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怪獣の父 幽霊の母

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ちえ( U7CDnb )
12/01/11 00:36(更新日時)

外では普通の人間なのに、家では専制君主のように振る舞い突然キレて暴力暴言を振るった父。
そんな父にただ耐えて従順に仕え、子供たちに延々と愚痴りつづけた母。
やがて、精神的に病んでいった子供たち。

そんな思い出と、今の葛藤を、淡々と書きます

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No.1726921 11/12/31 17:52(スレ作成日時)

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No.1 11/12/31 17:59
ちえ ( U7CDnb )

こんなところでしか語れない話です。

どこからお話したらいいのか…相反しこんがらがったいくるもの感情が、今も私の中に残っています。

思い出すとあれもこれもとでてくるのですが、自分の家庭は異常なのだと決定的に悟った出来事からお話します。

暴力的な話やグロイ話が多少あります。ご注意ください



記憶があやふやなのですが、たしか、私が小学校五年生の頃だったと思います。

当時住んでいたのは、とある田舎町でした。
父の実家でも母の出身地でもないこの場所に移り住んだ理由は、追々お話したいと思います

No.2 11/12/31 18:09
ちえ ( U7CDnb )



子供の背丈より高い雑草と古い廃屋に囲まれた家に、住んでいました。

野鳥や野良猫が、よく庭(という名の荒地でしたが)に来ていまいた。

といっても、イタズラやフンをするわけでもなく、通り過ぎていくだけですが、父はそれでも彼らが気に入らなかったようです。

庭に面した窓のそばに、小石を入れたかごを置いて、庭に鳥や猫を見かけると、目をギラギラと輝かせて小石を投げつけていました。

母は動物好きな人だったはずですが、父のそんな行為を無表情で遠くから眺めていました。


とはいえ、野鳥や猫もそこまでのろまではなく、父が窓を開けた瞬間に、さっと俊敏に逃げ去っていました。

逃げられるたび、父は「この野郎!なめやがって!!」とか、もっと口汚い言葉でののしり、そのあとはきまっていつも以上に不機嫌になり、母や私達子供をささいなことで怒鳴りつけていました。

No.3 11/12/31 18:17
ちえ ( U7CDnb )


当時の私は、父の怒鳴る姿が怖くて怖くて、反論することはおろか逃げることもできず、ただ息をつめて毎日怒鳴られ続けました。

それでも、目つきが生意気だ、根性を叩きなおしてやるなどと、殴られることもしばしばでした。


母に、父が動物に石を投げるのをとめてほしいとこっそり話したことがあるのですが、
「鳥や猫の害で困っている人も世の中にはいるから、そうならないように、お父さんはやってくれてるんだ、」と
暗くうつろな表情で言われました。

「でも…あんなことしたら鳥がかわいそうだよ」、と
さらに言った所、突然、すさまじい形相、般若のようなとでも表現したくなるような恐ろしい顔になって、

「いいから黙ってなさい!! よその人に言ったら承知しないよ!!!」

怒られました。

No.4 11/12/31 18:25
ちえ ( U7CDnb )

>> 3


母がたまにみせるそんな表情もすごく怖かったし、無知な子供心にも、父は悪いこと、他の人に知られてはいけないこと、もしかしたら知られては恥ずかしいことをしているのだろうか、と思い、私はそのことを誰にも言いませんでした。

私の家族には家庭内でさえ話してはいけない秘密が昔からいくつもあり、そのとき、『窓際の小石のかご』という秘密がひとつふえたのです。


ですが、私がよその人に言わなくても、 近所みんなが知り合いのような田舎町のですから、すぐに近所の人に知れ渡りました。

同じクラスの男子からは「猫おじさんの子」とからかわれ、悲しい思いをしたのを覚えています。



そのうち、鳥や猫に逃げられ続けた父の行為は、次第にエスカレートしていきました。

BB弾というのでしょうか、プラスチック製の小さな球を発射するおもちゃの銃を買ってきて、それで鳥を撃つようになりました。

No.5 11/12/31 18:41
ちえ ( U7CDnb )


