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神社仏閣巡り珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神様、仏様、どうかお導きください。
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【 清く聞かん 耳に香たいて 子規 】
句の内容から香塚と呼ばれているようです。
そういえば東北立石寺にはせみ塚がありました。┉せみ塚っていうとなんだかちがうものを想像してしまうのではないかと、要らぬ心配をしたのは┉私だけですかね、夫は爪の先ほども思わなかったようでしたし。
あ、ちなみに、子規とありますことにもはぁ?、と一瞬思った私であります。┉正岡子規ではありません、ほととぎすですよね、はい、これはさすがにすぐに脳内ではぁ?がおおっに変換されましたが。┉でも文字にするとやっぱり、ん?、と一瞬思ってしまう私でありました。
愚かなおばさんがおのれの愚かさを恥じ入るには十分すぎる、この句。
まさに清く聞かん!であります。
┉本当に胸に染み入るんです。
ほととぎすの鳴く音が。
というよりはむしろ、まずダイレクトに胸に飛び込んできて、心にスーっと染みこむんです。渇いた心に泣きたくなるほどきよらかなものがスーっと┉。
耳に香をたかずともスーっと。
やっぱりすごい俳人だったんだなあ。
┉全国を行脚した脚もすごいけれど。
清らかでない私だからよけいに染み入ったのでしょうか。
側にはお社が祀られていました。
┉さて。
このあとどっちに行けばいいんだ?
夫の顔を見ると一字一句変わらぬ言葉が私に投げかけられました。
いつもは看板を見れば写真を撮る夫が、今回はハイキングコースの地図を撮らなかった上に、一周とあるくらいだから単純にその通りに歩けばいいものだと思ったから、とのこと。
┉やだなぁ、こんなところで私にのりうつられました?
このさき┉。
なんだか道なき道にしかみえないんですけど┉。
仕方がないのでもと来た道を戻ることにしました。戻れば地図の書かれた看板もありますし、ね。
こんなところで遭難しても、よもやまさかで、誰にも気づかれないでしょう?
完膚なきまでの珍道中であります。
かねてから折りにふれては語らせていただいております、栃木県足利市の大岩山最勝寺毘沙門天堂のことが、昨日ニュースとなっておりました。
今年二月にありました足利市の両崖山で起きた三百世帯を超える避難世帯を出すほどになった山火事で、最勝寺さんは大岩山毘沙門天(同市大岩町)にまつられる県指定文化財の御本尊・毘沙門天像はじめとする約150点の文化財を守ろうと避難させました。
山火事がおさまり寺へ戻そうとした際に、経年劣化の影響もあり、御本尊をはじめ、ほかの仏像四体や絵馬などに損壊が見つかったのです。
その修復費が合わせてなんと7000万円以上になることが正式にわかったようです。
最勝寺さんは745年に開山。
日本三大毘沙門天の一つで関東最古とも言われる毘沙門天像は約260年にわたり、本堂から出た記録がなかったという。
本来であれば専門業者に依頼して数か月の調査を経て慎重に運び出すところをわずか数時間で運び出したため、毘沙門天像の右足がぐらついたり、同じく本尊の善膩師童子(ぜんにしどうじ)像の右手が取れたりしてしまったのでした。
修復には毘沙門天像だけでも1000万円以上かかる見通しだといい、他にも首が取れたままの金剛力士像や、ゆがんだ絵馬など修復が必要な文化財は少なくとも九つはあるそうであります。
最勝寺さんでは寄付を募り、すでに数百万円が集まっているようではありますが、それでも修繕費が賄える額にはほど遠く、明日30日、費用を集める勧進写経会を開くこととなっております。
「歴史的な文化財を救ってほしい」と悲痛な訴えをなさる最勝寺さんのホームページ、○イッター等をご覧いただければさいわいです。
もと来た道を戻ると、真正面に、黄色に赤いチューリップの模様の、白いレースのついたお揃いのお掛けをかけて仲良く七体の石仏さまがお出迎えくださっています。
実はこれは、このように奥の院をお参りしたあと、もと来た道を戻るという稀なパターンでまわった者のみがうけられる特権で。
本来は、先ほどの道なき道なのではと思って避けてしまった道を進み、岩窟の前を通ってここに再び戻ることになるので、通常はこの石仏さまは進んできた道の右横に見えてくることになるのであります。┉こういうラッキーなこともあるとは、珍道中もすてたものではないな♪
というわけで、通常と逆回りで岩窟のあるというところを目指して歩きます。
この岩窟、こちらの観音院さんの縁起に出てこられる畠山重忠という方が、この地に狩に来た際、鹿を追い馬でちょうど東奥の院のあるあたりへとたどり着き、その際、天然の岩屋根となっているこの岩窟で愛馬を休ませたと言われています。
なんでも岩の上に馬のひづめの痕のような形の模様があるのだとか。
でも、全然、気づくことなく、たくさんの石仏さまを見てキャーキャー♥と騒いでいた私。
こちらには洞窟内にもそして外にもかなりの数の石仏さまがおられ、その種類も実にさまざまでありまして。弘法大師さまの座像もありますし、お不動さまも虚空蔵さまもおられます。
こちらにおられます石仏さま、実に優しいお顔立ちでありまして。
石仏好きのおばさんがスキップでもしだしそうなほど、幸せな気分で歩く石仏さまの道にはほととぎすの鳴く音が響き渡っておりました。
ほととぎすの鳴き声、ですか?
ほととぎすは、『テッペンカケタカ♪』と鳴くのだそうですよ。
┉そうは聞こえないんですけれど。笑。
夫のお気に入りの二人仲良くならんで正面の山を見ておられます石仏さまの前を通ると、再び、香塚のそばで。
今一度、奥の院をお参りして、┉御本堂のある境内まで戻るのでありました。
そう、摩崖仏さまや滝、まだまだ観音院さんの境内はみどころ盛りだくさんであります。
こちらの【観音院】さんの御由緒は、〖行基菩薩(ぎょうきぼさつ)〗が、自作の観音像を安置したのが始まりとされます。
しかし、平将門(たいらのまさかど)の乱によってこの観音像の行方がわからなくなってしまうのであります。
これを後に、鎌倉幕府の御家人・畠山重忠が鷲(わし)の巣のなかから見つけたといわれおります。
畠山重忠がこの地に狩に来たとき、遠くの梢の鷲の巣に家臣に命じて矢を射らせたところ、命中しているにもかかわらず矢がはねかえったのを不思議に思い、巣をおろさせてみたところ、巣の中から所在不明だった観音像があらわれた。奇縁に感じた重忠が堂宇を建立して聖観音を安置したのがこの寺の始まりと伝えられています。
旧本堂は中興開山と言われる十六世観法法印が、出身である上州を始め、江戸から武州・関東一円を巡り寄進者を募って再建されたもので、木造の三階建で高さが四丈六尺(約十四メートル)あり、屋根が上の岩に届きいていたといいます。
高い柱を立てて、その上に宝形造りの堂宇を乗せ、その堂内は回り階段によって堂上に昇り、その道なりにまた回り階段を下るという栄螺堂式のお堂であったのだとか。
唐獅子や、菊の花ぼたんの花の彫刻のある立派な本堂であったといいます。
【栄螺堂】┉ですか。
うねるように張り出した岩が屋根のようになっているここへ。
屋根が上の岩に届くほどの栄螺堂、ですか┉。
それはそれは┉。
このような山奥まで参拝に訪れた者たちの心をどれほど慰め癒し、さらなる信仰心を生んだことでありましょう。
このお堂を始め、東奥の院の大宝篋印塔、滝のそばに立つ不動尊や、あの日本一とうたう仁王尊やその門等々の建立に尽力された観法法印さまは、そのすべてが完成した頃の明治十七年の秋、こちらの境内を見わたせる場所に入定されておられるのでありました。
そのわずか九年後の明治二十六(1893)年にこの栄螺堂であったいう本堂は焼失したのだといいます。(T^T)
焼失がただただ惜しまれるものでございます。
現在のお堂は観音院奉賛会の方々が尽力され、多くの方々の寄進により、昭和四十七(1972)年にコンクリート造りで再建されましたものであります。
本堂を被う大きな岩の屋根と連なる岩の、さらに高く見上げるほどの。
境内の一角をまるで緩やかなカーブで、岩山に囲まれていることを忘れさせるかの工夫のひとつのように。
ただあくまでも高く。
その高さは落差三十メートルを超えるという【聖浄の滝】。
ですが、それが滝であることに気づくにはかなりの時間を要します。
まるで、ミストが空からふりそそいでいるかのよう。
ミスト、というにもどうかと思われるくらいに、あくまでもやわらかに、音もなく優しくふりそそいでいるのです。
下に池があり、そこで泳ぐ鯉たちすら、ふりそそぐ滝の水に気づいているのかどうか。
そのくらいの水量の滝であります。
その滝の側まで行ける通路があり、そこには【鷲窟磨崖仏(しゅうくつまがいぶつ)】と呼ばれる埼玉県指定文化財に指定される摩崖仏が、┉ある┉あれ?あるはず┉。
あれぇ?見落とした?
看板がありますので間違いなくここ、ここのはずです。
┉無いんだけど。
水のそばで日の当たるところにありますし、弘法大師が彫ったと言われるものでありますので、┉もしかしたら、┉風化した?
もう一体もみえないのか?
「ねえ、摩崖仏、わかんないんだけど、┉どこ?」
夫にそおっと小声で聞いてみました。
「そこだよ」「そこって、┉どこだかわかんないんだけど」
「よく見ないと見えないかも。よく見るとそこに一面にあるよ」
┉よく見てましたけど?
┉。┉あるじゃん。
よぉくよく見るとたしかにありました。
【爪彫りの磨崖佛(つめぼりのまがいぶつ)】。
弘法大師さまが一夜にして彫ったと伝えられている千躰の磨崖仏であります。高さ約18センチの坐像と立像の仏像が、幾重にも浮き彫りにされています。地中にも数段の磨崖仏が残っていて、奥の院に向かう岩窟にも石仏があったのだそうで、俗に“十万八千仏”といわれている。┉一晩┉。
ま、まぁ、摩崖仏さまはまさに目の前にみっしりと並んでおられましたね。
でも、写真で見たものよりもだいぶ風化していたことも確かでして。
迂闊な者には見えないかな。┉私くらいに。
岩壁の上部には『南無阿弥陀仏』の名号(みょうごう)が同じく岩に刻まれている、のだそうです。
いまでも三百体は確認できるという摩崖仏の一体すら、自力で見つけられなかった私には、もちろん、そのような文字はみつけることはできませんでした、はい。
その摩崖仏さまたちの居並ぶ同じ岩壁、斜め左上にある洞に何体かの石仏さまがおられ、その真ん中に、肘置きのついた椅子に弘法大師さまが境内を見わたすように座られた像が祀られています。石造りの弘法大師さまであります。
摩崖仏の一体すらわからなかったやつが、よく肘置きのついた椅子に座られいるとか、そもそも座られているのが弘法大師さまであるとかよくわかったものだと、私自身思ったものです。
まぁ、根拠は僧形であられること。
右手に【金剛杵】(こんごうしょ)をお持ちになられていること、だけ、なんですけど、ね。
石造りの像にありがちな赤いお掛けを、こちらの像もかけられています。┉いいのか?
