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神社仏閣巡り珍道中・改

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旅人さん
21/07/02 03:51(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。



No.2982625 20/01/08 07:18(スレ作成日時)

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No.201 20/09/20 07:39
旅人さん0 

施餓鬼会が執り行われる御本堂はいつもと異なり、たくさんの椅子が並べられており、さらには内陣の御本尊さまに相対するところに、お盆の時のように棚が設けられていて三界とか水子とか書かれた御位牌が三つお祀りされています。
そして内陣とその棚の間に四つ、仏壇の前に置かれるような几があり、それぞれに御経やら散華の紙が入った盆やら、鐘やらが置かれ、場所によってはシンバルのような仏具や、太くて短く太さが一定しない、ちょうど手に持つ長さの縄のような物が盆に置かれて側に置かれている几があったり。
さらにはそこから少し離れた席に木魚が側に置かれた几も設けられていて、最低でも六人の僧が執り行う法要であるように思われます。

何より目を引くのが大きな仏画の掛軸が掲げられていることでありました。┉涅槃図?ゆるゆると歩を進めてそこに描かれた絵を見ますと、( ̄□ ̄;)!!?
十王図の閻魔さまの裁きの様子の描かれた画でありました。

自分の生きてきた生きざまに自信がない私は結構な衝撃を受けました。お彼岸のこのときに地獄画ですか┉。
あ、施餓鬼会!
そ、そう、そうですか。死後の裁きであります十王さまの裁きでその者の進む道、六道に別けられてそれぞれ天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道に進む┉ということでいい?のでしょうか。
その餓鬼道に落ちた御霊に向けての法要であるからこの画が掲げられているということなのでしょうか。

そうだ、お彼岸はご先祖さまに感謝し供養するとともに、自分自身の生き方を見つめなおすときと書かれたものを読んだことがありました。うーん、のほほんとお墓参りをして過ごしていたいままでのほんわかとしたお彼岸が一気に身の引き締まるものとなりました瞬間でありました。
しかも座席はまさにその閻魔さまの画の真横。吸いつけられるようにその画をながめておりました。

奪衣婆が着物を剥ぐ様子。
血の池に腰まで浸かり泣きながら歩く亡者。
閻魔さまの御前で裁きを受けている者はスクリーンのような物の前で後ろ手で縛られ髪を引っ張られそのスクリーンに映されるものを見せられています。
火のついた車、舌を抜かれる者、針の山。

うーん。地獄とはどういうところかを脅して楽しむような叔父がおりましたが、まさに叔父から聞かされていた地獄そのものの画であります。

No.202 20/09/20 11:17
旅人さん0 

私が密かに地獄図の恐怖におののいているあいだ、夫はのほほんと壁に書かれたお布施をおさめた方の芳名を見ていたようで、いくつかのお寺さんの名前があったのをスマホで検索していたようです。
「どこどこ寺さんはついこの間行ったお寺さんだね」

そんな声で地獄の恐ろしい画図の世界から日常に引き戻してもらい、夫のいうことに耳をかたむけました。
えっ?
「だから、ついこの間行ったお寺さん!」
┉いやいや、耳が遠くなったわけでも、ついこの間行ったお寺さんがわからなくなっているわけでもなくて、自らの死後の裁きに思いを馳せ身をこおらせていただけなんでありますが。
はいはい、この間行ったお寺さん。なるほど同じ宗派のお寺さんです。四つのお寺さんの芳名があり、二つは参拝させていただいているお寺さんでありました。

そんな会話をしているうちに鈴の?鐘の音が りん りん と近づいてまいりました。和尚さまたちの御入場です。
鐘を鳴らしながらの和尚さまを先頭に、最後はこちらのお寺の御住職さまがおごそかに入場されました。いつもとは異なり正装をされて、少し┉かなり太られて見えるような┉。うーん、和尚さま、少しダイエットされないと┉などと雑念でお迎えしたわが身をさっそく反省しつつ。

施餓鬼会の始まりであります。

聞き慣れない御経の読経、如来さま、菩薩さまの御名前が時々。
少し長めの御経のあと、御住職が立ち上がり精霊棚の前に移動されました。
四人の僧もそれに合わせて立ち上がり、散華の入った盆を手に持ち、扇を着物の襟の袷に差し込みました。読経の合間に散華をされ、様々な方向へ散華されることなどわかっていることなのに、ついついその散華の行方を目で追ってしまう煩悩だらけの私。
反省せよ、反省せよと読経と散華のあいだ自らを戒めていて、少しも法要、供養の意味を成しませんでした。

御本堂いっぱいに散らばった散華など和尚さまたちは目にも入らぬようにさらに法要は続きます。

No.203 20/09/21 05:19
旅人さん0 

再び御住職が内陣に戻り読経され、そのあと一人の和尚さまが読経を始めました。それに続いて残りの三人も┉もしかしたら内陣の御住職も。
そして御焼香の香炉を、二人の和尚さまがそれぞれご自分の後ろに参列している人の一人に手渡しました。読経を聞きながらはしから順に御焼香をいたします。御本堂に入れなかった方々にも香炉を回して。
香炉二つがが再び香炉台に戻り、先導の和尚さまが「南無阿弥陀仏」、とお唱え始めました。
(┉唱和しないのか)と思った私はこの期に及んでも雑念だらけなんだなぁと反省していると、しばらくして
「これより南無阿弥陀仏と十回お唱えします。合掌しご一緒にお唱えください」と。
雑念だらけの私が(やっぱりそうか)と思った瞬間、和尚さま四人がなんと、ご一緒に声を合わせることなく、南無阿弥陀仏を唱え出します。(o゚Д゚ノ)ノ
私はとりあえず先導の和尚さまと唱和させていただきましたがみなさんそれぞれに南無阿弥陀仏をお唱えになられているようです。
うーん。

そしてさらにひとしきりの読経のあと、四人の和尚さまの退場となりました。

残られた御住職さまが講話をくださいました。
「そこに画が飾られていますが、真ん中におられるのが閻魔さまになります。」
「閻魔さまの御前で死んだのち裁きを受けているわけですが、そのあと六道とよばれる道にそれぞれが進むことになるのですが、ここにも描かれているように天国に行ける方もあります。と言っても、仏教には天国というのは存在しないのですね。┉仏教では天道、天上界となるわけです。
そのうちの一つ、【餓鬼道】に落ちると食べ物を見ても石や砂に見えて、食べ物が目の前にあるのに食べることができなかったり。あるいは食べ物を手にしたとたん石に変わってしまったり、食べ物が燃え上がりして食べることができなかったりと、まあいろいろな理由で食べ物を食べられずにいるのが【餓鬼】です。」
「普段物を食べることができず過ごしている餓鬼たちに、それから縁がなくて普段身内の方の供養が受けられない方に、お経を唱え供養するのが【施餓鬼】です。」
「みなさんのご先祖さまへの法要と併せて御盆やお彼岸に施餓鬼会を執り行うことでみなさんの功徳も得られるといったものであります」

御住職さまはそう話され退場していかれました。

No.204 20/09/22 12:41
旅人さん0 

煩悩の塊の私。

私の目の前に一枚、床に置いた私のバッグの真横に二枚の散華がひらひらと舞って落ちました。その散華三枚の誘惑に打ち克つのにすら、未熟な私にはしばしの時間が必要でありました。その位置に落ちた散華をわざわざ拾おうとする方などめったにおられないはずです。仮にそこまで踏み込んで散華を拾おうとする方がおられたとしても、これはあくまでも施しであります。もっと突き詰めて言ってしまえば”紙„であります。
日曜学校のしまいに天使の絵などが描かれた小さなカードがいただけたのですが、机の引き出しに大切に持っていたもののいつのまにやら無くなってしまっていました。
散華は御守りになるとお聞きしたことがあります。
うーん。欲張らない、欲張らない!
散華三枚は私のものとなりました。

それでも┉夫の目の前に落ちた散華は、綺麗にお化粧しおしゃれした女の人がささっとやって来てスッと持って、後ろも見ずに速足で本堂から逃げるように去っていきました。(゜〇゜;)
いやいやわが家は三枚あるから。


二年ほどまえに群馬県太田市のお寺さんでいただきました散華は、今も不思議と綺麗なままでお財布に入っています。
この散華はどのように携えたものか┉。

とりあえずいつものバッグの内ポケットに入れて持ち帰りました。


浅ましい行為をすると餓鬼道に落ちる。
うーん、┉私はもっと下かもしれない。



No.205 20/09/23 00:59
旅人さん0 

今日、お彼岸のお中日は、群馬県桐生市の【青蓮寺】さんの年に一回の御開帳日であります。
今年で三回目の御開帳日の参拝となりました。青蓮寺さんの御本尊さまは【銅造阿弥陀如来及両脇侍立像】という長い御名前があります。国の重要文化財指定を受けるにあたり呼び名が必要であったのかもしれません。

【阿弥陀如来】さまを中心とされてはおりますが、脇侍であります【観音菩薩】さま、【勢至菩薩】さまとあわせて三尊仏が御本尊であるのだと思います。こちらの三尊像は善光寺三尊仏と言われるものであります。善光寺信仰という言葉があるくらい善光寺というお寺さんは特別なものでありますようで、その善光寺の御本尊さまに似せた三尊像が日本各地で多数造られた時期があったようで。

こちらの三尊仏さまは源頼義公の守り本尊であったようで、その後八幡太郎義家の三男の守り本尊となり、新田義重の守り本尊となってその後は代々新田氏の守り本尊でありました。
その新田氏のゆかりの寺が群馬県太田市の岩松郷にあります岩松青蓮寺であります。岩松青蓮寺は新田家ゆかりの寺であると同時に、寺そのものが新田の正統をしめすものであったようです。

その岩松青蓮寺は今なお太田市尾島町にあるのでありますが、その守り本尊が桐生市に遷されている理由は天正十五(1575)年に、当時太田を治めていた由良成繁公が桐生氏を滅ぼし桐生城に移った際に、すでに衰退していた新田氏、足利氏にかわり、自分こそが源氏の新田の正統であるのだと誇示するために、その守り本尊を桐生市に遷し、青蓮寺という名の寺を持つ必要があったようです。


おやさしいお顔をなされた三尊仏さまはその後、由良氏が牛久へと国替えになって桐生市に置き去りにされることとなります。群馬県から離れた由良氏には一族の象徴であった寺も守り本尊も意味をなさなくなったようです。
そんな歴史に翻弄されているかのように思われる三尊仏さまは終の住みかとなって久しい桐生市の青蓮寺さんでお祀りされ、一年に一度御開帳のおりにその慈悲に満ちたお顔を拝することができるのであります。(檀家の方いわく、一年に五時間、だそうです)

No.206 20/09/25 04:34
旅人さん0 

青蓮寺さんの駐車場。普段はそれなりに広く感じていたのですが、そもそもがお彼岸のお中日、私が到着したときにはすでに満車でありました。
区画外でありながらワンボックスも充分置けそうなすき間のスペースに置いて待機しようと車を寄せていると、「俺が出るからここに置けばいい」と声を掛けてくださる方がおられました。
「ありがとうございます」
と、その方のお顔を見ると、!
「あっ!」
まさに昨日、子どもたちの小さな頃のアルバムを見ていて、(懐かしいな、今どうされておられるかな)と思った、幼稚園、小学校でお世話になった用務員さんでありました。
二十年も前のご縁でありますのに用務員さんでありましたその方も私を覚えていて下さって、二人同時に
「あっ!」

