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神社仏閣巡り珍道中

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旅人( pu5bob )
22/11/06 23:09(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。

22/05/09 22:30 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。

No.3536620 22/05/08 22:26(スレ作成日時)

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No.201 22/07/29 06:29
旅人 ( pu5bob )

【不動明王】さまは『現世利益』が得られる仏として知られています。現世利益というのは、生きている間に得られる利益のこと。なんともありがたいことにございます。


どのような利益が得られるかといいますと、その一つが、実に『煩悩退散』!
まさに私を導き救おうとしてくださる御仏、ということになりましょうか。
煩悩は、人の心を悪の道へと誘うもの。その数は百八もあるとされ、仏道の邪魔をします。
不動明王さまに祈願することで、煩悩を断ち切ることができ、悪しき部分を燃き尽くしてくださるということでございます。

また、不動明王の剣『倶利伽羅剣』は、あらゆる邪悪なものを打ち砕くことができることから、『厄除け』に効果があるとされています。

不動明王さまの『明』という文字は、サンスクリット語で〝知識〟や〝学問〟を意味します。勉強や仕事に対する技術を高めたいと願う時に祈願すると、ご利益を得ることができるということです。

自身の身の安全を祈願することで、そのご利益を得ることができます。『身上安全』

仕事で成果を出したい時や、世間で認められたいという時にもご利益があるとされています。

さらに不動明王さまは商売に対してもご利益が多いとされています。『商売繁盛』

不動明王は仏道を修行する者を常に守護し、障害となるものを滅ぼすとされています。『修験者守護』

戦国時代に武将のなかでは、不動明王に祈願し勝利をおさめたという者がいたことから、戦勝のご利益があるとされています。

鎌倉時代に元寇が攻め入ってきた時に、不動明王に外敵を退散してくれるようにと祈願されました。元寇は見事退散し、それからかっこ『国家安泰』のご利益があるとされています。


No.202 22/07/31 03:49
旅人 ( pu5bob )

昨年、一昨年と、コロナのために軒並み祭りが中止となっていました。
国の行動制限や都道府県の警戒度によるものでありました。

祭りは神事であることが多く、また貴重な文化の伝承ともなっています。

昨年の群馬県みどり市の大間々祇園まつりの中止は、私の心に残る痛ましいものでありました。
昨年、縮小開催を予定していた大間々祇園まつりについて、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、開催の判断基準としていた群馬県の警戒度が2日から「3」に引き上げとなることが決まったため、開催二日前の午後、中止が決定されたのでした。一昨年の中止を受けて、なんとか開催したいと思い願っていたわずか二日前なことでした。

もうすでに二日前、準備はすべて整っていました。
街中にはすでに屋台店も居並び、飾りつけどころか祭りの山車まで出ており、あとはその日をその時を待つばかりとなっていました。
仕事の関係でその準備された街並みを通りもしましたし、知人の旦那さんが祭りの重要な役をおおせつかっていたため、いろいろな話も聞いており、ことさら心に残ったものとなったのもありましょう。

祇園祭りですので疫病退散を願う祭りでありますのに皮肉としか言いようがありません。

この祭りを愛する町民たちは、実に、祭りの最終日には来年の祭りについて話し合いを始めているくらいで、それを楽しみに生きているような方も実際多く、男泣きに泣き、町から活気が消えるくらいの哀しみようであったと聞きます。

そんな大間々祇園まつりも、今年はようやく開催されます。
すでにかなり遠くの地点から、開催中の交通規制の案内の看板か建てられています。


皮肉にも世界一の感染拡大状況下とはなってしまいましたが、人々の三年分の祈りが、コロナを沈静させてくれることを願ってやみません。

No.203 22/07/31 09:12
旅人 ( pu5bob )

などと書いたそばから。

群馬県みどり市の大間々祇園まつり。
一昨日までは三日間の開催予定でありましたが、昨日また内容の変更が市より発表されました。
三日間の予定を一日だけとするとのことで、露店の出店もない、ということになり、御輿渡御のみとされたようです。
神馬、お囃子競演、みこしや花火、もみな中止となりました。
パレードは元々熱中症に配慮してとのことで中止されていました。

三百九十三年間の歴史をもつ大間々祇園まつり。

町の公民館などでお囃子の練習する音が聞こえていたといいます。
お囃子は主に子供たち。年長者から演奏を習い、世代間を超えた交流が生まれ、日常生活に戻っても顔を合わせれば声をかけ、自然発生的なコミュニケーションを育んできたといいます。
それは年長になればなるほど強く深いものとなり、だからこそこの祭りの中止は大きなショックとなり…。

パレードといえば、近年になって始まったものかと思いきや、寛永九(1632)年に、御輿渡御の行列に、母衣(ほろ)という、武士が身につける甲冑の補助部具を身に纏った者と、着飾った子供たちが後につづきまちなかを練り歩いたのがパレードの始まりであったようです。
母衣は、長い絹布を風で膨らませ矢や石などから身を守るものとのこと。
今はもうさすがに母衣を纏う方はおられず、御輿渡御とは別に、鰐口シャツに股引、腹掛けといういでたちの男の方が神馬と共に走るというものとなりました。
馬が駆け、それと共に男たちが駆け、みどり市の大間々町の中学生たちが駆け抜ける姿は勇壮であります。
私はこの神馬の駆けるパレードが大好きなのですが、このところ仕事でずっと見られずにおりました。
そしてこのコロナ禍を迎え、祭り自体が中止されてきました。

神事であります御輿渡御には、白装束、…白丁装束というもののようですが…、狩衣、袴に帯、烏帽子姿の男の方と、紋付袴姿の年配の男の方が歩きます。



そうかぁ。
中止はされなかったとはいえ、御輿渡御だけとなりましたか。
また大間々祇園まつりと共に人生を歩んでこられた年配の方々の深い悲しみの声が聞こえてきそうです。


No.204 22/08/02 11:25
旅人 ( pu5bob )

『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時』とは、般若心経の冒頭にある一文。
「観世音菩薩さま(ここでは修行時代のお釈迦さまを指すという説もあります)が、仏さまの知恵で波羅蜜多行を深く考え、それを行うとき」という意味になります。

菩薩とは覚りをひらく修行をしている人のことで、覚りをひらくことで、仏となります。とはいえ、菩薩は仏になるため修行をしているわけではありません。

そんな菩薩の〝行〟、【波羅蜜多行】とは[六つの行動]のことだとされます。

その一つめは『布施』。といってもこれはお坊さんに渡す〝お布施〟ではありません。〝施し〟のことです。
お金持ちはお金を施し、学者は学問を施し、技術者は技術を施し、何も持たない人は優しい気持ちを施すことだとされます。

二つめは『持戒』。自分を戒めることです。
「生き物を殺さない」
「盗みをしない」
「邪道の性交をしない」、という三つの行動の戒め。
「嘘をつかない」
「ことばを飾らない」
「人の悪口を言わない」
「二枚舌を使わない」、という四つの言葉の戒め。
「必要以上にケチケチしたり欲張ったりしない」
「むやみに腹を立てない」
「間違ったものの見方をしない」、

という三つの心の持ち方の戒めで、合わせて十の戒めなので【十善戒】といわれるそうです。

三つめは『忍辱(忍辱)』。
あの食品のニンニクとはまったく関係なくて、「他人から辱めを受けたり冷たくされても、じっと我慢しなさい」ということなのだそうです。
ぐっとこらえて、温かい心を人に返してあげると、この慈愛の心で相手も、そして自らも救われる、というものであります。
これを仏教では『供養する』といっているのだといいます。

四つめが『精進』。これもまた精進料理とは無関係で、「一生懸命に努め励むこと」だといいます。
学問も仕事も、自分自身の向上のために励む、ということだときいます。

五つめは『禅定』。これは座禅を組んで心を落ち着かせることではありますが、心が安定していれば、座禅をする必要はなく、要はどんな忙しいときでも心の落ち着きを失わないように、ということです。

六つめは『知恵』です。とはいえこの考えには慈悲心という思いやりの心が加わった、本当の〝知恵〟。
相手と同じ立場に立って物を考え
こと。


うーん。
まさに『言うは易し行うは難し』、です。

No.205 22/08/02 14:33
旅人 ( pu5bob )

実は昨日、かなりきつい言葉を医師に言われ、いろいろな意味で落ち込み、正直先生を恨む気持ちすら生じました。

病名は伏せますが、まあ一般に治らない病気であるとは思われています。

このところコロナがまた爆発的な感染拡大をみせており、激務が続いておられたのでしょうか。いつもとは異なりあまり私の話を聞く姿勢が見られず、どういう症状であるかを懸命に伝えても手応えは芳しくありませんでした。
つらい痛みがあることを伝え、人間ドックで薬を常に飲んでいた方が良いとドクターに告げられたことも伝えましたが、ずっとそっぽを向いたままで。
不意にこちらを向いたかと思うと、
「治らないから。気休めだから。神経のものは無理なんだ」

ああ、これはもう誤解だ。
きちんと話を聞いてくだされば伝わるものを、思い込みで診断されている。
しかも声高に言われた話は他の患者さんや看護師さんに筒抜けで。

いろいろな意味でとてもショックを受け、気持ちはズタボロでした。
もう少しだけ私の話を、症状を聞いてくだされば┉。

やはりコロナの影響が出てきていますか┉。
治らないことは知っております。
訴えそのものを面倒に思われてしまわれたのでしょうか。違うドクターが絡んだ話がいけなかったのでしょうか。

夫に、こんなことがあったんだよと、私の思った思いも含めて訴えました。
┉でもこれは悪口になりましょうか。むやみに腹を立ててもいます。
つまりは私はまずここで『自戒』を破りました。
『忍辱』、他人から辱めを受けたり冷たくされても我慢することもできなかったと思います。


煩悩の塊の凡人には波羅蜜多行はなかなかに難しいものです。

ですが毎日毎日これを心がけるべく目にして口にすることで、そうあろうという気持ちは生じる、┉かもしれません。

お経にはありがたい教えが詰まっています。
なので、たとえそらで唱えられるようになっても、必ず経本を見てお唱えすることが大切なのだとも、どのお坊さんも口を揃えておっしゃいます。
まぁ、┉字を見てもきちんとその意味まで知っていないとやはり意味は成しませんが。