石造りの御像は経年の劣化とかもあり、また造り手の方によっての違いもあります。
でも、そこにたまらない優しさを感じ、きゅんとかしてしまう私といたしましては、その石造りの像が何を彫られたものであるか、ということはあまり関係なく、どの石仏さまも┉神さまであられたり、大師さまであったりもいたしますが┉ありがたい存在であられるのです。癒しの存在であられるのです。
お地蔵さまでありますとか、お不動さま、青面金剛(しょうめんこんごう)さまでありますとかは、たぶん間違いなくわかるのであります。
じーっと拝見して、うーん、こちらは、とお持ちになられている持ち物などから推理するのも楽しいのです。答はわからないままであります。
そんな私をご覧になられています石仏さまは表情を変えることもなくて。(┉石仏さまの表情が変わったらそれは怖いことですが┉)
ただ、いつも、一対一で向かい合わせに立たせていただき、心のなかであれこれ一人言を言う。そんな時間を持つこと。
私にとってたまらない癒しの時、なのであります。
こちらの、境内に建てられた宝篋印塔(ほうきょういんとうは、江戸時代に栄螺堂式の本堂を再建した記念に建立されたもので、かなり大きなものであります。
立派な梁の刻まれた屋根(?)の下には手すりがついていますし、梵字は赤く描かれ、その下にはきれいな花弁の蓮の花があります。そのさらに下に小さな石仏さまもおられます。
そんなみどころ満載な居心地のよい境内、名残はつきませんが後にします。┉最後に目に入るのは入定された観法法印さまのお墓。
こちらの境内を弘法大師さまとふたりで見守っておられます。
最後に。
こちらの石造りの不動明王さまは、力強く鋭い眼光の感じや、凛々しい体躯が見事に表現されています。
身にまとう衣類のひらひらとひだまでが流れるように表現されていたり、羂索と呼ばれる縄もきちんと綯われているかのようであり。
右手に持つ剣は石造りとは思えないほど!
この御不動さんは本堂の左横の岩壁に安置されています、大きな像であります。
また、不動明王像の背後の光背は迦楼羅炎と呼ばれ、炎の形をしていますが、これがまた、石造とは思えないくらい繊細で。
ようするに、素敵♥
こちらの不動明王さまは、栄螺堂の完成記念を記念して建てられたものの一つであったといわれます。
大きなものなのにかなり均整のとれ、バランスのよいお姿の、まさに見事な御不動さまであります。
つづいて向かうは三十二番札所の【法性寺】さん。
こちらへの憧れは大きなものでありました。まず第一に旧暦┉とまではいかないのでしょうが、一月遅れの【花まつり】。
そもそもがこちらのお寺さん自ら花の寺〖花浄土〗を名乗るくらいでありまして、その潤沢な花を惜しむことなく使って、近所の子らが花をあつめ、笊に盛って本堂の濡れ縁に飾るのがこちらの花まつりのようなのです。
最近流行っている〖花手水〗の本当に花の部分だけで作られたものをイメージしていただければ伝わるでしょうか。┉とはいえ、私もこの目で実際に見たわけではないのではありますが、それはそれはきれいに彩りよく盛りつけられた笊をいつかは見たいと思うものでありまして。
ましてや今年。
まさに観音霊場巡りの順路をむかえており、どうしよう、どうしようとその当日の朝をむかえるまで行こうか行くまいか悩んだものでした。
┉〖人混みとなるようだったら、待つ、あるいはあきらめる!〗
それがこのコロナ禍において巡礼を続けるためにたてた第一条件です。
明らかに混みそうな日に行ってはならない、と、涙をのみました。
いつか!
┉そう、自分の生まれが涅槃会であることを知って以来、お寺のご住職が自分のお子さんが生まれたその日がやはり涅槃会の二月十五日であったことを大変嘆いた話をお聞きして以来、なんだかそれだけで罪深いような負い目を感じてしまっており、それと真逆の、お釈迦さまのお誕生を祝う法会であります花まつりに行けばなんとか功徳を得られそうな気がして、いつかは花まつりに参列したいと思ってはいるものの┉これまたコロナ禍で参列することが憚られいまだ果たせずにおります願いとなっております。
いつかは必ず!
そんなわけで行く条件はすべて整っているにも関わらず、コロナ禍ということで涙をのみ、一週間ずらしての法性寺さんへの参拝、であります。
法性寺さんへの並々ならぬ思いは、私がそこに行ける行けないに関わらず、その深い信仰心から生まれた岩山の上に奇跡のように立つ観音さまにあります。
それこそ、観音霊場巡りをまだ夢みていた頃から。
私の秩父巡りのバイブルである、【秩父三十四カ所めぐり】という本と出逢い、手にしたその時から、まさに、胸をわしづかみされた一葉の写真。
それがこの法性寺さんにあります奥の院におられる観音さまへと会いに行く巡礼者が写された、一葉の写真でありました。
ああ、巡礼とはかくあるものかと。
その写真はガイドブックにあり、転載することはできませんが、私にとってまさに衝撃の一枚でありました。
修行の行者さんや僧侶の、それは厳しい修行を聞くにつけ、ああ私にはムリだ、と思っておりました私にとって、一般の巡礼者がここを訪れるという衝撃!
そこまでするのか┉。
その衝撃は私にとってある縛りともなり、そこへ行ってはじめて巡礼となるような気持ちにすらなっておりました。
でも、これは無理、無理だ。
そこいらの里山のハイキングですら泣き言を言い、避けられるものなら迷わず避けるという、軟弱もの。
子供のころから、本を読んだり、ゴミかとまがうような工作や縫い物編み物をしていたような私は、基本、時代の先取りをしたかのような根っからのインドア派。
これはトレッキングをも上回るんじゃ┉。
登山などはもう考えられもしない私の脳と身体は、この写真を見たことで秩父巡礼を諦めかけたくらいでありました。
それでも、┉秩父巡礼にいきたい。
秩父巡礼にいきたい。
そんな思いに突き動かされ始めた秩父三十四カ所観音霊場巡り。
で。
始めてみて思ったことは、身の丈にあった巡礼しかできないということ。
運転に自信がなくて場所によっては夫に連れて行ってもらわなければ到底なし得ないということに気づき、そもそもクルマで廻っているし。
そもそもがすでにかつての巡礼ではないということ。
私たちなりの巡礼でいいじゃない。
腰が悪くて入院までした夫との二人三脚で、何を背伸びする?
私たちなりの巡礼。
ことばで表すとなんだかカッコすらいいじゃない?
現地に行ってみなければはじまらない!
見てみて、できること、出来そうなことはする!
無理だと思うことは無理にはしない。
昔からの言葉にあります、〖年寄りの冷や水〗
ま。まだまだ若いけど。
さて。そんな法性寺さんの山門前に立って。
古い味わいのある木造の、左右に仁王さまがおられる楼門であります。
┉その仁王さまのお召し物の造りが大変細かなところまでこだわったもので、実際にこういう物を着てもらったモデルがいたんだろうかと思うくらいに布の流れる様とかひだとかがすごくすごくリアルで。
髪を縛った紐が、重力と真逆にたなびく様もすばらしくて、いつものようにしばしくぎ付けになる私。
仁王さまは、どこか親しみを感じるお顔立ちであります。
そんな立ち去りがたい思いを振りきって、いざ山門をくぐる┉と、盤若の白い面が見おろすともなく掲げられています。┉どれだけ守られているお寺さんでありましょう。
仁王さまよりも唐突に現れる盤若の、それも通常の物よりもかなり大きな面のほうが怖かったです。ど、どうしてここに盤若の面?
たしかにこちらは【般若山法性寺】さんですが┉。うーん。
まあ、悪い人よけになる、のかなぁ、それにビビってる私は悪い人?
さらに進んで。
門をくぐり抜けたかどうかというところで、この楼門の上に上がる梯子のような階段を見つけるのです。
うーん、とたんにワクワクする私。
のぼっていいとも、ダメとも書かれておらず、そういった時は必ずのぼるのがロールプレイングであります。┉いやいや、お前はRPGをしているのではないであろう!
とか心のなかでアホなことを考えながらその階段をのぼって行くと┉。
┉!
鐘だ!
ここ、門であって、同時に鐘楼なんだ!
なんてうれしいこと!♥
こ、これは夫に教えてあげなければ!
上がってもよい門で、しかもそこに撞いていい鐘がある┉ことは秘密にしておいてあげよう。┉と、思ったら、もうすぐそこに夫がいる。
夫と子どもたちは普通に常識的な人間なので、のぼっていいと確信するまで上がってこないのでありますが、開いているし、な。
大丈夫だと判断したのでありましょう。
┉あ、私とて判断はしてるんですよ、ちゃんと。ダメなものはしないので。確認する人であります。
ご住職さまにお聞きしたり、ね。
今回は、鐘を撞くにあたってお金を納める箱がありますことで大丈夫と確信した次第でありました。
鐘を撞いてすっかりご機嫌な私。
花浄土という小さな看板があります。うん、そうそう!花が好きなご住職があれこれと手入れをされているというお寺さんだったな。┉。┉?
花は┉?
えっと┉。今はまだ花の時期じゃないのかな。┉いやいや春じゃない!
花、花。な、ない┉かな?
花浄土というには花木もなければ地植えの花も無さそうな┉。
そ、そうか。先週が花まつりだったから、花という花がみんな使われてちょうど花のないときに来てしまったのかもな。┉ま、そう思おう。
石段をのぼります。見事な石垣が組まれています。ほおぅ。
石段を登りきると庫裏がありました。
たいそう趣のあるすてきなお宅であります。お、花がある!
テッセン=クレマチスが二輪。大きな花です。
そこから地続きにかなり高めの位置にある濡れ縁が続きます。って、┉御本堂なんじゃない!感覚的には濡れ縁とつながって御本堂へとなっている、そんな風に思えました。ああ、この濡れ縁!この濡れ縁に花まつりの花笊がいっぱいに並ぶんだ。
その反対側には無人のグッズショップがあります。そう、グッズ、なんです。秩父三十四カ所めぐりに大変便利な地図とか他のお寺さんでも取り扱っておられる物もありますが、こちらのオリジナルキャラクターの描かれたTシャツやエコバック等々。
御朱印をお願いいたします。呼鈴を鳴らすとご住職の奥さまが。
書き終わった御朱印を受けとる際にお聞きしたかったこと、こちらのお寺に憧れ、なおかつあまりの過酷さに秩父巡礼すら諦めかけたという奥の院におられる、【お船観音】と呼ばれる観音さまが遥拝できるという地点、〖奥の院遥拝所〗を忘れずにうかがいました。
「そこを少し戻るとすぐそこにありますので、どうぞ遥拝なさってください」とのこと。少し戻る┉ありました。高めの濡れ縁に目をやりがちな上、あまり目立たない位置に足形の彫られた石が置かれています。
┉!
こ、これは!
┉これは┉無理だ。
そびえる山の上に、かすかに見える、不敬をお許しいただいて例えるなら、黒い楊枝よりも小さなお姿。
ここからこんなにも遠くて高いんだ┉。
うちひしがれ、遥拝所で手を合わせて、Uターンする私を夫が止めます。
えっ、だって無理だよ┉。
「観音堂は?」
あっ!( 。゚Д゚。)
┉そ、そうでした、そうでした。ここは御本堂と観音堂が別々にあるんでした。御本堂にも小さなお船観音さまがお祀りされていたものだから、もうお参りも済んだ気になってしまっていた。
ちなみにこのお船観音と呼ばれている観音さま。菅笠をかぶられ櫂を手に持ち船を漕いでおられるお姿であります。
そんなすっかり忘れていたものの、こちらの観音堂、私の大好きな懸崖造り=舞台造りのお堂なのでありました。
大好きとか言いながらすっかりすぽんと忘れられる私の頭ときたら┉。ザル頭という言葉がありますが、笊に失礼なくらい、見事に忘れてしまっておりました。ああ、悲しい。(T-T)
┉本当は。
現地に来るまで、もしかしたら奥の院にも案外行けちゃうんじゃないかな?などと思いながら来たので、それが完膚なきまでに無理だと思い知らされて、すっかり観音堂のことが抜け落ちてしまったという。
┉本当に?
