注目の話題
妻の過去について
スカートの丈が床につきます
おばさんイジリされる職場

神社仏閣巡り珍道中

レス500 HIT数 14209 あ+ あ-

旅人( pu5bob )
22/11/06 23:09(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。

22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。

No.3536620 22/05/08 22:26(スレ作成日時)

新しいレスの受付は終了しました

投稿制限
スレ作成ユーザーのみ投稿可
投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

No.1 22/05/09 16:59
旅人 ( pu5bob )

今年のゴールデンウィークは、コロナ禍となって初めて規制のないものではありました。
が、元々人混みの苦手な私ども夫婦。テレビに映し出される鎌倉や日光の様子を観ては「ああ、行きたいけれどこれじゃあねぇ」とため息をつくばかり。

ゴールデンウィークではなかったものの、
四月に執り行われた日光二荒山神社の弥生祭は今年も神職のみで執行されたようでしたし、善光寺さんの御開帳は夫の体調不良で行けなかったし。
そもそもがこんなことでブツブツ言っているあたり、少しも減らない煩悩を物語っているのですが…。

ゴールデンウィークに出かけたところといえば、参拝の方もおらず、お寺の方もお出かけになられたお寺さんであったり、野仏さまのおられる山道でありました。

…ん?
日光…?
【鎮将夜叉尊】さまのの御開帳が行われている【輪王寺】さんに蔓延防止等重点措置が解除されてすぐ、日光に出むき、鎮将夜叉尊さまを参拝させていただいたことを、まだ書いていなかったのでは…?


昨年の十月に輪王寺さんから送られてきました御札のご案内に、鎮将夜叉尊さまが九年に一度の御開帳となるとありました。
もう二年も行けず、ずっとずっと行きたかった日光。行きたくて行きたくて、それでも我慢しておりました、日光。

蔓延防止うんちゃらが解けたなら、…行ってもいいんじゃ?
N 95のマスクを着用し、念のためフェイスシールドも持ち、食事は持参して車内で食べる!
ゴールデンウィークにならないうちに、行ってしまえ、ということで、いざ日光へ。


その御札のご案内とともに送られてきた、御開帳の案内には、
なんでも、今年は五黄中宮という年にあたるとのことで、九つある星のいずれにも暗剣殺の付かない年であるといい、
暗剣殺は付かないが、全ての星に良くも悪くも強運が出やすく、天災や大事件が起こりやすいと言われているのだと書かれていました。

五黄中宮の年であった平成7(1995)年は、1月に「阪神淡路大地震」、3月に「サリン事件」が発生している年で、それ以前にも、関東大震災、伊勢湾台風、三億円事件、太平洋戦争勃発、三原山噴火などが、この五黄中宮の年に起こっているのだといいます。

うーん。


とはいえ、「東日本大震災」は五黄中宮という年回りではなかったし、悪いことを拾えばキリが無いだろう。

No.2 22/05/09 17:46
旅人 ( pu5bob )

…私どもが日光へと参拝に出かけた頃にはすでにロシアのウクライナ侵攻が始まっておりました。
その時には、このように長期化するなど思ってもおらず、さらにはこの戦争が世界情勢にこんなにも大きな影響を与えることとなろうとは、当時思ってもおりませんでしたが。

そもそもこんな煩悩だらけのおばさんが、鎮将夜叉尊さまを参拝したところで、なにが変わろう。
むしろ参拝しないほうが鎮将夜叉尊さまのお力がより発揮されるのではないか?

…でもそこは煩悩のかたまりのおばさん。九年に一度の御開帳の鎮将夜叉尊さまを一目拝したくて、日光に行きたくて。

目指すは輪王寺三仏堂。

…三仏堂さん、今まで以上に拝観者を集客して、あの御札、この御守をとご案内しておりました。
こんなご時世にもっと近くに詰めてお寄りくださいって…よいのか?
そも、こんなに集客しては五センチにもみたないといわれる鎮将夜叉尊さまはちゃんと拝観できるの?


…できました。

長い時間をかけては無理でしたが、しっかりと拝んでくることは出来ました。
小さな小さな御仏さまでありました。ですが、細やかに彫られたお美しい御像でありました。
少なくとも江戸時代初期にはすでにあった御像でありましょうに、ごく最近作られたといっても通るくらい、美しい、白檀でつくられたものでありました。
坐像であられる鎮将夜叉尊さまは、その座られた下に悪しきものを幾つも抑えておられました。


実は鎮将夜叉尊さま、毘沙門天さまの特殊なお姿なのだそうであります。


【慈眼大師天海】さまが日光山に伝えた【鎮将夜叉法】は、鎮将夜叉尊を本尊とする密教の修法といいます。
世の混乱や災いを鎮圧し、災いを吉祥に転ずる利益があるといわれ、
天台密教における『四箇大法(しかだいほう)』の一つにも数えられているというものだといいます。

家光公が髷の中に入れて、お守り代わりにしたともいわれているとのこと。
今は金色に光る二重の御厨子に納められておりました。
普段は大護摩堂におさめられてお祀りされておられるのだということであります。

No.3 22/05/10 06:36
旅人 ( pu5bob )

世界遺産となった日光の社寺の中の、こと輪王寺についてはあまりふれたことがなかったように思いました。
といいますのも、十三年に及ぶ長いこと大修理をしており、その間は実物大の写真の印刷された大きな垂れ幕で覆われておりました。

その半解体ともいわれる大改修の様子を、二十六メートルという高さの三仏堂の中に設置された階段を使って最上階…というか屋根の上と同じ高さにあたるところあたりまで行って、その高さや工事の様子を見てまわることもできましたが。
(この見学用の通路は、【天空回廊】と呼ばれ、三仏堂の屋根の頂上と同じ高さで造られたもので、ビルの七階相当の高さとなるものでありました。三仏堂の屋根の上から日光の門前町の様子を眺めることができました)
…それはそれで滅多にないある意味歴史的な機会ではありましたので、ここに記してはおきましたが、なにぶんにもその際にはご本尊さまである三仏もおられず、本堂を参拝したという感覚ではありませんでしたし。
その後の参拝でも、毎回毎回拝観の形が異なっており、ようやく今回、前回の参拝と同じ形での拝観となっておりました。(とはいえ、団体客でもないのに、ツアーのように拝観する形は以前からのままでありましたが…)


三仏堂さんへの拝観は、まず黒門と呼ばれる門をくぐるところから。
ちなみにこの〝黒門〟にも御朱印があるというサービス精神たっぷりなお寺さんです。

黒門をくぐると真正面に見えてくるのは大きな大きな香炉であります。
それを中心に向かって右側に、宝物殿、逍遥園があります。

【逍遥園】は輪王寺門跡の庭園として江戸時代初期に造られた庭園です。ここはここでたいへん心落ち着く、見事な庭園であります。

そして黒門をくぐってすぐのひだりてに鐘楼があります。
それを香炉の辺りまで進むと、拝観券の購入受付の建物があります。
拝観券は時によりいろいろなセットがあり、『逍遥園・宝物殿』『三仏堂』『大猷院』全てに入れるもの、『三仏堂』のみ、『三仏堂・大猷院』といったものが今回は用意されていました。

ちなみに。
鳴き龍で有名な薬師堂は、東照宮の中にありますので、こちらで購入する拝観券では入ることができません。
東照宮への拝観券をあらためて購入する必要があります。

No.4 22/05/12 04:50
旅人 ( pu5bob )

幅広いコンクリート製の階段を登ると、まるで吸い込まれるように高くて広い、開け放たれた扉の向こうに外陣があります。
高さ二十六メートル、柱の端から端までが三十四メートルという大きな大きな建物だけあります。

その入り口を入るとすぐに目に入るのはかなりの高さにある外陣であります。この大きな建物にあって、実は外陣はさほど広くはなく、須弥壇も外陣も驚くほどに質素でシンプルです。
その須弥壇の向こうに、こちらのご本尊さまの尊顔を拝することができます。
こちらのご本尊さまは三仏堂の名の由来ともなる、三仏、【千手観音】さま、【阿弥陀如来】さま、【馬頭観音】さまであります。


その、外陣へと上る階の上から、若い係の方が声を張りあげて言うことに「出来るだけ前に詰めてください。お隣との間を詰めてもっと前にお越しになってください」


はっ?
その台本はいつの時代のもの?
誰もがそう思ったようで、おずおずと顔を見合わせていました。なおも若い係の方は「もっとお隣との間を詰めて、…そこはもっと詰めてください」
ここは治外法権ですか?

…コロナ禍となって三度目の春。
さまざまな考え方が広がっています。今後ますます、その感染対策に対する温度差は広がっていくことでしょう。
それはそれでよいのではないかとは思っています。
それはもう〝生き方〟というものにすらなっているので。

経済がまわらなければ、その日の生活すらが危ぶまれる方が実際何人おられることか。
物価は上がり、お給料は減り、楽しみもなければ、生きがいすらないような世の中では、世を儚むことにもなりましょう。

ですが、人との距離をできるだけ取りたいと考え、その上で、行動したい人間も当然あるわけで。
それもまた当然の権利であると思うのです。

それをできるだけ距離を縮めるよう指示するのは、私にすれば言語道断。憮然として仏頂面でそこに立っていたものの、そこはコロナ禍、マスクではその表情で感情を伝えることは残念ながらできませんでした。

そこで始まるのは日光名物の御札や御守りのご案内。
…たしかに。緊急事態宣言下においては、参拝すらを止めておられましたし、コロナ以前の集客にはほど遠いものでしょう。

ですが、ねえ。


閑話休題。


No.5 22/05/12 05:56
旅人 ( pu5bob )

こんな乱れた感情で御仏の前にいてはならない。
そう考えて、少し視線を上にすると、須弥壇にさらに御仏の御像がお祀りされておりました。

若い係の方は、かつてはその存在すらがごく一部の方にしか知られていなかった〝鬼門除け〟のお札のご案内を声高に始めました。
「一家にお一つ、世帯の異なるご家族にはまた別に一体をお受けいただき、玄関や人の集まる居間などにお祀りください」
…もはや日光山名物、とも言えましょう。
かつてはそんなご案内を最前列で熱心に聞き、一体、あるいは複数体の御守りを購入していたものでありましたが…。
ちなみに、今年もわが家の居間にお祀りさせていただいてあります。

外陣を右に歩いていくと、回廊のようになっており、そこを進んでいくとすぐに【慈眼大師】さまの尊像がこちらを優しく見守っておられます。(あいも変わらずどこも進歩なく、未熟者で申し訳ありません)と、心の中でお詫び申しあげるのでありました。

この回廊の壁や柱は、何層も何層も漆を塗られ、重厚にして神々しいものとなっております。とても木造建築物には見えません。

そして、この三仏堂、ご本尊さま以外にもたくさんの御仏像がお祀りされております。
そんな御仏には見向きもせずに案内人は折れ曲がった短い階段を降りて行きます。

おおっ!

何度拝しても大きく神々しい御仏さまです。千手観音さまの横顔から見えてまいります。
こちらの三仏、実は日光山の三山、男体山、女峰山、太郎山をそれぞれ本地仏とされました親子の御仏三躯。
一番右におられますのが男体山であられる千手観音さま。
真ん中におられるのは女峰山の阿弥陀如来さま。
左におられる馬頭観音さまが太郎山となります。
一番大きな男体山でありますのに、何故か一番小さな千手観音さまです。
しかも本来ならば古来より中心となるべき父親に当たるはずなのではないかと思うのではありますが…。
係の方曰く、女性が中心で笑っている家庭こそが一番理想であるからだと説明をされておりました。

はあ…。

長い長い歴史の中、いろいろなことが後付けされたり、元とは違った伝承となってしまったりしているのではないだろうか、…そんなふうに思うほどに、こちらの説明を聞く機会を持ってしまったようであります。


No.7 22/05/12 15:28
旅人 ( pu5bob )

大きな、煌びやかで神々しい三仏の前を、いつの間にやら集団客化されて、順番に、案内人に誘導されながら、歩いて行きます。
(もっとゆっくりと御仏と向き合っていたいのだけれど)
雑念と煩悩でできたおばさんは常に不満たらたらです。
ちなみに、こちらの三仏堂は一度出てしまえばもう一度拝観券を購入しに、まさにふりだしに戻ることとなります。
お願いだから、私を自由にさせて!
とばかりに、少し早めに先に進んでいくと、私について来られる方。
そしてそれに合わせて誘導員…ではなく案内の方の人数が増えます。
前半、後半。
最終的には三つか四つのグループになっていました。
結局はグループ、なのでありました。なかなか流れに逆らって逆戻りすることは人数的にも難しい、…というか最初のスタートよりも人数が明らかに増えています。
やれやれ。
ベルトコンベアーに乗っているようです。

と、曲がり角に見慣れないスポットが。大きな大きなご本尊とはうって変わって、小さな御厨子に光が当たっています。
おおっ!もしやこれは?
後ろからついてきた案内の方が、
「それではこちらで足をお止めください」
「こちらが九年に一度だけ御開帳されております、鎮将夜叉尊さまであります。ここからの説明は前述させていただいた説明同様のもので、
『世の混乱や災いを、吉祥に転ずるご利益がある』である等々…。
…「慌てず、どうぞごゆっくりと拝観なさってください」

(おおっ!✨)

…小さな御厨子に入られた小さな小さな御仏像です。
しかしながら、こちらの小さな御仏は特にライトアップされていることもあり、燦然と光り輝いています。

前から3、4番目からの順番です。
しかも案内の方は繰り返し
「せっかくの機会ですのでどうぞごゆっくりお参りなさってください」とおっしゃってくださる。

おおっ!✨


しかぁし。やはり考えが甘かった。
すぐそばにある石の階を使って「鎮将夜叉尊さまの〝と・く・べ・つな〟御守を用意させていただいております。これは肌身離さず常に身につけていられるものとなっております」

これは…?
郵送で送られてまいりました案内にあった鎮将夜叉尊さまの御守りとはまるで違うデザインです。(ちなみにこちらでのものとはちがったデザインのものはすでに郵送で授与していただいております)

…やれやれ、また煩悩が。
それを物欲っていうんです!

No.8 22/05/12 16:50
旅人 ( pu5bob )

そんな物欲に打ち勝って、先へと進みました。
十二支の守り本尊さまが並んでおられます。
そこでは生まれ年の干支の守り本尊さまの梵字守のご案内です。

…こちらは、すでにもう何年も前にお授けいただいて、ほぼ毎日身につけております。
厚さ1ミリくらい、縦2センチ、横1.5センチほどの金属に金色のメッキがされ、それぞれの守り本尊さまの梵字が彫られ、そこに白い塗料で梵字を見やすくしたシンプルなものです。ほとんど毎日つけていたものだから、もうメッキが剥がれて地金が出てしまっています。ただ梵字の白はほぼそのままに残っています。
…こんなに使う人はあまりいないのだろうな。
もう紐は何度取り替えたことか。



ここまで来ると出口となります。
出口付近に御朱印の授与所があるのですが、ここはいつもごった返していて気づかず出てしまう方がおられるかと思います。

ここを出ると今までは、案内の方はおられなかったのですが、なんと今回は出口から出ても案内の方が配置されていました。
大改修工事を終えた三仏堂の、幾重にも塗られた漆塗りの素晴らしさを案内してくれました。
そこで終わりか、と思いきや、今度は隣の護摩堂の数珠のご案内。
なんだかここまで来ると、さすがに噂に聞く格安バスツアーに必ずセットされているという、商品の案内のような気がしてきました。



私は日光の澄んだ空気が大好きで、この二社一寺が大好きで、それがこのコロナ禍となってからずっと来られず、今回ようやく来られましたのです。それが、よりにもよってセールス力をパワーアップして迎えてくれようとは。

数多くの文化財を守るために、そうした…財源の確保をするために、人々の信仰心に訴えたさまざまな工夫をするのは、悪いことではないと、以前ここにも書きました。
ましてやこのコロナ禍で、参拝をストップしたこともありましたし、参拝の方は元のようには戻ってはいないことでしょう。
日本人と同じくらいおられるのでは?と思われるほどに多くおられた外国人の観光客も来られずにおります。

でも、ね。
でもですよ?
団体の観光で来たわけではないんです。それを勝手に一括りに団体客化して、あの商品この商品と商品の案内に重きを置かれては、あまりに悲しいです。

そんな気持ちを抱えてしまい、今の今までなかなか珍道中録を書く気にならなかった…ということかもしれません。



No.9 22/05/12 22:42
旅人 ( pu5bob )

ついに日光輪王寺商法にプッツンいたしました私は、始まったばかりの数珠の〝ご案内〟を振り切るように、大護摩堂へ入りました。

護摩堂は文字通り護摩焚きの修行を行うための御堂であります。参拝者も護摩焚きのご祈祷を申し込むことができるのですが、私はこちらの御護摩祈祷をお願い申し上げたことがなく、そういった一般の参拝者は入り口を入ってすぐのところで参拝して終わり、となるものでありました。…今までは。
それゆえ御護摩の様子は拝見したこともなく、ご本尊さまとされる【五大明王】さまを拝見したこともありませんでした。

コロナ禍となる三年ほど前に、一年をかけて期間を区切り、何月から何月までは〇〇明王さま、のいうように五大明王さまの御朱印を頒布したことがございまして、その際初めて、こちらのご本尊さまが五大明王であらせられることを知ったくらい。
御護摩焚きの申込みをされた方のみが五大明王さまの尊顔を拝することができたのでした…今までは。
今回、なんと、正面に五大明王さまのお姿があるではありませんか!

しかも、です。
今までは護摩堂入り口でお賽銭箱にお賽銭を納めるだけでUターンするしかなかった御堂の中が開放されていて、共に御護摩の様子を見学させていただけることとなっていました。

や、やったぁ♡!

No.10 22/05/13 06:19
旅人 ( pu5bob )

御護摩祈願は、以前は一日三回ということで、たくさん行列が出来るほどでありました。
よく、「○時からの御護摩祈願の申込みは締め切らせていただきます」と放送されておりましたのも覚えています。

それが、昨年の四月より一日五座となったようです。またコロナ禍ということもあり、以前よりずっと参拝の方が少なくなっていることもあるのでしょうが、こちらに列をなすようなことがないよう工夫してくださったようです。

私どものような御護摩の席に列席させていただいている者は、遠くから拝する五大明王さまをはじめとするたくさんの御仏の像を、
御護摩祈願を申し込まれた方は、ずっと間近に拝することが出来るようです。
五大明王さまは平安時代の作とのことで十二天、七福神もおられるようで、三十尊が安置されておられるとのこと。
この護摩堂の中にはその他に数百もの御仏像が安置されてされておられるようで、さらに二階には写経所があるようなのですが、二階には薬師如来さま、釈迦如来さま、阿弥陀如来さまの三尊像が安置されているとのことでありました。

こちらの天井画は金色に輝く龍の絵で、それはそれは見事なもので、思わず息が漏れるくらいであります。
こちらは人間国宝吉原北宰氏がおおよそ二年半かけて描いたものとのことで、【大昇竜】と称されます。


ちなみに、こちらの龍のお顔を使って作られた黒を基調にしたご朱印帳は大変気品のあるものであり、私がまさに今使わせていただいているものであります。


ほどなく始まった御護摩祈祷は非常に丁寧で上品な声と所作で、今まで他所で拝見させていただきました御護摩とはだいぶ雰囲気が異なるものでありました。
大きな太鼓の音が響きわたり、炎が大きく高く燃え、火の粉が舞い散るような、そういった御護摩ではなく、静寂な堂内に静かに響き渡る、高貴な雰囲気のする御護摩祈祷でありました。

鎌倉時代から皇族が住職を務め、江戸時代には天下人の祈祷をしていたという流れをくむものゆえでありましょうか。


三仏堂が国家安泰のご祈祷をされるところであるのに対し、護摩堂は御護摩を焚き修行を行う場であり、かつ、個人の願い事を祈願し祈祷するところ、となりましょうか。
こちらの建物は1998年に造られたもの。御護摩を焚き修行し祈祷することから耐火を考えて建てられたようです。

No.11 22/05/13 09:36
旅人 ( pu5bob )

大護摩堂(おおごまどう)の御本尊であられます【五大明王】さまは、
・不動明王さま、
・烏枢沙摩明王さま(天台宗における。真言宗では金剛夜叉明王)、
・軍茶利明王さま、
・大威徳明王さま、
・降三世明王さまであります。

不動明王さまを中心として方角を司る守護神でもあり、それぞれに方角の配置があります。
・北の方角:烏枢沙摩明王
・南の方角:軍茶利明王
・西の方角:大威徳明王
・東の方角:降三世明王
・中央:不動明王
ちなみに、この方角の論理は日本特有のものだそうです。


烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)さまは不浄除け、金運上昇のご利益があるとされており、トイレに御札が貼られていたり、トイレのそばに烏枢沙摩明王像が祀られる寺院も少なくありません。
人間界と仏の世界の間にある【火生三昧(かしょうざんまい)】という炎の世界に住み、人間の煩悩が仏の世界に広がらないよう焼き払い浄化しておられるということであります。

軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)さまは、煩悩除去、息災延命のご利益があるとされます。阿修羅や夜叉などの外敵から人々をまもり、さまざまな障害を取り除くとされます。
甘露軍茶利明王、または吉利吉利明王とも言われるそうです。

大威徳明王(だいいとくみょうおう)さまは、戦勝祈願、煩悩除去のご利益があるとされます。
阿弥陀如来さま、あるいは文殊菩薩さまの化身といわれ、名前の通り威厳と人徳が備わり悪しきものを打ち倒すとされています。
水牛の顔をした悪鬼を退治したとされ、水牛になったお姿をされているということです。

降三世明王(ごうざんぜみょうおう)さまは、煩悩除去、怒りを抑える、悪魔退散のご利益があるとされています。
阿閦如来さま、大日如来さまの化身ともいわれるとのこと。
降三世の語源は〝三つの世界を降伏するもの〟という意味で、過去・現在・未来の世界にはびこる欲棒、怒り、愚痴という三つの煩悩を退治するといわれています。

金剛夜叉明王さまのご利益は息災健康、怨敵退散。
金剛とはダイヤモンド。何ごとにも破壊されない仏の智慧遠あらわします。
不空成就如来さまの化身ともいわれ、過去・現在・未来の悪い欲を飲み尽くし、仏の智慧で心の汚れを取り除くとされています。

…ちなみに、ここに書いたものは調べてみただけで、疑問に思う点もあるのですが、とりあえず記しておきました。

No.12 22/05/13 10:31
旅人 ( pu5bob )

【不動明王】さまのご利益は、除災招福、戦勝、悪魔退散、修行者守護、国家安泰、現世利益のご利益があるとされます。
語源は動かない守護者。
インドのシヴァ神の別名です。
シヴァ神は暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす反面、雨によって植物を育てるという、破壊と恵みの相反するものをもちます。
それは不動明王にも受け継がれ、仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏堂に入った修行者に対しては常に守護して見守ってくださいます。

また、大日如来さまの化身として、どんな悪人でも仏道に導くという決意をあらわした姿だとされています。
不動明王の脇侍として、八大童子のうちの矜羯羅(こんがら)・制咜迦の二童子が配されることも多いようです。
不動明王の持っている龍が巻きつく炎の剣が単独で祀られることもあります。

不動明王の目は天地眼(てんちげん)といい、右目を天に、左目を地に向けています。
口は牙上下といって、右の牙を上に、左の牙を下にしています。
手には剣と羂索を持っています。剣は大日如来さまの智慧の鋭さを表現し、羂索は煩悩を縛り、悪の心を改心させる捕獲用の縄のことです。


うーむ、皆さま煩悩除去を掲げておられます。これは、まさに私にとってかけがえない存在なのでは?

これはこちらの大護摩堂でご祈祷していただくとよいのかもしれません。



大護摩堂を出ますと、見上げる高さのモニュメントのようなものがあります。実はこれ、天台宗特有の仏塔とのことで、【相輪塔】というのだそうです。この相輪塔、家光公の発願により建てられたといい、東照宮の鬼門に建てられた供養塔とのこと。青銅製で、これもまた私の来られなかった間に綺麗に修復されたようです。

高さは十三メートル強、礎石を入れると十七・五メートル。内部には経典がおさめられているとのことで、邪気を祓い、聖域を守護しているということです。
建てられた当初は奥の院にあったようです。

この相輪、五重塔や三重塔のてっぺん、最上階の屋根の上にある金具のことであります。

ちなみに。現在では日本にたった三基しか現存していないとのことで、こちらの他は、
・比叡山 延暦寺
・大慈寺(栃木県)
とのことでありました。

No.13 22/05/13 15:11
旅人 ( pu5bob )

【夢をかなえるゾウ】という小説をご存知の方は多いかと思います。
そのゾウ(象)の名は【ガネーシャ】。

ガネーシャは、困難や障害を取り除き福をもたらすとされる、豊穣や知識、商業の神様です。
その姿はとても特徴的で、4本の腕をもつ太鼓腹の人間の身体に、片方の牙が折れた象の頭をもっています。
インドではとてもポピュラーな神様なので、人形や絵などを飾る人も多いといいます。
インド料理屋さんなどで目にしたことがあるかもしれません。

でもなぜ象の頭をしているか。

頭が象であることについては複数の神話がありますが、一番有名なものをご紹介しましょう。

インドの三大最高神の一人である【シヴァ】、その妻のパールヴァティーは身体の汚れを集めて人形を作り、命を吹き込んで自分の息子、ガネーシャとしました。

ある日ガネーシャが、パールヴァティーの命令で、入浴の見張りをしていたところ、シヴァが帰還しました。
ガネーシャはそれを父、偉大な神シヴァとは知らず、入室を拒みました。
するとシヴァは激怒し、ガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨ててしまったのです!!
後にそれが自分の子供だと知ったシヴァは、怒りくるう妻のため、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅に出かけます。
しかし見つけることはできず、旅の最初に出会った象の首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付け、復活させたといわれています。

日本の神話もそうですが、外国においても、神話というのはなんとも突飛な物語が多いようです。
それは、人智を超える存在、神ゆえのことなのでありましょうが。

そして。ガネーシャは力太郎と同じ方法でこの世に生を受けています。
こうした創造は万国共通ということなのでしょうか。
まぁ、この辺はとりあえず置いておき。


なにが言いたいかというと、『不動明王』さまはこの『シヴァ神』のことだといわれているということで、なおかつ、『不動明王』さまは『大日如来』さまの化身だという…。

そして、ということは、夢をかなえるゾウ『ガネーシャ』は、不動明王さまの息子、大日如来さまの息子ということになっちゃうんですよね。
しかも、です。
仏教の守護神といわれる『歓喜天さま(聖天さま)』は、ガネーシャがルーツになっているといわれているのです。
えっとぉ…。






No.14 22/05/13 16:03
旅人 ( pu5bob )

…えぇ。
そんな私の頭では到底理解できない、さまざまなことが絡んで絡んで絡みついて、ほどけてまた絡んでいるようなことが、神話であるとか、仏さまのことであるとかを調べれば調べるほど出てくることがあるんです。

…まぁ、私の文章もそんなところがあるかもしれませんが。
私の場合、文章がおかしいとか、どことどこが結びついた文章なのかわからないとか、言葉の使い方が間違っているとか、多々あるのだと思われます。
要はそんなおバカなんです。
そんなおバカには到底理解ができないことが結構あるのが、神話であり、御仏のお話であり。

で。
たどり着くのはいつも「ま、いいかぁ」。

…だって調べれば調べるほどわからなくなるんです。もっと賢こければ、少しは理解できるところがあるのかもしれないのですが、どんどんこんがらがって、何がなんだかさっぱりわからなくなっていく一方なんです。

みんなみんな別個に考えて、一説によるとそうなんだ、そういう説もあるんだ、と、そう考えることにしています。

だって、以前お話の流れでその辺にふれたお坊さんすらが、苦笑いして言葉を濁していたくらいなんです。

そこで私が真剣に
「お坊さま、私にはその辺りがちっともわからないんです。私の頭でわかるようにお教えいただけますか」などと聞いたところで、お坊さん、お答えになれるのでしょうか。

ふぅっ。
まぁ、そういったわけで、シヴァ神とお不動さまの件は、別個に考える。お不動さまと大日如来さまも別個の御仏。
そう考えることにいたしました。



私は不動明王さまが大好きなのです。

不動明王さまの恐ろしくも厳しいお顔は、私どもを常に見守り、煩悩にまみれもがく私を救おうとしてくださっているからだと私は解釈しております。
本来、慈悲深い不動明王さまは、その救済すらが難しいほどに煩悩にまみれた者を力づくでも救おうとしてくださっておられるから。
手に持つ倶利伽羅剣で邪悪な心や迷う心をたちきってくださり、羂索で悪しき心を縛り上げようとしてくださっておられるから。


群馬県渋川市におられる不動明王さまは可愛らしくウインクをしながら照れ臭そうなお顔で立っておられます。
出向いた先で思いがけずお不動さまにお会いできるとホッといたします。

私の仏教との関わりはまだまだそんなところです。


No.15 22/05/14 14:14
旅人 ( pu5bob )

睡蓮の花が咲く季節となりました。
睡蓮を見ると、【芥川龍之介】の【蜘蛛の糸】を思います。


ある日のことでございます。
御釈迦様は極楽の蓮池のふちを一人でぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。
池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のように真っ白で、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、なんとも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。

…。


蓮の花と、睡蓮の花。
実は私、この二つは同じものだと思っておりました。
ところがですね、あるお寺さんの庫裏のすぐそばにある池の縁で、ご住職さまと何気ない会話の中で、
「蓮の花がきれいに咲きましたね」
と申しましたところ、
「これは睡蓮です」
と言われました。

へっ?

家に帰って調べたところ、
蓮の花は『ハス科ハス属』
睡蓮は『スイレン科スイレン属』

まるで異なる植物であったのです。
両方とも水の中に根を張り、水面に葉と花をひろげ、咲く頃も初夏から夏。
その花も歯も極めて似ており、その違いは水面に葉と花を浮かべるように咲くものと、
水面から茎を伸ばしそこから葉をひろげ、花を咲かせるもの。
そういった違いこそあれ、まあどちらも『蓮』なのだろうと、ずっと思い込んでいたのです。

ふーん。

ご住職さまにご指摘されなければ、すーっと蓮も睡蓮も同じものだと思いこんだままであったことでしょう。

えっ?
じゃあ、あの『蜘蛛の糸』で御釈迦様が地獄の様子を覗いておられた池に咲いていたのは〝ハス〟?〝スイレン〟?
スイレンを植えておられるお寺さんもあれば、蓮を植えておられるお寺さんもあります。
『蓮』、なんだろうなぁ。

【蓮華の五徳】、という言葉があるようです。
・淤聹不染の徳
・一茎一花の徳
・花果同時の徳
・一花多果の徳
・中虚外直の徳

この五つの徳が、仏の街を歩むうえで正しい姿とされているのだそう。

イメージは睡蓮だったのだけれどなぁ。
だって結構蓮の背丈って結構高いものですから。その隙間を覗いてご覧になられるのより、水面に咲く睡蓮の方が覗きやすいし。

蜘蛛の糸の美しい文章は、読むだけでそのイメージが湧いてでるくらいのものです。
でもそのイメージする人物の知識が間違っていると、違う映像化がされてしまうということでありました。

でもなぁ。
イメージはもう睡蓮なんだよなぁ。

No.16 22/05/15 06:48
旅人 ( pu5bob )

前回のスレで誤字がありました。
お詫びして訂正いたします。
誤▶︎仏の街
正▶︎仏の道

過去におきましても、気づきもせず放置してありますものもありますかと思われます。申し訳ありません。


さて。
その前回のスレで、『蓮華の五徳』という言葉が出てまいりました。
蓮と睡蓮の違いすらわからなかったおばさん、当然、この言葉も初めて知ったもの。
私の覚書として書いておきます。


【蓮華の五徳】
蓮には五つの徳が備わっていて、この五つの特徴を私達が持てば極楽に生まれることができると言われているとのこと。このことを「蓮華の五徳」というそうです。


一、淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく)
淤泥とは、淤も泥も泥田を意味するとのこと。
蓮の花は泥の中から芽を出します。決して泥に染まらず水面より上に柔らかなピンク色、白色、黄色などの優美な花を咲かせます。泥水が濃ければ濃いほど大輪の花を咲かせる、とされています。
人は生きていくために、多くの過ちを犯しています。これを当たり前のことと思っていると、泥は汚泥のまま。
迷惑をかけずに生きることができないのが人間であると気づき、全てのものに対して感謝の心を持って生きようという教え。

二、一茎一花の徳(いっけいいっかのとく)
蓮の花は、一つの茎に一つの花を咲かせることから、命は一人一人に固有のもので、私の代わりは私以外にはいない唯一無二の存在であるということ。
自分自身をしっかりと持つようにという教え。

三、花果同時の徳(かかどうじのとく)
蓮の花は咲くと同時に実ができるのだといいます。
人は生まれたと同時に誰にでも、仏様の心が備わっているということ。
仏心の原石は備わっているので、それを日々大切に磨いていくようにという教え。

四、一花多果の徳(いっかたかのとく)
蓮の花は、一つの花にたくさんの実をつけます。
自分が開花(真実に出会う)すると一気にたくさんの真実が見え、それがのちに多くの人々の幸せに繋がっていくのだという。

五、中虚外直の徳(ちゅうこげちょくのとく)
蓮の茎には栄養を運ぶために、管のような穴が開いています。空洞があることによって強度が増しているといいます。
弱そうに見えるものが、実際は穴が開いているからこそまっすぐに伸びる強さを持っている、ということ。
人はまっすぐ生きる資質を持っているという教え。

No.17 22/05/15 15:21
旅人 ( pu5bob )

日光山輪王寺はお堂や塔、十五の支院全体の総称であります。


日光山内という地名で称される、いわゆる二社一寺の『日光東照宮』『日光山輪王寺』『二荒山神社』『家光廟大猷院』のあるところだけにとどまらず、輪王寺三仏堂から直線距離にして五百メートルほど離れた『開山堂』や、同じく直線距離にして四百メートルほどの位置にある『四本龍寺』などなど、輪王寺全ての参拝は私どもはまだ成しえておりません。

No.18 22/05/15 18:58
旅人 ( pu5bob )

『東照宮』は近世からでありますが、『輪王寺』と『二荒山神社』(近代初期の神仏分離で分けられたが、それ以前は一体のものであった)は、奈良時代からの山岳信仰によって創建された寺社であります。

平安時代には、天台・真言の密教が本格的に流入するとともに本地垂迹説に基づく信仰も盛んになります。

平安時代前期に、【最澄】(伝教大師)の後継者のひとり、【円仁】(慈覚大師)が来山したという伝えがあります。
円仁は下野国出身であり、そのころすでに聖地日光は広く知られていたので、ありえないことではないとされていますが、実際に円仁が日光に来たかどうかは不詳であるとされます。
ただ、天台宗の影響がそのころより高まっていったことは確かなようで、比叡山にならい【常行堂】と【法華堂】が建てられます。
さらに鎌倉時代には幕府に厚く保護され、比叡山に次ぐ寺格を誇ったといいます。

常行堂は、十二世紀半ばの創建とも、円仁によって創建され十二世紀半ばに再建されたものとも伝えられていますが、いずれにしてもその後に場所を移して再建されています。
『法華堂』・『常行堂』の二堂が同サイズで並び立つ形式を守っていること、『常行堂』本来の本尊である【阿弥陀五尊像】をまつっているのは伝統を忠実に引き継いでいるものと考えられ、大変貴重な遺産といえるのだといいます。

この『常行堂』と『法華堂』は渡り廊下でつながり【二つ堂】とよばれます。
こうした造りは全国でも珍しく、比叡山と輪王寺でしか見られないものだといいます。
常行堂と法華堂は、法華堂がやや小ぶりなももの、一見するとまるで双子のような、そっくりの建物に見えます。
けれど実際は、常行堂は純和風のもで、一方の法華堂は総朱塗りの純唐風建築であります。

こちらには他の御堂のような拝観受付とかがなく、最初は中には上がることができないものだと思っておりましたが、実はこちらは拝観料とかのない御堂。しばらくは前を通り過ぎておりました。

あるとき、中に入ってこちらの御本尊さまを拝観できると知り、恐る恐る靴を脱いで、中に入りました。
こちらは拝観自由、つまりは心ゆくまで御仏に向き合うことのできる御堂であったのです。
以来、こちらには必ず寄らせていただいてゆっくり自分のペースで参拝させていただいております。

No.19 22/05/15 23:11
旅人 ( pu5bob )

靴を脱いで入ってすぐは、室内ながらも向拝のようなところとなります。
そこでまず参拝し、向かってひだりてに向かいますと、御朱印などを授与していただく受付があり、その手前から、さらに中に入ることができます。

…が。
この日はそこから入ることができませんでした。
まさかここ常行堂では徹底したコロナ対策で中にまでは入れないようにされている?
あきらめの悪い私は、受付でお聞きしました。
「本日まもなく始まる法要のため、お入りいただけないんです、申し訳ないですね」

法要かぁ。
…たしかに、このコロナ禍においては、今まで盛大に一般参拝者も参列させていただけた行事が、のきなみ皆、関係者のみでしめやかに執り行われるようなっております。


こちらの御本尊さまは前スレで少しふれましたが、『阿弥陀五尊像』さま。
中尊は平安時代までさかのぼれる【宝冠阿弥陀像】として貴重なだけでなく、五尊が揃ったきわめて珍しいもののようで、他に阿弥陀五尊像で今日まで伝来しているものとしては、岩手の毛越寺のみで、毛越寺さんは近世の作であることからも大変貴重な御仏像のようです。

中尊の阿弥陀如来像は、像高70センチ弱の坐像で、一般的な阿弥陀像の姿とは異なり、まげを結い、宝冠をかぶり、両肩を覆った衣がぴったり肌についているお召し物を召されたお姿であります。
尊顔はやや丸みをおび、穏やかでたいそうお美しくお優しいお顔立ちをなされています。腕はやや短くつくられ、膝の張りは控えめ、あまり襞(ひだ)も刻まず、そして何よりの特徴として、孔雀にお乗りになられておられるのであります。
ちなみに、こちらの中尊の説明として、
…平安後期らしい落ち着いた造形であり、十二世紀半ばの、常行堂の創建当初(あるいは再建時)からの像と思われる。像内に鎌倉から江戸にかけて4回修理を受けた記録が残っている。
とありました。

四体の脇侍菩薩は像高30センチ弱の小さな坐像で、やはり孔雀にお乗りになられています。
二体は中尊と同時代と考えられなくもないようですが、やや引き締まった印象からおそらく鎌倉時代のものではないかとされ、他の二体は室町時代の作と考えられているそうです。小さな御像ながら厚みのある体躯をもった堂々たる像であります。

ちなみに中尊、脇侍とも鳥獣座(孔雀)に乗っているのは、後補であるようです。

No.20 22/05/15 23:44
旅人 ( pu5bob )

ちなみに、脇侍菩薩さまはそれぞれ、法・利・因・語の四菩薩さま、ということです。


その昔、常行堂では、常行三昧(じょうぎょうざんまい)という仏様の周りを歩きながら念仏を唱える修業が行われていました。その為、内陣は本尊の周りをぐるりと回れる造りになっているのだそうです。
現在では、回向(えこう)の道場となっており、先祖供養・水子供養をされるところ、のようです。

以下、輪王寺のホームページより。

…回向とは、「自分の積んだ功徳を、他者に回し向けること」をいいます。現代の日本では、特に先祖や亡き人々の供養をする意味で使われます。そして、回し向けた功徳は、廻り廻って必ず自分のところへ戻ってくるのです。
常行堂は、回向(先祖供養・水子供養など)の道場です。皆様に代わって、毎日読経し供養いたします。
・先祖供養、水子供養で何をすればいいか分からない。
・お墓が遠くて、なかなか御参りに行けない。
・供養は大事だと思うが、大きな費用はかけられない。
・事情があって、近くのお寺で供養できない。
このようなお悩みをお持ちの方は、輪王寺常行堂での回向をお勧めいたします。
常行堂での先祖供養・水子供養は、檀家になっていただく必要はございません。宗門・宗派に関係なくどなたでもお申し込みいただけます。
御位牌をお作りしての永代供養や、引き取り手のない御位牌をお預かりすることもできます。
…。


列席しての法要も可能なようです。す。

ん?
この日の法要って…、まさにその回向の…?
…そうか、そうでしたか。


輪王寺さんって、案外身近なお寺さん、だったんだなぁ。


ちなみに。
二つ堂と称されるくらい、密な関係にあるのかと思われます『法華堂』は、中に入ることはできません。いつも固く戸が閉ざされています。
常行堂が常行三昧を行うのに対して、法華堂は法華三昧を行う道場、なのだとか。
御本尊は普賢菩薩さま、左右には鬼子母神さま、十羅刹女さまが御祀りされているようです。

No.21 22/05/16 09:52
旅人 ( pu5bob )

昨年の十月、わが家を訪ねてきた姉が玄関先で靴も脱がずに、
「うわぁ」とどこか嬉しそうな驚いたような声をあげました。
「なぁに?どうかしたの」
「これ、日光の龍神破魔矢じゃない?いつからあったの?」

ええっ?
…いつからあったって、もう何年も前からそこに変わらず置かれていましたが?その間、何度となく訪れていると思いますが?
私「いつからだか忘れちゃったけど、頻回に日光に行っていた頃、
『このたび破魔矢発祥となる烏摩勒伽さまがお持ちになられる矢をかたどった、昇り竜の彫刻された破魔矢をお作りいたしました。ついこの間からお授けいたしておりますが大変ご好評いただいております』
って言われて、たしかにその前の参拝の時にはなかったから、本当に出たての頃だと思うよ。
でもその時は我慢したんだけど、やっぱりどうしても家におまつりしたくて、一ヶ月後ぐらいにお受けしてきたんだから。
もうずっとここにおまつりしてあるんだけど」
姉「うわぁ、そうなんだ。いいなぁ」
私「えっ?行けばいいじゃない。大猷院でおうけできるよ」
「実はね、○○テレビの〔占ってもいいですか〕っていう番組で紹介されて欲しいなぁと思ってたんだ」

…出た。自称テレビっ子で占い大好きな姉。よくテレビの影響を受ける夢みるおばさんであります。
「一緒に行かない?」

ええっ?この時期にぃ?
秋の日光、いろは坂の紅葉で一年で最も混むとされる時期にですかぁ?
一笑しことわったところ、週が明けた月曜日、姉から電話が入りました。


姉「行ってきた」
私「えっどこに?」
姉「日光だよぉ」
私「ええっ!? この紅葉シーズンに?
○○さんと?(別れたご主人)」
姉「違うよぉ、一人で行ったんだよぉ。すっごい混んでて疲れたよぉ〜」
…だから混んでるって言ったじゃない。
姉「でもねぇ、売ってなかったん」
私「なにが?」
姉「龍神破魔矢だよぉ〜」
私「えっ?嘘でしょ?いつも山のようにあるよ?一緒にお住まいでないご家族などにも是非っていうくらいで、いくつも買ってる方がいたくらいだよ」

姉「テレビでやってからすごい人気であっという間に品切れになって、今申し込んでもニ、三ヶ月後になるんだって」
私「…(絶句)」
姉「でも申し込んできたから」
私「…よ、よかったねぇ」

No.22 22/05/16 10:00
旅人 ( pu5bob )

(つづき)
姉「平日に行ったんだけど、すごかったぁ。もう疲れちゃって、二日くらいほとんど寝て過ごしてた」
私「ええっ?大丈夫なの?」
姉はまだあまり元気、とはいえないような声ではありましたが、達成感と興奮を誰かに伝えたかったようで、一通り話すと一方的に電話を切りました。

うーむ。


常行堂のすぐお隣が大猷院の入場受付です。入場券はすでに入手してありますものの、その混雑を思うだけで気持ちが重くなりそうです。

恐る恐る受付の方に眼を向けると。受付自体はあまり混んではおりません。
受付で入場券をお渡しし、何気に貼られている貼り紙を見ると…。
な、なんと!この受付で龍神破魔矢をお授けいただけるようです。
と、いうことは、大猷院の外陣で破魔矢をお受けしない方もおられるのでは?

うわぁ♡
私、実はこの大猷院も大好きなところなのであります。
ゆっくりと、静かに拝観できるかも。


No.23 22/05/17 00:28
旅人 ( pu5bob )

【家光廟大猷院】は、徳川三代将軍である『徳川家光公の霊廟』として1653年に建立されました。
【四代将軍家綱】公の命によって造営が決まり、家光公の重臣であった老中の【酒井忠勝】が指揮を執って絢爛な拝殿や墓所をわずか一年で完成にこぎつけたという、家光公への忠誠心が詰まった廟と言えます。
ちなみに『大猷院』とは、家光公の法名、正確には後光明天皇より賜った法号であります。

大猷院は輪王寺の一堂でありますが、本堂である三仏堂から離れ、まるで東照宮を挟むかのような位置にあります。
そもそもが明治の初めの神仏分離令以前のものでありますので、元々は一つのものでありました。

【日光東照宮】と言えば【徳川家康公】を祀った神社。
家康公は子孫を見守るために自分を神として祀るように遺言し、その地に日光が選ばれました。
現在ある東照宮はそのほとんどが、家康公を敬愛する、孫家光公が【寛永の大造替】で建て替えたものであります。
日光東照宮と同じ輪王寺の境内に大猷院が造営されたのも「死んだのちも東照大権現(=家康公)にお仕えする」という家光公の遺言によるものでありました。
家光廟大猷院は家光公が東照宮を模倣すること、東照宮より立派なものを造ることをはばかったので、東照宮とは全く異なった趣となっており、目立たない部分に技巧が凝らされています。
また、建物も東照宮に向いて建てられ、これも家康公に対する家光公の深い思慕の念を示しています。

受付をすませるとまずあるのが【仁王門】。八つの脚があるのが特徴であります。
高さ3.2メートルの【密迹金剛】と【那羅延金剛】の二体の仁王像が門を守っています。
仁王門をぬけると石畳に出ます。
ここの石は、日本の名石として名高い神奈川県根布川のもので、雨に濡れると赤や青に変わるのだといいます。
また、家光公お手植えの槇の木が門をくぐり向かってひだりてにあります。

正面みぎてに手水舎=御水舎がみえます。四隅に各三本、十二本の御影石の柱に支えられた瓦葺きの建物で天井には狩野永真安信による竜の墨絵が描かれています。この竜が大きな御影石の水盤の水面に映ることから【水鏡の竜】と呼ばれてい…ました。残念ながら、今はもう、画は薄れ、さらにはカビが生えて、竜であることを確認することすら難しくなってしまっています。

No.24 22/05/17 06:53
旅人 ( pu5bob )

本来の徳川家の墓所は江戸の【増上寺】および【寛永寺】とされていましたが、家光公はその遺言を受け、法要は上野の寛永寺で執り行われ、その後日光東照宮の西側に造営された大猷院に埋葬されました、ということであります。

家康公への敬意を表すため、大猷院霊廟は東照宮よりも小さな規模で、東照宮の方角を向いて建てられました。そして、大猷院全体の装飾は東照宮よりも華美にならず、それでいて家光公の功績を称えるべく、荘厳な美しさの装飾が施されました。
東照宮は白と金色を基調とした華やかな建物、大猷院は黒と金色を基調とした落ち着いた雰囲気となっております。

前前回、私は大猷院が好きだと申しました。
その落ち着いた雰囲気が、日常を離れて心落ち着く空間を作り、心癒されるのだと思います。
…まぁ、こちら、墓所ですし、ね。


まず、ここ。ここの仁王門をぬけた、石畳の、御水舎(おみずや)と宝庫のあるだけのこの広い空間が大好きなのです。

澄んだ空気、ほどよい高さの木々、美しい水が絶えず注がれる御水舎。
いつまでもいたいと思えるくらいにゆったりとした時が流れています。
ここは澄んだ気が上から流れ込みとどまっているのではないだろうかと、そんなふうに感じるのであります。

この御水舎の大きな特徴のひとつが、その澄んだ湧水が手水舎に流れ込む仕掛けであります。
御水舎から少し離れた小高いところに銅造りの黒龍がいて、その小高い山の裾からわき出る水をこの御水舎に注ぎだします。
さらにはその水を見守るように石造の、さほど大きくはない不動明王さまがお立ちになっております。
しかしながら、その龍が居るところからの距離はなかなかのもので、その水を御水舎に運ぶため、徳川紋があしらわれた石樋が敷かれ、それを伝って手水鉢に水が注ぎ込んでいるというものとなっております。
その水の流れを見ているだけでも心が洗われるようであります。

まぁ、そこにいるだけでいいのか?ということもありますし、御水舎からひだりてを見上げると、大きく広い階段の先に、もはや建物といったていの大きく立派な門、【二天門】がそびえておりますし。
昔の人は「日光見ずしてけっこうと言うな」と言ったようですし。

その階段を登って日光輪王寺大猷院の二天門を目指します。

No.25 22/05/18 19:52
空 ( pu5bob )

御水舎の向かいにある門【二天門】。
世界遺産【日光社寺】の建物の中でもっとも大きな楼門であります。その大きさは実に高さ約11.6メートル、横幅約9.6メートル、陽明門よりも高さ約50センチ、横幅約2.5メートルほど大きいといいます。
その大きさの建物が、階段の上にそびえているのですから、それはもう圧倒されるほど雄大な姿であります。
普通のお寺さんなら本堂が軽く覆われてしまうくらいの大きさです。

その中央にはその大きな楼門に負けない、大きな大きな扁額が掲げられています。
黒地に金色の文字と金色の装飾。
その大きな楼門を見上げたとき、いの一番に目に入ってくるのがこの額、【大猷院】、と書かれています。
こちらの文字、後水尾天皇の筆によるもの。
東照宮の陽明門もまた後水尾天皇の宸筆(しんひつ=天皇本人が書いたもの)であります。
ちなみに、大猷院という法号は、家光公の死後、後光明天皇から賜ったものであります。

この門の表側に、四天王のうちの【持国天】と【広目天】の二天を祀っていることから、この名があります。
裏側は風神・雷神。

なぜ四天王の二天を?
お祀りするところは四ヶ所あるというのに?

No.27 22/05/19 04:53
旅人 ( pu5bob )

ん?
あれ?
実は…今、手元にある資料には広目天となっていましたが、輪王寺の公式ページでは増長天となっています。

えっ?どういうこと?

自分で写してきた写真を確認すると、ぞ、増長天です!

どの資料を見ても『広目天』となっています。

でも、それもまた正解、なようなんです。

実はこの二天門、平成二十四(2012)年から三十(2018)年にかけて、補修及び改修工事が行われていたのです。
ちなみに、その工事前も工事期間中も、そして工事が終了してまもなくにも、私ども、こちらに参拝させていただいております。
その際門だけではなく、二天もまた、その色を塗りなおすことも含めた修理を施されたのでした。
私などは塗る前の二天さまのほうが、落ち着いた色合いで好きであったくらい。

閑話休題。

その広目天さま。
手に持つものが本来であれば【筆】なのだそう。
にもかかわらず、こちらの〝広目天〟さま、刀を持っておられるのです。
それでこの修理期間中、秘密裏にこの広目天さまを調査したのだそうです。
結果、首の内部に『寛政九巳(1797)年〜廣目』の文字が見つかったというのです。

あらあら。

つまりは、江戸時代からすでに像の名称を間違えていた、ことになります。
この結果を受けて、平成三十一(2019)年七月十八日に、輪王寺は公式発表という形で
広目天の呼称を増長天へと変更していたということでありました。

…いやぁ、びっくりですね。

そして。
この修復(塗装)も、もはや色を変えて塗り直したんじゃないかっていうくらいに色が変化しておりまして、お召し物などはもう以前とは別物、というくらいに変わって(しまって)いたものです。
持国天さまなどはエメラルドグリーンのお顔から深緑に近い緑色へと変貌しておりまして。
私は修復前の方が好き、でありました。
ただ、きっとこの色の変化、私が好きだと思っていたお色は、経年の変化によるもので、当初はまさに今の色、だったのかもしれません。
…んー。お召し物も?
まぁ、そればかりは一般の参拝者の一人でしかない私には知るよしもありませんが。
(一部誤字があったため、手直しして再投稿しました)

No.28 22/05/19 14:47
旅人 ( pu5bob )

>> 27 …まぁ、広目天さまと思われていたものが増長天さまであったと訂正されようがされまいが、こちらの門を御護りになっておられるのが四天王のうちの二天であることには変わりないので、その名が二天門であることは変わりなく。
そしてその二天さまの勇ましいお姿と、流れるような薄い衣の裾のみごとさは何度見ても溜息がこぼれるほど。
…そもそもが最初から二天ではなく四天王を配してしまえば、このような過ちも起きなかったでありましょうに、ねぇ。

なぜ?
という疑問かまたふつふつと、湧き上がるのではありますが、これはGoogle先生にどれだけお聞きしても答えが出ず。
今度大猷院を参拝させていただきましたおりにお聞きして参ろうかと思います。…もう何年も前から疑問に思ってありますのに、そこに頭が回らないほど、大猷院は圧倒される素晴らしい建物の数々、素晴らしい彫刻、素晴らしい絵画、素晴らしい気に満ちているところであります。
(素晴らしさに圧倒されて、つい忘れてしまうという言い訳をしてはおりますが、本当は訪れる前から忘れている、からっからの脳みそなだけ、なのですが、ね)

ただ、この【大猷院】、建物として縁起を担ぐには、あり得ない建て方、不吉とされる【鬼門】に向けて建てられているのです。
それを覆すほどに祖父家康公への敬愛の念が強かったということになりましょう。
その不吉とされる鬼門に向けての廟所を、せめてこの天に御護りいただこうということで、東(左)を護る持国天さまと、西(右)を護る…、…まぁ、本来であればまさに広目天さまであったというわけですが…。
ま、まぁ二天のお一方、増長天さまが御護りになっておられるということのよう、です。

以下は私の推論でしかありませんので、読む価値はあまりありませんが、ない頭をひねって、せっかく考えたので書いておきます。

…そこに…、持国天さまと対をなして増長天さまが配されたのは、実は四天王さま全てがお揃いになられたときには、右から右回りに持国天さま▶︎増長天さま▶︎広目天さま▶︎多聞天さまと配置されることがほとんどだそうで、そのことからすぐ右に配される増長天さまが並んで御祀りされた、ということでしょうか。
でありながら、西(右)をお護りになられるのは広目天さまだから広目天さま、ということでそうお呼びしてしまっていた?

日光のお山に真の真実はあります。



No.29 22/05/20 15:42
旅人 ( pu5bob )

二天門を抜けると、正面は行き止まり。
みぎてに階段があってそれを登ります。その階段を登っていくと、先ほど見上げた大きな大きな【二天門】を斜め横から、そして斜め上から眺めることができます。
それがまた見事で、ため息がでるのです。
その階段を登る途中、踊り場というにはあまりに広い場所があって、また九十度体の向きを変えて階段を登ることになるのですが…。そこから、石灯籠がたくさん見え、さらにその奥に建物があるのが見えます。

そこは非公開となっております、【竜光院】と呼ばれる建物のようです。
なんでも、こちらは家光公の八歳年下の側近『梶定良』が、家光公没後、大猷院廟定番(たいゆういんびょうじょうばん)となって住んでいたという建物だといいます。
日光山を管轄し.山内の警護と大猷院(この場合は家光公の諡号)に霊膳を捧げるのを日課としていたとのことであります。梶定良没後に日光奉行が創設され、その後の管轄、警護は日光奉行が執り行なうこととなります。
梶定良の位牌が竜公院の仏間に祀られ、五月に『照光院殿御忌』が執り行われているとのことです。(梶定良の法名が照光院)

大猷院で四月下旬に行われる伝統の清掃作業である【栗石返し】の作業後、竜光院で沢庵と茶の接待がされているようですが、これは一般の者が参加できるものではないようです。

大変静かな佇まいで、その踊り場から竜光院の建物を見下ろしながら、主君亡き後廟所をただ一人守ったという側近を思うと、なんとも切ないような思いにかられるのでありました。

No.30 22/05/21 05:48
旅人 ( pu5bob )

日の当たる、広い踊り場で、竜光院とは反対側に目を向けるとまた、ややもすると圧倒されるような広くて長い階段があり、その先には、何やらそびえる屋根の一部と木々、そして大空が広がっています。
それを長い階段ととらえるか、天界へと昇っていくような感覚ととらえるか…。
そうなんです。
輪王寺のホームページには大猷院を『天上界に昇っていくような印象を受けます』と紹介されております。

天上界へ昇って行けるほどの徳は一切無い私は、さすがに天上界へ昇る感覚とはなりませんが、とはいえ、ここの踊り場に立ってその階段を見上げると(…輪王寺のホームページ上では『展望所』と紹介されていました)わくわくするような、それでいてどこか身の引き締まる感覚を覚えるのです。

その長い階段を登りきると、また、広い空間が広がっています。
そして左右にはまるで双子のような建物があります。これは鐘楼と、もう一方は鼓楼ということです。
さらにその周辺には『唐銅製(からがねせい)』の灯籠があります。
この灯籠は十万石以上の諸大名が奉納したもの。


そしてその先に二十段ほどの階段があって、大きさこそは二天門より小振ではありますが、これまた見事な彫刻と装飾、豪華絢爛な門がそびえます。

こちらは【夜叉門】。
牡丹や唐草模様の彫刻が沢山あることから、別名『牡丹門』とも呼ばれています。

豪華絢爛な夜叉門には、霊廟を護る四体の夜叉が安置されています。
夜叉は、門の表と裏に二体ずつ配置されています。
それぞれの方角の色を表した夜叉は四体それぞれに特徴があり、また目を奪われます。
四夜叉は【青面金剛】さまに従う四護法善神とされています。
仏法およひ仏教徒を守護する天部の神さまであられます。

表となる門を護られておられる二体は、毘陀羅さま、阿跋摩羅さま。

南の方角の【毘陀羅(びだら)】さまは、赤。四体の中で一番派手な服装をしています。両肩を被う金色の服をまとい、ナマズの膝当てと靴を履いているのが特徴の仏様です。手には長い錫杖(?…と思われる)をお持ちです。

東の方角の【阿跋摩羅(あばつまら)】さまは、みどり。白虎の毛皮を腰に巻いていて、素足の仏様です。手には短い棒を持ち、大きく口を開けて怒りを顔に表されておられるかに見える仏さまです。


No.31 22/05/21 07:44
旅人 ( pu5bob )

夜叉門を抜けて、内側におられるのが烏摩勤伽さまと烏摩勤伽さま。

北の方角を護られる【烏摩勤伽(うまろきゃ)】さまは、青。
左手に弓、右手には矢をお持ちです。片袖の白を基調にしたお召し物をお召しです。
この矢こそが破魔矢(はまや)の原点と言われる矢だといいます。
あの、正月の縁起物として神社やお寺で授与される矢です。

この烏摩勤伽さま、その御像をお祀りされているのはおそらくはここだけと説明を受けましたくらい全国でも珍しいものとなるようです。
像の膝当てをして素足でお立ちになられています。
この、象の膝当てもまた、『膝小僧』の語源となっているとのことで、大猷院の説明をなさる職員の方は、かなり以前より「全国的にも珍しく、その『はじまり』とされる破魔矢や膝の象をお持ちの烏摩勤伽さまを、お時間があれば是非ご覧になってお帰りください」とおっしゃっていました。烏摩勤伽さまは青い色をされています。
そして、この烏摩勤伽さまなお持ちの矢をモチーフに作られたのが、あの、テレビの影響で大きな注目をあび、品切れ状態とまでなった【龍神破魔矢】、でありました。

西の方角の方角を護られておられる【鍵陀羅(けんだら)】さまは、白。右手にこん棒(?)を肩に担ぐようにお持ちです。水玉模様のブーツのようなものを履き、お召し物は金色を基調としたエスニック調のような柄の布を巻きつけておられます。

こちらの四体の夜叉、背景となる金色の牡丹と緑色の唐草模様にとても映えます。

No.32 22/05/22 06:50
旅人 ( pu5bob )

…すみません。
前回のレスでまた誤りを発見いたしましたのでお詫びして訂正いたします。

誤▶︎ …夜叉門を抜けて、内側におられるのが烏摩勤伽さまと‘’烏摩勤伽さま‘’

正▶︎‘’犍陀羅さま‘’

でございます。いつもいつも申し訳ございません。

No.33 22/05/23 16:02
旅人 ( pu5bob )

そしてここから先、唐門があり、そして拝殿、本殿、となるのですが…。

私、ふと、気になってしまったことがありまして。
こちら、日光東照宮並びに日光山輪王寺大猷院は、それぞれ、徳川初代将軍家康公の祀られた神社であり、三代将軍家光公の廟所であります。

あれ?二代将軍の秀忠公は徳川家の菩提寺である増上寺、でよかったんだよなぁ。
そう、あの東京タワーを従えた大きなお寺さん。

ん?
だけど、家康公と家光公以外の歴代将軍のお墓全てが上野の増上寺になかったような記憶がふわぁと、もわぁと蘇ってきたのだけれど。
あれ?なんだっけ?
なんか言ってた気がするなぁ。

…そもそも秀忠公は増上寺で合ってる?
たしかに増上寺にあった記憶があるにはあるのですが、なにぶんにも自分ですら信用の薄い私の記憶。

何故私がそんな自分の記憶を疑うかというと…。
たしか、天海僧正(慈眼大師)さまって、家康公、秀忠公、家光公が帰依したはずで、だとしたら、秀忠公も天台宗のはず。
あれ?
だとしたら寛永寺?


…調べました。


仏教を信仰している場合、先祖代々のお墓があるお寺のことを【菩提寺】と呼びます。
◯◯宗を信仰していて、歴代どこそこのお寺さんにお世話になっているから、我が家の人間が亡くなったらこのお寺にお世話になるという考え方です。
改宗などをしないかぎりは基本的にこの菩提寺にお世話になります。

徳川家ほどの名家ですから、当然信仰している宗教があり、菩提寺があります。


ここで、まずはとりあえず、それぞれの将軍が埋葬された場所を列挙してまいります。

初代徳川家康公 日光東照宮
二代  秀忠公 増上寺
三代  家光公 日光山輪王寺
四代  家綱公 寛永寺
五代  綱吉公 寛永寺
六代  家宣公 増上寺
七代  家継公 増上寺
八代  吉宗公 寛永寺
九代  家重公 増上寺
十代  家治公 寛永寺
十一代 家斉公 寛永寺
十二代 家慶公 増上寺
十三代 家定公 寛永寺
十四代 家茂公 増上寺
十五代 慶喜公 谷中霊園

最後の将軍慶喜だけは東京都台東区にある谷中霊園に葬られています。
ちなみに谷中霊園は上野寛永寺のすぐ脇にあり、明治時代に政府によって作られた霊園です。


元々徳川家というのは浄土宗を信仰していました。菩提寺は【増上寺】であります。

(続きます)

No.34 22/05/23 16:42
旅人 ( pu5bob )

家康公は神格化の為、日光に祀られた。家光公は祖父である家康を慕い日光の輪王寺に埋葬された。
ではそれ以外の12人の将軍たちはなぜ寛永寺と増上寺に分かれて埋葬されているのでしょうか。

そもそも徳川家の菩提寺は浄土宗の増上寺です。

それを考えると増上寺に埋葬するのが普通で、二代将軍の秀忠は現に増上寺に埋葬されています。
ここに『天海上人』が深く関わってまいります。

南光坊天海は天台宗の僧で、家康の側近として幕府に深く関わった事で知られています。
そして家康、秀忠、家光はこの天海が所属する天台宗に帰依していたのですが、徳川家自体は浄土宗に所属しているという複雑な状況が生じています。

そしてこの天海上人が「江戸に天台宗の寺を作りたい」と希望し、それを受けて秀忠が現在の上野公園のあたりの土地を与えます。(もちろんその土地には大名さまが住んでいたんですが、それぐらいの圧倒的な権力であったというわけですね)

そして家光の時代の寛永2(1625)年、その土地に天台宗の寺を建立します。建てられた元号から取って【寛永寺】と名付けられたその寺は、徳川家の祈祷寺として機能していきます。

家光による寛永寺建立、天台宗への帰依の流れを受けて、四代家綱、五代綱吉は寛永寺に埋葬されます。これにより寛永寺は正式に徳川家の菩提寺となったわけです。
しかしこれに怒ったのが増上寺。そりゃそうですよね、徳川家の菩提寺としてこれまでやってきたのですし、実際二代将軍秀忠は増上寺に埋葬されています。

で。それならば今後は交代に埋葬しましょう、増上寺も寛永寺も、どちらも徳川の菩提寺ということとし、決着がついたようです。
それゆえ、その後の十四代家茂まで交互に両寺に埋葬されたということのようです。

ん?
最後の将軍である慶喜公は、その順番からいったら『寛永寺』となるはずなのですが、そのどちらでもない、明治政府の作った谷中霊園に埋葬されている?しかも谷中霊園って寛永寺のすぐ隣だというのです。
将軍でなくなったとはいえ徳川であることには変わりはないように思うのですが…。

明治という時代が関係していてのことでしょうか。…うーん。

No.35 22/05/23 17:05
旅人 ( pu5bob )

徳川第十五代の、最後の将軍【慶喜】公が、増上寺でもなく寛永寺でもない、谷中霊園に埋葬された理由は、実に、まさに明治という時代が関係しておりました。


慶喜公が江戸城を無血開城し、結果明治維新がおこり、天下の征夷大将軍は、幕府崩壊と共に一般人になった訳です。
ところが、その後明治天皇により、慶喜は『公爵』に叙せられます。
公爵というのは爵位における一番上の位であります。
そのような位を賜った事に感謝し、天皇家への忠誠を誓うため、慶喜は自ら仏教徒から神道への宗旨替えを希望したのだといいます。

それにより、慶喜は両菩提寺である増上寺、寛永寺のいずれにも埋葬されずに、明治政府が作った新しい墓所である谷中霊園に埋葬されたということだったようです。

もちろん、徳川家、そして公爵という地位にふさわしい、立派な、独立し門のついた墓所であるようです。そしてその墓所の周囲には子孫のお墓が点在しているとのことで、慶喜のお墓の向かいには一橋家のお墓があるということです。

No.36 22/05/26 06:01
旅人 ( pu5bob )

さて。大猷院へ話を戻すことといたしましょう。

夜叉門を抜けるともう目の前に唐門があります。
そのあまりの美しさ、豪華さに、引き寄せられるかのように門へと向かって歩いてしまいます。最初などは夜叉門の裏を見ることも、唐門を護るように置かれた大きく立派な青銅製の灯籠を見ることもなく、その門へと向かってしまっておりました。
ですが…。
拝殿での参拝を終えたのちは、実はこの唐門に戻ることなく、拝殿向かってみぎてに向かうこととなり、そのまま大猷院の建物を横から拝しつつ、その横までめぐらされた塀に設けられた小さな門をくぐり出ることとなるのです。
その小さなくぐり戸のような門をぬけた正面にそびえる白い門こそが皇嘉門(こうかもん)と呼ばれるもので、この門こそが大猷院奥の院、すなわち、家光公の永眠される廟所を守護する門であります。
順路としてはしごく当たり前の順路であります。

でも。
「え、ええっ?」となる。
何故ならば、普通の寺院であれば(ここは実際には、寺院の中の中にある廟所の拝殿および本殿ですので、いわゆる御本堂ではありませんので、この言い方をしている時点で、当時がいかに初心者かを物語っているのですがね)、参拝を終えればまたもと来た門を抜けて行くのが当然のことですので、私、家光公へ敬意と弔意を込めて、まずは先に参拝して、その後ゆっくりと唐門やら灯籠、夜叉門の裏を拝見させていただこうと思っていたものでしたから。

…まぁ、皇嘉門を拝した後もまた夜叉門へと戻れないわけではないのですが、ね。それすらわからない当時の私としてはかなり焦った、というわけで。

閑話休題。

唐門は今まで通ってまいりました門より小ぶりのもの、ではあります。
ありますが、とにかく夜叉門をくぐった時点で見えている姿だけで目を奪われるその美しさ!
近づけばさらにその美しさに心奪われます。

一言で言えば、金色に輝き、さらには「どんだけ〜」というほど細やかにして色とりどりの彫刻が施されているのです。

何も資料を読まないで参ります私などは、何度行こうと見逃しておりました、向拝部(門、なのでこの言い方もおかしなものですが)の彫刻。
これがまた大変見事なもののようです。
でも門全体があまりにも豪華すぎて圧倒されてしまって、見逃しがちかもしれません。

No.37 22/05/26 16:59
旅人 ( pu5bob )

唐門は東照宮にもありますが、東照宮の唐門は大きくそびえ立つ、あの、【陽明門】をくぐった正面にあります。
本社殿正門となりますが、その扉は固く閉ざされています。

江戸時代においては将軍に拝謁できる身分の幕臣や大名だけ通ることができたといい、今でもこの唐門が開けられるのは、お正月や大祭のときとのこと。
天皇陛下や国賓に相当する参拝者だけこの門をくぐることができるのだといいます。

一方の大猷院の唐門は、その扉は開け放たれ、誰もがそこをくぐることができます。
通ることができないせいなのかどうか、大猷院の唐門の方が大きく見え、その彫刻や細工などもこちらの方が煌びやかで豪華にも思えたりしてしまうのですが、実際には少しだけ東照宮の唐門の方が大きいようです。
東照宮の唐門は落ち着いた大変上品な、細やかな彫刻がほどこされています。私は実はこの東照宮の唐門が大好きなのであります。

ただ、本来家光公は家康公の眠る東照宮を超える廟所としてはならないとも言い残したとされていますが、美的センスがないせいなのか、骨董品の価値を見抜くセンスがゼロであるせいか、(某テレビのお宝の鑑定番組で、価値あるものを見抜けたことがなく、偽物を何やら価値のあるものと評価してしまうのであります)
唐門、なにやら豪華絢爛という言葉がいかにも似合う建築物に思えてならないのです。

No.39 22/05/27 08:06
旅人 ( pu5bob )

〝豪華絢爛〟という表現はまさに適切であると思われるものの、ただそれだけではこの唐門の見事さは表しきれてはいないと思われ、自分の語彙力の無さに嘆くばかりであります。

まずとりあえずは、その唐門をくぐる前に。
大猷院の唐門の前に、大きくて細やかな細工の施された青銅製の灯籠が並んでいます。
これがまた見事なもので…。左右のひときわ大きな灯籠は徳川御三家から奉納されたものでありました。

さて、やたらと話を引っ張っておりました唐門ですが、こちら一目見た印象は『金』、でしょうか。
目もくらむような金色がここから先がいかに大切な場所であるかを、ここに眠られる方がどれほど高貴な方であるかをものがたっています。

とにかく立派。
私のようにしもじもの者は、もう萎縮してしまうくらいで圧巻の建物。
一つ一つの装飾が、当時最高の財力をもって、当時最高の技術を施したのでありましょう。

「はあぁぁ」とため息をこぼし、上を見上げたその先にある天井には、これまた、豪華な、金箔の施された格天井が。
しかも一つ一つのマスに,艶やかな牡丹の花が描かれ、そのマスに描かれた四枚の絵をまとめるように中央にやはり牡丹の彫刻が飾られており、実にその一つ一つの彫刻が異なったもの、なのでありました。

その門に左右に連なる塀もまた、実にみごとなものであります。
羽目の彫刻もまたすごいのであります。
こちら無数の鳩と、秋の七草が施されております。無数の鳩が散らされていることから、のちに『百間百体の群鳩』とよばれるようになったいいます。

ちなみにここまででまだ門はとばっくち、…すごいということだけは伝わりましたでしょうか。

そう、そして前述しました通り、何度も参拝させていただいておりますのに、唐門の正面上部の彫刻は未だに拝しておりません。

No.40 22/05/29 09:08
旅人 ( pu5bob )

コロナ禍ということで、七年に一度御開帳されていた長野県【善光寺】さん、一年の延期をもって現在御開帳されています。
しかも密を避けるためにと、本来の五十七日間の予定を一ヶ月延長して。

この珍道中…神社仏閣の参拝を始めてからは、善光寺さんへの参拝をしておらず、行きたい、行きたいと言いながらなかなか叶わずにおりました。

「あれぇ、善光寺さん、今年が御開帳だったんだぁ。なんだかそんなタイミングばっかりだよね。
今度の御開帳は平成三十三年らしいよ。その時は必ず行こうね」
(珍道中を始めたタイミングにちょうどそういったさまざまな大きなイベントが終了していました。始めた当初からいかに心がけが悪いかを物語っておりました)
…そう語った時から七年経ったことを意味しています。

夫はその間も、何度となく「善光寺にお参りに行こう」と申しておりましたのに、秩父三十四ヶ所観音霊場のお参りが済んでから行きたいだのなんだの、ああじゃないこうじゃないと、うるさいおばさんに阻止されて、御開帳の時まで一度も参拝せずに過ごしてしまいました。

さすがに、御開帳には期間があります。おばさんは焦ります。
が、このコロナ禍。今年開催されることも昨年の事を考えれば奇跡にも近く、開催中とて、コロナの感染状況によってはどうなることかわかりません。
それは国とか、長野県とか、善光寺さんとかの感染対策以前に、何よりも個々の新型コロナウイルス感染症に対する感染対策があります。

夫は慢性呼吸器疾患で定期受診し、毎日の薬が欠かせない人ですので、わが家の感染対策はどちらかといえば厳しめなもの。
人混みと思われる買い物から帰宅するだけでも全て着替えて、手は当然最低でも顔を洗います。えっ?それくらい?…と言われるかもしれませんが、私も夫も元がズボラでめんどくさがり。まぁ、せいぜいショッピングセンター等に行かない、外食は極力しない、程度です。(^_^;))
どちらかというと厳しめ、というのもあくまでも自己評価ですからね。

行きたい。行ける?
行きたいよぉぉぉ。
行きたいんだよぉ〜。

ええ、あんまりに騒ぐものだから、息子が計画してくれたくらい。
が、それも夫の体調不良で当日中止となりました話は書かせていただいておりますが…。

「またね」と言ってくれた息子が〝また〟の声をかけてくれたのです。

No.41 22/05/29 15:59
旅人 ( pu5bob )

「明日、善光寺に行こうか」
…ただし、これ、息子が仕事の休憩時間に、夫へと電話をかけて二人で決めた話。
私が聞いた時はすでに夜の八時をまわっていました。

へっ?
あ、明日ぁ?

予定などは特になく、お天気も良いと天気予報士がこぞって太鼓判を捺しています。

…そもそも、がですね、長男と夫は普段ほとんど口をきくことなどなく、ましてや長男から夫への電話など、生まれて初めてだったのではないかと思われるくらい、でして。
ただただ、夫の体調を確認し行けるかどうかを相談しないと、また当日突然中止とかなると、私がまたどんなに落胆するかと思ってくれてのことだったのではないか…と、勝手に思い込んで、そんな長男の思いやりを密かに喜ぶ母でありました。

えっ、それにしても、明日?
平日って言っておいたんだけどなぁ。有給取るのが難しかったかな。
それでもまだ一ヶ月はゆうにあるのだけれど…。
ま、いいか。

夫と長男に引かれて善光寺参り、です。


余談。

牛に引かれて善光寺参りという言葉は、私たちくらいの歳ごろまでの人間は、…特に群馬県と長野県という隣接した県同士であることも関係しているかどうか、誰もが知っているお話であります。
若い人はどうであろう?
ましてや全国的にはどうだろう。
とりあえず、そこから触れていこうと思います。



  (花:カザグルマ)

No.42 22/05/29 18:55
旅人 ( pu5bob )

【牛に引かれて善光寺参り】
という言葉を知ってはいるものの、その意味をご存知ない方もおられるかもしれませんし、その〝言葉〟自体聞いたことのない方もおられるかもしれません。

そんな善光寺に伝わる昔話をご紹介します。



『昔、信濃の国小諸に、強欲でけちんぼで、無信心な一人のお婆さんがおりました。

ある時、
「ええお天気で」と隣のお爺さんと、お婆さんが声をかけながらやってきました。
「へえへえ、いい天気じゃ」と相槌を打ちながら強欲ばあさんは、忙しげにしておりました。
「なぁ、お婆さん。今度おらたちと一緒に善光寺さまへお参りに行かねえかね。
善光寺さまはありがてい仏さまだ。
どんなに遠くても、一生に一度は、お参りしなくちゃ と言われるほど、ありがたい仏さまだ」

お婆さんは返事もせずに布を籠に入れておりました。

隣のお爺さんお婆さんはさらに「死んで極楽に行けるよう、お参りして来ようじゃないか」
と口々に誘いましたが、
「遠い道のりを、てくてく歩いて、善光寺さまとやら出かけたところで、いったい何の得があるだ。
腹が減って、くたびれるだけでねえか。嫌なこった。おら、忙しいでな」そう言うと、籠に入れた白い布を持って川へ出かけてしまいました。

「こうして、水にさらせば、また真っ白になって、いい値段で売れるというものさ」
お尻を善光寺のほうに向けて、布をさらしていると、つんつんと、誰かがつつきます。

「だれや ! おらのお尻をつつくのは」
振り向くと、いつの間にやってきたのか、大きな黒い牛がぬうぅと顔をつき出した。
お婆さんはびっくりし、よろけて、ばしゃんと川の中に尻餅をついてしまいました。

川から身を起こし気が付くと、さらしておいた布がありません。
見ると、黒牛が白い布をつのに引っかけて、走り出していくではありませんか!
「こらぁ、待て、ぬすっと牛め ! 」

お婆さんはあわてて川の土手をはいのぼり、牛の後をを追いかけました。

白い布を風になびかせながら、牛は、とっとこ走っていきます。
せっかくさらした布を取られてはたまりません。

「待てぇぇっ!」

お婆さんは大声上げて、牛を追って何里も走っていきました。
牛は、ときどき振りかえりながら走っていきます。



(続きます)


No.43 22/05/29 19:15
旅人 ( pu5bob )

…どのくらい走ったか、ふと気がつくと家が立ち並ぶ町の中を走っていました。
行く手には立派なお寺があります。

すると、牛は、お寺の中にすいこまれるように入って行ったのです。

「これで、つかまえることができるぞ。」

お婆さんが牛を見つけたところ、黒牛は如来堂に入り、不思議なことに消えてしまったのです。


牛につられて如来堂の中に入っていったお婆さん。
中では燈明の灯りの下、大勢の人たちが一心にお祈りしていました。
お婆さんは人をかきわけ奥へとはいって行きますが、牛はいません。
いくら探しても見つかりませんでした。


お婆さんは急に力が抜けてしまい、その場にへなへなと座り込むと、隣に座っている人に聞きました。
「ここはどこだいね」
たずねられた婆さまは、
「何を言いなさる。ここは善光寺さまでねえか」
とあきれ顔で答えました。


思わぬことで遠くまで来てしまったお婆さんは、しかたなくその日は、如来堂で泊まることにしました。
一日中、牛を追って走ったので、お婆さんは、すぐに寝いってしまいます。
そんなお婆さんの夢の中に、今日追いかけてきた黒い牛が現れ、首に白い布を巻き、お堂の仏さまの方にすうと吸い込まれていくではありませんか。
お婆さんは、驚いて目を覚まし、牛の行った方を、目をこすりながら、よく見ました。
なんと、白い布は観世音菩薩さまの首にかかっておりました。

お婆さんは腰を抜かさんばかりに驚き、這いつくばるようにして、生まれてはじめて仏さまに手を合わせました。


…お婆さんは御仏が、善光寺へ導いてくれたことに気が付いたのでありました。
お婆さんは、それまで心の奥深く眠っておった仏心が目を開き、仏恩をいたく感じて、生涯その観音様にお仕えしたということです。』


日本の民話「善光寺」より。




何やらところどころ耳の痛いような、身に覚えがあるようなおばさんがここに一人…。

No.44 22/05/30 13:26
旅人 ( pu5bob )

顔出し、と言うのでしょうか、顔ハメと言うのでしょうか。
よく観光地にある、絵であるとか写真であるとかのパネルに穴があいていて、そこに顔を出す、あるいははめて写真を撮るなどするものがありますよね。


…善光寺さんにもあったんです。
まさにその、お婆さんが牛を追いかけている絵のパネルが。

普段なら「このコロナ禍にこのパネルに顔をはめて写真を撮る人もあんまりいないんだろうね」と、申しておりました私。
そもそもが私、写真に写るのが嫌いな人間でありまして、卒業アルバムも強制的なもの以外は採用を拒否したくらいですし、夫にも許可なく写真撮影を禁じているくらい、自分が写真に写るのがイヤなのです。


そんな私のハートを一目でとらえたのが、その牛を追いかけるお婆さんのパネル。
(顔出して写真を撮ってもらいたい!)
…この〝牛に引かれて善光寺参り〟をしたというお婆さんは、別に山姥とか鬼ババとかではない、ただ信心深くないお婆さんなだけ、なんですよ。
でも、でもですねぇ。
私がこのパネルに顔をはめたら、ちょっと、かつて『NHK教育テレビ』で放送されていた『人形劇』に出てくるような、子どもが怖くて固まるようなお婆さん、山姥を演出できるに違いない!と、そのパネルをみた瞬間に思ったわけでして。

「ねえ、これの写真撮って!」
と夫に。
さすがに息子に頼むのはしのびなく、実際、そばにいた息子も少し離れた位置に移動いたしましたが…。

少し横向きのお婆さんの顔にあけられた穴に、どう顔をはめれば、良い写真になるか考えて。
恥ずかしがっている夫のためにはシャッターチャンスは一回のみ!

…そのお婆さんの顔出しパネルに顔をはめて写真を撮る人は、私がちょっと見ていた間には、誰一人いませんでしたが、ね。


どんな写真が撮れたかどうか、楽しみにして、出来栄えによっては、家族のグループLINEにあげようとまで思っていたくらいなのに、待てど暮らせど、夫からはその写真を送られることはもちろん、話題にすらならない。
…どうやら旅の恥はかき捨ててきたようで、記憶からすらなくしていたようでした。

で。先ほど、テレワークのお昼休憩中にようやく見せてもらった写真は、私の思い描いた通りの、牛に引かれてというよりは、取って食おうとする山姥風に。
よしよし。

えっ?
ここにアップ?
しようかとも思ったんですけどね。笑。

No.45 22/05/31 05:57
旅人 ( pu5bob )

『牛に引かれて善光寺参り』のほか、『一生に一度は善光寺参り』、
『遠くとも一度は詣れ善光寺』など、昔からいわれている善光寺参りの〝キャッチフレーズ〟があります。

前述いたしましたように、これが全国的に通ずるものかどうかは、井の中の蛙な者ですから、正直わからない。
遠く沖縄や九州、北海道といったところでこの言葉を聞いたことのある人がどれだけおられるか、さっぱり見当もつきません。なにぶんにも、私の住まう群馬県は長野県のお隣ですし、長野県を観光目的で訪れようとして調べたら、それこそ必ずその名があがってくるのが『善光寺』さんでありますし。

それでも。
前回の御開帳時には累計七百万人を超える老若男女が善光寺さんをお参りしております。
…これ、二ヶ月の期間中のみの数字ですよ。
すごくないですか?

あの、ディズニーリゾートの年間入園者数が、コロナ前の数字で三千万人といいます。(それ、比較する?)
単純計算すれば二ヶ月で五百万人、ディズニーリゾートすらを超えているということになるんじゃないですか!(…ここに書き出してから調べたことがよーくわかる文面です。笑)

いやぁ、これ。
この御開帳期間に行こうとしたら、とんでもなく凄いことになるんじゃない?
今年はコロナ禍ということで、密になることを避けるために、その開催期間を一か月延長しているとはいえ、うーん、これは…。

行きたい行きたいと騒ぐわりに、コロナ禍関係なく、人混み嫌いで出不精の血が、そのテンションをダダ下げいたします。


ほ〜ら、これ。
どこかのでお婆さんに似通うものが…。

…安心してください!
夫はおうし座生まれ、運転するのは彼としましょう。
今回息子も同行してくれますが、実は夫、親父につきものの親父ギャグ、若い時から散々寒い思いをさせられてきたくらい、寒いダジャレを言っては悦にいるタイプの人なんです。
前回の善光寺行きの運転中も、何回そのフレーズを口にされたことか。

善光寺に行くには絶対、彼が運転するシチュエーションでなければならないのが、わが家、なんです。

彼のテンションが(前回自分の体調不良で当日朝の中止となっている罪悪感もあって)私のテンションなどお構いなしに空高く舞い上がっておりますから。

No.46 22/05/31 10:00
旅人 ( pu5bob )

おうし座生まれ夫の運転で。
前回の車には無かったナビのついた車で。
天気晴朗、風弱し!
絶好の善光寺日和です。

家を出たのは四時半。
さっそくナビに入力を…「ぜ、ん、こ、う、じ」
出過ぎ〜っ!ぜんこうじと入れると、その数1,000というヒット数!
もはや探し出すことの方が大変です。

ならば住所から検索しよう。
「えっ?!」
住所が出ない。善光寺のある地名自体が出てこないのです。嘘でしょ?
「じゃあ電話番号!」
…ようやくヒットいたしました。
善光寺第一駐車場から、第五駐車場まで、ずらーっと画面いっぱいに出てまいります。

それだけではなく、道路の混雑情報から境内のライブ映像まで、今はこういったお寺さんのお参りなどもネットで簡単に情報収集ができてしまうのですから、なんともありがたいことです。

「第二駐車場は宿坊に泊まっている方々、もしくはバス専用となっているから、そのお向かいの第五駐車場から道なりに空きを探すといいって、昨日見たネットの情報に書いてあったから、まずは第五から見ていけばいい」

ありがたいことです。

No.47 22/05/31 20:12
旅人 ( pu5bob )

長野へ向かう道は、それが高速であっても雄大さを感じさせ、広々とし、心までもが大きく広がる感がいたします。

うーん♡ 長野へ来たなぁ。
運転もしないおばさんはのんびり景色を眺めてはああだこうだ。

長野県に入ったと同時くらいから、白い小さな花を満開に咲かせた大きな木が、まるで歓迎してくれているかのようにたくさん見えてきます。
「なんの花だろう」
…高速を運転しながら、そんなことを言われても、ねぇ。
ほんとに困ったおばさんです。

高速を降りて。

なにやら走る車、走る車、ほとんどが同じ方向へ進んでいます。
うーん、まさかみんな善光寺さんへ?

「あれ?なんか思っていたよりずっと早く着くみたいだなぁ。昨日の夜Googleで見たら、三時間以上かかるってなってたんだけどなぁ」
…いやいや、それはどうでもいいことで、前を走る車がみんな善光寺さんを目指しているとしたら、むしろ早いどころではないでしょう。

で。
結論から言えば、予想は当たり。
みーんなみんな、善光寺さんに向かっていました。
ひえぇぇぇぇ。

八時には着いたというのに、第五駐車場、第四駐車場、そして第一駐車場、すでに満車です。
うえぇぇ、このまま駐車場を探してずっと彷徨うのだろうか。
すぐそこに善光寺さんを横目に見ながら…。

うーん。

No.48 22/06/02 15:29
旅人 ( pu5bob )

最後に残っている善光寺公式の駐車場、第三駐車場のそばに、他の駐車場のそばで見てきた渋滞が発生しています。…ですよねぇ。
夫はすでにナビで周辺駐車場を検索するよう指示しています。
私は指示通り、ナビ入力…、って、公式の駐車場しかあがってこないじゃない。
大丈夫!
昨日のうちにこの公式駐車場に停められなかったときのための周辺駐車場地図をスクショしてあります!

ん?
なんか…。

なんだか、車が流れているぞ。
整備していない、区画のない空き地のようなところですが、そこに次々と車が入ってきています。
おおっ✨!

もうね、公式でないとか草の生えた駐車場だとか、この際一切関係ないから!
ここ、善光寺の裏手で、御本堂の真裏にあたっていて、門こそはくぐれないものの、すぐに境内というスペシャル好立地の駐車場じゃあないですか!

…ま、結局、整備されてはいないものの、ここも善光寺さんの公式駐車場、第三駐車場から入っていく空き地的駐車場、だったんですけれど、ね。
普段は職員用とか、こういったイベントのときだけ使う臨時駐車場なのかもしれません。

やったぁ♡

…それにしても、かなり遠くの都道府県のナンバーの車が結構、というか、ほとんどです。
ひえぇっ!
みなさん何時にお家をお出になられたので?

これは…『一生に一度は善光寺参り』とか、『遠くとも一度は詣れ善光寺』って、全国区のキャッチコピーってことの証なんではないでしょうか。

しばしナンバーに目を奪われた私でありましたが、それどころではありません。
全国各地から善光寺参りに来ているということは、すごい混雑、ということじゃないですか!

…それでも、私どもは裏手から境内に入ったものだから、その時はまだ、そんな危機感はなく、朝の陽射しのなか、善光寺さんの、あたたかくおおらかな気に包まれて気持ちよく歩いておりました。

御本堂が見えてきました。

大きい!
こんなに大きなものだったっけ?

ん?
人が並んでいます。

えっ?
ここって御本堂の真裏なんですけれど。
しかも受付時刻の九時にはまだなっていないんですけど。


御本堂に入るには拝観券が必要です。
おおぉ〜い、拝観券売り場はどこですかぁぁ。

No.49 22/06/02 16:54
旅人 ( pu5bob )

混んでいるところが嫌いな私ども夫婦とはいえ、並ぶのも好きではない私どもとはいえ、子どもたちのためには、あのディズニーランドに何度か行ったこともあります。







が!

こんなにも混んでいたことなど一度としてなかったですが!?


…どうしよう。

一応善光寺さんには来たには来たのだから、これでもうよしとしようか。
…一瞬本気でそう思ったくらいです。

拝観券を売っているところを探して境内を進んで行くにつれますますその人数は増え、行列は厚さを増します。

ぁ、あのいくらか控えめな列がきっと拝観券売り場に違いない。
足取りも重くノロノロとその列を目指します。

拝観券は何種類かあるようです。
拝観券の必要な全てのところへ入ることのできる券、フリーパスポートのようなものもあるようです。が。
…これを買ったところで、一体何か所拝観できるというのだろうか。

もはやどこを拝観したいとかいう考えすらもかき消されてしまった私です。

全てを拝観したいという強い思いではなく、これを持っていれば、もう一度こういった拝観券売り場の列に並ばずに済むといった極めて消極的な考えからです。

とりあえず、せめて、御開帳されている前立ち御本尊さまにだけはお会いしたい。


1か所として拝観していないというのに、もはや気分はあしたのジョーの最終回のジョーのように、真っ白になってしまっている私でありました。

No.50 22/06/03 09:21
旅人 ( pu5bob )

善光寺縁起によると、その始まりは古く、皇極天皇3年(644)と伝わるといいます。
日本に仏教の宗派が生まれる以前に創建されたことから、宗派を問わずすべての人に開かれた寺として歴史を積み重ね、今でも全国各地から参拝者が訪れています…いましたよぉ〜。

その敷地面積はなんと約5万9000平方メートルといわれる広大な境内。
まぁ、私どもは裏口から入っているので、すぐに見えてくるのが国宝の御本堂なのですが…。

御本堂、とにかく大きい。
かつて子どもたちが小さな頃にも訪れて、御本堂にもあがらせていただいておりますのに、あらためて驚くその大きさ。
国宝建造物のなかでは、東大寺大仏殿、三十三間堂、知恩院に次いで4番目の大きさを誇るのだといいます。
ちなみに、その上記三つのうち、東大寺も三十三間堂も高校の修学旅行で訪れてはいるのですが、大きかったという記憶すら薄れているほど時が流れておりまして。やれやれ。


そんな 善光寺さんの現在の本堂が完成したのは、宝永四(1707)年といわれます。
元禄十三(1700)年の火災で焼失したため、七年の歳月を費やして建てられたのだといいます。
間口約24メートル、高さ約26メートル、奥行き約56メートル。仏堂の前に長大な礼堂を配した撞木造と呼ばれる独特の構造を持つ。
…とか書かれているんですけど、イメージできますか?
江戸時代中期仏教建築を代表する大伽藍ということです。

宝永の火災のみならず、善光寺は幾度となく火災に遭遇してきたといいます。
その数は記録に残っているだけでも十数回にものぼり、『平家物語』にも善光寺炎上は描かれているといいます。

…へっ?平家物語に!?
平家物語ねぇ。
わたし、自慢ではないけど国語やら古語の教科書にピックアップされた部分しか読んでいませんから。
ちなみに、夫は今、何やらアニメ化された作品がたいそう素晴らしかったとか言い、すっかり平家物語にハマっているようで、図書館で小学国語辞典よりも厚いような平家物語を借りて読んでいるようですが…。


そんな十数回とも言われる火災を経ても、そのたびに規模を縮小することなく再建されてきたことからも、信仰の厚さがうかがえます。

No.51 22/06/03 11:38
旅人 ( pu5bob )

『善光寺縁起』によれば、御本尊の【一光三尊阿弥陀如来】さまは、
インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三(552)年、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。
この御仏像、な、なんと!
仏教という新しい宗教を受け入れるか否かを巡る『崇仏・廃仏論争』の最中、廃仏派の『物部氏』によって難波の堀江へと打ち捨てられてしまうのでありました。
その後、信濃国国司の従者として都に上った、【本田善光(ほんだよしみつ)】がこの御仏を信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りし、後に皇極天皇元(642)年、現在の地に遷座されたのだといいます。
皇極天皇三(644)年には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って【善光寺】と名付けられたのだといいます。

いやぁ、仏教の伝来の折に百済から伝えられた、んですよ。聖徳太子やら、蘇我馬子やらの時代ですよ。

そのころ起こっていた【痘瘡(もがさ)】(=天然痘)によるパンデミックは、仏教伝来と共に大陸から伝わったとし、廃仏派の物部氏が仏教を否定する口実としたといいますが…。
まさにその時、物部が打ち捨てたのが、この善光寺さんの御本尊、一光三尊阿弥陀如来像だったというわけで。
いやぁ、すごい。
それは確かに日本最古の御仏像だわ。

この御本尊さまは絶対秘仏。
度重なる火災のため、善光寺さんには史料は残ってはいないということですので、いつの頃からのことなのかはわからないのでありましょうが。

平安後期にあたる十二世紀後半に編纂された【伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)】』に、八世紀中頃にはすでに善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として京の都にも知られていたことを示す内容が記されているのだといいます。

十世紀後半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土信仰の隆盛とともに、【善光寺聖(ぜんこうじひじり)】と呼ばれる僧が、御本尊の御分身仏を背負い、縁起を唱導して全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めたのだといいます。
この御分身こそが、七年に一度御開帳される御前立ち御本尊となるのだといいます。

No.52 22/06/03 13:35
旅人 ( pu5bob )

鎌倉時代には、【源頼朝】公や【北条一族】が厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行ったといいます。
善光寺信仰が広まるにつれ、分身仏として御本尊の模刻像が多く造られ、全国各地にそれをお祀りする新善光寺が建立されます。
現在の【前立本尊】は鎌倉時代に作られたものといいます。
また鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。
東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・【親鸞聖人】、時宗の宗祖・【一遍上人】なども善光寺に参拝されたという記録が残っているようです。

ちなみに。
現在も、前述した通り善光寺さんには宗派というものはありませんが、善光寺さんの山門手前にある橋を渡ると【大勧進】と呼ばれる『善光寺の天台宗』を束ねるものがあり、善光寺内の天台宗の本堂や不動堂などがあります。
また、仁王門手前を左に入るところに【大本願】と呼ばれる『善光寺の浄土宗』を束ねるものがあって、やはりこの周辺に浄土宗の本堂等の建物が建っています。
この、大勧進と大本願のそれぞれのご住職が、善光寺のご住職を兼ねておられるとのことであります。



戦国時代は本尊流転の時代と言われ、時の権力者らによって本尊像は翻弄されることとなります。
【善光寺平】(現在の長野市がある平野部)ではかの【武田信玄】公と【上杉謙信】公が信濃の覇権を巡り、【川中島の合戦】を繰り広げます。

弘治元(1555)年、武田信玄は御本尊『一光三尊阿弥陀如来像』や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移します。
その武田家が【織田・徳川連合軍】に敗れると、御本尊は織田家、徳川家の祀るところとなり、
最終的には【豊臣秀吉】公が京都・『方広寺』の御本尊としてお祀りしておられました。
そんな秀吉公の死の直前、善光寺如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになられたということで、それにより善光寺如来像は慶長三(1598)年、四十数年ぶりに信州善光寺にお帰りになられたのだといいます。


ちなみに。
善光寺には、今、武田信玄公と上杉謙信公両者のお位牌がぴったりと並んでお祀りされていましたよ。
なんだか、とても感慨深く、そしてそれがまたとても善光寺さんらしいなぁと思え、しばらくそのお位牌の前に立ち尽くしていたおばさんなのでありました。

No.53 22/06/03 14:01
旅人 ( pu5bob )

そんな戦乱の時代に巻き込まれ、善光寺をはじめ門前町全体が荒廃を余儀なくされたといいます。
それはもう語るまでもなく。
だって、御本尊から什宝、果ては寺僧にいたるまで、根こそぎごっそり持ち出されていますから。
実際、遠く東北の地にあっても、この善光寺の件を耳にしたくらいでありました。まぁ、上杉家の菩提寺において、ではありますが、ね。


その後、江戸幕府開府に伴い、【徳川家康】公より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参ります。

泰平の世が続き「一生に一度は善光寺参り」と、多くの人々が参拝し、念仏を唱えて一心に祈る者は性別・身分を問わず、誰であっても極楽浄土に導いて下さるということで、
善光寺は一貫して無差別平等の救済を説く寺院として広く知られることとなります。
そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺参りの特徴であったといいます。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれています。
今はまさに老若男女。小さな子どもが手を引かれ、あるいは抱っこされて、親子三代あるいは四代の参拝者さんも見受けられたくらいです。

さて、いくどか前述しているように、善光寺の歴史は度重なる火災の歴史でもありました。
火災後の再建に掛かる資金の多くは、御本尊の分身仏である『前立本尊』を奉じて全国各地を巡る【出開帳(でがいちょう)】を行い全国の方々からいただいた浄財によって賄われたといいます。

特に最後の大火となった元禄十三(1700)年の火災は、焼失前に既に計画されていた本堂移築用の資材も全て焼失してしまうものであったといい、その後、現在の本堂を再建するために全国各地で五年間の出開帳を行い、寄進された二万両を越す浄財によって宝永四(1707)年、現在の御本堂が落成したのだといいます。続いて山門、経蔵などの伽藍が整えらていったといいます。

そんな、まさに壮大な歴史を持つ善光寺さんの本堂を前に、いったんは真っ白な灰のようになったかに思われたおばさんですが、その大きな御本堂、そしてその内におられる御本尊さまからパワーをいただき、徐々に活気を取り戻すのでありました。
願わくば、悪い気は抜け落ちた状態で復活していて欲しいものでありますが…。苦笑。

No.54 22/06/04 06:03
旅人 ( pu5bob )

大きな大きな御本堂。

最初はその内に上がるため並んでいる人の余りの多さにばかり目がいっていましたが、落ち着いた目であらためて御本堂を見上げると、そのたくさんの人たちの列すらが小さく見えるほどに大きいことにあらためて気づきます。
御本堂の横に並ぶ人たちの横にあるのは〝床下〟、なんですよ。
どんな高身長の方がおられても、あくまでも床下横に並ぶほど、高い床下。
御本堂へと上がる階段は普通の一軒家レベルの二階はのぼるものより段数が多い!(まぁ、おばさんもう夢中なので、もはやその段数を数えようとかいう頭にすらならなかったので数まではわからないですが)
見上げるレベルの御本堂濡れ縁です。

今回、御開帳で中に入る(外陣や『お戒壇めぐり』)には、御本堂向かって右側にある階段を登ってまいります。
階段の横には御本堂の雰囲気を損なわない、そして緩やかで使う方の立場までも考慮された木製のスロープがあります。

その濡れ縁(というのがお寺さんの建物においての表現として正しいものかはわかりませんが)に立つと、さらにこの御本堂の大きなことがわかります。真横にきた御本堂の壁が、庇が、高いっ!
そしてほどなく正面へとまわります。
正面にある木製の扉の上背が高い!

善光寺さんが用意された、手提げのポリ袋に入れた靴を持って、いざ、御本堂の中へ!
(やたらと『!』マークを多用していることには気づいたのですが、あえて、その時の感覚を再現しようとすると自然とそうなるので、そのまま使って書いていきます)
…汚れ物を手に持って御本堂に上がることに少し躊躇いをおぼえつつ。

〝失礼いたします〟

…うわぁ。



…やっぱり人が多いなぁ。

御本堂入って最初に素直にそう思いました。

中でも当然ですが列をなして進みます。
まずは改札。

おおっ、そうでしたそうでした、これがないと入れない…あれ?私の拝観券、どこだっけ?

No.55 22/06/04 18:33
旅人 ( pu5bob )

本堂正面から外陣に入ると、賓頭廬(びんずる)尊者さまがお出迎えくださいます。
ここ三十年前くらいからさまざまなお寺さんで【撫で仏さま】としてお祀りするようになっているように感じます。
それ以前からお祀りされておられたお寺さんも多くありましょうが、
その頃から新たにお祀りするようになったお寺さんが多いのも確かです。…理由は…よくはわからないのですが、ね。
お賓頭盧さまはお釈迦様のお弟子さま【十六羅漢】のお一人で、『神通力(修行者が得られる超能力に似た力)』が大変強い方であったと伝えられています。
お釈迦様から人々を救うことを命じられた説話から、いち早く駆けつけられるようにと、外陣や、あるいはお堂の外にいらっしゃることがほとんどです。
『撫で仏』と言われる由来は、自らの患部とお賓頭盧さまの同じところを撫でることで、その神通力にあやかり治していただくというもの。

善光寺さんのお賓頭盧さまは、正徳三(1713)年にお祀りされて、それ以来三百年以上、人々に撫でられ、
飴色に照り輝き、そして元のお顔やお召し物が分からないほどに磨り減ってしまっておられます。
それだけ人々がそのお力にすがった信仰の証と言えるでしょう。

私はその飴色になって、お顔立ちも定かでなくなったお賓頭盧さまが、ただただありがたくて、…不敬な表現ではありますが、愛おしくて。
その場を去り難い想いに駆られました。

…が。すごい行列を私が止めているわけにもまいりません。
お賓頭盧さまに頭を下げて手を合わせ「ありがとうございます」と思わず言葉に出しておりました。


…ちなみに。
私の拝観券は夫の胸ポケットにありました。
子どもの世話をする係と、貴重品管理係に分かれ、家族旅行をしてきたくせが未だに残っていたようで、無意識のうちに夫に手渡していたようです。
ですので、お賓頭盧さまの頭を撫でたのは言うまでもありません。
…結構高いところにお祀りされているので、背伸びしてようやく手が届いたほどだったのですが、ここが一番重症なのでそこは真剣に頑張りました。
はい。


No.56 22/06/04 21:32
旅人 ( pu5bob )

改札を入ったのち。作られた進路を進むと、みぎての壁を背に、大きな、…おそらくたぶん『丈六』と呼ばれる大きさの金色に輝くお地蔵さまがお祀りされています。
そのお地蔵さまを起点としてまた外陣に向かって歩きます。

これはコロナ禍における感染対策。ソーシャルディスタンスを能率的にとるためにはいかにすべきか善光寺さんがお考えになった手段の一つと思われます。
歩いているのは、百五十畳ともいわれる、広大な畳敷きの間。
かつて、善光寺の信徒が一晩中念仏を唱え、死後極楽浄土へ行けるようにと願い祈ったという内陣であります。

コロナ禍での初めての御開帳。
適度な距離を保つため、ということで、畳には四角い、なにやら文字が書かれた紙のようなものが貼られています。
それが私なんともショックで…。
だって畳に結構派手な貼り紙がはられているのですよ?
善光寺の祈りの場です。ひえぇぇ…。

…まぁ、とはいえ、コロナ禍、一年延期した御開帳を、なんとしても開催して、成功させたい一心でのことではありましょうが、ね。

畳敷きの間を、外陣の、お賽銭箱のすぐそばまで歩き、再び内内陣へ向かって歩きます。僧侶がお経を読む場を内々陣と呼ぶようです。
視線を上にうつすと【旗鉾(はたぼこ)】・【華慢(けまん)】などと呼ばれる、信徒から奉納された装飾具や、欄間に祀られた【来迎二十五菩薩像】などが見えてまいります。

来迎二十五菩薩像は内陣と内内陣とを隔てる欄間にあります。天女のように舞う金色の菩薩が燦然と輝いています。
来迎とは、極楽浄土からこの世へ阿弥陀如来と諸菩薩たちが、往生人をお迎えに来る光景を指します。

善光寺さんの来迎像は、二十五体の菩薩像と、一体の比丘形像(剃髪の僧形)よりなっているのだといいます。

また、その左右には百観音像。
善光寺は『霊場巡りの番外札所』として、特に【結願】にはお参りされるお寺さんでありますので、西国・坂東・秩父の各観音霊場ので御本尊が並んでいます。

さらに進むと内内陣手前となり、
お前立ちの御本尊さま、絶対秘仏であります御本尊さまのお部屋となります【瑠璃壇】があり、それぞれの御前でお焼香ができるのでありました。


No.57 22/06/05 02:58
旅人 ( pu5bob )

御本堂の最奥部は【内々陣(ないないじん)】は、僧侶がお経をお唱えする場で、金色の経机・経箱がいくつも並べられており、法華経や阿弥陀経などの経本が収められていらといいます。

そこは絶対秘仏であられます、御本尊【一光三尊阿弥陀如来像】のお祀りされている【瑠璃壇】と呼ばれるところであったり、現在では御開帳されているお前立ちの御本尊さまがお祀りされているところであります。
当然そこまでは入ることなく、その手前にお焼香台が置かれていて、そこでご焼香させていただきます。
正直、これだけの人数の人間が訪れている今であっても、大切なこと、御仏に焼香し手を合わせる場をきちんと残して置いてくださることに私は深く感謝したのでありました。

が。

な、なんと!

