注目の話題
既婚者の人が同僚をホテルに誘う心理
友達ってなんだろう
店員が水分補給してたら怒りますか?

神社仏閣巡り珍道中

レス500 HIT数 14210 あ+ あ-

旅人( pu5bob )
22/11/06 23:09(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。

22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。

No.3536620 22/05/08 22:26(スレ作成日時)

新しいレスの受付は終了しました

投稿制限
スレ作成ユーザーのみ投稿可
投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

No.51 22/06/03 11:38
旅人 ( pu5bob )

『善光寺縁起』によれば、御本尊の【一光三尊阿弥陀如来】さまは、
インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三(552)年、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。
この御仏像、な、なんと!
仏教という新しい宗教を受け入れるか否かを巡る『崇仏・廃仏論争』の最中、廃仏派の『物部氏』によって難波の堀江へと打ち捨てられてしまうのでありました。
その後、信濃国国司の従者として都に上った、【本田善光(ほんだよしみつ)】がこの御仏を信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りし、後に皇極天皇元(642)年、現在の地に遷座されたのだといいます。
皇極天皇三(644)年には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って【善光寺】と名付けられたのだといいます。

いやぁ、仏教の伝来の折に百済から伝えられた、んですよ。聖徳太子やら、蘇我馬子やらの時代ですよ。

そのころ起こっていた【痘瘡(もがさ)】(=天然痘)によるパンデミックは、仏教伝来と共に大陸から伝わったとし、廃仏派の物部氏が仏教を否定する口実としたといいますが…。
まさにその時、物部が打ち捨てたのが、この善光寺さんの御本尊、一光三尊阿弥陀如来像だったというわけで。
いやぁ、すごい。
それは確かに日本最古の御仏像だわ。

この御本尊さまは絶対秘仏。
度重なる火災のため、善光寺さんには史料は残ってはいないということですので、いつの頃からのことなのかはわからないのでありましょうが。

平安後期にあたる十二世紀後半に編纂された【伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)】』に、八世紀中頃にはすでに善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として京の都にも知られていたことを示す内容が記されているのだといいます。

十世紀後半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土信仰の隆盛とともに、【善光寺聖(ぜんこうじひじり)】と呼ばれる僧が、御本尊の御分身仏を背負い、縁起を唱導して全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めたのだといいます。
この御分身こそが、七年に一度御開帳される御前立ち御本尊となるのだといいます。

No.52 22/06/03 13:35
旅人 ( pu5bob )

鎌倉時代には、【源頼朝】公や【北条一族】が厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行ったといいます。
善光寺信仰が広まるにつれ、分身仏として御本尊の模刻像が多く造られ、全国各地にそれをお祀りする新善光寺が建立されます。
現在の【前立本尊】は鎌倉時代に作られたものといいます。
また鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。
東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・【親鸞聖人】、時宗の宗祖・【一遍上人】なども善光寺に参拝されたという記録が残っているようです。

ちなみに。
現在も、前述した通り善光寺さんには宗派というものはありませんが、善光寺さんの山門手前にある橋を渡ると【大勧進】と呼ばれる『善光寺の天台宗』を束ねるものがあり、善光寺内の天台宗の本堂や不動堂などがあります。
また、仁王門手前を左に入るところに【大本願】と呼ばれる『善光寺の浄土宗』を束ねるものがあって、やはりこの周辺に浄土宗の本堂等の建物が建っています。
この、大勧進と大本願のそれぞれのご住職が、善光寺のご住職を兼ねておられるとのことであります。



戦国時代は本尊流転の時代と言われ、時の権力者らによって本尊像は翻弄されることとなります。
【善光寺平】(現在の長野市がある平野部)ではかの【武田信玄】公と【上杉謙信】公が信濃の覇権を巡り、【川中島の合戦】を繰り広げます。

弘治元(1555)年、武田信玄は御本尊『一光三尊阿弥陀如来像』や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移します。
その武田家が【織田・徳川連合軍】に敗れると、御本尊は織田家、徳川家の祀るところとなり、
最終的には【豊臣秀吉】公が京都・『方広寺』の御本尊としてお祀りしておられました。
そんな秀吉公の死の直前、善光寺如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになられたということで、それにより善光寺如来像は慶長三(1598)年、四十数年ぶりに信州善光寺にお帰りになられたのだといいます。


ちなみに。
善光寺には、今、武田信玄公と上杉謙信公両者のお位牌がぴったりと並んでお祀りされていましたよ。
なんだか、とても感慨深く、そしてそれがまたとても善光寺さんらしいなぁと思え、しばらくそのお位牌の前に立ち尽くしていたおばさんなのでありました。

No.53 22/06/03 14:01
旅人 ( pu5bob )

そんな戦乱の時代に巻き込まれ、善光寺をはじめ門前町全体が荒廃を余儀なくされたといいます。
それはもう語るまでもなく。
だって、御本尊から什宝、果ては寺僧にいたるまで、根こそぎごっそり持ち出されていますから。
実際、遠く東北の地にあっても、この善光寺の件を耳にしたくらいでありました。まぁ、上杉家の菩提寺において、ではありますが、ね。


その後、江戸幕府開府に伴い、【徳川家康】公より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参ります。

泰平の世が続き「一生に一度は善光寺参り」と、多くの人々が参拝し、念仏を唱えて一心に祈る者は性別・身分を問わず、誰であっても極楽浄土に導いて下さるということで、
善光寺は一貫して無差別平等の救済を説く寺院として広く知られることとなります。
そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺参りの特徴であったといいます。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれています。
今はまさに老若男女。小さな子どもが手を引かれ、あるいは抱っこされて、親子三代あるいは四代の参拝者さんも見受けられたくらいです。

さて、いくどか前述しているように、善光寺の歴史は度重なる火災の歴史でもありました。
火災後の再建に掛かる資金の多くは、御本尊の分身仏である『前立本尊』を奉じて全国各地を巡る【出開帳(でがいちょう)】を行い全国の方々からいただいた浄財によって賄われたといいます。

特に最後の大火となった元禄十三(1700)年の火災は、焼失前に既に計画されていた本堂移築用の資材も全て焼失してしまうものであったといい、その後、現在の本堂を再建するために全国各地で五年間の出開帳を行い、寄進された二万両を越す浄財によって宝永四(1707)年、現在の御本堂が落成したのだといいます。続いて山門、経蔵などの伽藍が整えらていったといいます。

そんな、まさに壮大な歴史を持つ善光寺さんの本堂を前に、いったんは真っ白な灰のようになったかに思われたおばさんですが、その大きな御本堂、そしてその内におられる御本尊さまからパワーをいただき、徐々に活気を取り戻すのでありました。
願わくば、悪い気は抜け落ちた状態で復活していて欲しいものでありますが…。苦笑。

No.54 22/06/04 06:03
旅人 ( pu5bob )

大きな大きな御本堂。

最初はその内に上がるため並んでいる人の余りの多さにばかり目がいっていましたが、落ち着いた目であらためて御本堂を見上げると、そのたくさんの人たちの列すらが小さく見えるほどに大きいことにあらためて気づきます。
御本堂の横に並ぶ人たちの横にあるのは〝床下〟、なんですよ。
どんな高身長の方がおられても、あくまでも床下横に並ぶほど、高い床下。
御本堂へと上がる階段は普通の一軒家レベルの二階はのぼるものより段数が多い!(まぁ、おばさんもう夢中なので、もはやその段数を数えようとかいう頭にすらならなかったので数まではわからないですが)
見上げるレベルの御本堂濡れ縁です。

今回、御開帳で中に入る(外陣や『お戒壇めぐり』)には、御本堂向かって右側にある階段を登ってまいります。
階段の横には御本堂の雰囲気を損なわない、そして緩やかで使う方の立場までも考慮された木製のスロープがあります。

その濡れ縁(というのがお寺さんの建物においての表現として正しいものかはわかりませんが)に立つと、さらにこの御本堂の大きなことがわかります。真横にきた御本堂の壁が、庇が、高いっ!
そしてほどなく正面へとまわります。
正面にある木製の扉の上背が高い!

善光寺さんが用意された、手提げのポリ袋に入れた靴を持って、いざ、御本堂の中へ!
(やたらと『!』マークを多用していることには気づいたのですが、あえて、その時の感覚を再現しようとすると自然とそうなるので、そのまま使って書いていきます)
…汚れ物を手に持って御本堂に上がることに少し躊躇いをおぼえつつ。

〝失礼いたします〟

…うわぁ。



…やっぱり人が多いなぁ。

御本堂入って最初に素直にそう思いました。

中でも当然ですが列をなして進みます。
まずは改札。

おおっ、そうでしたそうでした、これがないと入れない…あれ?私の拝観券、どこだっけ?

No.55 22/06/04 18:33
旅人 ( pu5bob )

本堂正面から外陣に入ると、賓頭廬(びんずる)尊者さまがお出迎えくださいます。
ここ三十年前くらいからさまざまなお寺さんで【撫で仏さま】としてお祀りするようになっているように感じます。
それ以前からお祀りされておられたお寺さんも多くありましょうが、
その頃から新たにお祀りするようになったお寺さんが多いのも確かです。…理由は…よくはわからないのですが、ね。
お賓頭盧さまはお釈迦様のお弟子さま【十六羅漢】のお一人で、『神通力(修行者が得られる超能力に似た力)』が大変強い方であったと伝えられています。
お釈迦様から人々を救うことを命じられた説話から、いち早く駆けつけられるようにと、外陣や、あるいはお堂の外にいらっしゃることがほとんどです。
『撫で仏』と言われる由来は、自らの患部とお賓頭盧さまの同じところを撫でることで、その神通力にあやかり治していただくというもの。

善光寺さんのお賓頭盧さまは、正徳三(1713)年にお祀りされて、それ以来三百年以上、人々に撫でられ、
飴色に照り輝き、そして元のお顔やお召し物が分からないほどに磨り減ってしまっておられます。
それだけ人々がそのお力にすがった信仰の証と言えるでしょう。

私はその飴色になって、お顔立ちも定かでなくなったお賓頭盧さまが、ただただありがたくて、…不敬な表現ではありますが、愛おしくて。
その場を去り難い想いに駆られました。

…が。すごい行列を私が止めているわけにもまいりません。
お賓頭盧さまに頭を下げて手を合わせ「ありがとうございます」と思わず言葉に出しておりました。


…ちなみに。
私の拝観券は夫の胸ポケットにありました。
子どもの世話をする係と、貴重品管理係に分かれ、家族旅行をしてきたくせが未だに残っていたようで、無意識のうちに夫に手渡していたようです。
ですので、お賓頭盧さまの頭を撫でたのは言うまでもありません。
…結構高いところにお祀りされているので、背伸びしてようやく手が届いたほどだったのですが、ここが一番重症なのでそこは真剣に頑張りました。
はい。


No.56 22/06/04 21:32
旅人 ( pu5bob )

改札を入ったのち。作られた進路を進むと、みぎての壁を背に、大きな、…おそらくたぶん『丈六』と呼ばれる大きさの金色に輝くお地蔵さまがお祀りされています。
そのお地蔵さまを起点としてまた外陣に向かって歩きます。

これはコロナ禍における感染対策。ソーシャルディスタンスを能率的にとるためにはいかにすべきか善光寺さんがお考えになった手段の一つと思われます。
歩いているのは、百五十畳ともいわれる、広大な畳敷きの間。
かつて、善光寺の信徒が一晩中念仏を唱え、死後極楽浄土へ行けるようにと願い祈ったという内陣であります。

