地獄に咲く花 ~The road to OMEGA~
30XX年。地球。
そこは荒れ果てた星。
温暖化によって蝕まれた大地、海、空気。
そして20年前。生物学者ルチアによって解き放たれてしまった人喰いの悪魔…『人造生物』。世界に跳梁跋扈する彼等によって、今滅びの時が刻一刻と近づいている。
しかし。
その運命に抗う少年達がいた。
人造生物を討伐するべく、ルチアに生み出された3人の強化人間。ジュエル、ロイ、グロウ。
グループ名『KK』。
少年達は、戦う。
生きるために。
…失った記憶を、取り戻すために。
その向こうに待ち受ける答。
そして、運命とは?
※このスレッドは続編となっております。初めて御覧になる方はこちらの前編を読むことをお勧めします。
地獄に咲く花
http://mikle.jp/thread/1159506/
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――あとがき――
地獄に咲く花~The road to OMEGA~(中編)
皆さん今晩は。ARISです。
何とか終盤近くまで来たかな?と思ったらスレが埋まりそうになってましたね。(^^;)…あれ、500レスでいいんですよね?取り敢えず一旦切ることにしました。
中編ということなのですが、かなりマイペースのスローペースで書きました。ここまで付き合って下さった方々には感謝してもしきれません。(_ _)
色々な無駄話を書いたり、かと思えばさらっと書かなきゃいけない話を飛ばしたり。自分何でこんな風に書いたんだろう?ということが珍しくありませんでしたね。(^^;)特にキャラ設定があまりうまくできていなかったので、自分としてはそこが大きな反省点となりました。
そして後編に関してですが、後編とはっきり言い切るからには、これで終わらせたいと思います。当初『The road to OMEGA』を立てたとき、これが後編!と思っていたのですが…見事に終わりませんでしたorz今度こそ、と意気込んでいるところです。
取り敢えず、全ての謎を明らかにしたいと思います。敷きすぎた複線を拾うのは大変でしょうが……努力します。(切実)
後は、いつも通り好き勝手に書いて行くと思うのですが、1つ付け加えるとするなら、この作品を通して私が何を皆さんに伝えることが出来るのか、これからじっくり考えながら書いていければと思っています。
相変わらずスローペースになるとおもうのですが、それでもお付き合い下さるという方は、これからもどうぞ『地獄に咲く花』を宜しくお願い致します。<(_ _)>
今回は『The road to OMEGA』を読んで下さり誠に有り難うございました✨
―――
※続編スレッドを立てましたので、続きはこちらからどうぞ。
地獄に咲く花~I'll love you forever~
http://mikle.jp/thread/1800698/
「止めて!止めてよ!!何なのこれ…?!うわああぁぁぁぁ!!!」
その想像もしなかった光景に、私は絶叫した。叫びでそれが止まるものなら、いくらでも叫べた。けれど私の叫びは無意味に虚空に消えていくだけで、ルチアの体はその間にどんどん溶けて無くなっていった。
「ああああ、あぁぁ……っ!!!」
それでも喉が枯れるほど叫んだら、やがて涙が溢れてきた。涙はゆっくりと私の頬を伝い、ぽたりと床に落ちた。
「どうして……ルチア。だってあなた…まだリタに想いを伝えてないじゃない。」
どくん。
私の中で鼓動が鳴り響く。
これはあの感じだ――即時にそう思った。
私の中に埋め込んだルチアのオメガ遺伝子が『呼応』している。声にならないもう1つの叫びが、私の中で響いている。それはぐるぐると渦巻く感情となって私の全身を駆け巡っていく。
『悲しい。』
『寂しい。』
…『会いたい。』
ああ、やっぱりそうなんだ。
私はぎゅっと下唇を噛み締める。きっと、この止めどなく溢れる涙はルチアのものなんだ。ルチアはずっと待っていたのに。目を覚まして、リタと会えるその日をずっと待っていたのに。
「リタ………」
せめて、彼が最後の時までそばにいてくれたら。
「リタ…ねぇどこにいるの…迎えに来てあげてよ……ルチアを…だって、まもるっていってたじゃない……約束、したじゃない…」
私はその場にがくりと膝をつく。そして、止まらない涙を流しながら、ルチアが消えていく姿を見ていた。もう、手足は殆ど原型を留めていない。
(そっか……もう、駄目なんだ。)
私は絶望する。多分この後、私も同じ様に消されるんだろうなと思った。
それで、全部終わり。
結局、私の人生に意味なんて無かった。最後まで何も出来なくて。自分の想いを伝えることさえ出来なくて、そのまま終わる。その事が、ただただ虚しかった。
しかしそれは終わりではなかった。
全ては、ここからが始まりだった。
本当の終わりへの、始まり。
その終わりがどんなものなのかはまだ私には分からないが。
そう、この瞬間
刻は満ちたのだ。
――To be Continued――
そして振り向いた私の目に、異様な光景が映った。
(え…?!)
ルチアが入ったカプセルが――いや、カプセルの中のオメガが光を放っていたのだ。その眩しさに私は少し目を細める。その透明感のあるエメラルドグリーンの光は、気付けばこの部屋全体を包み込んでいた。
そしてルチアは、光の中心となっている。。
「ルチア………ルチア?!」
私は何も出来ないと分かっていても、そこによたよたとなりながら駆け寄った。
『オメガ遺伝子、そしてオメガとなる材料は十分ここにある。オメガに馴染ませた肉体は膨大なオメガを生み出し、星の血液の循環を作り出す。今こそ私はこの星を統括する者としての第一歩を踏み出すことが出来るのだよ。』
「これ、どうなってるの…?!ルチア!ねえ起きて!目を覚ましてよ!!」
私はもはやマルコーを見ずに、ただ必死に呼びかけた。手で何も出来ないのがとてももどかしい。しかしルチアは目を覚まさない。ずっと、目を閉じたまま…眠っている!
そうしていると、この部屋の天井近くのモニターに映像が映った。あれは、試験棟の様子だ。さっきも見た大量のカプセルが…暗闇の中で皆、ここと同じ様に光っている。まさか、あれらが材料だとでも言いたいのだろうか。
『全ての生命をオメガへと返し、世界に救済を。その暁には……私はこの地球の神となる。』
そして。
ヴヴヴ…ゴポゴポゴポ……!!!
「?!――」
その後目の前で起こったことに。私は自分自身の目を疑った。
ゴポ…ゴポゴポ!
オメガが激しく沸騰したかと思うと
やがてルチアの体が。
ゴポゴポゴポゴポ!!
下の方から
体が、溶けていっている。
「……ひっ」
足首まで溶けて。膝まで溶けて。
手も指先から溶けてきて。
赤い血が混じって。
それさえもオメガの色に染まって。
ルチアが、
消えていく。
「い……いやああああああぁ!!」
「あんた、何をしたの。」
私は敵意を込めて低い声で言う。
『………』
「答えなさいよ!!何をしたの?!研究所の電力は?カプセルの被験者や、ルチアは?!もし完全に研究所の電力が無くなったらシステムを制御出来なくなって全員死んでしまう所だったのよ!」
『…やれやれ、この期に及んでまだそんなことを言っているとは。リタの助手にしては頭が悪い。』
「何ですって…っ!」
マルコーは完全に人を馬鹿にしたような口調だった。私の腹の中で怒りが煮えたぎる。
『君は先程あれを見たじゃないか。それでも、理解が出来ないか。』
「何を!」
マルコーはにぃ、と口を細い三日月の形にし、そして地の底から這い出るような不気味な声でその名を口にした。
『オメガプロジェクト。』
「!、…」
私は瞬時に思い出す。ルチア博士のメインルームで見た、あの映像を。覚えているのは試験棟の部屋に羅列しているカプセルだ。
『殆どの電力は、こっちに回させてもらった…それだけのこと。少しカプセルの数が足りなそうだが、問題はない。それにやっとオメガの源であるルチア・ミスティを見つけたのだ。この計画を今遂行する他は、ないのだよ。』
「…どういうことよ…」
その時、
ヴゥゥゥ……ン!
「?!」
大きな振動音で、私は反射的に後ろに振り向いた。
「マルコー…!」
私はぎりっと奥歯を噛み締める。そこにいたのは思った通りの人物だった。でもよく見ると、その後ろにもう1つ人影があるようだった。
そこに目を凝らしてみて、私はまた驚いた。
「?、ルチア博士?!」
そこにあったのは博士の姿だった。何か悲しそうな顔をして俯いている。博士もマルコーに捕まったのだろうか?
その時私は思った。きっと博士がマルコーに私達のことを話したのだろうと。脅されたか、自分から話したのかは分からないけど。
しかしマルコーがいて博士までここにいるとなると、一体リタはどうなったというのだろう?
「……博士!!これは、どうなっているんですか?!リタは今どこにいるっていうんですか?!」
私はそう呼びかけてみる。向こう側に声が届くとは思っていなかったけど、呼びかけた直後、博士はますます顔を曇らせて私から目をそらした。どうやら、声は届いたようだった。
さらに、
『……ごめんなさい。』
上から博士の声が聞こえた。スピーカーを通した声のせいなのか、とてもぼそりとした声に聞こえた。
「博士?!」
『……どうやら、たった今時が満ちたようだ。』
「っ!」
私は再度博士に呼びかけたが、それを遮るようにして上からマルコーの声が降ってきた。
(よかった…ルチア、まだ生きてる…)
私は少しだけ安心する。でも、さっきから胸の中で張り詰めている緊張感は全く解けなかった。
見れば、この部屋の扉はもう閉ざされているようだ。扉の脇にレバーがあるが、両手が使えない上に位置が高いので、私の手で引く事は無理だ。つまり、私はここに閉じこめられたことになるのだ。
そう自覚したとき、私は背筋にひんやりとした恐怖感を感じずにはいられなかった。
(何か、起こる……?)
そう思った時だった。
ピーーーー
「!!――」
予感は的中した。
ウィーーーン……
「…?!何?!」
私は思わずそう口に出した。今何が起こっているのかというと、部屋の壁の上半分がゆっくりとせり上がっていっているのだ。この円筒形部屋の壁全体でそうなっているので、私は半分パニック状態になって辺りを見回す。
せり上がった壁の向こうには、ガラス張りがあった。その中に数人の白衣の研究員が見える。正直驚いた。ここには、この部屋を囲むようにしてもう1つの部屋があったのだ。
そこにいる大半の研究員達は、椅子に座って私達の方に目を向けていた。ここからでは見えないけど、多分向こうにはコンピューターの様なものもあるのだろう。下を向いて何やら操作している者もいた。
しかしその中で、1人だけ立っている人物がいる。私はその人物に真っ直ぐ目を向けた。
(やだっ!)
何とか縄抜けできないか手首を捻ったりしてみたけれど無理だった。腕に力がうまく入らない上、コードは結構きつく結ばれている。仕方ないので、私はとにかく起き上がることだけを考えることにした。
私は両膝を畳みながら背中を丸め、それから思い切り横腹に力を入れる。
「ぅ……ん!」
ゆっくりと。足の使い方も工夫して。
そうして、やっと上半身だけ起こすことができた。
「はぁ!」
普段力を入れることのない腹筋を使ったせいか、何だか異常に体力が消耗したような気がする。私はしばらく肩を上下させる事しかできなかった。
その間ずっと、辺りに響いている低い機械音が私の耳に入ってきていた。やけに大きい音だ。「何の機械だろう?」と思った所で私ははっとした。何故なら、その音は聞いたことがあったからだ。
私は音のする方――すぐ後ろを恐る恐る振り返った。
すると、
「!!」
私は思わず息を呑んだ。
真後ろには『カプセル』があったのだ。こうして床に座りながら見るとかなり大きく見える。そしてその中には、
「…ルチア!!」
彼女が中で眠っていた。今までと何ら変わらずに。
それからはっきりとした意識で辺りを見回してみると。ここは私がさっき必死になって開けた扉の先、即ちルチアの部屋であることが分かった。
バヅン!!!
「ぁっ!!」
突然目の前で閃光がほとばしった。瞬間、私の全身がビクンと強張る。私はその時何が起こったのか分からなかった。
分からないまま、意識は乱暴に闇に放り込まれた。
あの瞬間は忘れもしない。
今思えば、彼にスタンガンを当てられたのだと思う。
年はリタより少し年上。きちんと整った赤毛、眼鏡、白衣。それはまるでどこかの名医のような身なり。けれど、眼光はあんなにも威圧的だ。
そう、私はいつも遠くから彼を見ていた。あんなに近くで見たのは初めてだったけれど。でも、あれは間違いなくマルコーだった。
してやられた――
床に崩れ落ちた私は無意識の中でそう思うのだった。
頭の中がじんじんしている。
全身が全く動かない。
「………ぅ」
そんな中で私はうっすらと目を開けた。あれからどうなったのだろう。気が付くと、私はどこかの床に転がっていた。
(ここは…?)
まだ視界がぼやけていて景色がよく見えない。どこか薄暗い所だということしか分からなかった。
「ん…、」
私はもっと周りをよく見ようと、起き上がろうとした。しかしやけに動きづらく、中々上半身が起こせない。特に両手が思うように動かない――
「…?!」
私はまさかと思って、ぎこちなく背中の方に首を回してみる。すると案の定、両手はコードのようなもので後ろに縛られていた。
――お知らせ――
こんばんは。ARISです。いつも本作品を読んでくださり有り難うございます。お陰様で40000hitも越え、嬉しい限りです。
なのですが、最近精神状態があまりよくないので今日から一週間ほどお休みを頂きたいと思います。更新がまばらになっている上申し訳ありませんが、ご了承下さると嬉しいです。
再開は5/21の夜となりますので、何卒よろしくお願い致します。<(_ _)>
ARISでした
その高く鋭い音に私は息を呑んだ。これはパネルの認識音だ。力任せに叩いた右手がじんと熱を帯びて痛む。
プシューーー!
ガシャン、ガシャン
すると後ろの方であの扉が開いていく音が聞こえた。私は何だか信じられないような気持ちになってまだパネルの上の手を見つめていた。
…馬鹿。こんなことをしている場合じゃない。一刻も早くルチアに会いに行くべきだ。今すぐにでも振り返って部屋に駆け込むべきだ。
そう思ったけど、
実を言うと私には1つ気になったことがあったのだ。
それは私が思い切りパネルに手を叩きつけてから認識音が響く前のことだったような気がする。もう1つ真後ろで音が聞こえたのだ。丁度誰かの足音のような――
足音?
ぱっと後ろを振り返ってみると
すごく近くに、いた。
今にもぶつかってしまいそうなくらい。
薄暗くてよく見えないけど、多分白衣を着た大人の男性だと思う。私はその人を見上げた。
一瞬リタかとも思ったけど、違った。でも何だか見覚えのある顔だ。その人は眼鏡の奥にある目玉で、ぎょろりと私を見下ろした。まるで獲物の鼠を追い詰めた蛇のような目に、私はぞくりとする。
「……!!!!」
私はその瞬間に気付いたのだった。
それと殆ど同時に私は駆け出した。ルチアの元へ。 何が起こるかなんてまだ分からない。それでも、焦らずにはいられなかった。
「……ルチアっ!」
メインルームの脇にひっそりとある廊下へ、そしてあの扉を開く装置の元へ。息が切れ切れになりながらも、私は何とかそこに辿り着いた。
もう私の目の前にはパネルがある。後はパネルに手の平を乗せるだけだ。問題は、この装置が作動するかどうかだけ。電力が遮断されてないのを祈ることしか、私には出来なかった。
(お願い、動いて…!!)
そして
私は意を決して、手をパネルに押し付けた。
しかし――
ザ、ザザ、
「え?!」
パネルの雑音に私は反射的に眉根を寄せる。どうやら電源は生きてるが、電力が十分でないようだった。微妙に手を認識しようとしているが、扉のロックは解除されない。
「そんな…っ!」
試しにもう1度同じ様に手を乗せてみたが、同じに駄目だった。
「お願いだから動いて!…動いてよ!!」
バン……バン!
何度も何度も、画面が壊れるくらいに押し付けても変化は見られなかった。それでも私は何度も何度も、同じ事を試す。
「このままじゃルチアが、」
ザザザ!ザ!
お終いに、私はこう叫んでいた。
「ルチアが、……死んじゃうよおおぉーー!!」
……コツ。
バンッ!!!
ピーーーッ
程なくして、整列した幾つものカプセルの絵は小さな画面に収縮し、そのすぐ横に別の画面が出現した。それはカメラの映像のようで、画面にはある部屋が映し出されていた。
「!」
私は目を見開く。ついさっき、私はその部屋をルチアの部屋から見ていたのだ。恐らく試験棟のどこかだろう、沢山の『カプセル』が並んでいる部屋だ。『カプセル』の中にはもちろん被験者が入っている。まだ1000人には達していないと思うが、映像を見ている限り少なくとも400人くらいはいそうだった。
そうして私が呆然としている間に、また画面は動く。気付けば、1つ1つのカプセルの絵から何か細い線が伸びていた。やがてそれらは収束し、1本の太い線を形成する。
その線はどこかに伸びていくようだった。それを目で追っていくと――
「えっ…」
太い線は、1つの『カプセル』へと繋がった。ひときわ大きく描かれた『カプセル』の絵に。そして、その出来上がった図の上に文字がぱっと表示される。
『接続完了』
私は大きな『カプセル』の絵というのが何を表しているか一瞬で予測がついて――頭から足へ、血がさぁっと落ちていくような感覚に襲われた。
私はすぐにルチア博士の研究室に戻ってきた。やはり電力の異常はこの部屋にも及んでいるようだ。辛うじて自動ドアはまだ機能しているものの、照明は廊下と同じ様になっていた。
部屋は薄暗くなっていて――と、そこで私はまた足を止めた。
入口に入ってすぐ目に入ったのはメインコンピューターのモニターだ。縦5m横8mとかなり大きい。確かさっき見た時には操作待機中の画面が映し出されていたと思う。
だが今は違ったのだ。
(?!……何?!)
今は、画面いっぱいに大きな緑色の文字が点滅していた。その文字を見て私は息を呑む。
『オメガプロジェクト始動』
「オメガプロジェクト…?」
聞いたことのない名前だ。でもその名前を聞いて、何故かとてつもなく嫌な予感がした。私はメインコンピューターのキーボードに近付き、詳細が見れるようにキーを叩く。
すると、画面がスッと切り替わった。そこには見覚えがある装置が描かれていた。
(これって――『カプセル』?)
それは『カプセル』だった。今ルチアを飲み込んでいるものと全く同じ形だ。その絵が小さく幾つも幾つも描かれているのだ。
ゴゥ………ン
私はそこに立ち止まった。
「……えっ?」
何故なら突然低い音と共に、辺りが薄暗くなったからだ。上を見れば、廊下に沿って羅列している蛍光灯が、今までの半分くらいの明るさになって不規則に明滅していた。まるで、どこかの廃墟にあるつきっぱなしの蛍光灯のような感じだ。
(何これ…っ)
何かの原因で電力の供給が不安定になっているのか。けれど今までこんな事はなかった。一体何が起こっているのか、私には全く理解出来なかった。異常な明滅を繰り返す蛍光灯の明かりのせいで辺りはますます不気味さを増し、私は怖くなってその場から2、3歩後ずさる。
だけど、私はそこではっと気が付いた。
(ルチア……ルチアは大丈夫なの?!)
もしこれが建物全体の停電に近い状態なのだとしたら、機械で制御されている『カプセル』はどうなっているのか。『カプセル』は――ルチアの生命維持に直結しているというのに。
「ルチア!!」
私は踵を返してまた走り出した。全力で。とにかく全力で走る。激しい胸のざわつきを振り払うように。
だから、この時私は気づくことが出来なかった。
十字路の先にあるマルコーの研究室の扉が、ロックの解除音と共に横にスライドしたのに。
そして、不気味な静寂に包まれた空間を私は走った。
(リタ…ッ!!リタ、どこ?!)
勿論行き先は決まってない。とにかく手当たり次第に部屋の扉を開き、探す。そうしてルチア博士の部屋を全部あたったけど、やはり誰もいなかった。
この建物は実験棟と研究棟が連絡通路で繋がった構造になっている。確かに、あらかたの研究員は最終試験で実験棟の方に居るとも考えられるが、研究棟に誰1人残っていないというのは経験上おかしかった。
今まであった試験期間だって、研究棟には多少の人が残っていたはずだ。試験棟のアクシデントを解析し、すぐ対応できるようにという事だったと思うが。
「……っ!」
私はルチア博士の研究室を飛び出す。試験棟に向かった方がいいだろう――そう思った。人が居ないことがおかしかろうと、ここに人の気配が無い以上そっちの方がリタが居る確率が高いに決まっているからだ。
私は正面に真っ直ぐ続く白い廊下を一気に駆け抜け、突き当たりのT字路で左に曲がる。その先を行くと十字路があった。これを右に行けばリタの研究室、左に行けばマルコーの研究室。真っ直ぐ行けば試験棟に行けるはずだ。
そうして私がそこを真っ直ぐに通ろうとしたときの事だった。
空気が勢いよく抜けるような音を出して、その分厚い扉は横にスライドした。私はすぐに外に1歩踏み出す。
ここはルチア博士の研究室の廊下の一角だ。もう何度も来ているので、慣れた場所のはず。しかし、私は思わず立ちすくんだ。
「――…」
いつもなら、ルチア博士や研究員が行き交ったりしていて誰かの話し声や物音がするものだ。でも、今は誰もいない。誰もいないし、何の物音も…気配すら感じられない。私は何だかそれだけで怖くなった。それでも、今リタが命を奪われそうになってるかもしれないと思うと、私は居ても立ってもいられなかったのだ。
とりあえず、まず扉を閉めなければならないと思った。こっちの方からは扉から5メートル程離れた所に置いてある電子パネルに手を乗せれば、扉の操作をする事が出来る。私は急いでそこに駆けより、パネルに手を置いた。
すると、扉は先程の順序と逆の音を発しながら元の位置に戻っていく。そして完全に閉まりきった後は――成る程、ただの壁にしか見えない。これでルチアの安全は確保されたはず。私はそう確信した。
リタはそれを防ぐために私達をここに隠して、1人外に出て行ったのだとしたら。そう考えたところで、私は唐突にリタが言っていた言葉を思い出した。
『守る。この命に代えてでも。』
どくん、と鼓動が1つ鳴った。
やけにうるさい音だった。まるで心臓が実は頭の方に存在していたかのように。
(リタ……まさかっ?!)
そう思った時には、
私は既にその場を駆けだしていた。
向かう先はこの部屋の扉だ。比較的狭い部屋なので、10歩程走ったところですぐに扉の目の前に来ることが出来た。そして、私は扉の横に取り付けられている重たそうな大きなレバーに手を伸ばす。扉はリタが外から閉ざしたが、これを下に下げることでこちらからも扉を開ける事が出来るようになっているのだ。
しかし少し位置が高い。私は必死につま先で立ち、腕を千切れんばかりに伸ばして――やっとそれに手をかけることが出来た。試験が終わるまで、絶対に下ろしてはいけないとリタに言われたレバーだ。
でも――
「く…っ!」
……ガシャ。
私はそれを力一杯に引き下ろす。下ろしきったとき、金属音がその場に重く鳴り響いた。そこから低い電子音が聞こえた後、
ガシャン
ガシャ、ガシャ……
扉を閉ざすいくつものロックが外れていった。そして、最後の音はひときわ派手だった。
プシューーー!!!
マルコー、ルチア博士、それにリタ。カメラに映らなくなったのは一昨日辺りからだっただろうか。それからというもの、私の中での不安は日に日に強くなっているのだ。
『何か』が起こるとしたらこの時だけ。
というリタの言葉を、私は思い出した。
(『何か』って何だろう…)
そう心の中で呟いてみたけど、答えなんてもう決まっていた。マルコーがここにいる私達の命――オメガ遺伝子を狙って来るということに尽きるだろう。
けど、少し引っかかる。マルコーは、何故そんなにもオメガ遺伝子を欲しているのだろうか?
オメガ遺伝子は条件に合った有機物質をオメガに変換すること以外にその性質は分かっていない。即ち、マルコーは今大量のオメガが必要だということになるのではないだろうか?それもかなり純度が高い、オリジナルと同等のオメガを――なるべく早急に。
でも私達からオメガ遺伝子を得るチャンスなんて、今までにいくらでもあった筈だ。何故今の時期になって急に?
正直、謎だらけだった。
(もし大量のオメガを合成したら……何が出来るっていうの?)
そう思った直後、私の背中にひやっとしたものが走った。
何だかかなり嫌な予感がした。もしかしたらリタの言っていた『何か』とは、この地球全体を揺るがすほどの大きな事なのかもしれない。私はそう思った。
この試験さえ終わればいい。そうすれば、全てが解決する。
けれど、何だろう?この焦燥感は。
もう私達が求めてきた夢の世界はすぐそこにある筈なのに。
私はデジタルに時刻が表示されている時計を見上げる。今は試験が始まってから7日目。7日目の、午後2:45だ。
時計の隣のスペースには大きなモニターがある。それはまるで警備室のようにこの建物の様々な部屋を同時に映し出していた。
それぞれの映像を見ている限り、試験は着々と進んでいるように見えた。病院着を着た多くの被験者が廊下を行き交う姿や、研究員が被験者に遺伝子処理をしてる姿が伺える。そして処理が終わった被験者は、今のルチアと同じ様な『カプセル』に入れられて眠っていた。何でも組み換えた遺伝子を体内で安定させるために、しばらくオメガでの培養が必要になるらしい。
見れば、被験者が入っている『カプセル』が沢山並んだ部屋があった。本当に沢山並んでいる。確かリタが言っていた事によると、被験者は1000人らしい。これに合わせて『国』はこの研究所を大幅に増築し、スタッフも増やしたとかも聞いた。
よくそれだけの事が出来たなとも思ったけど、でも今はそんな事はどうでもよかった。
肝心なのは、最近それらの映像のどこにもあの3人の姿が見当たらなくなったという事だ。
そして私達はその日々を迎えた。
これが最後。私達がこれまで積み上げてきたものを試す最後の機会。これが通ったらその技術は世に実現し、人はこの地球で生きながらえることが出来るようになる。
遺伝子組み替えをされても、ヒトとしての外見には全く影響を及ぼさない。けど巨大なオゾンホールから降り注ぐ有害な紫外線も、今の酸素が無いに等しい空気も問題にはならなくなる。海の赤い毒水を飲むことさえ、出来るようになるのだ。さらに長い間食事をしなくても、生きるのに必要な栄養分は体内で生成出来るようになるらしい。
まさに夢の体だ。人々がこれを得れば、本当に徐々にだけど、今の様々なテクノロジーでこの地を緑豊かだった頃に戻していけるに違いない。
そしてまた、地球は繁栄の時代を迎えるのだ。きっと今までよりずっと豊かになる。飢える人も無くなり、国同士の争いも無くなるのだろう。
皆、幸せになる。
私はそんな世界を想像した。
「夢の世界か。」
私は部屋の壁に備え付けてある仮眠用のベッドに寝転がりながら呟いた。ちらりと横の方に目を移せば、『カプセル』の中でルチアが眠っているのが見える。
「私達も見てみたいね。…ルチア。」
「あとね、その後でいいから。私にも本当の事――ルチアの事、教えて欲しい。」
「………。」
「それだけだよ。」
リタはどこか思い詰めたような表情を浮かべていた。けど、この願いだけは譲れない。私はその場から動かず、ただリタを見つめていた。
すると、リタは言った。
「分かった。
約束する。私は、ここに戻ってくる。必ず、ルチアとアンジェを迎えに来るよ。
だからそれまで、
少し待っていてくれないか。」
彼は真剣だった。
私も真剣な眼差しを向ける。そうしているとまた少し、機会の音だけが響く時間が生じた。
その中のある時点で場の沈黙を解いたのは私の方だった。私は、ふっとリタに笑顔を見せた。
「約束だよ。リタ。」
すると、リタも微笑みを浮かべた。
それはやっぱり、初めて私の頭を撫でてくれた時と同じ微笑みだった。
同一人物だから当然かとも思ったけど、その時はまるであの時の風景まで見えてくるかのようだった。荒涼な山に吹いていた乾いた風も、辺りを寂しげに照らし出していた日の橙色も――はっきりと思い出せた。
「ああ。……約束だ。」
その影響だったのだろうか。私は無意識のうちに、リタの体にすがっていた。
私は白衣に頬を当てながら、ゆっくりと目を閉じて。
ずっとそのままでいた。
それでも、私が出来ることなんてありはしないのだ。私が外に出てマルコーを問い詰めてみる――なんて事は出来るはずもない。だったら全てをリタに任せて、ここに身を潜めている方が、リタにとっても私にとっても安全なのだろう。そう思った。
「じゃあ……私、ここでルチアと待ってる。これでいいんだよね?」
「…すまない。しばらく窮屈な思いをさせてしまうと思う。しかしこの部屋はこう見えて、ある程度の生活が出来るようになっているから安心してほしい。恐らく試験はそう長くはかからない筈だが………耐えられそうか?」
「うん、大丈夫だよ。その代わりね、約束して欲しいことがあるの。」
「?」
私はリタの瞳の奥を見つめて、言った。
「試験が終わったら――必ずここに戻ってきてね。だって、ルチアがまだ貴方に『想い』を伝えてないから。」
「…!」
リタは少し驚いた様子で目を丸くした。もしかしたら、これだけで彼に意味が伝わったのかもしれない。
そう思うと、私があの試合を放棄してしまったように思えた。でもきっとルチアの方が、今の私よりもずっと彼が必要なのだと。最近、私はそう感じ始めるようになったのだ。
「もしもね。ルチアが目を覚ました時、まず会いたいのはリタだと思う。それで、あの子に言ってあげて欲しいの…もう独りじゃないって。」
「…ルチア…。」
リタは彼女の名前を重く呟いた。
「アンジェ、少し落ち着くんだ。」
「でもっ!」
「よく聞いて欲しい。」
リタはそう言いながら私の両肩を掴む。大きな手の感覚に、私は思わず息を呑んで言葉を失った。
「いいか。マルコー教授は、オメガ遺伝子を手に入れたがっている。…ということは、アンジェも危ない事になるんだ。」
「えっ……私?」
私は一瞬思考が止まる。
でもすぐに思い出した。
…すっかり忘れていた。私もオメガ遺伝子を持つ人間だったことを。そうだ、私がオメガ遺伝子を持っていたからこそ、ルチアの遺伝子を拒絶反応無しに体に保存することが出来たのではないか。
「ぁ…」
私は愕然とした。
「だから。最終試験の期間が始まったら、アンジェはしばらく身を隠していて欲しいんだ。」
「でも、隠れるところなんて――」
「この部屋は外から隠せるように出来ている。ここから出ない限り、教授に見つかることはないだろう。」
「リタは?……リタは大丈夫なの?」
「私の事は何も心配無い。アンジェとルチアが身を隠してさえいれば、君達を守ることが出来る。」
「……本当?」
「ああ。私を信じて欲しい。」
リタは力強く頷いて、私の肩から手を離す。けれど何故か、私の不安は残ったままだった。
リタがこんな風に言うとき、私はいつだって彼を信用してきたというのに。
「アンジェ。今の第5研究所での試験フェーズがもうすぐ全て終わる。そしてその後すぐに最終試験をすることになった。場所は、この建物だ。」
「…リタ…?」
「これが最後の機会、しかも場所はこことなると。『何か』あるとしたら、この時しかないと思う。」
「『何か』って何のこと?まさか、
あいつ――?!」
頭の中に、ある人物の顔が瞬時にフラッシュバックする。私の中で、心当たりはその1つしかなかった。そしてどうやら、リタが言おうとしていることはそれで合っているみたいだった。リタは重々しく頷く。
「マルコー教授は――最近異常な程にオメガ遺伝子を欲している。外の方のルチアが、彼に脅迫を受けているくらいだ。」
「えっ…ルチア博士?!」
初めて聞く話に、私は目を白黒させた。
「今私が彼女の身柄をどうにか守っているが。でももうとっくに、何が起こっても不思議じゃない状態になっている。」
「そんな、何で…あいつ一体何をするつもりなの?!」
「……理由は分からない。だが、今彼が裏で動いているのは事実だ。」
「じゃ、じゃあ…私、どうすればいい?そしたら、こっちのルチアも守らなきゃ!」
「リタ…私に言えない理由が、何かあるんだ?」
そう聞いてみるとやはり、リタはぴくりと肩を動かした。何とも分かりやすい。リタのそういう嘘を隠せないような所も私は好きだったりしたのだが、今はあまりそんな事を考えられる気分にはなれなかった。
リタは言った。
「彼女を守るため。そう言えば分かってくれるだろうか?」
「守る?」
「アンジェ。少し聞いて欲しいことがある。いい、だろうか?」
「え?…うん。」
するとリタは深い溜息を付いた。その表情はかなり疲れ切っている。見てるだけで、思わず私は不安な気持ちになった。
「リタ、何だか疲れてる?」
「…私は大丈夫だ。」
「本当に?」
「ああ。それよりも…君にはもう単刀直入に言っておかなければならない事がある。」
「どういうこと…?」
「今。この『カプセル』の中にいるルチアは、命を狙われている。」
「…?!」
瞬間的に、私の頭の中一杯に「どうして」という短い文が広がった。――思えば、この頃の私はその答えを予想もしていなかった。何も考えようとはしていなかったのだ。
「な、何で…どうして?!」
「だから私達は隠さなければならない。この、ルチアの存在を。そして私は彼女を守らなければならない――いや、守る。この命に代えてでも。」
「…毎朝ってわけじゃ、ないけどね。」
「そうか。」
私はリタと同じ様に『カプセル』の中のルチアを見上げる。そうすると、静かな空間がより一層静まり返ったようなような気がした。
「ねぇリタ。」
「…何だ。」
「リタは、何か知ってるの?」
するとリタは沈黙した。何のことだと聞き返しもしなければ、眉を潜める様子もない。ただ動かないで、じっと同じ所を見ていた。
「…寂しいんだ。ルチア。
ここに入れられてからずっと1人ぼっちだっていうこともあると思う。でもきっと。こうなる前からルチアは寂しかった。
私には分かる。
だって『感じる』から。
でも理由が分からないの。
どうして寂しかったのか、分からないの。リタには分かる?
……でも分かるはずないか。だってルチアはリタと話したこと無いって言ってたもん。ルチアは自分の気持ち、リタに伝えられないまま眠っちゃっもんね…。」
「ルチアは――。」
そこでリタはようやく口を開いた。けれどまたすぐに黙りこんだ。横目で見てみると、両手に拳を作っていた。
その時、私の勘が働く。
リタは何かの事情を知っている。
けれど、それは私には言えない事なのだ。
私はそう確信した。
ある日、私は仕事が始まる前の早朝にルチアの見舞いに来ていた。ルチアは未だに目を覚ましていない。あれからずっと、何日も『カプセル』で眠っているのだ。
ルチア博士から聞いた。ルチアの体はますます不安定になっているらしい。博士は、いつ全ての細胞が分解しても可笑しくないと言っていた。
つまり、いつ死んでも可笑しくないというわけだ。
(……ルチア……。)
私は自分の胸の上に両手を乗せ、祈る。
最後まで信じていたかった。
ルチアは、きっと目を覚ます。
目を覚ましたら、私は彼女に言ってあげるつもりだ。「寂しかったね。でももう大丈夫だよ。」と。
このまま死んでしまうなんて、あまりにルチアが可愛そうだ。何の思いも伝えられないまま――1人、孤独に死んでしまうなんて。
そう思ったときだった。
プシューッ!
すぐ後ろで扉が開く音がした。
次に、
「アンジェ。」
聞き慣れた低い声が聞こえた。その後私が体ごとそちらに振り向くと。そこには、やはり見慣れた姿があった。
「リタ……。」
リタはゆっくりとこの部屋に足を踏み入れる。そして『カプセル』を見上げて言った。
「毎朝、ここに来てるのか。」
そうしたのは何日間だっただろうか。とにかく長く感じられた。あの3人が同じ所に集まると、こんなにも嫌な空気になるのかと毎日驚いていた日々だった。けどそれでも、試験は1日1日順調に進んでいたのだ。
3人が、それぞれの能力を十分に発揮していたと言えた。
そのため、試験に滞りなど無かった。全ての作業がスムーズで、度々出てくる結果は大体にして期待通りのものばかりだった。計算が合いすぎて、思わず怖くなった時もあった。
そうしていき――実用化という単語が研究員の間でちらほらと出てきたのが1ヶ月くらいのことだ。『国』から早急に実用化するようにという通達が来てからだと思う。
私はそうやって何も知らないで急かす連中が気にくわなくてしょうがなかったけど、最近開かれた3人の会議で、これからの方針は実用化に本格的に乗り出していくということで固まったようだった。
でも最低限の安全性を考えて、私達は最終的な試験を行うことになったのだった。内容としては被験者を集めて人体改造を行う――今までと全く同じだ。ただ被験者の数がどっと増えるらしい。
そう、多分全体にその発表があってから3日後の事だったと思う。
ルチアは始めのこの女の子のような寂しい気持ちだったのだろうか。私は少し考えたけど、答えは見つからなかった。私は、ルチアの目が覚めたらもっと色々話を聞いてあげたいと思った。
(ルチア。――私待ってるからね。)
私は絵本を胸にぎゅっと抱いて、祈るように目を閉じるのだった。
臨床試験に入ってからは私達はいっそう忙しくなった。被験者は50人程だ。毎日ローテーション式で違う被験者にルチア博士の考案した遺伝子操作を、オメガを使いながら施していく。
その作業を行うための施設も建築されて、最近はそこでリタ、ルチア博士、そしてマルコーの研究グループが合同で作業することが多くなった。
そしてその頃、ついにオリジナルのオメガが本格的に尽き始めてきた。だから、リタの研究室でルチア博士や私の遺伝子を使って人工オメガをオリジナルに近いものに変換する作業も始まった。
どうやらオメガ遺伝子の効果というのは絶大のようで、少しの遺伝子を細胞から抽出して加えるだけでも沢山のオメガを生成することが出来た。
マイクロピペットで僅かな量のルチア博士の遺伝子を加えて、大きな水槽が満たされるくらいのオメガが完成した時は本当に驚いたものだった。
この時私は思った。
もし全身分の遺伝子を使ったら、どれだけのオメガが出来るのだろう?と。
しかしこれと全く同じ事を考えていた人物がいたことを――その頃の私は全く知らなかったのだ。
「………。」
ようやく気持ちが収まってきた時、私はふと部屋の隅に置いてある小さな木の机の存在に気付いた。この機械的な部屋には似合わない、可愛らしいデザインの机だ。
その上に何か置いてあるようだ。私は考え無しにそこに近づいてみた。
薄い暗闇の中に机が浮かんでいる。
その上に置いてあったのは、絵本だった。
(これ…)
間違い無い。ルチアがいつも読んでいた、あの絵本だ。
表紙は厚い皮で出来ている、珍しいタイプの絵本だ。童話に出てくるような神秘的な絵が印刷されていて、その上に金の文字で題名が記されていた。
「『光の妖精の話』?…」
私は本を手にとって、パラパラとページをめくってみる。どうやら両親を亡くして1人ぼっちになった主人公の女の子が、どこからともなく現れた光の妖精に出会うという話のようだった。
女の子は絶望の縁でずっと人と会うのを拒んで自分の部屋にこもっていたのだが、毎日現れる光の妖精と話していくことによって少しずつ現実に希望を見いだしていく。
そして最終的には女の子は外の世界に踏み出す。しかしその日から光の妖精は二度と現れることはなかった――という所で、話は終わるようだった。
「ルチア…毎日こんな話を読んでたんだ。」
そう呟きながら、私は本を閉じた。
「だからきっと。私が感じてるのは――あなたの感情だと思う。ルチア、私今あなたが分かるの。
それで1番に感じるのは、
『寂しい』ということ。」
そう、胸が締め付けられるほどに。寂しくて、不安で。涙が出そうになる。これがルチア自身の気持ちだと、私は感じたのだ。
「…どうして?」
今まで、自分から寂しいなんてルチアが口にしたことはなかった。それどころか、彼女はいつだって朗らかに微笑んでいた。
それなのに。
「こんなに苦しい気持ちで一杯だったなんて。」
気が付いたら、私の頬に暖かいものが伝っていた。そして喉から嗚咽がこみ上げてくる。また、ルチアの感情が蘇ってきたのかもしれない。
私はゆっくりと立ち上がって、
『カプセル』の表面にすがった。
「っ…大丈夫だよ…私はここにいるから…リタだって。ちゃんとルチアのこと、見てる。前に言ってた…必ず守るって。だから心配する事なんてないんだよ……。
ねぇ、ルチア。
どうしてなの……」
しばらくの間、私の嗚咽と低い機械音だけがこの空間を支配した。ルチアから答えが返ってくるはずもなく、
私はただそこで泣いた。
「でもね、私が今言いたかったのはそのことじゃないの。
ルチア。いつか一緒に話したよね。……細胞はその人の記憶を宿すのかってこと。ルチアは、リタの事を好きになったのは、自分が博士の記憶を宿した細胞から出来ているからだって言ってたじゃない?
私は正直、最初はそんなの信じなかった。理論的に考えたって有り得なかった。それに何より、私はそれがルチア自身の意志だと信じたかった。
けど私、ルチアの遺伝子を受け取ってから……何かを感じるようになったんだ。
何て言うんだろう?本当に何もない時に、感情みたいなものが流れ込んでくるんだよ。訳もなく…切なくてたまらなくなるときがあるの。何が切ないのかは全然分からなくて。リタがすぐ近くにいる時でさえも、そうなる時があるんだよ。
それで私思ったんだ
ああ、これは私の感情じゃないなって。
だから、もしかしてあの時ルチアの言っていたことはあながち間違ってなかったんじゃないかって……思っちゃったんだ。」
――それで私が言いたいことは、何だっただろう?
私はこうやってルチアの感情を否定したかったわけじゃない。逆にその存在を肯定したかったはずだ。
そう思って、私は顔を上げた。
「ねぇ、ルチア。」
尚も、私はルチアに話しかける。今日は少し知らせることがあってここに来たのだ。
「ちょっと聞いて欲しいことがあるんだ。その…まず、何て言ったらいいか分からないんだけど。」
その時は本当に何と言ったらいいか分からなかった。いや、どこから話していいか分からないと言った所だろうか。話というのは、あの雨の日のリタの頼みの事だ。
私はあの頼みを引き受けた。
そして先日、それは実行された。
「この間ね。……私の中にルチアのオメガ遺伝子を『保存』したんだ。」
――もしルチアが聞いたら、言っている意味が分からないって言うだろうなと勝手に思った。
「やり方はよく分からないけど、ルチアの血を使ってた。ほら、ルチア毎日注射してたじゃない?その時のだよ。
私の体の一部分の細胞に、ルチアの細胞の遺伝子を移したの。…凄いよね。リタ、そんなことも出来ちゃうなんて。遺伝子を保存するのには、私を『器』にするのが一番安全だって言ってた。
これは本当に考えたくないことだけど。ルチアが……このまま目を覚まさなかった時のためのものなんだって。」
私は、目を伏せた。
「念の為の事だ。しかし、これは断ってくれても構わない。」
「言い出しておいてなあに?私が出来ることなら何でも手伝うよ。それくらいしか、私のやる事って無いんだし。」
「内容を聞いてから決めて欲しい。」
「……聞かせて。」
そしてその雨の日から、数日が経った。
あれから毎日、私は必ず1回はルチアに会いに行く。ルチア博士の研究室の奥の奥の部屋。そこは薄暗く、そこら中にひしめいている装置の光が明かりになっているような所だ。赤や緑など、色は様々だ。
そして、大きな円筒形の水槽が部屋の中心に置かれている。リタが『カプセル』と言っていた代物だ。部屋の明かりになっている装置は、全部それに繋がっているようだった。中はオメガで満たされていて――ルチアはそこでいつも眠っている。
勿論今日もだ。
「…ルチア、おはよ。今日は調子どう?」
返事が返ってくるはずもないけど、私はいつもこうやってルチアに話しかけている。もしかしたらこの声で目を覚ましてくれるかもしれない、なんて希望を持ちながら。
「今日ね、また臨床試験に参加する人が増えたの。だから少し忙しくなって、来るのが遅くなっちゃった。」
私は『カプセル』の手前に無造作に置いてあったパイプ椅子にそっと座った。
「アンジェ、よく聞いてほしい。2日後に、オメガの臨床的な試験が開始されることになった。」
「臨床的って?」
「…ヒトを使った試験、という事だ。」
「!」
私は思わず息を呑んだ。
「オメガを……ヒトに使う。そっか…ついに、そこまで来たんだね。」
「そうだな。」
それは私達にとって大きな1歩だ。この時のために私達は毎日オメガの地道な実験を繰り返してきたのだ。その努力がやっと実ろうとしている。
でもリタはどこか浮かない様子で、窓の方に目配せした。
「ルチア博士の動物実験での遺伝子組み替え技術に、マルコー氏の導入法でオメガを触媒的に組み合わせる。そうすることで、ヒトの体で遺伝子崩壊等の害を与えることなく遺伝子組み替えを行う事が出来る……これが、今の計算らしい。」
「これが成功したら、もう私達が地球で生きる手段を確保したも同然だね。」
「…そううまくいくといいが。」
その表情は固い。やっぱりヒトの体を扱うことに、緊張を感じずにはいられないのだろうか。まあ今までの実験に関わってきた私としても、不安な気持ちがある事は確かだった。
「とにかく、臨床試験に備えて私達も色々と準備が必要になるだろう。そこで…1つ、アンジェに協力して欲しいことがある。」
「……何?」
「じゃあリタ。私、ルチアのお見舞いに行ってもいいかな…?」
私は恐る恐る聞く。経験はないけど、何となくこういう時は断られるのが殆どだと思っていたからだ。しかしリタはゆっくりと頷いた。
「ああ。好きな時に行ってくるといい。」
それを聞いて私は目を丸くした。
「いいの?」
「いいに決まっている。君の気持ちを考えれば。」
「毎日、会ってもいい?」
「…ああ。」
その時、私は何だかちょっぴり泣きそうになる。よっぽどルチアの事が心配なのだと改めて自覚させられた。
「ありがと、リタ。」
「しかし今の時間は入れない。後で私が案内しよう。『カプセル』周辺の機器に触れないよう、十分に注意してほしい。」
「分かった…」
「それとアンジェ。君に今日話しておくべき事がもう1つある――連日の会議で決まった事項、だ。」
「え?」
会議。恐らくリタとルチア博士と、マルコーの間で決まった事だろう。それはこれからの私達の方針を決める重要な事だ。そう思い出して私は口を閉じ、静かにリタの言葉を待った。
リタの言った事は一瞬で理解できた。『ルチア』とは博士ではなく、私のたった1人の友達の方だ。
「…どうして?だってルチアの遺伝子を使うプロジェクトはまだでしょう?」
「ああ…だが、」
その時、私は背筋に何かぞくりとしたものを感じた。同時に強い胸騒ぎを感じて、思わずリタの白衣を両手でぎゅっと掴んでいた。
「ねえ、ルチアに何かあったの?ルチアは今どこにいるの?!」
私はヒステリックになって叫ぶ。でもリタはとても冷静な様子で、私の両肩をやんわりと押し返した。
「落ち着くんだ。」
そういさめられて、私はそれだけで何も言えなくなった。そしてリタの真っ直ぐな澄んだ瞳が、私に突き刺さる。
「よく聞くんだ。彼女はルチア博士の研究室の『カプセル』で眠っている。だが、昨夜から原因不明の身体細胞バランスの不調をきたしている。」
「それって、」
「大丈夫だ。命に別状はない。」
「…本当?」
「ただ、酷く不安定な状態だ。下手に動かすと1部の細胞の損壊を起こしかねない。原因が分からないから少なくとも1ヶ月は『カプセル』で様子を見なければならないだろう。…場合によっては、もっと長く。」
「…そんな…」
私は呆然とする。つい昨日までは普通に話せていたのに。それは本当に唐突の事だった。けれど命に別状はないという事だけでも、私はほっとした。
「じゃあ、決まり!」
私はなんとなく気持ちが引き締まる気がして自分の両手をパンッと合わせた。
「アンジェと競争、だね。」
「うん。まずは気持ちの整理をつけるとこから始めないと。これはきっと互角になるね。」
「そうかな…」
「そうだよ。」
それから私達は互いに正面から顔を見合わせる。そして、笑った。
「――頑張ろうね。ルチア。」
「うん、私…頑張る。」
こうして、今日ルチアと私は同じスタートラインに立った。
しかしこの時、私は夢にも思っていなかった。
この競争が決着がつかないまま終わってしまうことなど――
この日は1年に数回の雨だった。雨は貴重な水だ。あの汚い赤に染まった海が蒸発したものでも、きちんと浄化すればちゃんとした飲み水になる。だから、雨が降るのはとても喜ぶべき事なのだ。
なのに。今日の朝はやけに、雨のザーザーと降る音がうっとうしく感じられた。
「――え、何…?」
今、私は研究室でリタと向かい合っている。いつものように朝一番にここに来たばっかりだったから他の研究員は誰もいない。
更に、私はまだ電気もつけていなかった。研究室は薄暗く、大きな窓から見える灰色の空はきっとそこに私達のシルエットを映し出していた。
その中で、リタは重々しくこう言った。
「しばらく、『ルチア』はここに来れなくなった。」
「勇気…」
「うん、私達勇気が足りないんだよ。よく分からないけど、きっと勇気があるば――私達、もっと強くなれる気がする。
自分でどうにか出来ることが、勇気がないせいでどうにか出来ないまま終わっちゃったら悔しいじゃない?…って、今まさにそうなりそうだけどさ。」
私は苦笑いを浮かべる。それでも、ルチアはじっと私の話を聞いていた。
「だから私は今こういうことを提案してるんだよ。私は強くなりたい…後悔したくないから。ルチアは、どう?」
「………。」
私の問い掛けに対して、ルチアは沈黙した。床を見つめて何かを考え込んでいるようにも見える。だからそれを邪魔しないように、私も口を閉じた。
そうしていると、やがて短い返答が聞こえた。
「私も、強くなりたい。」
小さい声だったけど、ルチアははっきりとそう言った。
「っていうことは…受けるんだね?」
私が静かに確認すると、今度は力強く頷いた。
「アンジェの言う通り、私も後悔したくない。それに私、もっと自分に自信を持ちたいから。」
「――そっか。」
自信を持ちたいというのは、やっぱりルチア博士の事を気にしての事なのだろうか。そう思ったけど、その辺はもう余計な詮索はしないことにした。
…とは言ったものの、やっぱり無理な話なのかもしれない。こんな子供の想いを受け入れてもらえるなんてことは想像も出来ない。
でも、その事は今まで何度も自答自答を繰り返した。結果、考えても考えてもきりがなく、いつも答えがないまま終わるだけだった。
だから私は考え疲れていたのだ。もう、考えたくない。思えばそんな逃避心からだったのだろうか。
「じゃあルチア。私と競争しない?」
「えっ?」
「どっちが先にリタに告白できるか、私と競争してみない?」
私はそんなことを口走っていた。
「む、無理だよそんなの……アンジェが勝つに決まってるじゃない。」
「分からないよ。だって私は今までずっと出来てないもの。」
「けど、しようと思えば出来るんじゃないの?」
「それは、そうだけど。」
リタを想う気持ちは確かにある。それを伝えるチャンスだってある。けれどどうしてなのだろうか。やっぱり反応が怖いから、なのだろうか。
「それで、ルチア。この勝負受ける?受けない?」
「そんな…私、困るよ…。」
「私はどっちでもいいよ。でもさ、これってお互いのためになるんじゃない?もしかしてきっかけになるかも。」
「何のきっかけ?」
「勇気を出すきっかけ、だよ。」
「大丈夫大丈夫。きっと話せるよ。晴れて話せるようになったら……ふふっ!」
「な、何笑ってるの?」
「ああ、でもこれを考えるのはまだ早いかな?」
「アンジェ、どういうこと?」
「んー」
私は意味のない声でもったいぶる。ルチアがそれから何度か同じ質問しても、同じ様にもったいぶった。すると、ルチアは頬を膨らませてこちらを睨む。まあ実を言うとそこまで隠すほどのことでもなかったので、その時点で答えを教えることにしたのだった。
「あはは、ごめんごめんそんなに睨まないで。」
「………。」
「いやさ。話せるようになったら――思い切って告白しちゃえばいいんじゃないかなって思ったんだけど。」
「こくはく?」
「そう。ルチア自身の口から、自分の想いをリタに伝えるって事だよ。」
ルチアはそれを聞くと、予想通りまたこくりと俯く。その上少し赤面していたから、可愛らしいことこの上なかった。
「こくはくしたら、どうなるのかな。」
「まあそれはやってみなきゃ分からないけどさ。けどきっといつか出来るよ!………あ~でもこれって説得力無い。リタと普通に話せる私でも未だに出来てないし…。」
そこで私は今更のように気が付く。
そういえば私も恋の真っ最中だったじゃないか。そうすると、ルチアは言わば恋敵ということになる。それに博士の分も合わせると、私達は綺麗な四角関係になるのだった。
「いけないことなんかじゃない。」
私は隣のルチアの肩にぽんと手を置く。
「ルチアがリタを好きなら、それはルチアの気持ちだよ。たとえ同じ存在を意味していたとしても、あなたはルチア博士じゃないんだから。私はあんまり繋げて考えない方がいいと思うな。要するに、今ルチアはリタのことが心配なんでしょ?」
「…うん。」
ルチアは小さく頷く。やっぱり多少恥ずかしさがあるのか、若干目をそらしているようにも見える。私は自然と、そんなルチアの背中を押してあげたいと思った。
「だったら素直に思い切り心配しちゃおうよ。今日好きだって分かったんだから、何も難しいことは考えないでさ。リタは今何してるんだろうとか、早く帰ってこないかな…なんて悶々とするの。」
「も、もんもん?」
「そう。それでね、もしその日帰ってきたら、飛び切りの笑顔でお疲れ様!って言ってあげるんだよ。」
「…でも私、リタさんと話せるかな。」
「なんだ、そんなこと心配してたの?あはは、大丈夫だよ。突然襲ってきたりしないし。」
「それは…そうだと思うけどっ。」
ルチアがまたちょっぴり不安そうにし始めたけど、恐らく彼女の中でもう『答え』は決まっている。あと足りないのは『勇気』だけだと、私は確信した。
有り得るのか、有り得ないのか。結局考えてみても、私にはそんなこと分からなかった。まだ解明されていない事があるのかもしれないし、単に私が知らないだけかもしれない。とにかく、次に何を言えばいいか分からなくなって私はそのまま下を向いて黙り込んでしまった。
しかし、
しばらくしてルチアはこう言った。
「けど私、それでもいい。」
「…え?」
私は思わず視線をルチアに戻す。
「私、この気持ちが私のものじゃなくてもいいって思えたの。だって、アンジェが教えてくれた。…私が、今私としてここにいることに変わりはないって。」
そこでルチアは私を見てにこりと微笑んだ。
「自分は自分だ、って教えてくれたよね。だから私の中にある気持ちも、今は私の物であっていいと思ったの。それがたとえ、前のルチアさんの物だったとしても。」
「……、」
あまり記憶が残っていなかったけど、確かに前そんなことを言ったような気がした。
「アンジェ、これっていけない事じゃないよね…?」
ルチアの言っていることは何だか難しかったけど、何となく言いたいことは伝わってきた。その意味が分かると、私の頬は自然と緩んだ。
「アンジェ、さっきルチアさんもリタさんのことが『好き』って言ってた?」
「う、うん。まあ付き合ってる噂があるっていうだけけど…私から見れば2人は仲が良さそうだなって。」
私がそう言うと、
「……そうなの。」
「ルチア?」
ルチアは何か納得したように呟く。
そしてこんなことを言った。
「きっと、それが理由だったんだ。
私はルチアさんのクローンだから。」
私はその言葉の意味が一瞬分からなかったけど、分かった時思わず「あ…」と声が出た。その時、ルチアがふっと溜め息を付いたように見えた。
「私、ルチアさんと完璧に同じ物として作られたって聞いた。だからルチアさんが『好き』なら私も『好き』になっても可笑しくないよね。」
「ルチア、またそんな事言って…」
「ううん。もしかしたら、ルチアさんの『好き』という感覚がそのまま私にも流れ込んできたのかも。」
「?…それってどういうこと?」
私が怪訝な表情をすると、ルチアは胸にそっと手を当てる。
「私の中にははっきりとしてないけどリタさんの記憶がある。だけどそれは私の記憶じゃなくて、ルチアさんの記憶なんじゃないかなって思って。」
「え?でも…いくら博士の細胞から作られたって言っても、その記憶まで引き継げるわけが…」
「きっとね。その『さいぼう』が覚えてたんだよ。」
「――そんな。」
そんなことが有り得るのだろうか。
私は言葉を失った。
そして少し何かを考えるように沈黙した後、こう切り出した。
「ねえ、アンジェ。やっぱり私…ちょっと可笑しい気がする。」
「え?」
「私、本当にリタさんとあまり話したことないの。毎日見てはいるけど、アンジェみたいに間近で向き合って話した事なんてないし…。」
「でも、いつもこの研究室に来るときリタと一緒だったじゃない。その時とか話さないの?」
ルチアは首を横に振った。
「よく分からないけど、何だか話すのが怖くて。リタさんも何も言わないから、私も何も言えなくて。」
「…そうなんだ?」
「うん。だから私………自分がなんでリタさんを『好き』になるのかよく分からない。」
そしていつものようにぼんやりと宙を眺める。特にそこには何もないのに、何かを見つめているようだった。
「でもきっと。アンジェが言うように、私はリタさんのことが『好き』なんだと思う。」
「…ルチア…」
「うまく説明できないけど、何だかずっと昔からリタさんを知っているような感じがする。もちろんそんな記憶はあるはずもないけど、とても不思議な感じ……、」
するとその時、ルチアははっとして私の方に向き直った。突然のことだったので、私も思わず目を丸くする。
「ど、どうしたの?」
そして私の勢いは早くもそこで止まった。同時に頭から熱い空気が抜けていくような感覚を味わう。するとそれと入れ替わりで、何か罪悪感のようなものがこみ上げてきた。
やっぱり勢いに任せてまずいことを言ってしまったかもしれない。もしかしたらルチアを傷つけてしまったかもしれない。そんな心配が頭を駆け巡った。
しかし。
「アンジェ、それってつまり…皆、今の私と同じっていうことなのかな?」
ルチアは寧ろ純粋にその事に興味を持った様子で、また私に疑問を投げかけてきた。まるで生徒が先生に質問するようなニュアンスだった。
「え、う…うん…そうね。」
「アンジェも、リタさんのことを好きになったんだね。それ、やっぱり理由ははっきりしないのかな?」
だから私は逆に少し動揺した。そして迷った。これ以上この話題を話してもいいものなのだろうか。でも結局言葉は勝手に口から滑り出していくのだった。
「うーん私はね…ずっと前、私が故郷の村で生きていけなくなった時リタが助けてくれたから。あ、いや思えば出会ったその時からもう好きになってた気も…?でも一目惚れとはちょっと違うと思う。
ただ単純に優しかったから、なのかな。」
「優しかった…。」
ルチアは噛みしめるように私の言葉を繰り返した。
「リタ…どうしてそんなに…」
私は軽い目眩をおぼえつつ呟く。
「アンジェ。そんなに、何?」
「ん…いや…どうしてそんなに引きつける力があるのかなって。」
「引きつける力?」
「だって…だって、うぅ…」
ルチアはどこまでも私に疑問の眼差しを向けてくる。しかしこの時の私は、いきなり事が起きたせいだろうか、もう思考回路が回らなくなっていた。
「…あーもうっめんどくさい!」
「えっ?」
私はそう叫んだ後、紙コップに残ってる水を一気に飲み干した。そして数秒で空になったそれを、椅子に備え付けてあるコップ置きに乱暴に置いた。コンッ!と高い音が部屋に響いた。
「ルチアが聞きたいなら、全部言うよ。リタには人を引きつける不思議な魅力があるって、私確信を持って言える。」
「どうして…?」
「それはね……私もリタが好きだからだよ!!」
「ぇっ!」
これが言っていいことなのか悪いことなのかよく分からなかった。もう半ばやけくそ状態だ。
「しかも、リタはルチア博士と付き合ってるっていう話もあるんだよ?!その上ルチアまでリタを好きになっちゃうなんて!こんなの…こんなの何かの力が働いてるとしか考えられないよ!!」
「………」
ルチアは驚いた顔のまま、沈黙の中固まった。
「……それは、」
一瞬だけ考えてもう確信した。私は何も知らないであろうルチアに、はっきりとそれを教えてあげることにした。
「それはね、好きっていうことだよ。…ルチア。」
「?」
ルチアは予想どうりに、鳩が豆鉄砲でもくらったような顔をしてくれた。ああ、本当に何もわかってないんだな…と私は心の中で半分呆れる。
「好きって、何が?」
終いにはそんなすっとぼけたような質問が飛んできた。私は思わず頭を軽く片手で抱えてしまったけど、仕方がないので丁寧に答えてあげることにした。
「ルチアがリタのこと、好きなのよ。」
「?…私、好き?…どうして?」
「理由が無くても。その人のことがどうしようもなく心配だったり、一緒にいて楽しかったりする。それが、好きってことなんだよ。」
「え…でも私、」
「ほら、もう顔が赤くなってる。」
「え、えっ…?」
ルチアの頬はほんのりとピンク色に染まっていた。ルチアはカップを脇において両手で自分の頬に触ってみる。
そこで何かを確認すると、何か呆然としたような顔をして沈黙する。そして長い間の後、ぼそりと呟いた。
「どうして?」
「………。」
私は深いため息をつく。
正直、複雑な気持ちだった。
「早く終わるといいよね、会議。」
「………アンジェ。」
「え?」
「その…聞いてほしいことが、あるんだけど。」
ルチアはまた口ごもり始める。そこで私は直感的に思った。
多分、ルチアは大した理由なくリタのことをこんなに心配しているのではない。何かもっと、普通よりも大きな理由があるのだ。
「何?何でも話して。」
私は出来るだけ優しく話しかける。その理由がどんなものなのかは想像が付かないけど、私にはそれが原因でルチアが不安定になっているように見えた。
ルチアは少し長い間をおいて、話し始めた。
「あのね、アンジェ。私…今胸が苦しい。リタさんがいないと何だかとっても心配で、不安になるの。でも私、それがどうしてなんだかよく分からなくて。」
「分からない?」
「うん。胸が苦しくなるたび、どうしてこんなに苦しくなるのかなって思うの。それにね、逆にリタさんが研究室にいる時はすごく心が落ち着くんだ。」
「――え、」
ルチアは両手に持った紙コップを自分の胸にちょっと近付けて、目を閉じる。
「変だよね。あの人がそこにいるって分かると、嬉しい気持ちになったり訳もなく楽しい気持ちになったりするの。…どうして、なのかな?ただ遠くから見てるだけのに。」
「………。」
それってまさか――
私は、気付かない内にぽかんと口を開けていた。
私達はいつものように紙コップに水を入れて、隣同士の椅子に座る。そして私はしばらく何も言わずにルチアの様子を伺った。
でもルチアは俯いたまま何も言わない。仕方ないから、少し話しかけずらい雰囲気ではあったけど私から話を切り出す事にした。
「ねえ、ルチア。リタのこと、何か気になってることがあるんでしょ?…私も気にはなってるけど。リタ、ここのところずっと会議続きですっごい疲れてるもん。もう顔見ただけで疲れてるの分かるし…。」
「……。」
「もしかして、ルチアも見たの?リタの様子。」
「…うん。」
「そうなんだ?いつも絵本読んでるように見えて、ちゃんと細かい所も観察してるんだね。」
私がその時意外そうに目を丸くしたからかもしれない、ルチアは小さくくすりと笑った。
「時々、ちょっと見てるだけだけど。」
「へぇ~全然気付かなかった…。だってね、私がルチアを見るときって、決まって絵本読んでる時なんだもん。」
「そうなの?」
「そうだよ。」
私は短く答えて、一口水を喉に運ぶ。
「…まあそれはともかくとして。リタのこと心配だよね…。」
すると、ルチアはまた表情を曇らせた。
「うん。……とっても、心配。」
何だか今にも泣きそうな表情だ。よっぽどリタの事が心配みたいだ。でも今まで大して2人は話してないのに?何だか不思議な感じがした。
「ん?どうしたの?」
「えっとね…ちょっと聞きたいことがあって。その……。」
「…?」
何だか言葉の歯切れが悪かったので、私は首を傾げる。何か私の知らないところで悪いことでもあったのだろうか。と少し身構えたけれど、そういうわけでもなかったようだ。
「リタさんって…最近見ないよね?」
だから私は内心ほっとした。
「あぁ、そうだね。でもルチア、今日はリタにここに送ってもらったんじゃないの?」
ルチアは何も言わずにふるふると首を横に振る。
「じゃあルチア博士に?」
「ううん。もう1人でここに来れるようになったから。…それで、その…アンジェはリタさんがどこに行ったのか知ってる?」
そして不安げな瞳を私に向けた。その時少し心に引っかかることはあったけど、取り敢えず私はルチアに知ってることを話すことにした。
「うんとね、リタは会議があるんだよ。それが毎回長引いてるみたいで、最近は1日中やってるよ。」
「…かいぎ?」
「うん、話し合いみたいな感じ。でも何でリタのこと?何か用事があったの?」
「えっと…。」
どうやら、今日のルチアは何故かリタの話になると口ごもるようだった。何となく複雑な事情がありそうだった。ルチアの表情は不安一色に染まっている。
「ルチア、今日は何だか元気が無いみたいじゃない?」
「………。」
「相談したいことがあるなら聞くよ。今、大して忙しくないし。」
「…うん…。」
その後、私達は休憩室に場所を移すことにしたのだった。
そう、ルチアはいつだって絵本を読んでいるように見えた。けれど、そうではなかったということを思い知らされることになるのは、リタと約束をしてから1週間ほど後のことだ。
リタはその1週間、この研究室に来ることが少なくなっていた。何でも会議があるらしかった。それがある日は大体研究室に来ないから、物凄く長引く会議なのだろうと思う。
本人は平気だと言っている。でもその次の日は心なしか疲れた表情を浮かべているように見えたし、体も少しふらふらしているようにも見えた。きっと身体的にも精神的にもきているのではないだろうか?
何しろ3人での会議だ。
その中には当然マルコーも含まれる。
リタは会議での彼について私に何も教えてくれない。だから彼が何を考えているのかは想像出来ないけれど、私は何となく嫌な予感がするのだ。
私の故郷を『国』の力を使って制圧したり、オメガの存在を世間に暴露したり。次は何を起こすつもりなのだろう?何か取り返しの付かないことが起こすのではないだろうか。
リタもルチア博士もそれを警戒している。思えば、そんな状態で1日中会議などしてたら疲れるに決まっていたのだ。
そして、今日も研究室にリタの姿は無い。
(今日も会議なんだな…。)
私は昨日まとめた書類を見ながら溜め息をついた。
そんな時。
「…アンジェ。」
「?」
珍しく、ルチアが仕事中に話しかけてきたのだった。
「本当に、どんなことがあっても?」
「ああ。」
この時、実は私はよく分かっていなかった。『守る』という事の意味も。その決意に満ちた表情の意味も。
けれど、あまりにリタが頼もしく見えたからもうどうでもよくなったのかもしれない。
「…信じてもいい?…守ってくれる?」
「守るさ。たとえどんなに大きな危険に晒されたとしても。その時は必ず、私は助けに行くつもりだ。」
リタは私の頭から手を離す。そして最後に悪戯っぽくこう付け加えた。
「もちろん、それがアンジェでも。」
「…えっ!わ、私?」
「当然だ。君は私の命の恩人なのだから、今度は私が守る番だろう。」
「そ、それはまあ…そうとも言えなくもないけどさ…?」
まさか最後、いきなり私に話が回ってくるとは思っていなかった。これは完全な不意打ちだ。いつものように顔が赤くなってないか激しく不安になる。
でもそれはとても嬉しい言葉だったし、安心できる言葉だった。それを聞いた瞬間、私の頬は自然と緩んだのだった。
「…じゃあリタ。こう約束して?私達がどこかで何か危ない目に遭ったら、1分で助けに来るってさ!」
やっと不安が取れたはずみのせいか、私は少しふざけぎみになる。するとリタは少し困ったような表情になった。
「…場所が分からない場合は1分以内かどうかは保証出来かねるが…助けに行く、というのは約束しよう。」
「えーだめ、1分以内じゃないと!手遅れになっちゃうかもしれないじゃない!」
「むぅ……努力はする。」
「あはは、絶対助けに来るんだよ~待ってるからね~!」
そんなノリでこのリタとの会話は終わった。その後ルチアを見ると、やっぱり絵本を読んだままだった。
「疑似オメガでの実験はもうしたんだよね?」
「オメガに由来するもの、もしくは成分的に同じものであれば反応することは証明された。あの不純物はオメガが極度に乾燥して機能を失ったものだった。この疑似オメガでも同じ事が起きるだろうが…大量に反応させるとなると、どの程度の遺伝子が必要なのかまだ分からない。」
「………。」
私はその時、何だか不安な気持ちになって遠くにいるルチアに目を向けた。ルチアはやっぱり絵本を読んでいた。熱心に読んでいるようで、全くこちらには気付いていない。
「足りないオメガ遺伝子を補うために、ルチアのを使うんだよね。どうやって遺伝子を抽出するつもりなの?」
「…アンジェは見ていないが、毎日採血はしている。」
「……リタ。」
気付いたら、私の片方の手はリタの白衣の袖を握っていた。そして私は高い位置にあるリタの顔を見上げていた。
しばらくそうしていると、
やがて彼は少しだけ微笑んだ。
「心配、なんだな。」
「リタ。ルチアは…1人の人間だからね。」
「ちゃんと分かっている。もう、随分仲良くなったんだろう?」
それでも私はリタから目が離せなかった。何故だか、ルチアの存在がとても儚いもののような気がして。
すると今度。リタはその大きな手の平で、私の頭にそっと触れた。
「…、」
暖かくて、柔らかい。初めて撫でてもらったあの時と、全く一緒の感覚が蘇る。
「心配することはない。『ルチア』は、きっと守ってみせる。…どんなことがあったとしても。」
その言葉からは、
何か決意じみたものが感じられた。
『あれ』とはルチア博士の研究室で起こったことだ。私はその瞬間を見てはいないけど――
内容はこんな感じだ。
ある日、ルチア博士が天然オメガと粉体の不純物を高密度で混ぜ合わせてあったシャーレを落として、そこで飛び散ったガラスの破片で手に小さな怪我をした。
その時、偶然にもルチア博士の血が床にばらまかれた混合物中に1滴落ちた。すると…血に染まった部分だけ不純物が溶解したのだ。
それに気付いたルチア博士がその部分を採取して確認してみると、不純物の痕跡は一切無くなっていたらしい。
同じ状況をシャーレの上に再現して実験してみても、不純物はルチア博士の血によって溶解した。そして実験で分かったのが、不純物が消失した代わりにオメガの容積が増していたということだ。前に、私はリタにこのシャーレを見せてもらった。勿論、天然ならではの機能性や特異性も増加していた。
しかも、その後に行われた他の人の血を使った実験はことごとく反応がなかったようだ。だからこれがきっかけで、私達は『オメガ遺伝子』という特殊な遺伝子配列を発見することになったというわけだ。
「今までに得た理論に沿っていけば……少量の天然オメガと疑似オメガを混合し、そこにオメガ遺伝子を添加すれば疑似は天然へと変換されるはずなんだ。」
リタは何か考え込んだ様子で呟いた。
それからも変わらず、私達の日々は続いていた。基本、私とルチアはいつも一緒に行動している。でも忙しい時にはやっぱり私もリタと研究員に混じって仕事をした。そういう時ルチアは、部屋の一角にある小さなソファーでいつもの絵本を読んでいる。
暇をさせて悪いなと思っていたけど、思えば私はこの頃全然気が付いていなかった。
ルチアが時々絵本から目を離す後の視線の先がいつも同じだった事に。
勿論この日も気付かずに、私は脳天気に仕事をしているのだった。
「ね、リタ。」
「…どうした?」
「今更なんだけど、この疑似オメガ…本当にルチアの遺伝子を添加するだけで、完全に天然と同じオメガが出来るのかな?」
「完全にかどうかはまだ分からないだろうな。そもそも、こうしてオメガと同じ成分だけをかき集めて疑似オメガを合成してみても、これ自体はオリジナルの0.01%の機能も示さない。もしかしたら、もっと効率的にオリジナルに近いものを作る方法があるのかもしれないとも思う…。」
リタは眉間にしわを寄せた。何だかその表情は重く、暗い。その時どうしたのかと聞いてみたくなったけど、きっと仕事の疲れとかだと思って結局私は何も言わなかった。
「だが。アンジェも『あれ』を見ただろう?」
「………うん。」
私は小さく頷いた。
「気にしないで、って言うのは無理かもしれないけど…それでも別々な存在な事に変わりはないから。」
言ったってどうにもならないことかもしれない。でも、気休めだって構わなかったのだと思う。私は、ルチアに笑顔を向けた。
「だからさ、ルチアはその辺もっと自信持ってもいいと思うな。」
「……、」
その後長い間が生まれた。ルチアは何もいわずに私の目を見ていた。どこか呆然としているようで、地に足が着いてないような感じだ。見ていて実に不安になる。
でもしばらくして、ふっと彼女に微笑みが戻ってきた。
「ありがとう、ちょっと何か分かった気がする。」
その微笑みは心なしかさっきよりも明るく見えた。
ああ―――良かった。
そう瞬間的に思えた。
少しでもルチアの力になれたなら私は嬉しい。
もしかして、友達というのはこういうことなんだろうか?