鳥や猫を追い払うことになぜあれほどまでに父が執着していたのか、当時から不思議でした。

特にイタズラやフンの被害にあったわけでもないですし。

たとえば、庭を整え、花を育てているのなら、猫に荒らされないかと心配になって追い払おうとする人はいるかもしれません。

でも、父は庭は雑草が生い茂った荒地のままにしていて、無頓着だったと思います。

でも、怒鳴り散らすか自慢話を演説しているかしかない父に、そんなことを聞いてみようとは思いませんでした。
いつもびくびくと、なるべく父の機嫌をそこねないように、話しかけないようにしていました。



No.6 11/12/31 19:00
ちえ ( U7CDnb )

>> 5

ある日曜日のこと、確かおつかいに行って、帰ってくると、藤の木の下の雑草のしげみの中から、赤ん坊の泣くような、それでいてもっと小さな声がしました。

覗き込んでみると、木の根元にいたのは猫の母子でした。
子猫たちは生まれてすぐだったと思います。
子猫たちの目はとじたままで、それを母猫がなめてやっていました。

「お父さんに気づかれませんように…! 早くどこかへ行ってね」

私はそう祈り、何も見なかったふりをして家の中に入りました。
父のよくいる居間から、藤の木は見えづらい位置にありましたし、雑草は深くちらっと見ただけでは分からないだろうし。

なんとか無事どこかへいってくれることを祈っていました。

No.7 11/12/31 19:09
ちえ ( U7CDnb )

>> 6

それきり、気になってはいたものの、私は猫の親子の様子を見には行きませんでした。

下手に私が動けば、かえってそのせいで父や母に猫達が見つかってしまうのではないかと心配だったからです。


翌日、学校から帰ってきたら、母がおかえり、も言わずにぶつぶつと話し始めました。長い話でしたが、要約すると、

今朝、父が庭を横切る猫を見つけて、いつものように石を投げた、それが猫にあたって、猫は頭から血を流しながら、ふらふらとどこかへ行ってしまった、と。

お父さんは本当にひどいことするわね、と暗い声で愚痴っていました。

私は、あの猫だ!と、まだ愚痴り足りなさそうな母をうまくごまかして、庭へでて、藤の木の根元へと駆け寄りました。

No.8 11/12/31 19:23
ちえ ( U7CDnb )

>> 7
そこには、親猫の姿はなく、三匹の子猫だけが残されていました。
最初に見たときは子猫は四匹だったような気もするのですが、よく覚えていません。

「ああ、さっきの猫、親だったんだ。こんなに産んじゃって」
いつのまにか背後に母がいて、ぽつりとつぶやきました。

「お願い!子猫たちだけは見逃して!」
私はほとんど悲鳴のように、そう叫びました。

母に対してあそこまで激しい口調で話したのは、あのときが初めてだったかもしれません

「うちで動物は飼わないって、お父さん言ってたでしょ」
それだけ言って、母は私の手を引いて、家へと連れて戻りました。


子猫は弱々しく鳴いていて世話がなければ長くは生きられなさそうでした。

…うちでは飼えないし、それどころかおそらく殺されてしまう。
親猫はひどい怪我をして動けないでいるのか、どこかで死んでしまったのか、いまのところ子猫たちのもとに戻って来ていない…なんとかしなきゃ…


翌日、給食のあまりの牛乳をもらって帰ってきて、母にみつからないように、藤の木の下へ行きました

No.9 11/12/31 19:33
ちえ ( U7CDnb )

>> 8
猫は、一匹もいませんでした。


親猫が戻ってきてくれたのだろうか、そう楽観的に祈りながら、猫に上げようと思っていた牛乳をランドセルに隠して、家に入りました。

帰ってみると、母はめずらしく機嫌が少しいいようでした。

しばらく、母のいつもの話―父が怒鳴って話を聞いてくれないだの、父がバシンと強くドアを閉めるせいでドアが痛んで困るだの、といった愚痴をしたのち


「ああ、そうだ、あの猫、埋めておいたから」

そう、あっさり言いました。

そして、ショックで言葉を失い、凍りついたかのような私に、


「余計なことを、ぺらぺらとよそのひとに言うんじゃないよ」

と低くつぶやきました。
あのときほど、母の不気味さを感じたことはありません。

No.10 11/12/31 19:40
ちえ ( U7CDnb )

