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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣巡り珍道中・改

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旅人さん
23/06/23 06:04(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3666755 22/11/06 23:54(スレ作成日時)

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No.201 23/02/18 23:25
旅人さん0 

ちなみに。

松平朝矩公は1738年午年の生まれ。
十一歳で前橋藩藩主となったのは1749年、巳年のことでありました。

【片貝神社】さんは神職の方が常駐されておらず、ネットで調べられた範囲では、【早虎稲荷神社】さんがいつ造営されたかを知ることはできませんでした。


さらには、群馬県渋川市の【木曽三社神社】さんにも鎮座されていた早虎稲荷神社さんについては資料がなく、片貝神社さんとの関連性の有無すらもわかりませんでした。
こちらはネットで宮司さまのお家がどこかを知ることができましたので、再拝の折御朱印をお願いするという名目で、宮司さまのお宅にお邪魔して、お聞きしてみたいと思っております。

なにか分かりましたら、随時こちらに書いてまいりたいと思っております。

No.202 23/02/19 06:36
旅人さん0 

【片貝神社】さん【虚空蔵堂】【早虎稲荷神社】さんは、全て同じ明治三十五年に建てられています。

同じ敷地内で、三社がほぼ同じ面積を使って建てられた、建てられている、のではないかと勝手に推測しました。

決して広くはない敷地内に、地元の方々や信者の方々の篤い、そして熱い思いが込められ詰められて建てられているなぁと、三社をそれぞれ拝させていただき、あらためて思います。

早虎稲荷さんは立派な赤い鳥居が連なっています。敷地にしてはかなり多い数が、奉納されています。
稲荷神社さんではよく見かける光景ですが、なんでも、
願いごとが「通る」あるいは「通った」お礼の意味で、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降広まったから、ということだそうで、鳥居がたくさんある稲荷神社ほど、願い事が「通る」「通った」ということ。
なるほど〜。

ちなみに先ほども述べましたが、こちらの社殿は明治三十五年に建てられていますから、それ以降の奉納、ということになろうかと。
願いを叶えてくださる霊感あらたかな神社さんなのですね。
ただ…これ以降は敷地的にもう鳥居の奉納は無理かもしれません。

鳥居の形は物覚えの悪い私が覚えられた形の一つ『両部鳥居』。
柱にさらに補助のように小さな柱が柵のように前後に二本が付けられているタイプです。
赤い鳥居が連なっている様は、それだけでそこに鎮座されておられる神さまのお力と、崇拝者の思いの強さを感じ、あらためて身を引き締めます。

ところで。
覗きぐせのあるおばさん、ですが、実は大変なビビりでもあるので、基本神社さんの拝殿の中は覗きません。
目を凝らすことはありますが、近くまで行って拝殿の中を覗くまでは畏れ多くてできないのです。

ネットの情報によりますと、拝殿の中には大きな大きな棚が左側の壁一面を使って設けられていて、小さな…あの稲荷神社さんでよく見る陶器製の白いきつねさまが棚一面に並んでいるのだといいます。

鳥居の奉納が難しくなって、こうしてきつねさまの像を納めるようにしたのでしょうか?
ですが、それももう壁一面使った棚にいっぱいなようで、今後はどうしていくのやら。
…まぁ、これはあくまで私の推測からの話ですがね




No.203 23/02/19 06:44
旅人さん0 

そして。
早虎稲荷さまの社殿のお膝元には、小さくともたいへん立派な『金毘羅』さまのお社が建てられています。鳥居もあり、人こそ入れませんが縮小しただけとも思われるくらい立派なお社です。


こちらの【片貝神社】さんの境内にはそれはそれはたくさんの石祠、石碑が祀られています。
石仏さまもおられます。

四月には三社の大祭が開催されているようです。
行けたらいいのだけれど…。
普通の参拝ですら駐車場が無くて困ったくらいなので…うーん、ちょっと難しいかなぁ。

No.204 23/02/19 06:58
旅人さん0 

さて。
暦を見ると本日は『雨水(うすい)』。

目覚めてすぐ、雨音の調べが聞こえました。うーん、これくらいの降り方がまさに『ショパンの調べ』、なのかなぁ。(かつて『雨音はショパンの調べ』という流行歌がありました 笑)

雨水は、二十四節気のひとつで、雪より雨が多くなり、雪や氷が解け始めて水に変わる頃とされています。
草木に芽吹きの兆候が見え始める時期でもあります。

たしかに、ねずみの額ほどの庭にある草木も、こんなにも寒い中たしかな芽吹きが見受けられます。
紫陽花の木には赤黒い小さな小さな新芽が。
ボケの木には蕾が。
溢れた種からネモフィラの芽がいくつもいくつも芽吹いています。

春遠からじ。

まだまだ寒い日が続きますが、皆さま、どうかお身体にお気をつけてお過ごしください。

No.205 23/02/19 23:28
旅人さん0 

涅槃図の覚書 その3

お釈迦さまが亡くなられたときの光景ですので他の弟子たちも描かれていますが、釈迦に先立って亡くなった『舎利弗(しゃりほつ)』と『目犍連(もっけんれん)』、そして布教の旅に出ていて釈迦の臨終に間に合わなかった大迦葉(だいかしょう)の三人は描かれないこととなります。


釈迦の弟子のうち、卓越した十人を『十大弟子』といい、いずれも実在の直弟子をモデルにしたものといわれ、経典にしばしばその名が登場します。
端正なインド人風の風貌に造られるのが一般的で、十六羅漢は十大弟子をモデルにしたものといわれています。


その他のお弟子さんについても簡単に書き添えておきます。

【大迦葉】
弟子の中で最も信望が厚く、釈迦亡き後リーダーとなって教団をまとめたと伝えられます。
非常に厳しい修行(頭陀行)をしたことから「苦行第一(頭陀第一)」といわれています。


【舎利弗】
目犍連と共に仏弟子になったそうで、出家前から学徳が優れ、優れた智慧を持っていることから「智慧第一」とされています。
仏弟子になって間もなく高弟の一人に数えられました。
『般若心経』の中に「舎利子」という名が二回出てきますが、これが舎利弗のことです。


【目犍連】
舎利弗の隣村出身で早くから親交があり、共に出家したと伝えられます。
神通力(超能力)に優れていたことから「神通第一」といわれます。
餓鬼道に落ちた母親を救うため、釈迦の指導に従って、日を決めて僧侶たちに飲食を供養したといわれ、
これらが【盂蘭盆会】の起源となったといわれています。
目犍連は外道(仏教以外の宗教の信者)の恨みをかって釈迦に先立ち殺されたといいます。


【須菩提】
長者の子でしたが、祇園精舎で出家して仏弟子になったといわれています。
大乗仏教の中心思想である【空(くう)】に精通していたことから「解空(げくう)第一」といわれています。


【富楼那(ふるな)】
釈迦の父である【浄飯王(じょうぼんのう)】の家臣でしたが出家し仏弟子となります。
説法が巧みだったことから「説法第一」といわれています。

No.206 23/02/20 04:11
旅人さん0 

涅槃図の覚書 その4

【摩訶迦旃延(まかかせんねん)】
お釈迦さまがお生まれになったときに、仏陀になるだろうと予言した【アシタ仙人】の弟子でありましたが、釈迦が悟りを開いた後は、アシタの命により仏弟子になりました。論議に優れていたため「論議第一」といわれます。


【優波離(うばり)】
もとは宮廷に仕える理髪師でしたが、その国の国王と共に釈迦のもとで出家したと伝えられます。戒律に精通し、仏弟子中もっともよく戒律を守ったことから「持律(じかい)第一」といわれています。


【羅睺羅(らごら)】
釈迦の実子。
『仏子羅睺羅』とも呼ばれます。
父が悟りを開いたのち、出家して仏弟子となります。
釈迦の子どもとして特別視されることを嫌い、一際厳しく戒律を守ったと伝えられます。このため「密行(厳しく戒律を守って修行すること)第一」といわれます。


そして前述しました『阿那律』と『阿難(陀)』は釈迦の従兄でありました。

『阿難』または『阿難陀』について書き添えますと、阿難は十大弟子の中最も修行の進展が遅かったといわれ、そのため釈迦が亡くなったとき、他の仏弟子たちがその死を粛然と受け止めたのに対し、阿難は号泣して失神したと伝えられます。

また、お経では【如是我聞(にょぜがもん)】=「このように私は聞きました」と書き出されることが多いようですが、この『我(=私)』は、「多聞第一」といわれた阿難のことだといわれています。

No.207 23/02/20 04:49
旅人さん0 

十大弟子が羅漢像のモデルとなった、というお話がでましたので、【羅漢】についても記しておきます。

【羅漢】とはサンスクリット語の『アルハット』を音写して『阿羅漢』といい、それが略され『羅漢』と呼ばれます。
『価値あるもの』『尊敬すべきもの』の意味だといい、仏の教えを学び、修行して『聖者』の境地に達した者のこと。
また学ぶべきことを全て学び尽くし、これ以上学ぶことがないことから『無学』ともいわれます。


…。
「アラカン」ともいえる年を迎えたというのに学ぶべきことが山ほどあり、「無学無教養」の私とは対極した存在でありました。

…話を元に戻します。


お釈迦さまの眷属として仏法を護る十六人の阿羅漢を選んで『十六羅漢』といい、五百人の羅漢を『五百羅漢』と呼び、石などで像を造られます。
『羅漢』を修行の目標として重視する『禅宗』では特に重要視されているといいます。

…なるほど、十六羅漢像のある寺院は禅宗であることが多かったんだなぁ。…そう言われてみれば、…たしかに。


ちなみにこの羅漢像、インドでは造られることはなく、中国で盛んに造られるようになったといいます。それゆえ容貌・風体ともに中国風に造られるのが特徴といいます。

また、禅宗の中でも【黄檗宗】の寺院では二羅漢を加えて『十八羅漢』をまつるといいます。


十六羅漢は単体でまつられることはありませんが、例外的に【鬢度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ)尊者】のみが単独で寺院の縁先などにまつられています。
そうあの【お賓頭盧(びんずる)さま】、であります。


賓頭盧尊者は出家して悟りを開き、神通力を得たといいます。
しかしその神通力を濫用したために釈迦に厳しく戒められ、西方の地に留まって衆生を救済するように命じられた、といわれています。

賓頭盧尊者はその神通力で病気を治すともいわれ、そこから「自分の病んでいるところと同じ部分を撫でると治る」という俗信が生まれました。
それが江戸時代、『撫で仏』となった経緯のようです。

ところが江戸時代に『眼病』が流行した時に、人々が競ってお賓頭盧さまの目を撫でたため、眼病に罹っていない者も目を患い、かえって眼病が蔓延してしまったという事態が起きたといい、そのため周囲を金網を張った柵で覆われてしまったり、しまわれてしまった時期があったといいます。

No.209 23/02/21 03:31
旅人さん0 

(前回のものとほぼ内容は同じなのですが、誤字等あり、直したものです。すみません。)