ま、まあ、夫が観音堂のことを思い出させてくれた途端、奥へと向かってそれは元気に歩き出す私。
元気に、というよりげんきんに、でしょうか。
途中、毘沙門堂もありました。┉なぜか毘沙門天さまのお姿は見えず、観音さまの像がまつられているんですけれど、ね。
それにしてもこちらも観音院さんに負けず劣らず山深い。
圧倒されるような大きな岩がごろごろと散在するあいだを縫うように┉というよりあいだを通して道を造ったというのが正しいのでしょうね。ちょっとびっくりするような光景が続きます。鋭利な大きな岩がいくつもとある様は少し恐いかも。
薄暗い山道という点ではこちらのほうが山深い感がいたします。その岩に積もった土に草が生え木が生えたりもしています。
そんな参拝者の心を癒やすかのようにところどころに石仏さまがおられたり、百観音(西国・坂東・秩父)の御砂場という石碑の下にまたまた足形が彫られた石が置かれていたり。
そうこうするうちには観音堂の姿が、そしてそこへと続く石段が見えてまいります。
苔むす岩と岩の間に、古の人々がどれだけの苦労をされて造ったであろう石の段が螺旋階段を思わせるようにつらなっています。杉の細い木が観音堂を護ろうとしているかのようにまっすぐと空に向かって立ち並びます。
見えてきました。
時を経て周りの景観に似合う、趣ある色となった観音堂の、上の部分から徐々にその全貌が明らかになってきます。
補陀┉殿?殿ではなさそうですね。巌という字に見えますが、そういった表現、言葉があるのかどうか。┉ようするに学のない私には読めない草書で書かれている扁額が掲げられていると、いうことです。書の心得のある方なら誰でも読める美しい書体なんですけど、情けないなぁ┉すみません。でも、おそらく字はあっていると┉思うんですけどね。
うーん。高床式、じゃない舞台造♥
そばにはビーナス観音とも呼ばれるという石造の一メートルくらいの観音さまがお立ちになられ、ここを訪れた者をまるでお出迎えくださっているかのようです。大きな大きな岩のとなりにぴったりと寄りそうかのように建っています。
丁寧に造られたお堂であります。下からあがって行くためよく見える屋根の造りも。お堂を一周廻るように囲う花菱形の格子も。
お堂の保護のため、スリッパに履き替えてお堂のなかに入ります。┉といってもあくまでもそこに入ることでお堂のそばまで行けるということなのですがね。
濡れ縁があって、縁側があってお堂、と言っても┉イメージするのは難しいでしょうね。専門の知識がまるでないものだから。かといって付け焼き刃で調べても私の言葉にはならないとさとったもので、こんな表現でごめんなさい。
中のお堂に掲げられている扁額は┉すごい!┉私好み、といった視点ではありましょうが。
漆塗りの黒い額に、金の筆でこちらの御詠歌が書かれ、その真ん中に。
金の小舟に乗られ、笠を被り櫓を漕ぐ観音さまが┉不敬をお許しいただいて表現すれば、┉付けられている。光背から線上の金色(こんじき、とお読みください)の後光が射し、岩のごつごつと見え隠れする荒波の中にありながら、揺れることもなくスッとお立ちになられている、そんな額が掲げられているのです。その美しさといったら♥!
驚くべきはこの額、安政に造られたものだということ。
あくまでも美しいままに、まるでお堂を守られておられるように掲げられているのであります。
【法性寺】さんは、奈良時代、【行基】さまが一刀三礼して本尊聖観世音菩薩を刻したものをお祀りされたのがはじめと言われ、また、【弘法大師】さまが一晩で【大般若経】六百巻を書上げたと伝えられることから、「般若」と言われるようになったと言われています。
┉一晩伝説は大変多いです。
お船観音と呼ばれる観音さまの縁起は、法性寺さんのホームページによると、
〖昔、豊島郡の住人、豊島権守が娘を同郡に嫁がせた。
ある時娘が里帰りをしようと舟に乗ったところ、犀ヶ渕で悪魚にみそめられ、水底に引き込まれそうになった。
その時、一人の美女がその娘を助けて、舟に戻してくれた。
従者たちは夢のように喜び、「どなたですか」と尋ねると、
「私は岩船山のものです。父をはじめ、主従がよく観音様を信じているので危難のところを助けました」
と答えて消え去った。
この不思議な光景を権守に伝えたところ、歓喜の涙を流して利益を尊び、その恩謝として諸所を巡礼した。
そして当山を参拝し、帳をあげて拝むと、なんと笠を冠った観音様がおられた。
涙を流し、三日三晩般若心経を写して供養をした。〗
というもの。
同じくHPによれば、観音堂は寳永四(1707)に建立された、岩盤の上に建つ総欅材の三間四方の舞台造り、とのこと。
平成十三(2001)年に、大改修がなされたそうです。
この観音堂の裏は、蜂の巣状の奇岩があって、大変異質で、またまた不敬をかえりみず言えば異様。
これはなんでも【タフォニ】と呼ばれる地質現象で、【秩父ジオパークのジオサイト】として、注目を集めているのだとか。┉不敬をかえりみずもう一度、山深い所のこの蜂の巣状の奇岩は大変大変怖いです。
そこにお堂が造られていて、お地蔵さまがお祀りされておりましたことで、私の心はたいそう助けられました。┉境内におられた古い石仏さまも集めて(あるいは元々おられた?)お堂の内と外にお祀りされていました。
舞台造りのお堂の下に、┉他にも岩の、狭くて入るのは難しいような洞に、なんだかやたらと石が積み上げてありまして、もうこうなると怖いんですけど┉。
理由を是非知りたい、実はよく見かける、石を積んだ物、であります。
法性寺さんのHPでは、奥ノ院への所要時間は1時間〜1時間30分、大変危険ですので、十分な装備をして時間には余裕をもって登って下さい、と、書かれています。
私どもにはとうてい無理だと判断いたしましたのは、境内にある遥拝所からはるか彼方に、爪楊枝よりも小さく見える観音さまのお姿を拝見して、であります。
思った以上に本格的なものであることを知るにはそれだけで充分でありました。鎖づたいに登って行くことも、細い細い道の脇は崖、というところがあることも、実はネット情報で知っていたのではありますが、あれだけ遠い所にあるということは、その鎖場もかなり本格的なものでありましょう。
初心者クラスの登山すら経験がなく、運動神経といえば運痴、という言葉がありますが、まさにそれだと言えましょう。運痴な上に普段からたいした運動もしていない私どもが、ここを二人きりで登るのは、社会的な迷惑であると判断したのでありました。
私どもがどうしてもここを登ろうとしたならば、訓練した上に、先達さんと呼ばれている霊場巡りの案内人の方か、この日お逢いした、ここを登る企画に参加するような、きちんとした計画のもとで、御指導いただきながら登るのがよいと、強く、強く思った私でありました。
というわけで、いつか登る日がくるのかこのままで終わるのか┉、HPにはひとこと、【観音堂の前の岩の間を抜け急峻な山道を登ると、眼前が開け、『お船岩』の巨岩にたどりつきます】とだけ書かれています。
┉もうちょっと詳細に触れて書いてもいいんじゃないかなぁ。
鎖場とか、直角に近い崖を登るとか┉。
でも、江戸時代に滑落事故があったという記録があるものの、それ以降は事故はないようでありますし、結構なご年配の方も登られているようなんですがね。
憧れの奥の院に立つ、お船観音像(聖観音菩薩)は、「お船岩」と呼ばれる舟の舳先にあたる所にお祀りされておられます。
【江戸時代の境内図には、舳先が尖った舟のように描かれていますが、江戸末期に舳先が折れて現在の形になりました。
境内図には坐像が描かれていますが、戦時中に供出したために、現在の観音様は、戦後に再建された立像です】
えっ!?
ええっ!?
ちょっと待ってください!戦時中に供出したぁ?!
戦後再建したぁ?!
登ることにこんなに大騒ぎしている二人って、もしかして┉大袈裟?
┉あの、お船岩と呼ばれる岩場に立つ観音さまを、担いで登って、設置した方がおられるという衝撃の事実に、┉もしかしたら実はこんなに大騒ぎするほどではなかったんじゃ┉などと思ってみたり。
あの日の天候とほぼ風の無かった条件は、
晴れの日の続いていた足元の岩場の滑りにくかろう条件は、
奥の院アタックにまたとない絶好のものだったのではないか┉とか。
ま、帰ってきちゃったものはどうしようもない。
ペコパの松蔭寺くんに頼んだところで時は戻せない。
と、いうことで、再拝のあかつきには、少なくとももう少し進んでみることとしましょう。
あのときには、こんなにも法性寺さんの奥の院について引きずることになろうとは思いもせずに┉まぁ、こうやって珍道中録を書くから振り返るだけなんでしょうけど、┉心も軽く三十三番菊水寺さんへと向かったのでありました。
菊水寺さんへのみちは七キロ。
心癒されるのどかな風景のなかを(クルマが)走り、ナビがその目的地、菊水寺さんを示し出した頃。
一面、赤い┉真っ赤な花畑が広がっているではないですが♥!
正確には、赤い花々があたり一面に咲きほこる中にピンク色の花が差し色をした、それはかわいらしくて見事なポピーの花畑です。
それもひとつではなく、いくつかのポピーの花畑で。
菊水寺さんを訪れる方々を町全体で歓迎してくれておられるようで、それはそれは心はずむ光景でありました。
そんな見事な一面赤いポピーの花畑のすぐとなりに、菊水寺さんの寺標がありました。
菊水┉き┉大櫻山長福寺ぃ~?!
┉そう門柱にはっきり刻まれております。
ええっ、ちょ、ちょっと待って。
こちら菊水寺さんではなくて?
いやいや、少なくとも菊水寺さんの駐車場に停めて真向かいのお寺さんに向かって歩いて来たんだから、こちらが菊水寺さんではないとしても、この近くには菊水寺さんがあるはず。
┉。
┉こ、ここだ!
ここでいいんだ。
門柱側面に、札所三十三番延命山菊水寺とも彫られています。
ほ。ほぉぉ。
普段なら迂闊な二人、門柱のすぐそばで写真を撮ろうとも気づかなかったことでしょうに。珍道中を盛り上げるネタをわざわざ拾う妙なスイッチを持っているようであります。┐(´~`;)┌
なんでも。
元々の菊水寺さんのあったところというのがこちらでなかった、ということのようで。えっ?どういうこと?
┉そう私も思いました。
この長福寺さんというのは、元々は菊水寺さんの別当寺であったようなのです。菊水寺さんが江戸時代に長福寺さんの境内に移転してきたことによるものだ、とあります。
元々の菊水寺さんはというと、ここより六百メートルほど離れた所にあった庵であったようなのですが、今ではもうその場所すらわからなくなってしまっているのだそうです。
この菊水寺さんの縁起で。
元菊水寺さんのあったといわれる地域から登る山中にある峠に、八人の山賊が出没して横暴の限りを尽くし、その峠は八人峠と呼ばれるほどにおそれられていたときがあったのだそう。
あるとき、その峠に一人の旅の僧が通りかかり、他に洩れず山賊たちが僧に白刃をかざして襲いかかられた、その時、旅の僧は法力で山賊たちを金縛りにしたのだといいます。
「罪を悔い改めよ」と言います僧に恐れおののいた山賊たちは、その場で出家することを誓ったのだそうです。その旅の僧こそが行基であったといわれ、行基は山賊たちに観音さまの像を三体刻んで与え、「この山の麓に福寿延命の菊水という霊泉がある。そこで身を清めれば必ず寿命が延びるであろう。」と伝えたのだといいます。
はじめ観音菩薩を祀る草庵は峠にあったようですが、のちに一人の僧が山麓に草庵を移したのだといいます。そこに涌く泉の水を飲んで過ごす僧が八十の年を過ぎても身体強固で壮年のごとき容貌だったことから、その霊泉と観音さまの霊験あらたかなことを知った里の人々が草庵に足を運ぶようになり。
やがて草庵が発展して観音霊場の菊水寺となり、長福寺さんの境内に移っていまに至る、ということのようであります。
そんな霊泉の湧く菊水の井戸の場所も今ではその所在がわからなくなってしまっているのだそうですが┉。┉そんなものなのかなぁ。まぁ、そんなものなのかぁ。
さらに詳しく書かれたものを少し転記いたします。
旧三十四カ所観音霊場の札所番付では、十七番菊水寺であったようです。
皆野から小鹿野への山沿いの道に、海抜三百八十メートルの「八人峠」があり、また現在の境内から約六百メートル南に小坂下集落があり、そこから八人峠にかかるあたりに、菊水寺跡とされる地があるのだそうです。台座に江戸時代中期の天明五(1785)年の銘があるお地蔵さまの石仏がおられるのだそうで、その庵が小坂下に移され、第十七番札所となったものと考えられており、そのあたりがどうやら今では不明なようです。
室町時代後期の永禄十二(1569)年の武田信玄の侵攻の際に観音堂を焼かれますが、本尊は難を逃れ、桜井というところにあった長福庵を転用して長福寺が創建され、本堂の建立に際し札所本尊である聖観世音が本尊とされたようです。
菊水寺の歴史はこのへんにして。
例の石標から本堂へと向かいましょう。
その参道、なんと、左右から枝を広げる桜の枝でアーチが作られているのです!すでに葉でありましたこの時ですら大変感動いたしましたものです。花のころにはさながら桃源郷といった心地でありましょう。
ちなみにこちらの桜は八重桜なのだそうです。
うーん、桜の頃はあちこちの札所がさまざまな桜を咲かせて、巡礼者をまた再巡へと誘うのだな。┉そんなのは珍道中の二人くらいでしょうか。
そんな桜の並木であります参道を、感動の思いで抜けると、枝垂れ桜かと思われる大きな枝が一部を隠して本堂が見えます。
蛙の鳴く音がBGMをつとめます。
本堂は大きな入り口をひろげた入母屋造。
扁額は右から左へと書かれてはいるものの新しそうな字体であります。(隷書体?┉といったかなぁ?)
