地獄に咲く花 ~The road to OMEGA~
30XX年。地球。
そこは荒れ果てた星。
温暖化によって蝕まれた大地、海、空気。
そして20年前。生物学者ルチアによって解き放たれてしまった人喰いの悪魔…『人造生物』。世界に跳梁跋扈する彼等によって、今滅びの時が刻一刻と近づいている。
しかし。
その運命に抗う少年達がいた。
人造生物を討伐するべく、ルチアに生み出された3人の強化人間。ジュエル、ロイ、グロウ。
グループ名『KK』。
少年達は、戦う。
生きるために。
…失った記憶を、取り戻すために。
その向こうに待ち受ける答。
そして、運命とは?
※このスレッドは続編となっております。初めて御覧になる方はこちらの前編を読むことをお勧めします。
地獄に咲く花
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だから、私は原因を確かめるために外に出てみることにした。そのまま出口へ走っていく。
「!…アンジェ、止すんだ!」
後ろからリタが私を止めようと声を上げる。…思えば、馬鹿だった。どうして、私の足はこの時止まることが出来なかったのだろうかと――あの結果を見てから思った。けれど、あそこでいつまでも待っていても結局は同じ結果になったに違いない。
私は狭い道をすいすいと抜けていき、やがて外の光が見えてくる。その先に待っていたものは――
「――?!」
それを見て…息が止まった。脳に稲妻が走った感じがした。その時に一瞬にして湧き上がる恐怖、恐怖、恐怖。そして急激に鼓動が高まった。
目に焼き付いたその光景。
まず、真正面に大きな男の人が立ちはだかっていた。知らない顔だけど、たぶん村の誰かだと思う。ぼろぼろで土に汚れた白い服の感じからして、そうだ。
次に、その男の人の後ろの風景が目に映った。
すると、この出口をぐるりと囲むようにして、ありとあらゆる所に大人が立っているのが見えた。一瞬でよく分からなかったけど中年が多かったと思う。男の人も女の人もいた。一体いつこんなに集まってきたのだろうと思うほど、いた。
皆死んだような目をして、ただ私を見て。その手には
棒とか、鍬とか、鉈とか、包丁とか。
「っ…!!」
私はすぐに踵を返そうとして――
グイッ!
「あっ!」
乱暴に、正面の男の人に右腕を引っ張られた。
掴む手が骨が折れそうなくらいに痛い。その上もう片方の腕も掴まれて、私はたちまち身動きがとれなくなってしまった。
「痛い痛いっ!離して!」
「アンジェーッ!」
遠くの方から聞こえた高い声に私ははっとする。見れば、お姉ちゃんが私と同じ様な格好になっていた。
「お姉ちゃん!……?!」
バタバタバタ…!
私はびくっと肩を揺らす。少しもしないうちに、洞窟の入口から足音が聞こえてきたのだ。私を追ってくる足音が。
「来ちゃ駄目ー!!!」
と叫んでみたけど、無駄だった。
入口からは、リタが出てきた。
相変わらずの仏頂面で。
ジャキジャキ!
周りの人達が持っている凶器が一斉に音を上げて、私は震え上がる。直感的に思った。リタは、このままだと――
「駄目!逃げてっ!!」
だけどリタは逃げない。そこに立ったまま動かない。私は両腕を掴まれたままずるずると足を引きずられて、無理やりそこから遠ざけられる。いくら抵抗してみようとしても、手は離れなかった。
するとその内、この人の集まりの間を通って1人の人物がリタの前まで歩いてきた。
それがあまりに見慣れた顔だったので、私は思わず息を呑んだ。
「お婆…ちゃん…?」
ただ。見慣れた顔と言っても、その時はまるで別人のように見えた。まず普段丸くなっている背中がしゃきっと伸びていたのに驚いた。それに、毎日優しく目を細めて優しく笑ってくれるお婆ちゃんの顔なんて、そこには欠片もなかった。
お婆ちゃんが、私の前を通り過ぎていく。
…嘘だ。
お婆ちゃんがこんな顔出来るはずがない。
寒気を感じるくらいに、冷たい目をしていた。その目で見られたら、きっと錐で貫かれるような感覚になるのだろうなと思った。そしてある所で、しわがれた声で低くこう言った。
「外界の者よ。お前は、見てはならないものを見た。村の秘密を知ったからには、生きて返すわけにはいかん。…あれを外に知られるわけにはいかないのだ。」
ああそっか…と今更思い出した。お婆ちゃんは、村の長老だったんだ。だから今、こうして出てきても何ら不自然じゃなかった。でももうそんなことはどうでもいい。やっぱりこのままじゃ、リタは殺されるんだ。
お姉ちゃんの顔色が、真っ白になっていた。そういえば、私達はどうなるんだろう…?何だか現実味がない。想像ができない。
リタはというと、こんな時なのに驚くほど焦りが無かった。というより、何だかお婆ちゃんを見るその眼差しには少しだけ虚しさが混じっている気がした。
「長老様。貴方が少し手をさしのべるだけで、全世界が救われるかも知れないのですよ。」
「黙れ。元々村の者だからと門を潜らせてやったが…村を滅ぼそうとするなら、容赦はせん。」
村が滅びる?…そうか。そういうことだったんだ。だから大人はあんなにも、この村だけに緑がある理由を隠そうとしていたんだ。お父さんも、お母さんも。
あれが本当に緑を作り出しているものであって。あれの存在が外に知られれば、きっと世界中で取り合いになる。戦争になるかも知れない。
何がどうなるとか私はあんまり想像が付かないけど、そうなったらこの村に何かの災厄が降りかからないわけがないんだ。
私がそうやって1人で納得している間にも、お婆ちゃんが他にも言葉を発する度、周りにいる人達の殺気がどんどん膨らんでいく。その内刃物の切っ先が全てリタに向けられた。
「…。………。」
リタは逃げようともせずに何かを考えているようだった。どうして?どうして逃げないんだろう?何も言わないで俯いて、
その時何だかとっても辛そうな顔をしているように見えた。
終いには、彼はすっと目を閉じる。そして丁度その瞬間――
「行け。」
お婆ちゃんの短い一言が響いた。その意味は考えなくたって分かる。
「――っ!!」
私は声にならない声を上げていた。
理屈なんてない。
確かに、リタが村を滅ぼす引き金になるかも知れない。それだけじゃなく世界中が戦争になるかも知れない。リタがこのまま『国』というところに行ってしまったら、もう今まで通り普通に生活することは出来なくなる可能性が高い。
それは分かった。頭で理解した。
だけど。
やっぱり理屈なんて無かった。
私は次の瞬間、
「んんんん!!!」
「ぐあっ?!」
思い切り、私の腕を掴んでいる男の手に噛みついていた。それによって怯んだ男に一瞬の隙が出来た。
「!!!」
無我夢中だった。その手を振り払って私は駆け出した。誰かが動き出す前に、早く!速く!ここまで必死に走ったのは、初めてだったかも知れない。
「っ――はぁっ!はぁ!!」
立ち止まった頃には、もう息が切れ切れになっていた。けれど何とか、私はそこに両足で立つことが出来た。
「…アンジェリカ。」
お婆ちゃんが、苦々しい声で私を呼んだ。
リタの前で肩を上下させながら両手を広げる私を。
「そこを退きなさい、アンジェリカ。」
「……………嫌。」
「アンジェ――」
リタは突然のことに驚いているようだった。顔は見えないけど、声で何となく分かった。
お姉ちゃんも目を丸くして私を見ている。それだけじゃない、もう私はここにいる全員の注目の的になった。ここまでやったなら、もう引き下がることなんて出来ない。
「お婆ちゃん…っ…止めてよ…こんなことは…」
疲れと緊張の中、私は途切れ途切れでも何とか言葉を紡ぐ。お婆ちゃんの恐ろしい目がぎょろりと私に向けられた。思わず竦み上がってしまいそうになったけど、それでもここから退く気にはなれなかった。
「ねえ、こんなの…おかしいよ。村を守るために人殺しまでするなんて、おかしいよ!」
「アンジェリカ。お前にはことの重大さがまだ分からないのだ。あれが世界中に知れ渡れば。この世は混沌と化し、強大な災いが訪れる。私達はそれを何としてでも防がねばならぬ。この地球で私達が生き抜いていくためにも…何としてでも、だ。」
その重々しい声は余計に重圧感を感させる。
「お婆ちゃん。私にも、それは分かってる。でも…そうなるとは限らないでしょう?」
「アンジェリカ――。」
「うまくいけば、世界中の人が救われるって。リタは言ってたよ。それってみんな幸せになれるってことじゃない?村が滅ぶこともないし、世界中の人が争い合うこともない。そうなるかもしれないじゃない…!ね…だからこんなこと止めようよ…ねえ……」
「――……。」
私は言葉の尾が弱々しくなっていく。何故なら、お婆ちゃんが何だか呆れたような、悲しいような、悔しいような――まるで「これはだめだ」とでも言いたいような表情をして、首を左右に振っていたからだ。
その後、沈黙が訪れた。お婆ちゃんが黙っているから誰も動かないのだと思う。だけど、私を見る大勢の大人の目からはひしひしと『何か』が伝わってきた。それが何であるか、先に気づいたのはリタだった。
「アンジェ……もういい、戻るんだ。でないと――多分。」
周りに出来るだけ聞こえないように彼は低く呟いた。けどこの沈黙の中ではそんな小さな声も、空間一杯に響いてしまう。お婆ちゃんが口を開いた。
「…そこの男の言うとおりだ、アンジェリカ。どうしても退くつもりがないのなら
……私達はお前まで殺さなければならない。」
「――え?」
思わず情けない声が出た。
私を殺す?村の人達が?
