神社仏閣巡り珍道中・改

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2023/06/23 06:04(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3666755 (スレ作成日時)

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No.451

タイサンボクという花を知っていますか?
『泰山木』と書きます。

泰山木は梅雨の頃に、それはそれは芳しい香りを放つ大きな白い花を咲かせる樹です。

花の大きさはちょうど手のひらいっぱいの大きさでしょうか、それはそれは大きな白い花です。

泰山木は、花の咲くを見る前に、その遠くまで届く甘く爽やかな香りを嗅いで近くに泰山木の花が咲いていることを知るほどです。

開花時期は六月上旬から七月上旬で憂鬱な梅雨空を爽やかにしてくれる、そんな花です。
最盛期の花は凛として、気高いまでの美しさです。

この泰山木、背丈がかなり大きくならないと花が咲かないといいます。
なので花の時期にその甘い香りのもとをたどって行って、泰山木のあるところを知ったりします。

葉の形は大きな長い卵形。

ただ。
泰山木は花が終わっても花弁は散らず、いつまでも枝先に残っているので、枯れ色の花は少し汚く思えてそれに何ともいえない哀れを覚えるのであります。


そんなまさに泰山木の咲くころ、帰らぬ人となった母の菩提寺の山門のすぐそばにこの樹があって…。
祥月命日にお寺を訪ねるときまってこの泰山木の香りが私を癒してくれるのです。

No.452

…今巷で話題のチャットGPT。

ネットGPTに添削してもらうだけでも、この拙い駄文も、誤字誤文だらけの文面も、飛躍的に良い文章となって、みなさまにもう少しは読みやすいものをお届けできるのでは…と、思わないわけでなく。

ま、あくまでも『添削』しか考えてはいないのですがね。
そしてそれは、私の文章のおかしなところを直してもらうということで、私自身の学びともなる。


…なんですがねぇ。
長いこと、こんなおばさんのおかしなスレに寄り添うように読んでくださっておられる方にとってはどうなのかな、と思わないこともないのです。

つまらない文という意味では変わらないんです。誤字誤文や、より良い表現を示してくれる、というだけですので。


だとしたら。
〝おかしなおばさんのおかしな文章という個性〟を失ってしまう気が…しないでもないのです。

えっ?
そんなものは無い方がいい?

…で、ですよねぇ。


最近はアクセスの集中も解除されたようで、夫のスマホにはすでにネットGPTが存在しているようです。


だったら。

私を怒らせたとき、どうしたら良いか、どんな謝罪文を送るといいかを聞いて実行すればいいのに。
…そんなくだらない事には使う気にもならないようです。

キーっ!

No.453

『閻魔さまを訪ねて』

…ということで、次に参拝に訪れたのは同じく群馬県前橋市の【蓮花院】さん。こちらも初めての参拝となります。
こちらでは珍しく山門に閻魔大王と奪衣婆像が鎮座されているとのことで、山門に…。

…あれあれまた裏門ですか。
本当に、珍道中をより珍道中としてくれる優秀なナビです。

とはいえ、裏手の入り口には丈六の石造りのお地蔵さまがおられて、山門側の駐車場に行っていたらこのお地蔵さまにお会いすることはなかったでしょうから、今回に関しては本当に優秀、だったといえましょう。

駐車場に…。
……。
…大きい。

駐車場の端に、大きな、こちらもまた丈六でありましょうか、石造りの七福神さまがならんでおり、さらには黄金に輝く大きな大きな観音さまが、お立ちになられています。


はあぁ…。


裏門も立派です。
真っ赤な門で、その門へと連なる道の壁の両サイドにはレリーフがはめ込まれています。
向かって右側には弘法大師さまをはじめとする真言宗の(おそらく)著名な大師さま方の、…『八祖』と刻まれていますレリーフが。
左側には六観音さまのレリーフがお祀りされています。


「…ここ、もしかしたら。もしかして前橋厄除け大師かも」と夫。

えっ?そ、そうなの?


…蓮花院さんの中に足を踏み入れて、私たちは思わず足が止まり、…絶句しました。

No.454

…なんと形容したらよいのだろう。

裏門を入るとひたりてにまたまた大きな大きな観音さまがそびえ立っておられます。
その隣には石造りの十何十かの塔。

目の前は…墓地。
ええ、いきなり墓地、なんですよ。
たしかに私ども裏門から入って入るんですけれど、ね。

みぎてには…これまたびっくりなお不動さまが三人。
しかもどことな〜く、…失礼なことは百も承知で申せば、あの、学校とかの廊下にある洗面台(?)に似た感じの壁面に三人。
右手に剣をお持ちになられた、まるで三つ子のような、はたまた分身の術を使われたかのようなお不動さまが三人。
しかもそこには『身代わり不動』と銘打ってあります。

水かけ不動尊さまではなくて?

…わからない。

そもそもいったいどういったお寺さんなのだろう。
いまだかつてこのようなお寺さんを参拝したことがない気がいたします。

と、とにかく進もう。




す、すごい!

これでもかというくらい仏さまが祀られています。

いま風の(現代風ともいう)お地蔵さまが二体、仲良く寄り添うようにお祀りされていて、
そのお地蔵さまへと向かう道に石標が建ちそこには『右手で握手』『ぴんころ地蔵尊』と刻まれています。
そしてそのお地蔵さまのそばにも
『ぴんころ地蔵 右手で握手健康長寿』と書かれています。

うーん。…ぴんころ、ピンピンころりは憧れの人生の締めくくりな気もするけれど、…いっかなぁ。


そして、そのお隣には金色の不動明王さまと二童子像が。
金色のお不動さまは初めてお目にかかった気がいたします。
こちらのお不動さまは『一願不動』と刻まれています。
手を合わせて。
一願は…思いもつかない。


そのお向かいにはペットの納骨堂があり…。ああ、大事よね。

私はもういっぱいいっぱいな感じです。

そんな私の目の前に、も、門が。

この門はいったい?
赤い門です。

くぐろう。門をくぐれば御本堂がある。
御本堂が…。

目の前にはまたあれこれたくさんの仏像が。
どうやらお堂の側面のようです。
このお堂は?
お堂の前へとまわり込もうと二歩歩くと左側から鋭い視線!

…大きな大きな赤い天狗さまのお顔が祀られています。天狗さまの祀られたお堂から鼻が突き出しています。
まぁるい可愛らしい鼻の先です。
天狗さまは『魔除け天狗』さま、だそう。

No.455

いつにない(いつもとあまり変わらない?)乱文ぶりに、私の戸惑いを感じ取っていただけますか?

その、天狗さまのお堂の右奥には
石造りの、いかにも楽しげな躍動感ある動物たちが飾られています。

干支のようです。

石の動物たちの遊ぶ後ろには少し高台となって写経堂があります。

天狗さまの奥、正面には水子堂。

もうまるでわけがわからなくなっている私です。

一番最初には御本堂におまいりがしたいのだけれど、これは裏手から入ってしまったのが大きな間違いだったようで。

その天狗堂の裏手には水琴窟。

どこにも近づくことなく、もと来た道…といっても行ってせいぜい十数歩に過ぎないのですが、戻ります。

先ほどの御堂は大師堂。
弘法大師さまが祀られています。

中央に弘法大師さま。
むかって左にお不動さま。
むかって右に千手観音さま。

こういった配置も初めて見た気がいたします。

その三体の前には弘法大師さまやお不動さまより大きな、大きな七福神さまのうちの二体が祀られていました。
もはやその神さまがどなたであられたかも思い出せません。

お堂の前にも笠を被られ行脚姿のお大師さまが祀られています。

そして…そこを少し…五、六歩歩くと、大きなお地蔵さまが見下ろすようにお立ちになられています。


あ、御本堂だ。


…ようやく御本堂が見えました。


No.456

御本堂と、本来の正門である山門とは一直線。
正規の山門から入ればいたってシンプルでありました。

とはいえ何やら鐘楼とは別に楼があります。(なんだろう?)
見上げるとそこに…弘法大師さま、お大師さまがおられるではないですか!
お大師さまを拝してなんだかとてもホッとした私。(…いや、あんたさっき大師堂をお詣りしてるから)と心の声。
お大師さまの前に大きな七福神さまの像がおられて、なんだかあまり『大師堂』という感じがしなかったのが本音で。そうそう、お賽銭箱がカエルの形をしていて、カエルの口にお金を入れるものでありました。
これは好きかも。

一旦山門へと向かいます。

そこで衝撃の事実を知る私ども。
…山門が閉鎖されているではないですか!

立派な山門、八脚門ですのに、…いったい何故?
こちらにお会いしに来た閻魔大王さまが祀られているといいます。
これは…また一旦外へ出て山門の表にまわるようですね。

それでも、山門の内側に実はもう一方お会いしたかった仏像がおられまして。
それは子育て地蔵さま。
こちらは、
江戸時代、飢饉などで子べらしをしていた悲しい風潮に、やはりそれはどうあってもいけないことなのだという思いを込めて造られ奉納されたというお地蔵さまです。

お優しいお顔で、安心しきって手足を広げて寄りかかる赤子を抱いておられる御像でありました。
赤ちゃんをお抱きになるためにか、お地蔵さまには珍しくお着物をお召しになられています。

お護りくださっているお地蔵さまと、
そうした強い信念を持ってこの像を建立した方に対して、感謝の思いを込め合掌いたしました。


先ほどの楼、ここに鰐口が付いています。なるほど、そういった意味合いの楼でもありましたか。
今はコロナ禍であるため、その紐ははずされてしまっておりますが…。

ひだりてに手水舎があって、その奥、手水舎の向こう側にお不動さまがおられました。
水かけ不動尊のようですが、…これもコロナ禍だからでしょうか、柄杓等ははずされていました。
…そもそも手水舎のお水でいいのかなぁ、と素朴な疑問。
ま、まあ水はあくまでも水でしかないので、ただおばさんがそう思っただけ、なんですがね。


御本堂へと向かいます。

No.457

御本堂へと向かいます。

立派な石造りの仁王さまが見下ろしておられます。

御本堂は改修されており、一見新しくも見えますが、古い造りのもののようです。
バリアフリーにされていて、そこは私はとてもとても大切なことだと思っております。誰もがお詣りできること、誰もが祈れること。

御本堂のなか、見上げた天井にその古さを感じて思わずホッとした私です。

御本堂に入るとすぐに…ガラス張り。
その前に両手で一抱えほどの大きな金色(こんじき、とお読みください)の五鈷杵が置かれています。
これは触って良いと書かれています。
さすが弘法大師さまを祖とするお寺さんであります。

