関連する話題
神社仏閣珍道中・改

神社仏閣巡り珍道中・改

レス500 HIT数 21565 あ+ あ-

旅人さん
21/07/02 03:51(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。



No.2982625 20/01/08 07:18(スレ作成日時)

新しいレスの受付は終了しました

投稿制限
スレ作成ユーザーのみ投稿可
投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

No.151 20/07/22 03:22
旅人さん0 

昔、とはいえ、江戸時代の、それこそ徳川家と関係するくらいのお寺さんであるにもかかわらず、┉むしろ徳川家と関係するくらいのお寺さんだからこそなのか、御本尊さまを唐突に長野のお寺さんへ移すこととなり、そしてそれこそそれがどこのお寺さんなのかもわからないような状況となるのかもしれません。
御住職はそこでお話を次に移したのですが、歴史オタクの血がどうにも騒いだのか、夫が「長野のどこのお寺さんなのか結局わからないままなのですか?」とせんなき問いをいたしましたところ、
「ある程度は、┉おそらくはここではないかというところまではわかってはいるのですが」と。御住職ご自身の足で何度も長野をお訪ねになられてのことのようです。
いまさら返して欲しいということではないにしても、やはりご自分のお寺の、ましてやもともとの御本尊さまのことが気にならないはずはありません。

そして┉。
徳川綱吉公との関係。
こちらは館林の領地だったわけではなかったようですが、中興の潮音禅師さまが綱吉公の帰依を受けられており、もともとあったこちらのお寺が無住とまでなってしまっていたことをうれいていた有志の方々が禅師に是非にとお声がけし、こちらのお寺に入っていただいたというのが、実際のところのようで、直接のご関係ではなかったようではあります。
館林城主であった綱吉公が、将軍として江戸城へ移られるにあたり、館林城主には綱吉公のお子さまがなられました。御年わずか三歳、昔のことですからもしかしたら数えで三歳なのかもしれません。
三歳であることだけでなく、お体の弱いお子さまであられたようで、実際には館林城には一度もいたことがないようです。
そして┉将軍お体の弱かった城主が亡くなられたことを受け、館林城は取り壊され、と同時に徳川家と関わりのあったお寺も廃寺となり、同宗派であったこちらのお寺にその廃寺となったお寺の御本尊さまと什宝、梵鐘が移された、ということでありました。





No.152 20/07/22 03:52
旅人さん0 

┉聞くことと、少しでも記憶して帰ろうということだけに重きをおいてお話をうかがっておりました私。ここでふと、この館林城と関わりのあったお寺さんの御本尊さまが長野に、それこそ移動先も知らせられることなく移動することとなったのかな?という疑問が┉。
そうするとあり得ないような御本尊さまを他のお寺さんへ移すということになんとなくさもありなん、と思えなくないことになるのですが┉。(;゜゜)

その後、江戸の地に廃寺となったお寺さんが再建され、こちらに移された什宝や梵鐘を返還して欲しいという話になったこともあったり、
さきの第二次世界大戦で、多くのお寺さんから梵鐘が供出されていったなか、こちらの梵鐘はこのお寺さんにのこされて、今にいたっているようです。
見る目のない私のような者には、いかにもどこのお寺さんにもあるごく普通の梵鐘にしかみえないのでありますが┉こちらの梵鐘、【千代田町の文化財】というパンフレットによると、【国の重要美術品】なのだそうで !(゜ロ゜ノ)ノ
┉本当に見る目がないのだなぁ、と落ち込むくらい、普通の梵鐘にしかみえない私でありました。
そんな名鐘を自身の寺に持つ御住職ですが、梵鐘については一切語らず、いかにも奥ゆかしいことでありました。


こちらの宗派、黄檗宗。黄檗とは実は樹、なのだそうで。

「黄柏」とも書く、キハダの別名。
キハダの幹の皮をはぐと、あざやかな黄色が現れます。この黄色は、ベルベリンという色素によるものです。樹皮からコルク層を除き、乾燥させたものは「黄柏(オウバク)」と呼ばれ、古くから生薬として用いられました。
 「良薬は口に苦し」の言葉通り、強い苦味と健胃整腸作用があり、民間薬では正露丸などの苦味整腸薬や止瀉薬の原料とされ、過去には外用薬として、内皮の粉末に酢を加えて練ったものを打撲に用い、煎じ液を眼病の際の洗眼に用いたようです。
 
 黄柏は染料としての長い歴史があり、絹でも木綿でも媒染剤なしで黄色に染めることができます。古代中国の楚(そ)では公式文書の用紙に黄柏で染めた「黄紙」を用いました。日本でも、東大寺正倉院の遺物に同様の紙が見られ、美しく黄色に染まった紙は防虫作用もあるため、経文用紙としても重宝されたようです。
着物の間に挟んだ黄色の紙に覚えがあれば、それも黄柏染めで防虫用であったようです。

No.153 20/07/24 00:27
旅人さん0 

寶林寺さんの境内にも黄檗の大木があります。

それと桃の木。
ハナモモも多く、その花の時季には大変見事なのだけれど、と少し口惜しそうな御住職さまでありました。
屋根にも、石碑にも、そこここに桃の実。中国において不老長寿の実とされた桃を珍重した、黄檗宗ならではの印のようです。

【こぼれ話】
その壱
こちらの中興の禅師、潮音禅師は大変優れた名僧であり、神道にも造詣が深かったようですが、伊勢神宮の御祭神についてある説を書物として、寶林寺から追われ、下仁田にある【黒瀧山不動寺】の住職となった経緯があるようです。

その弐
黄檗宗を日本に伝えた隠元禅師が日本に伝えたものとして伝えられているいんげん豆は実はいんげん豆でなかったけれど、隠元和尚が伝えた豆、ということからいんげん豆と呼ばれることとなった。

その参
江戸時代、黄檗宗が日本に伝えられたころはすでに太平の世、武士たちも傘張り替えなどで生計を助けるようになっていました。その内職の中のひとつに版木作りがありました。
黄檗版鉄眼一切経という経典の版木を開刻するに当たって縦一行の字数を二十字横十行と定め、これを一ページと定め、細かな字をより、読みやすいものとしました。縦二十文字、横十行。原稿用紙のもととなったといわれています。
ちなみにこちらのお寺さんには、その当時実際の版木から刷られた般若心経の紙がのこされております。黄檗で染められた用紙に印刷されていました。

その四
木魚は黄檗宗により伝えられ、仏教全般に急速に伝わったもの。
そもそもの木魚にまつわる伝説があり、その昔、人を苛め暴力を振るった者がいて、死して、魚として生まれ変わった後もなお、その性格は変わらず、池のなかで他の魚を追ってはつつき回る魚がおり、それに気づいた僧が、その行動を改めさせようとその性格の悪い魚の背を叩いて他の魚を苛めるのをやめさせていた。すると、叩かれていた背にコブができ、そのコブが原因で泳ぐことができなくなってしまった魚はコブを取り除いてやったものの死んでしまった。
悪い心根を戒めようとしての行動ではあったものの、殺生をしてはいけないという僧が魚の命を奪うこととなってしまった。
その罪を忘れないためにも、魚が改心できるようにというためにも、と木魚が作られた、というもの。

No.154 20/07/24 09:24
旅人さん0 

【木魚】は、その形をみて魚と思える要素がないくらいにディフォルメされています。そばで拝見する機会などあまりないものでもありますが、鱗のような彫りがあって、┉どこをどうすればこのような形をとるのか、やっぱりそばでみても顔があることと鱗があること以外に魚を語る要素があまりないものであります。
仏教に関わることなく生きてきた時分においても、あやしい好奇心を以て、木魚をそばで見られる機会があるとそばで見ていた私でありますが、見れば見るだけ魚から離れたものにしか見えませんでした。

この木魚も黄檗宗を伝え広めた、隠元禅師が中国から伝え、日本中に宗派を越えて広まった物なのだそうであります。
なので、黄檗宗の木魚は総本木魚。
寶林寺の御住職さまは、木魚に掛けられた白い布を外して、木魚を叩かせて下さり、さらにその造りをも解説してくださいました。

総本木魚。(┉龍?┉龍じゃない?しかも顔が二つあるんだけど┉木魚のルーツを伝えた黄檗宗の木魚ももはや木魚じゃないんじゃない?)
木魚を見つめながら、そんなふうに思う私の内心を見透かしたというか、アタリマエノ反応として、ニコニコなさりながら、さらにその木魚の秘密を、御住職は解き明かして下さいました。

もともとの煩悩を消し去れず輪廻転生した魚の煩悩を叩き出すということから生まれた木魚は、なるほどディフォルメされてかなりわかりづらい物になってはおりますが、叩いている部分こそが、魚であったときにできたコブであって、この木魚は煩悩をみごと吐き出すことができ、なおかつその修行を讃えられて龍になった姿で、さらには妻をめとり、妻と見つめあう姿となった木魚、なのだそうです。
┉輪廻転生だけあって、龍になるまで実に壮大な歴史であります。

御住職さまはそんな私の内心を見透かしたのかのように、[煩悩を吐き出す前の魚]、である木魚と、[煩悩を吐き出した、口に煩悩の塊の珠をくわえた魚]、の木魚を、わざわざ持ってきて見せて下さいました。
いずれもこちらの木魚は魚の顔を確認することができます。┉さすが総本木魚です。
総本木魚は私の造語ですが (ーωー)

No.155 20/07/24 10:20
旅人さん0 

【こぼれ話】
その五
館林城主であった綱吉公の子息は、身体が弱く夭逝しておりますが、武家社会で初めて病気平癒のご祈祷を受けておられたようです。御年三歳と五歳。
そこから子どもが健やかに育つようにと、そしてその年まで健やかに育ったことを感謝して神社(仏閣)にご祈祷をお願いする行事、【七五三】に発展した、と言われているのだそうです。


まだまだたくさんお話を賜ったのに、メモをとることを憚ったので、記憶してきたことをなんとか絞り出したものの、ここまでで限界、であります。

お寺をあとにして何気なく見た時計に思わず、二度見して、さらに夫に確認をしたほどの時が経過しておりました。┉その時間、実に二時間。
御住職、本当にありがとうございました。

No.156 20/07/26 15:59
旅人さん0 

群馬県桐生市の観音寺さんについて、ネットで検索していると、今まで見たことのない石塔┉石幢が存在するとのことを知りました。
考えてみれば、お寺さんにおいてよほどのことがなければ墓所にはいりこむことはありません。
こちらのお寺さんでは、山門をくぐり、鐘楼のわきを通って、御本堂にお参りし、弁天池の鯉を恐々覗いて、それで参拝を終えていました。庫裏の前に広がる明るい墓所と、御本堂の裏にある墓所。
大きな垂れ桜の枝の蔭にある、石仏さまと古い墓石。
石幢って┉どこにあったの?
気になると、気になって気になって。でも、桐生市の観音寺さん、どこどこのついでに行くようなところにはないのです。
行こう!
いつ? お地蔵さまの御縁日、二十四日に、山門のお地蔵さまにお会いしに行こう。

タイサンボクの花の香の香る山門のお地蔵さまにご挨拶をして。
御本堂まえの香炉にお線香をたむけて。
御本堂横の、いつもは行かない御本堂の側面に目をやると、右横の垂れ桜の奥には、竹藪があり、さらには古い墓石が並んでいました。
┉なぜ今までこちらに目をむけることがなかったのだろう。
墓石群のおくに、その石幢はありました。


石灯籠の室、すなわち身部に相当する部分に、小さな七体の御仏が彫刻してあります。安山岩でつくられ、高さは私の身長より少し低いくらいの150cm。

この七仏塔の中央に刻まれている竿石の銘文は右に「大日本国上野州山田郡須永郷下仁田庵住」中央に「奉為逆修功徳主妙春霊位」左は「于時永正九天壬申三月五日啓白」とあるのだそうです。
石幢のそばにまで寄ることはできるのですが、だいぶ風化しており、渡しにはほとんど読むことはできませんでした。


この頃は桐生助綱公の治世。
特に銘文に「大日本国」と刻まれているのも例がなく、さらに「須永郷」と刻まれているのは、この地が古く須永の御厨といわれ、いつかその名がきえて、須永郷と呼ばれるようになっていたことの有力な証拠であるのだそうです。


