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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣巡り珍道中・改

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旅人さん
23/06/23 06:04(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3666755 22/11/06 23:54(スレ作成日時)

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No.151 23/01/30 01:28
旅人さん0 

この山村地の宮田に在する曹洞宗の宮田山不動寺さん。

明治の廃仏毀釈という不遇の時代を、お不動さまご自身のお導きであったとしか思えないような奇跡を経て発見され、県より独立仏堂の復帰を果たし、さらには文部省の重要美術品の指定を受けてからもなお、地元の方々のご苦労は続いたといいます。

当時の宗教法はいずれかの寺院に所属するか、寺院として独立している必要があり、
寺院として独立し新しい寺院を建立するには、二百戸以上の檀信徒、三十坪以上の建物がもとめられたといいます。

当時百三十戸しかなかった宮田地区。
残りの七十戸、近隣の住民を信徒に勧誘し、
買収や交換で土地を取得したといいます。

さらにはお坊さんも探さねばなりません。
たまたま隣村である樽村出身のお坊さんがおり、その方が東京高輪の【泉岳寺】さんのご住職であったというご縁から、昭和十九(1944)年に泉岳寺さんの末寺として、『石造不動明王立像』さまをご本尊とした不動寺さんが開山されたのです。

中興というよりは開山開基がまさにこの渋川市赤城村の宮田地区の住民の方々となります。
明治当時には仁王門まであったというお寺とは全く別のお寺さんが創設され建立されたのです。


この日開かれた大祭も、東京高輪の泉岳寺さんから法主さまが訪れており、さらに沼田の名刹【迦葉山弥勒寺】から、そして隣村の樽村からお二人の僧がみえておられました。


No.152 23/01/30 10:32
旅人さん0 

鈴の音とともに四人の僧侶さんが急な坂を登って参りました。法主さまの手には真っ白なふわふわの払子が持たれています。

二番目をお歩きになられていた法主さまが堂内へ。 

堂内の、洞の入り口に設けられた一段高いところには法主さまが座られる座が設けられています。
今年新調されたのか、いかにも真新しく、それこそ真芯をとらえないと、転げ落ちてしまいそうなほど分厚い厚いお座布団に法主さまはゆっくりと慎重に座られました
法主さまの前には、たいへん厚くて豪華な装丁の『大般若波羅蜜多経』が置かれています。

こちらの御堂には天蓋等の煌びやかな仏具はありません。
太鼓と、
けいすと呼ばれる、家庭の仏壇にある鈴(りん)の大きいもの、
くらいしか置かれておりません。

他のお坊さまが座られた座布団はスポンジに木綿の皮のかけられた、質素なもので、
前に置かれた経机も、年数を経た素朴な木の机に過ぎないものです。

床には色の変色したフェルトのようなカーペットが敷かれています。

狭い御堂です。
その御堂の中に、外に向けて受付口が設けられ、そこでおふだや御守等を授与しております。
みなさん、保存会の方と当番に当たられた自治会の方々です。

御堂の入り口には、畳の間で使われる会議用の長テーブルが広げられ、そこでお灯明を授けてくださっています。


ストーブも炊かれた御堂の中にはすでに多くの人が、『大般若転読』の法要を待って座っておりました。
二十人は入れないだろうな…。


お坊さまたちが座られると、間を置かず法要が始められました。

まず般若心経を三回、お唱えになられました。

No.153 23/01/30 13:28
旅人さん0 

【大般若波羅蜜多経】は、あの『西遊記』の三蔵法師のモデルとされる『玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)』が、歩くこと30,000キロ、十七年の歳月にわたり命がけで、
インドから唐の国にもって帰られた尊いお経であります。
その後四年間かけて翻訳されました。

その巻数は六百巻。
この功徳に対し、目を通すだけでもご利益があり、文字を見るだけでもありがたいものとされているといいます。

日本でこの『大般若波羅蜜多経』を【転読】する【大般若転読法会】は、じつに奈良時代から行われていたことが『日本書紀』から知ることができます。

この【転読】、
一つの経典を全て通読する【真読(しんどく)】に対して、
経題や経の主要な部分を拾い読むことをいうのだといいます。
また、かつてお経は巻物であったため、この巻物を転ばして読んでいたことから『転読』といわれているともいます。


大般若経の転読は、僧侶が、経巻をひもとき、
一巻、一巻、転読するたびに、
「大般若波羅蜜多経巻第(だいはんにゃはらみつたきょうかんだい)第一巻~第六百巻、唐ノ三蔵法師玄奘奉詔訳(とうのさんぞうほうしげんじょうぶしょうやく)」
と大声で唱えたのち転読が始まり、堂内に並んだ僧侶が一斉に六百巻の経典を転読することだとされます。

あるいはこの六百巻を、そこに居合わせた僧侶が等分して、転読することもあるといいます。


こちらの転読会では三人の僧侶が等分し二百ずつ転読されておられました。
ただ…。
どれだけ耳を傾けても、なんと唱えているのかさっぱり聞き取れず。
言葉ではないまるで〝喃語〟のようにしか思えませんでした。
特に私のすぐそばて転読されていた僧侶の方のお唱えされているのはまさにそれ。
少し離れたところで転読されている僧侶の方がお唱えになっているのはお経の一部のように聞こえます。

左右の手に、蛇腹折りされた経本を行ったりきたりさせて、そののち、パラパラパラパラ〜っと、経本に風を孕ませるように蛇腹折りを広げます。

初めてこの転読会に参加させていただいたとき、この〝パラパラパラ〜っ〟にたいへんびっくりし、それとともになんとも言い難い感動を覚えたことを今でも忘れられません。

No.154 23/01/30 13:46
旅人さん0 

しかも、この経本、一回一回経机に置いて次の経本に移っていくのですが、結構乱雑にバサッと置くんです。

転読というものを少し知った今でも、(ありがたい経本をパラパラしたり、バンっと机に置いたり、なんだかたいそう罰当たりな行為にしか見えないのだけれど)と、内心思ったりもしているのですが、ね。


最後には経巻をもって「降伏一切大魔最勝成就(こうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と言いながら経巻で経机をたたくのだといいます。
やっぱり叩くんだぁ…。

じつはこの作法、
「すべての災いや悪を祓いとり除き、人々の願いをかなえて幸せに導いてほしい」
という意味で、一人一人の除災与楽(じょさいよらく)を祈る意味があるというのです。

うーん、やっぱり奥が深い。

素人の万年初心者マークにはわからないことばかりです。


ちなみに、こちらでお授けいただく紙のおふだには、
この『降伏一切大魔最勝成就』の文字が書かれております。
まさにお姿を写したような、そっくりのお姿の絵と、
こちらの『石造不動明王立像』の下半身上部に書かれた銘文が書かれております。
(実はこのおふだ、何年か前にもお受けして、ずうっと祀らせていただいたのにも関わらず、新たにおふだをお受けするまで、何が書いてあるかすら知らなかったという、迂闊なあまりにも迂闊すぎるおばさんでありました)


転読が終わると、木のおふだをお受けになった一人一人の名前と願い事を法主さまが読み上げます。
…五十くらい、だったでしょうか。
失礼を承知で言わせていただきますが、このような山村の、急な山の斜面に建てられた御堂に安置なされている不動明王さまのお縁日の大祭に、すごい人数の名前が読まれています。

しかもこの転読会、この日初めての法要で、計四回、あと三回は同じように転読会が執り行われるといいますのに。

いつもいつも参列のたびにびっくりすることです。

おふだや御守を求める人たちの数も半端ありません。
破魔矢も御守も飛ぶように売れていきます。


す、すごい。凄すぎる。

No.155 23/01/30 17:20
旅人さん0 

この『大般若波羅蜜多経』の転読会が終わり、法主さまの短いご挨拶がありました。

以前の法主さまとは代替わりがあったのでしょう、お若いぷっくらとした可愛らしいお顔立ちの法主さまでありました。

四名の僧侶の方々が御堂を退出され、いよいよお不動さまの元へと参拝であります。

私の席は実は一番前の席、夫とは前後して座っておりました。
さぁ、お詣りさせていただきましょ。
夫に目で語りかけたところ…。


な、なんと小さく首を横に振っています。
は?どういうこと?

…あっ!足が痺れてる?


…何もこんな席で珍道中っぷりを披露しなくともいいでしょうに、変なとこだけ律儀な夫です。


ようやく立ちあがった夫と二人連れ立って、お不動さまの御前へと進みました。
何段かの階段を登って。
年に一度の御開帳のために設けられた祭壇の横を通って。

祭壇のろうそくから火を移して、お灯明を上げさせていただ…こうとしたのですが、もう空きスペースがほとんどありません。
以前は自分のあげたろうそくは持ち帰ることとなっていたのですが…。

ああ。
ようやくお会いできました。



昨年は表向きにはコロナ禍ということで中止、十時の一回だけの転読会が行われたのみであったので、その尊顔を拝することができませんでした。

「遠くから来てくれたのに済まなかったねえ」と何度も何度もおっしゃってくださった保存会の方。
コロナ禍であり中止されることも予想されておりましたので、むしろそのお言葉でとても癒されたものです。

「来年もコロナがこんな風でも、朝一番の十時の回だけは必ずやってるから、よかったらその回に来てやってください」

そのお言葉が嬉しくて嬉しくて…、
今回中止ではないことを知りつつも、朝一番の回に間に合うようにやってきた珍道中ペアでありました。


久しぶりに拝することのできた『宮田のお不動さま』に、胸がキュンとしたおばさんでありました。

No.157 23/01/31 02:58
旅人さん0 

あとひとつだけ。

大般若波羅蜜多経の転読でおこる〝風〟を【大般若の風】と呼ぶのだそうで、この転読の風遠受けることで一年間無病息災でいられるのだといいます。

…そんな功徳もあったのですね。
あの見事な手さばきを見ているとさもありなん、とさえ思えてしまいます。

ただ…たまたま最前列に座ることとなった私ではありましたが…背を向けてお座りになっておられる僧侶の方々の手元からの風は届くものではありません。


このお話をしてくださったのは、宮田不動明王立像保存会の方。
宮田の不動寺のように開山当初から無住のお寺でも、寺である限り必ずあるのがこの『大般若波羅蜜多経』六百巻、なのだそうです。

なるほど。
たしかに施餓鬼会であるとか、そのお寺さん、お寺さんで転読される機会がありましょう。

よいお話をうかがうことができました。


それにしても。

あの経本のパララララ〜ってする様は、何度見ても(…さほどは見てはおりませんが)見事だなぁと感心いたしますものです。

No.158 23/02/02 00:01
旅人さん0 

長々と綴らせていただいた群馬県渋川市の『宮田不動尊』さまに行く途中、北橘村…いや今は渋川市北橘町となったのでした、を通ります。

『北橘(ほっきつ)』に対して、前橋市には『南橘(なんきつ)』があり、これは【橘山】を境に区分していることに起因した地名であります。
その北橘町に、かねてから夫が参拝したいと申しておりました【木曽三社神社】さんがあり、このたびようやく参拝することができました。

ちなみに、この【橘山】というのは『日本武尊』が、妻の『乙橘姫』を偲んだとも伝えられる山であります。

群馬県に木曽神社?

