神社仏閣巡り珍道中・改

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2023/06/23 06:04(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3666755 (スレ作成日時)

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No.1

昨日は【桐生天満宮】さんへ参拝させていただきました。

こちらは京都の『北野天満宮』さんより御分霊を頂いた神社さん。
『天満宮』と言えば学問の神様と言う印象がありますが、こちらはそれだけにあらず、【菅原道真公】をはじめ、公の御先祖である【天穂日命(アメノホヒノミコト)】さま、さらに【祓戸四柱 (ハラエドヨハシラノオオカミ)】さまを奉斎しております。


もともとは景行天皇の御代、『上毛野国造』が天穂日命さまを奉斎した『磯部明神』でありました。
その後文治三(1187)年から当地を支配した『桐生氏』が代々の守護神として崇敬し、観応年間(1350年頃)、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して『桐生天満宮』と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められました。

『天穂日命』さまは当地で有力な土師部の遠祖に当たられ、菅原道真公の御祖先にも当たる御祭神で、古来、産業開発の守護神として崇敬されております。

『祓戸四柱』さまはあらゆる災いや罪・穢れを祓い清める神々で、【瀬織津姫神】・【速開都姫神】・【気吹戸主神】・【速佐須良姫神】を祓戸四柱大神と称え奉っております。


また、桐生と言う場所は風水において理想の地といわれているとのことで、それに基づいて御神体の周りの配置にこだわっているとのことであります。
御本殿内陣には、風水に基づいて御神体の四方を守護する霊獣、すなわち『東の青龍』・『西の白虎』・『南の朱雀』・『北の玄武』の四神を配し、
それぞれ東(職業・学業) 西(商業・金運) 南(家運・良縁) 北(健康・厄除)等の広大無辺な御神徳によりこちらを参拝・祈願する全ての方々がこの理想的な風水によって護られ、大地のエネルギーである「気」を受けていることとなるのだといいます。



桐生市のメインストリートの突き当たりの道路沿いに鎮座されております。
一の鳥居は、まさにその道路に面し、目の前に立つと見上げても鳥居全てが目に収まらないくらい大きいです。
この鳥居をくぐり、先へ進んでいくとまっすぐに参道が続いています。

ちなみにこちらの神社さんの駐車スペースは、この大きな鳥居をくぐることなく境内内に入ることができるのですが、肝心の参道を踏んで渡って駐車することとなるのです。

うーむ。
鳥居をくぐらずに済むとはいえ、参道を突っ切る…、それでも裏手にも駐車場があることを知りました。


No.9

精密で華麗な彫刻の数々がそこここに散りばめられております『桐生天満宮』さん。
木というものがこれほどに薄くて動きのある…例えるなら薄い絹織物のようにできるものなのかと、思うくらいに立派なものなのです。
重厚でしなやかで品位のあるもの、なのです。
躍動感あふれる龍。
一つ一つ挙げていたらきりがありません。

風雨にさらされ色彩がはがれてしまっていますが、完成当時は極彩色の華やかな彫刻でした。
色がなくても、微細な部分まで彫り込まれた彫刻は見る者を飽きさせず、時を忘れて見入ってしまいます。

これに美しい色が施されていたと考えると……。当時の人々の感嘆が聞こえてくるようです。
当時の人たちは(例の)囲いもなく。岩の上にそびえ立つ、この見事な彫刻を間近で観ておられたのかぁと、私の羨望の声も…聞こえません?


この日は裏の駐車場から入っての参拝でありました。
裏手からは鳥居が一つもないので、それはそれで神域に忍び入るような申し訳ない気分になるのでありまして、普段は裏手の駐車場に車を置いたら鳥居のあるところまで歩き、そこから入らせていただいているのですが、この日は近くで大きなイベントがあり、歩道に人が多く、裏手の入り口から入らせていただいたのですが…。

ちょうど昼どきの日の光を浴びた、それはそれは美しい、まるで金色と言っても過言ではない、御本殿の裏にある彫刻を拝することができたのです。

うわぁぁ♡
…ええ、声に出して感嘆いたしましたとも。
なんと美しい光景でしょう。


この見事な彫刻。
傷む前に手入れをといつも祈るように願う私。

そうだよ、道路なんかに手を入れてる場合じゃないよ!
色など褪せようと、剥げようと、それはそれで良いのです。きっと私はこの方が好きなので。
ただ、それが剥げてしまった状態が長く続けば、木部が傷んでくる可能性も高くなります。
それは是非避けたい、避けなければいけないと、私は強く思うのです。

まあ、神さまがお護りくださっているので、今はまだ全然(?)大丈夫かもしれませんが。
傷みがひどくなってしまってからでは修復もより大変になります。

ただ、今のところ宮司さまにそのようなお考えもないようなのですが…。

No.20

まぁ、結論から言えば、最悪なタイミングで前橋市を訪れた私たち夫婦。
ちょうど武者行列のため、最大の交通規制をかけた時間帯だったようでありました。

前橋市にはそれこそ週に一度は出かけるのですが、総社地区にはほとんど行かないため、町の道に疎く。
ナビはうるさくて、さらにまるで役に立たない妻までもうるさくて、夫というのもなかなかの修行を強いられるものであります。(…それをなんと他人事のように語る妻でしょう)

武者行列にさしたる関心はなかったので、間に合わなかったことに悔しさは微塵も無いのですが、…それはそれは盛大なものだったようでありました。
地元の方に言わせれば、だいぶ規模を縮小した、人数もかなり減らしたものだったようですが…。


私どもは見られしなかったので、拾い画像となりますが、町の一行事にしてはすごくないですか?


(総社秋元公歴史まつりの武者行列)

No.23

今、三島由紀夫著【金閣寺】を読んでいます。

若い頃読んだ文庫本での再々読で、前回読んだ時からかなりの年月が経ち、紐解いた時その文字の小ささに思わずうなりました。



…読めないかも。

でも読み進めるうちに文字の小ささはまるで気にならなくなり、あっという間に本の世界へと入り込んでいました。

…変わらないんです。
初めて読んだ時と、その作品から受け取る感覚がまるで。

…たしかに進歩のない、どころか退化の一途をたどるおばさんではありますが、初めて読んだ高校生の自分が抱いた感覚とまるで変わらないことに躊躇いと、それでいて〝やっぱり…〟と思う自分がおりました。

読む年代によって、受け取り方が変わる作品は数多くありますが、おそらく〝三島由紀夫〟の作品は、ずっと変わらない、…そんな気がするのです。


初めて読んだ時、実はこの金閣寺の事件が実際にあった事件であったことも知らず、それどころか幼少期の私に大きな衝撃を与えたテレビの報道の主が三島由紀夫であったことすら結びつけずに、ただただ一冊の小説として手にしていたという、ある意味奇特な読者であったかもしれません。

私がこの〝金閣寺〟を読み終え、たまたま手にしていたのを見かけた、…父、だったか、姉、だったかが、その二つの事実を事もなげに伝えて、さらなる大きな衝撃を受けたのでありました。

もう一度そうした視点で、…実際に起きた金閣寺の放火事件を調べてのちに、またすぐ読み直しをした事も記憶しておりますが、その時ですら受ける印象が大きくは変わらなかったので、今また、大人となって読み直してみて、この感覚が変わらないだろうことは、私の中では想定内、だったようです。

そうした…事実を基にした小説であった事も、衝撃的な自刃という最期を遂げた事も、大きく影響しないほど、私にはこの〝金閣寺〟の中の若き学僧は、三島由紀夫の中にいた、もう一人の三島だったような気がしたのです。

本人が書いたかのようなリアルさは、ひとえに三島の才能でありましょうが、どこか憑依しているかのような一体感を感じたのであります。

そして。
読んでいて受ける印象の変わらないところも、どうしてなのか…私はなんとなく予想がつくのでありました。

No.31

神社仏閣に関与することなく長いこと生きてきた私。


子育てが一段落し、空っぽな自分に嫌気がさしました。
私は何を目標に生きてきたのだろう。
私はこののちどう生きたいか。

…。

朝起きて、新しい朝を迎えられたことに感謝して。
身体が動くことに感謝して。
晴れた日には晴れたことに感謝して。
雨が降ったらその恵みに感謝して。

神仏を敬い。

生きていることに感謝できる生き方をし、生かされていることに感謝して。

人の目を気にするのでなく、自分の生き方をきちんと見つめて生きたいと思い。


…とりあえず、神さま、そして仏さまのおられる神社仏閣をお訪ねしよう。
そう思って始めた神社仏閣巡りでありました。

とはいえ、親の代から神社や仏閣と縁のない生活を送ってきており、礼儀も作法も何一つ知らない状態でありました。
…それこそいい歳をして。


ネットで調べたり、神社さんやお寺さんでお聞きしたりしながら、現在に至っておりますが、覚えも悪いこともあり、なかなか身にならない。

そもそも神社さんとお寺さんのこと、ちゃんとわかっているかというと…うーん。


鳥居があるのが神社さんかといえば、立派な鳥居のあるお寺さんがあるし。
仏さまをお祀りしているのがお寺さんと言いたいところだが、神さまもお祀りされておられるし。

いまだにこんなところからつまずくようなヤツで…。

それこそゲームに当てはめたら、いつまで経ってもレベル1、おんなじところをぐるぐると回り、スライムは倒せてもドラキーに苦戦するような。


私ってば、よく『神社さん』と一言で表していますが、
『神宮』『大社』『宮』『社』『神社』
この違いは?

