神社仏閣巡り珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く、本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間です。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことのない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
新しいレスの受付は終了しました
- 投稿制限
- スレ作成ユーザーのみ投稿可
今日はお地蔵さまのお縁日。
久しぶりに群馬県桐生市の観音院さん、通称【日限地蔵】さまへ参拝させていただきました。
風が強かったせいでしょうか、あまりの参拝者さんの少なさに驚いたものです。
あ。
お花見?
桐生市の町を通り抜けて観音院さんへとまいりましたが、桐生市の桜の花は五分咲きから満開といったところでありました。
(…たぶん桜?…アーモンドの花でだいぶ慎重になっております、笑)
…風が強いのに?
…こんな淋しいお縁日、ずっとだと嫌だなぁ。
そんなちょっぴり沈んだ思いで山門をくぐりました。こちらの山門はまだまだ新しいもので、赤い大きな提灯が山門の真ん中に掛けられています。
境内も人がまばらです。
まるで活気がありません。
「どうぞ」とチラシを渡されました。
『沙羅パークオープン』と書かれています。先代が亡くなられて整備を進めていた公園がいよいよ完成するようです。
お寺さんの敷地内でありながら全くの公園で、唯一お寺さんらしいといえば、先代が大変心を寄せておられた『寝釈迦』の像が置かれること。
寝釈迦のお像はそのときのお披露目を待つのかまだそのお姿は見えません。
「いや、まだ無いんだよ」
完成まであと一カ月。
寝釈迦さまはまだこちらへはお越しになっておられないそうで。
まずは御本堂へと向かいます。
こちらは御本堂へ上がらせていただけます。お焼香も用意されています。
ご本尊さまは『聖観世音菩薩』さま。秘仏であります。
御開帳があるのかどうか…。
檀家ではないのでその辺はよくわかってはいませんが御開帳の声を聞いたことがなく、御前立の観音さまが閉じられた厨子の前にお立ちになっておられます。
お地蔵さまで有名なお寺さんではありますが、ご本尊さまは『聖観世音菩薩』さま、であります。
こちらのお寺さんもう一つ有名なものがありまして、それは『御朱印』。
それはそれは美しい、大変見事な水彩画、癒しの花の絵が描かれております。
御本堂の中、貼り紙がされております。『風雅御朱印は今回をもちまして終了させていただきます』
えっ。
…それは淋しい。
本当に本当に美しい、癒しの絵なのです。
月替り御朱印とか、限定御朱印とかにこだわるのはやめようと以前心に決めましたものの、こちらの御朱印だけは心惹かれるものでありました。
御本堂での参拝を済ませて。
地蔵堂へ向かいます。
こちらの日限地蔵さまもまた秘仏のようです。
こちらの御堂で御祈祷をお願いできるようです。
…私は…こちらに限らず御祈祷とかお祓いとかを生まれてからたった一度だけしか受けたことがないので、こちらの御堂に上がらせていただいたことはないのですがね。
お灯明はいつもお願いしております。そして、まるでお焚き上げのようになる香炉にお上げするお線香を一束。
いつも元気な年配の女性の方々が対応してくださいます。
このうちのお一人がまさに癒しの方。
やわらかい笑顔を向けていつも丁寧な対応をしてくださいます。そして、きっとその向き合った顔に何か淋しげな影とかを見出すお力をお持ちの方、なのだと思うのです。
そんな心に秘めた思いがあるときはきまって一言二言、会話をしてくださり、小冊子をくださったりなさるのです。
今日も御堂の窓口におられ、いつもの笑顔で対応してくださいました。
そして、あの、風雅御朱印の美しい絵をお描きくださった方ともお会いしてお話をすることもできました。
あれだけ見事な絵を短時間で仕上げる画家さんは、やっぱり笑顔の素敵な方でありました。
こちらへお勤めになられている僧侶が、ぽつんとこぼれ話をされたことに、書いても書いても山のようなご朱印帳だったこと、預かることになってからは御朱印をお書きになられる部屋が御朱印帳でいっぱいになっていたことを明かしてくださったのですが、そんな大変だったことなどおくびにも出さず、ずっとニコニコとお話しくださいました。
「今までありがとうございました」と丁寧にお辞儀をされ、
「こちらこそ本当にありがとうございました」と申し上げましたが…。
…こうしたお寺さんの行事に関わっておられる方というのは、それだけでたいへん良い修行をなされているのでありましょうね。
会話を通して、この方々は魂が綺麗なのだろうなぁとつくづく思ったものです。
来月からは四国霊場ご本尊さまの御姿御朱印となるようです。
…うーん。
うーん。
うーん、これは…。
私の物欲が大変なことになっております。
これも修行と諦めるか。
…御御影としておわかちいただこうか。
ま、来月に悩むとしましょう。
(観音院さんの風雅御朱印)
あ、一つどうしても書いておきたいことがあります。
観音院さんの風雅御朱印は、絵も文字も、一枚一枚が手書きです。
あのクオリティの高い絵が御朱印帳に直書きだった時期すらあるのです。しかもその日のうちに手渡ししていただけました。
癒しの絵、癒しの文字。
手渡しいただくときの癒しの会話。
一カ月に一度の贅沢な時間でありました。
仏教覚書
中国に仏教が伝えられたのは紀元一世紀ごろのことと考えられていますが、その仏教伝来について、次のような伝説があるといいます。
後漢の『明帝』(57〜75年在位という皇帝が夢に金人を見て、その夢の意味を占わせたところ、仏教が中国に伝来する時期が満ちている、という答えが出たそうです。
『金人』とは金色の人の意で『仏』『仏身』を指します。
そこで明帝は早速インドに使者を遣わしましたが、使者が中央アジアの砂漠地帯にさしかかったところで、二人のインド人僧侶に出逢います。
二人の名は『迦葉摩騰(かしょうまとう)』と『竺法蘭(じくほうらん)』といい、まさに中国に仏教を伝えに行くところだというのです。
奇遇に喜んだ使者たちは踵をかえし彼らと共に洛陽の都に戻ります。
洛陽にやって来た二人の僧侶は、とりあえず『鴻臚寺(こうろじ)』という役所の施設に滞在します。
当時の中国では【寺】というのは外国の使節などを接待する〝役所〟のことで、のちの〝迎賓館〟のような役割を果たしていました。
明帝はこの二人のインドの僧侶のために〝寺〟を建てることを命じ、ここで彼らは経典の翻訳や布教に務めることとなったといいます。
彼らのために建てられた施設は【白馬寺】と名付けられます。この二人の僧侶が白馬に乗ってインドからやって来たことに由来するといい、これ以降、仏教の僧院のことを【寺】と呼ぶようになったというものです。
ただし、これはあくまでも伝説的な話ということで、史実とは異なるといいます。
また【寺院】の〝院〟とは回廊や塀で囲まれた立派な建物のことで、当時の外交使節を接待する〝寺〟には必ず回廊が備わっていたので、〝寺院〟と呼び習わすようになったといいます。
今日も雨。
それでも朝はほんの霧雨で、このくらいの降りならばと、秩父へ行こうと準備を進めていました。
今まで行ったことのない神社さんやお寺さんへと行くのもそれはそれは心はずむものでありますが、私は今まで行かせていただいた神社仏閣に再拝させていただくのも大好きで。
秩父ならば道も覚え(…本当に?本当か?)、なんとか私の運転でも行くことができる(かもしれない)ことも一因するのかもしれませんが、何より、あの心癒される御仏の御像や心和む景色、あの温かい人たちとの触れ合いも、また秩父へ行きたいと思わせるのであります。
私一人で行ったら、…もしかしたら一寺あるいは一社にずっとぼぉーっと居続けることもありえないと思われます。
さすがにそれでは訝しむ方がおられるかもしれませんし、食事もいたしましょうから、その移動に合わせてもう一ヶ所…、そんなゆったりとした神社仏閣巡りをするかもしれません。
一寺一社に時間をかけてお参りさせていただくのは珍道中ペアであっても同じこと、なのではありますが、ね。
けれど準備を進めている間にどんどん雨足が強くなり、秩父行きは早々に断念して、買い物を済ませたのちは家でぼおーっとして過ごしております。
そうそう、一冊の本を読みました。
有吉佐和子さんの【華岡青洲の妻】であります。
これは高校生の時分に読んだ古い文庫本を再再再、再読(くらい)。
小説というのはその本を読んだ自分の年齢によって、だいぶ受け取り方が変わるものであり、その変化がまた感慨深くもあり、おもしろいのですが、この文庫本、なんと値段が二百二十円。
今の物価とは当時はずいぶんと異なってはいますが、それにしてもびっくり。
何よりもそんな本を後生大事にいまだに持ち続けていることの方がびっくり!という話もありますが。
学生時代に寮に入り、就職して一人暮らしをし、その後嫁いで、何度かの引越しを経ているというのに、そのたびに何十冊もの本と移動している、という、…物持ちがいいというか、ケチというか。
今は電子書籍というものがあり、そうでなくとも図書館で借りることだって可能なわけで。
終活をするべく、かつての本たちと再会をしているというところもあります。
とはいえその懐かしさに、なかなか処分できずにいる私。
…やっぱりただのケチ、でしたかね、笑。
年齢を重ねると今までまるで関心のなかった書に惹かれるようにもなります。
その一冊が【おくのほそ道】であります。
東北に行ったことが何よりも大きなことだと思います。
そこには自分で見た情景が、時代を超え美しく、そしてなんとも的確な言葉で綴られているではないですか。
また俳句という、わずか三句十七音からなる定型詩。さらにその中に季語を詠み込むという決まり事まであるというのに、そこに著される句のなんと素晴らしいことか。
今までもそこに自分にはない感性と才能とを見てはきたのではありますが…。
かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚(たいはいくうきょ)の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。
うーん。
これを読みながら、中尊寺をゆっくりゆったりと歩きたいなぁ。
できうるならば、芭蕉の訪れた季節に。
…さらに。叶うならば春の花の時期、冬の雪の降り積もる中。
…まさに、『予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ…』…だなぁ。
また、芭蕉の句碑は実に身近なところにあります。
それは芭蕉の句に惹かれた人の多さもありましょうが、やはり何よりもこの芭蕉の歩んだ〝おくのほそ道〟に惹かれる日本人の血が、そうさせずにはいられなかったのかもしれません。
神社や仏閣を訪れて詠まれた句を、その地に碑として建てられているものもあります。
身近に感じられる〝風景〟の詠まれた句を愛し、自分の家の敷地に建てたといった人もいたようです。
神社やお寺さんを巡るようになって、そうした句碑を目にする機会も増えたことも一因なのかもしれません。
とはいえ、その足跡を辿ることはないことは断言できますが、ね。
あんなに歩くのは絶対、ぜーったい無理です。
とあるお寺さんで…。
年に一度だけの御開帳とはお聞きしておりましたものの、なかなか出向くことができずに、今年ようやくその日に参拝をすることができましたお寺さん。
すでに長蛇の列。境内からはみ出して道路にすら列ができているではないですか!
が、あくまでもこの御開帳にあわせて行われるイベントに対してのもののよう。御本堂の前はガラガラでありました。
ということはもうご本尊さまには自由参拝をさせていただけるということ?