「ちょっと、分かった?」
「うん。ちょっと。」
「ん~ちょっとだけかぁ…私がもうちょっと何か言えたらいいんだろうけどなぁ。」
私がぽりぽりと空いてる手で自分の頭を掻くと、ルチアはゆっくりと首を横に振ってこう言った。
「ううん……十分、だよ。」
そうなんだ。
きっと、こういうことなんだ。
その時のルチアの微笑みを見て私は1人納得したのだった。
私は言葉を失う。どうして?と聞こうかとも思ったけど、聞きづらかった。私には分からない、ルチアのクローンとしての気持ちがあるのかもしれない。
私が黙っていると、ルチアは続けた。
「嫌いってわけじゃないの。ただ、よく分からない。」
「分からない?」
「分からないけど…どうしてかあの人を見ると色々頭の中でぐるぐる回っちゃって。色々混ざっちゃうの。それで時々不安になったり、虚しくなったり。」
「………。」
「…どうしてだろうね。」
それでも、ルチアは微笑みを浮かべたままだった。その奥にどんな気持ちがあるのか私には分からない。
「ねえ、ルチアは――……」
また何か聞こうとして、私は途中で止めた。
「?、何?」
実際クローンとして生まれて、ルチアはどう感じたのか。そんなことを聞こうとしていた気がする。
でもきっと、今私が言うべき事はそんなことじゃないと思った。もっと、伝えるべき事があるはずだと思った。
そして数秒の間をおいた後、私は言葉を変えた。
「ルチアは――ルチアなんだよ。」
「えっ?」
「ルチアは、きっと意識的か無意識的に、ルチア博士から何かのコンプレックス感じてるんだと思う。私が知ったような事を言うのはおかしいと思うけど…でもきっと。自分がクローンだってこと、分かってるから。
でもねルチア。クローンとして生まれても、ルチアは1人の人間なんだよ。博士だって言ってた。オリジナルのコピーとか、そういうのじゃない。ルチアはちゃんとした、1人の女の子なんだよ。」
ルチアはちょっぴり驚いた顔をしている。私は気付けばその丸い目を真っ直ぐと見つめていた。
「それよりさ、どんな感じなの?ルチア博士の研究室って。私入ったことないんだよね。」
「大体入ってすぐある部屋はここと同じような感じだと思う。でもそこは通りかかるだけで、いつももっと奥の部屋に帰るんだよ。」
「へえ、そこで寝たりしてるの?」
「うん。」
「もしかして、毎晩ルチア博士が一緒に添い寝してくれるとか?」
私は面白半分になって聞いてみる。でもその後、ルチアの表情はどこか暗くなったような気がした。その瞬間私ははっとしたけど、もう遅い。
「夜は…1人で寝てる。」
いけないことを聞いてしまった。
と即座に後悔する。
けど――
「ぁ…そっか。1人だと寂しい、よね。」
「?、寂しくはないよ。」
「え?」
返ってきたのは意外な返答だった。
「えと…博士ってルチアのお母さんみたいなものじゃないの?一緒じゃないと不安にならない?」
「ううん。そんなこと、ないよ。」
ルチアはやんわりと否定した。
「でも。私と初めて会ったときだって、あんなに博士の背中にぴったりくっついてたじゃない。」
「あれは…部屋の外に出たのが初めてだったからちょっと怖かっただけ。」
「…じゃあ、博士が言ってた『ルチアが1人の時寂しがってる』っていうのは違ったの?」
私が怪訝そうに聞くと、ルチアはただにこりと笑った。
「うん。違ったの。でもね、私が友達を作りたかったっていうのは本当よ。」
「それって、どうして?」
そして彼女はカップの水にもう1度口をつけた後、こう言った。
「どっちかというとね、少し離れたかったから。――元のルチアから。」
「あはは、そうだよね。ここって複雑だもん。3つの研究所が1つになってるってとこだから。」
「3つ?」
「リタと、ルチア博士と、それにマルコーのね。」
「…マルコー?」
「もしかして、聞いたことない?」
と、私はそこで一瞬で理解した。
このルチアの存在を、マルコーには知られてはいけない。
私達の研究所は『国』によって強制的に1つに合併されたけど、リタとルチアが自身の研究内容をマルコーに伝えないことは少なくない。それは、彼の得体が知れないからだ。
彼は上辺だけは私達の研究に協力するようなそぶりを見せる。けれど、その裏できっと何かを考えている。その空気を2人は感じ取ったのだろう。私でさえ分かる、その空気を。
そして今回も。ルチアが彼を知らないという事は、リタとルチア博士が彼に事を隠している可能性の方が高い。経験と統計から、私はそう感じた。
ルチアは少し首を傾げる。
「その人、聞いたことない。」
「あ、いや!知らないならいいの。むしろ知らない方がいいと思うし…多分忘れた方がいいよ。」
「そうなの?」
「うん。」
「そうなんだ。…じゃあ、忘れようかな。」
そう言ってルチアはいつもの柔らかい微笑みを見せた。その後宙を見上げて何かぼんやり考えていたみたいだったけど、それ以上マルコーのことは追求しないでいてくれた。
私はほっと息をつく。ルチアは毎回こんな調子で素直な子だ。少しは疑問というものを持たないのだろうかと度々思う程に。けどそのおかげで、スムーズに話題を変えることができた。
その微笑みがやはり本人の面影と重なる。だからまたさっきみたいに赤面しそうになってしまったけど、取り敢えず彼女に受け入れてもらえたみたいで私は安心したのだった。
「こちらこそ!でね、ルチアちゃんでいい?」
「うん…ルチアって呼んでほしい。」
結局、私は言われたとおり彼女をルチアと呼び捨てることに決めた。本人のほうは心の中でも名前の後に博士をつけることでちゃんと区別することを心がけることにする。
それからは毎日のように、リタが昼頃にルチアを研究室に連れてきては、夕食を3人で一緒に食べた後には元の場所へ連れていった。
始めの頃、ルチアは私がモニターの前で仕事をしているのを興味深そうに見ていたり、隅の方で絵本を読んでいたりと静かだったけど、日にちが経つにつれて私と彼女との会話は増えていった。
その時私がしていた仕事の話だったり、仕事の話じゃなければ私がルチアの色んなことを聞いてみたり。逆の時も勿論あった。
ある日の午後、私はこんな事をルチアに聞いてみた。私は少し広めの休憩室の椅子に座って、あまり美味しくない合成水のカップを片手に足をぶらぶらさせていた。
「ね。ルチアはさ、私と別れた後にはどこに帰ってるの?」
ルチアは私の隣にちょこんと座っている。両手でカップを持ってちびちびと合成水を飲んでいた。
「…元の…ルチアさんの研究室、だと思うんだけど。ここの建物って未だによく分からなくて。」
「初めまして。私アンジェリカっていうの。」
「………」
彼女の反応がないのでやっぱりいきなりはダメかなとも思ったけど、諦めるのはまだ早い。
「アンジェって呼んでくれてもいいよ。」
「………」
「これから2人がいない間一緒にいるから、よろしくね。ここのこと、色々教えてあげるから。」
「………、」
すると、彼女は大きいルチアの白衣を握りながら少しだけ俯く。それからしきりに辺りを見回した。何か戸惑っているようにも見えたけど、最後にはぴたりと私に目を止めた。
そして――
「よ」
ついに彼女の口が開いた。第一声は1文字だけだったけど、それだけで透き通った柔らかい声が印象に残った。…ちょっぴり掠れてはいたけど。
「…よ?」
「――よろしくね。アンジェ。」
と
彼女が後半を淀みなく言うものだから、私はその時きょとんとした顔をしてしまったかもしれない。もっと怖がった感じで挨拶するのかと思ったら、以外とそうでもなかったことに驚いた。
その後彼女は後ろに隠れるのを止め、ゆっくりとこちらに出てきた。緩やかな金髪のウェーブと服のフリルがふわりと揺れる。そして隠れてる時はよく見えなかったけど、その片腕には何か絵本のようなものを抱いていた。
「あなたに会えて……嬉しい。」
そう言って
彼女は微笑んだ。
するとその横で、リタは軽く肩をすくめた。
「やれやれ、結局全部ルチアが説明してくれたか。」
「だってリタが話したらもっと長くなりそうだし…ね?」
そのルチアの言葉で、私は思わず吹き出す。
「あはは、それは賛成です。リタは何を言うにしてもいっつも難しい用語ばっかり使って!その度知らないものを調べるのが大変なんですよ!…まあそのお陰で色々知識は付いたわけですけど。」
そう言ってやるとリタはむぅと唸ったので、しばらくルチアと2人で笑った。リタは一応「これからは出来る限り気をつけよう」と言ってくれたけど、前に私が苦情を言っても直してくれなかったから期待はしないでおくことにした。
「しかしアンジェが引き受けてくれてほっとした。1週間前に目を醒ましたばかりだから、色々教えるといいかもしれない。」
「うん、私はいいけど。でも…んっと、ルチアちゃんは大丈夫なのかな?」
私はひょいと上半身を動かして、後ろに隠れている彼女を見る。何て呼ぶかは少し迷ったけど結局元の彼女の名前で呼んだ。だって『ルチアコピー』ではあまりに冷たい感じだし、他に思いつく呼び名もなかった。
ちっちゃい方のルチアは隠れてはいるけど、さっきからずっと私の方を見ている。怖がっているのかもしれないと思ったけど私は思い切って話しかけてみることにした。
「でも、どうして私に?」
「さっきも言ったとおり、この子には感情がある。でも私達はずっとついていてあげられないから、寂しい思いをするみたいなの。それで……お友達を作ってあげたいと思って。」
「友達、ですか。」
「ええ。」
ルチアのやんわりとした説明で理由はだいたい分かった。でも自分に友達が務まる自信は、あまり持てなかった。何しろ今もずっと『ルチアコピー』はルチアの背中に隠れっぱなしなわけなのだし…。
でも考えてみれば。
故郷の村に子供が少なかったせいか、私も今まで友達と呼べる誰かを作ったことがなかった。だから――まだそういうスキルがないのはお互い様なのかもしれない。そう思ったら少し彼女に親近感がわいてきたような気がした。
お互いに初めての友達作り。
私はそれに興味を持ったのか、その瞬間には自然とにこりと笑って『ルチアコピー』を見ていた。そして、
「分かりました。」
自分で気づかない内に私はそう言っていた。すると、ルチアは少し驚いた顔をしてこちらを見る。
「本当?お友達になってくれる?」
「…はい、任せてください!きっと寂しい思いなんてさせないようにしますよ!」
私がそう張り切って言うと、
やはりルチアはまた柔らかく微笑んだ。
「有り難う。きっと、この子も喜ぶわ。」
「成程。……それで、頼みっていうのは?」
私はそう軽く相づちをうった後に聞いてみる。するとリタは少し言いにくそうに間をおいて、こう言った。
「悪いのだがしばらくの間、このクローン体――『ルチアコピー』の面倒を見ていてくれないだろうか。」
「え?」
全く予想のつかなかった答えが返ってきて、私はぱちくりとしてリタの顔を見上げる。そしてまた、『ルチアコピー』と呼ばれたその子に視線を移す。更に、
「私が、この子の?」
分かり切ったことを聞いてみる。けど脇の方でルチアが苦笑いしていたのでその答えはすぐにYESだと分かった。
「小さい頃の私は人見知りが激しくて、厄介な子だったと思うからとても申し訳ないのだけど…」
「それは構わないですけど…でも私、どうしたら?」
「ただ一緒に過ごしてくれていればいいわ。出来れば空いた時間とかに、話し相手や遊び相手になってくれると嬉しいかも。」
「はあ、話し相手や遊び相手…ですか。」
私はただただ驚いてその話を聞いていた。この研究所に入ってから――いや、リタの研究所に置かせてもらっていた時も。そんな仕事は聞いたことがなかったからだ。
それは私より小柄な女の子だった。まず、腰の辺りまである緩いウェーブのかかった金髪が印象的だ。そしてサファイアのような綺麗な青色の瞳が、不安げに潤んで私のことを見つめている。
着ている服は少し言葉にしにくいけど、イメージはネグリジェのような感じだろうか。私の村にはネグリジェなんてものは無かったからまだそれがどのような服なのかよく分かっていないかもしれないけど、全体的に柔らかい感じだ。ワンピースの端についているフリルが何とも可愛らしい。
いや、そんなことはあまり重要じゃなかった。端的に言うと、この子はルチアにそっくりだったのだ。だから、それは簡単に想像がつくことだった。
「もしかして――ルチア博士の、クローン?」
「ああ、そうだ。」
私が興味深そうに顔を覗き込むと、その子はまるで小動物のように身を縮こめてしまった。
「前にも話したとおり、これまで試験管内での遺伝子のみの分裂は勿論、クローン細胞の作製からの急速な増殖試験は試したが、全て失敗に終わった。
だが今回、ルチアの卵子の内部細胞塊に遺伝子と成長因子をを導入した。胚の状態からゆっくりと成長させ、普通の人間に近い状態で培養することで初めてオメガ遺伝子の完全なコピーに成功したんだ。
だから今までと違って――このクローン体には自身の脳が分化している。従って、自己の存在を認識していることになる。」
「えっと…要するに、この子は私達と何ら変わりない1人の人間ってこと?」
私は専門的なリタの言葉を汲み取って、何とか話を理解しようとする。その時ルチアが、自分にぴったりとくっつくその子の肩をそっと撫でた。
「そう。ちゃんと学習能力があるし、感情だって存在している。丁度、私が子供だった時を再現しているという所ね…。」
私は乗っていた台から飛び降りて、リタのもとに駆け寄った。
「すごい…これでオメガの不足問題を解決出来るじゃない!人の手で天然のオメガの完全なコピーを無限に作り出せるようになったってことでしょ?!」
「理論上はそうなる。……だが、まだその段階まで来てはいない。」
「?、どういうこと?」
私が首を傾げると、リタはルチアに何かを促すように視線を送る。すると、ルチアは何故か自分のすぐ後ろの方を気にし始め、後ろ手で何かしているような動きをし始めた。その動きが10秒程続いたところで私がますます首を捻っていると、
「大丈夫。怖くないから…顔を見せてあげて、ね?」
ルチアが小声で、後ろにそう告げるのが聞こえた。その時初めて――彼女の後ろにもう1人、誰かがいるのが分かった。
全く音を立てないので気づかなかったけど。今よくよく見てみると、確かにルチアに隠れるようにして2本の足が見える。足はとても小さくてほっそりとしている。それはどう見ても、子供の足だった。
(……誰?)
そう思った時、
その子はおずおずとルチアの背から半身を覗かせた。
「…あっ」
その姿に、私は思わず小さく声を出す。
「アンジェは本当に努力している。…申し訳ないくらいに。」
「ふふ、私のもとにもこんなにいい子がいてくれたらいいのだけれど。」
前から研究員の間で、2人は同じ大学のスタッフだったときにちょっとした付き合いをしていたなんて噂が流れてるのを聞いたことがある。でもこうして実際に2人を並べて見てみると…成る程、見た目からしてお似合いだ。
だから今も、私は怖くて自分の気持ちを伝えられずにいる。せめて彼女をまだ知らない内にこの気持ちに気付いていればとも思うけど、やっぱりこの年の差だ。仮に告白出来たとしたって、所詮は子供の言うことだから。真剣に受け取ってもらえるはずもない。
私は2人に気づかれない程度に小さく溜め息をつくのだった。
「ところで、アンジェ。今日は少し重要な頼みがあってきた。」
「?――何?」
「前から問題になっていた人工オメガの供給に関してのことで。君にはまだ伝えてなかったが…1週間程前に、私達は例の事に成功した。」
「例のこと……」
リタはよくこういう言葉の表現を使うから、その度自分で記憶を辿るのが大変だ。けれど、
「!」
今回は少しの時間で思い出した。
「まさか、ルチア博士の…オメガ遺伝子の純粋なクローンを作ることに成功したの?!」
私が目を丸くしてそう言うと、リタはゆっくりと頷いた。
しかし――振り返ったところで私は反射的に息を呑んだ。
「…ぁ」
部屋の入り口付近にはリタがいた。けれどその後ろにもう1人、この部屋に入ってきた人物がいたのだ。その人物を見た瞬間に、私はそれが誰なのか理解する。
すらりと白衣を着こなした20代くらいの大人の女性。サファイアのような青い瞳と、後ろに束ねた金色の髪がとても印象的だ。彼女と話す機会はあまりないけど、時々この研究所の中で見かけるからよく覚えている。
「お、おはようございます!ルチア博士…」
私がぺこりと頭を下げると、彼女はふふっと笑ったようだった。
「おはよう、小さな研究員さん。えっと…アンジェリカさん、だったかしら?」
彼女はとても物腰が柔らかくて、その笑顔には黒い感情なんて全く感じられない。純粋すぎるほどだ。そのせいか私は何だか緊張気味になって、ぎこちなく敬語を並べていく羽目になる。
「はい、そうです。リタ先生のもとで、この研究に参加させてもらってます。」
「その年でこんなに仕事が出来るなんて…とても勉強を頑張ったのでしょうね。」
「いえ…ただ、私も少しでも、力になれればと思って。」
すると、そこで彼女はさらに柔らかく微笑んだ。私は思わずどきりとしてしまう。
「とても立派だと思うわ。」
「……、…」
たったそれだけの言葉で、私は完全に体が固まってしまった。
「ぁ、ありがとうございます…」
少し頬が熱くなって、ぼそっとそう言うのが精一杯だった。初めて彼女と会って話したときも、確かこんな感じだったと思う。
彼女は素敵な女性だ。
私の憧れになるくらい。
でも、同時に
私は彼女が少し妬ましかった。
何故なら
彼女とリタの距離が
何となく近く感じるからだ。
その時、後ろからシュッという音が聞こえた。 この部屋の扉が開く音だ。この時間帯に部屋に入ってくる人物は一人しか思い当たらない。だから私は振り向かないまま、言った。
「おはよう、リタ。」
するとすぐに、返事が返ってきた。
「おはよう、アンジェ。相変わらずアンジェは1番早くここに来てるんだな。」
やっぱりそうだった。そう分かると、自然と私の顔はほころんだ。
「昨日測定したオメガのエネルギー実験記録、整理してたんだ。大体は終わったよ。」
「まさか、あの大量のデータを1人で?…あまり無理はしないほうがいい。」
「大丈夫。私に出来る事ってこれくらいしかないし。」
「…それでも毎晩遅くまで起きて、毎朝早く起きて作業をしていたら体に響くだろう。」
最近やっと分かったことだったけれど、
私はリタが好きだった。理由はよく分からないけど、きっと出会ったときから私は彼に惹かれていたのだ。
彼の仏頂面と不器用さが、好きだ。時々見せてくれる微笑みと優しさが、好きだ。でも仏頂面と微笑みのどちらが好きかと聞かれたら、私は微笑みを選ぶだろう。
彼にもっと微笑んでほしい。
私達には、世界を救う手だてを探す重要な仕事を課されているわけだけど、私が今こうして仕事を頑張ってるのは――そのせいもあると思う。否定はしない。
もっとリタの力になる。
もっとリタに喜んでもらう。
そのために、今日も頑張らなくちゃ。
そう自分に聞かせて、
「大丈夫だって!」
私は満面の笑みでリタの方に振り返った。
「荒れ果てた地で食糧はもちろんのこと、水さえ殆どなかった。人工的に合成した水でも、喉が潤う程度に飲めるのはほんの一握り。その頃からもう、『国』はスラムと上層部に分かれていたのよ。スラムの領域の人間は飢え、道端に転がってるのが普通になっていた。そしてそれは『国』以外でも………そんな、世界を変える。それが私達の目的になっていた。そのためには、どうしてもオメガが必要だった。
――そうして生まれたのが
彼女。」
ジュエルは
ゆっくりと顔を上げた。
「ルチア………」
アンジェリカは
ゆっくりと目を閉じた。
―――――
低い機械の起動音。
床に複雑に這う無数の蛇のようなコード。
大きなモニターから発せられる青白い光。
あの出来事から3年くらいして。
それらが私の日常になっていた。
ここは『国』が用意した研究施設の一室だ。今この広い部屋の隅で私は一人白衣を着て、デスクで作業している。
白衣は私みたいな子供用のサイズがないので大人用のものを捲って着ている。しかも、普通に立っていてはデスクに手が届かないので踏み台に乗って作業している。その姿はかなり様にならないものなのだろうなと常に思っている所ではあるけれど。
それでも私は、大分リタの力になれるようになってきたと思っている。
私が大きなタッチパネル式のキーボードでコードを素早く打ち込んでいくたび、そこにはポンポンと小気味いい音が響いていた。
そしてふと、私は手を止めて見つめる。
キーボードが表示されているデスクの脇に鎮座している、大きめの円筒形の水槽に入ったエメラルド色の液体を。水槽には色とりどりなチューブが何本も刺さっていた。
――お知らせ――
皆さん今晩は、ARISです。明けました、おめでとうございました(^-^)
無駄な話だけが長くなって肝心な部分がよく分からなくなっているところではありますが、相も変わらず自分勝手に楽しく書かせていただいております今日この頃です。(笑)
これからも、どうぞ本作を宜しくお願いします……と言いたい所ですが、
またテスト週間になってしまいましたので、本日から執筆を少しお休みしたいと思います。
再開は2/6となりますので、宜しく御願い致します<(_ _)>
ARISでした。
「それで――研究が始まったはいいものの、直ぐに問題が起こった。それは、オメガが入手源が無くなってしまったこと。…この辺りも、もう聞いているのかしら。
何故か、あのコルツ山の内部で湧き出ていたオメガは、定期的に採取するようになってから数日して枯れてしまった。
その後、色々な手配でオメガが地表近くに流れている別の所を捜索して…やっと見つけても、それもすぐに枯れてしまったの。」
「知っている。それが人工的にオメガを作りだそうとしたきっかけなんだろう。」
「そうとも言えるかもしれないわね。まあ、その発想を思いついたのはある偶然からだったけど。」
そこで、ジュエルは少しだけ俯く。
「コルツ山のオメガが無くなったということは……村は。」
それに対してアンジェリカは視線をそらして黙り込んだ。それから沈黙が流れたが、そう長くは続かなかった。
「どうなったのかは聞いてない。でも…きっと『国』は何もしなかったと思う。武器で脅して、従わせて、奪って。役に立たなくなったと分かれば平気で捨てる。『国』はそういう腐った存在だったから――と言うより、今でもそうだと思う。
もっとも、もうどこの国もそういうやり方でしか生きられなくなっていたけど。私は村の外に出てみて初めて、今人間がいかに生きることに必死になっているのかが分かったわ。」
アンジェリカは虚しそうに呟いた。
「そうして3人は集まった。」
「…話によると全員同じ大学の教授だったらしいから、繋がりを見つけるのは簡単だったんだろうな。」
「ええ。特に、リタとルチアは同じ大学の研究室にいた頃があったみたいね。でもルチアが目を付けられた原因は…単純に、彼女だけがオメガを利用するのに都合のいい研究をしていたからだと言えると思う。
3人での共同研究の大義名分は、オメガのエネルギーを利用して人体改造の技術を強化すること。…オメガでの地球環境の再生については、大規模すぎて不可能に近いとマルコーが『国』の幹部に話したらしい。だから別のことにオメガを利用しようと考えた結果が、3人が集まることだったんだと思う。
そして、暫くしてから共同研究が始まった…強制的に。3人が会った時のぎこちない握手は、今でも覚えてる。」
アンジェリカはそれから深い溜息をついた。
「…腕は少し、それで様子を見てみて。もう少しで目的地に着くから、その時に備えて、ここで少し休んだ方がいいわ――焦るかもしれないけど。」
「………。分かった。」
そして「話を続ける」と切り出し、彼女は再び口を開いた。
アンジェリカは決然として言った。
「今から22年前。マルコーによって、オメガの存在は『国』の幹部に暴露された。」
「…その目的は。」
「真意は明らかにはなっていない。でも、それからは『国』の表から大々的な研究援助を受けたし、複数の別の国の幹部から注目もされた。リタの研究所は元々『国』の中に隠れるようにしてあった狭い地下研究所だったけれど、援助を受けた後には『国』の外に大きな研究所を構えて、大勢のスタッフを雇うことが出来た。もっとも、『国』も多少は研究内容の重大さを理解したのか、世間にはオメガの存在を公表しなかったけれど。
それでも私達からしてみれば、事態は急激に悪くなったと言えたわ。暴露されたことによって…終いには、十分な知識もない上に無責任な国連に従わざるを得なくなったのだから。国連の極秘の要請で、オメガの研究は実質的にリタとマルコーの共同で行うことになったのよ。」
治療が終わり、アンジェリカは注射器を近くにあった専用のダストボックスに丁寧に入れる。ジュエルは腕に当てられたガーゼを、指で軽く押さえた。
「その辺の話はグロウ……俺の仲間からも聞いた。その後、『国』の指示で人体改造の研究をしていたルチアにも国連から声がかかったんだったか。」
「…そう。」
アンジェリカは静かに頷いた。
「始まりはさっきも言った。オメガが大分研究された時期。私が研究室に来てから3年経った頃のこと。」
アンジェリカは、注射針をすっとジュエルの右腕に刺した。
「オメガがあまりの莫大なエネルギーを持つと分かって、リタは危機感を感じていたわ。この情報を世界に公表したら……それこそ私の祖母が言ってたように、世界中が混乱する。
だからリタは、それらの情報を重要機密事項にして外部に伝える情報を最小限に留める事を考えた。オメガのメカニズムがもっと具体的に解明されて、安全に使用することができるようになる事が分かったら公開すると、私達はあの時決めたの。」
ピストンを丁寧に押し込むと、中の液体が注入された。そして、またすっと針を抜く。その時に、アンジェリカは注射器と一緒に持ってきていた少量のガーゼを傷に当てる。
「だけど、リタの研究は『国』の深部からの支援を受けていた。それが、マルコーという存在の意味。支援を受けてるというよりも監視されてるのと同じだったけど、確かに彼とは『支援』という形で契約していた。だから情報を最小限に留めると言っても、限界があったわ。
彼には知らせるしかなかった。
でもこれが――引き金になったのよ。」
「こんなもの…見つからなければよかったんだろうな。」
ジュエルが呟いたのを聞いて、アンジェリカはピクリと動きを止めた。
「アンジェリカが家族を失うことになったのも、きっと人造生物が解き放たれてしまったことも。オメガを見つけてしまったからなんだ。本当に俺がリタだったのなら……今こうなってるのも俺が全ての元凶、だな。」
「――いいえ。違う。」
ジュエルのどこか自嘲的な呟きをかき消すように。アンジェリカは強く言った。そして注射器を取り出すと、ジュエルの方に向かう。
「リタは本気で、世界を救おうとしてた。ただ、それだけ。私は3年間リタの近くにいたから分かる。彼――いいえ、貴方は不器用だったけど真っ直ぐで。愛に溢れた人だった。私はそこに…正直惹かれていた、から。」
その後アンジェリカは「右腕を見せて」と照れ隠しのように言って、注射器の針についていたキャップをとる。ピストンを押すと、緑色の液体が針の先端から垂れた。
「アンジェリカ。話の続きを聞かせてくれないか。まだ思い出せない。リタは――お前と『ルチア』に何をしたのか。」
「そうね。でもこれだけは言わせて。全ての元凶はリタじゃない。…あいつよ。」
「あいつ?」
「マルコー……」
アンジェリカは苦々しくその名を口にした。
アンジェリカはその脇を通り抜けた。
ジュエルはその水槽を見てみる。その中には、緑色の気体が充満していた。それは水槽に繋がっているパイプから吹き出されているようで、部屋に響いている音はこれが原因だった。パイプを辿ってみると、それは天井を伝った後、壁を垂直に降りていっている。そして、パイプはその部屋に備え付けてある大きなタンクのようなものから伸びているのが分かった。タンクからは低い振動音が聞こえてきている。
「オメガ…か。」
「ええ。…………。」
アンジェリカは答えた後、何故かきゅっと下唇を噛んだ。
そのまま、タンクの脇の方にある実験台の方に向かった。部屋の形に合わせて作られているその変わった実験台には、大小様々なビーカーが並んでいる。しかしアンジェリカはそれに目もくれず、
ガラリ。
下の方にある引き出しを勢いよく引いた。そこにはぎっしりと、筆箱大の黒い箱が並んでいた。アンジェリカがその内の1つを取り出し、蓋に指をかける。
カパッ
蓋は軽い音を立てて開いた。箱に入っていたのは、小さな注射器だった。その中身は既に入っている。アンジェリカはそれを見て安心したように息を付いた。
その時、
ある真っ直ぐな廊下を歩いていると、アンジェリカはふと気が付いたように立ち止まり、左を向いた。その視線の先には、1枚の扉があった。
「アンジェリカ?」
「少しここに寄りましょう。…その腕の火傷、治せるかもしれない。」
「!」
ジュエルは右腕にちらりと目を向ける。痛みは大分収まったものの、まるで腕が死んでしまっているかのように力が入らない。もはや自分の一部ではないものを肩からぶら下げているような感覚になっていた。
「治るのか?」
「多分。オメガの細胞活性化作用から考えて、可能ではあると思う。やってみなければ分からないけど…」
そう言うと、アンジェリカは扉の脇に設置してある電子パネルに手の平をつける。
ピーー
パネルが緑色に光ると同時に、扉がシュッと上にスライドした。扉の向こうはこの廊下と同じ様に薄暗く、先が見えない。アンジェリカはそこに足を踏み入れた。
シュウウウゥ………
その部屋は何かガスが吹き出すような音が響いていた。アンジェリカが部屋に入ってすぐ壁のボタンを押すと、部屋の中が蛍光灯で明るく照らされた。
ジュエルは少し眉を潜める。
その円形の部屋の真ん中には、大きな円筒の水槽のようなものが床から天井に繋がっていた。どうやら、それがこの部屋の主役らしかった。
「オメガの音波は、強なっていくと錯乱や幻覚の作用が強くなる。私を洗脳していた装置も、多分その音波を再現して強めたものを発信するもの。それと…ジュエル。あなたはヴァイスに会った?」
「……、……ああ。」
ジュエルは暫く質問されたことに気づかなかったのか、遅れて返事をした。声を出すのが久し振りなようだった。
「戦ったのなら、分かったと思う。オメガ遺伝子を持たない者には音波は聞こえない。でも彼は純度の高いオメガを凝縮したものを体内に埋め込むことで、普通の人間にも音波を知覚させることが出来た。」
「…確かに。あいつと戦った時、耳鳴りとか幻覚を見た。それに本人も言っていた。音波で相手を惑わす能力を持っていると。」
「そういうこと。私は彼に近づくことすらできなかった。」
「アンジェリカは音波に敏感だった…オメガに落ちた事から、遺伝子が自身に宿っていることが分かったのか。」
「……ルチアよりは純度は高くなかったけどね。あと、オメガが生態系を支える以上の豊富なエネルギーを持っている事を解明したのも、あの事がきっかけだった。私があそこで溺れた時、仮に長時間酸素が無い状態に置かれていたとしても……生きていたのは不思議じゃなかったというわけ。」
…………
コツ。
アンジェリカは、立ち止まった。
ジュエルもそれにつれて立ち止まる。
緑色の蛍光灯に照らされた暗い通路がずっと続いている所だった。
「――ごめんなさい。どうでもいい話が、長くなったわね。」
アンジェリカは背を向けたまま俯く。ジュエルには見えなかったが、その表情は切なそうだった。ジュエルは今まで一言も発さずに、ただ黙って話を聞いていた。
「とにかく、これが私が『国』に行くきっかけ。村に二度と戻れないと分かっていても。この時の私にはリタだけが支えだった。
だから私もリタの支えになりたいと思った。『国』に行ってからは研究室の本を読み漁ったり、実験を手伝ったりした。…勉強はリタの役に立てるようになると思えばとても楽しかったわ。そのおかげで、私は10歳になる頃にはリタの助手を務められるようになってたわけだけど――丁度その頃だったわ。オメガの成分の解明と、オメガ遺伝子の発見は。」
アンジェリカは続けた。
「私がオメガの湖で溺れた話、覚えてる?あの時湖に落ちる前に激しい耳鳴りがした。…あれはね。オメガから発せられる特殊な音波に、ある特定の遺伝子によって作られるタンパクが反応を起こして生ずるものだったの。」
ぽん、と頭頂部に柔らかい感触を感じた。さっきと同じ温かみがあったので、すぐにリタの手だと分かる。そして声が聞こえた。
「アンジェ…一緒に行くか?」
――え?
その言葉はあまりに直接的だった。意味がすぐに分かったので、逆に私は心の中で戸惑ってしまう。
膝に埋めた顔を少しだけ上げてみると、リタの無表情が見えた。西に傾き始めている太陽が放つ、橙色を帯びた光のシルエットになっている。その表情は寂しげに見えたけど――やっぱり、何かの温かみを感じた。
多分、
それは『希望』なのだと私は思った。
この世界に唯一残された私の『希望』。
「もう…行くところがないのだろう。なら、私の研究室に来るといい。」
「……でも…私、何も出来ないよ…。行ったって、迷惑になるだけだしっ…何の役にも立てない…」
「役に立たなくたって構わないさ。こうなってしまったのは私の責任だ。それに……命を助けてくれたお礼もある。」
「!…」
最後の一言で、リタは優しく微笑んだ。
それは、とても印象深く私の目に焼き付いた。
その微笑みはまるで、
地獄に咲いた1輪の花だった。
私の『希望』は――
「だから、いい。こうなることはね、きっと決まってた。…今じゃなくても。きっと未来で起こったよ。」
「……」
「最初から決まってたことだから……わた、し」
その内、もう言葉が出なくなった。何か他にも自分に聞かせる言葉を言いたかったけれど、何故か喉に何かが詰まったように声が出ない。胸がぎゅぅ…っと苦しくて。そこから絞り出されたように、ただ涙だけが出てくる。
もう、限界だった。
これ以上顔を見せられない。
私は完全に地面に座り込んで、膝を抱え――うなだれた。
同時に、リタの手が離れた。
その後は…しばらくの間何も聞こえなかった。不器用なリタのことだ。きっとどうしていいか分からなかったに違いない。だって私だって、どうしていいか分からない。
それで思った。もしかしたら私は、本当に死ぬかも知れない。自分を育ててくれる家族を失って、住むところも失ったら、子供の私には何を出来るはずもない。
それとも、リタにすがってみる?
リタに頼んで『国』に連れて行ってもらう?
…無理に決まってる。こんな無能な私に何が出来る?『国』にいたって迷惑なだけに違いない。
そう思った時だった。
「…っ…ぅああぁぁぁ…ああ」
止めなきゃと思っていても、やっぱり駄目だった。悲しくて悲しくてボロボロと大粒が零れてくる。私はそれから大声で泣いた。
私にとっての世界が、日常がこんなにも簡単に失われてしまうなんて。これからどうやって生きていけばいいのかまるっきり分からなくなってしまった。
ふと、リタは私の前にきてしゃがんだ。
そして、右手をそっと私の肩に当てて、呟いた。
「…すまない…私がここに来なければ。こんなことにはならなかった…。」
肩に当てられた手から、体温を感じる。私は水の中で藁を掴むようにして、その暖かみを脳に刻みつける。ああそうか、今の私の拠り所はこの暖かみしかなかったのだ。
そう理解すると、私はその手に両手を重ねて
「リタ、生きてて…よかった…っ。」
精一杯の笑顔を浮かべたつもりだった。でも、私は泣きながら笑顔になるなんて器用なことは出来ない。だからその時はただのくしゃくしゃな顔をリタに向けていた。
「アンジェ、私をかばう事なんて無かった!君はそのせいで戻れなくなってしまったんだぞ…!」
「……でもね、私…リタが死ぬのは嫌だった。それに、言ったでしょ?あんなところで生きていくくらいだったら…私は死んだ方がまし、だから。」
そして緊迫した沈黙が辺りを支配始めた頃、男性は笑顔を崩さずに肩をすくめて見せた。
「やれやれ、分かりました…それでは私達はこれで帰還することにします。貴方の命が危なくなったときは何時でも駆けつけますから、これからも心置きなく調査に努めて下さい。」
「…二度と来なくていい。」
私はやはり黙ったまま、そのやりとりを見ていた。とても口を開く事なんて出来なかった。
「それでは、また。」
そう言い残すと、男性は背中を向けてここを離れていった。そして『国』の人達に何か指示を出すと、彼らは揃ってこの山を下っていった。
それを私達が見送った後には、今度こそ本当に人がいなくなった。
荒涼な大地に吹く寂しげな風の音を聞いて、私はゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。――理由は、特にない。けどしゃがんだ途端に、胸の中から何かこみ上げてくるような感じがした。
「―――アンジェ。」
「………」
「…泣いているのか?」
「!」
言われた瞬間。こみ上げてきたものが目から溢れた。さっきと同じ、暖かい感触が頬を伝う。
「う……っ」
呻きが漏れる。
駄目だ。
このままじゃ
止められなくなってしまう。
「危ないところでした、リタ先生。全く、だから単独の行動は控えた方がいいと普段から申しているではありませんか。そこのお嬢さんがこうしてくれたお陰で助かりましたね。」
彼は心配するようにそう話しかけてきた。けれど、しばらくリタの返事は無かった。そこで私は、再びリタにちらりと目を向けてみる。
すると――
「………。何故この場所が分かった?」
私はそれを見て少しだけ息を呑んだ。表情はやっぱり殆ど無い――けど、纏っている気が違う気がした。何と言うか、うまく言葉には表せない。
でもこれだけは分かった。
…リタは、今確実に怒っている。
「君はマルコー教授の研究室の者だろう?調査の詳細は私の部下以外には漏らしていないはずなんだがな。」
「その部下さんからリタ先生が危ないとの連絡を受けましてね。」
「それにしてもすぐに駆けつけたな。…そんな偽の証明書まで用意して。」
「今先生の身に危険が及ぶのは避けなければならないのですよ。何しろ今の貴方は世界を揺るがしかねない重大な研究を進めているのです。マルコー先生も大層興味を示していらっしゃる。」
「回りくどい言い訳は聞かない。……帰ってもらおうか。」
その場の空気が凄く張りつめたものになっていく。
それからは、お婆ちゃんも村の人も言葉を発することはなくなった。勝てる相手ではないことを理解してるかのように、皆顔を歪めて黙っている。
「ご理解していただけたのであれば、そろそろこの場を解散させて下さると嬉しいのですが。」
男性は沈黙の中で、低く告げた。
こうして、この場からは誰もいなくなった。…私と、リタと、あの『国』の人達以外。
私は、ずっと呆然としてそこに立ち尽くしていた。村の人達が立ち去る時、お姉ちゃんはまた引きずられながら私の名を必死に、泣き叫んで呼んでいた。
けど、村に帰る気は起きなかった。
もう帰れない。
お姉ちゃんは、この後にどんな罰を受けるのだろう。それを想像するだけでも、もう嫌だった。
かといって、今の私の心はぐちゃぐちゃだった。
『国』も結局はこの村と同じだ。皆こんなやり方をしてでしか生きられなくなっているのだろうか。そう思うととてつもなく胸が苦しくなった。何だかとても悲しくて、虚しくて。
…私は、これからどうしたらいいのだろう? どこへ行ったらいいのだろう?
答えは出ず、やっぱりここに立ったまま1歩も踏み出せない。そうしていると、あの男性がこちらに歩み寄ってきた。今も、不気味なほどの笑い顔だった。
「承知しています。ですが、今回は少々事情が違うのです……これは国連の会議によって決定されたことなのですよ。」
「何っ…国連?!」
その瞬間、一気にその場のざわめきが強まった。そんな馬鹿なとか、規模が大きすぎるとか色々言ってるけど私には何のことだかよく分からなかった。私はただ、この場がどうなるのか見守ることしかできない。
「つまり我が『国』は世界からの言いつけを賜ったということです。いくらあなた方のやり方に口は出さないと言っても、今回ばかりは我々が調査しないわけにはいきません。あなた方の村は我が『国』の領土の一部分なのですから…どう足掻いても。
まあ、これに逆らうのは自由ですが。その先にある結果は、これで分かるでしょう。」
男性はぱっと片手をかるく上げて示してみせる。ずらりと並んだ機械を持った人達。ここまで来て、私はやっとそれが機械なんて呼び方は合ってないということが分かった。多分武器…いや、凶器だ。それも強力な。
「お忘れなく。これでも我々はあなた方の要望に最大限に耳を傾けている…これはとても有り難いことですよ。その気になればこんな村、我々は簡単に潰せますからね。」
男性はニィと口の端を上げた。
さらに、その人の後ろからさらに人影が現れた。私は目を凝らしてその姿を見る。
「……少し、その場から動かないでいてもらえますかね。皆さん。」
にこやかな顔で言った赤毛の男性は、30代前半くらいに見えた。ぱっと目に付いたのはリタと同じ白い羽織りだ。だから一目でリタと同じ国から来た人だと予想ができた。顔は遠くからでよく分からないけど、眼鏡が少し恐い雰囲気を醸し出している気がする。そんなこと言ったら失礼だろうけれど。
それよりも……あの人達は助けてくれたのだろうか?その内段々と周りざわめきだした。
「『国』の軍だと…馬鹿な!」
「まさか最初から仕組まれていた?なんて汚い奴らなの!」
「やはりあいつらを通したのが間違いだったんだ!!」
「ええと、まずは皆さん落ち着いていただけたらと思うのですが…実は今回の調査は『国』によって正式に実行が決められていましてね。」
男性には焦った様子は全く無く、彼は何かの紙を取り出して皆の前に見せた。何が書いてあるのかは分からない。
「…2XXX年に。この村は『国』の指示は受けないという宣言をお前達自身が承認したことも忘れたか。」
お婆ちゃんが明らかに敵意のある低い声で男性を威圧した。
その時だった。
パーーン!!
聞いたことのない音が空間に響き渡った。何かが弾けるような高い音だった。
すると、沈黙が生まれた。
さっきの騒々しさが嘘のように、その場が静まり返った。
「……?」
いつまで経っても痛みが襲ってこなかったので、私はこわごわと目を開ける。すると、私の目の前にいる誰もが動きを止めて固まっていた。
それに、誰も私のことを見ていなかった。さっきまでとは真逆で、皆後ろを向いている。…どうしたのだろう?急なことに、私は状況が理解できなかった。
そしてゆっくりと顔を上げてみると、皆の見ているものが自然に私の目に飛び込んできた。
それは真昼の太陽を背にしてシルエットになっている――沢山の人だった。今私達を取り囲んでいる村の人達を、さらにぐるりと1列に大きく囲んでいる。
1人1人は草色をした変わった模様の服を着ていて、何か重たそうな黒い機械?を持っていた。その列の真ん中にいる人が、小さいけれど同じような黒い機械を空に向かって振りかざしている。
その姿はやけに印象深く、私の目に焼き付いた。何となく、さっきの音はあの小さな黒い機械から発せられたのだろうなと思った。
「ねぇお婆ちゃん……もう、帰ってこないんだよね。」
私は頬を伝う暖かいものも気にせずに、半ば笑い顔で言った。
「こんなことあったあとじゃ……もう普通の生活なんて戻ってこないよね。…形だけ戻ったとしても。私は一生今日のことを忘れないと思う。それに…私は事実を隠したり、それに触れようとする人達を殺してまで、ここでずっと身を縮めながら生きていくよりだったら……死んだ方がいいよ。」
物言わぬ大衆。私は、まるで独り言を言っているような錯覚に陥った。けど私は、自分の気持ちを確かに伝える。
「そして、私は信じてる。リタならきっとあれで世界の人達を救えるって。……何となく、分かるの。」
リタの方を振り返れば、彼は眉間にしわを寄せていた。私を見つめるその瞳には、一点の曇りもない。それで私は再確認した。この人だったら、世界が不幸になることなんて許すはずがない。
「ね、――リタ。」
「アンジェ……」
私は悲しみの混じらない笑顔をリタに向けた。…涙は流れていても。
そして。
私は前を向いて、言い放った。
「だから、私はここを退かない。死んでも、退かないから!私を殺したければ、殺せばいい!!」
これが私が言いたいことの最後だった。
すると、今度こそ周りが動き出した。皆武器を構えて、荒々しい足音をたて、怒り、叫びながら走ってくる。
最後にお姉ちゃんの甲高い悲鳴が聞こえたような気がした。
私はぎゅっと目をつむった―――
ここを退かないと、私は殺される。
多分、もう間違いはないだろう。
「いやだ………」
と、私の口から自然にこぼれた。この一言で殺気が収まるわけはないことは分かっている。
「嫌だ。」
でも、もう1回言ってみて何だか変な感じがした。…私は死ぬことが嫌なんだろうか?恐怖の真ん中で、私は必死に考える。そして『私』に問った。
何が嫌なの?
自分が死ぬこと?
リタが死ぬこと?
それとも、お婆ちゃんが私達を殺そうとしていること?
――『私』が出す答えは。
「こんなの、嫌だ。」
その結果。
私がリタの前を退くことはなかった。
気が付いたら、私の視界はぼやけていた。
声も震えてうまく話せない。
けどそれでも、私は絞り出した。
「例え皆が生きるためでも……人殺しをする村なんて、私は嫌だ。」
『私』が言ったことを一字一句正しく言った。そう、私は村が嫌だったのだ。
まだ7年しか経ってないけど、今までずっとここで生きてきた。家族も村の人達も皆暖かい存在だった。なのに今、その故郷を否定したがってる。
まさか人生で1度でもこんな気持ちになるなんて、思わなかった。悲しさを通り越して、何だかもう笑えてきた。
その後、沈黙が訪れた。お婆ちゃんが黙っているから誰も動かないのだと思う。だけど、私を見る大勢の大人の目からはひしひしと『何か』が伝わってきた。それが何であるか、先に気づいたのはリタだった。
「アンジェ……もういい、戻るんだ。でないと――多分。」
周りに出来るだけ聞こえないように彼は低く呟いた。けどこの沈黙の中ではそんな小さな声も、空間一杯に響いてしまう。お婆ちゃんが口を開いた。
「…そこの男の言うとおりだ、アンジェリカ。どうしても退くつもりがないのなら
……私達はお前まで殺さなければならない。」
「――え?」
思わず情けない声が出た。
私を殺す?村の人達が?
…お婆ちゃんが?
嘘だよ。そんなのは有り得ない。
有り得ない有り得ない。
だってほら、考えてみて?
普通、今まで一緒に生活してきた家族に、ある日突然殺すなんて言われることあるの?何の躊躇もない目で、そんなこと言われるものなの?
これが――現実?
私の今までの日常が、思い出が
ぐにゃりと歪んだ。
「いやああぁ!アンジェ戻ってぇぇえ!!」
お姉ちゃんがほぼ悲鳴に近い声で叫んだ。それと同時に周りの大人達の私に対する『殺気』が大きく膨らんでいく。
「お婆ちゃん…っ…止めてよ…こんなことは…」
疲れと緊張の中、私は途切れ途切れでも何とか言葉を紡ぐ。お婆ちゃんの恐ろしい目がぎょろりと私に向けられた。思わず竦み上がってしまいそうになったけど、それでもここから退く気にはなれなかった。
「ねえ、こんなの…おかしいよ。村を守るために人殺しまでするなんて、おかしいよ!」
「アンジェリカ。お前にはことの重大さがまだ分からないのだ。あれが世界中に知れ渡れば。この世は混沌と化し、強大な災いが訪れる。私達はそれを何としてでも防がねばならぬ。この地球で私達が生き抜いていくためにも…何としてでも、だ。」
その重々しい声は余計に重圧感を感させる。
「お婆ちゃん。私にも、それは分かってる。でも…そうなるとは限らないでしょう?」
「アンジェリカ――。」
「うまくいけば、世界中の人が救われるって。リタは言ってたよ。それってみんな幸せになれるってことじゃない?村が滅ぶこともないし、世界中の人が争い合うこともない。そうなるかもしれないじゃない…!ね…だからこんなこと止めようよ…ねえ……」
「――……。」
私は言葉の尾が弱々しくなっていく。何故なら、お婆ちゃんが何だか呆れたような、悲しいような、悔しいような――まるで「これはだめだ」とでも言いたいような表情をして、首を左右に振っていたからだ。
「んんんん!!!」
「ぐあっ?!」
思い切り、私の腕を掴んでいる男の手に噛みついていた。それによって怯んだ男に一瞬の隙が出来た。
「!!!」
無我夢中だった。その手を振り払って私は駆け出した。誰かが動き出す前に、早く!速く!ここまで必死に走ったのは、初めてだったかも知れない。
「っ――はぁっ!はぁ!!」
立ち止まった頃には、もう息が切れ切れになっていた。けれど何とか、私はそこに両足で立つことが出来た。
「…アンジェリカ。」
お婆ちゃんが、苦々しい声で私を呼んだ。
リタの前で肩を上下させながら両手を広げる私を。
「そこを退きなさい、アンジェリカ。」
「……………嫌。」
「アンジェ――」
リタは突然のことに驚いているようだった。顔は見えないけど、声で何となく分かった。
お姉ちゃんも目を丸くして私を見ている。それだけじゃない、もう私はここにいる全員の注目の的になった。ここまでやったなら、もう引き下がることなんて出来ない。
村が滅びる?…そうか。そういうことだったんだ。だから大人はあんなにも、この村だけに緑がある理由を隠そうとしていたんだ。お父さんも、お母さんも。
あれが本当に緑を作り出しているものであって。あれの存在が外に知られれば、きっと世界中で取り合いになる。戦争になるかも知れない。
何がどうなるとか私はあんまり想像が付かないけど、そうなったらこの村に何かの災厄が降りかからないわけがないんだ。
私がそうやって1人で納得している間にも、お婆ちゃんが他にも言葉を発する度、周りにいる人達の殺気がどんどん膨らんでいく。その内刃物の切っ先が全てリタに向けられた。
「…。………。」
リタは逃げようともせずに何かを考えているようだった。どうして?どうして逃げないんだろう?何も言わないで俯いて、
その時何だかとっても辛そうな顔をしているように見えた。
終いには、彼はすっと目を閉じる。そして丁度その瞬間――
「行け。」
お婆ちゃんの短い一言が響いた。その意味は考えなくたって分かる。
「――っ!!」
私は声にならない声を上げていた。
理屈なんてない。
確かに、リタが村を滅ぼす引き金になるかも知れない。それだけじゃなく世界中が戦争になるかも知れない。リタがこのまま『国』というところに行ってしまったら、もう今まで通り普通に生活することは出来なくなる可能性が高い。
それは分かった。頭で理解した。
だけど。
やっぱり理屈なんて無かった。
私は次の瞬間、
「お婆…ちゃん…?」
ただ。見慣れた顔と言っても、その時はまるで別人のように見えた。まず普段丸くなっている背中がしゃきっと伸びていたのに驚いた。それに、毎日優しく目を細めて優しく笑ってくれるお婆ちゃんの顔なんて、そこには欠片もなかった。
お婆ちゃんが、私の前を通り過ぎていく。
…嘘だ。
お婆ちゃんがこんな顔出来るはずがない。
寒気を感じるくらいに、冷たい目をしていた。その目で見られたら、きっと錐で貫かれるような感覚になるのだろうなと思った。そしてある所で、しわがれた声で低くこう言った。
「外界の者よ。お前は、見てはならないものを見た。村の秘密を知ったからには、生きて返すわけにはいかん。…あれを外に知られるわけにはいかないのだ。」
ああそっか…と今更思い出した。お婆ちゃんは、村の長老だったんだ。だから今、こうして出てきても何ら不自然じゃなかった。でももうそんなことはどうでもいい。やっぱりこのままじゃ、リタは殺されるんだ。
お姉ちゃんの顔色が、真っ白になっていた。そういえば、私達はどうなるんだろう…?何だか現実味がない。想像ができない。
リタはというと、こんな時なのに驚くほど焦りが無かった。というより、何だかお婆ちゃんを見るその眼差しには少しだけ虚しさが混じっている気がした。
「長老様。貴方が少し手をさしのべるだけで、全世界が救われるかも知れないのですよ。」
「黙れ。元々村の者だからと門を潜らせてやったが…村を滅ぼそうとするなら、容赦はせん。」
掴む手が骨が折れそうなくらいに痛い。その上もう片方の腕も掴まれて、私はたちまち身動きがとれなくなってしまった。
「痛い痛いっ!離して!」
「アンジェーッ!」
遠くの方から聞こえた高い声に私ははっとする。見れば、お姉ちゃんが私と同じ様な格好になっていた。
「お姉ちゃん!……?!」
バタバタバタ…!
私はびくっと肩を揺らす。少しもしないうちに、洞窟の入口から足音が聞こえてきたのだ。私を追ってくる足音が。
「来ちゃ駄目ー!!!」
と叫んでみたけど、無駄だった。
入口からは、リタが出てきた。
相変わらずの仏頂面で。
ジャキジャキ!
周りの人達が持っている凶器が一斉に音を上げて、私は震え上がる。直感的に思った。リタは、このままだと――
「駄目!逃げてっ!!」
だけどリタは逃げない。そこに立ったまま動かない。私は両腕を掴まれたままずるずると足を引きずられて、無理やりそこから遠ざけられる。いくら抵抗してみようとしても、手は離れなかった。
するとその内、この人の集まりの間を通って1人の人物がリタの前まで歩いてきた。
それがあまりに見慣れた顔だったので、私は思わず息を呑んだ。
だから、私は原因を確かめるために外に出てみることにした。そのまま出口へ走っていく。
「!…アンジェ、止すんだ!」
後ろからリタが私を止めようと声を上げる。…思えば、馬鹿だった。どうして、私の足はこの時止まることが出来なかったのだろうかと――あの結果を見てから思った。けれど、あそこでいつまでも待っていても結局は同じ結果になったに違いない。
私は狭い道をすいすいと抜けていき、やがて外の光が見えてくる。その先に待っていたものは――
「――?!」
それを見て…息が止まった。脳に稲妻が走った感じがした。その時に一瞬にして湧き上がる恐怖、恐怖、恐怖。そして急激に鼓動が高まった。
目に焼き付いたその光景。
まず、真正面に大きな男の人が立ちはだかっていた。知らない顔だけど、たぶん村の誰かだと思う。ぼろぼろで土に汚れた白い服の感じからして、そうだ。
次に、その男の人の後ろの風景が目に映った。
すると、この出口をぐるりと囲むようにして、ありとあらゆる所に大人が立っているのが見えた。一瞬でよく分からなかったけど中年が多かったと思う。男の人も女の人もいた。一体いつこんなに集まってきたのだろうと思うほど、いた。
皆死んだような目をして、ただ私を見て。その手には
棒とか、鍬とか、鉈とか、包丁とか。
「っ…!!」
私はすぐに踵を返そうとして――
グイッ!
「あっ!」
乱暴に、正面の男の人に右腕を引っ張られた。
その後、今度は岩陰で助手2人が着替えを済ませてから。
「…ね、早いとこここ出ちゃった方がいいんじゃない?」
私はそう提案した。元々ここは入ってはいけない場所だ。用が済んだのなら、なるべく早く出た方がいいと思った。そしてそれはここにいる全員同感だったらしい。みんな小さく頷いた。すると、
「…私、先に外を見てきますね。そとにいる見張りが心配なので。皆さんは少しここで待っていて下さい。」
お姉ちゃんが、そう告げて出口へかけていく。何とも気が利くのもお姉ちゃんのいいところの1つだ。
それから私達は少しここで待った。ここを出る準備を全部済ませて。
でも―――
「お姉ちゃん遅いな?何やってるんだろ。」
…もう10分くらいは経ったと思う。少し辺りに目を配ってからすぐ戻ってくるのかと思ったのに。どこまで確認しに行ってるんだろう?
「……。」
リタは黙って出口の方を見ていた。少し眉を潜めながら――
「…まさか。」
ぼそりと呟いた。
え?何?
まさか…って。
そう思った。
それからしばらくして。
湖からさっきの2人の助手が上がってきた。すると、その1人の手に栓が付いている細長いガラス瓶が握られていた。中には――きらきらと輝く、エメラルドグリーンの液体が入っている。
リタと助手とのよく分からないやりとりの間、私はずっとその輝きに見入っていた。ずっと見ていると何だかまたキーンと聞こえてくるような気がした。けど、何故かもう悪い気分にはならなかった。寧ろ、もっとそれに耳を傾けていたかった。もしかしたら、また誰かの声が聞けるような気がしたから。
「よくやってくれた。ひとまず、これは『国』に持ち帰って分析に回すべきだ。」
「ええ。持ち運びについては、見たところ何も問題がなさそうです。ただこのままの状態を『国』に着くまでに保っていられるかどうかは分かりませんが。」
「ああ。すぐ出発しよう。……希望が、見えた。」
リタは満足そうに少し微笑む。そこで、おずおずとお姉ちゃんが口を開いた。
「私達、お役に立てましたか?」
「…パトリシア、君には深く感謝している。これで世界中の人が救われる糸口が見つかるかも知れない。まだこれが何なのかは分からないが、何かしらの結果は十分に望めると思う。」
「…よかった…」
リタの笑顔につられてお姉ちゃんも笑った。2人とも穏やかな表情だった。そして、私の頬もゆるむ。
今まで世界が大変だなんて全然知らなかったけど、こんな私達でも困っている人達を助けることが出来るならそれはとても嬉しいことだった。
現実での話し声が夢に届いたのかとも思ったけど、それは無い。
目が覚めたときにはリタ1人しかいなかったし、お姉ちゃんは話によるとリタを呼び戻しに行って、そのままリタに助手を呼んでくるように頼まれたらしい。だから、私がその間に誰かの話し声なんて聞けるはずがない。
「夢、か。どんな夢を見た?」
リタは意外と興味深そうに聞いてきた。
私はその内容を全て話した。いつから見ていたのか分からない。思えば、あの夢の中は今までにないくらい不思議な感じだった。
やけに意識がはっきりしていて、まるで現実の私が動いているようだったけど、決してあそこは現実の世界ではなかった。だからこれは死後の世界なんじゃないかって思った気がする。…確かそうだった。
それで、あそこで触れた手は?
目が覚める瞬間に掴んだのはリタの手だった。でもその前にも私は誰かの手に触れた。1回目もリタの手に触れたのだろうか。
「ねえ、リタ。私は目が覚めるもっと前にも…リタの手に触ってた?」
「いいや。君が私の手を掴んだのは覚醒直前のあの1回だけだ。夢の中で最初に触れた手というのは、私ではないだろうな。」
「…そう。」
じゃあ誰だったんだろう。
聞けるはずのない話し声。
触れるはずのない誰かの手。
ただの夢だとは思うものの、喉に引っかかった魚の骨みたいに気になることだった。
大きな水しぶきが2つあがると、また私とお姉ちゃんとリタの3人になった。
「アンジェ。もう1つ、君に聞きたいことがあるのだが。」
「何?」
「君はどうして突然湖に落ちたりしたんだ。何も面白半分で湖に入ったわけではないんだろう?」
「最初は軽い気持ちで湖に入ろうとしてたけどね、何だかその後おかしなことになったの。いきなりきーんて耳鳴りがしはじめて、凄い頭が痛くなって…体が支えられないくらいになっちゃって。丁度、湖を覗き込んでたところだったからそのまま湖に落ちたんだと思う。思えば沈んでる最中もずっと耳鳴りは鳴り止まなかった。」
「その耳鳴りは、前にも起きたことが?」
「全然無いよ。あんなのは初めて。耳鳴りがあんなにうるさいものだとはホント思わなかった。…夢の中にまで出てきたし。」
私はふいっとリタから視線を逸らす。目が醒めたときのことを思い出すと、また恥ずかしくなってしまうから。考えてみればそんなに恥ずかしがる理由も無いはずなのだけど…
それにしても夢の中のあの耳鳴りはなんだったんだろう?
夢の内容は鮮明に覚えている。私がどこかにいて耳鳴りがした。でもその耳鳴りは、段々話し声のようなものに変わっていったんだ。まるで誰かが、誰かと話すような―――微かだったけど聞こえた。
「こんなこと、普通は有り得ない。しかし今ここにオメガが存在した。ならば、有り得ないことが起こっても不自然ではないかもしれない。……いや、これがオメガであるのかはまだ確証がないが……」
「ありえないこと?」
何だかぶつぶつと独り言を言っているような気がしたけど、私は割り込んだ。でもその答えは思えば何となく予想が付いていた。
どんな仕組みになっているのかは、全然分からないけど…あれがオメガとかいうもので、神と同じほどの力を備えているというのが本当なら何ら不思議でないと思った。
「オメガが――アンジェを生かしたか。」
「私は1回死んで、あれで生き返ったってこと?」
「?!…そんなこと、あるんですか?!」
「有り得るかも知れないが、まだ調べてみないことに分からないな。」
それからリタは後ろの2人の助手に何か指示をする。すると2人は一旦洞窟の外に出て――戻ってきたら別の服装になっていた。
それは今までに見たことのない服で、体全体にくっついているぴっちりとした生地と、両足についてる大きな水かきらしきものが印象的だった。それに顔面には変なマスク?が取り付けられている。その格好のあまりの可笑しさに私は少し吹き出してしまった。まあ、水かきがあったから水に潜るためのものだとは理解できた。
「採取してくれ。どんなことが起こるか分からないから、用心しろ。」
「了解!」
リタが一言言うと、2人はすぐに動く。
「リタさん…私、嘘は言ってません…」
お姉ちゃんがこぼれかけた涙を拭って言った。
「そもそも私も、正直君が生きていたことが不思議なんだ。パトリシアが私を呼び戻しに行ってから私がここに来るまで、最低でも5分はかかっていたと思う。その間ずっと水の中にいたのなら、息が持つはずがない。生きている確率はかなり低くなるはずなんだ。しかし、それでも君は生きた。」
「それって――」
確かにリタの言っていることは正しいと思う。でも、それだとどういうことになるんだろう?
「その理由としては2つ考えられる。1つは、湖底に沈んだという事実はなく、水面で溺れ、沈みかけているところを私が助けたか。」
「だから、私は嘘を言っていません…」とお姉ちゃんは反論する。
私もお姉ちゃんが言っていることが正しい気がした。水の深いところへ沈んでいく感覚は何となく覚えていたからだ。けれど沈んでからの記憶は、無い。変な夢を見て、気が付けばリタの手を掴んでいたということしか覚えていない。
リタは続けた。
「次に2つ目は、あの湖底にあるものの何かの作用によるものか。」
「…作用…?」
私は眉を潜めた。
少しして、白衣の人が持ってきてくれていた柔らかい布で私とリタは体を拭いた。脱衣場があるわけじゃないから、濡れた服は着たまま絞るくらいしか出来なかったけど。
その頃には私の体は完全に落ち着いたようで、もう立ち上がれる程になっていた。お姉ちゃんはしばらくたってもまだ泣きそうな顔をしていたので、私は少し呆れた視線をお姉ちゃんに送った。
「お姉ちゃん、もう大丈夫だからさ。そんな泣きそうな顔しないでよ…。」
「だって。だって本当に死んじゃったかと思った。あの時アンジェはどんどん沈んでいって、湖の底に呑み込まれて…見えなくなったんだよ!」
「…私、あそこまで沈んだ…?」
ぼんやりとした記憶を辿る。意識はどんどん薄れていってたから確証はなかったけど。確かに、最後にぎらぎらとしたエメラルドグリーンをかなり近くで見た気がする。
でも、そこに口を挟む人間が1人いた。
「少し…おかしいな。」
「?」
リタだった。ここから離れた場所で髪をタオルで軽く拭きながら、私とお姉ちゃんに目を向けていた。
「何が?」
「私が君を助けにここに戻った時。君の体は水面近くまで浮かび上がっていた。もしパトリシアの言っていることが事実なのだとしたら、一度底まで沈んで再び浮き上がってくるというのは考えにくい。この湖は、見たところかなり深いしな。」
リタは何か考え込むように親指を顎に当てていた。
私が勢いよく起き上がると、リタはきょとんと目を丸くした。その後は互いに固まっていた。
…どうしよう。取り敢えず謝ってはみたものの、その後の言葉が思いつかない。
何だか分からないけど――不思議と胸の音がドキドキと強くなっている。それに、顔が微かに熱くなっている気がした。…顔が赤くなってる?私は思わず俯いてしまって、この沈黙をさらに気まずいものにしてしまう。
けれど。
リタの小さな笑い声が、その沈黙を打ち消した。
なので、私はちらりとだけ彼の顔に視線を向けた。
「…驚いた。もうそれぐらい動けるのか。だが、もうしばらくは横になって様子を見た方がいい。さっきのことは気にしていないよ。そんなにしゅんとする必要は無いと思うが?」
「ぅ……うん」
しゅんとはしていないと思う。ただ恥ずかしかっただけ――だと思うのだけど。
「さ。横になるといい。」
「……。」
私は何となく複雑な心境のまま、言われるままにまた地面に背を預けるのだった。
それでしばらくすると、遠くから別の声が聞こえた。
「…アンジェ!アンジェ!!」
この声はお姉ちゃんだ。私がのろのろと首を横に動かすと、入り口の所にお姉ちゃんが後ろに白衣の人を2人程連れて立っていた。だけどお姉ちゃんは、すぐに私の元へ駆け寄ってきて――
「アンジェ!」
「…お姉ちゃん。」
「気が付いたの?!…良かった…ぅ…良かったぁ…」
半べその顔を私に見せた。
「リタ…」
そう、リタだった。しかもびしょ濡れだった。長い前髪は肌にぴったりとくっついて、白衣も半透明になってとても重そうだ。
気が付けば私は湖のほとりに仰向けになっていて、今リタはそれを上からしゃがみ込んで覗き込んでいるようだった。
「気が付いて良かった。」
「リタ?…私…どうしたんだっけ…」
「それは私が聞きたい所だ。でも本当に危ない所だった。君の姉さんが私を呼び戻してなかったら、今頃君は死んでいただろうな。」
「…あぁそうか…私、溺れたんだった…」
「それで、この手はどうしたんだ?」
「て?」
よく分からない質問に私は眉を潜める。けれど右手に感触があったので、私の目は自然とそっちに行った。
「………?」
最初それを見ても頭がぼーっとしていたせいか、どういう状態なのかあまり分からなかった。ただ…私は何かを思い切り掴んでいる?
何を掴んでる?何を………
というところで。
「――っ!!」
バッ!
理解できたら、まず私はそこから手を離した。そして背中をバウンドさせるように起こす。
「ぁ…っご、ごめ、ごめんなさい!!」
私はぎゅっと、逃がすまいという勢いで掴んでいたのだ。少し困った顔をしている、リタの右手首を。
この手を掴んだらどうなるだろうか。自然にそんな考えが頭に浮かんだ時だった。
「あっ」
私が触れた手はびっくりしたように震え、一瞬のうちに引っ込んでしまった。それはごく普通の反応だと思う。知らない誰かにいきなり手を握られたら、それは驚くだろう。私の姿があちらに見えていたのかどうかは分からないけど。
「待って…っ」
それでも私は、どうしても相手を知りたかったらしい。無意識に零れたその言葉を繰り返して、もがいた。
「待ってよ!あなたは誰なの?教えて…!」
でも、さっきまでの可笑しな感覚はみるみるうちに薄れていく。私は今、ただ無意味に腕を痛いくらいに上に伸ばしているだけなんだ、という当たり前の認識がどんどん脳を埋めていくようだった。
もうこんなの無駄なこと。
その考えが全て脳を埋め尽くす直前。最後に残った僅かな感覚を信じて、私は叫んだ。
「ねえ待って!!」
私は思い切り手を開いて――
パシッ!
何かを掴んだ?
「アンジェ。大丈夫か。」
「…?…」
その低い声に私はうっすらと目を開く。すると、ぼやけてよく分からない視界が広がった。それからピントがゆっくりと合っていく。
そして見えたのは、1つの知っている顔だった。
「え?――」
私はその違和感に目を丸くする。うまく言葉に出来ないけど、まるで私の伸ばした腕だけが、どこか別の空間に繋がったような感覚がよぎった。もし手のひらにも目がついているとしたら、顔についている両目に見えていない風景がそこに映っているのではないか?と思う程。
何を考えているんだろう、私は。そんなこと起こるはずがないじゃないか。ちゃんと私の手は今もここにあるじゃないか…。
でもその瞬間だった。
伸ばす手の先に、何かが触れたのは。
「……っ?!」
私は思わず息を呑む。
何?何に触っている?
今私の手には確かに何もないのに。
やっぱり、あの違和感は気のせいじゃなかったんだ。きっとあちらの世界では、何かに手が届いているに違いない。…そう思った。
私はもっと腕を伸ばす。
触れているモノをもっと探れるように――
「ん…っ!」
すると、分かった。
これは、何本かの細い指だ。誰かの手が触れているのだ。もしかしたら、さっき話してた人に手が届いたのかも知れない。
まさか本当に届くなんて。
一体、この世界の何者に届いたというのだろう。
声は聞こえづらいけど、それは私のすぐ近くから聞こえている――細かな方向は分からなかったけど、そんな気がした。その声に呼びかけてみようかとも思ったけど、何故か声が出なかった。
私はもどかしさに少し眉を寄せる。けどその瞬間、私は今どうして声が出ないのかを考えるよりも、どうしたらこの声の主に私の存在を認識してもらえるのか考えていた。
そうして考えたら。
気付けば、私は自分の前に真っ直ぐ手を伸ばしていた。その手が空間の上に向いてるのか、下に向いてるのか、はたまた左右どちらかなのかは分からない。とにかく、もしかしたら話している人に私の手が届くんじゃないかと思って、今こうして手を伸ばしているのだ。
ただ、そんなに本気ではなかった。
現に今私の目の前には何も見えていない。手を伸ばしてもどうせ虚空をひっかくだけだろうということは簡単に予想がつく。それに、仮にもし声の主に私の手が届いて私の存在を分かってもらったとしても、その後どうするつもりなのか…全く何も考えていなかった。
つまり、駄目で元々。
そんな軽い気持ちだった。
だから
まさか本当にこの手が何かに触れるなんて思わなかったんだ。
――ふと気がつくと、私はどことも知れぬ空間にいた。
『いた』と言っても一体立っているのか、横になっているのか、それとも漂っているのか…どうもよく分からない。何しろ辺りは白一色なだけで、何も無かったのだ。それは文字通りの意味。地面もないし、さっきまであったはずの水もなかった。
それは現実離れした風景だったけど、あまり驚きはしなかった。死後の世界は何もないというのなら、私にとってそれはそれで納得できることだったから。
ただ、暖かい。
とても心地がいい。
それが印象的だった。
――キィ……ン ――
「!」
…また耳鳴りが聞こえる。
しつこいな。せっかく気分が良かったのに。一瞬そう思ったけど、この空間で聞くその音はさっきのものとはどこか違っていた。厳密に言うと同じ音なのだけど、その奥で微かに何か別の音が混じって聞こえるような。
何の音?私は注意深く耳を澄ましてみる。キーンとしたのじゃなくて、もっと後ろでぼそぼそと聞こえてるあの音だ…
『………。………』
『……』
え、何?
これは
声?
『……は……しか出来ない』
『…何も…?人間………いうのか?』
よく聞こえない。
姿も見えない。
何を、話してるの?
そこに誰かいるの――?
水が、冷たかった。その瞬間、全身が急速に冷え込んだ。どうやら、私は前のめりに湖へと倒れ込んでしまったらしい。
地面に顔をぶつけるよりはいい結果だったかも、なんて思ったけど。耳鳴りがまだ止まない。意識は失われることなく、私は水の中で顔をしかめた。呻き声の代わりに、口から空気の泡が漏れ出ていく。
1つ、3つ、6つ…
ゴボ…ッ!
終いには大きな泡が一気に出ていった。もう体に力が入らない。まさか、私はここで溺れ死ぬ?そんなこと、ここに来るまで欠片も考えなかった。
こんなことがあるなんて。
そんな驚きが死の恐怖より先だったことに、私は心の中で少し苦笑いした。
沈んでいく。
私の体はどんどん沈んでいく。
あのぎらぎらと輝くエメラルドが迫ってきて、凄く眩しい。
お姉ちゃんは私の名前を今も呼んでいるのかな…けど、耳鳴りで全然聞こえない。お姉ちゃんは私が死んだら泣いてくれるのかな?お父さんやお母さん、お婆ちゃんは?
キイイイ…ィィィィン!!
ああ。もう駄目、だね。
私の人生の終わりはこんなにも呆気なかったんだ…
私は全てを諦め、自分を闇に放り込んだ
はずだった――
その時だった。
私が異変を感じたのは。
キ………ィィ…
「?」
最初は気のせいだと思った。けど、何かが聞こえた。まるで耳鳴りにも似た、その音。それは今の一瞬で消えたように思えたが、またすぐに聞こえてきた。
キィィ…ィィイン
「何?これ。」
「…アンジェ?どうしたの?」
「お姉ちゃん、聞こえない?この音。」
「音?」
…ィィイ、キィィイイイン
「何も聞こえないよ?」
「嘘だよ…こんなに、ほら。段々大きくなってきてる……っ」
その内、音は脳内に直接発せられてるようにうるさくなる。…ああそうか、私の頭の中だけで音がしてるのならお姉ちゃんに聞こえるはずがない。きっとこれは、本当に耳鳴りなんだ。
いきなり山なんて上ったから体に負担がかかったのかな…なんて思っている内に、音はどんどん強くなっていく。頭が割れるくらいに痛くなってきて、吐き気すら覚えた。
「うぅっ…」
私はたまらず、頭を抱えてその場にうずくまる。
「…アンジェ?ちょっと、大丈夫?!」
お姉ちゃんはしゃがみ込み私の背中をさすってくれた。でも大した意味はなかった。何だか、音で脳が麻痺していく感じがした。痺れが――頭から、体全体にどんどん広がっていく。感覚が奪われていく。もう体が支えられなくなるくらいに。
そしてふらりと、
私の体が傾く――……
「?!?!…アンジェ!!」
ドッパーン!!!!
「でも、どうして隠す必要があるんだろう。これが緑を生み出す泉だとしたら、今外の世界で困ってるっていう人達にも分けてあげればいいんじゃないの?」
「ん……どうだろう。でももしここにあるのが無限でないのだとしたら、他に分けたところで私達の村の分がなくなってしまうのかも。」
「でも、これって何だか独り占めしてる気がするな、私は。少しくらい分けてあげてもいいじゃない。それに思ったんだけど、どうして私達にまで隠してたのかな。外の人はともかくとしても。」
「それは、分からない…何か、私達に知られたら良くないことがあるのかもしれない。」
「ふーん…」
私はまだ湖底から目を離せずに終いには軽く話を流した。何しろ生まれて初めて見るものだし、インパクトも相当ある。あれって触ったらどんな感触なんだろう?
「ねえお姉ちゃん、私あれ触ってみたい。」
「え…駄目だよっ。まだあれがなんなのか分かってないし、危険だよ!それにリタさんが今調べてくれるって言うし…。」
リタはもういなくなっていた。さっき助手を連れてくるとか言ってたっけ。
「でも平気だよ?上の水触っても熱くないし。」
「だから止めておきなってば…触れるとしても触っちゃいけないものなのかもしれないじゃない…!」
ああ、お姉ちゃんはこういう時だけ変に慎重だ。私は露骨に頬を膨らませた。
細かいことはよく聞いてなかったけれど、私達がとんでもないものを見つけたということは分かった。リタの言うことが全て事実だとすれば、これが村の緑が保たれている原因…となるのだろうか。
「すぐにここを調査しよう。何人か助手を呼んでくるから少しの間、ここで待っていて欲しい。」
「…はい。大人に見つからないよう、気をつけて下さい。」
後ろのそんな会話の最中にも私はぐっと湖を覗き込む。湖底を覆う一面のエメラルド色。それは水よりも重い液体のようで、ゆらゆらと水面が揺らめいているのが見えた。水面が揺らめくと同時に、沢山のぎらぎらとした光が瞳に飛び込んでくる。
「お姉ちゃん、これ…よく見つけたよね。」
「うん。やっぱり私も大人が何か隠している風なのは前から気になってたから、入っちゃ行けないっていう山に入れば何かあると思ってた。
まあ、ここを見つけたのは本当に偶然。見張りの人に見つかりそうになって何とか振り切って。その後この穴を見つけて急いで隠れたんだよ。」
「そっかぁ~危なかったね。…ん?待って。そうすると大人が隠してた事って…これのことになるの?」
「確証はないけど、多分。この山で他にも分かりやすい所にいくつかこういうのがあって、それを見張ってるんじゃないかな…。」
「……これは。」
後ろからのリタの声。表情は見なかったけど、多分目を見開いているに違いない。今までにない、驚きが混じった声だった。
「リタさん。これ、他の国で見たことはありますか?」
「こんなものは見たことがない。いや…まさか。まさか本当に『オメガ』は存在したというのか…?」
「え?」
リタは湖に跪き、片手をその水で濡らしてみる。
「水温に異常はない…潜って調べてみる価値はありそうだ。」
「リタさん…『オメガ』って?」
「昔、私達のような地球環境を司る学者の間で存在を問われていた。全ての生命が生まれ、還元する泉――どんなものでも具現化出来る程のエネルギーを持つと言われる、神にも等しい存在。
だが、今までそれを見たのは議論を持ち出してきた人間ただ1人。地球環境がまだ悪化し始めてない頃に各地で捜索が盛んに行われたが、ついに『オメガ』を見つけた者はなかった。『オメガ』は次第に時代が進むに連れ幻になり、忘れ去られていったんだ。…ただの夢物語として。」
リタは水に濡れた拳をぎゅっと握りしめる。
その瞬間、私は目の前に広がった光景に息をのんだ。
「うわぁ…すごい!」
――ぽちゃん。
静寂の中、少し遠くから水音が1つ。それは天井にびっしり這っている木の根と根の間からの雫が落ちた音だった。
雫が落ちたところからは、たちまち波紋が広がっていく。それは遠くからつーっと私達の足元まで来て…端まで来ると跳ね返って消えていった。
そう。山の中にあったその『部屋』にあったのは――湖だったのだ。水面は静かに佇み、驚くほどの透明を湛えていた。これは地底湖の類にはいるのだろうか。よく分からないけど、初めて見る神秘的な風景に私は完全に目を奪われていた。
けれど、私はこの後さらに驚かされることになる。お姉ちゃんがすっと湖の中を指差す。そこにあるものを見たとき、私は目を疑った。
「……なに、あれ…?」
湖の水が透明なので、深い所…底まではっきりと見える。けど、何だかおかしい。底には岩肌が見えると思ったのに、見えない。代わりに、何か不思議な光を発しているものが、湖の底全体を覆っていた。
あれはなんだろう?