ガラス張りの向こう側はかなり広い間で、内陣はかなり遠くにみえます。
手前に大きなお護摩の炉があるように思われます。

ご本尊さまは聖観世音菩薩さま、なんですけれど、ね。
そこは『厄除け大師』さんですから、ね。

一般参拝者はそこまで。

それでも今年はお大師さまの生誕を祝って御開帳されているようです。
五月の日曜日の決められた時間となるようです。
あれっ、ではもう…。

さてさて、今日のひそかなメインは、閻魔大王さまにお会いして懺悔すること。


山門の外ってことは、かなりかなり歩くようだな。
山門の内側にいるのだけれど、なぁ、



No.458

境内を若いご住職があちこちお掃除をされながら移動しておられます。

さぁ、久しぶりのエックスキューズミーおばさんの出動です。
「すみません。お掃除をされておられるところお邪魔して申し訳ない。
あの、閻魔大王さまのお像は山門の外で間違いなかったでしょうか」

「ああ、今はそこではなくて写経堂にあるんですよ。
でも今はコロナ禍ということで写経もやっていないので見られないんですよ」

ガーン。


せっかくの閻魔大王ツアーだというのに、二軒目にして早くも頓挫、ですか。

それでもあきらめの悪い私たち夫婦はあえてぐるっとお寺さんの外周を一周して(お隣の神社さんを過ぎて道路まで出てまわることとなります)、今はどなたがそこに鎮座されたのかを見に参りました。

そこには新しそうな仁王像が左右に。
…ご奉納でもあったのでしょうか。
例の『ぴんころ地蔵尊』もご奉納されたものでありましたし。

うーむ。
それではこちらの閻魔大王さまには当分お会いできない、のだなぁ。

五類に分類が変更されたとはいえ、コロナが〝終息〟、どころか〝収束〟すらされてもいないし。
今現在、コロナ禍だから、という理由で閉鎖されているということは、写経再開がいつになることかわかりません。


うーん。





No.459

至れり尽くせりで、あらゆるお願いごとができそうな、こちら
『蓮花院』さんは、栃木県の【出流山千手院満願寺】の末といいます。
今、蓮花院さんとしてはどちらかというと『川崎大師第一分身』と大々的に名乗っておられますが…。
正式には【今宮山蓮花院龍泉寺】さん。
まあ、通称『前橋厄除け大師』ですか。

 
由緒沿革記によりますと、天文二(1533)年勢多郡荒砥村大室(現・前橋市大室)の住人玉泉坊の開基という。
その後、十世の間は各宗の僧侶が相続し、宮城村鼻毛石(現・前橋市宮城町)の赤城寺(せきじょうじ)を本寺としたといいます。

享保四(1719)年に、下野出身の第十一世宥尊上人が、下野出流山千手院住職宥盛に従って求法を継ぎ、今宮山蓮花院増田寺と称したとのこと。

元禄三(1690)年、十二世舜賀上人(中興開山)の代に堂を改築したが、宝暦年間(1751~1764)に類焼にあい、本堂を残して、土蔵、鐘楼、山門などを焼失してしまいまったといい、本堂のみ今に伝わるといいます。

ちなみにこの舜賀上人は大黒天を自ら刻んでおられるといいます。

明治二十五(1892)年、本堂改築の際に知事の許可を得、
『武州大師河原平間密寺、川崎大師』の第一分身、甲子大黒天を安置したといいます。

ご本尊の聖観音菩薩は天文二(1533)年京都の仏師の作といい、この仏像は開山の玉泉上人が依頼して作らせたものだといいます。
ほかに明応七(1498)年作という観音菩薩像もあるということです。


驚くべきは、
『〜…その後、十世の間は各宗の僧侶が相続し…〜』のくだり。

そ、そんなこともあるんだ…。
本寺があるならばその宗派を名乗る、…というか、だからこそ、そこのお寺さんが『本寺』なのではないかと思っていました。

今は逆にそんなことなど決してないであろうと思われますが、ね。


至れり尽くせり、なのでしょうか、境内にピカチューに類似した石像があったり、トゥイーティーを思わせる石像があったり。


玉手箱のようなお寺さんでありました。


No.460

閻魔大王さま巡りのつもりで意気込んで家を出たというのに、なかなかうまくはいきませんでしたが、…まあ、いずれはお会いせねばならないお方でありますので。

群馬県には三途の川、『三途川』もありますし、現世でもまだまだ閻魔大王さまや奪衣婆さまにお会いできることと思います。


実は『閻魔詣で』や『奪衣婆参り』などが、江戸時代には諸願が叶えられるとして大いに賑わっていたようです。

江戸時代には群馬県内の各所で奪衣婆さまが〝子供の病気を治してくれる〟特に咳止めや虫封じに霊言かあるとお参りされていたといいます。
医療の未発達であった時代、こうした信仰がうまれることもありましょう。

…ただ、なぜか群馬県の一部地方では閻魔大王さまや奪衣婆さまの石像のお口元に〝味噌〟を塗るというものがあったようで。
しかも、恐れ多くも閻魔大王さまのお像を〝味噌なめじじい〟、奪衣婆さまのお像を〝味噌なめばばあ〟と呼んでいたとするところまであるくらいです。
…いやぁ、罪深いおばさんは恐れ多くてとてもとても、…ってここにそう書いた時点でそう呼んでいることになりますか、…ひえぇ。


それにしても閻魔さまのお像と奪衣婆さまのお像はなぜか共に祀られていることがたいそう多いように感じます。
十王さまのすべて揃った石仏のそばにも奪衣婆さまが祀られていたり。
奪衣婆さまのペアといえば『懸衣翁(けんえおう)』さまだと記憶しているのですが。

俗説では閻魔大王さまと奪衣婆さまがご夫婦だ、とかご兄妹だという説もあるのだとか。

十王さますべてを存じ上げなくとも、〝地獄〟行きを決定するとされ地獄にお住まいの閻魔さまは誰もが知る存在でありましょうし、
『死んだら三途の川を渡る』ということ、その三途の川のにほとりで死者の衣を剥ぐという奪衣婆さまも認知度の高い存在でしょう。
そんなことからこのお二方を共にお祀りされることとなったこともあるでしょうか。


閻魔さまや十王さまたちがお祀りされているお堂は『閻魔堂』『十王堂』と呼ばれ、奪衣婆さまが中心のお堂は『姥子堂』『聖塚『しょうづか)堂』などと呼ばれています。
そうそう、奪衣婆さまを〝聖塚のばあさん〟と呼ぶところもあるといいます。
…あっ、また奪衣婆さまをばあさん呼ばわりしてしまった。

…。

No.461

群馬県前橋市の【正円寺】さんへ参拝させていただきました。

正円寺さんの山号は『施無畏山』。これは「無畏を施す」即ち、こころに安らぎを与えることを本誓とする『聖観音』さまを御本尊とされていることに由来するといいます。
また、院号の『延命院』は『子安延命地蔵尊』を古代本尊とすることに由来しているそうです。

こちらのお寺の北の小山は堀之下二子塚古墳と呼ばれる前方後円墳だといいます。
正円寺古墳とも呼ばれているといい、この古墳は古墳時代後期の6世紀前半頃のものと推定されています。
規模は全長約65m、高さ約7mで竪穴式石室と横穴式石室が確認されています。

幕末直前頃に盗掘されたらしく副葬品等は皆無であったそうですが、遺骨五体が確認されたことから『五霊大明神』と呼ばれたこともあったといい、明治維新後は神社として扱われていたといいます。

かつては全域が正円寺さんの寺域であったようですが、古墳頂上の後円墳のみ(約八十坪)は現在は寺の管理を離れ、大胡神社の所有となっているといいます。

…と、こちらの山門の前にある説明版に書いてあったのですが…。
石仏さまに気を取られ、あとでいいかなと写真におさめて帰宅してから読んだので、古墳らしきものには一切気がつくことなく、お寺さんをあとにしてしまっておりました。

こちらの山門はたいそう立派で、そしてあまり見かけない風の門でありました。
さもありなん、こちらの山門、近く(もないのですが…)にあった『大胡城』の北門を移築したものなのだといいます。
棟木が萩の木と考えられ「萩の門」の名があるのだそうです。

古来、前橋市上泉町以東は『大胡城』(天文年間(1532-1555)のころに築城されたとされる)の所領時代が長かったといい、正円寺さんは大胡城の鬼門に当たる『応昌寺』さんの末寺であるといい、そういった意味で大胡城との関係は深いものであったといいます。

元和二(1616)年に、この地を約二十五年間治めていた『牧野氏』が越後に転封され、前橋城主の『酒井氏』の管轄になり、
大胡城はその時をもって上部構造物が撤去され廃城となったといいます。

その際に正円寺さんに北門が移築されたのだといいます。
この門の型は『薬医門』と言われるものだといい、室町時代初期の構造と推定されるもの、だといいます。


No.462

…。

『開運なんでも鑑定団』というテレビ番組でも、価値あるもの、贋物、ほとんどくべつがついたことがない私。

この正円寺さんの山門もどう見てもそんなに古い物には見えません。

いま、写してきた写真をあらためて見なおして見ても、やはりそんなに古くは見えないのです。
白木のまま(あるいは天然の防腐剤で自然な仕上がりのものが塗られているかもしれませんが)の木製の門、
どう見てもせいぜい昭和の末くらいのものにしか見えない。
むしろ木の香りすらしそうなほどです。

室町時代ですよ、室町時代。

そんな古い時代のものをせいぜい昭和の末に造られたものだろって鑑定しちゃうおば(か)さん。
この人はぜったい骨董品とかに関心を持ったり、ましてや購入とかしてはなりませんね。

とはいえ、この山門は平成九(1997)年に大改修を行ったといいます。
その改修の度合いがかなりのものであったとするならば、…当たらずといえども遠からず?

