窓辺のカトレア
絵里の母は、女優として仕事の合間に演技者として生活している。絵里は、母の代わりに料理を担当して、自分の将来を考える。
やがて、それぞれの生活の節目を迎え、二人の人生プランは変わっていく。
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私の母は、女優だった。
正確には、売れない女優で、いろいろな仕事をパートでやっていた。
私が物心ついた頃には、いつもパートで家をあけていた。たまには念入りにお化粧して撮影に出かけ、テレビドラマに数秒間映っていた時もあった。
若い頃は、いろいろな役をこなしていたのだと思う。しかし、ビデオも写真も残っていないので、どこまで信用していいのかはわからない。
娘の私としては、もう少し家にいて、時々遊んだり、勉強を教えたりしてほしかったのだが、機嫌が悪い時に話しかけても「自分で考えなさい」と怒るので、仕方なく、いつも一人で机に向かっていた。
おかげで私は、すっかり勉強が得意な女の子になってしまった。
休みの日に仕事が入らない時には、たまに母と二人で遠くに出かける。
小さい頃は、公園で遊ぶこともあった。
砂場でお山を作り、そこにトンネルを通し、小さなジョウロを持ってきて、水を流す。
そういう一人遊びを一通りすますと、すべり台に行き、並んでいる子供たちの列に加わり、順番にすべり降りる。
時間が余ったら、ぶらんこに乗って、一人、また一人と周りで遊んでいた子供たちが帰っていく頃まで、何回もこぎ続ける。
我ながら、良くも悪くも、行儀のいい子だったと思う。
ところがある日。それまでベンチに座っていた母が、「もう帰るよ」と言って私を呼びに来て、帰っている途中のことだ。
私は、なんとなく、母の不機嫌を察していたと思う。
そこで、小さい頭でいろいろと考えをめぐらせ、母の機嫌を取ろうと、幼稚園の事を話し出した。
「今日、お昼にいちごが出たんだよ」
「ふうん」
「おいしかった。お母さん、今度いちご食べたい」
「スーパーに行った時ね」
「うん。ねえ、今度のおゆうぎ会、来る?」
「お仕事じゃなかったらね」
「じゃあ、その時がんばるから、いちご買ってきてね」
「、、、、、練習、ちゃんとするのよ」
「うん。お母さん、おなかすいた。今日ごはん何?」
その時だった。母が、突然、かたわらで一緒に歩いていた私を、突き飛ばした。私は、その反動で、道路沿いの植え込みに、体半分のめり込んでしまう。
「うるさいわね!さっきおやつ食べてきたでしょう!おかずはスーパーに行ってこれから買って来るの!あんたは家で、おとなしく留守番してなさい!」
母の表情は、真剣だった。私は、植え込みの中で、茫然(ぼうぜん)と母を眺めていた。
「それに、公園で遊ぶ時は、もっと楽しそうに遊びなさい!」
かなり理不尽な話だ。公園にいた他の子供たちは、一緒に遊ぶ友達や兄弟がいる。
私はといえば、たまに母の気が向いた時に連れてこられるだけだ。しかしここでそれを言い返すだけの心の余裕もなく、口ゲンカで母に負けるというのは本能的にわかっていたので、ぐっとこらえ、母に手をひかれるまま、立ち上がった。
その後は、二人で手をつないで帰ったが、家につくまで、二人とも無言だった。
母は、今でいうシングルマザーだったようだ。
若い頃に、とある劇団に入っていて、父と知り合い、そして私が生まれたらしいが、詳しいいきさつになると、親戚も皆、話してくれないので、よくわからない。
「とにかく、売れてなかったからね」
伯母(おば)は、お茶を飲みながら、お土産のおかきをつまんでいた。
「和子は、わりと器量はいいから、最初は女優の仕事もあったみたいだけど、、、
ほら、今だったら、お金がなくても、アルバイトとかで食いつなげるじゃない。昔はいろいろ厳しかったみたいだからねぇ」
「お父さんは、売れてる役者だったの?」
「売れてるっていうか、そもそも、役者でもないのよ。何ていうの?裏方で、出番があれば舞台にも立つっていう立場だったみたい」