>> 9

「さー、今日は煮魚にしないと。お父さんに魚料理が少ない、ってまた怒られちゃうから」

そうさらりとさらに言って、母は台所へ行ってしまいました。


涙が止まりませんでした。

あの猫を守れなかった…ごめんね
昨日のうちに、見つかる前に子猫たちだけでもどこかへ逃がしてあげればよかったね…
ううん、そもそも、最初に猫の親子を見つけたときに、どこかへ逃がしてあげなきゃいけなかったよね…
ごめんね、ごめんね…

でも、あの小さな小さな生き物がなにか悪いことをしたんだろうか…



いまだに、あの小さな子猫たちがこちらをじっと見ている夢を、たまに見てはうなされます。

No.11 11/12/31 19:56
ちえ ( U7CDnb )

>> 10 こうやってある出来事だけを取り出してお話しすると、なんと冷酷な両親だろう、と思う人もいるかもしれません。

でも、母がこんな冷酷な発言をするのはほんとに瞬間的で、普段はおとなしく地味でおどおどとした感じの、ありふれた女性に見えるんじゃないかと思います。

母は内気というか、気が小さいというか、父はもちろん、親戚やパート先の誰に対しても、言いたいことが言えなかった、従うままだったようです。

そのはけ口を、私に求めていたんじゃないかと思います。
よく、あんな嫌なことを言われた、と延々と私に語って聞かせました。

今思えば、ささいなことだったり、その場でうまく言い返せばいいようなことでも、母は黙って耐えていつも落ち込んで、愚痴っていました。


子供の頃「王様の耳はロバの耳」という絵本を読んで、母の「地面の穴」は私だな、と思ったのをぼんやりと思っています。


No.12 11/12/31 20:10
ちえ ( U7CDnb )

>> 11
一方で、この文章を読んで

大人になってまで親を悪く言うのはよくない(私は悪口を書いているつもりはないのですが)」とか
「育ててもらったんだしひどい虐待を受けたわけでもない、世の中にはもっとひどい親が沢山いるのにこの程度で文句を言うなんて」

感じるかたもきっといると思います。

ええ、上を見ても下を見ても左を見ても右を見ても、色んな親子関係があると思います。

子供をあやめてしまう親だって、残念ながら毎年何人もいるわけですし。
生きてここまでこれただけでも、両親に感謝するべきなのかもしれません。


それが分かっているから、憎めないから、私は苦しい。

No.13 11/12/31 20:20
ちえ ( U7CDnb )

>> 12

さて、話を戻します。

次は何をお話しましょうか…?
記憶の断片は無数にあるので、まずは時を追って書いていこうかと思います。


父は、そこそこ田舎の裕福な商家の、7人兄弟の末っ子として生まれたそうです。

父と一番上の姉(私から見ると伯母)とは19歳差、両親(私から見て祖父母)が四十代半ばをすぎて生まれた子供です。
当時としては(今でも?)、超高齢出産です。

7人兄弟のうち、私が会ったことがあるのは5人。
父のすぐ上の2人は戦争中に栄養失調で苦しんだ末、病死したと聞いています。


これは想像ですが、戦争が終わって、子供達もそれぞれしっかり成長し、進学や結婚で次々と家を離れて…
祖父母は寂しくなったのかもしれません。

だから、最後にもうひとり、子供を作る気になったのかな、と勝手に想像しています。

No.14 11/12/31 20:32
ちえ ( U7CDnb )

>> 13

子供の頃の父の写真を見たことがあります。
といっても、小学校の集合写真で、うつりもあまりよくなかったのですが。

同じクラスの大半の子供達は、腕白小僧というか、やんちゃに見えました。

日焼けして引き締まった身体をした、あちこち汚れてつぎはぎをし格好の男の子達のなかで、色白でぽっちゃりとしていて、こぎれいな格好をした父は目立っているように感じました。