法要の際には供養・祈願をされる方のみ特別にそこまで入ることができるようです。
うーん、そうか、そうだったか。

片手では叩けないほど大きな木魚や大鐘見えますが、それらは毎朝のお朝事などの法要の際に用いられており、その音色は堂内に止まらず境内にまで響き渡るものだといいます。


…よし!
お朝事だ!お朝事に参列させていただき、供養・祈願遠申し込むのだ!
そのために宿坊に泊まるのだ!

…これを、煩悩と言わずして、何を煩悩と言うのだろうか。

そ、そうか、その煩悩を取り除いていただきたい旨御祈願申し上げれはいいのだ!

…煩悩の連鎖か止まりません。



さて。
御本堂最奥部の左側に【瑠璃壇(るりだん)】が位置しています。現在この瑠璃壇は戸帳【とちょう】が掛けられ、外から見ることができません。戸帳は鳳凰が描かれたものと、龍が描かれたものの二枚で構成されているようです。
絶対秘仏の御本尊さま【一光三尊阿弥陀如来像】さまは【内厨子(うちずし)】に納められ、安置されています。
ちなみにこの内厨子は徳川五代将軍綱吉光公の母【桂昌院】さまによってご奉納されたものといいます。


そして。今、瑠璃壇の前にはお焼香台は置かれておりません。
と、いいますのも、お前立ち本尊さまがお祀りされている【御開帳】期間だから。
御本尊さまが二か所におられるという不思議な状況を避けるため、御開帳の期間には瑠璃壇はひっそりとお祀りされているのだそうです。

…それはそれで不思議なんだけど。
本来の、本当の御本尊さまに失礼に当たりはしないのか?






No.58 22/06/05 05:34
旅人 ( pu5bob )

戸帳の懸かる瑠璃壇の手前に三基の燈明があります。
さまざまな、煌びやかな仏具やお祀りされている壇や御像に押されて、ましてやいま、御開帳ということもあって善光寺さん側が意図的に瑠璃壇を拝すことを推奨していない状況であるため、少しくすんでまいりました、この三基の燈籠は見落としがちかもしれません。
こちらは享保五年(1720)に徳川竹姫から寄進された燈籠だということでありました。【不滅の常燈明(じょうとうみょう)】または【不滅の法燈】ともいわれるもののようです。

へっ?
不滅の法燈って…。
天台宗の総本山比叡山延暦寺さんにあるという、あの?
天台宗の開祖【伝教大師最澄】さまが点灯されて以来千二百年、消える事無きよう、守り続けられているという、あの?

まぁ、善光寺さんは大勧進と呼ばれる天台宗がございますし、その大勧進住職(貫主)さまが善光寺さんの住職も兼ねておられることですし、さほど不思議はないことなのかもしれませんがね。
ただ、私は少し違和感を感じてしまい、なので記憶に残ったくらいなのですが…。

実はこの火は開山善光卿の代に、御本尊様の白毫 (眉間にある白い毛)から放たれた光によって灯されたと伝えられるもので、以来千四百年の間、絶やされることなく受け継がれているものだということでありました。

〜「一たび常燈明を見れば永く『三悪道(さんなくどう)』(貪瞋痴)を離る。況や香油を持せば決定して極楽に生まれん」といわれ、善光寺を参拝した者は、この常燈明を拝んだだけでも極楽往生疑いなしといわれております。
燈籠の内部は見えませんが、本堂内で灯される蝋燭や線香などの火は全てこの燈明から取られています。
また、この燈明は結婚式などの慶事に分燈もしています。〜  (善光寺HPより)
…とのことでした。

なるほど、天台宗で受け継がれている不滅の法灯とは異なるもののわけですね。
ただ…よくよく考えてみると、天台宗の不滅の法灯(法灯と法燈で使われる字も異なっているようです)も、全国各地に分燈されています。
かの織田信長の比叡山焼き討ちの折、それ以前に山形県の【立石寺】さんに分燈されていたおかげで断火を免れることができたという、そんな意味合いもあって、分燈されているとしたら、善光寺さんもまたそれに相応しい分燈先となりましょう。



昨日六月四日は最澄上人のご命日であったようです。

No.59 22/06/05 06:47
旅人 ( pu5bob )

本堂最奥部の右側に、三体の像が祀られていました。
お参りの最中にはこの像がどなたのものであるのかわからないままに過ごしておりましたが、帰って来て調べたことによると、この場所を【御三卿の間(ごさんきょうのま)】と言うのだそうです。
元禄五年(1692)に江戸浅草山口庄三郎氏より寄進された像で、善光寺を開山された【本田善光卿】を中心にして、向かって右に奥様の『弥生御前』、左に息子の『善佐卿(よしすけきょう)』の像だということでありました。

前述の通り、善光寺さんの寺号は、善光卿の名に由来しています。
この御三卿像は神道の男神女神との様式的類似がみられ、神像として祀られているようです。
その為、神鏡が安置されておりました。
この神鏡は江戸小船町尼屋庄右衛門より【逆修回向(ぎゃくしゅえこう)】として寄進された鏡であるとのことで、どうやら神鏡が先に寄進されているもののようです。

ちなみに逆修回向の意味がわからず、調べてみたところ、逆修とは死後の往生菩提に資するため、生前善根功徳を積むこと、とあります。
まあ、今日では生前に戒名を授与することや、墓石に朱字を刻むことを逆修と呼ぶことが多いとも書かれていました。
善光寺さんも長い年月のなか、神仏習合していたようですね。

が。
明治初期にあったあの忌まわしき神仏分離の政策の折はどうであったのか…。
今も尚一つの堂内に西に御本尊様、東にご神体である御三卿をお祀りしている善光寺さんなのでありました。

まぁ、開基された方の御像を飾られることもありますし、それが寄進された際に三体で、その時点ですでにご神体として奉納されていたかもしれません。
開基とそのご家族の像をご神体として奉納されればそのようにお祀りすることかと。
開基であります善光卿とそのご家族の像を祀っていると、〝善光寺さん〟がおっしゃるならばと、明治政府も通したかもしれません。
地元の役人はこの大切な善光寺さんに関すること、もとよりそう、通したい、通そうと思っていたかもしれませんし。

No.60 22/06/05 07:02
旅人 ( pu5bob )

さて。
内陣を左右して向き合う、お地蔵さまの反対側には【弥勒菩薩】さまがお祀りされていました。
やはり金色に輝く、(たぶん丈六といわれるサイズの)坐像であります。
お地蔵さまは一見してお地蔵さまだとわかったものの、こちらの菩薩像、あの有名な『弥勒菩薩像』さまとはどこも、何一つ似てはおらず、ただ座られて印を組まれていることしかわからない。
印を見ればある程度その御仏がどなたなのかわかるようですが、なにぶんにも私、そういったことがさっぱり頭に入らないザル頭の持ち主で…。

おお、年配の善光寺の職員の方が、お焼香をされる方々を誘導されながら、内陣や内内陣を一言二言、説明してくださっているようです。

「あのぉ、あちらにおられる御仏さまはどなたなのでしょうか」

ええ、善光寺さんにあろうとも、エックスキューズミーおばさんは健在です。

No.61 22/06/05 09:32
旅人 ( pu5bob )

「ああ、あれは〝ミクロ(!)〟菩薩さまですよ」……。
「今は修行の身でありますけれど、お釈迦さまが亡くなった後を救ってくれるありがたい仏さまなんですよ」…お、おう。
ありがとうございます。と平静を装ってその場を去った私に、夫が話しかけます。
夫「あの仏さまはどなただと言ってた?」
私「弥勒菩薩さまだって」
夫「ミクロ菩薩さまって言わなかった?」
私「聞いてたんじゃん。今は修行中だけど、お釈迦様亡き後の世を救うって言ってるんだから、弥勒菩薩さまでしょ!そういうこと言わない!」

…大きいけれどミクロ…プフッ。

私はひそかに心の中で笑ったので。…ってここに書いたら、もっとダメじゃん。


修行の必要な珍道中コンビは、善光寺さんでもダメなやつらでありました。

No.62 22/06/05 18:00
旅人 ( pu5bob )

同行してくれた息子が、私どもへと授与品を買ってくれておりました。
御開帳限定の御守と、お線香を。

御開帳限定の御守は【幸せ牛守】という、牛の形をした小さな置物型のお守りを受けてくれました。
お婆さんが牛の角にかかった布を追いかけて、善光寺まで導かれた逸話にちなんで、牛の角の部分に五色の紐があしらわれています。そしてその紐には金色の回向柱がついていました。
ちなみにこの牛守り、『黒』『白』『金』『銀』とあります。
この色によって、お守りくださる力、ご利益が異なるようで、『黒』は「力強く守護、実行力」とあり、『白』は「癒し、穏やか、気分一新」とのこと。
『金』は「太陽。明るく照らす力」、『銀』は「月。魅きつける力」というそれぞれのご利益(?)が授与所に書かれていました。

ふぅん。授与所で見たとき、私なら黒だなぁと思いましたが、夫は白がいいとのことで、意見がくい違ったこともありお授けいただかなかった御守でした。(ふうぅ、よかったぁ)
ちなみに、息子か選んでくれたのも黒、でありました。

それに。
千曲市から長野市の善光寺までの三十キロを歩くという、その名も『牛に引かれて善光寺詣り』というイベントがあるようなのですが、実に四十回近い開催がされている伝統的な行事で、必ず牛が同行しているようですが、その色は決まって黒。
お婆さんが牛にひかれて行く様子を描いた牛の絵も黒か茶色。

ふふん、やっぱり黒だよなあ。



この息子にもらった黒の牛守は、今、私の枕元に飾ってあります。
…夫へは?
夫はそういう縁起物よりお酒の方が数千倍喜ぶ人間であることをちゃんと息子は知っていますので。笑。

ちなみに、私から息子へは、御開帳の年にお参りした記念の意味あいもあり、『回向柱ストラップ』というものを授与していただいてありました。
牛守りと回向柱守りの交換のような形とはなりましたが、お互いの幸せや健康を祈ってのもの。

時々牛の頭を撫でては、息子の守護、息子の幸せをお願いしております。
まぁ、それが母心というものです。

…黒牛さん、私がまた善光寺詣りに行けますように。
時々はそんなお願いをし、祈ったりもしておりますがね。




No.63 22/06/05 18:33
旅人 ( pu5bob )

息子が買ってくれた善光寺詣りのお土産(一緒に行っているのに…なぜお土産?ということは置いておき)のもう一つ。
お線香であります。
香りの見本などもありませんし、あったとしてもこのコロナ禍、マスク越しに嗅いでもよくはわからないかとも思いますが。
「よくわからないから適当に買ってみたんだけど」
というお線香は白檀の香りでありました。

お線香は割れないよう、こぼれないようということなのでありましょう、箱の中でさらに紙で包んであります。
善光寺さんのそのお線香、箱の中の包紙に御来迎二十五菩薩について書いてありました。
ホームページを見ても書かれていないようなことが書いてあり、息子が買ってくれなければ知ることのなかったことが書かれておりました。

以下はそのお線香の包紙に書かれたものになります。

『…(善光寺の)本堂内部正面の上
、内陣と内内陣とを仕切る欄間に、金銅のご来迎二十五菩薩のおすがたがかかげられています。
これは、西方浄土の阿弥陀如来さまが衆生を救うために二十五菩薩を従えて、御自ら進んで、人間界に降りて来られるおすがたを描いたものです。

この中の一ヶ所に、蓮台のみの場所があります。
これは善光寺にご参詣になり、御仏の宝前に手を合わせた方は、誰でもこの蓮台にのぼり、往生することができるという意味、なのである、ということでありました。

はあぁ…。

No.64 22/06/06 11:55
旅人 ( pu5bob )

六日は、不浄を祓う力が強い【烏枢沙摩明王』(うすさまみょうおう)】さまのお縁日とされています。

こちらの仏さまのお名前、近年有名なものとなっておりますでしょうか。お寺さんの御不浄、トイレにお祀りされていることの多い明王さまです。
お寺さんで烏枢沙摩明王さまの御像をご覧になることもあったかと思います。お名前まではご存知なくとも「こんなところにまでお仏像を祀ってあるんだ」と思われたことはありません?
古くから、不浄な場所を清浄にする力が強いので、トイレなどに祀られることが多いようです。

烏枢沙摩明王さまは、インドの火の神『アグニ』神が元になっているといわれ、不浄を燃やし清浄にするため【火頭金剛(かずこんごう)】さまとも呼ばれることがあるようです。

【不動明王】さまを中心とした【五大明王】では、北方に『金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)』さまを配しますが、天台宗では『別尊雑記・五菩薩五忿怒像』などの説から烏枢沙摩明王さまを配することがあるといいます。

金剛夜叉明王さまと烏枢沙摩明王さまは、誓願に共通点があり、同一視されたということのようです。


『不浄除け』以外の御利益としては、『子宝安産』、『病魔除け』や『魔除け』など、
祟りを鎮める霊験があるといいます。
さらには枯れかけた樹木や野山に花を咲かせたり、枯れ井戸や泉に水を戻したりなどのご利益もあるようです。

御仏のお像や御札をトイレにお祀りするのは、なんとなくバチ当たりな気がいたしますが、そもそもがトイレを綺麗に使うことが大切なことということなのでしょう。


ちなみに私、トイレ掃除だけは、仕事に行く前にも欠かさずやっていたくらい、そこだけは唯一きちんと掃除された空間となっております。
〝だけは〟という言葉が反復されているところが、なんとも情けないおばさんです。
それでも烏枢沙摩明王さまの御札や御像をお祀りするのは畏れ多くてできません。

No.65 22/06/06 14:01
旅人 ( pu5bob )

内内陣でお前立ちご本尊さまを拝し、さらに進みますと、〝善光寺といえば、〟といわれるほどに有名な【お戒壇巡り(おかいだんめぐり)】といわれる、善光寺さんの言葉をお借りすれば『道場』があります。

その手前に。
なにやら異国情緒あふれる御仏像がお座りになられています。
しかもよく見るとそのお座りになられているのは『塔』のお部屋。
室内用ではありますが、しっかりとした三重の塔となっています。その中央に鎮座されておられるのですが、この像のさらにその上の段に祀られているのは仏舎利で、しかもこの仏舎利と御仏像、タイ国王から贈られたものであるとのこと。
…何年も前、子どもたちと共に参拝した際にもここにおられたはずなのに、まるで記憶がありませんでした。
たぶん、私にしても初めてのお戒壇巡りに、しかも子どもを何人も連れて入るということで、その時はいっぱいいっぱいだったのでしょうね。…そういうことにしておいてやってください。

ほっそりとしたどこか優雅なこの御仏はなんと約七百年前に作られた釈迦如来像とのこと。
そもそもこのお釈迦さまの像と仏舎利、なんと昭和十二(1937)年、『日タイ修好五十周年』を記念して贈られたものだというからびっくりです。第二次世界大戦のほんの二年前のことになります。


うーん。さすが善光寺。



…とはいえ、この日も、前回のかすかな記憶をたどりなかなかシュールであった記憶しかないお戒壇巡りに、気持ちがソワソワしておりましたことはたしかなんです、はい。

No.66 22/06/06 14:56
旅人 ( pu5bob )

いい歳をしたおばさんが、ソワソワしたという善光寺さんの【お戒壇巡り】は、
ご本尊さまが安置されている内内陣の〝床下〟に回廊があり、その〝ロの字〟型になった回廊を巡ることです。

お戒壇巡りは実は全国各地のお寺にもあるようですが、私はここ信州善光寺のお戒壇巡りしか存じあげません。好奇心旺盛なおばさんですので、行ったお寺さんにお戒壇巡りがあれば必ずや巡っていることでしょうから、たぶん、少なくとも今まで私が行ったお寺さんにはなかったのだと思われます。

お戒壇めぐりをすることで、ご本尊さまと直接ご縁を結ぶことができると言われています。
入り口に『ご本尊の真下に懸る【極楽の錠前】を探り当て秘仏に結縁する道場です。右手で腰の高さ位の壁を撫でて探って下さい。』と書かれています。

内内陣の下の真っ暗な回廊をひた歩き、瑠璃壇のご本尊の下にかかる極楽の錠前に触れるミッションといえば簡単に聞こえるかと思いますが、回廊の中は本当に本当の真っ暗闇で全く何も見えません。
距離は45メートルとのことですが、真っ暗闇の中をゆっくりただただ壁を伝って歩くので、長いとか短いとかではなく、いつこの闇が終わるのかとそればかりを思って歩いた気がいたします。
かつて子どもたちの小さな頃、思ったより真っ暗闇なお戒壇に、なんとか無事に子どもたちと出なければ、と思いつつも実は自分こそがパニック気味だった記憶のみが残っています。


お戒壇めぐりの入り口はかなり狭くて急な階段を下るようになっており、七段の段を下るとお戒壇めぐりの始まりです。
最初はほのかに明るかったのも束の間、すぐに真っ暗な闇が全てを覆い隠します。
そんな真っ暗闇の中を、右壁に手を当てて必死に伝いながら歩きます。まともに歩くことができないので、進むペースが極端に遅くなります。
最初のうちはすぐ前を歩く方に、近づき過ぎたりしてもいましたが、そのうち気配すら感じなくなってしまいました。

いつ終わる?
私はその錠前を通り過ぎてしまったんじゃない?
後ろを歩いているはずの夫の気配もありません。

頼みは右壁のみ。
自分しかいない空間のように感じます。

それでも…。
壁伝いにただただひたすら一人で真っ暗闇を歩いていると、やがてガシャガシャという音が聞こえてきます。
ん?
おおっ!
錠前を触る音に違いない!
あと少し。あと少しで錠前なはず。


No.67 22/06/06 16:15
旅人 ( pu5bob )

ん?

おっ!
壁にあきらかに異質な物を感じました。それでも真っ暗闇なため、ゆっくりとその形状を確かめました。
おおっ。
何やら上下する金具のようです。たぶん、錠前。
やったぁ!

で?
この錠前を触って…どうするんだ?
何か決まり事とかあったっけ?
触るだけでよかった?
うーん。

とりあえず、
(ここまで参ることができました。ありがとうございます)と心の中でお礼を申し上げました。
錠前から手を離し難い気持ちを振り払い、先へと進みます。

あとどのくらい?

錠前を手離し再び壁を伝って歩き出すとまもなく壁はカーブする感じです。当然歩いていく回廊も。

あれっ?
何やら少し明るい?
あれれ階段?
錠前からはまもなく階段。
お戒壇巡りだけに階段から始まって階段で終わりますか。

やっぱり細くて急な階段です。

真っ暗闇の中を歩いて明るいところへ出たのだからさぞかし眩しいものだろうと思いきや、そんなこともなく、目もしっかりと見え、足元もしっかりして歩けます。
さすが阿弥陀如来さまとのご縁が結ばれる回廊、お戒壇だけあるなぁ、などと思いつつ。

ここを上がったところで、御開帳限定の回向柱守を取り扱っておられたのを、お戒壇巡りに入る直前にしかと見ておりましたおばさん。
一目散にそこへと向かい、お授けいただきました。
こちらは他の授与所と異なり、この回向柱守のみを取り扱っているようで、しかも僧侶の方がお授けになられています。
御本堂の中で、僧侶の方から手渡していただく御守は御利益がさらにありそうな…。…はい、これが煩悩、これこそが欲。
あくまでも強欲なおばさんでありました。

お戒壇巡りは一説によると、胎内巡りでもあって、ここを巡ることで新たな、新しい自分に生まれ変われる、…はずなんですが。

それすらも効果がないほどの人物ということでしょうか(;ω;)

No.68 22/06/07 01:38
旅人 ( pu5bob )

お戒壇巡りを終え、御開帳に行ったなら是非お受けしたいと思っていた【回向柱守】を、思いがけず御本堂内の、それもお坊さまからお受けすることができ、すっかりご機嫌な私が、次に向かったのが、【御印文頂戴】に。
本来は一月の限られた期間にのみ行われる行事のようですが、御開帳期間中は毎日頂戴できるとのことで、本当はこれをお受けするかどうか、悩んでいたものでありました。
と言いますのも、この【御印文】を頂戴すると極楽往生が約束されるというもので。
…私は自分の罪深さを知っておりますゆえ、夢夢自分が極楽へ行けるような者でないことぐらい自覚しておりますし、それを自覚していて、そんな簡単な(善光寺さんごめんなさい)ことで極楽往生してはバチが当たります。
せめて、このあとの残りの人生で少しでも巻き返しができればそれでもう十分だと思っております者ですから。

とはいえ。
こちらのご本尊さまであられる阿弥陀如来さまは衆生を極楽往生させるという誓願をお立てになられておられますので、それにあやかろうという善男善女がこぞってお参りされるところ。
うーん、場違いな人間だったのかなぁ。
いやいや今後の人生改心するようにお導きになることこそが、まずは極楽への道に繋がろうもの、きっとそういったお導きをしてくださるに違いない。うんうん。

この御印文、なんでも【善光寺如来】さまのご分身といわれている宝印であるそうです。
これを僧侶が参拝者の額に押し当てるという儀式なのだとか。
お? ひ、額?
額でなく、ボケた頭にお受けするのはどうなんだろう。

…実は私、額ではなく頭頂にほど近い後頭部におしいただいております。
案内していた係の方が、
「ありがたさのあまりにあまり頭を下げられますと、この御印文、実は大変重たいものでありまして、頭が下がった状態のところまで印を下げると僧侶には大変負担となりますので、普通に立つ感じで僧侶の前にお立ちください」
とおっしゃっていたものですから。

もとより極楽往生は望んではいなかったのでそれはそれでいいんですけど、…ボケた頭に効いたりはしないかなぁ。

No.69 22/06/07 01:52
旅人 ( pu5bob )

そんな【御印文頂戴】も長い歴史ある儀式で、なんと『落語』にもなっているのだとか。
その落語が古典落語の演目『お血脈(おけちみゃく)』というものだそう。そのあらすじを…。


【お血脈・あらすじ】

善男善女で賑わう善光寺。
お坊さんから「お血脈の御印」を額に押してもらうと極楽へ行けるという。
噂を聞いた大悪人も押し寄せて皆浄土行き。
関古島の地獄で頭を抱える閻魔大王に見目嗅鼻(みるめかぐはな)という従者が申し出て、御印を盗み出したらいかがかと。
選ばれたのが石川五右衛門。
「憚りながら娑婆にては太閤秀吉公の御殿に忍び入ったこともございます。さようなものを盗むのは容易きこと。ご安堵あれ大王様」
「勇ましや、ぬかるなよ」

 
娑婆に戻って善光寺で、御印文=お血脈を見つけた石川五右衛門。
「はははは。奪い取ったる血脈の印、これさえありゃあ大願成就。ありがてえ、かたじけねえ」。
…御印を頂いたもんだから、そのまま極楽へ行っちまったとか。


…これが古典落語のお血脈のお話。
いやいや、さすが、一生に一度は善光寺詣りと全国でその名を轟かせる善光寺さんでありました。

No.70 22/06/07 07:52
旅人 ( pu5bob )

この【御印文】。
それはそれは美しい花嫁御寮が着る打ち掛けを思わせるような布で包まれており、そして、なるほど先ほど案内・誘導されていた人のおっしゃる通り、重そうな、直径からすると布を含めたらバスケットボールほどにもなるかとも思われる大きなものでありました。(あくまでも最長部分の直径で。)

その綺麗な布に包まれた御印文を僧侶が高い、例えるなら小振で少し高さのある講演台のような台の上から差し出して、参拝者の頭に押し当てる儀礼でありました。
なるほど、これは参拝者が深く首を垂れては腕や肩への負担も大きいものでしょう。
私の身長は158センチ強なのですが、それもなかなか大変そうでありました。一方の夫の身長は180センチ強、私にお授けくださるよりもずっと楽そうに見えました。


この御印文「ごはんさん」とも呼ばれらのだとか。
…〝ごはんさん〟と聞いて、〝ドラゴンボール〟をふっと思い浮かべるあたりが、どんな大人かを(大人という言葉自体が恥ずかしい)物語っていますか。


御開帳執行を告知する高札には「御印文令頂戴(ちょうだいせしむる)者也」とあるそうで、前立本尊、回向柱と共に御開帳参拝の中心の一つであるとされています。

No.71 22/06/07 11:40
旅人 ( pu5bob )

とりあえず、私の中では本日参拝したかった御本堂および前立ちご本尊さまへ詣でることができ、ここまででもうすでに充分満足しておりまして。
とはいえ、この時点でまだ九時半、充分他へまわる時間はあります。
「次はどこかまわりますか?」と聞きますと、夫は
「まずは山門だな」と。

本来ならばここ、山門をくぐってからのお参りが正規のルートとなりましょうが、私どもは裏手の駐車場に停めて境内に入ったものですから、そのまま一番近くにある御本堂へのお参りとしてしまったので、その後山門というのも(なんだかなぁ)という感じもいたしますが。

あらためて見上げる山門の大きなこと!
大多数の参拝の方はみな、山門をくぐり回向柱に触れるという、一般的なまわり方をされています。
私たちは、青空に高くそびえる回向柱を通り過ぎ、山門へと向かいます。
しかも山門登楼参拝のため、山門の内側へ。山門登楼に向かう方はまだこの時点ではさほど多くはなく、ほぼ並ばずに階段を登ることができました。フリーパス的な拝観券を購入してあったことも多少功を労した点もあるにはありましたが…。

かなり急な、しかも段裏を支える低い横柱のある歩きづらい階段を登って行くと、おおっ!
中には四国八十八ヶ所霊場のお分身仏かお祀られていたではないですか!
そして山門のご本尊だという【文殊菩薩】さまが、四天王の囲む中央に、獅子に乗られたお姿で鎮座なさっておられます。
文殊菩薩さまの安置された仏間は色鮮やかな色彩の障壁画があり、御本堂だけですっかり満足していた気分になっていた私は、またさらにテンションがあがるのでありました。

そんな楼門の内部の一部壁面には、墨字で書かれた落書きが多く残されていました。
これは江戸期から昭和初期までの間に登楼された参拝者が自らの名前を残したものです。
中には「島津藩の家紋と共に書かれた桜島と思われる山の絵」や浅野家の後に赤穂を治めた「赤穂藩森家家中の名前」や会津討伐の後に立ち寄ったと思われる「長州奇兵隊」といった記載が見られるといいます。

お寺の山門、とはいえ壁に落書きをするなどはいかにもバチ当たりな行為な気がいたしますが、群馬県太田市の曹源寺さんの栄螺堂もその壁のほとんどに落書きがありましたし、
そういった風潮があった時代があったという、歴史的記録の一部ともなっているのかもしれませんが、ね。

No.72 22/06/08 03:31
旅人 ( pu5bob )

この山門、江戸時代中期の寛延三(1750)年に建立されています。
様式は五間三戸二階二重門、屋根は入母屋造りの栩葺(とちぶき)というものだといいます。
『栩葺』…と言われてもさっぱりわからない私でありますが、実は造られた当初はこの栩葺であったものを途中で行われた葺き替えで、檜皮葺というものに変えていたとのことです。
それを平成の大改修の際にこだわって栩葺に戻しておりますので何やら意味があるのでございましょう。

まぁ、私には檜皮葺も栩葺もさっぱりわからない。
そもそもがこの善光寺さんの山門、大きくて大きくて、背が高い。
何でできているかすら見えないんです。
一応この栩葺についてGoogle先生にお聞きいたしましたところ、栩葺は、長さ六十センチ、十〜三十ミリくらいの板を重ね合わせて葺く工法だそうです。
ちなみに善光寺さんでこの平成の大修理で使用された木はサワラ。
十七万枚もの栩板を作って葺いてあるそうですよ。
枚数もさながら、屋根葺に適した部分を用いてかつ割れにくい木目で作るためには職人の腕が必要だといい、結構な工程を一枚一枚手作業するもののようです。

また、人工林のサワラ材では目が粗く老朽化や、破産して雨漏りの危険性があるとのことで、木曽の国有林から天然サワラ材が調達されたそうです。

一方御本堂は檜皮葺のようで。檜皮葺とは檜の皮を板にしたもので屋根を葺いたものとのことです。

瓦の方が耐久年数が長いんじゃないのかと、私などは思うのでありますが、実は瓦屋根というのはそれ自体が相当の重量を有し、積雪のことを考えると、さらに積雪荷重が加わるため屋根自体の相応の構造強化も施さなければならないらしいです。しかも瓦って凍害に弱いのだとか。
と考えるとこういった植物質の屋根の方が地の利にかなっているようです。
栩葺屋根の耐久年数は三十〜五十年と言われているとか。
…なかなか古いものを維持していくのは大変です。


弘化四(1847)年の善光寺地震や、昭和四十年代の松代群発地震などの影響で建物の基礎が損傷し、全体の老朽化も進んだことから、
平成十四(2002)年から平成十九(2007)年まで約五年間かけて山門としては初の大規模な修復工事を行ったといいます。
この修復後、約四十年にわたって中断されていた二階への登楼参拝を、平成二十(2008)年から再開したそうです。

No.73 22/06/08 08:38
旅人 ( pu5bob )

善光寺さんといえば【鳩字の額】。
…「善光寺さんといえば〇〇」と言われて〇〇に当てはまるものが、人によってさまざまに異なるかと思いはしますが、結構上位に位置するのではないかと思うこの〝額〟。
山門表側の中央に掲げられている、かなり遠くからでもその文字が読める大きな額であります。

山門内部の御仏さまのお護りくださっている間をぬけて、外に出ると楼上に掲げられている、【輪王寺宮公澄法親王(こうちょうほっしんのう)】筆のこの額が掲げられています。
大きさは約三畳分あるというこの額を、すぐ真横で見ることができるのが楼門から外に出てすぐのところであります。
通称『鳩字の額』と呼ばれており、その理由は、この〝善光寺〟という三文字の中に鳩の姿が五羽隠されていることから。
また更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われています。

『(その鳩全て)みつけられますか?』と、よく問いかけられるもののようです。


なお、現在山門に架けられている額は平成大修理の際に作られた二代目となるものであり、先代の額は〝史料館〟で見ることができました。


この回廊に出ると鳩字の額よりもまず目に入るのが、仁王門を抜けて回向柱に触れるために並んでいる横にも広く縦にも長い人達の列、です。
思わず目を見開いて声が出ます。
その、人の波にしばし驚いたのち、ようやく目に入ってくるのが善光寺の参道であり、長野市の眺望であります。
そして、「あっ」と思い出してみぎてに目をやるとあるのが『鳩字の額』でありました。
真横から、そして何より大きなものなのでなかなか全体を見るのは難しいのではありますが、それでもなんとか写真におさめることができました。
でも実感としては畳三畳の大きさには感じられなかったというのが、私の感想でありました。

その回廊をまわっていくと善光寺さんの境内を眼下に収めることができます。
そびえる御本堂と回向柱と、善男善女、老若男女の大きな人の列が目に入ってまいります。

一際大きな人の列は。
…なんと御朱印所!


ここで私は今回御朱印をお受けすることを諦めました。

No.74 22/06/09 17:16
旅人 ( pu5bob )

山門をおりて、どこへ向かうとも定めぬままに、御朱印をお授けいただこうと並んでいる何十人もの方々を見るとは無しに見ながら、山門の内側の境内を歩いていると、通常のお寺さんの御本堂くらい大きなお堂があって、そのお堂の前にも回向柱と同じような柱までが建っているではないですか!

「あそこに行く!」
と一言いうと、一目散にそこを目指して小走りに向かう私。
…ええ、身内にとってはいつもの事です。なんとはた迷惑でしかない妻で母でありましょう。

しかして。
向かった先は【大勧進】・【護摩堂】でありました。
こちらに建てられた柱は【結縁柱(けちえんばしら)】と呼ばれるもので、護摩堂にお祀りされた不動明王さまと結ばれているということで、やはり、七年に一度の前立本尊御開帳の時にのみ建立されるものだといい、柱に触れるとお不動さまに触れたと同じご利益があるといいます。

うわぁぁ!
今日は二十八日、お不動さまのお縁日であります。
なんとありがたいことでありましょう。

しかもこちらの結縁柱は人が並んでおりません。
全てを自分に都合よく、今日来られたこともご縁なら、これだけの参拝の方がおられるのにどなたも柱のそばにおられず結縁柱に触れていたいだけ触れていられることも大きなご縁と思いこみ、すっかりご機嫌な私。
しかも、です。
ちょうどお護摩が始まるようです。

なんとありがたいことでありましょう。

三人の僧侶が護摩壇を囲んで御祈祷を始めました。炎が上がります。
ひとりの僧が繰り返し繰り返し、
不動明王さまのご真言を繰り返し繰り返しお唱えになっておられます。
私もご一緒させていただき、ご真言をお唱え申し上げました。

思ってもみなかった、本当にありがたい経験をさせていただくことができました。



No.75 22/06/10 22:34
旅人 ( pu5bob )

護摩堂を出て。
あれ?
こちらにも御朱印授与所があるようです。こちらはそんなに混んではいなそう…こちらでならお受けできるかな?
ほんの数分並んだだけですぐに順番がやってきました。
なんだか色々種類がありそうです。〝善光寺〟と書かれたものと〝善光寺如来〟と書かれたものをお願いいたしました。
その待ち時間に、こちら【大勧進】と呼ばれるところをまわらせていただこうと思いました。

No.76 22/06/11 03:41
旅人 ( pu5bob )

…そもそも、【大勧進】って、なんだろう。普通のお寺さんの名称とはだいぶ異なります。
あ、あぁ、そうか。『善光寺』、だから。


大勧進の寺名は、人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進する『勧進』を意味します。

大勧進は、開山、『本田善光公』以来、代々『善光寺如来』さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました。
弘仁八(817)年、【伝教大師最澄】さまが信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っております。

大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊であり、大勧進住職(貫主)は善光寺の住職も兼ねております。 (大勧進HPより)


善光寺本堂は642年に初めて建立されてから十一回も消失しているということを以前書きましたが、【輪王寺宮法親王】により善光寺本堂の再建を懇願された【善光寺別当・大勧進第73世貫主・慶運大僧正】によって、宝永4(1707)年に現在の本堂が建立されています。

その後の天明3(1783)年、日本の災害史上最大級の被害を出した【浅間山大噴火】が起こります。
その前年に『東叡山寛永寺』から【善光寺別当・大勧進第80世貫主】に赴任した【等順大僧正】は、自ら群馬県嬬恋村鎌原の被災地に出向き、被災者3,000人に食糧と銭を施し、共に念仏を唱え、悲しむ被災者に【融通念仏血脈譜】という『天国へのパスポート』となるお守りを新たに作成して被災者に授与したといいます。
… 善光寺というこれだけ大きな寺の住職であり、大勧進の貫主という立場にありながら、おそらくはまわりの反対を押し切ってのことと推測されます。
すごい、なんともありがたい方にございます。

そして。このお守りが古典落語にもなった【お血脈】の由来で、全国から多くの参拝者が「お血脈」を求めて善光寺に参拝に訪れるようになります。(ん?えっ?)

等順大僧正はさらに、浅間の大噴火により起こった【天明の大飢饉】に苦しむ民衆に善光寺の蔵の米を全て施し、
天明五(1785)年本堂にて御回向を実施されます。
これが現在も七年に一度実施され、約700万人(2015年)もの参拝者が訪れる本堂で執り行われる【善光寺御開帳】の始まりとなります。 




善光寺のHPにはお血脈=御印文のよう書いてあったんだけど?えっ?
ええっ??

No.77 22/06/11 04:08
旅人 ( pu5bob )

もうとりあえず、大勧進のことではなく『お血脈』について調べます。

【お血脈】は、釈迦牟尼仏から発し、阿弥陀如来から良忍により確立された【融通念仏】の継承者として『歴代大勧進貫主』が連なる
【融通念仏血脈譜】という系図で、大勧進のみで授与されるものです。

【融通念仏】は一人の念仏も、あらゆる人の念仏も、互いにとけ合い、その功徳によって、極楽往生できるという考えの信仰です。

『お血脈』を授与された皆様は仏の弟子として阿弥陀如来とご縁が結ばれることになります。

う、うん。


等順大僧正は天明三年(1783年)、日本の災害史上最大級に被害を出した浅間山大噴火が起こった時、群馬県嬬恋村鎌原に入り救済活動に取り組みました。
その際等順大僧正は悲しみ泣き叫ぶ被災者の心の平安を取り戻すため、融通念仏の信仰に基づく『お血脈』(融通念仏血脈譜)を新たに作成して、極楽浄土へ行くための御守として、被災者に授与しました。

うーん。

…なんとなく抱いていた謎が、モヤが晴れた気がいたします。

だってですよ、たしかに石川五右衛門をもって盗ませるようなものとしたら、あの善光寺の寺宝、ご本尊の分身とも言われる『御印文』しかない気はするんです。
それさえなければ、衆生がみな極楽へと行ってしまうといった事態を終息させることができるといったもの。
だけど…石川五右衛門に盗まれたそのあと、どうやって再び善光寺さんに戻った?

落語話だというのに、ずっとそこんところにこだわり引きずっていたんですよ。

ですが、ですね。
一枚のお血脈を盗んだところで、増産されるお血脈ですよね。
これもおかしな話です。

…。

……。


ま、いっか。

No.78 22/06/11 05:24
旅人 ( pu5bob )

…。

ま、いっか。 で締めましたが、どうにもかえってモヤモヤが倍増してしまった私。

で、悶々とお血脈について調べるとはなしに調べておりました。

すると!

大勧進で『お血脈』をお授け頂いた方が、その中身の写真をアップしてくださっている記事を発見いたしました。
そして!
その方の記事で、な、なんと!
善光寺二大別当のもう一つ、【大本願】にも『お血脈』が存在するということが書かれていたのであります。
…ま、実を言うと、私、あまりの混雑ぶりに大本願さんの方へは参拝せず、善光寺さんをあとにしてるんですよね。
だから、それを知らなかったのかもしれません。

…ん?
大勧進さんでも『お血脈』の大きな看板が一切目に入らなかったくらいなので、大本願さんに行っていたところでまるで気づきもしなかったかもしれませんが…ね。

もしかしたら、善光寺さんと言えば『お血脈』!なのかもしれないというのに、ねぇ。
だって本来ならば善光寺さん詣りって、少なくとも昔の方は極楽往生を願って参拝に訪れていたわけで、だとしたら間違いなく、このパスポート=お血脈は最重要にして忘れてはならない目的の物、ですよねぇ。

で、その中身。
大勧進でお授けいただく中に入っているものは、お釈迦様・阿弥陀如来様から現大勧進貫主までつながる系図ということで、これを受けた人は、貫主さまのお弟子になります。
つまりお釈迦様と阿弥陀様のお弟子になることができるという物。

本来は大勧進住職から、直接授与されるのが立前、ですが、普通に授与所で紙袋に入れられた物を授与となるようです。
大切に仏壇等に保管して、事ある時には極楽浄土へ持って行く。有体に言えば、死後、棺の中に納めるものとなります。

そして、この後!
『「落語 お血脈」はよく知られています。
でも落語の内容は「御印文頂戴」のこと。
本来の「お血脈」とは違っているので、紛らわしいのです。』

と綴られていました。


謎、解けたじゃん。
まぁとりあえずは石川五右衛門に渡った御印文はどうやって善光寺さんに戻ったということです。

ほおぉぉ〜、それにしても、ネットってありがたい!


ちなみに。
御印文には『牛王宝印』『牛王けん印』『往生決定印』の三判があり、善光寺如来の分身といわれています。
僧侶がお立ちになっているのは『妻戸台』というようです。

No.79 22/06/12 04:31
旅人 ( pu5bob )

まぁ、話は善光寺さんを参拝していた私に戻して…。
そう、大勧進さんの護摩堂を出て御朱印をお願いいたしましたところまで。
御朱印はいくつかのものを除いて基本的に直書きしてくださっています。番号札を渡されて
「三十分ほどかかりますのでそのころまたお越しください、書き終えたらそこに置いておきます」
とのこと。

それではと。
大勧進さんの境内(?)をまわらせていただくことといたしました。

美しい観音さまの像があって、その前には立派な香炉と、何やら小さな卒塔婆がたくさん置いてあります。

ん?

…そうでしたか…。
どうやらこちらは水子供養の観音さまであるようです。
手を合わせ、そこを立ち去ろうとしたとき、その卒塔婆を手にした方がおられました。
そおっとその方にも心の中で手を合わせそこを去りかけたとき、どうやらその方は何人かで来られていて、一緒に来られた方全ての人がその卒塔婆を手にして自らの名前を書き始めたことに気づきました。
この世に生を受けることは叶わなかった小さな命は、こんなにも生まれてきて欲しかった人たちに今なお供養してもらうほどに、大切に思われているのだなあと、哀しさと、小さな命を大切に思いながら暮らす方々へのありがたさで胸がいっぱいになりました。

…本来ならば当たり前、なのかもしれません。
ですが昨今の虐待死事件を思うとき、本来あるはずのこの感情、この愛情を失った人たち、持ち合わせていなかった人たちは、やはり一握りでしかないのだとあらためて実感させていただくことができました。
一握りの人がどうかあの忌まわしい事件を起こした人たちで最後でありますよう、願い祈るばかりです。


それにしても、この小さな卒塔婆供養というものは、なんと人々の嘆きや悲しみに寄り添ったものでありましょう。
気軽に、卒塔婆というありがたくも立派なもので供養できる…。
しかもその子の御霊のみに。
…なんともありがたいあり方だと、私は思いました。

No.80 22/06/13 05:02
旅人 ( pu5bob )

さて。
次に進んだのは…何やらお寺の本堂のような建物が見えてきました。
【萬善堂】という建物です。
こちらこそが、大勧進御本堂でありました。
善光寺さんの大きさ、参拝者の多さ、何よりも御開帳という儀式の開催期間という前回とは異なるさまにすっかり飲み込まれ、本来のお寺さんの参拝でのあり方など、全てすっかり頭から抜けていたようです。

そもそもが裏手から入ったことからが間違いといえば間違いで、山門を通ることで穢れを祓うということもないまま御本堂へと上がり、山門をくぐる前に登っております。
善光寺さんの御本堂へお参りしたことで、あとはそれぞれお堂等の施設であろうと思い、(ああ、お堂があるから寄ってみようか)…そんなノリで、大勧進さんの護摩堂へとフラフラと歩いて来てしまいましたが、よくよく見れば、大勧進さんは大勧進さんとして、善光寺さんの境内の中で独立した区画があり、塀でこそは囲まれていないもののしっかりと門もあり。
そして大勧進さんの御本堂があるという…善光寺さんならではの特殊性があったのでした。
過去に一度参拝していたこともあり、また、今回は御開帳に参列させていただくことを目的として来てしまっていたが故、善光寺さんについて何一つ調べることなく(厳密にいえば駐車場とかについてのみ調べ)来てしまったのでありました。

(門があるんじゃん)
(御本堂があるんじゃん!御本堂よりも先に護摩堂入ってしまっていたんだぁ)
(御本堂をお参りしていないのに御朱印をお願いしてしまったよ)

我ながら嫌になってしまいました。

御本堂では御本堂に集まった方々に向けて法話をお話しくださっておられました。
特にどちらかの一族の法要、という様子ではありませんでしたが、お話の途中を邪魔することとなるため、外からそっと合掌しその場を去りました。

その後向かったのは宝物殿のある建物でありました。
…実は私はあまり宝物、寺宝等に興味がないタイプ。「どうする?」と夫に聞きますと、入るのが当たり前、という様子。
内心あまり気乗りしないまま奥へと入っていきました。


その奥の奥に、【無量寿殿】という建物がありました。
かなり立派なお堂で小さなお寺さんの御本堂ほどの大きさです。
それがこんな奥に、まさにひっそりと建っていたのです。

No.81 22/06/13 11:22
旅人 ( pu5bob )

こちらは…?
どうやら御堂に入っての参拝が可能なようです。

お。おおっ!
なんとこちらは!
今御開帳されて御本堂に祀られておられます、お前立御本尊が普段御鎮座されている間、御堂にございました。

…たしかに。
瑠璃壇のお隣にはお祀りする空間があるのみで、御開帳の際にこちらへとお出ましになる前立御本尊さまは、普段はどちらにおられるのだろうと、ふと思ったりもしたのです。
善光寺さんのHPを拝見すると、御宝庫へとあります。
お前立御本尊も七年に一度の御開帳でありますので、七年間はそのお姿をお隠しになられます。
御宝庫?
貧乏人で学のない私は、つい上品な物置的な物を想像することしかできず、それはまたあまりにも失礼だよなぁと…。

善光寺さんはそんな馬鹿げた扱いをなさろうはずがありません。
こうしたきちんとした御堂に七年間御鎮座いただき、御開帳期間になりますと、専門の輿にお乗りいただき移動されるのでございました。
御開帳期間、だったからなのでありましょうか、お前立御本尊さまの普段おられます御堂まで参拝させていただくことができました。

ちなみに。
七年に一度、というのがキャッチフレーズの善光寺さんの御開帳。
正確にいうと実は数えで七年。御開帳の年から次の御開帳の年まで七年ということで、丑年と未年の年に御開帳されているようです。
その丑年と未年となったのも昭和になってからというお話もありました。明治までは不定期だったとも聞きました。



さて、そんな善光寺さんの御開帳期間もあと十日をきりました。

善光寺御開帳は、【結願大法要】によって終 わりを告げます。
善光寺を護る天台宗・浄土宗それぞれの僧侶によって法要が営まれ、
御開帳最終日の午後五時の夕座法要にて前立本尊の厨子の扉が静かに閉められらのだといいます。


そして。
御開帳期間後、前立本尊御還座式というものが営まれるのだそうです。
前立本尊さまが御宝庫にお還りになるための儀式で、
御開帳期間中、前立本尊さまのお指と糸で結ばれ、人々に御利益を授けてきた回向柱の前で法要が執り行われるといいます。
そしてその法要後、白装束の男性たちが担ぐ輿に前立本尊さまをお乗せし大勧進御宝庫へと向かい、扉が閉められて再び封印が成されらのだといいます。

うーん。自分で運転して一人で…は無理だなぁ。

No.82 22/06/13 21:23
旅人 ( pu5bob )

御朱印帳を受け取り、次に向かったのは経堂です。

経蔵は、宝暦九(1759)年に建立された五間四方宝形【ほうぎょう】造りのお堂です。
経蔵入口には輪蔵を考案したという傅大士(ふだいし)の座像が置かれています。その両隣には幼さを残したかのような立像がありますが、こちらがどなたなのかは、聞きしてくるのをすっかり失念しておりました。

経堂に入ると中央に、黒を基調に、壁面には黒い格子窓に金箔の板が貼られているハッと目を引く美しい八角の【輪蔵】があり、その中には仏教経典を網羅した【鉄眼黄檗版(てつげんおうばくばん)一切経】全六千七百七十一巻が収められているといいます。
高さ約十七メートル、重さ約五トン、奥行約15.4メートルの巨大な輪蔵です。
たいそう声の良く通る年配の係の方が、経蔵に入ってきた人たちを順番で輪蔵の周りに配置し、その回し方をレクチャーしています。
輪蔵を時計回りに一周押し回すと、収められた『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれているといいます。
輪蔵は、その大きさからは想像していたからよりもずっとずっと軽く軽やかにまわります。
何名かで回しているから、だけでない、こちらの整備の良さを感じます。

経蔵内にはまた、伝教(でんぎょう)・慈覚の両大師像などがお祀られていました。

経蔵の前には【南無阿弥陀仏】の六字が刻まれた石の輪を回す【輪廻塔(りんねとう)】があります。その輪を回すことで功徳を積み、極楽往生ができると言われているということでありました。





No.83 22/06/14 18:22
旅人 ( pu5bob )

>> 82 読み直して。
【経蔵】をご覧になられたことのない方にはさっぱりイメージできないなぁと思ったものの…。

うーん、困りました。

そもそも私に表現できるだけの語彙力がなく。
加えて、善光寺さんのいろいろなところで写真撮影が禁じられており、語彙力よりも何より記憶力の低下…というかもともとその能力が人より欠如している私。

写真等の資料もない状態で、経蔵がどういったもので、どのように回っていたか…それをどうやったら人様に伝えていくことができるものか…。



No.84 22/06/14 22:02
旅人 ( pu5bob )

【経蔵】はまたの名を【輪廻塔】と呼びます。
八角形の巨大な箱の下となる部分がまさにコマのように円錐状になっていて、その中央部から棒状のものが出ている、あるいは棒状のものを差して、床部分にある、それを差し込んで支える穴に立たせてあり、それを軸として、円状に回る、といったものであります。

年代によってはもはや通じない『回転型ジャングルジム・グローブジャングル』、あの遊具をご存知の方であれば、それを想像していただいて、そのジャングルジムのところが八角形だと思っていただければ、まず、それに近いものであろうと思うのであります。
そう、つまりは八角形の巨大な箱状のものから、神輿の担ぐ持ち手のような木の棒が出ていて、それを持って回す。

というものです。
…いくらかはイメージしていただけたでしょうか?

係の方、そう、よく通るあの声の方が、ちょうど一周回ってストップをかけるまで、その棒を持って回ります。
総重量はおよそ五トンと言われる巨大な箱を回しているというのに、軽く押すだけでびっくりするほどスッと回ります。
…まぁ、八名で回しているのですから、それはそうかもしれませんが。
そして一切のガタつきなく、スムーズに回すことができます。
五トンですよ、五トン。
しかも高さも十七メートル。


…どうでしょう。
少しはつたわりましたでしょうか。

経蔵がでーんとあるのでついついそこに目をやりがちでですが、御仏の像も安置されています。
釈迦如来さま、その脇侍としてお祀りされていたのは大迦葉尊者と、阿難尊者さま。
如意輪観音さま。

そのほかに伝教大師さまと慈覚大師の御像と。

そうそう、あの入り口に佇む傳大師(ふだいし)さまの横に立つお二方の名前がわかりました
お二方とも傳大師さまの息子さんなのだそうでした。

No.85 22/06/15 17:52
旅人 ( pu5bob )

お線香あげにお寺さんへ行ってまいりました。
ご住職ご自慢の【沙羅双樹】、『沙羅』の花が咲いていました。


『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす。
奢(おご)れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
『平家物語』冒頭より』

今から約二千五百年前、お釈迦さまはインドのクシナガラの沙羅の林の中で入滅されました。
その時、枕辺の四本(双樹)の沙羅は時ならぬ花を咲かせ、足辺の四本(双樹)の沙羅は白変して枯れたといわれます。
それなので『沙羅』は、お釈迦さまの入滅を表し、諸行無常を説く仏の花として知られています。
お釈迦さまの入滅を描く【涅槃図】に描かれているのはまさにその沙羅双樹であります。


日本では沙羅のことを【夏椿(ナツツバキ)】といいますが、朝に咲き夕べには散る、たった一日だけの花なのだそうです。
『平家物語』の冒頭でうたわれるように、平安末期、我が世の天下の如く権勢を振るった平家ですらすぐに源氏に取って替わられました。

どんな者にも必ず終焉の時がやって来ることを、釈尊入滅時に時ならぬ花を咲かせ、または白変させて 「諸行無常」を示した沙羅を以て、この世の無常を説き示しています。

たった一日だけ咲く純白の花は、まさにこの世の無常をたとえるのにこれほどふさわしい花はないといえるかもしれません。
淡く、そして薄いその花びらは、胸打たれるほど美しいものでありました。

No.86 22/06/16 03:07
旅人 ( pu5bob )

珍道中を始めてからはじめての善光寺さん。
それも七年に一度という御開帳の期間中ということもあって、すっかり魅了されてしまいました。


御開帳期間中の大きな特別な行事、
【回向柱受入式】、【回向柱建立式】から始まり【前立本尊御遷座式】。
前立本尊御遷座式では、白装束に身を包んだ男性たちが『一光三尊阿弥陀如来』前立御本尊さまを納めた厨子を輿におさめて担ぎ、御宝庫から本堂へと運ぶのだといいます。
そして御本堂では一山住職が厨子を担ぎ、内々陣へとお遷しになるのだそうです。

【開闢大法要(かいびゃくだいほうよう)】
御開帳初日のお朝事で、前立本尊さまの厨子が七年ぶりに開かれ、その後善光寺を護持する天台宗、浄土宗それぞれの住職による開闢大法要が営まれ、御開帳が始まるのだといいます。

【中日庭儀大法要(ちゅうにちていぎだいほうよう)】ではお雅児さんを先頭に、華麗な法衣をまとった住職の行列が進み、色とりどりの散華が舞うといいます。…もう想像しただけで胸がときめきます。
天台宗、浄土宗それぞれが回向柱の前で執り行う、厳粛な中にも華やかな法要だといいます。

長野市仏教会による『仏都花まつり』、長野市無形民俗文化財に指定される篠ノ井地区の2体の大獅子が表参道を練り歩き、山門前で勇壮な獅子舞を披露するという『篠ノ井大獅子奉納(しののいおおじしほうのう)』などもあるようです。

そして。
【結願大法要】。
きたる六月二十八日、八十八日間続いた御開帳が結願大法要を執り行ったのち、この日の夕方、前立本尊さまの厨子の扉がゆっくりと閉じられるといいます。
そして六月三十日には【前立本尊御還座式(まえだちほんぞんごかんざしき)】ということで、前立本尊さまは白装束の男たちが担ぐ輿にのせられ、御宝庫へお還りになられるのだといいます。

…もうため息しか出ません。

私どもは特にこういった特別な行事のない日に参拝させていただいておりますが、それでもあの参拝者の数!
こんな、特別な行事のある日はいかばかりなものでありましょう。
コロナ以前から人混みが苦手というか嫌いな私であります。

そんな私でも一目見たいと、一生に一度は見たいと思わせてしまう、善光寺マジックでありました。
そして…御開帳期間中でない善光寺さんへ、宿坊に泊まってゆっくりと参拝したいとも思う私なのであります。

No.87 22/06/16 09:44
旅人 ( pu5bob )

【回向柱】の四面にはそれぞれ別の言葉が書かれております。

正面には梵字で、

キャ    空
カ     風
ラ     火
バ     水
ア     地

そして三角形に
キリーク  阿弥陀如来
サ     観音菩薩
サク    勢至菩薩
と書かれ、

奉開龕前立本尊(ほうかいがんまえだちほんぞん)

と書かれています。
意味は『前立本尊の厨子の扉を開き奉る』ということだそうです。

側面一にはやはり四つの梵字か書かれ、
『光明遍照』『十方世界』『念仏衆生』『摂取不捨』
と書かれ、
意味は『前立本尊の慈悲に満ちた光は、善く世界を照らしだし、念仏を称える全てを等しく受けとめ、決して捨てることはない』

側面ニには梵字四文字のあと、『国家豊寧』『萬姓増輝』『含霊普潤』
意味は『国が豊かでやすらかであり、全ての人が楽しく幸せに暮らせるように、御仏の光は輝きを増し、あらゆるものを潤す』
となります。

裏側に当たる部分には梵字四文字に続いて『家内安全』『商売繁盛』と書かれています。

また、御前立本尊の指から出ている金の糸は【善の綱】と呼ばれる五色の糸へとつながり、さらに白い布となり、本堂前の回向柱まで続いています。
この五色の色は宇宙を構成する五代要素、『空(青いもしくは緑)』『風(黒(茶色))『火(白))』『水(赤)』『地(黄)』を表すと言われています。(五色については諸説あるようです)


善の綱とは前立本尊と回向柱を繋いでいます。
ちなみにこちらの行列もずらーっと並んで1時間待ちでありました。

えっ?
並んだのか?ですか?
もちろん!…並びませんでした、はい。

だって瑠璃殿の絶対秘仏の御本尊さまとお戒壇巡りでご縁を結んでいただきましたし。…横に八から十列の人の行列が1時間待ちで、山門よりもはるか向こうの方まで並んでいるのですもの…。

そのあと、いったんは参道の仲見世通りに向かうのですが、あまりの人に、諦めて。
三十九あるという宿坊の並ぶ通りを少しだけ歩いて、善光寺さんの仲見世通りには立ち寄りもせずに。
一軒だけ露店に寄ってお土産を買って済ませたくらい、人混みと並ぶことが嫌いな夫婦なんです。はい…。

No.88 22/06/17 19:47
旅人 ( pu5bob )

最近、即身仏さまを扱った小説を何度目かの再読をいたしました。

私は未だに無宗教な身であることもあり、即身仏となろうとなさった僧が何を思いそこまでの思いに至ったのか、想像することすら出来ずにいます。というよりもどこかで考えることを拒否してあるようななんとも言えない気持ちであります。

その小説は、ひとりの僧が即身仏となる決心をするまでの人生を、そして即身仏になるための行を行い、入定するまでを描いたものです。

さらに厳密にいうと、入定してからの鈴の音の音を余韻とし終わっているため、その後その僧が即身仏となられたか、入定したままに終わったのかは描かれていません。

そう、即身仏というのは、どれだけの行を行おうと、入定して自分の願った最期を遂げようと、その後を担う者がいて、初めて成就するものであり、実際に願ったままに即身仏となれた方は少なかったようです。

即身仏を願うことなく、生入定された方もまた少なくないようです。

秩父の三十四観音霊場の一寺にも、ひとりの僧が入定されたとされる場所がひっそり祀られていました。


私は即身仏の話題にふれると、必ず心に浮かぶ仏さまがおります。
生入定された方である方が祀られたお寺さん、群馬県みどり市の善雄寺さんに祀られている窖薬師さまであります。
善雄寺第二十二世堯慶和尚が文化十一年(1814)、入定し薬師仏となり人々の病気やけがれを救うという悲願をたてて、善雄寺の境内に穴を掘り、ここに入ったといういわれにより、そう呼ばれるようになったということです。

『堯慶上人は八十歳の年を迎えたとき、「私もお釈迦様のご入滅の年まで生かされたことは何ともありがたいことよ。この仏恩に報いるために日頃信ずる薬師如来の化身となり、病気厄難に苦しむ人たちを救い申そう」と大誓願をたて、穴を掘って入定されたのである。
「月雪も見尽くし、花も散りぬれば、芽出たき国へ我は行く春」
という辞世を残し、別れを惜しむ周囲の人々を静かにかえりみ、にこやかな会釈をして入定され、日夜念仏三昧に入られたという。
上人入滅後、御廟所に石の薬師尊像が建立された』

これは窖薬師堂のそばに建てられた立看板に書かれたもの。

実は私、時々無性にこの窖薬師さまにお会いしたくなる時があるのです。
それほどに衝撃を受け感銘を受けた存在ということでしょう。

No.89 22/06/18 05:26
旅人 ( pu5bob )

他の方からみたら、つまらない、取るに足らない悩みとかに、でもなんだかとらわれてしまったりした時とか。
乗り越えられず抱えているものに対峙して、やはり乗り越えられない無力な自分を情けなくも思いつつ、それでも乗り越えられずにいるときとか。
なんとはなしに気分がすぐれないときとか。

そんな時にふとお会いしたくなるのです。


生入定という生き方はその是非はとにかく、人としてある意味究極滅私奉公で。

同じ人として生きながら、そこまでの生き方をされた方に問いたくもなり。
そんな自分がただただ恥ずかしく向き合って手を合わせるだけで立ち直るお力をいただける気がして。

実際にその場を訪れることはほとんどないのですが、ふと何か事あるごとに心に浮かぶ仏さまであります。

No.90 22/06/18 05:44
旅人 ( pu5bob )

以前。
作家の三浦しをんさんが『即身仏をめぐる旅』と題したエッセイをかかれました。
そのエッセイはまず森敦氏の【月山】にふれるところから始まっています。

私は森敦氏の作品を読んだことがなく、この芥川賞受賞作品である作品すらも読んでいないのです。

【月山】を読んでみよう。


けれど今はまもなく桜桃忌をむかえる太宰治の【津軽】を読んでいる。
一年に一度はなぜか太宰を読みたくなるのです。

No.91 22/06/19 17:00
旅人 ( pu5bob )

今日は桜桃忌。

津軽を読んでいて、やはりたまらなく人間失格を読みたくなって手にしてみました。
なぜか涙が止まらなくなりました。
人間失格を読んだのはもう何度かわからないくらいですが、初めてのことです。
津軽を読んだからこそ、より〝太宰治〟を感じたのかもしれません。


それにしても…。







うーん、今はちょっと書ける気分ではないかな。

No.92 22/06/20 14:27
旅人 ( pu5bob )

群馬県高崎市の住宅街と田畑が混在する細い道を入ったところに、ぽつんと不動堂が建っていました。

これは例の持病とも言える方向音痴と、さらに道を間違えたことによる相乗効果の成す技でありました。

あれ?
こんなところに不動堂が?!

さほど大きくはありませんが新しく丁寧に造られた立派な御堂です。
よく掃き清められ、石像や石塔、石碑が整然と建っています。
何やら立看板もあります。
ん?
『高崎市指定重要文化財・役行者石像』

ほ?
役行者さまですか。
ということはこの辺りは修験道が盛んだったということでしょうか?

ただ、今は本当に新しい住宅と田畑の混在するのどかで、平坦な土地。
修験道というと私のように知識もなく単純な人間はついつい山岳とか、少なくともお山があるような気がしていたものです。

川はそばを流れておりますので水に恵まれ、もしかしたら土地は肥えているところなのかもしれません。

とはいえ、そういう発言をしている私、実は畑に植えられている作物の葉や花を見ても、何の作物なのかわからないくらい、農作業等の知識がそれこそかけらもない人間なので、土地が肥えてあるうんぬん自体がただの憶測に過ぎませんが。

おばさん、不動堂にかけられた鰐口を鳴らして拝んだのち、いつものように、…失礼だとは思いながらもついついその御堂の中を覗いてみました。

うわぁ!
大きい!

まじまじとは覗いてみたわけではないのですが、私の身長などよりもはるかに大きそうです。

そんな私に、いかにも農作業の途中といった見るからに人の良さそうな優しそうな女の方が声をかけてこられました。
「見てみました?大きなお不動さまだったでしょう」

…この方が農作業の途中でなければ。
いつ頃のお不動さまなのかとか、いつからここにお祀らされているのかとか、どこのお寺さんが管理されているのかとか大祭とかはあるのかとか、いっぱいいっぱいお聞きしたいことはあったのですが。

おそらくはいつもはそうやってお不動さまのところを訪ねてきた人にいろいろお話ししてくださっておられるような感じがいたします。
ですが暑い日差しの降り注ぐ中、長靴を履いて手には苗を一握りお持ちです。

これ以上ここに留まってはこの優しそうなご婦人にご迷惑だ。
あとでもう一度来よう。

…さて。私はもう一度そこに辿り着くことができるのでしょうか。



No.93 22/06/21 08:27
旅人 ( pu5bob )

紫陽花の季節となりました。
このところテレビでいく度となく、神奈川県鎌倉市の長谷寺さんの紫陽花を紹介しています。



…行きたいのをずっと我慢しているので、胸が痛みます。


別に紫陽花の頃でなくても良いのです。

前回の参拝であまり時間をかけて境内を巡ることができず…とはいえたぶん普通にまわられる方のおそらく倍近くはかかっていたのだとは思いますが、長谷寺さんのホームページを拝見して、ぜひ祈願と供養をお願いしたいと思ったのです。
もう何年経ったことでしょう。


コロナ禍ということもあってか、どうやら今は参拝せずとも、御祈願や御供養の申し込みができるようですが、やはりそれはきちんと出向いてお願い申し上げたい。


祈願をお願い申し上げると、一年間毎日、観音様のご宝前にて読経祈願をしてくださるのだといい、その、一年間毎日読経御祈願くださるということもありがたいのではありますが、なんとなく毎日あのお優しいお顔だちの観音さまのお足元にいられるような心持ちがいたします。
初めて長谷寺さんを訪れた際、買い求めた観音さまの絵葉書を額に入れ毎日毎日そのご尊顔を拝見しておるくらいですので。


例の大河ドラマの影響もありましょうか?
鎌倉は大変観光客の人出が戻っているようです。



うーん。

実は七月にあるという施餓鬼会に参列したかったりするのだけれど。
事前に彼岸の供養をお願いしておけば施餓鬼会の式中に読経供養をしていただけるということなのです。


私は何度となく申し上げているように守る墓も檀那寺もなく、ましてや自分の父方の法要に呼ばれる筋でもなくなっておるため、正式な供養をしたことがないのです。
お盆やお彼岸、お正月や命日にはほぼ必ず墓参してはおりますが、やはりそれだけでよいのかと思うところがあるもので…。

父方の…父も含め眠る墓のあるお寺さんのご住職さまは、私の顔を覚えてくださっているくらい、人を大切になさるありがたいお方でありますので、一度そんなご相談をしたことがございます。
「いいんですよ。あんなに頻回にお墓参りに来ていらっしゃる。それだけでいいから。大丈夫」

法要をお願いすれば多少なりお布施も入ることでしょうに、そんな考えは一切抱かない方でございます。
それがまたありがたく、人の徳というものはかくあるものかと思ったくらいです。

No.94 22/06/21 13:42
旅人 ( pu5bob )

暦を見ると本日は『夏至』で、一年のうちで、昼が最も長く、夜が最も短い日となります。

そのため、太陽の力が強く陽の気に満ちる日とも言われていますが、こちらはあいにく薄曇り。そのわりには蒸し暑い日となっています。

ちなみに。
その暦をさらに見ますと、な、なんと!今日明日と二日続けて一粒万倍日となっておりました。
念のため二つの異なる暦を並べてみてもやはり二日続けての一粒万倍日となっているようです。
それってなに?と聞かれると…。
ほら、私こんなに神社仏閣巡りに行かせていただいているにも関わらず、神さまのことも神社さんのことも、御仏のこともお寺さんのこともちぃーっとも理解できず覚えられないお馬鹿なヤツ。
なのでとりあえずその暦に書かれたことを書き写します。

一粒万倍日:種蒔きなどによい日とされる。以上。



話は変わって。
毎月二十一日、真言宗のお寺さんでは、【御影供】と呼ばれる法要が営まれるところがあるようです。
開祖弘法大師空海上人さまの画像(御影)を掲げて行う法要だそうです。
特に三月は大師さまが高野山奥の院に御入定された日ということから、『正御影供』と呼び真言宗の総本山にあたるお寺さんで盛大な法要が行われるそうです。
ちなみに六月十五日は大師ご生誕の日とされていて、この日に執り行われるのが【青葉まつり】と呼ばれるもののようです。


あれ…?
うちって、あるお寺さんでいただいた大師の御御影、ずっと飾ったままなんですけど…。

普通の洋紙に印刷したものですが掛け軸のようになっていて、その中央に大師さまの御御影を色紙に写した(印刷)ものが糸で固定されているという立派なもの。

粗末に扱ってはいけないと壁にかけてあったのですが、むしろ出しっぱなしの方がいけなかったようですね。



No.95 22/06/22 08:21
旅人 ( pu5bob )

三月の中旬に参拝させていただいた輪王寺さんの常行堂さん。
前回初めて、回向のための御堂であること、それが一般の参拝者のために開かれているものであることを知りました。

何度も申しているよう、私どもには守る墓も檀那寺さんもありません。
こと私は両親の離婚ということで、同居し、可愛がってくれた祖父母や父親の、葬儀はもちろん、病んで入院していた時のお見舞いにすら行けずにおりました。
そのなんとも言えない申し訳なさ、哀しさはなかなか拭いされるものではありません。
お彼岸やお盆、師走や正月、父の月命日、などにはほぼ欠かすことなくお墓参りには行ってはいるものの、いつかどんな形かでなんらかの供養ができたらいいなと思っておりました。
それが鎌倉の長谷寺さんに参拝したい理由(の一つの理由)であることは前々回述べました。


実は。
日光常行堂さんで、このたび供養法要を営んでいただくことができました。

よくいう一見の者に過ぎない私に対して、電話の受付からして心から寄り添うように話を聞いてくださり、丁寧にお話をしてくださいました。

あの世界遺産でもあり、世界中から参拝者が訪れる日光二社一寺において、法要に遅刻することがないように駐車場も確保してくださいました。
ピークの時など朝九時すこし過ぎたくらいからもう駐車場を探してグルグルするくらいの場所で、であります。

貸し切りの常行堂さん。
私どものために御本尊さまのおられる内陣の前に席をしつらえ、焼香の香炉とお香が用意されています。
こんなにも長い時間、御仏の尊顔を拝していたことがないくらい、目の前に座らせていただいておりました。
長いこと生きてきた中で最も長い読経であり、最も長い法要を営んでくださいました。
特に説法などはなく全て供養のためにお時間をかけてくださいました。


かつてはここ常行堂はその御本尊さまのおられる内陣の周りを、座ることも横になることもせず、飲食と御不浄に席を外す以外はずっと念仏を唱えながら回り続けるという行を行ったといいます。
その内陣の前で御本尊さまと向き合って椅子に座っているという罪悪感もなきにしもあらず、ではありましたが。

ありがたい法要を営んでいただくことができました。

No.96 22/06/23 02:39
旅人 ( pu5bob )

いつもとは異なり回向法要のために日光へと向かうため、決まった時刻には到着していなければならず、夫は三時間前には出発したいと宣言しております。そんな?
まぁ、コロナ禍となってから、ようやく制限のない状況をむかえ、日光もう人出を取り戻しつつあるようですし?…でも三時間前?
いつもは1時間半とかくらいで着くって言っていなかった?

私同様無言ではありましたが、息子もそう思っていたようで、息子は行動でそれを示して、実際に家を出たのは二時間半前。おかげさまでお約束の時間の一時間半前に着きました。
でも…一時間半前じゃあ、広い日光見られるところは限られているんだけど。

とりあえず、常行堂さんでの法要者のための駐車場がわからないため、常行堂さんにお聞きしにうかがいました。
車を停めたらとりあえず受付をしておきましょうとのことで、本日どのような回向法要を希望するかを記入いたしました。

そして。
ほかの参列者、別に住む子どもたちを待ちながら、日光山に今咲く花や自然を楽しみながら過ごしました。
今はユキノシタがあちこちに咲いておりました。
日光山は基本的には自然に生える草木そのままを大切にしておりますので、紫陽花等の花が見頃、とかいうことはありません。
ですが、作られた庭園も美しく心和むものですが、あるままの自然を整えて活かしている日光山の境内の澄んだ空気と可憐な野の花々といったら!
流れる小川の脇に咲く小さな妖精のようなユキノシタ。
澄んだ青空…とはいかず、今にも降り出しそうな空模様ではありましたが。

やがて一台、見慣れた息子の車がやってきます。
遅れること二十分ほどで(…それでも約束のお時間の二十分前です)娘夫婦の車が到着いたしました。

受付時に「全員揃ったら必ずトイレを済ませてからお越しください」とうかがっておりましたので、さようにして。
…トイレから出たら、私がいないのにもう常行堂に向かって歩いているファミリーたち。…おい!

すると常行堂から何人かの方がお出ましくださり、
「時間までまだありますが、全員お揃いのようですのでこのまま法要を始めさせていただこうと思います」


…あ、はい。

「奥はどうぞ」

No.98 22/06/23 06:50
旅人 ( pu5bob )

常行堂の中に入ると、中央に大きく煌びやかな金色の須弥壇が見えます。
その中心でさらに金色に輝く御本尊【宝冠 五智阿弥陀如来】さま。
蓮座に座し孔雀の背に乗られておられます。ややふっくらしたお優しい、笑みを浮かべたように見えるお顔立ちです。
孔雀は毒ヘビを食べることからインドでは神格視され、『邪』を祓う吉鳥とされ国指定の国鳥とされているそうです。

脇侍の菩薩さまも金色に輝き、やはり孔雀の背に乗られています。
鳥獣座、というそうです。
脇侍の菩薩さまは
金剛法菩薩さま、金剛利菩薩さま、金剛因菩薩さま、金剛語菩薩さま。
さほど大きくはない四十センチくらいの御仏像です。

阿弥陀如来さまの御像が四菩薩像を従える『阿弥陀五尊像】というそうで、これは大変珍しいということであります。


御仏さまたちがおられる背後には金箔の貼られた壁があり、そこにも御仏さまが三体描かれています。さすがに遠くてどなた様が描かれているかはわからなかったのですが。
…近くても大きくともわからなかったかも、ですが。


この御仏さまたちがおられる内陣は大きな御厨子にも見えます。

御仏のおられる厨子に見える内陣の上部には天女の舞うお姿が描かれています。

私はこの向かって左から二番目の天女さまが大好きであります。
優しい柔らかい笑みを浮かべておられ、いかにも天女さまといった感じなのであります。

御本尊さまのちょうど正面、…とはいえ厨子と見える内陣の外でありますが…には邪鬼が仏塔を頭の上に乗せた像が祀られています。

No.99 22/06/23 13:14
旅人 ( pu5bob )

常行堂は内陣の…須弥壇の周りをまわる行があってその修業を行うため造設されたことは述べました。

九十日間に渡って、飲食、トイレ、乞食以外のほぼ全ての時間、阿弥陀さまの周り、須弥壇の周りを歩きながら念仏をひたすら唱えるという【上行三昧】と呼ばれる行です。

その内陣、須弥壇の周りを歩き回るための通路は今もあります。

その通路を通って阿弥陀さまの後ろ、内陣の裏に参りますと、水子地蔵さまがおられます。
またお位牌が祀られているのも見えます。これはこちらにお位牌を置いていただき、毎日の供養をしていただくことができる、というご案内もありましたことから、そういった方のお納めになったお位牌もあるのかと思われます。

そしてさらに進むもうと目を通路に向けると…。

常行堂の柱や敷居と同じ、朱塗りの鳥居が見えてきます。
ほぼ御社にほど近いところに建てられていますので、くぐることはできませんが、じゅうぶん人が通れるくらいの大きさの鳥居です。
【摩多羅神】という横書きの扁額が掲げられています。(正確には【神羅多摩】)
こちらは『後戸の神』と称される神さまにございます。

なんでも常行堂には、御本尊さまの真後ろにも入り口があることから、その後戸から悪いモノが侵入しないよう、御本尊さまを守護するために護法神、念仏の守護神として摩多羅神さまが配されているのだそうです。


初めてこの鳥居を見た時は大変びっくりいたしたものです。
なぜならば、ここ東照宮、輪王寺、二荒山神社においても、あの明治時代の神仏分離令は実行され、御仏像が移動したりしているとお聞きしていたものですから。

また、御堂の中にある小さな御社とはいえ、大変立派な装飾が施されたものであり、同じく小さいながらも装飾の施された狛犬さまも祀られていて、御堂の中に神社があるような気がするくらいなものであります。
どうして?
と目が点になったものです。

これだけ立派なものであれば外に一社としてお祀りしてもよいのでは?
と思ったのです。


後戸の神さまではここにこうしておられるのが当たり前なことであります。

周りをまわって再び正面に戻ります。

…それを延々と一日中、九十日間続けるということですか。

一日でもきびしいかも。
横になって寝てはいけないということです。
それを九十日!

修業というのは厳しいものです。

No.100 22/06/23 19:22
旅人 ( pu5bob )

常行堂とその隣の法華堂はあわせて『二つ堂』とも呼ばれております。

二つ堂とは二つの同じ形をした堂舎をいうようですが、厳密にいうとこちらの二つは一見双子のように同じものに見えますが、よく見ると結構異なったもの。
同じ大きさの一見同じ形の二つをそう呼ぶこととしたということのようです。
以前にも書きましたが常行堂は和様、法華堂は唐様(禅宗様)、前に立つとなるほど違うなと思うものです。
この二つの御堂、渡り廊下でつながっています。二つの御堂と渡り廊下を天秤に見立て、それを担う(になう)担い堂(にない堂)とも呼ぶようで、これは比叡山延暦寺さんににない堂と呼ばれるやはり二つの堂宇があることにちなんでいるようです。

その渡り廊下、『渡廊(わたろう)』が正式な呼び方のようです。

法華堂には入れないし、特に渡り廊下を見に行くまでもないかと遠巻きに見てすましておりましたが、こちらもなかなか見応えのある造りのように思われます。
この渡り廊下、途中が一部渡廊を突っ切って向こう側に行けるよう、一部途切れており、その部分は地面になっております。
廊下自体は一旦途切れるという形となりますが、言いかえるとその通路を通って向こう側に行ける通路を設けてあるということになろうかとおもいます。
まあ、通行止めですから、奥につながる道があろうと、スタッフオンリーな通路ということでしょうし、そんなにそばまでは行ったことがなかったのです。

今回、常行堂さんで回向法要をお願いして、そうした際に停められる特別な駐車場があることを知ったのですが、そこに行く道がわからないので、やたらとGoogleマップを拡大して見る機会があったのです。
その際、実はその渡り廊下=渡廊を突っ切った先に、【慈眼堂】というお堂があることを知ったのです。

慈眼、堂?
慈眼堂って…慈眼大師さま=天海大僧正に関係してる?

…調べました。

なんと慈眼堂は慈眼大師のお墓があるというのです。
徳川家康、秀忠、家光公の三代に仕えた将軍家の懐刀、ブレーンであったあの、慈眼大師さまは、死後、日光山のひっそりとした場所で日光と徳川家を見守っていた、ということなのですね。

もちろん非公開。
が、特別一般公開等はたまにはあるようです。

うーん♡ 特別かぁ…。
御命日とか?
うーん。
(おばさんの妄想は続く)

No.101 22/06/24 22:59
旅人 ( pu5bob )

今日は少し残念なことがありました。

今日はお地蔵さまのお縁日。
あるお寺さんに参拝に伺いました。
ご本尊さまは聖観音さまなのですが、お地蔵さまも御本堂におられ、おことわりすれば御本堂に上がらせていただくことができるお寺さんなのです。

今日は御本堂には私と、お寺のお坊さまだけでありました。
いつものように、読経して。
その後小さな石造のお地蔵さまのところへ行き、さらに小さいけれど矜羯羅童子さんと制咜迦童子さんも一緒にいるお不動さまの御像の前に参りました。
その不動明王さまの御像の前に立つ制咜迦童子さんの像の横に小さな御厨子があるのですが、今日はいつもよりその扉が開いていました。

あ、あれっ?
もしかして毘沙門天さま?

左手に宝塔をお持ちです。
火焔光背を背負われておられます。
御厨子もかなり黒ずんだもので、かなり古い年代のもののように思われます。

ほかに参拝の方もおられないことから、お坊さまに「こちらの御仏はどなたさまでありましょうか」
とお聞きしました。

「えっ?あれ、そんなところに何かありましたか。知らなかったなぁ」
…。
「どこどこ?おお、これかぁ。こんなとこにこんなのあるの知らなかったよ」
もう一人のお坊さん、な、なんと指を指しています。
ん?💢

『これ』だとか、指を指すとか…。
…たしかにお若いおふたりです。

仏像に囲まれて育ったから、ありがたい存在という感覚が薄れてしまうのでしょうか?
いやいや、御仏がありがたい存在であることを本来ならば生まれた時から学び、お山で厳しい修行を積んで学んで、人に説く存在がお坊さんでしょう。

一体、このおふたりは何者?
僧侶の姿をしているということはお山に行って修行を積まれた方なのではないでしょうか?

一人のお坊さんが住職に聞いてくると席を外されました。

ホッ。


…ホッとしたのも束の間、
不機嫌な内心をやや滲ませて、やはり年若いご住職がやって来られました。
「ああ、なんだろ?『天』は難しいからな。作った人によって手に持つものもちがうかくらいだからなぁ。
「寺のものとして祀られているものではなくて、誰かが奉納したものですので詳しいことは何もわかりません』



…。ははぁ。

No.102 22/06/25 04:01
旅人 ( pu5bob )

…別にご自身のお寺に出自の不明な御仏像があることが悪いと申しているわけではないのですよ。

長い歴史のなかでそう言ったことが起きることはままあることのようです。
逆に、出開帳で行方不明になってしまうというあり得ないことが、実は結構あったようだという衝撃的な事実だってあるくらいです。

ただ。
ただ、御仏の像を指差したり、『これ』呼ばわりしたり…内輪だけでの会話ではないのだから、ましてやその御仏の像についての質問をしている者の前でするべきではないです。

もちろん、お坊さん、僧侶の中には、仏というのは像ではないと考えておられる方もおられるのかも知れません。
あくまでも仏像というのは衆生にわかりやすい形をとっただけで、像は像でしかないと考えているのかもしれません。

ですが!ですがね。
だったら祀らなければいいのです。
その偶像に向かって毎日のお勤めなどしなければいい。
…長年の檀家さんがおられるから、自分の代になってそうした方針にきりかえるわけにはいかない?
だって今おられる僧侶三名、みんなそうした考えなのでしょう?
未来の檀家かもしれない存在の前ではそんな明らかな、仏像を小馬鹿にしたような、仏像という偶像を尊ぶおばさんを小馬鹿にするような態度をとるのであれば、いっそのこと大改革してしまえばいい。

たまぁにおられるのは確かなんです。
あぁ、このお坊さん、あまり仏像とかに興味がないんだなぁと思われる方。
というよりは世襲制のお寺に生まれてしまったがために、勝手にそういう人生を歩むことを強いられてきた方とか。


でも、でもです。
仮にもお寺で僧の格好をしていたなら、その宗派の教えが仏像は御仏という扱いであるならば、たとえ演技でもそれは貫くべきなんじゃないかと。

奉納された仏像はありがたくない物なの?

なんだか…もうこのお寺さんには行かないかもしれない。
檀那寺の一つの候補であったというのに、な。



No.104 22/06/26 03:38
旅人 ( pu5bob )

…行けました♡

行けたんですよ。
えぇ、あの偶然たどり着いた不動堂に。

以前、
>群馬県高崎市の住宅街と田畑が混在する細い道を入ったところに、ぽつんと不動堂が建っていました。

>これは例の持病とも言える方向音痴と、さらに道を間違えたことによる相乗効果の成す技でありました。

と書いていた、時が経つにつれて、幻だったんじゃないかとか、実は夢で見たものを現実と思い込んでるんじゃないかとか、思うくらいの、不動堂さま。

記憶が確かなうちに行かないと、現実であったか幻なのか、全てが謎のままになってしまいそうで、記憶が確かなうちに、行ってみたんです。


…ちゃんと行けました。
…ちゃんとありました、笑。

いやぁ、もしかしたら私、道を覚えていられる人なのかもしれない。
いや、それは違うな、私を知る人の十人中八…九人くらいは、それを激しく否定することでしょう。
もしかして、お不動さまがお導き下さった?

ちゃんと行けました。
ちゃんとありました。
(あまり嬉しくてもう一度書いてみました)
高崎市の住宅地のどかな田園風景混在するところにポツンと立つ不動堂さん。

今日は田植えをされていたあのいかにも親切そうなご婦人はおられませんでした。(田植えはそんなにいつまでもしている作業ではないですね、はい)

石垣のくんである見事な如意輪観音さまの石塔がその入り口に建っております。
こちらの如意輪観音さまがまたお優しいお顔立ちで。ぜひぜひもう一度来たいと思った理由の一つです。
その石垣の隙間からなんと!白い『秋海棠(シュウカイドウ)』の花がたわわに実る…ように咲いています。

秋海棠のあの透けるような柔らかな花びら、大好きな花のひとつです。
しかもこの花、観音さまの首飾り『瓔珞(ようらく)』に似ているということから『ヨウラクソウ』とも呼ばれるということで、さらにさらに大好きになった花です。
でも、秋海棠…たしか、夏の終わりくらいから秋にかけての花の時期じゃなかったかなぁ。…そこら辺は花にも詳しくないおばさんの独り言として流してやってください。

如意輪観音さま彫られた石塔の石垣に秋海棠…瓔珞草、ですよ?
感動いたしました。
しかもその石塔の前にはピンクと白の秋海棠の小さなプランターが供えられているのです。


素敵っ!

No.105 22/06/26 06:53
旅人 ( pu5bob )

迷い込んだ前回は読むことができなかった、立て看板の説明文も読むことができました。

こちら、元はお寺さんであったようです。その名も『不動寺』さん。
慶長七(1602)年に開基したと伝承される真言系当山派の修験寺だったということです。

『修験道とは主に山岳で厳しい修行を積み、その結果特別な霊験能力を体得した修験者が行う神仏習合思想で、修験者は山伏又は行者とも言われます。
その活動は加持祈祷を主とし、国家安穏・病気平癒・方位除け・虫封じ祈願・命名や身の上相談等多岐にわたっています。
文政時代(1818〜30)から明治初期にかけて約五十年間、三代の住職は寺子屋として近隣農村子弟の教育を担当しました。
明治五(1872)年、「修験道廃止令」により廃寺となり帰農しましたが、不動尊像及び不動堂は子孫により保存管理され現在に至っています』

個、個人宅の保存管理ですか?!
それはすごい!!

…あれ?
個人?
帰農?

も、もしや?

あの稲の苗を一握りお持ちのまま、声をお掛けくださったあの優しい、人の良いご婦人こそが、そのご子孫の方、こちらを管理されているお方だったのでは?


これは。
…お導きと捉えては図々しいでしょうか。

私から図々しさを取ったら…まだまだたくさんの煩悩や欠点が残りますね。やれやれ、です。

No.107 22/06/27 06:09
旅人 ( pu5bob )

一部とんでもない間違いがあったので、そっくり削除して訂正します。
一度お読みいただいた方ごめんなさい。
矜羯羅童子さんではなく制吒迦童子さんでした。お詫びして訂正いただきます。



そして。
窓があれば覗かずにはいられない、何やら怪しい人である私。
前回よりも長々と覗かせていただきました。
なぜならばあのおそらくはご子孫にあたるであろう方から
「大きなお不動さまだったでしょう」と言われたことで、ああこちらは覗かせていただいていいんだなと(かってに)判断したからで。

そもそもが、ご子孫であろうということ自体が推測に過ぎないのに、なんだその思い込みは!って話であります。

窓から覗くと、大きなお不動さまの右側、私から見ると向かって左側には、制吒迦童子さんがおられました。
さらにはさほど大きくはないけれど、御厨子に入られたそれはそれはお綺麗な、端正なお顔立ちのお地蔵さまがおられます。
そしてお不動さまのお膝あたりに、小さな古い御厨子があって。
その中にはやはり小さなお不動さまと思われる御像がおさめられています。その小さなお不動さまのちょうどお膝の前あたりにキツネが凛々しく立っています。
まぁ、そのキツネ、というのも私の主観、全くの思い込みに過ぎないのですが、さらにそのキツネの足元に小さな小さなキツネが二匹くらいいるのです。
う〜っ♡可愛いっ!
その足元にいるのも実はかなり不確かにしか見えないものなのですが、この思い込み!

困った大人です。

No.108 22/06/27 07:19
旅人 ( pu5bob )

ここ数年、群馬県が熱い。
何かに活気があって熱いのではなくて、『今日の最高気温日本一』、というやつだ。

一昨日は伊勢崎市で六月の最高気温としては観測史上初とか、テレビで何度となく繰り返し放送されているが、もう聞くだけで暑い。
昨年も伊勢崎市と桐生市が日本一としてその名を呼ばれることが多かった。

そう、もう暑いレベルではなくて熱いのだ。
体温よりも高い気温というのは室外の冷房下でなければ常に全てが熱さに晒されている状態で、それが室外での仕事の方は避けようがない、ということだ。

この殺人的な熱さ、どうか命を奪わないでください。

そしてかつて恵みの雨と言われた雨もまた、いちどきに降る量が異常で、これがまた殺人的で。


コロナ。

地震。

物価の異常な上昇。


神さま、
仏さま、
どうか民をお守りください。
お救いください。

No.109 22/06/27 07:45
旅人 ( pu5bob )

この四月で六年経過した熊本地震は気象庁震度階級では最も大きい震度7を観測するものだった。
しかも震度7の地震が4月14日夜および4月16日未明に発生したほか、最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回発生しているといったもので、そこに住まわれ地震を経験された方々の恐怖は想像を絶する。

その熊本でまた大きな、震度五を超える地震があったという。
あの六年前の熊本地震の影響で発生していると考えられるようだ。

石川県でもほんの少し前に震度六を超える地震があった。


どんなお言葉をおかけしたら良いというのだ。
ありきたりな言葉しかおかけすることができない。できやしない。
経験した者にしか分からない。

暑い中での被災です。
どうかお身体に気をつけてお過ごしください。

No.110 22/06/27 09:22
旅人 ( pu5bob )

ところで。

昨日は6月26日は『雷の記念日』とされているといいます。
ナビから「群馬県で雷警報が出ています」の音声が流れ思い出し、夫にそう伝えました。結局雷は鳴らずに済みましたが…。


それは、平安時代・延長8年6月26日、平安京の清涼殿に落雷があり、多くの犠牲者が出た日、とされることに由来しているようです。
その落雷によって命を落とした方々が、菅原道真公の左遷に関わっていたため、道真公の祟りと恐れられたといい、その後菅原道真公は『天満大自在天神』として祀られることとなります。
火雷神とも習合し『火雷天神』や『天満宮』『天神さま』と呼ばれています。

そんな雷を操る神さまという認識から、雷避けや天変地異を防ぎ、さらには豊穣を司る神さまとされていましたが、
道真公の徳にあやかり、学問の神さまとして寺子屋などに祀られ、現在では『合格祈願』や『就職祈願』などのお参りがほとんどとなっているかと思います。

『天神』『天満宮』『菅原神社』等、管原道眞公をお祀りする神社は名称もいくつかあり、また、境内社としてお祀りされていることもよく拝見いたします。

お祀りされておられるのが道眞公であることは変わりなくとも、御祭神『天満大自在天神』としての道眞公をお祀りするところもあれば、御祭神『管原道眞公』と書かれた天満宮もあります。
ちなみに言えば小倉百人一首では『菅家』とされています。

左遷された先太宰府で「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主無しとて春を忘るな」と歌を詠んだところ一夜にして道眞公のところへ飛んできたという梅にちなんで、道眞公の祀られる神社には必ず梅の木が植えられています。
御神牛と呼ばれる牛の像も道眞公にまつわるもので、丑年丑の日生まれであったこともあり道眞公は牛を大変可愛がられていたということ。
亡くなられる前、人は一切ご自分の遺体を引くことなく、牛に引かせ、牛の赴いたところに埋葬するように言ったとのことで、そのためもあり牛が祀られているようです。

この牛の像は御神牛、使い牛、撫で牛とも呼ばれ、道眞公にまつわる神社にはほとんど祀られているようです。

No.111 22/06/28 03:57
旅人 ( pu5bob )

母の葬儀の夢を見た。


時薬は少しずつ効いてきたようだ。


そう、ここを乗り越えて、ようやく私の人生の再スタートとなるから。

失ったもの。
失った〝時〟。
どれだけ多くのものを失ってきただろう。

でもそれはもう終わった。



今日は私の誕生日になります。
産まれ直すことは無理だけれど、失ったものは戻せないけれど、自分なりの再スタートだけはできる。
がんばれ、自分。
がんばろうね、私。


三回忌法要が良かったのだろうか。

No.112 22/06/28 04:05
旅人 ( pu5bob )

  
   『花鏡』
          世阿弥

是非の初心を忘れるべからず。

時々の初心を忘れるべからず。

老後の初心を忘れるべからず。



No.113 22/06/28 04:49
旅人 ( pu5bob )

先日、群馬県前橋市の大洞赤城神社さんへ参拝してまいりました。

「あ」
「啄木鳥橋が…。啄木鳥橋が無くなっている」

啄木鳥橋は大洞赤城神社さんにかかる神橋のようなものでありました。大洞赤城神社は赤城山頂の大沼の畔にあり、その橋を渡ってお参りに行くというのが不文律のようでありました。
その橋を渡らずとも地続きでそこに行くことはでき、大きな駐車場はその地続きの道を入って行くくらいであります。ただ…この駐車場に停めると本殿の裏手であり、鳥居もないことから、やはり正式にお参りする気持ちとすれば橋を渡って鳥居をくぐって参りたいところでありますが…。

この今ある大洞赤城神社さんは昭和四十五(1970)年に、同じ大沼の反対岸に建っていたものを遷宮したものといい、その遷宮際造られた橋なのだと思われ、とするとすでに五十年。
五十年でダメになっちゃう橋?とお思いになられるでしょうが、木製の橋であり、一神社さんの所有しているものとなるとなかなかお金のかかるメンテナンスも出来ていなかったということなのかも知れません。
冬にはスキーができるくらいの山である赤城山頂の神社さん、自然環境から受けるダメージも大きいという事なのかもしれません。

前回の参拝時、もうすでに通行禁止となっていて、いずれ撤去する旨書かれていたようにも記憶があるようなないような…。

いずれにしても対岸に降り立って見える赤い橋は心を和ませてくれるものでありましたし、これがないということはなんとも寂しくて哀しい思いがいたします。

その橋桁だけ残された啄木鳥橋を見たときの喪失感といったら…。


私はこの大洞赤城神社さんの遷宮前の記憶はありませんので、私にとっての大洞赤城神社さんはこちらでしかなく、赤い橋のある風景が当たり前なものとなっていたものですから。

No.114 22/06/28 16:50
旅人 ( pu5bob )

啄木鳥橋は無くなっていましたが、裏手の駐車場に車を…どこか空いている?
すごい混み方です。
一方通行ではない上、特に整理する方もおられないので結構、あちこちからふいっと車が出てくるようなあまり初心者には優しくない駐車場です。
とは言っても標高1,828メートルのくねくねしたカーブの連続する山道を登ってこられた初心者ですから、このくらいの駐車場は大したことはないですね。
…そういえば、最近の若者は初心者マークをつけていても運転が上手な気がいたします。というか、教習車に乗っている時点でうまいかもしれない。
えっ?
私が下手すぎる?

さ、さ、話を戻しましょう。

この日ももちろん夫の運転です。
…私だって別に駐車区画に停まるくらいは一発で停められますよ、念のため。

あれ?まだ戻れない。

…というわけで車を停めて。

ぐるっと回って手水舎の方へ向かいます。大沼と呼ばれる大きな沼が見えます。
なんと広々とした気持ちの良い空間でありましょう。
心がひらかれる、そんな気がいたします。
手水舎は龍の口から水の出る、よく見かけるものなのですが、実にここの龍は穏やかに優しく迎えてくれるのです。
たぶん、ここの龍には小さな可愛らしい修行中の龍が宿っておられるに違いない、そんなふうに思えるくらいです。(もしかしたらたくさん修行された龍かもしれない…そしたらなんとバチ当たりな!)

今のご時世ですので、神さまには申し訳ありませんが手のみを浄めるにとどめております。
ここのお水は御神水なのですがね。

なんでも江戸の時代にはこの御神水の水脈を汚さぬようにと、幕府がこの地に御不浄、トイレすら造らせなかったというくらいです。

手を清め、九十度体の向きを変えると、まるで美しい着物の色を思わせるような赤い御社が目に入ってまいります。
綺麗な綺麗な赤です。

No.115 22/06/28 19:06
旅人 ( pu5bob )

綺麗な綺麗な赤い社殿。

昭和四十五年に赤城の風雪に耐えられるようにと鉄筋コンクリートで建てられたものです。
よく神社さんで見られる彫刻などは一切無いシンプルな造りであります。

…実は…正直に申しますと…。
まだ幼かった子どもたちを連れてこちらの赤城神社さんに参拝した時、強烈な赤で塗られた近代的な造りにびっくりした上、境内に、売店や飲食店、ボート乗り場があったりと、あまりにも私の概念を覆す神社さんであったため、ほとんど神社仏閣に縁のない生活をしていたくせに、なんだか神社さんらしくない所のあるところだと早々に引き上げた覚えがある、それが大洞赤城神社さんのかつて抱いた印象だったのです。

遠くから見える結構長めの赤い橋は本当に神々しいもので、橋を渡るにつれ神聖な空気に包まれていく感じはしていたのですがね。

今は…。
もう何年か前から神社の境内、小鳥島から、ボートで漕ぎ出す人も見かけなくなっています。
たぶん…そうしたボート屋さんや売店等は今は閉店してしまったのだと思われます。
コロナ禍が関係したかどうかは定かではないのですが、それ以前から少しづつ赤城の観光自体が廃れてきていたのだと感じます。



No.116 22/06/28 20:35
旅人 ( pu5bob )

【大洞赤城神社】さんには赤城山と湖の神様【赤城大明神】さまが主祭神として祀られています。

設立年は不詳ですが、806(大同元)年には小沼から見上げる地蔵岳の中腹から大沼の畔に遷宮されたという記録があり、この記録により、当時建立されていた地が『大洞』と名づけられたとのことです。

江戸時代に入ると相殿に徳川家康公を祀り、三代将軍徳川家光公の命により社殿が再建されたといいます。
…えぇ、そうなんだそうです。
家光公の命により建てられた以前の社殿を、古くなってボロボロになったからと、遷宮しちゃってるんですって。
びっくりです。本当に驚きです。

まぁ昭和四十五年といえば、大阪で万博が開かれた年、明治どころか江戸時代のことなど〝はるか遠くなりにけり〟、だったんでしょうね。
高度成長期、古くなったものなど壊して新しい風雪に強いものを造ればいい、という感覚だったのでしょうかね。
今もわずかに、かつてあった家光公の命で造られたという神社の跡が残っています。

閑話休題。

江戸以降、赤城山全体に神域が及ぶほど大きくなり、十一世紀には正一位を昇叙し幅広い信仰を集めました。
赤城山にある八ヵ所の登山口には、近隣の村民が奉納した鳥居が設けられていて、特に前橋から登山口に向かう片道一車線全てにかかる大きな赤い鳥居が一の鳥居と呼ばれています。

明治時代に入り小沼畔、豊受神社、小鳥ヶ島、厳島神社などの赤城山内の神社が合祀されます。

そして。
昭和45(1970)年、三百年以上にわたり赤城山の厳しい気候にさらされた社殿の荒廃が進んだため、『大洞』から『小鳥ヶ島』の厳島神社の跡地に遷宮されたということのようです。

平成十八(2006)年に大洞遷宮千二百年を迎え、その際社殿の修復と境内の整備が行われています。

つまり、以前の社殿があったところが大洞、だったわけで、今あるところは小鳥ヶ島。
土地の名を掲げるのが正しいものであるならば、ほんとうなら『小鳥ヶ島赤城神社』と呼ばれるのが正しい…はずですが、ね。

No.117 22/06/28 21:18
旅人 ( pu5bob )

以前にも書いたのですが、大沼・小鳥ヶ島にまつわる赤城姫伝説というものが言い伝えられています。

古くから女性の願掛け神社として有名な赤城神社ですが、それは赤城姫の伝説に由来しているのだといいます。



その昔。
都を追われ、赤城の地にやってきた『高野辺大将家成』には『赤城姫』と『淵名姫』という、誰もがうらやむ美しい姫がいました。

上毛野国で幸せに暮らしていましたが、あるとき姫たちの母が病気で倒れ急逝します。
残された娘たちのために家成は後妻・『桂御前』を迎え、やがて二人の姫が生まれますが、その美しさや人柄は赤城姫・淵名姫には及びませんでした。
桂御前は赤城姫と淵名姫を疎ましく思い、殺害を計画します。

その後、都より赦免され、上毛野国の国司に任命された家成が大勢の従者を連れて家を空けた隙に、桂御前の手の内の者に、淵名姫が殺されてしまいます。

家成はこれを聞き上毛野へ引き返し桂御前を捕らえ、
赤城山へ逃げたという赤城姫を求めて向かいます。
大沼の東岸に着くと一羽の鴨が泳いできて、その翼を広げた背に赤城姫と淵名姫の姿が。二人の姫は赤城大明神に召され神となり、二人を乗せた鴨は小鳥ヶ島になったといわれています。

これ以降、赤城の神に祈願した女性の願いは必ずかなえられ、また美しい娘を授かれるという伝説が生まれました。




さらに。
前回述べたように、大沼、小沼から湧き出る水は御神水と呼ばれ一掬千金の水として朝廷や幕府に献上されてきました。
それゆえ、前述したように、江戸時代幕府から不浄なものをこの地に置かぬように指示されたといいます。

また五月八日に行われる山開き祭、
例大祭にはこの水を持ち帰り各村の田の口に注いで豊作を祈願するのだそうです。

No.118 22/06/29 04:07
旅人 ( pu5bob )

群馬県では知らぬ者はない【赤城山】。

そう、このスレで時折出てくる【上毛かるた】、群馬県民なら誰もが小学生になると必ず、と言って過言ではなくこのカルタをし、その全ての読み札を暗記するほどのものでありますが、そこにも出てくる赤城山。
地元では『あかぎやま』と呼びます…というか読みます。

赤城山を構成する山々は、前橋市、桐生市、みどり市、沼田市、渋川市、利根郡昭和村の五市一村に広がります。どっしり構え、関東平野を見下ろすそのさまは上毛かるたでは『【す】裾野は長し赤城山』と読まれています。

実は赤城山は山頂がある一つの山、というものではなく、平野部から眺めた山全体を指しており、赤城山を作っているのは全部で十二の山なのです。
標高1,828メートルの黒檜山(くろびさん)を主峰に、駒ヶ岳、地蔵岳、荒山、鍋割山(なべわりやま)、鈴ヶ岳、長十郎山…などから成る複成火山で、日本百名山、関東百名山、上毛三山に数えられる名峰です。
山頂の大沼はカルデラ湖であり、その周囲には赤城ならではの植生がみられます。

赤城神社さんのある大沼湖畔にはキャンプやボート、ワカサギ釣りなどのさまざまなレジャーを楽しむことができ、かつてはスキー場やスケート場もありました。
『小尾瀬』とも称される、周囲五百メートルほどの湿原『覚満淵(かくまんぶち)』では、木道の遊歩道があり、珍しい高山植物を見ることができます。澄んだ水に映る山の姿に感嘆いたします。

赤城山はなだらかな関東平野において古くから山岳信仰の対象となっており、また多くの文学作品でも取り上げられています。
とはいえ…「赤城の山も今宵限り」という言葉が有名なのは…ある一定の年齢層までですよね。

No.119 22/06/30 06:35
旅人 ( pu5bob )

さて。
大洞赤城神社さんと、何度となく〝大洞〟を冠してお話させていただいておりますが、…実際今は大洞にはないことも話させていただいておりますが。

実は関東地方を中心に全国に約三百社ほど赤城神社があるのです。
その本宮とされる一つが、この赤城山大沼にある大洞赤城神社さんとなるのですが…。
…ん?
と思われた方、ええ、筆者が暑さのためおかしくなったわけではないんです。まぁ、少しづつ確実に認知障害は進んでしまってはおりますが…。

そうなんです。
赤城神社さん、本宮とされる『赤城神社』が三つ!あるのです。
どこも本宮としてふさわしい神社さんで、どことは決めがたく、その場所を明らかにするため〝大洞〟であったり、〝二宮〟〝三夜沢〟などと冠するのであります。
ちなみにこの三社が本宮とされるものとなります。
以前も書かせていただいておりますので、覚えていてくださった方は、しつこくなってごめんなさい。

とにかく、こと群馬県には赤城神社さんが多い!

