、今の技術をもってしても異なる石を繋ぐこと、ましてや作り手の異なる像を造って繋ぐとなると大変難しいことでありましょうし。
かといって撤去するのも忍びないことであるのでしょう。

とにかく目を覆いたくなる石像でありました。

それに。考えてみると、御腰掛石とされた石も、一体どなたが?
という疑問が湧いて出ます。
木曽義仲はすでに討死されており、忠臣たちも一人ではなく。
かと言って後世に行幸された記録等も無さそうです。
一体どなたの腰掛けられた石?

ここからはあくまでも私の推測に過ぎませんのでお読み流しください。
…この遺臣たちは、義仲の三男【木曽義基】を匿い落ち延びたとされています。
この義基、生誕は1180年頃とはされていますが、実際には不明なようで、義仲の亡くなったのが寿永三(1184)年ですので、三から五歳といったところ、でしょうか。
その亡き主君の遺子を座らせた石、なのでしょうか。

それとも。
三社の御神体を入れていたという箱を置いた?
…大切な神さまの御神体でありますので滅多なところには置いたりはしないことでしょう。そしてこちらに伝承されるのが、御神体を入れた箱を置いたところ、そこから頑として持ち上がらなくなってしまい、ここが、こここそがこの御神体をお祀りする所と察したということで。

とすれば『腰掛石』という言い方には少し語弊もありましょうが、〝御神体を仮安置した石〟、ということもあるかもしれません。

繰り返しますがあくまでもこれは私の推測。臆測に過ぎませんので、悪しからず、流し読みください。



No.164 23/02/03 17:55
旅人さん0 

さあ、手水舎へ。

水をすくってまず左手を清めました。
ん?

寒い日でありますのに水が冷たくない。それどころか温かくすら感じる水温です。
えっ、どういうことだろう。
その水温を掌で確かめるようにしていると、その水が温かいだけではなく大変やわらかいことに気づきました。
良質な温泉水に触れたかのようになめらかな肌触りにびっくりいたします。
ガサガサに荒れていた指先や手の甲がスベスベしっとりしているではないですか!
ほんの一すくいの水を触った、ただそれだけなんです。

両手がまるで治療でもしたかのようです。
どんなハンドクリームも効かないというのに、たった一すくいの水を軽くくぐらせただけだというのに。

煩悩のかたまりのおばさんは、この恵みの水にいたく感動し、顔を洗いたい願望が沸々と湧き出でてまいりました。
が。

手水舎でそれは許されない行い。
…それでもしばしその手水舎から離れがたい思いにとらわれていました。
それほどこちらのお水は肌に良いもの、高価な化粧水などよりもずっと即効性がありました。
(ああ、空いたペットボトルの無きぞ哀しき)…いやいや、それも神社さんのご許可がなければ、許されざる行為でありますって。

しかしながら神職の方はこちらにはご不在のご様子で…。
(なんとかお調べすることはできないものだろうか)
すっかりこちらのお水に魅了されて欲の権化と化しております。あ、欲の権化なのは今に始まったことではなかった…。

でも本当にアトピーのひどい娘と孫娘にこの水を触らせてあげたい。


…そんな欲望のために、早くも再拝したいとか思っているおばさん、
そもそもがまだ拝殿の前にすら辿り着いていなかろうが。やれやれ。

No.163 23/02/03 08:56
旅人さん0 

参道が下り坂になっている形の参道を〈下り参道〉、
そして行きつく先に祀られる神社を〈下り宮〉と呼ぶのだといいます。これはきわめて特異な形だといいます。
とはいえ私どもの住まう群馬県の一之宮であります【貫前神社】さんはまさにこの『下り宮』でありますので、このお宮を訪れた際には、びっくりするというよりは身の引き締まる思いがしただけでありました。(決して、他の神社さんで身を引き締めていないわけではありませんが)
その形であるべき理由があったのだと思ったのです。

…とはいえ、下り宮で有名な『貫前神社』さんにしても『出雲大社』にしても、明確な理由は語られてはいないのだといいますが、それは
『そこに神さまがおられ、そう祀るべくお導きがあった』のであろうと、私はそう解釈しております。

こちらもたしかにそのように伝承されておりますが、この境内を拝見して、私でもここに祀るべきだと強く強く思いました。

この美しい水の流れる土地、広がっている土地の浄らかさ。
こここそ神さまを祀らせていただき、お住まいいただく地であろうと、誰もが思うような土地であります。

ですが、一般的にも
水神さまを祀る神社である場合、『水辺』、『湖』、『河川』、『海』をご神体として礼拝するのであるから、『周囲から下ることになる』とありました。

ここはまさにこの水、水神さまを祀る地でありましょう。
小さいながらも滝があり、かつては『滝の宮』と呼ばれていたところで、今も合祀されております。
さらに。
実は今回は立ち寄らなかったのではありますが、この滝になり川となる先に【湧玉】と呼ばれる泉があり、結構な水量で常にこんこんと水が湧き出でているといいます。
滝として流れ、川となって、この先で池となり、沼となっている水量を考えればその湧き出る水量は相当なものだと思われます。

泉から湧き出る水がつくる、キラキラと光りながら細い細い糸のように流れる滝が本当に本当に美しいのです。
胸の中にまでその清らかな水が入って、あたたかな気持ちでいっぱいになるくらいの浄らかで美しい光景であります。

そんな滝のつくり出す川は、あくまでも浅い、水深3センチもない川であります。

清らかで、水底が透けて見えています。
その先何十メートルも離れた池に注がれた水を見れば一目瞭然。
一切濁りというものがないのです。

No.162 23/02/03 01:35
旅人さん0 

『下り宮』、ですかぁ。

遠くに社殿の屋根が見えます。
一の鳥居を過ぎると境内の全容から見えてきます。

う、うわぁぁっ!
す、凄い!!

広い広い境内です。
小さいけれど滝があるのがみえます。
なんの変哲もない、どこにでもある道路から少し入っただけで、そこには非日常ので景色、空間が広がっていました。
歩を進めるたびにその感覚は深まります。
三の鳥居の辺りまで来ると、まるで…、まるで隠れ里にでも入り込んだような気さえしてまいります。

うわぁぁ、凄い!

何度も何度もそう思います。

考えてみれば、隠れ里のようなところであるのも、この神社を祀られた方々を思えばうなづいてしまいます。
同じ一族でありながら、自分たちの主君を討ち、なお執拗に追う源頼朝の軍から逃れ、偶然たどり着いたこの地は、彼らにどれだけ安心感を与えたでしょう。

下るにつれてその広さもまた実感いたします。
滝の水の注ぐところは大変大変浅いながらも、広い川となっています。
感動っ!!


【木曽三社神社 】さんは滝の宮、木曽明神さま、とも呼ばれるといいます。
〝滝の宮〟、そう言いたくなる気持ちもすごくよくわかります。
まぁ元々滝があったわけでありますし、滝には神さまが宿っておられたことでありましょうし。

ああ、すごいなぁ。



創建は元暦元(1184)年。
御祭神は【須佐之男命】さま、【宇気母智命】さま、【彦火火出見命】さま、【豊玉姫命】さまであるといいます。


No.161 23/02/02 16:33
旅人さん0 

小さいけれど道案内の看板がそこここにでています。
駐車場は…。
ナビの示す【木曽三社神社】さんの手前に広い土地がありました。業者さんが一人、何やら工事をしています。
「すみません、こちらが木曽三社神社さんの駐車場でしょうか?」
そうお聞きすると、
「ここに置いてもらってぜんぜんかまわないんだけどね、木曽三社神社さんのはもう少し先に行ったところ」
「あ、ありがとうございます」

…なるほど、教えていただいた通りに車でむかうと、たしかに駐車スペースが。
しかもこの辺りの歴史あるところを案内してあります。

道路をわたって。

目の前にある鳥居から先を見ると…。
先が…ない?
いや、下がってる。
石段が〝下り〟です。
…下り宮だ!


No.160 23/02/02 09:50
旅人さん0 

もう少し詳しい言い伝えも残されていて、


【木曽義仲】公の信仰していた三社の神社(岡田神社(松本市)・沙田神社(松本市)・阿礼神社(塩尻市))の神官であった『高梨南学院』という人が、三夜続けて不思議な夢をみた。
それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという神託だった。
そこで遺臣らが相談し、御神体を七重の箱におさめて東国へと旅立つことになった。
和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、穏やかで平和そうな村があり、そこに神をまつろうとすると土地の人が怪しんで「その箱は何だ。」と尋ねてきた。
遺臣たちは「只の箱だ。」と答えた。今、その土地を箱田と言う。

しかしながら神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下ったといい、而してまた遺臣の一行は旅に出、半日にして利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。
ここで遺臣一行は休息した。
御神体の箱をとある石の上に降ろした、再び出かけようとすると箱は石に固く着いてしまって動かなくなった。
大騒ぎとなり、なんとか御神体の入った箱を持ちあげようとしたが微動だにしない。
そこでこれを御神託とし、その場所=現社地にお祀りし、木曽一族の祈願所としたのが、この【木曽三社神社】さんであるという。


ちなみに。

私どもは今回、ネットの情報によることなく、夫のかねてより参拝したいと願っておりましたこちらへと訪れましたものですから存じ上げなかったのですが、まさに私どもが車を停めた真ん前のお家がこちらの宮司さまのお宅なのだそうで。
御朱印にあわせて御由緒書きなどもお授けいただけたようでした。

その宮司さまのお名前が『今井』さまとおっしゃるそうで、なんとあの、木曽義仲公の遺臣のお一人の末裔に当たるのだといいます。


うわぁ。
…やっぱり、綿密に調べてから訪れた方が二倍も三倍も実りある参拝となるようです。


ただ、こちらの神社さんが大変素晴らしい神社さんでありましたので、ぜひまた再拝させていただこうと、珍道中ペアは語り合っておりましたので、またその際に宮司さまにお会いできたらと思うのであります。
(( _ _ )))ウンウン

No.159 23/02/02 08:04
旅人さん0 

【木曽三社神社】さんの御由緒


平安時代末期、【木曽義仲(源義仲)】は永寿二(1183)年に砺波(富山県)の【倶利伽羅峠の戦い】で平家の軍を破り入京します。

その後治安維持の失敗や皇位継承への介入などにより、『後白河法皇』と不和となり、寿永三(1184)年に、『源頼朝』が送った『源範頼・義経』の軍勢により
近江国(滋賀県)の【粟津の戦い】で討たれます。

その後、義仲の遺臣達、
今井氏、高梨氏、町田氏、小野沢氏、萩原氏、諸田氏、串渕氏らは、源義経の追討伐より逃れ、木曽まで落ち延びました。

伝承によると、ある夜、家臣の一人であり神官でもある高梨氏の霊夢に、木曽義仲が崇敬していた信濃国(長野県)延喜式内社である
岡田神社(松本市)・
沙田神社(松本市)・
阿礼神社(塩尻市)
の三社の祭神の化身が三夜続けて立ち、東国の安全な霊地に祀ってほしいとの御信託がありました。

高梨氏は他の家臣たちと相談し、御神体を七重の箱の中に入れ東国に旅立ちます。

そして。
利根川東岸の泉付近の石の上に御神体の箱を置き休息をとりました。
再び移動するために箱を持ち上げようとしたが何をしても石に張り付いてしまったように全く動かせなくなってしまったといいます。
家臣たちはこの地こそ信託の地であるとし社殿を造営し御神体を祀ったのがこちらの【木曽三社神社】であるといいます。

その後は関東管領『上杉憲顕』や『上杉謙信』による寄進や奉納、
上野白井城主『長尾氏』の庇護、
歴代の前橋城主の崇敬が厚く、
社殿の造営や修復、社領の寄進などが行われます。
寛政元(1789)年社殿が全焼しましたが、寛政六(1794)年、本殿が再建されます。

慶応四(1868)年から明治元(1868)年にかけて明治新政府により出された神仏判然令(神仏分離令)により仏式が廃止され、明治二十九(1896)年に県社に列せられます。

明治四(1871)年に拝殿が再建され、さらに明治二十年代に大修復が行われているといいます。


No.158 23/02/02 00:01
旅人さん0 

長々と綴らせていただいた群馬県渋川市の『宮田不動尊』さまに行く途中、北橘村…いや今は渋川市北橘町となったのでした、を通ります。

『北橘(ほっきつ)』に対して、前橋市には『南橘(なんきつ)』があり、これは【橘山】を境に区分していることに起因した地名であります。
その北橘町に、かねてから夫が参拝したいと申しておりました【木曽三社神社】さんがあり、このたびようやく参拝することができました。

ちなみに、この【橘山】というのは『日本武尊』が、妻の『乙橘姫』を偲んだとも伝えられる山であります。

群馬県に木曽神社?

…まぁ神社さんは勧請するものでありますので、赤城神社さんのように赤城山の近くでなくとも、赤城山が見えないところにあろうとも、なんら不思議はないものではありますが、そうは申しましても、長野県の木曽を訪れた際に木曽神社さんという神社さんは耳にしたことがなく。…まぁ、だからと言って私が知らないことなど星の数よりあるくらい、ですので、あくまでもみみにしたことがないだけ、なのかもしれませんが。

【木曽三社神社】さんは利根川の支流『木曽川』の支流の近くにあります神社さんでありました。
あ、なるほど、『木曽川』の近くでありますか。
それで『木曽』?

いや、その木曽、ではないようで…、
【木曽義仲】公にまつわる神社さんのようでありました。

No.157 23/01/31 02:58
旅人さん0 

あとひとつだけ。

大般若波羅蜜多経の転読でおこる〝風〟を【大般若の風】と呼ぶのだそうで、この転読の風遠受けることで一年間無病息災でいられるのだといいます。

…そんな功徳もあったのですね。
あの見事な手さばきを見ているとさもありなん、とさえ思えてしまいます。

ただ…たまたま最前列に座ることとなった私ではありましたが…背を向けてお座りになっておられる僧侶の方々の手元からの風は届くものではありません。


このお話をしてくださったのは、宮田不動明王立像保存会の方。
宮田の不動寺のように開山当初から無住のお寺でも、寺である限り必ずあるのがこの『大般若波羅蜜多経』六百巻、なのだそうです。

なるほど。
たしかに施餓鬼会であるとか、そのお寺さん、お寺さんで転読される機会がありましょう。

よいお話をうかがうことができました。


それにしても。

あの経本のパララララ〜ってする様は、何度見ても(…さほどは見てはおりませんが)見事だなぁと感心いたしますものです。

No.155 23/01/30 17:20
旅人さん0 

この『大般若波羅蜜多経』の転読会が終わり、法主さまの短いご挨拶がありました。

以前の法主さまとは代替わりがあったのでしょう、お若いぷっくらとした可愛らしいお顔立ちの法主さまでありました。

四名の僧侶の方々が御堂を退出され、いよいよお不動さまの元へと参拝であります。

私の席は実は一番前の席、夫とは前後して座っておりました。
さぁ、お詣りさせていただきましょ。
夫に目で語りかけたところ…。


な、なんと小さく首を横に振っています。
は?どういうこと?

…あっ!足が痺れてる?


…何もこんな席で珍道中っぷりを披露しなくともいいでしょうに、変なとこだけ律儀な夫です。


ようやく立ちあがった夫と二人連れ立って、お不動さまの御前へと進みました。
何段かの階段を登って。
年に一度の御開帳のために設けられた祭壇の横を通って。

祭壇のろうそくから火を移して、お灯明を上げさせていただ…こうとしたのですが、もう空きスペースがほとんどありません。
以前は自分のあげたろうそくは持ち帰ることとなっていたのですが…。

ああ。
ようやくお会いできました。



昨年は表向きにはコロナ禍ということで中止、十時の一回だけの転読会が行われたのみであったので、その尊顔を拝することができませんでした。

「遠くから来てくれたのに済まなかったねえ」と何度も何度もおっしゃってくださった保存会の方。
コロナ禍であり中止されることも予想されておりましたので、むしろそのお言葉でとても癒されたものです。

「来年もコロナがこんな風でも、朝一番の十時の回だけは必ずやってるから、よかったらその回に来てやってください」

そのお言葉が嬉しくて嬉しくて…、
今回中止ではないことを知りつつも、朝一番の回に間に合うようにやってきた珍道中ペアでありました。


久しぶりに拝することのできた『宮田のお不動さま』に、胸がキュンとしたおばさんでありました。

No.154 23/01/30 13:46
旅人さん0 

しかも、この経本、一回一回経机に置いて次の経本に移っていくのですが、結構乱雑にバサッと置くんです。

転読というものを少し知った今でも、(ありがたい経本をパラパラしたり、バンっと机に置いたり、なんだかたいそう罰当たりな行為にしか見えないのだけれど)と、内心思ったりもしているのですが、ね。


最後には経巻をもって「降伏一切大魔最勝成就(こうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と言いながら経巻で経机をたたくのだといいます。
やっぱり叩くんだぁ…。

じつはこの作法、
「すべての災いや悪を祓いとり除き、人々の願いをかなえて幸せに導いてほしい」
という意味で、一人一人の除災与楽(じょさいよらく)を祈る意味があるというのです。

うーん、やっぱり奥が深い。

素人の万年初心者マークにはわからないことばかりです。


ちなみに、こちらでお授けいただく紙のおふだには、
この『降伏一切大魔最勝成就』の文字が書かれております。
まさにお姿を写したような、そっくりのお姿の絵と、
こちらの『石造不動明王立像』の下半身上部に書かれた銘文が書かれております。
(実はこのおふだ、何年か前にもお受けして、ずうっと祀らせていただいたのにも関わらず、新たにおふだをお受けするまで、何が書いてあるかすら知らなかったという、迂闊なあまりにも迂闊すぎるおばさんでありました)


転読が終わると、木のおふだをお受けになった一人一人の名前と願い事を法主さまが読み上げます。
…五十くらい、だったでしょうか。
失礼を承知で言わせていただきますが、このような山村の、急な山の斜面に建てられた御堂に安置なされている不動明王さまのお縁日の大祭に、すごい人数の名前が読まれています。

しかもこの転読会、この日初めての法要で、計四回、あと三回は同じように転読会が執り行われるといいますのに。

いつもいつも参列のたびにびっくりすることです。

おふだや御守を求める人たちの数も半端ありません。
破魔矢も御守も飛ぶように売れていきます。


す、すごい。凄すぎる。

No.153 23/01/30 13:28
旅人さん0 

【大般若波羅蜜多経】は、あの『西遊記』の三蔵法師のモデルとされる『玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)』が、歩くこと30,000キロ、十七年の歳月にわたり命がけで、
インドから唐の国にもって帰られた尊いお経であります。
その後四年間かけて翻訳されました。

その巻数は六百巻。
この功徳に対し、目を通すだけでもご利益があり、文字を見るだけでもありがたいものとされているといいます。

日本でこの『大般若波羅蜜多経』を【転読】する【大般若転読法会】は、じつに奈良時代から行われていたことが『日本書紀』から知ることができます。

この【転読】、
一つの経典を全て通読する【真読(しんどく)】に対して、
経題や経の主要な部分を拾い読むことをいうのだといいます。
また、かつてお経は巻物であったため、この巻物を転ばして読んでいたことから『転読』といわれているともいます。


大般若経の転読は、僧侶が、経巻をひもとき、
一巻、一巻、転読するたびに、
「大般若波羅蜜多経巻第(だいはんにゃはらみつたきょうかんだい)第一巻~第六百巻、唐ノ三蔵法師玄奘奉詔訳(とうのさんぞうほうしげんじょうぶしょうやく)」
と大声で唱えたのち転読が始まり、堂内に並んだ僧侶が一斉に六百巻の経典を転読することだとされます。

あるいはこの六百巻を、そこに居合わせた僧侶が等分して、転読することもあるといいます。


こちらの転読会では三人の僧侶が等分し二百ずつ転読されておられました。
ただ…。
どれだけ耳を傾けても、なんと唱えているのかさっぱり聞き取れず。
言葉ではないまるで〝喃語〟のようにしか思えませんでした。
特に私のすぐそばて転読されていた僧侶の方のお唱えされているのはまさにそれ。
少し離れたところで転読されている僧侶の方がお唱えになっているのはお経の一部のように聞こえます。

左右の手に、蛇腹折りされた経本を行ったりきたりさせて、そののち、パラパラパラパラ〜っと、経本に風を孕ませるように蛇腹折りを広げます。

初めてこの転読会に参加させていただいたとき、この〝パラパラパラ〜っ〟にたいへんびっくりし、それとともになんとも言い難い感動を覚えたことを今でも忘れられません。

No.152 23/01/30 10:32
旅人さん0 

鈴の音とともに四人の僧侶さんが急な坂を登って参りました。法主さまの手には真っ白なふわふわの払子が持たれています。

二番目をお歩きになられていた法主さまが堂内へ。 

堂内の、洞の入り口に設けられた一段高いところには法主さまが座られる座が設けられています。
今年新調されたのか、いかにも真新しく、それこそ真芯をとらえないと、転げ落ちてしまいそうなほど分厚い厚いお座布団に法主さまはゆっくりと慎重に座られました
法主さまの前には、たいへん厚くて豪華な装丁の『大般若波羅蜜多経』が置かれています。

こちらの御堂には天蓋等の煌びやかな仏具はありません。
太鼓と、
けいすと呼ばれる、家庭の仏壇にある鈴(りん)の大きいもの、
くらいしか置かれておりません。

他のお坊さまが座られた座布団はスポンジに木綿の皮のかけられた、質素なもので、
前に置かれた経机も、年数を経た素朴な木の机に過ぎないものです。

床には色の変色したフェルトのようなカーペットが敷かれています。

狭い御堂です。
その御堂の中に、外に向けて受付口が設けられ、そこでおふだや御守等を授与しております。
みなさん、保存会の方と当番に当たられた自治会の方々です。

御堂の入り口には、畳の間で使われる会議用の長テーブルが広げられ、そこでお灯明を授けてくださっています。


ストーブも炊かれた御堂の中にはすでに多くの人が、『大般若転読』の法要を待って座っておりました。
二十人は入れないだろうな…。


お坊さまたちが座られると、間を置かず法要が始められました。

まず般若心経を三回、お唱えになられました。

No.151 23/01/30 01:28
旅人さん0 

この山村地の宮田に在する曹洞宗の宮田山不動寺さん。

明治の廃仏毀釈という不遇の時代を、お不動さまご自身のお導きであったとしか思えないような奇跡を経て発見され、県より独立仏堂の復帰を果たし、さらには文部省の重要美術品の指定を受けてからもなお、地元の方々のご苦労は続いたといいます。

当時の宗教法はいずれかの寺院に所属するか、寺院として独立している必要があり、
寺院として独立し新しい寺院を建立するには、二百戸以上の檀信徒、三十坪以上の建物がもとめられたといいます。

当時百三十戸しかなかった宮田地区。
残りの七十戸、近隣の住民を信徒に勧誘し、
買収や交換で土地を取得したといいます。

さらにはお坊さんも探さねばなりません。
たまたま隣村である樽村出身のお坊さんがおり、その方が東京高輪の【泉岳寺】さんのご住職であったというご縁から、昭和十九(1944)年に泉岳寺さんの末寺として、『石造不動明王立像』さまをご本尊とした不動寺さんが開山されたのです。

中興というよりは開山開基がまさにこの渋川市赤城村の宮田地区の住民の方々となります。
明治当時には仁王門まであったというお寺とは全く別のお寺さんが創設され建立されたのです。


この日開かれた大祭も、東京高輪の泉岳寺さんから法主さまが訪れており、さらに沼田の名刹【迦葉山弥勒寺】から、そして隣村の樽村からお二人の僧がみえておられました。


No.150 23/01/30 00:37
旅人さん0 

…などと、おばさんがない頭を捻ったところで、今まで専門家の方が調べてわからなかったこと。

しかも、このお不動さまは遠くの地まで名を轟かせ人々の尊崇は厚かったものの、願主や造られた年等は一切不明であったお像です。
さらには明治の廃仏毀釈以降、人に顧みられぬこととなってしまった。

それが昭和九(1934)年に、たまたま村史跡を調査することとなって、倒れておられた不動明王さまが発見され、二分された胴体部の上下両面と、台座下面に墨書きの銘文があったことが発覚し、そこで初めて由来…御由緒がわかったくらい、謎に包まれていた時代の長かったお不動さまです。

今となっては誰にもその謎を解明することは難しいことなのでしょう。


そして、このお像、胴体中央部上下に漆の塗られた空洞があるのだといい、そこには曼荼羅と、いろは歌を書いた紙片が納められていたといいます。
さすが仏師の造った石仏さまです。

そして、これだけ立派な彫りが施され、さらにはそのような細工もされていたということは、きっとこのお不動さまを彫った石はやわらかく彫りやすいものなのでしょう。

ですが、それにしては欠け等も見あたらず、美しいままのたいへん保存の良い状態の御像であります。
それはこの洞内に安置されていることと何か関係があるのでしょうか。

そして。
このお不動さまは今、白いお像でありますが、実はところどころ黒い部分があり、おそらくはかつては全面黒く塗られていたのではないか、と述べておられる方もおられ、その塗られていた塗料が劣化を抑えていたのかもしれません。


前述したように、こちらのお不動さまは地元の方々にたいへん大切にされている存在であります。
一年に一回のご開帳にはこの近隣の方にとどまらない、実にたくさんの多くの方が参拝に訪れておられます。

こちらのお不動さまは力強いながらも温厚な雰囲気をただよわせており、優美で重厚な鎌倉期の特徴がうかがえるお像です。
一度こちらの参拝に訪れた方は多くの方がまた再拝されておられるほど人を魅了するお姿です。
またお不動さまの、悪魔を降伏させ、行者を護り、知恵と長寿をさずけてくれるというご利益もありましょう。

愛され尊崇される『宮田のお不動さま』であります。

No.149 23/01/29 17:43
旅人さん0 

宮田のお不動さまは、宮田山不動寺の裏手、本堂に接する洞窟内に安置されています。

高さ166センチ、腰回り156センチ、ほぼ等身大で、流紋岩質軽石凝灰岩(りゅうもんがんけいせきぎょうかいがん)を、丸彫りした石仏さまであります。
石のことは(石のことも)さっぱりわからない私ですが、私が見るにはすべすべした表面にみえる、白い石のように思われます。
彫りやすい石なのかどうかも、これまたさっぱりわからないのではありますが、
おさげの髪が身体に流れるようについているさまとか、
肩の丸みとか、
あごのラインとか、
肘の曲げ方、
手足の指の超リアルな感じとか、
アンクレットとか、etc…
石を彫って造られたものとしてはたいへんリアルなものであります。

石工ではなく仏師に造らせた、クライアント(願主)のこだわりも伝わってまいります。

不動明王像の下半身上面に記されているという銘文には、どのような不動明王像を望むかまで記してありました。
ま、おばさん、その全文のほんのわずかな部分しか読解できなかったんですが、ね。

願主であります『掃部権助源朝臣氏義』公は、『所奉忿怒形像也』とそのお顔の相を、
片目を半眼(薄目を開く)、片目をかっと開いた【分怒相】をはっきりと指定されています。

そしてこのお不動さまを建立し奉納するにあたっての誓いと願いが書かれていました。
魔縁・災難を速く除いていただきたいこと、
求めるものが叶いますよう、
法界において全て平等の利益が得られますように
…と、私なりの解釈はこんな感じだったんですが。
要は現世利益、仏法興隆、ということ、ですか。

現代の日本語すら使いこなせていないおばさんが、鎌倉時代の文章を読もうとすることがもうすでに、無茶なこと、なんですが、ね。


ところで。
実はこの願主さま、源朝臣氏義公は、新田荘を立荘した【新田義重】公の曽孫にあたる人物であるとのこと。

この氏義公の領した土地は【里見】と呼ばれた現在の高崎市の一部。
この頃は領した土地を姓としていたため、氏義はこの頃【里見氏義】公となります。


ただ、ここで不思議なことが。

高崎市と渋川市って、わずかに隣接はしているものの、『里見』と『宮田』は群馬県の名山【榛名山】を挟むほどに離れた土地、なんですよね。

『宮田』は氏義公にとって所領外、なんです。

何故?

No.148 23/01/29 06:04
旅人さん0 

真っ二つ!

が。
こちら【石造不動明王立像】さまは、石造であるのに等身大という大きなものであり、鎌倉時代に造られたこの像、山の中腹の洞窟内に安置するには、彫り上げてからでは万が一落としての破損等を考えたなら到底人力では無理と、…おそらくは考えてのことでしょう。
…当時は人力くらいしかないですものねぇ。
しかもこちらのお山ってかなりの急斜面なんです。
石として運び込んで、洞窟内で制作しようとしたところで、その重量は像として完成したものより重いことは間違いないですし。

長々と(いつものように)語っておりますが、要はこちらのお不動さまの像、なんらかの理由で、
元々、脚の付け根あたりまでのところで分かれる2パーツ、で作成されていたのです。

なので、真っ二つといっても、ただ倒れたことで元々二つだった2パーツに分離しただけ、しかも倒れた事による破損等はなかったようなのです。

びっくりされた方、申し訳ありません。


ただ、そんなお姿で発見されたことで、こちらの石造のお像の継ぎ目に銘文があったことが判明したということで、今まで何一つわからずにいた、
〝造立年代〟、〝作者〟、〝願主〟などの御由緒が一気に判明することとなったのです。

しかも。
閉鎖され、秘仏としてではなく、あくまでも政府の方針、県の方針で二度と日の目を見ないよう封印されていたお不動さまが、再び人たちの目にふれることのできることとなった瞬間でもあったのです。

……奇跡、というより、やはりお不動さまのお力でございましょう。


こちらの『石造不動明王立像』は、

建長三(1251)年、『掃部権助源朝臣氏義(かもんごんのすけ みなもとのあそんうじよし)公の発願により、
仏師『院隆』と『院快』によって造られた

ということが(その銘文を写した写真のコピーのコピーを見るともっともっと長文であることだけはわかるのですが)書いてあったといいます。

その銘をもとに発見された数年後には文部省から『重要美術品』の指定を受けたといいます。

No.147 23/01/28 23:15
旅人さん0 

朝の八時から車を走らせて(いただき)、群馬県渋川市の郊外、名山・赤城山の中腹をめざします。

【宮田山不動寺】さんはすぐそばを線路が走り、以前夏にうかがったときには、撮り鉄さんが二人ほどおられました。
上越本線の敷島駅近くの渋川市赤城町宮田地区。
走ってきた通り沿いにはあまり民家はみあたらない宮田地区と呼ばれる地域に、国の重要文化財したいともなっている【宮田不動尊】さま=【石造不動明王立像】がおられます。

曹洞宗のお寺さんであります【宮田山不動寺】さんは無住のお寺。
この地区に住んでおられる方たちの自治会と、『宮田不動尊保存会』の方々がお寺とお不動さまを管理されています。


古来こちらのお不動さまは村内はもちろん、近郷近在の尊信が極めて厚く、かつて初不動の祭典には数千人もの人々が参拝に訪れたと伝わるといいます。

それが。
明治のあの『廃仏毀釈』で状況は一変してしまったのです。(キィーっ!)

無格の小さな神社さんとともに、新しく作られた『宮田神社』に吸収され、それまで認められていた独立仏堂の扱いも無効とされてしまいます。
奥の院や仁王門は解体(!)・売却(!)され、県の仏堂台帳から削除されてしまったのです。

お不動さまと地域住民にとってそんな不遇の時代が四半世紀も続くこととなります。

そんな宮田地区と宮田のお不動さまに、昭和九年、転機が訪れました。
当時行われたという『陸軍特別大演習』の記念事業として、
村内の名所や旧跡をまとめた書籍を制作することとなったとかで、関係者がこの宮田のお不動さまのおられた断崖絶壁の洞窟内に入ったところ、な、なんと、無惨にも倒れて胴体部分が真っ二つに割れた状態で発見されたのだといいます。



No.146 23/01/28 22:04
旅人さん0 

と、語彙力のないおばさんが大好きな動物のことでたいへん取り乱し、なかなか収拾がつかず申し訳ありませんでした。

このあと。
大宮をあとにして、浦和へと向かいました。

目的は【調神社】さん。『調』と書いて〝つき〟と読みます。

こちらも駐車場の空きが全く無く、ならない土地で右往左往いたしました。


が。
とりあえず、こちらのお話はまたの機会とさせていただき、本日参りました群馬県渋川市の【宮田不動寺】さん、というか通称は【宮田不動尊】さんのお話をさせていただくことといたします。

本日【初不動】、今年初のお不動さまのお縁日。一年でこの日のみ御開帳されるのがこの『宮田不動尊』さん、なのです。


私はこちらのお不動さまがたいへん好きでありまして。
なかなか土日に当たることのないお縁日が、今年は土曜日ということで、夫に
「どうしても行きたいところがあるのだけれど」
とお願いして、本日連れて行っていただきました。

No.145 23/01/28 17:18
旅人さん0 



…ニ、ニホンリスぅ?

初めて聴く名前です。
エゾリスとか、シマリス、台湾リスとかは見たことがあったのですが、
ニホンリス、ですかぁ。

…いない、じゃん。
冬だからなぁ。
リスって冬眠するんだよなぁ。
…。

うん?
あれ?
出、出てきたぁぁ♡

…うわあ♡…かわいい!

シマリスよりも少し大きくて、台湾リスより少し小さい。
シマとかはなくて、うす茶色の身体でおなかの部分が真っ白です。

一つ一つのしぐさの可愛らしいこと。
お顔も可愛く、目も可愛らしい。


…おばさん、どれだけここにいたんだろ。

はっとわれにかえるまで、リス舎の前におりました。

えっ?
一緒に行っていた夫や息子はどうしてたのか?ですか?

もちろん!
一緒に見てました。

母を動物園に連れて行ったらどうなるか、知っていてあえて教えた息子です。そして息子もまた動物好きでありますし。
彼の撮る動物や鳥、花の写真は結構イケてるんです。



  (ニホンリス)

No.144 23/01/28 16:54
旅人さん0 

大宮公園の動物園の中。
心の中でスキップしているかのようなおばさんです。

…このスレ、…神社・仏閣のスレ、なんじゃあ?