一礼して御本堂へと入ると┉。
土間であります!
高い天井。
なにやら懐かしいような┉と思うのは、昭和生まれで木造校舎の記憶のある私だからかな。
とはいえ、木造の校舎にあっても土間の教室はありませんが、ね。
天井が高く、小規模な講堂を思わせる(┉あくまでも私の感覚で)┉のかなあ、やっぱりちょっと違うかな?
そもそも講堂という物をご存じの方がどれほどおられることか。
御本堂へと入ると、コの字型に、引き戸の戸棚が廻らされております。
右側は下半分磨りガラスの木の引き戸が、腰から胸くらいの高さにあって隣の間と仕切られています。
ほの暗い本堂に目が慣れると、正面は仏間┉という表現でいいのかどうか、外陣内陣が見えてまいります。
正面には御簾があり、その内に御厨子が見えたような記憶があるようなないような。
こちらは広い御本堂のすべてが写真撮影禁でありますので、あくまでも、記憶力の低いこのおば(か)さんの記憶によるものであるので、その辺はご了承いただきたく。
いつものように納め札を納めて、読経の準備をし始めて。視線の右端に、ガラス戸が開いていて人が座られているのが目に入りました。!(゚Д゚;)
まさかのご住職!
静かに、まるで瞑想でもされておられるかのように座られています。
本職の方の前、読経?
いきなりぶっつけ本番の実技テストを受けるかのような感覚で、平常をよそおうものの、内心は大パニックで。
ど、どうしよう。┉。
どうしようもなにも、読経するしかありません。
夫は涼しいかおで、私の準備が終わるのを待っています。┉きいぃ、あなたは読経しないから。┉そうなんです。夫は読経しないのです。厳密にいうと般若心経の最後、
〖羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 〗という部分の唱和をするのみ。
私の読経はまるっきりの自流。本当に音読しているだけで、まさか御本職の僧侶の前で一人で読経することになろうとは思ったことすらなく。
┉心の中で、ということもありなのかもしれませんが、やっぱりいつものようにでないと、かえってつまずくものなのです。
いくぞ!
いやいや、読経をそんな勢いでいく人はダメだから。へいじょうしん(平常心)と一言、心で言い聞かせて、読経をいたしました。
秩父観音霊場三十三番までまわっても、まだこんなレベルの私でありました。┉。
_| ̄|○
読経を終え、御朱印帳を手にした私が、ご住職のおられるところへと進んでも、ご住職は、私がその存在に気づいたときからまるで変わらぬ姿勢でなおもお座りになられておられました。
お声をかけてようやくその手を差し伸べ「はい」とおっしゃられた、それだけの所作であります。
お書きくださったその墨書きの書は、墨のかすれ具合までが美しいものでありました。
あらためて御本堂のなかを拝観させていただきます。
こちらは御本尊のお祀りされている正面のほか、ご住職がお座りになられるちょうど真ん前にも、金屏風でおおった空間に御仏像をお祀りされておられます。
天井には一面、千社札。
欄間部分には透かし彫りではない彫刻が壁の上部にはめ込まれています。大変味わいのある彫り物であるのですが、ほの暗い上、私どもしか参拝に訪れている者がなく、┉こういうとき小心者でびびりの私はそわそわしてしまい、なかなかゆっくりと拝見することができないという損な性分でありまして、しかもそれをさとられないよう、内心そわそわしながらも平静を装おうというたいそうめんどくさいやつでありまして。
かつて頻繁に行われていた間引きを戒める【子がゑし之絵図】と、親孝行を勧める【孝行和讚】の絵図を見るのがやっと、という有り様で。
ご住職はただただひたすら何をするでもなく座られておられたというのに┉そこが修行された方とそうでない愚者との差なのでありましょうね。
夫はゆっくりと絵図を眺めておりました。それでも私が御本堂をあとにするとやはりそそくさと出てまいりますところは、彼もやっぱり小心者という┉、お似合いの夫婦といったところなのでしょうか、珍道中二人組であります。
境内はさほど広くはなく、それでも御本堂ひだりて奥には大きめの稲荷社があったようです。
コロナの影響なのか、こちらのお寺さんを語るブログなどで必ずといっていいほど掲載されている、白い菊花をあしらえた手水の石の水盤も、いまは水を抜かれて、なんとももの悲しく。
気づくと四時ちょうど、であったのかどうかすでに御本堂の扉は閉ざされておりました。┉いつの間に?
境内には藤が咲いており、八重桜の参道を出ると芍薬が咲いておりました。
夫はポピーの花畑が気になるようで、しばし各々が花の写真を撮影して、菊水寺さんの駐車場をあとにしたのでした。
秩父三十四カ所。
あと一カ所。
普通の方ですと、ある程度時間配分をしてこの日のうちに三十四カ所をまわって晴れて満願とされる方がほとんどではないかと、私どもも思ってはみるのです。
ここから九キロ離れているという結願霊場水潜寺さん。菊水寺さんでちょうど十六時。本来ならば秩父霊場の納経時間は三月から十月までは十七時で、充分間に合うかと思われる時刻です。(菊水寺さんは何かご都合があったのかこの日は十六時少し前にはお閉めになられていましたが┉)
ですが。
次の機会へと結願をまわしてこの日は帰路につきました。
せっかくの結願、時間に追われてあたふたとまわるのはイヤじゃないですか。
ただでさえ珍道中の二人組、道に迷うことだって考えられます。┉実際、この日も大きな声では言えませんが迷っているし。
ええ、ナビ付きの車で、です、はい。
じゃじゃ馬ナビも、珍道中を繰りひろげるだけの同行者も、まったくあてにできない気の毒な夫は、あれこれ迷ってはかえって道を変え間違うという、やはり珍道中の同行に相応しいお人でありまして。
ゆっくりと結願いたすことといたしましょう。
┉とか言って。
一週間も開けずに秩父に向かうことになろうとは、この時珍道中二人組の当人たちですら思ってもいなかったことなのですが。σ( ̄∇ ̄;)
秩父【小鹿野町】というところにあります【法性寺】さんから、【菊水寺】さんへと向かう途中を回り道することにはなるのですが、同じく小鹿野町に【小鹿神社】さんという神社さんがあります。
こちらの〖例大祭〗も、四月の第三金曜、土曜日という、まさについこの間。涙を飲んであきらめたお祭りのひとつ、でありまして。
豪華な装飾のなされた〖屋台〗や〖笠鉾〗が町内を曳きまわされ、さらにはその屋台に花道を組んで地元の方々による〖歌舞伎〗が上演されるというものであり、さらには〖神楽〗のほか〖流鏑馬〗も行われるという、なんとも心踊る、お祭りではないですか。
┉そのお祭りが、例年通りに行えたかもわからないのではありますが、見物に訪れる人間が少しでも少なければ、コロナの感染リスクも減るであろうかと、まずは地元の方々に。
例大祭をどんな形であれ執り行っていただくことが何よりも大事であり、そしてできうるなら規模を縮小した形であろうとも、地元の方々に楽しんでいただくことこそが大切と考えますので。
いずれにせよ、このコロナを乗りこえて、再びかつての盛大な例大祭が執り行える日が来ることこそが最大の望みであることはいうまでもないことでありますが。
その小鹿神社さん。
例大祭ももちろんではありますが、もうひとつ。
どうしても行きたい理由がありまして、この度ようやく念願の参拝をさせていただくことができたのであります。
こちらは小鹿野町がバイクで町おこしをしたことから、オートバイの安全祈願の神社として知られている神社さんなのであります。
へ?
車ですら運転のおぼつかないおばさんがなぜにオートバイの安全祈願?
そうお思いの方もおられることでしょう。
そして┉そうお思いくださった方は、この稚拙な駄文を毎回お読みくださったから他ならず、本当に感謝しかございません。
短大卒業後一人がんばる娘が、オートバイの免許を取得して、ピッカピカの単車を購入したのでありまして。その費用も全部自分でがんばってのこと。
心配もありますが、何よりも安全に楽しんで乗ってもらいたい。
そんな思いをお聞きとどけ願うには、まさに、うってつけと思われる神社さんなのであります。
どんなタイミングでもいいので、この秩父の小鹿神社さんに参拝したいのだと、小鹿神社さんがオートバイの安全祈願の神社さんだと知ってからずっとずっと夫に懇願しておりまして。
ようやく念願の参拝であります。
大きな通りから入って行くこと数分。
さほど広くはない参道を通ってまいります。
オートバイの安全祈願の神社さんということで、授与品もまた他の神社さんとは少し異なったものばかりであります。ナットの御守りであったり、黄色の本体に赤いてんとう虫の描かれた御守りは〖転倒防止お守り〗。
オートバイの形をディフォルメしたシールタイプの御守り等々。
うーん、さすがだ、と思わず唸るおばさんでありました。
うちのムスメ、御守りとか好きではないんだよなぁ( ´Α`)。
御守りとかの押しつけほど迷惑なものはないのもわかってはいるつもり、┉なんですけどね。
結局お受けしてしまった。
ほんっと、こういうことをすると若いもんに嫌われるって。
┉でも素直に受け取ってくれました(ノ_<。)
ありがと、本当にありがたい。
小鹿神社さんから見えた武甲山の姿の素晴らしさ、彼女にも見てほしいな。
うーん、そうすると単車で?うーん(-""-;)
二十代半ば。
何でもできる無限の可能性を自分なりに努力して、勝ち得ていって欲しいものです。
ゆっくりと結願することにはしたはず┉なのに。
しかも、今思い出そうとすると、どうして急に『そうだ、秩父に行こう!』┉などと、いまはもはや通じない方もおられるようになったJRのCMのパロディーのように、突然秩父へ行こうと思い立ったものかさっぱり思い出せず。
この日は前日も大変天気がよくて、行くのならば前日の土曜日のほうが次ぐ日ゆっくりと休むこともできように、なにゆえ日曜日に秩父に向かうことにしたのだろう。
┉観音さまがお呼びくださったんだ。
本当は認知症の症状のひとつでしかないのだろうけれど、そう思うとなんともありがたく。
自分の都合のいいように解釈するのは、まだまだ修行が足りない証拠ではありますが、ネガティブよりはポジティブに考えるほうがずっとずっと前に進む力になります。
三歩進んで何歩さがっているのかわからないような私の人生珍道中、少しでも、少しずつでも前に進まないといけません。
生きているとねぇ、苦しいこと悲しいこと、いっぱいあります。そこでそれをどうとらえて、どう乗りこえ、どう歩いていくか。┉それがこの世にいる間の人間の修業で課題なのだと思います。
つまらないことで悲しんだり苦しんだり、それで立ち止まって、なかなか前に進めずにいる私。
過去はどうやってもやり直すことはできないし。
なかなか変わること、変えていくことは難しいことだけれど。
誰が見ていなくとも、自分がその日一日かけて、少しでも変われれば、少しでも前に進めたと認められれば、そこを自分で自分を認めてあげて、次の日また前に進めればいいし。
そこで休んだとしても、次、一歩でも歩き出せれば、たとえいざっても前に進もうと努力できたらそれでいいんじゃないか?