わからないまま、とりあえず神社さんと一括りにしているし。

ダメじゃん。

No.47

ところで。

堺正章が悟空に扮する『西遊記』は、再放送などで平成生まれのわが家の子どもたちも観たことがあるものなので、若い世代の方もご存じの方は多いかと思うのですが。

もう一つ、昭和世代に、忘れられない『西遊記』があります。
…というか、その世代、世代で忘れられない『西遊記』があるのかもしれませんが。


私の、もう一つの、忘れられない『西遊記』は、ドリフターズ(以下、ドリフ)の人形劇 『飛べ!孫悟空』であります。
放送は1977年10月から1979年3月まで、全74話、一年半続いたヒット番組でした。(…だそうです)。

これはうちの子どもたちも観たことがないよう記憶しています。(このおばさんの記憶ほど当てにならないものもないのですが…)

これがなんとも面白くて、あの頃楽しみにしていた番組の一つでありました。

しかもその時代の名だたるスターがこぞって出演していましたし(ただし人形化されていましたが…)、
あの時の超人気スター、ピンクレディが主題歌を歌っておりましたし。



…これはあくまでも、西遊記つながりで書きたかっただけの話です。
申し訳ありません。



(『飛べ!孫悟空』)画像

No.48

そんな、…と言われても、どこにかかる〝そんな〟だよと言われそうですが、宗派によって、もしかしたら読み方が若干の違いがある…かもしれない、【般若心経】。

【摩訶般若波羅蜜多心経】の『摩訶』

これは摩訶不思議という言葉で使われている〝摩訶〟であります。
今、『摩訶不思議』というと、〝非常に不思議なこと〟を指しますが、もともとは『人知を越えた素晴らしさ』を意味する言葉であったといいます。

といいますのも、【摩訶】という言葉は、古代インドのサンスクリット語【maha=マハー】の音写で『偉大な』『大きな・大いなる』『非常の』『優れている』『神秘的』といった意味があることによります。

私たちがよく知っている【一休さん】のモデル【一休禅師】は、
「摩訶とは、すべてを包み込む大きな心。
その心を得るためには、生きていく中でいつの間にか知ってしまった損得や善悪など、自分勝手に考える小さな心を全て捨てること」
と説いたといいます。

こんな最初のたった二文字に、すでにこれほどの教えが込められていたものであったとは。

やはりお経というのは素晴らしいものなのだとあらためて知るのでありました。




  (銀杏 いちょう)

No.67

【浄因寺】さんは明治の大火で本堂、鐘楼、経蔵、仏堂など、境内に残っていた堂宇のほとんどを失っており、かつて『関東の高野山』といわれるほど繁栄していた時代の面影はありません。

残っているのは…心洗われ優しさに包まれるような、そんな清らかな澄んだ気であります。

明治の大火後に建てられた山門と、鐘楼、そして御本堂は、おそらくかつてのものとは比較にならない質素な造りとなっているだろうと、そう思われる質素なものであります。
庫裏はさらに質素な、明治から昭和初期にかけて建てられたごくごく一般的な民家、であります。

ただ境内の巨石の上に建つ【清心亭】、そこに行くために掛けられた橋は、その火災を免れ、江戸の時代の繁栄を伝えています。
この清心亭とそこにかかる橋は、葛飾北斎が『諸国[名橋奇覧十壱橋]足利行道山雲のかけはし』として描いたくらいであります。


かつて修行の場であった頃は女人禁制で、現在駐車場になっているところまでしか女性は来られなかったのですが、
江戸時代には清心亭が建てられたくらいにその門戸が開かれ、信仰の場であると同時に観光地としても栄えたようでありました。


平成の頃にはその清心亭を建て替え、再び観光化を目指した時もあったようですが、今はその景観を愛する人たちが訪れるのみとなっているようです。

そこに、主なき家を守るかのように残る猫たち。
境内を案内するかのような動きもしてくれる、そんな猫たち。

ですが、無住となって久しく、猫たちも年を重ねておりました。

私たちは…その猫たちすら居なくなってしまった浄因寺さんが見たくなくて、心の中で祈り手を合わせるだけになっていました。


その浄因寺さんの猫たちの情報をネットに配信してくださった方がおられました。

庫裏に貼り紙がしてあるのだといいます。


【茶トラ猫をご心配の皆様へ
冬の寒い時期に一時保護をして春には帰す予定でいましたが、慢性的な猫風邪と口内炎で体調が安定せず、良くなったり悪くなったりの繰り返しで帰すタイミングがありません。
高齢でもあり凄く元気という訳にはいきませんが、食べたい時に食べて日々穏やかに過ごしていますので、その点はご安心ください。 2022年8月 】


なんと、なんとありがたい。
思わずその方に向かって手を合わせる私でありました。

…よかった。



 (雲のかけはし)

No.71

私の癒しであり、大好きな仏像。

そんな仏像のはじまりはいつ頃だったのでしょう。

もともとは尊い存在を形にすることを〝不敬〟とする考えがありました。

お釈迦さまが入滅されたのち、その遺志を継いだ弟子たちは教団を引き継ぎ、信者たちと共に釈迦の遺骨を祀ったストゥーパ(仏塔)を崇拝していました。
ストゥーパの周りの石の柵にはお釈迦さまの生涯がレリーフに刻まれたといいます。
しかしそのレリーフにお釈迦さまのお姿を刻むことはなかったようです。不敬であると考えたからです。
それゆえ〝仏足石〟や〝宝輪〟を釈迦と思って崇めたのでありました。


仏像が初めて造られたのは、紀元前一世紀頃と言われています。
インドの西北、ガンダーラ(現パキスタン)で釈迦如来像が造られたのが始めだと言われています。
シルクロードに繋がるガンダーラ地方で、ギリシャの神像彫刻の技法と、仏のイメージが結びつき写実的な仏像が生まれました。


……これがまたお美しい。
実にお美しいんですよ。
東京国立博物館に、ニ〜三世紀頃に、ガンダーラで造られたという【如来坐像】がおられるんです。


…これまたコロナ禍となって。
もう何年もさして遠くもない東京や神奈川などにも行けずに過ごしておりますが…。
神社仏閣だけでなく、行きたいところはまさに星の数ほどあるのですが…。

今また新規感染者数が増えてきてある状況を踏まえますと、私どもは出かけることを控えます。


♪ 行きたかった、行きたかった、行きたかった YES!
〇〇に…


…と歌って踊って、自分を誤魔化し…

…たりは決してしてはおりませんが。
せめて写真の御仏を拝観し。
せめて写真で日本各地を巡って。

まあ。
貧乏なのでコロナ禍でなくとも日本各地はまわれないだろうから、な。




(東京国立博物館の【如来坐像】)

No.80

明日十二月二十二日は【冬至】。

冬至はご承知の通り一年で一番昼が短い日であり、この日を境にまた日が一日一日と長くなってきます。

この日は、太陽が地球に与えるエネルギーが地球陰から陽に転ずるのと
同様に、人も自分の運を陰から陽に転ずるチャンスの日とされているようです。

冬至には『だいこん』『れんこん』などの「ん」のつくモノを食べることで開運を願うようです。

「ん」のつくものは、『運盛り』といい、縁起が良いとされていて、さらに、「ん」がニつつくものは、運も倍増するとされ、
【冬至の七草】と呼ぶこともあるとされる食べ物があるようです。

『冬至の七草』は、
なんきん(かぼちゃ)、
れんこん
にんじん
ぎんなん
きんかん
かんてん、
うんどん(うどん)です。

…たしかに私の住む地方でも冬至には、かぼちゃを食べる風習があります。
もっとも、私の住む辺りでは、冬至にかぼちゃを食べると風邪をひかないということが言われていた気がします。
たしかにかぼちゃには野菜類トップクラスのビタミンEが含まれており、ビタミンEは末梢血管をひろげることで血液循環を整える働きがあり、血行不良による冷えや肩こり、頭痛などの改善に効果があるとされています。

