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神社仏閣巡り珍道中・改

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旅人さん
21/07/02 03:51(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。



No.2982625 20/01/08 07:18(スレ作成日時)

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No.301 21/01/04 06:43
旅人さん0 

わが家の玄関は、群馬県の【榛名神社】さんの破魔矢と干支の福鈴という干支の動物を形どった土鈴が奉られています。
最初は長男が二年参りで参拝させていただき、お受けしてきたのが始まりでした。
以後毎年毎年。破魔矢と干支の福鈴を奉るのが決まりのようになっていました。

今年はだめかな┉。


榛名神社さんの霊験あらたかなことは有名で、遠方からの参拝の方々も多くお越しになられます。
長男いわく二年参りともなれば一の鳥居にすら到達していない駐車場からすでに列とも言えない列ができていて、まだまだお店のい並ぶ一の鳥居辺りから参拝の方々の列があり、随神門前にある青銅の鳥居辺りともなればすでに密ぎみな行列となっているのだとか。
当然手水舎辺りからはもう身動き不能移動不可能なひたすら立ち尽くす行列らしく。
それを聞いて恐れおののいた私たちは、私どもに相応しい日時におうかがいしようと思い、新年一月中での参拝とさせていただいておりました。
それでも、七日過ぎますとすでに授与品が限られてしまい、希望する大きさのものや種類のものが無くなってしまっていることがわかり、これはやはり三が日に参拝しないといけないんだねと話しておったものなのです。

今年、令和三年の新年においては、大晦日にとりおこなわれていた恒例の神事【天狗祭】での餅まきが中止されたようですし、御守りの種類も数も減らしたと、榛名神社さんの公式ホームページに書かれておりました。
今年は┉参拝に行けたとしても毎年の恒例となった破魔矢のご準備も種類がないのかも知れないし(通例三種類)、干支の福鈴(通例二種類)もないのかもしれません。


それでも今年は、コロナに罹患することなく神社さんへのお参りを考えられていることすらがすでに恵まれ幸せなことと思われる、そんな年明けであります。


うーん。

こんなに心が榛名神社さんで占められている。

No.302 21/01/04 09:25
旅人さん0 

【榛名神社】は群馬県高崎市にあり、【上毛三山】のひとつ【榛名山】の中腹に位置します。
創建は六世紀後半といわれ、千四百年を越える歴史を持つものであります。
二の鳥居をくぐり、随神門をくぐるとすぐにある橋の下には川が流れ、沢沿いの境内は杉の古木が立ち並びそこを歩くだけで森林浴となりそうな澄んだ気が満ちています。
たくさんの奇岩・巨岩に囲まれた緩やかな上り坂であります。
私はここを歩くとすうっと心の痛みや穢れが拭っていただけたようになり、明るく心はずむ思いとなるのであります。

主祭神さまは、火の神である【火産霊神(ほむすびのかみ)】と、
土の神である【埴山毘売神(はにやまひめのかみ)】をお祀りし、古くから鎮火、開運、五穀豊穣、商売繁盛のご利益があるといわれております。


さらには清らかな沢と奇岩・巨岩に囲まれた地形によって修験道の霊場としても有名であったようで、かつては山岳信仰や神道、仏教が習合した霊場であったようです。

榛名神社さんは【用明天皇】の時代(585~587年)に創建されたといわれているが、古くから神仏習合が定着し、江戸時代には【榛名山厳殿寺(がんでんじ)】と称されるお寺だったそうであります。
しかし神仏分離令が出されると仏教色が排除され、再びもとの榛名神社となったようで、今は随神門である門も弘化四(1847)年に建てられた際には仁王門でありました。


随神門から【本殿】まで五百メートルほどの参道を登ります。

随神門をくぐって【みそぎ橋】を渡ると右手には沢が見え、やがて沢の対岸にアーチ状の奇岩【鞍掛岩(くらかけいわ)】が見えてまいります。もともとは洞窟状だった岩の奥の部分だけが崩れ落ちてアーチ状になったといわれています。

この参道のところどころに、ちょうど等身大くらいの七福神さまが参拝者を見守ってくださっておられます。大きなお腹の大黒さまはお腹を撫でられて地色が出てしまい色が変わってしまっております。


参道には杉の古木が立ち並び、森閑とした雰囲気のなかさらに進むと┉、左から岩が張り出しているため、岩が崩れ落ちないようにトンネル状に補強されているところがあります。トンネル内にも大きな岩がせり出しているようなところで、ここをトンネル状にするまでは、さぞや足場も悪く頭上も危ない難所であったことでありましょう。

No.303 21/01/04 13:19
旅人さん0 

話が前後してしまいます。ごめんなさい。

そのトンネルの手前には神社さんでありますのに【三重の塔】があります。そんな大きなものをどうして忘れて先を語ってしまっているのか┉( -`Д´-;A)
それほどに広い境内、長い参道なのだと、思ってやってください。
それは事実ではありますが、ひとえに私の記憶の曖昧さに由来しております。
三重の塔は実はあの神仏分離令の発令された際、取り壊すよう指示があったにもかかわらず、地元の強い要望もあり、何度も何度もかけあったのち取り壊しを免れたという経緯があったようです。
三重の塔は参道の左側に、御本殿と同じ方角を向いて建っております。参道の真横に三重の塔の正面を見ながら歩くことになります。
その三重の塔の手前には、狛犬が参道途中の石段の上で参拝者を見張るかのように一対立っておられます。
あまりに狛犬と三重の塔がちかくにあり、違和感というより不思議な感覚がいたします。


そして┉トンネルとなります。(;^_^A

山の側面を補強し足場を整えたトンネルを抜けたところにはまた小さな橋がかかっています。
さらに少し歩いて左側の大きな岩の側面を見ると、何やらサンダーバードの(┉聞き流してください)秘密基地への入口のような扉が唐突についています。これは【東面堂(とうめんどう)】という建物の名残だそうで、もともとは手前に建物があって、この扉の奥に秘仏が安置されていたようであります。


さらに歩いていくと、右に【瓶子(みすず)の滝】と呼ばれる細長い綺麗な滝が見えてきます。滝の両側の岩を〖瓶子(神にささげる神酒を入れる酒器)〗に見立てた名前なのだそうです。
そして滝から視線を戻すと目の前に立派な手水舎があります。
手を浄め口を浄めて、視線を左側に向けると大きな大きな岩の間を急な石段が続いているのが目にはいります。
その石段の登り口左手に一際大きな杉の古木があります。この杉の木は【矢立杉】。武田信玄が戦勝祈願のため矢を射立てたとされています。推定樹齢六百年、高さ五十五メートル、幹の太さは九・四メートルとのこと。
その杉の木を過ぎると石段の左手に【神幸殿】と呼ばれる建物があります。┉ここに御神輿が収めてある。ここから御神輿が動く┉。
神事だからこそまもられている伝統だろうなぁ。


No.304 21/01/05 05:22
旅人さん0 

たしかにようやく手水舎、しかも石段を登りはじめてまもなくの神幸殿、ではあります。ありますがそもそもその石段は岩と岩の間を抜けていく、細くて昔からのランダムなきざはしです。
そこから御神輿を出して、┉あのトンネルの道も通して、長い参道をひたすらおりていくのでありましょう?
そしてここまで御輿にお戻りいただく┉。
御神輿を渡御することもけっこうな修行です。

そんなことを考えていると大きな岩がせり出しているところにさしかかります。そこは背の高い方は要注意、です。
狭いので気をつけて歩いてはいる箇所なのですが、すれ違いで少し待つようなときが危ないのです。待っているとき眼下に目をやると瓶子の滝や矢立杉、神幸殿が一望できる絶好なポイントでもあるのです。
しかも古い石段で足元も危ないのでついつい足元に注意がいきがちです。
ま、とはいえ気を抜いて頭をぶつける人は一人しか見たことはないです。┉流血するほど思いきりぶつけはしなかったようですが、なにぶんにもお相手は岩。かなり痛そうで┉当たり前だな。
「帽子をかぶってて本当よかったぁ」
ほんとだね。
ほんと気をつけてよ、もう。ここまで救急隊に来ていただくようなことになったら申し訳なさ過ぎです。

頭をぶつけることなく(ぶつけても)せり出した岩の箇所を通り抜けると、真新しい門があります。どちらかというと、立派なお宅などに設けられている門、ですかね。明らかに神社の、といった感じではないように思われます。
そこをくぐると広いスペースがあり、みぎてには社務所が二軒建っています。そして、門をくぐった左真横にはさらなる石段と立派な門、そしてその門の上には大きな空を突くような岩がそびえています。
立派な門┉その名も双龍門という、それはそれは見事な彫刻の施された美しい門であります。その彫りは龍の顔が立体的に浮き彫りされていたり┉顎のしたに手が入るくらいにしっかりと立体的に彫られていたり。ひとつひとつのデザインといい、配置といい、釘付けになる美しさ、なのであります。
ですがここの石段もまた狭いのです。立ち止まってはいけないのであります。ただし┉後続の方がおられなければ。
ここの石段から先は本殿へと続く一方通行の通路となっているので、後続の方さえおられなければ、じっくりとその門の見事なさまを思う存分味わえる。┉滅多にはないです( ω-、)
そして┉

No.305 21/01/05 08:49
旅人さん0 

榛名神社さんの双龍門、現在修復工事中。
実物大の写真をプリントしたシートで覆われてしまっており、その工事はまだしばらくは続くよう記憶しております。( ω-、)

白いシートで覆われた門をくぐり、さらに細く、軽くカーブした石段をのぼっていくと、!
天狗さまがお出迎えくださっております。初めての参拝のときは目の前にいきなり現れた天狗さまにけっこうびっくりしたことを覚えています。天狗さまのうしろには神楽殿の側面が見え、その神楽殿を前から見ようと進行方向に目をやると、突然、拝殿が目の前に現れるのです。双龍門をくぐったあとはサプライズの連続です。

拝殿を見上げると、その背後には大きな大きな岩がまるで拝殿を護るかのようにそびえ立っています。その大きさといったら┉。

拝殿は何段かの石段を昇っての参拝となります。参拝を済ませるとその拝殿の見事な装飾に思わず息をのみます。
龍が巻きついた柱。一枚一枚丁寧に丁寧に彫られた花弁や葉。まるで舞っているかのような鳥。
私のような者にその素晴らしさは書き表すことは到底できません。

参拝を終えた私は、いつも、許されている限り拝殿の横を通って御本殿の脇、さらには御本殿の裏側までまわって裏側からの参拝もさせていただいております。
初めて榛名神社さんを訪れたとき、本殿脇に向かう方があまりに多くてびっくりしたのであります。
そしてもっともっとびっくりしたのは拝殿の横の見事な彫刻┉も、たしかに感動したのですが、御本殿、であります。
岩にめり込んでいる!
あの背後にそびえ立っている岩と見事なまでに一体化しているのであります。
うわぁぁ。┉。

その岩こそが御神体であるから、なのですが、その御本殿を造られた職人さんの技に心から感嘆いたしました。

そして御姿岩と呼ばれる御神体であります大きな大きな岩。
見上げるとさらにびっくり!あまりにも不安定な岩が乗っている?かのようにみえるのです。そしてそのかなり高くて不安定な岩が乗っているかのように見える細くなった部分に大麻がお祀りされているのです。
いったいどうやって?