「ふうん」
私も、自分で持ってきたおかきの袋を破って、キッチンペーパーを敷いたなつめの皿につぎ足した。
茶色い備前焼風の急須を手に取り、伯母は、手を添えて自分の湯呑みにお茶を注ぐ。
「最初に、きちんと籍を入れなかったのがいけなかったのよねぇ。まあ、おかげで、戸籍のほうはきれいだったんだけどね。
その後にお見合いした人と一時(いっとき)結婚生活は送ってたけど、あの子もああいう性格でしょ、一年持たなかったわ」
「うん。それで?」
「知らない。和子も話さないでしょ?女優業にこだわりたかったんじゃないの?きちんと話し合ってれば、それなりの報酬じゃなくて、慰謝料も出たんだろうけど、、 でも、家庭をおろそかにした和子も落ち度があるから、払う側かしら?よくわかんないけどさ」
濃いほうじ茶の香りが、テーブルのまわりに漂(ただよ)う。
湯呑みの中をのぞいても、茶柱は浮かんでこない。
「それで?私と血のつながったお父さんと別れた原因って、何?浮気?」
「そんな甲斐性ないわよ」伯母は、眉をしかめ、顔の前で手を大きく左右に振った。
「真面目過ぎたんじゃないの」
「真面目過ぎた?」
「私は、演劇のなんたらとかわからないけど、二人とものめり込みすぎたんじゃないの?、、、、昔、学生運動とか、流行(はや)ったんだけどね、そういうのと、似てると思うのよ。聞いた話だと、ああいうのも、良し悪しなのよね。自分が、ヒーローとかヒロインみたいに、勘違いしちゃうのよ。
おばさんも、一度、和子が出てる舞台を見に行ったけど、結局どういう筋書きの話なのか、わからなかったし、、、
芸の世界で身を立てられる人なんて、一握りなのにね」
私は、しばらく黙って壁の時計を見つめ、バックの中から携帯のスマホを取り出して、表示を確認した。
「おばさん、私そろそろ帰るね」
「あら、そうね、もう、タイムセールの時間よね。今日は、私も後で買い出しに行かなきゃ、、、 ねぇ、絵里ちゃん」
「何?」
「まだ、彼氏とかいないの?」
「うん」私は、再び壁の時計を見つめる。
「そんな余裕ないよ」
「あら、でも絵里ちゃんも、もうすぐ成人式でしょ?彼氏の1人や2人作ってもいい頃じゃない?」
「2人もいらないって」
「そーお?おばさんが絵里ちゃんくらいの頃は、青春をエンジョイしてたわよぉ。日替わりで男の子と映画見に行ったりねぇ。いい時代だったわぁ」
「今時そんな事してたら、まわりから何て言われるかわかんないし」
「今の子たちって、、 遊んでる子は遊んでるように見えるけどねえ。絵里ちゃんも、変な所、お母さんに似てるわよね。わりと美人で通る顔立ちしてるのに、なかなかいい男の人にめぐり会わないっていうかさ。
和子も、どうせなら、美人女優って肩書きで、もっといい仕事が入ってくる所に行けばよかったのよね。そしたら、ほら、玉の輿とか、なれるんじゃないかな?」
「おばさん、私、ほんとに時間ないから、、、 もう行くね。今度は、なんか作って持ってくるから」
「あら、今日、アルバイト?」
「うん。遅い時間なんだけど、早めに入って準備しとけば、終わった時に早く帰れるから」
「そう。変な男には、気をつけるのよ。今頃の男の子は、チャラチャラしてるわりに無表情だから、何考えてるかわからないからね。街で声かけられて、のこのこついて行ったらダメよ」
話が、矛盾してるよなぁ、、、と思いつつ、私は、肩掛けバックを下げて、伯母の家を後にした。
小学生低学年の頃、たまに、母の劇団仲間が、家にやって来る事があった。
その頃は、小さなマンション住まいだった。ささやかなキッチンと、それに続く正方形のリビング。クリーム色のソファー。
「今日は、お客さん達が来るから」と言って、母が、私の前にホットケーキの皿を置く。
熱々(あつあつ)のホットケーキを食べているあいだに、1人、また1人と、見知らぬ大人の人たちが、ビニールの袋を下げて、家の中に入ってくる。
--こんにちは。えりちゃん、覚えてる?