「赤城神社さんにお参りに行こう」
「どこの?」
「赤城山の」
「二宮?三夜沢(中腹)?山頂?」
こんな会話をしないとなりません。
もちろん、地元にも赤城神社さんがあるという群馬県民は大勢います。


この大洞赤城神社さんは山頂の観光地にあることもあって、以前はかなりその色が濃かった神社さんであったことは前述しておりますが、実はこの大洞赤城神社さん、少し前まで『御朱印帳』で有名なところでありました。
ええ、これも間違いではなく『御朱印〝帳〟』です。
季節季節で限定の御朱印帳が授与されており、その発行部数も限られていたため、それを求める方が大洞赤城神社さんのホームページ等ネットで確認してこぞって訪れていたようでした。

いやあ、それがまたその気持ちがわかるくらいに綺麗なものなんです。
一度その限定版御朱印の発売初日に参拝したことがあり、たまたまその日に御朱印帳の授与をしていただいたのですが、普通の御朱印帳を希望する私に、巫女さんが怪訝そうな表情を隠そうともせずもう三度、
「本日新しい御朱印帳がお授けできますが?」と聞いてこられたくらいです。

今はその限定御朱印帳は廃止され、あの時限定のものにしておけばよかったかなぁ?などとちょっとだけ思った私でありました。

No.120 22/06/30 15:42
旅人 ( pu5bob )

限定御朱印帳は廃止されたものの、こちらのおしゃれで種類の豊富な御守りは、見ているだけでも心が華やぐようです。
御守りの種類の豊富さは全国区なのではないかと思うくらいです。

赤城姫さまの伝説があり、また、こちらの神さまはこと女性のお願いごとは必ず叶えてくださると言われております。
そんなこともありお姫さまのお姿の図柄を使ったものが多く、かつての限定御朱印帳も十二単をまとわれた姫さまの後ろ姿のもので、その季節にあわせたお召し物と季節の背景の描かれたものでありました。
今でもその図柄でお召し物や季節の変わらないバージョンのものは残されております。

で!
御守りも姫守りというものがあり、それはそれは美しい図案のもので、色違いのものがいくつか用意されています。
まず、姫守りだけでも大きく分けて三種類。
一、姫守り
ニ、姫守り 十二単 春夏秋冬1・春夏秋冬2
三、特大姫守り

この特大姫守り。たいそう大きな御守りでありまして、私などはあろうことか御朱印帳入れと勘違いしたくらい、それほど大きなもので、御朱印帳が二冊くらいゆうに入りそうな大きさと厚さのものです。それが御守りだと気づいた時、(えっ。…これを一体どうしろというのだろう)。
正直御朱印帳入れなどよりもずっと大きいのです。これを常に携えるのはまず不可能かと思います。
あまりにもおそれおおくて、その御守りの取説を読むことも憚られたくらいです。
四、子授け夫婦守り
これは…赤城大明神さまのお使いで、現在の大洞赤城神社さんの建つ小鳥が島に姿を変えた鴨が夫婦で描かれたもの
五、願い叶う御守り
正五角形の、星の散りばめられたデザインのものでこれも三つの色違いがあります。
六、安産美人祈願
これは…安産と心も姿も美しい子供が産まれるように祈願するもの。もう御守り、という言い方ですらなくなっています。
七、子育て守り
これがまた美しい真っ白な布でできており、赤ちゃんを産布にくるんだような形をしています。
八、四季守り
赤城神社の四季を描いた春夏秋冬の四種類の御守り。

そのほかにも…
交通安全・旅行守りと、交通安全守り。登山守り。殿守り。ペット御守りが数種類。金運アップのものもありました。
病気平癒、無病息災守り等々…。


それがみんな本当に綺麗なんです。

ここにあげなかった新作、…ちょっと欲しかった私でありました。

No.121 22/06/30 18:17
旅人 ( pu5bob )

二十八日は不動明王さまの御縁日。
そしてはねたき道了尊さまの御縁日です。

群馬県みどり市のはねたき道了堂さんでは毎月二十八日に法要が営まれます。この日、夫も同居の息子も出勤しての仕事の日。お昼の支度を気にしなくてもいい!
よぉし、参列させていただこう。

車を走らせて。
みなさん、もう着席されています。(・_・;
でもまだ準備中。
…みなさん檀家さんで顔見知りの方々が集まっておられるようです。

コロナの感染状況が警戒レベル3だった時やそれに冬の寒さが重なった頃などは、法被をお召しの檀家の代表さん方たちと私だけ、だった時もありました。

ああ、ようやくここまで戻ってきたんだなぁ♡
部外者の私が感慨深く思うくらい、楽しそうにお話をされています。

こちらのはねたき道了堂は同じみどり市の光榮寺さんの境外堂なのです。
光榮寺さんの初薬師のお護摩法要や柿薬師大祭に参加させていただいて思うのは、本当にこちらの檀家さんたちは仲がよい。
そして…部外者の私にもいろいろお気遣いくださる方ばかりで、本当にありがたく思うのであります。

このお縁日の法要では、道了様のお姿=御御影に願い事と自分の名前を書いて、参加するごとにそのお姿の用紙にスタンプを捺してくださるのです。
別にそのスタンプの数がいくつになると〇〇、ということは一切なくて、また、新しいお姿からスタートするだけなのではありますが、なんだかひとつ貯まるごとに私のひねくれた心がほどけてくれるような…くれるといいなぁと思うのであります。

今回は受付の前に立つとまずすぐに「はいっ。どうぞ飲んでください」とポカリスエットのペットボトルを渡されました。
「熱中症になると大変だから」

ひぇぇ、おそれおおい。
「持ってきてるのがありますから」と申し上げると、
「大丈夫、たっくさん用意してあるから。みんなに渡してるもんだから、遠慮なく」

ああありがたいこと。

せめてお賽銭にポカリスエット代を添えましょう。

No.122 22/06/30 23:26
旅人 ( pu5bob )

道了尊は「どうりゅうさん」という呼び名で江戸時代から信仰を集めていたといいます。

この辺りはみどり市大間々町のちょっとした観光地であります。
かつては娯楽センターとしてその名を轟かした『ながめ公園』その中にある『ながめ余興場』があります。また、高津戸峡という景観のよい遊歩道もあります。高津戸橋という名の赤い橋がかかり、この橋を含めて私の好きな景色がそこにあります。
その高津戸橋に立って見えるのがはねたき橋です。

そのすぐそばにあるのがはねたき道了堂さんです。


道了尊は元々はこの地より100mほど上流側に鎮座し、かつては参道には湯屋や茶屋が立ち並び賑わいを見せていたものの、昭和22年のカスリーン台風により濁流に呑まれその全てが流出してしまったのだといいます。
堂が失われた後は篤信者により信仰が続けられていたようですが、なにぶんにも川沿いでの信仰で足場も危ないこともあり、地元民の強い要望もあって平成15年に道了尊を現在の場所に移転・勧請されたものだといいます。

道了尊は子育ての仏様であります。

道了尊は烏天狗の姿をしておられます。疾風より早く駆ける白狐に乗り、子供に宿る悪鬼を睨み付け、右手のねじれ木で悪鬼を懲らしめ、火焔光背の火焔で煩悩を焼きつくす仏さまだとされます。

心の捻じれた子の親は道了尊に参拝し、ねじり木を一本持ち帰り、朝夕に『すなほなれかし』と唱えるのだといいます。
大願成就のあかつきにはねじり木を二本にしてお礼参りするとのこと。
…私はねじり木というものをここで初めて見た(気がする)のですが、いったい全体どこにこんな捻れた木があるというのでしょう。
お礼として一本ねじり木を用意せねばなりません。

エックスキューズミーおばさん、初めてこちらの大祭に参列した際に、世話人の方にこちらのはねたき道了さんの由来であるとか、ねじり木とかはどこにあるものなのか等をお聞きしたのです。現在もねじり木を奉納する信仰が続いているかは分かりかねますが…。

No.123 22/06/30 23:34
旅人 ( pu5bob )

こちらでは御守りとしてねじり木に見立て作られた木の棒に御札を挟んだものがあります。たしか五百円で授与していただけたと記憶しております。
ちなみに参列した子供たちには全員に無料で授与されていました。
そのねじり棒に差し込んだ御札を立ててお祀りするための台も別売りで販売されています。

私はだいぶ捻くれておりますので、それをこそ治したく、その祈願のためもあり神社仏閣を回らせていただいております。



…考えてみれは、私の場合他ならぬ本人。ねじり木を探す以前に、本人の努力を持って治せば良いのでは?

ちなみに。みどり市大間々町の草木の茂るような川のそばで、結構な数ねじり木を発見いたしました。
ただ、取りに行くのには足元がかなり危なくて、やっぱり自分の努力でなおすほうが手っ取り早い。

No.124 22/07/01 06:31
旅人 ( pu5bob )

昨日、六月三十日は【夏越の大祓(なごしのおおはらえ)】という神事の日。

ちょうどこの頃に神社に参拝いたしますと、茅の輪(ちのわ)が設置されている神社さんがありました。
それが夏越の大祓という神事によって設置されたことと知るに至るまで時をたくさん費やして…昨日二度目の夏越の祓に行ってまいりました。


夏越の大祓とは、心身の穢れ、罪や過ちを祓い清める「大祓」の神事のことで、全国の多くの神社で、6月と12月の晦日に「大祓式」が行われるのだそうです。

 六月の大祓、6月30日・・・夏越の祓または夏越の大祓
 十二月の大祓、12月31日・・・年越の祓または年越の大祓


六月三十日に行われる夏越の祓では、一年の前半を無事に過ごせたことに感謝するとともに、半年間の罪や穢れをお祓いし、残り半年も清らかな気持ちで過ごせるよう願うこと。

ただ…。
昨年参拝いたしました神社さんには茅の輪がなく、たいそうがっかりしたことを覚えております。
こと、心身の穢れ、罪や過ちの多い私といたしましては、できればその茅の輪をくぐって、できる限り罪穢れをお祓いいただけたらと思うもので。…まあ、そんなことを思っている時点で煩悩の塊であることを立証しているのですが。


夏越しの大祓は、〝一年の前半を無事に過ごせたことに感謝するとともに、半年間の罪や穢れをお祓いし、残り半年も清らかな気持ちで過ごせるよう願うこと〟

だとしたら、茅の輪があろうがなかろうが、一番頻回に参拝させていただいている氏神さまをお参りすべきです。

というわけで、鎮守さまにお参りしてまいりました。

すこぉしくらいは罪穢れや過ちが祓えているとよいのですが、
それもまた、神さまに全てを依存するものではなく、あくまでも自分で努力するのが大切なのですよね。


また、コロナ罹患者が増えてきて、東京の警戒度が一つ上がっています。
早くも命の危険を感じる暑さとなっています。

残りの半年、健康で、清らかな気持ちで過ごせますように。

No.125 22/07/01 14:44
旅人 ( pu5bob )

と、いうことで昨日は夏越しの大祓で、そして本日は一日、ということで、お朔日参りの日であります。

毎月一日(朔日)に神社に参拝することを【お朔日参り(おついたちまいり)】と言い、『朔日』とは新月のこと。
旧暦である太陰暦では月の運行を基準としていたため、必ず一日が新月、十五日が満月に当たりました。

お朔日参りは無事に過ごせた1か月の感謝の気持ちを伝え、また新しい月の無病息災、家内安全、商売繁盛を祈念する日となるのだそうです。
また十五日もまたお参りをする日とされ、【十五日参り】と呼ばれます。十五日参りでは、十五日間の感謝と反省をし、残りの十五日間を無事過ごせるように祈念いたします。

月の満ち欠けは人間にも大きく影響を与えています。
産婦人科の先生によるとお産が立て続けにあるような日はそんな日であることが多いのだそうです。

一日の新月は物事が新しくスタートし、十五日の満月は物事が完結することとされます。


一日・十五日参りでは、無事何事もなく過ごせていることの『感謝』の気持ちをお伝えします。
感謝することで、より感謝することが増えてくるという開運効果があるとするスピリチュアルの説もあるようです。
ちなみにスピリチュアルというものがこれまた少しもわからない、理解できない者であります。

効果があろうがなかろうが、感謝の気持ちをお伝えするのは大切なことだと思います。
私のように人間のできていない者などは感謝の言葉のあるなしで気持ちが天と地ほどにも変わります。
まあ、そんな未熟な人間のことはさておいて。


感謝の気持ちの【有難い】とは「滅多にないこと、まれな」という意味。
滅多にないことが転じて「有ることが難い(かたい)」=「有難い」となるのだと言われています。

当たり前と思われること、当たり前な日常こそ、神さまの恩恵を受けてのことと、このコロナ禍となって痛いほど実感いたします。

神さまへ「ありがとうございます」とお伝え申し上げる日とされるのが一日と十五日であるならば、できうる限り総鎮守の神さまのところへ出向き参拝させていただきたいと思う、私であります。



などと申しながら、雨が降っただとか、つまらないことで一日・十五日の参拝をついついサボる私でありますが…。

No.126 22/07/01 15:14
旅人 ( pu5bob )

二日続けて神社さんにお参りするなんて、人生初のこと。
そんな生活をさせていただけていることに、神さまや夫に感謝しかありません。

暑くないうちにと思い、今日も早めに家を出たのですが…毎月朔日と十五日参りを欠かさない方でお酒とお米と塩と榊をお供えする方がおられ、今日はもうお参りを済ませてお帰りになったようでありました。
一度だけお会いしたことがあります。


今までお参りをして来なかった分は到底補うことはできませんが、なりたい自分を目指して生きていこうと思っています。
そのひとつが神仏を尊びお参りすること。
日々に感謝すること。

あとは…。

いずれにせよ、全部、まだまだだな。

No.127 22/07/02 07:07
旅人 ( pu5bob )

【鑑真大和上】は唐の高僧でありますが、人生の最後の十年を日本で、日本の仏教のため、日本の国の進歩のために大きく貢献された方であります。

正直、鑑真大和上についてのことをここで語れるほどのことは一切なくて、歴史の授業で習ったでものしかありません。

ですが、初めて鑑真和上についての授業を受けた時のあの大きな衝撃と感動は、今も忘れることなく私の中にあるくらい大きな大きなものでありました。

そう、五回渡航に失敗しながらも日本へ渡ることを決して諦めることなく、初めての渡航失敗から実に十年の年月を経て、その間に自らの視力を失いながらも日本へと渡って来てくださったという、誰もが学んだ内容です。

なにものにも揺るがない、揺らぐことのない信念がそこにあったとしか言いようがありません。

鑑真和上に日本に仏教を伝えて欲しいと、日本から訪れた僧が懇願した際、すでに鑑真は唐でその名を知られた高僧であったのにも関わらず、他国のためにその地位をすら捨て、当時にあっては命がけでしかなかった渡航を決意してくださったこと。
小学生の私は、人としての生き方というものを突きつけられたかのような衝撃を持って教えられた気がいたしました。

歴史の授業というものは、小学生には小学生のレベルで、中学生には中学生のレベルで。高校においては歴史だけでなく倫社という場においても繰り返し繰り返し学んでいくものでありますので、その度に身の引き締まる思いをしたくらい、私にとって偉大な人物であります。

私に鑑真和上の授業をしてくださった先生も、同じように感銘を受けておられたのでしょう、教科書をサラリと流し読むような授業内容とはされず、ご自分でお調べになられた鑑真和上のことも併せてお教えくださっておられました。

一回目から五回目までの渡航の失敗を事細かにお教えくださった先生もおられたくらいで、私はその年齢その年齢に合わせて鑑真和上についてお教えいただいて来られたのだと思います。

No.128 22/07/02 08:13
旅人 ( pu5bob )

私に歴史の授業を鑑真和上をお教えくださった先生方に、感謝するとともに、これを機にあらためて鑑真和上について調べて、書いておこうと思います。
…先生方は正しく教えてくださっているのに、勝手に記憶を改ざんしているやもしれぬ怪しい記憶力を持つ、哀しい教え子が先生のお顔に泥を塗ることなきように。笑。



【鑑真和上】は十四歳の時に出家し、唐の首都・長安で律宗と天台宗について学びました。
特に修行僧の生活規範を定める戒律についての研究に励み、南山律宗の継承者となります。

742年、鑑真55歳のとき、日本から栄叡と普照という二人の僧が彼の元を訪ねます。

とはいえすでに唐で律宗の僧として高名だった鑑真には、なかなか会わせてはもらえなかったようで、結構な時を費やしてようやく鑑真に会うことが叶ったようです。
二人は鑑真に日本に戒律を伝えるよう懇願します。

日本の僧から要請を受けた鑑真ですが、弟子たちの中に危険な航海を冒してまで日本へ渡りたい者がいません。当時の船では日数もかかるだけでなく、暴風雨等で簡単に難波し命を落としていたからです。

そこで鑑真は自ら日本へ向かうことを決意してくださったのです。

しかし、743年からその後約十一年の間に試みた五回の渡航はことごとく失敗いたします。
渡航失敗の原因は悪天候だけでなく、危険な船旅をいやがる弟子たちの妨害もあったといいます。

弟子たちを含め鑑真周辺の人々は、日本へ無事に着く保証のない船旅をひどく怖れていました。

鑑真が最初に渡航を試みた743年から最後に成功した753年までの苦難の過程を見てみましょう。
私はこれを実に授業でお教えいただいております。

【1回目】
渡航を嫌がった弟子のウソにより栄叡と普照は追放。鑑真は足止めされて渡航不可能に。
【2回目】
出航後の暴風雨のため引き返す。

【3回目】
鑑真周辺の者の密告により、栄叡が逮捕されて渡航不可能に。

【4回目】
病死を装い出獄した栄叡と共に出航しようとしたが、鑑真の安否を気遣う弟子が役人に訴え、出航差し止め。

【5回目】
出航後、激しい暴風により中国南部の海南島に漂着。1年後に唐へ戻る途中、栄叡が死亡、鑑真も南方の気候や疲労などにより両眼を失明した。


それでも753年に出発した鑑真はついに渡日に成功。
その時、鑑真はすでに66歳となっていました。




No.129 22/07/02 08:22
旅人 ( pu5bob )

ちなみに。
【6回目】においては、明州当局の妨害にも屈せず出航。
754年についに悲願の日本上陸を果たされたのであります。

約十一年という年月の中、鑑真は自らの視力を失い、日本僧・栄叡と鑑真の弟子・祥彦(しょうげん)は死亡しています。
それ以外にも海路・陸路の旅で三十六人が命を落とし、諦めて彼の元を去った者の数は二百人以上にのぼったといいます。
最後の渡航の際には前回の渡航の失敗ですでに視力を失っているにも関わらず、それでも断固たる決意のもと渡日してくださった鑑真和上。
その揺るがない信念は、一体どうしてだったのでしょう。

言葉や文化の違う異国であります。

すでに唐では律宗の継承者という地位を築いた高僧であります。

視力を失った身で、さらには当時の平均寿命等を鑑みてもすでに六十をこえていた鑑真であります。


…私には生涯、その答えは出せることないものでありましょう。



754年、鑑真は大宰府に到着いたします。
そして戒壇院で初の授戒(仏門に入る者に戒律を授けること)を行います。

翌年には平城京に到着し、聖武上皇、孝顕天皇から歓待を受けます。

鑑真は東大寺に住み、日本における戒壇(戒律を授けるために設ける檀)の設立と授戒を全面的に任されたのでした。

彼は日本の律宗の祖として戒律制度を整備していったのです。

東大寺で5年過ごしたあと、鑑真は奈良に唐招提寺を建立しています。

そこで残りの5年を過ごした鑑真は、76歳で生涯を終えました。


唐に住んでいた鑑真をわざわざ日本に招いたのはなぜでしょうか。

それは聖武天皇が僧侶になるのを許可制にしたかったからであるとされます。

鑑真がやって来る前の日本では、僧は・労働・納税・兵役などが免除されるため、自分で出家を誓って安易に僧侶になろうとする者が多く、聖武天皇はそれに頭を悩ませておりました。
多くの者が簡単に僧になることで、国力や財政に悪影響があったからです。

聖武天皇は国による許可制で僧を管理することを目指し、戒律について研究を極めた鑑真を日本の律宗の祖として歓迎します。

宮廷による厚い信頼もあり、「大和上」という号を授与された鑑真は日本の仏教を変革していきました。

さらに、興福寺に貧民救済の収容型施設・悲田院を設立
・医学・薬学知識が遅れていた日本に、実践的な漢方医学の教授されました。

No.130 22/07/02 18:24
旅人 ( pu5bob )

いま、長安まで六時間もあれば着くという話も聞きました。

遣隋使・遣唐使・遣新羅使等が往復に何日かけているかを調べた方がおられ、国内移動、中国の港から長安・洛陽までの移動には時間がかかり、海上移動は良風を得て出帆すれば南路・南嶋路とも所要時間は8~10日であったといいます。

ただし風待ちに数日から数か月かかる場合もあり、難波津を出発して長安に到着するための所要時間も、陸路や海路での天候によるロスタイムが大きく影響します。
早いか遅いかは全てお天気次第という事です。
その上、南路・南嶋路は漂流・難破・座礁などの海難事故が多く、4隻(700年代の遣唐使船は四隻で構成される)が無事に往復することは難しく、往復共に無事だったのは養老元年の遣唐使だけだったようです。

当時の造船技術はそれはそれで素晴らしいものですが、いかんせん木造船であり、当時の人たちのさまざまな努力には頭がさがるばかりです。


国を良くするために。
人々のために。

そして仏教の正しい教えを伝えるために。

有難いことです。

No.131 22/07/04 23:24
旅人 ( pu5bob )

少しずつですが、終活もせねばとあちこちをいじっては、古い物を処分しています。が。
なにぶんにもケチな者ですから、普通と人ならそもそもとうの昔に処分しているような物が未だに存在しています。当然、それを持っては離し、離してはまたとっておく方へと移動する、そんな繰り返しであることがほとんどなのですが…。

若いときの写真、アルバムに関しては一切の躊躇なく、スパッと捨てられるのです。
夫はそれはできない人で、以前結婚式の写真やアルバムを処分したいと言って軽く言い争いとなったくらいです。
まぁ捨ててしまえば二度と手に入るものではないので、とりあえず夫を立ててはおりますが、それこそが私たち亡き後子どもたちが始末に困るベストスリーの一つ。
ひとときは爆笑するネタにはなりましょうが、いざ捨てようとするとき、捨ててごめんねみたいな気持ちになるものなのではないかなぁと。

で、せっせと自分の写真やアルバムの類いはバシバシと捨てて処分していたのですが。


…あるんです。びっくりするくらい。
行った記憶がカケラもなかった神社仏閣を訪れたときの写真が。
それこそ自分は、今さら認知症というわけではなさそうだと思えるくらい、出るわ出るわ。

えっ⁈
妙義神社さんって…。
群馬県の妙義神社さんの波己曽社社殿って、こんなにもリニューアルしてたの?まるで違う神社さんを見るかのようです。
大猷院の二天門の前にただ一人、バーンとき立っている写真もあります。今よりもずっと落ち着いた色合いのものであります。まあ、これは修復してさほど年月が経っていないのでこれは当たり前のことといえますが。


これは捨てられない!
貴重な昔の写真です。

そんな貴重な昔の写真にばっちり写っている自分自身にまたそこはかとない哀しさを感じ…。

かくして、おケチな夫婦二人は今日もまた捨てられない物に囲まれて暮らすのでありました。

No.132 22/07/05 12:37
旅人 ( pu5bob )

無宗教であることにどこか引け目のような気持ちがないわけではないのだと思います。

檀家さんたちが仲良く話されているのもなんとなく羨ましかったりしないでもないのです。
(とはいえ、どんな人間関係にも裏はあるだろうし、合わない人というのは必ず存在するものだと、こと仏教はそれが人間の苦しみの一つだとして取り上げているくらいです)

ではどうしたいか。

安心して入れる墓が欲しいわけではないのです。
本来墓など無くてもよいとさえいまだに思っているくらいです。
ただただ思うことは私ども亡きあと、子供たちがそういったことで悩んだり、果ては争ったりすることがないように、生きているうちになんとかその道筋を立てて、〝これでいい〟としたいだけです。
今、私どもが『この宗派の』とか、『このお寺さんなら』、とかいうものが見つけられないのであれば、
祭祀承継者となった子どもが、興味のあるなしに関わらず、お寺探しから、その後のお寺さんとの関係まで持たねばならないこととなるだけで、いたずらに子どもの負担を増やすだけのこと。
今、元気なうちに心からこちらと縁を結びたいと思う檀那寺さんが見つからなければ、無宗派のほっ建て墓があれば充分だと思うのであります。(ほっ建て墓という言葉は私の造語です)
日本の法律でどうやら埋葬が義務付けられているので、墓、と考えているだけのこと、なので。


私の中にある自分なりの宗教というものは、実はこの珍道中を始める前から、こうありたいというものが確定していて、ただ、それは宗教でもなんでもないものでしかないので、だからこそ、自分探しをしながら、これ!という宗教はないか探しているのであります。

宗教的にも、スピリチュアル的にも、それは宗教ではないし、それは好ましい参拝ではないとされてしまうものが、実は私の一番、『こうありたい』宗教で、私教とでも言えばよいのでしょうか。

とはいえ、これ!といったらお寺さんとの出会いがあれば、そこの檀家になりたい気持ちには変わりはないのですが。
今日は〇〇の日だから〇〇寺さんに参拝に行こう、とか。
家のそばにある、町の鎮守さまに出向いては参拝して。
野仏さまにお会いしたら(嬉しくてはやる気持ちを抑えながら)ひざまづいて手を合わせ。
そんな暮らしこそが私のこうありたい姿であるのです。


おてんとさまに感謝して。
お月さまに祈って。

No.133 22/07/05 14:11
旅人 ( pu5bob )

お寺さんというのはありがたいもので、檀家ではないということで、ハッキリと区別されたことは一度しかありません。

どこのお寺さんもみな、檀家さんのお顔を一目見るだけでどこの誰それさんのお家の方でどこどこにお住まいでどんなお仕事をされておられる等々、今も昔も変わらずわかっておられ、つまりはそうではない私ども、ということも、どこのお寺さんでもわかっておられます。
にもかかわらず、その上でお参りに来られた方はなんらかの縁ある方として、接してくださり、突然訪れたどこの馬の骨ともわからぬ私どもに対して笑顔で、
「ようこそお参りくださいました」
から始まって、
お時間に余裕があれば、それこそお寺のいわれから、境内や御本堂のこと、宗派の教えまで教えてくださり、はては
そのときの会話から悩みについて触れ、法話をなさってくださることすらございます。

お飲み物をお出しくださったり、干菓子やお供えのお菓子までいただいたこともございます。

観光地にあるお寺さんなどはまた少し趣きが変わりはいたしますが、それでも一人一人、そのお寺さんを参拝されたことでよい思い出をつくっていただけたらいいという根本にあるものは変わらないよう感じております。

まぁ、それでも、ん?と思うような発言をされるお坊さまもおられないわけではないのですが、それでも檀家、非檀家という線引きをされたのはたった一回だけであります。

それは他ならぬ母の葬儀等を行なって下さったお寺さん、つまりは菩提寺となるのですが、娘とはいえ祭祀承継者でなければ檀家ではないのだからとはっきり申され、お盆のときや、お彼岸のとき、
「あ、その人は関係ない人だから(何も話しかけなくていいし、何も渡すものもない)」と言われ、ご住職は挨拶さえされなかったという、もはやお寺さんとかお坊さまとかいう以前に人としてどうか?のレベルですが。

施餓鬼会をされる日にたまたまお参りしていたところ、檀家さんたちは「(御本堂に上がって)いいよいいよ、ちょうどいい日に来られたじゃない。心がけがいいんだね」などと招き入れようとして下さったのですが、ご住職は
「あなたにも必ずご先祖というものがあるだろうからあれだけど。ま、今日は(上がっても)いいから。ここは檀家以外の人は来ない寺だから」

と言われたという、なんとも切なく哀しい思い出であります。


No.134 22/07/05 14:48
旅人 ( pu5bob )

ちなみに、では私を覚えていないかというと決してそうではなく、ようは檀家、非檀家というよりはビジネス。

私がいかに熱心にそのお寺さんに通おうともせいぜいお賽銭くらいしか入らない相手、ということなのだと。
正直挨拶すら惜しいと思う僧侶に、どんな法話をされても何も心に残らないです。

よほど嫌われるようなことをしたんじゃないか?

…そうなんですかね。

普通に母の葬儀や法要に列席していただけですが?お坊さんというのはよほど人間の本質を見抜く力が優れておられるのでしょうか。
でも、私が悪人だったり、自分と合わない人だったりということを見抜かれての行動だとしても、なんかちっちゃくないかなぁ?
挨拶すらしないって…。
姉にもそうだったようですが、姉は別に気にしないと申しておりました。
そこが私の未熟なところではあります。

私の、離婚してからは会うこともなかった父や、父方の祖父母の眠るお寺さんのご住職は、私の顔をしっかりと覚えてくださって、しっかり顔を見ながらこちらにお越しになってご挨拶くださいますし、法要とかも参列できない立場ということも理解されて、御本堂に上がれるようにお声をかけてくださいます。

小さくともなんらかの法要くらい営んだ方がいいかと気にしているのだと申し上げると、
「こんなにお墓参りに来ておられるのだから、もうそれで充分ですよ」とおっしゃってくださったり。

…まぁ少なくとも母の菩提寺である某お寺さんだけは私どもの檀那寺さんの候補にはあがらないことだけは確かです。

えっ、心が狭い?
おとなげない?

まぁ、確かに、私はそれを乗り越えるのが本来の課題ではありますがね。

そのお坊さんのせいで〇〇宗まで嫌いになりそうになったのを、それは違うと気づいただけでも、私的にはオッケーかなぁ。

三回忌も終えたので、あの祭祀承継者は七回忌とかもないだろうし。

ご住職はご住職。
お寺の御仏は御仏。
私は私。

今後も母と母方の先祖のせめてもの供養にお墓参りには参ります。


無宗教のはなしからだいぶ逸れてしまいました。(^_^;)

No.135 22/07/06 18:12
旅人 ( pu5bob )

そんな母の菩提寺にお参りに行ってまいりました。

山門のだいぶ手前から泰山木が咲いているのが見えました。
…そうだった。
泰山木の頃でした。

鐘をついて。
御本堂の前に向かいました。

御本堂の前に置かれた、あの大きい香炉、常香炉というのだそうですが、母が亡くなった後、何度こちらは来ても、香炉の灰に結構大きな…そう、キャンプなどで使う炭の、燃え残ったようなものがいくつも香炉の灰の上にあるのです。
灰を均すことどころか整えることもなく、何年も放置されているようにしか感じられません。
何故ならばほぼ毎月通っていて、いつもいつも、その状態だから、です。
香木とかではないです。
初めて見た時は本当にびっくりしました。

まぁ、仏教とはどんなかも知らない、〇〇宗はどんなふうな宗派かも知らない愚かな人間ですので、もしかしたらこれはこれで正しいのかもしれません。
香炉の灰にお線香が立たなくとも、こちらは香炉としてではなく、お焚き上げの炉として使っておられるのかも知れませんし。

…いや、あの施餓鬼会のとき、檀家の方がお線香を立てていましたね。

こちらの今のご住職と私はまさに合わないのでしょうね。

ま、しかたがない。
まさに怨憎会苦、嫌な物事や人と出会う苦しみでありましょう。
そしてお互いにそうなら、ある意味救われましょう。

ちなみに。
〇〇宗の他のお寺さんではそんな常香炉を見たことはありません。

No.136 22/07/06 22:39
旅人 ( pu5bob )

明日は七夕。
笹飾りをつけ、短冊に願い事を書いて祝うもので「しちせき」とも読まれます。
子どもたちが小さな頃、出来うる限りの伝統行事をしていろいろなことを伝えていきたいと、笹を手に入れるのにとても苦労したことを思い出します。

もともとは中国に由来し、本来は農耕儀礼に結びついた祖霊祭だったといいます。
それがいつしか牽牛星と織姫星の伝説や、女性の針仕事の上達を願う祭、盂蘭盆会などとが合わさった上で日本へと伝わった。
それがさらに日本でもさまざまな伝統行事と合わさり、現在の形となった。
星の逢引き、ということから「星合」とも呼ばれるのだそう…初めて聞きましたが、ね。

明日の天気はどうなのだろう。
一年に一度くらい会わせてあげて欲しいものですが.…。

No.137 22/07/06 23:33
旅人 ( pu5bob )

七月といえば、祇園祭、なのが京都の方でありましょう。
東京の方だと浅草浅草寺のほおづき市でありましょうか。
東京のほおづき市くらいはなんとはなしに肌で感じるものではありますが、京都ともなると、まるでそんな空気を感じることができない。

コロナ禍となって、今年はようやく祇園祭を開催することとなったと以前ニュースを見て、良かったと思ったもの。
祇園祭といえば、清和天皇の貞観十一(869)年、六十六本の鉾を立て、洛中の男児が祇園社(=八坂神社)の神輿を神泉苑に送り、悪疫を封じ込めたのが始まりと伝えられています。
その後も疫病が流行した年に行われていたが、天禄元(970)年から定期的に開催され、応仁の乱などでちゅうだんしたものの、現代まで続いているものだといいます。

…そう、悪疫がこんなにも流行っているさなか、悪疫を封じ込める行事が中止されるとは、なんともいえないものであります。


祭の無事を祈願し、打ち合わせを行なう、七月一日の「切符入」から三十一日の「夏越祓い」まで、実に一ヶ月にわたりさまざまな行事が行われるのだそう。

十七日と二十四の山鉾巡業に向けて、各町で山鉾建て、組み立てが完了すると曳き初めがされるのだという。
また、神様の使いとされる稚児たちが選ばれ、なかでも「長刀鉾」の稚児は順行当日、しめ縄を太刀で切り落とす重要な役目を担うといいます。


う、う、実に長い!

一ヶ月かけて?

は。はあぁ


No.138 22/07/07 03:42
旅人 ( pu5bob )

蓮の花があちらこちらでみごとに咲いています。
…そう、このスレのいくつか前のレスで述べましたように、睡蓮ではなく『蓮』。
暦の上でも七月の中旬辺りを【蓮始開(はすはじめてはなさく)】というようです。文字通り、蓮の花が咲き始める頃、という意味。

蓮はインド原産のハス科の多年生水草で、花の中心がハチの巣に似ていることから、古くは『はちす』と呼ばれたといいます。
蓮の花は蓮華(れんげ)とも呼ばれます。
泥で濁った池や沼に生えながら、美しさを保つ花ゆえ、中国では汚れた環境の中にいてもその影響を受けず、清浄を保つ事をたとえて、
『泥より出でて泥に染まらず】という言葉が生まれ、日本にも伝えられました。
仏教では清らかさの象徴とされ、紋様とされ、紋様として多用されています。

花が観賞に供されたほか、その葉は包みや器として使われ、茎からは糸も取れるといいます。
蓮根と呼ばれるのは地下茎で、食用として利用されている。秋から冬が旬で、筋が太く色白なものが美味とされている。

蓮には薬用とされる部分が多く、レンコンの節部と葉、花のおしべには止血作用があり、他の生薬と配合して胃潰瘍や子宮の出血の治療に。また、種には滋養強壮作用があり、生薬と配合して慢性の下痢、心臓病などの治療に使用される。

先日みごとに咲き誇る古代蓮を見て参りました。…お寺さんではありませんが。
心も浄化してくれる、そんな気がいたします。その作用がいつまで持続するかは、個体差があるとは思いますが、ねえ。

No.139 22/07/07 17:16
旅人 ( pu5bob )

ふと、『山頭火』が読みたくなり、『草木塔』を手にしました。
山頭火を初めて知ったのは中学の国語の教科書で。


〝分け入っても分け入っても
            青い山〟


その自由な俳句と、そこに広がる山の景色に当時の私はたいそう感動したのでありました。
俳句といえば、五・七・五に語をおさめ、しかも必ずその何処かに季語があるように詠まねばならないと教えられ、指を折りつつ、季節を考え、ああでもないこうでもないと、捻り出していたものだから、
この、山頭火の〝分け入っても… 〟は本当に衝撃でありました。
これを俳句とするということにもびっくりいたしましたし、この句の無限にも感じる自由さ。
それに山頭火というなんとも変わった名前。

その一切合切が、どーんっと真っ直ぐに私の中に入ってきました。

とはいえ、その国語の授業では、その句だけ習うに過ぎず、山頭火についても、お坊さんであったことと、妻や子を捨てて旅に出たということのみ触れるに過ぎませんでした。

ずっと触れてみたかった山頭火の世界に、ようやく触れることができたのは大人になり、それこそわが子が国語の授業で山頭火を習う頃のこと。

ありがたいことにこの本は某百円均一ショップの文学シリーズという文庫本で、つまりは百円ちょっとで購入できた。
それ以上にありがたかったのは、年譜と称する山頭火の略歴が最後にほんの少し書かれているだけであったこと。
なので、とりあえずは山頭火の背景とか一切知らないままに、それこそ好きなページから好きなように作品を読むことが出来たのです。

が。

やはり読んでしまうのですよね。山頭火の生涯をあらわしたものを。


そして、今回はその彼の背景を知った上での再読…再々読となったのですが…。

…初っ端から泣きました。


思えば先日は太宰治の人間失格を読んでも泣いています。
歳をとると涙もろくなる、ってこういうことなのでしょうか。
やだなぁ、まだ若いつもりもあるんだけど。


山頭火はどれだけの孤独と戦いながら生きたのか…。

ちなみに。
若いころですと、どうしても、〝妻や子を捨てて〟とかいうワードに、はぁぁ?とか、ん?!💢とかなるじゃないですか。

でも今は…ねぇ。


気温も上昇して体温を超えるほどとなったせいもあるのか、沸点もなかなか高くなっており。
えっ?これも歳のせい?




No.140 22/07/07 20:20
旅人 ( pu5bob )

まぁ…〝妻や子を捨てて〟ということ。
お釈迦さまもまた、そういった経歴の方でありますし。

お釈迦さまと一緒にしたらなんかバチが当たりそうですし、そも山頭火本人に怒られそうですが、この二人の選んだその選択肢の先には苦しみしか無かったし。
そうしか生きられなかったのでしょう。




捨てて行かれた体験を実際にしている身としては、まぁ…。結構恨んだりもしないし。









ふうぅ。
ちょっと閑話休題として次を綴る気分ではなくなってしまった。


No.141 22/07/08 00:30
旅人 ( pu5bob )

厳密にはお釈迦さまは妻と子を捨ててのち歩んだ道は難行苦行の道でありますから、たしかに苦しみ多き道ではありましたが、そののち悟りを開かれて、人々を苦しみから救うべく教えを説くことができました。
それはお釈迦さまにとってはお喜びであられたことでしょうから、〝苦しみしかなかった〟というのはまるっきり誤ったものです。

一方の山頭火は、妻と子を捨てたのちも苦しみの道しかなく、得度したのも成り行きからでしかなく、強い思いで仏教に携わったわけでもありません。
とはいえ、仏教から得たものは計り知れなかったのだろうと思います。

十歳で自死という形で母を亡くし、祖母に育てられ。

かつてはその集落一の家柄、大地主であった家も、父の贅沢三昧、遊び三昧から没落し、やがて父も行方知れずとなり。

熊本から東北岩手まで、そのほとんどをおそらくは歩いて。

『解くすべもない惑ひを背負うて、
行乞流転の旅』続けたのでありましょう。
おそらくは…母を亡くした十歳の時から。


切ない、あまりに切ない生涯。

No.142 22/07/08 22:38
旅人 ( pu5bob )


ふとした拍子に涙が出てしまう。

ありえないことが、あってはならないことが、この日本で起きた。


恨もうが、
憎もうが、
それは感情という抑えられないものであるから、否定はしない、否定するほど私は人間ができていない。

ただ。
誰にも他人の命を奪う権利などない。決して、だ。

それは社会的地位がある方であろうが、
二歳の子供であろうが、
全て。
人の命は他人に奪われてはならない。

いかなる手段であっても、だ。

No.143 22/07/08 22:45
旅人 ( pu5bob )

今日は長野県の布引観音さまに参拝してきました。

また今度書いてみます。



今日はあの衝撃的な事件を知って以降、心が奪われ、気づくと呆然自失としている時がしばしばだ。


No.144 22/07/09 04:10
旅人 ( pu5bob )

…眠れないので、布引観音さまの参拝の珍道中録を書こうと思います。



長野県好きの夫は、お盆休みの時は毎年必ずと言っていいほど、長野県に一〜二泊する小旅行をしておりました。
子どもたちはもうそれこそ物心つく前から、長野県へ旅しておりましたので、その影響を強く受けた長男はさらに夫の上をいく長野県好きとなり、一時期休みというと長野県へと行っていたくらい。
かつて一泊して訪れていた場所などは日帰りで行って帰ってくるほどで、私などはよく「長野行く?」の一言でそこらへんに買い物に行くかのような気軽さで、彼のおすすめの長野のスポットへと連れて行ってもらったものでした。

そんな長野県の美ヶ原へと向かう道の途中、『布引観音➡︎』という看板を何度となく見かけます。
それでもそれはさほど大きくはない看板なので、私だけが気づいて騒いでいるそんな繰り返しだったのですが、何やら調べてみると、どうやらあの善光寺さんと深い関係のあるお寺さんのようで。
あの、『牛に引かれて善光寺」の、牛に化身した観音さまがこちらの布引観音さまなのだというではないですか。

いつか必ず参拝したいとずっと騒いでおりましたお寺さんでございます。
それが今年、善光寺さんの御開帳があり。夫にことあるごとに言っていた「布引観音さまに行きたぁぁい」というもはや呪いのような言葉が頭に残って離れなくなっていたのでしょう。
昨日は、会社から「年に何回か有給休暇を取得するように」と言われているために取得してあった休みの日。
「布引観音さまに行こうか」とのたまう出ますではないですか♡


やったぁぁ!



No.145 22/07/09 04:39
旅人 ( pu5bob )

そんなわけで長野県へと出ぱ〜つ!

ところが。
そんな有名な布引観音さま、高いお山の上にあります。
駐車場はそれなりにあるらしいのですが、ダイレクトにお寺さんの境内に乗りつける駐車場は何やら細い山道を走るようなのです。決してすれ違えない、まさに布引観音さま専用路のようで。
そこではない下の方にある駐車場から歩くのがおススメともいろいろな方のブログ等に書かれています。
もちろんそれは細い道だからというものも多少は含まれてはいるようなのですが、この山は登って行った方がいいというニュアンスのものがほとんどです。

よぉ〜し。

…ところがですね。や〜っぱり珍道中の二人組。
ナビの案内を受けながらにして、道を間違え、さらに駐車場を通り越す。
お決まりのパターンです。

あ、でもこちらを紹介されておられる方々も、駐車場は通り越しがちなので注意をしてと結構な方が書かれています。よくあるみたいです。
…それを読んでいて通り越すなぁ!ってところですよね。
それをやっちゃうのが珍道中コンビです。
それも、通り越しちゃうとちょっと行かないとなかなかUターンもきびしくて、ちょっと困った珍道中コンビ、でありました。(ほんと困りもんで^^; )

そのくだんの駐車場。
区画もなく、隣にある何やら作業車両のある敷地ともあまり明確な境界もなく。
どこに停めたらいいんじゃい⁈といった駐車場なんですよ、えぇ。しかも一台も停まっておらず。

…まぁ、いつものように運転手は夫なので、控えめな位置で後からくる方に一番邪魔にならない場所に(と思い込んだ場所に)停めました。


おおぁ!
なんか結構な山道っぽい道が続いている予感しかしない石段が目の前に…。
貸し出し用の杖が初っ端から置いてあります。

栃木県足利市の某お寺さんの登りでたいそう懲りた私は悩むことなく一番使いやすそうな竹を切っただけの杖をお借りしました。

うーん。
想像通りの山道だ。

No.146 22/07/09 06:48
旅人 ( pu5bob )

ところで。

こちらの地方に伝わる『牛にひかれて善光寺参り』。
善光寺に伝わるものとは少し異なっておるようで…。


『昔、善光寺から東に十里(約40キロメートル)離れた信濃の国小県郡(現在の長野県東御市)に強欲で信心の薄い老婆が住んでおりました。この老婆が千曲川で布をさらしていたところ、どこからか一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。老婆は驚きましたが、布惜しさに野を越え、山を越え、牛の後を追いかけました。そして気がついてみると、善光寺の境内まで来ておりました。老婆はやっとのことで牛に追いついたと思ったのもつかの間、牛は金堂のあたりで姿を消してしまいました。驚きと悲しみに疲れ果てた老婆はあっけにとられてその場に佇んでしまいました。
やがて日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明が差し、その霊光の尊さに思わず跪いて菩提心を起こし、一夜を金堂に篭って罪悪を詫び、家に帰って参りました。これは布引か観世音菩薩が牛に化して信心うすい老婆を善光寺阿弥陀如来の許に導いて教化したのでした。
ある日のこと、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹付けられているではありませんか。老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが断崖絶壁で取るすべもありません。一心不乱に念じているうち、布とともに石と化してしまったということです。布引山の断崖には今も白く布の形をした岩肌が眺められます。』

善光寺さんのHPでは、善光寺さんの金堂前で、布と共に牛はかき消すように姿を消してしまいます。が、夜だというのに善光寺さんの御仏の光明がさながら昼のように老婆を照らし、ふと足元を見ると、牛の涎がまるで文字となっており、そこには『うしとのみおもひはなちそこの道に なれをみちびくおのが心を』と書いてあり、女はたちまち菩提の心を起こし、その夜一晩念仏を唱えながら夜を明かしたとあります。
その後すっかり信心深くなった女はたまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がその観音さまの足下にあったというのです。そこで女は牛と見えたのはこの観音さまの化身であったと気づき、ますます信心し、めでたく極楽往生を遂げたとあります。
そしてHPでもこの観音さまは布引観音といわれていますと綴っています。



…石になった?
石になっていたら極楽往生はしていないのでは?そもそも、一心不乱に布を取り戻そうと念じるって…。

No.147 22/07/09 08:07
旅人 ( pu5bob )

ま、まぁ。
そんな牛とお婆さんのお話は置いておき…。

私たちに待っていたのは結構ハードな山道でありました。結構傾斜のところもあり、石段の高さや幅がまちまちで、また足もとはぬかるんでいたりもします。
とはいえなんとか石段であり、奇岩群や、季節の花々、そしてなにより、この道を歩く人々の安全を見守ってくださる馬頭観音さまの石塔や、見守り地蔵さまや、手彫りの木仏さまがおられます。

その景色を楽しみながら登ってまいりますとあまり苦ではありません。精は切れるかもしれませんが…ね。

ところどころで小川が流れ、その水が小さな滝を作っているところもあります。苔むした岩にユキノシタが咲いているのも大変趣がありました。
どれがどうなのか、風雅の心のわからない私どもにはさっぱりわからなかったのですが、馬岩とか、牛岩とか呼ばれる奇岩もあるようです。
馬岩は見事に見逃しましたし、牛岩は時間をかけて見上げたのですがさっぱりわからず。

そもそも、この参道を案内した図がこの駐車場の入り口にあったのですが、どこに停めていいものやらとそればかりに気がいっていた私どもは参拝を終えて下山してから気づくというオチ。
さすが珍道中コンビです。
それでもいろいろ案内の看板が建てられているので、それさえ見つけられれば、楽しみながら歩けます。

とにかく木々と奇岩とところどころの小さな滝に囲まれた参道であります。

そうそう、善光寺穴というものがありました。善光寺に繋がっているという岩の隙間の穴のようです。
なんでも善光寺さんで火災があった折、この穴から煙があがったという言い伝えがあるようです。
…えぇ、この穴も、珍道中コンビにはどれがその穴であるのかすらわからず、いろいろ探索してみたのですが、「これ以上のことは田中隊長にお願いしよう」という夫の発言でそこを後にいたしました。
…テレビ局さん、たぶん、田中隊長でも無理だとは思います。
ただ、せめてどれがその穴なのか、私どもにお教えいただければと思います。

不動滝もあります。この岩の上に不動明王さまが安置されていることからその名がついたとされています。まずもって、その岩の上など、ウルトラマンファミリーくらい背がないと見えません。
そもそも私どもに至ってはその滝すらが見えませんでした。
「…あれが滝なんじゃない?色が変わってるとこ」
…やれやれです。

No.149 22/07/09 19:59
旅人 ( pu5bob )

大きな大きな岩に囲まれて、その環境ながら大きく育った木々の間に作られた、苔と雑草に覆われたしかもほぼ石に戻った石段を登っていくと、一際明るく日がさす方に御堂?いえいえ山門が見えてまいりました。
厳密にいうとかつては山門だったもの。
今は山門の向こうはさらに背の高い草が生い茂り、竹だか笹だかがその先を覆い隠しており、何より山門のくぐり口を竹が二本、仁王さまのおられる間のサイドに取り付けられた格子の一部分に差し込まれ、立ち入ることを遮っています。

いつまで使われていたのでしょう。別段朽ちたという感じは全くありません。たくさんの千社札があちこちに貼られています。
門の表側にも格子がはめられています。…うーん、まさかとは思うけれど。

おおぉ〜!
立派な仁王さまがおられるではないですか!少し末端肥大気味で手足の大きめな、お優しいお顔立ちの仁王さまがお二人とも。
この門の前を通る者を見張っておられました。そして同じ間にはややもすると仁王さまよりも大きくすら見える草鞋が掛けられています。
草鞋は若干崩れてきてはいるものの、荒れた感じはいたしません。
「前を失礼いたします」と申し上げ、ふと足元に目をやると…!


オオムラサキだっ!
仁王さまがおられます門のすぐそばに日本の国蝶オオムラサキが羽を今まさに休めようとしているではないですか!

あ、私、まるで、と言っていいほど、虫に詳しくはありません。というか苦手です。

じゃなんで?と、思いますよね。

あまり大きな声ではいえませんが実は私、任天堂のあつまれどうぶつの森というゲームをプレイしているんです。

は?
それとこれとはまるで話は別だろうが?


実はこのあつまれ動物の森は、魚が泳いで、虫が飛んで。
それがちょっとリアルな画像なんです。
そしてそのゲーム内で季節が変わると、虫や魚、植物の種類がそれに合わせて変わるというもの。
しかもその図鑑がゲーム内に存在し、かなりリアルな映像で紹介されているんです。
そんなゲームで今、ヘタをすると毎日のように、このオオムラサキの踊るように舞う姿を見ているというわけなんです。
だからひと目見て、これはオオムラサキだ!とわかったのではありますが。

しかしながら…。

どんなに精巧に再現された映像でも、本物の、生きたオオムラサキとは違います。

なんと優雅に飛ぶのだろう。
すごいなぁ♡

No.150 22/07/10 02:27
旅人 ( pu5bob )

夫に「オオムラサキかもしれない」と声をかけました。(あれだけ〝あつまれ動物の森〟で毎日のように見ているから間違いないと言いながら、どこかやっぱり自信のない私 笑)
「どれどれ、おぉ〜、ほんとだ。オオムラサキだあ」
すぐそばで人間が二人騒いでいるのも気にも止めず、オオムラサキは鼻を閉じてやすみ始めました。オオムラサキの羽の内側はベージュっぽい色をしています。
スマホのカメラを構えた夫。


…。



…。




「ちょっと羽を拡げてくれないかなぁ」

私が触れるほどではないくらいに手を伸ばすと、オオムラサキは飛び立ってしまいました。
「あ、…ごめんなさい」
「…まぁ、飛んでる姿見られたし」と夫。
「でもきっとこんな花のないところにいたってことはここ、きっと蝶道だよ。また戻ってくるか、違うのを見られるかも」と私。
「そう?」

…その通り、でした。
仁王門を通り過ぎた先の石段には、驚くくらいオオムラサキが羽を休めて止まっていたのです。
ちょうどそこで私どもを追い越した若い男性四人組が歩くたびにフワァっと飛び立っていくその数は軽く十を超えています。

「…こんなにオオムラサキを一度に見たのは生まれて初めてだ!(ゲームですらこんなにまとまって現れない)」
「俺は生まれて初めてオオムラサキを見た」

まぁ、みんな飛び立ってしまったので、結局夫はその姿をスマホの写真としておさめることはかないませんでしたが。

…こんなに参道で時間をかけて過ごす者など私たち以外誰一人おりません。先に進むこととしましょう。

それにしても、山門をくぐって行っていたはずの御本堂、その前を通り越して一体どこに出るというのだろう…。

No.151 22/07/10 07:44
旅人 ( pu5bob )

オオムラサキの舞い立つ石段をしばらく登っていくと、目の前にコンクリート製の…不敬をおそれず書くならば、あの運動会の入場門のような門が現れます。
いやぁ、ほんとに、あの運動会の入場門に何一つ飾りつけのないものそのものにすら見えます。扁額とかもない(あると鳥居っぽくなるからか?)そんなコンクリート製のものです。

そこを抜けると、あぁ、境内に着いたのだと思いました。
ひだりての岩肌に、お地蔵さまを真ん中に向かって右側に着物姿の剃髪された男の方の像、左側にやはり着物姿で羽織を召された上品そうな老女の像が祀られています。

その岩に沿って前に進むと葛折のようになった道を進むようになっており、そこにはズラーっと並んで建物があります。
一番手前にある建物の前に〝御朱印はお参りの前にお預けください〟的なことの書かれたものが貼られています、が、鍵がかけられてそこには呼び鈴もありません。
諦め先に向かう私に夫が声をかけます。
「こっち、こっち!」
…その建物をぐるっと横に回ると、側面に御守や御札、絵馬等の授与品が平台に置かれた授与所になっていました。
そこには呼び鈴がついております。
やはり夫のフォローなくしては本当にただの珍道中でしかない私でありますようで。

御朱印帳をお預けし、先に(再び)進みます。
横にズラーっと並んだ建物のいくつか先に御本堂があります。
ありますが…。
そのゆく道のひだりてにある建物群から見渡すような景観と、くだんの布引観音さまのおられる観音堂が見えるではないですか!

絶景かな、絶景かな!

…などと思っている私を見透かした夫から声がかかります。
「ここが御本堂のようだよ」
…はい。

御本堂の前にはそこから入ることはできぬよう柵がつけられています。
ほのかな灯りにご本尊さまが浮かび出されています。
お参りをして。

今度こそその絶景を堪能しましょう。
石の柵で囲われた下には今歩いてきた参道があります。
見上げながら歩いてきた岩山が見えます。
それを大きな大きな枝垂れ桜の木越しに見る景色といったら…。
この枝垂れ桜が咲いている頃には一体どれだけ素晴らしい景色となるのでしょう。

No.152 22/07/10 12:48
旅人 ( pu5bob )

と、ここで。

四万六千日(しまんろくせんにち)といわれる観音菩薩さまのお縁日があります。
そのお縁日に当たる日に観音菩薩さまを参拝いたしますと、四万六千日参拝したのと同じ功徳が得られるという、まあ、なんとも裏ワザ的な日でございます。
今までの人生のほとんどを信心深くなく送ってきたとはいえ、さすがにこの裏ワザを使って補おうとするほどにはずうずうしくはないのではありますが…。

そしてまた、その功徳日は旧暦でいくのか、現代の暦で良いのかといった疑問が湧くところではありますが、とりあえず、東京都の浅草寺さんにおける『ほおずき市』が昨日今日と開かれているようで、そのほおずき市こそがまさに〝四万六千日〟の功徳日のお縁日なのだといいます。

東京都台東区の浅草寺の本尊である観世音菩薩さまのお縁日の一つであるほおずき市は、毎年 七月九日、十日がその日にあたるようです。
もとは「千日詣り」といったようで本来はこの日に参詣すると 1000日参詣したのと同じ功徳が得られるとされていましたが、享保年間(1716~36)頃から 4万6000日参詣したのと同じ功徳があるとされるようになったといい、「四万六千日」と呼ぶようになったといいます。
縁日には浅草寺が雷よけの護符を配り、境内に「ほおずき市」が立つのだということですが…私は今までこのほおずき市に出向いたことはなく、このコロナ禍でまた感染者数か急増の傾向にある昨今。ましてや土日があたっていることもあり、その人出を思うだけで、到底参詣する気持ちともなれず。
実際のほおずき市がどうであり、浅草寺さんでどんなことがなされているのかは不明であります。

ですが、やはりお縁日と聞きますと、何やら参拝したくなりまして、聖観世音さまがご本尊でありますお寺さんにお参りをして参りました。

鐘を撞き、御本堂において読経させていただき、お灯明をお願いいたしました。
お灯明を上げてくださると、何やらお唱えくださり、太鼓を鳴らしてくださいました。

功徳云々より、私の場合、日々の穢れや煩悩をお祓いいただければと願うだけでございます。

えっ?そんな大変なことを祈願するなんて、…ですよねぇ。
いつも図々しいおばさんであります。

No.153 22/07/10 18:02
旅人 ( pu5bob )

布引観音さまの正式名称は、天台宗【布引山釈尊寺】さん。
信濃三十三観音霊場の第29番札所にあたるといいます。

御本堂を過ぎ、その真正面にある景観を堪能して。先に進もうと前を見ると、目の前に岩山に組み込まれるように建つ御堂が目に入ります。
御堂の真正面に紫陽花の木が茂っていて近くヘ寄ることができません。
山門と同じような格子の戸であるのは確認できます。
山門同様今は使われなくなってしまった御堂でありましょうか。
しっかりと建てられ、立派な鬼瓦の乗った瓦葺きの御堂です。
正面には近寄れませんので、横からそおっとその建物を拝しますと、見事な彫刻も施されています。
…まぁ使われていないというのは私の勝手な見解ですが、ね。
でもこのおばさんが近寄って見ようと思うことすらなかったくらいにものの見事にお堂の真正面には紫陽花の木が茂っている…。横からの入り口はなく中へは入れそうにありません。
何かたいそうもったいない気がいたします。(御朱印を授けていただいた際お聞きしましたので後述いたします)
その御堂の横には可愛らしい石造の牛が横たわって通る人の顔を見上げています。とても人懐っこい顔をした牛の像でありました。
そしてその牛の横を通ると岩肌に沿ってちょうど直角に曲がったところに、また御堂があります。
これは新しそうにも見えます。どなたがお祀りされているかはわかりませんでした。こちらは岩山に組み込まれてはおらず、普通に建てられております。(ここも後ほど…)

その隣にはまた、岩から御堂の前面だけが出ているかのような小さな御堂がありました。向拝の彫り物も丁寧な造りのものです。
やはり格子戸でガラスなどははめられていないので、中を覗かせていただいたところ、どちらかというと神棚のような造りの厨子にお顔は拝せませんでしたが胸の前に笏をお持ちの像がお祀りされています。
聖徳太子さまでありましょうか。


布引観音釈尊寺さんは、岩を削っての伽藍がいくつも安置されておりました。

江戸時代には「断崖の観音様」として絵図で紹介されるなど、街道を往来する人が足を延ばし賑わったようで、大正15年(1926)~昭和11年(1936)まで布引電気鉄道が敷設され、参道の入り口には布引駅があったといいます。

きっとその頃には山門を通って参拝していたのではないでしょうか。

No.154 22/07/11 15:08
旅人 ( pu5bob )

布引観音さんの歴史は古く、二つの説があるようです。
神亀元(724)年に行基によって開かれたという説、
天平二十(748)年に聖武天皇の勅願で行基が一宇を建立し、聖徳太子作の聖観世音菩薩像を安置したのに始まるという説があります。

天文十七(1548)年、武田信玄が落雁寺入道、布下仁兵衛を攻めた時に落雁寺城・堀ノ内城・桝方城が兵火にかかって焼失し、釈尊寺の諸伽藍も灰燼(かいじん)に帰したといいます。

弘治ニ(1556)年、望月城主滋野左衛門佐が本堂を再建しましたが、享保八(1723)年、野火の為再び炎上してしまいます。
寛延ニ(1749)年、小諸城第二代城主牧野康周(やすちか)公により本堂が再建され。本堂屋根には天台宗の寺紋が掲げられています。
その後江戸時代後期に大規模な修復工事がなされたとされています。


それにしても絶景です。
ついついそちらに目がいってしまいます。
ここから見える断崖は「布引渓谷」「信濃邪馬渓」とも呼ばれ、眼下には千曲川が流れ、浅間山や城下町小諸も一望できます。

その景色の中見えます観音堂は、まさに断崖絶壁に建てられた懸造りの赤い御堂。長い長い柱に支えられて建つ姿は緑に映えて思わずため息がもれます。

…先に進みましょう。
おおっ!
岩山を四角にくり抜いたトンネルです。

横幅は広いところは横に並んで七人くらい通れそうなトンネルで、狭いところでも二、三人は並んで通れる幅なのですが、高さは百八十五センチほど。
夫の頭上スレスレです。
まぁ、先が見えているくらいの長さではありますので、すぐにトンネルは抜けます。
トンネルを抜けた先、ひだりてには岩の飾り棚のようなところがあって、そこには六地蔵さまと、閻魔さまと奪衣婆さんの像が並んで祀られています。
それにしても…。
やたらと小石が山のように積まれています。
石の上、石塔の上、石仏の前。
これ以上積めない限界まで積んであります。
お地蔵さまの足元にも閻魔さまや奪衣婆さんの膝の前にも…大きな岩に囲まれてはおりますが、こんなに小さな石はあまり落ちてはおらず、懸命に小石を拾い集めてからその目的物の前に来るのでしょうか?


ん?
さらに進むと、可愛らしいユーモラスな狛犬さまたちです。
好きだなぁ、この狛犬さん。二へぇと笑っておられるようなお顔立ちです。

No.155 22/07/11 16:02
旅人 ( pu5bob )

たくさんの石が積んである様子が見られたと述べましたが、これ、群馬県ではあまり見られないものなのです。地域によってはこの石の積まれたところを見ることもありましたが、以前から長野県には多く見られると感じておりました。
というか、どちらかと言うと群馬県が少ない?

このような〝積石〟、山道のほか、神社などでも見かけます。
石の信仰にルーツがあり、神さまを祀ることを目的にしているからなのだといわれているようです。

また、あの世へと旅立った魂を静める、追悼の意味で積石をする習俗もあるのだそうです。

誰がいつ積み上げたのか…ちょっと独特な、神秘的な雰囲気であります。

No.156 22/07/12 04:51
旅人 ( pu5bob )

何日か前のレスで書きましたように、本日七月十二日から十六日まで、七十二候の『蓮始開』にあたります。
今年は早くから酷暑だったせいか、私の住まう辺りの蓮はすでに満開の時を迎えてはおりますが…。

多くの仏さまが蓮華座におられるように仏教と蓮の花の繋がりは深いものであります。

もともと仏教が成立する以前から、
インドでは蓮は聖なる植物とされていたようですが、泥の中から生えながら、穢れのない清浄な花を咲かせる蓮の花は、仏教の「煩悩にまみれた者が悟りを開いて仏の境地に達する」という理想に合致していることもあり、その教義にもとりいれられていきます。

『法華経』の〝華〟は『白蓮華』、白い蓮のことだとする説があるようです。
泥の中に根を張りながら穢れない清浄な真っ白な花を咲かせる白い蓮は煩悩に俗されない清浄な心を思わせるためといいます。

また、『華厳経』で説かれる蓮華蔵(れんげぞう)世界の〝蓮華〟は『紅蓮』、赤い蓮を指すという説もありました。

蓮華層世界とは、『全ての世界は、
廬舎那仏(るしゃなぶつ)の中に含まれている』という華厳経で説かれる世界のこと。紅蓮華は、仏の慈悲から生じる救済を象徴するという説のようです。

私がよく見かける蓮のそのほとんどはピンク。私という人物が仏の道から遠く離れているから、でしょうかね。うーん。

それでも。
青い夏空に凛と咲くピンクの蓮も、心が浄められるような思いがいたします。

No.157 22/07/12 06:41
旅人 ( pu5bob )

…こいつ、よく話のあっちこっちするやつだったが、暑さでいよいよ脳が溶けたか?と思われましても否定できない。
それは暑さのせいではないかもしれないけれど、確実にボケが進んだ自覚があることと、今回やたらと話があちこちしている自覚もあるからで。

布引山釈尊寺さんに話を戻す…と見せかけているように見える形で申し訳ない。
にへぇっと笑っているようなお顔立ちの狛犬さんについて少し書きます。

この狛犬さん、安永4(1775)年九月の建立とあります。
江戸時代中期の『江戸狛犬』といわれる狛犬さんのようです。
ほとんどの石工たちが、まだ狛犬というものをよく知らずに造ったとされ、『江戸はじめ』と呼ばれているそうです。
江戸に限らず、全国的に散らばっている「初期型狛犬」ということにもなります。
個性が出やすいのとはいえ、やはりいくつかの共通点はあるようで、
まずからだの特徴として、
①全体に小ぶり。
②渦巻き模様など装飾的な要素が少なく、平板。
③前脚の間をくり抜いていないものが多い。
④尾も目立たず、ほとんどないものもある。
お顔の特徴としては、
①彫りが浅い。
②巻き毛や牙などの「パーツ」が少ない。
③鼻や目が小ぶりで、あまり恐くない。
となります。

そう、小ぶりで、あまり恐くないんです。…そう聞くだけでかわいくないですか?

群馬県にもよく似た狛犬さんがおられるのですが、もともと狛犬さん好きな私としては、もう声が出ちゃうくらい可愛らしい。
そう、また狛犬さんの周りでうろうろといい加減時間を費やした私であります。
えっ?夫ですか?
…夫も写真撮影の順番待ちをしていました。似た者夫婦?
いえ、全くかけらも似ていません!

No.158 22/07/12 09:19
旅人 ( pu5bob )

狛犬さんの護る参道を少し進むと、また岩肌に組み込まれた御堂があります。やはり格子戸のはめられた赤い御堂です。『愛染明王』という額が掛けられています。

さらに視線を真っ直ぐに向けると。
立派な屋根の赤い御堂が見えます。よく見るとそれは側面。
側面からの入り口にあっても屋根の妻のある丁寧な入り口となっており、それも当然、ここしか入り口はない、正面は断崖絶壁の懸崖造りの観音堂さんです。
そう、布引観音さまの御堂です。

崖に沿うように建てられたのではなく、やはりこちらも御堂自体は崖を掘って崖の中にあります。
というか崖を掘った空間が御堂となっているようです。
懸崖造りで張り出した部分で参拝いたします。その天井にも格子に一枚一枚異なる絵がはめ込まれていて、奉納者の名前が書かれています。
美しい風景画です。
板に直接筆で描かれており、常に外気にさらされているため、だいぶ薄れてきてしまってはおりますが…。
お賓頭盧さまの木像も御堂の前におられます。
御堂の中は…薄暗くほとんど中の様子は拝することはできませんでしたが、金色の光背のある御仏の像が三体安置されているように見えました。
小さな、やはり金色の御仏の像が棚に何体もおられるようにも見えます。あくまでも、私にそう見えたと、いう程度にとらえてやってください。薄暗いだけでなく、大きなお賽銭箱とお賓頭盧さまで、格子戸の側にまで行けないので。
調べたところ、ご本尊の『聖観音』さま、『十一面観音』さま、『馬頭観音』さまであられるようです。
そして小さな御仏の像は百体の観音さまのようでした。

釈尊寺は幾度も火災に見舞われていますが、岩屋の奥深くにあった観音堂も、そしてそこに安置されている宮殿(くでん)と呼ばれる厨司も、鎌倉時代の正嘉ニ(1258)年建立のまま残っているのだといいます。

鎌倉時代、ですよ?
クレーン車もない研削機もない時代です。…それがここまで入って来られるものかどうかは素人なので置いておいていただいて。
断崖絶壁の岩山に高さ二十メートルともいわれる懸崖造りの御堂ですよ、…すごいなぁぁ。

ご本尊は秘仏とのことで、本来その宮殿内(もしかしたらその宮殿自体も奥は岩山を掘ったものなのかもしれません)におられるのでしょうか。

No.159 22/07/12 09:22
旅人 ( pu5bob )

宮殿は昭和二十六(1951)年に修理復元されたとされています。それまで一度も手を加えられていなかったもののようです。
やはり薄暗い洞窟の中にあるのでよくは見えなかったのですが…。
何やらその宮殿、国の重要文化財のようです。国宝じゃないんだ…。

この宮殿の妻の部分にある(という)『梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)』というものがつけられているということで、これ、日本唯一の鎌倉時代の遺物らしいです。
写真とかの展示もないので、どんなものかすらわからないのですが、なんでも、従来は絵巻物として鎌倉時代に存在したことが知られているだけであったようです。
それがこの宮殿によって当時の現物の存在が明らかになったという何やら大変貴重なもののように素人のおばさんは思うのでありますが、ね。

私の目には、小さな、神さまをお祀りするお社のような建物に見えました。元の色は黒?だったのでしょうか。部分的に翡翠色に塗られた部分があり、その扉は金箔が施されていました。
岩肌に接して安置されています。

これ…。国として保護していかなくていいのかなぁ。
国宝と重要文化財ではその扱いやら、保護が全然違うと思うのだけれど…。その辺はおばさんがいくら語ろうが何にも変わらないし、変えられないし、調べたところで虚しいので、この辺で。

No.160 22/07/12 11:32
旅人 ( pu5bob )

こちら布引観音さまは、まさにそろそろ蓮の花が咲こうとしておりました。
崖に立てられた柵の外側に鉢が置かれ、そこに蓮が植えられています。
蓮が咲いたらそれはこの見事な景観のうちに咲くものであります。
それはまた見事であろうなぁ。


で。
忘れそうになりましたが、あの使われていないのではないかと思ったという御堂と、岩山に組み込まれてはいない御堂について、御朱印をお授けいただく際にお伺いいたしました。
使われていないのではと思った御堂は『護摩堂』なのだそう。使われているかどうかまでは、さすがにちょっとデリケートなものなのでお聞きしませんでした。
そして、何やら新しそうな、崖に埋め込むように建てられていないと申しました建物。
それ、な、なんと!新しいどころか、室町時代の建物なのだとか。
つまりは観音堂の次に古いものということとなります。
こちらはどこか別のところにあった『白山社』を、何やら移動する必要が生じ、粗末な扱いはできないということでこちらに移築したとのこと。
…「なにやら新しそうな…」とか書いてましたよね。
ええ、白木の、私には新しいものとしか見えなかった建物です。室町時代、だそうです。
骨董品とかならいざ知らず、白木の建物の新しい古いもわからないなんて。

珍道中もいいところです。
もはや時空すら超えましたかね。

No.161 22/07/12 11:50
旅人 ( pu5bob )

布引観音堂さんの横に布引岩というのがあるそうです。
おそらくは白く見える岩肌のことを指すのだと思います。

布も岩になりましたか…。


さて、こちらで御朱印をいただきました際、いただきました〝縁起〟が以下となります。

読んでかみ砕くのに時間がかかる私でありました。
白い紙に赤い字で、牛と老婆の姿を交え書かれたものでありました。

 [布引山釈尊寺縁起]

牛に引かれて布引の 山々布引く釈尊寺 御寺を詣る人々は 山の縁起をたづね見よ
  
寺は聖武の御時に 僧の行基が開基より 西行法師も三年へて 晒らす御歌を残しけり
  
それその昔なつかしく 千曲川辺の赤岩や 信心浅き夫婦等が 世にも稀なる言ひ傳ひ
  
或日媼は留守居して 川に布をば晒せしが 一匹の牛現れて 布をば角にかけり行く
  
媼驚き後追いて 北へ走れば善光寺 思はず詣る御仏の 光り仰ぎてひざまづく
  
戻りて仰ぐ布引や 山風時にあれいでて それかと見れば岩上に 晒せし布を吹きつけぬ
  
今布岩の名もそれよ 取るにすべなき岩壁を 見る見る媼は日を過し いつか化石となりにけり
  
翁媼を探しきて 化石となれる悲しみに 岩にまばゆき布見つつ 烟と遂に消へ失せぬ
  
後人それを憐れんで 祠を立ててまつれるか 牛と化せしもありがたや 聖徳太子の観世音
 
霊験日々に新たにて 光りかがやく布引の 山の真清水くむ人は 心すまさぬものぞなき

No.162 22/07/13 01:51
旅人 ( pu5bob )

さて。
小諸といえば、小諸城、小諸城址である懐古園…くらいしかパッと頭に浮かばないのが私。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ

有名な島崎藤村の詩でありますが、遊子=旅人であります私は、その古城のほとりに行ったとて、雲が白いことに心が弾んでしまうくらいですし、そもそもが小諸城って誰のお城?というところからつまづくくらい。
まぁ、布引観音さん、釈尊寺さんに参拝いたしましたので、牧野氏が城主であった時期もある、ということは学びました。
廃藩置県の頃まで城主のいたお城であったことも、かつて子供たちと共に懐古園に行って学んでおります。

でもその最後の城主は誰だ?

…そんな奴でございます。
懐古園は駐車場料金と別に入場料も
かかるので、たいそうもったいない。
なので今回は懐古園ではなくて小諸にあるお寺さんをまわらせていただきました。

そのひとつが夫のおすすめでありました【海應院】さんであります。

No.163 22/07/13 09:05
旅人 ( pu5bob )

この【海應院】さんは、夫が事前に調べて行きたいと思っていたところということで向かい…向かうのですが、そう、あの珍道中の隠れた立役者、メーカー純正ナビさんが、またまたとんでもない案内をしてくれたのと、この小諸というところは、古くからの土地柄ということなのでしょう、駐車場がほぼない状態で、海應院さんの周りをぐるぐると走ることになります。
それでも私どもも…夫は、ですね、…夫はナビの癖を学習してその先をさらに読むようにしてはいるのです。
ナビ上に示される地図を見て、正面と思しきところ、駐車場と思しきところ、そこへの道を見て、それでナビに指示を出すようにしているのですが、今回はその正面がどちらにあたるか、駐車場と思しきものはどこかが、一切読めなかったのです。

で。
最悪銀行さんの駐車場に、と思ったところでお寺さんの駐車場を発見したという次第で。
これはナビに分かろうはずがない。

ということでようやく到着した海應院さん。なぜか裏口から入りました。通用門が開けられていたので、もしやここから入るのか?と思って入ってみました。どうやらその通用門、この辺りを散策される方々のために開放してあるようで、御本堂の真横に出る門でありました。

ん!?

うわぁぁ。まず目に入ってきたのは大きな松の木。そしてお寺の境内を横切るように建てられた渡り廊下であります。庫裏と、鐘楼と、それから…檀家会館のような建物になるのでしょうか。雨が降っても傘をささずに移動できる瓦の葺かれた風情あふれる渡り廊下です。
私はその渡り廊下に目がいったのですが、下調べしてあった夫は松を見ていたようです。
私はこの時もう松の方はまるで眼中になかったので、それは後々書くとして。
まずは御本堂前で合掌参拝させていただき、私たちは正式な入り口を目指して歩きだしました。…そう、二度も前を通った細い山道です。
山門の横にこちらの御由緒書きが二種類、立看板となって設置されていました。こちらもきちんと屋根のある例えるなら大きな伝言板のようなものとなっています。

曹洞宗 福聚山無量寺海應禅院というのが正式な名称のようです。
天文五(1536)年の開山のようです。
本寺は群馬県松井田にあります補陀寺だとされています。


No.164 22/07/13 17:14
旅人 ( pu5bob )

この海應院さん。
天文五(1526)年の開創で、当時は小諸城内五軒町というところの左端にあったといいます。

慶長五(1600)年、後の二代将軍『徳川秀忠』公が関ヶ原に向かう道を『真田昌幸』に阻まれて小諸に足止めされた折、海應院住職が間に入って和睦を成立することができただそうです。
その御礼として秀忠公から【下馬札】と、徳川家の印の入った団扇と、高麗焼の茶碗を賜り、それは今も本堂に展示されているのだといいます。
【下馬札】があるお寺ということで、江戸の時代が終わるまで、参勤交代の大名は駕籠や馬から降りて寺の前を通過していました。

慶安ニ(1649)年に今の場所へと移動となるのですが、これは元あった所が城主の御用地にあたるということで替地として元々寺のあった現地を与えられて現地に移動したということのようです。

寛文時代と寛政時代に火災があり、ことに寛政五(1793)年の火災でこの時、古い記録や寺宝がことごとく失われたと記されています。
しかしながら、秀忠公より賜った下馬札等と、前庭の老松は再度の火災にも残ったといいます。

前庭の松は平成十二(2,000)年
現在で樹齢三百七十年といわれ【潜龍の松】、と呼ばれるものであります。

なお、【コモロスミレ】というこちらの境内で発見された天然記念物があるそうで、濃い紫の八重の花を咲かせるものなのだとか。
今もこちらの参道に咲くのだといいます。

No.165 22/07/13 17:41
旅人 ( pu5bob )

そんな大人向けと子供向けの二種類の説明が、山門の外に大きく掲示されています。
こちらのお寺さんの寺紋は長野県善光寺さんと同じものでありました。
善光寺さんの寺紋は『本田善光』卿の家紋であるとされます。
ちなみに善光寺の寺紋は『立葵紋』、そして徳川家の家紋はあの有名な『三つ葉葵紋』
実は本当は家紋というものは平安末期とのことで、本田善光卿の家紋ということですと時代関係の辻褄が合わないらしいのですが、ね。

まぁそういったものは研究者さんにお任せします。
同じなんだなぁと思っただけで、私にしてはなかなかの観察力と着眼点ということで、もうそれで満足なので。

そういった由来とかの書かれたものはないようです。
ただ、善光寺さんは無宗派でこちらは曹洞宗。厳密にいえば善光寺さんは『大本願』と『大勧進』とがあって大本願は浄土宗、大勧進は天台宗。
まぁ、たまたま、なのかもしれないし。
同じだったよ。へぇそうなんだ。
くらいにとらえてやってください。

No.166 22/07/13 22:45
旅人 ( pu5bob )

本当は裏口から入っているので、戻る道はすでに通ってはいるのですが、できるだけ見ないように見ないようにと歩いてきて、いかにも山門から歩いて登っていくかに、自分の記憶を改ざんしようとしていたり。

山門を通って。石畳の参道を歩きゆくと私好みの御仏が四面に彫られた石幢があります。
突き当たります。
それを北に曲がると、薬医門様の中門があります。この門の冠木には山号の偏額【福聚山】が掲げられています。
さらに渡廊下門をくぐると本堂が目の前に広がっています。
いかにも大きく広そうな御本堂は、あるいは座禅修行の場ともなっているのかもしれません。

そんな御本堂前は広々とした芝庭園になっていて、そのひだりてには、樹齢380年を超えるという【潜竜の松】が圧倒される存在感で横たわっています。
潜竜というのは、『いまだ湖水・河川あるいは低い雲のなかに潜んでいて、天高く昇らない竜』だといいます。

根元から立ちあがり横に這う松の幹は竜の身体で、松の枝葉は竜が潜み隠れている雲あるいは水煙に見立てることができます。
ひび割れた幹の表皮は、あたかも竜の鱗のように見えます。
地面近くに低く身体をくねらせている松の形は、いかにも今は身を伏せてこれから天への飛翔を狙う竜の趣があります。
この松もまた大変手入れ良くされています。
本当にきれいな庭園…境内です。

御朱印をいただきました。
【福聚海無量】【急急如律令】と書かれています。
き、急急如律令、で、ですかぁ?
安倍晴明さんですかぁ?
…このお言葉の書かれた意味をお聞きしようにも、すでに庫裏の戸は固く閉ざされてしまいました。

帰宅してのち調べたところ、このコロナ禍が速やかに落ち着くようにとの願いを込めてお書きになられているようです。
ちなみに…対応してくださったのは女の方であまり何かをお聞きできるような雰囲気の方ではなく、書き置きの御朱印を渡すとスッと戸をお閉めになりました。
コロナ禍、あまりこういった対応もこころよくはないものかもしれません。申し訳なかったです。

No.167 22/07/14 02:31
旅人 ( pu5bob )

かつては酒屋さんを営まれていたという、お花好きのご夫婦のお庭は、元はお店の駐車場であったものも含まれてかなりの広さにもかかわらず、所狭しとお花が置かれています。

「あなた〝レンゲショウマ〟をご存知かしら?」
存じ上げないとお答えすると、
「とても清楚で可憐なお花なの。ぜひ見に来て」

クルマで十五分くらいのところにあるそのご夫婦のお宅です。

さて、どうしよう。

コロナ禍、また大きな第七波が訪れてしまいました。

No.169 22/07/14 06:54
旅人 ( pu5bob )

今日七月十四日は、栃木県日光市の【慈雲寺】さんの法楽の日だと、輪王寺さんでいただいたカレンダーに書かれています。
ほおぅ。

慈雲寺さんは今は無住の、『憾満が淵』にあるお寺さんで、【並び地蔵】別名【化け地蔵】とも呼ばれるお地蔵さまで有名なところです。

うーん。
夫が仕事に出たあとに出発しても間に合うんじゃない?(おいおい、単独かよ!というお声がかかりそうですが。笑)

そこでちょいと輪王寺さんのホームページを確認いたしましたところ、
『毎年お盆中の7月14日にこの慈雲寺にて当地に眠る万霊の回向をしています。
期間:7月14日 午前8時20分 』


…。

今すぐ出れば余裕で間に合うけど、それはちょっと。さすがにご主人さまのお食事のお支度をしないと…。

そうかぁ。
お寺さんの朝は早いよなぁ。…私の朝も早いのだけれど、なぁ。

せめて家から祈ろう。また大きな波がきてしまった新型コロナウイルス感染症の収束を。
若者たちが希望が持てる未来になりますように。
再び人々が、愛しい人と心身を寄り添わせ生きられる世となりますように。


…慈雲寺さんの法楽、〝当地に眠る万霊の回向〟だってば。


No.170 22/07/15 09:20
旅人 ( pu5bob )

群馬県の私の住まう辺りは八月盆ですが、東京など地域によっては、盂蘭盆会(うらぼんえ)が行われる期間。

お盆は正式には『盂蘭盆(うらぼん)』といい、サンスクリット語で、『逆さに吊るされたような苦しみ』を意味する『ウランバナ』の音写という説と、イラン語で『魂』を意味する『ウルヴァン』の音写との説があるといいます。
日本では盂蘭盆会の期間に盆器に供物を供えることから、略してお盆と呼ぶようになったとも言われています。

お盆の由来は、お釈迦様の弟子の『目連尊者(もくれんそんじゃ)』が、餓鬼道に落ちている亡き母を救うのはどうしたらよいのかと、お釈迦さまにお聞きしましたところ、雨季の『安居(あんご)』という修行が終わる『7月15日の満月の日』に僧達を集め飲食を供養するとよいと言われます。
修行を終えた僧たちに飲食をふる舞い供養したところ、母は極楽浄土へと行くことができたという言い伝えに習い、始まったとされています。

そんなお盆、実は満月と深い関係にあり、旧暦では十五日が満月、朔日は新月ということで、お盆のお中日は必ず『満月』だったということになります。
昨日はあいにくの雨でありましたが、スーパームーンであったそう。

満月の月をご先祖さまはじめ、亡き人と愛でると思うと、なんだかとても風情があります。


また、お盆の時期に、『施餓鬼会』を行うお寺さんが多いよう思います。
もともと施餓鬼会は、期日を設定して行うものではないので、それが春や秋のお彼岸であったり、お寺さんによってまちまちであります。
お盆中に施餓鬼会を執り行なうお寺さんが多いのは、お盆の期間はあの世とこの世の境があいまいになり、ご先祖さまの霊だけでなく、無縁精霊や餓鬼、地獄の精霊もやって来るとされるため、盂蘭盆の期間に施餓鬼会を行い、多くの精霊が救われるよう供養するようになったとも。


そう言われるとなんだかお盆期間がすこぉし怖くなる私でありまして。

うーん。
そういえば子どもの頃、鬼太郎の妖怪ポストが本当にあればいいのにと、思ったことを思い出しました。
怖がりなくせにそういったお話やらテレビ番組が好きな子どもでありました。

No.171 22/07/15 12:00
旅人 ( pu5bob )

海應院さんでお授けいただいた御朱印に書かれていた【福聚海無量】という言葉。
何かありがたい意味のある言葉なのだろうと調べてみました。
【観音経】の中の最後にある一節なのだそうです。

具一切功徳 慈眼視衆生
福聚海無量 是故応頂礼

具一切功徳 :一切の功徳を具し

慈眼視衆生 :慈眼をもって衆生を視たもう

福聚海無量 :福の聚(あつま)れる海は無量なり

是故應頂礼 :是の故に應(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし

というもののようです。

福聚海無量という言葉は、この御朱印に書かれていることからもわかりますが、この一文だけを切り取って使われることがよくあるようで、掛軸などにもよく見られるもののようです。
福聚海無量の〝聚〟の文字が〝寿〟とされている書もあるようです。

なるほどこちらは【福聚山無量寺海應院】さん。山号寺号、この観音経の福聚海無量からなされています。

しあわせをもたらす功徳の量が海のように広大であるということであり、観音さまの福徳を賛美していった語となります。

ここまできたら、海應院さんのご本尊さまは観音さまなのかと思いきや、釈迦如来さまとのこと。

うーん、ふ、深いなぁ。

No.172 22/07/15 20:34
旅人 ( pu5bob )

日本では古来死者に鞭打つことは慎むべきという倫理観があります。
〝死んだら仏〟という言葉があるくらいです。

あまりに衝撃的な亡くなり方にショックを受けたこと。
死を悼むこと。
それは多くの国民がそうあった、そうであったと思います。

でもそれと国葬とは違う。
全額国税ということも含めて、あり得ないことです。

もっと国民を見てください。

国民が安倍氏の死を悼む気持ちを、台無しにしていることに気づいてください。

自民党がそういった形で送りたいなら自民党葬という形でいいでしょう?政治献金はあるようですし。

私は死者に鞭打ちたいわけではありません。
国葬というものに反対するだけです。

もう葬儀はすでに執り行われました。増上寺さんは立派なお寺さんです。そこでしめやかに執り行われました葬儀になにが不足しているというのです。
増上寺での葬儀には、家族葬と云いながら多くの著名人が参列していました。
どこで線を引かれるのか、一般弔問者の献花台があり、自分は家族ではないからという良識を持った方がそちらに献花や記帳をしたというわけですか?
だから、全ての人が参列できるよう国葬がしたくなったのですか?

ならば自民党葬をそういった形で執り行えばいいでしょう。

国葬を執り行なわれる方とはどんな方なのですか?
何を元に誰が決定するものですか?

決定しないでください。

安倍氏関連での税金の無駄遣いは、もうあのマスクで終わりにしてください。



No.173 22/07/16 20:46
旅人 ( pu5bob )

この海應院さんのそばには、ナビの画面どころかまさに目の前にお寺さんがありまして。
それも一つではなく二つも。ただ、どうナビ上の地図を見ても駐車場があるように見えない。

そこで駅側等に駐車場はないかと、探すためいったんその辺りから離れました。
うーん。…わからない。

古い、城下町の名残が色濃く残るこの小諸の土地はナビに映る道路をみてもどこに出、どこにつながるのか、なかなか読めない。
とりあえず、駅側には駐車場はないらしいことは現地をみてわかりました。
どうしよう。

懐古園に行けば駐車場はあります。
そこから歩くか。
そう話すうち、ナビに本陣主屋というものが映し出されていることに気づきました。そのそばには大手門があり、さらにその辺りに行けば、こもろ観光局というものが!
交番もすぐそばにあります。

そこだ!

しかも大手門があるではないですか!はじめて懐古園を訪れたときとはまるで違った印象であります。



No.174 22/07/17 06:52
旅人 ( pu5bob )

懐古園を初めて訪れたときは、まだ幼い子どもたちを連れてのことで、そもそもが懐古園が城跡といった認識はなく、動物園など子どもたちの喜びそうなところということで選んだ場所でした。
それでも、中に入って歴史オタクの夫の解説を聞けば、なるほど城址と思われたもので、遊子(当時の私の)はその時の流れに無常を感じ、あわれを感じたりしたものであります。
まぁ、子どもが喜ぶための公園ではなく、あくまでも小諸城の跡を遺そうとしたものでありますので、子どもを喜ばせるといった意味ではあまり面白いところとはいえませんでした。
そして今も城址とかにはまるで興味が持てない私は入場料のみならず駐車場料金まで払って、三度目の来園…をする気にはなれず、駐車場としてのみしか考えておらず、ならば大手門や本陣主屋の方に行けば駐車場もあるやもしれないと、ローリング。
そも、ナビ上にある観光局というところに行けば、駐車場等の情報が得られるだろうと、そこを目指しました。

そのこもろ観光局のすぐ前に。立派な駐車場があるではないですか!
まあ、当然有料駐車場ですがね。
そしてその観光局に伺いたかったのは二つのお寺さんの駐車場情報。そこから歩こうとか考えてはおらず、観光局の隣の空き地に停めて、まずはその空き地に停めて良いものかをお聞きしましたところ、
「前の駐車場に入れてください」
ええぇっ?
他の駐車場のありかを聞くだけで?
有料駐車場に停めなければならないって?
笑顔で話しているものの私の内心は上記したもの。
そんな観光局では小諸はさらなる観光地としての発展は望めないぞ!と内心思いながらの笑顔。
なんて裏表のあるヤツでしょう。

しかぁし。
その駐車場、二時間までは無料とのこと。
内心でだけ怒ってて良かったぁぁ。
でも結局のところ教えてもらったのはそこの駐車場が二時間無料という情報のみ、で終わってるんですがね。

少なくともそこから大手門はすぐそばです。

なんならここから歩いてあのお寺さんまで行って帰ってきても、さらなる追加料金は一時間ごとに百円と駐車場に書いてありました。

よぉし、ここから歩いていこう!

No.175 22/07/17 22:37
旅人 ( pu5bob )

前回も述べました通り、私、お城そのものが残っているものであれば
それは「おおっ!」とか思い、入れるものなら是非にと希望し、かつてそこに暮らした人たちに想いを馳せたりもするのですが、「かつてここに…」のような、〝穴〟だとか〝崖〟だとかですと、お城の知識というものが皆無ですので、全くイメージできず。

ここ小諸の小諸城のように全国的にも珍しかったという、城下町よりも低い穴城とか言われてもまるでピンとこず…。
やはりこちらも大手門、だとか、三の門とかを見ても、「おおっ!大きい!」程度の感想しか述べられず。
ただ、大手門、三の門の間の距離、さらには懐古園までの距離を思うと、「うーん、お城って大きなものだなぁ」というくらいにはイメージできるかなぁ。

そんな私ですから、夫につきあって大手門を見たというだけで、まさに小学生の社会科見学レベル。
そう、「おおっ、大きい!」と思った、ただそれだけで…。全国のお城好きの方々、すみません。

大手門を見、つらつらと歩いてまいりますと、こんどは鍋蓋城跡となります。鍋蓋城は戦国時代に造られた平山城の跡だといいます。こちらにいたってはもう私にかかっては「へぇぇ」ぐらいの言葉しか出てこない。
でもそれは私だけじゃないんです。
ここ小諸に住んでいたかつての方々もそうだったんです。
鍋蓋城跡、実に昭和の時代に城跡を突っ切って道を通しちゃってるんですよ、えぇ。
そんなわけで私としては『鍋蓋城跡』というよりは伝統建築の並ぶ古き良き時代の商店街を歩いているような感覚でしかありませんでした。
味噌醤油屋さんですとか、骨董屋さん、呉服屋さん等々。

そんな街並みを堪能しながら歩いていると、何やら門が!
そうそう、ここ、ここ!
扁額のかかった、小さいけれど立派な門の、【光岳寺】さんであります。



No.176 22/07/18 13:17
旅人 ( pu5bob )

その扁額、『天機山』と書いてあります。
そう、光岳寺さんの正式な名称は【天機山傳通院光岳寺】。

光岳寺は『於大の方(徳川家康の生母)』を弔うために、ひ孫にあたる『松平憲良』公が寛永元(1624)年に建立したもの。

慶長7(1602)年に於大の方が死去すると位牌寺となり、於大の方の法名「傳通院殿蓉譽光岳智香大弾定尼」から【光岳寺】と号するようになったといいます。

当初は松平康元公の領地である下総関宿(千葉県野田市関宿三軒家)にありましたが跡を継いだ松平忠良が慶長20年(1615)に大垣藩(岐阜県大垣市)に移封になると大垣に、松平憲良が寛永元年(1624)に小諸藩に移封になると小諸に随行しました。
その際、旧小諸藩主の菩提寺だった『松翁山芳泉寺』の境内を受け継ぎ、改めて開山し【天機山傳通院光岳寺】としたといいます。

正保4(1647)年に憲良が死去すると嗣子がなかった為に改易となると庇護者を失います。
代わって入封した牧野家から庇護され、それから後の明治の世となった折、牧野家の菩提寺である『泰安寺』が廃寺になると歴代牧野家の位牌が移されています。
【光岳寺山門』は江戸時代中期の享保元】元(1716)年に建立された楼門で、内部には釈迦如来像や文殊菩薩像、十六羅漢像が安置されておられるそうです。

【光岳寺総門】は【小諸城】から移築された【足柄門(高麗門造り)】。
案内板によると『足柄門』は、慶長元(1596)年に建造されましたが、寛保2(1742)年の大水害により流失してしまったそうです。
現存するものは明和2年(1765)に再建されたものといいます。
明治5年(1872)、光岳寺山門として移築され、平成12年(2000)に修理・修景事業が行われたようです。

そうなんです。
徳川家、それも家康公の生母に縁あるお寺さんです。
御本堂の屋根には『徳川』『松平』『牧野』の三つの家紋が掲げられています。



No.177 22/07/18 15:58
旅人 ( pu5bob )

…などと光岳寺さんのあれこれを書いておりますが。
実際は…。

かの小諸城から移築したという山門、足柄門をくぐると、ですね。
ゆるりゆるりとこちらに向かって歩いてくる一匹の猫が♡
このあとの写真はもう、猫の写真集か?ってくらいに、猫、猫、猫♡

歩いてくる様子。近づいて甘える様子。
そんなことではいけないと山門に向かって歩き出しますと、な、なんと猫も一緒に歩いてくる!
そうなるとまた嬉しくて。
こちらのお寺さんでは本当に猫の写真しか撮っていないことにびっくりしました。
屋根の上の〝徳川〟〝松平〟〝牧野〟の家紋どころか、御本堂の写真すらないんです。
鐘楼の脇を過ぎると、猫が先だって歩いて行きます。
もうまるで「御本堂はこちらだよ」とばかりに!
そして御本堂前で参拝している間も見守るように御本堂すぐ前で待っていてくれるのです♡

…変わった模様の猫さんです。白と黒のハチワレかとおもえば、お鼻の辺りに黒猫の座った後ろ姿のような模様があるんです。でーんと座ってしっぽを横に流して座った猫の後ろ姿そのものです。前脚には膝当てがあり。後ろ脚には白と黒の何とも不思議な模様があって、両足には白いソックス。


…すみませんねぇ。

珍道中一家は揃いも揃って全員猫好きなんです。
まぁ、この日はいつもの珍道中コンビしかおりませんでしたけれど。
夫などは猫を見ると猫撫で声となり、顔などはもうとろけてる感じ。

こちら、光岳寺さん。
…レスをあらためましょうかね。

No.178 22/07/19 07:16
旅人 ( pu5bob )

…と、いうわけであらためて。

光岳寺さんはちょっと複雑な交差点の突き当たりにあります。
伝統建築の並ぶ風情ある通りを歩いて行った突き当たりに、かの小諸城から移築したという足柄門が見えてきます。
足柄門は切妻の瓦葺。お城から移築したという割にはいたく小さな門であります。
近づいていくと少し変わった建築様式であることがわかり、四本の柱があって、うち二本はその切妻の瓦を載せたもので、その柱の前に二本の柱があって、それを冠木でつないであり、その前にある柱にも小さな瓦葺きの屋根がついているのです。
それを高麗門形式というようです。
この高麗門形式というのは、屋根の奥行きを薄くできるため城内からの視覚を遮る面積が少ないため、城門としても好んで採用されたもの、なのだそうです。
…あら。お城では多く見られるものらしいです。
小さいのは置かれた場所柄のようで、二の丸と三の丸の間の土手を崩して道を作ったそ、その通りにかけられた門だったようです。

その足柄門…ではなくて総門をくぐると、猫…ではなくてひだりてに見事な針葉樹があります。まるで空に浮かぶ雲をイメージしたかのような剪定がなされています。
石畳の参道が敷かれ、その正面には大きな楼門がそびえています。

楼門の手前右側には、大きなお地蔵さまの石像が。
大きめなお地蔵さまにさらに大きな光背があります。優しくて、そして凛とした、良き方へ導いてくださるようなお力を感じるお地蔵さまです。

No.179 22/07/19 13:51
旅人 ( pu5bob )

光岳寺さんの楼門のそばにおられるお地蔵さまの護るお力、そして良き方へと導こうとされるお力の強いこと。
それはこのお地蔵さまの石仏に込めた祈りと願いもあるようです。
『流死精霊爲菩提也』
『○○旅人馬足難除』
と彫られておりました。
たった一枚だけ、それも横から写させていただいた写真からそう読み取れました。
(…猫に気を取られ過ぎたため、向かって左側に彫られた二文字が読めません。泣)

さらにはきっと楼門におられる釈迦如来さま、文殊菩薩さま、十六羅漢さまたちのお力と相まってあるのでありましょう。

こちらのお地蔵さまのお写真を他に撮られた方はおられぬかと、ネットを検索いたしましたが、一枚のみで、その一枚は文字をぼかされたのか一文字も読めず。
お力もある、大変お美しいお地蔵さまです。
楼門や、迎え出てくれる猫に気を取られてしまいがちなところにおられますが、こちらをお訪ねになられる方がおられましたら、ぜひこちらのお地蔵さまもお参りなさってください。
あ、ちなみに、ですが、私、霊感もスピリチュアル的なんちゃらも何もなく、ただの私の直感であります。

そして…。
ネット上、こちらの楼門に登り、釈迦如来さまや文殊さま、十六羅漢さまたちのお写真をお撮りになった方が何人かおられました。
…いつなんだろ。
いた御開帳されるんだろう。

遊子(私)は今ごろになって悲しんでいます。

No.180 22/07/19 17:10
旅人 ( pu5bob )

群馬県松井田町の【碓氷峠熊野神社】さん、そして長野県軽井沢町の【熊野皇大神社】さんにお参りいたしました。
二ヶ所の神社さんにお参りしたなら一つずつ書けばいいものを…と思われた方もおられましょう。

しかしながら、この二つの神社さんを語るには、このように二つお名前を並べてお書きした方が伝わりやすい。(ただでさえわかりづらい、不思議な日本語を使うおばさんが書いておりますし)

何故ならば。

鳥居のちょうど中央に県境があり、一つの境内に【熊野神社】さんと【熊野皇大神社】さんが鎮座している、世にも珍しい神社さん、なのです。

…通じました?
日本語にすら自信がなく、当然それに付随する語彙力も乏しいおばさんなので、ちょっと変わったものを紹介するときには、ちゃんと正しく伝わっているかどうか、かなぁり心配になります。

元は一つの神社さんだったらしいのです。
かつては〝長倉神社熊野宮〟または〝長倉山熊野大権現〟と称したようです。
時が流れ、社地が信濃國と上野國の境界となり、上野國も入ったために〝熊野宮〟〝皇大神社〟〝碓氷神社〟等さまざまな呼び名があったようです。

社殿は一つの神社さん。
地元では『峠さん』と呼ばれると言います。
社殿はその県境の中央に、そして左右、それぞれの県に宗教法人がある、というわけです。
つまりは戦後、宗教法人法が制定され、都道府県ごとに登録することが必要となったためにこのような複雑にしてユニークな神社さんとなったというわけで、決してそれぞれの県の商売っ気からそうなったわけではないのです。

つまりは社殿は一つながら、それぞれに宮司、責任役員、氏子総代がいて、この一つにして二つの神社さんを維持しているということのようです。
御祈祷も別なら、当然、御守りや御朱印も別々に存在しています。

当然、県をまたいでおりますので、住所も二つ。
熊野皇大神社は、長野県軽井沢町峠町一番地。
熊野神社は、群馬県安中市松井田町峠一番地。
まぁ、県こそ違えど、同じ峠一番地というところも、ユニークといえばユニークな。

そうそう、映画化もされたようで、全国的にも有名となった【安政遠足マラソン】の決勝点でもあります。

No.181 22/07/19 17:45
旅人 ( pu5bob )

まぁ、私、群馬県人ですからね。熊野神社さんからおまいりしました。

しかしあくまでも社殿は一つ、(しつこい!)なので、社殿の前に置かれたお賽銭箱 、それ自体は一つなんですが、群馬県側には熊野神社さんの、長野県県側には熊野皇大神社さんのお賽銭が納められるようになっているんです。

私は真ん中に立って、熊野神社さんの方にお納めしたのですが、夫はきちんと(?)二つの神社さんにお納めしたのだとか。
うーん。

そうして熊野神社さんの社務所に向かうのですが、な、なんと不在。

一方の長野県側の熊野皇大神社さんの社務所には三人ほどの方が詰めておられます。
(ま、先に熊野神社さんの社務所に行ったのは確かだし)と、皇大神社さんの社務所に入りました。
…。
…真新しくて、売店とかをついついイメージしてしまう、そんな雰囲気の社務所兼授与所でありました。いや、それが嫌いとかイヤとかでなく、むしろ胸がときめいてしまう私。
(おーい、こちらはあくまでも長野県側だぞぉ〜)と自分に言い聞かせたのは最初だけ。ええ、暴走の始まりです。

なにしろ。
こちらの御朱印、日本初の御朱印で有名でありまして、テレビでも何度もとりあげられた神社さん。
飛び出す御朱印、とでも申し上げれば伝わりますでしょうか。
ポップアップする、立体的な御朱印を全国初で授与した神社さんなのです。
…まぁ、『普通の』御朱印にこだわり続けていた私。
でも、そんなの関係ない!
ずっと欲しかったんですってば♡

それが…。
なかなか参拝できずにいた間に、な、なんと! ポップアップ御朱印が二種類になってしまっていたのです。
お、おぉ〜っ!
一体千円するのです。(値段ではありませんって?いやいや値段も大事な、大切な、…最重要着眼ポイントですって)
あまり悩むのも縁起が悪いような気がいたしますので、新作(?)のデザイン(?)の方の御朱印を授与していただくことといたしました。

こちら、ねぇ。
御守りも大変多くて。
しかも種類と言いますか、形も、なんですよ。
種類にいたっては、例を挙げれば『ロードスター守』とか。
ええ、あのマツダの名車、あのロードスターに特化した御守りです。
(ロードスター絵馬もありました。)
これは未だかつて見たことのない御守りです。ちなみにロードスターのみ、であります。まさにロードスターに特化しております、はい。

No.182 22/07/19 19:10
旅人 ( pu5bob )

先ほど発見した、長野県の熊野皇大神社さんの公式ホームページ。
楽しいので是非、ぜひぜひ、ご覧になってみてください。

https://kumanokoutai.com/


初めてアドレスを貼り付けるので、正しく開けるのかどうかが、かなり不安なおばさんです。
もしも開かなかったら、『熊野皇大神社』と入力して探してやってください。

No.183 22/07/20 03:36
旅人 ( pu5bob )

除夜の鐘を百八回たたくのは、人間の煩悩の数が百八個あって、それを祓うために百八回打つのだということはよく言われていることであろうと思います。

私はよく、
自分は煩悩の塊で、到底その数は百八どころではなさそうだと、ここでも何度か書かせていただいております。
…そんな数自慢みたいなことをしていないで、一つでも減らす努力をしろと、自分ですら思うのでありますが。

それが、です。
人間の煩悩は百八個どころではなく、な、なんと!八万四千個だという話を目にしました。
は、八万四千個〜っ?

煩悩(ぼんのう)とは、字の如く私達の心を煩わし悩ますということです。

この煩悩欲、人間誰しも持ち合わせているもので、仏さまは、人間には八万四千の煩悩欲がある、と仰せで、その煩悩に対しての教えとして、八万四千の教えを説かれてあるというのです。

そしてその煩悩を、さらに大きく分けると百八になるといい、さらにさらにそれを大きく分けますと五つになるのだといいます。
それで煩悩のことを煩悩五欲、五大煩悩とも云うのだそうです。

煩悩五欲とは。
・色欲
・飲食欲(おんじきよく)
・金銭欲(きんせんよく)
・睡眠欲(すいみんよく)
・名欲(みょうよく) 
以上を指すといい、この煩悩五欲に囚われ過ぎていると、やがて、人の道から踏み外すような行動が出てくるのだと。

例えば…男女の道で不倫関係や三角関係などを犯してみたり、
金の為だったら強盗もするし人をも殺したりする…また自分をよく見せたいがために、嘘もつけば、人をも平気で欺く、ということです。

この煩悩欲が、社会生活の秩序を乱してしまうというわけで、中国の故人、司馬温公は
「金を用ふるに用ひ様あり、金につかはれ金の番すなと、現世も未来も誤るは貪り也。」
という言葉を残しているといいます。
現在に於いても未来に遭いても、
煩悩欲に執着して大切な道を見失っては何にもならないという意味です。

「凡夫の第一に慎むべき事は、貪といふ字こそ根元なれ。」
「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の欲の根をたち切って、煩悩の枝葉を枯らすを信心と云ふ也。」と続くようです。


煩悩欲に囚われての生活では、本当の幸せは来ないどころか、返って苦しみの因を作ることになるので、煩悩欲を捨てることは出来なくても、煩悩欲に打ち勝っていく日々の生活が大事なことで。



No.184 22/07/20 06:44
旅人 ( pu5bob )

生きている限り、尽きない物、それが煩悩であり、欲であります。おいしいものを求め、異性を求め、金銭を求め、名誉を求めて人々は苦悩してきました。

飲食欲、色欲、睡眠職、金銭欲、名(誉)欲。

最初の三つは生物としての当たり前の欲に思われますが、ついつい少し度が過ぎてしまうのが人間というもの。

動物はお腹がすけば必要最低限のものを食べますが、人間は特にお腹が空いていなくてもつい「口寂しい」とか言っては何かを口にします。
…ああ、なんと耳が痛いことでしょう。
ある程度おいしくてお腹が満たせればいいのに、それ以上を求めてしまうのが食欲にあたるのだといいます。

他の欲も同じことが言え、色欲とは男女の関係で、動物は繁殖期にのみ発生する欲です。オスはより多く子孫を残そうと、メスはより良い遺伝子を遺そうとします。
しかし人間はコミュニケーションや快楽の目的も多く、時には人の恋人、配偶者までも横取りする生き物です。
睡眠欲は、仏教においては、〝眠る〟、というよりも「だらけていたい」と言った方が近いもののようです。
「動きたくない、楽したい」というわけです。
…ああ、心が痛い。

金銭欲=財欲は金品や宝石類をとにかく集めてため込む欲。
名欲=名誉欲は「私凄いでしょう?褒めて、称えて」といった気持ち。虚栄心などもそこに含まれます。

たしかにこれらは皆、人間にしかない欲のように思われます。


欲は心の中に生まれますが、その発生源は人間を形作る五つの感覚、五蘊(ごうん)であるとされます。
これは人間を形作る心と体のことだとされます。
あらゆる物質を意味する『色蘊』、
物質を見て感じる『受蘊』
対象について考える想蘊』、
「あれをしたいな、しようかな」と思う『行蘊』、
判断や分析等を行う『識蘊』、
の五つから成ります。

一連の感情の中に生じるちょっとした迷いにもたくさんの要素が混じっている、それが人間だとお釈迦様は仰っています。

迷い、欲は煩悩であり、これがあるから色々苦しみます。

よく「上を見ればきりがない」と言います。
見栄のための受験勉強、就職、それが元で心を壊すこともあります。「みんな欲が悪いんだ」
…たしかに欲は苦しみの発生源です。

欲しいけど手に入らない、それは仏教における基本的な苦の一つ、【求不得苦(ぐふとく)】とされます。

No.185 22/07/20 07:40
旅人 ( pu5bob )

欲は、いずれも煩悩であり、時には悲劇の元になったりもします。
ですがある意味では実は原動力です。
買いたい物があるならお金を溜めればいいのです。
解決策は実はどこにでもあり、仏教においての真実とされる「この体は仮の物で、一時的な物。欲もまた一時的な物である」ということに気づけば、迷いは晴れ、場合によっては悟りを拓くことだってできるということであります。

煩悩五欲は人間として当たり前のもので、それあっての人間であるのです。
煩悩五欲自体は恥ずべきものではありません。
ただそれをコントロールをしないととんでもないことにもなりかねないというものであるということ。
色々と見るから色々と分かるのですが、線引きが難しいのもまた事実です。
道に外れないように欲をコントロールして生きることが、人として生きること、なのかなぁ。

まぁ多すぎる煩悩、欲を、すこぉしでも減らすことが、まずは私の課題、かな。



とりあえず。
今日、殺人的な暑さが戻らなければいいなぁ。
各地で起きている豪雨がおさまって、その被害が少しでも小さなものであるといい。

…これは欲でも煩悩でもないぞぉ。

No.186 22/07/20 16:08
旅人 ( pu5bob )

…この、下にある写真のカラス、可愛くないですか?