御仏のお導きと言わずしてなんと言うのでありましょう。
聞けばその方もこちらの檀家さんではないそうで、義理堅いこの方はお知り合いの方のお墓がこちらであるからと墓参に来られたようでした。
「ここがお寺さんじゃないんだろ?ここのご住職はいい人だからなぁ」
ああ、ここにもご住職のお人柄にひかれる方がおられました。


しばらくお話しさせていただいて。


御本堂に向かう道すがら青い蓮が咲いていました。
そう、こちらのお寺さん、その名でもある青い蓮がところどころに育てられていて、まさにこのお彼岸の頃が花の時期であるのです。

御本堂では、子供たちが嬉しそうに御前立ちの御本尊さまの前でじゃれあっています。他の所なら眉をしかめるような場面ですが、ここのお寺さんでは微笑ましくしか思わないのであります。
子供好きなご住職ご夫妻と御仏の空間だからでありましょう。
そうそう、そんな子供たちのために何種類もの絵本を用意して、お参りに御本堂に寄った子供たちに選ばせていました。その本をどの子供も嬉しそうに手に持ち、ある子は御本堂を後にし、ある子はそのまま御本堂の片隅でお父さんお母さんとみんなでさっそく絵本を見ていたり。
なんといいお寺さんでありましょう。

座卓も常備されていて、そこでご住職さまが御朱印を書きながら、あるいはお茶をおすすめくださって、会話しながら講話をしてくださったりしています。

欄間彫刻も見事な御本堂なのですが、なんとも居心地のよいフレンドリーな空間となっています。

No.207 20/09/26 02:46
旅人さん0 

知る人ぞ知る青蓮寺さん。
昨今の御朱印ブームを憂いてはいるものの、それを逆手にとって何種類もの御朱印をご用意されておられます。御朱印をお授けになるにあたって、御本堂へあがって御焼香をするようにとおっしゃいます。
「本来納経した証としてお受けする御朱印を、あたかもスタンプラリーのように集めることだけを目的にお寺をまわるのは間違っている。
うちでは御仏に手を合わせるという最低限のことだけはするものだということを覚えてもらいたいので御本堂へ上がってもらって御焼香をしてからお書きすることとしています。」
とおっしゃいます。
最近は写経をしたうえでお授けになるという御朱印があり、御本堂で写経するのもオッケー、ご自宅で何日かに分けて書くのもオッケーというもので、さらにはそれをインドに納経していただけ、後日インドから納経証明が届くという本格的なものであります。インドの日本寺を維持することも目的としているため、設定された金額は三千円と破格なものでありますが、もう何人もこの企画に賛同され納経をして特別な御朱印をお受けになっているのだとか。
┉私はその三千円納めて写経し納経しての御朱印をお受けになる方が多いのはご住職のお人柄によるものだと思っております。
ユーモアがあって、よくも悪くも人間くさいお方で、奥様との夫婦漫才のような掛け合いも楽しい、そんなご住職さまでありますので。
奥様もまた人を大切になさる、よくお話しくださる方で、庭で咲いた紫陽花を切って訪れた方にお渡しになるような方であります。
時々、ご住職がそんな奥様をいさめることがありますが、ある時
「でも私、奥様のお話もまた私にとって癒しです。」
と申し上げたことがありました。そのあと私にだけ小冊子をくださいましたのは、やっぱり奥様をほめられて嬉しかったということのでしょうか。

お庭には愛犬が寝そべり、御本堂や境内を自由に歩く猫たちがいて。
居心地のよい、ことあると行きたくなるお寺さんであります、群馬県桐生市の青蓮寺さんであります。



No.208 20/09/27 07:31
旅人さん0 

青蓮寺さんでいただいた小冊子。読み進めるとやはり未熟者で煩悩の塊の私には胸の痛むお話ばかり。
四十にして立つ、と言われる四十才どころか五十才という齢すらとうに過ぎている私だというのに、人として生きることの難しさをいまだ痛感する日々を過ごしておりますくらいです。
そこを戒めるようなお話があって、私が未熟者、愚者であるがゆえに渡された小冊子であったことを痛感いたします。


黒砂糖を煮ている愚者がいた。煮ている最中にお客が来たので、砂糖水を出すために急いで冷やそうとした。
愚者はグツグツと煮たっている黒砂糖を火も止めず懸命に上から扇であおいだ。それを見た客が、「下の火も消さずに上からあおいでも冷えるはずがなかろう」と言ったという小咄。
ああ、よくある話だと思ったのですが、そのあとに続く説法に
(ああ、私はこの愚者のようなんだな)と思った次第であります。それは
【煩悩の火を消さずに、少しばかりの修行しているのも似たようなものなのである】と続いていました。



修行ということすらしていない私でありますが、神さまや仏さまをいくら拝んで歩いても、自分の中にある煩悩を一つづつでも取り除く努力がなければ、まさに、この愚者そのものでありました。

煩悩をなくすのはなかなか難しいことではありますが、一つでも取り組む姿勢がなくしては、神仏に形だけ手を合わせているようであって、お願いしてばかりいる人間でしかありません。

どの煩悩も手強いのだけれど、日々の生活のなかで無心に頑張ることが一つでもあるよう努力して生きれば、それは滅私、ということになって、その日その間だけでも神仏の説く道、示す道に近しいもの、かもしれません。
昔話に出てくる、その日その日を一生懸命働いて神仏に感謝して生きるような生き方がしたいと思うのでありますが、それもまたなかなか難しい私なのであります。

No.209 20/10/01 05:14
旅人さん0 

世の中は【withコロナ】、【Go toトラベル】という言葉のもと、個々の価値観の大きな相違の中で、afterコロナの時代を歩みだしています。

実は私、前回のシルバーウイークとも呼ばれた四連休と一週間遅れのmy四連休がありました。ちょうど一週間遅れの週末から週の初めの、まさに今週。夫がそれに合わせて計画休をとり、秩父巡礼を計画いたしました。
運転技術は赤点ギリギリレベルの自覚を持つ私。突拍子のない行動をとることが多々あるくせに保守的でよくわからない性格の私。今回の秩父行きもどちらかというと及び腰でありました。
「行くよ」
そんな夫の言葉にどちらかというと重い腰を上げていざ秩父巡礼へ。

今回の秩父巡礼の札所は街中の、山道を走るようなコースではないため、┉そもそもが秩父へと向かう道自体が一般道。平坦にしてうねうねのカーブ等もない道であり、一応は免許歴三十年超え、毎日運転して通勤し、一応はゴールド免許の私でも運転できる、はずの道なため、何度か運転を申し出たのですが軽く却下されて、今回も安全策┉いやいや運転好きな夫の運転で全行程をまわることとなりました。


今回の秩父巡礼回りだしは第十番札所、【大慈寺】さんであります。大きな通りを少し入っただけのところにあるのですが、一転のどかな里の風景となり、里の初秋の風情を満喫しながら歩くこと三~五分くらいのところに、上へと向かう石段があらわれます。大きな、それはそれは穏やかな笑みを浮かべたお地蔵さまの座像がかたわらで見守っておられます。
石段を登ると仁王門がありました。ガラス越しでそのお姿はよくは見えないのでありますが。
門の前に立つとすぐに御本堂の正面となります。ひさしぶりの巡礼にやや緊張して、軒をお借りし御数珠と経本、納札とお線香を取り出しました。納札を納め、灯明をあげお線香をあげ、お賽銭をお入れして般若心経をお唱えしました。

納経と、御朱印をいただくために納経所にお邪魔すると┉。
納経所をカラフルに彩るイラストの絵馬をはじめとするグッズの数々!そうだ、ここは別の意味での聖地であり、巡礼地でありました。【心が叫びたかっているんだ】という、秩父を舞台としたアニメの舞台なのだそうです。

No.210 20/10/01 06:19
旅人さん0 

大慈寺さんの境内からは青空によく映えて武甲山がみえます。
空気も澄んで心地のよい境内。決して広い境内ではありませんが、秩父を舞台としたアニメで、ここ、このお寺さんを選ばれる理由がわかる気がいたしました。私どもが、ゆったりと境内で過ごすうちにも、参拝の方がひきりなく訪れておられました。
もちろん札所でありますので巡礼の方も訪れておられますが、通りかかった地元の方、毎日の日課とされておられる地元の方のほうか圧倒的に多いのであります。

本当にどこにでもあるお寺さん、といったたたずまいの大慈寺さん。建物自体は年代不詳とのことですが、江戸時代の建立であることは間違いないようであります。それを驕ることなく、あくまでも地元のお寺であることをコンセプトとされておられるのだと思います。

花がいろいろ植えられているわけでもなく、狭い境内でありますため木々も多いわけでもありません。石仏さまとかも普通よりも少なく、お世辞にもどこがみどころだなどというお寺さんではありません。
納経所の方も事務的な方が対応されておられ、説話などをお授けくださるようなところでもないようです。
ですが、このお寺さんの癒しの空気、居心地のよい境内は、御本堂におられる御仏のお力、であるのでしょうか。


No.212 20/10/03 05:44
旅人さん0 

その日購入したばかりの秩父巡礼の地図で、【第十番大慈寺】さんから【第十一番常楽寺】さんに向かう途中に、小さな御堂があることを知りました。【摩利支天】さまのお堂のようです。
もともとは巡礼といえば徒歩でのもの。道すがらに巡礼者を励まし癒すための小さな御堂や石仏さまがたくさんおられるようであります。

ところが、わざわざ遠回りをして細い道に入り、後続車もいないことからゆっくりゆっくり走行したにも関わらず御堂や御堂に行くであろう道はわからないままで、その道の出口になってしまいました。夫は再度トライする気にはなれなかったようで、「じゃあこのまま常楽寺さんに向かうよ」と。

なかなか摩利支天さまにお会いする機会がなかったため、顔には出さなかったのですが実は結構落胆していた私。とはいえ、そういうときは、ご縁のなかったことだったんだなあと自分に言い聞かせて前に進むようにしております。
摩利支天さまは〖常に日輪の前にありながらそのお姿は見えない〗という神さまであられるようでありますので、ああ、まさに見えなかったのだな、と。
己に隙のある瞬間を護ってくださるという摩利支天さまといつかご縁を結んでいただきたいと、思うことも、欲の一つであるのでしょうね。一つでも煩悩を捨てられるようにと歩く秩父での巡礼での道すがらですら、自らの中にあった欲望に気づくという、愚者でありました。