その門の前には美しいお顔立ちの六地蔵さまが並んでおられ、その手前には大きな石造りの薬師如来さま(文政ニ年)が座しておられます。
こちらがまたそれはそれはたいそう美しいお顔立ちをなされています。
(ええ、ご想像の通り、ここでぽぉっとしていて、御由緒の書かれた説明板を読まず、古墳があることにまるで気づかなかったのです)

山門のうちにはいりますと、ほぼ正面に御本堂。
大変きれいに掃き清められた境内であります。
藤棚があり、その横には何やら小径が設けられていてそう古くない…たぶん…石仏さま、十三仏さまがその小径の傍らにお祀りされていました。

天台宗宗歌の石碑があったり、あの元三大師さまが鬼になられた際のお姿を写しとられたという〝あの〟画を彫られた大きめな石碑もあります。

どなたもおられない様子で、御朱印のお授けもかないませんでした。

そして。
古墳の方まで出向いていれば、たくさんの石造りのお地蔵さまがおられたようで、とてもとても残念なおばさんでありました。


ちなみに。
夫に聞きますと、正円寺さんの古墳のことを知っていたとのこと。
だてに歴オタをしてはいない。

はあぁぁ。

No.463

御朱印で人気の…特にお寺さんなどで多かった気がするのですが、
御朱印帳をお預けして後日拝受しに伺う、あるいは郵送していただく、という、本来なら双方にとって(?)有利ともとれるこのシステム。
私はどうもこれが受け入れられず、今までそうしたことがありません。

とはいえ、今はコロナ禍のせいで書き置きの御朱印が増え、そうしたシステム自体衰退してきているようにも思えるのですが…。


私がそこに引っかかりをおぼえたのは、今まで一文字一文字をお心を込めてお書きいただいてきた御朱印帳を、何冊もの御朱印帳と一緒に山積みにされることとか、ましてやそれをゆうパックとして他のたくさんの荷物と一緒にカゴに入れられたり、バイクに積まれて運搬されたりということに抵抗を感じたから。

どんなに心ときめいても、矜持を持ってきたことであります。


参拝せずにお書き置きの御朱印を郵便等で拝受するのも違うと考え、それはあくまでも私一個人ののポリシーであります。

コロナ禍、参拝できずにいる人たちに手を差し伸べてくださったご好意であることは本当にありがたいことだと思ったものです。


群馬県でもいくつか御朱印で人気のお寺さんがあります。

その中で、
…なにかがあってのことなのでしょう、御朱印を終了されたお寺さんがありました。

とても可愛らしいお地蔵さまや動物の絵が描かれ、さらにそこには書家のように見事なお手の文字の書かれた御朱印でありました。


そのお寺さんの前を偶然通りかかり、初めて参拝させていただきました。

お寺を囲う塀にお地蔵さまの可愛らしいレリーフが、くどくない上品な感じにはめ込まれていました。

思っていたよりも小さなお寺さんでありました。

石仏さまの他、大小さまざまなたくさんの石造物が、境内の中、整然と配置されています。


その石造物にはネットでよく拝見していた、あの、見事なお手の文字が彫られていました。

No.464

線状降水帯が発生し、緊急安全確保が出され、その警戒レベルが最も高いレベル5の出ている地域もいくつかある。
土砂災害警戒情報や、氾濫危険水位を超えている河川もまた、あちこちで発表されている。

そして各地広い範囲で雨雲は発達を続けていて、今後夜間になって状況が悪化するおそれがある。


年々、そんな状況が時期を早めて発生し、回数も増えてきているように思う。


コロナといい、この異常気象、自然災害といい、それだけとっても、
日本の、地球全体の未来を思っては不安になる。
今年の夏は早い。
ということは今年の夏は長い、ということであろう。


人は自然を前にあまりにも無力である。
それは太古の昔からなんら変わらない。
実朝が八大龍王に祈った時代と、同じ思いで自然のなすさまをただ見守り、無事を祈るしかない。


だからこそ、やめられる人為的な問題、人為的要因は一刻も早く解決させるべきであるというのに…。


「八大龍王雨やめたまえ」

人の心に降る雨も…。

No.465

このたびの大雨により全国各地で被害が出ております。
西日本を中心に各地で多くの豪雨災害が発生しているようです。

被災された方々に、
そして
今なお激しい雨が降り、まさに今まさに被災されておられる方々のご心労やご不便を拝察し案じております。

どうかご自愛くださいますよう心よりお祈り致します。

このたびの豪雨被害を被られた方々に謹んでお見舞い申し上げますとともに、一日も早いご復興を祈念致します。


また降雨や土砂災害による被害の拡大も懸念されております。
これ以上の被害がないことを祈るしかありません。

No.466

さて。

群馬県伊勢崎市の『全東院』さんは、あの前橋市の『前橋厄除け大師 蓮花院』さんからほど近いところにありました。

まあ、今回本当に偶然通りかかったのですが、こちらのお寺さんは群馬県で御朱印をお授けいただく方には有名で、県外からも参拝しては御朱印をいただく方が多くおられたといいます。

御朱印も可愛らしい画の描かれたものが何種類もあり、掲示してあったくらいなようでした。

私もネットで時折こちらのお寺さんに行かれたという記事を読んでその名だけは存じ上げておりました。


この日もタクシーが一台、境内に停まっておりました。
…タ、タクシー、かぁ。

たしかに、こちらのお寺さんは最寄りの駅もバス停もないところであろうかと思いますので、こちらへ車以外で来ようとすれば、タクシーになるのだとは思います。

やっぱり御朱印、なのかなぁ?


境内には新しい石仏さまや石碑が数多くあったことは書かせていただきましたが、なかには(ん?…?)と、思うような像も。
二宮金次郎の像もありました。

ただ、六本の牙のある石造りの像は大小三体、お祀りされていました。

この六つの牙の象は、 お釈迦さまの御母堂『摩耶夫人』がこの象を夢に見て釈迦を懐妊したとされ、釈迦の入胎を象徴する仏教では大変ありがたい存在であるといいます。
こちらのお寺さんのご本尊さまは釈迦如来さまのようですので、そうしたことからこの、六つの牙をもつ象を大切にお祀りされておられるのかと思いました。

ちなみに普賢菩薩さまのの乗っておられる白象もまた、六本の牙を持つようです。

参拝を御本堂の前で済ませ、庫裏へと向かいます。

No.467

タクシーの運転手さんはエンジンをかけたままです。
庫裏で御朱印の拝領の希望をお伝えいたしますと、来客中なので待つことができるならば、とのことで待たせていただくことに。


こちらのお寺さんは寺伝でも創立年代不詳といいます。

以下は上毛新聞社刊「ぐんまのお寺曹洞宗Ⅱ」の内容を拾い書きしております。

『鑑翁観察和尚』の開山ということがわかっており、こちらの方は『法長寺』も開山された僧で、『同聚院』の四世であったといい、そのことから承応年間(1652〜1655)ごろの創建とみてよいのであろうと書かれておりました。
そしてそんな関係から全東院は同聚院の末寺でありました。

村の郷土史にある由緒に『宝永の頃(1704〜1711)2回の火災に遭い、酒井侯より拝領の品々、和尚の蒐集せし漢籍、荘厳なりし堂宇も烏有に帰したりとう』と記してあるのだといいます。

御本尊の十一面観音は江戸期のものと推定されているようです。その台座内部には『阿久津』の 墨書があるといいます。

御本堂は昭和五十六年(1981)に改築され、茅葺きからトタン葺きになったそうです。


境内にある安永八(1779)年銘の丸彫り如意輪観音像さまは二十二夜塔で『当村中』の建立。
また紀年銘の無い石彫りの舟に丸彫り地蔵尊が立つ石船地蔵がありましたがお顔の部分が欠損してしまっておられました。

 三郷村『郷土調査』の中に次のような記述があるといいます。

 『子育地蔵ハ韋駄天尊天神ヲ祭レルモノニシテ、百日風邪治療ノ祈祷ヲナシ其ノ効果覿面二驚カザルモノナシ』

こちらのお地蔵さまは『出口地蔵』とも呼ばれているとのことでここでの『出口』とは八坂村の村はずれの意味で、富士山古墳裏の路傍にあったといわれます。
四月十六日が縁日といいます。


六地蔵は現住職の托鉢によって浄財を得て昭和六十二年(1987)に建立されたものであるといいます。
これは…!
これはすごい!
ご住職が托鉢をされるとは。
…とはいえ、万年神社仏閣についての知識レベルが初心者の私、宗派によっては当たり前のことだったり、…するのかなぁ。
最近はこの托鉢僧も見かけることはほぼなくなりました。
…今私が田舎に住んでいるせいかしら?


現在は『お地蔵さまと蓮の寺』をキャッチフレーズに百地蔵建立が進められているのだといいます。

No.468

さて。

タクシーが走り去っていった、ということは…お客さまがお帰りになったということで、ゆるゆる庫裏へと向かいます。

先ほどお話しをしました方が対応してくださいました。

「文字だけの御朱印ですがよろしいですか?」
「ええ。こちらこそお客さまの対応をしておられた直後ですのに、わがままを申し上げお手を煩わせて申し訳ないです。ありがとうございます」

その方が奥へ入られた後、「文字だけの御朱印〜」とおっしゃられたことに妙に引っかかりを覚えました。

絵の描かれた御朱印のご用意をされているお寺さんですと、その見本のようなものが掲示されていることがほとんどですが、こちらは美しく掃除された上品な玄関先でしかありません。
あれ?
御朱印の対応をされる窓口が他にあったのだろうか、それは申し訳ないことをしてしまったぞ。

などと考えながら、座るよう言われた椅子に腰かけて見るとはなしに玄関の下駄箱の上を見て、その横に目を向けると…。

!!

錫杖だ!

それも歩いて使う錫杖です。
本来はそれが当たり前ですが、最近では手持ちの丈の短いものしか見ることがなかったものですから…。

使い込まれた錫杖と。
外でお使いになる手に待つタイプの鐘と木魚が置かれています。
…ああ、托鉢をして、その浄財で六地蔵さまをお建てになったということでありました。

そんな感動に浸っているうちに私の御朱印帳を手に、先ほどの方がお戻りになりました。
見事なお手であります。

こちらは納経して御朱印をお授けいただくと【奉納経】と書いてくださるようです。


お礼を申し上げ、お寺をあとにいたしました。

No.469

家に帰り、(そういえば全東院さんの絵の描かれた御朱印ってどんな感じだったっけ)、そう思って開いたネット。
手書きの大きめの文字の書かれた紙を画面いっぱいにうつしただろう写真が目に入りました。

『都合により御未印の対応は終了いたしました
今後の対応の予定はございません
たくさんの方々にご参拝いただきありがとうございました
合掌  』

えっ…。

え、えぇっ!