陽気な顔で、口々に私に声をかける大人たちに、こんにちは、と返事を返していく私。はっきり言って、誰の顔も、覚えてなかった。
--覚えてないよねぇ。まだ、ほんの小さい赤ちゃんの頃だったもんね。
--私は、ほら、1年生に上がる前に、街で会ったよね。
だんだん、私は返事をするのが面倒になっていき、大人たちは大人の会話に戻っていく。
ビニール袋からお酒の缶やおつまみが取り出され、母が、なべの中からいろんな皿に取り分ける野菜の煮付けの匂いが、ただよってくる。
私は、楽しそうに語らう大人たちの近くで、ソファーに座り、子供雑誌を読みふけっていた。
やがて、お酒の缶が空っぽになっていく。
大人たちの話は、なんだかよくわからなかったけど、おもしろそうな表情で、不思議なしゃべり方をする人が何人かいて、その人たちがしゃべるたびに、みんな、楽しそうに笑っている。
みんなと一緒に食べたり飲んだりしている母は、時々私のそばを通ってキッチンに行くけど、すっかり私のことを忘れたみたいに、大人たちの中にまぎれている。
サラサラしているようで、クセのある髪が、母の肩で揺れている。
いつものお母さんじゃないみたいだな、と思って母の顔を見ていると、そこにいる人たちの中で、一人、キラキラしていて、きれいな女の人に見える。
ゆらゆら、ふわふわした空気の中で、だんだん私のまぶたは重くなっていき、体が、ソファーの中に沈み込んでいく。
--あれ、えりちゃん、眠くなったかな?
いつのまにか、私の体には、二つ折りのタオルケットが、かけられている。
とろとろとした意識の中で、母の笑い声が、ゆっくりと遠くなっていった。
「でもさ、親がテレビに出てるって、すごいよな」
「そう?有名な人だったらいいけど、中途半端に顔が知られてても、かえって面倒だよ」
友達と歩きながら、私は、レストランのウィンドウに飾られたメニューを目で追った。
「そんなもんかな」
薄い茶色のシャツを着た彼は、しばらく立ち止まって、「中に入る?」と、レストランの入り口を見る。
「ううん。メモだけ取っていい?」
「いいよ」
私は、ショルダーバックからメモ帳を取り出し、メニューのカロリーと値段を走り書きした。
「お母さんがいない時って、絵里がごはん作ってるんだろ」
「撮影の時はね、、、、 ほとんどエキストラみたいな感じだから、パートが休みの時に、1日かかる時もあるし」
「へー、すごいな」
「長年そんな事やってるから、一応ファンとかもいて、年配の人から煮付けとかみかんとか、差し入れもらってくる事もあるし、、、」
「そういうのが、いいよね。普通、親戚とかじゃないと、煮付けとかくれないよ」
「まあね。おいしかったけどさ、、、」
私が、メモ帳と店の看板を見比べているうちに、彼は腕時計をチラッと見て、「じゃあ、そろそろ帰る時間だから」と言う。
「うん。明日は授業に出る日?」
「わかんない。レポート書き上げたら、そのまま二人で学校に行くと思う」
「ふーん。彼女とは、順調なの?」
「まあ、今のところはね」
私と彼は、高校を卒業する頃から、専門学校に入学するまで、しばらくつきあっていたけど、そのうち私のほうが忙しくなったり、彼に好きな人ができたりで、自然につきあいも消滅してしまった。
お互いの学校が近くにあるので、時々街で顔を合わせたら話はするけど、男友達になった彼は、もう、以前の地元の頃の話とかは、しなくなってしまった。
「じゃあ、私も試験勉強しないといけないから、帰るね」
「資格取るの?」
「うん。いつかはね。調理師になったら、どこかの店で修行するの」
「そうか。その時には、その店に食べに行くから」
そう言って、彼は立ち止まり、お惣菜店の店先で、「ここで、弁当買っていくから」と、笑って片手を上げた。