生きとし生けるものの全てを統べ、恵みを与えてくださり、全てを護ってくださる神さま、そして仏さまのおられる神社、仏閣のこと。
そして、そこからはじまる、そこに関係する全てを書いちゃう、
…そんななんでもやっちゃう、(いろいろやらかす)おばさんのスレ、なので、…まぁつまるところ、大目に見てやってください。

久しぶりに訪れることができた動物園。
初めて訪れた動物園、そして初めて見た動物。
おばさんの興奮は止まらないんです。(そして暴走も。)

『とりたちの楽園』という広い広いスペースがあり、ここは結構距離がある上に、中が広いがために鳥たちは見えても遠くて、よく見ることはできません。
フラミンゴがいるようです。

さらに進むと、小さな鳥舎となりました。
…私、鳥は(鳥も)あんまり詳しくないんです。
そして、羽っていう自分にはないもの、鳥の種類によってはなんとも怖い目が、苦手だったりするのです。

それが、最近は息子の撮った写真を見て鳥のかわいさを知りつつあり。

以前は素通り、というより目をそらして早足で歩いていたゾーン、鳥舎をゆっくりと覗いて見るようになりまして。

シラコバト、という白い鳩がいます。私の苦手なのが実は〝鳩〟。
それが…、このシラコバトという鳩は首がシュッとしていて目も可愛らしいのです。
そしてこのシラコバトという鳥は、埼玉県のゆるキャラのモデルなのだそうです。
なんでも、シラコバトというのは生息地の限られた珍しい鳩で、しかも年々減少傾向にあるようです。

動物園というのは動物を展示して、それを楽しみに見にくる客がいて。
そのほかの役割として、希少動物や、絶滅危惧種の動物を保護し繁殖させる役割もあるといいます。

楽しむだけでないこの大切な大切な役割を私にできる応援をしつつ、何より動物たちから癒しをもらう。

私は大人になってから、子どもの頃よりもずっと動物園が好きになっています。


ジュズカケハト、という種類もおりました。

うーん♡フクロウと目が合いました。しかも二羽一緒に、です。
やったぁ。

No.143 23/01/27 23:12
旅人さん0 

ミニブタから始まった動物園ということで、下がったはずのテンションはどこへやら。
スキップでもしそうな足取りの、ご機嫌なおばさん。

長い長いベンチがあります。
ふと見るとそのベンチがまた洒落ています。
長いベンチなので途中途中に脚が入っていて、その上に繋ぎ目があるのですが、その繋ぎ目に金属でできた小さなリスが付けられているのです。
よくよく見ないとわからないくらい小さな小さなリスなのですが、その小ささがまたさりげなくておしゃれです。

そして。そのリスの飾りの前に…。
やはり小さな松ぼっくりがぽつんと置かれているではないですか♡

なんて可愛らしい♡
お子さんかなぁ。
それとも…。
心温まる光景です。

ベンチ一つでこれだけ時間をかけている、動物の好きな私たち親子。
…といっても、三十すぎた息子とその親、なんですけど、ね。


こちらの公園、さり気ない小さな動物のモニュメントがそこここに散りばめられています。
なかなか遊び心のある、そしてたいへん動物好きな方が造られた公園のようです。

そして。

動物園の周囲を囲むようにずっと石垣が組まれています。
えっ?
お城の跡とか…ではないよな、氷川神社さんの土地をいただいての公園、だものな。
石垣を組むってなかなか大変な作業だと思うのだけれど…。

いろいろ見どころが満載です。

No.142 23/01/27 09:57
旅人さん0 

大宮氷川神社さんを後にして。
駐車場へと急ぎ歩き出すと、息子がふと歩をゆるめました。

「次に行くところの予定とかつまってる?」
「いや」
「こっちに動物園とかあるみたいだよ
「!♡」

心が弾むと身もはずむおばさん、
またまたフワンフワンと踊るように早足で息子の指さす方へと歩きだしました。
ピンクの梅が七分咲きとなっています。

うーん♡

まず目にはいったのは…ブタ。
ブ、ブタ、ですか。
まぁ、ミニブタ、なんですけどね。

…。
少しテンションが下がったおばさん。
ミニブタ、可愛いんですけどね。
ブタからはじまる動物園かぁ。

隣の檻には山羊がいます。
茶色い山羊が少し高くなったところでポージング。微動だにしません。
ちなみに、動物園を一周して戻っても、私の記憶によるとそのままの場所で、そのままのポーズでおりました。…まぁ、私の記憶によると、なんですけどね。
あとは耳の長い黒山羊がいました。
この子はその茶色い山羊の周りをウロウロしています。

少し進むとサル舎。
コモンリスザルが檻の中を飛び回っています。フサオマキザルも。
早すぎてどんな顔をしているのかもわからないくらいで、この子たちは山羊とは対照的に動きっぱなしでありました。そのほかにもニホンザルなど何種類かのサルがいました。

続いて並んでいたのは小獣舎。
でもさすがに冬ということで、アナグマもスカンクもハナグマも、みな寝ておりました。

ブタによく似た『クビワベッカリー』という動物がいました。群れをなすかのように沢山います。
なかなか可愛らしい子たちです。

カピバラが二頭広い檻の中におります。
一頭は小屋のなか。もう一頭はやはり何故かポージング。
カピバラの耳はくるんくるんと回らように見えて大変チャーミング。
ぼーっとしたところに癒される動物です。

猛獣舎にはなんとブチハイエナ。
なんとなくボヤーとした顔で、同じところを行ったり来たりしています。
そして隣にはツキノワグマ。
檻の中をぐるぐると回り、やっぱり行ったり来たり。…こうして見ている限りは可愛らしいんですけどね。


動物好きな私たち、おばさんのテンションは最高です。


No.141 23/01/27 05:29
旅人さん0 

御守もお受けし、御朱印もお授けいただいたので。
…本来ならここから摂社末社をお参りさせていただくところではありますが、今のこの感染拡大した状況を鑑み、こちらの社殿だけのお詣りで帰らせていただくことといたしました。

神札授与所のならびに、東門といわれる赤くて美しい門がありました。
ここをくぐって氷川神社さんを後にすることといたします。
この東門は大正七年竣功の神門を移築したものだといいます。


おっ♡

東門から外へ出ると、『門客人神社』と『御嶽神社』が並んで鎮座しておりました。

やったぁ!

『門客人神社』の御祭神は、『足摩乳命』さまと『手摩乳命』さまで、こちらの主祭神の稲田姫命さまの親神とされます。

『御嶽神社』の御祭神は【大己貴命』さまと『少彦名命』さま。
主祭神であられる大己貴命さまが、社殿のすぐそばであるこの御嶽神社にもお祀りされているのは何か不思議な気もいたしますが、このお二柱は国づくりの神さま。お二人で諸国をまわられ国をつくってこられた間柄で、これはこれ、それはそれ、といったところでありましょうか。
私もこのお二人、二柱が共にお祀りされている方が嬉しく思います。

二社ともさほど大きくはないお社ですが、みなさん列をなし参拝されておりました。


…本来なら。
…本当のことを申せば、氷川神社さんの隅から隅まで、まわりたかったなぁ。

コロナの馬鹿!

しかしながらこの感染拡大した状況下、五月の八日を以て新型コロナウイルス感染症は季節性インフルエンザと同様の扱い、となることが決定したようです。

感染を怖れる私どもは、今まで通り、…今まで以上に各地の神社仏閣を巡らせていただくことは難しいものとなる気がしております。

ま、とか言っているのは今だから、なのかもしれませんが、ね。(…。)

No.140 23/01/27 04:59
旅人さん0 

大宮氷川神社さんは楼門と回廊に囲まれた中に社殿があります。
 
楼門を入ると、舞殿、拝殿・本殿と一直線に並ぶが、流造の本殿は玉垣の中にあるため拝することはできませんでした。

拝殿の左側の回廊辺りは人が多すぎ、そこから先は見ることができませんでしたが、社殿右側には神輿舎が建ち、神輿舎の右横には『力石』なるものが七個ほどきれいに並べて置かれていました。
かつて力自慢の者がこの石を持ち上げたことを記念して奉納したものともいわれているようですが、書いてある文字を読むと、必ずしもそうではなかったような…。
同じような形、大きさに見えますが、重さが彫られており、四十五貫目から六貫目の重さがあるようでした。
また、そのそばには小さな籐籠が置かれていて、中には小さな白い石が入っており、そばに『歯固め石』と立看板がありました。
歯固め石は、お食い初めの儀の際、「石のように丈夫な歯が生えて長生きできますように」という願いを込めて、実際に口に含ませたり、あるいはお膳に備えたりするものですが、…なるほど、神社さんによっては、かようにいかにもありがたい石を用意して下さっているものなのですね。
わが家ではその辺の石を拾ってきて。さ、きれいに洗いさらに煮沸消毒して使ったものです。(しかも上の子のときだけだったかもしれない…)

そして拝殿につながる回廊はいかにも新しそうな建物へとつながっており、そこは祈祷待合室となっていました。
その並びに神札授与所があり、そこで御朱印の対応や、神札や御守の授与をされておりました。

ちなみにこちらの神社さんでは『神楽土鈴』なるものが販売されておりまして、全部で九種の神楽の人形の土鈴がありました。

なるほど、これらの神楽が、あの舞殿で奉納されている、ということなのでしょうね。

ちなみに舞殿は前述したように鶴岡八幡宮にもありましたが、関東ではあまり目にしないものであります。
やはり出雲国の出雲大社を遷した関係から、そうしたものも伝わっている、ということなのでしょうか。
…などと書いてはおりますが、私、出雲大社に参拝させていただいておらず、そちらに舞殿があるかどうかは存じ上げてはいないのですが、ね。

こちら氷川神社さんの舞殿は元々、例祭で神事芸能の「東游(あずまあそび)」を奉納するためだけに建立されたということでありますが、今は多様に使われているようです。

No.139 23/01/27 04:23
旅人さん0 

『氷川神社』の社名の由来は二つの説があるようです。

一つは、『氷川大宮縁起』や『新編武蔵風土記稿』に、
『出雲の国の杵築大社(出雲大社)を遷して氷川神社の神号を賜ると伝わる』とある事から、出雲の大河である斐伊川にちなむ、というものである。

二つめは、鎮座地『高鼻』が、見沼の低地に突き出た大宮台地上にあり、古代からの湧水地で、湧き出る清冽な泉は原始の〝氷川祭祀〟の対象であり、
古語で霊験あらたかな泉を表す『氷川』が社名となったというものである。

現在の祭神は出雲神であることから、氷川神社さんでは一つめの説を採っているようでありますが、湧水があることや見沼の畔に祀られることから二つめも捨てがたいものとされています。

No.138 23/01/27 04:19
旅人さん0 

『大宮氷川神社』さんは、
旧見沼の周辺から旧荒川流域に濃く分布し、見沼を神体とする『氷川神』と呼ばれる水神を祀っていたとも言われているといいます。

荒川も江戸時代の土木工事により河道が変えられ、旧荒川は現在の荒川よりも東を流れていたといいます。

見沼の水神を祀るにしても、荒川の水神を祀るにしてもこの氷川神社の信仰の根源には、太古から崇められた水神の存在があったようだと考えられているといいます。

神池の浮島に鎮座する宗像神社に白蛇伝説があるといい、卵がお供えされることもあるようですが、そのあたりもこうした長い歴史を経ての信仰でありましょう。


手水舎の奥を右へ入ると「蛇の池」があるのだといいます。

蛇の池は見沼の源流の1つといわれる湧水で、神池、ひょうたん池、白鳥の池へ注がれるのだといいます。神池に浮かぶ宗像神社の白蛇伝説にも繋がるのでありましょうか。

蛇の池は元々は禁足地だったというが、現在は参拝することができるといいます。…うーん。

…うーん。

手水舎の奥、ですかぁ。

手水舎自体が閉鎖されていたくらいだから、その奥とか、普段なら行きそうな私どもではありますが、氷川神社さんのあまりの大きさと、楼門の大きさと、そして人の多さに圧倒されて、楼門からなかの社殿と、二つの摂社に参拝するのがやっとだったからなぁ。

ちなみに、この手水舎の御神水は氷川神社の地下からくみ上げている水で、以前は楼門の中にあったそうですが、昭和十五年に現在地に移動したといいます。
この御神水をペットボトルなどで持ち帰る方もおられるようです。

…まあ、私どもが訪れたこの日は水自体が止められておりましたが。


 

No.137 23/01/27 03:56
旅人さん0 

【大宮氷川神社】さんは、武蔵国の総鎮守で、『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)に『大社』として記載されています。
戦前の社格は『官幣大社』で、現在は神社本庁の別表神社。武蔵国を中心に約二百八十社ある氷川社の総本社でもあります。

孝昭天皇の御代三(473)年、
島根県出雲市の【出雲大社】(出雲国簸川の杵築大社)を勧請して創建されたと伝えられているようです。(この件に関して出雲大社側には伝承等は存在しないと言われているようですが、島根県雲南市の『斐伊神社』には出雲大社が大宮氷川神社の勧請元だとの社伝が残るといいます)。

もとは広大な見沼(御沼)を神池そのものとみたて、現在地にある氷川神社を『男体宮』、緑区にある【氷川女体神社】を『女体宮』、その中間点にある見沼区の【中山神社】(通称中氷川神社)を簸王子(ひおうじ)宮とする、三社一体の壮大な規模を持つ〝社〟であったといいます。
今でも氷川三社巡りと称し、これをもって氷川神社の参拝とする方もおられるようです。

ちなみに、現在の大宮氷川神社さん境内の神池(遠目で見ただけの私どもではありますが)は、見沼の名残だといわれるそうです。

中世には源頼朝・執権北条氏、足利尊氏、岩槻太田氏、小田原北条氏ら武将の篤い尊崇を受け、江戸時代には徳川家康から社領三百石と神輿一基を寄進され、神事祭礼に葵紋つきの提灯の使用を許されていたといいます。

その後、明治時代の神仏分離の方針により、社内にあった『観音寺』は【満福寺】(さいたま市北区)に移り、また、明治十五年までは神社の主体として境内に男体社(祭神は須佐之男命)、女体社(祭神は稲田姫命)、簸王子社(祭神は大己貴命)の三社殿があったものが、同年に男体社に合祀され一社殿となったといいます。

毎年の祭礼には勅使が下向し(見てはいませんが、三之鳥居の手前に『勅使斎館』があるようです)、昭和戦前期に国費で造営した社殿が並ぶ、関東有数の大社であります。

三の鳥居から楼門まで続く敷石は、東京都電の軌道に使用された石とのことで、大隈重信や渋沢栄一らを筆頭に奉納されたものといいます。


参道は南北直線だが、神社の拝殿、本殿は参道の直線から西にずれており、また南北に対して約三十度傾いているといいます。
三の鳥居をくぐり境内に入ると、参道は左手に少し弧を描き、神池を渡って楼門に至るといいます。

No.136 23/01/26 16:38
旅人さん0 

それでも、【大宮氷川神社】さんで、どうしてもお授けいただきたい御守がございました。
『鉄勾玉守』という御守です。

鉄?

そう、鉄製の勾玉の形をした御守です。

思えば武蔵国二之宮【金鑽神社】さんでは、『火打守』をお受けしており、一之宮、二之宮ともに鉄に縁のある御守があり、かつては埼玉という土地でも〝砂鉄〟が採れたのでありましょうか?
(これはあくまでも私が思っただけのこと、あくまでも、小学校の社会科レベルにも至っていないおばさんの考察に過ぎませんので、くれぐれもご記憶にはお残しになりませんよう)


本当は、今年の干支のうさぎの土鈴や、うさぎの一刀彫りも欲しかったのですがちょうどこの日の早い時間帯に品切れとなってしまったようで。

それでも一番お受したいと思ってまいりました『鉄勾玉守』はお授けいただけたので、ありがたかったです。

この『鉄勾玉守』、もちろん普通のお守と同じように袋に入ったまま持つのも良いとされるのですが。


実はこの少し大きめの鉄製勾玉を、お湯を沸かすとき、やかん等に入れて使うという、なんとも特殊な『御守』、なのです。

東北を旅したときお土産物として、やはりお湯を沸かすときにやかん等に入れて鉄分の補給となるというものが販売されておりました。
結婚したばかりのとき、同様の商品を使用していたこともあります。

…本当は中学生くらいから『南部鉄瓶』を使うのが夢であったのですが、一生物、とはいえ、扱いも大変難しく、何よりも重い。

これからはどんどん歳を重ね、重たい物を持つのも大変な時が来るかもしれない。


南部鉄瓶を使いたいという風雅なものからきている趣旨からは離れますが、鉄の関わったお湯は実にまろやか、なのです。

それは科学的にも立証されており、鉄から溶け出した〝鉄イオン〟が、残留塩素と反応して、塩素を分解・除去してくれるのです。

し・か・も!
『鉄分』が摂れる!
しかも鉄から溶け出した鉄分は『二価鉄』。これは〝身体に吸収されやすい鉄分〟なのです。

水分を摂るだけで『鉄分』が補給でき、サプリメントや鉄剤といったものとは異なり、過剰摂取の心配もなく、〝自然な形〟で鉄分を補給できるんです。

つまりいいことづくめ!
しかも御守!


最高の御守じゃないですか?


毎日この『御守』を、ワクワクいそいそ使っておりますおばさんであります。

No.135 23/01/26 09:13
旅人さん0 

…。

……!

そこで順番を待たれる方は、軽く見積もっても八十人はゆうにおられ、その後もどんどん増えていくのです。
もはや、どこで受付をされ、何のために並んでおられるのか(昇殿されるのが目的なことはわかってはおりますが、それが祈祷なのかお祓いなのか、あるいはそれ以外なのか)を知ろうと話しかけることすらを、躊躇ったというのか…、その厚い気持ちにのまれたというか…。

ましてやこの列に並ぼうとすることなど、畏れ多いような気までし、聞いてもその列に並ばないなら、お聞きするだけ失礼なのかなと思い。
それでも未練がましく覗いた拝殿の中には…。

!。
!!!っ

ぎゅうぎゅうに参拝された方々がおられるではないですか!

赤ちゃんや小さな子も抱っこやおんぶで参列されています。

ひえぇぇぇぇぇぇぇ!


…コロナ禍でなくとも並ぶことが嫌いな私には、もったいない御神徳で信仰の厚い神社さんなことが痛いほどわかりました。

そして。一月というのに何組もの七五三と思しき支度をした親子連れもおられます。
早撮りなのか、あらためてのご挨拶に来られたのか。


ははあぁぁ。


一生にあと何度訪れることが出来るか、これが最初で最後になるかもしれない私などは、大きな大きなお賽銭箱の前でご挨拶させていただくことくらいがちょうどいい。

No.134 23/01/25 06:25
旅人さん0 

大宮氷川神社さんの拝殿前に置かれた巨大なお賽銭箱は、しっかりとした丁寧な造りで、そんなところに感心していたおばさんですが、
それでも、やっと参拝できた拝殿の全貌がほぼ見えなかったことにはがっかり。
しょぼんとしたおばさん、ハッと我をとり戻し、その巨大な賽銭箱の前へと進みました。

大変な人出ではありますが、さすがに(おそらく)初詣のさかりは過ぎていて、お賽銭箱の前に列ができているようなことはなく、逆に好きなところから、好きなだけ、神前に手を合わせることが可能であります。
(あれ?これって次の方とかまわりの方に気を使わずに拝殿の前で神さまにお話させていただくことができて、いつもよりずっといいかも…)
…まぁ、前述どおり初詣の大変な人出ではなかったからのことではありましょうが。

と。

あまりに広く、さまざまな建物がある境内で、拝殿の横につながる通路にたくさんの人が集っています。
それこそそこには結構な列ができ、拝殿横にある屋根のある空間にも人がたむろしております。
えっ?
並べば拝殿の中にはいれるの?


…違いました。
このたくさんのたくさんの人の列は、御祈願をお願いして昇殿を待つ人たち、だったのです。

ひ、ひ、ひえぇぇぇっ!

No.133 23/01/24 06:24
旅人さん0 

手水舎はこの混雑を考えてなのでしょう、手水を中止いたしますと立看板が立てかけられています。
手水舎に一礼し、手水鉢からの〝水の気〟で清めていただいた〝つもり〟とします。…手水舎くらいでは祓えないのが私の穢れ、ましてそんな自己満足に過ぎない行いはまるで意味もなさないのではありますが、〝気は心〟とこれまた自己満足な考えを。やれやれなおばさんです。

さて。
あらためて楼門の前に立ちます。

そのあまりにも立派な楼門に、私のような者がくぐらせていただくことにただただおそれおおい思いを抱きつつ、深く一礼してくぐります。


と。

目の前には。
四方が開け放たれた建物がありました。
ん?あまり見かけない建物です。

あ。

私の記憶違いでなければ神奈川県鎌倉市に鎮座される【鶴岡八幡宮】さんにあったかも知れない。
鶴岡八幡宮さんではそこで結婚式が執り行われていた記憶があります。
たしか…たしか舞殿、と言ったような気がいたします。

その横に今年の干支の大きな絵馬が飾られていて、そこにすら列ができています。
帰宅後調べたところ、やはりこの建物もしか『舞殿』でありました。
ここで舞や雅楽が奉じられるのでありましょうか。

舞殿を通り過ぎると。
そこには大きな、それでいて決してそびえるような威圧感はない、ただ大いなるお力の気をひしひし感じる社殿が建っておりました。


おおぉ。

この語彙力のないおばさんの感嘆詞。
ただし、今回はその社殿に向けての「おぉ」ではなくて。
その社殿へとまるで近寄ることができぬかのように置かれた、大きな大きな大きなお賽銭箱が設置されていることに対して、でありました。


No.132 23/01/23 06:15
旅人さん0 

初めて訪れた神社、
そしてなによりそこに御鎮座されておられる、
【須佐之男命】さま、その妃であられます
【稲田姫命】さま、
そして
【大己貴命】さま
には大変失礼なことかとは思ったのではありますが。

…そして、この埼玉の地まで運転して連れてきてくれた夫に対しても、(せめて一番近くの鳥居くらいはくぐりたいだろうし、境内もいろいろみてあるきたいだろうな)
とも思ったのです。

ですが。

やはり、やっぱりコロナ罹患の危険をできうるだけ避けたかった。


来てしまっていて、実際もうこれだけの人混みに身を置くこととなっているのに?

…外でマスクを外すことなく、手指の手洗いやアルコール消毒も欠かすことなく、最低限の外出しかしなかった方がうつられていることもある、そんな〝新型コロナウイルス感染症〟、これほどの人混みに身をおけば、感染のリスクはすでに発生していようというもの。

こういうのを悪あがきというのかも知れないけれど、別に今回に限らずいつもあがいて生きているおばさんですし。


そのままそこから楼門をくぐって。

参拝させていただくことといたしました。

No.131 23/01/22 06:05
旅人さん0 

このあまりにも多くの人たちが訪れている状況に、少し恐怖にも似た感情があることもたしかでありました。
行動制限のない状況なのはたしかですが、コロナ禍最大の流行の波第八波の真っ只中であることもたしかなことなのです。

アフターコロナの道を歩み出している今、どうこのコロナという疾患と向き合うかを個々にも問われているのだと思われます。

今の罹患率を考えると、誰がいつ罹っても決して不思議のない状況ではあります。
そこで〝どう生きるか〟〝どう行動するか〟。
コロナ罹患を恐れて最低限の行動をしていても罹患する人は罹患するし、コロナ前と変わらない行動をとっていてもうつらない人はうつらない。


とはいえ今、この春、早ければ四月にもコロナはインフルエンザと同じ第五類という感染症扱いとされることが決まりつつあります。
おそらくこの先は、個々の判断によるというよりは、コロナを怖れること自体が〝おかしい〟ことという世間一般の考えになり、今まで通りマスクをしアルコール消毒をしていることが奇異にも思われる日も近くなるのかもしれません。
〝自由〟とはいえ、やはり異端視される風潮は起こるのでありましょう。

慢性呼吸器疾患の夫を持つ私は、今のまま…マスクをし、手洗いをこまめにし、アルコール消毒をして過ごすことと思います。
まぁ、行く先々に設置されているアルコール消毒は早々に撤去されることとなるのでしょうが。


とはいえ。

この時選択するとしたら、戻って鳥居に行くか、楼門をくぐって参拝とするかの二択。


どうする私?
どうする夫?

No.130 23/01/22 06:04
旅人さん0 

しばしその【大宮氷川神社】さんの素晴らしい楼門を見上げほうけていた私。

… !?

と、鳥居が…まだだよ?
鳥居を一つもくぐっていないんだけど。

たしかに。
先ほどの氷川神社さんの入り口かと問うた入り口は、氷川神社さんに通ずる口ではありました。
そして、こんなところで「入り口か?」などと聞いてくるのはあまり信心深くはない、近道を希望している初老の人、みたいに思えたのかもしれないし、コロナ禍ということもあって会話を控えている方も多いのかもしれません。
間違いはない。
間違ってはいない。
が、私の望んだ、鳥居手前の道ではなかった、ただそれだけのこと。

(行けばわかる)という他力本願で訪れている私がいけない、ただただそれだけのこと。


そして。
楼門に続く道を振り返ってみたところ、…朱色の池にかかる神橋があるではないですか。
でもその先に見えたのは、鳥居ではなく、押し寄せるかにも見える多くの参拝の方々の姿でありました。

ここを…逆行するのは不可能に近いです。
今来た道を戻って、鳥居の見えたあたりから合流するしかないのだと思います。


…が。

No.129 23/01/21 02:50
旅人さん0 

車を停めた駐車場から、歩いて歩いて…、鴨の泳ぐ池がありました。
そのすぐそばに多くの人たちが出て来られる社門とも思われる出入り口を見つけました。
公園と思われる出入り口も近くにみてとれます。

ちょうどそこから出てこられた方に「こちらが氷川神社さんの入り口ですか?」
ひさびさのエックスキューズミーおばさんの登場です。

「ええ」


おお、ここかぁ。
いよいよ氷川神社さんだ。

身を引き締めて、背筋を伸ばして。
歩いて行くと…。


!!


大きな大きな、大きな楼門です。
青い空に朱色の映える、素晴らしい楼門です。


おおっ♡

No.128 23/01/20 06:19
旅人さん0 

【大宮氷川神社】さんの御祭神は、
【須佐之男命(すさのおのみこと)】さま、その妃であられます
【稲田姫命(いなだひめのみこと)】さま、
そして
【大己貴命(おおなむちのみこと)】さまでございます。

境内地は約三万坪!

かつては隣接する【大宮公園】も氷川神社さんの所有した土地であったといいます。ちなみにこの大宮公園もまた広大な土地で67.8ヘクタールあるといいます。
…どれだけ大きな社であるか。
境内に埼玉県神社庁もあるくらい、であります。
はあぁぁ。


その御由緒は、その社記によると、
今からおよそ二千有余年(!)第五代孝昭天皇の御代三年の御創立と伝えられます。

…二千年以上前から、ですか。
今年が2023年、なんですよね。
凄い。

そして第十二代景行天皇の御代に日本武尊さまが東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっているといいます。
日本武尊命さま、ですよ?!
日本武尊命さまを御祀りする神社さんも数多くあるという中、そのご本人がお参りをされている神社さんでありますか…。

第四十五代聖武天皇の御代に【武蔵一宮】と定められ、
第六十代醍醐天皇の御代に制定された『延喜式神名帳』には【名神大社】として、
「月次新嘗案上の官幣に預かり、又臨時祭にも奉幣に預かる等、歴朝の崇敬を殊の外厚く受けてまいりました」(大宮氷川神社さんHPより)
今も宮中の四方拝の際に遥拝される神社さんだといいます。


武家時代においても、鎌倉・足利・北条・徳川氏等相次いでこちら大宮氷川神社さんを尊仰し、社殿の再建や造営を行ってきたといいます。

そして明治天皇は都を東京に遷された際、この氷川神社さんを武蔵国の鎮守勅祭の社と御定めになり、三度こちらを行幸されたといいます。



…今回、私、こちらの氷川神社さんを訪れるにあたり、御祭神と、武蔵国一之宮であることくらいしか調べずに訪れましたこと、のちに深く深く…後悔したのでありました。

No.127 23/01/20 05:10
旅人さん0 

そして。

私どもの車は第二駐車場を目指して進むのですが…渋滞しております。嫌な予感しかしません。
(空き待ちしてる?)
いえいえ、交通指導員というか駐車場指導員というか…少し派手めな制服を身に纏った人たちが何人も立っており、
「駐車場はすべて満車となっております。近くの駐車場をお探しになってください」
…それすら窓を開けておばさんが聞いてのこと。
ただただ手で駐車場をふさぎ、先へと進むよう指示するのみです。

ひえぇぇ。空いてる駐車場って?
今まで通ってきた民間の駐車場みたいなところってこと、ですかね。
初めて訪れた地、呆然としかけたその時、ナビに周辺施設の案内ができることを思い出したのです。

『駐車場』
ポポポポポッ!
出たぁ!

駐車場はどうやらたくさんあるようです。
もちろん無料駐車場とかではありませんし、もはや値段の比較とかしている場合でもありません。
空いていたら入れる!


…結局、けっこう離れた、時間制のコインパーキングに駐めることに。それでも駐められてラッキー、なのかもしれません。




(大宮氷川神社さんとその参道の写真)

No.126 23/01/19 15:53
旅人さん0 

ここ、埼玉県の大宮という地名は、この武蔵一宮氷川神社が『大いなる宮居』と称されていたことから名づけられたものといいます。

その大いなる宮は、桁違いに、…大きかった。


私どもは車で参りましたので、当然まずは駐車場を目指します。
必ずしも一の鳥居から参道を歩けることとならないことが多く、私が目にした鳥居は二の鳥居でありました。
二の鳥居ですから、本来ですと当然参道の途中であります。が、
昨今の道路状況、住宅状況などにより道路上にポツンと鳥居だけがあることもございます。

こちらは立派な参道が、おそらくは一の鳥居からずっと続いていると思われます。
その参道を申し訳なさそうに突っ切るよう、道路が設けられています。
信号などという無粋なものはありません。
あくまでも参道を歩く方が優先です。

もっとも、このくらいのことは他の神社さんの参道でも見られなくはないことかもしれません。もともと参道あっての道、道路ですから。

ただ…。
この参道、通常の道路においての一車線分はゆうにあり、
何よりも驚くべきはそのサイドに設けられた道、
通常の感覚からすると配置的にも、その幅から見ても、〝歩道〟としか思われない道が、参道脇に造られた車道である、ということ、でありました。

しかもその参道を歩く人の多さと言ったら!


「ここ、ここはたしかに氷川神社さんの参道ではあるけれど、…全員が氷川神社さんのお詣りに来てる人たち…じゃあないよ…ね? …。」

「… …わからないけど、でも大多数の人が氷川神社さんに向かって歩いているし、氷川神社さんの方から歩いて来てるよ?」

「…」
「…」

その後調べたところによりますと、氷川神社さんの参道は、全国一長い参道、なのだそうで。
ケヤキを中心とした六百五十本もの樹木が植えられた、約二キロの参道であるということでありました。

今までに参拝させていただいた神社さんでも、長い参道はいくつもありましたが、そこが道路と化していたり、それどころか、かつては参道であったという扱いとなって車道になってしまったところも多々ありました。

大いなる宮居、そしてそこに住まう方々全てが、そんなことを考えることすらなく、あくまでも参道ありきで町を作り、道を作った、ということなのでありましょう。

神の住まうところはかくあるべきと、
あらためて知らされた思いです。

No.125 23/01/17 23:51
旅人さん0 

一日と十五日は神社に参拝する「お朔日参り(おついたちまいり)」と「十五日参り」という風習があるということを、神社さんを巡らせていただくようになってかなり経ってから知りました。

この間の日曜はまさにその十五日。
いつもですと自分の住む市の総鎮守と言われる神社さんに一人出向くのでありますが、今回、家族全員が久しぶりに二連休であったこともあり、かねてから参拝したいと思っておりました埼玉県大宮市に鎮座されます【大宮氷川神社】さんに参りました。


松の内も過ぎ、さすがに少しは初詣の参拝も落ち着いたであろうと言いながらも、私はその〝十五日〟であることで、もしかしたら混んでいるかもしれないと、心配しておりました。
コロナの新規感染者数は過去最高を記録しており、第八波と言われて久しい年末年始であります、できうるなら混雑したところへの外出は避けたいところです。

そんな心配を何度か口に出していたところ、
「…あのさぁ。何人の人が一日と十五日に決まって神社さんに行ってるって言うの。俺、そんなの今まで知らなかったし、そうしてるって人の話も聞いたこともないよ。平気、平気」と夫。
「いやいや、それは私たちが知らなかっただけじゃない。一日とか十五日にいつも私が行っている神社さんだって、引っ切りなしに参拝の方が訪れているよ?見知ったお顔の方もできたくらいだし、行くたびに見かける東京ナンバーの車だってあるんだよ?」

「それだって初詣の比ではないでしょ?」と言われて、
「それはそうだけど…」

これ以上口に出してもお互い不快な思いをするだけなので、それきりその話はせずに…。

ただ。
大きな神社さんのはずなのに、大宮に入って、到着まであと一キロを切っても、氷川神社さんの案内の看板を見かけないので、例の我が家のじゃじゃ馬ナビがきちんと案内をしてくれるかどうかが二人の一致した心配事となってまいりました。

氷川神社さんの駐車場は第三まであり、夫の調べによるとさらにもっとありそうな…。
とりあえず、スマホのGoogleマップも併せて氷川神社さんの駐車場を目指しました。


ははあぁぁぁ。

なんだか人がやけに歩いています。
田舎から来た私たちには多く感じるけれど、大宮はこんななのかな?
まさか氷川神社さんの参拝に来ている人たちってわけじゃないよね。

おお、赤い大きな鳥居が道路に!



…えっ?