十大弟子はインド風の風貌、でもそれをモデルとしたという十六羅漢は容貌、風体ともに中国風、というところになんだか矛盾を感じるものであります。

それでも、十大弟子さまの御像、そして羅漢さんのお像は明らかにその雰囲気は異なるものです。
羅漢さんは見ていて飽きないくらい、喜怒哀楽の表情を見せていたり、ユーモラスなすがたのものも少なくありません。
だから、逆に「学ぶべきことを全て学び尽くし、これ以上学ぶことがなく、聖者の境地に達したもの」とされ、『修行の目標』としていると言われると、…うーん。
この像を造った人って、そういうことを知っている? と思ってしまいます。


実は、もともとは仏教も『偶像否定』といった方針でありました。
実在の人物であったとはいえ、あまりにも偉大な存在だった釈迦をわれわれと同じ姿かたちで表すことは,畏れ多いと考えられていたからです。

イスラム教などは厳格な偶像否定で、絶対神である『アラー』の姿を造ることは厳しく禁じられていますし、
キリスト教でも『イエス・キリスト』や『聖母マリア』の像は造られますが、全知全能の神『ヤハウェ』の姿は造られることはありません。


このような偶像否定の中で、仏教徒は釈迦の遺骨を納める仏塔(ストゥーパ)を礼拝の対象として信仰を保っていました。
その後まもなく、その仏塔の周りに釈迦の生涯を表した『仏伝図』が『レリーフ』で描かれ、仏教徒たちはそれを見て釈迦の遺徳を偲びました。

仏伝図には釈迦の人生における重要な時期である【釈迦八相】(『降率(ごうとそつ)』・『托胎』・『出胎』・『出家』・『降魔(ごうま)』・『成道』・『転法輪』・『入滅』をモチーフにしたものが描かれてます。
それでも、この頃はまだ、釈迦の姿は表されていません。
菩提樹や法輪、仏足石などのシンボルで表されたり、釈迦のいるところをわざと空白にしたりして表現されているといいます。

しかし。
時代が下ると人々の釈迦への思慕の念が高まり、それが原動力となって仏像から誕生したとも言われています。
最初の仏像は紀元一世紀の半ば頃ごろ、現在のパキスタン領のガンダーラで造られたといいます。

No.210 23/02/21 03:53
旅人さん0 

京都市内、北は今出川通りから南は九条通りまで、西は西大路通りから東山の麓までの範囲に立つ三十三の寺院と、そこにお祀りされている観音さまを拝んで巡る【洛陽三十三所観音巡礼】というものがあるという。
この観音巡礼、平成に再興されたものなのだといいます。
平安時代に起源をもち、数度の衰退を経て、平成十七(2005)年に百数十年の時を経てよみがえった霊場巡りは、その再興に尽力された『東向観音寺』の上村副住職と、『城興寺』の上原住職、『椿寺 地蔵院』の伊藤住職のお三方によるものだったという。

『洛陽三十三所観音巡礼』は明治の神仏分離令によって廃れ、寺院それぞれに古い石碑や古文書は残っていたものの、札所同士の交流も長らく途絶えていました。

その切れてしまった縁を再び結びつけたのは、椿寺 地蔵院に保管されていた古い資料だったといいます。

もともと古い文献を調べることがお好きで「洛陽三十三所観音巡礼」に興味をもたれていた東向観音寺の上村副住職、と椿寺のご住職、城興寺のご住職は、この記録から現存する寺院を調べ、同じ宗派や知り合いをたどって、各寺へ声がけを始められたといいます。
これが再興への第一歩となり、賛同する寺院が徐々に拡大していったのだといいます。


お三方は、宗派も異なり、たどるつてもない寺院へは、なんと"アポなしの突撃訪問"をされたのだといいます。
この行動を始めたところ、実は以前から檀信徒さんたちに再興を望まれていたお寺や、独自で調べていたというお寺も多数あったことがわかり、この好機の到来は「まさに観音さまのお導き」だったとおっしゃっておられるそうです。


うーん♡
洛陽かぁ。

京都♡
ひと月泊まり込んでも廻りきれない、見切れないだろうなぁ。
そこに洛陽三十三所観音霊場巡りを加えたら、ふた月?

うーん Σ(-᷅_-᷄๑)。

No.211 23/02/21 13:14
旅人さん0 

ガンダーラ、といえば、ゴダイゴ歌うところの『ガンダーラ』を思い浮かべます。
大好きな歌であり、この歌がエンディング曲でありました『西遊記』もまた大好きなドラマでありましたし。
日本の〝地理〟ですら小学生にすら及ばない私、パキスタン領のガンダーラといって思い浮かぶものなど何一つない人間ですので、当然のようにここ、この『ガンダーラ』、という曲にたどり着くのです。

同じく『ゴダイゴ』が歌った『銀河鉄道999』もまた大好きな曲であります。


このたび、国民的漫画家であります松本零士さんがお亡くなりになられたことが報道されました。

心に残る歌は、心に残る映像があってより心に残るものとなっております。

銀河鉄道999のメーテルの神秘的な美しさと、謎めいた人物像はそれだけでも心を釘づけにいたしました。
さらには鉄郎の勇気ある行動が、これから大人になる自分の目指す生き方、歩み方を示してもくれました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

No.212 23/02/21 14:05
旅人さん0 

初めて造られた仏像は、出家後の釈迦をモデルにした〝如来像〟でありました。最初の仏像が造られた『ガンダーラ』は古代インドの北西部にあたり、現在はパキスタン領、かつての都であった〝プルシャプラ〟は現在〝ペシャワール〟という都市にあたるといいます。

古くからシルクロードの要衝として発展し、東西文化の〝十字路〟として栄えたといいます。
さまざまな民族がやって来ては住みつき、なかでもギリシャ人は早くからこの地に定住し、ギリシャ神話に登場する神々の像を造っていたそうで、初めての仏像はその神像制作の技術を活かして造られたと考えられています。
このことから、ガンダーラの仏像は彫りの深い、西洋人的な風貌に造られています。

ガンダーラで最初の仏像が造られてから約百年後、マトゥラーでも仏像が造られます。
マトゥラーはインド北部に位置する古くからある国で、インド古来の民間信仰など、さまざまな宗教が栄えたといいます。

後に仏教が盛んになり、ガンダーラに少し遅れて仏像が造られるようになった、といいます。

二世紀の後半のカニシュカ王の出現によってクシャーナ王朝の領地となり、仏教美術の黄金期をむかえるこになります。

この頃になるとガンダーラとマトゥラーの仏像は相互に影響し合いながら、
全く違う様式の優れた仏像を次々と造り出すようになったのだそうです。

三世紀の半ばクシャーナ王朝が衰退し、その後新たに起こった王朝も仏教を排斥することはなかったようでしたが、旧来の『バラモン教』の復興に力を注いだとされます。



その結果、量的には仏像制作は量的には下降線をたどることとなったようですが、質的には全時代を凌ぐ傑作が造られたといい、インド仏教の嚆矢としての一時代を画することになったのです。

薄絹の質感を表した優美な衣の線を彫り出した仏像は、この時代の、『マトゥラー仏』の典型とされている、もいいます。

紀元前三世紀にはセイロン島(スリランカ)に。さらにはカンボジアやミャンマー、タイなど東南アジアに伝えられますが、これらの地域には『小乗仏教』が伝わり、仏像はかなり後になってから造られるようになります。

今でも小乗仏教の信じられている仏教国で造られる仏像はほとんどが〝釈迦如来像〟なのだといいます。

それ一つみても〝小乗仏教〟と〝大乗仏教〟は異なるものであります。

No.213 23/02/22 16:52
旅人さん0 

小乗仏教では基本『釈迦如来像』、お釈迦さまをモデルにしたもの、とのことでしたが、私は御仏像が大好きですので、他の如来さまや菩薩さま、明王さまや〝天〟さまなど、さまざまな御仏の御像のある大乗仏教の国でよかったなぁと、あらためて思ったものであります。


…とはいえ。
そもそも、小乗仏教、大乗仏教という言い方をされてはおりますが、元をただせばあくまでも一つ。
お釈迦さまの説かれた教え、であります。

もともと、すでに釈迦の在世中に、仏教はインドにおいて一大宗教へと発展しておりました。

人々がお釈迦さまが入滅されてからの時代、どうその御教えを守っていくか、…それこそ今の世に伝えられている『経』を作成したりし、なんとか釈迦の伝えようとしたものを守ろうと試行錯誤して、その中で少しづつのズレが生じ、分裂することとなりました。
教えの解釈自体にも少しずつのズレもあったり、広めたい思い、修行して深めたい思い、…いろいろあったと思います。

その大きく分かれた二つが、この〝小乗仏教〟〝大乗仏教〟と呼ばれるものでありましょう。
釈迦入滅後、長い長い年月を経て。大乗仏教の伝わった、この日本という、世界規模で見れば小さな狭い国でさえ、たくさんの宗派、十三宗五十六派が存在しています。


釈迦亡き後、仏教はアジアの広い地域に伝えられていきました。
大きく分けてインドを中心に南に伝えられたものと、北に伝えられたもの。
前者を南伝仏教、後者を北伝仏教と呼びます。

南伝仏教は釈迦が亡くなられてから二百年ほど経た紀元前三世紀ごろに〝セイロン島(現在のスリランカ)〟に伝えられ、その後タイやビルマ(現在のミャンマー)、カンボジア、ラオスなどの東南アジア諸国へ。
これらの地域にはいわゆる『小乗仏教』が伝えられています。

一方、北伝仏教は古代ガンダーラ(現在はパキスタン領)からシルクロードを通って中央アジア諸国に広まり、紀元一世紀には中国に伝えられました。
そして四世紀には朝鮮半島に、六世紀(538年)には朝鮮半島から日本へと伝えられます。
これらの地域には『大乗仏教』が伝えられました。
大乗仏教は中国からチベットに、さらにはモンゴルにも伝えられました。






No.214 23/02/22 18:15
旅人さん0 

お釈迦さまが亡くなられてしばらくのあいだ、人々は、お釈迦さまと同レベルの悟りの境地に達し、迷える人を救うことなどはできないことと考えました。
あまりにも偉大な釈迦と同じことなど到底できないと考えたのです。

そこで。
初期の仏教徒たちは熱心に修行することによって、せめて自分だけでも悟りを開こうと考えました。出家して、僧院にこもり修行に励み、自分だけ悟りを開いて救われることを願ったのです。

しかし、出家して修行に専念できる人はごく一握り。多くの人が不可能です。
まず何よりも家計を支えなければなりません。
それに、大半の人が出家してしまったら生産活動がストップして、世の中が成り立たなくなってしまいます。

しかしながら、それではほんの一握りの人しか救われないこととなり、釈迦が説いたはずの〝万人救済の教え〟にはほど遠いものとなってしまいます。

そんな中、ちょうど紀元前後あたりから、「お釈迦さまは万人救済の道を説いたのだから、すべての人が救われるのでなければ仏教本来の存在価値がない」と考える人々が現れます。

