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神社仏閣巡り珍道中・改

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旅人さん
21/07/02 03:51(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。



No.2982625 20/01/08 07:18(スレ作成日時)

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No.101 20/06/11 19:16
旅人さん0 

御本堂は回廊をめぐって、枯山水の庭を見つつ、御本尊さまの安置されておられる仏間の前とすすんでいきます。
その隣の部屋には寝釈迦の像が安置され、その筋開かれた濡れ縁からは池が見え、滝が見えてまいります。
滝は本堂の周りに三つ。不動の滝、昇龍の滝、青龍の滝とそれぞれに名前があります。枯山水の庭には臥龍庭。
そんな斬新な御本堂でありますが、実はその建立は古く1675(延宝三)年なのだそう。
まるで古さを感じない、というか┉中には喫茶サロンがあり、そこでティータイムを楽しむことができたり、前回の参拝したときにはなかったハートの形の大きな窓が!
と申しましてもハートではなく【猪目】、なのではありますが、誰がどう見てもハートの形の窓としか思えないと思うのであります。
うーん、これは必要だったのかなぁ。
いかにもこれはインスタ映えしそうな┉。(^o^;)

いささか興ざめしたものの、こちらのお寺さんには本当に大好きな仏像がたくさん、たくさんの仏さまがおられます。
鬼子母神さまもおられ、私のような穢れ多き者に、改心すれば仏さまのお膝元にゆくことができるという、希望をお与えくださる存在であります、鬼子母神さまの御前に座って静かに語りかけることができるお寺さんなのであります。

そろそろキキョウの咲く頃でしょうか。紫陽花のつぼみも花開きさまざまな色をつけているでしょう。
そして蓮。花の寺は季節季節の花を広い境内のあちこちで咲かせて静かに静かにたたずんでいます。

No.102 20/06/12 21:15
旅人さん0 

巡礼。
できればきちんと装束を身につけ、写経したものを納めて、読経して。納札(おさめふだ)をまわったお寺お寺に納めて、納経帳に御朱印をいただく。いつしかそれが夢、それが望みになっておりました。

私の住む群馬県は埼玉県の隣。そう、あの大好きな秩父がある埼玉県。秩父には三十四観音霊場があります。四国霊場巡りはなかなかすぐにすぐ出向くことはできそうにありませんが、大好きな秩父を訪れ、お寺巡りをすることが、イコール巡礼になるという、どれだけお得なことでありましょう。

外出自粛が解かれたものの、できれば県をまたぐ移動はしないということが、コロナ以降の新しい生活様式に、今現在はまだ含まれております。

祈りの思いは自粛を叫ばれていた頃から膨らむばかり。
毎日、仏壇もどきに手を合わせ般若心経をお唱えしては、世界中を恐怖に陥れて、なおかつ人々の心を荒ませ、経済をも揺るがす新型コロナウイルス感染症を一日も早く終息させていただけますよう、世界中の人々をお救いください、お力をお貸しくださいと祈りを捧げてまいりました。

┉私どもの住まう県も、そして秩父の地も、コロナウイルス感染者が何日も発生していない地域であります。
行こう。
今こそこのコロナウイルスに苦しむ世界中のすべての人々をお救いくださいますよう、祈りたい。
今こそが秩父巡礼のときではないか。

┉言い出したらきかない妻であります。

かくして平日の晴れた六月の一日、いざ秩父、であります。
 

まずは順路通りに。秩父第一番四萬部寺(しまぶじ)めざして。
夫婦でふうふう言いながらなんとか書き上げた何枚かの写経したものを筒に納めて。

No.103 20/06/13 05:52
旅人さん0 

秩父巡礼への思いを決定的にした本が一冊、それはそれは美しい、御仏のお姿であったり、青空にそびえる寺院であったり、名工による彫り物であったり、季節の花々であったりと、カラーの写真がそのほとんどを占めているガイドブックでありながら、写真集としか思えない本があります。
何気なく手にし、一目惚れして購入した、その名も【秩父三十四ヵ所めぐり】であります。
この本は、間違いなく、文章を書かれた方も、写真を撮られた方も、秩父三十四ヵ所をこよなく愛する方々であります。
三十四ヵ所のお寺さんをすみずみまでめぐり、その一つ一つを細かく調べてどうしたら読み手にその魅力を伝えられるか言葉を吟味して、書いておられます。
また、外での写真は季節ごとにその姿を変えますし、時間帯で光の加減も変わってしまいます。それを三十四ヵ所の寺院のすべてを、それはそれはため息が出るほど美しく、是非そこへ行きたいと切望するほどの力をもった素晴らしい写真の数々。それが本当に写真集かと思うくらいのふんだんな枚数が使われております。

当然バイブルともいうべきこの本、【秩父三十四ヵ所】、をまさに胸にいだいてのお参りです。


                   

No.104 20/06/13 20:56
旅人さん0 

秩父第一番札所【四萬部寺】さんめざして。
走るのはもちろん夫。例のくせ者のメーカー純正ナビのついた夫の車。目的地の裏に案内するくらいならまだ可愛いげがあり、いつぞやなどは目的地にすらつけなかった。それも二度。
産まれて一年半くらいの車のナビよ、私すらが生まれる何百年も前からある場所なのだよ?新しい情報が拾えないのは我々が情報更新をしないせいではあるだろうが、そんな昔からの場所だよ?
しかも、どこをどう見ても、土地開発で周囲が激変していると決して思えない街道に面したところをめざしていたというのに、裏手の!袋小路!に案内されたときといったら。
くせ者のナビとじゃじゃ馬の妻。
夫の修行の巡礼の始まりであります。


室町時代より続く秩父巡礼は、その札所にむけてかなり遠くから案内板が出ております。随所随所に、曲がり角などにもわかりやすいようにいくつもいくつも。

ところがさっそくその案内板の通りには行こうとしないくせ者のナビ。ところが夫は何度だまされてもナビにしたがうので、口うるさい妻が騒ぎだす。
どうにもお寺さん着きそうにない雰囲気の道を走り、「平気、平気!」と言っていた夫すらが不安そうな表情になりました頃、再び巡礼者のための案内板に出会えたときの安堵といったら。

今はそのほとんどの巡礼者が車でまわります(┉たぶん。)秩父観音霊場めぐり。駐車場も完備されています。
駐車場に車を停めて、ふと目の前の古い建物に目をやるとなんと旅籠です。
ああ、巡礼に来ることができたんだ♥

そんな感動とともに入り口に向かうと、いきなり見えてきたのは御本堂、しかも裏手。
駐車場に停めてそこにある入り口からそのままはいるとそんなことになるようであります。(;゜゜)
表にまわると┉御本堂は、初めて見る上に高い縦長のこじんまりした感のある建物であります。
お灯明をあげて、持参したお線香をあげて。鰐口を鳴らして。
本当はこの時点で納札を納めるのですが、ここのお寺さんですべての巡礼に必要な物が揃うということで、アナログな私はここでお受けしようとAmazonなどで事前に揃えることをしなかったため、ここでは順番は多少違えて。
御本堂入り口でいつも使っている御数珠と経本を手に、般若心経を読経いたしました。
こちらは御本堂の中に入ることができるようで、なんともありがたいことでございます。





No.105 20/06/14 08:55
旅人さん0 

御本堂の正面には、御前立ちの【聖観音】さまがお立ちになっておられます。御本尊の聖観音さまは秘仏であり、十二年に一度の午年の年に御開帳されます。なんでも行基さまのお手によるものと伝えられているようです。
その間、巡礼に訪れた人々にお会いくださっている聖観音さま。
大きな光背の、それはそれはお美しく凜としたお姿であります。
そのお姿がよく拝することができるようにとのご配慮からでしょう、ちょうどお姿が見えるくらいに開けられた横開きの引き戸(┉なのでしょうか)。そしてさらにそのお姿がよく見えるようにと、丸く窓のように扉がくりぬかれています。

さらに本堂向かってひだりてには、その名もありがたい【おたすけ観音】さまがおられました。こちらもまたお美しいお姿であります。
邪念の権化のような私ではありますが、たった一つだけお助けくださるようにお願い申し上げましたのは、
「新型コロナウイルス感染症を一日も早く全世界において終息させていただけますよう、人々の荒れた心を癒していただけますよう、職を失った方々が生活に困ることなく一刻物が早く仕事につくことができますように」
┉一つだけではないかなぁ。でも元は一つ。

そしてその手前には御賓頭盧さまの像がおられました。こちらの御賓頭盧さまはなかなかのイケメンであり、他の寺院の御像のようにあまり人の手で汚れたり擦れたりはされておられませんでした。最初から室内、御本堂に安置していただけていたのでしょうか。


本堂を出ると┉離れてはおりますが山門が見え、左手にはなにやら不思議な大きな櫓のような建築物があって、その中央には六角堂のような建物があります。うーん、うづく好奇心。
さっそくそちらへ向かうと、どうやらこちらの建物は八角輪蔵を安置した施食殿のようであります。
餓鬼道に落ちて苦しむ者を救うための大施食会を行うための堂宇のようであります。毎年八月二十四日に執り行われるというこの法会が、新型コロナのせいで中止されることとなりませんように。

さて!
いざ納経所に!
こちらで装束や納札、秩父観音霊場の納経帳をお授けいただきます。
なにやら緊張している私であります。

No.106 20/06/14 16:21
旅人さん0 

秩父巡礼に向かうにあたって、【経本】【御数珠】【線香】【塗香】【納経すべく写経した用紙】、そして念のため【納経帳】も持参してまいりました。
通常、霊場めぐりには専用の納経帳が用意されていることがほとんどで、秩父も当然専用の納経帳があることは存じておりました。
しかし、いまだに結願できずにいる鎌倉三十三観音霊場、鎌倉十三佛めぐりを思うと、あえて専用の納経帳にしなくてもいいのではないかと思ったりもいたしましたものですから。自分の運転で来られもしないような者が持つようなものではないであろうと思ったのであります。
┉が、第一番札所納経所、ここで巡礼の支度ができるようにと巡礼に必要な物が揃えてある納経所にいくつも置かれた納経帳のなか、一目で心惹かれた納経帳があり、入って五分もしないうちにもろくもその考えは打ち消しておりました。
白地に梅の花咲く枝をバックに、観音さまの横顔が描かれた、それは美しい納経帳であります。
┉こ、これはずるい。
いやいや、ただただ意志薄弱な私が悪いのであります。
ちなみにここに一目惚れいたしました納経帳の画像を貼付しておきます。

そして、【納札】。

で。
正式に巡礼の支度をするとすると、【菅笠】【輪袈裟】【笈摺】【数珠】【手甲】を身につけ、【金剛杖】を手に【頭陀袋】を提げて、となります。
が、実際にその姿で御参りされている方は、その日その時には皆無。
かなり目立つこととなります。うーん。(´_`。)
やはりそこでまた意志薄弱な私。そもそも菅笠だけはイヤだったりする。
もっと若いときであったり、あと数年した私であれば、その正装で歩けるのかもしれない。
でも、周りにおられる巡礼の方々も、隣を歩く夫も普通の私服で、私だけ菅笠を被り笈摺を着て歩く勇気がなかった。

家を出たときとは全く違う私。( ω-、)

結局、身につける物で用意したのは輪袈裟のみ。金剛杖すら用意する勇気がでなかった。
対する夫は「ずっと金剛杖を持って歩くのが夢だったんだよ♥」と杖を選んでご満悦。┉二人で杖を持って歩く勇気がないんだなぁ。なにせ微妙なお年頃でありまして。
「えっ?買わないの?」┉うん。

代わりに私が購入したのは「鐘」。ハンドベルと言えばわかりやすいでしょうか。いつまでも余韻の残る清んだ音のする、持ち手は五鈷杵(ごこしょ)のようになっております。

No.107 20/06/17 06:10
旅人さん0 

第一札所からして裏から入ってしまった秩父観音霊場めぐりはすでに珍道中。( ω-、)残りの三十三ヵ所はどうなることか┉。
大丈夫!御仏をお呼びするといい、空間を浄めるという鐘┉五杵鈴とか金剛鈴というようですので鈴、ですね┉鈴も購入しましたし(ーー;
納経所の方がご親切に印刷した一枚の地図をくださり、赤いペンで印をつけながら次にまわろうとしている二番札所までの説明をしてくれましたし。たぶん、大丈夫┉。夫が聞いてたから大丈夫!┉これを他力本願といわずしてなんというのだか。

