先生…‼
中学3年の4月🌸
新しいクラス、新しい教室、新しい教科書…。義務教育最後の年といえ、やはり学年のスタートは新鮮な気持ちになった。
そして、新しい先生。
ほとんどの先生方が昨年度の持ち上がりの中で1人、新しい先生が教科担任に加わった。
理科の高田先生。
初めて高田先生が教室に入ってきた瞬間、何とも言えない衝撃が走った…!!
私のリアルな経験を、のんびり綴っていきます。
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私は当時、男の子と付き合ったことがなく、一度だけ好きな子にバレンタインデーにチョコを渡したのが精一杯。
それも、告白なんてできなくて、箱にわざわざ油性マジックで「義理だよ」なんて書いて渡した😂
キス? とんでもない‼
そんなことは大人になってからするものだと思っていた。
エッチなことをすると妊娠するのは知っていたが、エッチなことって布団の中でギューッと抱き合うことだと思っていた。
何ともウブな中学生である。
それでも男子とはよく話すし、恋だってしていた。女子同士恋バナに花を咲かせていたものだ。
当時、私はタカシ君(通称タッチ)が好きだった。タッチは物静かで勉強もよくできた。タッチと同じクラスになれてウキウキしていた。
そこへ現れたのが、高田先生である。 高田先生を見た時の衝撃が、一瞬で恋に落ちたことだったとは、この時はまだ気づいていなかった。
だって、タッチが好きだったから。
私は理科が得意であり、一番好きな教科だった。でも、1、2年生のときの教科担任の先生はあまり好きではなかった。
授業がいい加減というか… 理科好きの私には物足りなかなった。話は脱線するし、ノート評価もあまりしてもらえないし。
一方、高田先生は、授業の中で必ず生徒に考える時間を与え、わかりやすい説明をし、ノートは毎時間集めて目を通してくれた。考えや疑問を書き込んだノートに「A」の評価がもらえるのが嬉しくて、私はどんどん高田先生の理科が好きになっていった。
理科がある日は嬉しかった。
理科がない日は憂鬱だった。
もともと理科が好きだったから、かえって曖昧になっていたんだろう。理科の授業が楽しみなのは、高田先生に恋をしているからだということに、まだ気づかなかった。
ただ、いつも理科の時間はソワソワ、ワクワク、ドキドキ💓
血圧も心拍数も上がっていたはずだ。
測ってないから確かではないが。
5月に入り、席替えがあった。
くじ引きだったか班長の権限だったか覚えていないが、とにかくあの時は自分の意志の及ばない所で席は決まった。
そして、運命の女神様がこの私にほほえんでくれた❗
通路挟んでタッチの隣になったのだ🎊
タッチとは2年生から同じクラスで、会話を交わしたことがある程度で、仲がいいという程ではなかった。当然私の❤な気持ちなど知らないはずだ。
イヤーっ💦自然にニヤニヤしてきてしまう。 だめだ‼タッチにバレてしまう~
朝、席に行けば自然に「おはよう」。授業中もチラ見、給食は彼の気配をおかずに白飯食べた。
…受験生だろ、脳内にお話咲かせてる場合ちゃうやろ! と、今の私から言ってやりたい💧
そんな感じで、隣のタッチに魂持ってかれていたせいで、くどいけれど高田先生に恋していることにまだ気づかなかった。
一学期も半ばへきたころから、生徒の間で高田先生への不満が膨らんできた。
高田先生は授業に熱心な反面、気持ちが間違った方へ向いてしまうことがあった。
例えば、質問に対して生徒の挙手が無いと怒り出す。
授業中に不良達が反抗すれば、他の生徒そっちのけで真っ向から言い争い、ケンカになる。
良く言えば熱心なんだが、悪く言えば大人気ないので、授業が中断することもあった。
そんな時、私は心がキリキリ痛んだ。 その状況に耐えられなかった。
先生の怒りは最もだ。でも、みんな嫌気が差すのも分かる。私もこんな先生嫌…
なのに、先生を嫌いになれない。先生が怒り出すと、
「先生、みんなに嫌われちゃうからやめて…❗」
と心の中で叫んでいた。
先生がみんなから嫌われることが悲しかった。怖かった。切なかった。
いくらウブで鈍感な私でも、徐々に高田先生に惹かれていることに気付き始めた。
しかし、みんなから嫌われている高田先生のことが好きなんて、誰にも言えなかった。
当時高校2年生の姉に、それとなく高田先生の話題をもちかけたことがある。
「高田~? あぁ、そんな先生いたね。私あいつに担当してもらったことないけど、何か嫌いやわ。」
そんな感じなので、姉にも本心を話せなかった。
高田先生が好き…
でも、そんなこと友達や姉に知られたら、私まで変に思われるかも…
私は、高田先生が好きな気持ちを、誰にも話さず心に秘めておくことにした。
どうやって知ったか覚えていないが、当時高田先生は32歳。
先生にとっては17歳も年下で、しかも教え子の私が恋愛対象になるはずもなかったし。
それからはもう、寝ても覚めても高田先生のことで頭がいっぱいだった。
もっと高田先生と話がしたい!