No.124 23/01/17 15:28
旅人さん0 

その広々とした境内、神輿庫のほか、五つもの山車庫がありました。
それもまたゆったりと整然と建てられているのです。
どこを見ても掃き清められ、整然と整理されており、古札を収めるところですらもきちっと蓋がされて、古札庫という立て札を見なければ分からなかったくらいに整っています。

箒一本とて出たままにされてはいない、大変きれいに整えられた、そういった美しさの神社さんでありました。

なかなか広い池にかかった赤い太鼓橋。
それとは別にもう一つ控えめな橋がかけてあり、そこに小さなお社が祀られております。

どこをとっても悠々とした、大変居心地の良い神社さんで、ぜひまた参拝させていただきたいと願うおばさんでありました。


夏越の祓に、…来られるといいなぁ。
うん、ここなら来れる…かも。



No.123 23/01/17 15:15
旅人さん0 

【上州藤岡 諏訪神社】さんに話を戻します。

…と、言いつつ。
前々述となるレスで、【摂社】という表現をいたしましたが、
こちらの御祭神は【健御名方神(たけみなかたのかみ)】さまと【八坂刀売神(やさかとめのかみ)】さま。

神社さんには、主祭神さまのお祀りされた社殿(拝殿・幣殿・本殿)のほか、境内に小さな社をお祀りされていることがほとんど。
それを摂社あるいは末社とお呼びしております。


この使い分け、戦前の旧官国幣社(きゅうかんこくへいしゃ)においては、明確に『摂社』と『末社』を区分する基準が設けられました。『摂社』に該当する条件として、まず本社御祭神の荒魂(あらみたま)や后神さま・御子神さまを祀った社であること、
または御祭神と関係のある神さまや現社地の地主神(じぬしがみ)さまなど特別な由緒がある社となっていました。

こうした基準に当てはまらないのが『末社』であり、摂社は末社より上位に置かれていたといいます。

そして現在でも摂社・末社の呼称は、戦前の基準による区分をそのまま用いていることがありますが、特に本社との由緒の深い社には【摂社』の呼称が用いられています。
 (神社本庁のHPより一部引用)

ということは、こちらの主祭神さまとの関係から申し上げますと、
『建御名方神』さまは『大国主命』さまの御子神でありますので、
こちらの境内にお祀りされている『大国神社』さん、『八坂神社』さん、『神明宮』さんは大きさに関わらず【摂社】となるのではないかと。
…そう思ったのですが、こちらの諏訪神社さんのHPによりますと『大国神社』さんも『八坂神社』さんもみな『末社』と書かれておりまして。

本殿の裏手にあります『三峯社』、『神明社』、『阿夫利社』、『稲荷社』さんもみな『末社』とのことで。


いまは『摂社』と『末社』の区分けは神社さんの考え方でいろいろとなり、『摂末社』なる表現もあるようです。


ということで。
諏訪神社さんの境内に話を戻します。

古墳の横、主祭神さまのお祀りされた社殿の横に建てられた『大國神社』さん、そしてその隣に『八坂神社』さん、
そしてそこから離れて向きも変わって建てられている『天満宮』さんは、それぞれに鳥居があり、参道がある、しっかりとした造りの社でありまして、境内全体が広々とした配置、ゆったりとした〝気〟。

素敵な神社さんであります。

No.122 23/01/17 06:38
旅人さん0 

今日…。

忘れられない阪神淡路大震災の日。

私はその日も、一人早く起きて、ほんのひとときの自由な時間をたのしんでいた。
喘息もちで肺炎を起こして退院したばかりの生後三ヶ月半の子どもと、保育園児と、小学生。
ゆっくり自分だけで過ごすほんの少しだけ作ったスキマ時間。

観るとはなしにつけておくテレビから、何が起きたのか、どこのことなのか、衝撃でしかない映像が飛び込んできた。
釘づけになった私の目には、徐々に、さらにさらに拡大していく火災の映像が映る。

体験ではなく、映像からであるというのに、受けた衝撃は今も忘れられない。

あれから二十八年経ったのか…。


今日は祈りの日。

No.121 23/01/16 18:16
旅人さん0 

私どもは神社さんの拝殿での参拝のあと、社殿の造りにもよりますが本殿の裏手へとまわります。
本殿の裏手でも手を合わせて、ご挨拶を申し上げるのです。

と、同時に、…やっぱりその社殿の彫刻であるとかを見させていただいてもいるのですが、ね。

神社さんによっては、裏手に摂社末社がお祀りされていることもありますが、こちらの神社さんは特段そのようにお祀りされてはおらず。
ただ、みぎてには降りていく階段があり、ひだりてには大きな池があって大きな赤い太鼓橋がかかっているのが見えました。その池のある方へとおりられるようやはり階段が設けられていました。

…ど、どうする?
(ちなみに、この「どうする?」は、自問自答で、珍道中ペアは個別行動が暗黙の了解、もはやそれが当たり前、なので)

一周まわって狛寅さまと、拝殿に向かってご挨拶を申し上げて。
…みぎての階段を降りることといたしました。

階段を降り…ながらびっくりしたことに、駐車場よりも広い境内が広がっていて、立派な摂社が三社もあります。小さな神社さんならこのくらいの建物…社殿かもしれないくらいの大きさです。

す、凄い!


そして。
階段を降り終わってまたまたびっくり。
こちらの社殿の建つ丘も『藤岡富士浅間神社』さんと同様、古墳の上なのは存じ上げていたのですが、石室がぽっこりあるではないですか!



【諏訪神社古墳(諏訪古墳・藤岡町3号墳)】は、神流川左岸の段丘上に存在している前方後円墳。
円墳(後円部)が前方部となるとのことですが、この部分は痕跡は有りますが、現在は消滅してます。
藤岡諏訪神社社殿が鎮座しているのが、後円部になります。

先ほど見えていた赤い太鼓橋のかかる『諏訪池』になっているのが、『周濠』の痕跡のようです。

現状では全長57m、後円部径37m、高さ4m。
明治三十九年に墳丘北側から東にかけて、円筒埴輪のほか靫、鞆、人物といった形象埴輪が見つかっているといいます。


凄っ!
あまりにもリアルな古墳感に、圧倒される私を尻目に、たいそう興味深そうにその横穴式石室を覗き込む夫。

だ、だからそこってお墓なんだってば!
覗かないでよぉ、…私が怖いから!

No.120 23/01/16 15:51
旅人さん0 

見れば見るほど可愛らしい。
しっぽはシマシマ、よく見ると身体にもしま模様が見てとれます。

なるほど。
狛寅さんですか。

この狛寅さん、元陸軍大将で第26代内閣総理大臣田中義一氏と藤岡出身である文子夫人が、ご神縁に感謝し、大正九(1920)年に結婚記念としてこちら【上州藤岡 諏訪神社】さんにご奉納されたものなのだそうです。
夫人が寅年生まれだった事から、トラの狛犬『狛寅』になっているそうです。

以来、諏訪神社の縁結びの象徴として社頭から見守り続けておられる『狛寅』さま。

しかしながら、この狛寅さま、大谷石という柔らかい石で彫刻されており、奉納されてすでに百年という年月を経過しており、どうしても経年ので劣化を止めることはできません。
また、こちらの社殿は古墳の上にあり、階段を上がらなければ見ることができず、足の不自由な氏子や信徒の方たちはお詣りすらが難しい立地。

鎮座百年という節目に二代目の狛寅さまを造られたとのことでありました。

この二代目狛寅さんは、なんともユーモラスな二頭で、一代目の狛寅さまとはまるで似てはおりません。
それでも二頭が向き合って安置された姿はやはりなんとも微笑ましいもので、こちらは撫で丑ならぬ『撫で寅』さんともなっており、広い境内のあまり奥まっていないところに、それでも控えめな位置に立っておりました。


さらにはこの狛寅さんの奉納百周年ということで『狛虎御守』も作られ、こちらは〝寅〟の顔を刺繍した御守となっておりました。
これがなかなかカッコのよい御守で。

狛寅さまなので、『阿』の虎守と、『吽』の虎守があり。
除災招福・一年安泰の他に、[大切な人と『阿虎』『吽虎』一対で持つと二人の絆がより深いものとなる]
という御守だということで。


どれをお授けいただこうかと、阿がいいか吽がいいか、何色にしようかまで思っていたというのに、社務所の方のそんな説明を聞いた途端、
…はあぁ?

何度も何度も繰り返し[二人の絆]がより一層深いものとなると、社務所の方が繰り返しおっしゃるのに対し、おばさん、
「ああ、これ以上深くならなくとも大丈夫です」と笑いながら社務所を後に。


「狛虎御守、カッコよかったし、二人でお受けしようと思ってたのに」とは夫。
「いやいやこれ以上深くなったら困りますがね」
(…なにを言ってるんだ?この人は)



No.119 23/01/16 05:38
旅人さん0 

気の散りやすい困ったおばさん、それでも(でき得る限り)まずは御本殿へのお詣りを心がけております。

夫より一足遅れて拝殿前へと到着いたしましたところ、
「すごく可愛らしい狛犬さまだよ。…なんだか猫さんみたいな可愛らしさなんだけど。大きさも小さいし」

私が喜ぶだろうと声をかけてくれている夫をとりあえず無視して(!)
まず拝殿の前で手を合わせました。
祝詞をあげて初めて参拝させていただきましたことを御礼申し上げて。
ふと目をあげると。
…。
……?
なにやら拝殿ではあまり見かけないパステルカラーのカラフルな色合いのものがまさに真正面にあるのが目にはいりました。



あっ!、アマビエさまだ!
アマビエさまのおそらくだるまさん。
どなたかの奉納か、あるいは神職の方が参拝に訪れる方の健康を祈願し拝殿の中、参拝者の方に向けて置かれたのでしょうか。

ニ礼ニ拍手一礼のご挨拶を済ませてはおりましたが、今一度手を合わせてコロナの収束(できれば終息)を祈らずにはいられませんでした。


夫はもうくだんの狛犬さまのところにはおりませんでしたが、すぐに戻ってきて
「ね、可愛らしいでしょ」

…たしかに。
大きさといい、姿かたちといい、なによりもそのお顔立ちと表情がなんとも愛らしい♡
猫のよう…とまでは思いませんでしたが、たしかに普通一般の狛犬さまとはひとあじちがいます。

あとで社務所でお聞きしたところ、こちらの狛犬さん、その名も〝狛寅〟さま。なのだそうで。

No.118 23/01/16 05:01
旅人さん0 

…というわけで。

どうしても遠方ともなると車での参拝となり、往々にして境内内にある駐車場へと一旦車を停めることとなり、鳥居をくぐることもなく(神社さんによってはヘタをすると車で鳥居をくぐったり、参道を車で通ったりと、ありえないほど失礼にあたることをせざるおえなく)いきなり境内にいる状態からの参拝となってしまいます。

こちらの諏訪神社さんでも境内内に一旦入った無礼をお詫びしながら、まず外に出て、鳥居の前に立ちました。

お。
こちらでは鳥居をくぐる前に手水舎を設けてくださっておられます。ありがたい。
手水舎に近づくと、手水鉢の中にさまざまな柄の浮き玉が浮かべてあります。うーん雅な感じです♡
龍の口から流れ出る水を受けてくるくると浮き玉が回ります。
そんな光景にしばし目をとられ、ハッとなり手を清めました。

あらためて鳥居の前に立ちます。
まっすぐ前に石段があり、社殿の屋根が少し見えております。
なんと気持ちの良い、まっすぐな参道でしょう。

まっすぐ歩きますと石段の少し手前の向かって右側に背の高い神楽殿があります。
そしてそれに合わせたのか、かなり高い位置となるように、石垣を組みその上にさらに背の高い台座を組んでの狛犬さまが鎮座されていました。


と。
そこへ神職の方が。
ひだりての狛犬さんのお膝元で、どうやら車のお祓いをされるようです。
立派な高級国産車のそばには大きな体を小さくして神妙にお祓いを待つ男の方と、さらに控えめにお立ちになる奥様と思われる女の方が。
そのご様子もまた微笑ましく…。
思わずその方々と車のご無事をお祈りしておりました。

そのそばには大きなカエルの石像が。〝無事カエル〟さんでしょうか。無事カエルさんに私どもの無事もお願いして。


気持ちを新たに石段の前で一礼して、登りはじめます。
…狛犬さま好きのおばさんが立ち止まって左右の狛犬さまにニコニコしながらお声がけしたのはいうまでもありません。

No.117 23/01/16 04:30
旅人さん0 

せっかく【信濃国一之宮諏訪大社】さんから勧請させていただき、上社、下社から『剣一口』『鏡一面』を請い受けるまでに至りながら、その地域の名から『高山神社』って…。
かの悪令はどこまで悪令であったのか。

群馬県の織物業に大きく貢献した高山社さんとの繋がりでもなんでもなく、ただ単にその地の名!


私などはこの高山神社という名前を聞いてまず頭に浮かんだのは群馬県太田市にある高山神社さんでしたが、こちらは実在した明治維新に大きく貢献したという高山彦九郎氏を祀ったものであり、
(どうして『高山神社』さん?) と、太田の高山神社さんを勧請したのかと思ったくらいでありました。


諏訪大社さんからの勧請をそんな理由で改名するなんて、もう罰当たりとしか思えないんですけど、
神職の方をはじめ、氏子の方々、信徒の方々はあくまでも名のみの改め、その実は何も変わらない『御諏訪様』として崇め、お祀りしておられたのでしょう。

そして名のみ、とはいえ、明治元年から三十四年間、その名であった高山神社さんにもなんとも失礼なこと。


しかしながら日本の国が大きく変わるために暗中模索した結果だと、神さまは苦笑いしながら見守ってくださったのでしょう。
大きなお護りくださるお力の〝気〟と、おおらかであたたかな〝気〟を全身に感じる、…【上州藤岡 諏訪神社】さんは、そんなすばらしい神社さんでありました。

No.116 23/01/14 17:23
旅人さん0 

境内に車で入った瞬間から、その活気を感じるこちらは、『上州藤岡をお鎮めするお諏訪様』と称される神社さんで
【健御名方神(たけみなかたのかみ)】さま、
【八坂刀売神(やさかとめのかみ)】さまを御祭神とされます。

上毛の三山を一望できる、諏訪神社の神山、『前方後円の諏訪古墳』上に社殿が建ちます。

…こちらも古墳の上。

まぁ、古墳など、なかなかその土地を開拓・開墾しづらい、そこに家屋などを建てづらいところへは、人は神を祀ったり、寺を建てたりしたものだということがあるようですので、藤岡の地でも同様であったということなのでありましょう。
そしてこの藤岡もまた古墳が築かれるような勢力のある豪族のいた土地であった、ということなのでしょう。


こちらの御由緒は古く、およそ1100年前、上野国緑埜郡正四位椙山明神(こうづけのくにみどのぐんしょうしいはしらやまみょうじん)として、明神の『荒魂』と『和魂』をそれぞれにお鎮めし、上、下のニ社としてお祀りされていたといいます。

永享三(1431)年、当時の豪族『有田大舎人小属定景(ありたおおとねびとしょうぞくさだかげ)』が『常岡城(平井城の支城、「常岡」は「藤岡」の旧名)』に居城するにあたり、
【諏訪大社】の上社・下社を勧請して、上社は男神、下社は女神として、ニ社を崇敬祭祀したといいます。
永禄九(1566)年、芦田下野守信守が藤岡城に居城するにあたり、【信濃国一之宮諏訪大社】の上社、下社から『剣一口』『鏡一面』を請い受け、神霊として南山に上社、現在の諏訪神社の場所に下社を奉斉しました。

慶長五(1600)年、芦田氏は故あって藤岡城を廃されることとなりましたが、郷民はなお崇敬し祭祀を継続し、藤岡の総鎮守として崇められました。

しかしながら、例の明治初年の神社制度改正の砌、各町村に村社が置かれることとなり、
この土地のある当町を除く他の十七村は『氏子』と称せず『信徒』として、祭礼には獅子舞や神楽舞等を奉納し、当社より各村毎戸に神符を頒布するを例としたといいます。

さらに明治の神社制度改正に倣い、上社は下社に合祀されたのだといいます。
はあぁ…。
…かえすがえすも明治政府の悪令を憎み恨みます。

なお明治元(1866)~明治三十四(1901)年迄、こちらはその地域の名から、「高山神社」という社名であったということであります。

No.115 23/01/14 07:50
旅人さん0 

「次はね、諏訪神社さんに行きたいんだ」

ぎょ、ぎょぎょ?!


殿!(ちなみにここでは夫、であります)
せっかくこうしてお連れいただけるのであれば、出立前にその日のご予定なり、行きたいと思っておられるところを事前にお教えください!

私、布団干したまま出かけております。ここから家まで一時間半はかかるかと…。


…。

……ま、いっか。
行きましょう。


というわけで次に向かいましたのは【上州藤岡 諏訪神社】さんであります。
全国に、それどころか同じ市内でもいくつかある『諏訪神社』さん、差別化を図り『上州藤岡』と冠するようです。


例のじゃじゃ馬ナビはこの日も絶好調。いつも通りに裏にあたる、たぶんそこからは諏訪神社さんの境内に歩いてもいけない、駐車スペースすらないところへと案内しております。
が。
このじゃじゃ馬ナビのクセにもいい加減慣れた夫、早くからその案内に気づいて、ただ修正し。
左折の指示を無視して直進します。
その通り沿いに看板が出ており、すぐに分かりました。
…どうしてこんなにも分かりやすすぎる神社さんへの案内をこうも捻って伝えるのだろう。まるで人格があるかのようです。…えっ?私に似ている?いやいや、これは開発者か…持ち主の夫でありましょう、ウンウン。

『車入り口』という案内まであります。


おおっ!
こちらもまた広いっ!

No.114 23/01/12 18:53
旅人さん0 

こちらの『延命子育地蔵』の創建は天正十八(1590)年に、信州佐久(現在の長野県佐久市)から藤岡へ配置転換となった『芦田康貞(芦田五十騎の一人、藤岡城の城主)』公を慕って追ってきた旧領民達が、地元で信仰していた地蔵尊も背負ってやってきたことに始まるといいます。
お地蔵さまを背負ってここまで来たところ、この地で急に動けなくなったので、ここが霊地と悟り、お地蔵さまをここに安置したのが始まりと伝えられています。

ご本尊である石地蔵さまは無名で、顔面が削られてしまっております。
隣に並ぶお地蔵さまに『文政三年辰十月吉日岩邑田』と刻まれているといいます。
岩邑田、というのは信州佐久の地名だといいます。


芦田氏はこの地蔵尊を含め、この土地の鎮守である富士浅間神社を庇護し、社領の寄進などを行い、その土地を貸し付け、小作料で、社殿の改修や例祭費を賄ったようです。

文政十二(1829)に地蔵堂が建立され、その後五十年〜七十年ごとに改修し、明治元(1868)に現在の御堂が再建されたといいます。
お堂にある二つの鰐口のうち、大きな方の鰐口には文久三年(1863)の年号が有ります。

例祭は毎年八月二十三・二十四日で、往時は奉納相撲、その後野球となり、その後には盆踊りが行われ多くの参拝者で賑わったといいます。

こちらの地蔵尊は『子育地蔵』『夜泣き地蔵』と呼ばれ、子供の夜泣きや夜尿、ひ弱な体質などに効験があるとされ、現在でも篤く信仰されているといい、願いがある人は地蔵堂から地蔵を借り受けるのだといいます。
借り受けたお地蔵さまにお水やお線香を供え、念願成就するとお地蔵さまを二体にして奉納するといった習わしがいまだものこされているのだとか。


なるほど。
この大小さまざま、たくさんのお地蔵さまはそういった奉納で集まったものでありましたか。

隣に祀られたモニュメントも、よく見ると御礼に奉納された古いお地蔵さまがモニュメントとされお祀りされたようです。
こちらにも花が手向けられ、お線香の台もありました。

なんか、こういうのって良いなぁ。
私どもの住まう地域にはこういったところがないので、こちらの地蔵堂や、老若男女が集う富士浅間神社さんのようなところにとても憧れます。

No.113 23/01/12 14:09
旅人さん0 

短時間に三回も神職の方にお会いできたのは、ただただタイミングがあっただけのこと。
…なんですけれど、ね、なんとなく心弾むものであります。 

良いことがありそうな♡

境内を散策させていただいていると、境内社の並ぶ一角がありました。
四社ほど並んでいるのですが、その全ての扁額の文字がすっかり消えてしまっており、ただ一社のみ、小さな陶器でできた狐さんがたくさんおられることから、そちらの社は稲荷社であることが分かったのですが、あとの三社はどちらの神さまがお祀りされているか、わからないままでありました。
…もう少し修行を積んであれば、建物や屋根のかたちなどから、どの神さまがまつられているか、わからずじまい。
手を合わせて、境内社の前をあとにいたしました。


隣接する土地にもずっと参道がつづいております。
やはり小高いところにお社が見えてまいります。ネットで調べると八阪神社さんのようです。

八阪神社さんへの参拝は今回控えさせていただきました。

お神輿を納めた社殿もあります。
なんでもこちらのお社には二基のお神輿があって、お祭りの時には一年交代で八阪神社さんと、こちらの
富士浅間神社さんのお神輿を出すのだそうです。


さて。

実はこちらの富士浅間神社さんの、駐車場入り口に小さな御堂があり、そちらが気になっておりました。
そのお堂の脇には円錐形をしたモニュメントとも思われる塔(?)が見えていました。

例によって早足でそのお堂目指して歩く私。

…。
……これは…円錐形をしたモニュメントだ!そうとしか思えないものが三つ。
うーん、なんだろう。
しいて言えば『境外社』のようにもとれますこちらの御堂。

まずは御堂にお参りです。
『延命子育地蔵』という額が掲げられています。
なんとも欲張りなご利益です。

おおっ!
大小のお地蔵さまがいくつかある棚にぎっしり一面にお祀りされています。

No.112 23/01/12 06:41
旅人さん0 

こちらの井戸のお水はたいへんサラサラとしたもので、浄めさせていただいた手は驚くほどすべすべになりました。

身を浄め本殿への階段を上ります。

こちらの社殿のある丘、丘全面が小さな石を積んだ石垣になっておりまして、その迫力に思わず立ち止まって見上げたほどです。
どれだけの時間をかけ、どれだけの人の力、時間をかけたのだろう。
愛されている神社さんなのだなぁと、その石垣を見ただけで思われます。

広い境内には小、中学生が、子どもたちだけで遊びに来ている様子もみてとれます。

ああ、そうか。木花之開耶姫命さまは子どもの守り神さまであられるから。
その優しく守ってくださる〝気〟にひかれて、親の手を離れて遊ぶ年頃となっても、こちらへ足が向かうのだなぁ。


階段を登った丘の上はさほどには広くはない空間で。さもありましょう、墳墓の上、であります。
そこには新しく綺麗な、小ぶりの社殿が建っておりました。
本当は昭和四十四(1969)年に建てられた社殿、もう五十年以上経つ社殿なのですが、これが全くそうは見えず、つい近年に建てられたものにすら見えるのです。

木花之開耶姫命さまのお力のほかありません。

明るくて、綺麗で、優しい〝気〟が社殿から溢れて、丘の上全てに広がり、さらには広い広い境内全体にまでその気が満ちています。

手を合わせて。

と。降り口とされた階段を、浅葱色の袴と白い着物をおつけになった若い神職の方が降りていかれます。
黙礼をし、社殿の裏へとまわります。

本殿の後ろで再び手を合わせます。
藤岡の町が見渡せる気持ちのいい丘の上であります。

拝殿のすぐそば、ちょうど階段を登り終えたあたりには、広めのあずまやが建てられています。
長い階段を登ってこられた方が一休みできるような、そんな配慮から、でしょうか。

今度は境内を見下ろして…。
降り口から降りようとすると、先ほどの若い神職の男の方がちょうど上がって来られ、会釈をなさって社殿の中にお入りになって行かれました。

こんなに神職の方にお会いできると、なんだか縁起が良いような気がいたします。

さあ、社務所へと向かいます。
御朱印と、神玉をお受けいたします。

桜の花の舞う可憐な御朱印でありました。
御朱印をお受けして、こちらの御由緒の書かれたものを読もうと石垣の方に歩いていくと、…!
またまた先ほどの神職の方が!

No.111 23/01/11 18:37
旅人さん0 

シャボ、シャバ、シャババババァ、ジャバッ!

手押しポンプ式の井戸は結構重くて、すぐには動かず。
助走をつけるように少しづつ少しづつ、押してぇ、上げてぇ。

少しだけ流れ出た水に、思わず感動して、押してぇ、上げてを繰り返すおばさん。
それを見ている、だけの夫。
「ねぇ、一生懸命出してるんだから、手を浄めてよ」
「えっ?…ああ、俺のために出してくれてたんか」

…いや、ただ純粋にポンプを押して水を出したかっただけだけど。

でもそれではやっぱり〝恵みの水〟がもったいないし、水を恵んでくださっている神さまに申し訳ない。
そんな後付けに過ぎないけれど。

夫は手を浄め、さらに口に含もうとします。

私「口はダメだって書いてあるよ。井戸水は常に状態が変化しているから、口には含まず手のみを、って」
夫「えっ、そうか、どうしよ口に含んじゃった」

…おい。
のんきに、無邪気にポンプを押しては水を出す初老の妻を見守っていただけだったの?

やれやれ。

そして「俺も水を出したい」と。
…そら、そうだ。
わかる。

でも私がポンプを押す手を止めても、まるで変わろうとはしないので、再度ポンプの押し手を握り、片手でやりずらいのを頑張って手を浄めたばかり。
なので夫は本当に水を出しただけ、でした。

普通、両手でポンプを押すのだから、水を出す者と手を浄める者とに分担するものなんじゃないのかなぁ?

そ。そんなところでもすれ違う、珍道中ペアであります。やれやれ。

No.110 23/01/11 15:51
旅人さん0 

こちらの神社の建つ丘は、実は古代に当地を治めた有力者を祀る墳墓であり、【浅間神社古墳(藤岡1号墳)】と言われる前方後円墳に当たり、現在の状態は後円部のみとなっているようです。

江戸時代には庶民の間で富士講が盛んに組織され、多くの人が当神社を中心にして富士山詣でを行ったと伝えられています。

元を糺せばお墓、…なんですけど、ね。


こちらは、富士山を御神体とする『富士山本宮浅間大社』さんが総本宮。
浅間大神(あさまおおかみ)であられる【木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)】さまが主祭神さまであります。

木花之開耶姫命さまは山神の【大山祇神(おおやまつみのかみ)】さまの娘で、桜の花の化身でたいそうお美しい女神さまであることで知られています。

天照大神の孫【瓊瓊杵命(ににぎのみこと)】さまの夫人であり、海の幸の神・山の幸の神たちの御母堂であらせられます。

火を放った産屋で無事に子を産んだ言い伝えにより、子授け、安産、子育ての守り神として古くから信仰を集めてきました。


また、富士山は日本一美しい山ですが、かつては火山としてたびたび噴火を繰り返していました。
浅間大神である木花之開耶姫命さまを御祀りして以来その激しい噴火が鎮まったことから神徳が知られることとなったと云われます。

No.109 23/01/11 15:15
旅人さん0 

「ねぇ?この間連れて行ってもらった富士浅間神社さま、だいぶ前から行きたいって言っていた気がするのだけれど、何か訳でもあったの?」

今さら聞く…。

「だって『藤岡』っていう地名の由来となった神社さんだよ」
ふ、ふーん。そう、みたいだね。

『富士岡』が変じて『藤岡』となったと云われています。
実はそれ以前はこの辺りは『常が岡(ときがおか)と呼ばれていたようで、隣接する『富岡』とまぎらわしかったこともあり、
【富士浅間神社】さんが建てられたのをきっかけに『富士岡』となり、現在の『藤岡』となっていったようです。


こちらの神社さん、実はいつの頃から神社があるのか、詳しく分かっていないといいます。
ただ、千年ほど前の平安時代、小高い丘の上に神をまつる建物を建てたのが始まりと考えられているそうです。
このころは『従五位上郡御玉明神(じゅごいかみごおりみたまみょうじん』という名前の神社であったといいます。


鎌倉時代、日蓮上人が佐渡へ流されて、そののち赦され帰る途中、藤岡市のあたりに立ち寄ったといいます。
富士山の神を厚く信じていた日蓮はこの地にも富士の神を祀りたいと考え、神の御霊を勧請したといいます。
そしてその際にこちらを【富士浅間神社】と名前を改めたといいます。

戦国時代の終わりごろ、この辺りを治めた『芦田泰貞』公が『藤岡城』の築城と同時に、土地の守り神であるこちらの社殿を建て直し、大きく広げたとされています。

その後時は流れ。
昭和四十(1965)年にこちらは火災に遭い、現在の社殿はその四年後の昭和四十四(1969)年に建てられたものだといいます。


昔、本当の富士山へは気軽にお参りできなかったので、日本各地に富士山に見立てた丘の上に神社が建てられたといいます。

この、丘の上に建つお社を見て、日蓮上人は富士の神さま、木花之開耶姫命さまをお祀りしたいと思ったのでありましょうか。


No.108 23/01/11 11:54
旅人さん0 

「藤岡の【富士浅間神社】さんに行ってみたいんだよなぁ」とは夫。
…御意。

ということで、この日は伊勢崎神社さんから藤岡市に鎮座されます【富士浅間神社】さんへとむかいました。
こちらは初めての参拝となります。

例の『神玉』のお授けをなさる神社さんの一つではありますが、実は夫以前からこちらへ参拝したいと申しておりました。

藤岡市って私どもはあまり行くことのない土地。
花と写真の好きな息子は藤の綺麗な時期に藤の名所に何度か行っているようなのですが。

そういえば藤岡市の神社仏閣って、参拝させていただいたことがないかもしれません。


それにしても、どこをどうしてこちらへ?
藤岡というあまり行かない土地を調べてのことなのか、それとも【富士浅間信仰】からなのか。

おそらくは富士山をご神体とされる桜の女神、【木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)】さまをお祀りされる神社なのだと思うのだけれど…。

夫のクルマ、夫の運転でいつものように移動いたします。

見えてきた道路に面した石造の鳥居には『富士山』という扁額があります。
そこを少し通り過ぎると駐車場の入り口になります。
広い広い駐車場です。
そして…さらに広い境内にびっくり。

車から降りるとまず神楽殿が目に入ります。神楽殿の方へ足を進めると、コンクリートを横1メートル半くらい縦30センチ、高さ40センチくらいの長方体に固めた、なんとも懐かしいベンチがあります。
「うーん、これこれ、懐かしいっ!」
写真を撮るほど懐かしがっている妻を置いて、スタスタと神楽殿に向かう夫。
そんな夫を置いて二の鳥居へと向かう妻。
二の鳥居にたどり着こうとする夫をさらに置いて、手水舎へと向かう妻。

木花之開耶姫命さまも、初めての珍参拝客、珍道中夫婦にはちょっとびっくりされたかもしれません。


こちらの手水舎もまた花手水となっておりました。
葉牡丹をメインに、なんと下からブルーの光が漏れ光っております。
その手水鉢に龍が絶えず水を注いでおります。

と。

そこから少し視線をずらすと。

手漕ぎポンプ式の井戸があり、『御神水・手水』と書かれているではないですか!

私の子供の頃でもほとんどその姿を見なくなっていた手漕ぎポンプ式の井戸。
スタスタスタっと早足でそちらへ向かいます。

…嬉しいとすぐにそうなるおばさんで…。

No.107 23/01/11 10:11
旅人さん0 

伊勢崎銘仙を使った伊勢崎神社さんの御守は『御守り袋』と『御内符(おんないふ:神様の御利益があるお札)』の頒布というもの。
気に行った柄の御守り袋に、叶えたいお願い事の御札を入れて、自分だけの御守りを作る、といったものであります。

約30種類の生地で御守り袋を作成なさったということで、さらには同じ生地でも裁断場所により全く違う柄となりますので、それぞれが二つとない柄であるといいます。

御守り袋は技術が途絶え生産できない貴重な生地ですのでもあり、ずっと大切に使って、中の御内符だけ取り替えて待つ、ということで、御内符の種類は
【身体健康】【交通安全】【開運招福】【仕事成就】【良縁成就】【厄除開運】【方除祈願】。

お守り袋一つに四つ程度まで御内符が入るとのことです。

一体一体お受けするより、コンパクトに所持することができ、また、その年その年でカスタマイズできることを考えると、なかなか秀逸な御守ではないでしょうか。


また、かつては一種であった御朱印も今はこの伊勢崎銘仙御朱印のほか、その年一年限定の御朱印と、ふた月ごとに図柄の変わる御朱印、
〝例の〟『神玉』御朱印、切り絵御朱印等々、大変種類が増えておりました。


この切り絵御朱印、今ブームとなっているようですが、高価なこともあり、基本お受けしないスタンスでおりますが、今回の切り絵が伊勢崎神社さんの社殿であり、さらには鳥獣戯画のウサギも使われていることもあって、一目惚れ。
夫に相談してお授けいただきました。

前回の切り絵の『虎』も大変かっこよかったです。
〝煩悩の塊おばさん〟は、御朱印帳を胸に、自らの煩悩と戦いながら今年も神社さん、お寺さんを巡らせていただいております。


No.106 23/01/11 09:43
旅人さん0 

【伊勢崎神社】さんは、前述した【上州焼き饅祭』のように、参拝される人々が喜ぶような行事、心に沿う神社を目指されておられるのか、ここ五、六年でまた様変わりをされてきておりました。

その一つが伊勢崎銘仙を使った授与品であります。


群馬県民ならそのほとんどの人がその読み札を暗唱できる【上毛かるた】で、伊勢崎市を詠んだものは
【『め』 銘仙織り出す伊勢崎市】。

伊勢崎市はかつては『伊勢崎銘仙』でその名を轟かせた町でありました。明治から昭和初期にかけて、伊勢崎銘仙は大変人気があったといいます。

今見ても斬新でポップなデザインの織物でありますが、時代の流れとともにその需要は減少し、ついには生産が無くなってしまいました。
艶やかな色合いを扱うのですが、糸に色や柄を付けてから織るため、かすれた模様なのがまた、今見ても斬新な感じを表しています。
見た目だけでなく、縦糸と横糸の両方に色を付けてから柄を織るという技法は大変難しいものなのだそうで、全国でもこの伊勢崎銘仙だけのものであったといいます。


そんな伊勢崎銘仙、今ではもう〝作れなくなってしまった〟ものとなってしまいました。
高度な技術を必要としたという伊勢崎絣の織り方ももう失われてしまったのです。

それを伝えていこうということで、立ち上がったのがこちら『伊勢崎神社』さんの神職の方でありました。

御朱印帳にその伊勢崎銘仙を使って、まずはこの伊勢崎銘仙の良さを知ってもらい興味をもってもらい、後世にこの伊勢崎銘仙の文化を残したいと考えたとのことでありました。

その頃まさに世は『御朱印ブーム』。世界に一つだけのオリジナルの御朱印帳に伊勢崎銘仙を使ったものをと考えられたのです。

この御朱印帳に使われたのは昭和初期から中期にかけて生産されたアンティーク生地。
今では大変希少な伊勢崎銘仙を新たに織って作るとなると大変高額な御朱印帳となってしまうこともあったといいますが、これが大変美しい御朱印帳となっておりました。

こうして神社さんが保有する伊勢崎銘仙の生地から、書き置きの御朱印用紙の柄にもなり、さらには伊勢崎銘仙を使った御守袋も作られ、授与されるようになりました。




No.105 23/01/11 06:32
旅人さん0 

伊勢崎神社さんでいただいた御由緒書きを拝見して、びっくりしたことが一つ。
こちらの境内地、な、なんと約七百坪あるとのこと。

そんなのさして珍しいことではないでしょ?…そう思われますよね。
もっともっと広い境内をお持ちの神社さんはたくさんあると思うので。

ただ…。
どちらかというと伊勢崎神社さん、どちらかというと手狭な感じがしていたので、広い神社さんといった感覚が全然なかったのです。
境内いっぱいいっぱいにいろいろな建物があり、鳥居からの参道も短く、神社によくある樹木もどちらかというと少なくて、林や森という感じのものではないですし。

なので本日開かれるという『上州焼き饅祭』、人が詰めかけたら入りきれるのかなぁと心配していたくらいなのです。
今回参拝した際も、一月ももう九日というのに、たくさんの人がひっきりなく訪れていたくらい、人気の神社さんなので。


ちなみに。毎年、伊勢崎の初市で鏡開きの日に開かれるこの『上州焼き饅祭』という祭事は平成十五年に始まったもの。
『幸せが大きく膨らむように』との願いを込めて、直径55cmある大きな饅頭が焼かれる『福まん神事(?)』。
なんでも、その神事の後は、その年の年女年男が饅頭に文字を書く「願い文字の儀」がおこなわれ、福分けとして饅頭が無料配布されるようです。


…焼き饅頭って…。焼いていて膨らむものだったかなぁ?

ま、そ、その辺はおいておき。

祭日、成人の日とはいえ、あの混みようであった伊勢崎神社さん、心配性のおばさんは老婆心ながらドキドキいたします。


また、伊勢崎神社にちなんだ神社コロッケというものもあるそうです。
「秘密のケンミンSHOW」というテレビ番組にも登場したという群馬B級グルメなのだそう。…私は食したことがないのですが。
そのテレビ番組も観ていないし。

なんでも戦後の子供たちに食べてほしいと、その当時、伊勢崎神社前で屋台販売されていたため、神社コロッケと呼ばれるようになったとのことです。

衣にはたっぷり濃厚なソースがしみ込んだ絶品のコロッケとのことで、コロッケ好きのおばさんとしては是非食べてみたい一品なのですが、今は境内で販売されてはおらず…。

今日のようなお祭りの日には屋台販売もあるのかなぁ?