当時、父の実家は、洋裁店兼食料品店だったので、昭和30年ごろには食べる物や着る物にはあまり困らなかったのかもしれません。

特に、食べ物に関しては、昔から好きなだけ食べさせていたようです。

私が子供のころも、父は店先のお菓子をお金も払わず一言も言わずに勝手に持ち出し、食べたいだけ食べてしまっていました。

年を取ってからの子供や末っ子は可愛いと言いますし、まして、戦争で2人子供を失ったあとで、祖父母は父のことが可愛くて仕方なかったのではないかと思います。

No.15 11/12/31 20:47
ちえ ( U7CDnb )

>> 14

父の子供時代のことは、本人があまり話さないのでよくわかりません。

ただ、今の状態から見て、姉たちやお店の女性店員たちからも、溺愛といっていいほどに可愛がられていたのではないかと思います。


酔った父から聞いた子供時代の話が一つだけあります。

それは…中学生の頃の父が、猫をどうやって虐待し殺したかということ。

それを嬉しそうに、詳細まで話していました。
トンボやカエルをいじめる子供はたしかにいますが、せいぜいそれも小学校低学年くらいまでではないでしょうか。
それを大人になった後まで、なんの悪気もなく、どこか恍惚とした表情で語る姿には寒気がしました。

父には、もともと残酷な気質があったのかもしれません。



父は当時としてはかなりの高学歴です。
父の周囲では中卒で就職するひとが大半だったようですし、伯父伯母もみんな旧制中学か高卒ですが、地元の高校に進学し、そこから私立大の文学部に進学しています

No.16 11/12/31 20:59
ちえ ( U7CDnb )

>> 15
父と同年代で大学に進学した人は一割くらいではないかと思います。
正確な統計資料はないのですが。

その一割も、大半は国公立大ではないでしょうか。
もしくは、工学部や経済学部などの実学系の私大。

無名の私立文学部で歴史研究専攻は、父と同世代のひとにきくと、「お金持ちのお坊ちゃんの道楽」というイメージさえあったらしいです。

しかも、父は大学にはあまり行かなかったようです。
それでも当時はゆるく、教授にお酒ひとびんもって行けばいくらでも単位がもらえたらしく、普通に卒業できたそうです。

そのうえ、当時大卒は貴重なうえに好景気、就職活動をまったくしなかったのに、先輩の紹介だけでとある企業に内定してしまったらしいです。


ここまで、とことん恵まれた人生だと思います。


就職氷河期まっただなかで、何十社も受けてようやく内定をもらった私には、信じられないような時代です。

No.17 11/12/31 21:20
ちえ ( U7CDnb )

>> 16
就職してから、職場での父がどうだったのか、正確なことはわかりません。

営業職だったようですが、数年で子会社に異動になり、その子会社の地方支店の支店長を点々としていたようです。

少なくとも、私が小さい頃から、異常に帰宅が早かったです。

ほぼ定時であがって(接待や残業もなく)、まっすぐに(同僚や上司と飲むこともめったになく)、毎日帰ってきていたとしか思えません。

会社にもよるとは思いますが、働き盛りの年齢の営業職って、普通、接待や残業をして、夜遅くまで働いているものじゃないんでしょうか…?



ごめんなさい、話がそれました。
そして、父は実家で暮らしながらサラリーマン生活を続けているうちに34才になり、親戚から結婚しろ、と見合いを勧められます。
それが母でした。

No.18 11/12/31 21:30
ちえ ( U7CDnb )

>> 17
父は結婚したくないと親戚に言ったそうです。
それでも、祖母や伯母から説得されて、しぶしぶ見合いをすることを受け入れました。

父が見合い相手に求めた条件は
・20代前半
・女子校出身
・おとなしくまじめな性格
・看護婦さんか保母さん

だそうです。

もう34才なのになんでそんなに若い女性がいいの?、しかも女子校に幻想抱きすぎなんじゃ?と、今の私ならツッコミをいれてしまいそうですが…
なんか、上手くいえないけれど、女性の趣味が微妙に気持ち悪いです。