また、冬至には、柚子湯に入る風習もありますが、これもまた「冬至に柚子湯に入ると風邪をひかない」と私の住む地方ではよく言われています。もっとも、子供の頃私の家には柚子の木はなく、当時柚子を八百屋さんで買うことができたものなのかどうか…。
柚子湯に限らず菖蒲湯などもする習慣のない家でしたので、あまり柚子湯とは縁がなかったのですが、最近は柚子をいただくことがあり、ありがたいことにここ何年かはわが家も冬至に柚子湯をたてることができています。

なんでも柚子というのは実るまでに
時間がかかるということで、
「長い苦労が実りますように」と願うといった意味もあるといいます。
柚子湯自体は江戸時代から始まった習慣のようです。

柚子湯自体に風邪をひかないといった効能はないようですが、乾燥肌の予防や肌を守るバリア機能の効果は科学的に実証されているようで、また柚子の香りでリラックス効果も期待できそうです。

No.82

ちなみに。

本日は寅年最後の寅の日で、今年最後の毘沙門天さまのお縁日となります。

大岩山多聞院最勝寺さんでは今日、寅の日開運金運護摩祈祷が営まれます。
毘沙門天のご縁年である寅年の今年は、寅年寅日と縁日が重なる全ての日に金運隆昌と開運を祈る護摩祈祷をされています。

うーん。
あの山道はなぁ…。
といって歩いていくにはこの季節、もっと危険な気もするしなぁ…。
この間の雪も残っているだろうしなぁ…。


…遥拝いたします。(T-T)



(栃木県足利市大岩山毘沙門天様)

No.100

こちらの神楽殿は明和元(1764)年に再建されたものといいます。
北面が唐破風造、南面が切妻造銅板葺で、北側が吹き放ちの舞台、南側を楽屋となっています。
双龍門を登った正面がその南側の楽屋に当たるという部分になるために、そこからの見え方も考えての設計、だったのでしょうか。

神さまに奉納する神楽を演じる場であることを考慮して、本殿と向かい合い、床の高さを同じくするなど様々な工夫を凝らしたものとなっています。


朱塗りの神楽殿で舞が奉納されるさまを、一度でいいから見てみたいとは思うのですが、残念ながらまだそういった機会に参拝したことがないのです。

ただ…。

この神楽殿の前のスペースって、さほど広いものではありません。
神楽殿の後ろもまた岩がせまっており、拝殿との間も広くはとられておりません。拝殿の左にはほぼ隣接するかのように国祖社と額殿と呼ばれる建物が建っております。
…どう考えても狭いこのスペースに初詣の比でない人がここに集結することとなるのではないだろうか?
初詣であれば少しづつではあるものの人の流れがありますし、誘導の方もおられます。

何より神さまに奉納する舞を見るためにそこに立つということは、大半の人が拝殿、そして御神体であります『御姿岩』に背を向けて立つことになるはず。
たしかに舞自体は、拝殿の高さで舞われているため、神さまの視線を遮ることにはならないし、拝殿も石段を登った先にありますので、直にお尻…背を向けることとはならない、とは思うのですがね、…思うのですが。

うーむ。

せっかく連れて行ってもらって(自力では行けない〝山〟であります)、大好きな榛名神社さんで神さまに失礼な事だけは(私が気づく限り)したくないし。

神楽を観たくて行ってみられないのも悲しいし…。

…人混みが嫌いな珍道中ペアだし。


コロナ禍でなくとも来なかった珍道中ペア。
おそらく榛名神社さんの御神楽を拝することは限りなくゼロに近く…無い、のだろうなぁ。




(榛名神社さんの双龍門と鉾岩)

No.101

昨日は初薬師さん。
薬師如来さまの一年の初め、最初のお縁日であります。

毎年恒例となって久しい、群馬県みどり市の【光榮寺】さんへと参拝してまいりました。
こちらではコロナ以前には参拝者は皆御本堂へ入ることを許され、御護摩法要に参列させていただけたものですが、コロナ禍となって以降は僧侶の方のみの法要となっております。

このところ、可能なときは朝まだ日の昇らない、一番護摩に間に合うように五時起きをして支度を整え出かけるのですが、今年はなんと夫も参拝するとのこと。
…朝に滅法強い妻と、完全夜型人間の夫。
その、夫の宣言に、私は朝一番のお護摩をあきらめ、朝起きていつもの通りに洗濯を始め、お風呂掃除をしておりました。

ん?
な、なんと夫の寝室のドアの開く音が!
えっ?、ええぇっ!まだ五時半ちょっと過ぎたところですが?

本気だったんだぁぁ!

ええ、先日の同じく群馬県みどり市の【貴船神社】さんへの初詣も
「起きられないから一人で行って」
との賜った夫です。しかもその時の時刻は六時半。
到底期待できず、一人で行こうか、それとも諦めるしかないかとまで思っておりましたものを。

それでも寝ぼけているやもしれない夫に運転させるのはためらわれ、私の(!)運転で光榮寺さんへと向かいました。

コロナ以前には花火の打ち上げの合図のあった光榮寺さんの初薬師大祭も、コロナと共に様変わりを余儀なくされ、花火の合図もなくなりました。

静かな、まだ暗い町、車を走らせていると、海外出張に向かう夫をバスターミナルまで送っていたときのことを思い出します。
…今年はどうなのかなぁ。
アフターコロナの時代が流れ出して、海外出張もまたありそうな話をしておりましたが。


などと考えている間に光榮寺さんのそばまで。

はっ!
駐車場!
こんなそばまで来てしまった!

来年、こんな側では停めるところがなくて、遠くの駐車場から歩いてきていたというのに、…夫と一緒だとどうも調子がくるいます。
(おい!いつもいつもあちこちの神社さんやお寺さんに連れて行ってもらっているであろうに!)




No.109

「ねぇ?この間連れて行ってもらった富士浅間神社さま、だいぶ前から行きたいって言っていた気がするのだけれど、何か訳でもあったの?」

今さら聞く…。

「だって『藤岡』っていう地名の由来となった神社さんだよ」
ふ、ふーん。そう、みたいだね。

『富士岡』が変じて『藤岡』となったと云われています。
実はそれ以前はこの辺りは『常が岡(ときがおか)と呼ばれていたようで、隣接する『富岡』とまぎらわしかったこともあり、
【富士浅間神社】さんが建てられたのをきっかけに『富士岡』となり、現在の『藤岡』となっていったようです。


こちらの神社さん、実はいつの頃から神社があるのか、詳しく分かっていないといいます。
ただ、千年ほど前の平安時代、小高い丘の上に神をまつる建物を建てたのが始まりと考えられているそうです。
このころは『従五位上郡御玉明神(じゅごいかみごおりみたまみょうじん』という名前の神社であったといいます。


鎌倉時代、日蓮上人が佐渡へ流されて、そののち赦され帰る途中、藤岡市のあたりに立ち寄ったといいます。
富士山の神を厚く信じていた日蓮はこの地にも富士の神を祀りたいと考え、神の御霊を勧請したといいます。
そしてその際にこちらを【富士浅間神社】と名前を改めたといいます。

戦国時代の終わりごろ、この辺りを治めた『芦田泰貞』公が『藤岡城』の築城と同時に、土地の守り神であるこちらの社殿を建て直し、大きく広げたとされています。

その後時は流れ。
昭和四十(1965)年にこちらは火災に遭い、現在の社殿はその四年後の昭和四十四(1969)年に建てられたものだといいます。


昔、本当の富士山へは気軽にお参りできなかったので、日本各地に富士山に見立てた丘の上に神社が建てられたといいます。

この、丘の上に建つお社を見て、日蓮上人は富士の神さま、木花之開耶姫命さまをお祀りしたいと思ったのでありましょうか。


No.127

そして。

私どもの車は第二駐車場を目指して進むのですが…渋滞しております。嫌な予感しかしません。
(空き待ちしてる?)
いえいえ、交通指導員というか駐車場指導員というか…少し派手めな制服を身に纏った人たちが何人も立っており、
「駐車場はすべて満車となっております。近くの駐車場をお探しになってください」
…それすら窓を開けておばさんが聞いてのこと。
ただただ手で駐車場をふさぎ、先へと進むよう指示するのみです。

ひえぇぇ。空いてる駐車場って?
今まで通ってきた民間の駐車場みたいなところってこと、ですかね。
初めて訪れた地、呆然としかけたその時、ナビに周辺施設の案内ができることを思い出したのです。

『駐車場』
ポポポポポッ!
出たぁ!

