コイアイのテーマ †main story†
誰にでも、たった一人、
忘れられない人が居るハズ
※この作品はフィクションです。
プロローグとして書き綴った『コイアイのテーマ』の続編になります。
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>> 220
「野菜いっぱいしゃぶしゃぶです。
簡単すぎて済みません」
加世子は炊き上がったご飯と玉子スープを運びながら、
恐縮するように話した。
「十分!いただきまーす。
――うん、旨い!」
もりもりと食べ始めた陽介の向かいに加世子は座った。
「フフ、良かった」
そして自分も、うんうん。と頷きながら笑顔で食べた。
食べながら、陽介はぼんやりと加世子を見つめ、箸を止めた。
「加世子と結婚したら、こんな毎日が待ってるんだな」
加世子も箸を止め、優しく微笑む陽介と目を合わせた。
「小さな事で幸せを感じられるのは、
好きな相手と何かを共有した時だって、今分かったよ・・・」
「――」
「加世子がいてくれるだけで、幸せだよ。
――これが、いま俺の素直な気持ち」
加世子は恥ずかしくて、ぎこちなく目線を落として食べ始めた。
陽介もわざと声を出して笑うと、
「旨い、旨い」と言って食べ続けた。
>> 219
その日仕事を終えた加世子は、携帯から陽介に電話を掛けた。
「こっちに来れる?」
「はい。――陽介さん、夕飯は?」
「あぁ、まだなんだ・・・。何かとるか」
「簡単なもので良ければ、私作ります。
買い物してから行きますね」
加世子は、陽介のマンション近くの駅前スーパーに寄り、
帰国したばかりの陽介宅の冷蔵庫を埋める程の買い物をした。
マンションに着くと、少し疲れた顔の陽介が出迎えてくれた。
「おつかれ。買ってきたね~」
そう苦笑して荷物を受取ってくれた。
陽介と一緒にキッチンへ入った加世子は、
案の定空に近い冷蔵庫に買ってきたものを移した。
「ご飯だけ、急速で炊いてるよ」
「ありがとうございます。キッチンお借ります」
「うん。何か手伝う?」
「いえ、あっという間に出来ますから、待っていてください」
加世子は見るからに疲れている陽介に、
元気になってもらいたいと思っていた。
にら、人参、レタス、もやしを切って、卓上なべに入れ
後は、買ってきた肉を皿に移し、ポン酢とゴマダレを用意して、
ダイニングテーブルに並べた。
「ハハ、本当にあっという間だね」
>> 218
美咲は肩を震わせた。
「敦史が好きなのに…、大切なのに…
バレたらマズイって……
アナタを置き去りにしたのよ……」
美咲の顔から、ポタッポタッと涙が地面に落ちた。
「……ちゃんと、公言出来るって気持ちがあったのに……私は……」
己を責める様に泣く美咲に、手を伸ばし、敦史は包み込む様に抱きしめた。
敦史の腕の中で、美咲は落ち着きを取り戻していった。
そして、この4年もの間、幾度となく包まれ、癒されてきた敦史の温もりを
出来ることなら失いたくないと、心の中で泣き叫んでいた。
「もう…行かなきゃ」
美咲は涙の止んだ顔を上げ、敦史の胸から離れた。
「新しいお店でも、仕事頑張ってね」
「ーー美咲も」
美咲は涙を堪えて、笑顔で思いっきり頷いた。
そして背中を向け、車道を走る空車のタクシーが目に入ると、
手を上げながら駆けて行った。
タクシーが止まって、美咲は乗り込む前に一瞬立ち止まった。
だが、振り返ることなく、タクシーに乗り込み、
そのまま走り去って行った。
敦史はタクシーが見えなくなるまで見送っていた。
>> 217
敦史は、ズボンのポケットから鍵を取って、
美咲の手の上に置いた。
「――これで、おしまい?」
「・・・・」
「ズルイな。ちゃんと言って」
「――感謝してる」
「フフ・・・」
「――俺は・・・」
言葉を選ぶように、俯いた敦史を、
美咲はジッとみつめた。
「別れてあげる」
「――」
「私ね、ドラマ決まったの。
絶対にやりたかった役で、これが決まれば、
女優の仕事も確実に増えるだろうって言われてるの」
「――」
「敦史と別れなさいって、社長からもずっと言われてるし、
正直言って、彼氏なんて居たら面倒なのよ、邪魔なだけなの」
敦史は静かに美咲を見つめていた。
ずっと笑みを浮かべていた美咲は、フイに息詰まる様にして俯いた。
「――救急車を呼んだ時、意識のないアナタを置いて、家を出たの」
>> 216
外は真夏の熱気に帯びていた。
つばの広い帽子を深くかぶり、
伊達めがねをかけて歩く美咲の数歩後ろを、
敦史が歩いていた。
敦史は、背後が気になって振り向いたが、
そこは、広い歩道が公園へと続く、見渡しのいい場所で、
その時間、人通りは多くなかった。
「――体、大丈夫?」
歩みを止めることなく、背後を気にするように
美咲は聞いた。
「うん」
「加世、ちゃんと看てくれた?」
目線を外すように歩いていた敦史は、
美咲を背後から見つめた。
「フフ、看てくれたんだね」
美咲は、俯いたまま小さく笑った。
「引越し、無事に済んだみたいね」
「――鍵、返しに来たんだ」
「・・・そう」
美咲は歩みを止めて振り向くと、
敦史の前まで行って、手を差し出した。
>> 214
病院のベッドで眠っている百合絵を、陽介は、傍らに座ってずっと見つめていた。
すると、百合絵が静かに目を覚ました。
「百合?」
百合絵はぼんやりとした視線を陽介に向け、かすかに口元を緩ませた。
陽介がナースコールに手を伸ばした時、
「待って・・・」
と、百合絵は陽介を制した。
「・・・目が覚めたとき、陽介の顔が見れたらいいなって、思ってた。
――目が覚めないかもしれないけど」
「馬鹿か」
陽介は泣きそうに責めたくなる衝動をグッと抑えた。
「寝ている顔見てたら、大学の頃のこと思い出したよ。
お前、断トツに輝いてて、男らは、誰が落とせるかって、賭けまでしてさ」
「・・・陽介は、気のない感じだったよね」
「フフ、作戦だったの」
「――」
「百合が落ちてくれたとき、俺、マジで嬉しかったんだぜ。
胸の奥でガッツポーズして。
でも、そういうの、百合には見せないようにして、相当いい男ぶってたよな」
「――」
「俺がそんなだから、百合も本音を吐けなかったのかもな。
――何も知らなくて・・・イヤ、気づいてやれなくて、ごめんな」
百合絵の目から、一筋の涙が流れおちた。
>> 213
「あの・・・。百合さんって、どんな方なんですか?」
田神はぼんやりと加世子を見て、笑みを浮かべた。
「百合は、俺や陽介と同じ大学の同期だったんだ」
「――」
「大学のマドンナ的存在でさ。
回りに居た男はみーんな、百合のこと狙ってたよ。
まぁ、俺もその一人だったんだけどね」
加世子は、田神が懐かしむような目で話すのを、
黙って聞いていた。
「そんな中、陽介が落としたってわけ」
「・・・・」
「百合は、大学途中でお父さんが亡くなって、
まぁ、色々事情はあるんだけど、大学も退学してさ、
陽介とも離婚したりで、苦労してきたんだ・・・」
そのとき、編集部のスタッフが、田神を呼びにきた。
田神は返事をして立ち上がると、
「後で陽介に電話してみるわ。じゃあ加世ちゃん、また」
と言って、部屋を出て行った。
加世子は麦茶を片付けながら、
田神から聞いた短い話から、百合絵のことを思い浮かべていた。
キラキラと輝く陽介や田神の青春時代、
その中心に居たであろう百合絵が、眩しい位の存在に思え、
加世子は嫉妬ではなく、憧れに近い感情を抱いた。
>> 212
応接室に田神を通した後、加世子はお茶を運んだ。
中で、田神は機材を広げてチェックをしていた。
テーブルに冷たい麦茶を置きながら、
加世子は、田神の顔を見つめた。
「あの、田神さん・・・」
「うん?」
「陽介さんの前の奥さんの事なんですけど・・・」
田神はパッと顔を上げ、
真剣な顔で加世子を見た。
「百合、見つかった?」
「え、あっ、・・・はい」
「良かったぁ~」
田神は、大きく肩をなでおろして、ソファーに深く座った。
「あ、でも、今入院してるって・・・」
「入院?!」
「はい。陽介さんが、今日も病院へ行っているはずです」
「何で入院?」
「そこまでは、聞いてません」
田神は心配気な顔をした。
>> 211
加世子は、切なさと疲れを感じながら出勤した。
敦史のこと、
陽介のこと、
頭の中は隙間無く、浮かぶ考えに支配されていた。
でも一番気がかりなのは、
陽介の前妻が入院しているということだった。
前妻の情報を、加世子は全く知らなかった。
昔、陽介と一緒に居るところをチラリと見かけたことはあったが、
その顔さえも、浮かばなくなっていた。
加世子が、オフィスのある階でエレベーターを降りると、
隣のエレベーターも開いて、中から、機材を抱えた田神が降りてきた。
「田神さん」
「おう、加世ちゃん!
おはよう、久しぶりだね」
「おはようございます。――仕事ですか?」
「うん。またお世話になります」
田神は笑って小さく頭を下げると、
加世子と一緒にオフィスの中へ入っていった。
>> 210
加世子は真っ直ぐに陽介を見つめていた。
「抱いてください」
涙が溢れて止まらないのに、懸命に目線を合わせている加世子を、
陽介は優しい目で見つめ返した。
そして、はだけた服をなおして、体を起こさせ、そのまま抱きしめた。
「抱くなら、泣いてない時にするよーー」
「……」
「フフ、で、違う意味でいっぱい泣かせるわ」
優しく言った陽介は、加世子の頭をポンポンと叩いて、体を離した。
「今日仕事だろ?行きな。
ーー俺は、病院に行ってくるよ」
「……陽介さん…?」
立ち上がった陽介は、顔だけ振り向いた。
「俺は何ともない…
前の嫁が入院しててね」
「ーー」
「今晩、ゆっくり話したい」
真剣な眼差しの陽介を見ながら、
加世子はコクリと頷いた。
>> 207
「よっ」
「明日じゃ・・・?」
「加世子に会いたくて、早く帰ってきたよ」
微笑んだ顔に、疲れが見えた。
加世子と陽介は、そのまま加世…
翌朝起きた陽介は、気だるい体を起こして、リビングに向かった。
すると、ちょうど、シャワーを浴びた加世子がやってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
加世子が隣の部屋に向かおうとするのを、
陽介が捕まえるように抱きしめ、
髪に顔を埋めた。
「――タバコの匂い、消えたな」
ドキッとして、加世子は動きを止めた。
「昨日も、アイツに会っていたんだ・・・」
「・・・・」
「俺たち、結婚するんじゃないの?」
「・・・はい」
陽介は、加世子を振り向かせて、キスをした。
唇を離した陽介は、フッと鼻で笑った。
「キスが好きで、上手な女の子が固まっちゃうんだ?」
「・・・・」
「舌出して」
加世子は躊躇いがちに陽介の目を見上げた。
「出せって!」
>> 206
「よっ」
「明日じゃ・・・?」
「加世子に会いたくて、早く帰ってきたよ」
微笑んだ顔に、疲れが見えた。
加世子と陽介は、そのまま加世子の部屋へ入った。
ソファーに深く座り、目頭をつまんでいる陽介を、
加世子は心配気に見つめた。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
「着替えてきますね」
そう言って、隣の部屋へ入った。
ルームウエアに着替えて、
鏡に映る自分を見ると、切ない顔をしていた。
敦史に会った余韻に包まれていたのだ。
「加世子、いい?」
「・・・はい」
部屋の外からの陽介の声に、
ドキッとしながら加世子が返事をすると、
陽介が入ってきた。
そして、加世子の背後から
ソッと抱きしめた。
- << 209 翌朝起きた陽介は、気だるい体を起こして、リビングに向かった。 すると、ちょうど、シャワーを浴びた加世子がやってきた。 「おはようございます」 「おはよう」 加世子が隣の部屋に向かおうとするのを、 陽介が捕まえるように抱きしめ、 髪に顔を埋めた。 「――タバコの匂い、消えたな」 ドキッとして、加世子は動きを止めた。 「昨日も、アイツに会っていたんだ・・・」 「・・・・」 「俺たち、結婚するんじゃないの?」 「・・・はい」 陽介は、加世子を振り向かせて、キスをした。 唇を離した陽介は、フッと鼻で笑った。 「キスが好きで、上手な女の子が固まっちゃうんだ?」 「・・・・」 「舌出して」 加世子は躊躇いがちに陽介の目を見上げた。 「出せって!」
>> 205
加世子は、自分の駅で降り、
マンションまでの道を、
ぼんやりと一人で歩き始めた。
今日、敦史の誕生日に、退院したばかりの敦史を
一人で過ごさせたくない・・・そう考えて会いに行ったが、
結局は、自分が、敦史に会いたかっただけだった。
付き合っていた頃の様に、一日を過ごしてみたかったのだ。
加世子は、トタンに自分がとてもズルく思えて、
罪悪感に包まれた。
その罪悪感は、陽介だけではなく、
美咲にも、そして敦史にも感じた。
病室で敦史の気持ちを知った後、
こんな風に会って、自分はただ、
敦史の気持ちを振り回しただけではないか――
どんなに敦史を好きでも、感情のまま応えることは出来ない・・・。
加世子は、今までずっと側に居てくれた陽介を、
無下になど出来なかった。
明日は陽介が帰ってくる。
今度はずっと敦史への思いを封印していくんだ・・・。
切ないままに、マンション前に着いた加世子は、
歩みを止めた。
「陽介さん・・・」
マンション前の塀に寄りかかっていた陽介は、
加世子を見つけて微笑み、近づいてきた。
>> 204
その時、電車が入ってくるアナウンスが流れた。
「敦史、今日はありがとう。
わがまま言って、付き合わせちゃってゴメンね」
敦史は顔を横に向け、加世子を見つめた。
キレイな瞳に見つめられ、
加世子は、離れたくなくて涙が出た。
ホームに電車が入ってくると、
どちらからとなく、つないだ手を離して、
加世子は電車に乗り、振り向いた。
そして、敦史を見つめたまま、
言葉に出来ない心の声を、
心の中で呟いた。
敦史
アナタが
好きです。
まだ
アナタが
大好きです。
加世子は溢れる涙を拭うことはせず、
敦史を見つめたまま微笑んだ。
敦史もまた、そんな加世子を
震えるような気持ちで見つめ返した。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
動かずに見送る敦史の姿を、
加世子もまた、ドアの前から動かずに、
目に焼き付ける様にみつめていた。
>> 203
「ちょっと行ってくる」
敦史はタバコを出し、
後方にある喫煙所へと離れていった。
考えるようにタバコを吸う敦史を、
ぼんやりと眺めながら、
加世子は敦史の元に近づいていった。
「タバコなんて、やめればいいのに」
敦史は、フゥーと煙を吐き出し、
笑顔の無い顔で加世子に目を向けた。
「加世が、結婚をやめるんなら、やめるよ」
「――」
「フッ・・・」
敦史は鼻で笑うように、タバコを深く吸うと、
そのまま、灰皿に押し付けて消し、
ゆっくりとホームの前方に移動した。
敦史の背中を見つめながら、
加世子はたまらない衝動から、
敦史の手をそっと握った。
「少しだけ・・・」
俯きながら言うと、
敦史は手を返して、指と指を重ねて握りしめた。
覚えていてくれた好きな握り方、
変わらない敦史の手の感覚、
その握りしめる強さに、
今日一日、どちらかと言えば、感情を抑えていたであろう、
敦史の気持ちが伝わってくる様だった。
>> 202
プレゼントのケーキを半分ずつ食べて、
会計は加世子が済ませて、店を出た。
「ごちそうさん」
「どういたしまして」
「フフ」
「ん?」
「小遣い、5千円だった子がさ――」
「なによぉ、子どもみたいに言って」
「フフ、大人になったって、感じてんだよ」
敦史は、微笑みながら加世子をみつめた。
加世子は、その眼差しに照れるように微笑んだ。
時間はもう夜10時を回っていた。
2人で居るとあっという間に時間が過ぎていく・・・
付き合っていた頃、よく感じたものだと、
加世子は思った。
「――帰り、電車?」
「・・・うん」
敦史の言葉に、少し寂しさを感じながらも、
加世子は頷いた。
そして、2人で駅に向かって歩き出した。
後は、帰るだけ――
別れるだけ――
歩きながら、2人はまた無言になった。
敦史は、自分も切符を買って、
ホームへと降りた。
>> 201
ロウソクの炎越しに、敦史に見つめられ、
加世子の心の鼓動は早まっていた。
それを払拭するように、加世子は笑顔でいっぱいに見つめ返した。
「HAPPY BIRTHDAY、歌ってあげよっか?なーんて!」
「歌ってよ」
「ウソウソ冗談!」
すると敦史は、前奏を口ずさみ始めた。
「タンタタンターンタンターン、はい」
「ハッピバースディ~――」
加世子はのせられて、歌いだした。
「――ハッピバースディ、トゥ、ユー」
―パチパチパチ―
加世子が拍手する中、敦史は、ロウソクに息を吹きかけた。
だが、1本だけ消えずに残った。
「あ、待って!消す前にお願い事してみて」
「――叶わぬ願いでもOK?」
「・・・」
加世子は言葉が出ずに、
一本のロウソクの灯火を見つめた。
「願ったよ」
敦史は微笑み、ロウソクの火を吹き消した。
>> 200
運ばれてきた料理は、どれも美味しくて、
2人の気持ちと会話を弾ませた。
高校時代のように、たあいない会話を交わし、
敦史の話し方、時折見せる無邪気な笑顔や
仕草の一つ一つに、加世子の胸はときめいていた。
食事の皿を下げに来た知り合いの店員に、
加世子は笑顔で目配せをして、小さく頭を下げた。
暫くして、小さなホールケーキが運ばれてきた。
ケーキには、長いロウソクが2本と、短いロウソクが3本立っていた。
敦史は「あっ」という顔をして、
テーブルの中央に置かれたケーキを見つめた。
「7月29日――。
今日は23歳の誕生日でしょ?」
―だから、一緒に居たいって、思ったんだよ―
加世子は、心で呟きながら、
横に置かれたライターでそのローソクに火をつけ、
部屋の照明を一つ消して、席に戻った。
「プレゼント、残らないものがいいと思って・・・」
>> 199
時間は夜の7時を回っていたが、
真夏のまだ明るい空の下を、歩いて、
15分ほどで、目当てのフレンチレストランへ着いた。
「俺、格好・・・」
「そんなに堅苦しくないの。
個室だし、大丈夫」
加世子は、取材で訪れて以来、
女性のオーナーシェフと親交を深め、
人気の店だったが、昨日の夜に予約を取っていた。
個室に通され、敦史と加世子は向かい合って座った。
重たい表情のまま、メニューに目線を落としている敦史を見て、
加世子は、切なくなりながらも、笑顔を作った。
「好きなの頼んでいいよ。ご馳走するから」
敦史はチラリと加世子を見た。
「カードのブラックリスト、載せたくないし」
「・・・フフ」
敦史はメニューを見ながら、少し笑んだ。
加世子は心がとける様に、心から微笑んだ。
「もし、良かったら、オーダーを任せてもらってもいい?」
今度は、優しい目で加世子を見つめた。
>> 197
それから、2人は店内を回り、相談しあいながら家具を選んでいった。
加世子が「いいな」と思うものを、敦史は笑顔で殆ど否定しなかった。
「本当にいいの?敦史が住む部屋なんだよ」
あまりにもイエスマンすぎる敦史に、
加世子は途中で、何度も確認した。
「マジでいいと思ってんの。驚く位、フフ」
敦史はそう言って、嬉しそうに笑った。
加世子も、大好きな家具を、自分ではないが購入する喜びと、
敦史と趣味が合うことが分かって、嬉しくて、
楽しい時間を過ごした。
あれも、これもと購入していったら、
多額の買い物になってしまった。
カードで支払う敦史を横目にみながら、
加世子は落ち着かず、申し訳ない気持ちになった。
「大丈夫?こんなに買っちゃって・・・」
「必要経費だよ」
「でも・・・」
「俺、もう働いて、4年以上だよ。
このくらい、痛くないって」
敦史は笑みを浮かべた落ち着いた表情で
支払いを済ませた。
その後、敦史が配送先の住所を記入するのを眺め、
「うちから、近いね」
と、加世子は思わず呟いた。
>> 196
「渋谷にある輸入家具のお店なんだけど、
良かったら、これから行ってみない?」
加世子の誘いに、敦史は笑顔で頷いた。
電車を乗り継ぎ、加世子は、
北欧家具を扱うお店に敦史をつれてきた。
加世子が学生時代に夢中になっていたインテリア雑誌で
よく取り扱われていたお店で、加世子も、プライベートで
何度かやってきていた。
店内を歩きながら、並ぶ家具を見た敦史は、
「いいね」
と、加世子に振り向いて言った。
加世子は、自分が好きな家具を、
敦史が気に入ってくれたのが嬉しかった。
「ある程度の収納家具と、ソファーと、
いいのがあればベッドも・・・」
「今、選んじゃう?」
「明日、引っ越すけど、向こうには何も無いし・・・」
「そっかぁ・・・」
「加世が選んでくれない?」
「え?」
「加世がイイって思ったやつ、きっと俺も気に入るから」
その言葉に、加世子の胸が高鳴った。
そんな気持ちにしているとも知らず、
楽しげに家具に触れている敦史の横に立ち、
「じゃあ、一緒に選ぼう」
と、横目で微笑んだ。
>> 195
「私がこの映画って言ったとき、がっかりしたんじゃない?」
「まぁね。2時間の拷問かよ~ってね、フフ」
「もう・・・フフ、良かったね、免れて」
映画の出来事で、抱えていた緊張が解けたのか、
2人の会話は弾んだ。
その後、大型ショッピングモールに行った。
人で溢れかえっている中、2人は、
ウインドウショッピングを名目にたわいない会話を続けていた。
加世子は、敦史と自然に会話できることが嬉しかったが、
すれ違うカップルが、皆、仲良く手を繋いでいて、
少し羨ましく見えた。
そんなとき、敦史が、インテリア雑貨店の前で足を止めた。
加世子は、敦史の隣に立ち、
敦史の目線の先の、シンプルでスタイリッシュなソファーを見た。
「素敵だね」
「引っ越した先で、色々揃えなきゃいけないから」
そうか・・・マンションの家具は、
美咲の為に殆ど置いていくんだ・・・と加世子は思った。
「敦史はこういう感じが好き?」
「シンプルなのがいいけど、もっと、
ウッディな感じでもいいかな」
「ナチュラルな感じ?」
「うん」
加世子は、少し考えるようにしてから敦史の顔を見た。
>> 193
照明が落とされ、映画が始まると、
加世子の心はトタンに緊張を増した。
画面に集中しようとしても、
隣に敦史が居るということが気になり、
映画どころではなかった。
敦史は、飲み物を飲んだり、
ポップコーンを口に運んで、映画を楽しんでいるようだった。
早まる鼓動と熱くなる体を気付かれまいと、
加世子は、静かに席を立った。
そして、映画館出口向かいの長いすに腰をかけ、
大きく息を吐いた。
こんなに緊張してしまう自分が恨めしかった。
今日は普通の友達みたいに、
気軽に楽しく過ごせたら――なんて考えていた。
敦史を意識しすぎている自分に、加世子は又ため息をついた。
するとその時、中から敦史が出てきて、
加世子の元にやってきた。
>> 192
駅に向かいながら、敦史は、常に車道側を歩き、
日陰の多い所を加世子に歩かせたりと、
さりげない気遣いに、加世子の心は、ときめきを増していった。
大きな映画館の歩道沿いに、上映中の映画ポスターが並べられ、
敦史は、ぼんやりと、それらを見ながら歩いていった。
加世子も同じように眺めて、ある一枚のポスターの前で足を止めた。
加世子は上映時間を確認して、腕時計を見た。
「ねぇ・・・」
先を歩いていた敦史は、チラリと振り向いた。
「映画、観よっか?」
加世子は、観たいと思っていたその映画のポスターを指差した。
敦史はそのポスターに目をやると、加世子に向かって頷いた。
休日ということもあって、席は殆どが埋まっていた。
先に席に着いた加世子は、敦史の為に隣の席を下ろした。
そこに、飲み物2つとポップコーンを買ってきた敦史がやってきた。
トイレかと思っていた加世子は、面食らった。
「ごめん!私出したのに」
そう言ってそれらが乗った紙トレーを受取った。
「フフ、いいよ」
敦史の顔は、素直に楽しそうだった。
加世子も何だか嬉しくて、つられる様に微笑んだ。
>> 191
「今日って・・・これから、何か用事ある?」
加世子は静かに敦史に聞いた。
敦史は小さく首を振った。
「・・・いいや」
「表に出ない?――凄く、いい天気だし」
「・・・・」
戸惑いの表情で俯いていた敦史は、
ゆっくりと顔を上げ、答えるように加世子を見つめた。
加世子はマンションの表に出て、
着替えてくるといった敦史を待った。
美咲と一緒に暮らしていた部屋に、
長く居るのは辛かった。
何よりも、今日だけは、敦史と居る間、
美咲のことも陽介のことも胸の奥に封印しようと決めていた。
今日一日だけ・・・。
今日で最後・・・。
胸の思いを改めて、確認していた時、
マンションの表玄関の自動ドアが開いて、
敦史が現れた。
高校時代、幾度となく、私服姿にときめいたが、
その感情が呼び起こされる様に、
加世子の胸はまた静かに波打ち始めた。
「・・・ごめん」
やってきて、小さく呟いた敦史に、加世子は笑んだ。
「ううん。行こっか」
2人は、肩を並べるように、
駅方向へ歩き出した。
>> 190
食べ終えた2人は、敦史の部屋へ移動した。
部屋の隅にダンボールが積み重なる中、
敦史の言ったとおり、後は
本棚の本とDVDや音楽CDを移すだけだった。
「へぇ、敦史って、こんな本読むんだね」
加世子は、難しいタイトルの厚い本を持って、中を開いてみた。
「フフ、働けよ」
「働いてるよぉ!」
そう言って、その本をダンボールの中へ移しながら、
加世子は思い出し笑いをした。
「――フフフ」
「ん?」と言う感じに、敦史は目を上げて加世子を見た。
「何だか・・・図書委員の、夏休みの作業を思い出すね」
高校の図書館で、加世子と敦史が2人きり、
色んな話をしながら、本をダンボールに詰めていった。
あの時は二人の間を遮るものが何もなかった。
けど今は、こんなに近くに居るのに、
手を伸ばしてお互いに触れることも出来ない・・・。
加世子が切ない思いに包まれ、敦史を見ていると、
フイに敦史も加世子を見て、
目が合って、ドキンと胸が締め付けられた。
その後は、2人何となく黙って、片付けを続け、
あっという間にダンボールの中に収まった。
>> 189
加世子はダイニングテーブルに買ってきたランチを並べ、
すぐに食べられるようにセッティングした。
「ここのお粥が、すごく美味しいの。
料理人の敦史に薦めるのも、何だけど・・・」
立ったまま眺めていた敦史は、
椅子に座って、そのお粥から手をつけた。
「・・・うまいね」
「良かった」
加世子は小さく微笑み、向かいに座って、
一緒に買ってきた中国茶を、敦史の前に置いた。
敦史は、お腹が空いていたのか、黙々と食べ続けた。
「朝、食べてなかった?」
食べながら、敦史はコクリと頷いた。
「やっぱり。・・・ダメだよ、退院したばかりなんだから」
チラッと上目遣いで見た敦史に、
加世子はドキッとして、目線を外して話題を変えた。
「――引越しは、いつなの?」
「明日」
「えっ?――大丈夫なの?」
「荷物まとめるのは、もうすぐ終わる」
「私も手伝うね」
そう言って加世子は、持参したエプロンと軍手をバッグから出した。
食べながら、敦史はフフっと笑った。
「もう、やる気満々じゃん」
笑顔で食べる敦史につられて、加世子も、笑顔で食べ始めた。
>> 188
翌日の休日、加世子は鏡の前で、私服に迷い、何度も着替え直した。
そして、窓から差し込む、晴天の日差しに誘われるように部屋を出た。
途中、人気のチャイニーズレストランに立ち寄り、
テイクアウトボックスに入ったランチを買った。
そして、地下鉄を乗り継ぎ、
美咲のマンションへと向かった――。
波打つ心を抱え、加世子は、緊張したまま
ドアの前に立っていた。
ゆっくりとドアが開き、敦史が姿を現した。
「――お昼、食べた?」
「・・・・」
「買ってきたんだ。ここね、凄く人気のある中華料理屋さんで、
・・・一緒に食べない?」
加世子の胸は張り裂けそうな位だったが、頑張って笑顔で話した。
少し戸惑ったように加世子を見つめる敦史に、加世子は俯き、
意を決するように気持ちを口にした。
「今日だけ・・・今日一日だけ、一緒に居ちゃダメかな?」
「あいつに――」
「言われたのは、敦史でしょ?――私から会いに来たんだもん」
敦史の言葉を遮り、ゆっくりと目を合わせた。
「今日で、おしまいにするから」
その言葉に、敦史は身を引くようにして、加世子を家の中に入れた。
>> 187
「そちらに、白井百合絵という女性が入院していると思うのですが?