もっと高田先生のことが知りたい!
高田先生と手を繋いでみたい!
あぁ… 高田先生…
好きで好きで仕方ないよー
先生は彼女いるのかな?
結婚考えてたりするのかな?
いろいろ… いろいろ知りたいよー
好きな相手が同級生なら友達に相談できるのに、高田先生のことは誰にも話したくない。
胸がいっぱいで、苦しくなるほど好きだった。
「カナちゃん、最近タッチのこと話さないけど、冷めたの?」
隣のクラスのハルミちゃんに言われ、ドキッとした。
ハルミちゃんとは小学生の頃から仲良しで、お互いに好きな人ができると隠さず話していた。
「タッチ? …うん… もう好きじゃないのかもしれん…」
「なんでー!? 席が隣で急接近できるチャンスだって喜んでたのにー!!」
「なんかね… 好きっちゃあ好きかもしれないけど、別にもういいっていうか…」
歯切れの悪い私に、ハルミちゃんはため息をついた。
ハルミちゃんはこの時、片思いの中島君に猛アタックを繰り返し、ついに付き合うことになったばかりだった。
私がタッチとうまくいって付き合えたら、ダブルデートしようなんて話していた。
「ごめんね…」
「別にあやまることじゃないよ~」
タッチのことは、それっきり話題にならなくなった。
私の心からも、離れていった。
もう、高田先生でいっぱいだった。
一学期の期末テストがやってきた。
得意な理科では100点をとるつもりでいた。
…そうすれば、高田先生から一目置かれる…!!
立場や歳の差から恋愛対象として見てもらえなくても、生徒として注目されたいと考えた。
本当は、わからない所を質問しに行きたかったけれど、高田先生と1対1でいたら、きっと好きな気持ちが表情や態度から伝わってしまいそうで、できなかった。
後々につながるのだが、私は好きな人に対してどうしても想いを伝えられず、気持ちを隠そう隠そうとしてしまう。
ブスだし、脚は太いし、髪はくせ毛でボサついているし…
明るいだけがとりえだけで、女としての自分に自信がなく、こんな私、異性として好きになってもらえるとは思えないから…
好きだと伝えた後、ふられることしか想像できず、傷つくくらいなら、気持ちをひた隠しにしたかった。
だから、タッチの時も、ハルミちゃんと「ダブルデートしたいね~」なんて言いながら、タッチに気持ちを伝えることなど絶対にできなかった。男の子と付き合うなんて、夢のまた夢だった。
テストが終わり、答案用紙が返された。
答案用紙が手渡しされる瞬間は、高田先生に最接近できる瞬間でもある。
いろんな意味でドキドキする…
私の番が近づく…
ドキドキ、ドキドキ…
「安藤さん、よくがんばったな。」
高田先生が私にそう言って答案用紙を渡してくれた。
嬉しい!!
