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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣巡り珍道中・改

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旅人さん
21/07/02 03:51(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。



No.2982625 20/01/08 07:18(スレ作成日時)

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No.51 20/04/21 22:48
旅人さん0 

【妙義神社】に向かって車を走らせていくと(┉私の運転であったことはありませんが)、まず妙義山の姿に圧倒されます。
なんとも形容しがたい、断崖絶壁にしてほぼ垂直であったり、ごわごわで、風雨にさらされたことなどなかったような山肌。これぞ山岳信仰の山と思わせる御山であります。
【妙義山】とは複数の山の総称で、南側の白雲山・金洞山・金鶏山等は「表妙義」、北側の谷急山・丁須の頭・御岳等が「裏妙義」と呼ばれているのだそうです。
その中のひとつ、白雲山の中腹に掲揚された白い【大】の文字。これは「妙義大権現」の「大」。かつて徒歩で移動した頃の旅人達の目印となっていたということです。

【妙義神社】はまさにその白雲山の東面にあります。
大きな石の一の鳥居をくぐり、急な上り坂となっている参道を登ると、まずは大きなしだれ桜が出迎えてくれます。そして石段をのぼるとその先に大きな赤い総門があり、その横にさらにさらに大きくそびえ立つ白く美しい石垣があります。
こちらの神社は山の斜面に建てられているものであるため、境内は急な勾配となっており、そのために高さ10メートルもの石垣を築いたのだそうです。石垣は妙義山から採れる安山岩で造られたもので、美しくち密な石垣は当時の技術の高さをうかがわせるものであります。

そして[総門]は高さ13メートル。徳川十代将軍の時代のもので、もともとは白雲山石塔寺の仁王門であったようです。今は風神雷神さまが入口をお護りになられておられます。
門をくぐると石段を見上げるようになるのですが、広々とした空間が広がっていて、穏やかな光と気を身体いっぱいに受け、お力をいただき、あらたな気持ちで石段をのぼってまいることができます。その先にあるのが、銅製の大鳥居であります。
青銅製の大鳥居の足元には、阿吽の狛犬のようなかわいらしい彫刻が施されています。のぼっては癒され、お力をいただき、上へ上へとのぼっていく、妙義神社さんであります。
後に知ったのですが、その大鳥居の左側には樹齢500年の3本の杉があり、この杉を結ぶ三角形の空間がパワースポットとなっているのだそうです。┉うーん、知らなかった。
でも、妙義神社さんの境内を歩くだけでもう充分パワーをいただけております。境内を歩いた時を心に思い描くだけで沸き立つようななにか大きなものを感じるくらいであります。

No.52 20/04/22 05:16
旅人さん0 

こちらの神社さんの創建はじつにに532年と言われています。

妙義山の古名は【波己曾(はこそ)山】、もともとは【波己曾神社】と呼ばれていたようです。
その頃のご祭神は【波己曾大神】。
社はなく、現在の本社の北側にある影向(ようごう)岩」がその磐座であったと伝えられています。当初は自然崇拝だったのでしょう。
時代とともに山の呼び名は変わり、そのなかでいつしか「波己曾大神」から「妙義大権現」へと変わりますが、そうなった経緯などは、はっきりとしたことはわかっていないようです。
以前は本社の北側に【波己曾社】があったのだそうですが、現在は波己曾社は大鳥居北側に遷されています。こちらもまたじつに厳かにして落ち着きのある、なにより暖かみのある社殿で、ここでご祈祷をお受けになっているかたがおられるのを何度かみかけております。
初めて訪れた際にはこちらが本社かと思ったくらいでありました。
ですが、さらに上へとつながっている石段をみあげると、さらなる門が見えて、ああ、まずはこの石段を登るのだなと、思ったことを思い出します。

その波己曾社のあるフロアーに手水舎があります。こちらは狛犬さんがお水をお分かちくださっています。
長い年月を経て、だいぶ傷んだ手水鉢でありますが、苔むした感じがなんともよい風情で、さらには明るい光がよい加減で射し込んで、ここもまた癒しをいただける空間となっております。

さらに石段をのぼりますが┉ここから先の石段は結構きついものがあります。百六十五段、傾斜がそれなりにきつく、なによりも石段が風雨にさらされてかなり劣化しているのであります。特に背の高い足の長い男性、足の大きな方にとっては、昔の石段なので足をのせるスペースが狭く、かなり難儀をされるのではないかと思われます。
そしてみえてくる随神門。気持ちはすでにhighなのですが、すでに駆け上がるのはむずかしいくらい。運動不足の者には軽く修業になりそうです。左右の随神さまはなかなかお顔立ちの整ったお方たちであられ、むかって右の随神さまは虎の、左の随神さまは豹の敷物をお敷きになって椅子に座られております。随神さまと背中合わせに鬼神さま?ユーモラスなポーズでお立ちになっております。随神さまと対になるように、┉なのかどうか、みぎての鬼神さまの腰巻きは虎、左の鬼神さまの腰巻きはヒョウ柄のものでありました。




No.53 20/04/23 23:00
旅人さん0 

さて、ここで話はずれることになるのですが┉二年前息子に連れていってもらったのが、妙義神社さんへの初めての参拝であったと信じて疑ってもいなかったのですが。

実はここ一年の間、自分のアルバムを整理しつつありまして、一度目を通してからそのほとんどを処分しているのでありますが┉そのなかに衝撃の一枚を発見いたしました。
なぜか、若かりし頃の私本人が、妙義神社さんの白い石垣のまえで、写真におさまっているのです。え。え? ええぇっ?
紛れもない私本人でありますし、その背景は間違えようがない、いまと変わることなく美しい白く大きくそびえ立つ、妙義神社さんの石垣なのであります。結婚する三年前くらいに夫が撮したものでありましょう。

上野國一之宮の貫前神社に参拝していたにもかかわらず、まるで、まるっきり、かけらも記憶がなかったときと同じです。まるで記憶にないのです。あのときも夫とふたりで参拝していたようであります。

「(貫前神社さんに)一度も行ったことがないから、是非早く参拝したい」と何度も何度も繰り返し訴える私を、まさか覚えていないことはないだろうから、そう大げさに訴えてまで早く参拝したいのだなぁと解釈してくれていたとかで、夫は夫でその件について一度も否定してくれず┉、後々私が本気だったことを知り唖然としておりました。

あまりに信仰心のない人間が神社仏閣に参拝しても、このように記憶すら残らないということなのでしょうか。


かつて妙義神社さんに行ったことを覚えていないことは、夫にはまだ伝えておりません。
それでもその間、妙義神社さんは小惑星の名前【Myogi-jinjya】となったりし、妙義神社さんも、私も変化を遂げました。
気持ちもあらたな(再々参拝)ということで、今度こそは忘れないということでお許しいただきたいと思います。

No.54 20/04/26 23:37
旅人さん0 

随神門をくぐるとその天井には、金の地に黒い筆をはしらせ描かれた龍が門をくぐる者を見おろしています。鋭い眼光でにらみつけているのですが、なぜかその眼差しが優しく感じられるのです。

そして、門をくぐると、┉なぜか、目の前には拝殿が見えないのです。ひだりてに折れて、ふたたび石段をのぼっていくと、唐門がみえます。その唐門!惜しげもなく施されたみごとな彫り物といったら。
それが惜しげもなく目の前に視ることのできるありがたさといったら! 
唐門に目を奪われしばしその彫り物にみとれ、はっと我にかえると、拝殿がみえます。その鮮やかで重厚な拝殿。
色彩鮮やかなにみえるのは、最近の修復によるものもありますが、社殿の色が黒であることも大きな一因でありましょう。
黒い拝殿は落ちついた雰囲気で、訪れた参拝の者すべてを受け入れ受け止めてくれるような、なんとも言えない大いなるお力を感じます。
神さまがその奥まったところではなく、すくそこまでおこしくださり、私どもの声を聴いてくださっておられるような気がする、拝殿なのであります。

そして、拝殿、本殿の後ろには天狗さまが奉られているのが、この妙義神社さん特有なところです。天狗さまはただ一つ、願いを聞き入れて叶えてくださると伝えられています。

この妙義神社さんの社殿を巡らせていただき、拝殿正面のみぎてに再び門があります。その石段をおりたところに、洞窟のような岩場があり、そこはなかにさらにお社がまつられています。
またさらに歩を進めると、水天宮あり、愛宕宮がお祭りされています。愛宕橋のそばに登山口になっています。
きちんとした登山になっています。入山昭明が必要なものであります。

下りはなだらかな女坂です。

見上げると大きな杉の枝のすき間に見える青空が参拝に訪れた者を見まもり、癒してくれています。
 
今、妙義神社の上空を、新型コロナウイルスを鎮圧するために、飛び回って御尽力くださっておられる天狗さまの翔ぶお姿が見える方には見えるのではないかと、思っている私なのであります。

No.55 20/05/03 08:20
旅人さん0 

新型コロナウイルス感染拡大を受けての、緊急事態宣言発令。そもそもが今現在を生きている人たちにとって未曾有の事態であります、このコロナウイルス感染症の脅威、恐怖。

『不要不急な外出を避ける』こと、それによって他人との接触を八割減らすこと。┉なかなか難しいことのように思っておりましたが、ようやく休日をむかえてテレビを観ると、多くの方々が不要不急の外出をせずに、家で過ごされているのだとあらためて知りました。

「えっ?じゃああんたは普段どおり毎日出歩ってたの?!」と言われてしまうかもしれませんが、仕事がらテレワークは不可能、しかもむしろ休みも取りづらい状況で、週五~六日出勤し、足らない食材や必要なものがあれば仕事帰りに買い物をして過ごしておりました。
仕事帰りに寄るスーパーは駐車場も店内も、この事態となる前と全く変わらぬ混み具合ですし、県外ナンバーの車はむしろ増えているくらいで、正直、簡単に人の生活は変えられないものなのだなぁと、思っていたのが事実なのです。

ただ一つ大きく変わってしまっていたのは、子どもたちに会えなくなってしまったこと。子どもたちも仕事によっては、やはりテレワークが不能な者もおりますし、一人暮らしの者もおります。
お互いが移しあうことがないようにと、だれもがここを訪れることもなく、また、私も初めての子育て、乳飲み子を抱えた娘のもとに、手伝いに行くこともできないでおります。
それこそが、私にとっては一番つらくて大きな試練でありますが、
さりとて日常生活は、というと、何ら変化がないのです。
普段どおりに仕事をし、普段どおりに買い物をして、普段どおりに家事をする。そんな毎日でありましたので、年齢から休みの日にはくたびれて一歩も家から出ないことはあっても、断固たる覚悟で家にいたことはないのかもしれません。
庭の草むしりや木の剪定。┉いつもどおりの連休?

いえいえ、子どもたちの小さな頃以来の針仕事、マスク作り。

夕方六時頃に買い物に行っても、マスクになど出会えることもなく、一月以来マスクを購入できていませんので、自分の分くらいは手作りマスクを使おうと、いろいろな形のマスク作りに励んでおります。
んー、室内用?クオリティの高い手作りマスクの方々の中、こんなマスクはできやしない(ノ_<。)
神さまに、そして仏さまに、一日も早いコロナ終息を祈るばかりであります

No.56 20/05/03 18:55
旅人さん0 

そんなわけで┉ゴールデンウィークをむかえて、はじめて、緊急事態宣言発令による不要不急の外出を控える生活をおくることとなりました、私。
今までも、あくまでも仕事での外出と、日々の食事の買い物に出かけていたので、不要不急の外出はしてはいないのてすが、はて、どんな?散歩等の運動は大丈夫?うーん、では神社仏閣の参拝は?