参拝のたびにその御姿岩の大麻に、どうやって?誰が?と思うのであります。見れば見るほど神業、としか思えないのです。



No.306 21/01/07 14:59
旅人さん0 

明日は初薬師さま。
いろいろなお寺さんで法要が営まれることと思います。

ですが┉。 
毎年参列させていただいていた群馬県みどり市の【光栄寺】さんの御護摩法要、例年とは異なるかたちで営まれるとのこと。
昨年までのようにたくさんの信徒の方々が集まって、読経し御真言を唱えて、参列者が順番に護摩の煙を浴びるようなスタイルはどうしても密になってしまうため、今年は御本堂には信徒の方々はどなたも上がることなく、御護摩にかざされた御札をお受けする様式になさったのだそうです。
ありがたくて、そして大好きなひとときだったのですが、これはもういたしかたないことで┉。
薬師如来さまが懸命におまもりくださって今があることに感謝して、自宅で御真言を御唱えすることといたしましょう。



No.307 21/01/09 03:33
旅人さん0 

以前どこかへ行った帰りの道、偶然前を通りその山門の見事さに息を飲んだ┉そんなお寺さんがありました。
群馬県前橋市の【日輪寺】さん。しかもその通っている道、町の名前すら日輪寺。
「これは参拝にいらっしゃいってお呼びくださったんじゃない?」
胸の前で手を組みきゃーきゃーと騒ぐ妻に、もはや呆れることすらなくすっかり慣らされた夫は「そうだね」と一言。
家に帰り、すぐにGoogle先生に日輪寺さんのことをうかがうと、な、なんと!一年に一度、一月十一日に御開帳されている仏さまがおられるとのこと。こ、これはその日に参拝しご縁を結ばせていただこう。
それ以来、何かの用でそばを通りかかっても一月十一日まで我慢、我慢と、声にこそ出しはしませんが心のなかで自らに言い聞かせて、ようやく、ようやくの一月を迎えました。そんな待ちに待った一月でしたのに┉。

コロナ感染の大きな大きな第三波。
群馬県は十二月からすでにlevel4の扱いをするとのことで不要不急の外出の自粛をと知事より宣言されていました。
再び発令された緊急事態宣言。そのときが遅かったことを物語る、異様なまでの罹患者数。
┉一昨日の群馬県の患者数は一気にその数を三桁の百名となり、神奈川県の患者数も八百三十八名。緊急事態宣言の発令された一都三県だけで全国の患者数の過半数を超えるとも報じられています。

これは┉だめだ。
御参拝は決して不要ではないです。不要ではないですが、不急、でありましょう。健康で生きてさえおれば来年も再来年も一月十一日はやってきます。
本音を言えば不要ではないどころか必要、なこと、ではあります。

ですが、ここは我慢。我慢するしかない。


┉日輪寺さんには通年通り御開帳されることも確認済みでありました。御護摩法要も八時から執り行われることもお教えいただいておりました。でもそれは、この爆発的に患者数が増える前のこと。

我慢も修行。
医療現場は疲労し疲弊して、逼迫の危機にある。

以前は何十年に一度しか御開帳されていなかったという秘仏でありました。それが一年に一度という機会を与えられたのです。
御仏が本当にお呼びくださったのであれば、必ずその機会はまたあるはずです。


修行、だなぁ。(*T^T)

No.308 21/01/09 06:38
旅人さん0 

昨日、【日光輪王寺】さんよりご案内いただいておりました【鬼門除け】という祈願札を郵送していただくべく送金いたしました。

初詣の時期を避ければ直接お受けできるのではないか、と淡い期待を抱いて、ずっとあたためておりましたが、この度の爆発的な感染拡大を受けて、こちらへの参拝も諦めた次第であります。


コロナに気を付けつつ、とはなるのでしょうが、いつか、必ず参拝できることを思って。
行けずにおります弥生祭にも。

No.309 21/01/09 10:35
旅人さん0 

おとといテレビで言っていたのですが、
「今年の節分は二月三日、ではなくて二月二日なのでご注意を」とのこと。
閏年とか閏秒とかあるので、節分もずれるものなのかあと、さして不思議にも思わず、夕食の支度の手を止めることなく軽く流して聞いていました。
ただ┉そういえばあの日光輪王寺の鬼門除け札も節分を境に新しいものに変えるとありますし、以前ご紹介した守り本尊における生まれ年の干支も節分を境にされていました。
節分や立春とか、仏教においてなにか重要な意味があるものなのだろうか?

というわけでいつも参上いただくGoogle先生に質問いたしましたところ。
2021年の節分の日は、〖二月二日(火)〗とのことで間違いありませんでした。
「毎年二月三日が節分の日」と思っている人が私を含め多いかと思いますが、それは間違いのようで、ここ三十年程はずっと二月三日だったのですが、実は二日になったり四日になったりするようです。


そもそもの節分の意味は「季節の分かれ目」ということで、 季節が変わる前日のことを指しており、ここでいう季節とは、 『立春』『立夏』『立秋』『立冬』のこと。
これは昔、冬から春になるのを1年の始まりと考えており、 今でいう『大晦日』のように「明日から新しい年」というように特別な日と捉えられていたからです。

なるほど。



そして。
季節と言えば春夏秋冬の四季が代表的ですが、ここでいう季節とはさらに一年を24分割した『二十四節気』というもので、立春・立夏・立秋・立冬などの他にも、春分・夏至・秋分・冬至などが知られています。
これらの季節は『地球と太陽の位置関係』によって定められています。
太陽と地球は日々、自転と公転を繰り返していますが、 一年周期で地球と太陽の位置関係は変動します。
太陽は約一年かけて地球の周りを一周しますが、 地球は地軸が傾いているため、日本から見た太陽の角度は毎日変動します。
これが『日照時間』や『四季の気温の違い』を生み出しているのです。


うーん、学校の理科の授業だ。( ;´・ω・`)

まあ、そういったわけで立春などの二十四節気は年によって若干変動することがある、というわけであります。

かつておてんとさまとの関係が命に直結したものだった時代、学校の理科なんていうレベルではない切実なものでありましたものね。

No.310 21/01/10 03:52
旅人さん0 

薬師如来さまのお縁日は八日、不動明王さまのお縁日は二十八日、
などと時々書かせていただいておりますが、なにぶんにも目の粗いザルのごときザル頭で、全部はなかなか覚えられません。
たまに振り返るのに楽なよう、ここに記しておこう。

   【お縁日】
 
  妙見菩薩さま    毎月一・十五日
  薬師如来さま    毎月八日
  鬼子母神さま    毎月八・十八・二十八日
  金比羅さま     毎月十日
  虚空蔵菩薩さま   毎月十三日
  閻魔大王さま    毎月十六日
  観音菩薩さま    毎月十八日
  愛宕さま      毎月二十四日
  地蔵菩薩さま    毎月二十四日
  天神さま      毎月二十五日
  不動明王さま    毎月二十八日

  


縁日は仏さまや神様と特に縁を深く結び、格別のご利益を受けることができるとされている日。
上記のように日で定められておるものもあります。
なかにはお不動さま、お地蔵さま、観音さまなどは本来のお縁日のほかに下一桁の同じ日もお縁日とされていることもあるようです。


寅の日は毘沙門天さま、巳の日は弁財天さま、などのように十二支で定められたものもあります。



  大黒天さま     甲子の日
  毘沙門天さま    寅の日
  弁財天さま     己巳の日
  聖天さま      卯・酉十六日
  稲荷明神さま    午の日
  帝釈天さま     庚申の日 
  摩利支天さま    亥の日




うーん、こちらは細かく書かれたカレンダーでないと、なかなか私のようなずぼらな人間には気づけない気がいたします。┉細かく書かれたカレンダーでも、かもしれません。(´;ω;`)
かくなる上は、その細かく書かれているカレンダーにラインマーカーでしるしをつけてしまうしかないか?


┉まだまだそこまでのご縁が結んでいただけるところまでに至っていない証拠であります。(>ω<。)

No.311 21/01/10 04:43
旅人さん0 

ザル頭の覚え書きで、もう一つ書いておきたいものがあります。
観音さまの功徳日、です。

この日に観音さまのところへ参拝いたしますと、○○日分の功徳が得られる縁日という日、であります。
功徳とは、良い行いのことであり、功徳を積むことで果報やご利益を受けられるとされています。
┉その日にただ参拝しただけで○○日分の功徳を得られる、などは、裏技というよりもはや反則のような気がいたしますが┉(;^_^A

この功徳日、【四万六千日(しまんろくせんにち)】という日があり、【浅草のほおずき市】がまさにこの四万六千日の功徳日のお縁日であります。
この日に参拝すれば、四万六千日分参拝したのと同じ御利益があるということになります。

仏教の菩薩の一尊である、観世音菩薩さまは悟りを開くために修行を積んでいる修行者であるとされています。修行者ではありますが、救いを求める人々のお願いを聞き、助けてくださるということで庶民の信仰の対象となってまいりました。
観世音菩薩の縁日は、毎月18日ですが、室町時代の末期頃になると18日以外の日に「この日に参詣すると100日。1,000日分の功徳がある」とされる「功徳日」という特別な縁日が追加されます。
な、なんとこの功徳日!寺社によって異なるとか。!Σ(×_×;)!
東京浅草の浅草寺では年十二回の功徳日を設けており、最も功徳があるのが七月十日の46,000日分で、この日こそが「四万六千日」と呼ばれているものであります。


その四万六千日以外にも功徳日とされている日があり、それを記しておこうと思います。




  【観世音菩薩功徳日】

1月1日(百日)
2月28日(九十日)
3月4日(百日)
4月18日(百日)
5月18日(百日)
6月18日(四百日)
7月10日(四万六千日)
8月24日(四千日)
9月20日(三百日)
10月19日(四百日)
11月7日(六千日)
12月19日(四千日)

この日に観音さまにお参りをすると普段以上にご利益があると信じられています。


ちなみに、毎年参拝しております夫の実家の菩提寺のご本尊さまが千手観音さま、ですので、元旦に参拝すればおのずと百日の功徳が得られる、ということになります。┉今年は二日にお墓参り、だったなぁ(*T^T)

No.312 21/01/11 16:03
旅人さん0 

奇祭、というと思い出すのが時期的なこともあって、栃木県足利市の毘沙門堂で開催される【悪口(あくたい)祭】であります。令和元年の際、普段一緒に住んでいない息子が泊まりにきており、また、真夜中の開催であることもあって、いつかまた┉と行かずに過ごしてしまいました。
令和二年の大晦日は開催されたのかどうか┉。
なんでも暗い山道を悪口┉あくたいをつきながら歩くというお祭りのようです。
いつの日かこの奇祭に参加することができるのか、なんとも悔やまれるものであります。


秩父にも奇祭があるとのことを、ふとした拍子にネットで知ることができました。その名も【ジャランポン祭】、別名【一人葬式祭】と、その名からすでに奇祭であることを物語るものです。
饒鈸という仏具をすり合わせた時の音を表現して〖ジャランポン〗と名付けられたそうな。

年に一度、人身御供(ヒトミゴクウ)が行われるという何やら物々しいものでありますが、さらにくだいて言うと町から一人の故人を選び、お葬式のように祭典が行われるといったものらしいのです。
もとをただせば、その昔、人身御供を献上したことにはじまるもののようではありますが、さすがにこの法治国家においてはたとえ神事であろうと許されるものではありません。

埼玉県秩父市の下久那公会堂という、町の公民館で毎年三月十五日(に近い日曜日)に行われている、終始笑いの絶えないいたって明るいお祭りのようです。
秩父観光ナビの説明文を一部引用すると