『安藤カナ』
と名前が書かれている横に、高田先生の親指があった。
指が離れた瞬間、赤ペンで書かれた
『95』
が見えた。
これが苦手な英語や社会なら飛び上がって喜ぶのだが…100点狙いだった為、いまいち中途半端な気持ちだった。
間違えた問題も、落ち着いて考えれば分かるものだった。
席にもどり、
「くそぉーーー!!」
と叫ぶ私に、同じ班のナオヤが私の答案用紙をむしり取った。
「くそぉーーー カナに3点負けたー!!」
ナオヤは後に私と同じ高校に進学する。ライバルであった。
私より勉強ができるナオヤは、私に負けるとは思っていなかったようだ。
「おーい、そこ、まだ授業中だぞー。うるさいぞー」
ニコニコ顔の高田先生に注意されて、私は再び嬉しくなり、顔が熱くなった。
先生は続けた。
「今回の平均点は○点。このクラスの最高点は95点。」
…もう、いろんな意味で嬉しくて、あの時の頭の中では巨大ヒマワリでも咲いていただろう。
夏休みを迎えた。
これでも一応受験生なので、塾の夏期講習に通いながら勉強に励んでいた。
夏休み中に、高校見学にいくことになっていた。
これは、県立高校が夏休みに実施していたもので、体験授業を受けたり、部活動の様子を見学させてもらえたりした。
私は、2校に見学に行った。そのうちの1校に、私は目標を定めた。後にこの高校に通うことになるのだが、それがこの恋にとって運命的な選択になることなど、この時は思いもしなかった。
高校、受験、勉強…
夏休みの間は、高田先生を想っていた記憶はあまり無い。
それなりに受験生だったんだろうな。
2学期になった。
学校で高田先生に会うと、私の恋心に再び火がついた。
この頃、相川七瀬の『恋心』が流行っていた。
~恋心 あてもなく今
夜に 怯えているわ
ガラス越しの 闇にそっと
涙 隠してる~
歌詞の内容はよく分かっていなかったが、とりあえず叶わぬ恋っぽい感じがしたのでよく歌っていた。 タイトルもズバリな感じで気に入っていたし。
相変わらずの日々を過ごしていた中、ちょっとした情報を耳にした。
タッチも、志望校が同じらしいのだ。
…好きじゃなくなったはずのタッチ…
でも、同じ高校に合格して、通うことになることを想像すると、何とも言えない気持ちになった。
授業中に、ハルミちゃんに手紙を書いた。(コラ!)
『タッチも志望校同じだってー!!
どうしょう、なんか嬉しいよ。
タッチは私より上の高校行くと思っていたから。
なんかドキドキする。
やっぱり私、まだタッチのこと好きかもしれない。』
高田先生に恋していることを、カモフラージュしたい気持ちもあったと思う。
ハルミちゃんからの返事
『やっぱり! カナちゃんタッチ好きなんだから、諦めずにアタックしなよ!
告っちゃいなよ~
付き合えたら、同じ高校目指してお互いにがんばろ!ってなるやん。』
とても告白する気にはならないので、適当にはぐらかした気がする。
が、この手紙のやりとりがとんでもない事件を招く。
当時、隣の席の男子は横川という不良だった。
横川はよくタバコを吸って登校してくる。
「朝からタバコ臭い!吸ってきたやろー」
「あぁ。2本な。」
これが朝の挨拶である。
学生服はカラフルなボタンで彩られており、裏ボタンは何やらチェーンがぶらぶらしていた。
学生服っていうか、短ランにボンタンなんだけど。(今の若い子分からないだろうな💧)
が、なかなかいい奴なので、私が欲しがっていたコミックス2冊を格安で売ってくれたりもした。(笑)
…隣が不良横川。もう隣はタッチ。
ある日の国語の授業中、朝からなぜかイライラモードだった横川が、突然私の机の上にかかと落としをしてきた。
ノートが破れた。
「ちょっと、何すんの!!」
「あーごめん。安藤見てたらイライラして。」
そんな理不尽な…
その場はそれで終わったのだが、今度は私がイライラすることになった。
で、その後の昼休み。
何やら男子トイレから不穏な空気が…
トイレの中を見れば(あ、廊下から見えるのよ)横川含む不良数名で食後の一服をしているではないか。
「おー安藤。センコウに言うんじゃねぇぞ。」
いつもは見て見ぬ振りしてあげるのだが、その日の私にそんな慈悲の心は無かった。
一気に階段を駆け下りて職員室に飛び込んだ!