もちろん、もともと自分には甘いところがあるから、そこはしっかりと見きわめて。
今までうん十年かけて、ここまでしか歩けなかった自分なのだから。
戻ってしまっても、悪い方向でなければ良しとして。
三十四カ所の観音霊場巡りを終えて、少し思考が変わった┉かなぁ?
間違えなく変わっていたことは、筆での写経がすらすらと書けるようになっていたこと。
えっ?と自分で戸惑うほどに、すらすらと筆が動くのです。
ま、上手いか下手かは別として。すべて自己流の、学校の書写の時間でしか書道の経験のない人間ですし。
秩父観音霊場三十四カ所目、結願寺であります【水潜寺】さん。
実はこちらは、三十一番観音院さんへ向かうときにも、菊水寺さんからの帰り道にも、その道案内の看板を通っており、まさにようやくの参拝、でありました。
┉。
ここもこんなに山深いんだ┉。
道案内の看板から、行けども行けども、ただひたすらに山道を進むだけで。ただ、この水潜寺さんへと向かう山道はいかにものどかで、とくだんこわいようなところはありません。
「ここ、タカアンドトシが齊藤工と歩ってたよね」と言い出したのは夫。
たしかに、そんなてれび番組を観た気が。
どこか懐かしい風景を楽しみながら、それでも、まだかぁと思う頃に突然水潜寺さんの駐車場の看板があらわれます。
おっ。
ついに到着です。
少し緊張する私。
駐車場は高台にあり、そこからいったん道路に降りて今来た道を少し戻って、緩やかな登り坂となった参道を登って行きます。
季節の花の咲く道を楽しみながらのぼっていくと、道は二手に分かれています。左へと向かう道にはたくさんの仏像がのぼりとなった道のサイドに等間隔で並んでいます。
そちらに┉ではないようで。川に沿った┉少し下りの、ほの暗い道を歩いていくようであります。
く、暗いんだなぁ。
少し進むと、道は再び登りとなり、ひだりてに六観音さまが見えてまいります。手を合わせて、さらに進むとまもなくのぼりの階段がみえてまいります。少し進むと。
石段が見えてまいります。
ああ。
いよいよ、いよいよです。
ああ、建物が見えてまいります。
歩いてきた参道を直角に曲がり、いま見てきた六地蔵さまをちょうどひだりてに見るように立つと、さほど長くはない石段があって、その先にお堂の屋根がみえています。
もっと緊張するのかなと我がことながら思っておりましたが、今まで廻ってきた三十三カ所と同じような感覚で一歩一歩、石段をのぼる私がありました。
見上げる先には、さらに何段かのきざはしをのぼる高台にそびえる立派な御堂でありました。
少し先に到着された、四十代前半ともみえる男の方がひとり、静かに祈りを捧げておられます。祈りの邪魔にならぬよう、静かに香炉にお線香をあげます。御堂の向拝にはそれは見事な彫りがなされております。
よく晴れた日、新緑と御堂の屋根の内側の赤が、よくよく映えております。うーん!なんとも美しい光景であります。
納め札を納めて。
御本堂の中へとはいらせていただきます。【讚佛堂】と書かれています。
おおっ。
素晴らしいブロンズ製の慈母観音様の御像が立てられているではないですか。
讚佛堂のなかは広めの板敷きの間になっていました。入った瞬間から居心地のよい空間。思わず深く息を吸いこみました。
そのままその居心地よい空間でくつろいでしまいそうになるくらいな、そんな気持ちを抑えて、内陣に向かい、納経し、読経いたしました。
はあぁぁ。┉なんて心地よい空間でしょう。
御仏がそんな私の気持ちを汲んでくださったかのように、しばらく他の参拝の方がお越しになることなく、夫と二人きりで讚佛堂の空間を過ごすことができました。
板敷きの間に静座して。
開け放たれた戸口からは新緑が日に美しく輝いているのがみえます。
日に何度か拭き清めるのでしょうか、床は時を経たなりの美しい静かな耀きがあります。
いつまでいていいんだろう。
そんなことを考えたころ、次の参拝の方々が向拝におみえになりました。
かけがえないありがたい時を過ごさせていただくことができました。
次の方とほどよいソーシャルディスタンスの、江戸風の粋なすれ違いをできたこともここならではなのでしょうか。
結願だから、という気負いは一切なかったので、本当に本当にただただ居心地がよい、美しい空間、なのだと思います。
そもそもそんな気負いとか、心に負ったすべてをほぐして、癒して、軽くしてくださるような、そんな温かなやわらかな空間であります。
去りがたい思いで、何度も振り返り見上げながら、納経所へと向かいました。
えっ?
納経┉所、納経所ではない?
納経所である【讚仏堂】。
〖証 秩父霊場結願成就 結願所日澤山水潜寺〗と書かれた色紙をはじめ、いろいろな授与品があって、カウンター(のような)の向こうから、ご住職さまが、私の手に持つ御朱印帳に笑顔で手をさしのべてくださっています。
「お願いいたします」と御朱印帳を手渡して、ふと、┉そうふと、そのカウンターの横に目をやると!
┉やめてぇぇ。
ここ、仏さまがおられるじゃない!
そ、そうなんです。
等身大ともいえる仏さまが三体、しかとお祀りされていたのです!
┉私、仏さまをすっかり無視して、ご住職さまに御朱印をお願いしちゃってる。ど、どうしよう。
せっかくの結願寺で、やらかすなんて┉。
まだ、お前はこの期に及んで初心者ですらやらかさない大失態をしでかすの?
はあぁぁぁ。 (ノ_<。)・゜・。
もう、せっかくの御仏のお姿もろくに拝することができません。
あとでネットで調べたところ、中央に千手観音さまが、右には阿弥陀如来さま、左には薬師如来さまがおられたようでありました。
「はい、やりなおし」
┉なんておっしゃることはなかったですよ、もちろん。優しい笑顔のまま御朱印帳をお戻しくださいました。
でも。でも。
私、このとき、この場所ではっきりと自覚いたしました。
結願はあらたなスタート地点なのだと。
三十四カ所まわることにどこか気をとられていたような気がいたします、秩父観音霊場巡り。
今度まわるときは違った私でありたいものです。
┉少なくとも、ここ、この水潜寺さんの讚仏堂ではきちんと御仏への参拝をしてから御朱印をいただくことだけは、間違いないと思います。┉思いたい。
そして┉。そんなドタバタした結願ではあったものの、結願成就と刻まれたキーホルダーを購入している、転んでもただでは起きないおばさんでありました。
【水潜寺】さんが建立された年代ははっきりとは分かりませんが、1488年に作成された〖秩父観音札所番付〗には〖卅三番 水込 千手観音〗として登場しています。
当時は三十四番札所ではなく三十三番札所で、後に【日本「百」観音】とするために秩父の札所を一ヵ所増やした結果、もともと結願寺であります水潜寺さんの順番が一つずれて三十四番札所となるのでありました。
1744年に刊行される【秩父三十四所観音霊験圓通傳】なる書物には、三十四カ所観音霊場の縁起が書かれていますが、そこに書かれた水潜寺の縁起は、
〖時は天長元(824)年。東国はひどい旱魃に襲われ、この地でも五穀が実らず人々は塗炭の苦しみを味わっていました。
そんな折どこからか背の高い旅の僧が簑をまとった雨支度で現れ、まるで飛ぶように破風(はっぷ)山に登ると三尊の仏像を笈から出して岩の上に立てて、杖で岩を突くと、その割れ目から滝のように水が噴き出したのだといいます。
法師は人々に、観音を信仰し「樹甘露法雨」と書かれた木札を立てるよう説きました。さらに
「ここは巡礼諸願成就の地である。この三尊の阿弥陀如来は西方の教主であり西国三十三カ所をあらわす。薬師如来は東方の教主であり板東三十三カ所をあらわす。
この地の三十四カ所とともに百番霊場の結願所とすべし」と言われたところ、俄かに黒雲が天を覆い大雨が降りだしたといいます。
それとともに法師は再び飛ぶように山を下りいずこともなく消えた〗
のだということです。
ちなみに、この物語が由来となって名前が付けられた峠があり、その名も〖札立峠〗。札立峠は第三十三番札所の菊水寺から徒歩で水潜寺に巡礼する場合の通り道に当たり、江戸古道と呼ばれる巡礼路にあたります。
水潜寺からは涸れ沢を登って行くこと数十分の場所にあるとのこと。
┉江戸古道、何度となくその名を見聞きして、憧れはしますが、うーん、実際に歩くのは┉むずかしいかなぁ。
【水潜寺】という珍しい名は、境内にある【水潜りの岩屋】に由来します。これは観音堂右奥にそそり立つ巨大な石灰岩の岩体に自然に造られた洞窟で、長さ五メートル程あるのだとか。
岩屋には水が湧き出ていて、その昔、水潜寺で秩父三十四ヶ所観音霊場や日本百観音霊場の巡礼を終えた信者は、苔生した水潜りの岩屋で「胎内潜り」をしたのだといいます。
これは一種の再生儀礼で、岩屋のトンネルを母体の胎内に見立てて巡礼という聖なる世界から俗世に再生するという意味を持っていました。
そして信者は打ち留めの札とともに、一緒に旅して来た笈摺や輪袈裟などを納め、無事結願を成就しました。
そこは現在、東日本大震災以降落盤の恐れがあるため立入禁止となっています。そこへ向かう道自体が立ち入りを禁止され、近くを見ることすらできません。
うーん。┉私こそが、その水潜りの儀をおこなって、清浄な身となりたかった。
その岩屋から湧き出た水がパイプで観音堂のそばの立ち入りを禁止した地点まで引かれ、じかにその水に触れることが出来ます。これは【長命水】と呼ばれています。
隣には〖水かけ地蔵尊〗が祀られ、長命水を三回お地蔵さまにかけて願い事を三回唱えると叶うと書かれた立て札がありました。
えっ?
私、ですか?
雑念と煩悩が多すぎて、三回の内容が三つとなってしまい、せっかく願いが叶うというチャンスを棒にふったという、いかにもらしいオチがあります。 _| ̄|○・゜・。
なお、現在も、結願した巡礼者が、観音堂の片隅に置かれた棚に、笈や輪袈裟、杖などを奉納していくようです。
珍道中夫婦は、というと。
夫は「┉これ┉。置いていかないとダメなのかなぁ」と、情けない顔で私に相談し。私は、といえば、そこを見た時点で端から(私は持ち帰る)と決めており、そんな夫を胸のうちで(フっ)と笑い、無言でその場を立ち去りました。┉自分で決めな( - _ - )
結願したというのに、水潜りの儀をおこなえなかったヤツは、清浄な身となることができなかったようです。
私のすぐあと、御朱印を受けた方は、御朱印のページが重ね印を何度も重ねた朱色となった御朱印でありました。
おおっ。
このくらいでなければ、清浄な身となることは叶わないのでありましょう。
水潜寺さんで出会った、重ね印で一面朱色となった御朱印の主の年輩の男の方に、ついお言葉をかけてしまうおばさん。
「先ほど見るとはなしに拝見してしまったのですが、重ね印の数がすごいのですね。何回目になられるのですか?」
「二十三回だよ。だけどち~っともいいことなんて起きやしないね」
┉思わず目が点になる私。
「宝くじも当たりゃしないし、何回通えばご利益があるんだか」
(・・;)
┉お願い、夢をうばわないで。
とはいえ、何かそんな具体的なお願い事をもっての巡礼ではなかったのですが┉。
すると、讚仏堂のまえの縁台に腰掛けた、やはりご年配の女の方が口を挟みます。
「ここにそんなにも来られたことこそがご利益だよ」
するとその重ね印の男の方も、
「そういやあそうだな、わはははは」と。
ここ水潜寺さん、決してそばに住宅があるような立地ではありません。ありませんが、まるでこのお二人、近所の神社仏閣に詣でているような気安さすら感じられる、┉いつもの参拝コースみたいな感じで訪れたかのような。
そう、そうなんだな。
ここは通過点の一つに過ぎない、ということ。
あらたな神社仏閣に、秩父観音霊場二巡目に向かう通過点。
二巡目は夫が御朱印帳を携えて巡ってもらおう。
┉後日そんな話をしたら、
「いいじゃん、重ね印で」とつれない返事。
まあ、御朱印は御朱印で巡礼や参拝の証にすぎないし。
御朱印や重ね印よりも神社さんやお寺さんに参拝させていただくことが大切なのであって、なんなら今度は徒歩や自転車でまわらせていただこうか。
讚仏堂をあとにすると百観音結願堂というお堂が見えてまいります。
ひゃ、百はまわっていないからなあぁ。私どもがこちらにお参りさせていては、あまりにもずうずうしい。
┉とかいって、結局手を合わせてきたのですが。
さらに境内をすすむと仏足堂というお堂があります。
こちらはユニークな参拝の方法┉なはずなのですが、ここもまたコロナの影響が。
讚仏堂で一つ石を購入しその石に般若心経の一文字を書いて奉納する、といったものなのですが、中止されておりました。
く~っ、奉納したかったのになあ。
┉それもまた二巡目の課題ということで。
悄々となった私の目の前に石碑がありました。
その石碑の文字、群馬出身の福田赳夫氏のものとのこと。┉福田さんもこちらに詣でたのだなぁ。
讚仏堂のひだりて奥には七観音さまの石像がお並びになられています。さすがは観音霊場!
