神社仏閣巡り珍道中
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。
そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神様、仏様、どうかお導きください。
22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。
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普段は(お堂の中を覗いてみたところによると)御厨子の中におられる滝沢のお不動さま。
私はまだそのお姿を拝してはおりませんが、前述したように右腕を失い、背の火焔光背、両足と台石も切り取られてしまわれたお姿だといいます。
実はこの滝沢不動明王さまの御像の欠損したそれぞれの部分については言い伝えがあります。
右腕は。
埼玉県深谷市下手計の鹿島神社さんの境内にあります『大聖手計不動尊』という木製の不動明王像の胎内に納められているといいます。
実はこの右腕を切り落としたとされるのは【上杉謙信】公とのこと。
謙信が小田原攻めの時に、戦場でのお守りにしようと切り落としたのですが、鹿島神社さんに宿をとった夜、
「この腕を持っていると戦に負ける」という神の御告げがあり、境内に埋めて戦場に向かったというのです。
┉なんという身勝手な!
ただ、その時謙信が両足をも落としたとは考えづらく。
写真で見ると右腕を切り落とした切断面はギザギザで、いかにも力技で折り取ったような感じに対して、膝から下はスパッと、┉まぁ、スパッととはいかなかったでしょうが、綺麗に一直線に真横に切られているのです。
明らかにこれは違った切り方、脚は赤銅を横切りできるなんらかの刃物を使っています。
火焔光背をはずして持ち出したとされるのは、天明時代にここ滝沢に来ていた行者が群馬県の高崎市榛名町に持ち去ったと言われており、榛名の地で火焔不動として祀ったとされているようですが、これは定かではないようです。
どちらかというと火焔光背をはずして持ち去った人物の方が、両脚、台石まで切り落としたような、┉気がするんですよね、私としては。
謙信はあくまでも願掛け、でもその行者が持ち去ったとされる火焔光背は見つかってはいないようですし。
銅として売られちゃったとかだって考えられなくはないですものね。
その切られてしまった両脚と台石は、あの新里町にあります龍興寺さんの御本堂内の小さなお堂があって、その中に大切にお祀りされているとのことです。
┉直さないんだ┉。
正直そう私は思いましたがね。
重くて運べなかった?
いやいやそこまで、┉前橋市から桐生市まで運んでいるんだろうし。
まぁ、今となってはこの右腕も、膝から下も、火焔光背も無くなってしまわれたお姿が定着してしまっているのでしょうが、ね。
神社仏閣珍道中をくり広げる私、ついついお堂を覗いてみるのがやめられない。
この滝沢不動堂でもやっぱり覗いてみたと告白しておりますが┉今回はお堂の中だけでなく、他にも覗いてみたところがありました。
こちらのお堂、私のようにぼーっと生きている人間は見逃しがちなのですが、すっぽりと、そして違和感なく岩屋の中に建てられているのですよ。
ほんと、真正面に立ったくらいでは私のような人間にはごくごく普通に建っているお堂にしか見えないんです。裏山がある、くらいにしか思えない。
それが、ですね。
お堂の向かって左側に、たくさんの石仏さま、┉観音さまが立っているのが見えたのです。
石仏さま大好きな私、すかさずそこに向かいます。
お堂と壁の隙間にまで、石仏さまが奉納され安置されています。その間の狭いことといったら。
┉うん?
この壁はいつまで続いていくのか?
このお堂、覗いた感じからは、八畳間くらいの広さがあるようにみて取れます。その建物がすっぽり入っているだけの岩屋、ということになりますので、結構奥行きもあるかと┉。
その脇に置けるだけ石造の観音さまを安置したようです。
結構奥まで舟形光背の観音さまが並んでおられます。
台座は四角で、漢数字で何番と書かれているのですが、十四番という番号が一つ飛ばしの位置にあるので、ナンバリングではなさそうです。
ではどこかの観音霊場の番号?、┉とも思ったのですが、その十四番の番号のついた観音さま、聖観音さまと馬頭観音さま、┉なのです。
西国、┉と見てとれるものがあります。
ちなみに西国観音霊場で十四番は、滋賀の三井寺さんで、ご本尊さまは、┉如意輪観音さまみたい。
なにかの際に移動して、適当に戻した、ということかもしれません。
このお堂との隙間から始まって、岩の上にまでたくさんの観音さまが立っておられましたので。
感動したのが、この古い石仏さまの列に、真新しい、小さな板牌が奉納されていたこと。
ご先祖さまが奉納された観音さまの台座の上にちょこんと供えられているのです。
昔、┉とかいっても江戸の終わりとか明治くらいなら、家によってはそこまで辿るのも容易なお宅もありましょうし、ご先祖さまの誰々さんがどこどこに石仏さまを奉納したと言い伝えられてもいるかもしれません。
┉憧れるなぁ。
ご先祖さまの奉納した石仏さまを子孫が参拝する┉。自分たちの菩提寺でもないところで、お会いしたことないご先祖さまの思いに会える。
うーん素敵♡
女人講中と彫られた台座もあります。
西国巡礼に行かれた方の奉納もあったでしょうし、憧れて「いつか行きたい」と思われ奉納された方もおられたでしょう。
三十三体よりももっと多くの同じくらいの大きさの観音さまがたくさん立っておられます。
石工の方が何人か関わっておられるようですが、どの観音さまもみな、たいそうお優しいお顔をされておられます。
ああ、幸せ♡
この観音さまの御像、どうやってそこに安置したのか?と思うくらい、お堂のある岩屋のかなりかなり上の方にもおられます。
実はこのさらに奥に、国定忠治の隠れていた岩屋が二つほどあるようだったのですが、このたくさんの観音さまの御像で私はすっかり満足して、帰路に着くのでありました。
私より上の世代の方にはたいそう懐かしい、『玉梓が怨霊』さまにお会いしてまいりました ♪
現在群馬県桐生市で行われているBS日テレの『ニッポンの神業』の展示イベントの一環で、玉梓さまにお会いできると聞きつけ、血圧がまたまた結構低いにも関わらず、すっ飛んでまいりました。
彼女の決めゼリフは、
「われこそは玉梓が怨霊」
うーん、好き♡
素敵♡
かつて、NHKが、南総里見八犬伝を辻村ジュサブローさんのお作りになった人形を使って【新八犬伝】という人形劇を放映していたのが、いつのことだったか┉、まだ小学生の頃だったのはたしかなのですが、もうそのストーリーなどさっぱり覚えてもいないのですが、この玉梓が怨霊さまが好きでして。
いや、ほんっと、ストーリーまるっきり覚えてないんですが、彼女が登場すると、きゃー♡と思うくらい、好きだったことだけ覚えているのです。
えっ?
この下におられるお方に間違いありませんが。
ええ、小さい頃から変なやつだったんです、私。
でも、┉少し印象が異なるんです、私の記憶と。
なんかもっと素敵だったような┉。
髪の色が違う気がするのですよね。
すっごい前のお人形だから、髪が傷んで少し直されたのでしょうか。
スタッフさんがおっしゃるに、夕方一人で電気を消しに行くのが怖いのだそうです。
なんでも夕方の照明はまた色が違うとのことで、赤い照明に浮かび上がるお姿がなんとも、何度見ても怖いそうで。
ぜひ一度夕方の玉梓さまにお会いしたいなぁ。
十月十六日までのご滞在だそうです。
あと何回かお会いできるといいのだけれど。
ちなみに『新八犬伝』のメンバーで、玉梓さまだけがお越しになられているほど、スターなんですよ、彼女こそが。
先日、群馬県前橋市の前橋東照宮さんへ、実に久しぶりの参拝をさせていただきました。
私、こちらの東照宮さんが好きでして。
えっ?┉それなのに久しぶりの参拝?