私も笑って、「夏休みには、みんなで集まろうね」と言い、もう、彼と一緒に、食材の買い出しに行けない事を、さみしく思った。
その頃から、母は、よく電話で誰かと話し込んでいた。
どうやらお金の事らしく、「いくらなら準備できるの」とか「私も今月はきついのよ」とか言っているのを小耳にはさんだので、てっきり母がお金を借りる相談をしているんだろうと思っていたが、どうやらそうではなさそうな感じだった。
「昔、お世話になった知り合いがね、事業を起こそうとして失敗したらしいのよ」
赤いエプロンを着けた母は、おもしろくもなさそうな表情で、状況を説明してくれた。
「それで?」
「もちろん、断ったわよ。こっちが貸してほしいくらいなのに。まあ、劇団に入る前に、ちょっと共演した事があるから、お金の事以外なら協力するって言っといたけど」
「事業って、、、 お店でも出すの?その人」
「詳しくは知らないけど。もともとは、事務所が経営してたレストランみたいよ。今度、テーマパークができるから、そこに出店しようとして、採算が合わなかったとか言ってた」
「、、、、、お母さん、最近、家計簿、見た?」
「忙しかったから、見てないわよ」
「この間、温泉旅行に行った時の交通費と、お土産代で、赤字だからね」
「でも、旅館の宿泊費は、町内会のくじ引きで当たった券だったから、タダじゃない。あれ、パート先の人が行けなくって、ゆずってもらったのよね」
「まあ、あれは、めったにないたまの贅沢だから」
「私は、運が強い時は強いから。あれこれ心配しなくても大丈夫よ」
「それでも、やっぱり節約したほうがいいよ。お母さんだって、いつまでも若くはないんだから」
「わかってるわよ」
「いいかげんに、タバコとかやめたら?それで、だいぶ出費が減るよ」
「うるさいわね。やめる時は、自分で決めるわよ」
テーブルの上の食器を片付けながら、私は、ため息をついた。
母は、相変わらず事務所から連絡が入ると、名前もない役をもらって撮影に行っていた。
主人公の家の近所で立ち話をする主婦達の一人とか、刑事から聞き込みで怪しい客について聞かれるウェイトレスとか、時には、死体という時もあった。
客船が沈没して、運悪く死亡してしまった客の一人だった。事件の中では、疑惑の会社の倒産をめぐり、犯人の顔を知っているキーパーソンだったが、母がドラマの中で映っているシーンは、砂浜で布を被(かぶ)せられて、死化粧の顔を刑事が確認するシーンと、容疑者のフラッシュバックで、従業員同士のこぜりあいに巻き込まれる女として、セリフが2、3個あるだけだった。
どうやら、母は女優業をやめる気はないらしく、もとからパートが主で、芸能活動のギャラは副収入のようなものだったが、なんとか、母子家庭の家計を支える役には立っているような状態だった。
伯母も、母の性格をよく知っているので、「和子には、もう何を言ってもだめね。再婚なんて、考えてないんだろうね。絵里ちゃんは、ちゃんといい相手を見つけて、幸せにならないとだめよ。男の人以上にバリバリ働こうなんて欲は捨てて、ちゃんとおいしい料理を作れるようにならないと。調理師なら、その点安心よね」
と、ことあるごとに私に言い聞かせていた。
その日、私は学校の調理実習が長引いて、皮肉なことに、夕食の材料を買いそろえる時間が取れなかった。
仕方なく、お弁当屋で、野菜たっぷりのヘルシー弁当を二人分買い、お湯を沸かしながら、母の帰りを待った。
「ただいま」
「おかえりなさい。最近、終わる時間が遅くない?」
「、、、パートの後、役作りしてるのよ」
「役作り?」
「そう」母は、椅子に腰を下ろし、「やだ、今日の夕ごはん、お弁当なの?」と、眉をしかめる。