No.104 23/01/10 19:51
旅人さん0 

昨日群馬県伊勢崎市の【伊勢崎神社】さんへお詣りいたしました。

伊勢崎市の街中にある今から800年以上も前の健保元(1213)年に創建されたと伝えられる歴史ある神社さんです。

こちらではちょうど明日、伊勢崎市の初市と同日の一月十一日に、群馬県のソウルフードとも言われる、大きな焼き饅頭にちなんだ『上州焼き饅祭』というお祭があり、焼き上がった焼き饅頭は『福分け』として無料でお授けいただけるようです。


三浦介義澄によって創建されたと伝えられているようですが、創建当時の社地は明らかではないようです。

それからおよそ100年後の元徳元(1329)年に、当時の国司・【新田義貞】が現在の地に遷したといわれています。

こちらは代々の明石城城主の崇敬厚く、かつて伊勢崎の地は『明石の郷』と呼ばれていたそうです。
元亀年間(1570〜73)に、『伊勢大神宮』を勧請奉祀し、それより【伊勢崎】と云うようになったようです。
宝暦九(1759)年に造営された社殿は火災により焼失、
現在の本殿が建立されたのは嘉永元(1848)年だといいます。


社殿には非常に緻密で壮麗な彫刻が施されています。
人物個々に豊かな表情があって、かつ動きがある彫りとなっておりますし、龍はどこから見ても目が合うような気のする生き生きとした彫りであります。

拝殿は昭和十一(1848)年に建立されたもので、本殿に覆いかぶさるようにして造られています。

拝殿正面の上部にはな、なんと!
木製のプロペラが飾られています。
第二次世界大戦中、『飛行機が戦争から無事に帰って来るように』と、中島飛行機(富士重工の前進)の社員が奉納したものだそうです。
現在では転じて【渡航安全・航空安全】の象徴となっているといいます。


伊勢崎神社の主祭神は【保食神(うけもちのかみ)】さま。農作物や魚、獣、蚕など生活に不可欠なものを生み出したといわれる、食物と産業の神さまです。

また、ほかに交通安全の神・【八衢比古命(やちまたひこのみこと)】さまなど、全部で28柱の御祭神が祀られており、さまざまなご神徳があるといわれます。


No.103 23/01/09 06:11
旅人さん0 

コロナ禍ということと、たまたま今年は休みの日が当たったこともあり、一番護摩目指しての参拝の方も少なかったようで、通常の光榮寺さんの駐車場に停めることができました。
ホッ。
ここに停められなかったら一番護摩に間に合わなくなるところでした。

駐車場から見ると、何やら篝火が焚かれているかに見えます。

おおっ!
なんと幻想的な!


…。

山門近くまで来て、それが古いお札等を焚き上げるためのドラム缶であったことを知り、ガックリ。
いや、そう思い込んだ自分が悪いだけであろう。


今年は御本堂前に順番に列をなして並ぶ方式をとったようです。



あれ?
あれは…火焔?火焔光背?

おおっ!

なんと!
お不動さまが御本堂前までお出ましになってくださっておられます。

篝火かと思っていたものがドラム缶に焚かれた炎であったことで意気消沈したおばさん、さっさと立ち直り、それどころか思いっきりテンションが上がって、思わず胸の前で手を組んでおりました。
…いや、それは教会のお祈りのポーズでしょう。


いつもはご住職と副住職さまの光榮寺さんですが、この日は御二方を含めて僧侶の方も十人近くいらっしゃるようです。
…法要が始まりました。

今年もまた法要の段取りもいつもとは多少異なるようです。

やがて。お護摩の火が灯されると、御本堂前に副住職さまが灑水器(しゃすいき)を手にお越しになり、
「それではお授けいたします」
とおっしゃって、前の方から一人づつ香水(こうずい)をおかけくださいました。
そして護摩加持の代わりにと昨年よりお授けいただいている護摩の炭をいただきました。

ああ、なんとありがたい。


一回目の護摩法要を終え、お灯明を上げていただき、護摩木をお供えいたしました。

家から持参した昨年のお札や福飾りのお焚き上げをお願いし、福鈴を授与していただいて山門を出ました。


駐車場で、今一度振り返ると。





す、凄い!!

満月がちょうど御本堂の真上にかかっているではないですか!
なんと美しく、幻想的な光景でしょう。
早起きは三文の得とは申しますが、これはまさに千両の価値もあろうかと。


帰り道、夫に早起きの得を説いたところ、あっさり却下されました。


すれ違い夫婦はすれ違いのまま。
今年も珍道中となりそうです。

No.101 23/01/09 02:32
旅人さん0 

昨日は初薬師さん。
薬師如来さまの一年の初め、最初のお縁日であります。

毎年恒例となって久しい、群馬県みどり市の【光榮寺】さんへと参拝してまいりました。
こちらではコロナ以前には参拝者は皆御本堂へ入ることを許され、御護摩法要に参列させていただけたものですが、コロナ禍となって以降は僧侶の方のみの法要となっております。

このところ、可能なときは朝まだ日の昇らない、一番護摩に間に合うように五時起きをして支度を整え出かけるのですが、今年はなんと夫も参拝するとのこと。
…朝に滅法強い妻と、完全夜型人間の夫。
その、夫の宣言に、私は朝一番のお護摩をあきらめ、朝起きていつもの通りに洗濯を始め、お風呂掃除をしておりました。

ん?
な、なんと夫の寝室のドアの開く音が!
えっ?、ええぇっ!まだ五時半ちょっと過ぎたところですが?

本気だったんだぁぁ!

ええ、先日の同じく群馬県みどり市の【貴船神社】さんへの初詣も
「起きられないから一人で行って」
との賜った夫です。しかもその時の時刻は六時半。
到底期待できず、一人で行こうか、それとも諦めるしかないかとまで思っておりましたものを。

それでも寝ぼけているやもしれない夫に運転させるのはためらわれ、私の(!)運転で光榮寺さんへと向かいました。

コロナ以前には花火の打ち上げの合図のあった光榮寺さんの初薬師大祭も、コロナと共に様変わりを余儀なくされ、花火の合図もなくなりました。

静かな、まだ暗い町、車を走らせていると、海外出張に向かう夫をバスターミナルまで送っていたときのことを思い出します。
…今年はどうなのかなぁ。
アフターコロナの時代が流れ出して、海外出張もまたありそうな話をしておりましたが。


などと考えている間に光榮寺さんのそばまで。

はっ!
駐車場!
こんなそばまで来てしまった!

来年、こんな側では停めるところがなくて、遠くの駐車場から歩いてきていたというのに、…夫と一緒だとどうも調子がくるいます。
(おい!いつもいつもあちこちの神社さんやお寺さんに連れて行ってもらっているであろうに!)




No.100 23/01/07 05:12
旅人さん0 

こちらの神楽殿は明和元(1764)年に再建されたものといいます。
北面が唐破風造、南面が切妻造銅板葺で、北側が吹き放ちの舞台、南側を楽屋となっています。
双龍門を登った正面がその南側の楽屋に当たるという部分になるために、そこからの見え方も考えての設計、だったのでしょうか。

神さまに奉納する神楽を演じる場であることを考慮して、本殿と向かい合い、床の高さを同じくするなど様々な工夫を凝らしたものとなっています。


朱塗りの神楽殿で舞が奉納されるさまを、一度でいいから見てみたいとは思うのですが、残念ながらまだそういった機会に参拝したことがないのです。

ただ…。

この神楽殿の前のスペースって、さほど広いものではありません。
神楽殿の後ろもまた岩がせまっており、拝殿との間も広くはとられておりません。拝殿の左にはほぼ隣接するかのように国祖社と額殿と呼ばれる建物が建っております。
…どう考えても狭いこのスペースに初詣の比でない人がここに集結することとなるのではないだろうか?
初詣であれば少しづつではあるものの人の流れがありますし、誘導の方もおられます。

何より神さまに奉納する舞を見るためにそこに立つということは、大半の人が拝殿、そして御神体であります『御姿岩』に背を向けて立つことになるはず。
たしかに舞自体は、拝殿の高さで舞われているため、神さまの視線を遮ることにはならないし、拝殿も石段を登った先にありますので、直にお尻…背を向けることとはならない、とは思うのですがね、…思うのですが。

うーむ。

せっかく連れて行ってもらって(自力では行けない〝山〟であります)、大好きな榛名神社さんで神さまに失礼な事だけは(私が気づく限り)したくないし。

神楽を観たくて行ってみられないのも悲しいし…。

…人混みが嫌いな珍道中ペアだし。


コロナ禍でなくとも来なかった珍道中ペア。
おそらく榛名神社さんの御神楽を拝することは限りなくゼロに近く…無い、のだろうなぁ。




(榛名神社さんの双龍門と鉾岩)

No.99 23/01/06 19:59
旅人さん0 

門の左にそびえる高く尖った岩は『鉾岩』、ローソク岩とも呼ばれるようです。
この岩がまた素敵なんです。

そして。

見えてきていた門は【双龍門】。
安政ニ(1855)年に造られた四脚門で総欅造りであります。
正面と背面に千鳥破風、四面に軒唐破風をつけ、四枚の扉にはそれぞれ丸く文様化された龍の彫刻が施されており、そこから双龍門と呼ばれるようになった『唐門』です。
羽目板の両面には『三国志』にちなんだ絵柄が彫られており、天井の上り龍、下り龍とともに双龍門の風格を高めています。

この門がまた好きでありまして。

ただ石段の途中にあるこの門、さほど間口の広いものではなく、後続の方がおられるとそうは長くは見てはいられないのです。
そして、さらにはここから先は一方通行。
もう一度ゆっくりと見たいと思ったら、参拝を済ませて、先ほどの社務所・授与所があるところまで戻ってまた、石段を登らなければならないのですよ。
これが結構な距離なんです。
…なかなかできない。

距離も、なんですが、ということで時間もかかる。同行者をたい〜へん、待たせることとなるのです。


それでも何年か前には修復工事をしておりましたので、ようやくまた大好きな双龍門に会うことが(見ることが)できるようになったのです。

ただ…。
私としては以前の方が好きだったなぁ。


ここから先、ほんの少しまた石段を登ると、ひだりてに神楽殿が見えてまいります。
そして。神楽殿を案内するかのように、等身大の天狗さまがお立ちになられています。

No.98 23/01/06 14:28
旅人さん0 

石段を登り始めてまもなく見えてくる【神幸殿】は榛名神社の矢立スギから石段を登った左側に、安政六(1859)年に建てられた建物だといいます。
石段の途中に…。
空いた土地がなかったわけではないと思われますのに、石段の途中、しかも石段からすぐに建物があります。
大変不安定なんですけど…。

境内の建物の中ではもっとも簡素な形式だといわれ、塗装も施されておらず、古式の仏堂の形式を踏襲しています。

毎年春の大祭(5月8日~15日)の際に、榛名神社の御神体が本殿から神輿に移され神幸殿に遷座されるのだといいます。
私はこの神事を拝見したことはありませんので、ホームページに書かれた事からしか語ることはできません。

が。

前述しました通り、石段の途中、なんです。
途中、岩があり、お神輿の大きさによっては通れないのではないかと、思うのですが、ね。
しかもなんだかんだ急な石段ですし、大きな岩の迫り出したところもありますし。
そうそう、この先に神門もあるんです。

そんなに大きなお神輿ではない、って事なのでしょうかね。

…コロナ禍となり、神事は神職の方のみで執り行われることがほとんどで、中止される行事もそれなりにあります。

うー。
この榛名神社さんの神輿渡御、私生きてる間に見られるのかなぁ。


そして。
いかにも新しい神門をくぐると、そこは榛名神社さんにしては珍しい、フラットな、平らな空間であります。
そこに社務所があり、授与所があります。


…御本殿は?

初めて訪れると大体の方がそう思われるのではないかと思うのです。
御本殿はあとまだ少し先。

えっ?、どこどこ?
…と振り向いた瞬間に、今来た神門の真横にこれまた結構急な、細い石段があるのが目に飛び込んで。
その先にまた門があること。
何よりその門の先に、やたらと立派な尖った岩山があるのが見えます。


おおっ!!

No.97 23/01/06 07:05
旅人さん0 

この神橋を渡ると、左手の岩山に扉があるのがみてとれます。
ガッチガチの、正真正銘の、山という呼び方しかない大きさの岩山です。
そこに〝扉〟。
そもそもそこに行く道、どころか足場すら無い、そんな岩山に〝扉〟。

初めて見たときの衝撃ったらありませんでした。
扉だけとってつけたわけではなく、その岩山をくり抜いての〝中〟があるわけで。
もうこの〝扉〟があるだけで神秘。

『東面堂』という建物の名残なのだそうです。かつてはここに秘仏の『千手観音』さまが安置されていたといいます。

そう…〝かつて〟。
秘仏だったんだから、見逃してくれたっていいじゃない!
わざわざあんな足元も危ない(かつてはそうだったかどうか…)御堂くんだりまで行って、御仏の尊像を引き出して破壊するなんて。
キーっ!! 明治政府のバカぁー!!!

御水屋(ごすいや)と呼ぶという手水舎が見えてきました。

その手前、曲がり角とも言える場所に『萬年泉(まんねんせん)』。
ここは水源神さまであられる榛名の神さまの雨乞講で取水する所であっようで、今でも神事の際はここから取水されるようです。
赤く塗られた背の高い木の柵で囲われ、真上は大岩。大きな大きな岩のちょうど下、人が頭を少し下げて入れるくらいの空間に、萬年泉はあります。
覗いて見ると(おばさんの得意技 笑)木の箱のようなもので覆われています。
古来、日照りで苦しむときにこの『御神水』を、竹筒にいただいて御祈願を受けて、村に帰り田畑にまけば、必ず霊験あり、といわれた水であるようです。

そのすぐそばには『矢立杉』。
曲がり角を曲がって石段を数段登った辺りにある、根本のくっついた二本の大きな大きな樹齢千年ともいわれる杉の木があります。
武田信玄が箕輪城攻略のみぎり、榛名神社さんを参拝し、この杉に矢を立てて戦勝祈願をした木ということでその名がつけられたようです。
…えっ?、その箕輪城攻めの結末?


…。
……。

たった今調べたところによりますと、この祈願は果されたようです。


さ、御水屋、御水屋!
ここのお水もお山からの湧き水。
夏でも冷たいこのお水、冬にはよく凍ってツララになりますが、今年はまだ凍ってはおりませんでした。
ちなみに…手がサラサラになる、良質なお水です。
神さまのご褒美、みたいですよね。

No.96 23/01/05 18:25
旅人さん0 

ここから先、…おそらくは左側の岩山が迫り出していて、その岩の下をくぐるような参道であるために、カーポートのような屋根と柱を作ったのではないかと、…そう思われる通路となります。
このゾーンでは、背の高い人などは頭をぶつけそうなくらいの高さまで岩が迫り出している部分があります。
そうかと思えば、くり抜いたかのように奥行きのある部分があって、そこには【塞神社(さいのかみしゃ)】といわれる小さなお社が鎮座しています。
こちらの神さまは『〝他界〟より侵入して災厄をもたらす邪神、悪魔等を防ぎ止め、追い返すことを掌どっておられる神さまだそうです。
特に道路の四つ辻、分岐点などをお護りくださり、悪霊などを防ぐ大きなお力を発揮される、〝道路交通安全の守護〟〝悪魔除け〟の神さまとして尊崇せられておられるようです。
きっとこのような岩場の道をお護りいただこうとお祀りされたのではないかと思うのです。

が。
こちらのお社からは、なんともいえない、それこそまるで優しい視線のようなオーラを感じるのです。
「みているよ。大丈夫だよ」
…そんなお声すら聞こえそうなほどの優しい、優しい気のあふれるお社であります。

さもありなん。
塞(さい)の神という、音(おん)から転じて、「幸神」「妻神」として、特に女性の良縁、妊娠出産守護、幼児守護の神さまという、日本固有の信仰が生まれ、そういったお力を持つ神さまとしてもお祀りされているようなのです。

前を通るだけで優しい気を感じるくらい、優しい優しい、そしてお護りくださるお力の強い神さまであります。


このポートのようなゾーンを抜けると、また神橋がかけられています。
こちらはすぐそばに小さな滝が流れています。
冬にはほぼ凍っているこの滝の上には、大きな岩があるのですが、その岩は二つあり、その隙間から奥に山肌のようなものが見えます。

実はここ、この神橋の上の辺り、かつて役行者が修行したといわれ『行者渓』という名がつけられているようです。安藤広重がここを描いたようで『上野国榛名山雪中図』というタイトルの絵があります。

その絵を見ると、今とは景観が大きく異なり、かつてはこの神橋の下は小さいながら渓谷となっていて今よりもっと水量が多かったのがわかります。

No.95 23/01/05 15:12
旅人さん0 

境内は大きな木々と深い緑…。
随身門を過ぎると、大きな大きな杉の並木があり、川が流れ、多くの奇岩や巨岩に囲まれます。

マイナスイオンを全身に受けながら歩く道は、ずっと登りの道であるにも関わらず足取りも軽く、呼吸が乱れることもありません。

石段があり、その上に三重塔がそびえ立つのが見えます。
狛犬さんが石段の左右を護っています。
三重塔はむかって左側にあり、参道側にその入り口があります。

この三重塔は神宝殿。
人々の寄進によって明治ニ(1869)年に竣工されました。
とはいえ、この時期こそがまさにあの、神仏分離令が発令された頃。多くの人々の陳情があって、榛名神社で唯一残された仏教色でありました。
ちなみにこちらは県内で唯一現存する木造塔婆建物、なのだそうです。

ここを過ぎるとまもなく、座って休憩のとれる建物と、軽い汁物などの取れるお食事どころが見えてきます。

日本人の食欲を刺激する、だしやお醤油、お味噌の香りが漂います。
冬には温かい汁物や味噌おでんが、夏にはかき氷のほかよく冷えた塩きゅうりやスイカが食べやすいように串刺しになって売られています。

水神籤などもあります。

またここからほんの少し離れたところに、山中だというのに掃除の行き届いた水洗のトイレがあります。


そうして…さらに先へと進みます。

No.94 23/01/05 06:55
旅人さん0 

群馬が誇る上毛三山のひとつが【榛名山】。

その中腹に位置し、信仰を集めるお社さんが榛名神社さんであります。

創建は六世紀後半と言われ、延長五(927)年に完成した延喜式の記録に『式内社』として位置付けられる神社さんであります。

榛名川沿いの境内は深い森とたくさんの奇岩や巨岩に囲まれて、近年はその強力なパワーから関東屈指のパワースポットとも言われます。

榛名神社さんのの所在地は群馬県高崎市は榛名山町。
榛名山町って、なんだかとても素敵な町名ではありませんか?…榛名神社さんの大好きな、榛名山の大好きなおばさんは、もうそれだけでそう思うのであります。


榛名神社さんの目印でもある大鳥居は、最高高さ15.912m、笠木長さは20.31m、とのことで、榛名神社さん遠目指してきたなら見逃すことはまず不可能な大きなもの。

そこからさらに続く登り坂は前述した通りお茶屋や宿坊、お土産屋さんの並ぶ参道で、この坂を登ってようやく見えてくるのが二の鳥居。
青銅製の立派な鳥居であります。
この鳥居の前に立つと目の前に立派な随身門が見えるのです。

榛名神社好きな人はもうここに立つだけで心がはずみます。
この随身門がまたたいそう立派なもので♡
赤い一つ目の神橋を渡ると随身門となります。

ただ、随身さまは今、お身形を整えるため旅に出ており、しばらくは隋神さまお二方にはお目にかかれないのであります。

こちらの随身門、実は元々は仁王門。弘化四(1847)年に建てられたもので、多彩な彫刻や組物が施された仏教色が残る建物であります。当然ながらかの神仏分離令以前は仁王さまが祀られていたといいます。
…その、仁王さまたちは一体…。
明治政府のバカぁ!

(閑話休題)


ここから…本殿までの距離は五百五十メートル。ここまでもそれなりの距離、緩やかな登り坂を登ってまいりましたが、参拝はようやくここからがスタートであります。

ひだりてに山、みぎてには川を隔てて岩山が見えます。
その心洗われる風景といったら…♡

せせらぎと鳥の声。木々の風にそよぐ音。


非日常の、聖なる空間であります。

No.93 23/01/04 23:55
旅人さん0 

早朝貴船神社さんへ一人参拝した日の午後には、夫と息子とで、群馬県高崎市にあります【榛名神社】さんへと参拝いたしました。

知る人ぞ知る漫画『イニシャルD』の聖地【榛名山】にある神社さんであります。とはいうものの、舞台となる山とは場所が異なり、こちらは聖域。
今回は伊香保温泉方面から登ってまいりましたところ、こちらの道路は昨年のクリスマス・イブに降った雪でかなり路面が凍結しておりました。
ここ何年もお正月というと榛名神社さんへお詣りさせていただいておりましたが、伊香保温泉あたりから路面が凍結していたのは初めてでありました。
これは…。
「諦めよう!」

運転の苦手な母はすぐにそう口にしました。
しばらく走行し、息子たちもUターンして戻ることを口にし始めましたが、その実運転をしている本人が
「あと少しだけ行ってみよう。次の展望台まで行ってみよう」
とクルマを走らせるのでした。
久しぶりに実家の家族と出かけることを楽しみにしていたのかもしれません。

結局榛名湖畔まで走ってくれて…。
「ここから先はもう行くしかないからね」とニコッと笑う息子。
…大変な道を運転させてごめんね。

この息子、榛名神社さんへは初めてとのこと。
これから先の路面状況も予測すらできずにさらにクルマを走らせることとなります。

ただ、息子たちはこういった山道の運転には慣れているようで、まるで流れるように山を登って行くのです。私に似なくて本当よかった。

それでもコップに水を入れてこぼさず走ることはできないと笑っておりました。(これは前述した漫画のネタです)


湖畔の道を抜けて少し登ったのち、下りとなって。
そうするとそこから先は全てもう榛名神社さんの境内となります。
お山一つが神社なのであります。

下って下って。

赤い大きな鳥居が見えたら、そこからは再び登りとなります。
榛名神社さんの参道沿い、土産店や宿坊の並ぶ道となるのです。
今回はそこまで行く前の、かなり遠い駐車場にクルマを停めることといたしました。
ここからだとかなり歩くこととなるのですが、参道で渋滞していたら、Uターンもできずひたすら待つこととなるのです。

クルマを降りてしばらく歩いて。
参道が見えないうちからもうすでに渋滞の列ができていました。
「英断してくれてありがと」



No.92 23/01/04 09:13
旅人さん0 

貴船神社さんの境内は、いつ伺っても掃き清められ塵はおろか枯れ葉すら落ちていないほどに綺麗な境内であります。

そこに建つ社殿はさほど大きなものではありません。ただ、こちらの社殿はその姿を見るだけで心が和み落ち着く、そんな社殿であります。
社殿の中から流れてくる〝気〟によるものはたしかであります。
ただその社殿自体の佇まいもまた、上品で心を癒すものであるのです。
彫刻とかの飾りはほとんどなく、向拝の部分に天狗さまが祀られているのがこちらの社殿の特徴であります。
白い壁に梁や柱の赤が映える美しい社殿なのです。

私はいつも石段を登って社殿のある境内に立つと、しばらくその社殿を見上げて心の中で御礼を申し上げています。自然に、意識せずそうしている自分がいるのです。

そしてハッと気づいて、拝殿前へと向かうのです。


今年は卯年。大きなうさぎの絵馬が飾られていました。


拝殿でお参りを済ませて。

お札や御守等の授与所へとむかいます。

こちらは実に御守の種類が豊富であります。
御守にカンガルーのお腹のポケットのように小さなポケットがあって、そこからカエルが覗いている、そんな可愛らしい御守もありました。

今年は干支の土鈴と、鏑矢遠お受けし、例の神玉をお授けいただきました。

No.91 23/01/04 03:43
旅人さん0 

【貴船神社】さんは、平安時代の天暦十(956)年、東国(関東地方)がひどい干ばつに襲われたとき、
山城国(京都)の貴船神社の御祭神が、古来より祈雨・止雨祈願の神として信仰されてきた高龗大神で、
その分霊を奉り降雨と五穀豊穣を祈願したところ、それがかなえられたので、関東平野の最北端、渡良瀬川流域の山地に祭られ、
現在地に建立されたのは、江戸時代の寛文八(1668)年といわれています。


『御祭神』は
高龗(タカオカミ)神さまのほか、
大山祇(オオヤマヅミ)神さま、
大穴牟遅(オオナムチ)神さまが合わせておまつりされています。

高龗神さまは水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められております。
大山祇神さまは山々の精霊を統括支配し、五穀豊穣をもたらす神さま。
大穴牟遅神さまは、国土をつくり治め、守護する神で、人々の病めるのを治し、不幸を救うとされます。


『貴船大神』は、関東地方を干ばつから守り、古くから水の神さまとして信仰されてきました。人類をはじめ地上に生育する全ての生物は一として水の恩恵を受けないものはありません。
ですから貴船大神を崇敬し、その御神徳に浴すことは、衣食住の安全、即ち生活の保証を得ることになり、家内安全、商売繁盛、水の浄化力から厄除の神、また水の力は願い事を成就させるとして心願成就の神、そして交通安全の守護神として篤く崇敬されています。


この貴船さまを信仰する『貴船信仰』と呼ばれるものがあるようです。

貴船の神さまは開運の神・心願成就の神として信仰されています。
『貴船神社』の「きふね」は、昔は「気生根」とかかれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰です。水神の鎮まる貴船神社に参拝すると、気力が生じて願い事を成就できることから縁結び、恋愛成就の神としても知られています。

このように貴船の神さまは、衣食住の源である水を司る神、その水の源である雨をもたらす神として、また開運・心願成就の神として人々の崇敬をうけてまいりました。



No.90 23/01/03 05:53
旅人さん0 

風光明媚な群馬県みどり市大間々町。
わたらせ渓谷沿いの山間の地に鎮座する【貴船神社】さんは古生層の断崖上に鎮座し、赤城山の雄姿を仰ぐこともできます。

全国で約450社ある貴船神社さんの一つで、この地域一帯において信仰深い神社であり、また群馬有数のパワースポットとしても知られています。
例年20万人もの初詣参拝者が訪れるとも言われている貴船神社さん。


元旦を過ぎた二日の早朝、陽の昇らないうちであれば、少しは空いているかもしれないと思い、それでもそれなりに覚悟して車を走らせました。
大間々の町中を、朝早い時間だというのに、車が同じ方向に集中して走っています。
貴船神社さんへは山間の町へと向かう橋を渡るのですが、みな一様にその橋を渡り、貴船神社方向へと向かいます。…うーんやっぱり、そう…ですよね。

アップダウンのある道、下り坂の上から一列に列をなした車の列が続いているのが見えます。

神社から少し…五百メートルほど離れた特設駐車場に車を停めて、ゆるゆる歩き出しました。この特設駐車場には今のところ車はまだ三、四十台くらい…でしょうか。(空いている?)
そう思ってゆるゆる歩き出したところ、走って追い抜く若い人たちが何グループか。
えぇっ?そ、そんな?

でもここ、ずっと登り坂なんですよね。マイペース、マイペース!

…ようやく鳥居が見えてまいりました。
あ、並んでない♡
たぶん混んでいる時には鳥居のかなり前から列ができ、鳥居前に置かれたコーンの誘導に沿って並ぶこととなるのでしょうが、2023年二日の早朝、どうやらそういった混雑はなさそうです。

鳥居をくぐって、一回目の手水舎で手を浄めて。
二つめの鳥居、三つめの鳥居と石段を登ります。…ここが混雑していたら結構怖いことだろうな。
さらに鳥居をくぐって、ようやく狛犬さまがお出迎えくださる境内となります。
石段を登りきるとすぐ、拝殿が見えてまいります。

パァっと胸が開くような、明るい気が一気に私の中に入ってきます。


No.89 23/01/03 05:21
旅人さん0 

…とまぁ、私の愚痴はさておいて。

(新年早々にすみません)

No.88 23/01/03 05:06
旅人さん0 

まだ陽の昇らない、少し明るくなり始めた頃、一人車を走らせて初詣に行ってまいりました。

群馬県みどり市にあります【貴船神社】さん。



えっ?…一人で?とお思いですか?

そうなんです、一人で、です 笑。

夫は朝に大変弱く、対して私は夜に弱い分完璧な朝型人間で。

この時間差、実に時間がもったいない!
休みの日など私が洗濯を終えて、トイレや玄関の掃除を終えてもまだ起きない。良妻の(爆笑)私はそのあとずっと彼が起きるまでご飯も食べずに待つのです。
ほおっておけばそれこそ十時!
朝九時には開くスーパーで買い物まで済ませることができてしまいます。…さすがにご飯も食べずにスーパーにまでは行けません。


〝歳をとると朝が早くなる〟、とはよく聞くのですが、夫の家系は違っておりました。
ことに義母がそうでありまして。
義母が一人暮らしになってからなどは、来て欲しいと言われて十時過ぎに行っても寝ていて、電話をかけても起きないといったことがそれこそ何度もあったくらいであります。
かつてそんな義実家に、行儀見習いと言われて同居していたときなど、義父より遅く起きる義母にかなりの衝撃を受けたものです。
…昭和一桁生まれですからね、義母。ましてやその頃は義祖母…つまり義母の義母も健在で同居していたので、気の小さい私など、そういった日常に慣れるまでドキドキしていたくらいです。(結局慣れませんでしたが…)
義母が起きてこない間にも、黙々と掃除をする義祖母と義父(と私)。
私には朝からすでにちょっと耐えがたい〝時間〟でありました。
(…これって…行儀見習いにならないんじゃない?)そう密かに思っていた私でしたが、義父もそう思ったらしく、早々に行儀見習い期間終了を言い渡されましたが 笑。

…この行儀見習いというのも、かなり時代がかっておりますし、なんなんだ⁈ と思うことばかりの新婚時代でありましたが、「ひとり親家庭で育ったから夫を立てる事などを知らないだろう」という言い分で強制的に義務付けられたものでありました。…凄くないですか?まさに前時代!

…まぁ、そんな嫁が(自分の妻より)早く起きて掃除もし、料理も一通りできることに気づいたら、いくら離婚してひとり親家庭で育った事を小馬鹿にして下に見ている義父だって、〝行儀見習い〟にならない事には気付かざるおえないってもので。






No.87 23/01/02 06:28
旅人さん0 

令和五年、2023年を迎えました。

穏やかな元旦、いつものように夫の実家と、私の祖父母と父の眠る菩提寺にお参りをしてまいりました。


夫の実家の菩提寺さんは御本堂の扉が開け放たれており、そこに上がらせていただいて、昨年一年の御礼と今年もまたお守りくださいとお願い申し上げてまいりました。
私ども二人だけでご本尊さまに向かう、なんとも贅沢で、心が静かに穏やかになるひとときでありました。
観音堂でお燈明をあげ手を合わせて。
義父とそのご両親、お兄様の眠る墓前にまいりました。
かき分けるほどの落ち葉はすっかりなくなり、綺麗好きだった義父が不快でないよう、…それでもガサツな嫁ですので、「ああぁ、もうそんな手抜きな掃除して!」と嘆いていたかもしれませんが…、墓石を磨き、落ちていた小枝を拾って清めてから、手を合わせました。


私の父の眠るお寺さんでは御本堂とかつての仮本堂であった御堂をお参りいたしました。
すると…。
ご住職さまがひょいっと御本堂のすみから斜めに、まるで外を覗かれるように、お顔をお出しになられました。
そして私どもの顔をご覧になり、すぐさま、
「おお、こんにちは。いつもお参りありがとうございます」
とおっしゃってくださいました。

ちなみに私の両親は、私が中三の三月に(受験の超直前、ありえない時期で)離婚しておりまして、それ以降、ほとんど顔を合わせることなく、自然とお墓参りからも遠ざかっていたという経緯があるのです。
そんな経緯をすらご存知の上で、私の顔を覚えていてくださり、いつも温かな笑顔と、時にはお言葉までくださる、優しくて、そして記憶力のすごいご住職さまであります。

「少しだけ、お待ちいただいていいですか?」
とおっしゃると、一旦その場から去り、再び戻られると、須弥壇の前にお座りになられ、
「お手を合わせてください」
とおっしゃいました。



なんと読経をしてくださるではないですか!

御真言もいくつかお唱えくださり、回向文までをお唱えになられました。




「いつもなかなかゆっくりお話し出来ずにおりましたので、今日は本当に良い機会で」


…。



なんと人の心に寄り添う方でありましょう。

檀家でもない、どこの馬の骨ともわからない私などお心におとめくださって。
顔を覚えてくださっておられるだけで十分すぎるというのに、なんと尊い。



No.86 22/12/31 08:21
旅人さん0 

【神玉(かみたま)】

【神玉】とは、神社を巡拝する風習が始まった平安時代より、大願成就を祈念して神社を巡拝し、巡拝の証として神様の御力が宿った玉を奉製されたといいます。

その玉を神玉と呼び、お授けいただくとと願い事が叶うと言い伝えられています。

…そんな神玉を、今茨城県の神社さんでお授けいただけることをネットで知りました。
うーん。
茨城県、かぁ。

いつになっても煩悩の塊のおばさんの心をなんとも揺さぶるものでございます。
しかしながら、この方向音痴にして運転音痴のおばさんには茨城県はなんとも遠方、諦めるしかありません。


そんな思い(=煩悩)を封印したところで、一年間の御礼にと昨日群馬県前橋市の【前橋東照宮】さんへ参拝してまいりました。


境内はもうすっかり初詣の準備が整っているかに見えました。
テントがいくつも設置され、御神籤をくためのおしゃれなゾーンが造られていました。

参拝を終え、今回は特に授与品をお授けいただく気はなく、それでもあのお優しい巫女さんに会えるかも…と思い授与所へと向かいました。

片隅に『上州神社巡り観光マップ』なるものが置かれています。
『合わせて受けたい御朱印&御守特集』とサブタイトルが付いています。
ふーん。

ん?
ん⁈
『上州神社巡礼〜神玉巡り〜』ぃ〜⁈

えっ?
ええぇっ!
こちらの前橋東照宮さんでもお授けいただけるではありませんか!


「す、すみません!か、神玉ください!」


それでも、この神玉、受付の巫女さんが戸惑うくらい、お授けいただく方はそうはおられぬようでありました。

そのとき、決して「神玉、ゲットだぜ!」などとは決して思いませんでしたが、茨城県の神玉巡りを〝ドラゴ○ボール集め〟のようだと書いたサイトがありましたことは確かです。
が。茨城県の神玉は全部で十。ドラゴ○ボールとは数が異なります。

あれっ。群馬県の神玉は全部で七つだ。
群馬県の神玉こそドラゴ○ボールと同じ数ではないですか。


しかもながら。
すこぉしだけ大人になった(歳だけはすでにもう立派な大人、なんですが…苦笑)おばさん。
さすがにこの巡拝をコンプリートするつもりはないのです。
神さまとご縁を結ばせていただくことは光栄なこととは存じますが、きちんと御礼参りのできない失礼をしてはならないと思うのです。


あとは…。…オイオイ!


