神社仏閣珍道中・改
【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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(喜多院・続き)
神社にもそしてお寺さんにも置かれるおみくじ。
その起源が元三大師さまであるということも〝珍道中〟を始めてから知りました。
そもそも珍道中を始めてからもしばらくはおみくじを引くということはなく、初めておみくじを引いたと記憶しているのは日光東照宮の新春のみ引くことのできるという〝当たりつき〟おみくじであったような。
…おみくじを引くことですら煩悩の捨てられないおばさんでありました。
その後も、〝ゆるみくじ〟と呼ばれる可愛らしい小さな陶器でできた置き物に詰められているおみくじであるとか、水に濡らすとその内容が浮かび出るものであるとか、本来のおみくじとしてではない、くじ引きのような感覚でおみくじを引くことしかありませんでした。
おみくじを心のどこかで占いのようなものとして捉えているのだろうと思います。
とはいえ、さすがに神さまや仏さまのおられる所でお受けした、ありがたいご助言(御神託)の書かれたもの、ですので、その助言の内容は心の片隅に置いて行動するようしてはおります。
大吉やら小吉、凶などと書かれたところに関しては、(ふーん)と流して見ているところがあり、それは悪い結果を見たくない、受け入れたくない気持ちから、自分で線引きしているようにも感じるのですが…。
しかしながら。
ビビりでもあります私。
このおみくじは引くのが恐いと思ったおみくじがあります。
幸いなことに、今まで訪れたところではそのおみくじが置かれておらず、やれ、「この狐の目が優しいから〝この子〟にしよう」だとか、「このねこの表情と仕草が可愛いから〝この子〟にしよう」とか、どこかのファンシーストアにでもいるかのような選び方をしているおばさんなのでありました。
そんなおばさんが恐れるおみくじこそが、…この元三大師さまのお作りになったというおみくじでありました。
なんでもそれは、慈恵大師をお祀りする御堂を礼拝し、観音経を3回読み、その後修行僧におみくじを引いてもらい、吉凶を解説してもらうというもので、今の一般的なご自分で引く物とはまるで異なります。
また、このおみくじ、『観音籤』は吉の類が七割弱、凶の類が三割強という凶が出る確率が高いおみくじであるというのです。
テレビでその光景を観ているだけでも、背筋がピンといたしました。
(続き)
江戸時代の初めの頃、喜多院の住職も務めていた天海僧正さまは、深く慈恵大師に帰依されていたといいます。
そんな天海僧正さま、何事にも大師のお告げを仰いでいましたが、
『…ある時夢に慈恵大師が現れて、信州戸隠神社に観音の百籤ひゃくせんをしまっておいたので、それを私の像の前に置き、信心を凝らして吉凶を占えば、祈願に応じて福禍ふくかを知らしめよう。大いに衆生を利益せよとの、お告げを受けました。
早速、戸隠に向かい社殿を探すと、夢のお告げ通りに百枚の籤(くじ)が収められていました。
天海僧正は注釈を付け【観音籤(かんのんせん)】としてまとめました。
これが今日の「おみくじ」の始まりです。』
(喜多院HPより)
私の恐れる元三大師にお伺いをたてるというおみくじは、かの【比叡山延暦寺】の【元三大師堂】のみのようです。
優れた霊力をお持ちであったという元三大師が亡くなられて、さらに霊力を増しておられるような気もいたします。
私のような愚かな人生を歩んできてしまった人間に対して、どんなお告げがくだされるというのでしょう。
怖さしかありません。
しかしながらその比叡山の元三大師堂でのおみくじについての内容に私の思い込みがないかあらためて調べてみました。
この比叡山の元三大師堂でのおみくじは、元三大師に直接お伺いをたてるという形式のため、修行を重ねた僧侶しか引くことを許されていないのです。
そのため、このおみくじを希望する参拝者は、お伺いしたいことを紙に書いて僧侶に代わりに引いてもらい、説法のようにおみくじの内容を聞く、というもののようです。
…えっ?
私のテレビの映像を観て抱いた先入観とはだいぶ異なるような…。
むしろこのおみくじなら引かせていただきたい気がいたします。
…やはりなにごとにおいても思い込みというのは愚かしいもの、でありました。
喜多院のおみくじも、この観音籤を用いているといいますが、現在は簡素化されて、参拝者がご自身で引くものでありました。
えっ?
引いてみたか、ですか?
それは…ご想像通りであります。
今年もあい変わらない珍道中を繰り広げるおばさんでありました。
仕事を辞めている今なので…今度こそと思ったのに。
体調の整わない者は被災地でのボランティアは御迷惑でしかない。
定年まであと数年あるという歳なのに、悔しいなぁ。
情けないなぁ。
それどころか地元でいつもしていたボランティアも、この症状ではできない。
ああ口惜しいこと。
(喜多院・続き)
比叡山の元三大師堂さんのおみくじは極めて特殊なものであると言えましょう。
私の参拝させていただきました、元三大師さま由来の『〇〇大師』と呼ばれる寺院であっても、元三大師さまと天海僧正さま所縁の『観音籤』と呼ばれるものを採用なさってはおられても、いずこの寺院でもいわゆる一般的なおみくじの形態をとられています。
このいわゆる一般的なおみくじは、
・みくじ棒と呼ばれる細長い棒の入った箱を振って、中から一本取り出してその棒に書かれた数字を読み取り、それぞれの数字の書かれた引き出しに納められたおみくじを取り出すもの、
というもの。
.折り畳まれた小さな紙片に数字と吉凶を記したものを、やはり専用の引き出しからその数字の書いてある引き出しから取り出すもの。
・折り畳んだ小さなものに、すでに吉凶や神仏からのメッセージが書かれていたりするもの。
…等々。
このようなおみくじは、江戸時代以降に広まったようです。
さらに現在においては、硬貨を入れておみくじが出てくる自動販売機を設置している所もあります。
この自販機のおみくじも、まさに慈恵大師をお祀りした寺院に設置されていたものでありました。
ガシャガシャ(?)ガチャポンで出てくるといった所もありました。
こちらは真言宗のお寺さんでありましたが。
そうは言っても、自販機やガチャポンのおみくじも、みくじ棒を引くタイプの御籤も、私は今でもまだ引いたことがないのですが…。
(続き)
天台宗『川越大師』【喜多院】の御由緒は、故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれないといいます。
喜多院のHPによりますと、
『 いい伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長七(830)年、【慈覚大師円仁】により創建された勅願所であって、本尊『阿弥陀如来』をはじめ『不動明王』『毘沙門天』等を祀り、【無量寿寺】と名づけました。
その後、慶長二(1205)年、兵火で炎上の後、
永仁四(1296)年、
伏見天皇が『尊海僧正』に再興せしめられたとき、
【慈恵大師(元三大師)】をお祀りし、官田五十石を寄せられ、関東天台の中心となりました』
とあります。
『 正安三(1301)年、後伏見天皇が東国五百八十ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は『星野山(せいやさん)=現在の山号』の勅額を下しました。
天文六(1537)年、北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。
慶長四(1599)年、
【天海僧正(慈眼大師)】は第二十七世の法灯を継ぎますが、慶長十六(1611)年、【徳川家康】公が川越を訪れたとき親しく接見しています。
そして天海の意見により寺領四万八千坪及び五百石を下し、
『酒井備後守忠利』に工事を命じ、
『仏蔵院北院』を【喜多院】と改め、又、四代【徳川家綱】公のとき東照宮に二百石を下すなど寺勢をふるいました。
寛永十五(1638)年一月の川越大火で現存の山門(寛永九年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。
そこで三代将軍【徳川家光】公は『堀田加賀守正盛』に命じてすぐに復興にかかり、
『江戸城紅葉山(皇居)の別殿』を移築して、客殿、書院等に当てました。
【家光誕生の間】【春日局化粧の間】があるのはそのためです。
その他【慈恵堂】、【多宝塔】、【慈眼堂】、【鐘楼門】、【東照宮】【日枝神社】などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています』
(喜多院HPより)
(続き)
徳川家康公の絶大な信頼を得、顧問的な存在として知られる天海僧正は、以後、秀忠公、家光公に仕え、実に百八歳まで生きたとされます。
深く慈恵大師に帰依した天海僧正は、慶長十七(1612)年に家康公に進言し、ここ無量寿寺(=喜多院の前身)再興を認めてもらい、【喜多院】と名を改めて、ここを関東天台宗の本山と定めました。
再興された喜多院は天海の在住を招請します。
これを受け、以後、関東の天台宗寺院はすべて喜多院・天海のもとに属することとなりました。
寛永二十(1643)年、東叡山寛永寺にて入寂され、それから五年後、朝廷から【慈眼大師】の諡号を賜いました。
天海僧正は朝廷から賜る大師号としては史上最後、日本で七番目の大師様となりました。
御本堂である慈恵堂をあとにして。
境内の中心に立つ、白地に黒い文字の四角柱の看板まで歩き、そこからみぎてを見ると、長い石段があるのが見えてその先には御堂がそびえています。
……長いなぁ。
しかしながら、この御堂は外せません。
こここそが慈眼大師(=天海僧正)をお祀りする【慈眼堂】であります。
この小高い岡、実は七世紀初頭のご飯であるといいます。
さあ、御堂と言ったら?