――家族の者です」
百合の居場所を突き止めたい一心で、
陽介はかまをかけた。
「お待ちください」という言葉の後、
保留音を聞きながら、陽介はずっと薬の袋を見つめていた。
そして、保留音が切り替わった。
『内科病棟です。
白井百合絵さんのご家族の方ですか?』
―内科病棟?―
「はい」
陽介は返事をした。
『良かったです。ご親族の方に連絡がつかず困っていました』
「あの・・・白井百合絵はそちらに居るんですね?」
『はい。手術をされて、今、入院されています』
陽介は、百合絵の居場所が分かって安堵したのと同時に、
電話口の看護士が告げた手術内容に、呆然と立ち尽くした。
『明日で結構です。
担当医から詳しくお話しいたしますので、病院にいらしてください』
電話を切った後も、
陽介はその場からしばらく動けなかった。
>> 186
中は暗く、人の気配はなかった。
電気をつけ、部屋という部屋を探してみるが、
百合絵の姿は見当たらなかった。
キレイに片付いた、いつもと変わらない部屋を見渡し、
百合絵の居場所に全く検討がつかない陽介は、
更に不安な気持ちを募らせた。
そして、その不安を払拭するかのように、
タンスや押入れを開け、百合絵の居所のヒントを探し求めた。
「百合、何処にッ!・・・」
噴出す汗を拭いもせず、部屋から部屋へと移動し、
しまわれた荷物を開け放って、一つずつ目を通していった。
まるで、泥棒にでも入られたように、
床に荷物が散乱していく中、
陽介は、寝室の鏡台の引き出しの中から
ある物を見つけ動きを止めた――。
―病院の薬の袋―
中は空っぽだった。
もう夜の11時を過ぎていたが、
陽介はその袋の表に載った総合病院の番号に携帯から電話をかけた。
すると、夜間救急の受付に繋がった。
>> 185
タクシーに乗った陽介は、行き先に、
百合絵のマンションを告げた。
百合絵の携帯に何度も発信するが、
田神の言った通り、全て直留守になってしまった。
陽介は、百合絵の痕跡を辿るように
自分の携帯に残っていた留守電を、再生した。
『陽介?元気?
随分顔を見せないけど、彼女と順調なのかしら?
――お店で待ってるわね』
この伝言は、日本を発つ日の前日
――ちょうど、4日前だ。
いつもと変わらないその口調の中に、
何か違うところは無いか、
陽介は注意深く、何度も繰り返し聞いた。
陽介の心は、次第に不安と焦燥に支配されて行った。
百合絵のマンションに着き、
インターフォンを押すも、応答は無かった。
陽介は嫌な予感に急き立てられながら、
自分の持つ合鍵で、玄関のドアを開けた。
>> 184
陽介は帰国予定2日前の、夜9時過ぎに日本へ到着した。
携帯電話の電源を入れると、一気に複数のメールを着信した。
それらを見る前に、加世子のアドレスを開いて、
発信しようとしたが、直接行って驚かせるかと、少し考えた。
その時、携帯が着信し、
ディスプレイに『田神健二』と表示され、陽介は電話に出た。
「もしもし」
『おう!やっと繋がった!』
田神は、少し高い声で返した。
「仕事で日本離れてたよ。
今成田着いたとこ」
『やっぱ、そうか。――なぁ』
田神は、話を続けた。
『百合のことで、何か知ってる?』
「百合?――イヤ」
『そうかぁ・・・』
田神はため息をついた。
「百合がどうしたの?」
『イヤさ、今日もだけど、ずっと店に出てないんだよね。
ママに聞いたら、4日前から無断で休んでて、
百合の携帯は直留守で、連絡もつかなくてさ・・・』
「・・・・・」
『お前が知らないとしたら、ホントどうしたかなぁ・・・』
陽介は胸をざわつかせながら、
自分も探してみると言って、電話を切った。
>> 183
家に帰宅した加世子は、そのまま寝室へと向かい、
座りこんで、ぼんやりとベッドに寄り添った。
自分は陽介と結婚するんだ――
頭ではちゃんと分かっているし、
否定したい気持ちも無い・・・。
だけど今、会ったばかりの敦史の姿を消せずにいた。
このずっと包まれている切なさも、
敦史を思っているからだと分かっていた。
敦史は、いつ引越しをするのだろう・・・
新しいお店は、どこにあるのだろう・・・
ただの友達なら、簡単に聞くことのできる
そんな小さな事も、気になっていた。
加世子は、ぼんやりとした目線を
部屋のカレンダーに向けた。
陽介が帰ってくる3日後に○印がしてある。
そのカレンダーを見つめながら、
加世子はハッとした――
そして一つの思いに支配されていった。
>> 182
日が暮れても、陽介はホテルのロビーのソファーに座ったままだった。
今、加世子はあいつと居るのか?――
遠く離れた場所に居て、何も出来ない歯がゆさと、
加世子を信じたいという気持ち、
何よりも、プロポーズの返事は貰えたとはいえ、
常に加世子の心を独占してきたアイツへ嫉妬する自分が嫌で、堪らなかった。
「課長・・・大丈夫ですか?」
頭を抱えうな垂れていた陽介は、顔を上げた。
「山本、か・・・」
山本は向かいに座って、心配気に見つめた。
「体調、悪いですか?」
「イヤ・・・。
山本、俺な、明日帰国しようと思う」
「仕事ですか?」
陽介は自嘲的に笑った。
「仕事――と言いたいが、プライベートで気になることがあってね。
フフ、課長失格だな」
「イイエ――」
山本は少し微笑んだ。
「――こんなこと言ったら失礼かもしれませんけど・・・
課長も、普通の男なんだって、安心しました――嬉しいです」
山本の目に陽介を尊敬する気持ちは消えてはいなかった。
陽介は気恥ずかしさもあって、笑っていた。
おかげで、緊張した気分が和らぎ、
いい部下を持ったと、心に沁みて感じていた。
>> 181
撮影の休憩に入った時、菅村が美咲を呼びに来て、
ホテルのロビーに連れて行くと、日本へ電話をかけた。
『美咲?!』
「はい。・・・社長?」
『おめでとう!ドラマ決まったわよ!』
「えっ!――」
美咲は呆然と菅村を見ると、満面の笑みで少しなみだ目になっていた。
美咲も胸に込上げてくるものがあった。
このドラマの仕事は、美咲自身が是非やりたいと、
配役のオーディションや面接に、新人や顔の知れた女優に交ざって、
足繁く通ったものだった。
そして、この役を貰えれば、女優としての未来も約束された様なものだった。
『帰ってきたら、忙しくなるから、覚悟しておきなさいよ』
強く言った社長の言葉にも、喜びと安堵の気持ちが汲み取れて、
美咲は言葉にならず頷き、菅村に受話器を返して、
涙が落ちないように頭を振った。
すると、ロビーのソファーに座る陽介の姿を見つけた。
陽介は、昨日の昼食後から、一度も撮影現場へ姿を現していなかった。
ぼんやりと座り、深くため息をついたり、悲愴感を漂わした陽介の姿を、
仕事の充足感に満たされた美咲は、
ロビーの空間以上に距離を感じて見つめた。
>> 180
「アイツは、もう会うなって・・・」
敦史は落ち着いた眼差しで加世子を見つめた。
「・・・結婚するなら、その方がいい」
加世子の心は一気に切なさに包まれた。
きっと表情にも表れたのかもしれない――
敦史はそっと目線を落とした。
「体・・・まだ本調子じゃないだろうから、
無理しないでね」
敦史は最後にまた加世子を見た。
「・・・じゃぁ」
加世子は消え入るように微笑むと、
切なさを湛えたまま、その場を後にした。
雑踏の中を会社へ戻りながら、
敦史の静かな眼差しと言葉を受けるように、
加世子は、静かに
敦史への気持ちを封印しなくてはいけない――
と考えた。
だが、いつまでも残る切なさだけは、
どうしても消すことが出来なかった。
>> 179
その後、暫くしてドアが開き、
加世子はエレベーターを使って、
部屋の前まで行くと、
見計らった様に静かにドアが開いて、敦史が姿を現した。
加世子は波打つ心とは反対に、平静を装った。
「退院したって聞いたから・・・大丈夫?」
「――大丈夫だよ」
敦史は穏やかに答えた。
「仕事は?ちゃんと休めそう?」
「引越し準備があるから、
今月いっぱい、有給消化することにした」
加世子は、敦史の背後の廊下に、
引越し業者のダンボールを見つけた。
「――出ていくの?」
「・・・来月から、働く店が変わるから」
「そう、なんだ・・・」
――美咲とは?と思わず聞きたくなった加世子は、
その気持ちを飲み込み、バッグから名刺入れとペンを取り出した。
「何か困ったことはない?
――あったら、連絡して」
そう言って、名刺の裏に個人の携帯番号を書いて渡した。
受取った敦史は、その名刺からゆっくりと目を上げ、
加世子を見つめた。
>> 178
翌日の午後、加世子は病院に入る前に、
陽介の留守電を再生して聞いた。
『加世子。今から発つよ。
帰り5日後って、長いけど、待っててな。
じゃ、行ってきます』
加世子は目を閉じ、心に沁み込ませるように
目を閉じて聞いた。
昨日から敦史のことが頭から離れなかった。
だが、自分はしっかり自覚しなければいけない――
陽介の存在を・・・。
目を開けた加世子は、
少し意気込む感じで、敦史の病室へと向かった。
病室のドアを開けると、中に敦史の姿は無く、
看護士が、新しいシーツを敷いていた。
「薄井さんなら午前中に退院されましたよ」
加世子は呆然とため息をついた。
その後、出先での仕事を予定より早く済ませた加世子は、
地下鉄のホームで考えながら、会社とは別方向の電車に乗った。
そして、記憶に残る駅で降り、タクシーに乗って行き先を告げた。
10分ほどで着いたマンションの入口で部屋番号とインターフォンを押した。
「はい」
「――加世」
「・・・・・」
>> 177
立ち止まった美咲に合わせて、陽介も立ち止まった。
「敦史が入院したの」
「――なんで?」
「急性アルコール中毒・・・
無理にたくさんお酒を飲んで、家で意識を失くしてたの。
――その日、加世に会ったんだと思う」
「――」
「ここに発つ日の朝、
その事を、加世に知らせたの」
陽介の顔からは笑顔が消えていた。
美咲はサングラスの奥の瞳を探るように、
真っすぐ見つめていた。
「――そうか」
陽介は少し俯いてから、
口元に笑みを浮かべ、背後のレストランを指差すと、
背を向けて歩き出した。
美咲は暫くその場に立ち止まったまま、後姿を見送り、
陽介の姿が店の中へ消えると、ゆっくりと歩き出した。
>> 176
美しい海に囲まれた南の島で、美咲のCM撮影は順調に進んだ。
休憩の合間には、陽介につい目が行ってしまうが、
こちらに来てからの陽介は、常に陽気で、笑顔が絶えなかった。
お昼時間になり、予約指定されたレストランへ向かう途中、
美咲は一人で歩く、陽介と肩を並べた。
「おう、お疲れ」
そう言って、サングラス姿の陽介は優しく微笑んだ。
「おつかれさま」
「美咲、すっかり女優の顔だね。
今回もいいCMが出来そうで、感謝するよ」
美咲は陽介の笑顔を横目に、
抱えた秘密を思い出し、苦しくなった。
「・・・陽ちゃん、何だか楽しそう」
「そっかぁ?」
「うん。何かいいことでもあったの?」
「フフ・・・」
陽介は少し照れながら微笑んだ。
「どうせ知るだろうから、話すけど――
加世子にOKしてもらったんだ」
「・・・・」
「プロポーズの答えをね」
「!・・・」
驚きと、少なからず襲ってきた寂寥感に、
美咲は固まったまま、幸せそうな陽介を見つめた。
そして、その笑顔に嫉妬した。
「・・・陽ちゃん」
>> 174
「そのままでいい――
出たら忘れていいから・・・」
加世子は敦史に背中を向けたまま、
ドアの前を動かなかった。
「加世のことを、忘れた日はなかったよ」
「!――」
「・・・でも、あんな風に傷つけて、
加世を想うだけでも、罪悪感が浮かんだ・・・。
加世に会うのも怖かった・・・。
でも、1年前に実家に帰った日、
ストラップを渡された時に、
もしかしたら加世もまだ、俺のことを・・・って――
一瞬夢見たんだ・・・」
「――」
「自分のした事や、過去や、今の現実を考えたら、
ありえないことだって・・・。
加世に俺は相応しくないんだって――
最後には、そこに行き着くのに・・・」
「・・・・」
「酒が、抜けきれてない男のたわ言だって・・・忘れて」
力ない最後の言葉に、
加世子は込上げる涙と感情を抑えるので精一杯だった。
「――陽介さんに、昨日、プロポーズの返事をしたの・・・」
ベッドの上の敦史は、加世子の背中を強く見つめた。
>> 173
花瓶に水を注ぎ入れながら、加世子は
敦史が大事に至らなくて、本当に良かったと、安堵していた。
だが、心は波打ったまま、決して冷静では居られなかった。
「午前の面会終了ですので」
通り過ぎた看護士に声を掛けられ、
「はい」と、答えた加世子は、小さく何度も深呼吸をしながら
病室へと戻っていった。
中へ入ると、さっきとは違い、
落ち着いた表情の敦史がいた。
加世子は淡々と、花瓶をサイドテーブルに置きながら、
口を開いた。
「面会時間終了で、もう行くけど・・・
何か必要なものはある?」
「・・・いや」
「今日は、これから仕事で、もう来れないけど、
明日、また来るね」
「・・・・」
加世子は、ソファに置いたバッグを持った。
「じゃあ」
最後に敦史の顔を見た。
敦史は切ない表情で真っすぐに見つめ返し、
その眼差しに、加世子は胸が締め付けられ、
足早に入口へと向かった。
「――苦しかったんだ・・・ずっと」
その言葉に、加世子はドアの前で立ち止まった。
>> 172
色々と買い揃え、最後に病室に飾る花を購入した加世子は、
午前の面会時間ギリギリに病院へ戻ってきた。
また、病室の前で深呼吸をし、ドアをノックした。
「――はい」
小さく答えたその声に、ドキンと胸が鳴り、
再度、小さく深呼吸をして、加世子はドアを開けた。
ベッドの上の敦史は、驚いた顔で加世子を見た。
その時、面会時間終了を知らせるアナウンスが流れた。
加世子は救われた気持ちで、ベッドの横に立った。
「下着とTシャツ・・・それと、洗面道具、用意してきたから」
敦史は唖然としたまま、それらを並べる加世子を見ていた。
「・・・なんで?」
「美咲から電話があって・・・」
そう言って、加世子は初めて敦史の顔を見た。
目を合わせているだけで、心が揺さぶられ、
加世子は、目線を外し、花と花瓶を手に持った。
「お花、いけてくるね」
そう言って、病室を出て行った。
>> 171
陽介は空港の搭乗口の前で、携帯で加世子へ発信した。
朝から何度もかけているが、今回もまた、直留守になってしまった。
最後に声が聞きたかったが、仕方がないと、留守電の開始音を待った。
「加世子。今から発つよ。
帰り5日後って、長いけど、待っててな。
じゃ、行ってきます」
陽介は電話を切ると、そのまま電源を落とした。
フイに顔を上げると、サングラス姿の美咲がこちらを見て、
やってくるところだった。
「今日からよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「――元気ないんじゃない?」
「ちょっと寝不足で・・・」
「仕事、忙しそうだもんな。あまり、無理するなよ」
そう言うと、後からやってきた菅村に頭を下げ、
先に搭乗口へ入っていった。
美咲は複雑な思いを抱えながら、
陽介の後姿を見ていた。
>> 170
加世子は、午前の面会時間すぐに病院へと向かった。
入口で目にしたポスター通りに、
携帯の電源を切って、美咲に教えてもらった病室へと向かった。
廊下で、回診中の医師に会った。
敦史の付き添いだと話し、容態を聞くと、
意識を失くしていた時間が短く、脳にも異常はみられない。
明日には退院できるだろうと言われ、ホッとした。
病室の前に着き、加世子は小さな深呼吸をして、
ノックしてドアを静かに開けた。
敦史はベッドの上で眠っているのか、身動きしなかった。
ゆっくりと近づいていく――
傍らに立つと、敦史の寝息が聞こえた。
その、懐かしい、大好きだった寝顔を見ながら、
加世子の目から涙が流れた。
止めようとするが、感情をコントロール出来ず、
溢れ続ける涙に、声だけは出さないように口を押さえた。
そして耐え切れずに、病室を出た。
涙が落ち着くまでベンチに座っていた。
『こんな風に、敦史の前で泣いてはダメだ――』
加世子は強く心に思い、席を立って、
買い物をしに、外へ出て行った。
>> 169
翌日の早朝。
加世子は頭の上に置いた携帯の着信音で目を覚ました。
「――はい」
『加世?』
起きたばかりの頭は働かず、それが誰か分からなかった。
『美咲だけど』
「美咲?」
『うん。朝早くにゴメンね』
「う、ううん・・・大丈夫」
体を起こした加世子は、壁の時計に目をやった。
6時だった。
『敦史が入院したの』
その言葉に、加世子の頭は一気に冴えた。
「・・・どうして?」
『急性アルコール中毒。昨日家で、お酒にまみれて、倒れてて』
「敦史大丈夫?!」
加世子は強く電話を握り締めていた。
『――大丈夫だよ。
でも、私これから海外で、付き添えないの。
――加世しか、頼る人居ないの』
「――」
『敦史を、お願い』
美咲の少し震えた声に、
加世子は何も言い返せずに、
教えられた病院名をメモした。
>> 167
4.感情
病室の前のベンチに座る菅村の元へ、
帽子を深くかぶり、メガネをかけた美咲は俯き気味に美咲はやってきた。
「急性アルコール中毒ですって。大丈夫よ」
美咲の泣きはらした目から、又涙がこぼれた。
あの後、美咲は救急車を呼び、その後菅村へ泣きながら電話を掛けた。
『玄関の鍵は開けて、アナタは外へ出なさい』
その指示通り、美咲は敦史を残して、部屋を出た。
救急車が来て敦史を運んでいくのを、
マンションの前で、やじ馬に交ざって祈るような気持ちで見送った。
その後、菅村が病院へ駆けつけ、
落ち着いた頃に美咲に連絡が入り、病院へやってきたのだ。
「彼、誰か看てくれる人他に居ないの?」
美咲はただ首を横に振った。
「職場の人とかにお願いするしかないわね。
――とにかく、美咲は残れないんだからね。明日は出発するの」
美咲は頷くように、厳しい菅村の目から目線を外した。
「・・・顔、見てきていい?」
「あまり、長居しないでね」
美咲は、静かに病室のドアを開け、中へ入った。
>> 166
玄関を開けると、中は真っ暗だった。
美咲は中に入り、玄関近くの敦史の部屋をノックしてドアを開けた。
壁のスイッチをつけると、
この間見た時より、ダンボールの箱が増え、
部屋の隅に積み重ねられていた。
まだ残ったままの机の前に立ち、
ポツンと置かれた一枚の名刺を手に持った。
そこに書かれてある出版社名を見て、
美咲の心はざわめいた。
そして、携帯を取り出し、敦史にかけた。
――すると、呼び出し音が家の中から聞こえてきた。
美咲は驚くように振り向き、部屋を出て、
リビングへ続くドアを開けた――
その瞬間、美咲は血の気の引く感覚に襲われた。
混ざりあった酒の匂いが充満していた。
「・・・あつし」
動揺した気持ちのまま、電気をつけた。
「敦史?」
ウイスキーやワインの瓶が床に転がっている中を、
怯えるように美咲は敦史の姿を探した。
そして、愕然と立ち尽くした。
「敦史ー!!」
ソファーの陰に倒れた敦史の顔は青ざめ、
駆けつけた美咲の言葉にも反応しなかった――。
>> 165
その日の日中、美咲は仕事の合間をみて
敦史の携帯に電話をかけたが、
数回コールの後、いつも留守電に繋がってしまった。
「美咲。
明日から海外なの。
帰ってきて、引っ越した後だったら嫌だから
会いたいの。
連絡ちょうだい」
「これからのこともちゃんと話したいし、
連絡待ってるから」
いくつも留守電にメッセージを入れたが、
敦史から着信もメールも無かった。
日が沈んで、仕事を終えた美咲は、空港近くのホテルへ向かうため
菅村と共にタクシーを待っていた。
少し離れて、敦史の職場でもあるレストランに電話をかけた。
『今日、薄井は休みです』
その返事に、電話を切るとすぐ、
又敦史の携帯に電話を掛けたが、やはり留守電に繋がってしまった。
「敦史?今どこ?連絡ちょうだい」
美咲の心は苛つきと不安が入れ混じっていた。
菅村がタクシーに乗り込むと、外で、美咲は立ち止まった。
「家に帰る」
「朝早くに出発なのよ」
「ちゃんと遅れないように行くから」
そう言うと、ドアを閉めて歩き出した。
>> 164
電話を切った加世子は、陽介との会話の余韻で微笑んではいたが、
その心は切なさに覆われていた。
加世子は、ベッド上の棚の引き出しをあけた。
そして、中から、オルゴール、写真集と手紙、ストラップを取り出し、
ベッドの上に並べた。
陽介と結婚することを決めたからには、
持っていることは出来ない・・・。
加世子は小さな段ポールを持ってきて、
その中に一つずつ片付けていった。
最後に老女からの手紙を開いて読んだ。
『このキーホルダーに込める願いがあるなら、それも叶う気がします。
毎日探し続けた貴方の真っすぐな思いさえあれば・・・』
真っすぐな思い――
その時の加世子には、
それがどういうものなのか分からなかった。
>> 163
その言葉を耳にした瞬間、陽介の顔は
パッと生気を帯びた。
「加世子、マジで!?」
『はい』
みるみる内に、陽介の顔はほころんでいった。
「あー!側で聞きたかったよぉ。
なのに、今空港近くのホテルで接待受けててさぁ。
帰ったらすぐ、式場見に行こうな!