そうそう、受付では、四月のお会計でミスがあったようで、千円近く多く徴収されていたこともお詫び一つありませんでした。
今回あまりに少ない金額に問いただして知ったのです。
もしこのまま私が行かなければ、どうするつもりだったのでしょう。

No.206 22/08/03 06:24
旅人 ( pu5bob )

【仏は忍辱の鎧をつけ、
 精進の兜をかぶり、
 持戒の馬にのり、
 禅定の弓をとり、
 知恵の矢をもって、
 
 外では魔王の軍団をくだき、
 内では煩悩の賊をほろぼす。

 ゆえに仏と呼ばれるなり。】


とは弘法大師、空海さまのお言葉なのだそう。

┉わかるような、わからないような。

まぁ、これすらがわからない煩悩の塊、凡人であるということの証、というものでしょう。

とはいえ。
良いものは少しずつでも取り入れていく。少しでもそこを目指してみる。
それは大切なことだと思います。

一歩ずつ、でも。



まぁ、仏となれる身ではない自覚くらいは溢れるくらい持ち合わせておりますし、仏になろうとも思ってはいないので、そこはもう、自分なりの一歩ではありますが。


とりあえず、できることから。

No.207 22/08/03 07:03
旅人 ( pu5bob )

ところで。

般若心経には【舎利子】と言う言葉が二度ほど(、┉たぶん二度 )出てまいります。
これはお釈迦さまのお弟子さまの一人〝舎利子〟さんのお名前です。

お経にまで組み込まれるほどの方、ということなのでしょうが、これは本当に凄いことだと思うのであります。

今、不惑の歳も過ぎ、天命を知るべき歳も過ぎたというのに、いまだに惑い、〝天から与えられた自分の使命〟とは何かすらつかめず、川を流れる浮き草のように生きております私すら、ほぼ毎日お唱えしております般若心経です。
仏教徒でなくとも知っているお経で、それはそれは長い年月、唱え続けられてきたお経であります。

そこにお名前が入っている┉。


まぁ、どこかの凡人は、それが人の、┉お釈迦さまのお弟子さまの一人のお名前だと知るにはずいぶんと時間をかけてはおりましたが、ね。
ええ、もちろん、それは言うまでもなく私のことですが。

しかもお釈迦さまにはそれこそ数えきれないくらいのお弟子さまがおられたのではないかと思うのです。
『十大弟子』と呼ばれるお弟子さまもおられ、┉まぁそのお一人が〝舎利子〟さんなのではありますが、┉その中からたった一人、般若心経に読み込まれる。

うーん、どんだけ〜っ☝️


まぁ、だからといって、お釈迦さまのお弟子さまの、それも十大弟子の中に入られるようなお方は、それだからといってそれを誇りにこそ思えど、別段それは日常の通過点の一つに過ぎないことなのでしょうし、他のお弟子さまも、それに対してなんら心が動くようなこともなく、平常の心で聞いておられることでしたでしょう。

こうして後世に残る〝経〟として編まれる頃には、どなたもこの現世には存在されておられなかったことですし。仮にその時生きておられても、それを当然と思われるのでありましょう。

十大弟子さんの中にはお釈迦さまのお子さんもおられるとのことですが、そのお名前を拝見してもわからない私。

うーん、手塚治虫氏の『ブッダ』でも読もうかしら。┉でもそこまでのことって書いてあるのかしら?


No.208 22/08/03 15:30
旅人 ( pu5bob )

今朝、青森ねぶた祭りの様子がテレビで放映されていました。

青森県は遠く。
ましてや人混みも嫌いな私にはとうてい縁のないものと、生きてきたものでありました。

そのテレビは少し長く特集を組んでのものであったため、今年の全てのねぶたを見ることができました。
初めてまじまじと見たねぶたの映像。
┉なんと美しいものなのだろう。
こんなに大きく、そして美しいものであったのか。

思わず涙が出ておりました。


ねぶたの由来はさまざまな説があるようですが、その一つに、病魔を祓い、病魔を跳ねのけ、災禍をなくすといったものがあります。
また、穢れを流す禊ぎの行事として灯籠を流し、無病息災遠祈ったともいわれます。

その大きく美しいねぶたの題材は、素戔嗚尊さまであったり、龍王であったり。薬師如来さまや、仏頭と十二神将、毘沙門天さまと吉祥天さまや、風神雷神であったりと、神さまや仏さまを題材としているものが多く見受けられます。

青森ねぶた祭りのオフィシャルサイトでは、
享保年間(1716〜1736)の頃に、弘前のねぷた祭りをまねて、灯籠を持ち歩き踊った記録があると書いています。
┉そうなんだぁ、弘前ねぷたが先、だったんだぁ。

私がテレビで観、涙が出てするほど感動したのはたまたま映し出されていた青森ねぶた祭りの様子でありましたが、期間も同じとのことで、今青森県に行けば、青森ねぶたも弘前ねぷたも見ることができるようです。

ああ、心はずむこと♡


ただ、┉やはり青森県は遠く、関東から宮城県仙台市への距離と、そこからまた同じくらいの距離だけ離れています。


でも、┉コロナ禍を経験して思うことは、コロナが落ちつく日が来たなら、やりたいこと、行きたい場所に行こうということ。

人の一生はわからないと口では言いながらも、どこかそうではないと信じていたし、信じていたかった。

自然災害も年々酷くなり、体温どころか高熱を記録する気温がバンバンたたき出され、記録的短時間大雨情報での避難指示ももはや他人事ではなくなった。
そして地震。



命短し恋せよ乙女!
私は今、日本に恋している。


No.209 22/08/04 08:07
旅人 ( pu5bob )


危険な雨が続いています。

昨日までの日常を切り裂かれたような恐ろしい光景が、次々、テレビ画面にあらわれます。
月間雨量の二倍以上、
過去最高の雨量を二倍以上
降っていると、伝えています。

救助要請が次々寄せられているといいます。

ただただ胸が痛みます。

どうかこれ以上被害が広がりませんよう、祈るばかりです。

No.210 22/08/05 04:47
旅人 ( pu5bob )

【時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ】


訳)時によって度が過ぎると、ありがたい恵みの雨も民の嘆きとなります。
八大龍王さま、もうこれ以上雨を降らさないでください。


八大龍王さまは法華経に出てくる龍の王。雨をつかさどり、雨乞いの祈りの対象でありますが、あまりの雨に「雨を降らさないでください」と祈ったものです。

1211(建暦元)年の洪水の被害に際して、「恵みの雨も過ぎると民は嘆くことになる」ので、雨を司る八大龍王に祈念して詠まれた歌であります。実にこのとき二十歳。


十二歳という歳で将軍となり、執権により政りごとは執り行われ、御家人に暗愚とも甘えん坊将軍とも酷評されたとされますが、この歌を見るだけでも民に目を向けることのできる将軍であったと思われるのです。



実朝が祈念したのは神奈川県伊勢原市の【大山阿夫利神社】ともいわれます。
もともとは雨降山(あぶりさん)大山寺(だいせんじ)の倶利伽羅堂が八大龍王を祀った社だったといいます。
あの例の、廃仏毀釈・神仏分離で大山の廃仏と神格化が図られ、今、この『大山阿夫利神社』さんと『雨降山大山寺』さんは全く別のところにある別のものとなっています。


、┉と言いつつ、こちらに参拝いたしましたことはなく。

うーん、行きたいぞぉ〜。
大山阿夫利神社さんにも大山寺さんにも。

中断している鎌倉三十三観音霊場巡りや、鎌倉十三仏巡りにも行きたいぞぉ。
箱根神社さんにもお詣りしたい。



コロナ、収まれ!
温暖化、おさまれ!
異常気象、おさまれ!



┉人々にどうか平和を再びお与えください。

No.211 22/08/06 03:59
旅人 ( pu5bob )

先日、歴史オタクの夫と比べるまでもなく、あらためて〝歴史〟というものがまるで頭に入っていないことを、イヤというくらい自覚し、
高校生向けの日本史の参考書を買ってまいりました。

とはいえ、初めて〝歴史〟という勉強をした小学生の時分には
「なんて面白い勉強があるんだろ」と夢中になったはずだったのですが┉。
幸いにして私の子どもの頃は、子ども向けの歴史の本があふれるくらいに出版されていました。
しかもそのほんのわずか数年の差で、そういった本があっという間に姿を消していったので、そういった最後のチャンスを持つことができた子供のひとりだった、とも言えます。

今振り返ってもびっくりするほど、えっ?こんな人(なんと失礼な!)の伝記も?というくらい伝記物もありましたし、
古典も、今だと簡単には入手できないくらいの歴史物も、普通に子供向けに書かれ、しかもそんな今ではレアな部類となってしまった本が、図書館はもちろん、本屋さんにも、学級文庫にも当たり前にずらーっと並んでいた時代でありました。
戦後ようやくおとずれた豊かな時代であったのだとあらためて思います。
┉あるいは、┉学びたい気持ちを封印されて、命ギリギリなところで生きてこられた方々が、自分たちのしてきたつらい思いをさせてはいけないという思いと学びたかった思いを爆発させていたのかもしれません。

そんな恵まれた時代に、貪るようにそういった本を読み、それを吸収してさらにさらに深めていったのが夫であり、
そういった本も読んだはずなのに、きれいさっぱりどこかに流してしまったのが、私、なのです。

ケチなので、最初は子どもたちの歴史の教科書を手にしたのであります。
ありますが、┉今の(うちの子どもたちの頃の)教科者って、まるで資料集のようなんですね。
授業を受けてなんぼの内容なんですよ。
へぇぇっと思うくらいのこぼれ話が書いてあるかと思うと、「だからここの流れはどうしてそうなった⁈」と思うくらい、本筋が略されていたり。
なんだこりゃ、の世界なんです。

高校の、日本史の参考書。
これは、と思うものを、一応夫に内容を見てもらって、購入しました。

これで少しは 歴史的流れを理解した上で、神社仏閣を巡ることができるように、┉なるかなぁ。





No.212 22/08/07 06:04
旅人 ( pu5bob )