No.213 20/10/04 07:35
旅人さん0 

秩父巡礼の珍道中録の途中ではありますが、夫がかねてから行きたいと申しておりました彼岸花で有名なお寺さん、群馬県邑楽町にあります【常楽寺】さんでまさにその花の見頃を迎えたようでしたので参拝をかねて行ってまいりました。
このくらいの距離で、初めての参拝とはいえ【東国花の寺】にもなっている大きなお寺さんですので、今回は私の運転で。ナビのついた夫の車でありますし、方角的にも何度となく行っている地域、まずは問題なかろうと┉思った矢先からクリーニング店に立ち寄ったりしたもので、ナビの示す道と正反対の方向に向かってしまいました。私の脳内でのイメージしていた道とはだいぶかけ離れていたようであります。

まあ、修正はいくらでも可能な、自宅近辺でのナビとの意見の食い違いでしたので、多少の遠回りをしたくらいであとはスムーズに目的地付近までまいりました。そう、運転技術を問われる山道とかでなければなんとかなるものです。


おおぉ?!
なんと細い道を入っていくのだ!夫が「ええっこんな道行くのォ!」と騒いだくらいであります。
私道とか農道とかのレベルであります。対向車が来たらどちらかがバックしてすれ違えるところまで戻らなければ無理な、完全に一車線、というか土の道。紅い彼岸花がきれいに並んで咲いております。
ま、行けるかな。
そう思いながらも「じゃあ、ここで停めるから運転代わって」とか言っちゃうあまのじゃくな私。すると「えっ?嘘でしょ、大丈夫でしょ?」
バックしてよい角度で入れるところに車を修正してなおも、
「ええっ、無理!ここで降りるから代わって!」
とか言っちゃう。( *´艸`)
ほどよい角度をつけて┉その道にいざ入ろうとすると夫があわてふためいて「えっ、無理でしょ、こんな角度で、そっち落ちちゃうんじゃない?なんでこんな?」(-_-#)ムッ!
私、「大丈夫だけど?」
夫、「ええっ、無理でしょ?はあぁ」イラッ(-_-#)

私、「はあぁ、もうダメじゃん!」
夫、「でしょ?どうするのこんなとこで!」
私、「はあぁっ?うるさい!対向車が来ちゃっただけだけど?」
夫、「えっ?」
私、「あ。譲ってくださった。この車、もうちゃんと曲がりきれて道走ってるからっ‼うるさいっ!」

┉この珍道中夫婦、この車の目的地は一体どこだというのでしょう。

No.214 20/10/04 09:13
旅人さん0 

┉たしかに細い道に直角に入って行く道でありますが、大きく角度をつけて、しかもその対向車が現れるまで一台も車がなかったので、私も多少(?)遊んではみましたが、なにもそんなに騒ぐことはないのにと、さすがに駐車場に停めてもまだ怒りがおさまらず。
私、「ああいうところでごたごた言われるとかえって危ないから!」
夫、「だってあんなに大回りして、角度つけるから┉」
私、「角度つけたらしっかり曲がれるでしょ?あんな道でごたごた騒がれるとイライラしてかえって危ないから!」
夫「┉」

ちっ、一言ぐらい謝ったらどうよ。とか思っちゃう未熟者も、さすがにここが御仏のお足元でありますことを自覚して、自らの心を鎮めようといたしました。
ですが、ソーシャルディスタンスもとれず、まるで我が庭のように振る舞うご家族さま御一行さまにもイラッ!
落ちつけ、落ちつけ。

ソーシャルディスタンス、ではなく気持ちを落ち着かせるため、人の居なそうな端に向かう私。

おおっ!見事な鐘楼、見事な鐘であります。
衝いてはいけないとも衝いてくださいとも書かれていませんが┉普通に鐘楼に立ち入れます。
┉どうぞ私の心の苛立ちを鎮めてください。ごーん。
うーん、なんとよい鐘の音でありましょう。
御本堂前で参拝して、庫裏に向かうころにはすっかり平常心。
┉さすがお寺さんです。

庫裏で御朱印をお願いして、受付の方に「お待ちになる間、是非彼岸花をご覧になってください。ちょうど花の時期を迎えたところですので」と言われて、そんなに彼岸花の咲いてるとこなかったけど?と思いながらも外に出ました。
見ると人がみな、御本堂の横を通って何やら奥に向かっています。


おおっ!一面、というと大袈裟になるかもしれませんが、彼岸花が群生して一面紅くみえるではないですか!
なるほど。たしかにこれは彼岸花のお寺を名乗るにふさわしいお寺さんでありましょう。石仏さまが大好きな私とすれば、一体の石仏さまが顔半分まで彼岸花の群生する中にすっぽり埋もれてしまっているのがなんとも残念ではありましたが。

訪れた方々はスマホや本格的なカメラで、墓所に背を向けてパシャパシャとシャッターをきり続けておりました。うーん。(-_-;)
ま、人がいなければ亡き人たちも彼岸花を愛でておられるでしょうから、まあよしとしましょう。

No.215 20/10/04 11:39
旅人さん0 

再び秩父観音霊場珍道中に筆を戻させていただきます。
前回はじめての巡礼の帰路、走る道すがら大きな看板の見えたお寺さん、第十一番札所常楽寺さんへと向かいました。
駐車場へと入って行く道は少し入りづらく、車を停めたもののどこに向かえばよいかしばし戸惑う私たち。見つけた参道はなだらかな山道を真っ直ぐにのぼっていくシンプルなものでありました。さほどの距離も歩かず到着した境内は狭く、納経所があって、その隣に大きくはない御本堂がありました。元三大師さまを奉られておられたようです。あの独特なお姿の御札で有名な天台宗の高僧で、厄除け大師さま、であります。
御札も、御守りもみな、元三大師さまにまつわるものでありました。とはいえ他の、いわゆる厄除け大師さまを前面にしたお寺さんとは異なり、御護摩も一般に向けては毎日なされるものではないようです。

こちらはもともとは坂氷と呼ばれる場所で、行基がこの地に巡りついた際山中の岩に感得した十一面観音菩薩さまの像を刻んで祀ったのが草創と言われています。その、坂氷観音さまとして祀られ信仰をあつめていた観音様と、江戸時代当地に移転してきた常楽寺とが合併して今に至っているのだそうです。
その開山にあたられた上人が仁王門の建立のため勧進を進めていたが心身を病み普請も中断してしまっていたところ、夢枕にたった老僧が金剛神を従えて上人が、病を治してやろうとおっしゃったのだとか。その夢から覚めたのち病も治り、無事念願だった仁王門も建立することができたようです。
ですがその仁王門は今はなく。明治時代の大火ですぺてが燃え落ちてしまったようで、そこでいったん廃寺となり、再建するにあたり改宗し、天台宗のお寺であった常楽寺さんは明治時代から曹洞宗となったようです。
天台宗の頃のなごりとして今なお元三大師さまをお祀りし、その霊験あらたかなところは今なお変わらないようであります。


No.216 20/10/06 04:25
旅人さん0 

続いてお参りさせていただくのは第十二番札所【野坂寺】さん。
実はここの手水、なんと畏れ多くも観音さまがお立ちになりお手にお持ちになった水瓶から絶えることなく溢れる水でお清めいただくという、なんともありがたい造りとなっているようで、そのお姿がまたなんとも神々しく美しくて、行きたいお寺さんの一つでありました。
もちろんプロが撮った写真であります。いつ撮影されたものか┉経年で写真とは趣の変わってしまっていることもあるかもしれません。
わくわくドキドキしながら向かうと、やはり狭い道、民家の建ち並ぶ細い道の先に山門が見えます。
見えますが┉なにやら人がワシャワシャと集まっています。ギリギリのソーシャルディスタンス。これは初の順番たがえの巡礼となる?

車が入っていってもまるで気づいてもいないかのようによけようともしないその集団、┉なにやら特殊な持ち物の方々が┉撮影?
「神社に行かれますか?」と声がかかりました。
「┉あ、お寺さんに┉」
「おーい、車が通るよ、どいて」
どうやらその民家、秩父巡礼からイメージされる民家ではなく、新しい洗練された現代のデザインの民家の二階のベランダが舞台となるコマを撮っている様子です。退くのはスタッフ。撮影は続行。
しかも台詞もあるドラマとか映画のシーンらしく、
『ごはんよー。早くいらっしゃい』
と叫んでいます。
はぁ、ごはんですか。そう言われると脳が反応しお腹が反応してしまう賎しい私なのでありますが┉。
ちなみにその撮影┉そのワンシーンは監督の納得が得られないらしく、何度も何度も『ごはんよー。早くいらっしゃい』と繰り返し、私どもが参拝中にもお寺の境内に響きわたり。
┉私どもが滞在していたのは四十分程度だったでしょうか、延々とその台詞のみが繰り返されており、「まだ食べられないんだね」と私たちがつい言葉に出してしまうほどでありました。
四十分も呼んでも来ないなんて、私だったらそんなに優雅に呼び続けられないな┉などと参拝中に雑念が混じることとなったこのワンシーンは一体どんなドラマもしくは映画に使われるのでしょう。

閑話休題であります。

No.217 20/10/07 03:05
旅人さん0 

┉そんな、『ごはんよー』の撮影現場の向こうに見えていた【野坂寺】さんの山門がようやく目の前に。重厚な、歴史を感じさせる山門であります。山門の左右には窓があり、それを必ず覗かずにはいられない私。┉十王さま方がお並びになっています。
いきなり十王さま方が一同に居並ぶ御前でありますか!

と、緊張したのも一瞬のことで、その真後ろの白い壁に貼りまくられた千社札に興醒めいたします。┉そこまで入り込んだんだ。
千社札がびっしり貼り付けられた神社仏閣の建造物に私欲を感じてしまうのは私だけでありましょうか。欲を捨てるべく訪れるはずの場所で、自分の訪れた証を貼りつける┉どこかに自己満足がある気がしてなりません。願掛けであった時代であったとしても、それがあるのとないのではその建造物の趣すらが変わってしまいます。
一方夫は「誰それの札がここにもあった」、「誰それと並べていつも一緒に貼られている人の札が単独で貼ってある」と、千社札を楽しんでいます。
とはいえ以前はむしろ私の方が千社札を携え寺社仏閣を訪ねることに憧れていたのでありました。訪れた先々で御朱印をいただくのもまた、欲、であることも自覚しておるのではありますが┉(〃 ̄ー ̄〃)

十王さま方の横を通っていざ山門をくぐって┉くぐって┉?!
山門のなかに大きな木彫りの像がたくさん飾られております!軽くミュージアム、であります。どの像もおそらくは同じ方の彫られたものでありましょう。牛に乗った観音さまや、三面の観音さま。山神さまや風神さま。このような山門は初めてであります。
山門をくぐって。

花や木の多い境内で辺りを見回すと、手水舎が❤
そう、楽しみの一つでありました、観音さまのお手にお持ちになられた水瓶から注がれる水を受けての手水であります。
写真通り、であります。お美しいお姿であります。誰もいないことをいいことにしばし手水舎に居座る私に興醒めしている夫。いつもなら好きなところに先に行くくせに。あ、そうか。身を清めてお参りを済ませなければ。