彼らは、お釈迦さまも元は自分たちと同じ人間なのだから、仏教の教えに従えば誰もが釈迦と同じ悟りを開き、人々を救済することができると考えました。

そして。
彼らは自らを『菩薩(悟りを求める者)と呼び、万人を救うことができる自分たちの仏教に誇りをもって『大乗』と呼んだといいます。

この〝小乗〟〝大乗〟の〝乗〟は乗り物、という意味で、悟りの世界『彼岸』に渡るための〝船〟のようなもの。
〝大乗〟は『大きな乗り物』、『優れた乗り物』の意味で、多くの人々が一緒に悟りの世界に行ける巨大な乗り物を意味し、『ノアの方舟』のようなもの。
一方初期の仏教はごく一握りの人しか救うことのできない、一人乗りの手漕ぎボートのようなものであるとし、『小さな乗り物』『劣った乗り物』という意味で『小乗』と呼んだのです。
つまり、この呼称は大乗仏教を唱えた人々が初期の仏教徒に対して使われた蔑称であったのです。


そこで小乗という言葉ではなく『上座部仏教』という言い方があります。『上座』とは〝長老〟の意味で、初期の仏教を保守的な長老たちが中心になって形作ったことに由来するのだといいます。

No.215 23/02/22 22:33
旅人さん0 

…大好きな御仏像の話をしていたはずなのに、どこをまわりまわって〝小乗仏教〟・〝大乗仏教〟のことまでに?
われながら、その回り道、寄り道の凄さに呆れております。

…うーん、でもまさにそういう子どもだったかもしれません。三つ子の魂百まで、ってやつでしょうか。


御仏像がたくさんおられるから大乗仏教の国でよかった、などと申してはおりますが、お釈迦さまの説かれた『万人救済の道』を、大乗仏教は大乗仏教でやはり少し過大評価をし過ぎている点も否めない気がいたします。

正直に言えば、お念仏を御唱えすれば救われるとか、極楽往生できるとか、そんなに甘いものではないと思っております。
そうでないことは、何よりも仏教で説かれる『善因善果 悪因苦果』『自業自得』などという言葉が教えております。
六道というものが存在することを説くのも仏教であります。

年齢を重ねて、最近思うことに
「生きてきたように道はできる」のだなぁと、本当に切実に実感いたします。

それでも。今まで生きてきた道を反省し、今この時から悔い改めて生き方を変えるならば、という教えに救われるところは大きいと思うのです。


無宗教である私が御仏像のお姿に心癒され、神さまに畏れを抱く。
でもこれって、長い年月をかけて培われた神仏習合の日本という国の根本にあるものとなっているのではないかなぁ。

そこにクリスマスが加わって、なんならハロウィンまで加わって…。
良いものは良い。
楽しいものは取り入れて。
Japanese people万歳!って思ってみたり。


…あっ、またまた脱線してきてしまった。

No.216 23/02/23 10:08
旅人さん0 

【如来像】
如来像は出家後のお釈迦さまをモデルにしております。
お釈迦さまは王子という地位や財産、係累など、一才のものを捨て衣一枚で出家したといい、このことから如来像は衣だけをまとい、装飾品や宝冠などは一切身につけないのが原則です。
大乗仏教ではお釈迦さま以外にも薬師如来さま、阿弥陀如来さまなど、さまざまな如来が生まれましたが、こちらの如来像も同じく一枚の衣だけを身につけ、装飾具などは身につけていません。
これを『如来の通相(つうぞう)』というのだそうです。

如来像は初期の修行僧が身につけていた『三衣(さんね)』という衣服(えぶく)をまとうのが原則です。

三衣とは文字通り大中小の三枚の布のことで、小さな布は下半身を覆う下着で『裙(くん)』と呼ばれます。次に『掩腋衣(えんえきい)』という中くらいの布で胸までを覆います。〝掩〟は覆うという意味だということです。
そして『大衣(だいえ)』という大きな布で肩から全身を覆います。

大衣の着用法は〝通肩(つうけん)〟と〝偏袒右肩(へんたんうけん)〟とがあり、一般に長上(=ちょうじょう、偉い人)は通肩にするのだそうです。
如来は一番位が上ですので通肩に着るのが普通ですが、実際の如来像は偏袒右肩が多くみられます。

ただ、七世紀の半ばごろ
インドで『密教』が興ると、如来を統括する『大日如来』さまが生まれます。
大日如来さまはすべての如来に対して超越的な立場にあるため、特に豪華な装飾品や宝冠を身につけています。

No.217 23/02/23 13:22
旅人さん0 

【菩薩】はもともとお釈迦さまの前生での修行時代の呼称であり、それゆえお釈迦さまが出家する前の姿がモデルとなっています。
このため、きらびやかな装飾品や宝冠を身につけた〝王子〟としての裕福な姿に造られます。

二世紀の中ごろには菩薩像も造られるようになっていたようです。
最初はただ菩薩像とだけいわれ、〇〇菩薩などという区別はありませんでした。
三世紀ごろ観音菩薩や弥勒菩薩が登場し、時代とともにさまざまな菩薩が誕生しました。

後世、大乗仏教では、菩薩は如来の衆生救済の手伝い(補佐)をする、と考えられ、
『弥勒菩薩』さまをはじめ、『文殊菩薩』さま、『普賢菩薩』さま、『観音菩薩』さまなど、実に多種多様な菩薩が生まれました。
これら菩薩の中で、特に多様な発展を遂げたのが観音菩薩さまで、『十一面観音』さまや『千手観音』さまなど、さまざまな姿の観音像が造られるようになりました。


ちなみに。
サンスクリット語で「バーディサットヴァ」、これを音写して『菩提薩埵』と書き、これを略して『菩薩』と呼ぶのだそうです。
『菩提』は悟り、『薩埵』は衆生の意味で、菩提薩埵で「悟りを求める衆生」、という意味であるといいます。

No.218 23/02/23 16:38
旅人さん0 

インドでは仏教が興起する以前より、偉大な人物には凡人と異なるさまざまな特徴があると考えられていました。
そして。
仏像が盛んに造られるようになると、その非凡なる特徴が【三十二相・八十種好】という形でまとめられました。
如来の三十ニの大きな特徴とそれに付随する八十の特徴です。
この中には目には見えないものもありますが、私たちが拝する御仏の御像にもこれらの特徴が備わっています。

たとえば…。
そう、あの仏の体は常に金色に輝いている、といったものもそのうちの一つですし、手足の指の間に〝水掻き〟のような膜があるとか。
これはあの奈良の大仏さまの指にも表現されております。
御仏像の頭にはボツボツと豆粒のようなものがたくさんあり、パンチパーマのようにも見えますが、これを『螺髪(らほつ)』といい、これは如来像だけに見られる特徴です。
そしてこのあいだ書いたように髪の色は〝青紺色〟きれいな群青色です。仏典には『青珊瑚』の色と記されています。

その特徴の一つに、『丈光相』というものがあります。
経典には「仏は四方に一筋の光があり、仏は常にその中にいる」と書かれているのだといいます。
これを表したのが御仏像の背後に付けられている【光背】で、光を造形的に表現したものとなります。

初期の光背は『円光』と呼ばれるシンプルなものでありましたが、時代とともにさまざまなデザインのものが作られるようになりました。
この円光は【地蔵菩薩】さまの御像によくみられます。

この円光に何本かの光の筋を表した『輪光』。蓮華の花弁の形を模した『蓮弁光』。
船の舳先(へさき)にも似ていることから『舟形光』と呼ばれる光背もよく見うけられます。

蓮弁光にたくさんの仏(千躰仏)をあしらったものを『千仏光』と呼ぶのだといいます。


そして。
不動明王をはじめとする『明王』さまは『火焔光』という光背を背負っています。
これは文字通り燃え盛る炎を表したもの。
明王さまはこの炎で〝煩悩〟を焼き尽くす、と言われています。

火焔光の一種に『迦楼羅光』というものもあり、これは炎を迦楼羅(神さまの乗り物とされる伝説の鳥)の形に表されています。時代が下ると炎の中に鳥の顔を表した光背もあります。

本来光背は仏像には欠かすことのできないものだといいますが、千手観音だけは放射状のたくさんの手が光背の代わりとなっています。

No.219 23/02/24 06:17
旅人さん0 

さぁ♡
火焔光背が出たら私の大好きな不動明王さまのお話でしょう。


【明王】
七世紀の後半、インドで密教が成立すると『明王』という密教独自の仏が生まれます。
密教では『真言(陀羅尼)』という一種の呪文を重んじ、これを【明呪】といいます。
明王はこの明呪を巧みに伝えることから『明呪の王』といわれ、略して『明王』と呼ばれます。

また密教では、仏は衆生を教化(きょうけ)するときに、
〝自性輪身〟〝正法輪身〟〝教令輪身〟の三通りの現れ方をすると考えられています。
これを『三輪身』といい、
〝自性輪身〟は如来、
〝正法輪身〟は菩薩、
そして〝教令輪身〟は明王の姿だとされます。

如来や菩薩の慈悲に満ちた穏やかな姿で諭しても効き目のない強い煩悩を持った者を導くときに〝教令輪身〟をとる、といわれています。

『教令』とは『あらゆる衆生を教え導けという大日如来さまの命令』のことで、明王はこの命令に従って有無をいわさす強引に衆生を〝教化〟
するといわれます。

明王が恐ろしい表情をしているのはそのためなのです。



…私のためには火力をさらに上げていただかないといけません。

No.220 23/02/25 04:24
旅人さん0 

昨日は二十四日ということで〝お地蔵さまのお縁日〟、通常ですと群馬県桐生市にあります【諏訪山観音院能満寺】さんにお参りに行かせていただくことが多いのですが…。

昨日二月二十四日は、ロシアがウクライナに軍事侵略、戦争を仕掛けてちょうど一年が経過した日、であります。
〝世界〟という規模では、悲しいことに第二次世界大戦後においても、あちこちで戦争が勃発しておりましたが、それでもどこか私の中では遠くの国的な感覚があったことを、今回のこのロシアが起こした軍事侵略で自覚したくらい、衝撃を受けたものでした。

それでも、こんな愚かしいことはすぐに終わるであろうと、ロシアの国力を考えたらそう長くは続かないであろうと思っていたのです。
そこには祈りも願いもありました。

が。
とうとう一年、一年が経過してしまいました。


私にできることは祈ることと、忘れないこと。
そしてささやかな募金をすることでしかありませんので、昨日もささやかという言葉も申し訳ないくらいの雀の涙ほどの募金をしてまいりました。


このたびトルコ・シリアで起きた大きな地震、それによる大きな大きな被害。
かつて東日本大震災のときに、トルコの救助隊はいち早く日本入りし救助活動にあたってくださった、そして外国からの救助隊としては最後まで日本に残ってくださった国でもあります。
今私にできることは募金することくらいでしかありません。それも身の丈にあわせたちっぽけな金額でしかない。
そして、忘れないこと。