…そう、おばさんは覗きます。
…ゔっ!!
…暗い御堂の中に白い顔の等身大の坐像が浮かび上がります。
かなりの暗さで全体的に見ることは難しいのですが。
その、顔だけぼぉーっと白く浮かび上がるかのような…、もしかしたら等身大よりもだいぶ大きいかもしれない像は、目を凝らしてもよく見えず、そのうち、私の脳内に(即身仏みたい)という言葉がぶくぶくと沸き出てきました。
むろん即身仏ではありません。
こちらには即身仏はおられません。
でもまさに即身仏のイメージそのものにしか見えないのです。
(こ、怖いぃっ!)
とびのくようにその御堂を離れたわたしは、譫言のように呟いていたとかいないとか…。
いませんよ、…本当です。
(続き)
御本堂への参拝を終えた私ども。
次に向かうは…。
次に向かったのは、仏像大好きな私が十年以上前からずっと訪れたいと想い願っていた【五百羅漢】であります。
諸説あるようですが、日本三大羅漢の一つに数えられているのだそうです。
・栃木県足利市の「徳蔵寺」
・神奈川県鎌倉市の「建長寺」
・大分県中津市の「羅漢寺」
そして『喜多院』の四つが候補とされているらしく、ちなみにこのうちの二カ所にはすでに参拝させていただいており、残る一つは大分県。
…大分まではさすがに行けそうに無いです。
大分県にも素晴らしい、行ってみたい神社仏閣がたくさんあるのですが、ね…。
なお『喜多院』の羅漢様は、圧巻の五百三十八体おられるといいます。
川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明二(1782)年から文政八(1825)年の約五十年間にわたり建立されたものです。
『十大弟子』・『十六羅漢』を含めた五百三十三体のほか、
中央にひときわ高い座を設けて、さらなる高座の大仏に『釈迦如来』さま、
脇侍の『文殊・普腎の両菩薩』、
左右高座の『阿弥陀如来』
『地蔵菩薩』
合わせて全部で五百三十八体が鎮座しています。
この五百羅漢、境内の売店に密着した、…というより、この造りだと売店の施設のように取れるくらいであります。
入り口に受付があり、入場料を支払います。
このいかにも売店の施設、見せ物のような感じに十年以上抱いていた熱い想いは一気に失せてしまいました。
はぁ…。
しかし!
その五百羅漢の居並ぶ場所にはいった途端、萎れてしまった思いは一気にまた、はじけそうなほどに膨らむのでありました。
…私らしいでしょう?
笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。
仏具や御仏の像を手に持っていたり、日用品を手にしていたり。
動物や、なかには龍を従えていたりと、いつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。
きゃー♡
ええもうご想像通りに、はしゃぎ回るおばさんでありました。
また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。
ただし現在では夜ここに立ち入ることはできません。
↓(龍を抱く羅漢)
(続き)
この五百羅漢のおられるところに立派なエノキの樹があります。
苔むす表皮と力強い根っこ。
思わず立ち止まってその樹を見上げます。
まるで外に設けられた内陣のように、高いところにお祀りされた御仏の像。
その真ん前には十大弟子、十六羅漢が居並びます。
そこにいる方々はそれぞれ伝えられている特色を出しながらも、お釈迦さまの(像)前にいるということで、みな、神妙な表情をされています。
羅怙羅尊者さんという尊者さんがおられますが、この尊者さんは胸をガバッと開いて(着物では無い、身体の)中におられる御仏の顔を見せていますが、年月を経た石像だというのに実にリアルに造られたことがわかる出来でありました。
ところが。
そこから離れたところとなると…。
子どもを愛おしそうに抱く羅漢さん。
巻物を広げ片手に掲げて持つ羅漢さん。
托鉢姿の羅漢さん。
動物を抱いたり、纏わりつかれたりする羅漢さん。
いろいろなところに点在しておられますが、干支の動物と関わる羅漢さんもおられました。
膝を抱えて顔を伏せる羅漢さん。
隣同士で談笑する羅漢さん。
ごろ寝するいる羅漢さん。
一杯やってる羅漢さん。
鼻をほじる羅漢さん。
……。
いかにも私が好きそうなところでしょ?
ここで出会った方々は、男女問わず楽しそうにあちこちの羅漢さんを眺めては語らっておりました。
まぁ…。
ここで出会った方々、私どもより年配と思しき方々でありました。
…ですよね〜。
ちなみに。
この日は年末でも、年始でも無い平日でありましたが、国指定重要文化財であります『家光公誕生の間』である【客殿】、『春日局化粧の間』である【書院】はお休みで拝観できず。
【仙波東照宮】へと向かいます。
【仙波東照宮】
慈眼堂の石段と鐘楼門との間の道を歩いていくと、白い、いかにもお洒落な、新しいカフェが見えてきました。
なんとこちら、社務所を兼ねた建物でありました。
この社務所の受付の前が参道となっております。
受付からひだりてには随身門が見え、みぎてには長い階段が見えます。
受付の前にはよく日の当たる、ところどころにベンチの設置された広場があります。
五十段の階段をのぼると朱色の拝殿が見えてきます。
階段を登りきったところには赤い背の高い鉄製の門扉があり、葵の御紋が飾られていました。
さほど広くはない空間です。
みぎてに手水鉢が置かれています。
手水舎は無く、手水鉢には龍の吐水口。
ただ、こちらの手水鉢、鉢いっぱいに柑橘類が浮かべられていました。
初めて見る気がいたします。
花手水ならぬ柑橘手水。
なん種類かの柑橘類が浮かべられています。
水に浮かべられた柑橘類が日を受けてきらきらと光っているさまもなかなか綺麗です。
参道を守る狛犬さん。
この狛犬さんはなんと、江戸城から移設されたものだといいます。
柑橘手水となっている手水鉢も同じく江戸城からの移設といいます。
川越の大火の折に焼失してしまったこちらを再建するように指示されたという家光公が、同じく焼失してしまった喜多院に客殿と書院を寄贈したように、狛犬と手水鉢を奉納されたのでありましょう。
ちなみに、〝髄身門〟・〝石鳥居〟・〝拝殿〟・〝幣殿〟・〝本殿〟すべてが国指定重要文化財となっているのだといいます。
↓(仙波東照宮さんの手水鉢)
(続き)
【仙波東照宮】さんは赤い、さほど大きくない拝殿であります。
澄んだ、清らかな気が満ちている静かであたたかな空間です。
しかしながら。
まことに不敬な言い方をいたしますが、…東照宮にしては、三大東照宮にしては少しコンパクトな気がいたしました。
彫刻などの装飾も、一つ一つは丁寧な造りながらも、少ないように思います。
美しくて歪み等一切ない葵の御紋、左右の木鼻には麒麟。
そう、一つ一つはまことに心惹かれるものであります。
三大東照宮という見方をはずせば、私はこちらの神社さんが大変好きであります。
落ち着いた、穏やかな神社さんであります。
塵一つない境内一つとっても、ここをどれだけ大切に思っているか、
大火で再建した際、この神社を、東照宮をどれだけ大切に思っていたかが、ここに立つだけで心の中に流れてくるかのように伝わってくる社殿であります。
ただ、規模的なものとしては、こちらの社殿は再建であったというだけでなく、このあまり広くはないところに建てられでありますいたことからも、もともとあまり大きなものではなかったようです。
一番、東照宮らしいなぁと思ったのは、拝殿域、そして本殿域にある統一された大きさの石灯籠でありました。
大きさのみならず並べ方も大変美しく均等に配列されています。
これは歴代の川越城主より寄進された全部で二十六基の石灯籠。
このうち拝殿域の左右に二十三基が配置されています。
そう、これなんですよね〜。
東照宮といえば。
…などと熱く語ってはおりますが、全国で社殿という形で残る東照宮は少なくとも五十を越えるといい、そのうちのほんの一握りしか参拝していないというのに、相変わらずなおばさんです。
岩槻城主の名も見られます。
…ですよね〜。江戸時代ですから。
こちらの御祭神は言わずと知れた徳川家康公。
こちらの解説によると、
『…本殿内に安置されている円形厨子の中には、天海が彫作した冑を着け槍を右手に持ち、駿馬に騎っている家康公の木像が祀られている。
本殿の周囲に巡らす瑞垣は、本瓦葺で透し塀。
中央正面の唐門は、一間一戸の平唐門で銅瓦葺である。』
とありました。
(続き)
昨年(令和四年)川越市政百周年にあわせて、こちらの御本殿が特別公開され、御神体も初めて公開されたといいます。
一般的に神社の御神体は鏡や剣、勾玉が安置されていると聞きますが、こちら仙波東照宮の御神体は、金箔の厨子(ずし)に納められた甲冑姿で馬に乗っている木像の家康公であるといいます。
長い年月人目に触れることのなかった御神体。
この特別公開は市政百周年を以て初めてというもの。
大河ドラマの影響もあったのでありましょうか?