この子、実は、熊野皇大神社さんの御神籤なんです。

長いこと御神籤というものに縁なく暮らしていたこと、さらにはメンタルが絹ごし豆腐でありますため、御神籤を引くというのも実は一大決心が必要な私。
可愛い♡連れて帰りたい。
でも御神籤かぁ…。
そんな葛藤をしながらこの、八咫烏のたっくさん並んでいる箱を覗いていますと、一体一体、顔の造作が違うことに気づきました。
(どの子が「一緒に連れていって」と言っているだろう)
もはや御神籤とは異なる選び方にはいっています。
(この子だ♡)
手のひらにそっと包むように乗せて会計に…授与所の受付に連れて行きました。

うーん可愛い♡

えっ?け、結果ですか?

…御神籤って、さあひくぞぉ!って意欲満々でひいた時って、必ず結果が良かったりするじゃないですか。
少しでも引く前に躊躇うと、あまり結果がよくなかったりする。…そんなこと、ないですか?

…まぁ、そんな感じの結果です。
家に着いたから結果をみたものだから、ひき直すこともできなくて、ちょっとショボンとしたり。

でもね、可愛いんですよ。
玄関で、何か私の心を読み取って話を聞いてくれそうな、つぶらな瞳で見上げてるお顔が♡

とはいえ御神籤って神社でひいたものは、神さまのお言葉なわけで…。

『玉ちはう かみの めぐみの
 風うけて もえ出にでにけり
 のべの若草』

だそうです。

あとは…落ち込み具合から推測してください。



No.187 22/07/20 16:32
旅人 ( pu5bob )

他にもたくさん、楽しくなるような御神籤や御守りがたくさんあって。
風鈴の御守りなんて、涼やかに見守ってくださりそうですし、そうそう、ペットの御守りどころか、ペットの御朱印なるものもあるようで、
なんかもう楽しいのです。
さながら夢の国のおみやげのショップにいるかのようです。
…これはちなみに本音であって、そういった明るくて楽しい気分になれちゃう授与所なんです。
いかにも商売って感じは全くなくて、…あの夢の国ってショップの店員さんからも夢がもらえるような楽しさがあるじゃないですか。
そんな感じなんです。

『厄玉』なる、素焼きの玉が販売されていて、それに願いを込めて、祓いたい厄の書かれた的に当てるっていうのもありました。
当てたい的の真ん前から、その的目がけて投げようとしていたら、
「その足形のとこから投げるんじゃない?」と夫。
…今回、どーぉしても当てたい的があったのになぁ、もう。

あ、私、球技が(も)大変苦手でありまして。
じゃあもうせめてどこでもいいから的に当たれ!っと投げたところ、バシッと命中!しかもちゃんと割れました。
ただし、命中したのは『病』の的、だったんですがね。

「あそこに当てたかったの?」
…なんか無邪気そうに聞いてくる夫の憎らしいこと。
「…どこでもいいから的に当たれってそれだけを念じて投げたのっ」
「ふぅーん」

夫はやっぱり何か的には当ててはいたけど、その的がなんだったかさっぱり覚えていない私。
「あそこに当てたかったの?」
「まぁね」…あ、そうですかっ。


…それでも。
今年の人間ドックで要精密検査とされたものが、再検査で要経過観察になりました。
これ、即効性があるかもしれない。

No.188 22/07/20 19:01
旅人 ( pu5bob )

この授与所の中を抜けていくと、パワースポットとされるご神木“しなの木”がございます。
熊野皇大神社さんの授与所は、その造り自体も不思議です。授与所入り口から入って、正面に御守りの平台があり、そこを突き当たりとし直角にひだりてに折れると、正面にガラス張りの拝殿があるのです。
そしてその拝殿を正面としてその左側に、御神木でありますしなのき木が大きくそびえているのです。

「科(しな)」の語源は「結ぶ・くくる・しばる」と言われ、開運・縁結びのご神木として古くより信仰されています。

このしなのの木。
はじめに、木の正面でご参拝をし、願いごとを心の中で思いながら一回りすると、願いが叶うと伝えられているといいます。
とくに願い事がなくても、一回りすることで、“一年寿命が延びる”“しわが一つなくなる”という言われもあるとか!
また、幹にはある一定の角度からしか見えないハートの穴もあるのだといいます。
しなの木は葉っぱがハートの形をしており、それだけでも縁結びのご利益が感じられます。
が、さらに縁結びのご利益を感じさせるのが、しなの木の幹にも“ハートの穴”があること。しなの木を一周しながら、どこにあるか探しながら歩かれる方々がたくさんおられました。

さて。
こちらの世にも不思議な神社さんのご祭神は、本宮(長野・群馬)に伊邪那美命、日本武尊の2柱。
新宮(群馬側)に速玉男命(ハヤタマオノミコト)、
那智宮(長野側)に事解男命(コトサカオノミコト)がお祀りされています。

熊野神のご神徳は幅広く、国土安穏、延命長寿、無病息災、開運招福、出世成功、商売繁盛、病気平癒、厄除け、盗難除け、縁結び、夫婦和合、子宝・安産などと人間の生活全般をカバーするものとなるのだとか。

No.189 22/07/21 06:07
旅人 ( pu5bob )

神社の縁起によれば、景行天皇40(110)年、大和朝廷の命を受けた日本武尊(ヤマトタケル)は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て【碓氷坂】に差し掛かります。
折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな【八咫烏】が現れ、【梛(なぎ)】の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができたといいます。
尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まりとされています。

尊は碓氷峠に立ち、登って来た方角を振り返って、見ればそこには棚引く雲海が見られ、それに海を連想された尊は、東征の途中に相模灘で入水された弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲ばれ、
辰巳の方角(=東南の方角のことで関東平野が一望できる)に向かって「吾嬬者耶(あづまはや)」(=「愛しき我が妻よ」の意味)と3度嘆かれたといいます。
以後ここより東の国を吾妻(あづま)と呼ぶこととなったとされています。(日本書紀の記述による)


これらの御由緒より、それに因んだ地名が残っています。
神社の裏山の頂上を『留夫山(とめぶやま)』は武尊の足を留めさせた場所の由緒から付いた名前とされていますし、長野原や長倉は、嘆きある原が語源と伝えられています。


実は、こちらの神社さんが県境に建っている「いわれ」や「意義」は明確には分からないのが現状とされています。
ただ、元々山は山の幸を戴き、豊かな水を戴く生命の根源の聖地であり、従って神様の住む場所として昔より崇められて来たことは、碓氷峠に限ったことではありません。
明確な地図を持たない昔、峠を制することはその先の地域を制する為に欠かせぬ要素で、軍事的な要所だったのです。

ましてそこに日本武尊が勧請した神が祀られているとなれば、上州、信州の両国ともに手中に収め、その神徳を戴きたいと思うのはごく当然であったとも思われます。

そのようなわけから戦国時代には国境が激変し、武田信玄は広大な社領を神社に寄進したと伝えられ、その地名も残っているそうです。
その後、時を経て、江戸時代の初めに中仙道の整備と共にお宮の真中を改めて上州と信州の国境にしたのだろうと言われています。江戸時代の途中で国境が変更されたと記録はなく、それがそのまま現在の県境となったということのようです。


No.190 22/07/21 06:48
旅人 ( pu5bob )

今なお地元では、長野県でも群馬県でも共に【峠さん』と呼ばれ、人間社会のルールの為に2法人となっていますが、信仰上に境が在るわけではなく、「二世安楽」を叶える峠の権現様として里人の信仰を集めています。
春秋の例大祭では現在でも両県の神職が一緒に御奉仕をされているといいます。

…とはいえ。



長野県側の熊野皇大神社さんと、群馬県側の熊野神社さんとでは、一つの神社さんとは到底思えないくらいに、今、方向性が変わっているようだと思わざるをえません。

門の外に立てられた立看板にすでにそれが見てとれます。

『県境にあるため一つの境内ですが二つの神社があります。
熊野皇大(こうたい)神社 長野県軽井沢町 ◀︎左側
熊野神社 群馬県安中市 ▶︎右側

お守り ご祈祷 ご寄付 社務所なども別になっています。


※軽井沢側は、右奥の建物か、階段下の社務所にて承ります。
門の社務所は、群馬県側です。お間違いのないようにお気をつけください。』

…門を入る前から物々しくすら思えます。


群馬県側の熊野神社さんは昔ながらの古色豊かな神社さんで、あえてそれを守ろうとしているかのようにも見えます。
なので、夢の国のおみやげのショップ(これはあくまでも良い印象からそう感じたと言う私の主観です)と見まがうような長野県側の皇大神社さんとは到底間違いようのない違いだと思うのです。
あえてそこまで書く理由はどこにあるのか…。

まぁ、良いようにとらえれば、皇大神社さんの御朱印やら御守りを求めてお越しになられた方が、群馬県側の社務所に入って、あれがない、これが欲しいという〝トラブル〟を避けようとして、ともとれますか。

皇大神社さんはしなの木が御神木で、一方の熊野神社さんは櫟(いちい)の木が御神木。

…両社とも日本武尊の伝説に由来する梛(なぎ)の木ではないのだなぁ、と、今年梛の木の小さな苗木を買って枯れてしまった苦い過去を思い出しながら、ふと思った私でありました。


元は一つという神社さんではありながら、対である随神さまも遠く離されて祀られていて、どこか切なさの残る、参拝となったのも事実です。

No.191 22/07/21 11:01
旅人 ( pu5bob )



かつて使用していたタブレットが故障して、その直前なんとかスマホへと移行できた【神社仏閣巡り珍道中】。
ところが、それが間に合わなかったもう一つの【神社仏閣巡り珍道中・改〜東北路編】というスレがあります。
自レスのみの設定になっているため、もう書き込むことができないのです。

ずっと諦めていました。




が!

かつて、同じ小説・エッセイ投稿枠で、煌めくような内容と、さらに煌めく文才で、小説を綴っておられました方がおられました。
ファン倶楽部まで存在する大変人気の小説でありました。
その方が最近、新作をお書きになり始めたのかと思いきや、前回書いたものを削除しておられたようで。
私はリアルタイムでで最後まで読ませていただいていたので、削除されておられた事に気づかずおりました。

しばらく前から、楽しみに読んでくださっていた方に申し訳なかったとのことで、あらためて、(再)と称してもう一度読めるようにしておられるようでした。


その方がそうした作業をされておられることにはだいぶ前から気づいてはいたのですが…。
頭の悪い私は、自らそうした手段がある事に気づかなかっただけでなく、その方のヒントを得て、自分に当てはまる事がとんとできずにおりました。

それが、昨日、まるで何かが降りてきたかのように、
「あれ?もしかして、私も同じようにすれば続きが書けるのではないのか?」と閃いたのです。

…真似してもよいかしら。
一言お断りした方がよいかしら。
ですが、その方が書き込んでおられるスレにいきなりそんな内容をもって、乱入しても良いのかどうか…。

いやいや、聞かずに始めるよりも、ご本人のスレッドでもないところに乱入することの方がよほどご迷惑になりましょう。


うーん。

…こんな場末の、おばさんがヒーコラ書いているスレをお読みだとは到底思えないのですが、ここにこうして書く事で(勝手に←ヤレヤレ)お許しいただこう。


いつも小説・エッセイの注目スレにあがっておられました、正と続の同タイトルの小説をお書きになられました方へ。
どうしても自分の駄文の続きが書きたく、真似させていただきますこと、お許しください。



No.192 22/07/24 06:35
旅人 ( pu5bob )

本日二十四日はお地蔵さまのお縁日。

姉から久しぶりに群馬県桐生市にある日限地蔵さまのお縁日に一緒に行こうとお誘いがありました。

が。
昨日、どうにも気持ちのふさぐようなことがあり、どうしてもその、通称『日限地蔵』さまと呼ばれる『観音院』さんに行きたくなり、お縁日の一日前ではありますが参拝に伺っておりました。

観音院さんの山門をくぐると、ひだりてに鐘楼があります。百円をお納めすると鐘を鳴らすことができます。
お縁日の日はさすがにためらわれますものの、こうしたお縁日以外の日にうかがった際には必ず鐘を撞かせていただいております。

蝉時雨の中、心の乱れを打つように一打。
蝉たちは怯むことなく同じように鳴き続けます。
そうだよね、生まれる前からずっとこちらの鐘の音を聞いていたんだものね。
命の短さを知ることなどなく、ただ与えられた命と生まれいでたのちの蝉としてのお勤めを果たす蝉たち。
蝉に、生きるとはどういうものかを教えられた気がいたします。

が。
…百八回撞けば少しはこの煩悩をふり払えるものだろうか。
鐘を撞いたその直後にすら、そんな新たな煩悩が生じるようなヤツの煩悩は、到底祓えないな、と自問自答のようなことを考えながら鐘楼を降ります。やれやれ。

いつもお寺の境内をお掃除されておられる男の方が木陰で一休みされていました。
「こんにちは」
笑顔で双方ご挨拶。こうした挨拶ひとつで気持ちが明るくなります。やっぱり挨拶は大切、です。

少し離れた地蔵堂横に設営された授与所から、お坊さまが出てこられたのが見えました。二月の涅槃会の法要で散華をまいておられた方であります。
明日のお縁日の準備をされておられるようです。
「お忙しいところを申し訳ございません。御本堂に上がらせていただき
ますがよろしいでしょうか」
…相も変わらず、図々しいおばさんです。

いつものように般若心経を読経させていただきました。
さすがに今日はお邪魔でしょうから、読経だけで下がらせていただきましたが、本当に居心地よい御本堂であります。
そして。驚いたことに涼しい!
真夏日のジリジリとする暑さの外とは一転した涼しさです。
もちろんクーラーなどは一切設置されていない、御本堂の戸も開け放たれた空間であります。にもかかわらず、この涼しさ!
これが御仏の住まう空間ということでしょうか。

No.193 22/07/24 15:33
旅人 ( pu5bob )

【地蔵菩薩】さまは梵語で『クシティーガルバ』、
クシティは大地、ガルバは胎内の意、それを『包蔵する』と訳し、
〝大地を包蔵する、大地の蔵〟という意味から『地蔵菩薩』というのだといいます。
お地蔵さまは『石』で作られたいわゆる『石仏』が多く見うけられますが、地蔵菩薩が司る〝大地〟から産出された〝石〟にお地蔵さまが宿りやすいと考えられてのことだそうです。

お地蔵さまは、お釈迦さまのあと、弥勒菩薩が現れるまで、人々の苦しみを救う菩薩さまであり『二仏中間の仏』と言われています。


左手に願いを叶える宝珠(ほうじゅ)、右手に六道を巡るための錫杖(しゃくじょう)を持ち、六道をはじめ、あらゆる世界に往くことができるのがお地蔵さまの特徴で『六道能化地蔵菩薩』と呼ばれています。


昨日は、新型コロナ感染症の過去最多の感染者数となってしまいました。
すでにまた医療が逼迫しつつあり、発熱センターにはほとんど電話が通じない状況となっています。
これから先、まだこの傾向は続くものだと専門家は指摘しています。
今の感染力の強さ、広がり方をもってしても、国はなんら政策は打ち出す様子はありません。
それだけ経済も、国庫も逼迫しているということなのでしょう。


長い歴史の中、人類はやはりこうした疫病に苦しんだ時代はいくつもありました。
そんな中、今ほどに医療が発達していなかった時代において、人々は神に祈り、仏にすがって生を繋ぎました。


お地蔵さまのお経のなかに『延命地蔵菩薩経』というものがあって、そこには、地蔵菩薩の『十種の福徳』が記されていて、その中には諸々の病にかからない『除衆病疾』が説かれているといいます。

また『地蔵菩薩本願功徳経』というものには、二十八種の功徳が記され、その中に『疾疫不臨』があり、疫病などに感染しない功徳が説かれているのだそうです。

今日、お地蔵さまのお縁日。
あらためて、コロナの収束を、出来うるならば終息を、祈念申し上げました。


…それにしても。
お経というのは一体いくつ存在するのでありましょう。それをたとえ空で言えないにしても、そのお経の中にどのような教えであるとか、功徳であるとかが書かれているものかをきちんと学び、覚えておられるお坊さまというのは、あらためてすごいなぁと思い、ありがたいなぁと思うのであります。



No.194 22/07/26 13:37
旅人 ( pu5bob )

今日7月26日は、なんと『幽霊の日』、なのだそうです。なんでも歌舞伎の『四谷怪談』が初めて公開された日に由来しているといいます。

ま、そんな理由なら…ねえ。

と、ところがです!
な、なんと、仏教辞典といわれるものに、
『幽霊は【幽冥界(ゆうめいかい)】に住み、時々この世に姿を現す精霊や死霊、亡魂にあたる』と定義されているというのです。

ひえぇっ。

こ、これお坊さんがお話しされておられるものですし、しかも仏教辞典に載っているって…。
ま、参ったなぁ。
い、いるって…いやいやおられる、存在なさるってことですかぁ。


「『幽冥界』とは、神仏の光が及ばない暗闇の世界で、地獄、餓鬼のような世界とも例えられ、考え方によっては、地獄道や餓鬼道も幽霊のいるところ、なのかもしれない」とおっしゃるのです。


日本ではよく、幽霊は足が無いように描かれますが、
足が無いのは『中有(ちゅうう)』という生と死のどちらでもない状態のため、地に足がついていない、彷徨う魂のことを表しているとされるのだそうです。

【十王図】という死後の裁きの様子を描いたものの中には、次の世の生まれ変わりが定まらない亡者が足のない状態で描かれているといいます。
たしかに…。

一方地獄行きが決定してしまっている亡者には足が描かれています。

足が無い方がまだ成仏する可能性を秘めている、ということになるそうです。

そ、そんなとこまで描かれていたんだぁ。
ちなみにわが家には、子供向けのそういった絵本があるんですが、しっかり十王図、入ってるはず。
怖いなぁぁ。
お寺さんの中で拝見するならまだしも。
やれやれ、幽霊まで描かれていたとは…。
この絵本はもう子どもたちは大人になっていて、珍道中を始めた私が自分のために購入したものです。

お盆の行事で、お寺さんでは『三界萬霊』(さんかいばんれい)という、すべての魂の成仏を願います。

ぜ〜ったい、お盆にはお寺さんに行って、おまつりされてる三界萬霊の供養だなに向かい、成仏を祈念しようっと。

No.195 22/07/27 14:05
旅人 ( pu5bob )

最近、【七十二候】というものをよく見るようになりました。もう何年も前からそれをあらわした本を持ってはいたのですが、フルタイム働いていたおばさんはごく稀にしかその本を紐解く時間すら持てなかったのです。

そもそも七十二候を〝しちじゅうにこう〟と読むことすらその本を持ちながらにして最近まで知らなかったという、まぁ、宝の持ち腐れと言いますか、本としてほとんど機能していなかったということで…。

前回は蓮初開の頃を書いております。その時、パラパラとめくった数ページ先に【桐始結花】とあり、ああまもなく桐の花が咲く頃を迎えるのだなぁと、ひそかにワクワクしておりました。
と言いますのも私は桐の花の咲いたものをいまだかつて見たことがなく、それでも桐の木のあるところは偶然知る機会がありましたので、いよいよ桐の花が見られるぞと期待に胸を弾ませておりました。

桐始結花=きりはじめてはなをむすぶと読みます。

ただ。蓮の花がこの七十二候よりも早く咲いたことを踏まえ、一日でも早く桐を見に行かないと、また見逃してしまうぞと、まさに今日、その桐の木のある、群馬県桐生市の吾妻公園というところへ向かおうとしていたのです。

桐、はじめて花を結ぶ。…みなさんはこの表現をどう捉えますか?
私は、花が咲く頃なんだろうと、さように捉えていたのです。
…違いました。
花を結ぶ、ので実がなる、実のみのる頃という意味なんだそう。

…ここに書く前でよかった。
そして桐生市まで車を走らせる前でよかった。

花の頃は五月から六月、だそう。
つまりは今年も見逃した、というわけであります。はあぁぁ…。


昔は、娘が産まれたら桐を植えて、お嫁に行くときにその桐でタンスを作るといわれていました。

まぁ、私の生まれた頃すでに「昔は娘が産まれたら…」と言われていたくらいなので、私はもちろん姉すら桐を植えてもらってはいません。
もしかしたらこの言葉の前に、「裕福な家庭では」という言葉があるのかもしれません、がね。
でも同級生たちも桐の木を植えてもらった子は知っている限りいなかったので、少なくとも私の頃には廃れていた風習なのでしょう。

No.196 22/07/28 06:27
旅人 ( pu5bob )

毎月二十八日はお不動様のお縁日。


…私は歩んできた人生のほとんど、神さまや仏さまに関わりなく過ごしてまいりました。
それでも小さな頃には、同居していた祖母に連れられ、お盆やお彼岸には先祖代々のお墓のある菩提寺へと行っておりましたし、祖父母の信仰する観音さまのお姿を私が望めば毎日拝することができる環境にはありました。

今思えば、祖母はお寺さんへの正しい参拝の仕方を、言葉で伝えることはありませんでしたが、行いをもって教えてくれていました。
菩提寺には手水舎がありませんでしたので、そのあたりについてはないままの参拝ではありましたが、まずお寺に着いたら御本堂にお参りすること。それからお墓に向かうこと。
お墓にまず手を合わせてから、お墓やお墓まわりのお掃除をすること、等々。
まぁ、当たり前といったらごくごく当たり前なことですがね。


…ただ私どもには自分たちで守るお墓も檀那寺もありませんでしたし、舅は「ここはお前たちのお墓じゃないからな」と、別に言われなくともわかっている言葉を何度か投げかけるような人でしたので、私どもの子どもたちは法事くらいしか祖父母とお寺さんに行くこともなく、しかも舅にそのように言われ、私的にはなんとなくどことなくコソコソとした墓まいりとなり…。
誰からもそのような教えを受けずに大人になっています。

ああっ!閑話休題。(なんだかこの言葉、もうすでに呪文のようになっていますね 笑)


そんな祖母のおかげで、私はお寺さんが好きというベースを築いてもらえました。
お寺さんでお会いできる六地蔵さまが大好きでしたし、自宅に祀られた観音さまのお美しいお姿を前にずっとそこに座っているような子供でありました。

そんな私が大人になって、なぜか心ひかれてやまないのが、不動明王さま、お不動様、なのです。
祖父母や父の眠るお寺さんには、お不動様はおられません。
何故だろう。
お不動様の御像を前に、ずっとたたずんでしまうのです。不敬をおそれず言うならば、「大好き」、なのです。

だから二十八日が来ると嬉しいような、心はずむ心地がいたします。

No.197 22/07/28 06:45
旅人 ( pu5bob )

不動明王さまは、元々はインド神話の三大神の一人である『シヴァ神』とされ、その梵名はアチャラナータと言います。
その意味は「動かない(不動)守護神」です。
日本へは弘法大師さまによってもたらされ、密教の最高位である『大日如来』さまの化身とも言われています。

普段は柔和な大日如来さまが、優しさだけでは通用しない人々を救済するために、あえて怒りの形相をしている、ということのようであります。

日本に伝わってからは、真言宗や天台宗、日蓮宗などの宗派、および修験道で広く信仰されるようになっていきました。
邪悪な相手には徹底的に厳しく、人が間違った道へ進もうとした時には、正しい道へと戻れるように諭してくれる存在であり、全国各地ではお不動さん、または不動尊と呼ばれ親しまれています。
迷いの世界から煩悩を絶ちきり、仏の道を教えてくれる尊い存在です。
その使命は仏教へと民衆を帰依させるため教え導くこととされています。

思うに…。
私が道を誤っていて、しかもそんな私が、神さまや仏さまに正しき道にお導きいただきたいと、お参りを始めた…。
そんな私を、お不動様は正しい道へと導き、救ってくださろうとしておられるから、私は本能でその無限の愛をお不動様に感じ、優しさを感じて、私はお不動様にひかれるのではないか。

そのような思いにいたったのであります。


…まぁ、それも自分よがりな思いでしかありませんが、ね。


No.198 22/07/28 07:08
旅人 ( pu5bob )

不動明王さまの像容は、右手には【倶利伽羅剣】という剣を握っておられます。この剣は、邪悪な心や迷う心を断ちきることを表しています。
また、左手に持っている網は【羂索】と呼ばれ、悪い心を縛り上げることにより、善き心を呼び起こさせるためのものです。

その表情は非常に厳しく、右目は天に向けられ、左目は地面に向けられています。【天地眼】と呼ばれているこの眼は、天地を隅々まで見守っているということを表しているのです。
また、口元からは右牙が上を向き、左牙は外側を向いているのが特徴です。
仏の多くは柔らかな表情をしているものが多いなか、なぜお不動さまの表情がここまで険しいのかと言うと、そこには理由があります。

不動明王さまはとても慈悲深い仏。そして、その慈悲深さゆえに、救済が難しいとされる煩悩を抱えた人々も力ずくで救おうとしておられます。
その恐ろしい形相が人間に向けられているのは、常に見てくださっているということを意味するのです。

青黒い色の体で表現されることが多く、それは煩悩という名の泥にまみれもがく人々を救おうとしている姿を表しているといいます。
また、髪は莎髻と呼ばれる形で、その弁髪は左肩に垂れているものが多く見られます。
その理由は、頭の上は仏の世界を表し、その垂れた左側は人々が暮らす世界を表しています。やはりこれも不動明王さまが常に人々のことを気にかけ見守っているということを表しているのです。

そして、その腕はニ本で表現される時もあれば、四本で表されることもあります。また、背中には【迦桜羅焔】を背負っておられます。
【迦桜羅】とは伝説上の鳥で、毒を持っている動物(毒蛇、悪龍)を食べるとされています。
お不動様の背負われる迦楼羅焔は毒を焼きつくすと言われ、人々にとっての毒である煩悩や欲望を燃やし尽くしてくれるものなのです。

足の下には磐石が置かれ、迷いがない安定した心を表現しています。また、救済を求めるすべての人を救うまではその場を動かないという決意を表しているとも言われています。


…私はこのお不動様のお姿を恐いと感じたことがありません。
おそろしい形相とされていますが、その眼差しもお口元も大好きなのであります。

今日はどちらかのお不動様にお会いしたいなぁ。
…ということは、私…また何かしでかしているということなのかなぁ。

No.199 22/07/28 15:53
旅人 ( pu5bob )

ちょうど一ヶ月前にもうかがいました、群馬県みどり市の【はねたき道了尊】さまのお縁日の法要に参列させていただきました。

実はこのはねたき道了尊堂の同じ敷地内に、小さな石造りのお不動様が、石を積み上げてコンクリートで固めちょうど岩屋のようにしつらえたところに安置されておられるのです。
同じお縁日ということもあり、同市内にあります光榮寺さんのご住職と副住職さんが両方の法要を執り行っておられます。
そう、こちらは光榮寺さんの境外舎(堂)なのです。


こちらは渡良瀬川がすぐそばを流れていて、まさにこのはねたき道了尊堂の高津戸峡と呼ばれる渓谷となっております。(おそれおおくも何を勘違いしてか『関東の耶馬渓』と称する、みどり市の観光部観光課の観光ガイドがネットに挙げられていますが、これは一度、本当の本家本元の耶馬渓に出向いてみた方が良いかと、常々思っております。)
まぁ、たしかに、新緑や紅葉の頃などはびっくりするほどの人出となりますし、ここからすぐそばにあるはねたき橋と、五百メートルほど離れたところにある高津戸橋までの間に位置する高津戸峡、その高津戸峡の隣にそびえる要害山の景色は私も大好きですが、ね。
特に高津戸橋は赤いアーチ橋で、下から見上げても、遠くから要害山との眺めもとても心癒されるものであります。

おっと、またまた話が脱線しかかっていました。


そんな高津戸峡の川沿いにかつての道了堂はあったのだといいます。
お不動様は高津戸渓谷を守る形で、渓谷の土手に祀られていたとのこと。

しかしながら、昭和二十二(1947)年のキャサリン台風の水害で一瞬のうちに濁流に飲まれ、跡形もなくなってしまったのだといいます。
道了さまの信仰は衰えこそしましたが、それでもそこへ通う篤信者さんたちがおられたのだそうです。
ただ川沿いの歩道などは復興されることなく、道了堂も再建されぬまま、道了さまの祀られたところへは落石やはたまた崩落の危険が絶えなかったようで、ともすれば命がけの参拝ともなっていたようです。

平成十五年、地元の強い要望もあって、道了さまとお不動様はこの地に移転、勧請されたのでありました。

何度も書いておりますので、覚えてくださっておられる方もいらっしゃるでしょうか。
(ごめんなさい)


No.200 22/07/28 16:12
旅人 ( pu5bob )

私、こちらのお不動様がまた大好きでして。

はねたき道了堂の境内内の岩屋のように仕立てたところに祀られた石造りのお不動様は、迦楼羅焔を含めても四、五十センチといったところでありましょうか。
一部迦楼羅焔も欠けているようですが、右手には剣を左手には羂索をお持ちになられています。

こちらのお不動様のいわれであるとか、何年に造られたものであるとはは一切わからないのだといいます。お祀りするにあたり、こちらへ運ぶ際にいろいろ見ては見たようですが、全くわからなかったとおっしゃっておられました。


とにかく、…可愛らしい。
大きさといい、表情といい可愛らしいのです。

お不動様の右隣には金板を切って曲げただけの剣がいくつも奉納されています。作り手は同じ方かもしれません。
お不動様は剣の奉納が多いのでしょうか?


今日の月例祭でも、綾鷹と御守りの袋にラムネとのど飴と熱中症対策タブレットの入ったものをいただきました。
恐れ多いことにございます。

No.201 22/07/29 06:29
旅人 ( pu5bob )

【不動明王】さまは『現世利益』が得られる仏として知られています。現世利益というのは、生きている間に得られる利益のこと。なんともありがたいことにございます。


どのような利益が得られるかといいますと、その一つが、実に『煩悩退散』!
まさに私を導き救おうとしてくださる御仏、ということになりましょうか。
煩悩は、人の心を悪の道へと誘うもの。その数は百八もあるとされ、仏道の邪魔をします。
不動明王さまに祈願することで、煩悩を断ち切ることができ、悪しき部分を燃き尽くしてくださるということでございます。

また、不動明王の剣『倶利伽羅剣』は、あらゆる邪悪なものを打ち砕くことができることから、『厄除け』に効果があるとされています。

不動明王さまの『明』という文字は、サンスクリット語で〝知識〟や〝学問〟を意味します。勉強や仕事に対する技術を高めたいと願う時に祈願すると、ご利益を得ることができるということです。

自身の身の安全を祈願することで、そのご利益を得ることができます。『身上安全』

仕事で成果を出したい時や、世間で認められたいという時にもご利益があるとされています。

さらに不動明王さまは商売に対してもご利益が多いとされています。『商売繁盛』

不動明王は仏道を修行する者を常に守護し、障害となるものを滅ぼすとされています。『修験者守護』

戦国時代に武将のなかでは、不動明王に祈願し勝利をおさめたという者がいたことから、戦勝のご利益があるとされています。

鎌倉時代に元寇が攻め入ってきた時に、不動明王に外敵を退散してくれるようにと祈願されました。元寇は見事退散し、それからかっこ『国家安泰』のご利益があるとされています。


No.202 22/07/31 03:49
旅人 ( pu5bob )

昨年、一昨年と、コロナのために軒並み祭りが中止となっていました。
国の行動制限や都道府県の警戒度によるものでありました。

祭りは神事であることが多く、また貴重な文化の伝承ともなっています。

昨年の群馬県みどり市の大間々祇園まつりの中止は、私の心に残る痛ましいものでありました。
昨年、縮小開催を予定していた大間々祇園まつりについて、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、開催の判断基準としていた群馬県の警戒度が2日から「3」に引き上げとなることが決まったため、開催二日前の午後、中止が決定されたのでした。一昨年の中止を受けて、なんとか開催したいと思い願っていたわずか二日前なことでした。

もうすでに二日前、準備はすべて整っていました。
街中にはすでに屋台店も居並び、飾りつけどころか祭りの山車まで出ており、あとはその日をその時を待つばかりとなっていました。
仕事の関係でその準備された街並みを通りもしましたし、知人の旦那さんが祭りの重要な役をおおせつかっていたため、いろいろな話も聞いており、ことさら心に残ったものとなったのもありましょう。

祇園祭りですので疫病退散を願う祭りでありますのに皮肉としか言いようがありません。

この祭りを愛する町民たちは、実に、祭りの最終日には来年の祭りについて話し合いを始めているくらいで、それを楽しみに生きているような方も実際多く、男泣きに泣き、町から活気が消えるくらいの哀しみようであったと聞きます。

そんな大間々祇園まつりも、今年はようやく開催されます。
すでにかなり遠くの地点から、開催中の交通規制の案内の看板か建てられています。


皮肉にも世界一の感染拡大状況下とはなってしまいましたが、人々の三年分の祈りが、コロナを沈静させてくれることを願ってやみません。

No.203 22/07/31 09:12
旅人 ( pu5bob )

などと書いたそばから。

群馬県みどり市の大間々祇園まつり。
一昨日までは三日間の開催予定でありましたが、昨日また内容の変更が市より発表されました。
三日間の予定を一日だけとするとのことで、露店の出店もない、ということになり、御輿渡御のみとされたようです。
神馬、お囃子競演、みこしや花火、もみな中止となりました。
パレードは元々熱中症に配慮してとのことで中止されていました。

三百九十三年間の歴史をもつ大間々祇園まつり。

町の公民館などでお囃子の練習する音が聞こえていたといいます。
お囃子は主に子供たち。年長者から演奏を習い、世代間を超えた交流が生まれ、日常生活に戻っても顔を合わせれば声をかけ、自然発生的なコミュニケーションを育んできたといいます。
それは年長になればなるほど強く深いものとなり、だからこそこの祭りの中止は大きなショックとなり…。

パレードといえば、近年になって始まったものかと思いきや、寛永九(1632)年に、御輿渡御の行列に、母衣(ほろ)という、武士が身につける甲冑の補助部具を身に纏った者と、着飾った子供たちが後につづきまちなかを練り歩いたのがパレードの始まりであったようです。
母衣は、長い絹布を風で膨らませ矢や石などから身を守るものとのこと。
今はもうさすがに母衣を纏う方はおられず、御輿渡御とは別に、鰐口シャツに股引、腹掛けといういでたちの男の方が神馬と共に走るというものとなりました。
馬が駆け、それと共に男たちが駆け、みどり市の大間々町の中学生たちが駆け抜ける姿は勇壮であります。
私はこの神馬の駆けるパレードが大好きなのですが、このところ仕事でずっと見られずにおりました。
そしてこのコロナ禍を迎え、祭り自体が中止されてきました。

神事であります御輿渡御には、白装束、…白丁装束というもののようですが…、狩衣、袴に帯、烏帽子姿の男の方と、紋付袴姿の年配の男の方が歩きます。



そうかぁ。
中止はされなかったとはいえ、御輿渡御だけとなりましたか。
また大間々祇園まつりと共に人生を歩んでこられた年配の方々の深い悲しみの声が聞こえてきそうです。


No.204 22/08/02 11:25
旅人 ( pu5bob )

『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時』とは、般若心経の冒頭にある一文。
「観世音菩薩さま(ここでは修行時代のお釈迦さまを指すという説もあります)が、仏さまの知恵で波羅蜜多行を深く考え、それを行うとき」という意味になります。

菩薩とは覚りをひらく修行をしている人のことで、覚りをひらくことで、仏となります。とはいえ、菩薩は仏になるため修行をしているわけではありません。

そんな菩薩の〝行〟、【波羅蜜多行】とは[六つの行動]のことだとされます。

その一つめは『布施』。といってもこれはお坊さんに渡す〝お布施〟ではありません。〝施し〟のことです。
お金持ちはお金を施し、学者は学問を施し、技術者は技術を施し、何も持たない人は優しい気持ちを施すことだとされます。

二つめは『持戒』。自分を戒めることです。
「生き物を殺さない」
「盗みをしない」
「邪道の性交をしない」、という三つの行動の戒め。
「嘘をつかない」
「ことばを飾らない」
「人の悪口を言わない」
「二枚舌を使わない」、という四つの言葉の戒め。
「必要以上にケチケチしたり欲張ったりしない」
「むやみに腹を立てない」
「間違ったものの見方をしない」、

という三つの心の持ち方の戒めで、合わせて十の戒めなので【十善戒】といわれるそうです。

三つめは『忍辱(忍辱)』。
あの食品のニンニクとはまったく関係なくて、「他人から辱めを受けたり冷たくされても、じっと我慢しなさい」ということなのだそうです。
ぐっとこらえて、温かい心を人に返してあげると、この慈愛の心で相手も、そして自らも救われる、というものであります。
これを仏教では『供養する』といっているのだといいます。

四つめが『精進』。これもまた精進料理とは無関係で、「一生懸命に努め励むこと」だといいます。
学問も仕事も、自分自身の向上のために励む、ということだときいます。

五つめは『禅定』。これは座禅を組んで心を落ち着かせることではありますが、心が安定していれば、座禅をする必要はなく、要はどんな忙しいときでも心の落ち着きを失わないように、ということです。

六つめは『知恵』です。とはいえこの考えには慈悲心という思いやりの心が加わった、本当の〝知恵〟。
相手と同じ立場に立って物を考え
こと。


うーん。
まさに『言うは易し行うは難し』、です。

No.205 22/08/02 14:33
旅人 ( pu5bob )

実は昨日、かなりきつい言葉を医師に言われ、いろいろな意味で落ち込み、正直先生を恨む気持ちすら生じました。

病名は伏せますが、まあ一般に治らない病気であるとは思われています。

このところコロナがまた爆発的な感染拡大をみせており、激務が続いておられたのでしょうか。いつもとは異なりあまり私の話を聞く姿勢が見られず、どういう症状であるかを懸命に伝えても手応えは芳しくありませんでした。
つらい痛みがあることを伝え、人間ドックで薬を常に飲んでいた方が良いとドクターに告げられたことも伝えましたが、ずっとそっぽを向いたままで。
不意にこちらを向いたかと思うと、
「治らないから。気休めだから。神経のものは無理なんだ」

ああ、これはもう誤解だ。
きちんと話を聞いてくだされば伝わるものを、思い込みで診断されている。
しかも声高に言われた話は他の患者さんや看護師さんに筒抜けで。

いろいろな意味でとてもショックを受け、気持ちはズタボロでした。
もう少しだけ私の話を、症状を聞いてくだされば┉。

やはりコロナの影響が出てきていますか┉。
治らないことは知っております。
訴えそのものを面倒に思われてしまわれたのでしょうか。違うドクターが絡んだ話がいけなかったのでしょうか。

夫に、こんなことがあったんだよと、私の思った思いも含めて訴えました。
┉でもこれは悪口になりましょうか。むやみに腹を立ててもいます。
つまりは私はまずここで『自戒』を破りました。
『忍辱』、他人から辱めを受けたり冷たくされても我慢することもできなかったと思います。


煩悩の塊の凡人には波羅蜜多行はなかなかに難しいものです。

ですが毎日毎日これを心がけるべく目にして口にすることで、そうあろうという気持ちは生じる、┉かもしれません。

お経にはありがたい教えが詰まっています。
なので、たとえそらで唱えられるようになっても、必ず経本を見てお唱えすることが大切なのだとも、どのお坊さんも口を揃えておっしゃいます。
まぁ、┉字を見てもきちんとその意味まで知っていないとやはり意味は成しませんが。

そうそう、受付では、四月のお会計でミスがあったようで、千円近く多く徴収されていたこともお詫び一つありませんでした。
今回あまりに少ない金額に問いただして知ったのです。
もしこのまま私が行かなければ、どうするつもりだったのでしょう。

No.206 22/08/03 06:24
旅人 ( pu5bob )

【仏は忍辱の鎧をつけ、
 精進の兜をかぶり、
 持戒の馬にのり、
 禅定の弓をとり、
 知恵の矢をもって、
 
 外では魔王の軍団をくだき、
 内では煩悩の賊をほろぼす。

 ゆえに仏と呼ばれるなり。】


とは弘法大師、空海さまのお言葉なのだそう。

┉わかるような、わからないような。

まぁ、これすらがわからない煩悩の塊、凡人であるということの証、というものでしょう。

とはいえ。
良いものは少しずつでも取り入れていく。少しでもそこを目指してみる。
それは大切なことだと思います。

一歩ずつ、でも。



まぁ、仏となれる身ではない自覚くらいは溢れるくらい持ち合わせておりますし、仏になろうとも思ってはいないので、そこはもう、自分なりの一歩ではありますが。


とりあえず、できることから。

No.207 22/08/03 07:03
旅人 ( pu5bob )

ところで。

般若心経には【舎利子】と言う言葉が二度ほど(、┉たぶん二度 )出てまいります。
これはお釈迦さまのお弟子さまの一人〝舎利子〟さんのお名前です。

お経にまで組み込まれるほどの方、ということなのでしょうが、これは本当に凄いことだと思うのであります。

今、不惑の歳も過ぎ、天命を知るべき歳も過ぎたというのに、いまだに惑い、〝天から与えられた自分の使命〟とは何かすらつかめず、川を流れる浮き草のように生きております私すら、ほぼ毎日お唱えしております般若心経です。
仏教徒でなくとも知っているお経で、それはそれは長い年月、唱え続けられてきたお経であります。

そこにお名前が入っている┉。


まぁ、どこかの凡人は、それが人の、┉お釈迦さまのお弟子さまの一人のお名前だと知るにはずいぶんと時間をかけてはおりましたが、ね。
ええ、もちろん、それは言うまでもなく私のことですが。

しかもお釈迦さまにはそれこそ数えきれないくらいのお弟子さまがおられたのではないかと思うのです。
『十大弟子』と呼ばれるお弟子さまもおられ、┉まぁそのお一人が〝舎利子〟さんなのではありますが、┉その中からたった一人、般若心経に読み込まれる。

うーん、どんだけ〜っ☝️


まぁ、だからといって、お釈迦さまのお弟子さまの、それも十大弟子の中に入られるようなお方は、それだからといってそれを誇りにこそ思えど、別段それは日常の通過点の一つに過ぎないことなのでしょうし、他のお弟子さまも、それに対してなんら心が動くようなこともなく、平常の心で聞いておられることでしたでしょう。

こうして後世に残る〝経〟として編まれる頃には、どなたもこの現世には存在されておられなかったことですし。仮にその時生きておられても、それを当然と思われるのでありましょう。

十大弟子さんの中にはお釈迦さまのお子さんもおられるとのことですが、そのお名前を拝見してもわからない私。

うーん、手塚治虫氏の『ブッダ』でも読もうかしら。┉でもそこまでのことって書いてあるのかしら?


No.208 22/08/03 15:30
旅人 ( pu5bob )

今朝、青森ねぶた祭りの様子がテレビで放映されていました。

青森県は遠く。
ましてや人混みも嫌いな私にはとうてい縁のないものと、生きてきたものでありました。

そのテレビは少し長く特集を組んでのものであったため、今年の全てのねぶたを見ることができました。
初めてまじまじと見たねぶたの映像。
┉なんと美しいものなのだろう。
こんなに大きく、そして美しいものであったのか。

思わず涙が出ておりました。


ねぶたの由来はさまざまな説があるようですが、その一つに、病魔を祓い、病魔を跳ねのけ、災禍をなくすといったものがあります。
また、穢れを流す禊ぎの行事として灯籠を流し、無病息災遠祈ったともいわれます。

その大きく美しいねぶたの題材は、素戔嗚尊さまであったり、龍王であったり。薬師如来さまや、仏頭と十二神将、毘沙門天さまと吉祥天さまや、風神雷神であったりと、神さまや仏さまを題材としているものが多く見受けられます。

青森ねぶた祭りのオフィシャルサイトでは、
享保年間(1716〜1736)の頃に、弘前のねぷた祭りをまねて、灯籠を持ち歩き踊った記録があると書いています。
┉そうなんだぁ、弘前ねぷたが先、だったんだぁ。

私がテレビで観、涙が出てするほど感動したのはたまたま映し出されていた青森ねぶた祭りの様子でありましたが、期間も同じとのことで、今青森県に行けば、青森ねぶたも弘前ねぷたも見ることができるようです。

ああ、心はずむこと♡


ただ、┉やはり青森県は遠く、関東から宮城県仙台市への距離と、そこからまた同じくらいの距離だけ離れています。


でも、┉コロナ禍を経験して思うことは、コロナが落ちつく日が来たなら、やりたいこと、行きたい場所に行こうということ。

人の一生はわからないと口では言いながらも、どこかそうではないと信じていたし、信じていたかった。

自然災害も年々酷くなり、体温どころか高熱を記録する気温がバンバンたたき出され、記録的短時間大雨情報での避難指示ももはや他人事ではなくなった。
そして地震。



命短し恋せよ乙女!
私は今、日本に恋している。


No.209 22/08/04 08:07
旅人 ( pu5bob )


危険な雨が続いています。

昨日までの日常を切り裂かれたような恐ろしい光景が、次々、テレビ画面にあらわれます。
月間雨量の二倍以上、
過去最高の雨量を二倍以上
降っていると、伝えています。

救助要請が次々寄せられているといいます。

ただただ胸が痛みます。

どうかこれ以上被害が広がりませんよう、祈るばかりです。

No.210 22/08/05 04:47
旅人 ( pu5bob )

【時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ】


訳)時によって度が過ぎると、ありがたい恵みの雨も民の嘆きとなります。
八大龍王さま、もうこれ以上雨を降らさないでください。


八大龍王さまは法華経に出てくる龍の王。雨をつかさどり、雨乞いの祈りの対象でありますが、あまりの雨に「雨を降らさないでください」と祈ったものです。

1211(建暦元)年の洪水の被害に際して、「恵みの雨も過ぎると民は嘆くことになる」ので、雨を司る八大龍王に祈念して詠まれた歌であります。実にこのとき二十歳。


十二歳という歳で将軍となり、執権により政りごとは執り行われ、御家人に暗愚とも甘えん坊将軍とも酷評されたとされますが、この歌を見るだけでも民に目を向けることのできる将軍であったと思われるのです。



実朝が祈念したのは神奈川県伊勢原市の【大山阿夫利神社】ともいわれます。
もともとは雨降山(あぶりさん)大山寺(だいせんじ)の倶利伽羅堂が八大龍王を祀った社だったといいます。
あの例の、廃仏毀釈・神仏分離で大山の廃仏と神格化が図られ、今、この『大山阿夫利神社』さんと『雨降山大山寺』さんは全く別のところにある別のものとなっています。


、┉と言いつつ、こちらに参拝いたしましたことはなく。

うーん、行きたいぞぉ〜。
大山阿夫利神社さんにも大山寺さんにも。

中断している鎌倉三十三観音霊場巡りや、鎌倉十三仏巡りにも行きたいぞぉ。
箱根神社さんにもお詣りしたい。



コロナ、収まれ!
温暖化、おさまれ!
異常気象、おさまれ!



┉人々にどうか平和を再びお与えください。

No.211 22/08/06 03:59
旅人 ( pu5bob )

先日、歴史オタクの夫と比べるまでもなく、あらためて〝歴史〟というものがまるで頭に入っていないことを、イヤというくらい自覚し、
高校生向けの日本史の参考書を買ってまいりました。

とはいえ、初めて〝歴史〟という勉強をした小学生の時分には
「なんて面白い勉強があるんだろ」と夢中になったはずだったのですが┉。
幸いにして私の子どもの頃は、子ども向けの歴史の本があふれるくらいに出版されていました。
しかもそのほんのわずか数年の差で、そういった本があっという間に姿を消していったので、そういった最後のチャンスを持つことができた子供のひとりだった、とも言えます。

今振り返ってもびっくりするほど、えっ?こんな人(なんと失礼な!)の伝記も?というくらい伝記物もありましたし、
古典も、今だと簡単には入手できないくらいの歴史物も、普通に子供向けに書かれ、しかもそんな今ではレアな部類となってしまった本が、図書館はもちろん、本屋さんにも、学級文庫にも当たり前にずらーっと並んでいた時代でありました。
戦後ようやくおとずれた豊かな時代であったのだとあらためて思います。
┉あるいは、┉学びたい気持ちを封印されて、命ギリギリなところで生きてこられた方々が、自分たちのしてきたつらい思いをさせてはいけないという思いと学びたかった思いを爆発させていたのかもしれません。

そんな恵まれた時代に、貪るようにそういった本を読み、それを吸収してさらにさらに深めていったのが夫であり、
そういった本も読んだはずなのに、きれいさっぱりどこかに流してしまったのが、私、なのです。

ケチなので、最初は子どもたちの歴史の教科書を手にしたのであります。
ありますが、┉今の(うちの子どもたちの頃の)教科者って、まるで資料集のようなんですね。
授業を受けてなんぼの内容なんですよ。
へぇぇっと思うくらいのこぼれ話が書いてあるかと思うと、「だからここの流れはどうしてそうなった⁈」と思うくらい、本筋が略されていたり。
なんだこりゃ、の世界なんです。

高校の、日本史の参考書。
これは、と思うものを、一応夫に内容を見てもらって、購入しました。

これで少しは 歴史的流れを理解した上で、神社仏閣を巡ることができるように、┉なるかなぁ。





No.212 22/08/07 06:04
旅人 ( pu5bob )

昨日、八月六日。
広島市に人類史上初の原子爆弾が投下された日から七十七年が経ちました。
この一年間に死亡が確認された広島の被爆者の方は4,978名とのことで、平和式典に先立ち広島市長と原爆被害者代表の方が、そのお名前を記した原爆死没者名簿を原爆慰霊碑に納められたといいます。
名簿は123冊。
計33万3907人になられたとのことであります。

広島市長は式典においての平和宣言で
「ロシアによるウクライナ侵攻では、国民の生命と財産を守る為政者が国民を戦争の道具として使い、他国の罪のない市民の命や日常を奪っています。そして、世界中で、核兵器による抑止力なくして平和は維持できないという考えが勢いを増しています。
これらは、これまでの戦争体験から、核兵器のない平和な世界の実現を目指すこととした人類の決意に背くことではないでしょうか。
武力によらずに平和を維持する理想を追求することを放棄し、現状やむなしとすることは、人類の存続を危うくすることにほかなりません。過ちをこれ以上繰り返してはなりません」

「また、他者を威嚇し、その存在をも否定するという行動をしてまで自分中心の考えを貫くことが許されてよいのでしょうか。
私たちは、今改めて、『戦争と平和』で知られるロシアの文豪トルストイが残した「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ」という言葉をかみ締めるべきです。
今年初めに、核兵器保有5か国は「核戦争に勝者はなく、決して戦ってはならない」「NPT(核兵器不拡散条約)の義務を果たしていく」という声明を発表しました。それにもかかわらず、それを着実に履行しようとしないばかりか、核兵器を使う可能性を示唆した国があります。なぜなのでしょうか。今、核保有国がとるべき行動は、核兵器のない世界を夢物語にすることなく、その実現に向け、国家間に信頼の橋を架け、一歩を踏み出すことであるはずです。核保有国の為政者は、こうした行動を決意するためにも、是非とも被爆地を訪れ、核兵器を使用した際の結末を直視すべきです。
そして、国民の生命と財産を守るためには、核兵器を無くすこと以外に根本的な解決策は見いだせないことを確信していただきたい」

と述べました。

聞き心地のよい声と、聞き取るのにちょうど良い速さで、一度として言い淀むことなく宣言を終えられました。

No.213 22/08/07 06:36
旅人 ( pu5bob )

宣言はさらに、
『、┉今年6月に開催された核兵器禁止条約の第1回締約国会議では、ロシアの侵攻がある中、核兵器の脅威を断固として拒否する宣言が行われました。
また、核兵器に依存している国がオブザーバー参加する中で、核兵器禁止条約がNPTに貢献し、補完するものであることも強調されました。
日本政府には、こうしたことを踏まえ、まずはNPT再検討会議での橋渡し役を果たすとともに、次回の締約国会議に是非とも参加し、一刻も早く締約国となり、核兵器廃絶に向けた動きを後押しすることを強く求めます。

また、平均年齢が84歳を超え、心身に悪影響を及ぼす放射線により、生活面で様々な苦しみを抱える多くの被爆者の苦悩に寄り添い、被爆者支援策を充実することを強く求めます。

本日、被爆77周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います」

と続き、締めくくられました。


私は小学生の時分、┉おそらく小学二年か三年の時から就職するまで、この平和式典の中継を欠かさず最後までみてきました。
祖父母や親はすでに席を立ち、残された部屋で一人、式典が始まると誰に言われるまでもなく正座してその様子を食い入るように見守っていました。
たぶん、これは知っていなければならないこと、記憶しておかなければならないことと、その画面から子供ながらに悟ったのでありましょう。

とはいえ就職しますとどうしてもこの日に休みを希望でもしなければ、この平和式典の中継をみることはできず、その習慣は途絶えることとなりました。

ようやく今年、その再開の時を迎えこの宣言を聴き、私はたいそう胸を打たれました。
広島市民の方々はよくぞこの方を市長に選んでくださったものだと、この宣言を聴いただけのくせに、思ったものでありました。


私のように語彙力がないどころか日本語すら満足に話せない人間が、この宣言に対して何を書くこともありませんが、ぜひお読みいただきたくて一部とはなりましたが、掲載させていただきました。



トルストイかぁ┉。
数ページでギブアップした記憶があるなぁ。
もう一度手にしてみようかなぁ。





No.214 22/08/08 06:21
旅人 ( pu5bob )

ロシアによる度重なるザポリージャ原発の襲撃に、激しい怒りを感じます。
このような行為は原爆を使ったに等しい行ないであります。

愚かな┉。
あまりにも愚かな行ない。

1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故を覚えていないわけはないであろうに。
┉現在はロシア語由来であるチェルノブイリからチョルノーブィリと呼称変更されてはいるが、あの原発事故を覚えている者にとっては、やはりこの事故に関する限り、かつての呼称を使ってしまう。

このチョルノーブィリにも、今年開戦以降ロシア軍が立ち入り禁止区域に入り、施設を掌握し、その後通常の二十倍ものもの放射線が記録されています。



かの国は一体何を目指しているのだ。

No.215 22/08/08 14:26
旅人 ( pu5bob )

私はまるで幼稚園児のように、食べると眠くなり、二十時二十一時といった頃は寝ていることが多々あります。
そんな私は、いわゆるゴールデンタイムとも称される時間帯のテレビ番組になかなか縁が持てません。

というわけで、今話題沸騰の、夫が絶賛評価しているところの、NHKの大河ドラマ【鎌倉殿の十三人】もほとんど観たことがありません。
再放送もあろうし、なんなら録画して観ることも可能ではありましょうが、それすらつい失念してしまいます。

そんな私が、昨日の阿野全成の回を観ることができたのは奇跡としか言いようがない、┉わけではなく、たまたま昼寝をしてあったからにすぎないのでありますが。

わずか二回しかこのドラマを観たこともないし、どうやらそんな妻が歴史というものに対して関心どころか、あまり知識すらなさそうなことに気づきだした夫が、今回、そんな妻に対する認識をどう改めたらよいか混乱するような発言を私、妻がするのでありました。

┉。

「全成さんだ」
「義経公の同母兄の全成さんでしょう?」
えっ?、┉夫は無言で、それでもびっくりするような顔を一瞬私に向けました。
「┉うん、今若丸と呼ばれていた人だ」

┉。

「この方のお墓は(栃木県の)益子と静岡県の沼津にあるんだよね」
夫「┉。そこまでは知らない」

そのあとこぼれ話的にNHKが放送したものは、まさに直前、妻がつぶやいていたことが予言であったかのようにそっくりそのまま流れたのです。

狐につままれたような顔を押し隠そうとする夫。


鎌倉殿の十三人って誰?
という質問をするような妻が何故?



別に大した理由など無く、ただ単にその人物については知っていたというだけで、この鎌倉時代においてたまたまピンポイントに掘り下げた知識があった、というだけなのですが、ね。

No.216 22/08/08 16:07
旅人 ( pu5bob )

それにしても、鎌倉殿の十三人に描かれた阿野全成の最期は壮絶でありました。
この回を含めわずか二回しか観ていない者を引きこみ、完膚なきまでに圧倒いたしました。

八田氏とその家人たちに引き立てられたシーンで、全成はひたすら不動明王さまのご真言を唱えていました。幼い時から真言宗という密教のお寺で修行してきた僧であることからでありましょう。



切ない。
とにかく切ないの一言に尽きます。


この回だけ観ただけの者の心をこれほどに揺さぶるとは、脚本、演出、そして演じた俳優さんの偉大さを思い知らされます。


この回だけで全成ロス。


初回から観てみたい思いが沸々と湧き上がりますが、すでにここ、この回を、全成最期の回を観て、全成ロスになっている私が、今までを観て果たしてどう思うものか。


全成が長く修行してきた【醍醐寺】に参拝し、全成が最期に心に思った不動明王さまの御像を拝したいと、思う私でありました。




No.218 22/08/09 18:00
旅人 ( pu5bob )

東北で過去の大雨を大きく上回る大雨となると言われている。
しかも明日は200ミリ、明後日は100ミリと、さらにその大雨が続くという予報なのだ。

今年東北は今までに体験したことがないほどの大雪に苦しんだ。
それがここへきて今度は今までに体験したことがない大雨にみまわれている。


どうか一分一秒でも早く、雨よ止んでください。

命に関わるような危険がおよびませんように。

No.219 22/08/10 16:49
旅人 ( pu5bob )

朝のテレビニュースで、一般の方がインタビューに答えるのをみながら、夫が
「┉お盆ずらしって┉何?。お盆ってずらせないよね。聞き間違い?何を言ってるかわからないんだけど」
と聞いてきました。

「それはねぇ、たぶんお盆休みをずらして取るっていうことだと思うよ」
「ああ、あぁ、そういうこと?」
「┉たぶん」

テレビであまりにも堂々と使っているので、てっきりまたそういう言語ができたのかと思いきや、今のところGoogle先生および他のネット検索でも引っかかってはきませんでしたが。


そもそもお盆の時期自体が大きく分けて三つに分かれるもの。
八月にある長期休暇が当てはまる所もあれば、もう一月も前にお盆が終わっている所もあります。



゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。.

⑴ 新暦盆(しんれきぼん)
→新暦7月13日〜15日(16日)

旧暦7月13日~15日(16日)の〝旧暦〟を取り、そのまま日にちだけを採用したお盆です。
主に東京都/静岡県/石川県/神奈川県などの一部地域で行い、東京では「東京盆」または「新のお盆」とも呼ばれています。


(2) 月遅れ盆(つきおくれぼん)
→新暦8月13日〜16日

旧暦7月13日~15日は毎年細かな日程は変化しますが、大まかに1ヶ月ほどずれる年が多いため、日にちのみ1ヶ月ずらした日程で行うようになりました。全国的に最も多い日取りです。


(3)旧盆/旧暦盆(きゅうぼん/きゅうれきぼん)
→旧暦7月13日~15日(16日)

…昔ながらの旧暦のお盆日程通り行うお盆です。
沖縄県は旧盆であることで有名なようです。沖縄では旧盆のみならず、お正月なども旧暦行事が今も残っています。

旧暦は月の満ち欠けを軸として進む暦なので、今年は新暦でも8月10日〜12日(もしくは13日)と、一般的な月遅れ盆と日程も近いですが、年によっては9月の旧盆ということも多くあるようです。

゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。.


この八月の長期休暇。
お盆がすでに終わっている所であろうと、この時期に休暇が組まれているのは全国共通のようです。

だとしたら、┉もはや『お盆休み』という言い方自体がそぐわないものなのではないでしょうかね。

No.220 22/08/11 05:00
旅人 ( pu5bob )

┉この頃、このおばさん、『神社仏閣巡り珍道中』とかいうタイトルのくせに、ちぃ〜っとも神社やお寺へ行ったという記事がないじゃないか。
この駄文スレをお読みくださっている方のつぶやきが聞こえてきそうで、ドキドキの私。

神社仏閣巡りに飽きたのか?
┉いやいや滅相もございません。

┉ただ。

参拝させていただいております所が、いつも定期的に通わせていただいております神社さんやお寺さんであったり、あるいは時折無性にお参りしたくなって参拝するおきまりの神社さんやお寺さんでありまして。ここに書くにはあまりにもリピート率が高くて、その日の天気や景色くらいしか、なかったりするので、それはさすがにないだろうと、ついついちがう事をつぶやいてみたりしてしまうのですが┉。

実はそこにはひとつ、┉専業主婦の悲哀がございます。

朝ごはんを食べて掃除洗濯をすると、もう近場のお寺さんや神社さんに参拝するくらいの時間しか残されていないのであります。
しかもお昼ごはんのしたくがあるため、一寺あるいは一社を参拝するのがやっと。
帰って来て、必死に昼ごはんを準備して、あらためて食材調達の買い物に出かけ、また家事の続きをいたしますとあっという間に夕食の支度にかかる時刻となっております。

そう、夫は今ほぼ毎日テレワーク、なのであります。

夫が会社に行く日ですと、お昼ごはんの支度もなく、ほぼ半日好きに過ごせるので、少しは遠出もできるのですが┉。

それでも、どうあっても出かけたい、あるいは出かける用事がある時は、朝のうちに夫のお昼の準備を済ませテーブルに並べ、あるいは書き置きで『〇〇と△△が冷蔵庫に入っていますので出して食べてください』と書いて出かけるのであります。
なのですが┉。

しょせんそれも、夕飯の支度までには帰らなくてはならず。

しかも今までに行ったことのない神社仏閣などのお参りをしようものなら、「あ、いいな、俺も行きたかったんだ、今度の土日に行こうよ」

┉私は、行ったばかりなんですよ。

いくらかなり進行した認知障害があろうとも、直近で自分で運転して、いろいろ探索させていただいているお寺さんや神社さん、多少の新たな発見はあるかもしれませんが、ほとんど記憶している状態でまたそこに向かうことになるのでは、『ま、夫と一緒の時でいいか』となるのですよ、ええ。

ガソリン代も高いことですし。

No.221 22/08/11 06:46
旅人 ( pu5bob )

東北地方では大雨による河川の決壊、冠水・浸水の被害。
そして北海道では深夜の地震。

体温を超える気温。

そんな状況下であってもなお、情け容赦ないコロナ感染症。


災害に被災された方々に心からお見舞い申し上げます。



本日が皆さまにとって少しでもよい一日でありますようにお祈り申し上げます。


No.222 22/08/12 07:35
旅人 ( pu5bob )

昨日は『山の日』。
皆さまはいかがお過ごしであられましたでしょう。


昭和生まれの(、┉そういうと三十代の方々には申し訳ない括りとなりますが)私には、
「一体何の祝日なんだよ」と言いたくなるものであります。
まぁ、子どもたちので夏休み中にこうした〝休みの日〟が増えることは殊に子育て世代にはありがたいものでありましょう。

が。
なんで山の日?

山の日とは『山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する』という趣旨のものだそうです。まぁ、さきに制定された『海の日』と対となるよう制定されたものなのでしょうが、ね。

実は海の日自体は、私は知らなかったものの、もともと7/20が『海の記念日』として存在していたようで、そこにはさまざまな理由があってのことのようです。
そしていったんはそのままの7/20を祝日としたものの、あの『ハッピーマンデー制度』とかで、現在の『7月の第3月曜日』となったという経緯がありました。

実は調べたところ、本当に海の日と対になるよう制定されたもののようです。
でも何故、8月11日?
それこそ海の日のように、8月12日としてお盆休みを1日延ばすというありがたい制定は考えなかったのか?(まぁ、11日からのお盆休みとなるところもあるようですので、ある意味さらにありがたい?)

それは1985年に起きた、日本航空史上最悪とされる日航機の墜落事故が発生した日であったからであったようです。
あの事故を知る方は、その日を避けるのは誠に当然だと、そう思うくらい悲惨な事故でありました。
その事故現場となったのが山。
群馬県の御巣鷹山という山でありました。
よりにもよってその日を山の日という祝日とすることはできなかったということです。

山の日の次ぐ日。
まぁ、どうあっても、被害者にあわれた方、被害者のご遺族の方々には忘れらることなどできやしない日であります。


御巣鷹山のある群馬県上野村では今年も慰霊祭がしめやかに執り行われます。
また切なさの甦る一日です。





No.223 22/08/12 09:49
旅人 ( pu5bob )

「山の日って一体何の祝日なんだ?」
などと申してはおりましたが、
日本人にとって山は古来特別な存在でした。

山が多い日本では、山を〝神の世界〟だと考えていました。
古代より、山は食料を採取するための大切な場所であり、大切な水源でもありました。
また、山に住む霊や神を怒らせると不幸が起きる、正しく祈り崇めればご利益が得られる、といった考えが自然に発生し、信仰の対象へと発展します。

つまり、日本人にとって古くから山は信仰の対象であり、生活のための非常に重要な存在であったのです。


ところで。

多くのお寺さんには【山号】がつけられています。
『〇〇山〇〇院〇〇寺』といった、〇〇山にあたるのが『山号』であります。

この歴史は古く中国に由来していると言われています。
唐の時代、あの『西遊記』のモデルにもなった三蔵法師が、インドからたくさんの経典を中国に持ち帰りました。
それ以降、中国の国内には数多くの寺院が建立されるようになりました。
そのため寺院の名称の前に地域を冠することで区別しました。
人里離れた山の中に建てられるお寺も多く、そうした寺では山の名前をそのまま寺院名に用いたといわれています。これが山号の始まりといわれています。

日本でも禅宗が紹介されて以降、広がったようです。
それでも、日本には山号のつかないお寺もたくさんあります。

これは、仏教が伝来した当初の寺院は権力者のための建物であり、山ではなく街中に建てられていたからといわれています。
しかし、時代が進むにつれて、寺院も仏道や修業の場でとして、俗世とは離れた山の中などに建てられるようになり、山号をつけるようになったようです。
古くからの山岳信仰が仏教と結びつきやすかったという理由もあるのかもしれません。

お寺の門を「山門」と呼ぶのも、同様にお寺が山に建てることが多かったから、と言われています。

なお、お寺の名前は【寺号】といいますが、お寺の門に掛けられている寺院名を記した額は、寺号しか書かれていない場合でも『山号額』と呼ばれるのだそうです。
_φ(・_・



No.224 22/08/12 21:15
旅人 ( pu5bob )

山の日をいつまで引っ張るのか。


ふと思い出したのですが、私たちの親ぐらいの世代では、奥さんのことを『山の神』と呼んでいた記憶があります。

国語辞典を開くと、
『「山の神」、妻、特に結婚後年を経てやかましくなった自分の妻のこと』
と書いてあり、特に怖い奥さんのことを『山の神』といったといわれています。
『山の神』が短縮された形が『カミさん』であるという説もあります。


ん?
じゃあ、私、山の神?
やかましいし、気が強いし、怖い部類な気がする。


閑話休題。

なぜ妻のことを山の神と言う呼ぶようになったのか、その由来は山を守る神様への信仰です。

日本は、山や川などの自然に神さまが宿ると信じられてきました。
その山の神は、女の神さまが多かったのです。

女の神さまは嫉妬深いので、女性が山に入ることを嫌がったため、女の山の神様がいる山は女人禁制が多かったほどです。

夫が妻のことを山の神と呼ぶようになったのは、山を守る神と家を守る神を重ねたことが始まりだったと言われます。

ですが、それなら皮肉の意味ではありませんよね。

山の神が妻に対する皮肉となったのは、女の神さまの嫉妬深さから、妻の嫉妬深さを重ねたのです。

さらに、山の神様を怒らせると、大きな災害が起きたりすると恐れられていたことから、妻を怒らせると大変だという意味に通じていくというわけです。

山の神は妻の異名ではありますが、本来は『山の守り神』のことです。

また、近年では、日本のお正月の風物詩でもある【箱根駅伝】で、きつい登りの第五区を早いペースで走り、チーム遠勝利に導く選手のことを『山の神』と呼びますよね。

自分の妻のことを「うちの山の神が」という人ももう少なくなっており、初めて聞いた方もおられるかもしれません。

最近では鬼嫁という言い方が広く浸透していますし、妻の方が力を持っている家庭のことは「かかあ天下」と言うことが多いですよね。

ちなみに。
上州名物といわれるのが(これも死語となりつつあるかもしれませんが)
『かかあ天下と空っ風』。

どっちに転んでも、┉というか名実ともに、『山の神』であり、『かかあ天下』な私でありました。
ん?



No.225 22/08/13 07:03
旅人 ( pu5bob )

今日からお盆、よりにもよって台風八号の接近上陸の予報が出ております。
うーん、今なら小雨があたるくらいなのだけれどなぁ。

夫は昨晩何回目かわからないくらい観ているラピュタを観ていたからなぁ、┉起こすと悪いよなぁ。

そ、かかあ天下の群馬県民、実は威張ってるとか、夫を尻に敷いているわけではないんです。
┉。

わ、私はともかくとして。
かかあ天下といわれた女性たちは、働き者で家計を担い、家庭を切り盛りし、さらに夫を立てていた、『できる女』を指しているんですよ、本来は。

上州って。
あの群馬県民のバイブル(?)『上毛かるた』にもあるように、

【ま 繭と生糸は日本一】
【め 銘仙織り出す伊勢崎市】
【き 桐生は日本の機どころ】

等々、女性の職業であるとされた、お蚕さんを育てたり、糸を紡いだり、織物を織ったりする仕事のたいへん盛んな土地でありまして。
言い換えるとそれに頼るような土地、という言い方もあるのでしょうが、家計を担っていたのは奥さんだったりする家庭も多かったといわれます。

だから生まれた【かかあ天下】。

悪い意味ではないんです。





┉えっ?わが家、ですか?


夫、起きてこないかなぁ。
一人でお墓参りに行ったら、また行くようだろうしなぁ。
やれやれ。

No.226 22/08/13 14:26
旅人 ( pu5bob )

お墓参りをしてまいりました。
夫の実家と。
両親の離婚後縁の途絶えてしまっていた父と父方の祖父母と叔父の眠るお寺さんに。

夫の実家のお寺さんは御本堂に立派な『三界萬霊の供養棚』が設えてあります。

ちょうどご本尊さまの真向かい、つまりは入り口をふさぐ形で設置されているので、出入りに少し難儀をするのではありますが、こうしたお盆の時期に三界萬霊の供養棚を設えてあるお寺さんは皆、そのように棚を設けますので、おそらく何か意味あることなのでありましょう。
お盆の忙しい時期にお寺さんにお聞きすることなどできませんので、なかなかその理由を知ることができずにおりますが、
なんとか望み通り、三界萬霊の成仏を祈って参ることができました。(7/26の『幽霊の日』にかように思った私でありました)

それにしても。

今年のお盆の入りは半端ない混雑でありました。土曜日ということもあったのでしょうか。
道路も、でありますが、どちらのお寺さんの駐車場は空き待ちするようでありました。
コロナ禍となる前でもこのような日はありませんでした。
思わず「みんな偉いなぁ」とつぶやく私に、
「え、別に偉いとかいうことでもない、当たり前のことなんじゃない?」とは夫。

はあぁ?

あなたはお盆というとお盆休みととらえる第一人者だったのでは?
ま、お盆中は家庭内で争いごとは良くありませんから口には出しませんでしたが、ね。

とはいえ、相変わらず檀那寺を持たない私どもは、どこか中途半端な気がする、お盆なのでありました。

No.227 22/08/14 03:02
旅人 ( pu5bob )

そして┉。

祖父母と父の眠るお寺さんのご住職さまは今回も笑顔で出迎えてくださいました。
それはもちろん私どもだけでなく、どなたにも。
満面の笑顔で、その方その方に合わせあたたかなお言葉をかけ続けておられます。
そう、その方その方に合わせて。

「今日もお越しくださったのですね。お彼岸もお盆も欠かすことなく、┉ありがとう。どうぞ上がってお焼香なさってください」
┉私がどこの家の者か、瞬時にわかってくださってのお言葉です。

檀家でもない私でありますのに、
「この寺に縁あって、こうしていつも来てくださることが何よりありがたいことです」


今、父や祖父母の眠る墓を守ってくれている方は、顔を合わせたことすらない、┉というよりは祖父母や父たちの『家』と縁が切れてから、┉私の両親が離婚したのち生まれた、従兄弟にあたる方、叔父の息子さんのようです。

遠方にお住まいでおられますのに、それでもお時間を作っては群馬までお越しになり、お寺さんにお参りいただいているようです。
それこそが本当にありがたいことです。
祖父母はともかく、実の娘のある伯父まで入っている墓を守ってくださっておられるのです。
一方叔父が亡くなったことすら知らなかった私。

それは親の離婚という、私にはどうしようもないどうすることもできなかった理由からではありましたが、祖父母や父の葬儀に出ることができなかったこと以上に申し訳なく思うのであります。


祖父母や父に対しては、亡くなったのち墓参りという形で会うよりは、やはりその病床を見舞いたかったし、生きているうちに話したかった思いが強かったけれど。

それでも亡くなったのち、┉かつて祖母とお盆やお彼岸に通ったお寺さんの先祖代々の墓に入ったからこそ、今こうしてお参りすることができているのです。


今は墓じまいやお墓の引っ越しなども多くあります。
実際、夫の実家のお寺さんでも、
父方のお墓のあるお寺さんでも、墓じまいされ空いた墓所がポツポツと見られるようになってまいりました。
遠方にお住まいの、お墓を守ってくださっておられる従兄弟の方がそのように考えても決しておかしくはないことです。

今、こうしてお墓参りできること、お会いしたことすらない従兄弟の方に、あらためて感謝して。
祖父母や父、叔父の眠るお墓に手を合わせてまいりました。



No.228 22/08/14 03:06
旅人 ( pu5bob )

そして、父方のお寺さんのご住職さまは、檀家でもない私どもに丁寧なお言葉をおかけくださり、御本堂にお招きくださった上、お供物を、┉それも二人分もくださったのでした。

もうバチ当たりな気すらする、┉父方のお寺さんでのお墓参りでありました。

No.229 22/08/14 03:20
旅人 ( pu5bob )

母の眠るお寺さんは、お盆の施餓鬼会法要を終えた頃に参拝してまいりました。

御本堂には三界万霊の供養棚と、地獄絵を今年も飾られていました。

御本堂に詰めておられた方々は皆、スマホに夢中で、お寺さんの御本堂の中で初めて見る光景に、┉なんともいえない、もの悲しい気分となりました。

こちらは檀家筋ではない者には挨拶すらないお寺さん。
まぁ、檀家さんのお顔は覚えているだけ良しと思いましょうか。

No.230 22/08/14 23:16
旅人 ( pu5bob )

今日、そんな母の眠るお寺さんに、息子とお嫁さんがお参りをしてくれたそうです。
縁(えにし)というのは誠、ありがたく、そして不思議なものであります。

No.231 22/08/14 23:45
旅人 ( pu5bob )

息子夫婦が当家の関係のお寺参りをしてくれていた頃、┉私が何をしていたかと申しますと、夫の運転する車の助手席に座ってぽぉっと車窓から流れる景色を眺めておりました。
┉高速道路、でしたので、景色自体はほぼ単調ではありましたが。


ええ。

私、今朝の五時に外に出た際、台風一過の朝のわりにはどんより曇った空を見上げて、
「そうだ、こんな空模様ならさして暑くはならないであろう。久しぶりに少しだけ遠出して、神社仏閣をお参りさせていただこう」
と、夫の意向を聞くこともなく(┉まぁ、そんな早い時刻には夫はまだまだ夢のなかですし)、勝手に出かけるつもりとなって、あれこれ動き出しました。
七時には洗濯物を干し終えて。
仏さまのお花の水を換え、水とお茶をお供えし。
そんな私の動きでようやく目を覚ました夫が、寝ぼけまなこで
「おはよう」と言ったまもなく、
「ねえ、きっと今日はあまり暑くならないよ。久しぶりにちょっとだけ遠出しない?、┉もちろんあまり人の集まらないようなところへだけど」
「おぉ、それはいいね」

うんうん♡

秩父とかはどうだろう。
混雑具合はとにかくとして、秩父へなら私も運転していけるし。

久しぶりのプチ遠出。ワクワクしながら食事の支度をしている私に、夫は栃木に行こうと言いだしました。

┉栃木?
まぁ栃木へも私の運転で行ったことは何度かはありますし。

「、┉高速だけど、平気?」


ぶ。

無理です。

高速道路を運転しようものなら、私、本当の本当に手に汗握っちゃうんです。

で。
今日もまた夫に運転を任せ、私はぼーっと流れる景色を眺めていた、というわけでありました。


そんな彼が向かったのは、┉。

No.232 22/08/15 00:06
旅人 ( pu5bob )

゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁・*:.。❁ ゚・*

「┉松尾芭蕉が、『奥の細道』で最も長く滞在したという栃木県黒羽の地。
彼がここに留まったのは、┉降り続く雨のせいだけではありませんでした。」
     
 ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁・*:.。❁ ゚


やわらかく、そしておだやかな語り口の吉永小百合さんがそう語られたは、栃木県黒羽の【雲巌寺】さん。
そう、JR東日本のCMでのセリフであります。

今回も、わがままでただ騒ぐだけの妻とは違い、しっかりと地図を見ながら、決定し行動してくれた夫でありました。
ありがたいことであります。

No.233 22/08/15 18:39
旅人 ( pu5bob )

【奥の細道】は、松尾芭蕉が、崇拝する『西行』の五百回忌に当たる年、弟子の曾良を伴い江戸を発ち、奥州・北陸道を巡った紀行文であり、俳諧であります。
あの『月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり』
から始まるもの。

全行程約六百里(2,400km)、日数約百五十日間で東北・北陸を巡り、東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねたものであります。
このうち、武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して美濃大垣を出発するまでがえがかれている、┉といいます。

その芭蕉が〝奥の細道〟紀行の途中、十三泊十四日という最長期間を栃木県黒羽(くろばね)に逗留したのだといい、この内の六日間が雨に見舞われたのだといいます。
そんな史実を受けて、
「┉彼がここに留まったのは降り続く雨のせいだけではありませんでした」という吉永小百合さんの〝語り〟に繋がるのですが┉。

この黒羽の地の〝蕉門〟の俳人でもあった黒羽藩城代家老と、同じく俳人であった家老の兄弟の、手厚いもてなしを受けて、黒羽とその周辺の名所旧跡を訪ねたようで、最初に訪れたのが【雲巌寺】であったといいます。
といいますのも、実は芭蕉が禅の師とし慕っていた仏頂和尚がかつて修行した寺であったということもあったようです。

芭蕉は雲巌寺に参詣し、仏頂が営んでいた庵の跡を見学し、
【木啄(きつつき)も庵(いお)はやぶらず夏木立】の句を詠んでいます。

この地の俳人も集い催したという歌仙等、芭蕉を長逗留させるだけの文学的な素地もあったようです。

No.234 22/08/15 20:49
旅人 ( pu5bob )

栃木県と群馬県は隣接しており、┉まぁ、場所によっては私でも運転して行けちゃう県の一つです(隣接してるからと言って、行けるとは限らないのが私です)
そんな栃木県は、関東地方で一番広い面積を持つ県で、面積がもっとも大きな市は日光市ですが、人口は宇都宮市がナンバーワンです。

今回行きました、【雲巌寺】さん。
高速道路を走って走って。
高速を降りてからも長閑にして広大な田園風景の中を走って走って。

やたらと走るものですから、
「これだけ走るようなら、横須賀にだって行けちゃうくらいなんじゃない?」と申しますと、
夫「そうだなぁ、横須賀行くにはあと三十分くらい多く走るようかな?」

┉えっ、まじか?

地図を見ますと、この雲巌寺さんのあるところは茨城県、そして福島県にほど近い辺り。
関東一広い栃木県を縦断して、さらに隣接している茨城県や福島県に入ろうかとしているようなものであります。

そ、そうかぁ。そうなんだぁ┉。

JR東日本も罪なCMを作ったもんだ。

行けども行けども、田園風景が続いていました。

そこに変化がおとずれます。

アップダウンし、川が見えてまいりました。やたらと〝鮎〟という看板を目にするようになります。
そうしていかにも昭和なレトロな風情の橋を渡って、さらにしばらく走行すると、┉。
若干道幅が狭くなってきました。

小さな川。そこにかかる小さな橋を渡って┉。

さらに進むと、┉!
きらめく金の欄干の橋が見えてきました。
そこを渡って。
さらに進むと小さな橋が。

景色が一変します。

民家もお店もほぼない、山に囲まれた川沿いの道を夫の車は走ります。

あ、駐車場だっ!

┉どこにどう停めてもよさそうなほどに広い駐車場です。

ぁやったぁぁ!





No.235 22/08/16 20:47
旅人 ( pu5bob )

車を停めて、道路をへだてた石標をめざすと、┉!
いきなり、ありました。
あの、吉永小百合さんがお立ちになっていた、赤い太鼓橋が!

そしてその赤い橋の向こうにそびえ立つ楼門は青い空に映えています。
芭蕉や小百合さんのように、雨に降り込められることとはなりませんでした。┉当たり前ですがね。

赤い橋♡
一歩一歩ワクワクし、そして一歩一歩身の引き締まる思いがいたします。
┉神橋、ではありません、がね。

うわぁぁ!
なんてきれいな川の流れでしょう。

寺には橋を渡る必要がある。欄干が朱塗りになって、とても印象的。
橋のしたを流れる小川は【武茂川】というのだそうです。『むもがわ』と読みます。
朱塗りの太鼓橋は【瓜鉄橋(かてっきょう)】と呼ばれるものです。
「瓜鉄」とは「子孫が長く続いて繁栄すること」を意味するのだそうです。

雲巌寺さんは臨済宗妙心寺派に属する禅寺で、山号を【東山】といいます。
瓜鉄橋は東山五橋と呼ばれる橋のひとつで、徒歩圏内に独木橋、瑞雲橋、涅槃橋、梅船橋といった橋が架けられています。

橋の向こうに見える山門は、石段の上にある楼門ですのでまさにそびえるように見えます。
扁額が掲げられており、『神光不昧(しんこうふまい)』と書かれています。
楼上には『釈迦牟尼佛』さまと『文殊菩薩』さま、『普賢菩薩』さまと十六羅漢像が祀られているのだといいます。


ちなみに。
山門は〝豊臣秀吉〟の〝小田原征伐〟の焼き討ちにも耐え残ったと言われます。
小田原征伐では、烏山城の〝那須資晴〟は豊臣秀吉に恭順しなかったそうで、そのため城攻めの際、付近の住民が雲巌寺に逃げ込み、それを見た豊臣方は雲巌寺を要塞と判断して火を放ったとされるのだといいます。


┉いつの世も争いごとは酷いものです。


No.236 22/08/17 04:25
旅人 ( pu5bob )

すみません。
誤字がございました。

あの雲巌寺のシンボルの一つ、といっても過言ではない美しい〝かてつ橋〟『瓜鉄』と記載しておりましたが〝鉄〟ではなく、正しくは、
部首を『爪』(つめ・のつ・そうにょう)とする【瓞】でありました。
お詫びして訂正させていただきます。


さて。

【雲巌寺】の歴史は、
平安時代の大治年間(1126年〜1131年)に『永観寺』の高弟「叟元和尚(そうげんおしょう)」により開基されます。
その後、弘安6(1283)年に【顕日高峰(けんにちこうほう 仏国国師の法名)】によって再興開山された歴史あるお寺です。

仏国国師さまは後嵯峨天皇第三皇子にあたられます。

┉仏国国師、?
仏国が名であるところの国師さま、なんだろうが、国という字が二つ並んで使われることとなっていて、なにやらやたらと目を引くお名前で┉。

【国師(こくし、くす)】は、高僧に対して皇帝(朝廷)から贈られる『諡号』の一つであり、特に皇帝の師への尊称であるとされます。
僧侶に贈られる諡号としては、他にも大師号、禅師号、などがあります。

この仏国国師さま、ご修行中に関東地方を行脚されておられ、ある時思い立ってここに草庵を結ばれたのだといいます。
その際、この地にあった僧が国師について禅を学ばれ、この山を国師に献上されたといいます。

さらにまた、あの、元寇の際執権鎌倉幕府第八代執権『北条時宗』を大檀越となって、国師のため一大禅刹を建立したことにより成っています。
仏国国師さんを慕って雲集する僧は常に一千万を超えたと伝えられています。


筑前博多『聖福寺』さん、越前『永平寺』さん、そして紀州『由良興国寺』さんと共に、日本の四大道場の一つに数えられたものでありました。


No.237 22/08/17 10:07
旅人 ( pu5bob )

雲巌寺さんは、平安時代後期の大治年間(1126年-1131年間)に初叟元和尚によって開山されました。当初は『三論宗』として草創されましたがその後は諸宗雑居し、何時しか荒廃してしまったといいます。

それを復興させたのは『高峰顕日(=仏国国師)』で、弘安6(1283)年のこと。時の執権・北条時宗を大檀那とし、修験道の山伏、〝高梨勝願法印〟の寄進のもと、臨済宗寺院として改めて開山したといわれます。

さらに天正6(1578)年、『臨済宗妙心寺派』へ改宗されています。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉による『小田原征伐』の折、恭順せず城攻めにあったのは烏山城の『那須資晴』公。
あの那須与一の子孫にあたります。

豊臣方は、北条氏を大檀那(だいだんのつ)とするこの寺を軍事要塞と見なし、火を放ったといいますが、その際焼失を免れたのが瓜瓞橋の前にそびえ立つ楼門であり、またこの火災で、仏像及び三祖像、一部の什宝を除き、ことごとく焼失してしまいます。

その数年後には再建され、祖道の復興に努められましたが、旧時の盛観を再現するには至らなかったといいます。

また弘化四(1847)年にも方丈と庫裏が再び火災に見舞われ、その二年後に再建されています。


方丈の裏手には一般の参拝者が行かれないようになっています。
見えるのだけれど行かれない。

東山十景とされる舊跡、海岸閣であるといいます。
また、そこにはかつて芭蕉が訪れたという、仏頂和尚の庵の跡等もあるようです。


そのほかにも、火災により消失後再建されたものの、虚空蔵堂であったものが、第二次世界大戦による戦死病没者の霊を祀る平和観音堂となったりしているようです。

No.238 22/08/17 18:15
旅人 ( pu5bob )

赤い〝瓜瓞橋〟を渡るにあたって、心はずむ思いをどうしてもおさえられませんでした。

真正面には雲ひとつない空が広がり、厳かにそびえる楼門があり、
赤い欄干から覗き見ると、木々の生い茂る下をきらきらときらめく水が流れています。
本来なら、心引き締まる思いがするのが本当でしょうが、煩悩の塊で修行の〝しゅ〟の字もない日々を送るおばさんははずむ心を抑えることすらできませんでした。

瓜も瓞(小さなウリ)も先端にいくほど実が太く大きくなることから『子孫繁栄』『国家興隆』を意味するという『瓜瓞』という言葉。
心が大きくはずむのもある意味しかたないのかもしれません。

それでも橋の上から楼門を見上げると、自然に背筋が伸び、厳かな思いとなります。


石段を登ると。
楼門の左右にそれぞれ
『雲巌寺専門道場』・『碧巖録提唱』と墨書きされた白木の看板が掛けられています。
これは雲水の修行の場であり、〝碧巖録〟を説法していることを表しているもの。
碧巖録は中国禅文学の典籍なるものだそうで、碧巖集とも呼ばれるものだそうです。臨済宗で最も重視する語録なのだといいます。

さらに楼門上の段には『眛不光神』と書かれた扁額が掲げられています。
【神光不昧】とは、心の光を眛(くら)まさないこと。
禅の真髄を端的に表した言葉だといいます。
虚空のように澄み切った境地にある工夫を積むと、ものごとの真相を洞察する力が自然に備わる人間になるという教えに基づく言葉だといいます。

この楼門をくぐりながら、私はふと鎌倉の建長寺の山門を思い出していました。
風雨にさらされ自然に少しづつ少しづつ削られ、でもそれでいて、だからこそ歴史の重みを感じさせる太い柱を彷彿させる、┉そんな雲巌寺さんの楼門の柱でありました。
┉まるでにてはいないそれぞれの門、なのですがね。
長い年月を経た木、木造物のみせる共通の重み、なのでありましょうか。

そんなことを考えながら、しゃがみ込んで柱の下の方を見ていたおばさん、┉怪しいったらありゃしませんね。

さらには楼門の上の方を見上げては、(御開帳されることはあるのだろうか)などとまたまた煩悩が一つ生まれるおばさん。

┉困ったものです。

No.239 22/08/18 04:40
旅人 ( pu5bob )

門をくぐると。

広い広い空間が広がっていました。思わず足を止めたくらいです。
白い砂利の敷かれた平らかな空間。
ゴミはもちろん、落ち葉一枚、雑草一本ない、境内でありました。

そんな境内中央に。
どっしりと。
威風堂々とした建物がひとつ。

扁額が掲げられています。【東山】とあります。
古い、┉といえば古いのでしょうかね。明治か、┉大正、あるいは昭和初期までくらいの建物、でしょうか。
白木のままの経年した建物は、なんとも言えない風情と、重みがありました。

厳かな心持ちで一歩一歩、仏殿に向かって歩いてまいりました。扉が開け放たれ、中まで拝観できそうであります。




┉。
えっとぉ、┉。


さほど大きくはない仏殿となりましょうか。
ただし本堂としてであれば。
ここ、この仏殿は、文字通り〝仏殿〟。平らかな石かコンクリートの床で高い天井の間にの真正面に、大きな、落ち着いた茶色の須弥壇が設けられています。
ただ┉、他のお寺さんの本堂のような煌びやかな装飾品は一切ありません。
ええ、まるっきり。
金色のものといったらまさにご本尊さまの御像と、その左右のお膝の下辺りに置かれた金属製のブロンズ色の蓮の飾りのみ。
燭台や香炉、花瓶等は経年したためのものか、はたまた最初からそうあったのか黒みを帯びた光沢のないブロンズ色。

白木のままの天井と壁。ワンフロアで区切りとかも一切ないため欄間等もなく、おそらくは彫刻等もなく、天蓋等もない、極めてシンプルなお堂であります。

そんな御堂の中央におられるお釈迦さまの坐像は、脇侍もおられずただお一人でおられます。
お痩せになられておられるお姿にしか見えず、禅定印と呼ばれる印を結ばれておられるように見えます。
ご修行をなされておられる頃のお姿、┉なのでありましょうか。


まずはただただそのシンプルさに驚き、お釈迦さまがお痩せになられておられるお姿であることに驚き。

そしてそんな、極めてシンプルな、お堂の中に、極めて異質、としか思われない、〝グランドピアノ〟が、お堂の左側にひっそりと置かれているのです。

ええ、グランドピアノ。

何故?


No.240 22/08/18 06:09
旅人 ( pu5bob )

お位牌、┉と申しますと亡くなられた方に使われるものを指すようですので、なんと申し上げるものとなるのか┉。
形としてはまさに〝位牌〟と呼ばれるものと同じ形をしているものとなるのですが、語彙力のない、信仰とも関わりなく生きてきたおばさん、ほかの名称を存じ上げず。
懸命に調べたもののこれというものに至らなかった〝位牌と同じ形をした仏具〟。
生きておられる方の生前戒名を書いたものは寿牌と呼ぶようですが、それともまた異なるので、
〝位牌によく似たお祀りする仏具の一つ〟、とお呼びするしかないのですが、そんな仏具が三体、ご本尊さまの御前に祀られておりました。
全文読むことはできなかったのですが、

【本朝 歴代天皇 …】
【大日本国内 …】
【今上天皇陛下 …】

と刻字されています。

ああ、そうだ、そうだった。
こちらはかつて天皇家ゆかりの方が住職となられたお寺さんでありました。

なるほど┉。

グランドピアノにびっくりし、少しひいていた気持ちを改めて、あらためて手を合わせました。

仏殿をあとにし、ふと横を見やると勅使門、があります。朽ちかけており、物悲しい気持ちとなります。
ま、とはいえ今はなかなか勅使門があったとて、そこをくぐるようなご身分の方がそこをくぐって方丈の方へ向かわれることもないのでしょうが、ね。

勅使門の前から見上げると、方丈が見えます。

私の気分がまた、ふわぁと、まるで身体でも浮こうかというくらい、ワクワクしたのは言うまでもありません。

とりあえず向きを変え、あらためて境内を見ますと、ひだりてには何やらシートのかけられた、あまり大きくはない建物があります。
あとで調べたところ、『平和観音堂』であったようです。
さらに遡ると虚空堂であったようです。

そのすぐそばに『奥の細道句碑』と、その解説が看板となって立てられていました。
句碑は、┉苔むしてまるで読むことは叶いませんでした。



No.241 22/08/18 09:32
旅人 ( pu5bob )


【 竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば 】
仏頂和尚


【 木啄も庵はやぶらず夏木立 】松尾芭蕉


木啄というのは仏教伝来の時、蘇我氏と物部氏が争い、仏教反対派の負けて殺された物部守屋が怨霊となって啄木鳥になったという話があります。
啄木鳥は仏教を広める者に災いをもたらす存在とされていますが、さすがの啄木鳥も仏頂和尚の庵には近づけないだろうという、仏頂和尚への尊敬の念を表しているそうです。


┉私、常々俳句というものは本当に奥の深い、味わいのあるものだと思っておりましたが、この句一つに込められたこの思いや知識、感服いたしました。
季語だとか、五・七・五だとか、難しい制約だらけ、しかもたった十七の文字の中に、これだけ内容の濃いものをおさめる、┉この日本語すら不自由であります人間にはもはや神業としか言いようがありません。

ちなみに。
『奥の細道』で芭蕉は、

『、┉と、とりあえぬ一句を柱に残し侍りし』と書いているようなのですが、惜しいかな、すでに芭蕉が訪れたときには〝山居跡〟となっており、芭蕉にして『かの跡はいづくのほどやにと、後ろの山によじのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。』とありますくらいで。

どこの柱に一句を残したものやら、松尾芭蕉直筆の句は人知れず朽ちていったのでしょうかね。

No.242 22/08/18 10:18
旅人 ( pu5bob )

ちなみに。

仏頂和尚が松尾芭蕉に与えた影響は量りしれないと言われております。

松尾芭蕉の生家は経済的に貧しく、本当の学問的な教育が無く、仏頂和尚より得た教養は、その後の芭蕉に大きな影響を与えたのでしょう。

順風満帆の生活から、奈落の底といえる深川の状態から脱出できたのは、禅を学んだことが大きな要因であるとも言われています。


仏頂和尚は常陸郡鹿島郡札村生まれの人で、三十三歳で鹿島根本寺の住職になりましたが、鹿島根本寺が徳川家康より拝領した百石の内、隣の鹿島神宮から寺領の半分五十石を横領されたと訴え、寺社裁判の訴訟の為一年半ほど江戸に滞在していたといいます。

この江戸滞在時、芭蕉の住いのすぐ近くに滞在し知己を得たもののようでありました。
この二人の出会いが無かったら、「おくの細道」は無かったかもしれません。

仏頂和尚は芭蕉より三歳年上であったそうで寛永十九(1642)〜正徳五(1715)年十二月に 雲巌寺で亡くなられています(享年74)。

あれ?仏頂和尚さま、当時にしては長生きでおられたのでは?
一方の芭蕉は元禄七(1694)年、五十歳のとき、摂津国で亡くなっています。

【 旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る 】

という最後の句を残したのは有名です。

奥の細道を歩いたのは元禄二年、芭蕉四十六歳のときのこと。



┉私、仏頂和尚さまって、芭蕉よりもっと年上の方なのだとばかり思っておりました。

No.243 22/08/18 12:53
旅人 ( pu5bob )

仏殿を背に向かって左側には、鐘楼があります。
そのすぐ横に、保護するように屋根と壁のあるものを建て、かなりの年輪を経た木を横に切った断面を展示してありました。
年輪のいくつかにピンをつけて、何年ごろのところだと分かるようにしてあります。
樹齢何百年という木が倒木したか、伐採しなければならなかったのでしょう。┉あまり関心がなかった私はほぼ素通りしたのですが、夫をはじめ、何人もの人がそこに立ち止まって感慨深そうに眺めては写真を撮っておりました。

私はその年輪そばにある境内案内図の写真を撮って、まだ見ぬ龍神池などに思いを馳せておりました。

その境内案内図の下に、木の板に墨書きされたものが掲示されていました。

【 寺は 人が内なるものに 心を置く道場です
単に観光の為のものではありません

高聲 高笑 喫煙 醉客 諸堂立入等 他の迷惑になる所作は 堅く停止めて

観光案内は致しません

聖域の逍遥をお楽しみ下さい 】

と書かれていました。


仏殿のそばにはご由緒の立看板がせっちされていました。
なるほど┉。

小田原征伐の際の天正十八(1590)年に焼き討ちにあった後、再建されたものも、
弘化四年に再び火災に罹り、方丈及び庫裡が焼失、嘉永二(1849)年に再建されたようです。
その際火災を免れた仏殿は天正の再建以来三百有余年を経過し、〝腐朽その極に達し、到底修理の途なきを以って〟
大正元年に改築を企て、同十一(1922)年、竣工されたということでありました。

おお、明治からせいぜい昭和初期の建物と推察した私の考察は当たっていたようです。(ずいぶん年に幅がありますが、┉)
ちなみにこの仏殿の建築様式は、実に鎌倉末期の手法によるものなのだそうです。

秀吉の軍に焼き討ちにあい、なんとか衆僧に背負われ難を免れた仏像と祖像、とのことで、その他なんとか持ち出すことができたのは、開山『仏国国師』御自讚の画像と第二世仏応禅師画像の二点のみ。
この二点は東京国立博物館にあるそうです。


┉今年はやたらと火災のニュースを観るようおもいます。
起きてしまったら今の科学をもとうがなにしようが、鎮火させるのはやはり水等の消火活動によるもの、人力に頼る以外方がありません。

うーん。
一瞬、だからなぁ。
火事は恐いなぁ。

No.244 22/08/18 17:07
旅人 ( pu5bob )

石段を登っていきます。

まず見えてくるのは庫裏、┉かと思いきや、寺務所?
そして方丈に接して建てられた庫裏。(と、境内案内図に書いてありました)
そして方丈。

〝方丈〟って、┉一丈四方の面積を指す、といろんなところに書いてあります。一辺が一丈。一丈は約三メートル。三メートル四方の部屋ってこと?
維摩経の維摩の住んで部屋、から発祥しているらしいです。
そこからさらに転じて、禅寺においての住職の居室であったり、┉住職自体を指すこともありますよね。

正四角形の間、ということになりそうですが、この日はお盆の真っ只中。
正面に面した部屋の濡れ縁にかけて、精霊棚が設けてあります。
なのでお部屋の様子はわからなかったです。
その濡れ縁にはさらに、
絵葉書とか、今の御住職の書かれた書物、今、そして過去の御住職さまの書かれた墨書きの書などが置かれ、それぞれに値がつけられて販売されています。
いわゆる無人販売であります。


その正面の部屋の真上に大きな扁額が掲げられています。

えっとぉ〜?

【人面不知何處在 桃花依舊笑春風】、┉と書いてあります、ようで。
実は読めなくて、ネットで必死に調べました。
えぇ、『字』すらが読めなくて。

そしてようやく何という〝文字〟が書かれているかを知ることができました。できましたが、┉読み方もわからない。

ネットからのものをそのまま貼り付けます。

「人面 知らず 何處(いづく)にか 在るを  桃花 舊(きう)に 依(よ)りて 春風に 笑ふ」

【概訳】
去年の今日 この門のなかで見た 
美しい娘の顔は満開の桃花に映じて紅に染まっていた
いま あの娘は何処に行ってしまったのだろう
桃花は旧に変わらず美しく咲いて春風にそよいでいる


※この詩は「本事詩」と「太平広記」にある。それぞれにこの詩にまつわる故事を語っている。その概要は次のとおりである。



┉と、あまりに長いので、全文がおさまらず、次のレスに全文を貼り付けます。

が。
何故?
何故にこの文を扁額に?

うーん。わからない。
この詩の概要を読んでさらにさらにわからなくなってしまった、おばさんでありました。

文字すらが読み取れなかったからなぁ┉。



No.245 22/08/18 17:14
旅人 ( pu5bob )

【人面不知何處在、┉】の概訳

 西安の博陵に崔護という好青年がいた。かれは進士になるべく頑張っていた。ある清明節の日に、城南に散歩に出たとき、とある屋敷に通りかかった。

 その屋敷は花木が茂っていたが、人はいない様子であった。門をたたいてみると、娘さんが門の中からそっとこちらを覗いて見ていた。「どなたですか」と娘が尋ねた。青年は名乗った後、「春を訪ねてひとりでやってきました。酒を飲んでのどが渇いているので、お水をいっぱいただけないだろうか」と娘さんにお願いした。

 娘は水を持ってきて、門を開き青年を招きいれた。娘は傍らの桃の木の下にたたずんで、黙って青年を見ていた。その姿はまさに「妖姿媚態、綽有余妍」なまめかしいほど美しかった。崔護も口を開かなかったが、二人は惹かれあった様子であった。が、二人はそのまま別れた。

 一年後の清明節の日、青年は情抑えがたく、娘の家を訪ねた。しかし、門は固く閉ざされていた。かれはこの詩を門扉に書いて帰った。

 数日後、再びその家を訪ねると、中からすすり泣く声が聞こえてきた。門をたたくと、出てきた老父が「あなたは崔護ではありませんか」と尋ねた。青年が「そうです」と答えると、老父は「あなたが家の娘を死なせた」と泣きながら訴えた。

 青年は答えようもなかった。老父は続けていった。「家の娘は結婚適齢期ではあったが、ふさわしい人にまだめぐり合っていなかった。去年からずっと物思いげにぼんやりとしていた。あの日、外から帰ってみると門扉に詩が書いてあった。それを読んで以来、娘は病の床に伏し、数日間ものも食わず、とうとう亡くなってしまった。わたしはもう老いた。娘を嫁にやる君子を求めていた。わが身を託したかった。だが、君は娘を死なせてしまった。」といって、さらに大声を上げて泣き伏した。

 崔護も感動して泣いた。そして、娘のなきがらを抱きあげて、泣きながら「わたしはここだ、ここにいるよ」といった。娘はやがて目を開き、半日もするとすっかり命を取り戻した。老父は大喜びして、娘をこの青年に嫁がせた。


? ? ?

誰か、この詩が何故扁額になっているのか、その謂れがわかる方はおられましょうか。

┉とりあえず、私も引き続き、Google先生にお教えを乞います。

No.246 22/08/18 17:32
旅人 ( pu5bob )

┉わかりました。

日本語すら不自由なおばさんは知らなかったのですが、有名な禅語なようでありました。

元となった(?)物語にまで及んでいる解説を見てしまったから、余計にわけがわからなくなってしまったのです。

もっともっとわかりやすい説明がありました。


【去年今日此門中。人面桃花相映紅。人面不知何處去。桃花依舊笑春風。】

(去年の今日 此の門の中、人面 桃花あい映じて紅なり、人面 いずれの処ところに去るや知らず、桃花 旧に依りて 春風に笑む)
 
意味は、
「春風に揺られて咲いている桃の花が、微笑んでいるように美しく咲いている。人の姿は変わっても、花の姿はかわらない。」 
 または、「人々が去っていった後でも、春は自然に巡ってくる。」

 転じて、
『 つらいこと、
  苦しいことは、
  生きる上で、
  たくさん
  押し寄せてくる
  だろうけれど、
  一生懸命生きていれば、
  春は来る』


『 どんなに厳しい冬でも、
  いつかは春が来る 』


うん、これならば、扁額になって当然、納得であります。


うーむ、漢詩もまた深いなぁ。
よくよく咀嚼して、味わって、
こんな深い味わいとなるものなのだなぁ。




(この説明を先に知ることができたら、こんな長いこと書かずに済んだものを┉、と思うあたりが、まだまだ修行の足りないおばさんでありました)


No.247 22/08/18 19:25
旅人 ( pu5bob )

私には文字すら読めなかった、
禅語の扁額は、こちらです。

あ、夫も読めなかったです。

子供のときに授業でしか習字を習わなかった二人であります。

No.248 22/08/19 03:16
旅人 ( pu5bob )

ちなみに。

こんな、一生涯忘れられないような立看板が、大田原市のそこここに見られました。
実に雲巌寺さんの駐車場にもありました。
これは通りすがりに目にしても読める、┉けれど自分の読み間違いであったろうと思うレベルではあります。


このインパクト最大級、┉過ぎてもはやこの方の何が危ないのかすらわからない立看板。
┉でも交通安全協会のもの、なんですよ。

決してバンクシーのものではない。

なんのため?
誰が書いた?



じ、実はこれ、雲巌寺第五十八代住職の九十六歳の時の書なのだそうです。



うーん、深すぎる。




No.249 22/08/19 03:41
旅人 ( pu5bob )

さて。
境内案内図で方丈の横にあるという『神龍池』。


ん?┉あれ、いけない?
池だけに┉。
などというアホな自問自答をしつつ、池に向かう道を探ります。

方丈からすぐ横へとつながっている小道はふさがれていて、関係者以外ここから立ち入れない旨書かれています。
方丈の真ん前に仏殿とつながる急な石段があるのが見えました。
┉まさかなぁ。

えぇ、やはりその石段を降りたところで仏殿の裏手に過ぎません。

えっ?
もしかしていけない?


神龍池と同じエリアには〝禅堂〟と〝経蔵〟があると、境内案内図(正式には境内略図)に示されています。

え、えっとぉ〜。

┉せめてこの境内案内図に、〝ここからは立入禁止となっております〟くらいの記載をしていただければ、奇しいおばさんが怪しい行動を取らずに済みますものを┉。

┉『私はアブない』

いや、ここではうろつきはしたもののうろついただけですので。
アブない人はきっとその立入禁止エリアに侵入しようと、┉あるいは本当に侵入した人を指すと思います、┉そ、そうでしょ?