来たときにくぐらなかった山門に向かい、山門をあらためてくぐって、あらたな気分で境内を拝見いたします。ひだりてに開山の師が座禅を組まれたという座禅石があります。
こちらのお寺さんは梵鐘をすべての巡礼者が衝きやすいように┉なのかはわかりませんが二段ほどの段を上がると衝ける高さになっております。そしてこちらもまた朱に塗られています。御本堂は内側も朱に塗られていたような記憶があります。その朱色が風雨にさらされて風情ある色に変わっているところが、なんともいえません♥
そんな朱色と緑色を基調とした御本堂、たいそう細やかな彫り物がありまして、圧巻なのは御本堂一面にずらっと続く彫刻でありまして。なかでも御本堂の正面より左右の彫り物に対してはその名を示す案内までがつけられているほどで、向かってみぎてに『地獄之図』ひだりてには『極楽之図』がございます。
ただ背の低い私にはよくは見えず、あとで写真を見てみてもやはり背の低い高さからのもの、よく見えません (T_T)
ただ、白木に見えたこの彫り物、写真で見ると少し施されている彩色の名残が見てとれました。たしかに、この朱色の建物に白木の彫刻は少し違和感がありましたので、納得、であります。
屋根にあるという『一番』という文字も見えなかったし。
でもねぇお寺さんでオペラグラスもイヤだし、カメラを向けてズームすれば、見えるのでしょうが、それもどうかなと思う私。参拝、ですからね。(  ̄ー ̄)

そうそう、御本堂前には大きな錫杖が立ててありまして、その名も『ごりやく錫杖』。当然回してまいりました。


もう一度御本堂前にて手を合わせて、二番札所に向かいます。

No.108 20/06/17 20:28
旅人さん0 

二番札所。【真福寺】さん。

一番札所の納経所で、御朱印をお書きくださった方に「次にまわるのはどこなの?」と問われて、
「順番通りに二番の真福寺さんに行こうと思っています」と答えたところ、「車?」「はい┉」
「次の真福寺さんって道細いんだ。
あと、そこでは御朱印を受けられなくて、光明寺ってとこに行かなきゃならないんだけど、今、道がつながってなくてねぇ。だいぶ遠回りするようなんだ。道自体、車で通るのも結構大変だし。なんなら光明寺で御朱印を受けて遥拝するとかでもいいと思うよ。そういう人も結構いるし」┉‼

運転技術に自信のない私は、黙りこむしかありません。
でもね、夫は細道慣れてるから、きっと大丈夫!
近道しようとして農道に入り込み途方にくれた家族旅行も懐かしい。
┉どうかなぁ(;゜゜)ドキドキ。
夫「行ってみます」 やったあぁぁ♥ 

秩父のお寺さんはどちらも行きたかったけれど、ここは特に行きたかった一つだったので、遥拝とか言われたときのショックといったら┉。
とりあえず、時計を見ると十一時半。まず光明寺さんで御朱印をお受けしてからゆっくり真福寺さんで参拝させていただきたいと、運転もしもしないくせに指示まで出すというなんともいやなやつであります。そんな私に、二つ返事で「そうだね、それがいいかもね」
┉もしかして私、結構いいひとと結婚したのかも?
ま、そんなことは口が裂けても夫には言いませんけどね。( ; ̄ー ̄)

そんなわけで、光明寺さんへまずは参拝を。
こちらも由緒あるお寺さんでありますが、境内も建物も新しいものであります。参拝をして┉真福寺さんと光明寺さんの御朱印をお受けして。ふと見ると、「アヒルが逃げ出すので扉をお閉めください」という貼り紙が( 。゚Д゚。)

ア、アヒル?アヒルがいるの?
お寺さんに?
よく見るとご住職さま、かなり大きな水槽の掃除をされています。
動物好きの夫婦はもうそわそわです。

No.109 20/06/18 16:52
旅人さん0 


アヒルに気をとられて、珍しく境内を巡ることもなく過ごした秩父、【光明寺】さん。
実はこちらのお寺さん、由緒あるお寺さんで、なんでも【真福寺】さんが【二番札所】にして秩父巡礼三十四番目に観音霊場となったのも、光明寺さんの末寺であったことも理由の一つだっただろうと言われるほど、由緒あり格式があるお寺さんなのだそうであります。

【光明寺】さんの発祥は、桓武平氏の始祖となった高望王(たかもちおう)の弟君である恒望王(つねもちおう)が、平安初期の大同二年(807年)当地で逝去した屋敷跡に、王の冥福を祈った祈願所の光明庵から始まったのだといいます。

鎌倉時代までは大変栄えた光明寺さんは、南北両上杉の抗争に巻き込まれ秩父谷が疲弊し光明寺さんもまた衰微してしまったのだそうです。
その後戦国時代の永正十四年(1517年)中興し、天文元年(1532年)寺域が現在地に移されたのだそうですが、
小田原北条、
甲斐武田、
越後上杉
の抗争でまた秩父谷が衰微し、光明寺も衰弱してしまいます。
天正十五年(1587年)郷党により、地元の荒船家の次男で龍穏寺十五世住職となった朝谷是暾(ちょうこくぜとん)禅師を迎えて伝法開山し、これより連綿として現在に至っているのだそうです。
うーん、聞いてはいないけれど、歴オタ夫に聞けばそれはそれはわかりやすく解説してくれそうな気がする、いかにも夫が好きそうな話です。( ;-`д´-)



秩父観音霊場の寺院はすべて、【武甲山】をとりまき建っているのだそうです。
光明寺さんは、南面して【武甲山】と相対している事から山号を向嶽山と称しているのだそうです。



そんな【光明寺】さんは秩父谷随一の格式を持った寺であり、『真福寺』(札所二番)、『常泉寺』(札所三番)、『金昌寺』(札所四番)、『福蔵寺』、『秀林寺』の五寺が光明寺の末寺であったのだそうであります。
秩父観音霊場に三十四番目の観音霊場をつくって、【四国三十三ヵ所】、【坂東三十三ヵ所】と合わせて【百観音霊場】としようという話になったとき、この由緒ある別当寺の光明寺の隆盛もあり、もともと【大棚観音】ということで古くから信仰を集めていた【真福寺】さんが三十四番目の観音霊場として選ばれたようです。

No.110 20/06/19 02:48
旅人さん0 

【真福寺】さんは観音堂イコール御本堂。

その観音堂の厨子のなかにおられるご本尊聖観音菩薩さまの御像はかつて『鬼丸』と呼ばれた洞窟に安置されていたものだといいます。
真福寺開基であります【大棚禅師】はその洞窟に住んでおられたようです。
そこへひとりの老婆がたびたびやって来て観音さまに礼拝するのに気づき、ある時老婆にその訳を尋ねたところ、
「自分は悪行を働いてきました者であります。観音さまと結縁していただき、この鬼畜の身を脱したいのです」と語ったのだそうです。
そこで禅師が老婆のために戒を授けると、老婆はたいそう喜び、竹杖を布施していずこへともなく消えたのだそう。
禅師はそののち、観音像を祀る堂宇を建立し、観音さまの霊跡としたということであります。

┉そう、その老婆に自分を重ね、私のように穢れ多き身をもお救いくださる観音さまに、ぜひ参拝したかったのであります。

その老婆が残したという竹杖は今なお光明寺さんに寺宝として保管されているのだそうです。


観音堂は無人のため堂宇の扉は閉ざされており、向拝させていただきました。
観音堂に向かうつづれ折の石段の傍らには古い石仏さまが静かにたたずんでおられました。その中の一つに小さな洞穴に衣を着たお地蔵さまがおられました。もしかしたらこれは大棚禅師さまのお姿を偲んでのものだったのかもしれません。
観音堂のある境内は静かな大変居心地のよい明るい空間でありました。心が穏やかになりますここにはきっと、今なお大棚禅師のすべての民を救おうとする思いが残っているのでしょう。


┉大変な道を運転してくれた夫のおかげであります。ありがたいことです。ここでお礼。┉まだまだ修行の足りない私であります。

No.111 20/06/19 06:36
旅人さん0 

新型コロナウイルス感染症をCovid-19というようで、まあどちらも長いのでコロナで通していますが┉。

罹患して命を奪われた方々。
死に直面し大変苦しい症状を乗りこえ治癒された方々。
自ら命の危険を侵していることを自覚しつつも罹患された方々の治療に介護にあたられておられる方々。
そんな方々に向けられた、コロナに罹患することを怖れるあまりに起きた差別。

でもコロナの恐ろしさはそれだけではなくて┉。

外出自粛であったり、営業を見合わせるよう国から指示される職種の方々は仕事が存続の危機にさらされ、実際に職をなくされた方々の多さといったら┉。

わが家にも影響は大!でありまして、まさに風前の灯のような┉見守ることがつらい職種の子どももおれば、あの大流行の最中の東京へ仕事に向かった子どももおりました。
コロナ禍において、生まれて数ヶ月の乳呑み子をひとりで守る娘にもまた母である私は胸を痛めております。
夫はテレワークと出社をランダムに繰り返し、忙しそうな夫、大変そうな夫の仕事ぶりを今さら、ではありますが知った妻であります。が、そんな忙しさとは反比例して、給与が15%減給だの、ボーナスしかり、年金の掛け金まで一桁変更されるといった大ダメージがありました。
それがこの一年と限定されるならばまだしも、先は見えず、コロナと付き合う形での新しい生活スタイルを模索しながらの日々となる┉。

輸入食品が入荷しないことから、自給率の低い日本は食品の価格がすでに高騰の予感を感じさせています。


今日も夫は、本人の仕事は忙しいにもかかわらず、一斉休業。
雨の休暇です。
昨日、休みだった私は大きな書店で【真田道を歩く】という本を買いました。夫に教えてもらったことを復習する参考書として┉といったら格好はいいですが、またまた、写真の多い本。¥1.200。
それでも夫に置いていってみようかな。


本当は、私のようにムダ遣いしている時ではなく、節約して貯金して、断捨離することこそが大切な時代なのですが┉。
そこが課題の私。
巡礼も純粋に物欲ではなく、巡礼として必要なものを見きわめなくてはいけないのではありますが┉。


┉大きな課題であります。(;ω;`*)

No.112 20/06/20 04:33
旅人さん0 

第三札所【常泉寺】さんは、田園風景のつきあたりに、穏やかに微笑むように待っていてくれます。
麦科の植物の広がる大地の中、ただお寺さんに向かうための一本道を進んでゆきます。お寺さんに近づくにつれ沼というには小さいのか、池というには手が加わっていないというか┉この年まで生きてきて、沼と池と泉の違いもわからないようなやつですみません。
本当に自然な感じで、カヤが生え、その中に色を放ってかきつばたと赤いポピーが咲いて、その水の中には鯉の泳ぐ姿を見てとることかできます。
その風景のなかにいるだけで心が穏やかに、晴れ渡る感じであります。

お寺さんの入口は新しい石でできた仁王さまがお護りになっておられます。
境内にはいると、まさに真正面に御本堂。
御本堂の濡れ縁には『子持石』が、まるで小さなお仏段のような厨子のなかにちょこんと
安置されています。おそらくは自然が生んだ偶然で幼子を抱いた人に見える石であります。子どものすこやかな成長を願い、子宝を望む人々に撫でられつづけその表面はツルツルとし、光り輝くようです。

また、御本堂の前には手押し式のポンプの井戸があります。これはまさにこのお寺さんの名前の由来となった物なのだそうで、この井戸の水は干ばつでも干上がったことがないということであり、また、昔ここに住む僧が病の折りにこの井戸の水で服薬したところ、まもなく快癒したのだとか。それ以来土地の人も病気になるとこの井戸の水を用いるようになり、いつしか『長命水』と呼ばれるようになったのだそうです。
┉残念ながら、現在は飲めません。手押しをしても水がでません

