神社仏閣巡り珍道中
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。
そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神様、仏様、どうかお導きください。
22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。
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十一面観音さまのお話をすると、行きたいお寺さんを思ってウズウズしそうな私。
奈良の長谷寺さん、
鎌倉の長谷寺さん。
このお名前も同じ、ご本尊さまも十一面観音さま、という二つのお寺、実は宗派の異なるお寺さんとなります。
…行きたいなぁ。
コロナもありますが、奈良は遠く、鎌倉はあの鎌倉殿の空前のヒットもあり、いつも以上に混んでいるとかいないとか。
お寺詣りに行きたいと思うのは、煩悩ではないのだろうにな。うんうん。
でもやっぱりお書きしよう。
十一面観音さまのこと。
せめてここにお書きすることで縁日とさせていただきましょう。
【十一面観音】さまは、四方八方、上の世界から下の世界まで、あらゆる方角に顔を向け十一面となったとも言われています。
苦しんでいる者をすぐに見つけ駆けつけてくださるありがたい御仏であります。
六道では『修羅道』を救済する観音さまとなります。
十一面、とはいえ当然一つのお顔の部分に十一面お顔があるわけではなく、お一つのお顔の上に、まるで宝冠のようにお顔がある観音さまであられます。
十一面観音さまの頂上は『仏面(ぶつめん)』の如来相があり、悟りの完成の意味があるといいます。
仏面の下頭部正面には阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を頂いておられます。
実は、阿弥陀如来さまがご自分の身分を隠して観音菩薩となったとされる説もあるようで、もともと観音さまは勢至菩薩さまと共に阿弥陀さまの脇侍を務めておられることもありましょう。
その両脇に『菩薩面(ぼさつめん)』が二つ、あるいは三つあることもあります。
やはりこの辺は仏師が仏さまと向き合って生み出される御像、その仏師によって異なるものとなることがあります。
穏やかな表情で善良な衆生に〝楽〟を施される慈悲の面、慈悲面とも呼ばれるそうです。
仏面、菩薩面とも慈悲に満ちた柔らかなお顔をしております。
右三面は『狗牙上出面(くげじょうしゅつめん)』で、善行誉め称え仏道を志すことを応援する相とされております。
左三面は『嗔怒面(しんぬめん)』で、悪人を善人に立ち返らせる怒りの相と言われています。眉を吊り上げ口をへの字に結ばれた憤怒の表情をされています。
真後ろのお顔は『暴悪大笑面(ぼうあくだいしょうめん)』という相で、悪を見抜き、笑いながら怒っている表情と言われています。
十一面観音さまの後ろ側にあるという『暴悪大笑面』。
お寺さんの御本堂にお祀りされておられる御像を参拝するのでは、当たり前のことですが拝することができません。博物館などに展示されておられるときにも光背などに隠れている御像もあり、あまり見ることができないようです。
そして。
お足元は少しだけ右足を前に出しておられます。これは衆生を救うためすぐに動けるようになされておられるお姿であります。
右手は下に伸ばした与願印をされた御像が多く、また、少しでも遠くの衆生に手を差し伸べられるよう腕が長く表現され、膝ほどまであります。
十一面観音さまにお会いできる日がまいりましたら…嗔怒面(しんぬめん)の観音さまに、私の怠惰なところや煩悩の多さをお叱りいただき、ただしていただけたらなぁと、思うのであります。
えっ?
それがわかっているなら自分で直そう?
…それがなかなかできないのが、怠け者、なんでありまして。
困った、困った。
寿命というものがあるのだから、困ってないで一刻も早くに正さないとなぁ。
と、いうことで。
本日二十二日は【准胝観音(じゅんていかんのん)】さまのお縁日。
仏の母といわれ母性を象徴する安産・子授けの観音菩薩さまといわれます。
ところで…〝准胝〟ってどういう意味なのだろう。
ずうっと気になっておりましたが、なかなか調べるまでに至らず…。
〝准〟という文字が使われているものとして私の頭に浮かぶのは〝准教授〟であるとか〝准看護師〟というものだったりします。
『准』: 〝音〟ジュン 〝訓〟ゆる(す)・なぞら(える)
じゅんずる。なぞらえる。ゆるす。よる。そのものに次ぐ。
〝凖〟の俗字ともあります。
では(胝)は?
『胝』: 〝音〟チ (えっ?ちょっと待って)
〝たこ・まめ・あかぎれ〟
((O_O))
検索が出来てない?
でもどこかで見た文字だと思ってもいたんです。胼胝(たこ・べんち)…これだぁ。
そんなぁ。当て字?
〝胝〟だけでたこって読めちゃうらしいし。
で、でもですね。〝胝〟って〝てい〟とは読まないらしいんです。だからきっと…何かの間違い?にくづきじゃないとか、何かどこかで間違いがあるのだと思われます(思いたい)。
だって、たこに準ずるって…何だそれ!?
これは是非、今後調べていく必要のある案件であります。(ただ、探し方が悪いのか、探している人間がレベルが低いせいなのか、ネットではわかりませんでした)。
で、では気を取り直し。
あらためて【准胝観音】さまとは。
准胝仏母(じゅんていぶつも)・七倶胝仏母(しちくていぶつも)ともいわれます。
もとはヒンドゥー教の女神である『ドゥルガー』で、『シヴァ神』の妃とされています。
とてもお美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神さまです。
そのため本来は女尊であり、観音さまではないという指摘もあります。
仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。
これは遙か過去より多くの仏を誕生させた仏の母という意味です。
そのため、『真言宗系』では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、『天台宗系』では『准胝仏母』といわれ『如来』に分類されています。
不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。
准胝観音さまはサンスクリット(梵語)では、サプタコーティブッダ・マートリといい、「七千万の仏の母」「過去無量諸仏の母」の意味であります。
お姿の特徴としては、頭部正面・宝冠の前面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を表しておられます。
坐像が多く、一面三目十八臂、お顔はお一つで目が三つ、左右合わせて十八の手を持つお姿が多いようです。
准胝観音さまの手が十八臂あるのは、仏の覚りを象徴し、それにより准胝観音の十八大願を表しているといいます。
その手の本数が多いことから、千手観音菩薩と混同される場合もありますが、正面の左右の二手が説法印であれば准胝観音さまで、合掌をしているのが千手観音菩薩さまであります。
中央となる手は左右で説法印と右手はさらに施無畏印をとっておられます。
また持ち物はさまざまな武器や数珠、蓮華などをお持ちになっておられます。
実は准胝観音さまの御像はなかなかお目にかかれないことが多いのです。
あの日本百観音といわれる巡礼地において、私が数えた限りでは二ヶ寺のみ、であります。
まぁよくよく拝観させていただけば准胝観音さまをお祀りされておられるお寺さんもあるのかもしれませんが、なかなか御本堂へ上がらせていただけることもありません上に、御本堂ではあくまでも参拝。
お側に寄ってまじまじと御像を拝することもありません。
それこそオペラグラスを使うとか、本来の目的と異なってしまうこととなります。
秩父の第五番『語歌堂』さんが准胝観音さまを祀られておられますが、観音堂などは閉ざされ無住の御堂で、お姿を拝することはかないませんでした。
とはいえ、ぼーっと生きている私ですので、案外知らぬうちにお会いしていたかもしれません。
六道の人道で迷う衆生をお救いくださっておられる准胝観音さま。
救いがたい私を苦笑いしながら見守ってくださっておられるような気がいたします。
生きている間に、少しでも准胝観音さまの苦笑いが和らぎますよう、もっとキチンと生きなければ申し訳ない。
今日はそんな准胝観音さまのお縁日であります。
鎌倉殿はいよいよ佳境を。
…とかいいつつ、ほとんど観られないでいるおばさんのくせに。
それでもこれだけヒットすると次はさぞやりづらいだろうと思うのですが、次回作は家康公ときましたか。
大河ドラマ鎌倉殿の影響で、阿野全成ゆかりのお寺さんで、ドラマにおける全成最期の回から四十九日辺りで〝四十九日〟の法要が営まれたことは以前書いておりますが…。
次々と…とはいえあくまでも史実に基づいてありますので、まさに事実は小説よりも奇なり、というか小説よりも残酷なり、といったところでありましょうが、好感を持った武士たちが殺されていくドラマの展開。〇〇ロスになった視聴者は、その史跡を訪ねたりお墓参りをしたりして過ごしているのであろうかと…。
そんな人物が身近にいるとしたら。歳の離れた姉くらいであろうと思っていたのですが、…予想外の人物が!
…いや、もともとが歴史オタクなので、ただ単に時期があったというかきっかけに過ぎないのかもしれないのですが(ちょっとだけそう思いたい私)、
「畠山重忠のお寺とお墓のあるところへ行こうと思うんだけど、どうかな」
御意。(=どうぞお好きに)
…来たか。
そういえば鎌倉行きが中断して久しい私たち。
次はいつ行けるようになるかねと話しながら、私は当然のことながら鎌倉三十三観音霊場&鎌倉十三仏巡りを再開するのだと思っていたのですが、
「次は八幡宮の側辺りからと思ってるんだ」
へっ?
と思った私。
あの辺りは、鎌倉に長居しすぎて急遽泊まることとなった日の次ぐ日に、朝から徒歩で歩いた辺りでは?
時はまさに『鎌倉殿』が亡くなられた直後。
…頼朝公のお墓か。
ま、まぁ、行かなかったね、たしかに。
行ったのは【宝戒寺】さん、北条氏歴代執権屋敷跡に、滅亡した北条氏の霊を弔うために後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏公が建立したお寺さんと、比企一族ゆかりの比企ヶ谷【妙本寺】さん、だったね。
ついつい神社仏閣巡り(珍道中)中心で動いていたけれど、歴史オタクには欠かせない史跡だったよな。
…でも。
その時はたまたまドラマを観ていて、「ここにも行きたいんだ」と言っているのかと思ったのだけれど。
今回は…少し微妙なタイミング。
あの北条義時との一騎打ち。
たしかに大河ドラマ史上に残るものだったけれど。
まさかの畠山重忠ロス?
いやぁ〜、語った語った!