ええ、そうなんです。好きだから、参拝出来ずにいたのです。
何故ならば、こちらの東照宮さん、老朽化を理由に建て替えることとなり。
私はその社殿もまた好きだったのですよ。
ただその理由として、老朽化をしたこの神社の建物を補修修理する方が、建て替えるよりもずっとずっとお金が掛かるということで、宮司さまが悩みに悩んで出された苦渋の選択だったようでありまして。
私、大変真面目でお優しいこちらの宮司さまも好きでありまして、その方の出された結論であればいたしかたないのであろう、┉とも思ったのでありました。
ただ。
その社殿の壊れゆくさまを見るのは絶対に嫌で。
新しくなった社殿も、建物が境内に馴染んでから訪れたいと、ずっと、ずっと、そばを通ってもそちらを見ないで手を合わせるくらいに、参拝を避けていたのです。
神さまには大変失礼なことではありましたが、どうしてもどうしてもそのくらいこだわりがあったのです。
と、言いますのも、提示されたこちらの新しい社殿の完成予想図が大変近代的なものでありまして。
歴史ある社殿に誇りを持っておられる地元の方々も猛反対されたようでありました。
何度も何度も話し合いがもたれ、神社さんからの譲歩案も突き放され、決裂したまま、工事に突入したような経緯だったようです。
┉素敵でしたよ。
たしかに近代的ではありましたが。
ありがたいことに御本殿がそのまま残されて、新しい覆屋に入られた形でありました。
思えば宮司さまにとってこそ、大切な大切な社殿であったはずでした。
前橋東照宮さんの境内には以前と同じ優しいあたたかな気が満ちていました。
新しい社殿から優しい気が流れてきていました。
※前回とほぼ同じ文面です。すみません。
(夕方、まさかの夫の早い帰宅に焦って読み直しも保存もできず、送信してしまい、さすがに酷すぎる文面でしたので直したもので、前回とほぼ同じ内容です。┉まぁ、直しても元々文章力のない私ですので、さしては変わっていないのですがね)
【前橋東照宮】は、寛永元(1624)年、越前勝山城主・『松平直基』公が、日光東照宮から徳川家康の分霊を城下に勧請したのが始まりとされます。
以降、松平氏の移封とともに東照宮の遷座を繰り返してきたといいます。前橋に遷座してきたのは、寛延二(1749)年。
明和四(1767)年、利根川の氾濫により前橋城が大きく被災し、やむを得ず川越に移るときにも東照宮も遷座しています。
ちなみに松平直基公は家康公の次男・『結城秀康』公の四男。松平姓を授かったことに感謝し、偉大な祖父を尊敬し、家康公を城下にお祀りしたのでありましょう。
かつての社殿は川越時代の安政二(1655)年に、樹齢1000年といわれるケヤキの巨木から造られていています。
今回新しい社殿に、祀られるような形となった本殿。その本殿にある彫刻は、江戸の有名な彫師島村源蔵の作といわれるものといいます。┉もっとも、私は拝殿前での参拝のみでありましたので、未だにその本殿の彫刻を拝見したことはないのですが。
松平家は文久三(1863)年に前橋へ戻られたのですが、東照宮が再遷座してこられたのは、時代も変わった明治四(1871)年のことであったといい、この際、川越時代の社殿を解体しこの地に再築したといいます。
江戸時代に十三回もの移封を命じられていますが、その都度東照宮も遷座されたといいます。
┉そんなゆかりある社殿でありました。
さほど大きくはありませんでしたが、趣のある社殿でありました。近隣の方たちからの信仰も厚く、大変愛された社殿でありました。
前に立っただけで心が落ち着き、癒されたかつての拝殿は、いづこかへの移築も検討されていたように記憶しておりますが、いまだにそのようなお話は私の耳には入ったまいりません。
秋の七草の山上憶良の歌を載せたとき、(ああ、かつて桔梗は朝貌(あさがお)と言ったのだなぁ)と思いました。
わが家の桔梗は夏、六月から七月くらいに咲いてしまうので、秋の七草といった感覚にはどうにもなりづらい。
桔梗は普通七月から十月にかけて咲く花と言われており、万葉の昔から秋咲きであるというのに、私が育てると本人に似てせっかちになってしまうのでしょうか。
桔梗は他に、岡止々支(おかととき)、蟻の火吹き、盆花、嫁取り花という名があるといいます。一度も聞いたこと、ないですけれどね。笑。
蕾の膨らんだ姿から連想して、英名はバルーンフラワー。
ところで、この桔梗の花言葉、『誠実・従順・変わらぬ愛』というものらしいです。まぁ、花言葉も諸説いろいろあるようですが、桔梗を家紋にしていた武将といえば【明智光秀】。
誠実、ですか、従順、ですか┉。
その当時に花言葉というものが存在したなら明智家の家紋の変更があった、┉かもしれない?
このところ訃報が相次いでおります。
「えっ」と絶句したばかりなのに、また┉。
先日は圓楽師匠。
そしてアントニオ猪木さん。
復帰を目指して頑張って頑張って、ここまで来れたよというお姿を見せてくださったばかりでありましたのに。
本当に頑張っておられた御二方、今はただただご冥福をお祈りいたします。
亡くなられた六代目円楽師匠、三遊亭圓楽というのが、正しくは襲名した名前。
けれども五代目が生きておられる内にその名を譲るということで、それを受けるにあたり、自分に名を譲って師が引退するなどということは断じていやだと、師が落語家でなくなるなど、あってばならないと言いはって、六代目圓楽は円楽と書くこととなったという、エピソードがありました。
結果としては襲名の前に五代目が亡くなられ、生前贈与とはなることなく、五代目は『圓楽』として亡くなられられましたが┉。
五代目圓楽師匠は浄土宗のお寺の生まれといい、宗派こそ違えどそんなご縁からなのか、群馬県前橋市にある釈迦尊寺さんと親交があり、それは弟子の六代目にまで続くものとなりました。
円楽師匠(六代目)は義母が亡くなられたことをきっかけに、前橋市の釈迦尊寺さんに生前墓を建立(寿陵)されたといいます。
さらに2016年には同寺で『得度』し、【楽峰圓生】の僧名を賜っています。
また、円楽師匠のお仲人は群馬県高崎市の仁叟寺のご住職。
東京生まれ、東京育ちでありながら、何かと群馬県との関わりを持ってくださり、得度された年、2016年から『まえばし観光大使』を務めてくださっていました。
私、ついこの間、まさにその釈迦尊寺さんを訪ねたことを書いており、その時は師匠が八月に高座に復帰されたお姿を拝見したばかり。
まさかこのようなことになろうなどとは┉。
頑張っておられたのになぁ。
どれだけ悔しかったことでしょう┉。
天国では師である五代目圓楽さんや歌丸師匠に、早すぎるって叱られ、毒舌を吐いておられるでしょうか。
今はただただご冥福をお祈りいたします。
十時くらいから、動悸がして、両手に痺れがあって、頭が痛いというか重い。
このところようやく血圧が私なりには上がって最高血圧が90台となることもあり、安心していたのも束の間、この症状は┉。
自分のペースで動いていれば上がってくるかしら、などと淡い期待で動いていたら、少し呼吸まで苦しくなってきました。
血圧が下がっているとき、無理に動いて余計下がることはあっても上がったことなどなかったのに、私、もはやこの症状の持続にうんざりしてしまって、気づかないふりをして無理に動いてしまった、その結果がこれです。
また72/42などという、お医者さまを呼ぶレベルにまで血圧が下がってしまっていました。
┉呼ばないですけど、ね。笑。
でも本当にそのレベルなんですって。
自力では運転とかは無理。
もちろん動けないって意味でもありますが、運転中に何かあっては他者を巻き込むことだって考えて行動せねばならないレベルです、┉悲しいですけどね。
大人しく寝ているしかないのです。
食事の支度やお風呂掃除、洗濯などなどやらねばならぬことだけ、ゆっくりゆっくり動きながら、こなしては横になり過ごすしかないのです。
くっそぉ。
せっかく上向きになりつつあったのになぁ。
またどこにも行けないおこもりさんに戻ってしまいました。
神社仏閣にも、┉というより、もうどこかへ行きたいという意欲すらなくなってしまうんですよ。
末梢の血液循環を減らして、脳や心臓にまわしているので、意欲とかじゃなく、〇〇せねばならないことだけしか考えられないのです。
そしてなんか精神的に追いつめられるんです。悪いこと暗いことしか考えられない。
病態的に血圧が低いってそうらしいですが、本当に実感いたします。
もっとカッカと怒ればいい?
いやいや怒りすぎてるくらいですって。散らかし魔の夫が言っても言っても直らないとか、ね。
塩分いっぱい取ればいい?
そうしてもみてるんですけどね。本当なら塩分控える年頃なのでしょうにね。
うーん、71/41かぁ。
洗濯物を取り込んでこよう。
そんな私を今癒してくれるのが、法相宗大本山『薬師寺』さんの四コマまんか『お寺日記』。
これが実におもしろい!
楽しい!