すぐそばには御朱印で有名なお寺さんが二つ。
江戸時代の茅葺きの山門を持ちながら、田舎寺と謙遜される御住職さま。

ウグイスが鳴き、猫が呼びあうお寺さんの境内には澄んだ空気が充ちています。
そんな境内に立ち、あらためてこちらのお寺さん好きだなぁと思った、私でありました。

No.157 20/07/28 05:52
旅人さん0 

with Covid-19.
なかなかそれをイメージできないのは、私だけ┉でしょうか。

それでも、実際、住んでいる地域、生きてきた環境、置かれている環境や職業等によって、おそらくは全ての人がそれぞれの【with Covid-19】を模索しながら生きているのが現状なのではないでしょうか。
ましてやCovid-19を経験された方と、そうでない┉私を含めた人とはどうしてもそのCovid-19に対しての感覚に大きな隔たりがあることは否めないことです。

おそらくは、間違いなく第二波がきています。
正直、百人いれば百通り以上のwith Covid-19が存在している世の中は住みにくいものとなっています。自分の子どもたちとですらwith Covid-19の感覚には隔たりがあります。
まるでなにか、生き方自体を試されているかのように感じさえします。



私は毎朝、例の[仏壇もどき]で御仏に祈ります。
いつもお守りいただきますことへの感謝と、昨日一日をお守りくださったことへの感謝を述べて。
世界中を恐怖に陥れております新型コロナウイルス感染症が一日も早く終息しますよう、どうかお力をお貸しください、お救いください、と。

神職の方は神さまに。
御仏に帰依する方は御仏に。
毎日のお勤めのなかでご祈祷くださっておられます。

ご自宅に神棚をお祀りされている方は神さまに、仏壇を置かれている方は御仏やご先祖さまに。キリスト教徒の方は主イエスさまに。
それぞれの信仰する神さまや仏さまに日々祈っておられることでしょう。
世界中の人々が、それぞれの信仰する尊き対象に日々祈りを捧げていることでありましょう。
特に信仰する宗教がなくても、空を見上げ祈ることがあるのでないでしょうか┉今も、特段帰依する宗教を持ってはいない私がそうであるように┉。


そんな人々の祈りが大きな力となって、┉せめて同じような感覚でwith Covid-19. の日常を送れるようになりますように、私は願うのであります。
┉そう、あのインフルエンザウイルスと共存する感覚で。
それを支えて下さる仕事をされている方々がいて、であることに感謝して。


No.158 20/07/29 05:40
旅人さん0 

梅雨も明けぬまま八月を迎えそうな今年、コロナの二本立ての生活は少なからず心に影を落としています。
とはいえこの梅雨が明けたら、今度は命をも脅かす異常なまでの熱さの夏が訪れるだけで、いま、私たちは試練のときを過ごしています。

歴史オタクの夫と二人神社仏閣をめぐり、その歴史にも触れることがあり、一人で過ごす時間にふと、江戸時代の疫病やてんさいの続いた頃に思いを馳せることがあります。
神さまに祈り、御仏にすがり、命ギリギリの苦しいときをなんとか乗り越えてくれた先人があって、いまの私たちの命へと繋がっているのだなぁ、としみじみ感じます。何代前くらいの先祖にあたるのでしょう。 
私たち夫婦は江戸時代までの先祖を辿ることは難しいのですが、お家によってはかなり前の世代までの系図を辿ることができるようであります。

命の尊さをあらためて感じます。名前すら存じ上げない先祖にいとおしさを感じます。
私はもっと魂を大切に育むように生きなければならないと、この年になってもきちんと生きられていない自分を恥じ、一瞬一瞬を、どう生きればよいかを考えなくてはいけないと思いました。とはいえ、難しいことではなくて、昔の人のいうところ[お天道様に恥じない生き方]をする、ということでありまして、まぁ、いわば、私の場合、怠け心との戦いということでしょうか。


神仏にまるで縁のない生き方をしてきたことを軌道修正すべく神社仏閣をまわっておりますが、それも、ただ数をまわればよいのではなく。
ただただ純粋に、生きていることに感謝して、働けることに感謝して、その日一日働けたこと、生きられたことに感謝して、道端にお立ちになられる野仏に手を合わせ、毎日毎日神社や寺に寄っては感謝をする。
そんなふうに生きられたらいいなあと思うのであります。
それはなかなか容易ではないけれど、心の持ち様として、そうありたいと思っています。

No.159 20/08/01 09:13
旅人さん0 

八月をむかえカレンダーをまくったところ、[十二日]の下に、
【長崎原爆の日】【東京オリンピック開会式】、とありました。
去年業者さんが多くのカレンダーを作ったころには、こんなことになろうとは、こんな年になろうとは誰ひとり思ってなかったのに┉。

五十代。当然ながら戦争を知らない世代でありますが、それでも、毎年毎年原爆投下の時間に中継されるNHKのテレビ放送を正座して観ておりました。

息子は修学旅行で広島で被爆者の方の生の講演をお聞きする機会を得ました。
娘はやはり修学旅行で沖縄へ行き、その悲惨な戦地で地下に実際に入らせていただき、当時の、そこでの体感はどんなものであったのかを学ばせていただきました。
実際にその地を歩くことは、やはり胸に深く刻まれるものがあるようで、息子はその後も広島へ旅することがあるようです。そして言葉にならない、言葉にできない思いがあることだけを一言私たちに語ります。
あえてのひとり旅、でありますところに(誘ってくれないところに)思いの深さを感じます。


私たち夫婦はといえば、定番の神社仏閣巡り。
どこに行ったのかさえ覚えていないほどに、詰め込まれたスケジュールでありました。
もったいないことです。

私たち夫婦は今、奈良・京都を巡る旅を夢見ています。もちろん神社仏閣を。
そうはいっても、鎌倉の三十三観音霊場巡りも、秩父の三十四観音霊場巡りも、結願していない二人ではありますが┉。
現実は、もう、外出自粛の状態です。

早くコロナがおちついて、世界中の人々が、笑顔で自由に動きまわれる時に戻りますことを、祈ります。



No.160 20/08/02 22:01
旅人さん0 

群馬県桐生市の【観音寺】さん。今回、御本堂で御住職さまにお話をうかがう機会を得ました。

御本尊さまは薬師如来さま。
┉記憶違い?遠目でありますうえに、記憶障害に心底悩みを持つ私。薬師如来さまだったと思うのだけれど┉。
坐┉座像であられるせいでしょうか、なにか違和感があるのです。
そうは言っても、仏様のお姿にもさほど詳しいわけでもない万年初心者でありますし、あとでそっと調べよう。と思っておりますと、
「御本尊さまは薬師如来さまなのですが、どうやらこちらの仏(像)さま、阿弥陀如来さまなのではないかと思われるのです」
「江戸時代に山門以外すべて焼け落ちたような火事がありまして、そのゴタゴタのあとにもしかしたらそのようなことも起きたのではないかと。ですがこちらの御本尊さまはあくまでも薬師如来さまであるとしてずっとそのようにお奉り申し上げております」
┉さらりとおっしゃる御住職さま。
ですが私、実はこのお話にたいへん感動いたしました。
御仏のお姿を写した御仏像は、それはそれはありがたいものであります。ですが、あくまでもそれは人間が写したお姿に過ぎず、お奉りされているのはあくまでも薬師如来さま、とされる姿勢に深く感動いたしました次第であります。
┉もしかしたら薬壷がなかったのかなぁ、┉それを確認する手だてであるお写真は今回撮らせていただきませんでしたので、確認のしようもなくて┉。
でも御住職がおっしゃっておられたように、お姿に異なる点があろうとこちらの御本尊さまは薬師如来さまなのであります。

そして向かって右の脇間の中央には【不動明王】さまのそれはそれは見事な御像がございます。決して大きくはないのですが、彫りが細かく表情がリアルでお美しいのであります。矜迦羅(こんがら)童子と・制多迦(せいたか)童子が従っていますが、その大きさがちょうどおとなと子供といったくらいの差であって、そこがまた私の好きな作りでありました。
「亡くなられてすぐの一週間はお不動様にお預けし、最初の審判をお受けになっていただくのです」
本当にお美しい御像であります。
お写真を撮らせていただきたい気持ちと、そのままでおきたい気持ちとがあって、今回は写真におさめないことに。
ただ┉今こうして筆をおこすとやはりお姿を撮してくればよかったなぁと、雑念、┉欲が生じる私なのであります。


No.161 20/08/04 09:46
旅人さん0 

そんな【観音寺】さんのお不動さまの左隣には、あまり御本堂の内陣の脇間とかではみられることのない石仏さまの座像が安置されておられます。こちらは┉
こちらは、かつて地域で信仰の厚かった薬師堂が区画整備などで移動しなければならなかったということがあり、こちらのお寺さんが頼まれお預かりしたという経緯があった【薬師如来】さま、なのだそうです。
「撫でてご利益をいただいていたお薬師さまなので、よく撫でられていたところが色が変わってしまっているんですよ」と御住職さま。
右隣には御椅子に座られた導師さま。
疫病退散に神通力をお持ちであった元三大師さまの御像のようです。
「今このコロナの時期に本堂にお越しの皆様にぜひ御祈願いただいて、大師さまにお声をお届けしたいと思っているので、是非。」とのこと。
あの一種異様な鬼になられた元三大師さまのお姿こそが疫病を退散させて下さったのだとおっしゃいました。
そうでした。元三大師さまは天台宗の高僧でありました。
それでも御住職さまは少し照れるように
「なんでもあるんですよ」と。
┉むしろありがたいことであります。

そして内陣の向かって左側。
中央にひときわ背のお高い御仏がおられ、左右に少し小さな御仏が安置されています。
「真ん中と向かって右がお地蔵さまで、こちらのもともとのお地蔵さまは左隣におられます」
「真ん中のお地蔵さまは、八幡宮の裏手にある墓所にある地蔵堂から、あちらが無住になってしまったことからこちらにお越しになったんですよ。」
┉お薬師さまとお地蔵さま。よいところにおこしになることができました、よね。

そして脇間のむかってひだりにはば、十一面観音さま。
水瓶?をお持ちです。
「こちらは聖観音さまで、お顔は十一面観音さまのようです」
お!!(゜ロ゜ノ)ノ

作者が一緒で大きさが一緒だったりすると、そんなカスタマイズができちゃうのでしょうか。違和感は何一つありませんでした。
あれ?
御住職さま、この間観音さまがおられない観音寺とおっしゃっておられたような気がしたのですが┉どうやら私の記憶違いか聞き間違いであったようです。すみません(。´Д⊂)




お寺の鐘も好きに好きなだけ撞いていいとのこと。
┉そもそもそんなことを聞く人はあまりいないのだろうなぁ。




No.162 20/08/08 00:34
旅人さん0 

仕事がお盆休みにはいります。ほんの二年前まではお盆休みのない仕事でしたので、なんだか申し訳ないような居心地の悪さを感じています。
お盆を迎えても、基本的には墓守りをしている立場でないため、お墓参りをしようにも故人は帰るべきところへ帰っておりますし、そこにお線香あげにうかがう程度で、かように長いお休みをいただいても、なにもすることもなく、さりとてどこかに行けるご時世でもない今年であります。
嫁ぎ先において、夫は次男坊で、そういった扱いのかなり残る家柄ですので、法要も日時を決定した状態で招待される立ち位置であります。実の親であっても他界された時点で、見えないけれど確とした線引きをされるものなのだと、寂しいように感じていたものです。
 
ましてや嫁いだ我が身であれば、それこそ、親が親でなくなるような、自分の親のことでありながら、口出し一つできなくなるのだということをいやというくらいに実感いたしました。
自らの手で迎え火や送り火をおこなうこともなく、【精霊棚】もお線香あげに出向くことになる兄弟の家が用意するものです。
お墓参りも僧侶を招いた新盆法要も蚊帳の外でありますが、これもあくまでも母の墓を守る立場の者にのみ法要を執り行うやり方の決定権があるもの。
人の死というものがこういったことであり、そしてこんなにも大変だったことをあらためて知りました。
おぼろげながらに終活というものを考える年ごろでありましたが、それがいかに甘いものであったかを痛感いたしました次第です。


そんな私が何気なく手にした本がありまして、シリーズ第四弾となる人気小説なのですが、奇しくもそこには余命宣告を受けた者が残された日々をどう生きるかを描いてありました。
〖死ぬまでにやりたいことリストを作る〗〖つながりを意識する時間をもつ〗〖かなえてきた夢を思い出す〗〖死後に必要な手続きを調べる〗などなど。

正直コロナ禍において私には重い内容であるように感じましたし、何かと向き合うことの多いこの本ではありますが、この本とこういうタイミングで出会ったのは思し召し、なのかもしれません。