御本尊のお祀りされる観音堂は御本堂にむかってひだりての石段をのぼっていきます。その手前には不動池があり、池のまわりには紫陽花が固いつぼみをつけていました。わが家の庭に咲く紫陽花はほぼ満開。秩父の方が少し遅れて花の時期を迎えるようです。また、池の蓮もまだ葉をひろげだしたばかりでありました。
池の周囲には石碑や石仏がおられました。
その中の一つ『不睡石』と書かれた石碑。こちらは眼病治癒を願うと叶うというものであります。

No.113 20/06/22 00:14
旅人さん0 

【常泉寺】さんの観音堂は石段を登ると横向きに建てられています。
その観音堂さんの前に立つと、なにやら『気』が変わったと感じます。
庫裏や御本堂の建つところから不動池のところまでの、同じ高さのところで感じていた「穏やかでやわらかいもの」におごそかな気が加わった、とでもいう感覚。思わず姿勢を正し、大きく息を吸い込んでから、あらためて歩を進めて【観音堂】の前に立ちました。

ちなみに、私に霊感があるとかいうことは全くなく、動物的な本能も削ぎとられた、ただの普通のおばさんであります。


【厄除観世音】と書かれた額が掲げられています。こちらの御本尊は聖観音さまであります。般若心経をお唱え申し上げ終わるか終わらないうちに
参拝を終え
「すごいねぇ。秩父神社さんの建物を移築したというけれど、見事な彫刻だねぇ。」としきりに興奮して語りかけてくる夫。
そう、秩父神社さんにあった『薬師堂』を移築したものなのだそうです。
夫が感心するだけのことはあり、労を惜しむことなく、ただひたむきに御仏が住まってくださることに感謝して、彫りつづけたものなのでしょう。鳳凰の羽の先、爪の先。龍の眼光の鋭さ。
細かく細かく彫られています。薄く!鋭く!
どうして折れてしまったりしないのか不思議なくらいの細やかさであります。
しばしその彫り物を楽しませていだだいたあと、再び鰐口をつく。
なぜならば「外で作業をしておりますので、御朱印等ご用のかたは観音堂の鰐口をたたいてお知らせください。」と書かれていたものですから。鳴らす。
┉まるで反応がありません。ん?

何分か待ってみますがやはり無反応。うーん(゜゜;)

ダメもとであります、庫裏へむかってみましょう。


No.114 20/06/23 22:43
旅人さん0 

庫裏に向かうと、朱印所の受付があり、ソーシャルディスタンスのためのビニールカーテンが設営されていて、呼鈴が設置されていました。
これは┉(゜゜;)
きっと作業と作業の間に、なにかのご用事で席を外され、またその作業に戻られる合間に私どもが参拝に訪れたのでありましょう。
まよわず呼鈴を押して、御朱印をお受けいたしました。


さわやかで心洗われる田園風景のなかを戻って、第四番札所であります【金昌寺】さんに向かいます。
金昌寺さんに向かう道は、夫いわく、くねくねとして細く、しかも分かりづらい、大変な道だったと。助手席でのんきにしていた私は実はあまり記憶がなく、私は人の手を借りて初めて参拝できるのだなぁと
あらためて思い知らされ、感謝いたしました。
【金昌寺】さんは、私に秩父に行きたい、と思わせたお寺さんの一つです。こちらは【子育て観音】と呼ばれる石仏がおられるお寺さんでありまして、その美しさと言ったら┉。子どもに乳を与えている姿をされていて、それはそれはお優しい横顔であります。いつか必ず自分の眼で拝したいと願っておりました。憧れの石仏さまのおられるお寺さんであります。
夫にとってはようやくたどり着いた金昌寺さん。広くて立派な駐車場であります。さあ、いざ金昌寺さんへ┉。
┉大きな大きな朱塗りの山門に大きな大きなわらじが一足掛けられています。
ん?
ん、ん?
私の勝手なイメージとはまるで異なったお寺さんであります。とはいえ色褪せた朱塗りの仁王門は、ところ狭しと貼られた千社札が独特の風情を醸し出しています。
わらじにはどんな意味があるのでしょう、ん?な、なんとわらじには数たくさんの一円玉が┉。?

門をくぐります。
こちらの仁王さまは、この門を通ると必ず目を合わせます。、目の合う高さでお立ちになっておられ、しかもそれがなんともフレンドリーに、まるで『来たな』『よく来たな』
とでもおっしゃっておられるかのよう。向かって右側の仁王さまにおかれてはまるで爽やかに笑っておられるようにしか見えないのであります。






No.115 20/06/24 16:12
旅人さん0 

こちら【金昌寺】さんは、石仏の寺。

私にとっての秩父巡礼のバイブル的な【秩父三十四ヵ所めぐり】には、あの朱塗りの、大きな草鞋が掲げられていることも、写真入りで載っているのですが、なにぶんにも石仏好きの私の頭には『慈母観音イコール子育て観音』さまと『石仏の寺』しか残っていなかった。
(ーー;

しかもどこから語ったらよいのかわからないほど、いろいろ┉お寺さんの由来であったり、御仏の数々であったりと、私のような国語すら上手く使いこなせていない者にとって、どれだけの文字数を使えば、人様に伝えることのできる文章になるというのか。
どんどん日が経つにつれ記憶が薄れゆくという恐怖もあって、気ばかりが焦っている私であります。

とりあえず、門をくぐりましょう。

門をくぐるとすぐに、御手水鉢が目にはいります。竹の筒を通して水が絶えず流れ込んでいます。長方形の鉢の上には石が組まれて、その上に合掌され、足をお組みになり座られた石造の観音さまがおられます。鉢に鉢には斜めに細い竹が三本わたされ、柄杓が二本置かれています。そのわたされた竹の端に白い花とピンクの花が綺麗に添えられていました。そしてその鉢のすぐ脇に石段があるのですが、┉すでにもう、驚くほどに石仏が石段の脇に並んでおられるのであります。石垣の上にも、ソーシャルディスタンスもとらない距離で並ばれて、さらには石垣の組まれた向こう側には前後二列に並んでおられます。
すでにして圧巻。
しかも石段を登っていくと境内の山の斜面すべてが石仏で埋め尽くされている光景。思わず息をのみます。その数1300余体と言われています。
この石仏群は江戸時代、秩父を襲った飢饉に由来するのではないかとも伝えられます。そう、あの天明の、浅間山の大噴火によって秩父にまで大量の火山灰が降り積もり、作物を枯らしおこった大飢饉、であります。今でも洪水などが起これば谷間から石仏が発見されるのだと、お寺さんの資料にはあります。三千八百体作られたと伝えられているようでありますので、そのようなことも不思議なく思われます。
その像造年代が、わかるもので天明~寛政(1781~1800)、まさに浅間の大噴火による大飢饉のほか、江戸での大火も、大洪水も、その頃に続発していたようです。





No.116 20/06/24 17:58
旅人さん0 

一言で千八百体余の石仏、と言われても実感がわかないのは、実際にその数を事前に知りながら、金昌寺さんでその石仏群をみて言葉を失うくらいに衝撃を受けた私でありますので、わかります。
ましてや私のいたらない文章からでは、まったくイメージがわかないことかと思います。
しかもその並んでおられる石仏は、となりにおられる石仏とまるでお顔も、それどころか御仏自体が異なっているのです。
お地蔵さまのとなりに観音さまがおられたり、阿弥陀如来さまがおられればお釈迦さまもおられます。
お立ちになっておられる像もあれば、座像もございます。大きさもさまざま、お姿もさまざまな石仏が千八百。


まずは大きな大きな石造の十一面観音さまが小さなお堂のなかにおられます。大きな石仏はこちらの御本尊が十一面観音さまである関係からなのか、やはり十一面観音さま。
いまではたしかに見受けられる大きさではありますが、ひとつひとつを手で彫りだしていくこの時代のものは、圧巻であります。
邪鬼の上に四角い台座が置かれているのですが、その台座にはくっきりとした牡丹が浮き彫りされています。さらにその上に唐獅子がいて、雲を模したものの上に蓮華座があり、その上に観音さまがお立ちになられています。
光背には金色で彩色が施されています。御仏と下の台座が少し色が異なっているので、もしかしたら下の台は後付けされたものなのかもしれません。御仏にも彩色がされていたのか?と思われる色の変化がみてとれます。

そのお堂をあとにして歩くと、さらに増える御仏の像。
うーん。斜面にも御仏の像がソーシャルディスタンスをとることなく御立ちになっております。密、であります。

さらに進むとまたお堂があり、そこには【亀の子地蔵】と呼ばれるお地蔵さまがお立ちです。こちらも朱塗りの祠であります。
蓮華座の上にガメラのようながあぁと口を開けた亀がいて、その上に六角の台座があってまた蓮華座があり、その上にお地蔵さまがお座りになっておられるこれまた石仏であります。
もともとはそのがあぁとした亀の口から噴水が出ていたようですが、
もといた場所にあった菖蒲池がなくなったことからなのか、現在地に移り、いまでは亀も静かにお地蔵さまと観音堂を見守っております。
こちらのお地蔵さまは江戸時代寄進して以来、個人がずっと先祖代々維持をしているのだそうです。

No.117 20/06/25 11:26
旅人さん0 

亀の子地蔵さまの祠からは、観音堂の側面が見えます。緩やかにカーブして登っていくと、観音堂の前にもたくさんの石仏が並んでおられます。

観音堂の前に┉ん?ん?奪衣婆の像が。
何故?
奪衣婆は三途の川原にいるはずで、観音堂の観音さまの前に悪い人が来たら衣を剥ぐの?
そもそも、このお寺の顔とも言って過言ではないであろう【慈母観音】とも言われる【子育て観音】さまよりもセンターをつとめていますけど。(゜゜;)

ま、まぁ、観音堂のなか、ではないし┉いいのかな?あり、なのかな?
いろんな方のブログとか見ても、そんなこと誰も触れていないし。
仏教にも寺院にも詳しくない私ですし。
もしかしたら、御本尊さまに御参りする前に慈母観音さまに行ってしまいそうな人間を戒める役割?そもそも奪衣婆にビックリして御本尊さまの前でそっちに気がいってしまいましたけど(ーー;

ともあれ、読経し納経して。慈母観音さまにお会いしにいきました。
慈母観音さまはその角度角度で表情が変わります。背面以外のすべての方向でお写真を撮らせていただきました。
慈母観音さまは、思っていた以上に現実的な、人間にちかいお姿でありました。手慣れた様子でお乳をあげ、右手で赤ちゃんの手をいじりながら赤ちゃんの顔をいとおしそうに見ています。赤ちゃんはお乳をひとしきり飲んだあとなのか、満面の笑みで右手でお母さんの手、左手はお母さんの左の乳首で手遊びしています。
まさにお乳をあげるお母さんと赤ちゃんの像、であります。髪型と衣で観音さまを形どったとわかるくらいに、自然な授乳の姿です。
寛政の時代、ここの御本尊さまの霊験を聞き、二十一日間の参籠祈願のち、念願の子宝に恵まれた者が、その感謝の意をこめ寄進したとも言われています。しかし、蓮台に、童児と、その四ヶ月後には妻が亡くなったことが刻まれているのだといいます。
また、隠れキリシタンのマリアさまにあたる像という説もあるといいますが、実際にはそのどちらともわからないようです。
歌麿が描いた画を、石工が精魂こめて彫ったとも言われているようでもあります。

No.118 20/06/25 16:57
旅人さん0 

お寺さんの【奪衣婆】は、Google先生に教えを請うたところ、江戸時代末期頃に民間信仰の対象とされたようで、奪衣婆を祀ったお堂などが建立されたようです。
民間信仰における奪衣婆は、【疫病除け】や【咳止め】、特に子供の【百日咳】に効き目があるといわれているようで、┉やはり、事前に下調べして行くことがいかに大切なことかをあらためて知らされました。
まさにコロナに効きそうなご利益であります。(;ω;`*)