私、書いていただいてしまいました。

…。

何があったんだろう。
何かあったのだろうな。

…そもそもこの画像、いつのことだったんだろう。昨年の春にはまだ絵の描かれた御朱印を紹介したものがみられます。

見れば丁寧に描かれた愛らしい画と、よく書をされる方のお手であります。
混んでいなければ基本直書きしてくださったようです。
書き置きもたくさんご用意があったようです。

…何かあったのだろうな。
こんなに一つ一つ思いを込めて描かれて、一字一字丁寧に描かれておられた方(々)だもの。

私は今回お授けいただいた画の無い御朱印で満足ですが、いつかまた、そんなお気持ちになれる時が来るとよいのになぁと、思わずにはいられないほど、美しい画と、美しいお手でありました。

おつらい思いをされてしまわれたのかもしれない…と、心を痛めないわけではありません。
そのお心が癒えて再び、と思うだけであります。

そう思わせるだけ、気持ちの…〝愛〟のこもった絵入り御朱印でありましたから…。


…あの受付くださった方の戸惑いを秘めたお顔には、こうしたものが隠れていたのですね。





No.471

お詫び)誤記を訂正しただけで、ほぼ同内容の文面です。
お詫びして訂正いたします。

誤)今回
正)今後




群馬県みどり市の国瑞寺さんへ参拝させていただきました。

こちらを初めて訪れたときはまだ御朱印をいただきはじめたばかりのころのこと。
ただひたすら、神社仏閣を参拝させていただき、今まで神仏に無縁な生き方をしてまいりましたことをお詫びして、宗教というものを学ばせていただき、今後の生き方を考えていこう、できうるなら神さま仏さまに正しい道へと導いていただきたいと思ってあちこちの神社さん、お寺さんを闇雲にまわっていたころで。

大変失礼なことに宗派もご本尊さまも存じ上げないまま、ただただ参拝をさせていただいておりました。
(そうは言っても今とてさほど変わりはないのが、なんとも情けなくそしてかなしいところでありますが…)

こちらのお寺さんの御朱印は大変こだわりのある御朱印であります。
でも、当時は御朱印のなんたるか、その御朱印が変わっているのか、スタンダードなのかすらわからない、超初心者。

ご住職のおっしゃることにただただうなずくだけでありました。
今なら、なぜそのような御朱印となさったのかとか、いつから御朱印をそのようになさったのか、とか、うかがいたいことはたくさんあります。
ですが当時の私は、いままでずっと無縁であった、お寺さんという特殊で特別な場所を訪れるというだけで緊張しておりましたし、敷居も高いように感じておりました。


そんな国瑞寺さんこだわりの御朱印とは。



No.472

まだ世が御朱印ブームを迎える以前から、こちら国瑞寺さんの御朱印は一般的ないわゆる〝御朱印〟とは一見して異なるものでありました。

それは一面淡い朱色の印の捺された用紙に、『奉拝 南無釈迦尼佛』と一枚一枚筆書くださったものであります。
その朱の印はご住職自らのお手でお彫りになった、用紙大の版画であります。
その版画印を毎回毎回朱印帳に捺すことはたいへん手間もかかり、ともすれば上手く捺せないといったことまで起きてしまうことから、こちらの御朱印は書置きのみとされているのだと、日付をお書きくださった後、お盆に乗せてお渡しくださりながらそうご説明をなさっていました。

奥さまがそっとお教えくださったことに、
御朱印は一年間はこの図柄で、来年になるとまた図柄を変えたものになるとのこと。

さらには、
『お正月限定のもの』、『お盆・お彼岸限定のもの』、『秋彼岸限定のもの』があるとのことで、
「よろしければそのころにもお越しください」
とおっしゃってくださいました。


さすがに何回か伺ううち、初めてお受けしたときの図柄に戻ってはおりましたが、こちらのご住職さまと奥さまの誠実なお人柄が心地よくて、何度も再拝している私であります。

この版画がまたとても見事なものであることも、私が何度となく再拝し、御朱印をお授けいただいている一因でもありますが。


刺繍、切り絵、ポップアップなど、変わり種御朱印は増えたものですが、一枚一枚版画刷りをされ、筆書された御朱印は、この御朱印ブームとなって久しい今でも、他に例を見ないものであります。


No.473

版画刷りされた印は実にさまざまです。
たくさんの花が緻密に重なることなく、しかもどの花も同じ顔をしておらず、美しく描かれているもの。

六地蔵さまが中央にある〝なにか〟を守るようにお立ちになられるお姿であるとか…。

ご住職はたいそう絵心のある、そして大変手先の器用なお方のようです。
そうそう絵はがきもお作りになっておられ、そのうちの一枚を例にあげると、たいそう可愛らしいお地蔵さまの描かれたものに一言メッセージが添えてあるというもの、でありました。


また、版画は篆書(てんしょ)で書かれた文であったりも。
その…篆書でなんと書かれているのかさっぱりわからない私。いくつかの文字は読めるのですがね、全体的にはわからないものが大半です。

ご住職さまになんと書かれているのかをお聞きしたいと思ってはいるのですが、なかなかそんな機会に恵まれることなく。

そんな版画絵の上に墨書きくださるお手もまた見事な草書体。
ご住職の書に対する深い思いを感じます。

そして。
それこそ御朱印ブームがまだ訪れていなかったころであったにも関わらず、御朱印を求める参拝者に対して
その者たちから喜ぶようにと工夫され編みだされた国瑞寺さんのご住職の深い愛情を感じます。

本当に本当にありがたいことです。





No.474

ところで。

この国瑞寺さんのあります、群馬県みどり市の笠懸町の〝笠懸〟は笠懸とはご想像通りにあの馬上から矢を射る騎射のことで、【源頼朝】公がこの地で笠懸をした事が地名の由来になっているといわれています。

平成の合併前までこの辺りは『新田郡笠懸町』という地名でした。
残念ながらかの合併で【新田義貞】公に由来するという由緒ある地名は消滅してしまったのでした。


あらためて地名というものはその地の由来を残した貴重なものであったなぁと、実に残念に思うのであります。

同じく合併でみどり市となった大間々町にしても、そもそもが歴史自体が異なるものであったように私などは思うのですが、実はこの笠懸町と大間々町を繋ぐ存在が江戸時代におられました。

その人物こそがこの国瑞寺さんの開基であり、その方のお墓が国瑞寺さんにあるのです。


それは徳川四代将軍家綱のころ。
江戸時代初期の寛文七(1667)年に笠懸野の開発をされたときの代官、【岡上景能(おかのぼりかげよし)】公であります。
景能公が師事していた独湛性瑩(どくたんしょうけい)禅師により開山されました。
禅師は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派、黄檗宗の僧であり、福建省興化府莆田県の出身。黄檗宗四代官長を務められた方といいます。

【岡上景能】公は、みどり市はもちろん、桐生市においてもその伝記を学ぶほど地元の偉人として知られた人物。

景能公は武蔵国児玉郡高柳村(現 埼玉県本庄市)の農家白井家に生まれ、岡上家の養子となります。
岡上家は、徳川幕府開設以来の十八代官の一家として、代々代官職を務める家柄でした。

景能公は養父である岡上景親の跡をついで幕府代官となり、寛文二(1662)年、幕命により笠懸野に陣屋を築き代官として移住します。


寛文八(1668)年、足尾の銅山奉行を兼ねると、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図りました。

銅輸送の効率化では、大間々〜平塚河岸間に、最短ルートとなる笠懸野の原野を縦断するルートを新たに設け、中心の宿として大原宿(現 太田市大原町)を設置し、『足尾銅山街道(あかがねかいどう)』を整備しました。


また、それとともに本町宿に水を引くため、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行いました。





No.475

『笠掛野御用水』は、宿用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされました。

当時原野であった笠懸野は、水利が悪く耕作できない荒れ果てた土地であったといい、景能公は水を灌漑するため渡良瀬川より水を引き、寛文十二(1672)年から十年以上費やし岡登用水堀を完成させます。

用水路の長さは二十四キロメートルにも達し、笠懸野には本町村のほか久々宇村・桃頭村などの新田村がたくさん生まれることになりました。
ちなみに現在もあります『岡登用水』は明治時代に至り、景能の開削した『笠懸野御用水』の流路を変えて再興されたものだといいます。


しかし、景能公はこの大事業達成による大きな功績や名声を妬む心なき人々の悪口、同僚官吏による嫉妬による讒言、下流域住民の余水の湧水問題などへの苦言により讒言により、幕府から江戸への召喚命令を受けその途次、切腹を申し付けられ駕籠の中で自刃(切腹)したと伝えられます。
貞享四(1687)年十二月三日、享年五十余歳であったと云われております。

江戸に召喚された理由については諸説あり、用水路建設の費用に年貢米を流用してしまったこと。
そして年貢米を流用したと同僚からの讒訴にあったといいます。

また、水利権の既得等で揉め、事業内容や湧水問題で讒訴にあった、等。

他にも、岡上景能公は苦労して用水を造ったものの維持管理ができず、同時に用水としての効用が発揮されず、下流農民からは悪政と騒がれ訴えられた等々があったとされます。


景能公は、生来剛直、淡白で国のため、人のためならば世論に関せずただ実行に命をかけても遂行する開拓人であったといいます。


景能公は土木技術を父景親と帰化僧『独湛性瑩禅師』に学び、灌漑・治水工事に優れた手腕の代官でありました。

その縁あって、国瑞寺の開山は独湛性瑩禅師となりました。


景能公の自刃を受け、当時の国瑞寺の住職であった桃巖(とうがん)禅師は、妬みなどという個人的な感情だけで景能公を自刃するに追いやった人々のいる世情にあっても、正しき眼により景能の人柄・功績を称え【岡上雪江伝】という書物を残されました。

国瑞寺には「岡上雪江伝」のほか、景能が切腹した際の短刀、御位牌があります。
(これらは常時公開はされておりません)




No.476

国瑞寺さんのの山門はたいそう立派なものであります。
初めて訪れたときにはあまりの立派さに思わず立ち止まってしまったほどです。
大きなものではありませんが、青空を突くような、高さのあるもので、あまり見たことのない造りであります。
この山門、東京都三鷹市の『禅林寺』さんから移築されたものといいます。

時代の流れで、禅林寺さんは車が通れる山門が必要となり、黄檗宗繋がりでこちらのお寺が譲受けることになったのだとか。

東京三鷹の禅林寺さんといえばあの【森鴎外】と【太宰治】のお墓がある事で知られています。


あ。

…太宰の亡くなったとされる日まであとちょうど一週間だ。
亡くなったとされる日は六月十三日だけれど、桜桃忌は太宰の誕生日、六月の十九日に太宰を偲ぶのだよなぁ。
桜桃忌には全国各地の太宰ゆかりの地で今なお太宰を偲んだ催しが営まれているといいます。
群馬県の利根郡みなかみ町にある旅館も太宰が転地治療をした縁で記念碑があり、やはり桜桃忌には記念碑に花をたむけるのだといいます。