…まぁ神社さんは勧請するものでありますので、赤城神社さんのように赤城山の近くでなくとも、赤城山が見えないところにあろうとも、なんら不思議はないものではありますが、そうは申しましても、長野県の木曽を訪れた際に木曽神社さんという神社さんは耳にしたことがなく。…まぁ、だからと言って私が知らないことなど星の数よりあるくらい、ですので、あくまでもみみにしたことがないだけ、なのかもしれませんが。

【木曽三社神社】さんは利根川の支流『木曽川』の支流の近くにあります神社さんでありました。
あ、なるほど、『木曽川』の近くでありますか。
それで『木曽』?

いや、その木曽、ではないようで…、
【木曽義仲】公にまつわる神社さんのようでありました。

No.159 23/02/02 08:04
旅人さん0 

【木曽三社神社】さんの御由緒


平安時代末期、【木曽義仲(源義仲)】は永寿二(1183)年に砺波(富山県)の【倶利伽羅峠の戦い】で平家の軍を破り入京します。

その後治安維持の失敗や皇位継承への介入などにより、『後白河法皇』と不和となり、寿永三(1184)年に、『源頼朝』が送った『源範頼・義経』の軍勢により
近江国(滋賀県)の【粟津の戦い】で討たれます。

その後、義仲の遺臣達、
今井氏、高梨氏、町田氏、小野沢氏、萩原氏、諸田氏、串渕氏らは、源義経の追討伐より逃れ、木曽まで落ち延びました。

伝承によると、ある夜、家臣の一人であり神官でもある高梨氏の霊夢に、木曽義仲が崇敬していた信濃国(長野県)延喜式内社である
岡田神社(松本市)・
沙田神社(松本市)・
阿礼神社(塩尻市)
の三社の祭神の化身が三夜続けて立ち、東国の安全な霊地に祀ってほしいとの御信託がありました。

高梨氏は他の家臣たちと相談し、御神体を七重の箱の中に入れ東国に旅立ちます。

そして。
利根川東岸の泉付近の石の上に御神体の箱を置き休息をとりました。
再び移動するために箱を持ち上げようとしたが何をしても石に張り付いてしまったように全く動かせなくなってしまったといいます。
家臣たちはこの地こそ信託の地であるとし社殿を造営し御神体を祀ったのがこちらの【木曽三社神社】であるといいます。

その後は関東管領『上杉憲顕』や『上杉謙信』による寄進や奉納、
上野白井城主『長尾氏』の庇護、
歴代の前橋城主の崇敬が厚く、
社殿の造営や修復、社領の寄進などが行われます。
寛政元(1789)年社殿が全焼しましたが、寛政六(1794)年、本殿が再建されます。

慶応四(1868)年から明治元(1868)年にかけて明治新政府により出された神仏判然令(神仏分離令)により仏式が廃止され、明治二十九(1896)年に県社に列せられます。

明治四(1871)年に拝殿が再建され、さらに明治二十年代に大修復が行われているといいます。


No.160 23/02/02 09:50
旅人さん0 

もう少し詳しい言い伝えも残されていて、


【木曽義仲】公の信仰していた三社の神社(岡田神社(松本市)・沙田神社(松本市)・阿礼神社(塩尻市))の神官であった『高梨南学院』という人が、三夜続けて不思議な夢をみた。
それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという神託だった。
そこで遺臣らが相談し、御神体を七重の箱におさめて東国へと旅立つことになった。
和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、穏やかで平和そうな村があり、そこに神をまつろうとすると土地の人が怪しんで「その箱は何だ。」と尋ねてきた。
遺臣たちは「只の箱だ。」と答えた。今、その土地を箱田と言う。

しかしながら神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下ったといい、而してまた遺臣の一行は旅に出、半日にして利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。
ここで遺臣一行は休息した。
御神体の箱をとある石の上に降ろした、再び出かけようとすると箱は石に固く着いてしまって動かなくなった。
大騒ぎとなり、なんとか御神体の入った箱を持ちあげようとしたが微動だにしない。
そこでこれを御神託とし、その場所=現社地にお祀りし、木曽一族の祈願所としたのが、この【木曽三社神社】さんであるという。


ちなみに。

私どもは今回、ネットの情報によることなく、夫のかねてより参拝したいと願っておりましたこちらへと訪れましたものですから存じ上げなかったのですが、まさに私どもが車を停めた真ん前のお家がこちらの宮司さまのお宅なのだそうで。
御朱印にあわせて御由緒書きなどもお授けいただけたようでした。

その宮司さまのお名前が『今井』さまとおっしゃるそうで、なんとあの、木曽義仲公の遺臣のお一人の末裔に当たるのだといいます。


うわぁ。
…やっぱり、綿密に調べてから訪れた方が二倍も三倍も実りある参拝となるようです。


ただ、こちらの神社さんが大変素晴らしい神社さんでありましたので、ぜひまた再拝させていただこうと、珍道中ペアは語り合っておりましたので、またその際に宮司さまにお会いできたらと思うのであります。
(( _ _ )))ウンウン

No.161 23/02/02 16:33
旅人さん0 

小さいけれど道案内の看板がそこここにでています。
駐車場は…。
ナビの示す【木曽三社神社】さんの手前に広い土地がありました。業者さんが一人、何やら工事をしています。
「すみません、こちらが木曽三社神社さんの駐車場でしょうか?」
そうお聞きすると、
「ここに置いてもらってぜんぜんかまわないんだけどね、木曽三社神社さんのはもう少し先に行ったところ」
「あ、ありがとうございます」

…なるほど、教えていただいた通りに車でむかうと、たしかに駐車スペースが。
しかもこの辺りの歴史あるところを案内してあります。

道路をわたって。

目の前にある鳥居から先を見ると…。
先が…ない?
いや、下がってる。
石段が〝下り〟です。
…下り宮だ!


No.162 23/02/03 01:35
旅人さん0 

『下り宮』、ですかぁ。

遠くに社殿の屋根が見えます。
一の鳥居を過ぎると境内の全容から見えてきます。

う、うわぁぁっ!
す、凄い!!

広い広い境内です。
小さいけれど滝があるのがみえます。
なんの変哲もない、どこにでもある道路から少し入っただけで、そこには非日常ので景色、空間が広がっていました。
歩を進めるたびにその感覚は深まります。
三の鳥居の辺りまで来ると、まるで…、まるで隠れ里にでも入り込んだような気さえしてまいります。

うわぁぁ、凄い!

何度も何度もそう思います。

考えてみれば、隠れ里のようなところであるのも、この神社を祀られた方々を思えばうなづいてしまいます。
同じ一族でありながら、自分たちの主君を討ち、なお執拗に追う源頼朝の軍から逃れ、偶然たどり着いたこの地は、彼らにどれだけ安心感を与えたでしょう。

下るにつれてその広さもまた実感いたします。
滝の水の注ぐところは大変大変浅いながらも、広い川となっています。
感動っ!!


【木曽三社神社 】さんは滝の宮、木曽明神さま、とも呼ばれるといいます。
〝滝の宮〟、そう言いたくなる気持ちもすごくよくわかります。
まぁ元々滝があったわけでありますし、滝には神さまが宿っておられたことでありましょうし。

ああ、すごいなぁ。



創建は元暦元(1184)年。
御祭神は【須佐之男命】さま、【宇気母智命】さま、【彦火火出見命】さま、【豊玉姫命】さまであるといいます。


No.163 23/02/03 08:56
旅人さん0 

参道が下り坂になっている形の参道を〈下り参道〉、
そして行きつく先に祀られる神社を〈下り宮〉と呼ぶのだといいます。これはきわめて特異な形だといいます。
とはいえ私どもの住まう群馬県の一之宮であります【貫前神社】さんはまさにこの『下り宮』でありますので、このお宮を訪れた際には、びっくりするというよりは身の引き締まる思いがしただけでありました。(決して、他の神社さんで身を引き締めていないわけではありませんが)
その形であるべき理由があったのだと思ったのです。

…とはいえ、下り宮で有名な『貫前神社』さんにしても『出雲大社』にしても、明確な理由は語られてはいないのだといいますが、それは
『そこに神さまがおられ、そう祀るべくお導きがあった』のであろうと、私はそう解釈しております。

こちらもたしかにそのように伝承されておりますが、この境内を拝見して、私でもここに祀るべきだと強く強く思いました。

この美しい水の流れる土地、広がっている土地の浄らかさ。
こここそ神さまを祀らせていただき、お住まいいただく地であろうと、誰もが思うような土地であります。

ですが、一般的にも
水神さまを祀る神社である場合、『水辺』、『湖』、『河川』、『海』をご神体として礼拝するのであるから、『周囲から下ることになる』とありました。

ここはまさにこの水、水神さまを祀る地でありましょう。
小さいながらも滝があり、かつては『滝の宮』と呼ばれていたところで、今も合祀されております。
さらに。
実は今回は立ち寄らなかったのではありますが、この滝になり川となる先に【湧玉】と呼ばれる泉があり、結構な水量で常にこんこんと水が湧き出でているといいます。
滝として流れ、川となって、この先で池となり、沼となっている水量を考えればその湧き出る水量は相当なものだと思われます。

泉から湧き出る水がつくる、キラキラと光りながら細い細い糸のように流れる滝が本当に本当に美しいのです。
胸の中にまでその清らかな水が入って、あたたかな気持ちでいっぱいになるくらいの浄らかで美しい光景であります。

そんな滝のつくり出す川は、あくまでも浅い、水深3センチもない川であります。

清らかで、水底が透けて見えています。
その先何十メートルも離れた池に注がれた水を見れば一目瞭然。
一切濁りというものがないのです。

No.164 23/02/03 17:55
旅人さん0 

さあ、手水舎へ。

水をすくってまず左手を清めました。
ん?