車中やら、史跡やらで畠山重忠のことを。あ、もちろん夫のみ、ですがね。
それこそWikipediaにも、この鎌倉殿ブームで畠山重忠について略歴やら人物像やら書かれたネット上にあがってくる資料にも触れられていないようなことまで語る語る。
「平家物語ではこのように書いてあるんだけど、吾妻鏡ではこう書かれているんだ」…はぁ。
我が夫ながら本当、感心いたします。
歴史が好きだからって平家物語や吾妻鏡まで読むものなんだ。しかも、全文原作に現代訳の付いたものを読破しているらしい。
私など子供向けの漫画ですら注釈を飛ばして読んだくらいなのに。
…まあ、夫の話も右から左に抜けていってるんですけど、ね。
ああ、もうこれは〝鎌倉殿〟の放映による畠山重忠ロスではないわ、間違いない。きっかけに過ぎないでしょう。
はなから好きだったんだ。
だって、「ここには立ち寄らなかったんだけど」その他の史跡にはすでに訪れていたようでしたし。
はぁ…。
吾妻鏡、ねぇ。
私、きっと一生触らない。
【畠山重忠】は、1164(長寛2)年、武蔵国男衾郡「畠山の館」(現深谷市畠山)に生まれました。
父は畠山重能、母は三浦義明の娘です。
畠山氏は、坂東八平氏のひとつ秩父氏の嫡流の家系で、父重能のとき、秩父から畠山に移り住んで畠山の苗字を名乗りました。
秩父氏は、代々在庁官人の主席である「武蔵国留守所惣検校職」に任命される家柄であり、武蔵武士の棟梁格の存在でした。
祖父は 秩父重弘、 曽祖父は 秩父重綱。
ちなみに余談ではありますがこの曽祖父秩父重綱は、今上天皇の直系の先祖にあたるといいます。
治承四(1180)年、源頼朝が平家追討のために挙兵したとき、重忠は十七歳でしたが、在京中の父重能に代わり、河越氏、江戸氏らの同族や一族郎党を率いて参陣したといいます。
当初重忠は、父が平家に仕えていたため、平家軍に加わりましたが、のち、頼朝に服従を誓います。
頼朝は重忠の参陣を大変喜び、以後は常に軍の先鋒をつとめる名誉を重忠に与えたのでした。
その後の重忠は、いわゆる『源平の戦い』、『木曽義仲追討の戦い』、源義経を追って平泉の藤原氏と戦った『奥州合戦』などに数々の戦功をあげ、また、草創期の鎌倉幕府の有力御家人として多くの功績を残したことが『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』などに詳しく記されているといいます。
単に武将として武芸に秀でていたということにとどまらず、平家追討の一ノ谷の戦いの『鵯越の逆落し』で愛馬を背負う剛勇かつ優しい人柄。『奥州合戦』では阿津賀志山の戦いにおいて、あらかじめ同行させた工兵に、敵の築いた防塁を埋めさせ通路を確保した知略。
義経の行方を追及するために鎌倉へ呼び寄せられた静御前の舞にあわせて銅拍子を打った音曲の才能、などなど、多方面にわたるエピソードに見ることができます。
また、重忠の公正で誠実な態度から、将軍頼朝をはじめとする御家人たちの信任が篤かったことも知られています。
…このあたりは『鎌倉殿』の小栗旬…ではなく義時の台詞など、さまざまな場面にさりげなく描かれております。
この辺りが『鎌倉武士の鑑』と当時から周囲の尊敬を集め、未だ地元で敬愛されるところでありましょう。
ええ、畠山重忠のお墓、まだ新しい生花やお線香が手向けられておりましたよ。
自転車で立ち寄ってお墓に手を合わせて立ち去る方も一人ではなかったくらいです。
畠山重忠のことについて、今さら私のような者が書くまでもない、とは思うのですが、ここは私の忘備録でもありますので、続けます。
畠山重忠は、いわゆる『鎌倉殿の13人』の中のメンバーではないものの、清廉潔白な人柄と、武勇の誉れ高く、坂東武士の鑑と称賛された有力御家人であります。
『平家物語』によると、宇治川の戦いではおぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといいます。
前回にも書きました、平家追討の一ノ谷の戦いの「鵯越の逆落し」で谷底に陣を張る平家に対し、源義経率いる源氏軍は、急坂を駆け下りて奇襲をかけて勝利をおさめますが、このとき重忠は愛馬を不憫に思い、背負って下ったというエピソードが有名です。
埼玉県深谷市畠山にある畠山重忠の館跡で、現在畠山重忠公史跡公園となっているところにはこの馬を背負おうとする重忠の銅像があるくらいです。ちなみにこちらの園内には重忠の墓、さらにはその家臣の墓と言われている五輪塔があり、重忠産湯の井戸と伝えられる井戸などもあります。
文治三(1187)年に代官の不法によって拘禁刑に処せられた際、重忠は七日間寝食を絶ち、身の潔白を証明したといいます。
いかにも重忠の剛直さがわかるエピソードであります。
また文治五(1189)年、源頼朝が奥州藤原氏を大軍で攻撃した際、藤原氏側は、阿津賀志山(福島県)でこれを迎え討とうとし、重忠は先陣として、攻撃することになったといいます。
三浦義村や葛西清重らが抜け駆けして、一番乗りをしようとする。これを見た重忠の郎党が「これでは彼らに一番乗りの手柄を奪われてしまいます。彼らの前をふさぎましょう」と注進したところ、重忠は
「その必要はない。たとえ、ほかの者の力で敵が退散したとしても、先陣は私が承っているのだから、この重忠が出張って行く前に起こった戦は、すべて、重忠の手柄となるであろう。それに、先頭で戦おうとしている者たちの邪魔をするのは、武勇ではないし、手柄を独り占めしようとしているように見える。おとなしくしているのがよい」
と語ったといいます。
ここからも泰然自若とした重忠の姿がうがかえましょう。
頼朝の御家人となった重忠は、木曾義仲や平氏軍、奥州藤原氏などと戦い、戦功をあげていきました。
ところが頼朝が没すると、御家人間での壮絶な闘争が始まります。
梶原景時が滅び、北条氏の最大のライバルであった比企氏も、「比企氏の乱」で滅亡、三代将軍・源実朝を擁立した北条時政が権力を握ります。
ちなみにNHKの『鎌倉殿の13人』と同時期放映されていた朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』にかけて、一部では「しぬどんどん」とまで言われているとか。
閑話休題。
比企氏の乱では、北条氏に積極的に協力していた重忠でありましたが、北条時政が、幕府の基盤である武蔵国の掌握に乗り出すと、両者の間に確執が生じるようになり、畠山重忠の乱(二俣川の戦い)が勃発する。
『吾妻鏡』によると、元久元(1204)年十一月、重忠の嫡子・重保と、北条時政の後妻・牧の方の女婿である平賀朝雅が、酒宴の場で口論になったといいます。
翌、元久ニ(1205)年に、朝雅は牧の方に「畠山一族が謀反を企んでいる」と讒訴します。
時政と牧の方の夫妻は畠山重忠・重保の誅殺を決意、時政は北条義時と弟・時房に、謀反の罪で重忠を討つように命じました。
しかし義時も時房も「重忠が謀反を起すはずがない。軽率に誅殺すると後悔する」と諫めてます。
けれど帰宅した義時のもとに訪れた牧の方の使者から、「継母だから牧の方を軽んじるのか」と詰問され、義時はやむなく重忠討伐に同意し、大将として大軍を率いて出陣することとなったといいます。
まず畠山重保が由比ガ浜におびき寄せられ、三浦義村の軍勢に討たれます。
三浦一族は族長・三浦義明を死に追いやった重忠への遺恨を忘れておらず、畠山父子の討伐に積極的だったということでありました。
重忠は、北条時政と通じていた稲毛重成(重忠の従兄弟で、時政の娘婿)から「鎌倉で軍の蜂起がある」との偽りの連絡を受け、一族百三十四騎を率いて鎌倉に向かったところ、二俣川(神奈川県横浜市旭区)の付近で北条義時ら幕府軍の大軍と遭遇することとなります。
そこではじめて重忠は、重保が殺害されたこと、謀反人として自分に討伐軍が向けられていることを知ったのであります。
いったん本拠地に戻り、態勢を立て直すという意見も出たといいますが、重忠は「引き返して軍備を整えたら、謀反を認めたことになる」と退け、奮戦の末に壮烈な最期を遂げることとなります。
重忠の率いていた軍勢の少なさが、重忠に謀反の意思などなかったことを物語っています。
が。
しぬどんどんなので。
やだなぁもう。
史実なのですがね。
畠山氏のゆかりの寺【満福寺】さんにも参拝いたしました。
ご住職がご不在で、御本堂前の参拝ではありましたが、奥さまが御位牌の写真を見せてくださいました。
別棟の観音堂には重忠の守り本尊『千手観音』さまが安置されておられるとのことでありました。一年に一度だけ御開帳されるようであります(来年は一月十五日の予定であると奥さまがおっしゃっておられました)。
なお、室町幕府の管領職を細川氏・斯波氏とともに歴任した畠山氏は、再婚した重忠夫人の子孫にあたると、夫がなおも語っておりましたが、その辺はもう私のキャパオーバーなので 笑。
(畠山重忠公史跡公園の重忠像)
畠山氏は桓武平氏の流れをくむ秩父氏の嫡流で、秩父武綱の時に八幡太郎義家の『後三年合戦』の先陣を務め、その子、秩父権守重綱以来、重忠に至るまで、
代々武蔵国の総検校職(そうけんぎょうしょく)などをつとめました。
畠山と称したのは重能から。
当時中央の貴族たちは、国司に任命されても遥任(ようにん)といって現地に赴任せず、目代を派遣して租税を徴収し、在庁官人が国守の実務を代行していました。
そのトップが総検校職と考えられ、在庁官人として武蔵国における棟梁の地位にありました。
多くの武蔵武士と同様に源義朝に従っていましたが、平治の乱で義朝が敗死すると、
武蔵国は平知盛が武蔵守となり、総検校職の地位にある重能は当然平家に仕えます。
この頃になると、武蔵武士も次々平家の家人となっていきました。
深谷市畠山は熊谷市の西方約10㎞、奥秩父山地から流れ出た荒川の南岸にあたり、
昔は一面の桑畑で、今でも水田の少ない殆んどが畑地帯であります。
この地に重忠が再興したという【白田山観音院満福寺】がありました。
鳥羽天皇(1110年頃)の御代に弘誓房(ぐせつぼう)深海上人が草創したといいます。
畠山重忠公が寿永年間に再興し、菩提寺といたします。
御本尊は『不動明王さま、そして制吒迦(せいたいか)、矜羯羅(こんがら)両脇侍の三尊立像』であるといい、今回はご住職が不在ということで御本堂へ入ることはかないませんでしたが、彩色の宮殿に安置されているといいます。
現本堂は、以前は講堂であったといい、間口十間、奥行七間、寛政四(1792)年建立のものであるといいます。
重忠の菩提寺として、重忠の
【実山宗眞大居士】の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、
長刀、大般若経、御朱印状等が伝えられているとのこと。
別棟の『観音閣』には、『重忠公の守本尊(等身大)』である、六尺三寸の【千手観音像】が安置され、さらには秩父坂東西国百番観音が安置されているといいます。
ちなみに。
武蔵国、男衾郡は『おぶすまごおり』と読むようで、現在の埼玉県深谷市畠山となります。
夫がいたずらっ子のような(薄気味悪い)笑みを浮かべ聞いてきました。
「なぜ白田山というかわかる?」
ん?
「【畠山】という字を解体してごらん」
はあ。さようでございましたか。
…ほんとに?
この【満福寺】さんの駐車場の隣に、石でできた鳥居が見えます。決して小さなものではなく、何神社さんなのか気になるところでありました。
満福寺さんでの参拝を終えて、どうしても気になってその鳥居を見にまいりました。…ん?