No.218 20/10/09 04:41
旅人さん0 

【野坂寺】さんの御本堂の前、向拝と呼ばれる部分には三頭の大きな龍が巻きつきながら御本堂を護っています。その大きさと見事さに圧巻されます。しばしその見事さに心奪われ、はっと我にかえってのち、納め札を納め、お灯明とお線香をあげて、鰐口を鳴らし、お経をお唱えいたしました。
私が秩父巡礼のバイブルとしている本には、野坂寺さんは御本堂に入堂できるとありますが、このコロナ禍というご時世のせいでありましょうか、どう見ても御本堂に入れるほどには扉は開いておらず。
うーん、残念(涙)。

御本堂前には金属製の、まるで幼女のような顔をした像が置かれています。ふれあい観音とのことであります。その幼子のような頬を撫でる方が多いのでしょう、頬の部分だけが金ぴかになっていました。
その像のそばに、短くて小さな卒塔婆が納められています。三十~四十センチ、といったところでしょうか。注目すべきはその卒塔婆に書かれた文字で、願い事と名前がペンで記されています。
卒塔婆を納めることに密かに憧れを持つ私。うーん、どうしよう。
とりあえず、その卒塔婆も置かれているという納経所に向かいました。
納経所で経を納め、御朱印をお願いしたところ、慣れた手つきでさらさらと文字を書きながら「よろしければ御本堂に(経を)納めますので本堂正面にお越しください」とおっしゃってくださいました。
なんとありがたい。
納経は実にさまざまな納め方で、御本堂の前に置かれた金属製の四角い箱に入れることもあれば、納経所でお渡しすることもあります。
恭しく掲げたのちに納められた経をしまうところに納めてくださる方、受け取って無造作に横に置かれる方、さまざまであります。
何度か納経してきて┉、どんな字であろうと、一字一字丁寧に心を込めて書いてあります、経文、であります。外の、雨が降れば吹き込んで雨ざらしになるような、何枚も何枚も重なって入ったままとなった、ともすれば護美箱にすら見える納経箱は、正直、寂しさと空しさを感じております。
御朱印を求めず納経だけを目的とされた方との煩雑なやり取りを、お互い避けることができはするのでしょう、ましてやこのいまだ解明すらされていないコロナウイルス感染症の猛威を振るうなかでの仏教行事、方法としては良いのだとは思うのではありますが┉。うーん。

No.219 20/10/09 05:05
旅人さん0 

野坂寺さんは広い境内にいろいろみどころがあります。
なかでも私がたいそう感動いたしましたのは、群馬県民なら誰もが知っている、と言っても過言ではないであろう、呑龍さまがお祀りされていたことであります。
おそらくは呑龍上人が生きておられたころか、その名が近隣に響きわたった江戸のころからずっと祀られたものであると思われます。
苔むした石像は子供がまとわりついたもので、【子育て呑龍】として名高い上人を石工があらわしたものでありましょう、子供たちが嬉しそうにまとわりついている笑顔までが表現された、当時としては珍しい石像であったのではないかと思うのであります。

さらには。花の寺としても有名だという野坂寺さんでありますが、ちょうどいろいろな花が、花の盛りを終えたころであり、さほど花が咲いてはおりませんでしたが、いくつかの、色とりどりの睡蓮が、まだまだ頑張って咲いていてくれ、その健気さにも心打たれた私であります。

山門内にいくつも納められた木像を造ったのと同じ作者の手による仏像が納められているという十三仏堂もありました。

No.220 20/10/09 15:43
旅人さん0 

┉この日の秩父は、暑かったのでありました。 
寒くなったね、と話すようになった日々が続いたあとの、二十七度を超えた気温に、私はすっかりバテてしまったのでありました。暑くもなく寒くもない室温にコントロールされた職場で働いているためか、暑さにも寒さにも弱い人間になってしまったようです。

そんな自覚のなかった私は、この日、このあとの全行程を徒歩でまわるつもりで張り切っておりましたのに、なんと、駐車場から第十三番札所の慈眼寺さんに歩いただけでギブアップ。たかだか0.6㎞離れた場所にある第十四番札所にすら歩くことができず┉。
┉というかその移動に際し道を間違い、何度も同じところを往き来していたことも敗因の一つでありましたが。

そんな体調の変化をすでに自覚しながらの第十三番札所慈眼寺さん参拝でありました。

No.221 20/10/13 07:10
旅人さん0 

最近めっきり不調な愛するタブレット。実に八百字を超える文章を打ち込んだところでフリーズ、そして、な、な、なんと、いきなりのシャットダウン!┉落ち込んで到底すぐに打ち直すことができませんでした。
そんな第十三番札所【慈眼寺】さんの珍道中録、どうぞ最後までたどり着けますように (´。>ω人)゙

そもそも慈眼寺さんに到着した時点でなんとなく体調に違和感があり、いざ書き起こそうとして、頼みの綱の写真がほとんどないことに気づきました。記憶だけを頼りに、今回の珍道中録を書かなければなりません。うーん(ーー;

御本堂前で、納め札を納めてお灯明とお線香をあげ、御本堂のなかで読経させていただきました。御本堂から見おろす境内には【メグスリノキ】と山門、経堂が見えます。青い青い空です。
そのメグスリノキの横を通って納経所に向かうのですが、すでにメグスリノキを見上げる気力体力がない有り様であるのになぜか自覚がない。これが熱中症の恐いところなんでしょうね。水分はこまめに摂っていたし、真夏の暑さでもないのですが┉。
それでも納経所では、納経し、年若いお坊さんに御朱印をお願いし、【めぐすりのお茶】をおふるまいいただき、ドレミの音階を奏でるおりんを鳴らしては小さな歓声をあげたりしているものだから、夫はそんな私が体調が悪いことになど気づくはずもなく、あとで叱られる羽目になるのですが┉。本人もようやく自覚し始めたところで、乗りきれちゃうんじゃないかと思うのもまた、熱中症の危険なところであります。
その間、絶えることなく次から次へと御朱印を求める方が訪れるのですが、なぜか女性ばかり。こちらのお坊さんが若くてイケメンなのは┉関係ないことでしょうね。

納経所の裏手にある【瑠璃殿】に参拝し、お薬師さまに密かに体調の回復をお願いいたしました。あ、こちらは目のご利益でしたっけ。
そして、経堂へと向かいました。重厚な白い蔵であります。






No.222 20/10/13 20:41
旅人さん0 

経堂はまるで宝の蔵でありました。

経堂の左右に並んでおられますのは、秩父巡礼を開創したという十三権者(じゅうさんごんじゃ)像。
性空上人、徳道上人、花山法皇、白河法皇、良忠僧都、通観法印。
閻魔大王、倶生神、医王上人、善光寺如来、妙見大菩薩。蔵王権現、熊野権現。上人や僧都、法皇さま方は立って合掌されるお姿で、生きておられた頃のお姿をそのままに、色彩鮮やかなままの状態で並んでおられます。善光寺如来さまはお優しいお顔をなされ、そこにちょうど窓からの日差しがあたって、まさに神々しいお姿でありました。

経堂中央には手押しで回すことのできる六角輪蔵があります。六角形をした大きな輪蔵にはいっぱいに経典が収められているのだといいます。まずは経堂のなかを歩かせていただきます。一部破損し紛失なされた御仏がお祀りされていたり。
そして。
経堂奥には御本尊ではないのか?とびっくりしてしまった、阿弥陀如来さまの立像。観音菩薩さまの座像がお祀りされています。その神々しさといったら!
こんなに間近で御仏の御像を拝見することができるなんて!
本当にありがたいことであります。 

そして六角輪蔵をまわさせていただきました。かなりの重さであります。

No.223 20/10/14 07:01
旅人さん0 

この、慈眼寺さんの経堂は居心地がよくて、ずっとここに居たいような気に満ちた空間でありました。
もちろんそういうわけにもいかないので、経堂から出ますと、お隣にも小さな御堂があります。
ですが、私、やっぱり体調の悪化はさらに進んでおり、そんな少しの移動すらが億劫に思え、申し訳ない思いを抱えながらも御堂から少し離れたところから拝ませていただきました。もしかして、経堂から出たくなかったのは、建物の中だったから?いやいや、御仏たちが休ませてくださったのでありましょう。

そして┉┉、その経堂のお隣の御堂。そここそが、ここの第二の御本堂とも言える目のお薬師さまの御堂であったらしいことを、この珍道中録を書き起こすにあたって知るのでありました。(*T^T)
やっぱり、私の巡礼もまた、どうしても珍道中となってしまうようであります。
 

この辺りは、秩父夜祭りの会場の一部。
一度だけ来ることができた二年前の夜祭りの際、何度か通った道でありました。
そして、この辺りは、明治時代の秩父大火とよばれた大火災で町ごとが焼きつくされたような哀しい過去があったようでありました。

No.224 20/10/14 22:11
旅人さん0 

明治十一年の秩父大火とよばれた大火災では実に約四五〇軒の家屋が焼失し、ここ慈眼寺さんにおいても御本堂が罹災してしまいます。
現在の御本堂はその大火から二十年あまり後に再建されたものとなるようです。明治三十四年ということですが、そんな新しさを感じさせない堂々とし建物であります。新しい、と言ってももうすでに百年以上経つものではありますが、いままで巡礼したお寺さんのような、いかにも秩父らしい御本堂であります。
それもそのはずです。
この日の朝、立ち寄ってきました第一番札所四萬部寺さんの御本堂を模して建てられたのだといいます。いま真正面からの外観を写真で見るとそっくりであります。
ただ、それに気づいたのはあくまでも今、この珍道中録を書き出すにあたって、資料を見直して、のことであります。

それにしても、過去多くの神社仏閣が火災により失なわれております。周りに高い建物もなく、落雷による出火や、どうしてもお灯明やお線香を使うところであり、建物の古さゆえの漏電などもあるでしょう。
この日本中にあります神社仏閣という素晴らしい日本文化を、建築物を、どうか末永く後世に遺すことができますように。

No.225 20/10/15 18:59
旅人さん0 

【慈眼寺】さんをあとにして、まだ体調不良であることを伏せていた私。
あの、秩父夜祭りの際歩いた町並みをもう一度たどってみたかったのです。実際、無理をしている自覚もなく、見た目はむしろ足取り軽く歩いているようにみえたかもしれません。
お祭りの装いのない、人があふれていたあの日とは違う、それでいて見覚えある町並みを見ながら歩くのは愉しくて、私の気分はhighでありました。
┉ところが、そこは嵐を呼ぶ(?)珍道中。
地図を見ずに、頭のなかに刻み込んだ次なる巡礼地【今宮坊】への道がまちがっていたのです。遠回り。
それでも、あと少しだろうというところまで来ていたところで、私の体調がおかしいことに夫が気づいてしまいました。
「車で行こう。駐車場にいったん戻ろう」
「┉△◆★♨┉。」

ただただ暑かったことしか記憶がありません。


No.226 20/10/17 06:33
旅人さん0 

今宮坊は、修験道の寺院金剛寺としてスタートし、その後八大龍王さまをお祀りした宮の別当寺を勤めることとなります。
その八大龍王さまを今宮の地にお祀りした方もまた、修験道の開祖といわれる役行者さまでありました。
秩父修験道の中心として、一体であった金剛寺と八大権現社(現在の今宮神社)の境内にあった観音堂こそが、現在の今宮坊にあたるもののようです。
そんなもともと密接で切っても切れない、なくてはならないその二所を、無理やり切り離したのが、あの神仏分離令、神仏判然令でありました。その際金剛寺は今宮坊となったのかと思われます。そしてさらには修験道廃止の政令によって、今宮坊は廃されてしまいます。