が、御本堂前にいる方にお聞きすると「整理券をお渡しします」とのこと。
…!!。
こ、これは、とんでもない御開帳だった!
整理券って。
そもそも御開帳自体がまだのようです。一体何時になったら拝観できるのだろう。
と、渡された整理券のナンバーを見ると『No.1』
…?
一番…ってこと?
ま、まぁそれはそれでありがたいことですけれど?
それ以前にこの整理券、特別御朱印の整理券のようです。
私「あ、あのぉ〜、私御朱印ではなくて参拝させていただくために…」
「はぁ?…まぁ、それなら十一時からだから」
私「並んでお待ちすればよろしいのでしょうか?」
「そこらへんで待ってれば時間になったら入れるから別に並んでなくても大丈夫」
はあ。
十一時になると、なるほどかって知ったるというていで御本堂に上がって行く方たちが。
そうですよね、檀家の方々がおられますものね。
靴もそろえず、お辞儀もせずに?
すこぉし違和感を抱いて御本堂へ。
ご本尊の前は素通りするような形で、〝進路〟と書かれた紙があちこちに貼られています。
まずご本尊さまを拝して。
進路を進みました。
…えっ!
…たしかに御開帳されています。
御厨子の扉が開けられています。
が。
あの、よく御本堂や社殿の害獣や鳥の糞よけの為にかけられている金網がかけられています。
…。
ま、まぁ、万が一の盗難等、対策はしておくに越した事はない、ですよね。
この日御開帳された御仏は、それはそれは優しいお顔をされた美しい像でありました。
金網越し、ですけれど、ね。
そして。
その後私が何よりもびっくりしたのは…。
進路に特設御朱印の授与所が含まれていることでありました。
それだけでなく、中古品や手作り品の販売コーナーまで。
えっ?
これ、年一回の御開帳の御仏の真ん前でする?
落ちつけ落ちつけ。
年に一度の大祭、お祭りじゃない。
いろんな形があっていいでしょ。
こちらのお寺さんは御朱印で有名なお寺さんで、人たちのニーズに応えてくださっているから、こうした特設の受付があったりしているのだし、みんな笑顔で楽しそうではないか。
御本堂へと上げていただき、年に一度だけの御開帳の御仏に合わせていただけたのも、この大祭あってのこと、檀家でもない私がなにをブツブツと。
秘仏公開ということで訪れたただのミーハーではないか。
こちらのお寺さんのご本尊さますら知らないではないか。
…そうだった。
そうなんです。
こちらの、この秘仏の御仏さまがてっきりこちらのご本尊さまとばかり思い込んでいた私。
ご本尊さまは御簾のなか。
そんな自分をお詫び申し上げてもう一度手を合わせてから帰りましょう。
私「あのぉ〜、こちらのご本尊さまは?」
「あ、今日は〇〇さまの御開帳なんですよ。私たちもいつもは見られないので、…ぜひお参りください」
私「あ、〇〇さまへはお参りさせていただきました。ご本尊の仏さまはどなたなのかと…」
「…」
あれ?
「ご本尊さまは…?」
シーン。
「聞いてきます」
えっ。
その場におられた方のどなたもご存じなかったようで、走って聞きに行ってくださいました。
…ごめんなさい。
〇〇さまの御開帳ということで、お手伝いに来られている方々ばかりだったようでありました。
ご住職はじめお寺の関係者の方々はこの大祭の運営で忙しくなされておられることなどわかることでしょ。
どちらのお寺さんも御開帳だからといって特別な法要を一般に向けて営まれるわけではなかったし。
自分で調べても来ず、なんでも人に頼るものではない。
そんな反省をしつつ、こちらのお寺さんをあとにした私でありました。
ちなみにこちらの今回御開帳された御仏は、仏教の教えに正しく導いてくださる御仏さま。
私の過ちにその場で気づかせてくださるほど、霊感あらたかな御仏でありました。
昨日は、季節の変化を細かく分けた『七十二候』で『桜始開(さくらはじめてひらく)』とされ『桜の日』。
今年は日本全国で例年よりもかなり開花が早く、私の住むところでもすでに七分咲き、…しかもこの開花、むしろ近隣よりはだいぶ遅そうであります。
あいにくの雨で終わった土日休み、短い桜の花の時期を思うとまさに恨みの雨ともなりました。
でも本来植物にとっては恵みの雨、あくまでも人間目線ではありますが…。
そんな昨日。
実はうちの夫、計画休でありました。そう、三連休。
ですが土曜日は孫の守子日で、昨日はその疲れを癒しつつ家でゴロゴロする心身の休息日、あいにくの雨、ではありましたが、有益な過ごし方…だったのかなぁ?
そもそも計画休で少なくとも二連休、なのだから、なんならどこかに泊まりがけで出かける計画とかがあってもおかしくはないのではありますが…。
いかにもズボラで出不精な私どもでありましょう?
そして昨日の朝。
夜派の夫は八時過ぎても起きては来ず、私は先一昨日・一昨日そして昨日の洗濯物を全て外に干し終えて、どこにも出かけないなら、庭いじりでも始めようか、そんなふうに思ったところ、ようやく夫の寝室のドアが開く音が。
…とりあえず朝ごはんの支度か。
あ、ちなみに私も朝ごはんはまだ。
先に食べようと思った、まさに絶妙なタイミングでありました。
食事を終えて。
「今日の予定は?」と私。
「何かある?」
「天気が良さそうだし庭でもいじろうかと思ってたとこ」
「どっか出かけるか」
…💢。
…おいおい、休みというと出かけることばっか考えてるんじゃないよ。
屋根や足場に登ってペンキ塗ってる女子って、あんまりいないし、…そもそもそれを好きでしているのではなく必要に駆られ仕方なくしているわけで。
…と内心は思ったものの無言の行を頑張る私。
「…辛科神社さんに電話してみるかなぁ」
…はいはい。
と言いつつ、この二人辛科神社さんに電話が通じるとあまり思ってはいなかったのです。あの参拝のあと、何度かお電話差し上げてみたものの一度としてお出になられたことはなく、今日は平日ということもあり、よもや出ることはないだろう、そう思って、私は食器を洗っておりました。
夫の寝室から少し高い声で話す夫の声が聞こえてきます。
(おっ?通じた?)
こうして…。
辛科神社さんへ何度も通い、夫はようやく念願だった【辛科神社と羊伝説】という、辛科神社さん発行の小冊子を手に入れたのでした。
その念願の小冊子は、な、なんと無料で配布されておられるものとのことで、なんだかおねだりしたようで申し訳ない思いがありました。
でもきっとこの小冊子が在庫が尽きたなら、再版はなさらないものでありましょうから、やっぱりこうしてお授けいただくことができたのは神さまのおかげ、なのかもしれません。
ちなみにこの小冊子は【平成】と元号が変わって二年目の大祭を記念してのものだったようで、その小冊子がわが家のものとなったことは、まさに奇跡のようなもの、だったかもしれません。
群馬県に織田家が?!
…と、このものを知らない(知らなすぎる)おばさんは、ついほんの何年か前にそうここでつぶやきました。
いやぁ、夫と結婚してその時だってすでに二十何年経っていましたが、夫の口からそれを聞いたのは実にそぉーんなにも時が過ぎてからのこと。
なんでそんな貴重な歴史を知っていながら、子どもたちに伝えようとか思わないもんかな!と当時は立腹したくらいでありました。
この辺りに来ることになった経緯はすっかり忘れた…というか、夫が自分でその地を歩きたいと思った…のだとは思うのですが。
その地を訪れることになるまで自分の中で眠らせておく辺りがなんとも我が夫らしい。
そ、温めておくんじゃないんです。
眠らせておく。
それが夫。
だからこそ珍道中ペアの立派なかたわれ、なんですけどね。
(可哀想なのはわが子たち。泣)
その織田家ゆかりの小幡(おばた)の地は、高崎市に隣接した…高崎市に合併した吉井町に隣接したところであり、つまりは辛科神社さんからそう遠くないところに位置します。
ということで次に夫が向かったのはその小幡。
小幡は、群馬県南西部に位置する甘楽町(かんらまち)にある城下町で、今もなお武家屋敷や町家が残る古い町並みが広がっています。
「名水百選」や「世界かんがい施設遺産」などにも選ばれた雄川堰(おがわぜき)がある、情緒あふれる町です。
初めてそこを訪れたときの感動といったら…。
ゆったりとした景色、そこを流れるゆったりとした時間。
町ごとが癒しの空間なのであります。
そして!
その小幡は『桜の里』でもあるのです。
群馬県甘楽郡甘楽町小幡は、かつては、鎌倉時代から名の知られた豪族・小幡氏の本拠地として栄えていたといいます。
しかし、本能寺の変以降勢力を弱めた小幡氏は、徳川家康公に甘楽の地を明け渡して信州へ逃れます。
その後二十五年間で五度、領主が入れ替わった後、慶長二十(1615)年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると、天下統一を果たした徳川家康公が、【織田信雄(のぶかつ)】公に奈良県の大和国宇陀郡(やまとのくにうだぐん)三万石と、群馬県の上州小幡二万石を与えました。
ここから織田氏八代、百五十二年間にわたる歴史が続きます。
【織田信雄】公は、織田信長の次男。
本能寺の変後に行われた、信長の後継者を決める『清洲会議』では、秀吉の意見により信長の孫が選ばれたため、織田信雄は織田家の後継者となることができませんでした。
ですがその後織田宗家を継ぎ、名家織田の血筋を現代まで残したのは、唯一、信雄公の系統だけといわれています。
元和ニ(1616)年、織田信雄公の四男・信良(のぶよし)公が後を継いで福島地区の仮陣屋に入ると、織田氏による小幡藩政が始まりました。
しかし仮陣屋では手狭となったため、旧小幡氏の重臣だった熊井戸氏の屋敷跡を利用した小幡藩邸への移転が行われ、この時から小幡藩の中心は小幡となりました。
織田氏は養蚕などの産業育成に力を注ぎ、小幡の発展に尽力する一方で、群馬県で唯一の大名庭園【楽山園(らくさんえん)】を残しました。
楽山園は、池の周りの園路をめぐって観賞する『池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園』。
周囲の山並みを借景として取り込み、その美しさから国指定名勝にもなっています。
園路には『梅の茶屋』や、全国でも珍しい五角形の形状をした『腰掛茶屋』など、複数の茶屋を配しています。
茶道の心得がある者が作庭に関わったと考えられ、織田氏と茶事との関連も感じさせます。
石材の宝庫である甘楽町の銘石を使った庭は、数万両を費やし、完成まで七年もかかったといい、群馬県内で最も江戸時代の雰囲気を色濃く残す、歴史・文化的にも貴重な庭園です。
そんな織田家も、明和三(1766)年、藩政の立て直しをめぐって重臣間で内紛が勃発し、たまたまその頃山県大弐の尊王思想の『明和事件』に関わっていたことにかこつけた幕府の処分を受けるかたちで、織田氏は出羽高畠に転封となります。
織田氏による支配は八代信邦まで、約百三十年間続きました。
以後、版籍奉還までの約百年間、松平氏が小幡藩主となります。
発掘調査の結果、藩邸内で使用されている石は織田氏の方が立派で、松平氏は通路や水路などを縮小していることなど、織田氏と松平氏、それぞれの時代の違いがわかるとされます。
広大な武家屋敷地区など、二万石の小大名には不似合いな規模のものは、織田宗家の格式を思ってつくられたと考えられています。
小幡では、そのかつての織田氏の時代を今に伝えるべく、毎年春に『城下町小幡さくら祭り武者行列』が盛大に開催されます。
そのさくら祭り、コロナ禍ということで何年か中止されましたが、今年は今度の日曜日、四月二日に開催されます。
小幡という町の人口や規模から考えるとかなり大きな大きな、大々的なお祭りで、まさに町をあげての一大イベントとなっているかと思います。
桜の花の時期は…今回のお祭りの時期には少し散ってしまうかなぁ。
…桜の花の盛りは短いですからねぇ。
…どうかなぁ。
小幡には織田家七代の墓があります。
以前は小高い丘の上に風雨にさらされた状態であった墓に今はそれぞれに覆屋が造られ、その前には、まだ新しい公園が整備されています。
今回はこちらへは参拝せず。
東国花の寺の霊場札所となっている、同じ甘楽郡甘楽町にあります【寶積寺】さんへ参拝させていただきました。
【寶積寺】さんへは何度目かの参拝、ですが、花の寺の札所でありながら、いつも花の時期を外しての参拝でありました。
今回は…どうかなぁ。
実はこちら、二百本の様々な桜が植えられる〝桜の寺〟。
なかでも見ものは御本堂の前に聳えるように立つ枝垂れ桜、であります。
…!