秩父三十四カ所の観音霊場には六観音さまがおられ、その六カ寺を巡って観音さまのご利益がえられるとした六観音巡りもあるようです。
もっと世に知られているのは六地蔵さまで。
お寺さんには必ずと言っていいくらい、六地蔵さまの石仏がならんでお立ちになるその名の通りの六地蔵さまがお祀りされております。
七観音さまは宗派によって若干の異なりがあるようですが、【如意輪観音】さま、【准胝観音】さま、(もしくは不空羂索観音さま)【十一面観音】さま【馬頭観音】さま、【千手観音】さま、【聖観音】さま、【楊柳観音】さま、
あるいは、【如意輪観音】さま、【准胝観音】さま、【不空羂索観音】さま、【十一面観音】さま、【馬頭観音】さま、【千手観音】さま、【聖観音さま】、
を【七観音】と申しあげているようです。
六地蔵さまがそれぞれ〖天道〗、〖人間道〗、〖修羅道〗、〖畜生道〗、〖餓鬼道〗、〖地獄道〗と呼ばれる〖六道〗をあますことなく見守ってくださり、私ども衆生を、お守りくださりお救いくださるのと同じように、
如意輪観音さまが天道を、准胝観音さま、不空羂索観音さまが人間道を、十一面観音さまが修羅道、馬頭観音さまは畜生道を、聖観音さまは餓鬼道、千手観音さまが地獄道をそれぞれお守りくださって衆生を救ってくださるという教えに基づくもののようです。
そもそも【一切衆生の苦難を観じ自在によく救いたまうが故に観世音と称し観自在という大慈大悲の菩薩】さまが観世音菩薩さまでありますが、なんでも聖観音さまがすべての観音さまの本体であって、さまざまな形をもってさまざまなところで衆生を救い導くようになられた、ということのよう。
七観音さまの石仏が一堂に会すところがさすがは結願寺であります。
さあ。
あらたなスタートをきりましょう。
水潜寺さんの帰りの順路を歩き出し┉。
そ、そうだった。
入り口と出口がコロナ禍でよくとられるソーシャルディスタンスの通路のように、隣り合わせになっている水潜寺さん。
思わずそちらに歩き出したくなった出口には、たくさんの石仏さまが並んでおられたのだった。┉それはすべてが観音さまでありました。
結願寺で横並びに並んでお見送りくださるのは石の三十三観音さま。
三十三、とは言うものの、こちらにお並びなのは秩父三十三カ所それぞれのお寺におられた聖観音さまや馬頭観音さまなどの六観音さまではなくて、その言葉どおり三十三種類の観音さま。
観音さまが衆生済度のために、三十三体に姿を変えると説く観音経の説に基づいて、中国や日本における俗信の観音さまを三十三そろえ整理したもの、とのこと。
楊柳(ようりゅう)観音さま、(以下観音を略して)
龍頭(りゅうず)、
持経(じきょう)、
円光、遊戯(ゆげ)、
白衣(びゃくえ)、蓮臥(れんが)、
滝見(たきみ)、施薬、
魚籃(ぎょらん)、徳王、
水月(すいげつ)、一葉、
青頸(しょうきょう)、威徳、
延命、衆宝(しゅほう)、
岩戸(いわと)、能静(のうじょう)、
阿耨(あのく)、阿麽提(あまだい)、
葉衣(ようえ)、瑠璃、
多羅尊(たらそん)、蛤蜊(はまぐり)、
六時、普悲(ふひ)、
馬郎婦(めろうふ)、合掌、
一如、不二、持蓮、
灑水(しゃすい)観音さまといった三十三体の観音さまがずら~りずらりとお並びになられています。
それはお優しいお顔立ちの観音さまが三十三体!
比較的新しいのか指先にいたる彫りまで繊細で美しい観音さまであります。
このように三十三観音さまがおられるのを初めて拝見したのは群馬県高崎市にあります洞窟観音と呼ばれる観光参拝場でありました。
観光参拝場、聞きなれない言葉でありますが、お寺さんでないどころか宗教とは関わりはない、自らの私財を投げ打って造った洞窟内にたくさんの観音さまを彫った施設、でありました。
三十三体の観音さまがそれぞれの名前にある、物を持ったり、あるいは背景であったり、と特徴をもってお立ちになられているのです。
初めてみるようなポーズであったりと、お一人お一人異なるお姿にたいそう感動し夢中になって観たことをおもいだしました。
三十三観音さまが一堂にそろわれた所というのはなかなかないのかも知れませんが、それでも三十三の中の一体とかをお祀りされておられるお寺さんはございます。
石仏さまでも時々お会いすることがございますのが楊柳観音さま。
┉他の三十三観音さまもおられるのかも知れないのですが、なにぶんにも私、認知症の進行予防のためこちらでお目汚しの文を綴らせていただいているような脳の衰えた者であるため、いろいろ覚えたいことはあるもののいっこうに頭に入ってこないような有り様で。
その日お会いした御仏の御像をまず覚えておくことが課題の一つ。
そこでこの御仏の尊名は?と思ったとき、一生懸命、その特徴であるとかお手にお持ちのものとか、一緒にいる動物、背景などを拝して記憶しようと努力するのです。
が。
そのあとさらにお会いする御仏の御像があり、見知らぬ花があったり、あるいはそこでどなたかと会話をしたりと、その記憶の上にいろいろな情報が重ね書きされるのですよね、ええ、確実に。
帰り道道に迷って頭をフル回転させたり、帰ってからの夕飯のメニューを考えるため冷蔵庫の中にあるものの記憶を手繰り寄せたりと、さらなる試練があったり。
親の入所施設からの電話があったりすれば、その着信を見た時点から何事かと動揺いたしますし、車の中といういきなりメモのとれない状況下、記憶する能力をフル動員することとなるし。
ええ、一言で言えば、大変なんです。
覚えてきた内容を忘れるのではなく、覚えてきて調べようと思っていたことがあったことが、いろいろな情報の堆積物に埋もれて、すぐには出てこなくなり。
ようやく出てきた頃には、もう懸命に覚えたはずのあれこれが枝葉が取れた状態で発掘されるので、もうほとんど使えない情報になってしまっているのです。┉いまだ埋もれたままとなっている記憶はどれだけあることか(T^T)
まあ、埋もれたままとなっているくらいですから本人には苦痛を覚えることすらないのですが。┉。
と、まあ、記憶障害、認知障害の疑似体験をしていただくのはこのくらいにして。
【楊柳観音】さまは、手に一枝の柳をお持ちになられておられます。そんな特徴から時々石仏さまで時々お見かけすることがあるのでしょう。
千手観音さまのお手の一つ、楊柳手と呼ばれる手から生じたとされているようです。〖難病除災〗を祈願する仏尊とされているのだそうです
┉そうか。
そうだったんですね。
楊柳観音さまをお見かけすることがあったのは、難病除災というご利益に祈願した証であったのですね。
いまのように医学医療の発達した時代にあっても、新型コロナウイルス感染症に人類は生命の危険に脅かされ、経済を、暮らしを逼迫させられています。
近代飛躍的に進歩をとげた医学医療(とはいえ、あくまでも先人たちの努力の積み重ねがここに来てみ結んだ、という結果ではありますが)。
それ以前といえば、わずかの薬と民間療法のほかは神仏に祈ることしかなかったのです。
疫病の大流行があればただひたすら神仏にすがるしかなかった頃の祈りを込めた石仏さまであったのです。
先人の思いのこもった楊柳観音さまに、私も祈らせていただこう。
どうぞ新型コロナウイルス感染症が一日も一刻も早く終息し、再び世界に平和が戻りますように。
三十三通りのお姿の観音さま。
楊柳観音さまのほかにも、例えば、宮城県松島の【円通院】に【龍頭(りゅうず)観音】さまがおられたことを記憶しております。円通院さんの龍頭観音さまはその御像も新しいこともあり、龍の上にお乗りになっておられるのが、一目みてわかる彫りでありましたからわかったのかも知れませんが、その尊像の素晴らしいことといったらありませんでした。
【龍頭観音】さまはその名の通り、龍の頭のうえにお乗りになられたお姿をされておられます。
水神である龍を従え、洪水を起こすことなく恵みの雨をもたらし、五穀豊穣を授けるとされるよう。龍上観音と呼ばれることもあるようです。龍頭観音さまは、一切衆生を無量の慈悲で救済へと導く観音菩薩であり、開運厄除の龍神と祈願成就の観音菩薩が一体となった姿には大きな霊徳が宿ると言われているのだといいます。
【白衣(びゃくえ)観音】さまは群馬県高崎市に。
観音山と呼ばれる丘の頂上に立つ白衣観音像は、上毛カルタに「白衣(びゃくい)観音慈悲の御手(みて)」と紹介され、群馬県民には知らぬ人がないくらい広く親しまれている観音さまであります。
ちなみに群馬県では「白衣」を「びゃくえ」ではなく「びゃくい」と読むのが一般的になっているのですが。
この像は市内の実業家が昭和九(1934)年の陸軍特別大演習の際、昭和天皇に単独で拝謁できたことを機に、観光都市高崎の建設・陸軍十五連隊戦死者の慰霊・社会の平安などを祈願して建立したものなのだそうです。
二年余りの歳月をかけて、高さ41.8メートル、重さ5.985トンの鉄筋コンクリート製としては日本一の大観音像が完成いたします。
昭和十一(1936)年開眼供養が行われ、それ以来高崎市民を暖かく見守り続けておられます。そのお姿は今なお純白で、遠くからそのお姿が見えたとき思わず声をあげてしまう人も多いことでしょうし、近くそのお姿を見上げればため息が出るくらい尊いお姿をされています。
【魚籃(ぎょらん)観音】さまは鎌倉に何体かおられ、同じく鎌倉の東慶寺さんには【水月(すいげつ)観音】さまがお祀りされておりました。
┉。
┉いつになったら、鎌倉三十三観音巡りを再開できるのか┉。
Shgh
【寳登山神社】さんは秩父、ですがどちらかといえば長瀞という方が、ああ、と思われる方が多いのかと思います。むしろ、長瀞って秩父だったんだ、と思われた方も┉それは私くらいですかね。
長いこと寳登山神社さんへ参拝したいと、夫婦で何度も何度も申しておりましたが、念願叶い結願の日に寳登山神社さんへの参拝もさせていただきました。
いつもの有料道路は通らず長瀞の街を走って行くと、寳登山神社さんへと続く道につながります。
日曜日ということもあって駐車場はすでに満杯、私どもの車が最後の区画に駐車することができました。車から降りる方は小さなお子さんを連れた家族連れであったり、親御さんを連れてこられた家族連れであったり、カップルやお友だち同士であったりと実に多様で、車のナンバープレートにある都道府県も実にさまざまなところからで、寳登山神社さんがいかに多くの信仰を集めているかを物語っていました。
神社さんに向かって歩いて行くと、大きな、真っ白な鳥居がそびえ建っていました。鳥居の一番上にあたる笠と呼ばれる部分が黒いもののほとんどが白に金の装飾が施されておりますもので、額束はベージュに金の縁でさらにそこに書かれた文字も金といった実におしゃれな鳥居でありました。
その鳥居をくぐると手水舎があって、白木の質素な鳥居があります。
手水舎の水は抜かれ、手水作法にかえてといった大きなパネルが掲げられています。
〖(本来みそぎを簡略化したことで手水作法により神前に額づくことができるものでありますが、新型コロナウイルスの感染力を鑑み手水作法を中止いたします←私によって簡略してあります)
寳登の神山から流れいずる神水の霊気を足元から浴び、あわせて祓戸大神様の稜威(みいつ)を頭上に頂く「禊の門」をくぐることにより、心身の清浄が成就され、神前に赴くことが適います。
心に「祓へ給へ、清め給へ」と念じつつ禊の門をくぐり、心身の清浄を保ち御神前へとお進みください〗
とあります。
なるほど┉質素な白木の鳥居は禊の門だったんだ。
昨今、どちらの神社仏閣におかれましてもみな、手水舎の水が抜かれていることがほとんどで、このコロナ禍、どうやって身を清めたものかといつもそわそわドキドキしていたものが、こうした指針をしめしていただくと、心身の汚れ多き私はなんともすくわれた思いがしましたものです。
石段を登りきったとき、目の前にそびえていた拝殿は思ったよりも小さなものでありました。
青い空にすっと建つ姿はとても神々しく、それでいてあたたかく迎えてくださったようにやわらかく優しい気に包まれた境内でありました。
まずは二頭┉ではなく三頭の狛犬さま。阿の狛犬さまは左前足に毬を抱え、吽の狛犬さまは右前足で子どもを撫でながら、明るい陽射しを浴びて気持ち良さそうに鎮座されています。阿形の狛犬さまは満面の笑顔であります。
こちらの神社さんでは、狛犬さまが護る必要がないほどに、ここを訪れた者がみな心清められてみな笑顔で過ごさせていただけ、こちらの神社さんの敷地内では何も悪いことなど起こらない清らかな空間だからなのでしょう。
さっそく参拝を。
初めて訪れた神社さんでありますのに、そんな気がしない、いかにも居心地のよい空間であります。神域にあるにも関わらずどこかくつろいだ私がおります。
なんと見事な彫刻でありましょう。
扁額も一見質素に見えながら、実は眼光するどい白龍二体に護られたものであり、正面に彫られた龍のなんと多いこと!