「先生!男子がトイレでタバコ吸ってます!!」
すぐさま、高田先生ともうひとりの男の先生が駆け出した。
「安藤さんありがとう!」
そう言って颯爽と階段を駆け上がって行った高田先生。
あぁ… かっこいい…やはり、タッチより高田先生のほうが、一万倍好きだ…
その後トイレで、不良vs先生の学園ドラマ並みの展開が繰り広げられたのは言うまでもない。
横川のヤロウ…
少し気が晴れた私と裏腹に、
安藤のヤロウ…
と、怒りを増幅させた横川が、翌日に事件を起こした。
翌日の昼休みのことだった。
私はハルミちゃん達と廊下でおしゃべりをしていると、教室から『ガターン』と机が倒れる音がした。
またアホ男子が鬼ごっこでもして、誰かの机にぶつかったんだと勝手に解釈していた。
実際はそうではなかった。
そう、横川の仕業。
昨日の腹いせか、私の机を蹴り倒していた。
中のノートや教科書が散乱していた。
その中に、先日ハルミちゃんとやりとりした手紙もあった。 (処分していなかった私がバカだったが…)
教室にいた友達が私を探し出し、
「カナちゃん大変…!!」
と教えてくれた時にはすでに手遅れ。横川は手紙の中身も全部見ていた。
「ゲエェ~!!
安藤はタッチのこと好きなんやとー!!」
クラス中に聞こえる大声で、横川は叫ぶ。
やんやと言うクラスメート達。
その中には、仲良くしていた女子もいて、一緒になって笑ってる…!!!
恥ずかしさと…
怒りと…
悔しさと…
顔が真っ赤に熱くなっていくのがわかる。
たぶん横川に何か反論したと思うけれど、あまり覚えていない。
とにかく、私は机をもとに戻した後、溢れる涙をこらえきれず教室を飛び出した。
「カナちゃん!
横川ムカつく!ホント許せない!ひどすぎるよ…
カナちゃんずっとタッチのこと好きで、告白できずにいたのに…!!」
ちょっと違う為、ハルミちゃんを騙している気がして、よけい泣けてきた。
「ちょっと、カナちゃんおいで!!」
しゃっくり上げて泣いている私の手を引っ張り、ハルミちゃんは階段を駆け下りる。
行き先は職員室だった。
「○○先生いますか~」
ハルミちゃんは職員室の入口で、私の担任の先生を呼んだ。
「ハル…ミ…ちゃん、ヒック、いいってば~、ヒック…」
私は引っ込もうとする。
「安藤さん? どうした?何があった?」
しゃっくり上げてうまく話せない私のかわりに、ハルミちゃんが説明する。
「横川が、カナちゃんの好きな人を言いふらしたんです。教室で、みんないるのに!本人にも聞かれて、それで…」
「それで、安藤さん泣いているんだね。」
ハルミちゃんは、机が倒された事なども説明している。
…………
ハルミちゃんと担任の先生には大変申し訳ないことに、この時私は全く違うことに考えが及んでいた。
職員室=高田先生の居場所
この時もつい、高田先生の姿を探していた。
…いた。高田先生は背を向けるかたちで机に向かいながら、振り返ってこちらの様子を心配そうに見ていた。
この距離なら、ハルミちゃんの説明も全て聞こえているだろう。
恥ずかしい!!
恥ずかしい!!
超 恥ずかしいー!!
私が本当に好きなのは、先生なんです!!
私に好きな子がいるなんて思わないで下さい!!
怒るハルミちゃん。
真剣に話を聞いて下さる担任の先生。
心配そうにしている高田先生。
当の本人はというと、周りの想像の遠く及ばない理由で泣いている。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を見られる恥ずかしさ。
ハルミちゃんを騙している罪悪感。
高田先生に誤解されているもどかしさ。
うわーん!!!!!!