…目指す寶積寺さんはあそこだ。と、わかるくらいにさまざまな桜色何一つの山を織りなすかのように、かたまったところがあるではないですか!
「うわぁ!」
私ども、こちらのお寺さんが大好き、であります。
お墓は通り越して参りましたが、お墓のあります、崇福寺さんを菩提寺と定めるまでこちらの寶積寺さんが織田家の菩提寺でありました。
四代信久が廃寺であったという崇福寺さんを再度建立するまではこちらが菩提寺さんであったようです。
寶積寺さんの枝垂れ桜とそのほかのいくつかの桜はまさに満開の時を迎えていました。
なんと美しい…。
本堂前の樹齢百五十年と言われる枝垂れ桜を中心に、境内や周辺の山々に山桜やしだれ桜、ソメイヨシノにおかめ桜…。
少し時をずらして八重桜が咲くことでしょう。
桜の花の時期でもなく、紫陽花の頃でもないときに参拝させていただいても、大変居心地のよいお寺さんでありますというのに、この桜の花の頃を知ってしまったら、また欲が出てしまいますというのに。
これはなんとも罪作りな桜であります。
(いやいやおばさんが欲深いだけでしょう)
なだらかな坂を登っていくと、石段が見えてきます。
石段の途中にはお地蔵さまがおられるのですが…。
こちらのお地蔵さま、お顔がぼやけるくらいに摩耗してしまっています。手や膝などは削り取られており、痛々しい傷痕となっています。
大きな白い布で覆われた肩から背中、首にかけてはさらに大きな傷となっているのだとか。
実はこちらのお地蔵さま、みがわり地蔵さまとして大変名高い御像なのだとか。
かつて人々はこの石造のお地蔵さまの身を削り、その石の粉を飲んだのだそう。
みがわり地蔵信仰と呼ばれたものといい、今でもその信仰は形を変えて続いています。
今は『身替地蔵札』なるものをお分ちくださっています。
お地蔵さまから視線を左にずらしますと大きな大きな白い観音さまが見えてまいります。
そしてその後ろには枝垂れ桜が。
ここで(忘れそうなので 笑)『身替地蔵』さまについてもう少し。
宝積寺の二十七世万仭(ばんじん)様は、元禄十一(1698)年九州の佐賀県に生まれ、厳しい修行を積まれ、その後佐賀・岡山・愛知で多くの寺院を開山、寺院住職を歴任し、五十九歳の時最後の住職地として宝積寺に赴任された方といいます。
ちょうどその頃、甘楽の地では内臓病に苦しむ人が絶えず、多くの人々がその病に苦しんでいました。
万仭様は『身替地蔵菩薩』を、苦難にあえぐ人々の病を癒す仏様としてお迎えされました。
このお地蔵さまは「病を癒してくれる。」と評判になり、人々は押すな押すなの大行列をつくりお地蔵さまにお参りをしました。
いつの頃からか、誰が始めたのか、人々は砂岩でできたお地蔵様の背中を削り、その粉末を飲み、病を癒すようになったといいます。
あっという間にお地蔵さまの背中の石は削られ、人々は左首を削るようになりました。
ある時お地蔵様の首は落ちてしまったといいます。
歴代住職が何代にも渡る研究により、生み出されたのが『身替地蔵札』だといいます。
とても変わったお札で、小さなお地蔵さまの描かれた紙片を飲む、というお札です。
天然水で飲むのが良いと伺っています。そしてお地蔵さまの像のそばで飲むと良いともお聞きしました。
えっ?
そのお札をお受けしたか、ですか?
一瞬は心が動いたものの、取り立てての不調は無いので、やめておきました。
…めまいとか低血圧とかはどうした?ですか?
おほほほほほ。
このお地蔵さまの話を書いていて、ふと子どものころに読んだ『幸福の王子』を思い出しました。
オスカー・ワイルドの、金箔の銅像とツバメのお話を。
あるところに「幸福な王子様」と呼ばれる王子がいました。
王子が亡くなったあと、王子の銅像が建てられました。
銅像の体には金箔が貼られ、青い瞳はサファイア、腰の剣には大きいルビーがつけられていました。
ある日、一羽のツバメが王子の像で一休みしていると、王子の銅像がツバメに願い事があると話しかけました。
王子は、「熱で苦しんでいる男の子がここから見えるけど、男の子の家は貧しくて薬が買えないでいる。それどころか欲しがっているオレンジ一つすら。僕の剣についているルビーを男の子に渡してほしい」と言いました。
ツバメは王子の言う通り、腰の剣についたルビーをはずして熱で苦しむ男の子の元へ届けました。
次に王子は、目のサファイアをはずして、一つは才能のある貧しい若者へ、もう一つはマッチ売りの少女に渡すように頼みました。
王子は両目を失ってしまいましたが、とても清々しい気持ちでした。
エジプトを目指していたツバメは、人の幸せのために自分の目を失った王子を見て、これからは自分が王子の目の代わりになると決めました。
それからツバメは町中を飛び回り、貧しい人を見ては王子に話して聞かせました。
王子は、自分の体に貼られた金箔をはずして貧しい人々に配るように伝え、ツバメは言う通りにします。
やがて王子の体の金箔は全てはがされ、ついに灰色の王子になってしまったのでした。
そして町にも冬が訪れ雪が降り出し、寒さに弱いツバメは王子に別れを告げると力尽きて王子の足元に落ちました。
ツバメを失った哀しみから王子の鉛の心臓ははじけてしまいました。
すっかり汚くなってしまった幸福な王子を見た町の人は、像を溶かそうとしました。
しかし王子の鉛の心臓だけはどうしても溶けなかったので、ツバメの死体とともにゴミとして捨てられてしまいました。
そんなころ、神様にこの町で一番美しいものを持ってくるようにと言われた天使は、ゴミ捨て場から王子の心臓とツバメを手に取りました。
それを受け取ると神様はうなずき、王子とツバメは天国で永遠の命を授かり、天国で幸福に暮らしました。
…というお話です。
…身替地蔵さまと『幸福の王子』ではだいぶ話がちがうのですが、身を削って人々に幸福を与えた御像、という点では共通する、かしら。
怪しいおばさんの、すっかりあやしくなった頭の中が、そう思ったことなのでどうか流して読んでやってください。
ちなみに、子供の頃にこのお話を読んだとき、幸福の王子さまは銅像になっても〝王子様〟なのだなぁと思ったのを今あらためて思い出しました。
越冬のためにエジプトに向かうと言っているツバメに自分が考え思ったことを伝えてはあれこれお願いして、結果ツバメは命を落としてしまったことに対して、子どもの頃の私は少し怒りを抱いたようでした。
…あらためて可愛げのない子供だったなぁと思うことしかり。
ま、その可愛げのないまま大人になっておりますけれど。
今はね、少し違うことも思ったわけで。
無憂宮と呼ばれる宮殿に住み、自らも、生前は悲しみに触れることなど一切ない生活を送っていたと話し、それを幸福と呼ぶならば、自分は紛れもなく幸福であっただろうと語っている王子。
銅像になって悲しみを知り、それを自分の身につけられた金や宝石を使って幸福を分け与えて、つかの間心を満たしていた王子の像が、自分の手となり足となり、目となってくれたツバメの死によって、心が砕け散るほどの悲しみを知ることとなり。
ああ、人はこうして学び、成長するものなのだなぁと。
そこにはそのために犠牲になってくれた存在もあるということを忘れてはならないのだなぁと、あらためて思ったのでありました。
ちなみに。
この幸福の王子が初めて日本に、子供向けに紹介されたのは昭和十年くらい、といいます。
昭和六年の満州事変、同七年の五・一一事件、そして同十一年には二・二六事件と、世の中が乱れ日常生活も困窮していた頃といいます。
そんな中、その頃育ちつつある子らに広い広い世界というものを書物を通して伝えたいという思いが込められてのものだったと、大人になって知りました。
その企画をされた人物は作家の【山本有三】氏。編集主任には【吉野源三郎】氏があたられていたといいます。
『少年少女の感性の陶冶(とうや)と知性の訓練に役立つ書物』というコンセプトのもとに作られた【世界名作選】。幸福の王子はこの中の一作品です。
うーん、…ごめんなさい。
ちょっと規格外の子供が混じっていました。
寶積寺さんは山の中腹にありますので、鳥の鳴き声が聞こえ、緑が綺麗で、いつ参拝してもとても良い雰囲気のお寺さんであります。
御由緒によると、創建は不明になりますが、現在のお寺より南に四キロほど行った山の中腹にある天寿庵(てんじゅあん)と言う庵が始まりとされています。
お寺の境内には、弘安三年(1280年)、正安四年(1302年)、延慶二年(1309年)の板碑が建立されており、その時代にはすでに天台宗の寺として、広い寺領を持ち、栄えていたようです。
宝徳二(1450)年、領主の『小幡実高(おばたさねたか)』公が中興開基となり、茨城県の即庵宗覚禅師を請いて曹洞宗とし再興されます。
その後、小幡氏とともに戦乱の渦に巻き込まれながら栄枯盛衰を繰り返したといいます。
室町時代後期の永禄四(1561)年(史実)と天正十八(1590)年(伝承)、と二回の戦火にあい伽藍の全てを焼失し、その後極度に寺は衰退したとされます。
またこの間、永禄六(1563)年には小幡氏の内紛により「宝積寺合戦」が起こっています。
小幡氏が滅ぶと、元和2年(1616年)に織田信長の孫『信良』公が小幡藩の藩主となり、菩提寺を寶積寺と定め毎月日を決め(月に八度)参詣されたといいます。