駐車場はどうやらたくさんあるようです。
もちろん無料駐車場とかではありませんし、もはや値段の比較とかしている場合でもありません。
空いていたら入れる!


…結局、けっこう離れた、時間制のコインパーキングに駐めることに。それでも駐められてラッキー、なのかもしれません。




(大宮氷川神社さんとその参道の写真)

No.134

大宮氷川神社さんの拝殿前に置かれた巨大なお賽銭箱は、しっかりとした丁寧な造りで、そんなところに感心していたおばさんですが、
それでも、やっと参拝できた拝殿の全貌がほぼ見えなかったことにはがっかり。
しょぼんとしたおばさん、ハッと我をとり戻し、その巨大な賽銭箱の前へと進みました。

大変な人出ではありますが、さすがに(おそらく)初詣のさかりは過ぎていて、お賽銭箱の前に列ができているようなことはなく、逆に好きなところから、好きなだけ、神前に手を合わせることが可能であります。
(あれ?これって次の方とかまわりの方に気を使わずに拝殿の前で神さまにお話させていただくことができて、いつもよりずっといいかも…)
…まぁ、前述どおり初詣の大変な人出ではなかったからのことではありましょうが。

と。

あまりに広く、さまざまな建物がある境内で、拝殿の横につながる通路にたくさんの人が集っています。
それこそそこには結構な列ができ、拝殿横にある屋根のある空間にも人がたむろしております。
えっ?
並べば拝殿の中にはいれるの?


…違いました。
このたくさんのたくさんの人の列は、御祈願をお願いして昇殿を待つ人たち、だったのです。

ひ、ひ、ひえぇぇぇっ!

No.145



…ニ、ニホンリスぅ?

初めて聴く名前です。
エゾリスとか、シマリス、台湾リスとかは見たことがあったのですが、
ニホンリス、ですかぁ。

…いない、じゃん。
冬だからなぁ。
リスって冬眠するんだよなぁ。
…。

うん?
あれ?
出、出てきたぁぁ♡

…うわあ♡…かわいい!

シマリスよりも少し大きくて、台湾リスより少し小さい。
シマとかはなくて、うす茶色の身体でおなかの部分が真っ白です。

一つ一つのしぐさの可愛らしいこと。
お顔も可愛く、目も可愛らしい。


…おばさん、どれだけここにいたんだろ。

はっとわれにかえるまで、リス舎の前におりました。

えっ?
一緒に行っていた夫や息子はどうしてたのか?ですか?

もちろん!
一緒に見てました。

母を動物園に連れて行ったらどうなるか、知っていてあえて教えた息子です。そして息子もまた動物好きでありますし。
彼の撮る動物や鳥、花の写真は結構イケてるんです。



  (ニホンリス)

No.200

が。

…何故『寅』なのか。

丑寅年生まれの守り本尊であられる『虚空蔵菩薩』さまが祀られる『片貝神社』さんだから、にしても。
前橋城から『丑寅』の方角にあるから、にしても、〝丑〟だっていいわけです。

…まぁ、うしとトラだったら、誰がどう考えてもトラの方が早いし。
あ、でもこの場合走る速さとかってなんら関係もないのですよね。

午(うま)よりも早い干支っていったら、どこからのスタートかにもよりますが、たいていが『子・丑・寅・卯・辰・巳…』とくるわけで。

なんとなく辰(龍)とかの方が速そうだし、(だから速さは関係していないのだって!)

干支のスタートという意味から言ったら当然『子(ネズミ)』ですし…。
丑(うし)の方が順番的に早いわけですし。

何故?

いろいろ調べてみたんです。

松平朝矩公の、前任地(正確には父の)である播磨の姫路に『早虎稲荷神社』さんはあるか、とか。
生まれ年の干支は何かとか。
前橋藩主になられた年の干支は何かとか。

ぜ〜んぶ、空振り。

奥方さまの…とも思ったのですが、奥方さまの資料はhitせず。

朝矩公って父松平明矩公の急逝により十一歳で姫路藩を継ぐのですが、『姫路』が西国の要所であったため、幼少であることを理由に、その時前橋藩主であった酒井忠恭公(なおかつ、この方は幕閣の重鎮であります)と交代で前橋藩への転封となっておりまして。

朝矩公の頃にはもう〝あの〟名城とうたわれた前橋城も城郭の破壊が進んでいて、本丸まで侵食してしまっておりました。
なので、前橋城におられた期間は十八年。

その間のどこかでこの【早虎稲荷神社】さんを造営されたわけであります。
これがいつだったのか。
巳年の年に前橋藩に転封され、九年後、九年後であればちょうど寅年にあたるのですが…。


まぁ、わからないものはわからない。なにせ二百五十年以上前のことです。

能満虚空蔵尊さまの御堂の前に立つ『狛寅』さんに笑われてしまいましょう。
そしてなにより『虚空蔵菩薩』さまに。

No.217

【菩薩】はもともとお釈迦さまの前生での修行時代の呼称であり、それゆえお釈迦さまが出家する前の姿がモデルとなっています。
このため、きらびやかな装飾品や宝冠を身につけた〝王子〟としての裕福な姿に造られます。

二世紀の中ごろには菩薩像も造られるようになっていたようです。
最初はただ菩薩像とだけいわれ、〇〇菩薩などという区別はありませんでした。
三世紀ごろ観音菩薩や弥勒菩薩が登場し、時代とともにさまざまな菩薩が誕生しました。

後世、大乗仏教では、菩薩は如来の衆生救済の手伝い(補佐)をする、と考えられ、
『弥勒菩薩』さまをはじめ、『文殊菩薩』さま、『普賢菩薩』さま、『観音菩薩』さまなど、実に多種多様な菩薩が生まれました。
これら菩薩の中で、特に多様な発展を遂げたのが観音菩薩さまで、『十一面観音』さまや『千手観音』さまなど、さまざまな姿の観音像が造られるようになりました。


ちなみに。
サンスクリット語で「バーディサットヴァ」、これを音写して『菩提薩埵』と書き、これを略して『菩薩』と呼ぶのだそうです。
『菩提』は悟り、『薩埵』は衆生の意味で、菩提薩埵で「悟りを求める衆生」、という意味であるといいます。

No.223

またこの〝多胡碑〟の碑文は「続日本紀」にも書かれているのだといいます。

多胡碑は、奈良時代初めの和銅四(711)年に上野国の十四番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑となります。

建郡に際しては、【羊】という渡来人とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったとされます。
碑を建てたのも、この羊であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げています。

多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯で、かつて緑野屯倉(みどののみやけ)や佐野屯倉(さののみやけ)というヤマト政権の直轄地が設置されていた領域と重なり、当時は先進的な渡来系技術が導入され、窯業、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地域であったとされます。


…いつになったら神社さんの話になることやら…。
ただ、そうした背景があっての『辛科神社』さんであるということは、殊、歴史オタクである夫にとっては重要なことで、彼は再拝である今回もまた宮司さま不在のためいまだに購入に至らない、こちらの神社さんの社務所において売られている『辛科神社と羊太夫』(…というタイトルだったかと思うのですが…)をどうしても読みたいのだと熱く語るのでありました。

なんでも、こちらの(まだお会いできていない)宮司さまは多胡碑記念館長であったそうで、その名も神保さん。
神社さんに関係する方は〝神〟の文字を含んだ姓の方が多い気がしますが、実はこの辛科神社さんの住所が〝吉井町神保〟でありまして、その辺りからも本当に古くからの土地であり、ここを守られておられる一族の方なのであろうなと、感銘いたしました。



白木の鳥居をくぐって。
随身門(切妻、銅板葺、三間一戸、八脚門)は江戸時代後期の寛政九(1791)年に修復されて現在に至るものだとされます。

こちらには、本来いるはずの隋神さまの姿はありません。

こちらには、随神さまの代わりに、『神獣』が祀られているのです。


…神獣って、凄くないですか?
でもそれを拝するともっともっと凄いと思うのですよ。

そのお写真をご覧いただけば、一目で私の語彙力の無さは一気に解消されましょう。



それがこちらであります。

 (辛科神社さんの神獣さま)

No.239

おひな祭りに欠かせない雛人形も、古くは『流し雛』として、自身に降りかかる災難を人形(ひとがた)に肩代わりしてもらい、厄や穢れを水、…川などに流していたものです。

そしてひな祭りと言えば桃の花。
旧暦の三月は、ちょうど桃の花が咲く頃でもあり、それなので『桃の節句』とも呼ばれます。
桃の木も厄除けや鬼門除けとして邪気を祓うとされます。

…じゃあ旧暦のおひな祭りっていいこともあるのでは…?