【夢をかなえるゾウ4】 水野敬也著

であります。

No.163 20/08/09 23:57
旅人さん0 

群馬県前橋市の【最善寺】さんへ参拝いたしました。

この辺は古墳があるところでありまして、コロナによる外出自粛令が出される直前、あの【吉永小百合さん】によるJR東日本のCMで紹介されていた古墳がまさにここ、大室の古墳でありました。
とはいえ、古墳には全く興味がない私、いまだにその古墳に行ったことがありませんけれど。

閑話休題。
最善寺さんは、かつて大室の地にありました【大室城】の城主であった石川氏のお墓があるお寺さんであります。
その石川氏は前橋藩主酒井家の家臣であり、酒井 が姫路城に移った際に石川氏も姫路に移り、城主の不在となった大室城を管理していたということです。
そんな前橋市の歴史と深い関係がある最善寺さん、御本堂はさほど古いものではなく、広い境内には新しい仏像があちこちにおられ、四季折々の花々が咲く、大変居心地のよいところであります。
御朱印をお願い致しましたところ、御住職さまが
「うちは書き置きの御朱印で日付を書き込むだけのものとなります」
とおっしゃり、少々お待ちくださいというと、なにやら御本堂に向かわれました。
鐘の音が聞こえ、ああ、書き置きの御朱印に御祈祷下さったのだなあとありがたい思いで待っておりますと、半紙に丁寧に御包みくださって御朱印をお持ちくださいました。
「御朱印帳にちょうどよい大きさだと思いますので」と手渡してくださったので恭しくそちらを御朱印帳に挟みしまわせていただこうとしたところ、
「うちの御朱印はこちらに深いご縁のあった自得さんという方が書いた絵を忠実に写した紙に御朱印をしているんですよ」と。
開いて拝見させていただきましたところ、埴輪の踊るような、心がなにやら弾むような絵が書いてあります。

自得さんとは【松野自得】という群馬県出身の僧侶であり、画家であり、書家であり。文筆家であり、俳人であるといった方で、こちらの最善寺さんを拠点として全国をまわる旅を続けた方であったようです。長崎の原爆投下後に詠んだ句は、長崎の地で句碑となっているようです。
こちらの最善寺さんの境内にも自得さんの句碑があり、【御佛は大地におわす八重桜】とあります。

たくさんのお優しいお顔だちの石仏さまたちに会いに、そして四季折々の花を愛でに、是非また参拝させていただこうと思っております私でありました。

No.164 20/08/10 00:58
旅人さん0 

今日、ナビがあるのにナビを使わず、「たしかここを曲がっていけばすぐだった気がする」と、夫が右折した道。
「うーん、間違えたかも。こんなT字路はなかったはず」
今日夫はなんだか冒険気分のようでいつもは通らない道を通ったり、ナビを使わず走行していました。ただ、この辺の道は狭いので、へんなタイミングで対向車が来ると泣きたくなるような道もあるので、少しドキドキ。
T字路を左に曲がって道なりに走行して行くと、左側にお墓がみえました。そして【窖薬師(あなやくし)】と書かれた案内板が!
ですが、なにぶんにも細い道で。もし対向車が来てしまったらようやくすれ違えるかどうかというくらいの道幅であります。夫はそういったとき、「またの機会に」ということが多々あるような慎重派。あきらめて前を見つめていると、
「少しバックすればなんとか停められるとこがあった気がする」と言うではありませんか*.゚+ヽ( ゚ロ゚)ノ゙ +.゚*

バックして戻ると、なにやら先ほどは見逃していた御本堂が見えます。あ、これは駐車場もありそうです。


こんな奇跡のようなご縁で、群馬県みどり市にあります【医王山圓乗院善雄寺】に参拝しました。

境内に入ると、御本堂の扉が開いています。もしかして、御本堂での参拝ができるのでしょうか。ときめく胸を落ち着かせ、まずは御本堂の外からの参拝を済ませて、早足になりそうなのを抑えて庫裏へとお邪魔いたしました。「あのー、御本堂の扉が開いているのですが中に入らせていただいてもよろしいのでしょうか」
奥さまでしょうか、女性が対応してくださり、快くお許しくださいました。御本堂へと戻る足取りはもう早足となっている私でありました。

私どもが御本堂に上がらせていただいたと同時に、先ほどの女性が御本堂におこしくださいました。お昼を終えたかと思われる時間帯で、大変に申し訳なくなりました。何度もお詫びを申し上げますと、一度退座されてあらためてまた御本堂へとおこしくださいました。
なんでも今日はお葬式ができてしまい、御住職さまはお留守なのだとのこと。
女性がこちらのお寺のことをお話してくださいました。この方はこちらのお寺の娘さんで、御住職さまがお父様で、副住職さまが旦那さま、息子さんも僧籍にあられるとか。
「境内のお堂へは行かれましたか?」

No.165 20/08/10 01:33
旅人さん0 

御住職さまの娘さんで、副住職さまの奥さまであります女性がおっしゃるお堂こそが【窖薬師堂】であります。
「窖薬師堂はここの二十二代住職であった堯慶和尚という方があの地に穴を掘って生きたまま入定した跡に建てられたお堂なんですよ。」
「┉!」
「そう、即身佛です。周りはだいぶ止めたようなんですが、その頃疫病も流行っていて、そんな時こそ人々を救いたいと強く願ってのことで」
「┉」
「どうぞお参りしてやってください。なんでしたら、毎年二月の第二日曜日には御護摩を焚いてお祭りをしておりますのでよかったらおこしくださいましたな。こんな田舎のお寺ですが皆さんたくさん集まってくださるんですよ」
慌ててメモをとらせていただきました。
即身佛さま、ですか┉。
よほどの強い意志がなければできないことであります。

こんな奇跡のようなお導きで堯慶和尚さまのお寺にうかがうことができました。



窖薬師の由緒を紹介します。(由緒書きより)

窖薬師とは、当山第二十二世堯慶和尚が文化十一年(1814)
三月十二日生きながら入定して薬師仏となり人々の病気やけがれを
救うという悲願をたてて、善雄寺の境内に穴を掘り、ここに入った
といういわれによる。
堯慶上人は学徳兼備の上に金剛不壊の信念をもって檀信徒を導き、村人から生仏として尊敬されていた。
八十歳の年を迎えたとき、「私もお釈迦様のご入滅の年まで生かされ
たことは何ともありがたいことよ。この仏恩に報いるために日頃信ずる薬師如来の化身となり、病気厄難に苦しむ人たちを救い申そう」と
大誓願をたて、穴を掘って入定されたのである。

「月雪も見尽くし、花も散りぬれば、芽出たき国へ我は行く春」という辞世を残し、別れを惜しむ周囲の人々を静かにかえりみて、「中で鉦の音がしなくなったら往生をとげたものと思ってくれよ」とにこやかな会釈をして入定され、日夜念仏三昧に入り、鉦の音がきこえなくなったのは三七二十一日(数字は原文のまま)の夕刻であったという。
上人入滅後、御廟所に石の薬師尊像が建立された。


お堂に手を合わせ、いま、祈ることはただひとつ。

どうか今一度、新型コロナウイルス感染症の終息にお力をお貸しください。

No.166 20/08/10 16:43
旅人さん0 

夫も、息子、ライダーさんたちが好きだという【国道122号線】。彼らの好んで走る辺りは、みどり市大間々町の福岡大橋を目の前にしたところで、日光に向かって左折するところからの道を指します。
運転していたらどうなのか┉、私は滅多にその道を走行することがないため、その体感、というか体験談を話すことはできないのですが、助手席にいる限り、自然豊かな景色が車窓に次から次へと流れる道であります。
湖(ダム湖)あり、川あり、山あり。

その道を一本入ったところにある、【銅街道(あかがね街道)】と呼ばれた街道とその宿場町や、古い駅舎。歴史ある寺社を訪ねるのが最近の休日の過ごし方、でありました。
┉ありました、と過去にしなければならなそうな、コロナの感染拡大という、なんともせつなくてモヤモヤし、苦しい状況は、とりあえず、置いておき、あかがね街道、別名【足尾銅山街道】にあります神社仏閣を訪ねての珍道中録を綴ってまいります。



その国道122号線に沿うようにあった、┉いやいや、あかがね街道を現代の生活に合わせて作られた国道122号線、でありますが、そのワンツーツーと呼ばれる道を、無理矢理曲がるかのような細道を登って行くと畑の広がるところとなり、その畑の途切れたところ、みぎてに小さな御堂が見えてきます。
珍道中を始めた頃から、なにやらやたらと目にする機会がありながら出向くことのなかった【深沢の角地蔵】さまの安置された御堂です。


1579(天正七)年に、この辺りの一族と桐生(由良氏)勢との合戦があり、多くの戦死者を出したようで、地元の人たちがその亡骸を葬ったこの地を[千人塚][桐生塚]と呼んでいたそうです。
それから二百年弱の年月が流れた頃、この近くの【正円寺】さんというお寺の和尚さまが、深沢の城跡であやしい火の玉の飛び回るのを見たのち、数千の軍勢が渡良瀬渓谷で合戦しているさまを見たのだと言います。もちろん実際の合戦ではありません。
和尚さまは戦死者が成仏できていないことをさとり、七日七晩お地蔵さまに祷りお勤めをされたのだとか。そうした甲斐あり、火の玉の飛び回るのは鎮まったということでありますが、鎮魂の意を込めてお地蔵さまの像と供養碑を建立することにしたのだそうです。

No.167 20/08/10 20:17
旅人さん0 

ところが石工がお地蔵さまを彫っていると不思議なことが起こり、幾度も幾度もその不思議を体験した石工は、とうとう怖くなってお地蔵さまのお顔の部分を彫ることなく逃げ出してしまったのだといいます。
お顔が彫られることなく、四角いままのお地蔵さま、角地蔵さまとしてそのまま安置したのが、その名の通りの角地蔵さまであります。

角地蔵さまのお顔が彫られなかった理由は実は諸説ありまして、石工の設計ミスでこれ以上彫り進めることができなくなって逃げ出した、というもの。これより角地蔵さまは別名【まちがい地蔵】と呼ばれることもあるそうです。
そして、思うような手間賃が貰えないことがわかり途中でやめてしまった、というもの。

まあ、当時を知る人はおらず、角地蔵さまのお顔が四角い石のままである事実だけが変わらないのですが┉。
私はだんぜん、怖くなって逃げ出した説派であります。
石工を代えて完成させることもできたであろうに、完成していないということを考えたとき、一番これが自然なのではないかと。

だとすると、ちょっと怖い┉かなり怖いお話でありますが。
そもそもが百八十年くらい経ってからのお地蔵さまの建立であり、そこでも人魂やら、合戦する大勢の者たちの姿やらと、怖いお話が絡んでいますし。
実はそんな怖さもあってなかなか参拝にいたらなかった┉のかなぁ。


角地蔵さまの御堂のそばにはちょっと他では見かけないような石仏さまたちがおられます。御本堂向かって左側には赤いお掛けをかけておられる石仏さまがおられるのですが、なんとも苦悶表情でありまして┉。
あとでネットで調べたところ、この石仏さまは【脱衣婆】さんでありました。
埴輪のようなポーズをとられた不動明王さま。


毎月二十四日はお地蔵さまのお縁日で、ご近所の方々が当番制で御堂のなかでお茶を入れてくださったりお菓子をくださったりとご接待してくださるのだとか。

┉今は、そんな地域のお縁日のお祭りさえもできないご時世、なのでしょうか。うーん。( ´-`)

No.168 20/08/10 21:00
旅人さん0 

【銅(あかがね)街道】は前述のように栃木県の【足尾銅山】から銅を江戸へと運ぶ街道でありました。
足尾山中に鉱銅が発見された当初は足尾から日光を経由し宇都宮に抜け江戸へと運んでいたようです。
その後幕府直轄の銅山となると足尾から群馬県伊勢崎市への道が整備されてそこから水路で江戸へ銅を運ぶようになったようです。

群馬県のみどり市における偉人【岡登景能公】は代官に加え銅山奉行を兼ねていたようです。┉ちなみに私はその事実をたった今知ったのでありますが。
私のなかでは岡登景能公は、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削を行った人であり、この用水は、笠懸野の原野に新田を開発することとなり、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになった、みどり市にとってなくてはならなかった方であります。というか、景能公なくしては笠懸という地はありえなかったのであります。
そんな偉人である岡登景能公の名前が奇しくもここでまた出てくることとなろうとは。