そして、これをネットでもみられるようにしてくださっているところも、すごいと思う。
お寺さんなどでいただける小冊子などには漫画があったり、読みやすい内容の、読みやすい長さの文章が書かれていますが、ホームページですとなかなかありません。
いかにもありがたい、ともすれば品格を示すためなのか難しい内容が書かれていることがほとんどです。
薬師寺かぁ。
遠いなぁ。
でもこのホームページで、心の距離はとっても近い気持ちになれました。
読み終えてしまうともったいないので少しずつちまちまと読んでおりますが、あとどのくらい残っているのかなぁ。
10月5日は『だるまさん』の愛称で親しまれている禅宗の祖『菩提達磨』(ぼだいだるま)の命日、『達磨忌』。
だるまさんといえばほとんどの人が知っていると言っても過言ではないと思います。
小さな頃、数を数えるのに
『だるまさんがころんだ』と唱えて、十、数えたことはありませんか。
私は群馬県民ですので、あの縁起物の【だるま】を子供の時分から見る機会がたくさんありましたが、ほかの都道府県の方ですとどうなのか┉。
そうなんです。
群馬県は全国一のだるまの産地、日本のほとんどのだるまが高崎市で作られているのです。
【高崎だるま】という商品もありますが、その元となるものを作っている業者さんも高崎市にあって、それを全国に卸しているということもあり、全国一、なのかもしれません。
そうそう、あの『上毛かるた』にも
『え 縁起だるまの少林山』とありますし。
子どもたちに人気の絵本でもだるまさんが主人公のものがあります。
『かこさとし』さんの『だるまちゃん』シリーズがあり、『かがくいひろし』さんの『だるまさん』シリーズがあり、ともにベストセラーであります。
二歳の孫が好きな絵本のひとつもこの『だるまさん』。
でも娘の家も核家族、親子三人暮らしですので、だるまを見たことがあるかどうか┉。
とはいえ、だるまの置物を見たことがあっても私が達磨禅師さまのことを詳しく知ったのは、やはりこの珍道中を始めて調べたから。
さすがに達磨さまが実は実在された僧であったこと、手や足を失うほど修行に明け暮れられたこと、くらいは存じてはおりましたが┉。
お寺さんをたくさん参拝させていただき、手足のあるころのお姿の御像や掛け軸なども拝見いたしました。
達磨禅師さまは禅宗の僧でありますので、今の日本に伝わる直接の宗派はないかもしれませんが、天台宗や臨済宗、曹洞宗、そして黄檗宗などのお寺さんは達磨禅師さまをお祀りされていることが多いようです。
【達磨禅師】さまは、紀元前四世紀の終わりごろ〝南インドの香至国〟という豊かで平和な国の第三王子として生まれだと伝えられます。
やがて出家し、お釈迦様からの教えを継ぎ、より多くの人々にこの教えを広めようと、幾多の困難にもめげず海路はるばる中国へ布教伝導に渡られたといいます。
どのような逆境に立っても、決してへこたれず、現在の禅宗の基礎を築かれ、初祖達磨大師と言われるようになりました。
達磨大師の逸話は沢山ありますが、嵩山少林寺での「面壁九年」は有名で、九年もの間ひたすら座禅を続けられ、その結果、手足が腐ってしまい、あのような、手足のない姿であらわされることとなった、と言われています。
永安元年十月五日(528年11月2日)に百五十歳で遷化したとされています。一説には達磨の高名を羨んだ者に毒殺されたともいわれています。諡は円覚大師さまであります。
┉百五十歳って。
┉まぁ、紀元前の人物ですしね。伝説化されているものもたくさんあるかとは思われます。
おそらくその頃の平均寿命などは四十歳前後だったのではなかったかと記憶しているのですが┉。
縁起だるまは、そんな達磨禅師さまの生き様である七転八起の不屈の精神がそのまま具わっていると言われ、縁起物として長いこと愛されて大切に祀られているのだと思います。
高崎だるまは、今から二百数十年前の寛政年間(1789〜1801年)に碓氷郡豊岡村の豪農・山縣友五郎によって生み出され今日まで作り継がれてきたと言います。
初めは、高崎市の少林山達磨寺の東皐心越禅師の描かれた一筆達磨像のお姿を型取った〝座禅だるま〟であったようで、その製法は山縣家の秘伝とされ受け継がれました。
それが明治に入り、木型名人が豊岡村に住み始め、だるまの木型を専門に彫り始めたといいます。
これにより豊岡地内にだるま作りを目指す者が増え、大勢の人が作り始めるようになりました。これが高崎だるまの始まりといわれます。
だるまは、少林山達磨寺が創建当初から続けている七草大祭で売られるようになりました。これが今なお続く「だるま市」の始まりです。
養蚕農家ではだるまを大切な守り神として奉り続けてきたといい、養蚕の大当たりの願かけから、やがて一般家庭へと広まり、様々な願かけが行われるようになったといいます。
今は選挙というとだるまが付き物でありますね。
「ぼくらのなまえは ぐりとぐら
この世でいちばん好きなのは
お料理すること
食べること
ぐり ぐら ぐり ぐら」
自分が子どものとき、
子どもたちが小さな頃、
そして今、孫が
何度も何度もページをめくる絵本、
【ぐりとぐら】。
あのぐりとぐらの作るパンケーキのなんとも美味しそうなことといったら。
実際大人になって、作って食べたら本当に美味しかったのですが、何より、それだけの情熱を持ち続けさせるだけのパンケーキであるということ。
それはぐりとぐらが大きなフライパンと、大きなたまごを一生懸命全身を使って作る様子と、テンポの良い文章が、生み出すマジック、それ以外にありません。
ぐりとぐらの他にも、【いやいやえん】【そらいろのたね】などたくさんの本がありますが、どれも、お姉さまの『中川季枝子』さんが文を書き、『山脇百合子』さんが絵を描いた共作でありました。
そんな私ども親子3代が夢中になった絵本【ぐりとぐら】の、絵を描いておられた山脇百合子さんが亡くなられたという訃報がTwitter上で流れています。九月二十九日にお亡くなりになられていたようです。
「この本、捨てたり誰かにあげたりしないでね」とは十八で家を出た娘の言葉。
その中の一冊がこのぐりとぐらでありました。
時代を超えて愛され続ける、絵本というのは素晴らしいものだとあらためて思いました。
山脇百合子さんにありがとうございましたの言葉を添えてご冥福をお祈り申し上げます。
私が厄除けをしたことがないことは、固定された扉の文に書いてあります通りです。
そんな人間ですので当然自分の子どもたちも厄除けを受けさせることなどなく過ごしてまいりました。
実は夫も厄除けをしたことがないというのです。
まぁ、たしかにそうしたことをしてきた人間であれば、その年に厄年を迎えた自分やこどもの厄除けをしなくてはと騒いだでしょうから、それは確かなのでしょう。
ですが、夫の家って、お祖母さんは信心深くてそういったことを大変気になさる方でしたし、義父も義母も、義姉もみな、お正月の初詣に出かけては「今年〇〇は厄年だから厄除けもしなくては」などといい、厄除けをしてきたと言って初詣から帰ってきていたのを見ていたので、まさかそんな家族の中で一人だけ厄除けをせずに育ってきたとは俄には信じることができなかったのも事実でして。
でもたしかに初めて昇殿した際、「俺、初めて神社の中に入った」と申しておりましたし、やはり彼もまた厄除け・厄祓いをしたことがないのでありましょう。
この厄除け、厄祓いといった風習は室町の時代からのものと言われており、陰陽五行説が元となっているといいます。
私が持っている本によりますと、
『男性は十歳、二十五歳、四十二歳、六十一歳
女性は十九歳、三十三歳、三十七歳が厄年』だと書かれています。
そして、これらの歳はすべて、新年を迎えるごとに歳をとる数え年で数えることになっていると書いてあり、中でも男性の四十二歳、女性の三十三歳は大厄であること。
また厄年はその前の年を前厄、次の年を後厄といい、この三年間は人生の中でも最も慎まねばならないとされ、神社仏閣でお祓いを受けることが習慣となっていったのだと書かれています。
だから私はもう厄年は終わっていて、もう厄除け・厄祓いを受けることはないんだと思っていたんです。
ええ、ごく最近まで。
そもそも三十三歳で女性の厄年は終わりと思っていたくらいでしたし。
神社仏閣を巡るようになってからは『厄除け』のポスターくらい目に入ってきますし、目の端くらいにはその年の厄年は何年生まれ、などというものも見えてまいります。
えっ?なんか私の持っている本と違うんじゃない?
そうなんです。
神社さんとかお寺さんとかに貼られたポスターによりますと、
男性の本厄:4歳・13歳・25歳・42歳・60歳
女性の本厄:4歳・13歳・19歳・33歳・37歳・60歳
となっているんです。┉増えてるし!
じゃあ60歳は男女共に厄年ということなのでしょうかね?
┉ということは。
┉私、厄除け・厄祓いを受けるチャンスがまだあるってことですか?
ふんふん♪
┉それでですね、実はこの記憶が間違いがなかったことを確認しようと、ネットで調べたんですよ。
そうしたら、な、なんと驚愕の結果が!
┉えっ?、やっぱり記憶が間違っていたのかですって?
┉違うんですよ。
男性の本厄:【62歳】
女性の本厄:【61歳】
となっているものや、
男性の本厄 : 【61歳】
となっているもの、いろいろあるんですよ!
で┉。
どれが一体正しいの?!
一体何故諸説あるの?
なんか高齢化が進んだからとか、定年制度が変わったからとか、いろいろ書いてあるんです。
(陰陽五行説というものをまるで理解できてはいないけれど)
陰陽五行説に基づいてるんじゃないんです?
それも、なんか週刊誌的なものが扱っているものなら、ふ〜ん、とか受け流すんですけれど、結構有名な神社仏閣さんの掲載しているものも、そうした違いを見出せるんです。
おーい!
┉それじゃあ、神社仏閣の選び方で厄年が変わるということなんですか?
五十九歳から六十三歳くらいまでずっと厄年ととらえろってことですか?
┉まぁ、それを言えば、女性は前厄と後厄を合わせると、30代のほとんどを厄年の中で過ごすという事になりますし。
やはりそのあたりの年齢というのは、身体的にも環境的にも変化が起きやすい年なので、より気をつけたい年頃、と考えていつも以上に気をつけて過ごすのが良い、ということなのでしょう、かね?
夫も若いときのあれこれを、反省したと、先日、珍しく┉それこそ夏に大雪が降って吹雪になり、冬に40℃超えの真夏日が来そうなほどに珍しいことに、「すまなかったと思ってる」と頭を下げたんです。
┉えっ?!
そ、そんな凄い過去が?!
┉いや。
別に浮気とかも無かった(ようだ)し、賭け事もしないし、金遣いが荒いことなど一切無く。
まぁ、飲んで布団と枕をダメにしたり、玄関で寝込んだりは数えるくらいにはありましたけれど、自分の適量を知ってその後は大酒を飲むことは無かったし、煙草は隠れてまで吸って大喧嘩までしましたが(ドクターストップがかかったのに!、ですよ、念のため、私の名誉のために、笑)、
まぁそういったいわゆる一般的な見方だけすれば、優等生、なんじゃないかな?
┉妻の採点を受けなければ!
まぁその長年にわたってちょこちょこと受けていた妻の採点を振り返って、な発言なんですね。
きっと、嫁いであれこれ苦労している娘を見て、反省したんじゃないかと、いかにもわかりやすい夫なのではありますが。
そんな夫、自分で買うものはほんとに嫌になるくらいケチくさく節約するんですけれど、私には甘い。
どこかでやはり負い目があったのかもしれませんが、たいがいのモノはオッケーが出る。
まぁ、エルメスのバーキンがどうのとかいうことなど一切ない、ノーブランドの、しまむら大好きおばさんなんですが、子どもにかこつけてポケモンの指人形を二百越えで集めたりしちゃうとことかはあったんです、ね。(欲しかったのは私で、子どもは欲しがったことはない)
┉ええ、今も昔も煩悩おばさんで、困ったものです、はい。
ただ。
そんな私が欲しがったもので、夫が唯一鼻で笑って聞き流したものがあるんです。
それも最近。ごく最近!