いやいや、カレンダーの三月三日に『おひな祭り』って印刷されるくらい、ほぼ全国的におひな祭りなわけで、桃の花もちゃんとお雛さまを飾る二月に間に合うように農家さんは咲かせてくださっており、そして三月三日くらいまでが販売のピーク。

と、いうことで、家に桃の木のないわが家は『桃の節句』でありながら桃の花が飾れたことがほとんどないんです。

さらにはお雛さまの防虫剤も季節商品なので入手困難、これは三月のおひな祭りの時期に入手しておかないとならず、いろいろ大変なこともあるんですけれどね。

とはいえ、大人になって聞いたことに、群馬県の随所随所では旧暦でおひな祭りをする地域があるようで。
今住んでいる辺りでは、何軒か旧暦おひな祭りのお宅があるみたいでした。

そして。
ひな祭りを終えるとすぐに雛人形を片付ける風習がありますよね。
私の住む辺りですと〝嫁に行くのが遅くなる〟とか言われております。

まあ、そういった意味では、もう娘は嫁いでおりますので、なんなら一年中飾らせていただいてもいいんじゃ…。
いやいや出戻りでもされたら大変なことなので、やっぱり佳き日に速やかぁに片付けている…毎年恒例のおばさんのおひな祭り事情でした。



  (河津桜)

No.255

と。

無患子愛を熱く語ったところで、はたと気づいたことがあります。

…もしかしたら、もっと身近にムクロジの木はあったのかもしれない、と。
もしかしたら、ムクロジの木の真横を通り過ぎたことすらあったかもしれない、と。

植物に(も!)疎い私は、真横にムクロジの木がありながら、足元に誰にも拾われないムクロジの実がありながら、ずっとずっと気づかずに過ごしてきていたんじゃないかと。


ありえないことではありません。

木の実を隠すなら森の中。
…とは言われますが、無知な人間にかかったら、望みのものが目の前にあっても気づかないかもしれません。
こういった場合は
…灯台下暗し?
…魚の目に水見えず?



 (ムクロジの木となっているムクロジの実)

No.265

宇藝神社さんの氏子総代さんからいただいた、ムクロジの実(種)を手放したのは、次の目的地。



夫がどうしても寄りたいと言ったのは…。
上信電鉄『南蛇井(なんじゃい)駅』



…「なんじゃいっ!」

ええ、うちの夫、ダジャレ好きなおじさん、なんです。

No.273

山道、というほどではない山へと向かう道を走っていると、いきなり石標が。
…いや、これは。
これは寺標だ。
左側には六地蔵さまが並んでおられます。

え、でも今来た道となんら変わりのない山へと向かう道が続いているだけです。
建物も何も見えてはいないのですが?

しばらく狐につままれたような思いでその…山へと向かう道を走ります。もちろん、運転は夫、です。笑。
そもそも山へと向かう道って…私たち、山に向かうわけではないはず…。

やがて…。
ようやく見えてきた駐車場と思しき空き地、ああ『長學寺第ニ駐車場』と書いてあります。
えっと…?

建物、まだ見えていないんですけれど?

あ、あぁ、小さな池があります。石の隙間から絶えず水が流れています。湧き水でしょうか?
そのわきに上へと向かう石段があります。

あ、…お寺さんです。
いやちがいますね、お寺さんへと向かうっぽい石段が続いています、です。

No.296

【アーモンドの花】

私はいい歳をして花の名を知らない人間です。
知りたいとは常日頃思ってはいるのですがなかなか覚えられずにいます。

とはいえ、今は便利な世の中となり、スマホ一台あれば、見た花をかざしてものの数秒でその花の名を知ることができるようなっています。(必ず合っているかというと、機械の認識なので似た花を挙げることも結構な確率でありはしますが。そもそもその花が登録されていなければそうなっても不思議ではありません)

とりあえず花の写真を撮って、その場で調べ、写真にその名を記しておくようにしており、写真を見ては自分一人でクイズのようにして確認し、少しづつではありますが覚えつつあり…忘れもし…。

見上げた花。
足元に人知れず咲く花。
その名を知っていたなら、なにか人生に膨らみが持て、ゆたかな気持ちになれるよう思うのであります。


今、桜が咲きはじめました。

梅を見れば梅の花だってこんなに綺麗なのに、世の中はどうして桜の花ばかりを愛でるのだろうと憂いたりするものの、時期をずらして桜が咲き始めると心が浮き立つ…愚かなおばさんであります。
それは毎年のことで、梅は梅、桜は桜、比べることが間違っており、愛でられることなど何一つ期待せず、命のままに咲いてくれる花たちは全て愛おしい存在でありますというのに。

そういえば花桃の咲く時期でもあるなぁ。
花桃を今年も愛でに行かなくては♡


ところで。

桜の花って、それこそ何百とあるようで、それを一言で『桜』といって済ませているおばさんであります。

それでも、河津桜やソメイヨシノやヤマザクラ、大島桜くらいはわかるようになってきました、…と思っていたんですけれど、ねぇ。


眠れないまま、…ええ決してしてはならないと言われてはいるのは重々承知しているんですが、ね、ミクルさんをはじめネットをパラパラと見ていたんです。


衝撃。

私、この花を見かけたら、
「ああ、やっぱり桜の花は良いなぁ♡」と足を止めてしばしその花を愛でると思うのです。
…桜、として。


桜じゃないんだそうで。

今まで思い込みで桜と信じて過ごしていたこともあったかもしれません。


なんと!


アーモンドの花なのだそうで。


これは…。
これからもきっと区別なんてできない自信しかありませんが。
名札でも付いていれば別ですが…。


No.302

御本堂での参拝を済ませて。

地蔵堂へ向かいます。
こちらの日限地蔵さまもまた秘仏のようです。
こちらの御堂で御祈祷をお願いできるようです。

…私は…こちらに限らず御祈祷とかお祓いとかを生まれてからたった一度だけしか受けたことがないので、こちらの御堂に上がらせていただいたことはないのですがね。

お灯明はいつもお願いしております。そして、まるでお焚き上げのようになる香炉にお上げするお線香を一束。
いつも元気な年配の女性の方々が対応してくださいます。
このうちのお一人がまさに癒しの方。
やわらかい笑顔を向けていつも丁寧な対応をしてくださいます。そして、きっとその向き合った顔に何か淋しげな影とかを見出すお力をお持ちの方、なのだと思うのです。
そんな心に秘めた思いがあるときはきまって一言二言、会話をしてくださり、小冊子をくださったりなさるのです。

今日も御堂の窓口におられ、いつもの笑顔で対応してくださいました。

そして、あの、風雅御朱印の美しい絵をお描きくださった方ともお会いしてお話をすることもできました。
あれだけ見事な絵を短時間で仕上げる画家さんは、やっぱり笑顔の素敵な方でありました。

こちらへお勤めになられている僧侶が、ぽつんとこぼれ話をされたことに、書いても書いても山のようなご朱印帳だったこと、預かることになってからは御朱印をお書きになられる部屋が御朱印帳でいっぱいになっていたことを明かしてくださったのですが、そんな大変だったことなどおくびにも出さず、ずっとニコニコとお話しくださいました。

「今までありがとうございました」と丁寧にお辞儀をされ、
「こちらこそ本当にありがとうございました」と申し上げましたが…。


…こうしたお寺さんの行事に関わっておられる方というのは、それだけでたいへん良い修行をなされているのでありましょうね。
会話を通して、この方々は魂が綺麗なのだろうなぁとつくづく思ったものです。


来月からは四国霊場ご本尊さまの御姿御朱印となるようです。

…うーん。
うーん。
うーん、これは…。

私の物欲が大変なことになっております。
これも修行と諦めるか。
…御御影としておわかちいただこうか。

ま、来月に悩むとしましょう。


 (観音院さんの風雅御朱印)

No.313

そんな織田家も、明和三(1766)年、藩政の立て直しをめぐって重臣間で内紛が勃発し、たまたまその頃山県大弐の尊王思想の『明和事件』に関わっていたことにかこつけた幕府の処分を受けるかたちで、織田氏は出羽高畠に転封となります。
織田氏による支配は八代信邦まで、約百三十年間続きました。

以後、版籍奉還までの約百年間、松平氏が小幡藩主となります。

発掘調査の結果、藩邸内で使用されている石は織田氏の方が立派で、松平氏は通路や水路などを縮小していることなど、織田氏と松平氏、それぞれの時代の違いがわかるとされます。

広大な武家屋敷地区など、二万石の小大名には不似合いな規模のものは、織田宗家の格式を思ってつくられたと考えられています。

小幡では、そのかつての織田氏の時代を今に伝えるべく、毎年春に『城下町小幡さくら祭り武者行列』が盛大に開催されます。
そのさくら祭り、コロナ禍ということで何年か中止されましたが、今年は今度の日曜日、四月二日に開催されます。

小幡という町の人口や規模から考えるとかなり大きな大きな、大々的なお祭りで、まさに町をあげての一大イベントとなっているかと思います。

桜の花の時期は…今回のお祭りの時期には少し散ってしまうかなぁ。
…桜の花の盛りは短いですからねぇ。


…どうかなぁ。


No.323

花の咲かない時期でも思わず目を奪われる枝垂れ桜の樹。
花の時期はことさらで、まずは御本堂にお参りを、と思う心をもつい気づくと引かれてしまっています。

まっすぐ、まっすぐ!