…お婆ちゃんが?
嘘だよ。そんなのは有り得ない。
有り得ない有り得ない。
だってほら、考えてみて?
普通、今まで一緒に生活してきた家族に、ある日突然殺すなんて言われることあるの?何の躊躇もない目で、そんなこと言われるものなの?
これが――現実?
私の今までの日常が、思い出が
ぐにゃりと歪んだ。
「いやああぁ!アンジェ戻ってぇぇえ!!」
お姉ちゃんがほぼ悲鳴に近い声で叫んだ。それと同時に周りの大人達の私に対する『殺気』が大きく膨らんでいく。
ここを退かないと、私は殺される。
多分、もう間違いはないだろう。
「いやだ………」
と、私の口から自然にこぼれた。この一言で殺気が収まるわけはないことは分かっている。
「嫌だ。」
でも、もう1回言ってみて何だか変な感じがした。…私は死ぬことが嫌なんだろうか?恐怖の真ん中で、私は必死に考える。そして『私』に問った。
何が嫌なの?
自分が死ぬこと?
リタが死ぬこと?
それとも、お婆ちゃんが私達を殺そうとしていること?
――『私』が出す答えは。
「こんなの、嫌だ。」
その結果。
私がリタの前を退くことはなかった。
気が付いたら、私の視界はぼやけていた。
声も震えてうまく話せない。
けどそれでも、私は絞り出した。
「例え皆が生きるためでも……人殺しをする村なんて、私は嫌だ。」
『私』が言ったことを一字一句正しく言った。そう、私は村が嫌だったのだ。
まだ7年しか経ってないけど、今までずっとここで生きてきた。家族も村の人達も皆暖かい存在だった。なのに今、その故郷を否定したがってる。
まさか人生で1度でもこんな気持ちになるなんて、思わなかった。悲しさを通り越して、何だかもう笑えてきた。
「ねぇお婆ちゃん……もう、帰ってこないんだよね。」
私は頬を伝う暖かいものも気にせずに、半ば笑い顔で言った。
「こんなことあったあとじゃ……もう普通の生活なんて戻ってこないよね。…形だけ戻ったとしても。私は一生今日のことを忘れないと思う。それに…私は事実を隠したり、それに触れようとする人達を殺してまで、ここでずっと身を縮めながら生きていくよりだったら……死んだ方がいいよ。」
物言わぬ大衆。私は、まるで独り言を言っているような錯覚に陥った。けど私は、自分の気持ちを確かに伝える。
「そして、私は信じてる。リタならきっとあれで世界の人達を救えるって。……何となく、分かるの。」
リタの方を振り返れば、彼は眉間にしわを寄せていた。私を見つめるその瞳には、一点の曇りもない。それで私は再確認した。この人だったら、世界が不幸になることなんて許すはずがない。
「ね、――リタ。」
「アンジェ……」
私は悲しみの混じらない笑顔をリタに向けた。…涙は流れていても。
そして。
私は前を向いて、言い放った。
「だから、私はここを退かない。死んでも、退かないから!私を殺したければ、殺せばいい!!」
これが私が言いたいことの最後だった。
すると、今度こそ周りが動き出した。皆武器を構えて、荒々しい足音をたて、怒り、叫びながら走ってくる。
最後にお姉ちゃんの甲高い悲鳴が聞こえたような気がした。
私はぎゅっと目をつむった―――
その時だった。
パーーン!!
聞いたことのない音が空間に響き渡った。何かが弾けるような高い音だった。
すると、沈黙が生まれた。
さっきの騒々しさが嘘のように、その場が静まり返った。
「……?」
いつまで経っても痛みが襲ってこなかったので、私はこわごわと目を開ける。すると、私の目の前にいる誰もが動きを止めて固まっていた。
それに、誰も私のことを見ていなかった。さっきまでとは真逆で、皆後ろを向いている。…どうしたのだろう?急なことに、私は状況が理解できなかった。
そしてゆっくりと顔を上げてみると、皆の見ているものが自然に私の目に飛び込んできた。
それは真昼の太陽を背にしてシルエットになっている――沢山の人だった。今私達を取り囲んでいる村の人達を、さらにぐるりと1列に大きく囲んでいる。
1人1人は草色をした変わった模様の服を着ていて、何か重たそうな黒い機械?を持っていた。その列の真ん中にいる人が、小さいけれど同じような黒い機械を空に向かって振りかざしている。
その姿はやけに印象深く、私の目に焼き付いた。何となく、さっきの音はあの小さな黒い機械から発せられたのだろうなと思った。
さらに、その人の後ろからさらに人影が現れた。私は目を凝らしてその姿を見る。
「……少し、その場から動かないでいてもらえますかね。皆さん。」
にこやかな顔で言った赤毛の男性は、30代前半くらいに見えた。ぱっと目に付いたのはリタと同じ白い羽織りだ。だから一目でリタと同じ国から来た人だと予想ができた。顔は遠くからでよく分からないけど、眼鏡が少し恐い雰囲気を醸し出している気がする。そんなこと言ったら失礼だろうけれど。
それよりも……あの人達は助けてくれたのだろうか?その内段々と周りざわめきだした。
「『国』の軍だと…馬鹿な!」
「まさか最初から仕組まれていた?なんて汚い奴らなの!」
「やはりあいつらを通したのが間違いだったんだ!!」
「ええと、まずは皆さん落ち着いていただけたらと思うのですが…実は今回の調査は『国』によって正式に実行が決められていましてね。」
男性には焦った様子は全く無く、彼は何かの紙を取り出して皆の前に見せた。何が書いてあるのかは分からない。
「…2XXX年に。この村は『国』の指示は受けないという宣言をお前達自身が承認したことも忘れたか。」
お婆ちゃんが明らかに敵意のある低い声で男性を威圧した。
「承知しています。ですが、今回は少々事情が違うのです……これは国連の会議によって決定されたことなのですよ。」
「何っ…国連?!」
その瞬間、一気にその場のざわめきが強まった。そんな馬鹿なとか、規模が大きすぎるとか色々言ってるけど私には何のことだかよく分からなかった。私はただ、この場がどうなるのか見守ることしかできない。
「つまり我が『国』は世界からの言いつけを賜ったということです。いくらあなた方のやり方に口は出さないと言っても、今回ばかりは我々が調査しないわけにはいきません。あなた方の村は我が『国』の領土の一部分なのですから…どう足掻いても。
まあ、これに逆らうのは自由ですが。その先にある結果は、これで分かるでしょう。」
男性はぱっと片手をかるく上げて示してみせる。ずらりと並んだ機械を持った人達。ここまで来て、私はやっとそれが機械なんて呼び方は合ってないということが分かった。多分武器…いや、凶器だ。それも強力な。
「お忘れなく。これでも我々はあなた方の要望に最大限に耳を傾けている…これはとても有り難いことですよ。その気になればこんな村、我々は簡単に潰せますからね。」
男性はニィと口の端を上げた。
それからは、お婆ちゃんも村の人も言葉を発することはなくなった。勝てる相手ではないことを理解してるかのように、皆顔を歪めて黙っている。
「ご理解していただけたのであれば、そろそろこの場を解散させて下さると嬉しいのですが。」
男性は沈黙の中で、低く告げた。
こうして、この場からは誰もいなくなった。…私と、リタと、あの『国』の人達以外。
私は、ずっと呆然としてそこに立ち尽くしていた。村の人達が立ち去る時、お姉ちゃんはまた引きずられながら私の名を必死に、泣き叫んで呼んでいた。
けど、村に帰る気は起きなかった。
もう帰れない。
お姉ちゃんは、この後にどんな罰を受けるのだろう。それを想像するだけでも、もう嫌だった。
かといって、今の私の心はぐちゃぐちゃだった。
『国』も結局はこの村と同じだ。皆こんなやり方をしてでしか生きられなくなっているのだろうか。そう思うととてつもなく胸が苦しくなった。何だかとても悲しくて、虚しくて。
…私は、これからどうしたらいいのだろう? どこへ行ったらいいのだろう?