コロナ禍での初めての御開帳。
適度な距離を保つため、ということで、畳には四角い、なにやら文字が書かれた紙のようなものが貼られています。
それが私なんともショックで…。
だって畳に結構派手な貼り紙がはられているのですよ?
善光寺の祈りの場です。ひえぇぇ…。

…まぁ、とはいえ、コロナ禍、一年延期した御開帳を、なんとしても開催して、成功させたい一心でのことではありましょうが、ね。

畳敷きの間を、外陣の、お賽銭箱のすぐそばまで歩き、再び内内陣へ向かって歩きます。僧侶がお経を読む場を内々陣と呼ぶようです。
視線を上にうつすと【旗鉾(はたぼこ)】・【華慢(けまん)】などと呼ばれる、信徒から奉納された装飾具や、欄間に祀られた【来迎二十五菩薩像】などが見えてまいります。

来迎二十五菩薩像は内陣と内内陣とを隔てる欄間にあります。天女のように舞う金色の菩薩が燦然と輝いています。
来迎とは、極楽浄土からこの世へ阿弥陀如来と諸菩薩たちが、往生人をお迎えに来る光景を指します。

善光寺さんの来迎像は、二十五体の菩薩像と、一体の比丘形像(剃髪の僧形)よりなっているのだといいます。

また、その左右には百観音像。
善光寺は『霊場巡りの番外札所』として、特に【結願】にはお参りされるお寺さんでありますので、西国・坂東・秩父の各観音霊場ので御本尊が並んでいます。

さらに進むと内内陣手前となり、
お前立ちの御本尊さま、絶対秘仏であります御本尊さまのお部屋となります【瑠璃壇】があり、それぞれの御前でお焼香ができるのでありました。


No.57 22/06/05 02:58
旅人 ( pu5bob )

御本堂の最奥部は【内々陣(ないないじん)】は、僧侶がお経をお唱えする場で、金色の経机・経箱がいくつも並べられており、法華経や阿弥陀経などの経本が収められていらといいます。

そこは絶対秘仏であられます、御本尊【一光三尊阿弥陀如来像】のお祀りされている【瑠璃壇】と呼ばれるところであったり、現在では御開帳されているお前立ちの御本尊さまがお祀りされているところであります。
当然そこまでは入ることなく、その手前にお焼香台が置かれていて、そこでご焼香させていただきます。
正直、これだけの人数の人間が訪れている今であっても、大切なこと、御仏に焼香し手を合わせる場をきちんと残して置いてくださることに私は深く感謝したのでありました。

が。

な、なんと!

法要の際には供養・祈願をされる方のみ特別にそこまで入ることができるようです。
うーん、そうか、そうだったか。

片手では叩けないほど大きな木魚や大鐘見えますが、それらは毎朝のお朝事などの法要の際に用いられており、その音色は堂内に止まらず境内にまで響き渡るものだといいます。


…よし!
お朝事だ!お朝事に参列させていただき、供養・祈願遠申し込むのだ!
そのために宿坊に泊まるのだ!

…これを、煩悩と言わずして、何を煩悩と言うのだろうか。

そ、そうか、その煩悩を取り除いていただきたい旨御祈願申し上げれはいいのだ!

…煩悩の連鎖か止まりません。



さて。
御本堂最奥部の左側に【瑠璃壇(るりだん)】が位置しています。現在この瑠璃壇は戸帳【とちょう】が掛けられ、外から見ることができません。戸帳は鳳凰が描かれたものと、龍が描かれたものの二枚で構成されているようです。
絶対秘仏の御本尊さま【一光三尊阿弥陀如来像】さまは【内厨子(うちずし)】に納められ、安置されています。
ちなみにこの内厨子は徳川五代将軍綱吉光公の母【桂昌院】さまによってご奉納されたものといいます。


そして。今、瑠璃壇の前にはお焼香台は置かれておりません。
と、いいますのも、お前立ち本尊さまがお祀りされている【御開帳】期間だから。
御本尊さまが二か所におられるという不思議な状況を避けるため、御開帳の期間には瑠璃壇はひっそりとお祀りされているのだそうです。

…それはそれで不思議なんだけど。
本来の、本当の御本尊さまに失礼に当たりはしないのか?






No.58 22/06/05 05:34
旅人 ( pu5bob )

戸帳の懸かる瑠璃壇の手前に三基の燈明があります。
さまざまな、煌びやかな仏具やお祀りされている壇や御像に押されて、ましてやいま、御開帳ということもあって善光寺さん側が意図的に瑠璃壇を拝すことを推奨していない状況であるため、少しくすんでまいりました、この三基の燈籠は見落としがちかもしれません。
こちらは享保五年(1720)に徳川竹姫から寄進された燈籠だということでありました。【不滅の常燈明(じょうとうみょう)】または【不滅の法燈】ともいわれるもののようです。

へっ?
不滅の法燈って…。
天台宗の総本山比叡山延暦寺さんにあるという、あの?
天台宗の開祖【伝教大師最澄】さまが点灯されて以来千二百年、消える事無きよう、守り続けられているという、あの?

まぁ、善光寺さんは大勧進と呼ばれる天台宗がございますし、その大勧進住職(貫主)さまが善光寺さんの住職も兼ねておられることですし、さほど不思議はないことなのかもしれませんがね。
ただ、私は少し違和感を感じてしまい、なので記憶に残ったくらいなのですが…。

実はこの火は開山善光卿の代に、御本尊様の白毫 (眉間にある白い毛)から放たれた光によって灯されたと伝えられるもので、以来千四百年の間、絶やされることなく受け継がれているものだということでありました。

〜「一たび常燈明を見れば永く『三悪道(さんなくどう)』(貪瞋痴)を離る。況や香油を持せば決定して極楽に生まれん」といわれ、善光寺を参拝した者は、この常燈明を拝んだだけでも極楽往生疑いなしといわれております。
燈籠の内部は見えませんが、本堂内で灯される蝋燭や線香などの火は全てこの燈明から取られています。
また、この燈明は結婚式などの慶事に分燈もしています。〜  (善光寺HPより)
…とのことでした。

なるほど、天台宗で受け継がれている不滅の法灯とは異なるもののわけですね。
ただ…よくよく考えてみると、天台宗の不滅の法灯(法灯と法燈で使われる字も異なっているようです)も、全国各地に分燈されています。
かの織田信長の比叡山焼き討ちの折、それ以前に山形県の【立石寺】さんに分燈されていたおかげで断火を免れることができたという、そんな意味合いもあって、分燈されているとしたら、善光寺さんもまたそれに相応しい分燈先となりましょう。



昨日六月四日は最澄上人のご命日であったようです。

No.59 22/06/05 06:47
旅人 ( pu5bob )

本堂最奥部の右側に、三体の像が祀られていました。
お参りの最中にはこの像がどなたのものであるのかわからないままに過ごしておりましたが、帰って来て調べたことによると、この場所を【御三卿の間(ごさんきょうのま)】と言うのだそうです。
元禄五年(1692)に江戸浅草山口庄三郎氏より寄進された像で、善光寺を開山された【本田善光卿】を中心にして、向かって右に奥様の『弥生御前』、左に息子の『善佐卿(よしすけきょう)』の像だということでありました。

前述の通り、善光寺さんの寺号は、善光卿の名に由来しています。
この御三卿像は神道の男神女神との様式的類似がみられ、神像として祀られているようです。
その為、神鏡が安置されておりました。
この神鏡は江戸小船町尼屋庄右衛門より【逆修回向(ぎゃくしゅえこう)】として寄進された鏡であるとのことで、どうやら神鏡が先に寄進されているもののようです。

ちなみに逆修回向の意味がわからず、調べてみたところ、逆修とは死後の往生菩提に資するため、生前善根功徳を積むこと、とあります。
まあ、今日では生前に戒名を授与することや、墓石に朱字を刻むことを逆修と呼ぶことが多いとも書かれていました。
善光寺さんも長い年月のなか、神仏習合していたようですね。

が。
明治初期にあったあの忌まわしき神仏分離の政策の折はどうであったのか…。
今も尚一つの堂内に西に御本尊様、東にご神体である御三卿をお祀りしている善光寺さんなのでありました。

まぁ、開基された方の御像を飾られることもありますし、それが寄進された際に三体で、その時点ですでにご神体として奉納されていたかもしれません。
開基とそのご家族の像をご神体として奉納されればそのようにお祀りすることかと。
開基であります善光卿とそのご家族の像を祀っていると、〝善光寺さん〟がおっしゃるならばと、明治政府も通したかもしれません。
地元の役人はこの大切な善光寺さんに関すること、もとよりそう、通したい、通そうと思っていたかもしれませんし。

No.60 22/06/05 07:02
旅人 ( pu5bob )

さて。
内陣を左右して向き合う、お地蔵さまの反対側には【弥勒菩薩】さまがお祀りされていました。
やはり金色に輝く、(たぶん丈六といわれるサイズの)坐像であります。
お地蔵さまは一見してお地蔵さまだとわかったものの、こちらの菩薩像、あの有名な『弥勒菩薩像』さまとはどこも、何一つ似てはおらず、ただ座られて印を組まれていることしかわからない。
印を見ればある程度その御仏がどなたなのかわかるようですが、なにぶんにも私、そういったことがさっぱり頭に入らないザル頭の持ち主で…。

おお、年配の善光寺の職員の方が、お焼香をされる方々を誘導されながら、内陣や内内陣を一言二言、説明してくださっているようです。

「あのぉ、あちらにおられる御仏さまはどなたなのでしょうか」

ええ、善光寺さんにあろうとも、エックスキューズミーおばさんは健在です。

No.61 22/06/05 09:32
旅人 ( pu5bob )

「ああ、あれは〝ミクロ(!)〟菩薩さまですよ」……。
「今は修行の身でありますけれど、お釈迦さまが亡くなった後を救ってくれるありがたい仏さまなんですよ」…お、おう。
ありがとうございます。と平静を装ってその場を去った私に、夫が話しかけます。
夫「あの仏さまはどなただと言ってた?」
私「弥勒菩薩さまだって」
夫「ミクロ菩薩さまって言わなかった?」
私「聞いてたんじゃん。今は修行中だけど、お釈迦様亡き後の世を救うって言ってるんだから、弥勒菩薩さまでしょ!そういうこと言わない!」

…大きいけれどミクロ…プフッ。

私はひそかに心の中で笑ったので。…ってここに書いたら、もっとダメじゃん。


修行の必要な珍道中コンビは、善光寺さんでもダメなやつらでありました。

No.62 22/06/05 18:00
旅人 ( pu5bob )

同行してくれた息子が、私どもへと授与品を買ってくれておりました。
御開帳限定の御守と、お線香を。

御開帳限定の御守は【幸せ牛守】という、牛の形をした小さな置物型のお守りを受けてくれました。
お婆さんが牛の角にかかった布を追いかけて、善光寺まで導かれた逸話にちなんで、牛の角の部分に五色の紐があしらわれています。そしてその紐には金色の回向柱がついていました。
ちなみにこの牛守り、『黒』『白』『金』『銀』とあります。
この色によって、お守りくださる力、ご利益が異なるようで、『黒』は「力強く守護、実行力」とあり、『白』は「癒し、穏やか、気分一新」とのこと。
『金』は「太陽。明るく照らす力」、『銀』は「月。魅きつける力」というそれぞれのご利益(?)が授与所に書かれていました。

ふぅん。授与所で見たとき、私なら黒だなぁと思いましたが、夫は白がいいとのことで、意見がくい違ったこともありお授けいただかなかった御守でした。(ふうぅ、よかったぁ)
ちなみに、息子か選んでくれたのも黒、でありました。