そして。

太宰の墓と鴎外の墓はなんと向かい合ってたっているといいます。
これは偶然ではなくて、鴎外を尊敬していた太宰の希望であったといいます。

とはいえ、鴎外の家、森家は、代々の津和野藩主亀井家の典医であったため、津和野にも鴎外の墓があります。
そのどちら墓も鴎外の遺言「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」に従って、一切の称号や栄養を排し『森林太郎墓』と刻まれています。



あ。
また大きく脱線してしまった。





No.477

話を国瑞寺さんに戻して…。

国瑞寺さんの山門は形のみならず瓦に特徴があり、『摩伽羅(まから)』と呼ばれる怪魚が乗っています。
これは、シャチホコの原型なのではと言われているようです。

摩伽羅は摩竭魚とも書くといいます。
魔除けとして黄檗山総門の屋根に乗せられている想像上の動物だということです。
鯱(しゃち)に似ているが鰭(ひれ)の代わりに足が生えており、インド辺りにその原型が求められるといいます。
水辺の動物の中で最強であるとされ、アジアでは聖域の結界にあたる入り口の門、屋根などに置かれるといい、仏像の装飾にも用いられることがあるといいます。


黄檗山萬福寺の総門、かぁ。
…今は思ったらすぐにネット、スマホで調べられてなんとも便利な世の中であります。

パッ。

お、おお!
…ま、まさに瓜二つ!
萬福寺さんにはまだ参拝したことはありませんので大きさはいざ知らず、その形はまさに同じ、といってもかごんではありません。

なるほど、黄檗宗の…。


ちなみに群馬県では有名な、高崎市にあります『少林山達磨寺』さんも『黄檗宗』であります。
達磨寺さんはどうだったかしら…。


ポチっ。


おおっ!
やっぱりこの形!

なるほど…。
黄檗宗さんのお寺さんはこういった山門なのだなぁ。





No.478

ご近所で親しくしていただいている方がかつてキエフに短期留学されていた方で、このような事態になる以前からその留学先に向けて寄付活動を続けておられました。

今回キエフに寄付をするためチャリティーイベントを行うお話をいただきました。

ただ、そのイベントの日はどうしても外せない用があって行けないため、わずかながらの気持ちをその方のお宅へ届けにまいりました。

すると
「ねぇ、おたくの紫陽花は青だったわよね、この色の紫陽花はあるかしら」と。
見るとそれは赤紫の大きな額紫陽花でありました。
「いいえ」と私。

「今朝ね、少し切ったのだけれど、どなたかが見えたらあげようと思っていたのよ」と少し嬉しそうにおっしゃると、私のいる玄関をぬけてお家の裏手へと向かわれました。

おしゃれな鉢にまるで活けるよう入れられた紫陽花は、小さな鉢植えのそれよりももっとたくさんの花でありました。
「差し上げるわ」

…ちなみにその方はいつもそのようにお話になられる方です。
もちろん、私は当然違います。


赤紫の紫陽花、どう活けよう。
とはいえ、ご想像通り生花もフラワーアレンジメントも無縁で生きてまいりました私。
信楽焼の花瓶を引っ張り出して、下の方の葉をちぎり、まさに、さしただけ。
それでも少しだけ向きを整えると、紫陽花が勝手に美しく活かってくれました。


そういえば…。
この間読んだネットのブログで六月六日は紫陽花のおまじないをする日だと書いておられた方がいました。

この紫陽花のおまじないの日付は諸説あるのですが、その方は

『6月の6がつく日(6日・16日・26日)に、紫陽花の花を半紙でくるみ、水引で縛って軒下や玄関に逆さに吊るすと、【厄除け・開運】になる。
またトイレに吊るすとケガレが払われ、清められるとされている』

と書いておられました。

私が知るものは年に一度、六月のとある日に、というものでありました。(…ええ、例によってガサツな脳みそのおばさん、その日付を失念したようで。ヤレヤレ)


まさに今日、六月六日。
紫陽花の日に素敵な紫陽花をいただかことができました。
そんな意味もあり、大変嬉しく思い赤紫の紫陽花を眺めてはニヤニヤして過ごしております。


No.479

紫陽花は浄化の花とも言われています。
また、七変化する色味から『七つの病を吸い取る』と珍重されてきたともいいます。


紫陽花の花は私の好きな花の一つ。

しばらくは活けられた紫陽花を見てはニヤニヤ、庭は出てネズミの額ほどの庭に咲いたいく種類かの紫陽花を見てはニヤニヤして過ごす日々が続きましょう。


ことに庭では通りかかった人に不気味に思われないようにくれぐれも注意しなくては。


No.480

本日八日は【薬師如来】さまのお縁日。

これは薬師如来さまの徳を講讃する法会『薬師講』に由来すると考えられている、といいます。

…薬師講?
初薬師の祭日に参列したこともあるのだけれど、…はて?
そこで執り行われていたかどうかさえわからない、万年神社仏閣初心者マーク。


あ、そういえば…。
群馬県の吾妻郡中之条町四万温泉にある【日向見薬師堂】で、四月八日に【日向見薬師講】を開催すると書いてあったことを記憶している。
茅葺きのとても存在感のある御堂です。


ん?
そうそう、八月八日には栃木県の日光市にある輪王寺さんの別院、温泉寺】さんの【薬師講】が営まれ、
その後、通称『立木観音さま』と呼ばれている【中禅寺】さんのすぐ横の中禅寺湖の湖畔で【野天採燈大護摩供】が執り行われるんだった。

何年か前に、偶然この日『中禅寺』さんに参拝で訪れた際、その野天大護摩供の準備をされる〝山伏〟の方を見かけたのですが…。
一般の者がその場に居合わせることが可能かどうかもわからず、しかもまだまだ始まりそうな様子もなく、お声をかけるのも憚られ、その場を立ち去ってしまったのです。

家に帰ってから調べてそれを知り、何故その場に戻らなかったかと悔やんだんだった。


【薬師講】とは薬師如来さまを信仰し念誦(ねんじゅ)する法会。
『薬師経』を講義解説(講説)して『仏讃歎(さんだん)』したりするといいます。

念誦って?
仏讃歎って?
難しい言葉ばかりですが…。


〝念誦〟とは。
〝心〟に仏さまの姿を思い描き、〝口〟に仏さまの御名や経文などを唱えること。念仏誦経。

〝讃歎〟とは仏徳を褒め称えること。


…ふぅ。


本当、まだまだ初心者です。
…〝初心〟は大切ですけれど、ねぇ。ヤレヤレ

No.481

【薬師如来】さまの正式名称は
【薬師瑠璃光如来】さま。

お薬師さまは、左手に瑠璃色に光りを放つ不思議な霊薬が入った『薬壷(やっこ)』を持ち、あらゆる病気やケガなどを癒やすお医者さまのような仏さまです。
『薬師本願功徳経』という経典によれば、お薬師さまは衆生を救うため、十二の誓いをたてたといわれています。

それについてはかつてのレスで書かせていただいておりますので、今回は割愛いたします。
薬師如来さまが何故十二の誓いを立てられたか。

それは仏教の開祖、釈迦如来さまに由来するのではないでしょうか。

お釈迦さまは説法により私たちの心の病を治し、悟りに至らせる『医王』とされてきました。
そうした性格を表すのが先の誓いであり、医王としての釈迦を特化して仏化したのが〝薬師如来〟なのではないか、ともいわれてもいます。


それゆえ…かどうか、定かではありまさ、お釈迦さまとお薬師さまは実によく似ておられ、一見見分けがつきにくいのです。

まずお二方は右手で【施無畏印(せむいいん)】、左手は【与願印】をむすぶ同じ印相だからであります。違っているのはお薬師さまは左手に薬壺をお持ちだということ。

薬師如来さまは『東方浄瑠璃世界』の教主であるとされ、対して西方は『極楽浄土』、教主は【阿弥陀如来】さまであります。
この浄瑠璃世界の大地が七宝のひとつ『瑠璃』でできており、それが光り輝く様から、『薬師瑠璃光如来』さまと呼ばれるようです。


地球も瑠璃色だと、歌にもされていますが、瑠璃色の紫陽花といわれることもあります。
…瑠璃色、ねぇ。

我が家にある紫陽花は、
一つは薄緑から白となり、いま薄い水色であるものと、
赤紫(買ったときはちょうど今このスレの画像にあるようなピンク色だったのですが、ねぇ)のもの。
土がアルカリ性か酸性かで色が変わるものではありますが、瑠璃色はなかなか見かけません。


ところが。
今朝、ゴミ出しをしながらぼぉーっとご近所に咲く花を眺めてあるいておりましたところ、…あったのです。
まさに瑠璃色の紫陽花が!