答えは出ず、やっぱりここに立ったまま1歩も踏み出せない。そうしていると、あの男性がこちらに歩み寄ってきた。今も、不気味なほどの笑い顔だった。
「危ないところでした、リタ先生。全く、だから単独の行動は控えた方がいいと普段から申しているではありませんか。そこのお嬢さんがこうしてくれたお陰で助かりましたね。」
彼は心配するようにそう話しかけてきた。けれど、しばらくリタの返事は無かった。そこで私は、再びリタにちらりと目を向けてみる。
すると――
「………。何故この場所が分かった?」
私はそれを見て少しだけ息を呑んだ。表情はやっぱり殆ど無い――けど、纏っている気が違う気がした。何と言うか、うまく言葉には表せない。
でもこれだけは分かった。
…リタは、今確実に怒っている。
「君はマルコー教授の研究室の者だろう?調査の詳細は私の部下以外には漏らしていないはずなんだがな。」
「その部下さんからリタ先生が危ないとの連絡を受けましてね。」
「それにしてもすぐに駆けつけたな。…そんな偽の証明書まで用意して。」
「今先生の身に危険が及ぶのは避けなければならないのですよ。何しろ今の貴方は世界を揺るがしかねない重大な研究を進めているのです。マルコー先生も大層興味を示していらっしゃる。」
「回りくどい言い訳は聞かない。……帰ってもらおうか。」
その場の空気が凄く張りつめたものになっていく。
そして緊迫した沈黙が辺りを支配始めた頃、男性は笑顔を崩さずに肩をすくめて見せた。
「やれやれ、分かりました…それでは私達はこれで帰還することにします。貴方の命が危なくなったときは何時でも駆けつけますから、これからも心置きなく調査に努めて下さい。」
「…二度と来なくていい。」
私はやはり黙ったまま、そのやりとりを見ていた。とても口を開く事なんて出来なかった。
「それでは、また。」
そう言い残すと、男性は背中を向けてここを離れていった。そして『国』の人達に何か指示を出すと、彼らは揃ってこの山を下っていった。
それを私達が見送った後には、今度こそ本当に人がいなくなった。
荒涼な大地に吹く寂しげな風の音を聞いて、私はゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。――理由は、特にない。けどしゃがんだ途端に、胸の中から何かこみ上げてくるような感じがした。
「―――アンジェ。」
「………」
「…泣いているのか?」
「!」
言われた瞬間。こみ上げてきたものが目から溢れた。さっきと同じ、暖かい感触が頬を伝う。
「う……っ」
呻きが漏れる。
駄目だ。
このままじゃ
止められなくなってしまう。
「…っ…ぅああぁぁぁ…ああ」
止めなきゃと思っていても、やっぱり駄目だった。悲しくて悲しくてボロボロと大粒が零れてくる。私はそれから大声で泣いた。
私にとっての世界が、日常がこんなにも簡単に失われてしまうなんて。これからどうやって生きていけばいいのかまるっきり分からなくなってしまった。
ふと、リタは私の前にきてしゃがんだ。
そして、右手をそっと私の肩に当てて、呟いた。
「…すまない…私がここに来なければ。こんなことにはならなかった…。」
肩に当てられた手から、体温を感じる。私は水の中で藁を掴むようにして、その暖かみを脳に刻みつける。ああそうか、今の私の拠り所はこの暖かみしかなかったのだ。
そう理解すると、私はその手に両手を重ねて
「リタ、生きてて…よかった…っ。」
精一杯の笑顔を浮かべたつもりだった。でも、私は泣きながら笑顔になるなんて器用なことは出来ない。だからその時はただのくしゃくしゃな顔をリタに向けていた。
「アンジェ、私をかばう事なんて無かった!君はそのせいで戻れなくなってしまったんだぞ…!」
「……でもね、私…リタが死ぬのは嫌だった。それに、言ったでしょ?あんなところで生きていくくらいだったら…私は死んだ方がまし、だから。」
「だから、いい。こうなることはね、きっと決まってた。…今じゃなくても。きっと未来で起こったよ。」
「……」
「最初から決まってたことだから……わた、し」
その内、もう言葉が出なくなった。何か他にも自分に聞かせる言葉を言いたかったけれど、何故か喉に何かが詰まったように声が出ない。胸がぎゅぅ…っと苦しくて。そこから絞り出されたように、ただ涙だけが出てくる。
もう、限界だった。
これ以上顔を見せられない。
私は完全に地面に座り込んで、膝を抱え――うなだれた。
同時に、リタの手が離れた。
その後は…しばらくの間何も聞こえなかった。不器用なリタのことだ。きっとどうしていいか分からなかったに違いない。だって私だって、どうしていいか分からない。
それで思った。もしかしたら私は、本当に死ぬかも知れない。自分を育ててくれる家族を失って、住むところも失ったら、子供の私には何を出来るはずもない。
それとも、リタにすがってみる?
リタに頼んで『国』に連れて行ってもらう?
…無理に決まってる。こんな無能な私に何が出来る?『国』にいたって迷惑なだけに違いない。
そう思った時だった。
ぽん、と頭頂部に柔らかい感触を感じた。さっきと同じ温かみがあったので、すぐにリタの手だと分かる。そして声が聞こえた。
「アンジェ…一緒に行くか?」
――え?