それに。
千曲市から長野市の善光寺までの三十キロを歩くという、その名も『牛に引かれて善光寺詣り』というイベントがあるようなのですが、実に四十回近い開催がされている伝統的な行事で、必ず牛が同行しているようですが、その色は決まって黒。
お婆さんが牛にひかれて行く様子を描いた牛の絵も黒か茶色。

ふふん、やっぱり黒だよなあ。



この息子にもらった黒の牛守は、今、私の枕元に飾ってあります。
…夫へは?
夫はそういう縁起物よりお酒の方が数千倍喜ぶ人間であることをちゃんと息子は知っていますので。笑。

ちなみに、私から息子へは、御開帳の年にお参りした記念の意味あいもあり、『回向柱ストラップ』というものを授与していただいてありました。
牛守りと回向柱守りの交換のような形とはなりましたが、お互いの幸せや健康を祈ってのもの。

時々牛の頭を撫でては、息子の守護、息子の幸せをお願いしております。
まぁ、それが母心というものです。

…黒牛さん、私がまた善光寺詣りに行けますように。
時々はそんなお願いをし、祈ったりもしておりますがね。




No.63 22/06/05 18:33
旅人 ( pu5bob )

息子が買ってくれた善光寺詣りのお土産(一緒に行っているのに…なぜお土産?ということは置いておき)のもう一つ。
お線香であります。
香りの見本などもありませんし、あったとしてもこのコロナ禍、マスク越しに嗅いでもよくはわからないかとも思いますが。
「よくわからないから適当に買ってみたんだけど」
というお線香は白檀の香りでありました。

お線香は割れないよう、こぼれないようということなのでありましょう、箱の中でさらに紙で包んであります。
善光寺さんのそのお線香、箱の中の包紙に御来迎二十五菩薩について書いてありました。
ホームページを見ても書かれていないようなことが書いてあり、息子が買ってくれなければ知ることのなかったことが書かれておりました。

以下はそのお線香の包紙に書かれたものになります。

『…(善光寺の)本堂内部正面の上
、内陣と内内陣とを仕切る欄間に、金銅のご来迎二十五菩薩のおすがたがかかげられています。
これは、西方浄土の阿弥陀如来さまが衆生を救うために二十五菩薩を従えて、御自ら進んで、人間界に降りて来られるおすがたを描いたものです。

この中の一ヶ所に、蓮台のみの場所があります。
これは善光寺にご参詣になり、御仏の宝前に手を合わせた方は、誰でもこの蓮台にのぼり、往生することができるという意味、なのである、ということでありました。

はあぁ…。

No.64 22/06/06 11:55
旅人 ( pu5bob )

六日は、不浄を祓う力が強い【烏枢沙摩明王』(うすさまみょうおう)】さまのお縁日とされています。

こちらの仏さまのお名前、近年有名なものとなっておりますでしょうか。お寺さんの御不浄、トイレにお祀りされていることの多い明王さまです。
お寺さんで烏枢沙摩明王さまの御像をご覧になることもあったかと思います。お名前まではご存知なくとも「こんなところにまでお仏像を祀ってあるんだ」と思われたことはありません?
古くから、不浄な場所を清浄にする力が強いので、トイレなどに祀られることが多いようです。

烏枢沙摩明王さまは、インドの火の神『アグニ』神が元になっているといわれ、不浄を燃やし清浄にするため【火頭金剛(かずこんごう)】さまとも呼ばれることがあるようです。

【不動明王】さまを中心とした【五大明王】では、北方に『金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)』さまを配しますが、天台宗では『別尊雑記・五菩薩五忿怒像』などの説から烏枢沙摩明王さまを配することがあるといいます。

金剛夜叉明王さまと烏枢沙摩明王さまは、誓願に共通点があり、同一視されたということのようです。


『不浄除け』以外の御利益としては、『子宝安産』、『病魔除け』や『魔除け』など、
祟りを鎮める霊験があるといいます。
さらには枯れかけた樹木や野山に花を咲かせたり、枯れ井戸や泉に水を戻したりなどのご利益もあるようです。

御仏のお像や御札をトイレにお祀りするのは、なんとなくバチ当たりな気がいたしますが、そもそもがトイレを綺麗に使うことが大切なことということなのでしょう。


ちなみに私、トイレ掃除だけは、仕事に行く前にも欠かさずやっていたくらい、そこだけは唯一きちんと掃除された空間となっております。
〝だけは〟という言葉が反復されているところが、なんとも情けないおばさんです。
それでも烏枢沙摩明王さまの御札や御像をお祀りするのは畏れ多くてできません。

No.65 22/06/06 14:01
旅人 ( pu5bob )

内内陣でお前立ちご本尊さまを拝し、さらに進みますと、〝善光寺といえば、〟といわれるほどに有名な【お戒壇巡り(おかいだんめぐり)】といわれる、善光寺さんの言葉をお借りすれば『道場』があります。

その手前に。
なにやら異国情緒あふれる御仏像がお座りになられています。
しかもよく見るとそのお座りになられているのは『塔』のお部屋。
室内用ではありますが、しっかりとした三重の塔となっています。その中央に鎮座されておられるのですが、この像のさらにその上の段に祀られているのは仏舎利で、しかもこの仏舎利と御仏像、タイ国王から贈られたものであるとのこと。
…何年も前、子どもたちと共に参拝した際にもここにおられたはずなのに、まるで記憶がありませんでした。
たぶん、私にしても初めてのお戒壇巡りに、しかも子どもを何人も連れて入るということで、その時はいっぱいいっぱいだったのでしょうね。…そういうことにしておいてやってください。

ほっそりとしたどこか優雅なこの御仏はなんと約七百年前に作られた釈迦如来像とのこと。
そもそもこのお釈迦さまの像と仏舎利、なんと昭和十二(1937)年、『日タイ修好五十周年』を記念して贈られたものだというからびっくりです。第二次世界大戦のほんの二年前のことになります。


うーん。さすが善光寺。



…とはいえ、この日も、前回のかすかな記憶をたどりなかなかシュールであった記憶しかないお戒壇巡りに、気持ちがソワソワしておりましたことはたしかなんです、はい。

No.66 22/06/06 14:56
旅人 ( pu5bob )

いい歳をしたおばさんが、ソワソワしたという善光寺さんの【お戒壇巡り】は、
ご本尊さまが安置されている内内陣の〝床下〟に回廊があり、その〝ロの字〟型になった回廊を巡ることです。

お戒壇巡りは実は全国各地のお寺にもあるようですが、私はここ信州善光寺のお戒壇巡りしか存じあげません。好奇心旺盛なおばさんですので、行ったお寺さんにお戒壇巡りがあれば必ずや巡っていることでしょうから、たぶん、少なくとも今まで私が行ったお寺さんにはなかったのだと思われます。

お戒壇めぐりをすることで、ご本尊さまと直接ご縁を結ぶことができると言われています。
入り口に『ご本尊の真下に懸る【極楽の錠前】を探り当て秘仏に結縁する道場です。右手で腰の高さ位の壁を撫でて探って下さい。』と書かれています。

内内陣の下の真っ暗な回廊をひた歩き、瑠璃壇のご本尊の下にかかる極楽の錠前に触れるミッションといえば簡単に聞こえるかと思いますが、回廊の中は本当に本当の真っ暗闇で全く何も見えません。
距離は45メートルとのことですが、真っ暗闇の中をゆっくりただただ壁を伝って歩くので、長いとか短いとかではなく、いつこの闇が終わるのかとそればかりを思って歩いた気がいたします。
かつて子どもたちの小さな頃、思ったより真っ暗闇なお戒壇に、なんとか無事に子どもたちと出なければ、と思いつつも実は自分こそがパニック気味だった記憶のみが残っています。


お戒壇めぐりの入り口はかなり狭くて急な階段を下るようになっており、七段の段を下るとお戒壇めぐりの始まりです。
最初はほのかに明るかったのも束の間、すぐに真っ暗な闇が全てを覆い隠します。
そんな真っ暗闇の中を、右壁に手を当てて必死に伝いながら歩きます。まともに歩くことができないので、進むペースが極端に遅くなります。
最初のうちはすぐ前を歩く方に、近づき過ぎたりしてもいましたが、そのうち気配すら感じなくなってしまいました。

いつ終わる?
私はその錠前を通り過ぎてしまったんじゃない?
後ろを歩いているはずの夫の気配もありません。

頼みは右壁のみ。
自分しかいない空間のように感じます。

それでも…。
壁伝いにただただひたすら一人で真っ暗闇を歩いていると、やがてガシャガシャという音が聞こえてきます。
ん?
おおっ!
錠前を触る音に違いない!
あと少し。あと少しで錠前なはず。


No.67 22/06/06 16:15
旅人 ( pu5bob )

ん?

おっ!
壁にあきらかに異質な物を感じました。それでも真っ暗闇なため、ゆっくりとその形状を確かめました。
おおっ。
何やら上下する金具のようです。たぶん、錠前。
やったぁ!

で?
この錠前を触って…どうするんだ?
何か決まり事とかあったっけ?
触るだけでよかった?
うーん。

とりあえず、
(ここまで参ることができました。ありがとうございます)と心の中でお礼を申し上げました。
錠前から手を離し難い気持ちを振り払い、先へと進みます。

あとどのくらい?

錠前を手離し再び壁を伝って歩き出すとまもなく壁はカーブする感じです。当然歩いていく回廊も。

あれっ?
何やら少し明るい?
あれれ階段?
錠前からはまもなく階段。
お戒壇巡りだけに階段から始まって階段で終わりますか。

やっぱり細くて急な階段です。

真っ暗闇の中を歩いて明るいところへ出たのだからさぞかし眩しいものだろうと思いきや、そんなこともなく、目もしっかりと見え、足元もしっかりして歩けます。
さすが阿弥陀如来さまとのご縁が結ばれる回廊、お戒壇だけあるなぁ、などと思いつつ。

ここを上がったところで、御開帳限定の回向柱守を取り扱っておられたのを、お戒壇巡りに入る直前にしかと見ておりましたおばさん。
一目散にそこへと向かい、お授けいただきました。
こちらは他の授与所と異なり、この回向柱守のみを取り扱っているようで、しかも僧侶の方がお授けになられています。
御本堂の中で、僧侶の方から手渡していただく御守は御利益がさらにありそうな…。…はい、これが煩悩、これこそが欲。
あくまでも強欲なおばさんでありました。

お戒壇巡りは一説によると、胎内巡りでもあって、ここを巡ることで新たな、新しい自分に生まれ変われる、…はずなんですが。

それすらも効果がないほどの人物ということでしょうか(;ω;)

No.68 22/06/07 01:38
旅人 ( pu5bob )

お戒壇巡りを終え、御開帳に行ったなら是非お受けしたいと思っていた【回向柱守】を、思いがけず御本堂内の、それもお坊さまからお受けすることができ、すっかりご機嫌な私が、次に向かったのが、【御印文頂戴】に。
本来は一月の限られた期間にのみ行われる行事のようですが、御開帳期間中は毎日頂戴できるとのことで、本当はこれをお受けするかどうか、悩んでいたものでありました。
と言いますのも、この【御印文】を頂戴すると極楽往生が約束されるというもので。
…私は自分の罪深さを知っておりますゆえ、夢夢自分が極楽へ行けるような者でないことぐらい自覚しておりますし、それを自覚していて、そんな簡単な(善光寺さんごめんなさい)ことで極楽往生してはバチが当たります。
せめて、このあとの残りの人生で少しでも巻き返しができればそれでもう十分だと思っております者ですから。