慈母観音さまのお参り(写真撮影)を終え、観音堂の前にお立ちになっておられる石仏さまたちの尊顔を拝しながら、ふと観音堂のむかって右側に目をやると!
細い階段が上にむかって続いています。そしてもちろん、その両脇には石仏さまたち。観音堂の裏手にもびっしりと石仏さま。
うーん、これが千三百(一説によると千八百)と言われる石仏群像か!
観音堂の前におられる石仏さまは頭巾を被られた御仏や、掛軸のような物を手に掲げられておられる御仏、背中を丸めたご老人のような御仏とお一人お一人がそれぞれ個性をお持ちでありました。

その細い階段を登っていくとどうやら【奥の院】があるようです。
┉行かないだろう。
そして、私は、秩父観音霊場めぐりのご利益が早くもあらわれたのか、┉身体の中の悪いものを出してくださるような予兆がありました。
でも、婦女子がそんなことを口に出せない。(┉ご想像されている通り、決してそのようなレディではありません)
それを夫は、私が(珍しく)遠慮しているものだと(勝手に)解釈して、「行くよ」
手にした金剛杖をつきながら、元気よく階段を登っていきます。
うーん、まださざ波くらいではありますが、奥の院はどのくらいのレベルのものなのか┉。間違いなくトイレは遠くなります。
御仏に囲まれた道を歩いて行くのだから大丈夫!大丈夫だろう。
あとに続いて階段を登っていきます。

六角堂が見えてきました。こちらは新しい建物であります。
さらに先へと進むと┉‼
ずらーっと並ばれたお地蔵さまは、すべてが首がありません。息をのみます。
金昌寺さんで購入した栞を読むと、あの明治の神仏分離で、こちらさんは廃寺となっておられます。そのときの被害なのか┉。洪水などの被害でとれてしまったのか┉。掘り起こされたときにとれてしまったのか┉。
胸が痛んでただただ下を向いて歩いたものです。

No.119 20/06/26 08:52
旅人さん0 

┉延々と、首のない石仏が並んでいる光景。
下を向いてあるいたものの、もうさすがに途切れただろうと顔をあげること実に三度。それでもまだまだ続いていて┉、首を落とされた石仏さまがただただ並んでおられます。
いきなり気持ちが萎えてしまった、ある意味修行の道ともいえます。

それを┉首のない石仏がの延々と続く境内を、石仏さまを、
つらい、哀しいと思われて、首を奉納された方、修復を依頼された方がおられるようであります。しかし、何故か色の異なる石を使っていたり、大きさのまるで異なるお顔を継いであったりと、それはそれでなにも施さないでくださった方がいいのでは?と思われる石仏さまで。覆水盆に帰らず。


神仏分離で仏教に関係する物を排除しろという法律、それに従った人々。その他にも、なぜか地蔵の首をおとすとギャンブルに勝つといった、わけのわからない噂が流れ、そんな関係もあっての被害もあったようです。
ほんの何年か前には祈りをささげ、つらいときに頼っていた仏さまに対して、どうしてそんな仕打ちができたのか┉。
そんな人間の罪深さを、石仏群像が、語るともなくただただ並んで立っておられます。
┉現代の技術をもってすれば、何なり自然な形で復元はできるかとは思われます。
でも、おそらくこれがこのお寺の歴史、なのでありましょう。

神仏分離のとき、こちらのお寺は本堂を売り払い、無住となり、廃寺となっています。それでも人々は石仏の金昌寺といい、訪れる者があとを絶たなかったのだそうです。
こちらは現在も無住の寺であり、なおかつ、檀家は一軒も存在していないお寺であります。かの光明寺さんが、こちらもまた山主を兼任されているようです。 

秩父札所となっているこの寺院を支えているのは、この地域に住む信徒の方々であるのだそうです。

茅葺きの屋根派腐朽の早いもので、なおかつ葺き替えにかなりの費用がかかるものだと、茅葺きの山門をもつ寺院の御住職がこぼしておられたほどです。どれ程大変でありますことか。
石仏が倒れれば起こし、谷間に落ちれば拾い上げて安置する。
すべてがボランティアです。
ありがたいことです。
愛され大切にしていただいて今があることも、千体を超える御仏は
すべてをご存じであります。

No.120 20/06/27 04:11
旅人さん0 

奥の院は洞でありました。
洞のなかには弘法大師さまの石像がお祀りされており、大師さまがすぐに布教に旅立てるようになのでしょう、履き物の石像が添えられているというのですが、あとから供えられた同形の量産品の小さな仏像がたくさん並んでいて、私からは確認できませんでした。

弘法大師さまの周りにはまた、古くからの石仏がたくさんおられましたが、なにぶんにも洞の中でもありよく尊顔までは拝することはできませんでした。
奥の院の洞の上には樹がそびえているのですが、祠の入口をまるで守ろうかとでもするように、幹が大きく『し』の字を描くように一旦垂れ下がってのち、また、上にむかって伸びています。そのさまが、なんとも神秘的であります。

奥の院参拝のご利益も加わって、私のおなかの悪いもの、不要なものを体外に出そうとする力がさらに強まったものの、それでも御仏の御像を拝しつつ、下に下ります。

奥の院前から、異なる道で下りていく別のルートの道の石仏はほとんどお首を切られた石仏はおられませんでした。

なんとか無事に山門まで戻ることができました。山門を石段の上から見ると、ここにもまた、びっしりと石仏が並んでおられます。さすがに遠くてそのお姿をよく拝見することはできませんでした。

山門を抜けて。


御朱印所にむかいます。なかには二人の女性が詰めておられ、御朱印はそのうちのお一人がお書きくださいました。

No.121 20/06/28 00:44
旅人さん0 

第五札所は、第四札所からさほど遠くはない場所にあります。
何やら話をしていて、話の途中で着いてしまったくらいに近かったよう記憶しています。ただ駐車場がほとんどない。
ここに停めてもいいのかなぁ?┉という場所が、道路を隔てた反対側にありまして、そこに停めさせていただいて┉。

駐私たちのほんの少しあとを巡礼して廻られておられる、私たちより少し年上のご夫婦も、私たちの停めたところよりも少し離れた┉そこはダメなんじゃ?と思ってやめたところに大胆に駐車しておられたくらいですので。

第五番札所は【語歌堂】。
こちらはもともととお寺でなかった、観音堂であります。
それでも山門があり、お堂もやや大きめなものであります。のどかな田園風景のなかにぽつんと見えてくる朱塗りの山門。
その山門も立派なものです、が、┉うーん。山門の向かって右横に『掲示板 横瀬町』と書かれた大きな板が打ち付けられているではありませんか!なんということでしょう。
そして山門を護る仁王さまも┉!!
人の良さそうな、そこら辺にいかにもいそうなお爺さん、といった風情の仁王さま、なのであります。山門の篇額には【阿吽】と立派な文字で書かれています。さらにもうひとつ、山門の内側にも【仁王尊】と書かれた額が掲げられています。そんなにも言わなくても┉。

観音堂も朱塗り。ですがだいぶ変色して、もともと白木のものだったようにすら見える部分もあるくらいです。そして思い思いに縦横無尽に貼られた千社札。うーん。私はあまり千社札が好きでないので、残念に思うしかなかったのですが、夫はあれも含めての秩父の寺だと思うとのこと。
でも実はかつては憧れた千社札。夫は、今の私が申していることを当時は申しておりました。今では夫はむしろ千社札を始めたいとすら思ってもいたようで、月日の流れで人は変わるものだなぁと、我がことながら思いました。

納経して、読経して。
そんな自分がまだ恥ずかしいような思いでおります。

参拝を終え山門に向かうと、仁王さまの裏側には雷神風神が安置されておりました。これがまたユーモラスで。
こちらのお寺さんに伝わる伝承は実に美しいものなのですが┉ねぇ。  



No.123 20/06/28 10:39
旅人さん0 

第五番札所【語歌堂】にまつわる伝承はふたつ。

一つは、天台宗の高僧慈覚大師を篤く信仰していた、ここ秩父に住む者が、大師作と伝えられる准胝観音像をお祀りするために観音堂を建てたといったもの。その男は和歌の道を志していた。あるときこの観音堂に旅の僧が泊まり、夜もすがら男に和歌の奥義を伝え、明け方いずこともなく消えていったのだという。男は「観音さまが旅の僧に姿を変え和歌の奥義を教えてくださったのにちがいない」とよろこび、観音堂を語歌堂と名付けたというもの。

もうひとつは、信濃に一人娘と住んでいた老女がいたが、あるときいずこともなく娘がきえてしまう。老女は必死に娘を捜し秩父にまで到り、語歌堂の辺りで疲れ果ててまどろんでいると。まばゆいばかりの光の中娘を抱いた観音さまが現れたという。娘は悪鬼に拐われ、それを観音菩薩によって救いだされたという。
この霊験を聞いた里の人々は感激し、寄付を募って観音堂を再建したというもの。

秩父という霊場においては、それはすべて本当のことと思えてしまう、私であります。

語歌堂の御朱印は歩いてもすぐのところにある納経所の【長興寺】さん。ここ長興寺さんの御朱印は「面倒だからないんだよ」となぜか照れくさそうに話されておられました。
これから向かうことになる【明智寺】さんもまたこちらのお寺さんがが所管されています。江戸時代初期からのことといいます。
お寺さんの跡継ぎ問題が大変だったのは、そんなにも昔からのことだったのでしょうか。

No.124 20/06/28 11:52
旅人さん0 

このあとまわらせていただく六番札所【ト雲寺】さんは、ここからは少し離れたところとなります。七番札所の法長寺さんの大きな案内の看板を通りすぎての巡拝となります。
その程度の知識はあったので、夫に「なんだかここら辺は札所が要り組んでいて順番通りに行かないほうが能率的みたいなんだけど、どうする?」と申したところ、
「いや、巡礼だから、順番通りにまわろうと思う」という。
ふーん。

八番の看板も九番の案内板もみんなみんな通りすぎて。
この先に現代風の車での巡礼さんが訪れるお寺があるのだろうか?という場所となります。六番の案内板は┉見当たらない?
いやいや、ありました、ここ?
ええぇぇー!ここを入っていくのぉ?!
┉嘘でしょ?
無理だ、私では絶対無理だ。細い細い急カーブの登り。

やはり、巡礼は歩いてまわるものなのでありましょうか。( ω-、)
ナビを使ってなおもわかりづらく、なおかつ信じたくない細道、急斜面。
でも、秩父巡礼を少しでも調べると、この先もっともっと大変な難関な道があるようです。(`;ω;´)
頑張って、夫。頑張って、車。
┉これは私の愛車では夫の運転だってどうかな?

つ、着いた~!!