No.85 22/12/31 06:11
旅人さん0 

【大年の 力づけつゝ 夫婦かな】

うーん。
深い。
深いなぁ。


今日は大晦日。あっという間であったような、もがきにもがき、足掻きに足掻いて、ようやくこの年の瀬のような…。

…いろいろあった一年でした。
今は辛かったことしか頭に浮かばないし、今なお心に重たいものを抱えたままであります。
そして、正直、年明けを目前とした本日大晦日を迎えたところで、正直、いつも通りに夜を迎えて、明日が来て、日が昇る、今までの続きの人生を歩んで行くことに、なんら変わりはないと思う私がいないわけでもありません。

それでも人並み…とは言えないかもですが、大掃除をし、玄関に新年を迎えるしめ飾りを飾りました。


【大年の 力づけつゝ 夫婦かな】
とは滝井孝作さんという方の句であります。
この大晦日の朝、大変心に沁みた句でありました。

長い結婚生活において喧嘩も多くあった夫婦でありますが、歳をとって夫婦らしくなったように感じるしばしばございます。
…それはお互いに多大な期待をせずに、良い距離を保てるようになった、だけかもしれませんが、それでも、互いに力づけつゝ生きてきた気はいたします。


【大晦日 定めなき世の 定め哉】
        井原西鶴・句
【大晦日 こゝに行きとし生けるもの】
        高浜虚子・句

これもまた深い!




今年も一年、わたしの駄文におつきあいくださり、本当に本当にありがとうございました。
寒さも厳しさを増しており、年末のお疲れも溜まっておられる折、どうぞくれぐれもお身体を大切に、お健やかにお過ごしください。


幸多き年でありますようお祈りいたします。

No.84 22/12/27 15:21
旅人さん0 

大岩山毘沙門天『悪口祭り』の由来
縁起は諸説あり、
そのうちの一つに架空の動物「獏(ばく)」に関するものがあります。
江戸末期、当時は厄病で亡くなる人が多く、沢山の人が亡くなっていく中で、悪夢を食べる架空の動物「獏」にこの悪夢を食べてもらい、 厄病退散の祈願が届くよう願ったとされます。

はじめはこの「獏」を「ばくさま」と祈っていたものが「ばくやろう」、「ばかやろう」と訛っていったという説です。
…うーん、少しそれはキビしいかも。

この他に飢饉などで年貢を納められずに苦しむ農民に粋な計らいで悪口をつく御許しがあった説などがあり、いずれも定かではないといいます。


悪口祭りでは、悪口を言いながら山道を登っていく際、暗い山道を提灯で照らして行列を作っていたことから、『提灯行列』とも呼ばれているといいます。
登山道が整備された(…でも、結構厳しい道のりですよ)現在も、街灯はまばらにしかございません。希望者には提灯と、かつては毘沙門天のお面を授与致していたといい、アフターコロナにおいては拡散防止のため、御本尊毘沙門天の御姿とフェイスシールドをお授けしておられたようです。


また、大晦日の深夜十二時(元日0時)より、国家安泰ならびに家内安全、商売繁盛をはじめとした諸願成就の大護摩の祈願をし、その際【滝流しの式】を執り行います。

この行事は江戸時代前期の寛永年間(1624年~1643年)からと言われているといいます。

お神酒を「滝のように」額から受け、大盃で飲み干すことで、福やご利益が滝のごとく尽きることのないように、という縁起で執り行う儀式であります。

参加者の方は御本尊毘沙門天さまの前に正座し、直径30cm以上もある大きな朱盃を両手に捧げ、その盃を口にあてがいます。そこへ住職がお神酒なみなみとたてた酒器を持ってまいります。
初めは鼻の頭から酒を注ぎ、額、頭へと、酒器をだんだんと高くして酒を休まず注いでいくといいます。最後には頭のてっぺんから、額、鼻へと、滝のようにお神酒が朱盃に流れていくといいます。
…貧困な想像力ではすこぉしもイメージできないのですが、うーん。

ただ…私は運転が無理、夫は運転が義務付けられ飲酒が不可。
見ることすらできない。

コロナの感染対策を行いながら、一体どんな形で【滝流しの式】を執り行う計画をお立てになられたのか…。



No.83 22/12/27 15:02
旅人さん0 

今日また栃木県足利市の【大岩山毘沙門天】さんから年末年始のご案内の通知が届きました。
檀那寺を持たない私にとって、お寺さんからのお便りをいただくことは大変嬉しく思われることであります。

頂戴したお葉書の内容は、年末年始のご案内のお知らせ。
コロナ禍となって中止せざるおえなかった恒例の行事を、今年、そして新春に執り行うことをお知らせくださいました。

こちらの年越しの行事は…かつて過去スレでも書いたことではありますが、『奇祭』として知られる【悪態祭り】であり、【滝流し式】であります。

大晦日の夜、大岩山を練り歩きながら大声で『悪口』をつく祭り。
いかにも『奇祭』でありますが、それでも、同様のお祭りが、
京都の祇園社さん、
茨城郡岩間村の愛宕神社さん、
上野北甘楽群磐戸村の檜澤岳神社さん、
出雲案来の瑞光山清水寺さん、などでも執り行われているといいます。

大岩山毘沙門天の一年の最後を締めくくる【悪口祭り】は江戸末期、慶応年間より始まった奇祭として広く知られており、大晦日の夜十一時より、大岩山毘沙門天のふもとにあります男坂口駐車場から登山道を出発し、大声で悪口をつきながら大岩山毘沙門天本堂まで歩いて行くというもので、その一時間前には『悪口大声コンテスト』も開催されています。

本堂までの道中参加者が「ばかやろう」をはじめとした悪口を言いながら登っていきます。
こうして一年間の厄を落とし、また溜まったうっぷんを晴らして、清々しい新年を迎えるという行事であります。

また受付で授与される、『厄落としの木札』に一年間の厄(災いや苦しみ、災難)を書き込み、毘沙門天本堂の西側にあるお焚き上げで木札を焚き上げ、厄落としを致します。

悪口祭りでは言ってはいけない悪口があり、
「びんぼう」や「どろぼう」などの「ぼう」のつく悪口は言ってはならないとされています。それ以外であれば何を言ってもかまわないとされています。うーん、その由来は一体?



No.82 22/12/27 02:53
旅人さん0 

ちなみに。

本日は寅年最後の寅の日で、今年最後の毘沙門天さまのお縁日となります。

大岩山多聞院最勝寺さんでは今日、寅の日開運金運護摩祈祷が営まれます。
毘沙門天のご縁年である寅年の今年は、寅年寅日と縁日が重なる全ての日に金運隆昌と開運を祈る護摩祈祷をされています。

うーん。
あの山道はなぁ…。
といって歩いていくにはこの季節、もっと危険な気もするしなぁ…。
この間の雪も残っているだろうしなぁ…。


…遥拝いたします。(T-T)



(栃木県足利市大岩山毘沙門天様)

No.81 22/12/27 01:30
旅人さん0 

昨日、栃木県足利市の大岩山最勝寺さんから一通の大きな封書が届きました。
寺紋が封筒の中央に大きく印刷された品のあるお洒落な封筒でありました。

今年の四月に御寄進させていただいた勧進の御礼状でありました。
本来はクラウドファンディングという形で進められておりますが、夫の強い意志で返礼品はお断りしてあったので、あくまでも寄進でありました。
実はクラウドファンディングであれば頂くことができた品々の中に、子どもたちが好んで読んでいた漫画家のちばてつやさんがお描きになった、こちら『大岩山毘沙門天』さまの御本尊さまの絵と、毘沙門天さまの使いとされる虎の絵がございました。
欲深で煩悩のかたまりの妻は、(本当はこの絵だけでも欲しいのだけれどなぁ)と思ったものでありました。

今年もあと少しで終わるというこのタイミングで、な、なんと、私の心の声が届いていたかのように、ちばてつやさんの二種類の絵をポストカードにしたものが封書に入って届いたのでありました。
夫の意思を尊重して、でも欲深な妻の欲しがっていた絵だけが届けられたという、まさに奇跡のような出来事で。
夫などは欲深な妻が最勝寺さんにそっと連絡でもして送らせたとでも思ったかもしれません。

いやいや、これは毘沙門天さまが私の心の声を聞きつけて(しょうもないやつだ)とお思いになられ、私の欲しがっていた特製のハガキのみ、送るように仕向けてくださったのではないかと。
だって本来ならばこの他にもクラウドファンディングの返礼品は掲げられておりましたのに、他のものは含まれずそれだけが送られてくるのは不思議とか言いようがないではないですか。


今、御本尊毘沙門天さまと吉祥天さま、善膩師童子さまは、京都におられるとのこと。
京都市の国立博物館内にある『公益財団法人美術院国宝修理所』において、すでに修理が始まっているといいます。

お山をあとにされる際には、【開眼戻し】という儀式、法要を営み搬出されたといいます。
今、御本堂の須弥壇には、毘沙門天さま、吉祥天さま、善膩師童子さまの梵字が大きく書かれた紙に書かれ貼られています。
修復の完了は令和七年三月頃といわれているといいます。

待ち遠しいことでございます。

No.80 22/12/21 10:08
旅人さん0 

明日十二月二十二日は【冬至】。

冬至はご承知の通り一年で一番昼が短い日であり、この日を境にまた日が一日一日と長くなってきます。

この日は、太陽が地球に与えるエネルギーが地球陰から陽に転ずるのと
同様に、人も自分の運を陰から陽に転ずるチャンスの日とされているようです。

冬至には『だいこん』『れんこん』などの「ん」のつくモノを食べることで開運を願うようです。

「ん」のつくものは、『運盛り』といい、縁起が良いとされていて、さらに、「ん」がニつつくものは、運も倍増するとされ、
【冬至の七草】と呼ぶこともあるとされる食べ物があるようです。

『冬至の七草』は、
なんきん(かぼちゃ)、
れんこん
にんじん
ぎんなん
きんかん
かんてん、
うんどん(うどん)です。

…たしかに私の住む地方でも冬至には、かぼちゃを食べる風習があります。
もっとも、私の住む辺りでは、冬至にかぼちゃを食べると風邪をひかないということが言われていた気がします。
たしかにかぼちゃには野菜類トップクラスのビタミンEが含まれており、ビタミンEは末梢血管をひろげることで血液循環を整える働きがあり、血行不良による冷えや肩こり、頭痛などの改善に効果があるとされています。

また、冬至には、柚子湯に入る風習もありますが、これもまた「冬至に柚子湯に入ると風邪をひかない」と私の住む地方ではよく言われています。もっとも、子供の頃私の家には柚子の木はなく、当時柚子を八百屋さんで買うことができたものなのかどうか…。
柚子湯に限らず菖蒲湯などもする習慣のない家でしたので、あまり柚子湯とは縁がなかったのですが、最近は柚子をいただくことがあり、ありがたいことにここ何年かはわが家も冬至に柚子湯をたてることができています。

なんでも柚子というのは実るまでに
時間がかかるということで、
「長い苦労が実りますように」と願うといった意味もあるといいます。
柚子湯自体は江戸時代から始まった習慣のようです。

柚子湯自体に風邪をひかないといった効能はないようですが、乾燥肌の予防や肌を守るバリア機能の効果は科学的に実証されているようで、また柚子の香りでリラックス効果も期待できそうです。

No.79 22/12/20 08:14
旅人さん0 

小学校の音楽授業で扱われる歌唱共通教材には、日 本の四季や風景を歌ったものが多いといいます。
今なお歌唱共通教材の中で多数を占める唱歌の多くは、いわゆる文部省 唱歌で、明治期より今日まで、音楽教科書の中で取り扱われているようです。

私どもなどはこれらの『文部省唱歌』に触れると、どこか懐かしさを感じ、日本古来の風景を眺めてみたいという気持ちが湧きあがってきます。

ですが。
逆に、これらの曲 の中には、現代の子どもたちが目にしたことのない情景が描かれている曲も増え、時代の変遷とともに歌われなくなった唱歌も多数存在しているといい、興味関心を示さない児童生徒も増えているといいます。


…たしかに。
そうだよなぁ。
目にしたことのない情景。
もしかしたらそれは、現在教員となっている方々にとってですら、すでに〝目にしたことのないもの〟なのかもしれません。

これら歌唱共通教材は、昭和三十三年に
『文部省著作の歌曲や日本民謡から特に児童に親しまれてきたもの、しかも家庭や社会で親、兄弟や大人、お年寄りとともに楽しく歌えるなつかしいもの 』
という趣旨で選ばれているといい、このような趣旨によって 選ばれた歌唱共通教材は、現在では取り扱われていないものもあるといいます。

たとえば【村のかじや】については、
『文語体と生産方法が転換した現代には通用しない 』ということでありました。

〝生産方法自体が転換している〟それは至極ごもっとも。
『かじや(鍛冶屋)』って?
私自身がその質問を父にしたくらいであります。

ただし、この歌、私たちの子供時代には『ゴム段飛び』という遊びの中で使われていたため、歌としては子供の世界では大変メジャーな歌でありましたが。

それでも。
文語体の歌、『唱歌』が、現代の子供達に受け入れられないかというと、そうではないようで、
今回あげさせていただいた【冬景色】は今の子供達にも〝歌詞以外〟は好きだと述べる子が多いのだといいます。


うん♡
いつまでも歌い継がれていってほしい。
【冬景色】も
【朧月夜】も
【故郷】も。


音痴なくせに、孫をおんぶして私はやたらと歌を歌います。

「そんな歌聴いたこともない」と夫に言われながら。
それはそれで音程が多少(?)ハズレても夫にバレないので、私にとってはラッキー、ですがね。

No.78 22/12/20 06:19
旅人さん0 

…それでも。
辿ればきっとどなたが作られたか、分かるものだと思っていたのですが…。夫いわく、何も資料として残されなかったのだそうです。

ええぇっ?!

この名曲を残して、名も残さず、名乗りもせずに、この世を去られたということですか?
ど、どうして?
子孫ぐらいは知ってるんじゃないの?
こんな名曲を作られた方の他の作品にも、触れてみたいと思うじゃないですか。


そもそも『唱歌』とは。

明治維新後に、学校の音楽教育のために西洋音楽を取り入れて作られた歌のことで、旧制学校の音楽の授業を指す科目の名前であり、そこで教える歌のことも『唱歌』と言いました。
『文部省唱歌』とは、上記の唱歌の中でも、明治から昭和にかけて当時の文部省が編纂した『尋常小学校』『高等小学校』『国民学校』などで使用する音楽の教科書に掲載された歌のこと。
但しこの『文部省唱歌』という呼称は文部省が定めた正式名称ではないのだといいます。

文部省唱歌には「作詞・作曲者」名がなく、「文部省唱歌」あるいは「作者不詳」と記されている歌が多い理由、それは以下の理由によるといいます。
『尋常小学唱歌』などに収録された唱歌(全120曲)は、全て、当時日本人による新作でしたが、当時の文部省は『国』が作った歌であるということを強調したいがために、
「作詩・作曲者に高額な報酬を払う代わりに作者名は公表せず、また作者本人も口外しない」という契約を交わしたということであったようなのです。
…はあぁ。
でもいかにも当時の日本らしい、ことですかね。

しかし検定教科書制度になって、作者名が必要になり、はっきりと確認できる場合は作者名が掲載されることとなりました。
しかし何一つ資料として残されなかったこれらの唱歌は、作者不明または作者名の根拠がはっきりしない場合は、今でも「文部省唱歌」あるいは「作者不詳」とされています。

つまり、それを作ったことを家族が知っていたとしても、その証拠がない限りは〝根拠がはっきりしない〟わけで。

きっと、どんな形であれ、自分の作った〝歌〟が子どもたちに歌われ、日本中に広まることだけを喜びとしていた人々が、この唱歌を支えたのでしょうね。


ちなみに、私は同年代の人よりずいぶんと唱歌を知っている者であります。
夫によく「はぁぁ?そんな歌聴いた事もないけど?」と言われています。

No.77 22/12/20 05:29
旅人さん0 

 
♪ さ霧(ぎり)消ゆる 
湊江(みなとえ)の
舟に白し 朝の霜
ただ水鳥(みずとり)の 声はして
いまだ覚めず 岸の家

烏(からす)啼(な)きて 木に高く
人は畑(はた)に 麦を踏む
げに小春日(こはるび)の 
のどけしや
かへり咲(ざき)の 花も見ゆ

嵐吹きて 雲は落ち
時雨(しぐれ)降りて 
日は暮れぬ
若(も)し灯火(ともしび)の 
漏れ来(こ)ずば
それと分かじ 野辺(のべ)の里


この歌をご存知でしょうか。
私ども夫婦の好きな歌、【冬景色】という【唱歌】であります。

さらに詳しくいいますと、大正ニ(1913)年刊行の『尋常小学唱歌 第五学年用』に掲載された文部省唱歌、ということになるようです。

私の親ですら〝尋常小学校〟時代ではないくらい古い歌でありますので、だいぶ歌詞が古文調で、この歌を聴いてスッと意味がわかる子どもはまずいないと思います。
それでも私どもも…たぶん…小学校の音楽で習い、今なお心に残る歌となっています。
平成十九(2007)年に『日本の歌百選』に選ばれているようです。

小学生の時分、歌詞の意味は…習ったのかどうか記憶はないのですが、その歌詞がよくは理解できていなくともなんとも心に染み入る、日本の原風景を思わせる歌詞、そして曲調でもあるのです。

歌詞の季節は冬の初め頃、
一番は水辺の朝、ニ番は田園の昼、三番は里の夕方が描写されていますので、今より少し前の季節の歌であるかと思います。


そもそもが出だしから『さ霧』ですからね。〝さ霧〟って何?って思いますよね。

※『さ霧』とは、霧のこと。
秋の季語。狭霧とも書く。「さ」は語調を整えるための接頭辞。「さ霧消ゆる」で秋の終わりを意味している。

ほぉ。
そしてすぐに『みなとえ』ですよ。みなとえって何よ?

※『湊江(みなとえ)』と書く。湊江とは、港になっている入江のこと。

二番の歌詞には『げに』が出てきていますから。
私どもが小学生の頃には難解でしかない歌詞でありました。
でも今でも心に残り、『好きな歌』なんですよね。

こんな名曲、一体誰が作られたのだろう。さぞ名のある方々の作品になるのでありましょう。


…実は。
この歌、作詞・作曲者ので名がなく、『文部省唱歌』『尋常小唱歌』とのみ記され、あるいは『作者不詳』とされているだけなのです。

No.76 22/12/19 18:22
旅人さん0 

…鎌倉に行きとうございます。


昨夜最終回を迎えたNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』をすでに二回観ており、あの時代、鎌倉の世を支えた方々の足跡を辿り、墓前に詣でたい思いでいっぱいです。

とはいえ、あの冒頭の戦のシーンは息を呑み、目を逸らし、二度目の時は画面を停めて早送りをしたくらいでありますが。…しかしながらあれが戦、戦争であることを、私たちはあらためて胸に刻み、目に焼き付けておかねばなりません。…たとえドラマという作られた〝作品〟の1シーンであろうとも。

血塗られた時代でありました。
血で血を洗うような時代でありました。
そんな過去を知り大人になって夫と歩いた鎌倉は、正直怖くもありました。
…そんなことを言ったら全国どこも歩けやしないんですけどね。


とはいえ私は鎌倉が好きです。
それはきっと坂東の血?


今回の『鎌倉殿の…』は、北条義時が主人公として描かれたもので、(でもどの登場人物も大変丁寧に描かれそれを演じた方々がまた丁寧に演じて、一人一人すべて主人公にも思えるほどの出来栄えの作品でありましたが)、
基本的には『吾妻鏡』が元とはなっていたようですが、『愚管抄』やその後の研究によるなども取り入れたものであったようでありました。
私は密かに分かりやすく短く書かれた吾妻鏡を手元に置いて『鎌倉殿の…』を観ていたので、それもあって大変興味深く観ることができました。


命がいとも薄っぺらいものとして扱われ、そしてそれが当たり前であったのがかつての日本で、そして鎌倉時代でありました。

人間には完全なる善、などというものはなくて。
『鎌倉殿の…』で敵方として描かれたとしても裏を返せば、立場を換えれば愛すべき人間であり、愛する者を持つ人間たちでありました。


私は歴史に(も)疎く、そんな状態のままで鎌倉を訪ねておりましたし、そもそもが歴史的な足跡を辿るのではなく、ただただ神社仏閣をお参りすることを目的としておりましたので、源氏ゆかりも、北条家ゆかりも、比企ゆかりも、何も関係なくただただ詣で、そこに伝わる縁起を聞き、その場所場所で、そこにゆかりある方々に手を合わせて来ることができていたのです。

それって実は大変貴重な体験だったのではないかなぁと思うのであります。






No.75 22/12/18 04:47
旅人さん0 

クリスマスは、イエス・キリストの【降誕を記念する祭日】。

実はキリストの誕生日ははっきりしておらず、正しくは『降誕を記念する祭日』となり、クリスマス当日の4つ前の日曜日から『アドベント』と呼ばれるキリストの降誕を待ち望むシーズンのはじまりとなるのだといいます。

…たしかに先月末にカトリック教会の前を通りがかったとき、すでにクリスマスの飾りつけがなされていました。

そして。
この期間に入ると、
チョコや小さなギフトがしこまれた「アドベントカレンダー」の中身を一日ごとに開封してクリスマスを楽しみにすごします。

…。

.……実は。
思い出したのですが。
私が小さかったとき、こうしたアドベントカレンダーが飾られていた家庭であったのです。

子供って自分の家が中心ですので、それが当たり前、どこの家のクリスマスもそうだ、と思って過ごすものじゃないですか。
クリスマスシーズンにご近所の家やお友達の家に伺って、多少自分の家の飾りつけは派手だなぁと思うことはありましたが、よそのお宅のアドベントカレンダーのあるなしなど気にもしなかったし、自分の家からアドベントカレンダーがいつの間にか消えたのも、妹が生まれて忙しいか、ギフトを開けるのは誰だという壮絶な戦いを避けたのかなぁと、勝手に子供心に思っていたのですが…。
そもそもが教会に通う習慣などは物心ついてからは一切、無かったので、その時点でのアドベントカレンダーは子供が喜ぶ姿を思い、父が用意していただけだったのでしょうね。


今ではこのアドベントカレンダーの周知度もあがり、一般的にもこれを飾られる方は増えているようですが、私の小さい頃となると入手自体もかなり大変だったのではないかなぁ。
ネット通販もありませんし…というかインターネット自体がまだですし。
アドベントカレンダーっていくつになってもワクワクして、ちょっだけ(欲しいなぁ)と思う私がおります。
ちなみにわが家の子どもたちの小さい頃は、夫に鼻で笑われて、購入することはかないませんでした。
キリスト教系の保育園卒なくせに、あくまでもそういったことに流されない夫でありました。


ちなみに、キリスト教徒の間では12月25日から 1月6日【公現祭】までを『十二夜』と呼び、アドベントの日から十二夜までが 本来のクリスマスシーズンとなるようです。

No.74 22/12/18 04:12
旅人さん0 

昨日は群馬県前橋市の【前橋東照宮】さんのそばまで行きました。

大変な混みようで、建て替え前は険悪とも思われるほどに反対されていたのが嘘のような賑わいをみせていました。
私なども以前の社殿に大変愛着があり、建て替えの寂しさでなかなか参拝できずにいたほどでありました。

遠回しに参拝したい旨を夫に伝えたのですが、うまく伝わらず、参拝はかないませんでしたが、そういえば今年大注目のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も本日をもって最終回で、次回は若き日の家康公を描いた作品となるようです。
まぁ、初回からずっと欠かさず観てきて、一週間『鎌倉殿』を楽しみに仕事をしてきた(!?)夫などは、もう側(はた)で聞いていて、〝ウザい〟と思うくらい「あと何回で終わってしまう」とつぶやくくらい早くも鎌倉殿ロスとなっておりますので、次回作を受け入れる心の寛容さはないんじゃないかと密かに思っております。

あ、だから『東照宮』さんにお詣りしなかったということは決してありません。
うちの夫は大変ニブいんです。ストレートに「行きたい!」と言わないとまず伝わりません。
それがわかっていてストレートに言わなかった私がいけないのです。
その点、息子たちは空気で察する能力に長けており、夫とのギャップに戸惑うこともしばしばあるくらいです。
「こういう所は寄りたい人なんだよな」「あ、今この景色を見ていたいようだぞ」とか、口に出さずともクルマをスッと停めてくれたり、Uターンしてくれたり…。
こういうものは遺伝ではないのだなあと、そう育ってくれた息子たちに感謝してしまうくらいです。


あ、話がだいぶ逸れてしまいました。
そもそも神社さんへのお詣りは、ついでに伺うものではないので、伺いたいと思った気持ちを大切にして、是非近々参拝させていただきたいと思います。

忙しくできることも、生きていて、身体が健康であればこそ。
神さまのおかげであります。
感謝の意をお伝えすべく、年内に一度お参りしたいのだけれどなぁ。


…あと一週間でクリスマスなんですって。
…気づいておられました?
プレゼント交換もしない年頃となりましたので、すっかり失念しておりました。

No.73 22/12/13 18:42
旅人さん0 

本日は虚空蔵菩薩さまのお縁日。
虚空蔵菩薩さまは丑・寅年生まれの方の守り本尊であります。


【干支の守り本尊とお縁日】

子年   千手観音菩薩 17日
丑・寅年 虚空蔵菩薩  13日
卯年   文殊菩薩   25日
辰・巳年 普賢菩薩   24日
午年   勢至菩薩   23日
未・申年 大日如来   8日
酉年   不動明王   28日
戌・亥年 阿弥陀如来  15日


となるようです。

この干支の守り本尊さまが勢揃いなさっているお寺さんもあります。
善光寺さんの御本堂の中にも守り本尊さまが勢揃いなさっておられました。
干支の石仏さまが並んでおられるお寺さんもあります。
守り本尊さまがそれぞれおられる言われても、欲張りな私は自分の干支の守り本尊さまだけではなく、夫や子供たちの守り本尊さまもお参りさせていただきますし、大好きなお不動さまにも手を合わせます。

なにしろ大好きな仏像が並んでおられるのですから、それはもうワクワクです。

ところによっては初詣は守り本尊さまがおられるお寺さんをお詣りするという地方もあるようです。



さて、わが家は来年どちらに初詣することになるのだろう。
もうここまで年の瀬となれば、来年のことを申していても鬼に笑われることはないでしょう。

とりあえず、私は毎年必ず夫の実家のお寺さんと、私の父方の祖父母と父の眠るお寺さんにはお参りしております。
またここ何年かは土地神さまにも夜中一人でお詣りしております。

えっ?
欲張りですかね?
でも私、それこそ何年もどこにもお参りしない年がありましたので、その分もお参りしているって事で。

No.72 22/12/13 09:52
旅人さん0 

昨日は『漢字の日』。

日本漢字能力検定協会は、漢字の奥深さと意義を再認識するための活動の一環として、毎年年末に今年一年の世相を表す漢字一文字とその理由を全国から募集し、その中で最も多かった漢字を選んでいるとのこと。

そしてその選ばれた漢字を、京都【清水寺】の貫主の揮毫により発表し、奉納の儀式を行なっていることは、すでにもう国民的な行事として浸透し、年末の風物詩ともなっているかと思われます。

今年の漢字は『戦』。
なんとも複雑な気持ちになります。

『戦』という文字から直結し思い浮かぶのはやはり今年の二月から現在まで続くロシアによるウクライナへの侵略戦争であります。
またそれに付随して頭によぎるのが、北朝鮮による相次ぐミサイルの発射。

一日も早く「戦」争がおさまり、平和が訪れることを日々祈っております。

とはいえ、つい最近のサッカーワールドカップでの日本代表の活躍で、『戦』という文字が、『熱戦』という使い方があることをあらためて認識することができ、少しだけ心が和むものとしていただけました。
『熱戦』『挑戦』
良い意味での、『戦』という文字を使いたいものです。


ところで。
お経は、漢字が多く使われています。

お経を漢文で唱えるようになったのは、様々な要因があると言われています。

仏教経典はインドから中国に入り、漢文に訳され、日本に伝えられました。
日本には仏教伝来と共に漢文のお経が入り、進んだ文化を学びたい先人達はすでにその時には漢文を理解できていたのです。

何回も訳すことで意味が変わってしまうことを恐れたとも考られています。

インドの言葉は分からなくても、漢文なら理解できるため、伝来したままの形で、お経を漢文で唱えることが定着したとの説があるといいます。


今日は虚空蔵菩薩さまのお縁日。
虚空蔵菩薩さまは智慧や記憶力、知識をお与えくださるとされています。

漢字の日つながりで、漢字のドリルでもしてみようかしら。


いや、今日も今日とて大掃除!

今日は事始めの日とのことで、広く『煤払い』などがされる大掃除には最適な日のようです。


よお〜し!
…片づけも、物を捨てることも苦手なおばさんだけれど、今日も頑張るぞ!

No.71 22/12/13 06:48
旅人さん0 

私の癒しであり、大好きな仏像。

そんな仏像のはじまりはいつ頃だったのでしょう。

もともとは尊い存在を形にすることを〝不敬〟とする考えがありました。

お釈迦さまが入滅されたのち、その遺志を継いだ弟子たちは教団を引き継ぎ、信者たちと共に釈迦の遺骨を祀ったストゥーパ(仏塔)を崇拝していました。
ストゥーパの周りの石の柵にはお釈迦さまの生涯がレリーフに刻まれたといいます。
しかしそのレリーフにお釈迦さまのお姿を刻むことはなかったようです。不敬であると考えたからです。
それゆえ〝仏足石〟や〝宝輪〟を釈迦と思って崇めたのでありました。


仏像が初めて造られたのは、紀元前一世紀頃と言われています。
インドの西北、ガンダーラ(現パキスタン)で釈迦如来像が造られたのが始めだと言われています。
シルクロードに繋がるガンダーラ地方で、ギリシャの神像彫刻の技法と、仏のイメージが結びつき写実的な仏像が生まれました。


……これがまたお美しい。
実にお美しいんですよ。
東京国立博物館に、ニ〜三世紀頃に、ガンダーラで造られたという【如来坐像】がおられるんです。


…これまたコロナ禍となって。
もう何年もさして遠くもない東京や神奈川などにも行けずに過ごしておりますが…。
神社仏閣だけでなく、行きたいところはまさに星の数ほどあるのですが…。

今また新規感染者数が増えてきてある状況を踏まえますと、私どもは出かけることを控えます。


♪ 行きたかった、行きたかった、行きたかった YES!
〇〇に…


…と歌って踊って、自分を誤魔化し…

…たりは決してしてはおりませんが。
せめて写真の御仏を拝観し。
せめて写真で日本各地を巡って。

まあ。
貧乏なのでコロナ禍でなくとも日本各地はまわれないだろうから、な。




(東京国立博物館の【如来坐像】)

No.70 22/12/13 06:08
旅人さん0 

私は御仏の御像が大好きで、御本堂におられる立派な御像も、風雨にさらされておられる石仏さまも、それこそ本に掲載された写真のお姿すらも、心癒され、時が経つことを忘れたいほど拝見させていただいてしまいます。

断捨離を兼ねた大掃除をしてみて、神社仏閣の本の多さに我ながら呆れたくらい、本がありました。
もちろんこの本たちは、当然、決して、手放すことはありませんが、私がボケて身の回りのこともおぼつかなくなったり、この世を去るようなこととなったなら、この本を見た人たちはさぞ呆れることだろうなぁとは思うのですが、ね。
ご興味のない方には同じような本でしかなく、(何冊も同じような本ばかり買って、結構前からボケていたんだなぁ)と思うに違いありません。…まあ、結構前からボケているんですけど、ね。


今年は結構高頻度で土日に孫の面倒を見させてもらえ、あまり神社仏閣を巡ることがなかったのだなぁとスマホの写真をみるとあらためて思いました。
それもあってなかなかどこどこの神社仏閣にうかがいましたといったレスが少なかったようです。老化による意欲の喪失かと密かに心配していたのですが、違ったようで一安心いたしました。…たぶん。


とはいえ孫を連れてですら、神社さんをお参りしており、この週末と来週末は土日とも、二日連続預かれるので、お天気さえ良ければ少し遠いですが、
『少彦名命』さまをお祀りされている神社さんに参拝させていただけたらなぁと思っている私であります。

ただ、やはり初めて参拝させていただく神社さんには子供を連れては行けず、参拝したことのある神社さんとなるため、同じところの記事となることとなりレスをためらうこともあります。

…ただ。

再拝ですとそれなりに珍道中率が少なくもなり(本当に?)、その分、神さまや周りの方々には失礼なく参拝できている…のかなぁ、…どうかなぁ。

No.69 22/12/08 06:53
旅人さん0 

十二月八日。
…ああ、お薬師さまのお縁日だ。

そう思い玄関を開けて。
私の目に飛び込んできたのは、大きな大きなまぁるいお月さまでありました。
やや見上げる高さに、すこぉしだけ柔らかで優しい黄色みを帯びた、神々しい、それでいて私を優しさで包んでくださるような、そんなお月さまでありました。
…ありがたい。
思わず手を合わせました。

今日は間違いなく良い日です。


…。
……うーん?十二月八日?

あっ!成道会(じょうどうえ)だ!
そうだ、お釈迦さまが悟りを開かれた日とされる、成道会の日だ!