とはいえ。
こちらのご本尊さまであられる阿弥陀如来さまは衆生を極楽往生させるという誓願をお立てになられておられますので、それにあやかろうという善男善女がこぞってお参りされるところ。
うーん、場違いな人間だったのかなぁ。
いやいや今後の人生改心するようにお導きになることこそが、まずは極楽への道に繋がろうもの、きっとそういったお導きをしてくださるに違いない。うんうん。

この御印文、なんでも【善光寺如来】さまのご分身といわれている宝印であるそうです。
これを僧侶が参拝者の額に押し当てるという儀式なのだとか。
お? ひ、額?
額でなく、ボケた頭にお受けするのはどうなんだろう。

…実は私、額ではなく頭頂にほど近い後頭部におしいただいております。
案内していた係の方が、
「ありがたさのあまりにあまり頭を下げられますと、この御印文、実は大変重たいものでありまして、頭が下がった状態のところまで印を下げると僧侶には大変負担となりますので、普通に立つ感じで僧侶の前にお立ちください」
とおっしゃっていたものですから。

もとより極楽往生は望んではいなかったのでそれはそれでいいんですけど、…ボケた頭に効いたりはしないかなぁ。

No.69 22/06/07 01:52
旅人 ( pu5bob )

そんな【御印文頂戴】も長い歴史ある儀式で、なんと『落語』にもなっているのだとか。
その落語が古典落語の演目『お血脈(おけちみゃく)』というものだそう。そのあらすじを…。


【お血脈・あらすじ】

善男善女で賑わう善光寺。
お坊さんから「お血脈の御印」を額に押してもらうと極楽へ行けるという。
噂を聞いた大悪人も押し寄せて皆浄土行き。
関古島の地獄で頭を抱える閻魔大王に見目嗅鼻(みるめかぐはな)という従者が申し出て、御印を盗み出したらいかがかと。
選ばれたのが石川五右衛門。
「憚りながら娑婆にては太閤秀吉公の御殿に忍び入ったこともございます。さようなものを盗むのは容易きこと。ご安堵あれ大王様」
「勇ましや、ぬかるなよ」

 
娑婆に戻って善光寺で、御印文=お血脈を見つけた石川五右衛門。
「はははは。奪い取ったる血脈の印、これさえありゃあ大願成就。ありがてえ、かたじけねえ」。
…御印を頂いたもんだから、そのまま極楽へ行っちまったとか。


…これが古典落語のお血脈のお話。
いやいや、さすが、一生に一度は善光寺詣りと全国でその名を轟かせる善光寺さんでありました。

No.70 22/06/07 07:52
旅人 ( pu5bob )

この【御印文】。
それはそれは美しい花嫁御寮が着る打ち掛けを思わせるような布で包まれており、そして、なるほど先ほど案内・誘導されていた人のおっしゃる通り、重そうな、直径からすると布を含めたらバスケットボールほどにもなるかとも思われる大きなものでありました。(あくまでも最長部分の直径で。)

その綺麗な布に包まれた御印文を僧侶が高い、例えるなら小振で少し高さのある講演台のような台の上から差し出して、参拝者の頭に押し当てる儀礼でありました。
なるほど、これは参拝者が深く首を垂れては腕や肩への負担も大きいものでしょう。
私の身長は158センチ強なのですが、それもなかなか大変そうでありました。一方の夫の身長は180センチ強、私にお授けくださるよりもずっと楽そうに見えました。


この御印文「ごはんさん」とも呼ばれらのだとか。
…〝ごはんさん〟と聞いて、〝ドラゴンボール〟をふっと思い浮かべるあたりが、どんな大人かを(大人という言葉自体が恥ずかしい)物語っていますか。


御開帳執行を告知する高札には「御印文令頂戴(ちょうだいせしむる)者也」とあるそうで、前立本尊、回向柱と共に御開帳参拝の中心の一つであるとされています。

No.71 22/06/07 11:40
旅人 ( pu5bob )

とりあえず、私の中では本日参拝したかった御本堂および前立ちご本尊さまへ詣でることができ、ここまででもうすでに充分満足しておりまして。
とはいえ、この時点でまだ九時半、充分他へまわる時間はあります。
「次はどこかまわりますか?」と聞きますと、夫は
「まずは山門だな」と。

本来ならばここ、山門をくぐってからのお参りが正規のルートとなりましょうが、私どもは裏手の駐車場に停めて境内に入ったものですから、そのまま一番近くにある御本堂へのお参りとしてしまったので、その後山門というのも(なんだかなぁ)という感じもいたしますが。

あらためて見上げる山門の大きなこと!
大多数の参拝の方はみな、山門をくぐり回向柱に触れるという、一般的なまわり方をされています。
私たちは、青空に高くそびえる回向柱を通り過ぎ、山門へと向かいます。
しかも山門登楼参拝のため、山門の内側へ。山門登楼に向かう方はまだこの時点ではさほど多くはなく、ほぼ並ばずに階段を登ることができました。フリーパス的な拝観券を購入してあったことも多少功を労した点もあるにはありましたが…。

かなり急な、しかも段裏を支える低い横柱のある歩きづらい階段を登って行くと、おおっ!
中には四国八十八ヶ所霊場のお分身仏かお祀られていたではないですか!
そして山門のご本尊だという【文殊菩薩】さまが、四天王の囲む中央に、獅子に乗られたお姿で鎮座なさっておられます。
文殊菩薩さまの安置された仏間は色鮮やかな色彩の障壁画があり、御本堂だけですっかり満足していた気分になっていた私は、またさらにテンションがあがるのでありました。

そんな楼門の内部の一部壁面には、墨字で書かれた落書きが多く残されていました。
これは江戸期から昭和初期までの間に登楼された参拝者が自らの名前を残したものです。
中には「島津藩の家紋と共に書かれた桜島と思われる山の絵」や浅野家の後に赤穂を治めた「赤穂藩森家家中の名前」や会津討伐の後に立ち寄ったと思われる「長州奇兵隊」といった記載が見られるといいます。

お寺の山門、とはいえ壁に落書きをするなどはいかにもバチ当たりな行為な気がいたしますが、群馬県太田市の曹源寺さんの栄螺堂もその壁のほとんどに落書きがありましたし、
そういった風潮があった時代があったという、歴史的記録の一部ともなっているのかもしれませんが、ね。

No.72 22/06/08 03:31
旅人 ( pu5bob )

この山門、江戸時代中期の寛延三(1750)年に建立されています。
様式は五間三戸二階二重門、屋根は入母屋造りの栩葺(とちぶき)というものだといいます。
『栩葺』…と言われてもさっぱりわからない私でありますが、実は造られた当初はこの栩葺であったものを途中で行われた葺き替えで、檜皮葺というものに変えていたとのことです。
それを平成の大改修の際にこだわって栩葺に戻しておりますので何やら意味があるのでございましょう。

まぁ、私には檜皮葺も栩葺もさっぱりわからない。
そもそもがこの善光寺さんの山門、大きくて大きくて、背が高い。
何でできているかすら見えないんです。
一応この栩葺についてGoogle先生にお聞きいたしましたところ、栩葺は、長さ六十センチ、十〜三十ミリくらいの板を重ね合わせて葺く工法だそうです。
ちなみに善光寺さんでこの平成の大修理で使用された木はサワラ。
十七万枚もの栩板を作って葺いてあるそうですよ。
枚数もさながら、屋根葺に適した部分を用いてかつ割れにくい木目で作るためには職人の腕が必要だといい、結構な工程を一枚一枚手作業するもののようです。

また、人工林のサワラ材では目が粗く老朽化や、破産して雨漏りの危険性があるとのことで、木曽の国有林から天然サワラ材が調達されたそうです。

一方御本堂は檜皮葺のようで。檜皮葺とは檜の皮を板にしたもので屋根を葺いたものとのことです。

瓦の方が耐久年数が長いんじゃないのかと、私などは思うのでありますが、実は瓦屋根というのはそれ自体が相当の重量を有し、積雪のことを考えると、さらに積雪荷重が加わるため屋根自体の相応の構造強化も施さなければならないらしいです。しかも瓦って凍害に弱いのだとか。
と考えるとこういった植物質の屋根の方が地の利にかなっているようです。
栩葺屋根の耐久年数は三十〜五十年と言われているとか。
…なかなか古いものを維持していくのは大変です。


弘化四(1847)年の善光寺地震や、昭和四十年代の松代群発地震などの影響で建物の基礎が損傷し、全体の老朽化も進んだことから、
平成十四(2002)年から平成十九(2007)年まで約五年間かけて山門としては初の大規模な修復工事を行ったといいます。
この修復後、約四十年にわたって中断されていた二階への登楼参拝を、平成二十(2008)年から再開したそうです。

No.73 22/06/08 08:38
旅人 ( pu5bob )

善光寺さんといえば【鳩字の額】。
…「善光寺さんといえば〇〇」と言われて〇〇に当てはまるものが、人によってさまざまに異なるかと思いはしますが、結構上位に位置するのではないかと思うこの〝額〟。
山門表側の中央に掲げられている、かなり遠くからでもその文字が読める大きな額であります。

山門内部の御仏さまのお護りくださっている間をぬけて、外に出ると楼上に掲げられている、【輪王寺宮公澄法親王(こうちょうほっしんのう)】筆のこの額が掲げられています。
大きさは約三畳分あるというこの額を、すぐ真横で見ることができるのが楼門から外に出てすぐのところであります。
通称『鳩字の額』と呼ばれており、その理由は、この〝善光寺〟という三文字の中に鳩の姿が五羽隠されていることから。
また更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われています。

『(その鳩全て)みつけられますか?』と、よく問いかけられるもののようです。


なお、現在山門に架けられている額は平成大修理の際に作られた二代目となるものであり、先代の額は〝史料館〟で見ることができました。


この回廊に出ると鳩字の額よりもまず目に入るのが、仁王門を抜けて回向柱に触れるために並んでいる横にも広く縦にも長い人達の列、です。
思わず目を見開いて声が出ます。
その、人の波にしばし驚いたのち、ようやく目に入ってくるのが善光寺の参道であり、長野市の眺望であります。
そして、「あっ」と思い出してみぎてに目をやるとあるのが『鳩字の額』でありました。
真横から、そして何より大きなものなのでなかなか全体を見るのは難しいのではありますが、それでもなんとか写真におさめることができました。
でも実感としては畳三畳の大きさには感じられなかったというのが、私の感想でありました。

その回廊をまわっていくと善光寺さんの境内を眼下に収めることができます。
そびえる御本堂と回向柱と、善男善女、老若男女の大きな人の列が目に入ってまいります。

一際大きな人の列は。
…なんと御朱印所!


ここで私は今回御朱印をお受けすることを諦めました。

No.74 22/06/09 17:16
旅人 ( pu5bob )

山門をおりて、どこへ向かうとも定めぬままに、御朱印をお授けいただこうと並んでいる何十人もの方々を見るとは無しに見ながら、山門の内側の境内を歩いていると、通常のお寺さんの御本堂くらい大きなお堂があって、そのお堂の前にも回向柱と同じような柱までが建っているではないですか!