その前に、両家に挨拶か!」
『フフフ』
陽介の興奮した様子が可笑しいようで加世子は笑っていた。
陽介は込上げる喜びを制して、電話口に加世子を強く思った。
「受けてくれて嬉しいよ」
『・・・はい』
「今すぐ会って、抱きしめたい」
『・・・・』
陽介は固まっている加世子を想像して、少し笑った。
「タイムリミットを昨日までにすりゃ良かったよ」
『フフ』
その時、山本が陽介の方へ近づいてきた。
接待の場をそう長くも離れてはいられない。
「帰ったら加世子のマンション行くな」
『待ってます』
その言葉を聞いた陽介は、電話を切って、
弾むような気持ちで部屋へと戻っていった。
>> 161
日が落ちた公園の噴水前のベンチに、
敦史は前かがみに座ったまま、加世子が去って行った道をずっと見ていた。
会社帰りの大人たちが、行き来しだした中、
一人のサラリーマンが携帯ラジオを調整しながら、
敦史の斜め背後に腰掛けた。
『――次のナンバーは、風さんリクエストで《TSUNAMI》』
耳に入ってきたその曲に、敦史は鼻で笑って俯いた。
そして、小刻みに何度も頷くようにして顔を上げると、
その目は涙で濡れていた。
敦史は振り切るように立ち上がり、噴水の周囲の水辺に両腕を入れ、
バシャバシャと叩き切るようにし、自分にも掛けた。
周囲の人が、奇妙な目を向ける中、びしょ濡れになったまま、
言い知れぬ気持ちを抱え、
ふらつくようにその場を去っていった。
その晩陽介は、空港近くのホテルで接待を受けていた。
途中、席を立ち、部屋の外に出た。
離れたところで携帯を開きみると、留守電が1件入っていた。
『陽介?元気?
随分顔を見せないけど、彼女と順調なのかしら?
――お店で待ってるわね』
百合絵からだった。
百合絵に電話を掛けようとした時、携帯が鳴った。
>> 160
敦史は叩かれたまま、顔を横にそむけていた。
加世子の目から、涙がこぼれた落ちた。
「わざと言ったの、分かってる」
「フフ、嘘じゃないって。いくらだって、抱いてやるよ」
敦史は横を向いたまま、笑って言った。
「じゃあ、敦史の言葉を信じるから――」
敦史はゆっくり振り向き、加世子を見た。
「――陽介さんと、結婚していいのね?」
本当に小さな賭けだった――
敦史の瞳を見つめながら、答えを待った。
敦史は冷静な表情で、加世子を見つめ、口を開いた。
「・・・俺には関係ねぇよ」
加世子はゆっくりと視線を落とし、
そして、区切りをつけるように頷いた。
「分かった」
顔を上げたとき、又涙がこぼれたが、
すぐに手で拭って、微笑んで敦史を見た。
「――元気で」
沢山言いたい事があったのに、その言葉しか出てこなかった。
敦史は加世子がときめく程の表情で、見つめ返してきた。
「じゃあね」
加世子は、敦史に背を向けて歩きだした。
決して振り返らずに――
あふれ出す涙を見られないように・・・。
>> 159
噴水の周りを伝うように、敦史の隣へ行った瞬間、
敦史は加世子の方を見て、加世子は立ち止まった。
眩しい太陽の日差しが、噴水の水しぶきを輝かせ、
敦史の澄んだ瞳にキラキラと反射し、吸い込まれる様に加世子は見つめた。
敦史は、そんな加世子を無表情のまま見つめ返した。
「まだ、俺に気があるんだ?」
「!――」
「昨日、アイツが『もう会わないように』って、情けなく言いにきたよ」
敦史はそう言うと、思い出し笑いをするように、口元を緩めた。
加世子は立ち尽くして、敦史を見つめた。
敦史は、少し笑ったまま、加世子を見た。
「いつまでも、ガキな考えのままなんだな」
加世子は顔が熱くなるのを感じたが、
敦史から目を逸らさなかった。
敦史も口元を緩めたまま、加世子をみつめていた。
「フフ、俺の体が忘れられないとか?」
「!」
敦史は一歩踏み出して、加世子の耳元に顔を近づけた。
「やってやろうか?」
加世子は咄嗟的に、敦史の頬を平手で叩いた。
>> 158
電話を置いた加世子は、暫くそのまま動けないでいた。
「真中さん?」
「は、はい」
花に顔を覗き込まれて、やっと我に返った加世子は席に戻った。
だが、午前中の仕事は上の空だった。
今日、陽介に返事をしようと考えていた。
それもあって、ここ数日、敦史を思い出すことが多く、
会って話したいとさえ思っていた。
その思いが通じた様に、電話が掛かってきて、
加世子の胸は否応なしに高まっていた。
待ち合わせは、加世子の会社近くの石畳の公園にした。
敦史は場所が分かるだろうか?
昼休みになり、加世子は少し心配しながら、足早に会社を出た。
噴水前――と伝えた。
加世子が、公園の中央にある噴水を見つめながら歩いていくと、
遮られた水の先に、私服姿の敦史を見つけた。
加世子は胸の鼓動を抑えるように、
何度も小さく深呼吸をしながら近づいていった。
>> 157
翌日、敦史は仕事を休んだ。
昨日、オーナーに休みたいと話したら、
「お前の有給たまりまくり。消化するにも日が足りないよ」
と、笑って了承してくれた。
9月のオープン前に、8月には新店の準備に入り、
この店には、出向する形で通うことになっていた。
7月も残り1週間――
だからと言って、有給を消化しようとは考えていなかった。
だけど、今日一日だけ・・・
敦史は、自分の部屋の引き出しを開け、一枚の名刺を出した。
そして、その番号に携帯から発信した。
出版社名、部課名、土田の名前――
表紙を見つめている内に電話が繋がった。
「真中加世子さん、お願いします。薄井といいます」
『お待ちください』
その合間、少なからず、敦史は緊張した。
『――お電話かわりました。真中です』
「もしもし」
『・・・敦史?』
すぐに名前を言い当てられ、敦史の胸にくるものがあった。
「今日、時間作れない?」
『えっ・・・』
「会いたいんだけど」
敦史は表情も声も平静を保ったまま、
昼休みに加世子と会う約束をして電話を切った。
>> 156
呆然と動きを止めた敦史の手元から、
タバコの灰が下に落ちた。
陽介は思い返して自嘲的に笑った。
「俺もとんだ道化だよな。
強引に抱いて、自分のモノにすりゃいいのに」
敦史は、鋭い眼差しで陽介を睨んだ。
「キサマ、加世のこと本気じゃ――」
「本気だよ。
だから、お前みたいに犯せないんだよ」
顔を上げ、同じように強い眼差しで見つめ返して言った陽介に、
敦史は何も言い返せなかった。
「小さな約束を守るとか、側に居たいから居るとか、
加世子は心の底の気持ちに、いつも素直で真っすぐなんだよ」
「・・・・」
「フッ、どういうつもりで言ったか知らないけど、無責任だよな?
自分は元の彼女の親友と付き合ったり、好き勝手やっててさ。
――どれだけ、自分が加世子に相応しくないか、身に沁みて分かるだろ?」
陽介は目を逸らさずに敦史を見て言った。
敦史はただ黙って、目線を合わせられずにいた。
陽介はゆっくりと席を立ち、敦史に向かい合った。
「話すにしても、会うにしても、あと1回きりだ。
その後は、二度と加世子の前に姿を見せるなよ」
そう静かに言うと、その場を去っていった。
>> 155
「加世子の体の呪縛、解いてくんない?」
「ーー」
「アイツ、
ずっと胸に抱えちゃってんだわ。
『他の男と寝ないで』って言われた言葉」
陽介の頭に、あの晩の事が過ぎった。
加世子を裸にしたあの後、
「陽介さん…ごめんなさい……」
陽介が体を起こして見ると、加世子は泣いていた。
「敦史の言葉が忘れられない……」
そして、
『他の男と寝ないでーー俺ももう寝ないから』と言われた事、
今、何か悪い事をするかの様に胸が締め付けられていると加世子は話した。
「向こうが美咲と寝てないなんて有り得ないよ。分かってる?」
「分かってますーー
でも…私…」
加世子は顔を歪めて泣いた。
「…もう少し、時間を下さい」
「ーー分かったよ」
陽介は体を倒して、加世子に腕枕をして抱き寄せた。
>> 154
客の居ないオープンテラスに通され、
眩しい夏の日差しを避けるように、
陽介はパラソルの下の席に座った。
すると、私服姿の敦史が現れ、
陽介の背後のウッドフェンスに両肘をかけ、
タバコに火をつけた。
「俺にもくれない?」
敦史はチラリと振向き、
タバコとライターを重ねて渡した。
「若いのに、重いの吸ってんだな」
陽介は、ちょっと笑ってタバコを一本抜くと、
火をつけて口に運んだ。
暫くの沈黙があった。
敦史は背中を向けたまま、外を見ながらタバコを吸っていた。
陽介は、タバコの煙をゆっくりと吐きながら、
敦史の背中を見た。
「頼みがあるんだけど」
その言葉に、敦史は体を返して、
陽介と目を合わせた。
>> 153
家と店の住所、会えるであろう時間帯を
美咲が書いたメモを財布に入れたまま、
陽介は、なかなか行動にうつせないでいた。
一つは仕事が忙しかったのもある。
ただ、もう一つ、加世子からの返事を待っていたからだった。
あの日から8日経つというのに、加世子からの連絡はなかった。
海外に発つ2日前になり、陽介は意を決するように
午後の2時過ぎに、敦史の働くレストランを訪れた。
ランチ時間帯は終了したと伝えにきた、スタッフの女の子に
「薄井敦史さんに会いにきました」
と告げた。
その子は、陽介から受取った名刺を持ちながら、
奥へと消えていった。
そして暫く後に、コック姿の敦史が顔を出し、
陽介の顔を見ると、ジッと凝視したまま、
エプロンをゆっくりと外した。
>> 152
仕事の量が増えていく美咲は、ホテルに寝泊りすることも多く、
敦史と会えない日が続いていた。
数日後には海外へCM撮影に向かう7月のある日、
仕事の合間を見て、美咲は荷造りの為にマンションへ戻った。
仕事に行った敦史の姿はなかった。
敦史の部屋を覗くと、いくつものダンボールが重ねられ、
引越しの荷造りを進めているのが分かった。
結局、出て行ってしまうのか・・・。
美咲は敦史に別れないと言ったものの、
引越すことを、強くは引き止めなかった。
それは、仕事が忙しくなるにつれ、
周囲の目が否応なしに自分を認識し、
プライベートな部分が無くなっていることと、
外に出た途端、知らない視線、カメラ目線に晒されるのだと、
事務所の社長や菅村からも注意されていたからだった。
陽介は敦史に会いに行ったのだろうか・・・。
少し、気にはなったが、
それはそれで、敦史が加世子を忘れざる終えない結末になるだろう。
美咲は、冷静なまでに、静観しようと心に決め、
荷造りの為に、奥の部屋へ向かった。
>> 151
陽介は、自販機前のスペースに美咲を連れて行った。
「冷たいの?」
「うん」
陽介は、その返事を聞いて、
冷たいミルクティーのボタンを押した。
「覚えてるんだ」
微笑んで、カップを渡してきた陽介に
美咲は自分の嗜好を覚えていてくれたことも合わせて、
少しだけ胸を熱くした。
「陽ちゃん、撮影に同行するんだね」
「今回はね」
「ふーん・・・」
美咲は少し口を緩ませ、
冷たいミルクティを飲んだ。
「なぁ、美咲」
「ん?」
「彼氏に会いたいんだけど」
美咲は動きを止めて陽介を見た。
「――会いたい理由は何?加世のこと?」
陽介は頷く代わりに、ぼんやりと美咲を見つめた。
自分の知っている陽介はいつも自信に満ち溢れ、
余裕を感じさせた。
なのに、たかが小娘の加世一人のことに、
こんなに憔悴した顔を見せるなんて・・・。
その力のない姿に、美咲の中の陽介への思いが、
引き潮のようにサーと消えていくようだった。
>> 150
数日後、CMの最終打ち合わせの為に、
美咲は菅沼と一緒にJNK本社を訪れた。
会議室には、広告代理店の内田がスタッフと共に来ていて、
そこに、いつもはJNKの部長が現れるのだが、
今回は陽介が部下と一緒に現れた。
内田の進行で話しが進む中、
美咲は、あの夜4人で会った日以来の再会となる陽介を
何度も確認していた。
「――それで、今回の撮影には、JNKから鳴海さんと山本さんが
同行して下さいます」
その言葉の後、美咲は顔を上げて陽介を見ると、
陽介も美咲を見て、小さく頭を下げた。
打ち合わせが終わり、美咲は菅沼と共に会議室を出た。
「種元さん」
1階ロビーで美咲が振り向くと、陽介が後を追ってきた。
「少し、お話し宜しいでしょうか」
陽介は、菅沼に向かって頭を下げて言った。
>> 149
苛立ちと、苦々しさと、言い知れぬ気持ちに包まれながら、
陽介は、自分のマンションへと歩いて帰った。
ずっと側に居てやったのに、
加世子は、簡単にあの男を思い出す。
近くに居れば居るほど、それを感じずにはいられなかった。
勝手にやってろ!
――そう、切り捨てるように一人ごちた後、
反動で襲ってくる苛立ちや切なさに、
加世子を欲している自分を見て更にげんなりした。
「はぁ・・・なにやってんだ、俺は・・・」
ソファーに座った陽介は、頭を抱えるようにして、うなだれた。
気分を変えたくて、部屋のTVをつけたら、
化粧品のCMに出ている美咲が画面に映った。
陽介は、壁のカレンダーを見て、
考えるように、画面の美咲に目をやった。
>> 148
映画の後半、主人公と女性の濃密なベッドシーンが映し出された。
その時陽介は、加世子の肩に腕を回し、
抱き寄せてキスをした。
唇を離した陽介は、加世子の頬に手を当てていた。
「泣いてるんだ・・・なんで?」
と冷静な表情で聞く陽介に、
加世子は答えることができなかった。
映画を見始めてからずっと、
敦史の存在に支配された加世子の目から、
新しい涙が溢れ出た。
「――帰るわ」
「・・・・・」
「このまま居たら、強引に押し倒しそうだから」
陽介は小さく笑むと、ソファーから立ち上がって、玄関へと向かった。
加世子は、涙を拭って、陽介の後を追った。
「来週末から、CM撮影に同行する関係で、5日間日本を離れるよ。
――美咲も一緒にね」
靴を履いて振り向いた陽介は加世子を見た。
「待つ、って言ったけど、それまでに答えがほしい」
「・・・・」
「じゃあ、おやすみ」
陽介はそのまま玄関を出て行った。
穏やかな口調だったが、最後まで、厳しい眼差しを向けられ、
加世子は、ただ、その場に立ち尽くしていた。
>> 147
「大丈夫。今日は泊まっていくから」
その言葉にドキッとして、
加世子は頷く様にして下を向いた。
加世子が食べ終えた食器を下げている間、
陽介は、TVの前にソファーを配置し、テーブルにオードブルの残りと
シャンパングラスを2つ置き、DVDをセットしていた。
「何を借りてきたんですか?」
加世子はキッチンから覗きながら聞いた。
「夕飯前に見ても良かったかも。
これ見ると、美味しいパスタが必ず食いたくなるの」
陽介は首を後ろに傾げて話し、
「へぇ」
加世子は微笑んで、部屋の電気を消し、
ソファーの陽介の隣に座った。
「古い洋画だけど・・・加世子知ってるかな?」
陽介はDVDの再生ボタンを押した。
TV画面に映し出される映像――
最初の数分で、加世子はこの映画のタイトルもストーリーも
全てを把握した。
その映画の中に何度も現れる、海のシーン。
『この映画、古いけど、凄く好きなんだ』
そう聞いてから、何度も観た映画だった。
加世子の心は、たった一人への思いに支配されていった。
>> 146
加世子が買い物から帰ると、部屋に陽介の姿は無かった。
不思議に思い、加世子は携帯から陽介に電話をかけた。
すると、陽介が明るい声で出た。
『今、DVD借りに来てたんだ、
飯食ったら一緒に見ようと思ってさ。今から帰るよ』
「はい」
加世子は買ってきたニンニクと、生野菜をキッチンに並べ、
エプロンを身につけて、サラダを作り始めた。
そうしている内に、インターフォンが鳴り、
DVDの袋を持った陽介が笑顔で戻ってきた。
「何か作ってた?」
「サラダを」
「いいね」
そう言って陽介もキッチンへ入り、
2人は並んで、会話を交わしながら料理を作った。
その後、陽介が作ったパスタとチーズを使ったオードブル、
加世子が作ったサラダをテーブルに並べ、
陽介は持ってきた白ワインとシャンパンの封をあけて、
2人で食事をした。
加世子は明日も仕事だったので、控えめに飲むつもりだったが、
その日の陽介は、いつも以上に加世子に酒をすすめ、
自分も結構な量を飲んでいた。
「陽介さん、飲みすぎに気をつけないと」
加世子は、陽介が入院して以来、
体を心配する癖がついてしまっていた。
>> 145
陽介は、加世子の部屋を見渡した。
女の部屋にしては色調も家具もシンプルで、
男の自分でも、居心地良く居られた。
部屋の中をゆっくりと歩きながら、
自分一人では入ったことのない隣の寝室へと入った。
本棚に並んだ小説を何気なく手にした時、
―ポロン―
その背後からの物音に、陽介は、小説を戻してベッドの前に立った。
辺りを見回し、ベッド上の棚に目を止めると、
大きな引き出しを開けてみた。
これか・・・。
陽介はオルゴールを手にし、ネジを巻いてみた。
流れるTSUNAMIのメロディーに、昔の・・・と思った瞬間、
一つの疑念が胸におこった。
陽介は、オルゴールが入っていた引き出しの中に目を移した。
映画のモチーフとなった海の写真集――陽介はこの映画を知っていた。
手に取ると、深海の写真のページに手紙が挟まっていた。
陽介は「かよこ様」と表書きを見つめた。
小さな迷いが生じる中、
引き出しに残ったストラップを見つけ、
疑念が確信に変わった陽介は、
苛立ち始めた心のままに、手紙の中を開けて読んだ。
>> 144
陽介は、加世子へプロポーズをした日以降、
宣言した通りに、仕事以外のプライベートな時間は、
加世子に会うのを優先した。
2人はお互いの家を行き来し、
休日には陽介の車で色んな場所へと出かけ、
鎌倉の陽介の実家へも何度か足を運んでいた。
はたから見れば、付き合いの順調な2人だが、
2ヶ月近く経った今も、
加世子は、陽介に返事をしていなかった。
休日のその日も、日中から陽介は加世子の部屋へ来て、
料理を作ると言って、キッチンに立って、材料を並べていた。
「アレ?加世子、ニンニク無い?」
「あっ、忘れました」
「そうかぁ・・・メニュー変更するかな」
「私、買ってきます」
加世子は、腰に巻いたエプロンを外した。
「俺も行くよ」
「すぐですもん、陽介さんは、TVでも見て待っていて下さい。
他に何か足りないものはありますか?」
「イヤ、大丈夫そう」
「はい。じゃあ、行ってきます」
「気をつけてな」
加世子は微笑んで、家を出て行った。
陽介も微笑んで見送ると、リビングへと向かった。
>> 143
敦史は強い眼差しのまま、美咲を抱き寄せた。
でも、その時言葉が出てこなかった。
美咲の涙は止まらなかった。
「私は、別れるなんて絶対に嫌だから」
「・・・・」
「絶対に認めないから」
美咲はそう言い切ると、敦史の胸を押し離し、
涙を隠すように、部屋を出て行った。
残された敦史は自分に苛立つ様に顔を歪め、
ベッドから降りて、美咲の後を追った。
洗面所に入ろうとしている美咲の腕を掴むと、
キツク抱きしめ、顔を埋めた。
「美咲を、大切に思ってるよ」
美咲は体をひくつかせて泣いていた。
「今まで言葉にしなくて――ごめん」
美咲は声を出して泣き続け、
敦史は包み込むように抱きしめた。
>> 142
「――まさか、そのまま別れようって言うんじゃ・・・」
「・・・・・」
美咲は、体を離して敦史の顔を凝視した。
敦史も、目を逸らさないでいた。
「お互い、その方がいいと思う」
「何がいいのよっ?!」
声を荒げた美咲の目に涙が浮かんだ。
「美咲も自分で分かってるだろ?