そ・れ・は┉。
テレビのニュースに寄せて。
あの可愛い笑顔が、テレビに映るたびに泣きそうになる。
小さな手を振る姿が胸を締め付ける。
今年はやたらと水で子供の命が奪われていた気がしてならない。
そしてあの、殺人としか思えないバスへの置き去り事件。
お地蔵さま、どうかそんな子供たちみな、仏さまの世界、神さまのおられる世界へ、苦しみのない世界へとお連れください。
十月。
神無月。
通説では日本全国の八百万の神々が、出雲大社に集まるので『神無月(かんなづき)』となったとされています。それなので出雲では『神有月(かみありづき)』と呼ぶといいますが┉。
この美しい、豊かな季節感あふれる、万葉の昔から使われたとされる和の月名に、あえて私の違和感を申し上げれば、『神無月』に対しての『神有月』。単純に反対語とすればそうなんですけれど、出雲には┉出雲大社に大国主大神が御鎮座されておられ、そこを訪ねて八百万の神が集うわけなので、神有月という表現はちと違うのではないかと。
出雲に座す神々に失礼にあたってはいないかと、ビビりな私としてはそんなちっちゃなことを気にしてしまうのであります。
〝神集月〟とかにできなかったんかい、とか、思ってしまうわけなのでありますよ、はい。
┉まぁ、そんなちっぽけな人間界のものの言い方など、神さま方は気になさるはずもないのでありますが、何せビビリストなものですから。
むしろそのいにしえの昔、この趣ある、季節感あふれる月名を考えた方、使ってこられた方々がお怒りになりそうな┉。
しかも旧暦でのこと、本当はまだ地元の神さま方は出雲に出立してはおられない。
それに神さまのお力は凄いので、出雲とご自身がお護りくださっているところなど一っ飛び、瞬間移動、なのではないかなぁ。お心はご自身のお護りなさっておられる国にも常にあるような気がいたします。
まぁ、日頃のお疲れをゆっくりと出雲の地で癒していただけたら、それが一番でありますが。┉それがまた下世話な話。
神さま方はそんな慰安で出雲大社へお集まりになられるわけではないので。
こんな煩悩の塊のおばさんがあれこれと思うこと自体おかしなことでありました。
そんな神々が集まられる出雲大社で、人間界では十日、出雲駅伝が開催される予定であります。
┉ああ、出雲大社へ行きたいなぁ。
あれ、また煩悩の一つが漏れ出してしまった。
そうそう、その私の百八掛ける百八くらいありそうな煩悩の一つ。
夫に鼻で笑われ、即却下┉というか本気で取り合ってももらえなかった、私の欲しいもの。
それは┉〝錫杖〟。
あっ、あのお地蔵さまが手にお持ちの長い杖の錫杖ではなくて、小さな┉ハンドベルくらいの錫杖、なんですがね。
┉えっ?
それは本気にされないだろう、ですか。
ええ、まさにそれ。
本気にすらされませんでした。
しかもやっぱりその、お地蔵さまがお持ちの長い錫杖が頭に浮かんだようでしたし。
私の欲しいのは『手錫杖』と呼ばれる法具なのですがね。まぁ、修行の〝修〟の字もしていない、信仰心すら薄いおばさんの持つものじゃないだろうと言われればそれまで、なんです。実際、痛いほどそんな自分であることはわかっているので。
形から入るのもいい加減にしておけ、と言われれば至極ごもっともな話でありまして。
長い錫杖だろうが、手錫杖だろうが、鼻で笑って終わりになるのも当たり前、なのです。
ただ┉。
『錫杖は、僧侶や修験者が身に降りかかる危険や煩悩を振り払い、己の身を守るために使われる法具。』
そ。
『┉煩悩を振り払い┉』、なんですよ。
煩悩を振り払う法具を欲しがる煩悩をこそ祓えって?
ええ、そ、そうなんですよね。(^_^;)
┉ですがね、この手錫杖、大きな仏具屋さんで普通に買えるもの、なんです。
身近にあるだけで、厄除け・災難除けになるといわれるといい、一般の方でも求める方はおられるといいます。
当然お取り寄せもでき、ネット販売もされています。
うーん。
┉私としては指輪やネックレスより欲しいものなんだけどなあ。
結婚何年目かのプレゼントにしてくれないかなぁ。
┉結婚何年目なのかを思い出せない妻では買ってもらえないだろうな。┉あれ?ほんと何年目だ?
┉うーん節目には当たらないや。
誕生日も大きな節目の年ではないしなぁ。
煩悩は煩悩しか呼ばないな。
徳のある僧がお使いになられた錫杖をもってしても、私の煩悩はそう簡単には振り払えないかもなぁ。
うーん、手錫杖♡
本日八日は【薬師如来さま】の御縁日ということで、群馬県太田市にあります『反町薬師さん』へ参拝にうかがいました。
地元太田市新田反町町では『薬師さま』といえばこの反町薬師さんを指すくらいです。
高野山真言宗のお寺さんで【瑠璃山照明寺】というのですが、うちの夫など照明寺さんと申したところ通じなかったくらい『反町薬師さん』の名で通っております。
実はこちら、【新田義貞】公の居住跡だったので【反町館跡】とも呼ばれており、境内はお堀に囲まれており、土塁が残っております。
今でも大きなお堀ですが、当時は三重のお堀であったと言われています。現在のお堀は幅10〜20メートルといわれています。
境内には大きな桜の木が何本も植えられ満開の頃にはさぞかし美しいものと思われます。
また大きな大きな楠があり、お堀にその枝先を垂らしています。その樹齢は推定五百年、胸の高さの幹周りは約十メートルあるといいます。
またそのすぐそばにはやはり大きな藤の木があり、その樹齢は百五十年と言われ、三本ある藤で見事な藤棚となっています。
この藤の頃に一度参拝したことがありますが、それはそれは幻想的で、仙人やはり天女でもいそうな異空間であるような錯覚を起こすほどであります。
お寺さんだというのに境内のことばかり書いておりますが、こちらは本当に心が落ち着き癒されるお寺さんで、夫も私も大好きなお寺さんなのであります。
お寺さんの周囲にあるお堀の周りから、境内に至るまで、それはそれはあたたかなやわらかい穏やかな気に包まれた空間なのです。
反町薬師さんの歴史は『反町館跡』の歴史でもあり鎌倉・南北朝時代まで遡ります。
新田義貞公が成人後、現在の太田市別所にあった館がてぜまになったためと、防備のための貯水が必要であることから、地下水の豊富なこの土地に『平城』を構えました。
討幕の挙兵を相談したのもこの館のそばであったと伝えられています。
その後戦国時代となったことにより、三重の堀を巡らす城郭にかくちょうされたといいます。
新田義貞公がここに移り住み、その後は住む主を変え、天正十八(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めで廃城したと伝えられます。
時は流れ正徳四(1714)年、館跡の北約500メートルほどのところにあった照明寺が火災にあった際にここに移転し現在に至ると伝えられます。
『反町城の本丸跡にある照明寺は最初、元徳年間に新田郡市野井村字杉に建てられた薬師堂を、永禄年間(1558~1570)に刑部大輔由良成繁公の命で慈光坊が反町城西方の元屋敷に移築し、照明寺と名付けて祈願所とした。
しかし、正徳四(1714)年に、失火のため堂宇のすべてが焼失したため、中興開山の祐泉が、成繁公の奥方より地料と堂宇造営料として百十五両の寄付を受け、寺を反町城の本丸跡(現在地)に移築造営した。
そして義貞の母の法号である『妙光院殿蓮法大禅定尼』から、院号を妙光院とした。
(…中略…)
現在の照明寺は、南の土塁の間に明治四十(1907)年建立の石柱門があり、その周辺に明治二十七(1894)年に建てられた『新田義貞公古城跡』碑、馬頭観音線刻碑(天明八(1788)年)がある。
石柱門を入ると左手に水屋、その西に大師堂、その北に大きな参籠堂と弁天堂がある。
正面の本堂は、明治十一(1878)年に完成したもので、本尊の薬師如来石仏(秘仏)のほか日光月光菩薩、十二神将、不動明王、地蔵菩薩、阿弥陀如来、愛染明王、大黒天が安置されている。本尊は新田家の守り本尊で、行基上人が東北巡化の際、この地方に悪病が流行していたのでそれを除こうとして自ら刻んだと伝えられている。
また、明治以降、本尊は『反町薬師』『厄除薬師』『六算除薬師』として人々の崇敬を受け、正月四日の大縁日には四歳児の厄除けをはじめ、交通安全や入学祈願など、多方面の信仰を集めている。』
(上毛新聞社刊「ぐんまのお寺 真言宗Ⅰ」より一部抜粋)。
現在の照明寺さんは館→館城→寺院と変貌を遂げており、妙印尼輝子さまの時代には金山城を守る支城として重要な戦略拠点となっていたといい、天正12(1584)年の北条氏の金山城攻めの時には、北条氏邦の本陣にもなったといいます。
┉妙印尼輝子さまについては、金山城を訪れた際に熱く語られたこともあり、私たいそう好きな女性の一人でありまして、ですが今は本筋からかなり逸れますので、しばし封印いたします(┉しばし封印って語る気満々です)。
ちなみに一言だけ添えさせていただきますと、群馬県太田市新田金山城城主由良成重公の妻、国繁公の御母堂であります。
照明寺さん、通称反町薬師さんはいつ訪れても境内の隅々まで大変美しく掃き清められた、大変心地よいお寺さんであります。
境内には大きな楠や藤、たくさんの桜の木があると書いておりますが、配置も境内の端にあること、境内自体が大変広いこともあり、本当に広々とした空間であります。
正面の石柱門から入ってまいりますと、まず手水舎があります。
今はコロナ禍ということ、なのでしょう手水鉢には蓋がされておりますが、こちらの手水、二頭の龍が一つの玉『如意宝珠』を守るように絡み合っている大変美しく見事なブロンズ像でその龍から水が出るものであります。┉ええ決してドラゴンボールではありません。