【岡登景能公】は正式には岡上次郎兵衛景能(おかのぼりじろうべえかげよし)(1629?-1687)は、江戸時代前期にこの地域を治めていた代官です。岡上家は、徳川幕府開設以来の18代官の1家として、代々代官職を務める家柄でした。足尾代官を勤めた景能は、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図りました。
 銅輸送の効率化では、大間々-平塚河岸間に最短ルートとなる、笠懸野の原野を縦断するルートを新たに設け、現在の太田市大原町に本町宿をつくりました。景能は、本町宿に水を引くため、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行いました。この用水は、宿用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされ、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになりました。
 このように数々の業績を上げた景能でしたが、幕府から罪を問われ切腹を命じられました。景能の墓は、国瑞寺に置かれ、景能は現在も笠懸野の住民の尊敬を集めています。
 明治にいたり、景能の開削した笠懸野御用水は流路を変えて「岡登用水」として再興されました。
史跡の指定名では「岡登」となっているが、史料中の名字は「岡上」となっています。 (みどり市の資料より)

いやあ、知らなかった(((^_^;)

No.169 20/08/11 07:53
旅人さん0 

そんな銅(あかがね)街道は今私のひそかなマイブーム。
癒しの空間であります。
お土地柄、家々の距離自体はソーシャルディスタンスのしっかりとられたところでありますが、心の距離は実に近い。自然な距離感で、見慣れない私たち夫婦であっても、同じ空間を今共にする者としてとらえてくださり、困ったことがあったらいつでも手をさしのべる関心はお持ちなものの、決して強い関心も持たず、ましてや排他的な空気は一切ない、本当に居心地のよい空間なのであります。そもそもが、地元の方々とふれあうようなことも滅多にないのではありますが(道に迷って助けを求めるくらい┉っていつも、ですか 笑。)
マスク着用、屋外、せいぜい二、三分の会話、消毒用アルコール常に携帯。距離が近ければ同じ方向を向く。
そんなコロナによる自主規制下の過ごし方、であります。
神社仏閣も無人か、神職の方やお寺の方とはご挨拶程度で。神さま仏さまのおわします空間でこころゆくまで過ごせるこれ以上ない贅沢な時を過ごしています。


銅街道超初心者は、その街並みや歴史ある神社仏閣を巡るだけで、何年も時が過ごせそうであります。


閑話休題。


銅街道は実はもうひとつ大きな大きな役割を果たした街道でありました。


No.170 20/08/12 16:35
旅人さん0 

銅(あかがね)街道は現在の国道122号線の基となった道であります。
栃木県の足尾銅山から銅を運ぶための道でありますから、基本的には足尾発の道であったのでしょうが、もともと日光を通って銅を運んでいたため、自然、日光にも通じた道であります。
今でも群馬県の東毛地区と呼ばれる地域から日光に行くのに使われるルートのひとつであります。

日光といえば大抵の人が思いうかべるのがおそらくは世界遺産ともなった【日光東照宮】ではないでしょうか。 
そう、江戸時代日光へと向かう道として銅を運ぶ以外に使われたのは、その日光東照宮の建材を運び、東照宮の建築に携わる職人たちが街道を歩いた道でもあったのです。街道にはいくつもの宿場町があり、銅街道沿いには今でもその名残のある町が存在しているのです。
もちろん銅街道イコールではなかったので、実は私がそんなあかがね街道について知ったのはごくごく最近のこと。
かつて【足尾線】と呼ぱれた第三セクターの【わたらせ渓谷鉄道】にも乗ったことがありませんでしたし。
初めて見たあかがね街道の、宿場町の名残が色濃く残る町並みは感動して胸が弾んだものでした。

日光へと向かう人たちのなかには、あの徳川家康公の御意見番【天海大僧正】も、あの東照宮の【眠り猫】で有名な【左甚五郎】も、この道を通ったという言い伝えが残る街道でもあるのです。

みどり市大間々町の【覚成寺】さんには徳川家康公の妙見大明神が安置されています。
【天海大僧正】がこのお寺さんで休まれ、その際腰をおろされた石があり、御本堂正面には【左甚五郎】があの招き猫の試し彫りをしたという彫り物が残されているのです。この彫り物、ぐらぐら揺れるくらい不安定な付き方をしているのに、今の大工さんがどうはずそうとしてもはずれない、何やら特殊な付き方がされているのだそうです。

 

No.171 20/08/12 17:01
旅人さん0 

群馬県みどり市の【覚成寺】さんに残る天海大僧正の逸話があるようで、
【天海大僧正】がこの寺で休もうと歩いてきたものの道を一本間違えて、蓮沼というお宅にたどり着いてしまったのだそうで、その蓮沼家の屋号が「ふんじけ(?)」というものなのだそうです。
道を踏み外したという言葉がありますが、この辺の方言、なのでしょうか、ふんじけという言葉が踏み外すという意味も持つ言葉らしく、そこからいかにも導かれるように蓮沼家に行ってしまったのではないか、という説があるようです。

道を一本間違えたことを道を踏み外したという表現をされたら、私などはほぼ日常的に道を踏み外して過ごしていますけれど┉( ;´・ω・`)



この時期なのでお寺さんではお盆さまの準備で大変なときで、御本堂での参拝は叶いませんでしたが、いつかこちらのお寺さんに伝わる徳川家康公の【妙見大明神さま】を拝したいと思います。


境内にあります【洗心地蔵さま】はいつ頃の石仏さまであられるのかは不明ですが、それなりの経年を感じさせる石の状態のものであります。
文字通り私たちの心の悩み・迷い等を取りさってくださるお地蔵さまと立て看板にありました。
【南無地蔵願王尊】と唱えながら浄水を三回お掛けするのだそうです。そばにあった柄杓を失礼がないくらいに汚れを落として、真剣に祈願して参りました。夫は気づかなかったようで、悩みや迷いの多い私をお救いくださるためにお呼び止めくださったのでありましょうか。
何度も祈願させていただきたいお地蔵さま。
私一人で┉行けるかなぁ( ;´・ω・`)


No.172 20/08/12 17:12
旅人さん0 

ただ今雷神さまが大空を駆けめぐり、かなりの雷鳴を轟かせておられます。
雷電神社さまでお受けした雷除守を手にしかけて、喪中でありますことが気にかかりました。
お札もお受けしておけばよかった( >Д<;)
 

凄まじい雷鳴であります。

No.173 20/08/13 06:39
旅人さん0 

夫が「わたらせ渓谷鉄道の駅舎にお寺の案内が掲示してあったんだけど」とつぶやいていました。どうやらそちらのお寺さんへ行きたい様子ですが、肝腎のお寺さんの名前を失念した模様。
わざわざその駅まで行ってお寺さんの名前を確認して、スマホで検索するさまに、さすがの(?)私も少しあきれておりました。何がそんなに彼の心を惹き付けたのか┉。

お寺さんの場所は国道122号線沿いですぐにわかりました。が。
結構な坂をのぼって行くようであります。急な上に狭い!
坂を見上げてみた地点からはお寺の建物は一切見えない。
少し空いている、お寺さんの敷地内の土地に車を置いて歩いてのぼって行くこととしました。
群馬県みどり市東村神戸の【清水寺(せいすいじ)】さん、であります。

私は坂の上が気になりそのままその坂をのぼって行ったのですが、どうしてもここに来たかった夫は、車を停めさせていただいたスペースのあたりを少し探索している様子でありました。
うーん、やっぱり結構な坂だ。

坂をのぼった正面に御本堂がありました。飾り気のない境内にぽつんと恵比寿さまがおられます。そう、こちらは七福神の恵比寿さまを奉られているお寺さんであります。
「七福神ってことは他に六ヵ所のお寺を巡るってことだよね」と夫。ま、まさか?
「でもどこに他の神さまが祀られているかわからないね」
┉「お寺さんでお聞きしたら?」と一言言って先に進む私。

恵比寿さまは感心するほど枝振りのよい、これが釣竿でなくて何であろうというくらいの枝を手にして満面の笑みを浮かべておられます。ここからは見えないけれど下を流れる渡良瀬川に向かって岩に腰掛けていらっしゃる。
洒落たセンスをお持ちのご住職さまのようです。


はあぁ なんという景色でしょう。
まさに山。
お寺さんにはほどよい程度にしか木々はありませんが、松の枝越しに見える斜面を形成する木々。山紫水明、で、あります。しばしその絶景に見とれて、はっと我にかえったくらいです。

とはいえこちらはずいぶんと渡良瀬川からは離れた高台。清水寺というお名前の由来はなんだろう。などと考えながら庫裏に向かいました。

No.174 20/08/13 18:59
旅人さん0 

境内に入ったときから何やらお留守の気配でありましたが、案の定お留守。
立ち去ろうとした際庫裏のすぐそばに池があるのが見え、なにげなく覗いて見ると!┉澄みきった水であります。その透明なこと!しかもそのさまはまるで神秘的な泉のようであります。
ああ、これだ。
この水を見たら【清水寺】と名づけずにいられない。というかその名前しか頭に浮かばない。こんこんと涌き出る水。
山紫水明とはかくあるものでありましょう。

御本堂前を通って再び恵比寿さまの前を通って┉ふと見るとかなり急な古びた、不揃いな石段がありました。傾斜四十五度、といったらおおげさ?でも確実にそう感じさせる、急な傾斜であります。あと何段か、というところでは少し足元がゾワゾワするような、恐さすら感じる石段であります。
その先には観音堂がございました。
屋根には雑草が生えていたりしますが、それすらが趣あるものと感じさせます。壁面には大きな額が奉納されていましたが、よく見えないほど経年しています。
ここから見る景観も味わいがあります。


さて下ろう!┉ ああ、そうでした。急な傾斜だったんだ((´д`、)
あと少し、という安心感からふと前に目をやると、また石段が!
私は坂をすたすたと登ってきてしまったけれど、もうひとつ石段を登る登り口があったようです。えぇぇっ?! ( ; ゚Д゚) ┉さらにさらに急傾斜にしかみえない。しかもほの暗い。

┉登ってきた坂を下ることにしました。
降りてからその石段の方にむかってみると、石仏さまがたくさん並んでおられました。そのお足元にも水が流れております。
側溝が石仏さまのうしろを流れているのですが、そことはちがうルートでふんだんな水量の湧き水が勝手に流れを作ってしまったようです。
六地蔵さまはあの明治の廃仏毀釈でお頸を失われておられる方もおられ、なんとも物悲しくなります。こちらの六地蔵さまはお手にお持ちなられている仏具が、よく見かける六地蔵さまたちと異なっておられ、それをよく見たいと思っても、そのお頸のないようすがどうしても目に入ってきてしまうので、諦めてしまったくらいでありました。

いろいろご由緒などをうかがいたいお寺さんであります。
ただ雪の頃には絶対無理だなぁ。あの坂、車ではもちろん、歩きでもむずかしそうであります。






No.175 20/08/15 05:31
旅人さん0 

今回はあかがね街道から離れて。
とは言うもののまさに目と鼻の先ではあるのですが┉群馬県みどり市大間々町の【自音寺】さんへ参拝いたしました。

こちらには先代と現御住職が四国八十八ヵ所を実際に歩かれて、自らの手で頂いて来たという、八十八ヵ所のお寺さんのお砂が納められたところがあって、そこを歩くことで四国八十八ヵ所のお遍路を手軽に味わってもらおうというものとなっています。
それぞれのお寺さんののお姿をもとに石仏をお造りになられて、その石仏の下と、石仏巡りをした際、ちょうど石仏さまと対峙したときに立つあたりとに、四国八十八ヵ所それぞれのお寺さんの砂が敷いてある、といったものであるようです。
ちょうど十一日、観音さまのお縁日であり、こちらのお寺ではなにやら毎月お祭りをされているのだとか。┉行くしかありません。
とは言え、このコロナ禍ではお祭り自体されていないかもしれませんが。

境内にはいると人影はなく、御本堂は閉ざされたまま。
しかも御本堂、工事中。
四国八十八ヵ寺の遍路巡拝をいたしましょう。

御本堂の真横から始まる四国八十八ヵ寺遍路巡拝、石仏巡りはこれで三度目。石仏好きの私にはたまらない!そんな私に構うことなく夫は先を歩き、一体一体の石仏さまに丁寧に頭を下げ手を合わせ歩きます。
暑い暑い日でありました。

石仏さまは一体一体が表情こそ似てはいるものの(おそらく同じ石材店ゆえ)、一体一体が異なっておられます。同じ千手観音さまであってもその手の動きや向きに至るまでが異なっておられるのです。それぞれのお寺さんの御姿を基に忠実に造ったのでありましょう。
もちろん私どもは四国巡礼をしたことなどありませんので、八十八ヵ寺のお名前もそれぞれのお祀りされている御佛も存じ上げず、一つ一つお名前を確認し御佛の尊像を拝観してあるくと、それはそれは結構な時間を要します。
なかには珍しい勝軍地蔵菩薩さまであったり、涅槃釈迦如来さまであったり、三面千手観世音菩薩さまであったり。