いずれにしてももう生きているうちにはお目にかかれないであろうと思うものでありました。
その他、拝殿の『三十六歌仙額』や幣殿に飾られている『十二聡の鷹絵額』、入口随身門の左右に昔、安置されていた『木造随身像』二体も拝殿の中で拝観できたといいます。
はあぁぁ…。
煩悩おばさん、こうした〝特別〟〝限定〟といった言葉に大変弱うございます。
しかしながら…。
コロナ禍より以降、こうした欲はどうも薄れた気がいたします。
限定〇〇、特別〇〇、たとえば特別御朱印等、気持ちは揺らぐものの、それはさざなみよりも静かで穏やかなものとなりました。
これが、御開帳ラッシュの午年やらを迎えたとき、どうなることか…。
やっぱりまだまだその辺あやしいおばさんな気もいたします。
社務所で書置きの御朱印を授与していたバイトの高校生の男の子。
こちらでの御朱印希望は、切り絵の美しい御朱印希望がほとんどのようで、「御朱印を一体お授けください」と申しましたら、何も聞かずして切り絵御朱印を用意しだしました。
「そちらでない普通の御朱印を…」
と申しましたところ、あからさまに顔つきや声が変わり、なんともぞんざいな手つきで御朱印を渡してまいりました。
…切り絵御朱印も美しいんですけれど、ね。
切り絵御朱印を受けるにしても、通常御朱印ははずせません。
ちなみにこちらは社殿を斜め左から映し取った美しい切り絵でありました。
こういった切り絵タイプのものは、それ専用の御朱印ファイルに収めないと、どうしても折るしかなくて、
そこまでして集めるほどの情熱がなくなっている私でありました。
まぁ、スイッチはゆるゆるで、いつでもどこでもオンになる気がいたしますが 笑。
(続き)
それにしても…仙波って、なんだろう。
もちろん地名であるのではありますが…。
…調べてみました。
昔、この仙波のあたりは海だったといいます。
それについてこの辺りにはこんな伝説があるのだといいます。
『…むかし、仙芳(せんぽう)という仙人がお寺を建てようとこの辺りを訪れます。
しかし、周りは海ということで、なかなかいい場所が見つかりません。
仙芳仙人は竜神で海の主である老人に会いました。
そして、お寺を建てたいことを伝え、自分の衣を広げた分の土地をいただきたいと頼み、竜神はそれを快諾しました。
仙芳仙人は衣を広げるようにして投げました。
すると。
衣はどんどんと大きくなって数十里にも広がりました。
竜神は驚き、自分の住む場所を残してほしいと頼み、仙芳仙人は竜神のために小さい池を残しました。
仙芳仙人は土仏を作り、それを海に投げました。
すると瞬く間に海はしりぞいて陸地になったということです。
伝説には信じにくい内容がありますが、たしかに今から7~8千年前、東京湾は仙波周辺にまで入り込んでいたことが分かっています。
そして仙芳仙人が竜神のために残した池は、今『龍池』と呼ばれ弁財天さまがまつられています。』
…という伝説があるのが、この喜多院さんの辺りでありました。
(続き)
喜多院さんには『七不思議』があるのだといいます。
それはHPにも七不思議の一つとして紹介されているものもあったくらいです。
ですがさすがにその伝承全てを載せるとあまりにも膨大になってしまうためなのか、七不思議について触れているのはほんの一部であり、その全てはなんなのか、そういった伝承好きのおばさん、調べてみました。
調べてみますと、なんと私が気になって調べた前レスの〝仙波〟についての伝承も七不思議の一つであり、(これはなかなか感のいい)と、鼻が数ミリ伸びた気がするようなおばさんです。
しかし、それよりも先に、疑問に思っていた七不思議について調べていればよかったのでは?と思うと、伸びた気がする鼻が元よりも少し低くなったような…。
そんな簡単に鼻が伸びたり縮んだりするようではほら吹きおばさんであることを証明したようで、かえって情けないことで。
閑話休題。
喜多院さんの七不思議について調べてみますと、諸説あり、ある紹介ではこの七つを挙げ、別のものではまた異なる七つを〝七不思議〟として紹介していることがわかります。
しかしながら。
かつて別の七不思議を調べた際、七不思議の〝七〟は必ずしも数字の〝七つ〟ではないと述べておられたものがあり、こういった伝承を〝七不思議〟として取り上げようとしたとき、どうしてもその〝七〟〝七つ〟にしばられて、選抜されることが生じてしまう、とのことで、ここ喜多院さんにおいてのそれも、まさに七つを超える七不思議でありました。
調べたものを羅列してみます。
一、明星杉と明星の池
一、潮音殿
一、山内禁鈴
※これについてはさらにいくつもの伝承があるようです
一、三位稲荷
※これについても二つほど伝承があるようです
一、琵琶橋
一、底なしの穴
※これについても二つほど伝承があるようです
一、お化け杉
一、五百羅漢
一、鐘楼門の鷹
他にもあるかもしれません。
他ならぬざるおばさんの調べでありますので。
…それにしても。
私が私を語るとき使う〝〇〇おばさん〟という別名も、やれ〝(歩く)煩悩おばさん〟だの、〝エックスキューズミーおばさん〟だの〝ざるおばさん〟もそうですが、調べたら七つくらいありそうな。
その全てがしょうもないものである事かいかにも情け無いおばさんです。
あ。
早速漏れを発見しました。
しかも、一レスを使って書いていたあの、仙波という地名にまつわる竜神さまの池のお話です。
情けなや、情けなや。
しつこくもなりますが、一挙していた方がいいと思い、あらためて列挙いたします。
【喜多院の七不思議】
一、明星杉と明星の池
一、潮音殿
一、山内禁鈴
※これについてはさらにいくつもの伝承があるようです
一、三位稲荷
※これについても二つほど伝承があるようです
一、琵琶橋
一、底なしの穴
※これについても二つほど伝承があるようです
一、お化け杉
一、五百羅漢
一、鐘楼門の鷹
一、竜の池弁天(追記分)
(続き)
そろそろ、このおばさんいつまで喜多院さんについて書き続けるのだろう、という声が聞こえてきそうな気がいたします。
再拝したならまた、今回拝観できなかった客殿や書院について書くに決まっているというのに…。
この喜多院の七不思議、実は全て喜多院さんの境内にあるわけではなく、道の端にあったり、場所によっては一キロほども離れているといいます。
今回たまたま通りかかった一つを書いて、喜多院さんに関するレスは終了したいと思います。
それは喜多院さんから本丸御殿へと向かう途中、喜多院にほど近いところにあるのを、偶然見かけたものでありました。
それは『明星杉と明星社』と書かれた案内板でありました。
そしてその看板から少し奥まったところに、小さな石のお社がありました。
小さなお社です。
夫は足も止めず素通りしようとしたくらいです。
しかしながら。
実はここは喜多院さんがここに建立されることとなったゆかりの地であり、ここの伝説が喜多院さんの山号となっているほど大切な場所であったのです。
『永仁四(1296)年のこと。
仏法を広めるため、尊海僧正は牛車に乗って仙波の地(現在、喜多院が建っている場所)を訪れました。
ところが、橋の前で牛が急に立ち止まってしまいます。
尊海は「この場所には何かあるに違いない」と考え、仙波の地に留まることにしました。
すると、その晩、近くにあった池の中から不思議な光が浮かび上がってきたといいます。
その光はあっという間に空高く舞い上がり、明星となりました。
そして、古い杉の上にとまり、キラキラと輝き始めたというのです。
尊海僧正は
「この地こそ霊地に違いない」
と考え、ここにお堂(喜多院)を建て、仏法を広めるための拠点といたしました。
このことから、喜多院の山号が『星野山(せいやさん)』となり、この地に『明星(みょうじょう)』という字名が付いたといわれているのだといいます。
これから向かったのが、川越城の本丸御殿でありました。
その途中、童謡【とおりゃんせ】の舞台となったという神社さんのそばを通ります。
ただ、今回はその二箇所はそばを通っただけで、このあと【川越氷川神社】さんへと向かったのでありました。
今日から『七十二候第七十一候』の【水沢腹堅(さわみずこおりつめる)】です。
沢の水も凍るほど寒い頃、という意味であります。
実際に沢の水はそうそう凍るものではありませんが、今、まさに寒さの底といったところでしょうか。
庭の、メダカを飼っている鉢も今日は表面に氷が張っていました。
冬眠、というほどではないのでしょうが、秋頃からメダカはあまり動かなくなり、そして餌もあまり食べなくなります。
初めての越冬のときには、氷を張らせてしまったことで、メダカにひたすら謝りながら、氷をのけて、あたたかい場所に移動したものですが、氷の張った表面から離れた底で、しっかり越冬できることを知った今は、せいぜい氷をのけてあげるくらいで。
一年くらいしか生きないと言われているメダカですが、一年半以上生きている個体がおり、一番食欲旺盛で活発に泳ぎ回っています。
このメダカを猫可愛がりしているおばさんであります。
榛名神社さんの滝は今年も見事に凍っておりました。
榛名湖の水も波の形に凍ります。
そうそう、桐生市には見事な氷柱の見られるところがあります。
まぁ、どちらも私の運転技術では行かない方が良いかと思うので、自分一人では行か(け)ないのではありますが…。
そうそう、今日は一粒万倍日のようです。
そして冬の土用。
庭いじりは避け、せいぜい悪いことをしないよう気をつけて過ごしたいと思います。
…それにしても。
ビビりのおばさん、信心深くもなく、スピリチュアルとかには興味もないのですが、なにせビビり。
以前のようにあまりそうした、やれ一粒万倍日だとか、土用の期間だとかを知らずにいた方が縛られずに、のびのびいられたような…。
こうしたことともうまく付き合っていくことがおばさんの新たな課題です。
心に響いた歌がありました。
わが心 鏡にうつるものならば
さぞや姿の 醜くかるらん
古い歌だとだけ書かれていて、詠み人もわからない歌のようです。
うーん。
…はるか昔の私が詠んだ?