この手水舎がまた私の大好きなものの一つでありまして、一日も早いコロナ収束を祈るばかりであります。
そして正面に御本堂。
実はこちらの御本堂、広い境内、そしてその名を知られる有名なお寺さんにしては小さなこじんまりとしたものであります。
初めて訪れた時は少しびっくりしたくらいでありました。どちらかというとその隣にあるからの方が大きく思われるくらいであります。
ただ、こちらの御本堂、優しい気が中からあふれ出ており、参拝の方が少ない時など長いことそこにたたずんでしまうくらいであります。
そして。特記すべきはその御本堂へと続く太鼓橋のような、結構な長さのある回廊であります。これがまた風情があって美しいのです。┉決して新しいものではありません。白木のまま経年したものではあるのですが、本当にこの渡り廊下があることでこちらのお寺さんの境内の風景がさらにさらに美しく品のあるものとなっています。
願わくばこの回廊がいつまでも受け継がれますように、祈るばかりであります。
この回廊は参籠堂(こもりどう)へとつながっています。
今はお正月にはこちらでお札やお守りの授与を行なったり、厄除け等の祈願を受ける際の待合所として使われているようです。
この回廊の奥にも御堂が見えておりますが、今回そちらへは足を運ばず。
参籠堂の横には弘法大師さまの銅像の立つ大師堂があります。こちらもまた優しいあたたかな気が流れてくるような気がいたします。外から手を合わせ目を開けると中に祀られた弘法大師さまと目が合う、そんな造りとされたようです。
鐘楼は庫裏の前にあります。
梵鐘を撞くことはできず、時間で自動で鳴るものとなっています
こちらの鐘楼は周囲が木に覆われ、しかも少し背の高い鐘楼堂なので、鐘はあまりよく見えません。
鐘楼堂の上部の四隅を獅子?┉狛犬?が飾られ、梵鐘を護っています。
大師堂のそばにも一つ、梵鐘が置いてあります。こちら鐘にも〝照明寺〟の文字が見て取れ、かつて使われていたもの、なのだと思われます。もしかしたら供出に出されて、戦後新たなものを造ったのち、返還されたもの┉なのかもしれません。
こちらの薬師如来さまは秘仏。
一月四日の大縁日に御開帳され、御簾越しに拝観できるようです。
┉が。
このコロナ禍の今年の大縁日の写真であっても新年三ヶ日の人出が凄かったのが見て取れました。
境内の外にまで行列ができたようです。
大縁日も凄い人出であったようです。
うーん。
この人混み嫌い、行列嫌いの珍道中ペアは、反町薬師尊にお会いできる日は来るのでしょうか。
こちらは反町館跡として、外周を歩くのもまた違った趣きをえることができます。
藤棚のある側の堀と反対側には蓮が植えられ、花の頃には美しい蓮の花を楽しむことができます。
初めての参拝の頃がちょうど蓮の頃でした。
藤の頃には一人で何度か参拝しております。
いつか桜の頃。
それよりもやはり┉御開帳に参拝したいと願う私であります。
穏やかな温かな気の満ちた、大好きな神社さんの一つ、群馬県佐波郡玉村町にあります【玉村八幡宮】さんに参拝してまいりました。
こちらは日光例幣使道玉村宿の北側ほぼ中央にあり、参道が街道に向かい延びているといいます。
一の鳥居は日光例幣使道沿いに立つ、赤く大きな鳥居であります。今はその街道はちょうど、玉村町の上新田、下新田という地区のちょうど境目になっているようです。
そこをくぐってまもなく見えるのが大きくそびえ立つ隋神門。
何度見てもため息が出るほどに立派なものであります。
こちらは慶応元(1865)年の建造で、入母屋造りの楼門であります。
前面には隋神さまが、後面には木造の三猿さんと御神輿様の小さなお社がお祀りされています。
こちら八幡さまですので、御祭神はもちろん誉田別命さま=第十五代応神天皇さまであられます。また、気長足比売命さま、比売神さまであらせられます。
いまだにいわれはわからないのでありますが、こちらは亥年と戌年の守り神さまにあたられると、大きな看板にそう書かれています。
戌年生まれの娘がおり、亥年生まれの孫がおりますので、私どもにとってそういった意味でも大切な、ご縁ある神社さんであります。
この日隋神門ところに、何やら案内が貼り出されており、どうやら今日本日『人形感謝大祭』のようで、さらには夕刻の五時より『燈籠宵祭り』が開催されるようです。
おおっ♡
かつて初めてここを参拝させていただきました際、いつかはこの宵祭りに来たいねえと申しておりました、まさに当日の参拝となりましたようです。
うーん♡
しかしながら。
まだまだ私ども夫婦にとってはコロナ禍で、今なお密も避けねばならぬ時期であろうという自分たちに課したものがあります。
といいますのも、夫は慢性の呼吸器疾患持ちで。できうる限り罹患を避けねばなりません。
うーん。
┉生きてさえいればいつかまたそんな機会は訪れましょう。
この日は参拝させていただいてこのまま帰ることといたしました。
【玉村八幡宮】さんは、今から800年程前の建久六(1195)年、源頼朝公が、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鎌倉鶴岡八幡宮の御分霊を玉村町角淵の地に勧請奉斎なされたのが、創始の起源と伝えられています。
開運招福・一門繁栄を願う武家の尊崇を集め、江戸時代に至って現在地玉村町下新田に遷座し、日光例幣使道が開設されると、玉村宿の鎮守社としてばかりでなく、道中安全の守り神として往来する一般民衆にも広く信仰される神社となりました。
以来、安産子育て、交通安全の八幡さまとして親しまれています。
さて、隋神門をくぐるところまで話をもどします。
隋神門の先は拝殿までまっすぐに参道が続いています。
本当に気持ちがいいくらい拝殿までまっすぐなのです。
が。
途中に狛犬さんがおられたり、人形感謝大祭の日だったため、たくさんのお人形さんたちが丁寧に丁寧に並べられていましたりと、目移りしてなかなかまっすぐに進めません。
まず狛犬好きな私は狛犬さんに引かれます。
こちらの狛犬さんは大きな引き締まったお体で、スタイルの良い大変穏やかなお顔をされた優しい雰囲気の漂う狛犬さんです。
その狛犬さんの横を通らせていただくと、まず目につくのが撫で犬の像。
安産や子育て、子宝に御利益がある像とのことで、撫で犬の周りには十二の干支の文字が書いてあり、干支を撫で撫で犬さんを撫でる…のだったかなぁ。
私自身といたしましてはすでに子宝も安産も、子育ても関係しておりませんゆえ、あまりそちらへ行く機会が無いのでうろ覚えですみません。
そしてそのそばにはびっくりするくらい絵馬の飾れるスペースがあります。そしてそこにはたくさんの絵馬が奉納されておりました。
…実はこちらの神社さん、絵馬の種類も実に豊富であります。いろいろな目的、さらにはさまざまな絵の絵馬が用意されています。
見ると欲しくなりそうで、絵馬にも近寄らないようにしておりました。なにぶんにも煩悩の塊でありますので。
撫で犬像の隣には二宮金次郎像があります。
屋根のついた覆屋の中でマスクをしていて、だいぶ二宮金次郎さんのイメージが変わって感じられます。
御守り等の授与所も広く大きな所に変わっておりました。
その横には石造の少し大きめな三猿が祀られていました。やはりマスクをしており、『見ざる聞かざる言わざる、コロナ去る』と称されていました。
御神木が見えてまいります。
夫婦楠木(めおとくすのき)と呼ばれ、二本の幹はまるで寄り添う夫婦のように見えることからこの名で呼ばれるようになったそうです。
まだこちらの楠木は80年くらいしか経過していないそうで、成長繁栄の楠木とも呼ばれているようです。
玉村八幡宮さんの手水舎は、青竹から伝わって流れる涼やかで大変風情あるものでありました。
それが今コロナ禍になり、こちらも流行りの花手水として美しく飾られるようになりました。
季節の花々が手水鉢いっぱいに浮かべられ、この日は薔薇やひまわりが彩り良く、まるでブーケのように見えました。
紫陽花の頃は紫陽花、といったように人々の目を楽しませるものへと変貌を遂げた手水鉢は、今後コロナが終息してもこの花手水のまま手を浄められるように、石で手水の水路を造り、そこから流れる水で手を直接清めるものとなっていました。
昔ながらの柄杓で手と口を浄めるといった作法は、時代と共に変化しているようです。
手をすすぎ、拝殿へと参道を進みます。
こちらは一段も段がありません。
全て平かな参道を歩んで拝殿へと行くことができます。
古くからの神社さんでありますのに、時代を先取りしたかのようにバリアフリーの境内であります。
二の鳥居をくぐると神橋があり、小さな川の流れがあります。その先には神門があります。
と、そのすぐ横に、御神水汲み場があり、自由にお水取りができます。
手水舎にも流れている地下水です。一応、『飲料水として飲む場合は、一度煮沸してからお飲みください』と書かれていました。
神橋は石でできた小さな太鼓橋です。渡ってすぐの神門をくぐると、
赤くて、なぜなのか可愛らしいという印象を受ける拝殿の前となります。この可愛らしいは小さいという意味ではなく、本当に言葉どおり可愛らしく思えるのです。
こちらは以前から、拝殿の前に立つと自動的に雅楽の音が流れるようになっています。
お賽銭箱の上に、今月の花〝桔梗〟のあしらわれた、『花しあわせ守り』なる御守りが何体か置かれていました。
こちらで直接いただいて、お賽銭箱にお代を納めても良いようです。
またひだりてには〝願い玉〟と呼ばれるものが置かれていました。
願いを書いて玉に収めるもののようです。こちらの榊の木に結んでも、持ち帰ってもよいようです。