その言葉はあまりに直接的だった。意味がすぐに分かったので、逆に私は心の中で戸惑ってしまう。
膝に埋めた顔を少しだけ上げてみると、リタの無表情が見えた。西に傾き始めている太陽が放つ、橙色を帯びた光のシルエットになっている。その表情は寂しげに見えたけど――やっぱり、何かの温かみを感じた。
多分、
それは『希望』なのだと私は思った。
この世界に唯一残された私の『希望』。
「もう…行くところがないのだろう。なら、私の研究室に来るといい。」
「……でも…私、何も出来ないよ…。行ったって、迷惑になるだけだしっ…何の役にも立てない…」
「役に立たなくたって構わないさ。こうなってしまったのは私の責任だ。それに……命を助けてくれたお礼もある。」
「!…」
最後の一言で、リタは優しく微笑んだ。
それは、とても印象深く私の目に焼き付いた。
その微笑みはまるで、
地獄に咲いた1輪の花だった。
私の『希望』は――
…………
コツ。
アンジェリカは、立ち止まった。
ジュエルもそれにつれて立ち止まる。
緑色の蛍光灯に照らされた暗い通路がずっと続いている所だった。
「――ごめんなさい。どうでもいい話が、長くなったわね。」
アンジェリカは背を向けたまま俯く。ジュエルには見えなかったが、その表情は切なそうだった。ジュエルは今まで一言も発さずに、ただ黙って話を聞いていた。
「とにかく、これが私が『国』に行くきっかけ。村に二度と戻れないと分かっていても。この時の私にはリタだけが支えだった。
だから私もリタの支えになりたいと思った。『国』に行ってからは研究室の本を読み漁ったり、実験を手伝ったりした。…勉強はリタの役に立てるようになると思えばとても楽しかったわ。そのおかげで、私は10歳になる頃にはリタの助手を務められるようになってたわけだけど――丁度その頃だったわ。オメガの成分の解明と、オメガ遺伝子の発見は。」
アンジェリカは続けた。
「私がオメガの湖で溺れた話、覚えてる?あの時湖に落ちる前に激しい耳鳴りがした。…あれはね。オメガから発せられる特殊な音波に、ある特定の遺伝子によって作られるタンパクが反応を起こして生ずるものだったの。」
「オメガの音波は、強なっていくと錯乱や幻覚の作用が強くなる。私を洗脳していた装置も、多分その音波を再現して強めたものを発信するもの。それと…ジュエル。あなたはヴァイスに会った?」
「……、……ああ。」
ジュエルは暫く質問されたことに気づかなかったのか、遅れて返事をした。声を出すのが久し振りなようだった。
「戦ったのなら、分かったと思う。オメガ遺伝子を持たない者には音波は聞こえない。でも彼は純度の高いオメガを凝縮したものを体内に埋め込むことで、普通の人間にも音波を知覚させることが出来た。」
「…確かに。あいつと戦った時、耳鳴りとか幻覚を見た。それに本人も言っていた。音波で相手を惑わす能力を持っていると。」
「そういうこと。私は彼に近づくことすらできなかった。」
「アンジェリカは音波に敏感だった…オメガに落ちた事から、遺伝子が自身に宿っていることが分かったのか。」
「……ルチアよりは純度は高くなかったけどね。あと、オメガが生態系を支える以上の豊富なエネルギーを持っている事を解明したのも、あの事がきっかけだった。私があそこで溺れた時、仮に長時間酸素が無い状態に置かれていたとしても……生きていたのは不思議じゃなかったというわけ。」
ある真っ直ぐな廊下を歩いていると、アンジェリカはふと気が付いたように立ち止まり、左を向いた。その視線の先には、1枚の扉があった。
「アンジェリカ?」
「少しここに寄りましょう。…その腕の火傷、治せるかもしれない。」
「!」
ジュエルは右腕にちらりと目を向ける。痛みは大分収まったものの、まるで腕が死んでしまっているかのように力が入らない。もはや自分の一部ではないものを肩からぶら下げているような感覚になっていた。
「治るのか?」
「多分。オメガの細胞活性化作用から考えて、可能ではあると思う。やってみなければ分からないけど…」
そう言うと、アンジェリカは扉の脇に設置してある電子パネルに手の平をつける。
ピーー
パネルが緑色に光ると同時に、扉がシュッと上にスライドした。扉の向こうはこの廊下と同じ様に薄暗く、先が見えない。アンジェリカはそこに足を踏み入れた。
シュウウウゥ………
その部屋は何かガスが吹き出すような音が響いていた。アンジェリカが部屋に入ってすぐ壁のボタンを押すと、部屋の中が蛍光灯で明るく照らされた。
ジュエルは少し眉を潜める。
その円形の部屋の真ん中には、大きな円筒の水槽のようなものが床から天井に繋がっていた。どうやら、それがこの部屋の主役らしかった。
アンジェリカはその脇を通り抜けた。
ジュエルはその水槽を見てみる。その中には、緑色の気体が充満していた。それは水槽に繋がっているパイプから吹き出されているようで、部屋に響いている音はこれが原因だった。パイプを辿ってみると、それは天井を伝った後、壁を垂直に降りていっている。そして、パイプはその部屋に備え付けてある大きなタンクのようなものから伸びているのが分かった。タンクからは低い振動音が聞こえてきている。
「オメガ…か。」
「ええ。…………。」
アンジェリカは答えた後、何故かきゅっと下唇を噛んだ。
そのまま、タンクの脇の方にある実験台の方に向かった。部屋の形に合わせて作られているその変わった実験台には、大小様々なビーカーが並んでいる。しかしアンジェリカはそれに目もくれず、
ガラリ。
下の方にある引き出しを勢いよく引いた。そこにはぎっしりと、筆箱大の黒い箱が並んでいた。アンジェリカがその内の1つを取り出し、蓋に指をかける。
カパッ
蓋は軽い音を立てて開いた。箱に入っていたのは、小さな注射器だった。その中身は既に入っている。アンジェリカはそれを見て安心したように息を付いた。
その時、
「こんなもの…見つからなければよかったんだろうな。」
ジュエルが呟いたのを聞いて、アンジェリカはピクリと動きを止めた。
「アンジェリカが家族を失うことになったのも、きっと人造生物が解き放たれてしまったことも。オメガを見つけてしまったからなんだ。本当に俺がリタだったのなら……今こうなってるのも俺が全ての元凶、だな。」
「――いいえ。違う。」
ジュエルのどこか自嘲的な呟きをかき消すように。アンジェリカは強く言った。そして注射器を取り出すと、ジュエルの方に向かう。
「リタは本気で、世界を救おうとしてた。ただ、それだけ。私は3年間リタの近くにいたから分かる。彼――いいえ、貴方は不器用だったけど真っ直ぐで。愛に溢れた人だった。私はそこに…正直惹かれていた、から。」
その後アンジェリカは「右腕を見せて」と照れ隠しのように言って、注射器の針についていたキャップをとる。ピストンを押すと、緑色の液体が針の先端から垂れた。
「アンジェリカ。話の続きを聞かせてくれないか。まだ思い出せない。リタは――お前と『ルチア』に何をしたのか。」
「そうね。でもこれだけは言わせて。全ての元凶はリタじゃない。…あいつよ。」
「あいつ?」
「マルコー……」
アンジェリカは苦々しくその名を口にした。
「始まりはさっきも言った。オメガが大分研究された時期。私が研究室に来てから3年経った頃のこと。」
アンジェリカは、注射針をすっとジュエルの右腕に刺した。
「オメガがあまりの莫大なエネルギーを持つと分かって、リタは危機感を感じていたわ。この情報を世界に公表したら……それこそ私の祖母が言ってたように、世界中が混乱する。
だからリタは、それらの情報を重要機密事項にして外部に伝える情報を最小限に留める事を考えた。オメガのメカニズムがもっと具体的に解明されて、安全に使用することができるようになる事が分かったら公開すると、私達はあの時決めたの。」
ピストンを丁寧に押し込むと、中の液体が注入された。そして、またすっと針を抜く。その時に、アンジェリカは注射器と一緒に持ってきていた少量のガーゼを傷に当てる。
「だけど、リタの研究は『国』の深部からの支援を受けていた。それが、マルコーという存在の意味。支援を受けてるというよりも監視されてるのと同じだったけど、確かに彼とは『支援』という形で契約していた。だから情報を最小限に留めると言っても、限界があったわ。
彼には知らせるしかなかった。
でもこれが――引き金になったのよ。」
アンジェリカは決然として言った。
「今から22年前。マルコーによって、オメガの存在は『国』の幹部に暴露された。」
「…その目的は。」
「真意は明らかにはなっていない。でも、それからは『国』の表から大々的な研究援助を受けたし、複数の別の国の幹部から注目もされた。リタの研究所は元々『国』の中に隠れるようにしてあった狭い地下研究所だったけれど、援助を受けた後には『国』の外に大きな研究所を構えて、大勢のスタッフを雇うことが出来た。もっとも、『国』も多少は研究内容の重大さを理解したのか、世間にはオメガの存在を公表しなかったけれど。
それでも私達からしてみれば、事態は急激に悪くなったと言えたわ。暴露されたことによって…終いには、十分な知識もない上に無責任な国連に従わざるを得なくなったのだから。国連の極秘の要請で、オメガの研究は実質的にリタとマルコーの共同で行うことになったのよ。」
治療が終わり、アンジェリカは注射器を近くにあった専用のダストボックスに丁寧に入れる。ジュエルは腕に当てられたガーゼを、指で軽く押さえた。
「その辺の話はグロウ……俺の仲間からも聞いた。その後、『国』の指示で人体改造の研究をしていたルチアにも国連から声がかかったんだったか。」
「…そう。」
アンジェリカは静かに頷いた。
「そうして3人は集まった。」
「…話によると全員同じ大学の教授だったらしいから、繋がりを見つけるのは簡単だったんだろうな。」
「ええ。特に、リタとルチアは同じ大学の研究室にいた頃があったみたいね。でもルチアが目を付けられた原因は…単純に、彼女だけがオメガを利用するのに都合のいい研究をしていたからだと言えると思う。