「うん。これ2つで800円で、お買い得だったよ」
「最近、インスタントやらレトルトやら続いてない?あんた、調理師になるんじゃなかった?」
その言葉に少し腹が立った私は、「文句があるんだったら、お母さんが夕ごはん作ればいいじゃない」と言い、ほうじ茶を入れた急須(きゅうす)にお湯を注ぐ。
「そのうちね」
「だいたい、私が小さい頃から、運動会や遠足のお弁当のおかず、思いっきり手抜きしてたじゃない。のり巻きとプチトマトだけ入ってたりとか、、、」
「のり巻きで上等じゃない」
「レタス巻きの時もあった」
「そうね。あれ、具は何だったっけ?」
私は、なんだか、もう話す気がなくなり、テレビのリモコンのスイッチを付けた。
高級車や、デパートのバーゲンや、スマホのCMが、次々と画面の中を流れ続ける。
「あ、、、、」
「何?」
「この間、電話してきた人」
テレビの中では、白いエプロンをつけた女優が、台所で、おにぎりとお味噌汁を作っている。
❬私たちの食卓に欠かせない懐かしいあの味を、ご家庭でもお気軽に楽しむことができます--❭
きれいにお化粧した50代くらいの女優は、やさしそうな表情で、「召し上がれ」と、画面に向かって微笑みかけ、スポンサーの名前が表示された。
「、、、、この人?」
「うん。この人よ」
「なんか、ドラマで見たことある」
「昔から、大手のCMに出てたのよ。売れっ子だったから」
「テーマパークに出店するって言ってた人だよね?」
「そう。家は一等地にあるからね。普段は派手な生活してるのよ。化けるのが上手い人だからね」
「なんか、エコで質素な感じのCMだったよね」
「そうね」母は、弁当のふたを開けて、割りばしを割って、言った。「どのみち関係ないわよ。まあ、これからは、主婦役でも狙って、どこかのドラマに出てくるかもしれないけど」
「ふーん、、、」 という感じで、その話は終わり、二人でお弁当を食べながら、学校で定期的に行われる料理コンテストがある事とか、母の仕事先でアルバイトが足りないとかいう話をした後、お茶を飲み、私が、冷蔵庫の中のプリンでも食べようかと立ち上がると、「絵里ちゃん」と、母から呼びかけられた。
「何?」
「私、CMに出る事になったから」
「、、、、、何のCM?」
「自然食のね、ナチュラルフード」
何でもなさそうに母は言ったが、私は、唖然としてしまった。その日一番、驚いたニュースだった。
しばらくの間、家と学校とアルバイト先の往復で忙しくしているうちに、日常の中で、ふと、いやな視線を感じるようになってきた。
学校で、何か恨まれるような事したかな、、、と考えてみたが、特に心当たりはなかった。
料理コンテストも選外だったし、同期のみんなもそれぞれ就職先や修行先の飲食店に目星をつけ、なかなか行き先が決まらない私の事を心配したりしてくれていた。
別れた彼氏と、たまに会った時に食事したりしている事が、ふと、気になり、今の彼女はどう思うんだろう、と聞いた事がある。
「彼女も、元彼とか男友達と一緒に出かけたり遊んだりしてるから、大丈夫」という事だった。
それでも、私の元彼は交遊関係が広く、わりともてるタイプだったので、もしかしたら女友達とかかも、、、と考えをめぐらしたが、学校で仲が良かった友達となると、多すぎて、よくわからなかった。
元彼は、私の母が芸能活動をやっている事とか、私のプライベートに関しても、いいかげんなウワサなんかを流すような人ではなかった。
私自身も、中高生の頃、遊園地とかレジャー施設に行った時だけ仲が良かった友達とかを考えると、彼氏と呼んでよかったのか、わからない人もいた。