夫は元々こちらの神社さんを参拝する予定であった様子です。
満福寺さんのご住職の奥さまに、
「次はどこに行く予定です?」と聞かれて
「△〇神社さんへ」と答えたところ、
「ああ、じゃあすぐそばだ」と、おっしゃっていました。
畠山重忠に関係する神社さんなのでしょうか。
【井椋神社】、とあります。
…な、なんと読むのでしょう?
秩父にあります『椋神社』さんは『むくじんじゃ』、ではこちらは、「いむく神社」?
なんとなく、ではありますが、どうもそう読むのではなさそうな気がいたします。
井椋神社:「いぐらじんじゃ」さんと読むようです。
井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒(まさつね)から重能(しげよし)の代に至る間、秩父吉田郷領主として『井椋五所宮』を敬ってきた神社さんで、その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した際、祖父重綱が勧請(分祀)したもの、ということです。
初めは、『井椋御所大明神』、『井椋五所宮』と号していたようですが後に井椋神社と改称したようです。
ほう。いぐら、と読みますか。
たしかに「小椋」と書いて「おぐら」と読みますよね。
で、この『井椋五所宮』を調べますと…。な、なんとあの龍勢祭りで有名な、あの【椋神社】さんのことのようです。あらまあ。。
御祭神は、猿田彦大神ほか四柱であります。
先ほどの、満福寺さんの駐車場から見えていた鳥居をくぐりました。
が。
全然社殿が見えません。
畑の中の細い一本道。
しばらく歩くと。
あれぇ、細いけれど道路が参道とクロスしています。
母方の祖父母の眠る墓所へと向かう道に似ています。何かとても懐かしい気持ちがいたします。
おお、二の鳥居がようやく見えてまいりました。
手水舎があり、境内舎でのある建物もいくつか見えています。
手水舎は立派なもの、…ではありますが、ご時世的な意味あいからだけでなく、おそらくは神職の方がこちらにお住まいではなく、なおかつ詰めておられるわけでもないようで、それゆえお水を張ることができないのだと思われます。
おお!
小さいけれど立派な社殿であります。
御祭神は、猿田彦大神ほか四柱の神々でございます。
いつくらいに新築されたものであるのか新しそうな拝殿であります。その奥には 幣殿と本殿の覆屋が続いています。
本殿の脇には境内社の・荒神社と石の小祠三宇が鎮座しておりました。
社殿の裏の荒川断崖に『鶯の瀬』なるものがあるとのことが書かれております。
境内社の参拝が先の方が好ましいのだけれど…好奇心に負けて、本殿裏手へと向かってまいりました。
『鶯の瀬』とは。
荒川のせせらぎの聞こえます。川自体はしっかり覗き込まないと見えはしないのですが…この地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬なのだそうです。
ここから川を渡って畠山重忠が乳母子である榛沢成清(はんざわ ろくろう なりきよ)のところに度々通っており、かつて平家方か、それとも源氏方につくべきかなども成清に相談もしていたとされています。
いつの頃のことなのか年代などははっきりしないようですが、そんなある日の出来事がこの鶯の瀬と呼ばれる所以となっているようで、
ある時成清のもとに行き、その帰路に豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられておるとのことで、その故事を詠んだのが次の歌である。
時ならぬ岸の小笹(おささ)の鶯は浅瀬たずねて鳴き渡るらん
ちなみにこの上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があるとのことで、遠く秩父連山を眺めながら鮎やウグイ等の釣り場として親しまれている名所でもあるとのことでありました。
この岸辺には小さいながら憩いの場が設けられており、春や夏などは居心地の良い空間のように思われました。
ちなみにこの鶯にあやかり,町の鳥は鶯なのだそう。
再び境内にもどります。
境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社(こかげじんじゃ)、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がございました。
背の高い杉の木に囲まれながらも、明るい大変居心地の良い神社さんでありました。
「次はね、『ゆうこくじ』さん、ってお寺さんなんだけどどういう字を書くと思う?」
またまた嬉しそうにニコニコしながら問う夫。…めんどくさぁ、と思ってもこれは答えないとダメな空気感。
「幽霊の幽に、刻限の刻?」と自分で答えながら(…それはなんだか怖いお寺さんじゃあない?)。
「残念!〝こく〟はね〝谷〟って字なんだけど、これでわかるかなぁ」
(まだクイズ?分からんというか、考える気がないんですけど)と思いつつ、それでも少し間をおいて、
「分からん」と答える私。
「そっかぁ。熊って書いてゆうって読むんだ」
「はぁ?熊ぁ?」
「そう。熊に谷でゆうこく」
「なんで熊?」
「熊に谷だよ。熊谷」
「へっ?熊ってゆうって読むの?」
「えっ?普通に読むじゃない」
…知らん。
と、またまたおバカなところを夫にもここでもバラしてしまった私。
ま、とりあえず、次に向かうのは【熊谷寺】さん、だそうで。
「じゃあ、あの熊谷さんの?」
「そう、熊谷直実の生家跡で、出家した後そこに庵を作ってそこで亡くなったらしい。そこをお寺にしたのが熊谷寺さんなんだって」
…ほう。
熊をゆうと読むことも知らなかったくせに、熊谷直実は知ってるのか、とまで言わないところが夫の良いところ。
そう、知ってますよぉ。
あの【敦盛】の直実さんでしょ?
あの、織田信長の『人生五十年…』で有名な敦盛の。
あぁ、また熱く熱く語っている。
「直実が出家したとされる理由は、は平家物語ではホニャララだけど、吾妻鏡ではホニャラララで、まるで異なるんだよ、でもよく考察するとホニャララララ…」
…私の耳、寝ぼけていたみたいです。右からも入らず、左に大半が抜けたみたい。
もう一度聞けば丁寧に教えてくれるのだけれど、もう一度聞くのは…いいかなぁ。
…ねぇ?
でも、こんな私でも、実はバカではないらしく、風邪をひいたんです。
ほら「バカは風邪をひかない」って…。
…いやぁ、自覚はちゃんとありますって。
正真正銘の、太鼓判の捺されたおバカだってことは。
せっかく風邪をひいたので言ってみたかっただけです。
そんなおば(か)さんを乗せ、車は熊谷市へと。
ナビに案内をしてもらい、【熊谷寺】さんのすぐそばまでまいりました。…あれ?
入り口がない?
駐車場のないお寺さんというのもございますので、最悪駐車場は側にある有料駐車場を使えばよいかと思ってはいるのですが…、開いている入り口がないのです。
うーん?
門も閉まっております。
閉門の時刻ってことでしょうか?
一周半してみて、有料駐車場に車を置いて歩いて入り口を探すこととしました。
うーん?
やっぱり閉門の時刻がきた?
そこへ、明るく周りの人に話しかけながら自転車を走らせるおじさまがタイムリーにやってきました。
ええ、久方ぶりに『エックスキューズミーおばさん』の出番です。
「すみません、ここ、この熊谷寺さんの入り口ってどちらになりますか?」
「ないよ」
…ん?、へっ?
「だぁれもは入れないんだよ。近所に住んでる人だって入ったことない寺なんだ」
「えっ」
「本当なんだよ、法事とかあると開くんだけど、そういう時だけ。一般の人は入れないんだと」
「そ、そうなんですかぁ」
そうなんです。
熊谷寺さん、門扉に『参拝、観光等一切不可』と書かれた小さな貼り紙がありました。
「ええっ?!、そんなことどっこにも書いてなかったよ」とは夫。
…いや、それはあなたの読んだものには、でしょ。
熊谷寺さんのホームページにも、ネットに挙げられたブログ等にも書いてありますってば。
「当山はご先祖さまの報恩に感謝し、共に浄土の蓮の台に生まれんと願い南無阿弥陀仏と口に称える念仏道場です。
それ故、一般の観光や参詣、また朱印の押印等もすべてお断りしております。
お電話等いただきましても対応致し
かねます。」
って書いてありますって。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか……」
織田信長がこの幸若舞【敦盛(あつもり)】の一節を吟じて舞い、桶狭間の決戦に臨んだエピソードは有名ですが、この「人間五十年」が当時の平均寿命を表したものと誤解されていることが多いようです。
かくいう私がそうでありました。
確かに信長が本能寺の変で亡くなったのは四十九歳、他の武将たちも多くが五十歳前後で亡くなっており、そのような勘違いも起こりましょう。
この【敦盛】、この「人生五十年…」のところだけがやたらと有名でありますが、この前後の部分を書き出してみますと、
『…思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
…』
そもそもが、『人間』って、つい〝にんげん〟って読んでしまいますが、〝じんかん〟と読むのですよね。
…そう、あの熊谷寺と書いて〝ゆうこくじ〟って読むように。
「人間(じんかん)五十年」とは、どういう意味なのか?