コホン。
この境内案内、┉境内略図にはあって、実際には行けないエリアが沢山ある。
┉そんな、ミステリアスなお寺、雲巌寺さんでありました。

No.250 22/08/19 15:01
旅人 ( pu5bob )

【俺が危ない】

お寺のご住職さまが、どんな思いで、どんな意図でこんな言葉をお使いになられたのか、┉。

気になったので調べてみました。

こちらをお書きになられたのは、植木憲道老師。
明治四年に岡山県で生まれ、兵庫県明石郡のお寺の住職の養子となり、十一歳の時に出家されています。
臨済宗本山妙心寺などで修行をされたのち、大正四年、四十四歳で雲巌寺第五十八世住職となられました。

以来栃木県内各地に赴いて法話を行い、多くの信者に尊敬された方であったようです。

青少年教育や社会事業に奔走し、『雲巌寺簡易高等学校』を開設したほか、毎夏には【林間学校】を主催したようです。
また近郷に医者がいなかったため、寺内に雲巌寺診療所を設けられたようです。
昭和十五年頃に退隠されたとのこと。

鎌倉円覚寺の管長さまが、植木老師について2021年11月にかたられていました。

それは植木老師の辞世の言葉、についてでありました。

植木老師の最期の言葉は、実に、長いこと植木老師に仕えられた方のお寺の本堂に掲げられているのだといいます。

ひとつは

『非と論じ是と説く、九十七年。
近くお別れする、ありがとう、ありがとう、みなさんによろしく』

そしてもうひとつ。
こちらは『死に直面して』と題され、これを見た管長さまは、これは本当に死の間際に書かれたものであろうとおもわれたそうです。
手も震えていて字も大変読みにくいものだったと述べられています。

『死に直面して

一つ、もっと親切でありたい

一つ、もっと正直でありたい

一つ、もっと真面目でありたい

一つ、もっと寛容でありたい
               』

これをなんとか読もうと見つめて、ようやく読めるようになった管長さまは大変驚かれたそうです。

若い青年がこれからの人生の抱負を書いたわけでなく、九十七歳の、地元の方々から生仏の如くに慕われる老師の、死に直面した言葉だったからであります。

管長は続けて、
私も「もっと親切に、もっと正直に、もっと真面目に、もっと寛容にと自らに言い聞かせて生きようと思いました」と述べられ、この日の言葉を閉じています。



うーん、ますます知りたくなるではないですか。
そんな方の残した「俺が危ない」
いつ頃のお言葉なのか、どんな思いでこの言葉を選びお書きになったのか。┉うーむ。



No.251 22/08/19 20:07
旅人 ( pu5bob )

雲巌寺の方丈は【獅子王殿】という名があるのだそうで、方丈内にその、獅子王殿と書かれた扁額があるといいます。

天正の兵火の前に海岸閣(、┉すみません、調べたのですがわかりませんでした)の本尊であった聖観世音菩薩尊像と、中興開山無住妙徳禅師木像が安置されているといいます。
また、歴代祖師並びに檀信徒先祖の霊牌等が安置されているといいます。

『洞中の山色四時好し 雲外の渓声一様に寒じ(すさまじ)』は、開山【仏国国師】の語、なのだそうですが、方丈内のこの〝獅子王殿〟なる扁額と対になるようにかかげられているのだそうで、かの第五十八世【三無室(水月庵)憲道老師】と第五十九世【忘路庵大敬老師】がそれぞれ揮毫されたものなのだといいます。
ま、みんな見てはいないもの、なのですがね。

ちなみに、
【洞中の山色四時好し 雲外の渓声一様に寒じ】は書き置きとなる御朱印に書かれる語であります。


そして方丈の隣に神龍池があり、禅堂がある、┉ということです。

この禅堂、昭和二十二年に、やはり水月庵憲道老師が、この雲巌寺、古道場の衰微を憂い、再興と宗門興隆のためにとのことで、雲巌寺専門道場として開単したものだといいます。┉見えないんですけどね。
この禅堂が【獅子窟】というそうです。

ちなみに。

このエリアに【竹林塔】と呼ばれる塔があって、そちらが【開山仏国国師】さまの墓所であるのだといい、そこは宮内庁所轄の御陵ということになるそうです。
┉それは入れないエリアだわ。

No.252 22/08/20 06:41
旅人 ( pu5bob )

境内案内、┉境内略図にはあって、入れないエリアは他にもあって。

『熊野神社』さんがあるようなのでお参りさせていただこうと、珍道中ペア、二人でない知恵をいろいろしぼってはみたのですが、そこに行く道は見当たらず。
ちょうど熊野神社さんの見えるあたりに赤い、┉ちょうど人が一人通れるくらいの立派な鳥居がありますが、そこから先は小山の斜面、その小高い小山の上に熊野神社さんが建てられています。
大きなお社ではなく、覆屋があるように見えました。
(おそらくは)馬頭観音さまがお祀りされている所の脇に、細い縄が張られ紙垂がつけられておりましたので、おそらくは何かの行事の折に、そこから関係者の方々のみが上がって行って、神事を執り行なうのではないかと推察いたしまして、あらためて鳥居のもとに戻って、遥拝させていただきました。


┉これなども、その境内略図にそのように一言書き添えていただいてあれば、決して無理やりお参りをしようと企てているわけではないので、はなから遥拝いたしましたもの、ですのに。、┉もしやこれも何か深い意味を込めた教え?
そこまでの深い教え(が込められていたとすれば)この珍道中ペアでは、その教えの意味に到達することができませぬ。

そのすぐそばには、新しそうな白木の三仏殿(?)があるのですが、その建物のある結構広いエリアにもどこからも入ることができませんでした。あ、なにやら風流な門がありましたので、そこからなら入れそうなので、やはりここも関係者の方が、何かの行事の折に入られるだけのところ、ということになるのでしょう。
ただ、ここの建物。
拝殿があって、幣殿があって、本殿がある、ようにしか見えない。
┉それじゃあ、まるで神社さんじゃない。
はいそうなんです。
すぐ近くまでは行けないものの、低い塀なので覗くまでもなく見えているので、外観はそうとしか見えない造りになっています。

そして、┉先程書いたように、『三仏堂(?)』。
そうなんです。
立派な建物ですのに、境内略図にその建物自体の名前はなく、【三仏塔】とのみ記載されているのです。
なので、その建物の中にいにしえの塔が祀られているものなのか、それともこれ自体が塔なのか、┉。
学のない私には神社さんの造りとしか見えず、〝塔〟という認識は持てなかったのですが、これをもって塔、なのかもしれません。

No.253 22/08/20 07:07
旅人 ( pu5bob )

森閑とした地にあります雲巌寺さんはあくまでも禅寺で、観光目的の寺ではない。
『観光案内は致しません。聖域の逍遥をお楽しみ下さい』
と書かれておりましたので、何もお聞きすることなく、珍道中ペアが珍道中ペアらしい逍遥をさせていただきました。

雲巌寺さんのそばの自然豊かな道の逍遥もまた風情あるものでありました。

『水戸黄門公御手突石』なる物もありました。
たしかにここ雲巌寺さんは山一つ隔てすぐ茨城県です。

そう、ここ雲巌寺さんは徳川家とも関わりのあったお寺さんのようでした。
なんでも家光公に経を教えたのが当時の住職だったようです。



No.254 22/08/20 16:30
旅人 ( pu5bob )

このあと、那須神社さんに伺っておりますが。


お知らせを一つ。


栃木県の『足利市立美術館』で、
十月十日(月・祝日)まで、
【あしかがの歴史と文化 再発見!】
という特別展が開かれております。

その展示品の一つに、
もともとは足利市の『菅田山光得寺』さん所有の、
現在は東京国立博物館にございます、
【大日如来坐像】が展示されております。

作風からおそらくは【運慶】作と言われ、かつて東京国立博物館において開かれた特別展【運慶】において、展示されたものであります。


本来は御厨子の中におられる大日如来さまが、御厨子から出た状態で、間近で拝観することができます。

その御厨子も美しいもので、御厨子におられるお姿も必見ではございますが、
この、
御厨子からお出になられた、なかなか拝見することのできない貴重なお姿もお薦めです。

他にも、┉土偶とか、┉歴史的に価値あるものがたくさん展示されていました(何が?と聞かれると、うーん、なんだったろうか?)
そ、そうそう、土器とか、勾玉とか、青銅鏡とか。

小さな、全長4、5センチくらいの銅造の御仏の立像とかもありました。


ちなみに。
この大日如来坐像。
いま話題の『鎌倉殿』、頼朝公の義弟にまつわるものと言われております。
源姓足利氏(、┉っていうそうです)第二代足利義兼公が拝んでいた
『三尺七寸御厨子内、俗号負、金剛界大日并三十七尊形像』にあたると考えられると言われています。(『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』より)

ちなみに。
足利義兼公にまつわる悲話がございます。
私はこの珍道中を始めて、初めて知ったものでありますが、義兼公のことも、この悲話のことも、結構有名なお話のようですので、ご存じの方もおられるかもしれません。

とはいえ。
なかなか足利市、もしくは東京国立博物館まで足を運ばれるのが難しい方も多いことかと思います。
この大日如来坐像もネットで検索して簡単に観られることかと思います。

まずは義兼公の悲話をお読みいただき、あらためて『大日如来坐像』の画像(あるいは実物)をご覧いただければ、義兼公の深い哀しみが伝わってくるかと、┉思う、おばさんでありました。

No.255 22/08/21 06:13
旅人 ( pu5bob )

そんな足利家2代当主・義兼を描いた短編アニメーション作品が、現在、足利市立美術館で上映されています。

アニメーション作品【鶉の鳴かぬ里ー足利義兼伝ー】であります。この作品、宇都宮市にある文星芸術大学の繁村周助教とクリエーティブディレクターのRa Venさんが共同監督を務めた12分の短編作品であります。

あとでネットで調べ知ったのですが、なんでもこの作品、
アメリカの国際映画祭「IndieFEST Film Awards」のアニメーション部門と歴史・伝記部門の2部門で入賞したということでありました。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、現在の足利市のあたりを治めた足利家ニ代当主・義兼を題材に、侍女の計略で自害した妻・時子と、戦でなくなった人々の鎮魂のため僧侶となった義兼の生きざまを、切り絵と実写を織り交ぜた映像にギターの幻想的な音楽を合わせて描かれた、┉少なくとも幼児向けではないアニメーション作品でありました。

この作品がネットで観られるかどうかまでは検索できなかったのですが┉。








No.256 22/08/21 06:23
旅人 ( pu5bob )

ところで。
同じく【うずらの鳴かぬ里】というタイトルの、足利市に伝わる昔話があります。やはり義兼公にまつわる話でありますが、内容はこのアニメとは全く異なります。



下野守【源義家】公の曾孫【足利義兼】公は、【源頼朝】が藤原泰衡追討に従い奥州へ向かう路から使者を使わし、戦勝祈願のため足利に【樺崎寺】を建立しました。

義兼は、頼朝の親戚で、その妻は頼朝の妻である政子と姉妹の北条時子です。義兼は、この樺崎寺のある樺崎に住んでいました。その、樺崎に伝わる話です。


 【うずらの鳴かぬ里】

ある時、義兼は鎌倉からの帰りに鶉を捕まえて帰ってきました。
時子夫人も大喜びでわざわざ金の籠を作らせ、鳴き声を楽しみに大切に飼いました。

ところがある夜のこと、義兼が眠っていると揺り起こされました。
揺り起こされて不機嫌な義兼が、「なんだ!!」と怒鳴り付けると、
「私は立派な金の籠に飼われているうずらです。大変可愛がっていただいていますが、楽しくて歌っているわけではありません。古巣を慕い、広い野原が恋しくて毎日泣いているのです。どうかこの籠から放してください。」と泣き伏しました。
その泣き声に目を覚ました義兼が辺りを見回しても誰もいません。今のは夢だったのです。

そのまま夜を明かした義兼の耳に籠の鳥の第一声が入りました。

「そうだ、うずらの願いを聞き入れてやろう」と、義兼は夫人と相談しうずらを野に放すことにしました。そしてこう言い聞かせたのです。

「お前は美しい鳴き声を持っている。良い声を聞くとまた飼いたくなるし、他の者に捕らえられることにもなる。これからはこの里では決して鳴くなよ」

それ以来、樺崎ではうずらの鳴き声をきかなくなり、うずらの鳴かぬ里と言われるようになりました。




この話は、義兼が召し抱えていた侍女を親元に帰してやった例え話とも言われているそうです。

いずれにしても義兼公の優しい人柄が伝わってまいります。



この、【樺崎寺】こそが、あの【大日如来坐像】が祀られていたお寺でありました。
かの悪令、神仏分離令による廃仏毀釈によって、樺崎寺は【樺崎八幡宮】となって、大日如来坐像はすぐそばにある光得寺さんに移された、という歴史があります。

No.257 22/08/22 03:57
旅人 ( pu5bob )

前々レスで紹介させていただいた、アニメーション映画【うずらの鳴かぬ里】が、YouTubeでご覧になれることが判明いたしました。
ただ、おばさんYouTubeの紹介のしかたが今一つわからず、
【うずらの鳴かぬ里】
で検索していただき、YouTubeのもの開いていただければご覧になれるかと思います。



No.258 22/08/22 05:09
旅人 ( pu5bob )

【樺崎八幡宮】は、正治元(1199)年、この地にあった【 法界寺(=樺崎寺)】で入寂した源姓足利氏二代義兼公の子義氏が、父の菩提を弔うべく、法界寺の諸堂宇を整備するとともに八幡神を勧進したことに由来します。
義氏は父の入寂した跡に『赤御堂』と称した御堂を建てたとされています。

義兼公がここに祀られて以降、ここ法界寺が足利氏歴代の廟所となり、【鑁阿寺奥の院】に位置付けられました。
樺崎八幡宮はたしかに鑁阿寺の鬼門の方角にあたります。

義兼は、晩年【鑁阿】と号し、建久年間に生母菩提のためこの地に法界寺を創建しています。
義兼自身もここに住み、念仏三昧の日々を送ったといいます。

鑁阿寺は元々は足利氏の邸跡であり、その名の由来は実に義兼公にあったようですね。

戦国期になり足利氏が力を失うと法界寺(この頃はすでに樺崎寺と呼ばれていた?)は衰退してしまいます。
江戸時代、足利氏の末裔によって現在の八幡宮社殿が再建されますが、かつて義兼公の建てた面影は全く無くなってしまっており、前々レスで前述いたしましたように、明治時代の神仏分離で樺崎八幡宮として存続が図られ、法界寺のいくつかのものはほど近いところにある光得寺さんに運ばれたものの、そのほとんどは紛失してしまったようであります。


衰退してしまっていたとはいえ、元は広大な土地に、かの『毛越寺』を模し、池を中心とした浄土庭園を持っていたという将軍家ゆかりの寺院、失われたものの中には、あの御厨子入りの【大日如来坐像】同様、運慶作とされた同じく大日如来坐像がありました。
そちらの大日如来像は遠くアメリカの地にまで渡ってしまったといいます。

なんという悪令。



┉今はそのもう一つの大日如来坐像も、再びオークションにかけられたのち日本には戻っているようです。

No.259 22/08/22 06:01
旅人 ( pu5bob )

「吾妻鏡」によりますと、
治承五(1181)年、足利義兼公は、初代鎌倉将軍源頼朝の意向で、頼朝公の正室北条政子の同母姉とされる北条時子を妻とします。

足利義兼は源頼朝と同じく河内源氏義家流であり、源頼朝の門葉とされています。(┉もはや掘り下げて知ろうとすらしていません)
更に足利義兼の母と源頼朝の母とは
義理の姉妹で、血縁としては叔母姪にあたるといい、
北条時子との婚姻により足利義兼は
源頼朝と相婿という更に強い関係で結ばれ、幕府内でも高い地位を得ていったといいます。


足利義兼と時子との間には、足利家当主となった嫡男である義氏と、
一時は三代将軍源実朝の正室候補にもあげられた熱田大宮司野田朝氏室があります。
また夭逝した瑠璃王と薬寿御前もおります。

かの運慶作と伝わる大日如来坐像二点は足利義兼の発願に拠るものとされており、
「鑁阿寺樺崎縁起並仏事次第」には
台座に瑠璃王と薬寿御前の遺骨が
納められたと記されています。

そんな仲睦まじく思える二人。
ですが、北条時子の死に関しては
以下のような伝説が伝承されています。



夫である足利義兼が、
時子を足利庄に置いて鎌倉に出府していた間のことです。
時子が野外にて、侍女の藤野が井戸から汲んできた生水を飲んだところ、しばらくして時子の腹が膨れ、まるで妊娠したかのような状態になってしまったといいます。

これを藤野が義兼に、
時子が足利忠綱(藤姓足利氏)と
不義密通して子を孕んだと告げたため、義兼は時子を疑ってしまいます。
そうした夫の態度に対し時子は、
「死後わが身体をあらためよ」
と遺言して、自害してしまいます。

遺言のとおり時子の遺体を改めると、腹から大量の蛭が出てきたといいます。

また、不義密通を疑われた忠綱もまた、命を落としています。

義兼は大いに悔み悲しんで時子を篤く弔い、その件の井戸を塞ぎ、藤野を牛裂きの刑に処したということでありました。


これを【蛆子伝説】といいます。

(私はあまりに切ないこの伝説を、悲しすぎて虚しくて、今までここにあらわすことができませんでした)

No.260 22/08/22 08:59
旅人 ( pu5bob )

夫が昨晩、つぶやきました。
「これ以降、大河(ドラマ)は救われることがあるんだろうか」

┉いや、ないであろう。
あと残りがどれだけの回数あるかわからないけれど、これ以降救われるような史実は思い浮かばない鎌倉時代だ。
そんなことは私なんかより百も千も承知しているくせに。

あまりの人物表現と出演者の方々の素晴らしい演技に、すっかり魅せられ、まるで今の自分を取り巻く人たちかというくらいの親近感を抱いてのことでありましょう。

そう、┉全く救われない、血で血を洗うようなドロドロの人間関係が繰り広げられていくはずです。

それでも。
そんな時代であっても、人々は希望をもち、力強く生きています。
日々の小さな発見であったり、出会いであったり、何かことを成した小さな達成感だったりに、幸せを感じ、乗り越えて今、現代に繋いでくれました。

私たちも、┉。
コロナ禍、ということでがんじがらめになり、さらには経済の不安定さ。物価の高さ。
コロナのために職を失われた方。
生きづらさだったり、生きること自体の辛さを感じています。

それでも。
命あるかぎり、与えられた命を全うしつつ後の世を生きる子孫のために、何かを残し、何かをつなぐ。
そうして日本の歴史、地球の歴史は紡がれてきました。

それはその日のちょっとした小さな幸せでいいのだと思う。
何かを残すとかを思って負担に思わなくてもいいのだと思う。
その日、何かに笑えたり、ほほえめたり。
┉たとえそれすらができない、微笑むことすら無理な環境だったとしても、そんな辛い思いを抱えても頑張って生きていること、生きて明日へつないでいるということ、それだけでいいんだと思う。

かつて人たちは、与えられた命を全うすることに感謝して、今日生きられたこと、明日何か出来る身体があることに感謝して生きていたし、生きてきた。

そうあればいい。
それだけでいい。

そう生きていたい。
そう生きていきたい。

No.261 22/08/22 16:32
旅人 ( pu5bob )

さて、長々と綴っております、足利市立美術館の足利市の歴史と文化に関するものを展示している特別展。

実はもう一点、樺崎寺から光得寺さんへと運ばれた御仏のお像がおられます。
その名も【黒地蔵】さま。

こちらも光得寺さんの境内にはおられず、ただしこちらは同じ栃木県足利市内の光得寺境外堂におられます。
┉はずだったのですが、長いこと修理修復のためお堂をお留守にされておられ、何度も何度も、その境外堂へと足を運んだものであります。

足利のある小学校の東に岡崎山という小高い山があり、結構急な階段を登って行くと光得寺さんが管理する墓地があります。
┉初めて訪れた時などは、一見して墓地でしかないその空間に、墓所を持つでもなく檀家でもない自分たちがいるということに肩身の狭い思いと、そこはかとない怖さを感じ(どうしよう)と思ったものです。まぁ、畏れという感情でしょうか。

それでもなお登ってまいりますと、
墓地にはあまりない、しっかりとした造りの御堂があり、ホッとしたのも束の間、お詣りさせていただこうとお堂の前に立ったところ、
「?」
『黒地蔵』さま、どこをどう見てもおられません。
(現在、修理・修復の為に山を下りています。)と小さく貼り紙がしてあるではないですか。
それから何度か足利市を訪れるとこの黒地蔵さまの小山を訪れたのですが、いつ行ってもお留守。

もしや、また何かお買い物にでもお出かけになられておられる?

この黒地蔵さま、『荒縄地蔵』、『豆腐喰い地蔵』などとも呼ばれていたと【足利の昔話】に伝えられます。


    【黒地蔵】

昔々、まだ黒地蔵様が樺崎寺の地蔵堂に祀られていた頃の事。

ある秋の夜更けに村の豆腐屋の戸を叩く、見なれぬ坊主姿の若者が在りました。


   (続く)


No.262 22/08/22 16:35
旅人 ( pu5bob )

(【黒地蔵】続き)


豆腐を求めるその者に豆腐屋の主が「どちらからお出でかな?」と尋ねてみましたが、愛想無く「村の者です」と返すのみで、坊主姿のその者は求めた豆腐を持って立ち去りました。
そうしてその日以来、その坊主姿の者は毎夜豆腐屋を訪れ、一丁の豆腐を求めては闇夜に消えるように立ち去るようになったのです。


はじめは売れ残りの豆腐を買いに来てくれるありがたい客と思った豆腐屋の主も、話し掛けても愛想も崩さず無表情で不愛想な客を次第に不気味に感じるようになってゆきました。
そしてその客が狐狸妖怪の類では無いかと心配した主が、その客の話を知り合いに相談したところ、娯楽の少ない時代のこと、またたく間に噂が村中に広がり、興味にかられた者がその者の顔を拝みに来るようになりました。

「あの顔、どこかで見た事がある」
「間違えない。俺はあの顔を知っている」

と、言い出すものが現れます。
しかしどうにも思い出せないのです。


そこで或る晩、いつものように豆腐を買って帰るその者を村の若者が気づかれないように灯りを消して密かに後をつけてみると、その姿が村はずれの地蔵堂の近くで不意に闇に消えてしまったのです。若者たちは急いで手元の灯りに火を入れて辺りを探し回りますが、結局、坊主姿のその者を見つける事が出来ませんでした。

諦めた若者達は地蔵堂の前に集まり村に戻ろうとすると、彼らの手にした灯りが地蔵堂の中を微かに照らし出したのでした。

「あっ、この顔!」

若者たちが手にしていた灯りに照らし出されたお地蔵様の顔は豆腐屋で見た得体の知れない坊主の顔その者だったのです。
そしてその口元は今、豆腐を食べたと言わんばかりに濡れているでは無いですか。

大慌てで村へと戻った若者の話を聞いた豆腐屋の主が、改めて坊主姿の者から受け取ったお金を確かめると、それはいつの間にか木の葉に変わっていました。

村人たちは相談し、お地蔵様が二度と出歩かぬ様にと荒縄で縛ってしまいました。それ以来お地蔵様が豆腐を買いに来る事は無くなったそうです。



いつとは無しに、黒地蔵さまは安産と夜泣きの効験があると信仰されるようになり、願いが叶ったお礼にお豆腐がお供えされる習慣になったそうです。


No.263 22/08/22 17:02
旅人 ( pu5bob )

┉まぁ、夜泣きされる悩みもなく、ましてや自身の安産祈願は必要なく、黒地蔵さんにお豆腐をお供えする機会もない私ではあるのですが、会えないとなるとお会いしたいのが、人というもの。

そんな黒地蔵さまが、なんと修復を終えられて(実際にはまだお手にお持ちになられる錫杖などが修復を終えてはいないようですが)、
この足利市の特別展に展示されておられるとのこと。

ええ、いそいそと出かけましたよ。

一目惚れ、┉などと申し上げたらおそれ多く不敬罪に当たりそうですが、東京上野の国立美術館で一目拝して虜となった、あの【大日如来坐像】さまと。
一目お会いしたくて足繁く通うもののお会いできずにおりました【黒地蔵】さまに、
一度にお会いできる、おそらくは一生に一度の、またとない大チャンスです。




┉が。


一度としてお会いしたことのなかった私が申し上げるのもなんですが┉。
そうした修復や復元等に知識もましてや技術などかけらもない私が申し上げるのもなんなんですが、┉ありえない修理が施されたのではと思ったのが隠さず申し上げます私の本音であります。

外の囲いもないお堂におられる木像であります黒地蔵さまです。
修理すらが難しいところもあったのかとは思います。┉思うのですがね。

まずもって、【玉眼】という、生きた人の目をそっくり再現したかのような目がはめ込まれておりました黒地蔵さまのがその玉眼自体をやり直しているのですが、寄り目になっちゃっているんです。
しかもこの科学の発達した現代の技術をもってしたとは到底思えない造りなのです。┉。

加えて、です。
坐像のお地蔵さまは今にも立とう、すぐに歩き出そうとされておられることが多く、実際修復前の(写真で見る)黒地蔵さまはきちんと、衣から足が出ておられたのです。
┉が。
足がそっくり無くなってしまっているではないですか!

ちゃんとちゃんとあったんですよ?
あったものを無くしてしまう理由っていったい、┉?。
もう、はてなマークと怒りマークしかありません。

困ったものがいたらすぐに助けに行けるようにと足があったものを、不自然な衣で包んでしまったように修復してしまっているのです。

あの足は一体どうしてしまったのでしょう。
再度付けることが難しいにしても、新たに似たものを作ってつけるのが修復なんじゃないんでしょうか。

ありえない┉。

No.264 22/08/22 18:13
旅人 ( pu5bob )

暑いと人間怒りっぽくなるものかと思うのですが、この黒地蔵さまを拝観いたしましたのは、
暑くもなく寒くもない適温に設定された美術館の中でのことですので、決してそのような環境下ではなかったのですが┉。
まぁ、私という人物が怒りっぽいということは確かなことなんです、がね。


まぁ、小山の上の黒地蔵さんのお堂の隣には、新築されたお堂が並んで建っておりましたので、
修復の工房から、美術館と、ご自身の意思ではなく移動しておられます黒地蔵さまが、見慣れた景色の中にある新しいお堂に戻られるのもあと少しのことなんでしょうね。

そのときはお寺さん、美味しいお豆腐をご用意されるのかしら。(๑>◡<๑)


あ、┉もしかしたらもう二度と歩き出すことのないように、足を無くしてしまった?

┉それはあまりにお気の毒です。


まぁ、かつては荒縄で縛られるような荒っぽいことをされたお地蔵さまではありますが、┉やっぱり足は大事です。(くどい)




神奈川県鎌倉市にも黒地蔵さまがおられます。
こちらもまだお会いしたことのないお地蔵さまでございます。

【黒地蔵日】と呼ばれる日に参拝するのがずっとずっとの夢なんですが、┉。
今年、八月十日午前0時から正午までとされる【黒地蔵盆】は、一般の人々にも参加できる形で執り行われたのでしょうか


┉黒地蔵盆でなくともいいから、参拝したいぞぉぉ!
鎌倉に行きたいぞぉ!

No.265 22/08/22 18:19
旅人 ( pu5bob )

歩く煩悩おばさん、出不精なくせに行きたくても我慢しているところは、┉もしかしたら煩悩の数よりも多いかもしれません。


そう。
たとえば、ここ。

No.266 22/08/23 16:23
旅人 ( pu5bob )

さて。

ようやく【那須神社】さんに話を戻します。
雲巌寺さんに向かう途中、『道の駅・那須与一の郷』というなんともインパクトのある道の駅の看板を見かけます。
「帰りに寄ってみようか」などと言いながら、その道の駅の横を通りながらどんなとこだろうと窓から見ていた私。
「!、神社さんがある!」
そう、道の駅の駐車場と細い道を隔て、標柱があるのをしっかと見てとりました。
「那須神社さんだって!」
一方の夫は
「ふぅん、那須与一は大田原の出身だったんだぁ」
と感慨深そう。┉私の話、聞いてました?

┉そんな一抹の不安を抱いていたものの、雲巌寺さんをあとにして車に乗り込んだとき、
「次は那須神社さん、だね」
よぉ〜し!さすがだ。

┉なにが、よぉ〜しなんだか。

そんなわけでもと来た道を戻ります。

途中、鮎釣り、だの、鮎の塩焼きだのの看板やらのぼり旗やらのあるお店がたくさん並ぶ道となります。
『那珂川』という川沿いの道です。
鮎の塩焼きかぁ、┉。

いやいや、これから向かうのは神社さん。
とりあえずはこのままなにも食べずにまいりましょう。、┉まぁ、鮎の塩焼きに心がゆれたのは私だけ、ですしね。


『道の駅 那須与一の郷』の建物が見えてきました。

「ここ、ここ!、┉だけど駐車場らしいものは見当たらないなぁ。┉もしかして道の駅の駐車場と兼用だったりする、のかなぁ」
「どうせ帰りには道の駅に寄るし、置かせていただいてここから歩かせてもらうのはどうだろう?」
とは私。

那須神社さんは標柱の間は狭く、しかも先は参道の両脇は林のようになっています。車が通れるようにはされていません。
あるいはこの道の駅との細い道を行くと神社さんの駐車場があるのかもしれません。

「そうだね。絶対道の駅寄るものね」
とは夫。それでも一番端っこの、ほとんど停められていない駐車区画に駐車しました。


走らなくとも神社さんは逃げないというのに、一刻も早く行きたくて、ついつい小走りになる私。
全く子どもと同じです。


うーん。
なんと自然豊かな、心休まる参道でしょう。
長い長い参道です。
全く社殿は見えません。


No.267 22/08/23 16:29
旅人 ( pu5bob )


┉えぇっとぉ〜、間違えてないよね。那須神社さんの参道を歩いているんだよね?

と少し不安になるくらい長い参道に感じます。といいますのも、参道の左右の土地はさほど広くはないのです。その境内の幅を考えると、そんなに広い境内を想像できないのです。
おぉ、鳥居だ!
よかった、ここは参道で間違いなさそうです。

┉また鳥居が。

ですがやっぱり建物らしいものは見えてきません。

No.268 22/08/23 17:55
旅人 ( pu5bob )

それでもその二つ目の鳥居をくぐると、大きな木に囲まれた参道がぱぁっと開けて、狛犬や手水舎が見えてきました。

この那須神社の手水舟は1642年に黒羽藩主である大関高増公によって奉納されたもので、国の重要文化財に指定されているとのこと。
深い緑色の龍がその浄めの水を注いでいます。
その手水舎のそばにはミストが出るよう設置されていました。
ありがたい。
誰も見ていない(夫は除く)のをいいことに、ミストを浴びてしばし戯れてしまいました。
目の前にそびえる鮮やかな色彩の立派な楼門にテンションが上がっていたのかもしれません。

┉そう、太鼓橋を隔て、今まで見たことがないようなポップな色合いの、楼門があったのです。

朱色の門に、赤、青、緑、黄色。特に彫り物とかでそういった色合いを使っているのではなく、組まれた飾り木の先端にそんな色が塗られている、神社には斬新な感じの門です。

とはいえこの楼門、決して新しいものではなく寛永十九(1642)年に造影されたものとのこと。

扁額は、┉!

『八幡宮』⁈

えっ?
那須神社さんって、八幡宮?



┉隣では夫が楼門を見上げ、

「こちらが那須与一が矢が当たるよう祈念した八幡さまだったのかぁぁ」
┉その口調たるや、ひれ伏して拝むんじゃないかと思うくらい、感動に満ちています。


一方の私は夫とほぼ同時に心の中で「うーん、やっぱり八の字は鳩なんだぁ」と思っておりました。

┉私だとて、那須与一が『南無八幡大菩薩、どうかあの扇の真ん中を射させてください』って祈り、見事小舟に立てられた扇の真ん中に矢を命中させたことぐらい知ってますよ。

ただ、私は目の前にそびえる楼門に関心がいっていた、ただそれだけの違いなんですって。
なかなかイケメンの、若々しい隋神さまお二人に見とれていただけというわけでもありませんって。



No.269 22/08/24 06:37
旅人 ( pu5bob )

那須神社の創建は、今から1600年以上昔の第16代仁徳天皇の時代と伝えられており、当時の下野国造であった奈良別名が下野国国家鎮護とし御神体である金瓊(きんけい)を埋め石祠を建立したのが始まりとされます。
┉ちなみにこの金瓊を埋めたとされる場所は現本殿の裏手に祠として祀られているとのことなのですが、あまりに草深く、裏手にまわることは断念いたしました。


当初、御祭神は『天照大神』『日本武尊』『春日大神』であったといいます。

延暦年間(782~806)には坂上田村麿が東夷東征の際、この地を訪れ戦勝祈願として宇佐八幡宮の分霊『応神天皇』を勧請し、その名を【金丸八幡宮】としたといいます。

【源義家】公も戦勝祈願で金丸八幡宮を参拝し見事勝利した事で家臣である『須藤貞信(那須家の祖)』に命じ、社殿の造営や参道の整備を行い社領50石を寄進していると伝えられます。
(参道にある桜はこの時植樹されたものと伝えられている)。

その後、この地を統治した那須家の崇敬社となり、【那須与一】が文治元年(1185)に屋島の合戦での戦功により那須の総領になると、金丸八幡宮の御加護として自らの太刀や弓を奉納しています。
例大祭には京から神職や伶人を呼び、舞楽の奉納や、流鏑馬の騎式などを行ったと伝えられており、流鏑馬は、今も古式ゆかしく行われています。
┉そう、あの長い長い参道(約300メートルとのこと)こそ、流鏑馬が行われている場で、そう聞けば納得の長さであります。

その後、那須家の支配が弱まると一時衰退しますが、
その後周辺を支配した黒羽(くろばね)城主大関氏の崇敬社となり天正5年(1577)に本殿・拝殿を再建し銅製鰐口などが奉納されています。
また五代藩主により社殿の改築と楼門の建造(現在の楼門)がおこなわれています。

松尾芭蕉も参拝しているようです。


春と秋の例大祭に奉納される永代々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事なども有名だといいます。
那須神社の獅子舞の起源はさだかではありませんが、大関増清が応永年間(西暦1394年~西暦1428年)に、余瀬に白旗城築城の際、地鎮として舞われたものであると伝えられているそうです。


明治六(1873)年に現社名となり、今に至っている、とのことであります。

No.270 22/08/24 07:07
旅人 ( pu5bob )

楼門を抜けると、参道の長さと比べ拍子抜けするくらい、すぐに拝殿・本殿となります。

1577建立とされるこちらの拝殿と本殿は白木のままのもので歴史ある雰囲気を醸成していました。
扁額の文字もぼやけてよく目を凝らさないと読めないものとなっています。┉よく見ると所々に赤や黒に塗られた跡が残っております。
もしかしたら当初は彩色が施されていたのかもしれません。

あまり大きくはない社殿であります。


ところで。
この拝殿参拝中、すぐ後から楼門をくぐって来られた年配の女の方が、ずぅーっと、ずぅーっと、声だかに、話し続けておられ、やれ、今までまわってきた神社さんのことやら、こちらの神社さんのことや、今までまわられた観光地のことまで、参拝中真後ろで話されておりました。

神さまの御前でありますので、心を込めて参拝をしたい。


┉神さまのお力をお借りして、できうる限り平常心を保ち、参拝をさせていただきました。

せっかく、┉なんとか穏やかな気持ちとなり参拝できましたので、出来るだけその方の方を見ないように軽くおじきをして、その場を離れました。


そのあと、ふっと雲巌寺さんにあった墨書きの看板を思い出したものです。
『高聲、高笑、┉他の迷惑となる所作は堅く停止、┉』


┉。
というか、やはり拝殿前は神前、静かに敬虔な気持ちでおられる方が良いかと思いますが、┉。
年配の方にあっても、そうしたことができぬ方は結構多いように思います。

ああ、また煩悩おばさんが、また余分な愚痴を書いてしまった。

No.271 22/08/24 14:07
旅人 ( pu5bob )

御朱印があるとのことで、社務所でお願いしたところ、┉。


ん?
綺麗な蓮の花が大きく描かれた色紙が置かれています。
うーん、綺麗♡

バックにあるのは満月、でしょうか。
白い蝶が今まさに蓮の花に止まろうとしている、┉そんな美しい絵の描かれた色紙です。
何やら小さな字が書かれています。

おおっ!

八溝山麓十宝霊場巡りの色紙のようです。この色紙に色紙用の御朱印をお受けするようになっているようです。
よく七福神巡りなどで、そうした形で印をお受けするようになっていたりいたします。

しかしながら、おそらくはこの霊場を全て巡ることは難しいことと思われます。
何故なら高速を使っても二時間ほどかかっており、┉何より私が高速道路を走ることが大変苦手だから。

┉年々その苦手意識がひどくなるのは、ドライブレコーダーの普及に伴い近年増えている映像、┉煽り運転であるとか、事故のリアルな映像を、テレビ画面で見る機会が大変増えたことに起因してもいようかと思うのであります。
以前は家族旅行などでも運転しておりましたし、幕張メッセだのディズニーリゾートの駐車場だのまでの往復を一人でしていたくらいですから。

とにかく運転が楽しくない。
そんな私ですので、高速を使ってまで遠出するくらいなら行かない選択をするかと思います。
【八溝山麓十宝霊場】巡り。

┉まぁ、全てを廻らなくとも、この色紙だけでも綺麗ですし。今日これからいくつかは回れそうです。

「あのねぇ」
夫にこの十宝霊場巡りを拙く説明しました。
「おお、それはそれは。こちらに寄らせていただいて、この色紙に気づかなければ、知らずに帰っていただろうに、ありがたいことだねぇ」

┉うーむ。まぁ賛同してくれることは予想通りではありましたが、何やらやたら感謝の気持ちが強いような┉。
まるで彼の心が、
雲巌寺さんで浄められ、ここ那須神社さんで清められたかのようです。

┉ま、まぁ、今日これから八溝山麓霊場巡りはできるってことで。
┉狐狸の類いでなければよいのだけれど、┉。

大丈夫か、霊場巡りだし。

No.272 22/08/25 14:54
旅人 ( pu5bob )

まず向かったのは【明王寺】さん。
那須神社さんから約四キロ、今来た道を戻っていきます。
ここの道を一日で二往復することになろうとは┉。

黒羽町という町の中心部を南北に貫く国道沿いに、町中のお寺さんといった感じの門が見えます。
その斜め向かいに駐車場、大変わかりやすいお寺さんでありました。

国道に面した山門には寺紋の入った白い暖簾のような幕が掛けられています。いかにもそれが上品な感じで、すでにワクワクしているおばさんが一人。
門から正面に大きな伽藍の御本堂がみえます。
門から香台、御本堂と一直線なのがなんとも気持ちがいい。その参道脇には松が多く植えられています。
向かって右側には大きな枝垂れ桜の木が、程よい感じに枝を垂らし、多くもなく少なくもない葉を繁らしています。
そして左側、御本堂近くには大きな百日紅が、ちょうど満開の時を迎えていました。
蝉が鳴くのもまた風情があり、よく手入れされた心地よい境内です。

御本堂の戸は大きく開け放たれています。まずは外から拝ませていただいて┉入っても良い?

そんな、困ったときの御朱印、
┉というわけでは決してないのですが、やはりただお呼びたてするよりは話の導入にはまたとない物となります。

立派な授与所がありました。
こちらはいくつかの霊場にあたられています。
が、┉どなたもおられず、呼び鈴を押すと、大変品の良い年配の女の方が対応してくださいました。

こうした時、コロナ禍ということで、できるだけ手短にお話させていただくよう心がけておりますが、
とはいえ、いきなり来たやつに、本堂に上がらせていただいていいかと問われる側のお気持ちはどうなのかなぁと正直思ってはおります。
まぁ、ダメならダメで、とそんな気持ちでおりますが、こちらでは快くお許しくださいました。ありがたいことです。

中に入りますと新しい感じがいたします。
実はこちら、明治十二(1879)年に町の大火で全焼してしまったとのことで、御本堂は昭和三十(1955)年に再建されたものだといいます。

比較的新しいこともありましょうが、何よりお手入れが行き届いておられる。
赤い毛氈が敷かれており、その上には大きな天蓋がありました。

こちらのご本尊さまは不動明王さまであられます。

No.273 22/08/25 15:14
旅人 ( pu5bob )

煌びやかな、明るい光を放つ金色の須弥壇の奥に大きなお不動さまがお立ちになられておられます。
その前には護摩壇が、┉たぶん護摩壇らしい造りになっているように見えます。

そして、┉御本堂向かって左側にはびっくりするほど大きな大きな屏風があります。
いかにも人の良さそうな、着物を着崩した笑顔のおじさんと。
鱗の一枚一枚、爪の鋭さに思わずハッとするような龍の墨絵、┉なのでしょうね、でもすごくリアルなタッチのモノトーンの絵でありました。
あまりに見事すぎてお写真を撮ろうとも思わず、ネットで検索すれば出てこようかと思えば、まるでヒットせず。
初めて見たほど大きな大きな屏風絵でした。



高岩山明王寺さんは、天文ニ(1533)年室町時代後期に興定法印というお坊さんによって現在の黒羽町築地という土地に創建されたといいます。
その後、天正四(1576)年、黒羽藩領主大関高増公が黒羽城築城した際、現在の黒羽町に移転されたといわれています。

高岩山明王寺は、真言宗智山派のお寺で不動明王をご本尊とし、脇仏本尊として聖観世音を祀っています。
那須三十三観音霊場の観音さまとなっておられます。

御本堂をあとにして境内堂をお参りさせていただきます。
手水舎(兼手桶置き場)のすぐそばに、授与所のような建物があり近づいてみますと、┉!

こちらこそが、か、観音堂!

ええっ!

授与所のような建物とか言ってしまった。
でもそんな感じなんですよぉ、本当。

優しいお顔立ちの立ち姿の観音さまがお祀りされておりました。

建物をぱっと見で勘違いしてしまいごめんなさいと心の中で申し上げながら参拝させていただきました。


ああ、今日も短道中。

No.274 22/08/25 15:55
旅人 ( pu5bob )

明王寺さゆんの境内に綺麗に咲いていた百日紅の花。
今はどこに行っても、どこを通っても、さまざまな色の、さまざまな形の花の百日紅が咲き誇っています。

そんな百日紅について。
こんな記事を読みました。

百日紅はじつは仏縁のある木とされているといいます。

私はあまり感じたことがなかったのですが、(たぶんあちこちで咲いているので感覚が麻痺している?)お寺さんによく植えられている木だといいます。お盆でお墓参りをしたお寺さんを振り返ってみると、┉たしかに!どのお寺さんにも最低一本は百日紅の木が花を咲かせておりました。

実は百日紅、お釈迦さまが誕生された時に咲いていた【無憂樹(ムユウジュ)】、【別名・アショーカ】の樹の代用として寺院に植えていたといいます。

インドの無憂樹は、赤~橙色の花を沢山咲かせ、花の姿がサルスベリに似ているのだといいます。
インドにおいては、恋愛や結婚、出産にまつわるおめでたい木で、『幸福の木』とされております。

お釈迦さまが妻であるヤショーダラに出会った時も無憂樹が関係していたそうです。

恋する乙女が無憂樹の根元に口づけをして、花が開くと恋が実るといういい伝えもあるのだとか。

憂(うれい)の無き樹、憂が無くなる樹、┉字から見てもまさに幸福な木、であります。



さて、ここでついでに。

手塚治虫氏の【ブッダ】を手に入れることができました。
これを読むことで少しでも仏教というもの、お釈迦さまについての知識が深められればよいのですが┉。

そうは容易いものではない、そんな気がしてなりません。


No.275 22/08/25 18:19
旅人 ( pu5bob )

>> 274
┉いつものことながら申し訳ございません。

誤字・脱字というのは〝誤字〟と入力した瞬間〝脱字〟と出てくるくらいでありますが、
今回のミス、〝増字〟とでも申しましょうか。

一体何故、このような余分な文字が?
しかもトップで目立つこと目立つこと。


今回もミスがございましたこと、お詫びして訂正させていただきます。

誤)さゆん
正)さん


そんな駄文に共感してくださった方、本当に本当に申し訳ない。
ごめんなさい。

No.276 22/08/26 06:56
旅人 ( pu5bob )

さて。明王寺さんから向かったのは、やはり八溝山麓霊場巡りの一寺、【威徳院】さんです。

ナビをセットして。
ナビが示してくれた道は人家もほとんどない畑の広がる長閑な道でありました。

そんな道を走っていた夫が突然
「うわぁ♡そうかぁぁ!この辺りだったかぁ」
と何やら大変感動したような声をあげます。┉え、えっとぉ。

いや、┉先ほどまでとなんら変わらない、むしろ道がせばまったような畑と畑の間を走っているだけなんですが、┉ん?これはやはり夫は狐狸の類いに取り憑かれている?

やたらと感謝の思いの強い今日の夫。いや、┉いつもより若干善人になるくらいならそれはそれで共に生きようか?
キツネかたぬきか?
それ以外のものである時突然豹変されるような悪しきものでは困るぞ。
、┉などと自問自答の奇しい妄想をめぐらしていた私。

「多胡の古碑と、以前行った多賀城、それからもう一つ、京都の宇治の方にある古碑があって、日本三古碑って呼ばれてるものがあるんだけど、┉」
┉ヤバ、やっぱり取り憑かれてるわ。
何を突然言い出してるんだこの人は。┉それにしても歴オタなのは変わらないんだ。
┉まさか!
その時代から生きてた何かとか?

┉まぁ、その妄想を楽しんでいたのですけれど、ね。
まぁ、やたらとなんとか古墳とかの小さな看板は出ているところではありました。その辺りをずっと走っていたので、何か彼の心に響くものがあったのでしょう。
おーい、続きは?

「まぁ、ああいった古い古碑の中でも特に有名な『日本三古碑』と呼ばれる一つがあるんだどね、その一つが那須にあるのはわかってたんだけど、どうやらこの近くにあるみたいなんだ。
うわぁ、感動だぁ」


┉はいはい。
あったんですか、心に突き刺さるような何かが。

古碑。

かの上毛かるたにもあります多胡碑、【む 昔を語る多胡の古碑】。

さらに群馬県には上毛三碑(こうずけさんぴ)というものが存在しておりまして、それぞれ多胡碑、山上碑、金井沢碑というものなんですが、三碑とも半径五キロ以内という近接したところにあるんですよ。
これね。
なんかやたらとクローズアップされるんですが、私のように関心のない者にかかると「ふーん」の一言に終わっちゃうんで、申し訳ない。





No.277 22/08/26 07:51
旅人 ( pu5bob )

これは。

これは是非ともちゃんと見ていただきたい。
最高の(私にしては)笑顔を見せて、「よかったねぇ、いつも頑張ってるご褒美をいただけたんだね」

「ありがたいねぇ、本当に。
今日雲巌寺さんに参拝したおかげで、那須神社に参拝することができたし。
那須神社さんを参拝したおかげで、この八溝山麓巡りを知ることができて。
普通だったら絶対参拝することもない、その存在すら知らずに過ごしたろうお寺さんと縁を結んでいただいて。
本当凄いことだよね。
本当にありがたい」
┉。
┉やっぱり今日の夫、心の糸が清らかなものでピンと張られているようです。


が。
駐車場が見当たらない。

とりあえず当初の目的どおりに、威徳院さんへと向かうことにいたしました。

No.278 22/08/26 08:43
旅人 ( pu5bob )

【威徳院】さんは細い道沿いのやや坂となり、ややカーブしたところに、大きなお地蔵さまがおられ、威徳院さんがこちらであることを導いてくださっておられました。
駐車場は┉?
山門が見えますが、その辺りには小さな空きスペースがあるのみです。
それなりに急な坂道をそれなりに登っていくと、鐘楼の向こうに広い空間がありました。

そう。鐘楼。

┉私、今までの人生、ロクな生き方をしてこず、神仏にも関わりを持つことなく生きてきました。
あの煩悩を打ち消してくださるという、ありがたい除夜の鐘も、
鐘を打つことはもちろん、全ての音を聞いたこともなく過ごしてきて、今の煩悩おばさんとなっております。
そのせいなのか、私やたらと梵鐘が好きでありまして。
ましてやその鐘を突いてよいともなると嬉しくなって小躍りしそうなほどワクワクして鐘楼へ向かうほどです。

小走りして近くまできた威徳院さんの鐘楼、鐘を撞いていいとされているではないですか!

やったぁ!、┉ええ、本当にそう思いました、年甲斐もなく。
┉もちろん鐘を撞きたいという思いが、他ならぬ煩悩であるところの欲望であることは言うまでもありません。鐘を撞いて、一つ消えたのは、〝鐘を撞きたい〟という煩悩でありましょうね、やれやれ。

鐘を撞く作法も書いていただいてありました。
鐘を撞く前後に合掌することは存じ上げていたのですが、鐘を撞いた後、合掌した手をすぐに解くのではなく、鐘の音が聞こえる間は合掌したまま心を落ちつけるのが正しい作法であったようで。
大変ありがたい勉強をさせていただきました。



さぁ、お参りさせていただきましょう。
広々とした境内にどっしりと、御本堂がございました。新しい御本堂のように見受けられます。
(┉とはいえ、この私、自分すらが生まれていない頃に建てられたものも新しく感じる人物なのでその辺は後々調べていきます。こちらで書かせていただく上であんまり事実と異なるようではお読みくださる方にも、お寺さんにも申し訳がありませんので)


No.279 22/08/26 08:52
旅人 ( pu5bob )

こちら【威徳院】さんは、大治五(1130)年、真雅上人の開基、
中興は嘉吉ニ(1442)年、天性僧都と伝えられているといいます。

かつて都から東北へ通じる最古の街道『東北道』を巡錫していた真雅上人が、『那珂川』沿いから西の山をご覧になられ、まるで霊牛がゆったりと臥せているような風景が、さも極楽のようであると感じ入られ、こちらにお寺を造られたのが始まりといいます。
上人は、日頃、特に信仰していた『大威徳明王』さまのお陰と【霊牛山威徳院極楽寺】の名をつけたとされます。


明治四年火災に逢い、建造物、什宝、古記録類ことごとく焼失してしまわれたといいます。
そして翌明治五年に建築落成したとのこと。、┉ええっ?め、明治のはじめ、ですかぁ?
ほ、本当に?

No.280 22/08/26 10:01
旅人 ( pu5bob )

┉やはり、私、骨董や古美術等々の目利きの能力は皆無なようです。
威徳院さんのホームページを何度見直しても、それ以降の建て替えの記述はありません。

いやぁ、せいぜい古く見積もっても、私と同い年くらい、それだって明治初頭という記述をみたからで、平成初頭と言っても、そうであろうと思うくらい新しいものに見えるのです。
┉まぁ、迂闊なうっかりおばさんですので、何かを見落としていたらごめんなさい。

いや、本当に。自己弁護するようですが、白壁に柱や棟、扉、垂木や桁などなど、(私にわかる全て、┉合っているかも怪しい名称ですが)
朱塗りされた、お洒落な、┉あくまでも新しくしか見えない、御本堂なのであります。
しかもその朱塗りの扉の奥には新しい(私には、です)障子戸があり、その戸自体の木すらが新しく、当然貼られた障子もあくまでも白く美しいものなのです。

これは、新しく見えても仕方ない、┉と、思ってやってください。


そしてその御本堂前に焼香台、香炉があるのですが。
これがまた遠目で見るに立派なお堂にしか見えないのです。

┉お堂でありました。
御厨子が祀られた全方位が解放されたお堂でありました。
少しだけ御厨子の扉が開かれていて、それはお美しい聖観世音さまがお祀りされておりました。
なんとありがたい。
でも、この位置付け、初めて見る形です。
御本堂を目の前にして、おばさんがしばしここでぽぁっとしたことは言うまでもありません。


去り難い思いを抱きつつ、御本堂へと向かいます。
扉はもちろん、障子も開いております。



大きな、それはそれはお優しいお顔立ちをされた虚空蔵菩薩さまが目の前にお座りになられておられるではないですか。



No.281 22/08/26 21:24
旅人 ( pu5bob )

【虚空蔵菩薩】さまは、『智慧』と『徳』が虚空のように無限に蔵している存在で、その無限の力で命あるものをすべて救うという菩薩さまであります。

虚空蔵菩薩さまは、『虚空蔵求聞持聡明法(こくうぐもんじほう))で広く知られています。

『求聞持聡明法』とは、集中力を高め、見聞きしたことは忘れないという記憶力を得るための難行で、御真言を100日間で100万回唱えるといったものです。
空海も唐に渡る前に、修行を行ったといわれ、室戸岬の御厨人洞での修行は有名なエピソードとなっています。

この虚空求聞持法の修行法の礼拝対象となられる虚空蔵菩薩さまの御像は右手に予願印と言われる掌を見せて下げる印相を、左手には如意宝珠を持っておられるといいます。
ここから虚空蔵菩薩は、『記憶力の菩薩』としても知られています。

それゆえに『十三参り』の御本尊として知られ、子どもに英知をさずけると言われています。
京都では子どもが十三歳になると、虚空蔵菩薩を本尊とする法輪寺に参拝し十三参りする習慣が今でも残っています。

ちなみに。私がおバカなのはこの十三参りをしていないからだということにしているのですが、とはいえ、この十三参りは私どもの住まう辺りではほとんどそう言った慣習がなく、だからといって頭脳明晰な人はあくまでも頭脳明晰で。つまりはただただ私の努力不足ということになのですが┉。

それでも虚空蔵菩薩さまにお会いいたしますと今からでも少しは賢くなれるかもしれないとか、賢くなれなくとも認知症の進行がゆるやかになってくれるかもしれないと、ついつい嬉しくなってテンションが上がる、そこら辺がもうすでにおバカなことを立証しているおばさんであります。

一般的によく言われるお姿は五智宝冠をつけ、右手に智慧の宝剣、左手に福徳の蓮華と如意宝珠をお持ちになられています。


また虚空蔵菩薩さまは丑年、寅年生まれの人の守り神としても知られています。


そんな虚空蔵菩薩さまをご本尊とされる威徳院さん。
ご本尊さまは右手に宝剣、左手に如意宝珠を持っておられます。

そして驚くことにもう一体。
向かって左側にも虚空蔵菩薩さまがおられ、こちらは右手に予願印と言われる掌を見せて下げる印相を、左手には如意宝珠を持っておられました。

至れり尽くせりとはこのことでありましょうか。






No.282 22/08/26 22:55
旅人 ( pu5bob )

朗報です(?)。

威徳院さんの御本堂はやはりまだまだ新しいものであることがわかりました。
平成三十一(2019)年落成のものでありました。
ホームページに載っておらず、でも諦めきれずに検索をかけておりました。 

ちなみに、同じく明治の火災で焼失してしまった、この寺の名前の由来ともなったという【大威徳明王】さまの尊像も平成二十二(2010)年に復活されていました。

明治の火災で全焼し、御仏の像も失われてしまわれた、ここ、威徳院さん。
少しづつ御仏の像をはじめ、お寺さんのなくてはならない物を増やして増やしての〝今〟なのですね。

No.283 22/08/27 04:56
旅人 ( pu5bob )

┉いつものように話があっちゃこちゃしており申し訳ありません。


そう。
虚空蔵菩薩さま。

御本堂の開いている扉の外側から、参拝させていただきましたが、どうにも上がらせていただいて大丈夫にしか見えない。(ええ、私の希望的観測ではなく!、┉熱烈なまでの希望があることは確かですが┉)
┉困ったときの御朱印だ!
┉いや、それはもう誤った御朱印の拝受だから。

いやぁ、このときはほぼ本気でそう思って納経所へと小走りで向かっていました。
あれ?
立派な納経所ですが、どなたもおられない。┉大丈夫。
すぐお隣が庫裏だ!
庫裏の前へとやはり小走りで向かいますと、┉!





┉!
まさかまさかの、セルフ押印!


┉う、嘘でしょ?
虚しく印をお借りして押印いたしました。
こ、こんなことって┉。

濃い水色のネコ型ロボットがおなかのポケットから何かを取り出す時の効果音すら流れていたのに(嘘です)。


ん?
これって?
あれだ!
あの八溝山麓霊場巡りの色紙に捺すものと、那須観音霊場の差し替えタイプの御朱印帳用だ!
私のお受けしたいご本尊さまのものは、┉やっぱり納経所で拝受するんだ♡

┉呼び鈴を押しました。

若い女の方の応答なさる声が聞こえてきました。
「ご本尊さまの御朱印をお授けいただきたいのですが」
「あ、はい。それでは隣でお待ちください」

やったぁぁ!♡

テッテレーッ タラーッ

┉という効果音は流れません。何故ならもう手に持っていたから、┉ではなくて!

御朱印をお願いすると、な、なんと、応対してくださった若い女の方の方から
「御本堂にお上がりになってお待ちください」

「うわぁ〜い」┉決して口に出したりしていません。
思った、だけです。

No.285 22/08/27 15:23
旅人 ( pu5bob )

前レスに誤ちがありましたので改めて手直しさせていただきます。
(いつもそんなで本当に申し訳ありません💦)



御本堂入り口から見えた大きな白木造りのお美しい虚空蔵菩薩さま。
思った通り御厨子の前にお立ちになられています。
つまりこちらはお前立ちの虚空蔵さまとなります。

それにしてもお美しい。なんとも優しいお顔立ちであられます。
ところで。この白木造りのお前立ちさまは、┉私には何をお持ちなのかちょっとわからず。
なんだかお月さまにお供えするお団子の山のように見えてしまうのですよ。
そう見えてしまうともうなかなか切り替えがきかないのが固まってころっころに小さくなった脳みその持ち主であります。
一体何をお持ちなのか┉。

それにしても。
さまざまなお姿の虚空蔵菩薩さまが並んで祀られているなんて、なんと贅沢にしてありがたい光景でありましょう。
群馬県では虚空蔵菩薩さまをご本尊にされている寺院はなかなか無いように思われます。それもあって十三参りの習慣がないのかもしれません。

厨子に入られておられるのも、もちろん虚空蔵菩薩さまです。
つまり三体の虚空蔵菩薩さまの尊像が祀られていることになります。
┉賢くなれるかしら。


この御厨子に入られた虚空蔵菩薩さま。
実は明治時代の火災の際、本堂とともに焼失したとみられていた本尊の虚空蔵菩薩像さまであったことが本堂再建に合わせて修復した際、わかったのだといいます。
┉えっ?そんなもの?

火災という突然の出来事を前にしては、なんとしても持ち出したいと思っても不可能な時も多々ありましょう。だから全て焼失してしまったというお話を聞いた時にはさもありなんと思ったもので。
ですが。
┉命からがらお救い申し上げた、はずのご本尊さまの所在、そんなにわからなくなってしまうもの?
不思議でなりませんが┉。

火災で焼失したと思われた虚空蔵さま。なのでその後は、廃寺となった近くの正法寺の御本尊であられた聖観音菩薩像を移し、本尊としてきたといいます。


No.286 22/08/27 15:30
旅人 ( pu5bob )

件の虚空蔵さまは本堂の建て替えに伴い仮本堂に安置されていましたが、台座などの傷みが激しく、遷座式後、北海道の仏師が修復作業に当たったのだといいます。

そこで、これまで、明治の火災後に作り直されたと思われていたこの像の光背に墨書きが見つかり、
そこには江戸時代後期文政四(1821)年に制作されたことが記されており、実は焼失を免れていたことが分かったのだといいます。

火災後のどさくさに紛れ盗難にあっていたとかではなく、思い違い、勘違いで、実は助け出されていて寺に残っていたのだから、めでたしめでたし、なのでしょうが┉。

ご本尊という立ち位置も外されていた虚空蔵菩薩さまの立場って一体┉。

No.288 22/08/29 06:05
旅人 ( pu5bob )

ご本尊さまのおられる須弥壇の向かって右側には多くの御仏の御像がお祀りされています。

その中央には一際大きな、牛、┉水牛でしょうか?、┉に乗られた、威徳院の寺名の由来となる【大威徳明王(だいいとくみょうおう)さまが安置されています。
大威徳明王さまは、阿弥陀如来さま、または文殊菩薩さまが、人々を教え導くために敢えて恐ろし気なお姿となったとされる明王です。

『大威徳忿怒明王』、『六面尊』、『六足明王』などと呼ばれることもあるといい、顔、手足を六本ずつ持ち、神の使いである水牛に跨っておられます。
六面六臂(び)六足、と称されるようです。
三本以上の足を持つのは大威徳明王さまだけだといいます。

六つの顔は六道をくまなく見渡す役目を、六つの足は六波羅蜜を怠らず歩み続ける決意を表しておられるといいます。

水牛は、それが水陸を自由に進めるごとく、大威徳明王が、〝迷いと悟りの世界〟を自在に往復できるように明王を支えているといいます。

六つの腕のうち二本は中指を立てて両手を組む『壇陀印』という印を結ばれ、残りの四本の手で武器を持ち、怨霊と戦うと言われています。
また、『降閻魔尊(ごうえんまそん)』とも呼ばれ、冥界の王【閻魔大王】を降伏させる仏であるともいわれます。

善人に危害を加えようとする者を調伏し、その呪いを破壊するとされる、ありがたいありがたい御仏さまであられます。


大きな大きな尊像です。┉まぁその明王さまをお乗せしている水牛がさらに大きいのは言うまでもありませんが。

この間にはたくさんの御仏の御像が祀られております。
妙見菩薩さま、迦楼羅さま。
お不動さまは私が気づいただけで三体、お祀りされていました。

そして向かって左側には閻魔大王さまと奪衣婆さま。

さらに、威徳院さんは祈願堂と呼ばれる御堂もあります。
正面に大きなお不動さまが安置されています。また七福神の寿老人もお祀りされておりました。

火災に遭われたのちの再建時、廃寺となったお寺さんの御仏像も移されたとのこと。
そんなこともあるのかもしれませんね。



No.289 22/08/29 06:20
旅人 ( pu5bob )


┉なんの花だろう。

そんな風に思う花を見かけるようになりました。
秋の花が咲きだしたようです。

花もよく知りません。
今はスマホのアプリを使って簡単に検索することができますが、走行中の、しかも駐停車不可能な道ですとそれはさすがに使えない。

なんと、秋の七草でした。

葛の花。
それから藤袴。

これで七つ全部覚えられた、┉かなぁ。


  (藤袴)

No.291 22/08/29 09:54
旅人 ( pu5bob )

さて。

この明王寺さんから威徳院さんへと向かう途中、偶然目にした【那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)】。

しばらく走って、
「ねぇ? あの古碑のところって┉どの辺り?」と私が尋ねました。
ぐちゃぐちゃと走行して、私などはさっぱり道がわからなくなってしまうのですが、夫は、┉というよりは他の人はその大多数が、道を覚えているものだから、別段声をかけずにいたのですが、どう考えても、かなり走行している気がしてなりません。

「あっ。すっかり忘れてた」

┉やはりあの区間、狐狸の類、あるいはもっと尊き存在に憑依されていた?
いやいや、日頃の疲れと少し熱中症ギミにでもなっていたのでしょう、┉そう思いたい。
これだけおバカな上にボケた妻を持つ夫が、認知症、などということがあってはなりませぬ。
お〜い、しっかりするのだぞぉ。(夫のことよりまずは自分が、ですがね)


と、いうわけで、通り過ぎてしまい諦めた、『那須国造碑』。
栃木県大田原市にある飛鳥時代の石碑で国宝に指定されているといいます。

永昌元(689)年、那須国造で評督に任ぜられた『那須直葦提』の事績を、息子の『意志麻呂』らが顕彰するために、700年に建立したものだといいます。
『永昌』という元号は唐のものなのだそうですが、
日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の【大宝】まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられているということであります。

延宝4(1676)年、僧【円順】により発見され、
その報を受けた那須郡に領地を有していた水戸藩主の【徳川光圀】が【笠石神社】を創建して碑の保護を命じたといいます。
碑は表面を下にして埋もれていたため、碑文が風化することなく保存されたと推定される。
この辺りには古墳が多く、上侍塚古墳と下侍塚古墳というものがこの辺りに存在しているようですが、いずれも五世紀の築造と推定されており碑の年代(七世紀)よりずっと前のものになるもののようです。

水戸光圀公の命により、笠石神社の御神体として祀られているという〝那須国造碑〟。
御神体ではこの目で拝することは叶わなかったことでありましょう。
うんうん。

ちなみに。
碑身と笠石は花崗岩で、19字×8行=152字の碑文が刻まれているのだといいます。

No.292 22/08/29 10:34
旅人 ( pu5bob )

以前、足利市立美術館に現在おられます【大日如来坐像】さまについて、書かせていただきました。

普段、東京上野国立美術館におられます時には、御厨子の中におられる上、距離があるため前からのお姿もあまりよく拝見できないものが、現在は透明な板越しとはいえ、直近から拝することができ、なおかつ通常は絶対見ることができない、横からのお姿、後ろからのお姿を拝見することのできる、またとない機会でありますため、
この駄文をお読みくださっておられる方の中で、ご覧になりたいと思われる方がおられたならば、一刻でも早い方があるいはその機会を得ることも可能かと、日付順ではなくなるものの先に書かせていただきました。


実はこの急に思い立ち那須に行ったあと、足利市へと行っており、
以前上野の、美術館で一目見て虜となりました大日如来さまにお会いした後、
足利市内のお寺さんへ参拝させていただきました。

その足利市のお寺さんの参拝記を綴っていこうとおもいます。



まず向かいましたのは【金蔵院】さん。
通りから門柱┉標柱を見て、そこをくぐり奥の駐車場へと車を停めますと、大きな池があるのやら鐘楼等も見えるのですが、そこは我慢して。
何故ならば寺紋と宗派の紋の染められた白い布がかけられた門があるのが、車で通り過ぎる際横目で見てとれたから┉。

門をくぐると、みぎてに六地蔵さまや石碑が並んで建つ、覆屋があり、ひだりてには鐘楼がありました。


┉ええ、ご想像通り、おばさん、この鐘は撞いていいものかどうかを見るんです。
おお、撞いて良いと書かれています。
しかも享保十(1725)年に鋳造されたものだと横幕が柱に貼られているではないですか!あの、第二次世界大戦の際、供出を免れたいわくある鐘のようです。

┉などと書いてはおりますが、現実のおばさんはもうワクワクとした思いを隠しきれずとっとと鐘楼に登っております。

合掌し、まずは夫から。


┉高音の、大変澄んだ音であります!
これは!
あまりに美しい、心に残るその響きを残しておきたく録画してまいりましたほどであります。

鐘には梵字がたくさん浮き彫りされており、乳(ち)と呼ばれる部分にも梵字が彫られております。

これは┉音色といい、鐘の造りといい、なんと素晴らしい。

No.293 22/08/29 13:56
旅人 ( pu5bob )

こちら、正式には【名龍山金蔵院観音寺】さん。

こちらの私が鐘の音と姿形に感銘し、動画まで撮った梵鐘は、
『乳(ち)の間に金剛界、撞座に胎蔵界の五仏の種子、池の間の四面に金剛頂経の一説である百字の梵字を陽刻し、一面に鐘銘を記す。これは真言宗の教義を巧みに折り込んだ構図である。また駒の爪には寄進者名等を陰刻する。
享保十(1725)年、法印範宜の代、五十名余の浄財を得て佐野天明の治工太田甚左衛門尉によって作られたものである。
形姿、作技ともよく、銘も貴重で、江戸時代梵鐘の名品である。
太平洋戦争中も供出を免れ、いまも鐘楼にかかる。保存状態も良好である。
昭和五十八年 足利市指定文化財指定』
と鐘楼の登口と反対側に説明文の書かれた大きな看板がありました。

ちなみに。
先ほどくぐらせていただいた山門は『長屋門』と呼ばれる形式の門で、江戸時代に建立されたとのことであります。


山門をくぐって、すぐみぎてには、六地蔵さまや日限地蔵さまが安置されていることは前述いたしましたが、に五輪塔や庚申塔、なども並んでいました。
五輪塔と庚申塔はどちらも市の重要文化財に指定されている。

五輪塔は『南宗氏の五輪塔』と呼ばれるもののようです。
南一族という足利尊氏の執事として活躍した人物の家系のお一人のようです。

庚申塔は二基あって、共に江戸時代のものだといいます。
左側の塔は、光背型の塔で中央に青面金剛像が邪魅を踏まえ立ち、邪魅の下には雲を配して下から像を支えるが如く三猿が並び彫刻が重厚でありました。
右側の塔は、書いてあったものをコピペいたしますと、『笠塔婆形の塔で笠の前面は唐破風になっており、三つの花式の懸魚がついている。塔は角柱で上部が僅かに丸味を呈する。塔身の前面に日月、青面金剛、邪魅、童子二体、三猿、夜叉四体が刻されている。塔には次の紀年銘がある』とありました。
元禄時代のもののようです。

境内は南(遠江守)宗継の居館跡であるのだそうで、ちなみにあの五輪塔はこの方の子孫にあたられます。

およそ六百年前の永享元年(1429年)に真言宗醍醐寺派の僧侶によって開山され、
江戸時代は南宝寺・宝珠院・金剛院・実相院・不動院・能満寺・千蔵院・成就院・神宮寺を末寺とする中本寺であり、また名草弁才天の別当寺でもあったといいます。

No.294 22/08/29 16:13
旅人 ( pu5bob )

そうなんです。
実は以前名草の弁財天さまに参拝いたしましたとき、こちらのご住職さまのことが書かれたご由緒書きの看板がありまして、こちらの名前を覚えておりまして、いつか参拝させていただきたいと思っていたお寺さんだったのです。

こちらのご由緒の書かれたものなどは特にご用意されていなかったため、帰宅してネットであれこれ調べましたところ、な、なんと!
かつて名草厳島神社にあった弁才天像がこちらに安置されているというではないですか!

再拝させていただこう。
そうだ、例年秋に開かれていた足利市文化財公開の日に!
その日は普段公開されていない御仏像が公開されることが多いのです。


とはいえ、この普通の日に参拝させていただきました折にも、市指定文化財となっているという毘沙門天さまの御像を拝することができました。像の大きさは26センチほどですが、大変凛々しく、細かなところまでが細工されておりました。享保十(1725)年の、あの梵鐘を造った太田甚左衛門尉藤原秀次作のものでありました。
大きな、そしてあれほどに音色の良い梵鐘のようなものから、このような仏像にいたるまで、すごい方がおられたものです。なんでもこの方が作った唯一の仏像で、貴重なものであることから、こちらは市指定文化財に登録されているといいます。

外に吊るされた半鐘もまた、太田甚左衛門尉藤原秀次さんが作られたもの。
戦争中に供出されたが、昭和三十九(1964)年に戻って来たとのことでありました。

御本堂を出ますと鐘楼のちょうど反対側に御堂がありました。
のぞいてみますと、┉!
いくつあるのか┉たくさんの厨子が安置されているではないですか!

思わずご住職さまにお声掛けして、お聞きしてしまいました。聞けば廃寺となったお寺さんの御仏の御像を集めてお祀りしている御堂になるのだとか。
いろいろな御仏がおられるとおっしゃっていました。
ということはあまり御開帳ということはなさそうです。┉もしやすると、秋の足利市文化財一斉公開の日に拝することができるやもしれません。

要チェックであります!

No.295 22/08/29 18:20
旅人 ( pu5bob )

【名草厳島神社】さん、通称【名草弁財天】さまは、弘仁年間(810〜824)弘法大師空海が、水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりとつたえられています。

白い大蛇の道案内により、清水の流れる大きな岩の前に出た大師は、岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勧請し、前に祠を建てられたという。

元禄六(1693)年、【金藏院】住職が、領地検分の家老に、弁財天宮の再建を願い出て、下附金三両でお舟岩上に石宮を建立したのが、(現在の)本宮である。
明治の神仏分離令により厳島神社となった。
┉。

江戸時代中期に、金蔵院によって巨石の上に石宮、 後に弁財天像(現在も金蔵院弁財天堂に祀られる)が造立されたといいます。
江戸時代の祭典の際には、弁財天を運び祭礼を行っていたということですが、明治維新の神仏分離令により、 厳島神社となり、平成元(1989)年に新たに弁財天を造立したということです。

鎮座している名草巨石群は国指定の天然記念物です。



┉とまぁ、以上が名草厳島神社の中にある、筆で手書きした立て看板に書かれた、ものでありました。

No.296 22/08/30 13:50
旅人 ( pu5bob )

┉ここのところ、やたらと足利市文化財一斉公開というものが話に出てきているかと思いますが、この文化財というもの、やはり古くからあるもの、という事で、神社さんやお寺さんが協賛してくださっていることがほとんどで。
普段は見ることすらできないものを、惜しげもなく、解説付きで拝見することができるという、ありがたい行事なのであります。
二日間にわたって開催されるものなのですが、二日続けて通ったくらい、神社仏閣の好きな方や歴史好きな方には流涎ものの行事でありまして┉。

ところが昨年はコロナのために中止。
そのかわり、┉と言ってはなんですが、いくつかの文化財関連の所を映像で紹介するという、オンライン文化財公開となったのであります。


そのうちの一つ、【宗泉寺】さん。
その映像で、大変穏やかに丁寧にお話くださっていたご住職さまの解説を聞き、是非参拝したいと思っていたのです。
名草という土地から、松田というところにある宗泉寺さんへと向かう道。
「山一つ越える感じかな」と夫。
ナビに入力して進んでまいりました。
「おっ!これは!」、┉はい?
「これは、┉馬打峠を通って行くんだぁ。やったぁ、一回通ってみたかったんだ」

┉また?┉何やら狐狸の類いに取り憑かれた?

あ!
もしかして!

かつて、義兼公が、藤野という侍女に妻時子と不義密通した相手だとという虚偽の報告をされた足利忠綱が、取るものもとりあえず馬で走って逃げたとされる話がありまして。
その際足利から群馬県桐生市の梅田というところまで逃げようとしたという言い伝えがあると聞きました。
忠綱公は梅田の地で討たれて亡くなったという話もあるとか。

「┉ここの道、まさに桐生市に向かっている道でしょ!
この峠を馬で駆けたって、┉忠綱さんじゃない?
馬を早く走らせようと馬を打った峠ってこと?」

夫は呆気に取られたように、
「そ、そういう説もある峠、┉よく覚えてたなぁ」


┉馬打峠で夫の隣、助手席に座る妻の鼻が高々と、まるで天狗のようになっていたことは間違いありません。




No.297 22/08/30 16:06
旅人 ( pu5bob )

夫にとって感動の馬打峠であったかどうか┉。
よくある細いくねくねとした山道、といった感じの峠でありました。
でもせっかく夫があんなに感動していたものですから、馬で走る気持ちを想像して、┉私、介助なしで馬に乗ったことなかったな。しかも同じ所をゆっくりとカッポカッポと歩くだけ。
想像したところでこれではまるで違うなぁ。
忠綱さまはとんでもない誤解をされて、信じてもらうことも絶望的で、ただただ逃げるしかなかった、┉ということでありました。
絶望感を抱きながら暗く細い山の峠道を馬を打ち打ち走る、┉なんと切ないことでしょう。


が。
┉そんな空想もあっという間、のどかな畑の広がる道へとでたのでありました。

そんな道を走って行くと、高台にお寺さんらしいところが見えてきました。
おそらくはあそこが宗泉寺さんでありましょう。

坂を登って。
広い駐車場に車を停めて。
まだまだ石段をのぼるようです。
石段の先には長く白い塀。
そして山門の両脇には仁王さまが登って来る者を見守っています。

なにやらやたらと開放的な、┉風通しのいい石段です。
振り向くと、かなり遠くまで見渡すことができます。
高所恐怖症の人にはちょっぴりこわいくらいです。

No.298 22/08/30 18:01
旅人 ( pu5bob )

門をくぐると。
広い!、┉というものの、御本堂は目の前の石段を登ってすぐです。

その御本堂が横に長いのです。
大きな屋根と、それに覆われるだけの大きな、横にも広い御本堂です。

でもまずは鐘楼へ。
こちらも鐘をついてよいお寺さんです。こちらの梵鐘も乳(ち)の部分が花となっています。うめ、┉梅、でしょうか。
おお!鐘の本体、┉撞座の高さから下の部分、下半分くらいのスペースに鐘の半分くらいを使って人物が三人(、┉だったと思うのですが)描かれています。
側に木も描かれています。
中央に座っておられる方のお話を聞いているように見えます。

御仏を浮き彫りとした梵鐘は何度もみたことがありますが、かなり大きな絵であります。
きっとなにか深い意味のある絵なのだと思うのですが、┉この日はご住職さまは来客中で、お聞きすることはできませんでした。

庫裏でご家族の方が対応してくださり、御本堂に入ってよいとおっしゃってくださいました。

やったぁぁ!

オンラインの文化財公開のYouTubeの動画で拝見したのですが、大変見事な彫り物が施されていたのです。

No.299 22/08/31 05:35
旅人 ( pu5bob )

┉御本堂に上がらせていただけることの、本来の意味をもはや履き違えている。

文化財公開としての映像だったからなぁ。いけない、いけない。
そうなんです。
ご住職さまはきちんとそこを弁えられた解説をされておられたので、御本堂の中のご紹介とはいえ、宗教的なお話はほとんどない、欄間の彫り物のお話であるとか、半鐘のお話であるとかをなさっておられました。
そんな映像を観て、こちらへの参拝を思ったものだから、ついつい本来の意味を履き違えた気持ちとなっていたようです。

それでも、御本堂の前に立ちますと欄間云々、半鐘云々はすっかりなりをひそめ、敬虔な思いとなっています。

ああ、なんと広い御本堂でありましょう!

目の前におられるご本尊さまはお地蔵さまでございます。
向かって左側には達磨禅師さま。
向かって右側には、┉?、め、明治天皇ぅ?
たしかに尊像の前に名札、┉とでも申すのでしょうか、木で作られ筆書きされた札がちょこんと置いてあり、そこには『明治天皇』と書かれたものが置いてあるのです。
が、┉私の存じ上げる明治天皇のお姿とはまるで違ったお姿であります。
あっ!
そうだ、あの昨年の文化財公開の映像で明治天皇ではない〝中国の神様〟というような説明をなされておられた。
何か、┉長い歴史の中でこうした札を立てて置くべき事態があったのかもしれません。


No.300 22/08/31 06:14
旅人 ( pu5bob )

その、┉ご住職さまが映像で中国の神さまとご紹介されていた尊像は、左の手を額にかざして、敬礼、というよりは遠くを見ようとするときの仕草に似たポーズをとられています。
?┉何故?
映像ではよく見えなかったのですが、何度も何度も見直したので間違いなくそのようなポーズをお取りであります。(ご許可をいただくのを忘れたので写真は撮らせていただいてはいないのですが┉)

その、神さまとご紹介された尊像は、
【大権修利菩薩(だいげんしゅりぼさつ)】さまと申されます。
【大権菩薩】とも呼ばれ、禅宗、特に曹洞宗寺院で尊重され祀られる尊格であるそうです。
〝伽藍神〟の一柱とされるといい、大権修利さまは『菩薩』という尊号にはなっているものの、護法善神の一尊と見る向きもあるといいます。

多くの像容は右手を額にあてて遠くを見る姿勢で表現され、身体には唐時代の帝王の服装をまとっておられるのだといいます。

これは、大権さまがもと唐の阿育王山の鎮守であったことに由来しているのだとか。
阿育王山は東海に臨み、海を渡る人々が、山を望んで航海の安全を祈ったといいます。
大権さまがその右手をもって額にかざすのは、遥かにその船を望んでこの無事を祈ったことに起因しているとのことでありました。

なるほど、┉仏法の行く末が常に正しいものであるように祈り見守るお姿、というわけであるようです。



そういえば、以前もどこかでこうしたポーズを取られたお姿の御像にお会いしたことがあるような┉。

No.301 22/08/31 06:42
旅人 ( pu5bob )

ご住職さまが御本堂にお客さまをお連れしてお越しになられました。
実はご住職さま、私がご家族の方に対応していただいている時にも一旦席をお外しくださり、
「今日は来客の対応中でそのあとも時間が取れず、申し訳ない」とわざわざお声がけくださっていたのですが、こちらでも何度も何度も頭をお下げくださっています。

┉いやいや、私などアポ無しで突然訪れているしがない参拝者の一人に過ぎません。かえってそのようなお気を使わせ申し訳ない。
また参りますのでと、心の中で申し上げて、本堂を後にいたしました。


御本堂へと上がってきた石段の脇に、優しいピンク色の彼岸花が綺麗に咲いておりました。
もう秋がすぐそこまで来ているのですね。

などと申してみましたが┉朝晩こそ涼しくはなりましたが、この日は大変暑い日でありました。
それでも、そのここに、淡いピンクの彼岸花を見かけるようになりました。
彼岸花とは申しておりますが、ヒガンバナ科の花というだけで、きっと洋風のおしゃれな名前があるのでしょう。
花の名も知らないおばさんでありました。


あらためて見上げた御本堂は大変大きくそびえております。1810年に建てられたものだといいます。
大正時代にはこの大きな大きな屋根が茅葺きであったといいます。
すごいなぁ。
改修に改修を重ね、以前はこの倍は間口があったと映像でご住職がおっしゃっていました。

その時代の宗泉寺さんを一目見てみたかったなぁ┉。

No.302 22/08/31 10:53
旅人 ( pu5bob )

こちら宗泉寺さんの半鐘は享保十三(1728)年の作。

半鐘に偈文が彫られています。
【諸行無常】
【是生滅法】
【生滅滅已】
【寂滅為楽】
これは涅槃経という経文の一部だそうです。

その説明として貼られていました紙には、弘法大師作と伝わるいろは歌が書かれていました。


色は匂へど散りぬるを(諸行無常)
 …香りよく咲いた花もたちまち散り、

我が世誰ぞつねならむ(是生滅法)
 …人が生まれやがて死ぬのは世の自然の流れ、

有為の奥山今日越えて(生滅滅已)
 …苦しみの山々を今日越えて、

浅き夢見し酔ひもせず(寂滅為楽)
 …もう浅はかな夢もなく迷いがない


一瞬一瞬が常に変化している。
だからこそ、この一瞬が何物にも代えがたい貴重な時間であり、
この世の無常を感じ執着を捨て、諸々の物事を善い方向に向かわせ、前向きで安らかな日々を送りましょう。

と添えられていました。



柔らかな語り口でこの半鐘の説明をされていたご住職さまの一つ一つの言葉が心に沁み、この鐘を一目見たくてこちらに来たかったというのが一番の理由でありました。

いつかご住職さまとお話しする機会がありますように。もしくはご住職さまのお話を直にお聞きする機会を得ることができますように┉。

No.303 22/08/31 13:33
旅人 ( pu5bob )

実は今、BS日テレが桐生市で『神業スタンプラリー』なるものを開催しています。
あまりテレビを観る習慣がなく、ここ近年に至ってはほとんどテレビを観ることなく過ごしているわが家は、BS放送を受信するような工事すらしていないため、本当に偶然知ったのでありますが。

そもそも知ったのが桐生天満宮でありますし、やってみようかと思ったのも鳳仙寺さんがそのスタンプを捺す場所にふくまれていたから。
あくまでも神社仏閣巡りの一環でありました。
┉とはいってもこう見えて私懲り症でありまして。
やるならばコンプリートを!と張り切って、それでも一か月かけてようやく全ての箇所をまわることができました。

そのスタンプラリー、五カ所以上で一回、十カ所以上で二回、十五カ所以上だと三回の抽選ができるということで、コンプリートしておりますので三回抽選ができました。

「うわぁ、赤だ!これ一番いいやつですよ」
と、当たりのときの鐘を鳴らされました。
おおっ!すごいじゃん、私。暑い中頑張った甲斐があったよ。

┉まぁあとはハズレの、シール一枚か、桐生市の写真を葉書にしたもの二枚のどちらかを選ぶというものでありましたが。

当たりは桐生織のぐんまちゃんの図柄の御朱印帳でありました。



┉このぐんまちゃんの御朱印帳を持って、群馬県のPRができるような日が来ることを願って、祈りましょう。

色は何通りかあったのですが、私はこれを選びました。



刺繍や織物の盛んな桐生市の御朱印帳は、一部では有名、┉なんだそうです。初耳でありましたが。

No.304 22/09/01 06:58
旅人 ( pu5bob )

群馬県桐生市の【鳳仙寺】さんに参拝してまいりました。

なにしろあのBS日テレのスタンプラリーに鳳仙寺さんがあったから参加したくらい、鳳仙寺さんが大好き。
いつ来ても心落ち着き、癒されるお寺さんであります。

緩やかな坂道をくねくねと登ってまいります。
その坂の入り口に標柱があって、そのすぐそばにも駐車場があるのですが、ここからそれなりには登ることとなり、夫と行きますといつも上の御本堂そばにある駐車場まで車で行くことになります。

標柱があって。少し行くとみぎてにこちらの山を護る鎮守三社の赤い鳥居が見えてまいります。
小高い丘の上となっていて、鳥居から先はまるで見えず。その坂を一人で登るにはちょっと、┉なのですが、夫は下から歩くのは気が向かないらしく、いつもそこを素通りすることとなります。
なのでこちらの、鎮守三社を一度もお参りしたことがないのでありました。天神山護法大善神さま、白山妙理大権現さま、土地護伽藍神さまがお祀りされていると書かれた看板が立てられています。

もうすでに境内となるのではありますが、一般のお宅が建っていたり、以前は宿泊や休憩のできる施設などまであったくらいです。
長い歴史あるお寺さんも維持等、いろいろあってのことかと思います。

鳥居を過ぎるとみぎてに『鳳仙寺威徳の滝』があります。
滝ですよ?滝。
もうそれだけでテンションが上がります。まぁ、さほど大きなものではないのですが、細い白糸のような水がやさしく流れ落ちています。

湧水が小さな小川を作って、境内のあちこちを流れています。
苔むした道や橋、低木と高い木がほどよく生えた、マイナスイオンたっぷりの、風情ある境内となっております。

そんな石橋の先、山門が見えてまいります。
緩やかな石段が続きます。

石段の途中に『勅使門跡』という、小さな小さな石標があります。
ああ、ここに勅使門があったんだ┉。
そんな歴史ロマンに浸りながら、しばしそこで足を止めて。

うーん、やっぱりいいなぁ。
やっぱり好きだなぁ、鳳仙寺さん。



No.305 22/09/01 08:31
旅人 ( pu5bob )

周囲を豊かな自然に抱かれて四季おりおりのたたずまいの中、静寂閑雅な緑陰の別天地が形成され、
全山が真っ赤に燃え上がるツツジ満開の春。
目の覚めるような青葉で、心まで緑に染まってしまうほどの夏。
自然の織り成す綾錦に感嘆させられる紅葉の秋。
そして、全山静寂で木枯らしの音さえ御仏の声に聞こえてくる冬。
文字通り「静寂閑雅」な霊地にあります。
唐人白山の『鳳凰飛舞仙人遊楽之霊地也』から、寺号を【鳳仙寺】とし、瑞兆の帰結から山号を【桐生山】とされました。

とは、鳳仙寺さんのホームページから。

私の書いた拙い文章とは雲泥の差、┉と申したら泥にすら失礼に当たりましょう。


鳳仙寺さんは、戦国時代の世、天正二(1574)年に、『由良成繁』公が自らの手で開創されました。

由良氏が桐生氏との合戦に勝利し桐生領を支配下に収めたのは、前年の天正元(1573)年でしたが、その年は城代家老に新領地を支配させ、成繁公が実際に桐生入部したのは、
嗣子『由良国繁』公に『金山城』を譲り隠居してからのことでありました。
成繁公は、勅使門の備わった荘厳で広大な伽藍を桐生入部の年に落慶させ創建させ、自らの菩堤所として開山させました。

領主開基の寺として創建された鳳仙寺の寺運は、まさに盤石でしたが、開創五年にして、はやくも、領主・成繁公ご逝去という不運に見舞われます。
しかし嗣子・国繁公の変わらない寺への篤心で無事乗り越えます。

寺が存亡の一大危機に晒された最初は、その十二年後の安土桃山時代の天正十八年(1590年)のことであったといいます。
『豊臣秀吉』公の天下統一への最終戦となった小田原攻めの折、
領主・国繁公が小田原・北条方に味方したため、小田原方敗戦によって桐生城が廃城となってしまいます。しかも、秀吉公の怒りに触れて、領主・由良氏が桐生領を召し上げられ、改易だけは免れたものの嫡男・由良貞繁は常陸(現 茨城県)牛久への転封を命じられてしまいます。
寺としては突如として、最大の庇護者を失ってしまったのですから、たいへんな危機に遭遇してしまったわけです。

そんな鳳仙寺さんを救ったのが、秀吉公から関東支配を任された『徳川家康』公であったといいます。


うーむ、歴史って深いものだと、鳳仙寺さんの歴史を見るだけでもつくづく思います。



No.306 22/09/01 08:46
旅人 ( pu5bob )

そんな徳川家康公の温情もあって、再び隆盛した鳳仙寺さんは、江戸時代中期の元禄元(1688)年には
『曹洞宗別格地(常法幢)』の格式を得たといいます。
『別格地』とは本山に次ぐ格式で、『常法幢』とは出世道場(住持が天皇からの勅宣によって定められる道場)という意味であるといいます。
鳳仙寺さんの格式の高さが窺えます。

徳川の世となりました享保十二(一七二七)年、幕府の要職・奥高家に出世した『由良成繁』公六代の孫・『横瀬貞顕』公が、子息『貞国』公を伴って鳳仙寺を訪れたといいます。
貞顕公は、由良成繁公百五十年遠忌を厳かに営まれた上で、成繁公の墓石を大型五輪塔に修建されたといいます。
これが桐生市の史跡に指定されています、現在の墓石であります。また貞顕公は、この時、先祖供養として経文二巻を写経して進納もされたといいます。

昔の方たちは祖先を大切にされたものであります。

No.307 22/09/01 18:42
旅人 ( pu5bob )

山門に向かって歩きますと、向かって左側にぽつんと【石堂】が一つ。

石堂とは内部に石仏や塔を安置する寺院建築を模したお堂型の石造物、┉以前私が名前が分からず、ただでさえ語彙力がないというのになんとかお伝えしようと、しどろもどろに
中に御仏がおられる、石でできている建物の形をした石造のもの、┉のような表現をしていたものです。
そう、石堂、というそうです。
言われてみれば、それ以外に付ける名前はない、くらいにピッタリな名前です。

中にお入りになられているものが何かは暗くてわからないのですが、この石堂、屋根に鬼瓦のつもりなのか顔が彫られているのです。
これは初めて見ました。

その先に山門、┉楼門でありますが、そびえます。
が。その手前に参道を挟んで左右に、参道を見守るように向かい合って座るお地蔵さまが二体おります。

こちら、向かって左側におられるのが『疣地蔵』さま。
江戸時代から『心の疣』の疣を治す佛さまとして今なお里人の信仰厚く今日に至るのだといいます。
最近はがんの治癒祈願の方がお参りされているようです。

一方の、反対側におられるお地蔵さまは┉。

No.308 22/09/01 21:25
旅人 ( pu5bob )

もう一体のお地蔵さまは『ひとこと』のお地蔵さま。
ひとこと。
そう一願一言と書いてひとことと、カナがふってあります。
『このお地蔵さんは唯一願(=ひとつねがい)』を一言でお願いすればどんな事でも必ず叶えて下さると伝えられる大変あらたかな地蔵さんです。
安楽ポックリの往生も叶えられると伝承されています。
約三百年前に造られた大変古いお地蔵さんです。
願い事を一言で。┉これ、私のように煩悩だらけの人間ですとけっこう難しいものです。

欲深なおばさんは願い事を一つにできず、ひとことさんの前でいつも手を合わせるだけ、なのでありました。

門はすぐそこです。
門を護られるのは持国天さまと増長天さまであります。
そうなんです。
鳳仙寺さんは仁王さまではないんです。ちなみにこの二天さまが立たれている囲いを金剛柵というのだそうです。
天井には立派な龍が描かれています。
この辺りでは見ることのない立派な楼門は宝永元(1704)年の建築となります。

せっかくの(?)楼門ですが、二階へと上がっていく階段はさすがに閉ざされています。
┉この門の御開帳とかあるのでしょうか?

No.309 22/09/02 06:19
旅人 ( pu5bob )

鳳仙寺さんは何度目の参拝となるのか、┉かなりの回数お邪魔させていただいて、今回初めてふと、この楼門の上にはどなたがおられるのかと気になりました。

そもそも、門をお守りになられておられるのは持国天さまと増長天さまの二天さまのみ。四つの金剛柵、門の裏側は像ではなくて木の板に描かれた金剛力士さまが祀られています。
他の二天さまは一体どちらにおわすのでしょう。(これはずっと気になっていましたが┉)

答えを探すべく開いた鳳仙寺さんのホームページに、しっかりと書かれておりました。



『┉二階内部には、広目・多聞天。弥勒観音。吉祥天。釈迦牟尼如来像。阿難陀。大迦葉。十六羅漢等が安置されていたが、明治維新期の廃仏毀 釈の難を逃れるために、本堂内(一部は天井裏)に避難され、現在は十六羅漢等一部が本堂に、他は山門二階に遷座されている。
十六羅漢像は慶友尊者を含めた十七躰であり、これら諸像は、延亨四(1747)年、町屋(現天神町)の長沢三郎兵衛が寄進し、その後明治二十六年、板鼻の仏師法橋祐慶が修理している。
この時、釈迦牟尼如来、阿難陀、大迦葉、弥勒観音、吉祥天、持国、増長、広目、多聞の諸像も修理された。禅宗様釈迦三尊は大変珍しい。
各尊像は彫刻としても細部の表情にいたるまで、見事な写実で、確かな木仏師・彩 色師によって造像彩色されたものと考えられる。

明治二十一年に楼門を茅葺き屋根から瓦屋根に改築致しました。』


おおっ!
なんとこの楼門の上に広目天さまと多聞天さまがおられるのですか。
┉長い間の謎が一瞬にして解けました。しかも多聞天さま=毘沙門天さまのお妃であられる吉祥天さまもおられる!
お釈迦さまはこちらにもお祀りされておられましたか。(こちらの御本尊さまであられます)お弟子さまの
阿難陀さま、大迦葉さまも。
弥勒観音菩薩さまもおられるようです。

なんとありがたい門を、今の今まで上に御仏がおられることすら気づかずに通させていただいていたのでしょう。
あまりに歴史を感じる門であるためついついくぐる部分に気を取られ、今回の参拝で、初めて(!)楼門であることに気づいたのです。
┉ああ、夫の名誉のため書いておきますが、あくまでもそんな迂闊な奴は私ただ一人であります。
間違いなく珍道中トップクラスの〝ありえないこと〟でありましょう。
やれやれ。

No.310 22/09/02 12:00
旅人 ( pu5bob )

山門を抜けると池があり、大きな岩があり、大きな大きなかやの木があります。
ですがまずは山門のひだりてにあります、鐘楼を見上げます。
こちらの梵鐘は上がることすら出来ぬようになっておりますので撞くことはできないのですが、見上げるだけで心が癒されます。

こちら、鳳仙寺さんの梵鐘は桐生市内で最古の梵鐘となります。
鳳仙寺梵鐘は、寛永十八(1641)年鋳造で、総高117センチメートルあります。桐生市の重要文化財指定を平成元年に受けております。

かつて桐生市内の寺社には27口の梵鐘が存在したのだといいます。が、幕末の海浜防備による【毀鐘鋳砲令】と、太平洋戦争時の【金属類特別回収令】によって全国的に梵鐘の類が供出され鋳潰されたという哀しい歴史があり、桐生市のお寺もそうした供出を幕府や政府から命令され供出しております。

これによって桐生市内の梵鐘は壊滅状態となったのでありましたが、鳳仙寺梵鐘は、そのつど「名器である」「歴史的に価値がある」と評価されて供出をまぬがれたといいます。
なお、桐生市でこの供出の難をのがれた梵鐘は、鳳仙寺梵鐘の他に、時鐘用として機能していた『円満寺』さんの梵鐘があります。

さらに鳳仙寺梵鐘は、鋳造年のうえから群馬県内でも3番目に古い梵鐘だといいます。

が。
現在その梵鐘は本堂内に安置され、もう二度とその音色を聞くことはできません。
現在の鐘は平成の世に造られたもので、機械が自動的に時間で撞く、現代の鐘、であります。

市の重要文化財指定を受けなければ、その音色を今も聴くことができていたのでしょうか┉。


ちなみに鐘楼も古い物と思われるのですが資料が見つかりませんでした。

No.311 22/09/02 13:25
旅人 ( pu5bob )

そして。

あちこち見ては立ち止まるおばさんがようやく御本堂の方へと目を向けますと、真っ先に目に入ってくるのは、大きな岩とそのそばにあります池と、池の中におられる観音さま、そして大きな大きなかやの木であります。


その池の中にあります岩の上に小さな舟があり、その舟の中に観音様が座っておられます。
なんともお美しい、そして穏やかなお優しいお顔の観音さまでございます。
一葉観音、と申されるそうです。

曹洞宗の開祖【道元禅師】さまが、中国へ渡海した時に嵐に会い、道元さまが観音教を唱えると一葉に乗った観音様が現れ、海が穏やかになったという話に基づいているといわれます。
この一葉観音さまを初めて拝した時の感動といったら!
もうほかも見ずに、ただただこの池のほとりにずっと佇んでおりました。

家に帰って、┉この感動を絵に残すことはできないかと、懸命に鉛筆を走らせてみましたが。
┉絵の才能も無いことをすっかり忘れておりました。

今、さまざまな画法、さまざまなタッチで御仏の姿をお描きになる方がおられ、いつか私も!と思っていたのではありますが、これほどに画才がないとは┉。

実は息子や娘が鉛筆画を描くことがあり、それがいかにも繊細で、うまくぼかしたり陰影などつけたりしてある、私から見るとなかなかの絵でありまして。

幼少期、決して絵の上手い子たちではなかったので、これはもしや私にも?などとひそかに思っていたのですが、┉そんな甘い物では決して、ええ決して!ありませんでした。

とにかくバタくさい、にへら〜っとほくそ笑む顔をした、観音さまのコスプレをした人を描いたかのような絵でありました。
愕然とし、そのスケッチブックをほとんど家人が触れることのない本と本の間に隠しこんだものです。

とはいえ。
いまだに仏画への夢は潰えてはいませんが、とりあえずは鉛筆を動かしすという初歩から始める必要があります。


あ、また、いつもの脱線であります。


脱線ついでに。
庭のムラサキシキブが、その実を少しずつ紫色に変え出しました。
ネズミの額ほどのわが家の庭にも秋が訪れ出していました。


(ムラサキシキブ)

No.312 22/09/02 16:37
旅人 ( pu5bob )

その池のすぐそばに、石幢(せきどう)と呼ばれる、さほど高さのあるものではない石塔があります。

石幢は、多仏塔とも言われ、なんでも「本堂の本尊前に飾られる幢旙(どうばん)の形を石造物にしたもの」とされるとのことで、全国的に造立数は少ないようです。

形態には単制と重制とがあるということで、鳳仙寺の石幢は『重制石幢』と呼ばれるもののようです。
重制石幢はちょうど燈籠の火袋部分にあたる『龕部(がんぶ)』と呼ばれる部分に、御仏の小さな像を六~八体浮き彫りとしたものとなります。
ちなみに桐生市内の石幢は、ほとんど地蔵菩薩が刻まれています。

こちらのお地蔵さま、なぜか朱が塗られております。
いつかご住職さまにその朱色の謎をお聞きできたらいいなぁ。
そんな機会があれば、という意味と、私が忘れていなければ、という、二つの条件下となりますが┉。

そして。
本堂の前で枝を大きく広げてそびえ立つ大樹。桐生市の保存樹に指定されているカヤ(榧)の木であります。

開山お手植えの樹と伝えられており、樹齢は、『保存樹指定』を受けた段階(昭和五十二年)で四百三十余年と推定されている『古木』であります。
高さは29・5メートル、幹の周囲は3・72メートルといわれます。

かつてはこのカヤの実をお駕篭に乗せて、はるばる江戸幕府にまで献上したと伝えられます。

それにしても、お駕篭にまで乗せて運ぶカヤの実って、┉一体どんなことに使われるものなのでしょう?
その昔、カヤの実は脂質が豊富で滋養のある栄養源であったといわれています。
実を精製して作る油は、食用油としても灯火用としても利用されていたといいます。

ほほぉ。

まぁ、お駕篭に乗せたのはあくまでも献上品であったから、なのでしょうが、これまた初めて知りました。
とはいえ、こういったカヤの木に実る実を見る機会はあったとしても、カヤの実を売っている光景は今までもなかったですし、おそらくはこれからもないこと、┉なのではないかなぁ。


このカヤの木。
大きな木でありながら、決してそれを主張せず、境内に溶け込み、御本堂をそっと見守る、そんな印象をさえ受ける木であります。

No.313 22/09/03 05:47
旅人 ( pu5bob )

さて御本堂へ、と石段を登ろうとすると必ず目につく大きな石、┉これはもう岩と称されるのでしょうか┉『献霊水の庭石』といわれる石があります。

鳳仙寺14世の代、宝暦四年頃、長沢是水翁なる人物が、百両余りの大金を投じて、低い沢より曳き上げ施主名を刻して献納したもの、なのだそうです。
ちなみに当時の百両は、石工職人の手間賃換算で六年六カ月分に相当するといいます。(施主名、┉ですか、今度参拝させていただきました折に拝見してみましょう)

ところで。
同時期、同村の長沢市太郎左衛門なる人物が常法幡金として、金百両を寄進したのだそうで、世の人は、その信仰心を誉め称えたといいます。
それはそうですよね、石工の手間賃六年半分、ですものねぇ。
そしてその、市太郎左衛門さん、是水翁に対し「同じ大金投じて石組1つ、何の益になる」と、失笑を浴びせたのだそうです。
是水翁これに答えて曰く、
「その百両、使い果たしてしまう事も有り得るが、この大石には施主名が彫り付けてあり、後の世になっても、ただ捨てる筈もない。また捨てるにも10人や20人では動かすことも出来ない。思うに何れを是とし何れを非とするか」。

 以上は、広きこの世に名を残す種として、江戸時代の書物『齢松佳琴集』に大きく是水翁の名を残している。

ちなみに長沢是水翁、享保18年(1733)生。39才の安永元年、父の後をうけ、名主兼代官となったといい、任期中の徳望は厚くその逸話は多いといいます。
国学を学び、書家としても筆法の奥義を極めた能書家であったといわれます。
筆道練達祈願の為、宮内天満宮を自力で造営しており、現在の桐生天満宮境内社機神本殿がこれであるといいます。



┉たしかに。
令和の世を迎えても、巨石は今なお残っております。
ただねぇ。
お二方とも余分な一言をおっしゃらなければいいのに、┉ねぇ。
えっ?
もしやそういう〝事〟を世の人に伝えるためのあえての会話?