目に見えないことはどうしても記憶が風化しがちであることは否めません。
ましてや認知症の疑い色濃い私です。

でも忘れないでおくこと。
心にとめておく。
そして…祈る。

そして微々たる金額でも継続して募金していくこと。
それはどこか自己満足で、偽善なのかもしれません。

でも世間からは忘れられているような存在ですので、偽善と言われることすらない存在でもあります。
偽善だって、金額が少なくったっていいから、継続していく。


継続は力なり。

No.221 23/02/25 04:46
旅人さん0 

実は昨日夫は有給休暇をとっており、二人そろって募金してまいりました。
そしてお決まりの珍道中。

…ではなくて神社さんへのお参りをしてまいりました。

向かったのは群馬県高崎市。
正確には高崎市吉井町であります。
吉井町は平成の大合併で高崎市に編入されましたが、それ以前は多野郡吉井町でした。
吉井町は古代の和銅四(711)年に多胡(たご)郡が置かれ、その由緒が刻まれた石碑、世界文化遺産の『多胡碑』が有名であります。

その碑文に、多胡郡を「羊に賜ふ」とあり、羊が何を意味するかについては諸説あるのだといいますが、人名説が有力です。
そして。
多胡郡は朝鮮半島からの渡来人を入植させた朝廷の記録があり、渡来人が多くいたと言われています。


…神社さんへのお詣り、だって言ったよね?と言われそうな…。

実は今回、参拝させていただきましたのはこの流れからも推測される〝吉井町〟にあります【辛科(からしな)神社】さんでありまして、こちらはその大宝年間(701〜703)に大陸から渡来した人々によって創建されたと伝えられている神社さんなのであります。

No.222 23/02/26 00:13
旅人さん0 

この【辛科神社】さんのことは以前の参拝の時にも書かせていただいておりますが、歴史が長いこともあり、また【多胡碑】、そしてそれに出てまいります『羊太夫』と、いろいろなことが絡み合い、これを紹介するとなると、確実に一冊の本を出版できるほどのものになります。
この語彙力のない、頭の回らないおばさんが書いたものでは意味不明なものとなること必須です。

それでも少しだけ。


群馬県甘楽(かんら)郡というところに韓級(からしな)と言う郷があり、特に加羅渡来人が多く住んだので韓級郷と呼ばれた、といいます。
この韓級が多胡郡設立の際に甘楽郡から分割され多胡郡に編入されました。
そして、かつての地名、多野郡吉井町の『多野郡』はこの『多胡郡』が転訛した地名で、渡来人(胡)が多く住んだと言う意味でこの地を『多胡郡』としたそうです。

この韓級郷に鎮座していた神社が『韓級(からしな)神社』で、のちの『辛科(からしな)神社』であります。
この地に住んだ〝加羅系新羅渡来人〟が祀った神社だといいます。

多胡郡 → 多野郡吉井町 → 高崎市吉井町と移り変わり、韓級神社→ 辛科神社となっていったようです。
そしてこの辺りの郡司が『多胡羊太夫』で、その事を刻んだ石碑が『多胡碑』、ということになる…のかなぁ。

ちなみに神社の境内にはこの地区の住民の方が奉納されたレプリカの多胡碑があり、多胡碑の実物はやはり吉井町にあります。

碑文の内容は要約すると次のような事が書かれております。「朝廷の命令により、上野國片岡郡、緑野郡、甘良郡から三百戸を分割して新たに郡をつくり、羊を統治者とする。郡名を多胡郡とする。」と言った内容です。
ここに書かれている「羊」は名古屋の「羊神社」を建てた、新羅渡来人「多胡羊太夫(たごひつじだゆう)」の事ですがこちら安中市に羊太夫を祀ったと思われる羊神社があります。
何故羊太夫と言う名前なのかと言いますと、生まれが未年の未の日だからだそうです。

多胡碑は国指定特別史跡でありいわゆる国宝扱いであり、日本で最も古い石碑の一つとされています。


この辛科神社さんの周辺には小規模の円墳群があり古い地名が韓科郷や甘楽(韓・伽羅)郡など朝鮮半島を彷彿させることからも当時の渡来人達の聖域となっていたと思われます。

No.223 23/02/26 05:28
旅人さん0 

またこの〝多胡碑〟の碑文は「続日本紀」にも書かれているのだといいます。

多胡碑は、奈良時代初めの和銅四(711)年に上野国の十四番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑となります。

建郡に際しては、【羊】という渡来人とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったとされます。
碑を建てたのも、この羊であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げています。

多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯で、かつて緑野屯倉(みどののみやけ)や佐野屯倉(さののみやけ)というヤマト政権の直轄地が設置されていた領域と重なり、当時は先進的な渡来系技術が導入され、窯業、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地域であったとされます。


…いつになったら神社さんの話になることやら…。
ただ、そうした背景があっての『辛科神社』さんであるということは、殊、歴史オタクである夫にとっては重要なことで、彼は再拝である今回もまた宮司さま不在のためいまだに購入に至らない、こちらの神社さんの社務所において売られている『辛科神社と羊太夫』(…というタイトルだったかと思うのですが…)をどうしても読みたいのだと熱く語るのでありました。

なんでも、こちらの(まだお会いできていない)宮司さまは多胡碑記念館長であったそうで、その名も神保さん。
神社さんに関係する方は〝神〟の文字を含んだ姓の方が多い気がしますが、実はこの辛科神社さんの住所が〝吉井町神保〟でありまして、その辺りからも本当に古くからの土地であり、ここを守られておられる一族の方なのであろうなと、感銘いたしました。



白木の鳥居をくぐって。
随身門(切妻、銅板葺、三間一戸、八脚門)は江戸時代後期の寛政九(1791)年に修復されて現在に至るものだとされます。

こちらには、本来いるはずの隋神さまの姿はありません。

こちらには、随神さまの代わりに、『神獣』が祀られているのです。


…神獣って、凄くないですか?
でもそれを拝するともっともっと凄いと思うのですよ。

そのお写真をご覧いただけば、一目で私の語彙力の無さは一気に解消されましょう。



それがこちらであります。

 (辛科神社さんの神獣さま)

No.224 23/02/26 23:28
旅人さん0 

神門におられる神獣は、双方口があいて、いわゆる〝阿吽〟の形をとっていません。
角付で金属や綺麗な石が象嵌されているいかにも神獣らしい青銅製の像です。

…なにか近未来的な要素もある、異国情緒いっぱいの神獣でありませんか?
胴体には不思議な模様が施されていて、尻尾の先は宝珠のように丸くなっています。
神社さんでなくとも類似した像を見たことがありません。
初めて拝見した際には吸い込んだ息をしばし止めたほどびっくりしたものでありました。

表皮の風化具合をみるとかなり古そうにも見えますが、造られ奉納された年月については不詳なのだそうです。
神獣はやせ形で腹の下が全部空間になっているのだそうです。

新羅系の渡来人の方々の信仰の場であったと聞けばさもありなんと思うのがまさにこの〝神獣〟さん、であります。


社伝によると、大宝年間(701~)、朝鮮半島の新羅系渡来人によって創祀された神社で、『上野国神名帳』に「従二位 辛科明神」とある古社であります。

御祭神は新羅渡来神と考えられる須佐之男命と御子神の五十猛命。

…へっ?
し、新羅渡来?
須佐之男命さまって素戔嗚尊さま、のこと、ですよね。
素戔嗚尊さまって、イザナギノミコトさまとイザナミノミコトさまのお子さん、ですよね?
新羅渡来って…どういうこと?

…調べてみました。

五十猛(いそたける・いたける)命さまですが、五十猛命さまは古事記には紹介されておらず、日本書紀の八岐大蛇(やまたのおろち)のところで紹介されているのだといいます。

『スサノヲが高天原から追放される時、「その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降りられて・・・」と書かれ、続いてスサノヲが「私はこの地には居たくないのだ」と言い、「土で舟を作り出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の峯についた」と書かれています。
その上で「五十猛神が天降られるときに、たくさんの樹の種を持って下られたが、韓地(からくに)に植えないで全て持ち帰って、筑紫から植え始めて・・・紀伊国においでになる大神はこの神である」となっています。』


あっ…。
そうなんだ。
スサノヲノミコトさまが高天原を追われたのは存じあげておりましたが、そこは〝新羅〟だったんだ…。
…知らなかった。

小学生のころ子供向けの古事記とか日本書紀とか読んだんだけどなぁ。

新羅から、ではなく新羅へ渡来、なんですね

No.225 23/02/27 00:09
旅人さん0 

ちなみに、こちらの神社さんの一角に、手書きの墨書きで書かれた社伝では〝速須佐之男命〟・〝五十猛命〟とされています。

相殿神として、
金山比古命・品陀別命・中筒男命・大山津見命・伊邪那美命・建御名方命・大物主命・八坂刀売命・大日霊命・宇迦之御魂命・木花佐久夜毘売命・天児屋根命・市寸嶋比売命・菅原道真公・塩光清をお祀りされています。

塩光清(鹽光清)は〝羊太夫〟の家臣である『塩野光清』のことで、こちらで合祀した吉井町塩の鎧神社の御祭神であられるといいます。


…普通の白木の板に、下書きの跡など一切無く、それはそれは美しい墨書きで、その由来が書かれております。
御祭神には小さな振りがなをふってくださっています。

…和銅四(711)年からと、歴史が長いですから当然その由来も長く、沿革からなにから十四の項目に分けて書いておられますが、一切の訂正の跡がない墨書きなのです。

凄いなぁ…。


計三回こちらを詣でておりますが、いまだにお会いできずにおります現在の宮司さまが平成十四年にお書きになられたもののようです。
『宮司神保侑史藤原和泉謹誌』
とありました。


…おいくつぐらいの方なのだろう。
ぜひお会いしたいなぁ。

こちらの『神保』家は代々こちら【辛科神社】さんの宮司さまを務められておられる一族であり、かつては、かの『吾妻鏡』にその祖先の名があるというお家柄で。

『承久三(1221)年の承久の変の際の宇治合戦に上野國の鎌倉幕府御家人として、〝神保与一〟〝与三〟〝太郎〟名名が見える。
文和三(1353)年の「足利義詮御教書案」に多胡郡地頭職として神保太郎左衛門尉の名がある。』

とその板書に書かれております。

なお、境内地は社家神保氏の館跡であるといい、単郭城で、西南・西北・北東・東南などに濠・土塁の一部が残存する。
とありました。市指定史跡であります。


…凄いなぁ。
これを由緒あるお家柄、っていうんだよなぁ。

No.226 23/02/27 04:42
旅人さん0 

【辛科神社】さんの社家〝神保氏〟についてもう少し。

歴代領主や為政者からも崇敬庇護され、鎌倉時代初期の建久八(1197)年には【源頼朝】公が懸仏(銅板製)を寄進されており、こちらの神社さんの社宝となっております。
境内の案内板にその写真がありましたがなかなか類を見ない観音さまと僧が、そして、なにやら動物…もしかしたら狛犬のような獅子のような動物が描かれたもののようでありました。