3人での共同研究の大義名分は、オメガのエネルギーを利用して人体改造の技術を強化すること。…オメガでの地球環境の再生については、大規模すぎて不可能に近いとマルコーが『国』の幹部に話したらしい。だから別のことにオメガを利用しようと考えた結果が、3人が集まることだったんだと思う。
そして、暫くしてから共同研究が始まった…強制的に。3人が会った時のぎこちない握手は、今でも覚えてる。」
アンジェリカはそれから深い溜息をついた。
「…腕は少し、それで様子を見てみて。もう少しで目的地に着くから、その時に備えて、ここで少し休んだ方がいいわ――焦るかもしれないけど。」
「………。分かった。」
そして「話を続ける」と切り出し、彼女は再び口を開いた。
「それで――研究が始まったはいいものの、直ぐに問題が起こった。それは、オメガが入手源が無くなってしまったこと。…この辺りも、もう聞いているのかしら。
何故か、あのコルツ山の内部で湧き出ていたオメガは、定期的に採取するようになってから数日して枯れてしまった。
その後、色々な手配でオメガが地表近くに流れている別の所を捜索して…やっと見つけても、それもすぐに枯れてしまったの。」
「知っている。それが人工的にオメガを作りだそうとしたきっかけなんだろう。」
「そうとも言えるかもしれないわね。まあ、その発想を思いついたのはある偶然からだったけど。」
そこで、ジュエルは少しだけ俯く。
「コルツ山のオメガが無くなったということは……村は。」
それに対してアンジェリカは視線をそらして黙り込んだ。それから沈黙が流れたが、そう長くは続かなかった。
「どうなったのかは聞いてない。でも…きっと『国』は何もしなかったと思う。武器で脅して、従わせて、奪って。役に立たなくなったと分かれば平気で捨てる。『国』はそういう腐った存在だったから――と言うより、今でもそうだと思う。
もっとも、もうどこの国もそういうやり方でしか生きられなくなっていたけど。私は村の外に出てみて初めて、今人間がいかに生きることに必死になっているのかが分かったわ。」
アンジェリカは虚しそうに呟いた。
――お知らせ――
皆さん今晩は、ARISです。明けました、おめでとうございました(^-^)
無駄な話だけが長くなって肝心な部分がよく分からなくなっているところではありますが、相も変わらず自分勝手に楽しく書かせていただいております今日この頃です。(笑)
これからも、どうぞ本作を宜しくお願いします……と言いたい所ですが、
またテスト週間になってしまいましたので、本日から執筆を少しお休みしたいと思います。
再開は2/6となりますので、宜しく御願い致します<(_ _)>
ARISでした。
「荒れ果てた地で食糧はもちろんのこと、水さえ殆どなかった。人工的に合成した水でも、喉が潤う程度に飲めるのはほんの一握り。その頃からもう、『国』はスラムと上層部に分かれていたのよ。スラムの領域の人間は飢え、道端に転がってるのが普通になっていた。そしてそれは『国』以外でも………そんな、世界を変える。それが私達の目的になっていた。そのためには、どうしてもオメガが必要だった。
――そうして生まれたのが
彼女。」
ジュエルは
ゆっくりと顔を上げた。
「ルチア………」
アンジェリカは
ゆっくりと目を閉じた。
―――――
低い機械の起動音。
床に複雑に這う無数の蛇のようなコード。
大きなモニターから発せられる青白い光。
あの出来事から3年くらいして。
それらが私の日常になっていた。
ここは『国』が用意した研究施設の一室だ。今この広い部屋の隅で私は一人白衣を着て、デスクで作業している。
白衣は私みたいな子供用のサイズがないので大人用のものを捲って着ている。しかも、普通に立っていてはデスクに手が届かないので踏み台に乗って作業している。その姿はかなり様にならないものなのだろうなと常に思っている所ではあるけれど。
それでも私は、大分リタの力になれるようになってきたと思っている。
私が大きなタッチパネル式のキーボードでコードを素早く打ち込んでいくたび、そこにはポンポンと小気味いい音が響いていた。
そしてふと、私は手を止めて見つめる。
キーボードが表示されているデスクの脇に鎮座している、大きめの円筒形の水槽に入ったエメラルド色の液体を。水槽には色とりどりなチューブが何本も刺さっていた。
その時、後ろからシュッという音が聞こえた。 この部屋の扉が開く音だ。この時間帯に部屋に入ってくる人物は一人しか思い当たらない。だから私は振り向かないまま、言った。
「おはよう、リタ。」
するとすぐに、返事が返ってきた。
「おはよう、アンジェ。相変わらずアンジェは1番早くここに来てるんだな。」
やっぱりそうだった。そう分かると、自然と私の顔はほころんだ。
「昨日測定したオメガのエネルギー実験記録、整理してたんだ。大体は終わったよ。」
「まさか、あの大量のデータを1人で?…あまり無理はしないほうがいい。」
「大丈夫。私に出来る事ってこれくらいしかないし。」
「…それでも毎晩遅くまで起きて、毎朝早く起きて作業をしていたら体に響くだろう。」
最近やっと分かったことだったけれど、
私はリタが好きだった。理由はよく分からないけど、きっと出会ったときから私は彼に惹かれていたのだ。
彼の仏頂面と不器用さが、好きだ。時々見せてくれる微笑みと優しさが、好きだ。でも仏頂面と微笑みのどちらが好きかと聞かれたら、私は微笑みを選ぶだろう。
彼にもっと微笑んでほしい。
私達には、世界を救う手だてを探す重要な仕事を課されているわけだけど、私が今こうして仕事を頑張ってるのは――そのせいもあると思う。否定はしない。
もっとリタの力になる。
もっとリタに喜んでもらう。
そのために、今日も頑張らなくちゃ。
そう自分に聞かせて、
「大丈夫だって!」
私は満面の笑みでリタの方に振り返った。
しかし――振り返ったところで私は反射的に息を呑んだ。
「…ぁ」
部屋の入り口付近にはリタがいた。けれどその後ろにもう1人、この部屋に入ってきた人物がいたのだ。その人物を見た瞬間に、私はそれが誰なのか理解する。
すらりと白衣を着こなした20代くらいの大人の女性。サファイアのような青い瞳と、後ろに束ねた金色の髪がとても印象的だ。彼女と話す機会はあまりないけど、時々この研究所の中で見かけるからよく覚えている。
「お、おはようございます!ルチア博士…」
私がぺこりと頭を下げると、彼女はふふっと笑ったようだった。
「おはよう、小さな研究員さん。えっと…アンジェリカさん、だったかしら?」
彼女はとても物腰が柔らかくて、その笑顔には黒い感情なんて全く感じられない。純粋すぎるほどだ。そのせいか私は何だか緊張気味になって、ぎこちなく敬語を並べていく羽目になる。
「はい、そうです。リタ先生のもとで、この研究に参加させてもらってます。」
「その年でこんなに仕事が出来るなんて…とても勉強を頑張ったのでしょうね。」
「いえ…ただ、私も少しでも、力になれればと思って。」
すると、そこで彼女はさらに柔らかく微笑んだ。私は思わずどきりとしてしまう。
「とても立派だと思うわ。」
「……、…」
たったそれだけの言葉で、私は完全に体が固まってしまった。
「ぁ、ありがとうございます…」
少し頬が熱くなって、ぼそっとそう言うのが精一杯だった。初めて彼女と会って話したときも、確かこんな感じだったと思う。
彼女は素敵な女性だ。
私の憧れになるくらい。
でも、同時に
私は彼女が少し妬ましかった。
何故なら
彼女とリタの距離が
何となく近く感じるからだ。
「アンジェは本当に努力している。…申し訳ないくらいに。」
「ふふ、私のもとにもこんなにいい子がいてくれたらいいのだけれど。」
前から研究員の間で、2人は同じ大学のスタッフだったときにちょっとした付き合いをしていたなんて噂が流れてるのを聞いたことがある。でもこうして実際に2人を並べて見てみると…成る程、見た目からしてお似合いだ。
だから今も、私は怖くて自分の気持ちを伝えられずにいる。せめて彼女をまだ知らない内にこの気持ちに気付いていればとも思うけど、やっぱりこの年の差だ。仮に告白出来たとしたって、所詮は子供の言うことだから。真剣に受け取ってもらえるはずもない。
私は2人に気づかれない程度に小さく溜め息をつくのだった。
「ところで、アンジェ。今日は少し重要な頼みがあってきた。」
「?――何?」
「前から問題になっていた人工オメガの供給に関してのことで。君にはまだ伝えてなかったが…1週間程前に、私達は例の事に成功した。」
「例のこと……」
リタはよくこういう言葉の表現を使うから、その度自分で記憶を辿るのが大変だ。けれど、
「!」
今回は少しの時間で思い出した。
「まさか、ルチア博士の…オメガ遺伝子の純粋なクローンを作ることに成功したの?!」
私が目を丸くしてそう言うと、リタはゆっくりと頷いた。
私は乗っていた台から飛び降りて、リタのもとに駆け寄った。
「すごい…これでオメガの不足問題を解決出来るじゃない!人の手で天然のオメガの完全なコピーを無限に作り出せるようになったってことでしょ?!」
「理論上はそうなる。……だが、まだその段階まで来てはいない。」
「?、どういうこと?」
私が首を傾げると、リタはルチアに何かを促すように視線を送る。すると、ルチアは何故か自分のすぐ後ろの方を気にし始め、後ろ手で何かしているような動きをし始めた。その動きが10秒程続いたところで私がますます首を捻っていると、
「大丈夫。怖くないから…顔を見せてあげて、ね?」
ルチアが小声で、後ろにそう告げるのが聞こえた。その時初めて――彼女の後ろにもう1人、誰かがいるのが分かった。
全く音を立てないので気づかなかったけど。今よくよく見てみると、確かにルチアに隠れるようにして2本の足が見える。足はとても小さくてほっそりとしている。それはどう見ても、子供の足だった。
(……誰?)