玉村八幡宮さんの拝殿の建造時代は、建築の各種特徴からみて、十八世紀末ごろと推定されるといいます。
造りは入母屋造で、棟札を見ると以前は檜皮茸の屋根であったようですが、現在は銅板一文字茸、とのことです。
本殿は永正四(1507)年に建立されたものを慶長十五(1610)年にこの地に移築しています。
建久六(1195)年に守護安達氏によって鎌倉鶴岡八幡宮から勧請された当初の社地は現在地より約2.5km南の角渕地内で、現在も同地には八幡宮が祀られています。
慶長十五(1610)年に当時の代官の新田開発祈願を契機に角渕から現在地の下新田に移されました。
(以下、玉村八幡宮さんのホームページより)
現在は幣殿・拝殿が併設され、本殿正面が幣殿に取り込まれ権現造に似た形態をとっていますが、もとは独立した本殿であったのだといいます。これは向拝柱に残る浜床痕跡や風食跡、本殿正面と幣殿との取り付き仕口などからも明らかになるといいます。
幣殿・拝殿の建造に伴い、浜床が撤去され幣殿と一連の床が張られています。
明和八(1771)年に、内陣の天井を高くし、火燈窓を取り付け、現状とほぼ同じ形態となりました。
三間社流造、柿(こけら)葺で南面しています。建物全体は漆彩色で華麗な造りとなっています。
屋根の反りや側面上部の蟇股(かえるまた)・海老虹梁(えびこうりょう)などに特色があります。
特に近世以後行われた修理の部分と、創建当時の違いが対比できるのが貴重とされています。
明治四十一年に室町時代の建築様式を残す本殿が国の特別保護建造物(旧国宝)として指定。大正十四年には県社に列せられ、昭和二十五年に本殿が国の重要文化財に指定されています。
昭和十一年、平成十一年に社殿の修理が行われ今日に至っているといいます。
実は、ですね。
この本殿、未だに拝していないんですよ。
いつもですと、拝殿で手を合わせたのち、その後ろに本殿のある神社さんではほとんどそちらに回って手を合わせるのでありますが…。
妊娠中の娘と一緒だったり、今回は孫と一緒であったり。
今度の参拝のときには御本殿まで拝することができるかしら。
どうかなぁ、まさに今週末十五、十六日、玉村八幡宮さんのお祭りなんだけれど…。
どこをどう間違ってもなかなか到達する地点ではないところへ、行けちゃうのが珍道中ペア。
ええ、お導きと称しましょう。
群馬県の【川曲諏訪神社】さんへ参拝いたしました。
近くまで来たら、赤いのぼり旗がたくさん旗めいていて、どうやら秋の大祭のようです。
大祭ということで拝殿の扉が開けられ、「どうぞ昇殿してお参りください」との、ありがたくも嬉しいお言葉をいただき、そこはお言葉に甘え、昇殿させていただきました。
小さい社殿ではありますが、地元の方々が大切に大切にお守りになっておられるのが良くわかります。
新しそうな…神社さんでよく見られる椅子が綺麗に並べやられています。
良く整備されたきれいな拝殿内であります。
おお、天井画が!
これは…。
古い社殿から移したものでありましょう。天井画だけ古い感じであります。一枚一枚がどれも素晴らしい絵であります。
こちらの創立年月は不詳なようです。
ご由緒はこちらの立て看板に記されておりました。
『明治四十年(1907年)十月九日、国主導の合祀政策により、村内の八坂社等及び、同町大字飯玉前の無格社である飯玉神社、同境内社一社、無格社飯玉神社、上之宮の無格社である飯玉神社を合祀しました。
嘗て川曲近在に七社の飯玉神社が勧請されていました。これは天仁元(1108)年に浅間山の大噴火(天仁大規模噴火)が起こり、上野国一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらしたことに起因したといいます。
荒廃した大地を開墾し水田の開発をするに向けて、再生・復興、穀物神として上野国の中世武士団が崇敬し分祀したと伝えられます。
こちらは明治四十二(1909)年に倉賀野神社に合祀となった三光稲荷神社社殿を譲り受け移築されました。
拝殿の正面左右の木鼻には稲荷社の象徴である狐の彫刻があります。
拝殿内の格天井の板絵は百花草木・動物・鳥等。例幣使街道玉村宿の絵師千輝玉斎が描いたもので、玉村宿旅籠主人・遊女半玉が商売繁昌・開運厄除を祈願して奉納したと伝えられています。
現在の御社殿は、平成二十八(2016)年に全面改築を竣成したものです。』
新しさと古さが大変よい形で融合した社殿であります。
お祭りということで、お茶のペットボトルと大福をいただきました。
これは、今後もお参りいたしませんと。
…到達することができるかしら。
自分で後から読み直して、合格点が出せたことがまるでない、なんとも情けないスレが、この珍道中録。
今回も読み直してみて、ふき出しました。
群馬県の川曲諏訪神社さんって…。苦笑。
たしかにこの辺りとても入り組んだ土地のようで、高崎市と前橋市がオセロの面のように入り組んでいるよう。
車での移動どころか、歩いていてさっきとは違う市にいて、「おっ?」と思うまもなくまたさっきの市名になっている、そんなたいそう入り組んだ土地なんじゃないかなと思われます。
『川曲(かわまがり)』は、前橋市の南西、前橋台地、利根川右岸西方の滝川流域に位置している町。
江戸時代頃からある地名のようです。
はじめは総社藩領(現・前橋市)、寛永十(1633)年に高崎藩領、正徳年間(1711-1716)には幕府領となり、のち再び高崎藩領となったといいます。
そして現在は前橋市。
なるほど入り組んでいても不思議のない土地のようです。
それにしても…。
絶対、普通に走行していてまぎれ込むところではない、住宅と農地が混在する場所だなぁとあらためて思います。
さすがだ、私。(๑˃̵ᴗ˂̵)。
わが家の、ネズミの額くらいの庭に、桔梗が一輪、カワラナデシコが三つ、秋桜が一輪、咲いています。
いろいろな色の、いろいろな大きさの菊が、たくさんの蕾を抱えています。
そんな庭に。
いまだかつて見たことがない大きさの、
『これぞムカデだあ!』
というくらい大きな、
こいつは間違いなくムカデの代表選手だろうというくらい、
どこからどう見てもザ・ムカデな、
ムカデがおりました。
こいつとは決して闘ってはならないと、後退りしてその場を去りました。
そして、ムカデに効くという、粉の殺虫剤を持ってその場に再び向かいました。
ムカデの姿はありませんでした。
これでもかというくらいに粉を撒いて再び撤退しました。
神さま、仏さま、私は本日殺生をしたと思います。
そして、ぜひ殺生できているといいと思っております。
…こういった殺生でもダメなんだろうなぁ。
やっぱり私は信仰を持てないかもしれない。
今読んでいる小説。
梓澤 要著【荒仏師 運慶】。
何年か前に買ったものの、仕事のこと、母のこと、そしてその母の死、…そんないろいろがあって、なかなか読み進めることが出来ず、読んでは閉じ、閉じては開くを繰り返して、しばしお休みいただくこととした一冊でした。
ようやく落ち着いてきたかと、紐解いたところ、以前の自分が嘘のように、惹かれる、惹かれる!
運慶の世界に飲み込まれてしまう自分がおります。
運慶の仏像に興味がない方であっても、運慶の名は授業で学び、その仏像は教科書を通して見たことがあるほどの人物。
あるいは修学旅行で行った先で、その仏像を実際に目にしておられるかもしれません。
そんな運慶はどんな人物であったのか。
今、私は運慶の視点で描かれた運慶の世界に、運慶の時代に、まるでワープしたかのような感覚になっています。
淡々と気負わず書かれた素晴らしい文章によるものであります。
しかしながら、このような実在する人物を描くときには、時代考証をよりしっかりとするため、膨大な資料を読まれて、あるいは現地に行ってその時代を超えたその場の空気を、空間を読み取るなど、大変な労力あってのこと。
家のくつろげる空間にあって、こうしてゆったりと小説を読ませていただけることを、幸せなことと心から思っております。
この小説、読み終わったら、読み終わった事によるロス感が半端ないのだろうなぁ。
今読んでいる梓澤要さんの【荒仏師 運慶】。
この珍道中録に書いた、先日栃木県足利市立美術館で拝観してまいりました、あの、今は廃寺となってしまいました【樺崎寺】の【大日如来】さまのことも書かれていました。
こちらの展示、今度の日曜日、十六日までとなっており、今後はまた東京国立博物館へとお戻りになられます。
明日またお会いしに行こうかな。
そしてこの小説には、私が思い描いておりました【足利義兼】公と、ほぼ同じ人物が描かれていて、それがまたなんとも嬉しく思われました。
今、NHKの大河ドラマで大ブレイクしている【鎌倉殿の13人】と時代が被ることもあり、今、鎌倉時代が私の中でのブームとなっております。
また、この小説に描かれた御仏の御像を、手元の本にある写真と合わせて見たり、ネットで検索してそのお寺について調べたり。
豊かな時を過ごしております。
そうだ。
『鎌倉殿』で思い出しました。八月に阿野全成の最期の回があったこと。十の指で数えられるほどしか観てもいないくせに、全成さんロスになったことを。(その回だけ観てらロスという表現はそぐわないでしょ ←自分つっこみ)
静岡県沼津市にある全成さんゆかりのお寺さんにも行きたいなあ。
そう思ったがすぐに調べられるのがスマホの良いところ。
阿野全成ゆかりのお寺さんは【大泉寺(だいせんじ)】さん。全成の居館跡に建つといいます。
全成が居館に建てた持仏堂が大泉寺のはじまりで、当初は真言宗の寺だったが、天正年間(1573~92年)に曹洞宗に改宗されたといいます。
ご本尊は運慶作と伝わる【聖観世音菩薩】さま。
う、運慶作ですと!