そもそもが、先日書いたように、神社仏閣のさまざまな行事、大祭なども中止されたり、神職の方のみや僧侶の方のみで執り行われているようであります。御朱印も中止されていたり、書き置きのみの対応をされておられたり。
なれば、ソーシャルディスタンスをとって、地元の神社仏閣を参拝するのはよいのではないか?人混みでもなく、室内でもない、参拝という行為。不安な心を救ってくださる場である神社仏閣の参拝。
その神社さんやお寺さんが参拝をお断りするような対策をなさっていなければ、御朱印を求めたり、神職の方や僧侶に話しかけたりしなければ、それは禁じられる行為ではないのではないだろうか。
人それぞれの考え方があり、感じ方も多種多様な時代ではありますが、昔、医学もいまのように進歩していなかった時代、人々が救いをもとめ訪れたのは、神社仏閣であり、道ばたのお地蔵さまであったのです。


ストレスやネガティブな感情に意識を向けないように、小さな幸せや感謝を見つけてみることが、自粛生活をできるだけ苦にせず過ごす大切な鍵となるのかもしれません。



まあ、私の場合、そもそもが運転技術と地図をみて新たなところへ行く能力が乏しく、県外どころか県内でも遠くへ行くことは難しいため、問題視される外出にはつながらないのではないかと思われ、周りの人たちにも異口同音で言われていること、であります。

あとは、この緊急事態を乗りこえたときに、参拝に行きたい神社仏閣をピックアップしたり。
庭の草むしり、不用品の廃棄。
┉あっという間に終わってしまいそうなゴールデンウィークであります。

No.58 20/05/04 04:07
旅人さん0 

群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんは、メインストリートの端に鎮座しています。しかし、これがどうやら、端、というよりははじまりに鎮座した、というのが正しかったようです。

天満宮という名からもわかりますように御祭神は【菅原道真公】。京都北野天満宮からの御分霊をお祀りしています。
所在地も天神町とされるくらいで、桐生の北に鎮座することで、市街地鎮護の神として、また全ての災いを鎮める方除災難除の守護神として厚く信仰されている神社さまであります。


もともとは、第十二代景行天皇の時代に、【上毛野国造】が【天穂日命】を奉斎した【磯部明神】であられたようで、その後幾多の星霜を経て、1187年から当地を支配した【桐生家】が代々の守護神として崇敬し、1350年頃に、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して【桐生天満宮】と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められたのがはじまりのようです。

天正九(1581)年に徳川家康公が東征の折りに、徳川家代々の祈願所として朱印地を賜わり、天正十九(1591)年には、桐生新町の宿頭として現在地に遷座したといわれ、桐生領五十四ヵ村の総鎮守とされ、境内地や社殿は壮大なものとなったようです。
慶長五(1600)年の関ケ原合戦には、軍旗に用いる旗絹を当宮の御神前に供えて戦勝祈願し、その勝利凱旋を吉例として境内には織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となったということであります。
そのような経緯で徳川将軍家のご加護を受けることとなり、戦前までの桐生市は大変な賑だったようです。

つまり、桐生市は天正18(1590)年に徳川氏の領地となり、それまでの由良氏の城下町が手狭であったこともあり、荒戸原の赤城ノ森(現在の天神町一丁目)と呼ばれる地から現在の本町二丁目と呼ばれるまでの地に、桐生新町を建設することを計画され、久保村の梅原天神社(桐生天満宮)が赤城ノ森に移されたのが、桐生天満宮のはじまりであったようです。
さらにはその桐生新町は、本町六丁目の浄運寺までとされ、現在の桐生市のメインストリートが築かれた、というのが実際であったようです。


桐生市の歴史についてなど何一つ知らなかった私などは、桐生市が徳川の領地であったことも、桐生が織物のまちとして栄えた理由も神社仏閣巡りにより知ることとなったのでありました。

No.59 20/05/04 15:22
旅人さん0 

【桐生天満宮】さんは桐生近郊の方々にとって、今も大切な鎮守さまであり、子どもが産まれたときの名付けの相談や、お宮参り、七五三、成人式などの節目節目に必ずお参りする神社さんであるようです。
天満宮でありますが、御祭神は、【天穂日命(アメノホヒノミコト)】【菅原道真公】【祓戸四柱(ハラエドヨハシラノオオカミ)】であります。 
【天穂日命(アメノホヒノミコト)】さまは、古来、産業開発の守護神として崇敬されております。
桐生で有力な土師部の遠祖にして、菅原道真公の御祖先にも当たる御祭神なのだそうで、桐生天満宮の起源となる磯部明神の主祭神として奉斎されていましたが、後に天満宮遷座の折に菅原道真公とともに、天満宮の御祭神となったのだそうであります。

【菅原道真公】
承和十二(845)年、代々学者として朝廷にお仕えした菅原家にお生まれになり、幼少より学才に秀で、わずか五歳にして和歌を詠まれ、十一歳にして漢詩を作られ、その才能は人々を驚かせました。さらに、幼少より学問に励まれ、十八歳で文章生となり、はやくも三十三歳で学者として最高の文章博士となられた御徳を敬慕して『菅公』と称え、【学問の神】として敬仰されました。
また、【厄除け・災難よけの神】として、さらに、道真公が京都から大宰府までの長い道程を無事に旅されたことから【交通安全・旅行安全の神】としても広く崇敬されております、歴史上実在の人であった神であります。

【祓戸四柱(ハラエドヨハシラノオオカミ)】
あらゆる災いや罪・穢れを祓い清める神々で、【瀬織津姫神】・【速開都姫神】・【気吹戸主神】・【速佐須良姫神】を祓戸四柱大神と称え奉り、厄除・災難除・病気平癒・悪運退散などの御神徳をはじめ、すべての神事に先立つ清祓を司る神さまがた、なのだそうです。


桐生天満宮さんの御本殿内陣は、風水に基づいて御神体の四方を守護する霊獣、すなわち【東の青龍】・【西の白虎】・【南の朱雀】・【北の玄武】の四神を配しておられるとのことで、それぞれ東(職業・学業) 西(商業・金運) 南(家運・良縁) 北(健康・厄除)の広大無辺な御神徳により、こちらを参拝され、祈願される全ての人が、この理想的な風水によって護られ、大地のエネルギーである「気」を受けるようにと日々ご祈祷なされている神社さんであるということでありました。藤画像

No.60 20/05/04 16:20
旅人さん0 

栃木県にあります【古峰神社】さんは、御朱印をいただく者にとって、有名な神社さんであります。見開きで天狗の描かれた御朱印は、書き手によってその画が異なるため、その種類は私の知る限りで三十ともいわれるほどであります。
夫はだいぶ前から【古峰(ふるみね)さん】に詣でたかったようで、日光に行く途中で、あるポイントにさしかかると、口癖のように「ここを曲がるとふるみねさんに行く道なんだよ」と申しておりました。

夫の参拝したいと願う思いが、なかなか果たされなかったのは、私のこだわりによるもので、『神社さんは神さまのおられる場所であるから、失礼のないようにきちんと御祭神を知って、ふらっと通りかかって立ち寄るような失礼な真似はしないようにしたい』という持論に基づくもの。
まあ、自分に自信がないため、穢れ多き身で訪れてお怒りをかうようなことを畏れて、のことなのですが(^-^;

そんな夫の願いがかなうのは、珍道中を始めて実に二年以上の年月が経ってのこと。
夫は知らなかったことなのですが私の中で『はじめての御朱印はどの御朱印をいただこうか』とあれこれと欲がはたらいていて、そんな物欲が鎮静してから詣でたかったのであります。
ということで、これはいくぶん私の物欲が落ちついた頃、参拝に訪れたときの話、であります。


その日、夫はワクワクしていつも横目で見ていた古峰さんへの道へハンドルをきります。が、その口からでた言葉は「うーん、緊張するなぁ」えっ?な、なにを?
「この道、地図でみると結構な細い道なんだよな。しかもカーブばかりでさ」┉聞いてないんですけど⁉
道にカーブ数を示す標識があると見やるや、な、なんと!カーブ58‼ナビの示す延々と続く道は、大腸?大腸の走行を思わせるくねっくねの細い道!
は?
これを58曲がって行くの?!
対向車来たらどうするの?というほどに細い道も多々あり、しかもヘアピンカーブの連続で先がまるで読めない。

これは試練?

思わず、ついてもいない助手席のブレーキを踏み、御駕篭に乗った姫のようにドアについた掴まり手を握りしめていたり。

あ、崩れてる!(;゜゜)

えっ?ここで対向車?((゚□゚;))


No.61 20/05/05 02:57
旅人さん0 

路面は一応は舗装されているものの砂利や小石が浮き出して、あちこち亀裂が入ってはいるし、ぽこんぽこんとタイヤが振動をひろうくらい、でこぼこに路面自体うねっているところもある。
異常なくらいのヘアピンカーブの連続と悪路。
「私には到底走ることなどできない道だね。古峯さんへは最初で最後の参拝かな」
「そうだね」┉即答している。

まだ見ぬ古峯さん(前回『古峰』と書いてしまっておりましたが正しい名称は『古峯』さんであります。お詫びして訂正いたします)、
これが最初で最後の参拝、だそうです (´;ェ;`*)

これでもかこれでもかとカーブが続きます。58と書かれたその数は明らかに少なく見積もられていて、だいぶカーブを曲がって、曲がっても、その数字はあまり減っていきません。
古だぬきにでも化かされているのじゃないか?┉それほどの長く長く続く、曲がりくねる┉というより曲がりうねった道であります。

「あ」
カーブの途中途中に雪をいだいたそれは美しい山が見えます。
「男体山、かな?」と夫。せめてもの景観、とでもいうことでしょうか。
┉とにかくういんういんとカーブの道をひたはしります。
しかも対向車の多いこと。
それがまた大きな車が多かったりするもので、やっとすれ違うようなこともありました。
この悪路を想定して、夫はわざわざ軽自動車を選んで来たのだとか。ガードレールが歪んで傷だらけなのは、すれ違おうにもすれ違えなかった車がこんなにも多くあった、という証しなわけですか。
絶句。

┉ですがね、┉あの四色マークの車が結構多かったりするんですよ。
慣れた調子ですいすいと走っています。
「昔はこんな道しかなかったから、かえって慣れてるのかなぁ?」あまりに上手なテクニックに、感心してつぶやく私でありました。

そうこうして少しだけ、路面が変わります。砂利が浮いたりしていないクラックの入っていない路面です。
なにやら途中に観光地があるようです。

ナビが示す目的地までの距離はあと10キロメートル先だということ。あと10キロメートルも?

No.62 20/05/05 11:20
旅人さん0 

【古峯神社】は栃木県鹿沼市草久古峯ヶ原(こぶがはら)に鎮座しています。
古峯ヶ原は神社の所在地であり、その面積はおよそ500ヘクタールにおよぶ広大な領域に達しているとのことで、標高は約700メートル、その中に古峯神社があります。
神社の所有地古峯ヶ原に入ったころから、なのでしょうか、道は拓け、古峯ヶ原湿原やら古峯ヶ原高原ヒュッテやらと、駐車場があり、そこにはハイキングをされる方々がみうけられ、車もたくさん停まっておりました。
さらに道をすすめますが、あの悪夢のような悪路はなくて、唐突に門前町がみえてきました。

駐車場に車を停めると澄んだ明るい気が辺り一帯を包んでいました。まだ、鳥居の外。
(┉あとで知ることになるのですが、反対のルートから来るとだいぶ離れたところに大きな鳥居、一の鳥居があり、ここはすでに鳥居のなか、でありました)


御祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)さま。
第十二代景行天皇の皇子であらせられます。
幼少より心身ともに人並み外れて勝れ、詔勅にて天皇の御分神として国民の幸福と平和とを願いつつ、西国の熊襲と東国の蝦夷を制し国家の統一に大きな業績を遺された神様です。

御神徳は、焼津の原(現在の静岡県)での火難を除かれた故事により、火防の神として全国の崇敬者より絶大なる信仰を仰いでおります。
また、海神の怒りを鎮め奉ったという故事から、海上安全、大漁満足、或いは五穀豊穣の神として、農村・漁村の人々より熱烈なる信仰も集めております。
国家安泰はもとより、家内安全・商売繁盛・交通安全・当病平癒・身体健全など、総ての開運・除災・心願成就の神として崇られるに至るのでした。


こちらに日本武尊が祀られることとなったのは、
1300余年前、京都よりこの古峯ヶ原に参ったひとりの者が、日本武尊の御威徳を慕い、この淨地に遷座申しあげたのが始まりといわれています。