いやいや、かつての私とて、かような文才は無いはず。
はあぁぁ、命尽きるまでの間、少しでもがんばって生きよう。
心を磨いて。
未熟者の私、ここ三日ほどすぐにイラっとくることが多くて、自分でもびっくりするくらい沸点が低くて、沸騰した時のブクブクも大きく、正直戸惑ってもいた。
…カルシウムが足りない?
寒さの中カルシウムのサプリメントを買いに出かけたくらい、自分でもその感情の不安定さが不安でもあった。
一例を挙げるならば。
出かける前にはよく晴れて風もさほど吹いてもいなかったというのに、帰ってきたら、布団干し四つで留めておいた布団は吹っ飛んでおり(…それでもここで〝布団が吹っ飛んだ〟というフレーズを使う、気持ちのゆとりはかろうじてある 笑)、夫の服に至ってはハンガーを2箇所も3箇所も洗濯バサミで留めていたというのに、どこにどう飛んだのか影も形もないのである。
他の洗濯物は一切飛んでなどいないというのに。
元々上州の空っ風のもとで育っているので、たとえ風が吹いていなくともかなりの風対策はしているのだ。
はぁ?
この日テレワークで在宅で仕事をしていた夫、ほんの10分前まで昼休みだったというのに…。
まぁ、彼はそういったことに関心もなければ気も利くタイプではない。
仕方ない、彼は家にいなかったと思えば、これはただの事故、事故。
そう思っていったん家に入ると。
!💢
この日、9時台という早い時刻に彼宛てに届いた子供がそれこそ三、四人入れそうなダンボールで届いた宅配物があり、彼が仕事中に使うものと知っていたので、開けてからの仕事部屋に届け、そのやたらめたらどデカいダンボールは玄関に置いておいたのだ。
実はこの日、私は前日にバッテリーが上がってしまった車の対応に追われていたのだ。
この車のディラーは毎週二日の休みで、よりにもよってその1日目。
「これからでは対応できませんね」
…まだ午後になって間もない時間だというのに、いともすげないお言葉でバッサリと切られてしまったのだ。
そもそもバッテリー上がりがどうかもわからないその車の対応でレッカー車を呼ぶことになり、それでもそのレッカーの会社の方のジャンピングでなんとか復帰した車を、そのまま整備工場を持つカー用品店に行っていたのだ。
そんな中でも彼の昼食の用意はして出かけている。
なのに、ダンボールをたたむことすらできない?💢
まぁ、この時彼は仕事中、胸ぐらをつかむことはできませんでしたので、ご安心ください。
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ところが。
何の気なしに見ていたネットで、
『満月の前は体調やメンタルが揺らぎやすいときでもある』とか、
『満月前夜いらいらが高じた時』とか、いった言葉が目に入ってきたのです。
えっ、そうなの?
そんなの私、うん十年生きてきて初耳なんだけど。
実はまさに今日は満月。
とは言っても、日付が変わってAM2:54という時刻にまん満月の瞬間を迎えましたので、今はもう少しづつ欠けていっているのですが…。
つまりはまさに〝満月の前〟であったわけで。
その記事を読んでみれば、
『満月には、感情があふれ出して、なんだかイライラしたり、
せつなくなったり、
やたら心配になったりすることが多い 』
と綴られています。
ほう。なるほど。
さらに
『一月十一日の新月からのここニ週間、自分の気持ちの器を越えるようなことが多ければ多いほど、その反動が満月前後にやってきて、気持ちがあふれやすくなるのです。』
とも書かれていました。
ん?
そ、そうかなぁ。
たしかにイレギュラーに突然孫を預かる日が二日あったりしましたが。
しかも片道一時間の道を運転して…。
でも別にそれは大したことではないと、自分ではなんとも思ってはいなかったのだけれど?
うーん、そう言われてみると同居の息子が高熱を出したりもあったなぁ。
ま、満月の前はそうしたことがあるらしいことにはすぐに納得はいきました。
なぜなら月の満ち欠けで、お産の数が増えたり、喘息の発作が起きやすかったりと、科学では説明できないことがあることを、現場の医師や助産師さんが言っているのを何度となく聞いていたから。
気圧も凄いことになっています。
デリケートな私が影響を受けても不思議はありません。(えっ?)笑
今、不整脈で心の臓すらも不安定な時でもあります。
うーん。
…写経でもいたしましょうか。
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【川越氷川神社】
川越氷川神社さんは川越の総鎮守だといいます。
その御由緒は大変古く、古墳時代の欽明天皇二年に創建されたと伝えられています。
室町時代の長禄元(1457)年、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。 江戸時代に入ってのちも歴代の川越藩主より社殿の造営や特別の計らいを受けました。
現在の本殿には緻密な彫刻が施されているといい、県の重要文化財となっているとのことであります。
いにしえより縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の御祭神にあります。
こちらの主祭神さまは
素盞鳴尊(すさのおのみこと)さま。
脚摩乳命(あしなづちのみこと)と 手摩乳命(てなづちのみこと)の
夫婦神さま。
さらにその娘であり、素盞鳴尊の妃神でもある
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)さま。
そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命のご子孫ともお子様ともいわれ、また出雲大社の縁結びの神さまとしても知られる大己貴命(おおなむちのみこと)さまの五柱の神さまであります。
これらの神さまがたはみなご家族であることから、【川越氷川神社】は『家族円満の神さま』、
また、ご祭神に二組のご夫婦神様が含まれていることから、
『夫婦円満・縁結びの神様』として川越の人々から厚く信仰されております。
近年はメディアを通じ全国的にも有名な神社さんでもあります。
こちらの神社さんといえば、一番に挙げるとしたら、…どれかしら。
そう悩むくらいに特色のある神社さんです。
…などと申してはおりますが、あくまでもおばさん、この日が初めての参拝であります。
でもやっぱり。
あの数量限定のあれ、でしょうか。
毎朝八時に無料でお授けいただけるという『縁結び玉』♡
こちらは“境内の玉砂利を持ち帰ると良縁に恵まれる”という言い伝えから、身を清めた巫女が小石を拾い集めてひとつひとつ麻の網で包み、毎朝神職がお祓い・御祈祷し、個数限定でお授けいただける、というもの。
テレビで拝見したのですが、これを求めて朝の5時前からこれを求める方々が列をなしていました。
ちなみにこの『縁結び玉』、いったいどのくらいの方がお授けいただけたのかを知りたいと思ってSNSをのぞいてみたのです。
…いないのです。
お一人も。
びっくりです。
川越城の本丸御殿の前を通って。
突き当たりの道を渡ると小ぶりながらも品の良い博物館と美術館が並んで建っています。その横にある歩道を歩いて進むと。
大ぶりな人よりも縦横大きいほどの、大きな大きな白ウサギので像のある、明るい、建てられた建物はいかにも新しい和菓子屋さんがありました。
『道灌まんじゅう』とあります。
…太田道灌!お饅頭になっていましたか!
食い意地が張ったおばさん、道灌まんじゅうにも、この大きなウサギの像にもいたく心を惹かれましたが、…まずは神社さんへお参りです。
後ろ髪を引かれつつ、真っ直ぐその前の道を歩いてまいります。
とまもなくみえてくるのが、道を隔ての石の鳥居、【川越氷川神社】さん一の鳥居でありました。
ん…。少し、なんとはない小さな違和感が…。
でもまぎれもない一の鳥居で、続く二の鳥居はすぐそこです。
目の前には拝殿が見えて…。
おばさんの小さな違和感は跡形もなく消え去りました。
やわらかな、あたたかい気が溢れて流れくるような、前に立つだけで幸福感に包まれるような、素晴らしい神社さんでありました。
はやる気持ちを抑えて、手水舎へと向かいます。
足早に拝殿前へと進みます。
もう、早く拝殿の前に行きたい気持ちでいっぱいになってその気持ちが溢れてのことでありました。
境内にはそれなりに人がおられたのですが、拝殿に向かうものは私どもだけという奇跡。
手を合わせて。
…。
手を合わせているだけの時間が少しあったくらいに、胸いっぱいに幸せが詰まった瞬間でありました。
初めて参拝させていただきました御礼を申し上げて、胸いっぱいいただいた幸福感を感謝申し上げて。
何もお願いすることなく、拝殿前をあとにしました。
凄いお力の神社さんでありました。
御朱印をお授けいただくため、社務所にお邪魔いたしました。
そこで対応してくださった巫女さんのやわらかな物腰とやわらかな言葉に、感動し、そして癒されました。
たしかに、こちらの神社さんの良い教育があってのことでもありましょう。
しかしながら、決してそれだけではなく、巫女さんご自身が、こちらの、川越氷川神社さんを、心から大切に思い、できうる限りの良いおもてなしをして、ここでの良い思い出を胸に抱いて帰途についてもらいたい、という思いをもって、一回一回の対応に心を込めておられるからだと、強く感じられるものでありました。
その後別の巫女さんにも話しかけましたが、やはり同じで。
やわらかな物腰と、やわらかくて優しい、相手を大切にした言葉、優しい笑顔で対応してしてくださいました。
なんと良い神社さん♡
すっかりこの川越氷川神社さんのことが大好きになりました。
御朱印をお授けいただいて。
今年の干支の土鈴をお受けいたしました。
御守りもたくさんあったのですが、…こちらの御利益、〝縁結び〟、ですからねぇ。
このあと、私が『川越氷川神社』さんを参拝したなら、必ずこれだけは欠かせないと、意気込んでまいりましたところへと向かいました。
向かって、目に入ってきたのは大きな大きな赤い鳥居でありました。
あ、これこれ、これだっ
!