綺麗なエメラルド色に光ってる。
その光が湖全体から発せられて、この『部屋』を照らし出していたのだと分かった。
穴の先は、とても狭い岩のトンネルが続いていた。1番後ろからついてきているリタはずりずりと屈めだ背中を天井にこすらせながら何とか進んでいる。時々岩の尖った部分に当たっていて地味に痛そうだ。
このトンネルは――山の内部に向かっているような感じがする。1本道で、真っ直ぐ真っ直ぐ進んでいるのだ。このまま行ってもどこへ出ると言うんだろう。いったい何を見せられるんだろう。疑問と好奇心が疼いている。
その内、暗いトンネルの向こうにぼんやりとした光が見えてきた。
光?…山の内部に光なんてあるわけがない。トンネルが山を真横に貫通していて、さっきとは反対側の出口に出るなんていうことだとしても、あんなに大きな山をこのたった数分で横断できる?トンネルに潜ってから2分経ったかどうかも怪しいというのに。その時お姉ちゃんがほうっと息を吐いた。
「よかった…まだ残ってた。」
「…何が?」
お姉ちゃんは答えない。直接見れば分かるらしい。気付けばもう出口は目の前まで迫ってきていた。出口だけはさっきまでの狭さが嘘のように大きな口を開いている。私達は迷わずそこを突き進む。すると、そんなに明るくはなかったが、柔らかい光が私達を迎えてくれた。
リタが私を背負ったまま足場を渡るのは危険ではないだろうかとも思ったけれど、それはしなくてもいい心配だったみたいだ。高い段差でお姉ちゃんが両手を使っているのに、リタはひょいひょいと足だけで移動して見せた。やっぱり足が長いからなんだろうか。この分じゃお姉ちゃんに手を貸す余裕さえありそうだ。実際、後半の方はリタが先頭になり、お姉ちゃんを手助けしていた。
そうして互いに協力し合って、ようやくそこに辿りつくことが出来た。私はリタの背から下りる。狭い足場に3人が立つと、そのすぐそこに入口があった。近くで見てみれば向こう側で見たときよりも大きく見えるかもしれないと思ったけれど、逆に余計に小さく見えた。これくらいだと背の低い私達はぎりぎり立ったまま入れるけど、リタはかなり屈んで入らなくてはならないだろう。
「…入れそう、ですか?」
お姉ちゃんがおずおずとリタに聞く。
「これくらいなら問題はないだろう。…こういうことは他の土地の調査でも度々やっている。」
「そうですか?それならいいんですけど…」
なるほど、見かけによらず山登りは得意なのか。何の調査をしていたんだろう。…ここに来た理由と同じ事なのだろうか。
「じゃあ、…行きます。」
お姉ちゃんは穴の方に踏み出した。
それから何十分か経っただろうか。
「…あそこです。」
お姉ちゃんは唐突に立ち止まって言った。同時にリタも急に足を止める。私はリタの揺れる背中ですっかりリラックスしていたから、止まった瞬間少しびっくりしてしまった。あたりをきょろきょろと見回してみる…相変わらず斜面に転がる岩ばかりで何の変化も見えないように思えたけど、お姉ちゃんの視線を追ってみると私にもその場所が分かった。
それは少し向こうに見える、小さな穴の空いた場所だった。積み重なってる岩と岩の隙間に、何とか人が入れるくらいの穴が出来ているのが分かる。
「あんな所に入れるの?」
「あの奥に、あった。今でも残ってるかどうか、分からないけど…」
「…何があったんだ?」
「多分入ってみれば、分かります。前にも言いましたけど口ではうまく説明できないんです…でもきっと、私はリタさんが探しているものかなって思います。」
そう言うと、お姉ちゃんは段差をぎこちなく進み始める。さっきまではただの斜面で比較的危険ではなかったのに、ここからは1歩間違えたら足を踏み外して、岩肌を転がり落ちて大怪我をしてしまいそうなレベルだ。
あの運動神経の鈍いお姉ちゃんがこんな所を行くなんてすごく意外だった。もしかして今までお姉ちゃんのこと、色々勘違いしてたのかもしれない…
「アンジェ、しっかり掴まってるんだぞ。」
私は勝手にそう思いながら、リタの言うとおりしっかり背中に掴まった。
その背中は大きくて暖かかった。私はほっと一息つく。
と、そこで少し思い出した。
「ね、おじさん。おじさんの名前、まだ聞いてなかったよね?」
「ん…そうか。君のお姉さんからは聞いていないか?」
「下の名前だけ知ってるよ。リタ…でしょ。これってさ、女の人の名前なんじゃないの?村にそういう人いるから分かるよ。」
「その事は今はもう割り切っているつもりだが、昔はかなりコンプレックスに感じていた。まあ世の中には色んな名前があるということさ。」
「ふぅん。それでファミリーネームは?」
「アルティマ。リタ・アルティマ。…良かったら君の名前も教えてくれないか?いつまでも『お嬢さん』だと、……。」
「あー、あれってやっぱり無理して言ってたんだ?」
「…む…そういうわけでもないが…」
私がカラカラと笑うと、リタはぼそぼそと呟いてから黙り込んでしまった。何というかこう、この人少し不器用な感じがする。私みたいな年下と話すのが苦手な感じかな?私も年下嫌いだから、その気持ちは分からないでもない。
「私、アンジェリカ・オーニッツ。アンジェって呼んでもいいよ。」
「…なら、アンジェと呼ばせてもらおう。よろしく、アンジェ。」
「よろしくね、リタ。」
私は誰に顔を見られているわけでもないのに、にっこりと笑った。…不思議だ。たったこれだけの会話でさっきの疲れが吹き飛んだ気がした。
そして、私達はコルツ山へと向かうことになる。何でも、お姉ちゃんとリタは元々この時間に川で待ち合わせていたらしく、話はすぐにまとまった。川へ来た最初の目的の洗濯はどうなったかというと、出発の前にリタが2人程の白衣の人を呼びつけ「代わりにやっておくように」と言って篭を渡した。押し付けられた側は苦笑いしながらそのままどこかへ歩いていったのだった。
―――
「はぁ、はぁっ………」
私は今息を切らしながら、コルツ山のごつごつとした岩肌を歩いている。底の浅い靴から足に岩の硬さがもろに伝わる。私は山に足を踏み入れてから30分も経たない内に、自然と息が上がり始めていた。
体力には自信があったけれど、私は登山の経験なんてないし、何よりここは道無き道だった。普通の登山道もあるらしいのだけど、入口はしっかり見張りがついていて、とても入れる状態ではなかった。だから、こうしてお姉ちゃんが昔山に忍び込んだというルートを使うしかないのだ。
「アンジェ、もう少しだから頑張って」
道案内のために1番前を歩いているお姉ちゃんは振り返り、少し小声で私に呼びかけた。お姉ちゃんの後ろについているリタもこちらを見る。2人とも顔色一つ変えてないのが私には信じられなかった。
「背に、乗るか?」
リタが手をさしのべる。
「え?…いい、の?」
「減るものじゃないからね。」
「じゃあお願いしますっ…もう歩けない…」
私はそれからリタの背中におぶさった。
私はただただお姉ちゃんがそんな大胆な行動を起こすなんて信じられなかった。けど、お姉ちゃんは確かに首を縦に振る。
「私あの山にこっそり入って、見たの。今でも忘れられない。あの透き通ったエメラルド色の――」
「え…?」
「…アンジェ、どうしても嫌なら無理についてこなくてもいい。けれど、これだけは約束して。絶対に、このことは皆に内緒よ?」
お姉ちゃんは途中で言葉を切った上に、真剣な眼差しで私を真っ直ぐ見つめてくる。そんな、そんな風に言われたら、気になってしょうがなくなってしまうじゃない。それに昨日からこのことはとっくに気になってる。
そう、私の中にはお姉ちゃんと一緒にコルツ山に行く以外、選択肢なんてないんだと思う。誰かに見つかったらどうなるか分からない不安より、好奇心の方が大きかった。
「一緒に行くよっ…私だけ置いてきぼりにしないで…!」
「来て、くれるの?」
「私も確かめたいもの。」
「そう…有り難う。」
一体お母さんが何を隠してるのか。皆が神様と呼んでいるモノの本当の姿が何なのか。見れるものなら、見たかった。
――そうだ。
この選択肢によって、私の運命が決まったんだ。
私はお姉ちゃんに振り返る。
「お姉ちゃん?どこいくの?」
「…アンジェ、大丈夫。」
お姉ちゃんは私に優しく微笑んだ。別に怖がってなどないけど、どうやら私は知らず知らずの内に不安の表情を浮かべていたらしい。
「私は確かめたいの。そしてアンジェにも確かめて欲しい。さっき言った…私がずっと前に見たモノを。」
「…この村が守られてる、原因?」
「そうよ。大人達がずっと隠している事を、私はこの目で確認したい。」
お姉ちゃんは目を落とす。
「でも、これに近付くのはとっても危険。アンジェはお母さんの前でこの話題を出して、あんなに恐い顔されたから分かるよね?今からやることがバレたら、どんな目に遭わされるか分からない。そもそも村が立ち入りを禁止している場所に踏み込むわけだから、それだけで罰があると思う。」
お姉ちゃんの呟きの中の『村が立ち入りを禁止している場所』はすぐにピンときた。そんな場所は1つしかないからだ。
「まさか…コルツ山に行くの?!」
コルツ山はこの村の霊峰と言われていて、大人達が神が住む山として尊んでいる場所だ。そこに汚れを持ち込んではならないとされていて、誰も近寄ることを許されていないのだ。
その人影の姿がはっきり見えてくると、私は足を止めた。 後ろを歩いていたお姉ちゃんも、足を止める。
すらりとした背中。1つに束ねられた黒髪。それに、真っ白なあの服。見た瞬間に分かった。だって昨日と雰囲気が全く一緒だったから。
また出くわすなんて思わなかった。まさか、私達が洗濯に来る時にいるなんて。昨日は水くみの時に偶然会ったのだと思うけど…今日のこれは偶然、なの?
その人は体ごとゆっくりこちらに振り返った。今日は私が何も呼びかけなかったのが違うけれど、これは昨日と全く同じ展開。私は知らない内に息を止めていた。
そして、彼と目が合う。
「やあ、また会ったね。お嬢さん。」
…リタは、相変わらずの無表情でお嬢さんなどと言った。驚いた様子は全く無い。まるでここで私達がまた会うのが当然だったかのように。けれど、実際それは当然だったらしい。
「おはようございます。リタさん。」
私がぽかんと口をあけている間に、お姉ちゃんが静かに挨拶した。
「おはよう、パトリシア。今日は案内、宜しく頼むよ。」
「今日は妹のアンジェリカも一緒でいいですか?…細かいことは大丈夫だと思います。まだ小さくて、村の人達とは認識が違いますから。」
「ああ、君の妹さんだったんだね。昨日会ったから知っている。君の言うとおり、見たところまだこの村に染まりきっていないから大丈夫だと思う。その代わり、今日のことは口外しないよう、君からよく聞かせてくれないか?」
「もちろんです。」
2人が何の話をしているのか、全く分からなかった。
「本当のことって?」
お姉ちゃんの言う意味が一瞬分からず、私は聞き直す。でもそれはすぐに理解できることだった。
「この村が守られている原因、よ。」
お姉ちゃんが真っ直ぐに私を見て言った。
「原因?まさかお姉ちゃん、神様をみたの?」
「違うよ。そんな曖昧なモノじゃない。もっとこう…何て言うか、実際にに目に見えるものだし、触れる事が出来るモノ。それを、私は見たことがある。確か、アンジェくらいの時だったと思う。」
「…そうだったの?私、お姉ちゃんからそんな話聞いたこと無いよ!」
「それはそうよ。私以外の人間にこの話をするのは、これで2回目。昨日、リタに打ち明けたので初めてだったのだから。…そして、この原因について考えてみれば、何故村の人間が外の人間とあまり関わりを持とうとしないのか、その理由が見えてくると思う。」
そう言い合っている内に、やがて川の涼しげなせせらぎの音が聞こえてきた。
音が近づいてくると、しだいに風景も見えてきた。今日の川は晴れ渡った空の色を映し、綺麗な青に染まっていた。周囲の樹木はその清らかさを引き立てているようにも見える。
そして。
そんな風景の中に、1つの人影があった。
そのことをお姉ちゃんに聞いてみたところ、こんな言葉が返ってきた。
「ねぇアンジェ。今村が自然を保てているのは、お母さんがいつも教えるとおり、神様に守られているからなんだって思ってる?」
「ん、うーん…神様が本当にいるっていうのはそんなに信じてるってわけじゃないけど、私にはそれ以外理由が思いつかないよ。何かの偶然が重なってるとか…そんな理由しか。」
「……そう。」
すると、お姉ちゃんは黙り込んだ。けど、まだ私の質問の答を聞いていない。
「それが、どうかしたの?」
そう聞いてみても、お姉ちゃんは何も言わないままだ。私は少しじれったくなって、「ねえってば」と何度もお姉ちゃんを呼ぶ。それからしつこく言っても効果がなかったので、私は憮然とした顔をしてまた前に歩き始めるのだった。
でも、後々分かった。この沈黙の間、お姉ちゃんが私にこの事を話すのを相当迷っていたことが。
しばらく経ってから、やっと声が返ってきた。
「―――私ね。もしかしたら、本当のことを知ってるかもしれないの。」
「え?」
それは本当にぽつりとした声だった。その時風が吹いていなくて、草木がざわめかなかったから何とか1回で聞き取れたけれど、少しでも違う音が混じっていたら聞き取れなかったに違いない。
「今この村の外の世界がどうなってるのかは、もう聞いたんだよね。」
「うん。昨日私がお母さんに言ったの、聞いてたでしょ。」
「…そう。外の世界はもう人が暮らせないくらい自然がなくなってしまった、という事。このままでは本当に沢山の人達が死んでしまって、終いには人類滅亡も有り得るという話。
だからね、外の人達は、何としても自然を取り戻す必要があるということなのよ。そんな中…この村だけは、こんなに豊かな自然が残っているでしょう?食べ物も沢山あるし、水も綺麗で。
だから、外の人達は探しに来たの。この自然は何によって守られているのか、どうして外の世界との境があるのか。その全ての原因をね。」
そんなことを言っていたっけ。言っていたかもしれない。はっきりとは思い出せないけど。事実から考えてみても、その考えが1番妥当な理由だと言えるだろうという結論に辿り着いた。
………あ、そう言えば。
「お姉ちゃん、ちょっと思い出したよ。リタはね…神を探してるって、言ってた。それってさ、お姉ちゃんが言うところの全ての原因っていう意味なのかな。」
「神…そうね。多分そういう意味だとお思う。」
「…やっぱりそうなんだ。考えてみればそうだよね、お母さんも、この村はいつでも神様に守られてるって、いつも言ってるし。」
「お母さんが言う神様と、リタがアンジェに言っていたっていう神様は意味がちょっと違うと思うけどね…」
私は納得して頷いた。けど、やっぱりよく分からないのは、どうして村の大人ははるばる助けを求めてやってきた外の人間を受け入れないのか、ということだった。
「……。」
朝に忘れようと決めたばかりの事なのに。まあ今はまだ忘れてないけど…二度とこの話題は口にするものかと思っていたのに、やっぱり付きまとってきた。
私はお姉ちゃんの話に乗るか、一瞬迷った。けど、運がいいのかどうかは分からないけど、今ここにはお姉ちゃんと私以外誰もいない。普段この時間帯は、他にも川に用がある人が歩いているものなのに。
…お姉ちゃんは昨日の話を何か知っている?それを知るタイミングは、2人きりで他の誰にも聞かれないこの時しかないということを、私は何となく悟ったような気がした。
「…なに?」
私は極力声を小さめに返事をする。視線も合わせない。周りにも警戒した。
「昨日、アンジェは言ってたよね。白い服を着たおじさんに会ったって。」
「うん。あの人はお父さんが言ってたとおり、外から来た人だよ。元はこの村にいたらしいけど。」
「そう…アンジェも、リタに会ったんだね。」
「え?」
その一言に、私は驚いてお姉ちゃんの方に振り返ってしまう。「リタを知っているの?」と聞くと、お姉ちゃんは黙って頷いて言った。
「あの人達はね、一昨日村に入ってきたのよ。村の大人は皆変な目で見てた。最初、リタの周りにいる人達は村の皆に何か聞こうとしていたみたいだったんだけど…誰も相手にされてなかったと思う。村の人は皆冷たくあしらってたもの。それがどうしてなのか、その時の私には分からなかった。
だからね。私が話を聞いてみることにしたの。こっそりその人達を誘って…皆に見つからない所で、話を聞いてみたわ。」
「それで、何を聞いたの?」
「アンジェも聞かれなかった?」
お姉ちゃんはそこで首を横にふる私を見ると、一呼吸おいて続けた。
でも、それにしても――と思い始めたのは何分ぐらい経ってからだっただろうか。私は今朝と同じように、違和感を感じたのだ。
ちらりと後ろに視線を送る。お姉ちゃんは今私の後ろで篭を持って歩いていた。私はその目を見る。…それはどこか上の空で、現実の世界をあまり見ていないような感じだった。歩き方を見ても、地に足が着いていないような。かろうじて真っ直ぐ歩けている感じだった。
確かにお姉ちゃんはあまり動けない方だけど、いつもこんなにふわふわしていたっけ…?いや。私の経験から言って、お姉ちゃんは体が弱い分、頭がしっかりしていたと思う。そうだ。お姉ちゃんはいつも、ちゃんと目に映る現実を見て、何をするべきか分かって行動する人間だ。
お姉ちゃんも、いつもと違う。…どうして?やっぱり私がいけないことを言ってしまったから?と思った矢先、
「ねえ、アンジェリカ。」
「!…何?」
まさか横目で見ている間に気付かれるとは思わず、息を呑む。そしてその瞬間、理由もなくあるものが体中を駆け抜けた。電気的な刺激は脳にまで簡単に行き渡り1つの答を出す。
すなわち、それは予感だった。
「アンジェリカ。…昨日のこと、なんだけど。」
ほら。やっぱり。
「お姉ちゃん。篭、1人じゃ重いから片方持ってよ。」
「……ああ、ごめんね。」
お姉ちゃんはゆっくりとした動きで片方の篭の取っ手を持って――
ガクッ
「あっ、」
「わ!」
洗濯物の重さで少しよろけたようだった。いきなりのことだったから私もバランスを崩しそうになったけど、何とか洗濯物を地面にばらまいてしまう事態は避けた。
「もう、危ないなあ!」
「ご、ごめん…」
まあお姉ちゃんは体を使うことが元々苦手だからこういうことになるのは予測の範囲内だった。私より3つ歳が離れているのに、運動能力に関しては私よりも大きく下回ってると言えるかもしれない。
お姉ちゃんは一呼吸して体勢をまたゆっくり立て直した。
「じゃあ、行くよ。お姉ちゃん。」
「………うん。」
それから私が先頭になって、2人で洗濯物を運ぶ。普通は立場が逆なような気がするのだけど、しょうがない。本当に、お姉ちゃんは『おとなしくて可愛い女の子』の方なのだから。
それからしばらく2人で草を分け、裸足で石を踏みながら歩いた。
そんな憂鬱の朝食が終わると、今日も皆すぐ家事という名の仕事が始まる。
例えば、お婆ちゃんが機織りで私達の服を織ったり、お父さんがいろんな道具をその手で作り出したり。家事と呼ぶには少し変わったこともあるかもしれないけど、それらだってこれからも生活を続けるためにしている立派な仕事なのだと言えるだろう。
かく言う私達とお姉ちゃんはさっきお母さんに言いつけられたとおり、一緒に川へ洗濯をしに行く所だ。私が洗濯物の大きな篭を持ってテントの外に出ると、午前の少し柔らかさを感じる日差しが迎えてくれた。今日も快晴だった。
お姉ちゃんはまだテントから出てきていない。だから私はお姉ちゃんを待つ間、重い篭を両手でぶらんとぶら下げてしばしその青い空を見上げることにする。すると、自然と溜め息が1つこぼれた。
「あーあ、一体なんだって言うのよ…。」
私は、そう空に向かってぼやくしかなかった。
それと殆ど同時だったと思う。テントの中からお姉ちゃんの声が微かに聞こえた。
「…ってきます。お母さん。」
その後、テントの扉の役割をする地面まである長い暖簾から、まず白くて細長い5本の指が覗いた。それから小さな顔が覗く。その顔は確かにお姉ちゃんのものだった。
「お待たせ。」
お姉ちゃんはそのまま静かにテントから出てきた。
そうやって突っ立ってる内に当然ながら「何やってるの、早く座りなさい」と言われた。そうして初めて我に返って、私はお母さんの隣に座る。それと同時にまたお婆ちゃんが長い祈りの言葉を紡ぎ、終わったところで食事が始まる。
その時に私は恐る恐るお母さんの顔を横目で見た。お母さんは鍋のスープを自分の皿に大きなスプーンで取り分ける所だった。
怒っている様子はない。怒ったような口調が多いように思えるけれど、毎日過ごしているから分かる。これが普通で、昨日は異常だった。
お母さんは殆どお湯の色をしているそれを分け終えて、皿を自分の前に持ってくる。と、そこで――
「?どうしたの、アンジェ。」
「!…っあ、ええと…」
私の視線に気付いたみたいだった。気付かれるとは思ってなかったので、突然言われてしどろもどろしてしまう。
「あの、お母さん昨日の話…、」
…違う。そこは「何でもない」と答えるところだ。こんな余計な話をわざわざ思い出させる必要がどこにあるというのか。そう分かっていてもつい口から滑り出てしまった。私は自分の気持ちにあまり嘘をつけなくて、隠そうとしても出てきてしまう。そんな損なタイプの人間だった。
「……………」
お母さんは沈黙する。私の背筋が少しぞくりとする。ほら、やっぱりこうなるじゃないか――と思ったけれど、その後怒鳴られることはなく、あの目で見つめられることもなかった。
ただお母さんは、押し殺した声で私にこう言った。
「昨日会った人のことは、忘れなさい。…これからもこの村で暮らしたいと思うなら。」
小さくて聞こえにくかったけど、はっきりと言葉は分かった。ああやっぱり私は何か村の禁忌に触れたのだなと、再び理解できた。あれは聞いてはいけないことだったのだ。
忘れよう。あの人の事は。
私は、そう心の中で決めた。
お婆ちゃんもにっこりと笑って言った。
「おはよう。2人ともよく眠れたかい?」
「…え、ぁ。うん。」
私はどちらともいえず曖昧に頷く。そこでお母さんが私達の前を少し急ぎ足で横切り、台所から持ってきたスープの鍋をどん、と食卓の中央に置いた。その後に、5人分のスープの取り皿、スプーン、コップを次々に持ってくる。お母さんはいつでも動きが俊敏だ。朝から晩まで家事で一杯だからそうならざるを得ないのかもしれない。
「さぁ出来たわよ。お義母さん、お願いします。パトリシア、アンジェ。座りなさい。ああ、今日は天気がいいから、この朝食を済ませたら2人で川に洗濯に行って頂戴ね。」
「はい。」
「………」
お姉ちゃんはお母さんに促されてすぐにそこに座ったけれど、私はしばらくぼうっとそこに立ち尽くしていた。何故かと聞かれれば、違和感があったからだと思う。
それは、あまりにいつも通りの朝だったのだ。
同じ様な台詞の流れを昨日の朝も、一昨日の朝も聞いた。と言うより毎日のように聞いている。お父さんのおはよう、お婆ちゃんの綻んだ顔と、お母さんの言うその日の天気と家事分担で「ああ、今日も1日が始まるんだな」と私は実感するのだ。
これが普通なのだけど、
昨日の夜と繋がらない。
うちの家族はあまり引きずるような性格の人は1人もいないと言ってもおかしくない。けれど。私はおかしさを感じずにはいられなかった。
あまりにも、まるで昨日の夜が無かったことのようだった。お父さんとお婆ちゃんのあの表情も、お母さんのあの目も――全て無かったことのようだった。
その夜はそのまま終わった。お母さんとお父さんとお婆ちゃんはいつまで経っても夕食を食べに戻ってこないので私達は先に寝床についたのだ。
いつもの私はこのハンモックの上の薄い布団で体を包むと数分もしない内にまどろみに落ちていく。だが、あの時のお母さんの目が脳内にこびりついたせいか、なかなか眠れなかった。外で何の話をしているのか気になっていることもあったのだし。
だからその日は長い夜だった。
明日になれば何か分かるだろうかと思いながら、私はただ目を閉じる。
しばらくそのままの状態で過ごした――はずだったのに、いつのまにやら私は意識が落ちたらしい。
「パトリシア、アンジェ!起きなさい。朝ご飯が出来たわよ!」
遠くからお母さんの声が聞こえたので、私はぱっと目を開けた。私は夢も見ないうちに朝が来たことに、少し驚く。隣のハンモックで寝ていたお姉ちゃんも目を擦りながらまだ寝ぼけ気味だった。
それからのろのろと起き出して寝室を出てみると、当然のように床にひかれたござの上にご飯が並んでいた。今朝はコーンが主食らしい。
そして食卓を前にして、お父さんとお婆ちゃんが座っていた。お父さんは起き出してきた私を見てにこりと笑った。
「おはよう。アンジェ。」
「え?……あ、うん…おはよう。」
それはいつものお父さんの挨拶だった。お父さんは決まって一番最初に私達におはようを言うのだ。
「アンジェ。…その話をどこで聞いたの?」
怒鳴りはしない。しかしその目で私は震え上がった。お母さんに叱られることは何度もあったけど、それは今までに見たことのないような恐ろしい目だった。
間違いない。私は何か禁忌に触れたのだ。 この村の、禁忌に。家族皆の目がそう物語っている。
「…その、話……って?…」
声が掠れてうまく言葉が出ない。私は今や完全に恐怖によって体の動きが封じられていた。お母さんの視線に刺し貫かれて、逃げ出すことも、そこから顔を背けることすら出来ない。
「村の外がどうなっているのかということを、誰に聞いたの。」
「………。…白い服を着た…おじさん。」
あんまりにも恐ろしくて。私は自然に答えを言っていた。あの人の名前は言わなかったのは少し幸いだったかもしれない。
でも、名前を言っても言わなくても。あの人に危険が及ぶような気がしてならなかった。どうしよう…何かあったら。
「白い服?」
「…ルカ。」
怪訝な声を出すお母さんにお父さんが声をかけた。
「今朝から、外の者がこの村を調べに来た可能性があるという話は聞いているか。」
「聞いてない。それは本当の話?」
「ああ。いま村中で勝手に荒らされないよう警戒してるらしい。ちょっと外で話すか。…お袋も。」
そしてお父さんは私達に「先に食べてなさい」と言うとお母さんとお婆ちゃんを連れてテントの外に出て行った。
テントには、私とお姉ちゃんだけが残される。お姉ちゃんは何故かずっと俯いてて、沈黙していた。私はそこに声をかける。
「なん…だったの?今の。ねえ、お姉ちゃん…」
「アンジェ。」
「…えっ?!」
突然すごく低い声で言うので、思わず驚いてしまう。が、
「食べよ。」
それだけだった。お姉ちゃんは無表情で、ゆっくりとパンを口に運んで、かじる。
「あ……うん…。」
私も真似してパンをかじった。
その味は全くと言っていいほど、なかった。
何故だっただろうか。私が聞いたその時、お母さんは眉根を寄せた。私があんまりにも当たり前なことを言うから怒ってしまったのだろうか?
「…そうよ。守られているのよ。」
「?…」
お母さんはすこしの間をおいた後そう答える。周りは何も言わない。私は何かとてつもなく不味いことを言ってしまったような気がした。同時に予感がした。これ以上質問したら、何か良くないことが起こる。
けれど、私にはまだ聞きたいことがあった。どうしても聞きたかった。だから、自然に口が開いてしまった。
「でも…どうして、ここだけのかな。」
その一言で――
バッ!
お姉ちゃん以外、全員勢いよく顔をあげて私を見た。
(…え?)
皆、同じ顔をしていた。とても丸い目をしながら眉を潜めて。それは一言で言うと、恐かった。
お父さんも、お母さんも。いつも優しくしてくれるお婆ちゃんでさえも。いきなりのことに、私は一瞬何が起こったか分からなかった。そして、皆私を凝視したまま何も言わない。
何だろう、これ?
何か言わないと…駄目?
「ほ、ほら。神様はこの世界の全てを見て下さっているんでしょ?だったら…どうして砂漠になってる外の世界にも、この村みたいなお恵みがないのかなって…思ったんだけど…」
仕方ないのでもっと分かりやすく私の疑問を言ってみたけれど、それはどうやら逆効果のようだった。隣にいたので分かったのだけど、お母さんの眉がみるみるうちに、恐ろしいほどにつり上がっていくのだ。
予感は外れていなかった。
と、今更後悔しても遅い。
そして祈りの言葉がアーメンで終わった後、皆が食事に手を着け始めた頃に、私は聞いてみた。
「ね、お婆ちゃん。」
「…んん?どうしたのかい?」
「神様は、空にいるんだよね?空から、この世界の全てを見てるんだよね?」
「そうだよ。主はいつも天から私達を見守ってくださる。私達人間は主の恩恵を受け、この地で生きることが出来るのだよ。お母さんから、きっと耳にタコが出来るくらい聞かされているだろうて。」
優しい笑顔でお婆ちゃんはそう言った。するとお母さんは少しむっとした顔をする。
「何度も聞かせるのは当たり前です。この村は主に守ってもらっているのですから。これくらいの常識は身につけてもらわないと恥ずかしいですよ。」
すると、お父さんもスープの器を口に付けながら
「アンジェリカも、もう7才になる。ちゃんと、1人前の大人に育てなくてはいけないな。」
と、賛成した。お姉ちゃんはというとただ隣で黙々とパンを食べているだけだ。
今の流れの中で、私の中で何かが引っかかった。それが何なのかははっきりしなかったけれど、何かとてつもなく気になった。
「…お母さん。この村は、神様に守られてるの?」
「そうだって言ってるでしょ。お願いだからそんな当たり前なこと聞かないでちょうだい。」
「神様に守られているから…ここだけ、こんなに自然があって、私達は平和に暮らせてるのかな。」
私は軽く言った。
しかし―――
そう言って、彼はこの場を去る。
「…リ、タ?」
だいぶ距離が開いたところで、私は自然と彼が呼ばれていた名前を復唱した。何というか、少し変わった人だったという印象が残った。
神様を探しているなんて訳の分からないことを平然と言うし、ずっと無表情かと思えば時々優しい笑みを浮かべたりする。あの短い時間だけで、真面目なのか、それともちょっぴりふざけてるのか…判別がつかないときが沢山あった。
何て、よく分からない。
けれど何故か、私はどんどん遠ざかっていく彼の背中を、見えなくなるまでずっと見ていたのだった。また話す機会なんて、あるのだろうか?そんなことをぼんやり考えながら、ずっと。よく晴れた日の真昼の出来事だった。
その後私は川で水をくんだり洗濯をしたりといったいつも通りの日課をほぼ終え、やっと自分のテントで夕食の席につく。ござの上にお父さん、お母さんとお姉ちゃん。それにお婆ちゃんが座る。目の前には湯気を上げる豆のスープとどんぐりのパン。そして今夜の主役は焼き魚らしい。私は思わず唾をゴクリと飲み込む。
でもすぐには食べれない。いつもお婆ちゃんが神様への祈りの言葉を並べた後に「いただきます」をするのだ。ああこの時間が1番じれったい…魚が冷めちゃうじゃない。
「アンジェ、ちゃんと祈りなさい。」
そんなことを考えているのを見透かされたようだった。お母さんが私を諭す。
「はぁい…。」
私は渋々返事をして、手を胸の前で合わせた。そして目を閉じてお婆ちゃんの祈りに耳を傾ける。
と、そこであることに気付いた。
私はしばらく絶句していた。外の世界は、何もない一面の砂漠??イメージがつかなかった。ここは、こんなにも草木が覆い茂っているのに。こんなにも綺麗な水が流れているのに。
「…どうして、ここだけ砂漠じゃないんだろう。」
と、ぱっと浮かんだ疑問を口にしてみる。すると彼はゆっくりと頷き、真っ直ぐに私を見る。その目は、真剣そのものだった。ちょっと、気圧されてしまうくらいだ。
「そこだ。この地には、何か特別なものが存在している。私は、それを探しに来たんだ。」
「…あ」
「水も、食べ物もなく。ここから遠い地の者は今も苦しんでいる。その人達を助けるために――」
その時。
彼はピクッと何かに反応して後ろの方に振りかえった。最初その行動が何を意味していたか分からなかったが、その内すぐに分かった。
「………タさーん、リタさーん!」
遠くから声が聞こえる。そして程なく声の主は砂利を踏む音を立てながら小走りにやってきた。男性で、今私の横にいる彼と同じような白い服を纏っている。
「どうした。」
「はぁ、はぁ……はい!村人の聞き込みで1つ手掛かりが見つかりました。」
「よくやった。…どんな手掛かりだ。」
「それは、村に戻ってから。話に詳しい方がいるんです。」
「分かった。直ぐ戻る。」
そう言うと彼はすっくと立ち上がり、そのまま村の方に2人で歩き始める。けれどその歩みを止めて、最後に彼は私の方に寄ってきた。
「悪いな、話が途中で終わった。また会う機会があったら続きを話そう。」
そして私の頭にぽん、と手を置く。
「!」
彼の暖かい手の感触を頭に感じた。
「元気でな。」
「…ここは、本当に豊かな自然がある。君はここから外の世界を見たことがあるかい?」
彼の話がよく分からないまま、私は首を横に振る。こことは別の住む世界があることは聞いたことはあるけど、実際にこの村から出たことはないのだ。
「なら、君は外の世界の人間がどんな生活をしていると思う?」
「…分からないよ。でも大体私達みたいに暮らしているんじゃないの?木とか草とか、川とか海とかあって。木の実をとったり、兎を弓矢で狩ったりしてさ。」
そんな想像しか出来なかった。それ以外どんな生活が出来るというのか、私には全く見当がつかなかった。だって、この村以外のことは何も知らないから。
と思ったところで
「木とか草?そんなものは無い。…辺り一面、ただの砂漠だ。」
「…え?」
「ついでに川も海も、無いのとほぼ一緒だな。もう既に汚れきっている。」
「?…ええ??」
また、私が全く考えもしないような答えが返ってきた。
「それって…じゃあ、木の実や兎はどこでとるの?」
「勿論、木がなければ木の実はならない。生産者である植物がなくなることによって食物連鎖が無くなるから、兎の食べるものが無くなり、兎も死に絶える。他の動物も…全て同じだ。」
彼は淡々と、事実だけ告げるようにして私に聞かせた。
彼は目を閉じていた。せせらぎに耳を傾けているようだった。川が流れているだけの風景はそんなに懐かしく思えるのかな、と毎日のようにここに水くみに来ている私は少し首を傾げる。(それで今日も水くみに来たらこの人がいた、というわけだ。)
「おじさん、どうしてここに帰ってきたの?」
「……探しに来たんだ。」
「何を?」
「………。」
簡単な事を聞いているだけなのに、彼はまた沈黙する。その時、私は見た。彼が唇の端をくっと上げたのを。
はっきり、笑っている。その笑みはやけに印象的で、優しく暖かいものにも見えたし、また自嘲的にも見えた。そのまま、彼は一言こう言ったのだった。
「神を。」
え?
というのが思わず口をついた。神という言葉を知らないわけではない。神様のことだ。本当に小さい頃から、ほぼ毎日お母さんに神様の話を聞かせられてきてもう7才になるのだから知らないわけがない。
「神様は空にいるものだよ。」
神様はいつも空の向こうにある天国から私達を見守ってくれている、なんてことをお母さんがいつも言っているのを思い出す。一応お母さんの話は信じてる。まあいつでも見られているなんて怖いな…とも少し思ったりしているわけなんだけど。
「…そうとも限らないさ。もしかしたら、そこの木陰で笑っているかもしれない。」
彼は少し後ろの方に生えている大きな木を指差す。
「ええっ?うそだよー」
「それだけじゃない。そこの川の中で手招きしているかもしれないし、もしかしたら風に紛れているのかもしれない。……探したいんだ。それを。」
「……おじさんの言ってることが、分からないよ。」
「よく言われる。」
ふふっと彼は肩を揺らした。
私は恥ずかしさを振り払うようにして軽く頭を左右に振る。あまり効果はなかったけど、それによってもう1度質問する気力は何とか戻ってきたようだった。
「大丈夫。ねぇ、おじさんはどこの人なの?」
すると、彼は少し困った風な顔をした…ような気がした。これも実に微妙な変化だった。
「…これでも、おじさんという歳ではなんだがな。」
ぼそっとした低い声だったので一瞬聞こえなかったけれど、彼はそう呟いたようだった。なので私はうーんと小さく唸ってもう一度その顔をよく見てみる。その結果、確かにうちのお父さんよりは老けてないな、という結論に至っただけだった。
「まあ、おじさんでも構わないか。おじさんは、ここからずっと遠い『国』から来た――と言うより、帰ってきたんだ。」
「帰ってきた?」
「ああ。自分は、元はこの村の住人だよ。けど…そうだな。色んな事を勉強するために10才くらいの時に『国』に移り住んだんだ。それでここに帰ってくるのは10年ぶりだ。だからちょっと懐かしくなって、そこの川を見てたんだ。」
「ふーん…?」
「ここは、昔からずっと変わらないな。」
さらさらさら……
彼は川の方に向き直ると、また沈黙する。すると、さっきからずっと聞こえているせせらぎ音が静寂を塗りつぶした。
私は好奇心かどうかはわからなかったけど何となく彼が気になって、近付いてみることにした。じゃりと草を踏みながら、彼のすぐ隣へ。
「いったぃ…」
柔らかい土がクッションになってくれたからよかったものの、やっぱり少し衝撃は来たようだった。私は無意識にお尻をさする。
微かにふっという笑い声が聞こえた気がした。その時目をつぶっていたから分からなかったけれど、それは間違いなく前方の方から聞こえた。男の人の声だったし――間違いなく、今の声はそこにいる彼のものだ。
そう思って、うっすら目を開いてみると案の定そうだった。
彼は微笑を浮かべていた。本当に、本当に僅かに。そして、私はその時初めて彼の顔を認識したのだった。
後ろで纏めている長い髪、それに瞳の色は黒。私達の色と同じだ。着ている服は村では見たこともないようなものばかりなのに、不思議だった。
整った顔立ちは思わず息が止まってしまうほど。さっき「本当に僅かに微笑を」なんて言ったけど、今見てみれば、彼は殆ど無表情だった。さっき微笑が分かったのは、もしかしたら1つの奇跡だったのかもしれないなと思った。今も笑ってるのかどうかなんて、もう分からない。
そんな色々な考えがまぜこぜになって…その内自分の顔の皮膚が熱くなるのを感じた。急いで私は体勢を立て直し、服についた砂を手で払う。
「…今、笑った?」
彼が何も言ってこないので、私は仕方なく分かりきった質問を小さく呟く。すると、一瞬の内に答えは返ってきた。
「いや。」
彼はそう言って見せた。まるで何も見ていないかのように。あまりにさらっとしているので私は少し唖然としてしまう。
「大丈夫か?…お嬢さん。」
お嬢さん…
何だか、からかわれてる気がする。ますます顔が熱くなったような気がした。
―――――――
「……おじさん、誰?」
私の声は、若干震えていた。どうやら緊張していたようだ。
それはそうだった。見た目からして、明らかにこの村の者ではないのだから。『その人』が羽織っている白い服は、私にとってやけに印象的だった。
私の服だって全体的に白い方だけど、あんなに真っ白じゃない。こんなぼろ切れみたいなワンピースとは比べ物にならないほど、清潔感を思わせる服だった。そんな服は砂埃にまみれたこの村には流通していない。
後で知ったけれど、それは白衣という服だったらしい。
『その人』はただそこの小さな川を見たまま。私の声に反応しなかった。声が小さすぎたのだろうか?
全く、この村の人ではないというだけでも異様なのに。川を見てるって…一体何?これじゃあ声も小さくなる。
「……ねえってば!」
仕方なく私はもう一度、精一杯の声を『その人』の背中に投げかける。すると、ピクッと背中が動いた。
「ん?…」
そして。
『その人』は首だけ動かしてこちらを見た。そうなるであろうことは分かっていたのに、何故かその瞬間、私は思わずビクッと体を震わせてしまった。
「あっ…」
全く何故こんなことになってしまうのか。驚いたにしたって大げさだった。私はそのまま体のバランスを崩し、終いには足ももつれてしまって……
「きゃっ!!」
ドサッ
後ろに盛大に尻餅をついた。そのくせ、土と草が立てた音は本当に地味だった。
アンジェリカの瞳の中の風景。それはまず、豊かな草木と花が暖かな日差しに包まれた場所だった。その近くには川があって、さらさらというせせらぎが聞こえてくる。そして――それらを座って眺めている、1つの背中があった。
アンジェリカはそこで1つ吐息をこぼす。そして突然後ろに振り返り、ジュエルに目を向けた。その瞳はとても真剣なものだった。
「ジュエル。私がこれから話すことを聞いて。私は貴方がリタであると信じてる――いいえ、確信がある。貴方の求めている記憶はきっと、私の中にある。
そして20年前に起こったことと、これから起ころうとしていることを知る上でも。…私の話を聞いて欲しい。」
「…アンジェリカ。」
そのあまりに真っ直ぐな眼差しに、ジュエルは少し面食らってしまう。しかし早くに落ち着きを取り戻すと、ジュエルはゆっくりと頷いた。
「頼む。」
2人はそのまま沈黙し互いに少し向き合う。周りの低い機械音がやけにうるさく聞こえた。
やがてその音に飽きる頃、アンジェリカはくるりと背を向けて歩み始めた。
「私とリタが初めて出会ったのは、勿論私の故郷の村でだった。確か、彼は何か土地の調査のために『国』から来ていて…私はその時見つけたの。草原に座って、近くの川をぼんやりと眺めていた、彼を。」
記憶の糸をさらに手繰り寄せる。空気の色、感触までも蘇らせるように。すると自然に、その時交わした会話も思い出されてきた。
1歩足を踏み入れて、ジュエルは思わず息を呑む。比較的大きなその空間は、ぼんやりとした緑色の光で溢れていた。
正面に続いているのは奥へと続く廊下。その両壁に、等間隔で大きなガラスの円筒が並んでいた。床から天井まで繋がった円筒の中には何かの液体が時々泡を生じながら流れていて、どうやらその液体が一斉に緑色の蛍光を放ち、空気の色を染めているようだった。
ジュエルが周りに目を奪われている間に、アンジェリカは続けた。
「私は、オメガが最初に発見された偏狭の村から『国』の研究室に連れてこられた。オメガ遺伝子を持ちうる、もう1人の人間としてね…」
「……お前、が?」
その時、アンジェリカが再び足を止めた。そのまま同じ位置に立ちながら、どこともない宙を眺める。そして、こうジュエルに訊いた。
「覚えてる?」
と。
ジュエルは何も答えない。何も覚えていないということは、既に先程伝えたからだ。アンジェリカも、勿論そのことを分かっている。それでも彼女は訊いたのだ。さらに彼女はこうも言った。
「貴方が、私をあそこから連れ出したのよ。…多分、私はあの時貴方についていかなければ、今こうならずに済んだのだと思う。
当時の私にだって分かっていた。『国』に行ったら二度と村には戻ってこれないだろうと。あの家族での幸せな時は戻ってこないだろうと。
それでも――私は『国』に行くことを選んだのよ。」
アンジェリカのその目はどこか懐かしそうに、切なげに、遠い日の風景を眺めていた……………
「…その時まだ小さかった私には分からなかったけど。オメガ遺伝子を得るために彼女のクローンは何体も作られようとしていたの。
でもクローン技術でさえ、体の作成に成功したのは私が知っているルチア1人だけだった。彼女の体を形作ろうとした殆どのクローン細胞は原因不明の壊死に陥ったらしいわ。
クローン技術は、万能細胞に目標となる遺伝子群を組み込んで高速分裂させることで、短時間に本人とそっくりな複製品を作ることが出来るという所まで発達していたけれど…それでは通用しなかった。彼女の遺伝子を受精卵に組み込んで、胎児からゆっくりと成長させることでやっと複製を作ることに成功したのよ。」
「アンジェリカは、どうしてそんな詳しいことを知っているんだ。どこでそのルチアのコピーを知ることができた?」
やがて歩いているうちに目の前に扉が立ちはだかっているのが暗がりに見えてきた。その脇には何か台のようなものがあって、アンジェリカはすっとその上に右の手の平を乗せる。
「私は――ルチアのオメガ遺伝子を増殖させることのできるもう1つの器として。貴方達の研究室に滞在させられていたから。」
「……器。」
ピピッ。
小さく機械音が鳴った。どうやらセンサーがアンジェリカの手に反応したようだった。その後、重たそうな扉が左右にスライドしながら開いていく。同時に、扉の向こう側から少しんぼんやりとした光が漏れ出る。
2人はそこに踏み込んでいった。
「何があった?……一体ルチアは、お前と何の関係があったっていうんだ。」
するとアンジェリカは再びジュエルに背を向ける。そして先程よりも若干重い足取りで歩き出した。ジュエルはそれに続く。
「まだ、貴方が『リタ』だった頃。20年前。私とルチアは友達だったの。……正確に言えば。そのルチアはクローン技術で作り出された存在だったけれど。」
「クローン?…何故?」
「貴方達はもう分かっている?今この『SALVER』で行われている研究の事柄と、『鍵』の意味。」
「『鍵』…オメガ遺伝子。人間から作り出される不純なオメガを、完全に純粋なオメガに変換する事の出きる物質…。」
「その通りよ。」
短い一言にジュエルは小さく「やっぱり」と呟く。予想は外れていなかったのに自然と眉間にしわが寄っていた。アンジェリカは話を進めていくようだった。
「純粋なオメガを作る。この研究は20年前から、ルチア、マルコー。そしてリタ…貴方よって行われていた。」
「20年前…『国』でされていた人体強化の研究のことか。」
「そこまで分かっているのなら話が早いわね。」
アンジェリカはにこりともしない。
「…理由は表と裏の2つがあった。表は、ルチアの人体強化を失敗をすることなく進められるようにすること。これは3人の研究の主要な目的に沿ったものだったから、全員が知っていた。
けれど裏の理由は違った。マルコーだけがこっちを目的にしていた。――そして、こっちの方が今続けられている研究の理由よ。」
「……。」
「これは後で話すわ。とにかく、どちらにせよ研究のためには大量のオメガ遺伝子が必要だったの。けれどそれはとても希少で、持っていたのは偶然にもルチアだけだった。
しかも、その遺伝子を培養して複製を行おうとしても、オメガ遺伝子は不安定ですぐに壊れてしまった。…オメガ遺伝子は、彼女の体内でしか増殖は有り得なかったの。だから、」
「ルチアのクローンが作り出された…のか。」
ジュエルは、病室でグロウから聞いた20年前の記録を思い出しながら、アンジェリカの話を聞いていた。
「お前は自覚しているのか?さっきの戦いの時――自分が赤い瞳をしていたことを。」
「…瞳?」
アンジェリカは微かに眉を潜める。気付けばジュエルはまた、彼女の黒い瞳を見つめていた。
ジュエルはどうしても、あの現象の理由を確かめたかった。何故なら、最近同じものを別の場所で見たからだった。
夕暮れの病室での出来事が脳をよぎる。
「瞳の色は分からないけれど。時々自分の体から計り知れない力が沸いてくるのは分かる。」
「それは衝動的なもの、なのか?…いつから、どんな理由で?」
「………理由。」
アンジェリカはジュエルの言葉をなぞった。
「赤い、瞳。」
記憶の糸を辿るように、ゆっくりと目を閉じ、さらに長い時の流れを一瞬にして遡っていく。色とりどりな幾つもの記憶、風景、感情も飛び越して。
そうして辿り着いたのは、1つの記憶。その中には、確かに赤い瞳があった。
真っ赤な、血みどろの瞳が。
「っ――」
それを思い出したとき、彼女はどこか悲しげな表情で俯いた。
「一言では、言えない。」
「……。」
「もしそれでも言おうとするならば、これは彼女の『涙』なのかもしれない。」
「…さっきも言っていたな。彼女というのは――ルチア・ミスティのことか。」
アンジェリカは沈黙で答えを返す。
コツ、コツ。
…コツ。
明かりはぽつぽつと、小さな弱々しい電灯しかない。殆ど真っ暗闇の通路に2人分の足音が響く。ジュエルは何だかよく分からなかったが気まずいような気がして、前を歩くアンジェリカの背中から、少し下の方に目を反らしていた。
それからしばらく歩いても景色が変わらない。――そんなときだった。
「腕は、」
突然の高く透き通った声に、ジュエルは思わず顔を上げる。声を発したのはアンジェリカだ。
「腕は、痛む?」
前を歩きながら、振り向かずにアンジェリカは訊く。その表情はジュエルからは分からない。けれど、自分の心配をしてくれていることは言葉で分かった。
「痛みは、もう大したことはない。」
「そう…。」
アンジェリカは瞼を伏せて「よかった」と加える。すると、そっと歩みを止めて振り返った。
「貴方や貴方の仲間には、申し訳ないことをした。」
「ロイをさらったのは…やっぱりお前、なのか。」
「………。」
「1つ、訊きたいことがあるんだ。」
「…何?」
そこで、ジュエルは言葉を一瞬飲み込む。ジュエルにはアンジェリカにまず訊きたいことがあった。だが、それが果たして聞いていいことなのか分からなかった。
と言うより、知るのが怖かった。
知っても得をするわけではない。寧ろ、何となく嫌な現実を引き寄せるような気がしてならない。
それでも、ジュエルはその事実を知るべくして口を開いた。
――お知らせ2――
どうも(^-^)テストが死んだARISです。
お待たせしました。今日からまた更新始めますのでどうぞよろしくお願いします<(_ _)>
と、1つここでお知らせしたいのですが…私は明日から2泊3日の合宿が入っています。あと再テストも最低5教科はあるので、もしかしたら9月前半までは更新できない日も多く出てくるかもしれません。
なるべくペースを保つようにはしたいと思いますが、そこだけどうかご了承お願いします。<(_ _)>
それでは、物語の続きをお楽しみください……
ARISでした。
――お知らせ――
皆さん今晩は(^-^)ARISです。いつも『地獄に咲く花』を読んで下さり有り難う御座います。
ええと…やはりあの魔の期間が来てしまいました。
テストです。(;_;)
もう、本当に、本当にやんばいです(;_;)なのでちょっと執筆お休みして逝ってきます。
再開は8/26となりますので、どうかご了承ください。<(_ _)>
ps
もうお気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが、執筆の時は2日おきに休んでいます。更新が遅くて苛々させてしまうかもしれませんがこれが自分のペースとなってしまったので…どうかお許しください<(_ _)>
とそんなわけで、これからも本作品をどうぞよろしくお願いします。(^^)/
ARISでした。
「俺は、――」
ジュエルが途中まで言ったところで、少女――アンジェリカは背を向けて部屋の奥の方に歩き始めた。
「貴方達のことは、もう知ってる。…今の『リタ』から聞かせられてたから。」
「……。」
「急いでいるんでしょう?先に進みながら話すわ。」
ちらりと振り返り、すぐまた歩みを進める。部屋の奥とは、ジュエルが部屋に入ったところから丁度突き当たりの所だ。すると程なくして、アンジェリカは壁の前に着いた。
「?…おい、」
そこは一見只の行き止まりのように見える。ジュエルは思わず呼び止めるが、
「ここから引き返しても、貴方の望む場所には行けない。ここからは一般の人間が踏み込めないようになっているの。」
アンジェリカはそう言うと、不意に壁に手を触れる。すると何かが共鳴したように空気が振動した。
ヴーーン
同時に何か機械の作動音が鳴る。それから少し待つと、
ウィーーン
壁は、上の方にスライドする形で『開いた』。その向こうには、大きめの通路姿を現していた。奥は暗闇に染まっていて見通すことが出来ない。ジュエルはその光景を見て微かに息を呑んだ。
「案内、するから。」
ぽつり、とアンジェリカは言った。
「……すまないが。今の俺には、何のことだか分からない。」
その一言に、少女は思わずそこにしがみついたままジュエルを見上げた。頬が少し涙で濡れている。ジュエルは彼女をなだめるように、静かにこう付け加えた。
「けれど。俺には、失った記憶がある。」
「!…」
「もしもお前が本当に過去の俺に会っていて、俺が何をしたのか知っていると確信してるならば。その話をもっと聞かせてほしい。…話す気力がないならそれでもいいが。」
やがて彼女は黙りこくったままジュエルから手を離し、そこから離れて立ち上がる。その俯いた顔からは少し気まずそうな表情が浮かんでいた。自分のしていたことがある種大胆だったことに気がついたような感じだった。
「……。」
「聞かせて、くれないか?」
そうジュエルが問うと、彼女はやっと口を開いた。
「本当に、何も覚えてないの?」
少し声が震えていたが、段々と冷静さを取り戻してきているようだ。彼女は正面に真剣な眼差しを向けていた。
ジュエルは何も言わず、頷く。
それを確認すると、彼女はふっと吐息を零した。
「なら。……話すわ。」
酷く虚しいような、絶望したような。平坦な言葉だったが、そんな色が混じっていた。ジュエルはその後の言葉に迷ってから、1つだけ単純な質問した。
「名前は?」
すると、長い間の後に1つの単純な答えが返ってきた。
「アンジェリカ。」
それは聴いたことのある名前だった。ジュエルの麻痺した脳にじんと染み渡る。ぼんやりとして働かない思考に鞭打って必死に記憶を探っていくと、今から討とうとしている者の名前だということを思い出した。
「……リタ。」
気付けば、自然にジュエルはその名を口にしていた。
さらに少女は半ば叫びながら言う。
「貴方があの時彼女を――ルチアを守ってくれたなら!迎えに来てくれたなら!!こんなことにはならなかったのに…っ!!」
その内彼女は
ジュエルにしがみついたまま、すすり泣き始めた。
(……ルチア…?…)
また、聴いたことのある名前だった。ジュエルは精神がやっと落ち着いてきたのか、すぐにその名前の主を思い出す事が出来た。しかしそこから冷静に考えてみても、彼女の言っていることは理解が出来なかった。
(ルチアは、殺した。あの時目を覚まして、水槽から出て直ぐに。なのに、迎えにいかなければならなかった、守らなければならなかった。…俺が?どうして?
そもそも『リタ』は――
いや、それよりも……『こんなこと』??)
駄目だ。
とジュエルは感じた。彼女の言葉は断片的すぎて、自身が目を覚ます以前の空白の記憶の補完は出来そうにないようだった。
やああって、ジュエルはそっと目の前にある彼女の両肩に両手を乗せる。
それでもやはり驚きを隠せないようで、ジュエルは目を丸くしながら絶句した。彼女は目を閉じて、胸に当てた手から自身の鼓動を感じていた。
どくん
どくん。
「――呼応するの。」
「……?」
「前に貴方に会ったときから、感じていたことだった。洗脳で記憶を一時的になくされても、この体に写し取られた『彼女の想い』が消えることはないから。」
そう言いながら彼女はゆっくりと立ち上がる。そしてジュエルの方におぼつかない足取りで歩み寄った。ジュエルは、よく理解できない話の流れに戸惑うことしかできない。
「それは、もしかして……俺達はずっと前に…、」
彼女はジュエルのすぐ前まで来ると、ぴたりと立ち止まる。すると自動的にジュエルは少し背が高い彼女を見上げる形になった。自分より背が高いのか――などと一瞬考えがよぎったその時だった。
バッ……!!
「――――」
ジュエルはその突然の出来事に、掠れた声さえも出せなかった。
彼女は今、膝をついてジュエルの背に腕を回していた。両手でギュッと服を掴み、額をジュエルの胸の辺りに押しつける。
それは抱きしめるというよりも、どこかすがりつくような感じだった。ジュエルは彼女を振り払えないで、固まっている。放心しているのかもしれない。
そして彼女は言った。
せき込むような声だった。
「どうして…っ!もっと早く来てくれなかったの……リタ!!!」
その言葉に彼女はすぐには反応しない。微動だにしないのでジュエルはちゃんと言葉が届いているか不安になった。しかし少しして、彼女は視線だけを動かし始めた。
まずジュエルのボロボロの右腕に目を移し、そのまま下へ伝って握り拳の所で止まった。まるでその中に握られている物を透視するかのようにそこを穴の開くほど見つめると、
「………。」
最後に胸に軽く手を当て、俯くように下に目を落とす。そして、
「ええ。」
と短く答えた。
すると、ジュエルは握っているものを脇の方に放った。それは床にぶつかってカラン!と高い音を立て、転がった。
「どういう事情があってここに来ることになったのかは知らない。けれど、ここにはいない方がいい…それは自分で理解できるだろう?」
「待ってたのよ。」
「…、」
突然会話の速度が早くなり、ジュエルはそれについていけずに沈黙する。その間に彼女はすっと顔を上げ、またジュエルの目を見つめた。
「……誰を?」
ジュエルは内心戸惑いながらも静かに問いなおす。
その次に返ってくる答えは、何となくジュエルの中で予感があった。
そして予感は、的中する。
「貴方を。」
「うっ…」
と、か細い声が響く。その声にジュエルは思わず慌てて立ち上がろうとして、
ズキ!!
「――っ!」
首と腕の痛みが体中に突き抜けた。大きくよろめき、それでもなんとか地に足をついたまま体を支える。
しかし、それからは何も出来なかった。立ち上がった後にどういう行動を取ればいいのか、ジュエルには分からなかった。
もしかすると再び襲ってくるかもしれないという考えもあったが。結局痛む傷を抑えながら、彼女がそこでぎこちなく体を起こすのを見ているしかなかった。
やがて、彼女は完全に起き上がる。
彼女は両足を折りたたんで床に座った体勢のまま、ゆっくりと辺りを見回す。そして、最後に後ろにも首を回したところで――
2人の目が合った。
その時ジュエルはやはり何も言えなかった。彼女も黙っている。見れば彼女の瞳からは先程までの赤い色が消え失せ、元の黒に染まっていた。2人は互いの漆黒の瞳を、沈黙の中で見つめ合った。
そうしていたのは10秒程だったのか、はたまた5分は経っていたのか、はっきりとしたことは分からない。どの程度にせよ、その沈黙を最初に破ったのは
「…………目は、覚めたのか?」
ジュエルだった。
そこには確かに、黒く焼け焦げた小石ほどの大きさの物が在った。
ジュエルは暫くそれを睨んだ後、左手を支えにして体を起こそうとする。右腕は大きく動かせないため床に引きずるしかない。だがその瞬間即座に再び激痛が襲い掛かり、ジュエルは微かな悲鳴を上げて腕を押さえた。
そうしながら5分程かけてなんとか背中だけ起こすと、今度はのろのろと首を後ろの方に動かしてみる。
――すると、そこには少女がこちらに背を向けて床に横たわっていた。
ジュエルは少し息を止める。
そして何となく体全体をそちらに傾け、じっと少女の小さな背中を見つめた。
(……あの時、俺を殺そうと思えば殺せたはずなのに。)
そう心中で呟くと、右腕を焼かれるのに耐えながら少女に向かって手を伸ばしていた時のことを思い出した。――あの時彼女は武器を持った手を動かそうともせず、何を見ていたのか?ジュエルはぼんやりとした記憶を探りながら疑問を巡らせる。
そうして、そろそろ立ち上がろうと足に力を入れたときだった。
ピクッ
と彼女の肩が動いた。
「!…」
……ゴオォォォ…!!
ジュエルが彼女のこめかみついた金属を掴み取ると、彼女を包んでいた熱気が一瞬にして熱風となって辺りに吹き荒び、霧散した。
「ぁ…ぐ!!」
ジュエルは白い煙を上げる腕を抱えながら前へのめった。また、少女もこめかみのものがなくなったと同時に、体からふっと力が抜けたように両膝をつく。
ドッ!!
2人は同時に、床に倒れ込んだ。
それから何分経っただろうか。
ジュエルは小さく呻きながら、うっすらと目を開けた。
冷たい床の感触と、まだ残留している体の重みを感じ取る。どうやら倒れた所と同じ場所で目を覚ましたらしい――と認識すると、無意識に抱え込んでいた右腕をちらり見た。
パーカーの袖は勿論焼け焦げてボロボロになっている。そこから剥き出しになっている腕は酷く爛れ、赤く腫れ上がっていた。
「…ちっ……」
鼓動とともに腕にズクンズクンという刺激が伝わり、強い痛みを感じる。しかし、何とか動かすことは出来るようだった。ジュエルは握ったままの手をゆっくりと開いてみる。
同じ瞬間。
彼女はまだ見つめている。
苦悶の表情を浮かべながらも、こちら側へ必死に手を伸ばそうとしているジュエルを――
――いや、それは違う。彼女が見ていたのはジュエルではなく、1つの幻像だった。
どくん。
「……ぁ、」
彼女の中で大きな鼓動が鳴り、その赤い瞳が見開かれる。そこに映った映像に彼女は思わず声を漏らしたのだった。
それは、こちらに優しく伸ばされた手。
成人男性の大きな手だ。
見れば、彼は白衣を身に纏っている。
その男性の顔は逆光になっていてよく見えない。けれど、
何故か彼は微笑んでいるように見えた。とても、とても柔らかく。
その映像が、
ジュエルと重なる。
どくん。
「…っ!」
幻の中の『彼』の手は近付く。どんどんこちらに近付いてくる。それに彼女は抗う事は出来ず、息さえ出来なかった。
そして音もなく、
その手が小さな彼女の頭を撫でたとき。
幻は光に包まれて
彼女の前から消えた。
「……ぅおおおおおお!!!!」
ジュエルは、吼える。
その手を伸ばして――
パシッ!!
くないの攻撃を避けつつ、そのままジュエルは斜め30度くらいから真っ直ぐ少女に向かっていく。彼女の盾があるにも関わらず、その瞳には何の迷いもなかった。
そして、ジュエルは剣を振り上げない。左手に握ったまま、それをただ持っているだけだ。代わりに――
バッ!
右手を真っ直ぐに、少女へと伸ばした。
「……。」
少女はそれを見て、微かに息を呑んだように見えた。予想もしなかったジュエルの行動に驚いたせいか、この時彼女の手にまだ沢山残っているくないは放たれなかった。彼女はただ、自分に向かって手を伸ばす1人の少年に釘付けになっていた。
そして次の瞬間、ジュエルの右手が彼女の盾に触れた。
シュウウゥ!!!
「ぅぐっ!!」
灼熱がジュエルの右手を焼く。しかし驚くことに、その右手が爛れ落ちることはなかった。どうやら剣を溶かしてしまう熱さにも、ジュエルの体は耐えることが出来てしまうようだ。
そう、ジュエルは自分の身体能力を予測して、この手段を取ったのだ。
だが、これは一か八かの賭けだった。果たしてこれ以上少女の盾に腕を挿入しても、腕は耐えることが出来るのか?その答えはジュエルには分かっていない。
それでも、ジュエルは腕をもっと伸ばす。
――彼女のこめかみに付いている小さな金属に向かって。
ダ!
ジュエルは真正面へと走り出した。即ち、その先にに立っている少女に向かって。
一見してそれは無謀な行動だった。少女はその冷たい赤い瞳で、ジュエルの姿をはっきりと捉えると、間髪入れずにまた手に持っているくないを投げた。
シュババ!!!
放たれた20本程のくないがジュエルに向かっていく。しかし、ジュエルが動じる様子はなかった。彼はこの瞬間も目標だけを目に入れ、真っ直ぐに走る。
そして
くないの嵐とジュエルの姿が重なる、まさにその時。
ダン!
ジュエルは地を蹴り、前方へ高く跳躍した。結果、少女のくないはジュエルの下の方にある空間を虚しく切った後、後ろの方の壁でカシャカシャンと地味な音を立てる。
そう。ジュエルは、くないの弾幕を飛び越えて避けた。
弾幕は拡散する形であり、空中に避難したとしてもとても避けきれるものではなかったはずだった。しかし、先程ジュエルが真正面か少女に向かっていくことで、少女の攻撃の範囲を無意識的に狭めさせることに成功したのだ。
だが、今のところ盾を消す方法など見当もつかない。ジュエルは心の中で舌打った。
(どうすればいい?……)
その間にも少女がまた動く。両手を素早く背中の方に回して前に持ってくると、どこから取り出したのかその手には何十本のくないのようなものが握られていた。それを、
シュバババ!!
手から放つ。複数のくないは盾を貫通し、まるで拡散式の銃のように勢いよく空気を斬って、目標に向かう。
シュタタッ
ジュエルはその内の1本にでも当たらないように、様々な体術を活用して攻撃を避ける。
シュバババッバババ!!!
だが彼女の攻撃は連続に続く。次第に体力は削られ、体術だけでは避けきれなくなり始める。なので、ジュエルは剣でくないを弾いてもみた。
キィンッガッカ!!
シュッタタッタン
しかし手も使うことにより、体力が減る速度が余計に大きくなった。せめてもう1本の剣があればある程度余裕もできそうなものだったが、それは先程無くなってしまったことは言うまでもない。
不慣れな単剣での戦いの上、銃で撃たれた首もとの傷も深い。どちらにせよ、このままでは持たなくなる――という考えにジュエルは至った。
だから
迷っている暇は、もう無かった。
今の彼女は強化人間であるのか、それとも人造生物であるのか?どちらにせよ彼女がジュエルの力を軽く上回っていることは確かだった。
それを分かっていても、ジュエルはよろりと立ち上がる。少なくとも大切な仲間を助け出すまでは、ここで死ぬわけにはいかなかったからだ。それに、まだ完全に勝機を失ったわけではないということを知っていた。
ジャキ
だから、ジュエルは再び剣を両手で構え、少女に強い視線を向ける。少女はそれを確認すると、空中を降り始めるようだった。
ゆっくりと垂直に下降していくと、爪先から床につけ後にかかとを落とす。彼女は、ジュエルの前に舞い降りた。
ジュウゥゥ…
少女が着地した金属の床が、焼ける音とともに少量の煙を立てる。よく見れば、彼女の体は赤い光に包まれていた。それはジュエルの剣を一瞬にして溶かした――熱気だった。
熱気は球状に彼女を包み込んでいて、球体の中にある彼女の身の回りの物は何ともなっていない。熱気は、言わば彼女の盾のようなものらしい。
そこに剣で斬りかかっても、また同じ様に溶かされてしまうことは明らかだ。ジュエルは考える。まずあの盾を何とかすることが先決だった。
タン!!
少女は何の迷いもなく引き金を引いた。軽い音とともに、銃弾が打ち出される。
「!」
ジュエルは反射的に剣で顔を隠すようにしながら、空中で逆さまになった所から両足に力を入れた。そうすることで体全体がさらに半回転し、足は地面に向くことになる。
その大きな動きで銃弾をかわせるかとも考えていたが、そう甘くはなかった。少女は確実にジュエルの動きを読んだ上で、的確に狙いを定めていたらしい。
ズッ
「ぅっ…!」
ジュエルは丁度左鎖骨の上、即ち首の付け根辺りに抉るような痛みをおぼえた。小さく赤い血が飛び、ジュエルはそれと共に宙から落ちていくようだった。
スタッ
何とか着地は出来た。だがその後の容赦ない被弾の痛みで、ジュエルは軽く呻き声を上げる。思わず傷口に触れた手には、べっとりとした血糊がついた。
「…くっぅ…」
一体先程から少女の身何が起こっているのか理解出来ない――と言った様子で、ジュエルは膝を突いたまま空中を見る。
そこには彼女がいた。相変わらず宙に直立したまま、赤い瞳でこちらを見つめて。
そこで、先程の瞬間移動も空間を飛行して出来た技なのかもしれない、とジュエルは理解する。もう彼女が人間ではなくなったことは明白だった。
すると、少女がこちらに銃口を向けているのが見えた。有り得ないことに、彼女は空中で直立の姿勢を取っている。地面から空中へ跳んだというような雰囲気は全くなかった。
そして、その真っ赤な瞳の色とは対照的に、酷く冷たい視線をこちらに送ってきている。
だがそんなことよりも、ジュエルにはもっと気になったことがあった。この1秒にも満たない時の中で、『それ』に気づいたのは奇跡に近かったかもしれない。
「?」
ジュエルの視線の先には、少女のこめかみがあった。そこに、かすかに光った物があったのだ。
(あれは……)
目を凝らしてみると、それは一円玉程の大きさにも満たない、小さな金属の固まりだった。少女の片方のこめかみに貼り付いていて、そこについているこれまた小さなランプに緑色の光が灯っている。どうやら、ジュエルが見たのはこの光だったようだ。
そうして少しすると、少女の気配が『見えた』。音はなかったが、微かな熱が感じ取れた。それは――後方に、少し遠くから。
タン!
瞬間、銃声が後ろから響いた。ジュエルは振り向きざまに剣を振りかざす。
キィン!
綺麗な音がして、弾丸が斬れる。同時にジュエルは少女の姿を捉える――はずだったが、既にそこに少女の姿はなかった。
刹那。
タン!
タン!
タン!!
3回の銃声がそれぞれ全く別の場所から、間隔は0.5秒程で響いた。
「っ!」
正面か、真横か、それとも斜めの方角からか?1つ1つの銃声の間隔が速い上に、音が重なることで弾道の予測が難しくなる。そこでジュエルは頭で答えを出すよりも体を先に動かすことを選ぶ。
タッ!
結果、ジュエルはその場でバック宙をしていた。広い空間を使い、なるべく高く。そうして天地がひっくり返った空間の中を浮遊する間に、頭の真下を3つの弾丸が通り過ぎていくのが見えた。
絶妙な方向と角度。
あのまま地上にいたら、弾丸に当たる可能性は少なくとも50%は増えていたかもしれない――そんなことを思った時。
チャキ。
と地味な音が、近くで鳴った。正確に言えば今のジュエルの位置よりもっと高い、空中の位置からだ。
はっきりとしたその音源に、ジュエルは逆さまの状態から視線を下に動かした。
剣は少女に触れた瞬間に溶けた。彼女の視線が熱線になっていたのか、体が発熱していたのかは定かでない。とにかく、迂闊に近づくのは危険だった。ジュエルは距離をとりつつ、様子を伺った。彼女が得た特殊能力がこれからどのような形で駆使されるのか、観察する必要があったのだ。
意識を集中させ、1つ1つの動作を捉える。すると、
ダム!!
今まで立ったままだった少女が、弾かれたように動き出す瞬間が見えた。彼女は激しく地を蹴り――その後は見えなかった。
「!…」
ジュエルは一瞬怯んだが、その後直ちに、目でものを見ようとする方法を止めた。瞼を閉じ、五感を最大限に生かして音と気配を全範囲で探る。
思った通り、剣の半分から先が溶けて無くなっていた。柄から出ている根本の部分まで熱されて、赤く発色している。ジュエルは溶けた剣先を、剣同士を繋ぎ合わせている長い鎖に押し当てた。
ジュウゥ……!
すると、鎖も簡単に液体になった。押し当てられた所から赤い雫がボタボタと滴る。そこから鎖が断裂するのを確認すると、ジュエルは今右手にある、ただの金属と化した物を床に捨てた。
カシャン
大した音はしなかった。ジュエルは未練もなさそうに、黙って左手にある剣を両手に持ち、構える。しかし、その頬には一筋の汗が伝っていた。
少女は今も先程と変わらない位置で立っている。鮮やかな赤色の瞳は、遠くからでも確認できる程だ。
ジュエルは考える。
あの一瞬で金属を溶かすほどの熱は、どこから生まれたのか?もはや常識では考えられない現象であることは言うまでもなかった。彼女はバーナーや火炎放射器などは持っていない。隠し持っていたとしても、それを取り出すタイミングはなかったし、使った様子もなかった。
そうして情報を統合してみた結果、やはりあの現象は彼女の瞳の色と関連しているという結論に辿り着いた。つまり――彼女は人間には出来ない何かの能力を得た、ということだった。
ジュエルは、今この時も見ていた。
即ち
血のような赤に染まった
彼女の瞳を。
ジュワッ!!
剣が少女に当たった瞬間、何か可笑しな音がした。
ジュエルには一瞬何が起こったのか分からなかった。何故なら彼女の瞳から目を離すことが出来なかったからだ。
だが、ジュエルは変に右手が軽くなったのを感じた。それに、突然目の前で見慣れない液体が飛び散ったのを見た。何かが高温で熱されて溶けたような、炎の色を帯びた液体だ。
実際、1、2滴その液体がジュエルの手や顔につくと――強化人間なので平気だったものの、普通の人間なら大火傷をするような温度を感じた。
「……?!……」
時を刻む速度が、急激に遅くなる。
ジュエルの目には、かなりゆっくりとした速度で降る炎の雨と、その向こう側に立つ赤い瞳をした少女の姿が映っていた。
そこで起こったことを理解したとき、
ジュエルは言葉が出なかった。
バッ!
ジュエルは激しく身の危険を感じ、今いた場所から大きく跳びずさる。そうして距離を置くと、恐る恐る右手に握っているものを見た。いまだに、そこからはジュワジュワという音が聞こえていた。
そして左手の剣が唸る。ジュエルは無駄な動きを最小限に押さえ、踏み込んだところからの突きを繰り出した。
瞬間。
微かに、少女の半開きだった瞼が開いたように見えた。彼女はジュエルの攻撃を避けるように、体を勢いよく右の方に捻る。
ザッ!