また、その後、日光を開かれた勝道上人の修行の場となり、上人は古峯ヶ原深山巴の宿において三年の修行の後、天応2年(西暦782年)に日光の男体山に登頂し、日光開山の偉業を成しとげることとなります。
日光全山の僧坊達は、上人の修行にあやかって古峯ヶ原に登り、深山巴の宿で祈願を込め修行する慣わしとなり、その修行は明治維新に至るまで、千余年の永きに亘って行なわれていたということです。


No.63 20/05/06 07:49
旅人さん0 

駐車場に降り立って、道路を隔てて見える大きな鳥居。道路向こうには食事処やお土産物店が並んでいます。なぜか唯一ナビに名前までがあがってくるお店は天狗屋さん。不思議そうにナビを拡大してみたりしている夫を置いて、恩知らずな妻は道路を渡りました。お店には興味のない夫を少しでも待たせないように、という妻の優しさでありますって。

大きな鳥居の前には大きいけれどなんとも可愛らしい狛犬さんがおられます。とびきりの笑顔で姿勢は低く、まるで参拝の者たちをお出迎えしてくれているような狛犬さんであります。
その頭には苔だけではなく、草すら生えていて、それがまた可愛らしさをアップしております。うしろ姿の写真もしっかりと撮してきたほど、可愛らしい狛犬さんでありました。

そして、鳥居のそばに『二の鳥居』と書かれた木の立看板。えっ?見回したところで目に入ってこない一の鳥居。ここで、私たちはすでに境内の内だったことを知ることになるのでした。駐車場にすでに清浄な気がみちている、お力の大きな神社さんであります。

三の鳥居は素のままの木でできた、大変よい木の香りがする鳥居でありました。素のままの木でできてはいますがしっかりとカーブするところはカーブさせた、明神造りというのかなぁ、色が塗られていないだけのしっかりした鳥居で、夫などは素のままの木でできていたことに、帰りにくぐったときに初めて気づいたくらいでありました。
この鳥居の前にも大きな狛犬さん。こちらを護る狛犬さんは誇らしそうに胸を張って、上を見上げている感じです。

そしてこの三の鳥居をくぐるとすぐが神橋。軽く弧を描いた石造りの一応太鼓橋。
その橋のしたには落差は少ないけれど人工的にコンクリートでせき止めて滝のようになっているところもある、小川よりは大きくて、大変澄んだ水の流れる川が流れておりました。
そしてすぐにまた四の鳥居。四の鳥居をくぐるとまた社標があり、少し広い境内となっていて、四面に立派な注連縄の張られた手水舎があります。神池もあり、【天狗の杜】とも称される古峯さんらしく、大きな石造りの天狗の面が飾られています。

そして四の鳥居。
こちらを護る狛犬さんは向かって右の狛犬は威嚇して┉いるようには感じないのですが、姿勢低くお尻をたてていて、左の狛犬は岩に片足をかけて通る者を見定めるようにしっかりと視線を合わせてこられています。

No.64 20/05/06 08:44
旅人さん0 

鳥居をくぐった私は少し戸惑います。正面にあるのはどう見ても神社の神門ではなくて、関係者以外立入禁止と書かれた紙の貼られたすのこ状の衝立で、左に見えるのはどう見ても、うーん立派な由緒ある建物に入るときにあるような門ではあるけれど┉なんか神社の拝殿に向かう感じがしない。
お、そうだ、注連縄とか、神域らしさがないのです。

「こっちだよ」
夫の声がする右てを見ると!┉鳥居、であります。
そう長くはないなだらかな石段に、二つの鳥居。四の鳥居から、直角に曲がって行く参道であります。
鳥居と鳥居の間にも天狗の面が奉納された、屋根のある休憩所のようなバス停のようなイメージのところがあります。

そして六の鳥居の先に茅葺きの建物が見えています。うーん、拝殿、ではなさそうです。石段をのぼりきって、その茅葺きの建物の横に長いことにびっくりし、先ほどの建物の並びに連なって拝殿があることにびっくりしました。
えっ?こうくる?
横に長い建物で、その建物の一画が拝殿となっているのであります。区切りは一切ありません。┉んー、もともとあった拝殿を覆うように細長い建物を造った?真偽のほどはわかりませんが、私にはそう見えました。

拝殿はさほど大きくはないのですが、それはそれは立派な、落ちつきのある厳かなものであります。そしてまた施された彫刻のひとつひとつのたいそう立派なことといったら!
どうしてこの素晴らしい拝殿が、長屋のようにひとつの建物に取り込まれているのか┉、不思議な造りの神社さんです。┉まぁ、いつまで経っても神社仏閣珍道中をくりひろげている、いつになっても初心者の私でありますので、私が初めて見ただけなのかもしれません。

参拝を終えてさらに奥に進むと、中に入れるようです。
靴を脱いで、靴箱に収めて、重々しい引き戸を開けると、なんとも重厚な造りの内装であります。壁には天狗、天狗、天狗の面が飾られています。そして、廊下を隔てて両方にある畳敷きのお座敷にも天狗。ひだりてのお座敷にはそれはそれは大きな天狗の面がお祀りされています。大天狗さまと鴉天狗さま。軽く私の背丈を超える大きなお顔です。
さらに奥へと進むとなにやら大釜のようなものがあり、その下には紅い焔のようなものが見えました。飾り?かと思えば利祀以来の不滅の御神火であるのだとのこと。ははぁ_(_ _)_


No.65 20/05/06 22:57
旅人さん0 

中は思っていたよりも広く休憩所のような広間もあり、さらには自販機もありました。特記すべきはカップヌードルの自販機!ある種の感動すらおぼえました。
拝殿と同じフロアーにカップヌードルの自販機。なんとも不思議でユーモアあふれる神社さんであります。

実はこちらの神社では、宿泊(参籠)もすることができます。
心を鎮めて大神様の御神徳を賜ることができると、たくさんの方が宿泊に訪れるそうです。
そんな方々のなか、眠れぬ夜を過ごしお腹を空かせた方がおられたりして、そっとここでカップヌードルを食べるのでしょうか?


また、こちらは神さまにお供えした飲食物、神さまの「おさがり」を調理した、【神饌料理】をいただくこともできます。

罪穢れを避け、身を清めて神事を行うことを、古い日本語【斎(いみ)】というとのこと、この斎の状態から日常に戻る際、神に供えた飲食物を神とともにいただく儀式を【直会(なおらい)】というのだそうです。
こちらの神社さんでは御神前にて御祈祷をうけたのち、お食事をいただくことを直会と称しているのだとか。特に予約もいらずに、11~14時の間というランチタイムに、希望すればお食事を提供してくださるようです。神さまにお供えした物をいただく┉なんともありがたいお食事でありますが、残念なことにこの日、私どもはいつも出先でそうするように、コンビニのおにぎりでお腹を充たしてから参拝してしまったのでありました。
こんなにお食事処も豊富で、さらには直会のようなお食事ができるということを知ってさえいれば┉p(´△`;)


閑話休題

天狗の杜、古峯神社さんの建物内には、天狗がそこかしこ、いたるところにお祀りされています。どこを歩いていても天狗に見られているような、不思議な雰囲気であります。


そして先ほど外から拝ませていただいた拝殿正面には、それは広い大広間があり、その広い拝殿内の、正面、中央に本殿につながる扉がありました。
その両脇に立派な烏天狗と大天狗の像が祀られています。
格の高い天狗は羽でできた団扇を持ち、この団扇自体にも妖力があり、退魔の力などがあるのだそうです。


天狗は御祭神の日本武尊の使いであり、崇敬者に降りかかる災厄を飛翔して払ってくれると考えられている、こちらの神社の【天狗崇拝】であります。








No.66 20/05/08 04:50
旅人さん0 

【天狗さま】のお面を拝見するたびに、懐かしさを感じ、そしてまた、その一見険しく厳しいお顔と眼孔の奥の、すべてを包んでくれるような優しさを感じます。
いつもだれかに見守られ、護られていた子供の頃に戻ったような、そんな感覚になるのです。

ではそもそも天狗さまは、どのような存在で┉。?
そんなことも知らずに、天狗さまのおられるとされる神社さんやお寺を訪ねては、『ああ、やっぱり天狗さまって素敵。』などと思っていたことにあらためて気づきました。ええ、チコちゃんに叱られます。

一般的には、山伏の装束に身を包み、顔は赤く、鼻が高く、翼があり、空中を飛ぶ神とも妖怪とも言われます。天孫降臨のニニギノミコト一行を案内したサルタヒコとも同一視され、ご祭神の使いとも考えられています。

鼻が長いのが天狗、くちばしがあるのが烏天狗。φ(..)



そして、こちらの神社さんの【講】というものについても、よくわからなくて調べてみもしたのですが┉結局のところ、よくはわからなかったのですが┉、こちらの神社さんは神職の方だけではなくて、講という組織に支えられているようです。講という組織は以前榛名神社さんにおいても存在していたようであります。
こちらの講体育館半面よりも広いくらいの拝殿内を埋め尽くすほどの人数もっても、まだそれが代表だけ、とのことです。
すごい!┉ということだけがわかりました。
こちらに宿泊してみると少しはその片鱗くらいはわかるのかもしれません。
とはいえ、私一人ではとうてい来られないような悪路で鬼のようにカーブの続くこちらの神社さんへの道、宿泊できる可能性は薄そうです。

No.67 20/05/08 05:09
旅人さん0 

さて、こちらの神社さんの有名なところと言えば、そう、【御朱印】。
拝殿の前の通路にその一覧が掲示してあるほどでありました。
どの御朱印がいただきたいか、申し出てその書き手さんがおられればその日のうちにお受けできるとか、ネットや御朱印の本にいろいろな情報が書いてあります。

「御朱印をお願いできますか?」
そう、お声がけすると、女の方が対応してくださり、
「こちらの神社は初めてですか?」と聞かれました。「はい」と答えると、
「それではお任せということで書かせていただきます」┉はぁ、そういうことであるならば┉。
待ち時間は二十分と言われ、朱印所のそばにお祀りされておられる天狗さまを拝見していると、そのあと訪れた方も初めてのようです。

「どの御朱印をご希望されますか?」  えっ?( 。゚Д゚。)

「ええ?いっぱいあって迷っちゃうなぁ」  ええっ!?(゜ロ゜)

「じゃあこれで❤」

「ひとつでよろしいですか?」  ええぇっ!?Σ(Д゚;/)/



┉ひとつ、修行をしたような気分でありました。
┉そのお任せでお書きいただいた御朱印は、カラーバージョンのものでありました。



そのあと、古峯園(こほうえん)とうたわれる、先ほど四の鳥居の前にあった門の奥にある広大な日本庭園に向かうのですが、入場料をとるようであります。
「初めての参拝は参拝だけにとどめておこうか」とどっちでもいいという夫には申してみましたが┉
その実態は、思わぬ修行の直後にあって、まだ心が落ちつかない未熟者、であったのであります。


境内を戻るだけで、その未熟者の心はすぐに落ちついてまいります。
さすが、神域にございます。
人間の些細な心の揺れなど、なんでもないことであったと、悟るまでもなくあっという間に気持ちが鎮まり、明るくなっています。

もう一度でいいから再拝させていただきたいんだけどな、と、夫の顔を見上げると、心のうちでも読まれたかのように「もう来ないけど、いいところだったね」と。


┉はい。

No.68 20/05/09 08:06
旅人さん0 

「さて、つぎは」
車に乗り込んだ夫はなにやらすぐにナビを操作しています。
「神社のようなお寺だって書かれていたんだけど┉ず、い、ほ、う、じっと」
ダァー、候補地がじゅずなりに表示されます。「おっ、これだな」

ふーん。

実は古峯神社さんへの参拝は急に思いたってのことであったために、計画をたてることもなく車を走らせてきたもの(えぇ、いつものように言わずと知れた夫が。ですが)。当然、次なる目的地など本来存在しないと思っておりました。
よほど夫は古峯さんに参拝したかったのであったのだなぁ。それなら、そう言えばいいのに┉。あ、言っていたか。f(^_^;)