お薬師さまのお縁日に、なんだかとても縁起の良いものを見させていただいた気がして、…外は曇り空でありますが、私の心はとても晴れ晴れとしております。



No.483

いつまで経っても、神社仏閣、神道仏教について初心者のままのおばさん。それなのに毎日図々しく祈願しています。

祈ることしかできない、祈らずにいられない。
そんな思いにさせるのは、させているのは、他ならぬ日本という国。

「この日本の国をお守りください」と。


自然災害も然り。
そこには疫病も含むのですが…。

大荒れの国会。
でもそれは荒れて当たり前。
荒らして、なんならひっくり返して欲しい事ばかり。

通してはならないものを力づくで通してしまう与党自由民主党、どこをどうとって〝民主〟を名乗っているのか、自由厚顔無恥党なんじゃ?
国会中継を観ていると戦前に逆行していくような不安しか抱けない。
本当に涙が出るほど歯がゆいし、口惜しいし、悲しい。

…馬鹿でしかない一おばさんですけどね、そこをきちんとわかるように解説して、内閣の大臣さま達に切り込んでくれてる人たちがいるんですよ。
それが事実であることはのらりくらりと交わしたばかりの応答ぶりをみればわかるんですよ、馬鹿でもね。

でも通っちゃう。
通しちゃう。

日本の未来を任せてはおけないと、このままではいけないとしか思えない、感じられない。

将来ある若い世代、その子供たちに申し訳ない。


祈るだけではいけないと、何ができるだろうと、思ってはみるものの、実際にそれを動かす直接の権利を持つ議員たちが身体を張って闘ってもダメだなんて…。


どうなる日本…。


この法案を通さないとどうなってしまうと考えていて通した?
そこまで語ってくださいよ。



マイナンバーだって不安でしかないし、実際すでに問題が露呈しているにも関わらず、保険証と紐づけぇ?
紐づけして何をしようとしているの?
私たちの未来はどんな予報図をえがかれているのか、まるで見えない。

No.484

とあるお寺さんでいただいた暦にあった、生まれた干支による長所・短所が、私にしろ、夫にしろ怖いくらい当たっていてドキドキしてしまう。
一体どなたがお書きになったのだろう。

子どもたちのものも怖いもの見たさで見てみると、やはりズバリ当たっている。

まぁ、これは占いというわけではないので、その干支生まれの人間の性格をより多く分析し、その結果をまとめてみれば、そうなるのかもしれないのだけれど。


いやぁ、ほんと当たっている、当たっている。
わが家の場合に関して言えば、本当に誰一人についても反論する余地のないくらいに当たっている。

あまりにも当たっているので、なんだか[〇〇年生まれの人間はこうである]とハンコでも捺されたかのような感覚すら覚えたくらいである。


私はお寺さんやら神社さんにある、『ご自由にお取りください』という小冊子に実に弱いのである。
なんなら有料であってもついつい買ってしまう。

それにしても、こんな凄いものに出会うとは。

これだから、こういった小冊子をいただくのはやめられない。


ここに書かれていた長所・短所が当たっていたのは、あくまでもわが家の人間に関しては、でありますが、ね。念のため…。

No.485

幼いころは、それでも、信心深い…かったかどうかは今となってはわからないこととなってしまったけれど、お彼岸やお盆といえば、孫たちを連れてお墓参りをする祖母がいてくれました。

当時住んでいた家の隣の隣にあったお花屋さんで花を買い、家を出てしばらく歩き…ちょうど子どもたちが一休みしたいだろう頃にちょうどあるお菓子屋さんによって、
「お墓参りが終わったら、ね」
と私たち用のお菓子も買ってくれました。

妹や従姉妹も一緒に行くからとなると、祖母一人ではさすがに大変だろうと叔母もついて来るようになり、まるで小さな遠足の行列のようになりました。

祖母に買ってもらったお菓子は私の好きなものを選んでいたこともありますが、今でも懐かしく、スーパーなどで見かけると時折買って食べている私。
ただ…製法なども時代と共に変わっているのかもしれませんし、当時とは格段に美味しいお菓子が生まれて、舌が肥えたこともあるのかもしれませんが、あの、祖母に買ってもらったお菓子の美味しかった味にはその後会えたことがありません。

祖母と一緒に歩いたこと、
好きなお菓子を買っていいよと見守る祖母の優しい包むような視線を浴びながら、あれこれと悩んで、これっと選んだお菓子という付加価値と。
そんなかけがえのない思い出が詰まったお菓子にはもう出会えないのかもしれません。

それはそれで祖母の買ってくれたお菓子か〝一番〟であるようで、もう出会えないでもいい気がして。


…中学にあがって一変した生活。
それからずっとお墓参り…お寺さんから遠のいてしまったのだなぁ。

あの頃の祖母は何歳だったのだろう。
祖母は歳を聞くといたずらっ子のような笑みを浮かべて決して教えてはくれなかったので、祖母の歳も知らずにいたけれど。


祖父母は毎年毎年、親族のところへ行くとき、私を伴ってくれたものです。
海の近くの親戚の家。
それから庭に大きな石が置かれ池まであるような親戚の家。
そしてお菓子屋さんを営む親戚の家。

あの時からずっとずっと続くかに思えた習慣は、まるで遮断されたかのようにブツっと途絶えてしまったのでした。

お世話になった親戚のあった辺りは、あの東日本大震災の折大きな被害を受けた地域で、…でも私にはその安否をたずねる手段もなく、ただただ心で無事を祈ることしかできなかったのでした。

No.486

お墓参りでの思い出はだいぶん薄れてきてしまっています。

それでも、まずは御本堂に寄ってお参りをしていたこと。
次に手桶に水を汲んだこと。
井戸水を汲み上げる水道だったため、ポンプの音が大きくていつもそれが怖かったこと。

石段をあがってお墓に着くと、まずは掃除をしてお墓にたっぷりとお水をかけて、お花をいけて。

そうして、あのお菓子屋さんで私に選ばせてくれたお菓子と、他にも家から持参したお菓子を供げて。

…その他にも自宅から持ってきた何かを供げていたことは覚えているのに、それが何だったかは少しも思い出せないのです。
おそらくはそう特別な何かではなく、他の家でもよく供げられる、とはいえそれはこの家らしいお供物だったのだとは思うのですが、ある意味そんな肝心なことが思い出せない。
お盆には祖母お手製のぼたもちをあげていました。和菓子全般が苦手だった私はぼたもちを食することはありませんでしたがね。

そうしてお線香をあげて手を合わせます。


まぁ、どこにでもある一般的ともいえるお墓参りのスタイルです。
それを毎年お彼岸やお盆になると、私を伴ってお墓にもうでて、必ず教えてくれていた祖母でありました。


家では毎朝毎晩夫婦揃って仏壇に向かいお経を唱えていました。
…だからやっぱりそれなりに信心深かったのでは、と思ったりもするのですが、かつての日本はみなそうだったのかもしれないし、そこはもう今となってはわからないことであります。
そうそう、父の弟にあたる叔父も共に読経していたなぁ。

私たち一家は私が小学生になってから祖父母の家の隣の家が引っ越した跡に移り住んだので、ずっと同居していたわけではなかったので、そうした記憶はむしろ転居してくる前、私と母、妹で泊まりに来ていたときのもの。
なのでその席に父がいないのは当然ではあるのですが、母は一度も列席しませんでした。

お墓参りにも共に出かけることはあまりなかったように記憶しています。
それもそのはず、父と母は結婚前から教会に通い、教会で結婚式を挙げていた人たちだったのですから。

でも当時の私はそんなことは微塵も知らなかったし、転居してくる前に住んでいた土地では父と母とが教会のミサに参列していた記憶などなかったし、だから子供ながらに信仰心の薄い親たちが恥ずかしくもあり寂しくもあったのです。

No.487

私は〝なぜ〟〝なに〟を基本納得がいくまで聞くタイプの子供でしたので、当然母には「どうして母はお墓参りに行かないのか」と問うたのです。その記憶ははっきりあります。

「妹たちが小さいから」とか「留守番がいないと困るから」と、
そのときの情勢で理由は変わっていましたが、あるいはキリスト教が関わっている問題だったのかもしれません。
母が行かないのか、祖母が伴わなかったのかはもはや知る由もありませんが…。

神社さんに行くのも、.とはいえ露天商のお店の多く並ぶお祭りではありましたが、やはり祖父母や叔父叔母と、でありました。

唯一父と母に連れられ行ったのが七五三の時のこと。
まぁそれとてもお祖父さんは一緒でありましたが。
七五三の思い出は、慣れないポックリで歩くのに四苦八苦していた私に母が追い打ちをかけるように「歩きが遅い」だの、「歩き方が下手」だの叱られた記憶しかないので、ひそかに、母とは神社仏閣に詣でるものではないなと思ったものです。

すれ違う七歳の女の子の履き物はみな普通の草履で、あるいは私とてあの草履であれば上手く歩ける気がしたもので、
「みんなは草履で私だけこんな歩きずらい履き物なのだから上手くなんて歩けない。私も草履で歩きたい」
と訴えたのですが、
「うちはうち!」
というのみで、父が写してくれていた写真には半べそをかくか、顔を顰めた私ばかりが写っていました。
後日その写真を見てまた母に叱られたのですが、ね。

閑話休題。


そんな祖母との思い出の詰まったお寺さん、そして先祖代々のお墓。
まぁ、母曰く、そのお墓には記名はしてあるものの〝中には誰もいない〟、いなかったお墓だということでしたが、今は祖父母、父、そして何年か前には叔父もこの墓に入ったようで、私を可愛がってくれた人たちが眠っています。


そんな人たちの眠るお墓におまいりするようになって、当時とは違う新しい御本堂、新しく建てられた六地蔵さま。
見慣れない、菅笠を被り草履で旅姿の人物の大きな像も建っていました。

お寺さんのことも、仏教のことも学ぶ気も学ぶ機会もなく、ただ記憶にあるお墓参りを遂行するのがやっとでしたので、その像が誰なのかは知らず、知ろうとも思わず。

曽祖母、祖父ともに会うことが叶わなかった私の小さな子供たちを連れ、一人でのお墓参り。
お参りがやっとであったのも事実ですが。

No.488

見慣れない笠を被った旅姿の僧の像。
珍道中を始めた今ではそれがどなたのお姿であるかすぐにわかるものでありますが、当時は本当にわからなかった。
そのお寺さんの宗派についてすら理解していなかったし、正直関心すらありませんでした。

そう、祖父母、そして父、叔父の眠るお寺さんに静かにお立ちになっておられる旅姿の方は…、
【弘法大師】さま、お大師さまでありました。


ええ、そうなんです。
この私の神社仏閣珍道中は、まさにまさにそこからのスタートだったのです。
真言宗のお坊さまたちの深い深いため息、嘆きの声が聞こえそうです。


そのお寺さんの弘法大師さまの石像は、脚絆に草鞋、笠を被り(正確には網代笠(あじろがさ)と言われるそうです)を被っておられ、そのお姿はまさに禅宗の修行の僧が旅をする時の【如法[正式]】な姿だといいます。
小袖に直綴(じきとつ)といわれる衣を着て、手巾(しゅきん)といわれる丸ぐけの帯を締め、白脚絆に草鞋(わらじ)、絡子(らくす)といわれる五条袈裟を肩に掛け、頭陀袋を前に吊し、その上から袈裟文庫を前に、後付け行李を振分けに持っておられます。

禅宗伝来以来変わらぬ姿であるといい、今でも雲水、…行雲、流水のごとく所定めずに行脚する意で雲水と呼ばれる禅宗の修行の僧が、旅をする時は正式にはこの姿をされるのだといいます。


こちらのお寺さんのお大師さまは右手には数珠を持ち、左手には錫杖をついておられます。
石像ではありますが、この錫杖、音を鳴らす金属部分はリアルに金属製でありますし、お数珠も本物をお持ちであります。