この日どれくらいの時間をかけたのか、時間の過ぎるのを忘れてしまいます。途中、御佛の慈悲に思わず胸が熱くなり涙が出そうになることすらありました。

No.176 20/08/15 06:00
旅人さん0 

自音寺さんの四国八十八ヵ寺遍路巡拝は私の大好きな空間であります。
遍路巡拝後はお寺さんに向かいました。
初めての遍路巡拝の折に御朱印をいただきに庫裏に向かいましたところ御住職さまが、遍路巡拝をされた方にはこちらをお渡ししているのでと、二人にお守りを授けてくださいました。
二度目は特に御朱印をお受けせずともよいかと思い、そのまま帰宅したのですが、今回は令和となって初めての遍路巡拝でしたので御朱印をお受けしたいと庫裏に向かいました。
今回は御住職ではなく奥さま(?)が応対してくださいました。
こちらの御朱印は、亡くなられた先代のお手をそのままスタンプとして捺していただくものであります。
今回はそれも書き(?)置き化されていました。
お祭りのことをお聞きすると
「やっておりますよ」とのことで、怪訝そうな私の口調に
「あ、今日は十一日か。ちょうど終わっちゃったところですみません」┉?
一時間半以上前にこちらのお寺さんに着いていたのに?
なにもそのような気配すらなかったし、到着したときに御住職がお車でちょうどお出かけになられたのを拝見していましたし┉。

よくよくうかがったところによると、十一日のお縁日には【阿字観】をもって月縁日としているのだとか┉。時間も九時から十時とのこと。
道路に面した大きな看板には月縁日毎月十一日、どなたもお越しくださいとしか書かれておらず、なんとも不親切な┉。

今回、いただけたお守りは一体。
「あのぅ、二人廻っているのですが┉」とおそるおそる申し出たのですが┉、
「御朱印を受けた方だけにお渡ししているので」とすげない御返事で┉。

阿字観、ずっとしたかったのにな。

と、問い合わせもしなかった私も悪かったのですが、いただいたパンフレットを拝見しても月縁日と阿字観は別々に書かれていて、時間の記載もなくて┉。
最後にモヤモヤ感の残った参拝となってしまいました。┉これも修行かな 笑。

No.177 20/08/15 07:00
旅人さん0 

しばらく前に参拝いたしました群馬県千代田町にあります【寶林寺】さんでたいそう丁寧なお話をうかがうことができ、ずっとそれが心に残っております私たち。
その【黄檗宗】をさらに世に広めた一人【潮音禅師】さまが、ここ寶林寺さんを去られたのちに、隠棲されたとされる群馬県甘楽郡南牧村の【黒龍山 不動寺】さんへ是非参拝したいと思うようになりました。

もともと夫はこちらへの参拝をと願っていた様なのですが、私の聞き流しの術(!)によりなかなか実現することなく。「何度も言ってた!」という夫に、初めて聞く話でしかない私。
私の聞き流しの術はいつものことではありますが、なぜかその会話の一切が記憶にすら残っておらず。

┉これは【寶林寺】さんに導かれるように参拝し、そこで感銘を受け、夫は潮音さまという方の人となりを知ってからのちに【不動寺】さんへ行く。
すべてがお導きだった。┉と思うしかありません。

しかも、ここ【黒龍山 不動寺】さんには、【戦艦陸奥の羅針盤】が使われたという鐘があることを知りまして。
何が好きなのかは聞いてもわからないので聞いたことがないのですが、(┉)わが家の息子が一人、[自衛隊]とか[なんとか艦]と[なんとか機]とかが好きな者がおり、彼は一人でやはり戦艦陸奥の一部を使ったという凡鐘のある群馬県渋川市にある【福増寺】さんを訪れたことがあったようです。そんな話を実家であるわが家に寄った折、つい最近したばかりであります。

そんな風に、息子とともに参拝させていただけるように、すべてが導かれているようにしか思えない、今回の【黒龍山 不動寺】さんへの参拝。
まことにありがたい、御佛のお導きであります。


No.178 20/08/15 13:38
旅人さん0 

【黒瀧山 不動寺】さん。
場所は群馬県の南西部の山間に位置する【南牧村】、高齢化率が日本一となっている村、┉なのだそうで。

【道の駅オアシスなんもく】の近くから県道202号線を進み、その終点が不動寺となります。
道の駅は満車!車で通る道から見える河原で遊ぶ人たちの食事どころであり、駐車場なのでしょうか。コロナ禍にありながら、それを忘れているのでは?と思えなくもない盛況ぶりでありました。その道の駅を過ぎた頃から道は狭くすれ違いもなかなか難しい道路となっていきます。そうは言っても普通の生活道路、狭かろうがすれ違う車の台数は想像していたよりはるかに多く、しかも狭いだけではなく傾斜もあり、下ってくる車のスピードは速いように感じられるのです。ましてやこの道に慣れた方々なので、すれ違うタイミングの地点もわかっている?ほんとに?┉まあ、下り優先でありますから、ねぇ。
この道の突き当たりこそが不動寺さん、なのですが、駐車場近くまで民家さんがあり、そこへ参拝客の方が下山されてくれば、┉すれ違う地点ってどこかにある?あった?私に言わせれば「なかった」
ほぼほぼすれ違うための地点すら設けていないような狭くて傾斜のキツい道であります。

駐車場がお寺の近くの道路沿いに二か所ありますが、そこも十台弱。ちに近づいた辺りから本当に傾斜がキツいらしくアクセルベタ踏みで登ったそうです。
そこから上り坂をそれなりに歩きます。つづら折れってこういうんだよな、みたいな道を、(あ、足首けっこう斜めだ。スゴい坂だな)などと考えながら登って行きます。空気が澄み、ほどよい竹やそのうち見えてくる山の絶景に心軽やかな状態で歩いていくせいでしょうか、さほど苦ではありません。さほど距離はありません。やがて、お寺さんに見えないような建物が見えて┉、そうこうすると、間もなく鐘楼が見えてきます。イワタバコというらしい紫の小さな花がそっとお寺に向かう道を飾ってくれています。

夫と息子の楽しみにしていた一つ、戦艦陸奥の羅針盤を溶かし合わせて造った梵鐘が見えました。
境内の一つ一つに手書きの説明書きが添えてあるのもうれしいです。こちらの鐘は撞くことができます。

No.179 20/08/16 03:18
旅人さん0 

重厚であるのに明るい、やわらかく心にすーっと入り込んでくるような音色。さすが平和祈願の鐘であります。
【黒瀧山不動寺】さんの梵鐘。
羅針盤というところがいかにも平和への道を示してくれる感じがいたします。

夫が撞いて、息子が撞いて。私が撞いて、三回。
私が鐘を撞くにあたって祈ったことは新型コロナウイルス感染症の終息、という形での世界平和ではありましたが┉。願わくば私の内から溢れんばかりの煩悩が三つ消えていますように。せめて自分で撞いた一回分、一つだけでも。┉ そう思うところがあるのなら、鐘を撞かせていただいたことに感謝して自分で自分の煩悩を戒めるんですよね。


さあ、いよいよ参拝、であります。
┉なにやら変わった入口で。
建物横の通路のような入口、というよりまさに建物横の通路を活用した[授与所]なのですが、奇抜な感じがして、のっけから珍しくためらいがちな私。建物は宿坊のようで、先程坂を登りながら、お寺さんの建物ではあまり見ないような建物と思った建物、さながら民宿、合宿所のような外観です。黄檗宗は中国の文化が色濃く残るもの、らしくて、そんなことも関係しているのでしょうか。おみやげ屋さんの二階に泊まれる海の家ならぬ山の家のようなイメージを受け、そこにしっかり[黄檗宗 不動寺]の看板がさげてあるのです。

その通路を抜けると大きな杉の木が一本枝を広げています。

そして、山門。
山門を見たとき、思わずホッとした私。建築様式にも疎い私でありますがごく普通のお寺さんの、立派な山門、であります。(不動寺さん、すみません💦)
山門の扁額は潮音さまの書なのだそう。
山門の中、左手に木製の大きな魚が下げてあります。魚梆(かいぱん)と呼ばれる、木でできた魚で、禅宗の儀式や行事の折に時刻を知らせる目的を主にしている法具であります。元禄時代のものとのことで、さながら鰹節のように乾燥しており、叩かれ続けておなかの部分が痛々しいくらいえぐれてしまっています。魚の下方に太い丸太を綺麗に加工した叩く棒がおいてあり打たせていただくことができました。┉もちろん叩きます。笑。


No.180 20/08/17 06:55
旅人さん0 

山門をくぐると緩やかな傾斜の先に御堂が見えて参ります。あとを歩く夫と息子を待とうとする意識が飛び去った瞬間です。
眼下右側にはそそりたつ山の絶景が見えています。
御堂は石垣の上に建てられており、石垣の下方には品のよい池があり同じ大きさの紅色の小振りの鯉が数匹、気持ち良さそうに泳いでおりました。ん?御堂の裏手に進む順路があるようです。

自らのはやる気持ちを落ちつかせるために再び御堂と反対側の景色に目をやろうとするとなにやら形のよい岩があり、墨書きの手書きの、立て看板があります。紐でそばに行けないようにしてあるのですが、岩の上にかすかに赤い、まるで岩にはえている角のような石がおいてありました。なにやらいわれがありそうですが、夫と息子を置いてまで御堂に向かうほど、はやる気持ちを抑えられず、まずはお参りを!とイソイソと御堂に向かう石段を登ります。
【不動明王堂】であります(┉たぶん。書の心得がない私には草書の文字が多々読めないことがあるのであります 泣)
木造の、決して豪華ではない、むしろ質素な造りであると思われます。御本堂の引き戸がほんの少し開けられています。
それを覗かずにはいられないのが私。薄暗い御本堂のなか、厨子が安置されていてその扉は固く閉ざされています。秘仏であられるようです。その厨子から紐がのばされ、御堂正面の柱の一本にくくられています。その紐に触れさせていただきながら御不動さまの真言を御唱えしたのち、初めての参拝のご挨拶をさせていただきました。
と、そのそばの窓の下に御堂に直に画ビョウ(!)で貼り紙が!┉う、嘘でしょ?
こちらの御不動さまは【金躰不動明王】さまと呼ばれていらっしゃるようで、奈良時代【行基上人】が自刻したと伝えられています。
。人々の悩み、苦しみの気害を焼き清め、洗い清めて現世人間界・自然界の平安を願いとし、消災吉祥・延命長寿・萬物元気・不動体不動心・善星皆来・悪星退散・開運・火伏せ・・・灼かな霊験ありと信仰を集めておられる御不動さまとのこと。
酉年に御開帳されるとのこと。また、毎年四月二十八、二十九日に不動明王例大祭が開かれているようです。
┉来られるかなぁ。うーん、自力は百パーセント無理で無茶。運転というのは公道を走る以上、それなりの運転技術とセンスがあってのものだから、無理と思うことは大切な判断だと認識しているので。甘えとは違います。

No.181 20/08/17 10:48
旅人さん0 

不動堂を息子とともに参拝させていただいても、夫はいまだ不動堂へ到達せず。
さらに先の順路、不動堂の裏手に向かおうとする母と、これから不動堂を参拝しようとする父と、どちらと行動を共にしようかなというかすかな目の動きが息子から見てとれました。
「人それぞれに感動するところだったり、関心のあることが違うから、自由にお参りしていてもどこかで必ず合流するから大丈夫。みんなバラバラに歩いても全然問題ないよ。このふたり、いっつもそうだから」と私が申しますと、スッと私と一緒に歩きだす息子。彼が、何をしでかすかもしれない母を見守るためだったかどうかはあえて問わずにおきました。

切り立った崖下の、さらに一段下がったところに弁天さまがお祀りされています。その名も【天女窟】。
なんでもこの岩窟、弘法大師の爪彫りの不動明王さまの磨崖仏があるのだとか!が、心眼の曇った私の眼にはまるでそのお姿を拝することができません。あきらめの悪いヤツなので、けっこうな時間をかけて見たつもりなのですが┉。それでは弁天さまのお参りをいたしましょう。薄暗いのと経年劣化してしまっているせいなのか、弁天さまのお持ち物で当然あると思っていたところの琵琶がない?┉これも心眼の曇りでしょうか?うーん(--;)
いやいや、手に薬壺か桃を持っておられるように見えるのであります。さらには右手には刀?うーん。
家に帰ってのちに写真を確認したところ光背部分にはけっこうはっきりくっきりとお手がいくつか認められ、長めの何かを御持ちになられているように見てとれます。うーん。
こちらの弁財天さま、あの潮音さまがお祀りされておられるようなのですが┉。長い年月と明治の廃仏毀釈がなにか関係しているのでしょうか。
まあ、私のない頭で考えても答えはでないので┉。