5時間目の授業が始まるまでには教室に入り、席に戻った。
隣に横川、通路をはさんで隣はタッチ。
私は泣きはらした顔で、机だけを見ていた。もう、横川と不良バカトークしたくないし、タッチの方を向けるわけもない。
「タッチが隣でうれしいだろ~」
なお、小声で冷やかしてくる横川。
タッチはどう思っているんだろう。恥ずかしすぎる。前は好きだったけど、本当はもう好きじゃなくなったとも言えない。
我慢するしかなかった。
ライバルのナオヤは横川の前の席で、いつもは横川とつるんで私をいじってくるのに、この時は横川を無視していた。
あからさまに私をかばうわけじゃないけど、かと言って一緒にひやかしもしなかった。
横川のバカにしらけているのが分かった。ナオヤなりの心がけが嬉しかった。
翌週、席替えがあるのが救いだった。
ハルミちゃんとは毎朝待ち合わせをして一緒に登校していた。
翌朝も、同じように登校した。
「昨日は大変だったね。カナちゃんの席、横川とタッチにはさまれているから…」
「うん、でも横川は無視するし、タッチのことも別にもういいから。ハルミちゃんありがとね。」
声のトーンを上げて返した。事実、昨日より気持ちは上向きだった。
ハルミちゃんは続ける。
「昨日、あのあと理科だったんだけどさ、高田先生に『安藤さんどうしたのかな。大丈夫かな。』って聞かれたよ。高田先生も見てたんだね。」
「高田先生が…!?」
嬉しかった。マジで。
私の気持ちを知らないハルミちゃんが言うのだから、間違いない。高田先生は私を心配してくれていた。
しかも、ハルミちゃんの言葉からだけで判断すると、高田先生は私に何があったのか、よく知らないようだった。
良かった…
学校へ向かう足取りが軽くなった。
それから数日経って、席替えをした。
私の学校では、班編成や係決めが前期と後期に一回ずつなので、9月末に行われたこの席替えが、中学校生活最後の班編成と係決めでもあった。
私は迷わず理科係に立候補した。
理科係は、毎時間理科の授業が終わった後に理科ノートを集め、先生の所に持って行く。
これほど、高田先生と関わりが持てるチャンスは無かった。
もうひとつ、『選択授業』があった。これは、5教科のなかでひとつ好きな教科を選び、クラスを解体して選択教科ごとに分かれて受ける授業だった。
迷わず理科を選択する。
理科でも2種類あって、Aコースは教科書の内容を復習していくいわば「苦手克服」コース。Bコースは教科書にとらわれず、自分で研究テーマを決めてレポートを作っていく「追究」コース。
理科大好きな私は、Bコースを選択。
初めての選択授業で担当の先生が発表された。
理科Bコース…高田先生
…よっしゃ!! もうひとつ、高田先生と関わるチャンスが増えた。
相変わらず、高田先生の授業は熱心だった。先に述べた通り、生徒とぶつかる事も多かったのだが…。
私は、理科係として、みんなの理科ノートを集めては放課後にせっせと職員室の高田先生のもとへ足を運んだ。
職員室に高田先生がいない時は、机の上に置いておくだけなのでつまらなかったが、いる時は二言三言言葉を交わすのが楽しくて楽しくて仕方なかった。この頃から徐々に、高田先生と個人的に話すことが増えてきた。
「3組の理科ノートお願いします~」
「はーい、ありがと。」
「あ、先生、(パソコンの画面を指差して)これ次の授業のプリント?」
「こら、見るな!」
と言いつつ、画面をこちらに向けて見せてくれる高田先生。
実験の説明に使うための実験器具のイラスト、日付と時刻を入力すると星の様子が映し出されるプラネタリウムのソフトウェア、複雑な化学反応式…
いろいろ見せてくれる高田先生。
ただでさえ理科好きの私には興味深いものだが、先生の顔に自分の顔を近づけて一緒にパソコン画面を覗き込むのは、すごくドキドキした。
…先生の手、大きいな。爪が丸っこくてちょっとカワイイ♪
…あ、先生の使っている赤ボールペン、私と同じだ!
「この力学台車とバネの図、図形作成ソフトを使って俺がつくったんだぞ。」
と、複雑な実験装置の図を指差す先生。
カッコいい…
ここらへんで、高田先生の人物像を少し紹介しよう。
年齢 32
やせ型でやや長身
細い目に細いフレームのメガネ
ジャケットとスラックスは毎日同じ。
綿の白のカッターシャツはシワシワ。
教師に多いサンダル。
決してイケメンではないし、おしゃれに関心があるとは思えない。
真顔こわい
笑うと白い歯がステキ
趣味は仕事も兼ねてパソコンのようだ。
車は黒で、うちらの世代だと知られているけれど、今はほとんど見かけなくなった某スポーツカー。
今の段階で紹介できるのはこれくらいかな。
季節は秋になろうとしていた。そろそろ志望校を決定しなくてはいけない。私は夏休みの高校見学で気に入ったY高校に決めようとしていた。一応合格圏内ではあるが、ボーダーラインギリギリで悩む所であった。
そんな頃だった。
普通に自宅でくつろいでいたら、突然姉が、
「あ、カナー。そういや今日高田の家見つけたよ。」
…!!!?