こ、これはお導きに違いない。
…うーむ、しかしなぁ。
運慶さんの作とあれば秘仏でありましょうか。
これはもう少し調べねば。
お、こちらのお寺さんのFacebookがあるではないか!
えっ?四十九日法要って、どなたので?お寺さん関係者の?
…。
『阿野全成 四十九日法要』
し、四十九日ですとぉ?
ま、まさか!
あの?
…そうみたいで。
あの阿野全成最期の回から数えて、四十九日にあたる頃、法要が営まれたみたいです。
・
・
・
う、うーん、もう少し静かになったら、にしましょうかね。
動悸と眩暈がひどくて、足利行き当然は断念。
義父の月命日のお墓参りも申し訳ないと思いながら、来月の祥月命日まで先送りして、町の総鎮守の神社さんと、父の祥月命日のお墓参りにだけ。
…なかなか体調が戻らないです。
なかなか、なかなか。
焦らない、焦らない。
一歩一歩。
今日は亡くなった義父の誕生日。
亡くなって十七年が経っていて、今更誕生日もないかなぁとも思いもするのですが、亡くなった義父が病院のベットの上で、もう自力で起き上がれなくなった頃に、
「ちゃんと俺の誕生日覚えておけよな。おじいさんやおばあさんの命日とかを忘れないでくれてるのは、○〇〇だけだから、頼むよな」
…。
…「お前の家は次男なんだから、分家なんだから、いくら墓参りしたってお前んちの墓じゃない」とか、夫のことを「初子でもない、長男でもない、オマケみたいな子だ」とかさんざん時代錯誤なことで、差別し贔屓してきていたくせに、(なんだこの爺さん!)。
あまりにも自分勝手が過ぎて、かえって怒るどころか笑ってしまいました。
そして、今。
他の記憶は水が流れるよりも早いんじゃないかといったスピードで消えていくのに、爺さん(=義父)の誕生日は忘れることなくお線香をあげて、
「はいはい、爺さん、今年もお誕生日おめでとう」
と手を合わせています。
たしかに偉い上人さまとかは、お生まれになった日もお祝いしてお祭りをしておられます。
が、嫁いでから一回とて私の誕生日におめでとうなどと言ったこともない爺さんに、亡くなって十七年も経つのに、「誕生日おめでとう」、なのかなぁと、思わない訳はないのですがね。
そんな爺さんの生前。
理不尽な差別とか、贔屓とかが大っ嫌いな私は、ある時どうしてもどうしても納得いかないこと、我慢ならないことがあって、爺さん(←しつこいけれど、義父、です)と大喧嘩をして、
「謝るまで私は行かない!正月だろうがお盆だろうがお彼岸だろうが、絶対行かない!」
と言い放ちまして、頑固で有名な爺さんに
「済まなかったな。おじいさんが間違っていた」とまで言わせた嫁ですし。
実際、義母や義理の兄や姉も義父が謝ったことにびっくりしたと、のちの語り草になったくらいなのですが、それ以降、義父と私はお互いが本音で語れる良い関係になりました。
義父が入院していた病院では、スタッフさんや同室の方々に、真の娘だと思われていたくらい、バカ話をしていた二人ですし、ね。
まぁ、私がボケてお爺さんの誕生日もわからなくなるまでは続けましょう。
爺さん、私が(これ以上)ボケないよう、ちゃんと見守っていてよね。
今日は観音さまのお縁日。
毎月十八日は、観音さまのお縁日とされています。
が、実はこれも諸説あるようで、観音さまによって、また寺院によって縁日が異なることがあるといいます。
が、今さらそうだと知ったところで、記憶すること自体がやっとやっとの私は、現在私にインプットされている十八日=観音さまのお縁日を貫こうと思います。
観音さまは、世の中の音(衆生の苦しみ)を観察し、自在に救済する力を持っているので『観世音菩薩』『観自在菩薩』と呼ばれ、三十三化身という様々なお姿があります。
三十三化身とは、観音さまが衆生を救うため、場合に応じて変化する三十三のお姿をいいます。
法華経普門品(ふもんぼん)に基づくといい、
仏・辟支仏(びゃくしぶつ)・声聞(しょうもん)・梵王・帝釈(たいしゃく)・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門・小王・長者・居士(こじ)・宰官・婆羅門・比丘(びく)・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・竜・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅迦(まごらか)・執金剛、と、実に多種多様なお姿があります。
お一つお一つのお姿がどんなであるか…目を通してみますと、見覚えのある名のものから、その名を見ただけではどんなお姿かすらわからない初見のものまであります。
それを調べるのも良いのかとも思うのですが、要は『観音様は、相手によって、姿を変えて説法なさる』ということ、なのではないかと思うのであります。
ある時は、女の姿、時には子供の姿、おじいさんおばあさん・・お医者さまの姿であるかもしれません。
これは、三十三種類のお姿という意味ではなく、実にもっともっと、あらゆるものにお姿を変えて私達の前にあらわれてくださる…ということなのではないかと思うのであります。
もしかしたら、日頃苦手だと思っていた人物こそが、お姿を変えた観音さま…かもしれません。
…まぁあまり考えたくはないことではありますが。
考えたくはないのではありますが、
そう考えると、
「この人は、何かを教えてくれているのかなぁ」と。
うーん。
なかなか、それはそれで修行、ですがね。これとない修行かも。
うーん…。
今でこそ『縁日』といえば、〇〇さまのお縁日、のように考えるようになりましたが、以前の私は縁日といえばあの露天商や屋台の並んだ、〝お祭り〟しか頭に浮かびませんでした。
長いこと神仏に関わらなく生きてまいりましたので、それこそ神社で開かれるお祭りに露天商の屋台が並ぶ、そんなイメージすらないのが私。
浴衣を着て、八木節を踊り、七夕飾りの下を駆け回り、露天商を冷やかして歩く…私の中にあるお祭りは、本当にただの祭り、でしかありませんでした。
縁日は、元々は仏教の行事なのだと、珍道中を始めてから知ったくらい、私は神仏に関わらず生きてきていました。
【縁日】とは、仏教についての由来 (縁) のある日を意味する。民間に広く行われる行事で、仏教に限らず,神仏の降臨、救済,成仏などの由来のある日に、その神仏の供養をし,祭りを行う。
御仏がこの世に縁(ゆかり)を持つ「有縁(うえん)」の日や、神仏が世の人々を救うために手を伸ばして、縁を結ぶ「結縁の日(けちえんのひ)」を略したのが〝縁日〟というのだそうです。
つまり、神仏とのご縁が有る日=縁日というわけです。
では縁日とお祭りの違いは?
神社などで開かれるお祭りは、作物を収穫できた事への感謝やお祈り、神仏やご先祖様を慰霊するための儀式です。
お祭りの特徴としては神輿や山車など儀式に関するものがあったり、華やかです。
つまり本来の目的からすれば屋台が並んでいることを縁日と呼ぶのは間違いなのですが、現代では縁日のイメージはお祭りとかなり近いものになりました。
…つまり私はずっと現代人であったということ?
いや、さまざまな経験をすることなく、信仰に関わることなく生きてきた、多くを知らない恥ずかしい者なだけです。
【観音】さま、【観世音菩薩】さまと聞くと、どんなお姿が思い浮かびますか?
沢山のお手のある、千手観音さまでしょうか?
気だるげに、片膝をあげそこに肘をかけてしなやかな指先を頬に当てた如意輪観音さまでしょうか?
それとも白い衣を身にまとった白衣観音でしょうか?