そう思った時、
その子はおずおずとルチアの背から半身を覗かせた。
「…あっ」
その姿に、私は思わず小さく声を出す。
それは私より小柄な女の子だった。まず、腰の辺りまである緩いウェーブのかかった金髪が印象的だ。そしてサファイアのような綺麗な青色の瞳が、不安げに潤んで私のことを見つめている。
着ている服は少し言葉にしにくいけど、イメージはネグリジェのような感じだろうか。私の村にはネグリジェなんてものは無かったからまだそれがどのような服なのかよく分かっていないかもしれないけど、全体的に柔らかい感じだ。ワンピースの端についているフリルが何とも可愛らしい。
いや、そんなことはあまり重要じゃなかった。端的に言うと、この子はルチアにそっくりだったのだ。だから、それは簡単に想像がつくことだった。
「もしかして――ルチア博士の、クローン?」
「ああ、そうだ。」
私が興味深そうに顔を覗き込むと、その子はまるで小動物のように身を縮こめてしまった。
「前にも話したとおり、これまで試験管内での遺伝子のみの分裂は勿論、クローン細胞の作製からの急速な増殖試験は試したが、全て失敗に終わった。
だが今回、ルチアの卵子の内部細胞塊に遺伝子と成長因子をを導入した。胚の状態からゆっくりと成長させ、普通の人間に近い状態で培養することで初めてオメガ遺伝子の完全なコピーに成功したんだ。
だから今までと違って――このクローン体には自身の脳が分化している。従って、自己の存在を認識していることになる。」
「えっと…要するに、この子は私達と何ら変わりない1人の人間ってこと?」
私は専門的なリタの言葉を汲み取って、何とか話を理解しようとする。その時ルチアが、自分にぴったりとくっつくその子の肩をそっと撫でた。
「そう。ちゃんと学習能力があるし、感情だって存在している。丁度、私が子供だった時を再現しているという所ね…。」
「成程。……それで、頼みっていうのは?」
私はそう軽く相づちをうった後に聞いてみる。するとリタは少し言いにくそうに間をおいて、こう言った。
「悪いのだがしばらくの間、このクローン体――『ルチアコピー』の面倒を見ていてくれないだろうか。」
「え?」
全く予想のつかなかった答えが返ってきて、私はぱちくりとしてリタの顔を見上げる。そしてまた、『ルチアコピー』と呼ばれたその子に視線を移す。更に、
「私が、この子の?」
分かり切ったことを聞いてみる。けど脇の方でルチアが苦笑いしていたのでその答えはすぐにYESだと分かった。
「小さい頃の私は人見知りが激しくて、厄介な子だったと思うからとても申し訳ないのだけど…」
「それは構わないですけど…でも私、どうしたら?」
「ただ一緒に過ごしてくれていればいいわ。出来れば空いた時間とかに、話し相手や遊び相手になってくれると嬉しいかも。」
「はあ、話し相手や遊び相手…ですか。」
私はただただ驚いてその話を聞いていた。この研究所に入ってから――いや、リタの研究所に置かせてもらっていた時も。そんな仕事は聞いたことがなかったからだ。
「でも、どうして私に?」
「さっきも言ったとおり、この子には感情がある。でも私達はずっとついていてあげられないから、寂しい思いをするみたいなの。それで……お友達を作ってあげたいと思って。」
「友達、ですか。」
「ええ。」
ルチアのやんわりとした説明で理由はだいたい分かった。でも自分に友達が務まる自信は、あまり持てなかった。何しろ今もずっと『ルチアコピー』はルチアの背中に隠れっぱなしなわけなのだし…。
でも考えてみれば。
故郷の村に子供が少なかったせいか、私も今まで友達と呼べる誰かを作ったことがなかった。だから――まだそういうスキルがないのはお互い様なのかもしれない。そう思ったら少し彼女に親近感がわいてきたような気がした。
お互いに初めての友達作り。
私はそれに興味を持ったのか、その瞬間には自然とにこりと笑って『ルチアコピー』を見ていた。そして、
「分かりました。」
自分で気づかない内に私はそう言っていた。すると、ルチアは少し驚いた顔をしてこちらを見る。
「本当?お友達になってくれる?」
「…はい、任せてください!きっと寂しい思いなんてさせないようにしますよ!」
私がそう張り切って言うと、
やはりルチアはまた柔らかく微笑んだ。
「有り難う。きっと、この子も喜ぶわ。」
するとその横で、リタは軽く肩をすくめた。
「やれやれ、結局全部ルチアが説明してくれたか。」
「だってリタが話したらもっと長くなりそうだし…ね?」
そのルチアの言葉で、私は思わず吹き出す。
「あはは、それは賛成です。リタは何を言うにしてもいっつも難しい用語ばっかり使って!その度知らないものを調べるのが大変なんですよ!…まあそのお陰で色々知識は付いたわけですけど。」
そう言ってやるとリタはむぅと唸ったので、しばらくルチアと2人で笑った。リタは一応「これからは出来る限り気をつけよう」と言ってくれたけど、前に私が苦情を言っても直してくれなかったから期待はしないでおくことにした。
「しかしアンジェが引き受けてくれてほっとした。1週間前に目を醒ましたばかりだから、色々教えるといいかもしれない。」
「うん、私はいいけど。でも…んっと、ルチアちゃんは大丈夫なのかな?」
私はひょいと上半身を動かして、後ろに隠れている彼女を見る。何て呼ぶかは少し迷ったけど結局元の彼女の名前で呼んだ。だって『ルチアコピー』ではあまりに冷たい感じだし、他に思いつく呼び名もなかった。
ちっちゃい方のルチアは隠れてはいるけど、さっきからずっと私の方を見ている。怖がっているのかもしれないと思ったけど私は思い切って話しかけてみることにした。
「初めまして。私アンジェリカっていうの。」
「………」
彼女の反応がないのでやっぱりいきなりはダメかなとも思ったけど、諦めるのはまだ早い。
「アンジェって呼んでくれてもいいよ。」
「………」
「これから2人がいない間一緒にいるから、よろしくね。ここのこと、色々教えてあげるから。」
「………、」
すると、彼女は大きいルチアの白衣を握りながら少しだけ俯く。それからしきりに辺りを見回した。何か戸惑っているようにも見えたけど、最後にはぴたりと私に目を止めた。
そして――
「よ」
ついに彼女の口が開いた。第一声は1文字だけだったけど、それだけで透き通った柔らかい声が印象に残った。…ちょっぴり掠れてはいたけど。
「…よ?」
「――よろしくね。アンジェ。」
と
彼女が後半を淀みなく言うものだから、私はその時きょとんとした顔をしてしまったかもしれない。もっと怖がった感じで挨拶するのかと思ったら、以外とそうでもなかったことに驚いた。
その後彼女は後ろに隠れるのを止め、ゆっくりとこちらに出てきた。緩やかな金髪のウェーブと服のフリルがふわりと揺れる。そして隠れてる時はよく見えなかったけど、その片腕には何か絵本のようなものを抱いていた。
「あなたに会えて……嬉しい。」
そう言って
彼女は微笑んだ。