御本堂の中もたくさんの参拝の方がおられます。

こちらは土間の部分から一段縁を設けて、そしてぐっと高い位置に内陣があります。
ご本尊の釈迦如来さまは高い位置からやわらかなまなざしを向けてくださっておられます。
私どもが本堂に入って手を合わせるとき、ちょうど目の合うようお立ちになられているのだと思います。

そしてそのせいもございましょう、寒さの残る頃に来ても、暑い夏に訪れても、いつもいつも心地よい御本堂であります。
高い高い天井です。

お書き置きの御朱印と、御守り。
あの身替地蔵札もここにありました。
お寺の方が中をほどいて見せてくださったことに、包み紙の中に小さな小さな紙片に描かれたお地蔵さまのお姿があり、これを天然のお水で飲むのだといいます。
そして包み紙をさらなる御守りとしていつも身につけておくのだといいます。
内臓病に効くという御利益は、退化するばかりの脳にも効いてくださるのかなぁ。


寛政五(1793)年に建てられたというこの御本堂、少しも古さを感じない、いつも澄んだ明るい気に満ちた、いつまでもいたいと思うくらいの、私の癒しの空間のひとつです。

…ただ、土間の部分は奥行きはさすがにあまり広くはなく。
あまり長くいられはしないのですが。

ご本尊さまから尊い紐が御本堂の外の柱もありがたく、いつもしっかり五色の紐を握りしめて癒しをいただいております。
はたから見るとそれこそ長々願いごとをしているように見えるくらいに。

こちらではもう、そんなお願いことなどする気持ちにすらならないんですよね。
ただただ癒していただいたことに感謝するばかりで。


これって…すごい御利益でしょう?
この煩悩の塊のおばさんが、ひとときとはいえ、煩悩がない状態になるということでしょう?


いくつかそんなお寺さんがあります。

そこへ足繁く通ったならば、煩悩が少しでも消えていくのかしら。
…と思うことがすでに、煩悩?


No.374

本日、二十二日は如意輪観音さまのお縁日。

私はずいぶんと長いこと神仏に関わらず生きてまいりました。
お参りの仕方もネットで調べるくらい、何一つわからないような、情けないおばさんで、何よりも情けない母でありました。

そんな私がなにが失礼で、どうお参りすればいいのかもわからない状態で、おそるおそるお詣りをしておりました頃、(…今もわかっていないことはたくさんあり、相変わらず礼を欠いたお参りをしている可能性すらある…)
お寺さんをお参りすると、如意輪観音さまの石像をよく見かけるのです。

当然、その御仏がなんとおっしゃる御仏かもわからないまま、ただ手を合わせておりました。

アンニュイな眼差しとアンニュイないポーズと。…なんとお美しい御仏でもありましょう。
私は一目でこの御仏さまのとりこになりました。
石造の如意輪観音さまにお会いできるたびに、…それだけでウキウキしてしまうのです。

【如意輪観音】さま。
如意輪とは梵語『チンターマニ・チャクラ』の意訳なのだそうで、チンターマニが『如意宝珠』、チャクラが『輪宝』のことだといいます。
そのお姿は二臂あるいは六臂の二種。
『臂』とは手から肘までの部分をさすといい、つまり二本の腕、あるいは六本の腕を持つお姿をされているということであります。

そのいずれにしても、
如意輪観音さまは小首を傾げられ、傾げた右の側の頬に人差し指をそっと当てて、片膝を立てたお足にその膝の部分を置くともなく、そっと付けた姿勢でおられます。
いかにもなにかをお考えになられている、というお姿であります。
また、如意輪観音さまは『輪王座』という独特な座り方をしておられ、一説には足の裏と裏を合わせて足で合掌している姿とも言われているそうです。
それがまたなんともアンニュイな…。

なんとも優しげな、いかにも女性を、殊に〝母〟を思わせるようなお姿であります。


如意輪観音さまの腕が六本あるお姿でありますのは、六道すべてに功徳を施すさまを表しているといいます。

右の第一の手は先ほど申し上げた、小首を傾げた頬に当て、いかにもなにごとかをお考えになられているご様子。
さもあらん、これは地獄道に堕ちた衆生をいかにすくうべきか考えておられる〝思惟(しゆい)〟のお姿であります。

No.389

昨日は群馬県みどり市の光榮寺さんの境外堂でありますはねたき道了尊の御縁日でありました。

何度かはねたき道了尊のことについては書かせていただいておりますが、現在地の近くにあった道了尊さまが台風で流されてしまったといいます。
それでも熱心な信者さんは道なき道をたどって道了さまの祀られていたところにお参りしていたのですが、整備されないまま時間だけが経過し、信者さまたちも歳を重ねられ、参拝が危ないということもあり、今の位置に光榮寺さんの境外堂として新たにお祀りされた経緯があります。

こちらでは毎月二十八日に法要が営まれます。

境内にはやはり川のそばにおられた不動明王さまも移動されお祀りされています。
お不動さまもやはり二十八日が御縁日ですので、同時に法要を営まれます。

その席で今回、なんとあの手彫りのお不動さまの握り仏を御授けいただけました。


まさに掌のお不動さま♡

そっと手に握らせていただくとそれだけで心が温かく、軽くなります。

帰り道、お不動さまを胸元に握りしめスキップしそうな私がおりました。

No.392

(つづき)

えっ?
ちょっと待って?
すぐ帰るからと言っていたのにまた会ったということは〝嘘〟をついていたということになるのでは?
…そう思われた方もおられるかと思います。
たしかに「すぐ帰るから」という言葉だけ取り出してみれば〝嘘〟になるかもしれません。
すぐ帰るからという言葉が無くとも、小さな子どもとおばあさんはありがたいと思ったことでしょう。

しかしながら、この「すぐ帰るから」という言葉があったため、私は、
少年に、まだそのボールをまだ使いたいと思う思いを我慢させて譲らせてしまったと思う罪悪感も抱かずに過ごすことができました。
小さな子どもといえどもルールはルールと教える場面でもありました。

この少年の言葉、「すぐ帰るから」というものが添えられただけで、状況はこれだけ変わることができたのです。

それでも〝嘘〟は〝嘘〟と言ってしまえばそれまでです。

しかしながら、この少年の行いや心には大人でも学ぶべきものが備わっていると思いました。


仏さまの教えには【四摂事】【四摂法】と呼ばれるものもあります。

【四摂事】とは

1. 布施(ふせ)・・・物質的、精神的に得たものを独り占めしないで、分か ち合うこと。

2. 愛語(あいご)・・・優しいことば、慈愛に満ちたことば、愛情のこもった ことばをかけること。

3. 利行(りぎょう)・・・見返りを求めずに、人のためになることをする。

4. 同事(どうじ)・・・相手の立場に立って、物事を行うこと。


…私にはこの少年の行い、心、言葉には、この全てが込められていると思えるのです。

これこそが仏教のいう
「生きとし生けるもの全て仏性(ぶっしょう)を持つ」というものであろうと思ったのであります。


人は何気なく生きていても、その瞬間瞬間に学ぶものが存在しているのだなぁとあらためて思いました。


ありがたい出会いでありました。

No.394




No.396

新潟県では道路上に【矢羽根付きポール】を生まれて初めて見ました。
豪雪地帯では降り積もった雪によって道路の車線が見えなくなってしまうため、車線がどこにあるかを把握しやすくするために置かれているもの、なのだといいます。