昨日、八月六日。
広島市に人類史上初の原子爆弾が投下された日から七十七年が経ちました。
この一年間に死亡が確認された広島の被爆者の方は4,978名とのことで、平和式典に先立ち広島市長と原爆被害者代表の方が、そのお名前を記した原爆死没者名簿を原爆慰霊碑に納められたといいます。
名簿は123冊。
計33万3907人になられたとのことであります。

広島市長は式典においての平和宣言で
「ロシアによるウクライナ侵攻では、国民の生命と財産を守る為政者が国民を戦争の道具として使い、他国の罪のない市民の命や日常を奪っています。そして、世界中で、核兵器による抑止力なくして平和は維持できないという考えが勢いを増しています。
これらは、これまでの戦争体験から、核兵器のない平和な世界の実現を目指すこととした人類の決意に背くことではないでしょうか。
武力によらずに平和を維持する理想を追求することを放棄し、現状やむなしとすることは、人類の存続を危うくすることにほかなりません。過ちをこれ以上繰り返してはなりません」

「また、他者を威嚇し、その存在をも否定するという行動をしてまで自分中心の考えを貫くことが許されてよいのでしょうか。
私たちは、今改めて、『戦争と平和』で知られるロシアの文豪トルストイが残した「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ」という言葉をかみ締めるべきです。
今年初めに、核兵器保有5か国は「核戦争に勝者はなく、決して戦ってはならない」「NPT(核兵器不拡散条約)の義務を果たしていく」という声明を発表しました。それにもかかわらず、それを着実に履行しようとしないばかりか、核兵器を使う可能性を示唆した国があります。なぜなのでしょうか。今、核保有国がとるべき行動は、核兵器のない世界を夢物語にすることなく、その実現に向け、国家間に信頼の橋を架け、一歩を踏み出すことであるはずです。核保有国の為政者は、こうした行動を決意するためにも、是非とも被爆地を訪れ、核兵器を使用した際の結末を直視すべきです。
そして、国民の生命と財産を守るためには、核兵器を無くすこと以外に根本的な解決策は見いだせないことを確信していただきたい」

と述べました。

聞き心地のよい声と、聞き取るのにちょうど良い速さで、一度として言い淀むことなく宣言を終えられました。

No.213 22/08/07 06:36
旅人 ( pu5bob )

宣言はさらに、
『、┉今年6月に開催された核兵器禁止条約の第1回締約国会議では、ロシアの侵攻がある中、核兵器の脅威を断固として拒否する宣言が行われました。
また、核兵器に依存している国がオブザーバー参加する中で、核兵器禁止条約がNPTに貢献し、補完するものであることも強調されました。
日本政府には、こうしたことを踏まえ、まずはNPT再検討会議での橋渡し役を果たすとともに、次回の締約国会議に是非とも参加し、一刻も早く締約国となり、核兵器廃絶に向けた動きを後押しすることを強く求めます。

また、平均年齢が84歳を超え、心身に悪影響を及ぼす放射線により、生活面で様々な苦しみを抱える多くの被爆者の苦悩に寄り添い、被爆者支援策を充実することを強く求めます。

本日、被爆77周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います」

と続き、締めくくられました。


私は小学生の時分、┉おそらく小学二年か三年の時から就職するまで、この平和式典の中継を欠かさず最後までみてきました。
祖父母や親はすでに席を立ち、残された部屋で一人、式典が始まると誰に言われるまでもなく正座してその様子を食い入るように見守っていました。
たぶん、これは知っていなければならないこと、記憶しておかなければならないことと、その画面から子供ながらに悟ったのでありましょう。

とはいえ就職しますとどうしてもこの日に休みを希望でもしなければ、この平和式典の中継をみることはできず、その習慣は途絶えることとなりました。

ようやく今年、その再開の時を迎えこの宣言を聴き、私はたいそう胸を打たれました。
広島市民の方々はよくぞこの方を市長に選んでくださったものだと、この宣言を聴いただけのくせに、思ったものでありました。


私のように語彙力がないどころか日本語すら満足に話せない人間が、この宣言に対して何を書くこともありませんが、ぜひお読みいただきたくて一部とはなりましたが、掲載させていただきました。



トルストイかぁ┉。
数ページでギブアップした記憶があるなぁ。
もう一度手にしてみようかなぁ。





No.214 22/08/08 06:21
旅人 ( pu5bob )

ロシアによる度重なるザポリージャ原発の襲撃に、激しい怒りを感じます。
このような行為は原爆を使ったに等しい行ないであります。

愚かな┉。
あまりにも愚かな行ない。

1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故を覚えていないわけはないであろうに。
┉現在はロシア語由来であるチェルノブイリからチョルノーブィリと呼称変更されてはいるが、あの原発事故を覚えている者にとっては、やはりこの事故に関する限り、かつての呼称を使ってしまう。

このチョルノーブィリにも、今年開戦以降ロシア軍が立ち入り禁止区域に入り、施設を掌握し、その後通常の二十倍ものもの放射線が記録されています。



かの国は一体何を目指しているのだ。

No.215 22/08/08 14:26
旅人 ( pu5bob )

私はまるで幼稚園児のように、食べると眠くなり、二十時二十一時といった頃は寝ていることが多々あります。
そんな私は、いわゆるゴールデンタイムとも称される時間帯のテレビ番組になかなか縁が持てません。

というわけで、今話題沸騰の、夫が絶賛評価しているところの、NHKの大河ドラマ【鎌倉殿の十三人】もほとんど観たことがありません。
再放送もあろうし、なんなら録画して観ることも可能ではありましょうが、それすらつい失念してしまいます。

そんな私が、昨日の阿野全成の回を観ることができたのは奇跡としか言いようがない、┉わけではなく、たまたま昼寝をしてあったからにすぎないのでありますが。

わずか二回しかこのドラマを観たこともないし、どうやらそんな妻が歴史というものに対して関心どころか、あまり知識すらなさそうなことに気づきだした夫が、今回、そんな妻に対する認識をどう改めたらよいか混乱するような発言を私、妻がするのでありました。

┉。

「全成さんだ」
「義経公の同母兄の全成さんでしょう?」
えっ?、┉夫は無言で、それでもびっくりするような顔を一瞬私に向けました。
「┉うん、今若丸と呼ばれていた人だ」

┉。

「この方のお墓は(栃木県の)益子と静岡県の沼津にあるんだよね」
夫「┉。そこまでは知らない」

そのあとこぼれ話的にNHKが放送したものは、まさに直前、妻がつぶやいていたことが予言であったかのようにそっくりそのまま流れたのです。

狐につままれたような顔を押し隠そうとする夫。


鎌倉殿の十三人って誰?
という質問をするような妻が何故?



別に大した理由など無く、ただ単にその人物については知っていたというだけで、この鎌倉時代においてたまたまピンポイントに掘り下げた知識があった、というだけなのですが、ね。

No.216 22/08/08 16:07
旅人 ( pu5bob )

それにしても、鎌倉殿の十三人に描かれた阿野全成の最期は壮絶でありました。
この回を含めわずか二回しか観ていない者を引きこみ、完膚なきまでに圧倒いたしました。

八田氏とその家人たちに引き立てられたシーンで、全成はひたすら不動明王さまのご真言を唱えていました。幼い時から真言宗という密教のお寺で修行してきた僧であることからでありましょう。



切ない。
とにかく切ないの一言に尽きます。


この回だけ観ただけの者の心をこれほどに揺さぶるとは、脚本、演出、そして演じた俳優さんの偉大さを思い知らされます。


この回だけで全成ロス。


初回から観てみたい思いが沸々と湧き上がりますが、すでにここ、この回を、全成最期の回を観て、全成ロスになっている私が、今までを観て果たしてどう思うものか。


全成が長く修行してきた【醍醐寺】に参拝し、全成が最期に心に思った不動明王さまの御像を拝したいと、思う私でありました。




No.218 22/08/09 18:00
旅人 ( pu5bob )

東北で過去の大雨を大きく上回る大雨となると言われている。
しかも明日は200ミリ、明後日は100ミリと、さらにその大雨が続くという予報なのだ。

今年東北は今までに体験したことがないほどの大雪に苦しんだ。
それがここへきて今度は今までに体験したことがない大雨にみまわれている。


どうか一分一秒でも早く、雨よ止んでください。

命に関わるような危険がおよびませんように。

No.219 22/08/10 16:49
旅人 ( pu5bob )

朝のテレビニュースで、一般の方がインタビューに答えるのをみながら、夫が
「┉お盆ずらしって┉何?。お盆ってずらせないよね。聞き間違い?何を言ってるかわからないんだけど」
と聞いてきました。

「それはねぇ、たぶんお盆休みをずらして取るっていうことだと思うよ」
「ああ、あぁ、そういうこと?」
「┉たぶん」

テレビであまりにも堂々と使っているので、てっきりまたそういう言語ができたのかと思いきや、今のところGoogle先生および他のネット検索でも引っかかってはきませんでしたが。


そもそもお盆の時期自体が大きく分けて三つに分かれるもの。
八月にある長期休暇が当てはまる所もあれば、もう一月も前にお盆が終わっている所もあります。



゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。.

⑴ 新暦盆(しんれきぼん)
→新暦7月13日〜15日(16日)

旧暦7月13日~15日(16日)の〝旧暦〟を取り、そのまま日にちだけを採用したお盆です。
主に東京都/静岡県/石川県/神奈川県などの一部地域で行い、東京では「東京盆」または「新のお盆」とも呼ばれています。


(2) 月遅れ盆(つきおくれぼん)
→新暦8月13日〜16日

旧暦7月13日~15日は毎年細かな日程は変化しますが、大まかに1ヶ月ほどずれる年が多いため、日にちのみ1ヶ月ずらした日程で行うようになりました。全国的に最も多い日取りです。


(3)旧盆/旧暦盆(きゅうぼん/きゅうれきぼん)
→旧暦7月13日~15日(16日)

…昔ながらの旧暦のお盆日程通り行うお盆です。
沖縄県は旧盆であることで有名なようです。沖縄では旧盆のみならず、お正月なども旧暦行事が今も残っています。

旧暦は月の満ち欠けを軸として進む暦なので、今年は新暦でも8月10日〜12日(もしくは13日)と、一般的な月遅れ盆と日程も近いですが、年によっては9月の旧盆ということも多くあるようです。

゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。.