観音菩薩は『変化する菩薩』なので、一言に観音菩薩と言ってもそのお姿は一つではないのです。
○○観音という名前の仏さまは全てが観音さまです。
千手観音さまも十一面観音さまも『観音様』と呼ばれています。
ただ変化する前の元となるお姿があります。それが『聖観音』さまなのです。
聖観音さまの正式な名は「聖観自在菩薩(しょうかんじざいぼさつ)と申され、数ある観音像の中の基本となります。
この聖観音さまが全ての大元であり、ここから色々な観音菩薩が派生していったのです。
観音さまはさまざまなお姿の観音さまがおられますが、『六観音』は中国の天台宗開祖の『智顗(ちぎ)』が考案したと言われています。六道の各世界で、観音菩薩が人々を救ってくれるという信仰です。
地獄道 『聖観音』
餓鬼道 『千手観音』
畜生道 『馬頭観音』
阿修羅道 『十一面観音』
人道 『准胝観音』(真言宗)
『不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのんぼさつ)』(天台宗)
天道 『如意輪観音』
というように、それぞれの観音さまがそれぞれの六道をお護りくださっているというものであります。
天台宗と真言宗では「准胝観音」と「不空羂索観音」が入れ替わっている事から、二つを足した【七観音信仰】や六観音信仰を元にした【六地蔵信仰】も生まれました。
観音さまは実はその呼び名も多いようであります。
『観世音菩薩』、『観自在菩薩』、『観世自在菩薩』、『施無畏大士』、『光世音』等々。
私などは無学無教養な上、信仰と関わりのない人生を送ってきたがゆえ、施無畏大士さまという呼称の彫られた物を見た事はあったものの、それが観音さまを指したものだとは思いもせず、光世音という呼称に至っては初めて見知ったものでありますが…。
【観音経】と言うお経に出てくる『観世音菩薩』という呼び方、
【般若心経】に出てくる『観自在菩薩』という呼び方が、『観音さま』を指すだろうことは、字を見て察しておりましたが…。
観音さまを拝む時「南無大慈大悲観世音菩薩」とお唱えすることがあります。
これは観音さまは今なお慈悲行を通して修業を続けておられますが、この修業の功徳で十自在の力を獲得されています。
その十自在とは
1,寿自在、
2,心自在、
3,財自在、
4,業自在、
5,生自在、
6,勝解自在、
7,願自在、
8,神力自在、
9,智自在、
10,法自在、
の十であるといわれます。
観音さまはご自身の心を自由自在にコントロールし、世間の在りようを在りのままに観察し判断出来る知恵を持って衆生を導いてくださるところから『観自在菩薩』と呼ばれるようになったたと云われているといいます。
また、大慈大悲のお心で私達凡夫を哀れみ、私達が発する救いを声を見、即座に救いの手を差し伸べ、苦厄を救って下さる所から、〝世の音を観る菩薩〟、『観世音菩薩』と呼ばれるようになったをいわれているといいます。
『施無畏大士』と云うお名前は観音さまの〝右手の印相〟からとられた呼び名であるといいます。観音さまは右手の掌を私達の向けておられますが、この手の印を〝施無畏〟の印といいます。
これは観音さまが掌を私達に向けて、怖れ戦きがあればいつでも救ってくださると示して下さっているあらわれであり、怖れ無きを施す菩薩「施無畏大士」と呼ばれるようになったのだといいます。
私の父方の祖父母の家に貧乏所帯には子供心に不釣り合いを感じたくらいでありました、観音さまの掛け軸が祀られておりました。
そのお美しいお姿を時を忘れて座って眺めておりましたこと、今でも忘れません。
そのころ、お美しく女性を思わせる観音さまは実は女性ではないと、叔父だったか、祖父だったかに教えられた記憶があります。
三十三化身ができる観音さまには、それとはまた別に、三十三の観音さまがおられるといいます。
七観音さまと称される、他の六観音さまの他にも多くの観音さまがおられます。
以前、その全てを書き写してここに挙げておりますが、…当然、私、その全てを覚えられたわけではありません。
他の…とりあえずここでは他の六観音さまについて少しだけ触れさせていただきます。
六観音さまたちは、それぞれに六道の各世界で人々を救ってくださっておられますこともあり、それぞれお縁日が異なります。
今日、十九日は【馬頭観音】さまのお縁日であります。
十七日・千手観音さま
十一面千手観音さま
二十日・十一面観音さま
二十一日・准胝観音さま
二十二日・如意輪観音さま
二十三日・不空羂索観音さま
…と、書いてはみたのですが、ね。
実はこれ、お寺さんによって異なるのですよ。しかも宗派によるものでもなく。
私のような無宗派どころか無宗教の者にはもう全く理解できず、一応書いてはみたものの、「お寺さんによって違うらしい」、ということになると、もはや頭に入れようとする気すら無くなってしまう、怠けたヤツなので…。
昨日書いた聖観音さまのお縁日にしても、お寺さんによっては毎月9、19、29日というお縁日とされているお寺さんもあります。
まぁ、お寺さんに合わせて、ということ、ですかね。
道端で石仏さまをお見かけすることがほとんど無くなってまいりました。
道路やら街並みやらを整備する際に、どこかへ移動していったり、あの恨みは深し廃仏毀釈令で壊されてしまったのかもしれません。
…などと申してはおりますが、何度も移り住んでいる私ではありますが、幼い頃から今までに住んだ辺りにはあまり石仏さまをお見かけするところではなかったよう記憶しております。
そんな石仏さまが意外に多いのが、意外や意外、群馬県の県都前橋市であったり、前橋市と並んで二大都市である高崎市、だったりするのです。
石仏さまというとお地蔵さまであることがほとんどだったりいたしますが、青面金剛さまも結構おられ、聖観音さまがお立ちになられていることもあります。
が。
よぉ〜くよく見てみますと、馬頭観音さまも多く祀られておるようです。
馬頭観音さまのお姿を彫られたもの以外にも『馬頭観世音』など文字を彫った石碑があったりもいたします。
そんな道端をお護りくださっておられる馬頭観音さまは小さな石仏でありますので、優しく微笑むように見える御像があったりもいたしますが…。
ご存知の方も多いかと思いますが、馬頭観音さまのお顔は恐いのであります。
ええ、恐いんです。
恐いお顔をなされておられるのが特徴であるともいえます。
そして、お身体のどこかに馬の顔をおつけになられておられます。
たいがいは頭に馬の面をつけられて、あるいは胸元につけられておられます。
古く風化しかけた石仏の馬頭観音さまはその頭におつけになった宝冠が馬の顔のよう見えることで、(あぁ、馬頭観音さまだ)とわかるくらい、であります。
観音さまの中で唯一怒っている上に、頭に馬がついておられる観音さま。
それが【馬頭観音】さまです。
馬頭観音さまはヒンドゥー教の最高位である『ビシュヌ神』が馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話を起源としているといいます。
もともと馬はインドでは四聖獣(獅子、象、牛、馬)の一つとして神聖視されていたといい、仏教以前のバラモン的要素を多分に持つのがこの馬頭観音さまであるようです。
それにしても。
他の観音像が女性的で美しい表情であることが多いのに対して、女性的でないどころか、大変怒っておられる馬頭観音さま。
私、初めてお姿を拝見したときには、お不動さまでもなさそうだし、青面金剛さまでもないし…と首を傾げ、あれこれ調べたものです。
ましてや石仏さまでありますと、初心者にはことさら分かりづらかったりするもので…。
観音さまであられる馬頭観音さまが恐いお顔をされておられるのは、怒りの激しさが激しければ激しいほど人間の苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ尽くして災難を取り除く、とされているからだといいます。
そんな馬頭観音さまの御像は、
一面二臂像(お顔が一つで手が二本)、三面像は二・四・六・八臂(三つのお顔に、二本〜八本の手)四面八臂像(四つのお顔に手が八本)など多種多様で、立像・坐像ございます。
お身体を赤く彩色された像もあり、顔は忿怒形で表現されます。
持物は武器類が多く、手には煩悩を打ち砕く剣や斧、棒を持っているお姿が多いです。他の観音菩薩と違って戦闘的で観音らしくないところが馬頭観音の特徴です。
そして、衆生の煩悩を食い尽くすことを表現して頭上に馬の頭部を冠のように戴きます。
とにかく頭の上に馬の宝冠や馬の頭を乗せている仏さまというのはこの馬頭観音さまだけなので、慣れてまいりますと「あ、馬頭観音さまだ」とすぐにわかるようになります。
また、人差し指と薬指を折って中指を立てる馬口印(まこういん/ばこういん)という馬頭観音に特有の印相があります。
馬頭観音さまは、馬を含め家畜の安全と健康を祈る観音でもあります。
昔、馬は武家にとっても農民にとっても生活にはなくてはならない動物でした。
農耕に活躍し、移動手段としてとても大切だった馬。
旅の道中を守る観音として、路傍には石の馬頭観音像が刻まれるようにもなったようです。
テレビで紅葉の進み具合を伝えるニュースが連日流れます。
今朝は日光の紅葉に合わせ三大瀑を紹介していました。
日光大好き♡とか、いつも騒いでいるおばさんですが、日光の滝、となると少し寂しくなるのであります。
仕事先のお客様で、親しくお言葉をかけていただいていた方が、紅葉の見ごろになると週に一度ならず何度も足を運んでは写真を撮っておられました。
「一緒に行かないかい」
いやいや、仕事上、特定の方とそのようなお出かけはちょっと。
何度も何度もお誘いくださっていたけれど、首を縦に振ることはできず、笑ってお断りしておりました。
ある時、体調が悪いんだとおっしゃって、「でも明日っから入院して検査するんだ。元気んなったら青森さ行かねえか?」…懲りないおじいさんです。
それから何週間かして、奥さまが疲れ果てたお顔で私の勤め先にお見えになりました。
「検査で元気に入院して、看護師さんからかったりしていつもの通りだったのに、その後急変したとか連絡が来て、着いた時にはもうだめだったんだよ。
人なんてあっけないもんだね」
えっ?!
…嘘をついて人をからかうような奥さまではありません。
こちらでもその時のショックを書いております。
日光の滝というと、その方を思い出し、ちょぴり物悲しくなる私であります。
今日は十一面観音さまのお縁日。
そして、今日から秋の土用に入るといいます。
土用は季節と季節の変わり目で、土の神さま土公神(どくしん・どくじん)さまが活動される期間とのこと。年に四回土用の期間があります。
もともと陰陽道でお祀りされる神さまで、春は竈に、夏は門に、秋は井戸に、冬は庭にいらっしゃるとされます。
土用なら丑の日に鰻かぁ、とちょっと前まで思っていた私。
実はこの期間はその土公神さまのお力が活発になられるため、土を動かしたりしてはいけない期間、なのだと遅ればせながらも知りました。
…でもねぇ。
庭に出ればついつい目についた雑草などを抜いてしまって、「ああ、しまった!」などと思って過ごすのが、このうっかり者のおばさんです。
秋の七草の桔梗は花まで虫に喰われてしまい、あと少しで花開きそうな菊を待つばかりの、ネズミの額のようなわが家の庭。
土用に入る前にもう少し片付けておけばよかったかなぁ。
(日光竜頭の滝の紅葉)
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