「――!…」
が、遅かったらしい。そこに鮮血が少しだけ飛び散ると、彼女の右上腕に細長い切れ込みが出来ていた。彼女は虚無の表情を殆ど変えない。それでもジュエルは、彼女の僅かな焦りの空気を感じ取ったようだった。
「はぁっ!」
ヴゥンッ!!
ジュエルは彼女に体勢を立て直す暇を与えず、先程の突きから流れるように――右手の剣を下から斬り上げた。空気が低く震え、剣は目にも止まらぬ速さで、がら空き状態の少女の胴体に向かっていく。
このまま何も起こらなかったら、その攻撃は確実に彼女へ届いていた。
だが、
その時『異変』が起こったのだった。
「――なっ…」
ジュエルは少女に剣が届く直前、それに驚きの声を漏らした。
彼が何を見たのかは、第三者から見れば直ぐには分からない。その『異変』はほんの少しの変化だったのだ。
簡単に結果として言葉にすると――ジュエルは、少女が目を見開くのを見て声を上げた。
そう。彼女はこれ以上ないくらいに瞼を大きく開き、眼球を空気にさらしていたのだ。それは先程までの無機質な表情とは明らかに違った。
しかし、問題はその表情の激しい差ではなかった。
「!?」
ジュエルは息を呑む。何故なら、ジュエルが今斬った所には何もなく――斬ったのはただの空気だったからだ。確かに斬り込みのタイミングを正確に計ったのにも関わらず。
少女は音もなく消えていたのだ。少女がどこに行ったのか、ジュエルにはその瞬間に理解することが出来ない。しかし、そこで第六感とも言える感覚がはたらいたようだった。
「っ――!」
ジュエルは、勢いよく後ろに振り返る。
ガッ!!!
すると同時に、少女の短剣とジュエルの右手の剣が激しくぶつかり合った。そして互いにぎりぎりと小競り合う。
その時ジュエルの瞳には、少女の不気味な程な無表情が映った。それは例えて言うならマネキンに近い。人間の形をしているのに、人間ではない。そんな無機質さしか感じられず、ジュエルは眉根を寄せた。
「くっ…お前は、」
ジュエルは、どんどん重みを増していく少女の剣をぐっと押し返す。そして――
「それでいいのか!!」
ギィンッ!!!
辺りに大きな金属音が響き渡った。ジュエルが少女の剣を振り払ったのだ。それにより少女は後ろへ押し出される形でよろめく。
バッ!!
ジュエルはそこに踏み込んだ。
ギィン!!
少女は攻撃を防いだところから、そのまま片手でジュエルの剣を振り払った。その時ジュエルの前に生じた小さな空の空間に、容赦なく短刀が煌めく。
ヒュッ!ヒュンヒュン!!
前に踏み込みながらの連続切り。少し粗めの斬撃だったが、気の入れ具合が違う。1回も当たれば致命傷になる――そうジュエルは直感した。
ギィン!!ガッガガ!!
断続的に続く少女の短刀を、1つ1つ両手の剣で確実に防ぐ。少女の剣の重さに、ジュエルは少し息を胸の辺りで止めた。
(前より強くなっている…それもずっと!)
この時点からジュエルは防に徹し気味になっていたが、心中では虎視眈々と攻撃の機会を伺っていた。どこかに生じるであろう動作の綻びを全神経を研ぎ澄まし、探る。
すると。
ブンッ!!
ある瞬間、少女の短刀が空ぶった。そして僅かであったが、その時少女の脇腹の辺りには空の空間が生じていた。
その映像が、ジュエルの脳内に素早く行き渡る。彼にとってこのチャンスを逃す手はなかった。
「オォ!!」
ブンッ!!!
タイミングと位置を十分に見極め、気合い一閃。
しかし、次の瞬間――
ジャキッ!
少女は銃をホルスターにしまい腰の短刀を右手で引き抜くと、走り出す。同時にジュエルも双剣を構え、応戦体勢に入った。少女はどんどん加速し、真正面からジュエルに向かっていく。そして距離が互いの5m程まで縮まると、
とん!
軽く床を蹴った。そのまま短刀を突きの型で構え、空中から勢いよくジュエルに突っ込む!
ギィン!!
ジュエルは突きを横にそらすような形で、縦に構えた左手の剣で受け流した。それによって、少女はジュエルの左後ろの方に着地することになる。だが地に足をつく瞬間に、
タンタン!!
いつのまにかホルスターから再び引き抜いた銃を、至近距離から連射する。だが、ジュエルは少女が銃を引き抜く瞬間を見逃してはいなかった。銃声が響く直前に軽くフットワークを効かせ、2発とも当たらないように位置をずらしていた。
そして銃弾が後ろへ通り過ぎていった後、ジュエルはそこから攻撃に転ずるようだった。背を低くし、両手の剣をクロスさせて少女へと切りかかる。
ガ!!
クロスの状態から切り払うような斬撃をお見舞いしようとしたが、それは少女右手のの短刀によって止められた。少女はジュエルの剣の重い力をものともせず、着地した場所からも動かなかった。
闇よりも深い黒を湛えた瞳。そして長い黒髪をポニーテールで纏めているのが印象的な――10代後半の少女。すらりとした体のラインが見える戦闘服を纏い、腿のホルスターと腰にさしている短刀だけが目立っている。軽い武装だ。
前に1度だけ『SALVER』の部隊の襲撃を受けたときに刀を交えただけだったが、ジュエルはその少女をよく覚えていた。
だが今の少女の表情は前以上に無に限りなく近く、瞳には光が宿っていない。ジュエルはそれを見ると、両手に構えていた双剣を少し下ろした。
「この階にわざわざ誘ったのは――お前に俺をここで始末させるため、か。」
「……」
「俺はお前と戦う気はあまりない。戦うとしたら、今お前を使っている最上階の奴とだ。ロイを返してもらうついでに、『国』からの依頼だからな…『SALVER』を機能させなくするように、と。」
「……」
「俺がここに来た目的はそれだけだ。だから、今ここでお前が無駄に命を落とすことはないと思う。」
少女は全く何も答えない。ただ、目の前の目標――ジュエルだけをその死んだような目に捉え、向かってくる。
ジュエルは少しだけ重い溜め息をつくと、こう言った。
「言っても無駄か――残念だ。」
そこは大きめの多目的ホールのような所だった。
いや、どちらかというと物置と言った方が正しいのかもしれない。床も壁も灰色のコンクリートで目立った特徴はなく、ただ、そこらじゅうに空っぽの円柱型の水槽が立ててあったり、大小様々な機械が陳列していたりした。
床一面にはジュエルが始末した何十体もの獣の死体が血溜まりに転がっている。
獣の見た目はドーベルマンに近いが、頭から細長い触手が1本伸びていたり足の筋肉が外に剥き出しになっていたりと、やはり自然に発生した動物ではないことをうかがわせる姿だった。だがそれらは少しの時間も経たないうちに肉がみるみるうちに乾いていき、終いには皆ただの灰になっていくようだった。
やがて、ジュエルはそんな光景を脇目にして正面を見据える。その視線の先には、灰まみれになった床の上に佇む人影が1つあった。
その人物は右手に小さな銃をぶら下げて、ゆっくりとこちらに歩みを進めてきた。
「やっぱりお前…か。」
ジュエルはぽつりと独り言のように呟く。その人物は、ジュエルにとって間違いなく前に見たことのある顔だった。
タン! タン!
今度は連射だ。ジュエルは転がる勢いを利用して地に足をつき、そのまま流れるように体勢を立て直す。そして剣を構えると、
キィン!
暗闇の中にも関わらず、自分に向かってきた1つの弾丸を斬った。ジュエルは超人的に優れた視覚と、聴覚、それに空気の動きを捉える触覚を活用しながら、明るい場所で戦うのと同じような感覚を補っているのだ。
次に、ジュエルにはそこに残っている5体の獣がぐるりと自分を囲んでいるのが『見えた』。
バッ!!
獣達は一斉に飛びかかってきた。しかし剣を構えたジュエルの前ではそんなことはあまり意味をなさない。それらは次の一瞬で――
ザンッ!!
『ギャアァ!!!』
四方に飛ばされた。
血飛沫を上げながら。それぞれ部屋の壁に大きな音を立ててぶつかった後、全員沈黙した。
今回はいつものような剣舞ではなく、両手の一振りだけだった。ジュエルは斬った後の体勢を少しの時間維持した後、剣に付いた血を払うように、軽く空気を斬る。
――その時だった。
バヅン!
突然目立った音が鳴ると天井の明かりが一面ついて、辺りが急激に明るくなった。
「っ…」
ジュエルは眩しさに少し目を眩ませる。同時に、その部屋全体を視覚に捉えた。
そのまま獣に押し倒される形で、ジュエルは床に背をついた。
ド!!
「ぐっ!」
床は大理石のように硬く、荒い痛みと衝撃がジュエルの体を襲う。そして獣はその体の上に乗り、首を激しく振って、噛みついた左手首を喰い千切ろうとしているようだった。立て続けの痛みにジュエルは顔を歪める。
さらに悪いことに
タン!
ジュエルは思わず息を飲んだ。遠くから、またあの大したことのない音が鳴ったのだ。
「――ちっ!」
迷っている暇は無かった。ジュエルは強く舌打ちをすると、左腕を噛みついている獣ごと、床の方に乱暴に振り下ろした。強化人間の力を発揮したのか獣の体は軽々と持ち上がり、左腕の動きに従う。――結果。
ドガッ!!
「ギャイン!!」
獣は床に叩きつけられた。先程のジュエルが倒れたときとは少し違う、床が砕けるような音が鳴った。
獣はもうそれ以上動かなかった。力の抜けた獣の口から、ジュエルは素早く左手を引き抜く。そしてすぐさま、自分の体を右の方に転がした。
直後、
ガッ!!!
すぐ近くで金属に着弾したような音が鳴った。
ジュエルは2回目も被弾という難を逃れることに成功したのだ。――しかし、体の緊張を解くにはまだ早すぎることを彼は分かっていた。
ザシュザシュ!ブンッ!!
次々に獣を処理していく度、哀れな動物達の悲鳴が響く。しかしある時、それに入り交じって違う音が1つ鳴った。
タン!
大した音量ではなかったが、それは闇の奥の方から確かに聞こえた。ジュエルは反射的に獣への斬撃を中断し、その場から右の方に跳んで離れる。すると、
チッ
「っ――」
左耳に何かが掠ったような鋭い痛みを感じた。瞬間、ジュエルの脳内からひやりとしたものが全身に行き渡る。今の音が銃声で、もう少し避けるタイミングが遅ければ危なかったということがすぐに分かったからだ。
「ガアアァ!!」
そこに、1匹の獣が空中から突っ込んできた。
「!……くっ!」
だが、銃声に気を取られていたジュエルには隙ができていた。その上、今は空中で剣を構えていない無防備な体勢になっている。
それでも獣の牙が迫ってきていることを体で感じたのか、ジュエルは状況を頭で理解する前に、両腕を顔面の前でクロスさせていた。
そして、
ガブリッ!
「!」
ジュエルの左手首にはっきりとした痛みが走った。どうやら、獣がそこに噛みついたらしい。
1体の気配が飛びかかってきた。ジュエルは攻撃を避けざまに片手の剣を振る。
ザシュ!
肉を斬る音と、手応えが感じられた。
続けて4体の気配が飛びかかってきた。ジュエルは少し身を屈め、その後素早く自分にとって都合のいい場所へ動く。即ち、全ての攻撃を避けることができ、同時に全ての敵を1度にかたずけることの出来る場所だ。ジュエルは、4体が着地し同じ場所に集まったところを
ザン!!
なぎはらうように両手の剣で纏めて斬った。居合い斬りだ。
続けて10体、いや20体。もしくはそれ以上かもしれない。何体も何体も、それぞれ不規則なタイミングで襲いかかってくる。しかし、ジュエルはそれら1体1体に正確に対応をしていった。
ある時はシンプルに双剣を使いこなしながら。ある時は体術を織り交ぜてみたり、ある時は剣を持ちながら体を独楽のように回し、周囲の敵を一掃してみたり。
それは、
暗闇の中の激しい戦闘だった。
エレベーターの扉が閉まる様子はない。ジュエルは外へゆっくりと踏み出した。
「グルルルルルル……」
低い唸り声が四方から飛び交っている。それらの存在はとても分かりやすかった。何故なら暗闇の中に、エレベーターの明かりを反射して光る獣の眼球が、いくつもいくつも蠢いていたからだ。
ポーン
……ゴゥン
そして今更のようにエレベーターの扉が閉じる。すると辺りは完全な闇に包まれた。同時に眼球の光も一斉に消え、先程からずっと鳴っている唸り声だけがその空間に残された。
「………お前達にあまりかまっている暇はないんだ。」
ジュエルは溜息混じりに言う。
勿論返事はない。周りの殺気はいたずらに膨らみ続けるばかりで、今にも破裂しそうだ。ジュエルはすっと双剣を構え、戦闘態勢に入る。視界が完全に奪われた状況でも彼は全く動じず、ぽつりと獣達に話しかけた。
「来るならまとめて来い。来ないならこっちから斬りに行く。」
時が砕け散ったのはこれがきっかけだった。
『ガアアァアア!!!』
『オオオオンッ!』
数体の気配が、空気を斬りながら勢いよく動いた。
それでも、ジュエルは躊躇わずにエレベーターに足を踏み入れる。残された時間がもう少ないことを、十分に分かっていたからだ。
そして完全に乗り込むと、そこにあった数字入力式のボタンに60と打ち込んだ。グロウが言っていた、研究ブースのある階だ。ジュエルは、そこからしらみつぶしに捜索するつもりだった。
ゴゥン
ウィーーーーン
エレベーターの扉が閉じ、結構な速さで上がっていく。階の表示は、0.6秒毎に変わっていた。このまま一気に60階へと上がっていく――かと思いきや。
ウゥーーン……
「?」
何故か、エレベーターはその手前の59階で止まった。ポーンと平和な音を立て、またその扉を開く。
と、
ザンッ!!
ジュエルは、何かを斬り飛ばした。
それは一瞬の出来事だった。何かが開いた扉から飛び出してきたのだ。
「ギャウン!!」
人のものではない叫び声が1つそこに響くと、
バン!!!
それはエレベーターの後ろの壁に激突し、血の飛沫を飛ばした。ジュエルはそちらには振り向きもせず、前を見据える。エレベーターの扉の先は真っ暗闇だった。
その中に、剥き出しの無数の殺気が感じられた。
そんな疑惑を持ったままでも前に進むしかない。ジュエルにとっては、とにかくロイを助け出すことが先決だった。彼は入り組んだ道を同じ歩幅で歩み続け、程なくしてエレベーターホールに辿り着く。
少しだけ広めの長方形の部屋に正面から入ると、エレベーターが間隔を空けて3つ並んでいた。周囲は酷く殺風景で、どこかの大きなホテルのような高級感は欠片もない。ベンチすらなく、床と壁と、エレベーターがあるだけの部屋だった。しかしそれ故に、その部屋の可笑しな点が入ってすぐに分かった。
ジュエルが注目したのは、2つのエレベーターに挟まれた真ん中のエレベーターだった。
可笑しな点というのは、そこの扉だけが開いていたことだ。
「ここに入って下さい」と言わんばかりに。しばらく見てても扉は閉まらずに、その口を開けたまま、エレベーター内の明かりをこちらの闇に落としている。そして更に可笑しかったのは、その隣にある2つのエレベーターは動いていないことだ。
今2つのエレベーターは何階にあるのか分からないし、いくら脇にある上矢印のボタンを押してみても反応している様子がない。やはり、真ん中のエレベーターだけが、ジュエルを誘っているようだった。
そしてその行き先は――上。
ジュエルの考えは、かなり確信へと近付きつつあった。
何もない、只のゲートと化した改札を通り抜けた先には、細い廊下が続いていた。それは始め3本の分かれ道が十字に伸びていて、真っ直ぐ進んでみるとまた3本分かれ道があった。まるで迷路のようであったが、幸いなことに上の方には行先案内の看板がぶら下がっていた。
ジュエルの行き先は1つ。上に行くためのエレベーターだ。
看板に書いてある細かい字を見てみると、それぞれの道を示す矢印の上に『総合事務室』『会議室A8』『会議室A9』など、同じような部屋の名前が沢山書かれている。そして『エレベーターホール』の文字が隅の方に。ますます小さな字で、ある矢印の下に書かれていた。
それに従い、しばらく進む。
進んでも進んでも、人の気配はなかった。電車から降りた人間はどこへ行ったのだろうと、ジュエルはまたも疑問に思う。ビル内が停電したというのに、誰も動く気配がないというのも可笑しい。そう思い、ジュエルは歩いている間に、今まで感じた疑わしい情報を統合する。そして、1つの結論を導き出した。
それは――
(ここの人間は、部外者がロイを助けるためこのビルに来ることを分かっていた。そして今――部外者、俺を誘っている。何の妨害もせずに、只手をこまねいて。俺がロイの元に辿り着くのを待っている…?)
平たく言えば、
これは罠かもしれない。ということだった。
コツ…コツ…
薄暗闇と沈黙の空間の中で、足音だけが響き渡る。ジュエルは辺りを警戒し、慎重に歩いた。そうして改札の前まで来ると、そこには昔ながらの改札機が3台程並んでいた。カードをかざすと、先に取り付けられている小さな扉が開くタイプだ。
しかし、
機械は動いていなかった。
それはある程度予想が出来たことだった。改札機をカード無しで通ってみても、機械は開きっぱなしの扉を閉じることもせず、警報音も鳴らさない。ジュエルにとってとても好都合なことであったが――やはり異様だった。
何故先程のタイミングで建物の電力の大半が落ちたのか。その疑問を拭い去ることは出来ない。それにもう1つ、ジュエルの中には少し前から引っかかっていることがあった。
それは空中都市に自分が来れたことだ。ジュエルはヒカルが言っていたことを思い出す
即ち、
『空中都市には団員のカードだけでは来ることが出来ない。中枢で認められた人間しか、空間移動ゲートを通るのは不可能だ。』
という言葉を。
ジュエルは、この時自身に駆け抜けた激しい違和感を今でも覚えていた。
ウゥーーーン………
「?!」
ジュエルは思わず辺りを見回す。
それはそうだった。
突然何かが機能停止するような音とともに、先程まで煌々とついていた天井の明かりが――暗くなっていくのだから。
幸いなことに、天井の明かりが完全に消えるということはなかった。ぼんやりと紫がかった光が暗闇を薄く照らし、何とか景色を映し出している。
ジュエルは微動だにせずに、周囲の様子をうかがっていた。背後から来るものはないか。電車の中に隠れているものはないか。改札機の陰からこちらを見ているものはないか。
しかし、全くと言っていいほどそんなものの気配は感じられなかった。代わりに全身の感覚器に押し寄せてくるのは、不気味な程の静寂。人の気配は勿論、建物も機能している感じがしない。暗闇の中に見えるホームの景色にも変わった様子は皆無だった。
シャキン
ジュエルは腰から双剣を2本同時に抜く。そして少しの間同じ位置から動かなかったが、やがて意を決したように歩き出す。まずは、正面に見えている改札へと。ジュエルはグロウの最後のメッセージに従った。
「――リタ――」
『…さてジュエル。心の準備はそろそろ出来たでしょうか?ここからは僕の言う通り進んで下さいね。通信機に搭載してある超小型広範囲熱感知器で『SALVER』の人間の位置もこちらで把握できるので、見つからないように僕が指示します。いいですか?』
「……、ああ。頼む。」
ジュエルの返事は、どこか気のないものになっていた。何か別のことを考えていたような、そんな感じだ。グロウはそれをあまり気に止めることなく、案内を始める。
だが、
『ではいきますよ。まず、正面に見えている――
ブツッ!』
「?」
不意に、通信機から何かが切れたような音が聞こえた。そしてその後に続くはずのグロウの言葉が、何も出てこない。少し待ってみても同じだった。当然ジュエルは疑問に思い、襟から通信機を取り外してみる。
「グロウ?…グロウ!」
通信機に向かって何度か名前を呼んだ。しかし、通信機はただただ沈黙するばかりで何の音も届けない。電源が切れていることを疑ったが、そこにある小さなランプには緑色が灯っていて、ちゃんと電源が入っているということを証明している。
それでも、もう通信機からグロウの声を聞けそうな気配はなかった。
(どうしたんだ?)
と思った、その時。
『こちらの解析データを見て判断するとなると、この建物の60階より上の階かと思われます。』
「…根拠は?」
『その階には数多くの研究ブースが存在しているんですよ。体の中の遺伝子を取り出したりするのにはそこが丁度いいと思いますし…他に外から持ち出してきた強化人間を置いておく場所なんて、あまりないと思います。
ちなみに貴方が今いるのは47階ですが、20階から59階までは『SALVER』の機密情報等を扱う特級団員の働く場所になっています。1階から19階はその方々が使う生活ブース…まあいわゆるホテルみたいなものです。
そして地下ですが、どうやらエンジンルームのような所に繋がっているようですね。かなり地下の面積は広く、大掛かりな機器が所狭しと並んでいる所です。察するに、それがこの空中都市の動力源なのでしょう。』
「やっぱり、ここには『SALVER』にとっての重要な要素が凝縮しているということになるのか。」
『まあ、そういうことですね。更に付け加えておきますと、ここの最上階である、80階を叩けば『SALVER』は簡単に機能停止するでしょう。そこが、この建物全体の…いいえ、都市全体の司令塔ですからね。』
「そこに、元凶がいるのか?」
ジュエルの何度目かの問いに、グロウは初めて無言になった。しかし少しの間を置いた後、少し含み笑いをしながら1人の名前を口にした。
『――リタ、です。恐らく。』
「あいつはCブロック行きの電車とここに来る電車が交わる時間を知っていた。ああいう内部の人間の力を借りたおかげで、手っ取り早い方法が取れた。」
『まあ、あの研究員には余計なことをされてなければいいのですが。…では、早速進みましょうか?』
「ああ。俺は今どの辺りにいる?」
グロウは通信機の向こう側でキーボードを打つ。その間にジュエルが周りを伺いながらホームの方に上がると、そこは比較的広い空間だった。電光掲示板や椅子等の物は必要最低限しか置かれていず、寂しいホームだったが中々清潔感も感じられた。そこに厚くて不格好な装備をしている電車が止まっているのはあまりにも合っていないと言える程だ。
『今貴方がいる部屋は2C-534という所です。位置としては丁度、外から見えた一番高い建物の半分くらいの所と言ったところでしょうかね。』
「……グロウは、どこにロイが居そうか予想はついてるか?」
『そうですね――』
ジュエルはホーム側ではなく、線路の敷いてある方へ飛び降りていた。そうすることで、一時的に電車の陰に隠れることが出来る。
ポーン
と、どこかの駅で聞くような合図音が鳴ると
プシューッ!
と、また勢いよく空気の抜けるような音が鳴った。今度は何か重いものがスライドするような音も混じっていたことから、電車のドアが開いたことが容易に予想できた。
『中央塔2C-534ホーム、中央塔2C-534ホーム。お降りの際はお忘れ物にご注意下さい。』
女性のアナウンスと一緒に、硬い床を硬い靴で歩くような足音が複数聞こえてくる。ジュエルは電車に背中を張り付けて、そのまま足音が消えるのを待った。
そして完全に人の気配がなくなった時――ジュエルはやっと身を弛緩させる。
「グロウ…今まで黙っていたから、驚いた。」
『いやいや、驚かされたのはこっちですよー。まさか中心部に来るのにこんなに派手な手を使うとは…それ以前に、貴方が他の人間に見つかったのもかなり冷や冷やものでした。』
そして建造物に向かって何本もの線路が、壁から様々な曲線状になって伸びていた。それらはまるで何かのアートのように1本1本が綺麗なラインを描き、その上を何本かの電車が比較的ゆっくりとした速度で行き来している。気付けば今ジュエルが乗っている電車も、先程と比べればずっと遅めになっていた。
大きなカーブを滑るように走り――カーブが終わる頃にはもうゴール地点だった。建造物の中腹あたりに大きく口を開けている所がある。電車はそこに吸い込まれるようにして上の方から入っていった。
そこから忽ち速度が落ち始め、最後には建造物の中で停止した。
プシューーーーーー
完全に停止すると、発車するときと同じように高い空気の音がそこに響き渡る。その時初めてジュエルの体の緊張が全て解けた。ジュエルからは思わず大きな息が漏れ――しかし、そうして安心したのも束の間のことだった。
『ジュエル。早くそこから降りないと見つかりますよ。』
「!…」
首もとから突如聞こえたその声にジュエルは反応する。そして反射的に電車の上から身を翻し、地上に着地した。
それによって電車が壁にぶつかることはなかった。寧ろ、突き抜けるような形になった。
その壁に何重にも設置してあったシャッターが次々と開いていき、行き止まりだった線路の先の道が開いたのだ。結果、そこに電車が辛うじて入れるくらいの穴があくことになる。
ジュエルには躊躇する暇もなかった。即座に全身を倒し、うつ伏せの状態になる。
ガーーーーー!!!
電車が壁の内部を駆け抜ける。いくつかの小さな電灯に照らされた薄い闇の中で、今までとは違う風の音が鳴った。同時にジュエルは激しい耳鳴りを感じた。彼はこの壁の中を通過するまで、ただそこに伏せて耳の痛みをこらえる。その時間はとても長く感じたが、実際にはほんの5秒程だった。
壁の中を抜けると一瞬にして、再び周りに景色が広がった。ジュエルは微かに呻きながら顔を上げる。
するとそこには、
外の世界から隔離されたもう1つの世界が存在していた。
(――ここか――)
ジュエルは心中で呟く。
まず一番目立っていたのは外界からも見えた、ビルが密集している建造物だ。それらはやはりとても巨大で、この世界を区切る壁の高さを軽く越えていた。中で一番高さがあるものは、ビルというよりもタワーに近かった。
ジュエルを乗せた2本目の電車は、真っ直ぐとした線路を走るかと思えば時にはカーブを繰り返し、その度ジュエルは振り落とされそうにないよう身を屈めた。
なので、彼に周りの景色を見る余裕は既にあまりなくなっていたが、段々と都市の中心部に近づいているような感覚はあったようだ。
この都市を上から見てみると、中心部というところは壁で囲まれ、仕切られているのがよく分かる。その壁が――段々と近づいてくるのだ。
地上からでは遠すぎて分からなかったが、壁はかなり高く分厚い。そのずっしりとした存在感は、まるで人を通すことなど絶対にないということを物語っているかのようだ。
その時、
ゴォオ!!
「!」
電車が突如加速しジュエルは息を飲む。さらに電車の進む先を見てみると――何と真っ直ぐ壁の方に向かっていて、線路は壁の所で途切れていたのだ!
ぶつかる………?!
ジュエルのそんな考えもお構いなしに、電車は全く速度を落とすことなく壁へと突っ込んでいく。そこまでの距離が5mになった時点でジュエルは思わず身を固めた。
すると、
カシャカシャカシャカシャ!
途切れている線路の先にあった壁が『変容』した。
半ば吹き飛ばされるように、ジュエルは宙に躍り出た。周りに巻き起こっている風ををうまく使いながら、自分が落ちていく角度と速さを完璧に計算する。
最後は体に任せた。自分が落ちていく内に下の線路を走る電車の屋根が近づいてくると、ジュエルはそこにむかって限界まで腕を伸ばした。そして――
「はっ!」
ガシッ!!
掴んだ。電車の屋根にある、唯一手で掴める場所を。
ゴオオオオォォォォ!!!
その後、2本の電車は完全に交差地点を通過し、それぞれ全く別の方向に猛スピードで向かっていった。
今一体ジュエルが何をしたのか纏めてみると――飛び移ったのだ。Cブロック行きの電車から、それとは全く違う場所へと運行する電車へ。
向こうから発車した別の電車がこちらへ走ってくるのが微かに見えた。結構な距離だったのでその速さはよく分からなかったが、その内どんどん、どんどんこちらへ迫ってきているのが分かった。しかもジュエルが乗っているこちら側の電車も走るので、2本の電車の距離はみるみる縮まっていく。
やがて、ある地点で向こうの電車は急カーブにさしかかる。カーブを曲がってそのまま行ったところには、もう線路の交差地点があった。そしてこちらの電車も真っ直ぐにそこに向かい始めている。
その後に『時』が来るのは5秒も経たなかった。
向こうの列車がカーブを曲がりきり、線路を駆け抜ける。こちらの電車も真っ直ぐ駆け抜ける。どちらも線路に沿って、迷わず交差地点を目指している。こちらの線路が上の方。あちらの線路が下の方で交差している所へと。
結果
2本の電車が交差する――
その『時』に。
「――ッ!」
ジュエルは先程まで掴んでいた部分から自然に手を離した。そして、浮遊感が強くなる前に――
タッ!!
瞬時に、今いる足場を強く蹴った。
空気が痛いくらいに頬にぶち当たり、ジュエルは思わず小さく呻いた。そして電車の上からの景色を見てみると、先程まで居たはずのホームはとっくに無くなっていた。
ゴオオオオォォォォ!!!
ドームの天井が勢い良く近付く。空中で大きなアーチ状になっている線路を、電車はどんどん駆け抜けていく。下の方を見てみると、宝石箱のように輝くビルの世界が広がっていた。
「っく…!」
ジュエルの体にかなりの重力がのしかかっている。車体の一部を掴んでいる手は千切れそうになっていた。しかし今そこから手を離せば間違いなく吹き飛ばされ、ただ宝石箱へと落ちていくだけということは言うまでもない。
ヴゥン!!!
風が唸りを上げる。電車はあっという間にアーチの頂上へと上り、その次は下りに入っていった。下りは重力の法則に従うので、さらに電車は加速する。その中で。ジュエルは風で目を霞ませながらも、ある一点を注目し始めていた。
それはもう少し先の方にある。今この電車が走っている線路と、全く違う方向に伸びている別の線路――それが上下で交差している地点だ。さらに別の線路の元を辿ってみると、やはり駅のような大きな建物が見えた。
そこから電車が発車するのが見えたとき、
ジュエルは身構えた。
――そして。
『間もなく、Cブロック行きの電車が到着します。危ないですので、白線の内側までお下がりください。』
ゴーーーーッ!
後ろから勢いよく電車が来る。電車は瞬く間に減速して停止すると、そのドアが一斉に開いた。
2人は、そこで別れる。
互いに背を向けて、前に歩く。すると互いに電車へとなだれ込む客の渦に飲まれ、忽ち存在が分からなくなった。しかし、ヒカルはふっと振り向いて姿の見えなくなった存在に向かって一言
「頼んだよ、ジュエル君。」
と残す。その後、彼も客の一部になった。
プシューーーー!
高い、空気の音が響き渡る。例によってまたアナウンスが放送されると、ジュエルは電車が低い唸りを上げるのを感じた。
ジュエルは確かに電車の上で膝をつき、誰かに気付かれないよう背を低めにしていた。その表情は少しだけ固いだろうか、彼は静かに前を見ていた。
ガクンッ!
電車が大きく揺れて前進する。発車するようだ。少しずつ風を切っていくのを肌で感じ、ジュエルは奥歯を噛む。
瞬間。
ゴォオッ!!!
「!!」
2人はそれから、10分に1度くらい来る電車を4本ほど見送った。電車が後ろの方から来てここに止まり、ドアが一斉に開く度に次々とやってきた客がそこに乗り込んでいく。そして時間になるとまた電車が有り得ない速さで発車していく。そんな様子を退屈そうにヒカルは眺めていたが、4本目の電車が出てしばらくした後、急に言った。
「次だよ。」
ジュエルはその言葉にピクリと反応し、視線だけそちらに向けた。ヒカルもそれに視線を合わせる。
「これを逃したら、またしばらくチャンスを待たなければならない。中心行きは他と比べて本当にあまり通ってないからね。
そろそろ君はどこかに隠れて電車を待った方がいいよ。流石に、その…電車の上に乗ってるのが他の人に見つかると不審者扱いされるだろうから…というか、下ろされるだろうから。」
「分かってる。」
ジュエルは少しも憶する様子なく頷いた。見れば、周りには既に他の客が増え始めていた。
「さて、なら僕とはここでお別れだね。短い間だったけど、僕は君に会えて良かった。君から話を聞いて、今『SALVER』で起こっていることがよく分かったからね。」
「その人を信じやすい性格は、直しておいた方がいい。でもおかげで中心へ行く手だてが見つかったから――それは感謝したいと思う。」
「あはは、最近の子は一言簡単に『ありがとう』って言えないのかなぁ…。時代も変わってるもんだね。」
ヒカルは壁に軽く背中を預ける。そのすぐ後に、ホームにポーンという高い音が鳴り響いた。
『間もなく3番線のCブロック行きが発車いたします。ドアが閉まります。お乗りにならない方は、危ないですので白線の内側までお下がりください。』
脳天気な女性のアナウンスがそう告げると、急にいくつもの分厚い自動ドアが同時にスライドして入り口を閉ざした。そして、
プシューーーー!
電車は勢いよく音を鳴らす。すると重そうな巨体がゆっくりと動き出した。しかし、そのゆっくりとした速度は、次で砕け散ることになる。
ヴンッ!
この時、ジュエルは空気が大きく振動したように感じた。何故そのように感じたのかは、よく分からない。今目の前で起こったことが速すぎて、眼に止まらなかったからだ。
そして気がつくと――
電車は、そこから消え失せていた。
ホームからどんどん上に上がっていき、空中へと伸びている線路を見ても、何もない。電車は完全に2人の視界から消えていた。
だがジュエルは、一瞬だけ線路を物凄い勢いで駆け抜ける電車を見ていた。だから、辛うじて分かった。今電車が発車しCブロックへと向かった、という事が。
「……もう一回聞いとくけど。本当にやるつもりなのかい?」
ヒカルが短く聞く。
ジュエルも短く答えた。
「やる。」
「……ああ。」
ジュエルは少し複雑な表情を浮かべながら駅の窓の向こうを見る。するとそこから、空中で何本か綺麗な曲線を描いている線路の上を、細長い電車が走っているのが見えた。そのスピードはとても速く、思わず「これは実は絶叫マシンではないのですか?」と聞いてしまいそうな程だ。
「じゃあ、行くよ。」
ヒカルは一言だけ言うと、改札ゲートへと足を進めた。勿論、ジュエルは躊躇うことなくその後に続く。そして風変わりな改札ゲートを潜ると、すぐ大きな道があった。そこからそれぞれの行き先に対応したホームへの下り階段が3つ目に入る。
2人はCブロック行きのホームへ行くようだった。
「中心行きの電車のホームは、ここの分岐からでは通じないんだ。さっきも言ったけど、そこには上から認められている人間しか絶対入れないからね。」
ヒカルの短い解説が終わって少しすると、もうそこは階段を下り終えたところ――ホームだった。狭い空間にかなり丈夫そうな装甲に包まれている長い電車が、シューーという高い空気音を立てながらそこに止まっている。しかもどうぞ入ってくださいと言わんばかりに等間隔にある扉がどれも開いている。しかしヒカルはそこに入ろうとはせずに、こう言った。
「この時刻は違うな。多分次の電車だから、もう少し待つよ。」
それから数十分程後のことだろうか。2人は再び駅の前まで来た。初めて来たときと同じように、ヒカルが後ろにジュエルを連れる形だ。2人は周りにいる大勢の人間の目など気にすることなく、そのまま駅へと入っていった。
そしてヒカルは駅の中にあった客人専用の小さな切符販売機で1枚切符を買い、ジュエルに手渡す。切符には『A→C』という文字と、購入した日と時刻が印刷されていた。
「しかし、本当にこの方法で大丈夫なのかい?かなり危険だろうけど…。」
ヒカルはぼそりと、低めの声で聞く。ジュエルは沈黙したままだったが、目で答えを言っていた。その答えがあまりにあからさまだったので、ヒカルは少し苦笑する。
「…分かったよ、行こう。あ、そういえば、君の名前をまだ聞いてなかったね?」
「聞いてどうする?」
「まぁ、特に理由はないけれど一応こっちは名乗ったわけだしね。こういうのは礼儀ってもんだと思うから。」
「………。ジュエル。」
「ジュエル君、か。これからの幸運を祈っているよ。」
前にも増してジュエルはぶっきらぼうになっていたが、これまたヒカルはあまり気にせず柔らかい笑みを見せた。まるで、先程のビル陰での話など全部無かったことになったかのように。
「僕は君を信じる。その代わり、やると言ったからには必ずそれを成し遂げてほしい。…僕達を、解放してほしいんだ。」
「解放?」
「今の『SALVER』では、人造生物となった被害者を救うなんて無理――ここにいる全員がそう思ってる。皆口には出さないけど、上と僕らの関係が拗れてきているのは薄々気づいていると思うよ。
けれど、研究することしか能がない僕らには上に逆らう力なんてない。だから今の『SALVER』を変えることが出来ないでいるんだ。僕等は今も上の指示通り動いて、ひたすらあてのない研究をしているだけだ。」
「…つまり、現在のシステムを保っている上を黙らせるために、外部の力が欲しいということか。」
「君に今の僕等の生活を変える力があるというのならば、僕はそれに賭けたいと思う。…『SALVER』は生まれ変わる必要があるんだ。」
ヒカルの言葉の他力本願な部分にジュエルは少し呆れたようではあったが、それを口にすることはなかった。
「頼むよ。君が殺した僕の大切な友人のためにも…ね。」
ジュエルはゆっくりと頷く。
「…分かった。」
そうジュエルが言い終えると、ヒカルは場を切り替えるようにぱんっ!と両手を前で合わせた。
「そうと決まったら早速作戦だ!」
「俺は人造生物を討伐するだけの人形でしかない。これからも人造生物が俺の視界に入り続けるなら、俺は迷わずそいつらを殺すだろう。例え、元々人間だったとしても。
だから俺はここに来た。犠牲者をこれ以上増やさないためにも、お前達の言う中心とやらを――倒す。」
ジャキ…
ジュエルが双剣の片方を握ると、重い金属音が鳴った。ヒカルはやはり嘆きもうろたえもせずに、ただ黙ってジュエルの目を見ていた。
「お前が今の俺の話を信じるかどうかは自由だ。今ここで敵討ちという名目で俺を殺しにかかってくるつもりなら容赦をするつもりはないが…もし、話を理解してくれたのであれば、俺があそこに行けるよう手を貸して欲しい。それが嫌だったら俺を放って仕事に戻ったって構わない。
…さあ、お前はどうする?」
ジュエルはいつでも剣を引き抜けるように柄を握ったまま聞いた。緊迫した空気が2人の間に流れ込んだ――のも束の間。
「分かった。君を、信じよう。」
「……。」
答えは、呆気なく返ってきた。
「僕も協力するよ。君が中心へ行けるように。」
「随分、無警戒なんだな。」
「だって。今の話が本当なら、今すぐ中心を止めなきゃ駄目じゃないか。」
「…本当じゃないかもしれないだろ。」
すると、ヒカルは困ったように笑った。
「何て言うのかな…僕にもよく分からないんだよ。ただ――君が僕の事をすごく真っ直ぐ見て言葉を言うもんだからね。」
彼の視線の先にあったものは、地面に落ちている先程のカードだった。やがて、彼はよろよろとおぼつかない足取りでそれに近づき始める。ジュエルはその様子をただ見つめた。
ヒカルはカードを拾い、
それを目でよく確認する。
そして確認を終えると、小さくこう言った。
「――アルフレッド…」
その一言の後、長い沈黙がそこに流れた。ヒカルはジュエルに背を向けたまま動かず、ジュエルも今立っている場所から動かない。いや、空気が凍ってしまったせいで2人とも動けなくなってしまったのかもしれない。その中で重い口を最初に開いたのはヒカルの方だった。
「君が、殺したのかい?」
何故か、彼は酷く落ち着いていた。そこからは怒りも悲しみも感じられなかった。それが救いとなったのかもしれない、ジュエルは包み隠さずきっぱりと告げた。
「さっきも言ったとおり俺がやった。そいつも――手遅れだった。」
「………」
それがヒカルにとって心に大きな傷を背負うことになりうるということは、ジュエルには十分に分かっていた。けれど、ジュエルは告げた。それ以上傷を浅くする方法など無かったのだから。
「本気で言ってるのか?…ウィル君。」
「今更だが。俺はウィルなんていう用心棒は知らない。」
「なんだって…っ」
「お前は最初から勘違いしている。俺はある『国』に雇われている、ただの人造生物排除係。別の理由もあるが、ここに来たのは『国』に命じられたからだ。――人造生物の根城を叩け、とな。」
「ということは……やっぱり。この失踪事件の原因は中心にあるってことなのか?人類に救いの手を差し伸べるはずの『SALVER』が、人造生物を作ってたって言うのかよ…?!」
ヒカルの声はわなわなと震えていた。悔しそうに下唇を噛むその姿を見ると、ジュエルはゆっくりと胸ぐらから手を離し、苦々しく呟いた。
「『SALVER』は、1つなんかじゃなかった。ということだ。」
そして、ジュエルは彼にありのままの真実を伝えた。『SALVER』の現状、行動。そこから見えてくる彼等の本当の目的。ヒカルはその全てを聞くと愕然とし、眉根を寄せてうなだれた。
「くそっ、それなら…僕達は今まで何のために…。」
絞るように呟くとぎゅっと両拳を握る。
それと同時だっただろうか。
「?!」
ヒカルは息を飲んだ。それはまるで何か見てはいけないものを見てしまったように――彼はあるものを凝視しながら身を固めていた。
混乱状態になりかかっているヒカルに構わず、ジュエルは短い言葉で問った。
「知ってるだろ?この特徴。お前が『SALVER』の団員であるなら。」
「はぁっ?!そ、そんなの分かるわけが無い!僕には君がさっきから何を言ってるのかさっぱり――」
と、何故か急にヒカルは静かになる。ジュエルの冷え切った視線によってそこに体を縫い止められたまま、
「ま、さか。」
どうやら何かに気付いた様子だった。
「…知っているだろう、お前は。あの、人間であることをやめた化け物を。」
「そんな、まさか。嘘だろ…?失踪した団員が人造生物になってるなんて。そんなことあるはずがない!僕の知ってる人間が次々に消えてるってのに?!…ぁ、」
ドッ!
ジュエルは更に片手でヒカルの胸ぐらを掴み、激しく壁に押し付けて黙らせた。
「残念ながらこれが真実だ。そして、俺はこの手でそいつらを何人も、何人も殺してきた。」
そう言いながらもう片方の手でポケットから何かを取り出し、地面に放り投げる。
「…っ!!」
ヒカルはそれを見ると、声にならない声を上げた。ジュエルが投げたのは、血で汚れた団員証だったのだ。それは空間移動ゲートを使う際に兵士の死体から奪ったものだ。
「ウィル君…?」
ヒカルは、次第に目の前で起こった豹変に戸惑いを隠せなくなってくる。その時を狙って、ジュエルは隙だらけのヒカルの手をぐいと引いた。
「ぅわっ!ちょっ?!」
そのまま無言で、ジュエルはヒカルを人気のないビル陰までずるずると引きずっていく。予想外の物凄い力にヒカルは抵抗することも出来ず。その内完全に2人だけになったところで、ジュエルはそこにあった壁に乱暴にヒカルを放り出した。ヒカルは背中を壁に打ちつけ、軽く呻き声を上げる。
そして、ジュエルは再びあの『声』で話し始めた。
「お前は知らないだろうな。でも俺は知ってる。何度もこの目で見たんだ。失踪した人間の、末路。」
「っ…それは、どういう意味なんだ?」
「そのままの意味だ。そいつらは自我を失い、ただの殺人兵器として動く人形になる。体だって原型を留めちゃいないぜ。まず目蓋と唇がなくなって、目玉と歯茎が剥き出しになってるんだ。」
「?!…」
「それに筋肉の一部や爪が極端に肥大化してる。そのせいで体はかなり不自然な形になるから、少し残ってる人間の骨なんかは変に曲がったり砕けたりもしているのもあるのかもしれないな。」
「君は…な、何を言ってるんだ…?!?!」
ジュエルは半人造生物となった『SALVER』の兵を思いだしながら、ただそこで覚えている事や分かる事を克明な言葉にしてヒカルに伝える。
言ってしまえば、この行動はジュエルにとっての賭だった。
「それは人が消える原因、という意味でか。」
そうジュエルが静かに聞くと、ヒカルは乾き気味に微笑んだ。
「…簡単な消去法で考えてるだけだよ。空間移動ゲートの使用記録とかは一応こっちにも回ってくるから。この空中都市内だけで失踪が起こっているとしたら、一部の人間しか入れない中心が一番怪しいかなって。
その上、さっきから言ってるとおり中心には下層の人間だけでは入ることが出来ないから、中心の誰かがそこに連れてくるしかないんだ。」
「……。」
「あはは、でもこんな話は有り得ないよ。大体上司が忠実な部下を拉致するなんて、一体何のメリットがあるっていうんだか……」
「――末路――」
「え?」
その時、ヒカルは思わず可笑しな声を出した。何故なら自分の会話とは全く繋がらないその一言で、話の流れがどこへ行ったのか一瞬で分からなくなったからだ。
しかし、理由はもう1つあった。
「今……何か言ったかな?」
恐る恐るヒカルは聞き直す。彼が何を恐れていたのかというと――ジュエルの『声』だ。
普段のジュエルの声は決して明るいものではない。しかしヒカルが先程聞いた声は、それとは比べものにならなかった。この世のものとは思えない程のどす黒い闇を湛えているようにさえ思える、『声』。
そして
彼の表情は虚無だった。
「お前は、失踪した人間の末路を知っているか?」
そこにいくつか並んでいる大きな出入り口には常に大勢の人間が出入りしているようで、内部からは時々何かの放送が聞こえてきたりしている。そして、ジュエルが少し上の方を見てみると、建物には大きく『STATION』という文字が彫り込まれていた。
「ここからブロック間を行き来するのか?」
と、ジュエルが一言。すると、ヒカルは純粋にそれに驚いた様子を見せた。
「察しがいいね~まだブロックのことも、ここのことも教えてないのに。」
「別に…。」
「そうそう。駅はこれからよく使うから今覚えておいた方がいいと思うよ。この空中都市は上から見ると丸い形をしているだろ?それを4等分して、それぞれA、B、C、Dブロックに分けられているのさ。
まあ中心にある所はそれらとは別なんだけど。…とにかく君が言うとおり、ここの駅から定期的に出る電車でブロック間を移動することができるんだ。」
「中心に行く電車はないのか?」
ジュエルは実に単刀直入に聞いた。通信機の向こうから、微かにグロウが吹き出す音が聞こえた気がした。
「え?あるっちゃあるけど…特別な許可がないと乗れないよ。もちろんチェックも厳しいし!そもそも中心、中枢は僕達みたいのが近づける場所じゃないんだ。
……だから、余計に怪しいんだけどね。」
「!」
ヒカルは最後の一言だけ小さく。しかし、ジュエルが聞き逃すのは有り得ない程はっきりとした発音で言った。
しかし、ヒカルは急に肩を落とす。後ろからついて行ってるのでジュエルには分かりづらかったが、その時には今の今まであった彼の笑顔は嘘のように消え失せていた。
「なのに、どうして…どうしてこの中の人間まで消えるんだ?消える理由なんてどこにもない。ここには僕達『SALVER』しかいないんだから。…僕達は人造生物となった人間を救う。皆それを望んでここにいる。」
「……。」
「僕達は、1つの筈だ。」
ジュエルはまた沈黙した。何故なら、ヒカルの言葉とは全く反対の現実を知っていたからだ。
半人造生物になった団員のことも、『SALVER』の目的が人造生物を人間に戻すということなどではないということも、ヒカルは知らない。今彼に本当の事を話すべきか、ジュエルには分かりかねていた。
「…おっと、余計にしゃべっちゃったかな。てなわけで、君に警備の仕事が回ってきたってわけだよ。何か不審なものがあったら調べて…まあ細かいことははDブロックで聞いてくれよ。」
その内ヒカルはぴたりと足を止める。気付けば、目の前には周りのビルとは違う、比較的大きな建物がどんと佇んでいた。
「いや、まあ。…ここ最近、『SALVER』では失踪する団員が増えているんだよ。地上に派遣されたまま帰ってこないっていうのはよくあることだったけど……とうとうこの空中都市内部にまで行方不明者が出始めたんだ。」
「…空中都市?」
さらりと彼の口から出た言葉を、ジュエルは繰り返した。
「そう!君は空間移動ゲートを潜ってきたから気付かなかったかもしれないけど…ここは空に浮かんだ街なのさ!
ここには唯一の入口である空間移動ゲートを通れる『SALVER』の団員しか存在しないんだ。ゲートは団員以外の不審者が入らないよう、中枢のコンピューターがちゃんと管理しているしね!」
「…だとしたら、随分管理の甘いコンピューターだ。俺みたいな部外者が、カード1つで入れたんだから。」
ジュエルは誇らしげに語るヒカルに、じとっとした視線を送る。
「ふふふ。ところがその点は大丈夫なんだよ。僕らみたいな下の人間にまで全ての情報は回ってこないけど、団員とか君みたいに頼まれくる人のデータは、1人1人きっちりコンピューターに叩き込んであるんだ。
君も、ちゃんとした君自身のデータをこっちに送れって言われたろ?全体写真やら指紋やら大変なんだよなぁ…あれはこのためだったんだよ。」
「…?…それってつまり、」
「つまり、この空中都市には『SALVER』のカードだけじゃ入れないって事!中枢が許可した人間しか空間移動ゲートを潜ることは出来ないのさ。」
(………何だって?)
激しい違和感が、ジュエルを突き抜けた。
「それとそっちからの自己紹介は必要ないよ。確かウィルって言ったかな?実験ではドジな僕でも、書類くらいはまともに見れるからね。…しかし顔写真がなかったからだけど、まさか用心棒がこんな子供だとは思わなかったなぁ…。」
「……。」
「ここの構造よく分からないだろ?でも大丈夫!僕が今から君の勤め先のDブロックまで案内するから。――こっちだよ。」
正直、ジュエルにとってヒカルの性格はかなり苦手な部類だった。一方的で、しかも妙に子供扱いするのが少し癪にさわる。けれど彼の笑顔からは、まるで親切心しか感じられない。ジュエルはもやもやとした苛立ちをぐっと心の奥で押さえつつ、ヒカルの後に続いた。
2人はビル陰からすっと明るみに出る。周りには沢山人がいて、ちらりとこちらを見て通り過ぎる者や、完全に無視していく者など様々だったが、不思議と侵入者騒ぎになることはなかった。
「……用心棒って、誰の?」
勿論ジュエルはDブロックでの仕事とやらを引き受けるつもりはさらさらなかったが、興味本位で聞いてみる。するとヒカルは軽く振り返って「あれ、Dの連中から聞いてないかい?」と首を傾げた。
「うーん…何て説明すればいいかな。用心棒って言うより警備って言った方が適当かと思うけど。」
「?」
「っということは――ああ、分かったぞ!」
彼はぽんっと手のひらに拳を軽く載せる。そしてジュエルに口を挟む余裕を与えることなく、こう言った。
「君は最近Dブロックの連中に頼まれてきたっていう用心棒か!何だかイメージとはちょっと違うけど……きっとそうなんだろう?!」
「………。」
何とも一方的で、訳の分からない方向に話が進んでいることにジュエルはいい加減溜め息をこぼした。けれど彼の話にうまくそっていけば、本部の中心に入り込むのが容易になるかもしれないと直感する。だからジュエルも口を開くことにした。
「お前、誰なんだ?」
丁寧に応じてみようかとも思ったが、ストレートに疑問をぶつけてみた。かなり打ち捨てるような口調になってしまったが、彼が気を悪くした様子は全くなかった。
「あ、ああ、これは失礼。僕はAブロック事務のヒカル・サクラダという者だよ。」
ヒカルと名乗った彼は首から下げた例の団員証を指でつまんで見せると、ニッコリと微笑んだ。そこからは微塵の悪意も感じられない。
「人事とかの管理が僕の主な仕事だからね。君、僕と偶然ここで会って幸運だったよ?」
相手は20代くらいの細身の男性だった。眼鏡をかけていて、ピシッとした白衣を身に纏っている。そこまで見ると真面目な研究員らしく見えるが、雰囲気はどことなく頼りなさげだった。ちょっぴり寝癖のついた髪と、眼鏡の奥で落ち着き無く動く、大きな灰色の瞳が印象的だった。
「…。」
ジュエルは位を見定めるようにその風体をしばらく無言で見つめた。すると忽ち目の前の男性は「あ、ええと…。」としどろもどろに空いた間を埋め始める。そして、そこから彼はたたらを踏むようにして1人で喋り出した。
「き、君はここのブロックの社員じゃないんだろう?だって、うちには派遣の届け出も新採用の届け出も来てないはずだし……そもそも、こんな子供を雇ってるところなんてあったっけ…??」
終いには独り言になっていた。どうやら、見つかってすぐに大事には至らない男だったようだ。そう分かってジュエルは心の中で胸を撫で下ろすが、警戒心は解かなかった。これからの対応によっては事態はどんどん悪くなってしまうからだ。
だが、ジュエルは少し疑問に思った。それは彼がすぐに自分を侵入者だと疑わなかったことだ。彼や周りの人間とは間違いなく場が違う服装をしているし、何よりも腰に差した双剣は一番目立っている。
そう思ったとき、
「あれ、しかもその腰にあるのってもしかして……武器?」
今更のように、彼は大きな目を更に丸くした。
「それは?」
『色々裏方の目的は考えられますが、もしかしたらまだ裏を知らないで働いてる連中もいるのかもしれませんね。』
「……。なら、俺はあの中心の方を目指せばいいのか?」
ジュエルは複雑そうな表情をしていたが、すっと都市の中心部を見据えた。そこには一際大きなビルが群れて立っていて見るからに大黒柱のような存在感を醸し出していた。
『そうですね――と言いたいところですけど。取り敢えず、そこから降りてみてください。』
「…ああ。」
結構な高さがある崖からは緩やかな坂が伸びており、都市へと降りていけそうだ。しかし、ジュエルはそちらには見向きもしなかった。ただ躊躇いもせず前に1歩踏み出すと、
たんっ!
夜の都市へ、飛び込んでいった。
風がぶち当たると同時に、視界一杯に無数の電灯が煌めく。ジュエルはそれを睨みながら、宙に自身を任せた。
――都市には、身を隠しながら移動できる場所が僅かしか無かった。
ビル陰から覗いても辺りに蔓延るのは人ばかり。ジュエルが軽く舌打ちをしたときだった。
「君、そんなところで何してるんだ?」
後ろから突然かかった声。勿論あからさまには驚いたりしないように気を付ける。ジュエルは息を止めながらゆっくりとそちらに振り向いた。
ジュエルの前に広がっていた光景。それは都市だった。今彼のいるところは崖であり、その景色が広く見渡せた。
円筒状のビルがいくつも林立し、そこの何万枚もの窓から漏れ出る光が暗闇を照らしていたのだ。それに、ビルの横に網の目状に通る道路にはホバーカーがいくつも飛び交っていて、歩道の所にはこれまた沢山の――
(人間?)
ヒトの姿があった。ジュエルは驚いたように目を丸くする。何故なら今までに見てきた兵士等の類ではなく、スーツや白衣等を着込んだ、本当にただの人間だったからである。見れば、楽しそうに談笑する姿も伺える。
「『SALVER』にもまだ人間が残っていたんだな。てっきり団員全員が人造生物にされたのかと思ってた。」
『結局、着いたんですね?…えー、はい。ここは中枢ですからね。半人造生物を作り出し、それを操る人間がいるのは普通でしょう。』
「…それもそうか。」
『あ、でも今近くにあるエリアは中枢と言っても、どうやら下層部の方々が働いている所のようですね。言い換えると、上からの指示をただ受けてこなすだけの使いっぱしりの集まる所です。何でも、ここでは以前『SALVER』が目標にしていた人造生物を人間に戻す研究も行われているとか。』
グロウに言われたとおり、ジュエルはカードを持って再びあの建造物に近付いた。確かに建造物の周りをよく見ても、機械らしきものは見当たらない。何か大がかりなものはおろか、カードを通すだけのような小さなものまで。半信半疑のまま、ジュエルは建造物の中に1歩入る。すると――
ヴン…!!
「ぁ――」
中の景色が一瞬見えたが、それが完全な形を保っていたのはほんの一瞬だけだった。突然の低い振動音とともに、空間があっという間に崩れ、混ざり、別のものへと変化していく。その間、あまりのことにジュエルはまともに声も出せずにいた。
そして気が付くと、ジュエルはさっきまでの場所とは明らかに違うところに立っていた。
(…ここは…)
まず、そこはかなり広い場所のようだった。上を見上げてみれば、巨大なドーム状の天井がこの部屋を覆っている。いや、部屋というのは不適切なほど、そこは大きな空間だ。金属のドームに日の光を遮られているため、全体は暗闇に包まれている。しかし中に在った『それ』によって、部屋は照らされていた。
『ザザ!……ジュエルー、応答願います。無事着きましたかー?』
「……これが」
『はい?』
「これが、『SALVER』の本部か。」
ジュエルは少しだけ感嘆の息をこぼした。
しかし、たとえこの先に罠が待っていたとしても、今は前に進まなければならないことをジュエルは知っていた。
『…ジュエル。今のはもしかして生き残りですか?』
「問題ない。黙らせた。」
低く言いながらジュエルは死体を足で軽く蹴る。
ドサッ
すると今度こそ死体は力なく仰向けになった。その拍子に、戦闘服の胸ポケットからするりと何かが滑り落ちる。見てみるとそれが紛れもなくカードの形をしていたので、ジュエルは拾い上げてよく観察してみた。
(これは、前にも見たことがある。『SALVER』の団員証か…?)
名前と細々としたID。持ち主とは殆ど別人のような顔が写っている写真。そして何よりも、大きくプリントされた『SALVER』の文字。それらを見て、間違いないと彼は感じた。
「グロウ。さっきカードキーと言っていよな?それってこの団員証のことじゃないか?」
『うーん?そうですね。他にめぼしいものがないなら可能性は高いでしょう。…そうそう、今みたいな怪物が本当にカードキーなんて扱えるのかとかお思いでしょうが、空間移動ゲートは自動感知型のようですからあまり機械操作は要らないみたいですね。』
「…どういうことだ?」
『つまりカードキーを持っているだけでゲートは開く、ということです。さ、見つけたのならそれを持って先程の場所に戻ってみてください。きっと面白いことがおきますよ。』
その瞬間、ジュエルは考えるよりも早く左手で剣を腰から引き抜き――
ザッ!
纏わりつく兵士の腕を斬り飛ばす。その勢いのまま剣を振りかざして、
ガシャン!
マスクの奥のものを深々と突き刺した。壊れていたマスクはさらに壊れ、辺りには少し大きな音が響き渡った。
それから訪れたのは静寂のみ。
それでもジュエルは息を止めて、顔面を突き刺したままの体勢を保っていた。その後しばらくして何も起こらないことを確認すると、ゆっくりと息を吐きながら剣を引き抜いた。
ぬちゃり…
濡れた音とともに血塗れの剣が引きずり出される。ジュエルは小さく肩を上下させながら、そのまま後ろを振り返った。
ここの周辺に死体は今の1体しか転がっていない。即ちジュエルが振り返っても、起きあがって襲ってくる死体は見当たらない。寂しい瓦礫の町に乾いた風が吹きすさんでいるだけだ。
しかし、ジュエルは逆にそれに不気味な感じを覚えた。
もしかしたら、この他にも生きている死体があったかもしれない。そうでなくても、まだ死んでいない他の見張りがいるかもしれないという考えが浮かんだが――それにしては静かすぎた。
単純に、今の1体だけ偶然まだ生きていただけと考えれば良いのであるが、ジュエルとしてはどうも拭いきれないらしい。
(…誘われて、いるのか?)
一言、そう思った。
『データによると、そこが空間移動ゲートです。それで移動条件のほうですが、どうやらカードキーが必要みたいです。』
「死体でも漁ってみるか。」
『それが妥当でしょうね。』
ジュエルはふいと周りを見回す。すると1体、兵士の体が俯せになって転がっているのが見えた。右の方の、崩れたコンクリートの家と瓦礫の陰だった。この兵士もまた背中の大きなボンベに穴を空け、シュウシュウという音を立てて濁った緑色の気体を漏出させていた。
ジュエルはそこに何の躊躇もなく近づき、しゃがみ込む。双剣を腰のベルトに挟み、兵士の持ち物を探るため、そのぴくりとも動かない体にすっと手を伸ばした。まずは俯せになっている体を仰向けに直すつもりであった
が、
ガシッ!
「?」
それは突然のことだった。ジュエルの伸ばした手が、強い力で止められたのだ。
見れば――死体の左手がジュエルの手首を掴んでいた。
「…なっ!」
ジュエルはそれを振り払おうとするが、死体はギリギリと物凄い力で手首を締め付けてきて離さない。さらに、死体はぐん!と顔を上げた。
「シャアアアァ…!」
壊れたガスマスクからギョロリと血走った目と、涎だらけの裂けた口を覗かせている。ぞくりとした悪寒がジュエルを駆け抜けた。
――実際グロウはそうしていた。
彼は今『国』本部のとある部屋で、大きなコントロールパネルやキーボード、ノートパソコン等を前にして椅子に座っている。パネル上には地図のようなものと、その中に点滅する小さな赤い印が映っていた。
「ええとですね。今ジュエルがいるところを道なりに進んでいくと1番大きな建物が見えると思います。まずはそこを目指してもらえますか?」
『道なりと言っても、そこらじゅう瓦礫が散らばっていて良く分からないが…それらしきものはここからも確認できる。』
「今の貴方の視点から見ますと、丁度2時の方向にありますね。」
『…分かった。あの建物を調べてみる。』
すると、パネル上の赤い印が右斜めに動き出した。その間にも、グロウは脇に置いてあるノートパソコンのデータを開き、またのんびりと確認を始めるのだった。
やがて、ジュエルは立ち止まった。
「――着いたぞ。」
彼が前にしたのは、用途が良く分からない建造物だった。やけに周りのものより装飾が凝っていて、扉もない入口がぽっかりと口を開けている。そのすぐ奥に、同じ様に出口がぽっかりと開いていて外の景色を見せていた。それは、ただの通り道のようにも見えた。
『呼びました?』
「!」
突然すぐ傍から聞こえた当人の声に、ジュエルは少し息を呑む。通信機をつけていたことを半分忘れていた事もあったかもしれない。
「…グロウ、こっちは取り敢えず目的地に潜入できた。見たところ、廃墟とお前が作った大量の死体しか見当たらないが。」
『……他に何か気配はないでしょうね?見張りは一応全部始末したと思いますが。もし残っていたのなら、貴方は既に敵に見つかっているという事になりますから、充分に注意してくださいね。』
「分かってる。それで、本拠への入口はどこなんだ?お前もう『国』には着いたのか?」
『はい、とっくです。メモリーチップの解析情報もスタンバイ出来てます…で、入口ですけども。どうも空間移動ゲートなるものがあるみたいですね。』
「空間移動ゲート?」
『まあ要するに言葉通りですが。普段何もない扉や門が、ある種の条件を満たすことで、別の場所へ通じる様になるというわけです。これはあながち地下に通じるというわけでもないかも知れませんね。』
「それがどこにあって、何が条件なのかは分かるか?」
最後の質問で、グロウは返事の前に間をおく。細かなデータを確認している事が容易に想像出来た。
そうして生温い風と砂に巻かれながらも、ジュエルはやっと町の入り口に辿り着いた。近くに来てみると、よりその場所の寂しさが伺えた。
町(というよりも、面積が小さいため何かの村の様に見える)の周りを囲う壁は風に浸食され、どこもかしこも崩れかかっている。コンクリートの建造物もいくつか伺えたが、壁が壊れていたり、地盤がおかしくなったのか土に埋もれて斜めになっているものもあった。
ジュエルはその打ち捨てられた地に足を踏み入れようとする――が、その瞬間。
「……ぅ、」
彼は片手で鼻の辺りを抑えた。
何故なら、町が形容しがたい臭いで溢れかえっていたからだ。肉が腐った臭いとシンナーの様な臭いが混じり合った、とても不快な臭い。しかしそれは最近嗅いだことがあった。
思わず辺りを見回してみると、臭いの源はすぐに分かった。
それはあちらこちらに転がっている『SALVER』の兵士の死体だった。死体はついさっき出来たばかりのようで、鮮やかな赤い液体が地面に広がっていた。
加えておくと、やはりどの死体も大きなボンベを背負っていて、中には穴の空いたボンベから濁った緑色の気体を発生させて倒れているものもあった。
「……グロウ、か。」
ジュエルは犯人の名前を呟いた。
ジュエルは上空のヘリを見上げると、少し溜息をついた。
「…見張りがいたってことは、やっぱりあそこがそうなんだな?」
『だから、座標はあっていると言ってるでしょう。そんなわけで、僕は『国』に戻ってます。この通信はつけっぱなしにしておくので、用があったらいつでも言ってください。』
「ああ…」
『では。是非生きて帰ってくださいね。』
ヘリは低い振動音を立てながら、ぐるりと右回りに旋回した。そしてジュエルの背を通り越していくと、遙か彼方に見えなくなった。
ジュエルはそれを確認すると、改めて前に向き直る。すると丁度その方角に、ギラギラと狂ったように輝く太陽が地平線から顔を覗かせていた。
「誰も死なないさ。」
ジュエルはぽつりと呟く。それは通信機の向こうのグロウに言ったわけでもなく、太陽に言ったわけでもなく――自分に言った一言だった。
それと殆ど同時に、1つ砂を踏む音が鳴った。
彼が歩き始めてから30分程経っただろうか。
それでもまだ、彼は行くべき道の半分くらいの所にいた。この砂漠は見た目よりもずっと広いようだ。目的の場所は目の前に見えているのに、歩いても歩いても中々近づかない。そんな苛立ちを感じながらも、彼は確実に1歩1歩を踏みしめていた。
ッギュン!
引き金が引かれた。それはビームライフルだった。鮮やかな光を湛えた矢のような弾は、その勢いを衰えさせることなく一直線に町の方へ飛んでいく。
グロウは平均して大体5秒の間隔で、微妙に位置をずらしては次々と発砲していく。そのまま何分かが経った時点では、既に町には数十発の弾が撃ち込まれていた。
「と、これで最後ですかね。」
チャキ
重たそうな銃身を構え、スコープ越しに的を見据える。最後だけは、グロウは慎重に体勢の調整をしているようだった。
そして、
ッギュン!
撃った。サイレンサーに制御されたくぐもった銃声が空間を揺るがす。その後弾が見えなくなると、しばらく沈黙が辺りを支配していた。
「―――…ふぅ。」
沈黙の中で身を固めていたグロウは、少しして何かに解放されたように息をつく。その時、通信機から声が発せられた。
『グロウ?うまく行ったか?』
「ええ何とか。元々銃器を扱うのは苦手だったので不安でしたけど。敵に気付かれないよう、外のイカレた見張りを34体程処理しました。多分全員だと思います。」
『…相変わらずお前は天才だよ。』
「いえいえ。ジュエルにも出来る簡単な仕事ですから。」
ジュエルは先程パーカーの襟に取り付けた小型の機械の電源を入れた。
「グロウ、聞こえるか?」
『感度良好です、どうぞー。』
どうやらそれは通信機らしかった。見れば、ヘリの出口からグロウがこちらに手を振っている。ジュエルはふっと息を吐くと、砂漠の向こう側を見据えた。
「…これから目的地に向かう。道案内は頼んだぞ。」
『了解。僕は『国』から情報を得ながら指示するんで、取り敢えず帰ってますね。…と、その前に。』
「?」
「最初の応援くらいしてから帰ります。ジュエルはそのまま進んでて下さいね。貴方があそこに着くまでには終わらせておきますから。」
そう言いながらヘリの荷台からグロウが取り出したのは――1挺の、比較的長身のライフルだった。そして、再び運転手に指示する。
「ええと、なるべく低空飛行でお願いしますね。でも今はほんのちょっぴり上昇してくれると助かります。…あ!プロペラ音のサイレント処理はそのままで。」
グロウは他にもいろいろな注文を軽く言ってのけると、やがてライフルを構え、そこについている円筒型のスコープを覗き込んだ。
「あはは、やっぱり居ますね~うようよ。」
スコープの中に映し出された遠い町を見ながら、彼は笑った。
どれだけ『国』からヘリで飛んだのだろうか、ジュエルには良く分からない。それは長いような短いような時間だった。
『国』を離れてみると、空から見えるのはうっすらとした朝日に照らされた一面の砂漠ばかり。目的地は、その広大さに隠れるようにしてぽつんと存在していた。
「…あれが?」
「どうやらそのようですね。この座標に間違いはありませんから。」
遠くからではあったが、2人は見た。それは廃れた小さな町のようだった。悪化する環境に耐えられず住めなくなり、人に捨てられた町――今となっては、そんなに珍しい光景でもなくなっていた。
「本当にあんな所に『SALVER』の中枢があるのか?人がいるとは思えないが。」
「カモフラージュですよ。どうせまた、どこからか地下に通じているみたいなことだと思います。今は本当に防空壕が流行ってますからねぇ。…あ、もうここでいいです。これ以上近づくと見つかる恐れがあります。」
グロウが運転手に告げると、ヘリは下降していく。そして大分地面に近付くとジュエルは素早くそこから飛び降りた。
シュタッ
着地すると同時に、微かに砂が擦れる音が鳴った。
ジュエルは、その日自分に出来ることが武器の手入れくらいしかないことに酷くもどかしさを感じていた。特に彼にとってその夜はとても深く、長く、居心地の悪いものだった。
ただただロイの安否のこととグロウの寂しげな笑顔が胸の内で疼く。1人で挑む戦いが近づいてくる緊張感もあったかもしれない。とにかくベッドに入っても目が冴え、全くと言っていいほど眠れはしなかった。
だから。
辺りが白ずんで来た頃に、突然グロウがデータの解析終了を報告しにきたのにもすぐに対応できた。グロウは「大して寝てないだろうとは思ってましたが、もしや徹夜だったんですか?」と苦笑していた。
「…今なら、行けます。ヘリも通信機も用意しています。あとは貴方の準備だけと言ったところでしょうか。」
「そうか。」
ジュエルはその言葉に、ゆっくりと足に力を入れて立ち上がった。同時に脇に置いてある双剣を手に取る。ようやく来たその時を告げるように、剣の鎖の音がしゃらりと静かに鳴った。
「準備なら、とっくに済んでいるさ。」
――早朝5時。
病室には、誰もいなくなった。
「マルコーと『SALVER』の繋がり…やっぱり、両者は同じ目的を持っているという事なのか。」
「今話したことが、全て本当であればの話です。全ては『SALVER』の本拠に乗り込んでみれば分かることでしょう。」
グロウはにこりと笑うと、おもむろに病室の出口の方へ歩き出す。そして扉の前でピタリと止まると、少しだけ振り返った。
「さて、これから僕の方は作業に戻ります。取り敢えず明日までにはメモリーチップの解析を終了させる予定でいますが、なるべく急ぐつもりです。『鍵』がまだ片割れだけだとしても、ロイが絶対安全とも限りませんからね。…そして、貴方は最後まで体を休めていて下さいよ。」
「さっき全部治ったと言っただろ。」
ジュエルはそう突き放したが、それによりグロウが心なしかいつもより寂しそうな表情をしたような気がして、その瞬間に少しだけ後悔したようだった。
思わず床の方に視線を落とす。すると、グロウの声だけが聞こえてきた。
「ロイがいなくなって。もしジュエルまでいなくなったら、私はどこへ行けばいいんでしょうかね?」
とだけ。
それは悲しいとも軽く困っているともつかない、曖昧な声色だった。
プシュー!
そのすぐ後に病室の扉がスライドする音が鳴った。
「それでは。明日の健闘をお祈りしていますよ。」
グロウがそう言い残し、また扉が同じ音を立てて閉まる。ジュエルはその空虚な空間に1人残された。
「……。」
「そして奴らはまだその片方しか手に入れてない、というわけですよ。」
グロウは肩をすくめる。
「つまり、お前は『鍵』はオメガ遺伝子のことだと言いたいのか。ロイとジルフィールのそれぞれが片割れになっていて…そうすると、ジルフィールもロイと同じオメガ遺伝子を持っていて、今も奴らに狙われている?」
「そういうことですね。前貴方に聞かせて貰ったお話を参考にしてみたのですが、如何でしょう。」
「だがジルフィールを地上に運び出して、教会に預けたことは俺たちしか知らないことだぞ?時計塔の地下の冷凍カプセルで眠っていたことすら、誰にも知られてはいないはず。…奴らはどうやってジルフィールの存在を知ったと言うんだ。」
「ん―」とあまり意味のない声を出し、グロウは何かを考える様子を見せる。そうして少量の時間がたつと、彼は再び口を開いた。
「1つ考えられるとすれば…マルコーですかね。」
「マルコー?」
突然出てきた名前に、ジュエルは少し息を呑む。
「ロイとジルフィールの父親でその妻がルチア、いうことでしたね?確か。」
「…ああ。」
「ならば、ルチアが用意したという冷凍カプセルのことは容易く知ることが出来たと思いますよ。そもそもマルコーがオメガ遺伝子などと言い出しているのですから、多分自分の息子がオメガ遺伝子を持っていたことは知っていたんじゃないですか?