しかも今日のぼるお月さまは満月。


最高な日の始まりです。



今から約二千五百年ほど前に、インドの一地方の王子としてお生まれになったシッダルタ(後のお釈迦さま)は、その地位を捨て、妻子を捨てて、二十九歳で城を出て、修行者の群れに身を投じ、難行苦行を重ねました。
しかし、どんなに難行苦行を重ねようとこの世の中の生・老・病・死の苦しみから抜け出すことは出来なかったのです。
お釈迦さまは六年間続けた苦行をやめ、尼蓮禅河(にれんぜんが)で身体を洗い清め、村の娘スジャータの乳粥の供養を受け、菩提樹の下に座って瞑想にふけりました。その間、いろいろな悪魔に悩まされ続けましたが、その悪魔を追い払い、十二月八日の日の出前、明けの明星を眺められ、悟りを得られたのであります。
お釈迦さまが、この世の中の苦しみを如何に滅するかという最大の課題を、遂に解決することが出来たのが今日この日と言われているのです。

いわゆる悟りを開かれた日で、この時お釈迦さま三十五歳、明けの明星の美しく輝く時であったといわれており、これ以後シッダルタ太子は『仏陀』と呼ばれます。

仏陀は、この日の悟りの喜びを、自分だけのものとしないで、人々に弘めようと決意されました。

仏陀は人間は二つの極端に陥っていると考えました。
ある人は快楽を追い求め、またある人は苦行に身体を苛(さいな)んでいる。その両方とも悟りに至ることは出来ない。
苦と楽の両極端を捨てて【中道】を選ぶ、即ち「調和のとれた努力」を続ければ悟りが開けるということを弘めていかれたのでありました。

この、お釈迦さまが〝悟り〟の境地に入られたことを記念する法要が【成道会】なのであります。


そ、そうだなぁ。
私は両極端な人間かもしれない。
『中道』かぁ。

No.68 22/12/08 06:26
旅人さん0 

栃木県足利市の【浄因寺】さんは、清らかに澄んだ気に満ちた、自然に囲まれ、よく日のあたる、大変居心地の良い空間であります。

そして。
何千とも言われる石仏さまがおられる、私の大好きな大好きな癒しの空間です。


どうかまた、私を参拝させてください。

No.67 22/12/06 07:28
旅人さん0 

【浄因寺】さんは明治の大火で本堂、鐘楼、経蔵、仏堂など、境内に残っていた堂宇のほとんどを失っており、かつて『関東の高野山』といわれるほど繁栄していた時代の面影はありません。

残っているのは…心洗われ優しさに包まれるような、そんな清らかな澄んだ気であります。

明治の大火後に建てられた山門と、鐘楼、そして御本堂は、おそらくかつてのものとは比較にならない質素な造りとなっているだろうと、そう思われる質素なものであります。
庫裏はさらに質素な、明治から昭和初期にかけて建てられたごくごく一般的な民家、であります。

ただ境内の巨石の上に建つ【清心亭】、そこに行くために掛けられた橋は、その火災を免れ、江戸の時代の繁栄を伝えています。
この清心亭とそこにかかる橋は、葛飾北斎が『諸国[名橋奇覧十壱橋]足利行道山雲のかけはし』として描いたくらいであります。


かつて修行の場であった頃は女人禁制で、現在駐車場になっているところまでしか女性は来られなかったのですが、
江戸時代には清心亭が建てられたくらいにその門戸が開かれ、信仰の場であると同時に観光地としても栄えたようでありました。


平成の頃にはその清心亭を建て替え、再び観光化を目指した時もあったようですが、今はその景観を愛する人たちが訪れるのみとなっているようです。

そこに、主なき家を守るかのように残る猫たち。
境内を案内するかのような動きもしてくれる、そんな猫たち。

ですが、無住となって久しく、猫たちも年を重ねておりました。

私たちは…その猫たちすら居なくなってしまった浄因寺さんが見たくなくて、心の中で祈り手を合わせるだけになっていました。


その浄因寺さんの猫たちの情報をネットに配信してくださった方がおられました。

庫裏に貼り紙がしてあるのだといいます。


【茶トラ猫をご心配の皆様へ
冬の寒い時期に一時保護をして春には帰す予定でいましたが、慢性的な猫風邪と口内炎で体調が安定せず、良くなったり悪くなったりの繰り返しで帰すタイミングがありません。
高齢でもあり凄く元気という訳にはいきませんが、食べたい時に食べて日々穏やかに過ごしていますので、その点はご安心ください。 2022年8月 】


なんと、なんとありがたい。
思わずその方に向かって手を合わせる私でありました。

…よかった。



 (雲のかけはし)

No.66 22/12/06 00:49
旅人さん0 

自分の運転には全く自信のない私は、まず山道の運転は向いていないと自覚しており、もしもどうあっても、一人でも行きたいと思うと、細い山道を走らずに済むよう、かなり麓の駐車場から歩いて登るようにしております。

なので山寺となるとなかなか一人で参拝することはできずにいるのですが。


夫婦揃って大好きなお寺さんなのにも関わらず、幾度となくそのお寺さんの名前をどちらともなく口に出してはいるくせに、行くことができずにいるお寺さんがあります。

それは栃木県足利市にあります、【行道山浄因寺】別名「関東の高野山」とも言われ、関東四霊場の一つに数えられ古刹であります。


【行道山浄因寺】
創建は8世紀前半(和銅七年)、奈良時代の名僧・行基が開き、弘法大師が第二世といわれている。特徴としては、天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗の四宗兼学の道場であったという点。
後に法徳禅師により禅寺とし、室町時代には学問の道場となり大勢の修行僧がここに集結した。
17世紀前半(元和9年)に、雷火により堂塔の焼失という悲劇があったものの、江戸幕府から寺領20石の朱印をうけ寺勢を盛り返した。
しかしその後明治に入り、本堂、鐘楼、経蔵、仏堂などの建築物をはじめ、経巻、仏像、寺宝などの大半を焼失してしまう。


そんな浄因寺さんは、もともとが修行の場であるため、そこに辿り着くまでの道が細くて対向車などが来ようものなら、すれ違うことも難しく、脱輪の危険と隣り合わせの道を登って行くような…そんな、典型的に私が一人では行けないお寺さんの一つなのです。

そして。
今は無住となって久しいお寺さんでもあります。


そこに…実は猫が数匹、身を寄せ合って暮らしているのです。

最後のご住職が飼っておられた猫たちで、ご住職が亡くなられたのち、麓に住む方がその猫たち皆を引き取ってくださったのですが、猫たちはご住職と住んでいた山を目指し、ひたすら移動して移動して、元住んでいた庫離へと戻ってしまったのだというのです。
猫たちの気持ちを汲んで、その方はその後は毎日山に登っては餌をあげてくださっておられるといい、なんともありがたいことであります。


今は修行ではなく観光でもない、ハイキングで登ってくる方がほとんどの浄因寺さん、訪れる人たちを癒してくれる存在の猫たち。


…そんな浄因寺さんの近況を知ることができました。

No.65 22/12/04 23:33
旅人さん0 

『鎌倉殿の十三人』を部分部分、観ているおばさん。
今回は昼寝をしてその時間に備えたという徹底ぶりで。(…孫の方が夜に強いようだ)

今回最後に尼将軍政子と妹の実衣が抱き合って「おんたらく〜そわかぁ」と唱えているシーンがありました。

うん?
これは…どなたか御仏の御真言なのでは…?あとで調べてみよう。
そう思ったところへ、別室で『鎌倉殿』を観ていた夫がやってきました。

夫「今回は起きてられた?」
私「うん、『おんたらくそわか』のところまで」
夫「最後だけ観られたの?」
私「ちゃんと全部観られました!蹴鞠のとこも。時元のところも」
夫「時元のところ、さらっとしたね」
私「…ねえ、『おんたらくそわか』ってなあに?」
夫「ああ、それはねえ。木曽義仲のねぇ、…頼朝と政子の子どもの大姫とねぇ……義仲が討たれ、義高も殺されてしまうんだ。それでねえ…」

…イライラ!

「……で、今回で三回目」


…全然、全く、答えになっていないでしょ!『鎌倉殿』に毒されたおじさんに聞いた私がバカだった。
やっぱり困ったときはGoogle先生だわ。


答え:【おんたらく そわか】とは【虚空蔵菩薩】さまの御真言です。


へ?
私が知っている虚空蔵菩薩さまの御真言と違う…?
…ああ、不動明王さまの御真言のようにいくつか御真言があるパターンなのかもしれない。

Google先生いわく。
「ちなみに『おんたらく そわか』は真言の一部で、フルバージョンは『おん ばざらあらたんのう おんたらく そわか』」

そうそう、それそれ!

御真言というのは「人間の言葉で表現するのは難しいけれど、仏様の本質を表した言葉」であり、「唱えることで法力やご加護が得られる護身の呪文」とでもいうものでありましょうか。


ちなみに。
虚空蔵とは虚空≒宇宙の母胎を表し、無限の広がりをもった宇宙のような知恵と慈悲をお授け下さる菩薩様として、広く信仰を集めています。

うーん。
何故、あのシーンで虚空蔵菩薩さまの御真言を唱えることになるのかは私にはさっぱりわかりませんが…。

宇宙のような御慈悲を求めて…のことなのでしょうか、ね。

No.64 22/12/04 13:55
旅人さん0 

切なくて、切なくて、悔しくてなんとも腹立たしい事件がまた起きていた。

しかも故意だ。
不注意などではない、故意の虐待だ。

書くことすら不快な悍ましい事件だ。胸が悪くなる。

複数人の保育士による園児に対する虐待だ。

複数人というのがおそろしい。

虐待行為が常態化していたことすら考えられる。
表面化した虐待などおそらくほんの氷山の一角に過ぎないに違いない。


保育士という職業がどんなものであるか、イメージして、夢見て、その職業に就いたかもしれない。

でも、実態は一瞬も気を抜けない毎日の仕事である。命を預かり、大切な、未来を持つ子どもの心をも育てる仕事である。
命がけで産んだ、大切な大切なわが子を、信頼して預けているのが親たちなのだ。

「こんなはずじゃなかった」
そう思って辞めていかれる若い保育士さんも多い。
それは決して適正ではない。
その人がどんなに保育士として素晴らしいものを持っていようとも、環境など、さまざまな要因がそこにある。

「こんなはずじゃなかった」
そう思う理由は人それぞれであろう。
ただ、適性を含めて、その職業の選択を誤ったと思ったら、勇退すべきである。

子どもを可愛いと思えない時が来たら、すぐに辞めて欲しい。

たしかに人手も重要な職ではある。
でもそこに悪の手は要らない。


保育園も、自分の園を辞めさせるよりも前に、虐待の通報をするべきだったのではないのだろうか。
そういった姿勢こそに、信頼できるものを感じると思う。


きっと人々の記憶から消えてしまうの日が来るのであろうし、この加害者たちはまたなんらかの職に再就職もするのだろう。

だがその保育士という資格を持っての再就職は禁じて欲しい。
逮捕というからには前科となるのだろうが、この加害者たちが本当に心から悪いことをしたと思い、悔い改めることができるかの見極めも難しい。


繰り返されるテレビのニュースを見てはキーキー怒り狂っているおばさんであります。

No.63 22/12/04 05:33
旅人さん0 



(前レスをお読みになられてしまわれた方、誠に申し訳ありませんです。

メモするものがなく、動転しながらここしか思いつかず、メモ書きをしてしまいました。

今は違和感のみです。


とりあえず削除させていただきました)


No.61 22/12/02 21:03
旅人さん0 

『木』つながりで、もう一つ木のお話を。
それはクリの木。

宮大工さんがお話されたというお話です。
「クリというヤツは、あらゆる木の中で一番の暴れん坊でねぇ、アイツばかりは、手がつけられねぇ」
というのです。
普通、山から切り出した木は池や川に一年、ニ年と水に浸けてから乾燥させて建築材料にするのだそうです。こうすることによって狂いが少なくなるのだというのですが、クリの木だけは、そうやったのちにも、使用後数ヶ月すると狂いが生じるのだそうです。

経験を積んだ腕のいい大工さんはそれを見越して細工するといいます。
「近頃は、クリを使いこなす大工が少なくなった」と、その宮大工さんはおっしゃったのだとか。

クリは力の強い木で、木肌が緻密で、鉄分を含んでいるので長年使い込むとカタクリの花のような薄い紫色になってくるといいます。
ヒノキと並んで建築材料としては一級品なのだそう。

いつか行きたい青森県の、『三内丸山遺跡』では、クリの巨木が柱として使われているといいます。


でも、群馬県から仙台までと同じくらいの距離離れているのだというんですよね、青森県。
つまり、仙台まで行って、そこからまた今来た道のりと同じだけの距離を移動することになるのだとか…。


うーん。
青森県に行きた〜〜い!

No.60 22/12/02 13:55
旅人さん0 

朔日のお参り。
御神木の銀杏は参道の真上の一枝にほんの少しの葉を残すのみで、わずか十五日の間にすっかり様相を変えていました。

黄色い葉が広がる木。
ハラハラと散る特徴ある葉。
銀杏は大好きな木の一つです。
…ただ、ギンナンは辟易します。
食いしん坊でありますが、ギンナンの味わい、美味しさもいまだにまだ分かりません。

大きな大きな御神木を見上げていて、ハッとまずは参拝をしなくてはと、視線をまっすぐに正しました。


あ。
その散った葉を掃き集めておられる、年配の男の方が二人おられました。こうした神域のお掃除は、神さまへの御奉仕。行いの御供えとなるといいます。

…それにしても、すごい量。
これは大変だ。
お二人に頭を下げて、二の鳥居をくぐり神橋を渡りました。

うーん♡
大好きな拝殿が見えました。

この日までお守りいただきましたことを感謝して、また無事に過ごせますようにとお祈り申し上げました。

参拝を終えて。
御神木の横までまいりました。
先ほどよりもだいぶ葉の量が減っております。
「だいぶ進みましたねぇ。量が半端ないから大変ですね。
昨日まで暖かだったのに、打って変わって今日は寒くて…本当にありがとうございます」
とお声がけさせていただくと、
「そうなんだよぅ」
とニコニコ笑いながらお答えくださいました。
「やってもやってもキリがなくてなぁ。でも寒くとも風がないから全然いいんだ」
「でもこうしたお掃除も神さまへの御奉仕だとか」
「ぷっ。
…このさぁ、イチョウってのは始末におえないんだよ。普通の落ち葉よりずんと重いんだ。ツルツルして集めるのも大変だし」
「あら、そうなんですかぁ。そういえばイチョウは油分か多いから滑りやすいって」
「お、よく知ってるじゃん。そうなんだよ。重くって滑るし、最悪な葉っぱだよ」

!!
…お、おじさん、これ御神木の葉、なんだけど。しかも社殿の、神さまの真ん前で大きな声で…。


小心者の私は、
「あ、ありがとうございます。お邪魔してすみませんでしたぁ」と、そそくさとおじさんたちに別れを告げました。





No.59 22/11/30 04:11
旅人さん0 

あるお寺さんの門前に貼られた標語。


朝は 希望に起き
昼は 努力に活き
夜は 感謝に眠る


No.58 22/11/30 03:56
旅人さん0 

ある老僧の法話を。


秋になり、いよいよ冬が間近となって、見上げる木々にはもうほとんど葉が残っていません。
つい先日までは赤や黄色の美しい姿を見せていてくれたのに。
こうした光景を見ると、木の一年が終わったと思います。
春葉をつけて、生い茂り、紅葉して散る。
そうして来年の春、また新しい葉をつけて新たな一年が始まります。

私が、私たち人間の一生も同じだなぁと感じる時です。

私はもう後期高齢者。いつ逝ってもおかしくはない年頃を迎えています。
私たち人間も、〝生老病死〟という、時を過ごして逝きます。

人はどうやって、次の春に繋げていくのか。

それは後に生きる者たちへ、〝老〟老いていくとはどういうことなのかを〝教材〟となって見せ、〝病〟病んだときの生きざまを見せ、そして、…死にゆく姿を見せて、何かを学んでもらえるように、良き〝教材〟として生きることだと思うのです。


木々が芽生える姿、
生い茂る姿を見て、
そして美しい紅葉を見せてくれること。
そんな一つ一つに感謝する思いを持って、
自分はどう生きるかを学び、後の者に繋いでいく、学びの心を持って生きたいと思います。

それはあちらの世界に旅立つ日までずっと。


みなさんも木々を見上げてそのように思っていただければと思います。
若き人たちの〝教材〟となって生きてまいりましょう。



季節外れの暖かい日が続く、高く聳える木々に、ほんの少し葉の残る、そんな野外で、時折木々を見上げながらお聞きしたお話です。

No.57 22/11/29 05:49
旅人さん0 

石仏さまが大好きな私。

時々無性にお会いしたくなる石仏さまがおられます。
その中の一体が、今なお道端にお祀りされているお地蔵さまなのです。

普通に生活していては絶対に通らない道ですので、なかなかお参りすることは叶いませんが、初めてお目にかかったとき、涙が出そうになるくらいに一目で大きな癒しを与えていただいたお地蔵さまでございます。


それは応永十六(1409)年に造られた、高さ70センチメートル、幅35センチメートルの石に浮き彫りされたお地蔵さまであります。
道端に、それでも簡素ながらも屋根と囲いを作って、お祀りされているのです。


石の一面を研磨して平面とし、下の方は平面にするべく直角にけずり取り、背部の突出部はそのまま残して安定をよくし、上部は円形で、あたかも円形光背状にみえるようにつくられております。

像容は、大変趣向をこらしたものであると思われます。
六角形の台座が簡素な彫り方で、…まるで彫刻刀の三角刀で一気に一彫りで彫られ、その上に蓮華座がやはり陰刻されています。
そしてその上部に、右手に杖をにぎり、左手に宝珠をもった地蔵菩薩さまの座像が陽刻されているのです。
そのお顔のお優しいことといったら。

そして上半身部は円形光背が大きく描かれていて、まさにお座りになられたお地蔵さまから大きな満月のような後光が差しているように造られているのです。

はあぁ♡


お参りさせていただいた日には、まさに備えられたばかりの豪華な仏花が生けられていました。
いつもお参りしてくださる方がおられるのだなぁ。
私まで嬉しくなりました。


またまいります。
といつもそうご挨拶をして、参拝を終えます。


…ただ こちらの参拝、路駐するしかないんですよね。
そこだけが心苦しい。






No.56 22/11/29 05:02
旅人さん0 

石仏さまの大好きな私。

とはいえ、さまざまな理由から道端に鎮座されておられる石仏さまはほとんどお見受けすることがなくなっております。
少なくとも私の住む辺りでは〝皆無〟

なので石仏さまにお会いできるとしたらやはりお寺さん、となるのでありますが…。

石仏さま、じつにさまざまな御仏が彫られております
多いのはやはりお地蔵さま。
そして馬頭観音さま、青面金剛さま、如意輪観音さまがおられます。

中には石仏さまの光背の横に、戒名が彫られているものもあり、「おおっ!お墓でありましたか」となることがあります。

お墓の制度がなかったころ、亡くなった人の供養のため石仏をつくらせたのでありましょう。
川のそばなどはことに多くみられたようでありましたが、今は、その御仏の立たれるそばのお寺さんなどに奉納され安置されるようになったのかもしれません。


群馬には信州伊那などから石仏を彫る職人さんたちが来ていたようです。


石仏さまを見ているうちに、いくら調べても わからないことも多く。
誰かにお聞したい、
でも誰にきいたら良いの?

とりあえず地元群馬の石仏に関する本はないかな?と、さまざまな市や町の文化財の資料などを購入しております。
でもそれを見ても分からないことも多く…。


そんな私に一筋の救いの糸が♡

石仏さまを愛する方々が集い運営している【日本石仏協会】なるものが存在することを知ったのです。



…ただ。
年会費が八千円、とのこと。
無職の専業主婦はあきらめるしかないかなぁ。

No.55 22/11/29 05:00
旅人さん0 

昨日は二十八日ということで、お不動さまのお縁日。

このところほとんど毎月のようにお参りさせていただいている石造りのお不動さまは、元は足場も危ないような川岸の斜面におられたといいます。
そんな危ないところにおられるにも関わらず、参拝される熱心な信者さんが何人もおられ、その方々が高齢となられ参拝しやすいようにと、橋のたもとにお移りいただいた経緯があるといいます。

本当ならば、そこにお不動さまのお像を建立するだけの理由があったのだろうし、お不動さまもその理由を知ってその辺りをお護りくださっておられたのでありましょうに、なんだか人間の身勝手で申し訳ない気がいたします。

とはいえ、きっとその信者さん方は確実にお参りしやすくなったことでしょうし、私などは以前鎮座されておられた場所にあっては一生涯お目にかかれることもなかったでしょうから、ありがたい面もたくさんありますが。
そもそもお不動さまのお力は、人の手によって移動されたぐらいでは変わろうはずもなく、かえって広い範囲をお護りくださるようになったのかとも思うのですが、そこに建立した方の思いとは違う形となったことだけはたしかではあります。


小さな石造りのお不動さまは、全長で三十センチくらい。
移動した際に彩色を施したようで、私としては元のお姿が拝見したかった。


このお不動さま、本当にお優しい気を発せられておられます。
間違いなく癒しの気であります。

何度も荒れた川の岸の斜面に建てられたお不動さまは、河川の氾濫を鎮めると共に、亡くなられた御魂と、大切な方を亡くされた方の気持ちを癒しておられたのではないでしょうか。
そして今もなお、その河川の氾濫を抑えつつ、お参りする者の気持ちをほぐし癒してくださっておられる。

大好きなお不動さまの、大好きな御像の一つです。

No.53 22/11/27 06:03
旅人さん0 

つらつらと連なる駄文の数々。
しかもタイトルとは異なり、寄り道ばかり。

まるでいっばしの詐欺師のようです。

でも、何度も何度も同じところのことを書かれても、つまらなかろうとか思い。
群馬の片田舎の道端におられる石仏さまのことを魅力的な文章で書ける能力は皆無で。

それでも認知症予防…進行予防のためにも、駄文な上に誤字脱字、言い間違い等々の駄スレ恥スレを、徒然ならまま、ひぐらし綴らせていただいております。

お目苦しいことしかありませんが、ミクルの片隅を引き続きお借りして、書き続けていることをお許しください。

No.52 22/11/27 05:55
旅人さん0 

自分でも少し心苦しくは思っているのですが、最近少しも神社仏閣のことを書かずに、脱線ばかりしております。
さては…飽きたか?

いやいや決して。

ですが、再々拝の神社さんやお寺さんのことを何度も書くのはさすがに気がひけるのです。
もちろん本人としては、新たな出会いであったり、発見であったりはあるのですが、正直、このコロナ禍となって、遠出をして今まで出向いたことのない神社さんやお寺さんをお訪ねし参拝することを極力控えておるのです。

…えっ?本当に?
そうだったっけ?

…ええ、東北に行ったのはたしかにコロナ禍となってからでありました。
それでもN95のマスクを何千円もかけて購入し、フェイスマスクも持って、使い捨ての手袋も持って、それをフル活用してのものでした。
帰宅後は同居の息子に私たちからの感染ということが万が一にもないようにと、それこそ、感染者と非感染者のような動線分けをしたくらい、私どもにとっては最大級の感染対策をとってのものでした。
…正直、あの感染対策は疲れました。


その後、withコロナの時代を迎えて、ワクチン接種を推奨されたり、さまざまな試行錯誤と紆余曲折をしつつ、〝今〟という時を人類は、日本国は過ごしております。

一度きりの人生、さまざまな我慢があって、
…でも明らかにコロナ前とは生活は一変し、さまざまな我慢、かつてならあり得ない我慢が人類に課せられています。

またこのコロナの第八波がやってきてもいます。
罹患しないための努力はどこまで通用するものなのか、正直、運すらがそこにあるような気がしてならないのです。
とても感染対策を重視して行動されておられる方が罹患されることも多々あります。


私が罹患したくはない理由は、夫にうつしたくないから。
夫が呼吸器疾患を持ち、定期受診をしており、強い薬を何種類も服用しているのにも関わらず、それでもここ数年は年に一回は肺炎や気管支炎を起こしています。
彼は間違いなく、重篤化しやすい対象でありましょう。
私からうつしてはならないという気持ちが強いのです。
それこそ私は一生後悔して生きることとなる気がするのです。

…小心者でビビりだから。


あともう一つはもっともっと重いもの。

No.51 22/11/26 04:44
旅人さん0 

で。

昔の〝一休さん〟の歌を知る者としては、ですよ。
♪ アハハッハハ オッホホホ
ですから、ね。


子供向けの歌って、なんかいきなり脈絡のない言葉が突然、出てきたりするものだと、すでにこれまでの童謡でイヤというほど刷り込まれていた者でありまして。

♪ 好き好き好き好き好きっ好き
 愛してる ♪

にもはや違和感など感じない子供になっていた、わけです。(…そういうことにしておこう)


考えてみると、子供向けの歌、だけでなくて、昔の歌謡曲とかもそうだったかもしれない。

…ん?
今のヒット曲もそうかもしれない。

歌って、必ずしも歌詞を詩として重視して作るのではなく、あくまでも歌として、曲に乗せたときの感覚をも考えていて、それで歌として成り立つもの。
その〝歌〟を聴いて、歌って、
そこに聴いた人、歌う人がそれぞれに、そこに情景やら、情感を感じるのが大切なのだと思います。


でも…。

初めてこの♪ 好き好き好き…を、母親の歌歌う歌として聴いたわが家の子どもたちって…。
やっぱり衝撃的、だったのかなぁ。

No.50 22/11/26 04:27
旅人さん0 


♪ 一休さん 一休さん
この橋わたっちゃ いけません
なぜなぜわたってきたのです
いえいえ 橋はわたりません
まん中とおってきましたよ

※{なるほど なるほど
 これはまいった しくじった
 アハハッハハ オッホホホ}


一休さん 一休さん
お膳にでてくる お吸いもの
おふたのまんまで めしあがれ
おやおや おつゆが冷えました
おふたを取らずにかえとくれ

※印 くりかえし


一休さん 一休さん
びょうぶに描いた あの虎を
しばってください この縄で
はいはい どなたか追い出せば
わたしがとらえてしばりましょう

※印 くりかえし


これはちょっと、私の記憶と歌詞が異なるところがあるのですが、何しろ、ネットで検索しても、もうこの歌に関してHITするのが二件、(…あくまでもおばさんリサーチ、ですが)
十中十、ここにコピして貼り付けたものがあっているものなのでしょうが、ね。…。

…何をそこにこだわるかというと、私、うちの子どもたちが小さな頃、子どもの前で歌っていたものだから…。間違えて歌っていた母のせいで、間違えて記憶してしまったかもしれないという罪悪感が今沸々と沸いております次第でありまして。
ま、今後真実を知ることがあったなら
「ああ、あのボケた母親がまた」
と思うだけなのでありましょうが、ね。

アニメの『一休さん』の〝母上さま〟とはまるで違う、母親でごめんなさい、と心の中で詫びておこう。


そんな一休さん。

杖の頭に髑髏を付けて町中を練り歩いた、などというショッキングな逸話があるのをご存じですか?
私の頃の子供向けの伝記にはここまでしっかりと記されていたという、今では考えられないことが、普通にありまして。
でもそれが真実であるか否かはとにかくとして、そういった逸話があることも、包み隠さず書いてあった昔の子供向けの伝記の方が私は好きかもしれません。

少し話はそれますが、〝野口英世〟の借金ぐせも、それを一晩でパァァっと遊んで使い果たしてしまったことも、私の時代の子供向けの伝記にはみんな包み隠さず書いてありました。


一休さんに話を戻しますが、一休さん、奇しくも臨済宗の僧でありまして。
「ああ、一休さんは濁らない般若心経の方をお唱えされていたのだなあ」と思った、おばさんでありました。

No.49 22/11/26 03:54
旅人さん0 

と、【一休】さんの話が出たところで(…出した本人がいう言葉ではない気がする)。

私の世代、アニメ【一休さん】が放映された時代でありました。
この作品、再放送も何度もされたもので、主題歌は今、一部のTikTokとかで使われているようであります。

昔から頭のネジが数本足らなかったおば(か)さんは、この主題歌になんの疑問も羞恥心も持たず、大声で歌っていたものでありますが、今ネットでこの歌に関して何気なく検索してみたら、「恥ずかしくて歌えなかった」「どうして一休さんのアニメでこの出だし?なんでこんな主題歌なの?」等々の意見があって、
本当に今更ながら
「なるほどぉ〜」と思ったのでありますが、たしかに、


♪ 好き好き好き好き好きっ好き!
 愛してる

 好き好き好き好き好きっ好き!
 一休さん ♪

この出だしは、今こうして打ち込んでいて、恥ずかしい。
たしかに、そう言われれば、どうして、『一休さん』のアニメの主題歌が、いきなり「好き好き好き好き好きっ好き! なんだ⁈」と思う。

ですが当時の私は、なんの疑問も浮かばず、羞恥心が浮かび出ることもなかった、ネジも足りなければ、恥をも知らない、(…別段今と変わらないのでは…?)お子さまでありました。

そして。
エンディング曲の、

♪ ははうえさま〜
 お元気ですか

 夕べ杉の梢に明るく光る星一つ
 見つけました

 星はみつめます
 母上のようにとても優しく
 私は星に話します

 くじけませんよ
 男の子です
 さびしくなったら
 話しに来ますね 

 いつかたぶん… ♪

…この歌に関してはいまだに好きでありまして、記憶の中にあるものをそのまま打ちこんでみたのですが、念のため確認してみたら全てあっていたほどに歌い込んだようでありました。
あ、今は聞き手(夫)がいろいろうるさいので、歌いませんが、ね。


が。

私の世代。
これ以前にもあった『一休さん』の歌も知っているんですよね。
童謡?文部省唱歌?
…もはや検索してもなかなかHITしない作品となってしまったようですが、…あるんです。

No.48 22/11/25 15:28
旅人さん0 

そんな、…と言われても、どこにかかる〝そんな〟だよと言われそうですが、宗派によって、もしかしたら読み方が若干の違いがある…かもしれない、【般若心経】。

【摩訶般若波羅蜜多心経】の『摩訶』

これは摩訶不思議という言葉で使われている〝摩訶〟であります。
今、『摩訶不思議』というと、〝非常に不思議なこと〟を指しますが、もともとは『人知を越えた素晴らしさ』を意味する言葉であったといいます。

といいますのも、【摩訶】という言葉は、古代インドのサンスクリット語【maha=マハー】の音写で『偉大な』『大きな・大いなる』『非常の』『優れている』『神秘的』といった意味があることによります。

私たちがよく知っている【一休さん】のモデル【一休禅師】は、
「摩訶とは、すべてを包み込む大きな心。
その心を得るためには、生きていく中でいつの間にか知ってしまった損得や善悪など、自分勝手に考える小さな心を全て捨てること」
と説いたといいます。

こんな最初のたった二文字に、すでにこれほどの教えが込められていたものであったとは。

やはりお経というのは素晴らしいものなのだとあらためて知るのでありました。




  (銀杏 いちょう)

No.47 22/11/24 17:06
旅人さん0 

ところで。

堺正章が悟空に扮する『西遊記』は、再放送などで平成生まれのわが家の子どもたちも観たことがあるものなので、若い世代の方もご存じの方は多いかと思うのですが。

もう一つ、昭和世代に、忘れられない『西遊記』があります。
…というか、その世代、世代で忘れられない『西遊記』があるのかもしれませんが。


私の、もう一つの、忘れられない『西遊記』は、ドリフターズ(以下、ドリフ)の人形劇 『飛べ!孫悟空』であります。
放送は1977年10月から1979年3月まで、全74話、一年半続いたヒット番組でした。(…だそうです)。

これはうちの子どもたちも観たことがないよう記憶しています。(このおばさんの記憶ほど当てにならないものもないのですが…)

これがなんとも面白くて、あの頃楽しみにしていた番組の一つでありました。

しかもその時代の名だたるスターがこぞって出演していましたし(ただし人形化されていましたが…)、
あの時の超人気スター、ピンクレディが主題歌を歌っておりましたし。



…これはあくまでも、西遊記つながりで書きたかっただけの話です。
申し訳ありません。



(『飛べ!孫悟空』)画像

No.46 22/11/24 14:07
旅人さん0 

私の手元にある経本は、前述しました通り真言宗豊山派さんのもの。

で。
耳から聞いていたのは、あの歌う僧侶、薬師寺寛邦さんの、般若心経に音楽を合わせたものなのですが、薬師寺寛邦さんのお寺さんは『臨済宗』。


えっ?
…少し違う?

そう思えて仕方がなかった私は、ちょっとだけ調べたんです。
私のお授けいただいた経本は、ちゃんとふりがなの振ってあるもの、なので、読み方の違いは目で見て読んでわかるものなのです。

うーん、違うかも。

ま、あくまでも〝読み方〟なので、濁るとか濁らないとか、そういった違いって、生じなくはない、…のかもしれません。

でも、ほら、このおばさん、無知であるのはここミクルさんでも周知の事実となっておりますが、と、同時に小心者、なんです。

仮にもお経、ありがたいお経が宗派によって微妙に異なるなんて思ってもいなかった、まさに青天の霹靂、だったんです。

聞き間違えにしてははっきりと異なる発音です。

で、家にある、書店で買った般若心経の本を見ましたところ、その本を監修されたのがまさに薬師寺寛邦さんと同じ『臨済宗』の方で、そこにふりがな付きの全文があり、私の聞き間違いではないことが裏付けられたのでありました。


そ、そうなんだぁ…。

しかも一箇所ではないんです。
濁る派と、濁らない派。


な、なるほどぉ〜。
たしかに、お経はその文字、その言葉が表す意味が大切なので、読み方はさほどには重視されない、ってことなのでしょうかね。

うーん、深い。
深いなぁ。

No.45 22/11/24 13:36
旅人さん0 

この玄奘さまは六○ニ年、中国に生まれました。
十三歳で出家し、その後仏教の教えについて疑問を抱いたことをきっかけに、六ニ九年、国禁を犯して仏教の本場であるインドへと旅立ちます。

インドへの道のりは遠く、それもほとんど馬か、せいぜい徒歩の旅。
西遊記のように妖怪たちこそは出ないものの、それは厳しい、苦難の連続であったろうと思われます。
玄奘は危機に陥るたびに経を唱えて難を逃れたといいます。
その経は『摩訶般若波羅蜜大明呪経』ではなかったかといわれているといいます。

…堺正章扮する悟空の頭に嵌められた『緊箍児(きんこじ)』を締め付ける際に、夏目雅子さん扮する三蔵法師さまがお経を唱えていたけれど、あれはなんのお経だったのだろう…?


閑話休題。

苦難の末、インドにたどり着いた玄奘さまは、仏教理論など、さまざな学問を学ばれます。
十七年に及ぶ留学生活を終え、膨大な数の経典とともに帰国し、皇帝の勅命で、持ち帰った仏典の翻訳を始めます。
玄奘さまは六十二歳で亡くなられるまでに、数多くの経典を翻訳されます。
そのうちの一つが【般若心経】であります。

般若心経は、玄奘さまがインドから持ち帰った六百巻にも及ぶ経典【大般若波羅蜜多経】をまとめて漢訳したものであると伝えられます。


で。

このありがたいお経であります般若心経、私は気づいてしまったのです。

実はこの般若心経、『日本においては、宗派によって若干読み方が違うらしい』、ということに。


は?

そうなんです。
はあぁ?…ってなりますよね。

私の手元にある経本は、とある真言宗豊山派のお寺さんのご住職さまがくださったものであるのですが、ある時、その教本を手に、
異なる宗派の僧侶の方がお唱えになるお経に合わせて読経しようとしたところ、少しだけ読み方が違うんではないかと思われたのでありました。


はあぁ?

聞き間違えか何かじゃないの?