色とりどりの龍が何体おられるのでしょうか。
彫りがたいそう細かいところにきて、そのみごとな鮮やかな色彩。
ここは日暮の門ならぬ日暮の拝殿なのでありましょうか
これらの素晴らしい彫刻の中には、中国の逸話がモチーフになっているものもあります。二十四孝というもののようでそのひとつひとつの彫刻についての逸話が板書され掲示してあります。
たとえば、楊香(ようこう)のお話では、
楊香という人物が父さんと山に行くと、目の前に虎が現れます。2人に虎が襲い掛かろうとしたとき、楊香が「どうか私を食べてください。その代わり、父を助けてください!」とわが身を犠牲にしてお父さんを助けようとしました。虎はその崇高な精神にひれふし、逃げて行ったというもの。
張良(ちょうりょう)のお話では、
ある日、張良の前にボロを着た老人が現れます。老人は自分の靴をポイっと放り投げると、「おい、お前取って来い」と命じました。さすがに張良はイラッとしましたが、相手は年配の人なのでぐっと堪えて靴を取ってきました。
すると老人はさらに傲慢に「履かせろ」と言って足を張良の前に差し出します。「変な人に絡まれた」と思いながらも、この老人につきあってやるか・・・というおおらかな気持ちで対応することにしました。
すると、その老人は張良に貴重な兵法書を渡すとこつぜんと姿を消してしまいます。やがて張良は後に優秀な軍師となった、というお話。などなど。
なかに一つ、大人が膝まずいて授乳するといった彫刻があり、思わず目をみはり、さすがにこれは異様に感じ足を止めました。なんでも、
歯の無い義母が食事に苦労していたことを見た嫁が義母に自分の乳を与えたことで、義母が長生きでき、やがておとずれた死の床で感謝し孝心を讃えた。というものを表したようです。
たしかに搾った乳を飲んでいたでしょうがそれを一枚の絵として伝えるにはこういった表現になるのかもしれない。
でも、二十四ものお話がある中から選ぶ時点で、あえてこれを選ばなくてもいいのじゃないかな┉と思ったりもした私は、たしかに孝心に欠けた人物ではあります。
その他は三國志を元としたものもあり、そのすべてがすばらしく精巧で、鮮やかな色で彩飾されています。
拝殿の周りをそのような彫刻が彩っておりました。
寳登山神社さんの御祭神は、
我が国をおはじめになられた第一代神武天皇、【神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)】さま。
そして【大山祇神(おおやまづみのかみ)】さま。山を司る神さまで、人の生活に欠かせぬ、水に始まり、動植物、いわゆる山の幸を無限に恵み給う神さまで、神犬の大口真神(おおぐちのまがみ)さまを御眷属としてお使わし下さり、我々をご守護下さいます神さま。
【火産霊神(ほむすびのかみ)】ホは火を表し、ムスビは物を生成する神秘の力を表し、燃え盛る炎が人の生活に必要な様々なものを生み出しして無限の幸を授けて下さると共に、火を司って下さる神さま。
境内舎もたくさんあります。
拝殿の横には【藤谷淵神社】がお祀りされ、
【伊勢大神】と申し上げ二柱の神さま、【天照大神】さまと【豊受大神(とようけのおおかみ)】さまを。
【八坂大神(すさのおのみこと)】さま。
【野栗大神】さまは田畑の厄除けの神さま。
【諏訪大神(たけみなかたのみこと)】さま。
【琴平大神(おおくにぬしのみこと)】さま。
【熊野大神(いざなみのみこと)】さま。
【榛名大神(はにやまひめのみこと)】さま。
【竈三柱大神(おきつひこのみことさま/おきつひめのみことさま/ほむすびのみことさま)】
を御祭神とされお祀りされていました。
明治時代まで、藤谷淵村(現在の長瀞町長瀞)の各所にあった八社の神社をこの地に遷座しておまつりしたため、多くの神々が祀られたようでありました。
【日本武尊社】
【天満天神社】
【宝玉稲荷神社】
と、それぞれお祀りされております。
日本武尊みそぎの泉もありました。
先ほどのレスにミスがありました。
※奥宮のあります寳登山の山頂に、寳登山神社の御祭神の三柱をお祀りされたのが日本武尊さまであったようでありました。
日本武尊とその軍勢が東国平定の折、寳登山で山火事にあい、命の危機となられたということでありました。
その際、何頭かの犬たちに助けられ、山頂まで案内されたということであります。しかも犬たちはその山頂からこつぜんと姿を消してしまいます。
〖火止山、ホドヤマ〗と名付けられたのが日本武尊さまで、その後寳登山となったようです。
お詫びし訂正いたします。
ちなみに今回は私たち、奥宮へは参拝しておりません。
寳登山神社の奥宮へは、必ず行きたい、行かなければならない、そう思っていた┉もちろん今もその思いに変わりはありません。
ではなぜ登頂しなかったのかといえば、それはやはり新型コロナウイルス感染予防対策でありました。
寳登山は標高497メートル。もちろんここを登っていく登山道も整備されていることでしょう。ただ如何せんその体力が私どもにはない。
ロープウェイもありますが、このコロナ禍、どれだけのソーシャルディスタンスがとれるのだろう。消毒などは?
この日、駐車場の車のナンバープレートから、首都圏はもちろんさまざまな地域から参拝者が訪れていそうで、お子さま連れも多く見られ、それはそれは嬉しそうに愉しそうに、携帯のあちこちを歩く姿が見られます。
ロープウェイはそんな親子連れに楽しんでもらおう。
ロープウェイでなければ登頂できない方々に参拝していただこう。
奥宮は逃げない。
どちらが山頂か、┉少し不安はあります私ではありましたが、この日遙拝し神社さんを後にしたのでした。
少し時を戻します。
境内舎を参拝してその道順通りに歩いて行くと、高い位置にも御堂があるのが見えてまいります。ん?なんの御堂だろう。
そこへと続く道は閉鎖されています。どちらかというと神社さんというよりお寺さんのイメージの御堂であります。
さらに進むと少し大きめな建物が見えてまいりました。
┉。┉?!
お、お寺?
隣のお寺さんに入り込んだ?
いやいや違う、寳登山神社さんにつながる屋根をいただく廊下がしっかとあります。
かつての神社さんとお寺さんが共にあった時代のままに建物が残っているんだ!
山門もあります。┉なんてありがたい。
えっ?本堂にお上がりになられる方はお申し出ください?
上がっていいんだ!