「あそこに行く!」
と一言いうと、一目散にそこを目指して小走りに向かう私。
…ええ、身内にとってはいつもの事です。なんとはた迷惑でしかない妻で母でありましょう。

しかして。
向かった先は【大勧進】・【護摩堂】でありました。
こちらに建てられた柱は【結縁柱(けちえんばしら)】と呼ばれるもので、護摩堂にお祀りされた不動明王さまと結ばれているということで、やはり、七年に一度の前立本尊御開帳の時にのみ建立されるものだといい、柱に触れるとお不動さまに触れたと同じご利益があるといいます。

うわぁぁ!
今日は二十八日、お不動さまのお縁日であります。
なんとありがたいことでありましょう。

しかもこちらの結縁柱は人が並んでおりません。
全てを自分に都合よく、今日来られたこともご縁なら、これだけの参拝の方がおられるのにどなたも柱のそばにおられず結縁柱に触れていたいだけ触れていられることも大きなご縁と思いこみ、すっかりご機嫌な私。
しかも、です。
ちょうどお護摩が始まるようです。

なんとありがたいことでありましょう。

三人の僧侶が護摩壇を囲んで御祈祷を始めました。炎が上がります。
ひとりの僧が繰り返し繰り返し、
不動明王さまのご真言を繰り返し繰り返しお唱えになっておられます。
私もご一緒させていただき、ご真言をお唱え申し上げました。

思ってもみなかった、本当にありがたい経験をさせていただくことができました。



No.75 22/06/10 22:34
旅人 ( pu5bob )

護摩堂を出て。
あれ?
こちらにも御朱印授与所があるようです。こちらはそんなに混んではいなそう…こちらでならお受けできるかな?
ほんの数分並んだだけですぐに順番がやってきました。
なんだか色々種類がありそうです。〝善光寺〟と書かれたものと〝善光寺如来〟と書かれたものをお願いいたしました。
その待ち時間に、こちら【大勧進】と呼ばれるところをまわらせていただこうと思いました。

No.76 22/06/11 03:41
旅人 ( pu5bob )

…そもそも、【大勧進】って、なんだろう。普通のお寺さんの名称とはだいぶ異なります。
あ、あぁ、そうか。『善光寺』、だから。


大勧進の寺名は、人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進する『勧進』を意味します。

大勧進は、開山、『本田善光公』以来、代々『善光寺如来』さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました。
弘仁八(817)年、【伝教大師最澄】さまが信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っております。

大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊であり、大勧進住職(貫主)は善光寺の住職も兼ねております。 (大勧進HPより)


善光寺本堂は642年に初めて建立されてから十一回も消失しているということを以前書きましたが、【輪王寺宮法親王】により善光寺本堂の再建を懇願された【善光寺別当・大勧進第73世貫主・慶運大僧正】によって、宝永4(1707)年に現在の本堂が建立されています。

その後の天明3(1783)年、日本の災害史上最大級の被害を出した【浅間山大噴火】が起こります。
その前年に『東叡山寛永寺』から【善光寺別当・大勧進第80世貫主】に赴任した【等順大僧正】は、自ら群馬県嬬恋村鎌原の被災地に出向き、被災者3,000人に食糧と銭を施し、共に念仏を唱え、悲しむ被災者に【融通念仏血脈譜】という『天国へのパスポート』となるお守りを新たに作成して被災者に授与したといいます。
… 善光寺というこれだけ大きな寺の住職であり、大勧進の貫主という立場にありながら、おそらくはまわりの反対を押し切ってのことと推測されます。
すごい、なんともありがたい方にございます。

そして。このお守りが古典落語にもなった【お血脈】の由来で、全国から多くの参拝者が「お血脈」を求めて善光寺に参拝に訪れるようになります。(ん?えっ?)

等順大僧正はさらに、浅間の大噴火により起こった【天明の大飢饉】に苦しむ民衆に善光寺の蔵の米を全て施し、
天明五(1785)年本堂にて御回向を実施されます。
これが現在も七年に一度実施され、約700万人(2015年)もの参拝者が訪れる本堂で執り行われる【善光寺御開帳】の始まりとなります。 




善光寺のHPにはお血脈=御印文のよう書いてあったんだけど?えっ?
ええっ??

No.77 22/06/11 04:08
旅人 ( pu5bob )

もうとりあえず、大勧進のことではなく『お血脈』について調べます。

【お血脈】は、釈迦牟尼仏から発し、阿弥陀如来から良忍により確立された【融通念仏】の継承者として『歴代大勧進貫主』が連なる
【融通念仏血脈譜】という系図で、大勧進のみで授与されるものです。

【融通念仏】は一人の念仏も、あらゆる人の念仏も、互いにとけ合い、その功徳によって、極楽往生できるという考えの信仰です。

『お血脈』を授与された皆様は仏の弟子として阿弥陀如来とご縁が結ばれることになります。

う、うん。


等順大僧正は天明三年(1783年)、日本の災害史上最大級に被害を出した浅間山大噴火が起こった時、群馬県嬬恋村鎌原に入り救済活動に取り組みました。
その際等順大僧正は悲しみ泣き叫ぶ被災者の心の平安を取り戻すため、融通念仏の信仰に基づく『お血脈』(融通念仏血脈譜)を新たに作成して、極楽浄土へ行くための御守として、被災者に授与しました。

うーん。

…なんとなく抱いていた謎が、モヤが晴れた気がいたします。

だってですよ、たしかに石川五右衛門をもって盗ませるようなものとしたら、あの善光寺の寺宝、ご本尊の分身とも言われる『御印文』しかない気はするんです。
それさえなければ、衆生がみな極楽へと行ってしまうといった事態を終息させることができるといったもの。
だけど…石川五右衛門に盗まれたそのあと、どうやって再び善光寺さんに戻った?

落語話だというのに、ずっとそこんところにこだわり引きずっていたんですよ。

ですが、ですね。
一枚のお血脈を盗んだところで、増産されるお血脈ですよね。
これもおかしな話です。

…。

……。


ま、いっか。

No.78 22/06/11 05:24
旅人 ( pu5bob )

…。

ま、いっか。 で締めましたが、どうにもかえってモヤモヤが倍増してしまった私。

で、悶々とお血脈について調べるとはなしに調べておりました。

すると!

大勧進で『お血脈』をお授け頂いた方が、その中身の写真をアップしてくださっている記事を発見いたしました。
そして!
その方の記事で、な、なんと!
善光寺二大別当のもう一つ、【大本願】にも『お血脈』が存在するということが書かれていたのであります。
…ま、実を言うと、私、あまりの混雑ぶりに大本願さんの方へは参拝せず、善光寺さんをあとにしてるんですよね。
だから、それを知らなかったのかもしれません。

…ん?
大勧進さんでも『お血脈』の大きな看板が一切目に入らなかったくらいなので、大本願さんに行っていたところでまるで気づきもしなかったかもしれませんが…ね。

もしかしたら、善光寺さんと言えば『お血脈』!なのかもしれないというのに、ねぇ。
だって本来ならば善光寺さん詣りって、少なくとも昔の方は極楽往生を願って参拝に訪れていたわけで、だとしたら間違いなく、このパスポート=お血脈は最重要にして忘れてはならない目的の物、ですよねぇ。

で、その中身。
大勧進でお授けいただく中に入っているものは、お釈迦様・阿弥陀如来様から現大勧進貫主までつながる系図ということで、これを受けた人は、貫主さまのお弟子になります。
つまりお釈迦様と阿弥陀様のお弟子になることができるという物。

本来は大勧進住職から、直接授与されるのが立前、ですが、普通に授与所で紙袋に入れられた物を授与となるようです。
大切に仏壇等に保管して、事ある時には極楽浄土へ持って行く。有体に言えば、死後、棺の中に納めるものとなります。

そして、この後!
『「落語 お血脈」はよく知られています。
でも落語の内容は「御印文頂戴」のこと。
本来の「お血脈」とは違っているので、紛らわしいのです。』

と綴られていました。


謎、解けたじゃん。
まぁとりあえずは石川五右衛門に渡った御印文はどうやって善光寺さんに戻ったということです。

ほおぉぉ〜、それにしても、ネットってありがたい!


ちなみに。
御印文には『牛王宝印』『牛王けん印』『往生決定印』の三判があり、善光寺如来の分身といわれています。
僧侶がお立ちになっているのは『妻戸台』というようです。

No.79 22/06/12 04:31
旅人 ( pu5bob )

まぁ、話は善光寺さんを参拝していた私に戻して…。
そう、大勧進さんの護摩堂を出て御朱印をお願いいたしましたところまで。
御朱印はいくつかのものを除いて基本的に直書きしてくださっています。番号札を渡されて
「三十分ほどかかりますのでそのころまたお越しください、書き終えたらそこに置いておきます」
とのこと。

それではと。
大勧進さんの境内(?)をまわらせていただくことといたしました。

美しい観音さまの像があって、その前には立派な香炉と、何やら小さな卒塔婆がたくさん置いてあります。

ん?

…そうでしたか…。
どうやらこちらは水子供養の観音さまであるようです。
手を合わせ、そこを立ち去ろうとしたとき、その卒塔婆を手にした方がおられました。
そおっとその方にも心の中で手を合わせそこを去りかけたとき、どうやらその方は何人かで来られていて、一緒に来られた方全ての人がその卒塔婆を手にして自らの名前を書き始めたことに気づきました。
この世に生を受けることは叶わなかった小さな命は、こんなにも生まれてきて欲しかった人たちに今なお供養してもらうほどに、大切に思われているのだなあと、哀しさと、小さな命を大切に思いながら暮らす方々へのありがたさで胸がいっぱいになりました。

…本来ならば当たり前、なのかもしれません。
ですが昨今の虐待死事件を思うとき、本来あるはずのこの感情、この愛情を失った人たち、持ち合わせていなかった人たちは、やはり一握りでしかないのだとあらためて実感させていただくことができました。
一握りの人がどうかあの忌まわしい事件を起こした人たちで最後でありますよう、願い祈るばかりです。


それにしても、この小さな卒塔婆供養というものは、なんと人々の嘆きや悲しみに寄り添ったものでありましょう。
気軽に、卒塔婆というありがたくも立派なもので供養できる…。
しかもその子の御霊のみに。
…なんともありがたいあり方だと、私は思いました。

No.80 22/06/13 05:02
旅人 ( pu5bob )

さて。
次に進んだのは…何やらお寺の本堂のような建物が見えてきました。
【萬善堂】という建物です。
こちらこそが、大勧進御本堂でありました。
善光寺さんの大きさ、参拝者の多さ、何よりも御開帳という儀式の開催期間という前回とは異なるさまにすっかり飲み込まれ、本来のお寺さんの参拝でのあり方など、全てすっかり頭から抜けていたようです。

そもそもが裏手から入ったことからが間違いといえば間違いで、山門を通ることで穢れを祓うということもないまま御本堂へと上がり、山門をくぐる前に登っております。
善光寺さんの御本堂へお参りしたことで、あとはそれぞれお堂等の施設であろうと思い、(ああ、お堂があるから寄ってみようか)…そんなノリで、大勧進さんの護摩堂へとフラフラと歩いて来てしまいましたが、よくよく見れば、大勧進さんは大勧進さんとして、善光寺さんの境内の中で独立した区画があり、塀でこそは囲まれていないもののしっかりと門もあり。
そして大勧進さんの御本堂があるという…善光寺さんならではの特殊性があったのでした。
過去に一度参拝していたこともあり、また、今回は御開帳に参列させていただくことを目的として来てしまっていたが故、善光寺さんについて何一つ調べることなく(厳密にいえば駐車場とかについてのみ調べ)来てしまったのでありました。

(門があるんじゃん)
(御本堂があるんじゃん!御本堂よりも先に護摩堂入ってしまっていたんだぁ)
(御本堂をお参りしていないのに御朱印をお願いしてしまったよ)

我ながら嫌になってしまいました。

御本堂では御本堂に集まった方々に向けて法話をお話しくださっておられました。
特にどちらかの一族の法要、という様子ではありませんでしたが、お話の途中を邪魔することとなるため、外からそっと合掌しその場を去りました。