助手席で指を組んで祈っていただけの私ではありますが、┉着きました。夫よありがとう。
でも下りがあるからね。(`;ω;´)お礼はそのときね。
 
そんなこんなで到着いたしました第六番札所【ト雲寺】さん。
何度も通って、重ね印とか、密かに憧れていましたが、自力では来られない私では到底果たせないと、すでに六番札所で諦めの境地に到りました。

ですが、ここト雲寺さん、素晴らしい景色が広がり、風情のあるお寺さんであります。そして何より御住職のお人柄がお優しい。
ねぎらいのお言葉からはじまり、手渡した写経はいかにも尊いものとして恭しくお受け取りくださり、大切そうに屏風折りをしてお納めくださいました。
自己流の字で書くため、本来薄く書かれている経文とはずれまくっている私の写経ありますのに┉。
ひとしきりお話しくださり、御朱印をお書きくださいました。普段は御住職とあまり話すことのない夫も(┉たぶん妻がぺらぺらしゃべっているので御住職のことをかんがえ遠慮している )御住職といろいろ話をしておりました。
こちらでは栞とボールペンを買い求めました。ボールペンは書き心地バッチリであります。

No.125 20/06/30 02:11
旅人さん0 

秩父を訪れたこの日は薄曇りの天候。
せっかくの【武甲山】はうっすらとしか姿が見えませんでした。それでもここ、【ト雲寺】さんからの武甲山は最高です。思わずため息がもれ、しばらくここにいたいと思ったものです。
こちらの御本尊さまはもともとは行基上人(奈良時代の高僧で神通力があったといわれる)が、武甲山で感得した観音菩薩さまのお姿を刻んだもので、武甲山の山頂に祀られていたといいます。
その後、ト雲寺が現在建つ辺りにあったとされるとが池という池に棲む大蛇を退散させるための祈願が行われ、観音菩薩さまの霊験があったため、池を埋めて観音堂を建立し、武甲山から本尊を移したというのがはじまりのようです。
その観音堂が【荻野堂】、でもともとはト雲寺は別当寺であったようです。そう、あの五番札所の【語歌堂】における【長興寺】さん、のように。
ところが荻野堂が焼失してしまい、1760年頃、現在のト雲寺に遷座して現在に至るようであります。

そのかつてあった荻野堂が、第五番札所と第七番札所の巡拝路の途中にあったいうことで、この観音堂(荻野堂)がト雲寺に遷座したことで、現在のようにいりくんだ巡拝路となったそうです。

ト雲寺さんの境内を抜ける爽やかな風にふかれながら、いつまでもここにいたいと思う気持ちをおさえて┉まずは超難関クラスの下山、であります。┉もちろん夫の運転によります。


次は第七番札所の【法長寺】であります。

No.126 20/07/01 07:40
旅人さん0 

いま来た道を戻って┉いままで走行した道のなかでも指折りの走りづらさの道を戻って、さらには通り越してきた道を戻って、第七番札所【法長寺】さんに到着です。もちろん夫の運転であります。

もちろん運転免許証ももち、仕事に向かう際自動車出勤をしていて、図々しいとか申し訳ない、とか思う思いはあります。あるのですが、自分でも下手な自覚があり、子どもたちのお墨付き。
たぶん山道を行くような道幅の細すぎな道とか、悪路とか、坂道、カーブ、┉【まさに神社仏閣めぐり】、【巡礼】にはこれほど不適な存在はいないであろうと思われる存在でありまして┉( ω-、)
子どもたちの住むアパートくらいなら遠くても、そういったことのない道を走るので、私が運転することもあります。
そんなわけで、この図々しいおばさんは夫に運転を任せて、この日も全行程、助手席からの支援に(なんの?)あたるのでありました。


法長寺さんは住宅地を抜けたところに突然広いよく整備された駐車場と、大きくて新しい御本堂の屋根が見えてきます。いままでの巡拝させていただいてきたお寺さんとのギャップに戸惑うくらいであります。
その広い駐車場の向かってひだりてに、なんとも贅沢に、天然の絵画、天然の写真を展示でもしているように感じるくらいに、武甲山の全貌が見えるではありませんか!
なんと贅沢な空間、駐車場でありましょう!
とはいえいつまでも駐車場で武甲山の景色を堪能している時間はありません。
いざ、法長寺さんへ。(駐車場も法長寺さんの地所でありますけど、ね)

広くて手入れの行き届いた(決して他のお寺さんがそうではないという意味ではないです)、開放的な境内であります。そして御本堂もまた大きく新しいもののように感じます。
御本堂には入ることはできず外からの奉拝。二月十五日の涅槃会には御本堂が開放され巨大な涅槃図を拝することができるようです。
ここの御本堂は平賀源内が描いた原図をもとに設計されたといわれているようで、欄間にも源内の原図をもとにしたとされる彩色の彫刻が施されているようです。

ここの御本堂前には、あのよく見かける黒石の撫で牛がおり、さらにはもう一体、いわゆる一般の石仏の石で造られた牛がおります。

No.127 20/07/01 19:50
旅人さん0 

【法長寺】さんに牛の像。
法長寺さんの別名が【牛伏堂】であるということで、当たり前といえば、あまりに当たり前なことで。

牛伏堂といわれる由緒はふたつあるのだそうですが、
そのひとつは、このお寺さんの御本尊十一面観音菩薩像は行基作と伝えられるものなのですが、行基が観音像を奉安する地を求めて巡錫していたとき、その観音像が急に重くなり、その地に置いて回国の旅にでたのだといいます。月日が流れ、牧童が数名草刈りに訪れた地に牛が一頭現れ伏して動かなくなったのだといいます。
不思議に思い、牧童らはそこで一夜を過ごしても牛の行方を見守ろうとしたところ、夜半に十一面観音が現れ、
「ここから坤(ひつじさる)の方角にわれを祀れば、罪深い衆生を救おう」とお告げになられたのだとか。夜が明け、牧童らが草を分けて探したところ十一面観音菩薩像を見出し、お告げのとおりに草庵を結んで観音像を祀ったというもの。
もうひとつは、ある男が生前の悪行によって死後畜生道に落ち苦しんでいたのだといい、その姿こそが『牛』であったようです。その事を知った妻子が仏に帰依し、男の墓を参ると霊験によって男が畜生道から逃れることかできたのだというもので、その男の墓こそがのちに第七番札所に列することとなったというもの、なのだそうです。
もともとの牛伏堂は現在地から600メートルほど離れた位置にあったが、天明二年に火災により焼失します、本尊は別当寺であった法長寺に移され、そのまま法長寺が札所になったのだそうです。
本堂の前にいる黒い牛よりも、本堂から納経所に向かう途中の植え込みの前にある、白っぽい牛の石像が私は好きでありまして、こちらの牛は膝を折り座っているものの、前をしっかりと見据えて何かを訴えているような顔つきで、その顔立ちがなんとも可愛らしいのであります。

こちらの授与品のひとつに根付けの鈴に牛と、秩父札所第七番法長寺と書かれた木札のついたものがありました。物欲とのたたかいにみごと打ち克ち、法長寺をあとにした私でありました。

No.128 20/07/03 08:24
旅人さん0 

御朱印ブームに慢心しているのではないか?と思うお寺さんが存在しているのを知りつつもあり。また、ある時期限定で境内の景観を拝観料として切り売りし、法外な駐車場料金をとると話題になっているお寺さんもあり、眉をひそめる一人であります。
拝観料一人二千五百円、駐車場料金一台千円。
御本尊に背を向け、奉拝することもない、あくまでも景色だけを楽しむもので、宗教色は一切ありません。
┉ですが、これは、価値観の問題です。
お寺さんもまた、新しい在り方を模索している『時代』なのかもしれません。それについて反論できるほど、私は仏教に詳しくもありませんし。
お寺さんの維持には思いの外お金がかかり、由緒あるお寺が廃寺となっている現実もあります。
好きか嫌いか。そこに至るだけなのかもしれません。


毎日お焚きあげして祈願していると書かれているお寺さんで、次ぐ日の午後、前日の分の護摩木が山盛のまま放置されているのを見かけ、ふとそこのお寺さんにはそもそもが護摩壇が存在しないことに気づいたときの虚無感は忘れられません。お寺さんを、住職を信じて護摩木を奉納した人々に嘘だけはいけないと思うのであります。
護摩壇がなくともお焚きあげはありえるのかもしれませんが、二日続けてそのお寺さんに行った私は、午後になっても自分の分が放置されていたのを自らの目で確認してしまったので、そこに不信感しかありません。
その日そのお寺さんは御朱印お休みの日。
行列のできるお寺さんで、その日は私の貸切り状態。
香炉すら存在しないお寺さんに違和感を抱かなかった、初心者🔰でしたが、そのお寺さんには今、不信感しかありません。
在り方を模索していることはよいですが、お寺であることを語る以上、何はなくとも嘘だけはやめていただきたい。
その後私はそこをお寺として訪ねることはありません。



閑話休題。

でありました。

No.129 20/07/03 18:42
旅人さん0 

再び、秩父路へ。


【コミネモミジ】と入力すると【西善寺】とでるくらいに、第八番札所の【西善寺】さんはコミネモミジ(カエデ)で有名であるようで。
西善寺さんの山門をくぐると、みぎてにその『コミネモミジ』がみえてきます。(んー、そんなに大きいのかなぁ?)
趣のある緩やかな下りのカーブの先に、御本堂がみえます。道を下っていくと石仏が何体かおられ、さらにはそのコミネモミジに向かって、石に腰掛け合掌する若い僧の石像がみえます。
わあぁっ。
そのコミネモミジの大きなに思わず声が漏れました。
大きい。
そしてその枝振りの見事なこと!
いま下って来た道には六地蔵さまがおられたようです。枝でお姿が隠れている上に、若き僧の石像に心奪われ、心の眼すら閉じていた?
とにかく、大きい。そして本当に本当に見事な枝振りであります。
御本堂にまずは行くべきところではありますが、その見事なコミネモミジに見とれてしまう。それはきっと私だけではないはずです。
新緑のコミネモミジの美しさといったら。
そしてその根元にその新緑を映したかのような苔が。
幹にも苔が生え、まさに今が見頃でありましょう!
そこから動きたくないくらい、、、でありました。
御本堂に向かって座る、観音さまの像にも苔が生えています。
はあぁぁぁ┉。なんと美しいことでしょう。
私だけではないはずです。この美しい樹に心奪われるのは。

おや?
コミネモミジの前に『こみねかえで』という立看板があるではありませんか!

ええ~っ?!

No.130 20/07/04 05:22
旅人さん0 


┉こみねかえで┉?

私の愛するバイブル的存在の本にコミネモミジと書かれており、コミネモミジと入力すると西善寺と出てくるくらい、なんですけど┉(;゜゜)

それをまた、ここに書き起こしてから(!)あらためて自分で撮った写真を見直して気づくという、迂闊さ、間抜けさに、いつも自分ながら呆れて自己嫌悪におちいります。

慌てて【コミネカエデ】と入力すると┉!
当然ながら、植物であるコミネカエデの植物図鑑的なページがダァーっと並んで出てまいります。(`;ω;´)┉そうだ、そうだったな。普通植物の名称を入力したら、まずこうなるのが普通だ。

バイブルを書かれた方はおそらくは”あえて„詩的な表現である『モミジ』をお選びになったんですね。カエデももみじも同じ分類学上の植物、で。
無知な私はその長めの(←?)名前を覚えるのに必死で、そんな高度な言葉選びがなされていることにすら気づくことがなかった( ω-、)




正式名称はコミネカエデ、だそうです。

カエデ科の落葉小高木で、葉は掌状で5~7に深裂し、裂片は重鋸葉を有し先端は尖っている。葉の長さは6~9cm、裏面の脈わきには褐紅色の毛が生えている。花は6つに咲き、実は約2cmで、5cm位の柄を有する双翅果である。

ちなみに、西善寺さんのコミネモミジについて書かれておりましたので、添付しておきます。

幹の周囲3.75m、高さ10m、枝張り東西17.5m、南北17.5mの樹勢旺盛な巨木である。樹種はイロハモミジ系とみられる。樹齢推定500年とも600年とも言われ、根張りも見事で、枝下は一面苔に被われ、さながら幽玄の世界を醸し出している。



┉『幽玄の世界を醸し出している』┉かぁ。φ(..)メモ

No.131 20/07/04 06:28
旅人さん0 

第八番札所西善寺さんは、そんな樹齢推定500年とも600年とも言われる、幹の周囲3.75m、高さ10m、枝張り東西17.5m、南北17.5mの樹勢旺盛な巨木であるコミネカエデをも、あくまでも境内の景観のひとつであることを、ここを訪れたすべての人が気づく、素晴らしいお寺さんでありました。

こちらにおられます阿弥陀如来さまと十一面観音菩薩さまのお力にございましょう。
さらにはコミネカエデもまた、自らの立場をわきまえた立派な霊木だからこそなのでしょう。


何度でも来たいと思う、お寺さんであります。

No.132 20/07/04 07:40
旅人さん0 

>> 131 第九番札所【明智寺】さんは特に駐車場もなく、さりとて山門も塀すらもない、十字路のかどにあるお寺さんでありました。秩父の大きなコンクリート工場がそびえ立つ姿が印象に残る、ある意味秩父らしいお寺さん、なのだと思います。
とはいえ、駐車場のないことには困ってしまいます。そこは図々しさだけが売りの困ったおばさんの出番であります。車から降りて、寺務所の外でお話しされていた方たちにお声がけし、境内に駐車していいことを確認したところ、
「御朱印もあるかな?あるなら先に預からせてもらって。そろそろ閉めようかなと思っていたんだ」