寒い日でありますのに水が冷たくない。それどころか温かくすら感じる水温です。
えっ、どういうことだろう。
その水温を掌で確かめるようにしていると、その水が温かいだけではなく大変やわらかいことに気づきました。
良質な温泉水に触れたかのようになめらかな肌触りにびっくりいたします。
ガサガサに荒れていた指先や手の甲がスベスベしっとりしているではないですか!
ほんの一すくいの水を触った、ただそれだけなんです。

両手がまるで治療でもしたかのようです。
どんなハンドクリームも効かないというのに、たった一すくいの水を軽くくぐらせただけだというのに。

煩悩のかたまりのおばさんは、この恵みの水にいたく感動し、顔を洗いたい願望が沸々と湧き出でてまいりました。
が。

手水舎でそれは許されない行い。
…それでもしばしその手水舎から離れがたい思いにとらわれていました。
それほどこちらのお水は肌に良いもの、高価な化粧水などよりもずっと即効性がありました。
(ああ、空いたペットボトルの無きぞ哀しき)…いやいや、それも神社さんのご許可がなければ、許されざる行為でありますって。

しかしながら神職の方はこちらにはご不在のご様子で…。
(なんとかお調べすることはできないものだろうか)
すっかりこちらのお水に魅了されて欲の権化と化しております。あ、欲の権化なのは今に始まったことではなかった…。

でも本当にアトピーのひどい娘と孫娘にこの水を触らせてあげたい。


…そんな欲望のために、早くも再拝したいとか思っているおばさん、
そもそもがまだ拝殿の前にすら辿り着いていなかろうが。やれやれ。

No.165 23/02/06 09:30
旅人さん0 

【木曽三社神社】さんは谷のようになった低い土地に、湧き水から流れ出た水が滝となり川を成し、池をつくっている低い所から、石段を登って拝する社殿が建てられております。
その社殿に向かう石段の両脇には狛犬等の神使の石造でもなく、石燈籠でもない、こちらならでは、物がお祀りされておりました。

むかって右側には腰掛石が、左側には…。
左側には、まさにちょうど袈裟懸けといった感じに上半身を失った坐像がありました。『木曽氏遺臣之像』と刻まれた小さな石碑があり、それを金属の…朽ちた柵が覆ってはいるのですが…。いかにも痛わしいお姿のままお祀りされておりました。
ここまで損傷が激しくては、元の資料がないとなかなか修復も難しいものでありましょう。
そしてどうしても、今の技術をもってしても異なる石を繋ぐこと、ましてや作り手の異なる像を造って繋ぐとなると大変難しいことでありましょうし。
かといって撤去するのも忍びないことであるのでしょう。

とにかく目を覆いたくなる石像でありました。

それに。考えてみると、御腰掛石とされた石も、一体どなたが?
という疑問が湧いて出ます。
木曽義仲はすでに討死されており、忠臣たちも一人ではなく。
かと言って後世に行幸された記録等も無さそうです。
一体どなたの腰掛けられた石?

ここからはあくまでも私の推測に過ぎませんのでお読み流しください。
…この遺臣たちは、義仲の三男【木曽義基】を匿い落ち延びたとされています。
この義基、生誕は1180年頃とはされていますが、実際には不明なようで、義仲の亡くなったのが寿永三(1184)年ですので、三から五歳といったところ、でしょうか。
その亡き主君の遺子を座らせた石、なのでしょうか。

それとも。
三社の御神体を入れていたという箱を置いた?
…大切な神さまの御神体でありますので滅多なところには置いたりはしないことでしょう。そしてこちらに伝承されるのが、御神体を入れた箱を置いたところ、そこから頑として持ち上がらなくなってしまい、ここが、こここそがこの御神体をお祀りする所と察したということで。

とすれば『腰掛石』という言い方には少し語弊もありましょうが、〝御神体を仮安置した石〟、ということもあるかもしれません。

繰り返しますがあくまでもこれは私の推測。臆測に過ぎませんので、悪しからず、流し読みください。



No.166 23/02/06 14:50
旅人さん0 

まるで袈裟懸けに斬られたかのように欠損している石像は、遺臣のうちの一人『高梨南学院』の像だと書いている人がありました。
この高梨氏は維新のみならず、木曽義仲が信仰していた三社の神社の神官でもあり、ここに【木曽三社神社】さんを建立したのち、ここの神官を務めた方でありますので、なかなか信ぴょう性のあるお話かと思います。

ところで。

こちらの宮司さま、木曽義仲の遺臣である『今井氏』の末裔に当たるのだといいます。
たしかに『今井』という名の遺臣もこの一行におられましたし、
この今井氏というのが、義仲の四天王の一人であったといい、盤若野の戦いでは今井兼平の軍が盤若野で兵を休めていたところへ奇襲をかけ他がゆえ平氏は退却を余儀なくされたという、いわば切込隊長だったとか。

その今井家の末裔がこの『木曽三社神社』の神官をお勤めでおられてもあまり不思議ではありません。

ただ。神官であった高梨氏は?
いつから今井家が神官を務めていだというのでしょう?


うーむ。


No.167 23/02/06 21:16
旅人さん0 

文献によると、

『元暦元(1184)年に木曾義仲が滋賀県の粟津で源義経に討たれた後、その遺臣であった今井氏、高梨氏、根井氏(根井行親妻子)、楯氏(楯親忠妻子)、町田氏、小野沢氏、萩原氏、望月氏、串渕氏、諸田氏等が、義仲の三男木曾義基を匿い、群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延びたとされる。
義仲が崇敬した信濃国(長野県)の延喜式内社である筑摩郡の三座「岡田・沙田・阿礼神社」を、勧請して創建したと伝えられるのが【箱田神社】、後の【木曽三社神社】である。

その後、安政二(1855)年、滝之宮=木曽三社神社の神主になった『高梨宮之亮(養子)』は、
養祖父『高梨八千穂』と合わず、宮之亮が社殿を荒廃させ、
この争いが北橘村箱田・下箱田両村の争いに発展した。

宮之亮は実家に帰り、八千穂は箱田村の『今井家』直系子孫が守護してきた『箱田将軍塚古墳(木曾義仲の遺品・首塚)』上に一社を創設した。

これを拝殿と称して箱田村民はここで神拝を始めた。
後に箱田村は新宮を建立、滝之宮(木曽三社神社)より分立、【木曽三柱神社】を創設した』

とあるといいます。


…つまりは、木曽三社神社がまだ滝之宮であり箱田神社であった安政の時代に、跡取りを失った高梨家が養子をとったところ、かえってその社を荒廃させてしまうこととなり、高梨家は新たに『箱田将軍塚古墳』上にお社を造り、…そこの神官を務めることとなった?

今井の家はそれまで守ってきた義仲の遺品等のある『箱田将軍塚古墳』を高梨家に託し、代わって現在の『木曽三社神社』さんを治めることとなり、
高梨家はこの時から『木曽三柱神社』の神官を務めることとなった?…ということ、なのでしょうか?


が。
木曽三柱神社さんの宮司さまが今なお『高梨』家であるかどうかはわかりません。

ただわかっているのは、現在の『木曽三社神社』さんの神官を務めておられるのは『今井』さんとおっしゃる、木曽義仲の遺臣の末裔にあたる方だということです。





No.168 23/02/07 13:46
旅人さん0 

ようやく社殿のお話です。

明治の初期に造られたという拝殿は、白木のままに木目を生かした彫刻が施されていました。


木曽義仲公を失った遺臣たちが、
主君が厚く崇敬した木曽の神さまたちを、七重の箱にお入りいただき、神さまの望んだ土地までご案内申し上げた、
『木曽三社神社』さん。

木曽からはるばるお越しくださった神さまたちは、もともとこの地を守っていた滝の宮の神さまとここにご鎮座くださり、爾来ずっとこの地とこの土地を訪れるすべての者をあたたかく穏やかな目で見守ってくださっておられますことを、拝殿の前に立つだけで実感する、そんなお宮でありました。

前で手を合わせるだけで、拝殿から、ふわぁっとあたたかで穏やかな気が包んでくださるのです。
境内にはまだ雪が残るというのに、まるで春の陽を全身に浴びているかのような。

思えば。
小さな小さな神橋ですが、そこを渡ったあたりからあたたかな気が満ちています。

遺臣たちはここに土着し四方に広がっていったといいます。
義仲公を慕う遺臣たちの思いもこの地に残っているのでしょう。

爾来、今日に至るまで木曽一族の祈願所であるは勿論、所縁ある武将の崇敬も厚かったといい、観応年間、管領上杉憲顕社外の田を寄進し、上杉謙信は武運長久の誓書を奉ったといいます。
徳川の世となっても、領主の尊崇は変わらず、社地の御修復と称して、前橋城主は代々公費を以って営繕をし、さまざまな献納をしたといいます。
また明治時代には皇室からさまざまな御下賜があったといい、お手植えの木がいくつかあるといいます。

そんなご縁から明治四十一(1908)年には宮内省御用生洲として、利根川でとれた鮎をここで清め、天皇に献上したといいます。

昭和十七年六月、大東亜戦争御祈念のため、昭和天皇より金二十円也御下賜あらせられたといいます。

地方の、しかも山村にある、皇室ゆかりの神社でもないというのに…。



こちらの神社さんの霊験あらたかなことが皇室にまで伝わっていたということなのでしょうか。


No.169 23/02/07 14:10
旅人さん0 

境内社は、小さな石宮がきれいに並んでおりますものと、稲荷社と、不動堂がありました。

小さな石宮のひとつは、こちらの宮司さまの開いていた寺子屋的な教育の場の教え子が奉納したものもありました。

こちらの稲荷社は『早虎稲荷神社』という扁額が掲げられておりました。
早虎稲荷神社さんというのはどういういわれの神社さんなのか、調べてはみたのですが、わかりませんでした。ただ、前橋市にある『片貝神社』さんにも境内社として『早虎稲荷神社』さんがお祀りされていました。
…実はこの日、偶然にもこの『片貝神社』さんも参拝させていただいています。
なんという偶然なのでしょうか。他では早虎を冠する稲荷神社さんをあまり見たことがないといいますのに。


滝のそばにある御堂には扁額はなく、…覗きの気のあるおばさんが覗いてお不動さまがお祀りされていることを拝見したのでありますが、
明治の神仏分離令を憚って扁額無しでお祀りさせていただいていたのでしょうか。

滝のそばにはお不動さまがおられる、そんな古からの決まりごとわ,どうしても守り続けたかったのでしょう。

木曽義仲公の遺臣の末裔の方々が多く暮らすこの地では、そうしたことも守れたのかもしれません。

No.170 23/02/08 06:00
旅人さん0 

この不動堂をさらに奥へと向かうと、【涌玉】と呼ばれる泉があるようでした。

泉の底から小さな気泡が絶え間なく生まれてくるのだといいます。
水のなかで玉が湧くから『湧玉』と名付けられたようです。
そばには『厳島明神』さまがお祀りされているといいます。


絶対再拝できるように。
願をかけてあえてそこへは行きませんでした。

渋川は私の好きな街。
春、そして夏、季節を変えて訪れたいと思っている、そんな街です。

No.171 23/02/08 06:14
旅人さん0 

「次はね」

へっ?