その微笑みがやはり本人の面影と重なる。だからまたさっきみたいに赤面しそうになってしまったけど、取り敢えず彼女に受け入れてもらえたみたいで私は安心したのだった。
「こちらこそ!でね、ルチアちゃんでいい?」
「うん…ルチアって呼んでほしい。」
結局、私は言われたとおり彼女をルチアと呼び捨てることに決めた。本人のほうは心の中でも名前の後に博士をつけることでちゃんと区別することを心がけることにする。
それからは毎日のように、リタが昼頃にルチアを研究室に連れてきては、夕食を3人で一緒に食べた後には元の場所へ連れていった。
始めの頃、ルチアは私がモニターの前で仕事をしているのを興味深そうに見ていたり、隅の方で絵本を読んでいたりと静かだったけど、日にちが経つにつれて私と彼女との会話は増えていった。
その時私がしていた仕事の話だったり、仕事の話じゃなければ私がルチアの色んなことを聞いてみたり。逆の時も勿論あった。
ある日の午後、私はこんな事をルチアに聞いてみた。私は少し広めの休憩室の椅子に座って、あまり美味しくない合成水のカップを片手に足をぶらぶらさせていた。
「ね。ルチアはさ、私と別れた後にはどこに帰ってるの?」
ルチアは私の隣にちょこんと座っている。両手でカップを持ってちびちびと合成水を飲んでいた。
「…元の…ルチアさんの研究室、だと思うんだけど。ここの建物って未だによく分からなくて。」
「あはは、そうだよね。ここって複雑だもん。3つの研究所が1つになってるってとこだから。」
「3つ?」
「リタと、ルチア博士と、それにマルコーのね。」
「…マルコー?」
「もしかして、聞いたことない?」
と、私はそこで一瞬で理解した。
このルチアの存在を、マルコーには知られてはいけない。
私達の研究所は『国』によって強制的に1つに合併されたけど、リタとルチアが自身の研究内容をマルコーに伝えないことは少なくない。それは、彼の得体が知れないからだ。
彼は上辺だけは私達の研究に協力するようなそぶりを見せる。けれど、その裏できっと何かを考えている。その空気を2人は感じ取ったのだろう。私でさえ分かる、その空気を。
そして今回も。ルチアが彼を知らないという事は、リタとルチア博士が彼に事を隠している可能性の方が高い。経験と統計から、私はそう感じた。
ルチアは少し首を傾げる。
「その人、聞いたことない。」
「あ、いや!知らないならいいの。むしろ知らない方がいいと思うし…多分忘れた方がいいよ。」
「そうなの?」
「うん。」
「そうなんだ。…じゃあ、忘れようかな。」
そう言ってルチアはいつもの柔らかい微笑みを見せた。その後宙を見上げて何かぼんやり考えていたみたいだったけど、それ以上マルコーのことは追求しないでいてくれた。
私はほっと息をつく。ルチアは毎回こんな調子で素直な子だ。少しは疑問というものを持たないのだろうかと度々思う程に。けどそのおかげで、スムーズに話題を変えることができた。
「それよりさ、どんな感じなの?ルチア博士の研究室って。私入ったことないんだよね。」
「大体入ってすぐある部屋はここと同じような感じだと思う。でもそこは通りかかるだけで、いつももっと奥の部屋に帰るんだよ。」
「へえ、そこで寝たりしてるの?」
「うん。」
「もしかして、毎晩ルチア博士が一緒に添い寝してくれるとか?」
私は面白半分になって聞いてみる。でもその後、ルチアの表情はどこか暗くなったような気がした。その瞬間私ははっとしたけど、もう遅い。
「夜は…1人で寝てる。」
いけないことを聞いてしまった。
と即座に後悔する。
けど――
「ぁ…そっか。1人だと寂しい、よね。」
「?、寂しくはないよ。」
「え?」
返ってきたのは意外な返答だった。
「えと…博士ってルチアのお母さんみたいなものじゃないの?一緒じゃないと不安にならない?」
「ううん。そんなこと、ないよ。」
ルチアはやんわりと否定した。
「でも。私と初めて会ったときだって、あんなに博士の背中にぴったりくっついてたじゃない。」
「あれは…部屋の外に出たのが初めてだったからちょっと怖かっただけ。」
「…じゃあ、博士が言ってた『ルチアが1人の時寂しがってる』っていうのは違ったの?」
私が怪訝そうに聞くと、ルチアはただにこりと笑った。
「うん。違ったの。でもね、私が友達を作りたかったっていうのは本当よ。」
「それって、どうして?」
そして彼女はカップの水にもう1度口をつけた後、こう言った。
「どっちかというとね、少し離れたかったから。――元のルチアから。」
私は言葉を失う。どうして?と聞こうかとも思ったけど、聞きづらかった。私には分からない、ルチアのクローンとしての気持ちがあるのかもしれない。
私が黙っていると、ルチアは続けた。
「嫌いってわけじゃないの。ただ、よく分からない。」
「分からない?」
「分からないけど…どうしてかあの人を見ると色々頭の中でぐるぐる回っちゃって。色々混ざっちゃうの。それで時々不安になったり、虚しくなったり。」
「………。」
「…どうしてだろうね。」
それでも、ルチアは微笑みを浮かべたままだった。その奥にどんな気持ちがあるのか私には分からない。
「ねえ、ルチアは――……」
また何か聞こうとして、私は途中で止めた。
「?、何?」
実際クローンとして生まれて、ルチアはどう感じたのか。そんなことを聞こうとしていた気がする。
でもきっと、今私が言うべき事はそんなことじゃないと思った。もっと、伝えるべき事があるはずだと思った。
そして数秒の間をおいた後、私は言葉を変えた。
「ルチアは――ルチアなんだよ。」
「えっ?」
「ルチアは、きっと意識的か無意識的に、ルチア博士から何かのコンプレックス感じてるんだと思う。私が知ったような事を言うのはおかしいと思うけど…でもきっと。自分がクローンだってこと、分かってるから。
でもねルチア。クローンとして生まれても、ルチアは1人の人間なんだよ。博士だって言ってた。オリジナルのコピーとか、そういうのじゃない。ルチアはちゃんとした、1人の女の子なんだよ。」
ルチアはちょっぴり驚いた顔をしている。私は気付けばその丸い目を真っ直ぐと見つめていた。
「気にしないで、って言うのは無理かもしれないけど…それでも別々な存在な事に変わりはないから。」
言ったってどうにもならないことかもしれない。でも、気休めだって構わなかったのだと思う。私は、ルチアに笑顔を向けた。
「だからさ、ルチアはその辺もっと自信持ってもいいと思うな。」
「……、」
その後長い間が生まれた。ルチアは何もいわずに私の目を見ていた。どこか呆然としているようで、地に足が着いてないような感じだ。見ていて実に不安になる。
でもしばらくして、ふっと彼女に微笑みが戻ってきた。
「ありがとう、ちょっと何か分かった気がする。」
その微笑みは心なしかさっきよりも明るく見えた。
ああ―――良かった。
そう瞬間的に思えた。
少しでもルチアの力になれたなら私は嬉しい。
もしかして、友達というのはこういうことなんだろうか?