この八月の長期休暇。
お盆がすでに終わっている所であろうと、この時期に休暇が組まれているのは全国共通のようです。

だとしたら、┉もはや『お盆休み』という言い方自体がそぐわないものなのではないでしょうかね。

No.220 22/08/11 05:00
旅人 ( pu5bob )

┉この頃、このおばさん、『神社仏閣巡り珍道中』とかいうタイトルのくせに、ちぃ〜っとも神社やお寺へ行ったという記事がないじゃないか。
この駄文スレをお読みくださっている方のつぶやきが聞こえてきそうで、ドキドキの私。

神社仏閣巡りに飽きたのか?
┉いやいや滅相もございません。

┉ただ。

参拝させていただいております所が、いつも定期的に通わせていただいております神社さんやお寺さんであったり、あるいは時折無性にお参りしたくなって参拝するおきまりの神社さんやお寺さんでありまして。ここに書くにはあまりにもリピート率が高くて、その日の天気や景色くらいしか、なかったりするので、それはさすがにないだろうと、ついついちがう事をつぶやいてみたりしてしまうのですが┉。

実はそこにはひとつ、┉専業主婦の悲哀がございます。

朝ごはんを食べて掃除洗濯をすると、もう近場のお寺さんや神社さんに参拝するくらいの時間しか残されていないのであります。
しかもお昼ごはんのしたくがあるため、一寺あるいは一社を参拝するのがやっと。
帰って来て、必死に昼ごはんを準備して、あらためて食材調達の買い物に出かけ、また家事の続きをいたしますとあっという間に夕食の支度にかかる時刻となっております。

そう、夫は今ほぼ毎日テレワーク、なのであります。

夫が会社に行く日ですと、お昼ごはんの支度もなく、ほぼ半日好きに過ごせるので、少しは遠出もできるのですが┉。

それでも、どうあっても出かけたい、あるいは出かける用事がある時は、朝のうちに夫のお昼の準備を済ませテーブルに並べ、あるいは書き置きで『〇〇と△△が冷蔵庫に入っていますので出して食べてください』と書いて出かけるのであります。
なのですが┉。

しょせんそれも、夕飯の支度までには帰らなくてはならず。

しかも今までに行ったことのない神社仏閣などのお参りをしようものなら、「あ、いいな、俺も行きたかったんだ、今度の土日に行こうよ」

┉私は、行ったばかりなんですよ。

いくらかなり進行した認知障害があろうとも、直近で自分で運転して、いろいろ探索させていただいているお寺さんや神社さん、多少の新たな発見はあるかもしれませんが、ほとんど記憶している状態でまたそこに向かうことになるのでは、『ま、夫と一緒の時でいいか』となるのですよ、ええ。

ガソリン代も高いことですし。

No.221 22/08/11 06:46
旅人 ( pu5bob )

東北地方では大雨による河川の決壊、冠水・浸水の被害。
そして北海道では深夜の地震。

体温を超える気温。

そんな状況下であってもなお、情け容赦ないコロナ感染症。


災害に被災された方々に心からお見舞い申し上げます。



本日が皆さまにとって少しでもよい一日でありますようにお祈り申し上げます。


No.222 22/08/12 07:35
旅人 ( pu5bob )

昨日は『山の日』。
皆さまはいかがお過ごしであられましたでしょう。


昭和生まれの(、┉そういうと三十代の方々には申し訳ない括りとなりますが)私には、
「一体何の祝日なんだよ」と言いたくなるものであります。
まぁ、子どもたちので夏休み中にこうした〝休みの日〟が増えることは殊に子育て世代にはありがたいものでありましょう。

が。
なんで山の日?

山の日とは『山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する』という趣旨のものだそうです。まぁ、さきに制定された『海の日』と対となるよう制定されたものなのでしょうが、ね。

実は海の日自体は、私は知らなかったものの、もともと7/20が『海の記念日』として存在していたようで、そこにはさまざまな理由があってのことのようです。
そしていったんはそのままの7/20を祝日としたものの、あの『ハッピーマンデー制度』とかで、現在の『7月の第3月曜日』となったという経緯がありました。

実は調べたところ、本当に海の日と対になるよう制定されたもののようです。
でも何故、8月11日?
それこそ海の日のように、8月12日としてお盆休みを1日延ばすというありがたい制定は考えなかったのか?(まぁ、11日からのお盆休みとなるところもあるようですので、ある意味さらにありがたい?)

それは1985年に起きた、日本航空史上最悪とされる日航機の墜落事故が発生した日であったからであったようです。
あの事故を知る方は、その日を避けるのは誠に当然だと、そう思うくらい悲惨な事故でありました。
その事故現場となったのが山。
群馬県の御巣鷹山という山でありました。
よりにもよってその日を山の日という祝日とすることはできなかったということです。

山の日の次ぐ日。
まぁ、どうあっても、被害者にあわれた方、被害者のご遺族の方々には忘れらることなどできやしない日であります。


御巣鷹山のある群馬県上野村では今年も慰霊祭がしめやかに執り行われます。
また切なさの甦る一日です。





No.223 22/08/12 09:49
旅人 ( pu5bob )

「山の日って一体何の祝日なんだ?」
などと申してはおりましたが、
日本人にとって山は古来特別な存在でした。

山が多い日本では、山を〝神の世界〟だと考えていました。
古代より、山は食料を採取するための大切な場所であり、大切な水源でもありました。
また、山に住む霊や神を怒らせると不幸が起きる、正しく祈り崇めればご利益が得られる、といった考えが自然に発生し、信仰の対象へと発展します。

つまり、日本人にとって古くから山は信仰の対象であり、生活のための非常に重要な存在であったのです。


ところで。

多くのお寺さんには【山号】がつけられています。
『〇〇山〇〇院〇〇寺』といった、〇〇山にあたるのが『山号』であります。

この歴史は古く中国に由来していると言われています。
唐の時代、あの『西遊記』のモデルにもなった三蔵法師が、インドからたくさんの経典を中国に持ち帰りました。
それ以降、中国の国内には数多くの寺院が建立されるようになりました。
そのため寺院の名称の前に地域を冠することで区別しました。
人里離れた山の中に建てられるお寺も多く、そうした寺では山の名前をそのまま寺院名に用いたといわれています。これが山号の始まりといわれています。

日本でも禅宗が紹介されて以降、広がったようです。
それでも、日本には山号のつかないお寺もたくさんあります。

これは、仏教が伝来した当初の寺院は権力者のための建物であり、山ではなく街中に建てられていたからといわれています。
しかし、時代が進むにつれて、寺院も仏道や修業の場でとして、俗世とは離れた山の中などに建てられるようになり、山号をつけるようになったようです。
古くからの山岳信仰が仏教と結びつきやすかったという理由もあるのかもしれません。

お寺の門を「山門」と呼ぶのも、同様にお寺が山に建てることが多かったから、と言われています。

なお、お寺の名前は【寺号】といいますが、お寺の門に掛けられている寺院名を記した額は、寺号しか書かれていない場合でも『山号額』と呼ばれるのだそうです。
_φ(・_・



No.224 22/08/12 21:15
旅人 ( pu5bob )

山の日をいつまで引っ張るのか。


ふと思い出したのですが、私たちの親ぐらいの世代では、奥さんのことを『山の神』と呼んでいた記憶があります。

国語辞典を開くと、
『「山の神」、妻、特に結婚後年を経てやかましくなった自分の妻のこと』
と書いてあり、特に怖い奥さんのことを『山の神』といったといわれています。
『山の神』が短縮された形が『カミさん』であるという説もあります。


ん?
じゃあ、私、山の神?
やかましいし、気が強いし、怖い部類な気がする。


閑話休題。

なぜ妻のことを山の神と言う呼ぶようになったのか、その由来は山を守る神様への信仰です。

日本は、山や川などの自然に神さまが宿ると信じられてきました。
その山の神は、女の神さまが多かったのです。

女の神さまは嫉妬深いので、女性が山に入ることを嫌がったため、女の山の神様がいる山は女人禁制が多かったほどです。

夫が妻のことを山の神と呼ぶようになったのは、山を守る神と家を守る神を重ねたことが始まりだったと言われます。

ですが、それなら皮肉の意味ではありませんよね。

山の神が妻に対する皮肉となったのは、女の神さまの嫉妬深さから、妻の嫉妬深さを重ねたのです。

さらに、山の神様を怒らせると、大きな災害が起きたりすると恐れられていたことから、妻を怒らせると大変だという意味に通じていくというわけです。

山の神は妻の異名ではありますが、本来は『山の守り神』のことです。

また、近年では、日本のお正月の風物詩でもある【箱根駅伝】で、きつい登りの第五区を早いペースで走り、チーム遠勝利に導く選手のことを『山の神』と呼びますよね。

自分の妻のことを「うちの山の神が」という人ももう少なくなっており、初めて聞いた方もおられるかもしれません。

最近では鬼嫁という言い方が広く浸透していますし、妻の方が力を持っている家庭のことは「かかあ天下」と言うことが多いですよね。

ちなみに。
上州名物といわれるのが(これも死語となりつつあるかもしれませんが)
『かかあ天下と空っ風』。

どっちに転んでも、┉というか名実ともに、『山の神』であり、『かかあ天下』な私でありました。
ん?