新しい時代を築くことに突っ走り、新しいこと新しいことに改革しようとしたのが明治時代、明治政府だったのでしょうか。その一つであった神仏分離令は、まさに大きな大きな傷痕だけを残した誤った政令だったとしか思えません。その際破壊された寺院、そしてその寺宝、仏像、仏具、石仏、等々、その大きな損失!いまなお痛々しい傷跡を残していますそれは、遠く焼き討ち等の被害と比較にすらなりません。後に起きた第二次世界大戦における空襲被害よりも大きな被害であったのではないでしょうか。
┉などと語ると、歴史オタクの夫に知れたら、事実に基づいていなーい!と叫ばれるか、切々とお説教に近く教えられることになるかもしれませんが┉(ー艸ー;

今宮坊は静かに静かにたたずむように建っていました。金剛寺という修験道の中心であった大きな寺院だったのが嘘のように、民家の路地を入っていくような小さな小さな、お寺さんでありました。
しかしそこには、役行者のつかわした童子に導かれ空海が刻んだとされる聖観音菩薩像、平安時代のものとされる優美な飛天像が安置されております。
今宮坊は歴史に翻弄されながらも、大切なものはしっかりと守り続けるお寺さんでありました。


遠目ではありますが、その飛天像は直接拝することができ、その美しさに思わず声を漏らす私でありました。


No.227 20/10/17 07:29
旅人さん0 

第十四番札所【今宮坊】さんをお参りしたら、それは必ずお参りすべき神社さん、【今宮神社】さんは、テレビで何度も紹介されるpowerスポットであります。初めての参拝であるのに見慣れた光景が広がっています。
境内に入ってすぐにあります、神々しい池、幻想的というか、気高い気に満ちているというのか┉。それもそのはずであります。秩父の霊山武甲山の伏流水がこんこんと湧きだしています。それが噴水のように涌き出るように演出されていて、そばにある木のほこらには見目麗しい龍上観音さまがお立ちになられております。
このシチュエーション!女子が魅せられることまちがいない┉、┉まちがいなかった。
夫がその女子の多さ、カップルの多さに圧倒されて、本殿参拝を早々に済ませて、人から離れたベンチに座りこむくらいでありました。┉私が具合が悪いことなどすっかり忘れたように。┉忘れてたんでしょうね(ーー; いつもは参拝だけは一緒にするのに、さっさと先に参拝を済ませて声もかけずに離脱しておりました。暑さと体調の悪さから、聖域であるのについつい不機嫌になっている自分を制すること、律することに、努力いたしました私でありました。
まあ、そうは言っても、御朱印をお受けし、秩父十一ヵ所のパワースポットで購入できる秩父願い石を買い求め、清瀧の滝ではお浄めの清水を与銭洗いをし、御神木の周りを一周しているので、具合が悪いとは言っても大したことではないのですが┉(^_^;)

ここの神社さんにびっくりしたところは本殿脇の社務所で、【般若心経】のコピーが置かれ、御朱印にも〖奉斉聖観世音菩薩〗というものがありましたことであります。あくまでもその長い歴史から八大龍王さまを祀り、【役行者さま(神変大菩薩)】を祀り、役行者さまと深く関わりのある、もともとは一緒にお祀りしていた今宮坊の聖観音さまをもお祀りする、というスタンスのようです。

また、こちらの神社さんの聖水は一年を通して神事が行われ、なかでも四月に行われる【水分祭(みくまりさい)】では【秩父神社】さんの宮司さまがこちらに来られ水乞いをし、その際秩父神社に【水幣(みずぬさ)】というものが授与され、この水幣により秩父神社のお田植え神事というものが執り行われているようです。


┉長い歴史のなかで培われたものを大切に、今宮神社さんは進化を続けているようです。



No.228 20/10/17 14:53
旅人さん0 

┉実は、秩父巡礼珍道中自体は、なんと、すでに第二十七番札所にまでその歩を進めています。

現在書き終わったのが第十四番札所、今宮坊さんと今宮神社さんまで。このあと三十四ヵ所の札所以外にも秩父神社さんにも参拝しております。秩父三十四観音霊場巡り珍道中┉全部書ききることができるのかなぁ。(*T^T) 


まあ、焦らずに。 
時おりちがう珍道中を織り込むこともあるかと思います。もしかしたら秩父珍道中録、中断、となるかもしれません。よろしければ気長に、気楽に、箸休めとしてお読みくださればさいわいです。
┉というか、いつもこんな駄文にお付き合いくださり、本当にありがとうございます。


さて、さっそく脱線して。
先日仕事中に、心洗われるような出来事がありました。
とある書類を持たずに来ているので、今日はその用件はできないのでまた後日出直すとおっしゃる御高齢の女性に「書類を無くしたって嘘つけばすぐに再発行してもらえるよ」と、一人の初老の男性がよかれと思って助言していました。
すると、その女性がおっしゃることに「嘘をついて生きたら、そのあとずっとそれを後悔して生きることになるから、私はそういう生き方はできないです。誰が見ているとか見ていないとかではなく、そういう生き方は間違っているから」
と。よかれと思って助言した男性に対しては、二の句を次げない言葉であります。周りに他の人もおり、もっと相手の方を傷つけないで上手にかわす方法はいくらでもあるのではないかとも思われます。
そんな風に人を傷つけない生き方もある意味大切なのかと思わないではあります。
でも┉ずっとずっと真っ直ぐに生きてきたからこそ出た、真っ直ぐな言葉であったのでしょう。

「おてんとうさまに顔向けができないもの」
明るい笑顔でお帰りになった女性に、私は、これからでもいいから彼女のように生きたいと思いました。
「おてんとうさまに顔向けができない」という言葉がスッと出るような生き方をしたいと思いました。

そう┉、そうして通りかかった道にある御堂や石仏に手を合わせ感謝するような人になりたいと思うのであります。




No.229 20/10/17 17:41
旅人さん0 

閑話休題。

秩父夜祭を執り行う神社さん【秩父神社】さん。参拝したのはそのまさに夜祭のとき。人にあふれ人に揉まれて、まさに事故寸前の境内でありましたあのとき┉でも楽しかったあ。(*´艸`*)
今回あらためての参拝をさせていただきました。
 
あの日とは異なり、静かなたたずまい┉でもなくて、平日であるにもかかわらず、結構な人が訪れていました。明らかに観光客でありましょう、着物を着た女子が三名、やはり着物を着たカップルが一組。そして家族連れが何組か。さすが秩父、平日でも観光客が訪れています。巡礼とはまた違う、観光地の顔をもつ秩父。
テレビでもよく♪秩父に行こうってCMやってるし。

秩父神社さんの境内はほどよいソーシャルディスタンスを取りつつ、それぞれの参拝、それぞれの過ごし方をする人たちで賑わいをみせていました。心地よい、明るい気に満ちています。
さあ、参拝┉おや?
何やら彫刻を小脇に抱えた職人風な人が、拝殿に入っていきます。?

見ると拝殿の向かって右側に足場が組まれています。えっ?工事中?
たしか、拝殿右側に、有名な彫刻があるのでは┉

No.231 20/10/17 22:39
旅人さん0 

閑話休題。


秩父夜祭を執り行う神社さん【秩父神社】さん。参拝したのはそのまさに夜祭のとき。人にあふれ人に揉まれて、まさに事故寸前の境内でありましたあのとき┉でも楽しかったあ。(*´艸`*)
今回あらためての参拝をさせていただきました。

秩父夜祭、例祭の日は秩父神社の境内は朝から大変な人で賑わっていました。神門にいたるまでも手水舎の方から並んで並んで、ようやくの拝殿参拝でありました。そんな人出でしたので拝殿や本殿を彩る彫刻を思うようには見ることができません。
必ずやもう一度、秩父夜祭に来よう。そして、夜祭ではない秩父神社さんに御礼の参拝をしよう。そんな風に思った秩父夜祭の帰り道でありました。
 
あの日とは異なり、静かなたたずまい┉でもなくて、平日であるにもかかわらず、結構な人が訪れていました。明らかに観光客でありましょう、着物を着た女子が三名、やはり着物を着たカップルが一組。そして、親子連れが何組か。さすが、秩父だなあ。テレビのCMでも言っていますものね、♪秩父に行こうって。


拝殿前での参拝を終えて、心配していた拝殿の横に行くと思っていた以上に足場が組まれてほぼほぼその側面は見ることができません。( ω-、)
うーん。先程の職人さんが小脇にかかえていた彫刻、と思われるものを見ることができたなら、もしかしたらなかなか見ることのできないものを目にするチャンスだったのかもしれません。┉何だったんだろう。
と、雑念と邪念のかたまりと化した自身に気づき、神さまに心のなかでおわびを申し上げて本殿の裏側に廻りますと、裏側は足場はなく、〖北辰の梟〗と呼ばれる彫刻、そして本殿左側の〖お元気三猿〗と呼ばれる彫刻を見ることができました。
お元気三猿は、日光東照宮の三猿とは異なり、「よく見てよく聞いてよく話す」をテーマに元気に彫られたお猿さんたちでありました。
正面には子宝、子育ての虎の彫刻が飾られています。
明るく爽やかな気に満ちあふれた秩父神社さんにふさわしい彫刻であります。本当に気持ちのよい境内であります。


そんなよい気分で参拝を終え御朱印をお受けして、例の願い石の授与を申し出たところ、
「それはここじゃないです」と、切り捨てるような冷たい言い方をなさる巫女さん。えっ?
ですが、ここには御守りもありますし、他に授与所は見あたりませんが┉。

No.232 20/10/17 23:18
旅人さん0 

「えっ?それではどちらに?」集めだして四個目となる秩父神社さんの願い石を求めてなおも問う私に、
「外に」と巫女さんは一言だけ。
「神社さんの外のお店で売っているものなのですか?」というと、少し馬鹿にしたような笑みを浮かべ
「門を出たところの建物です」
┉こんな冷たくて、キツい物言いをなさる神職さんは初めてでした。巫女さんはアルバイトの方が多いようですし、仕方ないこと┉なのかもしれません。彼女のバイト内容はあくまでも御朱印受付、なのかもしれませんから。それでも巫女さんの身支度をしたならば、神さまに仕えるお仕事なので、もう少し心込めての仕事をしていただきたい。
それって高望みなのかな。


すごすごと、そして願い石がもしかしたら手に入らないかもしれないと思って気落ちしながら、とぼとぼと歩いて行くと、入ることを躊躇うような立派な、大きな建物があります。そうだ、夜祭のときここの前を通ったときに、ここは一体なんの建物だろうかと思ったんだ。
おそるおそる、入り口を入ると立派なロビーがあって┉結婚式をする建物なのかもしれません。
ここにある?
┉問いかけた神社の職員さんは笑顔で応対してくださいました。
そして、ロビーの一番目立つところに、な、なんと、この度のコロナウイルス感染症の世界規模の感染を憂い、悪疫退散の赤い御札を無料でお配りくださっているではありませんか。
なんとありがたいことでありましょう。┉先程のイヤな気分まで吹き飛んでしまいました。
これも御利益、かもしれません。この御札、すごい力があります。