その後向かったのは宝物殿のある建物でありました。
…実は私はあまり宝物、寺宝等に興味がないタイプ。「どうする?」と夫に聞きますと、入るのが当たり前、という様子。
内心あまり気乗りしないまま奥へと入っていきました。


その奥の奥に、【無量寿殿】という建物がありました。
かなり立派なお堂で小さなお寺さんの御本堂ほどの大きさです。
それがこんな奥に、まさにひっそりと建っていたのです。

No.81 22/06/13 11:22
旅人 ( pu5bob )

こちらは…?
どうやら御堂に入っての参拝が可能なようです。

お。おおっ!
なんとこちらは!
今御開帳されて御本堂に祀られておられます、お前立御本尊が普段御鎮座されている間、御堂にございました。

…たしかに。
瑠璃壇のお隣にはお祀りする空間があるのみで、御開帳の際にこちらへとお出ましになる前立御本尊さまは、普段はどちらにおられるのだろうと、ふと思ったりもしたのです。
善光寺さんのHPを拝見すると、御宝庫へとあります。
お前立御本尊も七年に一度の御開帳でありますので、七年間はそのお姿をお隠しになられます。
御宝庫?
貧乏人で学のない私は、つい上品な物置的な物を想像することしかできず、それはまたあまりにも失礼だよなぁと…。

善光寺さんはそんな馬鹿げた扱いをなさろうはずがありません。
こうしたきちんとした御堂に七年間御鎮座いただき、御開帳期間になりますと、専門の輿にお乗りいただき移動されるのでございました。
御開帳期間、だったからなのでありましょうか、お前立御本尊さまの普段おられます御堂まで参拝させていただくことができました。

ちなみに。
七年に一度、というのがキャッチフレーズの善光寺さんの御開帳。
正確にいうと実は数えで七年。御開帳の年から次の御開帳の年まで七年ということで、丑年と未年の年に御開帳されているようです。
その丑年と未年となったのも昭和になってからというお話もありました。明治までは不定期だったとも聞きました。



さて、そんな善光寺さんの御開帳期間もあと十日をきりました。

善光寺御開帳は、【結願大法要】によって終 わりを告げます。
善光寺を護る天台宗・浄土宗それぞれの僧侶によって法要が営まれ、
御開帳最終日の午後五時の夕座法要にて前立本尊の厨子の扉が静かに閉められらのだといいます。


そして。
御開帳期間後、前立本尊御還座式というものが営まれるのだそうです。
前立本尊さまが御宝庫にお還りになるための儀式で、
御開帳期間中、前立本尊さまのお指と糸で結ばれ、人々に御利益を授けてきた回向柱の前で法要が執り行われるといいます。
そしてその法要後、白装束の男性たちが担ぐ輿に前立本尊さまをお乗せし大勧進御宝庫へと向かい、扉が閉められて再び封印が成されらのだといいます。

うーん。自分で運転して一人で…は無理だなぁ。

No.82 22/06/13 21:23
旅人 ( pu5bob )

御朱印帳を受け取り、次に向かったのは経堂です。

経蔵は、宝暦九(1759)年に建立された五間四方宝形【ほうぎょう】造りのお堂です。
経蔵入口には輪蔵を考案したという傅大士(ふだいし)の座像が置かれています。その両隣には幼さを残したかのような立像がありますが、こちらがどなたなのかは、聞きしてくるのをすっかり失念しておりました。

経堂に入ると中央に、黒を基調に、壁面には黒い格子窓に金箔の板が貼られているハッと目を引く美しい八角の【輪蔵】があり、その中には仏教経典を網羅した【鉄眼黄檗版(てつげんおうばくばん)一切経】全六千七百七十一巻が収められているといいます。
高さ約十七メートル、重さ約五トン、奥行約15.4メートルの巨大な輪蔵です。
たいそう声の良く通る年配の係の方が、経蔵に入ってきた人たちを順番で輪蔵の周りに配置し、その回し方をレクチャーしています。
輪蔵を時計回りに一周押し回すと、収められた『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれているといいます。
輪蔵は、その大きさからは想像していたからよりもずっとずっと軽く軽やかにまわります。
何名かで回しているから、だけでない、こちらの整備の良さを感じます。

経蔵内にはまた、伝教(でんぎょう)・慈覚の両大師像などがお祀られていました。

経蔵の前には【南無阿弥陀仏】の六字が刻まれた石の輪を回す【輪廻塔(りんねとう)】があります。その輪を回すことで功徳を積み、極楽往生ができると言われているということでありました。





No.83 22/06/14 18:22
旅人 ( pu5bob )

>> 82 読み直して。
【経蔵】をご覧になられたことのない方にはさっぱりイメージできないなぁと思ったものの…。

うーん、困りました。

そもそも私に表現できるだけの語彙力がなく。
加えて、善光寺さんのいろいろなところで写真撮影が禁じられており、語彙力よりも何より記憶力の低下…というかもともとその能力が人より欠如している私。

写真等の資料もない状態で、経蔵がどういったもので、どのように回っていたか…それをどうやったら人様に伝えていくことができるものか…。



No.84 22/06/14 22:02
旅人 ( pu5bob )

【経蔵】はまたの名を【輪廻塔】と呼びます。
八角形の巨大な箱の下となる部分がまさにコマのように円錐状になっていて、その中央部から棒状のものが出ている、あるいは棒状のものを差して、床部分にある、それを差し込んで支える穴に立たせてあり、それを軸として、円状に回る、といったものであります。

年代によってはもはや通じない『回転型ジャングルジム・グローブジャングル』、あの遊具をご存知の方であれば、それを想像していただいて、そのジャングルジムのところが八角形だと思っていただければ、まず、それに近いものであろうと思うのであります。
そう、つまりは八角形の巨大な箱状のものから、神輿の担ぐ持ち手のような木の棒が出ていて、それを持って回す。

というものです。
…いくらかはイメージしていただけたでしょうか?

係の方、そう、よく通るあの声の方が、ちょうど一周回ってストップをかけるまで、その棒を持って回ります。
総重量はおよそ五トンと言われる巨大な箱を回しているというのに、軽く押すだけでびっくりするほどスッと回ります。
…まぁ、八名で回しているのですから、それはそうかもしれませんが。
そして一切のガタつきなく、スムーズに回すことができます。
五トンですよ、五トン。
しかも高さも十七メートル。


…どうでしょう。
少しはつたわりましたでしょうか。

経蔵がでーんとあるのでついついそこに目をやりがちでですが、御仏の像も安置されています。
釈迦如来さま、その脇侍としてお祀りされていたのは大迦葉尊者と、阿難尊者さま。
如意輪観音さま。

そのほかに伝教大師さまと慈覚大師の御像と。

そうそう、あの入り口に佇む傳大師(ふだいし)さまの横に立つお二方の名前がわかりました
お二方とも傳大師さまの息子さんなのだそうでした。

No.85 22/06/15 17:52
旅人 ( pu5bob )

お線香あげにお寺さんへ行ってまいりました。
ご住職ご自慢の【沙羅双樹】、『沙羅』の花が咲いていました。


『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす。
奢(おご)れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
『平家物語』冒頭より』

今から約二千五百年前、お釈迦さまはインドのクシナガラの沙羅の林の中で入滅されました。
その時、枕辺の四本(双樹)の沙羅は時ならぬ花を咲かせ、足辺の四本(双樹)の沙羅は白変して枯れたといわれます。
それなので『沙羅』は、お釈迦さまの入滅を表し、諸行無常を説く仏の花として知られています。
お釈迦さまの入滅を描く【涅槃図】に描かれているのはまさにその沙羅双樹であります。


日本では沙羅のことを【夏椿(ナツツバキ)】といいますが、朝に咲き夕べには散る、たった一日だけの花なのだそうです。
『平家物語』の冒頭でうたわれるように、平安末期、我が世の天下の如く権勢を振るった平家ですらすぐに源氏に取って替わられました。

どんな者にも必ず終焉の時がやって来ることを、釈尊入滅時に時ならぬ花を咲かせ、または白変させて 「諸行無常」を示した沙羅を以て、この世の無常を説き示しています。

たった一日だけ咲く純白の花は、まさにこの世の無常をたとえるのにこれほどふさわしい花はないといえるかもしれません。
淡く、そして薄いその花びらは、胸打たれるほど美しいものでありました。

No.86 22/06/16 03:07
旅人 ( pu5bob )

珍道中を始めてからはじめての善光寺さん。
それも七年に一度という御開帳の期間中ということもあって、すっかり魅了されてしまいました。


御開帳期間中の大きな特別な行事、
【回向柱受入式】、【回向柱建立式】から始まり【前立本尊御遷座式】。
前立本尊御遷座式では、白装束に身を包んだ男性たちが『一光三尊阿弥陀如来』前立御本尊さまを納めた厨子を輿におさめて担ぎ、御宝庫から本堂へと運ぶのだといいます。
そして御本堂では一山住職が厨子を担ぎ、内々陣へとお遷しになるのだそうです。

【開闢大法要(かいびゃくだいほうよう)】
御開帳初日のお朝事で、前立本尊さまの厨子が七年ぶりに開かれ、その後善光寺を護持する天台宗、浄土宗それぞれの住職による開闢大法要が営まれ、御開帳が始まるのだといいます。

【中日庭儀大法要(ちゅうにちていぎだいほうよう)】ではお雅児さんを先頭に、華麗な法衣をまとった住職の行列が進み、色とりどりの散華が舞うといいます。…もう想像しただけで胸がときめきます。
天台宗、浄土宗それぞれが回向柱の前で執り行う、厳粛な中にも華やかな法要だといいます。

長野市仏教会による『仏都花まつり』、長野市無形民俗文化財に指定される篠ノ井地区の2体の大獅子が表参道を練り歩き、山門前で勇壮な獅子舞を披露するという『篠ノ井大獅子奉納(しののいおおじしほうのう)』などもあるようです。

そして。
【結願大法要】。
きたる六月二十八日、八十八日間続いた御開帳が結願大法要を執り行ったのち、この日の夕方、前立本尊さまの厨子の扉がゆっくりと閉じられるといいます。
そして六月三十日には【前立本尊御還座式(まえだちほんぞんごかんざしき)】ということで、前立本尊さまは白装束の男たちが担ぐ輿にのせられ、御宝庫へお還りになられるのだといいます。

…もうため息しか出ません。

私どもは特にこういった特別な行事のない日に参拝させていただいておりますが、それでもあの参拝者の数!
こんな、特別な行事のある日はいかばかりなものでありましょう。
コロナ以前から人混みが苦手というか嫌いな私であります。

そんな私でも一目見たいと、一生に一度は見たいと思わせてしまう、善光寺マジックでありました。
そして…御開帳期間中でない善光寺さんへ、宿坊に泊まってゆっくりと参拝したいとも思う私なのであります。

No.87 22/06/16 09:44
旅人 ( pu5bob )

【回向柱】の四面にはそれぞれ別の言葉が書かれております。

正面には梵字で、

キャ    空
カ     風
ラ     火
バ     水
ア     地

そして三角形に
キリーク  阿弥陀如来
サ     観音菩薩
サク    勢至菩薩
と書かれ、

奉開龕前立本尊(ほうかいがんまえだちほんぞん)

と書かれています。
意味は『前立本尊の厨子の扉を開き奉る』ということだそうです。

側面一にはやはり四つの梵字か書かれ、
『光明遍照』『十方世界』『念仏衆生』『摂取不捨』
と書かれ、
意味は『前立本尊の慈悲に満ちた光は、善く世界を照らしだし、念仏を称える全てを等しく受けとめ、決して捨てることはない』