『人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり』とは、
「人間世界の五十年は、天界の一日に相当する。つまり人間の一生は、一夜の夢のようなもの」ということであります。
先ほどの全文を現代語訳すると
「思えば、この世は無常であり、永遠に住み続けることのできる世界ではない。
草の葉についた水滴や、水面にうつる月よりも、なお儚(はかな)いものなのだ。
晋という国で栄華を極めた「石崇(せきそう)」の華麗なる別荘「金谷園(きんこくえん)」も、風に散り、
四川・南楼の月に興じる者たちも、移り変わる雲におおわれるようにして、姿を消してしまった。
人間界の五十年などは、化天(げてん)での時の流れにくらべたら、まさに一睡の夢や幻のようなものだ。
一度この世に生を受けて、滅びないものなどあるはずがない。
これを悟りのいたる究極地点であると考えないのならば、それほど愚かで情けないことはないだろう。」
となるようです。
諸行無常、というわけですね。
前回のレスに大きな誤りがありましたため、訂正いたします。
前回私が参考としていた資料では一ノ谷の戦いで討死したと書かれていた嫡子は重傷を負ったものの一命を取り留め、五十代まで生きておられたようです。
お詫びして訂正いたします。
この【敦盛】という歌は、源氏と平家の戦争、いわゆる【治承・寿永の乱(源平合戦)】の1つである【一ノ谷の戦い】を描いたものです。
瀬戸内海へと船で逃げ出す平家武者に、【熊谷直実】が追撃をかけます。
このとき、平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった【平敦盛】は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいました。
敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばし退却船も気付いて岸へ船を戻そうとするが逆風で思うように船体を寄せられず、敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいたといいます。
実はこれが敦盛にとって初陣であったといいます。
そこに熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にし、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑みました。
敦盛は直実との一騎討ちに応じましたが、悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまいました。
直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。
直実は十六歳の息子熊谷直家がこの一ノ谷合戦で重傷を負い、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある十代の若武者を討つのを惜しんでためらったといいます。
ここでこの者を逃したところで、もはや源氏の勝ちは決まっており、あたらこの若き命を討ち取らなくともと思ったのですが、自分が逃したところで後からくる雑兵に討たれてしまうことは目に見えており、ならばまだ、名のあるわれが討とうと首を落としたといいます。
一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったものの、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめることもなります。
合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調(…この辺りの事を夫がブシャブシャ言っていたように思います)、
翌年には屋島の戦いの触れが出され、
また同じような苦しみを負う出来事が起こるのかと、直実は世の無常を感じるようになり、世をはかなむようになるのでありました。
直実は、鎧直垂をとって頚を包もうとすると、錦の袋に入った笛が腰にさしてあるのに気づいた。
義経の見参に入れるにあたって、これを見て涙を流さないという人はいなかった。後に聞くと、 修理太夫経盛の子息太夫敦盛ということで、生年十七とのことであった。笛は名を小枝といい、祖父忠盛が鳥羽院より給わり、 経盛が相伝されたものを敦盛が所持していたのであった。
直実は義経に願って、敦盛の首とその遺品青葉笛をもらい請け、一紙の消息文をつけ、敦盛の父経盛のもとへ送り届けた。
末子の敦盛のことを、殊のほか案じていた経盛は、御首、遺物、書状を受け、「ありがたきかな、かかる人の手に討たれしば」 と、返書をしたためた。
(『平家物語』現代語訳より一部抜粋)
この経盛からの返書が、この熊谷寺さんに残っているのだといいます。
この手紙が熊谷寺さんのHPに全文載せられておりました。
この経盛からの直実への返書が、この熊谷寺さんに残っており、その全文がHPにその全文が載せられておりました。
『…戦場の上に望んで何ぞ二度帰る事を思んや、生者必滅は穢土の習ひ、老少不定は常の事也、 然りといへども親となり子となる事先世の契約浅からず、釈尊も御子羅喉羅尊者を悲しみ給ふ、応神権化猶以て斯くの如し、 況や底下白地の凡夫に於いておや、然るに去る七日、打ち立し今日に至るまでその俤げ未だ身を離れず、来燕囀づると雖も其の声聞く事なく、 帰雁翅を双へて飛び帰ると雖も音信を通ぜず、必定討たるヽの由伝え承ると雖も未だ其の実否を聞かざるの間、何ぞ風の便りに其の音信を聞かん、 天を仰ぎ地に臥して神仏に祈誓し奉り感応を相待つ処、七ヶ日の内彼の死骸を見る事を得たり、是れ即ち神仏の与ふる所也、然る間、 内信心弥々肝に銘じ、外感涙之れを増す心を催し袖を浸す、但し生きて二度び帰り来るが如し、又是則ち相活きるに同じ、 抑々貴辺の報恩に非んば争で之を見る事を得んや、一門風塵皆以て之を捨つ、況や怨敵をや、和漢両朝を尋るに古今未だ其の例を聞かず、 貴恩の高き事須弥頗る下くし、報恩深き事蒼海還りて浅し、進んで之に酬いる未来永々たり、退いて然して報ずるに過去遠々たり、 万端多しと雖も筆紙に尽くし難し、併せて之を察せよ。
恐惶謹言 二月十四日
熊谷二郎殿 御返事 』
(当寺什物『経盛返状』)
…戦国の世、ということもありましょう。
しかしながら我が子の変わり果てた姿が、我が子を殺めた者から届くということに、礼状を書く、ということ。
…そういった時代を生きる男親と、私が女、という違いもありましょう。
変わり果てた姿といえども、我が子が手元に戻ってきたこと、そこに遺品として添えられた大切な笛に、親として有り難きことと思う事、なのかもしれません。
…まぁ、現代文とても使いこなせないおばさんですので、きちんと読めているかという問題点はあるにせよ、これを読んで気づいたら涙が流れておりました。
……やっぱり、戦はだめだよ。
戦争はだめ。
かつて辿ってきた歴史はそれはそれで、仕方ないことで、覆すことなどできないこと。
だけれど。
戦争はだめだってこと、人類はもう学んだものだと思っていた。思い込もうとしていた。
ロシアが核戦力関わる演習を始めたという。
なんと愚かな!
戦争をやめよ!
武士とは所領の安堵のため、地位・ 名誉のために、戦さとなれば、多くの敵兵を薙ぎ倒し、ときには親兄弟までをもその手に掛け、多くの命を摘み取る者でありました。
それは力だけでなく智を以って…。
鎌倉殿を観ていてもまさにそんな武士たちの姿が描かれております。
熊谷直実もそんなひとりでありましたが、彼は武士としての道を捨て、有縁無縁の衆生と共に蓮の上に生まれる道を選びました。
敦盛を討ったことに起因するとする『平家物語』もありますが、夫も申していたように(ブシャブシャと、笑)、ここ熊谷寺さんのHPでは『吾妻鏡』の説を採っております。
と、いいますのも、法然上人絵第二十七巻によると、蓮生の出家の原因は将軍(源頼朝)との関係にあるというのであると書かれているといいます。
ここには平敦盛を心ならずも討ち取ったためなどということは一言も書かれておらず、蓮生の出家の直接の原因は所領争いの果ての始末なのだと書いています。
『吾妻鏡』にもそのように書かれているようです(夫の『ブシャブシャ』がまさにそれを述べておりました)。
もちろん敦盛を討ち取ったことなども影響を与えているのだろうと、夫も申してはおりましたが。
熊谷寺さんのHPでは『 こんなことまでしたのに、こんな仕打ちを受けるのか、という何ともやるせない思いが頭の中を占めたのが本当のところであろう。 なにはともあれ、このような経過を経て、直実は出家することとなったのである』と綴られていました。
親として子を思い、自らの手で殺めた者の親へと(本来ならあり得ない)遺骸と遺品を送り。
主君の御前であろうと、自分の意に沿わぬことがあるとプイッとその場を立ち去ってしまったという直実。
本来は武力にひいで、どちらかと言うと頭で考えるのが苦手だったと評される直実が、少しずつ念仏行者【蓮生】となっていく。
…なんとも人間臭くて私はさらに好感を持ちました。
熊谷さん、と言ったら「直実」では無く「蓮生」と脳内変換できるようになったなら、熊谷寺さんの境内に入ることができる…のかなぁ。
さて。
深谷市は私どもが秩父に向かう折に必ず通り、しかもほとんど同じ道を使って行くので、すっかり馴染になった道、光景があります。
今回は結構観ている大河ドラマですが、私、基本的にはほぼ大河を観ることはなく、少し前に大河となった渋沢栄一のものも観ていないので、「深谷市といえば」
と問われて答えるとしたら、
「ふっかちゃん」、
せいぜい「深谷ねぎ」かなぁというまさに小学生低学年レベルであります。
大河ドラマを観ていたら、まさにその渋沢栄一の生家のそばやら、渋沢栄一の通った学問所やらのそばと、まさにドラマの背景となった場所を通っていたのですが、私どもが今までに立ち寄ったところといえば【血洗島諏訪神社】さんくらい。
そう、渋沢栄一の出身は埼玉県深谷市血洗島という地名であります。
暦オタの夫も興味のある時代とそうでない時代はあるようで、もちろん渋沢栄一がどんな人物であるかは私の百倍くらい知ってはいるのでしょうが、さすがにこの血洗島というところの出身であることも、それ以前に血洗島という、地名自体知らなかったよう。
初めてこの地名を目にしたら、まず目をこすり、今読んだ文字が間違いだったのではないかと疑い、そして間違いでなかったことを知るとその由来は一体なんなんなんだろうと思う、『血洗島』というのはまたなんとも物騒な、おどろおどろした感じを受ける地名であります。
今回は深谷市血洗島のすぐそば、それこそ渋沢栄一の生家のすぐそば、学問所のすぐそばの【(下手計)鹿島神社】さんへ参拝してまいりました。
下手計という地名は「しもてばか」と読むのですが、この地名は南北朝時代の文献では「下手墓村」と記述されるといいます。
この文献記載時に上手墓村が存在したのかは不明だが、江戸時代にはすでに上・下手計村のニ村があったので、手計という地名から上下ニ村に分村したと考えるのが自然でありましょう。
この手計という地名、一説には、源義家が奥州征伐に向かう際にこの辺りで合戦となり、家臣の一人が腕を切り落とされて傷口を洗った場所が血洗島、その切り落とされた腕を埋めた場所を手墓と呼び、それが転じて手計という地名になったという伝承があるにはあるらしいです。
でも何度かの市町村の合併とかを経てなお、あえて残された地名であることだけは確かであります。
こちら【(下手計)鹿島神社】さんの創立年代は不明だといいますが、天慶年間(938-947)、平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられるといいます。
以降『武門の守』とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったと伝えられています。
…この竹幌合戦における神の助けというのがどのようなものであったのか、ネットや『埼玉県の歴史散歩』など私なりに調べてみたのですが、なんともわからないのです。竹幌太郎なる人物も、竹幌合戦なるものもこの神社の由緒にしか出て来ず。
こちら鹿島神社さまは御祭神が武甕槌尊(タケミカヅチのミカド)さまでありますので、この合戦が勝利した、ということでありましょうか。
こちらの創建については、二つの経緯が考えられます。
第一に、当地に隣接する中瀬の地は利根川に臨み、かつて鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかります。
このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろ航海安全の神として信仰する宮常陸国一ノ宮鹿島神の神を当地に分霊したとする説であります。
第二は、かつて隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森、内ヶ島・田中などの村々には、「鹿島社」が祀られており、こちらは往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説であります。
いずれにせよ、『鎌倉公方足利基氏御教書』に、
貞和二(1363)年に、安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えた、とあることから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、こちらの創建もあるいはこの時代まで遡るのかもしれません。
【下手計鹿島神社】さんは村社でありますが、その境内は広く、まずは大きな背の高い燈籠が立っています。
その先には石造りの鳥居が見えます。太い立派なしめ縄がかけられています。
鳥居をくぐるとすぐそばに、見上げる高さに狛犬さんがおられます。
そしてそのみぎてにはやはり大きく立派な手水舎がありました。瓦葺きの屋根ですが、瓦の一部に飾りであろう部分が造られています。
水は張られてはおりませんでした。
その先には。
大きな大きな…立ち枯れた木の大きな大きな切り株が目に入ってきます。
大きい!
これが生い茂っていたなら、境内の景色は一変するものでありましょう。
今は大きな木もないため大変明るい境内となっております。
枯れてもなお威厳ある、気を感じる木でありました。
視線を正面に戻しましょう。
拝殿が見えております。
広い境内に比してさほど大きな拝殿ではありません。歩を進めます。
おおっ!
な、なんと見事な彫りでありましょう!!
拝殿は明治十四(1881)年に建てられたものといいます。
白木のままのものですが丁寧に彫られた彫刻がかえってよく鑑賞できます。向拝にもいわれあるであろう何かのお話をもとにした絵が彫られております。
もう古いものでありますのに、何故か木の匂いすらしそうな気がする、そんな心地のする建物であります。
軒唐破風向拝付きでともに入母屋造です。
『鹿島神社』と書かれた扁額の文字に見覚えがあるような気がしましたら、なるほど『従三位勲一等男爵 澁澤榮一』、渋沢栄一揮毫になる扁額でありました。
幣殿があり、本殿は覆屋に覆われていました。
本殿は文化7年(1810)に建てられ千鳥破風向拝付きであり、彫刻は地元である下手計の彫刻師大谷政五郎とその一門の作と伝えられています。
覆屋の格子には全面緑色の細かい金網が張られています。その隙間隙間から見えるシルエットが何やら今まで見てきた本殿の…というより普通の建物とは異なるようにおもえてなりません。
覗きぐせのあるおばさん、おそるおそる覗かせていただきました。
…!