アルバイト先の人達も、みんなドライだけど親切で、忙しい時には協力して仕事をまわしたり、急用で休む時も、わりとすぐにシフトに入ってくれる人が見つかっていた。
妄想が悪いほうへと膨(ふく)らんで、とにかく、調理師免許を目ざして、新しいメニューを開発しよう、と思っていた時。
学校の授業が遅くなり、すっかり陽(ひ)も暮れかけた頃。
帰りがけに、自販機でお茶を買おうとして、財布から100円を取り出した。
はずみで、100円玉がころがり落ちたので、拾おうとアスファルトの上に手を伸ばした時、誰かのスニーカーが、目の前に見えた。
見上げると、そこに、メガネをかけた30代くらいの男が立っていた。
おそるおそる100円玉を拾って立ち上がると、男は、なぜか、手にフォークを持っている。
ゾッとして、つい、「すいません」と言うと、くたびれたTシャツにジーパン姿の男は、「あなた、うちの店のメニュー、盗んでますよね」と言いながら、呆然と立ちすくむ私の右手を素早く取って、フォークを甲に突き立てた。
びっくりして、右手をかばいながら、スマートフォンの警報音を鳴らそうかと思ったが、人を呼んだほうが早いと気付き、「何するんですか!警察を呼びますよ!」と叫んだ。
だが、周りには、誰も人がいない。
男は、うっすら笑っているような奇妙な表情で、ボソボソと、「呼んでどうするんですか。悪いのはあんたでしょう。男と組んで、新しい商品でも開発してどっかで売るんですか。うちの店もね、いいかげん迷惑してるんですよ。タダ食いよりタチが悪い」と、言った。
その頃は、通行人が何人か、チラチラ、私とその男を見ていたが、事の大きさに気づかないのか、関わりたくないのか、みんなスルーして通り過ぎて行く。
私は、怖さと腹立たしさで、体がふるえていたが、気力をふり起こして、「家族に来てもらいます。警察で話しましょう」と、言った。
仕事中の母には、連絡がつかないだろうと思ったが、母がいると考える事で、おびえた気持ちが支えられる気がした。
右手の甲には、フォークの跡が赤く残っている。
中途半端な痛みと、手をつかまれた時の男の手の生ぬるさが、すごく気持ち悪かった。
男は、私を見下すような視線と、うすら笑いを浮かべて、言う。
「どうする気ですか。被害届でも出すんですか。反対じゃないですか。あなた方が、うちの店に来て、謝るべきじゃないんですか?
うちも、方々(ほうぼう)で、門外不出の開発メニューパクられて、非常に迷惑してるんですよ。こちらは、関係者を呼びます」
この男から発せられる妙な論理にも雰囲気にも耐えられなくなって、一瞬、別れた彼に連絡しようかと迷ったが、(もしかしたら、話がこじれて事態が大きくなり、収拾がつかなくなるかも、、それに、この事で、私と元彼の仲や、食べ歩きを周りに変な風に誤解されても困る、、、、)と考えた末、やっぱり連絡は、できない、と思った。
とっさに頭に浮かんだ、頼れそうなクラスメイトの連絡先を探し、スマホの画面を押した。
「能勢(のせ)?もう実習終わった?、、、ごめん、悪いけど、今から来れる?」
「野村?どうした?」落ち着いた、でも、少しとまどった能勢の声が、スマホから聞こえた。
「今、家に帰る途中の自販機前なんだけど、ちょっと、トラブってて、、、」
男は、じっと私を見ている。スマホを持つ私の手に、汗がにじんできた。
能勢は、少しの間沈黙して何か考えていたようだが、「10分くらいで行ける」と、言ってくれた。
「ほんと、ごめん、、、後でくわしく話す、、、」
私がスマホで話しているうちに、男は表情のない顔でじっとこちらを見つめ、やがてフォークを溝に投げ落とし、悠然と立ち去って行った。
私は、冷たい汗を背中に感じながら、じっと、立ちすくんでいた。
人々が、ドラマの中のように、ゆっくりと舗道を歩いている。