ナビを頼りに進むと┉あ、あれはお寺さんのようです。

あれ?だけど┉。ナビの画面、神社ってなってる。? ? ?
何も語らないナビの画面を呆然とみつめ、スマホで確認をとろうとする夫を制し  ┉
(制し┉って、いざ文字にするとかなり威圧した感じがあるのですね。何気なく使ってみたけれど。普段からの行いが文字化するとそういうものだと諭しているかのようで、こちらは霊験あらたかなところに違いありません。)

「いいじゃない。ご縁があってナビの案内を受けてここにたどり着いたんだから、お寺でも神社でも。もともと目指してきてたのが神社みたいなお寺だったんでしょ?お寺みたいな神社だっていいじゃない」
「そ、そ、そうだよな」
エンジンも切らず路肩に停めたままナビの画面を横目でみている夫とはうらはらに、降りる気満々の私はすでに、お寺用と神社用の二冊の御朱印帳の入ったバッグを首にかけて、準備万端整えています。

「あ、じゃあ駐車場に停めなくちゃ。どこだろ?」
「あそこにあるよ」
そう言って走り出したとたん、大きな大きなお不動さまのお姿が見えてきたではありませんか❤
あ、しかも大きな大きな二大童子もおられるではありませんか❤

右の矜迦羅童子(こんがらどうじ)は、従順を表し、左の制叱迦童子(せいたかどうじ)は、奉仕を表しているとされていますが、なかなかお不動さまとご一緒の御像があるのはお見受けすることがなく、ましてや、外、風雨にさらされての御像ではほとんどみられないのですが、┉なんと大きな御像でしょう。
これだけで、もう、こちらにお導きいただいたことに感謝しかありません。








No.69 20/05/09 18:13
旅人さん0 

外出自粛のご時世┉なにぶんにも、もともと記憶力が衰えていたうえ、さらに寄る年波で記憶力の衰えた私が、しばらく前に訪れた神社仏閣の回顧録を書いておりますので、どうしても思い出せないこと、思い出せないものがあります。
記憶違いによる記述もあるかもしれませんが、どうかお許しください。

たとえば、ナビの画面が示した神社の名称をどうしても思い出せず、あれほどこだわったおっとならば覚えているだろうと思えば、彼もまた覚えておらず( ω-、)
まぁ、そんな二人の珍道中、回顧録となっております。



【瑞峯寺】さんは、夫の調べておいたとおりにまさに神社のようなお寺さんでありました。古峯神社さんの一の鳥居のうちにあることもありますし、明治初年の神仏分離令によって古峯神社さんの寺院の部分をこちらにお分けになったのかと思ったのですが┉それにしては参道に鳥居がいくつもあり、狛犬もたくさんおられ、どう見ても神社さん。
ですが、当時のあまりにも過激な仏像仏具の破壊、さらには寺院の建物さえも破壊し、火をかけるといった歴史を知れば知るほど、お寺であることを隠す必要があったのかも知れないと思うのであります。

大正八年には大洪水もあったようで、本堂並びに庫裡、客殿の流出があったようです。
並みならぬ先師の努力により、霊域を回復させ、有縁の浄地を現在地に求めて、堂宇を建立、法燈を護持して今日に至ったのだとか。
┉そんな復興を支持してくださった方々はやはり古峯神社の講の仲間さんたちだったのでしょうか。それゆえ、比較的新しい寺院でありながら、鳥居が多くあり狛犬がおられるのかもしれません。

その本堂のある敷地への入り口にもまた、鳥居があります。
しかしその鳥居は【蓮華鳥居(れんげとりい)】といわれるもので、仏教の蓮の花の台と、神道の鳥居が合わさった、神仏習合の鳥居。
やはり信徒が鳥居を奉納したいという声があってのものなようです。
お祀りされておられるのは、金剛大権現さま。

宗派は真言宗醍醐派で、れっきとした寺院であり、護摩修行・護摩祈祷を行っておられるのでありますが┉。
古峯ケ原という特殊な土地で、独特な発展をとげた、新しい形のお寺さん、なのかもしれません。

No.70 20/05/09 21:38
旅人さん0 

【瑞峯寺】さんは本当に神社みたいなお寺さん、でありました。

あまりにも立派な鳥居がある小高いところにある社殿は、絶対お寺さんの中にある神社の社殿であろうと思い、多少変わった造りではあるものの┉さながら社務所のような、庫裏のような┉
それでも群馬のお寺さんには、あえての古民家を移築して御本堂としたところもあるくらいなので、こういうお寺さんもあろうかと、こちらこそが御本堂と信じ、その前で拝ませていただき、そこで御朱印をいただけるとのことなので、中に入ってからも、ここが御本堂と思っておりました。
御朱印は【金剛不動尊】としたためられてありました。

さあ、今度は神社のゾーンへ参拝させていただこう。
石段をのぼって、のぼりきったところにある蓮華鳥居をくぐって、拝殿です。┉お寺みたいな神社さんだなぁ。
それでも拝殿正面には灯明立てと注連縄があります。さらにその前には、お不動さまの座像が拝殿正面にお祀りされています。
うーん?
そもそも仁王像もあるし┉。

ま、ここはお寺さんの中にある神社だし、こんなこともあるかぁ。

二礼二拍手一礼をしてふりむいたところ、
「おいおい、お寺さんでかしわ手を打つな」と苦笑いした夫がおりました。
えっ?
「だって、ここは神社さんでしょう?」

「お寺さんでしょう
「えっ?」



No.71 20/05/10 08:22
旅人さん0 

「お寺の中にある神社でしょ?」
「違う、違う。ここはお寺だよ」
 ┉
「┉いいんじゃない?鳥居あるし、奉納旗も【南無金剛大権現】だし。なにより、もうしちゃったことだから、取り返しつかないし」
「ま、いいんじゃない」
 ┉ヴー!だったら言わないでおいて。
たしかに、拝殿だけ、です。いやいや、つまりは御本堂。とすると、先ほど私が拝んでいたのは庫裏┉。!Σ(×_×;)!
もうぅ、知ってるならさきに言ってよ。


石段をおりると、うん?なにやらひだりてに広々とした空間があり、大きな御像があちらこちらに見えるではありませんか。
さきほどの落ちこんだような、ちょっとヘソを曲げていたような気分はどこへやら、漫画だったらそれこそ“パアァ~✨”という文字が背後に浮かんでいそうなほどのテンションで、いつものように小走りとなって、そちらの方向に向かう私。
┉これは、少しでも同行の人を待たせずに、少しでもいいから見させていただきたい、という思いからでありまして、決して漫画のようにお花畑を走るように向かっているわけではないのですが、家族ですらどうとらえていることか┉。とりあえず、家族はそういった私の行動には慣れて、諦めてはいることかと(^-^;

そこは軽くみぎてとひだりてへと分かれるようになっており、そこをお護りになられるかのように可愛らしい六地蔵さまがおられます。
みぎてはやや下りとなっております。よし、ひだりてから✨


小さな古い石像のお不動さまが正面におられます。そのさらにひだりてへと視線を移動すると、ちょろちょろとした流れの、落差のある水の流れのうえの小高いところにお不動さまの石像がお祀りされています。
その道を進んでいくと、さらに林のような道に連なり、魅惑的な白い御仏像のお姿を拝することができるのですが、さすがにそこにまで進んでしまうのはあの悪路をずっと運転して連れてきてくれた、同行の夫を振り回しすぎになろうかと断念し、下の、ひだりてへと進んだ方の道に進むことといたしました。
そこもまた奥行きがありまして、さらなる広がりをみせております。
どうやらかなり広い境内であるようです。軽いハイキングコースのようです。

そちらへ進むこともあきらめて、一つのフロアーとなっている広場のような空間におられます御像を拝することにいたしました。

No.72 20/05/11 08:10
旅人さん0 

【瑞峯寺】さんは、聖武天皇の御代、天平元(757)年に、日光山を開いた【勝道(しょうどう)上人】が、現在こちらの奥之院となっております三昧石(三枚石)で修行されたことより起源され、明治の廃仏毀釈で、古峯神社さんの仏教の部分をお寺としたことにより開山されたもののようです。
下野(栃木県)の名刹、出流(いずる)山より【奥之院】にきた時に、この地に古峯と名付けたともいわれているようです。

その【奥之院】は、ここ瑞峯寺さんから車で八キロ、そのあと山歩き五十分のところにあるようです。慢性化した腰痛の持病もちの、インドア派夫婦には、一生参拝できそうにありません。そもそも、夫はここに到るまでの悪路で、最初で最後の参拝を宣言しておりますし( ω-、)

こちらでは、【ご縁日護摩修行】というものが毎月一回執り行われているというご案内をいただきました。こちらは御護摩の炎に直接手かざしし、その手で自分の身体をさすり、祓い清めて、ご本尊の御前に進み出て願いを託すというもののようであります。
さらにそのあと、護摩導師によるお祓いを受けて、さらに希望する者には入門会と称した会をおもちくださるようです。自身の願いのために、先祖のためにお経を唱えたい者に、読経、念珠、錫杖等のお作法を無料でご指導いただけるようです。
┉今、私がもっともご指導いただきたいお作法であります。
頑張ってここに自分で運転して来てみようかo(`^´*) ┉。
それを知ったら家族の誰かしらが必ずや車を出してくれるくらいの腕前であります。

五月には火渡り修行を行う【大祭】があるようで、修験者による斧と弓と剣の作法があり、煮えたぎった湯をかぶる(!)湯加持などが行われるとのことで、参加された方のネットでの感想も、迫力ある、いかにもご利益がありそうなものであったと書かれております。
参加者も素足で火のおさまったあと火渡りを行い、厄・災い除け、心願成就を祈願するのだとか。


うーん、行きたい、参加したい!

┉どちらの神社仏閣さん同様に、こちらの大祭も今年は新型コロナウイルス感染拡大予防のために中止。となっておりました (*T^T)


それでもきっと、この日は御住職による御護摩祈願は行われることでしょう。
そして、そこでは必ずや新型コロナウイルスの感染終息を御祈願されることでしょう。

合掌

No.73 20/05/12 05:23
旅人さん0 

緊急事態宣言下の外出自粛のなか、ウォーキング等の運動はオッケー、密にならないところ、密にならないことはオッケー。不特定多数の人が触れる物にはできるだけさわらない、県を越える移動は自粛する┉このどれもが地元の神社仏閣をお参りすることは条件をすべて充たしています。
そこに不急の外出は避ける、ということを加えるといきなりグレーゾーンになってはくるのですが┉。

日々、自転車で通うこともあるような仕事に向かう途中にある、宮司さま等神職の方の常駐されない、信徒が時折参拝をされるような神社さんの参拝をさせていただくことはギリギリオッケーかなと、気になっていた神社さんを参拝させていただくことにいたしました。
ウォーキングやサイクリングで行ける範囲は不急でなくてもオッケー、と、ない知恵をしぼった、ある意味悪知恵を駆使しての参拝です。

通りすぎるだけでしかなかった、ナビに映るお名前の神社さん。その神社のご芳名から勝手に御祭神を推測して、失礼だけはないように、お参りさせていただいたつもりではありますが、それは私が思い込んでいるだけのことに過ぎないことではあります。



No.74 20/05/15 04:36
旅人さん0 

【雷電神社】さん、という神社さんは、お読みくださっているみなさんのところにもございますか?
こちら群馬県では、その名を聞き慣れ親しまれている神社さんで、【雷電さま】とお呼びすることもあります。

神社仏閣に縁をもたない人生を歩んできてしまったような私ですらが知っているその名でありますが、それは群馬県という地が雷が多い土地柄であるため、なのかもしれません。
群馬県を語ると必ずやその名が出てくる【上毛かるた】にも、『ら』
『雷(らい)と空風(からかぜ)、義理人情』という札があるくらいであります。


その雷電神社さん、群馬県板倉町にある雷電神社が総本宮であります。
その歴史は古く、五九八年、推古天皇の御代にまでさかのぼります。
当時は伊奈良(いなら)の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地に、【聖徳太子】が神の声を聞き、祠(ほこら)を設けてその神を祀ったものとされているのだそうです。
また、境内東側の社務所前にあります、枯れて幹の一部から下のみを残す【龍灯の杉】は、八○一年、東征した【坂上田村麻呂】が社殿を造営したところ、その宮祭の夜、境内にあった杉の木の梢に沼の中から灯が上ってきて闇を照らした、とされる伝説として語り継がれるものなのだとか。