息を呑むほど細やかに細かく丁寧に彫られた彫刻がそこには広がっていました。
躍動感あふれる人物たち!
優しい横顔。
差し出した手のやわらかく優しい仕草、流れるような布。
なんと素晴らしい彫刻でありましょう。
これは覆うわ。
覆って保護しなければならないと思うものだわ。
その場でしゃがみ込んで自然と拝んでおりました。
すごいなぁ。
すごい!
手計鹿島神社さんの御本殿。
その背後からのシルエットが今まで拝してきた数々の御本殿の建物のものとは明らかに異なって見え、
ただ私の身長ではその背部からの姿は、覆屋の格子(さらに網越し)からはどう足掻いても拝することができませんでした。
側面の下の方から覗いてみらだけがやっと、でありました。
夫は?
夫はすでにこの本殿をあとにし、目的の建物を探しに向かっており、その建物を確認して戻ってきていました。
「〇〇堂さんはあちらにあるよ」
「…この本殿をちょっと覗かせていただいた方がいいかも。神さまのおられる所だから本来は失礼なことだけど。無理にとは言わないけど、…すごいんだよ」
夫はかつて、あまりの激痛から動けなくなりそのまま入院したくらいに腰が悪い。
入院してもなかなか動けるまでにはならず、何日も何日も横向きにすらなれず仰向きに寝たきりの生活を送ったくらいだ。
だから(?。…それは不敬に当たるから…なのでは?)無理に覗くこととかはしない。
ですが、この興奮している妻が薦めるものを見ないでその後に起こる悲劇を思って(…いや、その妻の名誉のために申しますが、覗きはあくまでも良い行いではない自覚もあり、無理じいをするつもりなどありません、ええ、本当に)、そおっと(腰を庇って)覗きみて、
「本当だ! すごいねぇ」
…見え…てる?
「見えてる?」
「うん。見えてるよ。すごいねえ」
私のテンションとは明らかに異なるものです。
まぁ、夫婦といえども他人。同じものを見ても同じ感覚にはなりません。
ですが、この日はなんだか肩も痛いと申しておりまして、おそらくは屈む、という姿勢をとるのはかなりきつかったのではないかとも思うのです。
しゃがみ込んでまで覗いた私とは見え方が違うかもしれない。
そんな肩、腰の痛いおじ(い)さんに、無理を言った自分を棚に上げて、さらに同じ感動を求めてるのか?
…いやぁ、そう、ではないつもりなんですが、たぶん、本当によくは見えなかったのだと思うのです。
そんな大変な思いをしてまで(しかも『不敬なこと』、と思っていたかもしれないのに)見せてあげたかったなぁ、と思っただけで。
それにしても。
この御本殿、覆うだけではなく、定期的に点検をした方がよい、それほど価値ある、後世に遺したいものであると思いました。
その御本殿の後ろには、いくつもの摂社や末社が並んでおります。
拝殿の隣にも、拝殿よりは小さくは造られていますが立派な社殿が並んで建っておりました。
三峯講社と石祠。
本殿裏には香取神社さん。
社号を記したものが見当たらず、その場では何神社さんなのか判らなかったのですが、ネットで検索したところ香取様だと書いておられる方がおられました。
そのお隣にあります御堂が、夫の(…私もですね)一つの目的としてまいりました『手計不動尊』さまの御堂でありました。
神社さんなのにお不動さま?
…まぁ、神仏分離令にも負けずに護られた例はいくつかありますが、そもそもこちらの御堂がいつ建てられたものであって、お不動さまが元々こちらにおられたのかもわからないのではありますが…。
それはさておいて。
実はこちらのお不動さま。
私たちが目指してまいりました理由が、今年の九月に書きました珍道中録にあるのでありました。
えっ?
…となりますよね。すみません。
実はこちらの不動尊さまは、
私どもが今年の九月に参拝いたしました、群馬県前橋市の赤城山にあります【滝沢不動堂】に祀られておられます、お不動さまと深い関係があると言われているお不動さまであるのです。
滝沢のお不動さまは秘仏でありますため、私どもはまだそのお姿を拝してはいないのですが、実はこの滝沢不動明王さまは、右腕がなく、そればかりか火焔光背も両足も台座もないお姿だというのです。
その、滝沢のお不動さまの右腕が、こちら【(手計)鹿島神社】さんの不動明王像の胎内に納められている、とされているのです。
とはいえ、あくまでも伝承でありますし、何よりその右腕は胎内に納められているものです。お参りしたところで、その右腕を拝することができるわけではないのですが…。
しかもこちらの御堂も扉が閉ざされており、年一回の御開帳があるとき以外は扉越しの参拝となり、覗いたところで、壁に映った光背の影しか見えなかったのでありますが、ね。
そこにこだわるのが、…夫、なんですよ。
滝沢不動尊さまでその記事を読んだ時からずっと、こちらへの参拝の計画をあたためていたようで。
実はこの滝沢不動尊さまの右腕を切り落としたとされるのはなんとあの【上杉謙信】公、とのことなのです。
謙信が小田原攻めの時に、戦場でのお守りにしようと切り落としたのですが、鹿島神社さんに宿をとった夜、
「この腕を持っていると戦に負ける」という神の御告げがあり、境内に埋めて戦場に向かったというのです。
なんとまぁびっくりな。
戦国の武将にはありがちなこと、…とか思われる方もあるかもしれませんが、謙信はたいそう信心深く、かつ思慮深い方であります(私の見解ですが)。
そもそもが昔の方というのは縁起もかつげば、神仏をたいそう崇め奉ったもの、いきなりお不動さまの右腕を切り落とすなどなかなか信じ難いもののよう思うのです。
まあ、これもあくまでも伝承に過ぎず、手計の鹿島神社さんの境内のあちこちにある由緒書や伝承の立て看板は、このお不動さまに関するものは一切ないのです。
上杉謙信に関係した話などが残されていたなら、誰かしらがその伝承を残す気がするんですけど…。
とりあえず、この『手計不動尊』さまがいつからこちらにおられるのかという言い伝えもまた残されてはいないようなのです。
江戸時代となり、こちらの鹿島神社さんは、近在の村々に点在する鹿島社に比べて、隆盛を極めたといいます。
実際、今なお境内も広く、またたいそう立派な彫り物の施された拝殿、本殿、神楽殿がございます。
実はこれは別当であった『常学院』の活動によるものであるといいます。
『常学院』は、文化・文政期(1804-1829)に編纂された資料には埼玉郡酒巻村酒巻寺配下の『当山派修験』とあります。
同院の本尊は不動明王で、「手計不動」と呼ばれ、庶民に崇敬されるようになったといいます。これが現在の『手計不動尊』さまであります。
常学院が信仰を広めるため、庶人に配布した文政十二年(1829年)の縁起には、次のように載せられていたといいます。
『 源頼朝が平家追討のため、鹿島神宮に祈願した折、社殿鳴動し、にわかにわき出た黒雲が、すさまじい勢いで西へ飛び去った。
驚いた神宮の社人は、その後を追って西進し、ここぞと思う所に神木を植え、この奇瑞を鎌倉へ注進した。更に、源氏は兵乱の際、ここに本陣を置き、井戸を掘って軍勢の飲み水を得、軍神である鹿島・八幡の二神を祀った。
下って、寛政年間(1789-1801)に至り、かの神木が鳴動し、調べると神木の洞に塵芥蛇蛻で埋まった井戸があった。
これは神慮によるものであるとし、井戸を清めて神井とした。
このころ、近隣の里人の間に、この神井の水は神の加護がある神水であるから、病に悩めるものは、これを受け、あるいはその神水で身を清め、神に祈願すると霊験があるという信仰が起こった。
このため、こちらでは神水を薬湯とし、境内に浴湯舎を設けて参詣者を招いた。[神水で湯浴すれば人々俗念を脱去し、誠敬を凝し祈念せば、其冥応疑あるべからず] 』
というものであったようです。
江戸時代に庶人に配布した『武蔵国下手計村鹿嶋神社並神井浴舎之図』には、大きく枝葉を張り出した欅の巨木がそびえ、その威容に参詣者が驚いている光景が描かれているといいます。
庶人がこちらの井戸水を御利益のある〝御神水〟として受け入れたのも、鹿島の神の依り給う神木の根元から湧く水であったからにほかなりません。
かつて根元に湧いた御神水を沸かした浴湯舎で、かの渋沢栄一の母ゑいは、これを汲み、らい患者の背を流したと云います。
残念なことは、明治40年(1907年)に樹木の一部が、枯損したため、幹半ばから切らざるを得ませんでした。その後井戸も枯渇してしまい、現在に至るようです。
手計鹿島神社さんの境内にある御神木の欅の木。
今は欅もこの欅の洞にあったという井戸も枯れてしまっていますが、その後は今も祀られています。
私どもは欅も井戸も枯れてしまったものを見ただけでありますが、それを見てどれだけびっくりしたことか!