もう一体お祀りされている石仏さまは千手観音さまのように見受けられます。

そんな岩肌付近にお祭りされた千手観音さまの真後ろ辺りに途絶えることなく聴こえる水音。ミストのように流れ落ちている滝がありました。
うわぁぁぁ。
青空にミストのような細かい水しぶきがキラキラと光輝いています。




No.182 20/08/18 04:35
旅人さん0 

心はずませイソイソと滝へと向かうと、ミストのヴェールに包まれて御不動さまがお立ちになっておられます。
さらに近づくと御不動さまのお足元は足場は多少悪いものの、立てるように足場が作られているではないですか!
┉行かないわけがありません。そもそも、そのお足元になんとか行けはしないものかという思いを持った者しか、そのお足元の足場に気づかないものでしょうから。ありがたいと思ってもその場で立って拝む方が一般的、普通なのだと思います。
さすがに他にも参拝の方がおられれば、そのお足元の足場に気づいたところでそこをめざしたりはしないのですが(┉たぶん)、この日この時間、私たち以外に参拝の方はおられず。しかも季節は夏。
気づいたときには滝へと向かっている母親に「濡れるんじゃね?」と声をかける息子。
┉やはり突飛な行動をとる母でありました。「まあね」
もはや止められない母をひとり見守る息子でありました。ごめんなさい(≡人≡;)
大好きな御不動さま、大好きな滝!
しかも滝とはいってもミスト状に降り注ぐもの。濡れたところで絞るほど濡れることにはなりますまい。
 
降り注ぐミストのヴェールに包まれつつ、眼下の土地を護るように立つお姿の神々しいことといったら!
これはこの場に立たなければ見ることはできない光景であります。「来てみてごらん、すごいよ」
「いやいい」

こちらは潮音さまが入山されるまでまさにこの場を道場として真言密教の修験者が滝に入り山谷を駆け修行されていたようであります。潮音さまをこちらへ迎えた相源和尚さまも毎日滝行を二十年されていたと記録が残っているようです。
今日はミスト状に落ちてくる滝も日によってその水量を変えているようです。今の季節なら気持ちのよい滝も冬には足下の水が凍りますでしょう。
毎日の滝行。それだけ一つをとってもすごい修行であります。

No.183 20/08/18 23:07
旅人さん0 

ここ、黒瀧山不動寺さんは、上州の奥の院とも称されているようであります。長野県と群馬県の境にある南牧村の奥に位置していることがそう呼ばれる由縁でありましょう。その奥の院の奥の院、開山堂をめざします。

この開山堂こそが潮音さまの隠棲されたところであるようで、開山堂の裏手には潮音さまのお墓があり潮音さまの書かれた書物が奉納されているようです。ですが、お墓にはあまり見えない造りで┉一見鳥居にも似た造りの門状のものをくぐり、何段かの石段を登った崖をくり抜いて造った洞のなかに小さな石碑が左に寄せて建てられていて、その先は扉になっているようにも見えます。
その鳥居にも似た門状ような建築物に、神という文字が使われており、立ち入ってよいものかどうか判断に苦しみ、遠巻きに参拝させていただいたのですが┉。
伊勢神宮についての書物がもとで伊勢神宮のお怒りを買ってのこちらへの隠棲。布教のため諸国をまわられたという潮音さまはこの地での、ここ不動寺での生活をどう思われ過ごしたのか。ふと、そんな思いにとらわれました。
淋しく心細く思われたであろうか。
決してそうではない、と思いました。

多少の不自由さはありましょうが、もともと、むしろこの山紫水明の風光明媚な景観を愛で、絶好の修行の場と喜んでおられたのではないかと思えました。実際宿坊が建てられて、当時修行の僧がこのお寺を訪れていたようであります。

開山堂をあとにして、先程気になりながらも、まずはと開山堂を先に参拝させていただきました御堂をめざします。
えっ?こちらこそが御本堂なのではありませんか。



No.184 20/08/21 04:21
旅人さん0 

びっくり!
なにがびっくりかと申しますと、ここ不動寺さん、屋根に〖十六枚の花弁の菊の御紋〗と〖三つ葉葵の紋〗を掲げているすごいお寺さん┉なはず、なのですが、御本堂の表札とも言える入り口の引戸付近に掛けられた二メートル弱の木の札に、ばーんと貼り紙をしちゃってるのです。しかもその札にも三つ葉葵のお印が!なのに、全部の文字が読めないように貼り紙をされている。なんか、なんともぶっ飛んだお寺さんな気がいたしますが┉。三つ葉葵の紋の下には、中興開山の潮音さまの【潮音】の文字、その下にばーんと貼り紙!
【大雄宝殿】云々という、あとでいただきました書き置きの御朱印と同じ方の筆書きの文字の貼り紙なのですが。┉ここに貼らなくてもいいんじゃないかなあ。

大雄宝殿
建立、元禄七年。文殊菩薩と普賢菩薩を脇侍とする釈迦如来が本尊で、京の仏師康伝作。正面『大雄宝殿』の扁額は元禄五年潮音禅師が大書した。
※浄財箱 後方に下がって前方くり抜き部分を見ると御本尊御姿を拝むことが出来ます。

と書いてあるのですがね。A3サイズの紙で、しかも端が二ヵ所けっこう破れているような紙なのですが、無造作に十ヵ所、それこそランダムにバンバンバンと画鋲で留められているのです。
うーん、大胆!
御仏こそがたいせつなのであって、他には一切の価値はないという考え方の宗派なのでしょうか?
┉せめて木札の文字はすべて読みたいと思います。

御住職さまとお会いすることなく参拝を終えたので、こちらのお寺さんの真意はわからないままなのでありますが。うーん。


ちょっとだけもやっとした思いを振り払うためにもう一度滝のミストを浴びて、下山いたしました。


No.185 20/08/25 09:07
旅人さん0 

上州の奥の院と呼ばれる【不動寺】さん。その奥の院の開山堂、と申し上げましたが┉。開山堂は中興の祖に当たられる潮音さまの住まわれたところになり、ここはここで奥の院となるようなのですが、こちら、潮音さまがここに隠棲される以前より修行の場でありましたため、まさに[真の奥の院]と言えるところが存在しておりました。
そこへはさすがに下準備というか、トレーニングというより、むしろ心の覚悟をしてでなくては登れない場でありまして。

寺務所の左手から、なにやら不動寺登山口がある事を知ります。馬の背というところへの案内となっています。
ここまででさえけっこうな急坂で、バテバテな人もおりますし、その立て看板を読んでいる私に息子がすかさず、
「そこへは無理だと思うからね」と申したほどでありました。┉いかに無謀なむてっぽうな母親と思われているかを物語っております。

仕方がないので、帰宅してその不動寺さんのさらなる上に向かう道を検索したところ┉ ゚ ゚ ( Д  )
以前、テレビで紹介されていた、まさに目が点になった登山道の画像がアップされているではないですか!

岩場に鉄梯子。

【馬の背】と呼ばれる地から【見晴台九十九谷】まで35分、更に九十九谷分岐点まで25分、そこから【観音岩】まで10分、という案内があるようですが、その【馬の背】と呼ばれる場所から先こそが、テレビで恐怖の登山道、のような扱いで紹介されていたところであったのです。

岩場に鎖!
崩れそうな階段!
鎖場で言う、通称カニの横ばい!

群馬県で1番怖いと言われている、鉄梯子!
┉かなりな高さの岩場で、角度はなんと90度近いともいうのです。

その鉄梯子を登りきると、断崖絶壁に鎖と岩場!

しかもここからさらに上があるのです。


息子がそれを知っていた可能性はありますが、なんにせよ、息子に感謝です。
これは、これからますます老いていくだけの私たち夫婦には、並大抵の努力では行かれないところであります。

歳をとることに甘えてはいけないとは思うのであります。
ありますが、年寄りの冷や水を通り越した むちゃ、無謀は慎んでいきたいとも思います。その上手な掛け合いをして歳を重ねていきたいと思うのであります。

No.186 20/08/25 13:05
旅人さん0 

with Covid-19.

その心構えすらできぬまま、確実にCovid-19、コロナは拡がりまるで世の中を飲み込んでいくかの勢いで。受け入れ方、恐怖心もまさに千差万別。
とりあえずマスクしておこう、とりあえず手を洗おう。
日常生活に必要な物の買い物と参拝も、回数を控えて、人との距離をとって、とりあえず必要最低限の外出としよう。
そんな私のとりあえずwith Covid-19.
いい加減に思われる方のほうが多いのだろうな。

それでも。私ですら、距離をとるどころか身体に触ってくる見ず知らずの買い物客やら、マスクせずに話しかけてくるやはり見ず知らずの方やらには、不信感というか不快感というかよくない感情を抱くのであります。ちなみに買い物中ぶつかったということではありません。ぶつかってしまうのもソーシャルディスタンスがとれていない結果ではあるかと思うのですが┉。
そしてそんな感情を抱いた自分をふりかえりその賎しさを嘆いたり。

世界中で今は感染対策を考えつつほどよい距離をとって、人との繋がりを大切にする新しい生活を、同じ方向、同じベクトルで考え行動する時を迎えているのだと思っているのですが┉その答えのないままにすべての人が行動し生きているのが現状なのだと思います。


そんな現状のなか、私の出したwith Covid-19、コロナ対策は、『生活圏から出ない』。もちろん、千差万別のwith Covid-19.でありますし、お仕事であればそれは生活圏。ましてや今は外出自粛を唱われている状況下ではありません。あくまでも私のコロナ対策であります。
鎌倉三十三観音霊場巡りも、秩父霊場巡りも、中断。であります。
 
そうして本やネットで、四国遍路や西国観音霊場巡礼に思いを馳せて、せめて気持ちは豊かでいたいと思うのであります。
今、ネットでまるでそのお寺、その神社を歩くような視点で撮影された画像が配信されています。そんなバーチャル参拝をして過ごすこともあります。あくまでそれは人の歩いたものでありますことはわかっていてのこと。

大切なのは心。





No.187 20/08/26 05:08
旅人さん0 

秩父観音霊場で巡礼を始めるにあたって、昔からの巡礼の流儀を多少でも受け継ぐことで、その信仰心に少しでも近づくことができるのではと、巡礼者に必要だとされる用具を整えたいと思っていました。
ところが実際には、その思いにまだまだ揺らぎがあったようで菅笠も白装束も纏うことなく、当然脚絆や手甲もなく、金剛杖さえ結局購入しなかった私。

ですが、このコロナ禍において外出を自粛している、今この時間に、読書や神社仏閣の旅案内の書などをいたし、巡礼について学びましたところ、結局まだまだなーんにも知らないまま巡礼を開始してしまったのだなぁと反省いたしました。


例えば【金剛杖】。
身を守って下さる観音様の分身ともいわれるものであり、杖の先端は卒塔婆の形の四つの切り込みが入っていて、巡礼の途中で亡くなった場合、死体を埋めた上にこの杖を立て卒塔婆の代わりにするものなのだということ。
杖には般若心経が記されておりましたが、さらに杖には生国や名前、生年月日を書き入れるのだとか。それはそのまま墓標となっていた時代があったからだという。

昔はすべてを徒歩で歩くためそういったこともあるということは知っていたのでつもりではあったのです。ですが具体的にそういったひとつひとつの深い意味を知るとやはり衝撃を受け、車でまわる現代とは巡礼に対する覚悟が異なっていることを思い知らされます。現代でも徒歩でまわられておられる方もいらっしゃるそうですが、それでも当時と異なり携帯電話があり、救急システムが整い、ドクターヘリなどもある現代と昔では格段に、死と隣り合わせといった状況も、『死』への覚悟といったものも異なるものだと思います。

夫は金剛杖を携えての巡礼にあこがれていたとかで金剛杖を購入いたしましたが、私は杖をつくことにも、夫とお揃いで杖を携え歩くことにも抵抗があり、購入するにはいたらなかったのですが、こういった意味を持つものであるならやはりどれも欠いてはいけないのだなあと改めて感じ、今度秩父に向かうことができる日がきたあかつきには必ず金剛杖を購入しようと思いました。