そして彼に発信機なり埋め込んでおけば…自分がその場を離れ、彼が冷凍状態から目を覚ましたとしても。彼の居場所が分かり、重要な実験材料を失わずにすむというわけです。
その情報が『SALVER』に伝わっていたと考えれば、辻褄が合うと思いませんか?」
「幸いシスターマリアは異変に早く気付き、教会の外に出てやり過ごしたそうです。…その目撃情報での犯人の特徴から、間違いなく複数の『SALVER』の兵の仕業であることが分かりましたよ。
後から見たら、それはもうこっぴどく荒らされていたらしいですね。椅子は壊され祭壇は薙ぎ倒され。」
「…何かを探していた?」
「その確率が高いですが、あんなに古くて何もなさそうな教会をわざわざ荒らすなんて、普通ではあまり考えられません。恐らく奴らは相当特別なものを探していたのでしょう。
で、ここからなんです。奴らが教会を荒らし尽くした後。そこで出てきた会話をシスターマリアは一部聞いていたらしいんですよ。
それで…その中に、結構同じ言葉が出て来ていたみたいなんです
即ち――鍵の『片割れ』と。」
ジルフィールが『鍵』であることは、2人とも知っている。だから、グロウは言葉の後半を心なしか強調して言った。
「鍵の、片割れ?」
ジュエルも同じ様に、言葉を繰り返す。
「…シスターマリアから聞いても、教会には鍵と呼ばれるものは何も無かったことは事実です。
ただ1つ、前の時点で『鍵』が居たこと以外は。
まぁ奴らの目的がロイであったのかジルフィールであったのかは定かではありませんが……重要なのは、『鍵』というのは2つ片割れがそろって初めてその意味を成す、という所なんですよ。」
「つい先程思い出したのですが。そう言えば前にも貴方はこれと同じ話をしていましたね?――オメガ、オメガ遺伝子。そしてそれを持っているというロイのこと。
その時は話が漠然としすぎていて証拠もなかったので、ただの面白そうな話として受け取っていたのですが。1人で国の記録を調べているうちに、僕も少しずつ確信が持ててきたんですよ。」
「…?」
グロウは一息着くと、こう言った。
「結論から言いますと。
『鍵』は、まだ無事なんです。」
グロウの話を最後まで聴き、ジュエルは少し考えた後――何かに気付いたようにはっと目を開く。そして、
「ジルフィールか?」
彼の名を口にした。
「そうです。貴方の言うところの、ロイの血縁者です。僕の方で手を回して、彼は今この施設のとある場所に保護されています。
確か貴方の話によると、兄弟関係であるロイと『鍵』には同じオメガ遺伝子が宿っている可能性が高いと言うことでしたね。」
「…それが?」
「そう焦らずに聞いて下さい。実は、ある目撃情報があるんですよ。前まで『鍵』を預かって貰っていた教会のシスターから貰った情報なんですがね。……あの教会、奴らに荒らされたらしいんです。」
「?!」
「残るソルジャー、か。」
ジュエルはぼんやりと思い出した。それはずっと前のようで最近のこと。1人の少女と刀を交えた。
目の前で膝をつく少女。
彼女の呟き。
『何で…こんな所に…っ!』
(あっちも訳有りか…)
そう思うとジュエルは何か憂鬱な気持ちになったようで、軽く溜め息をつく。
「あ、でもまだデータの分析が十分とは言えませんので今日出発はちょっと無理ですね。それにジュエルもまだ治りきってないでしょう。」
「傷も痛みも全部消えた。こうしてる間にもロイは…!!」
「それは分かりますが、辛抱して下さい。知識不足で行ったらますます時間を浪費して、終いには返り討ちにあうだけということも有り得ます。」
「…くそっ無事でいてくれるといいんだが…!」
ジュエルはそう言いながらぎゅっと拳を握った。そこから今何も出来ない悔しさと、焦りの感情が滲み出ているようにも見える。けれど、対するグロウは至って平和そうだった。
「…ジュエル。きっと大丈夫です。もし奴らの手に落ちているとすれば、今はロイだけですからね。」
グロウが相手を安心させるようにやんわりと言ったが、ジュエルにはよく意味が伝わらなかったようだ。
「どういう意味だ?」
「厄介なこと…ですか。今でも十分厄介な状況なのに、嫌ですねえ。」
グロウは困ったように苦笑いする。しかし、その後突然声のトーンが高くなった。
「と、そこでいいニュースです。何と、『SALVER』の拠点が特定できました!」
「…それはもしかして、」
「そう。ジュエルが持ってきたメモリーチップを分析した結果ですよ。場所から内部構造の詳細まで、事細かに。あのソルジャーはよっぽど優しかったようです。」
「……。」
すると、ジュエルはちらりと部屋の隅の方に目配せした。そこにあったものは、鎖でつながれた2本の剣だ。ベッドの横の方の壁に立て掛けてあり、鋭く光る銀は静かに戦いのその時を待っているかのようだ。
「…行くんですね?」
「ああ。」
「見たところ『SALVER』の内部はとても複雑そうです。そこで、僕が外部からナビゲートしながら進むのが適当なところだと思うのですが、如何でしょう?」
「何でも構わない。とにかく、俺は今ロイを助けることだけ考える。」
「その気持ちだけが突っ走って敵の軍勢に返り討ちにあわないようにだけ気をつけて下さいね。まぁ出て来るとしたらあの雑魚か、残る1人のソルジャーくらいかと思いますので、大丈夫だとは思いますけど。」
「つまり今のところ、『SALVER』の技術では人工オメガは不完全なものしか出来ないということだ。だから中途半端な人造生物しか作れていない。…あいつらのボンベは、大体調べたんだろ?」
「ええ。見つかったものは全てこちらで回収しました。確かに、その中からはジュエルが持ってきた石のように100%純粋なものは1つも見つかっていません。しかし、それだけで奴らが高純度のオメガを作り出せないと決めるのは早急ではないのですか?」
「…ソルジャーにしたっておかしいと思う。ジャックから見つかった100%オメガはあれだけだ。『SALVER』に技術があったとして、本気で殺しにかかってくるとしたらオメガから得られるエネルギーをもっと活用してもいいんじゃないか?
これはあくまで予想だが…オメガ遺伝子は『完全な』オメガを作る材料なんじゃないかと思う。」
「そのオメガを手に入れて…その後は?人造生物の量産でしょうか?奴らの目的は、一体何なんでしょうね。」
「さあ。ただ予感としては、この世界にとって、とても厄介なことになるんじゃないかと思う。」
「だとすれば、残っていた血痕は犯人のものと見てもいいかも知れませんね。抵抗されたのかもしれません。体がああでもやっぱり相手はロイですから、犯人も中々の強者だったのでしょう。」
「『SALVER』か。」
「今の所疑わしいのはそこだけ、ということでしょうけど。それならば、奴らは何の目的があってロイをさらったりするんです?」
「…」
ジュエルは少し無言で思案を巡らせた。
「1つだけ、心当たりがある。」
「ほぉ?」
「ここ最近『SALVER』とロイを結びつけるものは何か、ずっと考えてた。その答えを見つけるためにロイと話したことも思い出していたんだ。」
「…にして、その中にあった答えとは?」
「『オメガ遺伝子』だ。」
「オメガ遺伝子…?記録の中にはありませんでした。」
「ロイがマルコーから聞いたキーワードだ。人体をオメガに同化させるものらしい。」
「でも、奴らは既に人体から人工的にオメガを製造し、人造生物を作っているんですよ?」
「半、人造生物だろ。」
「…」
「グロウは確か言ってたな。あのボンベに入っていたオメガは、純粋なものではなかったと。」
「言ってたかもしれませんけど、それがどういうことになるんですか?」
「どっちでもいい。大体のことを聞く覚悟はもう出来てる。」
「そうですか?じゃあ悪いニュースから行きましょうか。」
その後に続く言葉を、グロウは何の躊躇もなくさらりと言って見せた。
「あれから貴方の言う草原を捜索してみましたが、ロイの姿はどこにもありませんでした。」
「……」
ジュエルは微かに頬を張り詰める。しかしあの時のように感情的になることはなかった。
そして、
「…血痕は?」
低い声でぽつりと呟いた。
「残ってましたけど、微量ですよ。しかも鑑識によると、その血痕はロイのものではありませんでした。」
それを聞くと、ジュエルの肩の力はゆっくりと抜けていった。取り敢えず、彼がまだ敵によって殺されたわけではないという確認が取れたからだ。
「ロイはあの草原を自分で離れたんでしょうか?」
「…いや。あいつは動ける状態じゃなかった。暴走寸前の左腕を抱えて動けたとは考えにくい。」
「では仮に左腕が暴走していなかったとして。自分で動けないなら、誰かによって『動かされる』しかありませんよね?つまり…」
「拉致された。そう考えるのが自然だろうな。」
2人は暫く互いの目を見つめた。
次の日から数日は曇天が続いただろうか。しばらくの間ジュエルは治療のためとベッドから出ることを禁じられていた。しかし強化人間であるジュエルの体は回復が早く、絶対安静の日々は短く済んだようだった。
そして、ある日の晴れた朝。同じ病室でのこと。
ジュエルは病院着姿でなく、普段のジーンズと白いパーカーの格好だった。ベッドで寝ているのではなく、何となく窓から外のビルだらけの風景を眺めていた。
すると、
プシュッ!
勢いよく空気が抜ける音が後ろの方から飛んできた。それは病室の扉が開く音であった。
「どうも、おはようございますー。」
同時に飛んできたのは、いつも通りの脳天気な声だ。
「ああ。」
ジュエルは振り向きもせずに短く挨拶を返す。
「…出来れば挨拶する時は顔を見せて、笑顔でして下さると嬉しいのですが?」
「いつもこうだろ。」
「はぁ。見た感じ、随分元気になりましたね。ジュエル。」
そこまで言われて、やっとジュエルはゆっくりと振り返り、グロウに顔を見せる。逆光の影に染まったその表情は、少しだけ穏やかなようにも見えた。
「ああ…そうだな。」
「大分落ち着いたようで何よりです。えっとですね…今日はいいニュースと悪いニュースを持ってきたんですよ。どちらを先に話しましょう?」
それからジュエルはベッドに戻され、程なくして夜を迎えた。
係員が「夕食です」と言って持ってきたお世辞にも美味しそうとは言えない食事を少し取り、また別の係員がそのトレーを下げていった後
彼はベッドに背を預ける。そして天井を見つめながら溜息をついた。「一体何に溜息をついたのか」と彼が心中で自問すると、「事柄が多すぎる」と彼はまた心中で自答した。
オメガの事。話の最中高鳴った不自然な鼓動。グロウの赤い瞳。――ロイの事。
彼は感じていた。その様々な事実がぐるぐると渦を巻き、ぐちゃぐちゃに混じり合い、可笑しな模様を作っているのを。
全てを考えれば考えるほど疑問が広がり、真実が遠ざかる。考えた後に残る言いようのない不安は、頭部に鈍痛を生む。
しかしそれでも考えずにはいられず、彼はずっと無言で天井を見ていた。
そんなもやもやとした時間を過ごしている間にも電灯が消え、夜の闇は更に深く濃くなっていく。彼はまどろみ、眠りにつく直前――最後に、今日目が覚める前に見た『夢』を思い出した。
(――ロイ――)
心の中で名を呼ぶ。
それが、彼のこの日最後にしたことだった。
「それに、あいつは『左腕』を抱えている。あのまま放っておいたら良くて暴走、悪くて細胞に喰い殺されるかだ。そんな状態でまた奴らに襲われたら…っ!」
ガタガタッ
突然点滴台が大きく揺れる。見れば、ジュエルが勢いよく起きあがり、ベッドから降りようとしていた。
「…ジュエル!」
だが、
ズキッ!
「っ?!」
ジュエルは、目を丸くした。体全体に痛みが駆け抜けたらしい。足に力を入れて立ち上がろうとした瞬間であった。ジュエルの体はそのままバランスを崩し、前に倒れ込もうとする――
バッ
それをグロウが支えた。両手で肩の部分をしっかりと持った後、ゆっくりと中腰状態にとどめる。結果ジュエルは何とか床に投げ出されずにすんだようだった。
「全く。具合悪くなったり元気になったり忙しい方です。」
と、呆れたようにグロウは呟いた。
「…」
「らしくないですよ、取り乱すなんて。まあその仲間想いな所と心配性はいつも通りだとは思いますがね。…取り敢えず怪我人はじっとしていてください。ふらふらと歩き回られたら逆に迷惑なので。」
「……くっ」
グロウは振り向く。するとジュエルがやけに青ざめた表情を浮かべていた。
「1つ、聞きたい。お前、ロイの居場所は知ってるか?」
「いえ。やはり携帯が切られているようなので、所在は分かっていません。ジュエルは知っているのですか?」
「ああ、知ってる。」
ジュエルはロイの姿をまざまざと思い出した。荒い呼吸で左腕を抱え、汗びっしょりになっているあの姿。それを思うと、胸の中からじわじわとした焦燥がこみ上げてくるようだった。
グロウは冷静な面持ちで、ジュエルにまた問いかけた。
「無事なんですか?今、どちらに?」
「草原だ。街中にある大きな草原…」
「街中に草原?」
「俺とグロウは知らない場所だ。」
その内、ジュエルの手は震えてきた。彼はあの草原を去る時に言った自分の言葉を思い出していた。
即ち「ここには誰も来させない」と。結論としては、彼はロイを守る役を買っていたのだ。
「俺は何日間寝ていたんだ…?ロイが危ない。もう手遅れかもしれない!」
「ジュエル、落ち着いて下さい。取り敢えずその場所を捜索させます。何かあったら、それからのことを考えることにしましょう。」
「今まで話した中で残っている謎は、全てオメガと関連しているんです。それ自体もまだ半分未知の物質ですし。
隠蔽されていたオメガ発見の事実を漏出させたマルコーの目的や、リタの死。そして、今オメガを使って半人造生物やソルジャーを生み出しているリタという名の人物。
それぞれが何を示すのかはまだ分かりませんが、僕はとにかくオメガがある種の『核』であると思っています。それは20年前に人造生物を作り、現在も何らかの目的で何者かに動かされている…と。」
「……」
「こうやって話してみてもホントに分からないことだらけなんですよ。だから取り敢えず、今はこれから『SALVER』を叩くことで新事実が期待できるかなぁと僕は思っているんですが。どうですかね?」
「……」
「おや。何だか口数が少なくなってきましたが大丈夫ですか?」
「…ああ」
「考えてみればジュエルは目が覚めたばかりで、僕も少々喋りすぎてしまったかもしれませんね。」
そう言うと、グロウはいつの間にか座っていたパイプ椅子からガタリと立ち上がった。
「今日は、もうゆっくり休んで下さい。気付いたら何だか具合悪そうになってますし。今日はこの辺でおいとまさせて頂きますよ。」
そのまま、彼は病室を立ち去ろうとするが――
「ちょっと、待て。」
「?」
「でもその死は決して無駄ではありませんでした。3人は出来上がった死体から人工的にオメガを作り出し、天然のオメガ無しに研究が続けられたのですから。それに…その試行錯誤によって『国』の求めるものは段々と形を成していきました。
だから全てはうまく行っていたんです。計画通り、速やかに。彼らは目的の肉体のレシピを完成させました。そして一般人に活用するというところまで乗り出した…。で、ここからはもう知ってますよね?」
「……」
「ね?」
「…人造生物。」
ぼそりと一言だけ。それだけでも、グロウは満足そうな顔を見せた。ジュエルはそれとはとても対照的な表情をしていたが、グロウがそれを気にすることはなかった。
「裏の記録上でも、原因は不明となってます。…そりゃあそうですよね。何度も何度も試験を繰り返して、その度犠牲を出して。やっとオメガと肉体を安定に掛け合わせる方法が見つかったと思ったら、これです。その事件が起こるまでは人造生物のような生命体が生まれるケースはなかったようですし…」
「けど『不明となってる原因』はオメガだって言いたいんだろ?お前は。」
「…まぁ先程からそう言ってますしね。」
「リタは独自の研究を進めました。彼はオメガを発見したことを世間に公開しないと決意していたようですが、このことはやがてマルコーによって『国』に漏らされてしまいます。
マルコーの真意は明らかではありませんでしたが、とにかく『国』は彼から得た情報の詳細を聞き……ルチアの研究に目をつけたのです。」
どくん。
大きな鼓動は再びジュエルの中に響き、それはやがて繰り返しを始める。
段々速く、そして強く。
「こうして、人体改造にオメガを使うという発想が浮かび上がったわけです。ルチアの人体改造の技術に、リタのオメガの知識を組み合わせる。そしてオメガを人間に作用させる知識としては薬理専門のマルコーの力が役に立つと予測したのでしょう。
『国』は3人を1つの場所に集め、後は実験の繰り返しです。それはもう大規模に、かなりの量の人間が使われたようですね。ルノワール地下の囚人や、あのゴーストタウンの住人…
それでも実験台は足りなくなることが殆どだったそうです。オメガのあまりの生命エネルギーに肉体が耐えきれず、死亡する者が続出した結果ですね。」
どくん、どくん。
(……五月蝿い……)
ジュエルは、顔をしかめた。
「えーっと、何話してたんでしたっけ?」
「…オメガが本当に人造生物を生み出すのか、だ。」
「ああそうでした。あんまり脱線するんで忘れかけてましたよ。」
グロウは少し困ったように頭を掻く。
「そうですね、先程僕が言った3人は元々研究の方向がバラバラだったらしいです。同じ大学の教授だったらしいですが、ルチアは遺伝子工学。マルコーは薬理。リタに至っては地球の天然物科学等を専攻していたようですね。しかし、『国』が方向性の違うこの3人を集めたのです。
事の始まりは表の記録にも残っているルチアの研究。即ち遺伝子組み替えによる人体改造研究の開始です。
表の記録では、人体改造研究はルチア自身で始めたこととなっていますが、実際は『国』の命令。言い換えると国連から要請があったらしいです。
…悪化する地球環境に対応出来る人体を作り出せ、とね。ですが、遺伝子工学だけではやはり限界があったそうで。
そして研究が行き詰まっている横で起こった事柄が、リタによるオメガの発見です。何でも地層の調査時に偶然見つかったとか。」
――どくん。
その時、不意にジュエルは自分の中の音を聞いたような気がした。
(…?)
「1つ目は、ただの同姓同名。2つ目はリタ・アルティマを名乗る偽物の存在。そして3つ目は実は死んでいるというのは嘘で、彼は今もどこかで生き『SALVER』の指揮をとっている。…さて、ジュエルはどれが正解だと思います?」
グロウは3本指を立て、それを弄ぶように揺らして見せた。
「それは何とも言えない。情報が少ないからな。」
「そうですか。では他にあの男から聞いたことはありませんか?あるいは手に入ったものでも構いません。」
ジュエルは少し考え込む素振りを見せると、程なくしてふっと顔を上げた。
「そういえばお前、俺の服に入ってたものは見たか?」
「服に?…あ!あのメモリーチップのことですか?言われてみれば、あれの報告はまだ受けてませんね。」
「それが少しでも手掛かりになればいいがな。」
「あの男から貰ったものなら間違いなく『SALVER』のものでしょうから大丈夫ですよ。その内分析が終わると思うので、期待しましょう。」
ジュエルはこくりと頷く。
「取り敢えずリタに関してはまだ追求できない。話を先に進めてくれないか。」
「了解しました。」
「その名前は、聞いたことがある。」
「へぇ?私は初耳でしたけど。」
「…ジャックが言っていた名前だ。どうやら、そいつがジャックの中に『ヴァイス』を生み出した存在らしい。」
「つまり、それはあのソルジャーの上司の名前というわけですか。何と…安々と教えてくれたもんですね。」
「ジャックの事情はよく知らない。でもあいつは全てを話した後、最後の最後にすっきりしたと言っていた。思うに、あいつもただの被害者だったんだろう。」
その淡々としたジュエルの言葉にグロウは少し吹き出す。そして肩を揺らして小さく笑った。すると、ジュエルはそれに心底疑問を持ったようだった。
「何が可笑しい。」
「やれやれ、ジュエルは相変わらずのお人好しなんですね…その仏頂面で。一種のツンデレなんですか?」
「ツン…?何なんだ、それ。」
「ははは、まぁそれはどうでもいいことなんで置いておくとします。」
カラカラとした笑い声が響く中、ジュエルは益々首を傾げるばかりであった。
「しかしですね。記録上では、リタ・アルティマはもう死んでいるんですよ。人造生物が放たれた日の直前に。」
「!…でも確かにあいつは、」
「そうなると。幾つかのケースが出て来ることになりますね。」
「ケース?」
ジュエルは少し納得のいかない顔をするが、その後グロウの瞳に関しての言葉を発することはなかった。元々控えめな性格なせいか、それとも深追いするべきでないと判断したのかは定かではないが。勿論、グロウもそのことに再び触れることはなかった。
「オメガが人造生物を生み出す。その裏付けは取れているんですよ。『国』の記録の中にあった2、3個の研究データによってね。」
「…どういうことだ。」
「全部説明するとそれこそ本当に長くなりますので、一部噛み砕いて伝えますね。」
そう言うと、グロウはどこからか小さな手帳の様なものを取り出す。片手で手帳を開き、それからは時折そこに目を通しながら話した。
「結論から言うと、オメガは20年前、いえ、それ以前に発見され人体改造技術に使われていました。使われていた大半も人工的なものだったようですが、『国』は3人の研究者を幹部にして極秘のオメガによる人体実験を繰り返していたんです。
その3人の幹部とは、僕等の『母親』であるルチア・ミスティ。後にルチアの夫となるマルコー・ガーラント。そしてもう1人はオメガを最初に発見した人物…
名前を、リタ・アルティマと言います。」
確かに。その時グロウの瞳は紅に染まっていた。まるで血の色を湛えたような、赤い、紅い色。
その表情は無かった。
つまり、笑ってはいなかった。
けれど、それから紅い色はグロウの瞳から一瞬にして消え、元の黒に戻った。そして本人は
「そう。実はそこなんですよ。」
と何もなかったかのように笑う。ジュエルは、しばらく目を丸くしたまま動けないでいた。
「ジュエル。そんなに目を見開いてどうしました?」
「今、お前……目が。」
「目?」
「目…瞳の色が、赤かった。」
「…確か最近鏡を見た記憶によれば、僕の目は黒かったと思いますけどね。」
グロウは半分冗談に付き合うような口調で言った。
「でも、」
「きっと日の色が反射したんじゃないですか?ほら、窓の外。いつの間にかもう夕方です。」
「!…」
2人は窓の外を見る。するとグロウの言う通り、外は燃えるような黄昏時で、気付けば部屋の中も若干赤い光に染まっていた。
「まあ僕の目の色なんて、今はどうでもいいことです。少なくとも白くはなっていませんしね。…それよりも、そこで興味深い話が出てくるんですよ。」
「……。」
「ですがあまりにもそのような不純物が多いので、それは純粋なオメガとしては成り立っていません。中途半端な機能を持った言わば偽のオメガが、あのような半人造生物を生み出したのではないかと思われます。」
「…なら、純粋なオメガを使えば完全な人造生物が作れるってことなのか?」
「そうですね。例えばジュエルが持っていたあの石は、不純物の入っていない完璧に純粋なオメガの結晶です。それを心臓に埋め込まれていたあのソルジャーは人造生物ではありませんでしたね。…だから使い方にもよります。気体や液体にすればたちまち体内に吸収され、人造生物が出来上がるかもしれません。」
「そもそも本当にオメガが作り出すって言うのか?俺達がずっと狩ってきた、人造生物を…」
ふと、ジュエルは何かに気づいたように息を呑む。そして少しの間の後、自分に聞かせるようにこう呟いた。
「20年前、初めて人造生物が放たれた原因も――」
その時。
突然空気が凍り付いた。
「?!」
ジュエルは肌でそれを感じ、反射的にグロウの顔に目を向ける。すると、ある『変化』に気付いた。
(何だ?グロウの瞳が、
……紅い?)
「残念ながらそうなんですね。」
悪びれもしないグロウの態度に、ジュエルはどこか憂鬱そうにベッドに背を預けたまま手の甲を額の上に乗せ――
「どうせ興味ないと言ってもしゃべるんだろ?」
「当然でしょう。敵の情報を聞かないで貴方はどうしようと言うんですか……それとも。何か聞きたくないわけでも?」
「……」
そのまま目を閉じる。
すると、何か落ち着かないという気持ちが胸の奥に蟠っているのが彼自身感じられた。もやもやとしてよく分からないその塊に少し苛ついたように、ジュエルは軽く前髪を握った。
「――いい。続けてくれ。」
「さいですか。」
その短い会話が終わると、グロウは再び流暢に話し始めた。
「そうですね。まず希少な筈のオメガが何故今出回っているのかということですが、恐らく『SALVER』の雑魚に使われていたやつは人工的に作り出したオメガです。
先程言いました、有機体の一部は生命活動停止後にオメガに還元されるという説ですが。あのボンベの中身を調べさせてみた所、大量の生物由来の物質…例えばヘモグロビン鉄や細胞質ゾル等が高密度で検出されました。」
「取り敢えず、定義を述べてみるとそんなところでしょうか。
オメガは地球内部のどこかを巡り、その成分中に含まれる莫大な生命エネルギーとも言えるものは主に生産者である植物の成長を促し、その他海水や空気の浄化等の作用も示すとか。
また、ヒトや動物等の有機体の一部は生命活動を終えた後、微生物長い分解を受けオメガに還元されるという説もあるようです。
色々な研究データが残されていましたが、はっきりとした結果――それが物理的にどんな物質なのか、生命エネルギーとは具体的にどんな成分なのかという答はどこにもありませんでした。
何しろ試料が希少だったらしいです。地球表面に現れているオメガの脈は数少なく、しかもそれを見つけたとしても、微量の空気に触れるだけでそこのオメガは枯れてしまったそうです。
おかげで『国』は試料を見つけるのに相当苦労していたようですね。
何でも、ジュエルが行ったあのゴーストタウンの連中を使って、そこら中に穴を掘らせていたとか。…それでも、あまり見つからなかったそうですけどね。」
ジュエルは小さく溜息をついた。
「…長い話になりそうだな。」
ブツッ――
「?!」
その言葉を聞いた時、ジュエルは何かおかしな感覚に包まれた。まるで、脳内にノイズ混じりの映像が瞬間的に流れるような――言ってしまえば、既視感とも言える感覚だった。
「『オメガ』――」
「ご存知でしたか?」
「…え、」
気付けば、グロウが不思議そうな顔をしてジュエルをのぞき込んでいた。
「…いや」
ジュエルは下の方を向いてぽつりと呟いた。心の中に突然生じた訳の分からない動揺を、少しでも隠したかったのかもしれない。
そんな様子を見てグロウはまたいつもと同じ笑みを浮かべると、あたかも物語を紡ぐかのように1つ1つの言葉を丁寧に並べ始めた。
「『オメガ』。それは、この地球に存在するあらゆる生命の源。星を巡る血液。世界の循環を保つ流れ…終末、そして始まりへと続く場所。」
その数個のキーワードに、ジュエルは少し絶句する。とても1回聞いただけでは理解できそうになかったからだ。
そう言いながらグロウは天井の方を見上げる。つられてジュエルもそちらを見ると、隅の所にとても小さな円筒型の監視カメラが取り付けてあった。
「幹部の方々にあれを調べていることが知られると、色々面倒なことになると思います。」
「お前、どうやってそんな記録見つけたんだ?」
「こう見えて、機械には強いものですから……これで。」
と、グロウは10本の指を素早く動かしてみせる。どうやらそれは、パソコンのキーボードを打つ仕草を表している様だった。
「ハッキングなんて出来たのか?」
「ちょっとした趣味ですよ。」
「趣味…。」
「今のところ。動いてもらっている研究員の皆さんの間では、あれは『未知の物質』として名目が立っているでしょう。
しかし、僕は表には知らされていない何かがあると、あの緑色の不気味な気体を見た瞬間から直感していました。何しろ、僕らの母親はこの『国』で人造生物を解き放ったのですからね。
そして深部の資料を調べてみたら案の定。あれと酷似するデータは存在しました。それによると、あれには既に正式な名前がついていたようです。」
「それは?」
「超生命源――『オメガ』、と。」
「そして、埋め込まれた石が及ぼす効果としては2つの心臓を拒絶反応させることなく融合させるというもので、まだ経過は途中だったんだと思います。…あんな中途半端な心臓は僕も見たことがありませんでしたからね~。」
グロウは面白そうに言う。しかし、ジュエルはちっとも面白くなさそうだった。微妙にではあったが、表情を曇らせているのが分かる。その上掛け布団をぐっと握っていた。
「その石は、一体何だっていうんだ。」
「…。」
「有り得ないだろう?見たことも、聞いたこともない。『国』の記録にだってそんな代物は残っていないんだぞ…。」
「在ったから、在るんでしょう。それに記録にだって残っていますよ。」
「なっ…」
「シーーー!」
突然グロウが人差し指を立て、勢いよくジュエルの目の前にそれを突き出す。ジュエルは、思わず喉まで出かかった声を飲み込んだ。
「ここからは、機密事項です。」
「!…」
「まあ…この部屋の音声録音は先程効かないようにしました。盗聴器の反応もなさそうなので、多分大丈夫だとは思いますけど。」
「ボンベに入っていたのは、おそらく、あの石と同じモノを気体へ昇華させたものだと思います。気体に変化させることで、奴らは石の成分を常に細胞に取り入れていたのです。
その理由ですが…アレを使うことで、人造生物の肉体形成と維持を図るためだと思われます。」
「人造生物の…形成?!」
「ええ。ですが、貴方が見たケースは違います。…これも仮定の話なんですけど、貴方の話によるとあの石がそのまま心臓に埋め込まれていたそうなので、石の成分の全てが一気に細胞に取り込まれていたわけではなくなります。
なので、成分が直接肉体に及ぼす作用も弱まります。ですが、あの場合作用が弱まることでまた違った効果を発現していたのかもしれません。」
やがてグロウは椅子から立ち上がると、窓の方に行き外の景色を眺める。ジュエルはただ、その背中に目を向けていた。
「『国』の方々に死体検分をお願いしたところ…あの方には心臓が2つ存在していました。」
「!」
「1つは、明らかにヒトのものではない形でした。そこに穴が開いていたので、その心臓の方に石が埋め込まれていたと推定できます。」
「…心臓が、2つ…。」
その時ジュエルの脳裏に瞬時的に映像が流れた。
内容は、自身の戦いの記憶だった。
大きく肥大した爪を振り上げながら襲いかかってくる兵士。それを迎え撃とうとしている自分。自分はまるで独楽のように体を1回転させ――それによって脇の方をを兵士が通り過ぎる。
そこで見えた兵士の背中を、
自分は勢いよく切り捨てる。
そんな記憶だった。
ジュエルははっと息を呑んだ。
「―――ボンベだ。」
するとグロウはその瞳に一筋の光を煌めかせ、満足そうにこう言った。
「正解です。」
ジュエルは思い出した。兵士が背負っていた大きなボンベごと、体を一刀両断。その際、ボンベの中から緑色の気体が吹き出していた。
彼等の死体を思い出してみても同じだった。辺りにはボンベが転がり、そこから緑色の気体が漏れ、充満していた。
彼等は決まってボンベを背負い――それとつながったガスマスクからその気体を吸っていたのだ。
「あれとあの石が同じだって言うのか?…確かにあれも緑色だったが、とても似ても似つかない。」
「だから言ったでしょう。形はおろか、成分の密度や光の透過度、屈折率も違うんです。」
「僕も何もしていなかったというわけではありません。つい先程貴方がここで目覚めるまで、ね。」
「……。」
「ジュエル。貴方は今までに、あの石と同じモノを見たことがある筈です。」
ジュエルはその言葉にぴくりと眉を潜めると、ふぃっと視線を天井に泳がせた。
「…いや。あの石を見たのはこれが初めてだ。」
「何もそれが個体とは限りません。あと違うことと言えば…成分の密度や光の透過度、屈折率くらいのものですかねぇ。」
「それを先に言え。条件が全然違うじゃないか。」
「けど、物質としては同じモノです。」
グロウは素知らぬ顔をする。
そして、話し始めた。
「僕はこの本部にいる間、『SALVER』に関する手がかりとなるあるモノの研究していたんです。それも『国』の幹部の方々には内緒で。」
「何でそんな必要がある?」
「まあそれはさておいて。…突然ですが、ジュエルは『SALVER』の兵を覚えていますか?それは貴方の言うところのソルジャーではなく。いわゆる、雑魚の方です。」
「半人造生物。」
「そう。そして、主にそいつらが背中に担いでいたモノ。覚えていますか?」
「…背中に?」
「何だか、随分久し振りな顔だ。」
ジュエルはそれを横目で見ながら、無感動にまた呟いた。
「直前でも、連絡して下さって助かりましたよ。でないと僕達は貴方の居場所も分からずに、貴方はあのままゴーストタウンの地下で白骨死体になっていたかもしれませんから。」
「ここは…『国』本部の医務室か。グロウがここまで運んだのか?」
「まさか。力仕事は専門外ですよ。」
グロウはにこやかに笑いながら、前の方で手をひらひらと振ってみせる。
「『国』ってのは便利なもんです。任務遂行という大義名分があれば、何でもやってくれますから。…それより、ジュエル。」
「?」
「貴方が持っていたあの石は、どこから?」
「……石?」
ジュエルは一瞬考え込む。だがすぐに思い出した。真っ赤な血の色に垣間見えた、淡いエメラルドグリーンの輝きを。
「ああ。あれは『SALVER』のソルジャーの1人。多分、前にお前が戦った女と同じ類だと思うが…そいつの心臓に埋め込まれていたものだ。」
「体内に、あの個体のまま?それはまた珍しい話ですね。」
「…グロウはアレが何だか知っているのか?」
ジュエルは目を開いた。
そこはさっきまでとは正反対の、明るい空間だった。
最初に目に入ったのは天井だ。白くて、何の特徴もない天井。ジュエルはさっきまでとあまりに違う状況に少し呆然として、それをしばらく見つめる。
(ここは…)
うまく回らない首を横の方にも向けてみると、四角い窓から静かに光が射し込んでいるのが見えた。
その後、ジュエルは重たそうに身を起こす。そこで目に入ったのは自分を包んでいる薄い服とこれまた白い布団、それに腕に丁寧に巻かれている包帯。小さな個室と、ベッドの脇におかれている細長い点滴台など。
これらによって、ジュエルはやっと今の状況を把握することが出来た。
すると彼は軽く溜め息をつき、疲れたように背を丸める。終いには起こした体をまた後ろに倒して、こう呟いた。
「夢か…。」
直後、左の方からプシュッと扉がスライドする音がする。その扉の向こうに立っていた人物は
「……あ、気付きましたか。御加減は如何です?」
そうさらりと言ってベッドの近くにあるパイプ椅子に腰掛けた。
………
そこは暗闇の世界だった。
どこを見ても闇しかない。いや、『無』しかないと言った方が正しいだろうか。感覚も空気もない、自分の存在さえあやふやになる世界。ジュエルはその風景を、どこからか立って見ていた。
と、その時。
(!)
ジュエルはふとある場所を見る。その暗闇の向こう側に、ぼんやりとした人影を見つけた。最初、人影は全身がもやもやとした黒い霧のようで、誰であるのかわからなかった。しかししばらく見ているうちに、徐々にその姿ははっきりとしてきた。
するとどうやら、それはジュエルがよく知っている人物の後ろ姿だった。
(――ロイ?)
ジュエルは心の中でそう呼ぶ。
彼はこちらに背を向けて立っていた。何をするでもなく言うでもなく、ただずっと。
ジュエルはそこに駆け寄ってみようとするが、それは不可能だった。いくら走っても全くと言っていいほど彼に近づかない。それどころか、走れば走るほどに彼の姿は遠ざかっていったのだ。
どうして近づけないのか?それが理解できないまま、ジュエルは走る。
暗闇に消えていく彼へと、必死に手を伸ばし――
ジュエルはそのまま歩き出そうとした。
だが、
「――っ」
そこで突然頭がくらりとする感覚に見舞われ、足元がふらついた。思わずジュエルが自分の体を見てみると、そこには激しい戦いで作った幾つもの傷があった。
ざっくりと裂かれた背中や、肩。戦いの最中、そこから多量に出血したことが容易に伺えた。
(……流しすぎたか……)
ジュエルは心の中で舌打ちをし、瓦礫の上にかくんと膝をつく。そして、
どさっ
横に倒れる。
しかし、これくらいの出血で自分は死なないということをジュエルは認識していた。だからあまり動揺はしない。ただ、自分の体が少しの休息を要求しているということは分かったようだ。
薄れゆく意識の中、ジュエルは残された僅かな力でジーンズのポケットから携帯電話を取り出す。
それを操作し――
カタン
操作が終わると完全に気を失ったようだ。ジュエルの手を離れた携帯電話がそこに転がり、軽い音を立てた。
携帯電話の画面には『Calling』という文字が点滅している。そこから、
『はい、もしもし。……あれ?もしもーし?』
気の抜けたような声が発せられた。
――お知らせ――
皆さん今晩は。(^-^)ARISです。いつも『地獄に咲く花』を読んで下さり、有り難うございます。
え―…毎度おなじみテスト習慣がやってきました。…と言ってももう一週間前です。いつにも増して不味い状況です(^^;)
というわけで、少しお休みを頂きます。再開は2/6となりますので、どうぞこれからも宜しく御願いいたします。<(_ _)>
ARISでした。
ジャックは黙った。
その後、もう二度と話すことはなかった。
彼は最期まで――いや、いつまでも穏やかな表情のままだった。
ジュエルはしばらくその表情を見つめていた。静寂の中で、ただ見つめていた。
(……人は死ぬとき、こんなにも幸せそうな顔を出来るものなのか。)
そして疑問を持った。例えば、ある人間が何も意味を成さず周りを傷つけるだけの存在になってしまった時。果たしてその者にとって、死という選択がそれほど幸福なものなのか、ということに。
もう1つ。
自分もいずれ死を選択するときがくるのだろうか、ということに。
「俺にはよく分からない。」
既に返事をしなくなった彼にジュエルは思わずそうこぼす。その時ジュエルはある種の恐怖を感じていたかもしれない。自らの罪の重さに耐えきれなくなった1人の人間を、自分と照らし合わせて――
と、そこで。
ジュエルはくるりとジャックに背を向け、低く言った。
「俺は前に進むと決めた。自分の戦いを終わらせると、決めた。
…だからまだ。俺はお前みたいに死ぬわけにはいかないんだ。」
「ハッ…俺が…っお前に、協力すると思ってるのか?」
ジャックが苦しげにせせら笑う。ジュエルは、それに怒るでもなく哀れみの眼差しを向けるでもなく、淡々と告げた。
「好きにすればいい。ただ手掛かりが他になくて聞いてみただけだ。…話したくないのなら、他を当たる。」
「………。そう、かい。」
すると、
ジャックは最後の力を振り絞り、右腕を動かす。そして、殆どぼろ切れ同然になっている服の胸ポケットに手を入れた。
…カシャンッ
中から取りだした物を床に投げ出す。それは小さなメモリーチップのようなものだった。
「持って行け。」
とだけ、彼は呟く。ジュエルは微かに息を呑むと、それを拾い上げた。
「いいのか。」
「お前が好きにしろっつったんだろうが。…どうせ、今の俺にはもう関係ねぇものだ。」
ジャックはもう1度天井を仰ぐと――とても穏やかな笑みを浮かべた。
「これですっきりした。…俺は完全に俺を忘れることができる。もう…生きなくていい…自由に、なれる…。」
「――自由が死によって得られるのか?」
「もう眠りたいんだ。
ああ――
俺の『答え』が
やっと…」
「死にたかった?」
ジュエルが問う。すると、ジャックは独り言を止めた。そして彼は息を切れ切れにしながらも、ジュエルの方を見て話しだした。
「俺はな…何もせず、何も考えずここまできたんだ。頭ん中空っぽだったからな。お前の言うようなことなんて…たとえそれが事実であったとしても、これっぽっちも考えちゃあいなかったさ。
死を恐れ他人に言われるままただ漠然と生きて……それで迎えた終末が、これだ。
こうなることはリタに会った瞬間から大体予想ができてた。けど、俺はまた考えなかった。本当に……大馬鹿もいいところだ…くくっ。」
彼は、そう自嘲した。
「……。最後に、1つだけ聞きたい。」
ジュエルは瞼を半分ほど臥せ、低く、静かな声で呟いた。
「リタの居場所…『SALVER』の本拠はどこにある?」
「――そう。『ヴァイス』は俺の本性そのものだった。」
ジャックは倒れたまま、高い天井を遠い目で見る。その横にいるジュエルは先程から全く表情を変えていない。彼は少し呆れたような口調でこう言った。
「……やっぱり、誤魔化しじゃないか。」
「……。」
「お前だって気づいているはずだ。お前が本当に殺人鬼だったなら、わざわざ名前を変える必要なんて無い。名前がどうであろうと、狂っていることには変わりないのだから。
ジャック。お前は自ら『ヴァイス』という殺人鬼を仕立て上げ…それを理由に、自分の罪から目を反らしたんだ。」
「……くくっ、随分知ったような口でしゃべるなぁ、お前は。…ゴフッ!」
ジャックは笑い、激しく吐血する。そして少しの間何も言えなくなる。気づけば、彼はもう殆ど虫の息であった。
「………実際俺がどうしたかったのか…俺にもよく分かんねぇ…俺の『答え』が見つけられなかった、から。………いや、今も。ずっと分かってなぇな…」
ジャックは途切れ途切れに言葉を紡ぎ始める。それは完全に独り言のようだった。
「もしかしたら…俺は死にたかったのかもしれないな。」
「当然、殺人好きの俺はその話に飛びついたってわけだ。その時、奴は俺にその光る石を見せながら、俺の名前を聞いてきたんだ。」
ジャックはおぼろげにその風景を思い出した。燃えるような黄昏時、血の海の真ん中での短い会話を。
「――君の名前は?」
「ジャックだ。」
「…随分とありふれた名前だ。それじゃああまりに合わない。」
「何に合わせろってんだ。」
「特別な者は、特別な名を持つのが相応しい。そうは思わないか?」
「……知るかよ、んなもん。」
「そもそも君が聞かせてくれた話によると、少なくとも君は過去の自分の日常を抹消した…即ち、『ジャック』という存在の証を。」
「……」
「なら、君は誰だ。全てを捨て、空っぽになった。それでもここに存在する『君』というものは…何だというんだ?」
……
……
「……ヴァイスだ。」
「ヴァイス?」
「そう、俺はヴァイス。『ジャック』が一番嫌っていた名前だ。この名前が存在しなければ、今こんなことにはならなかっただろうしな。」
「ヴァイス。
いい名前だ。
全ての生命を破滅に導く名前。とても、今の君に合っている。」
ジュエルは少し丸い目でジャックと名乗る青年を見つめる。それからは混乱気味だったが、何とか事態を掴もうとしていた。
「…あの瘤が『ヴァイス』だったのか。」
「瘤?」
「お前の心臓に、寄生するように絡み付いていた。ジャックは『ヴァイス』という生物に操られていたのか…?」
ジャックは「瘤、ねぇ…」と呟くと、何かを考え、思い出すように視線を宙に遊ばせた。そして、彼の中で結論を出す。
「ははっ、残念ながら違うね。ジャックとヴァイスは同一人物だ。何しろヴァイスってのは俺のファミリーネームだからな。…ジャックとヴァイスはいつでも一緒だった。その瘤は俺がジャックと名乗らなくなったきっかけってところか。」
「きっかけ?」
「リタ…そいつの存在がヴァイスの存在のきっかけだ。」
(――リタ。)
「ヴァイスはなあ、別に誤魔化してなんかいなかったぜ。俺が本当に殺人好きだったみたいだからな。自分の住んでいた街の人間を全て殺したくらいさ。
俺は殺し尽くして、1人でぼーっとしていた。そこにあいつが来たんだ。…奴は言ったよ。
『もっとヒトを殺したくはないか?』ってな。」
ジュウゥゥウ……
何かが焼けるような音とともに、『ヴァイス』の巨大な肉体が蒸発していく。皮膚は剥がれ、端の方から大きな骨と肉が溶けていく。
終いには
1人の人間がそこに残った。胸を裂かれ大の字で倒れている赤毛の青年が。気を失っているようにも見えたが、うっすらと目を開けていた。
「……それ。」
ぽつりと、彼は力が抜けたように言った。唐突のことだったのでジュエルは少し驚いたようだった。
「どうやって見つけたんだ?」
青年が見ていたのはジュエルの手の中にあるモノ――鈍いエメラルドグリーンの光を放つ壊れた立方体だ。ジュエルは少し沈黙してから、答えた。
「お前の体内からこの光が見えたような気がした。…でも、今となってはよく分からない。こんなぼんやりした光が体内から外界まで届く筈はないからな。」
すると青年はふっと笑った。
「懐かしいな。その光を見てから、俺はどれだけ夢を見ていたんだ?」
「?…」
その不可解な発言にジュエルは眉を潜める。すると青年はますます肩を震わせて笑った。
「ああ、自己紹介が遅れたな。ジュエル君。
俺は、ジャックってんだ。」
すた!
ジュエルは背を屈めて1階に着地した。その後、ぎこちなく身を起こす。見れば彼はもう満身創痍だった。何カ所かの大きな切り傷からは血が流れ、擦り傷はもはや数え切れない程にある。歩くのもやっとであったが、ジュエルは山積みになった瓦礫を行き、仰向けに倒れた『ヴァイス』の胸部に再び向かった。
「フシュー……フシュー」
呼吸音とともに『ヴァイス』の体はゆっくりと上下している。ジュエルはその上に乗った。そして自ら付けた大きな傷をもう一度開き、よく観察してみる。
すると奥の方に奇妙な肉塊を見つけた。見れば、それは『ヴァイス』の心臓に絡みついている瘤のようなもので、先程の剣で貫かれた跡がついている。
ジュエルはその跡――瘤の内部からのぞく、ある壊れた物体に着目した。
小さなそれは立方体の形をしていて、弱い光を発している。血にまみれて赤い光を発しているように見えるが…
「?」
よく見れば、微かに元の光の色が見え隠れしていた。
それは淡いエメラルドグリーンで、まるで見る者を魅了するかのような、とても深く清らかな色であった。
ジュエルが腕を伸ばし、それを手に取ってみると――
ザバァ!!
ジュエルによって『ヴァイス』の胸部は大きく切り裂かれる。そして、ジュエルは再び右手の剣を振り上げた。
ザク!!!
「ウゴオオオォオオォォ!!!」
深々と傷口を貫かれ『ヴァイス』がひときわ大きな奇声を上げる。その時ジュエルは、その傷口の奥から微かに赤い光が放たれているのを見た。
(これは?)
また、貫いた先には固い手応えがある。その表面で剣が止まっていることが感触で分かった。
そこでジュエルは直感した。
(もっと……奥だ!)
ズブ!
「…ォァァァアアアア!!!」
ジュエルは渾身の力を剣に込める。だがその固い物体を壊すまでには至らない。
それでも彼は剣を持つ手を緩めなかった。落ちてしまわないように必死にそこにへばり付いて。ただもっと深く、深く。
「アアアアァァァァ!!!!」
「っ…ぉぉぉおおお!!」
そして――
バキ…!
という地味な音を立てて、その物体は壊れた。
『ヴァイス』はビクンと1つ痙攣すると、
全身の力が抜けたようにぐらりと体勢を崩す。
『塔』の部分部分をお構いなしに壊しながら
最後には瓦礫の山に倒れた。
ジュエルをぶら下げる長い鎖は、振子の力で前へ揺れようとする。ジュエルは『ヴァイス』から剣が抜けるまでの残っている僅かな時間、そこでぐっと重心を前にかけた。
ぐんっ
結果、ジュエルの体は『ヴァイス』の右方向から左方向へと勢いよく宙に弧を描く。目指す先は『ヴァイス』の左手だった。
ずっ
浮遊感が強くなってくる。目的の場所はもう2、3m先だ。ジュエルは息を止め、さらに重心をかけた。
…その時。
「?…」
ジュエルは一瞬、何かに気付いた。
ずぶっ!
同時に完全に剣が抜ける。ジュエルは体を勢いに任せ、足を投げ出した。急速に落下しつつも、着地点を正確に見極める!
そして、
トッ…!
足をついた。
しかしそれだけでは終わらなかった。
タッ!!
何とジュエルは着地したところから続けて上に跳んだ。元々彼の中にはそんな予定はなかったが、彼は一直線にそこへ向かった。
――『ヴァイス』の心臓へ。
途中、抜けた剣が上から落ちてくる。
パシ!
それは空中で吸い着くようにジュエルの右手に収まった。
「はあぁあ!!!」
そのまま、ジュエルは両手の剣を振りかざした。
ザクッ!
「ギャアアァアア!!」
ジュエルが投げた剣は『ヴァイス』の口の天井に突き刺さり、鼻まで貫いた。『ヴァイス』は大きな声を上げ、顔を激しく振り始める。ジュエルは『ヴァイス』に突き刺さった剣から繋がる鎖でぶら下がっているため、それにより空中に投げ出され、大きく振り回された。
ブゥン!
「うわ…!」
視界がぐるりと回り、また背中から落下していく。その途中、ジュエルは背後――下の方からとてつもない破壊衝動を感じた。瞬時にそちらに目を向けると、
「!!」
下から鋭く尖った黒い物体が、落下する背中にあと数センチで突き刺さるというところまで来ていた。
ジュエルは反射的に身を捻って棘をかわす。ついでに、
ザン!
黒い物体を斬り飛ばす。
ジュエルは落下しながら周りに同じ黒い大きな棘が4本あるのを見た。どうやらあの棘は『ヴァイス』の爪だったらしい。
そのうち『ヴァイス』に刺さった剣が段々抜け始めるのが、ジュエルには感触で分かった。手近な足場を見つけて着地しないと、このまま1階まで落下してしまう。
そこでジュエルは、『ヴァイス』の巨大な手に目を付けた。
階段は無数の鋭い破片となってあたりに勢いよく飛び散る。しかしジュエルはそれを読んでいたかのように、高く飛び上がっていた。それは1階から2階へ軽く届く高さだった。
タン!
ジュエルは2階の柵に一旦足を着き、再び高く飛び上がる。そうすることで『塔』の天井に近い所まで到達し、やっと『ヴァイス』の顔面まで届いた。
「はぁ!!」
そして2本の剣を振り上げ『ヴァイス』の目を狙って斬りかかる!
だが、その時。
「ゥオオオオオオオオオオオン!!」
『ヴァイス』が大きく吠える。すると、同時に非常に強力な超音波が空間全体を揺るがした。
キイイイィィィン!!!
「ぅ…!」
それは脳に直接響き、急激に平衡感覚を奪う。
たまらずジュエルが一瞬怯んだ。その空白の時間に『ヴァイス』はガバッと巨大な口を開き、ジュエルに噛みつきかかる!
「っ!」
ジュエルは霞んだ目でも身の危険を反射的に察知し、行動に移した。それは回避でも防御でもなく――攻撃だった。右手の剣を握り直し、
シャッ!!
勢いをつけて剣を『ヴァイス』の口腔に向かって投げつけた。剣は鎖をつけたまま、真っ直ぐ、矢のように飛んでいった。
ジャックは2階の吹き抜けから1階の広い空間を見ていた。
そこには一欠片の正義も存在しなかった。在ったのは血の泉と沢山の悲鳴と、鳴り響く銃弾の音。刃物や何かの農具によって肉が切り裂かれる音。
そこにいる人間、皆が殺し合っていた。
『国』が『街』の人間を。『街』が『国』の人間を。さらに『街』が『街』の人間を手に掛ける所も見られた。スレーブの存在の発覚からの争い、あるいは母親が何も出来ず泣き叫ぶ事しかできない赤ん坊に包丁を突き立てていたり。
ジャックは、そこにあった全ての命を壊した。
鉄パイプを1回振る度に、自分の中に僅かに残っている思い出を消し去っていくように。
壊す。
あの日常を。
壊す。
あの空を。
壊す。
――あの笑顔を。
全て
ブンッ!!!
ドゴオオオオォン!!!!
今やただの巨大な化け物と化した、ヴァイス。黒い棘だらけの顔は何かの獣に見える。しかし、それ以外はまるでドラゴンのようだった。
その長い尻尾が。
ジュエルがいた空間を凪ぎ、『塔』の1階と2階を繋ぐ階段を木っ端みじんにした。
穴の向こう側。見る者全てを吸い込み、飲み込んでしまいそうな暗闇から、冷たい空気は流れ込んできていた。ジャックはその穴が地下へと続くことを知っている。それは、自分で掘って開通した道だからだ。
即ち穴は『塔』へと繋がっている。『街』の住民皆で戦争に備えて完成させた、あの防空壕だ。
ローラの話によると、『街』が戦争を企てていたことはスレーブというスパイによって、『国』に筒抜けになっていた。
ならば、
当然『塔』のことも――
ジャックは何かに誘われるようにして、穴へと足を動かす。暗闇を進んだ先にはどんな景色が広がっているのか、などということは彼にとってどうでも良かった。ただ、彼は『気配』に惹かれていたのだ。
だから、彼がその足を止めることはなかった。細い地下道に入り、しばらく行くと大きな地下道に出る。
彼はそこを真っ直ぐ歩くと、
程なくして『塔』に辿り着いた。
そして、全てが終わりを告げた。
そこにあったのはこの世の物とは思えない混沌。地獄の世界。
あるいは、涅槃だった。
入ってすぐの玄関は酷く雑然としていた。石の壁の所々には銃痕があり、乱暴に踏み荒らされたであろう床には無数の同じ形をした足跡が汚く残っている。足跡のつきかたは不規則で、それはまるで何かを調べ回ったようだった。
しかしそれよりも目に付いたのは、すぐそこで仰向けに倒れている母親の姿だ。
彼女は少し驚いたような顔をしていて、額や、胸、腹などには沢山穴が空いている。勿論血溜まりを作ってピクリとも動かない。
ジャックはそんな母親の姿を前にしばらく立ち止まった後、向こう側の廊下に続いている足跡を目で辿り、家の中に踏み出した。
足跡は狭い居間へと繋がっている。ジャックが知っている限りでは、そこは長いテーブルと椅子、棚、小さなキッチンくらいしかない寂しい部屋だ。
だが今入ってみると、部屋はもっと寂しくなっていた。
全ての家具はただの壊れた木材になっていて、家具として機能していた時の形は見る影もなくなっていた。そして勿論、床には足跡が数え切れないほどついている。しかし玄関とは違い、それらはあるところに向かって集結していた。
そこの壁が、
ぽっかりと四角の口を開けていた。
ドヅ!!
ゴシャ!!
いくつかの叩きつけるような音が響くとそこはたちまち静かになった。
そして、ジャックの足元に転がる死体の数と血の量が増えた。
(……これで、いい。)
ジャックは出来立ての死体をちらりとも見ずに再びふらりと歩き出す。どうやら、あるところに向かうようだった。
(全て無くなってしまえば。)
それから2、3分程して彼が辿り着いたのは、自分が住んでいた家だった。小さな石造りの、何の飾り気もない真四角な建物。そんなものでも、彼にとっては家族と共に過ごしていた住み慣れた我が家だった。
彼はポケットから鍵を取り出し、ノブに差し込もうとする。しかし彼はあることに気付き、途中でその手を止めた。
よく見ればドアが完全に閉まっていない。それは鍵が掛かっていないことを意味していた。
「……。」
その事で彼が驚くことはなかった。何故なら彼には予想出来ていたからだ。扉が開いていることも、扉の向こうにある景色も。
だから彼は躊躇なくノブを回し、扉を開いた。
中はとてもひんやりとした空気が流れていて、恐しいほどの静寂に支配されていた。
「『街』の者は殺せ!」
ダダダダダダダッ!!
1人の連続式の散弾銃がジャックに向かって火を噴く。
しかし、
銃弾が飛んでいった先には、誰もいなかった。だから発砲した本人は不思議そうな顔をした。
「……ん?」
と、声を出す。
それが彼の遺言。その後は「さっきまで確かに目の前にいたのに」と言う間もなかった。
ゴシャ!!!
大きな血飛沫が上がった。彼は、ジャックに背後から鉄パイプで頭を殴られたらしい。その頭頂は大きく凹んでいて、眼球はあまりの衝撃で飛び出していた。
いくら鉄パイプで殴られたからといっても、普通ここまではならない。目の前で彼の絶命を目撃した他の兵士達は、マスクの隙間から青ざめた表情を覗かせた。
「な、何…?!?!」
「ひ…いぃ」
兵士達はたった今仲間を殺した者の背がすぐそこにあるというのに、数歩後ずさった。
そしてゆっくりと、ジャックは兵士達に振りかえる。
頬には返り血がべったりとついている。だが、それよりも兵士達を戦慄させたのは彼の表情だった。
彼は――穏やかな笑みを浮かべていた。
「…化け物めええぇ!!」
ダダダダダダダッ!!
そして彼の通った後には、夥しい数の生物の死体が転がった。鉄パイプからは大量の血が滴り落ち、地面には赤く彩られた道が出来ていた。
彼には未知の生物に対する怯えはもちろん、もはや殺すことへの恐れも躊躇もなかった。
何故なら、決断してしまったからだ。
バタバタバタ……!
「……。」
T字路の曲がり角から複数の足音が聞こえ、彼はぎょろりと眼球だけ動かしてそちらの方を見る。すると先程見た『国』の武装兵が4人程、銃器を持ちながら走ってくるのが見えた。
「くそっ。キリがないな、あの化け物は!一体何人実験台がいたってんだ?!」
「いいから殲滅だ。1匹も逃がすなよ!!」
彼等は口々に言っていた。だがそこで、その内の1人がジャックの方に気付き――
「……おい、何だ…アレ。」
思わずそう呟いた。無理もない。そこに列をなす死体の数と、返り血にまみれた赤毛の青年の姿を見れば。
1人の言葉で、残りの者もそちらの方を見る。
「…『街』の生き残りか?!」
「人造生物…この男が全部始末したのか?鉄パイプ1本で?!」
ジャキッ
何人かがジャックに向けて銃を構える。
――少し鈍い音がそこに響いただろうか。その後に残ったのは、沈黙だけだった。
ジャックは新しい血がこびりついた鉄パイプを力なく手からぶら下げて。少し長い時間、もうピクリとも動かなくなった彼女を呆然と見つめた。
しかし、やがて遠い空の向こうを眺めながら
「あぁ、戻れなくなったのか。」
と、納得したように呟いた。
そして。ジャックは彼女に背を向け、歩き出す。ずるずると、足を引きずるようにして向かうのは避難用の航空機ではなく、街の方角だった。
門を背に真っ直ぐ歩いていき、そこから直結している大きな通りの真ん中に出た。街全体は人の気配がなくなり静まりかえっているが、まだ空にも地上にもあの生物がいる。だが彼は逃げもせず、隠れもしなかった。
(もう、あの日常に戻れないなら)
その内の何匹かがそれに目を付けると、牙を向いて、喜びながら彼に襲いかかっていった。それでも、彼は動かない。
(せめて、全部壊してしまおう。)
ドガ!!!バキ!!!!
大きな音がして、生物の羽がはらりと散った。
(この世界も―――自分も。)
彼が掴んだのは血塗れの棒。即ち、先程あの生物を殴り殺した時に使った、鉄パイプだ。彼はそのままゆらりと立ち上がる。金属が砂を擦った時のシャリリ、という音が鳴った。
ぐらぐらと揺れる赤い視界の中。自分のことを少し丸い目で見上げている彼女を、彼は見下ろした。
そして
ゆっくりと、両手で持った鉄パイプを天に掲げる。
自分は次の行動をした後、どうするつもりなのか。
自分は、どのような結末を望んでいたのか。
自分は、
果たして『生きたい』のか。…それとも?
――全ての答えは、彼の中に無い。
ただ。
この壊れ、歪みきってしまった世界は、彼にとって酷く居心地が悪かった。彼は、目の前に在る歪みの根源を消してしまいたかった。
溢れ出る憎しみのままに。
ローラは、光を背にして、シルエットになっている彼の姿を目に焼き付けていた。ある種の神々しささえ湛えている、その姿を。
時を止めて、ずっと見ていたかった。しかしそれは叶わぬ願いだと、彼女は理解する。
だから
彼女は柔らかく微笑んで、
こう言った。
「ジャック――****。」
「ふざけるな…ふざけるな、ふざけるな!!」
憎しみ。彼の中で溢れ、濁流となったその感情は、次に大きく渦を巻き始めた。
その渦の狭間から、
『――生きて下さい』
『生きるんだ!』
『生きて。』
『イきて――』
脳内に色んな声が聞こえてきた。どれが誰の声だかは判別がつかない。ただ皆同じ意味の言葉を発しているのだけは分かる。
彼は、その五月蝿さに顔をしかめた。
「……こんなもん、誰が望んだ?誰が幸せになれると思ってるんだ?…お前。」
内とは裏腹に、彼は静かに問った。それに、彼女も同じ様に静かに答えた。
「もちろん、貴方が。貴方にとって生きることは、幸せなこと。」
「…何で、お前にそんなことが分かる?」
「だって。
2人で1番星を見たあの日。貴方は私に『生きたい』と言ったじゃない。」
すると――
地にうずくまっていたジャックの体が動き出した。
まるで何かに操られているようにその動きはスムーズで、かつ自然だった。彼は脇の方にすっと手を伸ばすと、あるものを掴んだ。
冷たく、固い感触。それは、先程からずっと彼の横に転がっていた。
そして、あっという間にジャックに見えている風景は赤に染まる。しかも先程よりさらに激しく、ジャックには色々な物がぐにゃぐにゃと歪んで見えた。
「アナタだけはタスけたかった…アナタにだけは幸セな生をみつけてほしかったカラ」
聞こえてくる彼女の声さえも、歪んでいる。所々雑音混じりになっていて、何を言っているのかよく聞こえない部分もある。
「ダって、私は。」
しかし、その後の最後の一言だけは、いやにはっきりとジャックに聞こえてきた。
――貴方のことが、好きだから――
その時からだろうか。
彼がある感情に支配され始めたのは。
始めそれは、理性をじわじわと浸食していった。やがて、深層心理や無意識。本能さえも、飲み込み始める。
「…ふざけるな」
ぽつりと、小さな言葉が出た。
それは彼の中に溜まった感情が、外に漏れ出したほんの僅かの『瞬間』だった。丁度満杯になったコップに少しずつ水が注がれていき、表面張力を保てなくなった水が一筋コップに伝う時のような、刹那の時。
そして、さらにそのまま水が注がれ続けると。
その溢れは急激に勢いを増し、
止まらなくなる。
「勿論、あの化け物を殲滅するという意味も含んでいると思うけど。それはあくまでついで。それとも…表面的なものといった方が正しいのかしら。
この街の人間は『国』と戦争を起こすつもりだった。そのために『塔』を建設していたでしょう。
そこにスレーブ。…『国』のスパイが絡んでいたとなると、結局どうなると思う?『オペレーション』の、本当の目的は?」
「……!!!」
その、とてもあからさまな問いかけに、ジャックは息を呑む。つまり彼女は1ピースだけ欠けているジグソーパズルをジャックに差し出し、最後のピースは自分で埋めろと言っているのだ。
「っ……」
ジャックは固まったまま。そのピースを取ろうともしない。何故なら、欠けた部分を埋めることで浮かび上がってくる『絵』があまりに残酷なものであることを分かっているからだ。
彼はその『絵』を信じたくないのだろう。
しかしいつまで経っても彼が口を開かないことに苛立ったのか、
彼女は一言呟いた。
「皆殺されるでしょうね。」
その瞬間。パチリという音を立てて、最後のピースがはまった。
「そう。どの道この街は滅び行く運命だということを、私は知っていた。」
サァ…と、彼女の巻き髪が風になびく。しかしその瞳は、ただ真っ直ぐジャックに向いていた。
「そして、私はどんなことをしてでも、どんな事実を知られたとしても。あんただけは失いたくなかった。…だから私は、あんたをここに連れてきたの。」
「…?!」
彼女の言葉で、ジャックの背筋にまたぞわりとした感覚が走った。
(どういう、意味だ…?)
「ジャック、立って。早く飛行機に乗り込んで。…生きて。」
「…ちょ…」
ジャックが何か言おうとするが、まだ思考が追いついていけず、言葉が切れてしまう。だがそれでも、彼は声帯を振り絞った。
「ちょっと、待て…どういうことなんだよ…これから何が始まるってんだ?『国』の軍は何しに来た?あの化け物を排除しに来たんじゃないのか?!」
「……。」
彼女は冷たい眼差しで、じっとこちらを見ているだけ。それがますます彼を戦慄させた。
「…『オペレーション』って、一体何なんだよ?!ローラ!!」
混乱しきった、叫び。彼女は、それとは対照的に低い声で言った。
「想像、ついてる筈よ。」
「最初はね、あの子の気持ちを知っても大したことなかった。その頃は、まだ私自身の中に眠っていた『感情』に気付いてなかったから。
でも、同じ話を何度も聞かされる内に…どんどん何かが溜まっていって。私の『感情』は耐えられなかった。ああ、あんたにもあの子にも、子供の頃のまま純粋な気持ちで接することが出来ればよかったのに。私は人を消す方法を知ってしまったばかりに…。」
彼女は笑い顔のままとても残念そうに言った。と、その時。
シュバアアァ!!
少し遠くで、数人の兵が何かを空に打ち出していた。それは勢いよく風を切って垂直に飛び上がると、ポンという音を立てて大きく明るい光球を生み出した。
同時に、
「オペレーション開始!!」
と拡声器の声が響く。すると先程まで綺麗に整列していた兵士達が、ばたばたと慌ただしく四方に散り始めた。
ジャックはまだ地面にへばりついて、それをただ見ていた。
(何だ…?)
「…始まったみたいね。」
彼女もそれをちらりとみると、他人事のようにぽつんと呟いた。そして、ジャックに向き直る。
その時。瞬間的に頭の中で、ある日の風景がフラッシュバックした。
2人だけの公園。一緒にブランコの上で夕暮れの空を見上げた。ぽつんと見える1番星が印象的だった。
そして、続けざまにあの時のローラの言葉が響く。
『あの子、リリィね。…あの時からあんたのことが好きだったのよ。』
『でも、リリィは私に会う度あんたの話ばっかり。どうやったら想いを伝えられるか…私はそんな相談の相手をいつもしてたのよ。』
『あの子はあんたのことが好きだった。…本当に好きだったの。けど何の想いも伝えられないまま……消されてしまった。
せめて、伝えられれば良かったのに。私はあの子の背中を押してあげることが出来なかった。』
『…あの子に何もしてあげることが出来なかった!』
(嘘だろ…こんなこと。)
ジャックは愕然とした。
(あんなに思い出を愛おしそうに話していたのに。あんなに自分は無力だと悔しそうだったのに。全部…全部演技だったのか?!?!)
目の前では、彼女がふふふと低い笑い声を上げている。それで、ジャックは思った。
ああ、全ては最初から狂っていたのだと。
………
(………。は…?)
彼女のその答えはあまりに唐突なものであったらしく、ジャックは思わず変な声を上げそうになる。彼はそれを押し込む代わりに、恐る恐る目の前にある彼女の目を見た。
気付けば彼女はしゃがむのを止め、地面にぺったりと足をつけて座っている。それに今、ゆっくりとこちらへ右手を伸ばしてきていた。
「さっき。あんたがあのバケモノに殺されそうになった時に気付いたの。私は小さい頃、初めて会った時からずっと…あんたが好きだったって事。」
その右手がジャックの頬に触れたと同時に、彼はその時の事を思い出す。すると確かに、彼女の様子から、多少なりとも自分を好いているのかもしれない…という想像は容易についた。
だが、ジャックはまだ理解出来ずにいた。
何故、それが親友を殺すことに繋がるのか。
ジャックはもっと思い出してみた。よく知っていた…『ローラ』の姿を。
ローラはいつもリリィと一緒にいた。普段1人ぼっちでいたリリィにとって、ローラは唯一友達と呼べる存在であり、相談者であった。実際、ローラは毎度リリィの相談役になっていて――
と、そこで彼の思考は止まった。
ジャックは、その問いに対して何も言えないでいた。「何故」という思考で頭が一杯になり、聞こえてくる言葉も右の耳から左の耳へ通り過ぎてしまっているらしい。そのうなだれている姿は、まるでただの抜け殻のようだった。
「分からない?」
そう小さく聞いても、彼は勿論反応しない。だが彼女はそれを気に留めることはなかった。
「無理ないわ。私も最初、理性では自分の行動が全く理解出来なかったから。」
彼女はまた無機質な微笑みを浮かべる。今度は少し自嘲的なものを含んでいるようにも見えた。
「でもね、ついさっきやっと分かった。確信が持てたの。私があの子を殺してしまった理由…それはね、」
答の直前まで来た時。ジャックは突然頭を抱え込んだ。彼は心の中で叫んでいた。
(もう、いい……もう止めてくれ…!これ以上は…っ!!)
その要求を口で言おうとしても、喉の奥がからからに乾いていてうまく声が出ない。
「ロー…ラ…!」
名前を呼ぶのが精一杯だった。しかしそれだけでは彼女を止めることは出来ない。
彼女は答を言った。
「――貴方のことが、好きだったから。」
「私の両親…レイ家は、『国』から得たその権利を行使していた。せめて悲しむ人が少なくなるように、出来るだけこの街で目立たない人間、必要とされていない人間を選んでいたわ。殆どの被害者は、私の両親によって選ばれた者なの。…でも、あの子だけは違う。」
彼女はジャックの背を見下ろして、無情にもまた淡々と言葉を並べた。
「あの子は誰の意志でもない、私自身の意志で選ばれた被害者。…そう、私が殺したも同然ね。」
「……!!!」
ジャックはザラザラの砂を爪で擦る。それは、一番聞きたくない言葉…事実だった。
「ジャック、さっき「なんで」って訊いてきたわね。」
「……。」
「……何でだと思う?」
すると、彼女はその場にしゃがみこみ、殆ど見えなくなっているジャックの顔を覗き込んだ。
ジャックは、自分が口にした名前に激しい悪寒を覚える。信じたくないという思いがこれほど胸に馳せたことはなかった。だが歪みきった現実を彼女に突きつけられ、そこに希望を見いだすことはかなり難しいことだった。
「まさか……まさかっ!!!」
しかし、それでもジャックは彼女を信じようとしていた。明るくて。よく自分をからかってきて、喧嘩もして。けどその後には、いつも笑顔でサンドイッチを差し出してくれた。
そんな『ローラ』を失いたくなくて。
平穏だったあの日々。タイムカプセルを掘り出して喜んだ、あの思い出を失いたくなくて。
「そう。私が『国』彼女を消すように頼んだのよ。」
ジャックは
心の中で、自分の両手から何か落としてしまったような気がした。
ガラス玉のようなそれは、
重力に逆らいもせずに下に向かう。
そして地に着いたその時。
大きな。しかし透き通った音を立てて、砕け散った。
破片はきらきらと輝く光を残し、全て消えていく。消えていく。
「なん……で………」
彼はそう呟きながらぐらりと前にのめり、どさりと両膝と両手をついて地面を見つめた。
「な、」
今、ジャックは彼女の一言が何を意味しているのか頭で理解出来ずにいる。しかし、無意識の内では一瞬で理解できていたらしい。
「……何を、だよ…?」
だから、問い直した時の声は少し掠れていた。
彼女はそれを聞くととても詰まらないものを見るように、すっと目を伏せる。
「あんたって、ホントに物分かりが悪いわ。」
いつもの呆れたような口調。それはジャックにとって聞き慣れたもののはずなのに、それが余計に恐ろしかった。
そして、彼女は言った。
「ぎ せ い しゃ。」
1文字1文字丁寧に。彼女の口から発せられたのは主語も動詞もない1つの簡単な単語だった。
それだけでジャックは絶句していた。
瞼がつり上がっていて、口は少しだけ開いている。そこから入ってきた空気は彼の肺を一杯にし、胸にジーンとした微かな痺れを生み出していた。
「…じゃあ…全部。お前は、…」
言葉の断片が不規則に、無感動に並ぶ。今の彼にはこれが精一杯だった。
しかし最後の言葉は
「リリィ…っ?!」
空と大地が逆転し、今までちゃんと色がついていた筈の日常は白と黒だけのネガの様な世界に反転する。そんな可笑しな錯覚がジャックを襲った。
(…何なんだ、これ…っ)
頭痛と眩暈によろめきそうになる。だがそれに構わず、彼女はさらに続けた。
「私達は普通のスレーブよりずっと特別だった。だから1つだけ、ある願いを『国』に聞いてもらえたわ。」
「…願い?」
「そう。『国』の方針には逆らうことが出来なかったけど。方針に沿った内容なら許された。…それはね、」
そこで一瞬時間が止まった。丁度、彼女が次の言葉を紡ぐために息を吸う所だった。ジャックは止まった時の中で、はっきりと意識はあるもののピクリとも動くことが出来ない。
激しい鼓動と発汗は、このままだと自身が壊れてしまうという警告を如実に発しているのに。
しかし。
彼女の言葉を聞きたくなくても、耳を塞ぐことが出来ない。
彼女の微笑みを見たくなくても目を閉じることが出来ない。
そしてジャックは何も出来ないまま。無情にも、世界は再びその時を刻み始めた。
彼女はゆっくりと口を開いた。
「―――『選べる』のよ。」
下に向いていた彼女の視線はゆらりと弧を描き、やがてジャックの姿をまともに捉える。
「私は、ただ生きたいだけ。こんな埃っぽい砂まみれの街で、ぼろ切れのように死んでいくのは嫌だっただけよ。…前にも言ったでしょ?私は自分の目的のためなら、どんな努力もするって。たとえそれが他人の命を糧にするもであっても、ね。」
「……!」
ジャックには、信じることが出来なかった。
その時、彼女は微笑みを浮かべていたのだ。
『微笑み』とはいっても、何の温かみも感じられない。顔の表面で口の端を少し上げているだけで、心の中は何か冷たいもので満ち満ちているのが目に見えてわかった。
即ち、悔恨でも喜びでもない。ただ、「自分がこのような行動をするのはとても自然で、当然のことじゃないか」と告げているだけの
空っぽの感情だ。
「私の家はね、よくわからないけど『研究に使える特別な遺伝子』が伝わっている可能性があるとかで、『国』からは結構優遇されてたの。
…少し検査に協力しただけで。こんなにいい話はないでしょう?」
彼女の微笑みは、ジャックの中にあった思い出を少しずつ打ち砕いていく。
彼は怒りと悲しみが入り混じった気分の悪そうな顔で、ちらりと横の方を見る。そこには、整列する兵士達の姿があった。
「分かり切ったことだ。さっきのお前の話し方。どう見たってスレーブって柄じゃねぇよ。…レイ家の人間だとすんなり『国』の人間へ話が通る。そんな家族が人質に取られるのか?もしそうであったとしても、お前にはそれなりに発言力があるはずだろ…?」
そう言いながら両手を伸ばし、泣きじゃくるローラの肩をぐっと掴んだ。
「ローラ、全部説明してくれ…!お前には何が出来なくて、何が出来たんだ!頼むから…教えてくれ!!」
「……う…っく、ぅ…う…っ」
「何で、皆を見捨てられたんだ!!!」
からからに乾いた熱い空気が、激しい風に乗って空間を満たし始める。
気付けば、ローラの頬に流れていた涙は一瞬のうちに消えていた。濁った瞳の色。何の感情も籠もってない無機質な表情。まるでさっきまでそこにいたローラと別の存在が突然入れ替わったようだった。
彼女は
長い間をおいた後、呟いた。
「そんなに聞きたいなら、教えてあげる。」
それはぞくりとするほど低く、静かな声だった。
「………。」
ローラは沈黙する。ただ俯いて。その小さな顔は、まっすぐ伸びている前髪に隠れ気味になった。
「…お前は、本当に何も出来なかったのか?お前にとってかけがえのなかった親友を、簡単に見捨てられたって言うのかよ?!」
ジャックの口調が少し強めになってくる。その心には段々と怒りが色付き始めているようだった。
「簡単に…見捨てられるわけないじゃない…」
ジャックの様子に少し怯えたのか、ローラの声が心なしか揺れる。よく見ればその肩も小刻みに震えていた。
「私は…許しを乞ったわ。でも…っ家族皆を盾にされちゃ、仕方がないじゃない!!」
半ば叫びに近い言葉。
やがて、ローラは胸に溜まっていた感情が破裂したように両手で顔を覆い、すすり泣き始めた。現実の残酷さと己の無力さ呪う、そんな涙を彼女は噛み締める。
そして、ジャックは苦い顔で何も言えず、失ってしまった過去に絶望する。
様に思えたが。
「……嘘だろ。」
「――え?」
彼の口から出たのは、ひどく冷たい一言だった。
――お知らせ――
皆さん今晩は。(^-^)ARISです。いつも『地獄に咲く花』を読んで下さり、誠に有り難うございます。
用件なのですが、昨日から少し体調不良を起こしているので、更新を一週間ほどお休みすることにしました。
申し訳在りませんが、ご理解の程よろしくお願いいたします。
もう少しで、過去編終わりにします。…って感想版の方にも前から書いているのですが、なかなか終わりませんねこれが。(^^;)
どうか、これからも温かい目で見守ってやって下さい。<(_ _)>
「…?!」
さらりとした短い言葉。それだけで、ジャックは驚きを隠せなかった。ローラは少しだけ俯いていて、その表情からどんな感情を抱いているのかは読み取れない。
「『国』が『街』の人間を拉致していたのは本当よ。仕方がなかった。見てるしかなかった。…スレーブだったから。そこで『国』に逆らっていたら、確実に私も同じ目にあっていたから。」
「じゃあ……拉致された人間は、どうなるってんだよ…?」
ジャックは途切れ途切れに言葉を紡ぐ。すると、ローラはゆっくりと首を横に振った。
「…分からない。砂漠の向こうにある可笑しな実験施設の様なところに連れて行かれて。そこから帰ってきた人は1人もいないわ。」
ビュウッと、2人の間に強い風が吹き抜ける。ずっと聞こえているプロペラの音は、今生じている長い沈黙のせいで余計にうるさく聞こえた。
「…リリィも?」
「!」
そのよく知った親友の名前に、ローラは少しだけ反応したようだった。
「リリィが連れて行かれるのも……お前は黙って見ていられたのか。」
「私だけじゃない。この『街』には他にも沢山スレーブはいたわ。この日、この時。生きて普通の生活を得るために。私達は『国』の方針に移ったのよ。」
「ずっと陰で『国』に服従していたっていうのか?…ただの奴隷になっちまったってことかよ…?」
「違う。スレーブ…奴隷というのは、仮の名前。オペレーションが終わった後には、私達は新しく『国民』として生まれ変わるの。差別されて、窮屈で貧しい生活を送ってきた。そこから抜け出せるのよ、ジャック!」
ローラの笑顔が、ジャックには歪んで見えた。色んな思考が頭の中をぐるぐると回り始め、沢山のものが入り混ったような気持ち悪さが視界にまで及び始めたらしい。
「ちょっと待て…ちょっと待て……じゃあお前は、知っているのか?例えば、そう…失踪事件のことだ。」
その言葉に、ローラはぴくりと眉だけ動かす。
「あれは、本当に『国』のやっていることなのか?そうだとしたら、スレーブはいつどこで『街』の人間が消えることになるか知っていた?い、いや。そんなわけ」
ないよな、
と言おうとした瞬間だった。
「知っていたわ。」
「これで大丈夫。ジャックは生きることが出来る。」
ローラは安心したような柔らかい微笑みをジャックに向ける。しかしジャックはそれと対照的な表情を浮かべていた。
「ローラ、お前…『国』の人間と話せるのか?!それに、スレーブって何だ?!腕の印って…!」
そう言いかけたところで。
バッ!