側面ニには梵字四文字のあと、『国家豊寧』『萬姓増輝』『含霊普潤』
意味は『国が豊かでやすらかであり、全ての人が楽しく幸せに暮らせるように、御仏の光は輝きを増し、あらゆるものを潤す』
となります。

裏側に当たる部分には梵字四文字に続いて『家内安全』『商売繁盛』と書かれています。

また、御前立本尊の指から出ている金の糸は【善の綱】と呼ばれる五色の糸へとつながり、さらに白い布となり、本堂前の回向柱まで続いています。
この五色の色は宇宙を構成する五代要素、『空(青いもしくは緑)』『風(黒(茶色))『火(白))』『水(赤)』『地(黄)』を表すと言われています。(五色については諸説あるようです)


善の綱とは前立本尊と回向柱を繋いでいます。
ちなみにこちらの行列もずらーっと並んで1時間待ちでありました。

えっ?
並んだのか?ですか?
もちろん!…並びませんでした、はい。

だって瑠璃殿の絶対秘仏の御本尊さまとお戒壇巡りでご縁を結んでいただきましたし。…横に八から十列の人の行列が1時間待ちで、山門よりもはるか向こうの方まで並んでいるのですもの…。

そのあと、いったんは参道の仲見世通りに向かうのですが、あまりの人に、諦めて。
三十九あるという宿坊の並ぶ通りを少しだけ歩いて、善光寺さんの仲見世通りには立ち寄りもせずに。
一軒だけ露店に寄ってお土産を買って済ませたくらい、人混みと並ぶことが嫌いな夫婦なんです。はい…。

No.88 22/06/17 19:47
旅人 ( pu5bob )

最近、即身仏さまを扱った小説を何度目かの再読をいたしました。

私は未だに無宗教な身であることもあり、即身仏となろうとなさった僧が何を思いそこまでの思いに至ったのか、想像することすら出来ずにいます。というよりもどこかで考えることを拒否してあるようななんとも言えない気持ちであります。

その小説は、ひとりの僧が即身仏となる決心をするまでの人生を、そして即身仏になるための行を行い、入定するまでを描いたものです。

さらに厳密にいうと、入定してからの鈴の音の音を余韻とし終わっているため、その後その僧が即身仏となられたか、入定したままに終わったのかは描かれていません。

そう、即身仏というのは、どれだけの行を行おうと、入定して自分の願った最期を遂げようと、その後を担う者がいて、初めて成就するものであり、実際に願ったままに即身仏となれた方は少なかったようです。

即身仏を願うことなく、生入定された方もまた少なくないようです。

秩父の三十四観音霊場の一寺にも、ひとりの僧が入定されたとされる場所がひっそり祀られていました。


私は即身仏の話題にふれると、必ず心に浮かぶ仏さまがおります。
生入定された方である方が祀られたお寺さん、群馬県みどり市の善雄寺さんに祀られている窖薬師さまであります。
善雄寺第二十二世堯慶和尚が文化十一年(1814)、入定し薬師仏となり人々の病気やけがれを救うという悲願をたてて、善雄寺の境内に穴を掘り、ここに入ったといういわれにより、そう呼ばれるようになったということです。

『堯慶上人は八十歳の年を迎えたとき、「私もお釈迦様のご入滅の年まで生かされたことは何ともありがたいことよ。この仏恩に報いるために日頃信ずる薬師如来の化身となり、病気厄難に苦しむ人たちを救い申そう」と大誓願をたて、穴を掘って入定されたのである。
「月雪も見尽くし、花も散りぬれば、芽出たき国へ我は行く春」
という辞世を残し、別れを惜しむ周囲の人々を静かにかえりみ、にこやかな会釈をして入定され、日夜念仏三昧に入られたという。
上人入滅後、御廟所に石の薬師尊像が建立された』

これは窖薬師堂のそばに建てられた立看板に書かれたもの。

実は私、時々無性にこの窖薬師さまにお会いしたくなる時があるのです。
それほどに衝撃を受け感銘を受けた存在ということでしょう。

No.89 22/06/18 05:26
旅人 ( pu5bob )

他の方からみたら、つまらない、取るに足らない悩みとかに、でもなんだかとらわれてしまったりした時とか。
乗り越えられず抱えているものに対峙して、やはり乗り越えられない無力な自分を情けなくも思いつつ、それでも乗り越えられずにいるときとか。
なんとはなしに気分がすぐれないときとか。

そんな時にふとお会いしたくなるのです。


生入定という生き方はその是非はとにかく、人としてある意味究極滅私奉公で。

同じ人として生きながら、そこまでの生き方をされた方に問いたくもなり。
そんな自分がただただ恥ずかしく向き合って手を合わせるだけで立ち直るお力をいただける気がして。

実際にその場を訪れることはほとんどないのですが、ふと何か事あるごとに心に浮かぶ仏さまであります。

No.90 22/06/18 05:44
旅人 ( pu5bob )

以前。
作家の三浦しをんさんが『即身仏をめぐる旅』と題したエッセイをかかれました。
そのエッセイはまず森敦氏の【月山】にふれるところから始まっています。

私は森敦氏の作品を読んだことがなく、この芥川賞受賞作品である作品すらも読んでいないのです。

【月山】を読んでみよう。


けれど今はまもなく桜桃忌をむかえる太宰治の【津軽】を読んでいる。
一年に一度はなぜか太宰を読みたくなるのです。

No.91 22/06/19 17:00
旅人 ( pu5bob )

今日は桜桃忌。

津軽を読んでいて、やはりたまらなく人間失格を読みたくなって手にしてみました。
なぜか涙が止まらなくなりました。
人間失格を読んだのはもう何度かわからないくらいですが、初めてのことです。
津軽を読んだからこそ、より〝太宰治〟を感じたのかもしれません。


それにしても…。







うーん、今はちょっと書ける気分ではないかな。

No.92 22/06/20 14:27
旅人 ( pu5bob )

群馬県高崎市の住宅街と田畑が混在する細い道を入ったところに、ぽつんと不動堂が建っていました。

これは例の持病とも言える方向音痴と、さらに道を間違えたことによる相乗効果の成す技でありました。

あれ?
こんなところに不動堂が?!

さほど大きくはありませんが新しく丁寧に造られた立派な御堂です。
よく掃き清められ、石像や石塔、石碑が整然と建っています。
何やら立看板もあります。
ん?
『高崎市指定重要文化財・役行者石像』

ほ?
役行者さまですか。
ということはこの辺りは修験道が盛んだったということでしょうか?

ただ、今は本当に新しい住宅と田畑の混在するのどかで、平坦な土地。
修験道というと私のように知識もなく単純な人間はついつい山岳とか、少なくともお山があるような気がしていたものです。

川はそばを流れておりますので水に恵まれ、もしかしたら土地は肥えているところなのかもしれません。

とはいえ、そういう発言をしている私、実は畑に植えられている作物の葉や花を見ても、何の作物なのかわからないくらい、農作業等の知識がそれこそかけらもない人間なので、土地が肥えてあるうんぬん自体がただの憶測に過ぎませんが。

おばさん、不動堂にかけられた鰐口を鳴らして拝んだのち、いつものように、…失礼だとは思いながらもついついその御堂の中を覗いてみました。

うわぁ!
大きい!

まじまじとは覗いてみたわけではないのですが、私の身長などよりもはるかに大きそうです。

そんな私に、いかにも農作業の途中といった見るからに人の良さそうな優しそうな女の方が声をかけてこられました。
「見てみました?大きなお不動さまだったでしょう」

…この方が農作業の途中でなければ。
いつ頃のお不動さまなのかとか、いつからここにお祀らされているのかとか、どこのお寺さんが管理されているのかとか大祭とかはあるのかとか、いっぱいいっぱいお聞きしたいことはあったのですが。

おそらくはいつもはそうやってお不動さまのところを訪ねてきた人にいろいろお話ししてくださっておられるような感じがいたします。
ですが暑い日差しの降り注ぐ中、長靴を履いて手には苗を一握りお持ちです。

これ以上ここに留まってはこの優しそうなご婦人にご迷惑だ。
あとでもう一度来よう。

…さて。私はもう一度そこに辿り着くことができるのでしょうか。



No.93 22/06/21 08:27
旅人 ( pu5bob )

紫陽花の季節となりました。
このところテレビでいく度となく、神奈川県鎌倉市の長谷寺さんの紫陽花を紹介しています。



…行きたいのをずっと我慢しているので、胸が痛みます。


別に紫陽花の頃でなくても良いのです。

前回の参拝であまり時間をかけて境内を巡ることができず…とはいえたぶん普通にまわられる方のおそらく倍近くはかかっていたのだとは思いますが、長谷寺さんのホームページを拝見して、ぜひ祈願と供養をお願いしたいと思ったのです。
もう何年経ったことでしょう。


コロナ禍ということもあってか、どうやら今は参拝せずとも、御祈願や御供養の申し込みができるようですが、やはりそれはきちんと出向いてお願い申し上げたい。


祈願をお願い申し上げると、一年間毎日、観音様のご宝前にて読経祈願をしてくださるのだといい、その、一年間毎日読経御祈願くださるということもありがたいのではありますが、なんとなく毎日あのお優しいお顔だちの観音さまのお足元にいられるような心持ちがいたします。
初めて長谷寺さんを訪れた際、買い求めた観音さまの絵葉書を額に入れ毎日毎日そのご尊顔を拝見しておるくらいですので。


例の大河ドラマの影響もありましょうか?
鎌倉は大変観光客の人出が戻っているようです。



うーん。

実は七月にあるという施餓鬼会に参列したかったりするのだけれど。
事前に彼岸の供養をお願いしておけば施餓鬼会の式中に読経供養をしていただけるということなのです。


私は何度となく申し上げているように守る墓も檀那寺もなく、ましてや自分の父方の法要に呼ばれる筋でもなくなっておるため、正式な供養をしたことがないのです。
お盆やお彼岸、お正月や命日にはほぼ必ず墓参してはおりますが、やはりそれだけでよいのかと思うところがあるもので…。

父方の…父も含め眠る墓のあるお寺さんのご住職さまは、私の顔を覚えてくださっているくらい、人を大切になさるありがたいお方でありますので、一度そんなご相談をしたことがございます。
「いいんですよ。あんなに頻回にお墓参りに来ていらっしゃる。それだけでいいから。大丈夫」

法要をお願いすれば多少なりお布施も入ることでしょうに、そんな考えは一切抱かない方でございます。
それがまたありがたく、人の徳というものはかくあるものかと思ったくらいです。

No.94 22/06/21 13:42
旅人 ( pu5bob )

暦を見ると本日は『夏至』で、一年のうちで、昼が最も長く、夜が最も短い日となります。

そのため、太陽の力が強く陽の気に満ちる日とも言われていますが、こちらはあいにく薄曇り。そのわりには蒸し暑い日となっています。

ちなみに。
その暦をさらに見ますと、な、なんと!今日明日と二日続けて一粒万倍日となっておりました。
念のため二つの異なる暦を並べてみてもやはり二日続けての一粒万倍日となっているようです。
それってなに?と聞かれると…。
ほら、私こんなに神社仏閣巡りに行かせていただいているにも関わらず、神さまのことも神社さんのことも、御仏のこともお寺さんのこともちぃーっとも理解できず覚えられないお馬鹿なヤツ。
なのでとりあえずその暦に書かれたことを書き写します。