今日、渋川市に来ることになったのって、わがままな妻が唐突に「宮田のお不動さまの大祭に行きたい」と言い出したから、ですよね。
前から計画されていたものではない。
次はね、って…。

ま、そんな二人だからこそ珍道中が繰り広げられているわけで。

次に向かったのはやはり渋川市にある【木曽三柱神社】さん、です。
「こんどは三『柱』だからね」
はいはい、字で見てるわけではないので、言わずともわかっていますって。

こちらは畑や民家の広がる中にあり、例のメーカー純正の、何故かへそ曲がりといった人格を持つナビでは検索できませんでした。

こうしたときにも『Google先生』の出番です。

Google先生の指示に従い向かった先には、いきなり通りに面した鳥居、そしてすぐそこに見える社殿。

…駐車場は…?

No.172 23/02/09 04:56
旅人さん0 


…。
ここへ来て駐車場が無いなんて…。

おっ、隣接した空き地があります。おそるおそる車を入れると、地域の方々が資源を持ち寄り保管している倉庫の駐車場のようで、神社さんとは地続きです。
そこへちょうど前にあるお宅の方が外に出て来られたため、お聞きすると、ここに停めて良いのだと教えてくださいました。ほっ。

あらためて【木曽三柱神社】さんの鳥居の前に。

あたたかな気の満ちた、いかにも地元の方たちに愛されている神社さん、という感じです。
境内はそう広くはありませんが、よく整備され、浄められております。

社殿はさほど大きなものではなく、いかにも昔ながらの村社といった趣であります。
が。
特記すべきはその拝殿から幣殿、本殿にかけての傾斜。
驚くほどに高い位置に本殿があります。

本殿につながる石段が設けてあります。
普段ですとその石段を登って裏手に回り、そこからも御祀りされておられる神さまにご挨拶を申し上げるのですが、何故か私のセンサーが行くなという反応をします。本能が行くなと伝えてくるというか…。

さもありなん、後に知ることに、本殿は『将軍塚古墳』の墳丘上にあるのだといいます。
畏れ多くもお墓(古墳)の上であり、畏れ多くも本殿の建つ場所、センサーが反応したのはそんな理由であったようです。
…今までだって古墳の墳丘の上に建つ神社さんやらお寺さんにいくつも参拝させていただいておりましたものを…。
でも今回はセンサーがそう起動したので 笑。


『将軍塚古墳』は直径約21m、高さ約4mの円墳で、横穴式石室は旧北橘村で確認されている中では最大規模を誇るものだといいます。
その古墳から、縄文時代の石剣が出て文化財指定されています。

『将軍塚』という名の由来は、木曽義仲が近江国粟津で討ち死にされ、家臣とともに当地に落ち延びた三男・義基が、義仲の首級と遺品を納めたからといわれるとのこと。

…なるほど納得。
木曽義仲の首級や遺品を納めたとはいえ、古墳を造るには至らないだろうし、そもそもすでに古墳の時代は終わっていたんじゃないのかなぁと思っていたものですから。

ちなみにこの石剣はかなり出来栄えも良く、かつ保存状態も良いものだったようで、今は渋川市の歴史資料館に陳列されているとのことでした。

No.173 23/02/09 06:14
旅人さん0 

ちなみに。
拝殿の中は覗けないようなった造りでありましたため、覗きの気(け)のあるおばさんもさすがに覗くことはできませんでしたが、『木曽義長(義仲の子孫・江戸幕府の鍼医師=葦原検校)』の木像も安置されているようです。
木曽三社神社さんの駐車場にあった『箱田の史跡』なる案内の立て看板に書いてありました。

又、ここでは獅子舞の奉納が代々伝えられているとのことで、例祭日に古式豊かに執り行われているそうです。

境内社は八坂神社さん。
いかにも神輿舎、といった風情ではありましたが。

少し離れて池があり、池の周りも草木が植栽され、四阿もあって感じいい境内です。
元文五(1740)年の庚申供養塔、安政年間に建てられた猿田彦大神さまの大きな石碑、寛政年間の道祖神 なども祀られています。

木曽三社神社さんと木曽三柱神社さんに分かれた経緯については、三社神社さんの方で書かせていただきましたので割愛いたします。


…ところで。
こちら『三柱』とあるくらいです、主祭神さまはどなたなのだろう。
ずっとそこが気になっておりました。

主祭神さまは…素戔嗚尊さま・彦火々出見命さま・豊玉姫命さま・宇気母知神さま・恵原山大神さま・御嶽山大神さま・武尊山大神さま・猿田彦太神さま、とあります。
…全然三柱どころじゃないじゃない。
三社神社さんは三つの神社さんの御神体をお祀りしたので『三社』と、私でもわかる社名です。

…三社の分霊を勧請した、ということで三柱としたということでいいのでしょうかねぇ。


この近くには路上に石仏さまがお祀りされているようで、そんな案内板がありました。

石仏さまを拝ませていただこうと歩いていると、先ほどの男性が一輪車(ネコ)に溢れんばかりの大根を積んでご自宅へ向かって歩いてこられました。
みずみずしい見事な大根です。
思わず「みごとな美味しそうな大根ですね」とお声がけすると、
「持ってぐかい?」と。
「いえいえ、あんまりみごとなものだからたいそう申しましただけですので」としどろもどろに述べました私に、
「いいじゃない、こぉんなにいっぺぇあるんだから。もう残りなんだ。あとは切り干しにでもしようと思って採ってきただけだから、よかったら持ってぎない」と。

立派な大根を二本もいただいてしまいました。

まるで神さまがご褒美に下さったかのような気持ちになりました。

No.174 23/02/09 10:34
旅人さん0 

一刻も早く一人でも多くの人が救助されますように。

救助隊の方々も二次災害にお気をつけて。
ご無事を祈ります。


地理にも疎い私はトルコやシリアの気温を調べないとわからない。
昼でも一桁台の気温のようだ。
まさに今の日本と同じ気温ということ。

救出後の避難場所が一刻も早く確保されますように。


今朝、臍の緒、胎盤のついた状態の赤ちゃんが救出される映像が流れた。
おかあさんは亡くなられていたそうだ。



わたしには募金くらいしかできないけれど。

大使館に送ることを訴えるツイートをみた。
スマホにスクショして、郵便局へ行く。


トルコ・シリア地震に寄せて

No.175 23/02/09 18:04
旅人さん0 

群馬県前橋市の富士見町というところに、以前からずっと気になっていた神社さんがありました。
通り沿いに鳥居が突然あらわれるところも、そして走り去る窓の景色の中ようやく読み取れたその神社さんの名前も、とても気になっていたものでありました。

ただどう見ても駐車場があるように見えず、路駐も無理な所であり、ずっと諦めていた参拝でありました。

ところが。
だいぶ前になりますが、この前を通ったとき、駐車場があるという小さな看板を見つけたのです。

その神社さんは【八大龍神宮】さん。


…龍、好きなんですよ。
龍って、生物としては存在してはいないということもあって、その存在は畏れ多いけれど、なんとも心がワクワクするような存在ではないですか?

八大龍神、八大龍王さまといえば思い出すのが、
『時により 
  過ぐれば民の嘆きなり
    八大龍王雨やめたまへ』
源実朝の有名な和歌の一つです。


この歌には『建暦元年七月、洪水漫天、土民愁歎せむことを思て、一人奉向本尊、聊致祈念云』との詞書があります。

実朝二十歳の時の作品であります。

八大龍王は法華経に出てくる龍の王。雨をつかさどり、主に雨乞いの対象であったといいます。
その神、龍王に向かって、民の嘆きを訴え、祈りを捧げる歌です。

以前にもこの歌については書いておりますが、若干二十歳の若き将軍が、民の嘆きを憂い、神に祈り、歌を作っていることに私はそれこそ小学生のころから感動し、以来実朝公のファンでありますくらいです。


その八大龍神さまをお祀りしている神社さんですよぉぉ。


ようやく念願叶って、参拝することができました。

No.176 23/02/10 13:29
旅人さん0 

明日ニ月十一日、NHKのブラタモリは群馬県前橋市が舞台といいます。

「前橋って…何を紹介するんだろ」
と夫。
「私なら…、まぁ『臨江閣』とか、『総社』の辺りとか?
あまり他では見られないだろう珍しいものとしては『岩神稲荷神社』の飛石とか?…マイナー過ぎかなぁ。でもタモリさんって地質とか好きなんでしょ?岩はダメかな。前橋市って大きな岩があちこちにごろごろしてるじゃない」

「まぁ臨江閣はあるだろうな」

臨江閣は明治時代に群馬県令であった楫取素彦や前橋市の有志で建てた、迎賓館であり、貴賓館。
私は一度も観なかったのですが、かなり前にNHKの大河ドラマの舞台の一つであったはずです。
ブラタモリ、NHKですしね。

前橋市は結構古墳も多いけれど、ブラタモリのテーマとなるのがどんな視点なのかがいまいちよくわからない。

あ、タモリさんって吉永小百合さんの大ファンなんでしたっけ?
JR東日本のCMで小百合さんが訪れた古墳の一つが前橋のものだったよな。

あまり誇るところのない群馬県ではありますが、どんなところが紹介されるのか、生まれも育ちも群馬県という生粋の群馬県民は、群馬県が取り上げられるというだけで、ちょっと心が弾んでしまう、のであります。

火山の噴火とかでかなり地形の変化もあった土地でもあります。
うーん、楽しみです♡

No.177 23/02/11 05:19
旅人さん0 

寄り道のつもりで書いた【岩神稲荷神社】さんの【飛石】のことがどうしても語りたくなってしまいました。
ブラタモリで扱われるかどうかもわからないし、遠回りして寄り道しているみたい。(…思えばそんな子供時代であった気がする私です。)

岩神稲荷神社さんは町によくある、地元の方が管理している神社さんであります。
お社は大変新しくて、そこを見るだけでも地元の方がいかに大切にされているかを計り知ることのできる、神社さんであります。

【飛石】と呼ばれる岩に、上野厩橋(前橋)藩初代藩主であり、雅楽頭系酒井家宗家初代の『酒井重忠(しげただ)』公が稲荷大神を勧請したことから岩神稲荷神社と称され今に至ります。

神社の背後に小さな山のような巨大な石が見えます。
これが『岩神の飛石』と呼ばれる巨石で、その大きさは周囲約70m、地表に出ている部分の高さは約10m、そして地中にもさらに約10mも埋もれているといわれています。
相当遠景からでなければ石全体を写真におさめることは出来ず、神社の背後から見るとほぼ完全に社殿が隠れてしまう程の大きさであります。
赤褐色の火砕岩と溶岩で構成されているといいます。

昭和十三(1938)年に国指定天然記念物に指定されました。

この『飛石』、長らく赤城山由来とされてきましたが、2016年の科学的分析調査の結果、約2万4,000年前の浅間山大崩落による火山泥流で流されてきた、浅間山由来だと判明したとのことです。

群馬県に住む者としては、この飛石から浅間山までの距離を考えると、その壮大さにビックリいたします。
直線距離でもおそらく五十キロはゆうに離れていると思われるのです。