欅の根元、ではないんです。
欅の洞の中、なんです。
欅の幹にある地面に接した洞に井戸が湧いていた、ということなんです。
それは目を疑うものでありました。
木の幹の中の洞に、天然の井戸の跡がしっかりと見てとれるのです。
(とはいえしめ縄や囲いの外から、ではありますが)
これ、今も水が出ていたら、私どもは間違いなくこれを「御神水です」と言うことでしょう。
鹿島神社さんの別当であった『常学院』さんは、かの明治の神仏分離令で消失し、そこの僧であった方が鹿島神社さんの宮司さんになったようです。
ただ…不動尊さまは今なお境内におられる。
その経緯は調べてみても分かりませんでした。
一旦どこかへ移されたのか、上へと働きかけてここに残されることが許されたのか。
ただ…。
もしかしたら、でしかないんですけれど、ね。
ここって、あの渋沢栄一の故郷も故郷、生まれ育った地元なんです。
この境内には徳川慶喜公のお手による石碑が建っているくらいの神社さん、なんです。
もしかしたら、他の寺院では許されなかったあれこれが、スッと許されたりしたことがあったのかもしれません。
修験道の寺院は特に風当たりが強く、修験道自体が廃止されることとなっています。
その一部を残すために、町全体、村全体が志願書を何度も何度も提出したり、何かを寄贈したりしてようやく許可を得ていたようです。
…まぁ、…もしかしたらというのは
あくまでも私の推測です。推察であります。
また、手計不動尊さまの胎内に滝沢不動尊さまの右腕が納められているかどうかもわかりません。
手計不動尊さまの造られた年代すらが推定されたものに過ぎません。
歴史って…分からないから浪漫、なのかなぁ。
その辺は私には良くはわからないこと…なのです。
【伊豆山神社】さん。
かつてここミクルで、ある方が薦めておられた神社さん。
いつか必ず、と思っていたところにこのコロナの時代に突入してしまいました。
移動制限される時代は終えたものの、ただ単にアフターコロナの時代として大きく帆を向けて進み出しただけ。
しかもそこに追い打ちをかけるよう、ガソリン代の高騰、物価の高騰、多発する規模の大きくなった自然災害、と日本…いえ、世界が大変な時代に突入しております。
かつての日本人は、こうした時神仏を崇め神仏に祈って生きてきた。
…でも。ただただ神仏にすがって生きていたわけなどではなく。
そこにあったのは神仏を通して学んだ〝教え〟他人への思いやりという人として本当に大切なものをしっかり矜持してきたのではないかと思うのであります。
『人に感謝し、自分を取り巻き自分を生かしてくれているすべてのものに感謝し、今日生かされていることに感謝して生きる』ということを、…それこそ明日の生活さえおぼつかない日を送っても、明日という日が来ることすら信じられないような荒れ果てた時代を生きていても、【感謝】の心を忘れずに生きることを脇侍して生きてきたのだと思うのです。
今、『鎌倉殿』に触発されて伊豆に行きたい思いが再び強く湧きあがっております(夫が 笑)
このコロナの時代はいつか征圧できる時がくるのか…それはいつのことなのか…。
呼吸器疾患を持病とする夫は、できうる限りこのコロナへの罹患は避けたいものであります。
命あれば、いつかは必ずまた行きたいと思うところへ行ける時代もまいりましょう。
けれど命には限りがあります。
その〝時〟がいつなのか、誰にも、誰も分からない。
コロナを怖れて自粛するもよし。
コロナを恐れずよりしっかりとした対策をして行動することもよし。
『命短し恋せよ乙女』ともいうではありませんか。
今の思いを封印したまま、あれも我慢しこれも我慢して生きるのではなく、人として失ってはならないものを脇侍した上で、少しでもこの生活の中に心の潤いを自ら与えながら、笑顔で生きることこそが、大切なのではないかなぁ、と。
時代を嘆いてばかりでは前へは進めない。先人が道を作ってきたように、同じ過ちは犯さぬようにしながら前へ進むしかないのです。
歩みを止めていたところで現状維持は保たれるわけではないので…。
コロナの時代は続きますが、ミクルで出会ったあの素敵なご夫婦が、来春二人揃って伊豆山神社さんへの参拝が叶いますように、祈っております。
来春も、来来春もずっとずっと。
私たちは…いつ行けるかなぁ。
とりあえず、鎌倉殿のブームが終わってから、かな。
うーん。
ちなみに、夫は伊豆山神社さんの他、『三嶋神社』さん、『修善寺』、『北条寺』、そして『箱根神社』さんへと行きたいといい、もうすでにルートまでスマホに入れてあるようで…。
はあ。
月を眺めるのが好きです。
月の光に照らされているとなんだか心を浄化してくれているような気がいたします。
心が穏やかになり、それでいて少しワクワクするような高揚感も湧いてきます。
昔から、それこそ世界中の人々が、月を見上げて月を大切なものと思い、あがめて、あるいは憧れておりました。
日本では月にウサギの姿を思い浮かべ、竹取物語では姫は月に帰っていきます。
アポロやソユーズが月面を目指したのも、そんな思いの行き着いた地点、なのかもしれません。
「涅槃図」には上空には満月が描かれています。
自分の生命の終焉を悟っていたお釈迦さまは、自ら満月の日に沙羅双樹の下で眠りにつくことを選んだと言われているともいいます。
私は涅槃会にあたる日の生まれですので、人よりも少し月を恋う気持ちが強いのかもしれません。(とはいえ私の誕生日は新暦なので旧暦のように満月であったかどうか…)
月の誕生は地球の誕生(約46億年前)から少し後のことと言われています。
現在有力な説として、地球創世記以降に衝突した巨大隕石等が宇宙空間に散乱し、地球の周回軌道上で集まった塊が月となり重力が発生。
周回軌道から飛び出そうとする遠心力と、新たに天体となった月の重力と地球の重力が引き合った結果として、約45億五千万年にはほぼ現在の配置となり、地球と着かず離れずの距離で周回している、というものです。
月の重力は地球への影響も強く、潮の満ち引きだけでなく、天候や農業や人体へも影響があります。
新月や満月のときは太陽・地球・月が一直線上に並び、重力バランスの変化が地球にも大きな影響を与えます。
植物は満月の前に芽が出ると順調に育つといわれ、昆虫は満月の日に一斉に羽化するといわれています。
出産が妙に多い日、となることが多いと産婦人科の先生や助産師さんが口を揃えておっしゃいます。
そんな『月』。
月の大きさが違っていたら、
もう少し月が遠くや近くにいたら、
現在の〝ちょうどいいバランス〟は成り立ちません。
地球の軌道も変わってしまい、地表の温度は極端な寒暖を繰り返します。月がないと地球は生命活動が出来る環境ではなくなるのです。
太陽-地球-月という絶妙なバランス。お互いが支え合ってまわっている〝輪〟の中で私たちの生命もまわっています。
たくさんの奇跡を乗り越えて生かせていただきまわっているのです。
本日は上弦の月。
今朝は晴れて星も見え、お月さまも拝むことができましたが…。
何やら夜には雨の予報。
とりあえず今日は朔日。
地元の総社にあたる神社さまにお参りさせていただきます。
それにしても月日の過ぎるのは早いなぁ。…これでは歳をとるものだ。ボケないように祈願してまいりましょう。
うーん、自転車で行けるかなぁ。
脳を鍛えるには運動、らしいけれど、一人で運動するのはドクターストップかかってるんだよなぁ。
いつも参拝させていただいている神社さんへの朔日参り。
自転車で行けたのはいいけれど、五キロの道のりを走ってきたので、いつも通りの御礼と祈願をして帰宅してしまい、大切な追加項目ボケの進行防止祈願を忘れてしまいました。
うーん、ボケは確実に進行しているということでしょうか。うーん、困ったぞ。
いやいや困るのは子供たちですって。
うーん。
坂東三十三箇所は、源頼朝公の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが、西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期に開設につながったのだといわれています。
頼朝公が観世音菩薩に深い信仰を寄せていたことは、あの、『吾妻鏡』にも書かれているそうです。
まぁ、『吾妻鏡』を漫画ですら読んだことなく、『鎌倉殿の十三人』すら飛び飛びでしか観ていない私は、その辺をあまり語る資格がない人間でありますが。
それでも何度か参拝させていただいている神奈川県鎌倉市の【杉本寺】さんで、そういったお話を聞かせていただくことができました。
坂東三十三観音霊場の巡礼も、いつかはと、…いつかはとは語り合ってはいる珍道中ペアなのですが、なにしろ片割れがほとんど移動の運転の戦力外であることと、どうにも出不精なペアでなかなか重い腰が上がらないで現在に至っているのが現状でございます。
(お前がもう少し運転すればいいのだろう!)
そんな珍道中ペア、それでも巡礼という形でなければ、いくつかのお寺さんを参拝させていただいてはおりますが、私、今ひそかに行きたいと願うお寺さんがあるのです。
それは、まさについ先日行った埼玉県の比企郡にあります、第九番霊場【慈光寺】さん。
こちらは、天武天皇の御代に、僧慈訓が千手観音堂を建てたのがはじまりと言われ、また同時期に役行者が修験道場を開いたのだといいます。
後の宝亀元(770)年に、鑑真のもとで律宗を学んだという道忠が慈光寺を創建、平安時代には、天台宗の別院となり七十五坊を擁す大寺院に発展したといいます。
頼朝公は伊豆の流人だった頃から信仰し、治承三(1179)年署名入りの梵鐘を鋳造させ奉納したといいます。
文治五(1189)年には日ごろから信心していた愛染明王像を贈り、この像を本尊として奥州征伐の祈祷を行うように、別当の厳耀(げんよう)や僧兵らに命じています。
そして。菅谷館を本拠としていた畠山重忠もこちら『慈光寺』さんを信仰し、かの奥州征伐の祈祷を行った厳耀は重忠の伯父であったといわれます。
畠山重忠の末子重慶は、元久ニ(1205)年、重忠が北条時政の謀略により、武蔵国二俣川で討死すると
、上小寺(現在の小川町)の曾祖叔父の重遠を頼って、重忠の遺髪を埋葬し、慈光寺に登って別当に就任したといいます。
ここにお参りするなら…今でしょ。
ただ。
これで終わらないのが鎌倉のドロドロ、泥々とした、殺掠ばかりの時代であります。
『吾妻鏡』によると、建暦三(1213)年、日光山別当の弁覚(日光山二十四世)の使者が鎌倉を訪れます。
才覚は実朝公の護持僧であり、ちなみに、日光の四本龍寺(輪王寺の境外寺)の三重塔は、1241年仁治ニ(1241)年に実朝の菩提のために弁覚が創建したものであります。
報告された事は、畠山重忠の末子・重慶が日光山の麓に住んで謀反を企てているというものでありました。
それを受け、実朝公は、長沼宗政に重慶を捕らえてくるよう命じたのですが、なんと、宗政は下野国から重慶の首を持って帰着したのです。
実朝公は、
「畠山重忠は罪もないの討たれた。その末子が謀反を企てたとするなら、捕虜にして調べるべきであるのに殺してしまうとは」
と嘆かれたといいます。
その事が宗政に伝えられると 「重慶の謀反は疑いない。生け捕ってくると、政子様や女官の願いで許されてしまうだろう。だから殺した」
と主張し、さらに、
「当代は、蹴鞠を業として、武芸は廃れたようなもの。女官を部下とし、勇士はないのと同じ」
などの無礼な言葉を吐いて御所を去ったのだといいます。
まぁ、幼くして将軍となった実朝公はその頃からかように陰口を叩かれていたようではありますが、宗政は問題発言の多い武将で有名であったようです。
やだやだ。
テレビの鎌倉殿もそろそろこの頃を迎えようとしているようです。(あるいはもうちょうどその頃?)
和田義盛さんのファンも多そうです、また和田義盛ロスが、鎌倉殿のファンの人々を襲うこととなりましょう。
慈光寺さんに話を戻します。
慈光寺さんの御本尊の木造千手観音立像は、天文十八(1549)年の造立とのこと。
さすがに創建当初のものではないようです。
こちらが秘仏であられるようで、毎年四月の第二日曜日と四月十七日に開帳されているとのこと。
うーん、やっぱりその時、かな。
このスレで、群馬県には【上毛かるた】なるものが存在し、『あいうえお』を覚えた県民ならそのほとんどがその存在を知り、全ての読み札を暗記しているといえる郷土かるたが存在することを度々書いてきております。
群馬県の歴史や風土、名産物などをテーマにしており、作成されたのは終戦まもない昭和二十二(1947)年のことだったといいます。
その後絵札は全面的に書き換えが行なわれたものの、読み札はな、なんとたった一枚の読み札の改訂を繰り返しているのみ。(…とはいえ、読み札の裏面にある、その札の内容解説は改訂をされているのかもしれませんが)
まぁ、私などはこのかるたからまだまだ学ぶものがあるという情けない大人なのですがね。
そんな上毛かるた。
な、なんと!