…私とて我が耳を疑いましたとも!
でも何度聞き直しても手元の教本と耳から入ってくるものは微妙に違うのです。


No.44 22/11/22 18:37
旅人さん0 


♪ そこに行けば どんな夢も
かなうと言うよ

誰もみな 行きたがるが
遥かな世界

その国の名は ガンダーラ
どこかにある ユートピア
どうしたら 行けるのだろう?
教えて欲しい

In Gandhara, Gandhara
They say it was in India
Gandhara, Gandhara
愛の国 ガンダーラ

生きる事の 苦しみさえ
消えると言うよ
旅立った人はいるが
あまりにも遠い

自由な そのガンダーラ
素晴らしい ユートピア
心の中に生きる 幻なのか

In Gandhara, Gandhara
They say it was in India
Gandhara, Gandhara
愛の国 ガンダーラ ♪


これはかつて放映されたテレビドラマ【西遊記】のエンディング曲であります。

このドラマが放映されたのは1978〜1980年までとのことで、大河ドラマの裏番組という悪条件もなんのその、平均視聴率20%、最高視聴率は27.4%という、これを観ていないと学校で友だちと話が合わないというくらいの番組でありました。

また、やはり視聴率30%を超えるおばけ番組であった『ザ・ベストテン』があり、こちらでこの『ガンダーラ』、山口百恵やピンクレディをおさえて、堂々の一位を取り続けた曲でありました。


この歌、今聴いても心に響く名曲、であるのですが、

『♪ They say it was in India(ガンダーラはインドにあった)』
と歌われております。

実は『ガンダーラ王国』、パキスタン北西部にあったもの。


…そう、なんです。
ガンダーラは、この歌に歌われているようにインドにあったわけではないのです。

歌詞の日本語部分では、
「どんな夢もかなう」
「どこかにあるユートピア」
「生きる事の苦しみさえ消える」
といった描写が見受けられます。

ユートピアとは、現実には決して存在しない理想的な社会、理想郷(りそうきょう)のこと。


でも西遊記は、インドにお経をとりに行くお話。ガンダーラではありません。


ま、ドラマとテーマソングがキチッと合っていないことなどたっくさんありますし。

ただ、三蔵法師=玄奘さまは、ちゃんと『ガンダーラ』を通過したみたいですが、ね。

No.43 22/11/22 00:44
旅人さん0 

2022年度の、百二十二回をこえたという桐生西宮神社さんのえびす講は盛大に執り行われ幕を閉じました。

ただ、残念なことに今年、夜の歩行者天国が解かれた後、露天商の屋台が一軒全焼する火災があったようですが、類焼することなく消し止められたのは、えびすさまと大黒天さまの御守護によるものと、桐生・みどり市消防署の働きによるものであります。

奇しくもその現場は本町三丁目であったようで、
かつての大火で被災された先人が、同じ被害を出さぬようにしてくださったようにも…思えてなりません。

No.42 22/11/21 00:08
旅人さん0 

この【桐生西宮神社】さん。
そんな大火の後に建てられたものであるにもかかわらず、こうした費用は誰にも頼らず、すべてを町の人たちの寄付金で賄われたといいます。その多くはたしかに旦那衆の〝ポケットマネー〟であったといわれますものの、大火に残った人々の寄付でもあったとのこと。

…すごいなぁ。

そこに大きな〝力〟を感じさせられます。希望にあふれた人々の笑顔が見えるようです。

そして。
【えびす講】とは。
えびす様のお祭りです。
『えびす祭り』といわずに『えびす講』と呼ぶのは、えびす様を信じる人たちの集まり(これを「講」といいます)が、自分たちの一年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願する祭りとして始めたからだといわれています。
そして、それがいつの間にか、信者であってもなくても楽しめるお祭りになっていったといいます。

全国的には神無月の十月に催すところが多いようです。

これは旧暦十月が『神無月』といわれていることに由来しているようです。

全国の神様が出雲に集合して自分の神社を留守にする期間、えびす様は「留守神」と言われ、他の神さまが留守をおまもりくださるのだとか。
だから、えびすさまは出雲にはお行きにならない神さまと言われており、その感謝をしたのがこの【えびす講】へと変わっていったものといいます。
また一説にはこのお祭りの前後だけは出雲から戻って来られる(「えびすさまの中通い」という)と説明されているものもあります。

桐生をはじめとして、群馬県ではこの〝えびす講〟を、十一月に催しますが、これは〝お盆〟がやはりひと月遅れの旧暦扱いで行われていることと同じ理由でありましょうか。

また、桐生独自のものもあるといいます。
それは『おみえ』の祀り方であります。

桐生の多くの家庭に見られる祀り方として、部屋に『恵比寿宮』をいただく棚を作ります。
この棚を〝縁起だな〟と呼びます。

お受けいただくお札は三枚あり、まず、御神札(西宮大神宮)は〝恵比寿宮〟の真ん中にお祀りします。
一緒に入っているお姿=『おみえ(御神影札)』は、その恵比寿宮の向かって右がえびす様、左に大黒様、というのが桐生の習いです。

全国的には逆の並びが多いのですが、桐生は『大黒さま』をいただく【三和神社】さんが、西宮神社さんの左側にあるため、このように並べるのだといいます。

No.41 22/11/20 22:13
旅人さん0 

まあ、それ以前にも大きな火災はたびたび起きていたようです。

なにしろ、当時は木造家屋であります。しかも家と家との間にはほとんど隙間がない。くわえて、絹織物で繁栄を極めていた桐生には群馬県名物赤城おろしが吹くのです。
明治四年、三百四十軒に火の手が広がった本町四丁目の火事、明治八年には一丁目、ニ丁目を焼き尽くした「あかまや火事」と呼ばれる大火があったようです。

それを教訓として耐火構造の蔵が造られることとなり、今なお、それが桐生市の町に点在し残っているといいます。


実はその頃、時を同じくして桐生の近代化を担うはずだった『日本織物会社』という会社のの経営不振、桐生経済を引っ張っていた同じく本町の佐羽商店の廃業、そして追いかけるように起きたのが本町三丁目の大火だったというのです。
一つの町をこれだけ次々に不幸が襲えば、普通しばらくは町から賑わいが消えてしまうことでしょう。

ところが、当時の桐生はそんな常識が通用しない町だったようで、『町衆』と呼ばれる桐生の『旦那衆』は、クヨクヨするどころか、逆に「災いを転じて福としよう。福の神=えびす様を祀る西宮神社を桐生に招聘しようではないか」と立ち上がったのだというのです。

それをいつ、誰が言い出したのかははっきりしないようですが、
豪商佐羽家には文政八(1825)年に定めた家定家訓(いまの社訓にあたる)に「西宮大神宮を信仰せよ」と明記してあったといい、その改訂版である天保九(1838)年版には、
勤務時間は朝四時から夜十時までが通例だった時代(…ええぇっ!)に、蛭子様(えびすさま)の日には夜なべ仕事はしなくてよい、と書いているといいます。
佐羽家と並ぶ買い継ぎ商だった書上(かきあげ)家は、毎年えびす講の日には取引先、同業者、町内有力者、出入り職人などを招いて大宴会を開いていた記録があるといいます。

もともとそれほどえびす信仰が浸透した町だから、
「災いを転じて福とする。それにはえびす様をお招きするに如(し)くはない」
という空気が三丁目の大火をきっかけに盛り上がったのでしょう。

この大火から三年後の明治三十四(1901)年に桐生の代表二人が西宮市の西宮神社本社にお願いに上がり、分霊を認められ、【桐生西宮神社】が誕生したといいます。
桐生えびす講は桐生西宮神社の神事として、その年から始まっているようです。

No.40 22/11/20 21:37
旅人さん0 

この【桐生えびす溝】の開かれる【桐生西宮神社】さんが勧請されることとなったのは、実は大火が原因だったといいます。


以前にも綴らせていただきましたが、群馬県桐生市の目抜き通り『本町通り』は、南北に走る長さ二・五キロにも及ぶ直線道路であります。いまでこそシャッターが目立つ、寂れた地方都市の一風景にすぎないこの通りが、実はこの桐生が織物で繁栄を極めていたころは大きな店構えの商店が軒を連ねてひしめき合い、人通りが絶えなかったのだといいます。
桐生近郊の人々はここを「おまち」と呼び、出向くときは下着まで取り替えて晴着を着込み、いまの東京・銀座にまさるとも劣らぬ人混みを楽しんだのだといいます。


まあ、今はその頃を語る『桐生織都の会』の方々から、その頃の片鱗を伝える建物をもって知ることができるようになりましたが、それほどの〝まち〟であったこととは、やはり正直信じがたいものがあります。
それでもまだ微かにはそのにぎやいだ感を残した桐生を知る者である私などは「へぇー、そんなだったんだ」と言うこともできるのですが、すでに衰退した桐生しか知らないうちの子ども達などは、群馬県の、ではない、どこかの桐生市という街の話であろうとしか思えないでありましょう。
わが家の子どもたちの生まれた頃には、すでに、そのメインストリートである〝本町通り〟はシャッター街でしかなかったのですから。

その本町通りの北の端に【桐生天満宮】さんがあることも書かせていただきました。
徳川将軍家の命で造られた町、桐生新町はこの桐生天満宮を起点に、【浄運寺】さんまでとされ、それが基盤である〝本町通り〟は一丁目から六丁目として南に下ります。

その大火は、天満宮から八百メートルほど南に下がった本町三丁目の北端にあった綿屋、せんべい屋、座布団屋が入った長屋から出たといいます。明治三十一(1898)年五月の朝だったといい、もう百二十年以上も昔の火事であります。
もちろんいまその本町三丁目を歩いても火事の痕跡はひとかけらもありません。出火原因も損害額も調べた限りでは分からなかったといいますが、


火事は、いまも三丁目の本町通り沿いにひっそりと鎮座する『新田不動尊』の手前で鎮火したといいます。

No.39 22/11/20 18:41
旅人さん0 

こちらの【桐生西宮神社】さんは、普段は神職の方の不在の神社さん。高台にあって、桐生の町を悠々と、ゆったりと見守ってくださっておられる神さまたちだけおられる場所、であります。

一年に一度、この『えびす溝』の時だけ神職の方が来られ、氏子の方々が拝殿の中にお詰めになって、社殿がぱぁっと賑わいます。

このたった二日間という短い短い期間だけ祈願をお願いすることができ、二日間のみ開かれる拝殿に昇殿することができるという、実にレアな昇殿祈願なのであります。

とはいえ二日間で二十万人の人出となり、露天商の数も五百をゆうに超えるお祭り。

夕方からの参拝などはまさに身動き取れない状態となる参道となります。ことに境内に入ろうものならば石段となるので、足を置ける場すら不安定で怖かったですし、お参りしていても実は何を拝んだのかすら分かっていない、ただただ、人、人、人!といった参拝となります。

こちらの参拝はいつもそんな状況なので、私はこの『桐生えびす溝』で昇殿祈願ができるのだということを実は今年初めて知ったのであります。

まさに今朝、参拝を終えた拝殿正面みぎてに、『昇殿参拝入口』と書かれた案内があって、
「えっ?昇殿できるんだ!」
とびっくりした次第でありまして。

一緒に参拝している人間とすら、人の波に揉まれ、あっという間に離れ離れになるような参拝では、そんな案内に気づくことなど全く無く、昇殿祈願の際打ち鳴らされる太鼓の音ですらかき消されるほどの人々の話し声。


まぁ、私などはこの『えびす溝』というものが実は神事であったことすら知らない子供で、しかも迷子にしたら大変という大人たちの配慮もあって参道そばにすら行かない状態でしたので、歩行者天国の、露天商の屋台の居並ぶ楽しい楽しいお祭り、でしかなかったですし。
せいぜい、『お宝』と呼ばれる飾りが新しい物と変えられる『お祭り』、でしたかね。


…やっぱり、私は幼少期からそういった宗教的な教えを受けずに育っていたのだなぁ。

No.38 22/11/20 09:58
旅人さん0 

行ってまいりました。
【桐生えびす溝】!

いやぁ、すごいすごい!
コロナ前の賑わいがすっかり戻っておりました。

大分の中津の唐揚げや、台湾唐揚げ、横浜のチンチン焼き、すみっこぐらしのくじ引き…。
定番のたい焼きやお好み焼き、わたあめ、イカ焼き等々、…
…ええ、朝の六時台、みんなブルーシートがかかっていましたけど、ね。






ではなく!

それでも開店していたのが、熊手等の縁起物を扱う露天商さん。
こんな時刻からでも買い求める方はちらほらおられました。

だから、ではなくて!


まだ、薄暗い日の出前のえびす講は、厳かであり、また大変風情あるものであります。
清らかな空気の中、ゆっくりと落ち着いたお参りのできる贅沢な参拝であります。

手水は手水鉢から竹筒を出し、そこから流れ出る水でお清めをするよう工夫されていました。

昨年は金色で見事だったイチョウは、今年はすっかり葉を散らしていました。


いつもとはまるで佇まいの異なる、【桐生西宮神社】さんであります。

No.37 22/11/20 05:29
旅人さん0 

本日、群馬県内では恵比寿講が開かれているところが何ヶ所かあります。

十一月十九・二十日という日程で、特に今年はその日程が土、日と重なったため、この日近辺に開催している地域も重なって、いつもより多い各地での開催となっているようです。


主人の実家には、義父が存命中に営んでいた店の、店先にも小さな神棚がありそこに恵比寿さまのお札が貼られております。
ただ、義母が老人施設に入所してすでに四年の歳月が経ち、そのお札は五年ほど前のものが貼られたままになっているのでありますが。

こうしたお札の扱いはどうしたら良いのかと、思ってみたりもしないではないのですが、義母に頼まれたわけでもない、ましてや跡取りと親の代より言われた義兄を差し置いては、なんの手出しも、ましてや口出しなどはできませんので、家の風通しやお線香あげに訪問した折、手を合わせるくらいしかできないのですが…。


そんな恵比寿講さまのお札、実はえ【おみえ】と呼ばれているようです。

【おみえ】とは、「御神影」と書くように神様のお姿を写したお札(画像札)であります。

こちらは、
えびす大神さまの総本社である【西宮神社】が全国に配札されているものでありました。
【えびす大神さま(西宮神影)】
【大国主大神さま(大国神影)】

【田の神さま(五穀神影)】の、お姿が描かれ、さらに透かしの入ったお札となります。

夫の実家にあるのはこのうちの、
かえびす大神さまと大国主大神さまのもの。

せめて舅とご先祖さまの代わりにお参りだけでも。


今年はアフターコロナの中、初めて規制のないかたちでの開催、密を避けるべく、朝のうちにお参りして参ります。

No.36 22/11/19 07:37
旅人さん0 

『神宮』『大社』『宮』『社』『神社』。

【宮】とは。
〝宮〟という社号がついた神社で、その多くは、皇族や実在の人物が神さまとなった『ヒトガミ』を御祭神としているようです。

『菅原道真公』をお祀りした【天満宮】や、『徳川家康公』をお祀りした【東照宮】などがあります。


【社】とは、〝社〟を社号とした神社で、実はかつては大多数の神社が〝社〟を名乗っていたのだといいます。
現在は最も多いのは『〇〇神社』という社号であります。
いつ、どの時点で社号を変えたのかは、その神社さん神社さんで異なるようではあるのですが…。

現在は、この『社』という社号を用いるのは比較的小さな神社さん、という傾向はあるようです。
祭神を勧請してきた、各地の祇園社、稲荷社等があります。


とはいえ、戦後、社格制度は廃止され、今は神社の規模や歴史に関わりなく、自由に社号を名乗ることができるので、社号と神社の性格のつながりはやや弱いようです。
かつての、国の定めた社格制度にはどういった社号をつけるかには、細かなルールがあったようであります。

No.35 22/11/18 14:14
旅人さん0 

『神宮』『大社』『宮』『社』『神社』。

【神宮】といえばヤクルト!

…ではなくて。

まあ、この場合には【明治神宮】を指すのですが、他に【伊勢神宮】、【伊弉諾神宮】、【橿原神宮】、【平安神宮】、そして【石上神宮】、【鹿島神宮】、【香取神宮】などなどがございます。

【神宮】とは
社号として『神宮号』を名乗る神社である。
とありました。

『日本書紀』では『伊勢神宮』『石上神宮』、そして『出雲大神宮(現・出雲大社)』のみが神宮と記載されていたようです。
その後平安時代に成立した【延喜式神名帳】では、『鹿島神宮』『香取神宮』『大神宮(伊勢神宮内宮)』が神宮と表記されているといいます。

そして、明治以降、天皇や皇室の祖先神を御祭神とする神社の一部が社号を『神宮』と改めています。
とはいえ、仁徳天皇を祀る『難波神社』など、必ず『神宮』としたわけではなかったようです。
また、『神宮』を名乗るには勅許が必要であったようです。

戦後、国家管理であった神社が『神社本庁』傘下となっても、勅許は不要となったとはいえ神宮を名乗るには特別な承認が必要なようです。
とはいえ、社格制度は廃止され、今は『神宮』以外は神社の規模や歴史などにかかわりなく、自由に社号を名乗ることができるということです。

ところで。
その『神社本庁』、社会法人なのだそう。
私、『庁』などという字をつかっているものだから、てっきり【官公庁】かと思っておりました。

いやぁ、勉強になりました。
この社会法人『神社本庁』に属さない『神社』もあり、当然、その神社は『神宮』を名乗ることも可能で、実際そういった『神宮』も存在しているようです。


…なるほど〜っ。


まあ基本的には規模が大きくて皇室と深い関わりがある。…ということであります。


【大社】
は地域の信仰のちゅうしんであり、多くの神社の【総本社】であるようです。
『出雲大社』『春日大社』などがあります。


まぁ、レベルアップとまではいえないけれど、【神宮】と【大社】の違いは、おおよそ理解できたかと思います。

…おおよそ、ね。

No.34 22/11/18 06:02
旅人さん0 

(続き)

ドラマの影響ってとても大きなもの。
だから間違っても健常者の方が作る以上は、より多くの検証をして欲しいと、おばさんは切に切に願うのです。
まだドラマは途中の段階です。今後どう展開していくものなのか、わからない段階ではあります。

おばさんがこの段階で何を不安に思っているのかというと、
途中失聴された方が、手話を学んで手話や筆談をしている点、なんです。


…観てるんじゃん。

夜中にやってるんですよ、再放送。
それに放送前からかなり番組の宣伝もありましたし。

聴覚障がいの方って発症された時期でそのコミュニケーションのとり方がさまざまで、そして障がいにもその方その方の個別のものがある、
すごくデリケートなものだと私は思うのです。

「いやぁ、これドラマだから」

いや、その影響力を考えたらそこんとこはやっぱりしっかりと検証して確認しながら進めて欲しいと切に切に思うんです。

親友や元恋人とすら手話って、…たしかにそこに至るまでのさまざまなことがあって、絶対にないことではないとは思うんです。
手話を使っていれば、面倒な誤解もなく周りに簡単に聴覚障がいがあることを理解してもらえる、から。

聴覚に障がいをお持ちの方が健常者とコミュニケーションをとるため、どれだけの努力をしてこられているか。
聴覚障がいのある方=手話、ではないことはこのドラマからはむしろ伝わらないでしょう?

元恋人との関係を絶った理由も、この病気の発症と進行によって失聴していく過程でのものだったようですので、今後心がほぐされたとき、この方が再び発語する展開なのかもしれませんが、ね。

聴覚障がいの方々がコミュニケーションをとるためどれだけの努力をされておられるかを考えるきっかけになってくれる、ドラマであること、ドラマとなられることを、私は切に祈って願っております。


見た目に障がいがない障がい者の方とその御家族の苦しみが少しでも軽くなる世の中となっていきますことを祈り、願います。


No.33 22/11/18 05:28
旅人さん0 

私は基本的にテレビドラマを観ない人間です。
理由は…ドラマの放映時間に睡魔に襲われて惰眠を貪っているから。

いやぁ、もうただの習慣に過ぎないんですけれど、ね。
…食後って眠くなるじゃないですか。
それと今で言う〝ワンオペ育児〟だったので、子供たちを寝かしつけてそのまま眠ってしまう習慣がついていたり。

そんな寝かしつけるとかって、子どもが小さい頃だけのことでしょう?
…なんですけどね。
習慣化ってなかなか直せないものなんですよ。
若いとき夜勤のバンバンある仕事をしていたので、「寝られるときに寝ておかないと」という癖づけもあったし。





あ。

今はそんなことを話そうとしていたわけではなくて。

そんな私でも観たいなぁと思うドラマはあるんですよ。
でもビデオで取ってもなかなか観ない。
だから今流行りのドラマとかの話題にはまるっきりついていけないのです、はい。

ほら、例の『鎌倉殿』だってそうだし。
ええ、相変わらず観られない。
寝ちゃうんですよ、画面観ながらでも。

それ〝観たい〟と思ってる人じゃないから!…ええ、そんなお声が聞こえてきそうです。

いやぁ、それでも観たいなぁと思ってる気持ちは確かなもの、なんですって。


そんなドラマが観られないおばさん、今話題の川口春奈さん主演のテレビドラマ『silent』は気になりつつもやはり観られない。
でもこのドラマ『silent』は、ただ単に寝ているから観られない、わけではないんです。


このドラマが聴覚障がいを取り扱っているから。



『silent』は放送直後にTwitterのトレンド世界一になったり、Tverでの見逃し配信再生回数が最高記録の489万回再生を記録したりと切ないストーリーに涙腺崩壊の声が溢れているようです。

ドラマでは、「若年発症型両側性感音難聴」を題材としているようです。


…中途失聴をされた方の辛さや苦しみを、知ってもらうことはとても必要なこと。
なのでこのドラマが何を目指すものかはわからないのではあるけれど、聴覚障がいの方たちのご意見をきちんと取り入れてあるものなのか、正しく伝えているものなのか、そこがとても心配なのです。

(続きます)



No.32 22/11/17 22:54
旅人さん0 

本日は六代目円楽の四十九日だったようで、群馬県前橋市の【釈迦尊寺】さんで法要が営まれ納骨をされたようです。

円楽師匠は生前、
「死んだら住民票を移す。前橋の魅力を広めていきたい」
とおっしゃっておられ、釈迦尊寺さんに生前墓を建てておられました。

「死んだら住民票を移すのは不可能だよね」
まだまだ円楽師匠がお元気であられた頃、夫が笑いながらそんな話をしていましたが、円楽師匠、本当に前橋市に移り住んで来られたようです。

御家族は東京にお住まいでお墓参りも大変でしょうから、実際には使われることはないのだろうと思っておりましたのに…。


人との繋がり、そして〝自分の口から出した言葉〟を本当に本当に大切になさる方でありました。


御家族のご迷惑にならぬような形でお墓参りをさせていただきたく思います。

No.31 22/11/17 19:59
旅人さん0 

神社仏閣に関与することなく長いこと生きてきた私。


子育てが一段落し、空っぽな自分に嫌気がさしました。
私は何を目標に生きてきたのだろう。
私はこののちどう生きたいか。

…。

朝起きて、新しい朝を迎えられたことに感謝して。
身体が動くことに感謝して。
晴れた日には晴れたことに感謝して。
雨が降ったらその恵みに感謝して。

神仏を敬い。

生きていることに感謝できる生き方をし、生かされていることに感謝して。

人の目を気にするのでなく、自分の生き方をきちんと見つめて生きたいと思い。


…とりあえず、神さま、そして仏さまのおられる神社仏閣をお訪ねしよう。
そう思って始めた神社仏閣巡りでありました。

とはいえ、親の代から神社や仏閣と縁のない生活を送ってきており、礼儀も作法も何一つ知らない状態でありました。
…それこそいい歳をして。


ネットで調べたり、神社さんやお寺さんでお聞きしたりしながら、現在に至っておりますが、覚えも悪いこともあり、なかなか身にならない。

そもそも神社さんとお寺さんのこと、ちゃんとわかっているかというと…うーん。


鳥居があるのが神社さんかといえば、立派な鳥居のあるお寺さんがあるし。
仏さまをお祀りしているのがお寺さんと言いたいところだが、神さまもお祀りされておられるし。

いまだにこんなところからつまずくようなヤツで…。

それこそゲームに当てはめたら、いつまで経ってもレベル1、おんなじところをぐるぐると回り、スライムは倒せてもドラキーに苦戦するような。


私ってば、よく『神社さん』と一言で表していますが、
『神宮』『大社』『宮』『社』『神社』
この違いは?

わからないまま、とりあえず神社さんと一括りにしているし。

ダメじゃん。

No.30 22/11/17 06:20
旅人さん0 

さて。

私なんだかんだでこの珍道中録を書かせていただき、○年が過ぎたようで、我ながらびっくりしたくらいでありました。
何年過ぎたかをぼかしたところで、それだけ年齢を重ねたことは変わらない事実なのですが、煩悩おばさん、本日も朝からそんなつまらないことで歳を隠そうとしております。

その間、

〇〇はレベルが1あがった!
ちからが○ポイントあがった!
すばやさが○ポイントあがった!
最大HPが○ポイントふえた!
最大MPが○ポイントふえた!
〇〇をおぼえた!

などということは全く無く、むしろ退化すらしているおばさんです。

上がるのは毎年一度年齢のみで、しかも年齢が上がるたびに力もすばやさも、HPもMPも下がっていくという哀しい世界を旅しております。

呪文はド忘れし「あれ?なんだっけ?」などと申し「アレだよアレ」と発する言語にはやたらと〝アレ〟が増え、宿屋に泊まっても(=寝ても)疲れは全快せず。
いただけるゴールドは運転免許のみ。


ま、それもいいじゃん!と言うは易く、行うは難し。
日々くよくよと過ごすおばさんなのでありました。


No.29 22/11/17 05:42
旅人さん0 

本日ミクルさんの十七周年の記念日とのこと。

本当におめでとうございます。

ミクルの社長さんや社員の方々、スタッフの方々の弛まぬご努力によりますこと、心から感謝いたしております。


私の駄文をこうして綴らせていただき、
そして素晴らしい方々と出逢い、お話しさせていただくことができました、私にとって
大切な大切な場所であります。


今後ますますのご躍進を心よりお祈りいたします。

おめでとうございます。

No.28 22/11/17 00:31
旅人さん0 

…『スピリチュアル』ってなんなんだろう。

『スピリチュアル』とは。
「霊魂」のこと。
また、「精霊」「精神的な」。

…いや、そういうことではなく。
神社さんやお寺さんのことをネットで検索していたりすると、時々寄り添うように出てくることがあるのだけれど、私にはまるでわからない。
どうやら「宗教的な“こと”や“もの”」を指す場合もある、ようです。

そこではよく『カルマ』という言葉が出てきます。
…カルマってなに?


…。
YouTuber…って若い男の人がヒットするんですけど…。

あっ、これかな?
『行為』…?
または行為の結果として蓄積される『宿命』…???
『業』っていうのもあるな。

で…『魂』と『業』、ということでいいのかなぁ。

横文字に弱いおばさん、今までこれは西洋のもの?と位置付けて、軽く流しておりました。

だってこの人(=わたし)、いい年はしているものの、日本の神社さんのことも、お寺さんのこともまるでわからないほどの初心者で、しかもいつになってもそのレベルが上がらない人なので、あまり手広くしようとすると、今でさえキャパオーバーしているくらいです。

キリスト教とも少し離れたもの…なのかなぁ。

ま、まぁ、そういうことで、結論として軽くは調べてみたけれどわからなかった、ということで。


じゃあ書くなよ。
…はい、すみませんでした。


一応わからないことは調べて、私なりにわかるところまでは持っていきたい、というスタンスなんですけれど、基礎となる諸々の学がまるでないものだから、すぐにつまずく。

学ぶ、ってとても大切だけれど、自分の器を知ることも大切。

もう、自分の器に合わせて楽しく学ぶのでいいんじゃないかな、と。


…煩悩おばさんは自分に甘いなぁ。

No.27 22/11/16 13:34
旅人さん0 

長野県長野市の【善光寺】さんの、二人おられる住職のお一人、今年の六月就任された『栢木寛照(かやきかんしょう)』貫主(かんす)を披露する【晋山式】が、本日朝から執り行われております。

栢木貫主が善光寺木遣りに導かれながら、僧侶や信徒などとともに大勧進に向かって参道=仲見世通りをゆっくりと進んで行かれる映像。
そして、大勧進の本堂【萬善堂】で比叡山延暦寺の次席探題からの辞令を受け取られる様子と、抱負を語る様子が映像として流れました。

晋山式かぁ。

参列された方や、宿坊からの行列を見守られた方々。…いいなぁ。

煩悩おばさんの溢れんばかりの煩悩がまた一つ。


でも、でもですよ。

晋山式って、ご住職さまや副住職さまの就任のお披露目など、滅多に営まれるものではないものであり、通常ですとそのお寺さんの檀信徒さん代表が参列できるくらいの稀少なもの。
善光寺さんほど大きな施設であったからこそ、一般の方がその様子を見守ることができたというわけで。


ああああぁぁ…_| ̄|○


でも…。
…テレビで拝見する事ができました。
仕事をしていたらおそらくはテレビの配信すら観ることなく過ぎたことでありましょう。

比叡山延暦寺さんの次席探題の正装姿も拝見できました。
いかにも『延暦寺』!っていう感じのお支度をなさっておられました。
このお姿もまた、なかなか拝見する機会はないものかと思います。


ほんの短い…一分あったかないかの映像と共にクルクルと変わるおばさんの気分。

目の前にいた夫は、見慣れたものでありますが、まるでNHKの教育テレビ(現在のEテレ)の人形劇の、一瞬にして女の人が鬼女へと変わる、あんな感じ…なのでしょうかね。

No.26 22/11/16 04:08
旅人さん0 


道を隔てたお隣の奥さんが、ガリガリに痩せて密かに心配している。

遅くとも朝九時半くらいにはもう我が家の前を通り、午後の一時半にはまた出かけていく。
…かつてはほとんど家を出ないような方であったのだけれど。

ご主人が定年退職されてからは、彼女がしていた庭木の手入れから買い物まで、みんなご主人が一手に引き受けて、彼女の姿を見ることはさらに減っていった。
町内で、お金を納めてもらい銀行に預ける役をおおせつかったときも、玄関に出てくるのが彼女であっても、お金を預かることや領収を切ることはみなご主人に任せていたくらい、〝護られて〟いた。


そう、今年の春、ご主人がおうちで急変されそのまま帰らぬ人となられるまでは。

二年くらい前から、ご主人はびっくりするくらい痩せ細って、やっと動いているように見え、それこそ入院するレベルに見えていた。

…入院しないでいるのは奥さんを守るため?
そんなふうに思えるくらい衰弱されていた。

それでも車でゴミ出しをなさっておられた。
二人暮らしの、いつもきれいに片付いている、贅沢など一切しないお二人だから、たいしたゴミの量ではないにもかかわらず、もうその十何メートルが歩けなかったのだ。
しかも、その姿をあまり見せないようにされていたのか、それとも他の車が多く行き交う時間帯を避けるためだったのか、朝の五時にはゴミ出しをされていた。

…だから少し離れた所に住むご近所さんには、まさに急変されて亡くなられたように思えただろう。
でも間近に住む私は、(ああ、そこまで頑張ってしまっておられたのか)と思った。

たまたまご主人が急変され救急要請されたとき、私は出かけており、家にいた夫がその異変に気づき、最悪の結果だったと悟って、帰宅した私にに報告してくれたのだった。


…半年。

ご主人が亡くなられてしばらくは、それこそびっくりするくらいみせていた彼女の笑顔が消えた。
口角を少しだけ上げて、微かに作る笑顔となった。

取り憑かれたように歩いている。
一人暮らしの生活、毎日毎日買い物などあろうはずがなく、徒歩で往復七、八キロの距離すら歩いて過ごしている。

挨拶はするものの、忙しいのかと遠慮していた私は意を決して話しかけてみた。

「一人でいるとおかしくなりそうで、とても家に居られない」



…やはりそうか。





No.25 22/11/15 21:30
旅人さん0 

実はまた、資料集を買ってしまいました。

『群馬県前橋市の文化財』
オールカラーで五百円!
よっしゃ、買ったぁ!


胸がときめいて、苦しくなるほど美しい御仏の御像。

これは…恋心、でしょうか。

No.24 22/11/15 19:43
旅人さん0 

本日は十五日。

…そう、神社さんへ行く日であり、父と義父の命日で、特に今日は義父の祥月命日でありました。

義父の眠るお寺さん。
墓所に入って思わず、絶句!

一面真っ黄色。

地面が見えるところがまるでないほど、ふっかふかに黄葉が何層にも何層にも敷き詰められていたのです。

五センチは軽く積もった落ち葉。
心地よい音が響きます。

ようやく到着した夫の実家のお墓も、もちろんごっそりと黄色い落ち葉に埋もれています。
それでもやはり「うわぁ」と声が出ます。

夫の実家のお墓の囲いの中にある落ち葉だけで、45リットルのゴミ袋がいい感じにいっぱいになります。

毎年来ておりますがこんな事は初めてでありました。

お掃除をがんばったご褒美に、あれこれとお願いごとをする次男の嫁にきっと草葉の陰で義父は苦笑していた事でしょう。

ま、生前はお願い事とかしなかった、できた嫁だったから、その辺は大目に見て、どうか私の願いを聞き届けてね。
お願いね、じいさん♡

No.23 22/11/15 05:51
旅人さん0 

今、三島由紀夫著【金閣寺】を読んでいます。

若い頃読んだ文庫本での再々読で、前回読んだ時からかなりの年月が経ち、紐解いた時その文字の小ささに思わずうなりました。



…読めないかも。

でも読み進めるうちに文字の小ささはまるで気にならなくなり、あっという間に本の世界へと入り込んでいました。

…変わらないんです。
初めて読んだ時と、その作品から受け取る感覚がまるで。

…たしかに進歩のない、どころか退化の一途をたどるおばさんではありますが、初めて読んだ高校生の自分が抱いた感覚とまるで変わらないことに躊躇いと、それでいて〝やっぱり…〟と思う自分がおりました。

読む年代によって、受け取り方が変わる作品は数多くありますが、おそらく〝三島由紀夫〟の作品は、ずっと変わらない、…そんな気がするのです。


初めて読んだ時、実はこの金閣寺の事件が実際にあった事件であったことも知らず、それどころか幼少期の私に大きな衝撃を与えたテレビの報道の主が三島由紀夫であったことすら結びつけずに、ただただ一冊の小説として手にしていたという、ある意味奇特な読者であったかもしれません。

私がこの〝金閣寺〟を読み終え、たまたま手にしていたのを見かけた、…父、だったか、姉、だったかが、その二つの事実を事もなげに伝えて、さらなる大きな衝撃を受けたのでありました。

もう一度そうした視点で、…実際に起きた金閣寺の放火事件を調べてのちに、またすぐ読み直しをした事も記憶しておりますが、その時ですら受ける印象が大きくは変わらなかったので、今また、大人となって読み直してみて、この感覚が変わらないだろうことは、私の中では想定内、だったようです。

そうした…事実を基にした小説であった事も、衝撃的な自刃という最期を遂げた事も、大きく影響しないほど、私にはこの〝金閣寺〟の中の若き学僧は、三島由紀夫の中にいた、もう一人の三島だったような気がしたのです。

本人が書いたかのようなリアルさは、ひとえに三島の才能でありましょうが、どこか憑依しているかのような一体感を感じたのであります。

そして。
読んでいて受ける印象の変わらないところも、どうしてなのか…私はなんとなく予想がつくのでありました。

No.22 22/11/14 18:28
旅人さん0 

今日、生まれて初めての、変な揺れの地震がありました。
しかも関東地方が揺れたのに、震源は三重県沖だったとか。

私の下はまるで揺れることなく、一部の柱の下のみ揺れたようで、なんと一部だけの天井や屋根がやたらと鳴って。
なんだか不気味で怖かったです。

家が倒壊するか、それとも〝何か〟が悪さをしているのかと、本気で思いました。…霊感ないくせに。

茨城県は震度4だったとか。
そういえばあの東日本大震災の年、震源が深いところのものだと、遠いところが揺れる現象が起きるとテレビで解説していた、そんな地震があったなぁ。
『異常震域』というもの、らしい。



…うーん。

No.21 22/11/14 17:26
旅人さん0 

出不精なのに、コロナ禍の人混みを避けてたのに、お祭りには行くんだ?