〖祭壇をつくり、白無垢を着た人が棺おけに入り、僧侶役の人が即席のお経をあげ、実際のお葬式と同じように祭りが進められます。お葬式が済むと葬列を作り諏訪神社まで行き、祭典を行います。〗

というもののようです。


さらに具体的に表現されたものによると、
祭壇をつくり、白無垢(死に装束の方)を着た人が棺おけに入り入って酒を飲み、
僧侶役の人が適当に作った即席のお経をあげ、
そうは言っても実際のお葬式と同じように祭りが進められるようで、そのお葬式が済むと葬列を作り飲みすぎでフラフラの状態で諏訪神社まで行き、祭典を行うというものなのだとか。


あくまでも、町の公民館で開催されるようなごくごく一地域、で執り行われるものでありますが、どうやらテレビで紹介されて以来いろいろなところからの見物人が訪れるようになっているようです。





No.313 21/01/11 16:37
旅人さん0 

>> 312 秩父でおこなわれるという奇祭、【ジャランポン祭】。


僧侶役の人が手慣れた様子でアドリブ満載のお経をあげ、祭りの主人公に当たる故人役の人は、棺に寝そべりながら、酒を煽りまくっているのだといいます。カメラマンの要望とあればポーズをとってくれるし、一度アクションを起こせばシャッター音が鳴り響くという。
僧侶の周りでは楽器を打ち鳴らす人達がおり、その楽器は、引鏧(インキン)、太鼓、そして鐃鈸(ニョウハチ)。
鐃鈸という楽器をすり合わせたときの音からこの奇祭の名となったのだということであります。

この僧侶役の人と故人役の人、その座にいる人たちから常に酒を注がれ、ずっと呑んでいるものだから、途中トイレに行ってなかなか帰ってこなかったりもするようです。

終始グダグダ葬儀を進行し、そのうちなんと故人が三途の河の渡し賃をせびりに練り歩きが始まるのだそうです。!Σ(×_×;)!
この三途の川の渡し賃をケチると、故人にぶつくさ言われるのだとか!金額が大きいと喜びを全身で表現し、賃金をせびり終われば、棺へと戻って酒を煽るという┉なんともこれは、〖奇祭〗でしかありません。

お葬式に続いて、近くにある諏訪神社まで葬列をつくり移動して次の祭典へ移るのだといいます。酔っぱらいの葬列┉。

ジャランポン祭
なんて愉しいんだ!
なんて明るいお祭りなんだ! (ノ*>∇<)ノ♪



ちなみにこのお祭り、疫病が流行り人々が苦しんだことから人身御供というかたちでおさめようと、神におさめていただこうとしたものが始まりであります。
ジャランポン祭にたずさわる方々におかれましては、どうぞこの新型コロナウイルス感染症の鎮静を、願わくば収束を諏訪神社の神さまにお願い申し上げてください。
このコロナ禍においても、この楽しいジャランポン祭が執り行うことができますようお祈り申し上げます。(。-人-。)




No.314 21/01/11 20:13
旅人さん0 

いつのことだったか┉それはそれは可愛らしい狛犬さんの写真を見ました。神社仏閣巡りの好きな私にと、上司が職場にわざわざ持ってきて見せてくれた新聞記事だったように記憶しています。
それは群馬県前橋市の粕川と呼ばれる地にある【月田近戸神社】さんの狛犬さん。

行列をなすような初詣の時期は過ぎたのでないかと、地図を頼りに出かけてみました。そう、地図、であります。ナビにその名をいれても、電話番号を入力しても出てこないので、仕方なく地図を使ったものであります。
車で向かうと、道路端に一の鳥居がありました。なんとも控えめな┉もしかしたらこの神社さんが創設された頃にはこの鳥居の幅の参道、道でしかなかったのかもしれません。時代とともにアスファルトの道路ができ、鳥居が道路端にあるようになっただけなのかも。
高台にありますその神社さん。駐車場は┉?
石段のわきにスペースがあり、特段白線などの区切りはありませんが駐車場とされているようです。

その駐車場の少し上のところにたくさん積もった枯葉を掃き集めている小柄な老人がおられました。ご挨拶をし拝殿前に向かいました。

うーん!ここの神社さんやわらかくてあたたかな気に満ちています。
拝殿の戸は開けはなたれて本当に気持ちのよい神社さんであります。
ん?こ、狛犬さん、ごく普通の狛犬さんだったような?

記憶違い?

No.315 21/01/12 05:53
旅人さん0 

┉いやいや、狛犬さまはさておきまずは参拝させていただかなくては。

社殿は古く大きくはありませんが、お宮を守っておられる方が丁寧に大切にお祀りされているのがわかる、常に人の手で清められたものでありました。
【近戸神社】と記された神額の左側に【蠶影山大神】と記された神額が掛けられています。
こちらの御祭神は【大己貴命】さま・【豊城入彦命】さま。

ご由緒の書かれた立て看板によると、
こちらは東国を鎮定した豊城入彦命の姫宮が字丸山に勧請した社を延暦十三年(794)に移築したものと言われているのだとか。
現在の社殿は、鎌倉時代の宝治元年(1247)に造営されたものと言われ、その後何度か改築されたものとのこと。
うーん、古いとは思ったもののよもや鎌倉時代のものとは!
たまに観るお宝鑑定のテレビでも古物の真贋が当たっていたことがほとんどありません。なるほど┉。

こちらの神社さんは昔から地域の鎮守神・産土神として信仰され、
粕川という地名の由来となったのがこちらの神事であります、御川隆(おかおり)に伴う粕流し神事なのだそうです。

古事により、近戸神社の例大祭(旧七月一日であったものの今は九月一日に改めた)には必ず神輿を舁ぎ、その他信徒数百人、これに供奉して、粕川の対岸にある石垣の上の近戸神社の石祠=外宮までむかい、神輿を外宮に安置し、祠前で古雅なる獅子舞を奏し、神酒を供奉者に饗し、再び神輿に供奉して近戸神社まで帰り来るのだそうです。この神事を御川隆神事といい、その御川降の儀が終わった合図に白い濁り酒を川に流すのが粕流し神事なのだそうです。
六百年の伝統を誇る獅子舞と、神職信徒の長い行列に華麗な神輿。
想像するだけでなんとも胸はずみ心踊るお祭りであります。

その例大祭も、昨年令和二年は長い歴史の中ではじめての中止。
コロナ禍においてどう開催すれば密にならずに済むのか、答えが出せぬ状況で苦渋の決断をされたようです。

その六百年の歴史をもつ獅子舞はすべてが口伝。すべてが手取り足取りの伝承であるため、中止というかたちが続くとその脈々と伝えられた大切な伝承が跡絶えてしまう危険があるのだと、のちにお話をうかがった宮司さまが遠くを見つめながらお話しくださいました。
境内に剣道場よりも大きな獅子舞練習場まである神社さんであります。

「中止はできない」
      


 

No.316 21/01/12 14:47
旅人さん0 

┉どうしても、思い出しながら書いていくものだから、ついつい心に大きく残ったものを後先考えずに書いてしまうのが、私の悪いところです。文章も珍道中。
宮司さまのお話は神社の参拝を終え、帰る間際のことでして、┉とりあえずまた、境内のお話に戻させていただきます。
話があちこちして読みづらい文章、おかしな表現、誤字脱字等々、いつも本当に申し訳ありません。



いつものように拝殿から本殿にまわって、神さまのおわします本殿そばでもう一度、参拝させていただいたお礼や願い事について今一度お願い申し上げ┉ようと本殿脇にまわると、たくさんの、本当にたくさんの石のお社が整然と並んでおりました。思わず、わあっと声がもれたくらいにたくさんの末社摂社です。
本殿の奥には【虚空蔵菩薩】さまがお祀りされている旨書かれていました。

そして┉実はその本殿脇に向かうところから、拝殿むかってひだりてに、野口雨情さん童謡碑、とか、さらに上に登っていく緩やかな坂道があったり、髪の毛を左に引かれるかのような思いで通りすぎたところがありまして。
拝殿横を戻ってその坂道のあるところへ行くと┉
! おられました! 坂道の上がり端、二人並んでちょこんと狛犬さまがおられました。少し高いところから拝殿を見守るようにちょこんと仲良く並んでおられます。うーん、可愛い。
拝殿で手を合わせる参拝の者を、小さな小さな狛犬さまが一生懸命見張っておられるかのようで、後ろから拝見すると本当にいとおしい、といった感じでした。
実はこの狛犬さま、県内で最古のものといわれる室町時代のものなのだそう。それがこんな通路に無造作に置かれていて大丈夫なのか?と思ったら、元々は先程の石のお社の並ぶところにおられたのだそうで、「あれは私が動かしたんだよ。元のとこだと子供たちが乗って遊んじゃうもんだから」と、宮司さま。
向かって右側の狛犬さまのお顔が欠損してしまっていることをたいそう残念がっておられました。足とかもコンクリートで修復してあるのがたしかになんとも痛々しかった。…>_<…

その狛犬さまのさらなる上には、みぎてに石塔が二つ建っているのが見えます。

No.317 21/01/12 15:22
旅人さん0 

ひとつは【六地蔵石殿】と呼ばれる石塔で、暦応五(1342)年と銘された、四面の長方形の石塔の三面にお二人づつお地蔵さまが彫られており、その上にピラミッド型の石が屋根として乗せられている、というようにも表現できる石塔、石殿であります。
もう一つは多宝塔。赤城塔とされているものでありました。
その石塔はそのフロアにおいてほぼほぼ右端の一番奥のところにありまして、あとは広い空き地と、剣道や弓道の道場のような建物が左側に建てられています。その建物が、ここの神社さんならではの獅子舞練習場、なのでありました。


もう一度拝殿でご挨拶申し上げて、落ち葉を炊きあげている小柄なご老人にもご挨拶いたしました。
「いろいろ見てこられましたかね」はい。
「狛犬も分かりましたかね」
「はい。たいそう可愛らしいお二人で。可愛らしいなんて失礼なんですが┉。
しかもきちんと拝殿を見守るようにお二人お立ちになっているのに感動しました」
「あれは私が動かしたんだよ。子供たちが乗って遊んじゃうもんだから」
┉やはりこの方が、宮司さま。
「狛犬は年代が古いものほど童顔をしていると言われてるんだ。ここのはたしかに幼い顔をしてるよな。
ここと、もう一つ群馬県で古いと言われてる碓井の熊野神社の狛犬は、┉行ってみたけど、こう、┉ちゃんと狛犬らしいいかつい顔をしてたよ。だから古いものほど童顔っていうのは必ずしも本当じゃないのかもな」

「どこから来たんで?」
「ああ、あそこの神社、行ったことあるよ。会議があるってんで行ったんだけどね」
夫が尋ねました。
「あの奥には虚空菩薩さま、って書かれていましたけど、今もおられるんですか?」
「うん、ただ、今はおられるだけでずっと中にいるだけなんだけどね。
あの、赤城山の赤城神社には行ったことあるかね。ここの粕川に注ぐ源泉が小沼になるんだけど、小沼は虚空蔵菩薩が本地仏だから、ここにも小沼とおんなじ虚空蔵さんが祀られたみたいだよ」