秩父神社さんに限らず、日本中の神社仏閣で、毎日毎日、神職の方が、僧侶が祈りを捧げておられます。医療従事者が懸命に治療にあたり、さまざまな学者がコロナウイルス撲滅のための研究をしておられます。ありがたいことです。

No.233 20/10/18 05:22
旅人さん0 

【秩父神社】さんのあとは秩父神社さんから徒歩何分、という距離の【第十五番札所少林寺】さんです。┉とはいえ、今回の巡礼は秩父神社さんの周辺であったのですが。こちらを廻るころには秩父神社さんの御札のお力もあってかだいぶ体調も回復しておりました。
こちらは高台にあって、徒歩ならば秩父鉄道の踏切の真上にある石段を登って行くという立地にあります。
【少林寺】さんはその奇抜な外観にまずびっくりいたします。まるで白亜の洋館という感じ、もしくは日本のお城を彷彿させるものであります。洋館と日本のお城にはまるで共通点はないように思われるのですが┉。
まさに明治以降のハイカラな建物で、お寺さんなのかどうか、ちょっと不安になるほどでありました。それもそのはずで、まさにあの【秩父大火】で御本堂が焼失し、耐火性に優れた土倉造りで再建しておられました。

実はこちらは明治以降に札所になったお寺さんであります。
もともと札所であったお寺さんは秩父神社さんの境内内にあった神社に属する寺院、神宮寺であったため、明治の神仏判然令で廃寺になってしまいました。伝統ある秩父観音霊場巡礼が途絶えてしまう事態です。そこで少林寺さんに白羽の矢が立ち、移転してまで第十五番札所を受け継ぐこととなったようです。その際受け継いだのが以前第十五札所であった蔵福寺さんの山号であった【母巣山】なのだそうです。

こちらは境内に大権現社があり、鎌倉の建長寺さんの流を汲むお寺であることがわかります。また、歴史オタクの夫が騒ぐのに、こちらに秩父事件の殉職者のお墓があるのだそうです。
私はといえば┉時折通る秩父鉄道の列車にしばし心を奪われておりました。

御本堂の扉が閉ざされていると本当にお寺さんで参拝している感覚となれず、唯一中から漏れ聞こえる般若心経がお寺さんであることを証明してくれていました。本堂内は秩父夜祭の屋台に使われていた彫刻や欄干の飾りを使っているのだそうです。
┉午年の御開帳の折には拝することができるのでしょうか。どうかそれまで無事にコロナ禍を乗りこえることができますように。
どうかそれまでにはWithコロナの世が確立し、無事に御開帳の年が送れますように。


No.234 20/10/19 06:07
旅人さん0 

第十六番札所の西光寺さんにたどり着いたのは、傾きだした陽の光が、彼岸花にあたって、秋の夕方の風情を醸し出した頃でありました。駐車場も、そして駐車したあとのお寺さんへの道も分かりにくく、彼岸花の並んで咲いている路地をおそるおそる歩いて、たどり着きました。たいした距離でもなく、たいした時間もかかっていないのにやけにたどり着いた感があったのは、珍道中ならではのトラップを警戒して内なる私がそうさせたのでしょうか。

山門をくぐると真正面に御本堂があります。
御本堂の前に立って、あまりに見事なさまに、しばし息をのみ、参拝の手が動きません。向拝中央に金色の寝釈迦が彫られております。
左右には、中央の寝釈迦に向かって手を合わせる尊き方々が彫られています。それが陽のあたる、風向きによっては雨風もあたるであろう場所に、惜しげもなく飾られております。
御本堂の中も豪華絢爛な天蓋があり、それもまた目を惹きますが、何よりその天蓋が見事に調和した、落ちついて重みのある御本堂内のさまはまた心惹かれます。
┉そんな雑念を早く打ち消さねばと自らに言い聞かせて、納め札を納め、読経いたしました。
さあ、納経と御朱印を、と振り向くと、┉猫♥ 可愛らしい三毛猫がまるで「待ってたよ」とでもいうようにこちらに顔を向けて横たわっているではないですか♥
もちろん、猫と遊んでしまいます、ええ。
いかにも猫らしく気ままに動くのですが、人目がないのを良いことに┉人目があろうと、なんですが┉猫に話しかけること、┉五分くらいですかね 笑。
そして、はっと気づくのであります。あ、また横道に逸れていたと。
猫にお別れの挨拶をして納経所に向かうと⁉ な、なんと、猫があとからついてきて、やがて先導してくれるではないですか!
な、なんていいこなんだろう♥

納経所の、お寺のご住職さまの奥さまいわく、
「(猫が)連れてきてくれたでしょ?いっつもそうなのよね」
膨らんだハートが萎んだ一瞬でありました。修行の〖しゅ〗の字もできていない私は、自分だけに起きた奇跡とでも思っていました、はい。
修行、修行!
そうして、私たちを案内したあとはおうちに入って二度とは出てきてはくれませんでした。修行の妨げにならないように、でしょうか。

No.235 20/10/19 18:46
旅人さん0 

猫の代わりに現れたのは┉御住職、なのかどうか┉。お寺の関係者であることは間違いないのですが、剃髪されておられず、普通の服装であられたので┉。
突然現れた年配の男の方が突然おっしゃることに、
「○○はもう閉めちゃったから見られないよ」
え?、初めての参拝なので○○も何もわからないのですが┉。
そうして唐突にガラス戸に吊り下げられた書き初めで使うような長い半紙に向かうと、
「最近はあんまり人も来ないからすっかり腕がなまっちゃって。これね、」
といきなり二本の筆を持ち、左右を別々に動かして左右異なる文字を書き始めました。
「右と左違う字を書くの結構大変なんだよ」┉わかります。誰もが出来ることではなく、私は練習しても出来ない部類の人間です。
「これ、あげるから。」
右側に南無大師、左側には遍昭金剛と、今まさに目の前で書かれたものをサッと手渡してくださいました。
┉うーん、私の秩父巡礼のバイブルには○○のことも書かれておりませんでしたが、このようなパフォーマンスをなさる方がおられることも書かれていない、どちらかというと写真集に近いガイド本なので、いろいろなことが新鮮であります。

「△△は見られるから。突き当たるけどずぅっとつながっててそのまま向こうに出られるから」
???
私の顔に???と書いてあったのかもしれません。手招きして御案内くださいました。どうやら回廊になっているようです。

おおっ!これはこれは見事であります!
四国八十八ヵ所の御本尊さまを一体一体、お背の高さ五十センチほどもある像として安置してあります。それだけの大きさの仏像が、それぞれ厨子のなかにおられ、┉言葉は悪いのですが┉ずらっと八十八体並んでおられるのです。圧巻、です。
レイアウトこそ変えてはあるのでしょうが、こちら十八世紀の浅間山大噴火や天明の大飢饉ののち、後難除けとして建立されたものとのこと。貧しい時代、苦しみのなか、これだけの仏像と堂宇をここにおさめた江戸の時代の人たちに、ただただ頭がさがります。

No.236 20/10/20 04:34
旅人さん0 

八十八体の御仏のお並びになる空間は、とても江戸時代のものとは思えないよく整備され、とても清らかで清んだ空気であります。
江戸時代、それも大災害や飢饉のあとの貧しい時に建立され、納められた仏像にはとうてい見えません。
もっと物に恵まれて豊かな生活を送るなか、┉言葉は悪いのですが、それこそ集客のために造られたものなのだとばかり思っていたくらいであります。しいていえば┉むしろよくぞこれだけの資金繰りができたものだと、感心するくらい立派な回廊であり、一体一体立派で神々しく精巧な仏像であります。
ただただ、ありがたい。
御仏にすがるしかなかった時代とはいえ、よくぞここまでのものを、たくさんの人たちが、自らのためだけでなく人々のために寄進してくださいました。
おかげで時を経てなお、人生に迷い新型コロナウイルス感染症におびえる女の心が癒され洗われました。

そして、こちらの境内には札所の歴史にとって貴重な建造物があります。それは、小さな御堂であるのですが、室町時代より伝えられている札堂と呼ばれる建物であります。当時は観音堂であったという其の建物の柱などにはそれこそ無数の小さな穴があいています。
それは、かつて納め札が木の板や金属のそれであった時代に、納め札を打ちつけた釘の跡、なのだそうです。
ここは、明るいこちらのお寺さんの境内の中にあって、唯一重厚にして重たい気を放っておりました。
その札を打ちつけた者の思いが沈殿しているような気のする、建物でありました。その感覚は夫も似たような感覚であったと後で語るのでありました。

No.238 20/10/21 03:23
旅人さん0 

西光寺さんの境内には、まるでジブリの世界に出てくるような┉といっても、私、ジブリに詳しくないのですが┉いかにも奇抜な御堂があります。「招福・酒樽大黒」という立て札があります、茅葺き屋根をのせた大きな酒樽に大黒天さまがお祀りされている御堂です。一日三合で、三十年分の酒が入るという大きな酒樽で、中に小振りの大黒天さまがちょこんとたたずんでおられます。
なんだか小さな紙がやたらと貼り付けられておりましたが、サッとお参りして後で知ったのですが、小さな紙はすべて名刺だったようです。ここに名刺を貼るとお金が入ってくる、お金に困らないとか言われているようです。うーん、残念な┉(>_<)
あ、そもそもが私名刺がないんだ。子どもたちが名刺を持つような世代になったけれど、私は生涯名刺とは縁がない人生となりそうであります。

そしてそのそばには、秩父夜祭で使われていた山車の車輪が一つ置かれていました。ただ置かれているだけなのに、大変趣のあるもので、大変まわりと調和していました。まるでみんなに愛された山車の魂が役割を終えてくつろいでいるかのような、やわらかであたたかな気を感じます。

そんな西光寺さんをあとにして歩き出した道の彼岸花はさらに傾いた陽の光でやわらかに光り輝いていました。

No.239 20/10/21 08:21
旅人さん0 

秩父十七番札所の定林寺さんは道がわかりづらく、たどり着いたものの駐車場の区画もそこに置いていいのかどうか、迷うような駐車場でありました。砂利の敷かれた駐車場なのですが、地続きで作業車両が停められていたり。
停めたあとも少し歩くようで、その歩く道もまた民家や工務店さんがある細い路地をまいります。またまたむくむくと不安がこみ上げてまいります。それでも道には道案内があるので信じて突き進みます。
あ、見えた♥!
恩知らずな私は、ずっと運転してここに連れてきてくれた夫を置いて走り出します。┉たしかに恩知らずなんですが、この場合は少しだけ意味もあり、┉平日の秩父霊場、時間前でも閉まってしまうことが多々あるからなのであります。
閉まってしまっていたら諦めるしかないけれど、もしもまだまにあうのなら、一刻も早く、あと一組参拝の者がおりますと、まだ参拝させていただけますかと、伝えたいと思ったのであります。┉夫が孫な私の心情に気づいてくれているかどうかは定かではありません。