…テレビを見て、川越氷川神社さんには赤い大きな鳥居があると、私の脳に刻み込まれていたのです。
一の鳥居を見たとき、…それは思い出せてはいなかったのですが…、抱いた小さな違和感はこれ、だったのです。
この、見上げるほど大きな大きな赤い鳥居。
これはあの平成の御代替わりを奉祝して平成二年に建てられたものだといい、日本で一番大きな木造の鳥居、なのだといいます。
思わず吸い寄せられるようにその赤い鳥居へと向かいました。
高くてまるで見えはしなかったのですが、この扁額はあの『勝海舟』の直筆のものだといいます。
はあぁ。
さて。
再び社殿の方へともどります。
紅い大鳥居から再び拝殿の方角に向かうと、みぎてには温かな飲み物や甘味のキッチンカー、ひだりてには川越氷川神社さん名物の一つ、『鯛みくじ』、『鯉みくじ』、そして『芋みくじ』があり、人だかりができていました。
今ではこの『鯛みくじ』、何年も前私が地元で引いたことがあるくらい、『全国区』となって久しいようですが、ご存知ではない方もおられるかと存じますので、軽くここに書いておきます。
手のひらにちょこんと乗るくらいの、張子の真っ赤な鯛のしっぽにおみくじが入っています。
鯛は古くから神様へのお供えものであり、縁起のいい魚としても知られています。
この鯛の張子には『一年安鯛』と書かれた紙片が貼ってあります。
この赤い鯛の張子がたくさん入った桶から、備え付けの竿を使って鯛を釣っていくといった遊び心たっぷりのスタイルのおみくじです。
…いかにもこのおばさんが好きそう、でしょう?
赤い色の一年安鯛みくじはその年の運勢などが記された、一般的な内容のおみくじで。
もうひとつのピンクや水色の鯉みくじは花言葉や花の名前、出会いなど恋愛について詳しく記された恋みくじだといいます。
そして、度肝を抜かれた『芋みくじ』はやはり張子のさつまいもおみくじが仕込まれているもののようです。
こちらは…あまり可愛らしさもなくて、私は近づいてみることもしなかったのですが。
なんでもその〝おいも〟を網ですくったり、芋掘りをしたり、とそのときそのとき、人出とかも考えながら、なのでしょうが、何パターンかいもの取り方=おみくじの引き方があるようです。
同じく左側には少し奥まった鳥居があり、護国神社さんが鎮座していました。
そして…。
みぎてには小さな小さな小川があって、鯛みくじよりも多い人だかりができていました。
(昨日参拝したとある神社さんで
満開を迎えていた梅)
(続き)
この小川、境内地下の水脈から汲み上げた御神水が流れるものだといいます。
この小川に人形(ひとがた)とよばれる、水に溶ける和紙(人の形にカットされたもの)を流して、心身の穢れを祓う『人形流し』を行います。
人形に三度息を吹きかけ、さらに人形を体に撫で付けると、穢れが人形に移るとされています。
その人形を折らないように気をつけて、
「祓えたまえ 清めたまえ」
と唱えながら小川に浮かべます。
この人形、水に浮かべるとすぐに溶けて分解が始まるんですよね、ほんとびっくりするくらいです。
本当は流し始める場所も決まっていて、そこから、小川上にあるしめ縄のかかった部分を超えるように、ということのようなのです、が。
とにかく人が多いのです。
そして。
この小川、地下水脈から汲み上げた水がゆっくりと流れているという人工のもので、もう、その水面が白い、白い!
紙漉きがそのまま出来そうなくらいの白さです。
ええぇ?
ここでみんなの穢れが澱んでいるんじゃ?
これでは私の穢れはしっかり水に溶けないぞ。
私は独自の方法で人形流しをすることといたしました。
人があまり行かない、水が水である上流で流すことにしたのです。
せっかくこの身の穢れを流せるというチャンス、活かさなくてはいけません。
「祓えたまえ 清めたまえ」
お陰で、紙漉きの出来そうな所に到達する前に、私の穢れを移しとった人形はきれいに溶けてゆきました。
…決して順番待ちが嫌だったわけではありません。本当です。
この小川に、大きな岩があって、この岩は本殿に鼻先を向けた戌(いぬ)の形をしているとされ、『戌岩(いぬいわ)』と呼ばれているといいます。
この岩の犬の鼻先を撫でると子授けや安産祈願によいと言われているのだそうで。
…どおりで若い親子連れの方がその辺りに多かった。
私が人形を流した辺りが、まさにその戌岩のそばであったのです。
そうとは知らない私、周りの方から向けられる不思議そうな視線が何であったのか、ようやくその理由がわかりました。
驚いたこと。
わが家の〝鼠のひたい〟と称する庭では、(今日はさほどではないけれど)この一年でもっとも寒い今、カワラナデシコの花が次々と咲くのである。
花の咲く時期とされる頃よりは、ずっと小ぶりの、やっと咲いているような、弱々しい花ではあるのだけれど。
それどころか先日まではコスモスの花が咲いていた。
直径一センチくらいの小さな小さな花だったけれど、二週間ぐらい咲き続けていた。
寒さに凍えるように咲くこれらの花々に、ごめんねと思わず語りかけてしまう。
異常気象で夏が長かったから、ことコスモスなどは溢れた種から発芽してしまい、こんな季節外れに咲く羽目になってしまったのだ。
そして。
今日は道端でまるでそこだけ季節が異なるかのように、ヤグルマギクが咲いていたのだ。
このヤグルマギクにいたっては、その季節の頃と同じくらいの花を、普通に大きな花を咲かせていた。
地球は一体どうなっていくのだろう。
(川越氷川神社さんの続き)
いつもなら、境内をくまなく歩く私どもですが、この日は息子も一緒。
へたをすると、一時間でも二時間でも軽く一社一寺にとどまってあちらこちらを巡らさせていただく珍道中ペアですので、この日は通常の参拝にとどめました。
摂社・末社さんのたくさん並んだところも見えてはいたのですが、またいつか必ず再拝できますようにと願いを込めて、この日はこれで、川越氷川神社さんをあとにしました。
こちらの見どころといわれているものの一つ、『絵馬トンネル』も覗いただけでくぐらなかったのですが…、これはきっと、再拝してもくぐらない、かなぁ。
この絵馬トンネルと称される、結構長い通路には、おびただしいという言葉がまさに相応しい、びっくりするほどの絵馬がかけられているのをテレビかネットで見たのです。
左右はもちろん、記憶違いでなければ上部にも。
売っているときのように重ねて吊るされた絵馬が、売っているものよりもはるかに多い数あるのです。
一体いくつの絵馬が奉納されているのやら…。
尊い、人の心からの願いが、その一枚一枚に込められていることを考えると、とても軽々しく歩けない気がして、吊るす絵馬を持たない私はそこのそばまで行くのも憚られたくらいです。
こちらの御祭神は素戔嗚尊さまと奥さま、
そのお子さんともお孫さんともいわれる大己貴命さま、
奥さまのご両親神さま、
というファミリーをお祀りされた神社さんということで、それぞれの神さま方の御利益にプラスして、家族円満であるとか付加された御利益も得られるありがたい神社さんです。
私のような煩悩おばさん、お願いすることを探せばきりがありません。
が、こちらはなかなか遠く、願い叶ってのお礼にすぐにすぐ参拝することが叶いません。
それなので基本絵馬を奉納することはないのです。
遠くの神社さんでお参りするときは、お参りさせていただいたお礼と、その地をお護りいただいているお礼と、今後も末長くこの地をお護りくださいという三つだけを申し上げております私。
いつかまた川越氷川神社さんを訪れることができますように。
ふだんは何かを買ってもらうにも作戦を練って、それでも撃沈するようなことばかりであった子供の頃。
突然、父が三十六色のくれよんを買ってくれた。
おねだりをしたわけでもなく、誕生日とかでもないというのに、学校から帰ったらポンと机の上に置かれていた、まさにサプライズの贈り物であった。
もちろん絵が上手いわけでもない。
どうやら妹たちに十二色のくれよんを買ってあげて、そこで見かけた三十六色という、当時は珍しく、クラスの友だちも持っていなかったような目を見張るほどのキラキラのくれよんであった。
友だちが持っていて、羨ましかった金色、銀色といった色もそこには他の見慣れた色と同じように、ちょこんと並んで入っていた。
そうだ。
ねだりこそはしなかったものの、父に
「あのね、金色と銀色のくれよんがあるんだよ」
と日々のなにげない報告の中で、そんな話をしたことがあった。
父はちゃんとそれを覚えていてくれて、しかも金と銀ならば二十四色のセットでも入っていたのに、おそらく私の驚いて、そして喜ぶ顔を見たくて奮発して三十六色のものを買ってくれたのだ。
父の思惑以上に嬉しかった。
今でもその光景が目に浮かぶほど嬉しかった。
中学生になっても大切にしていたくらいだった。