まぁ、たぶんそのような奥深いことはない、そのまま、思ったままを言い合った〝会話〟だったのでしょうね。
大丈夫。
そんな両者の煩悩も今は御仏のお力で浄化され、鳳仙寺さんの今を支えてくれています。

No.314 22/09/03 16:11
旅人 ( pu5bob )

鳳仙寺さんの御本堂が落慶したのが天正二(1574)年。以来、一度も火災や風水害に逢うこともなく現在を迎えました。

建築以来、〝星霜すでに四世紀半〟。
なんとも長い年月であります。
その間、何度かの補修がなされています。
江戸時代中期の新田義貞公四百回忌に屋根替え、明治三十四年に屋根替え、昭和二十九年、そして近年では昭和六十一から六十三年にかけて改修がなされています。
しかしながら落慶当時の形態をそこここに残し、室町期から江戸期の寺院建築様式を遺憾なく現代に伝えている建築物であるといいます。

本堂の広さは百坪(330平方メートル)あるといい、なるほど大変広いものであります。

八室構成となっている大規模な方丈形式本堂であり、かつ曹洞宗本堂の伝統的な形式をよく伝える建物なのだといいます。

それにしても内陣・須弥壇の荘厳なこと。内部に太い柱、梁が巡らされ、どっしりとした中にも厳かさを感じる御本堂であります。

そして。
見上げますとそれは見事な天井画が。本堂の内陣、大間、はもちろん、御本堂入ってすぐの廊下の格天井にも圃かれております。
内陣には龍が両かれ、また十二支などの花鳥獣が圃かれております。
大間には四十二面すべてに花鳥獣が両かれているといいます。
が。
天蓋、縁幡が吊るされていて見えにくい部分が多いのがなんとももったいないと申しますか、残念で┉。
廊下の格天井は七福神をはじめ人物が十八面、花鳥獣が九十八面圃かれているといいます。こちらも左隅に駕寵が、中央に額が飾られていて、見えにくい部分もありはいたしますが、なにぶんにも広い御本堂の広い天井のそこかしこに描かれた絵ですので、もはや見きれないのが先に立ちます。
天井画の修復は素人が考えても難しいのでしょう、惜しいかなかすれてしまったものもいくつもありました。

古い御本堂ではありますが、大変良く清められ、廊下など艶やかな光沢をすら感じられます。


こちらも近年高齢化時代に備え車椅子のスロープを設けられました。

No.315 22/09/04 05:29
旅人 ( pu5bob )

御本堂に一歩足を踏み入れた時から、その長い歴史、重厚さ、荘厳な感じを肌で感じます。
とはいえ、それは決して圧倒されるものではありません。
┉優しく、まるで訪れた人全てを歓待してくださっているような気すらを感じるのであります。
あたたかな、穏やかな、┉。

入ってすぐの土間の部分ですらそう感じるお寺さんであります。

歴史の重みを感じさせる大きなお賽銭箱、┉それ一つとっても、こちらのお寺さんの風格を感じます。
すでに庫裏におことわりしてありますので、御本堂に上がらせていただきます。
すでに述べました磨きあげられた廊下を歩きます。思わず天井画を見上げてしまいますが、まずは参拝です。
大きな扁額が掲げられ、とても建物内部の扉とは思えないような重厚にしてそれでいて細やかな細工のある扉に区切られた中へと入らせていただきます。
外陣にはズラリと十六羅漢さんが並んでいます。一体一体が大きく、そしてよく見かけるようなポーズではなく、まさにお釈迦さまの説法を聞こうとするかのように椅子に座られておられる像であります。
一体一体頭の後ろに輪光があります。よく、┉お地蔵さまの像などで見られる丸い輪っか、┉と言ったらわかりやすいでしょうか、なんとも不敬な表現となりますが。
幢幡は四つ。一つ一つが大きなものですが、御本堂が広いのでその大きさすら感じさせません。
ひときわ大きく立派な天蓋はその細工の細かさに圧倒されます。

そしてこちらの天井画もやはりいくつかは薄れて見えづらくなってしまっておりますが、廊下のものとはまた違った細やかなタッチで花鳥が描かれています。

あれこれを置くことなく、極めてシンプルに、あくまでもお勤めに必要なものだけを、使いやすい、おそらくは宗派の決まり通りに配置された内陣であります。
華美なものは一切ない、それだからこそこちらの寺格、その重みを感じさせる須弥壇の前であります。

┉とは書いてはおりますが、そのような聖域にはさすがに近寄ったりは致しませんので、どうかご安心ください。

ここへ足を踏み入れる時はあくまでお寺の方のご同伴があって、なおかつあちらから「どうぞ」と言われた時のみの場所であると、弁えております。

私は今までの人生で御仏に礼を尽くさずまいりましたので、失礼だけはあってはなりません。(知らずにしでかしていたりして┉)

No.316 22/09/04 17:06
旅人 ( pu5bob )

鳳仙寺の御本尊さまは、【釈迦牟尼如来】さまです。
白象に座す【普賢菩薩】さまと、獅子に座す【文殊菩薩】さまとを脇侍とする【釈迦三尊仏】です。

主尊の釈迦如来さま、実はシュッと引き締まったお顔立ちのかなりのイケメンなのであります。(相変わらず不敬なおばさんです)。

失礼に当たるかと思い、写真を撮らせていただいたことはないのですが、もしお撮りしてよければどんなにか嬉しいことか┉。

そんなイケメンで現代風なご本尊さまであらせられますが、実は鳳仙寺開創当時から本堂に安置されている古仏。すでに四百五十年近い永い歳月をここに座して過ごされておられるのです。

さてその須弥壇の向かって左側には達磨禅師さまの像と広目天さまの御像が並んでおられます。
広目天さまがここにおられる、┉とはいえこちらの広目天さまの尊像はあの山門、楼門の表を護られておられる二天の尊像とは大きさが異なります。?何故こちらには広目天さまだけがお祀りされている?

推察するに。

実はこちら、御本堂の廊下にお厨子に入ってお祀りされている毘沙門天(=多聞天)さまがおられるのです。
こちら鳳仙寺さんは『毘沙門天』さまの寺とも言われ、桐生市の七福神巡りの一寺となっているのです。

楼門をお護りなさる二天さまと多聞天さま。参拝者の目に触れる四天の、残る一天の広目天さまがおられないのは片手落ちとお考えになったのでは?

まぁこれはあくまでも、このおばさんの一考察に過ぎないので、どうかお聞き流しください。

そして向かって右側。
┉!!
おられました!

『大権菩薩』さま!!


そうだ、そうそう、こちらで拝見したんだった!

なるほどたしかに。
鳳仙寺さん、曹洞宗のお寺さんでございます。
こちらで拝見していたんだ!
あの、遠くをご覧になられるように額に手を当てておられる像!

┉こんなにも早くに、答えをいただくことができました。




No.317 22/09/05 01:03
旅人 ( pu5bob )

鳳仙寺さんの御本堂、寺宝とされるものを、惜しげもなく、それこそケースに入れる等もせず一段高くなった床の間のようなところに展示しておられます。

【新田義貞】公の鎌倉攻めの戦利品であるとされる【地蔵菩薩仏頭】、であります。
初めて拝した時、私はいろいろな意味で軽くパニックでありました。

えっ?何、何?
お地蔵さまの首だけってどういうこと?
まさか鎌倉攻めで勝利して御仏の首を落として持ってきたわけではないのでしょうね。
そもそも何故、新田義貞公が鎌倉攻めの勝利の記念に持ち帰ったとされる仏頭が桐生市の山の中にある(、┉鳳仙寺さんごめんなさい)お寺さんに奉納されているの?

専任ガイドであります夫に、矢継ぎ早に質問したことを今もはっきりと覚えています。

おそらくは、と前置きしながら、 
鎌倉攻めの戦利品の仏頭がこちらにあるのは、開基・由良成繁公が新田氏の子孫であったということに由来しているのではないか、ということでありました。
そして仏頭というのはこの辺りでは見かけることはないけれど、当初から御仏の頭だけを造る、といったものもあるということで、おそらくこのお地蔵さまは切り落として持ってきたということではないだろうとのこと。
思わずホッとしたことを忘れられません。


仏頭は、鎌倉時代(1192-1333)の作と推定されているとのこと。
まぁ、新田義貞公が生品神社で旗揚げをして攻めのぼり、鎌倉を落としたのは元弘3(1333)年のことでしたから、その時存在していた仏頭であれば、当然、最低でも鎌倉時代の作ということになりましょう。

仏頭には、まだ金箔が残っていて、往時の荘厳さを現代に伝えています。   
ご本尊から向かって右側の奥まった部屋に安置されています。

その隣に御仏の立像が安置され、その隣にまた、寺宝とされる初代開基の箱笈が展示されています。



お寺の方が伴われているわけでもなく、何処の馬の骨ともわからぬ輩に御本堂を開放されて、惜しげもなく寺宝を剥き出しで展示している┉。
ありがたいと思う反面、セキュリティ面は大丈夫なのかとちょっと心配になる私なのでありました。

No.318 22/09/05 04:48
旅人 ( pu5bob )

寺宝とされるものはまだまだ他にも。
廊下の天井に吊るし置かれた二つの御駕篭、┉こちらはかなり重厚な造りであります。
そして廊下の壁にかざられた額には【御朱印状】が。これはさすがにコピーしたものなのでしょう、セロテープが貼られた跡がいくつもありましたし。


┉まぁ御駕篭を持ち出そうとするにはかなりの労力と時間がかかりましょう。

昨年、どこかのお寺さんでお寺に人がいる間にもかかわらず御仏像が盗まれた事件の記憶が、私の中ではまだ生々しく残っており、それはかなりの衝撃でありましたので、ついついそんな老婆心が(猜疑心?)止まらないおばさんとなっております。

でも寺宝、寺宝と掲げながら、檀家さんとても見たことがないというお寺さんもあるのがむしろ一般的な中、鳳仙寺さんのように、寺を訪れた方全てが見られるようにとしてくださっておられる姿勢には、本当にありがたくて頭が下がるものであるのです。

どんな宗教もうたっております。
『盗みはいけない』
そう、ほんの一握りのそうした心を持つ者がいけないのです。間違っているのです。
本来、そんな疑いの心を持ってセキュリティの設備を導入したくはない、┉というか考えもしないのが、こうした人へ尊い教えを伝える方たちでありましょう。




No.319 22/09/05 07:17
旅人 ( pu5bob )

さて、再び境内へ。
他にも御堂はありますが、今回は割愛いたしましょう。

そしてこちらには由良成重公のお墓がございますが、御本堂の脇を通って、少し小高いところにあるようで、┉ええ、実は私、何度となくこちら鳳仙寺さんに参拝させていただきながら、いまだに成重公のお墓参りをさせていただいたことがありません。
なんかお墓となりますとなりますと、身内でもない一おばさんが参拝してお気を悪くされないかとか思ってしまうものでして┉。
まぁ、つまるところビビり、というやつであります。
なんとなく、ですね、怖いというか┉。
もうとうの昔に転生されておられますでしょうけれど、ね。
ビビりはそこんとこ、ダメなんです。
お寺さんにお墓はあまりにも一般的、なんですけれどねぇ。


さて話を変えて。

山門のすぐ横に白壁の建物が目につきます。
その扉が開いていたことは私が参拝させていただいた折には一度もありませんでしたが、こちらは『経堂』であるとのことです。
白壁で塗られた建物は鞘堂で、その中に経堂がすっぽり納められているようで、なんでも中心の柱を軸に八面 の経架が設置されていて、手押しで自在に回転させることができる構造になっているといいます。

八面の経架のうち、中央には『双林大士』を安置し、残りの七面に延宝七(1679)年版行の鉄眼版一切経六千九百五十六巻が蔵されているといいます。
今日でも軸柱と差肘木との仕口に弛緩が見られず、スムーズに回転させることができるというこの輪蔵の製作年代は言い伝えによれば天明三(1783)年とされています。

ちなみに。
『一切経』とは漢訳された仏典の集大成のことで、経(仏の説法)、律(教徒の生活規律)、論(教義についての学者たちの記述)の三部門から成っています。

実は一切経、江戸初期に天海大僧正が、幕府の命により天海版を印刻しましたが、木活字を使ったため、ほとんど普及しなかったといわれます。
それを『鉄眼和尚』さまが勘案し、 求めに応じて自由に印刷ができる、 固定木版を用いた利用価値の高い【鉄眼版一切経】を版行しました。
この版木は、現在、国の重要文化財となって、『万福寺宝蔵院収蔵庫』に大切に保管されています。
しかも、この版木での一切経が現在も敬虔に刷られていて、国内外に刊行されているといいます。
┉すごいなぁ。すごくないですか。
はあぁぁ。


No.320 22/09/05 07:22
旅人 ( pu5bob )

鉄眼和尚さまは数々の困難を乗り越えて彫った木版は何と六万枚・・10数年の年月をかけてついに完成したといいます。

木版を彫るにあたって、鉄眼さまは、一枚の木版に入れる文字数を、タテ二十字でヨコ二十行、つまり一枚の版木に四百字を入れることに決めたのです。

そう。なんと!ここに原稿用紙一枚四百字のルーツがあるのです。

ちなみに鉄眼さまが完成させた大蔵経は、七千三百三十四巻にもなったといいます。

その我が国の文化に大きな影響を及ぼした『鉄眼版一切経』が鳳仙寺輪蔵内には在る、といいます。


私には経堂がいつ開かれるのはわかりませんし、その経堂が一般の参拝者に開放される日があるのかどうかもわかりませんが、それでもたくさんのお経が収められているという経堂遠見上げては、手を合わせ拝んでいる┉おばさんなのでありました。

No.321 22/09/05 11:02
旅人 ( pu5bob )

かつて、ご先祖さまが開基開山されたお寺を、あの明治の悪令により廃寺の道を選ばれたという、ご一族の血筋の方にお会いし、今も守られておられるお寺の寺宝をお見せいただくという、またとない機会を得ることができました。

それは、いつものように偶然たどり着いた御堂をお参りさせていただいたことから始まりました。

こちらの御堂はあくまでも個人的に所有される御堂ではあるのですが、大変きれいにお祀りされていて、御堂のある境内から周囲の道路に至るまで、いつ参拝させていただいても、塵はおろか、木の葉一つ落ちておらず、雑草一本生えていないというよくお守りになられている御堂であります。
そもそも御堂も建て直された新しいものであります。

元あったお寺さんは大変広い敷地にあり、境内に神社さんもあり、ちなみにその神社さんは今なお存続し土地を護られている、氏神さまであります。(神職の方はそちらにお住まいではないようです)

かの明治の悪令により、当時のご住職は大変なご苦労をなされたようです。
とはいえ、こちらのお寺さんは寺子屋など地域に根づいた、地域の人々に大切に大切に思われていたお寺さんであったが故に、結果としては廃寺される形となりましたが、御堂や御堂のあった土地までは取り上げられることなきよう、地域の方々が共に働きかけてくださったようです。

今なお、毎日お堂に手を合わせに訪れる方が何人もおられ、お祀りされている御仏のお縁日ともなると遠くから訪れる方があとを絶たないようです。

このお堂を存続されておられます子孫の方も、その御仏を大切に守り、ご先祖さまを大変尊敬しておられ、お堂を建て直したり、御仏像の傷みを修復されるため名古屋の方にまで修復を依頼されたようです。

あくまでも個人の所有されるものですので、浄財等もなく、公的な支援もなく。個人的にご負担され、後の世に残そうとされてのことであります。
なんと尊いことでありましょう。

ただただひそやかに、ご先祖の守ってこられた教えをご自分たちだけはと守られ、お寺であった頃の御仏像や御厨子などを淡々と守られておられるお姿に、心洗われ、身が引き締まる思いがいたしました。


本当に良い経験をさせていただきました。
何よりもこの良き方々に出会えましたことに感謝しかありません。



No.322 22/09/05 11:15
旅人 ( pu5bob )

かの明治政府の悪令と、よく私は口にしておりましたが。

┉実は明治政府としてはあくまでも神社の神事に僧が関わることを正そうとしたものだったようです。

長い年月をかけ神道は徐々に仏教と習合し、長らく神仏習合の時代が続いておりましたが、近世となり、儒学や国学が盛んとなり、神道から仏教色を排除する運動が起きていたものでありました。
長い徳川政権が終わり、天皇が再び脚光を浴びる明治時代となり、天皇家の祖である神々、神道を国教しようとした動きの一環であったようです。

明治政府が出した法令としては、決してジェノサイドを指向したような内容ではなかったようだったのですが、結果としてあのような仏教からの乖離につながり、また破壊的な破棄へとつながっていってしまったというのが真相なようです。

神社とても白木の鳥居のみが許され、色等塗られている鳥居は白木のものに差し替えるよう言われております。

何よりも当初明治政府の出した神仏判然令は、

・神社にある仏像は、村役人立ち合いの上、故障のないように寺院へ渡すこと。
でありました。
また、
・神社の狛犬はそのままでよいが、唐獅子はすぐに取り除くこと。
等、あれほどの破壊を命じるものでは無かったはずだったのです。

そして結局のところ政府が目指したところの自国的国教政策は放棄されています。

何故に神仏分離が一斉に廃仏毀釈に至ってしまったのか。
それは江戸時代において、仏教国教化権益、身分特権に安住した僧侶への反感、儒教や国学により廃仏思想が高まっていたことなどがあり、
さらには地方官が寺院財産の収公を狙ったことなども一因したようでありました。

開国、そして長く続いた徳川幕府の時代、武士というものの時代の終息。
押さえつけられていた者、生活が不安定となった者。
世の中も国も不安定であったことも、何かを破壊することによって不安を払拭したり、あるいは不満を爆発させたりという行為となり、その矛先がお寺、仏具や仏像へと向けられてしまったのでしょうか。




破壊されたものは元へは戻らない。

破壊に要した何十倍、何百倍もの労力を要し時間を要してようやく再建に至る。

時代は教えてくれているというのに、今なお世界でそうした動きは続き止まらない。

自然による破壊もあるという時代において、どうして愚かな行為は止まらないのか。


No.323 22/09/06 08:51
旅人 ( pu5bob )

そもそも江戸時代からすでに廃仏思想は始まっていました。

それは実に徳川幕府の成立の頃に、すでにその元となる基盤作られていたのです。

徳川幕府が、宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教でありました。
それは幕府成立初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたことに起因し、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の民を檀那寺へ所属させます。

が、これにより百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なくなりました。
それはあくまでも切支丹禁制の目的の下に成立したものでありましたが、結果として檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人々の上に臨むことになったのです。

さらにこれにより、葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、寺は檀家からの寄進のほか、葬式による収入も殖え、経済的な地位は急速に高まるのであります。
僧侶の身分を優遇するのは、幕府の政策の一つなので、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、庶民の上に立つことになっていきます。

しかし、このことが江戸時代における僧侶の堕落をもたらすのでありました。

堕落であるかはとにかく天海上人は僧でありながら、と同時に政治家、為政者でありましたでしょう。
┉巷には僧侶志願者が溢れました。

そんな僧侶の堕落ぶりに、まず儒家により、更に国学者により、酷評を下します。

『仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。今の僧は盗賊なりと言えり。』
『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごりは甚だし。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』
等々、その浪費振りと搾取のさまを指弾しています。


政治家で真先に排仏論を唱えたのは、あの【水戸光圀】公(1628-1701)であったといい、亡くなられるときには僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じられたといいます。
領内を調査して、いかがわしい淫祠寺院を破却し、破戒の僧尼をビシバシ還俗させたといいます。


江戸時代、そうした長い年月をもって、お寺や僧侶への反感は募り積もっていたのです。


No.324 22/09/06 11:53
旅人 ( pu5bob )

世人の多くが、仏教界の腐敗に愛想をつかしていたところへ、【大政奉還】という形で、徳川の世が終わりを告げます。
そこへ薩長が天皇の名をもって『王政復古の大号令』で王政復古を宣言するのです。

明治維新の動乱の中、
「神道の力をもって、王室を復古し、もって神道を隆盛ならしめねばならぬ。神道を盛んにするには、まず第一に、廃仏毀釈の必要がある」とかかげた薩長新政権が打ち出した思想政策によって、直接的には仏教施設への無差別な、また無分別な攻撃、破壊活動へとつながっていくのでありました。

これにより日本全国で奈良朝以来の貴重な仏像・仏具・寺院のおびただしい数破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗を強制されることとなるのです。

これは実に千年以上の永きにわたって創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動でありました。
文化財の破壊という点のみでいえば、イスラム原理主義者による文化財の破壊より規模は遥かに大きかったのはいうまでもありません。


本来、私ども大和民族は、それまで千年以上の永きに亘って「神仏習合」というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきたのです。
平たくいえば、神社には仏様も祀っり、わけ隔てなく敬ってきたのであります。

それが、全国規模でのあの破壊活動となってしまった┉。

人の怨みを買うというのはまことに恐ろしいことであることがよぉ〜く分かります。


中でも奈良【興福寺】や内山永久寺の惨状は、筆舌(ひつぜつ)に尽くし難いものだといいます。

興福寺だけで実に二千体以上の仏像が、破壊されたり、焼かれたりしたことが分かっているといいます。
僧侶は、ほとんど全員が神官に、文字通り“衣替え”したり、還俗することを強制されました。

経典は、町方で包装紙として使われるというゴミ同然の扱いを受けます。
五重塔にいたっては二十五円(一説には十円)で売りに出されたといいます。薪にするためにと売りに出されたのです。
多くの宝物は、混乱に乗じた略奪等によって散逸し、二束三文で町方に出回ったといいます。


興福寺と共に我が国四大寺の一つという格式を誇った内山永久寺に至っては、徹底的に破壊され尽くし、今やその痕跡さえ見られないといいます。
姿を残していないのです。
この世から抹殺されてしまったのです。

あぁぁぁ、なんと愚かしいことを。

No.325 22/09/07 06:02
旅人 ( pu5bob )

┉この後、九百字ほど、考察しまとめていたのですが、己がミスで一瞬にして消えてしまうという、〝いつでもなんでも珍道中〟をしでかしておりました。

ぼう然自失ってこんな時に使えばいいんだっけ?
などと自問自答しつつ、どうしてもすぐにもう一度取り組む気になれず。

┉少し前には「くっそぉ」などとお里の知れる言葉を吐きながらもすぐに打ち出していたものですが、これも老というものでしょうか。
はあぁぁというため息一つついて、立ち直れずおりました。


一晩寝て、どうしたいかあらためて考えてみました。

考察・まとめがダメだったのなら、さらに掘り下げてしまえ。

〝老兵は死なず〟
ただ消え去るようなおばさんではなかった。

ということで、まだこの『廃仏毀釈』をもう少しだけ掘り下げていこうと思います。 (やれやれ┉)

No.326 22/09/07 06:46
旅人 ( pu5bob )

奈良における廃仏毀釈の波は、東大寺や法隆寺、薬師寺、西大寺、唐招提寺などに及んでいます。
その中でとくに激烈を極めたのが興福寺であったということであります。


┉この、『ザ・修学旅行!』的なお寺さんに、私も修学旅行で行っております。┉というか修学旅行以来行けずにいるのでありますが。
だから、そんな黒歴史はとりあえず封印された、まずは歴史として学ぶべきということで、建立についてであるとか、寺宝であるとか、その素晴らしさのみを学ぶだけで天平の甍を後にしていました。

その時「いつか思う存分ゆっくりと時間をかけて拝観に来るぞぉ!」と思ったことを思い出しました。
今の珍道中の素地はすでにその頃からあったのですねぇ。



興福寺さんは殊に多くの貴重な仏像が焼かれ、そして国内外に流出したたされます。

興福寺さんは現在でも境内面積2万5000坪を有する巨大寺院であります。広くて修学旅行などでは到底見切らない、それこそが何回にも分けて拝観するような寺院であったと記憶しております。(それしか記憶にないかどうかは、┉伏せます。笑。)

しかしながら、宝暦年間(1760年ごろ)に描かれた「興福寺春日社境内絵図」を見れば、その境内規模は現在の数倍はあったと推定できるといいます。
現在の奈良国立博物館、奈良県庁、奈良地方裁判所、奈良ホテルまでことごとく興福寺があった場所に建てられているというのですから、その広さたるや!

戦国時代から江戸時代にかけて、興福寺・春日大社合一の知行地(支配権が及んだ土地)は2万1000余石と定められていたといい、当時の興福寺は大乗院・一乗院を筆頭に、末寺計107寺を抱えていたといいます。

そして興福寺は、歴史的に春日大社と縁が深かったとあります。
平安時代に本地垂迹説に基づき、興福寺は春日大社を支配下に収めています。
鎌倉時代に入れば、大和国の守護の任に当たるなど興福寺の権限は強大なものになっていったといいます。


ところが。
慶応四(1868)年四月、大和国鎮撫総督府より、春日大社における『権現』などの神号の廃止命令が下ったといいます。
えっ?慶応、┉ですか?
それってまだ徳川時代、ですよね。

えぇっ!?
慶応三年の十一月に大政奉還されていますが、すぐにすぐ明治の元号になってるってわけじゃあなかったってこと?


No.327 22/09/07 06:49
旅人 ( pu5bob )

┉まぁ、この辺はすみません、本当無知なもので。

字義通りには1868年は慶応四年にして明治元年であり、明治と改元されたのは九月八日のことのようです。
おや、タイムリーにも明日じゃないですか。


つまりはもう徳川的には大政奉還しておりますが、まだ明治時代というわけではなかった、┉あと少しで明治という元号になる、という〝時〟のこと、というわけですね。

まぁ、そんな頃からもうすでにそういった動きがあったということで。




No.328 22/09/07 08:29
旅人 ( pu5bob )

話を少し戻します。

前述した通り、慶応四(1868)年四月に大和国鎮撫総督府より『神号の廃止命令』、┉たとえば『権現』などという、まさに神仏習合しているものの廃止令が下ります。かの【神仏分離令】であります。

この神仏分離令が出されるや否やの四月一日、奈良からもほど近い滋賀の『日吉大社』で神官たちによる廃仏毀釈が勃発したといいます。

えっ?日吉大社って、┉神社さんでしょ?


日吉大社は全国に3800社以上の「日吉」「日枝」「山王」と名のつく神社の総本宮。たとえば、首相官邸や国会からも近い赤坂・日枝神社も、日吉大社の分霊社にあたります。

【日吉大社】は平安京の表鬼門(北東)に位置することから、災難除けの神様として古くから崇拝されてきました。
ところが。
伝教大師最澄によって比叡山延暦寺が開かれてからは、その勢力下に置かれることになったのだといいます。日吉大社は延暦寺の守護神として、位置付けられたのです。

これにより仏を神が守るという上下関係ができあがり、日吉大社は延暦寺に支配されていったのだといいます。
そして、僧侶と神官の間にもそうした上下関係が生まれ、神官は神事に携わることすら許されず、掃除等の雑務にあたるなど、神官は永きにわたって虐げられていたというのです。

神仏分離令が出されるや、四十数人規模の武装した神官たちが、「神威隊」を名乗って、日吉大社に乱入したといいます。

『神威隊』を率いたのは、日吉大社社司で新政府の『神祇事務局事務係』の任についた者であったといい、延暦寺の三執行代(延暦寺を構成する東塔・西塔・横川の3エリアの代表者)にたいして、日吉大社神殿の鍵の引き渡しを要求したといいます。

執行代は、
「神仏分離の布告はまだ、天台座主より下達されていない。鍵の引き渡しは座主の許可がいる」
として要求を頑として拒否します。僧侶と神官の間でしばしの間、押し問答が続いたといいます。

埒があかないとみた神威隊は、本殿になだれ込み、祀られていた仏像や経典、仏具などに火を放ったのです。


┉比叡山延暦寺は実にニ度目の焼き討ちに遭っていたのです。
延暦寺は全国で最初に廃仏毀釈が行われた仏教施設なのであります。

No.329 22/09/07 08:51
旅人 ( pu5bob )

日吉大社の『神威隊』により火を放たれた仏像や経典、仏具などはその数実に百二十四点、鰐口や具足、華籠などの金属類四十八点は持ち去られたといいます。
焼き払われた仏像は本地仏のほかに阿弥陀如来、不動明王、弁財天、誕生仏など。
経典の中には600巻になる大般若経や法華経、阿弥陀経などが含まれていたといいます。

これはあくまでも『日吉大社』に祀られていたもの、であります。故にこれだけの被害に留まっている、ともいえます。

また、この暴徒の中には社司から雇われた地元農人数十人が含まれていたとされています。
当時、坂本の地は延暦寺が支配しており、小作人たちは年貢の重荷を背負わされていました。江戸幕府の庇護のもと、長年にわたって既得権を得てきた延暦寺に対する地元民の反感は、神官同様に燻り続けていたと察することができます。

日吉大社の暴動は宗教クーデターの様相を呈し、瞬く間に全国に知れ渡ることになっていったといいます。そして、波状的に各地に広がり、全国で廃仏毀釈運動が展開されていったのだといいます。


実はこの日吉大社の暴動に強い衝撃を受けたのは他でもない、神仏分離政策を推し進めた当事者、明治新政府であったといいます。

長年、僧侶から虐げられてきた神官の逆襲に燃える気持ちは尋常ではありませんでした。それが大衆をも巻き込み、熱狂的な破壊活動まで発展したことは、新政府にとっては全くの想定外であったのです。

新政府は、日吉大社の暴動からわずか九日後、太政官布告として
「昔から神官と僧侶は仲が悪く、氷と炭のような関係なのは理解できる。しかし、神仏分離令が出されるや、神官が急に権威を得たような振る舞いをして、私憤を晴らすような動きがある。これは、新しい国造りの大きな妨げになる。今後、仏像や仏具を取り除く際には、その都度、お上にお伺いを立てよ。決して粗暴な振る舞いは許されない」
と、神職らによる仏教施設の破壊を戒めている。

この太政官布告からも、神仏分離政策が神官や市民の間で拡大解釈され、コントロール不能な状況になりつつあることが読み取れます。
 
新政府としては、王政復古、祭政一致を保つためには神と仏の分離は推し進めなければならない。しかし、分離政策はあくまでも粛々とおしすすめたかったのです。

No.330 22/09/07 10:41
旅人 ( pu5bob )

廃仏毀釈によってより甚大なダメージを受けたとされる『興福寺』さんへと話を戻します。

あの、日吉大社の社僧が抵抗を示したように興福寺の僧侶も抗戦の構えを見せたかと言えばそうではありませんでした。
興福寺の見極めと対処は驚くほど素早かったそうで、早々に塔頭の大乗院・一乗院が、連名で鎮撫総督宛に「復飾(還俗)願い」を提出したといいます。当局に対し、簡単に言うと
「お上には逆らわないので、神職としての地位を保証してほしい」
と懇願したのだそうです。

この申し出に神祇局は、還俗を許可するとともに、興福寺の僧侶に対し『新宮司』の地位を与えたといいます。
春日大社に納められていた仏具類は、すべて興福寺が引き取るよう命じ、完全に神仏を分離させることができたのです。

興福寺からは百三十人ともいわれたすべての僧侶がいなくなり、広大な境内地と七堂伽藍だけが残されたのです。
事実上の廃寺です。


問題は興福寺のその後の処理であっりました。

僧であったものが、身分を捨てるのみならず、経や寺、御仏の像や仏具を捨て去ったのです。
そして自らは還俗し、ある者は宮司という地位をすら得ているのです。
究極の保身、であります。

多くの堂塔は破却処分となりました。

たとえばあの五重塔は二十五円とかいう金額で。
一円が今の金銭価値に換算すると二、三千円といわれます。買主の購入目的は薪にするという理由でありました。
しかしながらその解体費用から採算が合わずこの買主は撤退し、その後結局売却が出来なかったことから、今日、私どもはこの貴重な建築文化財でもある五重塔を目にすることができるという、まさに綱渡りのような状況でありました。

『金堂』は警察の屯所になったといいます。
冬場になると凍えるような堂内で警官たちは焚き火をして暖を取ったといい、薪がなくなれば、堂内に安置してあった天平時代の仏像を引きずり出し、あたかも薪割りのように仏像を割り裂いて火中にくべたというのです。
┉やめてぇぇぇ!

その中には貴重な千体仏も含まれていました。
後年になって焼却を免れた一部の千体仏が発見されますが、無残にも、暖炉にくべる薪の束のように数十体ずつにまとめて縛られていたといい、両手や足先、台座のないものが多かったといいます。

一部の千体仏は、民間に流出し、現在、国内のいくつかの美術館が所蔵しています。


No.331 22/09/07 13:36
旅人 ( pu5bob )

明治四(1872)年には、興福寺の大方の境内地が明治政府のものとされます。翌五年には塔頭寺院を含め、大方の建築物は打ちこわしになります。

奈良県庁のある場所は興福寺の境内地だったといいます。
大乗院跡は奈良ホテルが建設され、また一乗院跡地には裁判所が建てられました。
現在の奈良公園も奈良国立博物館も元は興福寺の境内地でありました。

その後嘆願により、興福寺の再興の許可が下りるのが明治十四(1881)年のことであったといいます。


廃仏毀釈による興福寺の衰退は、意外なところにも影響を与えます。
興福寺周辺を住処にしていたシカが受難に遭っていたのです。

奈良公園には国の天然記念物のシカが1200頭近く多数生息するといます。
あれだけ市街地にありながら、野生のシカが人間社会と共存している事に、高校生だった私は大変びっくりしたものですが、やはりこれは極めて珍しい事例なのだといいます。
そんなシカと人間との共存の歴史は少なくとも8世紀に遡るといい『万葉集』にもシカの歌が詠まれています。

768年、この地に春日大社が創建されますが、その時、祭神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)がシカに乗ってやってきたと伝えられ、以来シカは神の使いであるとして手厚く保護されてきたのです。
奈良のシカが人に慣れ、安全に暮らせているのは、春日大社という大樹の陰によるものでありました。
そして春日大社もまた御多分に洩れず神仏習合の時期は長かったものです。

シカは興福寺の広大な境内に野生し、興福寺もシカを手厚く保護したておりました。興福寺や春日大社のシカにたいする神格化は著しく、時にシカを殺めた市民が死罪になることもあったといいます。

それが!

明治初期の廃仏毀釈によって興福寺が著しく荒廃すると、シカを保護する機運が一気に失われます。奈良県の第一代県令は、〝シカは神仏の使いである〟という迷信を払拭するため、シカ狩りを行います。

さらにはスキヤキにされて食べられ、一時期、絶滅の危機に瀕するほどに頭数を減らしたといいます。

今、鹿せんべいをのんびり食べているシカにすらも、当時はそんな廃仏毀釈のとばっちりがあり、絶滅の危機とまでなったいう、┉うーん、人というのはなんと┉『複雑な』生き物でありましょう。


No.332 22/09/07 17:42
旅人 ( pu5bob )

京都四条大橋は、明治に入り文明開化の名のもとに、京都最初の鉄橋として架け直される計画が立てられます。

その際の材料にされたのが、折しも廃仏毀釈によって壊された寺院の仏具類だったという事実。
私には衝撃的なものでありました。
当時は新しい街づくりが優先され、その矛先もまた仏教寺院だった、というのです。

四条大橋架橋工事のために仏具類が供出された事例として、十六貫八百目(約63kg)もあった大鰐口があったといいます。
これなどは壊されたものなどではなく、あくまでも供出を強要されたものだったようです。
この大鰐口をはじめ、市内の寺院から様々な金属製の什器類が供出され、溶かされて橋の材料にされていきました。

同じく京都において、明治四(1871)年に次のような府令が出されます。
「京都市内の各町内の路傍における地蔵などは無益で、怪しく、人を惑わすものであるから、早々に撤去するように」
この府令によって京都市内の路傍の石像がかなりの数撤去されたといいます。
その同時期に、当時二条城に火の見櫓を建設しており、その台座として地蔵が集めて造られたというのです。
学校の校舎の柱石に地蔵が使われるケースもあったといいます。

これとて氷山の一角に過ぎません。




廃仏毀釈。
┉虐げられ、積もり積もった思いというものがあったのでしょう。

が。

今ほどには科学、何よりも医学の発達していない時代において、人々は、たとえば当時治る見込みのないとされた病や、たとえば異常気象等の自然災害の際に、御仏の像に手を合わせて祈っていたのではないかと私は思うのです。
それは道端にひっそりと立つお地蔵さまでなかったろうか。

昨日まで手を合わせ祈ったお地蔵さまの首を落として、胸は痛まぬものなのだろうか。畏れという感情はなかったのだろうか。

人というのは昨日まで信じたものを、一つ事が起きれば、それを敵として戦い、破壊することができるものなのか┉。


私は曲がりなりにも妻であり母であり、どうしても保守的になろうかと思うのです。

そうした一人一人の生きてきた道程によりさまざまな考え方が生まれるものなのだろうとも思います。



ただ。
今後いかなる時代が来ようと、私は破壊行動や戦争は断固として反対いたします。
そうありたい。
それが今の私の生き方です。


No.333 22/09/08 05:08
旅人 ( pu5bob )

┉一体何から廃仏毀釈について調べ、こんなに熱く語っていたんだか、すっかり忘れて、自分の書いたものを読み返してしまいました。


ご先祖さまがお寺を開山開基され、そしてあの神仏分離令の発令された明治のときに廃寺されたという廃寺跡と御堂を、今なおその御仏像や仏具をお守りしている方は、純粋にご先祖さまを大変尊敬されておられ、そうかといって、あの時代の流れも、廃寺することになったことも、何一つ恨んでいません。

この方にとって三代前の方が最後のご住職となられます。

三代前の、最後のご住職となられたお方はどうであったか┉。
それはご本人にお聞きするしかなく、そしてそれはもう不可能なことであります。

ただひとつ言えることは、こちらの一族の方々は、大変な人格者であったと思われるのです。
現在、こちらの御堂を守られている方が、古い書類などをきちんと年代を追ってお調べになり、一冊の冊子にまとめられておられ、淡々と事実のみを書いておられるものなのですが、そこここに信者さんや地域の方々とのやり取りがまるで見えてくるような、心温まるものとなっているのです。

お寺さんであった頃、その辺り一帯の子供から大人まで、学びたいと思う方々を全て対象に寺子屋を開かれていたといいます。
そのご住職が亡くなられたとき、教え子であった方々が寄進しあってそれはそれは大きくて立派なお墓を建てているのです。
┉すごくないですか?
私はそんなお話を今まで聞いたことがありません。

まぁ昔の方々は、たとえば身寄りのない方が亡くなられてもちゃんと葬儀をして弔っていました。そんな時お金を出し合ったり、お金がなければ労力などでその方のために動いたりしていた、ということは知っています。
でも、お寺の住職さまですよ?

檀那寺であれば寄進とか年貢とかもあって裕福であろうはずのお寺さん、(だから神仏分離令が出た時、積もり積もった恨みや妬みでお寺の破壊行動などに発展してしまったことは、調べてかいたばかりです)お墓を建てるお金がないはずがありません。黙っていたってその妻や子供が立派な墓を建てたことでしょう。

それをあえて自分たちで建てたいとお寺さんに申し出て、寄進しあって建てているという事実。
実際そのお墓を見せていただいておりますが、そのお墓を建てられた方々のお名前が一人一人入っています。

No.334 22/09/08 05:21
旅人 ( pu5bob )

また、廃寺を決めた時も、本来ならば手放さねばならなかった御堂と境内地を手元に残せるよう、周りの方々がお上にかけ合い、陳情書も書いておられます。

こちらのお寺の境内にあった石仏さまはたった一体のみ首を落とされてしまったようですが、それ以外は無傷で残っています。


どれだけ愛されて慕われていたかが、伝わってくるではないですか。


その廃寺、とすることも、潔いくらい早い時期に決められています。たしかに、お上からのお達しですので猶予はなかったのでありましょうが、本当に潔く淡々と事を進められた様子がうかがえます。
ご先祖さまが開基開山され、歴代法灯をつないでこられた方ですので、それはそれは深い悲しみやお辛さがあったと思われますのに、何一つあらがいもせず、それを時代として受け入れて。
淡々と廃寺の手続きをされ、還俗され、帰農されたようです。
誰も何も恨まずに、一からのスタートを切り、懸命に汗水たらして、田畑を耕したようです。

名づけ先がこちらだったという方もだいぶおられたようですが、そうした方々もほとんど亡くなってしまわれましたが、その方が語り継いだこのお寺さんのこと、今なお地元では語られているようです。


今、守られている方、そのお子さん、そしてそのお孫さんまでが、そこを守ることを心から受け入れ、誇りに思っておられますことも、なんとも尊く、ありがたいものであります。

お寺さんではありませんが、私の大好きな御堂であり、御仏さまでございます。

No.335 22/09/08 05:36
旅人 ( pu5bob )

このところやたらと珍道中録を綴っておりますが、実は最高血圧が七〜八十台というたいそう立派な低血圧となっており、起きて動くのがやっとでありまして。
というか、さらにさらに低いらしく自動血圧計が測定不能を連発しております。

しかも息切れや心悸亢進といった症状を、ぶり返した暑さのための思い込み、無理して動いていたせいで、今最低限の日常生活を送るのがやっとな生活を送っております。
冷蔵庫はあと少しで食材が切れそうな有り様で、そんな中でしがみつくように珍道中録を綴っておりました。

お見苦しい点はいつも通りかと思うのですが、それはあくまでも本人がそう思うだけで┉。
誤字脱字、脱線。意味不明な文章等々、ありましたら、┉それは体調のせいではなく、やっぱりボケ、だと思います。

いつもお目汚しをすみません。


皆さまにおかれましてもどうかご自愛くださいませ。

No.336 22/09/08 09:48
旅人 ( pu5bob )

大きな葉、そして何よりも大きな大きな背丈に、少し不気味な色合いの花を咲かせるこの花の名が、あの『葛』であることを知りました。

葛であることを知った途端、不気味さが私の中から消し飛んでいる現金さ。
川の側の草むらに生えているのをよく見かけるものです。秋の七草でもありました。

この葛、『葛湯』というものの素であるようであり、あの浅草名物【くず餅】の素でもあり、また、【葛根湯】という風邪の初期に飲む漢方薬の元でもあります。 

へぇぇ、良い植物なんだぁ。
初めて意識した時、『不気味』などと思ったことなど棚にあげております現金な私。
秋の七草だし、万葉集にも読まれるほどだし。

何よりもとても有用な植物。

有用なので海外にも移入されました。┉何かイヤな予感がいたします。



そう、定番の話ですが。

アメリカなどでは強い繁殖力がアダとなり『最悪の外来植物』として君臨しているといいます。

はじめはグリーンカーテンとか森林がけ崩れ防止とかで移入したようなのですが、増えすぎて手がつけられなくなってしまったようで┉、
それは「南部を飲み込んだ蔓」の異名がつくほど、であります。

そのヤバさ、なにやら有名なカードゲームでカード化されてるくらいだそうで。

そう聞くとまた私の心中には、うずうずと〝不気味なもの〟という感覚が戻ります。


過ぎたるは及ばざるがごとし、ですかね。

渡良瀬川という川の河原から、かかった橋までに至る道路にまで顔を出している生命力あふれる葛。
何やらその花、フルーティな香りがするようなのですが、やっぱりその不気味さに、近寄ることはできませんでした。


ちなみに私、葛湯というのが苦手であります。苦手なものを知らずに感じていたってことで、┉はないのでしょうがね。



No.337 22/09/08 13:23
旅人 ( pu5bob )

今日はお薬師さまのお縁日。

実は一昨日くらいから、お薬師さまがおられる群馬県みどり市の光榮寺さんに参拝に伺いたいとひそかに思っていたのです。
でも┉やっぱり立つとふらつくんですよ。
動悸もするし。
指先も痺れているし、頭も重痛い。
ともすると吐き気がする。
(┉ね?熱中症の症状に重なるものがあるでしょう?)

もう一週間、こんな症状が続いています。
お薬師さまのお力をお借りできたらなぁと思ったのですが、┉諦めました。


もうすぐお彼岸です。
焦らずゆっくり体調を整えて。
さいわい、なんとか最低限の家事はできております。
先ほど測った血圧は80/46。
これこそ御仏のお力のおかげかと。


No.338 22/09/08 15:23
旅人 ( pu5bob )

国葬について、国会中継で答弁がなされていました。

私は国葬反対派。
しかしまぁ、┉やるしかないんでしょうねぇ。


それにしても。
少しも納得のいく説明ができない岸田総理に失望┉
というかほぼ独断で国葬を決定し、内外に知らしめちゃった岸田さんに、その時点で百八十度評価が変わってるし。


要は対外的にも言っちゃったからにはやらなきゃならない。それも失礼のないようにってこと、かなぁ。

「海外から日本国全体、国民に対しての弔意を示されているから┉」

ほぉぉ〜、なるほどぉ。
それはうまい言いようだ。そしてそれは確かに事実でもありましょうが。


野党さんも、「おぉ!」と思うと、路線が統一教会の方へずれていく。もちろん、全くずれているわけではないが。
ただ┉。
今は国葬一本で攻めて欲しかったなぁ。


国費ってだけでなく、┉まぁそれはそれで大変大きな無駄遣いだと思っておりますが、私は国葬そのものに反対なので。


ああ、もう自分でこうやって書いてること自体に苛ついてまいります。

私にとって安倍晋三氏の葬儀は【増上寺】さんでしめやかに営まれたものであり、すでに葬儀は終えています。

 

No.339 22/09/08 16:27
旅人 ( pu5bob )

血圧が低すぎて、そんな時は立っていることすらツラいから、仕事しててもやっと、やっとだったから、涙を飲んで辞めたのに、┉。

今だってそうだ。
こんな症状で、こんな血圧でよく仕事してたと思うくらいだ。

なのに。
ご近所の人たちがうるさい。

「あんた仕事辞めて何してるの」
なにって┉?

そういう発言をする人に限って実はずっと専業主婦だったり、私の歳には仕事をしていなかった人だったり。

余計な詮索はしなくていいから!
貴女たちになんの影響がありますか?
貴女たちに何か迷惑をかけていますか?

何してようと個々の問題。
間違いなく、貴女が払ってきた年金は私に支払われることないからね。

そんなに元気で暇ならば、シルバーセンターに登録して貴女たちこそ働けばいい。

専業主婦って罪なのですか?
そんなにいけないものなのですか?

そもそも私、結構いい歳なんじゃない?
ちょっとリタイアが早かっただけくらいじゃないですか。

不定期に友人の仕事は手伝うことになってますが、ね。


ああ、世の中ほんと住みづらいな。

No.340 22/09/08 23:26
旅人 ( pu5bob )

┉そんなに血圧が下がっている事に気づかず、出かけていたのが
群馬県前橋市元総社町にある【徳蔵寺】さんでありました。
徳蔵寺さんは、【上野国総社神社】のお隣りにあり、かつては総社神社の別当寺であったお寺であります。

天台宗比叡山延暦寺の末流で【功叡山蓮華院】といい、室町時代の文明三(1471)年に、【足利八代将軍義政】公の祈祷所として建立されたといい、往時には寺中七ケ院、末門十七ケ寺を擁し幕府から朱印十六石を下賜され、檀徒三百有余戸を有し、この辺り一帯の信仰の中心をなしていたといいます。

慶長十二(1607)年、惣社(総社)領主の【秋元越中守】が惣社城を築くにあたって、一寺の建立を計ったが、当時新寺院の建立は幕府の禁ずるところであったため、時の名僧天海僧正の内意によって本寺ならびに寺中七ケ院のうち四ケ院を惣社に移しこれを光厳寺と称したといいます。

爾来この地には寺がなくなってしまうのですが、明治五(1872)年にこの地の方たちおよび檀徒の方々が相計り、官にその再建を願い出たといいます。
しばしば光厳寺と折衝して独立し、明治六(1873)年に再建されたのだといいます。
この間実に二百六十六年、この地には寺名のみ残していたことであったこととなります。
もっとも寺中三ケ院の内放光寺はささやかながら終戦後まで残っていたとのことで、その後寺中三ケ院を合併し、現在に至るまでその法灯は連綿と引き継がれているといいます。


┉ほぉぉ。あの明治初めによく寺を再建できたものであります。

境内に入ってまもなく『淡島様』と呼ばれる、傘付きの方形の石塔に衣を召した女の方が浮き彫りされた像がお祀りされていました。

なんでも昭和四年に近郷の多くの婦人の発願により建立された女神さまとされ、婦人の下の病に霊験があるとのことであります。
また、安産祈願、縁結びの神さまとしてお祀りされているところもあるといいます。
江戸時代に淡島願人と名乗る乞食坊主が(←原文のまま)伝えて歩いたとのことで、婦人病に効くと多くの婦女子に信仰されたものだと言います。
祈願し治ると衣類の寄進があったとかであります。それがいかにもボロであったようで、ボロボロの服を身につけていると「淡島様のようだ」などと言われたという逸話が残されているそうです。

No.341 22/09/09 06:47
旅人 ( pu5bob )

寺標を通り、広くてよく整備された駐車場を横目に通ると、必ずや目に入るのが『淡島さま』。
淡島さまは下の土台から三メートルはあるかと思われる背の高い一際目立つもので、たいへん存在感があります。

そしてそこからまた今来た道の正面に目を向けますと、┉!

素敵!
石仏さま好きにはたまらない、石仏さまが何体も何体も横並びに程良い距離感で並んでおられるではないですか!

いやいやいやいや、まずは御本堂に出向いてご本尊さまに参拝せねば!

抑えがたい気持ちを抑えて、御本堂の方へと向かおうとすると、まさにその石仏さまの小道を、ベビーカーを押した若い男の方が歩いてこられます。
ご近所のイクメンさんかと思ったのですが、その男性が剃髪されておられることに気付きました。
可愛らしい盛りの一、二歳といった感じと思われる男のお子さんのようです。
「お邪魔させていただいております」と一声おかけしますと
「ようこそお越しくださいました。どうぞごゆっくりなさっていってください」と。

お若いのにさすができておられる。

┉ともすれば石仏さまの小道にヘラヘラと向かいそうな私を、キチンと導いて下さった、ということでしょうか。

手水舎がございます。
┉あれ?蛇口が反対側?
あら?石仏さまの小道が参道だった?

No.342 22/09/09 13:48
旅人 ( pu5bob )

急いで手水舎の前面へと向かいます。
この手水舎と水道、┉竹の水の出てくる口や蛇口が、たいへん風情のあるもので、苔むした岩に見立てたものからその水の出口や蛇口が
顔を出しているのです。
おぉっ!心が穏やかに浄められます。

┉それにしても、御本堂にたどり着く前から何やらやたらと珍道中ぶりを発揮しているような、いないような。

さ、さ、御本堂へと向かいましょう。

御本堂前には、┉え、回向柱?結縁柱?
あの、ありがたくも御本堂におられるご本尊さまと結ばれているという柱が建っております。

そして摩尼車、┉回すだけでお経をお読みした事になるという、ありがた〜い、石でできた柱にちょうど般若心経が彫れるくらいの幅を高さとした円柱をはめ込んであるもので、〝車〟とはついていますが、ちょうど車輪のような石が一つ、柱に開いた穴の中で回せるようになっているもの、┉通じます?

その摩尼車が、結縁柱を中心として左右に一つづつあるのです。
なんとご丁寧に。
ただこの摩尼車、お経が彫られてなかった?うーん。

その摩尼車の解説がかなり長文で書かれた看板がそばに立てられていました(これは一つでしたが)。

まあ、先ほどの摩尼車についての私の拙くも長〜い説明の中にもありましたが、要はゆっくりと丁寧に回すことで、お経を一回読んだこととなる、ということが書いてあるんですがね。
お経というのは受持し、読誦(どくじゅ)し、解説して、書写すること、この四つの行動が大切であると云われているとも書かれていました。
なるほど┉深いお話をさらりと書いてあるところがなんとも深い。


ようやく御本堂の前へと立つことができました。
扁額は金字で浮き彫りされたもので、額の周りはおしゃれに木彫りが施されています。近年 改修工事をされたのでしょうか。

御本堂の戸は、┉施錠されていました。
ですよね、ご住職はおでかけになられましたもの。

そおっと、いつものように覗き見を、┉。

「どうぞ御本堂へもお入りください。そこの呼び鈴を押してもらえば、家人が開けにまいりますので」


後ろからさようにお声がかかります。
┉いつのまにお戻りになられた?
ちょっと前にお出かけになられたばかりのご住職さまが、先ほどと同様お子さんを乗せたベビーカーを押して、結縁柱の向こうからお声をかけておられます。

No.343 22/09/09 17:27
旅人 ( pu5bob )

「そのことを伝えるためにわざわざお戻りくださったのですか?」

覗いていたバツの悪さより、申し訳なさでいっぱいになり、そう声に出し夫と二人深々と頭を下げました。

「いや、その辺を歩いているだけのただの散歩ですから」

┉いーや、絶対そんなはずはありません。
できるお方はスッと、相手が気にしないように瞬時に言葉が選べるものなのですね。

そしてそのまままた境内をベビーカーを押して歩いていかれました。


┉どうしよう。

わざわざ御本堂へと来ていただいて、戸を開けていただくのもなんですし。
といって、わざわざお戻りになってそうおっしゃって下さったのにこのまま帰るのもどうなんだろう┉。

結果、インターフォンのボタンを押すんですけどね。

御年配の女の方が戸を開けてくださいました。
のみならず、まず内陣の照明を付けて、焼香の炉の火を起こしてくださり、果てに私どもに風が来るよう調節しながら扇風機を回してくださいました。

ああ、誠に申し訳ない。

ご本尊さまは阿弥陀如来三尊像さま。お優しいお顔をされ、しなやかな体つきをなさっておられます。

お隣の間には、護摩木が積まれておりました。月に一度、お不動さまのお護摩供をなさるようです。

「よろしければお出かけになられてください」
「はいっ!」

帰る際には、お盆に檀家の方にお配りになったという、団扇とお線香の箱の入った包みをくださいました。

ただただ、突然やってきただけの一参拝の者達に、このようなおもてなしをしてくださる┉優しい優しいお寺です。

御朱印も対応されておられるお寺さんのようですし、お護摩供の日に是非是非来させていただきましょう。
その日もお忙しいご様子であれば日を改めてまた。


境内の石仏さまにお会いするだけでも、何度でも参拝したいと思うお寺さんでありました。

No.344 22/09/10 00:39
旅人 ( pu5bob )

御本堂をあとにし、さて石仏さまの方へ、┉あれ?〝順路〟と書いてあります。
〝順路〟といわれても、どう見ても庫裏の方へと向かう通路のような気がいたします。┉檀家さんがお墓参りに来られた際の庫裏への〝通路〟でしょうか。

それでも一応〝通路〟ですから、行ってみることとしました。

新しそうな石の三猿やフクロウなどがほどよく置かれ、散策路のように整備されています。今水は無いのですがかなり大きな池がありました。
そこにぽつんと石塔が建っていました。
案内の看板が立てられています。

『【輪廻塔】 この輪廻塔は、人々が三界(欲界・色界・無色界)六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)の迷いの世界より救いを求めて車輪をまわし南無阿弥陀佛の念佛を唱えるために建立されたものです。(中略)阿弥陀如来の真言を唱えて参拝して下さい。』

と書かれています。
室町時代 明応5年の塔のようです。
傘がある灯籠の下に、かつては摩尼車のような回す部品があったようです。

え?
もちろん阿弥陀如来さまのご真言をお唱えさせていただきましたとも!


さあ今度こそ、石仏さまの方へ♡

おぉ〜、十王さまたちでございます。十王、┉?
十より多い?
一、ニ、三、┉十二?

おかしいぞ、十二ある。

No.345 22/09/11 06:15
旅人 ( pu5bob )

もう少しだけ近づいて拝見させていただきます。
十、┉十二ではなく十一?

一体は他の方々に比べると、全くお顔もお召しのものも判別できないものとなっています。

そしてもう一体は、┉ん?

小さな、┉まるで別個な御仏の御像?小さな薄い石に浮き彫りされた、┉えっ?両の手を真横に広げておられる?
まるで幼子の描いた〝人〟の絵のように、手を横に広げ足も広げて立つようなポーズをされておられるように見えます。
┉ああ、私、文才もありませんが画才も全くなく、つまり芸術的センスもないおばさんですので、あくまでも、そんな人物にとって🌱そう見えたというだけ、ですので、本当はどうかは分かりません。

そもそももう一体のお顔もお召しのものも判別できないとしておりますが、もしかして、┉十王さまたちでないのみならず、人の形をした物ですらなかった?
他の十王さまに比してあまりにも姿形がなさすぎるのです。石、という感じ?
閻魔大王さまと共によく隣におられることのある奪衣婆さまでもありません。
閻魔大王さまの法具がお祀りされることもありますが、┉鏡にも、杖にも見えない、┉かなぁ。

あまりジロジロと拝見いたしますと、地獄に行ったときにその罪も追加されてしまいそうな気がして、もうこれ以上失礼な事はやめようと早々にその御前を退去いたしました。


お不動さまの石像もお祀りされていました。
火焔光背の火焔のやたら大きな、┉よく見られるお不動さまは体格の良い、立派な体躯の方が多いよう思うのですが、こちらのお不動さまはたいそう引き締まった体躯をされたお方でありました。
お顔もしゅっと引き締まった、脚などは子どものように細いお不動さまでございます。


屋根をつけた囲い屋のような御堂ががあり、そこには小さな小さな御仏のお像が安置されていました。
浮き彫りの石仏さまであります。
お地蔵さまかと思いましたが、観音さまと思しき方もおられます。
一体ではなく二体のお地蔵さまを一つ石に彫られた御像もございます。
古い小さな御仏の御像を一堂に集めてお祀りした、のでしょうか。

小さな、扉のないお堂ではありますが、しっかりした造りで、屋根などはきちんとした瓦葺きのものであります。
┉地蔵堂として建てられたものでありましょうか。

No.346 22/09/11 15:26
旅人 ( pu5bob )

徳蔵寺さんの十王さまについて、珍道中ペアで話し合いました。

十王さまのひな壇にはやはり、十王さまの他に大きな石と、小さな石仏さまの、全部で十二、お祀りされておりました。
一体はやはり頭部のない状態の十王さまのお一方であろうと。
そして小さな小さな舟形とも思われる板状の石に彫られたものはもしかしたら人型に見えるだけで、御仏さまのお像ではないのかも、という結論に。

十王さまたちと同じくらいの石が、やはり両サイドに丸く穴が開いていることと、お顔ではない丸、┉円が彫られており、これと同様十王さまが(閻魔さまが)裁きにお使いになられる〝道具〟なのではないかという結論に至りました。

実はこの十王さま、なかなかユーモアのある味のあるお顔をされております。「造られた当初のお姿をみてみたいねぇ」と夫。
┉本当に。

今私が拝見するお姿から想像いたしますとSDガンダム的なフォームをされておられるような┉ああ、またまたバチ当たりなことを。

一体一体お顔立ちは全て異なり、お召し物や手にお持ちの物も異なりますが、そのどの方からもお優しいお顔しか想像できません。
しゅっと引き締まったお顔の方もおられれば、角顔の方もうおられます。どの方もキリッとされてはおられるのですが、少し笑みを浮かべたようにすら見えるお方さえおられます。


いつか十王さまたちにお会いする時、人間たちが少しでも怖がらずに済むように、御仏が長い年月をかけて石の像のお顔を変えてくださったのでしょうか。


No.347 22/09/12 13:31
旅人 ( pu5bob )

徳蔵寺さんの境内、何体もの石仏さまが、きちんと整列され鎮座されておられます。石仏好きにはたまりません。
大日如来さま、釈迦如来さま。
大変お美しい石仏さまで、露座でおられることが申し訳ないくらいです。
薬師如来さまに阿弥陀如来さま、如意輪観音さま、馬頭観音さま。
みな、少しずつ年代が異なるのでしょう、石工が異なるようで、まるでお姿が異なります。

たいそう整ったお顔で、黙想されておられるようなお地蔵さまは静かにおすわりになられた像であります。

青面金剛さまは二体で、そのうち一体はかなり大きく舟形の光背に彫られております。この青面金剛さまがまた、すっとお立ちになられたお姿で素敵であります。すらっとした御御足、静かに目を閉じられた整ったお顔。うーん、素敵。

不動明王さまは大きな大きな火焔光背の描かれた舟形の光背には浮き彫りされておられます。一際大きな御像であります。やはりずっと真っ直ぐに石座に立っておられるお姿をされています。
青面金剛さまとは異なる石工な気がいたします。

中にはやはり風化してしまわれておられる石仏さまもおられますが、こちらの石仏さま、たいそう保存状態がよく、┉ええ、ご想像通り、まだ居るのかと思われるくらいにずっと石仏さまの周りをうろついておりました私でございます。


さて。

徳蔵寺さんには、三面の懸仏(かけぼとけ)が保存されているといいます。
『懸仏とは円板形の中央に半肉の仏像や神像を表に作り出し神殿や仏殿に提げたもの』だと説明の書かれた看板に書いてありました。
こちらのその三面の懸仏さまはみな銅でできており元は金箔が全面に施されていたようです。
製作されたのは室町時代と考えられるとのことで、それぞれ鏡面の直径が
26.6センチメートルの弥勒菩薩さま、26.7センチメートルの薬師如来さま、24.8センチメートルの観音菩薩さま、とのことであります。

御本堂のどちらかにお祀りされていたものか、それとも寺宝として普段はしまわれているものなのかはお聞きせずに帰ってきております。

いつか、それをお聞きしにまた参拝させていただきます。


そして、ですねぇ。

すぐお隣に【上野総社神社】さんがあるのですが。

そちらにございます宝物にやはり懸仏さまがあるのだそうなのです。

No.348 22/09/12 19:06
旅人 ( pu5bob )

徳蔵寺さんのお隣に鎮座される【上野総社神社】さんは、上野(こうづけ=群馬県)の総鎮守ということで、上野国(こうづけのくに)の国内全ての神社、五百四十九社の神さまが、集い座す御神地であるといわれる神社さんであります。

『上野総社神社は上野の総鎮守なり、上野総社 神社は国内総神社の神集ひ座す御神地なり、 上野総社神社を参拝するは県内各神社を参拝 するにひとし。』

こちらの神社さんの歴史は古く、
崇神天皇の皇子豊城入彦命さまが東国平定の命を奉じられ、上野にお下りになられた折、
神代の時代に国土の平定に貢献された【経津主命】の御武勇を敬慕しておられ、豊城入彦命さまはこの上野国の地に、軍神としてその御神霊を奉祀して御武運の長久を祈られたといいます。
さらにまた、経津主命の親神さまであられる磐筒男神、磐筒女神の御二方をも合祀せられ、これがこちらの始まりと伝えられています。

豊城入彦の子孫は、代々上毛野国(かみつけのくに)君としてこの地に全盛を施し、こちらを熱く崇敬されてこられました。


┉と、総社神社さんのホームページから読み起こしておりますが、┉私の拙い記憶によれば、崇神天皇さまって、┉古事記とかに出てこられるとかじゃなかったでした?
あの物部と蘇我の争いとかよりもずっとずっと前の、聖徳太子さんとかも生まれてすらいない、仏教伝来すらまだまだの、┉最近あまりにも歴史に(歴史も)疎いことに気づいて、学び出したからこそそんな頭が回るのであって、┉つまりはもう、さっぱりついていけない。

もうこれは、あの私のレベルに合わせた歴史の授業のできる〝旦那様〟にお聞きしなくてはなりません。





No.349 22/09/12 22:01
旅人 ( pu5bob )

この上野総社神社さんの歴史は、まさに群馬県=上野国の歴史でありました。


ホームページに綴られたものを夫に解説してもらおうと夫に話を持ちかけたところ、まあ語ること語ること。
なにも見ないで、ペラペラと、神代の時代から始まって、国府のこととか、夕飯もまだなのに熱く語ってくれました。

同じように社会科の授業を受けて、どこからここまでの差がついたのか┉。
高校生の歴史の参考書を読んでも、新たに知ることが山ほどある私が聞き流した〝もの〟を、全て彼が覚えていたとしても。それを上回る物を独学で学んだ、┉というとカッコいいけれど、まぁ歴史オタクさんの彼にしてみれば、ただ楽しく掘り下げていっただけなのでしょうけれど。
高校時代、バイクで史跡を巡っていたようですし。

へ?私ですか?
それは┉難関と言われる志望校に合格すべく勉強に勉強を┉したりすることは一切なく、部活にバイトにと青春を謳歌しておりました。

┉そこら辺かぁ、この差は。


群馬県の歴史、長いですよぉ〜。
で、総社神社さんのホームページをご覧いただければお分かりになりますが、以下のことからちゃんと書いてあるんです。
まぁ、ここでは私が夫からの解説を受けて自分でわかるようにかみ砕いていますが。



【大化改新】の詔によって【律令政治】が行われるようになり、それまで地方を治めていた国造は廃止され、新たに大和朝廷から【国司】が任命され、政庁としてしての【国府】が置かれ、その下の各郡には【郡司】を置いて政治を行うようになります。
つまり国府には朝廷から任命された役人がいて国内の治安を守り、班田収授や徴税を行うなどの仕事をしていたのですが、上毛野国の国府は親王の任国であったことから、少し特殊な形態だったようです。
親王が治めている国であるため国司が置かれず、郡司が親王の下で働くといったものだったようです。

当時、佐渡を入れて全国六十八カ国が『延喜式』により〝小国〟〝中国〟〝上国〟〝大国〟の四段階に区分されたようで、上野国はもともとは上国にはいっていたのだそうですが、親王が治めるようになり大国になったようです。
大国には十三カ国あったようで、内三カ国が親王任国でありました。

親王の任国となり上野国の国府は重要なものとなり東国の文化の中心となったといいます。そしてそれがまさにこの総社神社の辺りということ、なのです。



No.350 22/09/13 06:32
旅人 ( pu5bob )

┉夫や子供たちが嘆きあきれるだろうと、家人の前ではおくびにも出さずにおりますが、『延喜式』と聞いて、えっ?あの神社さんの格式って大宝律令のものだったの?と思ったレベルの私。

これだけ神社さんをお参りさせていただいていて、延喜式内神社さんの何たるかを知ろうともしなかった、ということです。


いやぁ、歴史に(も)あまりにも疎いことに気づいて買った高校生向けの参考書も手軽さを求めたため薄いものだったし、書かれていることも断片的で、子供のお下がりの資料集をみたり、Wikipediaさんにお世話になっている有り様で。

石ノ森章太郎さんが描いた【日本の歴史】を読む方がスッと頭に入るよう思います。
ああいった漫画って、子ども向けのものにしても、註釈まで読むと大人もかなり「ほぉ」と思うような出来栄えとなっているんですよ。(えっ?そんなのは私くらい?)
何故ならば描いている人がそこまで読み込んで、その内容をいかにしたら人に伝えられるかを考えて描き、編集されていますので。


┉まだまだ修行は続きます。
(いやいやそれは修行とは言えない。怠けて入っていなかった知識を学んでいるだけだから!)

一之宮という格式の神社は国司が任国に赴任した折任国内の神社を巡拝することが義務付けられていたわけで、そうすることで県内、┉ではなく国内の各所を巡って様子を知ることができたということもあったのだろうが、群馬県にはその国司さんがいなかったわけでしょう?
いやぁそんなことも知らずにいたわけで、やっぱり、古くからある神社さんやお寺さんをお参りするに当たっては歴史は重要だなぁ、とあらためて思いました。

まぁ、知らなくとも、お祀りされている神様を存じあげていれば。
そこにおわします神さまに礼を尽くしていつもお守りいただきますことに感謝できればいいんですよね。

でもねぇ、特に神社さんはやはり歴史的なものが絡んでくるんです。

あの崇神天皇の皇子であられる豊城入彦命さま、群馬県では神格化されておまつりされた神社さんがいくつもありますし。

戦国の世においてはお寺さんのみならず神社さんまで兵火によって焼失したりもしています。


うーむ、┉がんばろっと。

No.351 22/09/13 09:25
旅人 ( pu5bob )

まぁ、私がいかにあがいたところで、付け焼き刃な知識でしかなく、しかも老朽化し、萎縮した脳みそはすぐにキャパオーバーするため、ここに細々と書くのもあまり意味がないのであろうとは思うのですが。

とりあえず、この総社町といわれる辺りには古墳群があり、総社二子山古墳などは県内最大規模ともいわれ、ここが豊城入彦命の墓であるという伝承もあるとかで、かつては陵墓に準ずる扱いを受けていたといわれているそうです。
ちなみに群馬県は古墳大国を名乗っているようで、古墳の数は一万基以上あるのだそうです。


さあ、話を総社神社さんに戻しましょう。(とはいえそもそもがあの、国府だとか国司だとか、延喜式とかの辺りが、総社神社さんの公式ホームページに書かれているので、あながち脱線しているわけではないのですが)

『総社』という言葉自体が、ある地域内の神社さんの御祭神を集めて祀ったものを指しているものであるので、総社神社さんといえばそういった神社さんであることを語っています。
国司の国内巡行を省略するため国府近傍に国内の神さま方を集めて創建されたのが始まりで、たまたまそれを豊城入彦命さまが創建された神社さんに合祀した、ということなのでしょうか。

総社神社さんは何度か火災の被害に遭っており、治承四(1180)年には足利俊綱に焼き払われているようです。
総社神社さんは現在地とは異なる場所にあったという説もあるようで、現在地からほど近いところにある宮鍋神社さんという神社さんのあるあたりが焼失前の旧社殿があったのではないかとされたとの話もあるようです。

さあ、やっとこちらの宝物、懸け仏さまに話が戻ります。

こちらの掛佛さまは二体。さまと普賢菩薩さまと弥勒菩薩であります。

弥勒菩薩さまは、天正四年に奉納された物で材質は鉄製、径二十九糎の円盤形をした表面に高さ一、六糎の厚さで柔和な顔をした彌勒菩薩が半肉彫りに鋳出され、菩薩の内円部に鍍金の跡が残っているといいます。

普賢菩薩さまは天正十七年にに奉納された物で径九、四糎の青銅板の表面に「総社大明神」と銘書きされているそうです。

こちらは造られた年月日も残された物で、徳蔵寺さんのものと元が1セットであったわけではなかったです。
こちらの二点ですら造られた年数に多少のズレがあり、かたや鉄製、かたや青銅製、こちらすらがセットということもありませんでした。

No.352 22/09/13 13:57
旅人 ( pu5bob )

上野総社神社さん、彫り物が本当に細やかで、日暮らしの門ならぬ日暮らしの神社さん、なのです。

木目をしっかり活かした繊細な花、そして草。
やはり木目を活かしそういった柄であるかのような虎。今にも動き出しそうな足先の指、爪、関節。
玉眼が埋めてあるわけではないのに、鋭い眼光。
軒下にまで彫られた彫り物も、決して気を抜かず手を抜かず彫られています。
魚が彫られていれば、どう見ても〝鱗〟でしかないんです。尾びれだってあの薄くて繊細なひれそのもの、なんです。
木目がうまく活かされて魚の模様となっています。
人物にいたっては豊かな表情が彫り起こされています。バランスの取れた今にも動き出しそうな身体。

それは皆、白木のまま。
彩色などは施されていません。

本当に、本当にすごいのです。
大好きな神社さんであります。


緑ゆたかでありながら、青空の広がる明るい境内も大変気持ちが良いのです。
いくつか大変大きな木があります。
樹齢の伝承も五百年を超えるものがいくつもあり、中には樹齢伝承八百年のものも。
この樹齢八百年ともいわれる木にいたっては根が浮いていたり、うろがトンネルとなっており、そのうろの間は人が何人かその中で休めるくらいのものとなっており、そのうろの中の高さも4、5メートルはあろうかというもの。
その木のそばが落ち着くんですよ。

本殿の裏手をひだりに少し歩くとあるのですがね。

そうそう本殿の裏手にはたくさんの道祖神さまがおられます。

稲荷社もあって、そこにお狐さまの小さな像をお授けいただいて、お狐さまに願い事を書いてその稲荷社の隣に納めるのです。

御本殿は拝殿とは異なり彫刻に彩色が施されています。

あー、もう書いているだけでまた参拝に参りたくなります。


そうそう、こちらの花手水は度々ネットや新聞で取り上げられるくらいであります。
花屋さんがお作りになっているそうですが、もう手水鉢が大きな大きなブーケのよう♡
大小いろいろな、種類もいろいろな色とりどりの花が、ため息が出るほど美しく活けられています。

御朱印も充実しており、それもまたネットによくアップされています。


いろいろな世代の人がさまざまな思いを抱いて訪れる、訪れたい、神社さんであります。


 (総社神社さんの花手水)

No.353 22/09/14 13:33
旅人 ( pu5bob )

このあと 釈迦尊寺さんに参拝させていただきました。


こちらのご由緒もまた古く、五八七年三十一代『用明天皇』の御代にまでさかのぼります。
『蘇我馬子』が、『物部守屋』を滅ぼしたとき物部氏に加担した中臣『羽鳥連』と妻『玉照姫』は上毛野国青海に流罪となったといいます。玉照姫は『聖徳太子』の乳母であり、都を去る折に太子の守仏、闇浮壇金一寸八分の釈迦尊仏を、太子より授けられだと伝えられます。

六八六年、『天武天皇』の勅令により大赦が行われ羽鳥連の孫『羊太夫』が、上洛して勅赦を受けたといいます。
定慧和尚が玉照姫の敬信した釈迦尊仏の由来を尊信し、翌年上野国蒼海に御下りになり、七堂伽藍を建立、釈迦尊仏を安置して釈迦尊寺と号したのがこちらのお寺の始まりとされています。
持統天皇即位亥年朱鳥元年、青海羊太夫の開基、開山は定慧和尚と言われているといいます。


実はこの羊太夫、群馬県民ならそのほとんどがその名を知っている【多胡碑】に関わる超重要人物に当たる人物になるのですが、あまりにも古い時代のことであり、実のところは詳細は不明、らしいのですがね。
ただ、多胡碑が日本三古碑の一つであること、国の特別史跡であることは確かな事実です。
何故群馬県民であれば知っていると確信を持って言っているかといえば、┉そう、あの上毛かるたのおかげなのですがね。


当初は法相宗に属し数百年繁栄を極めたが、寿永の頃(1182〜1185年)天下は大いに乱れ寺門も衰退したとされます。

┉この西暦○年というあたりを見れば、歴史に詳しくなくとも、さもあらんと思う頃。
平清盛が亡くなり、平氏が都落ちし、壇ノ浦の戦いのあったちょうどその頃、ですよね。
あ、『鎌倉殿の十三人』を見ていた方ならば記憶に新しい辺りとなるのでしょうか。┉私は時折観るくらいですので、その辺りは疎くてすみません。

文永年間(1264〜1275年)となって、臨済宗門、鎌倉建長寺より蘭渓和尚が来てこちらを再興されたという記録があるようですが、その辺りはあまり詳しい記録がないようです。


永禄元(1558)年、永源寺というところから芳伝和尚なる方が来て、諸堂の修理を行い大いに面目一新し、これ以降曹洞宗となったといいます。

が。

No.354 22/09/14 14:11
旅人 ( pu5bob )

が。

そのわずか五年後の永禄六(1563)年。
甲州勢の兵火により釈迦尊寺七堂伽藍地面高三百六十石余り残らず焼失してしまったというのです。

┉はあぁ。
〝残らず〟、┉ですからねぇ、当然あのご本尊であった、聖徳太子由来の釈迦尊仏さまも、┉なのでしょうねぇ。
このくらいの時代は、武田氏やら上杉氏やらが群馬県のいろんなところでも戦をしていたようですからねぇ。( 注〕あくまでも私の個人的な見解、┉見解という言葉がすでにあまりにもったいないもの、であります)

そのため釈迦尊寺さんは末寺であった竜松寺に引移り、現在に至るのだそうですが、その後も宝歴十(1761)年の火災で焼失してしまったといいます。
さらに再建しましたものの、さらにまた明治四(1871)年の大火で類焼してしまったといい、同年仮本堂を建立されたといいます。
そして、昭和八年に現在の本堂を新築して今日にいたっているとのことであります。┉と、こちらのホームページに書かれていました。
昭和八年に建てられたとは思えないくらい、きれいなお寺さんであります。

こちら、境内もまたとても良く整備されたお寺さんでありました。

その整備された境内の中に、新しくて近代的な保育園があり、それがまた隣接ではなく併設されておりまして、参道の真横が保育園の正面玄関、なんですよ。
なんだかあまりうろうろすると不審者になりそうで、庫裏の場所すら見つけることなく、御本堂の前で参拝しただけでお寺さんを後にしてしまいました。

No.355 22/09/14 19:17
旅人 ( pu5bob )

その後向かったのは同じく前橋市の【光巖寺】さん。

実はこちらへは夫は初めての参拝となります。一度私一人で参拝しており、ずっと行きたかったようです。
が、厳密に言うと夫はこちらの境内には大学生の頃訪ねてきているとのこと。
実は。
こちらのお寺さんの境内に『宝塔山古墳』が含まれているのです。

まぁ、その辺についてはまた後ほど書いていこうと思います。

こちらは江戸時代初期この辺りを治めた秋元長朝(あきもとながとも)が母の菩提寺として造営したものといいます。
その名も【秋元山江月院光巖寺】。
母の光巖院から命名したと言われています。

二百メートルほどの参道を進むと広い駐車場の向こうに楼門が見えてまいります。
この楼門は赤く、通し柱でニ階には欄干がなく、あまり見ない門であります。実は私、この門を初めて見たとき、西遊記などのセットに出てきそうな門だなぁと、なんともまぁ俗っぽいことを思ったものです。
龍宮門、と呼ばれることもあるといいます。

その楼門は通ることはできないのですが、楼門の先は秋元氏の霊廟となっております。
この霊廟がまた赤い。
秋元長朝公は赤がお好きでいらしたのでしょうか?
御本堂といっても十分通るほど大きく立派な霊廟であります。

秋元氏は関ヶ原の合戦の直後、総社一万石に封ぜられたといいます。
それまでJR新前橋駅の北方にあった城を、今の総社の位置に移して現在の総社町の中心街となる城下町を築いたといいます。
それまで城があった地域は「元総社」と呼ばれ、現在に至っています。

秋元氏は三年間年貢を免除し、領民に巨大な岩の掘削にあたらせ利根川から引水するという治水工事をしたことで知られています。
その取り入れ口の巨石を取り除くにあたり、天狗が助けでもしてくれなければ到底除けないと言われた岩を取り除くことができたことから、天狗が助けに来てくれたという伝説が生まれ、天狗岩用水と呼ばれることとなります。
その用水は今でも利根川西岸の広い地域で潅漑用水として使われています。
秋元氏が転封になるまでの統治はわずか三十年ほどであったようですが、農民はこの秋元氏の治政に感謝し「力田(りょくでん)遺愛碑」という碑をこの霊廟のすぐ側に建てました。
封建時代に農民が君主を讚えて建碑したというのは大変珍しいものだそうです。


No.356 22/09/15 03:58
旅人 ( pu5bob )

【お彼岸】

秋のお彼岸が近づいています。
お彼岸は、春と秋に行うお墓参りのこと、または年に2回ご先祖様を供養する日とされています。このお彼岸は日本にしかなく、仏教のおおもとであるインドにはこのような習慣はありません。

仏教では、ご先祖様がいらっしゃる世界である【彼岸】は西に位置し、私たちが生きている【この世(此岸)】は東に位置しているとされています。
春分・秋分の日には、太陽が真東から昇り真西に沈むことから、此岸と彼岸が最も通じやすくなると考えられるようになりました。

┉『通じやすくなる』、なんかすこぉし怖い響き。
ビビりなおばさんはそう言われると何やら落ち着きを無くしますが。

このような仏教の考え方に、「ご先祖様を大切にする」という日本古来の考え方が結びつき、現在私たちに馴染みのあるお彼岸という仏教行事が生まれたとされています。お彼岸は、長年続いている日本独自の仏教行事のひとつであります。

お彼岸は、三月の「春分の日」と九月の「秋分の日」の前後三日を合わせた七日間があたります。
初日を「彼岸入り」、春分・秋分の日を「中日(なかび・ちゅうにち)」、最終日を「彼岸明け」といいます。
春分の日と秋分の日は毎年決まった日に設定されるものではなく、昼と夜の長さが同じになる日を春分・秋分の日としています。これは、国立天文台による調査をもとに、閣議によって決められるのが一般的です。

では、お彼岸はいつになるのかといいますと、
彼岸の入り 9月20日(火)
彼岸の中日 9月23日(金)
彼岸明け  9月26日(月)
となります。

「彼岸」という言葉は本来仏教の言葉であり、本来の意味は「煩悩を脱した悟りの境地」を指します。
私たちが生きているこの世を此岸(しがん)というのに対して、煩悩や迷いから脱した仏様の世界を彼岸というのです。
しかし、私たちが普段耳にする「お彼岸」は仏教的な本来の意味ではなく、期間中に執り行われる法要や墓参りを指すのが一般的です。

お彼岸の始まりは聖徳太子の時代にまで遡るともいわれ、非常に古くから日本に根付いている風習となります。


お彼岸は、地方によって過ごし方がそれぞれ異なります。お墓参りやお仏壇の掃除などが一般には広く行われていますよね。

No.357 22/09/15 04:36
旅人 ( pu5bob )

前スレで述べました「地方によって過ごし方が違う」という例を挙げますと、沖縄の場合はお彼岸にお墓参りを行わないといいます。
その代わり火の神「ヒヌカン」にお供物をしたり、「ウチカビ」と呼ばれるお金を模した紙を燃やしたりする習慣があるといいます。

もっとも、私、貧乏でなおかつ出不精でありますので、ご想像通り沖縄へ行ったことがありません。
なのでこれはあくまでも調べたものに書いてあった、というだけで、これが沖縄全体のものなのか、沖縄の一部でのことなのかはわかっていないので悪しからず。

一般には、お仏壇や仏具、お墓をお掃除し、お花や食べ物などをお供えします。そんなお彼岸のお供え物として一般的なのは「ぼたもち」や「おはぎ」。

「ぼたもち」と「おはぎ」はそもそも同じ食べ物を指しますが、これは時期によって言い方が異なります。
「ぼたもち」と「おはぎ」は漢字で書くと、「牡丹餅」「お萩」となり、春のお彼岸の時期は牡丹の花、秋のお彼岸の時期は萩の花が咲くことが由来とされています。

ぼたもちやおはぎのほか、故人様の好きだったものなどをお供えしますが、昨今の墓所へのお供物は、カラスや野生動物がそこへ来ることを防ぐため、持ち帰ることとなっていることがほとんどですので、お墓のあるお寺さんや霊園の決まりをご参照ください。

「彼岸法要」に参列するのも、お彼岸の良い過ごし方と言われています。
彼岸法要とは、お彼岸に合わせて寺院で執り行われる合同法要で、「彼岸会(ひがんえ)」とも呼ばれるものです

お彼岸はお盆と行うべき事柄は似ているのですが、お彼岸とお盆ではそもそもの意味が違ってきます。

お彼岸は、私たちの住む「この世(此岸)」と、ご先祖様のいる「あの世(彼岸)」が最も近づく日とされており(、┉この表現、何かもう少し怖くないものはないものかなぁ)、ご先祖様に感謝の気持ちを伝えるための精進期間。

対して、お盆はご先祖様があの世からこの世に帰ってくる日とされており、それゆえお盆ではお墓参りはもちろんのこと、迎え火でご先祖様をお迎えし、送り火でお見送りします。

まぁ、私の家にはお迎えするお仏壇すらがありませんので、未だに迎え火も送り火も炊いたことも間近で見たこともないのですが、ね。


ちなみに。
私は粒あん派、夫はこしあん派。
春秋関係なくそれぞれが好きなものを食べます。


No.358 22/09/15 17:45
旅人 ( pu5bob )

┉光巖寺さんの秋元家霊廟に話を戻します。

こちらの霊廟の敷地内(きちんと塀が設けられ門もあります)霊廟の建物の斜め左側あたりに、見上げるほどに背の高い石造の塔、┉それも七重の塔が立っています。
おそらくは四メートルはありましょう。

今までに見たことのないほど大きく立派なものであります。
光巖寺さんは江戸時代の初期とかに作られたお寺さん、この塔はもっと古いもののように思われます。┉まぁ、そういった鑑定眼はまるで当てにならない私ですので、すぐそばに立てられている説明の看板を┉読めない。錆びてしまって所々字も読めず、すぐに諦めてしまいました。
絶対この塔、なんらかの文化財扱いになっていましょう。ネットで検索すればすぐに出てくるはず。

それにしても。

本当に見事しか言いようがない、素晴らしい塔です。
石造ながら屋根の端っこのところがきちんと反っているんです。しかも軒天のところも板を組んで作ったかのようにきちんと彫り、再現しているのです。┉凄くないですか?
窓もたくさん作られていて、しかもいろいろな形があるんです。花頭窓とか、四角にしても桟があったり、なかったり。
石工さんの強いこだわりと高い技術がこれでもかというくらいに詰まった凄い凄い石塔であります。
柱ならば定規をあてて彫ったように真っ直ぐですし、塔のてっぺんの相輪も丁寧に丁寧に張り込んであります。
花頭窓の左右には花瓶に生けられた花が、それも左右で異なる花が生けられている凝りようで、
また、六観音さまが彫られたいるのですが、これがまたシルエットだけなのですが、実に美しいのです。しなやかにお立ちになられたお姿、千手観音さまもおられます。

はあぁぁぁ、素敵。
はあぁぁぁ、凄い!


『安山岩製。高さ417cm。相輪、七層の屋蓋、塔身、二重基台から成る。上下基台の上端には反花座が彫られ、塔身および上部基台の各四面は縦割りに3区に分けられている。基台正面には中央に格狭間状に切った孔と香炉が彫られ、その左右両区に花瓶が配されている。一方、両側面には各々3体ずつ六観音像が平板状に彫られている。塔身の正面は中央に四角い孔をあけ、その左右両区に大きく南無阿弥陀仏と彫っている。反花座を含めたこれらの彫刻の技法は室町時代の特徴を良く表わ
している。
この塔は総社町高井の東覚寺跡にあったものと伝えられる』
ということです。

No.359 22/09/15 23:13
旅人 ( pu5bob )

この光巖寺さん、寺名は〝秋元の姓〟と〝『長朝』公の戒名である『江月院殿巨岳元誉大居士』〟より、〝母親春(はる)の戒名である『光厳院殿心月等清大師』〟より【秋元山江月院光厳寺】と命名され秋元氏の菩提寺となります。


しかし、寛永10年(1633)二代藩主秋元泰朝(あきもと・やすとも、1580〜1642)は幕命により甲斐国都留谷村に1万8千石に加増されて転封、30年余に亘る秋元氏による総社での治世は終わると共に廃藩となります。しかし泰朝公は転封先から悪政に苦しむ旧領民への支援を行っていたといいます。


┉凄くないですか?
転封先では転封先での新たな生活があり政があり、幕府との関係も大変だったのではないかと思うのに、そこからかつての旧領民への支援を続けるって。
父の背中を見、そして力を合わせて大岩を取り除き用水を作った領民の姿を見て過ごした総社の地を、民をいつまでも大切に思ってくださっていたんですねぇ。
ありがたいことです。

余談ですが泰朝公は、谷村転封後、領国の発展に寄与し、用水の開削や養蚕の奨励に勤めたといいます。
父の用水路開発策に習い、桂川から城下までの約14Kmの堰を開削して飲み水の確保と供給を確保、領民には桑を植えさせ絹や紬の生産を中心とした織物産業を打ち立てます。
水の確保により豊かになること、桑を植え蚕を育てて織物産業へとつなげるなど前橋の地で学んだことを転封先で広め、その地を、そこに住まう民を豊かにしたというわけであります。
秋元の方々はどこへ行こうとその土地に馴染む努力をされ、その土地の発展と民の生活向上を心がけて下さった、名君であられたのですね。


本来、菩提寺となったお寺は当主と共に移転するのが普通だったと聞いています。
しかしながら光厳寺は当主の転封に伴って移転せず総社に留まり、
以降秋元氏が、
宝永元(1704)年、武蔵国河越へ、
明和4(1767)年、出羽国山形へ、
弘化2(1845)年、上野国舘林へと、それぞれ栄転を伴う転封を繰り返すなかで歴代当主を供養しています。


ちなみに。
境内地内にある古墳の墳頂に、長朝公以降の歴代当主のお墓が建てられているのでありました。

No.360 22/09/16 18:20
旅人 ( pu5bob )

群馬県の県都とはいえ、このおばさん、前橋市の総社町、元総社町という町単位のところでどれだけ筆を割くのだろう。
さすがに自分でもそう思うのですが、止まらない。

つらつらと書き連ねております、この何スレか、徳蔵寺さんから始まって、たった一日の間のそれも何時間かのお話に過ぎないんですよ。

そう、その徳蔵寺さん。
そここそが光巖寺さんの開山には欠かすことのできないお寺さんであったわけで。

当時江戸幕府により、新しい寺院を建立することを禁じられていたため、総社神社さんの近くにあった徳蔵寺さんを移転したていで、こちらの光巖寺さんを造っているわけですから。

だからこの日徳蔵寺さんを参拝していた時には、秋元氏が無理やり徳蔵寺さんを移転させしかも名前を改名させているということを知り、秋元氏に対してあまり良い感情を抱かなかったのです。なんだかあまりに横暴な気がいたしまして┉。

けれども秋元公を知れば知るほど、素晴らしい人物、素晴らしい君主であられたことに気づくんです。

そんなわけで。
光厳寺の創建は、慶長十二(1607)年。
総社城及び城下町をの完成した総社藩初代藩主秋元長朝が、徳蔵寺(現 前橋市元総社町)の亮應和尚を招いて開山したのが始まりというわけで。

ところが。

寛永十年(1633年)二代藩主秋元泰朝の時に三十年に渡り治めてきた総社領から甲斐国へとに移封となりますが、前述した通りこの時光厳寺は随行せず、その後、徳川幕府に庇護されます。
寛永三(1626)年に二代将軍秀忠より寺領三十石が安堵され、さらに慶安二年(1649年)には三代将軍家光より十六石が加増され、合わせて四十六石の朱印地を賜ったといいます。

天台宗の地方寺院としては規模の大きい修業寺として多くの僧侶を養成するなど寺運も甚だ隆盛したと云います。
それは何より現存する建物の大きさが物語っております。
一例を挙げれば文化十(1813)年に建てられたという庫裏は屋根も大きな百二十坪もの建物であります。

江戸年間にも特に大きな火災に遭う事もなく光巖寺さんの境内には多くの古い建築物が残っております。


No.361 22/09/17 04:37
旅人 ( pu5bob )

光巖寺さんというより、秋元公及び秋元家、そして総社及び元総社の地にすっかり魅了されて、同じ話を何度も繰り返しておりますおばさんですみません。

現実ではもっとのめり込んでいて、かつて一人で光巖寺さんを訪れた折、『総社秋元公歴史まつり』なるものが開かれるというポスターを見かけたことを思い出し、それを調べて、問い合わせ先になっている総社町公民館兼市民サービスセンターに電話をさせていただき、今年開催が予定されていることまで確認したくらいであります。


が。
さすがにいったん秋元公については筆を置き、光巖寺さんそのものに話を戻そうと思います。

No.362 22/09/17 05:33
旅人 ( pu5bob )

前述したように光巖寺さんは、秋元家がこの総社の地を去られたのちも、徳川幕府に庇護され、当時、天台宗の地方寺院としては規模の大きいお寺さんとなります。

境内は広く、秋元家の霊廟のほか、しっかりとした造りの大きめな御堂『元三大師堂』があります。その元三大師堂と渡り廊下でつなっているかにみえる薬師堂があり、そのお隣に、見る限りは新しい大きな背の高いお像が二体建てられています。
ボケ封じの観音さまとお地蔵さまが並んで優しく微笑んでおられました。
そのボケ封じ観音さまの前でやたらと長く熱心に手を合わせていたのが夫。
彼は自分のことを祈っていたのか、それとも、┉私?

元三大師堂の横には優しいお顔立ちの古い石仏さまが並んでおられます。


で。
この光巖寺さん、やたらと門が多いのです。
まず最初に目につく真っ赤な楼門は扉が閉ざされたままでありますが、私どもがこの日くぐらせていただいた長屋門があり、ここは門と言いつつその門の横に通路なのか物置なのかが造られている実用的なものであります。

そして薬医門。
こちらは鎌倉時代末期か室町時代初期(14世紀中頃)の武家や公家の屋敷に現れた門形式の一つで、後に城郭、社寺にも使われるようになったというもので、本柱が門の中心線から前方にずれているところに特徴といいます。
本柱と控柱をむすぶ梁の中間の上に束や蟇股をのせて切妻屋根をのせた門です。
元来は門扉はなく、医師の家の門に使われ病人の往来を妨げないとされていた門であるため『薬医門』。
また城門としても使われてい『矢喰』があてられた、という説もあるようです。
光巌寺薬医門は、城門として使われていたものを移築しており、城をめぐる厚い築地のなかにおさまるようつくられていると書かれていました。
装飾は、四つの紋(三巴・五三の桐・立ち沢瀉・剣片喰)が唯一のもので、お城の門としては簡素に作られているように見えます。江戸初期あるいはそれ以前の建造と推定されているもののようです。


この薬医門のすぐ横に一際背の高い鐘楼があります。かなりの高さがあり、すぐそばで見上げたら梵鐘が見えないくらいであります。
こちらの鐘楼も秋元家霊廟や楼門と同様赤い色をしています。
赤が流行りの時代だったのか、秋元公がお好きな色だったのか┉。

No.363 22/09/17 17:42
旅人 ( pu5bob )

最初にこの光巖寺さんのことを書いた際、夫はこの光巖寺さんの門の中、御本堂のある境内内には足を踏み入れたことはないけれども、こちらのお寺の境内の中に含まれる宝塔山古墳には大学生の時分に来たことがあったようだと書いております。


前橋市総社町周辺には多くの古墳が点在し、総社古墳群といわれています。
その中の一つである【宝塔山古墳】は、群馬県内最大級の方墳といわれ1944年国指定史跡に指定されたといいます。
それがそっくりそのままお寺の敷地の中にある、ということとなります。
初めて一人で訪れたとき、何やら不思議すぎて、そして怖かったことを今も忘れません。
忘れられません。

なんでも。古墳があった場所というのは、『聖なるところ』、『むやみやたらと立ち入ったり、ましてや耕したり、何かを建てたりしてはならないところ』として、言い伝えられ、それゆえそのまま残っていたり、何かを建てるにしてもそれこそ神社であったりお寺さんであったりすることがほとんどだったようです。

そんな宝塔山古墳は薬医門を出た細い道を隔てた石垣の上、細い石段を登っていきます。
その途中には光巖寺さんの歴代和尚さまのお墓や石仏さまが数多く並んでいます。
┉怖くないですか?

古墳を目指して丘を登っていたら、埴輪でもない石室や石棺でもない、それよりはずっと新しいにしても、私にしてみればやっぱり古いお墓や石仏さまがずら〜っと居並ぶ空間に唐突になったんですよ。
一人で古墳を訪れるのだって怖くてかなりの勇気が必要だったというのに、それがいきなり墓地ですから。

ドキドキドキドキ。


遠くから手を合わせて、なるべくそちらを見ないように先に進んでまいりました。

そして┉。

じゃーん、出たぁ!

いやいや、まさにザ・古墳といった、四角く切った石を組んで造られた石室への入り口がありました。
いや、まさにザ・古墳、です。




No.364 22/09/17 23:28
旅人 ( pu5bob )

ええ、これは前回一人で訪れたときの私の心の内の再現です。

今回は歴史オタクの夫と一緒です。
当然行くんだろうなあ。
┉?、あれ?

えっ?、行かない?
以前行ってるからいいのかなぁ?
秋元氏歴代のお墓のある墳丘へ登る階段のある方へ向かってスタスタ歩いていきます。
「ねえ、こっち、知ってる?」
「ん?、なんかあるの?」

そうかぁ。
┉そうなんです。
駐車場に車を停めると大きな古墳である丘と、そこに何があるかを書いた大きな看板とが目に入り、そこへ向かってしまいがちです。
墳丘には秋元氏の歴代のお墓が並んでいて。
でもそれってありがちなことなので。
それで古墳を見たと思い、この古墳を後にした方は結構な数おられたのではないかと思うくらいです。
実は墳丘の上からは石室のある裏手にアプローチできないようになっているらしいのです。

石室の入り口を見たときの彼の反応といったら┉。

ええどうぞごゆっくりご覧になってください。

┉。

えっ?ええっ!?

夫ってば石室の中に入って行ってるではないですかあぁぁ。

嘘でしょ?
なんで入る?何故?

だってそこかつてのお墓。だよ?

土葬でも火葬でもないご遺体が安置されていた場所だよね?
たしかに今はもうそこ、┉ここにご遺体は安置されてはいないでしょう。でしょうが、ね。



、┉私がこわいんだってば!

No.365 22/09/18 04:10
旅人 ( pu5bob )

三時ちょうどに目が覚めた。
雨が降り出しているようだ。

今回発生している台風は『今までに例のない危険なもの』と報じられています。
数年前の、大きな車が紙のように吹き飛ばされて原型を留めないほどになった、あの恐怖しかなかった台風よりも┉?
シャッターや金属製のトタンがまるでアルミ箔なようにクシャクシャになって破れて転がっていた、あの台風よりも┉。


コロナ。
異常な物価上昇。
┉etc.
もう十分に苦しみ痛めつけられていると思うのになあ。

思えば歴史をふりかえってみても、日本は巨大な台風に見舞われている。
あの鎌倉の大仏の大仏殿を跡形もなく流し去ったような台風もあった。

どんなに科学が進歩しようと、人はあまりにも無力だ。


けれど┉。
┉それでも生きてきた。
幾度となくあった自然災害を乗り越えて、人は生きて、今に命を繋いできた。
壊されても、
流されても。

生きて、再建してきた。
┉人の力だって凄いのだ。


今は無事を祈って通り過ぎるのを待つしかない。それが現実だ。
昨日神仏に祈願してまいりました。
あとは、┉台風に備えて気づいたことをしておくのだな。

日本中のみなさまのご無事をお祈りいたします。

No.367 22/09/19 06:09
旅人 ( pu5bob )

秋元氏の功績に心奪われてついつい長々と綴っておりました光巖寺さんを後にして、次に参拝させていただきましたのが、同じく群馬県前橋市総社町にあります【元景寺】さん。

こちらも実は秋元家ゆかりのお寺さんであり、長朝公が建てたお寺さんであります。

元景寺さんの創建は天正十八(1590)年、秋元長朝公が、父親である秋元景朝の菩提を弔うため自然玄悦禅師を招いて開創したのが始まりとされ、寺号は景朝の戒名「春光院殿気山元景大居士」から『気雲山春光院元景寺』とされました。

実は私、ご存知の通り、全く歴史というものに(も)詳しくなく、というよりどちらかというと無知。
でもふと思うに、この天正年間って、江戸時代なるまでにはまだ少し早い時代にあたるはず。
そうですよね、天正十八年というのは1590年であるとここに書いたくらいで、そしてまさにこの年こそがあの小田原征伐が起こっています。
長朝公はまだこの地を拝受してはいないのです。
いくらなんでもひと様の治める地に、寺は建てられないでしょう?

実はこの景朝公、当時の関東管領『上杉憲政』公に仕えており、その際まさにこの地、上野国(群馬県)植野勝山の地を与えられていたようなのです。
ただ、天正十五年二月にこの地を与えられ、同年十一月に病で没したということで、当時もまたこの地は秋元氏の治める地であった、ようなのです。

のちに関ヶ原の戦の功績でこの総社の地を与えられたのは父景朝のゆかりの地であったことからだったこともあったようなのです。

こちら元景寺さんの境内は勝山城跡地であります。
総社藩は廃藩となったのちも光巖寺さん同様元景寺はこの地に留まっています。

境内には景朝夫妻の墓所があります。
光巖寺さんは御母堂の菩提を弔うために建てられてはおりますが、お墓はこちら元景寺さんにご夫婦で弔われておりました。
改葬せず、こちら元景寺さんも大切にされたことも秋元公が今なお愛される由縁でありましょう。


No.368 22/09/19 13:26
旅人 ( pu5bob )

慶長五(1600)年、『関ヶ原の合戦』で東軍が勝利すると、『徳川家康』公の命を受けた秋元長朝公は会津に赴き、『上杉景勝』公に降伏を勧め、これを受け入れさせることに成功します。
この功績によって父親ゆかりの上野国総社に一万石の所領を与えられます。

しかし、長朝が入城した『蒼海城』は『武田信玄』の攻撃によって落城して以来荒廃していました。
そこで蒼海城を廃城にし、その東側の勝山城跡地を利用して新たに総社城を築城したといいます。

長朝公が、天正十五(1587)年十一月に没した父で景朝(かげとも)公の菩提を弔うため、この地にあった〝法現寺〟を改廃統合し、さらに改宗したのが始まりといわれています。
長朝を開基とし雙林寺十一世自然玄悦(じねんげんえつ)大和尚を開山として開創、秋元景朝の法名である『春光院殿気山元景大居士』から山号・院号・寺号をとり気雲山春光院元景寺と称しました。
天正十八(1590)年には本堂が建立され、御本尊釈迦牟尼佛、脇侍文殊菩薩・普賢菩薩が安置されます。


伽藍の主要建造物は、
本堂(延宝五(1678)年再建)、
山門(文政三(1821)年建立)、
鐘楼・庫裡・書院・位牌堂は(文政二(1820)年建立)といわれます。


こちらを初めて訪れたとき、光巖寺さんの山門を出て参道の入り口まで戻り、県道を一キロほど走って、看板を曲がるのですが、曲がってすぐは不安になります。完璧に住宅街、なのです。
それでも参道を少し走ったか走らないかくらいですぐ正面に山門が見えてきました。
ホッとするのも束の間、山門で車道が左右に分かれます。
ちなみにその山門は絶対車が通れる造りではありません。

左側に進むと、幼稚園があり、その幼稚園の駐車場へと停めさせていただきました。まぁ、この日は幼稚園はお休みですので安心して停めております。
ちなみに、駐車スペースは本堂の西側にあり墓地の入口もこちら側にありました。


No.369 22/09/19 16:25
旅人 ( pu5bob )

元景寺さんの山門に彫られた龍は大変見事で迫力のあるものであります。龍の下には秋元家の家紋『秋元瓜』が掲げられています。
門の左側には緑の黒板があり、ご住職さまがお書きになられるのでしょう、ありがたいためになるお言葉が手書きされた紙が貼られています。

元景寺さんの門から続く参道には淀君の植えられたのいう梅が並木を成していました。
淀君とはあの豊臣秀吉公の側室であるあの淀君です。
浅井長政を父とし、織田信長公の妹お市の方を母とする、あの淀君であります。
この辺りはまた後ほどあらためてふれさせていただきます。


元景寺さんはその境内をギリギリまで使い、幼稚園にしたようで、御本堂と庫裏も幼稚園に限りなく近く┉。
御本堂の入り口も建物の左端にあって、階段を登って入っていくような造りとなっております。
幼稚園との境と、高台となっている庫裏の横に植えられた木々で御本堂の全貌を拝すことができないようになってしまっております。

御本堂の入り口は、三角錐のポールと黒と黄色のポールでふさがれており、しかも赤い三角錐のポールには立入禁止と書かれておりました。
庫裏へもなかなか行きづらく、外から手を合わせ、┉とは言っても、おそらくはただの入り口で、この入り口正面が須弥壇、ご本尊さまの前だとは思えないのですが┉。
そこで失礼するしかないのでそこで手を合わせてお許しいただきました。

御本堂のひだりてには背の高い石造の聖観音さまがお立ちになられ、そのさらにひだりてにはお地蔵さまがおられます。

その前あたりに鐘楼があるのですが、梵鐘はありません。この鐘楼がやはり赤い。
やはり秋元長朝公、赤がお好きでらしたのでしょうか?

御本堂と鐘楼の間に、ちょうど参道を向くような向きで、お堂がいくつかあります。
お堂の横には石仏さまと石堂がお祀りされていました。その前にも小さなお地蔵さまがたくさん安置されています。
この石造の地蔵菩薩さまは室町時代初期のものとのことで、こちらのお地蔵さまの造られた時期を境として、石仏を造る石の材質が、凝灰岩から安山岩に変化していったとのことで、そういった意味合いで重要視されるものとなるようです。
安山岩で彫られた初期のものとなるようです。

No.370 22/09/20 04:22
旅人 ( pu5bob )

このお地蔵さまと共にお祀りされているという薬師如来さま。
『薬師如来』とだけ書いた木製の立て看板があります。
このお薬師さま、御由緒の書かれた立て看板に『、┉境内の薬師如來(石佛)は市内最古の石佛として信仰を集めております』とまで書かれているのですが、その場所に行ってどちらがそのお薬師さまかがわからない。
┉?

お地蔵さまを中央にして向かって右側に二つ窓のある石堂が、左側には石幢書かれて安置されております。石幢の幢身にはおそらくは観音さまが三体彫られています。
石堂の中にお薬師さまがおられるのでしょうか、薬師如来と書かれた看板はその石堂のそばにあるにはあるのですが┉。
石堂の堂身には何やら浮彫りが二個なされていますがそれも何かはよくわかりません。昔だっこちゃんという玩具があったようですが、それに似た形をしているようにも思われます。

もう一度と思って、何枚か撮らせていただいた写真を見てみますと、┉小さな小さなたくさんのお地蔵さまの像と思っておりました石仏さま、手に薬壺をお持ちのようです。
石堂におられるのがお薬師さまかどうかものわかりはしないのではありますが、少なくともお地蔵さまのお膝元には小さな薬師如来さまがたくさんおられました。

No.371 22/09/20 05:21
旅人 ( pu5bob )

さらに驚くことに、お地蔵さまが座しておられる台座の下に、観音さまが三体彫られているものかわれているではないですか!
石仏さまを寄せ集めてお祀りしてあることはよくありますが、これは初めて見るパターンです。
しかもよく拝すると、どう考えても不安定。観音さまが彫られている石の部分はお地蔵さまより小さく細いのです。
何かで(コンクリートとか)固定してあるならいざ知らず、もし、ただお乗せしてあるだけでありますと、風雨にさらされ雨風が入り込み、そこへ大きな地震でも来ようものなら大変なこととなりそうなのですが┉?、


このお地蔵さまのお隣には水子地蔵尊、天満天神宮、羽階大権現さまのそれぞれの御堂がありました。
ちなみに。
羽階(はがい)大権現さまは秋元長朝が用水路を造る際に大岩を砕いてくれた天狗さまに感謝して祀ったものであるといいます。

そこでのお参りを済ませ御本堂の左側にまいりますと広い駐車場となり、幼稚園バスが二台止まっていました。

さてここから先は墓地なので、私は以前一人で参拝いたしました折には当然足を踏み入れてはいないのですが、夫はスタスタと歩いてまいります。
そう、こちらには秋元景朝公とその奥方さまのお墓がございます。歴史オタクならば必ずやお参りするところでありましょう。

墓地に向かって立った、まさに真正面に一際大きな塔型のお墓が見えます。
墓所に入ってお参りし、熱心にお墓を拝する夫。私は墓所の外からそっと手を合わせて。

そのお二方のお隣にも立派なお墓がありました。側室のお墓だと書かれています。
まあ、側室のお墓を隣の墓所に┉。どう見ても後世になって墓所を整備しておりますので元々その位置にお祀りされていたかどうかはわかりませんが、永眠の地、ですからね。
心休まるように埋葬してあげていただいきたいものでありますが、あの時代ですと側室がいて当たり前の時代でありますし、殿さまを第一に考えお墓も造るでしょうし、┉あるいは最初からこうした配置だったかもしれません。


実はこちらのお墓、側室の方のものであると看板を立ててまでいるにはいるのですが、┉。
実は一説によると側室の方のお墓ではないともおもての方にある大きな御由緒書きの立看板にしっかと書かれているのです。



No.372 22/09/20 05:54
旅人 ( pu5bob )

私は前述しておりますよう、墓所の外から手を合わせただけでありましたが、秋元景朝公の戒名は戒名は『春光院殿気山元景大居士』
奥方さまの戒名は
『光厳院殿心月等清大姉(春)』
であります。

側室とされる方のお墓はあまり広くはない墓所の真正面に戒名の書かれた墓石面がございますので私でも戒名を拝することができました。
その戒名は
『心窓院殿華月芳永大姉』。

とはいえ、私、こちらの方々へのお墓参りは手を合わせたのみで、あとは墓地にお祀りされておりました石仏さまを拝しておりましたのですが、ね。


実はこの側室とされる方のお墓こそが、淀君さまのものだとされる説があるのです。お寺さんのものにそうはっきりと書かれておりますくらいでありまして。

No.373 22/09/20 06:28
旅人 ( pu5bob )

【淀君】さまといえば、私でもその名を知っているくらいのお方。
『浅井長政』公と『お市の方(織田信長の妹)』のご長女で、後に『豊臣秀吉』公の側室となり、『秀頼』公をお産みになられた方であります。
史実では、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において大阪城内にて自害したとされております。

その淀君のお墓が何故前橋に?