仕事が充実して楽しくなってきたって。
俺も、新しい場所で仕事に打ち込みたい」
「そんな事言って、加世のところに行きたいだけでしょ?!」
敦史は美咲をキツク見つめた。
美咲は涙をこぼしながら、同じように見つめ返した。
敦史は、考えるように下を向いた。
「――もしかしたら、少しは影響してるかもしれない。
仕事に集中したいっていう気持ちに・・・。
でも、もう関わりないことは分かってるだろ?」
「気持ちの問題だよ!」
「――」
「4年間、私と一緒に居て、
加世以上に好きになってくれた事ある?」
「――」
「心から・・・好きになってくれたことある?」
美咲の顔は涙で崩れた。
>> 140
ベッドの上に置かれた美咲は、敦史の目を見上げた。
「Hしちゃう?」
敦史は優しく微笑んだ。
「疲れてるんだろ?寝ろよ」
「敦史を感じてからじゃなきゃ、眠れないもん」
少しすねた様に言った美咲に、
敦史は微笑んだまま、ベッドに横たわった。
「じゃあ、子守唄歌ってやる。――おいで」
そう、手を差し伸べられ、美咲の胸がキュンとなった。
そして、その腕の中へ滑り込む様に体を移動した。
敦史は、美咲の髪を撫でながら、
好きな曲を小さく口ずさみ始めた。
「今日は優しいんだね」
敦史の歌も撫でる手も続いた。
「今まで、何度もこうやって一緒に眠ってくれたよね」
美咲は満たされる表情で、ソッと目を閉じた。
「眠っちゃいそう・・・」
「美咲」
「うん?」
>> 139
数日後。その日、美咲は一つの仕事を終え、
その楽しかった仕事の余韻を引きずりながら、
夜の11時前にマンションに帰ってきた。
敦史の部屋のドアを開けると、
椅子に座って雑誌を見ていた敦史の背中に抱きついた。
「敦史ー!ワーイ、起きてる時に会えたぁ!」
「ご機嫌だね」
敦史も微笑んで、美咲を見た。
「仕事が一つ片付いてね。大変だったけど、最後には満足できたんだぁ。
それに、敦史に会えて嬉しいんだもん!」
「フフ」
「ベッドに連れて行ってちょうだい」
美咲が敦史の顔を覗き込んで言うと、
敦史は立って、美咲を軽々と抱き上げ部屋を出た。
「また軽くなった?」
「スタイル良くなった?って言って」
無邪気に会話をしながら、
敦史は美咲をベッドルームへ運んでいった。
>> 138
JNKのCMが全国で流れるやいなや、
美咲の事務所には問い合わせが殺到し、仕事の量も一気に増えた。
毎日、家事に専念していた日々とは一変し、
睡眠時間が削られる、不規則な生活の中でも、
美咲は様々な仕事が楽しく感じられ、充足感を味わっていた。
仕事で家を空けることが多くなり、
帰れた時間に敦史は寝ていることが多く、
起きた時には既に外出していて、2人はすれ違いの生活を続けていた。
その朝も、敦史が仕事に向かうとき、美咲はベッドの上で熟睡していた。
敦史は、静かに玄関の鍵を閉め、エレベーターに向かうと、
美咲の専属マネージャーとなった菅村と対面した。
「おはようございます」
何度か面識のあった敦史は、小さく頭を下げ、
エレベーター前へ向かった。
「あの、少しお話し出来ませんか?」
菅村の言葉に敦史は振り向き、
やってきたエレベーターをやり過ごした。
>> 137
「ところで、本題。
――ニコロ・セッラって名前知ってるだろ?」
「はい」
イタリアでも名の知れた料理人の名前だった。
「ニコロは、イタリア修行時代の仲間で、今では家族ぐるみの付き合いなんだけどね。
今秋出来るベイサイドプレイスに目玉出店することになったんだよ。
――薄井、そこで働いてみない?」
「え?」
「ニコロからも、人材を探して欲しいって頼まれててね。
お前には機を見て、イタリア修行を薦めたかったし、
向こうから大物がくるなら、日本で修行するのもいいじゃない。
俺の店としては痛手で、少しの間貸してあげますぅって感じなんだけど」
敦史は黙って話を聞きながら、心の中で気持ちが固まっていった。
「オッ!同級生」
滝田の声に、斜め上に置かれたTVに目を向けると、
美咲――JNK旅行のCMが映っていた。
美しい都市を背景に美咲が振り向く――
『いっしょに行こうよ、JNKで」
風に髪が揺れ、太陽の光に照らされ微笑む美咲は、とても美しかった。
「かっわいいなぁー!絶対紹介しろよー!
ってか、もう有名になり過ぎかぁ」
滝田の言葉に、敦史は黙って焼き鳥を口に運んだ。
>> 136
敦史は、仕事に没頭していた。
朝一番に来て、店の掃除から始め、
夜も自ら掃除をして、一番遅くに帰った。
自分より下の者の仕事も、教えるという名目で、
手取り足取り、一緒になってやっていた。
あの日、加世子らと会った後から、
敦史は自ら、余計な事を考える時間を極力少なくしていたのだ。
そんなある日、滝田から敦史一人が飲みに誘われた。
滝田が連れて行ってくれたのは、昔ながらの焼き鳥屋だった。
カウンター席に並んで座ると、滝田は熱燗と焼き鳥をオススメで頼んだ。
「最近どうよ?」
滝田は敦史の徳利に酒を注ぎながら聞いた。
「何も・・・」
敦史は代わりに滝田の徳利に酒を注いだ。
「最近のお前は、鍛錬って言えば聞こえはいいけど、
なんだか殺気立ってるな」
「・・・・」
「22?だっけ・・・。俺はそん時遊びまくってたなぁ・・・」
敦史は黙って日本酒を口に運んだ。
>> 134
翌朝、ベッドの上で陽介が目覚めた時、
隣に加世子の姿は無く、
縁に、バスローブがキレイに畳まれて置いてあった。
陽介は、服を身に着け、
コーヒーの香りに誘われるようにキッチンへ向かうと、
ダイニングテーブルの上にはハムエッグの朝食が用意されていた。
カウンター越しに背中を向け、コーヒーを入れている
私服姿の加世子が見え、陽介は近づいていった。
「目覚めて、コーヒーの香りに包まれるのっていいね」
チラリと振り向いた加世子の背後に、
寄り添うように立って、手に手を添えた。
「昨日は、済みませんでした」
「謝ることないだろ?」
「・・・・・」
陽介は、加世子の肩に顎をのせ、
コーヒーメーカーの中に落ちていくコーヒーを見つめた。
「こういう朝って、クセになるよ」
「――」
「なぁ、――家族になること、考えてみてよ」
加世子が陽介の顔の方を向く。
「結婚をさ」
少し笑って加世子を見た陽介を、
加世子はただ、見つめ返すしかできなかった。
>> 133
陽介を見つめながら、加世子の目からは涙が溢れた。
「苦しい……」
「ーー」
「……どうすれば、楽になれますか?」
陽介は、加世子をギューと抱きしめてから、慰めるように優しくキスをした。
そして、唇を離しただけの距離で見つめた。
「俺が側に居てやるよ。
アイツを思い出せない程にずっとーー」
囁く様に言った陽介を
加世子は真っ直ぐに見つめた。
陽介も加世子から視線をそらさず、
「体も、アイツ一人しか知らないから、忘れられないんだーー」
と、加世子の肩から体の線をなぞり、腰で結ばれた紐を解いた。
「忘れさせてやるよ」
優しい眼差しのまま陽介はまた、加世子の首元に顔を埋めた。
加世子は静かに目を閉じた。
絡み合う二人の足元の下に、真新しいバスローブが落ちた。
>> 132
加世子は今聞いた陽介の話しに、恐れ入る気分で目線を落とした。
そして、写真の聖母を目に入ると、
更に恥ずかしさが増して、陽介に背中を向けた。
「聖母なんて・・・程遠いです」
陽介はフッと笑むと、後ろから腕を回し、
加世子の肩に顔を埋めた。
「知ってるよ。処女じゃないもんな」
そして、そのまま加世子の首筋に舌を這わせた。
「・・・ハッ、ア」
驚きと、ゾクゾクとした感覚に、
加世子の口から思わず声が出た。
「たまらない声だね」
陽介は舌での愛撫を首からうなじへと続けた。
加世子はたまらず、ベットにうつ伏せに倒れた。
陽介は、加世子のバスローブを肌蹴させながら、
加世子の感じる、背中を愛撫し始めた。
「・・・陽介さん、ハァ・・・ダメです」
小刻みに震えながら言った加世子の言葉に、
陽介はその肌から顔を離した。
「嫌なら止めるよ。
俺は無理に襲ったりできないから」
その意味することを十分理解しながら、
加世子は仰向けになり陽介を見つめた。
>> 131
「俺も好きでね。仕事でも何でも、ローマに行ったときは
必ず訪れて、時間のある限り眺めてるよ。
――いつでも観光客で混雑してるんだけどね」
加世子は、その石像の写真を更に見つめた。
若い女性が、負傷した男性を抱いている――
「十字架にかけられたキリストを抱く、
聖母マリアの表情が好きでね。
悲嘆に暮れ、それでもやっぱり母の強さも感じられて、
こうなることも、魂は生きているとも知りながら、
肉体として目の前の存在を失った悲しみも――」
陽介は、加世子の膝の上の写真集に目を向けていた。
「聖母はキリストの母親なのにずっと若いだろ?
たとえ、しわ一杯のおばあちゃんだとしても、
その人を思い浮かべると、この聖母のように見える。
どんなに年を重ねても、心が体を現すような、
そんな女性に、少なくとも俺は憧れを抱くよ」
加世子は陽介の顔を見た。
「嘘じゃなく――いつだったか、
この像を見た時、加世子が思い浮かんだ時があったよ」
陽介は目線を写真集から上げて、
加世子を優しく見つめ返した。
>> 130
「こんな所じゃなく、ベットで寝な」
やってきた陽介は、小さく丸まった加世子を、
そのまま抱きかかえ、奥のベットルームへ運んだ。
そして、ベットの上にソッと置いた。
加世子はゆらりと陽介を見上げた。
「泊まっていきなよ。
服も洗濯して、朝まで乾かしておくから」
「私が――」
体を起こそうとした加世子を、
陽介は優しく笑って制した。
「そんな格好で動かれたら、
たまったもんじゃない」
そう言って、指で加世子の髪にサラリと触れると、
部屋を出て行った。
加世子はベットの上から、ぼんやりと部屋の中を見渡し、
出窓の棚に並べられた、数冊の本に目をとめると、
「イタリア」と書かれた一冊に手を伸ばした。
それは、イタリア各所の美しい写真集だった。
加世子はその一枚一枚をゆっくりと捲り眺めた。
ある寺院の石像が美しく、
加世子が惹かれるように眺めていると、
「それ、加世子も好き?」
と、肩越しに陽介が顔を出して言った。
「はい」
そう答えた加世子の顔を見て、
陽介は微笑むと、ベットの上に腰を下ろした。
>> 129
陽介から渡されたバスローブを身につけ、
加世子はバスルームから出てリビングへ向かった。
「俺も入ってきていい?」
「はい。――長くて済みません」
「いいさ。
紅茶入れておいたから、飲みな」
リビングのテーブルに温かいレモンティーが置かれてあった。
陽介がバスルームへ入った音を聞きながら、
加世子は、ソファーに座って、レモンティーを一口飲んだ。
相変わらず、激しい雨の音がしている。
加世子はソファーの上に膝を抱えて座り、
疲れたように首を背もたれに傾げて、
ぼんやりと窓の外を眺めた。
そうしていると、また、さっきの情景が浮かんだ。
『・・・4年』
『そう。加世と別れてからね』
加世子は膝に頭を埋め、小さく丸まった。
ずっと、
ずっと、
2人は一緒に居たんだ・・・。
4年という月日――
その2人の歴史を想像するほどに、
加世子は自分の敦史への想いがはかなく、
意味のないものに思えた。
>> 128
3.結婚
タクシーを降り、マンションに入る数メートル、
激しい雨のせいで、加世子と陽介は服を濡らした。
「風邪ひくから、風呂入んな」
部屋に入って陽介は、加世子にタオルを渡し、
お風呂のお湯を溜め始めると、
奥の部屋の押入れから、箱を抱えて戻ってきた。
「これ、使っていないバスローブだから、着替えなよ」
その真新しく肌触りの良いバスローブを渡され、
涙の後を残したままの加世子は、小さく笑んだ。
「フフ・・・ホテルみたい」
「あっれぇ?加世子さんも、
ホテルに行ったことがあるんだぁ~?」
冗談交じりの意地悪な口調に、
加世子は困ったように俯いた。
「ゆっくり浸かって、あったまりな」
陽介は優しく言うと、
加世子の頭をポンポンと叩いた。
湯船に浸かりながら、加世子はまた、
自分の元彼と親友が付き合っている現実に
押しつぶされそうになったが、泣きつくしたのか、
涙は出なかった。
だが、ドッと疲れが押し寄せ、
長い時間、湯船に浸かっていた。
>> 127
「別れ」という言葉に、美咲はさっきまでのように、
涙が溢れ、声を出して泣きだした。
「私も別れたの・・・
陽ちゃん・・・結婚するんだって・・・。
結婚しちゃうんだって・・・アア――」
美咲は顔を伏せ、体をひくつかせながら泣いた。
その時、敦史が美咲の頬に手を伸ばし、涙を拭った。
ビクンと反応して、美咲は顔を上げ敦史を見た。
無表情な敦史の目から、一筋の涙が頬を伝っていった。
無言で、表情を無くしたままの敦史が、
苦しみ、悲しんでいると、その時の美咲には痛い程に分かった。
美咲は敦史の頬に手を伸ばし、その涙を拭った。
「私たち、似てるね」
敦史が、美咲のその手を掴むと、どちらからとなく唇を合わせ、
失った大切なものを補い合うように抱き合った――。
美咲は隣で眠る敦史の顔を見つめながら、4年前の出会いを思い出していた。
あの日、お互いのこと、身内とのトラウマことも全て話し、
似すぎた2人は、慰め合う分身のように一緒に暮らしてきた。
だが、敦史と一緒に居た4年間、加世子の影が消えたことはない。
美咲は、敦史が、加世子に惹かれ、愛した気持ちが、悲しい程に理解できたのだ。
>> 126
2人ともビショビショに濡れていた。
敦史は、部屋から乾いたバスタオルを持ってきて、
玄関に立つ美咲に渡した。
「入んなよ」
「濡れちゃうよ」
「いいよ」
美咲は、玄関で靴とストッキングを脱ぎ、
部屋の中へと入った。
「コレに着替えたら。
シャワーも使っていいし」
敦史はTシャツと、スウェットのズボンを渡し、
ユニットバスの扉を開けた。
美咲は、無言で敦史の言葉に従い、シャワーを借りた。
出ると、敦史も着替えていて、
小さなキッチンで、小さな鍋でお湯を沸かしていた。
美咲に気づくと、小さなソファーに目をやり、
美咲はそこに座った。
目の前に温かいココアが置かれた。
美咲は、フフと笑った。
ずっと無言の敦史が、色々と世話をやき、
甘いココアを出してくれたのが、可笑しくて、
嬉しくて――でも、笑ったら涙が出てきた。
「・・・加世、電話でなかったよ」
涙声で明るく言ったけど、敦史は無言のまま、
自分のココアをテーブルに置いて座った。
「加世、元気?」
「――別れたから」
「うそ?・・・」
>> 125
その日、東京は春の嵐にみまわれていた。
まだ日中の空は、青黒い厚い雲で覆われ、
18歳の美咲は、傘もささずに、
大粒の雨の一粒一粒に打たれながら、声を上げ泣きながら歩いていた。
陽介の側に居たくて、東京へやってきた。
お互いの仕事が忙しく、2週間、1ヶ月に1度会えるのでも
嬉しくて、その為に仕事も頑張っていられた。
なのに――
数時間前に、久しぶりに会った陽介から
結婚すると――告げられた。
「子どもができた」の一言に、
陽介を引き止める言葉も出なかった・・・。
びしょ濡れで、思考もおぼつかないままに歩いていたら、
履いたヒールが片方折れて、ふらついた。
このまま、地面に倒れてしまいたいと思った時、
雨を避けるように駆けてきた男に腕を掴まれた。
「大丈夫?」
雨がバシャバシャと激しさを増す中、
美咲はまつ毛から落ちる雨粒に遮られながらも、
その知った顔――
敦史の顔を見あげ、笑った。
笑いながら、また顔を崩して泣きだした。
敦史は美咲の腕を掴んだまま、
何も聞かずに、
近くの自分のアパートへと連れて行った。
>> 124
美咲は、怒りとも悲しみとも言えぬ表情で立っていた。
「そのストラップ、高一のクリスマスプレゼントだよね?
気づくと加世、嬉しそうに、大切そうに、いつも眺めてた。
キーホルダーだって、どうせ加世との思い出の物なんでしょ?」
敦史は黙って、ストラップとキーホルダーを拾った。
「気持ちが無いっていうなら、そんなの隠し持ってないでよ!」
敦史は美咲に近づくと、
傍らにあったゴミ箱に、ストラップとキーホルダーを捨てた。
美咲は泣きそうな表情で敦史を見つめた。
雨風が強く吹きつけ、ベランダの物干しが音を立てていた。
美咲は泣きそうな顔のまま、小さく声を出して笑った。
「――あの日と似てるね」
顔を上げ、美咲を見た敦史も、思い出していた。
美咲の頬を涙が伝い、敦史に凭れるように抱きついた。
「・・・陽ちゃん、結婚するかもしれないって」
「――」
「結婚しちゃうんだよ、加世と」
耳元で囁かれた言葉に、
敦史は俯き、両目をギューと閉じた。
そして、求めるように顔を離した美咲の唇を
奪うように唇を合わせると、
そのまま、なだれ込むようにベットに沈んだ。
>> 123
美咲は、リビングのソファーに座って、
缶ビールをそのまま口につけて飲んでいた。
テーブルには空になった缶が2本転がり、
美咲は、3本目も空にすると、新しい缶に手を伸ばした。
が、その缶をやってきた敦史が取り上げた。
「やめとけ」
「いいじゃない、さっき飲めなかったんだから」
そう言って、違う缶に手を伸ばそうとしたが、
その缶も敦史に取り上げられた。
美咲は、トロンとした眼を上げて敦史を見た。
「久しぶりに、抱いて」
「――気分じゃないよ」
敦史は缶ビールを戻しにキッチンへ消えた。
美咲は敦史を目で追った。
「加世に会ったから?」
「――」
「フフ、まだ、加世のことが好きなんだもんね」
キッチンから出てきた敦史は、
少し怖い位の顔で、美咲を見つめた。
「勝手に言ってろ」
目の前を通り過ぎ、隣の部屋へ向かった敦史と入れ違いに、
美咲は立って、敦史の部屋へ行くと、
あの小箱を持って戻ってきた。
そして、ベットの上に投げつけた。
「根拠もなく言ってるとでも思った?!」
敦史は転がった、キーホルダーとストラップを見つめ、
ゆっくりと美咲の方に顔を向けた。
>> 121
加世子の涙は止まらなかった。
クスン、クスンと声が漏れ、拭う手の平は涙で濡れ続けた。
加世子を見つめていた陽介は静かに席を立ち、
部屋を出て行った。
加世子はテーブルに両肘をつき、
両手で顔を覆うようにして泣き続けた。
頭では理解した――
でも、心がついていかない。
暫くして、陽介が部屋に戻ってきた。
「取材の許可貰ってきたから、帰ろう」
そう言って、加世子に取材日時を記したメモを渡すと、
ソッと加世子の肩を抱き、席から立たせた。
陽介は、店の前でタクシーを停めると、
加世子を支える様にして、後部座席に一緒に乗り込んだ。
加世子は陽介に寄りかかったまま、
止まらない涙を隠せないでいた。
>> 120
服の汚れは全ては落ちず、
加世子は、鏡の前で泣いた顔をティッシュで拭って、トイレを出た。
すると、廊下の壁に寄りかかり、陽介が待っていた。
「大丈夫か?」
加世子はただ黙って頷いた。
「2人共もう帰ったよ。――俺たちはどうする?」
「・・・取材の、申し入れをしなきゃ・・・」
「了解。
じゃあ、まずは戻って落ち着こう」
陽介は優しく笑んで、
加世子の頭をポンポンと叩き、部屋に戻っていった。
「腹減ったー。食おうぜぇー」
向かい合って座る陽介の無邪気な声に、
加世子は思わず微笑んだが、訳もなく涙が頬を伝った。
「その涙は、どっちなの?
美咲の男だって知って悲しいの?
それとも、アイツに会えて嬉しいの?」
陽介は料理に目線を落としたまま、
お皿に取り分けながら聞いた。
「会っちゃうと、ダメですね・・・」
陽介はゆっくりと顔を上げ、加世子を見つめた。
だが、何も言わずに黙っていた。
>> 119
陽介を見つめる美咲の心に、
憎しみに似た感情が浮かんだ。
自分も傷ついた、
アナタに傷つけられた、
――なのに、何で加世?
何で、加世の心配をするの?
加世は何故、陽介にこんなに想われているの?
美咲の憎しみは、陽介ではなく
加世子への嫉妬に変わっていた。
部屋に沈黙が続く中、敦史が入ってきた。
そして、座ることなく荷物を手にした。
「俺、もう帰るから」
「待って、私も行く」
美咲も荷物を手にして、席を立った。
「俺ね――」
座ったまま発した陽介の言葉に、
2人は歩みを止めた。
「この間、加世子にプロポーズした」
「!」
敦史は、部屋を出て行った。
美咲は驚いた表情で陽介を見ながら、
敦史の後を追って、出て行った。
>> 118
陽介は、何度も振り向き、入口の外を気にしていた。
「気が気じゃない?」
美咲に言われ、陽介は含み笑った。
「どこまで本気か分からないけど、
加世をもてあそばないでね」
「美咲が言うんだ?