…しかし、そのくれよんの存在を知っていた母によって、私が学校に行っている間に、勝手に机からそのくれよんを取り出され妹たちにあたえられてしまったのだ。
同じ学校に行っている間という条件のもと、父と母は真逆の驚きを与えてくれたものである。
父からは喜び、母からは哀しみを。
その三十六色のくれよんを手にしたとき、ある一本のくれよんに、私は目が釘づけになるほど惹きつけられた。
それは『ぐんじょういろ』と書かれた、初めて見るそれはそれは美しいブルーであった。
この色を私はとりわけ大切に使った。
今でも(…とはいえ、今この歳になって好きな色など聞かれることなどないが)好きな色と聞かれたら、
「群青色」と即答するくらい大好きな色となった。
この群青色という美しい色と、今時々出会うことがある。
それはどこであろう、他ならぬ神社仏閣なのである。
(続き)
金色の御仏の像を思い浮かべてみてくださると、お気づきになられるかもしれません。
御仏の螺髪と呼ばれる頭髪に当たる部分が美しい『青』であったことを思い出されたでしょうか。
またその瞳も『真青眼相』と呼ばれる群青色をされた御像もあります。
これはまさに【群青】という色で、『アズライト』という鉱石から精製される、いわゆる【岩絵の具】と呼ばれるものを使っての色なのです。
岩絵の具は石の希少価値によって値段が異なります。
このアズライトを使った『群青』はとても高価なものだといいます。
アズライト自体が貴重なのですが、それだけでなく、他の鉱石が混じって採れるので、その精製がまた非常に難しいのだといいます。
不純物が少しでもあると美しい青色が出ないこともあって、他の色よりもずっと高額なのだといいます。
そして、さらにこの『群青』、硫酸に反応すると変質する性質があるといいます。
『朱』という赤い絵の具には硫黄が含まれているので、もし朱の上に群青を塗ってしまったら、何十年後かな黄ばんでしまうのだといいます。
仏像などの修復にあたる『彩色師』と呼ばれる方は、こうした鉱物の性質に至るまで勉強が必要なのだといいます。
私の思い出の中のくれよんの群青色はこの御仏や神社に使われるものとはまるで異なるものではありますが、美しいブルーというひとくくりで言うならば群青色はまさに『聖なるブルー』、なのであります。
ちなみに。
くれよんの群青色も他のものと比べるとたいへん高い一品でありました。
「私のあのくれよんはどうしたでせうね。
ええ、あの群青色のくれよんですよ。」
と、パロディを一つ。
…自己肯定感の低さ故生きづらさを抱える人達に、優しく強く寄り添える様な作品にしたいという思いが強くあり…
そんな尊い思いを持ち生きておられた方が…。
ただただつらい。
辛くて、悔しい。
胸が締めつけられて涙が出てしかたない。
このニュースが流れると瞬間的に目を伏せてしまう。
指先が震えてしまう。
【玉村八幡宮】
明日には二月になろうというのに、初詣のことを書こうというおばさん。
おばさん、おばさんと自ら言っていては、老化が進むばかりです。
とは思うのですが。
…おばさん業、思いの外〝楽〟なんです。
初めて行ったお店でセルフレジでスマートに操作できなくも、間違って変な操作をしてしまっても、以前と違って恥ずかしいと思わなかったり…(←おいっ! 笑)
変な背伸びもしないし、変なプライドも無くなって、とても楽ちん、なんです。
閑話休題。
玉村八幡宮さんのことは何度かこちらに書いております。
が、初詣は初めて。
と言っても、三が日は過ぎていたのではありますが…。
こちらのご祭神は
・誉田別命(ほんだわけのみこと)さま(=第十五代応神天皇)
神道界だけでなく、仏教界でも仏法守護の神として「八幡大菩薩」称号を奉られるほど強いご神徳があります。
・気長足比売命(おきながたらしひめのみこと)(=神功皇后 応神天皇の母)
応神天皇の母神として、安産・教育・子育てなどのご神徳があります。
・比咩神さま
神道の女神さま。
であります。
ところで。
こちらの神社さん、戌年・亥年の守り神さまとうたっております。
娘は戌年。
孫は亥年。
この二人を思うとき、こちらに参拝させていただくことが多くなりました。
この日はこの亥年生まれの孫を預かっており、ならば本人を連れて初詣に行こうと、じじばばと孫の三人で参拝させていただきました。
(続き)
ところで。
十二支、干支の守り本尊さまはよく聞くのですが、はて?
…戌・亥年生まれの守り神さま。
えっ?
他の干支の守り神さまは?
戌亥年生まれではない子どもたちの守り神さまは?
と、気になってしまったおばさん、なのですが…実に今年のこの初詣に行くまで、それについて調べてみなかったずぼらぶり。
ようやくウン年の時を経て、その秘密にせまりました。
こちらの御祭神・応神天皇さまは十二月戌の月・十四日亥の日に生まれ。百歳を超える長寿であったと伝えられることから、古くから八幡さまをお祀りする神社は
【戌亥八幡】と称されるところがあるということでありました。
こちらの玉村八幡宮さんでは『氏子崇敬者』さんの戌亥年生まれの方たちにより【戌亥講】なるものが組織されているとか…。
そんなことから、こちら【玉村八幡宮】さんは戌年・亥年生まれの守護神として広く崇敬をあつめているのだということでありました。
(続き)
さて。
こちらの玉村八幡宮さん、最近では『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』で出川さんが立ち寄ったり、(もしかしたら放映前?前後編のようで前半は放映済みなようなのですが…)、サンドイッチマンさんが、このすぐそばで売られている八幡茶屋のわらび餅を食べて「美味しい!」と絶賛していたりと、メディアでもいろいろ取り上げられているようです。
過去にはあの、現 Number_i となった三人がKing & Prince時代に訪れてもいます。
また神事と併せて境内でイベントも開かれることも多いようで、人混み嫌いな珍道中ペア、知らずに行くと大変な目に遭います。
今回、お正月の三が日は避けたものの、まだ松の内という、まだまだ人出も多そうな時の参拝。
どうなる?珍道中ペア!
…いや、別にどうにもなりませんでしたが、とにかく混んでおりまして、駐車場は第三という、増設中のところへ案内されたくらいでありました。
それでも中に入ればさほどな混雑は見られず、いつもきれいな花手水もお正月バージョン。
孫娘も大好きな花手水をゆっくり愛でさせていただきました。
神門の前には門松が立てられており、孫は生まれて初めての門松を拝見させていただきました。
駐車場の混雑ぶりはどこへやら、拝殿前も並ばずに参拝ができました。
…これは亥年の孫と一緒の御利益?
境内には特設のテントがあり、『夢みくじ』と書いてあります。
あれ?
何やら当たりつき?
おばさんの目が光ります。
(続き)
特設テントということも人目を引くのか、夢みくじには列ができていました。
たくさんの若い巫女さんが対応しており、時折、…大吉でも出た時なのか、あのくじで大きな当たりが出た時に鳴らす鐘を鳴らしています。
日光の東照宮でも、お正月限定で、景品付きのおみくじがありました。
三人とも夢みくじを引いて…しかしながらその鐘が鳴ることはありませんでした。
なんでも大吉か末吉が出ると鐘を鳴らして景品がもらえるということで、景品は『令和六年 末広日記帳』という、ちょうど大きさも厚さも大学ノートくらいのもののようでした。
その中身、大変気になるものではありましたが、残念ながらそれは閉じた状態で置かれているのみでしたので、その詳細は一切わからないまま、なのでありました。
しかしながら。
この夢みくじで私、人生初の経験をさせていただかせていただきました。
それは、〝おみくじ〟というと思い浮かぶ、あの六角形の木でできた箱を振って、その数で御神籤をいただく、というもの。
欲深なおばさん、やれ張子やら焼きものの可愛らしい人形がついたものとか、水みくじであるとか、いわゆる変わり種のおみくじしか引いたことがなく、この〝the御神籤〟という大道は実に初体験であったのです。
孫娘はおみくじ自体が初めての経験で、神妙な顔つきで箱を振っておりました。…そのかわいらしいことといったら♡
おみくじを引いたのち、やはり特設の縁起物の置かれたコーナーを見るともなく見たのでありますが…。
こちらの神社さん、この一年間飾ってお祀りする縁起物の種類の多いこと、多いこと!
破魔矢・鏑矢の他に金色の神通矢なるものがあり、卓上タイプのものもあったような…。
福扇も二種類、台付のもの、金運舞扇というもの。
熊手にいたっては小・普通・豪華・特大があり、羽子板札なる、まさに羽子板の縁起物もありました。これは赤と青があったので二種類となりますか?