中世は多胡郡の地頭職を歴任した神保氏がこの〝辛科神社〟さんに大きく関わり、支配層から没落した後も、この神保一族が現在に至るまで辛科神社の神官を担っておられます。

神保氏についての詳細は不詳のようですが、度々資料等に散見される氏族で、当地の神保氏が本流とするならば、室町時代中期以降は白井長尾氏に従い、武田信玄の上州侵攻で長尾氏の居城である箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)が落城後、武田家に従っています。
永禄十(1567)年に武田信玄により奉納された『生島足島神社起請文』には西上州の諸将61名の中に長根衆として『神保昌光』も名を連ねているといいます。

その後、神保氏は武田家の滅亡や、【本能寺の変】、北条家の侵攻、【小田原の役】などで領主としての権益を失い、辛科神社の神職に専念するようになったと考えられているようです。
なお庶流としては、戦国時代に越中半国の守護代まで上り詰めた一派や、江戸幕府の旗本として名を残した一派もいるといいます。

江戸時代に入ると辛科神社は幕府から庇護を受け、寛永十三(1636)年には三代将軍【徳川家光】公により社領九百坪が安堵、寛文元(1661)年には当時の領主倉橋久盛によって社殿が再建されています。


辛科神社さんは古くから神仏習合し『常行院』という寺院が別当寺院を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が廃され、明治三十九(1906)年に郷社に列しています。

No.227 23/02/28 03:21
旅人さん0 

…お詫びして訂正いたします。

こちらの鳥居のことを白木造りと書いてありますが、正しくはコンクリート製、であります。
随身門の神獣のこと、白木の板に墨書された由緒書きのことばかりが頭にあって、先を急いで、〝白木〟と書いていたようです。

本当困った頭のおばさんです。


…もっと困るのは周りの人間で。




脳トレしよっと。

No.228 23/02/28 03:48
旅人さん0 

と、いうわけで、あまりにインパクトの大きな随身門に気を取られてばかりいるおばさんであります。

それほどに〝神獣〟さんは本当に何度拝見してもインパクトが強いです。
正直、初めて見た時は…怖かったです。
神社さんの随身門の中におられるといえば、…という思い込みがあったのも否めませんが、金属製の、異国風…というより、未来的というか、なんなら異星的…とも。
何度も言うこととなりますが、息をのんで立ち尽くしたくらいです。

しかも最近つくられた〝作品〟であれば、おおっ! と思っただけかもしれませんが、いかにも古いもので、それがいつのものなのか、いつからここに〝君臨〟しているのやらわからず…。

初めて見た時ほど〝怖い〟といった感覚はありませんが、この門でしばし足が止まるのは変わりません。

…凛としてかっこいいんですよ?
全体のフォルム的には。


どこを見ているかわからない目と。
大きくあけられた口と鋭い牙と。

お召しになっている衣の柄も、お身体に、前足後ろ足に付けられた大きなアクセサリーとか。

どなたがいつ作られて、いつ奉納されたものなのか…。
どうも詳細がわかっていなそうなところがまたどうにも怖いおばさんなのでありました。





No.229 23/02/28 18:24
旅人さん0 

こちらの随身門にはいくつかの大きな奉納額が掛けられています。
かなり褪色してしまっておりますが、どれも武士の姿が描かれております。

馬上で一騎打ちしている画などは色褪せてさえいなければかなりカッコいい、迫力ある画であったかと思われます。

もう一つにいたっては色褪せすぎて、二人の人物がいて一人は座ってこちらを向き、もうひと方はその人物に向かって立っていることしかわかりません。
立っている人物は腰に刀を二本差し、おそらく兜をつけているように見えるのですが…。座っている人物も鎧は付けているように思われます。
ただ状況がさっぱり想像できない…。

もう一枚は三人。
桜か、あるいは梅か、満開の花の下であります。
やはり三人とも鎧をつけています。
一人は完全に馬上にいるのがわかりますが、その隣の人物の馬はほとんど見えなくなってしまっています。
体勢から馬上なのだろうと判断できます。

どれも画力のある絵師の描いたものだったろうと思われ、その褪色が惜しまれます。

随身門を抜けるとまもなく拝殿となります。
拝殿前には一般的な狛犬さまがおられます。

No.230 23/03/01 08:14
旅人さん0 

…といいますか、辛科神社さんは別段特別変わった神社さんとかでは一切無く、ただただ随身門に〝神獣〟さまが安置されておられるというだけであります。
その神獣さまのインパクトがあまりにも強いためと、歴史の長さから、文章力も歴史の知識もないおばさんがあれこれと書き散らかしているだけ、であります。

まぁ、青銅製の、青や緑やクリスタルといった飾りをたくさんつけた、異国風の、結構大きな神獣さまが唐突に随身門におられるというので、知らずに訪れた方は誰もびっくりされるのではないかと思うのではありますが…。

ただただ長いことこの吉井の地をお護りくださっておられる神社さんであります。
随身門に隋神さまがおられれば、ごく普通のゆかりの古い郷社さん、であります。

寛文元(1661)年に当時の領主倉橋久盛によって社殿が…一間社流造の本殿と入母屋造の拝殿が再建されております。
本殿の左右と背面の壁は細やかな彫りがはめ込まれております。
見る方が見れば、なんの題材で彫られた〇〇の図、と語れるものなのでありましょうが、一枚は松の木の下、大きな壺のそばに、ふくよかな頭巾を被った翁が大きな盃を持ちくだけた座り方をしているもの。
向かって右側のもう一枚は、同じく松の木の下で、左端に大きくかなりリアルな雄鶏が後ろを振り向きながら歩か姿が描かれ、それを背後から…私の目には結構貴族風な男の人が追いすがるように描かれているように見えます。
本殿の後ろは…よくわからなかったです。人物は描かれておらず、松などもなく、植物や想像上の動物等でもなく…。

その社殿の向かって左隣には神楽殿があります。
黒い瓦屋根に真っ赤な建物の神楽殿はかなり目を引きます。
この神楽殿は慶応ニ(1866)年の建立で、春秋の祭日には京都で伝習された太太神楽が氏子により舞われた…とされています。
今はどうなのか、なにせ宮司さまにお会いしたことがないのでその辺の確認はできておりませんが、この近くにある神社さん二社にそのお神楽は伝わり、そちらではお神楽が伝承されているようで、まさに三月にそちらで大祭が開かれお神楽も奉納されるようであります。

ちなみに、隋神門は寛政九(1791)年に修復されたもの。

こちらはみなその時のままの建物であるとのことです。

No.231 23/03/01 13:41
旅人さん0 

隠居してから、時間ができたこともあり国会中継をよく観ている。

知らずにいたことがあまりにも多くて、今さら隠居したのではなくてもともと日本国民としては隠居していたのじゃないかと、反省しかり。

しかしながら注目すべきは、その知らなかったことを気づかせてくれるのは『野党』と呼ばれる方々であるということ。

ニュースで切り取られるものとはまるで違う。
しどろもどろな内閣の大臣たちが、今更ながら…今まで以上になんとも情けなく、信頼ならないきがしてならない。



『知ること』は、よい社会をつくる第一歩。

いま、日本人が知るべき3つの事柄。
 1.憲法とは
 2.人権とは
 3.民主主義とは


とはいえ、国会中継を観ていると内容は大変重要で大切なことであるにもかかわらず、時間がかかるものだから、家事もせずテレビを観ているおばさんにみえてしまう。
もともと〝気にしぃ〟のおばさんである。

それは夫に対して、のことでもある。
どうも観たいドラマや映画、歌番組(この言い方がとても昭和で大変好きであります)を観ていると、好ましげな目で見てくれるのだが、国会中継だと〝はぁ?〟という視線に感じる。

長いこともあるし、やはりそれはニュースで切り取られる国会のごくごく一部の場面、発言の影響も大きいだろうし。
過去の大変お馬鹿な国会の様子もやはりそのニュースの報道で観てきているし。


『野党』の方々は発言している方の意見も大変真剣に聞いておられます。
そうした人物ウォッチングもなかなか、興味深いものの一つである。

今も総理の真後ろでネクタイをいじったり、書類ペラペラと触ってみたり、(ああ、この人聞いてないよな)という人が映し出されている。
その席で、テレビで中継されているというのに。
簡単にはクビにならない、お給料は信じられないほど高額、年金も凄い額、という、まさに選ばれし者は違うよなぁ。


国会中継を観ていて思うことの一つに、
なんか内閣って…「パンが無ければケーキを食べればいい」と言いそうな人ばかりな気がする。


選挙って大事なんだなぁ。
あらためて思う。
たった一票だけれど。
…〇〇党県の群馬だけれど。

No.232 23/03/02 08:29
旅人さん0 

「ちょっと今回は道を変えてこちらから行くね」
と夫。
…いやいや、前回どこをどう走って辛科神社さんに行ったかなどさっぱり覚えておりませんって。
そう、あのときの私は緊迫した時を過ごしつつの移動でありましたから。
何が悪かったのか、…急にお腹の調子が悪くなり、その日はその後のお詣りに伺った神社さんの拝殿前、お寺さんの御本堂前に詣でることがやっとで、ただひたすらトイレの神様に詣でているような状況でありましたから。

同じ道でないのかどうかもわからぬおばさんは、それを胸の内に秘めたまま、助手席でちょっとだけ体を縮こめておりました。

吉井町神保を流れる川に架かる橋を渡ったとき、
「へえぇ。城橋っていうんだ、この橋」と夫が言いました。
へっ?
走りながらの、ほんのちょっとした瞬間、よく見逃さなかったなぁ、としっかり見逃した私はまたまた心の中で思いました。

「この辺りに植松城ってお城ががあったから『城橋』なんだろなぁ」
…はあぁ。
同じ群馬県内とはいえ、私などは今初めて聞いたような、お城の片鱗すらないようなところのことを、よくまぁ知っていること!
わが夫ながらあいかわらずすごいなぁ。

後続車も対向車もない道、とはいえ路駐は無理な道をゆっくりゆっくり走行させる夫。
その橋の袂に、古びて朽ちかけた道しるべが建っています。
『左辛科神社』と刻まれています。
「辛科神社」はここから西へ直線距離で1kmほどだと夫。


『城橋』を渡ると。
道は右にカーブしますが、その正面の石垣の上に一軒建物が建っています。
一見、民家か集会所のように見え、私などは、建物があるな、と思っただけで。
なので夫が、
「ここかぁ。ここを見たくて今日はこちらから来てみたんだ」
といったとき、その建物を指しているとすら思わなかったくらいです。
「そこに案内板があるの、読めるかな?」

へっ?
あぁ。

…案内の看板すら目に入らないくらい、ごくごく普通の、ごくごく目立たない建物です。しいて言えば高台にあることくらい。

【辛科神社禊殿(みそぎでん)】

へっ?!