一粒万倍日:種蒔きなどによい日とされる。以上。



話は変わって。
毎月二十一日、真言宗のお寺さんでは、【御影供】と呼ばれる法要が営まれるところがあるようです。
開祖弘法大師空海上人さまの画像(御影)を掲げて行う法要だそうです。
特に三月は大師さまが高野山奥の院に御入定された日ということから、『正御影供』と呼び真言宗の総本山にあたるお寺さんで盛大な法要が行われるそうです。
ちなみに六月十五日は大師ご生誕の日とされていて、この日に執り行われるのが【青葉まつり】と呼ばれるもののようです。


あれ…?
うちって、あるお寺さんでいただいた大師の御御影、ずっと飾ったままなんですけど…。

普通の洋紙に印刷したものですが掛け軸のようになっていて、その中央に大師さまの御御影を色紙に写した(印刷)ものが糸で固定されているという立派なもの。

粗末に扱ってはいけないと壁にかけてあったのですが、むしろ出しっぱなしの方がいけなかったようですね。



No.95 22/06/22 08:21
旅人 ( pu5bob )

三月の中旬に参拝させていただいた輪王寺さんの常行堂さん。
前回初めて、回向のための御堂であること、それが一般の参拝者のために開かれているものであることを知りました。

何度も申しているよう、私どもには守る墓も檀那寺さんもありません。
こと私は両親の離婚ということで、同居し、可愛がってくれた祖父母や父親の、葬儀はもちろん、病んで入院していた時のお見舞いにすら行けずにおりました。
そのなんとも言えない申し訳なさ、哀しさはなかなか拭いされるものではありません。
お彼岸やお盆、師走や正月、父の月命日、などにはほぼ欠かすことなくお墓参りには行ってはいるものの、いつかどんな形かでなんらかの供養ができたらいいなと思っておりました。
それが鎌倉の長谷寺さんに参拝したい理由(の一つの理由)であることは前々回述べました。


実は。
日光常行堂さんで、このたび供養法要を営んでいただくことができました。

よくいう一見の者に過ぎない私に対して、電話の受付からして心から寄り添うように話を聞いてくださり、丁寧にお話をしてくださいました。

あの世界遺産でもあり、世界中から参拝者が訪れる日光二社一寺において、法要に遅刻することがないように駐車場も確保してくださいました。
ピークの時など朝九時すこし過ぎたくらいからもう駐車場を探してグルグルするくらいの場所で、であります。

貸し切りの常行堂さん。
私どものために御本尊さまのおられる内陣の前に席をしつらえ、焼香の香炉とお香が用意されています。
こんなにも長い時間、御仏の尊顔を拝していたことがないくらい、目の前に座らせていただいておりました。
長いこと生きてきた中で最も長い読経であり、最も長い法要を営んでくださいました。
特に説法などはなく全て供養のためにお時間をかけてくださいました。


かつてはここ常行堂はその御本尊さまのおられる内陣の周りを、座ることも横になることもせず、飲食と御不浄に席を外す以外はずっと念仏を唱えながら回り続けるという行を行ったといいます。
その内陣の前で御本尊さまと向き合って椅子に座っているという罪悪感もなきにしもあらず、ではありましたが。

ありがたい法要を営んでいただくことができました。

No.96 22/06/23 02:39
旅人 ( pu5bob )

いつもとは異なり回向法要のために日光へと向かうため、決まった時刻には到着していなければならず、夫は三時間前には出発したいと宣言しております。そんな?
まぁ、コロナ禍となってから、ようやく制限のない状況をむかえ、日光もう人出を取り戻しつつあるようですし?…でも三時間前?
いつもは1時間半とかくらいで着くって言っていなかった?

私同様無言ではありましたが、息子もそう思っていたようで、息子は行動でそれを示して、実際に家を出たのは二時間半前。おかげさまでお約束の時間の一時間半前に着きました。
でも…一時間半前じゃあ、広い日光見られるところは限られているんだけど。

とりあえず、常行堂さんでの法要者のための駐車場がわからないため、常行堂さんにお聞きしにうかがいました。
車を停めたらとりあえず受付をしておきましょうとのことで、本日どのような回向法要を希望するかを記入いたしました。

そして。
ほかの参列者、別に住む子どもたちを待ちながら、日光山に今咲く花や自然を楽しみながら過ごしました。
今はユキノシタがあちこちに咲いておりました。
日光山は基本的には自然に生える草木そのままを大切にしておりますので、紫陽花等の花が見頃、とかいうことはありません。
ですが、作られた庭園も美しく心和むものですが、あるままの自然を整えて活かしている日光山の境内の澄んだ空気と可憐な野の花々といったら!
流れる小川の脇に咲く小さな妖精のようなユキノシタ。
澄んだ青空…とはいかず、今にも降り出しそうな空模様ではありましたが。

やがて一台、見慣れた息子の車がやってきます。
遅れること二十分ほどで(…それでも約束のお時間の二十分前です)娘夫婦の車が到着いたしました。

受付時に「全員揃ったら必ずトイレを済ませてからお越しください」とうかがっておりましたので、さようにして。
…トイレから出たら、私がいないのにもう常行堂に向かって歩いているファミリーたち。…おい!

すると常行堂から何人かの方がお出ましくださり、
「時間までまだありますが、全員お揃いのようですのでこのまま法要を始めさせていただこうと思います」


…あ、はい。

「奥はどうぞ」

No.98 22/06/23 06:50
旅人 ( pu5bob )

常行堂の中に入ると、中央に大きく煌びやかな金色の須弥壇が見えます。
その中心でさらに金色に輝く御本尊【宝冠 五智阿弥陀如来】さま。
蓮座に座し孔雀の背に乗られておられます。ややふっくらしたお優しい、笑みを浮かべたように見えるお顔立ちです。
孔雀は毒ヘビを食べることからインドでは神格視され、『邪』を祓う吉鳥とされ国指定の国鳥とされているそうです。

脇侍の菩薩さまも金色に輝き、やはり孔雀の背に乗られています。
鳥獣座、というそうです。
脇侍の菩薩さまは
金剛法菩薩さま、金剛利菩薩さま、金剛因菩薩さま、金剛語菩薩さま。
さほど大きくはない四十センチくらいの御仏像です。

阿弥陀如来さまの御像が四菩薩像を従える『阿弥陀五尊像】というそうで、これは大変珍しいということであります。


御仏さまたちがおられる背後には金箔の貼られた壁があり、そこにも御仏さまが三体描かれています。さすがに遠くてどなた様が描かれているかはわからなかったのですが。
…近くても大きくともわからなかったかも、ですが。


この御仏さまたちがおられる内陣は大きな御厨子にも見えます。

御仏のおられる厨子に見える内陣の上部には天女の舞うお姿が描かれています。

私はこの向かって左から二番目の天女さまが大好きであります。
優しい柔らかい笑みを浮かべておられ、いかにも天女さまといった感じなのであります。

御本尊さまのちょうど正面、…とはいえ厨子と見える内陣の外でありますが…には邪鬼が仏塔を頭の上に乗せた像が祀られています。

No.99 22/06/23 13:14
旅人 ( pu5bob )

常行堂は内陣の…須弥壇の周りをまわる行があってその修業を行うため造設されたことは述べました。

九十日間に渡って、飲食、トイレ、乞食以外のほぼ全ての時間、阿弥陀さまの周り、須弥壇の周りを歩きながら念仏をひたすら唱えるという【上行三昧】と呼ばれる行です。

その内陣、須弥壇の周りを歩き回るための通路は今もあります。

その通路を通って阿弥陀さまの後ろ、内陣の裏に参りますと、水子地蔵さまがおられます。
またお位牌が祀られているのも見えます。これはこちらにお位牌を置いていただき、毎日の供養をしていただくことができる、というご案内もありましたことから、そういった方のお納めになったお位牌もあるのかと思われます。

そしてさらに進むもうと目を通路に向けると…。

常行堂の柱や敷居と同じ、朱塗りの鳥居が見えてきます。
ほぼ御社にほど近いところに建てられていますので、くぐることはできませんが、じゅうぶん人が通れるくらいの大きさの鳥居です。
【摩多羅神】という横書きの扁額が掲げられています。(正確には【神羅多摩】)
こちらは『後戸の神』と称される神さまにございます。

なんでも常行堂には、御本尊さまの真後ろにも入り口があることから、その後戸から悪いモノが侵入しないよう、御本尊さまを守護するために護法神、念仏の守護神として摩多羅神さまが配されているのだそうです。


初めてこの鳥居を見た時は大変びっくりいたしたものです。
なぜならば、ここ東照宮、輪王寺、二荒山神社においても、あの明治時代の神仏分離令は実行され、御仏像が移動したりしているとお聞きしていたものですから。

また、御堂の中にある小さな御社とはいえ、大変立派な装飾が施されたものであり、同じく小さいながらも装飾の施された狛犬さまも祀られていて、御堂の中に神社があるような気がするくらいなものであります。
どうして?
と目が点になったものです。

これだけ立派なものであれば外に一社としてお祀りしてもよいのでは?
と思ったのです。


後戸の神さまではここにこうしておられるのが当たり前なことであります。

周りをまわって再び正面に戻ります。

…それを延々と一日中、九十日間続けるということですか。

一日でもきびしいかも。
横になって寝てはいけないということです。
それを九十日!

修業というのは厳しいものです。

No.100 22/06/23 19:22
旅人 ( pu5bob )

常行堂とその隣の法華堂はあわせて『二つ堂』とも呼ばれております。

二つ堂とは二つの同じ形をした堂舎をいうようですが、厳密にいうとこちらの二つは一見双子のように同じものに見えますが、よく見ると結構異なったもの。
同じ大きさの一見同じ形の二つをそう呼ぶこととしたということのようです。
以前にも書きましたが常行堂は和様、法華堂は唐様(禅宗様)、前に立つとなるほど違うなと思うものです。
この二つの御堂、渡り廊下でつながっています。二つの御堂と渡り廊下を天秤に見立て、それを担う(になう)担い堂(にない堂)とも呼ぶようで、これは比叡山延暦寺さんににない堂と呼ばれるやはり二つの堂宇があることにちなんでいるようです。

その渡り廊下、『渡廊(わたろう)』が正式な呼び方のようです。

法華堂には入れないし、特に渡り廊下を見に行くまでもないかと遠巻きに見てすましておりましたが、こちらもなかなか見応えのある造りのように思われます。
この渡り廊下、途中が一部渡廊を突っ切って向こう側に行けるよう、一部途切れており、その部分は地面になっております。
廊下自体は一旦途切れるという形となりますが、言いかえるとその通路を通って向こう側に行ける通路を設けてあるということになろうかとおもいます。
まあ、通行止めですから、奥につながる道があろうと、スタッフオンリーな通路ということでしょうし、そんなにそばまでは行ったことがなかったのです。

今回、常行堂さんで回向法要をお願いして、そうした際に停められる特別な駐車場があることを知ったのですが、そこに行く道がわからないので、やたらとGoogleマップを拡大して見る機会があったのです。
その際、実はその渡り廊下=渡廊を突っ切った先に、【慈眼堂】というお堂があることを知ったのです。

慈眼、堂?
慈眼堂って…慈眼大師さま=天海大僧正に関係してる?

…調べました。

なんと慈眼堂は慈眼大師のお墓があるというのです。
徳川家康、秀忠、家光公の三代に仕えた将軍家の懐刀、ブレーンであったあの、慈眼大師さまは、死後、日光山のひっそりとした場所で日光と徳川家を見守っていた、ということなのですね。

もちろん非公開。
が、特別一般公開等はたまにはあるようです。

うーん♡ 特別かぁ…。
御命日とか?
うーん。
(おばさんの妄想は続く)

投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

新しいレスの受付は終了しました

前スレ・次スレ

小説・エッセイ掲示板のスレ一覧

ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