古くから雷の被害が多い土地であり、また暴れ川で度々流路を変えた渡良瀬川と利根川との間にあって、度々火災や水害に見舞われたようであります。
江戸時代の延宝2(1674)年、【上州館林城主徳川綱吉公】が社殿を再建され、それ以降ここ板倉の雷電神社では左三つ巴の紋章に併せて、徳川家の三ツ葉葵の紋章を使うようになったのだそうです。 
(その六年後に綱吉公は第五代将軍になります)

主な御祭神は火と水を司る神【火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)】さま、【大雷大神(おおいかづちのおおかみ)】さま、【別雷大神(わけいかづちのおおかみ)】さま、雷さまの神社です。
本社社殿裏手にある奥社には伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)が祀られておられます。
末社である八幡宮稲荷神社は群馬県最古の木造建築で全国でも七ヵ所しかない扉が二組あり、その真ん中に一本の柱が建っている珍しいものなのだとか。
┉ただ、見る者が私のような者になりますとその珍しさですら気づくことができないという悲しいことになるのであります。


No.75 20/05/17 03:13
旅人さん0 

石段を昇ると、!♥。
それはそれは立派な狛犬さんが拝殿を護っておられます。それが三頭。三?とお思いになられることかと思いますが、三頭、なんです♥向かって右の狛犬さんの足元に、その狛犬さんのお顔を見上げるように立つ、まだ幼子の狛犬さんがいるのです。
「┉か、可愛らしいっ。」
こここそが世界で一番安心な場所だと信じて疑わない、幼子の狛犬を守りつつ、全力で、社殿と、社殿の中におられる御祭神を護っておられます。なんともいとおしい狛犬さんであります。
対する左の、吽の狛犬さんは鞠に脚をかけておられます。
脳内でぱあぁぁ、という音がして花が咲いたかのように、しばしその右の狛犬さんの足元であらゆる角度からそのお姿を見上げておりました、ご想像通りの私なのでありました。

拝殿でお参りをさせていただき、右の方向に向かうべく視線を移すと、社務所があるのですか┉社殿のまえに、枯れてしまって、枝すらが落とされた大きな樹がそびえ立っています。?
とりあえず社務所で御朱印を拝受して、ふりむくとやはり枯れた大きな樹がそびえ立っています。
結局この枯木がどういったものなのかわからないままで、帰宅後にGoogle先生にお聞きしたので?あります。

そして大きな白い、躍動感あふれる御像がおられます。雷童子となっております。『困ったときに現れて助けてくれる』というような意味の言葉が添えられていたように記憶しております。うーん?


気を取り直して本殿に向かいます。
私のように長年不信心をしていた者にとって、神社さんにおいて横やらましてや後ろやらには、まわらせていただいてよいものかどうか迷うものなのですが、こちらは本殿にまわらせていただいてよいと看板で案内が出ております。
そのかわり(┉といってはなんですが)拝殿と本殿を隔てるように塀が設けられいます。

うわぁぁ♥色調も華やかな、彫り物が施された本殿です。立体的に彫られた上に華やいだ色調の色が塗られております。一枚一枚、物語になっています。┉とはいえ、どんな物語になっているのかはわからないのですが。

No.76 20/05/17 07:00
旅人さん0 

【雷電神社】さんの本殿を廻らす見事な彫り物は、【左甚五郎】から十代目の名人彫刻師【石原常八主信(いしはらつねはちもとのぶ)】作とされています。石原常八は天明七年 現在の群馬県みどり市花輪に生まれました。
彫刻は本殿東側に『浦島太郎の物語』が、右側には『素戔嗚尊(すさのおのみこと)の大蛇退治』が、左側には『天地を辟開する盤古』『大志王夫人』、背面には『神功皇后の御征韓』が刻まれています。

また、縁下脇間には『唐子遊び』と称される子供の遊ぶ様子が刻まれています。日光東照宮の彫り物にも、いかにも中国風の彫り物が多く見られますが、その中でも子供の遊ぶ様子をそう呼ぶのだということを初めて知りました。
この中に鰻取りをしている子供たちの様子を描いた彫り物があるのは、池沼の多い当地方に合わせて彫られたもののようです。



本殿の後ろには奥宮が鎮座しており、こちらは、【伊邪那美大神】さまを祀り、縁結び・子授け安産・家内円満のご利益があるとされています。
この社殿は江戸時代末期の慶応四年(1868年)に造営されたとされています。こちらはすべて白木の社殿でありますが、社殿の左側だけに施されている彫り物がまた見事なものでありました。


雷電神社の末社 【八幡宮稲荷神社】社殿は、全国に七か所あるのみの【二間社入母屋造】と呼ばれるものだそうです。
明治四十一(1908)年内務省告示で国宝となり、その後『雷電神社末社八幡宮稲荷神社社殿』として昭和二十五(1950)年に国の重要文化財に指定されたということでありました。
この社殿は群馬県内で現存する建造物の中で最も古いものなのだそうで、室町時代後期(戦国時代)の天文十六(1547)年に建てられたとされています。
江戸時代中期に大改修が行われ、さらには昭和三十五(1960)年に文化財保護委員会により復元修理が行われ現在に至るとかで、知らずに訪れた私は、それほどに古いものとも、ましてや珍しい造りであることにも気づきもしませんでした。
その貴重な建物の防犯のためだったのでしょうが、防犯カメラに、ずっとアナウンスされ続ける「お参りご苦労様です、云々」がたいそう喧しくて、正直風情のかけらもなくて、落ちついたお参りをすることができませんでした。(`;ω;´)


No.77 20/05/17 07:24
旅人さん0 

私の住まうまちも、群馬県の例にもれず大変雷が多く、また落雷もよくある地域であります。雷が鳴り出すと、家中の抜くことができる限りのプラグをコンセントから引き抜いて歩くほど、大人げなく雷が恐くて怖くて仕方がない私は、雷除けの御守りをお受けすると決めてこちらを参拝いたしました。夫にも持ってもらった方がより効果的なのではないかとか、御札もお受けした方がよいかとか、あれこれと悩んでしまいました。それどころか、子供の人数分欲しかったくらいであります。
ですが、押しつけはよくないと言い聞かせて、私の御守りで私の大切な家族をもお守りくださいと、御守りを胸に拝殿であらためてお願い申し上げてまいりました。図々しさには雷神さまに覚えがめでたいかと┉(^^;


この雷電神社さまのむかって左側にはたいそう広々とした公園が広がっていました。たいへん気持ちよさそうな公園でした。

そして、初めて見る、真っ白な花の咲く樹が雷電神社境内や周辺のそこここに見られました。帰宅後に調べたところ【ヒトツバタゴ】という、天然記念物にして絶滅危惧種の植物、なのだそうです。
それは美しい、幻想的な花でありました。
ちょうど今ごろに咲いていたものだと思われます。
今年はゴールデンウイークに予定されていた大祭が、こちらも例にもれず中止とされていたようです。
外出自粛が解除され、県内ということもあり、今日あたり再拝させていただいては┉ どうなのかな?外出自粛解除って┉うーん(-_-;)

No.80 20/05/18 12:56
旅人さん0 

外出自粛がとりあえず解除となった初めての休日。それでもやはり県外への移動は自粛するということを受けて┉。
参拝させていただきましたのは、かねてより行きたかった群馬県の【藤滝不動尊】さまであります。
藤滝というのが地名なのか、人物に由来するものなのかもわからない、ナビにする出てこないお不動さまであります。けれど、知る人ぞ知る霊験新たかなお不動さまであるようで、全国からここを訪れる方がおられるという、ネット上の情報のみを頼りにまずは地元の第三セクターであります【わたらせ渓谷鉄道】の【花輪駅】を目指しました。
相も変わらず、対向車が来たらどうしようといった道を通って、駅へと案内するナビ。
落石注意の標識がいくつもあります。(((((゜゜;)
そもそもが、【花輪駅】という駅にすら来たことがない二人であります。

やがて、かつての赤銅街道と呼ばれる街道の宿場町であった、そんな風情の残る通りを通って、ふたたび細い道へ。あ、ありました。
駅舎やその周りをいかにも宿場町、といった風情をイメージして造られた新しい駅でありました。駅へと入るのに小さな小川を太鼓橋を渡っていく、という大変凝った造りであります。
小川の先には池が設けられてまだ若い錦鯉が泳いでいます。池には小さな水車があります。思わず、駅、であるのに写真を撮る私。待たせているかなと振り向くと┉夫も、私以上に写真を撮っておりました。(^^;

さて、藤滝の不動尊さま、ナビには出ません。
頼りはネット上にあげられた文章での案内、であります。うーん、無理、だな。とりあえず、駅をあとにして、左に車を走らせることに。
けれど、外出自粛解除とはいえいきなり知らない人間に声をかけられて道を教えてくださるであろうか (-_-;)
たまたま、道を歩く女の方がおられました。
「あのぉ、すみません。道をお尋ねしてもよろしいですか?」
「あ、はい」
「藤滝の不動尊というところなんですが」
「は?」「藤滝の不動尊さまです」
「え?それ花輪ですか?聞いたことないですけど」
えっ⁉ (゜ロ゜ノ)ノ


┉地元の方が知らないとおっしゃる藤滝不動尊さま。
私たちはたどり着くことができるのだろうか。

No.81 20/05/22 09:09
旅人さん0 

これは┉かつてないクエストです。ソーシャルディスタンスをと言われている今、突然見ず知らずの人に声をかけられて、不快にお思いになられる方もおられることでしょう。うーん、、全然見当がつきません。

夫はさらに駅から左へと車を走らせます。

┉農作業の合間のひと休みをされている方がおられます。うーん。

ですが、話しかけてみなければ何も変わらない。相手の方がおイヤに思われるかどうかは、やはり話しかけてみて初めて知れることです。
こちらをご覧になられています。

「聞いてくる」┉おばさんの出番です。

┉年配の男の方は、満面の笑顔で迎えてくださいました。まるで待っていた方でも来たかのような、そんなあたたかな笑顔です。

「あのぉ、藤滝のお不動さまにお参りをと思って来たのですが、場所がわからなくて┉。ご存知でいらっしゃいますか?」
「知ってるよぉ。よく来たねぇ。あそこがそうなんだ」
えっ?道路の向こう側の┉あの山、ですか。
「ここを戻って、踏切渡って、学校のところをあがって行って左に行くと、石でできた案内が建ってるんじゃないかな、たしか」

うっ、えっ、えっとぉ。
踏切、学校、っと。

「ありがとうございました」
┉それにしても、この方とお話しただけで、たいへんあたたかな気持ちになりました。ひさしぶりに会った、懐かしい大好きな方に会って話したあとのような、満たされた感じがして、それだけでここに来た甲斐がありました。


とりあえず、めざすは踏切、です。

No.82 20/05/23 07:44
旅人さん0 

車をUターンさせて今来た道を戻って、駅を通り越して、┉踏切。ありました、ありました。元の小学校?
花輪のメインストリートを走って、ん?車がちょうど出てくる狭い道、これだぁ、きっとこれだな。
┉って、通りすぎたゃったし(^_^;)
郵便局があったので、そこでまたまたUターンして、思っていた以上に狭い道を走って、あ、小学校?元の?
それを見ながらひだりてに曲がって┉走る(┉はい、いつものように、夫の運転でありますところの車が、であります、笑)
石の門?石の標塔?がみぎてに見えてきました。きっとここでしょう。

さて、どこに車を停めよう。とりあえず、ひと様の庭ではない、車が四~五台くらい停められそうな、空き地があります。もちろん、どなたかの所有する土地ではありますが、とりあえずそちらに停車させていただいて、┉おばさんの出番です。
すぐそばのおうちにも、石塔の内側にも外で作業されている方がおられます。石塔の中で作業されておられる方は電動草刈り機で草刈りの真っ最中。動きをお止めになるまで待ってみることにしました。

「あのぉ、作業されておられるところを申し訳ありません。こちらが藤滝不動尊さまでよろしいでしょうか。」
「ああ、そうだよ。お参りにきてくれたんだぁ。どちらから?」
「○○○○からです」
「そおかぁ。遠いところをわざわざ」
と、それこそわざわざ草刈り機をお止めになって、そばまで来てくださって説明してくださいました。

「ここを登ればすぐにお堂が見えてくるから。そおしたら、お堂の右の階段を登ってしばらく行くと滝があるから、そのそばにもお不動さまがおられるから、よかったらそこもお参りしてあげてください」
「作業だけでなく、機械まで止めさせてしまって┉申し訳ないです」
「車はそこの空き地でも、そこの家の庭にでもいれさせてもらって大丈夫だから」
┉えっ?人のお宅の庭に?断りもなく?無理無理!
停車させていただいていた空き地に停めさせていただいたまま、参拝させていただくことにいたしました。

まだ作業を止めて見送ってくださっておられます。
この辺りのかたはみなさん、なんてあたたかくて人に優しいのでしょう。
赤銅街道とよばれた宿場町であった土地柄でしょうか。
お不動さまのお護りくださる土地に住まう方々だからでしょうか。


No.83 20/05/24 07:30
旅人さん0 

そこは、まさに森林浴といった感じに木々にかこまれた、清々しい空間です。昼なお暗い空間ではありますが、恐さなどはまるでありません。
見えてきた石段は思いの外整備されており、落ち葉が石段を覆っているようなこともありません。日參されておられる方がここをお掃除してくださっているのでしょう。

石段を登っていくと、石の灯籠にハートの形をした石が置かれていました。そして、┉こ、狛犬?狛犬であります。えっ?