石段をかけ登り。
結果、なんとかなりました。なので、夫を待つ。
さほど時間差なく到着した夫に、(走るの遅くなったかなぁ、私)これなら一緒に来てもたいして変わりがなかったと、一抹の虚しさを感じます。こんなだから、他のご夫婦のように寄り添って仲良く参拝、というふうにならないんだろうな。まあ、そんな自分の問題点に気づいた巡礼旅、それこそ意味があったこととなりましょう。

「┉ここは、このお寺さんは、変わった造りだねえ。ぐるっと廻れるようになってるみたいだよ?」
「えっ?」
┉私といえば、できたばかりの頃はさぞや見事だったろう彫り物や天井画に思いを馳せておりましたので、まだ本堂の前にたたずんでおりました。本来ならば本堂内の外陣にあってしかるべきものであります。┉まるで外陣、そう、そのようにあえて造られた御堂だったのです。


No.240 20/10/21 09:16
旅人さん0 

ここ、定林寺さんはかつて、林氏の個人所有の寺院だったようです。それゆえ林寺とも称されることもあるようであります。そんな定林寺さん、実はかつては巡拝の打ちはじめ、一番札所であったのだそうです。それが、江戸からの巡礼に合わせて四萬部寺に変わったということでありました。
ここ、定林寺さんが一番札所に選ばれたのは秩父総鎮守であります秩父神社において、林氏が氏子の重職であったことも関係していたのではないかと言われています。
現在のこの定林寺さんは当時とは場所も変わっているようで、当初は現十八番札所、神門寺さんのある宮地町というところにあったようであります。現在地に移転したのは江戸時代後期とのことであったようです。
定林寺さん、林寺の縁起によると、無慈悲な権力者の家臣であった林氏が、その権力者を諌めたところ怒りを買って追放されてしまったのだそうです。林氏とその妻は流浪の末亡くなってしまいます。後日改心した権力者が林定元夫妻の菩提を弔うために建てたのが、このお寺さんであったというものであります。
この縁起がどこまでも事実を反映したものかはわからないのですが、林氏ゆかりの、林氏個人所有の寺として始まったのは確からしいことのようです。

こちらも無住のお寺さんで、地区の世話人の方々により維持管理されております。
そんなお寺さん、例の、あのもう一つの聖地となっていて、アニメの絵馬がこちらでも販売されていました。┉なんとも不似合いなものではありましたが、どんな形でも浄財がこちらに納められて、こちらの維持管理費にあたればよいと思う、私であります。


さて、石段を下りて、ん?
左手に立派な鐘楼があります。┉いつから? いやいやもちろん古いもので、梵鐘は1758年の鋳造とあります。こんな大きな鐘楼を見落とすほど、焦って駆け込んだのでしょうか。
しかも、私の大好きな撞いていい梵鐘とあります。くうぅぅ( ω-、)
参拝のあと鐘を撞いてはいけないのだそうです。
泣く泣く鐘楼に登り、その見事さにいつまでも鐘楼にいる私。
それもそうであります。その梵鐘のありがたさといったら!

No.241 20/10/21 13:44
旅人さん0 

鐘楼に登って、その梵鐘の表面の鋳られ彫られたものの数と、さらにはその見事さに、絶句いたします。

か、観音さまが。
┉何体の観音さまなのでしょう!一体一体が何観音さまなのかが私のような者でもわかるような精巧さで鋳られています。

あ、こ、これは!
百観音さまだ┉。西国何番、と見てとれます。秩父何番とあります。
うわあぁ、感動です。
そしてたまたまそばにあった観音さまを拝すると、まさにここ、定林寺さまの観音さまでございました。
その、定林寺さまの部分に刻まれたものは〖同十七番 定林寺 あらましを 思ひさだめし 林寺 かねききあへづ ゆめぞさめける〗と彫られており、中央には御本尊十一面観音さまであります。
一つ一つ、です。それぞれのお寺さんの御本尊さまと御詠歌が彫られているのです。うーん。これはすごい。

いつまでも鐘にまとわりつく初老の二人に、本堂の扉を締めにまわられに来た詰め番の方が気づかれて、石段の上からお声がけくださいました。
「本当は参拝の前に撞くものだけれど、撞いてもいいですよ。そのあとちょっとまた本堂に手を合わせに来てもらえば。参拝のあと鐘を撞くとせっかく結んだ観音さまとのご縁を切っちゃうって言われてるんだけど」
えっ?いやいや、それは困ります。
「あ、すみません。あまりに見事な鐘なので見とれておりましただけです。またの参拝の時に撞かせていただきますので」


┉夫君、というわけで、お願い、定林寺さんにぜひぜひ再拝させてくださいませ。なんなら鐘を撞くだけでもよいであります。
どうやら、鐘の音もまたすばらしいものらしい。

秩父までなら、頑張れば来れる、かなぁ。でも天才的方向音痴で、なおかつ地図を読めない私。ナビのない、八人乗りのマイカーでここには来られない自信、百パーセントであります。


No.242 20/10/21 18:12
旅人さん0 

このあと、また秩父巡礼に出かけるのでありますが、その前に私の運転で群馬県邑楽町の彼岸花で有名なお寺さんにうかがい、その後も邑楽の町で寺社仏閣参拝をいたしました。

邑楽町には多々良沼という沼があり、それは館林市にも広がっている大きな沼で、その沼を中心として県立多々良沼公園となっています。
「寄って行く?」
「どっちでも」
夫がそう聞いたときはたいてい、そこに寄りたい、もしくは彼の予めの予定に含まれているとき、であります。なので、当然多々良沼へ。
広いんだけど┉。(^_^;)
そこには白い萩が今を盛りに咲いていました。十月桜という桜も咲いています。もうそれだけでご機嫌な私。
で、どこまで?
「この沼のほとりに弁天堂があるんだって。そこまでとりあえず行こうと思うんだけど」┉はいはい。

沼には白い鳥がいます。ここ多々良沼には白鳥が渡来することで有名であります。
「白鳥かなぁ?もう来るのかなぁ」
そんなことを言いながら歩く夫を置いて、さっさと弁天橋を渡る私。
こういう可愛いげのないところも直すべき点であろうことはわかってはいるのですが┉(^_^;)

紅い、可愛らしい御堂であります。白い狛犬と紅い御堂が沼に映えて素敵です。こちらは先程お詣りしてきた恩林寺さんの御堂でありました。(┉知っていて連れてきてくれたのかぁ)と感心し感謝していると、
「へえ、恩林寺さんの弁天さまなんだね」┉。
柿の木の下に赤い彼岸花が咲いています。今年コロナの関係で中止されてしまった恩林寺さんの彼岸花まつりですが、盛りを過ぎていたとはいえ、恩林寺さんでも、通りすぎる景色の中でも、そしてここ多々良沼でも彼岸花が見られて、今日一日がまるで彼岸花まつりであります。

「次はね」┉やはり今日も予めいろいろ調べて計画してくれていたみたいです。次は【大信寺】さん、だそうで。

大信寺さんは大きなお寺さんのようです。相も変わらず優秀なメーカー純粋ナビはお寺の裏手の、駐車場でもなんでもないところで案内をとめました。( ;`Д´)

No.243 20/10/24 09:56
旅人さん0 

完全に裏手に案内されて、しかも案内終了となり、砂利の敷かれた空き地に車を停めて歩き出すと、地元の有名な方なのかその方の御堂があります。
そんなときいつも、「素通りでごめんなさい。まずは御本堂、御本尊さまにお参りしてから参ります」と心の中でお声がけします。
いったん、できれば門を通らずに外に出てから、あらためて山門をくぐり、手水舎があれば身を清めて。なければ消毒アルコールをシュッとしている最近であります。
そして、大好きな鐘があればまずはそこに近づいて見て、撞いていいものかどうかを確認して。それから御本堂へと向かいます。こちらは鐘を撞いてもよいお寺さんでありました。

誘惑の多いお寺さんであります。そして、何よりも御本堂がどれなのかわからないお寺さんでありました。小振りの御本堂と思われる御堂と、ガラス張りで講堂と思われる御堂。小振りの御本堂と思われる御堂は今、あまり使われていないようにもみうけられましたが┉。
うーん、これはまずは庫裏へうかがおう。
やはり、ガラス張りの、講堂と思われる御堂が御本堂のようです。そこに向かう途中には品のよい小料理屋さん、もしくはお茶屋さんのような建物があり、暖簾がさがっていて、営業中と掛札が掛けられています。えっ?
最近はこういったお寺さんも増えているのですが、それでもちょっとびっくりした建物で。
そして御本堂。やっぱり、えっ?
ガラス張りなだけでなくて、広い、┉やっぱり講堂というかイベントホールといった感じでありまして。
さすがに内陣は普通にお寺さん、であります。両脇には小さな木魚がたくさん収められた棚があります。
でも、イベントホール感が半端ないのでありました。そうだ、葬儀場のホール感があるんだ。
でも居心地は抜群です。御仏が近い感じです。ここの近くに住んでいたなら、私もmy木魚をここに置いて、一緒に読経したい。
なので、だいぶ長いこと御本堂におりました。
いまはコロナの影響で御朱印はお休みされておられますが、こちらのお寺さんオリジナルの御朱印帳あり、その御朱印帳の表紙と同じ絵のミニタオルがあり、それは無人販売となっていました。可愛らしいお地蔵さまの絵です。うーん。


No.244 20/10/25 04:48
旅人さん0 

可愛らしいお地蔵さまの絵のミニタオル。 
どれにしようかとまでに高まった欲望を抑えて、押さえて、結果、頑張って抑えきった私。その葛藤は夫が見ていた。見られていたからこそ抑えきったのかもしれません。夫は決してそれを止めたりはしません、それがかえって抑止力になっていることを知っているのか、気づいてもいないのか。
〖質素に生きる〗のは欲望の塊であります私には、結構大きな課題であります。

閑話休題。
こちらの御本堂には無造作とも思われるくらいに寺宝が展示されています。その見事さに夫婦それぞれが別の視点で釘付けとなり。
┉それにしても好まない広さ、やっぱり小ホールにしか思えない。
その後わかったことですが、このホール┉御本堂ではコンサートがしばしば開かれているようです。この御本堂が完成したこけら落とし(!?)の際には全国ネットで『ぶっ飛び寺』として紹介されたのだとか。うーん、納得!
ようやく御本堂をあとにして、境内へ。

こちらの山門は、かの徳川家の四天王とうたわれ、館林城初代藩主榊原氏の菩提寺であります、【善導寺】さんの東門を移築復元されたものなのだそうです。この山門を心して仰ぎくぐった者は出世するという由緒深き門、なのだそうです。今さらですが、普通にくぐりましたし、五十の齢を過ぎて出世は┉ない、かな。
板碑も何枚もあり、見目麗しい石仏さまもたくさんおられます。
山門をくぐった左側には薬師堂があり、こちらのお薬師さまは秘仏でありまして、十二年に一度の寅年に御開帳され稚児行列と大法要が営まれるようです。
日光月光菩薩さまを脇侍とし、十二神将を従えておられるというお薬師さまに、再来年となる御開帳にお会いできる世となっているでしょうか。どうぞリモートとかではなく、病からお救いくださるお薬師さまの法要が営まれる世となっておりますように。