へ?す、すみません💦
時刻を確認しながらこちらに来たつもりだったんだけれど、失礼なことを。
慌てて納経帳を取りに行き、あらためてお詫び申し上げると、
「んー、平日で、だぁーれも来ないから閉めようかなって思っただけだから、ゆっくり参拝してやってください。」
あ、ああなるほど。
そうでした。秩父の巡礼のブログを拝見していると、寒い時季とかはそもそも閉門時刻が早まっていたり、まさに平日誰も来なかったりすると早くに閉まることがあると、みなさん異口同音に書いておられましたっけ。それもそのはず。
こちらに来て知ったことですが、ここ、秩父の観音霊場は無住のお寺さんも結構あって、その納経所は別当寺さんにうかがうこともあるけれど、むしろ地元の方々がボランティアで詰めて居てくださってそこを管理運営してくださっているところもあるくらいで。
だぁーれも来ない平日。そろそろ終わりでもいいかなっていう閉め方もありだと思います。

そんなありがたい方々に支えられての巡礼であります。

図々しいおばさんはそんなありがたい方のありがたいお言葉に甘えて、六角堂であります観音堂で、お灯明をあげ香を手向け、読経させていただくのでありました。


こちらはすべてが新しいお寺さんで┉。たぶん火災とかですべてがなくなってしまいお寺自体の復興がまだされていないのだと思われます。観音堂と地蔵堂と、寺務所としかなく、しかも囲いすらがない。
それでも境内には板碑がたくさんあるお寺さんでありました。

というわけで、この日の秩父巡礼は第九番札所明智寺さんでいったん終了。

今度はいつ行けるかなぁ。盆地であるところの秩父。夏は暑く、冬は寒いといいます。
うーん。
私の場合、運転手さんがいないと来れないし。



No.133 20/07/04 15:01
旅人さん0 

昨年のちょうど今頃だったか┉私だけ休日であった平日のある日、群馬県高崎市の小祝神社さんに参拝いたしました。その帰り道、ふと見上げたところにお寺の山門を見つけました。
寄ろうか?┉大きな通りの変則的な交差点のすぐそばで、急ハンドルをきるのもあぶなく、ましてやその高台にある山門に果して道が繋がっているかどうかもわからないのに、ナビもなく入り込んだら私のような方向音痴には遭難事故につながる危険もあり、その日は断念して家に帰りました。

家に帰って仕事から帰宅した夫に、「高崎の○○の帰りによく通る道のこういう交差点があって┉」
こういう交差点。それはなんと、フレミング右手の法則のような指で表したありえない表現による交差点でありました。
奇抜な言動には三十年も夫婦をやっていていい加減慣れているはずの夫も目を丸くして、( ´゚д゚)「はぁ?!」
┉すみません。もしかしたらわかってくれるかと思って┉。
フレミング右手の法則の交差点は高崎警察署のお巡りさんに聞いたって知らないと言われるだけでしょう。
私だけが知るまぼろしの山門。『こういうのの道のお寺』という名称で呼ばれて何ヵ月。


隙をみてはその謎解きに挑戦した夫が、ある日自信たっぷりに、
「こういうのの交差点のお寺、たぶん解った」
というではありませんか。しかし飽きっぽい私はすでに『こういうのの道のお寺さん』は幻のままでいいつもりになっており┉。
「こういうのの道のお寺に行ってみる?」何度か夫が問いかけてくれるものの、なかなか重い腰が挙がらず。(お尻?)┉ごめんなさいね。


先日、ようやく(夫の)念願の『こういうのの道のお寺』さんに行ってまいりました。

その正式名称は【龍廣寺】さんでありました。
龍廣寺さんは、徳川四天王の一人で戦国屈指の精鋭部隊「井伊の赤備え」として特に有名な【井伊直政(いいなおまさ、高崎藩初代藩主)】が開基の寺院でありました。
なるほど、高崎城跡のそばといえばそばでありました。
ということも、当日、高崎城跡にあたる辺りを車で走り、ここが高崎城のお堀だっただの、ここにはその後陸軍の基地ができ、だからほとんどお城の跡は残っていないだのを話してくれたガイド兼運転手兼じゃじゃ馬の手綱取りのおかげで知ったことですが。




No.134 20/07/04 15:51
旅人さん0 

龍廣寺さんは、こういうのの道のお寺さんと呼ばれるにふさわしく、慣れない者はナビを持ってしてもなかなかたどり着くのに再チャレンジをするようなお寺さんでありました。
そしてまた、お寺へ上がっていく道も、その先に駐車場があるのかもわからないというスリリングさ。またまたおばさんの出番があり、ようやくたどり着くことができました。┉車を降りて先を見てくるだけでしたけど。(*´艸`*)

駐車場の反対側にも墓所があり、そこにはロシア人兵士之墓という看板が設けられていました。墓所が奥まったところにあるのか地図の看板も作られており、墓所の入口にはロシア風(?)の石像が二体、入口を見守るように合い向かいに立っています。

御本堂へ。
大きな、さほど古くはないむしろ新しい御本堂が青空にそびえていました。
ひだりてには鳥居があり、立派なお社が建っていて、みぎてにはやはりたいそう立派な庫裏が建っています。
山額は横、かなり長めの文字が書かれております。
【耀増日佛扇永風皇】黒地に金の文字でそう書かれた額を二体のひとがたの小人のような(SD?)像が支え持っています。初めて見る形であり、初めて見る文であります。Google先生にお聞きしてみましょう。
『願はくは、皇風永扇・帝道遐昌・仏日増輝・法輪常転、 大旦那各々に身宮安泰・福寿綿延せんことを』という祈願文が出てまいりました。同じ文言が含まれていますが┉。
意味は『ひたすら願うことは、天皇の仁政が長く続き、天皇のご政道がはるかに栄え、仏の光明がますます輝き、仏法がいつも引き継がれ盛んになり、大檀家それぞれに身体の安泰と幸福長命が続くことである。』
お寺の御住職にうかがうことができればよかったのですが法事の方々がすでに集まって来ておられます。御住職のお忙しいお時間でありましょう。うーん。
そもそもがこの祈願文、基となった何かがあるのではないのかなぁ?
Google先生、今回は私にわかるようなお答ではないもっと高度な知識を持つ方に向けての回答をなさいました。

境内には古い石仏があり、以前の御本堂に掲げられていただろう大きな大きな屋根瓦があり。あやしく写真を撮り歩く男女ふたりがおりました。

No.135 20/07/05 09:48
旅人さん0 

あいも変わらず各々で境内を歩くスタイルで、私はお不動さまの石仏にたいそう心引かれる方がおられ、しばしそこで足をとめていたものですから、私が大きな梵鐘を見上げている頃には夫はだいぶ境内を歩いたらしく、
「こちらに【村上鬼城】のお墓があるみたいだよ」と。
すでにスマホの画面にお寺さんがご用意くださった鬼城のお墓までの地図が用意されています。ほおぉ┉。
御本人の眠るお墓のあるお寺の境内で、大変申し訳ないことに鬼城の句のひとつも頭に浮かんでこない私。かような者が参拝することを鬼城は望まないのではないのかなぁ。

(帰宅したらGoogle先生に学びますので、こうしてお寺にうかがったご縁であります、お墓参りをさせていただきます。)
と胸の内で申し上げながら夫のあとに続くのですが┉かなり難航しているようです。
静かに眠りについておられるたくさんの御霊に失礼ではと思うくらいに迷っております。そもそもお寺さんの境内で迷子って┉(((((((・・;) 
いったん戻って、案内板を見直して、見直して┉!
案内板のすぐそばに普通にあるじゃないですかぁ。
「あ、俺この案内板、気づかなかったわ。」
はあぁぁ、私の方向音痴菌に感染したのかと思った。

そんなわけで、決して広くはない墓所でたいそう疲れはて、もう墓所のなかを歩く(迷う)のはいいと、ロシア兵の墓にはお参りいたしませんでした。
ここに眠るロシア兵は日露戦争の折に、この近くにあった陸軍の隊が捕虜として日本に連行し、こちらのお寺さんに預けた方のうち三名、病死なされたということでここに埋葬されたものだということでありました。
また、あとでGoogle先生にお聞きして知ったのですが、陸軍の兵士の墓所もあるということであります。

高崎城の城跡に建っていたという陸軍の駐留所。
夫から聞くまでそんな歴史があったことなど露知らず、まさに名ガイドであるといえましょう。まぁ本人にはそんなこと言いはしませんが(〃艸〃)

No.136 20/07/07 05:26
旅人さん0 

コロナ禍において、恐れていたことがこんなにも早い時期から起きてしまいました。しかもその規模は目を疑い、絶句するもの。
九州熊本を襲った線状降水帯による大規模災害であります。
そこにおられた方々にとって まさに地獄のような状況でありましたでしょう。
しかもあの熊本を襲った大地震の爪痕はまだまだ復興にはほど遠いものであります、そんな状況下を天災は容赦なく襲った。
さらに降り続いている雨。

このような天災を起こすことのできる存在を、昔の人は神として畏れ、そしてまた救いを求めて神仏に祈る┉。その繰り返し繰り返しでこの地球という星は歴史を刻んできたのです。

それにしてもあまりに惨い。


私もまた祈ることしかできない。

離れたところからテレビの映像から目をそらすことなく。
実際にあの映像のなかにはあの光景を体験なさっている方々がおられることをしかと受けとめて、自分に今できることを考えて生きること。
それがなにかに┉よい未来につながると信じて生きていくことが、まずは私にできること。



コロナよどうか、せめてかの地では治まっていて。



No.137 20/07/07 18:27
旅人さん0 

先日、ずっと気になっていた【俵藤太】の墓という案内板のある場所へ行きました。夫も同様だったようで、今回は一度も口には出さなかったのですが、夫からそれを言い出したくらいで。

ところで┉、俵藤太という名前に聞き覚えはあるものの、たしか大百足退治をしたとかいうお伽噺の人ではなかったか?というくらいに、俵藤太についてなにも知らない私。
さすがにこのくらいは知っているだろうと今回は一切解説のない夫。

うーん。
お墓があるってことは実在の人物なのであろうなぁ。お墓に行けばきっとまた説明の案内板が出ているだろう。
そんな感じで歩を進めると┉お寺さんじゃないですか!
えっ?お墓っていうからお墓だけあるのかと思っていました。それくらい┉お伽噺になるかというくらい昔の人、ですよね。
ちゃんとお墓が現存するってすごい!


大きなお寺さんであります。
趣のある燈籠がある参道です。
山門があり、優しいお顔立ちの石仏がおられます。見上げるほど大きな仁王さまが山門をお護りになっておられるのですが┉迫力ある眼光と躍動的で筋肉モリモリの仁王さまであります。
群馬県伊勢崎市赤堀町にあります【寳珠寺】さん、というお寺さんでありました。

山門をくぐると大きな御本堂が目にはいってまいります。みぎてに立派な鐘楼があり、どうやらお衝きしてもよいようです。鐘を衝くのも大好きな私はもうそれだけでワクワク。
鐘をお衝きしてもよいお寺さんはどちらかというと少ないかと思いますが、鐘を衝くのは御本堂の参拝前、ということが決まりのようです。ためらうことなく鐘楼にあがってなるべく元気に鳴らす私。
私が衝いたあと、ゆったりとした足取りで鐘楼にあがって、静かに鐘を衝く夫。以前はお寺さんや近隣に気をつかって┉なのか鐘を衝くこともしなかったくらいでありました。
とにかく鐘を衝くことができるお寺さんではテンションがあがる私であります。軽やかな足取りで御本堂へ向かうと┉。 !