いわゆる『赤土』と呼ばれる、『関東ローム層』が形成された時期と同じ頃に火山から噴出された岩石であるといい、それが故に、この飛石も全体が赤褐色に近い色をしています。
関東ローム層って…いつごろ?
なんでも第四紀と呼ばれる、今から約三万〜一万二千年前とも言われる時代のことのようです。
(…あってるかなぁ)


この石にまつわる伝承の中で最も有名な話も、実はこの〝赤色〟が重要な役目を果たしているのです。


No.178 23/02/11 05:28
旅人さん0 

(寄り道の長いおばさんですみません)

この石にまつわる伝承で、

昔、石工達がこの岩を削って石材にしようと考えたことがあった。そこである石工がこの石にノミを当てて打ち込んだところ、その部分から血が噴き出してきたという。そして打ち込んだ石工は急死し、誰もこの石を削ろうという者はいなくなり、やがて祟りを鎮めるために神社を建立したという。



ものがあります。

その後、厩橋藩初代藩主の酒井重忠公が稲荷大神さまを勧請し、『岩神稲荷神社』さんとなったようです。

この石(岩)、見るだけで本当に神秘を感じ、自然の大きさに畏敬の念を抱かずにはいられないのであります。


有名か、と言われたら、うーん、どう、かなぁ。

でもこのロマン。


…タモリさん、好きかなぁ。

岩神稲荷神社さんと、岩神の飛石が大好きな私としては、ぜひ見ていただきたいと思うのであります。


No.180 23/02/12 06:26
旅人さん0 

昨晩のNHKのブラタモリ、予約していたにもかかわらず、何故か時刻を迎えてもチャンネルが変更されず、焦ったところからスタートするあたり、こんなとこまで珍道中?と思わずにいられなかった私。

慌ててチャンネルを変えて。

いきなり『岩神稲荷神社』さんの【飛石】からのスタートに思わず(やったぁ!)と、心躍るおばさんでありました。

画面からはよく散策しているコースが映し出されます。
県庁の辺りから前橋東照宮すぐそばの公園、そしてもう一つ予想していた【臨江閣】。

古墳もあつかわれて、すっかり上機嫌なおばさんでありました。
まぁ、古墳は吉永小百合さんが訪れたものとは違う古墳が紹介されていましたけれど、ね。

お城も総社の方のものではなく、前橋城の方でありましたが。

「前橋市に所在する県庁は、かつての『前橋城』の建物をそのまま利用していた…」

あ、そうだ、そうだったよ。
すっかり忘れていましたが、私の小学生の頃はまだその前橋城の建物を利用したもので、そこへ社会科見学に行ったものでした。
夫は行かなかったらしいんですが、その頃通っていた小学校(教諭)にもよりますし、ね。…その話をしたところ、たいそう悔しがっていた夫でありました。

ただ、ね。
前橋城って、川の氾濫を受けて一部が流されてしまい、当時の殿様が違う県に移り住んだくらいの、なんとも哀れな感が私の中には強くて。
その前橋城が名城だったことなんて、すっかり頭から抜け落ちていました。

それを、土地を見て
「ここは城を建てるには絶好の土地じゃないですか」
というあたり、タモリさんの学の深さに改めて頭が下がりました。
本当に頭のいい方なんだなぁ。

どうしても自分が子供の頃、お笑いタレントだった頃のタモリさんの芸風を知る者としては、びっくりするところから始まることが多いけれど、本当にすごい知識を持つ方だと思います。


さて。
そんな昨日は、【建国記念の日】ということで、珍道中ペアは近くにある【神明宮】さんを参拝させていただきました。
梅が咲いて、春らしい陽気であった昨日、神明宮のお社もいつも以上に明るくみえました。
一昨日の雪の日から一転して穏やかであたたかな日となりましたことも、神さまのお力と強く感じて、あらためての感謝をお伝えいたしました。

No.181 23/02/13 08:43
旅人さん0 

昨日、ブラタモリで紹介されたコースを車で走って。

岩神稲荷神社さんは駐車スペースが少ないので、車の中からの遥拝いたしました。

何気なく車で走っていた道が、なんだかとても新鮮で、それだけで得した気持ちになりました。

県庁もいつも以上に人出が多く、春の陽気に誘われてやって来られた方々なのか、ブラタモリの影響なのかはわかりませんが。

県庁のすぐそばの敷島公園は、スタジアムに向かう車が渋滞の列をなしていました。敷島公園は薔薇で有名ですが、一昨日からの春の陽気に梅の花が咲いていました。
白梅、淡い桃色の梅、濃いピンクの梅。


暦の上では〝春〟でしたね。

No.182 23/02/13 12:57
旅人さん0 

さて。

前橋市富士見町に鎮座される【八大龍神宮】さんの参拝の後、妻思いの夫は、以前から私が参拝を熱望してありました、同じく前橋市の片貝町というところにある【片貝神社】さんと、【虚空蔵菩薩】さまのお祀りされた御堂に向かってくれました。

【虚空蔵菩薩】さまは、知恵の菩薩とも評され、人々に知恵を授けてくれるともいわれる仏さま。

同じように知恵を司る仏さまに【文殊菩薩】さまがおられますが、一般に、
学問などの知恵を司るのは『虚空蔵菩薩』さまで、『文殊菩薩』さまは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味する『智慧』を司っているといわれています。

自慢ではありませんが(…どうしてこういう言い回しをするのか、いまだに理解していないのに、この言い回しをあえて使う)、知恵も智慧もない私。

私の、微少しかない知恵を司るという『虚空蔵菩薩』さま、智慧を司る『文殊菩薩』さまが祀られていると聞けば、すがる思いで詣でたいと思う。
そんな切実な思いを抱く妻のために、今回はかねてから熱望しておりました虚空蔵菩薩さまをお祀りすることで有名な片貝町へ連れて行ってくれました。

…まぁ、祈るばかりではいけないことは充分承知はしているのです。
してはいるのですが、やっぱり『虚空蔵菩薩』さま、『文殊菩薩』さまがお祀りされていると聞けば、参拝させていただき、あやかりたいと願う。
…そんな切実な思い、願いを抱く妻を乗せて…到着いたしました【片貝神社】さん…でありました。


…ない。

駐車場が、ないっ!

No.183 23/02/13 16:40
旅人さん0 

こちらの【片貝神社】さんは、鳥居から入る入り口と、祭事のときなどに開けられるであろう門扉があるのですが、入り口はそこだけ。
鳥居からの車の乗り入れはもちろん、鳥居の幅のみが入り口であり、車は境内に入ることは想定しておられない神社さんであります。

鳥居を車でくぐったり、参道をタイヤで踏みつけたりすることに大変抵抗があるものですから、これはこれで大変好感を持てました。
が。
車…、どうしましょ。

ごみステーションのそばにスペースがあるのと、例の門扉の前にちょうど一台車を停められるくらいのスペースがあります。

車で来られた方って、どうされているのだろ。

で。
結局、この日は土曜日ということで、ゴミの回収はされないという判断のもと、ゴミステーションのそばのスペースに置かせていただくことに。
門扉の前ってやっぱり抵抗があるじゃないですか。

ここに停めると決めるまで、実に車で片貝神社さんの横を行ったり来たり。
ぐるっと一周どころか二周してしまいました。
近くに公民館とか無いんですよね。


と、いうわけで、なんとか、近隣の方にも、道を走る車の方にも迷惑をかけないだろうところへ車を停めて…。

ようやく【片貝神社】さんの鳥居の前に立つことができました。

No.184 23/02/13 17:37
旅人さん0 

その鳥居の手前に。
鳥居手前の右側に、周囲十メートル程の、八角形の【虚空蔵尊鰻池】と称された池がありました。

あっ!

そうだ!
ここだったんだ。
群馬県前橋市のある地域では、いまだに昔からの言い伝え通り『鰻』を食さない地域があると。


『…その昔、この地域で洪水が発生し、古くからこの辺りの人々の信仰の対象であった仏像の虚空蔵菩薩が流されそうになりました。
するとどこからか鰻が現れ、流されそうな虚空蔵菩薩像にぐるぐると体を巻きつかせ、洪水から守ったというのです。以後、鰻は虚空蔵菩薩の化身として人々の信仰を集め続けました。

このように鰻は虚空蔵尊の化身として信仰者から特別の保護を受けてきました。
もちろん片貝の住民は鰻は虚空蔵菩薩の化身なるが故に絶対に食する者はおりませんでした。片貝の水を三日間飲用した者は向う三年間は鰻を食用しなかったとの云い伝えも有った程であります。

特に眼病治癒に霊験あらたかな事から、当時医学の進歩しなかった時代でもあり、難病や眼病の治癒祈願のために鰻を奉献する事を誓い、大願成就して鰻をこの池に放流したといいます。
そのためかこの池の鰻は祈願奉納した患者の身代りとなって眼を患い、片目の鰻となっていたと伝えられています。
また、昔からこの池の鰻を捕ると目が見えなくなると云われていました。
ある時「そんなことがあるはずがない」と言って池の鰻を捕ったところたちまち目が見えなくなってしまったと云われています。


この様な霊験を知って医学の進んだ現在でも、沢山の信仰者からこの池に鰻が奉納されています。』


 
この前橋市の片貝町以外にも「虚空蔵さまの使者や化身である」という理由から、
『虚空蔵さまを祀る地域』および『丑・寅年生まれの人』は鰻を食べないという伝承は日本全国で数十ヶ所もあるといわれております。

それら地域の特徴としては、洪水が多発した・水害が多かったということが共通しているようです。


そして。
少なくともコロナ禍前まで、こちらの神社さんでは四月の祭礼日には『太々神楽』の奉納と共に『奉納鰻』がこの池に奉納=放流されていたとのこと。

ただ、こちらの池、鉄製の結構背の高い柵で囲われていて、しかもポンプで泡がたてられており、鰻がいるかどうかまるで見えなかったのですが。

No.185 23/02/14 03:06
旅人さん0 

【片貝神社】さんは、群馬県前橋市東片貝町に鎮座し、片貝神社の社殿を挟み、西に『早虎稲荷神社』、東に『虚空蔵堂』のある神仏混合の神社です。

神社のある東片貝町は、江戸時代頃からある地名であり、前橋藩領でした。もとは西片貝村(現 西片貝町)と一村で片貝村と称されていました。
地名の由来は、昔、この辺りを利根川が流れていましたが、水が静かで片方の櫂で漕いで進めたことに由来すると云います。地域は、桃ノ木川右岸の広瀬川低地帯に位置します。
…そう、まさにあの『ブラタモリ』で紹介された。

『桂萱村誌』によると、平安時代初頭の弘仁二(811)年に『伝教大師(最澄)』の弟子【宥海上人】がこの地に庵を結び、自ら彫った虚空蔵菩薩の像を安置したのが創始とされています。