「へーえ、そんなんやー。どうして分かったの?」
私は平静を装いながら耳ダンボにした。
姉の話では、学校帰りにバスに乗っていたら、バス通りに面したある家のガレージで、高田先生が洗車しているのを目撃したそうな。
家にあったゼン○ンの住宅地図を引っ張り出し、場所を聞いた。
「ほら、ここ。」
姉の指の先には、
『高田○○』
と、高田先生ではない男性の名前が書かれた家があった。おそらく先生のお父さんの名前だろう。
…ここって…
うちからさほど遠くない。っていうかY高校へ行く途中にある。私はY高校に合格したら自転車で通うつもりなので、毎日高田先生の家の前を通りながら通学できる!!
私の志望校はY高校に決定した。
翌日、いつものように理科ノートを提出する為、職員室の高田先生のもとへ。
「先生、先生の家分かっちゃいました!昨日姉がバスから先生を見つけたそうです。」
「そんなんだよ。あの場所、よく生徒にバレるんだよなぁ。それで、卒業した教え子が突然訪ねてきたりするんだよ。この前も、渡辺が来たんだ。」
と、嬉しそうに話す高田先生。
渡辺とは、卒業した一学年上の渡辺ミサ先輩。生徒会も勤め、美人でスポーツ万能。関わりがない私でも名前と顔が一致する有名な先輩だ。高田先生が去年、教科担任で受け持っていたそうだ。
…渡辺ミサ先輩、先生の家に直接行ったんだ。先生も嬉しそうだし。なんか、妬いちゃうな…
家の場所を知ったことで、私と先生の秘密ができたように思っていたのが、バカみたいだった。
姉と同じバスに乗って高校に通う人もたくさんいるし、私だって自転車で通る道になるかもしれないのだから、冷静に考えれば当たり前なんだけど…
気を取り直して、
「じゃあ、私も先生の家に行っちゃったりしちゃおっかな~ なんて~。」
結構勇気を出して言ってみた。
「勘弁してくれ~」
… … そうなんだ。
やっぱ、迷惑だよね。
でも、ミサ先輩なら良かったのかな?
教師にとって生徒が自宅に来るって面倒なことかも。
彼女じゃないんだもんね。
卒業したら、高田先生のこと忘れよう…
とは言っても、高田先生が好きな気持ちはかなり強い。卒業して忘れることなどできそうになかった。
現にY高校に合格して、毎日高田先生の家の前を通って通えるのを夢見ている。
そして相変わらず理科係として、ほぼ毎日先生と関わり、会話できるのが嬉しくて仕方ない。
その頃には、高田先生は私を「安藤さん」から「アンカナ」と呼ぶようになっていた。
「ぉおー、今日もまたアンカナが来たな~」
「だって先生、私は理科係なんだから当たり前じゃないですか~!」
「変なヤツ~」
「先生ひどーい!」
バチン!(先生の肩をたたく)
…今から考えると、先生に対して失礼極まりない。
誰にでもこんなふうにからかうわけじゃない。高田先生の中で、私は確実に『その他大勢』の生徒ではなくなっていたと思う。
だからといって女として特別な目で見ているわけもないが、『からかってやりたいヤツ』くらいには思ってくれていたであろう。
楽しくて楽しくて、幸せだった。
卒業まであと半年もないのが悲しかった。
隔週、1時間の『選択理科』の授業も楽しみだった。
理科Bコースを選択したのは、学年200人中でわずか十数名しかいなかった。
先生と生徒の距離が近い。
この選択授業の時間は、自分で好きな研究テーマを決めて実験や観察を行い、レポートとしてまとめる授業だ。
理科好きの私には、大好きな授業だった。もちろん、好きな理由はもう一つあったのは言うまでもない。
ある日の選択授業の時間、私はガスバーナーでガラス管を加熱していた。
真っ直ぐなガラス管の一部を集中して加熱して軟らかくし、そこから曲げてL字の管に細工していた。
先生に見ている前でうまくいったので、できがった瞬間に油断したのだろう。
高温になっている、ガラス管の加熱部分をつまんでしまった。
「あつっ……!!」
触れた指先が白くなっている。焼けたのだ。
バカ…
曲げて曲がるほど軟らかい所だもん。熱いにきまってるじゃん。
その時、高田先生が
「見せろ!!」
と言って、私の手をガッと掴んだ。
そのままグイッと引っ張られる。
先生は私の指先をジッと見つめる。
…先生と手を繋いでいる!?