その他纏の形の火災除なものもありました。
そういえば。
こちらの神社さん、良い初夢を見られる御札もおわかちくださっているのでした。
今年になってまだ夢を見ていなかったのではありますが、一応初夢というのは見る日というのは決まっているようなのでお受けしても来年用となりましょう。
…その間に無くしてしまう可能性も大、やめておきました 笑。
(続き)
こちらの【玉村八幡宮】さんへは、もう幾度とも数えきれないくらい参拝させていただいておりますので、この何スレか立てさせていただいている珍道中録でも幾度か書かせていただいております。
お読みくださっておられる方には繰り返しになることとなりますが申し訳ありません。
とはいえ、今回は孫と一緒でありましたので、拝殿までの参拝にとどまっておりますが…。
こちらの手水舎のそば、神門の前の神橋は小川があり鯉が飼われています。
この神橋から少し外れたところに御神水のお水取りできるところがあって、この日はお一方一升瓶におわかちいただいておられる方がいました。
私どもはついつい手ぶらで来てしまい、一度もこちらのお水をおわかちいただいたことはないのですが…。
こちら群馬県玉村町は、かつて『水の溜まる村』といわれ、今でも稲作が盛んに行われています。
『溜まる村』から『玉村』という名になった、…という説もあるようです。
そんな豊かな水に恵まれた地に御鎮座されるこちらの御神水は、なんと地下百メートルから汲み上げているのだとか。
そしてその元を辿るならば、かつて前橋市の総社藩藩主であった秋元氏が引いた利根川天狗用水の水となるのです。
十七キロほど離れた地にもこの恵み、秋元公の偉大さをあらためて思います。
こうして歴史を知ると、知らずに恩恵を賜っていたことを知ることとなったりと、本当に興味深く、ありがたいことであります。
あ。
また夫の空けた一升瓶を処分してしまった。
ま、まぁ、すぐに空くこととなりましょうが。
いつかこちらの御神水をおわかちいただいて来られますよう、…もはや祈るような気持ちであります。
【佛手山 金剛王院 鶏足寺】
『その昔、周囲の山々が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出しはじめました。
しばしの後、他の山は静まりかえり、一つの山だけがいつまでも鳴り続けます。
山が音を出し始めて七日目、山は急激に大きく揺れ、そこから一尊の石仏が生まれました。
土地に暮らす人々は皆、その山を「鳴山」と呼んで、崇めておりました。』
……。
これは単なる昔話ではありません。
これは栃木県足利市にある【鶏足寺】さんのHPにある〝縁起〟の出だしであります。
私は〝西遊記〟の始まりにも似たこの縁起に、この文を書いた方のセンスを思い、思わずクスッと笑ってしまいました。
いやいや、このお寺の縁起はいたって真面目に書かれたもの。
センス云々などと言っていたら、叱られてしまいそうです。
今日は節分。
そんな鶏足寺さんで本日【節分会追儺式大護摩供】が執り行われるとのことで、何年かぶりとなる参拝に、そして初めての護摩法要へ参列させていただきにうかがいました。
こちら鶏足寺さんは栃木県足利市の外れ、群馬県桐生市に近いところにある、自然豊かな山林に囲まれたところにある古刹であります。
久しぶりに訪れた鶏足寺さんは梅の木の多いお寺さん。
全体的にはまだまだこれからではありましたが、一本だけ満開を迎えた白梅が良い香りを当たり一面に放っていました。
青い空に満開の白梅。
ああ、なんてしあわせな。
【節分】
「節分から新しい年になる」
これは星回りということを大切にされる、日光山輪王寺さんで学んだことです。
立春・立夏・立秋・立冬の前日は、各季節の始まりの日とされ、
『季節を分ける』ことから【節分】と言われています。
昔は季節の変わり目には疫病を流行らせる鬼が生じると信じられていた事から、節分で鬼を追い払う風習が生まれたとされるといいます。
また、中国の『儺(な)』という疫鬼を追い払う儀式【追儺(ついな)】が日本に伝わったとも聞いたことがあります。
豆まきも中国の鬼払いの一つですが、日本では『豆』を『魔目』にぶつけて『魔滅』させるという〝言霊〟の信仰からも盛んに行われたとされています。
『魔滅の豆』だったんですね。
そしてこうして文字として書くと『鬼滅の刃』を思い出すあたり、自分がいかに幼稚で世俗的かを目の当たりにいたしますが、それが等身大の私。
成長は必要ですが、背伸びも虚栄もいけません。
そうした心の中の鬼を退治して、明日からまた新たな一年を迎える。
気持ちを新たにすることってとても良いことだと思いますし、そんな機会が幾度もあればあるほど、前に進む力を得る気がいたします。
今年の豆は【鶏足寺】さんでお授けいただいて参った物。
…これがとても美味しかった物ですから、珍道中のペアの夫、撒くのを惜しんで食べる分を確保しておりました。
それって…、心の鬼、煩悩を払えてない証拠なんですけど。
いつになっても幼稚な夫婦でありました。
今日は同じ足利市の鑁阿寺さんで、武者行列の後、豆撒きが行われました。
体調がすぐれないので、そちらは諦めましたが。
ま、良くなったら、今度は武者行列に武者の一人として参加しても良いかなぁ。
(鶏足寺・続き)
鶏足寺さんの縁起から。
その後何年もの時が流れて。
大同四(809)年平安時代の初期に
奈良県の『東大寺』さんの【定恵(じょうえ】上人が、『鳴山』より生まれたこの石仏を山の麓に移し、釈迦如来をお祀まりに世尊寺一乗坊」というお寺を建てられました。
仁寿元年(851年)、比叡山の【慈覚大師)によって、寺の山号は「仏手山」、院号は『金剛王院」と定められました。
境域を大きく広げ、釈迦堂を始めとした八つの寺坊や山王社・蓮池などがつくられたたといいます。
天慶二(939)年、下総国(千葉県北部)で勢力を拡大していた【平将門】が坂東全域を巻き込んだ大規模な反乱を起こし、朝廷に反旗を翻しました。(これを『承平の乱』というと夫)
朱雀天皇の命を受け、下野の押領使・【藤原秀郷】は、兵三千騎を率いてその討伐に向かいました。
しかし、当時、隆盛を誇った将門の軍勢は強大で、秀郷の討伐軍は苦境に立たされます。
秀郷の乞いを受け世尊寺(現在の鶏足寺)の法印は、勅願により将門調伏の法を修する事になりました。
五大尊を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、法印は昼夜問わず、修法を続けました。
満願の日、疲れ果てた法印が眠気に襲われ、うとうとしていると、三本足のにわとりが、血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。
はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に、三角のにわとりの足跡がついていたといいます。
法印は「調伏は成功した」と思い、なおも一心に修法を続けたといいます。
すると今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて、
「今、秀郷が将門を討取った」と告げ、告げたかと思うまもなくたちまちその姿を消して見えなくなり、そのお告げの通り、そのとき将門は討取られたといいます。
この霊験により、『世尊寺』は
【鶏足寺】と改められ、勅願・宣旨をはじめ、五大明王像・両界曼荼羅などが朝廷から下賜されたということです。
ちなみに。
足利市には【大手神社】さんという、将門の手が飛んできたという場所に建てられたといういわれの神社さんがあります。
(続き)
文永六(1269)年、下野薬師寺長老『慈猛(じみょう)上人』がこの寺に迎えられます。
それまでは天台・真言兼帯のお寺であった鶏足寺は、この時から真言宗となり、高野山から伝わった【真言宗慈猛流】の全国総本山として密法専修の道場となりました。
全盛時は、山内に二十四院・四十八僧房を持ち、全国に三百六十余の末寺があったと伝えられ、遠く四國の善通寺までその教線は及んだといいます。
天皇祈願寺として、又、修行道場の基盤を古くからととのえ密教文化の聖地として栄えていましたが、天文二十二(1553)年、上杉謙信関東鎮定の折兵火にかかり、勅使門を除く堂舎はみな焼失してしまいました。
現在の本堂は江戸時代中期の正徳三(1713)年に、護摩堂(五大尊堂)は享保十七(1732)年に建立されたものといいます。
江戸期再建され、やゝ旧観に復したが十分の一程度の規模に縮小されたのは誠に惜しまれます。
今に伝わる文化財に寺の盛時をしのばれます。
・勅使門
正和年間(1312~1316年)の建立。
・銅印(平安時代)
・太刀銘力王(室町時代)
・梵鐘(鎌倉時代)
など。
この日、勅使門は開かれていましたが、私どもの停めた駐車場は墓地に近い第一駐車場。
どうやら第二駐車場に停めると、この勅使門を通って本堂前へと入るようです。
第一駐車場は
夫と息子が帰って来る時刻にあわせて、これでもか!ってくらいに雪かきしてのけておいた路面が、
今、どこを掻いて、どこは手をつけなかったかもわからないくらいに降り積もっている。
まるで人生のようだ。
それでも、とりあえず今日無事に帰宅してきてくれた二人が家にいると、雪が美しく見えるものだな。
十センチは積もっている。
栂の木が重たそうに、恨めしそうにしていた。
石川県珠洲市、奥能登でいくつかの神社を兼務される宮司さまが発信されるSNSで。
『明日そっち行く』という一本のメールを受けて、正直、そんな無茶な…と思われたといいます。
40年近く前に一緒に神職となる学校を卒業された方からだとのこと。
そして…。
遥か宮城県から車で一人で、物資を届けてくださったそうです。
『…一番の目的はこの、一時的にご神体をお納めする、仮宮の社殿を届けることだったのです。
宮城といえば、当然、東日本大震災の地で、
奉務する神社は内陸ゆえ、津波の被害はなかったものの、
社殿は大きく歪み、一時的にご神体を仮遷座するため、もらい受けたやしろだそうで、
外でも置けるよう、屋根は銅板が葺いてあります。…』
宮城県から…。
たったお一人で。
途中で一泊されたとのことですが、宮城県から奥能登、
特に奥能登へはまだまだ道路状況が悪くて通常の倍以上の時間がかかるといいます。
「年取ったら涙腺ゆるくなって、ブログで倒れた羽黒神社見たら、涙が出た」
とおっしゃり、いてもたってもいられなくなったとのこと。
同じつらい経験をなされた方だからこそ、でしょう。
思わず胸の前で手を組んでいました。
涙が頬をつたっていました。
珠洲市の神社の宮司さま。
二月十一日の紀元祭のご案内を掲示されておられました。
崩れた神社のなんとか無事な部分を使って、今までもお勤めをはたしておられます。
あちこち受け持たれておられる神社も回られ、同じく被災された氏子の方々と交流を持たれています。
ただただありがたい。
頭がさがります。
…屋根から落ちるドサっという雪の音を聞きながら。
次から次へと。
グググっと屋根を転がる雪のかたまり、そしてそれがドサっと落ちる音に目が覚めた。
雪国の方に笑われそうだけれど。
…というかそんなに積もっているの?