その後、信昌から信久と続いたが、信久公の代に小幡氏の陰膳の事でお寺さんと口論となり、信久公は立腹のあまり墓地その他すべてを祟福寺に引移してしまったのだといいます。
江戸時代初期の寛永七年(1630年)十四世石室和尚によって、それまでの東向きから現在の本堂を北向として建立されました。
江戸時代中期の寛政二(1790)年に伽藍のすべてを焼失、寛政五(1793)年に三十一世大和尚が再建されたのが現在の本堂だといいます。
寶積寺さんは近年まで修行道場として栄え、特に二十七世万仞(ばんじん)禅師(…あの身替地蔵さまをお祀りになられた方ですね)が住職として入山すると、全国から八十余名の修行僧が参集し禅風を大いに振るったといい、今もなお末寺や門葉がたくさんあるお寺さんだといいます。
御本尊さまは「釈迦如来」さま。
ただ、東国花の寺であったり、上州観音霊場やふれあい観音の札所でもあり、聖観音さまもまた御本尊であります。
この聖観音さまはあの、石段を登った先にある大きな大きな石仏さまであります。
この大きな大きな聖観音さまの御像は平成五(1993)年に造られました。
実は…この聖観音さまはある一人の女性の慰霊のために建てられたものだもあるのです。
その方の名はお菊さま。
『菊女伝説』、『菊女観世音菩薩・霊験記』として語り継がれるのは、以下のようなお話であります。
(以前も同じお話を紹介させていただいているのですが再掲いたします)
戦国時代の末期、この辺りを治めていたのが国峯城主・小幡上野介信貞公でありました。
その腰元に、美しく聡明なお菊という女性がいました。
信貞公はお菊を寵愛し、給仕係として片時もそばから離そうとしませんでした。
それに不満を持った奥方や腰元が嫉妬のあまり殿様の留守の折、あい図らって奥方のお膳の中に絹針を入れてお菊に運ばせました。
そして「これはお菊の仕業」と奥方が怒り、お菊は無実の罪に貶められ「蛇責めの刑」にあうのです。
毒蛇や百足(むかで)を入れた石棺の中に閉じ込められ、お菊は天正十四(1586)年九月十九日に十九歳で息絶えたのです。その時お菊はお腹に子どもを宿していたといいます。
お菊の死後、悪いことが続きます。小田原攻めで小田原方に味方した小幡家は滅び、寶積寺もたびたび火災に遭いました。
これはお菊の祟りであろうと追善供養を行い、「菊ヶ池権現」としてお祀りしました。
以後、成仏の功徳を現し、観音様として崇められた、という伝説であります。
(菊女伝説は、「番町皿屋敷」の一つの源流伝説でもあるといいます)
悲しいかな、日本の昔話にはこの手の話がたくさんあります。
石棺に封じ込められ、毒蛇やむかでって…。
本当に人の妬みとか僻みとか恨みとかという感情の悍ましいことといったら…。
何度この話を書いても背筋がぞぉーっとし、強い怒り、憎しみに近い感情しかわいてきません。
小幡氏が滅んだあと、この地を治めた織田家も、このお菊さまを哀れんで、寶積寺の境内にお菊さまとその生母のお墓を建てています。
…そんな悲しいお話からうまれたのが、この観音像なのでありました。
お菊さまは亡くなった時、殿様の子供を身ごもっていたことから、「子供を世に出してあげたかった。」との願いを強く持っています。
子宝安産・子育ての仏さまとして広く信仰されています。
…とはお寺さんのHPから。
うーむ。
これは…これについてはコメントは避けよう。
私だったら…を当てはめていいことではない。
ただただお菊さまの冥福をお祈り申し上げるだけです。
寶積寺さんは開創まもない頃、領主であった小幡公が、轟地内(寶積寺さんのある町が甘楽郡〝轟〟といいます)に厳島神社を建立し安芸の宮島の弁財天を勧請しました。
宝積寺境内にも池を設けその中心の島に弁財天を迎えました。
多くの宝、…仏様の教え・財宝(後付けで家族・結婚相手・容姿等々)を、弁財天のお力により授けてくださいとの願いで勧請され、『宝を積む』というところから寶積寺という寺名の元であるとの言い伝えも残るといいます。
そんな弁財天様ですが、実は久しくその所在が不明で、平成元年に新たに碑としてお迎えされた、とのことであります。
…なるほど。
そんなところからの寺名でありましたか。
この弁財天さまの碑は、建立からすでに三十五年が経とうというのに、つい最近建てられたかのように美しいのです。
そして刻まれた弁財天さまのお美しいこと、お美しいこと!
ついつい見とれてしまい、ハッと見とれて足を止めている自分に気づくくらいです。
『容姿端麗祈願の方は、きれいな布を持参いただき、弁財様のお顔をその布でなでてお参りください。』
とありますが…実際布でなでておられる方を見かけたことはありません。
それに…顔だけ撫でていたら、長い年月経つうちにそこだけ擦れてしまいそうですが?
そんな弁財天さまを見たくはないなぁ。
花の咲かない時期でも思わず目を奪われる枝垂れ桜の樹。
花の時期はことさらで、まずは御本堂にお参りを、と思う心をもつい気づくと引かれてしまっています。
まっすぐ、まっすぐ!
御本堂の中もたくさんの参拝の方がおられます。
こちらは土間の部分から一段縁を設けて、そしてぐっと高い位置に内陣があります。
ご本尊の釈迦如来さまは高い位置からやわらかなまなざしを向けてくださっておられます。
私どもが本堂に入って手を合わせるとき、ちょうど目の合うようお立ちになられているのだと思います。
そしてそのせいもございましょう、寒さの残る頃に来ても、暑い夏に訪れても、いつもいつも心地よい御本堂であります。
高い高い天井です。
お書き置きの御朱印と、御守り。
あの身替地蔵札もここにありました。
お寺の方が中をほどいて見せてくださったことに、包み紙の中に小さな小さな紙片に描かれたお地蔵さまのお姿があり、これを天然のお水で飲むのだといいます。
そして包み紙をさらなる御守りとしていつも身につけておくのだといいます。
内臓病に効くという御利益は、退化するばかりの脳にも効いてくださるのかなぁ。
寛政五(1793)年に建てられたというこの御本堂、少しも古さを感じない、いつも澄んだ明るい気に満ちた、いつまでもいたいと思うくらいの、私の癒しの空間のひとつです。
…ただ、土間の部分は奥行きはさすがにあまり広くはなく。
あまり長くいられはしないのですが。
ご本尊さまから尊い紐が御本堂の外の柱もありがたく、いつもしっかり五色の紐を握りしめて癒しをいただいております。
はたから見るとそれこそ長々願いごとをしているように見えるくらいに。
こちらではもう、そんなお願いことなどする気持ちにすらならないんですよね。
ただただ癒していただいたことに感謝するばかりで。
これって…すごい御利益でしょう?
この煩悩の塊のおばさんが、ひとときとはいえ、煩悩がない状態になるということでしょう?
いくつかそんなお寺さんがあります。
そこへ足繁く通ったならば、煩悩が少しでも消えていくのかしら。
…と思うことがすでに、煩悩?
そんな癒しの御本堂、向かって左側に、おっ、と足を止めるくらい大きな大きな石があります。
背の高い石ではなく、ちょっと足を掛けて登れるくらいの高さで、それがほぼ平らかな断面で、畳二、三畳ほどあるのでしょうか。
(このおばさんの目検討はまるで当てにはならないので、決して正しくはないことはご承知おきください 笑)
この石、古より多くの僧侶が、この石を使い修行を行ってこられた石だといいます。
その名を『天狗の腹切り石』といいます。
なんとも物騒な名前ですが、ここにもまた悲しい過去がありました。
伝説によると永禄六(1563)年、小幡氏の内紛により『宝積寺合戦』なるものが起こったといいます。
寺の僧・巌空坊は大きな巨体で敵兵に丸太をふり回し応戦したが、諸堂に火を放たれ,力尽き果て、この石の上で切腹したと伝えられている、というのです。
この時からこの岩を『天狗の腹切り石』といわれているといいます。
石自体に縄を巡らせ、いくつもいくつもの紙垂が付けられ、石の前にはいつも、いつ行っても新しい卒塔婆が立てられています。
この石、まるで液体が垂れでもするかのような苔が生えていて、それ以外は一切苔むすことなく、石肌(岩肌?)のままなんです。
小心者の私はこの天狗の腹切り石が怖くて怖くて…。
戦国時代より前からあるお寺さんは大なり小なり、そんな血生臭い歴史があったりすることもあって、ビビりのおばさんはピッと身が引き締まるのであります。
この次に向かうのは…。
理由は何故なのかさっぱりわからないのですが、家を出るときから、
「あとは笹森稲荷神社さんだな、やっぱり」と盛んに言っていた夫。
あまりにも熱く語るものだから、遠回しに何故なのか聞いてはみたのです。
「えっ?笹森稲荷さんだよ?」
…私、なにか重要なことが頭からすっぽり抜けているのだろうか。
こんなにも熱く語られる理由がさっぱりわからない。
いろいろなところへ参拝させていただいてはおりますが、こんなにも熱い情熱をもって語る彼をあまり見たことがないような…。
うーん、そういう時は大抵私もテンション高いから気づかなかっただけ、なのかなぁ。
笹森稲荷神社さん、…そおっと開いた『群馬県の歴史散歩』という本には「笹森稲荷神社の境内に、笹森古墳がある…」と書かれています。
「笹森稲荷神社さんて古墳に建てられているんだね」と私が言うと、
「えっそうなんだ」と夫。
えっ?