古くは星宮とも称していたといいますが、明治元(1868)年の太政官布告によるかの【神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)】により、
【天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)】さまを御祭神とし、
【虚空蔵菩薩】さまは分離して社殿隣の虚空蔵堂に祀られる事になったといいます。

当初は【桂萱大塚古墳(かいがやおおつかこふん)】の頂に祀られていたのだといい、それを神仏判然令によって分離された際、古墳の前方部を切り崩して本殿を造営したとも記されています。

この『桂萱大塚古墳』は、全長約五十七メートル、後円部高さ約七メートルの前方後円墳。
社殿脇に横穴式石室が開口しているのだといいます。
前方部は神社の社殿で完全に削平され、後円部も前方部側に社殿があり一部墳丘が削られ石垣で法面が覆われています。
それでも後円部残存部は高さのある墳丘を残しており、墳頂部には月山大神、湯殿山大神、出羽大神、猿田彦大神など石塔が多数祀られているといいます。

また、片貝神社社殿の西隣の境内にある【早虎稲荷神社】は、江戸時代中期の寛延二(1749)年、播磨国姫路藩から前橋藩に転封してきた【松平朝矩公】公が、『前橋城』の丑寅の方角にある片貝神社に虚空蔵菩薩が祀られていた事から、鬼門除けとしてこの稲荷社を造営したと伝えられています。

No.186 23/02/14 08:18
旅人さん0 

昨日は遠く青森の地へ出張に出向いていた息子が、近くまで来たからと、お土産を届けてくれました。

一日早いバレンタイン♡

と思っていたら、今朝は今朝で同居の息子からチョコレート♡

うーん♡
歳をとるのも良いこともある。

No.187 23/02/14 14:32
旅人さん0 

境内右端に神楽殿があります。
大祭にはここで太々神楽が奉納されるのでしょう。
舞台の前面にある柵が軽くカーブをえがいていてオシャレな感じがいたしました。

こちらもコロナ禍だからなのか手水舎の水はありませんでした。

そして。
中央に建つ【片貝神社】さんの社殿前に、七、八段の石段があり、そこを登っての参拝となります。
両隣にある『早虎稲荷神社』さんの社殿、『能満虚空蔵尊』の御堂は同じ高さの境内となります。


まずは片貝神社さんへ。
あまり大きくはない、明治から昭和にかけて建てられた建物と思われる社殿です。
それでも、村社であったことを考えると、三つの、それぞれが同じくらいの建物であることを考えると、かなり立派な神社さんだと思います。
建物は白木のまま、なのですが、龍や花などの彫刻の部分を平成くらいの時代で塗り直しているのでしょうか、鮮やかな色が目を引きます。

原色の赤やら青やら黄色、黒、水色、緑…、すこぉし現代的アートの色合いの強い、インパクトのある配色です。
社殿自体は白木のものが経年変化したものなので、余計にその彫刻…というよりはその色が目につきます。

虹梁に梅の枝が彫られているのですが、花が赤く塗られ、若い枝は緑で彩色されていて、たいへん目立つものとなっていました。
その上で睨みをきかす龍は、ガンダムのザク(グレーを混ぜたようなグリーン)の色に紺の鱗、お腹の部分はクリーム色と、やはり現代的な彩色で。
語彙力のない私がガンダムのザクの色、などという表現をするから余計に現代風に感じられますかね。ご存知の方でしたら一番イメージしやすい色合いかと思います。とにかく私は一目見て「ザクの色だ」と思ったもので。

扁額には金属製の社紋が付けられていてその下に『片貝神社』と書いてあり、中央上部に『神祭』と右から左に書き、その下に大きく【天之御中主神】と墨書きされています。
厚い板に直接墨書きしてあるよう見えました。
壁面に奉納額が所狭しとまつられていて奉納額の多い神社さんだなぁと思いました。

裏手は石垣が組まれており、その石垣に沿って小さな祠がきれいに並んで祀られておりました。

No.188 23/02/14 16:14
旅人さん0 

さて。

次はみぎてにあります【虚空蔵菩薩】堂へ。
片貝神社さんの社殿前から石段を降りて、虚空蔵堂の前にある石段をあらためて登ります。

正確には【能満虚空蔵菩薩】さま、であるようで、立派な大きな石塔が建てられ、【片貝 能満虚空蔵菩薩】と彫られています。

ちなみに、能満虚空蔵菩薩とは虚空蔵菩薩の〝5つの智恵〟を5体の菩薩像=五大虚空蔵菩薩であらわしたうちの『宝光虚空蔵菩薩』のこと、だといいます。


ここから赤城山を見ると、丑寅の方角に赤城山の小沼があり、赤城信仰においては小沼の神である高野辺大明神の本地物は虚空蔵菩薩とされることから、里宮として創建されたのではないかとの考察もあるといいます。

石段を登った一番上のところには、ミントグリーンの金属製のアーチが架けられていて、円の中にそれぞれ一文字づつ、〝虛〟〝空〟〝蔵〟〝尊〟と、レタリングされたような文字が書かれています。

そのアーチをくぐると正面に香炉があり、左右に…!
左右に狛犬ならぬ『狛寅』さんと『狛丑』さんがおられるではないですか♡

先日『狛寅』さんや『狛卯』さんは拝見いたしましたが、こちらは右側に『丑』、左側に『寅』が配置されています。
これは『虚空蔵菩薩』さまが丑・寅年の人の守り本尊とされることから、〝牛像〟と〝寅像〟を建てた、ということなのでしょう。
なかなかセンスが良い♡
しかもこの石像の出来がまたなかなか良くて。
躍動感があってガオォっと大きく口を開けた寅像が〝阿〟で、春の陽だまりでくつろいで座っているような柔軟な顔をした牛像が〝吽〟、となっています。
例によって例の如く、あちこちさまざまな方向からじっくりと拝見させていただきました。

そして中央に大きな香炉があり、その右側には二体のお地蔵さまの像が祀られていました。

一体は結構新しめなもので『子育て・子授け地蔵尊』とされていました。
もう一体はおそらくあの明治時代の悪しき行いで首を落とされてしまわれたものを、新たな首を継いだお地蔵さまの石像でありました。
こちらのお地蔵さま、大きな亀の上に立っている像であり、特記すべきは亀の上でさらに舟に乗られてお立ちになっておられる…といったもの、なのであります。

惜しい。本当に惜しい。
せめて原形をとどめる場所でもあれば…。

No.189 23/02/15 08:07
旅人さん0 

落ち葉が溜まった御堂の前でありました。

御堂の前に香炉があったり、お地蔵さまが屋根でお守りしてあることもあって、ほぼ空間に余裕がないことと、赤城おろしと呼ばれる群馬県特有の強い風が原因かと思われます。

ですが。

そんな落ち葉の上に立ち、御堂の前で姿勢をただしたその時、スッと清らかで研ぎ澄まされた気を全身に受けた気がいたしました。
その気を受けてハッとしたくらいでありました。


そのあまりにも高貴な気に、いつものよう(頭を良くしてください)とか(認知症になりませんように)とかの自分の願い事などをすることなどすっかり頭から飛んでしまい、心の中(いつもお見守りいただきありがとうございます)と申し上げるのがやっとでありました。
いつもでしたら御真言もお唱えさせていただくのですが、それすらもできず、本当にいつもの御礼を申し上げ頭を下げるのがやっと。

小さな御堂であります。
片貝神社さんの社殿と同じ頃に建てられたものと思われます。
軒に〝危ないので乗らないで下さい〟と世話人の方が書いておられたくらいです。


建物など何も関係しないのだ。
神さまや御仏は、敬い崇める気持ち、大切に思う気持ちを見てくださっておられるのだ。
…もちろんこれは私ではない、この地の方々、そして信仰し常にここを訪れお詣りする方々のこと。

そんな風に強く強く感じました。

祈願するのではなく、自ら考えて努力するよう、お教えくださった。
そんなふうに思えました。
…たしかに。
何よりも大切な大切なことです。

それをお教えくださる虚空蔵菩薩さまにお詣りできたこと。
それは何よりもすごいご利益であります。



今日は涅槃会。
いつもお詣りさせていただいているお寺さんの涅槃会の法要に参列させていただきます。
十五日ですので神社さんへのお詣りと。
そして、父たちのお墓参り。

今日は中身の濃い一日になりそうです。

No.190 23/02/15 16:49
旅人さん0 

涅槃会に参列させていただきました。

このコロナ禍で、檀家でもない私ですのに本当に本当にありがたいことです。

若いご住職さまが初めて執り仕切る涅槃会。
いつもこちらのお寺さんに通っておられる、同派のお寺さんの跡継ぎとなられる、やはりお若いお坊さまと、お二人での法要でありました。

はじめに少しお話をされ、そのなかで涅槃図を拝しながら
「実はこのお釈迦さまが入滅され、その亡き骸を囲んで、ある者は泣き、ある者はその功績を讃え、ある者は感謝の言葉を述べる、この涅槃図に描かれたシーンが、『お通夜』のルーツとも言われています」
とのこと。

…初めてお聞きしました。
まぁ、私の場合、神仏に関わることなく生きてきた期間が長いため、当たり前のことすら知らなかったりするのでありますが。

「お釈迦さまは人。生きる苦しみを知り、生きるということは苦しみばかりだと説いたお方です。修行をされ悟りをひらき、それを生きとし生けるもの全てに、自らが悟り得たことを、個々に合わせてその者が理解できる手段を選んで伝えてくださった方でありました。
その教えを受けた者たちが、お釈迦さまの亡くなられたのち、教えをまとめ、たくさんの経という形にまとめました。
お通夜という席は、そういった故人の人柄や功績を語り合う席であるのだと考えていただければと思います」

「これから法要のなかで、数あるお経の中の一つ、般若心経を皆さんにもお唱えいただきます。般若心経では全ては空(くう)であると説かれています。生きていると落ち込んでくよくよしたりすることもあるかと思いますが、それもまた空(くう)。今日はこの涅槃絵の前で本質を受け止め,真摯に向き合っていけば良いのだというお釈迦さまの説かれた悟りを噛みしめながら般若心経を唱えてみてください」

とおっしゃって、法要を始められました。
お二人ともよく通る澄んだお声であります。御本堂の隅まで響く、ああ、これが修行された方のお声なのだなぁと、しみじみと感じ入りました。

…せんのご住職のときとはまるで異なる、ご自分なりの、今の自分に合った法要をとお考えになられたようです。

No.191 23/02/15 19:21
旅人さん0 

涅槃図はそのお寺さんお寺さんで異なり、おそらく同じものは一枚としてないのでしょう。

ただ、涅槃図の基本的な決まりごととして、
十五夜の満月が中央に描かれ、右上の雲間に、お釈迦さまの生母である摩耶夫人が駆けつける姿がえがかれています。
そして。
八本の沙羅双樹(四本は入滅の悲しみで枯れ、残り四本は供花として花が咲いている)の根元に、北を頭に、西を向いて横たわるお釈迦さまが。