わが家は今二階で寝ている者がいないので二階で暖房を使ってはおらず、つまりは純粋に積もって斜面に耐えきれなくなった雪が、かたまりとなって落ちているだけで。
外を見るのが恐いぞぉ。
玄関開けたらそこは雪国だった
…って?
雪国と違っているのは、除雪車が無いこと。
雪に取り囲まれていたりはしないだろうけれど。
朝五時半からの雪掻き。
仕事に向かう者がせめて家から出る所では苦なく車が出せるよう、家のそばを歩く方が転ぶことが無いように。
家のそばの交差点も。
家の周りからは、子供からは悲しまれそうなくらい雪がなくなった。
あー、これを毎日毎日、日に何度も繰り返して、さらに仕事に向かわれる雪国の方のすごいこと。
雪掻きのみならず雪下ろしもある。
頭が下がります。
汗びっしょり。
雪掻き終えて、あらかじめ温めておいたあったかいおでんを食べる幸せ。
雪に慣れない地方で雪に難儀されている方々のご無事を祈ります。
(鶏足寺さんの続き)
第一駐車場は…。
でブツっと途切れ、?と思われたことでしょう。
申し訳ありません。
しかもその後どうでもいい呟きを書き、本当に申し訳ない。
第一駐車場は、まず御本堂へとお参りして、その後また駐車場を通って墓地へと向かうのに便利な駐車場となっております。
だから私どもに関しては第一駐車場でなくともよかったのでありますが…。
実はこちらには、よく見ないとわからないくらいひっそりと、
安和元(968)年の十一月二十四日に【定宥上人】が百三十六歳で入定したといわれている塚が、『入定塚』として残っているのです。
定宥上人は天皇より【定宥尊誉僧正】という名誉ある名を追諡されています。
あの天慶の乱(939年)で、平将門調伏祈願が成就せしめた法印こそが、この定宥上人であったといわれます。
この調伏祈願にまつわる三本足の鶏のいいつたえから、『世尊寺』から【鶏足寺】と改名されたとされ、このことから鶏足寺では定宥上人のことを〝改号上人〟として尊んでおり、この場はこちらにとって大切な
浄域として大切に守っておられます。
ただ、さきにも述べたように、大々的にここをまつるわけではなく、知る人ぞ知る、という場所。
こちらのHPを読んで初めて知ることであり、その上で第一駐車場を訪れなければ気づくことすらない、ひっそりとした塚であります。
今朝みていたテレビで、ベイマックスというディズニー映画のキャラクターが、実は監督であるドン・ホール氏が2011年に新宿を散策した際に花園神社を訪れたことがあり、そのときに見た境内の鈴からベイマックスの顔のデザインを思いついたのだそうです。
なんでもこのベイマックスなる映画、ディズニー史上初の日本人の主人公なのだとか。
主人公の兄が遺した心優しきケア・ロボット〝ベイマックス〟が繰り広げる、〝3Dコンピュータアニメーション・アクション・ファンタジー映画〟なのだそうです。
…ぜーんぶが〝聞いた話〟口調で書かれていることでお気づきでしょうが、私、このベイマックスなる映画を拝見したことはありません。
さすがにキャラクターの名前と顔は一致いたしますが 笑。
…私とディズニー、あまり結びつきませんでしょ?
可愛げのないおばさん、子どもの頃から可愛げがなく、ディズニーの姫さまを見ても心ときめくことなく、小学校の入学で買い与えられた筆箱がディズニーのキャラクターであったことに軽くショックを覚えたくらいの、可愛さのかけらもない女の子でありました。
お年頃のデートも当然ディズニーランドを選ぶことはなく、子どもができて、子どもたちのために重い腰を上げてようやく行くような人生でありました。
孫ができて。
どうかな、…どうやら孫のためには腰が上がらないようです。
とはいえ。
どおりで〝ベイマックス〟、キャラクターの顔と名前が一致したはずです。
近年のディズニーキャラクターに至っては、あのアナ雪でさえ顔と名前が一致しないくらい、ディズニー音痴のおばさんですから。
ところで。
鈴って、鳴らすと音もそれぞれ異なりますが、音を鳴らすための穴にもいろいろな形があって、私はそうした形までが好き。
ベイマックスの〝眼〟となっている鈴は、その穴が丸かったがために監督の閃きに通じましたが、ハート♡形のものもあります。
まあ、これはハート形というよりは猪目(いのめ)という文様(もんよう)でありましょう。
お寺さんや神社さんで見かける、隠れミッキーならぬ隠れハート、猪目は古来より魔除けのために使われているもの。
ハートの穴の鈴に出会うと(おっラッキー!♡)と思うのは、猪目だから?
いや、やはりこれはハート。
おばさんにも♡は可愛いと思われるもの、なんです。
京都の晴明神社さんがSNSを通じて注意を呼びかけておられました。
【晴明神社】さんは、平安時代中期の天文陰陽博士として名高い【阿部晴明】公をお祀りされている神社で、晴明公の屋敷跡に社殿が建てられたものであります。
晴明公は唐の仙人の神伝を受け継がれた上で、それを元に日本独自の陰陽道を確立された方。
それが元となって、今現在のわたしたちの日常生活の基準となっている〝年中行事〟や〝暦術〟〝占術〟はみなこの頃に成立しています。
今年の大河ドラマはまさにこの時代、そして晴明公も登場される物語となっています。
晴明公は生前、天皇、貴族から庶民に至るまで、その〝力〟を通じて、広くその悩みや苦しみを払い、大きな信頼を寄せられておられ、神として祀られた現在も、魔を除け、厄を除けてくださる存在として、信仰されておられます。
その晴明神社さんに、『晴明井』なる井戸があるといいます。
晴明公が念力によって湧出させた井戸であるといい、湧き出す水は今でも飲用できるもので、『病気平癒』のご利益があるといいます。
この井戸の水の湧き出るところは、その年の恵方を向き、〝吉祥の水〟が得られるといいます。
恵方は毎年変わるものですので、立春の日にその向きを変えるといいます。
今年の吉方 は【東北東 】。
ところが。
そのわずか二日後、二月六日の午後四時ごろ、この『晴明井』を無理に回転させ水が流れる方角を変更した人間がいたのだといいます。
なんと罰当たりな…。
『神をも恐れぬ』という言葉がありますが、かの陰陽師阿部晴明公を祀った神社さんででありますか。
…はあぁぁぁあ。
本日は紀元2684年二月十一日【紀元節】。
2684年前に神武天皇が即位をされた記念の日であります。
世界で最も歴史が永い皇国(王国)ということでギネスにも認定されています。
あまりに古くから続く国であるために、始まりをいつとするかについて異論もあり、その辺りから『建国記念日』と言わず『建国記念の日』とぼかした表現をしているのはそうした事情によるものなのだといいます。
神武天皇が橿原宮において御即位されたのが辛酉の一月一日で、現在の太陽暦でいうと二月十一日頃になるのだといいます。
橿原神宮まで詣でることは叶わず、せめて紀元祭を執り行われる神社さんへお詣りさせていただこうと、群馬県前橋市に鎮座します【前橋神明宮】さんへとお参りさせていただきました。
とはいえこの神事に参列するつまりでもなく、ただお詣りをと参った次第でありました。
入り組んだ住宅街の一角にあるこちらの神社さん、しかしながら大変清らかな澄んだ気に満ちた神社さんでありました。
宮司さまは神職として神社とはこうあるべきだという信念を持つ、お若いながらしっかりとされた方でありました。
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