ああ、しかも最近見かけてたいへん心打たれて惹かれている母子狛犬であります。なんとも微笑ましい、愛情一杯の母狛犬を心から信頼して見上げる子狛犬の石像です。
もう、この狛犬像だけで癒されて満たされた気分であります。
ん? あれ? お母さん狛犬、口をつぐんでおります。┉ですが、そもそもが狛犬さんに性別を持たせていることがある=母子狛犬を最近知ったくらいですので、特に決まりごとはないのかもしれません。
┉あ、阿吽の像が逆みたいです。(^_^;)
でもこれもまた意味のあることなのかもしれません。


御本堂でお参りをさせていただきます。
御本堂の前の濡縁部分にはお不動さまのお座りになられたブロンズ像が安置されています。お座布団を三枚ほど敷いておられます。

また、白木の木の板に、お不動さまの御真言が書かれています。梵字にふりがながふられています。お唱え申し上げて、本殿みぎてにある石段を登ります。


さらに続く石段の手すりに、オブジェのような金属の板(ブリキ?)が手すりすべてを覆いつくすように飾られています。その形はさまざま。
菅笠であったり、下腿二本であったり、身体全体であったり、手であったり┉。赤く塗られたものもあります。
私たちはネットで情報を得てお詣りさせていただいておりますので、さして驚きもしなかったですが、ネットでの画像情報もなく初めてここを訪れた方はさぞやビックリされることと思います。
私はそこまで詳しくは見なかったのですが、その金属のオブジェには住所と名前が書かれているのだそうです。

その手前、手すりの始まりの大地部分に、やはり同じ金属で作られた剣が奉納されております。こちらは身体の部分を形どったものより丁寧に作られております。

No.84 20/05/26 01:33
旅人さん0 

空を見上げると、いつも日光に向かうときに通る国道122号線が見えます。道路を走行している時にはまるで目に入らないのに、ここからは通る車が見えています。

なんとも言えない、畏れ多く、ありがたい気分です。
この道はお不動さまが下から護ってくださっておられたのだなぁ。
夫も、息子も、そしてライダーや車の同好の方々も、みなこの道を好んで走られます。┉もちろん夫と息子は普通のドライバーにすぎませんが┉。

さらに石段を昇ると滝のそばにお不動さまの石像がお立ちになっておられます。
天然の大きな石盤なのに、まるでお不動さまがお立ちになるために作られたような削れた部分があり、そこにお不動さまがすっぽり納まっておられます。
そのひだりてに滝があります。さほど大きくはない滝ではありますが、水量は豊富で勢いよく音をたて、川となって流れていきます。
覗きこむと、コの字形の楔が打たれております。
滝行をされる方がおられるのでしょうか。

高台には小さな石のお社があって、そちらにもお不動さまがお祀りされておられます。

なんでも、石段の手すりにくくりつける形で奉納された足や手の形のブリキは、願掛けのために奉納されているようです。
体の部位を奉納し、良くなったら剣を奉納するのだそうてす。
また、体の事以外のお願いの時にも剣を奉納しするのだそうです。

御由緒書きなどは存在しないので、いつからの風習なのかはわかりませんが、遠く県外からも参拝に訪れるようです。  

空気の清んだ、穏やかで静かな、ここだけ時間がゆっくりゆったり流れているように感じます。


┉私の運転で来られるかしら。
それとも、わたらせ渓谷鉄道に乗って花輪駅で降りて、ここまで歩いてくる?

ぜひまた再拝させていただきたいところであります。 



No.85 20/05/26 19:12
旅人さん0 

緊急事態宣言が解除されたものの、新型コロナウイルス感染症の終息をむかえたわけではなく、基本的には常にソーシャルディスタンスを心がけ、不要不急の外出は避け、県をまたぐ外出はしないこと。


神社仏閣に参拝にうかがうことは、不急かもしれませんが、今の私には必要。ということで、外出自粛中にあれこれ思い描いていた、群馬県邑楽郡板倉町にあります【板倉雷電神社】さま、そして板倉町の手前にありますところの館林市【長良神社】さま、【尾曳稲荷神社】さまに参拝させていただきました。

┉とはいえ、【板倉雷電神社】さんについてはほぼ書き尽くしてある感があり、追記することいえば、例のあの、ヒトツバタゴの花の時期は終わってしまっていたこと。
【厄玉】と称される、落としたい厄を強く念じながら壺に落として割るという、この神社特有の、厄落としの行事が新型コロナウイルスの感染対策のために中止されていたこと。
【なまずさん】と呼ばれるリアルななまずの像があるのですが、これもまた、新型コロナウイルスのせいで封印されてしまっていたことであります。

今回、厄落としの厄玉割りがしたくての参拝でありましたし、『なまずさんを撫でると元気が出て自信がつく』、というご利益にあやかりたかったのでありました。 (;ω;)
なんでも、神職の方がおっしゃることに、【なまずさん】を舐めてしまう参拝客の方までおられるとのことで、もうすでにコロナ対策以前の問題であったようです。「信じられないでしょうが本当なんですよ」( 。゚Д゚。)
そ、それは┉インスタグラムにでもアップする写真を撮ろうとでもしての行為なんでしょうか?
板倉や館林市ではなまず料理が昔から親しまれているようですが┉美味しそうに見えた、ということでしょうか?
元気と自信も欲しかったなぁ(;ω;)





No.86 20/05/30 09:21
旅人さん0 

群馬県館林市にあります【尾曳稲荷神社】さんは、館林市の歴史を語るうえで外すことのできない神社さんのようです。

館林市にかつてあった【館林城】は、江戸時代まで使われていたものであるため、そこここにその名残があり、いかにも『城下町』であったといった風情が残る街であります。
┉とはいえ、私は歴史に強い関心があった者ではないので、ごく最近にそう思っただけでありますし、館林市の歴史について何ら知識もないのでありますが、私称(私が称している、という意味であります、笑)歴史オタクの夫は、かつてデートをした頃、内心では熱い思いで館林の街を訪ねていたようでした。┉いまになって知ったことですが。

館林方面に向かうとき【尾曳稲荷神社】さん、通称【尾曳稲荷さん】をやんわり推してくる夫。夫が折に触れて名前を言うせいなのか、有名な神社さんだからなのか、私のなかにもその御名前がしかと刻まれておりまして、今回、【尾曳稲荷さん】に参拝させていただきました。

館林と言ったら、花山公園、というくらい群馬県民なら、名前だけは知っている花山公園に隣接したところに鎮座した神社さんでありました。
┉そう、花山公園は、あの【上毛かるた】に出てまいります 笑。

が、実際は、花山公園ではなくて【つつじヶ岡公園】でありまして、実際に行くまで花山公園だと思っておりましたし、┉実際に行ってもなお、上毛かるたの呪縛で正式名つつじヶ岡公園が出てこないのは、私だけでしょうか。 (^_^;)




No.87 20/05/30 14:48
旅人さん0 

【尾曳稲荷さん】は、天文元(1533)年、【尾曳城(後の館林城)】城主・赤井照光公が城の鬼門にあたる稲荷郭の地に守護神として創始されたものになります。

大袋城(館林城沼南岸)の城主 赤井照光公が、ある年の年賀に向かう途中、童子らに捕らえられたこぎつねを助けたのだそうです。
その夜更けに老翁が照光公の夢枕に立ち、、子狐が助けられた礼を述べ、館林が要害堅固の地であると説き、移転を奨めて姿を消したのだといいます。もちろん、さすがに夢にみたことにすぐに従うことはありませんでしたが、その年の七夕の夜、老狐があらわれて、自らの尾を曳いて城郭の縄張りを先導して夜が明けたのだといいます。
その別れ際に、
『築城完成の暁は長く城の守護神に使えよう。私は稲荷の神使 新左衛門である』と言い姿を没したのだそうです。
照光公はこれによってその尾を曳いて導かれた館林の地に築城し、その名も尾曳城と号し、城中の鬼門あたる場所に稲荷郭を設け、社殿を造営し神社を奉祀したのが、ここ、尾曳稲荷神社でありました。

そんな伝説が、子供にもわかるように画を添えたものが拝殿横に設置してありました。
「ねえ、みた?これ。」
「ああ、見てないけど、狐が尾で城の縄張りを張って、この地にこう城を建てるように言ったっていう話だろ」┉そうね、歴史オタクは民話だとか、伝説にも強かった。┉縄張り?
「『縄張り』って、戦国時代以降には、城のくるわや堀・石垣などの配置を定めるため、縄を張ることを意味する建築用語として使われてたんだよ。だから縄張り。」┉へぇぇ。
子育て時代に、どうしてそれを子供たちに伝えてくれなかったのか。
(*´;ェ;`*)

そして、肝心の社殿。┉工事中でありました。
そのほとんどがシートで覆われております。ですがこちらの神社さん、拝殿に自由に昇殿でき、なかなかそのような神社さんはないので、ありがたい参拝をさせていただいた思いでいっぱいです。

こちらの狛犬さんもまた、子狛犬が母狛犬の足元にじゃれついている石像でありました。お母さん大好きな子狛犬をあやしながらお勤めをする母狛犬。母子の愛情溢れる、表情豊かな、彫りのしっかりした石像であります。
お狐さまの石像もまた、母狐の足元にウトウトする子狐がいたりと、石像、石仏好きの私には、心癒される神社さんでありました。


No.88 20/05/31 12:36
旅人さん0 

【尾曳稲荷さん】は前スレで書きました通り、館林城のなかにありました神社さんでありました。

狐が『尾で縄張りを曳いた』、その曳き始めの地点には【初曳稲荷神社】さん、狐が縄張りを曳き終えて、夜明けをむかえ姿を消した地点には【夜明神社】さんがあるのだということであります。
いつか是非参拝させていただきたいと思います。


さて、尾曳稲荷さんとはある意味少しかけ離れてしまいますが、【館林城】、実はあの徳川綱吉公が城主を勤めていた時期があったのだそうです。
普通に歴史の授業を受けていただけの私とて、徳川綱吉公はどんな方であったかを、最低限のことなら何も見ずにすぐに語れるほど歴史上有名な人物であります。
しかし、初耳であります私。
歴オタ夫は例によってすらすらと、何も見ずに、やれ、
「徳川四天王の一人(┉知りませんけど┉)榊原氏が城主をとなったり、結構入れ替わりはあったけど、四代将軍の家綱の弟にあたる綱吉がここに入封した時期があったんだよ。家綱が短命で亡くなってしまって、その跡を次いで綱吉が五代将軍になるまでの間だけどね」
ふえぇ、おんなじ県に住みながら、少しも存じませんでした。
( ゚Å゚;)