そのまわりを数多くの仏弟子たちが取り囲み、そのなかには菩薩などの姿もみられ、その光景は荘厳なものであります。

弟子のみならず動物も駆けつけ、お釈迦さまの死を悲しむ姿が描かれています。
本来の「涅槃絵」では描かれることが稀な魚類、昆虫などが描かれたものもあります。(夫の実家の檀那寺さんのものがまさにそれでありました)

描かれる姿もとても写実的であり、動物たちは手向けの花を口にくわえたり、手に持ったりして、お釈迦さまの死を悼んでいる姿はけなげなものであります。


また「涅槃図」には本来猫が描かれることはないのだといいますが、それでもあえて猫を描いたものもある、のだといいます。
京都東福寺の日本最大とされる『大涅槃図』(縦15m、横8m・室町期・明兆作)にも、猫が描かれているといいます。
(ただ、この明兆作の涅槃図は現在修理中のため、今年の涅槃会では呉道子作の『八相涅槃図』が公開されたといいます)

猫を描かない理由は諸説あるといい、
危篤を聞き駆けつけた、摩耶夫人の投げた薬が木にひっかかり、それを鼠が取りに行くことを妨げないためとも、
猫は鼠を捕って殺生をするためともいわれるそうです。

なお、この摩耶夫人の薬を投げるという行為から、【投薬】という言葉が生まれたという説もあるといいます。


私どもは動物好きで、猫も大好きです。
なので猫のいる涅槃図を見てみたいと思うのですが、なかなか出会えません…というより、涅槃図自体を拝する機会があまりないとも言えますが。


いつか東福寺の大涅槃図を拝見できたらいいなぁ。

No.192 23/02/16 04:04
旅人さん0 

涅槃会の法要のあと。

涅槃団子、ならぬ涅槃饅頭をいただきました。
掌で包み込めるかどうか、くらいの、ちょうど十五夜などでお供えするお団子くらいの大きさの、赤・緑・黄色の小さな点のついたお饅頭でありました。

これがほどよい、上品な飽きのこない甘さのこし餡で。
これをなんと八個もいただきました。

参加費とかは一切ないので、檀家でもない私は申し訳なさにお賽銭箱にいつもよりかなり多めにお金を入れてまいりました。

一般にはお団子であることが多いようですが、京都のあるお寺さんではな、な、なんと!『お釈迦さまのはなくそ』と呼ぶお供物をお配りしているところがあるのだとか。

…よりにもよって、…はなくそ。

そういうことにくいつく辺り、お里が知れるといいますかね。

でも、びっくりしませんか?
かなりのインパクト、ですよね。
…京都では別のものを示すことがあるのでしょうか?

漢字で『花供曽』と書くのだといいます。

京都の左京区にある天台宗のお寺【真如堂】(=真正極楽寺(しんしょうごくらくじ))さんの、御本尊である阿弥陀さまへの供物とした鏡餅を、細かく刻み、軽く焼いて黒砂糖をからめた『あられ』だといいます。

寺伝によれば、仏さまへの供物を意味する「花供御(はなくご)」に由来するとされるようですが、これも定かではないといいます。

こちらでは、古くから涅槃会に際して参拝者に授与しており、供物の「御下がり」として、食べれば一年、無病息災で過ごせるといわれているといいます。
ちなみにこの製造は老舗の和菓子屋さんだそうですので、今もこの鏡餅が使われているかどうかは定かではありませんが。

現在では、同じく京都の【東福寺】さんの涅槃会でも『はなくそ』は授与されているといいます。
ただし、こちらは黒豆やあられを飴でからめたものだとのことで、やや形状は異なるといいます。
.京都以外の涅槃会でも、こうした『はなくそ』をお配りされるお寺さんはあるのでしょうか、ねぇ。

それにしてもやはり『はなくそ』とは、なんとも大胆な呼び名であります。

ただ。こうしたありがたいお供物にユーモラスな名前を付けるところに、京都の人々にとっての『涅槃会』やお釈迦さまに対する親近感が伝わってくる気がいたします。

こうした宗教と人々との密接かつ日常的なつながりがあるのが、京都という町の特質でもあるだろう。

No.193 23/02/16 04:42
旅人さん0 

食い意地のはったおばさんは、まだまだ涅槃団子を引っ張ります 笑。

そう、いただいたお饅頭に付けられた赤・黄・緑の点。

以前、先代のご住職の代にうかがった涅槃会では、赤・黄・緑に白の四色のお団子をいただきました。

この色の意味って…。

実は涅槃団子は、仏舎利(ぶっしゃり)を模したものといわれているのだといいます。

仏舎利とは、お釈迦様が亡くなって火葬をしたあとの御遺骨のこと。

『仏舎利を巡って、お釈迦様のお弟子さんたちの間で争いが起こらないように平等に分配した』という話に倣い、涅槃会では集まった人々に、仏舎利に見立てた涅槃団子を配ったり撒いたりするのだといいます。


以前こちらのお寺さんで涅槃団子をいただいた際、食べると一年間無病息災で過ごせるといわれ、お守りとして小さな袋に入れておくのも良いということをうかがいました。
生まれて初めてお授けいただいた涅槃団子が嬉しくてありがたくて、離れて暮らす子どもたちにも食べさせたくて、冷凍しておいて帰ってきたときそんなことを言い伝えながら食べさせたものです。


…涅槃団子の色の意味は?

そうそう、この色の意味。
涅槃団子が仏舎利を模したものとするならばそんな色があってはおかしいだろうと思うのです。

その色はなんと、赤・黄・緑・白のほか、黒といった全部で五色、なようで。
黒を除いての四色であることもあるともいわれています。

…だって、仏舎利、…御遺骨、でしょ?

実は釈迦の骨が五種類の色に輝いたからという説があるのだとか。
うーん、そ、そう、そうかなぁ…。
そんなこともある、のかなぁ。


また、仏教において宇宙は『空・風・火・水・地』の五つの要素によって構成されており、
空=緑、
風=黒、
火=赤、
水=白、
地=黄を意味しているという説もあるといいます。

そ、そうだね、それが良い、かな。
そっちの方がいいかな。
お骨が五色って、…たしかに有難きこと、有難いことが起こるほどの偉大さとか、非凡さとかに通ずるかもしれないけれど。

五色の骨って…なんか不気味な気がするのは、私だけ?ですか?





No.194 23/02/16 06:09
旅人さん0 

そういえば、お寺さんで五色のものといえば、垂幕であったり、吹き流しであったり、旗であったりがあります。

これも青・黄・赤・白…樺色(かばいろ)であったり、緑であったり、紫であったりしますが、いずれにしても五色、なようです。

まず青はお釈迦さまの髪の毛の色、だといいます。…。
青?
むかぁし、むかしの方だから、そんなこともあったのでしょうか。
うーん。
…たしかに、御仏像の髪の毛(?)は青であることが多いです。
が、仏典に〝釈迦の髪の毛は鮮やかな青色である〟とはっきりとき説かれているとのこと。
うーん。

そして黄色はお釈迦さまの体の色。…これも仏典に〝釈迦の体は金色に輝く〟と説かれているようです。
ええ、仏像も金箔などで金色に輝いておられます、はい。

赤は血液の色。
うん、よかった。これが緑だったらもはや信じないところです。
お釈迦さまが人々を教え導こうとする情熱を象徴しているとのことです。

白は歯の色で、仏典に〝釈迦の歯は純白でこの上なく美しい〟と説かれているといいます。

残りの…樺色だったり、紫だったり、緑だったりは衣の色、だといいます。…お坊さんの、なようです。


まぁ、これも諸説あるようですが、ね。



No.195 23/02/16 16:17
旅人さん0 

偉大な、仏教の開祖が実在の人物であったかどうか、などと疑うなどとんでもないこと。…とは思うのですが。
髪の色が鮮やかな青色であるとか、体は金色に輝く、とか言われると、それはどうかと思う私がおります。

これは偉大であるが故に、時代とともにさまざまな伝説が加わっているから、でありましょう。

そのほかにも、お釈迦さまはお母さまである摩耶さまの右脇から産まれた、であるとか、生まれてすぐに七歩歩いて『天上天下唯我独尊』とおっしゃった、とかいった類の話であります。

私と違って純粋で素直な多くの人たち、仏教徒の多くはそれらの伝説もほとんど疑うこたなく信じていたのです。
今でも、お坊さんのお話を聞けば、やはりお母さまの右脇から産まれたと言い、生まれてすぐに歩いて話したとはっきりとおっしゃいます。
(苦笑いしながらそう語るお坊さんもおられますが… 笑)

ですが、十九世紀に、インドに進出したヨーロッパ人の中に、インドの歴史や文化、仏教に興味を持つ人々が現れ、彼らは仏典を他の古文書と同様に学問的に研究し、さまざまな考古学的資料を発掘して史実を確認していきました。
実はこれが仏教を科学的、学問的に研究した最初であるのです。


1898年、イギリスのペッペという人物が釈迦の遺骨をまつった仏塔を発掘し、その中から壺に入った人骨を発見しました。
…仏教と関わりない生き方をしてきた人種であるからこそできたことでありますよね。

その壺にシャカ族の聖者をまつったという銘文が刻まれており、その後文献などと照合した結果、これは釈迦の本物の遺骨であることが判明しました。
これにより、釈迦は歴史的人物であることが証明されたのです。

…歴史的発見、ですよね。
でも仏教徒にしてみれば、当然のこと、当然の結果、でしかありませんけれど。


ちなみに。
このとき発掘された釈迦の御遺骨=仏舎利はタイ国王が譲り受け、その一部が日本に贈られて、愛知県名古屋市にある【覚王山日泰寺】におさめられています。

その御遺骨がちょうど米粒くらいの大きさだったことから、…畏れ多いことではありますが…、日本では米つぶのことをシャリと呼ぶようになったようです。

ちなみにサンスクリット語では〝シャリーラ〟といいます。

No.196 23/02/16 18:20
旅人さん0 

涅槃図の覚書。

【阿那律尊者(あなりつそんじゃ)】
摩耶夫人を先導している人。
阿那律尊者は、お釈迦さまの十大弟子の一人で。お釈迦さまの説法中に居眠りをしてしまったことを恥じて、絶対に寝ない、という誓いを立てます。
結果、視力を失ってしまいますが、そのことがかえって智慧の目を開くきっかけとなりました。十大弟子にはそれぞれ異名が付されており、阿那律尊者「天眼第一」の異名をもっています。