あらためて建物を見上げて軒下を見ると彫り物があります。

一見、集会所のような建物です。
しかも一キロも離れた…。
ここで禊をされているんだぁ。

No.233 23/03/02 10:36
旅人さん0 

史跡看板には、【辛科神社】から『禊殿』まで『茅の輪』を送る神事のことが書かれています。

『…七月三十一日、辛科神社では伝統神事の【茅の輪神事(みそぎ流し)】が行われます。
この神事は『茅の輪(チガヤで作った輪)をくぐることによって、一年の罪・穢れ・災疫を祓うものです。、
『茅の輪神事』は午後七時半より、辛科神社で神事が行われたのち、『かまくら』と呼ばれる神楽曲が奏でられながら、上神保の神社から1kmほど東に離れたここ下神保の〝禊殿〟へかけて御神幸が行われます。
『かけながす、おおやまもとの五十鈴川、祓えたまえ清めたまえ』
『かけながす、おおやまもとの五十鈴川、八百万代の罪は残らじ』
と神唄を唱えながら、〝茅の輪〟で沿道及び禊殿で待っている人々を祓い清めます。

御神幸のあと、神輿は禊殿に安置され、全ての神事が終了する午後十時に、〝茅の輪〟は大澤川に流されます。』
      …禊殿案内板より

この『茅の輪神事』、太陽暦前は六月三十日であったが現在は七月三十一日夜に執り行われているとのことです。
なんでも、直径六尺(約1.8m)の〝茅の輪〟を神主さまが奉持して、「かけながす大山本の五十鈴川…」という前述した神唄を唱えつつ、沿道の男女を輪くぐりさせて、その年の疾病災厄を祓い去る神事で、神輿の渡御とともに辛科神社を出発し、一キロ。
一キロ、ですよ!?
神主さまはもしかしたら一人で茅の輪を奉持され、一キロの道のりを歩かれるわけでしょうか?

直径1メートル八十センチの茅の輪って、かなりの大きさですし、茅の輪って、…持ってみたことはないですけれど、見た限りではどう考えても、重いとしか思えませんが…。

うーん、参列してみたい。
見てみるだけでもいいですけれど、欲を言えば、この煩悩のかたまりおばさんの罪穢れもお祓いいただけたらなおありがたい。
…などと言うあたりがすでに煩悩、欲、ですよね。困ったものです。

とはいえ、夫の読んでみたいと熱望する小冊子と、窓越しに見えた『茅の輪守り』をお授けいただきにまた再拝はさせていただきます。

茅の輪神事に参列できないにしても、茅の輪守りをお授けいただきましょう。

えっ?、それも〝欲〟でしょう?
…はい、〝欲〟ですよねぇ。やれやれ。

No.234 23/03/02 11:00
旅人さん0 

ちなみに。

辛科神社さんでは、例大祭は春季が四月九日、秋季が十月九日に、特殊神事として一月十五日の『御筒粥神事』、そして七月の『みそぎ流し(茅の輪神事)』が斎行されているといいます。

明治維新前までは多胡郡二十七ヶ村を御幣を立てて捧げ廻り、御供米を納めさせた『御供米神事』、旧暦二月の浄闇の深夜に、折茂鎮座の稲荷神社の井戸で斎行された『御鎮神事』があった、…と辛科神社さんの案内板に記されておりました。

No.235 23/03/02 11:12
旅人さん0 

実は、この日には同じく群馬県高崎市の『仁叟寺』さん、
群馬県富岡市に御鎮座される『宇藝神社』さん、同じく富岡市の『長学寺』さん、などの神社さん、お寺さんに連れて行ってもらっておるのですが、それはまた後ほど、ということで…。

先日、お縁日に参列させていただきました、群馬県みどり市の『光榮寺』さんの境外堂の【はねたき導了尊】さまでのことを書いてみたいと思います。

何故なら…記憶がとぶから、ですね。苦笑。


No.236 23/03/02 16:29
旅人さん0 

【光榮寺】さんは、群馬県みどり市大間々町にある『真言宗智山派』の寺院です。

慶長八(1603)年に『大間々六人衆』の筆頭・『高草木対馬則継』の請により僧・『良瑜』が、
四国讃岐国屏風ヶ浦(現・香川県仲多度郡多度津町)の海中より出現した行基作の薬師如来の尊像を移遷し開山したと伝えられています。

今回お邪魔させていただきました【はねたき導了尊】さんは前回述べましたようにこの『光榮寺』さんの境外堂の一つになります。

平成十五(2003)年に光榮寺開山四百年を記念して、かつてこの近くの地で篤く信仰されていた『道了尊』さまをこの地に移転、勧請したものであります。


『どうりゅうさん』の呼び名で親しまれております『はね瀧道了尊』さまは、〝諸願成就〟殊に〝子育ての仏さま〟として江戸時代から現在に至るまで、時代を越えてたくさんの信仰を集めてこられたといいます。

こちらにお祀りされている『道了尊』さまは、宝暦二(1752)年五月、光榮寺第十世寿賢の代に、神奈川県足柄市にあります『大権現最乗寺』より、ここ大間々の渡良瀬川沿岸にお迎えされたと記録に残されています。
以前は、現在地よりも北側、およそ百メートルの斜面を下がった所にあったのだといいます。
当時は縁日は毎月二十七日、二十八日の二日間で、道了堂参道には『滝の湯』という湯屋や茶店が並び、たいへん賑わっていたといいます。
天保二(1831)年には、渡辺崋山も当地を訪れ、要害山から高津戸一帯を描いたことが『毛武游記』に記されているそうです。

それが昭和二十二(1947)年のキャサリン台風による水害で、渡良瀬川沿岸にあった道了堂は、周辺にあった滝の湯、茶店もろとも一瞬のうちに濁流に飲まれ、跡形も無く流されてしまったのだといいます。
災害復旧は果したものの、道了堂の再建は叶わず、残念ながら道了尊信仰は衰微していくこととなります。しかしながら篤信者の方々により参拝は続けられてきました。ただ落石、崩落の危険が絶えず、篤信者の方も歳を重ね参詣が困難となり、再建に対する地元民の強い要望を受けて平成十五年に道了尊をこの地に移転、勧請されたのだといいます。


No.237 23/03/02 17:30
旅人さん0 

いつもですと(などと申していますが、この例祭に通い始めて二年ほどで九回、〝いつも〟などと申すのはあまりにずうずうしいのですが)
ご住職さまと副住職さまのお二人で執り行われるのですが、今回はご住職のお姿がみられません。

お身体になにかあったのではなければよいのだけれど、と心の中で心配しつつ、でも口に出すのも憚られ。

副住職さまもいつもとはなにか様子が少し異なります。
一つ一つ丁寧に確認して事を進める方ではありますが、どこか落ち着かなく見え、(あっ)という感じで何かを取りに戻られたり、先ほどおっしゃっておられた内容とその後が少し違っていたりと、終始いつもとご様子が違うのです。

内心の心配が少しドキドキに変わりつつある頃に、副住職さまがお言葉を述べられはじめました。

「本日住職が所用で来られず私一人での法要となりましたが、このたび住職が大僧正を拝受することとなり、昨日本山の方でその儀式があり、私も列席して参ったのでありますが…」

…!
なんだ、おめでたいことで今日はここにお越しになれなかったんだ!


優しい話し方をされる、決して昂らないご住職さまで、位が上がられたこと、私まで本当に嬉しくなりました。

この席で少し前に檀家代表の一人の方から配られたお饅頭はそのお土産物でありました。
その名も『阿闍梨餅』(あ、お饅頭ではないようです)。

何回か前の例祭では、総本山の智積院の『不動明王紫燈護摩供』のお札をお授けいただきました。


いろいろ物をいただいたから、というわけでは決してありません。
そのお気持ちがほんとにありがたくて、そのお授けで本当に心が洗われる思いがするのです。
そして檀家の方々も優しくて、また、こちらの檀家さんは皆さんが大変仲が良くて、部外者ではあるのですがこの例祭はとても居心地が良いのであります。

さらに副住職さまが続けられたことには
「今年、あの震災から十二年経ちますが、あの時の思いを忘れることなく、亡くなられた方々の鎮魂と被災された方々への思いを込めて私もその日には陸前高田の地と、福島に行かせていただき、法要に列席させていただくこととなっております。次の例祭ではその時の報告もさせていただけるかと思っております」


あぁ、ありがたいことです。
なんとありがたいことでしょう。

お坊さまにしかできないことは確かにあると思うのです。

No.238 23/03/03 17:22
旅人さん0 

本日三月三日は『ひな祭り』、そう、わが家の予定を書き込むカレンダーにもそう印刷されています。

が。

何故かは知らないのですが、私の生まれ育った家は旧暦でお雛さまを祝うという家でありまして、小学生の時分、二月から三月にかけてお友達の家に遊びに行くと、お雛さまが飾られているものですから、家に帰っては大騒ぎをしたものでありました。
まぁ、群馬県は〝お盆〟は〝旧暦〟でありますので、おひな祭りが旧暦でもなんらおかしくはないのでしょうけれど、ね。

そして。
何故かは知らないくせに、自分で子どもを産んでからも、そのひな祭りは旧暦で、という慣習を引き継いでいる私。

女の子も男の子も授かった私は、子どもたちの小さな時に、時間を作っては一人せっせと雛飾りやら兜やらを飾っていて気づいたんです。
旧暦でおひな祭りをして、それをしまいつつ、兜を出すと〝楽〟だということに。

と、いうわけで、わが家ではこの三月三日前後の大安にお雛さまをお出しするのでありました。

娘はすでに嫁いでおり、子どももおるような〝お年頃〟、もう飾らなくてもいいのではないかって…思ったりもするにはするんです。

でも毎年毎年、お雛さまのお顔を拝見しては和み癒されている自分であることを知っているんですよね。

本当は、娘さんが嫁いだ時に持たせたり、あるいはその時を区切りとしてお人形供養をされる方もおられることも耳にはしているのですが、ね。
あるいは娘さんが厄年を終えた年とかに。

でも私、お雛さまが大好きなんですもの♡


そんな【おひな祭り】を【上巳の節句(じょうしのせっく)】ともいい、古くは旧暦・3月の最初の巳の日に行われていて、のちに三月三日に定められたといいます。

その『上巳の節句』は、水にまつわる行事とされ、水辺で祓い清め、無病息災を祈る儀式でありました。

…なんかこれを知ると旧暦でおひな祭りでいいんじゃない?と思えたりしたのですよね。

私の生まれ育った家でどうして旧暦ですひな祭りをしていたかは謎解きのまま、なんですけれど、ね。

ちなみに。
すぐそばに住んでいた従兄弟の家は三月のでおひな祭りでありましたし。



No.239 23/03/03 17:48
旅人さん0 

おひな祭りに欠かせない雛人形も、古くは『流し雛』として、自身に降りかかる災難を人形(ひとがた)に肩代わりしてもらい、厄や穢れを水、…川などに流していたものです。

そしてひな祭りと言えば桃の花。
旧暦の三月は、ちょうど桃の花が咲く頃でもあり、それなので『桃の節句』とも呼ばれます。
桃の木も厄除けや鬼門除けとして邪気を祓うとされます。

…じゃあ旧暦のおひな祭りっていいこともあるのでは…?