で、その条件を満たす女性として、伯母が見つけてきたのが母だったようです。
当時、母、24才、中学高校短大と女子校出身で、幼稚園で働いていました。

No.19 11/12/31 21:41
ちえ ( U7CDnb )

>> 18

父は、母をいたく気に入ったらしく、結婚するまでは、母いわく「お姫様のように」優しく接していたそうです。

母は、最初気乗りしなかったようですが、当時の結婚適齢期の年齢(クリスマスケーキにたとえられていた時代です)で、しかも断る理由も特にないし、とためらっているうちに、そのまま父に押し切られてしまい、見合いから3ヶ月ほどで結婚したそうです。

母はそのことをいまだに後悔しているようですが。



そして、結婚一年後に、私が生まれました。

母が妊娠中、父は「この子は跡継ぎの男に違いない!」と(特に検査をしたとかではなく、お腹の張り方や母の顔つきを見て)確信していたようです。
男の子の名前を考え、五月人形の準備までしていたと聞いています。

…なぜそんな迷信をあっさりと信じてしまうのか、ほんとうに謎です。


そのため、私が生まれたと聞いての第一声は
「女なんか産みやがって…」
だったと、聞いています。

No.20 11/12/31 23:22
ちえ ( U7CDnb )

>> 19

父はそのとき既に36歳ですし、平凡なサラリーマン、経済的なゆとりはそれほどなかったはずですが、父はどうしても男の子が欲しくてあきらめきれなかったようです。

私が生まれた一年後、母はまた妊娠します。生まれたのはまた女の子。
さらにその一年後にも、母は妊娠し、またもや女の子が生まれました。

ええ、私は二歳ずつ離れた三姉妹の長女なんです。


私が小さい頃、両親がどうだったかよく覚えていません。
妹達の出産前後半年年ずつは、母方の実家に預けられていたようです。

写真で見る4歳の頃の私は、2歳の妹と身長が同じくらいしかなく、だいぶやせています。

母方の叔母は、母が私に食事を与えていないのではないか、と、いわゆるネグレクトを疑っていたようです。
私は今でも背が低くやせ型のままですので、先天的な体質なのかもしれません。
真実はいまとなってはわかりません。



No.21 11/12/31 23:34
ちえ ( U7CDnb )

>> 20
幼い頃から、私の家には独特のルールがありました。

幼稚園の頃から、ぼんやりと、他の子の家と私の家はだいぶ違うかも、とも感じていました。
ですが、私には普通の家というのがどういうものなのかいまいち理解できず、そのために自分の育った家庭の奇特さにいまいち気づかずにいたような部分もあります。

ひとつずつ、私の家のルールを書いていきます。

1;他の人を家に上げてはいけない。友達が遊びに来ても家に入れてはいけない

 よその家に遊びに行くたびに不思議でした、どうして家に入れてくれるのだろう、おやつやおもちゃまでだしてくれるのだろう、と。
 私の家では、何があっても、友達を入れてはいけませんでした。

 家が汚れるのがいやだとか、小さい妹がいるからとか、いくつか理由があったのでしょう。
 でも、今思えば、最大の理由は、父を他の人の目に触れさせたくなかったのではないかと思います。

No.22 11/12/31 23:46
ちえ ( U7CDnb )

>> 21

2;長女には男の子のような格好をさせる
 
これが本当に困りました。
 スカート禁止、ピンクや赤など女の子らしい色も禁止。

 いつも地味な色のズボンにトレーナーでした。
それも、たしか冬物二組、夏物三組しかなく、ひどいと4日連続同じ服。
 小学校でそのことをずいぶんとからかわれたのを覚えています。