呆然としたまま、自販機の料金の小さなランプを見つめ、ふと前方に目をうつすと、能勢が歩いてくるのが見えた。
高校まで水泳をやっていたという能勢は、背が高く、やや広い肩幅で、すらりと体格がいい。
クラスの実習の時も、重い米袋とか、野菜が詰まった段ボールとかを、いつの間にか文句ひとつ言わずに運んだりしてくれるので、自然と、みんなから頼りにされる存在になっていた。
「どうした?何があった?」
心配そうな、やさしい声に、私は、ちょっと涙が目尻ににじんできた。
「変な人に、フォークで手を刺されちゃって、、、 私も、軽率だったんだけど、、、 なんか、言いがかりというか、、、 」
いきさつを話しながら、できるだけ平常心を保った声を出そうとがんばったけど、やっぱり、どうしても小さなふるえが止まらない。
「まじで?」能勢は、私の右手を取り、甲に並んだ赤い斑点をしばらくじっと見つめた。
「やばいな」そう言って、彼は、人さし指で、その斑点をそっとなぞった。
やがて、能勢は、ゆっくりと私の右手をはなして、「今日、お母さん、家にいるの?」と、聞いた。
「うん、、、仕事の区切りがついたら、まっすぐ帰るって言ってた」
「そう」能勢は、しばらく私を見つめ、「当分の間、夜はお母さんに家にいてもらったほうがいいよ。物騒な事があったらいけないから」と、言った。
「うん」私は、ちょっと笑顔をつくって、「ごめん、忙しかったんじゃない?」と、聞いた。
「いや、最近、物騒な事も多いし、仲間に心配な事があったら、様子くらい見に来るよ」
「うん、、、」
私は、自販機に目をやり、彼の顔を見つめ、「もう、飲食店めぐりは、やめる」と、言った。
「え?」
「やめなきゃ」
「どうして?」
「メニューくらい、自分で決める」言いながら、ちょっと泣きそうになった。右手の甲は、まだヒリヒリと痛い。
「こんなんじゃ、調理師なんてなれない。わからない事は、経験者に、メニューについて話を聞くから」
能勢は、しばらく黙った後、私がつきあっていた彼の名前を言い、「つまり、あいつとはもう、食事に行かないってこと?」
と、言った。
「うん。もう、このことでは頼らない」
もともと、彼女がいるのに、何回も会ったりするから、こういう痛い目に合うんだ、と思いながら、無理に、笑顔をつくった。
「一人前になったら、自分で開発したメニューを店に出すから、食べに来てよ」
能勢は、しばらく、道路の向こう側の家並を見ていた。そして、私に向き直って、
「わかった。でも、また何かあったら、オレに連絡しろよ」と、言った。
「うん」
「、、、家まで送るよ」
「うん、、、」
二人で歩き出し、しばらくすると、能勢のスマホからラインの通知音が聞こえたが、彼は、反応しなかった。
私も、(学校にいるクラスメイトからの連絡じゃないかな)と思ったけど、なんとなく口を開かずに、お互いに黙って歩き続けた。
少し緊張感はあったけど、それ以上の安心感で、だんだん気持ちが落ち着いてきた。
やがて、私が住んでいるマンションの前に着いた。
「ここだから。ありがとう。助かった」というと、能勢は、「じゃあな」と言って、ゆっくり走り出し、横断歩道を渡って、人波にまぎれていった。
変な男の事については、母には、話さなかった。
その前に、別れた彼に会っていた事も話さないといけなくなるのも、なんだかイヤだった。
母は、問い詰めたり騒ぎ立てるタイプではなかったけど、もし話したら、「あんたに隙があったのが悪い」とか言われそうだし、例の男も、その後、現れる事もなかったので、黙っている事にした。
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