いやいや、カレンダーの三月三日に『おひな祭り』って印刷されるくらい、ほぼ全国的におひな祭りなわけで、桃の花もちゃんとお雛さまを飾る二月に間に合うように農家さんは咲かせてくださっており、そして三月三日くらいまでが販売のピーク。

と、いうことで、家に桃の木のないわが家は『桃の節句』でありながら桃の花が飾れたことがほとんどないんです。

さらにはお雛さまの防虫剤も季節商品なので入手困難、これは三月のおひな祭りの時期に入手しておかないとならず、いろいろ大変なこともあるんですけれどね。

とはいえ、大人になって聞いたことに、群馬県の随所随所では旧暦でおひな祭りをする地域があるようで。
今住んでいる辺りでは、何軒か旧暦おひな祭りのお宅があるみたいでした。

そして。
ひな祭りを終えるとすぐに雛人形を片付ける風習がありますよね。
私の住む辺りですと〝嫁に行くのが遅くなる〟とか言われております。

まあ、そういった意味では、もう娘は嫁いでおりますので、なんなら一年中飾らせていただいてもいいんじゃ…。
いやいや出戻りでもされたら大変なことなので、やっぱり佳き日に速やかぁに片付けている…毎年恒例のおばさんのおひな祭り事情でした。



  (河津桜)

No.240 23/03/04 05:04
旅人さん0 

で。

世間一般では昨日で終わったひな祭り。
どこか人とズレたおばさんはひな祭りもズレて、これからがひな祭り月間。
ついつい口をついて出るお雛さまの歌。

♪ あーかい毛氈敷き詰めてぇ

「なにその歌?聴いたことないんだけど」

…いや、世間一般の方ならいざ知らず、あなた(=夫)は間違いなく聴いたことがある!
毎年恒例で妻が歌っているし、あなたのお母さまも歌っておりましたから。
それは認知障害…もとい記憶障害…どっちでもいいけれど。

まぁ、ご存知ない方は多いことかと思います。うちの子供たちは母親がよく歌っていたので、歌えず、とも聴いたことはある曲ですが。
そしてもし母の歌うもので覚えてしまっていたなら、世間一般とはだいぶ音程が違うものではありましょう、…申し訳ない。

…あるんですよ。もう一つのお雛さまの歌。


【おひなさま 】
<林 柳派 作詞・平井 康三郎作曲 文部省唱歌>


1.赤いもうせん しきつめて
  おだいり様は 上のだん
   金のびょうぶに 銀の台


2.五人ばやしや 官女たち 
  そろって並ぶ 下のだん
   どれもきれいな おひなさま


3.あられ・ひし餅・お白ざけ
  ぼんぼりかざる おもしろさ
   今日は三月 ひなまつり



♪ あかりをつけましょ ぼんぼりに~ 
の出だしで有名な、『うれしいひなまつり』は、

<山野 三郎(サトウハチローのペンネームの一つ)作詞・河村 光陽作曲>で、昭和十一(1936)年にレコードが発売されたのだそう。

この歌、〝うれしい〟はずなのに、悲しげな曲調がまた味わい深い。
なんでもこの曲調は日本古来の”ヨナ抜き音階”というものなのだそうです。

サトウハチローの姉は嫁ぐ前の十八歳でこの世を去ったといい、この姉を想いこの詞が生まれた、との一説もあります。


♪ 赤いもうせん しきつめて~ の『ひなまつり』は、『うれしいひなまつり』とは違い、とても明るい曲調です。


No.241 23/03/05 06:31
旅人さん0 

さて。


高崎市の吉井町にあります『辛科神社』さんの参拝のあと、同じく吉井町神保にあります【 仁叟寺】さんへ参拝させていただきました。
こちらも前回〝トイレの神さまへの参拝〟が主となってしまった私の中の黒歴史に刻まれてしまったお寺さんで、夫が新たな歴史を刻んでくれようと再拝の計画を立ててくれたものです。

とはいえ、 仁叟寺さんの記憶がないわけでは決してありません。
とにかくこちらは広い!
群馬県ではおそらく五本の指にも入ろうかと(私の私観)思われるお寺さん。
前回かなり熱く語った記憶があります。
とはいえ、なにせ「私の」参拝録、トイレの神さま巡りの記述の多いものではありましたが…。

でも一通りは境内を巡らせていただいてはあります。
その広さを物語るものとして、境内に三か所もトイレがある!…ということでしょうか。
しかも一か所一か所、複数のトイレが設置されたもの、あまり積極的に書くものではないでしょうが、これもまた境内の広さと参詣者の多さを物語る指標にも…なりますよね。

前回は一人(=私)が非常事態、緊急事態にありました都合と、じゃじゃ馬ナビがまたロクでもない案内をしたおかげで、御本堂の裏手に案内され、正式に門をくぐるでなく裏手からの〝侵入〟となったのでありましたが、今回はきちんと惣門から。

こちらの惣門がなんとも歴史を感じさせてくれる、趣のある、心和む門であります。
…ちなみにこの惣門も、逆行とはなりましたが一応前回もくぐらせていただいております。

惣門をくぐると。
そびえ立つ山門に圧倒されます。
かなり離れて建てられておりますのに、その大きさに圧倒されるのです。
一見新しく見えるこの山門も以前は茅葺きの屋根であったようで、近くにまいりますと古いものであることに驚きます。

新しいもの、といった錯覚におちいるのはその山門の前に新しめな石像が立っているからなのかもしれません。

まず惣門から山門へと向かう参道のど真ん中に『天燈鬼立像』が建てられております。
あの有名な慶派、運慶の三男康弁の作とされる、国宝の、あの興福寺さんの作を模造した石像であります。

初めて見たときなどは「はっ?なぜ?何故ここに?」と、裏急後重のお腹と戦いながらも、そこで一瞬時が止まったくらい衝撃を受けたものです。

No.242 23/03/05 08:14
旅人さん0 

裏急後重の真っ只中にある私の時を一瞬止めるほどのインパクトを与えた『天邪鬼立像』。

同じ〝天邪鬼〟の身にありながら、仏前を照らすというなんとも光栄な役を与えられたから…というわけではありません。

それが適応されるか否か、…まぁ日本の法令、〝著作権〟、という視点で見たら、とうの大昔に満了しておりましょうが…宗派が異なるんです。
そしてもう一つ言えば、こちらには対になるもう一つの像が〝無い〟、無いのです。
それは『龍燈鬼像』と呼ばれる御像であります。


この天邪鬼立像は、鎌倉時代、奈良県奈良市にあります【興福寺】さんの『西金堂』須弥壇に安置されていた像で、四天王像に踏みつけられる邪鬼を独立させ、仏前を照す役目を与えられたものであります。


『天邪鬼』と『龍燈鬼』。

阿と吽、赤と青、動と静とが対比的に表現された鬼彫刻の傑作で、私はこの『天邪鬼立像』がたいへん好き、なのであります。

『天燈鬼像』は、2本の角と3つの目を持ち、口を大きく開き、やや横目で前方をにらみ、左肩に乗せた燈籠を左手で支えます。

一方『龍燈鬼像』は、腹前で左手で右手の手首を握り、右手は上半身に巻きついた龍の尻尾をつかみ、頭上に乗せた燈籠を上目づかいににらんでいます。


天邪鬼立像の一ファンとはいえ、対である像が片方しかないことは大変な違和感で、ましてやこの像たち、左右を受け持つ、燈籠であるはずなのに、片方だけって、…まさに片手落ち、ではないですか?

まぁ、おそらくは奉納された石像でありましょうし、この像を奉納された方が私同様『天邪鬼立像』のファンの方であったのかもしれません。
石像一体がどれだけの金額となるものか貧乏人の私などは知る由もありませんが、かなり高額なものでありましょうし、一体の奉納で充分とお考えになられたのかもしれません。

宗派の違いも、元を糺せば『仏教』。
なんら問題はないわけなのでありましたね。


まぁ…いろいろあって、ここ仁叟寺さんの境内山門前の参道には石造の天邪鬼立像がおられるのでありましょう。

No.243 23/03/05 10:22
旅人さん0 

【辛科神社】さん、そして【仁叟寺】さんは高崎市吉井町神保にある、ということは前述させていただいておりますが、この二つの寺社は結構離れており、なんだかんだでニキロ強くらい離れております。

そもそもこの『吉井町』という町はもとは『群馬県多野郡』に所属しておりましたが、あの平成の大合併で高崎市となりました。
平成の大合併で倉渕村・箕郷町・群馬町・新町・榛名町が合併し、遅れること二年後に吉井町が合併となったようです。

すぐそばには織田宗家ゆかりの城下町であった甘楽郡甘楽町小幡があり、高崎市旧市街よりずっとこの小幡のほうが近いくらいであります。


【仁叟寺】さんの正式名称は、
【天祐山公田院(てんゆうざんくでんいん)仁叟寺】。

かつて安芸国(広島県)の『赤松則景』という人物が、1180年の頼朝の挙兵に応じて鎌倉に上り、その子・『氏行』が甘楽郡司となって奥平郷(高崎市吉井町下奥平)に城を築き、『奥平』氏を称したのだといいます。

六代『奥平定政』は1333年の『新田義貞』の鎌倉攻めに参陣して南朝方として活躍しますが、八代『貞俊』は北朝方に押され奥平城を出、三河国作手郷に移り、徳川氏家臣となったといいます。


『仁叟寺』は、奥平郷に残った貞俊の弟・『貞訓』が1428年頃に奥平郷に創建し、三河国に移った奥平氏の子孫・『貞能(さだよし)』が1522年に現在地に移して本堂を再建したと伝わります。
渋川市中郷にあります同じく大きな寺院であります【雙林寺】さん第四世の高僧、直翁裔正禅師を初代住職に請して開山されました。

その後、各時代の藩主、領主から手厚い保護を受けます。
戦乱の世にも厳然として格式を保ち続け、安土桃山時代の天正十八(1590)年には『奥平信昌(おくだいら のぶまさ)=上野小幡藩初代藩主』公の夫人『亀姫(かめひめ、徳川家康長女)』さまより寺領を寄進され、
さらに長根城主小幡公、宮崎城主奥平公、吉井城主菅沼公、地頭長谷川公同じく溝口公などの帰依と手厚い保護を受けたとされます。
江戸時代に入り幕府からも庇護され特に三代将軍【徳川家光】公の代には寺領及び御朱印二十五石を改めて賜ったといいます。

こちらの御本堂は五百年の間、一度も兵火等に遭うことなく改修護持された建物であるとのことで、また本堂裏手には樹齢五百年以上と伝わる『仁叟寺のカヤ』があります。



No.244 23/03/06 01:32
旅人さん0 

山門をくぐる前には向かってみぎてに手水舎、ひだりてには坐禅堂があります。

座禅堂の隣、さらに惣門にほど近いところには以前から石仏さまが祀られていましたが、今回訪れたところ屋根で覆ってくださってありました。
こちらにまとめてお祀りされた石仏さまたちはたいへんお優しいお顔立ちの御像ばかりで、私はこちらにおられる石仏さまにお会いするだけでホッとするような癒しをいただくのでありました。
今回伺って、実はこちらにお祀りされた石仏さまたちは『八束山観音寺御移転佛』であったようで、そのように墨書きで書かれたものが立てられていました。
…廃寺となられたお寺さんなのでしょうか。
諸事情あるかとは思うのですが、廃寺となってしまったり、無住のまま衰退したお寺さんを見るとなんとも切なく虚しい…寂しい思いがいたします。