情報発信を目的とした【上毛かるた館】が明日11/3に、群馬県東吾妻町岩下というところにオープンするのだといいます。
NHKの地方版で紹介されていたのですが、駐車場と館内を絵札のパネルや看板で埋め尽くした『上毛かるた』に特化した施設だというのです。
…そ、そこまでしなくとも…。
「上毛かるたの美術館であり、博物館でもある。遊びながら楽しめる聖地になれば」と期待しているとのこと。
それも、この『上毛かるた館』、東京都にある食品製造販売会社さんが企画し、関連会社が運営するのだということを聞いてさらにさらにびっくり!!
そこの社長さんが群馬県出身だったりするのでしょうか。そこまでは述べられていませんでしたが、この施設、儲かる気がカケラもありませんが…。
ん?えっ?
な、なんと入館無料と!!
お土産品などは置かれるようですが、一体なんの目的で?
館内の様子が少し紹介されていたのですが、現行の全絵札のかなり大きなパネルと解説文が並んでいました。
う、うーん…。
1947年の初版、65年の改訂版の絵札も紹介しているといいます。
まぁ、これを是非見たいと思う世代ももう結構な年代な気がいたします。
ちなみに私はいまだにこの読み札全部、つかえることなく全て暗誦できますが、群馬県出身者だと「だから何?当たり前でしょ」と言われるレベルのもの。
うーん、行かない、かなぁ。珍道中ペアは。
孫を連れてでも行かないかなぁ。
読み札でたった一枚、改訂が繰り返されているのは、群馬県民の県民数。
まぁ、それは…変わるものですよね。
坂東三十三観音霊場のことを書いたら気になって仕方がない。
煩悩おばさんだからしかたない。
何が気になったかというと、…坂東の三十三観音霊場はどこがまわってあるのだろう、ということ。
あまり三十三観音霊場を意識することなく、お寺さんを参拝させていただいていたものだから、あらためて振り返っても、さほどまわった記憶はないのだが…。
第一番 杉本寺
第三番 安養院田代寺
第四番 長谷寺
第十三番 浅草寺
第十五番 長谷寺(ちょうこくじ)
第十六番 水澤寺
第十七番 満願寺
第十八番 中禅寺
第十九番 大谷寺
第二十番 西明寺
第二十一番 正福寺
…ちょうど三分の一。
全行程約千三百キロ、徒歩で約四十日と言われています。…徒歩?
無理無理無理無理!
…昔の人はえらいなぁ。
つくづく思うのです。
布教のためとか、戦さとか、ありえない距離を車も電車も無かった頃移動しています。
それでも武将なら馬等を利用してはおりましょうが。
巡礼もお遍路さんも、それはそれはすごい距離を徒歩で移動しております。
そこへいくと現代では車での移動ができます。公共交通機関も。
…それなのに、重い腰がいっこうに上がらない私たち。
〝いつか〟は一体いつなんだ。
昨日、季節外れのあたたかな一日を過ごさせていただいた恩恵の副産物。
…蚊が飛んでいる。
あわれ蚊と呼ぶようで、こんな時期まで生き残った蚊を哀れんだ、いにしえ人は、この蚊を打たずにそのままにしたという。
うーん。
命をつなぐために思いっきり吸ったんだなぁ。…痒いんですけど!
打たずに我慢、かぁ。
せめてキーンって言わないで。
『 認知症患者の男性=当時(87)が廊下で転倒して重い障害を負ったのは、看護師が転倒を防ぐ対応を怠ったためとして、男性の家族が兵庫県に約2575万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が1日、神戸地裁であった。
裁判長は「転倒する恐れが高いことは予見できた」などとして、約532万円の支払いを命じた。
判決によると、男性は16年4月2日早朝、看護師に付き添われトイレに入った。看護師は男性が用を足す間に、別室患者に呼び出されて排便介助に対応。男性はその間にトイレを出て廊下を1人で歩き、転倒して外傷性くも膜下出血と頭蓋骨骨折のけがを負った。男性は2年後、心不全で亡くなった。』
…これは、辛い。
転倒され重い外傷を負われた患者さんには申し訳なくも思うのだけれど…、
この判決は、あまりに認知症というものを知らなすぎる。
認知症の対応をしたことがある人にしかわからない。
転倒の予見はできていたって…?そんなのはその年齢であれば、入院された時からすでに予見なんてしてますって。
ベットを降りたという離床アラームが鳴ってすぐ駆けつけたって間に合わないことだってあるんです。ベットサイドにマット敷き詰めたところで、その〝予見〟のさらなる上を行くのが『認知症』なんです。
オムツ対応にしたところで、それを納得したかの返事をしていたって、数秒後には「私は大丈夫だから」ってオムツを捨てて、動き出す、それが認知症なんです。
そして。
医療の現場、介護の現場を知らなすぎる。
損害賠償請求は県に対してのもののようだけれど、担当されていた看護師さんのメンタルが心配です。
全てを学んで知っていくというのは、それはそれは大変かもしれないですが、少なくとも人を裁くに当たってはもっともっともっと、現場の声を聞いて、認知症を学んで知ってほしい。
誰も認知症になりたくてなってはいないです。
現場の方々もそれはそれは胸が熱くなるほどの愛情を込めて接して下さっておられます。
…そして、かの国が今日もミサイルを複数回発射して、日本では緊急アラートが連発している。
朝からいろいろイライラすることだ。
珍道中のかたわれ、…でも、実際はは私を行きたいところに連れて行ってくれる存在であり、しかも私レベルに添った解説をしてくれるガイドもかねている、一粒で二度美味しい、どこかのキャラメルのような夫であります。
そもそも珍道中とは言っておりますが、ひとえに私がペアを組んでいるからなだけで、彼単体で参拝に行けば、ごくごく普通のお詣りになるのでありますが…。
そんな夫、実は青面金剛(しょうめんこんごう)さまが好き。
青面金剛さまの石像を見つけると「おおっ、青面金剛さまだ♡」と嬉しそうに写真におさめさせていただいています。
今日は庚申の日。
青面金剛さまのお縁日、と言ってもよいかと思います。
庚申日とは、庚申待(こうしんまち)という、日本の民間信仰の行事を行う日として有名です。
仏教では庚申の御本尊を青面金剛さまや帝釈天(たいしゃくてん)とし、
神道では猿田彦神としてお祀りし、夜を徹して過ごす、といったものです。
宗教によって、おまつりする神さまや仏さまが違うというのがなんとも日本らしいところで、まさに庚申日とは、日本独自に発展した、いかにも日本らしい日、であるようです。
何故、そのような違いが生じたかというと、もともとは道教の教えから日本に入ってきたものであるので、それが独自の発展をし広がっていったもの、だからなのです。
道教では、 三尸(さんし) という虫が人間の体内にいると考えられています。
庚申の日の夜、人が眠ると、その者の体内にいる三尸の虫が抜け出て、天帝に罪過を告げるという言われています。
三尸の虫とは、常に身体の中にいてその人の行いをじっと見張っているという、下尸、中尸、上尸という虫。
この虫が天帝に告げ口をしに行かないよう、夜通し起きて見張っているという行事が『庚申待』です。
しかも一人だとどうしても寝てしまいがちなため、みんなで集まって夜通し起きていようという風習ができたといい、その歴史は古く、なんと平安時代から行われていたそうです。
あの『枕草子』にも庚申待の話が登場するらしいです。
当初は公家や僧侶のみが行っていて、夜通しすごろくや詩歌管弦を楽しんでいたといいます。
それが江戸時代には民間にも広まります。
とにかく「寝てはいけない」。
民間にも広まってからは詩歌管弦どころではなくなりました。
江戸時代となり、『庚申日』が庶民の間に広まってからは、集まって囲炉裏を囲み、寝ずに酒盛りなどをしたり、眠らないように顔にスミを塗ったり、胡椒をかけたり、太鼓を叩いたり濃いお茶を飲んだり、etcしたといいます。
庚申日は六十日に一回やってくるので、一年に6~7回はこのように夜を過ごす日となりました。
ただ『庚申さま』は月のモノや出産の汚れを嫌うといい、女性は飯の準備や片付けが役目で、男性だけ参加できるというものであったといいます。
こんな風に書いてしまうと、ただ夜通し騒ぐだけの日と勘違いされそうですが、あくまでも庚申さまへお参りする日、であります。
庚申さまとは体内にいる三尸の虫を退治してくれるという日本独自の神さま(もしくは仏さま)であられます。
帝釈天さまや猿田彦神さまなどといろいろいらっしゃいますが、一般的に「庚申さま」と呼ばれている仏さまは、【青面金剛明王(しょめんこんごうみょうおう)】さまであられます。
もともとは疫病などを撃退する仏さまでしたが、三尸の虫を追い払う力があるとして、庚申まいりでは『青面金剛明王』さまを奉ってお参りするようになったといいます。
庚申さま=青面金剛さまを拝むことによって、三尸という虫を退治してくださる以外にも、病などの災厄から守ってくれたり、願い事を叶えてくれたりするというありがた~い考えが広まってまいります。
庚申さま信仰とは、病気平癒や厄除けなどのご利益もあると考える日本独自のもの。
庚申さまを祀るのは神社や寺院ばかりではありません。
江戸時代には、庚申講(庚申待ち)を三年、十八回続けた記念に、庚申さまを描いた石碑や庚申塔、庚申塚があちこちで建てられ、それらを供養することでご利益があると考えられていくようになります。
庚申塔、庚申塚と呼ばれる石碑には一般に、『青面金剛』さまと、その上に〝太陽や月〟下には〝鶏〟、そして『見ざる聞かざる言わざる』で有名な〝三猿〟が彫られています。
三猿は庚申さまのお使いとされているといいます。
『庚申』『庚申講』などの文字だけが彫られたものもあります。
これらの石碑や石仏さまは、お寺や神社の境内だけでなく、辻などさまざまなところに建てられています。
ちなみに…夫のスマホには青面金剛さまだけを集めたページがあるようですよ。
仕事をしていた頃、さまざまな悩みを抱えました。
まぁ、まず筆頭はお決まりの人間関係。これは生きている限りはどんなに仕事先を変えようと、程度の差こそあれ、必ずついて回るもの。
人間界に生きていて、人間関係がないわけはないので。
…とか言ってもわたし、小さなことも抱え込んで、あれこれと悩み、起きてもいない先のことまで心配するタイプの人間なので、これは結構大きなストレス。
で、仕事を辞めたところで、嫌な人間関係ってどうしたってついて回るんです。
そ、人間だから。
それをどう乗り越え、乗り切るか。
私はそういったことが大変下手な人間ですので、いつもくよくよしがちです。
近所のおば(あ)さんたちは、人生の先輩とばかりに、お散歩がてら意見をしていきます。
「あんた、仕事辞めて一体何してるん!」
…〝!〟を、あえて付けるぐらい、小っちゃいおば(あ)さんが仁王立ちになって、それこそ仁王さまのような顔をして言ってきた時、私は、この人の、この言葉の真意がまるで読み取れず、返す言葉につまりました。
でもおば(あ)さんはそのまま、返事を待っているようなので、辞めた理由を正直に伝えましたが。
そうしたらおば(あ)さん、打って変わったように、
「そうかい、そんなに血圧が低いんじゃ動くんも大変だ、よく仕事してたね。家にいたら家にいたで女はやることがいっぱいあるんだからね、そうかい、そうかい、大事にするんだよ」