駐車したスペースのそばにありました御堂は、太平記にも登場する
伊賀守氏をお祀りしたものだったようです。剛力で有名な方だったようです。夫はたいそう興味深そうにいろいろ見ておりましたが┉私にはちょっと短時間で理解できるようなことではありませんでした。

No.245 20/10/27 04:26
旅人さん0 

で、帰宅後いつものようにGoogle先生にご登場いただきお聞きしたところ、【篠塚伊賀守】さんとは。
元弘三年(1333年)【新田義貞公】が北条幕府打倒の兵を挙げると、これに従って鎌倉へ向かった方、だといいます。おお!
新田義貞公は群馬県民なら誰もがその名を知る、歴史上の人物であります。
【上毛かるた】という郷土かるたがありまして、第二次世界大戦の敗戦の復興の頃に、郷土を知りつつ少しでも子どもたちに娯楽をということで作られたようなのでが、まだアメリカの監視下にあった頃のことで、戦いをイメージさせるような武将は一切NGだったにも関わらず、県民の声でも義貞の人気は高く、どうしてもどうしてもと掛け合って掛け合って特別に採用させてもらえたという経緯があったくらいの方であります。とはいえ、私のようにぼーっと生きてきた人間は、大人になってからこの新田義貞公はどんな人だったかをあらためて学習することとなるのでありますが。
話を伊賀守氏に戻しますと、なんでもその勇猛な戦いぶりを賞されて、後醍醐天皇から伊賀守を賜り、こう名のるようになったといいます。すごい人なんじゃん。
そして建武5年(1338年)義貞が藤島の戦いで討ち死にすると、義貞の弟の脇屋義助に従って戦い、その勇名は敵方にも鳴り響いたといいます。
康永元年(1342年)伊予の世田城に籠城して敗れると、単身で敵陣を突破して舟を奪い、隠岐島に渡り、そこで生涯を終えたということになっているようです。
それでも、世田城から逃れて浜へ向かうときも、大音声で「我こそは篠塚伊賀守である。この首を取って手柄にせよ!」と呼ばわりながら、敵陣の真っ只中を悠々と歩いて行きましたが、誰も手を出せなかった云々、まるで三国志の張飛か関羽のような英雄として描かれ、江戸時代には芝居などで大変な人気者であったようです。
さらに太平記に、篠塚伊賀守は身長六尺五寸(195cm)の巨漢であり、怪力無双で八尺(240cm)の金棒を、自在に振り回したり、舟の碇に使った石を浜へ担ぎ上げて安置したと書かれているようです。
お寺にはお手玉石というバスケットボール大の石があり、伊賀守氏がお手玉にしたという触れ書きがありました。

No.246 20/10/27 04:58
旅人さん0 

なんとも開かれたお寺さん大信寺さん。結構長いことここで過ごし車で移動を始めると。┉‼。お寺の境内とは少し離れたところに伊賀守氏のお墓がある!ええっ!?
何度かその場所を目指してリトライするのですが、駐車スペースがない。しかたなく車中から手を合わせて、次なる(夫の!)目的地へ。すると、【蛭沼薬師堂】という案内の看板があるではないですか。
私的にはこの日、彼岸花のお寺さんということで邑楽の恩林寺さんを訪ねてきただけのつもりでおりますので、あくまでも次なる目的地はないもの、なので、その蛭沼薬師堂というところへ是非寄りたいと、いつものように騒ぐわけでありました。
ということで訪れた蛭沼薬師堂さん。どうやらこちらは天明の大飢饉の折に、飢えと病とに苦しむ村人たちがその切なる祈りを込めて建てたもののようでありました。

公民館が併設されたこちらの薬師堂さんはその地内に鳥居のある小さなお社もございます。さほど広くはないこの敷地内、夫に「お社に排ガスが直接かかるように駐車しないでね」という指示(!)を出して
おりたちました。
うわあ、感動!うれしーい!






(大信寺さんの手水舎写真。さすが、ぶっ飛び寺さんであります)

No.247 20/10/27 18:12
旅人さん0 

お薬師さまの御堂をまえにして、いったい何を興奮しているのかといいますと、御本堂前の鰐口をさげるあたりの向拝といわれる部分┉なのでしょうかね、そのあたりに。野球ボールよりも少し小さいくらいの木の玉が数珠にされて、滑車にかけられて下げられているのです。
数珠の間は何十センチか空けられていて、滑車に下げられた数珠を廻すと、カシャンカシャンと大きな音がいたします。
私の憧れの大数珠回しという仏教の行事のひとつを思い浮かべるものでありました。実際の大数珠回しの数珠よりもずっと短いもののようでありますが、とにかく大数珠にただ感動し興奮した、わけであります。
数珠を回す際には薬師如来さまの真言でもお唱えでもするものなのでしょうか。その点についてはなんら書かれておりません。

御堂のなかにはお厨子がお祀りされているように見えます。

こちらのお薬師堂はきっと、ずっとずっと、ずっと地元の方々に大切にされて今に至るものであると確信いたします。 
地元ではお縁日とかにきっとお祭りがあるはずです。参列したいなぁ。

No.248 20/10/28 03:55
旅人さん0 

蛭沼薬師堂をあとにして向かったのは【永明寺】さん。やはり下調べをしておいてくれたようです。
永明寺さんは金木犀で有名なお寺さんのようであります。大きな大きな金木犀で、なんと、国に天然記念物に指定されているようです。
それも昭和十二年の指定、「永明寺のキンモクセイ」であります。

お寺さんの掲示板によりますと、この金木犀、鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、永明寺の開基である夢窓国師(むそうこくし、臨済宗の禅僧。生前に夢窓国師・正覚国師・心宗国師、死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称される。)が植えたものであるといいつたえられており、七百年近い樹齢を経た希少な老樹、なのだそうです。

指定当時は、樹高16m、幹周り3.3m、枝張りが東西18m、南北14m、幹は地上13mから3分岐した傘状の巨樹であり、秋には黄赤色の花を枝一面につけ、その芳香は村中に届くと評されたほどだったようです。
ところが、昭和四十一年(1966年)の台風26号により、往時の姿は一瞬にして失われ┉
えっ?ええっ?( ̄□||||!!┉  
主幹は地上5mで折れて倒伏し、根は大きな土山と化して地上に盛り上がったとの記述が!お寺さんは急遽町教育委員会などと連絡を取り、文化財保護事業として対策がとられる事となりました。

そして数年後、大きな幹を支えていた根から小さな芽が数本出てきたのだそうです。残念ながら主幹は回復しなかったものの芽生えた小さな芽は日ごと目に見えて生長。その後も順調に成長を続け、現在では樹高も五メートルにも達し、秋には花をつけ、樹勢も旺盛になってきたのが今の七百年の歴史の重みに堪え、鎌倉・室町時代という中世の邑楽町を物語る貴重な文化財であるということでした。


ふうっ。

こちらのお寺さんはそんな金木犀を中心として、広く門戸を開いておられるお寺さんでありました。この日はお寺さんはお留守だったようですした。
境内にある六地蔵さまの祠には手書きの貼り紙までなされていました。とてもためになりそうなことが書かれておりましたのに、到底記憶できるはずもなく。
そしてこちらのお寺さんにはなんともイケメンな青面金剛さまがおられます。お顔の彫りが、これまた滅多になく、今風のお顔立ちであります。うーん、素敵。

No.249 20/10/28 07:29
旅人さん0 

「次は┉」つ、次ぃ?
来る予定、百パーセントじゃないですか。
と、いうわけで次に向かったのは【慶徳寺】さん。怪しい案内を繰り返すナビを信用せずにスマホのGoogle先生にお出ましいただく夫。なんだかなぁ。┐('~`;)┌
「お、着いたかな」 ん? おっ、おお! 赤い山門です。赤い山門が見えます‼

室町時代末期の天正元(1573)年【慶徳寺】は開基されたそうです。
山門は、時を同じくして創建されたもので、約四百五十年の歴史を誇る、邑楽町でも最古の建築物だということです。ほおぉ。
江戸時代中期の享保十(1725)年に慶徳寺が火災に遭い諸堂宇を焼失するもこの山門だけは災禍を免れ今にいたります。

この山門、二階建ての楼門であります。大きさは間口5.2 m、奥行3.3 m、高さ7m、さほど大きくはありません。
屋根はもともと茅葺であったものを昭和二十七(1952)年に銅板に葺き替えられたようです。うーん、茅葺、見たかったなぁ。
中央には【閻王殿(えんのうでん)】と書かれた扁額が掲げられています。
楼門には昇ることはできませんが内部は回廊式となっており、柱には唐獅子と象の彫刻が左右に一対ずつ飾られているのだそうです。台上には閻魔大王を中心として十王の彩色座像が安置されているのだそうです。
【閻王殿】というのは、冥府(冥土)にあるという閻魔大王の宮殿の事であり、死者の現世における善悪の業因によって、〖地獄〗、〖餓鬼〗、〖畜生〗、〖修羅〗、〖人間〗、〖天上〗の六道のなかで、来世はいずれの世界に生まれ変われるかを、裁くところだと云われております
鎌倉時代から室町時代と、うち続く戦乱と現世に生きる苦難から、来世往生を深く願う人々によって、十王信仰が広く世の中に行われるようになりました。慶徳寺山門に閻王殿が作られたのもそのような背景によるものと思われます。
今でも人が亡くなると七日ごとに七回墓参りを行い、百か日、一周忌、三周忌の供養をし、故人の冥福を祈る習慣があるのはこの十王信仰の名残だといいます。

この慶徳寺の山門は、「慶徳寺山門」として平成六(1994)年三月に町指定重要文化財に指定されています。

現在の本堂は平成二十五年(2013年)に江戸時代中期の享保年間以来二百八十五年ぶりに立て替えられたとのこと。┉建て替える前に来たかった。                 

No.250 20/10/28 08:28
旅人さん0 

今日十月二十八日は群馬県民の日。
「郷土の歴史を知り、郷土についての理解と関心を深め、自治の意識を高めるとともに、より豊かな郷土を築きあげることを期する日」として1985年に制定されたものです。公立学校がお休みとなり、群馬県内の施設が割引が利いたり無料になったりと、子どもが小さな頃はこの日に休みを取り、遠出のレジャーをしたものです。大概が県外。ディズニーランドで知り合いに会う確率のもっとも高い日であります。少しも理念と合致しない過ごし方をしてまいりました。
なぜか本日休みの私。うちでは私だけ。
┉郷土の歴史ねぇ。いつもの休みの過ごし方がすでに郷土の歴史を学習しているからなぁ。夫はテレワーク。┉おさんどん、かなぁ。┐('~`;)┌
じゃあ群馬県の郷土料理でも作りますか。
┉こんにゃくの煮物?

ここまで筆を進めた珍道中録も、再び秩父巡礼録となりますので、やっぱり県外。
群馬県の郷土の歴史かぁ。うーんf(^ー^;


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