No.188 20/08/26 05:53
旅人さん0 

【菅笠】も同様にハードルが高くて購入しなかった物のひとつでありますが、菅笠も棺の蓋の代わりに土饅頭の上にのせられていたものなのだといい、単に風雨や日差しよけてはなかったのだということを学びました。
そういった意味を知った今でも菅笠をかぶることに相変わらない抵抗があること自体、巡礼にまだまだ断固たる覚悟がないことを思い知らされます。心の底からの信仰心があるかということを問われた一瞬でありました。
菅笠には
【同行二人 迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北】と偈が書き込まれているのだそうです。『観音様とともに巡礼している。迷うがゆえに三界は城なり。悟るがゆえに十方は空(くう)なり。本来東西なく、いずくんぞ南北あらん』という意味で巡礼の要諦を簡潔に示した偈文なのだそうです。
形からだけでも入ることで、自らをその域に持っていけるのではないかと思ったりもしたのですが、もはやそういった甘さ自体が真の巡礼ではあり得ないことだと覚りました。
旅自体に困難がつきまとう、決死のものであった巡礼。
私がその域に達することは今現時点ではないと思い知りました。

だからこそ躊躇ったのでありましょう。自分が正装をすることに。
思えばすべて、そういった装束を避けておりました。
【菅笠】、【白装束】、【金剛杖】、当然脚絆や手甲白地下足袋等、死を覚悟しての巡礼を意味する装束すべてを無意識に避けていたのは、御仏のお導きだったか私の本能であったのか。私には正装をする資格がないとあらためて思いました。


いつか。
┉コロナが落ちついてくれる時がくるのが一番ではありますが、おそらくはそうはならなそうな┉withコロナを確かな足どりで人類が歩き出した時に。
私ども夫婦は再び巡礼を始めます。
秩父。そして鎌倉の地を訪れて、観音霊場巡り、そして鎌倉では十三仏霊場巡りも。
その時には少しでも前進している自分でありたいと思った、このコロナ禍においての自主的自粛期間でありました。

No.189 20/08/27 01:47
旅人さん0 

分福茶釜という昔話をご存じでしょうか。この舞台となるお寺は群馬県館林市に現存する【茂林寺】というお寺であります。何度かこちらの珍道中シリーズのスレに書かせていただいていますが、今回は茂林寺さんからは少し離れ、分福茶釜の昔話からさらにさかのぼった昔の民話、伝説について書かせていただきます。

茂林寺さんは、お寺の山門前にあの信楽焼の狸の像が何体も並ぶ、一見変わったお寺のように感じてしまうところがあるのですが、実際には茅葺き屋根の落ちついたお寺さん。
┉と思いきや!
御本堂のなかに宝物殿と称したところがあり、その一角に昔懐かしいものの展示されたコーナーがあるというやっぱり少し変わったお寺さんでありました。
とはいえその宝物殿、やはり宝物があるから宝物殿なのであって、その中の一つこそが、狸の分福が茶釜になって、そのまま永遠に茶釜になった、あの茶釜がここに安置されているのです。どこから見てももう狸だった頃の面影はなく、それがまた哀れを誘うのであります。が、蓋がどうにも本体とあっていないような┉。

その、一見にして、誰がどう見ても合わせ物の『蓋』の、蓋にまつわる伝説です。

と、その前に、分福茶釜の昔話はご存じかと問うたものの、そのへんは割愛させていただいて。
実際に茂林寺さんに語り継がれる分福茶釜の伝説はその昔話とはだいぶ異なっております。

室町時代に茂林寺を開山した和尚さまが榛名山のふもと伊香保のあたりを一人旅していた折、小脇に茶釜を抱えたお坊さんと出会い、寺に連れ帰ります。
そのお坊さんは守鶴と名のり、その後長く茂林寺に仕えることとなります。その長さが尋常ではなく、1426年に茂林寺に来て1587年に茂林寺から突然姿を消すまでの間ですら161年!電卓を使って確認したのでその数字には間違いないかと思うのですが尋常ではない長生きなお坊さんであります。
開山の和尚から十世和尚の代まで茂林寺に支えたとされています。
その守鶴和尚こそが分福茶釜と関係のある人物で、七世の和尚の代に茂林寺で千人法会という大きな催しをした際に、千人分の茶を沸かす湯釜がなくて困っていると守鶴和尚が茶釜を一つ取り出していわく
「この釜の湯はいくらくんでも湯がなくなることはありません。その上この茶釜でたてた茶を飲むと福が与えられる【分福茶釜】であります」


No.190 20/08/28 03:24
旅人さん0 

そんな161年も生きて┉というより、少なくとも161年も茂林寺にいた守鶴和尚。後世、守鶴和尚は狸の化身だったのでは、ということとなり、ついにはあの、たぶん全国区の昔話となっていったということのようであります。

そもそもの茂林寺と守鶴和尚との出会いは、開山の和尚さまが榛名山のふもとの伊香保あたりで出会ったということに端を発しています。
そんな守鶴和尚、実は群馬県内各地で『守鶴』という和尚がいたというお寺さんがいくつもあるようです。で、そんななか、茶釜と関連した和尚の伝説があり、もしかしたらこの和尚も守鶴和尚であり、ここで登場する茶釜こそが分福茶釜であったのでは?という説があり、ぜひこれはここに掲げておきたいと思ったのであります。

そして、また茂林寺さんに行きたい気持ちがうずうず、沸々。まるで茶釜のなかのお湯のように沸き立っているのであります。

No.191 20/08/29 03:12
旅人さん0 

群馬県吾妻郡東吾妻町というところの中学校の裏山の、現在は畑となっているところに昔、【青滝寺】という寺があったといいます。

その青滝寺が一時、無住となって檀家の人々が困っていた頃、ある日托鉢僧がそこにやって来て寺の周りを掃除したり、壊れたところを修繕したりとし、そのまま寺に住み着いてしまいます。
真面目なお坊さんに村人は好感をもち、四角い顔のお坊さんだったので『四角和尚』と呼ぶようになっていたのだとか。
この和尚さんが茶釜で茶をたてて飲むのが大好きだったといいますす。

ところが。
真面目だったのは最初のうちだけで、だんだんと怠け出したこの和尚さん、お経を読みながら寝てしまったり、いびきをかきながら返事をしたり。やがては村の若い者を集めては鉦や太鼓を叩いて毎晩のように大騒ぎするようになってしまったのだといいます。村の役人や年寄りたちはそんな和尚に「このままでは村がダメになってしまう」と、村を出ていってもらうことにします。
すると和尚は茶釜をもらうことを条件に寺を出ると言い出します。もともと寺にあった物を持ち出されては困るという村人と押し問答となり、和尚は茶釜を抱えて飛び出してしまいます。
四角和尚と呼ばれた托鉢僧は、なんとか茶釜を持ち出したもののその際茶釜の蓋を落としていったのだといいます。

四角和尚と守鶴和尚、響きが大変似ていること。そして茶釜を携えていること。そんなことから二人はもしや同一人物だったのではないかという説があるのだといいます。
それならばその青滝寺にあったという茶釜の蓋を合わせてみればよいことなのですが、青滝寺のあった周辺は、その昔、度々水害に見舞われており、青滝寺自体がなくなるきっかけも裏山が崩れ寺が流されてしまったことにあったようで。


茂林寺さんにある茶釜の蓋が本当に合わせ物なのかすらわからないことでありますし、なんともこじつけに近いものではありますが、あまりにも長寿だった守鶴和尚さんには伝説はつきものな気はいたします。怠け者であった四角い顔の四角和尚と呼ばれた托鉢僧と百六十年もの長きにわたり茂林寺に支えた守鶴和尚の人物像に隔たりもあり、今となっては誰にもわからない昔々のひとつの言い伝えであります。



No.192 20/08/30 17:09
旅人さん0 

群馬県邑楽郡邑楽町の【高源寺】さんに行ってまいりました。
茂林寺十五世和尚により開かれたお寺さんであります。高源寺さんの東方五kmほどの離れた館林市に茂林寺があり、今も茂林寺さんの末寺であります。地名もずばり狸塚!
そして、ここ高源寺さんにも「分福茶釜」に纏わる話が伝わっており、ここにも【守鶴和尚】が登場いたします。


ここ高源寺では、お葬式ができると寺への通知役が和尚に知らせに来ることになっていました。
ある日の昼下がりのこと。村人が葬式の知らせに寺に来たときのことであります。村人がお寺のなかを見ると守鶴和尚は縁側で気持ちよく昼寝をしておりました。しかしよく見ると、なんと衣から毛だらけの手足と尾っぽが出ています。その姿はまるでタヌキそのものでありました。
驚いた村人は飛んで帰って村の人たちに告げたことから村は大騒ぎとなりました。そして、村人たちが寺に赴くと、正体を見破られた守鶴和尚は慌ててそばにあった茶釜を抱えて東の方へ逃げたと云います。その時慌てた守鶴は茶釜の蓋を落としていったのです。このため高源寺にはその蓋があるはずだとのお話です。
しかし、ここでも蓋は見つかりません。


高源寺は茂林寺の末寺、守鶴和尚が茂林寺を去ってからかなり経ってからの開山でありますが、茂林寺の十五世和尚の開山で、守鶴和尚と名乗る和尚がここの住職を務めれば茂林寺さんか高源寺さんに何らかの記録が残りそうなものでありますが┉。その真偽のほどはわかりません。

その昔、ここ高源寺さんのある場所は松や杉の大木の生い茂る鬱蒼とした場所であり、狸等の小動物の生息には最適の場所であったといいます。そして地名も狸塚(むじなつか)ともなれば、このような伝説が生まれても不思議ではないかもしれません。

山門前には檀家さんから寄進された大きな狸の像が二体鎮座しております。向かって右は雄、左は雌の狸のカップルが山門を護っています。

広々とした明るい境内、今はもう狸は来ないのでしょうか。さすがに初対面の御住職さまにそんな無駄口はきけませんでした。

No.193 20/09/03 08:33
旅人さん0 

夫と二人三脚の┉いやいや、夫にまさに背負われるかのごとき神社仏閣珍道中。普段は一日の会話が原稿用紙一枚を埋めるのも難しいのではないかというくらいほとんど会話がない夫婦で、夫は食事が終わるとそそくさと自室に戻っていくようなそんな二人であります。
だから二人が共に神社仏閣を巡ることに喜びを感じるような道を歩み出すことになったことはまさに奇跡のように感じ、それこそ神仏のお導きであったのではないかと思えるくらいであります。

そんな夫。半年くらい前だったか、ある時急に、
「あのさぁ、お不動さまのように怒ったようなお顔をされていて、手が何本かあって剣とか持っていらっしゃる仏さま┉なのかなぁ、時々見かけることがあるんだけど、どなただかわかるかなぁ」と聞いてまいりました。
いやいや私とて神仏に詳しいわけではなく、それこそお不動さまとお地蔵さまのように特徴のある仏さまがわかる程度で、『どなたなんだろう』と思って、家に帰ってから調べてみてもわからないことがあるくらいです。
それでも普段の恩に少しでも報いることができればとない頭をしぼり、
「もしかしたらでしかないんだけど、青面金剛さまかもしれないけど?あの鎌倉の五所神社さんにたくさんおられた、三猿が足下にいたりいなかったりした石仏さまのことじゃなくて?」
「え?五所神社に?覚えがないなぁ。たまに道ばたとかにおられてすごく気になってるんだけどわからなくて。写真でも撮ればよかったんだけど」
┉そうだなあ、五所神社さんに参拝させていただいたあと、あちらにたくさんおられた石仏さまがどなたであるかを一生懸命調べては熱く語ったし。だとしたら青面金剛さまではないか。
そうは思ったものの念のため夫にその時撮らせていただいた五所神社さんの青面金剛さまの写真を見せたところ、
「そう、こちらの仏さまだよ。ええっ?五所神社におられた?」

そのあと、ひと(私)の話をまるで聞いていなかったという恨み言を一通り述べ、(┉そんな余分なことを述べなくなれれば少しは修行したことになるのだろうに)その時調べた青面金剛さまについて再び夫に語ったのでありました。


そんな青面金剛さまのお話をさせていただきます。

No.194 20/09/03 12:37
旅人さん0 

夫はその後、神社仏閣を訪れた際には青面金剛さまの石仏がないかと以前より石仏を見て歩いている様子で。青面金剛さまの石仏が汚れていればそれをはらっては手を合わせています。