…仕事を辞めた人間って、社会からの孤立感とかを痛切に感じるし、自己存在感?自己有用感?とかが下がるし、自由を手に入れてるわけでもないんです。
ましてや定年前とかに辞めると殊更に。
そうそう、結婚を機にとか、出産を機にとかも、大きいんですよ、世のご主人さま方。
今の世の中、仕事も家事も育児もみんな頑張ってる女の人が多い中、どうしたって、専業主婦は肩身が狭い。
結構、世間は面と向かって言うんですよ、「仕事をしないんですか」
もっと辛辣な言い方も多々。
人間は悩むもの。
それはお釈迦さまもおっしゃっておられるので避けられない。
しかも四苦八苦。
…生きるって大変です。
で。
仕事で人間関係に悩んでいた頃、図書館で、『ほっとする禅語』なる本を借りてそこに書かれた言葉に癒されていたことを思い出しました。
そうだ!『禅語』だ!と。
子どもの頃、私は本を読むのが大好きでした。家には本好きの父の揃えた蔵書から、その父が姉が産まれてからその成長に合わせて買い揃えた本が溢れるほどにありましたし、図書館の存在を教えてくれた同級生もおりました。
へぇ…。
ランドセルを放り投げて遊びに行くような子ども時代かと思ってた。
…そう思われた方、それはそれで当たりです。
好奇心の塊で、なんでもやってみたいというタイプでありました。
同じ学区とは言えども地区が異なれば、自分の住んでいるところとはまるで違った空間で、見るもの聞くものすべて新鮮でありました。
神社、という存在をはっきりと意識したのも、実に同級生と遊んだ経験からであったくらい。
間違いなくランドセルを置くやいなや、行ってきまーす、と出かけるタイプでありましたし、今とはまるで真逆で誰にでも話しかけて、そこで偶然一緒になった男子上級生とでも遊んじゃうような、そんな子どもでありました。
そ、出る杭は打たれて、今はすっかり真逆でありますが。
でも、雨の日もあるし、休日もある。
習い事のある友達と遊べない日もある。
本屋さんも大好きで、小学生の時分から入り浸っていました。
どうしても欲しい本に出逢うと、飛んで帰って祖父母や父にねだり、説得して、お金を握りしめてまた本屋さんに直行する。
…お小遣いはもらっていなかったので、この取引が欲しいものを手に入れる唯一の手段でありました。
お年玉は全額を母に預けなければならなかったので、本当、必死になって訴えました。
お友だちと駄菓子屋さんに行く時も、祖父母や父がいなければ、一文無しで、お友だちが買うお菓子を買う様子、食べる様子を眺めるしかなかったくらい、手持ちのお金がなかった子ども時代でありました。
駄菓子は我慢できても本は我慢できなかったんです。
今は、…両方我慢しない大人になってしまっていたので、終活や健康維持のため、自らに我慢を覚えさせている…そんなダメダメなやつであります。
そんな本好きな子ども時代、禅僧のやり取りを書かれた本を読んで、
「いつかこんなことができる大人になりたい」とまで思ったというのに、今の私ときたら、『禅問答』どころか、語彙力すらなく、国語すらおぼつかないおば(あ)さん。
ああ、情けないこと。
今更取り返せない私の頭脳、ではありましょうが、私なりに学ぶことはできる。
かつて癒された『禅語』をもっと学ぶことだってできる。仮にすぐ脳みそから抜け落ちても、今はテストも評価も、人さまに迷惑をかけることも何一つないから。
抜け落ちてもまた拾えばいい。
ま、そうやって、やり直していたり、新たに学び出しているものがいくつか。
それに、歳を重ねてからの学びって、飽きたり合わないと思ったら、スカっと捨ててかまわないという、素晴らしいものなんです。
いろいろ学びたいことが出てきて、なんなら、学校時代の時間割でもしたら…とも思ったのですが、きっと、それだけできっともう嫌になる。
ああ、私って…。
夫が起きてこない日曜の朝。
こんな駄文を書きならべていないで、それこそ学びの時間に当てればいいのに、と自分でも思うので。
…。
さあ、洗濯を干そうっと。
【禅】とは、禅宗の略称ということも実に初めて知りました。
あの坐禅を指すとばかり思っていました。
その禅宗、中国から日本に伝わった、【臨済宗】、【曹洞宗】、【黄檗宗】などの宗派をまとめた総称として禅宗と呼ばれています。
夫の実家の檀那寺は『曹洞宗』、「そうか、禅宗だったんだ」と思うくらい禅宗っぽさはありません。
…おい、禅宗っぽさってなんだよと、自分で自分にツッコミを入れそうですが、檀家さんに向けての行事とかをほぼ一切行わないお寺さんということもあり、坐禅会などはもちろん、施餓鬼会もなければ、節分もなく、法事のあとの説法も、禅語一つ出たことがありませんでしたので。
そもそも、繰り返しになりますが私の抱く、〝禅宗っぽさ〟っていうのが怪しいものなんですがね。
でも、調べてみましたところ、
『禅が目指すものは、精神の統一、そして人間本来の生き方をするというもの。禅宗には精神統一の修行のために坐禅を行うという共通点がある』とか。
…まぁ、御住職は人知れず坐禅を組まれておられるのかもしれません。
この〝禅〟という言葉は、インドのサンスクリット語の『デイヤーナ』、パーリ語の『ジャーナ』を漢訳したもの、だといいます。
『禅那』という漢字を当てはめ、〝那〟が落ちて、【禅】という言葉になったといわれます。
また、『ジャーナ』とは、『定(禅定)』『思惟』などとも意訳され、それは精神の統一、つまり瞑想と同じような意味と捉えられました。
仏教における瞑想とは〝坐禅を行うこと〟を指すので、禅と坐禅は同様の意味になるといいます。
おお、私の思っていたこともハズレではないのだなぁ。
『坐禅』は、静かに姿勢を正して座り、自分自身を見つめ直します。一つのことに心を注ぐことで、執着することや思い込みを捨て、真っさらな心で自分や物事を捉えられるようになることを目指す、といいます。
仏教の創始者である【釈迦(ゴータマ・シッタールダ】は坐禅を組み、瞑想する中で悟りを開き、【仏陀】となりました。
仏陀は、すべての生きるものには生まれながらにして仏性が備わっているということを悟ります。
もともとは清らかで罪などない真っさらな心(仏性)を皆持っているのに、迷ったり悩んだり悪事を働いたりするのは、執着や思い込みなどにとらわれているからだと気づかれました。
【禅】では仏陀の教え(仏法)を、『坐禅』や修行を通して追体験をし、学び、受け継いでいます。
師匠から弟子、禅僧から修行者へ心と心を通して仏法が受け継がれます。その教えを伝える過程でできたの【禅語】というわけです。
『禅語』とは、短い言葉の中で『禅の教え』を説いたものです。
『禅』、特に『臨済宗』では、【禅問答】という、師弟が禅の理解度を問うやり取りがあります。
禅宗では修行者に対して、優れた禅僧などの先人と同じことを体験させ、その悟りのきっかけと同じ心境を体感させようとします。この禅の悟りを確認するためのものが『禅問答』であり、この禅の悟りとなるきっかけである問題は『公案』と呼ばれているものなのだそうです。
『禅語』は、この公案から引用された言葉をはじめ、禅僧の言葉やエピソードなどを表したもので、禅の世界が凝縮されているもの、といえるようです。
つまり禅語とは、禅宗の教えを伝える言葉で、禅の教義や禅問答の公案、禅僧の残した著述から引用されています。
禅宗の歴史として、
・紀元前 釈迦がインドで悟って仏陀となり、法を説く。
・5世紀ごろ 釈迦から数えて28代目の弟子・菩提達磨が中国に渡り、禅を伝える。
・7世紀ごろ 中国が北宗と南宗に分かれる。禅宗は中国全土に広まり、大流行する。
・13世紀ごろ(鎌倉時代) 南宋に渡った栄西が帰国して臨済禅(臨済宗)、道元も中国に渡って帰国し曹洞禅(曹洞宗)を伝える。
以降、各地に禅寺が建立され、武士から庶民まで、禅宗は広く日本全国に広まり、日本文化や芸術の分野にまで染み込んでいきます。
江戸時代ごろに臨済宗から黄檗宗が独立します。
…。
…というわけで、このスレもこの回をもって五百を迎えました。
このような駄文をお読みくださっておられる方、本当に本当にありがとうございます。
ボケ防止、ならば良いのですが、すでにボケは生まれつきで、ですのでボケ進行予防のため、私のさまざまな珍道中は続きます。
エッセイというのも烏滸がましい、ただの駄文でありますが、よろしければまたお付き合いいただければ大変嬉しいです。
(秩父八番西善寺さん)
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20世紀少年
1961 生まれは 東京葛飾 駅でいうと金町 親父が働いて…(コラムニストさん0)
2レス 112HIT コラムニストさん -
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ウーマンニーズラブ
聖子の旦那が有能な家政婦さんを雇ったおかげで聖子不在だった機能不全の家…(作家さん0)
500レス 3232HIT 作家さん -
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フーリーヘイド ~読む前の注意書きと自己紹介~
やはり女性は私に気が付いている様である。 とりあえず今は、 …(saizou_2nd)
500レス 5755HIT saizou_2nd (40代 ♂) -
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今日もくもり
たまにふと思う。 俺が生きていたら何をしていたんだろうって。 …(旅人さん0)
41レス 1328HIT 旅人さん -
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おとといきやがれ
次から老人が書いてる小説の内容です。(関柚衣)
9レス 284HIT 関柚衣
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なぜそこまで結婚にすがるのか?
30歳や35歳の適齢期を過ぎた独身の人が、結婚にすがるのはなぜでしょうか? 諦めて、独身生活の楽し…
51レス 749HIT 知りたがりさん (50代 男性 ) -
誰でも働ける世界になったらどうなる?
法律を改正して公私立小中学校の教育を選択できるようにしたりその学費を年間100万円(義務ではないため…
29レス 518HIT おしゃべり好きさん -
息子に言われたショックな一言
もしも留守の時、親がアパートに入ったら 嫌ですか? 一人暮らしをしている息子(20代)から、初め…
25レス 520HIT 相談したいさん -
これって私が悪いの? 普通に最悪
先日、私の送迎会がありました。 もちろん先輩である好きな人も来ていました。 結構場も盛り…
13レス 339HIT 恋愛好きさん (20代 女性 ) -
もう生きるのが辛い
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32レス 646HIT 相談したいさん ( 女性 ) -
男性恐怖症でも彼氏がいるのは矛盾?
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11レス 213HIT おしゃべり好きさん - もっと見る