古墳でもないんだ。
…いや、別に神社さんへお参りするのに理由なんていらないのです。
彼のこだわり、ちょっと異様なテンションの高さが気になるだけなので。
結局わからないまま、車は笹森稲荷神社さんへと向かいます。
…ナビを見間違えて、だいぶ遠回り…というかUターンするくらい町を間違えて、ですが。
こんもりと高いお山が住宅地の一角に見えてきました。
…古墳だぁ。
広い広い駐車場です。
駐車場に降り立つだけでこの【笹森稲荷神社】さん、同義で【笹森古墳】の大きさを感じとることができます。
笹森稲荷神社は、群馬県甘楽郡甘楽町福島に鎮座、小幡八幡宮からは本当にあっという間であります。
(…まあ、私どもはかなり遠回りをしたのですが、ね 笑)
最近すっかり観光スポット化したヨコオデイリーフーズの「こんにゃくパーク」も近いようです。
神社は、甘楽・富岡地域では最大規模で六世紀後半に造られた前方後円墳の上にあります。
この古墳は、当時の甘楽地方を支配した、豪族の墓だと思われます。
古墳の規模は、全長約101メートル、前方部幅約61メートル、後円部径約60メートル、高さ約10メートルとのこと、埋葬施設は後円部にあり全長16メートルの横穴式石室で、群馬県内で二番目に大きい規模です。
笹森稲荷神社は後円部西側からくびれ部にかけて建っています。
笹森稲荷神社の草創は、平安時代初期の天長二(825)年と云われています。
江戸時代に入り、元和元(1615)織田信長の次男の信雄(のぶかつ)は大和宇陀藩三万石と上野甘楽郡二万石を与えられます。
元和二(1616)から翌年まで藩主を務めた永井直勝を経て、信雄の四男の信良(織田信長の孫、北畠晴具の曾孫)が小幡藩を立藩し、当初福島の地に仮陣屋を造り、元和二年~寛永十九年の二十年あまりそこに居住したといいます。
その場所が稲荷山東学院の境内と云われ、この東学院が笹森稲荷神社の別当を勤めたことから、小幡藩の鎮守として歴代藩主は篤く信仰するようになったといいます。
また、信良がこの福島に在館中、笹森稲荷神社に安産祈願を行い三代藩主となる信昌が無事誕生した事から、特に笹森稲荷神社を鎮守神として崇敬しました。
それ以来織田氏はここに武運長久と領内安全を祈念したといい、さらに、小幡陣屋の整備の際には安全祈願のため『神楽』を奉納したとされています。
こうして始まった『太々神楽』、幕末から明治初めにかけて一時中断していたが、明治九(1876)年、
吉井町神保の【辛科神社】さんより、また甘楽町白倉の【白倉神社】さんの太々神楽と一緒に伝授され、氏子さんや関係者の努力によって、明治十一(1878)年に再興されたといいます。
駐車場から神社さんの方を見ても、その古墳の大きさを感じ取れ、圧倒されます。
もちろん、そこには神社さんが建ち、森があり、一見して古墳とは…わかるかもしれない。
少なくとも、古墳というものを知っている方なら(あれっ?)とすぐに思うことかと思うくらいで、何よりも…オーラが違うのです。
うーむ。
そういえば石室もしっかりと残されていて、事前に連絡すればその石室も見学できるとかできないとか…。
おばさんのビビりセンサーのアンテナが一本 笑。
駐車場からも直接境内に入れそうではありましたが、ここは鳥居を目指します。穢れを祓って、しっかりとした手順でお参りせねば!
おおっ!
大きな大きな鳥居です。
鳥居の前に立つと、下り坂で、(ん?下り宮?)と一瞬は思ったのでありますが、その先にある隋神門(?)は少し高台となっており、さらにその先にある社殿はむしろ高台にあります。
これだけの大きな古墳を、たぶんほぼそのまま保存された状態で(そもそも私は古墳の知識が無さすぎて、どこからどこまでをもって古墳とするのかがわからない)神社を建て、すっぽりその古墳ごとを境内としているとしたら(…のだと思うのです。全周を見て歩いたわけでもなく、石室の位置すら確認していないので、あくまでも憶測、ではありますが)あえて、そのままの形を残して、残したままに神さまに失礼は無きよう建てた、のだと思います。
まぁ、変にいじらない方が労力もお金もかかることなく建てられますし。
それに創建がかなり古い神社さんでありますので、古墳がなんたるかを知った上で、神さまにお護りいただこうとしていた、とも考えられる?(あくまでも私の考察です)
ま、まぁ、そんなわけで、隋神門をめざします。(どんなわけ?)
…こ、これは…隋神門、ではない、ような気がいたします。
隋神さまがおられないのみならず、元々隋神さまをお祀りするような形で造られていない気がいたします。
おそらくは最初から上から柵で覆う形で造られていますし、隋神さまを祀るような少し高くした段?台?なども無いようにみうけられます。(あくまでも覗いて、なんですがね)
そしてこの門の通路部分の天井には、不思議なことに二枚の全く異なる天井画が描かれているのです。
それも手前半分と社殿に近い方の半分と、スパッと異なる画であります。手前は龍、奥は鳥。
初めて見る形です。
「ねぇ見て見て」
考察中(爆笑)の私に、夫がいかにものんきな声をかけます。
夫が視線を送る先はこの門の上の部分。
すぐに屋根ではなく楼門のように、まぁそこは壁のない吹き抜けの空間なのですが…そこに仲良さそうなキツネさまがこの門を通る者を見ておられるではないですか。
それなりに大きなおキツネさまです。
頬寄せ合って眺めておられるように見えます。
「きゃあ♡ なんて可愛らしい!」
声に出して騒ぐ私。
…これは不敬にあたらない?
考察中だったことは頭から一切すり抜けてしまい、さっさと門をくぐり、拝殿に向かいます。
この、キツネさまがお護りになられている門の先には石段があり、二ノ鳥居がありました。
高台に建てられた社殿は思いの外小さく感じられました。
拝殿の向拝部分にもやはり仲良さそうなキツネさまが二頭、じゃれ合うようなお姿で彫られています。
可愛いっ♡
と思う気持ちを鎮めて鎮めて。
厳かな思いで拝殿に向かって手を合わせました。
参拝を済ませて。
あらためて門の方を振り返ると、やはりいかにも仲良さげに、ちょうど陽もあたりちょっと桟敷で日向ぼっこでもしているかのような風にも見え、より一層可愛いらしく感じられます。
狛狐さま(…とお呼びして良いのでしょうか?)は大きなマスクを着けられており、お顔がほとんど見えません。
(世の中ではマスク着用は三月十三日をもって個人の判断となっているのに、なぁ)
と、またまたいかにも私らしいことを考えつつ。
いつものように拝殿の横にまわらせていただきました。
笹森稲荷神社さんの建物は基本赤、…少し色褪せて朱色に近い色あいです。
規模的には小さな社殿なのでしょうが、拝殿、幣殿、本殿とあり、ところどころ彫られている彫刻には元は色鮮やかであったろう彩色が見てとれます。
こちらの社殿は江戸時代中期の明和八(1771)年に再建されたものだということでありました。
社殿左側には少しコンパクトな神楽殿、そしておそらく神輿舎と思われる建物と、…たくさんの陶製のおキツネさまが祀られた稲荷社もありました。
社殿の前、石段を上がって少し右側に、初めて見る形の石塔がありました。
五角柱の石塔の各面に神さまの芳名が刻まれております。
五角柱なので五柱の神さまのお名前が力強い字体で刻まれておりました。
こちらの主祭神さまは、
倉稲魂神(うかのみたまのみこと)さま
豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)さま
この二柱の神さまとは別のご芳名であります。
ともするとPOP風にも見える字体でもありますが、天明の時代に建てられた石塔でありました。
これだけの社殿でありますが、神職の方は常駐されておられない様子で、社務所等もありませんでしたが、境内内に結構大きな、公民館のような建物が建てられており、来る選挙に備えて決起大会?なのでしょうか、内側ではありますが一人の候補者の選挙用のポスターが何枚か貼られ、人が忙しそうに動いていました。
今年は大大神楽の奉納されるという春の大祭はなかったのかなぁ…。
お祭りのあと、という雰囲気は一切残されていませんでした。
ところで。
あの隋神門ではないのではないか…と疑問を抱いた『笹森稲荷神社』さんの問題でありますが、思えば形や規模こそ違えど、いくつかの神社さんでこうした門をくぐったことがあったことを思い出しました。
怪しい頭の怪しいおばさんの、さらに怪しい記憶のみをたどってのものではありますが、
たとえば群馬県桐生市のかなりの山中に建つ『栗生神社』さん。
たとえば宮城県仙台市青葉区八幡にある『大崎八幡宮』さん、など。
『大崎八幡宮』さんのものは『長床』と呼ばれていたような気がいたします。
その『長床』を調べていって。
【割拝殿】と呼ばれる門に似た形の建物があることを知りました。
これは『中央が吹き抜けになっていて、左右に床間がある。これは回廊形式の中門と左右の回廊が変形した結果だと考えられる。』(by ウキペディア)
とあり、また別のものでは『平安末期ころに現れた拝殿の形式で、横長の平面の中央を土間をとって通路としたもの。』ともありました。
もしかしたらこれが一番近い形をしたもの、なのかもしれません。
これはあくまでも、怪しいおばさんの一考察に過ぎませんので、ふふんと鼻で笑い流してやってくださいね。
さて。
この日はさらに。
向かったのは群馬県安中市の東部、鷲宮地区に御鎮座する【咲前(さきさき)神社】さんです。
少し珍しい、初めて目にするとなんと読むのか悩んでしまう名前の神社さんですが、実は富岡市にある【一ノ宮貫前神社】の前宮とされている神社さんであります。
実はこちらへは何度か参拝させていただいております。
ただ何度参拝させていただいても神職の方がご不在で、御朱印はともかく、お聞きしてみたいことがあり、こちらの方面に来ると寄らせていただいていた、という神社さんであったのです。
道路に面した鳥居をくぐった先はすぐに石段が続きます。
登りきると一気にパァっと明るく華やいだような気に満ちた境内となります。
以前来た時から少し間が開いており、その間に少し境内の様子が変わったような…。
以前参拝させていただいたときも、参拝の方が少ないときでも明るい華やいだ雰囲気の境内でありましたが、今回はさらに明るい雰囲気なように感じます。
どうやらその原因の一つは、社務所の建て直しにあったかも。
真新しい、感じの良いショップのような、広い間口の全面ガラス張りの社務所となっておりました。
まずは拝殿に向かいます。
ひだりてに神楽殿があります。
参拝を終えて、ふと見ると四月一日が春の例大祭と書かれたものが貼ってあります。
おおっ!
御神楽の奉納もあるようです。
さて。
社務所へと向かいます。
…⁈
だ、誰もいない!
…嘘でしょ?嘘だと言って欲しいんですが?
『御用の方はチャイムを鳴らして下さい』
と書かれています。
押す、押します!
時間は?