加世子の前の男と付き合ってて」
「陽ちゃんだって、自分が良かれと思ってやっていても、
それが人を傷つけることもあるって、知った方がいいよ」
「美咲がそうだったってこと?」
美咲は答えられず、ただ陽介を見つめた。
「そうかもしれないな・・・。
でも、加世子のことは、傷つけちゃダメだって思ってるよ」
「・・・・・」
「加世子は可哀想な位、傷ついたんだ――」
その時、陽介の言葉を耳にした敦史が
戸の外で立ち止まった。
陽介は、怒りを含んだ真剣な顔つきで、
4年前のあの日を思い出していた。
「アイツにだけは加世子は渡せない」
>> 117
加世子は知ってしまった現実に押し潰されそうになりながらも、
それとは別に、敦史の姿を見て、胸が締め付けられるようだった。
加世子は、トイレへ向かうためゆっくりと歩き出し、
俯きながら、敦史の前を通り過ぎた。
「――何でアイツなの?」
敦史の言葉に加世子は歩みを止めた。
「アイツだけは止めとけよ」
「どうして?」
加世子は振り向いて敦史を見た。
涙がこみあげてきた。
「どうして、そんな事言うの?」
敦史は答えず、またタバコを口に運んだ。
「敦史は美咲と・・・」
加世子の目から涙がこぼれ落ちた。
「この4年間、敦史の側には美咲が居たんだね」
「・・・・・」
「4年前・・・敦史は私のこと、
すぐに忘れてたんだね」
その時、敦史は強い眼差しで加世子を見つめた。
でも、すぐに目線を外し、タバコを消すと、
その場を離れていった。
加世子は敦史の背中を見送りながら、
涙が溢れ、壁に寄りかかって、
声を押し殺して泣いた――。
>> 116
美咲は、少し切ない表情で陽介を見た。
「子どもは?――前の奥さんが育ててるの?」
「居ないよ」
「え?・・・だって」
「式を挙げる前に、流産でね・・・」
「・・・・・」
美咲は『子どもが出来た』という決定的な一言で、
別れを受け入れるしか無かった過去を思い出していた。
子どもが居ないと知っていたなら、
自分は決して、身を引いたりしなかったのに・・・。
「――それで今は、加世がお気に入りなんだ。
でも、どうして加世?って感じ」
「お互いの辛いときに、側に居合わせてね」
「フフ、私達と一緒じゃん」
「じゃあ、俺も加世子もキューピットって訳か」
美咲が嫌味で言ったのを、陽介は笑んで答えた。
美咲は作り笑いを浮かべながら、新しい飲み物を注文した。
>> 115
加世子の後姿を気にしながら見送った陽介は、
美咲に顔を向けた。
「えげつないな、こんなシチュエーションを作るなんて」
「加世にちゃんと理解して欲しかったの。
今、敦史と付き合ってるのは私なんだって」
陽介は、汚れたオシボリを重ねた。
「なら、2人になるように仕向けるなよ・・・」
「フフ、心配?」
微苦笑した陽介を、美咲は真っすぐに見つめた。
「私も陽ちゃんと2人きりで話したかったんだもん」
トイレに向かう途中、タバコを吸っている敦史を見つけた加世子は
ドキリと足を止めた。
壁に寄りかかり、タバコの煙をフゥーと吐き出した敦史は、
フイに顔を向け、同じように動きを止めた。
2人は重苦しい表情で、
しばらくの間見つめ合っていた。
>> 114
「ねぇ、二人は付き合ってるの?」
美咲が、笑顔で体を乗り出しながら、
加世子と陽介の顔を交互に見て聞いた。
陽介はフッと笑んで、ソーダー水を飲みながら、
加世子の顔を伺うようにして見た。
「さぁ・・・」
加世子は戸惑ったまま、目線を落としていた。
「何よソレ?答えになってないじゃん」
その時、敦史がタバコをクシャっと握りしめ、
そのまま席を立った。
「どこ?」
すかさず美咲が声を掛ける。
「吸ってくる」
敦史は顔を合わせずに答えると、
そのまま部屋を出て行った。
加世子は固まったまま、目だけで敦史の姿を追った。
そんな加世子を見て、陽介は自嘲的に笑み、
更に美咲は、そんな陽介を見て胸の奥で苛ついた。
「そういえば加世――」
美咲が、加世子の方に姿勢を変えたとき、
テーブルのカシスオレンジを倒し、加世子の服にかかった。
「ごめん加世!
あーん、すぐに水で洗った方がいいかもぉ」
美咲がオシボリで拭いたが、落ちなかった。
「ありがと・・・トイレ、行ってくるね」
加世子は席を立ち、部屋を出て行った。
>> 113
重苦しい異様な空気の中、
敦史はぼんやりと席に座り、タバコを吸っていた。
陽介はメニュー表を眺め、
加世子は視線を落とし、突きつけられた現実に
打ちのめされてしまいそうな気持ちで、ただ座っていた。
美咲はそんな3人を眺めて見ていた。
そこに、飲み物が運ばれてきて、
手の空いた定員に陽介が他のメニューを頼んだ。
戸が閉められ、4人だけの空間になった。
「じゃあ、乾杯?」
美咲がグラスを持って言ったが、
誰もグラスを合わせることなく、
敦史にいたっては、ずっとタバコを口に運んでいた。
「なぁ、吸うの止めない?」
陽介の言葉に、加世子も顔を上げた。
「いいじゃない、禁煙じゃないんだから。
私にもちょうだい」
美咲は敦史に向かって手を差し出した。
「個室で、吸わない子が居るんだよ」
陽介の言葉に、敦史はチラリと加世子を一瞥し、
二人は目が合った。
ドキッとする加世子から目線を外し、
敦史はタバコを灰皿に押し付けて消し、
目の前に置かれた、ビールを煽るように口にした。
>> 111
「座ったら?」
美咲は、入口に立ったままの敦史に向かって、
声をかけた。
敦史は、空いた席に移動しながら、加世子の前――
自分の席の隣の陽介を見て、また顔をこわばらせた。
「偶然ね、加世たちに会ったの。
席も満席で帰ろうとしてたところを声かけたんだぁ。
一緒にいいよね?」
誰も、何も返事をしなかった。
中でも、加世子は、まだ呆然としたまま、
席についた敦史に視線を向けたままだった。
美咲の彼が、敦史・・・
一緒に暮らしている・・・
4年・・・
「・・・4年?」
加世子の口から、小さく言葉がもれた。
隣の美咲が、ゆっくりと加世子の方を向き、
「そう。加世と別れてからね」
と、何の感情も込めていない言葉で返した。
大学時代、洋史君が敦史は「女の所にいる」と教えてくれた。
美咲も、電話で新しい彼が出来たと言った。
それはお互いのことをいい・・・
その関係が4年もの間ずっと続いてきたんだ・・・。
>> 110
「着いた?――じゃあ、中入って、真っすぐの右手だから」
美咲は電話を切り、
「来たって」
と言って、戸を開けて顔をだした。
加世子は気にならないかと陽介の顔を見たが、
陽介は、そんな心配した加世子を面白がって見ていた。
美咲が顔を引いて、席に戻りながら、
加世子の顔を見た。
加世子は小さくため息をついて、
諦めたように、やってきた人影に目を向けた――
「!!」
そこに現れた敦史を、
加世子は愕然と見つめた。
敦史もまた、驚いたように立ち止まって
加世子を見つめた。
陽介は異様な加世子の視線の先に振り向き、
敦史を確認すると、真顔の視線を美咲に向けた。
こんな状況を作り出した美咲は一人、
平静な顔をしていた。
>> 109
部屋に入って戸を閉めると、
他のスペースとは遮断される個室のスペースになった。
奥の席に座る美咲の隣に加世子が座り、
加世子の前に陽介が座った。
「いい雰囲気だね」
陽介は、部屋の中を見回しながら、
加世子に手を差し出し、加世子のバックを受け取って空いた席に置いた。
「ありがとうございます」
その自然な二人のやり取りを横目に見ていた美咲は、
苛立ちにも似た感情を覚えたが、
それを表立たせないために、メニュー表に目線を落とした。
加世子は美咲に陽介と一緒に現れた経緯などを話したいと思ったが、
これからやって来るという、今の美咲の彼氏と陽介が対面することが
気がかりでならなかった。
「今から来る彼とは、長いの?」
加世子の気持ちも知らずに、
陽介は他人事のように美咲に聞いた。
「もう4年かな。陽ちゃんと別れた直後に出会ったから」
「へぇ。一緒に住んでるの?」
「うん、そう」
そうか、あのマンションに住んでいるのは、
今の彼なんだ・・・。
加世子はそう思いながらも、何とも落ち着かない気分だった。
その時、美咲の携帯が鳴った――
>> 108
「ごめんね、予約が必要とまでは教えなかったね」
加世子は陽介の顔を見た。
「このお店、美咲の紹介なんだ」
「話してないんだぁ。いい加減ね」
美咲は加世子に向かって、
ちょっと顔をしかめて言った。
「せっかくだし、良かったら合席しない?」
陽介と加世子が顔を見合わせていると、
「私たちの席で一緒します」
と、既に美咲は定員に伝えていた。
「美咲、誰かと一緒じゃないの?」
「うん、彼とね。今向かってるって」
「じゃあ悪いよ」
「平気よ。これも何かの縁でしょ」
加世子は、陽介も居るのに、
今の美咲の彼が合席するなんて――と気が重かった。
「いいんじゃない。一緒しようよ」
陽介はそう言って笑むと、
美咲の後について行った。
>> 107
翌日の晩、加世子は、昨日陽介に渡された店の名刺を辿って、
夜8時にやってきた。
そこは、オシャレな洋風居酒屋で、
モザイクに張られたガラス壁から中を見ると、
開いた席が見当たらない程、賑わっている様子だった。
「お待たせ」
そこへ陽介が駆けるようにやってきた。
「私も今きたところです」
「そう。入ろうか」
加世子は陽介の後について行った。
中へ入ると、区切られた席はどこも
お客で埋まっているようだった。
定員が気付いてやってきた。
「予約のお客様でしょうか?」
「あれ、予約が必要なんだ」
陽介が言うと、定員は申し訳なさそうに頷いた。
「そっかぁ・・・仕方ないね」
陽介が加世子と顔を見合わせた時だった――
「陽ちゃん!」
「美咲・・・」
驚いている加世子の前に、
奥の個室から出てきた美咲がやってきた。
>> 105
暫くして戻ってきた陽介の元へ、
美咲はさりげなく近づいていった。
「電話、加世からだってね?」
「そう。俺、取材する店教えるって言っといて、忘れててさ。
明後日までなんて、もっと早くに催促してくれりゃいいのに・・・」
「お店って?」
「雑誌で特集する店だよ。
そうだ美咲も『個室でくつろげるレストラン』でオススメ無い?」
美咲は、菅村にバックを持ってきてもらい、
財布から、店の名刺をだした。
「ここ、オープンしたてだけど、
すごくオシャレで、美味しくて人気なの」
「へぇ・・・サンキュ。
加世子に渡しておくわ」
「加世子?って・・・呼び捨てにしてるんだ」
陽介は、一瞬真顔で美咲の顔を見て、
すぐに、笑みを浮かべた。
「寂しい一人もんを相手してもらってるんだよ」
その時、スタッフが美咲を呼んだ。
「俺もう行くけど、頑張れな」
去っていく陽介に美咲は思わず声をかけた。
「陽ちゃん!そのお店、今日は休み。
明日なら開いてるから」
「了解。じゃ」
陽介は笑顔で手をかざし去っていった。
>> 104
撮影中、美咲は場所の移動やメイクが入るとき、
つい、陽介を目で追ってしまった。
「はい、じゃ、休憩でーす」
その言葉に、美咲が戻っていくと、
陽介の元にさっきと同じように山本がやってきた。
「課長、携帯に真中さんからです」
「おう」
陽介は、山本から携帯を受け取り、
スタジオを出て行った。
美咲はぼんやりとその背中を見つめ、
「真中――って、真中加世子?」
と、残った山本に聞いた。
「はい。種元さん、ご存知ですか?」
「――同級生です」
「そうですか!真中さんは、課長とも親しくされてるんですよ」
「・・・・・」
山本が言った『親しく』という言葉が引っかかり、
美咲の胸に疑念に似た感情がおこった。
>> 103
数日後、都内のスタジオで、JNKのCM撮影が行われた。
初めての現場で、美咲は緊張した気持ちを抱え、
合間に入る休憩時には、出入口ばかりを見ていた。
そして、その想いが通じたように、
美咲の見つめるドアから、陽介が現れた。
破顔一笑といった美咲より先に、
内田が陽介の元に行き、笑顔で話しながらやってきた。
「お疲れ」
その笑顔に美咲の緊張は解け、
同時に胸が踊った。
「遅い」
「だって、ホラ――並びましたから」
そう言って、陽介は人気のシュークリーム店の箱を見せ、
やってきた代理店のスタッフに渡した。
「内田さん褒めてたぞ、
原石見つけたってさ」
「フフフ」
そこに、山本がお辞儀をしながらやってきた。
「課長、部長からお電話です」
「後でかけなおす」
「はい」
山本はスタジオの隅へ向かった。
美咲は、シュークリームの件も含めて、
陽介の一挙一道にときめいていた。
「種元さん、お願いします」
「はい」
「見てるから、頑張れよ」
美咲は陽介に小さく頷き、
呼ばれた先へと向かった。
>> 102
「いい傾向だね」
陽介もニッコリと笑みを浮かべた。
「じゃーあ、都合のいい男といたしましては、
これからもジャーンジャン、デートにお誘いしますんで」
「フフフ。
――今日みたいな一日は、大歓迎です」
「ほとんど実家だったろー」
陽介は出鼻を挫かれたように苦笑した。
「でも、陽介さんのご家族が本当に素敵で・・・。
私は一人っ子だから、大勢の家族ってこんなに楽しいんだって、
うらやましかったです」
「加世子の気持ち次第で、何の障害もないんだけどな」
「え?」
車は加世子のマンションの前に到着し、
陽介はエンジンを切って、加世子の方を見た。
「俺と結婚したら、家族になれるよ」
「!」
陽介は車を降り、助手席に回ってドアを開けた。
ポカンとして驚いたままの加世子に、手を添えて降ろすと、
陽介は、微笑み、ソッとほっぺにキスをした。
「ま、た、な」
ニヤリと笑んで、加世子の頬をつまむと、
車に戻って、去っていった。
>> 100
加世子は窓の外を見ながら、空にポッカリと浮かぶ満月を見つけた。
月を見上げる度に思ってしまう…
敦史も今、どこかでこの月を見ているかもしれないーーと。
「今、なに考えてるの」
陽介が優しい声で聞いてきた。
「……」
「俺ね、どんな話しでも聞いてやるスタンスに戻るから」
「…きっと、陽介さんには、面白くない話しばかりですよ」
「どんな話しでも聞くよ。いつか言ったろ?
俺は加世子の都合のいい男になるって」
「ーー」
「ここまで加世子の心を捕えて離さない、アイツの話しを聞いてみたい、ってのもあるけどね」
終始、穏やかな口調の陽介に、
月を見上げ敦史と電話で話した思い出を、加世子は話した。
>> 99
その後、規子の手作りの夕飯をご馳走になり、
談笑しながら、楽しい時間を過ごしていたら、
時間は夜の9時を過ぎてしまった。
「泊まっていったら?」
そう言った規子に、
「明日仕事だから」
と、陽介は加世子に帰る仕草をして、席を立ち、
加世子もその後をついて、席を立った。
玄関で家族皆が名残惜しそうに見送ってくれた。
加世子も少し寂しい気持ちになった。
車に乗り、陽介は早々にエンジンをかけ、家を離れた。
「明日仕事って嘘」
「え?」
「早く、加世子と二人きりになりたくて」
加世子は前を見据えて運転する陽介の横顔を見た。
すると、陽介はフイに笑んで、
「帰り、キレイだぞー」
と明るい声で言った。
陽介の言う通り、ベイブリッジを通り、
湾岸線を走る車から見る夜景は、
とてもキレイで、そして、ロマンチックだった。
>> 98
「夕飯、食べていきなさいね」
規子が、陽介に言う。
陽介は壁の時計に目をやった。もう18時を過ぎていた。
陽介は加世子の顔を見た。無言で、気持ちを探るようだった。
そして、暫くの間の後、
「食ってくわ」
と規子に向けて返事をした。
加世子自身、陽介の二人の姪っ子に懐かれ、笑顔で話しを交わし、
久しぶりの家族の雰囲気を、楽しく味わっていたのだ。
「ヤッター!」
姪っ子が跳ねるように喜んだのが可愛くて、
その場の皆が笑った。
姪っ子を見つめる陽介は、叔父というより、
まるで父親の様なあたたかな表情で、
加世子は初めて見る陽介の顔を、安らいだ気持ちで見つめた。
フイに目を上げ、加世子と目が合った陽介は、
途端に男の眼差しに変わり、
そのギャップに、加世子はドキっとして思わず目線を外した。
>> 97
陽介の実家は、広い敷地の日本家屋で、
加世子は暫く唖然と眺めていた。
「先に言っておくけど、うちの親、あの会社の経営しているから。
・・・先々代の力。萎縮するなよ」
陽介は横目で加世子に叱るような目を向けた。
陽介が指差した先には、有名な食品メーカーの工場があった。
加世子は萎縮したまま、陽介の後をついて行った。
「真中さん、どうぞいらっしゃい」
玄関で、陽介の母の規子が笑顔で迎えてくれた。
その穏やかな笑顔に、加世子の緊張も和らぎ、
「お久しぶりです」
と笑顔で挨拶をし、促されるままに中へと入った。
リビングに通され、お茶を運んでくれた規子に、
「よろしければ、召し上がってください」
と、持ってきた最中を渡した。
「あら、どうもありがとう。
気を遣わせてしまって、ごめんなさいね」
規子がキッチンへ戻ると、両親と同居している陽介の実姉の祥子と、
その夫で、婿だという茂、7歳と5歳の二人の娘、そして父、誠司が、
次々と挨拶をにやってきて、
その場はあっという間に賑やかさを増した。
>> 96
陽介は目当ての寺近くの駐車場に車を停め、
加世子と一緒に中を拝観した。
閉園時間30分前で、人もまばらだったが、
咲き始めの紫陽花も美しく、加世子は気持ち良く
眺め歩いた。
「やっぱダメだな。早朝くるべき」
寺を後にした陽介は、残念そうに言った。
加世子は微笑んで、
「凄く良かったですよ。また来たいです」
「フフ。俺としては不完全燃焼だけど、
加世子がそう言うなら、来て良かったよ」
陽介は車を挟んで、加世子を見た。
「うちの実家、ここから車で10分なんだけど、
行ってみる?」
「はい」
二人は車に乗り込み、
陽介は携帯で、実家へ電話を掛けた。
「――俺。今、北鎌倉の駅近くに居てさ。・・・うん。
・・・病院で会った彼女と一緒。・・・はいよ。じゃ、行きますんで」
電話を切った陽介はエンジンをかけた。
「まっ、気楽に」
そう加世子に向かってニッと笑んで、
アクセルを踏んだ。
>> 95
少し走った場所で、陽介は車を停めた。
加世子は老舗の和菓子店で、
最中を買って車に戻ってきた。
「いいのに」
陽介は少し笑って、車を発進させた。
「これ、うちの両親に買って帰ったら気に入って、
頼まれる位の好物なんです。
陽介さんのご両親にも、食べて貰いたいなぁと思って」
「フフ、考え方が素直だね」
「えー?」
「やっぱり加世子はいい子だよ」
「フフフ、陽介さんって先生みたい」
「はぁ?何の先生よ」
「うーん・・・」
「体育教師か家庭教師か、プールの教官以外は却下」
「ハハ、何ですかソレ?
うーん、その中だったら・・・家庭教師、かな」
「いいねぇ」
「フフ、どう、いいんですか?」
「色んなこと教えちゃうの。
モチロン勉強以外」
「アハハ」
車の中では、ずっと笑いと会話が絶えず
鎌倉までの道のりを楽しく過ごした。
>> 94
1時間も経たずに、「着いたよ」と携帯が鳴った。
加世子が下へ降りていくと、
マンションの前に陽介が車を停めて待っていた。
「オス」
「こんにちは」
何だか、さっきの電話の余韻のままに
二人は笑いあって挨拶を交わし、
加世子は陽介に促されるままに助手席に乗った。
「どうしようかなぁ、って思ったんだけどさ、
鎌倉行かない?」
「鎌倉?」
「ちょっと早いけど、紫陽花が咲き始めたし、
今くらいだと、混んでないんだ」
「いいですね」
「じゃあ、決まりね」
陽介は笑んで、車を発信させた。
「ご実家寄りますか?」
「うーん、気分次第」
「じゃあ、ちょっと寄り道してください」
陽介は加世子の言う道を辿った。
>> 92
同じ頃、加世子は自分の部屋で、
手に持った携帯を見つめ考えていた。
土曜日の今日、陽介は仕事だろうか――
出来れば陽介から、お店の情報を早く教えてもらいたい。
でも、昨日の今日では、催促しているようで申し訳ない・・・。
あの晩――、陽介を拒絶するような態度をとってしまった晩以来
会っていなくて、ずっと胸につかえている小骨のようなものを、
取り去るためにも、陽介に会いたい・・・。
そんな気持ちが交錯する中、
加世子は「5回コール!」と決めて、陽介に発信した。
・・・1回・・・2回・・・3回
―カチャ―
加世子はドキッとした。
「もしもし・・・」
『フフ』
電話口から聞こえる笑い声に、
加世子は戸惑い、
「・・・陽介さん、ですか?」
と聞いた。
『だーよ。今、思いが通じたと思ってさ』
「えっ?」
『俺も、連絡しようとしてたとこだった』
「ハハ、そうでしたか」
加世子は思わず微笑んだ。
>> 91
翌日、休みの陽介は午後に目を覚まし、
百合絵の用意した、昼食のサンドイッチを気だるく口に運んだ。
「私、美容院行って、同伴だから、もう行くけど。
ゆっくりしていっていいわよ。アナタの家だったんだし」
「うん」
百合絵が、少し笑ってこちらを見ていた。
陽介は「ん?」とボーとした眼をと少し上げた。
「一緒に生活していた時と変わらないな、って」
「フフ」
「鍵、掛けていってね。じゃあ、またね」
玄関のドアが閉まって、陽介はぼんやりと部屋の中を見渡した。
2年前まで、百合絵と一緒に生活していたマンション。
百合絵一人には広すぎるが、購入したのもあって、百合絵は出たがらなかった。
陽介にとって、今の百合絵との関係は、
言い方は悪いが『性の捌け口』になっていた。
長い付き合いだが、体の相性がよく、百合絵を抱くときは常に欲情した。
自ら誘うことはなくとも、誘われれば断らずに関係を続け、
他に面倒な関係を作らないで済んでいたのだ。
空腹も満たされ、何の束縛もない時間の中で、
今、側に加世子が居たら楽しいだろうと、陽介は思った。
そして、こんな場所で加世子を思っている自分を笑った。
>> 89
夜中、シャワーを浴びた百合絵はバスローブに身を包み、
冷蔵庫からベットボトルのミネラルウォーターを取り出し、
開けて、ゴクゴクと飲むと、それを持って部屋へと戻った。
ベットで裸のままうつ伏せ寝していた陽介は、
百合絵が来ると、顔だけむけて微笑んだ。
「凄かったね。彼女を思って抱いたの?」
そう言って、百合絵はベットに座って飲み欠けのペットボトルを差し出した。
受け取ろうと、体を起こした陽介の首元にペットボトルの縁をつけ、
割れた腹筋の線に沿って下へなぞった。
「陽介の体が好き。顔も、――ココも」
そう言って、毛布のかかった陽介の股間にペットボトルを置いた。
「それじゃ全部だろ?」
陽介は笑って、ペットボトルを取った。
>> 87
呼び出しコールが鳴っている時に、
客を見送って店に帰ってきた百合絵が、
入口を挟んだ所にある灰皿の前にやってきて、タバコを吸い始めた。
だが、陽介も百合絵も意に関せずといった感じだった。
携帯が繋がるとすぐに、陽介が口火を切った。
「俺から連絡しないと、繋がっていられない感じだね」
電話口の向こうで、躊躇った表情の加世子が居るようだった。
『そんなことは・・・。新しい企画のお店探しで忙しくしてたんです。
それに、陽介さんもお仕事が忙しいのかと思ってて・・・』
「そんなこと気にしないで、連絡してこいよ。
こっちは待ってるんだから」
『はい』
「で?新しい企画ってどんなの?」
『《個室でくつろげる和洋中レストラン》です』
「へぇ・・・。何件か思い当たるよ」
『ほんとですか?教えてもらえると助かります』
「じゃあ、会う約束」
『フフ、いつでも』
「フッ、じゃあ、予定確認して後で連絡するよ」
『はい、待ってます』
「じゃ、おやすみ」
『おやすみなさい』
陽介は電話を切った。
>> 86
その瞬間、4年前の、美咲にとっては
苦しみでしかなかった日々の思い出が蘇ったけれど、
美咲はそれを悟られないように、話を変えた。
「――陽ちゃんは、新しい誰か居ないの?」
『ハハ、俺かぁ。
気になってる子位かなぁ・・・。
そういや、これから都内の撮影時にお邪魔すると思うから』
「じゃあ、美味しい差し入れ持ってきてね」
『りょーかい』
「じゃ、その時にね」
『おう、おやすみ』
「おやすみ」
美咲は自ら電話を切った。
切ったまま、暫くその場から動けなかった。
陽介との会話にこんなに心が揺さぶられるなんて・・・。
そして、陽介が口にした、身も知らずの
『気になってる子』に嫉妬していた。
美咲との電話を切った陽介は、
クラブの廊下でタバコを吸いながら、
「加世子」のアドレスを開いて考えるように眺めた。
夜の9時40分――仕事は終わってるだろう。
陽介は思い切ったようにタバコを灰皿に押し付け、
発信ボタンを押した――
>> 85
数回コールで電話は繋がった。
『はい、鳴海です』
その電話の声に、美咲の胸は熱くなった。
「――陽ちゃん?」
『おう、美咲か――今日はお疲れさん』
背後に賑やかな声がして、
職場ではないように思われ、
美咲は気にせず、話しを切り出した。
「CMの仕事、陽ちゃんの紹介なんだね」
『ハハ、美咲の実力だよ。
会社の若手みんな、知ってたし、
部長も好みだって、即決。フフ』
美咲は思い出していた。
陽介と付き合っていた中で、幾度となく感じた、
守られ、満たされる感覚――
そして、追いつきたても追いつけない、一歩先を行く感覚を。
「――陽ちゃん、離婚したんだってね」
『ああ、もう2年も前の話だよ』
「・・・そうなんだ」
『美咲は、俺よりいい男見つけて、
うまくいってんだろ?』
「うん・・・まぁね」
『それ聞いて、安心したよ』
>> 84
内田も帰り、応接室に残った社長は、
向かい合わせに座った美咲に、歓喜の表情を向けた。
「美咲、JNKさんのCMなんて凄いことよ!