お大師さまと知る以前にも、そのお坊さんの像になんともいえぬ癒しを与えていただいており、手を合わせることこそありませんでしたが、そのお顔を見上げては心の中でご挨拶を申し上げておりました。


そんなことから、珍道中は珍道中なりに、その宗派宗派でお祀りされている宗祖は異なるのは当然でありますが、宗祖さまの像があればその前で足を止めて手を合わせるようになりました。


今年、弘法大師空海さまはお誕生からちょうど千二百五十年とのことで、真言宗の、いくつかある総本山では大きな記念の行事が執り行われているようで。
珍道中おばさんは歯軋りしそうな勢いで、そこへ行けぬことを悔しがっております。



No.489

マイナンバーカード保険証法案が可決された日、テレビで速報が流れました。
まぁ、どうせ通ってしまうのだろうな、とは思ってはいたので、そこまで読んだだけでは(ああ、やっぱり…)と思っただけだったんです。
速報自体も全国民注目すべきことなので、流れて当然だとも思いました。

注目し、声をあげるほど落胆し失望したのはそれに続いて流れたテロップ。
賛成した政党、反対した政党。

…こんなの私が記憶している限り流されたことはないんです。
そしてその中身こそが、私を落胆させ、失望させたのです。

反対した政党がたった一党だったんです。

あんなにも声高に問題点を指摘してくれていたのに、まだその問題が表面化しつつある段階でしかない今なのに、何故…。

ああ、バカにはわからないのが〝政治〟ですか。
バカなんでわかんないです。


マイナンバーすら理解できない人がいること、理解しても自ら動けない人の存在、知ってます?
そうした人の中には子供も含まれますが、そうでない、高齢の方とか、障がいをお持ちの方とか、おられるのはお分かりでしょうか?

写真の添付が必須条件、ですよね?
しかも結構な条件付き。
背景がどうの、正面向きであること、だの。

寝たきりの方、重症で動かせない方の、『正面を向いた、背景が指定された写真』が、どれだけ困難か、…知りもしないんじゃないですか?

あんなにも数多くいる国会議員さんが中に、一人もお身内にそういった…正面を向いて指定の背景で写真を撮ることが難しい方が、かつても今も一人もいないなんて、…確率としてはゼロではないけれど、本当にいないんですか?

寝たきりで何年も過ごされておられる方の中には、お身体に変化があって横向きにしか寝られない方だって結構おられるんですよ。
枕に顔をつけた正面向きの写真、認めてくれます?
寝たきりでなくとも、変形がある方は座っている姿勢がともすれば正面向きの写真が難しいって知っておられます?

あの法案が可決して、早々にスタートする予定、ですよね?
そうしたらその方たちって、スタートしたその時点から保険証を使うんですよ。

しかもそういった方の中には、お身内が一人もいないケースだってあるはず。
法定代理人さんが動くんですか。
保険証だけだって自らの手で保管するのが難しい方もおられますが?


どうする?内閣
どうする?日本

No.490

今日は御仏像を彫るご指導を受ける日。

いまお不動さまを彫らせていただいております。

お不動さまの火焔で、私の怒りを鎮めていただきましょうか。
いや、いっそのこと、お不動さまのお力のこもった火焔をもって、もっと燃え上がらせていただいた方がいいかもしれない。

No.491

今年は東日本大震災のあった三月十一日から、十二年目、十三回忌でありました。
その法要に、群馬県みどり市の光榮寺の副住職さまが参列されたことを以前書かせていただきました。

そのお話をお聞きし、お土産までいただいた私でありましたが、先日ある方から、その際副住職さまが小名浜の海に入って供養をして下さったことをお聞きしました。

三月のまだ寒い時期に、海に入って。

実は私、幼少時、父方の祖父母に連れられて毎年小名浜の親類宅に泊まりに行っておりました。
しかしながら、父と母の離婚により、その時から祖父母とも会うことなく、会えることなく過ごすことになり…。
当然ながらその小名浜の親類ともそれっきりとなりました。

あの震災のとき、
あの津波のとき、
小名浜の、お世話になった親類たちはどうなったのだろう、思ったところで知る術もなく、私はずっとずっと、心の隅で無事を祈り、…祈っておりました。

親類宅は三軒。
お世話になった方々は震災前にお亡くなりになられていた可能性は高いものの、私と歳の近かった方もおり、海に行ったりお祭りに行ったり、喧嘩したりしたものです。

三軒のうちの二軒は海から遠かったものの、一軒は海にかなり近く…。
あのとき小名浜に到達した津波は六メートルを超えていました。
小名浜ではどれほどの被害があったのだろう。
気になるものの、知りたくない思いの方が強く、ネットで検索することもせず。

その小名浜の海に…。

海に入って、読経し、お札を流して供養してくださった方が、こんなにも間近におられたなんて。

亡くなった方の供養。
ご遺族の心に寄り添う法要。
これは僧侶にしかできません。

…ありがたい。

十二年間、誰にも言わず、誰にも言えず気になっていた小名浜の遠い親類たちのこと。
安否を知ることはできずとも、少しだけ心から荷がおりた気がした、瞬間でありました。


「まだ寒い時期に、冷たかったでしょう、ありがとうございました」
そう申し上げたら、副住職さまは
「それが、あのとき何日も暖かい日が続いていたから、水もさほど冷たくなくて。少し前は氷水だったと地元の方に言われました」


いまだに海におられる方、そして海で亡くなられた御霊は優しかった。

供養してくださる僧侶たちのために、そんな配慮、努力をされたんだな。

No.492

昨日は十五日。

鎮守の社へ、そして両家の父たちの月命日ということでそれぞれのお寺さんへ訪れる日。

父のおかげで、弘法大師空海さまのお誕生日を、そのお膝元ともいえるお寺さんでひそかにお祝い申し上げることができました。
父の眠るお寺さんの空海さまのお像は、希望と情熱に満ちあふれた、笑顔で日本中をまわられた頃の、…若かりし日の空海さまでありました。

いつもは閉ざされている御本堂の扉が開けられていました。
ご住職の、お誕生を祝うお気持ちと感謝して、御本堂のご本尊さまの前、手を合わせました。
ご住職さまはおられませんでしたが…。

真言宗でお唱えする「南無大師遍照金剛」を七回、お像の前でお唱えしして、ささやかながらお誕生日をお祝いしました。

『遍照金剛』とは空海さまが唐で授かったお名前。『遍照』は仏さまの光が全てを照らして見守ってくださることを、『金剛』はダイヤモンドのように硬い仏さまの智慧をあらわすのだそうです。
『南無大師遍照金剛』は【御法号】というのだそうです。
空海さまを敬い、心から祈りを捧げる言葉だといいます。

いつか、空海さまのお誕生日を祝う『青葉まつり』の行われているお寺さんで、青葉まつりに参列したいなぁ。


No.493

とある仏教宗派さまのリーフレットより、心に残ったものを書き留めておきます。


【祈りのかたち『合掌』】

仏教では仏様に祈るとき、合掌をします。仏教の合掌は、お釈迦さまの時代のインドで敬意と感謝の気持ちを表して行なっていた作法がその由来といわれています。

(…中略)

祈りは「反省」「感謝」「誓い」「願い」です。合掌し祈ることで、(子どもたちは)自らを省み、感謝と思いやりの気持ちを持って、目標に向かって清々しく歩んでいく姿勢を自然と身につけていきます。

(…以下略)


右手と左手を合わせて少しふくらませ、両手の中に宿る温かい温もりに仏さまを感じるこの合掌を『虚心合掌』といいます。
合掌にはいろいろなかたちがありますが、この虚心合掌が合掌の基本のかたちです。



このリーフレットはどうやら子ども向けのもののようで、仏教で一番大切にしている祈りのかたち『合掌』を子どもたちに伝えるもののようですが、なるほどと思うこと然り。

私は何よりも今自身が学んでいる状況ではあり、わが子たちに伝えるような烏滸がましい立場ではありません。
また、子どもたちももはや手元を巣立っておりますので、なかなかそうした機会はありません。
それでも、共にお墓参りをしたり、法事であつまったときなどに、そうした事を態度で、あるいは言葉で伝えていけたらいいなと思ってはおります。

子どもを育てるとき、私は無我夢中で駆けぬけるように過ぎてしまいましたが、もっともっと、〝育む〟という言葉が与えるイメージのように、まさに『虚心合掌』の両手のうちの温もりの中で子育てをするべきであったなぁと、反省するばかりです。
それでも、今からであっても伝えることはできる。
遅ればせながら、ではありますが、伝えなければ伝わらないままです。
こうしたことはたとえ遅れようと、手遅れはないことと思います。

ま、私などはこのような歳をして、お寺さんのこうしたリーフレットやパンフレット、お寺さんに貼られたポスターや立て看板、そしてネットから学んでいるくらいですし。
学びもまた遅いということもないでしょう。

今月は、母の三回目の祥月命日となります。
いまだに墓のない母の御魂に手を合わせて参ります。
泰山木の甘い香りに包まれながら…。

No.494

今日は暑い。

梅雨はもう明けたのか?というくらい暑い。
暑い最中に水やりをしてもかえって良くないと思い、今になって外に出たら、紫陽花が花はおろか葉まで萎れている。
現在の室温三十二度。

紫陽花、そしてメダカから
メーデー・メーデー・メーデー
と救助要請がかかる。

ちなみに本日の日最高気温の高いランキングは(気象庁発表、15時時点)
一位 群馬県 前橋市
二位 群馬県 伊勢崎市
三位 群馬県 高崎市 上里見
四位 群馬県 桐生市
と、
ありがたくないランキングの上位三位、どころか四位まで群馬県が独占しているようで。


そんな今日午前中、何年か前からあじさい寺を名乗る、群馬県みどり市の【松源寺】さんの、紫陽花を訪ね行ってまいりました。

初めてこちらを参拝した時は、どの紫陽花もまだプランターの状態で、ご住職さまがすまなそうに
「今はまだこんななんですが、いずれは本当のあじさい寺になっていきますので、懲りずにまたお越しください」とおっしゃっておられましたのに、今はそのまさにその時ご住職さまが目指しておられた〝あじさい寺〟になられたようです。

今では御朱印でも有名なお寺と変貌を遂げており、紫陽花のころでなくとも、平日であっても、お寺の境内はいつ伺っても境内は人が何人も訪れています。

色とりどりの紫陽花。

そして、花びらが可愛らしくカールして、可愛い小皿のような花びらのもの、
〝隅田の花火〟と名づけられた、まさに花火を思わせるもの、
一つ一つの花が八重咲きのものなどなど、品種もさまざまなようです。