No.138 20/07/07 20:31
旅人さん0 

┉┉
井戸だぁ。
それも金属部分がなにやら新しくて、ポンプの持ち手の基にある部分には水がキラキラと反射するくらいにいっぱいにありまして。
これは、出る!
ポンプ式の井戸にもやたらと興奮する私。でも最近、古くて『触ってはいけない』という表示がされていたり、触ることはできてももはや水が出ないものだったりで、なかなか水の出るポンプ式の井戸に出会えません。子供の頃もポンプ式の井戸を見ると水が出したくてたまらないといった子供であったことはいうまでもなくて。

出たあぁ♡
そうはいっても井戸で遊ぶほどには非常識ではないのでご安心を。
ん?珍しく夫が井戸に軽く興奮しているようです。
「俺、ポンプの井戸初めてだ」
は? 嘘でしょ?
「うーん、水が出ているところを写真が撮りたかったなぁ」
┉大人な私はそんなリクエストに応えたりはしません。


だいぶ御本堂へ向かうのに時間がかかった参拝となりましたが、御本堂へ。

庫裏にうかがうと若いお坊さまが対応してくださいました。どうやら来客中のご様子であります。

御朱印帳をお渡ししてお待ちしていると、御住職がお越しになり自ら筆をおとりくたさるとのこと。お客さまがお見えなのに申し訳ない。
┉たぶん、お忙しくなければ、御本堂のなかにもご案内くださりそうでありますし、御由緒などもうかがえそうだったのですが┉御朱印をお書きいただけただけでもありがたいことであります。


さて、俵藤太のお墓参りであります。
やはりお墓までの地図が貼りだされております。墓所に向かうと、歴代の御住職のお墓のなんと多いこと!さすが俵藤太のお墓があるくらいのお寺さんであります。
俵藤太のお墓は┉?
え?もしかしてこれ?
これは┉お墓ではないのでは?
五輪塔であります。
お、【俵藤太の供養塔】との案内板であります。

市の案内板では墓という表現をされてしまっているものの、お寺さんとしては正式な名称でお取り扱いしたい、ということでありましょう。そんなお寺さんでありますので、俵藤太の説明書きなどは一切ありません。あくまでも普通にご供養されておられました。


こちらのお寺さん、大変居心地のよいお寺さんでありました。
鐘を衝けたからでも、井戸があるからでもありません。
通りかかった折にはまたお参りさせていただけたらなと思います。




No.139 20/07/09 06:36
旅人さん0 

いきなりの揺れに思わず読んでいた本を手離した。
ん?続く?
揺れだしてまもなく緊急地震速報が鳴り響き出した。
さらに揺れは続く。また少し強い揺れとなる。
収まって!

まだ寝ている人たちがいる。
すぐには動けない時間帯の地震は緊張感が走る。
すぐにテレビのスイッチをいれる。
決してよくはない行動だろうが、離れて住む子どもたちの地震情報をつい確認したくなる。
昨日の雨、強い風で横殴りとなった雨で、思っている以上の何かが建物や川で起きているかもしれない。

震度は3くらいだろう。

よかった。さらなる揺れは今のところこない。
よかった!昨日甚大な被害を被っている長野ではさほどの揺れではなかったようだ。
長野は昨年の台風でも大きな被害を受け、復興もまだまだの状態だ。



新型コロナウイルス感染症の見えない拡がりへの恐怖と。
異常なまでの雨量。
そして地震。


神さま、仏さま、どうか、これ以上の艱難はご勘弁ください。
お救いください。


今日も雨音の聴こえる朝だ。

No.140 20/07/12 21:09
旅人さん0 

群馬県桐生市の【観音寺】さんに参拝いたしました。
正式には【不老山 薬師院 観音寺】。

お寺の正式な名称は【○○山□□院△△寺】、となっていますが、こちらの御住職いわく、「『薬師院』というふうに如来さま由来の院号が使われていることは珍しいことなんですよ」と。たしかに、こちらのお寺さんのお名前にはお薬師さまと観音さまが使われています。
感心して「はあぁ┉」と思わず声を漏らすと、すかさず御住職さまがおっしゃいました。
「御本尊さまは薬師如来さまで、本堂には不動明王とお地蔵さまがお祀りされているんだけれど、うちには観音さまがおられないんですよ。観音寺を名乗っているのにね」
御住職さま、なんだかうれしそうであります。

「うちのお寺は江戸時代に火事で御本堂もなにも火事で燃えてしまって、山門だけが残ったんだよね。その頃にはもしかしたら観音さまがおられたのかもしれないんだけど、みんな燃えちゃって、その辺はもうわからないんだよね。」

観音さまのおられない観音寺さん。
御住職の茶目っ気たっぷりな横顔に、このまま観音さまのおられない観音寺さまであり続けてほしいと思った私であります。


江戸の時代から残るという、山門は茅葺きのもの。

「茅葺きはねぇ」と一転して難しそうなご住所さまのお顔。
「茅葺きは実に管理がむずかしくてねえぇ」
「茅葺きはねぇ、あの東日本(だいしんさい)の時の津波やら、放射線汚染やらで茅も手に入らなくなったし、職人さんもいらっしゃらなくて、なかなか修理までにいたらなくて」
そ、そうなんだあ。


山門前には仁王さま┉ならぬお地蔵さまがお立ちになられています。
台座を含めると、私の背より高いお地蔵さま。お優しいお顔立ちであります。
その山門をくぐると、甘い香りが漂っています。
え? どこから?
見上げるとようやく見える高い枝に、白い花が咲いています。
「タイサンボクなんですよ」と御住職さま。「木が大きすぎて見えないんですけどね」
「私タイサンボクって初めて見ました」
「いやぁ、よくある木なんですけど、ね。ただこんなにも大きな木はあまりないかもしれません。」
┉タイサンボク、中学時代の国語の教科書にでてきた詩にありました。


No.141 20/07/12 21:32
旅人さん0 

観音寺さんの庫裏のすぐ横には【沙羅双樹】ナツツバキが二本。
その横には弁天池があり、今、ちょうど睡蓮が花の時をむかえていました。
御本堂の前には大きな垂れ桜の木があります。その垂れ桜の木の下には古い石仏が微笑んでお立ちになられています。
私はその石仏さまを観音さまだと思っていたのですが(^_^;)

「いつでもお越しください」とおっしゃってくださる御住職さま。


こちらは天台宗。天台宗は般若心経をお唱えなさらないのだとか。
天台宗は法華経をお唱えするのだそうです。
うーん、やはり、まだまだ仏教も入門前の超初心者、です。

No.142 20/07/14 06:33
旅人さん0 

群馬県太田市の【曹源寺】さんは、栄螺堂として有名なお寺さん。
最近では月替わりの御朱印でも有名であるようです。

曹源寺さんは江戸時代に本堂が火災に遭い、その後、造られた観音堂を本堂としています。
さざえ堂は、江戸時代中期に普及・発展した『百観音 信仰』を背景に、関東・東北地方に限って建造された三匝堂(さんそうどう)のひとつです。外観は重層の二階建に見えますが、内部は三層になっています。
堂内には秩父、坂東西国の観音札所計百ヵ寺の観音像を安置し右回りに堂内を一方通行で巡拝できることから「さざえ堂」の名があります。

今回、コロナ禍において長いこと拝観も中止され、有名になっていた御朱印も書き置き対応であったものがようやく、外出自粛解除を受け、拝観可能になってから初めての参拝です。
とはいえ、近くを通りかかった折には参拝させていただいておりましたし、もともと本殿のなかに入れないお寺さんの方が大多数ですので、あまり拝観できないことには違和感がありませんでした。月替わりの御朱印もお受けしていなかったので、普通の参拝ができなくなった感の方が強いかもしれません。

ここ太田市は【中島飛行場】という、飛行場関連の工場があったため第二次大戦中の被害が甚大なところであったようですのに、ここはその被害を逃れることができたのだなぁと、今回、青空にそびえ立つ御本堂を見上げ、あらためて感謝とも感動ともつかない思いをいだきました。
この日曹源寺さんに到着したのが十五時半をまわっており、そもそもが拝観できるできないにあまり関心がなかったので十六時までという拝観は希望せず、今回は梅雨の晴れ間に境内を拝させていだきました。

こちらは新田氏の祖【義重】が京都から迎えたという養姫の菩提を弔うために、文治3(1187)年に開基したと伝えられていますお寺さんで、新田氏の家紋である大中黒一文字引きがそこここに掲げられています。歴史好きというかすでにオタクの域に達している夫にはいろいろな見方のできるお寺さんなのでありましょう。

何度も参拝させていただいておりましたのに、境内、というより墓所の方にはあまり行くことはなかったため、墓所に入ってすぐにある、薗田氏一門により造立されたと考えられる【名号角塔婆】や中興開基と伝えられる横瀬氏の【五輪塔】がありましたこと、今回初めて知りました。



No.143 20/07/16 06:12
旅人さん0 

曹源寺さんの境内と墓所とのつなぎ、といえる場所に、お地蔵さまと並んでお座りになっておられる石仏がおられました。
頭に独特な被り物をお召しになられており、おそらくは死後の裁きを執り行われる十王のなかのお一人でありましょう。【泰広王】さまか【閻魔大王】さまか┉。
香炉もあり、お墓参りの前にこちらに手を合わせる人たちも多いよう思わせるお線香の燃え残りの多さです。

どなたなのだろう。
御住職が御本堂の鍵を締め始めておられます。「あのぉ┉」
図々しさでは屈指のおばさんは御住職にさっそくお声がけをいたしました。ですが、その石仏がどなたであるか御住職はあまり関心がないようで。うーん。


正直、御本堂のなかは暗くて狭く、足場もあまりよくはありません。脚のご不自由なかたは御本堂を廻られるのは少しきびしいもの┉かもしれません。【百観音参り】、やはり少し労苦はつきもの、ということでしょうか。


No.144 20/07/19 07:15
旅人さん0 

姉がひとりおります。
何かのテレビ番組でもあるように、この言葉、一つで二つの言葉を表しておりまして、思わず笑みがこぼれてしまったのですが、『姉が一人いる』『姉が独り(で暮らして)おります』、という、二つの意味を持ち合わせておりました。書いてみてその偶然に気づいた次第であります。

苦労人といえばけっこうな苦労人なはずなのに、天性のものなのでしょう、のんきで朗らかです。
私とは八歳の年の差があり、小さいときはあまり仲のよい姉妹ではありませんでした。
年が離れすぎているから┉というよりは、むしろ、どちらかというと天敵みたいな感じで、しょっちゅう喧嘩ばかりしていた姉妹でありました。私は姉に負けまいと、姉が喧嘩で使った言葉を辞書で調べては応戦していた強者で、私が七歳であれば姉は十五歳、口喧嘩ですら負けまいとする妹はなんとも可愛いげのない子供でありました。
それでも、バイト代で映画に連れていってくれた姉┉なのですが、小学三年生に、宗教的な映画で全裸の男性が出てくるような内容のものを見せて共感を得ようとするムチャ振りで、せっかく連れていってくれたのに、感動的な映画に「わかんない」という妹。そしてまた喧嘩。
┉思い出せばお互い可愛い時代でありました。
そんな姉は若いときから行動的な人物で、バイトをしてはあちこちに泊まりで旅行するような人物でもありました。
私はといえば、どちらかというとインドア派で、そのわりに無鉄砲で活発、という、┉まぁ変な子供でありました、かね(^_^;)。「暗くなるまで遊んでいて親に怒られ、それでも懲りずにまた怒られるのは私でした。もっとも姉が子供時代は私の知るところではないので 笑。

そんな姉、御朱印をお受けしていることをひょんなことから知りまして。
私とは違って広範囲。
善光寺の御開帳の際にもツワーに参加して御朱印をお受けしておりました。
なんでも、ツワーに参加していて御朱印というものを知り、その場で御朱印帳を購入したのがきっかけだったとかいうことで、北陸やら、山陰やらの神社仏閣のものが連なった豪華なものでありまして。
関東から出ても長野、しかも他力本願な私とはまったく異なる神社仏閣巡りであります。









No.145 20/07/19 07:52
旅人さん0 

そんな八歳違いの姉。
お互い歳をとり、いまではなにかあると電話して一時間近く話しているような間柄となり、それなら一緒に神社仏閣巡りをしようか、という話にもなりはしたのですが┉。
姉は姉で目的やら廻りかたが異なるため、残念ながらそれがお互い譲歩できず、「一緒には無理だね」という話となり、行きたいところが一緒であっても別々に行くしかない姉妹でして 笑。
ひとつの神社仏閣の隅から隅まで堪能したい私たち夫婦。
姉は姉で、例えば鎌倉七福神巡りを一日でしてしまいたいし、たとえ並んでもその日限定の御守りをお受けしたいと思えば前の日から宿を取って、綿密な計画を立て、なおかつ周囲の神社仏閣の無駄のない廻りかたを考えるタイプ。しかも健脚!私たちなら電車バスの移動を考える距離を平気で歩く。┉八歳上でありながら、私たちよりじょうぶなわけであります。