10センチでも雪が積もろうものなら、たちまち交通障害が起き大騒動となる地域の者には珍しいものとなりますが、これがなくてはならないのが豪雪地帯、日本の広さをあらためて感じさせられました。

新潟を抜けて入った長野県もやはり豪雪地帯で、栄村、そしてお地蔵さまの立たれる飯山市西大滝地区も雪深いところなのだといいます。

それゆえお地蔵さまの立たれる台が私の背の高さに対してもかなりの高さまでありました。
それでも雪の季節にはお地蔵さまはすっかり埋もれてしまうのだそう。

ただただびっくりするばかりです。


震災から十二年が経って、被災地の復旧、復興は進んだのでしょう、特に被災された傷跡が残るような場所を見かけることはありませんでした。
ただ…。どなたも住まわれていないだろうおうちがいくつもあり、調べてみたところ、やはり震災後地域人口は大きく減少してしまっているのだそうで。

それでもお地蔵さまのお召し物は新しそうな手編みの大きなお掛けとお帽子で、今なおこのお地蔵さまが地域で大切にされていることがわかるものでありました。

「もうそろそろ、向きを元に戻したら?」という声もあったともいいます。
しかしながら地域を大きな被害から守り、復旧、復興を励まし続ける六地蔵さまは現状のまま存置していく考えだといい、ホッとした思いのした私であります。


No.397

このあと行ったのは、菜の花畑。

まさに一面菜の花!
全周菜の花!でありました。


こういう風景を前にして、すぐ浮かぶのが、山村暮鳥の詩
「風景」 
    
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     かすかなるむぎぶえ
     いちめんのなのはな



ただただ繰り返される「いちめんのなのはな」。

「かすかなるむぎぶえ」
「ひばりのおしやべり」
「やめるはひるのつき」
と、連ごとに挟まれるところが、プロの詩人であります。


が。
実は飯山の菜の花畑は、「菜の花畠に入り日薄れ..♪」と唱歌【おぼろ月夜】に歌われた場所なのだそう。


普段はロマンのかけらも感じられないくせに超ロマンチストな夫は、まさに〝菜の花畠に入日薄れ〟る頃までいたかったようなのですが…。

たしかに、遠く残雪の山々と、優雅に蛇行する千曲川と一面の菜の花。

こんな贅沢な思いをしてよいものかと思うくらいの光景ではあるのですが、さすがにあと三、四時間ここにいるのは、ちょっと…かなり、私が無理、かな。

温暖化の影響から開花の時期が早まっているようで、ちょうど一週間前くらいが満開の時だったようで、ちょうどこの日から菜の花畑祭りだったようなのですが、その開花状況はすこぉし、残念な感は否めませんでした。

その千曲川を挟んだ向こう岸に一面黄色い風景が見えます。
あそこも菜の花畑?

しかし、ロマンチストのスイッチが入った夫はあくまでも【朧月夜】の
菜の花ばたけに 入り日うすれ
  見わたす山のは かすみ深し
  春風そよ吹く 空を見れば
  夕月かかりて においあわし

の風景を味わっていたいよう。

実に五回、「あちらの菜の花はまだ盛りの時期みたいだから移動してみない?」と申し、ようやく、それでも名残惜しそうに『菜の花畠』を後にした夫。
ごめんね、ロマンのかけらもないおなごで。

移動した場所はその名も『花の駅 千曲川』。

この写真の菜の花畑です。

ちなみに。
菜の花は、菜種油を取るアブラ菜の花が一般的ですが、この地域では信州らしく、野沢菜の花、とのこと。小松菜なども収穫せずにおくと菜の花になります。


No.402

「ギンリョウソウって珍しい花が咲いているの、ご覧になった?」

ウォーキングによく行く地元の低山を歩いていて同年輩の女性に不意に声をかけられました。

「えっ、も、もう一度お願いできますか?」
「ギンリョウソウ、っていうの。珍しいから是非見たほうがいいわよ」
「ありがとうございます」

と、その方はわざわざ道を戻ってくださって、ギンリョウソウの咲くところへと案内してくださいました。

…。
…ニョロニョロ?

「ユウレイダケとも呼ばれるのよ。馬の立髪に見えるっていう人もいるらしいわ」

…私はニョロニョロに見えます、とは言えなかったですが。


ギンリョウソウは銀竜草と書くようです。
名前の由来は白く光りまっすぐに伸び、首をかしげたような姿が銀の竜のように見えるから、だといいます。
確かに。
形はタツノオトシゴとよく似ています。

薄暗い林の中、木の根元に張られたロープの中で、ニョロニョロの集団がいくつか。

この低山、実は数々の花の咲く花の名所なのだそう。
まるで知らなかったです。
気づきもしなかった。

花言葉は「はにかみ、そっと見守る」。たしかに林の中、うつむく姿はたしかに、はにかんでいるようにも見えます。
私に言わせると、…ニョロニョロが、なんですけど、ね。


こちらのお山。
実は小さな祠があって、北向観音さまと呼ばれています。

いつもお花やら飲み物がお供えされています。

この、ギンリョウソウを教えてくださった方にお会いできたように、
この北向観音さまのいわれをご存知の方にいつかお会いできる日はくるかしら。


No.407

NHK大河ドラマ「どうする家康」の木彫りのウサギさん。
この七日の放送にも登場したようです。(あとで見なくては♡)

素朴で可愛らしくて好きなのですが、実はあのウサギの彫刻、群馬県前橋市出身の仏師の方が彫られており、主演の松本潤さんに木彫りの演技指導もされています。

関侊雲(本名・勇一郎)さんは仏師の道に入られて約30年となられるとのこと。
現在は、富山県にお住まいで、富山県南砺市に主な工房を構え製作活動、弟子の育成をされておられますが、群馬県内にも二か所木彫教室をお持ちになられています。

以前からこちらの教室に通いたかった私だったのですが、近くの教室は曜日の都合がどうしてもどうしてもつかないため、泣く泣く諦めたもので。

関侊雲先生のお仏像や木彫、仏画は前橋市や高崎市のお寺さんで拝見することができるのですが、どれも心打たれぽあぁっとしばし立ち尽くす私。

木彫りのウサギは少年の頃の家康が彫ったものということで、あのような素朴なものになっていますが、素朴なものであっても均整のとれたものとなっていますよね。
あれを初めて見たとき、(家康、うますぎじゃない?)と思ったくらいでしたので。

第一話では、松潤演じる少年期の家康が木を削ってウサギの木彫りを作るシーンであったため、少年という設定に合わせて身体を小さく見せる構えなども教えられたといいます。
また松潤に基本的な彫り方も教えておられ、
「(松潤は)思った以上に手つきが上手だった。一生懸命、練習をされるので、(けがをしないか)不安だった」と振り返っておられました。

引き続き今後もドラマのために新たに製作した作品も登場する予定だといいます。
侊雲先生は「松本さんやスタッフの方と話し合いながら、その時その時の心情に沿った手つきや気合を模索していきたい」とおっしゃっておられました。


うーむ。
…少しだけ遠いけれど、やっぱり侊雲先生の教室に通おうかなぁ。


あ、ちなみに私は松潤のファンではなく、あくまでも侊雲先生のファンなので。

No.411

観音霊場の一つに、坂東三十三観音霊場があります。

三十三という数字は、観世音菩薩さまが衆生の苦しみを救う際、相手に応じて三十三の姿に変化して救済するとされているからです。
西国観音霊場、坂東観音霊場、そして秩父と合わせてちょうど百観音となるよう、秩父は三十四観音霊場となっているといいます。

観音霊場巡りは、まず西国三十三ヶ所から始まったものと思われるといわれます。
伝説では、奈良時代、奈良の長谷寺を開いた徳道上人が閻魔大王の勧めで始めたのが最初、とされています。
その後、平安時代後期になって花山法皇が自ら巡礼して広めたとされます。
坂東の札所も西国同様、花山法皇が巡ったのが始まりと伝わります。

とはいえ、これはあくまでも伝説、実際どのように札所が定まったかを明らかにする資料はないといいます。
ただ。鎌倉時代には現在のように三十三の寺院が札所としてほぼ定まっていたのではないかと推定されています。

坂東の霊場は、神奈川県鎌倉市の【杉本寺】が一番札所であること、源頼朝が観世音菩薩に深い信仰をよせていたこと、多くの札所が鎌倉、相模、武蔵に位置すること、などから鎌倉時代の成立と推測されます。