「ちょっと、分かった?」
「うん。ちょっと。」
「ん~ちょっとだけかぁ…私がもうちょっと何か言えたらいいんだろうけどなぁ。」
私がぽりぽりと空いてる手で自分の頭を掻くと、ルチアはゆっくりと首を横に振ってこう言った。
「ううん……十分、だよ。」
そうなんだ。
きっと、こういうことなんだ。
その時のルチアの微笑みを見て私は1人納得したのだった。
それからも変わらず、私達の日々は続いていた。基本、私とルチアはいつも一緒に行動している。でも忙しい時にはやっぱり私もリタと研究員に混じって仕事をした。そういう時ルチアは、部屋の一角にある小さなソファーでいつもの絵本を読んでいる。
暇をさせて悪いなと思っていたけど、思えば私はこの頃全然気が付いていなかった。
ルチアが時々絵本から目を離す後の視線の先がいつも同じだった事に。
勿論この日も気付かずに、私は脳天気に仕事をしているのだった。
「ね、リタ。」
「…どうした?」
「今更なんだけど、この疑似オメガ…本当にルチアの遺伝子を添加するだけで、完全に天然と同じオメガが出来るのかな?」
「完全にかどうかはまだ分からないだろうな。そもそも、こうしてオメガと同じ成分だけをかき集めて疑似オメガを合成してみても、これ自体はオリジナルの0.01%の機能も示さない。もしかしたら、もっと効率的にオリジナルに近いものを作る方法があるのかもしれないとも思う…。」
リタは眉間にしわを寄せた。何だかその表情は重く、暗い。その時どうしたのかと聞いてみたくなったけど、きっと仕事の疲れとかだと思って結局私は何も言わなかった。
「だが。アンジェも『あれ』を見ただろう?」
「………うん。」
私は小さく頷いた。
『あれ』とはルチア博士の研究室で起こったことだ。私はその瞬間を見てはいないけど――
内容はこんな感じだ。
ある日、ルチア博士が天然オメガと粉体の不純物を高密度で混ぜ合わせてあったシャーレを落として、そこで飛び散ったガラスの破片で手に小さな怪我をした。
その時、偶然にもルチア博士の血が床にばらまかれた混合物中に1滴落ちた。すると…血に染まった部分だけ不純物が溶解したのだ。
それに気付いたルチア博士がその部分を採取して確認してみると、不純物の痕跡は一切無くなっていたらしい。
同じ状況をシャーレの上に再現して実験してみても、不純物はルチア博士の血によって溶解した。そして実験で分かったのが、不純物が消失した代わりにオメガの容積が増していたということだ。前に、私はリタにこのシャーレを見せてもらった。勿論、天然ならではの機能性や特異性も増加していた。
しかも、その後に行われた他の人の血を使った実験はことごとく反応がなかったようだ。だからこれがきっかけで、私達は『オメガ遺伝子』という特殊な遺伝子配列を発見することになったというわけだ。
「今までに得た理論に沿っていけば……少量の天然オメガと疑似オメガを混合し、そこにオメガ遺伝子を添加すれば疑似は天然へと変換されるはずなんだ。」
リタは何か考え込んだ様子で呟いた。
「疑似オメガでの実験はもうしたんだよね?」
「オメガに由来するもの、もしくは成分的に同じものであれば反応することは証明された。あの不純物はオメガが極度に乾燥して機能を失ったものだった。この疑似オメガでも同じ事が起きるだろうが…大量に反応させるとなると、どの程度の遺伝子が必要なのかまだ分からない。」
「………。」
私はその時、何だか不安な気持ちになって遠くにいるルチアに目を向けた。ルチアはやっぱり絵本を読んでいた。熱心に読んでいるようで、全くこちらには気付いていない。
「足りないオメガ遺伝子を補うために、ルチアのを使うんだよね。どうやって遺伝子を抽出するつもりなの?」
「…アンジェは見ていないが、毎日採血はしている。」
「……リタ。」
気付いたら、私の片方の手はリタの白衣の袖を握っていた。そして私は高い位置にあるリタの顔を見上げていた。
しばらくそうしていると、
やがて彼は少しだけ微笑んだ。
「心配、なんだな。」
「リタ。ルチアは…1人の人間だからね。」
「ちゃんと分かっている。もう、随分仲良くなったんだろう?」
それでも私はリタから目が離せなかった。何故だか、ルチアの存在がとても儚いもののような気がして。
すると今度。リタはその大きな手の平で、私の頭にそっと触れた。
「…、」
暖かくて、柔らかい。初めて撫でてもらったあの時と、全く一緒の感覚が蘇る。
「心配することはない。『ルチア』は、きっと守ってみせる。…どんなことがあったとしても。」
その言葉からは、
何か決意じみたものが感じられた。
「本当に、どんなことがあっても?」
「ああ。」
この時、実は私はよく分かっていなかった。『守る』という事の意味も。その決意に満ちた表情の意味も。
けれど、あまりにリタが頼もしく見えたからもうどうでもよくなったのかもしれない。
「…信じてもいい?…守ってくれる?」
「守るさ。たとえどんなに大きな危険に晒されたとしても。その時は必ず、私は助けに行くつもりだ。」
リタは私の頭から手を離す。そして最後に悪戯っぽくこう付け加えた。
「もちろん、それがアンジェでも。」
「…えっ!わ、私?」
「当然だ。君は私の命の恩人なのだから、今度は私が守る番だろう。」
「そ、それはまあ…そうとも言えなくもないけどさ…?」
まさか最後、いきなり私に話が回ってくるとは思っていなかった。これは完全な不意打ちだ。いつものように顔が赤くなってないか激しく不安になる。
でもそれはとても嬉しい言葉だったし、安心できる言葉だった。それを聞いた瞬間、私の頬は自然と緩んだのだった。
「…じゃあリタ。こう約束して?私達がどこかで何か危ない目に遭ったら、1分で助けに来るってさ!」
やっと不安が取れたはずみのせいか、私は少しふざけぎみになる。するとリタは少し困ったような表情になった。
「…場所が分からない場合は1分以内かどうかは保証出来かねるが…助けに行く、というのは約束しよう。」
「えーだめ、1分以内じゃないと!手遅れになっちゃうかもしれないじゃない!」
「むぅ……努力はする。」
「あはは、絶対助けに来るんだよ~待ってるからね~!」
そんなノリでこのリタとの会話は終わった。その後ルチアを見ると、やっぱり絵本を読んだままだった。
そう、ルチアはいつだって絵本を読んでいるように見えた。けれど、そうではなかったということを思い知らされることになるのは、リタと約束をしてから1週間ほど後のことだ。
リタはその1週間、この研究室に来ることが少なくなっていた。何でも会議があるらしかった。それがある日は大体研究室に来ないから、物凄く長引く会議なのだろうと思う。
本人は平気だと言っている。でもその次の日は心なしか疲れた表情を浮かべているように見えたし、体も少しふらふらしているようにも見えた。きっと身体的にも精神的にもきているのではないだろうか?
何しろ3人での会議だ。
その中には当然マルコーも含まれる。
リタは会議での彼について私に何も教えてくれない。だから彼が何を考えているのかは想像出来ないけれど、私は何となく嫌な予感がするのだ。
私の故郷を『国』の力を使って制圧したり、オメガの存在を世間に暴露したり。次は何を起こすつもりなのだろう?何か取り返しの付かないことが起こすのではないだろうか。
リタもルチア博士もそれを警戒している。思えば、そんな状態で1日中会議などしてたら疲れるに決まっていたのだ。
そして、今日も研究室にリタの姿は無い。
(今日も会議なんだな…。)
私は昨日まとめた書類を見ながら溜め息をついた。
そんな時。
「…アンジェ。」
「?」
珍しく、ルチアが仕事中に話しかけてきたのだった。
「ん?どうしたの?」
「えっとね…ちょっと聞きたいことがあって。その……。」
「…?」
何だか言葉の歯切れが悪かったので、私は首を傾げる。何か私の知らないところで悪いことでもあったのだろうか。と少し身構えたけれど、そういうわけでもなかったようだ。
「リタさんって…最近見ないよね?」
だから私は内心ほっとした。
「あぁ、そうだね。でもルチア、今日はリタにここに送ってもらったんじゃないの?」
ルチアは何も言わずにふるふると首を横に振る。
「じゃあルチア博士に?」
「ううん。もう1人でここに来れるようになったから。…それで、その…アンジェはリタさんがどこに行ったのか知ってる?」
そして不安げな瞳を私に向けた。その時少し心に引っかかることはあったけど、取り敢えず私はルチアに知ってることを話すことにした。
「うんとね、リタは会議があるんだよ。それが毎回長引いてるみたいで、最近は1日中やってるよ。」
「…かいぎ?」
「うん、話し合いみたいな感じ。でも何でリタのこと?何か用事があったの?」
「えっと…。」
どうやら、今日のルチアは何故かリタの話になると口ごもるようだった。何となく複雑な事情がありそうだった。ルチアの表情は不安一色に染まっている。
「ルチア、今日は何だか元気が無いみたいじゃない?」
「………。」
「相談したいことがあるなら聞くよ。今、大して忙しくないし。」
「…うん…。」
その後、私達は休憩室に場所を移すことにしたのだった。
私達はいつものように紙コップに水を入れて、隣同士の椅子に座る。そして私はしばらく何も言わずにルチアの様子を伺った。
でもルチアは俯いたまま何も言わない。仕方ないから、少し話しかけずらい雰囲気ではあったけど私から話を切り出す事にした。
「ねえ、ルチア。リタのこと、何か気になってることがあるんでしょ?…私も気にはなってるけど。リタ、ここのところずっと会議続きですっごい疲れてるもん。もう顔見ただけで疲れてるの分かるし…。」
「……。」
「もしかして、ルチアも見たの?リタの様子。」
「…うん。」
「そうなんだ?いつも絵本読んでるように見えて、ちゃんと細かい所も観察してるんだね。」
私がその時意外そうに目を丸くしたからかもしれない、ルチアは小さくくすりと笑った。
「時々、ちょっと見てるだけだけど。」
「へぇ~全然気付かなかった…。だってね、私がルチアを見るときって、決まって絵本読んでる時なんだもん。」
「そうなの?」
「そうだよ。」
私は短く答えて、一口水を喉に運ぶ。
「…まあそれはともかくとして。リタのこと心配だよね…。」
すると、ルチアはまた表情を曇らせた。
「うん。……とっても、心配。」
何だか今にも泣きそうな表情だ。よっぽどリタの事が心配みたいだ。でも今まで大して2人は話してないのに?何だか不思議な感じがした。
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