そんな姉。
血筋なのか運転はたいそうへたっぴ、なのでありますが、もともと培われた行動力と、なにぶんにも甘える先のない独り身、ということもあり、後日談でけっこうな冒険談を聞くことがあります。

群馬県の【大洞赤城神社】さん。群馬県の上毛三山の一つであり、スキー場やら、沼の氷の上で釣りができるようなそれなりに高い山であります赤城山の山頂にある神社さんであります。
こちら、豪華で綺麗な季節ごとに変わる御朱印帳で有名な神社さんでもあります。出先で大洞赤城神社さんの御朱印帳をお使いの方を見かけることがしょっちゅうあるくらいであります。
そんな御朱印帳を、コンビニ等で無料でおいてある小雑誌で知った姉。欲しいと思うとすぐに行動したようです。
彼女の車にもナビがなく、どこをどうやって行ったものやら、┉と傾聴していると、「『冬は閉鎖されている』とか知らなくて、十日前まで通れなかった道を行ったんだけど、雪がひどくて、道も狭くて、いつになったら着くんだよおぉっておもいながら必死に運転したんだよお」  ( ゚□゚)!
┉あり得ない。

赤城神社さんは女性の願いを叶えてくださる神社さんで有名でありまして。
ましてやそこのお参り(?)と御朱印帳を求めてひたすら雪道をひた走るおばさんの願いで、無事に帰宅するまでしかと叶え、無謀な彼女をしかとお守りくださいました。

霊験あらたかな赤城神社さんに今さらながら感謝した私でありました。( -`Д´-;A)

No.146 20/07/19 18:14
旅人さん0 

群馬県邑楽郡千代田町の【寶林寺】さんへ参拝させていだきました。ぼーっと車の助手席に座っていると目の前の信号についている地名は【真福寺】となっています。(真福寺さんって言ってたっけかなぁ?)

その辺、私、天才的に記憶違いする能力(人として絶対欲しくない能力)を持つ者でありますし、「真福寺町」とかでなく【真福寺】と言い切った地名であります。これが寺の名前でなくてなんであろう。
┉寺の名前ではありませんでした。
その住所、なんと【千代田町真福寺】!THE 真福寺!みたいな。
たまには正常に機能することもあるのだなぁと自らの記憶力を褒めたところで、車は寶林寺さんの駐車場に。

ひさしぶりの青空です。
青空に神社仏閣、なんと映えるものでしょう。

山門の前には石仏さまたちがお並びになられておりました。
山門の扁額の文字を見て、なるほど!【真福山】となっております。歴史の流れのなか、真福山という山号を地名とするようななにかがあったのかもしれません。こちらのお寺さんは鎌倉時代より続く由緒あるお寺さんのようであります。

山門、そして鐘楼も、御本堂も、庫裏も、みんな新しいお寺さんで、広く大きな木もない広々とした気持ちのよい墓所が連なっております。ひさしぶりの晴天だけでない気持ちのよさがあるお寺さんであります。
ん?墓所の方で御住職らしい方がネコ(一輪台車)を傍らに、除草作業をされておられます。お辞儀をして、御本堂の前へ。
御賽銭箱もなく、鰐口もなく。それはこちらのお寺さんが【黄檗宗】、だから、なのでしょうか?

御本堂の前に掲げられた扁額には右から左へと横に【寺林寶】と書かれています。掲げられた文字の書かれた札は他にもあるのですが、どの手もそれは見事でお綺麗な流れるような書で、思わず見とれてしまいます。
お?何やら夫が御住職さまと話しております。何用で訪れたものかとお訊ねくださっておられるご様子であります。ただの参拝の者であります、お手を休ませて申し訳ありません。
「┉御本堂へどうぞ」
え?ええ?
なんとありがたいことでありましょう。作業を中断なさってまでお声がけくださり、さらにはわざわざ御本堂の鍵を開けてくださるなんて。

No.147 20/07/19 19:08
旅人さん0 

「こんな格好のままで申し訳ない」と御住職さま。
なにをおっしゃいましょう。作業の手を止めさせて御本堂にお招きくださって、これ以上のことはございません。
僧籍の方がなさる、紐でしばっておつけになる下の部分は垂らした状態のマスクのような仏衣をおつけになっておられます。┉僧侶としての決まりごとなど何一つわからない身であります私どもにございます。

御本尊の御前の蝋燭二本に灯をお灯しくださって、お線香もお授けくださいました。すでに恐縮しております私どもに、
「お時間はありますか?」と御住職さま。
「はい!」声を揃えて応える私たち。
「こんな田舎の寺に人が着てくれることなどあまりないもので、よろしければ少しお話をさせていただこうかと思いまして」
ご謙遜をなさりながらも、こちらの宗派であります、黄檗宗についてから、隠元禅師ついて。黄檗宗の総本山である【萬福寺】さんについて。
黄檗宗となります前、鎌倉時代においては臨済宗であったこと。ひとつひとつ、私たちの呑み込み具合を確認しながら、ゆったりとでも淀みなくお話しくださいます。
さらに続いたのは、かの第五代将軍となった館林城主綱吉公とこちらのお寺との関係でありました。

 
すごいなぁ。 
歴史って。
壮大で、しかと繋がっている。

歴史オタクの夫が喜びそうな私の感想は、ここだけに封印しておきますが。 (* ̄ー ̄)v




No.148 20/07/20 06:38
旅人さん0 

こちらのお寺さんの開山は1306年。十四歳で仏門に入り、比叡山等で修行されさらには中国にまで渡って修行された方が、帰国後足利義満公の帰依を受けて、この地に大きな寺を開創されたのが始まりのようです。当時よりお寺の名前は寶林寺さん、だったようです。

ですが時代とともにこちらのお寺さんも廃れゆく時があったようで、一時期は無住とまでなったようです。
規模が大きいお寺さんであったこともあり、それをもったいないこと、口惜しいことと思う方がおられ、江戸時代となり、世の中がようやく平穏な時代を迎えた頃、こちらのお寺さんをなんとか復興しようという動きが起こります。

時を同じくして、中国の僧【隠元禅師】が教えを広めようと弟子二十人とともに日本を訪れ、【黄檗宗】を伝えていました。
黄檗宗は後水尾法皇と徳川四代将軍家綱公の崇敬を得、京都の宇治に九万坪の寺地を賜り、黄檗山萬福寺を創建させていました。禅師の教えは大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得ます。
その黄檗宗の修行を受けた一人【潮音禅師】は、開山の寺二十余、弟子を六四名持つ名僧でありました。
ここ寶林寺さんの再興を強く願った小山市の方、熊本市の方を中興開基とし、当時館林城主であった徳川綱吉公の帰依を受けた潮音禅師がここ寶林寺さんを黄檗宗の北関東初の道場とされたのが、現在に綿々と連なる教えとなっています。

当時は大きな寺地をもち、さまざまな堂宇があったようです。
度重なる火災により当時の面影は一切残されておりません。

ですが、黄檗宗本山の御仏をおこした運慶の流れを汲む仏師の手による仏像は、その一部を欠くことはあるものの現在もこの寶林寺さんの本堂に安置されています。
本山である京都【萬福寺】さんのパンフレットの表紙を飾る布袋さまがおられるのですが、その布袋さまを造仏した仏師が彫りおこした布袋さまがこちらの御本堂にも安置されています。すべてを模したのではなくお顔の大きさやお口の開き方などを変えて造られたようですが、見比べてはじめてわかるくらいの相違であります。
息をのむほどにお美しい観音さま。
お美しいスッとしたお顔立ちの韋駄天さま。
お顔だけになられた達磨大師(あえてお顔だけ彫られたのかと思うくらいに大きなもので、御体があればそれは大きなものであったと思われます)。

No.149 20/07/20 23:49
旅人さん0 

黄檗宗では布袋さまは弥勒菩薩さまの化身とされているとか。寶林寺の御住職はそれについて一言も触れませんでしたが、布袋さまの向かって左隣に弥勒菩薩さまの御像が安置されていました。

御本堂中央には御本尊【釈迦如来】さま。その向かって左に【阿難尊者】、右には【迦葉尊者】がお立ちになっています。
実は私、このような配置で安置されたお釈迦様を拝したのはこちらが初めてでありました。釈迦三尊像といえば、普賢菩薩さまと文殊菩薩さまとされているのだと思いこんでおりました。
阿難尊者と迦葉尊者、うーん、お釈迦様のお弟子さん、だったような┉。いかにも人間、といった御像であります。
御住職にお聞きしようか。
いやいや、ここはとにかく御住職が語られることを少しでも多く記憶して帰ろう!それが一番。帰宅してGoogle先生に聞いて済むことはそれでいい。御住職のお話は今しかお聞きできないのだから。

┉ということで帰宅してGoogle先生にお聞きしましたところ、

「一人の人間としての釈迦」を重視する臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の禅宗各派では、釈迦如来の脇侍として、菩薩ではなく羅漢を配することがある。この場合、大迦葉尊者・阿難尊者(月蓋長者・善財童子の例もある)を配する。

とのことで、宗派によって、あるいは時代によって、脇侍は異なるようであります。
なるほど。厳しい修行をされ、覚りをひらかれたお釈迦様をあくまでも、一人の人間としてとらえる。┉私はいたく感動いたしました。
そうしたことでより尊く、より身近に感じることができる気がいたします。
王子としての位も、家族も棄て、有り余る財を捨てて出家されたお釈迦様。覚りをひらかれたのち、多くの者にその教えを広め、弟子たちがそれをお釈迦様の没したあと、後の世に伝え、それこそが今の仏教の礎となっているのですから。


そして、御本尊さまを奉る、向かって右てには、両腕のない、それでもなおその勇ましさをしめす御像がお立ちになっています。
【緊那羅】さま、とおっしゃるようです。こちらも初めてお目にかかるよう思います。釈迦如来の眷属、八部衆のお一人で、音楽の神さまなのだそうで、総本山【萬福寺】においてもこちらの御像がお祀りされているのだそうです。

No.150 20/07/21 00:36
旅人さん0 

御住職いわく、総本山萬福寺において【緊那羅像】が安置されているのは一般でいうところの食堂、【斎堂】なのだそうです。
お寺さんではありますが、中国の僧が開いたこちらは中国式に高脚飯台と腰掛、テーブルと椅子での食事なのだそうで、
「それだけでも修行する身にはずいぶん助けられた気がいたします」と懐かしそうにおっしゃっていました。

不動明王さま。中興開山の潮音禅師さまの御椅子に座られた御像。
そして現在修理中という華光菩薩さまとおっしゃる御像の空席が。
はて。
華光菩薩さまとおっしゃる菩薩さまのお名前もまた初めてお聞きしました。もともと仏教に関わることのない人生を歩んでまいりました者ゆえ、知らないことのほうが断然多い私であります。しかも華光菩薩さまは現在修理中でお留守。お会いできない御仏像について質問するのも憚られて、帰宅後またGoogle先生にお聞きした次第であります。


宋代から明代にかけて中国南方の地域で強く信仰されていた密教由来の道教神・華光大帝(馬霊官)が仏教に取り込まれ、変容したのがこの華光菩薩である。柔和な表情に三眼、左手には投擲用の武器「金磚」を持ち、文官のような衣服に身をつつみ、三山帽のような冠を戴く。
黄檗宗を日本にもたらした隠元は福建省福州福清県の出身者である。また彼が身を置いた福建省の黄檗山萬福寺には華光像が置かれていた。ゆえに黄檗宗ともに華光像(華光信仰)も持ち込まれたのではないかと推測する。

とありました。うーん。これはお会いしたい。


さて。御住職はその後衝撃的な事実を私たちに告げるのであります。
「実は御本尊さまを長野のほうに安置するようにいわれて、昔からの御本尊さまは長野のどこのお寺におられるかわからないままなんですよ」 ゚ ゚ ( Д  )


え?ええぇぇぇ?!

え?私今のお話の前後、いねむりでもしてた?                 

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