まぁ┉犬公方の綱吉さん、ですからね。自慢気に語れることでなかった┉ということなのでしょうか。
それとも、私だけが知らなかったこと?群馬県民は結構知っていたりする史実なんでしょうか。(^_^;


館林城の跡は、綱吉の息子の徳松が家督を継いだ、とのことですが、
徳松が急逝してしまい、その際、廃藩となって再び天領となった。この時、城は壊されているのだそうです。

その後また、小さな規模で建て直し(そ、そんな?だったらそんな簡単に乞わさなければいいのに)明治七年焼失するまで、館林のこの地にお城が存在していたようです。


もとあった尾曳の館林城はそれはそれは大きな規模のお城だったようです。
神社仏閣も大きくて立派なものが道すがらたくさんありました。


すっかり館林のファンになった私は、館林に通いそうな気がいたします。そう、そうして改修後の尾曳稲荷さんにも再拝したいと思うのであります。

No.89 20/06/04 19:05
旅人さん0 

以前、走行中の車のナビの画面に、三つも同じ名前の神社さんがあがってきて大変びっくりした、┉そう、あの【長良神社】さん。
その【長良神社】さんのひとつに参拝をしてまいりました。
群馬県館林にあります、館林総鎮守の長良神社さんであります。

以前書きました通り、邑楽郡に24社、館林市に11社、太田市に4社あるとされる長良神社は、【藤原長良公】という実在の人物が神格化され主祭神としてお祀りされております。
とは申しましても、走行中のナビに映し出されたもので初めてその名を知ったくらいであります、私。
これだけ限局した場所で、平安時代を生きた実在の人物が、今なお愛されて敬われ、お祀りされているということ。
そんな長良神社、藤原長良公。

どんな神社さんでありましょう。


┉なにやら珍道中の予感です。

No.90 20/06/06 07:20
旅人さん0 

夫の車はまだ購入して二年経たないもので、メーカーの純正ナビがついているのですが、そのじゃじゃ馬っぷりが半端ない!
遠回りはする、入れもしない裏口に案内する、一番ひどかったのは入力は正しいというのに、案内した場所すらあっていないという、すさまじさ。

┉と、そこまで書いていてふと思ったのですが┉なんだか、耳の痛いような、身におぼえがあるような言葉の羅列。もしかして、私似?
って、ナビは正しく案内するために作られた機械なので!(-""-;)
その手の能力に欠けたでき損ないの人間と一緒じゃ意味がないでしょ。


閑話休題。
というわけで、今回群馬県館林市の【長良神社】さんまでの案内でも、しっかりしでかしてくれました。

「┉ねえ?いまナビにでている地図に長良神社さん出てたけど、ここ直進で行けそうだけど?」
しかし、初めて訪れる神社さんであり、地図もろくに読めなければ方向すらもわからない妻の話よりはやはりナビのほうが信じられるだろうと思った夫は、
「ナビのいう通りに行ってみようじゃん」
と、宣いました。細い道をくねくねと走行したあげくに着いた先は┉民家しかない細い路地のつきあたり。バックするしかありません。
「やられたぁ!」
神社の影かたちすらありません。

十数メートルバックして、なんとかUターンできそうなところで切り返し切り返しして、もと来た道にもどって地図の示す道だけを頼りにしたのが、私が言っていた通りの道。
信頼できないナビゲーションとナビゲーターに翻弄される夫の旅は、なんとスリリングなものでしょう。
それにしても、少しぐらい信用してくれてもいいのに┉( ;-`д´-)

そんな苦労をして到着いたしました【長良神社】さん。
「?!」
幼稚園のとなりに隣接している┉というより、おそらくは長良神社さんが経営している幼稚園、なのでしょうが、そのせい?なのでしょうか?色とりどりの鯉のぼりがハタハタとはためいているではありませんか!
「え?」┉幟旗に描かれた鯉のぼりではありません。正真正銘の鯉のぼりが仲良さそうに泳いでいるのです。大きさは同じもので統一されて色も配色よく等間隔で、鳥居から参道にかけ、ずらーっと。
さすがの私もびっくりです。┉夫はといえば、そんな不慮の事態に慣らされているせいか「わあ、見事だね♪綺麗だぁ」と歓声をあげておりました。私のおかげ、かなぁ┉。



No.91 20/06/06 07:58
旅人さん0 

気をとり直そうにも、拝殿に至るまでの参道びっしりに鯉のぼりがひらひらとはためいているので、なかなか平常心に戻ることもむずかしく、それでも手水舎で手口を清めて、拝殿だけに集中して目と心を向けて参拝させていただきました。
立派な拝殿、本殿であります。
狛犬さんは大きな狛犬の前に小さな古い狛犬さんが奉られていて、まるで親子のようにも見えます。小さな狛犬さんは大きさだけでなく少し幼さを感じるようなたいそう可愛らしいものでありました。
そんな可愛らしい狛犬さんが真剣にお護りくださるお姿がいとおしい、素敵な神社さんでありました。

なんとか、本来は見えている鯉のぼりを意識から排除しつつ、参拝を終えて、ふと手水舎のそばに目をやるとハート型に形作ったクローバーの寄せ植えがあるではありませんか。かわいい♥
パシャパシャと写真を撮る私もそろそろこちらの神社さんに慣れてきたようです。
さあ、御朱印はお取りつかいがあるでしょうか?もともと御朱印は取り扱わない方針を決めておられるところもありますが、コロナ問題でお止めになっておられるところもあります。
おお、どうやら御朱印をお書きいただけるようであります。

「ヴ」
オリジナル御朱印帳が二種類、色違いを含め計三種類。┉その色違いの御朱印帳、鯉のぼり柄であります!
ここは鯉のぼりの神社さんであるのでしょうか( 。゚Д゚。)?

平常心、平常心。

長良公の時代には鯉のぼりは存在していないでしょうから、由来はないと思うので、特にそこに触れる会話もせず。
恵比須講のひらかれる神社さんでありますので、その頃には少なくとも鯉のぼりは泳いではいないのでしょう。


参拝を終える頃、ポツポツと降りだした雨。本来はもっと早い時刻から雷雨警報が出ておりましたこの日。

神さま方にお守りいただき、雨にも降られず参拝できましたことに、夫はしきりと感心し、感謝しておりました。
私はといえば、お受けしたばかりの雷電神社さんの雷避御守りを握りしめて目をつぶって助手席に座って祈っておりました。
この日の雷雲はたいそう大きく広範囲にわたってのものであったようで、前橋から館林まで同時に雷雨にみまわれていたようでした。

No.92 20/06/06 19:17
旅人さん0 

今日は、夫の運転する車で走行中、ホワイトアウトにも似た豪雨にあいました。前を走っているはずの車が見えないのです。
車のライトすら見えないのです。
雨量と風でまさに真っ白な世界。

しかも風も強くて、グラグラと車が揺れ動きます。
私は助手席でただただ驚くだけでしたが、運転していた夫は本当に大変だったと思います。
まるで、延々と続く、滝のなかを走り続けているようでした。
洗車機の中よりも凄かったと思うなか、片道二車線の内側を走行中に起きたことでどこかの駐車場に入るための車線変更も危険で、走るしかなかった状況下、いつもと変わらず冷静に運転を続けている夫に、あらためて感謝と、尊敬いたしました。


異常気象、本当に恐ろしいことであります。

No.93 20/06/07 02:40
旅人さん0 

先日、すっかり館林のファンになった私は館林に通いそうな予感ですと書きました通り、こんなにも短期間でありますのに再び館林の地を訪れました。
ナビのついた車で道を走るとなんと神社仏閣の多いことか┉。
江戸時代までお城の存在したところは、その名残の多いこと。

とはいえ、私はお城にはあまりときめきを感じることはなく、ましてや城跡というものにはとんと興味がありません。
「ここがなんとかのあとだよ、スゴいねぇ⤴」
「ふーん、そうなんだ⤵」
そんな会話がしばしばです。ただの山にある起伏にしか見えない私と、かつての合戦の折の攻防までに思いを馳せる歴史オタク殿との悲しいくらいの温度差であります。

さて、今度館林に来たら絶対ここに来たい!と騒いで帰宅いたしましたお寺さんへの参拝に、わずか一週間後訪れております。
前回道すがら、大きな山門が見えてのことでありますが、こうなると子供よりもたちが悪いです。ちょっと反省しておこう。

そのお寺さん、【善導寺】さん。
大きな山門、そして広い広い境内!
先週から温めていたときめきがさらに増します。

┉?
あ、新しい?そのすべてがなんとも新しく感じます。
うーん、でも、徳川四天王の榊原さんの菩提寺なんだよなぁ。お墓もあるはず。お寺にありがちな火災による焼失、再建パターンでしょうか?


御由緒書きに明治二(1869)年に明治天皇より勅願所の綸旨を賜わった格式高いお寺さんだと書かれています。

こちら和銅元(708)年、行基菩薩が東国行脚の折に開創されましたお寺さんであります。
戦乱の世にあって次第に荒廃しますが、天正18年(1590)館林城に赴任した榊原康政が菩提寺として再興されております。元和元年(1615)には関東十八檀林寺に加えられ徳川家康に保護されながら多数の優秀な僧侶を輩出してきたとされています。

そんな古い歴史を持つお寺さんにありながらすべてが新しいよな┉。
ん?移転?

な、なんと!館林市の都市開発で昭和59年に現在地へ移転し平成2年に堂宇が整ったそうです。なんともったいない!!
しかも、結局、駅前にあったというこちら様の跡地にはただの駐車場が広がっているのだとか。┉おバカな都市計画で貴重な財産をいたも簡単になくしたものです。歴史的な遺産として、そして昨今の御朱印ブームでどれだけの財源になったことか。(-""-;)

No.94 20/06/07 11:41
旅人さん0 

群馬県館林市の【善導寺】さんは、新しいながらも古きをかんじさせ、仏の道を伝道する立派なお寺さんでありました。何よりも、穢れ多き身、迷いだらけの私は、その善き事に導いてくださるという名に惹かれました。

まずは、その梵鐘に刻まれた、御仏のお美しいお姿に思わず声をうしないました。微笑んだそれはそれはお優しいお顔のお釈迦さまのお姿が、正面に彫られているのです。
こんなにもお美しい梵鐘を今まで拝見したことがないかもしれません。大きな仏像と言っても過言ではない、素晴らしいお姿であります。
しかも、その梵鐘、撞かせていただくことができるのです。
お作法がていねいに書かれています。
その音色のまた美しいこと!
安らぎの鐘と名付けられたこの鐘はこちらのお寺さんの移転再建を記念して、有縁の方々が寄贈なさったものなのだそうです。
『上は諸天に通じ、下は九泉に徹する御佛の声』であるとされ、この音を聞く者は心の浄化とやすらぎを得ることができるとのことで、供養になることでもあるという由で鐘を撞くことをお許しくださっておられるようです。
ちなみに諸天とは天人たちが住む諸々の天国で、九泉とは地の下は九層になっているという地獄の果て、という意味だそうです。



そして、新型コロナウイルスによる自粛がようやく解除されたとはいえ、まだまだ終息の糸口すら見つからず、今はたまたま広がりが制御されているだけで、おそらくは必ずまたその猛威を振るうだろう恐れのあるなか、こちらのお寺さんでは御朱印こそは中止なされていたものの、なんと、御本堂へのお参りをお許しくださっておりました。
心ゆくまでの礼拝をとのご配慮からでしょう、ご案内すると静かに席を外されていかれました。
そして、その御本堂の立派なことといったら。

新しいから、ではないのです。華美でもなく、そこはまさにまぎれもない癒しの空間でありました。
心落ちつく、広い広い御本堂。
欄間からはたくさんの御仏の彫像が見護ってくださっておられます。そのお姿のお美しくお優しいことといったら!
天井画もみごとな季節の花やあるいは鳥が描かれていたでしょうか。
御迷惑だろうと遠慮して手短に礼拝を済ませたものの、いつまででもいたいと思うような、まさにひぐらしの御本堂でありました。