ああ、宮司さま、本当に本当にこの神社さんが大好きなんだなあ。




No.319 21/01/13 13:57
旅人さん0 

【近戸神社】さんの虚空蔵菩薩さま。
あの神仏分離令で、どこぞのお寺さんに移動されたところ、ちょうどそのころ悪疫が流行し、再び近戸神社さんに安置することにしたのだそうで、その後ピタリと悪疫がおさまったため、ずっとここに安置されることになったようでした。
御開帳とかもないようでその後ずっとそこにおられる虚空蔵菩薩さま。
御開帳申しあげたら┉このコロナがおさまったりは┉しないかな。
( ω-、)


そして┉。
昨年は苦渋の決断をされ、中止したという近戸神社さんの令大祭。
【月田のささら】と呼ばれており約600年の歴史がある伝統芸能です。(「ささら」は神社に奉納される獅子舞に由来)
九月一日に行われていたものであったようですが、今は八月の最終土曜、日曜に開催されることとなったと宮司さまがお教えくださいました。

〖群馬県重要無形民俗文化財〗に指定されている獅子舞は、
土曜日の〖宵祭り〗では自治会までの獅子舞い道中のようですが、
日曜日の〖本祭り〗では天下泰平・五穀豊穣を祈念して社頭での奉納後、神輿(市重要文化財)の渡御に従がって粕川対岸の【外宮】まで道中を連ねるのだといいます。

【外宮】は〖獅子山〗とも呼ばれ、獅子舞が奉納されたのち、神官により粕川への濁酒(糟酒)流しが行われるのだそうです。これら一連の神事は「御川降り(おかおり)」神事と呼ばれ、【粕川】という地名のの名の由来といわれているそうです。

獅子舞奉納の始まりは室町時代との記録も残されていて、口伝により舞いの所作が連綿と受け継がれてきたもの。
獅子舞は獅子掛り少年三人、笛掛り青年六人、歌掛り壮年四人の獅子連によるもので、数種類の舞や舞曲(笛)はすべて口伝で、昨年までは一度も絶えることなく奉納されてきたものだったようです。
伝承者たちは子供の頃から生涯をかけて伝承しているものなのだといいます。

┉こ、これは┉。


宮司さまの絞り出すようにおっしゃった
「中止はできない」という言葉。


これだけの重い重い、長きにわたって絶えることなく受け継がれてきた〖伝統〗を担う方の重い重い言葉であります。


神官さまたちだけでは成り立たない神事。


どうか、この神事が、
なんとかこのコロナ禍にあっても今年以降はまた絶えることなく開催できますことを心より、心より祈念いたします。

No.320 21/01/15 04:19
旅人さん0 

「参拝させていただきたいと思っていたお寺さんがあるんだけど」
と夫。
「じゃあ運転してもらおうっと」
なんと、この日運転していたのは私。
たまにはゆっくりと、助手席から車窓に流れる景色を見て楽しんでもらおう、という殊勝な考えは一体どこで落として来たものか。

助手席から流れる景色のなか、〖上泉信綱の生誕の地〗といういくつもの看板が目につきました。子供たちが小さな頃、このあたりを通った頃にはこんなになかったような┉。まあ、そのての記憶を完膚なきまでに抹消することのできる能力をもつ私なので、その辺は置いておき。
なんていうお寺さん?
「西光寺さん」
┉これは歴史オタクのアンテナによるものだな。
「このあたりらしいな」
「┉ねぇ、いまのとこ看板が出てたけど?」
さても始まる珍道中。( ω-、)
えっ?Uターンしないの?
「大丈夫だよ、ナビが案内してる」┉本当に大丈夫なのか?

結果、多少遠回りになったのと、対向車が来たらアウト的な道ではあったものの、幸いなことに対向車は来ず。細い道がさらに細くなり、一見民家さんしか見えない、駐車場があるかどうかまで疑わしいところに到着いたしました。ここ?
「車、置くとこないんかなぁ」と心細そうな夫。
┉大丈夫、かどうかはわかりませんが、軽トラの停まってある横のスペースに停めさせていただきました。
高台にあるこちら、前橋市上泉町の【西光寺】さん。決して大きくはありませんが立派な仁王さまの石像が護る御本堂が青くすんだ冬空に威風堂々そびえておりました。
〖上泉信綱の墓所は本堂ひだりてより入った裏側にあります〗
┉ほおっ!


┉で┉上泉信綱さんって、誰?
ごめんなさい。上泉が生んだ偉人さん的な?
なにぶんにも住んでいるところのものでも覚束ない歴史の知識。
┉これはGoogle先生におでましいただかないと。( ;-`д´-)


〖【剣聖】と呼ばれる【上泉信綱公(上泉伊勢守秀綱、後に上泉武蔵守信綱)】は、永正5年(1508年)に大胡城の支城である上泉城で生まれました。
骨格雄偉で品格があり、教養が高く、文字通り文武両道に優れていた人であると伝えられています。
幼少のころから剣の修行を重ね、新陰流を創始しました。

へっ?上泉城で生まれた?上泉城って、お城で?


No.321 21/01/15 07:40
旅人さん0 

【上泉信綱】さんって、【剣聖】ということばかりがクローズアップされているので、┉たとえば宮本武蔵のような剣の道に生きた方なんだろうな~などと勝手に思いこんでおりましたが。
【上泉城の四代城主】。┉それはもう、間違いなくお城で生まれます!いやいや、お生まれになります。
もう┉。
謙虚なんだか、落城したお城の元城主という肩書きは捨てて、剣聖の方に重きを置いたのか、お墓参りをさせていただいたところでも普通の古いお墓だったし、Google先生に聞いてええっ?!っと後退りするほど(笑)びっくりした次第であります。

そして┉そこで思い出したのが二つ。
上泉信綱さんの小説が出ていたのを夫に勧めて購入したことがあったこと。
上泉信綱さん┉信綱公のお墓の前にそれはそれは大きな大きな信綱公の経歴を書いた看板が設置されていたこと。あまりに長くて読むのを面倒に思ってお墓参りだけで立ち去ったこと。
ちなみに夫はしっかりとそれを読んでおりました。はい。



剣聖と呼ばれる上泉信綱。

信綱は上泉城四代目城主として、領地・領民を守りながら、箕輪城主長野業正公とともに武田信玄軍と壮絶な戦いを繰り広げ、「上野国一本槍」と呼ばれます。
戦いに破れた際に信玄に仕えるよう言われたのを断り、剣の修行に出たといいます。


幼少のころから剣の修行を重ね、新陰流を創始します。

また、現在の竹刀の原型となったと言われる袋竹刀を自ら考案して、剣術の継承や稽古に改革をもたらし、斬りあいを理論的・体系的にしたことで、剣術の祖と云われています。
それまで剣術の稽古は木刀を使うのが主流。死傷者が出るのも珍しくはありませんでした。
信綱はそれでは意味がないと考え、剣と同様に扱え殺傷力が低く、稽古向きの新しい道具を作りました。
割った竹を馬の革で包み、漆を塗ったもので、現在の竹刀へと繋がります。
現在でも柳生新陰流や他の流派で多く使われており、「剣道」の始祖としても捉えてよいかもしれません。



No.322 21/01/15 08:00
旅人さん0 

また、信綱にはカッコよすぎる逸話はいくつもあり。
武田信玄にその腕を買われて、信玄のもとに来てほしいと言われたのを断ったこともその一つなのかもしれません。

そのなかの一つ。

┉あるとき、信綱は旅の途中でなにやら騒ぎに遭遇します。
村人に話を聞くと、通りすがりの不届き者が村の子供を人質に取って小屋に立て篭もるという、困った状況とのこと。
腕の立つ者が村にはおらず、説得しようにも犯人は聞く耳持たずで難儀していたそうです。
信綱は一策講じ、居合わせた僧侶から袈裟を借り、さらに村人に「子供を助けるために、ちょっと握り飯を作ってくれ」と頼んだのです。
信綱は袈裟に着替え、立て篭もり中の小屋に向かって「いつからそうしてるのか知らぬが、お前もその子も腹減ってきてるんじゃないか?ここに握り飯があるから、とりあえず食べるとよい」と穏やかに話しかけました。
犯人はあっさりそのおにぎりを受け取りに小屋を出てきて、そこを信綱ががっちり取り押さえ、誰にもケガをさせることなく子供の救出に成功した、というもの。



映画【七人の侍】の1シーンの元ネタになったと言われている出来事なのだとか。まあ、七人の侍は有名な映画ではありますが、さすがに世代が異なりますので、私は観たことはありませんけれど。




私は知らないことばかりでありましたが、
あの【スラムダンク】で有名な漫画家【井上雄彦】さんの【バガボンド】でも紹介されているようで!
そのなかで信綱の言葉として紹介されているのが
〖我が剣は天地と一つ〗
┉有名な方、だったんですね。( ω-、)
また一つ勉強になりました。

ちなみに、バガボンドはかつて三巻ほど読ませていただいただいただけです。はい。
あくまでもネットの情報を横流ししただけですので、念のため。m(_ _)m


No.323 21/01/15 09:31
旅人さん0 

信綱公のカルチャーショックで、西林寺さんの参拝記録ではほぼなくなっておりました。
そもそもが【西林寺】さんを〖西光寺〗と記述していたことにも今さらなからに気づきました。
あらためてお詫びして訂正させていただきます。
大切なことなのでもう一度、正しくは【西林寺】さんであります。m(_ _)m



夫が信綱公の経歴の書かれたものを読んでおります間、私はと言えば再び御本堂の前に戻って、聞きなれない音を聞いておりました。
不規則な、物を叩くような音。
庫裏の方角から聞こえてまいります。
うん?これは┉薪割りの音?

御住職さまと思われる方の姿が見えかくれしています。
好奇心は旺盛なおばさん、庫裏への通路を歩いてまいりました。
三畳ほどの広さはありそうな大きめな池がありました。午後の暖かい時間帯でありましたがその表面はそのほとんどが凍結しております。中には錦鯉の紅い背中が見えておりました。
「参拝をさせていただいておりました。┉薪割りですか?」
「ええ」
御住職ははにかんだような、柔らかな笑みを浮かべられ、私たちはそれだけの会話をいたしました。

庫裏の玄関前には檸檬がなっておりました。

その後なにをすることもない私は、仁王さまを見上げたりして夫を待っておりました。すると、あの学校や公民館などでもみられる、透明なガラス戸のついた掲示板が目に入りました。


そこには二枚のポスターが貼られていました。

【誓願】と書かれたものと。
【正見】と書かれたもの。
ともに合掌する僧の写真を扱ったものであります。

思わず釘付けになる私。


新型コロナウイルスによる
あらたな差別をなくすために私たちは
【誓願】
します
不安に駆られて他をきずつけることのないよう
お互いを慈しみあえる社会にすることを誓願します

私たちの温かい「ことば」や「行い」が苦しんでいる方がたを支えます。


【正見】
コロナ禍にあって、この苦境に立ち向かう人々に敬意を表します。
他方で罹患者の方々や医療従事者とそのご家族などに対する誤解と偏見、差別事象や風評被害が引き起こされています。
科学的根拠のない不正確な情報、迷信に振り回されることなく、冷静に生活を行っていくことが第一に求められています。
私たちにとって今できる、大切なことはウイルスに留まらず不安と差別の感染予防なのです。


と、書かれています

No.324 21/01/15 15:27
旅人さん0 

私はそこに立ち尽くしていました。
そのポスターがありがたくてありがたくて。
感謝と感動で動けずにいました。

毎日毎日のお勤めのなかで祈願してくださっているコロナウイルス感染症の収束。
それだけではないコロナによる被害に心を痛め、心を向けて、ポスターという形で発信してくださった宗教家の方に、ここを借りて感謝を述べたいと思います。そして┉本当はこのポスターに書き表せなかった思いもあったことと推察しております。