こちらの山門は楼門で宝暦十一(1761)年のものであるといいます。やはりかつては茅葺きのものであったようで写真が残されています。
金剛力士像はやはり石像。
かつては石仏ではなかったのか、結構新しい仁王さまであります。
そしてこの楼門の閉ざされた二階の扉の中にはどのようなものが納められているのか…たいへん気になるおばさんでありました。

一階部分の天井には四方に雲のような模様が描かれていて、なにか意味でもあるのかどうか…。

ちなみに惣門は寛文三(1663)年
本堂:大永二(1522)年
鐘楼:天和三(1631)年
開山堂:平成元(1989)年
座禅堂:昭和六十三(1988)年
など堂宇が建ち並びます。

No.245 23/03/06 11:13
旅人さん0 

そうそう、あまりにも山門が立派にそびえ立っているものだから、ついそちらに目が行きがちでありますが、惣門を入るとひだりてに
六地蔵さまがお出迎えくださっておられます。

その並びの奥まったところに坐禅堂があるのですが、座禅石と称したさざれ石と天竜石がおかれていました。

「これで座禅を組んだ方がおられるってこと…なのかなぁ。これで座禅組むのは斜めだし、ごつごつしてるし、ちょっと…かなりの修行になりそうだけど、ね」とは私。
一瞥しただけでしっかりスルーされました。

六地蔵さまの後ろには『白山妙理権現』さまがお祀りされています。白山妙理権現さまは『十一面観音』さまを本地仏とされておられるといいます。

座禅堂の前には大きな背丈のお地蔵さまが一体。

No.246 23/03/06 17:57
旅人さん0 

このお地蔵さまはおそらく等身大かそれより少し大きいサイズ。
台座が高いためかなり高い位置にお顔があります。

元禄十三年に建てられたこのお地蔵さまは、当時のこの辺りの藩主『黒沢藤助』が内方が病にて逝去したことを深く悲しみ、菩提寺である仁叟寺に〝法界之教主地蔵菩薩尊像〟を立て、心情を石碑文に刻し菩提を供養したもの、とありました。


…〝内方〟って?

内方って普通他人の奥様を敬って使う言葉じゃなかったかしら?
…調べてみたところ、他人の妻に対して使うことが多いだけで、奥さまを指すこともあるといいます。
あら…。
…黒沢藤助公、ごめんなさい。

心を込めて書かれた石碑文は劣化が酷く、しかも一度斜めに折れているようで、ほぼ読めませんでした。

山門をくぐると左側に鐘楼があります。
立派な背の高い鐘楼なのですが、いかんせん周りにあるものが大きなものばかりで、なんだか小さく見えてしまいます。
そばにある山門が大きいことと、御本堂前の樹齢五百年を超えるという榧(かや)の木、そしてやはり大きな御本堂。

なかなか形の良い鐘楼で、鐘楼の天井にも天井画があるようです。
こちらの鐘は二代目のものとのこと。それでも平成十何年かまでは創建当時からの鐘が使われていたのだといいます。
ほとんどのお寺さんで鐘を失った戦争による供出も、こちら仁叟寺さんではなかったようです。

こちらの御本堂、大変大きなものであります。
大きな大きな瓦葺きの屋根。
屋根の方が大きく見えます。
もともとが茅葺きであったからこその大きさでありましょう。

大永ニ(1522)年に建てられたものとのことですが、いい意味でそれほどに古いものと思えない。
外観も、そして内観も、古さを感じさせない、美しいものであります。


御本堂は扉が開いていて、中に入ってお参りができます。

床の高い御本堂。
きれいに拭き清められ、美しく輝いています。
たいへん居心地の良い御本堂であります。

今回はお賽銭箱の手前でのお参りだけといたしました。

No.247 23/03/07 17:13
旅人さん0 

仁叟寺さんの境内、御本堂の前に榧(かや)の大木が聳えたっています。外周が4.8m、根周り外周は10.0m、樹高約21.0mの大きさだといいます。
この榧の木は仁叟寺の開山『直翁裔正禅師』の手植えの木と云われています。
樹齢は約五百年。
『天宮守護神の休み木』として、また『仁叟寺の御神木』として崇められ、大切に管理、保存され現在に至っています。
平成四(1992)年には樹勢が衰えたが、保護養生の結果もちなおしたものといいます。昭和二十七(1952)年に「仁叟寺のカヤ」として県指定天然記念物に指定されています。

また、本堂裏の駐車場、東隅に梢を伸ばして雄大な樹形を見せている樹があります。
『モク』と呼ばれていますが、これは『椋(むく)』の木で、吉井町では椋をそう呼ぶのだといいます。
こちらは根周り7.0m、目通り1.5m、高さ29.0m、地上7.0mのところで幹が二つに分かれ、灰白色の木肌が荒くれて下の方にはツタが巻きつきいかにも古蒼を帯びています。
五月になると新しい枝の下に、上部に雌花、下部に雄花が淡緑色に群がって咲き、秋になると一センチほどの黒い実となり椋鳥が好んで食するのだといいます。
椋の材は粘り強く割れにくいので、槌の柄などに利用されるといいます。
こちらも高崎市の天然記念物として登録されています。

また、同じく本堂裏手の開山堂の近くに『五輪桜』と呼ばれる『コヒガンザクラ』があり、こちらは市指定の保存樹木とのこと、樹齢は約八十年、高さ十五メートルを超える大木です。
地中から五本の幹が輪のように伸びていることから名付けられたのだといいます。

この桜が咲いたらそれはそれは見事であろうと、咲いていない木を見上げては思うのですが、人混みが苦手な珍道中ペア、口に出すだけで、その頃こちらへ参拝をすることなく今に至っております。

この三本の樹、『仁叟寺の三大名木』、と呼ばれ、地元の方や檀家の方々から愛されているのだといいます。

No.248 23/03/07 18:08
旅人さん0 

一万坪という広い寺域を持つ仁叟寺さんには、二十五もの諸堂・塔があります。

御本堂や坐禅堂の他にも、延寿堂、薬師堂などがあり、殊に文殊堂は高台にあり、ちょっとした展望台となっており、広い境内が一望できます。

古照堂と呼ばれる御堂は『仁叟寺多胡碑』の覆屋であります。
開山当時より絶えることなくこんこんと湧き出る井戸は、今も御水屋として使われており、当時の井戸も現存し覆屋に覆われているとのことです。


高台の文殊堂へと向かう途中に、立派な銅像が立っており、そのそばにとある一族の方の墓所がありました。
仁叟寺さんは昭和六十三(1988)年から平成十二(2000)年の間に、諸堂の改修と建設が進み、現在の伽藍整備された寺に面目を一新したといいます。
この際に、特に多大な功績を尽くされた最高顧問檀家である寺本欣正翁に再中興開基と曹洞宗管長表彰が贈られたとのこと、この銅像はこの寺本翁であるとのことでありました。


No.249 23/03/08 15:11
旅人さん0 

今日はお薬師さまのお縁日。
諸用あって薬師如来さまご本尊のお寺さんに行くことができず、〝仏壇もどき〟で遥拝いたしました。

…やっぱり、行けば良かったのでしょう。
とても嫌な思いをいたしました。


今年の花粉の飛散量はたいへん酷くて、車がとんでもない色になっていたため、外出から帰った午後一番に洗車をしておりました。

すると、そのうち、ご近所のうるさ方のお一人が、自転車で町内の見回り(あくまでも自発的な、…傍迷惑な見回りですが)をし始めました。
…一周どころかそれこそ何周も、悪天候以外は必ず!必ず何度も何度も同じところをローリングされます。

と、唐突に。
「なんで車が3台も必要なん」

「?」…何か問題でもありましょうか?
「ずっと置きっぱなしじゃないか。なんでそんなに車が必要なん?」

(はあぁ、出た。自分の尺度で考えて意見する得意技)

私「リモートワークなので車はあまり使わないことが増えたけれど、まだ必要なんですよ(だからなに?)」
と笑顔まで添えてお答えしたのですが、くいつくことくいつくこと!
何度同じことを繰り返して聞いてくるんだか。

納税もしてます。
路駐ではなくきちんと駐車場に停めています。
どれもごくごく一般的な大きさの国産車で、排気量も少ない、音も極めて普通な車です。
たしかに私は無職ですが、だからって車を所有していてはいけないんですか?
うちの事情はうちの事情、あなたにはなあ〜んにもわからないでしょう。


どうも私の住まう辺りには『何様』が何人もお住まいで。
その方々は遠巻きに『長老』とか『お代官様』とか言われているようで、それを知って少しは自分だけ嫌な思いをしているわけでないのだなぁと気持ちが晴れるのでありますが。


言い返したところで、どうなるものでもない。
偏屈な頑固爺と、頑固婆さんとうまく付き合うか…それこそ引っ越すしかない。

ああはなりたくはないなぁと、思えば〝先生〟であります。

それでもやっぱり。

「くそジジイ、うるさいんだよっ!」

ああ、だいぶ落ち着きました。
暴言をごめんなさい。

さぁて、仏壇もどきにお線香をあげてこようっと。
お気に入りの香りのお線香を。

No.250 23/03/08 23:04
旅人さん0 

【延喜式内神社】というものも、神社さんにご縁をもって生きてこられた方であれば、ご存知のことであるかもしれませんが、なにぶんにもそういう生活を長年に渡りしてこなかった私は、夫に延喜式内神社さんのことを言われた時、恥ずかしながら夫が何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。

またいつものように夫が分かりやすく説明をしてくれた…はずだったのですが、さすがに妻が『延喜式』のことすら知らないとまでは思わなかったらしく、最初の説明ではまったく〝ちんぷんかんぷん〟でありました。

もう何年も前のことにはなるのですが、夫は以前から延喜式内神社さんを訪れてみたいと思っていたようで、この妻と神社仏閣珍道中を始めたのをこれ幸いと、群馬県の式内社を巡りたいと申したのであります…が。

夫「延喜式の延喜っていうのは元号で、延喜の時代に当時の朝廷の政治の仕組みを定めたもので、…知らない?」
「知らない」
「…」

「…要はその延喜式の中に名前のある神社さんを『延喜式内神社』っていうんだよ。群馬県には十二社あるんだけどね」
「ほうほう」
「…」

…という会話があって、しばらくは精力的に群馬県の式内社さんを参拝していた時期がありました。

ちなみに『延喜式内社』とは『延喜式』の第九・十に名前の載っている二千八百六十一社の神社さんのことで、延喜式の巻九・十のことを『延喜式神名帳』というのだそうです。
〝延喜〟とは言っていますが編纂が始められたのが延喜であったために『延喜式』という名になっていますが、実際にまとめられたのは次の元号〝延長〟になってからのことであるようです。


今回その『上野国延喜式内十二社』の十二社目にあたる【宇藝神社】さんに参拝してまいりました。
「あと二つ残っていたうちの一社だね」と嬉しそうな夫。
(そういえばそうだったか)と内心思ったことはここだけの話です。笑。

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