ドキドキした。
「バカやろう…」
高田先生はそう言って、私の指先を自分の親指の腹で優しくなでる。
火傷の痛みなどほとんど感じない。感じるのは高田先生の指の感触だけ。
少し固い。
…そして温かい。
はっとして、思わず手を引っ込める私。
「軽い火傷だな。水で冷やせ」
高田先生はそう言っ て、実験台の蛇口をひねり、水を出してくれた。
ようやくじんじんと痛み出してきた指先を、無言で流水に入れた。
先生の手指の感触まで洗い流してしまわないよう、水が当たる部分を最小限にとどめた。
「しばらく様子を見て、ひどくなってくるようなら、すぐに先生に報告しなさい。」
こんな時でも、心のブレーキは忘れない。
…先生は、教師として当然の対処をしたまで。授業中の生徒の怪我は、教師の責任だもんね。
幸い火傷は大したことはなく、下校するころには痛みはほとんど消えていた。
…あの時、なぜ、手を引っ込めてしまったんだろう…
もっと先生に触れていてほしかったはずなのに。
「安藤さん昨日は災難だったよねー。」
翌日、選択授業が同じの西山さんに声をかけられた。友達ってほどでもないけど、会えばよく話す仲だ。
「何かあったの?」
まわりにいる子達も会話に加わる。
「うん。ガスバーナー使ってて、ちょっと火傷したんだわ。大したことないけどねー。」
と、返す私。
「その後だよー。運悪く高田がすぐ近くにいてさ。安藤さん火傷したあと高田に手を握られたんだよー。」
西山さん。
「ええーっ!かわいそう!!」
「大丈夫だった?変なことされなかった?」
心配してくれるみんな。
…そう。高田先生ってこういう扱いなのだ。
イケメン先生はちやほやされるのに、そうでない先生は女子生徒からの風当たりが厳しいのが世の常。
先に述べた通り、高田先生は人気がない。昨日の私への対応は、悲しいかな、まわりの女子からすれば立派な『セクハラ』になるのだ。
…別に何でもないよ。
苦笑いで返すのが精一杯だった。
はぁーっ…
9月の席替えで班は別れたものの、私の左ななめ前はナオヤのままだった。
ナオヤは前期生徒会長をつとめ、成績も優秀。期末テストでは、5教科の合計が450点を下回ると、彼によると「この世の終わり」らしい。
ナオヤとは、三年生で初めて一緒のクラスになったが、一年生の頃からよく話をしていた。小学校も別、クラスも別のはずなのに、なぜ一年生の頃から交流があったのかよく分からない。
成績優秀ではあるが、ナオヤは変態だった。
こちらが油断していると、腰から制服に手を入れて、ブラジャーのホックを外してくる。気配を消して近づき、後頭部を教科書で殴ってくる。手袋をはめた手で背後から鼻と口を塞がれ、苦しくてバタバタするまで離さない。
などなど…
被害者はかなりの数にのぼる。
こうして文にすると相当問題児だが、なぜか周りからは憎まれない、不思議なオーラを持っていた。
私もナオヤの奇行に本気で泣いたこともあったのに、なぜか嫌いではなかった。
ひとつハッキリしたこと。それは…
ナオヤはドSでわたしはドMだということ。
こんなこと判明しても、人生の何の役にも立たないけれど、今後自分のMっぷりを思い知らされることになる。
他でもない、高田先生によって。
「俺も、お前と同じY高校受けるわ。」
冬の気配が感じられるようになったある日、突然ナオヤが言った。
「はぁっ!?」
驚く私。
変態度はテストの点や成績に反映されないため、数字だけで判断すればナオヤはかなりの優等生である。 この地区でトップ高のF高校を受験すると、誰もが思っていた。
「なんで!? F高じゃないの?」
「親にも、塾の先生にも、F高当たり前だって言われてたから、Y高校行きたいって言ったら、めっちゃ怒られた。」
…当然だろ。説明になってないし。
仮にF高校に行きたくなくとも、レベルだけで言えばY高校との間にあと2校ある。しかもY高校はけっこう遠い。
「アホじゃない?」
「ちなみに、タッチはY高校やめて、その上のK高校受けるって。」
…あそう。で?あんたはなぜ?