No.95 20/06/07 22:32
旅人さん0 

私は子どもの頃、NHK大河ドラマの強すぎるライトがわざとらしくて、どうにも好きになれず、どちらかというと民放の大岡越前だの銭形平次、水戸黄門のほうを好んだものでした。

大人になっても、あえて大河ドラマを観る機会もなく過ごしてきたため、どんなに話題になっていても、ちんぷんかんぷんで少しも話がわからず専ら聞き役に徹するしかない者でありました。
群馬県が舞台であろうと愛国心が起こることもなく、子供が毎週真剣に観ていた『新撰組』すらも、
なんだかんだと家事にいそしんでいたりして、子供とすら共通の話題の持てない母でありました。
歴史の授業は好きではありましたものの、それ以上の発展はなく、教科書に載っていないような歴史はあまり詳しくはありません。歴史小説も史実なのか、フィクションなのかもわからぬまま読み進めておりましたくらいであります。

対する夫は歴史オタク。
たぶん結構な詳しさであるのではないかと手前味噌ながら思うのであります。

今でこそ有名すぎる六文銭も、私がそれがなにを指すものかを知るのは大人になってのことでありました。とりあえず、大河ドラマで有名になる前に知っていてよかった、そんなレベルでありました。

それにしてもNHKの大河ドラマ。最近偶然【麒麟がくる】の画像を観る機会があり、その画像があまりにも自然でびっくりしたくらいでした。



閑話休題。
群馬県と真田氏の関係もそのドラマを観ていなかった私にはよくはわからないところではありますが、群馬県の一部も真田の領土であることは理解しておりました。
沼田でも真田の【六文銭】の紋を捺した御朱印が存在しておるようですし。

さて、そんな真田の領地であった沼田城、名胡桃城に出かけて参りました。私には名胡桃城の奥方であった方のお墓のある【正覚寺】さんに参拝する目的でありましたが、当然歴史オタクにとっては両城趾を巡る旅であったことはいうまでもありません。






No.96 20/06/08 05:42
旅人さん0 

高速をつかって沼田まで連れてきてくれた夫に、いつもありがたいことだなぁなどと考えながら【正覚寺】さんに思いを馳せていると、
「まずは名胡桃城でいいかな?」
どうぞどうぞ。

「ん?名胡桃城に行きたがってたのは母だけど?」
「えっ?いやいや私は城跡はさっぱりわからないから、父が行きたくないなら別に行かなくていいんだけど」
「ええっ?母が行きたがってたからと思って向かってたのに┉。まあもうあと少しで着くから行こう」
┉城跡を訪れるたびに、「ただの山にしか思えない」とはっきり明言する妻が、何故ゆえ名胡桃城趾に行きたいと願うと思ってしまうのか?いまだに彼の思考にはついていけない。まあ、彼はそれ以上に私の思考は理解不能なのかもしれないですけれど(^_^;)
いつになっても夫婦の二人三脚も珍道中であります。


そして名胡桃城趾。ポピーの花が咲き乱れ、美しい沼田を見下ろせるそれはそれは景色のよいところでありました。ところどころに足場の悪いところもありますが、そこにもきちんと小さな橋をかけてあり、歩きやすいところであります。
太田市の新田城趾のようには距離もなく、小高いくらいのところであります。お城だったところを復元するでなく、ポピーの植えられたところ以外は自然を楽しんで歩くことのできる小高い丘でありました。

「すごいなぁ、○○のあとがそのまま残っているんだぁ。落とされたあとはそのままになっていたからなぁ」
「えっ?!」
何やら熱く解説をしてくれた夫でありましたが、なにしろ実物のお城がないとそのお城をイメージすることなどさっぱりできないし、お城の知識は皆無であります私は、○○の跡がしっかりそのまま残っていると言っていたことしか思い出せないのであります。ごめんなさい。

小田原評定のもととなった有名なお城とも申しておりましたが、容量のかなり少ない私の脳みそにはかつて歴史の授業で習ったことすらもすっかりとこぼれ落ちて消え失せておりました。


さて次は、その名胡桃城を護ったいたいけな姫さまの眠るお寺さんに参拝する┉のかと思いきや、今度は沼田城へと向かうのだそう。
沼田城について知ってることなんて、まぁ間接的に関係しているかどうか┉、上毛カルタの『ぬ』『沼田城下の塩原太助』というワードと、関係あるかどうかもわからない、『て』『天下の義人茂左衛門』くらい、なんですけど。(^o^;)

No.97 20/06/08 19:22
旅人さん0 

大河ドラマを観る習慣のない私は、あの【真田丸】(┉でしたっけ?)の放映のさなか上田城に行ったというのに、真田丸がさっぱりわからないうえ、おそらくは日本の歴史とは少し異なったものとなっている、私の中でのお城のなかで流れたであろう日常を勝手に想像してはお城のなかをめぐっておりました。
上田城とて、何回息子に連れていってもらっていることか。
それなのになにも学習しないおバカさんであります、私。
夫よ、息子よ、ごめんなさい。<(_ _;)>

ましてや今回はお城がない!
二の丸、三の丸と言われても┉(;゜゜) 
夫の目には見えて、私の目には見えない、まるで心のきれいな人にだけ見えるとかいう妖精とかの類いのように、私にはただの小高い丘でしかありません。

【沼田城跡】には武将とその奥方の像があり、私のような者にも少しだけ歴史っぽさを感じることができました。
それでも、私の関心は沼田城趾公園ないで飼育されている熊だったりおかめインコだったりカナリアだったりで、やはりここも私には公園、でしかなかった f(^ー^;
沼田城にはかつて天守閣まであった大きなお城だったようです。


さあ、(ようやく)その沼田城に逸話を残す【小松姫】のお墓のある【正覚寺】さんへと向かいます。
歴史にも詳しいわけでもないくせに、なぜ小松姫さまにこだわるのか?┉それはやはり歴史を変えた(かもしれない)とまで言われる女性であり、なによりやっぱりお姫さまという存在にどこか憧れるという、そんなくだらないことからなのであります。


【小松姫の逸話】
小松姫(稲姫)は徳川四天王の【本多忠勝】の娘であり真田昌幸の長男・真田信幸の妻である。

関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した。昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出し、そのまま沼田城を訪れた。小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから、武装した姿で対応し城門を開かず追い返した。後に、自ら子供を連れて昌幸のもとを訪れ、舅の願いを叶えた。このことについて、昌幸・信繁は大いに感心したと言う。

一方で昌幸には沼田城に立ち寄りそのまま城を奪取する意図があったとも言われ、小松姫はそれを見越した上で穏便に解決したとも言われる。 Wikipediaより







No.98 20/06/09 20:33
旅人さん0 

【正覚寺】さんの大きなそれは立派な山門に思わず小さく声が出ました。

孫に会いたいと訪れた舅である【真田昌幸】を、城門の外で武装し、断固として城には入れることはできないと対応したという【小松姫】ではありましたが、その信幸の宿泊していた【正覚寺】さんに孫を連れて行き会わせたという、そんな舞台でもありました。
小松姫とその子供もこの門をくぐったのだろうかと思うと感慨深いものがあります。

また、【正覚寺】は、真田家の家臣「鈴木重則(主水)」が自害した場所でもあります。
北条の謀略によって【名胡桃城】を奪われたことを恥じた城主重則は、立ったまま切腹する「立腹」で武士の忠義を示したという記録が残っているのだそうです。
戦国時代の歴史の一こま、一こまを静かに見守っていた正覚寺さん。
当時を伝えるものは、山門と、境内に大きく枝をひろげるコウヤマキの樹と、小松姫の墓くらいになっているのかもしれません。さほど大きくはない御本堂であったりと、今はコンパクトなお寺さんになっておりましたが、ここに立ったとき、私のような凡人でも歴史の重みに思わず感嘆いたしました。

運転手兼名ガイドであり、歴史の先生であります夫が、妻のレベルに合わせて分かりやすく説明をしてくれました。
それでも長い長い歴史、何度も何度も聞き返す私に、さすがの夫があきれて「もういいんじゃない?」と申したほどで┉。f(^ー^;

有名どころがオンパレードで登場してまいります、沼田城の歴史。
いまさらながら、すごいなぁと思う私でありました。


それにしても昔の人って、せいぜい移動手段は馬か籠であるのにもかかわらず、すごい距離を移動していたものであります。そしてあちらこちらで国取り合戦を繰り広げていたのであることだなぁ。

No.99 20/06/11 06:44
旅人さん0 

正覚寺さん追記

今はコロナのためなのか、はたまた御朱印ブームでお疲れになられたのか、御朱印はお書きになられていませんでしたので、あえて庫裏にお邪魔しなかったのですが┉。

こちらに参拝したいと思っておりましたのは、他ならぬ歴オタの夫がもしや喜ぶかもと思ったからでありました。
実はこちらの御本堂、奥の間の天井、沼田城の廃材を使っているのだとか。
少し危ないほどの深い段差を、○○の跡だぁ♥とか申してパシャパシャと写真におさめている彼が、知らずして訪れたお寺さんの参拝で、そんな沼田城との出逢いがあれば、さぞ感動し、喜ぶだろうと思ってのこともあったのです。そんなよこしまな私の思いのせいでしょうかね(ノ_<。)

そして┉余談ではありましょうが、ここ、正覚寺さんには声優野沢雅子さんの父野沢蓼洲(りょうしゅう)さんの作品があるのだそうですが、野沢雅子さんご自身が八才から十八歳までこちら、正覚寺さんで育ったのだとか。

御本堂に奉られた仏像も、鎌倉時代の運慶の流れを汲む仏師の作だということで、本当に、御本堂での参拝がさせていただきたく思うお寺さんでありました。
コロナ問題で他人とのよけいな接触を避けることが好ましいとされる時代をむかえてしまい、いくら図々しいおばさんである私であっても、『御朱印はお書きしておりません』の文言を掲示されているお寺さんの庫裏の門戸をたたくことはできません。
コロナのやつぅ(*T^T)

No.100 20/06/11 18:06
旅人さん0 

沼田まで足をのばしたので、群馬県利根郡川場村にあります【吉祥寺】さんも参拝したいと、さらなるわがままを申す妻に想定の範囲内と二つ返事で吉祥寺に向かってくれる夫。大切にしないとバチがあたるかもなぁと思ったりもするのですが、┉大切にするってどうするんだ?具体策のわからない悪妻であります。

そんな悪妻を乗せて、到着いたしました吉祥寺さんは、花の寺として有名であります。
池がいくつもあり、境内のなかは細い小川が流れています。そのさらさらとした音。そして心洗われるような清々しい空気。
夫と私の大好きなお寺さんであります。

急遽向かうことになったため、ネットで調べているとスマホで吉祥寺さんのホームページをお見せすると拝観料が割引きされるというありがたい情報もありました。さらには拝観受付で、カラーのパンフレットと一緒に涼やかな林檎ジュレのふたつ入った袋もくださいました。
なんともあたたかなお出迎えであります。

立派な山門の上、楼上には文殊菩薩さまを中心に十六羅漢さまが安置されているのですが、そこにも自由にあがることができるところもまたありがたいことであります。
そして、このお寺さん、石仏がそこここにお祀りされているのです♡

こちらの石仏さまに手を合わせ、あちらの石仏さまに語りかけ、さらにはそこに咲く季節の花にみとれてと遅々としてなかなか釈迦堂にたどり着きません。
この日咲いておりましたのはカキツバタ、そしてタイツリソウ、クリンソウ、変わり種のオダマキは濃いレモン色をしたもので、一目で好きになりました。
そしてようやくみぎてに鐘楼が見えてまいります。
こちらもまた、自由に鐘を衝くことができます。

ひだりてに見えてくるのが、茅葺きの釈迦堂であります。こちらも自由に入ることができ、心ゆくまでそこにおられます御仏の御像に向き合うことができるというありがたいお寺さんであるのです。
釈迦堂は1790(安政二)年の建築であります。そこに安置されておられます釈迦三尊像は鎌倉時代のものとされています。
以前来たときよりもシンプルな内部となっており、私はいまの方が好きであります。

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