たしかに。

ただ。実はこの『総社秋元公歴史まつり』、いつもは閉ざされていて、末裔の方たちのみが法要の際等使われる時にだけ開けられる『秋元家廟所』の、御堂の扉が開けられる貴重な一日、なのです。

本当は『光巖寺ガイドツアー』なるものがあったのですが、一応お祭りのイベントの一環ということですので、密になることも考え、そのガイドツアーへの参加は諦めて、ただただその廟所へのお参りのために、お祭り会場ではなく、ただひたすらに【光巖寺】さんにのみ向かったのでありました。

横並びにいくつも並んだ秋元家歴代当主の御位牌を拝んで、ふと見上げた天井に!
それはそれは立派な、それはそれは見事な墨書きの龍がおりました。

ん?
どこかで見たことがあるような?

あ!
日光の輪王寺さんの護摩堂の天井画にきっと似ているんだ!
…私の記憶の中の、ですがね。

廟所のみでは申し訳ないので、長い石段を登って、古墳の上に建てられいる秋元家歴代当主の墓所も参拝いたしました。


あぁあ、コロナ禍でなければ、光巖寺ガイドツアーに参加したかったのになぁ。
これはもう信仰心とか関係なく、ただただ拝観したいって願望に過ぎませんね。

いつも閉ざされた御本堂も公開されるかと思っておりましたが、こちらの戸ははいつものように固く閉ざされたままでありました。
かつては御本堂も公開されたようなのですが、やはりコロナ禍ということでありますかね。

うーん、コロナのばかぁ!!


…もしかしたら光巖寺ガイドツアーに参加すれば、御本堂の拝観もあったのかもしれない。

よぉし、…次回だ。
次回の総社秋元公歴史まつりだ!

隔年のこの行事、なかなか気の長い煩悩一つ、やれやれです。

No.20 22/11/14 12:51
旅人さん0 

まぁ、結論から言えば、最悪なタイミングで前橋市を訪れた私たち夫婦。
ちょうど武者行列のため、最大の交通規制をかけた時間帯だったようでありました。

前橋市にはそれこそ週に一度は出かけるのですが、総社地区にはほとんど行かないため、町の道に疎く。
ナビはうるさくて、さらにまるで役に立たない妻までもうるさくて、夫というのもなかなかの修行を強いられるものであります。(…それをなんと他人事のように語る妻でしょう)

武者行列にさしたる関心はなかったので、間に合わなかったことに悔しさは微塵も無いのですが、…それはそれは盛大なものだったようでありました。
地元の方に言わせれば、だいぶ規模を縮小した、人数もかなり減らしたものだったようですが…。


私どもは見られしなかったので、拾い画像となりますが、町の一行事にしてはすごくないですか?


(総社秋元公歴史まつりの武者行列)

No.19 22/11/14 12:39
旅人さん0 

九月に、それはそれは長々と、群馬県前橋市の【光巖寺】さんと【秋元公】について、熱く熱く語っておりましたおばさん。

昨日【総社秋元公歴史まつり】が、前橋市総社町で開催されました。
例によって例のごとく、夫の運転でそのお祭りに出向いた私たちでありました。

前橋市の中心部に入った頃から、ナビの案内がそれはそれは賑やかとなり、何度となく頻回に、交通規制による変更を行なっておりまして、
「…まさかこんな遠くから総社のお祭りで規制をかけないよね』
と、笑い話として話していたのですが…。

まさかのそれ!

すごか遠い位地からすでに案内兼整備の人員が配置され、
「えっ、こんな位置からもう交通規制かかるの?どこで曲がれば指定された駐車場に着けるの?」
軽く悲鳴をあげ、パニックを起こすくらいに総社・元総社の町が、そのほとんど、ほぼ全てが、車の侵入が封鎖されていました。
ええ、住民とて入れないほど。

な、なんで?
どうしたらいいの?


びっくりです。
だって、前橋市の中の〝町〟という単位の主催する、公民館をメイン会場とするお祭りですよ?

ひえぇ〜っ。

No.18 22/11/12 06:40
旅人さん0 

ちなみに、この【コノドント館】の建物、大正十(1921)に建築された『旧大間々銀行』の本店営業所。
その本館及び土蔵を活用しています。

建物の骨組みは木で造られていますが、骨組みの外がわに石を積み、さらに石の外側に赤茶色のタイルを張ってあります。
まるでレンガでつくられたように見えます。
木の骨組みのため地震に強く、石が積まれているために火事にも強いという工夫がされているものだといいます。

現存する銀行の建物として県内で三番目に古く、貴重な近代化遺産であることから、みどり市の重要文化財にも指定されています。
保存状態は大変良好で、昭和六十三年のコノドント館開館にあたっての改修は最低限にとどめ、当時の面影を残したままにしているといいます。

なかなかお洒落な外観で、私はこの建物は好きでしたが、今回初めて訪れました。


館長さんがとても熱心に勉強された方で、しかも大変親切な方でありました。

私が石仏さまを訪ね歩いて、わからなかったことを質問したところ、どの質問にも瞬時に答えてくださいました。
わかりづらい場所のものは、みどり市の住宅地図をコピーしてくださって(しかも無料で!)、丁寧に目印になる建物やポイントを教えてくださいました。
さらにはかつてこちらで行なったというイベントの資料もくださいました。

訪れた子どもたちには、その子の興味のありそうなものについて、その子の年齢に合わせて話をしたり、解説したりしてくださっていました。


すっかり館長さんのファンになったおばさん、また石仏さまに会えなかったら館長さんにお尋ねしようと思っております。

ちなみに、県民の日のイベントで今回は無料で入ることができましたが、通常は入館料二百円。

今回、博物館の中はさっぱり見て歩かなかったので(おいっ!)、とりあえず、それを見る目的もあるといえばありますし。

石仏さまを取り扱うようなイベントもあったようなので、今後はこちらのHP等をこまめにチェックしていこうっと♡

No.17 22/11/12 06:10
旅人さん0 

ところで。

この資料と運命の出会いを果たした【みどり市大間々博物館・コノドント館】という名称、一度聞いたら、なかなか忘れない名前ではないですか?

こちらはみどり市の大間々地域の自然や歴史、民族をわかりやすく展示している歴史を主としたテーマの博物館。
年間九千人ほどが訪れるといい、小学校の社会科見学などにも利用されています。

貴重な資料の調査・研究・収集・保管はもちろんのこと、誰もが気軽に立ち寄れる「楽しめる博物館」をモットーに、展示も大変工夫されています。

そんなコノドント館という名称に使われる【コノドント】。
昭和三十三(1958)年、日本で初めてのコノドントの化石が、桐生市黒保根町のチャートと呼ばれる岩石から発見されました。

ウナギのような姿で背骨を持たない謎の生物を『コノドント動物』と呼ぶのだそうです。
その口の部分にある歯状の微化石が発見されたコノドント。
大きさは、な、なんと1ミリにも満たないもので、顕微鏡でなければ観察できない、それを微化石と呼ぶのだといいます。


…そんな小さなものを。


きっとその時代に生きていた生物やその土地の歴史、などなどの、専門的な知識を持っていた方だからこそ、そして大変感のよい、運の良い方だからこそ、それを手にし、そこに〝コノドント〟の微化石が含まれていたことを発見できたのでしょう。…そうなんでしょうがねぇ。
そう考えてもまさに奇跡のような出会いでしかなかったであろうと思うのであります。
このコノドント、カンブリア紀から三畳紀(六億年前から一億八千万年前)の地層から発見されるものなのだといいます。
…すごいなぁ。
浪漫だなぁ。


…で。
なんで桐生市で見つかった〝コノドント〟の名を?

実は、この日本初のコノドント化石を発見したのが、大間々出身の林慎悟氏。
林氏に敬意を表し、建物の名称を「コノドント館」としたのです。


そんなすごい〝コノドント〟も、発見された桐生市ではさしたる特別扱いもしておらず。、

…まあ、みどり市は岩宿遺跡の発見もありましたしね。

こちらはみどり市の笠懸町となりますが。

こちらは日本にはないとされていた旧石器時代があったことを証明した歴史的な発見でありました。

人の価値観って、さまざまです。
行政も人のすること、ですからね。

No.16 22/11/12 05:04
旅人さん0 

そんな資料集。

しばらくは座右の書として、それこそ枕元に置いていたのでありますが、なにぶんにも大きくて厚い。
しかも立派な装丁で、これを枕元の本とするのは少しばかり大きくて厚くて硬い…ではなくてボロボロになりそうで、さすがに今は夫の仕事する部屋に置いてありました。

えっ?
飽きたのだろう?

いやぁ、私はこの資料を元にあくまでも石仏さまに会いに行きたい〝だけ〟なので。

じゃあ買わなくともよかったんじゃあ…?

…ですよね。

私だけならば。


大丈夫。
この本を読む人がわが家にはおります。

そんな人もいないと、この本が化石になりそうです。

そう、この本と出会った【コノドント館】の〝コノドント〟の化石のようにね。


それにしても久しぶりにパラフィン紙だかグラシン紙だかにカバーされた本に会いました。
かつて岩波文庫といえばこのグラシン紙が書皮とされていたものです。
他の出版社の文庫はみな綺麗なカバーがかけられているのに、岩波文庫さんはこのグラシン紙をつけていました。

実はこのグラシン紙というもの、湿気や手脂、日焼けなどから紙を守るのに最高なものらしいです。


ま、ガサツな私には、すぐにぐしゃっとなる上、破れやすく、あまり好んではおりませんでした。
ガサガサいうし、薄くてすぐにずれるし。

でも。
今はなかなか出会うことなく、懐かしく思っております。

今年は…二冊、手元に来てくれました。

No.15 22/11/12 04:31
旅人さん0 

あの平成の市町村合併で、群馬県みどり市となった山田郡大間々町が、合併前の平成六年に発行した資料集を一部を購入いたしました。
それはそれは綺麗な写真の使われた紙箱のケースに収められた、重厚な装丁で3センチはゆうにある厚さの大変に立派な作りの資料集。

大間々町誌『石造物編』であります。

…ええ、私の大好きな石仏さまがたくさん収められた資料集であります。

三年をかけた調査総数は 約7000基!

そのうちの2806基を分類、解説していて、詳しい地図も付いています。
ええ、もちろん写真も♡

人々の〝信仰〟が後世に残るよう、たいへんな情熱を込めて調査したことがよく分かります。
夫のようなタイプの人には読み物としても大変おもしろいもの、のようです。

この本との出会いは、みどり市大間々町の歴史博物館【コノドント館】、群馬県民の日のイベントの一環として〝無料〟で入れた日のことであります。
とはいえ、私がこのような本を手にするのはなかなか大変珍しいことで、夫が好きそうだ、と思ってたまたま手にしたのでありました。

…好きそう、というよりももろに好き、なんですが、ね。

ちなみにこの資料集のケースの顔ともいえる写真となっているのは穴原薬師堂というところの『馬鳴菩薩像』です。
ええ、その写真を一目見てキュンとなったおばさん、なのでありました。


そんな資料集、ましてやそんな立派な装丁なもの、高いんじゃ?


定価二千四百円、それが半額で出されていました。

うーん、高いととるかはその人の価値観によるものかとは思うのですが、この装丁だけでもちょっとあり得ない価格な気がいたします。定価設定自体があり得ない。
しかもこの内容。
一万円、と言われても「…でしょうねぇ」と思うものです。
専門書ならそのくらい当然するものでありましょう。

…が。

これはあくまでも…言葉を選ばず言えばあくまでもマニアックな大間々町誌。
欲しいと思う人、団体は、出版された時点で買い求めていたものでありましょう。しかも多分さほどの数はいなかったのでは。

そして。
その後この資料を必要としたり、欲しいと思う人物は、かなり少ない…珍しい、のではないかと思うのです。

ぶっちゃけて言ってしまえば、作り過ぎてしまって、平成六年発行のものを今なお大量に在庫を抱えている状態、が現実なようです。

No.14 22/11/11 07:19
旅人さん0 

今日は『世界平和記念日』と記されていて、第一次世界大戦が終結した日なのだそうです。

せっかく記念日まで設けてるのに、このあと第二次世界大戦までが起きてしまう。
しかも人類最悪の殺人兵器が使われた呪わしい世界大戦が。


そして今年二月に勃発したロシアによるウクライナへの攻撃は、今なお終結することがない。


今日をもってもう一つの世界平和記念の日としないだろうか。

私は祈る。

No.13 22/11/10 13:51
旅人さん0 

『挨拶』『暗証』『縁起』『億劫』『我慢』『慈愛』『主人公』
『所詮』『退屈』『智慧』『徹底』『油断』


…おば(か)さん、今日は漢字のテストでもしてみたんだろうか?

そう思われますよね。
これ、実は全て【禅語】なのだそうです。
こんな日常的に使っていた言葉が禅語であったとは。

私が手にした禅語の本は、心が折れそうな時に寄り添ってくれるような言葉が集められたものでしたので、まさか禅語がこんなに日常にとけこんでいたなんて思ってもいませんでした。
まさに目から鱗でありました。

ちなみに、この『目から鱗』という言葉、禅語ではなかったのですが、な、なんとこちらは新約聖書由来のものなのだそうで。

こんな無宗教で、信心深くも無い人間でも、宗教と何かしらの関わりをもって生きているのだなぁとあらためて思ったしだいです。


そんな、禅語の上っ面を、まるでパラパラと冊子でも繰るように見ているだけの状態のおば(か)さんが、
気になってしまった禅語を一つ。


【放下着】。


ええ、ご想像通り、この字を見て、おば(か)さんは思いました。
…下着を…放る?

夫や子どもたちがこんな所でこんな怪しい事を書いていることを知ったら、どんなに嘆き悲しむことでしょう。

【放下着】は『ほうげじゃく』と読むそうで、もちろん、このおばかさんが思い描いたあの〝下着〟ではありません。

【放下着】とは。
一切の執着を捨て去りなさい、ということだそうです。
煩悩や妄想、欲や見栄、自分は悟ったという自負まで捨てよ、という意味なのだそうです。
たしかに認められたい、良く思われたいという願望はなかなか捨て去れませんが、とらわれて、思いが叶わずにストレスをためてしまうのもつらいこと…ですはあるのですが、ね。

たしかにそんな煩わしい思いの一切を手放し、清々しく過ごせたらいいですよね。

放下着かぁ。
見栄を捨て、煩悩を捨て、欲を捨てる。
まさに私の目指すべきところ、でありました。



ただ…。

子供の頃学校で、目標とすることを書いた紙を貼っておいたりしたものですが、
この『放下着』、たとえ意味は尊いものでも、貼り出すものとしてはなんとなく躊躇うものでありましょう?
立派なお寺さんに、立派な掛け軸にして飾ってあったとしても、やっぱりなんとなく不自然な感が否めない気がする、おばかさんでありました。




No.12 22/11/10 06:37
旅人さん0 

『「サクマ式ドロップス」を製造販売する佐久間製菓(株)が2023年1月20日に廃業すると通知した。』

ああ、あの【火垂るの墓】の…。
ドロップスまで消えていきますか。


終戦記念日といえば放映されていた『火垂るの墓』が放映されなくなってだいぶ経つようです。
切なすぎて、救いが無さすぎて、観るのがつらいと、そんな声をよく聞きます。
娘などはせっかく買ったジブリ全曲集なのに、火垂るの墓の中で流れる『埴生の宿』が入っているので聴けないとまで言います。
実際年々視聴率は下がり、放映されなくなった理由の大きな一因でありましょう。


何が言いたいか…。
正直自分でも何が言いたいのかわからない感情のまま書いています。
なら書くなよ、の話です。
ごめんなさい。


私とて戦争を知らない世代ですし、火垂るの墓のあのどこまでも救いの無い内容に、心をやられます。

でも、あれが、あの〝世界〟が、とりたてて異様だったわけではないかつての日本であったことを、忘れてはいけないと思うのであります。

火垂るの墓を観ることは重すぎて切なすぎてつらいけれど、サクマ式ドロップスのあの赤い缶を見て、忘れてはならない諸々を心に置いておりました。
そんな母の独りよがりは、『埴生の宿』が聴けないくらいの子どもたちにはその〝赤い缶〟すら切なくてつらく、嫌であったでしょうね。



ただ私には自分が子供の頃に、…そう、この映画が作られる前、この映画の原作である野坂昭如氏の小説を読めないくらいの子供の頃に、あの赤い缶のドロップに、〝ハズレ〟味〝当たり〟味を、勝手に決めて、まるでくじ引きかガシャポンでもするかのようにワクワクドキドキした時代があったものだから。

…一つの時代がおわる、寂しさを感じたのでありました。


緑缶(別会社さんの佐久間ドロップ)にはハズレが無いらしいし。
そもそもが私、あまり飴が好きでは無く、最後にサクマ式ドロップスを手にし舐めたのはいつのことだったか…。

でもやはり寂しい。

〝ハズレ〟が出ると、父や叔父にあげていた要領の良かった私。
そんな思い出も詰まっていました。

No.11 22/11/09 16:59
旅人さん0 

かつて私が仕事をしていた時、(とはいってもまだ二年ほど前のことですが)、
仕事先での人間関係や、その中での理不尽な扱いであったり、あるいは日々の暮らしの中で、家族のこと、親のこと、などなど、常に悩んだり迷ったり、嫉妬したり怒ったり、くよくよしたりしたものです。

今は…。

…もちろん今も。

つまらないことに心を囚われ、いろいろ考え、考えすぎて、起きてもいないことをすら、あれこれ想像しては気を病み、と、心はせわしなく、ストレスもたまりがちです。
いろいろ考え過ぎて心が疲れてしまうこともよくあります。


かつて仕事先の人間関係やら、親のこと、子供のこと、あれこれ悩んで落ち込んでいた際、【禅語】に助けていただいたことをふと思い出したのです。
私の心に寄り添い、乱れがちな心を整えて、穏やかに前向きに過ごすためのヒントとなる言葉が集められた、そんな一冊の本に出会ったのです。

それが禅の言葉、禅語を集めた本でありました。

No.10 22/11/09 03:42
旅人さん0 

昨夜の月食。
息子のおかげで天王星食をも見ることができました。

何より、十一月とは思えない暖かさと、雲一つない空を、お与え下さった神さまそして仏さまに感謝いたしました。

No.9 22/11/09 03:37
旅人さん0 

精密で華麗な彫刻の数々がそこここに散りばめられております『桐生天満宮』さん。
木というものがこれほどに薄くて動きのある…例えるなら薄い絹織物のようにできるものなのかと、思うくらいに立派なものなのです。
重厚でしなやかで品位のあるもの、なのです。
躍動感あふれる龍。
一つ一つ挙げていたらきりがありません。

風雨にさらされ色彩がはがれてしまっていますが、完成当時は極彩色の華やかな彫刻でした。
色がなくても、微細な部分まで彫り込まれた彫刻は見る者を飽きさせず、時を忘れて見入ってしまいます。

これに美しい色が施されていたと考えると……。当時の人々の感嘆が聞こえてくるようです。
当時の人たちは(例の)囲いもなく。岩の上にそびえ立つ、この見事な彫刻を間近で観ておられたのかぁと、私の羨望の声も…聞こえません?


この日は裏の駐車場から入っての参拝でありました。
裏手からは鳥居が一つもないので、それはそれで神域に忍び入るような申し訳ない気分になるのでありまして、普段は裏手の駐車場に車を置いたら鳥居のあるところまで歩き、そこから入らせていただいているのですが、この日は近くで大きなイベントがあり、歩道に人が多く、裏手の入り口から入らせていただいたのですが…。

ちょうど昼どきの日の光を浴びた、それはそれは美しい、まるで金色と言っても過言ではない、御本殿の裏にある彫刻を拝することができたのです。

うわぁぁ♡
…ええ、声に出して感嘆いたしましたとも。
なんと美しい光景でしょう。


この見事な彫刻。
傷む前に手入れをといつも祈るように願う私。

そうだよ、道路なんかに手を入れてる場合じゃないよ!
色など褪せようと、剥げようと、それはそれで良いのです。きっと私はこの方が好きなので。
ただ、それが剥げてしまった状態が長く続けば、木部が傷んでくる可能性も高くなります。
それは是非避けたい、避けなければいけないと、私は強く思うのです。

まあ、神さまがお護りくださっているので、今はまだ全然(?)大丈夫かもしれませんが。
傷みがひどくなってしまってからでは修復もより大変になります。

ただ、今のところ宮司さまにそのようなお考えもないようなのですが…。

No.8 22/11/09 03:02
旅人さん0 

桐生の総鎮守として尊崇を集める群馬県桐生市の【桐生天満宮】さん。

『 桐生(貴龍)天満宮の五利益(御利益)

一、昇運の守護神
二、厄除・方位除・災難除の守護神
三、交通・旅行安全の守護神
四、学業・合格祈願の守護神
五、安産・子育て・児童の守護神 』

と掲げられていました。

主祭神の一柱であられる菅原道真公が
(1)神童と呼ばれるほど学問に秀でていたことから『学業受験合格』

(2)天満宮の建立によって道真公の荒ぶる御霊が鎮められたことから『厄除け・災難除け』

(3)京都から遠く離れた大宰府への道のりを無事に旅したことから『交通安全・旅行安全』

この三つのご利益を授けくださる神さまとされます。


…うーん。たしかにあの時代に京都から福岡県太宰府までの道のりは大変な大移動。その道のりを無事にたどり着くことはそれはそれは大変なことでありましたでしょう。
ただ、「無事に旅した」と書かれるとちょっと違和感がないわけではない。たしかに〝旅〟してはおられます。
なんの間違いがあるわけではありません。いや、〝旅〟なんですけど、ね、間違いなく。
ただ、都で大切にされていた梅の木すらが、道真公を慕って太宰府まで飛んだという伝説からも、道真公の人柄が計り知ることができるようであり、こんな騙し落とされ左遷されての移動を〝旅〟と申し上げるのはなんとも申し訳ないような気がしてしまうおばさんなのでありまして。
…まぁ、ただそれだけ、なんですけどね。

わたし的には道真公はそもそも祟るようなお人柄ではなかったのではないか、荒ぶる御霊というような存在になられるような方ではなかったのではないかという思いもありまして。
だって、京の都で大切にされていた梅の木さえもが、道真公を慕って太宰府まで飛ぶようなお方です。
移られた先の自然を愛で、その地になじまれようとされるお方であったのではないかと、勝手に思っている者なのであります。


閑話休題。


実は。
こちら桐生天満宮さん。
前述しておりますとおり、徳川家康公の命(めい)で、当時の最高レベルで造られたものであります。
精密で華麗な彫刻が施された社殿であります。
日光東照宮の修復や榛名神社の彫刻を手掛けた名工・関口文治郎によるもの、なのであります。
その繊細にして重厚な彫刻といったら。

No.7 22/11/08 18:23
旅人さん0 

今、ご近所の方がサンマを届けてくださいまして、はからずも二人で皆既月食を見上げることに。

欠け出していることに気づいていなかった彼女、
「うわぁ、教えてくれてありがとう」って。
いやいや、ありがとうはこちらですが。

明るい、暖かな月夜を、もっともっ
と明るいあたたかなものにしてくれた彼女は、私の癒しの人であります。

No.6 22/11/08 18:03
旅人さん0 

今日は満月。
そして皆既月食。

現在は天体ショーとなっている日食や月食ありますが、昔は天の乱れとされ、天が乱れると国も乱れると考えたり、天変地異の前触れなどと、不吉な現象として恐れられてきました。

…まぁ、それはそうですよね。
月の満ち欠けは暦であり、暦はそのまま農耕に直結する、それこそ命すらかかる大切な大切なものであり、燭台等の薄暗い手元くらいしか照らさない灯りしかなかった時代において、月あかりはありがたい灯りでありましたもの。
今よりもずっとずっとその灯りを頼りに生きていた時代、少しづつその月が欠けていくのはそれはそれは恐ろしく思えたものでしょう。

そんな日月食の不吉を除き、天下泰平に導く仏さまがおられるといいます。
その御仏は【一字金輪仏頂尊(いちじきんりんぶっちょうそん)】さま、とおっしゃるそうです。
もちろん初めて知りました。

なんでも、おすわりになられている蓮華座を七頭の獅子が支えているのだといい、蓮華座を支える七頭の獅子は『北斗七星』を表しているとされていて、
一字金輪仏頂尊さまは、太陽・月・北斗七星などの星宿(せいしゅく)全ての力を備えている最高の尊各とされ、天の乱れ(ここではあくまで日月食を指します)による災いを防ぐと伝えられています。


また日食や月食は、【阿修羅】とも関係が深いといい、阿修羅が日の光りをさえぎれば日食となり、月の光りをさえぎれば月食となると言われています。

諸説あるとはされますが、阿修羅は光りの神『アフラ・マズダ』が元になっているとも言われ、太陽と月の光を操ることができる『光明の神さま』とされているのだとか。


また、そんな不吉な現象とされていた日月食ですが、
あの弘法大師さまが唱えたとされることで有名な、虚空蔵菩薩の真言を唱える密教修法、【虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)】は、『満行』や『結願』の日に〝流星群〟や、月食や日食となるように修行に入ると伝えられているのだとか。

…ということは、昔の人でも事前に日食や月食の日を知っていた、ということ?


いやぁ、ほんと、昔の人ってすごいよなぁ。

No.5 22/11/08 06:46
旅人さん0 

社殿は安永七(1778)年に起工して寛政五(1793)年に落成したものであるといいます。
そして。
…何度も参拝させていただきながら、私は、実に今回初めて知ったのですが、こちら
『岩の上の天神』と称されているとのことで、本殿・幣殿は岩の上に建っているというのです。
社殿すべてが当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物として、群馬県指定の重要文化財となっております。


棟札によれば、現本殿及び幣殿は、安永七(1778)年に起工して、寛政元(1789)年に上棟、寛政四(1792)年には寺社奉行への披露を経て、翌、寛政五(1793)年に遷宮開帳をおこなった。
拝殿は、享和二(1802)年に棟札をあげた。

社殿は、県内の江戸時代の神社建築に多くみられる本殿が幣殿及び拝殿につながるいわゆる権現造りの形式である。
本殿・幣殿の外壁には極彩色の精巧かつ華麗な彫刻が施されており、内部にも同様な彫刻とともに壁画も描かれている。
このように桐生天満宮社殿は、北関東の近世神社建築の特徴をよく示した優れた文化財である。

(…桐生天満宮HPより抜粋)


古来からの大樹や大岩はそれだけで信仰の対象でしたが、そこにさらに社殿を配することで、人々の信仰を一身に集めたといいます。

…いやぁ、そうでしたか。
『岩の上の天神』。
知る人ぞ知る、なのでしょう、かね。
HPには書かれておりましたが、昔はそんなもの無かったですものねぇ。境内には特にそのような案内はなかった…のかなぁ。迂闊なぼんやりおばさんだからなぁ。

…今度参拝させていただく時に、もっとゆっくりと時間をかけて境内を歩かせていただきましょう。


…いやぁ、そうでしたか。
岩の上の天神さま。

…秩父第十九番札所の【龍石寺】さんが岩の上に御本堂が建っていることにたいそう感動したものですが、群馬県の、それもこんな街中にもあったんですねぇ〜。



No.4 22/11/08 06:00
旅人さん0 

参道をまっすぐ歩み、小さな方の太鼓橋を渡っての正面に、新しめの門があります。
拝殿の周りを囲う、やはり新しめの塀があり、その門をくぐっての参拝となります。
あまり他の神社さんでは見かけた覚えのない、〝神門〟というものだそうで、『桐生門』という名前がありました。

なんでも、江戸時代の御社殿建設計画には、神門の建設が予定されていたのだそうです。
それが諸般の事状で実現せず平成大修理事業を記念して新設されたものだといいます。

私はこの囲われた感じがあまり好きではなく…常々「何故このような囲いを?」と思っておりましたが、なるほどそういう経緯があってのことでありましたか。
きっと、その時代に建てられ、共に時代を重ね周りと馴染むものとなっていたならば、ありがたいものだと、その塀や門にすら手を合わせていたのだろうな…あ、神門なのでくぐる前後には必ず手を合わせていますが、ね。
我ながら、やれやれ、です。

ただ…。

囲うことがなんとももったいないと思うくらいに、こちらの社殿は素晴らしいもの、なんです。

建物としての出来映えもさながら、拝殿の前に立つと、それはそれは神々しく、あたたかな気が拝殿からあふれ、そして…何やらあたたかい視線のようなものを感じるのであります。


そんな拝殿の全景がその囲いがあることで隠されてしまっているのです。

神門と塀だけならまだよかったのでしょうが、その囲いにおおわれた空間に、社務所が設けられているのですよ。
たいへん狭い感じを否むことができません。

桐生市は今、この〝古き時代〟を観光のメインにもっていこうとしているのか、あちらこちらで古い時代の資料を見ることができるのですが、なるほど、明治から昭和にかけての写真を見ると神門はなく、拝殿のすぐそばで撮られた結婚式での親族写真などもありました。



…うーむ、せめてこの社務所さえなければ…。

No.3 22/11/07 15:55
旅人さん0 

慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦には軍旗に用いる桐生織の旗絹をこの【桐生天満宮】の御神前に供え、戦勝祈願をしたといいます。
その勝利凱旋を吉例とし、将軍家がこの桐生市の織物を重んじたことが
のちの桐生織物の繁栄の礎となったのだといいます。

そんな経緯を持って、桐生新町(桐生新町重要伝統的建造物群保存地区)(現・群馬県桐生市本町)は、な、なんと、徳川家康の命により、天正十九(1591)年から慶長十一(1606)年に造られた町、となるのであります。


基点をまさにここ、この【桐生天満宮】とし、現在の本町六丁目まで町並みを延伸させた際に止めに【浄運寺】を桐生新町の南の要として配したのです。


『桐生は日本の機どころ』と、例の【上毛かるた】に歌われていますが、門前町である桐生新町はまさに神さま、そして仏さまに守られて発展したのです。

…そんな歴史、もちろん教科書に載ってなどおりませんし、群馬県に住んでいても、小、中、高、どの歴史の授業でも習わなかったことで、これを知ったのは何年か前。
桐生市の『織都桐生 案内人の会』という桐生市観光物産協会運営の、案内人の方にお教えいただき初めて知ったものであります。
桐生市出身の友人に聞いても誰一人知らないといい、地元の歴史などというものは、努力して伝えていかないと、伝わっていかないものなのだなぁと思ったものです。


さて、また恒例の、話があちこち状態ですみません。

一の鳥居をくぐったところに話を戻します。

一の鳥居をくぐると、石畳み参道の先に(これは正真正銘本物の石畳みです)二の鳥居があり、そこをくぐると。
むかってみぎてに機神神社が祀られています。そのひだりてには高くそびえる銀杏の御神木があります。
そして参道をさらに進むと、石造りの太鼓橋が二つ並んであります。
一つはその傾斜が急なためなのか、もう長いこと通行止めとなっています。
太鼓橋を渡ると、みぎてに藤棚があります。
その前にそれは立派な手水鉢があり、それは立派な手水舎があるのですが、…コロナ禍となるずっと前からそれは立派な蓋がされて、…どうやらこちらは特に手や口を清めることを勧めない方針の神社さんのようです。



No.2 22/11/07 11:14
旅人さん0 

少し話が外れますが、現在、この桐生市のメインストリート、本町通りの桐生天満宮寄り、本町一丁目から二丁目にかけては『桐生新町重要伝統建造物群保存地区となっているとのことで、この街並みを保存し、なおかつ歴史まちづくりをしようという動きがあり、その一環として、アスファルトの道路を石畳み風にしようと工事が行われています。

あまり広くはない通りが、ほぼ常に工事中でありまして、なおかつ、石畳み風にするということに対し、私などはさっぱり意味がわからず、この市はもっと違うところにお金をかけることはできなかったのだろうかと、通るたびに思うのであります。
アスファルトでない道路=車道が、車として走りやすいかといえば、決してそのようなことはなく、どちらかといえば悪くなったような…。
しかもあくまでも石畳み風であるため、むしろこの道路が傷んできた時には、普通のアスファルトの道の修理よりもずっとずっとお金がかかるものだと思うのです。

行政というのは、上は国家から、下は市町村単位まで、人々の暮らしに寄り添うようなお金の使い方ができないようになっている、ということなのかなぁ。

閑話休題。


この桐生新町の成り立った歴史は、天正九(1581)年、ここ桐生天満宮が徳川家の祈願所となったことから始まっています。
関ヶ原合戦の際には、かつて新田義貞が旗揚げしたという由来に倣い、軍旗に用いる旗絹を神前に供えて戦勝祈願したと伝えられています。

小山評定(現在の栃木県小山市で、関ヶ原合戦直前に行なわれた徳川軍の作戦会議)後、小山にいた軍を関ヶ原に帰す時に、厩橋城(うまやばしじょう=前橋城)の城主・平岩親吉(ひらいわちかよし=今川義元の人質時代から家康に付き従った忠臣で、徳川十六神将のひとり)を介して旗絹を求めたところ、一日にして二千四百疋もの旗が集まり、東軍の勝利を陰で支えたと、いたく感動されたといわれています。

その結果、凱旋を吉例として境内で織物市が始まったといい、現在はこれを骨董市とし市(いち)が立ちます。


No.1 22/11/07 07:29
旅人さん0 

昨日は【桐生天満宮】さんへ参拝させていただきました。

こちらは京都の『北野天満宮』さんより御分霊を頂いた神社さん。
『天満宮』と言えば学問の神様と言う印象がありますが、こちらはそれだけにあらず、【菅原道真公】をはじめ、公の御先祖である【天穂日命(アメノホヒノミコト)】さま、さらに【祓戸四柱 (ハラエドヨハシラノオオカミ)】さまを奉斎しております。


もともとは景行天皇の御代、『上毛野国造』が天穂日命さまを奉斎した『磯部明神』でありました。
その後文治三(1187)年から当地を支配した『桐生氏』が代々の守護神として崇敬し、観応年間(1350年頃)、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して『桐生天満宮』と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められました。

『天穂日命』さまは当地で有力な土師部の遠祖に当たられ、菅原道真公の御祖先にも当たる御祭神で、古来、産業開発の守護神として崇敬されております。

『祓戸四柱』さまはあらゆる災いや罪・穢れを祓い清める神々で、【瀬織津姫神】・【速開都姫神】・【気吹戸主神】・【速佐須良姫神】を祓戸四柱大神と称え奉っております。


また、桐生と言う場所は風水において理想の地といわれているとのことで、それに基づいて御神体の周りの配置にこだわっているとのことであります。
御本殿内陣には、風水に基づいて御神体の四方を守護する霊獣、すなわち『東の青龍』・『西の白虎』・『南の朱雀』・『北の玄武』の四神を配し、
それぞれ東(職業・学業) 西(商業・金運) 南(家運・良縁) 北(健康・厄除)等の広大無辺な御神徳によりこちらを参拝・祈願する全ての方々がこの理想的な風水によって護られ、大地のエネルギーである「気」を受けていることとなるのだといいます。



桐生市のメインストリートの突き当たりの道路沿いに鎮座されております。
一の鳥居は、まさにその道路に面し、目の前に立つと見上げても鳥居全てが目に収まらないくらい大きいです。
この鳥居をくぐり、先へ進んでいくとまっすぐに参道が続いています。

ちなみにこちらの神社さんの駐車スペースは、この大きな鳥居をくぐることなく境内内に入ることができるのですが、肝心の参道を踏んで渡って駐車することとなるのです。

うーむ。
鳥居をくぐらずに済むとはいえ、参道を突っ切る…、それでも裏手にも駐車場があることを知りました。


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