いまだに無宗教の私ではありますが、人としてどう生きるべきか考え生きることを説くということは、宗教、宗派等の壁はなく一つなのだと思っています。



一日黙々と働いて、
通り道のお寺さんや神社さんに毎日立ち寄り、
野の石仏に手を合わせ、
日々を感謝して生きる┉。

旦那寺、菩提寺の奉仕や布施を惜しむことなく
生かされていることに感謝して日々を生きる┉。
そんな日本古来からの生き方がしたいなぁ。

現代社会にはそぐわないものなのだろうけれど。



氷った池のそばで薪割りをされていた御住職さまが、薪割りを終え少しお話をさせていただき、その際袋いっぱいに柚子をくださいました。
そのいただいただいた柚子を入れたお風呂でまた、心とそして体を温めていただきました。






最後に┉。

脈絡がなく、どうしようかと思ったのではありますが、境内にそれはそれは可愛らしい仔山羊がおり、呼ぶと近づいてきてくれましたことをやっぱりどうしても記述しておきたいです。

No.325 21/01/18 06:13
旅人さん0 

梅が咲いていました。

まだ一分咲きの、早とちりの枝が暖かな陽に勘違いして咲いてしまったような、そんな咲きかたではありました。
けれど、少し離れたところにまでその香りはしっかりと感じられる、心あたたまる春の兆しでありました。


それは群馬県前橋市の近戸神社さんの境内で。
といっても、先日お話をさせていただいた月田の近戸神社さんではなく、同じ前橋市の上大島町にある【近戸神社】さんでのことでありました。
前回月田の近戸神社さんのことをGoogleで調べた際、Google地図に三ヶ所近戸神社が示されているのに気づきました。ひとつは月田近戸神社さんの外宮と思われますがもう一ヶ所?
それが上大島町というところにあること、さらに調べると、なんとホームページまで存在しているではないですか。しかもそのホームページは上大島町の町会のもの。┉これは、参拝をさせていただかなくては。


と、いうわけで私のムズムズとした気持ちはとまらない。
さすがにもう初詣の参拝のかたはほぼおられないのではということで、時間帯もお昼近くを選んで、それでもどなたかが参拝中であれば車で待機しようと考えて、寒さの戻った日曜日、阪神淡路大震災から二十七年目の日に参拝させていただきました。

う、これは┉狭い?
この日も私の運転。┉道は少しづつ住宅街の生活道路、という風情を呈するようになってきます。しかもあと少し、というところで右に行くのか左に行くべきなのか、細い丁字路にさしかかりました。しかもその丁字路のさきにあるのは対向車が来たらどうする?といった幅の道で、折しもそこに手押し車を押したお年を召した女性がようやっと歩いて来ます。
お、おうっ!頑張る!o(`^´*)

いやいや、それより右?左?

ええい、右に行くぞっ。おばあさんが私に道を示してくださるためにここを歩いてくださってるんだ!

No.326 21/01/18 10:00
旅人さん0 

右に向かう道を選んで正解でありました。
神さまがおばあさんに化けて道を案内して下さったのでないことは、私が車を停めたあと、ゆっくりと手押し車を押しながら歩いて来たことでいとも容易く証明されましたが。

ただ、ようやくたどり着いた神社さんには駐車場はなく、一~二台分車を停められるスペースがある、というところで。そこに停めていいものかどうか、躊躇われたものではあったのですが、一応鳥居の外でもあり、隣には小学校の駐車場、さらにその隣には楽しそうな遊具がたくさんあるかなり広めの児童公園が見えます。もし、私どものあと近戸神社さんにお越しのかたがおられても、そこに停めることも可能┉なのかなぁと、身勝手な考えのもと、近戸神社さんの隣にあるスペースに駐車いたしました。ごめんなさい m(_ _)m。

車を停めて降り立つと、神楽殿がありました。さほど広くはなさそうな境内でありますが、それにしては大きな、古くはありますが、掃除をいつもされているようで塵一つ、枯れ葉一つない神楽殿であります。
神官の方が常在しない社でありますが、きちんと管理をされている、清々しい気の神社さんでありました。

拝殿奥には立派な本殿があり、またお祀りされている末社摂社さんも多い、なるほど地元の方々がホームページまで作成して大切にお祀りしている神社さんであります。


今年初めての梅の花。
そしてその香りは、神さまがくださった参拝のごほうび┉ではないかと思ってしまうところが、私のずうずうしい、アラタメナケレバならないところであります。

No.327 21/01/20 04:54
旅人さん0 

このコロナ禍、関東では一都四県に非常事態宣言が発令されています。非常事態宣言が出ている出ていないに関わらず、不要不急の外出は避けて、マスクはあらゆる場面においてできうる限り装着し、人とは密にならない間隔で接することは、もうすでに一般常識となり。
コロナがこの世に出でて、あっという間に世界中を呑み込んで一年が経ちました。
現存している人類にとって未曾有の疫病で、未曾有の世界情勢で、未曾有の日常生活となってしまいました。

群馬県は一都四県に入ってはおりませんが、そも、それが発令されようがされまいが、この一年でコロナにたいして各自が各々の認識と感染対策を模索しつつも確立してしまっているような気がいたします。
非常事態宣言が出ていなかろうが、模範となりうるのではないかというくらい徹底した対策をとっておられる方もいらっしゃいますし、そうでない方はきっと非常事態宣言が出たところで自らはあまり変わらないスタイルをとるのではないかと思ってしまいます。

┉昨日、買い物に行くと大声でずっと話しておられる方がいて、あまりにも大声であまりにも長く、ふとその声の方を見やると!
まさかのノーマスク!
『コロナが怖くてどこにも行けやしないでしょ?私、ほんとに籠りっぱなしで毎日毎日過ごしてるのよ。あなたそんなじゃダメよ!かからないようにするしかないの』
と、広い店内かなりの範囲に響き渡る声でスマホで話しておられるのです。まわりはすべて衣料品。手にはお店のショッピングカートと店内かご。
もし、彼女が無症状罹患者だったら⁉
┉感染のリスクを考えたら恐くて注意すらできませんでした。いるんだなぁ、まだまだ。
話の内容との大きなギャップに、開いた口がふさがらず、その後ふつふつと怒りが沸いてきましたが┉。私が店内に入って買い物を終えてもなお、その方の声は店内に響き渡っていました。


不要不急の外出自粛について語ろうとして、思いきり話が逸れてしまったのは┉まだまだ未熟な私の在り方で、反省すべきは自身でもありました。


No.328 21/01/20 06:25
旅人さん0 

非常事態宣言下において、『適度な運動のための外出は不要不急の外出に当たらない』、とあったように記憶しています。

テレワークの夫と、辞職して一月半の私。
外出しない気になればまるで外出しないで、二日三日過ごすことができます。家事でそれなりの動きはある私、対して夫は机でずっとパソコンに向かっています。一方、中途専業主婦の私はコロナ禍でなくてもご近所でおつきあいしていただいている方もおらず、友人もこの年ではまだバリバリの現役で働いており、一日のほとんどを誰とも話さず過ごすことが多く、これは明らかに認知症への階段を階段落ちしていくような┉ Σ(゚Д`;)

うーん。
これはコロナではない病を発症しそうだ。
と、いうことで、私たちのありがたいライフワーク神社仏閣巡りを再開することになりました。

いつか行きたいと書きためたノートには、行く気ならいつでも行けた、著名な神社仏閣の名前がずらーっと何ページにも渡って地区別であったり、あいうえお順であったりと(自分では分かりやすく)書かれています。まあ、そこを見るとかなしくなるので、
〖群馬県内の〗〖密にならないような〗〖史蹟・神社仏閣〗を回ろうということにいたしました。〖万が一混んでいたらスパッと諦める〗
といったルール。
できるだけ私の運転で、ナビではなく地図で計画を立てて!
必ず運動的な要素をそこを基点として取り入れていくこと。
外食しなくてすむように、自宅から食事を用意し飲み物も用意して。

afterコロナの神社仏閣珍道中であります。

No.329 21/01/21 06:43
旅人さん0 

群馬県桐生市にあります常廣寺さんに参拝いたしました。こちらはかつて子どもが小さな時に遊びに行った山上城趾公園の裏手にあります。
その当時にもそこにお寺さんがあることは気づいていたのですが、神社仏閣巡りを始めても私のあちこち壊れた脳ミソでは常廣寺さんに繋がることはなく、今回夫が言い出しての参拝でありました。
こちらの創建は天正年間(安土桃山時代)と言われています。

車から降りたった山門前に立てられた〖江戸の地名名付けの里〗と〖小田原の機利(きけ)者 山上郷右衛門ゆかりの寺〗の石碑。
えっ、そうなの?
山上さんってどんな人なの?
さっそく私の優秀でしかも無料なガイドであります夫に聞きましたが、どちらの問いにも首を傾げています。┉これはGoogle先生の出番、かな。 (´艸`.)


山門から向かってひだりての高台には石碑・石仏に囲まれた〖庚申堂〗。庚申堂横に立てられた大きな石塔は〖巳需塔〗。生糸を生み出す蚕(かいこ)を好んで食べるネズミの天敵・蛇(巳)を祀るのが巳需塔、なのだそうで、群馬県は養蚕の盛んな地だったのでこの辺りもそうだったのかもしれません。

少し離れて〖弁財天堂〗。弁財天堂正面欄間を飾る透かし彫りが思わず声が漏れるほど見事です。前面は龍の彫刻でその迫力に圧倒され、透かし彫りのはかないほどの薄さに感動します。後方は打ち出の小槌や宝珠などの吉兆ものとなっているようでした。
なんでも堂内の天井には極彩色に彩られた弁財天の絵が描かれているそうですが、こちらは残念ながら拝見できず。桐生市の重要文化財に指定されているようです。

その隣に石灯篭があるのですが、その姿形が、私の語彙力のない表現をもってするとタコかクラゲのような。はじめて見る形です。
山門からみぎてあたる向かい側には鐘楼があります。

御本堂前には〖阿育王法勅柱頭〗と記された獅子を頂く石柱。大きな大きな船に乗った七福神の石碑。諸国行脚し求道中の曹洞宗開祖・〖道元禅師〗の像、一瞬度肝を抜かれる仏様の御頭石造の〖仏頭〗、と、みどころ満載な感がいたします。
そして蓮華葉に座乗の〖一葉観世音菩薩〗さま。修業を終え海を渡って帰国する道元一行が嵐に襲われた時、道元が観音経を唱えると一葉観音が現れ荒海を鎮めた故事に由来するのだといいます。私、この美しい観音様が大好きなのですが、実に初めてその由来を知りました。

No.330 21/01/23 22:48
旅人さん0 

御本堂前でお参りさせていただいたあと、かなり躊躇い考えながら庫裏へ向かいました。こんなコロナ禍、お寺さんはどうお考えでおられることか考えてしまい、このまま帰ったほうがよいのかもしれない、御朱印はしばらく封印しておいたほうがよいのではないか┉いろいろな考えが交錯いたします。
呼鈴を押すと女性の声で「どうぞ」と。
「参拝をさせていただいたのですが、御朱印をお受けすることはできますか。」いつものように申し上げました。
「ああ、御朱印ね。若いのがいればお書きできるんだけど、ちょっと待ってくださいね」
「お待ちになる間、御本堂でお参りされますか?」
えっ?
このご時世、よもや御本堂にあがらせていただけるとは思ってもみませんでしたので本当に驚き、そしてありがたいお話です。

御本堂では内陣の灯りもお付けくださり、いろいろご案内までしてくださいましたのち、「ごゆっくりお参りください」と退座していかれました。いたれり尽くせりの対応です。
御本尊のお釈迦様に手を合わせて、内陣の裏の間にあたる位牌堂へ向かいました。なんでもこちらに御開祖がおまつりされておられるのだそうで。┉それでも御内陣の裏の間にまで入らせていただけることなどなかったものですから、なんとなくそわそわと、そしておずおずと位牌堂へ入り手を合わせておりますと何やら人の気配がいたします。
ん?
御住職さまです。位牌堂に本当は入ってはいけなかったのだろうか?
小心者の私はそわそわドキドキ。
「よく来てくださいました。こちらには御開祖さまと中祖さまがおまつりされていて、あとは┉」
なんとわざわざお出ましくださってご説明を!
位牌堂を出て再び外陣へと戻り、外陣の絵の説明をしてくださることに、「お釈迦様の生涯を誰でもわかりやすいように描いてもらったんだよ」
なるほど、お寺さんの御本堂にしては色合いの強い、ポスターを思わせるような鮮やかな色で描かれた何枚もの絵が飾られています。
そして┉御本堂のむかってひだりての窓から見える建物を指さし、
「あそこはね、龍の骨がお祀りしてあるんだよ」
┉龍の┉骨?
龍の骨ぇ?!