No.225 22/08/13 07:03
旅人 ( pu5bob )

今日からお盆、よりにもよって台風八号の接近上陸の予報が出ております。
うーん、今なら小雨があたるくらいなのだけれどなぁ。

夫は昨晩何回目かわからないくらい観ているラピュタを観ていたからなぁ、┉起こすと悪いよなぁ。

そ、かかあ天下の群馬県民、実は威張ってるとか、夫を尻に敷いているわけではないんです。
┉。

わ、私はともかくとして。
かかあ天下といわれた女性たちは、働き者で家計を担い、家庭を切り盛りし、さらに夫を立てていた、『できる女』を指しているんですよ、本来は。

上州って。
あの群馬県民のバイブル(?)『上毛かるた』にもあるように、

【ま 繭と生糸は日本一】
【め 銘仙織り出す伊勢崎市】
【き 桐生は日本の機どころ】

等々、女性の職業であるとされた、お蚕さんを育てたり、糸を紡いだり、織物を織ったりする仕事のたいへん盛んな土地でありまして。
言い換えるとそれに頼るような土地、という言い方もあるのでしょうが、家計を担っていたのは奥さんだったりする家庭も多かったといわれます。

だから生まれた【かかあ天下】。

悪い意味ではないんです。





┉えっ?わが家、ですか?


夫、起きてこないかなぁ。
一人でお墓参りに行ったら、また行くようだろうしなぁ。
やれやれ。

No.226 22/08/13 14:26
旅人 ( pu5bob )

お墓参りをしてまいりました。
夫の実家と。
両親の離婚後縁の途絶えてしまっていた父と父方の祖父母と叔父の眠るお寺さんに。

夫の実家のお寺さんは御本堂に立派な『三界萬霊の供養棚』が設えてあります。

ちょうどご本尊さまの真向かい、つまりは入り口をふさぐ形で設置されているので、出入りに少し難儀をするのではありますが、こうしたお盆の時期に三界萬霊の供養棚を設えてあるお寺さんは皆、そのように棚を設けますので、おそらく何か意味あることなのでありましょう。
お盆の忙しい時期にお寺さんにお聞きすることなどできませんので、なかなかその理由を知ることができずにおりますが、
なんとか望み通り、三界萬霊の成仏を祈って参ることができました。(7/26の『幽霊の日』にかように思った私でありました)

それにしても。

今年のお盆の入りは半端ない混雑でありました。土曜日ということもあったのでしょうか。
道路も、でありますが、どちらのお寺さんの駐車場は空き待ちするようでありました。
コロナ禍となる前でもこのような日はありませんでした。
思わず「みんな偉いなぁ」とつぶやく私に、
「え、別に偉いとかいうことでもない、当たり前のことなんじゃない?」とは夫。

はあぁ?

あなたはお盆というとお盆休みととらえる第一人者だったのでは?
ま、お盆中は家庭内で争いごとは良くありませんから口には出しませんでしたが、ね。

とはいえ、相変わらず檀那寺を持たない私どもは、どこか中途半端な気がする、お盆なのでありました。

No.227 22/08/14 03:02
旅人 ( pu5bob )

そして┉。

祖父母と父の眠るお寺さんのご住職さまは今回も笑顔で出迎えてくださいました。
それはもちろん私どもだけでなく、どなたにも。
満面の笑顔で、その方その方に合わせあたたかなお言葉をかけ続けておられます。
そう、その方その方に合わせて。

「今日もお越しくださったのですね。お彼岸もお盆も欠かすことなく、┉ありがとう。どうぞ上がってお焼香なさってください」
┉私がどこの家の者か、瞬時にわかってくださってのお言葉です。

檀家でもない私でありますのに、
「この寺に縁あって、こうしていつも来てくださることが何よりありがたいことです」


今、父や祖父母の眠る墓を守ってくれている方は、顔を合わせたことすらない、┉というよりは祖父母や父たちの『家』と縁が切れてから、┉私の両親が離婚したのち生まれた、従兄弟にあたる方、叔父の息子さんのようです。

遠方にお住まいでおられますのに、それでもお時間を作っては群馬までお越しになり、お寺さんにお参りいただいているようです。
それこそが本当にありがたいことです。
祖父母はともかく、実の娘のある伯父まで入っている墓を守ってくださっておられるのです。
一方叔父が亡くなったことすら知らなかった私。

それは親の離婚という、私にはどうしようもないどうすることもできなかった理由からではありましたが、祖父母や父の葬儀に出ることができなかったこと以上に申し訳なく思うのであります。


祖父母や父に対しては、亡くなったのち墓参りという形で会うよりは、やはりその病床を見舞いたかったし、生きているうちに話したかった思いが強かったけれど。

それでも亡くなったのち、┉かつて祖母とお盆やお彼岸に通ったお寺さんの先祖代々の墓に入ったからこそ、今こうしてお参りすることができているのです。


今は墓じまいやお墓の引っ越しなども多くあります。
実際、夫の実家のお寺さんでも、
父方のお墓のあるお寺さんでも、墓じまいされ空いた墓所がポツポツと見られるようになってまいりました。
遠方にお住まいの、お墓を守ってくださっておられる従兄弟の方がそのように考えても決しておかしくはないことです。

今、こうしてお墓参りできること、お会いしたことすらない従兄弟の方に、あらためて感謝して。
祖父母や父、叔父の眠るお墓に手を合わせてまいりました。



No.228 22/08/14 03:06
旅人 ( pu5bob )

そして、父方のお寺さんのご住職さまは、檀家でもない私どもに丁寧なお言葉をおかけくださり、御本堂にお招きくださった上、お供物を、┉それも二人分もくださったのでした。

もうバチ当たりな気すらする、┉父方のお寺さんでのお墓参りでありました。

No.229 22/08/14 03:20
旅人 ( pu5bob )

母の眠るお寺さんは、お盆の施餓鬼会法要を終えた頃に参拝してまいりました。

御本堂には三界万霊の供養棚と、地獄絵を今年も飾られていました。

御本堂に詰めておられた方々は皆、スマホに夢中で、お寺さんの御本堂の中で初めて見る光景に、┉なんともいえない、もの悲しい気分となりました。

こちらは檀家筋ではない者には挨拶すらないお寺さん。
まぁ、檀家さんのお顔は覚えているだけ良しと思いましょうか。

No.230 22/08/14 23:16
旅人 ( pu5bob )

今日、そんな母の眠るお寺さんに、息子とお嫁さんがお参りをしてくれたそうです。
縁(えにし)というのは誠、ありがたく、そして不思議なものであります。

No.231 22/08/14 23:45
旅人 ( pu5bob )

息子夫婦が当家の関係のお寺参りをしてくれていた頃、┉私が何をしていたかと申しますと、夫の運転する車の助手席に座ってぽぉっと車窓から流れる景色を眺めておりました。
┉高速道路、でしたので、景色自体はほぼ単調ではありましたが。


ええ。

私、今朝の五時に外に出た際、台風一過の朝のわりにはどんより曇った空を見上げて、
「そうだ、こんな空模様ならさして暑くはならないであろう。久しぶりに少しだけ遠出して、神社仏閣をお参りさせていただこう」
と、夫の意向を聞くこともなく(┉まぁ、そんな早い時刻には夫はまだまだ夢のなかですし)、勝手に出かけるつもりとなって、あれこれ動き出しました。
七時には洗濯物を干し終えて。
仏さまのお花の水を換え、水とお茶をお供えし。
そんな私の動きでようやく目を覚ました夫が、寝ぼけまなこで
「おはよう」と言ったまもなく、
「ねえ、きっと今日はあまり暑くならないよ。久しぶりにちょっとだけ遠出しない?、┉もちろんあまり人の集まらないようなところへだけど」
「おぉ、それはいいね」

うんうん♡

秩父とかはどうだろう。
混雑具合はとにかくとして、秩父へなら私も運転していけるし。

久しぶりのプチ遠出。ワクワクしながら食事の支度をしている私に、夫は栃木に行こうと言いだしました。

┉栃木?
まぁ栃木へも私の運転で行ったことは何度かはありますし。

「、┉高速だけど、平気?」


ぶ。

無理です。

高速道路を運転しようものなら、私、本当の本当に手に汗握っちゃうんです。

で。
今日もまた夫に運転を任せ、私はぼーっと流れる景色を眺めていた、というわけでありました。


そんな彼が向かったのは、┉。

No.232 22/08/15 00:06
旅人 ( pu5bob )

゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁・*:.。❁ ゚・*

「┉松尾芭蕉が、『奥の細道』で最も長く滞在したという栃木県黒羽の地。
彼がここに留まったのは、┉降り続く雨のせいだけではありませんでした。」
     
 ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁・*:.。❁ ゚


やわらかく、そしておだやかな語り口の吉永小百合さんがそう語られたは、栃木県黒羽の【雲巌寺】さん。
そう、JR東日本のCMでのセリフであります。

今回も、わがままでただ騒ぐだけの妻とは違い、しっかりと地図を見ながら、決定し行動してくれた夫でありました。
ありがたいことであります。

No.233 22/08/15 18:39
旅人 ( pu5bob )

【奥の細道】は、松尾芭蕉が、崇拝する『西行』の五百回忌に当たる年、弟子の曾良を伴い江戸を発ち、奥州・北陸道を巡った紀行文であり、俳諧であります。
あの『月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり』
から始まるもの。

全行程約六百里(2,400km)、日数約百五十日間で東北・北陸を巡り、東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねたものであります。
このうち、武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して美濃大垣を出発するまでがえがかれている、┉といいます。

その芭蕉が〝奥の細道〟紀行の途中、十三泊十四日という最長期間を栃木県黒羽(くろばね)に逗留したのだといい、この内の六日間が雨に見舞われたのだといいます。
そんな史実を受けて、
「┉彼がここに留まったのは降り続く雨のせいだけではありませんでした」という吉永小百合さんの〝語り〟に繋がるのですが┉。

この黒羽の地の〝蕉門〟の俳人でもあった黒羽藩城代家老と、同じく俳人であった家老の兄弟の、手厚いもてなしを受けて、黒羽とその周辺の名所旧跡を訪ねたようで、最初に訪れたのが【雲巌寺】であったといいます。
といいますのも、実は芭蕉が禅の師とし慕っていた仏頂和尚がかつて修行した寺であったということもあったようです。

芭蕉は雲巌寺に参詣し、仏頂が営んでいた庵の跡を見学し、
【木啄(きつつき)も庵(いお)はやぶらず夏木立】の句を詠んでいます。

この地の俳人も集い催したという歌仙等、芭蕉を長逗留させるだけの文学的な素地もあったようです。

No.234 22/08/15 20:49
旅人 ( pu5bob )

栃木県と群馬県は隣接しており、┉まぁ、場所によっては私でも運転して行けちゃう県の一つです(隣接してるからと言って、行けるとは限らないのが私です)
そんな栃木県は、関東地方で一番広い面積を持つ県で、面積がもっとも大きな市は日光市ですが、人口は宇都宮市がナンバーワンです。

今回行きました、【雲巌寺】さん。
高速道路を走って走って。
高速を降りてからも長閑にして広大な田園風景の中を走って走って。

やたらと走るものですから、
「これだけ走るようなら、横須賀にだって行けちゃうくらいなんじゃない?」と申しますと、
夫「そうだなぁ、横須賀行くにはあと三十分くらい多く走るようかな?」

┉えっ、まじか?