参道は通るのがやっとなくらいに両側から紫陽花が咲き乱れ、まさに紫陽花の寺。
まるで紫陽花が乱舞しているかのようでした。

御本堂前の香炉にはお焼香が用意されていて、そこで紫陽花に気を取られがちな思いを一旦引き締めて、ご本尊さまにご挨拶。


ただ…贅沢を言うならば、以前のように、気さくにご住職さまとお話しできるお寺だった時の方が心弾んだのだけれどなぁ。


No.495

母の祥月命日。

今年は泰山木の花が少ないようで、それゆえ、当然のことながら香りもあまり感じられない。
それでも今まさに開こうとするつぼみがあって、その可憐さにため息が漏れた。

夏椿が咲いて、枇杷がたわわに実っている。


季節ごとに咲く花が私を癒してくれる。
来月には睡蓮が咲いているだろうな、咲いているといいな。



(『隅田の花火』という品種の
  紫陽花)

No.496

今日、大変変わったお花をいただきました。
ひとつの花を一折り、長さにして10センチくらいのものをいただいただいただけだというのに、甘い香りが部屋中にただよっています。

それは【菩提樹】の花。

群馬県桐生市の【正円寺】さんの境内で、ご住職さまが自らの手で手折ってくださいました。

寺標の柱を境に、向かってみぎてに菩提樹が、ひだりてにはナツツバキ、日本ではこのナツツバキを沙羅として扱うこともあり、それが二本、なので沙羅双樹が植えられていました。
…とは言っても、ナツツバキくらいならわかるのですが、菩提樹はご住職に教えていただくまで存じませんでしたくせに。

お釈迦さまが悟りを開かれたのが菩提樹の木の根元。
沙羅双樹はお釈迦さまがお亡くなりになられたときにその横たわるお釈迦さまのお亡くなりになられたとき、おそばに生えていた木であります。
お寺さんらしい木を選んで植えられたとおっしゃっておられました。

その…門ともいえる寺標をくぐると。
高さ40センチ直径7〜8センチほどの青竹を切ったものに、紫陽花やナツツバキの活けられたものが参道の左右等間隔に植えこんでありました。
ああ、お花もお好きでらっしゃるのだなあ。

こちらのご住職さまは、大変まじめで気配り心配りのできるお方でありまして…。
いつ伺っても庭の手入れをされておられ、また偶然にも違うお寺さんでお見かけしたときにも、いつもいつでも、まわりの動きを察しては細々と動かれて働いておられました。

お花もお好きなのでしょうが、それ以上に人が喜んでいただきたいと思われてのことでしょう。

ご住職さまは私どもに対しても、本日、御本堂の中、そして境内を歩きながら、お寺のこと,天台宗のこと、お花のこと、アポ無しで訪れたというのに、それは大変長いことお時間を割いておはなしくださいました。

No.497

実は。
このいただきました菩提樹の花、大変珍しい咲き方をしております。

ただ、暑い中持ち帰ったものですから萎れてしまい、ここに写真をアップするにはしのびないものとなってしまいました。
しかたなく一番その特徴がわかりやすい…かなぁと思われた画像をお借りして添付させていただいたのですが…。

上の方に写っている緑が、いわゆる〝葉〟で。
花の上にある薄緑の葉、のように見えるもの、葉腋から垂れ下がった細い花柄に集散状に、黄白色の花が数個付いているのです。
花序には『長さ8cm~12cm程で、へら形の狭い〝苞(ほう)〟』が1枚。

例えるなら、葉の葉脈の中央脈から
直接茎が出て、10cmくらいの茎の先がさらに枝分かれして小さな黄白色、黄色寄りの花々を咲かせている、という感じ、ですかね。
…伝わらない?
ですよね。

こんなときこそチャットGPT、なんだろうけれど 笑。


ところで。
お釈迦さまが悟りを開いたとされるのは、クワ科のインドボダイジュあるいはベンガルボダイジュの木の下とされます。
インドに行くとこの菩提樹の葉をスケルトンリーフ(葉脈だけ残したレースのような葉)を観光客向けに高い値段で売ってあるのだとか。

しかし日本にあるのは中国産のもの。
熱帯性であるこれらは中国で育たなかったため、葉が似た本種を代用し、それが日本に伝播したといわれます。

中国を原産とする菩提樹は、アオイ科の落葉樹。
その来歴には、12世紀半ばに臨済宗の開祖である栄西が、中国の天台山にあった菩提樹の種子を持ち帰ったことを起源とする説と、筑紫の国(福岡県)に渡来したものが全国に広がったとする説があるといいます。

花の後には直径7~8ミリの果実(「菩提子」という)ができ、10月ごろになると黄褐色に熟す。果実は硬質の球形で、念珠を作るのに使われることも本種が菩提樹と呼ばれる所以の一つ、なのだと。

実は日本で菩提樹と呼ばれる木は、結構種類があって、この中国からきたもの、インドゴムノキ、ネンジュボダイジュの三種があるのだといいます。
これらは性質も形態も異なる。仏教的にはインドボダイジュが本家本元。
ネンジュボダイジュは実が高級な念珠の材料になることから関連付けられたようです。
これらのほか、オオバボダイジュ、セイヨウボダイジュ、インドボダイジュ、ベンガルボダイジュなどがあり大変ややこしい。

No.498

この【正円寺】さんを初めて参拝させていただいたときのことを書いたレスが、

https://mikle.jp/viewthread/3321842/
のNo348から始まるものとして残っております。
(うまくピンポイントでレスにリンクするよう貼り付けられなくてごめんなさい)

そこに書いたものをあらためて今回の視点で書いていくのも良いかとも思ったのですが、万が一、そのころのスレからお読みいただいた方には、重複しておりますことをお伝え申し上げておきたくて貼り付けてみました。

これから書くこと、そのときのレスとおそらく重複する内容が多々含まれることとなります、ご了承ください。

…まぁ、書き手の私はザル頭なので、本人的には前回書いたこともあまり覚えてはいないところもあるのでありますが、苦笑。

No.499

まっすぐな青竹をまっすぐに切って、参道の両サイドに等間隔に綺麗に並べ、まるでずっとそこに埋められていたかのようにまっすぐ植えられた花差し。
その〝おもてなし〟の心に私は深く心打たれました。
誰が来るため、ということもなく、ただ、もしかしたら訪れる人のためにと、生けられた花。
ゆっくりと参道を歩き、そこに生けられた花を、生けられた方のお心をありがたく思いながら鑑賞させていただきました。

そうはいっても、そう長い参道ではありませんので、すぐに御本堂の前に。
すると何か外で作業をされておられたのか、帽子を被られたご住職さまが御本堂ひだりてからタオルで汗を拭きながら歩いてこられました。

「こんにちは。お参りさせていただきます」と私。
「ああ、どうぞお入りになっておまいりください」

…まさか?まさか一年以上前に御本堂を除いていた夫婦なのを覚えておられた?
ま、まぁそんなことはない、かなぁ、…少なくともこの時点では。
いくらなんでも、会話もせずに、一年以上も前にたった一度お話しを聞かせていただいただけの二人組を(ああ、あのときの)とは、思わないでしょう、…たぶん。

「あ、ありがとうございます」
そう申して、御本堂の戸に手をかけ、、うん?
(あ、開いてないんですが?)

ま、いいか、前回ゆっくりおまいりさせていただいているし。
御朱印をお授けいただいて帰ろう。

「御朱印をお授けいただけますか?」
「ああ、それでは中でお待ちになってて下さい」
(…中で、かぁ、外をうろついていてもいいかな)
御本堂の戸が開いていないと言えない私。別にそう申し上げても失礼ではないのだと思うのですが、なぜか、そういうときは遠慮がちなおばさん。
遠慮していると思われたのか、わざわざ戻ってこられたご住職さまが、そこで初めて御本堂の戸が開いていないことに気づかれるのですが…。
(こんなことなら素直に開いていないと申し上げた方がこの気まずさはなかったか)と思いつつ。

ご住職さまは再び庫裏の方へ。

ああ、大好きな阿弥陀如来さまにお会いできた♡


すると庫裏の方からご住職さまが現れて、お灯明を灯して下さいました。
ありがたいことです。

No.500

お灯明を灯すためにわざわざ御本堂にお越しくださったご住職さまは、御朱印に墨書きくださるため再び庫裏へと向かわれました。

まずは正面のご本尊さまにお線香をあげさせていただき手を合わせます。
正面の、香炉の置かれた几の前に椅子が置かれておりました。
あぁ、足腰が不自由な方のためにご用意されたのだなぁ。以前には無かったものです。
一つ一つが思いやりとおもてなしの思いが込められた、心温まる御本堂であります。

まだご住職さまはお戻りになられないので、失礼してお隣の間に祀られている阿弥陀如来さまの御前に。
通路に座って合掌しているとご住職さまがお戻りになられました。
…本当はこちらの元本尊さまの御前にいたくて、ここに座らせていただいていただけなのですが。

御朱印帳を手渡して下さりながら、
「こちらはもともとのご本尊さまなのですが、なかなかこちらまで気づく方がおられないんですよ。本堂の規模が小さくて内陣にお祀りすることができなくて」
「こちらは今までに三度焼けておりまして、最後が明治の末だったのですが。
なんとか再建したいと思ってもお金が無くて。もっと上(かみ)にあったお寺の建物を持ってきて建てたものなのですよ。
そのお寺さんの建物も建ててどのくらいのものなのかわからないものなので、まあ、そのおかげであちこちいじることもできたんですけどね。
文化財などとなるとどこもいじることができなかったですから」

「そのお寺さんの名前はなんと?実は最近『黒保根の民話』という本を読んでいろいろなお寺の名前が出てきたものの、ネットで調べると黒保根には三つのお寺さんしかないようで寂しく思ったものですから…」
と私が申し上げますと、即座に
「〇〇さんの、ですね」
とご住職。

「そうなんですよね。以前はもっともっと黒保根にもお寺があったのですが…。明治の時代にも合併があって、その時に檀家も整備されて、たたんだお寺がいくつもあったんですよ。規模は小さなものではあったのですがね。このお寺の建物は〝せいけい寺〟といいました」


…そうかぁ。明治の合併かあ。というよりも、あの私の憎むべきあの悪令によるお寺さんへの風当たり、弾圧もあったのではないかなぁ。
小さなお寺さんではひとたまりも無かっただろうしなぁ。

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