ローラが、右の袖を勢いよく捲り上げた。そして、露わになった腕をジャックに見せつける。
「!」
すると、ジャックは息を呑んだ。彼女の腕…丁度手首の下辺りに、何か紋章のようなものが捺印されていたのだ。彼女はそれから、平坦な声で説明した。
「『スレーブ』…『国』に仕える奴隷。私達が生きるために唯一残された道であり、ノアの箱船よ。」
ざわり、と。ジャックは自分の背に何かが上ってくるのを感じる。その時から何故か、彼には段々と自分の速まっていく鼓動が聞こえてくるようになっていた。
(…何だ…これ?)
「おい、そこの男。」
低い男性の声はヘルメットでくぐもっていた。その兵士のの片手で黒光りを放っている銃器を見て、ジャックは思わず身構える。兵士はそれに構わず淡々と続けた。
「見かけない顔だが、お前はスレーブか?腕の印を見せてみろ。」
「…な、」
いきなりよく分からない質問をされ、ジャックはたじろぐ。しかし、そこで突然ローラが2人の間に割入って、こう言った。
「その必要はありません。」
兵士はローラの顔を見ると、1つ呼吸を置く。
「レイ家の者か。」
「そうです。私、ローラ・レイが保証いたします。彼は間違いなくスレーブの一員です。」
「そうか。ならば早く搭乗しろ。もう間もなくオペレーションは開始される。」
「…はい。」
その会話を終えると、ローラはまた飛行機の方に歩き始めた。
「ジャック、こっちよ。」
だが、ジャックはかなり混乱していた。当然のことながら、訳の分からないまま2人だけで話を進められ、彼に今の状況を理解できるわけがなかった。
「な…何だよ、今の…?一体どういうことだ…?」
まず一番目立っているのは、真っ黒な飛行機だ。そのサイズはかなりあり、この広い空き地を殆ど占拠している。大きなプロペラを回して、それによって強い風が巻き起こっていた。
「…」
見れば飛行機の入り口は開いており、数人の『街』の住人がそこに乗り込もうとしていた。どうやらローラはそこへ行きたいらしく、まだジャックの腕を少し引いているようだ。
しかしジャックの目は今度は飛行機の正面の方に行った。
そこには、人の列が何列も出来ていた。見た所、多分全員男だろうと彼の中で予想がついた。何故“多分”なのかというと、全員丈夫そうなヘルメットを被って顔が分からなかったからだ。
そして体格の良さそうな者が殆どだ。全員迷彩服を着て銃やナイフ等の武装をしている。中にはとても大きなバズーカを持っている者や、機関銃を乗せた台車を押している者もいた。
…考えなくても、あの飛行機を見た時から分かっていた。この武装兵達は、間違いなく『街』の者ではない。そうなってくれば残る答えは1つだった。
(『国』の…人間?)
ジャックが呆然と立ちつくしていたその時、兵士の1人らしき者がこちらに歩み寄ってきた。
ジャックが知っている限りでは、そこは普段は人の来ないがらんとした空き地。『街』と『国』が忌み嫌い合い、決して交わることはないということを象徴しているかのような、寂しく寒々しい場所だ。
しかし今、そこにはそれとは違う見慣れない風景があった。
「?…」
ジャックは『それ』を見ると、自然と足が止まった。ローラがそこに向かって手を引くも、彼はそれから動こうとはしない。
「どうしたの?ジャック。こっちよ。…みんな待ってるわ。」
勿論、言葉にも反応しなかった。彼は、ただ目を丸くしながら目の前の『それ』を見ていた。
何故なら、理解できずにいたからだ。
『それ』が何を意味するものなのか。ローラが一体自分をどこに連れていく気なのか。
そして、
これから何が起きようとしているのか。
バラバラバラバラ!!
ここに来てから、風の音の他にずっと耳障りな音が耳を突いていた。それはこの爆音を響かせているプロペラ音だ。この寂れた『街』にはそんな音を発する機械などない。
だが紛れもなく、その非日常はそこに存在していた。
そして、2人は歩き始めた。生きるという意志を胸に固めながら。
ジャックはラースの最後に言った言葉を思いだす。ジャックは彼の言葉の通り、生きて、自分自身の人生を探し、見つけ出すつもりだった。
大切な命と、今までそこにあったはずの日常。それを失っても生きるというのは、とても寂しく孤独な旅なのかもしれない。
しかし、自分は決して1人なわけじゃない。ジャックは今、それを感じていた。
彼女が自分の隣にいてくれる。
彼女が自分を想ってくれる。
彼女が自分の存在を願ってくれている。
その事実がとても嬉しかった。
――そのはずだったのに。
ゴオオォォォ…
2人が着いたところには、強い風が吹いていた。…そこは、『国』と『街』を繋ぐ場所だった。丁度その境目にはとても高い城壁のようなものが立ちはだかっていて、唯一出入りできるのは正面に1つだけある、頑丈な鉄格子の扉だけ。これによって、『国』と『街』は殆ど分離された状態にあるのだ。
ジャックはこの場所を知っていた。いや、ジャックだけではなく『街』の住人全員が知っているであろう場所だった。
その時、ジャックは胸の奥で何か暖かいものがゆっくりと溢れ出してくるのを感じた。それは血流に乗ってじんわりと全身に広がり、やがて手の先、足の先まで達する。まるで凍り付いて動かない体が暖められていくような、とても心地の良い感覚だった。
(そうか……俺はまだ、ここで生きなければならないのか。
まだ、自分を失うわけには行かないんだ。)
そして、ジャックはようやく動くようになった右手を、目の前ですすり泣いている彼女の頭に置いた。涙で潤した瞳をそっと向けてくる彼女に、ジャックは言う。
「分かった、ローラ。俺は死なない。……お前が願ってくれるなら。」
「…ジャック…」
「さあ、俺を連れて行ってくれ。これからの未来を生きるために。死んでいった街の皆の分を生きるために。」
ジャックがその小さな肩を両手で支えてやると、彼女は小さく、こくりと頷いた。
「…歩けるか?」
「うん、大丈夫。有り難う…ありがとう、ジャック…。」
静けさの中、2人が向かい合っている。
ローラは躊躇いながらもすっと息を吸った。ジャックを見つめ、静かに口を開く。ローラは間違いなく、そこで何かを言おうとしていた。
しかし、
その後の彼女の言葉は、全く音になっていなかった。
いくら喋ろうとしても、叫ぼうとしても。息が詰まったようになり、何も言うことが出来ない。伝えたい『声』は既に喉元まで来ているのに、『声』を出すことを無意識に拒否してしまう。…そんなもどかしさが目に見えて分かった。
「だって……私……」
彼女は何度も言葉を紡ごうとしたが、結果は同じだった。やがて、彼女は自分でその『声』を出せないということを知る。
すると、ある『変化』が起こった。
「――!」
ジャックはその変化に、息を呑んだ。
何故なら、彼女が涙をこぼし始めていたからだ。…ぽろり、ぽろりと。透明に光る粒が彼女の頬に伝っていたからだ。
そしてそのまま、彼女はジャックの血塗れの胸に倒れるように飛び込むと、こう言った。
「……わたし、あなたをうしないたくない……」
それは、信じられないほどか細く、透き通った声だった。
「お前は平気であれを最後まで見ていられたんだ。それが今、俺にとって不思議でしょうがないな。」
ジャックは目を伏せ、自分の服にべっとりと付いている返り血を見る。それは心なしか、少し自嘲気味な笑みを浮かべているようにも見えた。
しかし、
「…違うわ。」
ローラは言った。
はっきりとした口調だった。
「?…」
「平気なんかじゃ、なかった。」
そして、今度はローラが真っ直ぐ見つめ返す。ジャックはそれに少し困惑した様子だった。
「じゃあどうして1人で逃げなかった…?俺は、」
「…そうじゃないのっ!!」
言葉の途中で、とても大きな声が狭い路地裏に響き渡った。突然のことに、ジャックは目を丸くすることしかできず、その間、ローラはせきこむように続けた。
「平気じゃなかったわよ!怖かった!!あんたが私の目の前で死んでしまうかもしれないと思って、気が狂いそうだった!!
だって!……」
が、彼女の言葉はそこで途切れる。辺りの残響が消えていくと共に、沈黙が辺りをゆるゆると支配し始めた。
その数秒後、ジャックはゆっくりと言葉を繰り返した。
「……だって?」
そしてそのまま、ジャックはローラの手を握りしめた。まるで彼女の体温によって自分の存在を確かめるように、強く。だけど優しく。
すると、それに敏感に反応するように、ローラは微かに体を震わせた。
「……お前はこんな俺を見ても、俺の身を心配するのか。」
「当たり前じゃない。昔からあんたは私に心配ばかりさせて。だから…もう慣れてる。」
ローラがか細い声で答えると、ジャックはゆっくりと彼女の腕をほどく。そして正面に向き直って、言った。
「何で…お前はそこまで俺を見ていられるんだ?」
そう真っ直ぐと問ってきて、ローラは少し息を呑んだ。
ジャックは続ける。
「さっき。俺は、ああするしか無かったとは言え…1つの命をあんなに酷たらしく殺したんだ。
あれは人じゃなかった。突然やってきて、俺の仲間や街の皆を殺して…許せなかった。だから俺は、殺してやろうと思った。…殺されて当然の存在だったんだ!
でも――なんだろうな?この感じは。
どうも、俺には『自分が人を殺した』ようにしか思えない。
俺はさっきまでただ汚い、残虐な『人殺し』をしていた。……そんな風にしか、思えないんだ。」
「ジャック…大丈夫?どこも、怪我はない?」
ローラは、ジャックの背中を抱きしめながら、細い声で訊く。するとジャックは感情のこもっていない表情で、自分の体に触れている彼女の小さな両手を見つめた。
「…あぁ。俺は大丈夫だ。
それよりローラ、見たかよ。……今の。俺が殺したんだぜ?殴りすぎて…首が飛んだじまった…は、ははは」
ローラはジャックの体全体がカタカタと震えているのをその身で感じると、抱き締める腕にぎゅっと力を込めて、優しく話しかける。
「いいの…いいのよ。ジャックが無事ならそれで。それに、あんたは私を守ってくれた…。」
ジャックはその温もりを感じると、脱力したまま上を見上げる。いつもの、真昼の真っ青な空だけを見ていると、今この地上で起こってたことが、ジャックには信じられなかった。
「嘘、みたいだ。俺にも命ってモノが奪えたんだ……俺は、悪い夢の中にいるのかもしれない……
――でも。」
「?」
ジャックはローラの手にそっと触れる。ローラは思わず、彼の大きな背中を見上げた。
「これは、きっと現実なんだな。お前のこの手の平は…間違いなく本物だ。」
気がついて見れば、目の前のそれは首から上をなくしていた。その断面から血の噴水が吹き出ていて、ジャックの頬には少し飛沫がついていた。
…どさっ
そして、それは地面に倒れた。倒れた後は隣に転がっている首と仲良く血溜まりを作って、二度と起きあがることはなかった。
「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…」
ジャックは鉄パイプを握りしめ、しばらく肩を上下させていた。
「――ジャック…」
ぽつりと、後ろからローラの声が聞こえる。が、ジャックは振り向かなかった。彼はただ、自分の赤く汚れた両手と肉の山を見比べながら、立っていた。
「…ジャック!!」
そこでローラがもう一度呼ぶと、ジャックは少し反応した。彼は首だけ動かし、ゆっくりと後ろの方をみる…はずだったが。
ふわり
「!…」
突然、自分の背中が柔らかい感触が包み込まれ、ジャックは思わず息を呑む。その温もりから、今自分の後ろで何が起こっているのかは見なくても分かった。
「…ローラ?」
ゴシャ…ッ!!
ジャックの鉄パイプは生物の首の付け根に嫌な音を立ててめり込んだ。まるで人間の柔らかい首筋を殴ったような気持ちの悪い感触に、ジャックは眉をしかめる。
生物は1度ビクンと痙攣してよろけた。…だが、まだ倒れはしていない。
完全に動かなくさせるには、ジャックはもう1度殴らなくてはならない。もう1度、その右手にあるキョウキを振り上げなくてはならない。
さもないと、殺される。殺らなければ、殺られてしまう。
「あああぁぁぁぁ!!」
ガッ!ドガッ!…バキッ!バキッ!!
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
何も考えずに機械的に。ただその動作を繰り返す事だけに専念する。それが唯一の、自分の精神を維持する方法だった。
何も考えてはいけない。今自分は、1つの生命を殴り殺しているなんて感じてはいけない。
ただひたすら、ひたすらに同じ所に狙いを定めて。
振り上げて、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす……
ドガッ!メキッ!グシャッ!!
……ブシュウウゥ!!
動作を繰り返していると、何度目かで派手に血飛沫が上がった。
その後、一瞬だった。
ゴキッ
関節の外れるような鈍い音と共に、ジャックの胸を目掛けて何か尖った白い物体が、まるでゴムが伸びるように高速で向かってきた。
「!」
その物体がまともにジャックの目に留まったのは、自分とそれとの距離が約5cmになったところであった。
このまま自分が何も動作をしなければ、間違いなくそれに心臓を貫かれて死んでしまうだろう。
という思考に辿り着く前に、ジャックの体は勝手に動いた。
「っぉお!」
ガキィン!!
ジャックは体を少し捻りながら攻撃をかわし、同時に鉄パイプで、向かってきた物体を弾き飛ばす。
ゴッ!
弾かれて壁に叩きつけられたそれはとても長く伸びていて、元を辿ってみると5m程離れた所にいる白い生物の肩に繋がっていた。即ち、この物体はあの生物の腕。尖っているのは大きく鋭い爪だったのだ。
しかし、ジャックがそのよく伸びた腕に関心してじっくり観察する…などということはなかった。彼はすぐさま勢いよく駆け出し、攻へと転じる。
「はああぁ!!!」
少し戸惑っている生物の頭に、鉄パイプを無我夢中で振り上げた。
ゴゥ!
すると、それは2人の頭の上を勢いよく通り過ぎる。その後ゆらりと地面に降り立つと、ゆっくりと2人に振り返った。
「ジャック…」
「ローラは、そこでじっとしてろ。」
ジャックは低い声で立ち上がると、すぐ横にある建物に取り付けてあるパイプをぐっと掴む。そして、それを思い切り引いた。
「くっ…うおおお!!」
ミシミシミシ…バギン!!!
大きな金属音を立てて、重い鉄パイプは外れる。
「…これ以上、やらせるかよ。」
ヒュッ
ジャックはそれを軽々と片手で振り、鋭い眼差しを前方に向ける。その瞳には、もう怯えの色は見えない。代わりに悔やみと、怒りに燃える炎があった。
「これ以上!!」
瞬間的にジョンとラースの面影がフラッシュバックし、声が悲しみで少し震えた。溢れ出しそうな涙の粒をジャックは必死にこらえる。後ろではローラが不安そうにジャックの背中を見つめていた。
「シャあああぁぁ…」
生物は大きな口を開け威嚇の声を上げた後、おぼつかない足取りでこちらに近づいてきた。ジャックはぐっと息を呑み、鉄パイプを構える。
そして、人差し指を少し動かした。
「…来いよ。」
ジャックは訳も分からないままローラの少し後ろを走った。周りの住民が建物に吸い込まれていく脇で、2人だけは大きな道を行った。空を舞うあの生物に見つからないように時々建物の陰や細い裏道も使いながら、そのまま目的地を目指す。
その途中。
「はぁ…は…ぁ、」
「ローラ…大丈夫か?お前、俺に会いに来る前も走ってたんだろ?」
「もう少し、なの。もう少しで着く…早くしないと…」
「一体どこなんだ。『塔』よりも安全な場所ってのは。」
「…っ…閉ざされた門の…」
ローラがそう言いかけた、その時だった。
「ウゴあぁああアァァ」
『!!』
突然そこに奇妙な声が響き渡り、2人は体を強ばらせる。後ろを見ると、空から1体が勢いよくこちらに向かってきていた。
「ひっ…!」
ローラが小さく悲鳴を上げるが、ジャックはすぐさま行動に出た。
「伏せろ!!」
ジャックはローラの背中をぐっと抑え、しゃがみ込む。すると、ローラも思わず頭を両手で庇いながら腰を落とした。
そこには、ローラが立っていた。肩は少し上下していて、栗色の巻き毛は汗で頬にくっついている。ここまで走ってきたことが一目で分かった。
「はぁ、はぁ…ジャック…やっと、見つけた。」
「ローラ!こんなところで何してるんだ!早くお前もどっかの家から――」
その言葉が終わらないうちに。
ローラはジャックの右手をきゅっと両手に握った。
「…おい?」
「ね、ジャック。『塔』よりももっと安全な所があるの。…今、皆もそこに向かってるわ。」
「は…?」
突然のことに、ジャックからは自然と変な声が出た。
「何言ってるんだ?そんな場所無かっただろ!そのために俺達は『塔』を建設したんだ!!」
「今まではなかった。けど、今出来たの。」
それから、ローラは真剣な眼差しでジャックを見た。その哀願するような潤んだ瞳にジャックは引き込まれてしまう。
「ジャック、来て。私と一緒に。ここにいたら…間違いなく殺されてしまうから。」
最後の言葉の意味が、はっきりと掴めなかった。しかしそれを考えている暇もなく。
ぐいっ
ジャックは手を引かれた。
「こっちよ……来て!」
「おい、ちょっと待てよ!!」
ジャックは東の商店街を抜ける。そして着いたのは、街のほぼ中心だった。
そこでは、数十人の男達が、各々持っているスコップや鉄パイプなどで必死に戦っている。その内の何人かは切り裂かれ、死体になって次々とそこに転がった。
その脇には、女達と子供がいる。目の前で上がる赤い飛沫に、悲鳴をあげたり涙を流したりしているその姿は、見ているだけであまりに悲惨だった。
と、その時。ある背の高い男が額から血を滴らせながらひときわ大きな声を出した。
「皆、『塔』に向かえ!!『塔』に向かうんだああー!!」
周りが少しだけ静まり返る。それは、男の最後の言葉だった。その後、男は一瞬で頭を砕かれ死んでいった。
しかし逃げ惑っていた人々の動きは、そこから変わり始めた。
「『塔』…そうか!」
「そうよ、そうだわ!!あそこなら!」
皆口々に言うと、建物の中へと逃げ込む。そこで、ジャックは全ての家と『塔』が繋がっていることを思い出した。
(あそこしかないか!…)
そう思い、ジャックは自分から一番近い家に足を向けようとする…が。
「ジャック!」
急に後ろから聞こえた高い声に、思わず振り向いた。
そのまま腰を上げ、スコップを敵に構え、突き刺す。ジャックは、もうそうするしか生き残る道はないと思った。だから、それを実行するはずだった…が。
「…あ…」
腰を上げ、振り向いたところだった。ジャックの視界は、とても大きな口で埋め尽くされていた。唾液でベトベトの赤い舌も、黄ばんだ犬歯も、真っ暗な喉の奥までよく見える。今はこうして時が止まっているが、時が動き出して0.5秒も経てば、自分の顔がかじり取られてしまうことは簡単に予想できた。
考えている暇は、なかった。
「ぅおあああぁぁぁぁあ!!」
腹から湧き上がる、悲鳴とも雄叫びともつかない叫びをあげ、ジャックはスコップを横に勢いよく振った。
…結果、
ガ!
大きく傷をつけたわけではないが。スコップの柄は、生物の巨大な口を塞いでいた。突然堅い物が口に入ってきて、それは少し戸惑っているようだった。
今しかない、とジャックの本能は告げた。
ダッ!!
ジャックは本能に従った。動きを止めている生物の脇をすり抜け、後は駆ける。ひたすら足を前に出し、ただそこから離れることだけを考える。
走って走って…走った。
しかし、後ろからは食事の音が聞こえてくる。挟み撃ちにされたことに気付くと、ジャックの体は自然と震えた。歯はガチガチと鳴り、瞳孔は散大した。
殺される。
頭にその言葉で埋め尽くされた、その時。ジャックの目に飛び込んできたものがあった。
「!」
ジャックは息を呑む。それは、ラースの死体のすぐ傍に落ちていた…スコップだった。それからは恐怖のせいだろうか、ジャックはある種の『錯覚』に見まわれた。
その薄汚いスコップから、ラースの声が、はっきりと聞こえてきたのだ。
あまりにもはっきりしていて、彼にはスコップが喋っているようにさえ、思えた。
――どうか、生きて下さい。
これから本当の人生を見つけるために――
口の中が、カラカラに乾いていく。彼は理解した。目の前にただ在るそれが、自分に残された最後の希望であることを。
――生きていて良かったと
幸せだと、いつか言えるようになるために――
ジャックは震える両手で、
地面のスコップをゆっくりと取った。
そして彼は手足をぐったりとさせ、動かなくなった。
「ラース……?」
もちろん返事もしない。その灰色の瞳はさっきまでジャックに向けていたが、今はそれを通り越してどこか遠くを見つめているようだった。
激しい喧騒の中。
ジャックは彼を支えたまま、そこに立ち尽くした。
(何だ……これ)
グチャグチャ…ブチッブチ!
生肉を喰いちぎる気色の悪い音が、まだジャックの耳を突く。普通の日常では殆ど耳にする機会はないであろうその音は、急激な吐き気を誘った。
「……ぐっ」
しかし、その時。
ヒュッ
空気を切る音が、後ろから聞こえた。
「?!」
とても嫌な予感が背筋を駆け抜け、ジャックは少し右に動いた
次の瞬間。
ザッ!
「――うっ!」
左肩に鋭い痛みが走った。ジャックは思わず、ラースの体から手を離してしまう。
ドサッ!!
彼は地面に投げ出される。だがジャックはそれを気にすることが出来なかった。後ろを振り返って見ると
すぐ目の前で、あの生物が首をかしげていたのだから。
「う…あ」
ジャックは乾いた声を上げながら、後ずさった。
「お前はもう何もしゃべるな…!いいか、今医者に連れて行くからな!」
「いや、たぶ…、もう無理です。それよりも、…ジャックさんは、早く逃げて…くだざい」
「馬鹿!お前はまだ生きているじゃないか!」
グチャッグチャッ
ついさっきラースを『突き飛ばした』生物はというと、食事をしていた。…ジョンの頭を食べていた。頭は半分かじり取られていて、既に原型を留めていなかった。
「ジャックさん…僕達は、こんな風に終わるはずじゃなかった筈なんです。こんな風に、怯えながら人生を送って…死ぬ筈じゃなかったんです。」
「しゃべるな!死ぬなんて言うな!」
しかし、まるでジャックの言葉が聞こえていないかのように、ラースは続けた。
「…これは僕達にとっての本当の人生ではないんです。…理由なく身近な人が消えてしまったり…それで戦争を起こそうとしたり。そんなのは、僕は…違うと思うんです。
だからジャックさん、どうか生きて下さい。これから本当の人生を見つけるために。生きていて良かったと……幸せだと、いつか言えるようになるために。
先輩の彼女……守ってあげて下さい…ね…」
その後
ラースは黙った。
ザバ!!!
「ぅあぁああーー!!!」
悲鳴と、鮮血の雨。
「―――っ!!」
その光景は、一瞬にしてジャックの網膜に焼き付いた。スコップが地面に落ちる鈍い音とほぼ同時に、ラースの小さな体は跳ね返されるようにして後ろの方に飛ばされた。
ジャックはそこへ走り、彼の体へと両手を伸ばす。そして、
どっ!
何とか背中を受け止めた。
彼の体からはすぐ力が抜けていくようで、ジャックが感じる重みはどんどん増していった。
「ラース、…ラース!!」
ジャックは必死に、彼の名前を呼ぶ。胸に大きな穴が空き、そこからどんどん赤い川が地面に流れていくその光景は実に無残なものだった。彼は光を無くした瞳で、ぼんやりとジャックの顔を仰向けの状態で見上げた。
「ぁ、あ…ジャックさん…。」
「ラース!しっかりしろ…!」
「ははは……い、威勢良く飛びかかってはみたものの…やっぱり、僕なんかじゃ…ダメ、でしたね…ぐっ、ゴブ!!」
「!!」
彼が激しく吐血したことで、ジャックの精神状態はより一層乱れていく。
それをきっかけにあたりは騒然となった。人々は悲鳴を上げ滅茶苦茶に逃げ惑う。そして上空の大群からは、やがて次から次へと新たな個体が地上に降りてくるようになり、その度大きな悲鳴が上がった。
その中ラースは立ち尽くしたまま、今さっき出来たばかりの肉の山をまだ見つめていた。ジャックがその腕を引くも、一向に動こうとする様子はない。
「ラース!ここから逃げるんだ!!」
「……」
「おい、聞いてんのか?!殺されるぞ!!」
ラースは呼びかけに応えない。
その代わり、先程まで右手に持っていたスコップをゆっくりと両手で持ち直し、構えた。その小刻みに震える刃先は…目の前で不気味に笑っている生物に向いていた。
「おい…ラース…?」
「……何なんだ。…何でなんだ?」
生気がこもっていない言葉と同時にラースはよろり、と1歩踏み出して。
「何で…何で、何でなんでなんで!…俺達が、一体何をしたって言うんだぁあ!!」
憎悪にかっと目を見開く。
そして、
ダッ!
彼は地を蹴った。
「よせ!ラース!!」
彼は、すぐそこで血塗れになって倒れていた。肩から脇腹へかけて体を引き裂かれ、そこら中に心臓や腸などと言った内臓をばらまいている。
「………ジョン。」
ジャックはぽつりと彼の名を呼んだ。しかし、もはやただの肉塊と化してしまった彼には、もう何を言うことも出来ない。
その肉塊の少しだけ向こう側には、あの生物が、こちらに丸めた背中を見せて立っていた。その真っ白な手は、真っ赤な血で染まっていた。
「…スミスさん…」
そして、それはゆっくりと首だけを捻りこちらに振り返る。
のっぺりとした顔面には、耳の下くらいまで裂けた口がある。そこに存在する大きすぎる犬歯には、手についているものと同じ色をした液体がべっとりとついていた。
それは、笑っているようにも見えた。
「あ…ぁ、あぁあ…」
ラースは、そこに立ち尽くしたままガタガタと震え出す。あまりに突然の事に正気を失いかけているようだった。ジャックがそれにはっと気付いた…その時。
「いやああぁぁ!!バケモノおお!!」
少し遠くから、甲高い女性の悲鳴が上がった。どうやらこことは別の場所でも、同じ事が起こったようだった。
その先にあったのは、遠くに見える数百程の何かの群だった。
ジャックは目を凝らしてみる。初めは、鳥に見えた。何故ならそれらは翼で空を飛んでいるからだ。
しかし、それらがこちらに近づいてきてはっきりと形が分かるようになると、それはどうみても鳥ではないという事が分かった。
その姿に、ジャックは絶句する。
「何だ……ありゃあ……」
バタバタバタバタ!!
それらは、一斉に街の上空を駆け抜けていく。真っ白な人型の体。背に生やした歪な翼。異様に長い手足。その外見全てが、人間の持つ常識の範囲を越えていた。たちまち、街全体は静寂に包まれる。
少しすると、群のうち何匹かがこちらに物凄い勢いで下降した。それから起こった出来事は、あっという間のことであった。
ザシュウ!!!
「がっ!」
という2つの効果音が、ジャックのすぐ横で同時に鳴った。
「え…?」
だからジャックはそちらを見た。
一体何が起こったのかをその目で確かめるために。どうしてさっきまで隣で普通に話していた彼が、突然あんな可笑しな声を上げたのか、頭だけではすぐに理解できなかったから。
いつもの賑やかな昼の商店街。真っ青な空に向かって、ジョンは腕を伸ばし、うんと背伸びをした。
「あぁ、今日でやっと一段落かぁ~!」
「本当にやっとだぜ。こんだけ働いてまだ地下しか完成してねぇとはな…。」
ジャックがぼやくと、横からラースが楽しそうに顔を出す。
「でもよかったじゃないスか。地下だけでも、いざという時は避難所としてすぐに使えますから。水も食料もたっぷり積み込みましたし。ホントに僕達頑張りましたよね。」
「よく言った、ラース。…俺達はよくやった!何しろ殆どの家から地下へ直通で行けるようにもしたんだからな。」
そんな2人の掛け合いを、ジャックは少しぼうっとしながら軽く聞き流していた。言い換えれば、その言葉に関してあまり深く考えずにいた。
…ジャックだけでなく。
その場にいる誰もが考えていなかった。
その避難所を、今すぐ使うことになろうとは。
「……?…おい、ジャック。」
始めに気付いたのは、ジョンだった。
「何だよ?」
「あれ………何だ?」
ジョンは、ゆっくりと空を指さした。
「それなら大丈夫。」
涼しい風が、2人の間を吹き抜ける。
「きっと私達は生きる。生きていく。そう信じれていれば……きっと。」
ある静かな夜に。儚く、少女の言葉が空に消えた。
――これが悔恨の始まりで、
悪夢の幕開けだったのかもしれない。――
闇の中で、『彼』はそう思う。
次の日からは、また同じ様にジャックの日常が始まった。答えを見つけることが出来ない自分から目を逸らすように。仲間と会ってはいつものようにふざけあい、時間になれば仕事に打ち込む。時々ローラの差し入れを受け取っては食べる。仕事が終わり家に帰ると、1人甘い夜に身を任せ、微睡みの中で眠りにつく。
この繰り返しは最後の夢の名残だった。
そして、時は満ちる。
それは『塔』の地下部分が完成した頃のことだった。
するとローラはブランコの上に立ち、星空に向かって高らかに宣言した。
「私の夢は、100歳まで生きること!
その間に一杯笑って。泣いて、怒って……喜んで。色んな日常を過ごして、色んな幸せを感じたい。
だから、私だったら自分の手でその夢を叶えることに専念するわ。死という袋小路から抜け出すために、自分に出来る努力ならどんなことでもする。
これが今の私の答え。」
ローラはにこりとジャックに笑いかけた。しかし、ジャックは曇ったような表情で返す。
「俺にはその『自分に出来る努力』が見つからないんだ。」
「ジャックは、どうしたいの?…生きたいのか、そうでないのか。それがはっきりしないから、自分が起こすべき行動が見えないんじゃないの?」
「……そりゃあ、生きたいけどよ。」
ジャックが両手を頭で組むと、ローラはそれをぐっと覗き込む。
そして、訊いた。
『…本当に?』
その時。ジャックは何か妙な、微かな違和感を感じた。何に対しての違和感なのか?それは、はっきりと分からない。
「…ああ。」
ジャックは心に何かが引っかかったままそう答える。その声は少し掠れていた。
「戦争が中止になったとしても、これから俺達は『国』にずっと従い続けることになる。そうなったらやがては全員が行方不明になるか、それとも殺されるか。…そうだろ?」
「……。」
「ローラ。聞かせてくれないか。お前はこの状況をどう思う?」
その問いに、ローラは静かに、考えるように目を閉じる。そして沈黙が生まれた。1、2分程経って答えが返って来なかったので、ジャックは質問の内容を変えることにした。
「じゃあ、仮に未来で死ぬしかないのだとしたら、お前だったらどうする?…戦うか。それとも『国』に頭を下げ続けながら、なるべく長く生きるか。
……俺だったらこういう時、どうしたらいいのか分からない。」
すると、
しばらくしてローラは口を開いた。正面を見据えて、少しはっきりとした口調だった。
「私は、死にたくない。」
「!」
ジャックは、視線を隣に移した。
「私、こんな所で死にたくない。だって夢があるもの。」
「夢?」
「そう。…夢。」
「…何歌ってんだよ。」
ジャックは横目で歌っているローラを見ながら、ぶすっとした口調で聞く。すると、ローラはとても意外そうな顔をした。
「知らないの?この曲。有名なのに。」
「さぁ。俺は音楽の事はよくわかんねぇからな。」
「常識として覚えておいた方がいいわ。ベートーベン作曲交響曲第九番…『第九』よ。」
「ベ、トベン?」
ジャックの可笑しな発音に、ローラは少し眉を潜める。
「まさかベートーベンまで知らないなんて言うんじゃないでしょうね?」
ジャックはとぼけるように、ふいと上を見た。
「聞いたこともねぇな。」
「……なら覚えといて。中世ヨーロッパの偉大な作曲家よ。」
それからローラは歌の続きを歌い始める。ジャックはしばらく、ただ星空を見ながらそれを聞いていた。拙いドイツ語が旋律に乗って、その公園に響いていた。
「なぁ、ローラ。」
「ん~?」
「俺達は…街の皆は…これから死ぬしかないと思うか?」
「…どうして?」
「今から2、3年もしないうちに『塔』を完成させて…その後『国』との戦争が始まる。勝ち目のない戦いだ。」
「……そう、みたいね。」
「………。」
直後、さっきまでの勢いはどこかへ行ってしまったらしい。ジャックは、ローラの花の様な笑顔にぐっと息を詰まらせ、その場で固まってしまった。…しばらくして、彼はやっとそこから目をそらすと、ぼそりと呟いた。
「……それは、どうも。」
その後自分の顔に熱が籠もったような気がして、ジャックは思わず完全に彼女から顔を背けた。実際自分の頬に触ってみると本当に熱かったので、ますます焦りが起きる。
「ジャック?」
(…まずい…不覚だった……)
「照れてるの?」
「…照れてねぇ!」
ローラはくすくすと笑うと、
「はいはい、分かりました。全く…これくらいのことでいちいちそんなに怒らないの。」
と、子供を諭すような口調でからかう。ジャックは「うるせぇな…」と返すともう何も言えなくなり、その内1人で頭を抱えて悶え始めていた。
すると、その時。
「…♪~」
ジャックの隣から、細く、綺麗な歌声が聞こえてきた。
「ジャック…」
「ん?」
ゆっくりと、ローラはブランコに座り直す。見れば、彼女からはさっきまでの悲しみに彩られた表情が消えていた。
「前から分かってるけど…あんたって、本当に馬鹿よね。」
カチン!という効果音が聞こえて来そうな程、ジャックはその一言に反応した。
「…っな!もういっぺん言ってみろ!」
「何度でも言ってあげるわよ。大体あんたは物覚えが悪くて、小学校から今まで全部成績はビリッケツだったし。」
「っ!」
「寝坊はするし、仕事もサボるし、いつもケンカばっかりしてるし。」
「…てめぇ…言わせておけば…」
ジャックはわなわなと拳を震わせる。しかし、ローラの言葉にはまだ先があった。
「でも。あんたには、誰かのために頑張れる力がある。誰かを励まして、力付ける優しさもある。」
そして、彼女は
にっこりと笑った。
「あたし、あんたのそういうところが好きよ。」
それは、とても柔らかな笑顔だった。
「お前が俺に伝えたじゃないか。」
彼は静かにそう言った。
「…お前が俺に伝えた。それで、俺はリリィのことを記憶に留めることが出来る。何も知らないまま忘れ去るよりは、ずっといいだろ。」
彼は空を振り仰ぐ。しかし、ローラはまだ悲しげな顔をしていた。
「でも…もう一度言うけど、あの子はもういないのよ?たとえ覚えていたとしても、もう会えない。それじゃあ、その記憶は何の意味も持たないわ…。」
すると彼は、もう一度視線をローラに戻す。そして次の瞬間
ふっと微笑んだ。
「!」
ローラは思わず息を呑んだ。何故なら、その微笑みは見たことがあったからだ。
この瞬間。あの日の彼と今の彼が、ローラの中で重なった。
「何も今から会えないと決めつけるこたぁねえだろ。本当は失踪事件に巻き込まれたんじゃないかもしれない。」
「えっ?」
「家出とかな。腹が減ったらひょっこり出てくるなんてオチ珍しくねぇぜ?くっくっく!」
それは、本当に下手な…
しかし。
彼の精一杯の励ましだった。
ローラは少し唖然としていたが
それから自分の心の中に何か暖かいものがこみ上げて来るのを感じた。
「そう思うと、無性に悔しくて。悲しくて。何故か…あんたに会いたくなったの。」
「!」
「だから、今日は待ってた。でも何を話していいか自分でよく分かってなかったから…半分は本気じゃなかったわ。」
ローラはゆっくりと顔を上げると、泣き顔を隠すように弱々しく笑みを浮かべて見せた。
「やっぱり帰ろうかどうしようか悩んでたのに、いきなりあんたが声をかけてくるんだもん。驚いちゃった。」
「…そう、か。」
ジャックはこのような重い雰囲気は苦手らしい。どうしていいか分からないといった表情をしていた。
「意味もなくこんなところに連れてきて、ごめんね。あたしはただ…あんたに会いたかっただけだったの。」
ローラはそう言うと、静かに立ち上がる。そこでジャックが何も言わなければ、彼女は公園を立ち去っていたのだろうが…
「…意味は、あった。」
ジャックのその一言で彼女はピタリと動きを止めた。そしてゆっくりと自分の隣を見る。すると、彼が真っ直ぐとこちらをを見つめていた。
「あたし以外に友達がいなかったあの子にとっては、とても大切なものだったのよ。」
ジャックが乗っているブランコは、ギィギィと音を立てながら段々その動きを小さくしていった。
「ふーん…そうなら別にいいんだけどな。」
「っていうか、そうでなくちゃ困るよね。あははは!……」
ジャックの疲れたような口調に、ローラは思わず笑いをこぼす。しかしその笑いは次第に小さくなっていき、数秒ほど立つと何も聞こえなくなった。
ふっ、とジャックが隣を見ると。
そこには、少し俯いている彼女の姿があった。その顔は垂れている髪で見えなくなっていた。
「………でもね。
もう、いないの。あの子。」
ぽつり、と彼女は呟いた。
何の感情もこもっていない無機質な声。だが、その肩はよく見れば震えていた。
「…ローラ。」
「あの子はあんたのことが好きだった。本当に好きだったの…。けど何の想いも伝えられないまま……消されてしまった。
せめて、伝えられれば良かったのに。あたしはあの子の背中を押して上げることが出来なかった。…あの子に何もしてあげることが出来なかった!」
彼女はぎゅっとブランコを握りしめた。
満天の星空の下、涼しく澄んだ空気が流れる。どうやらローラの話はそこで終わったようで、彼女はジャックがどう反応するか待っているようだった。
そして彼から発せられたのは…
「…で?」
一文字だけだった。
「で、って?」
「あんなことっていうのはなんだよ。」
ジャックの低い声に、ローラはきょとんとした顔をする。
「今話したじゃない。」
「まさか『泣くな』だけで?」
その場がシンとした。
「……うん。だめ?」
「おい!そうだとしたら、俺はただあの子を泣き止ませようとしただけだぞ?!」
ローラは平和そうにゆるりとブランコを揺らした。
「あんな笑顔見せられたら、仕方がないんじゃない?」
「…マジかぁ…?あの時は相当疲れたんだぜ。一生の宝物が入ってるっていうから掘り出してみれば……中身はただの消しゴムときたもんだ!」
ゲシッと土を蹴り、ジャックは少し大きめに揺れる。
「だからもういいって言ってたのよ。…宝物には違いないけど。あれはあたしがリリィが初めて会ったときにあげたものだから。」
膝をついたジャックに、少女…リリィは訴えかける。しかしジャックは何も言わずに、スコップを棒代わりにしながらぎこちなく立ち上がった。
「ジャックさん!」
「…うるせえな。ここまできて諦められるかよ。」
ザクッ!
そして、尚もスコップを地面に突き立てる。
「大事な『思い出』が入ってるんだろ。自分の人生を変えた一生の宝物……お前、そう言ってたじゃないか。」
「…でも、このままじゃ…」
リリィの声は震えていた。小さく俯くその姿は、まるで何かに怯える小動物のようだった。ジャックはそれを見て、
ふわり、と。
リリィの頭を撫でた。
「!…」
リリィが思わず顔を上げると、その目には涙が溜まっていた。すると、ジャックはふっと微笑む。
「…俺は大丈夫だ。お前は何も心配しなくてもいい。お前の『思い出』は、きっと俺が見つけてみせる。」
ローラの話では、その微笑みは今までに見たことのない、とても暖かなものだったという。そしてジャックは、最後に短くこう言った。
「だから、泣くな。」
「…驚いた?」
両足だけブランコに引っかけているジャックを見て、ローラはくすくすと笑う。そしてジャックはよろよろと立ち上がった。
「そんな話聞いてねぇ…第一、あの子とはその後会ってないんだぞ?!」
「内気だったから。会いに行くのも恥ずかしかったみたい。」
ローラはキィとブランコを揺らす。
「でも、リリィはあたしに会う度、あんたの話ばっかり。どうやったら想いを伝えられるか…私はそんな相談の相手をいつもしてたのよ。」
ジャックは髪をぐちゃぐちゃかき回して、しばらく考え込む。…それから3分程経ってやっと絞り出した言葉は、
「何で…?」
その一言だけ。実に抽象的な言葉だ。しかし、ローラはすぐにその意味を汲み取った。
「何であの子があんたを好きになったかって?」
ジャックは沈黙で答えを示した。
「あんたが、あの時あんなこと言うからよ。」
「……あんなことって、何だよ。」
少し涼しい風が吹き、2人の髪を揺らす。その時ローラは風の音に紛れて小さく呟いた。
「やっぱり、覚えてないんだ。」
その後、ローラは話し始める。
丁度、先ほどの回想の続きの部分だった。
「本当に、もう大丈夫です。……だから…お願いですから…もう休んで下さい。」
年の頃は10代前半だろうか。内気そうに潤んだ青い瞳と、透き通った肌。三つ編みに結った艶のある長い栗色の髪。その少女を一言で表すと…美少女だった。
そこで回想を一旦終えると、
ジャックは思わず呟いた。
「あいつの妹だったのか…」
「え?何?」
「いやな。…俺の仕事の同僚で、一週間前妹が失踪したっていうやつがいたんだ。」
ジャックの頭に浮かんでいたのは、妹の顔とは似ても似つかない、そばかすだらけのラースの顔だった。
「それって…じゃあ、リリィにはお兄さんがいたってこと?」
ローラが身を乗り出してくる。
「そういうことだろうな。他に最近失踪したやつはいない。」
「…そうなんだ…。お兄さん辛いだろうね…。」
また2人で空を見上げた。気がつけば辺りはすっかり暗くなり、空には満点の星が輝いていた。
そこでローラが言う。
「あの子、リリィね。
…あの時からあんたが好きだったのよ。」
…がらがらがちゃん!
突然大きな音が鳴った。見れば、ジャックがブランコから落ちて地面に背中をぶつけていた。
……ザクッ!
ザクッ!ザクッ!
「ジャックさん…もういい、もういいですから……」
とある崖のふもと。自分がスコップで土を掘る音を規則的に立てる中、後ろから悲痛な少女の声が響いた。…次に、
「ジャック、やっぱりもう無理よ…これじゃ見つかりっこないわ…。」
ローラの諦めきった声が聞こえた。
確か、タイムカプセルが行方不明になったのは大雨で起こった土砂崩れに巻き込まれてしまったからだったと思う。当時埋めていた所には多量の土砂が覆い被さっていて、見つけるのは殆ど不可能に近かった。
しかし、それでも自分はひたすら土砂を掘り続けていた。何故だったか?とにかく、汗だくになろうと、体が段々言うことを聞かなくなろうと、ただ目的の物を探すのに専念していた。…しかしその時、
「っ…」
自分は不意に全身の力がふっと抜ける感覚にみまわれた。たまらず膝が折れ、地面に手をつく。どうやら体力にも限界というものがあるらしかった。
「ジャックさん?!」
名前は忘れてしまったが、あの少女が自分のもとへかけ寄ってくる。
そして、言ってきた。その時の必死そうな眼差しは、少し印象的だった。
「ジャックも会ったことがあるわ。もう覚えてないかもしれないけど。」
「…俺が?」
ジャックは難しい顔をする。それを、ローラはじっと覗き込んだ。
「よく思い出して。結構前に…私とあの子の、どこに埋めたのか分からなくなったタイムカプセルを掘り出してくれた時があったでしょ。」
「…タイムカプセル…」
ジャックは何の気なしに空を見上げてみる。すると、まだほんのり明るさを残した夕焼けの空に、ぽつんと1番星が輝いていた。それを見た瞬間、ジャックは思わず「あ…」と声を出した。
「あの時か。」
「思い出した?」
「確かあの日も、1番星が見えた。」
「…そう。朝私があんたを呼びつけて。それから夕方まで殆ど休まないでずっと探してくれてたもんね。」
ローラも懐かしそうに空を見上げた。
「あの子がへとへとになってるあんたを見かねて、もういいって止めようとするのに…あんたは探すのを止めなかった。何でだったか自分で覚えてる?」
「さあ、どうだったかな。」
ジャックはうっすらとその出来事を思い出していた。3年前、蒸し暑い夏の夕暮れ。丁度1番星が見える頃のことだった。
ローラは宛てもないのにどんどん歩く。そして15分程歩いた結果、2人が辿り着いたのは公園だった。
公園と言っても遊具はあまりなく、錆び付いたブランコが2つ時々風に吹かれてはキィキィと音を立てているだけで、何となく寂しい場所だった。…そこで、
「コラ、いい加減離せ!どこまで行く気だお前は!」
ジャックは掴まれている腕を軽く振る。それでローラはやっと足を止めた。ジャックの腕を離し、そこに立ちすくむ。
「…あ…。ごめん。」
「話したいことがあるんだろ?だったら堂々と言えばいいじゃねぇか。」
すると、ローラはまた俯いた。
「…それが、よく分からないの。」
「一体どうしたってんだよ。お前さっきからちょっとおかしいぞ。」
ローラは少しおぼつかない足取りでブランコへと歩き始める。そしてブランコの目の前に立つと、ストンと座った。それを見たジャックは、その隣のブランコに座った。
長い間の後、ローラは話し始めた。
「今月、またあったでしょ?あの、失踪事件。」
「…ああ。あったな。一週間前のやつだろ?」
「あれね、私の友達だったの。」
「!…」
ジャックは少し息を呑んだ。
「やっぱり、白状するわ。」
ローラはキッと怒ったようにジャックを見た。ジャックはその視線に少し気圧され、半歩後ろに下がる。
「な、なんだよ。」
しかしその後、ローラはジャックに向けていた視線をそっと下に落とした。そしてしばらくまた沈黙すると…ぽつり、と呟いた。
「……まってたのよ…。」
「は?」
「だから。
待ってたのよ。あんたを。」
それはかなり小さい声量ではあったが、しっかりとした口調だった。
「え…何で、」
「何?会いに来るのに必ず理由が必要?」
ローラはさらに鋭い目つきをする。それから、ジャックはいつもと違う彼女の空気に戸惑い始めていた。
「いや…そういうわけじゃ、」
「それならいいでしょ。ちょっと付き合ってよ。」
バッ
「おわ!」
突然ジャックは前につんのめった。ローラがジャックの腕を取り、そのままずんずんと歩き始めたのだ。
「いてて!おい、どこに連れてく気だよ!」
「…決めてない。」
「はぁ?!」
「いいから来てよ!」
ジャックはひたすら混乱しながら、彼女に無理矢理引っ張られていった。
「?」
地下の出入り口を出てすぐ、ジャックはその人影を見つけた。人影はジャックに気づいていない様子で、ただ俯きながら建物を背に寄りかかっていた。ジャックは何となくそこに歩み寄り、その名を呼んでみる。
「…ローラ?」
「きゃ?!」
ローラは悲鳴を上げながら、ビクンと震えた。
「…ジャック?!」
「おいおい、なにも悲鳴を上げるこたぁねえだろ。こっちまで驚いた。…で、お前こんな何もないところで何してんだ?」
「え、あ…うん、えっと。ちょっと買い物に出てきてて、」
「……買い物ぉ?お前ん家からこっちの方角は商店街と真逆の方向じゃねぇか。」
「っ!」
ジャックの単純な質問でローラは一瞬強ばったような表情を浮かべると、ぱっとジャックに背を向けた。そして、
「あ、あんたには関係ない事よ!」
半ば叫び気味にそう言った。
「そうなのか?まぁ別にいいけどよ…。」
ジャックはボリボリと頭を掻く。それからは2人の間で長い沈黙が続いた。しばらくして何か気まずいようなその雰囲気に耐えきれなくなったのか、ローラは勢いよくジャックに向き直り、言った。
そういえば、と。
こういう戦争の話はローラにしたことがなかった事をジャックは思い出した。彼女はこの状況をどのように考えるだろうと、たちまち彼の中で好奇心が顔をもたげてくる。
彼女は周りと同じように、戦うべきだと言うだろうか。
それとも?
(…俺は何を期待してるんだろうな…)
ジャックはそう心の中で呟きつつも、今度彼女を見かけたら話しかけてみることにした。
因みに、ジャックはローラに対して特別な感情を持っていないが、嫌いというわけでもないようだ。お節介なのが時々嫌で外では悪く言っているが、彼女と話していても悪い気分にはならないというのが正直な所だった。
互いに喧嘩しているようになるのは昔からのコミュニケーション方法。彼女はいつも明るく、とても話しやすい幼なじみ。彼の中ではそんな認識だった。
ただ、最近彼女が会いに来る頻度が増している気がするのは気になっていた。
ゴーン……ゴーン……
砂漠に建っていると言われる無人の時計塔が18時を告げた。それを聞いた男達は集合するでもなくばらばらと帰路に付き始める。ジャックも同僚の2人と別れ、それに混じる…はずであったが。
それから3人は仕事に戻った。時々休憩を挟みつつ、いつも通り日が暮れるまでそれは続く。
その間、ジャックは考えていた。戦争なんて起こしても、無駄に犠牲がでるだけで、何も解決しない確率が高いのではないか。『国』は軍事力を整えてあるが、こちらは武器になるのはせいぜいナイフや鶴橋くらいのもの。勝ち負けは誰の目にも見えているのだ。
しかし、それでも立ち向かう。
ジャックの周りにはそんな意見しか転がっていない。その事実を再認識する度に溜息がでるが、きっとそれ以外に自分達に出来ることはないのだろうとジャックは思った。
今や砂漠に出る事は、死を意味する。そして、このまま『国』にいいように飼い慣らされ続けるのは街全体の意に反する。仮に『国』に従い続け、生き延びていたとしても『国』にとって街が用済みになれば、いつ国外に放り出されるか分からない。
どの道死ぬしかないのならば、皆運命に逆らって死ぬ方を選ぶのかもしれない。
その結論に至った。
自分はどうしたいだろう?と問いかけてみるが…よく分からないという答しか彼の中では出せなかった。
ふとそこで、ローラの事が思い浮かんだ。
「戦争、か。そんなものが果たしてうまく行くかな…。」
「じゃあお前は、このまま一生『国』にへこへこしているつもりか。…いいか、俺達の未来は俺達で切り開くんだ。過ぎたことを悔やんでるだけじゃ何も進展しないだろ。」
そう言うと、ジョンは持っていたタバコをぽとりと足元に落とし、その火を踏み潰して消す。そして傍らに立てかけてあったスコップを取って立ち上がった。
「さて。そろそろ作業再開といくか。…ラースが戻ってくる。」
ジョンはさっきまでいた自分の仕事場に向かう。その途中、まだ座っているジャックに振り返った。
「お前だってローラっていう守りたい女がいるだろ?それだったら今キリキリ体を動かせ。」
その一言だけで、ジャックはがたりと勢いよく立ち上がった。
「あいつは別に関係ねぇっつってんだろ!」
「ハッハッハ…冗談だよ。なージャック君?何をそんなに反応しているのかなあ?」
「てめぇ!」
ジャックは思わずニヤニヤ顔のジョンに殴りかかりそうになったが、
「先輩…まだそのことで喧嘩してるんスかぁ…?」
唐突に背後から聞こえたラースの呆れ声に、ぐっとその動きを止めたのだった。
「けっ…どっかのご先祖様が、こんな腐りきった国に泣きつかなきゃあ良かったんだがな。」
ジャックは吐き捨てるように言った。ジョンはその苦虫を噛み潰したような顔を見ると、「また始まった…」というような目をする。
「あのなぁ、そうしなきゃ俺達はこの世には生まれていなかったんだ。それは仕方ない事だって何度も言っただろ。……お前の家を恨んでる奴なんて、この街にはいない。むしろ、皆こうして生きていられることに感謝してるんだぜ?」
「……ちっ。」
舌打ちが1つ鳴った。
ジャックが自分のファミリーネームを嫌っていた理由は、ここにあったのだ。
先程記載した、国を滅ぼされ砂漠をさまよっていた難民。この『国』に新しい街が生まれるきっかけとなった者達。そのリーダー格の男が、ジャックの直系の先祖に他ならないのである。
ジャックは地面に唾を吐くと、黙り込んでしまった。
「…それにな、ジャック。俺達はそれに対して何も出来ない訳じゃない。近い内に俺達は『国』と戦うことになるだろうさ。」
ジョンは、少し勢いをつけて紫煙を吹いた。
「今俺達が建設しようとしている…この『塔』を拠点にして、な。」
ここまではよかった。
しかし問題はここからだった。
それからしばらく経ってからの事だ。いつの間にか『この街は国に生かしてもらっている』という事実が、悪い方向で上層部の者達に深く根付いてしまったのは。
街は、何かとその理由につけて『国』からあまり良くない扱いを受け始めるようになっていた。
例えば何人かの者が突然『国』に集められては、少数では到底終わらない、かなり重労働な土木工事を全て手作業でさせられたり。酷い時は、何も知らない者が適当に選ばれただけで『国』の者が犯した罪を着せられたり。…それで死刑になった者もいた。
『国』からの差別は年々激しくなり、街は恐怖に彩られる。いつ自分達に降りかかってくるか分からない災難に怯えて暮らすのが日常になっていった。
そして、今回起こっている失踪事件。
街の者達が『国』のせいで起こっていると考えていても、何ら不思議ではなかった。
実際。ここにジョン・スミスと対面して座っている20代前半くらいの赤毛の青年…
ジャック・ウィル・ヴァイスもその1人だった。
この街で起きている失踪事件。それは3年前から始まっていた。
平均して1ヶ月に2人程だろうか。 性別年齢問わず、不規則に人が消えているのだ。そのほとんどの者は失踪する前には何の問題もなく、ただ普通に。いつも通り生活を続けていただけらしい。
では、何故失踪は起きたのか?
街の住人は皆、こう言う。
『国』に消された…と。
『国』。砂漠にぽつんと在る、透明なドームに囲まれた小さな土地。円の中心のほうには高層ビルが林立しているが、端の方は砂漠の上にテントや古い石造りの家が建っているだけの乾いた地が広がっている。
街は、その『国』の後者の方に含まれている。住人が言う『国』とは、主に前者…いわゆる上層部の方を指していた。
ここで少し歴史を紹介しておくと、元々この街は『国』に存在していなかった。
昔、悪化する地球環境によって国を滅ぼされた難民の一部が偶然この『国』に辿り着いたという。そこで、難民達はここに住まわせてくれと哀願した。
『国』はその者達を受け入れた。彼等に住むところを与え、限りのある食糧を供給した。そうすることで彼等は生き長らえ、子孫を残し…この街を発展させたのだ。
それからジョンはジャックを軽く張り倒した後…顔にひどくこびりついた泥土をタオルで拭き取りながら、さっきまでラースが座っていたドラム缶にどっかと腰掛けた。
「ったくこんな時にまでボケかますんじゃねぇよ。お前は。」
「…そんな面白いツラで真面目な話をするてめーが悪い。」
「お前がこんなツラにしたんだろうが!」
ジョンがそう噛みつくように言うと、ジャックはけたけたと笑う。しかしその笑い声も、すぐにこの重くなった空間にかき消されてしまった。
「つい最近…って、いつのことだ?」
ジャックが静かに聞いた。
「一週間前、だ。俺達と同じ作業場に配置されて間もない頃だな。」
ジョンは持ってきていた煙草を懐から取り出すと、ライターでそれに火をつけた。
「あいつはここに来たときからやけに真面目でな…熱心に作業に取り組んでたよ。お前も分かるだろ?」
ジャックは目を閉じて、思い出す。
ラースは確かによく働いていた。前線でというわけではないが、いつも気を利かせ自分達の仕事の手助けをしてくれる。
彼が笑顔を絶やすことはなかった。
とても、最近家族を失ってしまった少年には見えなかった。
「…ラース?」
その一変した雰囲気に、ジャックは戸惑っていた。ラースはそれにふっと笑いかけると、くるりと背を向ける。
「いつ会えなくなるか分かりませんから。………あ、そこの石。僕が運んでおきますね。」
そう言い残すと、彼は近くに置いてあった猫車の取っ手を持ち、それを押しながらゆっくりとその場から去っていった。
ジャックはそこに残され、ただ呆然とラースを見つめていた。…すると、
「おい!」
いきなり後ろからガシッと肩を掴まれる。びくっとして振り向くと、顔面土だらけの少年が真剣な目でジャックを見ていた。
「ジャック。確か、お前はまだ聞いてなかったよな。あいつに何があったか。」
「…?」
「つい最近のことなんだよ。あいつの妹が…あの事件に巻き込まれたのは。」
「!」
ジャックはその言葉にピクリと反応する。
「…『失踪事件』に、か?」
「ああ。」
2人の表情ははたちまち重苦しくなった。気の毒で仕方がないといったような感じだ。
沈黙が2人を包む。しかし、そこでジャックはふいと訊いた。
「ところで…誰だ?お前。」
めしゃ。
その瞬間にはもう、ジャックの拳がジョンの頬にめりこんでいた。彼は悲鳴をあげる暇もなかった。その後形のきれいな弧を描いて横に吹っ飛ばされ、
「ぅおお?!」
ドザザッ
スコップで盛った土の山に頭からまともに突っ込んだ。上半身だけを土に埋もれさせ足をばたつかせている彼の滑稽な姿に、ジャックは呆れたような眼差しを向ける。
「誰がベタぼれだ。…あいつが勝手に俺につきまとってくるだけだっつの。」
「ということは、その人と付き合ってはいるんスね?」
ピキッ!
背後からラースが真顔で質問してきて、ジャックは思わず体を硬直させた。そして鬼のような顔をしてギギ…ッと後ろを振り向く。
「付き合ってねぇ!!」
「いや、でも先輩のことを想ってくれる人が近くにいるわけッスよね?」
「…はっ、どうだかなあ。あいつはいつもいらねぇ世話ばかり焼いて来やがる。ありゃ一種の嫌がらせの類だと思ってるぜ。俺は。」
「大切にしたほうが、いいと思いますよ。」
ポツリと、ラースが呟く。
ジャックはそれでハッとした。自然と怒りは収まる。見れば、少し寂しいような目をした少年が目の前に立っていた。
「お前のことだ。どうせどっかでサボってやがったんだろうが……会ってきたんだろ?彼女に。」
ジョンはニヤニヤと楽しそうに笑いながらジャックの肩にどんと腕をかける。ジャックは心底その話に乗りたくないといった風に、それを横目でジトッと見た。
「何の話だ、そりゃ。」
ぼそっと呟く。
でも心では、ジョンが言う『彼女』が誰のことを指しているか…言われたその瞬間から分かっていた。
その話は、近くにいたラースにも聞こえたらしい。
「え!ヴァ…ジャックさん、彼女いたんスかぁ?!」
ラースは勢いよく立ち上がる。そしてさっきまでの様子が嘘のように目を輝かせ始めた。
ジャックは不機嫌そうに黙っているので、代わりにジョンが。
「おうよ。俺と同じ、こいつの幼なじみでさ。昔はよく3人で遊んでたもんだが、俺ぁあの時から分かってたぜ。」
「何スか?」
「それはなぁ……。」
「そ、それは………?」
そこで、ジョンはじらすように少し間を置く。ラースはごくりと唾を呑んだ。
「……こいつ、彼女にベタぼれだってなぁ!」
その時。
ブチッ
ジャックの中で何かが切れた音がした。
賑やかな昼休みが終わると、街はやけに静かになった。辺りに見当たるのは、皿などの片付けを始めている女達や小さな子供くらいになっていて、殆どの男達はそこから姿を消していた。
彼等がどこへ行ったのかというと…地下であった。街の中心となる場所に大きな穴が空いていて、そこから出入りしているらしい。先程の3人も、そこに入っていった。
地下は地上と全く違って、ランタンで黄色く照らされる闇の中、慌ただしく人と罵声が行き交っていた。
その端のほうで、
「はぁ…こってり監督に叱られちゃたッスね。うぅ、僕は巻き込まれただけなのに…」
ラースはドラム缶に座って、半べそ状態になっていた。その顔は殴られた箇所が大きく腫れていてあまり原型をとどめていない。
「…で。どうだった?ジャック。」
ザクッと、ジョンは土に大きなスコップを突き立てる。ジョンも同じ様な顔をしていた。
「どうって、何が?」
ジャックもやはり痣だらけの変な顔をして、少し大きめの岩を荷台に積んでいた。
「決まってんじゃねーか。デートはどうだったかって聞いてんだ。」
「…は?」
その言葉に、ジャックはさらに変な顔を作った。
「…俺をその名呼ぶなと、何度言ったけなあ。ええ?」
ジャックはゆらあと顎をあげた。その低い声と、言葉で言い表しようのない物凄い目つきに、ラースは額に青筋を立てながらにへらと笑う。
「あ、ははぁ…10回くらいかなぁ…スんません。やっぱ俺、どうも先輩のことはファミリーネームで呼ぶ癖が」
「黙りやがれ。てめぇ今度という今度は許さねぇからな…?」
ガシッ!っとラースの胸ぐらが掴まれ、そのまま体を持ち上げられる。
「ひぃ!」
と、情けない悲鳴が上がった。そこにジョンが加わり…。
「コラ、話をそらすな!ジャック。この埋め合わせはしてもらうからな!」
「てめぇまだそのこと根に持ってやがるのか?文句があるなら今かかってこいよ。」
「…ほぉ、幼なじみのよしみで殺すのだけは止めておいていたが…そうか。今ギッタンギッタンにされたいか。」
ボキボキッとジョンは指の関節を鳴らす。ジャックはそれを見るとニヤリと笑い、ラースを持ち上げたまま…チョイチョイと空いてる方の手の指を動かした。
「あぅぅ…先輩もう離してくだざい~!」
その後3人で殴り合いの大混乱になったことは、言うまでもないだろう。
「おう、ジョン。」
ジャックは軽く手を振る。ジョンはそこにずかずかと歩み寄った。彼の筋肉質で大きな体格は行きすがる人を時々強引に押しのけ、何人かを驚かせた。
「『おう』じゃねぇ。探したんだぞ!てめぇどこいってやがった?!」
「…便所だって言ったぜ。」
「便所に3時間もかかるか!」
ごつん!!
「いてぇーっ!!!」
と、ジャックは声を張り上げた。ジョンが、ジャックの頭に上から一発拳をふり下ろしたのだ。かなり痛かったらしく、ジャックはその場で頭頂部を抱え、悶絶した。
「…ったく。てめぇのおかげで2人でずっと穴掘りしてたんだぞ。無駄に使った0.5人分の労力返しやがれ!」
「ままま、スミスさんもういいじゃないッスか!こらえてこらえて。」
憤怒しているジョンの前に慌てたように小柄な人影が割り込んできた。…ラースだ。
「監督にばれなかっただけでも良かったッスよ。…でもヴァイスさん、本当に心配しましたよ?一体どこ行ってたんスか?」
ギロリ、と。
ジャックは心配そうな顔をするラースに、不機嫌そうな眼差しを向ける。ラースは思わず「あっ」と口を押さえた。
その丘から少し荒れた小道を通るとすぐに道が開け、街に出る。その砂埃にまみれた街は、沢山の人々が行き交っていた。
スコップやつるはしを持って歩く若者達。大きな石を積んだ猫車を押す中年。それに水や食糧を配る女達。がやがやとした人の声で溢れかえっていて…薄汚れているが、それは賑やかな風景だった。
と、そこに。
2人の少年が歩いていた。
「…あー仕事詰めで肩が凝った。こんな作業いつまで続ければいいんだか。」
「仕方無いッスよ~スミスさん。これも皆の将来のため!あの『国』がいつ攻めて来るか分かんないッスから。」
「ラースは相変わらず真面目だな。………お。ばあちゃん、そのサンドイッチくれないか?腹が減ってもう作業どころじゃない。」
「あいよ、豚肉サービスしとくよ!」
そんな平和なやりとりがされている所に、ジャックが通りかかる。
サンドイッチを受け取ろうとしていた少年…ジョン・スミスはそれを見て目を丸くした。
「あぁあ!ジャック!!」
それはとても大きな声だった。
もう1人…ラース・インディは思わず「ひゃあ」と声を上げる。当のジャックもその声に気付いたようで、そちらを見た。
それから、ジャックはすっと立ち上がった。
「街に戻る。」
「へぇ、今日は珍しいね?あんたから仕事に戻ろうとするなんて。」
不思議がるローラを背に、ジャックは丘を下り始める。そこで彼は不意に止まって振り向くと、こう言った。
「バーカ。俺はお前がいるこの場から、1秒でも早く離れたくなっただけだよ。」
「なっ…」
ローラは、ジャックの一言にさすがにカチンときたようで、バッと立ち上がった。けどここでヒステリックになっても、ますます馬鹿にされるであろうことはその目に見えていた。言い返すことが出来ず、ローラは憮然としてそこに立ち尽くす。
だが、しばらくして。
ローラはだいぶ遠ざかった背中に向かって大きく叫んだ。
「…仕事頑張ってねー!またどっかでサボったりすんじゃないわよー!!」
その高い声は
風に乗って青空に響いた。
彼の背中はただ遠ざかっていく。ローラは自分の声が彼に届いたのか一瞬不安になった。
しかし、
「…ぁ」
思わず小さく声が出た。かなり遠くではあったが、背中越しに彼が手を振っているのが見えたからだ。
彼女はそれを見て、
柔らかく笑った。
「…大体おめーはどうなんだ。街に戻って仕事しろ。」
「あたしは配給係。このサンドイッチをを配るのが仕事なの。」
そう言うと、ローラは肘に掛けていた籠の中をジャックに見せた。中にはレタスやベーコン、トマト等を挟んだ、色とりどりのサンドイッチがぎっしりと並んでいた。
するとローラは、おもむろにその1つをジャックに差し出した。
「あんたにも。…お昼時だし、お腹空いたでしょ?」
「……空いてねぇよ。仕事サボって寝てたからな。」
ジャックはローラから目を反らす。しかし、『それ』はまさにそのタイミングのことだった。
グウゥゥ……
「ぅ。」
彼の胃袋が、あの特有の音を立ててしぼんだ。思わず恥ずかしさが込み上げ、彼は赤面する。ローラは呆れたように笑った。
「ほら見なさい。あんたって本当に分かりやすいわ。」
「う、うるせー!てめーはもう黙ってろ!!」
ジャックは乱暴に差し出されたサンドイッチを取り、かぶりつく。それから2、3秒程でそれをたいらげた後、少し喉に詰まらせたようで胸をドンドンと叩く。
「っ…はぁ…。」
そして全て呑み込むと、深く息をついた。
ジャックと呼ばれた彼の目の前に、風景が広がる。
その高い丘からは、街全体が見渡せた。同じ様な形をした小さい四角い建物が並んでいる。目立った建物もなく、とても平坦な街だった。
そして、隣にしゃがみ込んでいる彼女の顔。ボロボロなワンピースとエプロンを身に着けているが…それよりも猫のように大きな瞳と可愛らしいピンクの唇が目に留まった。彼女の栗色の巻き毛が、風にふわりと揺れる。
ジャックは反射的に、彼女の名前を口にした。
「ローラてめぇ!何しやがる!」
「…もー折角起こしてあげたんだから感謝くらいはしてよね?本当に、あんたのサボり癖には昔から困らされてんだから。」
「うっせぇ!毎回起こしてくれと頼んだ覚えはねぇっつってんだろ!」
ジャックの乱暴な言葉使いに、ローラは慣れた様子だった。全く動じない。
「へぇ、そっちがその気ならいいわ。ジャックがここでサボってますよーって今度こそ街中の人に広めちゃうから。」
「…ぐ。」
「この街中の人が一生懸命働いてる時に。さすがにこのタイミングは…不味いかもね?」
ローラは座った目で笑みを浮かべる。ジャックはこれだけで黙り込んでしまった。
闇の先は、闇だった。
そこには何もないけれど、安らかな空間だった。
甘くて、暖かくて、
ずっとそこに居たくなる。
そんな場所だった。
しかしその時
誰かの声が聞こえた。
それは始め、小さく彼に聞こえていた。だが次第に大きくなっていく。
「…ック…ジャック!起きてよ!」
そしてその後、しばらく同じ様な言葉が繰り返され…彼は段々それに嫌気がさしてきたようだった。
「うるせぇな。放っておいてくれ。」
「ちょっ…こんなところ見つかったら上の人に怒られるわよ?」
「…あぁ?」
彼は気だるそうに目を開けた。
すると、
真っ青に澄んだ空が彼の目いっぱいに広がっていた。さんさんと降り注ぐ日の光がとても気持ちいい。
(……)
気持ちよさのあまり、彼はまた目を閉じそうになってしまう…が。
「寝るな!起きろ~!」
ギュッ
「いっててててて!!!」
それは阻止された。彼の頬が思い切りつねられたのだ。彼は抗議の声を上げながら跳ね起きる。すると、起こした張本人…十代後半の少女は溜息をこぼした。
「やぁっと起きた。ジャック。あたしが一体何回呼びかけたと思ってる?」
ザッ!!
ヴァイスは猛然とジュエルに向かった。その時もまだ、ジュエルはヴァイスの目を静かに見つめていた。それがますます彼の神経に触れたようだった。
「さっさと逝けエエェ!!!」
ブンッ!!
目の前で槍が振り上げられる。ジュエルはその場から動かず、目を閉じた。だからジュエルは次の瞬間で死ぬはずだった。
だがその瞬間に響いたのは、
悲鳴でも血の吹き出る音でもなかった。
カシャン!
何かが落ちる音だった。
「グ…」
そして小さな呻き声も聞こえた。ジュエルはそこで、ゆっくりと目を開ける。
始め、床に落ちている長い槍がが見えた。次に見えたのは、棘だらけでうなだれているヴァイスの姿だった。
メキメキメキ…
真っ黒で、鱗のついているその棘は、ヴァイスの体を幾重にも覆っていく。それは何か、新たな生物を形作っていくように見えた。
「…」
ジュエルは少し後ずさる。そして離れた距離になった所で足を止め、それを見た。
「ゥぅォオオオォ…」
低い声と共にヴァイスの体はみるみる巨大化し、変貌していく。
それにつれ
彼の意識は、遠い闇の中に堕ちていった。
「はっ…だからどうしたよ?どっちみち、お前は今から死ぬんだ。」
ヴァイスはせせら笑う。
その時からだった。…彼の体に変化が起こり始めたのは。
ビリッ
彼の右肩から、先程の棘が突き出た。その拍子に服が破け、少し大きな音が鳴った。
ジュエルの声がまた響く。
「お前は俺と似ているよ。殺人人形にも普通の人間にもなりきれない、まるで中途半端な存在だ。
だから分かる。何かはっきりした『意志』がなければ、俺達みたいな奴はずっと殺しを続けることなんて出来ないんだ。必ず、その内自分を保てなくなる時が来る。」
ビリッ
「俺はただ終わらせたい。この狂った世界を。だから闘っている。…お前は何故、今闘っている?」
ビリ。ビリ!
「何故、その答えを誤魔化しているんだ?」
ビリビリビリ!