…大丈夫、まだようやく二時、といったところです。
ドキドキドキドキ。
最近、お寺さんも神社さんも、花手水をなさるところが増えています。
コロナ禍が手水の習慣を変えてしまったことも一因しているかと思います。
その花手水を愛でに参拝される方も増え、コロナの分類が第五類となろうとしている今ではありますが、果たして今まで通りの手水に戻ることかどうか…。
以前はこの手水鉢からの水を口に含むことが嫌で嫌で、それでも神さまや仏さまへの礼と考え、努力してそこを我慢しその作法を守っていたものです。
それが全く無くなったコロナ禍。
それだけではなく、やはり衛生面であったり、カラスが食べ物を水に入れてしまうなどの害もあって、どんどん手水は無くなりつつあったのではありますが…。
今、桜の季節。
水をたたえた手水鉢に、桜の花びらがいくひらも舞っています。
ひらひらと浮かぶ桜の花びらはまさに自然が作りたもうた花手水。
私が一番感動し、大好きな花手水であります。
咲前神社さんでチャイムを鳴らして、出てこられたのは…おそらく高校生のお嬢さん。
「御朱印をお授けください」と私。
キビキビとした対応をしてくださいます。
「それではお待ちください」と、掛けられた暖簾の奥に戻っていかれました。
楽しそうな会話が聞こえます。
仲の良いご家族のようです。
お聞きしたかったことは、しばらく来なかった間に境内が整備されて、案内板に書かれていました。
それは…。
『根子石』という拝殿の左右に置かれていた石。
この石、何故かたくさん小石が載せられており、初めてこちらの咲前神社さんを訪れたとき、さらにこのあと何度か訪れたときには、この根子石についての説明書、案内板などはありませんでした。
群馬県ではさほど多くは見られないのですが、長野県であったり東北地方であったりでは、このように小石を積む、載せてある〝石〟〝岩〟〝御仏像〟などを、結構見かけるのでありますが…。
どういった理由、意味合いをもって石を積むのかが、ずっとずっとわからないでいたのです。
実はこの〝根子石〟、小石をのせて願をかけると、願いがかなうという養蚕の神さまにまつわる『奇石』、でありました。
さらにお聞きすることが可能であったなら。
社殿の左右に対になっている理由とか、…もしかしたら神社の建立よりも先にここにあったのかもしれませんし。
何故〝根子石〟と呼ぶのか、とか。
何故石を積むのか、とか、お聞きしたいと思ったものは本当は他にもあったのですが…。
健気に家の神社の社務を手伝う女子高校生を困らせたくはなかったので、そんな私のちっぽけな疑問はそっと胸のうちに封印いたしました。
いつかまたお聞きする機会もありましょう。
咲前神社さんの拝殿の両脇にあります、養蚕の神様が宿るとされる『根子石(ねこいし)』。
養蚕業が盛んだったこの地域で、かつて養蚕を生業とする人々が商売繁盛を祈願した石だそうで、現在はさまざまな願いを込めて〝まゆ小石〟なる石が置かれているようです。
かつて私どもが訪れたときにはこの〝根子石〟には普通の小石が置かれており、…とはいえこちらの境内はよく掃き清められており、また敷石等もなくて、境内の中で石を探すのは困難でありましたが、その時も実はこの〝根子石〟の上に置くという〝まゆ小石〟というものが存在することは書かれておりました。
が。
そのとき、その〝まゆ小石〟の入れられているという箱は空であり、『根子石』に願をかけるのに困った参拝者が、来る前にどこかで普通の小石を調達し、その小石を積んだ、ということ、だったのでしょうかね。
今は拝殿のそばに願掛け用に準備されてた〝まゆ小石〟と呼ばれる白い玉石があるので、初穂料百円を納めて根子石に載せることができるようになっていました。
かつて訪れた際には技術を要するほどに積まれており、念願成就の祈願に訪れた人々の思いの深さを物語っている気がしました。
そのとき疑問であった〝まゆ小石〟とはどういうものなのか、というものについては、今回は潤沢に用意されておりましたし、養蚕の神さまに対しての願掛けの儀式であったことはわかりました。
…養蚕の神さまは、祈願の内容が多岐に及んで、困惑されておられるのではないかと、少し心配になり、申し訳なくも思うのでありましたが。
※あまりにも酷い誤字がありほぼ同じ内容を再掲させていただきます。
また、今回はさらに。
やはり拝殿のすぐ右に、透明の三十センチ四方くらいの大きさの箱が置かれており、中に直径四センチほどのややピンクがかった丸いものがいくつも入っており目を惹きました。
その球体、一つ一つセロファン系の袋に入っております。
『厄割桃みくじ』、と書いてあります。
この球体、『厄割桃』と呼ばれるもののようで、厄・災いを込めて、『厄割石』でこの厄割桃を割って、厄落とし、また、自身の魂の浄化をする、といいます。
〜古来、桃は厄除けの果実とされており、『古事記』では伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が桃を投げつけて、魔物を追い払う様が描かれています。
厄割桃は、土でできており、土に還る陶器です。 〜
とのこと。
魂の浄化は是非とも必要、な、歩く煩悩おばさんは、早速この〝厄割桃みくじ〟を引き、〝厄割石〟で割ったのでありました。
咲前神社さんには四社の境内社があります。
社務所の左横を少し行くと『絹笠神社』さんがあります。
名称からも想像できるように、蚕の神「絹笠様」が祀られており、豊蚕や安産子育てに功徳があるとされています。
養蚕県群馬の中でも、碓氷(うすい)・安中地方は特に養蚕の盛んな事で知られていました。
お蚕の神さまという『絹笠様』。
ですが実はこの神のことはよくわかっていないのだといいます。
神道の蚕神は大きく二つに分けられ、
一つは保食神(うけもちのかみ)・大気津比売神(おおげつひめのかみ)・稚産霊神(わくむすひのかみ)などの蚕を産んだ神であり、
もう一つは天照大神(あまてらすおおみかみ)・稚日女尊(わかひるめのみこと)・天棚機姫神(あめたなばたつひめのかみ)・木花開耶姫(このはなさくやひめ)などの機織に関係する神であるといいます。
機織に関係する神は織物業に従事する人々などに多く信仰され、養蚕に従事する人々は蚕を生んだ神の方をより信仰の対象としているようです。
そのどちらにも当てはまらないという絹笠さま、ということになりましょうか。
群馬県は養蚕の神さまや仏さまに対する信仰があちこちにあり、実は前述いたしました『寶積寺』さんにも『カイコの仏さま』の石仏がお祀りされておりました。
こちらも〝カイコの仏さま〟と呼ばれているだけでありました。
群馬県安中市の【咲前神社】さんは、
〜安閑天皇元(534)年に、神石『雷斧石』三柱の御出現を仰ぎ、時の朝廷に上奏したところ、奉幣使、磯部朝臣小倉季氏と共に高椅貞長、峯越旧敬を伴い上毛野国に御下向があり、抜鉾(ぬきほこ)大神『健経津主命(ふつぬしのおおかみ)』さまをお祀りし、社を建てられた。
それ以後、磯部朝臣が祭司を司った。
敏達天皇元(572)年第3代磯部朝臣小倉邦祝は磯部郷小崎の里に居を構え、以降小崎を名乗る。
白鳳元(650)年第十一代小崎邦平は、神託により抜鉾大神を神楽の郡(甘楽郡)蓬丘菖蒲谷に御遷座する。
供奉の道筋では、七五三原(しめきはら)でまず神事があり、明戸坂で夜明けがあり、宇田で御旅所となり御遷宮された。現在の一之宮貫前神社である。
磯部郷前宮(さきのみや)跡は、先の宮として崇め咲前神社が祀られた。
引用:「鷺宮咲前神社 公式HP」〜
咲前神社の主祭神さまは
健御名方神(たけみなかたのかみ)さま・
大己貴命(おおなみちのみこと)さま・
保食命(うけもちのみこと)さま。
この三柱の神々が、『神石』として御出現なされた、ということで、奉幣使が下向した折、神剣を神格化する「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」さまを合祀されて、社を建てられた、ということであり、…ますかね。
そして。
第十一代の神職のときに御神託があって御遷座されることとなり、その御遷座先が富岡市の上野國一之宮貫前神社さん。
今までのお社『磯部郷前宮』が『咲前神社』さんとなった。
と書いてあるんだと思うのだけれど…。…どうかな?
この次に向かったのは、…この稚拙な駄文を書き始める以前に参拝させていただいたことのある、群馬県高崎市の【大聖護国寺】さん。
ちょうどその時はご住職さまはじめ、ご家族のどなたもおいでにならず、御本堂前で手を合わせて参拝を終わらせたものでありました。
なんでも、昭和五十三年(1978)に再建されたという御本堂、平成二十八(2016)年に開山八百年を機に改修されたといいますから、ちょうどその、御本堂ができたばかりの頃、であったのだろうと思われます。
広い境内に真新しい御本堂がぽつんと建っていたこと、どなたもおられない広い境内がなんとなく居心地が悪くて、早々にお寺さんをあとにしたことを覚えています。
隣に御鎮座されている【八幡八幡宮】さんをゆっくり参拝し、随身門を出たところ、並びにいかにも新しいお寺さんがあるのが見え、そのまま参拝させていただいたのがはじめでありました。
今回参拝させていただく前にこちらのお寺さんのことがずいぶんとネットに取り上げられておりました。
八幡八幡宮さんとこちらの大聖護国寺さんの『ふたとこ詣り』と称してコラボ御朱印をなさったり。
広い御境内に平成二十九(2017)年には客殿、令和元(2019)年には阿弥陀堂と書院と次々と新しい建物が建立されたことであったり、と。
なかでも私が心惹かれたのが、『桂昌院』さまが御寄進されたという、明王さまと三十六童子さま。
なんでも御本堂改修時に、前御本堂納戸から手足がばらばらになった五大明王・三十六童子、計四十一体の御仏像が見つかったといい、しかしながらその破損は激しく、全てを合わせると2000もの部位に分かれていたといいます。
現在進行形で富山県井波の『関こう雲仏所』さんにて修復をされておられます。
実はこの修復作業の過程で桂昌院さまの御寄進てあることが確認されたといいます。
不動明王さまの胎内には『綱吉同御母儀桂昌院建立之』と書かれており、また他の御仏像の胎内からも多くの『願い文』が発見されたということでありました。
もともと木製の御仏像の内部は、割れを防ぐために空洞で造られます。
内壁に来歴や施主の名が記され、御遺骨や写経した経、数珠などが納められでいる場合も多くあるといいます。
今回、御本尊の不動明王さまをはじめとする五大明王さまと三十六童子さまの修復に際し、先例にならい現代に生きる者の願い事を御仏像の内部に納入することができるといいます。
令和の大修理、令和の願い文と称し、これからの修理となる童子さまの胎内に願い事を納入できる、というものであります。
希望の童子さまを選ぶこともできるようで、願い文をお預けするとご住職さまが直接仏像胎内に納入し祈願の儀式を執り行ったのち、閉じられ仕上げの作業にかかることとなっているといいます。
御本堂には修理を終えた童子さまたちが、手を伸ばせば触れられそうなくらいそばに並んでおられます。
御本堂…というよりはまるでミュージアムのような、華やかで厳かな御内陣であります。
さらには、童子さまの御御影がそれぞれ描かれた『三十六童子修復特別御朱印帳』というものがあり、修理を終えた童子さまのご芳名を隣に墨書きしていただくという御朱印も始められているようで。
…本当はこれをお授けいただきたかったのですが、ねぇ。
最近、御朱印をお受けするようになったころに自らを律するためにと打ち立てた、〝特別御朱印や、限定御朱印は極力お受けしないこと〟といったものが、どうも緩みがちな気がしておりまして。
これは煩悩、物欲ではないかと、悩むようにもなっておりました。
小さなお寺さんやら神社さんで、御朱印をお授けいただく時くらいしかご住職や神職の方とお話しさせていただく機会がもてない、というようなときは、その手段としても御朱印をお受けさせていただくのでありますが、御朱印用の受付があり、受付の方との対応のみで、ともすれば書き置きの御朱印をお金をお渡しして受け取るような場合は、それにも当てはまらないわけです。
毎月変わる月替わり御朱印。
美しい切り絵御朱印。
刺繍御朱印。
ポップアップ御朱印。
ついつい心奪われる私でありますが、それなりに値もはるものでありもします。
三十六童子さまの御朱印は、その〝三十六童子修理特別御朱印帳〟を購入しなければお受けできません。
二ヶ月ごとに一童子さまの御朱印をお受けしに通うことともなります。
…あ、通うのは私一人でも可能なのですがね 笑。
今、諸物価の高騰で胸がドキドキするようなスリリングな生活を送る国民として、何よりも無職という立場としては、…ねぇ。
〝三十六童子修理特別御朱印〟をスパッと諦めた私、…ではあったのですが。
あったのですがねぇ。
…ハッと心惹かれるほどお美しい不動明王さまの切り絵御朱印は、どうしてお受けしたく、その場で葛藤はしたものの、自らの心の弱さに間もなく完敗いたしました。
やれやれ、です。
かくなる上はこの不動明王さまの焔をもって私の煩悩を焼き払っていただきましょう。
はあぁ、物欲との戦いは難しいものです。
そんな私のもと、姉が鎌倉土産を手に遊びに来てくれました。
何故か御朱印帳まで持って…。
私がまだ訪れていない神社仏閣の御朱印がたくさん。
さらには、私が訪れたときには存在しなかった、〝春の特別御朱印〟だの〝刺繍御朱印〟だのが、…コロナ禍を経て…なのでしょうか、たくさんの神社仏閣で授与されるようになっていたではないですか!