地図を見ますと、この雲巌寺さんのあるところは茨城県、そして福島県にほど近い辺り。
関東一広い栃木県を縦断して、さらに隣接している茨城県や福島県に入ろうかとしているようなものであります。

そ、そうかぁ。そうなんだぁ┉。

JR東日本も罪なCMを作ったもんだ。

行けども行けども、田園風景が続いていました。

そこに変化がおとずれます。

アップダウンし、川が見えてまいりました。やたらと〝鮎〟という看板を目にするようになります。
そうしていかにも昭和なレトロな風情の橋を渡って、さらにしばらく走行すると、┉。
若干道幅が狭くなってきました。

小さな川。そこにかかる小さな橋を渡って┉。

さらに進むと、┉!
きらめく金の欄干の橋が見えてきました。
そこを渡って。
さらに進むと小さな橋が。

景色が一変します。

民家もお店もほぼない、山に囲まれた川沿いの道を夫の車は走ります。

あ、駐車場だっ!

┉どこにどう停めてもよさそうなほどに広い駐車場です。

ぁやったぁぁ!





No.235 22/08/16 20:47
旅人 ( pu5bob )

車を停めて、道路をへだてた石標をめざすと、┉!
いきなり、ありました。
あの、吉永小百合さんがお立ちになっていた、赤い太鼓橋が!

そしてその赤い橋の向こうにそびえ立つ楼門は青い空に映えています。
芭蕉や小百合さんのように、雨に降り込められることとはなりませんでした。┉当たり前ですがね。

赤い橋♡
一歩一歩ワクワクし、そして一歩一歩身の引き締まる思いがいたします。
┉神橋、ではありません、がね。

うわぁぁ!
なんてきれいな川の流れでしょう。

寺には橋を渡る必要がある。欄干が朱塗りになって、とても印象的。
橋のしたを流れる小川は【武茂川】というのだそうです。『むもがわ』と読みます。
朱塗りの太鼓橋は【瓜鉄橋(かてっきょう)】と呼ばれるものです。
「瓜鉄」とは「子孫が長く続いて繁栄すること」を意味するのだそうです。

雲巌寺さんは臨済宗妙心寺派に属する禅寺で、山号を【東山】といいます。
瓜鉄橋は東山五橋と呼ばれる橋のひとつで、徒歩圏内に独木橋、瑞雲橋、涅槃橋、梅船橋といった橋が架けられています。

橋の向こうに見える山門は、石段の上にある楼門ですのでまさにそびえるように見えます。
扁額が掲げられており、『神光不昧(しんこうふまい)』と書かれています。
楼上には『釈迦牟尼佛』さまと『文殊菩薩』さま、『普賢菩薩』さまと十六羅漢像が祀られているのだといいます。


ちなみに。
山門は〝豊臣秀吉〟の〝小田原征伐〟の焼き討ちにも耐え残ったと言われます。
小田原征伐では、烏山城の〝那須資晴〟は豊臣秀吉に恭順しなかったそうで、そのため城攻めの際、付近の住民が雲巌寺に逃げ込み、それを見た豊臣方は雲巌寺を要塞と判断して火を放ったとされるのだといいます。


┉いつの世も争いごとは酷いものです。


No.236 22/08/17 04:25
旅人 ( pu5bob )

すみません。
誤字がございました。

あの雲巌寺のシンボルの一つ、といっても過言ではない美しい〝かてつ橋〟『瓜鉄』と記載しておりましたが〝鉄〟ではなく、正しくは、
部首を『爪』(つめ・のつ・そうにょう)とする【瓞】でありました。
お詫びして訂正させていただきます。


さて。

【雲巌寺】の歴史は、
平安時代の大治年間(1126年〜1131年)に『永観寺』の高弟「叟元和尚(そうげんおしょう)」により開基されます。
その後、弘安6(1283)年に【顕日高峰(けんにちこうほう 仏国国師の法名)】によって再興開山された歴史あるお寺です。

仏国国師さまは後嵯峨天皇第三皇子にあたられます。

┉仏国国師、?
仏国が名であるところの国師さま、なんだろうが、国という字が二つ並んで使われることとなっていて、なにやらやたらと目を引くお名前で┉。

【国師(こくし、くす)】は、高僧に対して皇帝(朝廷)から贈られる『諡号』の一つであり、特に皇帝の師への尊称であるとされます。
僧侶に贈られる諡号としては、他にも大師号、禅師号、などがあります。

この仏国国師さま、ご修行中に関東地方を行脚されておられ、ある時思い立ってここに草庵を結ばれたのだといいます。
その際、この地にあった僧が国師について禅を学ばれ、この山を国師に献上されたといいます。

さらにまた、あの、元寇の際執権鎌倉幕府第八代執権『北条時宗』を大檀越となって、国師のため一大禅刹を建立したことにより成っています。
仏国国師さんを慕って雲集する僧は常に一千万を超えたと伝えられています。


筑前博多『聖福寺』さん、越前『永平寺』さん、そして紀州『由良興国寺』さんと共に、日本の四大道場の一つに数えられたものでありました。


No.237 22/08/17 10:07
旅人 ( pu5bob )

雲巌寺さんは、平安時代後期の大治年間(1126年-1131年間)に初叟元和尚によって開山されました。当初は『三論宗』として草創されましたがその後は諸宗雑居し、何時しか荒廃してしまったといいます。

それを復興させたのは『高峰顕日(=仏国国師)』で、弘安6(1283)年のこと。時の執権・北条時宗を大檀那とし、修験道の山伏、〝高梨勝願法印〟の寄進のもと、臨済宗寺院として改めて開山したといわれます。

さらに天正6(1578)年、『臨済宗妙心寺派』へ改宗されています。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉による『小田原征伐』の折、恭順せず城攻めにあったのは烏山城の『那須資晴』公。
あの那須与一の子孫にあたります。

豊臣方は、北条氏を大檀那(だいだんのつ)とするこの寺を軍事要塞と見なし、火を放ったといいますが、その際焼失を免れたのが瓜瓞橋の前にそびえ立つ楼門であり、またこの火災で、仏像及び三祖像、一部の什宝を除き、ことごとく焼失してしまいます。

その数年後には再建され、祖道の復興に努められましたが、旧時の盛観を再現するには至らなかったといいます。

また弘化四(1847)年にも方丈と庫裏が再び火災に見舞われ、その二年後に再建されています。


方丈の裏手には一般の参拝者が行かれないようになっています。
見えるのだけれど行かれない。

東山十景とされる舊跡、海岸閣であるといいます。
また、そこにはかつて芭蕉が訪れたという、仏頂和尚の庵の跡等もあるようです。


そのほかにも、火災により消失後再建されたものの、虚空蔵堂であったものが、第二次世界大戦による戦死病没者の霊を祀る平和観音堂となったりしているようです。

No.238 22/08/17 18:15
旅人 ( pu5bob )

赤い〝瓜瓞橋〟を渡るにあたって、心はずむ思いをどうしてもおさえられませんでした。

真正面には雲ひとつない空が広がり、厳かにそびえる楼門があり、
赤い欄干から覗き見ると、木々の生い茂る下をきらきらときらめく水が流れています。
本来なら、心引き締まる思いがするのが本当でしょうが、煩悩の塊で修行の〝しゅ〟の字もない日々を送るおばさんははずむ心を抑えることすらできませんでした。

瓜も瓞(小さなウリ)も先端にいくほど実が太く大きくなることから『子孫繁栄』『国家興隆』を意味するという『瓜瓞』という言葉。
心が大きくはずむのもある意味しかたないのかもしれません。

それでも橋の上から楼門を見上げると、自然に背筋が伸び、厳かな思いとなります。


石段を登ると。
楼門の左右にそれぞれ
『雲巌寺専門道場』・『碧巖録提唱』と墨書きされた白木の看板が掛けられています。
これは雲水の修行の場であり、〝碧巖録〟を説法していることを表しているもの。
碧巖録は中国禅文学の典籍なるものだそうで、碧巖集とも呼ばれるものだそうです。臨済宗で最も重視する語録なのだといいます。

さらに楼門上の段には『眛不光神』と書かれた扁額が掲げられています。
【神光不昧】とは、心の光を眛(くら)まさないこと。
禅の真髄を端的に表した言葉だといいます。
虚空のように澄み切った境地にある工夫を積むと、ものごとの真相を洞察する力が自然に備わる人間になるという教えに基づく言葉だといいます。

この楼門をくぐりながら、私はふと鎌倉の建長寺の山門を思い出していました。
風雨にさらされ自然に少しづつ少しづつ削られ、でもそれでいて、だからこそ歴史の重みを感じさせる太い柱を彷彿させる、┉そんな雲巌寺さんの楼門の柱でありました。
┉まるでにてはいないそれぞれの門、なのですがね。
長い年月を経た木、木造物のみせる共通の重み、なのでありましょうか。

そんなことを考えながら、しゃがみ込んで柱の下の方を見ていたおばさん、┉怪しいったらありゃしませんね。

さらには楼門の上の方を見上げては、(御開帳されることはあるのだろうか)などとまたまた煩悩が一つ生まれるおばさん。

┉困ったものです。

No.239 22/08/18 04:40
旅人 ( pu5bob )