淀君に関する伝承)
秋元長朝公が徳川側として【大坂夏の陣】に参陣した際、高貴な女性が助けを求めてきた。長朝はその女性が淀君と察し、密かに駕籠に乗せ中山道を通り、所領である上野国総社に連れて帰ったという。

元景寺には、淀君が当時乗って来た籠の扉(豊臣の家紋入)、淀君の着ていた打ち掛けが、今も残っている。(これらの品々は、秋の秋元祭で公開されるといいます)

それから後、この地では淀君は身分を隠すために、大橋の局「お艶」と呼ばれていた。
その後、総社城や元景寺で何不自由なく過ごしていたが、過去の悲哀に耐え切れずに世をはかなんで利根川に身を投じてしまったという。寛永7年(1630年)のことといわれている。

身を投じた岩をお艶が岩と言うようになった。また昭和34年(1959年)には、岩の上に観音様が建立された。お艶の330周忌のことである。



この岩には全然別の謂れもあるので、あくまでも伝承の域を出ることはありません。

大坂夏の陣での、淀殿の最期を目撃した者がおらず、また遺体も確認されなかったため、逃亡・生存説などの俗説が生まれているといいます。
そのひとつが、群馬にあったということ、であります。

ですが┉。

墓石にあります『心窓院殿華月芳永大姉』という戒名。
この「院殿」というのは、武家時代、将軍や大名の戒名に付けた尊号であると言われています。
こちらに埋葬されておられる方が相当地位の高い女性ということの証とも言えます。
何よりも┉。
この側室とされる方のお墓、立方体の墓石ではなく、小さな屋根のような石がつけられたものとなっているのです。戒名も凝った彫りとなっております。
うーむ┉。


No.374 22/09/20 06:45
旅人 ( pu5bob )

ちなみに。
こちらのお寺さんの経営される元景幼稚園さん。
幼稚園バスを見て夫が気づいてびっくりしていたのですが、
『春芳学園 元景幼稚園』
というようです。

えっ?

〝春〟は景朝公の戒名、
『春光院殿気山元景大居士』にもあり、また奥方さまの生前のお名前が『春』さまであったことから、その辺りから取られたのかなあと推測されますが。
〝芳〟って、一説には側室ともされます、お隣にあるお墓に刻まれた戒名
「心窓院殿華月芳永大姉」にもある一字なんですが┉。

偶然?

何か中国の故事とかにある言葉とかから取られている?

珍道中ペア、心の中でおそらく同様のことを考えてバスの文字を眺めたと思われます。

No.375 22/09/20 08:13
旅人 ( pu5bob )

今現在の血圧72/42。
ここまで低いと手先が痺れて、立つとふらつき、目の前が暗くなります。
年を重ねると血圧って上がるものだと思っていました。


雨も降っていることでお彼岸のお墓参りは今日は無理、だなぁ。

No.376 22/09/20 17:24
旅人 ( pu5bob )


動くとつらい今日。
たぶん台風のせい、なのでしょう。
足先手先が痺れ、とにかく力が入らない。動くと息が切れ、だるくてすぐに動けなくなる。

食事の全般と洗濯と。
他の家事は一切、目をつぶって、┉いられないのがどこかのバカ。
動いてはゼーハーゼーハー。

そして動けなくなってはYouTubeで、『歌う僧侶 薬師寺寛邦』さんを聴いている。


なんとありがたい世の中でありましょう。
お経が家にいてお聴きできるのです。

般若心経をお唱えになられる。
そこに邪魔しない音量で、やわらかな音楽が流れている。
ただそれだけ、┉といえばそれだけかもしれません。

ですが先ほどまでざわついていた心がうそのように空っぽになるのです。
息を吸うとそこにしっかりと空気が入って、胸が広がるのを実感するのです。

お経の力。
声の力。
読経する速度。
その空間に音楽が流れていることによる効果。

┉これってすごい効果を産むのかもしれません。


ええっ?と眉をひそめる方もおられることでしょう。
ありがたいお経をなんだと思っているのだと、思われる方もおられましょう。

でも昨今のお寺さん、クラッシックどころかジャズコンサートやらもありますし、ヨガやピラティスもされていますし。

むしろお経な分、お寺さんの布教活動になっているのではないかなぁ。


薬師寺さんのサイトではなく、普通に読経しておられるものをお聴きすることもあります。
よくお聴きしているのは錫杖経というお経です。

┉あくまでも、一人の時、ですが。



でも、┉テレワークをされながら、薬師寺さんのお経を流している方、おられるみたいですよ。
夫に話したら、俺は無理だなって申しておりました。
もっとも彼はながら族(完璧な死語でしょうね)ではないので。
すっごい集中力で、私がそばに行っても気づいていないことまで結構あるんです。

┉そこかな?
彼のすごい歴史の知識量は。





No.377 22/09/21 08:05
旅人 ( pu5bob )

「三連休には雨の予報。今日の貴重な晴れ間を活かしてください」

ほうっ。
テレビの天気予報の一言コメントに何かを思う顔をした、┉のでしょうね、私が。

「お墓参りは二十五日に二人で行こうね」とすかさず夫。

ちっ。

お墓参りは子どもたちとか、さもなくば一人で行くことがほとんどだったので、ゆったりといろいろなことをお墓に向かって話すのが、すでに私の決まりごとのような、そして癒しの時間でもあり。


けれど、ここひと月くらい血圧が70代から80代で経過していて、やっと動いているため、坂を登ったり、細い通路を歩いたりもあるお墓参りを一人では無理だと思ったのでしょう。

┉ていうか、本来夫も行くのが普通?
でも、ほらウチってお守りさせていただいているお墓もないし。
ただこのところ月命日のお墓参りにも行けていなかったくらい体調不良だったし、それは現在進行形で。

早く元気にならんとなぁ。
養命酒が一本終わるなぁ。

No.378 22/09/21 13:14
旅人 ( pu5bob )

困ったときの、Google先生。
困ったときのWikipedia。

┉なんですがねぇ。

思わず「薄っ」って言葉が出てしまうくらい、秋元景朝公のことって、書かれていないんですよ。

せっかく調べたことですし、ここに載せておきましょう。(私の頭に、バナナマンさんの某番組のフレーズがあることはいうまでもありません)

【秋元景朝】公は、室町時代後期の大永五(1525)年に秋元政朝の子供として生まれました。
武蔵深谷城主である上杉憲賢公、憲盛公に仕え、正室には当事の関東管領上杉憲政の養女(春:光厳院殿心月等清大姉)に迎えた事で有力武将としての地位を確立します。

秋元氏の出自は『宇都宮頼綱』公の子『泰業』公が十三世紀前半に、『上総国周淮郡秋元荘(千葉県君津市)』を本貫としたのに始まると伝えられます。
複数の一族が分派し、戦国時代の秋元景朝の血族は小糸城(千葉県君津市清和市場字根古屋)を本拠としていたようです。

景朝公は天文十(1541)年に『上杉憲賢』公の意向を汲み『武州榛澤郡上野原(現在の埼玉県深谷市)』の【深谷城】の城代として赴任しています。
ただし、小糸城は秋元家宗家の居城で、分家筋の秋元景朝公は関東管領山内上杉家の家臣として、上野国を拠点としており、深谷上杉家の附家老として上野国から深谷城に入ったとされます。

永禄元(1558)年頃に上杉憲政公が越後に逃れた際には追従せず、元亀三(1572)年、甲斐武田氏、小田原北条氏連合軍が深谷城を強襲した際には主力の一角として応戦したと見られ、
天正元(1575)年の上杉憲盛と小田原北条家との和睦の際には北条家への返状に連署として秋元景朝の名が連ねています。

憲盛の跡を継いだ『上杉氏憲』公が天正六(1578)年に『北条氏政』公の養女を正室に迎えた事で北条家に従属するようになり、
天正十五(1587)年には景朝に上野国植野勝山の地が与えられています。
しかしながら同年十二月に死去、享年六十三歳でありました。

No.379 22/09/21 17:36
旅人 ( pu5bob )

YouTubeは基本ほとんど見ません。
それがここ最近、毎日何度も何度も見て、聴いております。

癒しの空間がスマホの中にありました。

https://www.youtube.com/c/JapaneseZenMusic

No.380 22/09/22 12:01
旅人 ( pu5bob )

来週、国葬が開催されます。
あえて開催と申しております。

反対したところで、もはやなす術なく、着々と準備が進んでいることでありましょう。

そうした中、自身の身をもって抗議行動に出た方までが出てしまいました。


奇しくも国葬とはこうしたものだという模範例を見てしまいました。
あの長蛇の列は、みな、女王陛下への敬意と感謝と死を悼む思いからのものです。

当初、家族葬であったことから、安倍晋三氏の死を悼む国民のために国葬とするといった発言もありました。

私はすでに安倍晋三氏の死を悼むための時は過ごさせていただいております。
国費の、┉国民の納めた血税の、ありえないほどの金額を使っての国葬を、私はテレビ画面を通してさえ観たくはありません。

今我が国はそのような国費を使う余裕、国葬をするための時間を費やす余裕はあるのだろうか。


このような内閣は腐っている。


こんなに怒っていても、私の血圧は低いままだ。

No.381 22/09/23 06:53
旅人 ( pu5bob )

仏教には宗派が多くあり、当然、そうやって分かれるくらいに折り合えないものがあってのもの、┉などということは今の時代においては全くない、のかと思いきや。

┉やはりそこはお坊さんといえども生きた人間、そうした瞬間を垣間見ることもあります。
まぁ、ほとんどのお坊さまは修行を積まれた人格者、こんな右も左も分からないようなおばさんには(ん?)と思わせるだけで、ニコニコと御仏のありがたい御教えへと話を持っていきますけれど、ね。

私は檀那寺を持っていないどころか、仏教徒ですらないので、今、自分の歩みの中で宗教を学ばさせていただいております。
それなので非檀家、一限さんの立ち位置から、宗派の差を知ることもできます。
他の宗派をあからさまに卑下する物言いをなさるお坊さんもおられます。(檀家さんであればことさら、そうしたお話を聞くこともあるやもしれませんが┉)

それってあくまでも個人差だと思うのですが、ね。
あるいは私個人を嫌って、上手に出禁としている手段?


ただ、┉御仏のお教えを授け、教え、人としての生き方を説く立場の方としてはどうかと思うのですが、ね。

聖人君子という職業ではない、ということですか。

まぁ、それも人間臭くていいなと思うこともあるのです。


同宗派のお寺さんでありながらもあからさまに他のお寺さんを卑下したりとかなってくると、ちょっと聞くにたえない。

ま。

いろんな宗派というか、いろんなお寺があり、いろんなお坊さんがおられるということ。

今のご住職に心から尊敬の念を抱いても、次に継がれる方でお寺さんはガラッと変わるということも大いにありえることで。
同じ寺にありながら、自身の寺のご住職の悪口まで聞いた日には、まさに最低最悪な気分であります。
┉あるんですよ、そんなことも。
びっくりでしょう?

人の世でありますなぁ。


No.382 22/09/23 13:54
旅人 ( pu5bob )

┉一人で行ってしまいました。

夫と一緒に先祖代々のお墓参りに行く時はまた行けばいい。

自分のご先祖さまのお墓参りに行かずして、他のお寺さんの年に一度の御開帳とかに行くことなどできません。
落ち葉を拾い、汚れを洗い流して、ろうそくに火を灯し、お線香に火をつけました。
夫とくることとなっているので、お花とお供えはその時に。
常日頃お守りいただいていることにお礼を申し上げました。


さあて、車を走らせて。

そう、群馬県桐生市の時宗『青蓮寺』さんの年に一度の御開帳です。

私、こちらのご本尊さまが大好きで。
お前立ちご本尊さまも大好きで。

でもこのコロナ禍となって以来、年に一度の御開帳の時くらいしか、檀家でもない私が御本堂へと入ることはできず、まさに一年ぶりにこちらのご本尊さまたちにお会いできるのであります。

こちらのご本尊さまは『銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像』、そう、いわゆる善光寺三尊仏さま。
伝承によりますと、『源頼義』公が融通念仏を信仰し、このご本尊さまを守り本尊とされ、その後、『八幡太郎義家』公の三男『義国』公に伝え、代々の守り本尊とされてきました。
それが『新田義重』公に伝わり、以降代々の新田氏の守り本尊となります。
この『善光寺三尊像』を守り本尊とする者こそが源氏の、新田氏の正統である証として、この群馬県桐生市の青蓮寺さんに伝えられたと言います。

中尊阿弥陀如来さまは、台座共で44.6センチ。向かって右側におられる観音菩薩さまが33.2センチ、左におられる勢至菩薩さまが33.3センチ、鋳銅製鍍金。鎌倉時代の作であります。
この三尊像さま、お顔立ちもお美しいのですが、立ち姿がまた大変お美しいのです。スタイルが良く、お立ちになっている姿がまた綺麗で、衣は流れるよう。
指先から足元までとてもとても美しいのです。
どこを見ても極めて精巧に作られた御像であります。

実は今年の御開帳、私が青蓮寺さんを訪れていた間、どなたも拝する方がおられず、特等席貸切状態で、ずっとずっと拝観していられたんですよ♡
厳かに焼香して手を合わせしばらくは大人しく正座していたおばさんでしたが、係の方が、
「貸切特等席なんだから、立ってでも座ってでも好きなだけ好きなように見ていきなさい」とおっしゃってくださったのをいいことに、中腰になったり、左右横から見たり。

うーん♡


No.383 22/09/24 03:52
旅人 ( pu5bob )

青蓮寺さんは天正三(1575)年の年に、桐生氏を滅ぼした『由良成繁』により建てられたお寺さんです。

群馬県新田郡岩松郷(現在の太田市尾島)にもまた、時宗の青蓮寺さんがありますが、この岩松青蓮寺が新田氏ゆかりの寺で、寺そのものが〝新田の正統〟を表すものであると考えられていたようで、そのため、由良は新田の正統を主張すべく、青蓮寺の名と、岩松青蓮寺に伝わる本尊を持って、桐生の地に自身の寺を建てたようです。

その岩松青蓮寺と呼ばれるお寺さんは【岩松山義国院青蓮寺】と称され、八幡太郎義家の孫義国公の名から義国院とされたようです。
もっとも、義国公は仏門に帰し義国院と称していただけで、実際にはこの岩松青蓮寺の開基は、六代後の子孫、『岩松(新田)政経』であろうと言われています。

新田政経が義国の法灯を伝承し、岩松郷に一字の伽藍を建立、その後一遍上人が東国に法を弘めに行脚された折に、上人に帰依し時宗に入ったようです。
その岩松青蓮寺、当時は大変栄えた大きなお寺さんであったようです。

由良にとって『われこそが源氏の、新田の正統である』と誇示するための象徴であった二つの青蓮寺さん。

しかしこの後わずか十五年後の天正十八(1590)年、秀吉の北条攻め、小田原攻めが起こり、関東武士として当然北条方に加担した由良は、牛久へと国替えになってしまうのです。

牛久に国替えとなった由良にとって、一族の象徴であった青蓮寺はもはや意味を持たず、そのままこの地に残され、外護者を失い放置されてしまうのでした。

以降、青蓮寺さんは貧乏なお寺さんとして長いこと過ごすこととなり、無住の期間もあったようです。
疫病が流行った時などは隔離の場所ともなっていたようです。


が。

実は青蓮寺さん、実に立派な欄間があり、たいそう立派な須弥壇が伝わるお寺さんなのです。

欄間の見事さといったら。
江戸の当時の有名な彫物師の銘の入ったもの、なのです。
それはそれは生き生きとした表情の人物が、生き生きとした動きで彫られているのです。
須弥壇もまた大きくてしかも丁寧な彫刻が施されている享保の時代から伝わるものであります。

お前立ちのご本尊さまも、〝あの〟運慶の末流により寛永の時代に彫られた物なんです。


No.384 22/09/24 07:43
旅人 ( pu5bob )

青蓮寺さんのお前立ちのご本尊さま、実は平成七年に解体修理をされた際にその由来がわかったとのことで、それまで全くこのお前立ちご本尊さまについてわからずにいたのだそうです。

その修理の際、阿弥陀如来さまの胎内から二通の古文書等が発見されて、さまざまなことがわかったのだそうです。

この阿弥陀如来さまは、江戸浅草の浄土宗正覚寺さまの第二世の上人さまが近在の多くの人々の寄進を受けて、鎌倉の仏師に造らせたものだったということで、それが寛永十二(1635)年のことだったようです。
ところが。
その後火災に遭われ、阿弥陀如来さまの御像は傷んでしまわれたとのことで寺の蔵にしまわれてしまったのだといいます。

時は流れ、正覚寺さんの第九世となられた念徹上人さまは、群馬県桐生市の出身のお方であったそうなのですが、ある時、ご自分の生まれ故郷の近くにある、青蓮寺さんの話がそのお耳に届いたのだそうです。

なんでも、
「檀家がわずか十五軒という貧乏寺があって、その寺がやっとの思いで本堂を大改修した。ところが、ご本尊さまが秘仏であられるため、本堂に入ってもがらんとした空間だけで拝む仏様もないと檀家が嘆いているという」
という内容。
上人さまはそれを聞き、身を切られる思いをされたとおっしゃられ、亡くなったご自身の御母堂さまの供養にもなろうと、蔵にしまわれたままになっていた阿弥陀さまを修理なされて、青蓮寺さんへ納めたのだといいます。
そのよう書かれた文書は享保(1723)年に書かれており、当時の青蓮寺の困窮した状態や、ご自身の出自、ご両親の戒名などが書かれていたといいます。
その他、御母堂のお遺髪、形見の念珠がおさめられていたようです。

この修理によって、お前立ちさまの由来、代々時宗の寺に何故浄土宗の僧の立派な位牌が祀られているか、わからずにいたことがみな、解明したといいます。

このお前立ちさま、とてもお優しいお顔をされておられるのですが、そんな念徹上人さまの優しさ、念徹上人さまをお育てになられたお母さまの優しさなども詰まっていたから、┉ということもあったのではない、かなぁ。

No.385 22/09/25 04:35
旅人 ( pu5bob )

この青蓮寺さんの御開帳は毎年秋のお彼岸のお中日、秋分の日に開催されます。

まるでその時に合わせたように、┉青い蓮┉正確にいうと青い睡蓮が咲くのです。
もともと他の睡蓮の花よりも開花時期が遅い品種なのか、あえてこの時期に咲くように開花時期がずらせるものなのか┉、毎年毎年この日に青蓮寺さんにうかがうときまって咲いているのです。


いつ行っても絶えず何かしらのお花が咲いているお寺さんです。

いつだったかは、ご住職さまとお話ししたときに、
「もう少しするとネジバナがたくさん咲くから、もし時間があったらまた来て、見てごらん」
ご住職さまと奥さま、いつもお寺の境内を見て歩かれては、花以外にもいろいろな手入れをされておられる、そんなお寺さんであります。


正直、時宗さんのお寺というのはあまり多くはなく、時宗のお教え自体はよくはわかっていないのですが、この青蓮寺さんに限っては大変好感がもてるお寺さんであります。


時宗というと、歴史の教科書にきまって載っている一遍上人さまの痩せて疲れはてたように行脚される大変インパクトの強いお姿と、さらっと触れるだけ、という感じで授業で学んだ踊り念仏のことしか頭に浮かびません。
正直なところ、軽い衝撃ですらあった時宗との出会い(いや、それは出会ってもいない、ただの授業だから。笑)、その時自分が時宗のお寺さんを訪ねる日が来ることなどないと思ったものでありました。

実際神社仏閣を巡るようにならなければ、時宗のお寺さんを訪ねることなどなかったでしょうし、正直にいえば、珍道中といえども時宗のお寺さんの敷居は高かったのも事実でした。

この青蓮寺さんがその私の中にできていた壁を見事に壊してくださったのです。
とはいえ時宗のお寺さんを参拝させていただいたのはまだ両手にも満たないほど、なのですがね。

かつては大きな伽藍をかまえていたという岩松青蓮寺さんなどは
無住のお寺さんとなっていましたし。

相変わらず時宗とは何かとかはさっぱりわからないまま、ではありますが、桐生市の青蓮寺さんへはもう何度となく足を運んでいる私、でありました。

No.386 22/09/26 05:49
旅人 ( pu5bob )

先日、まだ相変わらず血圧も低く、ともするとふらぁっとバランスを崩すような体調のくせに、どうしても行きたいとわがままを申し、夫に車を出してもらい(それはいつものことだろう)、群馬県前橋市にある、三夜沢(みよさわ)の赤城神社さんへ参拝させていただきました。

この赤城神社さんというのが、関東地方だけで実に約三百社あるといわれ、その本宮の一つとされるのがこの三夜沢の赤城神社さんとなります。

ん?
本宮の一つ?

そうなんです。
実はこの赤城神社さん、三つの本宮を名乗る神社さんがあるのです。
その神社さんの全てがそれぞれ山頂、中腹、山麓に位置しており、どの神社さんもその本宮にふさわしい神社さんで、延喜式内神名帳に記載の名神大社の比定をめぐり、長きにわたって議論がなされておるものの、未だに決着のつかないこととなっているというものなのですが、実際どの神社さんも、ゆかりある素晴らしい神社さんで、参拝する者たちとしては、もはやそこにはこだわってはいないような┉。

ちなみに延喜式内神社において上野国二ノ宮にあたる神社さんであります。もとは一之宮であったものを貫前神社さんに一之宮の地位を譲ったという言い伝えのある神社さんになります。
(一之宮の立場は譲れるのに、二ノ宮であるという主張は譲れない、ということ、なんですかね。神様同士はそんな人間の取り決めたことなど一切関与しておられないのでしょうにね)

ただあまりにも数多く、ことに群馬県内においてはどこの赤城神社さんかということが重要視されます。
〇〇赤城神社さんと地名なりを冠し、はじめて、ああどこの赤城神社さんのことかとわかるくらいの数でありますので┉。

三夜沢の赤城神社さんについてはもう何度となく珍道中録に記しておりますので、ずっとお読みくださっておられる方には繰り返しとなりますので、念のため申し上げておきます。

こちらは古くから文武の神として、多くの武将が崇敬したとされる神社さんであります。
大己貴命さま、
豊城入彦命さまを主祭神とされています。
豊城入彦命さまが上毛野国を統治する際に大己貴命を奉じられたことが由緒とされています。

大きな大きな白木の鳥居を見上げるだけで身が引き締まり、心洗われる思いのする神社さんであります。


No.387 22/09/26 06:46
旅人 ( pu5bob )

この見上げるほどに大きな大きな鳥居、何やら白さが増しているような┉。
それもそのはずです。令和三年の十一月に新しいものに立て替えられておりました。
綺麗に研磨しきることなく、ところどころに枝だった場所なのでしょうか、ぼこっと軽く盛り上がったところが残っていて、素朴な感じがあるものとなっていました。
┉それを今まで知らなかったということは、一年近くこちらへお参りしていなかったということ、結構なショックを受け、お詣りの際にお詫び申し上げました。

その一年前まで建てられていた鳥居を小さく切って、社務所の前に箱に入れられて、セルフでお受けできるようになっていたことで気づいたのですが、┉それを拝受いたしましたことは言うまでもありません。

その前に。
手水舎で身を清めたことは言うまでもありませんが、かつてのように柄杓の置かれてはおりませんでした。

こちらの手水舎は参道の右手にあるのですが、手水舎が池の中に建っているのです。
横から見ると手水舎と池が一体化しているのがよくわかります。
池には大きな鯉が泳いでいて、池をめぐる木々の緑が映ってそれはそれは息をのむほどに美しい手水舎なのであります。

その手水舎から参道を隔てた斜め反対側に社務所があります。

参道からは拝殿のお姿が見えております。
さほどの段数のない石段の先に拝殿のある神域が広がっています。
その神域の下を流れる地下水を集めて、豊かな水を絶えず受けている大きな石の鉢があり、そこからの御神水はいつでも誰でも無料でお受けできるようになっております。
日によっては台車にたくさんの大きなボトルを積んだ方々が列をなしていることもあります。

No.388 22/09/26 17:34
旅人 ( pu5bob )

普段から語彙力もなく、表現力もない私、正直、三夜沢赤城神社さんのことを書くのには抵抗があります。
あまりにも素晴らしい、清らかで、凛とした気が満ちたこちらの空間を、私には表現できる気がしないのです。

それでも、最初に訪れたころの感動はやはりそれなりの表現をしているのではないかと、以前、┉2017年に三夜沢赤城神社さんを訪れた際の珍道中録を紐といてみました。




┉だめだ、やっぱりだめでした。



『それはもう、幻想的な、圧倒される神々しさ。
聖域とはこういうものだと。
言葉を失なう美しさです。

見上げて空から光が射し込む木々の間に間にある、石段の先に拝殿が見えております。
境内全体が、落ちついたまさに聖域。

ありがたいと、一目見て思うほど、溢れて流れ出る御神水。

やはり、私の拙い文章力ではあらわすことは叶わない』とのみ、でありました。

だよなぁ。



こちら、森の中、と言っても過言ではありません。しかしながらやわらかな日が差し、決して鬱蒼とした感じはないのです。
ことに拝殿、そして神楽殿の辺りは、天気の悪い日であっても明るく、まさに神々しく、光が差しているのです。

決して大きな拝殿ではありません。
白木のままの木が、ゆっくりと歳を重ねて、穏やかな木肌をしています。
優しい色合いです。

そして。
拝殿の正面入り口は、ガラス張りになっているのですが、そのガラス越しの拝殿内のやわらかな穏やかな明るさといったら!

全てが優しいのです。
全てが穏やかで、
しかしながら凛とした澄んだ気に満ちた空間なのです。

はあぁぁ┉♡

ここの神社さんの空間は、体ごと、心ごと、全てを優しくくるんで、包んでくださるのです。

No.389 22/09/26 18:23
旅人 ( pu5bob )

赤城大明神は、江戸時代、三所明神とも称されていたといいます。
三所とは、山頂の大沼(千手観音菩薩)、小沼(虚空蔵菩薩)、地蔵岳(地蔵菩薩)であります。
元は、大沼・小沼への信仰から発した西宮と、地蔵岳信仰の東宮の、東西両宮が並んで祀られていたようでありましたが、現在は一社となっております。
現在の社殿は、明治になって東宮の地に造営されたもので、西宮の跡地には、鳥居の沓石一対が残っているといいます。

社地変遷の伝承があり、『山吹日記』なるものに
「もとの宮ゐありし所はいま本三夜澤と呼て、是より一里はかり東のかたにあり」とあるらしく、前橋市粕川町中之沢の俗称「御殿」と呼ばれる地か、その北の宇通遺跡付近から遷座したとする説があるということです。

また、宇通遺跡は十世紀頃の寺院遺跡であり、それ以前は、二宮赤城神社の地にあったという説もあるようです。
さらに、これらの社地変遷は西宮が移動したものであるということであります。
┉社地が変遷したらしい、ということしかわかりません。


三夜沢赤城神社さんから、北東に一キロ強の位置に『櫃石』という磐座があるといいます。山深い道を興味二キロほどの歩くらしく、私どもは即座に断念しましたが。

この道は拝殿の横から本殿横へと続く石段を横目にみて反対側の、山へと入っていくような道を進んで行くようです。

本殿脇へと続く石段を上り、坂を登ると、板塀越しに大きな杉の木が見えます。たわら杉と呼ばれています。
たわら杉には『藤原秀郷(俵藤太)が献木したものであるという伝説があるといいます。
また、その囲いの中には『赤城塔』と呼ばれる宝塔が見えました。


こちらの神社さんは、木々からの湿気が霧状に蒸発し、木漏れ日を、淡い光に変える。そのなんとも、神々しい姿に、しばし見とれるのでありました。


No.390 22/09/27 08:20
旅人 ( pu5bob )

このところ体調が良く、とはいえまだ息切れもし、動悸もするので油断はできないのでしょうが、これで血圧など測ってみて低かったりすると、心理的なものも影響してしまいそうなので、測らないようにしております。

本日絶好調。さては血圧も戻ったか? ┉89/52、やっぱりそんなものか。

とはいえ、あの赤城神社さんに行ったあたりから調子が良いのは確かです。

で。
実はこの赤城神社さんの参拝を終えたのち、かねてから気になっていた、三夜沢の赤城神社さんのそばにあるという【滝沢不動尊】さんへも、欲張って参拝しておりました。

知る人ぞ知るお不動さまであります。

その先には絶景と称される滝沢不動の滝もあります。
ただ、二、三年ほど前は崖崩れの土砂崩れだので、通行止めになっておりましたし、日曜日ごとに御堂を開けていたのもコロナのせいでお休みされているとかで、ずっと行けずに(行かずに?)おりました。

熊鈴必携の道であることには変わりはありませんが、とりあえず滝さえ目指さなければ、ニ、三十分の道のりのようです。そう、歩いてでしか行けない場所にある不動堂であります。

その滝沢不動さまへの登口のそばまで行くのがまた、道がすごい!
細いし、湧水を流す側溝は蓋などないし。落ち葉はもちろん大きな枝また落ちているし、すれ違い不可能と思われるところもたくさんあります。
まぁ、昔の方は裾野から三夜沢赤城神社さんを目指し、さらに山深いところにある滝沢不動尊さま遠目指してひたすら歩いたことを思えば、そこまで車で行けることに感謝、┉ですよね、ほんと。

さあ、その駐車場へと到着いたしました。
┉おや?
駐車場に先に到着されていた方は完璧な登山の格好をされています。

えっ?そ、そんな?

私、普通にズック(笑)にスカート、なんですけど。
もともとは赤城神社さんへの参拝、普段着とはいえ神様のところへお伺いするのに失礼のない格好をしてと思ったものですから、そんないでたちでありまして。


えっ、とぉ、┉。

いいやん!行ってみて無理なら引き返せば。
いつもの巡礼用のリュックで来ていれば、熊よけの鈴もすぐに取り出してセット出来るようになっているのだけれど、いつものバッグだし┉。
┉平気、平気ぃ!

さあ、お不動さまに会いにしゅっぱ〜つ!!


No.391 22/09/27 11:46
旅人 ( pu5bob )

暑い日が戻ったものの、風は秋を運んできました。

窓を開けると金木犀が香ります。

庭の黄色いコスモスは庭に今咲くたった一輪だけの花で、少し寂しそうにも見えます。

あっという間に秋が来て、あっという間に冬になる。

歳を取ると年月の流れが早くなると聞いたことがあるけれど、ここ数年の異常気象、早く台風の時期がすぎるよう、早く雪の時期が過ぎるよう、祈って過ごすばかりだけれど?

┉まだまだ若いと、いうことにしておこう。

今度の台風は、被害がありませんように。

No.392 22/09/27 17:05
旅人 ( pu5bob )

滝沢の不動滝は、赤城山最大の瀑布で、赤城山の火口湖『小沼』から流れ出す粕川の上流部、標高約八百二十メートル地点にあります。
落差約三十二メートルあるといわれ、滝壺めがけて勢いよく水が落下するようです。
侵食で形づくられた絶壁を流れ落ちる水流はYouTubeにあげられた動画を観ても雄大にして優美です。

この滝は修行の場でもあり、現在でも滝に打たれる人の姿が見られるのだとか。┉私ども夫婦などは滝を見に行くこと自体が修行でしかない、結構な道なき道であるようでして。途中で道がわからなくなることもあるらしく、コイツ(私)がいては遭難の二文字がはなからチラつく、まさに無謀な行動としか思われません。

この滝に通じる道沿いに【滝沢不動尊】さまがおられます。
今から六百年ほど前の応永十三(1406)年に邑楽郡佐貫荘(現・群馬県明和村)の豪族が、壁岩に形成された風蝕洞に奉納したと伝えられています。
不動明王さまの御像は、丈八十五センチ、重量はなんと百キロ余りの赤銅製の仏像だったといいます。


┉そう、〝だった〟なのです。


実にこのお不動さま、右腕、両足が切断され、火焔や磐石も失われているのだというのです。それゆえ『片腕不動』と呼ばれているのですが、┉あんまりですよね。

かなり険しい山道で、しかもかなりの標高まで、それだけの大きさ、それだけの重さのお不動さまを、車やクレーンなど一切ない六百年も前に運んでお祀りしたというのに。
┉まぁ、現地で造ることもあるようですが、それはそれで材料や加工のための道具や設備を運ぶので大変なことには変わりありませんからねぇ。
佐野の仏師が鋳造したことはわかっているようで、由来の書かれた立看板の書き方では、どうやら造ったものを運んできた可能性が高そうですが。

堂宇は天明四年、同八年と度々火災に遭っているようで、現在の建物は江戸の終わりか明治の初めのもののようです。

まぁ、火災に遭ったからといって、右肩やら両足やらが、仮に取れてしまったとしても、無くなることはあまり考えられず。

実は。
このバラバラになった右腕、両足と台石はそれぞれどこにあるかわかっているようなのです。


┉何故戻さない??

それにもわけがあったようです。





No.393 22/09/27 18:14
旅人 ( pu5bob )


私にとっての安倍晋三氏の葬儀はあくまでも終わったもので、死を悼むこともその際にさせていただいております。

あのような形で突然命を奪った犯人はあくまでも殺人犯であり、それ以外の何者でもありません。


だが、私、国葬はあくまでも反対派。

まぁ、終わったことではありますし、一度国内はとにかく国外にまで国葬を執り行なうと声明してしまった以上、中止は不可能であったことも重々承知しております。

ただ。

円安、物価高。
その他いろいろ国民は苦しみ、将来に不安しかありません。
そこで発表されているだけであれだけ膨大なお金が、税金が使われた。
今後発表されるものはどれだけはじめの発表を上回るものとなるのか。

全て税金で賄われる国葬を開催せずに、安倍氏の死を悼む方法はなかったのか?
ただただそう思っているだけです。


とりあえず私は本日テレビをつけずに過ごしております。

今日見ないからといって、一週間くらいは繰り返しテレビで取り上げられることでしょうが。

本日のニュースは一切見ておりませんが、さいわい、ネットで見たいニュースだけを拾うことができるような世の中です。


国葬を全世界に発信し、招待までしているものを、反対する手段はもはやなく、せめて国葬に関して一切ノータッチで過ごすこと。それが私のささやかな国葬反対行動です。


No.394 22/09/27 22:12
旅人 ( pu5bob )

いつもの脱線、すみませんでした。

【滝沢不動尊】さんに話を戻させていただきます。

まずは歩き出したところへ、と。

すこぉし老朽化した『城南麓滝巡りマップなる立看板があります。
この、車を停めた駐車場を『前不動駐車場』といいます。
その駐車場からお不動さまのところまで、二十分と書かれています。
入山にあたっての注意として、
『・遊歩道は狭く滑ります。
 ・落石があります。
 ・クマ、イノシシが出没します』
だ!
┉ですよねえ。

そこからしばらくは通常考えられるハイキングコース、となります。
しばらくは周りに人がいないのをいいことに普通に声に出して歌を歌いながら歩いて参りました。


あれ、石標が見えてきました。
あれあれ?
あのぉ。
道がな、なんと二手に分かれているのです。
みぎ?それとも左?


No.395 22/09/27 22:48
旅人 ( pu5bob )

一つは下り坂、もう一つは┉「道、だよね?」と言葉が出たくらい、なんとも心細くなる道で、
「俺がちょっと見てくるからここで待ってて」と夫が偵察宣言をしたくらい。
「一緒に行けばいいじゃない」と言いながらもうすでに歩き出している私。
程なく見えてきました。小さいけれどしっかりとした御堂です。

御堂の天井に頭が届きそうな石造りのお不動さまです。さほど古くはなさそうな。

お参りをして先へと進みます。
とはいえ今きた道を戻るのですが。

こちらの道は比較的広くて、┉まぁとはいえあくまでも〝山の道〟に過ぎませんが。
あれ?御堂が見えてきました。小さな小さな、あまり背の高くはない御堂であります。

『延命猿』と書かれた立看板があります。
┉あらまぁかわいい!

赤いお猿さんが両の手を下げてちょうど泉か何かで手を洗おうとする仕草にそっくりです。
手のひらからはちょろちょろと水が流れています。

No.396 22/09/28 05:58
旅人 ( pu5bob )

延命猿のいわれは何も書かれてはいませんでした。
おそらくはこのお猿さんの手からちょろちょろと流れ出ているお水が延命水と呼ばれていて、その水の周辺を加工したのだと思われるのですが。
特に延命とか長生きとかには興味がないうえ、お猿さんの手が苔むしてるいて、可愛らしいけれど飲む気にはなれないかなぁ。

でもここまでずっとずっと、歩いてくるしかなかった時代においては、ちょうどここ、この辺りで冷たいお水が飲めるというのは、まさに命が伸びたかと思われるくらいありがたく美味しいものであったことは間違いありません。

お猿さんを設置されたのは可愛らしさでは癒しになっておりますが、何しろ手からこぼれ出る水、取水口が低すぎて飲みづらいのではないかなぁ。
柄のとれた柄杓が置いてありますが┉。

さあて、まだまだ先です。
とは言いつつ直線距離は何百メートルらしいのですがね。

途中、大きな岩が出張っていたり、その岩が何かあったら崩落しそうな絶妙なバランスで止まっているところがあったり。
おそらくは岩、もしくは土砂が大量に流れてそう昔ではない頃にできたのでは?、と思われる斜面とかがありますが、何故か恐いとかではなく、それはそれで自然の偉大さと美しさを実感します。

実際、ニ、三年前に崩れて通行止めになっていた場所であろうところなどはまだ完全に修理修復はなされておらず、注意を促すテープがこれでもかというくらいに張り巡らされていました。
小さな橋が二つあるのですが、その橋の一つがまさにその現場と思われる場所。

そうそう、この不動堂に向かうまさにこの道を使って、この辺りに潜伏していたとされる人物がいるのです。

私より上の世代でないとその人物の名すら知らない方が増えているのでしょうが、ね。
地元群馬県でも知らない若者は多くなっていると思います。
そもそも私自身がこの珍道中を始めて、調べて詳しいことを知ったくらい、ですので。

その人物は┉後半に続く。
(ちびまる子ちゃんのアニメのマネ、ですね)

No.397 22/09/28 22:15
旅人 ( pu5bob )

┉書き込んで900字、あと少しというところで、本当に些細な、なんということもない凡ミスで全てを消しました。

ダメージは大きかったです。


振ってみたけど、ダメでした。

ダメやん、iPhone!



┉いや、ダメなのは私でした。

No.398 22/09/28 22:58
旅人 ( pu5bob )

「赤城の山も今宵限り。生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前(てめえ)
たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ」

って┉聞いたことありますか?

せいぜい私世代までか、よほどの博識かでなければ、今はもうほとんどの人が知らない、ですよね。
私とて、これを劇?映画?テレビ?で観たことはなく、これを元にしたパロディやCMを観た覚えがあるくらいですから。
このセリフもうろ覚えだったため調べたところ、大半がまちがえていましたし。

┉これ、『国定忠治』の有名なセリフなんです。

そう、赤城山の滝沢不動尊に向かう辺りに潜伏していたという人物は、何を隠そう国定忠治とその子分たちなのでありました。

そもそもが私、国定忠治自体あまりよくは知らなくて、この珍道中を始めてから、調べて初めてどんな人物だったかを知ったくらいですから。

簡単に申せば、人を殺めてもいる博徒で、関所破り等もあり、追われる身であったようです。

まぁ、その辺は滝沢不動堂にはあまり関係はないのではありますが、立看板に『国定忠治ゆかりの地 忠治見張り岩』などとされているものがあったり、はてはあの顔出しパネルまでが設置されているという┉。

そんなブームがあったんですかね。

顔出しパネルは顔を出す意味すらないほど老朽化が著しかったですが。
そこからほど近いところから滝を望めるらしいんですが、心がけが悪いためか、そこからすら滝を見ることができませんでした。

もう一つ、ほんの二、三メートルに満たない橋を渡ってまもなく、唐突に建物が見えてまいります。

「あ、建物がある。着いたみたいだね、┉。
┉トイレだけど」

┉ええ、こんな山奥ですのに、ありがたいことにキチンとしたきれい(そう)なトイレが設置されていました。潜伏中の忠治とその子分が、┉使ったものではもちろんありません。


おっ!

石造のお不動様の像がたくさん並んでいます。こちらはさして古くはない昭和六十年代に奉納された物のようです。
舟形の光背部分に和歌が彫られた聖観音さまと如意輪観音さまもお不動様とは反対側にお祀りされています。

歌観音と呼ばれる観音像のようです。

No.399 22/09/29 04:59
旅人 ( pu5bob )

えっ?


えっと、これは門?建物?

楼門、とかではなくて、おそらくいくつか部屋のある建物で。大変不敬な言い方をすれば、大変古い白木のままの木造アパート一階の部分に、中央だけ部屋を造らず、その一部屋分をそっくり使って通路を設けた、┉そんな感じが一番近いと思われます。

その中央部分には天然の木がたまたまそうなった形を活かして門のように仕立ててありま、┉これ、門じゃない!
その使われている木の形というのはちょうどあのVの字の形にほぼ近いもので、それを逆さに立ててあるものを想像していただければ、大体そんな感じ、┉なのですが、そのVな字の形の木の絞まった要は逆さになっている上の方に『しめ縄』があるんです!

┉。
と、鳥居ってことぉ?

なんかすっごい不敬な説明をしていますよね。

でもその門というかトンネルというかをくぐると、その壁には壁一面にこの滝沢不動尊の説明が書いてあるものが設置されているんですよぉ。
これが鳥居、だとすればそれこそが不敬な行為だと思われますが?

さらに裏に回ればもはや〝長屋〟といった風情。使われなくなった電化製品等々も置いて(出して)ありますし。
┉もしかしたらここ、この建物、ここに宿泊して修行とかをされていた物なのでは?

造りとしては昭和初期とかせいぜい明治の終わりくらいのもの?
ガラスはたぶん昭和なものです。

あまりにびっくりして、その門?を振り返り振り返り見てしまいました。真正面、そう広くはないのでまさに目の前に建てられている建物こそがお不動さまの御堂であるというのに、┉。

ええ、ここで書いた文章どころか現地での行動そのものがすでに不敬でありました。

狭い境内ではあるのですが、人々の信仰心がぎゅうっと納められています。
稲荷社があり、地蔵堂があり。
立派な大きな手水鉢とそれに見合うだけの手水舎があります。

まずは手水舎で身を清めましょう。
┉そうそう数々の不敬の念を浄めてお堂の前に参らなければいけません。

No.400 22/09/29 06:37
旅人 ( pu5bob )

この滝沢不動尊さまの御堂、天明四年、同年八年と火災に遭った話はすでに書いておるかと思いますが、それを嘆かれた、群馬県桐生市の新里町にある『三谷山不動院龍興寺』の第十二代のご住職さまがこれをたいそう嘆かれ、焼失した堂宇再建に一身を捧げられたのだといいます。
その堂宇が今現在の堂宇と思われますが、その龍興寺さんのご住職は堂宇が完成したのち、お子さんであたる十三世に寺を託し、自らここに移り住んだのだそうです。
その後はこのお堂をお守りする方は度々変わり、現在はこの地のある前橋市粕川村室沢区の方々が年間を通してお守りになっておられるようです。

日曜ごとに御堂を開けておられたようでしたが、コロナのために中断してしまってそのままのようです。

うーむ、御開帳はいつなのだろう。

五月の八日という大祭もここ数年は中止されているのでしょうが┉。

それにしても標高八百メートルの足元の悪い山道を登って、日曜ごとに御堂に詰めてくださっておられる地元の方には本当に頭が下がります。


ちなみに。
今、桐生市の新里町にある龍興寺さんは、先代が体調を崩されたのち、ほぼ無住の状態であったものを、昨年、新たに赴任されたご住職さまがお守りになっている状態で、「今は檀家の方々からいろいろお教えいただきながら寺のことを知り、今後どうあろうかを模索しているところなのです」とおっしゃっておられました。
とはおっしゃっておられましたが、お寺の寺伝等もお聞きすればスッとお答えになられていました。

私がここ、滝沢不動尊さまとの関係を知っていれば、もしかしたらお教えいただけたのかもしれません。

龍興寺さんの境内には、滝沢不動尊のお堂までここから何キロ(何里?)離れているという起点のような小さな石塔がある、ということです(気づきはしませんでしたが)

No.401 22/09/29 11:08
旅人 ( pu5bob )

普段は(お堂の中を覗いてみたところによると)御厨子の中におられる滝沢のお不動さま。
私はまだそのお姿を拝してはおりませんが、前述したように右腕を失い、背の火焔光背、両足と台石も切り取られてしまわれたお姿だといいます。

実はこの滝沢不動明王さまの御像の欠損したそれぞれの部分については言い伝えがあります。

右腕は。
埼玉県深谷市下手計の鹿島神社さんの境内にあります『大聖手計不動尊』という木製の不動明王像の胎内に納められているといいます。
実はこの右腕を切り落としたとされるのは【上杉謙信】公とのこと。
謙信が小田原攻めの時に、戦場でのお守りにしようと切り落としたのですが、鹿島神社さんに宿をとった夜、
「この腕を持っていると戦に負ける」という神の御告げがあり、境内に埋めて戦場に向かったというのです。

┉なんという身勝手な!

ただ、その時謙信が両足をも落としたとは考えづらく。
写真で見ると右腕を切り落とした切断面はギザギザで、いかにも力技で折り取ったような感じに対して、膝から下はスパッと、┉まぁ、スパッととはいかなかったでしょうが、綺麗に一直線に真横に切られているのです。
明らかにこれは違った切り方、脚は赤銅を横切りできるなんらかの刃物を使っています。


火焔光背をはずして持ち出したとされるのは、天明時代にここ滝沢に来ていた行者が群馬県の高崎市榛名町に持ち去ったと言われており、榛名の地で火焔不動として祀ったとされているようですが、これは定かではないようです。

どちらかというと火焔光背をはずして持ち去った人物の方が、両脚、台石まで切り落としたような、┉気がするんですよね、私としては。

謙信はあくまでも願掛け、でもその行者が持ち去ったとされる火焔光背は見つかってはいないようですし。

銅として売られちゃったとかだって考えられなくはないですものね。

その切られてしまった両脚と台石は、あの新里町にあります龍興寺さんの御本堂内の小さなお堂があって、その中に大切にお祀りされているとのことです。



┉直さないんだ┉。
正直そう私は思いましたがね。

重くて運べなかった?
いやいやそこまで、┉前橋市から桐生市まで運んでいるんだろうし。

まぁ、今となってはこの右腕も、膝から下も、火焔光背も無くなってしまわれたお姿が定着してしまっているのでしょうが、ね。


No.402 22/09/29 16:21
旅人 ( pu5bob )

神社仏閣珍道中をくり広げる私、ついついお堂を覗いてみるのがやめられない。

この滝沢不動堂でもやっぱり覗いてみたと告白しておりますが┉今回はお堂の中だけでなく、他にも覗いてみたところがありました。


こちらのお堂、私のようにぼーっと生きている人間は見逃しがちなのですが、すっぽりと、そして違和感なく岩屋の中に建てられているのですよ。
ほんと、真正面に立ったくらいでは私のような人間にはごくごく普通に建っているお堂にしか見えないんです。裏山がある、くらいにしか思えない。

それが、ですね。
お堂の向かって左側に、たくさんの石仏さま、┉観音さまが立っているのが見えたのです。
石仏さま大好きな私、すかさずそこに向かいます。
お堂と壁の隙間にまで、石仏さまが奉納され安置されています。その間の狭いことといったら。
┉うん?

この壁はいつまで続いていくのか?




No.403 22/09/30 07:00
旅人 ( pu5bob )

このお堂、覗いた感じからは、八畳間くらいの広さがあるようにみて取れます。その建物がすっぽり入っているだけの岩屋、ということになりますので、結構奥行きもあるかと┉。

その脇に置けるだけ石造の観音さまを安置したようです。
結構奥まで舟形光背の観音さまが並んでおられます。
台座は四角で、漢数字で何番と書かれているのですが、十四番という番号が一つ飛ばしの位置にあるので、ナンバリングではなさそうです。
ではどこかの観音霊場の番号?、┉とも思ったのですが、その十四番の番号のついた観音さま、聖観音さまと馬頭観音さま、┉なのです。
西国、┉と見てとれるものがあります。
ちなみに西国観音霊場で十四番は、滋賀の三井寺さんで、ご本尊さまは、┉如意輪観音さまみたい。
なにかの際に移動して、適当に戻した、ということかもしれません。
このお堂との隙間から始まって、岩の上にまでたくさんの観音さまが立っておられましたので。

感動したのが、この古い石仏さまの列に、真新しい、小さな板牌が奉納されていたこと。
ご先祖さまが奉納された観音さまの台座の上にちょこんと供えられているのです。
昔、┉とかいっても江戸の終わりとか明治くらいなら、家によってはそこまで辿るのも容易なお宅もありましょうし、ご先祖さまの誰々さんがどこどこに石仏さまを奉納したと言い伝えられてもいるかもしれません。

┉憧れるなぁ。

ご先祖さまの奉納した石仏さまを子孫が参拝する┉。自分たちの菩提寺でもないところで、お会いしたことないご先祖さまの思いに会える。
うーん素敵♡

女人講中と彫られた台座もあります。

西国巡礼に行かれた方の奉納もあったでしょうし、憧れて「いつか行きたい」と思われ奉納された方もおられたでしょう。
三十三体よりももっと多くの同じくらいの大きさの観音さまがたくさん立っておられます。
石工の方が何人か関わっておられるようですが、どの観音さまもみな、たいそうお優しいお顔をされておられます。

ああ、幸せ♡


この観音さまの御像、どうやってそこに安置したのか?と思うくらい、お堂のある岩屋のかなりかなり上の方にもおられます。


実はこのさらに奥に、国定忠治の隠れていた岩屋が二つほどあるようだったのですが、このたくさんの観音さまの御像で私はすっかり満足して、帰路に着くのでありました。

No.404 22/09/30 11:05
旅人 ( pu5bob )


萩の花
尾花 葛花 なでしこの花
女郎花 また藤袴
朝貌の花

     万葉集 山上憶良

    


      秋の七草

No.405 22/09/30 14:19
旅人 ( pu5bob )

私より上の世代の方にはたいそう懐かしい、『玉梓が怨霊』さまにお会いしてまいりました ♪

現在群馬県桐生市で行われているBS日テレの『ニッポンの神業』の展示イベントの一環で、玉梓さまにお会いできると聞きつけ、血圧がまたまた結構低いにも関わらず、すっ飛んでまいりました。

彼女の決めゼリフは、
「われこそは玉梓が怨霊」
うーん、好き♡
素敵♡

かつて、NHKが、南総里見八犬伝を辻村ジュサブローさんのお作りになった人形を使って【新八犬伝】という人形劇を放映していたのが、いつのことだったか┉、まだ小学生の頃だったのはたしかなのですが、もうそのストーリーなどさっぱり覚えてもいないのですが、この玉梓が怨霊さまが好きでして。

いや、ほんっと、ストーリーまるっきり覚えてないんですが、彼女が登場すると、きゃー♡と思うくらい、好きだったことだけ覚えているのです。



えっ?
この下におられるお方に間違いありませんが。

ええ、小さい頃から変なやつだったんです、私。

でも、┉少し印象が異なるんです、私の記憶と。
なんかもっと素敵だったような┉。

髪の色が違う気がするのですよね。
すっごい前のお人形だから、髪が傷んで少し直されたのでしょうか。

スタッフさんがおっしゃるに、夕方一人で電気を消しに行くのが怖いのだそうです。
なんでも夕方の照明はまた色が違うとのことで、赤い照明に浮かび上がるお姿がなんとも、何度見ても怖いそうで。

ぜひ一度夕方の玉梓さまにお会いしたいなぁ。

十月十六日までのご滞在だそうです。
あと何回かお会いできるといいのだけれど。


ちなみに『新八犬伝』のメンバーで、玉梓さまだけがお越しになられているほど、スターなんですよ、彼女こそが。


No.407 22/09/30 15:23
旅人 ( pu5bob )


┉神社仏閣巡りのスレには(珍道中だけれど)、ちょっと玉梓さまはいけなかったかしら。

怨霊だし、┉。

No.408 22/09/30 17:13
旅人 ( pu5bob )

先日、群馬県前橋市の前橋東照宮さんへ、実に久しぶりの参拝をさせていただきました。

私、こちらの東照宮さんが好きでして。
えっ?┉それなのに久しぶりの参拝?

ええ、そうなんです。好きだから、参拝出来ずにいたのです。

何故ならば、こちらの東照宮さん、老朽化を理由に建て替えることとなり。
私はその社殿もまた好きだったのですよ。


ただその理由として、老朽化をしたこの神社の建物を補修修理する方が、建て替えるよりもずっとずっとお金が掛かるということで、宮司さまが悩みに悩んで出された苦渋の選択だったようでありまして。

私、大変真面目でお優しいこちらの宮司さまも好きでありまして、その方の出された結論であればいたしかたないのであろう、┉とも思ったのでありました。

ただ。
その社殿の壊れゆくさまを見るのは絶対に嫌で。
新しくなった社殿も、建物が境内に馴染んでから訪れたいと、ずっと、ずっと、そばを通ってもそちらを見ないで手を合わせるくらいに、参拝を避けていたのです。

神さまには大変失礼なことではありましたが、どうしてもどうしてもそのくらいこだわりがあったのです。


と、言いますのも、提示されたこちらの新しい社殿の完成予想図が大変近代的なものでありまして。


歴史ある社殿に誇りを持っておられる地元の方々も猛反対されたようでありました。
何度も何度も話し合いがもたれ、神社さんからの譲歩案も突き放され、決裂したまま、工事に突入したような経緯だったようです。




┉素敵でしたよ。
たしかに近代的ではありましたが。

ありがたいことに御本殿がそのまま残されて、新しい覆屋に入られた形でありました。


思えば宮司さまにとってこそ、大切な大切な社殿であったはずでした。

前橋東照宮さんの境内には以前と同じ優しいあたたかな気が満ちていました。
新しい社殿から優しい気が流れてきていました。


No.410 22/10/01 06:31
旅人 ( pu5bob )

※前回とほぼ同じ文面です。すみません。

(夕方、まさかの夫の早い帰宅に焦って読み直しも保存もできず、送信してしまい、さすがに酷すぎる文面でしたので直したもので、前回とほぼ同じ内容です。┉まぁ、直しても元々文章力のない私ですので、さしては変わっていないのですがね)


【前橋東照宮】は、寛永元(1624)年、越前勝山城主・『松平直基』公が、日光東照宮から徳川家康の分霊を城下に勧請したのが始まりとされます。
以降、松平氏の移封とともに東照宮の遷座を繰り返してきたといいます。前橋に遷座してきたのは、寛延二(1749)年。
明和四(1767)年、利根川の氾濫により前橋城が大きく被災し、やむを得ず川越に移るときにも東照宮も遷座しています。

ちなみに松平直基公は家康公の次男・『結城秀康』公の四男。松平姓を授かったことに感謝し、偉大な祖父を尊敬し、家康公を城下にお祀りしたのでありましょう。


かつての社殿は川越時代の安政二(1655)年に、樹齢1000年といわれるケヤキの巨木から造られていています。
今回新しい社殿に、祀られるような形となった本殿。その本殿にある彫刻は、江戸の有名な彫師島村源蔵の作といわれるものといいます。┉もっとも、私は拝殿前での参拝のみでありましたので、未だにその本殿の彫刻を拝見したことはないのですが。

松平家は文久三(1863)年に前橋へ戻られたのですが、東照宮が再遷座してこられたのは、時代も変わった明治四(1871)年のことであったといい、この際、川越時代の社殿を解体しこの地に再築したといいます。
江戸時代に十三回もの移封を命じられていますが、その都度東照宮も遷座されたといいます。


┉そんなゆかりある社殿でありました。
さほど大きくはありませんでしたが、趣のある社殿でありました。近隣の方たちからの信仰も厚く、大変愛された社殿でありました。

前に立っただけで心が落ち着き、癒されたかつての拝殿は、いづこかへの移築も検討されていたように記憶しておりますが、いまだにそのようなお話は私の耳には入ったまいりません。


No.411 22/10/02 02:26
旅人 ( pu5bob )

秋の七草の山上憶良の歌を載せたとき、(ああ、かつて桔梗は朝貌(あさがお)と言ったのだなぁ)と思いました。

わが家の桔梗は夏、六月から七月くらいに咲いてしまうので、秋の七草といった感覚にはどうにもなりづらい。
桔梗は普通七月から十月にかけて咲く花と言われており、万葉の昔から秋咲きであるというのに、私が育てると本人に似てせっかちになってしまうのでしょうか。

桔梗は他に、岡止々支(おかととき)、蟻の火吹き、盆花、嫁取り花という名があるといいます。一度も聞いたこと、ないですけれどね。笑。

蕾の膨らんだ姿から連想して、英名はバルーンフラワー。


ところで、この桔梗の花言葉、『誠実・従順・変わらぬ愛』というものらしいです。まぁ、花言葉も諸説いろいろあるようですが、桔梗を家紋にしていた武将といえば【明智光秀】。
誠実、ですか、従順、ですか┉。

その当時に花言葉というものが存在したなら明智家の家紋の変更があった、┉かもしれない?

No.412 22/10/02 14:40
旅人 ( pu5bob )

このところ訃報が相次いでおります。
「えっ」と絶句したばかりなのに、また┉。

先日は圓楽師匠。

そしてアントニオ猪木さん。

復帰を目指して頑張って頑張って、ここまで来れたよというお姿を見せてくださったばかりでありましたのに。

本当に頑張っておられた御二方、今はただただご冥福をお祈りいたします。

No.413 22/10/02 18:08
旅人 ( pu5bob )

亡くなられた六代目円楽師匠、三遊亭圓楽というのが、正しくは襲名した名前。

けれども五代目が生きておられる内にその名を譲るということで、それを受けるにあたり、自分に名を譲って師が引退するなどということは断じていやだと、師が落語家でなくなるなど、あってばならないと言いはって、六代目圓楽は円楽と書くこととなったという、エピソードがありました。

結果としては襲名の前に五代目が亡くなられ、生前贈与とはなることなく、五代目は『圓楽』として亡くなられられましたが┉。


五代目圓楽師匠は浄土宗のお寺の生まれといい、宗派こそ違えどそんなご縁からなのか、群馬県前橋市にある釈迦尊寺さんと親交があり、それは弟子の六代目にまで続くものとなりました。



円楽師匠(六代目)は義母が亡くなられたことをきっかけに、前橋市の釈迦尊寺さんに生前墓を建立(寿陵)されたといいます。

さらに2016年には同寺で『得度』し、【楽峰圓生】の僧名を賜っています。

また、円楽師匠のお仲人は群馬県高崎市の仁叟寺のご住職。

東京生まれ、東京育ちでありながら、何かと群馬県との関わりを持ってくださり、得度された年、2016年から『まえばし観光大使』を務めてくださっていました。


私、ついこの間、まさにその釈迦尊寺さんを訪ねたことを書いており、その時は師匠が八月に高座に復帰されたお姿を拝見したばかり。
まさかこのようなことになろうなどとは┉。


頑張っておられたのになぁ。
どれだけ悔しかったことでしょう┉。

天国では師である五代目圓楽さんや歌丸師匠に、早すぎるって叱られ、毒舌を吐いておられるでしょうか。

今はただただご冥福をお祈りいたします。

No.414 22/10/04 16:54
旅人 ( pu5bob )

十時くらいから、動悸がして、両手に痺れがあって、頭が痛いというか重い。


このところようやく血圧が私なりには上がって最高血圧が90台となることもあり、安心していたのも束の間、この症状は┉。

自分のペースで動いていれば上がってくるかしら、などと淡い期待で動いていたら、少し呼吸まで苦しくなってきました。

血圧が下がっているとき、無理に動いて余計下がることはあっても上がったことなどなかったのに、私、もはやこの症状の持続にうんざりしてしまって、気づかないふりをして無理に動いてしまった、その結果がこれです。

また72/42などという、お医者さまを呼ぶレベルにまで血圧が下がってしまっていました。

┉呼ばないですけど、ね。笑。
でも本当にそのレベルなんですって。

自力では運転とかは無理。
もちろん動けないって意味でもありますが、運転中に何かあっては他者を巻き込むことだって考えて行動せねばならないレベルです、┉悲しいですけどね。

大人しく寝ているしかないのです。

食事の支度やお風呂掃除、洗濯などなどやらねばならぬことだけ、ゆっくりゆっくり動きながら、こなしては横になり過ごすしかないのです。

くっそぉ。
せっかく上向きになりつつあったのになぁ。

またどこにも行けないおこもりさんに戻ってしまいました。

神社仏閣にも、┉というより、もうどこかへ行きたいという意欲すらなくなってしまうんですよ。
末梢の血液循環を減らして、脳や心臓にまわしているので、意欲とかじゃなく、〇〇せねばならないことだけしか考えられないのです。

そしてなんか精神的に追いつめられるんです。悪いこと暗いことしか考えられない。
病態的に血圧が低いってそうらしいですが、本当に実感いたします。

もっとカッカと怒ればいい?
いやいや怒りすぎてるくらいですって。散らかし魔の夫が言っても言っても直らないとか、ね。

塩分いっぱい取ればいい?
そうしてもみてるんですけどね。本当なら塩分控える年頃なのでしょうにね。


うーん、71/41かぁ。

洗濯物を取り込んでこよう。



No.415 22/10/05 02:40
旅人 ( pu5bob )

そんな私を今癒してくれるのが、法相宗大本山『薬師寺』さんの四コマまんか『お寺日記』。

これが実におもしろい!
楽しい!

そして、これをネットでもみられるようにしてくださっているところも、すごいと思う。

お寺さんなどでいただける小冊子などには漫画があったり、読みやすい内容の、読みやすい長さの文章が書かれていますが、ホームページですとなかなかありません。
いかにもありがたい、ともすれば品格を示すためなのか難しい内容が書かれていることがほとんどです。


薬師寺かぁ。

遠いなぁ。

でもこのホームページで、心の距離はとっても近い気持ちになれました。


読み終えてしまうともったいないので少しずつちまちまと読んでおりますが、あとどのくらい残っているのかなぁ。

No.416 22/10/05 08:32
旅人 ( pu5bob )

10月5日は『だるまさん』の愛称で親しまれている禅宗の祖『菩提達磨』(ぼだいだるま)の命日、『達磨忌』。

だるまさんといえばほとんどの人が知っていると言っても過言ではないと思います。
小さな頃、数を数えるのに
『だるまさんがころんだ』と唱えて、十、数えたことはありませんか。

私は群馬県民ですので、あの縁起物の【だるま】を子供の時分から見る機会がたくさんありましたが、ほかの都道府県の方ですとどうなのか┉。

そうなんです。
群馬県は全国一のだるまの産地、日本のほとんどのだるまが高崎市で作られているのです。
【高崎だるま】という商品もありますが、その元となるものを作っている業者さんも高崎市にあって、それを全国に卸しているということもあり、全国一、なのかもしれません。

そうそう、あの『上毛かるた』にも
『え 縁起だるまの少林山』とありますし。


子どもたちに人気の絵本でもだるまさんが主人公のものがあります。
『かこさとし』さんの『だるまちゃん』シリーズがあり、『かがくいひろし』さんの『だるまさん』シリーズがあり、ともにベストセラーであります。
二歳の孫が好きな絵本のひとつもこの『だるまさん』。
でも娘の家も核家族、親子三人暮らしですので、だるまを見たことがあるかどうか┉。

とはいえ、だるまの置物を見たことがあっても私が達磨禅師さまのことを詳しく知ったのは、やはりこの珍道中を始めて調べたから。
さすがに達磨さまが実は実在された僧であったこと、手や足を失うほど修行に明け暮れられたこと、くらいは存じてはおりましたが┉。


お寺さんをたくさん参拝させていただき、手足のあるころのお姿の御像や掛け軸なども拝見いたしました。

達磨禅師さまは禅宗の僧でありますので、今の日本に伝わる直接の宗派はないかもしれませんが、天台宗や臨済宗、曹洞宗、そして黄檗宗などのお寺さんは達磨禅師さまをお祀りされていることが多いようです。

No.417 22/10/05 13:41
旅人 ( pu5bob )

【達磨禅師】さまは、紀元前四世紀の終わりごろ〝南インドの香至国〟という豊かで平和な国の第三王子として生まれだと伝えられます。
やがて出家し、お釈迦様からの教えを継ぎ、より多くの人々にこの教えを広めようと、幾多の困難にもめげず海路はるばる中国へ布教伝導に渡られたといいます。
どのような逆境に立っても、決してへこたれず、現在の禅宗の基礎を築かれ、初祖達磨大師と言われるようになりました。

達磨大師の逸話は沢山ありますが、嵩山少林寺での「面壁九年」は有名で、九年もの間ひたすら座禅を続けられ、その結果、手足が腐ってしまい、あのような、手足のない姿であらわされることとなった、と言われています。
永安元年十月五日(528年11月2日)に百五十歳で遷化したとされています。一説には達磨の高名を羨んだ者に毒殺されたともいわれています。諡は円覚大師さまであります。

┉百五十歳って。
┉まぁ、紀元前の人物ですしね。伝説化されているものもたくさんあるかとは思われます。
おそらくその頃の平均寿命などは四十歳前後だったのではなかったかと記憶しているのですが┉。


縁起だるまは、そんな達磨禅師さまの生き様である七転八起の不屈の精神がそのまま具わっていると言われ、縁起物として長いこと愛されて大切に祀られているのだと思います。

高崎だるまは、今から二百数十年前の寛政年間(1789〜1801年)に碓氷郡豊岡村の豪農・山縣友五郎によって生み出され今日まで作り継がれてきたと言います。
初めは、高崎市の少林山達磨寺の東皐心越禅師の描かれた一筆達磨像のお姿を型取った〝座禅だるま〟であったようで、その製法は山縣家の秘伝とされ受け継がれました。

それが明治に入り、木型名人が豊岡村に住み始め、だるまの木型を専門に彫り始めたといいます。
これにより豊岡地内にだるま作りを目指す者が増え、大勢の人が作り始めるようになりました。これが高崎だるまの始まりといわれます。

だるまは、少林山達磨寺が創建当初から続けている七草大祭で売られるようになりました。これが今なお続く「だるま市」の始まりです。

養蚕農家ではだるまを大切な守り神として奉り続けてきたといい、養蚕の大当たりの願かけから、やがて一般家庭へと広まり、様々な願かけが行われるようになったといいます。

今は選挙というとだるまが付き物でありますね。


No.418 22/10/06 17:48
旅人 ( pu5bob )

「ぼくらのなまえは ぐりとぐら
この世でいちばん好きなのは
お料理すること
食べること
ぐり ぐら ぐり ぐら」

自分が子どものとき、
子どもたちが小さな頃、
そして今、孫が
何度も何度もページをめくる絵本、
【ぐりとぐら】。

あのぐりとぐらの作るパンケーキのなんとも美味しそうなことといったら。
実際大人になって、作って食べたら本当に美味しかったのですが、何より、それだけの情熱を持ち続けさせるだけのパンケーキであるということ。
それはぐりとぐらが大きなフライパンと、大きなたまごを一生懸命全身を使って作る様子と、テンポの良い文章が、生み出すマジック、それ以外にありません。

ぐりとぐらの他にも、【いやいやえん】【そらいろのたね】などたくさんの本がありますが、どれも、お姉さまの『中川季枝子』さんが文を書き、『山脇百合子』さんが絵を描いた共作でありました。

そんな私ども親子3代が夢中になった絵本【ぐりとぐら】の、絵を描いておられた山脇百合子さんが亡くなられたという訃報がTwitter上で流れています。九月二十九日にお亡くなりになられていたようです。


「この本、捨てたり誰かにあげたりしないでね」とは十八で家を出た娘の言葉。
その中の一冊がこのぐりとぐらでありました。

時代を超えて愛され続ける、絵本というのは素晴らしいものだとあらためて思いました。

山脇百合子さんにありがとうございましたの言葉を添えてご冥福をお祈り申し上げます。

No.419 22/10/06 23:37
旅人 ( pu5bob )

私が厄除けをしたことがないことは、固定された扉の文に書いてあります通りです。
そんな人間ですので当然自分の子どもたちも厄除けを受けさせることなどなく過ごしてまいりました。

実は夫も厄除けをしたことがないというのです。
まぁ、たしかにそうしたことをしてきた人間であれば、その年に厄年を迎えた自分やこどもの厄除けをしなくてはと騒いだでしょうから、それは確かなのでしょう。
ですが、夫の家って、お祖母さんは信心深くてそういったことを大変気になさる方でしたし、義父も義母も、義姉もみな、お正月の初詣に出かけては「今年〇〇は厄年だから厄除けもしなくては」などといい、厄除けをしてきたと言って初詣から帰ってきていたのを見ていたので、まさかそんな家族の中で一人だけ厄除けをせずに育ってきたとは俄には信じることができなかったのも事実でして。

でもたしかに初めて昇殿した際、「俺、初めて神社の中に入った」と申しておりましたし、やはり彼もまた厄除け・厄祓いをしたことがないのでありましょう。

この厄除け、厄祓いといった風習は室町の時代からのものと言われており、陰陽五行説が元となっているといいます。

私が持っている本によりますと、
『男性は十歳、二十五歳、四十二歳、六十一歳
女性は十九歳、三十三歳、三十七歳が厄年』だと書かれています。

そして、これらの歳はすべて、新年を迎えるごとに歳をとる数え年で数えることになっていると書いてあり、中でも男性の四十二歳、女性の三十三歳は大厄であること。
また厄年はその前の年を前厄、次の年を後厄といい、この三年間は人生の中でも最も慎まねばならないとされ、神社仏閣でお祓いを受けることが習慣となっていったのだと書かれています。

だから私はもう厄年は終わっていて、もう厄除け・厄祓いを受けることはないんだと思っていたんです。
ええ、ごく最近まで。
そもそも三十三歳で女性の厄年は終わりと思っていたくらいでしたし。


神社仏閣を巡るようになってからは『厄除け』のポスターくらい目に入ってきますし、目の端くらいにはその年の厄年は何年生まれ、などというものも見えてまいります。

えっ?なんか私の持っている本と違うんじゃない?

No.420 22/10/07 05:02
旅人 ( pu5bob )

そうなんです。
神社さんとかお寺さんとかに貼られたポスターによりますと、

男性の本厄:4歳・13歳・25歳・42歳・60歳
女性の本厄:4歳・13歳・19歳・33歳・37歳・60歳

となっているんです。┉増えてるし!
じゃあ60歳は男女共に厄年ということなのでしょうかね?

┉ということは。
┉私、厄除け・厄祓いを受けるチャンスがまだあるってことですか?

ふんふん♪


┉それでですね、実はこの記憶が間違いがなかったことを確認しようと、ネットで調べたんですよ。

そうしたら、な、なんと驚愕の結果が!
┉えっ?、やっぱり記憶が間違っていたのかですって?

┉違うんですよ。

男性の本厄:【62歳】
女性の本厄:【61歳】
となっているものや、
男性の本厄 : 【61歳】
となっているもの、いろいろあるんですよ!

で┉。

どれが一体正しいの?!
一体何故諸説あるの?

なんか高齢化が進んだからとか、定年制度が変わったからとか、いろいろ書いてあるんです。

(陰陽五行説というものをまるで理解できてはいないけれど)
陰陽五行説に基づいてるんじゃないんです?

それも、なんか週刊誌的なものが扱っているものなら、ふ〜ん、とか受け流すんですけれど、結構有名な神社仏閣さんの掲載しているものも、そうした違いを見出せるんです。

おーい!

┉それじゃあ、神社仏閣の選び方で厄年が変わるということなんですか?
五十九歳から六十三歳くらいまでずっと厄年ととらえろってことですか?

┉まぁ、それを言えば、女性は前厄と後厄を合わせると、30代のほとんどを厄年の中で過ごすという事になりますし。

やはりそのあたりの年齢というのは、身体的にも環境的にも変化が起きやすい年なので、より気をつけたい年頃、と考えていつも以上に気をつけて過ごすのが良い、ということなのでしょう、かね?


No.421 22/10/07 05:59
旅人 ( pu5bob )

夫も若いときのあれこれを、反省したと、先日、珍しく┉それこそ夏に大雪が降って吹雪になり、冬に40℃超えの真夏日が来そうなほどに珍しいことに、「すまなかったと思ってる」と頭を下げたんです。


┉えっ?!
そ、そんな凄い過去が?!














┉いや。

別に浮気とかも無かった(ようだ)し、賭け事もしないし、金遣いが荒いことなど一切無く。
まぁ、飲んで布団と枕をダメにしたり、玄関で寝込んだりは数えるくらいにはありましたけれど、自分の適量を知ってその後は大酒を飲むことは無かったし、煙草は隠れてまで吸って大喧嘩までしましたが(ドクターストップがかかったのに!、ですよ、念のため、私の名誉のために、笑)、
まぁそういったいわゆる一般的な見方だけすれば、優等生、なんじゃないかな?
┉妻の採点を受けなければ!

まぁその長年にわたってちょこちょこと受けていた妻の採点を振り返って、な発言なんですね。

きっと、嫁いであれこれ苦労している娘を見て、反省したんじゃないかと、いかにもわかりやすい夫なのではありますが。


そんな夫、自分で買うものはほんとに嫌になるくらいケチくさく節約するんですけれど、私には甘い。

どこかでやはり負い目があったのかもしれませんが、たいがいのモノはオッケーが出る。

まぁ、エルメスのバーキンがどうのとかいうことなど一切ない、ノーブランドの、しまむら大好きおばさんなんですが、子どもにかこつけてポケモンの指人形を二百越えで集めたりしちゃうとことかはあったんです、ね。(欲しかったのは私で、子どもは欲しがったことはない)
┉ええ、今も昔も煩悩おばさんで、困ったものです、はい。

ただ。
そんな私が欲しがったもので、夫が唯一鼻で笑って聞き流したものがあるんです。
それも最近。ごく最近!

そ・れ・は┉。

No.422 22/10/07 17:12
旅人 ( pu5bob )

テレビのニュースに寄せて。


あの可愛い笑顔が、テレビに映るたびに泣きそうになる。
小さな手を振る姿が胸を締め付ける。

今年はやたらと水で子供の命が奪われていた気がしてならない。


そしてあの、殺人としか思えないバスへの置き去り事件。


お地蔵さま、どうかそんな子供たちみな、仏さまの世界、神さまのおられる世界へ、苦しみのない世界へとお連れください。

No.423 22/10/08 03:33
旅人 ( pu5bob )

十月。

神無月。

通説では日本全国の八百万の神々が、出雲大社に集まるので『神無月(かんなづき)』となったとされています。それなので出雲では『神有月(かみありづき)』と呼ぶといいますが┉。
この美しい、豊かな季節感あふれる、万葉の昔から使われたとされる和の月名に、あえて私の違和感を申し上げれば、『神無月』に対しての『神有月』。単純に反対語とすればそうなんですけれど、出雲には┉出雲大社に大国主大神が御鎮座されておられ、そこを訪ねて八百万の神が集うわけなので、神有月という表現はちと違うのではないかと。
出雲に座す神々に失礼にあたってはいないかと、ビビりな私としてはそんなちっちゃなことを気にしてしまうのであります。
〝神集月〟とかにできなかったんかい、とか、思ってしまうわけなのでありますよ、はい。
┉まぁ、そんなちっぽけな人間界のものの言い方など、神さま方は気になさるはずもないのでありますが、何せビビリストなものですから。
むしろそのいにしえの昔、この趣ある、季節感あふれる月名を考えた方、使ってこられた方々がお怒りになりそうな┉。

しかも旧暦でのこと、本当はまだ地元の神さま方は出雲に出立してはおられない。

それに神さまのお力は凄いので、出雲とご自身がお護りくださっているところなど一っ飛び、瞬間移動、なのではないかなぁ。お心はご自身のお護りなさっておられる国にも常にあるような気がいたします。
まぁ、日頃のお疲れをゆっくりと出雲の地で癒していただけたら、それが一番でありますが。┉それがまた下世話な話。
神さま方はそんな慰安で出雲大社へお集まりになられるわけではないので。
こんな煩悩の塊のおばさんがあれこれと思うこと自体おかしなことでありました。


そんな神々が集まられる出雲大社で、人間界では十日、出雲駅伝が開催される予定であります。


┉ああ、出雲大社へ行きたいなぁ。

あれ、また煩悩の一つが漏れ出してしまった。

No.424 22/10/08 04:06
旅人 ( pu5bob )

そうそう、その私の百八掛ける百八くらいありそうな煩悩の一つ。
夫に鼻で笑われ、即却下┉というか本気で取り合ってももらえなかった、私の欲しいもの。


それは┉〝錫杖〟。

あっ、あのお地蔵さまが手にお持ちの長い杖の錫杖ではなくて、小さな┉ハンドベルくらいの錫杖、なんですがね。

┉えっ?
それは本気にされないだろう、ですか。

ええ、まさにそれ。
本気にすらされませんでした。
しかもやっぱりその、お地蔵さまがお持ちの長い錫杖が頭に浮かんだようでしたし。

私の欲しいのは『手錫杖』と呼ばれる法具なのですがね。まぁ、修行の〝修〟の字もしていない、信仰心すら薄いおばさんの持つものじゃないだろうと言われればそれまで、なんです。実際、痛いほどそんな自分であることはわかっているので。
形から入るのもいい加減にしておけ、と言われれば至極ごもっともな話でありまして。

長い錫杖だろうが、手錫杖だろうが、鼻で笑って終わりになるのも当たり前、なのです。


ただ┉。

『錫杖は、僧侶や修験者が身に降りかかる危険や煩悩を振り払い、己の身を守るために使われる法具。』

そ。
『┉煩悩を振り払い┉』、なんですよ。

煩悩を振り払う法具を欲しがる煩悩をこそ祓えって?

ええ、そ、そうなんですよね。(^_^;)



┉ですがね、この手錫杖、大きな仏具屋さんで普通に買えるもの、なんです。
身近にあるだけで、厄除け・災難除けになるといわれるといい、一般の方でも求める方はおられるといいます。
当然お取り寄せもでき、ネット販売もされています。


うーん。

┉私としては指輪やネックレスより欲しいものなんだけどなあ。

結婚何年目かのプレゼントにしてくれないかなぁ。
┉結婚何年目なのかを思い出せない妻では買ってもらえないだろうな。┉あれ?ほんと何年目だ?


┉うーん節目には当たらないや。
誕生日も大きな節目の年ではないしなぁ。

煩悩は煩悩しか呼ばないな。

徳のある僧がお使いになられた錫杖をもってしても、私の煩悩はそう簡単には振り払えないかもなぁ。



うーん、手錫杖♡

No.425 22/10/08 23:01
旅人 ( pu5bob )

本日八日は【薬師如来さま】の御縁日ということで、群馬県太田市にあります『反町薬師さん』へ参拝にうかがいました。

地元太田市新田反町町では『薬師さま』といえばこの反町薬師さんを指すくらいです。
高野山真言宗のお寺さんで【瑠璃山照明寺】というのですが、うちの夫など照明寺さんと申したところ通じなかったくらい『反町薬師さん』の名で通っております。

実はこちら、【新田義貞】公の居住跡だったので【反町館跡】とも呼ばれており、境内はお堀に囲まれており、土塁が残っております。
今でも大きなお堀ですが、当時は三重のお堀であったと言われています。現在のお堀は幅10〜20メートルといわれています。

境内には大きな桜の木が何本も植えられ満開の頃にはさぞかし美しいものと思われます。

また大きな大きな楠があり、お堀にその枝先を垂らしています。その樹齢は推定五百年、胸の高さの幹周りは約十メートルあるといいます。

またそのすぐそばにはやはり大きな藤の木があり、その樹齢は百五十年と言われ、三本ある藤で見事な藤棚となっています。
この藤の頃に一度参拝したことがありますが、それはそれは幻想的で、仙人やはり天女でもいそうな異空間であるような錯覚を起こすほどであります。

お寺さんだというのに境内のことばかり書いておりますが、こちらは本当に心が落ち着き癒されるお寺さんで、夫も私も大好きなお寺さんなのであります。
お寺さんの周囲にあるお堀の周りから、境内に至るまで、それはそれはあたたかなやわらかい穏やかな気に包まれた空間なのです。


反町薬師さんの歴史は『反町館跡』の歴史でもあり鎌倉・南北朝時代まで遡ります。
新田義貞公が成人後、現在の太田市別所にあった館がてぜまになったためと、防備のための貯水が必要であることから、地下水の豊富なこの土地に『平城』を構えました。
討幕の挙兵を相談したのもこの館のそばであったと伝えられています。
その後戦国時代となったことにより、三重の堀を巡らす城郭にかくちょうされたといいます。

新田義貞公がここに移り住み、その後は住む主を変え、天正十八(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めで廃城したと伝えられます。

時は流れ正徳四(1714)年、館跡の北約500メートルほどのところにあった照明寺が火災にあった際にここに移転し現在に至ると伝えられます。

No.426 22/10/09 06:13
旅人 ( pu5bob )


『反町城の本丸跡にある照明寺は最初、元徳年間に新田郡市野井村字杉に建てられた薬師堂を、永禄年間(1558~1570)に刑部大輔由良成繁公の命で慈光坊が反町城西方の元屋敷に移築し、照明寺と名付けて祈願所とした。
しかし、正徳四(1714)年に、失火のため堂宇のすべてが焼失したため、中興開山の祐泉が、成繁公の奥方より地料と堂宇造営料として百十五両の寄付を受け、寺を反町城の本丸跡(現在地)に移築造営した。
そして義貞の母の法号である『妙光院殿蓮法大禅定尼』から、院号を妙光院とした。
(…中略…)

現在の照明寺は、南の土塁の間に明治四十(1907)年建立の石柱門があり、その周辺に明治二十七(1894)年に建てられた『新田義貞公古城跡』碑、馬頭観音線刻碑(天明八(1788)年)がある。
石柱門を入ると左手に水屋、その西に大師堂、その北に大きな参籠堂と弁天堂がある。
正面の本堂は、明治十一(1878)年に完成したもので、本尊の薬師如来石仏(秘仏)のほか日光月光菩薩、十二神将、不動明王、地蔵菩薩、阿弥陀如来、愛染明王、大黒天が安置されている。本尊は新田家の守り本尊で、行基上人が東北巡化の際、この地方に悪病が流行していたのでそれを除こうとして自ら刻んだと伝えられている。
また、明治以降、本尊は『反町薬師』『厄除薬師』『六算除薬師』として人々の崇敬を受け、正月四日の大縁日には四歳児の厄除けをはじめ、交通安全や入学祈願など、多方面の信仰を集めている。』

(上毛新聞社刊「ぐんまのお寺 真言宗Ⅰ」より一部抜粋)。



現在の照明寺さんは館→館城→寺院と変貌を遂げており、妙印尼輝子さまの時代には金山城を守る支城として重要な戦略拠点となっていたといい、天正12(1584)年の北条氏の金山城攻めの時には、北条氏邦の本陣にもなったといいます。


┉妙印尼輝子さまについては、金山城を訪れた際に熱く語られたこともあり、私たいそう好きな女性の一人でありまして、ですが今は本筋からかなり逸れますので、しばし封印いたします(┉しばし封印って語る気満々です)。
ちなみに一言だけ添えさせていただきますと、群馬県太田市新田金山城城主由良成重公の妻、国繁公の御母堂であります。



No.427 22/10/10 00:54
旅人 ( pu5bob )

照明寺さん、通称反町薬師さんはいつ訪れても境内の隅々まで大変美しく掃き清められた、大変心地よいお寺さんであります。
境内には大きな楠や藤、たくさんの桜の木があると書いておりますが、配置も境内の端にあること、境内自体が大変広いこともあり、本当に広々とした空間であります。

正面の石柱門から入ってまいりますと、まず手水舎があります。
今はコロナ禍ということ、なのでしょう手水鉢には蓋がされておりますが、こちらの手水、二頭の龍が一つの玉『如意宝珠』を守るように絡み合っている大変美しく見事なブロンズ像でその龍から水が出るものであります。┉ええ決してドラゴンボールではありません。
この手水舎がまた私の大好きなものの一つでありまして、一日も早いコロナ収束を祈るばかりであります。

そして正面に御本堂。
実はこちらの御本堂、広い境内、そしてその名を知られる有名なお寺さんにしては小さなこじんまりとしたものであります。
初めて訪れた時は少しびっくりしたくらいでありました。どちらかというとその隣にあるからの方が大きく思われるくらいであります。

ただ、こちらの御本堂、優しい気が中からあふれ出ており、参拝の方が少ない時など長いことそこにたたずんでしまうくらいであります。

そして。特記すべきはその御本堂へと続く太鼓橋のような、結構な長さのある回廊であります。これがまた風情があって美しいのです。┉決して新しいものではありません。白木のまま経年したものではあるのですが、本当にこの渡り廊下があることでこちらのお寺さんの境内の風景がさらにさらに美しく品のあるものとなっています。
願わくばこの回廊がいつまでも受け継がれますように、祈るばかりであります。

この回廊は参籠堂(こもりどう)へとつながっています。
今はお正月にはこちらでお札やお守りの授与を行なったり、厄除け等の祈願を受ける際の待合所として使われているようです。

この回廊の奥にも御堂が見えておりますが、今回そちらへは足を運ばず。

参籠堂の横には弘法大師さまの銅像の立つ大師堂があります。こちらもまた優しいあたたかな気が流れてくるような気がいたします。外から手を合わせ目を開けると中に祀られた弘法大師さまと目が合う、そんな造りとされたようです。

鐘楼は庫裏の前にあります。
梵鐘を撞くことはできず、時間で自動で鳴るものとなっています

No.428 22/10/10 06:18
旅人 ( pu5bob )

こちらの鐘楼は周囲が木に覆われ、しかも少し背の高い鐘楼堂なので、鐘はあまりよく見えません。
鐘楼堂の上部の四隅を獅子?┉狛犬?が飾られ、梵鐘を護っています。
大師堂のそばにも一つ、梵鐘が置いてあります。こちら鐘にも〝照明寺〟の文字が見て取れ、かつて使われていたもの、なのだと思われます。もしかしたら供出に出されて、戦後新たなものを造ったのち、返還されたもの┉なのかもしれません。


こちらの薬師如来さまは秘仏。
一月四日の大縁日に御開帳され、御簾越しに拝観できるようです。

┉が。

このコロナ禍の今年の大縁日の写真であっても新年三ヶ日の人出が凄かったのが見て取れました。
境内の外にまで行列ができたようです。
大縁日も凄い人出であったようです。

うーん。

この人混み嫌い、行列嫌いの珍道中ペアは、反町薬師尊にお会いできる日は来るのでしょうか。


こちらは反町館跡として、外周を歩くのもまた違った趣きをえることができます。

藤棚のある側の堀と反対側には蓮が植えられ、花の頃には美しい蓮の花を楽しむことができます。
初めての参拝の頃がちょうど蓮の頃でした。
藤の頃には一人で何度か参拝しております。

いつか桜の頃。


それよりもやはり┉御開帳に参拝したいと願う私であります。

No.429 22/10/10 09:20
旅人 ( pu5bob )

穏やかな温かな気の満ちた、大好きな神社さんの一つ、群馬県佐波郡玉村町にあります【玉村八幡宮】さんに参拝してまいりました。

こちらは日光例幣使道玉村宿の北側ほぼ中央にあり、参道が街道に向かい延びているといいます。
一の鳥居は日光例幣使道沿いに立つ、赤く大きな鳥居であります。今はその街道はちょうど、玉村町の上新田、下新田という地区のちょうど境目になっているようです。

そこをくぐってまもなく見えるのが大きくそびえ立つ隋神門。
何度見てもため息が出るほどに立派なものであります。
こちらは慶応元(1865)年の建造で、入母屋造りの楼門であります。
前面には隋神さまが、後面には木造の三猿さんと御神輿様の小さなお社がお祀りされています。


こちら八幡さまですので、御祭神はもちろん誉田別命さま=第十五代応神天皇さまであられます。また、気長足比売命さま、比売神さまであらせられます。

いまだにいわれはわからないのでありますが、こちらは亥年と戌年の守り神さまにあたられると、大きな看板にそう書かれています。

戌年生まれの娘がおり、亥年生まれの孫がおりますので、私どもにとってそういった意味でも大切な、ご縁ある神社さんであります。


この日隋神門ところに、何やら案内が貼り出されており、どうやら今日本日『人形感謝大祭』のようで、さらには夕刻の五時より『燈籠宵祭り』が開催されるようです。

おおっ♡

かつて初めてここを参拝させていただきました際、いつかはこの宵祭りに来たいねえと申しておりました、まさに当日の参拝となりましたようです。

うーん♡


しかしながら。
まだまだ私ども夫婦にとってはコロナ禍で、今なお密も避けねばならぬ時期であろうという自分たちに課したものがあります。
といいますのも、夫は慢性の呼吸器疾患持ちで。できうる限り罹患を避けねばなりません。

うーん。


┉生きてさえいればいつかまたそんな機会は訪れましょう。

この日は参拝させていただいてこのまま帰ることといたしました。

No.430 22/10/10 17:08
旅人 ( pu5bob )

【玉村八幡宮】さんは、今から800年程前の建久六(1195)年、源頼朝公が、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鎌倉鶴岡八幡宮の御分霊を玉村町角淵の地に勧請奉斎なされたのが、創始の起源と伝えられています。
開運招福・一門繁栄を願う武家の尊崇を集め、江戸時代に至って現在地玉村町下新田に遷座し、日光例幣使道が開設されると、玉村宿の鎮守社としてばかりでなく、道中安全の守り神として往来する一般民衆にも広く信仰される神社となりました。
以来、安産子育て、交通安全の八幡さまとして親しまれています。


さて、隋神門をくぐるところまで話をもどします。
隋神門の先は拝殿までまっすぐに参道が続いています。
本当に気持ちがいいくらい拝殿までまっすぐなのです。

が。

途中に狛犬さんがおられたり、人形感謝大祭の日だったため、たくさんのお人形さんたちが丁寧に丁寧に並べられていましたりと、目移りしてなかなかまっすぐに進めません。

まず狛犬好きな私は狛犬さんに引かれます。
こちらの狛犬さんは大きな引き締まったお体で、スタイルの良い大変穏やかなお顔をされた優しい雰囲気の漂う狛犬さんです。

その狛犬さんの横を通らせていただくと、まず目につくのが撫で犬の像。
安産や子育て、子宝に御利益がある像とのことで、撫で犬の周りには十二の干支の文字が書いてあり、干支を撫で撫で犬さんを撫でる…のだったかなぁ。
私自身といたしましてはすでに子宝も安産も、子育ても関係しておりませんゆえ、あまりそちらへ行く機会が無いのでうろ覚えですみません。

そしてそのそばにはびっくりするくらい絵馬の飾れるスペースがあります。そしてそこにはたくさんの絵馬が奉納されておりました。
…実はこちらの神社さん、絵馬の種類も実に豊富であります。いろいろな目的、さらにはさまざまな絵の絵馬が用意されています。
見ると欲しくなりそうで、絵馬にも近寄らないようにしておりました。なにぶんにも煩悩の塊でありますので。

撫で犬像の隣には二宮金次郎像があります。
屋根のついた覆屋の中でマスクをしていて、だいぶ二宮金次郎さんのイメージが変わって感じられます。

御守り等の授与所も広く大きな所に変わっておりました。
その横には石造の少し大きめな三猿が祀られていました。やはりマスクをしており、『見ざる聞かざる言わざる、コロナ去る』と称されていました。

No.431 22/10/10 23:02
旅人 ( pu5bob )

御神木が見えてまいります。
夫婦楠木(めおとくすのき)と呼ばれ、二本の幹はまるで寄り添う夫婦のように見えることからこの名で呼ばれるようになったそうです。
まだこちらの楠木は80年くらいしか経過していないそうで、成長繁栄の楠木とも呼ばれているようです。

玉村八幡宮さんの手水舎は、青竹から伝わって流れる涼やかで大変風情あるものでありました。
それが今コロナ禍になり、こちらも流行りの花手水として美しく飾られるようになりました。
季節の花々が手水鉢いっぱいに浮かべられ、この日は薔薇やひまわりが彩り良く、まるでブーケのように見えました。
紫陽花の頃は紫陽花、といったように人々の目を楽しませるものへと変貌を遂げた手水鉢は、今後コロナが終息してもこの花手水のまま手を浄められるように、石で手水の水路を造り、そこから流れる水で手を直接清めるものとなっていました。

昔ながらの柄杓で手と口を浄めるといった作法は、時代と共に変化しているようです。

手をすすぎ、拝殿へと参道を進みます。

こちらは一段も段がありません。
全て平かな参道を歩んで拝殿へと行くことができます。
古くからの神社さんでありますのに、時代を先取りしたかのようにバリアフリーの境内であります。

二の鳥居をくぐると神橋があり、小さな川の流れがあります。その先には神門があります。

と、そのすぐ横に、御神水汲み場があり、自由にお水取りができます。
手水舎にも流れている地下水です。一応、『飲料水として飲む場合は、一度煮沸してからお飲みください』と書かれていました。

神橋は石でできた小さな太鼓橋です。渡ってすぐの神門をくぐると、
赤くて、なぜなのか可愛らしいという印象を受ける拝殿の前となります。この可愛らしいは小さいという意味ではなく、本当に言葉どおり可愛らしく思えるのです。

こちらは以前から、拝殿の前に立つと自動的に雅楽の音が流れるようになっています。

お賽銭箱の上に、今月の花〝桔梗〟のあしらわれた、『花しあわせ守り』なる御守りが何体か置かれていました。
こちらで直接いただいて、お賽銭箱にお代を納めても良いようです。

またひだりてには〝願い玉〟と呼ばれるものが置かれていました。
願いを書いて玉に収めるもののようです。こちらの榊の木に結んでも、持ち帰ってもよいようです。


No.432 22/10/11 19:15
旅人 ( pu5bob )

玉村八幡宮さんの拝殿の建造時代は、建築の各種特徴からみて、十八世紀末ごろと推定されるといいます。
造りは入母屋造で、棟札を見ると以前は檜皮茸の屋根であったようですが、現在は銅板一文字茸、とのことです。

本殿は永正四(1507)年に建立されたものを慶長十五(1610)年にこの地に移築しています。

建久六(1195)年に守護安達氏によって鎌倉鶴岡八幡宮から勧請された当初の社地は現在地より約2.5km南の角渕地内で、現在も同地には八幡宮が祀られています。
慶長十五(1610)年に当時の代官の新田開発祈願を契機に角渕から現在地の下新田に移されました。


(以下、玉村八幡宮さんのホームページより)

現在は幣殿・拝殿が併設され、本殿正面が幣殿に取り込まれ権現造に似た形態をとっていますが、もとは独立した本殿であったのだといいます。これは向拝柱に残る浜床痕跡や風食跡、本殿正面と幣殿との取り付き仕口などからも明らかになるといいます。
幣殿・拝殿の建造に伴い、浜床が撤去され幣殿と一連の床が張られています。
明和八(1771)年に、内陣の天井を高くし、火燈窓を取り付け、現状とほぼ同じ形態となりました。
三間社流造、柿(こけら)葺で南面しています。建物全体は漆彩色で華麗な造りとなっています。
屋根の反りや側面上部の蟇股(かえるまた)・海老虹梁(えびこうりょう)などに特色があります。
特に近世以後行われた修理の部分と、創建当時の違いが対比できるのが貴重とされています。
明治四十一年に室町時代の建築様式を残す本殿が国の特別保護建造物(旧国宝)として指定。大正十四年には県社に列せられ、昭和二十五年に本殿が国の重要文化財に指定されています。

昭和十一年、平成十一年に社殿の修理が行われ今日に至っているといいます。

実は、ですね。
この本殿、未だに拝していないんですよ。
いつもですと、拝殿で手を合わせたのち、その後ろに本殿のある神社さんではほとんどそちらに回って手を合わせるのでありますが…。

妊娠中の娘と一緒だったり、今回は孫と一緒であったり。

今度の参拝のときには御本殿まで拝することができるかしら。



どうかなぁ、まさに今週末十五、十六日、玉村八幡宮さんのお祭りなんだけれど…。

No.433 22/10/12 06:29
旅人 ( pu5bob )

どこをどう間違ってもなかなか到達する地点ではないところへ、行けちゃうのが珍道中ペア。
ええ、お導きと称しましょう。

群馬県の【川曲諏訪神社】さんへ参拝いたしました。
近くまで来たら、赤いのぼり旗がたくさん旗めいていて、どうやら秋の大祭のようです。
大祭ということで拝殿の扉が開けられ、「どうぞ昇殿してお参りください」との、ありがたくも嬉しいお言葉をいただき、そこはお言葉に甘え、昇殿させていただきました。

小さい社殿ではありますが、地元の方々が大切に大切にお守りになっておられるのが良くわかります。
新しそうな…神社さんでよく見られる椅子が綺麗に並べやられています。
良く整備されたきれいな拝殿内であります。

おお、天井画が!

これは…。
古い社殿から移したものでありましょう。天井画だけ古い感じであります。一枚一枚がどれも素晴らしい絵であります。


こちらの創立年月は不詳なようです。

ご由緒はこちらの立て看板に記されておりました。


 『明治四十年(1907年)十月九日、国主導の合祀政策により、村内の八坂社等及び、同町大字飯玉前の無格社である飯玉神社、同境内社一社、無格社飯玉神社、上之宮の無格社である飯玉神社を合祀しました。

 嘗て川曲近在に七社の飯玉神社が勧請されていました。これは天仁元(1108)年に浅間山の大噴火(天仁大規模噴火)が起こり、上野国一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらしたことに起因したといいます。
荒廃した大地を開墾し水田の開発をするに向けて、再生・復興、穀物神として上野国の中世武士団が崇敬し分祀したと伝えられます。

 こちらは明治四十二(1909)年に倉賀野神社に合祀となった三光稲荷神社社殿を譲り受け移築されました。
拝殿の正面左右の木鼻には稲荷社の象徴である狐の彫刻があります。
拝殿内の格天井の板絵は百花草木・動物・鳥等。例幣使街道玉村宿の絵師千輝玉斎が描いたもので、玉村宿旅籠主人・遊女半玉が商売繁昌・開運厄除を祈願して奉納したと伝えられています。

 現在の御社殿は、平成二十八(2016)年に全面改築を竣成したものです。』


新しさと古さが大変よい形で融合した社殿であります。

お祭りということで、お茶のペットボトルと大福をいただきました。
これは、今後もお参りいたしませんと。
…到達することができるかしら。

No.434 22/10/12 10:46
旅人 ( pu5bob )

自分で後から読み直して、合格点が出せたことがまるでない、なんとも情けないスレが、この珍道中録。
今回も読み直してみて、ふき出しました。

群馬県の川曲諏訪神社さんって…。苦笑。

たしかにこの辺りとても入り組んだ土地のようで、高崎市と前橋市がオセロの面のように入り組んでいるよう。
車での移動どころか、歩いていてさっきとは違う市にいて、「おっ?」と思うまもなくまたさっきの市名になっている、そんなたいそう入り組んだ土地なんじゃないかなと思われます。

『川曲(かわまがり)』は、前橋市の南西、前橋台地、利根川右岸西方の滝川流域に位置している町。
江戸時代頃からある地名のようです。

はじめは総社藩領(現・前橋市)、寛永十(1633)年に高崎藩領、正徳年間(1711-1716)には幕府領となり、のち再び高崎藩領となったといいます。
そして現在は前橋市。

なるほど入り組んでいても不思議のない土地のようです。


それにしても…。
絶対、普通に走行していてまぎれ込むところではない、住宅と農地が混在する場所だなぁとあらためて思います。

さすがだ、私。(๑˃̵ᴗ˂̵)。

No.435 22/10/12 17:32
旅人 ( pu5bob )

わが家の、ネズミの額くらいの庭に、桔梗が一輪、カワラナデシコが三つ、秋桜が一輪、咲いています。

いろいろな色の、いろいろな大きさの菊が、たくさんの蕾を抱えています。


そんな庭に。


いまだかつて見たことがない大きさの、
『これぞムカデだあ!』
というくらい大きな、
こいつは間違いなくムカデの代表選手だろうというくらい、
どこからどう見てもザ・ムカデな、
ムカデがおりました。


こいつとは決して闘ってはならないと、後退りしてその場を去りました。


そして、ムカデに効くという、粉の殺虫剤を持ってその場に再び向かいました。
ムカデの姿はありませんでした。

これでもかというくらいに粉を撒いて再び撤退しました。


神さま、仏さま、私は本日殺生をしたと思います。
そして、ぜひ殺生できているといいと思っております。


…こういった殺生でもダメなんだろうなぁ。

やっぱり私は信仰を持てないかもしれない。



No.436 22/10/14 07:20
旅人 ( pu5bob )

今読んでいる小説。
梓澤 要著【荒仏師 運慶】。

何年か前に買ったものの、仕事のこと、母のこと、そしてその母の死、…そんないろいろがあって、なかなか読み進めることが出来ず、読んでは閉じ、閉じては開くを繰り返して、しばしお休みいただくこととした一冊でした。

ようやく落ち着いてきたかと、紐解いたところ、以前の自分が嘘のように、惹かれる、惹かれる!
運慶の世界に飲み込まれてしまう自分がおります。


運慶の仏像に興味がない方であっても、運慶の名は授業で学び、その仏像は教科書を通して見たことがあるほどの人物。
あるいは修学旅行で行った先で、その仏像を実際に目にしておられるかもしれません。

そんな運慶はどんな人物であったのか。

今、私は運慶の視点で描かれた運慶の世界に、運慶の時代に、まるでワープしたかのような感覚になっています。

淡々と気負わず書かれた素晴らしい文章によるものであります。
しかしながら、このような実在する人物を描くときには、時代考証をよりしっかりとするため、膨大な資料を読まれて、あるいは現地に行ってその時代を超えたその場の空気を、空間を読み取るなど、大変な労力あってのこと。

家のくつろげる空間にあって、こうしてゆったりと小説を読ませていただけることを、幸せなことと心から思っております。


この小説、読み終わったら、読み終わった事によるロス感が半端ないのだろうなぁ。

No.437 22/10/14 16:45
旅人 ( pu5bob )

今読んでいる梓澤要さんの【荒仏師 運慶】。

この珍道中録に書いた、先日栃木県足利市立美術館で拝観してまいりました、あの、今は廃寺となってしまいました【樺崎寺】の【大日如来】さまのことも書かれていました。
こちらの展示、今度の日曜日、十六日までとなっており、今後はまた東京国立博物館へとお戻りになられます。

明日またお会いしに行こうかな。

そしてこの小説には、私が思い描いておりました【足利義兼】公と、ほぼ同じ人物が描かれていて、それがまたなんとも嬉しく思われました。


今、NHKの大河ドラマで大ブレイクしている【鎌倉殿の13人】と時代が被ることもあり、今、鎌倉時代が私の中でのブームとなっております。

また、この小説に描かれた御仏の御像を、手元の本にある写真と合わせて見たり、ネットで検索してそのお寺について調べたり。
豊かな時を過ごしております。


No.438 22/10/15 05:40
旅人 ( pu5bob )

そうだ。

『鎌倉殿』で思い出しました。八月に阿野全成の最期の回があったこと。十の指で数えられるほどしか観てもいないくせに、全成さんロスになったことを。(その回だけ観てらロスという表現はそぐわないでしょ ←自分つっこみ)

静岡県沼津市にある全成さんゆかりのお寺さんにも行きたいなあ。
そう思ったがすぐに調べられるのがスマホの良いところ。


阿野全成ゆかりのお寺さんは【大泉寺(だいせんじ)】さん。全成の居館跡に建つといいます。

全成が居館に建てた持仏堂が大泉寺のはじまりで、当初は真言宗の寺だったが、天正年間(1573~92年)に曹洞宗に改宗されたといいます。

ご本尊は運慶作と伝わる【聖観世音菩薩】さま。
う、運慶作ですと!
こ、これはお導きに違いない。

…うーむ、しかしなぁ。
運慶さんの作とあれば秘仏でありましょうか。
これはもう少し調べねば。

お、こちらのお寺さんのFacebookがあるではないか!

えっ?四十九日法要って、どなたので?お寺さん関係者の?