もちろん、小走りに係の方のもとへと向かい、おことわりもうしあげ、どこで靴を脱ぐのかどうかまでもどかしい思いで御本堂に上がらせていただきました。
しっかりとご本尊さまをお祀りされて仏具もしっかり残っています。┉というか、かつてお寺だった建物、ではなく、現行のお寺さんでありました。
おおっ!!!(゜ロ゜ノ)ノ
多少見学気分でありましたものから一気に参拝モードへと戻し、御本堂の御仏に手を合わせました。いやいや┉だって、こちらの御本堂の入口も紙垂のつけられた縄が張られておりましたし、灯篭にもしめ縄に紙垂があり
ましたよ。素人だし、殿堂入りできそうな万年初心者だし、わかりませんがね~( >Д<;)
天井画はそれは美しい御仏のお姿が描かれております。
新しくはないのですがちょうどよく経年した彩飾が残っております。そして欄間にはめ込まれた彫刻もすばらしく、これは弘法大師さまの一代記なのだそう。
ご本尊さまはお優しいお顔をなされた少しほっそりされたお地蔵さまであられます。
こちらのお寺は【玉泉寺】さん。
【弘法大師】がこちらに来られた折、宝珠が山頂に向かって飛翔した神変に感応され、仏庵を営んだ地であると伝えられ、永久元(1113)年に開基されたものだといいます。
爾来代々の住職は別当職として755年にわたって【寳登山大権現】(神仏習合当時はこのように称していた)の祭祀を続け、この間に京都御室御所の院家格を賜るなど、寺格を高めてきたのだといい、明治元年(1868)に神仏分離が行われたのだといいます。
しかし明治の神仏分離令で一応は分離の形式をとったものの、寺は従来どおり存在し、ここであらたまった点といえば、
一、寺持山林の内から神社の社殿周辺を分筆して神社境内を設定したこと。
一、新たに神職が常勤することになり、住職の常住を廃し兼務するようにしたこと。
一、神社は寺から寳登山大権現の講社、講中をひきついだこと。
などが主な点であるのだそうです。
【玉泉寺】さんは真言宗智山派の末寺で、檀家もおられ、その多くは長瀞地内に暮らしておられる方々で二百五十戸を数えるといいます。
お寺の建造物や境内地の維持管理は神社側に任されているようであります。
講社講中は寺時代から受けつぎ、その信仰の内容は変貌したようですが、大小約800講があり、これら崇敬者の接遇には玉泉寺本堂、護摩堂、参集殿など寺との伝統に基づく黙約により利用し、また社寺双方ともにその祭典法要などに際してはお互いに補完しあう関係なっているようです。
境内に見えておりました建物は護摩堂のようであります。他に十王堂も存在するようです。
本来はこうあった神仏のあり方を、政治的なもので無理矢理分離したことにより生じた数々の悲劇を嘆く者として、このような神社さんとお寺さんのあり方をみられ、それもありがたいものでありました。
┉いつか必ず再拝させていただき、その際は必ずや奥宮へ参拝させていただこうと思う次第であります。
【椋神社】さんは実に秩父に五社存在するようです。
ナビを使うとそのいくつかを拾います。
秩父市内から車で三十分ほどのところにあります。
〖椋神社〗の名は延喜式神名帳にも記載されているいわゆる式内社で、論社という扱いになるのだろうが、明治政府はいずれの神社にも式内社と称することを許したという。
その中でも下吉田にある椋神社さんが、最も知名度の高い神社であるようで、特に十月の例祭である【龍勢祭】は有名なのだといいます。
社伝によりますと、
【日本武尊】が〖東夷征伐〗のおりに当地を通りがかった時、霧が深くて進めず、軍神である【猿田彦大神】に神慮を請い鉾を立てたところ、光を放って飛翔し、井泉の椋の木の下に止まった地点に老翁が出現し、日本武尊を導いた。
その後に日本武尊が、大神に感謝して祠を建て、当地に祀ったのが創祀とあるのだそうです。
社殿としての造立は和銅三(710)年になるようです。
【将門伝説】とも多少関わりを持ってくるようです。
平将門の乱を平定した人物である藤原秀郷(俵藤太)は、討伐の折にこの地で戦勝祈願をしているのだとか。
その後、将門を討つ事がかなった藤原秀郷により春日四神を合祀。それ以降「井椋五社明神」と称されるようになったといいます。
明治十七(1884)年に発生した【秩父事件】では、〖秩父困民党〗の決起集会がこちらの神社の境内で行われているようです。
自由民権運動における事件の一つとして有名な秩父事件の発端となった場所とも言えるます。
例祭として有名な【龍勢祭】は、【日本武尊】が奉持した矛より発した光の様を尊んだ氏子たちが神社前方の吉田河原で大火をたき、その燃えさしを取って力の限り投げ、火を飛ばして光を放ち御神慮を慰めたのがはじまりといいます。
後になって火薬が使えるようになると、これを用いて火筒を空中高く打ちあげる、現在の龍勢花火となっていきます。
これは歴史的にも大変古いお祭りで、農村部に伝わるロケット技術としても興味深いものなのだとか。
アニメ聖地としても有名であります。
秩父を舞台にしたアニメ【あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(通称:あの花)】の作品内にて、【龍勢祭】の龍勢(ロケット)が、かなり重要なシーンとして描かれているのだそうで、神社の敷地の前にある道路を隔てたところに見えている龍勢発射台も登場するようです。
【椋神社】さんの、拝殿前につながる鳥居のそばを護られる狛犬さまがオオカミさまでありました。素朴な造りでありますがそれがまたなんともかわいらしいお姿であります。
その右側に神楽殿。
拝殿は朱塗りで、拝殿の前にいる狛犬さまはかわいらしい笑顔でどこかのんびりした印象を受け、思わず足が止まります。
旧本殿は元亀年間(1570-1573)の武田軍の侵攻で焼失したとのことで。天正三(1575)年に北条氏邦により再建され、その後寛永(1627)年に幕府代官により大修復造営行われており、何度かの修復を経て現在にいたるようです。
また拝殿の右手には〖八幡宮〗が境内社として祀られています。
こちらの社殿は本当に見事な造りであり、色こそは褪せていますが、細かな彫刻がたくさん施された見ごたえのあるもので、小さなお社ではありますが、重厚さを感じさせるお社であります。
全体に厳かな雰囲気であり、ぴんと張ったように清々しい空気感の境内。
訪れたとき、タッチの差で社務所は閉じられてしまっておりましたが、
どなたもおられない社務所の戸という戸は、なぜか開け放たれているのです。
なにも置かれていない畳の間に、まるで通り抜ける風が見えるようであります。日の差したところと影のところが、モノクロの写真でもみるかのように芸術すらかんじさせます。
そんな清らかな空間が広がっていました。
何度でも来たいと思う、神社さんであります。
┉決して御朱印を受けられなかったからではないですよ。
山火事による延焼を逃れるために、仏像や寺宝を運び出し避難させたお寺さんのことを折にふれては書かせていただいております。
栃木県足利市の【大岩山毘沙門天】さん。正式名称は【大岩山多聞院最勝寺】さんであります。
避難させた際、思っていた以上に仏像に傷みがあり、また火災からの一刻もあらそう避難であったため、破損してしまったということで、その修繕費はあわせて七千万円以上にもなっているようです。
その最勝寺さんで、毎月第四日曜日に【勧進写経会】が開催されることとなりました。
五月には所用で参加することができずにおりましたが、今回五月の写経会に参加することができました。
とはいえ、この大岩毘沙門天堂、本坊である最勝寺さんから細い細い山道を何キロにもわたりのぼるようなのでありまして。
その道たるや片方は崖であったり、崖崩れのあとを補修して通れるようになっていたり。対向車が来ようものならすれ違いのタイミングを選ばねばすれ違えないところありと、私のような運転音痴には攻略困難な道でありますため、またまた夫に頼んでの参拝となるわけであります。
そしてまた、そこにメーカー純正のナビでありながら、キチンと案内のできないことのあるじゃじゃ馬ナビが加わったこの日。┉迷うんですねぇ、この珍道中二人と一台。┐('~`;)┌
いつになったら珍道中でない立派なものが書けるようになるのか。
まあ文章力がまた未熟なヤツですし、加えてちょっと変わった人物ですので(┉ちょっと?)、延々と珍道中録を書き続けることになるのでしょうがね。
この勧進写経会、 持ち物/筆記用具(筆ペン可)となっておりまして。
筆ペン可、ということは、基本墨書き?
まあ、最近は写経する際は墨書き、筆で書いておりますし、それでは筆と硯と墨汁を持って参りましょう。
「じゃああの書きやすい筆ペン貸して」と夫。
そう〖呉竹〗の筆ペンは書き心地もよくて、下手な字もなんとかみられるように見せてくれる、魔法のペンなのです。
あとは百円均一の三本セットのBRUSHという筆ペン。
どちらももう売っていないんだよな。
何度も参拝しており、本来もう迷うはずもない道を迷って。
本坊なのか、上の御堂でなのか、わからないうえ電話も不通で、一度最勝寺さんに寄ってからとなり。
駐車場は満車で、上にある展望台駐車場に停めてへいこらへいこら歩って歩って。
ようやく到着!
で┉、写経させていただくところはどこ?
御本堂ではなくて食堂と書かれていました。
御本堂はさほど広いわけではなく、全体はなんとか見渡せるほどの広さです。食堂┉、┉?
なので本坊であります最勝寺さんの可能性も考えたのです。
食堂、食堂┉。
ん?
そういえばご住職が手作りされたという甘酒をお売りになっていた茶屋のような小さな建物があったなあ。
タタタタタ┉と石段をのぼって、そおっとその茶屋のような建物を覗くと、中におられる方と目が合いました。
「写経ですか?」
「はいっ!」
中では非接触型体温計での検温とアルコール消毒をしてからの受付です。
コロナ禍となって一年半、当たり前な光景となってきてはおりますが、実はかげでのご努力があってのことで、そういったことにも感謝です。
住所氏名を記入して写経料をお納めいたします。
ん?
あ、あのぉ┉( ̄▽ ̄;)
かごに二十本はゆうに筆ペンが用意されているではないですか。
そ、そうですよね。それが現代ってものですよね。
初めて参加させていただいた写経会では、みなさん慣れたご様子で書のセットを持参されておられていて、筆ペンをお借りするのは私どもだけだったという、ある意味衝撃的なデビューだったものですから、写経会とはそういうものだとインプットされていただけで。
しかも
「どうぞこちらからお持ちください」
お、おぅ。
夫はといえばこだわりの筆ペンを持参したくせに(正確には私が持ってきているけれど)、「お借りします」とか言っているし。
いつもお借りした筆ペンが途中で出なくなって、筆を中断するのがイヤだから今後は持参するって言ってたくせに。
いけないいけない!平常心平常心。
まあ私の場合は平常心がすでに怪しいので、できれば無の境地になれればそれがよいのですが、それも修行なき身にはむずかしく。
┉それでもなんとか経に向かい、書の準備をしてそんな雑念を自分の内のすみっこに追いやって。
写し書きするタイプの写経です、よかったぁ。
マイペな私は書のほうもマイペ、まともに写し書きができないヤツでして。下に敷かれていた般若心経を抜き取って、自分のクセ字で写経スタート。
ウグイスの鳴く音が響きわたる以外はなんとも静寂な空間であります。
なんて贅沢な時を過ごしていることでしょう。
なんとありがたい。
写経が終わると、御本堂へ。一グループごとに副住職さまが読経の先導をしてくださり、説教をくださるようです。
┉が、私どもの前の方々は堂内の案内をしていただき出してしまい、いつになっても終わらない。二度ほどご住職が中断するように指示しているのに我関せずで次々と質問などされる方々で┉。(-_-;)
いいんですよ~、毘沙門天さまの御前を退いてくださったなら。
むしろ心行くまで御尊顔を拝することができますので。
と、思っておりましたらご住職自ら対応してくださいまして、あまりゆっくりと拝見することは叶わなかった。
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猫さんタヌキさんさくら祭り1レス 54HIT なかお (60代 ♂)
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少女漫画あるあるの小説www0レス 78HIT 読者さん
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私の煌めきに魅せられて
「良かった」 10時を回って、やっと家に帰った。 『今日はほん…(瑠璃姫)
30レス 280HIT 瑠璃姫 -
神社仏閣珍道中・改
(続き) 仏教が生まれたころ、インドには『輪廻』の考え方が根づい…(旅人さん0)
223レス 7621HIT 旅人さん -
わたしとアノコ
??? ちょっと何言ってるかわからないにゃん(・・)(小説好きさん0)
171レス 2195HIT 小説好きさん (10代 ♀) -
猫さんタヌキさんさくら祭り
そこで、タヌキさんの太鼓よくたたけるよう、太鼓和尚さんのお住まいのお寺…(なかお)
1レス 54HIT なかお (60代 ♂) -
ゲゲゲの謎 二次創作
「幸せに暮らしてましたか」 彩羽の言葉に、わしは何も言い返せなか…(小説好きさん0)
12レス 127HIT 小説好きさん
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🌊鯨の唄🌊②4レス 117HIT 小説好きさん
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人間合格👤🙆,,,?11レス 125HIT 永遠の3歳
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酉肉威張ってマスク禁止令1レス 126HIT 小説家さん
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今を生きる意味78レス 511HIT 旅人さん
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黄金勇者ゴルドラン外伝 永遠に冒険を求めて25レス 950HIT 匿名さん
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🌊鯨の唄🌊②
母鯨とともに… 北から南に旅をつづけながら… …(小説好きさん0)
4レス 117HIT 小説好きさん -
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人間合格👤🙆,,,?
皆キョトンとしていたが、自我を取り戻すと、わあっと歓声が上がった。 …(永遠の3歳)
11レス 125HIT 永遠の3歳 -
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酉肉威張ってマスク禁止令
了解致しました!(小説好きさん1)
1レス 126HIT 小説家さん -
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おっさんエッセイ劇場です✨🙋🎶❤。
ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1392HIT 檄❗王道劇場です -
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今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 511HIT 旅人さん
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こんな考え最低ですか?婚約中
料理教室の講師をしてる32歳女です。相談所で出会った52歳の経営者と成婚退会しました。お互い初婚です…
33レス 1667HIT 恋愛勉強中さん (30代 女性 ) -
ベビーカーの周りに家族が不在
交通機関のターミナルでの事です。 待合所の座席にほとんどお客が座っている中、通路側の端の席に荷物が…
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飲み会で言われた失礼な発言が許せない
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16レス 479HIT 相談したいさん (30代 女性 ) -
婚活で出会った人を信用する方法
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9レス 253HIT 恋愛好きさん (30代 女性 ) -
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友達に恋愛相談をしていました。 僕は人間関係が苦手な面があるので脈ナシで相手にされずなところがあり…
42レス 995HIT 匿名さん -
この世の中に、そして宇宙にあるものは
万物において、一長一短を持っているとゆうのが定理で、 たとえば、 「都会」 「イナカ」 この…
11レス 190HIT おしゃべり好きさん - もっと見る