おそらく平家追討のため、京に攻め入った坂東武者が、すでに巡礼の始まっていた西国札所を見聞きし、坂東に広めたのであろうと考えられています。

坂東三十三観音巡礼が庶民に広まったのは室町時代とされます。
栃木県足利市の鑁阿寺などに三十三観音巡礼をしたという巡礼札が残されているといいます。
巡礼がもっとも盛んにおこなわれ、札所が賑わったのは江戸時代であっったとされています。

巡礼路は全行程約千三百キロ。
東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、栃木県、群馬県にわたり札所が点在しています。


いつか坂東三十三観音霊場巡礼もといいながら、コロナのせいで果たせず。
ただ、あらためて坂東三十三ヶ寺を見直してみますと、御朱印こそは拝受していないものの、結構まわっていたことをしりました。

茨城県、千葉県が未踏ではあるものの、あとはほとんどお詣りさせていただいておりました。

もちろん、三十三観音霊場巡りは、目的をもって、発願(ほつがん)し結願(けちがん)するのが目的ですので、当然再拝となるお寺さんがたくさんあるということ、…なのですが。


さて。
珍道中の相棒はどう思うのだろう。

No.439

先ほど帰宅したら、私に宛てて封書が届いておりました。
特段絵などない、いわゆる普通の淡いグレーの封筒です。

裏を返すと、【日光山輪王寺常行堂】と書かれているではないですか!
ぽわぁ♡

ラブレター…ほどではありませんが、それは確かにラブレターほどではないのではありますが、…なんとも嬉しく、ワクワクしたのも確かであります。
檀那寺さんのない私にお寺さんからお便りをいただくなど、とても嬉しく、なんだか光栄に思えたのです。

…えっ?変わったおばさん?
まぁ、そのへんは何レスかお読みくださった方はすでにご承知のことではございましょうが…。
仏縁、とまではいかないのでしょうが、お寺さんとご縁ができたようで、とても嬉しく思えたのです。

まぁ、理由は単純。
昨年、常行堂さんで回向の法要をお願いしたご縁から、なのですがね。


ああ、行きたいなぁ、日光。


 (そろそろネズミの額ほどの庭
  にも咲きはじめた紫陽花)

No.449

さて。

こちらのお寺を訪ねさせていただくこととなった【閻魔堂】へと向かいます。

閻魔堂は山門をくぐった向かって左側。
お堂の前で手を合わせ、またまたおばさんの得意技を。…こんなおかしな話はないですよね。
閻魔さまに自らの罪を詫びんがためにこちらを訪れている身が、よりにもよってここ、閻魔さまの御前で、『覗き』という罪を重ねるなんて。

…まぁ、そんな浅ましいおばさんです。

そぉっと覗いたお堂の中。


大きな…やはり丈六になるのでしょうか、大きな軀の閻魔大王が正面に座しておられます。
鮮やかな色彩で彩色された御像であります。

そして何よりも。
弾けるばかりの笑顔、なのです。

えっ。

…たしかに栃木県益子町にあります【西明寺】さんの閻魔さまも、『笑い閻魔』と呼ばれるくらいに、一見笑っておられるように見えるお像であります。

が。
たしかに、西明寺さんの俗名『笑い閻魔』さまも破顔一笑されておられますが、西明寺さんの閻魔さまは、「片腹痛いわ!」といった感じで笑いを浮かべた瞬間を切り取ったかにも見えるのです。
傍らに事務官も控えておりますし。

こちらの、玉泉寺さんの閻魔さまはどう見ても…笑っておられる。

にこぉっと、まるで「よく来たなぁ」とでもおっしゃっているように見えます。

…まぁ、閻魔さまにお会いするってことは『地獄』ですので、閻魔大王に「よく来たなぁ」と笑顔で言われることは、それはそれで身も凍るほど恐ろしい事態、なはずなんですけれど。


…和むんです。
どう拝しても、…和むんです。


それでも。
それはそれで和んだ気持ちのままに自分の犯した罪のあれこれを認め、今後少しでも正しい道を歩んで行こうと思っておりますことを伝えさせていただきました。

特記するならば、こちらの閻魔さまの前には、大釜が置かれていました。
『地獄の釜』、なわけですね。

地獄の釜の蓋はしっかりと閉じられておりましたが、ね。

参拝を終えて、貼り紙を見つけ読みますと、な、なんと!
扉は開いていたとのこと。

覗きという罪をまた一つ重ねたというのに、フタを開けたら、覗かなくとも戸が開くとかいうオチが。

はぁ、やれやれです。
さすが珍道中おばさんです。

ちなみに夫は、180センチという身長なため普通にお堂の前に立つだけで、閻魔さまのお顔が見えるのでありました。





No.451

タイサンボクという花を知っていますか?
『泰山木』と書きます。

泰山木は梅雨の頃に、それはそれは芳しい香りを放つ大きな白い花を咲かせる樹です。

花の大きさはちょうど手のひらいっぱいの大きさでしょうか、それはそれは大きな白い花です。

泰山木は、花の咲くを見る前に、その遠くまで届く甘く爽やかな香りを嗅いで近くに泰山木の花が咲いていることを知るほどです。

開花時期は六月上旬から七月上旬で憂鬱な梅雨空を爽やかにしてくれる、そんな花です。
最盛期の花は凛として、気高いまでの美しさです。

この泰山木、背丈がかなり大きくならないと花が咲かないといいます。
なので花の時期にその甘い香りのもとをたどって行って、泰山木のあるところを知ったりします。

葉の形は大きな長い卵形。

ただ。
泰山木は花が終わっても花弁は散らず、いつまでも枝先に残っているので、枯れ色の花は少し汚く思えてそれに何ともいえない哀れを覚えるのであります。


そんなまさに泰山木の咲くころ、帰らぬ人となった母の菩提寺の山門のすぐそばにこの樹があって…。
祥月命日にお寺を訪ねるときまってこの泰山木の香りが私を癒してくれるのです。

No.479

紫陽花は浄化の花とも言われています。
また、七変化する色味から『七つの病を吸い取る』と珍重されてきたともいいます。


紫陽花の花は私の好きな花の一つ。

しばらくは活けられた紫陽花を見てはニヤニヤ、庭は出てネズミの額ほどの庭に咲いたいく種類かの紫陽花を見てはニヤニヤして過ごす日々が続きましょう。


ことに庭では通りかかった人に不気味に思われないようにくれぐれも注意しなくては。


No.495

母の祥月命日。

今年は泰山木の花が少ないようで、それゆえ、当然のことながら香りもあまり感じられない。
それでも今まさに開こうとするつぼみがあって、その可憐さにため息が漏れた。

夏椿が咲いて、枇杷がたわわに実っている。


季節ごとに咲く花が私を癒してくれる。
来月には睡蓮が咲いているだろうな、咲いているといいな。



(『隅田の花火』という品種の
  紫陽花)

No.496

今日、大変変わったお花をいただきました。
ひとつの花を一折り、長さにして10センチくらいのものをいただいただいただけだというのに、甘い香りが部屋中にただよっています。

それは【菩提樹】の花。

群馬県桐生市の【正円寺】さんの境内で、ご住職さまが自らの手で手折ってくださいました。

寺標の柱を境に、向かってみぎてに菩提樹が、ひだりてにはナツツバキ、日本ではこのナツツバキを沙羅として扱うこともあり、それが二本、なので沙羅双樹が植えられていました。
…とは言っても、ナツツバキくらいならわかるのですが、菩提樹はご住職に教えていただくまで存じませんでしたくせに。

お釈迦さまが悟りを開かれたのが菩提樹の木の根元。
沙羅双樹はお釈迦さまがお亡くなりになられたときにその横たわるお釈迦さまのお亡くなりになられたとき、おそばに生えていた木であります。
お寺さんらしい木を選んで植えられたとおっしゃっておられました。

その…門ともいえる寺標をくぐると。
高さ40センチ直径7〜8センチほどの青竹を切ったものに、紫陽花やナツツバキの活けられたものが参道の左右等間隔に植えこんでありました。
ああ、お花もお好きでらっしゃるのだなあ。

こちらのご住職さまは、大変まじめで気配り心配りのできるお方でありまして…。
いつ伺っても庭の手入れをされておられ、また偶然にも違うお寺さんでお見かけしたときにも、いつもいつでも、まわりの動きを察しては細々と動かれて働いておられました。

お花もお好きなのでしょうが、それ以上に人が喜んでいただきたいと思われてのことでしょう。

ご住職さまは私どもに対しても、本日、御本堂の中、そして境内を歩きながら、お寺のこと,天台宗のこと、お花のこと、アポ無しで訪れたというのに、それは大変長いことお時間を割いておはなしくださいました。

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