…。

『阿野全成 四十九日法要』
し、四十九日ですとぉ?
ま、まさか!
あの?
…そうみたいで。
あの阿野全成最期の回から数えて、四十九日にあたる頃、法要が営まれたみたいです。





う、うーん、もう少し静かになったら、にしましょうかね。


No.439 22/10/15 14:29
旅人 ( pu5bob )

動悸と眩暈がひどくて、足利行き当然は断念。
義父の月命日のお墓参りも申し訳ないと思いながら、来月の祥月命日まで先送りして、町の総鎮守の神社さんと、父の祥月命日のお墓参りにだけ。

…なかなか体調が戻らないです。
なかなか、なかなか。

焦らない、焦らない。
一歩一歩。

No.440 22/10/17 15:31
旅人 ( pu5bob )

今日は亡くなった義父の誕生日。

亡くなって十七年が経っていて、今更誕生日もないかなぁとも思いもするのですが、亡くなった義父が病院のベットの上で、もう自力で起き上がれなくなった頃に、
「ちゃんと俺の誕生日覚えておけよな。おじいさんやおばあさんの命日とかを忘れないでくれてるのは、○〇〇だけだから、頼むよな」

…。

…「お前の家は次男なんだから、分家なんだから、いくら墓参りしたってお前んちの墓じゃない」とか、夫のことを「初子でもない、長男でもない、オマケみたいな子だ」とかさんざん時代錯誤なことで、差別し贔屓してきていたくせに、(なんだこの爺さん!)。

あまりにも自分勝手が過ぎて、かえって怒るどころか笑ってしまいました。
そして、今。
他の記憶は水が流れるよりも早いんじゃないかといったスピードで消えていくのに、爺さん(=義父)の誕生日は忘れることなくお線香をあげて、
「はいはい、爺さん、今年もお誕生日おめでとう」
と手を合わせています。

たしかに偉い上人さまとかは、お生まれになった日もお祝いしてお祭りをしておられます。
が、嫁いでから一回とて私の誕生日におめでとうなどと言ったこともない爺さんに、亡くなって十七年も経つのに、「誕生日おめでとう」、なのかなぁと、思わない訳はないのですがね。


そんな爺さんの生前。
理不尽な差別とか、贔屓とかが大っ嫌いな私は、ある時どうしてもどうしても納得いかないこと、我慢ならないことがあって、爺さん(←しつこいけれど、義父、です)と大喧嘩をして、
「謝るまで私は行かない!正月だろうがお盆だろうがお彼岸だろうが、絶対行かない!」
と言い放ちまして、頑固で有名な爺さんに
「済まなかったな。おじいさんが間違っていた」とまで言わせた嫁ですし。
実際、義母や義理の兄や姉も義父が謝ったことにびっくりしたと、のちの語り草になったくらいなのですが、それ以降、義父と私はお互いが本音で語れる良い関係になりました。
義父が入院していた病院では、スタッフさんや同室の方々に、真の娘だと思われていたくらい、バカ話をしていた二人ですし、ね。


まぁ、私がボケてお爺さんの誕生日もわからなくなるまでは続けましょう。

爺さん、私が(これ以上)ボケないよう、ちゃんと見守っていてよね。

No.441 22/10/18 10:03
旅人 ( pu5bob )

今日は観音さまのお縁日。

毎月十八日は、観音さまのお縁日とされています。
が、実はこれも諸説あるようで、観音さまによって、また寺院によって縁日が異なることがあるといいます。

が、今さらそうだと知ったところで、記憶すること自体がやっとやっとの私は、現在私にインプットされている十八日=観音さまのお縁日を貫こうと思います。

観音さまは、世の中の音(衆生の苦しみ)を観察し、自在に救済する力を持っているので『観世音菩薩』『観自在菩薩』と呼ばれ、三十三化身という様々なお姿があります。

三十三化身とは、観音さまが衆生を救うため、場合に応じて変化する三十三のお姿をいいます。
法華経普門品(ふもんぼん)に基づくといい、
仏・辟支仏(びゃくしぶつ)・声聞(しょうもん)・梵王・帝釈(たいしゃく)・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門・小王・長者・居士(こじ)・宰官・婆羅門・比丘(びく)・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・竜・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅迦(まごらか)・執金剛、と、実に多種多様なお姿があります。

お一つお一つのお姿がどんなであるか…目を通してみますと、見覚えのある名のものから、その名を見ただけではどんなお姿かすらわからない初見のものまであります。

それを調べるのも良いのかとも思うのですが、要は『観音様は、相手によって、姿を変えて説法なさる』ということ、なのではないかと思うのであります。

ある時は、女の姿、時には子供の姿、おじいさんおばあさん・・お医者さまの姿であるかもしれません。

これは、三十三種類のお姿という意味ではなく、実にもっともっと、あらゆるものにお姿を変えて私達の前にあらわれてくださる…ということなのではないかと思うのであります。


もしかしたら、日頃苦手だと思っていた人物こそが、お姿を変えた観音さま…かもしれません。

…まぁあまり考えたくはないことではありますが。
考えたくはないのではありますが、
そう考えると、
「この人は、何かを教えてくれているのかなぁ」と。

うーん。

なかなか、それはそれで修行、ですがね。これとない修行かも。

うーん…。

No.442 22/10/18 13:18
旅人 ( pu5bob )

今でこそ『縁日』といえば、〇〇さまのお縁日、のように考えるようになりましたが、以前の私は縁日といえばあの露天商や屋台の並んだ、〝お祭り〟しか頭に浮かびませんでした。

長いこと神仏に関わらなく生きてまいりましたので、それこそ神社で開かれるお祭りに露天商の屋台が並ぶ、そんなイメージすらないのが私。
浴衣を着て、八木節を踊り、七夕飾りの下を駆け回り、露天商を冷やかして歩く…私の中にあるお祭りは、本当にただの祭り、でしかありませんでした。

縁日は、元々は仏教の行事なのだと、珍道中を始めてから知ったくらい、私は神仏に関わらず生きてきていました。


【縁日】とは、仏教についての由来 (縁) のある日を意味する。民間に広く行われる行事で、仏教に限らず,神仏の降臨、救済,成仏などの由来のある日に、その神仏の供養をし,祭りを行う。


御仏がこの世に縁(ゆかり)を持つ「有縁(うえん)」の日や、神仏が世の人々を救うために手を伸ばして、縁を結ぶ「結縁の日(けちえんのひ)」を略したのが〝縁日〟というのだそうです。

つまり、神仏とのご縁が有る日=縁日というわけです。


では縁日とお祭りの違いは?
神社などで開かれるお祭りは、作物を収穫できた事への感謝やお祈り、神仏やご先祖様を慰霊するための儀式です。

お祭りの特徴としては神輿や山車など儀式に関するものがあったり、華やかです。

つまり本来の目的からすれば屋台が並んでいることを縁日と呼ぶのは間違いなのですが、現代では縁日のイメージはお祭りとかなり近いものになりました。

…つまり私はずっと現代人であったということ?


いや、さまざまな経験をすることなく、信仰に関わることなく生きてきた、多くを知らない恥ずかしい者なだけです。

No.443 22/10/18 13:21
旅人 ( pu5bob )

観音さまの三十三化身の他に、観音さまには聖観音さまの他、
たとえば、馬頭観音さま、
たとえば、如意輪観音さま、
十一面観音、
といったようにさまざまな観音さまがおられます。

No.444 22/10/18 20:18
旅人 ( pu5bob )

【観音】さま、【観世音菩薩】さまと聞くと、どんなお姿が思い浮かびますか?
沢山のお手のある、千手観音さまでしょうか?
気だるげに、片膝をあげそこに肘をかけてしなやかな指先を頬に当てた如意輪観音さまでしょうか?
それとも白い衣を身にまとった白衣観音でしょうか?
観音菩薩は『変化する菩薩』なので、一言に観音菩薩と言ってもそのお姿は一つではないのです。

○○観音という名前の仏さまは全てが観音さまです。
千手観音さまも十一面観音さまも『観音様』と呼ばれています。
ただ変化する前の元となるお姿があります。それが『聖観音』さまなのです。

聖観音さまの正式な名は「聖観自在菩薩(しょうかんじざいぼさつ)と申され、数ある観音像の中の基本となります。
この聖観音さまが全ての大元であり、ここから色々な観音菩薩が派生していったのです。

観音さまはさまざまなお姿の観音さまがおられますが、『六観音』は中国の天台宗開祖の『智顗(ちぎ)』が考案したと言われています。六道の各世界で、観音菩薩が人々を救ってくれるという信仰です。

地獄道 『聖観音』
餓鬼道 『千手観音』
畜生道 『馬頭観音』
阿修羅道  『十一面観音』
人道  『准胝観音』(真言宗)
   『不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのんぼさつ)』(天台宗)
天道  『如意輪観音』

というように、それぞれの観音さまがそれぞれの六道をお護りくださっているというものであります。
天台宗と真言宗では「准胝観音」と「不空羂索観音」が入れ替わっている事から、二つを足した【七観音信仰】や六観音信仰を元にした【六地蔵信仰】も生まれました。


No.445 22/10/19 05:10
旅人 ( pu5bob )

観音さまは実はその呼び名も多いようであります。
『観世音菩薩』、『観自在菩薩』、『観世自在菩薩』、『施無畏大士』、『光世音』等々。
私などは無学無教養な上、信仰と関わりのない人生を送ってきたがゆえ、施無畏大士さまという呼称の彫られた物を見た事はあったものの、それが観音さまを指したものだとは思いもせず、光世音という呼称に至っては初めて見知ったものでありますが…。

【観音経】と言うお経に出てくる『観世音菩薩』という呼び方、
【般若心経】に出てくる『観自在菩薩』という呼び方が、『観音さま』を指すだろうことは、字を見て察しておりましたが…。


観音さまを拝む時「南無大慈大悲観世音菩薩」とお唱えすることがあります。

これは観音さまは今なお慈悲行を通して修業を続けておられますが、この修業の功徳で十自在の力を獲得されています。
その十自在とは
1,寿自在、
2,心自在、
3,財自在、
4,業自在、
5,生自在、
6,勝解自在、
7,願自在、
8,神力自在、
9,智自在、
10,法自在、
の十であるといわれます。
観音さまはご自身の心を自由自在にコントロールし、世間の在りようを在りのままに観察し判断出来る知恵を持って衆生を導いてくださるところから『観自在菩薩』と呼ばれるようになったたと云われているといいます。

また、大慈大悲のお心で私達凡夫を哀れみ、私達が発する救いを声を見、即座に救いの手を差し伸べ、苦厄を救って下さる所から、〝世の音を観る菩薩〟、『観世音菩薩』と呼ばれるようになったをいわれているといいます。

『施無畏大士』と云うお名前は観音さまの〝右手の印相〟からとられた呼び名であるといいます。観音さまは右手の掌を私達の向けておられますが、この手の印を〝施無畏〟の印といいます。
これは観音さまが掌を私達に向けて、怖れ戦きがあればいつでも救ってくださると示して下さっているあらわれであり、怖れ無きを施す菩薩「施無畏大士」と呼ばれるようになったのだといいます。


私の父方の祖父母の家に貧乏所帯には子供心に不釣り合いを感じたくらいでありました、観音さまの掛け軸が祀られておりました。
そのお美しいお姿を時を忘れて座って眺めておりましたこと、今でも忘れません。

そのころ、お美しく女性を思わせる観音さまは実は女性ではないと、叔父だったか、祖父だったかに教えられた記憶があります。

No.446 22/10/19 05:38
旅人 ( pu5bob )

三十三化身ができる観音さまには、それとはまた別に、三十三の観音さまがおられるといいます。
七観音さまと称される、他の六観音さまの他にも多くの観音さまがおられます。

以前、その全てを書き写してここに挙げておりますが、…当然、私、その全てを覚えられたわけではありません。


他の…とりあえずここでは他の六観音さまについて少しだけ触れさせていただきます。

六観音さまたちは、それぞれに六道の各世界で人々を救ってくださっておられますこともあり、それぞれお縁日が異なります。

今日、十九日は【馬頭観音】さまのお縁日であります。

十七日・千手観音さま
    十一面千手観音さま

二十日・十一面観音さま

二十一日・准胝観音さま

二十二日・如意輪観音さま

二十三日・不空羂索観音さま


…と、書いてはみたのですが、ね。
実はこれ、お寺さんによって異なるのですよ。しかも宗派によるものでもなく。
私のような無宗派どころか無宗教の者にはもう全く理解できず、一応書いてはみたものの、「お寺さんによって違うらしい」、ということになると、もはや頭に入れようとする気すら無くなってしまう、怠けたヤツなので…。

昨日書いた聖観音さまのお縁日にしても、お寺さんによっては毎月9、19、29日というお縁日とされているお寺さんもあります。




まぁ、お寺さんに合わせて、ということ、ですかね。


No.447 22/10/19 06:32
旅人 ( pu5bob )

道端で石仏さまをお見かけすることがほとんど無くなってまいりました。
道路やら街並みやらを整備する際に、どこかへ移動していったり、あの恨みは深し廃仏毀釈令で壊されてしまったのかもしれません。
…などと申してはおりますが、何度も移り住んでいる私ではありますが、幼い頃から今までに住んだ辺りにはあまり石仏さまをお見かけするところではなかったよう記憶しております。

そんな石仏さまが意外に多いのが、意外や意外、群馬県の県都前橋市であったり、前橋市と並んで二大都市である高崎市、だったりするのです。


石仏さまというとお地蔵さまであることがほとんどだったりいたしますが、青面金剛さまも結構おられ、聖観音さまがお立ちになられていることもあります。

が。
よぉ〜くよく見てみますと、馬頭観音さまも多く祀られておるようです。
馬頭観音さまのお姿を彫られたもの以外にも『馬頭観世音』など文字を彫った石碑があったりもいたします。

そんな道端をお護りくださっておられる馬頭観音さまは小さな石仏でありますので、優しく微笑むように見える御像があったりもいたしますが…。

ご存知の方も多いかと思いますが、馬頭観音さまのお顔は恐いのであります。

ええ、恐いんです。

恐いお顔をなされておられるのが特徴であるともいえます。

そして、お身体のどこかに馬の顔をおつけになられておられます。
たいがいは頭に馬の面をつけられて、あるいは胸元につけられておられます。

古く風化しかけた石仏の馬頭観音さまはその頭におつけになった宝冠が馬の顔のよう見えることで、(あぁ、馬頭観音さまだ)とわかるくらい、であります。

No.448 22/10/19 16:23
旅人 ( pu5bob )

観音さまの中で唯一怒っている上に、頭に馬がついておられる観音さま。
それが【馬頭観音】さまです。

馬頭観音さまはヒンドゥー教の最高位である『ビシュヌ神』が馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話を起源としているといいます。
もともと馬はインドでは四聖獣(獅子、象、牛、馬)の一つとして神聖視されていたといい、仏教以前のバラモン的要素を多分に持つのがこの馬頭観音さまであるようです。

それにしても。

他の観音像が女性的で美しい表情であることが多いのに対して、女性的でないどころか、大変怒っておられる馬頭観音さま。

私、初めてお姿を拝見したときには、お不動さまでもなさそうだし、青面金剛さまでもないし…と首を傾げ、あれこれ調べたものです。
ましてや石仏さまでありますと、初心者にはことさら分かりづらかったりするもので…。


観音さまであられる馬頭観音さまが恐いお顔をされておられるのは、怒りの激しさが激しければ激しいほど人間の苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ尽くして災難を取り除く、とされているからだといいます。

そんな馬頭観音さまの御像は、
一面二臂像(お顔が一つで手が二本)、三面像は二・四・六・八臂(三つのお顔に、二本〜八本の手)四面八臂像(四つのお顔に手が八本)など多種多様で、立像・坐像ございます。
お身体を赤く彩色された像もあり、顔は忿怒形で表現されます。
持物は武器類が多く、手には煩悩を打ち砕く剣や斧、棒を持っているお姿が多いです。他の観音菩薩と違って戦闘的で観音らしくないところが馬頭観音の特徴です。

そして、衆生の煩悩を食い尽くすことを表現して頭上に馬の頭部を冠のように戴きます。

とにかく頭の上に馬の宝冠や馬の頭を乗せている仏さまというのはこの馬頭観音さまだけなので、慣れてまいりますと「あ、馬頭観音さまだ」とすぐにわかるようになります。

また、人差し指と薬指を折って中指を立てる馬口印(まこういん/ばこういん)という馬頭観音に特有の印相があります。


馬頭観音さまは、馬を含め家畜の安全と健康を祈る観音でもあります。

昔、馬は武家にとっても農民にとっても生活にはなくてはならない動物でした。
農耕に活躍し、移動手段としてとても大切だった馬。
旅の道中を守る観音として、路傍には石の馬頭観音像が刻まれるようにもなったようです。




No.449 22/10/20 13:22
旅人 ( pu5bob )

テレビで紅葉の進み具合を伝えるニュースが連日流れます。
今朝は日光の紅葉に合わせ三大瀑を紹介していました。

日光大好き♡とか、いつも騒いでいるおばさんですが、日光の滝、となると少し寂しくなるのであります。

仕事先のお客様で、親しくお言葉をかけていただいていた方が、紅葉の見ごろになると週に一度ならず何度も足を運んでは写真を撮っておられました。

「一緒に行かないかい」
いやいや、仕事上、特定の方とそのようなお出かけはちょっと。
何度も何度もお誘いくださっていたけれど、首を縦に振ることはできず、笑ってお断りしておりました。

ある時、体調が悪いんだとおっしゃって、「でも明日っから入院して検査するんだ。元気んなったら青森さ行かねえか?」…懲りないおじいさんです。


それから何週間かして、奥さまが疲れ果てたお顔で私の勤め先にお見えになりました。
「検査で元気に入院して、看護師さんからかったりしていつもの通りだったのに、その後急変したとか連絡が来て、着いた時にはもうだめだったんだよ。
人なんてあっけないもんだね」


えっ?!

…嘘をついて人をからかうような奥さまではありません。
こちらでもその時のショックを書いております。


日光の滝というと、その方を思い出し、ちょぴり物悲しくなる私であります。

No.450 22/10/20 13:54
旅人 ( pu5bob )

今日は十一面観音さまのお縁日。

そして、今日から秋の土用に入るといいます。
土用は季節と季節の変わり目で、土の神さま土公神(どくしん・どくじん)さまが活動される期間とのこと。年に四回土用の期間があります。
もともと陰陽道でお祀りされる神さまで、春は竈に、夏は門に、秋は井戸に、冬は庭にいらっしゃるとされます。

土用なら丑の日に鰻かぁ、とちょっと前まで思っていた私。
実はこの期間はその土公神さまのお力が活発になられるため、土を動かしたりしてはいけない期間、なのだと遅ればせながらも知りました。

…でもねぇ。
庭に出ればついつい目についた雑草などを抜いてしまって、「ああ、しまった!」などと思って過ごすのが、このうっかり者のおばさんです。


秋の七草の桔梗は花まで虫に喰われてしまい、あと少しで花開きそうな菊を待つばかりの、ネズミの額のようなわが家の庭。
土用に入る前にもう少し片付けておけばよかったかなぁ。



 (日光竜頭の滝の紅葉)

No.451 22/10/20 14:42
旅人 ( pu5bob )

十一面観音さまのお話をすると、行きたいお寺さんを思ってウズウズしそうな私。

奈良の長谷寺さん、
鎌倉の長谷寺さん。
このお名前も同じ、ご本尊さまも十一面観音さま、という二つのお寺、実は宗派の異なるお寺さんとなります。

…行きたいなぁ。

コロナもありますが、奈良は遠く、鎌倉はあの鎌倉殿の空前のヒットもあり、いつも以上に混んでいるとかいないとか。

お寺詣りに行きたいと思うのは、煩悩ではないのだろうにな。うんうん。



でもやっぱりお書きしよう。
十一面観音さまのこと。
せめてここにお書きすることで縁日とさせていただきましょう。


【十一面観音】さまは、四方八方、上の世界から下の世界まで、あらゆる方角に顔を向け十一面となったとも言われています。
苦しんでいる者をすぐに見つけ駆けつけてくださるありがたい御仏であります。

六道では『修羅道』を救済する観音さまとなります。

十一面、とはいえ当然一つのお顔の部分に十一面お顔があるわけではなく、お一つのお顔の上に、まるで宝冠のようにお顔がある観音さまであられます。
十一面観音さまの頂上は『仏面(ぶつめん)』の如来相があり、悟りの完成の意味があるといいます。
仏面の下頭部正面には阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を頂いておられます。

実は、阿弥陀如来さまがご自分の身分を隠して観音菩薩となったとされる説もあるようで、もともと観音さまは勢至菩薩さまと共に阿弥陀さまの脇侍を務めておられることもありましょう。

その両脇に『菩薩面(ぼさつめん)』が二つ、あるいは三つあることもあります。
やはりこの辺は仏師が仏さまと向き合って生み出される御像、その仏師によって異なるものとなることがあります。
穏やかな表情で善良な衆生に〝楽〟を施される慈悲の面、慈悲面とも呼ばれるそうです。
仏面、菩薩面とも慈悲に満ちた柔らかなお顔をしております。

右三面は『狗牙上出面(くげじょうしゅつめん)』で、善行誉め称え仏道を志すことを応援する相とされております。

左三面は『嗔怒面(しんぬめん)』で、悪人を善人に立ち返らせる怒りの相と言われています。眉を吊り上げ口をへの字に結ばれた憤怒の表情をされています。

真後ろのお顔は『暴悪大笑面(ぼうあくだいしょうめん)』という相で、悪を見抜き、笑いながら怒っている表情と言われています。

No.452 22/10/20 18:51
旅人 ( pu5bob )

十一面観音さまの後ろ側にあるという『暴悪大笑面』。
お寺さんの御本堂にお祀りされておられる御像を参拝するのでは、当たり前のことですが拝することができません。博物館などに展示されておられるときにも光背などに隠れている御像もあり、あまり見ることができないようです。

そして。
お足元は少しだけ右足を前に出しておられます。これは衆生を救うためすぐに動けるようになされておられるお姿であります。
右手は下に伸ばした与願印をされた御像が多く、また、少しでも遠くの衆生に手を差し伸べられるよう腕が長く表現され、膝ほどまであります。


十一面観音さまにお会いできる日がまいりましたら…嗔怒面(しんぬめん)の観音さまに、私の怠惰なところや煩悩の多さをお叱りいただき、ただしていただけたらなぁと、思うのであります。

えっ?
それがわかっているなら自分で直そう? 

…それがなかなかできないのが、怠け者、なんでありまして。
困った、困った。

寿命というものがあるのだから、困ってないで一刻も早くに正さないとなぁ。





No.453 22/10/21 04:42
旅人 ( pu5bob )

と、いうことで。

本日二十二日は【准胝観音(じゅんていかんのん)】さまのお縁日。
仏の母といわれ母性を象徴する安産・子授けの観音菩薩さまといわれます。


ところで…〝准胝〟ってどういう意味なのだろう。
ずうっと気になっておりましたが、なかなか調べるまでに至らず…。
〝准〟という文字が使われているものとして私の頭に浮かぶのは〝准教授〟であるとか〝准看護師〟というものだったりします。

『准』: 〝音〟ジュン 〝訓〟ゆる(す)・なぞら(える)

じゅんずる。なぞらえる。ゆるす。よる。そのものに次ぐ。

〝凖〟の俗字ともあります。

では(胝)は?
『胝』: 〝音〟チ (えっ?ちょっと待って)
 〝たこ・まめ・あかぎれ〟
((O_O))
検索が出来てない?

でもどこかで見た文字だと思ってもいたんです。胼胝(たこ・べんち)…これだぁ。

そんなぁ。当て字?
〝胝〟だけでたこって読めちゃうらしいし。
で、でもですね。〝胝〟って〝てい〟とは読まないらしいんです。だからきっと…何かの間違い?にくづきじゃないとか、何かどこかで間違いがあるのだと思われます(思いたい)。
だって、たこに準ずるって…何だそれ!?

これは是非、今後調べていく必要のある案件であります。(ただ、探し方が悪いのか、探している人間がレベルが低いせいなのか、ネットではわかりませんでした)。



で、では気を取り直し。

あらためて【准胝観音】さまとは。

准胝仏母(じゅんていぶつも)・七倶胝仏母(しちくていぶつも)ともいわれます。

もとはヒンドゥー教の女神である『ドゥルガー』で、『シヴァ神』の妃とされています。
とてもお美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神さまです。

そのため本来は女尊であり、観音さまではないという指摘もあります。

仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。
これは遙か過去より多くの仏を誕生させた仏の母という意味です。
そのため、『真言宗系』では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、『天台宗系』では『准胝仏母』といわれ『如来』に分類されています。
不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。



No.454 22/10/21 05:53
旅人 ( pu5bob )

准胝観音さまはサンスクリット(梵語)では、サプタコーティブッダ・マートリといい、「七千万の仏の母」「過去無量諸仏の母」の意味であります。

お姿の特徴としては、頭部正面・宝冠の前面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を表しておられます。
坐像が多く、一面三目十八臂、お顔はお一つで目が三つ、左右合わせて十八の手を持つお姿が多いようです。

准胝観音さまの手が十八臂あるのは、仏の覚りを象徴し、それにより准胝観音の十八大願を表しているといいます。

その手の本数が多いことから、千手観音菩薩と混同される場合もありますが、正面の左右の二手が説法印であれば准胝観音さまで、合掌をしているのが千手観音菩薩さまであります。
中央となる手は左右で説法印と右手はさらに施無畏印をとっておられます。
また持ち物はさまざまな武器や数珠、蓮華などをお持ちになっておられます。


実は准胝観音さまの御像はなかなかお目にかかれないことが多いのです。
あの日本百観音といわれる巡礼地において、私が数えた限りでは二ヶ寺のみ、であります。

まぁよくよく拝観させていただけば准胝観音さまをお祀りされておられるお寺さんもあるのかもしれませんが、なかなか御本堂へ上がらせていただけることもありません上に、御本堂ではあくまでも参拝。
お側に寄ってまじまじと御像を拝することもありません。
それこそオペラグラスを使うとか、本来の目的と異なってしまうこととなります。

秩父の第五番『語歌堂』さんが准胝観音さまを祀られておられますが、観音堂などは閉ざされ無住の御堂で、お姿を拝することはかないませんでした。

とはいえ、ぼーっと生きている私ですので、案外知らぬうちにお会いしていたかもしれません。

六道の人道で迷う衆生をお救いくださっておられる准胝観音さま。
救いがたい私を苦笑いしながら見守ってくださっておられるような気がいたします。
生きている間に、少しでも准胝観音さまの苦笑いが和らぎますよう、もっとキチンと生きなければ申し訳ない。


今日はそんな准胝観音さまのお縁日であります。


No.455 22/10/22 01:23
旅人 ( pu5bob )

鎌倉殿はいよいよ佳境を。
…とかいいつつ、ほとんど観られないでいるおばさんのくせに。

それでもこれだけヒットすると次はさぞやりづらいだろうと思うのですが、次回作は家康公ときましたか。


大河ドラマ鎌倉殿の影響で、阿野全成ゆかりのお寺さんで、ドラマにおける全成最期の回から四十九日辺りで〝四十九日〟の法要が営まれたことは以前書いておりますが…。

次々と…とはいえあくまでも史実に基づいてありますので、まさに事実は小説よりも奇なり、というか小説よりも残酷なり、といったところでありましょうが、好感を持った武士たちが殺されていくドラマの展開。〇〇ロスになった視聴者は、その史跡を訪ねたりお墓参りをしたりして過ごしているのであろうかと…。

そんな人物が身近にいるとしたら。歳の離れた姉くらいであろうと思っていたのですが、…予想外の人物が!


…いや、もともとが歴史オタクなので、ただ単に時期があったというかきっかけに過ぎないのかもしれないのですが(ちょっとだけそう思いたい私)、
「畠山重忠のお寺とお墓のあるところへ行こうと思うんだけど、どうかな」



御意。(=どうぞお好きに)



…来たか。

そういえば鎌倉行きが中断して久しい私たち。
次はいつ行けるようになるかねと話しながら、私は当然のことながら鎌倉三十三観音霊場&鎌倉十三仏巡りを再開するのだと思っていたのですが、
「次は八幡宮の側辺りからと思ってるんだ」
へっ?
と思った私。
あの辺りは、鎌倉に長居しすぎて急遽泊まることとなった日の次ぐ日に、朝から徒歩で歩いた辺りでは?

時はまさに『鎌倉殿』が亡くなられた直後。
…頼朝公のお墓か。

ま、まぁ、行かなかったね、たしかに。
行ったのは【宝戒寺】さん、北条氏歴代執権屋敷跡に、滅亡した北条氏の霊を弔うために後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏公が建立したお寺さんと、比企一族ゆかりの比企ヶ谷【妙本寺】さん、だったね。

ついつい神社仏閣巡り(珍道中)中心で動いていたけれど、歴史オタクには欠かせない史跡だったよな。


…でも。
その時はたまたまドラマを観ていて、「ここにも行きたいんだ」と言っているのかと思ったのだけれど。

今回は…少し微妙なタイミング。

あの北条義時との一騎打ち。
たしかに大河ドラマ史上に残るものだったけれど。

まさかの畠山重忠ロス?

No.456 22/10/22 06:36
旅人 ( pu5bob )

いやぁ〜、語った語った!
車中やら、史跡やらで畠山重忠のことを。あ、もちろん夫のみ、ですがね。

それこそWikipediaにも、この鎌倉殿ブームで畠山重忠について略歴やら人物像やら書かれたネット上にあがってくる資料にも触れられていないようなことまで語る語る。

「平家物語ではこのように書いてあるんだけど、吾妻鏡ではこう書かれているんだ」…はぁ。

我が夫ながら本当、感心いたします。
歴史が好きだからって平家物語や吾妻鏡まで読むものなんだ。しかも、全文原作に現代訳の付いたものを読破しているらしい。
私など子供向けの漫画ですら注釈を飛ばして読んだくらいなのに。
…まあ、夫の話も右から左に抜けていってるんですけど、ね。

ああ、もうこれは〝鎌倉殿〟の放映による畠山重忠ロスではないわ、間違いない。きっかけに過ぎないでしょう。
はなから好きだったんだ。
だって、「ここには立ち寄らなかったんだけど」その他の史跡にはすでに訪れていたようでしたし。

はぁ…。


吾妻鏡、ねぇ。
私、きっと一生触らない。

No.457 22/10/22 07:10
旅人 ( pu5bob )

【畠山重忠】は、1164(長寛2)年、武蔵国男衾郡「畠山の館」(現深谷市畠山)に生まれました。
父は畠山重能、母は三浦義明の娘です。
畠山氏は、坂東八平氏のひとつ秩父氏の嫡流の家系で、父重能のとき、秩父から畠山に移り住んで畠山の苗字を名乗りました。

秩父氏は、代々在庁官人の主席である「武蔵国留守所惣検校職」に任命される家柄であり、武蔵武士の棟梁格の存在でした。
祖父は 秩父重弘、 曽祖父は 秩父重綱。
ちなみに余談ではありますがこの曽祖父秩父重綱は、今上天皇の直系の先祖にあたるといいます。


治承四(1180)年、源頼朝が平家追討のために挙兵したとき、重忠は十七歳でしたが、在京中の父重能に代わり、河越氏、江戸氏らの同族や一族郎党を率いて参陣したといいます。
当初重忠は、父が平家に仕えていたため、平家軍に加わりましたが、のち、頼朝に服従を誓います。
頼朝は重忠の参陣を大変喜び、以後は常に軍の先鋒をつとめる名誉を重忠に与えたのでした。

その後の重忠は、いわゆる『源平の戦い』、『木曽義仲追討の戦い』、源義経を追って平泉の藤原氏と戦った『奥州合戦』などに数々の戦功をあげ、また、草創期の鎌倉幕府の有力御家人として多くの功績を残したことが『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』などに詳しく記されているといいます。

単に武将として武芸に秀でていたということにとどまらず、平家追討の一ノ谷の戦いの『鵯越の逆落し』で愛馬を背負う剛勇かつ優しい人柄。『奥州合戦』では阿津賀志山の戦いにおいて、あらかじめ同行させた工兵に、敵の築いた防塁を埋めさせ通路を確保した知略。
義経の行方を追及するために鎌倉へ呼び寄せられた静御前の舞にあわせて銅拍子を打った音曲の才能、などなど、多方面にわたるエピソードに見ることができます。

また、重忠の公正で誠実な態度から、将軍頼朝をはじめとする御家人たちの信任が篤かったことも知られています。
…このあたりは『鎌倉殿』の小栗旬…ではなく義時の台詞など、さまざまな場面にさりげなく描かれております。

この辺りが『鎌倉武士の鑑』と当時から周囲の尊敬を集め、未だ地元で敬愛されるところでありましょう。


ええ、畠山重忠のお墓、まだ新しい生花やお線香が手向けられておりましたよ。
自転車で立ち寄ってお墓に手を合わせて立ち去る方も一人ではなかったくらいです。

No.458 22/10/23 06:10
旅人 ( pu5bob )

畠山重忠のことについて、今さら私のような者が書くまでもない、とは思うのですが、ここは私の忘備録でもありますので、続けます。

畠山重忠は、いわゆる『鎌倉殿の13人』の中のメンバーではないものの、清廉潔白な人柄と、武勇の誉れ高く、坂東武士の鑑と称賛された有力御家人であります。

『平家物語』によると、宇治川の戦いではおぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといいます。

前回にも書きました、平家追討の一ノ谷の戦いの「鵯越の逆落し」で谷底に陣を張る平家に対し、源義経率いる源氏軍は、急坂を駆け下りて奇襲をかけて勝利をおさめますが、このとき重忠は愛馬を不憫に思い、背負って下ったというエピソードが有名です。
埼玉県深谷市畠山にある畠山重忠の館跡で、現在畠山重忠公史跡公園となっているところにはこの馬を背負おうとする重忠の銅像があるくらいです。ちなみにこちらの園内には重忠の墓、さらにはその家臣の墓と言われている五輪塔があり、重忠産湯の井戸と伝えられる井戸などもあります。


文治三(1187)年に代官の不法によって拘禁刑に処せられた際、重忠は七日間寝食を絶ち、身の潔白を証明したといいます。
いかにも重忠の剛直さがわかるエピソードであります。
また文治五(1189)年、源頼朝が奥州藤原氏を大軍で攻撃した際、藤原氏側は、阿津賀志山(福島県)でこれを迎え討とうとし、重忠は先陣として、攻撃することになったといいます。
三浦義村や葛西清重らが抜け駆けして、一番乗りをしようとする。これを見た重忠の郎党が「これでは彼らに一番乗りの手柄を奪われてしまいます。彼らの前をふさぎましょう」と注進したところ、重忠は
「その必要はない。たとえ、ほかの者の力で敵が退散したとしても、先陣は私が承っているのだから、この重忠が出張って行く前に起こった戦は、すべて、重忠の手柄となるであろう。それに、先頭で戦おうとしている者たちの邪魔をするのは、武勇ではないし、手柄を独り占めしようとしているように見える。おとなしくしているのがよい」
と語ったといいます。
ここからも泰然自若とした重忠の姿がうがかえましょう。




No.459 22/10/23 06:38
旅人 ( pu5bob )

頼朝の御家人となった重忠は、木曾義仲や平氏軍、奥州藤原氏などと戦い、戦功をあげていきました。

ところが頼朝が没すると、御家人間での壮絶な闘争が始まります。
梶原景時が滅び、北条氏の最大のライバルであった比企氏も、「比企氏の乱」で滅亡、三代将軍・源実朝を擁立した北条時政が権力を握ります。

ちなみにNHKの『鎌倉殿の13人』と同時期放映されていた朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』にかけて、一部では「しぬどんどん」とまで言われているとか。

閑話休題。

比企氏の乱では、北条氏に積極的に協力していた重忠でありましたが、北条時政が、幕府の基盤である武蔵国の掌握に乗り出すと、両者の間に確執が生じるようになり、畠山重忠の乱(二俣川の戦い)が勃発する。

『吾妻鏡』によると、元久元(1204)年十一月、重忠の嫡子・重保と、北条時政の後妻・牧の方の女婿である平賀朝雅が、酒宴の場で口論になったといいます。

翌、元久ニ(1205)年に、朝雅は牧の方に「畠山一族が謀反を企んでいる」と讒訴します。

時政と牧の方の夫妻は畠山重忠・重保の誅殺を決意、時政は北条義時と弟・時房に、謀反の罪で重忠を討つように命じました。

しかし義時も時房も「重忠が謀反を起すはずがない。軽率に誅殺すると後悔する」と諫めてます。

けれど帰宅した義時のもとに訪れた牧の方の使者から、「継母だから牧の方を軽んじるのか」と詰問され、義時はやむなく重忠討伐に同意し、大将として大軍を率いて出陣することとなったといいます。


No.460 22/10/23 06:58
旅人 ( pu5bob )

まず畠山重保が由比ガ浜におびき寄せられ、三浦義村の軍勢に討たれます。

三浦一族は族長・三浦義明を死に追いやった重忠への遺恨を忘れておらず、畠山父子の討伐に積極的だったということでありました。

重忠は、北条時政と通じていた稲毛重成(重忠の従兄弟で、時政の娘婿)から「鎌倉で軍の蜂起がある」との偽りの連絡を受け、一族百三十四騎を率いて鎌倉に向かったところ、二俣川(神奈川県横浜市旭区)の付近で北条義時ら幕府軍の大軍と遭遇することとなります。
そこではじめて重忠は、重保が殺害されたこと、謀反人として自分に討伐軍が向けられていることを知ったのであります。

いったん本拠地に戻り、態勢を立て直すという意見も出たといいますが、重忠は「引き返して軍備を整えたら、謀反を認めたことになる」と退け、奮戦の末に壮烈な最期を遂げることとなります。


重忠の率いていた軍勢の少なさが、重忠に謀反の意思などなかったことを物語っています。
が。
しぬどんどんなので。
やだなぁもう。
史実なのですがね。



畠山氏のゆかりの寺【満福寺】さんにも参拝いたしました。
ご住職がご不在で、御本堂前の参拝ではありましたが、奥さまが御位牌の写真を見せてくださいました。
別棟の観音堂には重忠の守り本尊『千手観音』さまが安置されておられるとのことでありました。一年に一度だけ御開帳されるようであります(来年は一月十五日の予定であると奥さまがおっしゃっておられました)。

 

なお、室町幕府の管領職を細川氏・斯波氏とともに歴任した畠山氏は、再婚した重忠夫人の子孫にあたると、夫がなおも語っておりましたが、その辺はもう私のキャパオーバーなので 笑。



(畠山重忠公史跡公園の重忠像)

No.461 22/10/24 06:34
旅人 ( pu5bob )

畠山氏は桓武平氏の流れをくむ秩父氏の嫡流で、秩父武綱の時に八幡太郎義家の『後三年合戦』の先陣を務め、その子、秩父権守重綱以来、重忠に至るまで、
代々武蔵国の総検校職(そうけんぎょうしょく)などをつとめました。

畠山と称したのは重能から。
当時中央の貴族たちは、国司に任命されても遥任(ようにん)といって現地に赴任せず、目代を派遣して租税を徴収し、在庁官人が国守の実務を代行していました。

そのトップが総検校職と考えられ、在庁官人として武蔵国における棟梁の地位にありました。

多くの武蔵武士と同様に源義朝に従っていましたが、平治の乱で義朝が敗死すると、
武蔵国は平知盛が武蔵守となり、総検校職の地位にある重能は当然平家に仕えます。
この頃になると、武蔵武士も次々平家の家人となっていきました。

深谷市畠山は熊谷市の西方約10㎞、奥秩父山地から流れ出た荒川の南岸にあたり、
昔は一面の桑畑で、今でも水田の少ない殆んどが畑地帯であります。

この地に重忠が再興したという【白田山観音院満福寺】がありました。

鳥羽天皇(1110年頃)の御代に弘誓房(ぐせつぼう)深海上人が草創したといいます。
畠山重忠公が寿永年間に再興し、菩提寺といたします。
御本尊は『不動明王さま、そして制吒迦(せいたいか)、矜羯羅(こんがら)両脇侍の三尊立像』であるといい、今回はご住職が不在ということで御本堂へ入ることはかないませんでしたが、彩色の宮殿に安置されているといいます。
現本堂は、以前は講堂であったといい、間口十間、奥行七間、寛政四(1792)年建立のものであるといいます。
重忠の菩提寺として、重忠の
【実山宗眞大居士】の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、
長刀、大般若経、御朱印状等が伝えられているとのこと。
別棟の『観音閣』には、『重忠公の守本尊(等身大)』である、六尺三寸の【千手観音像】が安置され、さらには秩父坂東西国百番観音が安置されているといいます。


ちなみに。
武蔵国、男衾郡は『おぶすまごおり』と読むようで、現在の埼玉県深谷市畠山となります。

夫がいたずらっ子のような(薄気味悪い)笑みを浮かべ聞いてきました。
「なぜ白田山というかわかる?」
ん?
「【畠山】という字を解体してごらん」

はあ。さようでございましたか。
…ほんとに?

No.462 22/10/24 18:53
旅人 ( pu5bob )

この【満福寺】さんの駐車場の隣に、石でできた鳥居が見えます。決して小さなものではなく、何神社さんなのか気になるところでありました。
満福寺さんでの参拝を終えて、どうしても気になってその鳥居を見にまいりました。…ん?
夫は元々こちらの神社さんを参拝する予定であった様子です。
満福寺さんのご住職の奥さまに、
「次はどこに行く予定です?」と聞かれて
「△〇神社さんへ」と答えたところ、
「ああ、じゃあすぐそばだ」と、おっしゃっていました。

畠山重忠に関係する神社さんなのでしょうか。
【井椋神社】、とあります。
…な、なんと読むのでしょう?
秩父にあります『椋神社』さんは『むくじんじゃ』、ではこちらは、「いむく神社」?
なんとなく、ではありますが、どうもそう読むのではなさそうな気がいたします。

井椋神社:「いぐらじんじゃ」さんと読むようです。

井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒(まさつね)から重能(しげよし)の代に至る間、秩父吉田郷領主として『井椋五所宮』を敬ってきた神社さんで、その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した際、祖父重綱が勧請(分祀)したもの、ということです。

初めは、『井椋御所大明神』、『井椋五所宮』と号していたようですが後に井椋神社と改称したようです。


ほう。いぐら、と読みますか。
たしかに「小椋」と書いて「おぐら」と読みますよね。

で、この『井椋五所宮』を調べますと…。な、なんとあの龍勢祭りで有名な、あの【椋神社】さんのことのようです。あらまあ。。

御祭神は、猿田彦大神ほか四柱であります。


先ほどの、満福寺さんの駐車場から見えていた鳥居をくぐりました。

が。

全然社殿が見えません。

畑の中の細い一本道。
しばらく歩くと。
あれぇ、細いけれど道路が参道とクロスしています。
母方の祖父母の眠る墓所へと向かう道に似ています。何かとても懐かしい気持ちがいたします。

おお、二の鳥居がようやく見えてまいりました。
手水舎があり、境内舎でのある建物もいくつか見えています。
手水舎は立派なもの、…ではありますが、ご時世的な意味あいからだけでなく、おそらくは神職の方がこちらにお住まいではなく、なおかつ詰めておられるわけでもないようで、それゆえお水を張ることができないのだと思われます。

おお!
小さいけれど立派な社殿であります。

No.463 22/10/24 23:39
旅人 ( pu5bob )

御祭神は、猿田彦大神ほか四柱の神々でございます。

いつくらいに新築されたものであるのか新しそうな拝殿であります。その奥には 幣殿と本殿の覆屋が続いています。
本殿の脇には境内社の・荒神社と石の小祠三宇が鎮座しておりました。

社殿の裏の荒川断崖に『鶯の瀬』なるものがあるとのことが書かれております。
境内社の参拝が先の方が好ましいのだけれど…好奇心に負けて、本殿裏手へと向かってまいりました。

『鶯の瀬』とは。
荒川のせせらぎの聞こえます。川自体はしっかり覗き込まないと見えはしないのですが…この地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬なのだそうです。

ここから川を渡って畠山重忠が乳母子である榛沢成清(はんざわ ろくろう なりきよ)のところに度々通っており、かつて平家方か、それとも源氏方につくべきかなども成清に相談もしていたとされています。

いつの頃のことなのか年代などははっきりしないようですが、そんなある日の出来事がこの鶯の瀬と呼ばれる所以となっているようで、
ある時成清のもとに行き、その帰路に豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられておるとのことで、その故事を詠んだのが次の歌である。


時ならぬ岸の小笹(おささ)の鶯は浅瀬たずねて鳴き渡るらん


ちなみにこの上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があるとのことで、遠く秩父連山を眺めながら鮎やウグイ等の釣り場として親しまれている名所でもあるとのことでありました。

この岸辺には小さいながら憩いの場が設けられており、春や夏などは居心地の良い空間のように思われました。
ちなみにこの鶯にあやかり,町の鳥は鶯なのだそう。

再び境内にもどります。

境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社(こかげじんじゃ)、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がございました。

背の高い杉の木に囲まれながらも、明るい大変居心地の良い神社さんでありました。

No.464 22/10/25 13:31
旅人 ( pu5bob )

「次はね、『ゆうこくじ』さん、ってお寺さんなんだけどどういう字を書くと思う?」
またまた嬉しそうにニコニコしながら問う夫。…めんどくさぁ、と思ってもこれは答えないとダメな空気感。
「幽霊の幽に、刻限の刻?」と自分で答えながら(…それはなんだか怖いお寺さんじゃあない?)。

「残念!〝こく〟はね〝谷〟って字なんだけど、これでわかるかなぁ」
(まだクイズ?分からんというか、考える気がないんですけど)と思いつつ、それでも少し間をおいて、
「分からん」と答える私。

「そっかぁ。熊って書いてゆうって読むんだ」
「はぁ?熊ぁ?」
「そう。熊に谷でゆうこく」
「なんで熊?」
「熊に谷だよ。熊谷」
「へっ?熊ってゆうって読むの?」
「えっ?普通に読むじゃない」
…知らん。

と、またまたおバカなところを夫にもここでもバラしてしまった私。

ま、とりあえず、次に向かうのは【熊谷寺】さん、だそうで。

「じゃあ、あの熊谷さんの?」
「そう、熊谷直実の生家跡で、出家した後そこに庵を作ってそこで亡くなったらしい。そこをお寺にしたのが熊谷寺さんなんだって」

…ほう。

熊をゆうと読むことも知らなかったくせに、熊谷直実は知ってるのか、とまで言わないところが夫の良いところ。

そう、知ってますよぉ。

あの【敦盛】の直実さんでしょ?
あの、織田信長の『人生五十年…』で有名な敦盛の。


あぁ、また熱く熱く語っている。
「直実が出家したとされる理由は、は平家物語ではホニャララだけど、吾妻鏡ではホニャラララで、まるで異なるんだよ、でもよく考察するとホニャララララ…」

…私の耳、寝ぼけていたみたいです。右からも入らず、左に大半が抜けたみたい。
もう一度聞けば丁寧に教えてくれるのだけれど、もう一度聞くのは…いいかなぁ。

…ねぇ?

No.465 22/10/25 14:07
旅人 ( pu5bob )

でも、こんな私でも、実はバカではないらしく、風邪をひいたんです。
ほら「バカは風邪をひかない」って…。



…いやぁ、自覚はちゃんとありますって。
正真正銘の、太鼓判の捺されたおバカだってことは。
せっかく風邪をひいたので言ってみたかっただけです。


そんなおば(か)さんを乗せ、車は熊谷市へと。
ナビに案内をしてもらい、【熊谷寺】さんのすぐそばまでまいりました。…あれ?
入り口がない?
駐車場のないお寺さんというのもございますので、最悪駐車場は側にある有料駐車場を使えばよいかと思ってはいるのですが…、開いている入り口がないのです。

うーん?
門も閉まっております。
閉門の時刻ってことでしょうか?

一周半してみて、有料駐車場に車を置いて歩いて入り口を探すこととしました。
うーん?

やっぱり閉門の時刻がきた?
そこへ、明るく周りの人に話しかけながら自転車を走らせるおじさまがタイムリーにやってきました。
ええ、久方ぶりに『エックスキューズミーおばさん』の出番です。

「すみません、ここ、この熊谷寺さんの入り口ってどちらになりますか?」

「ないよ」
…ん?、へっ?
「だぁれもは入れないんだよ。近所に住んでる人だって入ったことない寺なんだ」
「えっ」
「本当なんだよ、法事とかあると開くんだけど、そういう時だけ。一般の人は入れないんだと」
「そ、そうなんですかぁ」

そうなんです。
熊谷寺さん、門扉に『参拝、観光等一切不可』と書かれた小さな貼り紙がありました。

「ええっ?!、そんなことどっこにも書いてなかったよ」とは夫。

…いや、それはあなたの読んだものには、でしょ。

熊谷寺さんのホームページにも、ネットに挙げられたブログ等にも書いてありますってば。

「当山はご先祖さまの報恩に感謝し、共に浄土の蓮の台に生まれんと願い南無阿弥陀仏と口に称える念仏道場です。
それ故、一般の観光や参詣、また朱印の押印等もすべてお断りしております。
お電話等いただきましても対応致し
かねます。」
って書いてありますって。
         

No.466 22/10/25 15:36
旅人 ( pu5bob )

「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか……」

織田信長がこの幸若舞【敦盛(あつもり)】の一節を吟じて舞い、桶狭間の決戦に臨んだエピソードは有名ですが、この「人間五十年」が当時の平均寿命を表したものと誤解されていることが多いようです。
かくいう私がそうでありました。

確かに信長が本能寺の変で亡くなったのは四十九歳、他の武将たちも多くが五十歳前後で亡くなっており、そのような勘違いも起こりましょう。

この【敦盛】、この「人生五十年…」のところだけがやたらと有名でありますが、この前後の部分を書き出してみますと、

『…思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
…』



そもそもが、『人間』って、つい〝にんげん〟って読んでしまいますが、〝じんかん〟と読むのですよね。
…そう、あの熊谷寺と書いて〝ゆうこくじ〟って読むように。

「人間(じんかん)五十年」とは、どういう意味なのか?
『人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり』とは、
「人間世界の五十年は、天界の一日に相当する。つまり人間の一生は、一夜の夢のようなもの」ということであります。

先ほどの全文を現代語訳すると

「思えば、この世は無常であり、永遠に住み続けることのできる世界ではない。
草の葉についた水滴や、水面にうつる月よりも、なお儚(はかな)いものなのだ。

晋という国で栄華を極めた「石崇(せきそう)」の華麗なる別荘「金谷園(きんこくえん)」も、風に散り、
四川・南楼の月に興じる者たちも、移り変わる雲におおわれるようにして、姿を消してしまった。
人間界の五十年などは、化天(げてん)での時の流れにくらべたら、まさに一睡の夢や幻のようなものだ。

一度この世に生を受けて、滅びないものなどあるはずがない。
これを悟りのいたる究極地点であると考えないのならば、それほど愚かで情けないことはないだろう。」

となるようです。

諸行無常、というわけですね。

No.468 22/10/26 06:13
旅人 ( pu5bob )

前回のレスに大きな誤りがありましたため、訂正いたします。
前回私が参考としていた資料では一ノ谷の戦いで討死したと書かれていた嫡子は重傷を負ったものの一命を取り留め、五十代まで生きておられたようです。
お詫びして訂正いたします。




この【敦盛】という歌は、源氏と平家の戦争、いわゆる【治承・寿永の乱(源平合戦)】の1つである【一ノ谷の戦い】を描いたものです。

瀬戸内海へと船で逃げ出す平家武者に、【熊谷直実】が追撃をかけます。

このとき、平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった【平敦盛】は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいました。
敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばし退却船も気付いて岸へ船を戻そうとするが逆風で思うように船体を寄せられず、敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいたといいます。
実はこれが敦盛にとって初陣であったといいます。

そこに熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にし、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑みました。
敦盛は直実との一騎討ちに応じましたが、悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまいました。

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。
直実は十六歳の息子熊谷直家がこの一ノ谷合戦で重傷を負い、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある十代の若武者を討つのを惜しんでためらったといいます。
ここでこの者を逃したところで、もはや源氏の勝ちは決まっており、あたらこの若き命を討ち取らなくともと思ったのですが、自分が逃したところで後からくる雑兵に討たれてしまうことは目に見えており、ならばまだ、名のあるわれが討とうと首を落としたといいます。

一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったものの、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめることもなります。
合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調(…この辺りの事を夫がブシャブシャ言っていたように思います)、
翌年には屋島の戦いの触れが出され、
また同じような苦しみを負う出来事が起こるのかと、直実は世の無常を感じるようになり、世をはかなむようになるのでありました。

No.469 22/10/27 05:38
旅人 ( pu5bob )

直実は、鎧直垂をとって頚を包もうとすると、錦の袋に入った笛が腰にさしてあるのに気づいた。
 
義経の見参に入れるにあたって、これを見て涙を流さないという人はいなかった。後に聞くと、 修理太夫経盛の子息太夫敦盛ということで、生年十七とのことであった。笛は名を小枝といい、祖父忠盛が鳥羽院より給わり、 経盛が相伝されたものを敦盛が所持していたのであった。

直実は義経に願って、敦盛の首とその遺品青葉笛をもらい請け、一紙の消息文をつけ、敦盛の父経盛のもとへ送り届けた。

末子の敦盛のことを、殊のほか案じていた経盛は、御首、遺物、書状を受け、「ありがたきかな、かかる人の手に討たれしば」 と、返書をしたためた。

(『平家物語』現代語訳より一部抜粋)


この経盛からの返書が、この熊谷寺さんに残っているのだといいます。

この手紙が熊谷寺さんのHPに全文載せられておりました。




No.470 22/10/27 06:04
旅人 ( pu5bob )

この経盛からの直実への返書が、この熊谷寺さんに残っており、その全文がHPにその全文が載せられておりました。

『…戦場の上に望んで何ぞ二度帰る事を思んや、生者必滅は穢土の習ひ、老少不定は常の事也、 然りといへども親となり子となる事先世の契約浅からず、釈尊も御子羅喉羅尊者を悲しみ給ふ、応神権化猶以て斯くの如し、 況や底下白地の凡夫に於いておや、然るに去る七日、打ち立し今日に至るまでその俤げ未だ身を離れず、来燕囀づると雖も其の声聞く事なく、 帰雁翅を双へて飛び帰ると雖も音信を通ぜず、必定討たるヽの由伝え承ると雖も未だ其の実否を聞かざるの間、何ぞ風の便りに其の音信を聞かん、 天を仰ぎ地に臥して神仏に祈誓し奉り感応を相待つ処、七ヶ日の内彼の死骸を見る事を得たり、是れ即ち神仏の与ふる所也、然る間、 内信心弥々肝に銘じ、外感涙之れを増す心を催し袖を浸す、但し生きて二度び帰り来るが如し、又是則ち相活きるに同じ、 抑々貴辺の報恩に非んば争で之を見る事を得んや、一門風塵皆以て之を捨つ、況や怨敵をや、和漢両朝を尋るに古今未だ其の例を聞かず、 貴恩の高き事須弥頗る下くし、報恩深き事蒼海還りて浅し、進んで之に酬いる未来永々たり、退いて然して報ずるに過去遠々たり、 万端多しと雖も筆紙に尽くし難し、併せて之を察せよ。
恐惶謹言  二月十四日
熊谷二郎殿 御返事 』
(当寺什物『経盛返状』)


…戦国の世、ということもありましょう。
しかしながら我が子の変わり果てた姿が、我が子を殺めた者から届くということに、礼状を書く、ということ。
…そういった時代を生きる男親と、私が女、という違いもありましょう。

変わり果てた姿といえども、我が子が手元に戻ってきたこと、そこに遺品として添えられた大切な笛に、親として有り難きことと思う事、なのかもしれません。

…まぁ、現代文とても使いこなせないおばさんですので、きちんと読めているかという問題点はあるにせよ、これを読んで気づいたら涙が流れておりました。


……やっぱり、戦はだめだよ。
戦争はだめ。

かつて辿ってきた歴史はそれはそれで、仕方ないことで、覆すことなどできないこと。

だけれど。
戦争はだめだってこと、人類はもう学んだものだと思っていた。思い込もうとしていた。

ロシアが核戦力関わる演習を始めたという。
なんと愚かな!

戦争をやめよ!


No.471 22/10/27 06:58
旅人 ( pu5bob )

武士とは所領の安堵のため、地位・ 名誉のために、戦さとなれば、多くの敵兵を薙ぎ倒し、ときには親兄弟までをもその手に掛け、多くの命を摘み取る者でありました。
それは力だけでなく智を以って…。

鎌倉殿を観ていてもまさにそんな武士たちの姿が描かれております。

熊谷直実もそんなひとりでありましたが、彼は武士としての道を捨て、有縁無縁の衆生と共に蓮の上に生まれる道を選びました。

敦盛を討ったことに起因するとする『平家物語』もありますが、夫も申していたように(ブシャブシャと、笑)、ここ熊谷寺さんのHPでは『吾妻鏡』の説を採っております。
と、いいますのも、法然上人絵第二十七巻によると、蓮生の出家の原因は将軍(源頼朝)との関係にあるというのであると書かれているといいます。
ここには平敦盛を心ならずも討ち取ったためなどということは一言も書かれておらず、蓮生の出家の直接の原因は所領争いの果ての始末なのだと書いています。
『吾妻鏡』にもそのように書かれているようです(夫の『ブシャブシャ』がまさにそれを述べておりました)。
もちろん敦盛を討ち取ったことなども影響を与えているのだろうと、夫も申してはおりましたが。

熊谷寺さんのHPでは『 こんなことまでしたのに、こんな仕打ちを受けるのか、という何ともやるせない思いが頭の中を占めたのが本当のところであろう。 なにはともあれ、このような経過を経て、直実は出家することとなったのである』と綴られていました。


親として子を思い、自らの手で殺めた者の親へと(本来ならあり得ない)遺骸と遺品を送り。

主君の御前であろうと、自分の意に沿わぬことがあるとプイッとその場を立ち去ってしまったという直実。

本来は武力にひいで、どちらかと言うと頭で考えるのが苦手だったと評される直実が、少しずつ念仏行者【蓮生】となっていく。


…なんとも人間臭くて私はさらに好感を持ちました。 


熊谷さん、と言ったら「直実」では無く「蓮生」と脳内変換できるようになったなら、熊谷寺さんの境内に入ることができる…のかなぁ。

No.472 22/10/27 14:31
旅人 ( pu5bob )

さて。

深谷市は私どもが秩父に向かう折に必ず通り、しかもほとんど同じ道を使って行くので、すっかり馴染になった道、光景があります。


今回は結構観ている大河ドラマですが、私、基本的にはほぼ大河を観ることはなく、少し前に大河となった渋沢栄一のものも観ていないので、「深谷市といえば」
と問われて答えるとしたら、
「ふっかちゃん」、
せいぜい「深谷ねぎ」かなぁというまさに小学生低学年レベルであります。
大河ドラマを観ていたら、まさにその渋沢栄一の生家のそばやら、渋沢栄一の通った学問所やらのそばと、まさにドラマの背景となった場所を通っていたのですが、私どもが今までに立ち寄ったところといえば【血洗島諏訪神社】さんくらい。

そう、渋沢栄一の出身は埼玉県深谷市血洗島という地名であります。

暦オタの夫も興味のある時代とそうでない時代はあるようで、もちろん渋沢栄一がどんな人物であるかは私の百倍くらい知ってはいるのでしょうが、さすがにこの血洗島というところの出身であることも、それ以前に血洗島という、地名自体知らなかったよう。
初めてこの地名を目にしたら、まず目をこすり、今読んだ文字が間違いだったのではないかと疑い、そして間違いでなかったことを知るとその由来は一体なんなんなんだろうと思う、『血洗島』というのはまたなんとも物騒な、おどろおどろした感じを受ける地名であります。


今回は深谷市血洗島のすぐそば、それこそ渋沢栄一の生家のすぐそば、学問所のすぐそばの【(下手計)鹿島神社】さんへ参拝してまいりました。

下手計という地名は「しもてばか」と読むのですが、この地名は南北朝時代の文献では「下手墓村」と記述されるといいます。
この文献記載時に上手墓村が存在したのかは不明だが、江戸時代にはすでに上・下手計村のニ村があったので、手計という地名から上下ニ村に分村したと考えるのが自然でありましょう。

この手計という地名、一説には、源義家が奥州征伐に向かう際にこの辺りで合戦となり、家臣の一人が腕を切り落とされて傷口を洗った場所が血洗島、その切り落とされた腕を埋めた場所を手墓と呼び、それが転じて手計という地名になったという伝承があるにはあるらしいです。

でも何度かの市町村の合併とかを経てなお、あえて残された地名であることだけは確かであります。



No.473 22/10/27 17:50
旅人 ( pu5bob )

こちら【(下手計)鹿島神社】さんの創立年代は不明だといいますが、天慶年間(938-947)、平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられるといいます。

以降『武門の守』とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったと伝えられています。

…この竹幌合戦における神の助けというのがどのようなものであったのか、ネットや『埼玉県の歴史散歩』など私なりに調べてみたのですが、なんともわからないのです。竹幌太郎なる人物も、竹幌合戦なるものもこの神社の由緒にしか出て来ず。
こちら鹿島神社さまは御祭神が武甕槌尊(タケミカヅチのミカド)さまでありますので、この合戦が勝利した、ということでありましょうか。


こちらの創建については、二つの経緯が考えられます。
第一に、当地に隣接する中瀬の地は利根川に臨み、かつて鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかります。
このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろ航海安全の神として信仰する宮常陸国一ノ宮鹿島神の神を当地に分霊したとする説であります。

第二は、かつて隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森、内ヶ島・田中などの村々には、「鹿島社」が祀られており、こちらは往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説であります。

いずれにせよ、『鎌倉公方足利基氏御教書』に、
貞和二(1363)年に、安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えた、とあることから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、こちらの創建もあるいはこの時代まで遡るのかもしれません。

No.474 22/10/27 19:07
旅人 ( pu5bob )

【下手計鹿島神社】さんは村社でありますが、その境内は広く、まずは大きな背の高い燈籠が立っています。
その先には石造りの鳥居が見えます。太い立派なしめ縄がかけられています。
鳥居をくぐるとすぐそばに、見上げる高さに狛犬さんがおられます。
そしてそのみぎてにはやはり大きく立派な手水舎がありました。瓦葺きの屋根ですが、瓦の一部に飾りであろう部分が造られています。
水は張られてはおりませんでした。

その先には。

大きな大きな…立ち枯れた木の大きな大きな切り株が目に入ってきます。
大きい!

これが生い茂っていたなら、境内の景色は一変するものでありましょう。
今は大きな木もないため大変明るい境内となっております。
枯れてもなお威厳ある、気を感じる木でありました。

視線を正面に戻しましょう。
拝殿が見えております。

広い境内に比してさほど大きな拝殿ではありません。歩を進めます。

おおっ!
な、なんと見事な彫りでありましょう!!





No.475 22/10/27 23:28
旅人 ( pu5bob )

拝殿は明治十四(1881)年に建てられたものといいます。
白木のままのものですが丁寧に彫られた彫刻がかえってよく鑑賞できます。向拝にもいわれあるであろう何かのお話をもとにした絵が彫られております。
もう古いものでありますのに、何故か木の匂いすらしそうな気がする、そんな心地のする建物であります。
軒唐破風向拝付きでともに入母屋造です。
『鹿島神社』と書かれた扁額の文字に見覚えがあるような気がしましたら、なるほど『従三位勲一等男爵 澁澤榮一』、渋沢栄一揮毫になる扁額でありました。

幣殿があり、本殿は覆屋に覆われていました。
本殿は文化7年(1810)に建てられ千鳥破風向拝付きであり、彫刻は地元である下手計の彫刻師大谷政五郎とその一門の作と伝えられています。
覆屋の格子には全面緑色の細かい金網が張られています。その隙間隙間から見えるシルエットが何やら今まで見てきた本殿の…というより普通の建物とは異なるようにおもえてなりません。
覗きぐせのあるおばさん、おそるおそる覗かせていただきました。

…!

息を呑むほど細やかに細かく丁寧に彫られた彫刻がそこには広がっていました。
躍動感あふれる人物たち!
優しい横顔。
差し出した手のやわらかく優しい仕草、流れるような布。
なんと素晴らしい彫刻でありましょう。

これは覆うわ。
覆って保護しなければならないと思うものだわ。

その場でしゃがみ込んで自然と拝んでおりました。

すごいなぁ。
すごい!



No.476 22/10/28 06:49
旅人 ( pu5bob )

手計鹿島神社さんの御本殿。

その背後からのシルエットが今まで拝してきた数々の御本殿の建物のものとは明らかに異なって見え、
ただ私の身長ではその背部からの姿は、覆屋の格子(さらに網越し)からはどう足掻いても拝することができませんでした。
側面の下の方から覗いてみらだけがやっと、でありました。

夫は?

夫はすでにこの本殿をあとにし、目的の建物を探しに向かっており、その建物を確認して戻ってきていました。

「〇〇堂さんはあちらにあるよ」
「…この本殿をちょっと覗かせていただいた方がいいかも。神さまのおられる所だから本来は失礼なことだけど。無理にとは言わないけど、…すごいんだよ」


夫はかつて、あまりの激痛から動けなくなりそのまま入院したくらいに腰が悪い。
入院してもなかなか動けるまでにはならず、何日も何日も横向きにすらなれず仰向きに寝たきりの生活を送ったくらいだ。
だから(?。…それは不敬に当たるから…なのでは?)無理に覗くこととかはしない。

ですが、この興奮している妻が薦めるものを見ないでその後に起こる悲劇を思って(…いや、その妻の名誉のために申しますが、覗きはあくまでも良い行いではない自覚もあり、無理じいをするつもりなどありません、ええ、本当に)、そおっと(腰を庇って)覗きみて、
「本当だ! すごいねぇ」



…見え…てる?
「見えてる?」
「うん。見えてるよ。すごいねえ」

私のテンションとは明らかに異なるものです。
まぁ、夫婦といえども他人。同じものを見ても同じ感覚にはなりません。

ですが、この日はなんだか肩も痛いと申しておりまして、おそらくは屈む、という姿勢をとるのはかなりきつかったのではないかとも思うのです。
しゃがみ込んでまで覗いた私とは見え方が違うかもしれない。

そんな肩、腰の痛いおじ(い)さんに、無理を言った自分を棚に上げて、さらに同じ感動を求めてるのか?

…いやぁ、そう、ではないつもりなんですが、たぶん、本当によくは見えなかったのだと思うのです。
そんな大変な思いをしてまで(しかも『不敬なこと』、と思っていたかもしれないのに)見せてあげたかったなぁ、と思っただけで。


それにしても。
この御本殿、覆うだけではなく、定期的に点検をした方がよい、それほど価値ある、後世に遺したいものであると思いました。

No.477 22/10/28 09:26
旅人 ( pu5bob )

その御本殿の後ろには、いくつもの摂社や末社が並んでおります。
拝殿の隣にも、拝殿よりは小さくは造られていますが立派な社殿が並んで建っておりました。

三峯講社と石祠。
本殿裏には香取神社さん。
社号を記したものが見当たらず、その場では何神社さんなのか判らなかったのですが、ネットで検索したところ香取様だと書いておられる方がおられました。

そのお隣にあります御堂が、夫の(…私もですね)一つの目的としてまいりました『手計不動尊』さまの御堂でありました。

神社さんなのにお不動さま?

…まぁ、神仏分離令にも負けずに護られた例はいくつかありますが、そもそもこちらの御堂がいつ建てられたものであって、お不動さまが元々こちらにおられたのかもわからないのではありますが…。

それはさておいて。


実はこちらのお不動さま。
私たちが目指してまいりました理由が、今年の九月に書きました珍道中録にあるのでありました。


えっ?

…となりますよね。すみません。

実はこちらの不動尊さまは、
私どもが今年の九月に参拝いたしました、群馬県前橋市の赤城山にあります【滝沢不動堂】に祀られておられます、お不動さまと深い関係があると言われているお不動さまであるのです。

滝沢のお不動さまは秘仏でありますため、私どもはまだそのお姿を拝してはいないのですが、実はこの滝沢不動明王さまは、右腕がなく、そればかりか火焔光背も両足も台座もないお姿だというのです。

その、滝沢のお不動さまの右腕が、こちら【(手計)鹿島神社】さんの不動明王像の胎内に納められている、とされているのです。


とはいえ、あくまでも伝承でありますし、何よりその右腕は胎内に納められているものです。お参りしたところで、その右腕を拝することができるわけではないのですが…。

しかもこちらの御堂も扉が閉ざされており、年一回の御開帳があるとき以外は扉越しの参拝となり、覗いたところで、壁に映った光背の影しか見えなかったのでありますが、ね。

そこにこだわるのが、…夫、なんですよ。
滝沢不動尊さまでその記事を読んだ時からずっと、こちらへの参拝の計画をあたためていたようで。

No.478 22/10/28 09:29
旅人 ( pu5bob )

奇しくも本日、お不動さまのお縁日。



…今日中に書き切ることができるかしら?

No.479 22/10/28 16:20
旅人 ( pu5bob )

実はこの滝沢不動尊さまの右腕を切り落としたとされるのはなんとあの【上杉謙信】公、とのことなのです。
謙信が小田原攻めの時に、戦場でのお守りにしようと切り落としたのですが、鹿島神社さんに宿をとった夜、
「この腕を持っていると戦に負ける」という神の御告げがあり、境内に埋めて戦場に向かったというのです。

なんとまぁびっくりな。

戦国の武将にはありがちなこと、…とか思われる方もあるかもしれませんが、謙信はたいそう信心深く、かつ思慮深い方であります(私の見解ですが)。
そもそもが昔の方というのは縁起もかつげば、神仏をたいそう崇め奉ったもの、いきなりお不動さまの右腕を切り落とすなどなかなか信じ難いもののよう思うのです。

まあ、これもあくまでも伝承に過ぎず、手計の鹿島神社さんの境内のあちこちにある由緒書や伝承の立て看板は、このお不動さまに関するものは一切ないのです。

上杉謙信に関係した話などが残されていたなら、誰かしらがその伝承を残す気がするんですけど…。

とりあえず、この『手計不動尊』さまがいつからこちらにおられるのかという言い伝えもまた残されてはいないようなのです。


江戸時代となり、こちらの鹿島神社さんは、近在の村々に点在する鹿島社に比べて、隆盛を極めたといいます。
実際、今なお境内も広く、またたいそう立派な彫り物の施された拝殿、本殿、神楽殿がございます。
実はこれは別当であった『常学院』の活動によるものであるといいます。



No.480 22/10/28 16:55
旅人 ( pu5bob )

『常学院』は、文化・文政期(1804-1829)に編纂された資料には埼玉郡酒巻村酒巻寺配下の『当山派修験』とあります。

同院の本尊は不動明王で、「手計不動」と呼ばれ、庶民に崇敬されるようになったといいます。これが現在の『手計不動尊』さまであります。
常学院が信仰を広めるため、庶人に配布した文政十二年(1829年)の縁起には、次のように載せられていたといいます。


『 源頼朝が平家追討のため、鹿島神宮に祈願した折、社殿鳴動し、にわかにわき出た黒雲が、すさまじい勢いで西へ飛び去った。
驚いた神宮の社人は、その後を追って西進し、ここぞと思う所に神木を植え、この奇瑞を鎌倉へ注進した。更に、源氏は兵乱の際、ここに本陣を置き、井戸を掘って軍勢の飲み水を得、軍神である鹿島・八幡の二神を祀った。

下って、寛政年間(1789-1801)に至り、かの神木が鳴動し、調べると神木の洞に塵芥蛇蛻で埋まった井戸があった。
これは神慮によるものであるとし、井戸を清めて神井とした。

このころ、近隣の里人の間に、この神井の水は神の加護がある神水であるから、病に悩めるものは、これを受け、あるいはその神水で身を清め、神に祈願すると霊験があるという信仰が起こった。
このため、こちらでは神水を薬湯とし、境内に浴湯舎を設けて参詣者を招いた。[神水で湯浴すれば人々俗念を脱去し、誠敬を凝し祈念せば、其冥応疑あるべからず] 』

というものであったようです。

江戸時代に庶人に配布した『武蔵国下手計村鹿嶋神社並神井浴舎之図』には、大きく枝葉を張り出した欅の巨木がそびえ、その威容に参詣者が驚いている光景が描かれているといいます。
庶人がこちらの井戸水を御利益のある〝御神水〟として受け入れたのも、鹿島の神の依り給う神木の根元から湧く水であったからにほかなりません。
かつて根元に湧いた御神水を沸かした浴湯舎で、かの渋沢栄一の母ゑいは、これを汲み、らい患者の背を流したと云います。

残念なことは、明治40年(1907年)に樹木の一部が、枯損したため、幹半ばから切らざるを得ませんでした。その後井戸も枯渇してしまい、現在に至るようです。

No.481 22/10/28 17:27
旅人 ( pu5bob )

手計鹿島神社さんの境内にある御神木の欅の木。

今は欅もこの欅の洞にあったという井戸も枯れてしまっていますが、その後は今も祀られています。
私どもは欅も井戸も枯れてしまったものを見ただけでありますが、それを見てどれだけびっくりしたことか!

欅の根元、ではないんです。
欅の洞の中、なんです。
欅の幹にある地面に接した洞に井戸が湧いていた、ということなんです。
それは目を疑うものでありました。
木の幹の中の洞に、天然の井戸の跡がしっかりと見てとれるのです。
(とはいえしめ縄や囲いの外から、ではありますが)

これ、今も水が出ていたら、私どもは間違いなくこれを「御神水です」と言うことでしょう。


鹿島神社さんの別当であった『常学院』さんは、かの明治の神仏分離令で消失し、そこの僧であった方が鹿島神社さんの宮司さんになったようです。


ただ…不動尊さまは今なお境内におられる。
その経緯は調べてみても分かりませんでした。
一旦どこかへ移されたのか、上へと働きかけてここに残されることが許されたのか。

ただ…。
もしかしたら、でしかないんですけれど、ね。
ここって、あの渋沢栄一の故郷も故郷、生まれ育った地元なんです。
この境内には徳川慶喜公のお手による石碑が建っているくらいの神社さん、なんです。

もしかしたら、他の寺院では許されなかったあれこれが、スッと許されたりしたことがあったのかもしれません。

修験道の寺院は特に風当たりが強く、修験道自体が廃止されることとなっています。
その一部を残すために、町全体、村全体が志願書を何度も何度も提出したり、何かを寄贈したりしてようやく許可を得ていたようです。


…まぁ、…もしかしたらというのは

あくまでも私の推測です。推察であります。


また、手計不動尊さまの胎内に滝沢不動尊さまの右腕が納められているかどうかもわかりません。
手計不動尊さまの造られた年代すらが推定されたものに過ぎません。

歴史って…分からないから浪漫、なのかなぁ。

その辺は私には良くはわからないこと…なのです。

No.482 22/10/30 05:27
旅人 ( pu5bob )

【伊豆山神社】さん。

かつてここミクルで、ある方が薦めておられた神社さん。 
いつか必ず、と思っていたところにこのコロナの時代に突入してしまいました。

移動制限される時代は終えたものの、ただ単にアフターコロナの時代として大きく帆を向けて進み出しただけ。
しかもそこに追い打ちをかけるよう、ガソリン代の高騰、物価の高騰、多発する規模の大きくなった自然災害、と日本…いえ、世界が大変な時代に突入しております。


かつての日本人は、こうした時神仏を崇め神仏に祈って生きてきた。
…でも。ただただ神仏にすがって生きていたわけなどではなく。
そこにあったのは神仏を通して学んだ〝教え〟他人への思いやりという人として本当に大切なものをしっかり矜持してきたのではないかと思うのであります。

『人に感謝し、自分を取り巻き自分を生かしてくれているすべてのものに感謝し、今日生かされていることに感謝して生きる』ということを、…それこそ明日の生活さえおぼつかない日を送っても、明日という日が来ることすら信じられないような荒れ果てた時代を生きていても、【感謝】の心を忘れずに生きることを脇侍して生きてきたのだと思うのです。


今、『鎌倉殿』に触発されて伊豆に行きたい思いが再び強く湧きあがっております(夫が 笑)


このコロナの時代はいつか征圧できる時がくるのか…それはいつのことなのか…。

呼吸器疾患を持病とする夫は、できうる限りこのコロナへの罹患は避けたいものであります。
命あれば、いつかは必ずまた行きたいと思うところへ行ける時代もまいりましょう。

けれど命には限りがあります。
その〝時〟がいつなのか、誰にも、誰も分からない。

コロナを怖れて自粛するもよし。
コロナを恐れずよりしっかりとした対策をして行動することもよし。


『命短し恋せよ乙女』ともいうではありませんか。
今の思いを封印したまま、あれも我慢しこれも我慢して生きるのではなく、人として失ってはならないものを脇侍した上で、少しでもこの生活の中に心の潤いを自ら与えながら、笑顔で生きることこそが、大切なのではないかなぁ、と。


時代を嘆いてばかりでは前へは進めない。先人が道を作ってきたように、同じ過ちは犯さぬようにしながら前へ進むしかないのです。
歩みを止めていたところで現状維持は保たれるわけではないので…。

No.483 22/10/30 14:52
旅人 ( pu5bob )

コロナの時代は続きますが、ミクルで出会ったあの素敵なご夫婦が、来春二人揃って伊豆山神社さんへの参拝が叶いますように、祈っております。
来春も、来来春もずっとずっと。


私たちは…いつ行けるかなぁ。

とりあえず、鎌倉殿のブームが終わってから、かな。

うーん。

ちなみに、夫は伊豆山神社さんの他、『三嶋神社』さん、『修善寺』、『北条寺』、そして『箱根神社』さんへと行きたいといい、もうすでにルートまでスマホに入れてあるようで…。

はあ。

No.484 22/11/01 06:11
旅人 ( pu5bob )

月を眺めるのが好きです。
月の光に照らされているとなんだか心を浄化してくれているような気がいたします。
心が穏やかになり、それでいて少しワクワクするような高揚感も湧いてきます。

昔から、それこそ世界中の人々が、月を見上げて月を大切なものと思い、あがめて、あるいは憧れておりました。
日本では月にウサギの姿を思い浮かべ、竹取物語では姫は月に帰っていきます。
アポロやソユーズが月面を目指したのも、そんな思いの行き着いた地点、なのかもしれません。

「涅槃図」には上空には満月が描かれています。
自分の生命の終焉を悟っていたお釈迦さまは、自ら満月の日に沙羅双樹の下で眠りにつくことを選んだと言われているともいいます。

私は涅槃会にあたる日の生まれですので、人よりも少し月を恋う気持ちが強いのかもしれません。(とはいえ私の誕生日は新暦なので旧暦のように満月であったかどうか…)


月の誕生は地球の誕生(約46億年前)から少し後のことと言われています。
現在有力な説として、地球創世記以降に衝突した巨大隕石等が宇宙空間に散乱し、地球の周回軌道上で集まった塊が月となり重力が発生。
周回軌道から飛び出そうとする遠心力と、新たに天体となった月の重力と地球の重力が引き合った結果として、約45億五千万年にはほぼ現在の配置となり、地球と着かず離れずの距離で周回している、というものです。

月の重力は地球への影響も強く、潮の満ち引きだけでなく、天候や農業や人体へも影響があります。
新月や満月のときは太陽・地球・月が一直線上に並び、重力バランスの変化が地球にも大きな影響を与えます。
植物は満月の前に芽が出ると順調に育つといわれ、昆虫は満月の日に一斉に羽化するといわれています。
出産が妙に多い日、となることが多いと産婦人科の先生や助産師さんが口を揃えておっしゃいます。

そんな『月』。

月の大きさが違っていたら、
もう少し月が遠くや近くにいたら、
現在の〝ちょうどいいバランス〟は成り立ちません。
地球の軌道も変わってしまい、地表の温度は極端な寒暖を繰り返します。月がないと地球は生命活動が出来る環境ではなくなるのです。

太陽-地球-月という絶妙なバランス。お互いが支え合ってまわっている〝輪〟の中で私たちの生命もまわっています。
たくさんの奇跡を乗り越えて生かせていただきまわっているのです。


No.485 22/11/01 07:10
旅人 ( pu5bob )

本日は上弦の月。

今朝は晴れて星も見え、お月さまも拝むことができましたが…。
何やら夜には雨の予報。

とりあえず今日は朔日。
地元の総社にあたる神社さまにお参りさせていただきます。


それにしても月日の過ぎるのは早いなぁ。…これでは歳をとるものだ。ボケないように祈願してまいりましょう。


うーん、自転車で行けるかなぁ。
脳を鍛えるには運動、らしいけれど、一人で運動するのはドクターストップかかってるんだよなぁ。

No.486 22/11/01 16:14
旅人 ( pu5bob )

いつも参拝させていただいている神社さんへの朔日参り。
自転車で行けたのはいいけれど、五キロの道のりを走ってきたので、いつも通りの御礼と祈願をして帰宅してしまい、大切な追加項目ボケの進行防止祈願を忘れてしまいました。

うーん、ボケは確実に進行しているということでしょうか。うーん、困ったぞ。
いやいや困るのは子供たちですって。
うーん。

No.487 22/11/02 06:43
旅人 ( pu5bob )

坂東三十三箇所は、源頼朝公の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが、西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期に開設につながったのだといわれています。

頼朝公が観世音菩薩に深い信仰を寄せていたことは、あの、『吾妻鏡』にも書かれているそうです。
まぁ、『吾妻鏡』を漫画ですら読んだことなく、『鎌倉殿の十三人』すら飛び飛びでしか観ていない私は、その辺をあまり語る資格がない人間でありますが。
それでも何度か参拝させていただいている神奈川県鎌倉市の【杉本寺】さんで、そういったお話を聞かせていただくことができました。

坂東三十三観音霊場の巡礼も、いつかはと、…いつかはとは語り合ってはいる珍道中ペアなのですが、なにしろ片割れがほとんど移動の運転の戦力外であることと、どうにも出不精なペアでなかなか重い腰が上がらないで現在に至っているのが現状でございます。
(お前がもう少し運転すればいいのだろう!)

そんな珍道中ペア、それでも巡礼という形でなければ、いくつかのお寺さんを参拝させていただいてはおりますが、私、今ひそかに行きたいと願うお寺さんがあるのです。

それは、まさについ先日行った埼玉県の比企郡にあります、第九番霊場【慈光寺】さん。

こちらは、天武天皇の御代に、僧慈訓が千手観音堂を建てたのがはじまりと言われ、また同時期に役行者が修験道場を開いたのだといいます。

後の宝亀元(770)年に、鑑真のもとで律宗を学んだという道忠が慈光寺を創建、平安時代には、天台宗の別院となり七十五坊を擁す大寺院に発展したといいます。

頼朝公は伊豆の流人だった頃から信仰し、治承三(1179)年署名入りの梵鐘を鋳造させ奉納したといいます。

文治五(1189)年には日ごろから信心していた愛染明王像を贈り、この像を本尊として奥州征伐の祈祷を行うように、別当の厳耀(げんよう)や僧兵らに命じています。


そして。菅谷館を本拠としていた畠山重忠もこちら『慈光寺』さんを信仰し、かの奥州征伐の祈祷を行った厳耀は重忠の伯父であったといわれます。

畠山重忠の末子重慶は、元久ニ(1205)年、重忠が北条時政の謀略により、武蔵国二俣川で討死すると
、上小寺(現在の小川町)の曾祖叔父の重遠を頼って、重忠の遺髪を埋葬し、慈光寺に登って別当に就任したといいます。


ここにお参りするなら…今でしょ。



No.488 22/11/02 07:16
旅人 ( pu5bob )

ただ。

これで終わらないのが鎌倉のドロドロ、泥々とした、殺掠ばかりの時代であります。
『吾妻鏡』によると、建暦三(1213)年、日光山別当の弁覚(日光山二十四世)の使者が鎌倉を訪れます。
才覚は実朝公の護持僧であり、ちなみに、日光の四本龍寺(輪王寺の境外寺)の三重塔は、1241年仁治ニ(1241)年に実朝の菩提のために弁覚が創建したものであります。

報告された事は、畠山重忠の末子・重慶が日光山の麓に住んで謀反を企てているというものでありました。

それを受け、実朝公は、長沼宗政に重慶を捕らえてくるよう命じたのですが、なんと、宗政は下野国から重慶の首を持って帰着したのです。

実朝公は、
「畠山重忠は罪もないの討たれた。その末子が謀反を企てたとするなら、捕虜にして調べるべきであるのに殺してしまうとは」
と嘆かれたといいます。

その事が宗政に伝えられると 「重慶の謀反は疑いない。生け捕ってくると、政子様や女官の願いで許されてしまうだろう。だから殺した」
と主張し、さらに、
「当代は、蹴鞠を業として、武芸は廃れたようなもの。女官を部下とし、勇士はないのと同じ」
などの無礼な言葉を吐いて御所を去ったのだといいます。

まぁ、幼くして将軍となった実朝公はその頃からかように陰口を叩かれていたようではありますが、宗政は問題発言の多い武将で有名であったようです。


やだやだ。

テレビの鎌倉殿もそろそろこの頃を迎えようとしているようです。(あるいはもうちょうどその頃?)

和田義盛さんのファンも多そうです、また和田義盛ロスが、鎌倉殿のファンの人々を襲うこととなりましょう。




慈光寺さんに話を戻します。

慈光寺さんの御本尊の木造千手観音立像は、天文十八(1549)年の造立とのこと。
さすがに創建当初のものではないようです。

こちらが秘仏であられるようで、毎年四月の第二日曜日と四月十七日に開帳されているとのこと。


うーん、やっぱりその時、かな。



No.489 22/11/02 15:51
旅人 ( pu5bob )

このスレで、群馬県には【上毛かるた】なるものが存在し、『あいうえお』を覚えた県民ならそのほとんどがその存在を知り、全ての読み札を暗記しているといえる郷土かるたが存在することを度々書いてきております。

群馬県の歴史や風土、名産物などをテーマにしており、作成されたのは終戦まもない昭和二十二(1947)年のことだったといいます。
その後絵札は全面的に書き換えが行なわれたものの、読み札はな、なんとたった一枚の読み札の改訂を繰り返しているのみ。(…とはいえ、読み札の裏面にある、その札の内容解説は改訂をされているのかもしれませんが)

まぁ、私などはこのかるたからまだまだ学ぶものがあるという情けない大人なのですがね。

そんな上毛かるた。
な、なんと! 
情報発信を目的とした【上毛かるた館】が明日11/3に、群馬県東吾妻町岩下というところにオープンするのだといいます。
NHKの地方版で紹介されていたのですが、駐車場と館内を絵札のパネルや看板で埋め尽くした『上毛かるた』に特化した施設だというのです。
…そ、そこまでしなくとも…。

「上毛かるたの美術館であり、博物館でもある。遊びながら楽しめる聖地になれば」と期待しているとのこと。

それも、この『上毛かるた館』、東京都にある食品製造販売会社さんが企画し、関連会社が運営するのだということを聞いてさらにさらにびっくり!!
そこの社長さんが群馬県出身だったりするのでしょうか。そこまでは述べられていませんでしたが、この施設、儲かる気がカケラもありませんが…。

ん?えっ?
な、なんと入館無料と!!

お土産品などは置かれるようですが、一体なんの目的で?

館内の様子が少し紹介されていたのですが、現行の全絵札のかなり大きなパネルと解説文が並んでいました。
う、うーん…。

1947年の初版、65年の改訂版の絵札も紹介しているといいます。
まぁ、これを是非見たいと思う世代ももう結構な年代な気がいたします。


ちなみに私はいまだにこの読み札全部、つかえることなく全て暗誦できますが、群馬県出身者だと「だから何?当たり前でしょ」と言われるレベルのもの。


うーん、行かない、かなぁ。珍道中ペアは。
孫を連れてでも行かないかなぁ。


読み札でたった一枚、改訂が繰り返されているのは、群馬県民の県民数。
まぁ、それは…変わるものですよね。

No.490 22/11/02 23:04
旅人 ( pu5bob )

坂東三十三観音霊場のことを書いたら気になって仕方がない。
煩悩おばさんだからしかたない。

何が気になったかというと、…坂東の三十三観音霊場はどこがまわってあるのだろう、ということ。

あまり三十三観音霊場を意識することなく、お寺さんを参拝させていただいていたものだから、あらためて振り返っても、さほどまわった記憶はないのだが…。

第一番  杉本寺
第三番  安養院田代寺
第四番  長谷寺
第十三番  浅草寺
第十五番  長谷寺(ちょうこくじ)
第十六番  水澤寺
第十七番  満願寺
第十八番  中禅寺
第十九番  大谷寺
第二十番  西明寺
第二十一番  正福寺

…ちょうど三分の一。

全行程約千三百キロ、徒歩で約四十日と言われています。…徒歩?
無理無理無理無理!


…昔の人はえらいなぁ。
つくづく思うのです。
布教のためとか、戦さとか、ありえない距離を車も電車も無かった頃移動しています。
それでも武将なら馬等を利用してはおりましょうが。
巡礼もお遍路さんも、それはそれはすごい距離を徒歩で移動しております。

そこへいくと現代では車での移動ができます。公共交通機関も。
…それなのに、重い腰がいっこうに上がらない私たち。

〝いつか〟は一体いつなんだ。

No.491 22/11/03 02:56
旅人 ( pu5bob )

昨日、季節外れのあたたかな一日を過ごさせていただいた恩恵の副産物。

…蚊が飛んでいる。
あわれ蚊と呼ぶようで、こんな時期まで生き残った蚊を哀れんだ、いにしえ人は、この蚊を打たずにそのままにしたという。


うーん。
命をつなぐために思いっきり吸ったんだなぁ。…痒いんですけど!
打たずに我慢、かぁ。

せめてキーンって言わないで。

No.492 22/11/03 09:09
旅人 ( pu5bob )

『 認知症患者の男性=当時(87)が廊下で転倒して重い障害を負ったのは、看護師が転倒を防ぐ対応を怠ったためとして、男性の家族が兵庫県に約2575万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が1日、神戸地裁であった。
 裁判長は「転倒する恐れが高いことは予見できた」などとして、約532万円の支払いを命じた。
 判決によると、男性は16年4月2日早朝、看護師に付き添われトイレに入った。看護師は男性が用を足す間に、別室患者に呼び出されて排便介助に対応。男性はその間にトイレを出て廊下を1人で歩き、転倒して外傷性くも膜下出血と頭蓋骨骨折のけがを負った。男性は2年後、心不全で亡くなった。』


…これは、辛い。

転倒され重い外傷を負われた患者さんには申し訳なくも思うのだけれど…、
この判決は、あまりに認知症というものを知らなすぎる。
認知症の対応をしたことがある人にしかわからない。

転倒の予見はできていたって…?そんなのはその年齢であれば、入院された時からすでに予見なんてしてますって。

ベットを降りたという離床アラームが鳴ってすぐ駆けつけたって間に合わないことだってあるんです。ベットサイドにマット敷き詰めたところで、その〝予見〟のさらなる上を行くのが『認知症』なんです。

オムツ対応にしたところで、それを納得したかの返事をしていたって、数秒後には「私は大丈夫だから」ってオムツを捨てて、動き出す、それが認知症なんです。

そして。
医療の現場、介護の現場を知らなすぎる。

損害賠償請求は県に対してのもののようだけれど、担当されていた看護師さんのメンタルが心配です。


全てを学んで知っていくというのは、それはそれは大変かもしれないですが、少なくとも人を裁くに当たってはもっともっともっと、現場の声を聞いて、認知症を学んで知ってほしい。


誰も認知症になりたくてなってはいないです。

現場の方々もそれはそれは胸が熱くなるほどの愛情を込めて接して下さっておられます。



…そして、かの国が今日もミサイルを複数回発射して、日本では緊急アラートが連発している。


朝からいろいろイライラすることだ。



No.493 22/11/03 17:03
旅人 ( pu5bob )

珍道中のかたわれ、…でも、実際はは私を行きたいところに連れて行ってくれる存在であり、しかも私レベルに添った解説をしてくれるガイドもかねている、一粒で二度美味しい、どこかのキャラメルのような夫であります。

そもそも珍道中とは言っておりますが、ひとえに私がペアを組んでいるからなだけで、彼単体で参拝に行けば、ごくごく普通のお詣りになるのでありますが…。


そんな夫、実は青面金剛(しょうめんこんごう)さまが好き。
青面金剛さまの石像を見つけると「おおっ、青面金剛さまだ♡」と嬉しそうに写真におさめさせていただいています。

今日は庚申の日。
青面金剛さまのお縁日、と言ってもよいかと思います。

庚申日とは、庚申待(こうしんまち)という、日本の民間信仰の行事を行う日として有名です。
仏教では庚申の御本尊を青面金剛さまや帝釈天(たいしゃくてん)とし、
神道では猿田彦神としてお祀りし、夜を徹して過ごす、といったものです。

宗教によって、おまつりする神さまや仏さまが違うというのがなんとも日本らしいところで、まさに庚申日とは、日本独自に発展した、いかにも日本らしい日、であるようです。

何故、そのような違いが生じたかというと、もともとは道教の教えから日本に入ってきたものであるので、それが独自の発展をし広がっていったもの、だからなのです。

道教では、 三尸(さんし) という虫が人間の体内にいると考えられています。
庚申の日の夜、人が眠ると、その者の体内にいる三尸の虫が抜け出て、天帝に罪過を告げるという言われています。

三尸の虫とは、常に身体の中にいてその人の行いをじっと見張っているという、下尸、中尸、上尸という虫。
この虫が天帝に告げ口をしに行かないよう、夜通し起きて見張っているという行事が『庚申待』です。

しかも一人だとどうしても寝てしまいがちなため、みんなで集まって夜通し起きていようという風習ができたといい、その歴史は古く、なんと平安時代から行われていたそうです。
あの『枕草子』にも庚申待の話が登場するらしいです。

当初は公家や僧侶のみが行っていて、夜通しすごろくや詩歌管弦を楽しんでいたといいます。


それが江戸時代には民間にも広まります。

とにかく「寝てはいけない」。
民間にも広まってからは詩歌管弦どころではなくなりました。



No.495 22/11/04 06:24
旅人 ( pu5bob )

江戸時代となり、『庚申日』が庶民の間に広まってからは、集まって囲炉裏を囲み、寝ずに酒盛りなどをしたり、眠らないように顔にスミを塗ったり、胡椒をかけたり、太鼓を叩いたり濃いお茶を飲んだり、etcしたといいます。

庚申日は六十日に一回やってくるので、一年に6~7回はこのように夜を過ごす日となりました。

ただ『庚申さま』は月のモノや出産の汚れを嫌うといい、女性は飯の準備や片付けが役目で、男性だけ参加できるというものであったといいます。

こんな風に書いてしまうと、ただ夜通し騒ぐだけの日と勘違いされそうですが、あくまでも庚申さまへお参りする日、であります。

庚申さまとは体内にいる三尸の虫を退治してくれるという日本独自の神さま(もしくは仏さま)であられます。
帝釈天さまや猿田彦神さまなどといろいろいらっしゃいますが、一般的に「庚申さま」と呼ばれている仏さまは、【青面金剛明王(しょめんこんごうみょうおう)】さまであられます。

もともとは疫病などを撃退する仏さまでしたが、三尸の虫を追い払う力があるとして、庚申まいりでは『青面金剛明王』さまを奉ってお参りするようになったといいます。

庚申さま=青面金剛さまを拝むことによって、三尸という虫を退治してくださる以外にも、病などの災厄から守ってくれたり、願い事を叶えてくれたりするというありがた~い考えが広まってまいります。

庚申さま信仰とは、病気平癒や厄除けなどのご利益もあると考える日本独自のもの。

庚申さまを祀るのは神社や寺院ばかりではありません。

江戸時代には、庚申講(庚申待ち)を三年、十八回続けた記念に、庚申さまを描いた石碑や庚申塔、庚申塚があちこちで建てられ、それらを供養することでご利益があると考えられていくようになります。

庚申塔、庚申塚と呼ばれる石碑には一般に、『青面金剛』さまと、その上に〝太陽や月〟下には〝鶏〟、そして『見ざる聞かざる言わざる』で有名な〝三猿〟が彫られています。
三猿は庚申さまのお使いとされているといいます。

『庚申』『庚申講』などの文字だけが彫られたものもあります。

これらの石碑や石仏さまは、お寺や神社の境内だけでなく、辻などさまざまなところに建てられています。


ちなみに…夫のスマホには青面金剛さまだけを集めたページがあるようですよ。

No.496 22/11/06 07:03
旅人 ( pu5bob )

仕事をしていた頃、さまざまな悩みを抱えました。

まぁ、まず筆頭はお決まりの人間関係。これは生きている限りはどんなに仕事先を変えようと、程度の差こそあれ、必ずついて回るもの。
人間界に生きていて、人間関係がないわけはないので。

…とか言ってもわたし、小さなことも抱え込んで、あれこれと悩み、起きてもいない先のことまで心配するタイプの人間なので、これは結構大きなストレス。

で、仕事を辞めたところで、嫌な人間関係ってどうしたってついて回るんです。
そ、人間だから。

それをどう乗り越え、乗り切るか。
私はそういったことが大変下手な人間ですので、いつもくよくよしがちです。

近所のおば(あ)さんたちは、人生の先輩とばかりに、お散歩がてら意見をしていきます。
「あんた、仕事辞めて一体何してるん!」
…〝!〟を、あえて付けるぐらい、小っちゃいおば(あ)さんが仁王立ちになって、それこそ仁王さまのような顔をして言ってきた時、私は、この人の、この言葉の真意がまるで読み取れず、返す言葉につまりました。
でもおば(あ)さんはそのまま、返事を待っているようなので、辞めた理由を正直に伝えましたが。
そうしたらおば(あ)さん、打って変わったように、
「そうかい、そんなに血圧が低いんじゃ動くんも大変だ、よく仕事してたね。家にいたら家にいたで女はやることがいっぱいあるんだからね、そうかい、そうかい、大事にするんだよ」

…仕事を辞めた人間って、社会からの孤立感とかを痛切に感じるし、自己存在感?自己有用感?とかが下がるし、自由を手に入れてるわけでもないんです。
ましてや定年前とかに辞めると殊更に。
そうそう、結婚を機にとか、出産を機にとかも、大きいんですよ、世のご主人さま方。

今の世の中、仕事も家事も育児もみんな頑張ってる女の人が多い中、どうしたって、専業主婦は肩身が狭い。
結構、世間は面と向かって言うんですよ、「仕事をしないんですか」
もっと辛辣な言い方も多々。


人間は悩むもの。
それはお釈迦さまもおっしゃっておられるので避けられない。
しかも四苦八苦。
…生きるって大変です。


で。
仕事で人間関係に悩んでいた頃、図書館で、『ほっとする禅語』なる本を借りてそこに書かれた言葉に癒されていたことを思い出しました。

そうだ!『禅語』だ!と。



No.497 22/11/06 07:31
旅人 ( pu5bob )

子どもの頃、私は本を読むのが大好きでした。家には本好きの父の揃えた蔵書から、その父が姉が産まれてからその成長に合わせて買い揃えた本が溢れるほどにありましたし、図書館の存在を教えてくれた同級生もおりました。

へぇ…。
ランドセルを放り投げて遊びに行くような子ども時代かと思ってた。

…そう思われた方、それはそれで当たりです。

好奇心の塊で、なんでもやってみたいというタイプでありました。
同じ学区とは言えども地区が異なれば、自分の住んでいるところとはまるで違った空間で、見るもの聞くものすべて新鮮でありました。
神社、という存在をはっきりと意識したのも、実に同級生と遊んだ経験からであったくらい。

間違いなくランドセルを置くやいなや、行ってきまーす、と出かけるタイプでありましたし、今とはまるで真逆で誰にでも話しかけて、そこで偶然一緒になった男子上級生とでも遊んじゃうような、そんな子どもでありました。
そ、出る杭は打たれて、今はすっかり真逆でありますが。

でも、雨の日もあるし、休日もある。
習い事のある友達と遊べない日もある。

本屋さんも大好きで、小学生の時分から入り浸っていました。
どうしても欲しい本に出逢うと、飛んで帰って祖父母や父にねだり、説得して、お金を握りしめてまた本屋さんに直行する。
…お小遣いはもらっていなかったので、この取引が欲しいものを手に入れる唯一の手段でありました。
お年玉は全額を母に預けなければならなかったので、本当、必死になって訴えました。
お友だちと駄菓子屋さんに行く時も、祖父母や父がいなければ、一文無しで、お友だちが買うお菓子を買う様子、食べる様子を眺めるしかなかったくらい、手持ちのお金がなかった子ども時代でありました。

駄菓子は我慢できても本は我慢できなかったんです。
今は、…両方我慢しない大人になってしまっていたので、終活や健康維持のため、自らに我慢を覚えさせている…そんなダメダメなやつであります。


No.498 22/11/06 07:52
旅人 ( pu5bob )

そんな本好きな子ども時代、禅僧のやり取りを書かれた本を読んで、
「いつかこんなことができる大人になりたい」とまで思ったというのに、今の私ときたら、『禅問答』どころか、語彙力すらなく、国語すらおぼつかないおば(あ)さん。

ああ、情けないこと。

今更取り返せない私の頭脳、ではありましょうが、私なりに学ぶことはできる。

かつて癒された『禅語』をもっと学ぶことだってできる。仮にすぐ脳みそから抜け落ちても、今はテストも評価も、人さまに迷惑をかけることも何一つないから。

抜け落ちてもまた拾えばいい。

ま、そうやって、やり直していたり、新たに学び出しているものがいくつか。

それに、歳を重ねてからの学びって、飽きたり合わないと思ったら、スカっと捨ててかまわないという、素晴らしいものなんです。

いろいろ学びたいことが出てきて、なんなら、学校時代の時間割でもしたら…とも思ったのですが、きっと、それだけできっともう嫌になる。

ああ、私って…。


夫が起きてこない日曜の朝。
こんな駄文を書きならべていないで、それこそ学びの時間に当てればいいのに、と自分でも思うので。

…。

さあ、洗濯を干そうっと。



No.499 22/11/06 22:48
旅人 ( pu5bob )

【禅】とは、禅宗の略称ということも実に初めて知りました。
あの坐禅を指すとばかり思っていました。

その禅宗、中国から日本に伝わった、【臨済宗】、【曹洞宗】、【黄檗宗】などの宗派をまとめた総称として禅宗と呼ばれています。

夫の実家の檀那寺は『曹洞宗』、「そうか、禅宗だったんだ」と思うくらい禅宗っぽさはありません。
…おい、禅宗っぽさってなんだよと、自分で自分にツッコミを入れそうですが、檀家さんに向けての行事とかをほぼ一切行わないお寺さんということもあり、坐禅会などはもちろん、施餓鬼会もなければ、節分もなく、法事のあとの説法も、禅語一つ出たことがありませんでしたので。
そもそも、繰り返しになりますが私の抱く、〝禅宗っぽさ〟っていうのが怪しいものなんですがね。

でも、調べてみましたところ、
『禅が目指すものは、精神の統一、そして人間本来の生き方をするというもの。禅宗には精神統一の修行のために坐禅を行うという共通点がある』とか。
…まぁ、御住職は人知れず坐禅を組まれておられるのかもしれません。


この〝禅〟という言葉は、インドのサンスクリット語の『デイヤーナ』、パーリ語の『ジャーナ』を漢訳したもの、だといいます。
『禅那』という漢字を当てはめ、〝那〟が落ちて、【禅】という言葉になったといわれます。
また、『ジャーナ』とは、『定(禅定)』『思惟』などとも意訳され、それは精神の統一、つまり瞑想と同じような意味と捉えられました。
仏教における瞑想とは〝坐禅を行うこと〟を指すので、禅と坐禅は同様の意味になるといいます。
おお、私の思っていたこともハズレではないのだなぁ。

『坐禅』は、静かに姿勢を正して座り、自分自身を見つめ直します。一つのことに心を注ぐことで、執着することや思い込みを捨て、真っさらな心で自分や物事を捉えられるようになることを目指す、といいます。

仏教の創始者である【釈迦(ゴータマ・シッタールダ】は坐禅を組み、瞑想する中で悟りを開き、【仏陀】となりました。

仏陀は、すべての生きるものには生まれながらにして仏性が備わっているということを悟ります。
もともとは清らかで罪などない真っさらな心(仏性)を皆持っているのに、迷ったり悩んだり悪事を働いたりするのは、執着や思い込みなどにとらわれているからだと気づかれました。



No.500 22/11/06 23:09
旅人 ( pu5bob )

【禅】では仏陀の教え(仏法)を、『坐禅』や修行を通して追体験をし、学び、受け継いでいます。
師匠から弟子、禅僧から修行者へ心と心を通して仏法が受け継がれます。その教えを伝える過程でできたの【禅語】というわけです。

『禅語』とは、短い言葉の中で『禅の教え』を説いたものです。
『禅』、特に『臨済宗』では、【禅問答】という、師弟が禅の理解度を問うやり取りがあります。

禅宗では修行者に対して、優れた禅僧などの先人と同じことを体験させ、その悟りのきっかけと同じ心境を体感させようとします。この禅の悟りを確認するためのものが『禅問答』であり、この禅の悟りとなるきっかけである問題は『公案』と呼ばれているものなのだそうです。

『禅語』は、この公案から引用された言葉をはじめ、禅僧の言葉やエピソードなどを表したもので、禅の世界が凝縮されているもの、といえるようです。

つまり禅語とは、禅宗の教えを伝える言葉で、禅の教義や禅問答の公案、禅僧の残した著述から引用されています。

禅宗の歴史として、

・紀元前 釈迦がインドで悟って仏陀となり、法を説く。

・5世紀ごろ 釈迦から数えて28代目の弟子・菩提達磨が中国に渡り、禅を伝える。

・7世紀ごろ 中国が北宗と南宗に分かれる。禅宗は中国全土に広まり、大流行する。

・13世紀ごろ(鎌倉時代) 南宋に渡った栄西が帰国して臨済禅(臨済宗)、道元も中国に渡って帰国し曹洞禅(曹洞宗)を伝える。

以降、各地に禅寺が建立され、武士から庶民まで、禅宗は広く日本全国に広まり、日本文化や芸術の分野にまで染み込んでいきます。
江戸時代ごろに臨済宗から黄檗宗が独立します。

…。



…というわけで、このスレもこの回をもって五百を迎えました。
このような駄文をお読みくださっておられる方、本当に本当にありがとうございます。

ボケ防止、ならば良いのですが、すでにボケは生まれつきで、ですのでボケ進行予防のため、私のさまざまな珍道中は続きます。

エッセイというのも烏滸がましい、ただの駄文でありますが、よろしければまたお付き合いいただければ大変嬉しいです。



 (秩父八番西善寺さん)

投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

新しいレスの受付は終了しました

前スレ・次スレ

小説・エッセイ掲示板のスレ一覧

ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