…これはもはや修行のようです。
姉の御朱印帳に貼られた大仏さまの美しい横顔の刺繍御朱印を、(あぁなんて素敵なんでしょう♡)と思った私。
…どうかこの誘惑に打ち勝って、鎌倉三十三観音霊場巡りと十三仏巡りとを結願できますように。
それにしても。
書置きの御朱印よりも直書きの御朱印の方が高いという新しいルールができていたり。
直書きを希望した場合、二、三ヶ月先の仕上がりという凄さであったり。
私がたまにしか御朱印をお受けしなくなってから、ずいぶんと『御朱印界』は変わっていました。
なかでもコロナ禍が産んだ、そのお寺さんを参拝せずに御朱印を郵送していただけるというニュービジネス。
これはコロナ禍で、毎月お受けしていた月替わり御朱印が中断してしまうことに嘆いた声に、お寺さんや神社さんが応えた形、なのでありましょうが、それを発端として今では普通に、お寺さんやら神社さんのネット販売の〝商品〟として掲げられるようになっています。
「御朱印はスタンプラリーではない」とお怒りになられたご住職がおられるとネットで読んだ時代が今は懐かしいくらい。
お寺さんではかつては納経の証であったはずの御朱印ですが、今は納経を求めないどころか、困惑されたり、お断りになられるお寺さんもあるくらいです。
商品化された御朱印に、画やら、刺繍やら、切り絵やら、ポップアップやらと多種多様化された御朱印事情。
お寺さんの敷居が低くなって、お寺離れしつつあるという時代の大きな架け橋になってはいるでしょう。
が。
それでも…。
なんだか…。
なんだか御朱印が御朱印でなくなってきている気がしてならないのは…、私だけ?
ビジネスはビジネスでかまわないんです。
神社や仏閣はその維持にたいそうお金がかかるものですから、ね。
ただ、信仰心を持って参拝された方の気持ちを削ぐようであってはならない、ということだけは根底にあって欲しい。
まぁ、私の場合はそんな強い信仰の心を持ってはいないので、煩悩との戦いという修行をするくらいでありますが。
この度私がお受けした不動明王さまの切り絵御朱印もネットで五〜六倍の価格で転売されていました。
そんな転売されるくらいなら、お寺さんやら神社さんが直接ネットで販売される方が…いい?
やっぱり、御朱印がいろいろな意味で変化してきていることは確かなようです。
群馬県みどり市の【光榮寺】さんの副住職さまが、境内外の御堂であります【はねたき道了尊堂】での二月の例祭において、
「三月には東日本大震災の十三回忌ということなります。陸前高田と、福島のほうでの追悼供養の法要に参列させていただくこととなっておりますので、次の例祭ではそのご報告などさせていただけることかと思っております」とおっしゃっておられました。
あの、手彫りの握り仏像百二十体を岩手県の陸前高田市にある【金剛寺】さんへお届けすることとなったいきさつをはじめ、今の陸前高田、そして福島県いわき市の様子をお話しくださいました。
そもそもの始まりは、現在光榮寺さんで握り仏像の指導にあたられておられる仏師の方のもとに通っておられた方が、かの東日本大震災のあと
、陸前高田市へボランティアに行かれたことから。
津波に呑み込まれ影も形もなくなった陸前高田に波に乗って打ち寄せられる物を、粉砕処分をするという作業を担当されたようです。
中には根こそぎ流された樹などもあり、あの【奇跡の一本松】となってしまった松とかつては並木を成していた松の木々もふくまれていたといいます。
仏師のお弟子さんであるそのお方はそのまま粉砕処分をすることをしのびなく思い、師である仏師の方に電話をされたのだといいます。
仏師の方はとりあえず丸太のままこちらへ持ってくるようにと指示なさったといい、たくさんの松の丸太が群馬県前橋市の富士見村にあるという工房に運びこばれたのだそうです。
海に流され再び戻った松は、津波で命を奪われた方の魂を連れてきたのではないかと、仏師の方も陸前高田でボランティアにあたられたお弟子の方も思わずにいられなかったといいます。
時は流れて。
光榮寺さんの檀信徒さんの中で、仏像を彫りたいという声があがったといいます。
その声を受けて今回の仏師の方に声をおかけしたことから、今回、握り仏像を彫り、それを陸前高田の被災者の方々にお届けすることとなっていったといいます。
ご指導にあたられる仏師の方は、津波の被害を受けた方の魂を連れて海岸へと戻ってきた松の木であることを告げ、そういった思いを受け止め心を結んで仏像を彫っていきたいのだとお話になられたといいます。
そして…いつか被害者の方へそんな思いを込めた仏像をお届けしたいと思っていることを。
何十体を超える【握り仏像】が彫られた頃、仏師の方からあらためてお話があったといいます。
被災された現地の方にこの握り仏像をお渡しするようできないものかと。
相談を受けて副住職さまはいろいろ考えられたようです。
ですが、どこも的外れな気がされたといい、頭を悩ませておられたといいます。
そんな時、真言宗智山派青年会の僧侶として参列された、陸前高田の金剛寺さんの七回忌追悼法要のことを思い出されたといいます。
七回忌法要の折にはまだ本堂もなく、ようやく瓦礫が撤去されたくらいの復興状態だったという金剛寺さん。
その後、ようやく御本堂が建てられたということを聞き知って、ふと、(津波の被害に遭われた、金剛寺さんの檀信徒さんへお贈りするのはどうだろう)と思い立ったといいます。
金剛寺さんに連絡をとったところ、「喜んで」というお話をいただき、十回忌に、とも考えたといいますが、折しもコロナ禍という状況で、握り仏像を届けに行くことが叶わなかった、といいます。
今年三月、握り仏像百二十体を、ようやく金剛寺さんへと届けることができたといい、十日、全国から集まった真言宗智山派の青年会の僧侶らが参列し、追悼供養を執り行ったといいます。
握り仏像は震災の発生した十一日の慰霊法要で御遺族である檀信徒さんたちに配られたといいます。
金剛寺さんは、津波で本堂や位牌堂などを流失。檀家二百五十戸のうち、二百二十戸が被災し、檀信徒百二十六名が犠牲となったとお寺さん。
宗教法人のため公的機関からの補助は望めず、全体の九割近くが被災した檀家からの寄進も求めることなく、自力で再建工事に踏み切り、震災から六年半後、裏山を切り崩した高台に移転新築工事を終え、ようやく落慶したものといいます。
檀家有志の方々から寄付されたアカマツやヒノキ材、津波で全壊した庫裏の部材なども活用したという御本堂には、他のお寺さんに仮保管をお願いしていたご本尊さまをはじめとする御仏像、仏具を搬入されたといいます。
外陣の格天井にはご住職さまが一枚一枚梵字をお書きになられたといいます。
東北三十六不動尊の札所になっているという金剛寺さん。
いつか私も参拝できたらなぁ…。
三月十日に陸前高田の金剛寺さんの東日本大震災の十三回忌追悼供養に参加された群馬県みどり市の光榮寺さんのご住職さまと副住職さまは、次の日の、震災発生の三月十一日には、福島県いわき市に移動され、いわき市内のお寺さんで執り行われた十三回忌法要に参列され、その後加持土砂を散じながら海へと向かい、紙塔婆を海に流して御供養をなされたといいます。
僧侶というのは今の世においても、全国を股に歩かれるものなのだなぁ。
【加持土砂】というものについては、昨年参拝させていただいた真言宗豊山派のお寺さんで初めて知りました。
そのお寺さんでは御守としてお分ちいただけ、ビンに入れられたもの、通常一般的な御守り袋に納めたものなどがありました。
なんでも、土砂は身につければお守りになり、神社仏閣などに少量撒けば神仏が喜ばれ功徳甚深と言われていると書かれていました。
そして。墓所に撒けば亡者は必ず成仏するとも書かれていました。
密教で行なう修法の一つで、清水で洗いきよめた白砂を本尊の前に置いて、光明真言を誦して護摩(ごま)をたいて加持するもの、だといいます。
これを病人に授ければ苦悩を除かせることができるといい、
また御遺体や墓に撒くことで、亡者の罪を滅ぼさせる、罪障が消滅して死体が柔軟になり、極楽往生できるという。
中国,唐代から行われ,日本でも鎌倉時代以後盛んとなった、といいます。
加持土砂をお授けいただいたかというと、まぁ、罪多き身ではありますが、さすがに土砂を被るのは怪しいかとも思いましたし。(いや、生者は御守り袋を持つんだってば 笑)
宗派の異なるお墓に撒くのもどうなのかなぁと思いましたもので。
私自身の犯してきた大小の罪というのは、そのようなことで消滅するとも、消滅させていいものとも思ってはいないので。
せめて生きている間に償えるものは償い、気持ちを改めて生きることしかないと思ってもおりますので、かようにありがたい御守りをお受けすることではないと思っておりますため。
加持土砂は、まさにこのように罪もない命が、突然の災害で奪われたときに、使われ、使うべきものだなぁと、あらためてご冥福をお祈りしながら思ったしだいでありました。
【布施行】
無条件に見返りを求めない行為。
【布施】とは。
『財施』…金銭、財物などを施すこと。
『法施』…仏法を説いて人々を悟りに導くこと。
『無畏施』…心の不安を取り除いてあげること。
【無財の七施】実践としての布施
①眼施…優しい眼差しを人に向けること。
②顔施(げんせ)…笑顔で人に接すること。
③言施(ごんせ)…優しい言葉を人にかけること。
④身施…労を厭わず身体を使って人に尽くすこと。
⑤心施…なにごとにも心を込めて人のためにつとめること。
⑥床座施…座席を人に譲ること。
⑦房舎施…部屋で人を休ませてあげること。
お寺さんでいただいたパンフレットに書いてあったものです。
そして『布施行』は。理屈では簡単なことだが、その時々の状況や、『私』という心が入るとなかなか難しくなる、と書かれています。
…法施は僧としての修行を積んで初めてできるものでしょうし、無畏施なども人としての徳を積んではじめてできるものでありましょう。
財施も、普通に生活をしていたら、なかなか難しいことかと思うのです。
では無財の七施は…?