こんな事、今までならありえない話!
ほんと、奇跡みたいなんだから」
横に立つ菅村も何度も頷き、
今にも泣きそうな顔をしていた。
自分は雑誌のモデルというだけで、
まだ、CMに起用されたことも無いし、
TVにも、ちょこっと顔がでるかの出演していない。
JNKの様な大手のCMの仕事が決まるなんて、
「奇跡」みたいだという事は、美咲にも十分理解ができた。
そして、その「奇跡」を仕掛けた人物も・・・。
美咲は社長他、オフィスのスタッフの激励から開放されると、
一人、オフィスを出たところで、
陽介の名刺を手に持った。
仕事用だろうが、携帯番号が載っていた――
美咲は、迷うことなくその番号に電話をかけた。
>> 83
驚いている美咲の気持ちを代弁するように、
内田が話し始めた。
「今までJNKさんのCMには、有名なタレントさんを起用してきて、
高く評価もされてきました。
ただ、今回は、旅行都市の知られていない魅力、美しさを引き立てる、
そのシーンに合った、美しくてあまり知られていない人材を――
というJNKさんの意向が強くありましたので、
種元さんに是非ともお願いしたいと思ったんです」
その話を聞いている間、美咲は陽介に何度か目を向けたが、
陽介は余裕のある表情でただ座っていた。
その時、山本の携帯が鳴り、頭を下げ部屋の隅で話すと、
すぐに戻ってきて、陽介に耳打ちをした。
「申し訳ありませんが、私達は会社に戻ります。
CMの件は、内田さんに一任しておりますので、
どうぞ、お話しを続けてください」
そう言うと、陽介は内田と二,三言話し、
美咲らの方に向かって頭を下げ、山本と共に部屋を出て行った。
美咲は後を追いかけたい衝動を抑え、
陽介がオフィスを出て行くまでの些細な物音にも注意を払い、
陽介の気配が無くなったと分かると、ドッと切ない気持ちに包まれ、
内田の話しにもぼんやりと耳を傾けた。
>> 81
仕事の休みが続いていた美咲は、ある日突然事務所に呼び出された。
もしかすると契約解除の話しかもしれないーー、
憂鬱な気持ちを抱えながら、夕方の道を事務所へと向かっていた。
事務所に着くと、美咲の担当マネージャーの菅村が、慌てた様子でやってきた。
「皆さんもうお待ちだから」
と、美咲の腕を持つと、応接室の前へ連れて行き、ドアをノックした。
「種元です。失礼します」
中へ入ると、こちらを向いた社長の前に、
スーツ姿の男性が3人、背中を向けて座っていた。
美咲は菅村の後をついて、社長の傍らに立った。
一番端の、若い男が立ち上がって、美咲に向かって頭を下げると、
反対側に座った男も立ち、
最後に中央に座った男が、ゆっくりと立ち上がり、美咲を唖然とさせたーー。
「こちらは、JNK旅行の鳴海さんと、山本さん。
それから、広告代理店の内田さん。
うちのモデルの種元美咲です」
社長が紹介する間、
美咲はずっと、陽介を見つめていた。
>> 80
加世子は会社へ戻りながら、
さっき会った敦史のことを考えていた。
体つきや表情、どことなく落ち着いた雰囲気は、
付き合っていた時より、うんと大人に感じられた。
きっと、東京で生活してきた4年間、
敦史は確実に成長してきたのだ。
そして、その期間、側で敦史を支えた彼女も
今の敦史には欠かせない存在なのだろう。
加世子はその現実を、寂しいながらも
冷静に受け止めることができていた。
同じ頃、敦史は、仕事に戻る前に
喫煙所でタバコを吸いながら、加世子を思っていた。
1年前に見かけ、東京に戻ってきてから、
ずっと残像のように思い出していたが、
加世子が取材に訪れた日から、
その姿は鮮明に色を持ち、消すことが出来なくなっていた。
体つきも仕草も大人っぽくなったのに、フイに見せる
変わらない微笑みを、自分だけのものにしたかった。
短くした髪から臨む、色白の肌の全てを露にし、
抱いてみたいとさえ思った。
いま男がいるのか・・・考えるだけで、苦々しい気持ちになった。
だが、それらの感情は決して表立たせてはいけない――。
美咲の存在や加世子へした仕打ちが、重いくびきとなっていた。
>> 79
「あの時は、辛かったけど・・・
でも・・・
敦史に会えなくなった方が、ずっと辛かった・・・」
敦史はベンチに座って初めて加世子に顔を向けた。
加世子もまた、敦史を見つめた。
キラキラと輝く美しい瞳に見つめられ、
今、手を伸ばして敦史に触れたいと思った。
だけど、その願いを簡単に叶えられるほど、
二人の間には何の確証も、繋がりもないことを、
加世子は痛いほどに感じていた。
会わなかった時間は、
二人が付き合っていた時間を優に超えていたのだ。
「・・・敦史、今、彼女は」
加世子は、自分の気持ちの収め所を探していた。
「・・・うん」
敦史はまた前方を見つめて答えた。
「そうだよね・・・居ないわけ、ないよね」
加世子は沈んでいく心とは反対に
微笑みながら言った。
「加世は?」
「私は・・・」
陽介の姿が浮かんだ。
「聞かなくていいや」
敦史は加世子の話を拒絶するように立ち上がった。
加世子は一気に寂しく、辛くなった。
「――似合ってるよ」
歩いて行こうとした敦史は、躊躇いがちに振り向いた。
「その髪――加世に」
そう言うと、ゆっくりと去っていった。
>> 77
会ったら沢山話したい事があったハズなのに、
まるで他人の様に、敬語で話してしまった自分が不甲斐なくて、
加世子は悲しい気持ちに包まれ歩いていった。
「加世!」
加世子はドキリと立ち止まった。
記憶に残るその呼び方、その声に、
加世子は思わず泣きそうになった。
そして、ゆっくりと振り向くと、
後を追いかけてきた敦史が立っていた。
「…少し、話せない?」
敦史もまた、緊張しながら言葉を口にした。
そのまま二人は、何も発せずに近くの公園へとやってきた。
空いたベンチに、敦史は日陰を残すように座った。
その気遣いに、加世子はトキメキ、日陰になった敦史の隣に座った。
それぞれが緊張を抱えて、しばらく、何も言葉が出なかった。
>> 76
店はランチタイムが14時までで、
その後18時から夜の営業だった。
加世子は、溢れんばかりの緊張感を携え、
時間を見計らいながら15時過ぎ頃に店を訪れた。
「今、オーナーは不在なんです」
「そうですか」
店の前を掃除していた若い女性スタッフに言われ、
拍子抜けした気持ちで、その子に袋を渡そうとした時だったーー
店舗脇の細い道を、私服姿の敦史が出てきて、
加世子とバッタリと対面した。
二人は、この間と同じ様に動きを止め、
お互いの顔を見つめた。
「薄井さん、こちら、出版社の方で、
雑誌と写真を持ってきてくれたそうです」
加世子は慌てた感じになり、
「…この間は、あ、ありがとうございました。
これを…」
と上手く言葉に出来ず、
ただ、袋を差し出した。
その袋を敦史は無言で受け取った。
用件が済み、緊張に押し潰されそうな加世子は、
俯くように頭を下げた。
「…では、失礼します」
そして、そのまま敦史に背中を向け、歩き出した。
「薄井さん、タバコ買いに行くんですか?」
女性スタッフが言うのが耳に聞こえた。
>> 74
支度を終え、部屋から出てきた敦史は、
掃除機の音が鳴っているリビングへ向かった。
美咲は、敦史に気づいてスイッチを切った。
「今から?」
…
その頃、加世子は、会社のデスクに並んで座った花と共に
鈴木課長に声を掛けられていた。
「この間はご苦労さーん。
イケメン効果か、発行部数が伸び続けてるよー」
加世子は振り向いて上機嫌な鈴木の方を向いたが、
花はパソコンに向かったまま仕事を続けていた。
「それでね、次の企画が
『個室でくつろげる和洋中レストラン』なんだよー。
いい所知ってたら教えてねー」
鈴木はそう言うと、上機嫌のまま、席へと戻っていった。
「自分は何も仕事しないくせにね」
加世子の背後でそう言ったのは、東だった。
花は、今度はパソコンを打つ手を止め、東を見た。
加世子は、少しだけオフィス内の関係性が見えた気がした。
「ねぇ加世子ちゃん、これ、この間取材した所に持って行ってくれない?」
「はい」
渡された袋には、発行された雑誌と、
雑誌に載せた以外のスチール写真が入っていた。
その中に敦史の写真をあり、加世子はドキッとした。
「加世子ちゃん、このお店が気に入ってたみたいだしね」
東が意味深に笑むと、隣の花まで、ニヤリと笑んだ。
加世子は顔を赤くしながら、急ぐように外出準備をした。
>> 73
支度を終え、部屋から出てきた敦史は、
掃除機の音が鳴っているリビングへ向かった。
美咲は、敦史に気づいてスイッチを切った。
「今から?」
「うん。――仕事は?」
「休みなの。今日は掃除でもしてる」
「・・じゃあ、行くから」
「いってらっしゃい」
美咲は明るく言って、敦史が玄関を出て行く音を聞くと、ため息をついた。
22・・・もうすぐ23歳になる美咲にとって、
ティーンズ雑誌をメインとした等身大の仕事は、辛くなっていた。
美咲は焦りにも似た感情を、
料理や掃除など、家事に没頭することで紛らわしていた。
掃除機を抱え、敦史の部屋へと入った。
棚を、埃取り用のワイパーでなぞり、
背伸びをして、棚の上もワイパーでなぞったら、
小さな箱が落ちてきた。
美咲は中に入っていたであろう小物を手に取って見た。
一つは、キーホルダーだった。
そしてもう一つ・・・
――高校時代に親友が携帯に付けていた、
見慣れたストラップ。
『A to K with』
と刻まれた文字を、美咲はいつまでも見ていた。
- << 76 その頃、加世子は、会社のデスクに並んで座った花と共に 鈴木課長に声を掛けられていた。 「この間はご苦労さーん。 イケメン効果か、発行部数が伸び続けてるよー」 加世子は振り向いて上機嫌な鈴木の方を向いたが、 花はパソコンに向かったまま仕事を続けていた。 「それでね、次の企画が 『個室でくつろげる和洋中レストラン』なんだよー。 いい所知ってたら教えてねー」 鈴木はそう言うと、上機嫌のまま、席へと戻っていった。 「自分は何も仕事しないくせにね」 加世子の背後でそう言ったのは、東だった。 花は、今度はパソコンを打つ手を止め、東を見た。 加世子は、少しだけオフィス内の関係性が見えた気がした。 「ねぇ加世子ちゃん、これ、この間取材した所に持って行ってくれない?」 「はい」 渡された袋には、発行された雑誌と、 雑誌に載せた以外のスチール写真が入っていた。 その中に敦史の写真をあり、加世子はドキッとした。 「加世子ちゃん、このお店が気に入ってたみたいだしね」 東が意味深に笑むと、隣の花まで、ニヤリと笑んだ。 加世子は顔を赤くしながら、急ぐように外出準備をした。
>> 72
陽介がロビーまで降りると、田神が待っていた。
「おう、久しぶりだな!」
「近くまで、仕事で来たから少し寄ってみた」
二人は笑顔で挨拶を交わすと、
自販機前のフリースペースへ移動した。
陽介が田神の分もコーヒーを買って渡すと、
田神は、それを受け取り、ニヤリと横目で陽介を見た。
「最近、若い子に熱をあげてるらしいけど?」
「ハハ、何だソレ?」
「百合がそのせいで店にも来ないって、嘆いてたぞ」
「ハハハ・・・」
陽介は持ったコーヒーに目線を落として笑った。
「――若い子って、美咲じゃないだろ?」
「フフ、お前もめずらしい名前出すね」
「最近会ってないんだ?」
「全然。――健は仕事で会うだろ?」
「俺も最近会わなくてさ。
――っていうか、美咲の仕事が減ってんじゃねぇかな?
今まで一緒にやってた仕事も別の若い子が来るようになったし、
別の仕事なんかでもね」
「ふーん・・・」
「モデル業界も競争の激しい世界だかんね」
「・・・・・」
田神の言葉に、陽介は考えるように
コーヒーを口に運んだ。
2.仕事
陽介は、課の部下達と共に、
会議室で夏からのCM案について話し合っていた。
「――以上が代理店の企画案です。
決定事項のキャッチコピーは
『一緒に行こうよ、JNKで』
『一緒に遊ぼう、JNKで』
『一緒に過ごそう、JNKで』
若者ターゲットで、撮影都市は海外の3箇所。
そのほかは起用する有名人も含めて、企画案があれば出してほしい。
次回、代理店の案も合わせて検討します」
解散し会議室を出た陽介は、
そのまま廊下に出て、
喫煙所のスペースに行って、タバコに火をつけた。
全面窓ガラスの外には、オフィスビル内の内庭があり、
陽介は人工的に植えられた植物に目をやりながら、
加世子のことを思い出していた。
「――課長」
その声に振り向くと、山本が立っていた。
「タバコ、吸われて大丈夫ですか?」
「ああ・・・」
いつもの癖で、ここに来てタバコに火をつけたが、
考え事をしていて、それを吸わずにいた。
先端が灰に変わったタバコを灰皿に押付けた陽介に、
「お客様がいらしています」
と山本は伝えた。
>> 69
「――いつ会ったの?」
陽介は雑誌に目線を落としたまま聞いた。
「この間・・・
夜、陽介さんとお店で会った日の日中に・・・」
陽介は小さく笑った。
「フフ、だからか。
――加世子、違ったもんな」
目だけ上げて、加世子を見た陽介を、
加世子はただ黙って見つめ返した。
陽介は、そのまま雑誌をめくり、普通に本の内容について話をし、
その場で、敦史の話しが出ることはなかった。
その後、加世子が会計を済ませ、
駐車場に置いた陽介の車に乗り、自宅へと向かった。
その間も陽介が敦史の事を口にすることはなく、
加世子は、何だか落ち着かない気持ちを抱えていた。
加世子のマンションのすぐ近くで、陽介は車を停め、
自らも降りて、ドアの前に立った。
「今日はご馳走様」
「いいえ」
陽介は加世子を黙って見つめた。
何か言われるかもしれない――そう、感じる間だった。
>> 68
「おっ!元気だった?」
陽介は拍子抜けするほど、明るく聞き返してきた。
「はい。
――陽介さんが離婚したこと、知らなかったみたいです」
「ああ、ずっと会ってないし、そうかもな」
加世子は他人事のように話す陽介を
少し、寂しく見つめた。
「陽介さんは、美咲のこと、
もう何とも思ってないんですか?」
陽介はそんな加世子を黙って見つめ返した。
「時間が経つと、人の気持ちって、変わっちゃうんですね・・・」
「――加世子、何かあったの?」
加世子は一瞬陽介の目を見あげると、
すぐに足元に置いたバックの中から、袋を取り出し、陽介に渡した。
「雑誌、出ました」
「良かったじゃん、へぇ・・・」
雑誌を取り出し、開いて見始めた陽介を、
加世子はジッと見ていた。
そして、敦史のページを見た陽介の顔からは笑みが消えた。
>> 67
その晩、加世子は美咲のマンションへ行った足で、
陽介に指定された渋谷の店へと向かった。
従業員に案内され、個室に通されると、
既に陽介が待っていた。
「久しぶり」
「お帰りなさい」
二人は微笑み合い、加世子は陽介の向かいに座った。
陽介は、加世子に飲み物を聞き、加世子は陽介と同じ、ソーダー水にして、
その他のオーダーは陽介がすべて済ませた。
「そういえば、お給料入ったんです。
ここは、私の奢りで」
「おお、そっか。じゃあ、ご馳走になります」
そして、二人は笑顔でソーダー水の入ったグラスを合わせた。
運ばれてきた料理を口に運びながら、
陽介はいつもより口数多く、楽しくたあいのない会話を続けた。
「加世子は、俺の居ない間何かあった?」
「ああ・・・」
聞かれた瞬間、敦史に会ったことが頭をよぎったが、
加世子は、陽介の顔を見つめ、別の話を先に口にした。
「今日、美咲に会ってきました」
「どうして話してくれなかったの?」
美咲の問いに、敦史はまた背中を向け、
「話す必要もない・・・何もなかったんだから」
と言って、着替えを続けた。
「会ったのって、6日だってね。
――敦史、この部屋から一歩も出てこなかったよね」
敦史は無言で着替えを続けた。
「――1年前も、会ったんだね」
脱いだ服を持ち、ゆるりと振り向いた敦史は、
不安げな顔の美咲を見た。
「あの日帰ってきてからの敦史、変だったよね。
お母さん亡くなって、やっぱりショックなんだって思ってたけど、
そんな訳ないのにね――憎んでた相手なんだから」
敦史は、そのまま美咲の横を通り過ぎ、
脱衣所へ服を運んだ。
「加世に、会ったからだったんだね・・・」
戻ってきた敦史は、美咲の隣で立ち止まった。
「何て言えば気が済むの?」
自分の顔を見つめる敦史の顔を見上げながら、
美咲はその答えが見つからず、敦史に凭れかかった。
「不安になるよ。
――だって、加世はまだ・・・」
そう言って、美咲は口をつぐんだ。
そして、間を置いて敦史から離れると、
「今晩カレー作ったよ、食べよ」
と、笑顔で言った。
>> 65
『ただいま』
陽介だった。
『今、成田に着いたよ』
「おかえりなさい」
『加世子、今晩一緒に飯食おう』
「うん」
『早く会いたいよ』
久しぶりに聞く陽介の言葉に、加世子の心は、また、
苦しいくらいにざわつきはじめた・・・。
――ガチャ――
夜、リビングに居た美咲は、玄関の開く音に振り向いた。
「おかえり」
その言葉に返事はなく、玄関近くの部屋に入っていく音だけがした。
美咲は雑誌を手にリビングを出て向かった。
「今日家に誰が来たと思う?」
中から返事はない。
美咲はドアを開け、着替えをしている男の背中を見つめた。
「これ、持って来てくれたよ
――よく、写ってるじゃん」
そう言って、男の隣のテーブルに、
雑誌を開いて置いた。
男は、雑誌に載った
自分の写真を見ると動きを止めた。
「加世に会ったんだね――敦史」
その男――
敦史はゆっくりと振り向き、美咲を見つめた。
>> 64
美咲はそのまま携帯に出た。
「はい。――はい、――分かりました、
じゃあ、後ほど・・・」
そう言って電話を切ると、加世子の方を振り向いた。
「ごめん加世、これから事務所へ行かないといけなくて」
「ああ、うん!」
加世子は席を立ち、玄関に向かうと
笑顔で美咲と向かい合った。
「急にきてごめんね。
でも久しぶりに会えて良かった」
「私も。今度一緒にご飯食べよ」
「うん。連絡ちょうだい。
じゃ、おじゃましました」
美咲は玄関で加世子を見送った。
見送った後、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
加世子もまた、ぼんやりと駅までの道を歩いていた。
『加世――まだ、好きなんだ』
美咲の言葉が、やけに胸に残っている。
――わたしは、まだ、敦史が好き――
そう、ハッキリと言葉にして残した途端、
切ない気持ちが込上げてきた。
その時、加世子の携帯が鳴った――
>> 63
「1年前の再会に、何か辛いことでもあったの?」
加世子は少し微笑んで、美咲を見た。
「私じゃなくて、敦史の方が・・・
お母さん亡くなられたから・・・」
「そう・・・。
6日の日に会って、彼どうだったの?」
「ううん――全然、普通に話してもくれなかったけど・・・」
加世子は会った時の敦史の姿を思いだしていた。
「ずっと、会いたかったから、嬉しかった」
美咲は加世子の顔を真剣に見つめた。
「加世――まだ、好きなんだ」
そう言われて、加世子は気持ちがドギマギとして、
顔が熱くなるのが分かった。
「美咲は?新しい彼とうまくいってる?」
「うん、まぁね」
「――陽介さんの事は?もう忘れた?」
美咲はケラケラと笑って、紅茶ポットを持って
席を立った。
「とっくに!結婚した人なんて、興味ないよ」
加世子は、美咲の顔を見つめた。
「――陽介さん、離婚したんだよ」
美咲はビクンと立ち止まった。
――その時、美咲の携帯が鳴った。
>> 62
ソファーに向かい合って、美咲も座った。
「それで、加世は今東京で何をしてるの?」
加世子は持ってきた袋をそのまま美咲に渡した。
美咲は袋を開け、その情報誌を出した。
「ああ、これ、よく買うよ」
そう言って、美咲はパラパラとめくり出した。
「今回、初めて出版に携わったの」
「え?ってことは、加世、編集者なの?」
「編集者なんて、まだ言えないけど、
――この雑誌を出している出版社に就職したの」
「へぇ、凄いじゃーん!」
美咲はパラパラとめくっていくと、敦史の写真が出てきて、
驚いたように手を止めた。
そして、ゆっくりと加世子の顔を見た。
「彼に会ったの?」
「うん」
「いつ?」
「連休明けの・・・」
「6日?」
「そう」
「――へぇ・・・。何年振り位?」
「1年ちょっとかな」
美咲は加世子の少し沈んだ顔を見つめた。
>> 61
玄関のインターフォンを押す。
暫くして、ドアが開き、
高校時代より数段美しく、スタイルのよくなった美咲が現れた。
「加世ー!髪切ったー!」
その一言で、ショートの自分を美咲に見せるのは
中学時代含めて初めてだと、加世子は思った。
「どうぞ、あがって」
「おじゃまします」
玄関を入ってすぐ、男性用のスニーカーが目に入った。
「他にお客さん?」
「ううん、誰もいないよ」
リビングに通されたが、
美咲の言うとおり、誰も居なかった。
「これ、お土産」
「ワーイ、トップスだ!覚えててくれたんだ」
「モチロン」
加世子と美咲は笑いあった。
美咲はキッチンへ入り、紅茶を入れ始めた。
「広いね」
「狭いよぉ」
加世子はソファーに座りながら、
周りを見渡した。
2LDKの間取りだろうが、今居るLDKの隣の部屋には
大きなダブルベットが置かれてるのが見えた。
「私なんて1DKでちょうどいい感じ」
美咲はトレーに紅茶とケーキを切り分けてのせてきた。
「ここは今、二人で住んでるから」
「そうなんだ・・・」
加世子はそれ以上、突っ込んだことは聞けなかった。
>> 60
「急にごめんね。今仕事じゃなかった?」
『ううん、家だよ。加世は?大学卒業したんでしょ?』
「うん。それで、今東京にいるんだよ」
『えー!ほんとうに?』
「フフ、本当。だからね、美咲に会いたいなぁって思って」
『うん、会おうよ』