門をくぐると。

広い広い空間が広がっていました。思わず足を止めたくらいです。
白い砂利の敷かれた平らかな空間。
ゴミはもちろん、落ち葉一枚、雑草一本ない、境内でありました。

そんな境内中央に。
どっしりと。
威風堂々とした建物がひとつ。

扁額が掲げられています。【東山】とあります。
古い、┉といえば古いのでしょうかね。明治か、┉大正、あるいは昭和初期までくらいの建物、でしょうか。
白木のままの経年した建物は、なんとも言えない風情と、重みがありました。

厳かな心持ちで一歩一歩、仏殿に向かって歩いてまいりました。扉が開け放たれ、中まで拝観できそうであります。




┉。
えっとぉ、┉。


さほど大きくはない仏殿となりましょうか。
ただし本堂としてであれば。
ここ、この仏殿は、文字通り〝仏殿〟。平らかな石かコンクリートの床で高い天井の間にの真正面に、大きな、落ち着いた茶色の須弥壇が設けられています。
ただ┉、他のお寺さんの本堂のような煌びやかな装飾品は一切ありません。
ええ、まるっきり。
金色のものといったらまさにご本尊さまの御像と、その左右のお膝の下辺りに置かれた金属製のブロンズ色の蓮の飾りのみ。
燭台や香炉、花瓶等は経年したためのものか、はたまた最初からそうあったのか黒みを帯びた光沢のないブロンズ色。

白木のままの天井と壁。ワンフロアで区切りとかも一切ないため欄間等もなく、おそらくは彫刻等もなく、天蓋等もない、極めてシンプルなお堂であります。

そんな御堂の中央におられるお釈迦さまの坐像は、脇侍もおられずただお一人でおられます。
お痩せになられておられるお姿にしか見えず、禅定印と呼ばれる印を結ばれておられるように見えます。
ご修行をなされておられる頃のお姿、┉なのでありましょうか。


まずはただただそのシンプルさに驚き、お釈迦さまがお痩せになられておられるお姿であることに驚き。

そしてそんな、極めてシンプルな、お堂の中に、極めて異質、としか思われない、〝グランドピアノ〟が、お堂の左側にひっそりと置かれているのです。

ええ、グランドピアノ。

何故?


No.240 22/08/18 06:09
旅人 ( pu5bob )

お位牌、┉と申しますと亡くなられた方に使われるものを指すようですので、なんと申し上げるものとなるのか┉。
形としてはまさに〝位牌〟と呼ばれるものと同じ形をしているものとなるのですが、語彙力のない、信仰とも関わりなく生きてきたおばさん、ほかの名称を存じ上げず。
懸命に調べたもののこれというものに至らなかった〝位牌と同じ形をした仏具〟。
生きておられる方の生前戒名を書いたものは寿牌と呼ぶようですが、それともまた異なるので、
〝位牌によく似たお祀りする仏具の一つ〟、とお呼びするしかないのですが、そんな仏具が三体、ご本尊さまの御前に祀られておりました。
全文読むことはできなかったのですが、

【本朝 歴代天皇 …】
【大日本国内 …】
【今上天皇陛下 …】

と刻字されています。

ああ、そうだ、そうだった。
こちらはかつて天皇家ゆかりの方が住職となられたお寺さんでありました。

なるほど┉。

グランドピアノにびっくりし、少しひいていた気持ちを改めて、あらためて手を合わせました。

仏殿をあとにし、ふと横を見やると勅使門、があります。朽ちかけており、物悲しい気持ちとなります。
ま、とはいえ今はなかなか勅使門があったとて、そこをくぐるようなご身分の方がそこをくぐって方丈の方へ向かわれることもないのでしょうが、ね。

勅使門の前から見上げると、方丈が見えます。

私の気分がまた、ふわぁと、まるで身体でも浮こうかというくらい、ワクワクしたのは言うまでもありません。

とりあえず向きを変え、あらためて境内を見ますと、ひだりてには何やらシートのかけられた、あまり大きくはない建物があります。
あとで調べたところ、『平和観音堂』であったようです。
さらに遡ると虚空堂であったようです。

そのすぐそばに『奥の細道句碑』と、その解説が看板となって立てられていました。
句碑は、┉苔むしてまるで読むことは叶いませんでした。



No.241 22/08/18 09:32
旅人 ( pu5bob )


【 竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば 】
仏頂和尚


【 木啄も庵はやぶらず夏木立 】松尾芭蕉


木啄というのは仏教伝来の時、蘇我氏と物部氏が争い、仏教反対派の負けて殺された物部守屋が怨霊となって啄木鳥になったという話があります。
啄木鳥は仏教を広める者に災いをもたらす存在とされていますが、さすがの啄木鳥も仏頂和尚の庵には近づけないだろうという、仏頂和尚への尊敬の念を表しているそうです。


┉私、常々俳句というものは本当に奥の深い、味わいのあるものだと思っておりましたが、この句一つに込められたこの思いや知識、感服いたしました。
季語だとか、五・七・五だとか、難しい制約だらけ、しかもたった十七の文字の中に、これだけ内容の濃いものをおさめる、┉この日本語すら不自由であります人間にはもはや神業としか言いようがありません。

ちなみに。
『奥の細道』で芭蕉は、

『、┉と、とりあえぬ一句を柱に残し侍りし』と書いているようなのですが、惜しいかな、すでに芭蕉が訪れたときには〝山居跡〟となっており、芭蕉にして『かの跡はいづくのほどやにと、後ろの山によじのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。』とありますくらいで。

どこの柱に一句を残したものやら、松尾芭蕉直筆の句は人知れず朽ちていったのでしょうかね。

No.242 22/08/18 10:18
旅人 ( pu5bob )

ちなみに。

仏頂和尚が松尾芭蕉に与えた影響は量りしれないと言われております。

松尾芭蕉の生家は経済的に貧しく、本当の学問的な教育が無く、仏頂和尚より得た教養は、その後の芭蕉に大きな影響を与えたのでしょう。

順風満帆の生活から、奈落の底といえる深川の状態から脱出できたのは、禅を学んだことが大きな要因であるとも言われています。


仏頂和尚は常陸郡鹿島郡札村生まれの人で、三十三歳で鹿島根本寺の住職になりましたが、鹿島根本寺が徳川家康より拝領した百石の内、隣の鹿島神宮から寺領の半分五十石を横領されたと訴え、寺社裁判の訴訟の為一年半ほど江戸に滞在していたといいます。

この江戸滞在時、芭蕉の住いのすぐ近くに滞在し知己を得たもののようでありました。
この二人の出会いが無かったら、「おくの細道」は無かったかもしれません。

仏頂和尚は芭蕉より三歳年上であったそうで寛永十九(1642)〜正徳五(1715)年十二月に 雲巌寺で亡くなられています(享年74)。

あれ?仏頂和尚さま、当時にしては長生きでおられたのでは?
一方の芭蕉は元禄七(1694)年、五十歳のとき、摂津国で亡くなっています。

【 旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る 】

という最後の句を残したのは有名です。

奥の細道を歩いたのは元禄二年、芭蕉四十六歳のときのこと。



┉私、仏頂和尚さまって、芭蕉よりもっと年上の方なのだとばかり思っておりました。

No.243 22/08/18 12:53
旅人 ( pu5bob )

仏殿を背に向かって左側には、鐘楼があります。
そのすぐ横に、保護するように屋根と壁のあるものを建て、かなりの年輪を経た木を横に切った断面を展示してありました。
年輪のいくつかにピンをつけて、何年ごろのところだと分かるようにしてあります。
樹齢何百年という木が倒木したか、伐採しなければならなかったのでしょう。┉あまり関心がなかった私はほぼ素通りしたのですが、夫をはじめ、何人もの人がそこに立ち止まって感慨深そうに眺めては写真を撮っておりました。

私はその年輪そばにある境内案内図の写真を撮って、まだ見ぬ龍神池などに思いを馳せておりました。

その境内案内図の下に、木の板に墨書きされたものが掲示されていました。

【 寺は 人が内なるものに 心を置く道場です
単に観光の為のものではありません

高聲 高笑 喫煙 醉客 諸堂立入等 他の迷惑になる所作は 堅く停止めて

観光案内は致しません

聖域の逍遥をお楽しみ下さい 】

と書かれていました。


仏殿のそばにはご由緒の立看板がせっちされていました。
なるほど┉。

小田原征伐の際の天正十八(1590)年に焼き討ちにあった後、再建されたものも、
弘化四年に再び火災に罹り、方丈及び庫裡が焼失、嘉永二(1849)年に再建されたようです。
その際火災を免れた仏殿は天正の再建以来三百有余年を経過し、〝腐朽その極に達し、到底修理の途なきを以って〟
大正元年に改築を企て、同十一(1922)年、竣工されたということでありました。

おお、明治からせいぜい昭和初期の建物と推察した私の考察は当たっていたようです。(ずいぶん年に幅がありますが、┉)
ちなみにこの仏殿の建築様式は、実に鎌倉末期の手法によるものなのだそうです。

秀吉の軍に焼き討ちにあい、なんとか衆僧に背負われ難を免れた仏像と祖像、とのことで、その他なんとか持ち出すことができたのは、開山『仏国国師』御自讚の画像と第二世仏応禅師画像の二点のみ。
この二点は東京国立博物館にあるそうです。


┉今年はやたらと火災のニュースを観るようおもいます。
起きてしまったら今の科学をもとうがなにしようが、鎮火させるのはやはり水等の消火活動によるもの、人力に頼る以外方がありません。

うーん。
一瞬、だからなぁ。
火事は恐いなぁ。

No.244 22/08/18 17:07
旅人 ( pu5bob )

石段を登っていきます。

まず見えてくるのは庫裏、┉かと思いきや、寺務所?
そして方丈に接して建てられた庫裏。(と、境内案内図に書いてありました)
そして方丈。

〝方丈〟って、┉一丈四方の面積を指す、といろんなところに書いてあります。一辺が一丈。一丈は約三メートル。三メートル四方の部屋ってこと?
維摩経の維摩の住んで部屋、から発祥しているらしいです。
そこからさらに転じて、禅寺においての住職の居室であったり、┉住職自体を指すこともありますよね。

正四角形の間、ということになりそうですが、この日はお盆の真っ只中。
正面に面した部屋の濡れ縁にかけて、精霊棚が設けてあります。
なのでお部屋の様子はわからなかったです。
その濡れ縁にはさらに、
絵葉書とか、今の御住職の書かれた書物、今、そして過去の御住職さまの書かれた墨書きの書などが置かれ、それぞれに値がつけられて販売されています。
いわゆる無人販売であります。


その正面の部屋の真上に大きな扁額が掲げられています。

えっとぉ〜?