No.331 21/01/24 06:34
旅人さん0 

『龍の骨』?┉たしか、そう聞こえました。
あの、空を飛び水を司る、神さまとしてお祀りされる、〖龍〗ですか?声にはならない疑問を私のなかでぐるぐると巡らせていると、
「むかぁし、龍の骨を売りに来た人がいたとかでそれを買って、それ以来ずっとあそこにお祀りしているんだよ。┉信じる信じないはそれぞれだけどね。ともかく、そう言われてるんだ。よかったらあとでお参りしていってください」

そのあと┉、可愛らしいお地蔵さまの絵が描かれた、厚みのあるしっかりとしたハンドタオルを夫と二人分頂いたり、ソファーにご案内いただきお茶までもいただくこととなり、もう本当に本当に恐縮して居心地もなにもあったものではない状態です。
何度も何度もこのコロナのご時世ですからと申し上げても、
「大丈夫、大丈夫」
とおっしゃる御住職さまは、左半身に軽く麻痺をお持ちです。
┉御住職さま?、本当にこんなご時世ですから、無症状の感染者もおり、潜伏期間もどのくらいかわからない未知の悪疫が流行っている昨今、あんまり大丈夫じゃないですよ。
お茶をいただけば感染のリスクが上がります。
と、またまた声にならない言葉を御住職さまに向けて目力でうったえてみましたが、届くことはなく。

大病をなさってからは御朱印の書も書かなくなって、大好きな骨董市もこのコロナ禍で開催すらされず、大好きな骨董の話を聞いてくれる人がいなくてねぇと、御住職。


まあ、私どもダブルマスクでお邪魔しているし、この大きな応接セットならしっかりソーシャルディスタンスとれてますかね。

お寺さんや神社さんは、迷える民を御仏や神さまとの繋ぎをなさる大切な役割を担っておられるため、基本、どちらにうかがっても、受け入れてくださる姿勢はまるで変わられていません。┉そこに不自然なアルコール消毒が用意されているようになっただけで┉。
これは┉参拝する者のほうがお寺さんや神社さんに対して失礼のないようしっかりとした感染対策でお邪魔して、自らの英断で御朱印を受けないようにしていくしかないな。

厳しい修行を受けられた方々は、この猛威を振るう悪疫すらも恐れず、教えを守る、教えを広めることが身体にしみついておられるのだなぁ。


No.332 21/01/24 11:15
旅人さん0 

初めて参拝させていただきました群馬県桐生市の【常廣寺】さん。
御住職はその縁起についてもおもしろおかしくお話しくださいました。
謙遜や話術、ではあるのでしょうが、なんともびっくりするようなお話です。こちらのお寺の紋は、トライフォースではなくて北条氏の家紋として有名な〖三つ鱗〗、であります。〖小田原の利けもの〗の山上郷右衛門さんに由来したものなのでしょう。
その郷右衛門さん、天正年間に東上州を廻っている際、ここ桐生市新里山上の地を父親の出身地と勘違いして(┉?!)、戦乱の世が静まったのちに、ここに戦乱で失われた人々を弔うためにこの常廣寺さんを建立したのだというのです。
よりにもよって『勘違いして』って┉、なんともあり得ない伝承なんですけど。〖常廣〗というのは、お寺の裏の草庵に住んでいたお坊さんに因んで付けられたものだとか。そのお坊さんは特にどこから来たのかもわからないような方であったようですが、村人に慕われたかただったとのことであります。
元禄時代、火災で堂宇を失った際、再建のお金がなくて困っているとき、当時の住職の夢枕に〖山上郷右衛門〗さんがたち、
「堂宇を必ずや再建してほしい」と言ったのだとか。
お金がないので無理だともうしあげると、
「将来、京都から龍の骨を売りに来る商人がいるから必ずこれを買うように」ともうされたのだとか。
いやいや、堂宇すら建て直せないほどお金がないので無理だと申すと
「焼けた堂宇の裏手にある丘に埋蔵金があるので、それで龍の骨を必ずや買うように」
と言われ、念のため言われた場所を掘ると、夢で言われた通りにお金が出てきたのだとか。

ときは流れ、住職も代替わりした頃、果して龍の骨を売りに来た近江の商人がいたのだそうで。
当時、龍の骨は万病に効く薬とされたもののようで、人々はそれを求め常廣寺に殺到し、龍の骨を購入して五年目に堂宇の再建にまでこぎ着けたのだといいます。
龍の骨を売りに来た商人はそのお金を元手として、深谷で酒屋を営んだのだとか。

なんとも壮大な縁起であります。

No.333 21/01/24 17:15
旅人さん0 

私が御朱印をお受けするようになって、まださほどは経っていないにも関わらず、ここ二年くらいの間に御朱印界、特にお授けくださる側の変化が著しいと感じます。
それでも当時から、可愛らしい絵の描かれた絵手紙風の御朱印もあり、かくいう私もその絵手紙風の御朱印に魅せられていた一人でありましたが┉。

そんなお寺さんに触発されたのか、群馬県桐生市で、絵手紙風の御朱印をお受けになるお寺さんが集中して増えていき、御朱印のブログを拝見すると、桐生市の御朱印ツアーなどをされておられる方々がおられるようであります。
とはいえ、桐生市に限らず全国的に御朱印が進歩というか進化というか、変化してきているようです。
毎月毎月絵が替わり、特別な縁日等には限定の御朱印が用意され、
そして、今、刺繍の御朱印でありますとか、切り絵の御朱印でありますとかがあるようで驚いております。

とあるお寺さんで、毎月毎月、御朱印帳をお預けしてその月の御朱印をお受けし、その料金(普通、御朱印に対して料金、という言い方はいたしませんが)を支払って、そのままその御朱印帳をまたお預けしていかれる、という光景を何度か見かけ、┉これって本当に御朱印なのかなぁと、私は思ってしまいました。そのお寺さんもそういったやり取りを普通にされていて、なんだかその後はそのお寺さんから足が遠のいてしまっております。
参拝のしるしとして、ですから、毎月そのお寺を参拝しておられるし、その証である御朱印を次の月の分予約していかれるのだから、別に計算上はあってはいることなので、あくまでも私個人の違和感に過ぎないのではありますが、手元にご自身の御朱印帳が戻るのはいったいいつのことになるのやら┉。


刺繍御朱印や切り絵御朱印。
それをじかに見たことはないのですが、避けて通っている私。それはもしかしたら自分の物欲という煩悩とのたたかいを怖れているのかも┉。


No.334 21/01/26 15:05
旅人さん0 

一昨日、【日光輪王寺】さんより【鬼門除け】という祈願札が届きました。
初詣の時期を避ければ直接お受けできるのではないか、と淡い期待を抱いておりましたものの、この度の爆発的な感染拡大、さらには栃木県における非常事態宣言の発令を受けて、参拝を諦め郵送というかたちをとりました。
日光東照宮、輪王寺さんは実は私にとってのパワースポット。
駐車場に着いてもなおすぐれなかった体調が、石段を登りました辺りから、スキップして歩けるくらいに身体も心も軽やかになる、奇跡のような地であります。出来ることであれば直接、日光東照宮、輪王寺さんに参拝してお受けしたかったものです。

こちらの祈願札が届きましたら、同封のハガキに家族の名前と生年月日を記入して輪王寺さんに送付いたしますと、御本尊さまの御宝前に献じて無病息災を御祈願くださるといったものになっております。
鬼門除札でありますので、鬼門からの破運による災難を抑えるとともに家族の運気を伸長させてくださるものとのことで、あの、降の魔(ごうま)のお姿の角大師さまのお姿の護符がはさんでございます。
自宅においてはその護符にも家族の名前と生年月日を書いてお札にはさんで一年間封じて居間の壁に吊り下げておきますものとなります。


このお札をお受けになった方が、堤防の決壊で被災されたとき、その住所から、おそらくは被災されたであろうと、輪王寺さんから御見舞い金が届いたというお話をネットにアップしておられたことがありました。
全国各地からの、いやいや全世界からの参拝者のありますお寺さんにおいて、ここまで手厚いお付き合いをくださることにいたく感動し、このお札をなんとしてもお受けしたいと思ったものの、実はこのお札、輪王寺さんにおいてあまり全面に出して授与しておられないのであります。行けばすぐにお受けできるだろうと思って行ったところ、その物をどこにも見いだすことができず、そのときお札の名前もよくわからず、たいそう苦労してお札をお受けすることになりました。

この鬼門除札も立春を境に掛け替えるものとされております。
どうか世界中の新たな春、よき年となりますように。



No.335 21/01/27 06:11
旅人さん0 

今年日光に行くことは叶うのだろうか。

日光に魅せられて、ようやくその入口にたどり着いたというところなのに。
日光の弥生祭に行きたいと何年も思いを寄せておりながらいまだに行けず、とうとうafterコロナの時代となってしまいました。
日光には、世界遺産に登録された【日光の社寺】以外にも、それはそれは美しい景観がたくさんあって、春には春の┉どころか四月には四月の、いやいや毎週、訪れるたびにその良さを味わうことのできる、私にとって大切な場所であります。
とはいえ、ついつい日光の社寺に立ち寄っては時間を費やしてしまって、ようやっと開山堂への参拝をいたしましたくらいで、やはりずっと行きたいと思っております化け地蔵や、憾満ヶ淵にすらも行けていないありさまで┉。

世界遺産に登録された日光の社寺も、まだまだ不勉強で、その一つ一つ一つにあります歴史や云われ、一つ一つに込められた意味などを知って参拝できたならどれだけの価値をもつことになるでしょう。