身体は青く、目は赤くて三眼、怒りの形相の青面金剛さま。
もともとは鬼病を流行させる鬼神であられたようです。

全身青色で、目は赤く三眼、頭髪は火のようにさかだち、身には蛇をまとい、足下には鬼を踏みつけ怒りの形相をとられていらっしゃいます。
日本では道教の説と結びついて、庚申会(こうしんえ)の本尊としてまつられるようになったようです。
伝尸病鬼ともいうようです。人の身体のなかに棲んでいて、その者の犯した罪を神さまに報告するという三尸の虫の働きを封じてくれるということから転じて悪疫奇病を治してくださる神さまとなられます。

庚申信仰は江戸時代には猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を本尊とする神道式庚申信仰、修験道での庚申信仰と、三通りの庚申信仰が行われていたようです。青面金剛(しようめんこんごう)童子を庚申の本尊とする考えが定着した明治の廃仏毀釈で衰えたが、それでも第二次大戦までは各地でさかんに信仰されていたようです。


庚申という文字が彫られただけの石碑が大多数でありますが、そのそばに青面金剛さまがおられたり。青面金剛さまだけがおられることもあります。 
先日訪れた館林市では道ばたに大きな石仏さまを見かけ、そばにはお堂があります。お堂にお参りに向かうと、背の丈百三十センチほどの大きな青面金剛さまでありました。薬師堂をお護りになるかのようにお立ちになられており、薬師如来さまと青面金剛さま、コロナウイルス感染症の終息になんとも心強いお堂でありました。

No.195 20/09/09 07:32
旅人さん0 

あまり通ることはないのだけれど、その道を通る場所を説明する時に必ず目印とする神社さんがあり、車でその鳥居の正面に向かって奏功すると威風堂々とした雰囲気に身の引き締まる思いのする神社さんであります。
その神社さんの手水舎は大変立派なものでさらにはそこにおさめられた手水鉢もまた大変大きく立派なものであります。
最近、その神社さんの関係者の方からこの手水舎にまつわる伝説をお聞きする機会をえました。

かつて下新田村というところがあり、そこに代々伝わる森田という家があって、その五代目の好春さんという方が寄進されたと言われているのだそうです。
その好春さんご夫婦がある時、夫婦そろって三晩にわたって同じ夢を見たのだといいます。白馬に乗ったお地蔵さまが
「お屋敷の庭に埋まっている石をいただきたい」とおっしゃったというもので、不思議に思った好春さんは庭を探してみると地中からわずかに頭を出している石がありました。掘り出すとなんと、畳八畳ほどの石であったのだそうで、その石を石工に頼み手水鉢とし、森田家が信心しているその神社さんに献上したのだといいます。

そんないわれのあることも特に掲示もされていない、普段は静かな神社さんであります。

No.196 20/09/10 10:04
旅人さん0 

人が亡くなられたのち、百日経った日を、【百ヶ日(ひゃっかにち)】といいますが、【出苦忌(しゅっくき)】・【卒哭忌(そつこくき)】とも呼ぶのだそうです。

故人が新仏となって(忌明け後)初めての法要となります。
百日経ったといえ悲しみは無くなりませんが、「卒哭忌(そっこくき)」ともいい、「卒」は卒業、「哭」は声をあげて泣きさけぶ、つまり「悲しんで泣くのを卒業する」という意味を持つと、かつて舅の百ヶ日法要でお寺の御住職がお話しくださいました。

本来は四十九日と同じくらいの規模で法要を行うべきようですが、最近では親族や親しい友人のみでおこなうことが多くなっており、あるいはそれも略されることが増えているのだとか。
「偲ぶ会」や「おわかれ会」は百ヶ日(ひゃっかにち)に合わせて行われることが多いです。
中陰法要と年忌法要を結ぶ法要となるのだそうです。


【十王信仰】のの審判のうちの八つ目の審判にあたります。八つめの審判をする裁判官は【平等王(びょうどうおう)】で、その本地は【観音菩薩】です。
【十王信仰】は中国で生まれた信仰であり、亡者が【初七日】〜【七七日(四十九日)】と【百ヶ日】を含めた八つの忌日と、【一周忌】、「三回忌」の二つの年忌の、合計十回の時点で、冥界の十人の王に審判を受けるという信仰です。


また、土葬をしていた時代、死後百日目あたりで白骨化することから、百日目に死者の魂が肉体をはなれると信じられていたという説があるようです。


まもなく御彼岸。そして御彼岸が終わると母の百ヶ日を迎えます。施主から初彼岸も百ヶ日法要もなんら連絡がないので、おそらくは墓石が用意されて納骨となった時点で法要を営む心積もりなのでありましょう。
墓所のない御彼岸はなんとも勝手が異なり、今から戸惑っている仏事の初心者でありました。

No.197 20/09/12 21:05
旅人さん0 

最近、生き方とか、死にざまとかをふと考えることがあります。そんな年ごろを迎えたということもありますが、やはりこのコロナという病気がこの現代社会を蔓延することとなったことが大きく影響をしているように思います。
そして、そんなことを考えるとき、あるひとりの方が胸によぎることが増えていることに気づきました。
群馬県みどり市にある【善雄寺】さんの【第二十二世堯慶和尚】さまであります。

堯慶和尚さまは文化十一年(1814)、生きながら入定して薬師仏となり人々の病気やけがれを救うという悲願をたてて、善雄寺の境内に穴を掘り入定されたというお方であります。
そもそもがこちらのお寺さんのことは何一つ存じ上げず、たまたま道にまよって、【窖薬師】という立看板にみちびかれてこちらに立ち寄ったというご縁でありました。
もともとが地域の方のためにさまざまな働きをされた方でだからこそ檀家の方でなくとも和尚を尊敬し慕っていたようでありますが、八十歳の年を迎えたとき、「私もお釈迦様のご入滅の年まで生かされ
たことは何ともありがたいことよ。この仏恩に報いるために日頃信ずる薬師如来の化身となり、病気厄難に苦しむ人たちを救い申そう」と
大誓願をたて、入定されたという方であられます。

生きたまま、暗い土中に身を置くということ。
想像するだけで私には到底我慢できることではありません。

暗闇の恐怖。病でもなく自らの意思で死を目指しての時を過ごすこと。空腹、喉の乾き。そして訪れるであろう息苦しさ。
ただただ閉鎖空間の暗闇で鉦を鳴らすだけの孤独過ぎる時間。
しかもそれはそういう形で薬師仏になるという高い志に基づくもの。

一言で、自殺、といえばそうなのかもしれません。今は入定という行為が禁止されているのは言うまでもありません。
和尚の生き方は『死と向き合う』ということではまさに究極のかたちであります。生きざまであり、死にざまである。


そんな和尚から学ぶこと。
もちろん大きすぎて、偉大すぎて、そこを目指すことなどは到底できることではないものではあります。
与えられた命をもっとありがたく思って活きること。人のために、ひいては自分を高めるために日々努力すること。



今日、そんな善雄寺さんの【窖薬師】さまにお参りして参りました。


No.198 20/09/14 13:36
旅人さん0 

群馬県みどり市の善雄寺さん、前回の初めての参拝が道に迷って偶然たどり着いたということもあり、道には全く自信がありませんでした。
なんとかたどり着いたものの、どなたもおられず。
本当は御住職からお話などをお聞きできたらという思いもあり、こちらのお寺さんとのなんらかのご縁を形としてお受けしたかった思いもあり。少しがっかりしたものの、窖(あな)薬師如来さまに参拝することこそが目的であったと窖薬師堂に向かいました。

えっ⁉

壊れかけた脳ではありますが、わずか一ヶ月しか経っておらず、前回はお寺に御住職の奥さまがご在宅であったにもかかわらず、たしかに閉ざされていたはずの窖薬師堂の戸が開いているではありませんか!

それでも壊れかけの脳みそには哀しいくらいに自覚があり、脳内の記憶をぐるぐるとたどってみました。やはりあのときには閉ざされていたはずです。(┉まあ、ここにたどり着くのに苦労したくらいの脳みそではありますが 笑)
見覚えのない堂内の様子。畳二畳敷かれたくらいのお堂のなかに、そこには少し大きいくらいの木魚が置かれています。やはり前回には開いていなかったと確信いたしました。

そして┉初めてお目にかかることとなった石造の薬師如来さまの御像。優しい、柔和な笑みを浮かべたお顔であります。
お薬師さまは百三十センチくらいの身丈でありましょうか。質素な二段の祭壇に蝋燭立てが二本と、神社さんや神棚などに奉られる鏡が置かれただけの飾り気の一切ない祭壇であります。
ですが。
その質素で飾り気のない祭壇の、まさにその下こそが、薬師仏になるためにと入定された堯慶上人の御廟所であります。


お会いできた┉。
小雨降るなか、参拝に訪れてよかった。


Withコロナ。
全ての人がそれぞれに、生きてきた経験のなか、そして身につけた考え方のもとにそのあり方を模索しています。
疫病の流行るなか、生きたまま仏となり人々のためになりたいと思われて、その苦行を選ばれた堯慶和尚さま。
暗闇を歩く私に道をお照らしください。


No.199 20/09/14 18:54
旅人さん0 

土曜日、時々行く本屋さんの平台に、なんとも魅惑的なタイトルの雑誌がありました。【趣味どきっ 仏像の世界】❤
当然のことながら、さっそく手に取りいとおしそうに胸に抱き、いそいそとレジに向かいました。

これはNHKのEテレのテキストで。そう、雑誌で楽しめ、テレビでも楽しめる二度おいしいものであります。
一回目は惜しいことにすでに放送終了。ですが今日の午前中にな、なんと再放送がある! やったぁ❤


正座して、テレビに向かう私。ん? ん?
なんだかたどたどしい女性が┉。しかもなんだかアイドルがどうのとかいうタイトルで┉。
間違えたかなぁ?
いやいや、ちゃんと新薬師寺に向かうといいます。

ほほ、ほぅ。雑誌には小さく小さく書かれていて私には目に入らなかったけれど、アイドルと巡るって書いてありました。最近のEテレは本当にかつてのNHK教育テレビとは百八十度異なるものでありますが、こうきましたか。
でも、仏教初心者、仏像初心者にはちょうどいいかもしれません。



でも┉こんなにも小さく記載する?(・・;)



No.200 20/09/19 22:12
旅人さん0 

今日、秋のお彼岸入りの日。生まれて初めて【施餓鬼会】に参列いたしました。
施餓鬼会という法要があることは、お寺さんを参拝させていただいている上で時おり目にすることがあり、その存在自体は存じておりましたものの、あくまでもそれだけで。旦那寺をもたないものでありますからどうしてもお寺さんの法要に縁がありません。
今回その機会を得ましたのは、お寺さんの御住職さまのご厚意によるものでありました。


そもそも施餓鬼とは?餓鬼ということは餓鬼道という地獄に落ちた者に対して施しを与えるということ、でありましょうか。

ここでGoogle先生の登場となるのですが、私はまだまだ相も変わらず仏教でも初心者であることを思い知ります。餓鬼道は地獄ではない!( ̄□ ̄;)!!?
仏教には六道と呼ばれる世界があり、その中の一つに餓鬼道があり、地獄道は別にあるのであります。ああ、そういえばお地蔵さまが六地蔵であられる理由こそが六道に則っていることを、私、以前調べていました。
困った脳みそであります((´д`、)


生前の自らの悪行により餓鬼道へ落ちると、餓鬼という鬼になってしまうと考えられています。餓鬼になった者は常に飢えや喉の渇きに苦しんでいると考えられており、そういった餓鬼にも食べ物などの施しを与えることを施餓鬼と言うそうです。

生前の悪行などにより餓鬼となった霊魂や、無縁仏など供養されない死者に施しを行う法会を施餓鬼会、または施餓鬼と言います。また、 施しを与える者・受ける者の間に貴賤の区別があってはならないという考えから、施食会(せじきえ)と呼ばれることもあるようです。

そこで愚かな私が気になったのが餓鬼道に落ちる罪とはどんなものなのか、ということ。


【餓鬼道】に堕ちるかについては、具体的なことが色々と説かれていました。

例えば、貪欲にお金を集めると、顔や目がなく、手足が短くて胴体が大きく、胴体の中が火で焼けている餓鬼になり。訪問販売の人から商品をだましとると、植物が生えず、砂しかない海の中州に生まれ、暑い日差しに照らされ、食べるものも飲むものもなく、わずかの朝露で命をつなぐ餓鬼になるのだそうです。

生前、布施の精神が乏しく、ケチで、他人のものを盗んだり、お金や食べ物を自分だけ楽しもうとする欲の心によって、餓鬼に生まれるのだと説かれていました。





投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

新しいレスの受付は終了しました

前スレ・次スレ

関連する話題

小説・エッセイ掲示板のスレ一覧

ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