「美咲のお母さんから、住んでるところの住所も
聞いててね、実は今、美咲の家の近くに来てるんだ」
加世子は周りを見渡した。
そこは、美咲の住む場所から一番近い駅の前だった。
『――そう・・・じゃあ、いいよ。おいでよ』
「うん。今から行くね」
加世子は明るく答えて電話を切った。
そして、駅前のデパートの地下で
美咲の好きだったチョコレートケーキを買い、
タクシーに乗って、運転手に美咲の住む住所を告げた。
タクシーは10分程で美咲の住むマンションの前に着いた。
玄関口で美咲の部屋のインターフォンを押す。
「はい」
「美咲?加世」
「どうぞ」
開いた自動ドアから、美咲の部屋へとエレベーターで向かった。
>> 59
そのまま製本、印刷、そして、販売日がやってきた。
加世子は本屋や売店などで見かけると嬉しくて、その度に購入していた。
自分の部屋に何冊もあったが、1冊は実家に送り、
あと2冊、それぞれ袋のまま開けずにとっておいて、残りは大切に保管した。
自分が初めて編集に加わった雑誌。
その本に、敦史が載っている――
それだけで、加世子にとって宝物だった。
開けない1冊は陽介に渡そうと思っていた。
だが、陽介はあの日以降、仕事で海外へ行っていた。
雑誌を見れば敦史のことを知る――
陽介がどんな反応をするのか、加世子は不安でもあったが、
その時はちゃんと正直に伝えようと考えていた。
そして、もう1冊は美咲に――
加世子は、携帯に入った美咲の番号へ
久しぶりに発信した。
もしかしたら繋がらない・・・と思ったが、
呼び出しのコールが鳴り、そして――
『もしもし・・・』
「美咲?加世」
『・・・加世?ああ、随分久しぶり』
「うん、久しぶり」
加世子は久しぶりに聞く親友の声に、
顔をほころばせた。
>> 58
翌日から、加世子は鈴木課長や土田の指示で、
雑誌の編集作業をフル回転で行った。
パソコンに取り込んだ、イケメンオーナー達の写真を選ぶ時、
思わず敦史の写真を最大化して見た。
1年前に見た時より、更に男らしく、シャープな顔つきだった。
カメラに向けただけの視線なのに、自分が見つめられているようで、
加世子はパソコンの前で、一人ドキドキしていた。
「おっとイケメン」
背後の声にドキッとし、振り向くと、
花が、校正済み原稿を持って、隣に座った。
「――でも、鳴海様には負けるけど」
そう言って、淡々と仕事を始めた花を横目に、
加世子は、昨日の陽介の告白を思い出し、
更に、目の前の敦史の写真に、心はざわめき、落ち着かず、
誰かに胸の内を吐き出したい衝動にかられた。
その時、敦史のアンケート文章が目に入った。
『好きな女性のタイプ・・・種元美咲(モデル)』
その時加世子は、無性に美咲に会いたいと思った。
>> 56
「大丈夫ですか?」
心配げに見つめる加世子を、
陽介は体を起こして見つめた。
「大丈夫だよ――
フッ、自分の心配しろ。一気に飲んで、顔赤いぞ」
「へへ、ちょっと今、ほろ酔い気分で歩いてました」
無邪気に笑う加世子を、
陽介はジッと見つめた。
「休んでる間、自分のこと考えたよ――
課長だとか、バツイチの30男だとか、
フフ、ずっと体面気にして、気を張ってきてさ――」
加世子は黙って、陽介の話しを聞いた。
「でも、体だって、辛けりゃ、休めばいいし、
仕事だって、下を信頼して任せりゃいい。
頼ればいいんだ。甘えればいい、って――」
加世子は、その通りだと微笑んで頷いた。
「加世子が居るから、そう思えるんだよ」
「――」
真っすぐな陽介の眼差しに、
加世子の心は波打ち始めた。
>> 55
「今の誰なんですかぁ?妹さんとか?」
「ねぇ、課長!」
「あ、ああ・・・」
我に返って微笑んだ陽介は、席を立ち、上着を手にした。
「ごめん、今日は先に失礼するね」
「えっ課長ー!」
「初の親睦会なのにぃー?!」
女子社員の不満の声にも振り返ることなく、
陽介は店を出て行った。
「あの!・・・」
立ち上がった山本に、皆が注目した。
「口止めされてたんですが、
鳴海課長、GW中倒れて、入院してたんです。
お酒も、本当は飲んじゃいけない筈で・・・」
不満げだった女子社員たちも一斉に黙ってしまった。
店を出た陽介は、左右の道を見渡し、
加世子の後姿を見つけると、全力で走った。
「加世子!」
その声に、加世子は立ち止まって振り向いた。
やってきた陽介は、膝に両手をついて前かがみになった。
「ヤバイ、酔いが回る、ハハ」
そう言いながら、笑顔で顔を上げた。
>> 54
「今日は解散するか」
店を出た所で言った土田に、
「お疲れ様でした」
と皆で声を交え、加世子は方々に去っていく土田と東を
見えなくなるまで見送った。
そして、踵を返して、店の中へ戻っていった。
陽介の周りには、女子社員たちが陣取り、楽しげに盛り上がっていた。
新しいビールが陽介の手元に届く――
陽介が手を伸ばし受け取ろうとした時、
やってきた加世子がそのグラスを取り上げた。
そして、立ったまま、ゴクゴクと一気に飲み干し、
唖然と見ている陽介に向かって、
「いけません」
と言って微笑むと、空になったグラスをテーブルに置いた。
そして、やはり唖然と見ていた陽介の周りの社員たちに、
「まだ本調子じゃないので、飲ませないようにお願いします」
と小さく頭を下げ、最後に陽介にニッと微笑んで、
そのまま店を出て行った。
「えっ?だーれぇー?!」
「すごかったねぇ、一気に飲んだよ」
「キャハハ!おもしろーい!」
周りが面白がって話しだす中、
陽介は唖然とした表情のまま、空のグラスを見つめていた。
>> 53
その日、夕方から大衆居酒屋で盛り上がった。
課長の愚痴を呟く土田に、40近い女性の東が同調していた。
加世子はカメラマンのカメラで、今日撮った写真を――
敦史の写真を見せてもらったりして、
何だか幸せな気分に包まれながら、
土田達の話の聞き役に徹していた。
それが気に入られたのか、
「2次会行くぞ~!」と、
すっかり上機嫌に出来上がった土田と東に、
加世子は引っ張られるようにして、
東オススメの洋風居酒屋へとやってきた。
「済みません、今満席で、お待ちいただく事になります」
レジ前で、定員に告げられ、
3人は顔を見合わせつつ、店内に目をやった。
「あれ?JNKの鳴海さんじゃない?」
そう言った東の目線の先――賑わった店内の一角に、
会社の同僚たちと席を連ねて陽介がいた。
陽介はフイにこちらに目を向け、
笑顔で頭を下げた。
土田と東も小さく頭を下げ、
「やめるか」
と店を出ていった。
陽介の前には、空きそうなビールグラスがあった。
陽介と離れた末席で、心配そうな顔をしている山本に気づいたが、
加世子は、後ろ髪引かれる思いで、
土田たちの後について、店を出た。
>> 51
「好きな、女性のタイプは・・・」
その時、初めて敦史は顔を上げ、
加世子を見た。
質問表から目を離した加世子は、
敦史と目が合い、思わず目線を外した。
「・・・すみません。仕事なので――お願いします」
「・・・・・」
それでも、敦史は質問に答えなかった。
その時、中から滝田がやってきた。
「おい薄井、ちゃんと答えてやれよー」
「・・・・・」
「質問は何ですか?」
滝田は加世子の質問表を覗き込んで聞いた。
「好きな女性のタイプです。
・・・有名人とかで居れば」
「好きな女性有名人だってよ。お前って、女っけないもんなぁ・・・。
あ、でも、この間雑誌に出てた同級生のモデルの子――」
滝田の話しに加世子はハッとした。
「種元美咲?」
「そうそう、その子!同じ高校だったんですって。
だから、紹介しろって話してたんですよ」
加世子は質問表に『種元美咲(モデル)』と書き込んだ。
>> 49
久しぶりに聞いた敦史の声に、
胸がいっぱいになった。
「この子はうちの新人なんですよ。
――じゃあ真中、若いもの同士で、質問はお前に任せたから」
「え?・・・」
土田の言葉に戸惑っている加世子に、
もう一人の編集者の東が、アンケート板を渡した。
先に写真を撮るために、
オープンテラスへ向かった。
「こっち向いて、少し笑ってもらえます?」
カメラマンの言葉に、視線は向けるものの、
敦史は決して笑顔にならなかった。
「加世子ちゃん、もうちょっと上向けて」
「あ、はい・・・」
指示通りにレフ板を傾けると、
光の当たった敦史の瞳が、キラキラと輝いた――
加世子の胸は、締め付けられる程に高鳴り、
敦史を見ることが出来なかった・・・。
>> 46
GW明けの平日。
加世子はスタッフ2名とカメラマンと一緒に、
最後の店舗でもあるイタリアンレストランへ出向いた。
このお店は若いイケメンオーナーがよくTV出演していて、
味も、店の雰囲気も評判が良く、雑誌にも頻繁に取り上げられ、
常に混雑している店だった。
そのせいで、取材は店が休みの今日になったのだ。
店舗の撮影をするカメラマンについて、
加世子はアシスタントの様に、レフ板を抱えて歩いた。
天井の高いオシャレな内装、奥の厨房とは別に、
客から見えるオープンキッチンも備えられ、
オープンテラスの席は、リゾート地を彷彿とさせるような、
ゆったりと、開放的に座席が配置されていた。
加世子はそれら全てに行き届いたセンスに惹かれる思いで、
現れた、まだ40歳位のオーナーを羨望の眼差しで見つめた。
「今回はイケメンオーナーに会える店だって?
いないこと多いんだけど?」
オーナーの滝田さんは、
同年代の編集者の土田に向かって言った。
「まぁ、アナタが紙面にこないと、売り上げに繋がらないから」
>> 45
加世子はフキンを持った手元に目線を落とした。
「私は…コイはアイに変わると思うーー」
加世子の脳裏に、
忘れられない言葉がよぎるーー
ーーコイがアイに変わるんだーー
「例え結婚しても、もっと深く、もっと好きになるって…そう信じたい」
加世子は大切な記憶を辿るように、静かに俯いた。
その時、背後から陽介に抱きしめられた。
「何、思いだしちゃってんの?」
「……」
陽介は加世子の耳に顔を近づけた。
「一つだけ確かな事教えてあげるよーー。
『初恋は成就しない』ってね」
そう、囁く様に言うと、加世子の両肩をポンッと叩いて、キッチンへ消えた。
「加世子そろそろ時間だろ?」
キッチンの中から陽介が言う。
「あっ!」
加世子は時計を見て、エプロンを外しバックを持つと、そのまま玄関へ向かった。
「ありがとな」
キッチンから顔だけ出して陽介が微笑んだ。
「はい。ーーそれじゃ」
加世子は素直な笑みを残して出て行った。
ドアが閉まると、陽介は笑みを消し、そのドアをボンヤリと見つめていた。
>> 44
「加世子は男にモテるだろうな」
病室でのキス以降、陽介は『加世子』と呼ぶ様になっていた。
「モテないですって!
ーーあれ?随分前にも陽介さんに言われた気がする…」
「どちらかと言うと、結婚したい女だよ、加世子は」
『結婚』という言葉にドキッとしたが、
加世子はそれを悟られない様に、部屋の片付けを続けて笑った。
「ハハ、もう一つのタイプって何だろう?」
「付き合いたい女」
「フフ、そっちの方が女性として見られている感じですね」
「コイかアイで答えるなら恋ーー
性欲を満たしたくなる相手」
「ーー」
「結婚したい相手は、ずっと一緒に居たいーー愛する人…かな」
陽介の話しを、加世子は手を止めて聞いていた。
「恋する相手と愛する相手は一緒ではないんですか?」
「一緒もあるだろうけど、
恋した相手と結婚したら、いつか幻滅する日が来ると思うね」
>> 42
両親が居る間、加世子は家族の会話に立ち入らずに
花瓶に花を差したり、二人にお茶を運んだりしていた。
陽介の両親は担当医から話しを聞き、陽介の元気そうな姿に安心し、
説得されたのもあって、昼前には帰ると言って、席を立った。
「加世子さん、本当にご迷惑をおかけしますが、
陽介のこと宜しくお願いします」
「はい」
「今度、是非鎌倉の自宅へも遊びにきてね」
「はい」
両親はにこやかに病室を後にした。
すぐに、大きなため息をついた陽介に
「いいご両親ですね」
と、加世子は心からそう思って口にした。
「逆に両親は、いい子だって褒めてたよ」
「えー」
「うちの親、ああ見えて、色々うるさくてね。
初めてかもよ、褒められた女の子」
「それが本当なら、嬉しいですね」
「本当だよ。
でも好かれるって分かってたよ、最初からね」
そう言って、陽介は加世子にニッと笑った。
>> 41
陽介のマンションへ行き、
携帯で陽介に聞きながら荷物をまとめ、
途中、お花を買って病院へ戻ると、
病室の中に、年配の男女が陽介の傍らに座っていた。
加世子は頭を下げながら、中へ入った。
すると、二人も立って、加世子に向かって頭を下げた。
「両親」
陽介は困ったような顔で言った。
「ああ――初めまして。
陽介さんに、いつもお世話になっています真中加世子と申します」
「イエ、こちらこそ。色々、ご迷惑おかけしまして・・・」
優しそうな陽介の母、規子がそう言って、また頭を下げた。
「管理人さんが、連絡したみたいで――
親父まで来てさ、俺もう30過ぎてんの!大ごとにしないでよ」
「倒れたって言われたら心配するだろう!」
陽介の父、誠司は、陽介に向かって、強く言った。
「そうよ、あなた、東京で一人暮らしなんだから。
倒れて、誰にも気づかれずに、孤独死なんてこともあるんだからね」
陽介は辟易した顔で加世子に目配せした。
加世子は荷物を片付けながら、微笑ましくその光景を見ていた。
>> 40
「私、必要な物とか用意してきますね」
加世子がそう言うと、陽介は体を起こそうとし、
「無理しないでください・・・」
加世子は陽介の背中を支えた。
陽介から、上着のポケットを見て欲しいと頼まれ、
クローゼットに掛けられたスーツのポケットに手を入れると、
キーケースが現れた。
「家行って、着替えとか頼める?」
「はい。――じゃあ、早速行ってきます」
笑顔で加世子は答え、ドアの方へ向かった。
「なぁ」
加世子は、振り向いて陽介を見た。
「早く戻ってきてくんない?」
「――はい」
小さく笑んで、加世子は病室を出た。
廊下を少し歩いた所で、加世子は立ち止まった。
陽介の前では笑顔でいようと、そうしていたが、
陽介の身に何かあったら――と思いながら病院へきた疲れが
ドッと押し寄せるように、壁に凭れた。
でも、入院して良かった。
病院では、嫌でも休むしかないから・・・。
そして、決して弱くはない力強いキスを思い出し、
疲れが、陶酔に変わった加世子は、
その雑念を振り払うよう歩き出した。
>> 39
「弱ってる時に優しくすると、その気になるよ」
「でも・・・放っておけませんもん」
真っすぐに見つめる陽介の眼差しは
加世子を捕らえて離さない――
「――加世子」
そう言って、陽介は手を差し出した。
加世子は、体を傾け、その手の内に顔を近づけた。
そして、耳と頬をはさまれ、引き寄せられるままに
陽介と唇を合わせた。
優しいキスが、大胆で深く、語る様なキスに変わっていく――
長く続いてほしい――そう、加世子は感じた。
その望み通りに長い時間唇を合わせ、
語り尽くしたように、二人は唇を離した。
手で支えられ、おでこをつけたまま、
加世子は恥ずかしくて俯いて微笑んだ。
「弱っているときも、反則でしたね」
「今ので、元気になったよ」
「フフ・・・」
加世子はチラッと目を上げて笑った。
>> 37
「自分は、課長にも言われて、これから出勤しなくてはいけないんです」
「私が居ますから」
山本はまた深々と頭を下げた。
「すみません。課長のこと、どうぞ宜しくおねがいします」
山本は何度も頭を下げながら、去っていった。
加世子は病室から少し離れ、携帯から、鈴木課長に電話をかけた。
入院した知人に付添いたいので、半日だけでも休みたい事を
正直に伝えると、
「一日休みな。どうせGW返上なんだから」
と言われた。
取材するお店の指定もあり、最初からGWは仕事の予定だった。
今日休めるのは有難い――
加世子は陽介に付き添っていたいと思った。
個室の病室へ戻ると、ドアを静かに開け、中へ入った。
ベットに陽介の姿があった。
腕には点滴がされていた。
加世子は傍らに椅子を置いて座り、
少し痩せた陽介の顔を心配気に見つめた。
その時、ゆっくりと陽介が、目を覚ました。
>> 36
『突然済みません――
鳴海陽介さんのお知り合いの方ですか?』
「はい・・・」
加世子は嫌な胸騒ぎがした。
『自分は課長の部下の山本と申します。
課長が倒れられまして、今朝病院に入院したんです』
「!――」
電話を切った加世子は、着替えをし、
メモした病院へと向かいながら、
山本の話を思い出していた。
『今朝、マンションを出る時に、自分に電話があったんです。
その時倒れられて、管理人さんが気づいてくれたんです。
意識はあったんですけど、立てなくて――
誰にも連絡するなって言われたんですけど、
課長の携帯履歴で、一番多く発信していたのがアナタで・・・』
病室の前に、スーツ姿の若い男が立っていた。
近づいた加世子に気づくと、深く頭を下げた。
「真中加世子と言います。山本さん、ですか?」
「はい。先ほどは突然失礼しました。
――今、課長は休まれてます」
「――先生はなんて?」
「睡眠不足と過労が原因だろうって。ずっと、無理してたんです。
自分も含めて、みんな課長に頼りっぱなしでしたから・・・」
「・・・・・」
>> 34
陽介は近くの駅まで加世子を送った。
「ごめんね、家まで送れないで」
加世子は首を横に振って、陽介の顔を見た。
「陽介さん、体は大丈夫ですか?」
「ああ、これでもジムに通って鍛えてるんだ」
加世子は小さくため息をついて、また陽介を見つめた。
「陽介さんは、色んな気遣いが出来る人だから、
仕事も一人で抱え込んでいるんじゃないかって心配です」
陽介は小さく笑った。
「久しぶりだな、人からそんな心配されるの」
「ジムへ行くのもちょっと止めて、
その時間もゆっくり休んでください。
――ホントは、私とこうやって会っている時間も休んでほしいし・・・」
「それは聞けない」
「――」
「ちゃんと休むよ。
加世子ちゃんに心配掛けない様にね――
じゃあ行くね。おやすみ」
陽介は振り向くことなく去っていった。
加世子は陽介の背中を見送りながら、
心の中で色んな感情が生まれた。
陽介の体は大丈夫だろうか・・・
振り向いてはくれないのか・・・
決してキスを期待していた訳ではない――
ただ、昨日とあまりにも違う別れに、
加世子の心を一番に占めていたのは
「寂しさ」だった。
>> 33
帰り際、加世子はお店の奥へ行き、
本当にかっこいいオーナーに雑誌の取材の申し入れをした。
「鳴海さんから聞いていました。喜んでお受けします」
そう答えをもらった加世子は、
何ともいえない複雑な気持ちで陽介の元へ戻った。
「ん?」
微笑んで、加世子を見ている陽介を
加世子はただジッと見つめた。
その時、陽介の携帯が鳴った。
陽介はそれに出たまま、笑みを消し加世子を見つめ返した。
「――ああ、おつかれ・・・うん・・・」
陽介は目線を外さない。
加世子は急にドキドキしてきて、
一旦目線を外して、また陽介を見た。
「・・・うん――分かった。今から戻るわ」
そう言って電話を切った陽介に、
加世子は顔色を変えた。
「仕事、ですか?」
陽介もまた笑みを浮かべた。
「GWまでに、片付けないといけない仕事が山積みでね。
――さっ、行かなきゃ」
陽介が取ろうとした伝票を、
加世子が先に取り上げた。
「経費で落とす、って言われてますんで。
――言ってみたかった一言、フフ」
そう言って、ニッコリと笑んだ加世子を見て、
立ち上がった陽介はクッシャっと笑って、
その鼻をつまんだ。
>> 32
そのお店は、流行のアジアンレストランで、
中に入った瞬間、異国へと連れ去られる様な、
天井にはアジアンタペストリー、所々に薄暗く暖かな照明が点在していた。
「ここは、オーナーだけじゃなく、
店員もイケメン君を厳選しているらしいよ」
注文を取りに来た若い男の子も、目鼻立ちの整った
いわゆるイケメンだった。
陽介は自分のためにソーダー水を頼んだ。
「ちょっと、胃の調子がイマイチでね」
「じゃあ、私も止めておきます」
加世子も同じソーダー水を頼んだ。
「フフ、飲めばいいのに」
「私も一応仕事がらみで来てますから」
二人は小さく微笑み合った。
そして料理が運ばれてきて、
いつものように、楽しく時間を過ごしたが、
その間も陽介が、食べ物をあまり口に運ばないのが、
加世子は少し気になっていた。
>> 31
『どこがいいかな・・・』
陽介の言葉に、加世子はハッとした。
「あの、陽介さんは『イケメンオーナーの居るお店』なんて――」
そこまで言って、笑ってしまった。
男の陽介に聞く質問ではないと思ったからだ。
『なに?そういう特集組むの?』
さすがに頭の回転が速い。
「そうなんです。それに、私と花さんも参加することになって」
『そっか、初仕事みたいなもんだね。
じゃあ、夕方までに調べて連絡するよ』
「えっ・・・」
『じゃあ、また後で』
電話は切れた。
加世子は陽介にまた頼ってしまったことを悔いると同時に、
陽介の先をいくスマートさに、尊敬に似た気持ちを抱いた。
そして、退社時間前に陽介から連絡があり、
加世子は教えられたお店へと一人で向かうと、
陽介が既に着いていて、加世子を笑顔で迎えてくれた。
>> 30
携帯に手に持つと、画面に「鳴海陽介」の名前――
加世子の胸に、昨夜の出来事が蘇り、
小さく深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「もしもし・・・」
『加世子ちゃん?今お昼?』
加世子は廊下の時計に目をやると、12時15分だった。
「いえ、まだ」
『じゃあ、また掛けなおすわ』
「いいえ、今大丈夫です」
『そう』
その後、ほんの少し沈黙が流れた。