 髪も、ずっとショートで、高校生まで肩より伸ばしちゃ駄目、ドライヤーや整髪料を使うなんて論外。


 なのに、2人の妹にはなぜか甘く、髪を長く伸ばし、女の子らしい服装をすることを許されていました。

 なんでこんなふうにされたのかわかりません。

 母いわく、あんたはぼーっとしているから、よくない人にさらわれないように、男の子の格好をさせているのだ、それに女の子は地味なのが一番、と。

 今思えば、小学生のうちに「私も髪をのばしたい、スカート着たい」と、父に怒鳴られるのもかまわずに思い切り主張しておけばよかったと思います。

No.23 11/12/31 23:51
ちえ ( U7CDnb )

>> 22
それをしなかったのは、父がとにかく怖かったせいもあるし、私が父に反抗すれば、母まで父に怒鳴られ殴られると分かっていたから。

母は、当時からひどく痩せていて、男性のような短髪に男物の地味な服。
暗い表情を浮かべてだるそうにしているか、おどおどととまどったようにしてことが多かったと思います。
父にいじめられるばかりのかわいそうな人だ、と当時はいつも思っていました。


No.24 12/01/01 00:09
ちえ ( U7CDnb )

>> 23

3;テレビ・雑誌・漫画・ゲーム・ラジオ・CDすべて禁止。
 これも、私にとってつらいことでした。
 テレビは、正確にはニュースと「サザエさん」だけが許可されていましたが、ほかは全部NG。そのふたつも、両親の機嫌が悪ければもちろん見られませんでした。

 あとで書きますが、私は各地を点々として育ちました。

 クラスメイトが、昨晩見たテレビ番組の話で盛り上がっていても、その話題についていけなくて、ほんとに寂しいし、見てないとはいえなくて、適当に話をあわせるのもしんどくて。 

 やっとできた友達から借りた漫画も、母に見つかり、捨てられてしまいました。

 今でも、私が家を出る20歳より前の芸能人はさっぱりわからず、カラオケに行ったときなど結構困っています。

No.25 12/01/01 00:17
ちえ ( U7CDnb )

>> 24


父にはよく殴られ蹴られ怒鳴られましたが、当人はしつけのつもりでしたでしょうし、少なくとも今も残るほどひどい怪我を負ったわけではありません。


服装も、みかねた近所のおばさんが女物の服をわけてくれたりして、比較的まともな格好ができた時期もあります。

いまとなっては、あのおばさんの名前さえ思い出せず分からないのが悲しい。
名前がわかれば、お礼をしに行きたい、あのときのことは本当に感謝しています。


テレビやゲームの制限も、教育方針だといわれれば、その通りなのかもしれません。


なにより、この世界には住む家もないひと、食べる物がないひとが沢山いる。
「最低限の衣食住があっただけでも(のちにこれさえもたらない生活をすることになりますが)、私の子供時代は幸せなことなのだ」とも、当時から思い込もうとしていました。

  • << 27 一晩あけて、このページをまたのぞきにきて驚きました。 こんなにたくさんのかたが見て下さっているなんて… ほんとうにありがとうございます。 つたない文章ですが、読んでいただければ幸いです。 父と母が本格的に変わっていってしまったのは、私が5歳の頃、父が東北某県の支店にに異動になり、一家で引越しを行ってからではないかと思います。 それまでは、首都圏の、父・母、両方の実家から車で30分ほどの新興住宅街に家を借りて、私達は住んでいました。 父はそれまでにも何度も異動していたようですが、どの職場もその家から通える範囲だったようです。

No.26 12/01/01 01:12
あ ( 20代 ♀ AoY8h )

私と一緒だ。
物凄い虐待をされた訳じゃないから周りには言えない。理解されない。
本当に似ている。
父親も、母親も。

No.27 12/01/01 12:44
ちえ ( U7CDnb )

>> 25 父にはよく殴られ蹴られ怒鳴られましたが、当人はしつけのつもりでしたでしょうし、少なくとも今も残るほどひどい怪我を負ったわけではあ…
一晩あけて、このページをまたのぞきにきて驚きました。
こんなにたくさんのかたが見て下さっているなんて…
ほんとうにありがとうございます。