【摩耶夫人(まやふじん)】
図の右上に描かれているのがお釈迦さまの生母、摩耶夫人です。
摩耶夫人はお釈迦さまの生後七日目に亡くなったと伝えられています。今まさに涅槃に入ろうとしているお釈迦さまに長寿の薬を与え、もっと長く多くの人にその教えを説いてほしいとの願いからやって来ました。


【薬袋】
お釈迦さまの枕元の木にぶら下がった状態で描かれている赤い袋が、摩耶夫人がお釈迦さまのために投じた薬の入った袋です。『投薬』という言葉はこの故事が元になったとも言われています。
薬は摩耶夫人の願いもむなしく、お釈迦さまに届く前に木に引っかかってしまいました。
なお、この袋の背後に錫杖が描かれていることから、当時の僧侶が許されていた最低限の持ち物(三つのお袈裟と一つの器)を入れたものであるともいわれています。


【沙羅双樹】
お釈迦さまの周りを囲んでいるのが沙羅双樹の木です。
向かって右側の四本は白く枯れています。これは、お釈迦さまが入滅されたことを人間や動物だけでなく、植物も悲しんだことを示しています。
一方、左側の四本は青々と葉を広げ花を咲かせています。お釈迦さまが入滅されてもその教えは枯れることなく連綿と受け継がれていくことを示しているといいます。
葬儀の際、祭壇に飾られる【四華花】は、この沙羅双樹の故事が元になっているのだといいます。


【お釈迦さまに触れる人物】
多くの人々の中で、唯一、お釈迦さまのお体に触れている人物がいます。
お釈迦さまに乳粥を施したスジャータ、
または、お釈迦さまの教えを聞こうと訪れたが時すでに遅く、悲しみに暮れる老女など、諸説存在するといいます。
鎌倉時代の構図の中には、お釈迦さまと阿難尊者、そしてこの人物だけが描かれている涅槃図もあり、重要なメッセージが込められた人物であることは確かなのですが、真相は謎に包まれているようです









No.197 23/02/16 18:34
旅人さん0 

涅槃図の覚書 その2

【阿難尊者】
お釈迦さまの側で悲しみのあまり卒倒している人物が十大弟子の一人、阿難尊者です。
長くお釈迦さまの身近でそのお世話をした方で、最も多く教えを聞いた人物であることから「多聞第一」の異名をもちます。容姿端麗な人として模写されることが多く、涅槃図においていかに阿難尊者を美男子に描くかが、絵師の腕の見せ所なのだといいます。



【純陀(じゅんだ)】
集まって来ている人々の中で、唯一、供物を持っている人が純陀です。
実はお釈迦さまはこの純陀から受けた食事が元で亡くなったと伝えられており、一説には、食材の中に入っていた茸による食中毒であったとされています。

容態が悪化するお釈迦さまを見た阿難尊者は、純陀の食事を受けるべきではなかった、と嘆きます。
しかし、お釈迦さまは「私は純陀の食事によって寿命を迎えることができた。臨終の前に食事を捧げることは最も尊い行いなのだ」と諭しました。
この言葉には、純陀を思いやる〝慈しみの心〟と、〝死は厭うべきではない〟という仏教の大切な教えが表現されています。

【阿ぬ楼駄尊者(あぬるだそんじゃ)】

倒れた阿難尊者を介抱しているのが十大弟子の一人、阿ぬ楼駄尊者です。
実はこの阿ぬ楼駄尊者は、阿那律尊者と同一人物だとされます。
多くの弟子たちが悲しみに暮れる中、阿那津尊者だけはお釈迦さまの入滅の意味をよく理解され、当惑する人々にその死を伝えました。
お釈迦さまの葬儀を営んだ際の中心的存在であったとも伝えられています。
仏伝においては、お釈迦さまとその教えを聞く人々との間を繋ぐ重要な人物として描かれています。



前述した通り、涅槃図には人間の他にも多くの動物や虫たちが描かれていますが、その中に猫はいません。
これは、ねずみがお釈迦さまの使いとされていることに由来するとされます。
しかし、絵師が自分の飼い猫をそっと入れたり、依頼主が猫を入れてくれとお願いしたなどの理由によって、猫が描かれている涅槃図もあるといいます。

このような『遊び心』は嘆き悲しむ人々の中にも見受けられ、絵師や依頼主とおぼしき人物が描かれている場合もあるのだといいます。
これには、単に遊び心というだけではなく、お釈迦さまの最期の場面に自分も立ち会いたいという願いも込められているのだといいます。


No.198 23/02/17 04:07
旅人さん0 

書き散らかす、といった言葉がまさに私のこのスレにはピッタリ。
正確には〝書き散らす〟なようですが、〝散らす〟という表現ですと、何か、…たとえば花びらであるとか、少し美しい響きもある気がして、私のそれはまさに、〝散らかす〟。

語彙力もないおばさんが徒然、思い立ったことを思ったままに書き連ねるものだから、話の途中でも〝書きたい〟と思ったことを優先してしまい、戻り様を模索して、なんだかみんな尻切れとんぼのような、尻窄みのもので終わっていたり。

書いた文章に人柄が出ると言われたら、まさに『散らかし屋』『散らかし魔』。
なんとも恥ずかしいことで。

〝等身大〟などというと聞こえはいいですが、ね。まぁ、ありのままの私であります。
それこそお風呂から出たばかり状態。
匿名で好き勝手に書き連ねているからこそ、書いていられるようなもので、それこそ本当にミクルさんならでは、のこと。
感謝しかありません。



で。
何が言いたいか。

とりあえず、あの【片貝神社】さんに話を戻したいなぁと。

ええ、本当にすみません、散らかし魔で。

片貝神社さんに三社ある内の一社が欠けたままでは、もう本当気持ちが落ち着かなくて。
だったらきちんと書き終えてから、次を書けばいいのに、書きたい衝動が抑えられない。…子どものようです。
いや、昨今のお子さまは大変賢く、小学生でも私よりしっかりしていると思うお子さんもおられ、文章なども私より上だと思うこともしばしば。
…まぁ、歳をとると子ども返りするっていうし。

…等身大の私だし。


何よりも、ですね。
〝あの〟『早虎』の謎が解けたんですよ!
これって、以前書かせていただいた【木曽三社神社】さんにも通じる、大切なことなので。

と。いうわけで、群馬県前橋市の【片貝神社】さんに話を戻します。

No.199 23/02/17 04:43
旅人さん0 

【片貝神社】さんの社殿の向かって左側にお祀りされているのが
【早虎稲荷神社】さんです。

以前も書きましたが江戸時代中期の寛延二年(1749年)、播磨国姫路藩から前橋藩に転封してきた松平朝矩(まつだいら とものり)公が、前橋城の丑寅の方角にある片貝神社に虚空蔵菩薩が祀られていた事から鬼門除けとしてこちらを造営したと伝えられています。

で。
『早虎』の謎。
な、なんとこの出自、地元の子どもたちが作ったカルタに書いてあったのです。
あ、ちなみにこれはあの『上毛かるた』ではなく、この辺りの小学生が郷土カルタとして作ったもので、市販されてもいないものなのですが、実に丁寧に作られています。

カルタの読み札としては
『の・ 農業の守り神さま 早虎稲荷』。
その裏面に『早虎稲荷神社』さんについて解説があり、それこそに『早虎』の謎が書かれていたのです。

『【早虎稻荷 】
昔、お稲荷様のお祭りは一般に はその年の豊作を祈って、農作業 にとって大事な馬にちなんで二月の初午の日とされていました。
ところが、片貝では、十二支で午 (馬)より順番の早い虎(寅)の 日にお稲荷様のお祭りを行い、より豊かな実りをと祈りました。
そこで、ここのお稲荷様は、「 早虎稲荷大明神」と名付けられたと考えられます。
「早虎稲荷」は、特に 養蚕の神様として崇められていました』
    
     …桃瀬カルタより


…すごくないですか?
いろいろ調べてわからなかったことが、カルタ読み札の裏面の解説でわかったなんて。

ちなみにこの桃瀬カルタは、前橋市立桃瀬小学校の開校30周年記念事業として2001年に作成されたものであります。

私、実は前橋の小学校に通っていたのですが、小学校低学年で転出しており、その直後に開校したようです。まぁ、学区もちがったので、引越ししないでいたところで、この小学校に通うこともなかったし、当時の小学生の情報網で新しい小学校が開設される情報を知り得たかどうか。
…全くの余談でありますが…。(いつもの脱線)


お稲荷様のお縁日、午の日よりも早い虎の日にお祭りを執り行うこととしたことにちなみ『早虎』。
…まぁ、こちらには丑寅の守り本尊さまの『虚空蔵菩薩』さまもお祀りされておりますし、前橋城から丑寅の方角にありますし、寅にご縁のある土地柄であったこともあるのでしょうね。

No.200 23/02/17 13:07
旅人さん0 

が。

…何故『寅』なのか。

丑寅年生まれの守り本尊であられる『虚空蔵菩薩』さまが祀られる『片貝神社』さんだから、にしても。
前橋城から『丑寅』の方角にあるから、にしても、〝丑〟だっていいわけです。

…まぁ、うしとトラだったら、誰がどう考えてもトラの方が早いし。
あ、でもこの場合走る速さとかってなんら関係もないのですよね。

午(うま)よりも早い干支っていったら、どこからのスタートかにもよりますが、たいていが『子・丑・寅・卯・辰・巳…』とくるわけで。

なんとなく辰(龍)とかの方が速そうだし、(だから速さは関係していないのだって!)

干支のスタートという意味から言ったら当然『子(ネズミ)』ですし…。
丑(うし)の方が順番的に早いわけですし。

何故?

いろいろ調べてみたんです。

松平朝矩公の、前任地(正確には父の)である播磨の姫路に『早虎稲荷神社』さんはあるか、とか。
生まれ年の干支は何かとか。
前橋藩主になられた年の干支は何かとか。

ぜ〜んぶ、空振り。

奥方さまの…とも思ったのですが、奥方さまの資料はhitせず。

朝矩公って父松平明矩公の急逝により十一歳で姫路藩を継ぐのですが、『姫路』が西国の要所であったため、幼少であることを理由に、その時前橋藩主であった酒井忠恭公(なおかつ、この方は幕閣の重鎮であります)と交代で前橋藩への転封となっておりまして。

朝矩公の頃にはもう〝あの〟名城とうたわれた前橋城も城郭の破壊が進んでいて、本丸まで侵食してしまっておりました。
なので、前橋城におられた期間は十八年。

その間のどこかでこの【早虎稲荷神社】さんを造営されたわけであります。
これがいつだったのか。
巳年の年に前橋藩に転封され、九年後、九年後であればちょうど寅年にあたるのですが…。


まぁ、わからないものはわからない。なにせ二百五十年以上前のことです。

能満虚空蔵尊さまの御堂の前に立つ『狛寅』さんに笑われてしまいましょう。
そしてなにより『虚空蔵菩薩』さまに。

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