意識しているのが伝わってしまいそうで、
加世子が口を開こうとしたとき、
「今晩も一緒に飯食おうか」
陽介から言葉を発した。
「――はい」
『フフフ、間があったけど?』
陽介には、加世子の心の中まで見透かされている様で、
加世子は何の返事も出来なかった。
>> 29
「イケメンですね」
加世子も含めた全員が、花に注目した。
「『イケメンオーナーに会える、美味しいお店』」
花は、手で文字を表すようにして言った。
「いいね!それで行こう!」
鈴木課長の一言で、テーマはそのまま決定した。
そして、その号の編集に加世子と花が大きく携わることになった。
加世子は初めて参加する出版の仕事に、気持ちが高揚するよう思いだった。
アイデアを出した花は、いたって冷静に
「イケメンオーナーのいるお店、探し出さなきゃ」
と、パソコンに向かった。
加世子も気合を入れ、始めようとしたが、
「ちょっとトイレへ・・・」
と、申し訳なさげにオフィスを出て行った。
すると、オフィスを出たところで携帯が鳴った。
>> 28
翌日会社へ行くと、鈴木課長に、加世子と花が呼ばれた。
そのまま会議室に移動すると、
同じ課の編集者3人が待っていた。
このメンバーは、都内の飲食情報誌の編集メンバーだった。
「GW明けの特集で、若者をターゲットで考えてるんだけど、
花ちゃんや加世子ちゃんにも考えてもらいたくてね」
鈴木課長の言葉に、他の編集者も口を開く。
「食べる所選ぶとき、若者の選択って何?」
「値段じゃないですか」
淡々と即答した花に、周りの人はうな垂れた。
「ありきたりでしょ?――加世子ちゃんは?どう」
「私は・・・」
自分がお店を選ぶとしたなら・・・
「・・・こういう、って、具体的なことは言えないんですけど、
ご飯がより一層美味しく感じられる要素が、お店にあるとか・・・」
「例えば?」
「うーん・・・」
加世子が考えていると、
隣の花が飄々とした表情で口を開いた。
>> 26
唇に、陽介の唇が重なり、加世子の体はビクンッと反応した。
陽介は加世子の頬を抱き、深いキスに変わった。
長く、ドキドキと緊張した時間だった・・・
しかし加世子は、開きかけた目を閉じ、それを受け入れた――。
唇を離した陽介は、加世子の表情を探るように、
首を傾げて、見つめた。
俯いていた加世子も、ゆっくりと顔を上げた。
「お酒のせいです・・・」
「俺は飲んでないけどね」
加世子は言い返せず、上目使いで陽介を見た。
陽介はフッと微笑んだ。
「じゃあ、今度は、
どっちも飲んでないときに試してみるか」
照れて俯く加世子の鼻をつまんで、
「おやすみ」
そう言うと、陽介は手を振って去っていった。
加世子は、ドキドキの胸中を抱え、
陽介の背中を見えなくなるまで見送った。
>> 25
夕飯を終えた二人は、タクシーに乗り、
加世子のマンションへと向かった。
陽介は、タクシーの運転手に停車可能な近くのスペースを教え、
待っててもらえるように頼んで、加世子と一緒にタクシーを降りた。
「今日もいっぱいご馳走さまでした」
「いいえ」
「初めてのお給料を貰ったら、ご馳走させてください」
「フフ、楽しみにしてるよ」
その後、何となく別れがたい空気が漂った。
加世子の胸には、さっき浮かんだ妙な感情がくすぶっていた。
「加世子ちゃん、瞼に花びら――」
加世子は自分で取ろうとしたが、陽介の手が伸び、
加世子は目を閉じた。
陽介の指先が、ソッと瞼に触れる――
加世子が目を開けようとした次の瞬間――
>> 23
その後、テーブルに料理が並べられ、
加世子の前にはビール、陽介の前にはウーロン茶が置かれた。
「加世子ちゃん送っていくから飲んでね」
「陽介さんは?」
「実はまだ、仕事が残ってて、この後会社に戻るんだ」
「えっ・・・何だか済みません・・・」
「いいんだよ。夕飯だし」
そう言って、陽介は笑んだ。
加世子は陽介に逆に気を遣わせないために、
頼んでもらったビールを飲んだ。
食事をしながら、色んな話をして、
加世子は今日の花の話しをした。
「――それで、陽介さんはヨン様ではない、
四天王の一人に似ているんですって。
シ・・・?イ・・・?」
「フフフ、最近よく言われるって、
花ちゃんに伝えておいて」
「そうなんですね」
加世子は明るく返し、2杯目のビールを空にした。
陽介がまた頼もうとしたのを、
「もう無理です」
と断った。
>> 22
椅子に座った加世子は、フイに上を見上げた。
葉桜に近い桜の木越しに、欠けた月が見えた。
その時、陽介が屋台の中で注文をして戻ってきた。
「ここの雰囲気、台湾の屋台にちょっと似ていてね、
でも出す料理は、居酒屋メニューなんだけどさ」
「フフフ、へぇ・・・。
陽介さんは海外に色々行ってて、羨ましいな」
「9割仕事だけど?」
「フフ、費用は会社持ちじゃないですか?」
「金をかけても、ゆーくり、プライベートで旅行に行きたいね」
「行くなら、何処にします?」
「加世子ちゃんなら何処がいい?」
「私?うーん・・・いっぱいあるけど、
『イタリア』には行きたいです」
「そう。じゃあ、いつか一緒に行こうか?」
「――」
まじめに受けて、黙ってしまった加世子だったが、
微笑んだままの陽介をみて、同じように微笑んだ。
>> 21
加世子も、陽介の顔を見上げた。
「私が採用されたのって、陽介さんのお陰ですか?」
陽介はジッと加世子を見つめ、
それからすぐに「アハハ!」と笑った。
「俺にそんな力ないよ!」
「でも、田神さんのことも紹介したって・・・」
「その時偶然ね、知合いにいいカメラマン居ないかって、
吉田部長に聞かれたんだ。
タイミング良く、健がフリーになったばかりでね」
「・・・・」
「採用は加世子ちゃんの実力だろ?」
微笑みながらも、陽介の真っすぐな眼差しに
加世子の心のわだかまりは静かに消えていった。
そのまま少し歩いた所で、陽介は立ち止まった。
「今日の夕飯はここで」
そこは、屋台で、川沿いのスペースに
木のテーブルと椅子が並べられていた。
>> 20
その日、加世子は19時に勤務を終え、
会社を出たところで、陽介に電話を掛けた。
『挨拶回り終わって、まだ外なんだ。
加世子ちゃん、地下鉄で2駅来てくんない?』
陽介に言われた通り、地下鉄に乗り、
指定の駅で降り、指定の出口の階段を上がって、
外へ出ると、陽介が待っていた。
「おつかれ」
そう言って、優しく微笑むと、
加世子と肩を並べ、歩きだした。
そのまま歩いて、小さな川沿いの道へとやってきた。
遅咲きの八重桜の花びらが、暖かな風に頭の上を舞っていた。
「陽介さん」
「ん?」
「今日、田神さんに会ったんです」
「そう。俺は最近会ってないんだよね」
「田神さんもそう言っていました。
――それで、聞きたいことがあって・・・」
陽介は歩きながら、加世子の方に顔を向けた。
>> 19
加世子がオフィスに戻ろうとした所で、また花が現れた。
「田神さんを知っていると言ったから、そうかと思ったけど・・・」
花は、加世子の顔を覗き込むように見つめた。
「やっぱり鳴海様と知合いだったのね」
鳴海《さま!?》――
加世子は、呆気にとられながらただ頷いた。
「鳴海様、素敵・・・」
今度は加世子が花の顔を覗き込むように見つめた。
メガネの奥の小さな瞳にハートマークが浮かんでいる様だった。
陽介は今まで幾度となく出版社を訪れていて、
女性社員の間では、話題の人物らしい。
そして、花もその一人――
「韓流以上にかっこいいですから」
当時、韓国ドラマが大ヒットし、
世間は韓流ブームに沸いていたが、
花は表情を変えず、でも頬を赤らめて力強く話した。
加世子は陽介を見る自分以外の視点に触れ、
新鮮な気持ちを抱いた。
>> 18
「ありがとうございます。
でも、これからまだ回らないといけないんで」
「そっかぁ、忙しいな。じゃあ又、一席設けて飲もうや」
「はい、喜んで。今度は広報に移動になりましたんで、
吉田部長には、今後より一層お世話になると思います。
どうぞ、宜しくお願いいたします」
直立して頭を下げた陽介に、
部長はご満悦な表情で何度も頷いた。
「では、失礼します」
と、部長の席から離れ、数人の顔見知りに頭を下げながら、
加世子に声をかけることもなく、陽介はオフィスを出て行った。
オフィスの空気がまた元に戻った後、加世子はオフィスを抜けだし、
陽介の後を追った。
「陽介さん!」
エレベーター前で陽介が振り向く。
次の瞬間、加世子はトタンに可笑しくなって笑った。
「アハ!仕事なのに――
私に会いに来てくれたみたいに勘違いしました」
「フッ」
陽介も加世子を見て笑んだ。
「今晩一緒に飯食おうか?」
「はい」
加世子は陽介を見つめ、素直に返事をした。
>> 17
オフィスのガラスのドアを開き、スーツ姿の陽介が颯爽と現れた。
陽介は来客応対の人と少し話すと、
爽やかな笑みを浮かべ、加世子の居る課の方へ歩いてきた。
まるで、オフィスの空気が一新されるかの様な存在感に、
皆が、陽介に目を向けた。
陽介は、加世子に気づいたが、頷く様に会釈しただけで、
そのまま、部長の席へと向かった。
「おう、鳴海君」
堅物の部長が、陽介を見るなり、笑顔になり席を立った。
「ご無沙汰しています。今日はちょっとご挨拶に伺いました」
陽介はそう言うと、名刺入れから、名刺を取出して部長に渡した。
「おお、課長になったの!?」
「役不足なもんで、下に苦労かけてますよ」
「何謙遜してんの!鳴海君の年で課長なんて、優秀だからでしょ。
あー、ちょっとお茶飲んでいきなよ、用意させるから」
部長はそう言いながら、加世子と花の方に目を向けた。
>> 16
「もしかして、加世ちゃんも紹介してもらったとか?」
「イエ、私は・・・」
その時、応接室のドアが開いた。
「田神さん、行きましょう」
「はい」
田神は席を立つと、
「じゃあ加世ちゃん、またね」
そう言って、カメラの機材を抱え出て行った。
加世子は暫く、その場に立ち尽くした。
『もしかしたら、自分の就職でも、
見えないところで陽介さんが口利きしてくれてた?』
陽介に直接会って、真意を確かめたいと思った。
加世子は、田神に出したコーヒーをトレーに乗せ部屋を出た。
給湯室でぼんやりとカップを洗い、オフィスに戻ろうとした時、
「わっ!」
給湯室の入口に無表情の花が立っていた。
「真中さん、田神さんと知り合いなのね」
「はい。顔見知り程度ですけど・・・」
「じゃあ・・・」
花が言いかけた時だった――
>> 15
そこに、加世子の課の係長でもある40男の鈴木がやってきた。
「あれ二人、知り合い?」
「同郷なんですよ」
田神は明るく鈴木に答えた。
その後、応接室で待つことになった田神に、
加世子はコーヒーを運んだ。
田神はフリーのカメラマンとして独立していて、
今日はこれから、出版部の担当者と取材に行くという。
「加世ちゃん、ここに就職したんだね。
俺も、陽介に紹介してもらってから、結構仕事させてもらってるんだ。
これから、よく顔合わせると思うけど、よろしくね」
「陽介さんに、ですか?」
「あぁ、陽介って、前美咲と付き合ってた――」
「はい。よく会ってるんです」
「そうなんだ!俺は最近会ってないんだけど、
陽介、この出版社のお偉いさんとも太いパイプ持ってるみたいでさ、
俺がフリーになった時、紹介してもらったんだよ」
「そうですか・・・」
>> 14
バイトとして勤務した約3週間、
加世子は毎日クタクタになって帰宅した。
陽介に何度か夕飯に誘われたが、
正直に気力がないと断り、休み前の晩に少しだけ会ったりした。
そして、入社式を経て、
加世子は出版社の社員となった。
とは言え、配属先は今までバイトしていた課と同じで、
花の姿もあった。
当然、仕事は雑用から始まったが、
新しいアルバイトの子も入ったので、
加世子は少しずつ、雑用以外の仕事も教えてもらっていた。
そんなある日――
「どうもー、お世話になります」
大きな機材抱えた一人の男の人が、オフィスに入ってきた。
来客応対をしていた花さんの陰から、その人と目が合い、
加世子とその男の人は、同時に「あっ!」という顔をした。
でも、二人して、すぐに名前が出てこない。
加世子はその男の人の元へ近づいていった。
その時、花がオフィス内に振り向き
「鈴木さん、田神さんです」
「あ、田神さん!」
加世子はやっと、名前にたどり着いた。
田神もまた、加世子がぶら下げている社員カードを見て、
「加世ちゃん、久しぶり!」
と言って笑った。
>> 13
そんな中、花は『我関せず』の一貫した態度で接してくれたので、
加世子としては、心強くもあり、気持ちが挫けずに会社へ来れていた。
「花さんは、将来は出版の仕事に携わるつもりですか?」
加世子は、フイに花に質問してみた。
花は落ち着いて見えたが、加世子の1歳年上で、
この一年、就職浪人中だと話していた。
「興味なし」
「あらら」
呆気ない返答に、思わず加世子は口を開けてしまった。
「これからは、ネット時代だから、
紙で発信する時代じゃなくなるわ」
その冷静な判断力は、どこの会社でも通用するだろう――
と、加世子は思ったけど、花が目指していた職業は
「保母さん」
「あらら」
その以外な答えに、加世子はまた口を開けた。
花は今年春の採用もなく、まだ暫くはここでアルバイトしていると話した。
>> 12
出版社といえば、編集とか、校正とかをイメージするだろうけど、
アルバイトで、新入社員の加世子の仕事は、雑用のオンパレードだった。
それは当然のことだと、納得していたが、
その仕事の量たるや、半端ではなかった。
アルバイト期間中は、時間通りで上がれたものの、
常に仕事を明日に先送りした状態で、
翌日は昨日からの仕事にプラスして、新たな雑用に追われた。
「大変ですね」
数日勤務したところで、加世子はポロリと本音を口にした。
「そんな所に就職したのはアナタ」
花は資料整理をしながら、淡々と答えた。
「そう、なんですけどね・・・」
加世子は少し笑って、同じ様に資料整理を続けた。
花は、無愛想だが、仕事は淡々とこなし、
余計な事も話さず、たまに返す言葉も決して嫌味ではなかった。
実をいうと、花のように、
アルバイトや契約社員待遇の若者が多く居て、
その殆どが出版社への本採用を望んでおり、
4月から、新入社員として働く加世子に対して、
嫌味な態度をとる者もいた。
>> 11
翌日、加世子は就職先でもある出版社に
バイトをするために出向いた。
編集長に挨拶をし、すぐに指定された出版部の一つの課に配属された。
「花ちゃん、今日からバイトしてもらう真中さん。
色々教えてあげて」
「よろしくお願いします」
端のデスクに座る眼鏡姿の女の人は、
顔色を変えずに頭を下げ、その隣の空いたデスクに手を置いた。
加世子はその席に座り、花ちゃんと呼ばれた人の方を向いた。
「真中加世子です。よろしくお願いします」
「木下花です。よろしく」
やはり愛想なく挨拶されると、加世子の目の前に、
山のハガキの入ったダンボールを置いた。
「早速、このアンケートの集計から」
「あ、はい・・・」
その後、花の無愛想ながら的確な指示の元、
加世子はアンケート集計をはじめ、電話応対、原稿を届けたりなど、
あらゆる雑用を教えてもらった。
>> 10
色白の肌を大胆に露にしたドレスを身につけ
美しいホステス、百合絵は陽介の肩に腕を置いた。
「お連れさんに、いっぱい触られちゃったわ。
いやらしいところまで」
「すまない・・・」
百合絵は陽介の顔に顔を近づけ、
「陽介がキレイにしてくれるんでしょ?今晩」
そう言って、艶っぽく微笑んだ。
陽介も笑んで、タバコを廊下の灰皿に落とした。
否定しなければオーケーという暗黙の了解を得た百合絵は
陽介が持つ携帯に目をやった。
「――で?電話の相手はどんな子なの?」
「知らなくていいよ。変に嫉妬されても困る」
「フフフ、そう。
――私も彼氏を作っていいのかしら?」
「勿論。
何の束縛もないだろ?俺たちの間に」
「そうね」
百合絵は小さく笑うと、
陽介が連れてきた取引先の客の待つ席へと戻っていった。
>> 6
そのダンボールの中から取り出したもの――
オルゴール、
海の写真集、
ストラップ、
老女からの手紙
加世子の宝物といえるそれらを、
ベットの上にある棚に一つずつ大切に閉まっていった。
このダンボールだけは、陽介の目の届かない所に置いてあった。
あの晩――
陽介とキスをした日以降、加世子は陽介に敦史の話をしなくなった。
酔っていたとはいえ、敦史を想う加世子に嫌悪感を表した陽介は、
それまでのように、何でも話せる相手ではなくなっていた。
きっと、その後のキスも原因の一つになっている・・・。
陽介は酔った勢いでのアクシデント程度にしか考えていないだろう。
でも加世子にとっては、敦史以外の人とのキス――
酔いが全身に回るようなキスを、忘れることができなかった。
また、あの余韻に包まれる――加世子は自分がキスに弱いことを自覚し、
ベットにうつ伏せになって、逃げるように枕に顔を押し付けた。
>> 5
教えてもらったスーパーで、食料品を買い
マンションへ戻ってきたところで、陽介の携帯が鳴った。
「お疲れ様・・・うん、それで?
・・・どうにかならないの?」
どうやら仕事の電話らしかった。
黙って話しを聞いていた陽介は、切り替えるように溜息をついた。
「分かった。今からいくから――」
そう言って、電話を切った。
「仕事の電話ですか?」
「ああ。――ごめんね加世子ちゃん、
今晩一緒に飯食うつもりでいたんだけど」
「仕事なら仕方ありません。残念だけど」
「今度埋め合わせするから。じゃあ」
陽介は爽やかな笑顔を残して、去っていった。
加世子は一人で、部屋へ入った。
物静かな部屋――
これから一人で生活することを嫌でも実感した。
電気を点け、中へ入って、買ってきた食料品を冷蔵庫に移した。
その後隣の部屋へと向い、
開けていなかった小さなダンボール箱に手をかけた。
>> 3
加世子が一人暮らしを始めるのは、
会社の隣の区にある1DKのマンションで、
陽介が、加世子のために利便性や安全面も考慮して選んだ中の一つだった。
部屋に入ると、先週末に行った引越し後のままで、
家具や家電は配置されているものの、
その中に片付くはずの荷物がダンボールに入ったままだった。
「買い物行く?」
ある程度のものは、既に購入済みだったが、
冷蔵庫の中は空っぽだった。
「少し荷物を片付けちゃいます」
「じゃあ、終わったら行こう」
陽介も腕まくりをして、片付けを始めようとした。
「陽介さんは休んでてください。
せっかくのお休みなのに、お手伝いしてもらったら、
申し訳ないです」
陽介はフフっと笑って、ダンボールの箱を持ち上げた。
「大丈夫、あとで肩揉んでもらうから」
そう言うと、本棚へ本を並べはじめた。
>> 2
そういえば、高一の時に、
ショートが似合うと言われたことがあったと、
加世子は思い出していた。
あの日は、陽介の隣に、当時付き合っていた美咲がいたんだ。
加世子の中学時代からの親友でもある美咲は、
今東京で、ファッション雑誌のモデルとして働いているけど、
きっと忙しいだろうと、連絡もせずに、
加世子は高校を卒業してから、一度も会っていなかった。
今回、上京するにあたって、美咲の母親から、
今美咲がいる住所を聞いてきていて、
落ち着いたら、美咲に会いに行こうと、
加世子は心に決めていた。
「このまま、マンション行くよ」
「はい。お願いします」
駅の地下に停めた陽介の車に乗りこみ、
二人で東京駅を後にした。
>> 1
就活で何度か訪れてはいるものの、
相変わらずの人の多さに、圧倒されながら、
加世子は上方の案内板の矢印に従って、歩いていった。
八重洲口の改札口が見えて、加世子はホッとしながら
目線を動かした。
すると、改札口の向こうで笑顔で大きく手を振る男――
鳴海陽介を見つけた。
加世子も笑顔になり、小さく手を上げて近づく。
陽介は笑みを消し、
近づく加世子をぼんやりと眺めるように見つめた。
改札を抜けた加世子は、笑顔で陽介の元へ向かった。
「迎えにまで来てもらっちゃって、ありがとうございます」
陽介は放心したように加世子を見つめ、
髪に触れた。
「切ったの?」
「ああ、・・・はい。心機一転です」
陽介は加世子の顔を見つめたまま、
「すごくいいよ。やっぱり似合ってる」
そう言って、フッと微笑んだ。
1.再会
真中加世子は大学卒業してすぐの日曜日、東京行きの電車に乗っていた。
就職する出版社の入社式まで1ヶ月近くあったが、それまで研修を兼ねたアルバイトとして勤務する為だった。
東京駅に降り立った加世子は、携帯を出し、鳴海陽介のアドレスを選んで発信すると、1回コールですぐに繋がった。
『加世子ちゃん着いた?』
「はい、たった今」
『じゃあ、八重洲口目指してきて。
改札口の前にいるから』
「はい」
電話を切り、案内板を頼りに八重洲口を目指して歩き出した。
- << 2 就活で何度か訪れてはいるものの、 相変わらずの人の多さに、圧倒されながら、 加世子は上方の案内板の矢印に従って、歩いていった。 八重洲口の改札口が見えて、加世子はホッとしながら 目線を動かした。 すると、改札口の向こうで笑顔で大きく手を振る男―― 鳴海陽介を見つけた。 加世子も笑顔になり、小さく手を上げて近づく。 陽介は笑みを消し、 近づく加世子をぼんやりと眺めるように見つめた。 改札を抜けた加世子は、笑顔で陽介の元へ向かった。 「迎えにまで来てもらっちゃって、ありがとうございます」 陽介は放心したように加世子を見つめ、 髪に触れた。 「切ったの?」 「ああ、・・・はい。心機一転です」 陽介は加世子の顔を見つめたまま、 「すごくいいよ。やっぱり似合ってる」 そう言って、フッと微笑んだ。
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