ああ、日光。




No.336 21/02/02 10:11
旅人さん0 


人の心には浮き沈みがある。
それは誰にも止められない。      

世の中には
その沈んだ心を
突いてくる人がいる。 

それを言葉による暴力であるとか、
いじめであるとかの自覚すらなく、 
ただ心のままに
言葉として口に出しているだけ。
ただそれだけの人もいる。

もちろん┉。
嫌いだという感情のもとに、
確信して
その沈んだ心、弱った心を突いて
笑うヤツもいる。

No.337 21/02/02 10:31
旅人さん0 


人の心には浮き沈みがある。
それは誰にも止めることができない。

沈んだ心をなんとかして浮上させたいともがくけれど、
泥沼の中の泥に足を捕られるように、
ずぶずぶとさらにさらに沈んでしまうこともある。


それは
季節によるものなのかもしれないし。
なんでもない日常の中で、
気づきもしないで踏んでいた細く短い棘だったのかもしれない。


もがいても、
あがいても抜け出せないとき

どんなに手を差し伸べてくれる人がいても。
それに気づき感謝すればするほど堕ちていくことすらある。

そこから這い上がるのは
自分自身でしかない。
おそらくはそれはどんな幼子であっても┉。


薬の力を借りて治ろうとしたとき、
その薬によって
変わりたくない自分に変わっていく自分に気づくこともあるのかもしれない。
そうしてそこでまた絶望して。



でも人は。

そうやって何千年にもおよぶ時を
絶やすことなく紡いできた。

┉いつかきっと
その泥沼から脱け出す日がある。
しっかりと二本の足で
大地を踏みしめる日がくる。
また歩き出す日がくる。

あの泥沼に
驚くほどに美しい
清らかな蓮の花が咲くように。



   

No.338 21/02/02 10:53
旅人さん0 

以前は筆ペンで書いていた写経を、筆で書くようにしています。書道を習ったのは学校の書写の授業でだけなので、それはそれは毎日悪戦苦闘しています。

留め、はね、返し┉かすかな記憶がたよりですが、そもそも字を書くことがやっとで、バラバラの字の大きさ、明らかに曲がった文字。最悪には書き間違えすらあることも。┉さすがに毎日となるとよほどのことがないと書き間違えはなくなったのですが。

墨を摺る。
摺った墨の感触からその濃さを推測する。
かすかに香る墨のにおい。
筆を整える。
最初の一文字。
字の形が整うことなどほとんどなくて、
それがお経であるがゆえに落ち込むことしかり。

でも、この小一時間で、驚くほどに心が整う。
心が穏やかになる。

ありがたい日常であります。



先の二片の走り書きも、写経のあとに思ったことを半紙に鉛筆でなぐり書いたものを打ち直したもの。
 鉛筆でのなぐり書きもほとんど最近はすることがないことで、その感触もまた新鮮でした。



No.339 21/02/03 06:26
旅人さん0 

節分の行事。
豆まきをするお寺さんや、神事を行う神社さん。
神社仏閣に縁のない生活を長いことおくってきてしまったがために、どれだけの損をしてきたことか。神社仏閣巡りを始めてからの短い間に拝見してきたあの行事は、どれも素晴らしいものでありました。
栃木県足利市の【鑁阿寺】さんは節分の日にそれは見ごたえのある大がかりな武者行列をしていました。┉今年、栃木県は非常事態宣言が出ており、あの行事は執り行うことはできたのだろうか。
豆まきをすることで有名な寺院も豆まきをするにはしても、豆を拾わないようにとか、拾った豆は食べないようにとか、今までとはあり方を変えて行われたようです。

アフターコロナの時代となり、今はただただ混乱しているとき、ではありますが、これでワクチン接種が全国内に、全世界に拡がれば、また今までと同じような生活に戻れるのかどうか┉。それも純粋に対コロナの問題であって、変わってしまった生活はなかなか戻せるものではないのでしょう。

人類の歴史上、何度となく見舞われた悪疫の大流行。それでも人々はそれを乗りこえて、今まで以上の生活へと環境を整えてきた。
今が一番つらいときであると信じて。
世界中が再び笑顔で過ごせる日が一日も早く戻りますように。


日本中の神職の方が、僧侶が、新型コロナウイルス感染症の終息を御祈願くださって、今日が始まりました。
私も仏壇もどきに向かって読経し、写経し、毎日祈願しております。

No.340 21/02/07 17:43
旅人さん0 

蝋梅の見頃という群馬県桐生市の【山上城址公園】に行き、その透き通ったような不思議とも思える花と香りを楽しませていただきました。
そこに桐生市新里町の文化財の案内板が設置されておりまして、夫がかねてから行きたかったという【龍興寺】にうかがわせてことにいたしました。龍興寺さんは石造の【虚空蔵菩薩】さまと宝筺印塔とカヤノキが市指定の重要文化財となっているのだとか。
龍興寺さんへはナビで向かったのですが、いつも珍道中の一役を担う私たちに似合いのナビは今日も裏手に案内をしてくれました。┉小さな案内の看板が右に向かうようにときちんと示してくれてはいたのですが、気づいたときには時すでに遅し。まあたしかにそちらこそが山門なのではありますが、車で来ていることはナビこそが一番知っているのではないのか?
どうかそろそろ目的地は駐車場のある入り口であることを覚えて欲しいものです。( ;´・ω・`)

龍興寺さんの境内ではお父さんと男の子が二人で竹を使って何やら遊んでおりました。┉御住職さま?洋服にニット帽、スニーカー姿のお父さんにとりあえずこんにちはと挨拶をいたしました。
「なにかご用がおありですか?」
あ、参拝にうかがいました者です。
「ご苦労さまです」とだけおっしゃって再びお子さんのもとへと戻られました。
あのう、御本堂に上がらせていただくことはできますか?
「ああ、どうぞどうぞ」
┉なんとなく、なんとなくなのではありますが、こういった対応に慣れておられないような気がいたします。
「じつは私こちらの住職となってまだ二年なものですから」
なるほど。
なんでも、こちら、前住職さまがお病気で入院されたのちに亡くなられ、しばらくの間無住であったのだそうです。
十五年前に僧侶となられ、二年前にこちらのご住職になられたのだそうです。
「つかぬことをうかがってよろしいですか?」 

ご住職になられて二年。檀家の方々にうかがいながらお寺のあり方を模索されておられるとおっしゃって、「(このような檀家以外の参拝客に対して)他のお寺さんはどのように対応されておられるか、参考までにうかがってもよろしいですか」 とのこと。
そ、それこそ大したやつらじゃないので、まるで参考になどなりませんが。                                                     

No.341 21/02/08 05:56
旅人さん0 

┉と、ご住職と大したやつらではない者たちの、大した内容ではない会話はおいておき、
ご住職にうかがいましたお話によりますと、こちら【龍興寺】さんは、確実に記録として残っているものから最低でも四百年の歴史があるのだそうです。境内には、歴代住職さまたちが日々護摩を焚き修行し祈願した護摩堂もあったとのこと。
「元々は道路を隔てた向こうまで全てこの寺の境内であったのだそうで、大きなお寺であったようです」
現存の境内だけでも結構な広さがあるように感じますが。
「こちらの梵鐘は戦争で供出したのですが戻ってきたらしいです」
「なんでもこの梵鐘は、かつてこちらの境内に鐘を造れる作業所を建てて、職人にここで造らせたということです」
す、すごい!
それだけの作業所を建て鋳型をわざわざここで造って、というのは、一見できた梵鐘を移動させることを考えた時、現代のような移動させる自動車のようなものが何一つなかったことを考えるといかにも能率的に思えたりもしますが、そのために大きな梵鐘を造れるほどの建物と道具を全て揃えるというのは、果たして┉。
とりあえず言えることは、当時のこちら龍興寺さんにはそれだけの力があったということでありましょう。

今、こちらの龍興寺さん、広い境内ではあるのですが、何事かあったのか?と思うくらいに、桐生市指定だという文化祭のカヤノキ以外の木が、ことごとく全ての枝を落とされ、幹だけの状態になっていました。
鐘楼があり、門が二つもあり、桐生市指定の重要文化財が三つもある境内ですのに、なんとなく寂しい感じが漂っているように思えたのは、その木々のせいだったかもしれません。
ご住職も、「カヤノキもだいぶ枝を落とされてしまってはいるのですが┉」と残念そうにおっしゃっておられたくらいでありました。
なんでもこのカヤは【法印のカヤ】と呼ばれるもので、第十二世の和尚さまが読誦していたとき、花瓶のカヤから根が生えてきたのだとか。さっそく境内にこのカヤを植えたのがこの木のはじまりで、時は安永元(1772)年三月二十一日といいます。
法印のカヤと呼ばれるようになったのがいつの頃なのか、いわれはどうだったのかは、特には語られていないようですが、そのカヤの根元に〖宝筺印塔〗と石造りの〖虚空蔵菩薩〗さまがおられます。

No.342 21/02/08 14:40
旅人さん0 

群馬県桐生市の【龍興寺】さんの【虚空蔵菩薩】さまは、思わずはっとしたほどに、優しいお顔立ちであります。法印のカヤの下で、穏やかに、静かに微笑んでおられます。
首もとから衣、そして朱で塗られたあとが残っていることもあり、私のなかの虚空蔵さまのイメージとは少し違った御像でありました。
わが家にただ一枚だけあります、虚空蔵菩薩さまの御姿が、私のなかでの虚空蔵さまになっていたのかもしれません。
こちらの、龍興寺さんの虚空蔵菩薩さまはお座りになられた御像でありまして、その右手は手のひらを上に向けて、組んでおられる膝よりも前に差しのべるようにやさしく垂らしておられます。
これは【与願印】とよばれる印のひとつであります。

古来インドでは手の形で意思を表す習慣があり、そこから発展して生まれたのが【印】、【印相】であります。手の形で御仏の利益や誓願などを象徴しており、この与願印は人々に安心を与え、願いを聞いてくださる、かなえてくださることを示しておられるということであります。
一方の左手にはつぼみの【蓮華】をお持ちになっています。
わが家にあります虚空蔵さまのお姿は右手に【宝剣】を掲げ、左手には【如意宝珠】をお持ちです。
そもそもが仏像を拝しても、そこにある案内を見るか、お寺のかたに伺うかしなければその御仏がどなたであらせられるかいまだによくはわからない私なので、何をお持ちであろうがあるまいが、そこにおられる御仏像がどなたであるか、ほぼわからないのでありまして┉。
剣をお持ちであるので虚空蔵さまと思いきや文殊菩薩さまであったりと、少しも初心者の域から脱することができない私でありました。

龍興寺の虚空蔵さまの与願印の御手は本当に優しくて、私の心に秘めた願いを叶えてくださるだろうと本気で思えた御手でありました。

でもあまりにも多すぎて、虚空蔵さまがお困りになられてしまいそうです。
虚空蔵さまのお授けくださるという智恵でもよいのだけれど、なぁ。
私がお寺さんを去ったあと、虚空蔵さまのお顔が苦笑に変わっていなければいいのだけれど┉。( ;´・ω・`)

No.343 21/02/08 15:31
旅人さん0 

以前に書かせていただいた、同じく群馬県桐生市の常廣寺さん。
常廣寺さんの山門前に建てられた〖江戸の地名名付けの里〗の石碑。
私専属の名ガイドをもってしても分からなかったこの碑に書かれた言葉の意味を知ることができました。
なんでも桐生市新里町に住む人なら知る人も多いという民話だったようです。

常廣寺の和尚さまが所用で江戸に出かけました。その頃江戸はまだあまり開拓されておらず、徳川家康公が町づくりに躍起になっている頃でありました。
「遠い上州(群馬県)から偉いお坊さんがやって来た」と評判になっていて和尚さまの周りにはたちまち人だかりができてしまったそうな。
「お坊さま、わしらの町には名前がついていないんで、お坊様の智恵で名前を考えてくだされ」と口々に言われたのだそう。
和尚さんは江戸についたばかり。取り囲まれて困ってしまった和尚さんは(うーん、こうなったらふるさとの新里村の名前をつけてしまえ)
そう思った和尚さんは
「では申そう。そなたの町は板橋じゃ」
「そなたの町は大久保じゃ」
┉そういった具合で、芝、高輪(新里では高縄)、五反田、新川(新里ではにっかわ)、赤坂、本宿(新里では元宿)と、次々と挙げられていったそうな。


私は群馬県の桐生市新里町に詳しくはないのですが、全て昔から、そして今なお新里にある地名なのだそうです。
たしかにこの中には私ですら知る新里の地名がいくつも含まれており、こう書き出してみるとたしかに合致しているようにも思われます。

うーん。
まあ、あくまでも民話、新里の地にそういった言い伝えがあるということであるので、事実であったかどうかは私にはまるでわかりませんが。
おもしろい合致振りであることは間違いありません。 (*-ω-))

No.344 21/02/12 14:28
旅人さん0 

朝食を終えて、食器を片づけているとテレビで火災のニュース映像が映し出されました。
『┉鎌倉市の満福寺で火災が発生し現在も炎上中です。』へっ?!
『近くを走る江ノ電は運行を中止し┉』
ええっ?!