【人面不知何處在 桃花依舊笑春風】、┉と書いてあります、ようで。
実は読めなくて、ネットで必死に調べました。
えぇ、『字』すらが読めなくて。

そしてようやく何という〝文字〟が書かれているかを知ることができました。できましたが、┉読み方もわからない。

ネットからのものをそのまま貼り付けます。

「人面 知らず 何處(いづく)にか 在るを  桃花 舊(きう)に 依(よ)りて 春風に 笑ふ」

【概訳】
去年の今日 この門のなかで見た 
美しい娘の顔は満開の桃花に映じて紅に染まっていた
いま あの娘は何処に行ってしまったのだろう
桃花は旧に変わらず美しく咲いて春風にそよいでいる


※この詩は「本事詩」と「太平広記」にある。それぞれにこの詩にまつわる故事を語っている。その概要は次のとおりである。



┉と、あまりに長いので、全文がおさまらず、次のレスに全文を貼り付けます。

が。
何故?
何故にこの文を扁額に?

うーん。わからない。
この詩の概要を読んでさらにさらにわからなくなってしまった、おばさんでありました。

文字すらが読み取れなかったからなぁ┉。



No.245 22/08/18 17:14
旅人 ( pu5bob )

【人面不知何處在、┉】の概訳

 西安の博陵に崔護という好青年がいた。かれは進士になるべく頑張っていた。ある清明節の日に、城南に散歩に出たとき、とある屋敷に通りかかった。

 その屋敷は花木が茂っていたが、人はいない様子であった。門をたたいてみると、娘さんが門の中からそっとこちらを覗いて見ていた。「どなたですか」と娘が尋ねた。青年は名乗った後、「春を訪ねてひとりでやってきました。酒を飲んでのどが渇いているので、お水をいっぱいただけないだろうか」と娘さんにお願いした。

 娘は水を持ってきて、門を開き青年を招きいれた。娘は傍らの桃の木の下にたたずんで、黙って青年を見ていた。その姿はまさに「妖姿媚態、綽有余妍」なまめかしいほど美しかった。崔護も口を開かなかったが、二人は惹かれあった様子であった。が、二人はそのまま別れた。

 一年後の清明節の日、青年は情抑えがたく、娘の家を訪ねた。しかし、門は固く閉ざされていた。かれはこの詩を門扉に書いて帰った。

 数日後、再びその家を訪ねると、中からすすり泣く声が聞こえてきた。門をたたくと、出てきた老父が「あなたは崔護ではありませんか」と尋ねた。青年が「そうです」と答えると、老父は「あなたが家の娘を死なせた」と泣きながら訴えた。

 青年は答えようもなかった。老父は続けていった。「家の娘は結婚適齢期ではあったが、ふさわしい人にまだめぐり合っていなかった。去年からずっと物思いげにぼんやりとしていた。あの日、外から帰ってみると門扉に詩が書いてあった。それを読んで以来、娘は病の床に伏し、数日間ものも食わず、とうとう亡くなってしまった。わたしはもう老いた。娘を嫁にやる君子を求めていた。わが身を託したかった。だが、君は娘を死なせてしまった。」といって、さらに大声を上げて泣き伏した。

 崔護も感動して泣いた。そして、娘のなきがらを抱きあげて、泣きながら「わたしはここだ、ここにいるよ」といった。娘はやがて目を開き、半日もするとすっかり命を取り戻した。老父は大喜びして、娘をこの青年に嫁がせた。


? ? ?

誰か、この詩が何故扁額になっているのか、その謂れがわかる方はおられましょうか。

┉とりあえず、私も引き続き、Google先生にお教えを乞います。

No.246 22/08/18 17:32
旅人 ( pu5bob )

┉わかりました。

日本語すら不自由なおばさんは知らなかったのですが、有名な禅語なようでありました。

元となった(?)物語にまで及んでいる解説を見てしまったから、余計にわけがわからなくなってしまったのです。

もっともっとわかりやすい説明がありました。


【去年今日此門中。人面桃花相映紅。人面不知何處去。桃花依舊笑春風。】

(去年の今日 此の門の中、人面 桃花あい映じて紅なり、人面 いずれの処ところに去るや知らず、桃花 旧に依りて 春風に笑む)
 
意味は、
「春風に揺られて咲いている桃の花が、微笑んでいるように美しく咲いている。人の姿は変わっても、花の姿はかわらない。」 
 または、「人々が去っていった後でも、春は自然に巡ってくる。」

 転じて、
『 つらいこと、
  苦しいことは、
  生きる上で、
  たくさん
  押し寄せてくる
  だろうけれど、
  一生懸命生きていれば、
  春は来る』


『 どんなに厳しい冬でも、
  いつかは春が来る 』


うん、これならば、扁額になって当然、納得であります。


うーむ、漢詩もまた深いなぁ。
よくよく咀嚼して、味わって、
こんな深い味わいとなるものなのだなぁ。




(この説明を先に知ることができたら、こんな長いこと書かずに済んだものを┉、と思うあたりが、まだまだ修行の足りないおばさんでありました)


No.247 22/08/18 19:25
旅人 ( pu5bob )

私には文字すら読めなかった、
禅語の扁額は、こちらです。

あ、夫も読めなかったです。

子供のときに授業でしか習字を習わなかった二人であります。

No.248 22/08/19 03:16
旅人 ( pu5bob )

ちなみに。

こんな、一生涯忘れられないような立看板が、大田原市のそこここに見られました。
実に雲巌寺さんの駐車場にもありました。
これは通りすがりに目にしても読める、┉けれど自分の読み間違いであったろうと思うレベルではあります。


このインパクト最大級、┉過ぎてもはやこの方の何が危ないのかすらわからない立看板。
┉でも交通安全協会のもの、なんですよ。

決してバンクシーのものではない。

なんのため?
誰が書いた?



じ、実はこれ、雲巌寺第五十八代住職の九十六歳の時の書なのだそうです。



うーん、深すぎる。




No.249 22/08/19 03:41
旅人 ( pu5bob )

さて。
境内案内図で方丈の横にあるという『神龍池』。


ん?┉あれ、いけない?
池だけに┉。
などというアホな自問自答をしつつ、池に向かう道を探ります。

方丈からすぐ横へとつながっている小道はふさがれていて、関係者以外ここから立ち入れない旨書かれています。
方丈の真ん前に仏殿とつながる急な石段があるのが見えました。
┉まさかなぁ。

えぇ、やはりその石段を降りたところで仏殿の裏手に過ぎません。

えっ?
もしかしていけない?


神龍池と同じエリアには〝禅堂〟と〝経蔵〟があると、境内案内図(正式には境内略図)に示されています。

え、えっとぉ〜。

┉せめてこの境内案内図に、〝ここからは立入禁止となっております〟くらいの記載をしていただければ、奇しいおばさんが怪しい行動を取らずに済みますものを┉。

┉『私はアブない』

いや、ここではうろつきはしたもののうろついただけですので。
アブない人はきっとその立入禁止エリアに侵入しようと、┉あるいは本当に侵入した人を指すと思います、┉そ、そうでしょ?


コホン。
この境内案内、┉境内略図にはあって、実際には行けないエリアが沢山ある。
┉そんな、ミステリアスなお寺、雲巌寺さんでありました。

No.250 22/08/19 15:01
旅人 ( pu5bob )

【俺が危ない】

お寺のご住職さまが、どんな思いで、どんな意図でこんな言葉をお使いになられたのか、┉。

気になったので調べてみました。

こちらをお書きになられたのは、植木憲道老師。
明治四年に岡山県で生まれ、兵庫県明石郡のお寺の住職の養子となり、十一歳の時に出家されています。
臨済宗本山妙心寺などで修行をされたのち、大正四年、四十四歳で雲巌寺第五十八世住職となられました。

以来栃木県内各地に赴いて法話を行い、多くの信者に尊敬された方であったようです。

青少年教育や社会事業に奔走し、『雲巌寺簡易高等学校』を開設したほか、毎夏には【林間学校】を主催したようです。
また近郷に医者がいなかったため、寺内に雲巌寺診療所を設けられたようです。
昭和十五年頃に退隠されたとのこと。

鎌倉円覚寺の管長さまが、植木老師について2021年11月にかたられていました。

それは植木老師の辞世の言葉、についてでありました。

植木老師の最期の言葉は、実に、長いこと植木老師に仕えられた方のお寺の本堂に掲げられているのだといいます。

ひとつは

『非と論じ是と説く、九十七年。
近くお別れする、ありがとう、ありがとう、みなさんによろしく』

そしてもうひとつ。
こちらは『死に直面して』と題され、これを見た管長さまは、これは本当に死の間際に書かれたものであろうとおもわれたそうです。
手も震えていて字も大変読みにくいものだったと述べられています。

『死に直面して

一つ、もっと親切でありたい

一つ、もっと正直でありたい

一つ、もっと真面目でありたい

一つ、もっと寛容でありたい
               』

これをなんとか読もうと見つめて、ようやく読めるようになった管長さまは大変驚かれたそうです。

若い青年がこれからの人生の抱負を書いたわけでなく、九十七歳の、地元の方々から生仏の如くに慕われる老師の、死に直面した言葉だったからであります。

管長は続けて、
私も「もっと親切に、もっと正直に、もっと真面目に、もっと寛容にと自らに言い聞かせて生きようと思いました」と述べられ、この日の言葉を閉じています。



うーん、ますます知りたくなるではないですか。
そんな方の残した「俺が危ない」
いつ頃のお言葉なのか、どんな思いでこの言葉を選びお書きになったのか。┉うーむ。



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