気付けば。ヴァイスは殆ど体の表面が棘だけで埋まって、人間の形を失っていた。彼はくぐもった声でこう言う。
「少し黙れ。」
ジュエルはそこで真っ直ぐとヴァイスを見返した。
「結論を言う。俺には、お前が何かから逃げ出そうとして闘っているようにしか見えない。」
「…黙レと言ってイルんダ!!」
「言い訳、だと?」
ヴァイスはピクリと眉を動かす。
「もしくは、誤魔化しだ。」
「……俺が何を誤魔化しているって?」
ジュエルは少し呻きながら、だけれども淡々と続けた。
「勿論、お前自身だ。」
「!」
「お前は言った。自分は殺すために生まれてきた。殺すことが存在の証であると。…その時点で、お前は『自分が殺人鬼である』と主張している。
でも本当に殺人鬼なら…そんな分かりきったことは言わない。俺は、この目で本当の殺人鬼を見たことがある。」
ジュエルが目を閉じて思い出していたのは
倉庫で見た『彼』のことだった。
「殺人鬼は…そもそも感情を持っていないに等しい。だから言葉も喋らない。ただ無情に、ただ人を殺す。それによって何の悦びも得ないし、動じることもない。」
血の海に佇む『彼』の虚無の瞳。突きつけられた銃口の冷たさを、ジュエルは鮮明に思い出した。
「つまりお前の言っていた言葉で言い換えると…殺人鬼は、殺人人形なんだ。
だが、お前はそうじゃない。こんなにも必死に、何度も。自分は殺人鬼だと叫び、分からせようとするんだ。
殺す相手ではなく…自分にな。」
「殺すことが俺の糧であり存在の証。快楽なんだ。…俺は俺の力で、自分を満たしている!」
「!………。」
ヴァイスは血塗れの部屋の中心で両手を広げ、天井を振り仰ぐ。その目はとても恍惚としていた。
ジュエルはその言葉でまた沈黙した。
が、その時。
「……ふ。」
「?」
「ふ…ふふふ、あっははははは…!」
ジュエルの笑い声が、広い空間に響き渡った。血だらけで倒れてたまま笑っているその姿は異常者を連想させた。ヴァイスは初め不快そうな表情をしていたが、やがて薄く笑って訊く。
「どうした。今自分が死ぬしかないと理解出来て、気でも狂ったか?」
「ふふ……違うさ。今やっと分かったんだ。お前への違和感の正体が。」
「…何?」
ジュエルは多少痛みに顔を歪めながらゆっくりと背を起こし、よろりと立ち上がった。
「最初からおかしいとは思っていた。…お前の強すぎる殺しへの執着。
戦いの中でのお前はことあるごとに言っていた。自分の求めているものは殺しによって得られる快楽だと。
…けど、それは違う。
それは、ただの『言い訳』に過ぎなかったんだ。」
ドォ!!
「っが…!」
固い地面に体が打ち付けられ、ジュエルは思わず声を上げた。それからは、全く体が言うことを聞かなくなったようだった。…血が溢れ、力が入らない。ジュエルはただ仰向けになって倒れた。
そこに。
タン
軽い音が鳴る。今、ヴァイスが地に降り立った。
「あ―ぁ。また服に穴が増えちまった。」
彼はボリボリと頭を掻きながら、もともと穴だらけの服の背を見る。さっきの棘は消えていた。
「しっかし…もう終わりか?もっと楽しませてくれるかと思ったんだがな。」
ヴァイスは遊び足りないといったような表情を浮かべた。
ジュエルは少し息を切らしながら高い天井を見つめる。やがてそのまま、こう訊いた。
「お前は、楽しんでいるのか?」
「あ?」
「お前は…殺し合いを本気で楽しんでいるのか、と訊いたんだ。」
ジュエルはゆっくりとした口調で言い直した。その問いにヴァイスは即答した。
「ああ。楽しい。」
「…何故だ?」
「簡単だ。俺は殺すために生まれてきたからだ。」
「……。」
あまり理由になっていないその答に、ジュエルは少し沈黙する。するとヴァイスは、こう続けた。
「?!」
今、この時。ジュエルは確かにヴァイスの背を取っていた。今剣を振り下ろせば、完璧に相手に致命傷を与えることが出来る。だから、ジュエルはヴァイスの言葉にぞくりとした。
それと、
その鈍い音が響いたのはほとんど同時だった。
ドヅ!!
「ぁ…?!」
何が起こったのか、初めジュエルには分からなかった。鋭い痛みはなく、ただ何かの異物が自分の中に突然入ってきた感じがした。その部分に、ジュエルはゆっくりと目を移す。
「ぐ…ゴボッ!」
血がこみ上げてきて、吐いた。ヴァイスの背から妙なものが伸びて、ジュエルの右脇腹に突き刺さっていたのだ。それは植物とも動物とも判別がつかない、何かの棘だった。
次に。ヴァイスは槍をくるりと回し、そこにジュエルを絡め取る。すると、
ブシュウゥ…!
ジュエルの体から棘が抜け、傷口からは鮮血がほとばしった。ヴァイスはさらに槍を回し、
「そらよ!」
ブン!!
地面に向かって勢いよく振った。それはジュエルを下に投げつけたのと同義だ。深い傷を負ったジュエルは成す術がなく、そのまま墜ちていくしかなかった。
そして…
「もっと、踊れ。」
「!」
タン!
ヴァイスの声がはっきりと耳を突き抜けたのと同時に、ジュエルは高く跳んだ。
ガシャン!!
ヴァイスの槍はジュエルのいた空間を突き、同時に巻き上がった風圧が、また数個の壷を倒した。
その時。
微量、時の流れが止まる。
そして空中に舞うジュエルとヴァイスの目が合った。ヴァイスのニィッと口元を歪めた表情が、ジュエルの赤い視界に映りこむ。
…ジュエルは、
「……。」
すっと目を伏せた。
タッ!!
時がまた動き出す。ヴァイスが勢いよく跳んだ。恐ろしい程の速さでジュエルとの距離を詰める。その際、
「…っ」
ジュエルには自分に向かってくるそれが何人にも分かれ、四方から攻撃が迫るように見えた。しかし、本物は1つだけだということは分かっていた。
ジュエルは目を閉じ、瞬間的に意識を耳に集中させる。…そして、
「っらぁ!」
ビュッ!
バ!
繰り出された槍を紙一重で避けることができた。結果、前にのめったヴァイスには隙が生まれることになる。ジュエルはそこを突きにかかった。剣が煌めく。
しかし、
「残念だったなぁ。」
ドガシャァン!!
ジュエルは10m程先の、壺が沢山置いてある場所に背から激しく突っ込み、終いには石壁に叩きつけられた。壺は衝撃で割れ、中に入っていた水が亀裂から溢れ出す。舞い上がる埃と壷の破片が散らばっている中、ジュエルは血と水でずぶ濡れになって倒れた。
「っ…」
まだ視界は回復しない。寧ろ悪化している。だがこんなところで休んでいる暇はないと、すぐに思い知らされた。またあの男の哄笑が四方から、こだまのように響いてきたからだ。
だがその時。
不意にジュエルは何かを感じた。
一言で言うと『疑問』だった。あまりはっきりとしたものではないが…思えば、それは初めてヴァイスに会った時から感じていた。
即ち、
ヴァイスの
異常なまでの殺人への執着。
生命をいたぶることへの快楽。
その理由だ。
何故、そんなに笑っていられるのか。これから繰り広げるのは、血の宴。命の取り合い。傷つけ合い。それをこんなにも楽しんでいる。ジュエルには、一瞬それが疑問だった。
そんなことを考えている間にも、彼は目の前にいた。…また体を動かさなければならない。ジュエルはゆっくりと身を起こした。
ジュエルは肩を押さえ、身を屈める。霞み歪んだ景色の中には、ぼんやり赤毛の男がゆっくりと槍を振り上げるのが見えた。先端の銀がやけにギラギラと光っている。
(…くっ…)
このままでは、殺される。平衡感覚がなくなり自由に動かない体を鞭打って、ジュエルはゆらりと剣を構えた。
そして槍の光は一層強くなる。…次の一瞬で、始まるのだ。
「なあぁ!」
ブン!!!
剛速で槍が振り下ろされた。
「っ」
ギィン!!
ジュエルはその一撃を、受け止める。しかしヴァイスの攻撃はそれだけでは終わらない。
「ヒャッハハハ!!」
「!」
ガッガガガガガ!!
ヒュンヒュン!
踏み込みながらの突きを3連続。それは空気を切り裂き、そこに一瞬出来た真空をも切り裂く。かろうじてジュエルは全て剣で受け流した。ヴァイスはそこからさらに槍を上に振り上げ、素早く回転させた。遠心力がたっぷりとついたところでそれを振り下ろす!
「ハアァッ!!」
ガガ!!!
「ぐっ…!」
ジュエルはそれを防いだ。しかしその強烈な衝撃を受け止めきることは出来なかったようだ。
瞬間、ジュエルの体は物凄い勢いで吹っ飛ばされていた。
ズザザッ!
ジュエルは着地した後、
バ!
すぐに斬りかかっていった。
勢い良く加速していき、ヴァイスの攻撃範囲に入ったところで強く地を蹴る。
タッ!
そのまま弾丸のように目標に向かっていき、まず右手の剣で彼の胴を薙ぐ!
しかし。
「?!」
ジュエルは自分の目を疑った。彼の姿が霧のように消えたからだ。
その後瞬時に、背後に殺気が現れた。ジュエルはそれに気付き、振り向こうとしたが。
ザシュ!!!
「――ぁ」
…遅かった。
ジュエルはその痛みに、声にならない声を上げた。攻撃を受けたのは、先程人造生物から受けた傷だ。即ちその傷が開かれたことになるので、かなりの激痛が走った事は明白だった。
後ろには、血で濡れた槍を弄ぶヴァイスの姿があった。
「おやおや、どうしたのかなぁ?…くっくっく!」
ヴァイスはわざとらしくジュエルの心配をするふりをして、それが可笑しかったのか自分で笑う。
『また幻でも見たか?』
キィィン…
再び強い耳鳴り。ジュエルの中であの気持ち悪い感覚が蘇り、ヴァイスの姿は変に歪んで見えた。その上肩からの出血は激しく、視界全体が白く霞み始めていた。
――お知らせ――
こんにちは。ARISです。(^-^)
いつも『地獄に咲く花~The road to OMEGA~』を読んで下さり、誠に有り難う御座います。さてさて、知らせたい事と言うのは……またあの魔の期間がやってきてしまった事です。
即ち、
テスト期間!!
というわけで…やむなく、今日からまたしばらく休載することにしました。申し訳ありませんが、ご了承下さい。(/_;)
再開は8/4です。
これからも、本作品をどうぞ宜しくお願い致します。<(_ _)>
少しして、それは治まった。ジュエルは2、3回息をついてから再びヴァイスを見る。
「…く」
「まあ。言っちまうと元々俺にあった能力じゃないがな。全く、リタも面白いものをくれたもんだ。」
(?)
一瞬、ヴァイスの言葉にジュエルの思考が止まった。そこに1つ、聞いたことがある固有名詞が混じっていたからだ。
(リタ?)
ジュエルはつい先程のことを思い出す。地上の戦いの時逃げ込んだ家で見た、1人の謎めいた少女を。彼女の言葉が、ジュエルの中で瞬時にフラッシュバックしていく…。
『リタは、罪から逃げたいの。』
『ね、リタ。…あの時の約束、覚えてるでしょ?』
(…言っていた。)
『私に……会いに来て…』
「おい。何ボケっとしてんだ?」
その声は唐突に、間近から聞こえた。
ジュエルがはっと顔を上げる。すると、目の前には大きな槍を振り上げるヴァイスの姿があった。
そして一呼吸の間もないまま、槍はジュエルへと向かう!
「!」
ギィン!!
ジュエルはとっさにそれを剣で受け流し、素早く後ろに跳び下がった。
「あの幻も、全部お前が作り出したのか。」
ジュエルは低く訊いた。
ずっとひっかかっていたのだ。現実には有り得ないような変な空間に引き込まれたり、ゾンビが突然人造生物に変わったりといった、奇妙な現象が。
ヴァイスは一瞬きょとんとするが、少しして思い出したように「ああ」と声を出した。
「…そうだ。そういう能力があってな。俺の声に、ある波長の音波を混ぜてやるんだ。そうすればだいたいの奴はオちる。生き物の脳味噌なんて、ちょいと神経回路を狂わせてやれば簡単にいかれちまうのさ。」
頭をトントンと指で小突いてみせると、ヴァイスはジュエルの方にゆっくりと歩みよった。
そして、口を開く。
『こんな風に!!』
その声は空間を揺るがした。
キイイイィン!!
「…っ!」
耳に超音波のような嫌な音が駆け抜け、ジュエルは思わず顔を歪める。同時に、ジュエルの周りの世界がまた可笑しくなり始めた。…空気が赤く染まり、今立っている地面がぐにゃりと歪む。
しかし、実際には何も起こってはいなかった。
ただジュエルがよろめいただけで。現実の世界は今までと何ら変わらず、そこにあったのだ。
ヴァイスはゆっくりとこちらを見た。ジュエルと目が合うと、彼は薄く笑った。
「第九も知らないのか?」
初めの一言はそれだった。
「ベートーベン交響曲第九番。人間の世界じゃ結構有名な曲だぜ?……ああ、お前は人間とは違ったか。」
ヴァイスはそうわざとらしく言って見せると、講壇からひょいと降りる。
その時。
「?!」
突然、ジュエルの肩の辺りにぞわりとした感覚が走った。ジュエルが思わずそれを手で抑えようとすると、
ヒュッ!
何か小さな塊が、懐から飛び出した。それは真っ直ぐヴァイスの方に向かっていき、彼はそれをパシッとそれを掴み取る。
「…俺の体の一部をお前に送り込んで、お前がどうするか見ていた。」
そして、彼は笑った表情からさらにニィと笑った。
「いやぁ楽しかった!あの慌てたり、逃げたりしてる様!そんでもって、最後にはいきなりあの肉人形共をゴミみたいに殺しやがった。その規則性のない行動。ただの殺人人形とは少し違ったってワケだ。…どっちかっていうと、お前は人間に近い方なのかもしれないな?」
ジュエルは、実に楽しそうに喋るヴァイスを不快そうに睨みつけた。
コツ…コツ…
円柱の壁にそった長い螺旋階段を降りているうちに、ジュエルは確信した。自分は目的地にもうすぐ辿り着くだろう、と。ここが『塔』であり、ヴァイスは間違いなくここにいる。そう思った。
それには理由があった。
「…♪♪~…」
微かにだったが、誰かの鼻歌が聞こえてきたのだ。その曲をジュエルは聞いたことがなく、題名も分からない。だが時々音を外して、音痴になりかけているということだけは分かった。
とにかく、こんな所で鼻歌を歌っている人物など1人しか思いつかなかった。
コツ。
ジュエルは、最後の段を降りる。そこで目の前に広がったのは、上の階よりも一層血濡れの空間だった。円形の講堂のような部屋で、沢山並んだ椅子が中心の講壇を囲んでいるのが特徴的だ。
その講壇の所に。
「♪~♪♪~」
赤毛の青年が座っていた。
こちらを見もせずに、気持ちよさそうに足をぶらつかせながら歌っている。
赤黒い部屋に響く、下手な歌。…それは、何か気持ちの悪くなる光景だった。
「…何を歌っているんだ。」
ジュエルが低く訊く。
すると歌はピタリと止まった。
そして。
ジュエルは程なくしてトンネルの終末に辿り着いた。トンネルの出口は、1階と2階が吹き抜けになっている大きな円柱状の部屋に繋がっていて、今出て来た所はその上の方の階らしかった。そこはトンネルの雰囲気とはまた一変して、大理石で細部まで丁寧に造られた神殿のような部屋であった。
しかし、
「…。」
ジュエルは思わず眉を潜めた。…何故なら、この部屋の状況が明らかに異常だったからだ。
床と壁一面、血だらけなのだ。
それは乾ききってどす黒く変色しているが、間違いなく血痕だった。古びた鉄の匂いと生臭さが入り混じった特有の匂いで溢れ返っている。その匂いはジュエルにとって何度も嗅いだことがあるものだった。
だが、死体はどこにも見当たらない。そこにあるのは血痕だけだ。一体何人がここで死んだのだろうと自然に思える程、それは大量に残されていた。
ジュエルは、その部屋にもっと足を踏み入れる。
するとすぐ脇に、下へと続く階段らしきものがあった。もちろんそこも赤黒く染まっている。見ればその血痕は、下から死体を引きずってきたような跡になっていた。
次に足元を見る。すると、やはりそこに大量の足跡があった。それらはこの1本道をずっと行っている。ジュエルは闇に慣れた目で、それを辿っていった。
そして、進む。
この地下は何のために作られたのか。この先に『塔』があるのか。確かめるために進む。もうジュエルに残された道は、これしかなかった。
道は、思ったよりも続いていた。それを進みきると、また別の方向に進むらしい比較的大きな道が開ける。
そこは…錆び付いてはいるが、整備されたトンネルになっていた。だから先程の細い地下道よりもずっと明るくなっていた。そして、それによってはっきり見えたものがあった。
それは壁に空いている、無数の穴だ。ジュエルが出て来たところも穴になっている。どうやら、このトンネルに繋がっている地下道は他にもあったようだ。数え切れないほどの穴がずらりとそこに並んでいた。
全ての地下道はここへ集結している。街の住人は皆この地下に集まっていたと言うのだろうか。そう考えながら、ジュエルはひたすら足跡を辿った。
空気が通る低い音が不気味に響いている。その頃からジュエルは何となく、そのトンネルの嫌な空気を肌で感じていた。
そこには、更なる闇が広がっていた。ひどく寒々しい空気が扉の奥から吹き込んでくる。ジュエルはゆっくりとそこに入り、鉄の扉を閉めた。
ゴゴゴゴ…ガシャン!!
金属音がやけに大きく響き渡る。どうやらそこは中々広い空間のようだ。ジュエルはまず周りを見てみる。殆ど完全な闇に近かったが、天井には小さな裸電球がぶら下がっていた。
その明かりで、うっすら岩肌が見える。裸電球は間隔を開けて点在していて、道を案内しているようだ。それで分かるのは、この道が1本道だということだ。
それらの情報を総合すると、ここは洞窟のような所だった。丁度防空壕のような雰囲気だろうか。
確かに、人造生物の襲撃に備えるため、今や地下に避難所があるのはどの家でも、どの街でも普通のことだ。ジュエルはそれを分かっている。
しかし…と、ジュエルは考える。そこで思い出されたのはヴァイスの言葉だった。
この街は立ち入り禁止区画。初めて人造生物の襲撃を受けた街。そして襲撃を受けた日、街の住民は全員死んだ。
そう言っていた。
即ち、
人造生物が出現するその前から、この地下道はあったということになるのだ。
低く、風を吸い込む音が聞こえる。薄暗い空間の奥にあるのは、真っ直ぐ下に伸びる階段だった。
ザッ…
階段の近くまで行ってみる。そうするとその深さがよく分かった。地上の光は底に届いておらず、ただそこに黒い闇をたたえているのが見えた。
「……。」
ザッ…ザッザッザッ
ジュエルは少しだけ固唾を呑むと階段を降り始める。初めはゆっくり、しだいに足を早めて。その度、靴と砂が擦れ合うがそこに響いていた。
それは長い階段だった。
2、3分は進んでいるだろうか。地下に続いていることは明白だった。敵が追ってきたり、建物が崩れる気配はない。ジュエルは暗闇を進み続ける。
そうしている内に、やがて小さな明かりが見えてきた。
それは蛍光灯の青白い明かりだ。切れかかっているようで、不規則に点滅している。
そしてその下には、とても重そうな鉄の扉が浮かび上がっていた。重厚なその存在感は、まるで入ってこようとする者を威圧するかのようだった。
ジュエルはその扉の取っ手を掴み、ぐっと力を入れる。
ゴゴゴゴゴゴ…
すると扉は重い音を立てながら横にスライドした。
それは、足跡だった。
黒い煤で汚れきった小部屋。その床に、同じような形をした足跡が大量についていた。それは誰か1人が歩き回ったと言うより、同じ靴を履いた複数の人間がこの部屋を荒らしたように見えた。
さらに、気になる点がもう1つ。
ジュエルが入ってきた窓の真正面にある壁。そのすぐ下の床についているいくつかの足跡が、不自然に切れている。まるで、この部屋から壁の向こうへすり抜けていったかのように、足跡は壁の境の所で半分程に切れていたのだった。
ジュエルはその壁に近づいてみる。
見た目は何の変哲もない、只の壁だ。ただし、そこに1つだけ、小さなエンブレムのようなものが取り付けてある。ジュエルはそれに手を伸ばした。そして少し表面を触ってみた後、エンブレムの中心を指で押してみた。…すると、
カチッ
意外に軽く押せたのでジュエルは少し驚く。
そして、そこに『変化』が起こった。
カッ
ズズズズズズズ……
壁が縦2つに割れ、扉のように開いていく。それにつれて、壁の向こうにある空間がゆっくりと顔を出した。
床を見てみると、案の定壁で切れていた足跡が向こうへと続いていた。
そして。
シャッ!
ジュエルは片方の剣をそのパイプに向かって勢いよく投げつけた。すると、
ガン!
剣が乾いた音を立てて、パイプに突き刺さった。2本の剣は鎖で繋がっている。ジュエルはパイプに刺さった剣から伸びている鎖でぶら下がる形になった。
そこから振り子の勢いをつけて、
ガシャーン!!
ガラスの窓を突っ切る。降りかかる破片を浴びながら、ジュエルは建物の中に転がり込んだ。それからすぐ体勢を立て直すと最後に鎖を引き、パイプに刺さっていた剣を戻した。
「っ…」
ジュエルは少し肩を押さえる。しかし立ち止まっているわけにはいかなかった。まごまごしているとここも破壊されてしまうからだ。
まず素早く辺りを見回してみる。ぱっと見た感じ、すすだらけで伽藍洞の小さな部屋だった。ジュエルは軽く舌打ちをする。
(『塔』の手掛かり。何かないのか…?)
ここには何もない。
そう思い、ジュエルは下の階に降りようとしたが。
「?」
何かこの部屋に違和感を感じ、足を止めた。それが何故なのか初めは気付かなかったが…よく見てみると、その理由が分かった。
その後、他の敵も次々と高い跳躍で屋上に上がり、ジュエルを囲み始める。それぞれ持っている凶器は銃であったり棒であったり様々だった。ジュエルは痛む背に苦しむ様子もなくそれを見ていた。
そして。
ガガガガガガガ!!
マシンガンの耳障りな銃声を合図に、それは再び始まった。前列の敵が一斉に動き出す。流石にマシンガンの弾を全て剣で防ぎきるのは酷な話だったらしい。ジュエルは体を使ってそれを避けつつ、攻撃を仕掛ける方法を選択した。
だが。防と攻を同時に行うとなれば、それだけ必要な動きが増え、体力の減りも早くなる。ましてや負傷した状態だ。結果、少しづつ動きが鈍くなり、やがて僅かな隙も生まれてくるのだった。
ドッ!!
「っぐ!」
下から掬うようにジュエルの腹が鉄棒で殴られ、その攻撃でジュエルは屋上の外まで吹っ飛ばされた。同時に体全体が浮遊感に包まれる。下には少し遠い地面があった。
ゴオオォ
「くっ…」
そのまま落ちる。落ちていく。
しかしその瞬間、ジュエルはある行動を取ることを考えた。その目に映っていたのは…家の壁に刺さっているパイプと、ガラス張りの窓だった。
バッ
という音が、後ろの方で聞こえた。その音はとても小さく、ジュエルは気付くのに遅れてしまう。
「?…」
ジュエルが振り向くと、太陽の光に映し出されたシルエットが宙に見えた。初めそれは何かよく分からない黒い塊にしか見えなかったが、2つの特徴からすぐにその正体が分かった。
その特徴とは、1つはヒトの形をしていること。もう1つは振り上げられた手に、有り得ないほど大きな爪がついていることだ。
次の瞬間。
ザッ!!!
「――っ!」
ジュエルの背中に鋭い痛みが走った。同時に赤い飛沫が、白い屋上にパッと散る。
シルエットの正体は下で群れていた黒服の兵士の1人だった。ジュエルと同じ様に、階段を使わず屋上に来たのだろう。剥き出しにしている変形した爪にはぬらぬらとした鮮血が滴っていた。
ヒュヒュ!!
そこに続いた、突き、薙ぎの2段攻撃。
「ちっ…!」
ジュエルはそれを紙一重でかわすと、剣を振る。
キィン!カッ!!
剣と爪がぶつかり合う音が響く。その爪はまるで金属のように硬く、鋭かった。しかしジュエルはそれをはねのけ、その後よろめいた敵をあっと言う間に3つ程に分断した。
すると、足元が崩れ始めた。ジュエルは慌ててまた隣に飛び移ろうとする。だが、見ればその先にある屋上も。
ゴゴゴゴゴゴゴ……
同じ様に振動していた。一方今の足場は、みるみるその範囲を縮めていく。ジュエルには、もはや躊躇している時間などというものはなかった。
「くっ!」
たっ!
今残っている、僅かな足場を蹴る。
がらがらがらがら……!!
隣もすぐに崩れ始める。ジュエルはそうなることを分かっていて、今宙へ跳んだのだ。
たちまち、家という存在の意味を持つモノが、瓦礫という存在の意味を持たないモノへと変化していく。しかしそれに惑わされることなく、ジュエルは冷静に着地点を見極めた。
とっ
右足のつま先が着く。そこから1歩、2歩。その歩数は決して無駄には出来ない。だから、ジュエルは2歩目で、再び跳び上がった。
たんっ!
大きく、宙に弧を描く。そして一回転してから、ようやく安定した足場に辿り着く事が出来た。
ゴオオォ!
吹き上がった砂埃が、ジュエルの背を押す。振り向けば、先程まで立っていた2軒の家がなくなっていた。
「くそ…」
と、ジュエルが呟いた
その時。
少しだけ高いその家の屋上に足を着くと、この街の景色が目の前に広がった。ずっと向こうまで続く平坦な街をジュエルは見渡す。…そして、
「『塔』……一体どういう事なんだ。」
ずっと引っかかっていたことを口から零した。それはヴァイスの言った『塔』のこと。前にも記載したかもしれないが、それらしきものは全く見当たらないのだ。まず、目立った建物からしてない。皆同じ様な格好をした、小さな四角い石造りの家なのだ。ジュエルは少しその場に立ち尽くす。
しかし、それ以上の時間は与えられなかった。
ドゴオォ!!
「!」
下から重い音が響いた。その音は少し前に聞いたことがあった。ジュエルは思わず足元を見る。
ゴゴゴゴゴゴゴ……
揺れていた。激しく家が揺れていた。ジュエルは頭で判断するより早く、そこから駆け出す。
バ!
屋上には柵が備え付けられていない。だから隣に移ることは簡単だった。
がらがらがら…!!
そして後ろからあの物凄い音が聞こえる。振り向くと、家は瓦礫の山と化していた。ジュエルはその難を逃れたことに息をつく…が。
ドゴオォ!!
「っな!」
再び同じ音が、下の方で響いた。
狭い裏道は、殆どゾンビで埋まっている。
と思った、その時。
「!……?!」
ジュエルは息を呑んだ。急に、先程から付きまとっていた頭痛が引くのを感じた。…しかしそれがジュエルが驚いた直接の理由ではない。
なんと、ゾンビ達の姿が今までと全く違う姿に変化したのだ。それはまるで、今まで見ていた幻がぱっと消えるように、一瞬のことだった。
そこに群れていたのは、体じゅうを武装で固めた、黒服の兵士。背中にボンベを背負っていて、顔が大きなガスマスクで隠れているのが特徴だ。それは前にも見たことがあるものだった。
(…人造生物!)
ブンッ!
「っ!」
ジュエルは右から前置きなく振り下ろされた鉄の棒を避けた。そして振り下ろした張本人斬り払おうとする。が、背後にいるもう1人が銃を構えたのを、ジュエルは微かな金属音で感じ取った。
「ちっ!」
ダダダダダダ!!!
どうやらその銃はマシンガンだったようだ。連続した発砲音が空気を揺るがす。ジュエルはそれが発砲される前に大きく上に跳んでいた。
たっ!
途中で家の壁を蹴って、さらに上へ。そしてジュエルは場所を裏路地から家の屋上に移した。
「がヴオおおオォぉ」
即座に先頭のゾンビが、ジュエルに向かって鉄の棒を両手で振り上げた。ジュエルはそれと同時に、また剣を動かす。
シュッ
それは目には見えない動きで、殆ど無音だった。しかしその『結果』はすぐそこに現れた。
ガランガラン!
まず、先程までゾンビの手にあった鉄の棒がけたたましい音を立てて床に転がった。…次に。
ブシュウウゥウ!
ゾンビの両腕からどす黒い液体が勢いよく飛び散った。何故そんなものが突然吹き出したのかというと、その両腕が肘の辺りから無くなっていたからだ。床には鉄の棒と一緒に、肘から先の部分が2本転がっていた。
「ぐぎゃうぁア」
ゾンビは悲鳴だかよく分からない奇妙な声を上げると、よろめく。しかしジュエルはそれが倒れるのを待たなかった。すっと息を吸い、
「『迷うな』!!」
その一喝から、始まった。
ザバァ!!
がら空きだったゾンビの胴体が宙に飛んだ。刹那、ジュエルはその後ろにいたゾンビを袈裟切りで体を分断した。その次にいたゾンビは前の攻撃から続く回転切りで首を斬り飛ばし、残った胴体は蹴り倒す。
そのままジュエルは扉から外へ躍り出た。
その振動で、つっかえ棒にしていた鉄のパイプが一瞬で歪んだ。けれどジュエルは不思議と動じることはなかった。
(罪は、消えない。取り消す事は出来ない。)
バン!!バン!!
続けて振動。今度はパイプではなく、扉自体が大きく歪んだ。次の一撃で破られることは、その尋常ではない歪み方を見れば明白だった。
(罪から逃げる事なんて、出来ないんだ。…あぁ、俺はそんな当たり前の事も忘れていたのか…。)
バァン!!!
ついに扉は破られた。いや、吹き飛ばされたと言った方が正しかった。扉のすぐ前に立っているジュエルに金属の塊が猛スピードで向かってくる!
ガシャアアァン!!
大きな音が鳴り響いた。そして部屋中に煙にも似た埃が舞い上がる。扉が突き当たりの壁に叩きつけられたのだ。ジュエルはその下敷きになった…わけではなく。
シャキン
同じ所に立ったまま、1本の剣を上に掲げていた。
その鋭い光を放つ銀は、神々しくも見えた。…何が起こったのか?よく見れば後ろに倒れている扉だは、真っ二つに切れていた。
そしてぽっかりと口を開けた部屋の入口には、生ける死者達が蠢いているのが見えた。
…はっと気がつく。
少女が消えていた。
辺りに残されているのは、静寂だけ。ジュエルはしばらく、そのままぼうっと宙を見ていた。少女が始めに立っていた場所をちらりと見ても、何も無い。
(今のは、)
ジュエルは片方の手の平をそっと自分の顔に持ってくる。
突然現れ、消えた少女。そして脳裏に流れた映像。それらの事実を組み合わせて導くことができる結論は、1つだった。
(…記憶?)
そう。それは失われていた記憶だ。ジュエルは先程の少女の言葉を断片的に思い出し、呆然とする。
(俺が戦えないのは、怖いから?
過去に殺戮を犯した…
その罪から、逃げたい?)
しかし。
「…そんなこと、関係ない。」
ジュエルはゆっくりと立ち上がった。両手の剣が石の床を擦り、軽い音を立てる。
「何を理由にしようとしたって。今戦わなければいけないことに変わりはないじゃないか…。」
誰に話している訳ではなく、ジュエルは自然と自分に言い聞かせていた。…そして、目を閉じる。
(それに今だって。俺は殺戮の罪を背負っている。)
その時、
ドン!!
突然ジュエルの横にある扉が激しく振動した。
少女は、ジュエルの間近で止まった。ジュエルは少女の大きな瞳に真っ直ぐ貫かれ、動くことができない。
見れば、いつの間にか少女の肌は異様に白くなっていて、青い瞳はどろりとした赤に染まっていた。
『リタは、罪から逃げたいの。』
どくん!
その時。
ジュエルの脳裏に、一瞬途切れ途切れの映像が映った。
1つ目は、水面。
その水は驚くほど綺麗なエメラルドグリーン湛えていて。ただ、そこにゆらゆらと揺らめいていた。
2つ目は、花と少女。
後ろには色とりどりの花が咲いている。どうやらそこは花畑のようだった。そして、そこには無垢な笑顔でこちらに話しかけてくる金髪の少女がいた。何を話しているのかは…分からない。
3つ目は、夕日と女性。
燃えるような黄昏に支配されている世界だった。そこにすらりとした、同じく金髪の女性のシルエットが浮かび上がっていた。…こちらを切ない表情で見ている。頬には涙が伝っているのが、微かに見えた。
最後は、暗闇。
『ね、リタ。…あの時の私との約束、覚えてるでしょ?
それなら、早く私の所に来て。
私に……会いに来て…』
少女の声が、響いた。
「!」
高く透き通った声は正面から聞こえた。ジュエルは声とほぼ同時に顔を上げる。すると、
少し遠くに、小さな少女が立っていた。
さらりと肩にかかっている金髪。青い瞳。それに白いワンピースを着ている。その姿は何だか薄ぼんやりしていて、今にも消えてしまいそうだった。少女は悪戯っぽく笑っていた。
『リタは、怖がりだもんね。』
ジュエルは少女を見つめる。
「……誰、だ?」
そう掠れた声で訊く。
しかし少女はその言葉が聞こえていないかのように、また笑った。
『リタはお化けがきらい。怖くて夜も眠れない。私知ってるよ。』
どくん。
ジュエルの心臓が脈打つ。見知らぬ少女と、聞いたことのない名前。何故かそれに恐怖感を覚えた。
「俺はリタじゃない。人違いだ。」
…少女は、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
柔らかな笑みを浮かべたまま。
『私、知ってるよ。……リタがなんでそんなに怖がりなのか。それはね、』
どくん。どくん。
『いっぱい、いっぱいヒトをころしたから。男のヒトも、女のヒトも。男の子も女の子もおじいちゃんもおばあちゃんも。みんなみんなころしたから。』
ジュエルは思わずその取っ手を掴むが、すぐには引かなかった。
…家に入っていることが敵に見破られれば、一貫の終わりだ。先程見たように、家ごと木っ端微塵にされるのは目に見えている。
しかしそれ以上迷っている暇はなかった。追いつかれてしまう。
ギィ!
バタン!
一気に引いて、閉めた。
中は薄暗くて静かだった。ここでどうやって生活できるのかと疑いたくなるほど何も無い、コンクリートが剥き出しの殺風景な部屋だった。
見れば近くにパイプのようなものが転がっている。ジュエルはそれを取ると、取っ手に差し込み、つっかえ棒にした。少しでも時間を稼ぐためだろう。
ジュエルはその場にずるずるとへたり込んでしまう。もしもの時の出口を探さないといけないのだが、体に力が入らない。ジュエルは痛む頭を押さえ、うずくまった。
(何で…戦えないんだ。
さっき自分で言ったのに。俺は戦いの向こうに答えを探すって。
……まだ戦える筈なのに!)
「もう…訳が分からない。」
口からこぼれた一言。
その時は、まさかそれに答える者がいるとは思わなかったが。
『怖いんでしょ?リタ。』
ゴオオオォ…!
大きな砂埃を上げて、建物はあっと言う間に倒壊した。辺りの空気は黄土色に染まり、視界が悪くなる。しかし、それは逆に言えば敵から姿を隠せるようになったということ。ジュエルはとにかくこの密集地帯から離れることだけを考え、走り出した。
微かに見える、倒壊した建物の横の道。半分瓦礫で埋まってしまったが、まだ通ることができそうだった。
バッ!
瓦礫の山を飛び越える。そしてその先にある真っ直ぐで細長い道を行った。ゾンビは後ろからは追ってこないようだった。
道の先にあるのは、分かれ道。…右、左。どっちを選ぶかは1秒で決まった。何故なら、
「!!」
一方からゾンビが押し寄せてきていたからだ。ジュエルはすぐさま右へ曲がる。
(何で…何で!)
しかし、上を見てもちらちらと敵が動いている影がある。屋上からいつ敵が飛び降りてきても可笑しくはなかった。もしかしたらその内、前からも来て挟みうちになるかもしれない。
外はどこも駄目だ。
その結論に辿り着いた。しかし、この状況を打開する手が見つからない…と思ったとき。
道を挟んでいる建物の扉が目に飛び込んできた。
わけの分からないまま、始まりを言い渡された。ジュエルは素早く辺りを見回してみるが、
(塔…?)
困惑した。塔なんてどこにもなかったからだ。そしてその間にも、ゾンビ達は鈍い動きでジュエルを囲み始める。
「く…」
チャキ
ジュエルは剣を構えた。だが、構えただけだった。その後に体が動いてこない。手は震えている。
…対処することができない。それは亡者達に追われるときと同じだった。
ジュエルは、激しく苛立ちを覚えた。
(何で!!)
ダダダ!
その時、敵の動きが変わった。複数のゾンビが走ってくるのだ。そして各々ジュエルに飛びかかる形でを拳を振り上げた。
ブンッ
「!」
ジュエルはとっさに右にある建物の方へ移り、壁に張り付く。それでなんとか攻撃は避けた。
しかし間一髪の所だった。1人のゾンビの拳がジュエルの顔を掠り、後ろの壁に当たる…
ドゴオォ!!!!
物凄い音が響いた。
壁は、その後ガラガラと音を立てて消え失せる。1部分だけではなく1面が。それどころか、
ゴゴゴゴゴ…
建物全体も揺れ始めた。次に起こることの予想がすぐにつき、ジュエルは建物から離れた。
その者は、どうみても生者ではなかったからだ。
元はボロボロの服を着た男性…人間のように見えた。しかし、左肩から右脇腹にかけてざっくりと裂けている。切り口からは折れた肋骨が突き出ていて、今にも溢れ出てきそうな小腸は危なげに揺れていた。
それは生きる屍。
いわゆるゾンビという奴だった。
「…っ…」
思わず後ずさる
が、
「ア゛…ぁア゛ああ」
「!」
ジュエルの心臓が飛び跳ねた。もう1人後ろにいたのだ。まさかと思い、急いでさっきいた場所に戻ってみる。すると
ゾンビだらけだった。
屋根の上、瓦礫の陰、建物の中から出てくる者。道は言うまでもない。既に20近くのゾンビで埋まっていた。…さっきの頭痛が一層強まる。同時に、耳の奥にキイィンという鋭い音が鳴り響いた。そして聞こえてくる、あの声。
「さあ、ゲームの始まりだ。ルールは簡単。お前のすることは邪魔者をなんとかしつつ、この街にある『塔』まで辿り着くこと。俺はそこにいる。」
「?!」
「あと1つ補足。その邪魔者は見た目と違って強い。お前が逃げきれるほど甘いもんでもないから、覚悟しておくんだな。…じゃ、スタート!」
「20年前に出現した人造生物。その襲撃を初めに受けたのが、ここだ。」
今度は上の方から聞こえた。その時から、ジュエルは頭痛に見舞われ始める。何となく、さっきの異次元にまだいるような気がした。
「あの日、ここの住民は全員死んだ。…今じゃゴーストタウンってわけさ。」
右の方から。
「んで、今からお前もその住人になる。どうだ、嬉しいだろ?」
左。
その時瓦礫の裏の方で何かの影が動く。ジュエルはそれを見逃さなかった。
ダッ!
そこへ駆け出す。
影はそこから動かない。だから簡単にそこで影の正体を確認することができた。
だが、
「!!」
ジュエルは足を止めた。
次の瞬間、
ブンッ!
目の前のそれによって鉄パイプが勢いよく振り下ろされる。ジュエルは慌てて後ろに跳び下がった。
チッ
「っ!」
ガン!
鉄パイプは地面に当たり、重い金属音を立てた。そして、ジュエルの頬には一筋の血が流れていた。影の主はふらつきながら振り下ろした鉄パイプをのろのろと持ち上げようとしている。…攻撃のチャンスはいくらでもあった。
だが、ジュエルは呆然としてそれを見ているだけだった。
何故なら、
その時。ジュエルを中心に空間が揺らいだ。直後、
バッ!!
「っ!」
白い光が辺りを包み込んだ。その眩しさに、ジュエルは目を焼かれる。
「っはぁ……はぁ…」
気付けば、ジュエルは道端で手を膝に当てて息を切らしていた。もうあの異次元空間はなく、上にはちゃんと空がある。周りを見てみると草原ではなく、下層部の風景が広がっていた。
しかし、見慣れた風景ではない。いつも見ている下層部は、人気がなく、今にも崩れそうな煉瓦の家が陳列している荒れた土地だ。
…だが今見えている風景は、それ以上に荒れ果てたものだった。
一言で言うなら、瓦礫の街。立ち並んでいる建築物は完全な形をしているものが殆ど無い。半分壊れていて中を剥き出しにしていたり、完全に瓦礫と化しているものもある。地面には大小様々な家の破片が転がっていた。…ヒトの姿は勿論ない。
(…ここは……)
「立ち入り禁止区画なんだとよ。」
「!!」
ヴァイスの声がすぐ近くで聞こえて、ジュエルは反射的に振り向く。しかし、またもやそこに姿は無かった。
(くそ…どこだ?!)
――怖いか?――
どこからかは分からないが、それは亡者の呻きにかき消されることなくはっきりと聞こえた。ジュエルは足元をすくわれないように、走ることだけに集中しなければならない。だから聞き流すようにしていた。
それでも声は、響く。
――俺はそいつらに捕まったら死ぬと言ったが。捕まる前に、全員お前の剣でたたっ斬ることも出来るんだぜ。――
「!…」
――さっき簡単にやっていたじゃないか。お前なら、5分も経たずに皆殺しに出来るだろうよ。死者が生者に勝てるはずもない。――
ジュエルの後ろで、幾百の亡者達がひしめいていた。やがて腕だけでなく、顔も血の海から露わになってくる。人間や人造生物だったものが、各々もがきながら絶望の声を上げている。それはまるで地獄絵図のような光景だった。
――おい、殺さねぇのか?――
ヴァイスの言葉はジュエルに届いている。だがジュエルは足を止めない。後ろも振り向かない。…すると、
――怖いか――
最初の問いが繰り返された。
――そいつらが怖いかよ。――
「うるさい…」
ジュエルは自然とその一言を口に出していた。
「うるさい!!!」
「来いよ!」
ヴァイスの姿が闇に溶ける。後には大きな哄笑がこだましていた。ジュエルはぐっと右足を戻そうとするが、纏わりつく黒い手は中々離れない。その上、手が増えてくる。それらはジュエルを赤い波の中に引きずり込もうとしているようだった。
「この……離せ!!」
気持ち悪さに耐えきれず、ジュエルは剣を振り上げた。
ザッ
すると腕は簡単に斬れる。全く手応えはななかった。斬れた腕は黒い砂になって霧散していった。その隙に、
バッ!
ジュエルは走り出す。
後ろには戻れない。前に行くしかなかった。ジュエルはこの訳の分からない空間の中、脇目も振らずただ走る。…先程の繰り返しだった。
あれに呑み込まれたらと思うと、ジュエルはぞっとした。ヴァイスが見せている幻影にしろ、自分の妄想にしろ、絶対に近寄りたくはないと思うのだった。
しばらく走っていると、そこに再びヴァイスの声が響いた。
目の前の草原が、一瞬にしてなくなったからだ。空も、地面も分からない、ぐにゃぐにゃとしたマーブル模様をしている黒紫色の空間が、ジュエルを包み込んだのだ。
(…何だ、これは!)
完全に現実感が無い空間。しかし目の前には、ちゃんとヴァイスがいた。ヴァイスは空いている手の人差し指で、ちょいちょいと相手を誘う仕草をする。
「さあ、今から俺に付いて来い。さもなければ……死ぬぞ?」
そう言いながら、今度はジュエルの後ろの方を指差す。その時、ジュエルに異変が起こった。
がくんっ!
「っ?!」
突然足のバランスを崩して倒れそうになったのだ。辛うじて転倒は避けたが、ジュエルは何が起こったのか理解できず足元を見てみる。
「なっ…!」
そして思わず声を上げた。右足が何かの黒い手に掴まれていたからだ。…恐る恐る後ろを見てみると、
巨大な赤い波があった。
それはさっき見たばかりのおぞましい光景。辺り一面血の赤。渦を巻くような沢山の呻き声、赤い海から突き出ている何本もの亡者の腕。その1本が、今ジュエルの右足を掴んでいた。
…ジュエルの表情が凍りつく。
「普通の人間なんて、すぐにバラバラになっちまう。お前、あのルチア博士に作られた強化人間なんだろ?…こりゃあ、楽しめる!」
「……。」
ジュエルの冷たい目つきは変わらない。ヴァイスはそれを見て、すっと目を細めた。
「そういや。さっき戦ってみてやっと思い出したぜ。確かお前ジュエル…とか言ったか。俺はお前を殺すように、リタの奴から言われてたんだった。『鍵』の片割れの方は別の担当なんでな。」
(…『鍵』の、片割れ。)
「でもまぁ、安心したぜ。あんな死にかけで、化け物になりかけの奴。」
「!」
その言葉に、少しジュエルは眉を動かした。
「あんなものを殺しても、満たされない。」
ヴァイスは舌なめずりをしながらこちらに歩み寄ってくる。
「俺の求めるものは、苦しみ。喘ぎ。…悲鳴。痛みも感じない化け物を相手にしてもしょうがないんだ。
そう、お前のような人間らしい、丈夫な殺人人形が丁度いい。」
ジュエルは再び剣を構える。ヴァイスは立ち止まり、言った。
『楽しませてくれないか?たっぷりと!』
その時だった。
「…?!」
ジュエルは思わずよろめいた。
なぜなら、
地上に着く直前、最終的に足から着地できるよう縦に1回転。そして右手の剣を振り上げる!
ザン!!
着地と同時に斬り込んだ。
ガッ!
それはヴァイスが構えた槍の柄で防がれる。しかし、ジュエルの攻撃はここからだった。左手の剣が唸りを上げる。
ガッ!ガガガガ!ガガ!!
攻める。攻める。激しい剣撃を繰り出す。その動きは言葉に出来ないほど力強く、華麗なものだった。ヴァイスは瞬く間に後ろに押されていく。だが、ジュエルの剣を全て片手で防いでいた。
「ハッ…面白ぇじゃねぇか!!」
ヴァイスは沸き上がるように声を上げた。そしてジュエルに出来る刹那の隙を見計らい、槍を一瞬で振り下ろす!
ブンッ!
「!」
ジュエルは詰めの甘さに気付いたが、遅かった。
ドガ!!
「ぐっ!」
槍の柄はジュエルの左脇を強打した。ジュエルは横に吹っ飛ばされ、地面にゴロゴロと転がる。だがそのまま転がっていくわけではなかった。地面に手をつき、素早く体勢を立て直す。
「…。」
左脇を押さえながらヴァイスを睨みつけた。
「俺の槍を受けて砕けない、か。やっぱお前人間じゃねぇな。」
しかし、攻撃がそれだけで終わる筈がなかった。ヴァイスは手首のスナップを使い、横に凪いだ槍の勢いをそのまま利用する。大きく踏み込み、斜め上からもう一振り。
「ッハ!」
ブンッ!!
空気が重い音を立てて斬れる。だがジュエルはここまでの動きを読んでいた。体術を使い、それを紙一重でかわした。
ひゅひゅ!
休む間もなく槍の突きが2回来る。
キィン!ガガ!!
今度は剣でそれを受け流した。その後ジュエルは動く。剣を槍に付けたまま地を蹴り、上に跳んだ。次には、
とん。
ジュエルは槍の上に着地していた。その時、互いの目が真っ直ぐ合い両者の動きが少しだけ止まった。
「…ほぉ?」
ヴァイスが楽しそうに笑う。
バッ!!
そこからまた時が動き出した。ヴァイスはジュエルを振り払うように槍を下から上に振る。その力を受けて、ジュエルは空へと跳んだ。
太陽の光にその姿が霞む。しかし、それはただ一瞬のことだった。ジュエルは頭から地上に向かっていく。体を横に回転させていて、両手にある2つの銀が激しく煌めいていた。
「面倒くせぇ。…お前も、リタの言う星の血液とやらになってもらうぜ。」
ヴァイスが振り向いた瞬間、彼の『気』が変わったのをジュエルは感じ取った。それははっきりと分かる、殺気だ。…ヴァイスはさっきとはまるっきり違う、低い声で言う。
「『命が要る。この星を満たすほどの。星に命を捧げ、新たな道標が開かれる。』……だ。」
「!」
ジュエルは少し息を呑んだ。その言葉は聴いたことがない筈なのに…何故か、聞き覚えがあった。
「まあ、俺はそんなことに興味はねぇ。どうせその『新たな道標』なんてものに辿り着いたとしても、俺の生き方は今までと同じ。
殺人を楽しむだけだからな。」
ヴァイスはニィっ…と笑う。
それは、とても猟奇的な笑み。獲物の鼠を見る蛇のような目つきだった。ジュエルの体は勝手に戦闘態勢に入っていた。
…そして、
ブンッ!
ザッ!!!
草を薙ぐ音が響いた。それが戦いの合図。ヴァイスが踏み込み、槍を横に振ったのだ。攻撃範囲は半径4メートル。しかもその勢いは、棒の部分に当たっただけで骨と肉が砕けそうな程だ。
ジュエルは後ろに大きく跳び下がり、それを避けていた。
「…じゃあグロウか?あ、いやグラウだったような。」
ヴァイスはジュエルに背を向けて問答を始める。もうジュエルはその話し相手にはなる気はない。この間に、そこにいる男の戦闘能力を計ることに専念した。
「いやいや、そいつは銀髪の奴か?…ならあと1人は…」
すると、ジュエルは直ぐに1つの答えに辿り着いた。…即ち、この頭が少し変な男はかなり出来るということだ。
ジュエルが見ていたのは、ヴァイスの背中だった。それは一見隙だらけに見える。全く警戒がなく、今攻撃すれば間違いなく致命的な一撃を加えることが出来る。始めはそう思った。
しかし、第六感とでも言える何かが、今手を出してはいけないと心の中で警鐘を鳴らしていたのだ。
「………。駄目だ、思い出せん。」
それにあのボロボロの服だ。
何が原因であの様になったのかが分からず、得体が知れなかった。少なくとも攻撃を受けて出来たものではなさそうだ。大きく空いた穴から見える肌には何の傷跡も見当たらない。
「ええい、名前なんてもうどうでもいい。俺は覚えることが苦手なんだ!」
ヴァイスはついに正しい答えを導き出すことはなく、終いには1人で怒鳴った。
男は暫く遠くに立っていただけだったが、やがてこちらに歩いてくる。そして間合いが5メートルくらいになったところでピタリと止まった。
「よぉ。」
男は挨拶する。ジュエルはあからさまな警戒の目をそれに向けていた。
「…誰だ、お前。」
「初めまして、俺ヴァイスってんだ。よろしく。」
「何をしにきた。」
ジュエルの冷え切ったその眼差しを、ヴァイスは全く気にしていない。余裕そうに、右手に持った槍の背でトントンと自分の肩を叩いて見せている。
「なぁに、ちょっくらこの先に探し物をしに来ただけだ。……ってなわけで。」
ブンッ!
ヴァイスは槍を頭上で1回転させた後、その先端を勢いよくジュエルに突きつける。そして、こう言った。
「大人しくそこを退くんだな。…ロイ君。」
少しだけ、ジュエルは固まった。ヴァイスは変わらず不敵な笑みを浮かべている。自分の犯した間違いに気付いていないようだった。
「さもないと、命の保証はしないぜ?」
ジュエルは少し溜め息をついた後、ぼそりと言う。
「俺はロイじゃない。」
「おい聞いていやがんのか………は?」
…ヴァイスはかなり間の抜けた声を出した。
「…お前はそれでいいのか?」
ロイの問いかけにジュエルは静かに頷く。そして、歩き出した。
「ここには、誰も来させない。」
最後にそう言い残して。あとは振り向かなかった。ロイを通り越し、元来た道を歩いていく。ロイは早くもなく遅くもない速さで遠ざかっていくその背中を、横目で見送った。
どくん。
左腕が脈打つ。
どくん…どくん。
時折メキメキという音を立てながら疼くそれに触れると
ロイは息を吐き、すっと目を閉じた。
「すまないな…ジュエル。」
サク。
ジュエルは、道の途中で足を止めた。あの木から随分遠ざかった所だった。辺りにあるのは、来たときと同じく緑色の草だけ。その筈だった。
しかし、それはそこにあった。だからジュエルは足を止めたのだ。即ち…それは人影だった。
20代前半の男性だった。真っ赤で少し長い髪が色んな方向に尖っている。着ているのはスーツらしいが、破けたり穴が空いたりしていて一瞬ではそれと分からない。そして何より目に付くのは、男性が片手に持っているものだった。それは身長以上ある長い槍だ。
この草原には合わない、とても目立った格好だった。
少し強い風が流れてきた。
砂漠の彼方からやってきたその風は草原に届き、雲を運び、草花をざわめかせる。そして真正面からジュエルとロイに当たり、一瞬で勢いよく通り過ぎていった。それを感じると、ジュエルは両手の剣を強く握りしめた。
「けど、それでも俺達は今殺し合いを避けられない。『SALVER』は間違いなく俺達を狙っているんだ。」
「…そう、だな。」
「…ロイはここを動くな。」
ジュエルは先程と同じ言葉をロイに云った。
「お前は戦える状態じゃないだろ。今は、この草原でお前の答えをゆっくりと考えればいい。それが終わるまで、俺が代わりに戦ってやる。」
ロイはまたジュエルの背を見る。
「けど…ジュエル。お前は、」
「俺はまだ戦える。戦わなければいけない。1人分も2人分も同じだ。」
ジュエルは透き通った青い空を見上げた。
「俺はお前のように記憶から答えを探すことが出来ない。記憶がないから。だから今は、戦いの向こうに答えを探そうと思う。」
「…ジュエル。」
「ロイ。俺も信じたくなったんだ。…それが許されないことだとしても。この世界がお前の言う、争いのない平和な世界になることを。」
「………。最近、俺もお前と同じ様な事を考えていたような気がする。」
ジュエルは遠くの方を見てぽつりと言う。ロイは少しその言葉に驚いた様子だった。
「同じ事?」
「ああ。人を殺すこと…いや。人じゃない人造生物を殺すことさえ、疑問に思えてきたかもしれない。
俺達はこれまでに数え切れないほど命を狩ってきた。止まった時間の中、ただ同じ作業を繰り返して。でも、それでこの世界は何か変わっただろうか。」
「……。」
「…変わらない。殺しても殺しても返り血が飛んでくるだけで、何も変わらない。」
ジュエルは振り返り、いつもの無表情をロイに見せた。しかし、ロイはその無表情の向こうに少しだけ寂しげな笑みを見た気がした。
「俺達はルチアに記憶を消され、殺すことだけを教えられて水槽の中で生まれた。だから殺すことしか知らない。
でも、俺達は命を奪うことが好きかどうかと訊かれたら、そうじゃないと思う。ロイも俺も…グロウも。殺す以外の『他の生きる術』を知らないだけだと思うんだ。
…なんて言っても。この滅びが近い、荒れ果てた世界ではどうしようもない。
ロイ。お前の気持ちが、よく分かるよ。」
――お知らせ――
皆さん今晩は、ARISです。
『地獄に咲く花』をいつも読んで下さり、有り難う御座います。(^-^)
更新の事なのですが、これからの展開を考えたいので、誠に勝手ながら一週間だけ筆(ボタン?)を休めたいと思います。少し精神状態も危ういので…(^^;)
でも旧スレのサイドストーリーのほうは今までと変わらず時々不規則に更新するつもりなので、そちらの方も見てくださったらと思います。(^^)
再開は5/20です。これからも『地獄に咲く花』をどうぞ宜しくお願い致します。<(_ _)>
ARISでした(^^)/~~~
しかし、煙草を吸った後のロイは驚くほど落ち着いていた。息切れも震えも止まっている。
気付けば、ジュエルがここに来たばかりの時感じられた、あの穏やかな空気も舞い戻ってきていた。
そこで、
「多分。…衝動が来るのは、決着をつけられていないからかもしれない。」
ロイは再び切り出した。
「…?」
「殺しを止めたいなんて言っても、長い間人造生物と人を殺しながら生きてきた。その日常を変えることは不可能に近い。でも、やっぱり心のどこかで変わりたいと感じている。……そんなごちゃごちゃした心が、殺人衝動を生み出しているのかもしれない。」
「……。」
「これから自分がどうしたいのか。どうするべきなのか。答えが見えないんだ。…だから、俺はここでそれを見つけたい。
自分に、決着をつけたいんだ。」
ロイの言葉はそこで終わった。
…ジュエルはふっと息を吐くと、木の根本のあたりに置いていた剣をゆっくりと取り、1歩踏み出す。そしてこう言った。
「なら決着をつけるまで…そこを動くな。」
ロイが思わず顔を上げると、そこには剣を両手に携えながら静かに立っている、ジュエルの背中があった。
それを吸った途端、
「ぐ…ゲホ!ゲホ!!」
ロイは激しく咳き込んだ。ジュエルは思わず、ロイの手から煙草を取り上げた。
「何をしているんだ!こんなもの吸ったらますます…!」
だが、ジュエルはそこで言葉を切った。ロイがこちらに向かって手を伸ばしていたのだ。震えている所を見ると、とても必死そうに見えた。
「ジュエル…返して、くれ。」
「…え、」
「っ…早く!!」
「!あ、ああ。」
ジュエルは慌てて煙草を返した。ロイはもう一度それをくわえ、吸い始める。今度は咳き込まなかった。落ち着いて少しずつ紫煙を吐いていた。4回程吸って吐いてを繰り返した後、ロイは手を止めた。
「くそ……もう3日も吸ってるのに。始めの1回がいつまで経っても慣れやしない。」
「ロイ。その煙草は…?」
「大統領の贈り物だよ。まさかこんな所で役に立つとは思っていなかったが…衝動が来たときは、これで少しは凌げる。」
「…そうだったのか。」
「でも、耐性がつくのは時間の問題だと思う。この衝動を自身の力で制御出来るようにならない限り、俺はここを動くわけにはいかない。」
ロイはどこか窶れた表情で呟いた。
「でもそこで…俺の中に、あれが入ってきたんだ。俺はそれに勝てる筈だった。けどっ…勝てなかった。俺は、負けたんだ。」
「…ロイ?」
ジュエルは、気付いた。
少し前からロイの様子がおかしい。その頬をよく見てみると、粒状の汗が流れていた。それに、段々息切れが激しくなってきているのも分かる。
(…これは!)
そう思うと、ジュエルは急に立ち上がった。そしてロイの左側に回り込んであの部分を見てみる。…即ち、左腕だ。
しかし、
ロイの左腕はどこも変な所はなかった。変形もしていないし肥大もしていない。いつもの、普通の腕の形。だが、ジュエルは明らかに変だと感じた。それは、ロイが左腕を押さえているからだ。
「おい、大丈夫か!」
「…左腕はまだ、狂っていない。それより問題なのは…俺の…殺人衝動だ。」
「殺人衝動?!」
「…そう。ルチアを、殺した時と……同じ。左腕は…それを強めてるだけだ。」
「何で今になって…!!」
その時、ロイは不意にポケットから小さな箱を取り出し、中身を取った。
それは煙草だった。ロイはそれを口にくわえ、ライターで火をつけた。
「死は…何も、生み出さないんだ。」
ロイは下を向いてぐっと身を縮める。そして黙り込んでしまった。ジュエルは暫くそれを見ているだけだったが
意を決してあの事を聞くことにした。
「ロイ。1つだけ聞かせてくれ。3日前、あの倉庫で何があった…?人を殺したくないと思っていたなら、あんな殺し方は出来ない筈だ。」
ジュエルは、あの無残な部屋を思い出していた。もちろん『彼』のことも。…ロイは返事をしない。それでもジュエルは続けた。
「だから、あれはお前じゃない。お前の意志じゃなかった。別の何かの意志だった。そうなんだろう…?」
ジュエルは出来るだけ口調を和らげた。ロイに気を使ってのことだったのかもしれない。しかし、ロイはまだ返事をしない。反応していないようにも見えた。
3分程経ってジュエルが声をかけようとするが、その時やっとロイが口を開いた。
「違う。あれは…俺だった。」
「…まさか。」
「最初は…殺そうと思っても殺せなかった。銃の引き金を引こうと思ったら、指が動かなかった。きっと無意識に体が俺を止めたんだと思う。」
ロイは少し息を切らしながら話し始めた。
沈黙が続く。今のジュエルには、答える術が見つからなかった。草木のざわめく音だけが辺りに響いていた。長い間が過ぎた後、ロイは力無く笑う。
「変なこと訊いたな。こんな、分かり切っていること。……分かってる。そんなのは無理だって分かってるんだ。今更こんな事言ったって、どうにもならないことくらい。」
「…ロイ。」
「多分、俺は今まで自分で気付いてなかった。だけどきっと、心の隅で感じていたんだと思う。
もう誰かの命を奪って生きるのは嫌だって。」
ジュエルは 目を閉じる。
ロイの隣に座った。
ロイがこれから紡ぐ、続きの言葉を聞くために。
「あの時。ルノワールに行った時。俺は自分が強化人間になる前の記憶を思い出した。…そこで思い出したのは初めての殺人の記憶と、その代償。俺はそれをこの目で見た。
2人の人間を殺したんだ。親友を助けるために。それは自分のためでもあった。でもそれからは不幸の連続だった。
その親友は『死』に、俺も『死』んだ。親友の妹は失った兄を求めるだけの人形になった。最初殺した時は全員が幸せになると思っていた。…けど違ったんだ。
誰も幸せになんてならなかった。」
「きっとこの花は。枯れ果てて命が尽きるその時まで生きて、種を残す役目を果たし、死んでいくのだろう。」
「…そうだな。」
「なぁジュエル。俺達人間も、こうやって生きられると思うか?」
ジュエルは一瞬ロイの口から出た問いの意味が分からず、少し沈黙した。
「今生きているじゃないか。」
「…そうじゃない。」
ロイはジュエルの言葉をあっさり否定すると少し俯く。それから、風で一斉に揺れる花を見つめた。
「ただ、普通に。争って殺し合うことも、互いに苦しむこともなく。普通に大人になって、老いて穏やかに死ぬ。もしかしたら子供を残しているかもしれない。……そういう生き方が、俺達に出来ると思うか?」
さわさわさわ……
ジュエルは何も言わなかった。
それは、今となっては夢のような話だった。温暖化で環境が壊滅状態になった今、人々は生きることに必死になっている。さらに人造生物の襲来。もはや平和に生きている人間などいない。ましてや自分達は強化人間。普通に老いることすら叶わぬ体なのだ。
出来るはずがない
そんなこと
ジュエルはそう思った。
しかし言わなかった。
言いたくなかった。
ジュエルは言葉を失った。
「俺の秘密の場所だ。」
ロイは静かにそう言ってみせる。目の前にある、この景色を見つめながら。
白い花畑だった。
1つ1つの花はとても小さく、5枚の形の整った花びらが真ん中の黄色い花心にきちんと並んでいる。とても可愛らしい花だ。それが丘の下り坂1面に、わあっと咲いていた。ジュエルはしばらくそれを目に焼き付けた後、しゃがんでその1輪を見てみる。
「この花…ここに来る途中でも何度か見かけた。でも、ここだけこんなに咲いてるんだな。」
「いずれお前が見た所もここと同じ様になると思う。花はその命を失うと同時に沢山の種を残す。だからどんどん範囲を広げて、やがて1つの花畑になるんだ。」
「……。」
「俺はここで、この景色を見るのが好きだ。」
ロイは、穏やかに言った。
「この草原も、この木も。この花も。何故生きていられるかはよく分からないけど…こんなにも逞しく生きている。
全ての命が尽きかけている、腐りかけたこの星。もはや殺し合わないと生き延びられなくなった人間の世界。
……この地獄で。」
ロイが語りかけるように話す。ジュエルは黙って耳を傾けた。
今までと同じ速度で、その背中に向かって歩く。そしてすぐ後ろまで来た。 しかし背中は動かない。振り向かない。だから、こちらから声をかけることにした。
「そんな所で何をしているんだ?…ロイ。」
さわさわさわ…
また風が吹いて、木が静かに歌う。ロイはその歌が終わる頃にゆっくりと振り向いた。始め少し驚いたような表情だったが、それはすぐに和らいだ。
「ジュエルか。…よくここが分かったな。」
「ここは、何だ。ロイは知っていたのか?」
「この場所はずっと前からあったさ。でもお前とグロウにはさりげなく行かせないようにしていた。…こっちに来ると無駄足になるだけだとか、危険だとか言ってな。それで、お前達に無意識的にこの区域から避けるようにさせてたんだ。」
「この場所をを独り占めしたかった、そういうわけか。」
「ああ。くっくっく!」
ロイは、ジュエルの「してやられた」というような口調に肩を震わせて軽く笑う。その後、ジュエルから視線を外して言った。
「前、見てみろよ。」
「…?」
ジュエルは言われるままに向こう側に目を移した。
すると、
サク サク
草を踏む軽い音が重なる度、自分が広い空に近付くような気がした。手を伸ばせば天に届くだろうか。決して届くことはないと分かっていても、そう感じずにはいられなかった。
ここは自分の知らない世界。だから、今どんな有り得ないことが起こったとしても何ら不思議ではない。ジュエルはそう思った。
やがて透き通った風が通ると、さらさらという葉の擦れ合う音が聞こえてきた。あの木はもう、すぐそこだ。
ジュエルは
それを見上げた。
大きな木だった。
20mあるだろうか。所々にうろがある、けれどしっかりと根付いた太い幹は何十年の時を感じさせる。それが天に向かって真っ直ぐ行き、何本もの枝を伸ばしていた。葉はその全てに美しく覆い茂り、風に揺れていた。
木漏れ日の模様が動く、まだらな影の部分にジュエルは足を踏み入れる。
が、そこで止まった。
思わず小さく声を上げた。
何故なら木の裏側に…見慣れた、同時に久しい後ろ姿が少し見えたからだ。木の根元に寄り掛かって座っている後ろ姿が。
走り出しそうとしたがジュエルは止めた。何となく、この心地の良い静寂を打ち破るのは気が進まなかった。
「…!」
坂の上には息を呑む光景があった。
それは、見渡す限りの草原だ。
大きな風がこちらに吹くと同時に、ざぁ…という音が遠くから流れてくる。緩やかな丘が続いていて、そこに群れを成している緑の波が一斉に揺れていた。
真っ青な空はどこまでも果てがない。いくつか浮いている白い雲はくっきりとした影のコントラストを作り出し、空と緑のキャンパスの上で絵を映し出している。
まるで天国の入口のような、とても涼やかで美しい風景だった。
現実感がなかった。別の世界に迷い込んでしまったかのように、ジュエルは立ち尽くす。ずっとこの『国』で過ごしてきたのに、こんな場所は全く知らなかった。
風になびく自分の髪に少し触れて。その景色の眩しさに目を細めながら隅々まで辺りを見渡す。
そこで気付いた。
「?」
遠くのある丘の上に1本の木が生えている。…ここからだとよく見えない。ジュエルはその木の元に行ってみることにした。
草の上で歩みを進める。固い砂の地面を踏むのとは違く、とても柔らかかった。見れば時々白い花が咲いている。ジュエルはそれを踏まないように気を付けた。
ふと、ジュエルの目に止まったものがあった。
それは光だった。
ジュエルが走ってきたこの場所はごちゃごちゃとした建物が多く、殆んどの空を切り取っている。下層部の中でも一層薄暗い場所だった。
そんな中、その光は右の曲がり角に1本伸びていた。
まるで見る者を誘うようにそこだけ柔らかな光が射している。実際、ジュエルの気持ちはそれに引かれていた。ジュエルは少しふらついた足取りで、その角を曲がる。
「…?」
しかし曲がり角の向こうの道は思ったよりとても短く、途切れていた。
道が無くなった先は少し急な坂になっている。坂が終わるところには青空があるだけで、向こう側はここから見えない。
ジュエルは、不意にこの坂の向こうに行ってみたくなった。
理由はない。
直感的だったのか、それとも違うものなのかは分からないが、ジュエルは自然と坂に足をかけていた。
階段もない急な乾いた土の坂。下手をすればずり落ちてしまう。それでもジュエルは登った。その先に何があるのかを、無性に確かめたかったのかもしれない。
1歩1歩滑らないように踏み締める。
そして、ジュエルはついにその頂上に着いた。
次に、それは赤い波となって後ろから迫ってくるようだ。見ればそこからヒトの腕が何本も突き出ていた。沢山の呻き声も聞こえてくる。
走らなければ、呑み込まれる。
だからジュエルは走った。どこを目指すわけでもなく、ただそれから逃れるために走った。振り向いてはいけない。一瞬の隙も許されない。
これは何なのか。沸き上がるこの恐怖は一体何なのか。ジュエルには理解できない。
ジュエルは曲がり角も滅茶苦茶に行き、ひたすらにそれとの距離を離そうとした。
…が、
ざっ
「ぁ、」
道につまづいてしまう。これは致命的だった。赤い波は物凄い速さでジュエルのすぐ後ろまで迫る。そして無数の腕は伸び、ジュエルの肩を掴んだ。
…もう間に合わない。
「――っ!!!」
静かだった。
それに何も感じない。
ジュエルは思わず顔の前に持ってきていた腕を、ゆっくりとよける。すると
赤い波が、無い。
「はぁ…はぁ!」
肩を上下させて辺りを見回すが、どこにも見当たらない。さっきまで聞こえていた不気味な呻き声は消え、肩にあった冷たい手の感触も無くなっていた。
「はぁ………。」
…その時。
それは、4日目の昼下がりのことだった。
晴天の日は焼けるように暑い日差し。曇天の日はじめじめとした気持ちの悪い湿気がつきまとうこの『国』。でも、今日は違った。
穏やかな晴れ。それはとても珍しいことであった。空は真っ青で、綿飴のような白い雲が風と共にゆっくりと流れている。太陽が時々雲に隠れ、また現れる。その時に感じられる日差しはとても暖かく、気持ちがいい。
その中
ジュエルは何か虚ろな表情で、大通りに立っていた。携帯をジーンズのポケットにしまうと
…ザッ
重く、一歩踏み出す。その時微かに立った砂埃が風に流れていく。それは誰も疑問に思わない自然現象のはずだが、ジュエルは一瞬ぎくりとした。
砂が赤く見えるのだ。
気のせいだと思い、もう1歩踏み出す。
ザッ
だが同じ様にまた赤くなった。
そのうち、粒子状の砂が段々液体に見えてくる。そしてそれが一面に広がっていき、景色が赤に塗りつぶされていく。気付けば、先程の風景が完全に見えなくなっていた。
どこを見ても、どす黒い赤。
(…くそ…。)
ザッ!
それを振り切るように、ジュエルは走り出した。
2つ目。
国が摘出した潜入捜査官から聞き出した情報によると『SALVER』の基地は一つではないということだ。『国』が自主的に潰せた基地は全体の2割程度と推測されている。
そしてさらに気になる情報が、その無数の基地の司令塔の役割をする巨大な施設が存在するという可能性。しかしこれに関しては、どの捜査管も口を割ろうとしなかった。というより、誰も情報を持っていなかったのかもしれない。
そんなものは存在しないのか、それとも『SALVER』の末梢には一切知らされていない極秘の計画が成されていて、今も進行しているのか。『国』は後者の確率の方が高いと見ているようだ。
ここに、最近出没した『SALVER』の武装隊が繋がってくる。『国』が強制捜査した全ての施設内には、それらしい武器などは発見されなかった。だから、今までにない特別な部隊、即ち中枢部分が動き出したと考えられる。その人間から事実を聞き出すことが出来れば、『SALVER』撲滅への大きな1歩を踏み出せるのではないかと『国』は予想した。
その仕事がKKに回ってきたのだと、グロウは言う。
…文字の羅列を全て見ると、ジュエルは携帯を閉じた。
しばらくして、ジュエルは自分の頬をなぞってみた。すると手に血が付く。頬にべったりと返り血がついているということが分かった。
――自分は、今どんな表情をしているのだろう?――
そう思った。
血の海の中で、ジュエルは何故か胸が苦しくなる。ひどく虚しく、悲しい。そんな言葉では表しきれない、複雑な気持ちになった。
また
空を見上げる。
それからは時間の感覚を奪う曇天の下、ジュエルはロイを探し続けた。しかしロイの姿はどこにもなく、代わりに敵襲が何度かあるだけだった。そこで返り血を受けると、水が通っている場所に行って血を洗い流した。1日の終わりには下層部の一層目立たない場所で持参していた缶詰めを食べ、そのまま浅い眠りに墜ちた。
そんなぼんやりとした日が3日程続いただろうか。
変わったことと言えばグロウからメールが届いたことくらいだ。そこには上層部で調べたこと、すなわち『SALVER』についての事実がいくつか書かれていた。
まず、『SALVER』が行っている活動のこと。主に『国』への潜入調査と人造生物の捕獲。これまでに人を殺すようなことはなかったということだ。
心臓から頸椎にかけて下から上へ。大したことのない量の血が散った後、敵は悲鳴も上げずに絶命した。
辺りに静寂が戻ってくる。
もうジュエル以外は誰もいない。ジュエルは死体となった敵を貫いている体勢から戻り、同時に剣を引き抜こうとする。
しかし、その時。
「!」
瞬間的に脳内映像が流れた。それはぼんやりとしている上、ぶれが生じてかなり見づらい映像だったが、内容は簡単に分かった。
片手で大柄な男の胸を貫き、それを軽々と持ち上げている『彼』の姿。助けを求める男が大きく血を吐き、『彼』に赤い雨が降り注ぐ。
その時の『彼』の表情。
ずるり。
ブシュウウゥ…!
噴水のような音が聞こえた。ジュエルは、のろのろと音源を探す。すると、目の前で死体が勢いよく赤いの噴水を上げながら崩れ落ちていた。その赤い液を吸った剣は、ジュエルの右手にだらしなくぶら下がっている。
ドシャッ!
死体が地面にぶつかると噴水の勢いは少し弱まり、今度はそこに赤い泉を作り始めた。
ジュエルは、じっとそれを見つめた。
瞬間、微かに別の場所からも音がした。ジュエルはそれに気付くと
ザッ
体を独楽のように1回転させた。
すると、奇妙に肥大化した爪を振り下ろしながら後ろから突進してきた黒軍服の敵が、ジュエルの脇を勢いよく通り抜ける。そして回転が終わる頃には、敵の背中はジュエルに丸出しの状態になっていた。そこを、
ざばっ!!
「ごぼっ」
一刀両断。背中にあったボンベも、体も真っ二つになった。割れたボンベからは緑色の煙が。肉からは鮮血がほとばしった。
空かさず視点を前へ。
そこにはピストルを構えている敵がいた。ジュエルは、そこから間もなく発射されるであろう弾丸の軌道を素早く読み取る。
ドン!
敵が発砲した刹那、ジュエルはすっと剣を動かした。次には
キィン!
小さく金属音がしただけだった。弾丸は2つに別れ、音も立てずに地面に転がる。
ドン!ドン!!
続けて何度か銃声が鳴り響く。しかしその後にはいつも小さな金属音が鳴った。ジュエルは敵に向かいつつ、踊るように2本の剣と体を操って弾丸を斬っていた。そして
ザク。
程なくして、ジュエルは弾丸ではないモノを貫いた。
それからジュエルはその部屋を去った。ドア代わりの大きな布が湿った風でふわりと揺れる。
グロウはそれを見た後、呟いた。
「……さてと。」
プルルル……プルルル……
耳元で呼び出し音が鳴っている。それは1回2回3回と規則的に続く。終いには10回を超えた。
ピッ
ジュエルはその連続を断ち切る。
(やっぱり出ない…か。)
通話を切った後も携帯をしばらく見つめていた。だいぶ古くなったのか、その青い色がくすんで見える。この天気のせいもあるかもしれない。そう思って、ジュエルは誰もいない広い道の真ん中で今にも泣き出しそうな空を見上げた。
『忘れて、くれ。』
ジュエルの脳裏に、声が響いた。すると、自然にあの倉庫での事が思い出された。とても苦しそうなロイの表情が、よぎる。
ジャリッと地面を踏んだ。
(ロイは…何を、思っていたのだろうか。)
そう考えていた時だった。
パリーン!!