どれも心掛ければできそうなことが書いてあるよう思われます。
そんな思いもあり、自分でここを見返すたびに心にあらためて刻めることかと書いてみました。
そのパンフレットにはさらに
〜私たちは『私』という自我の上に成り立ち、それは常に変化を続けています。
喜びを感じる自分、怒りに満ちた自分、悲しみに打ちひしがれる自分、楽しい気持ちの自分。
このようにさまざまに変化する『私』を内に秘めながら、自分と同じく『私』を持つ他の人との関係性において、日常は成り立っている、と書いてあります。
『私』に深くとらわれてしまうと、人は傷つき、苦しむことが多くなると。
『私』の思い通りにならないと苦しむ心の状態とは、『私』に深くとらわれてしまっている状態で、身と心を調え続けないと、人はよりよく生きられないのだ、と綴られています。
そのための修行が『布施行』で、この実践を通して、同じ命を授かる他者との絆を深め、命を大切にできると。
お釈迦さまは『すべての命は常に変化の中にあり、それ一つでは存在せず、多くの関係性の中で初めて存在する』と示されたといいます。〜
とも綴られていました。
なるほどなぁ。
苦しむ理由、かぁ。
…たしかにそうかもしれません。
前レスに類似した内容の言葉を、瀬戸内寂聴さんが遺されています。
『とにかく人のことが気になって気になってしょうがない、これが物事にとらわれている心です。
そういう心を無くさない限り、心は安らかになりません。』
…スパッとおっしゃる。
たしかに、だから安らかにならないのだなぁ。
わかってはいるけれど、愚かな私は同じところにとどまっております。
話はそれますが、とあるサークルの案内にも、心に響く言葉が書かれていました。
【菜根譚】より
…『人生はけっして難しくない』
●『ごくふつう』のよさを大切にする。
●毎日を淡々と生きているのが一番いい。
●『ゆとりの心』が怒りと憎しみを消す。
●一日一回、必ず『笑う時間』をつくる。
●『どちらでもいい』という寛大な心をもつ。
●『何事もなかった日』こそ『最高の一日』
菜根譚とは『洪自誠』という人物の随筆集で、中国古典の一つであるといいます。
内乱や政争が相次ぎ混迷を極めた明代末期、万歴帝の時代(1572〜1620)に生まれたものだといい、人との交わりを説き、自然と閑居の楽しみを説いた書物であるといいます。田中角栄、川上哲治などが座右の書として愛した書だといいます。
良書や心に響く言葉というのは、ありがたいことにこの世にはたくさんあるようです。
心に響かせてこれからの人生、生きていかねばなぁ。
昨日は【灌仏会(かんぶつえ)】。
【灌仏会】とは、お釈迦様のお誕生日を祝う仏教の行事で、『仏生会(ぶっしょうえ)』『浴仏会(よくぶつえ)』『竜華会(りゅうげえ)』『花会式(はなえしき)」ともいわれ、【花まつり】ともいわれています。
お釈迦様がお生まれになったといわれる四月八日を中心に行われ、日本では種々の草花で飾った【花御堂(はなみどう)】を作り、中に灌仏桶を置いて甘茶を入れます。
その甘茶の入った灌仏桶の中央に誕生仏を御安置し、ひしゃくで甘茶をおかけする、というものです。
お釈迦さまがお誕生されたとき、竜が天からやってきて香湯をそそいだという話に基づくもので産湯に相当するものですあろうといわれています。
宗派に関係なくどの寺院でも行われています。
甘茶で習字すると上達するともいわれているといい、害虫よけのまじないを作ったりとかもするようです。
なお【花祭り】の名称は、明治時代に浄土宗で採用したもので、以来、宗派を問わず灌仏会の代称として用いているといいます。
中国では四世紀の後趙で行われ、
唐や宋の時代に広まったとされます。
日本で最初に花祭りが行われたのは、聖徳太子が活躍していた606年の4月8日とされています。
その後、奈良時代には、大きなお寺に広まり、
平安時代には、お寺の年中行事として一般化します。
【灌仏会】といわれたのは、840年の4月8日が最初です。
内容は現在とは違っていて、 まず僧侶が磬けいという金属を木で打つ楽器を鳴らします。
次に、準備してあった五色の水を混ぜて讃嘆し、誕生仏に3回注ぎます。
それからまた3回讃嘆し、続いて参詣者も水を注ぐというものです。
現在のような、花で飾った誕生仏に甘茶をかける形になったのは、江戸時代の中頃に始まったものだといい、その頃、庶民にも広まっていったといいます。
私がこの【花まつり】に参列することができたのは、仕事を辞めてから、つい最近のことです。
この四月八日という日は私の住まう辺りでは入学式であることが多く、と同時に始業式でもあり、学齢期のお子さんのいる同僚の休み希望の集中する日であり、子どもたちが育ったのち仏閣を参拝するようになってからの私はなかなか休むことができない日で、花まつりに参列することは大変難しい日でありました。
今から約2500年前、ヒマラヤ山脈の麓にシャカ族という部族が住んでいました。部族の王の名前はシュッドーダナ、その妃をマーヤといいました。
ある日、マーヤ夫人は不思議な夢をみます。夢の中で夫人は、天から現れた神さまに抱えられ、空をぐんぐん昇っていき、気がつくと広い草原に降り立っていたといいます。そこは心地よく、夫人の心を穏やかにさせました。
思わず横になり休んでいると、どこからか鼻に白い蓮の花を持った白い象が現れました。夫人がそれをぼんやりと眺めていると、次の瞬間、象が夫人の右脇にスッと入りました。
ハッとして夢から覚めた夫人は、身体の異変に気がつきました。そう、新しい命が宿っていたのです。
このことを聞いたスッドーダナ王は大変喜びました。神聖な動物とされる象が夢に現れたということも、その喜びを大きくさせました。
月日は流れ、出産をひかえた里帰りの途中、夫人はルンビニーという庭園を散歩していました。そこは色とりどりの花が咲きほこり、鳥たちはやさしい声で歌っています。
夫人はふと立ち止まり、梢に咲く花をとろうと右手をあげました。すると突然、右の脇が光り輝きだし、大勢の天女が舞い降りてきたのです。そして、次の瞬間、右脇から男の子が産声をあげました。
これがお釈迦さまの誕生でありました。
この時、生まれたお釈迦さまの頭上には、龍王よって清らかな水=香水(こうずい)が灌がれ、その誕生を祝福したとされています。
こうした故事に習い、花まつりでは、お生まれになられた地、花々たくさん咲いていたルンビニーをイメージたくさんの花で飾られた花御堂を立てて、
そしてその花御堂の内に右手で天を、左手で地を指して立つお釈迦さまのお像(誕生仏)に、
龍王が誕生を祝って降り注いだという甘露水に見立てた甘茶をかけ、その誕生をお祝いするのだといいます。
このとき、お生まれになられたばかりの釈尊は七歩歩まれ、『天上天下唯我独尊』とお唱えになられた、とされます。
この七歩、というのにも、深い意味があるとされてもいるようです。
新しいレスの受付は終了しました
前スレ・次スレ
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。
- レス新
- 人気
- スレ新
- レス少
- 閲覧専用のスレを見る
-
-
苦悩解放
0レス 66HIT たかさき (60代 ♂) -
彼と先輩と
1レス 113HIT 小説好きさん (10代 ♀) -
彼と先輩と
1レス 81HIT 小説好きさん (10代 ♀) -
頑張って書いてもなにもならない
1レス 79HIT たかさき (60代 ♂) -
20世紀少年
15レス 317HIT コラムニストさん
-
モーニングアフター モーリンマクガバン
部屋に戻って大浴場へ行くべく洗面用具を用意した 部屋をでたらち…(作家さん0)
160レス 1464HIT 作家さん -
パトパト 第零章サブストーリー(世界王)篇
世界王篇第零幕 世界下巻 〜神々の実力〜 第九話「白銀帝王龍(混沌)と…(小説好きさん0)
9レス 206HIT 小説好きさん -
ニコニコワイン
金目鯛 伊豆の お土産で貰った 金目鯛 おいし~い(旅人さん0)
406レス 15928HIT 旅人さん (20代 ♀) -
こちら続きです(;^ω^) フーリーヘイド
~ いやぁ(;^ω^)... ~ ~ 我が愛しの鬱ちゃん、すんご…(saizou_2nd)
283レス 2789HIT saizou_2nd (40代 ♂) -
20世紀少年
エレベーター 金町の駅前に高層の公団が出来た。 僕が小1か小2…(コラムニストさん0)
15レス 317HIT コラムニストさん
-
-
-
閲覧専用
20世紀少年
2レス 70HIT コラムニストさん -
閲覧専用
フーリーヘイド ~読む前の注意書きと自己紹介~
500レス 5458HIT saizou_2nd (40代 ♂) -
閲覧専用
おとといきやがれ
9レス 264HIT 関柚衣 -
閲覧専用
ウーマンニーズラブ
500レス 3153HIT 作家さん -
閲覧専用
やさしい木漏れ日
84レス 3661HIT 苺レモンミルク
-
閲覧専用
20世紀少年
1961 生まれは 東京葛飾 駅でいうと金町 親父が働いて…(コラムニストさん0)
2レス 70HIT コラムニストさん -
閲覧専用
ウーマンニーズラブ
聖子の旦那が有能な家政婦さんを雇ったおかげで聖子不在だった機能不全の家…(作家さん0)
500レス 3153HIT 作家さん -
閲覧専用
フーリーヘイド ~読む前の注意書きと自己紹介~
やはり女性は私に気が付いている様である。 とりあえず今は、 …(saizou_2nd)
500レス 5458HIT saizou_2nd (40代 ♂) -
閲覧専用
今日もくもり
たまにふと思う。 俺が生きていたら何をしていたんだろうって。 …(旅人さん0)
41レス 1309HIT 旅人さん -
閲覧専用
おとといきやがれ
次から老人が書いてる小説の内容です。(関柚衣)
9レス 264HIT 関柚衣
-
閲覧専用
サブ掲示板
注目の話題
-
結局は結婚=子孫繁栄って事ですか?
子供を産む産まないは自由と言っておきながら、 「産んだらこんなにも可愛い」 「産めば分かるよ。幸…
104レス 2171HIT 知りたがりさん -
彼氏がいう用事とは?
彼氏に、休みは何するの?と聞くと 用事があると言います。 用事ってなにするの?と聞くと 友…
13レス 281HIT 恋愛好きさん (30代 女性 ) -
彼女との結婚観の違いについて (週末婚)
半年前に彼女ができました。お互い30歳です。 将来的に結婚を考えていますが,彼女が週末婚希望な…
16レス 319HIT 社会人さん (30代 男性 ) -
あしながおじさんから彼氏に昇格 もうすぐ 夫に昇格
タイトル通り結婚式の日も決まりました シャングリ・ラ ホテルで式して 次の日はおばあちゃんの田舎…
13レス 275HIT 恋愛中さん (20代 女性 ) -
町内会への積極参加
町内会の役員は出来ればやりたくないとは思いつつも、それを我慢して誰かがやってくれている訳で、でも絶対…
7レス 171HIT 解決させたいさん -
ママの自覚がないのは、資格がないから?
妊娠5週です。妊娠出産用のSNSアプリで出産予定月が同じ、たくさんの「同期」の投稿を眺めていると、全…
12レス 170HIT 匿名さん (20代 女性 ) - もっと見る