つたない文章ですが、読んでいただければ幸いです。



父と母が本格的に変わっていってしまったのは、私が5歳の頃、父が東北某県の支店にに異動になり、一家で引越しを行ってからではないかと思います。

それまでは、首都圏の、父・母、両方の実家から車で30分ほどの新興住宅街に家を借りて、私達は住んでいました。
父はそれまでにも何度も異動していたようですが、どの職場もその家から通える範囲だったようです。

No.28 12/01/01 13:03
ちえ ( U7CDnb )

>> 27

知りあいのいない町で、小さな子供を三人抱えての生活は、母にとって大きな負担だったようです。

しかも、引越し直後、一番下の妹がアトピーを発症しました。

全身が真っ赤にただれて、たえず掻きむしっていたのを覚えています。

特に顔や手は、かさぶたができるたび掻いて、皮膚がくずれ、水ぶくれになってはまた掻いて、それがやぶれ…
やけどをしたかのように、ぐちゃぐちゃになっていました。

しかたなく、母は妹に綿の手袋をさせ、全身にガーゼや包帯をあてていましたが、アトピーの原因がわからないまま、ひどい状態が続きました。


妹は、毎日毎晩、かゆさでイライラしているのか「キーッ!!」と高い声で泣き叫び、あたりにあるものを、手当たりしだいに投げまくる、ひきちぎる。

私が大事にしていたぬいぐるみ(両親はぬいぐるみを買わない主義だったので、だれかからもらった物だとおもうのですが、だれからもらったのか思い出せません)も、ひきちぎられてバラバラになっていました。


あちこちの病院に連れて行ったようですが、まったく良くならなかったようです。
引越し前からアトピーはあったようですが、引越し先のなにかがあわなかったのでしょう。

No.29 12/01/01 13:20
ちえ ( U7CDnb )

>> 28

親戚、特に祖母(父の母)と伯母(父の姉)たちは、そんな妹のことで、母を責めるようになっていました。
「可哀想だ、うちの家系にはこんな病気はいなかったのに」
「お前の育て方が悪い」
と、なんども非難していました。

父も同じ意見で、激しく母を非難したようです。


母はおとなしい性格だったので、言い返すどころか、責任を感じて、しだいに追い詰められていったようです。

母のいらだちは、私にもはっきりと分かりました。

父の前ではおとなしくても、いえ、おとなしいぶん、内心ではふつふつと怒りをためこんでいた母は、ささいなことで私を怒鳴るようになっていました。

No.30 12/01/01 13:35
ちえ ( U7CDnb )

>> 29

悪いことは続くもので、残してきた母の母(私の祖母)が体調を崩して入院し、すぐ下の妹も、ぜんそくで苦しむようになっていました。

夜中に発作をおこし、救急車で運ばれたこともあったと記憶しています。


そんな妹達の育児と父の世話で手一杯な母に、頻繁に怒鳴られ愚痴られるようになったのは、その頃からです。
怒鳴るときの母は、ふだんのおとなしく丁寧な口調から一変、放送禁止用語レベルの差別語まじりで激しく罵ります。
「あんたはでていけ!ルン○ン(ホームレスという意味の古い言葉)になっちまえ!」
「なんであんたなんか産んだんだろう、産まなきゃあんなキチ○イくず男と別れられたのに!」


理不尽にやつあたりされても、私は耐えていました。

母が苦しんでいたのは私にも良く分かっていて、かわいそうだと思っていたせいもあると思います。
でも、それだけではなく、ここでだれかにこの気持ちをぶつけたくなかったのです。ぶつけられる苦しさを、よく知っていたのですから…

No.31 12/01/01 15:15
ちえ ( U7CDnb )