いきなり近くの建物の2階の窓が割れた。そして細かいガラスの破片が地面に落ちるその前に、
バッ!!
窓から1つの影が飛び出す。反射的にジュエルはそれに向かって剣を構えた。
ジュエルは頷いて立ち上がる。
「ここも、多分もう安全じゃない。」
そして、壁に立て掛けてある2本の剣を取った。剣同士は長い鎖で繋がっていて、ジャラリと音が鳴った。
「…これからは別行動にしたほうがいいと思う。」
「賛成します。寝るところも別ですね。連絡は携帯で、ということでどうです?」
「そうしよう。ロイにメールで俺達のことを伝えておく。どうせ返事はないだろうが。」
ジュエルはテーブルの下に置いてある食糧が入った小さな袋をひっつかみ、出口に向かう。
「ジュエル。」
そこでグロウが呼び止めた。ジュエルは足をぴたりと止める。グロウはその背中に聞いた。
「これからどうするつもりですか?」
「ロイの行方を掴む。ロイは今様子がおかしい。1人じゃ危険なんだ。あとジルフィールも、もっと安全な場所に移す。」
「……。」
少し間の後、グロウはこう言った。
「『鍵』のことなら僕が引き受けましょう。」
ジュエルは少し振り向いた。
「あと、僕は上層部で『SALVER』について調べられるだけ調べてみたいと思います。貴方は早くロイを見つけた方がいいかと。」
「…そうか。すまない。」
…話を始めてから、30分程経っただろうか。
ジュエルは話し終えた。自分が考えていた全てのことを。グロウはゆったりとした姿勢から、さらに足を組む。
「つまりこういうことですか。連中はその『オメガ』とやらを使って何かをしようとしている。そして、そのために必要である『オメガ遺伝子』を持っているのが、ロイ。ロイの血縁であるジルフィールも同じである可能性が高い…と。」
「……。」
「こんなに少量の情報からここまで仮定を組み立てるとは。特にロイとジルフィールの兄弟関係辺りが面白かったですよ。」
グロウは笑う。ジュエルの話に素直に感心しているようだった。ジュエルがどこか疲れたような表情しているが、それには理由がある。必然的に一言続くからだ。
「証拠はないようですがね。」
ふぅ、とジュエルは溜息をついた。
「それはロイにも言われた。」
「まぁ当然でしょう。話としては面白いですが。」
「…とにかく、『SALVER』はまた俺達に攻撃を仕掛けてくる。今日のよりも強力なやつだ。」
「そいつらから真相を聞けたら聞きませんか。どちらにせよ奴らの本拠地も聞き出しますしね。」
「『鍵』探しは、飽きたか。」
「ウンザリだ。」
リタの問いに、ヴァイスは即答した。
「折角ヒトを殺せる体をもらい受けたのに、俺の役目はただの捜し物。殺しの仕事はほとんどアンジェリカに回しやがって。逆だろ逆!」
「だから今それをさせてやると言っている。アンジェは失敗したからな。」
リタは冷めた口調で言う。ヴァイスの無意味な騒ぎっぷりとアンジェリカのことに嘆息しているようだった。ヴァイスはリタの言葉に少し眉を動かした。
「あいつ、しくじったのか?」
「ああ。」
「ハッ!やっぱり、所詮あいつはただの人形だな。」
「……。」
「自分の存在意義も目的も失った奴に、完璧な仕事なんざ出来るはずねぇさ。」
ヴァイスは得意気な笑みを浮かべる。自分なら出来ると言わんばかりだ。リタは目を細めて聞いた。
「なら、お前の存在する意味は何だ?」
「…分かりきったこと聞くなよ。お前馬鹿か?」
とても呆れた風にヴァイスは言う。勿論、リタもその先の言葉は分かりきっていた。
「俺は殺すために存在する。殺すためにこの世に生まれてきた。」
その時。
プシューーッ!!
後ろから扉の開く音がした。同時に、
「リタ~ここにいんのか~?」
とても気だるそうな声が聞こえた。男は振り向く。
すると、扉の前に20代前半くらいの青年が立っていた。燃えるように真っ赤な髪はボサボサで、色んな方向に尖っている。スーツを着ているようだが、ブレザーもブラウスもサイズがダブダブでだらしない格好だ。しかも、穴が空いていたり破れたりしていた。
「ヒトを呼んどいてうろちょろすんなよ。どんだけ探したと思ってるんだ?」
「ヴァイス。喜べ。やっと君のやりたがっていた仕事を与えることが出来る。」
「おま…、ヒトの話聞け!」
指をびしっと突きつける。赤い髪の青年、ヴァイスは激しく怒っているようだった。
「どこに行こうと私の勝手だろう。…それに君はもうヒトではない。」
「てめーがそうしたんだろうが!」
ヴァイスは噛みつくように言う。男はそれに「相変わらず騒がしい奴だ」とだけ返した。その後ヴァイスはバリバリと頭を掻くと、
「まぁ、かなり感謝はしてるがな。…リタ様よ。」
ニィっと笑う。
リタと呼ばれる男も、フード越しに笑った。
1部の水槽ではその液体を沸騰させている。そこで発生する緑色の気体は、水槽に繋がっているパイプに吸い込まれていた。パイプは天井を伝い、壁を突き抜けている。どうやら、それは別の部屋にも繋がっているようだ。
「オメガ。」
男は言った。独り言ではなく、呼びかけるような口調だった。そして、近くにある大きな水槽に手をつく。水槽は床の下まで伸びており、男はその底を見つめた。底の方は上の方と違い、黒ずんだ緑色で見えにくい。
「命の源。」
しかし、よく見るとそこには何かが沈んでいた。見えるのは、かなり特徴的な形をした影だ。それはいくつもある。1本のなだらかなラインを描く太い棒から、5本の細い棒が折れ曲がりながら伸びている。一瞬何かの花が咲いているようにも見えるが、違う。
それは、
「…星の血潮。」
人の腕だ。
「もうすぐ、私の長年の研究は完成する。全ての命と星を救うことが出来る。」
謡うように、歓喜に満ち溢れた声で。男は両手を広げて言った。ちらりと右の方を見る。
「オメガ遺伝子…『鍵』が揃えば。」
そこにだけ、
空っぽの水槽が2つあった。
そのまま男は部屋を出るようだ。少し先にある金属の扉が自動で横にスライドする。男はそこに吸い込まれていった。
同時に、粉々の水槽の電灯が消える。さっきまで鳴っていたガスの音もなくなり、その部屋に残ったのは暗闇と静寂だけだった。
扉の先。
そこも薄暗い。点々とある蛍光灯から、左右に長い廊下が伸びているということだけは分かる。男は、左の方に進んだ。
カツ カツ カツ
規則的な間隔で響く足音。それは5分程続いただろうか。途中、たまに別れ道や扉があったが、無視して真っ直ぐ進む。
そしてたどり着いたのは、ひときわ大きな扉だった。扉の横にある小さな機械の上に男が手を置くと
ピッ
プシューーッ!
扉は大きめの音とともに左右に開いた。男が中に入った後、扉は同じ様な音を立てて閉まった。
…そこは円形の部屋だった。
特徴は、とても広いということ。さっきの部屋の10倍はある。
そしてもう1つ。
水槽だらけ。
壁一面、円柱型の水槽がひしめいている。中には、緑色の液体が入っていた。
「やれやれ。まだ完全に洗脳できていないみたいだな。」
「うっ…」
「だが心配することはない。もうすぐ何も感じなくなる。」
男はガラスを跨ぎ、アンジェリカのすぐ近くに立つ。その後腰を低くすると、彼女の頭に触れた。
そして、囁いた。
「…痛みも、感情も。」
どくん。
アンジェリカの中で鼓動が響いた。それから、アンジェリカは本当に何も口にしなくなった。言葉も、さっきまで漏らしていた微かな呻き声も。男はそれを確認すると、頭から手を離した。
「アンジェリカ。君にもう1度チャンスを与えよう。ただし別の任務だ。」
「……。」
「次の目標は『ロイ』。…『鍵』の片割れ。命の有無は関係なくここに連れてこい。少し彼を甘く見ていたらしい。容赦はするな。」
男はそう言った後、壁にかけてあるチューブ付きのマスクを手に取った。そして、それをアンジェリカの顔に取り付ける。アンジェリカはそれにも反応せず、ただ目を半開きにしてそこに倒れているだけだった。
「命を浴びないと生きていけない…哀れな人形、か。」
男は呟いた。
男はガラスの壁に手をつく。そして水槽の中で頭を抱えている少女を見た。
「もう1度聞く。何故戦うことを止めた?答えろ。」
「…っ」
痛みのあまり、アンジェリカは声が出ないようだった。男の声が、鋭い耳鳴りとなって容赦なく襲ってきているのだ。
『答えろ。』
キイイイィィン…!!
「…よく、覚えていません。」
「何?」
「『グロウ』との戦いはよく覚えていません。気付いたら『ジュエル』と刃を交えてました。そして、私は逃げ出した。」
「…その理由を聞いているんだ。アンジェリカ。」
「……。」
しばらくアンジェリカは息を切らしていたが、やがて途切れ途切れに答えた。
「彼…『ジュエル』は、あなたと同じ感じがしたから。」
その言葉に、男はぴくりと反応する。
「どういうことだ?」
「頭が痛い。耳鳴りがする。近くに来ないでほしい、ということです。」
その瞬間。
バリーン!!!
男はガラスを派手に壊していた。透明な破片が飛び散り、中の緑色の気体が溢れ出す。
「あっ…?!」
アンジェリカは全身の力が抜けたように、そこに倒れ込んだ。
水槽の中は、透き通った緑色の気体で一杯だ。少女はその中で眠っているようにも見えたが、
「アンジェリカ。」
低い声が聞こえ、目を開けた。その男は部屋の入口に立っていた。黒いコートを着て、フードを目深に被っている。だから顔は分からない。
「任務は失敗だったな。」
男はそう言いながら水槽の所へ少しずつ歩み寄っていく。
「…申し訳ありません。」
アンジェリカは抑揚のない声で答えた。しかし、表情が微かに歪んでいる。
それは何故か?
「君の戦いを見ていた。何故、あの時2人を殺さなかった?」
男の声が響く。その度、彼女は感じているのだ。それは声が近づく程強くなってゆく。
「困るな。君はKKよりも精密な強化人間のはずだろう?…人を殺すことだけが取り柄の。」
キイ…ィン…
「そう。君は精密な、ただの殺人ロボットのはずだ。」
キィイイィン…!
(…頭が、痛い…)
気付けば、アンジェリカはとても苦しそうな顔をして、両手でこめかみを押さえていた。
(来ないで。)
アンジェリカは心の中で訴える。しかし、その願いが届くことはない。男は、もうアンジェリカの目の前まで来ていた。
「…それで、1人で帰ってきたわけですか。」
と、グロウが笑った。
ジュエルはあれからロイを見失い、結局いつものアジトに戻って来たのだ。
「ロイは帰ってきていないんだな。」
「僕もさっきここに来たばかりなので。そうそう、『鍵』は全くもって無事でした。」
「…そうか。」
「では、聞かせて貰いましょうか。」
グロウは寝ころんでいたソファーから起き上がり、ジュエルに向かいのソファーを勧める。
「何をだ。」
ジュエルは勧められた場所に腰掛けた。
「何故ロイが『SALVER』に狙われているのか、ですよ。さっき話すと自分で言ってたじゃないですか。」
「……。」
「それと。この件には、あの『鍵』も関係していると見てもいいんですね?」
その言葉にジュエルはしばらく沈黙し、溜め息をつく。そして話し始めた。
「…『鍵』は、ロイの血縁者だ。」
シュウウゥ……
何かガスが吹き出すような音が鳴っていた。そこはガランとした何もない部屋だ。
人1人収まりそうな円筒形の水槽以外は。
そこに1人の少女が入っていた。
長い黒髪をポニーテールに束ねている少女が、目を閉じながら自分の体を腕で包んでいた。
1分程経った。しかし、状況は全く変わっていない。ジュエルは自分のすぐ左にある『彼』の横顔を見ることも出来ない。今出来る事と言ったら、額にある銃口の冷たい感触を味わう事くらいだ。
だが、やがて『彼』は銃を下ろした。ジュエルは死の危険から解放され、思わず息を吐く。そして『彼』の方を見ようとした。しかし、それより早く声は響いた。
「すまない。」
か細い声だった。ジュエルはその顔をちらりと見る。そこにあったのは、蒼白な顔だ。それはロイのものであって、『彼』ではない。それでジュエルはやっと落ち着きを取り戻したようだった。
「ロイ。何が起こったんだ。」
「…何も起こってない。」
「嘘だ。」
ジュエルは即答した。ロイは何も言わない。とても疲れているようだった。息を切らしながら左腕を押さえている。
「忘れて、くれ。」
ロイが呟いた。
「左腕が暴走を始めたのか。」
「………。」
そして、そのまま歩き出した。ジュエルは勿論呼び止める。
「おい、待てよ!」
その歩みは止まることなく、出口に向かう。
「悪い。…1人に、してくれ。」
ロイの背中は、開いている扉に近づく程、逆光で黒に染まっていった。
時が止まっているようだった。
そこにあるのはおびただしい数の無残な死体。その中心に立っている少年と、それを見ている少年。ジュエルは、止まった時の中で動けないでいた。声をかけるべき相手はすぐそこにいるのに、体がなかなか言うことを聞いてくれない。
ジュエルは思った。
そこで血塗れになって立っているのは、自分の知っているロイではない。彼は何度も人を殺めて来たが、決して人を苦しませるような殺し方はしないと。
ではそこの『彼』は誰なのか?それが分からないから、ジュエルは恐れを感じていた。しかし思い切って声を振り絞った。
「ロイ。」
小さな一言。これが精一杯だった。あとは返答を待つだけ。
『彼』がどう答えるのかを待つだけだ。
『彼』はゆっくりとこちらを見た。
どろりと濁った、光のない目をしていた。ちゃんとジュエルが見えているのか疑問に思える程虚ろな表情で。そして、
「?」
ジュエルは目を丸くする。
『彼』が目の前から消えたからだ。その後は、どこへいったのか探る暇もなかった。
ジャキ
「!!」
『彼』は、ジュエルの額に銃を押しつけていた。
始め、大柄な男が少年に持ち上げられているように見えた。
…だがよく見ると少し違った。
大柄な男が、少年に胸を貫かれているのだ。
男はまだかろうじて生きている。どうやら先程の声は男のものらしい。マスクが取れているので、その必死な表情がすぐに見て取れた。
「…殺さないで…くれぇ…」
掠れた声で、男は自分の真下にいる少年……ロイに助けを求めていた。ロイは左手を男の胸に埋めたまま何も言わない。
代わりに、
ずぶり。
「ぎゃあぁあ…ぐぼっ!」
埋まっている手で何かしたようだ。男は激しく血を吐く。そして。
ブン!
ロイはそのまま腕を振った。一瞬肉が千切れるような嫌な音を立てた後、男はジュエルの後ろの方に勢いよく吹っ飛んでいく。
ドガシャァン!!
男はコンテナの山に突っ込み、それから静かになった。見れば血塗れのロイの手には肉塊が握られている。…男がもう絶命しているであろうことは、確認しなくてもそれで予想がついた。
ジュエルは
それを見た。
何度も確認した。
ロイの左腕が、ちゃんと人間の形をしていることを。
即ち
左腕の暴走は起こっていない…ということを。
生臭いにおいが立ち込めた空間だった。薄暗い倉庫の中は一瞬ではよく見えない。だが目が慣れてくるにつれ、その光景は少しずつ見えてきた。
「っ…」
酷く血が飛び散っている。まるで、よく熟れたトマトを投げ合う祭りが終わった後のようだった。しかし、そこら中に転がっているのは潰れたトマトではない。…潰れた死体だ。彼等は人間でない者が殆どだったが、中には人間も混じっていた。
下半身を下に置き忘れたまま、コンテナの上で倒れていたり
壁に四肢を無くして寄りかかっていたり
床に内臓をぶちまけながら転がっていたり……様々だ。
ジュエルが、そのあまりに惨い死体達を目の前にしていた時だった。
「た、助けてくれ……頼む!」
突然、奥の方から声が聞こえた。ジュエルはそちらを見る。
すると、闇の中に奇妙な人影が浮かび上がっていた。
そこには、2人いる。
小さな1人が、大きい1人を水平に持ち上げている。丁度、それは歪なTの字に見えた。
ジュエルはもう少し、そこに近付いてみる。…すると、顔もはっきり見えてきた。
ロイが最近あまり左手を使わずに戦っているのを、ジュエルは知っている。だから悪い予感はますます強くなっていた。
(あいつの性格だ。どこか敵を有利な場所に誘っているに違いない。…とするとあの倉庫か?)
ジュエルは別れ道を右に曲がった。
(あそこなら大勢で袋叩きにするには向いている。逃げ場も、出入り口の1つだけだ。)
突風のような速さで走る。目的地は、もう決まっていた。後はそこに向かって走るだけだった。
(くそ…無事だといいが。)
少しして、ジュエルは辿り着いた。目の前にあるのは黒ずんだコンクリートで出来た建物。ジュエルは息を切らしながら、倉庫を見た。
「………。」
そこに流れているのは、静寂だけ。何の音もしない。閉まりきった扉は、中の空間を完全に外から隔離しているようだった。ロイの存在を確かめるため、ジュエルはその取っ手を掴む。
そして、
ゴゴゴゴ…
扉はジュエルの手によって
重く、ゆっくりと開かれた。
…その向こうは
「グロウは教会の『鍵』を見てきてくれ。」
ジュエルが付け加えた。
「何故です?」
「その話も後でする。今は『鍵』の安否を確かめてほしい。」
「…そうですか。」
グロウが深く追求する事もなく了承する。それを確認したジュエルは「頼む」と一言残して、屋上からひらりと飛び降りて行った。
…グロウは、
ジュエルが消えた後もぽつんと屋上に立っていた。
「『珍しい』、ですか。」
そこで呟いたのはさっきのジュエルの言葉。そして再び少女が去った方向を見やって…言った。
――少し…からかってみただけですよ。――
ジュエルは走る。…走る。
その中で、考えていた。
1つ目は、ロイが今既に襲われている可能性が高いということ。連中は、多分ロイだけにターゲットを絞っている。さっきの自分達への敵襲は、ロイへの援護を断ち切るために仕掛けられたものだろうということ。
2つ目はロイの危険。
それは後から聞いた事。ルノワールでロイの左腕に宿った…合成獣の細胞。それが、まだ生きているというのだ。つまり、いつ激しい戦闘で、左腕が再び暴走しても可笑しくない状態にある…ということだ。
「…一体、何なんだ。」
ジュエルは少女が消えた方向を未だ眺めながら呟いた。
「どうやら、あの方は操られていたようですね。」
突然聞こえたグロウの声にジュエルは振り向く。
「操られていた?」
「ええ。脳内に特殊な電波受信機を埋め込まれ、電波によって操作されていた…そんなところでしょうか。以前そういうのを見たことがあるので。」
「…瞳が赤く変色していたのもそれが原因か?俺が見たときは黒い瞳だったと思うが。」
その時…ざぁっと風が吹いた。
湿った空気と黒雲を運ぶ風は、グロウの銀髪をふわりと揺らし、少しその顔を隠す。
「どうでしょうね。」
グロウはさらりと言った。それ以上は何も言わなかった。…風が止むと、そこにはいつものように笑った顔があった。
ジュエルは息をつき、少し悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「それにしても、珍しいな。…お前が押されるなんて。」
「…そうですか?」
「珍しいさ。」
そう言った後
ジュエルは、はっとする。
「そうだ。1人でいるロイが尚更危ない。俺は探しにいく。悪いが、あの話の続きはロイを見つけてからだ。」
そして、
ジュエルは歩き出した。
さらに、ジュエルは異変に気付いた。
少女の赤に染まっていた瞳が、みるみる黒みを帯びていく。
やがてそれは完全な黒になった。
「あ…ぁ。」
そして少女は2歩程後ずさった後、左のこめかみを押さえ…膝をついた。右手に持った剣がコンクリートに落ち、カシャンッと音が鳴る。
(……何だ……?)
ジュエルは混乱した。一体何が起こっているのか全く理解できなかった。迷った後、取り敢えず少女に声をかけてみることにした。
「おい…」
多少警戒しつつも、ジュエルは少女に歩み寄る…が。
「……近寄るなっ!!」
少女は下を向いたまま吠えた。ジュエルは思わずびくりとして足を止めた。
「く…」
気まずい沈黙が流れる中、少女はゆっくり顔を上げる。そして、やはりジュエルの顔を見ていた。…少女は小さく呟いた。
「何で…こんな所に…っ!」
ジュエルは既に混乱しているのに、ますます理解に苦しんだ。もう呆然とする事しか出来なくなる。
…だから、
バッ
素早い動きで屋上や屋根に飛び移って逃げていく少女を、追うことが出来なかった。
そして顔を上げた。
直後見えたものは、剣を振りかざしている少女の姿。曇り空だというのに、その銀色は神々しい光を放っていた。
…空気が凍り付いている。これを防がなければ、命はない。戦いを経験した者なら誰でも直感的にそう思える程に、この一瞬は緊迫していた。
だが。
「…ふ。」
グロウは右手のワイヤーソードを動かさない。ただ…何かを楽しむような表情で少女を見ていた。
「あああぁ!!」
また、少女は手を緩めない。
渾身の力でその剣を振り下ろす!
ブン!!
ガキイィン!!!
そこに、大きな金属音が響き渡った。グロウの前で少女の剣を受けている人物が1人。
…ジュエルは言った。
「グロウ…何してる。殺されるぞ。」
グロウの返事は聞こえない。代わりにガチガチと、剣と剣がぶつかり合う音が聞こえた。ジュエルは少女の顔を見る。
(…女なのに何て重い剣だ。)
そう思った時。
「?」
ジュエルは眉を潜めた。
何故なら、
「……。」
少女が驚いた表情で、穴のあくほどジュエルを見ていたからだ。突然戦いに割入って来たから驚いているのとは…違うようだ。
グロウは身構えたまま話しかける。
「やはり貴女はあの雑魚とは違うようですね。しかし人間でもない。」
「……。」
「…強化人間であるのか。」
そして、目を細める。
…微かに、グロウの瞳の奥は赤に染まったように見えた。
「それとも違うモノなのか。」
その時。
どくんっ
「?!」
少女に異変が起こった。
かっと目を見開き、グロウを見ている。…瞳の奥にはグロウと同じ様な赤をちらつかせていた。
「…」
少女は、そのまま剣を構える。その表情は少し歪んでいるように見えた。苦痛か、怒りか…?その原因は定かでない。
「どうかしましたか?」
ギィン!
少女は動いた。
速い。物凄く速かった。どうかしたかと聞かれた刹那、グロウと剣を交えていた。それからは
「はあぁ!」
ギンッ!ガ!ガガ!!!パシ!
斬り。突き、突き。宙返りながら蹴り。体勢が崩れる所を狙い左手の拳!
バキッ!
最後の1発を、グロウは右頬にまともにくらい、吹っ飛ばされた。この勢いでは屋上から落ちてしまう。
「っ」
その前にグロウは宙返り、ズザザッと音をたてて着地した。
突っ込んだその勢いのまま少女はナイフを構え…突く!
「おっと。」
グロウは両かかとを少し捻ることで体の位置をずらし、攻撃を免れる。そして両手のワイヤーを一旦巻き戻した。
少女は続けて、突きの体勢で前に出ている左足を軸にして
ブン!!
回し蹴り。
今度、グロウは直立の状態から少し屈む。蹴りが入るであろう腹は凹み、少女の攻撃は空ぶった。
シャッ!
そこで再び、グロウが右手のワイヤーを出す。それは収束し、接近戦で戦える剣の形を成した。…ワイヤーソードだ。
少女は、回し蹴りの1回転が終わると同時に
シュッ!
手首のスナップを効かせて何かを下から投げつけた。それは縦に回転しながら勢いよく目標に向かっていく。
キィン!
グロウはワイヤーソードでそれをはねのけた。弾かれたもの…少女のナイフはまだ回転しつつ放物線を描き、下へと落ちていった。
グロウはそのまま守から攻へと転じる。ワイヤーソードを瞬時に振りかざした。
…しかし。
ガッ!
その攻撃は防がれた。少女が腰に挿してあった短刀を抜いて応戦したのだ。その後両者は小競り合うと、後ろに下がり、互いに間合いを取った。
キィンッガッカカカッ!!
少女はそれから右手のナイフだけで、1秒間に6回切りかかってくるワイヤーを全て弾いていた。グロウはそれを見て、
シャ!!
左手のワイヤーも追加した。そして、両腕の動きをより複雑にする。そうすると攻撃は1秒間に12回…いや、それ以上かもしれない。目にも止まらぬ速さとはこの事だろう。
ガガガガガガッ!!バッ!
キィン!
凄まじい音が鳴り響く。少女は、同じ様に攻撃をナイフで防いだ。ただ防ぎ切れない分もあったので、そこでは体術を使い、紙一重でかわした。
「遅い。」
ギィン!!!
少女は呟きながら、何度目かの攻撃を今までで一番強く弾いた。
「…っ」
グロウの手の動きに一瞬の隙が生じる。少女はそこを狙った。太腿の所に収まった小振りのピストルを左手で素早く引き抜く。
タン!
軽い銃声が1つ。
その弾はワイヤーの嵐をくぐり抜け、確実にグロウへと向かっていく。
「!」
グロウはそれを小さくかわした。しかし、微妙に体勢が崩れてしまう。
バッ!!
そこで少女は突っ込んだ。前に跳ぶようにして、グロウの間合いにあっと言う間に侵入した。
黒い雲に覆い隠された空の下、建物の上。そこにグロウと少女は対峙していた。少女は、見つめられた者誰もが凍えてしまいそうな程冷たい表情でグロウを見ていたが、彼は平気そうにしている。寧ろ楽しそうに少女に話しかけた。
「ご丁寧な挨拶をどうも。さて、僕達に何の御用で?」
返ってきたのは沈黙…かと思いきや。
「命が要る。」
少女は口を開いた。グロウは大して驚きもせずに、先を促す。
「どういうことでしょう。」
「命が要る。…この星を満たす程の。星に命を捧げ、輝ける新たな道標が示される。」
まるで呪文のように。一言一言噛みしめるように少女は言葉を紡いだ。しかし、生気は籠もっていない。グロウはしばらく少女の瞳を見つめると、
笑った。
「…操り人形。」
その言葉と同時だった。
シャッ!
グロウが動いた。右手のワイヤーが一斉に少女に向かっていく。さらに、微妙な指の調節でワイヤーの動きはかなり不規則になった。その予想がつかない動きで、目標を四方八方から切り裂く…という攻撃だ。
だが。
キィン!
少女はその攻撃を弾いた。気付けば、少女の右手には小さなナイフが握られていた。
ザッザッザ…!!
少し遠くから激しい足音が響いた。…2度目の敵襲。皆さっきの敵と全く同じ格好だ。見た目は武装をした普通の人間だが、中身は半人造生物。
「ちっ…またか。」
「それに。今度はなかなかやるのが1人混じっていますね。」
「?」
ジュエルが見ると、グロウは上の方を見上げていた。つられてジュエルもそちらを見る。すると2人の視線が重なった所に、1つの影があった。
その少女は、建物の上に立っていた。…10代後半だろうか。
他の兵士に比べて、身軽に動けるような軽い武装をしている。それに、顔を隠していない。艶のある黒髪。長いポニーテールが風にゆるりとなびいている。静かに下の風景を見下ろすその黒い瞳は闇よりも深く、限りなく冷たい眼差しを持っていた。
「ジュエル。雑魚を頼んでも?すぐに終わらせますから。」
グロウは一言そう言うと、右手のワイヤークロウを上に向かって構え、
バシュッ
そこから5本のワイヤーを射出した。それは建物から突き出した鉄の棒に絡みつく。そしてグロウは地を蹴った。
たんっ
同時にワイヤーを手に巻き戻していく。…グロウはそのまま上に向かっていった。
そして…ジュエルはあるものを見つけ、グロウに差し出した。
それは黒い革のカード入れだった。中には『SALVER』の団員証が入っている。写真に写っている端麗な男性の顔は、今の本人のそれとは全然違うものだ。
「更新日を見てみろ。」
ジュエルの一言で、グロウはその団員証を見てみる。
「……3年前、ですね。」
「つまり、少なくとも3年前までこいつは普通の人間だった。」
ジュエルは腰を上げながら続ける。
「人造生物が、ヒトに感染することはない。」
「人造生物が放たれたのは20年前。それから彼等は分裂によってしか数を増やしてきていない。…そういうことですか。」
グロウが確認すると、ジュエルは頷いた。
「『SALVER』は20年前の犠牲者を使ってしか、人造生物をヒトの姿に還元する研究は出来ない……有り得ないんだ。3年前まで人間だった奴が、こんなことになるなんて。」
「…だから、人造生物の研究をしていたマルコーと繋がっている可能性が高いと?」
ジュエルは沈黙で答えを示す。
「そうすると、彼らの目的は何でしょう。何故ロイを狙う必要が?」
グロウが面白そうに先を促した
その時。
露わになったその顔は…ひどい有り様だった。
片方の目だけ瞼がなく、そこには剥き出しになっている大きな眼球がある。 瞬きをすることが出来ないので激しく充血していた。…それに唇がない。歯ぐきと歯並びは誰が見ても一瞬で分かるようになっていて、その開きっ放しの口から涎がだらだらと流れていた。
グロウが他の死体も調べてみると、ある者は鼻がなく、ある者は口が耳のすぐ下まで裂けていた。
…そのかなり異様な者達を、2人はよく知っていた。
「……人造生物、ですか。」
「ああ。それも出来損ないの。半分はまだ人間だ。」
ジュエルは脇にある外れたマスクを手に取ってみる。そのマスクはチューブに繋がっていて、チューブの先にはボンベのようなものがある。…全ての死体が、そのボンベを背負い、マスクをつけていた。
「どうやらこの団員達は、ボンベの中身を吸っていないと生きていけないらしい。ボンベを壊しただけで死んだ奴もいたからな。」
「しかし、この方々は完全な人造生物からこうなったのか、完全な人間からこうなったのか…分からないですよ。」
「多分、後の方だ。」
ジュエルは更に死体を調べた。
「グロウ。ルノワールでの最後の戦いを覚えているか?」
「まあ、おおよそは。」
「なら結論から言う。……今、ロイが危ない。マルコーに命を狙われている可能性が、高い。」
ジュエルは振り向いて、静かに告げた。グロウは相変わらずの笑顔を崩さずに沈黙する。
「………言っている意味が分かりませんね。あの方ならもう死んだでしょう。」
「マルコーと繋がっている組織があるとしたら?」
その言葉を聞いて、グロウはうつ伏せになって転がっている死体をとん、と蹴った。すると軍服の胸元に小さくついている紋章が見えた。
「…『SALVER』だと言いたいのですか?」
「……。」
「『SALVER』は人造生物を人間に戻すことが目的のはず。強力な人造生物を開発しようとしていたマルコーとは、真逆の関係ですよ。」
「グロウ。その死体、もっとよく見てみろ。」
「?」
グロウはさっきの死体を一瞥する。そして、顔を隠しているガスマスクとゴーグルを剥ぎ取ってみた。
「…。」
声には出さないが、グロウは少し驚いたようだった。
…ジュエルは低く呟く。
「何で、その団員がこんなことになっている?」
その頃…ジュエルとグロウの方にも敵が来ていた。狭い路地で、2人はお互いの背を合わせて戦っていた。
「毎度の事ながら、ロイは一体どこへ行ったんでしょうね?」
グロウはワイヤーで10人程の敵を凪払いながら聞いた。ジュエルは苦い表情で答える。
「あれほど1人で行動しない方がいいと言ったのに。」
「……そういえば。昨日、あなたとロイは何か口論をしているようでしたね。」
「…別に喧嘩してたわけじゃない。」
ジュエルは溜め息をついて、ついさっき転がった死体を眺めた。その数は30体程。
「何を話していたんですか?」
「……。」
ジュエルはその問いに黙り込む。…そして、長い間を置いてから答えた。
「昨日ロイだけについていた尾行の事。それと…教会に置いていたあの『鍵』の事。簡単に言えばそんな所だ。」
「本当に簡潔ですね。」
「……。そうだな。」
そこで1度会話が途切れる。いつの間にか曇り始めた空の下、2人は背中を向けているだけになった。グロウはそれ以上先を促すような発言はしない。
…だが、ジュエルが再び口を開いた。
直後。
バッ!
何人かがロイに襲いかかった。まずは接近戦のようだ。皆手に刃物を持っている。
「舐めるな。」
ロイはすっと体を動かした。
その無駄のない動きは、次々と襲い来る敵の攻撃を、全て見切ったものだった。いくら斬っても突いても、ロイには当たらない。例えるなら、それは水の動きだった。…その後。
ガッ!!
1人を手に持った銃で思い切り殴りつけた。殴られた敵がガクッと膝を折る。
「何だ。全然大したことないな。」
ロイは心底呆れた顔をして言う。…敵の動きが一旦止まった。
「さて。遊びはこれくらいで終わりだ。吐いて貰うぜ。お前らの巣。…そういう依頼なんでな。」
ロイは、銃を構え直した。
「容赦はしない。」
そのまま、引き金を引く
はずだったが。
どくん。
(…?!)
ロイは引き金を引かなかった。…いや、違う。引けなかった。指が強張って動かないのだ。
(何だ……これ。)
さらに。
どくん!!
左腕に激しい違和感。まるで、何かが腕の中で蠢いているような…。とても気持ちの悪い感覚。
…敵を目の前にして。
(……っ!!!)
だだっ広い倉庫の真ん中で、ロイは足を止める。そして声を張り上げた。
「いい加減出て来いよ。…わざわざこんな所まで足を運んでやったんだ。ここなら思う存分やれるだろ。」
辺りにはしばらく何も変化がない。しかし、あの気配は確かに倉庫の至る所にある。
「最初から分かってんだよ!お前らのことは!!」
ロイの2度目の罵声で、ようやく気配がざわつき始めた。ロイはゆっくりと右腰の銃を抜き、真っ直ぐ構える。
「…。」
ロイは闇の中に、黒い人間達を見た。銃やナイフなどの武装をしている。顔は殆どガスマスクのような物で隠れていて、鋭い眼光だけがゴーグルから覗いていた。コンテナの陰や、階段。柵越しに見える2階。あらゆる所に、沢山の人数が蠢いている。…ロイは、低く訊いた。
「……お前ら何もんだ?」
2階にいた1人が軽々とコンテナの山に飛び降り、床に降り立った。ロイは薄く笑う。
「人間の匂いがしねぇな。」
黒い人は手の甲を前にして構える。ジャキッっと言う音と共に、長い爪を模した5本の刃物が手袋から飛び出した。
「オメガ遺伝子を頂戴する…」
黒い人はどす黒く言った。
ロイは帰路についた。がらんとした教会の庭に伸びる1本道を、ずっと行く。そしてスラム街の大通りに出た後、入り組んだ裏路地へと進んだ。
…そこで。
「……。」
ロイは歩きながら、ちらりと視線を動かした。四方八方から複数の気配を感じたのだ。…前にも感じたことがある。
尾行。
昨日と同じく、何もしてこない。…ついて来るだけ。そして、教会の庭や大通りといったひらけた場所では去っていく。ロイは表情を堅くした。
(………自分達に有利な場所に着くのを待っているのか?)
此方から攻撃しようかとも考えたが、止めた。ロイは心中で不敵に笑った。
(そういうことなら。…受けて立ってやるよ。)
別れ道がある。本当は右に行くはずであったが、ロイはその道を左に曲がった。…そして進む。勿論気配はそれに続いた。
進んで、進んで…。
1つの場所に辿り着いた。
それは打ち捨てられた倉庫だ。トタンの屋根、壁を伝って伸びているパイプ…あらゆるものが錆び付いている。開きっぱなしの大きな扉から中へ入ると、じめじめとした空気が辺りを支配していた。ゴロゴロ転がっているコンテナだけが目立っていた。
「ジルフィール。」
ロイは名前を呼んだ。遠くからでも聞こえるように、大きめに。その声は少し残響して、またすぐに沈黙が返ってきた。
押しつぶされそうな静けさの中。今度は呟いた。
「……『死ぬなよ』。」
そして。
ロイはその部屋を去った。
ジルフィールは少し顔を上げ、彼が去っていった方を見つめた。…青い虚ろな瞳。限りなく無機質な、死人のような眼差しで。
しかし、その時。
「…ク……リス………」
ジルフィールが
…初めて言葉を発した。
微かな、本当に細い声。まるで透き通ったガラスのような声だった。ジルフィールは震える右手をゆっくり…ゆっくりと前に伸ばす。何かを掴もうとするように。
だが、いくら手を伸ばしても、
もうそこには何もない。
「………。」
ジルフィールは腕を下ろし、膝を抱え直す。目を閉じて、顔をそっと腕に埋めた。
…それ以上、ジルフィールが動くことはなかった。
ジルフィールは、反応しない。俯いているだけ。ロイは黙ってその姿を見つめた。今。2人の少年が、この空間に閉じこめられている。蒼く透き通った、冷たい空気が、部屋全体を密やかに包み込んでいる…不思議な空間。
ロイはしばらくして、再び口を開いた。
「俺には、確かにある。…記憶が。」
目を閉じる。すると、瞼の下にはっきりと浮かんだ。暗い刑務所と実験室。血塗れの自分に向かって泣き叫ぶ女性。その時に感じた、温もり。
母。
…ルチア。
「あるのは、それだけだ。俺にはその記憶しかない。」
「…。」
「1人で生きたその前のこと。両親、お前のことも。…記憶がない。」
「……。」
「だから。お前が兄弟だなんていう実感は、全くない。」
ロイは、天井を仰ぐ。
「でも。
これが『現実』なら。
…俺は、」
ゴーン…ゴーン……
時計台の鐘が鳴り響く。
この世界に、『朝』がやってきた。
続いた言葉は、鐘の音にかき消されていた。
そして。
それが鳴り止む頃には、ロイは先程入ってきた扉の取っ手を掴んでいた。
…ロイは、少し振り返った。
朝だった。
日はまだ昇っていないものの、東の空は薄い紫色に染まっていた。しかし、世界は静寂に包まれている。全てのものが、まだ眠りについているのだ。
…だから、
その音はやけにうるさく響き渡った。
ギイイィィイイ
重く、軋んだ音。誰かが、扉を開いたのだ。扉の先にある空間に、外からの蒼い光が細く差し込んだ。
…次に。
ギッ…ギィッ…
1人分の足音と混じって。規則的に、床が小さな悲鳴を上げていた。どうやらその人物は、扉の中に入ってから真っ直ぐ進んでいるようだ。
そして…それは止まった。
薄暗い教会の中で、ロイが。
1つのうずくまっている人影を見下ろしていた。
金髪の、病院着を着た少年を。
ロイの片手にはくしゃくしゃの紙が握られている。…よく見れば、それは写真だ。少し砂がついている。
「…おはよう、『鍵』。」
ロイは静かに挨拶した。返答は期待していない。ただ一方的に話すような感覚だった。
「昨日ジュエルから聞いたよ。それで思い出した。…お前。ルチアの息子だったんだよな。」
ふっと笑った。
「奇遇だな。…俺も、ルチアの息子なんだよ。」
声を発したのはロイだった。
「言い忘れたことがあった。グロウにも聞いたことだけどな…お前、今日尾けられなかったか?」
ジュエルはその問いを聞くと、ゆっくりとロイの方を見る。
そしてしばらく沈黙した後…
一言、
「無かった。」
答えた。
ロイは溜め息をつき、そうか、とだけ言った。そしてその場を立ち去ろうとする。
「ロイ。」
だが、今度はジュエルが呼び止めた。…ロイはぴたりと足を止める。
「何だ?」
「依頼の話を済ませた後。またお前と話がしたい。」
「……。」
「とてもつまらない話を、な。」
ジュエルは憂鬱な表情で呟いた。
10分程後。3人はあの場所に集まった。そしてそれぞれ思い思いの位置についた後、ロイは話した。大統領から聞いた話の全て。自分達の次の目標…するべきこと。
「以上。これが依頼内容だ。」
「…また面倒な仕事が来ましたねぇ。」
グロウが1人ごちる。ジュエルは毛布を羽織りながら、部屋の隅でじっとしていた。何かを考えるように宙を見ていた。
夕日は沈み、やがて辺りは暗闇に支配されていく。冷たい空気が流れ込み、夜は更けていくのだった。
ザバー!!
水音が響く。
そこは路地裏のさらに奥にある、薄暗い場所だ。夕日が微かに入り込んでいる。その逆光に1つの影が浮かび上がっていた。
ザバー!!
それはジュエルだった。いつも着ている白いパーカーを脱ぎ、ジーンズだけ穿いた状態だ。近くにある井戸から水を汲み上げては、頭からそれをぶっかけている。
ザバー!!
「……。」
長めの黒髪から水を滴らせながら、ジュエルは少し放心していた。
その時。
「アホかお前は。」
「!」
後ろから聞き慣れた声がした。ジュエルはちらりと視線を動かした後、少しだけ振り返って声の主を見た。
「夜の前に地下水を浴びるなんて。…自殺行為だぞ。」
そうロイは言った。
半分冗談気味だったが、半分は冗談でない。この世界の日中は燃え尽きそうな程暑いのだが、夜は凍える程寒いのだ。
ジュエルは、無表情な横顔で呟いた。
「急に頭を冷やしたくなった。…大した理由はない。」
「まぁ自由だが。身体は大事にしたほうがいいぜ。それと新しい依頼の話があるから、そろそろ戻って来いよ。」
「…ああ。」
用が済み、ロイはジュエルに背を向けた……が。
「待て。」
そして、グロウはうーん…と体を伸ばす。ロイは、それを見終わらないうちに切り出した。
「グロウ。…今日、尾けられなかったか。」
グロウはしばらく返事をせず、伸びをすることに専念している。ロイはその間にも、いつも通りのあっさりした答えが帰ってくることを予想していた。
『ありましたね。』…と。
だが。
「はい?何のことです?」
「……え。」
ロイは思わず気の抜けたような声を出してしまった。別に深く問ったわけではなかったのに。…ロイは、こんなに驚いている自分が今いることを、不思議に感じた。グロウはさらに付け加える。
「なかったと思いますけど。…記憶を探る限り。」
「そうか?俺の所には来たんだがな。」
「何の尾行でしょう。」
グロウはロイに向き直った。
「多分『SALVER』だ。…大統領が言ってた。動きが激しくなったんだと。」
「はあ、そうなんですか。…ロイに仕掛けるとは勇気のある方々です。何が目的でしょうね?」
「知るか。とにかく、その事に関して依頼が来た。…ジュエルは?」
ロイは辺りを見回す。
グロウは外の方を見て言った。
「こんな時間に水浴びです。」
「尾行、か。」
「はい。取り敢えず今は放っておきましたが、また現れるようなことがあれば。」
「……君達なら軽いものではないかね?」
大統領は口の端を上げる。
「ええ。丁度いいから場所も聞き出しておきますよ。」
ロイはいつものようにニッと笑った。
ゴーン…ゴーン……
夕暮れ。
地平線の向こうに沈んでゆく太陽が全てのものを赤く映し出す。同時に、『国』から少し離れた所にある無人時計塔の鐘の音が、重く響きわたっていた。
「ただいま。」
ロイは、ドア代わりに掛かっている大きな布を手で除け、部屋に入る。
壁も床も剥き出しのコンクリートであるその部屋にあるのは、座り心地の悪そうな2つのソファー。その間にある低いテーブル。…それだけだった。幾つかの裸電球が、それらを寂しく照らしている。
ここがKKの『帰る場所』だ。
「……って、起きてねぇか。」
片方のソファーに寝転がっている影が1つあった。黒い服に、銀髪……グロウだ。顔に何かの本を被せて寝ているように見えたが…。
「起きてますよ。実は。」
「おっ。」
グロウは顔にあった本を、ひょいと右手で取った。
「間違いない。殺された1人が血塗れの手でIDカードを握り締めていたよ。………最後の抵抗、だろうな。」
大統領は、ゆっくりと紫煙を吐きながら言った。
「ふぅん…それで。私達はどうしましょう。」
ロイの目がすっと細くなる。
それは依頼を受ける時独自の表情だ。
「うむ。我々は『SALVER』を潰さなければならないだろう。…君達の仕事は、『SALVER』本部の場所を調査、特定、報告することだ。あわよくばそのまま内部を叩いてほしい。……こちらの方でも少し探ってみるが、何しろ色々忙しい。ガードを固めるだけでも人手が足りなくなるんでね。」
「……。」
「後は、君達も取り敢えず身のまわりには注意してくれたまえ。『SALVER』はどこに潜んでいても可笑しくないからな。」
ロイはしばらく黙って大統領の話を聞いていたが…
やがてふっと笑った。
「そいつらなら。…もう、見ましたよ。」
…大統領は目を丸くした。
「本当か?」
「ええ。はっきり。隠れていたつもりなんでしょうが……気配は丸出し。後ろをちょこちょこと騒々しい奴等でした。」
ロイは、やれやれといった風に肩をすくめて見せた。
「君達KKに、知らせたいことがあったんだ。」
「…伺いましょう。」
大統領は少し大きな溜め息をついた後、低い声で話し始めた。
「最近『SALVER』の動きが激しくなった。今…奴等によって、国会議員が次々と殺される事件が起こっている。」
「……。」
『SALVER』…ロイにとって久しく聞いていない名前だった。『SALVER』とは、ルチアの実験によって人造生物となってしまった被験者達を救うために立ち上げられた団体のことだ。
しかし、人造生物を元の人間に戻すのは不可能に近く、その術も見つけられてはいないので『国』は人造生物を殲滅する方針を取っている。
即ち、『国』と『SALVER』は対立しているのだ。
「『SALVER』とあれば無差別に殺していったツケが回ってきたんじゃないですか?」
『国』は『SALVER』の団員を消去する。KKも、時々その手伝いをさせられていた。
「…余計なことをして、またあんなモノを生み出してもらっては困るのでね。仕方のない事だ。」
「……。国会議員を殺したのは『SALVER』に間違いないのですか?」
「そうだったかな。ならもう2ヶ月分届けさせようか?缶詰めと言えども早めに消費したほうがいいと思うがね。」
大統領は苦笑いした。
「それもそうですね。…じゃあ金と食糧以外のものでお願いします。」
「やれやれ。相変わらず、君達には欲があるのかないのか分からないよ。…これは如何かな?」
大統領は棚から少し大きい箱を取り出してくると、テーブルに置いた。
「…これは?」
「私の部屋に腐るほどあるんだ。」
ロイはそっと箱を開いてみる。すると、そこには小さな箱がぎっしり詰まっていた。その大きさとデザインをみるかぎり…煙草だった。
「君達にはまだ早いかもしれない。…あぁ、強化人間の肺なら大丈夫かもしれないな。」
「…。」
「残念ながら、今君達の要望に答えるとしたら、こんなものくらいしか贈れないよ。どうせ新しい武器なんかも要らないんだろう?」
「……。」
ロイはパタンと箱を閉じる。
…そして、
「素敵な報酬を、有り難うございます。」
満足そうな顔を大統領に向けた。
「さて、本題に移りましょうか。大統領、今日はどんな御用で?」
「ああ。…話題をずらされてすっかり忘れるところだったよ。」
つまり、門を潜るしか上層部に入る手段はない。 ロイがその機会仕掛けの門のセンサーに1枚のカードを当てると、重厚な門の扉は簡単に開いた。
ロイはその中に入ってく。
…尾行はそこで止まったようだった。
ロイはその後現れた黒服にいつも通り案内され、大統領の元へ向かった。地下道をずっと行き、エレベーターに乗る。
そして…
その薄暗い部屋に着いた。
「こんにちは、大統領。」
ロイは頭も下げずに挨拶した。その中年の男は、煙草を吹かしながら窓の外の風景を見下ろしていたが、ロイの方を向く。
「やあ、KK。この前は御苦労だったね。まぁそこに座ってくれ。」
大統領は近くにあった高価そうなソファーに座るよう促した。ロイは着ていたローブを外し、その隣にある1人用のソファーにそれを置いてからそこに座った。
「そうだ。まだ報酬貰ってませんよ。」
「ん?この前いつものやつを届けさせた筈だが?……食糧3ヶ月分だろう?」
「あれはルノワール全域人造生物殲滅活動に参加した分です。…人造生物増殖原因と新種の調査の分の報酬は増えると言った筈ですよ。」
ロイは笑いながら言った。
その時。
「?」
不意に、ロイは振り向いた。
ロイはあれからグロウとも別れ、大統領に会いにいくべく、1人『国』の上層部を目指して歩いていた。
…その途中。
『国』の下層部でのことだった。
(今…何か。…………。)
ロイはしばらくそこに立ち止まり、周りを見る。
そこにあるのは人気が全く感じられない、ひどく寂れた街並み。今にも崩れそうな煉瓦の壁や、破れたテントが陳列しているだけだった。
「…気のせいか。」
やがてロイは再び歩き出した。
…街に潜む、沢山の影を背にして。
ある1人が動く。
陰から陰へ素早く移り、巧みにその姿を隠しながら…ロイを確実に追っていく。
また1人動く。
屋上から屋上へ慣れた動きで飛び移る。時々立ち止まっては、双眼鏡を使ってロイを見ていた。
そう。…彼等は明らかにロイを尾行、もしくは監視していた。
ロイがそれに気付いているのか、そうでないのかは定かでない。ただ、目的地に向かうことに専念するようだった。
そして、ロイは20分程で門に着いた。門の左右には下層部と上層部を仕切る高い柵がずっと伸びていた。
「ジュエルさん。少し、疲れているみたいです。ここで休まれていきますか?」
「…大丈夫です。」
マリアは1つ溜め息をついた。
「あの…何ならこの教会に残っているお金で、この子を入院させることも出来ますよ?」
「それは、もうちょっと待って下さい。」
「…何故、ですか?」
「……。」
マリアの本当に心配そうな表情に、ジュエルは少し黙り込む。理由は一応あったが、何も知らないマリアにどう答えていいか分からなかった。
「…お願い、します…」
ジュエルは頭を下げた。
…長い静寂の後、返ってきた答えは。
「仕方がありませんね。」
「!」
ジュエルは思わず顔を上げた。
「あと1ヶ月は、ここで預かります。それでも症状が治らないようであれば、こちらで入院させますね。」
「……。御迷惑を、お掛けします。」
ジュエルは再び頭を下げるのを見て…マリアは微笑んだ。
それから互いに軽く挨拶すると、ジュエルはベンチの列が唯一空けている真っ直ぐな道を戻り、外へと続く大扉の前まで来る。
が、最後に振り返り…呟いた。
「兄弟、か…。」
「…何でもありません。」
ジュエルは静かに答えた。そして、冷静に今起こった出来事を解釈する…すなわち、
写真の男女に挟まれた子供が、ジルフィールだったこと。
それが何を意味するのか。
(ジルフィールはルチアの息子。それなら、ここに写っている女はルチア…か。もう一方の男はマルコーだ。…ということは、ジルフィールはルチアとマルコーの間に生まれた子供、ということなのか…?)
その時。
ジュエルの中で、何かが引っ掛かった。
(待て…待て。じゃあマルコーが言っていたことが本当であると仮定したら…どうなる…?)
…思い浮かんだのは、1つの面影だった。
(もし2つの事実が合わさっている物だとしたら。)
「ジュエルさん。」
「……ぁ。」
マリアの呼びかけが再び聞こえ、ジュエルは小さく驚いた。どうやらまた世界が遠のいていたようだ。
しかし。
(!…)
その瞬間、ジュエルは解った。
1つの結果……仮定上の事実を。
ジルフィールは、ジュエルを見ていない。ただ、目の前にある空間に顔を向けているだけだ。…マリアはそれを見て言う。
「私達には、どうすることも出来ません。病院で正しい治療を受けた方がいいと思うのですが。」
「……。」
ジュエルは返事をしない。ただ、穴が開くほどジルフィールの顔を見つめていた。…心の中に生じた、ある疑問について考えていたのだ。最初胸の中にもやがかかり、その形はよく見えなかったが…
やがて、ジュエルは1つの結論に辿り着く。
(俺は……こいつの顔を、見たことがある?)
2ヶ月前に見た時ではない。
もっと最近、もっとはっきり見たことがある。
そう心が告げていた。
そして、はっと気付いた時。
ジュエルはズボンの右ポケットに手を入れ、取り出していた。
一枚の、砂がついた写真を。
(同じ。……同じだ!この写真、この顔…!!)
動揺を外に出さないようにする。しかし写真を持つ手は、微かに震えていた。
「ジュエルさん。どうしたのですか?」
「!」
マリアの声で、ジュエルは写真をポケットにぐしゃっと突っ込んだ。
「そう、ジュエルさん。久しぶりですね。でも1ヶ月ではなくて2ヶ月ぶりではありませんか?」
「…そうでしたか。そちらの様子はどうですか。」
ジュエルはちらりと少年のほうを見る。マリアもそっちを見ると、少し顔を曇らせてこう言った。
「何も、変わった様子はありません。あなた達が最後に来た時から。食事は何とかするのですが、それ以外は…。」
「…そう、ですか。」
ジュエルは息をつくと、少年に近付き、そのうずくまっている姿を見下ろした。その後しゃがみ込んでみても、顔は見えない。
(…名前を、呼んでみるか。…えっと…)
ジュエルは思い出す。ルチアが研究所に残した、数枚のレポート用紙…そこに書かれていた、名前。
『時計塔に鍵を隠しました。
それは鍵であると同時に、
私が犯した最後の罪です。』
『どうか助けて下さい。
愛しい私の息子を。』
「………ジル…フィール。」
ジュエルは押し殺した声で呼んだ。
すると、
「…。………。」
金髪の少年は、ゆっくりと顔を上げた。
光を無くした青い瞳と、死んだように無機質な表情が、見えた。
ジュエルは黙ってその空間に足を踏み入れた。
ひび割れた石造りの壁。ずらりと並んでいる古びたベンチ。所々にある色とりどりのステンドグラスからは、静かに光が射し込んでいる。…そこは教会だった。
では、この音楽は?ジュエルは奥へ奥へと、真っ直ぐ進んでいく。
見えてきたのは、大きなパイプオルガン。それを奏でる1人のシスター。この音はパイプオルガンのものだったのだ。
ジュエルには気付かない。ジュエルは少しその背中を見つめると、近くのベンチにゆっくりと座った。
そして、そこにはもう1人の人間がいた。祭壇の正面の少ない階段。その上でうずくまっている…病院着を着た金髪の少年。
『鍵』だ。
演奏は続いていた。どうやら賛美歌のようだ。歌は無いが、パイプオルガンだけでも、その美しくも切ない雰囲気を十分に醸し出している。
ジュエルは目を閉じて、静かに耳を傾けていた。
…しばらくして、音が止む。
「綺麗な、曲ですね。」
「!」
ジュエルの声にシスターの肩が動く。シスターは振り向いて、ジュエルをまじまじと見つめた。
「…あなたは…」
「ジュエルです。1ヶ月ぶりですね、マリアさん。」
ロイは会話を終わらせると、早々と歩き始めた。途中までの方向が同じなのでグロウも後ろについてきているが、互いに無駄な話はあまりしないようだった。だからロイは、自分の思考に十分集中することができた。
(『鍵』。ルチアが残した最後の手掛かり…か。)
何故か。…ロイは言葉に言い表し難い、嫌な感覚に陥った。
小さく舌打ちをして、一歩前にでる右足で砂を強く踏み潰す。
(…俺は、まだ逃げているのか?ルチアが母親だという事実から。1度自分の記憶を見て、思い出しても。結局それを認めることが出来ないのか。)
その時。
『何故、そこまで俺達に関係ないと決めつける?』
飛行艇で発せられた、ジュエルの言葉が蘇った。
(父親のことも同じ。…逃げているんだ、俺は。関わり合うことを避けている。両親の研究。オメガのこと…オメガ遺伝子。)
「…鍵。」
ぽつり、と最後に呟いた。
30分後。
ギイイィ…
ジュエルはその軋む扉を開ける。しかし完全には開けなかった。
「…。」
音が、扉の向こうから聞こえてきたからだ。…柔らかい音。どうやら何かの音楽のようだった。
(…そう言えば。)
ジュエルは何かを思い出した。それで自然に足が止まったのだった。
「まだ、何か?」
「グロウ。俺には少し用事ができたみたいだ。先に帰っててくれ。」
「はい?」
「…『鍵』の様子を見てくるだけだ。すぐに戻ると、ロイにも伝えて欲しい。」
鍵…という言葉に、グロウは少し沈黙したが、すぐに何を意味するか気付いたようだった。
「分かりました。では後程。」
「行ってくる。」
互いに手を軽く振り、2人は別れる。グロウは少し離れた所を歩くロイの元へ、小走りで向かっていった。
「ロイ。」
「ん?」
「ジュエルは少し別行動をとるそうです…『鍵』のことで。」
「『鍵』?………。」
やはり、ロイも同じ様に考え込んだ。記憶の糸を手繰り寄せ…思わずぽんっと手を打つ。
「あぁ、あいつか!確かに長い間放りっぱなしだったな。」
「すぐに戻るそうです。まぁ、あれを元の状態に戻すのはかなり難しいと思いますけどね。」
「……そういや、俺も大統領の所に行かなきゃならないんだった。」
「えー、そうなんですか。2人とも案外暇じゃないんですね?」
「留守番よろしくな。」
「…やれやれ。」
しばらくの間の後に、その答えは返ってきた。
「………。何が事実だったとしても、何も起こらないさ。」
「ロイ。」
「違う。…何も起こさせはしない。」
ロイはベッドから立ち上がると窓の近くまで行き、そこから見える赤い空や雲をひとしきり眺めた後…ゆっくりとジュエルに振り返る。
「そのための俺達だ。」
その表情は逆光のため、ジュエルからはよく見えない。
「全ての人造生物を葬る。俺達はそれを成し遂げる。それで全ては終わるんだ。」
「……。」
「何も心配することはない。俺達は今まで通り生きていけばいい。…戦いが終わることを信じて、な。」
…結局、ロイがそれ以上言葉を発することはなかった。
「どうしました?ジュエル。」
「!」
ジュエルは、はっと我に返る。どうやら立ち止まってぼうっと空を見上げていたらしい。グロウは怪訝そうな顔をしていた。その上笑っているので奇妙な表情な事この上ない。
「何でもない。」
「全く。ここ暑いんですから早く帰りましょうよ。」
「…ああ。すまない。」
ジュエルは1歩足を進める。
…しかし。
ザッ。
再び足を止めた。
「ジュエル。このことに執着するのはもうやめた方がいい。…俺達は何の関係のない、ただの作り話だ。」
ロイは真剣な眼をジュエルに向ける。それ以上何も言わせなくするような、強い眼差しだった。
しかし。
「…確かに。この話が本当だという証拠はない。だが、」
ジュエルは真っ直ぐとロイを見返した。
「嘘だという証拠もない。」
2人とも互いの瞳を逸らさない。気付けば辺りは気まずいような沈黙に支配されていた。
…その空気が嫌になったのか、ロイは大きく溜め息をついてまた話を切り出した。
「何で。……そこまでこだわるんだ。」
「悪い予感がする。…それだけじゃ、理由にならないか?」
ジュエルは目を伏せて重く呟いた。
「オメガ…知っている気がするんだ。記憶が無くても。その言葉を思い出す度、頭が痛くなる。気持ち悪くなるんだ。」
「…。」
「逆に聞いてもいいか。ロイ、何故そこまで俺達に関係ないと決めつける?」
「!」
ロイは微かに息を呑む。それをジュエルは見逃さなかった。
「本当は知っているんじゃないのか?何が事実で、何が偽りなのか。…これから何が起ころうとしているのか!」
「何でも、生命エネルギーから作られる地球の血液…オメガとか言ったか。それが今の地球に必要らしい。」
「…オメガ。」
ジュエルはその言葉にピクリと反応する。
「人造生物はヒトの何倍もの生命エネルギーを持つ。そうとも言っていた。」
「…じゃあ、オメガ遺伝子というのは何だ。」
「……質問責めだな。」
ロイはやれやれといった風に苦笑いするとまた黙り込んでしまった。ジュエルはその様子を見つめながらただじっと言葉を待つ。
「…………。俺が聞いた限りでは、オメガ遺伝子は生物の体をオメガに同化できるものだということだ。」
「…ロイ。マルコーは、」
ジュエルが再び何かを言いかけたが、
「だぁから。あいつの言ったことは信用出来ないっつってんだろ。二度も言わせるな。」
ロイが割り込んだ。
「…どうせそれを俺が持っているんじゃないかとか聞くんだろ?お前は。」
「…っ」
「第一。オメガのことは、『国』の資料に一言も載ってない。そんなものが発見された記録なんて、どこにもないんだ。」
「……。」
「俺はこのルノワールの戦いで、自分の記憶を取り戻した。」
「…。」
「だがな。そんな写真を撮った覚えなんてないぜ。なんせ俺は孤児だったんだからな。1人で生きることに死に物狂いだった。それからハヤトに会って…と。これ以上話したら長いな。」
「……。」
「とにかく。それは俺じゃない。」
「…そう、か。」
ジュエルは椅子からすっと立ち上がり、出口に向かう。するとロイがそれを慌てて呼び止めた。
「おいおい待てよ!まだ何も知らないとは言ってないだろ?」
ジュエルはゆっくりと振り向くと、椅子へ戻った。ロイはふーっと息をついて話し始めた。
「そりゃ俺だって疑問に思ったさ。人造生物なんて増やして何の意味があるのかってな。…だからあいつに聞いてやったよ。お前の目的は何だ、と。」
「……それで。」
そこでロイの表情が落ち着く。…なかなか答えない。何かを深く考えているようだった。
「あいつは、言った。『世界を救うためだ』と。」
「……世界を、救う…?」
ロイは静かに頷く。ジュエルは理解が出来ない、といった様子で眉を潜めていた。
「その写真がどうしたって?」
ロイはにこりともしない。
「これに写っている男の方は、マルコーだ。その隣の女は分からないが…多分妻、だろうな。真ん中に子供がいる。」
「…。」
「……ロイ。この子供は、」
「俺だって言いたいのか?」
「!」
ジュエルは少し黙り込む。だが、長いのか短いのか分からない間を置いた後、続けた。
「俺は、あの時確かに聞いた。あいつが最後に言った言葉を。…お前のことを、息子と呼んでいた。」
ロイは窓の外を見る。…何も返さない。ジュエルもそれ以上は何も言わない。だから、その部屋にはしばらくエンジン音しか聞こえなかった。
しかし。
「くっ…くっくっく!」
ロイが不意に肩を震わせて笑った。
「ロイ?」
「…ジュエル。お前さあ、あんな得体の知れない奴の言うことを信じているのか?」
「…。」
ロイは笑いを堪え切れないような顔をしている。
「何の証拠が在るわけでもないのに。お前でも早とちりってものをするんだな?」
「…でも。」
「それにな。俺はそいつが俺じゃないと確信してる。…そいつが、俺の筈はない。」
「…?」
「ジュエルか。」
「…話がある。」
「まあ、そこに座れよ。」
ロイは、ジュエルを促す。そこには椅子が取り付けられていた。
「で、どうした?」
ゆっくりとベッドから起き上がる。どうやらさっきまで眠っていたらしく、髪の毛はボサボサの上、目は半開きだった。ジュエルはしばらくそんな様子を見ていた。
「…。後にするか。」
「いや、今でいい。」
「ロイは、どう思う?…あのマルコーとかいう奴のことを。」
「……。」
ロイは少し目を逸らし、あいつか…と呟いた。マルコーという人物は、ルノワール全域に人造生物を放っていた張本人だ。自分が人造生物になってしまう程にその研究を重ね、最後には自ら襲ってきた。
「あいつは…何が目的だった?何のために、人造生物の研究を続けていたと思う?ロイは何か知ってるんじゃないか?」
「…何で、そう思う?」
ジュエルは、そこで一枚の折り畳まれた写真を取り出した。少し砂がついている。
「それは…」
「お前が落としたもの、だろう?」
開いてみると、3人写っていた。白衣を着た男性と女性。そして…その間にいる男の子。皆無表情に見えたが、微かに笑っていた。
グロウはポケットにしまっていた携帯電話を取り出し、開く。そこにPM1:32という時刻表示が映っているのを確認すると、2人はロイに続いて歩き出した。
「さて、どうしたものでしょうね。そうすると本当に寝るくらいしかすることが無いのですが…。ジュエルはどうします?」
「決めてないな。」
「と、言うことは寝る以外に何かすることがある?」
「………。」
ジュエルは沈黙する。
考えていた。
自分に、するべきことはないのだろうか。…そんなことを。
空の向こうに、あの日交わした会話が浮かんだ。
ゴゴゴゴ…
エンジン音とプロペラ音の入り混じった低い音。丸い窓から見えるのは雲の絨毯、そして夕日に染まった赤い空。
ここは飛行艇『ヴィマナ』の中だ。
グループ『KK』がもう1つの国、ルノワールでの『人造生物』殲滅活動を完了し、軍と共に帰還する途中のことだった。
コン、コン
ジュエルは、ドアをノックした。向こうから、入っていいと聞こえたのでノブを回す。
ガチャ
…簡単にドアは開いた。大して広くもないその部屋の寝台に、その人物は寝そべっていた。
数分後。
ドス!
何かを刃物で突き立てるような音が響いた。…実際。そこにいた少年は、右手に持つ剣を肉塊に突き立てていた。
その少年は黒髪と漆黒の瞳、精悍な顔立ちを持っている。ジーンズと白いパーカー。両手には長剣が握られていた。
先程まで動いていたその血塗れの肉塊は、砂になって風に流れていく。丁度少年がそれを見つめていると…おーい、という声が聞こえた。
「……。」
少年が前を見ると、こちらに歩いてくる2つの人影が見えた。1人が手を振っていたので、こちらも軽く手を振り返す。
…ロイとグロウだった。
「ジュエル、お疲れ。」
ロイが振っていた手を下ろす。
ジュエルは頷くことで返事をした。
「2人とも、遅くなって…すまない。」
「いえいえ。私とロイも今終りましたから。」
グロウはからからと笑った。ロイは両手を頭の上で組むと、腕を思い切り伸ばし…よし、と呟いた。
「今日の仕事は終わり。」
「あれ。もうですか?早いですね。」
「久々だろ?ま、帰って寝ようぜ。」
そう言うと、すたすたと『国』の方へ歩き出す。ジュエルとグロウはしばらくその遠ざかっていく背中を見つめていた。
…少年は地平線の彼方に目を向ける。辺りは、まるで何事も無かったかのように元の静寂を取り戻していた。
その時。
「ロイ。」
「!」
突然後ろから声が聞こえた。
ロイと呼ばれた少年は振り向く。…そこにいたのは同い年くらいの少年だった。全身黒い服の上で、肩までかかっている銀髪が目立っている。彼はたいした意味もなく微笑みながら、言った。
「いやぁ見事です。もう終わっちゃいましたね。」
「……当たり前だ。15年もこの仕事をしてんだからな。それに、お前ももう済んだんだろ?…グロウ。」
銀髪の少年、グロウは少し頭を掻く。
「そう言われればどちらもその通りですが。ロイは、まだルノワールでの傷が癒えてないのではないですか?」
「あれから1ヶ月も経ってるんだ。治ったに決まってる。」
その時グロウは、ロイの左腕をちらりと見た。
「まぁ、無理はなさらないことです。………と、そう言えば。ジュエルはまだ来ないんですかね。」
グロウは砂漠をきょろきょろと見回した。
ロイはふぅ、と息をつく。…そして、
「…迎えに行くか。」
歩き出した。
少年の服装は簡素なものであった。膝下まで捲り上げたジーンズに、汚れたスニーカー。上も薄手のTシャツにGジャンを着込んだだけのものだった。ただ1つ目立つのは腰に2挺の銃が収まっている所だろうか。
翼を生やしたいくつかの影があった。それらは風を切り、ある1点を目指していく。
…すなわち、少年の所だ。その爪で引き裂こうと、猛スピードで飛んでいく。そのうち1体が十分に少年との距離を詰め、爪を振り上げる!
ザッ!!
赤い液が、空の青に散った。
しかしそれは誰のものだったのか?
「ごボぁっ」
どうやら、それは少年のものではなかったようだ。血を撒き散らしながら落ちていったのは、少年に攻撃を仕掛けた方だ。
あの一瞬で起きたことを解説すると、少年は体を捻って攻撃を紙一重でかわし、そこでできた隙をつき、素早く敵をナイフで斬ったのだ。
…今度は、3体。
ザバザバザバ!!
少年は全ての攻撃を避ける、もしくは受け流し、皆同じ様に処理した。
その後宙で1回転。
そして
タッ
着地するに至った。その頃には風がなくなり、砂嵐も消えていた。
少年は ナイフをしまう。
少年は一度銃を腰のホルスターに収める。代わりに 1本のナイフを取り出した。
そして宙を舞う目標に向かって、勢いよく走り出す!
その後
ザッ!!
ある1歩で砂地を強く蹴り、目標に向かって高く跳躍した。普通の人間では有り得ない高さ。すぐに目標に辿り着いた。
しかし少年はそれすらも飛び越え、放物線を描きながらその後ろに回り込む。…そこで。
パシ!
何かを掴み取る。
それは、生物の片翼だった。
とん
少年はその勢いを利用し、生物の背中に足をつく。
「ギャぁ」
生物は、翼を掴まれたことと少年が上に乗ったことでバランスが崩れ、ぐらついた。そのまま墜落する前に
ザバッ!!
少年はその足場をナイフで横一文字に凪ぎ払う。同時にそこから再び高く跳躍した。
2つに分かれた生物の体が地に堕ちていくのを見届けながら。…少年は空へと駆け上がっていく。その時ローブの留め金は外れ、それは音を立てながら風に飛ばされていった。
唐突に、視界が開ける。
目の前に広がっているのは青。どこまでも続く…青い空だった。そして白光を放つ太陽は、宙に躍り出た少年のシルエットをくっきりと映し出していた。
そこにはいなかった。
それでは、どこに?
…すぐ近くだった。
たんっ
「グ?」
少年は、生物の左肩の部分に片手をついていた。そして右手の銃を、生物の頭に押しつけている。それは、丁度肩の上で逆立ちをするような格好だった。
ドン!!
「…が!」
発砲。後、少年は足をつく。
生物は崩れ落ち、また辺りに砂が増えた。…それは、一瞬の出来事だった。
だが少年はそこで手を止めない。
ズドンッ!ドン!!…ドン!!
重い音が3つ響く。銃を連射した音だ。直後、姿は見えないが、少し遠くで3つの叫びが聞こえた。
少年が扱っている銃は45口径。強力なその銃は、1発撃ったときの反動が強い。大人でも下手をすれば肩関節がおかしくなる程だ。…しかし、少年は平然としていた。1発どころか、連射しているのに。
次に少年は、自分に向かって何かが向かってくるのを感じ、右上を見た。しばらく砂しか見えなかったが、それは来た。
ゴオオォッ!
風音とともに現れたのは、大きな翼を背中に生やした生物だった。鳥のそれとは違う。とても歪な形をしていた。
…砂が舞っている。翼が起こす風で、砂嵐は作り出されていたのだ。
痙攣しながら仰向けに倒れたその生物は、奇妙であった。人間の形に近かったが…決して人間ではないことが伺える。
大人の男性以上の身長はあるそれは、全身の皮膚は真っ白。胸の中心部分には、血のように赤い球体が埋め込まれている。地面に投げ出された腕は異常に長く、その先には何かを引き裂くためだけにあるような、鋭い爪があった。
生物の体は少し経つと全身が砂と化し、荒れ狂う砂嵐の一部となっていった。
だが、少年はそれだけでは気を抜かない。後ろのもう1体…いや、それだけではない。砂嵐に隠れている四方八方からの殺気を見逃がさなかった。
少年はちらりと後ろを見る。
間近にあったのは先程と同じ生物の顔面だ。
まず。鼻と口と耳は見当たらない。あるのは、剥き出しの血走った眼球が2つだけ。…しかし。
ガバッ!
ないはずだった生物の口は、裂けるほどに開いた。そしていくつか唾液の糸を引きながら、シャアア…という声を発していた。
その黄ばんだ犬歯が少年の首筋に迫る!
が。
次の瞬間には、少年の首を喰い千切るはずだった生物の牙は、空を噛んでいた。
そこに少年はいなかったのだ。
吹き荒れる風はローブを激しくはためかせた。そして、顔を隠す大きなフードが取れる…。
バサッ
10代半ばの少年だった。
あらわになった赤毛の短髪が風に殴られ、かき乱されている。閉じていた目をスッと開くと、透き通るほど青い瞳があった。前も後ろも分からない砂嵐の中。その瞳は目の前の一点だけを見つめていた。
「目くらましの、つもりか?」
少年は呟く。
それに答える者はいない。勿論風が答えることもない。だが言葉は続いた。
「…残念。」
少年はローブの中から、ぶら下げていた右手をゆっくりと前に突き出した。
その手には拳銃が握られている。銃身30㎝程の中型の銃だ。
少年はニッと笑う。
「見え見えだ。」
ザッ!
そして少年は地を蹴って、その場所から少し跳び下がった。
…そこに。
ザザザザザ!!
ある生物が突然砂の壁から出現し、先程まで少年がいた場所を鋭く長い爪で凪いだ。
少年はそれに向かって、
ドガン!!
銃を撃つ。
「ギイイいィぃィィィ!!!」
おかしな声が聞こえた。獣の声とも、人間の声とも判別がつかない、無機質な叫び声。弾は生物の額に命中していた。
…暑い。
暑い日だった。もう10月だというのに。
遠くを見れば、地熱が作り出す陽炎が揺らめいていた。雲一つない空からは眩しすぎる日光が降り注いでいる。
砂漠の中にあるその小さな『国』は、透明なドームに囲まれていた。地球は今や人間が耐えられないほどの温度、そして紫外線に支配されているが、そのドーム…紫外線遮断フィールドによって『国』は守られているのだ。
それは、ドームの外でのこと。
ザッ…ザッ…
砂を踏みしめる音がする。この砂漠で人の足音が聞こえるなんて有り得ない筈だが、その音は確かに規則的な間隔で響いていた。
ザッ…ザッ…
歩いているのは、大きなぼろ切れ同然の白いローブを纏った小柄な人影だ。顔は目深に被ったフードのせいで見えない。
ザッ
足が、止まった。
「…………。」
ヒュウゥ…
風は起こり、渦を巻く。
…ゴォォォォオ…
風は強くなり、徐々に景色を砂の黄土色で塗りつぶしていく。
そして、15秒経つ頃には、辺りの視界は完全になくなってしまった。
しかし、その中でもローブの人影は動かない。目をかばうことも、しなかった。
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