┉満福寺って、あの義経の?
まだ行ったことないというのに┉。
いやいや私が行ったことがあろうがなかろうがそんなことはどうでもよくて、うわぁぁ、また歴史ある建造物がこんな形で失われてしまうの?
昨日、長野県で、やはり歴史ある温泉宿が全焼してしまったというニュースがあったばかりです。

続報が気になるものの、お昼の支度の頃ようやくテレビをつけることができました。┉ない。続報は放送されません。
昔ならここでやきもきするばかりでしたが、今はありがたいことにネットで確認することができます。どうやら御本堂は火災をのがれ、境内にある建物が燃えたにとどまったようです。

満福寺さんは源義経が壇ノ浦の帰り、頼朝に鎌倉入りを禁じられ留まったお寺。腰越にあるこの満福寺で頼朝の重臣にとりなしを依頼する文を書いたため、この書状を腰越状と呼んでいるようであります。
ただそんな義経の思いは頼朝に届くことなく、ふたりの確執は生涯続き、義経の悲劇はここから始まることとなるのですが。


火災は不注意などなくとも起こってしまうことがあります。あっという間に火の手がまわり、信じられない、信じたくないスピードで炎にのみ込まれていってしまうようです。
┉今年は火災のニュースを目にすることがやけに多いように思います。
どうかこんなコロナの時代に更なる悲劇が人々を襲うことがありませんように。

No.345 21/02/13 23:33
旅人さん0 

東日本で強い地震がありました。
こんな夜中、あの3・11で被災された方々はどんなに恐い思いをされておられることか。あちらはまだまだ冬真っ只中。あの時のことを思うとこの寒さのなか、どう逃げるかを考え不安でいっぱいでお過ごしでしょう。
どうかこれだけでおさまってください。
どうかこれだけで鎮まってください。
祈ります。┉祈るしかできません。

No.346 21/02/14 06:10
旅人さん0 

こんな状況下に、明日、関東東北では雨の予報が出ています。

昨夜のものも大きな地震でありました。私の住まう地域でも震度4と報じられました。
今再びテレビをつけると、あの暗く寒い時間に高台にいち早く避難された方々もおられました。
停電や断水がおきているところもあるようです。
地震による大きな被害も今朝明るくなって明らかになるものもあることでしょう。

どうか大きな被害がありませんでしたように。


No.347 21/02/15 06:35
旅人さん0 

秩父に向かう途中、深谷市を通ってまいります。あるルートで向かったとき、なんともインパクトのある、ショッキングともいえる名前の橋を渡りました。
血洗橋です。
「┉こ、これはなんとも強烈な┉なんとも物騒な名前の橋だね。ここで大きな合戦でもあったの?」
と隣で運転している夫の顔を見やると、こんなとき何でも知ってると私に思われ頼りにされている夫もびっくりして息をのんでいました。
「うーん、あってもおかしくない土地柄ではあるにはあるんだけど、この地名がそのまま残されているというのもまた┉」と言葉を濁しており、これはGoogle先生に聞かないと。

そこを少し行くと血洗島諏訪神社という神社への入口を示す看板が出ています。「ここに寄ればこの地名のいわれとかわかるんじゃない?」そう思ったものの、その入口はあっという間に通りすぎてしまい、しかもけっこう細そうです。あとであらためて寄らせていただくことにして、その後の参拝には至っていないのですが。
なんと、こちらの神社さん、今度の一万円札の顔となる渋沢栄一氏ゆかりの神社なのだとか。
今回の大河ドラマも渋沢栄一氏が主人公なのだそうで、時は再び渋沢栄一氏にスポットライトがあたっているようです。


血洗島というのは、いかにも物騒な、血生臭い名前であり、なんとも怖い名前なのですが、その地名の由来を調べてみたところ、その由来には諸説があり、定説はないようなのです。
しかし、諸説の中で、地元で妥当と考えらられている説は、この地は、利根川の洪水が多く、地が洗われたという意味で「地洗(ちあらい)」、また地が荒れるという意味で「地荒(ちあら)」と呼ばれたのが、いつの間にか「地」が「血」となり、「血洗島」となったという説のようです。いやいや、なかなかそっちにもっていくことはないのではないかなぁ。

 
八幡太郎義家(源義家)が、利根川の戦いで片腕を切落され、当地でその血を洗い流したとか、その腕が流れ着いたとか。
あるいは義家の家臣が片腕を斬り落とされ、その傷口をこの地の小川で洗ったからきたものだとか。
ちなみに隣村の手計村というところには、切り落とされた武士の手ばかりが、流れ着いたとも伝えられているのだとか。
また、赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕を取られ、その傷をこの地で洗ったというものもあるようです。
 


No.348 21/02/15 06:40
旅人さん0 

血洗島というなんとも物騒な地名について紹介されている説をまとめてみると次の四つになるようです。

一、赤城のムカデと日光の大蛇が戦場ヶ原で戦ったという伝説との関係は不明だが、赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕を斬られ、その傷口を述この地で洗ったという説。

二、アイヌ語源説で、アイヌ語の「岸、末端、尻」などの意を表す「ケッセン、ケセン、ケシ」に血洗の漢字をあてたという説。

三、その昔、この辺りで合戦があり(一説に平安時代に八幡太郎義家の奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったので血洗島と言い、土地の人がその手を近くに葬った墓が手墓と言う伝説があり、それが地名となったという説。

四、利根川の洪水による氾濫原のため、地洗(地を洗うように流れたという意)とか、地荒(地が荒れるという意)であったのが、いつの間にか「地」が「血」となり、血洗島となったという説。


渋沢栄一氏自身は、生地の地名について次のように話しているようです。
「怖ろしげなるこの村名のかげには、幾多の伝説と口碑とが伝わっている。しかしそれは赤城の山霊が、他の山霊と闘って片腕を挫(くじ)かれた。その傷口をこの地で洗ったなどいう種類のもので、斉東野人(田舎者の意)の語たるはいうまでもない。それは深く詮索せぬ」

渋沢栄一は、血洗島という名前に嫌な名前だとか物騒な名前だとかは考えていなかったようで、やはり、郷土を愛していたということでしょうか。あるいは、地名の由来などにはこだわなかったということでしょうか。
国を大きく変え、今なおその功績は大きな渋沢栄一氏。
ちなみに私は、渋沢栄一氏はひもかわうどんが好物だったというどうでもいいことを覚えており、夫に苦笑されました。

No.349 21/02/18 10:05
旅人さん0 

普段曲がることのない交差点に、小さな案内板が建てられています。【石山観音堂】とあります。
そこを通る度に気になって、気になって┉。
ただそこを曲がってどこにつながっているのか、細い道だったりしてやっとすれ違うようなところだったら┉行き止まりでバックして戻るような道だったらどうしよう。
そんなことを考えてなかなかハンドルをきることができません。

先日の春のように暖かな日、石山観音堂へようやく参拝することができました。
じゃじゃ馬ナビと珍道中カップルは、石山観音堂を通り越しそうになりながらも、すんでのところでその駐車場に入ることができました。
その道すがらにある石の鳥居に目がいって、さらにはそこに小さく石山観音堂駐車場と書かれた案内板があることに気づくことができたから、なのでありました。

神仏分離令により、無理やり神社とお寺を分けた被害が少ないところでは、どちらかの色は濃くなってはいるものの、今なお神仏分離令以前のまま、建造物が残されており、神さまがおられ仏さまがおられるまま、お祀りされています。
こちらはまずは鳥居から。鳥居をくぐり、ゆるやかな坂を登ると┉。
その坂をゆっくりと私たちの方へ向かって、まるで待っていて、迎えに来てくれたかのように、確実にその目をこちらに向けて歩いてくる、┉猫が一匹!
そしてそのまま私たちの足元にきて、寄り添うように立つのです。

┉かわいい!!!
なんと可愛らしい。実際本当に器量のよい、綺麗な長毛の猫であります。その極上の手触りといったら。
ふさふさの長いしっぽをゆらゆらと振るさまも可愛らしく、しばらくその猫と戯れておりました私たちでありましたが、はたと、ここに来た理由と、この猫がいかにも迎えに来てくれたかのようだったことを思い出しました。
私たちが観音堂のあろうかという方角を向くと、猫もスッとその方に向かって横を歩き出したのであります。

┉えっ?(゜ロ゜)
本当に観音さまのお使い?



No.350 21/02/18 17:41
旅人さん0 

黒と白の長毛種の猫は、なんと本当に山門への石段の下までついてきて、そしてまた、┉まるで次に来る参拝者を迎えるため、かのように鳥居のある方へ、六地蔵さまの並ぶ辺りへとゆっくりと歩いて行きました。

猫が参拝者を案内するのは、秩父のお寺さんでもありました。実際、そのお寺の方も、その猫はいつも参拝者を納経所に案内するのだとおっしゃっておられました。たまたま私たちの思い込みで、というかそうだったらいいという希望的観測ではないようでありました。
テレビでも、神社さんだったりお寺さんだったりで、ある地点まで案内をするかのように参拝者の傍らを歩く猫を観たことがあります。
猫好きでなくとも嬉しいお出迎えであります。ましてや猫好きともなれば、ことさらです。

去っていく猫に少し寂しさを感じながら、山門に向かうと、赤く塗られた山門の両サイドには、さらに真っ赤な仁王さまがお立ちになられていました。真っ赤なだけでなく、まるで歌舞伎役者さんのような、うーん違うかな、いままで拝してきた仁王さまとは少し趣が異なる仁王さまであります。
ちょっと度肝を抜かれたものの、いつものように一礼し門をくぐると、仁王さまがおられる対になる空間には、また、猫。先ほどの猫とよく似た黒と白の長毛の猫です。そこには猫の寝床と餌のはいったお皿が置かれていて、┉この猫は一心不乱に餌をひたすら食べています。参拝に来た人間になどかけらも関心は無さそうです。
実はこれで三匹。あ、お札やお守りなどを授与する建物のところにももう一匹。
┉猫のところに来たのではないってば。

視線をしっかりと山門のまっすぐ前の御堂のある方へと向けると、おおっ!


なんと大きな鰐口でしょう! 



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