>> 30
母がそこまで追い詰められたのは、そのころの母が孤独だったせいもあると思います。

今思えば、私たち子供以外、母に話し相手はいなかったのでしょう。


知らない土地で、元々内向的な気質の上、小さい子供達の世話に追われて余裕のなかった母は、知人友人をつくらなかったようです。


私の学校の先生や友人たちの親御さんとさえ、会いたがりませんでした。

家庭訪問や授業参観もとても嫌だったらしく、毎回あれこれ理由をつけて逃げようとしていたのを覚えています。


しかも、父は電話や郵便で母が家族・友人と連絡をとりあうのを嫌がりました。

どうしても用事があって電話するときは、電話する母の隣に父が座っていまし
た。
しかも、父は電話代を毎月チェックし、どこにどんな用事でかけたのか、ノートにいちいち記録して、記録と電話代が一円でも合わないと大騒ぎしていました。

母宛の郵便物はすべて父が勝手に開封して大声で音読して聞かせ、さらになにかと難癖をつけてせせらわらっていました。

たとえば、
「おい、これ見ろよへたくそな字、文章も品がねえし、ガキの世話するような女なんてどうしょうもねえ馬鹿ばっかだぜ」
…と。

母は次第に自分の実家やかつての同僚の女性達とさえ、連絡をとらなくなっていったんだと思います。

No.32 12/01/01 16:23
ちえ ( U7CDnb )

>> 31

そんななか、祖母(母の母)が亡くなります。がんでした。

祖母は数ヶ月間入院していたはずですが、お見舞いに行った記憶はありません。

たぶん、父に止められて行かれなかったんだと思います。

父は「結婚したら実家はないものと思え」と結婚直後に言い切った、と母から聞いています。

それでも、一度くらい、父に子供達を押し付けて、無理にでも祖母に会いに行けばよかったのに、と今の私は思います。

母はなぜそんなに、父に対して従順に服従し続けたのか…私にはいまだに理解できません。



ただ、よく考えれば、そもそも、母は、ひとりではあの東北の町から東京まで行かれなかったのかもしれません。


車の免許は結婚直後に失効しているから車で移動することもできないし、
新幹線や特急を乗り継ぐなんて、母はきっとできないし、やりたくもない。


母は無知なわけではないはずなのですが、家の外では、ひとりではなにもできないし、やろうとはしないひとでした。


いえ、今もそうで、今の家の最寄り駅から電車で20分ほどのの駅の、駅前の銀行まで行くこともできないらしいです。

「切符の自動券売機の使い方が分からない」(駅員に聞けばいいだけなのに)
「知らない人(駅員)に自分から話しかけるなんてできない」(いくら内向的だといっても、それくらい普通ならできるのでは?)
「そんな遠くまで行くのは疲れてしまうから無理」(母はまだ50代で、健康ですが…)

No.33 12/01/01 16:43
ちえ ( U7CDnb )

>> 32

そんなわけで母は祖母の元にはまったく行かれなかったので、祖母の介護や付き添いは、当時母方の実家の近くに住んでいて、子供のいなかった母の妹(私から見て叔母)がひとりですべてやっていました。

祖母の死後は、その叔母夫婦が祖父と同居し、祖父の身の回りの世話をしていました。

後に祖父が体調を崩してからも、ひとり献身的に介護をしてくれました。

私の両親は、介護にかかわらないのはもちろん、経済的な援助さえしていなかったようです。


母方の実家付近は田舎で、「子供が女姉妹しかいないなら、長女が婿をとって家を継ぐか、せめて近所に住むのが当然」という考え方が、当時は一般的だったはずです。

長女の母が結婚後家をでて実家とは疎遠、次女の叔母は一度はお嫁に行ったのに、夫を連れてマスオさん状態で同居、というのは、珍しいケースのようです。

最近だと、姉妹のどちらも家を継がず、分担して介護するケースが多いようです。


叔母はひとりで自分の両親と嫁ぎ先のご両親の計4人の介護を背負い、さぞしんどかっただろうと思います。

なにもしてくれない姉(私の母)に、対しても、「遠方に住んでるし子育てで忙しいからしかたない」と自分に言い聞かせながら、それでも心のどこかでしこりがのこるというか、うらんでしまうかもしれません。

No.34 12/01/11 00:36
匿名 ( ♂ uAANh )

>> 33 これは秀作だ

続き楽しみにしてるよ😄

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