…ひょっとして、私と同じ高校に行きたくて、Y高校を…?
ナオヤは言った。
「あ、勘違いするなよ。お前普通科だろ?俺、理数科だから。F高で俺より頭いい奴に紛れるより、自分が学年1位でいた方がいいだろ?」
…あ、そういうことですか。
何か、いろんな意味でバカにされてるな。私。
別の日、そんなナオヤが突然、ななめ後ろの私を振り向いて、
「お前、高田のこと好きだろ。」
と、核心をついてきた。
…!!!!!
「まさか。好きなわけないやん。」
慌てる私に、ナオヤは続ける。
「だってお前、理科の授業の時はいつもテンション高いし、高田が席をまわってくる時は、お前の顔赤くなってるし。」
…ナオヤは賢い。いつからそう感じていたのだろう。話の内容も、昨日今日の様子だけではないことが分かる。コイツにごまかしはきかない。
でも、ここだけはプライドが許さなかった。
「違うって!理科はもともと好きなだけだよ。」
焦るため、顔が熱くなる。バレないように、バレないように… 焦れば焦るほど、顔に表れる。私はポーカーフェイスが苦手だ。
「嘘つけ。」
ナオヤはそれだけ言うと、ニヤついた顔のまま前を向いて黙った。
ナオヤの隣、つまり私の前の席のリョーコちゃんが、
「ちょっとー、気持ち悪いこと言ったらカナちゃんかわいそうやん!」
とフォロー。
「ほんと、やめてよ~ リョーコちゃんサンキュ!」
…『気持ち悪いこと』かー
はぁーっ…
その翌日も、ナオヤは高田先生の話題を持ちかけてきた。
「なぁ、高田ってさ、アイツきっと童貞だぞ。」
「……」
無視する私。
「彼女いそうにないだろ、きっと童貞だよなー。」
「ちょっとー、またそんなこと言って、あんたバカだねぇ。」
と、リョーコちゃん。
「安藤もそう思うだろ? ぜってぇ童貞だよ。」
うるさいので適当に返事してみた。
「知らないよ。そうなんじゃないの?」
すかさず返すナオヤ。
「お前童貞が趣味かよ~」
「違うわ!」
「童貞じゃない方がいい?」
再び適当に返しておく。
「はいはい、そうかもね。」
この時、私は『童貞』の意味を知らなかったけれど、『どうていって何?』とも聞けなかった…
やがて、二学期の期末テストがやってきた。高校受験の合否を左右しかねない、大切なテストだ。
それほど油断したわけではなかったが、数学がひどい結果だった。数学は得意で、90点台を目指していたのに、はるか及ばず…
自分が勝つと分かっていて、いつも勝手に勝負を挑んできては私をバカにするナオヤも、今回の私の数学の出来には凍り付いていた。
「お前、Y高校受かるのか?」
泣きそうだった。
問題は、やり直してみれば、どれも解けるものばかりだった。
…これが入試本番だったら…
受験が、怖くなってきた。
その日の放課後、いつものように理科ノートを提出しに高田先生のもとを訪れた。
が、さすがに今日はワイワイ話したい気分ではない。
「3組のノートです。お願いします。」
机上にノートを置くと、高田先生が返事をするかしないかのうちに踵を返した。
元気が出ないのも本当だったが、高田先生に「元気ないな。どうしたのかな。」と思ってほしかった。
翌日はちょうど、選択授業の日だった。
いつもは楽しくて仕方ない授業だが、理科室へ向かう足取りは重い。
…あのテストが入試だったら、確実に落ちてる。同じケアレスミスをしたら?
そうでなくとも、今回の数学の成績は下がるに決まってる。苦手な英語も相変わらずだし、内申が足らない…
少し早めに理科室に入り、ストーブに当たりながらぼーっと考えていた。
「アンカナー、お前なに青春してるんだよ~」
背後から、高田先生が笑いながら声をかけてきた。
…よっしゃ!!
少し気分が上向きになる。
「先生… 私…
高校受かる自信なくしてます。」
あえて、低いテンションのまま答える。
「お前、今そんなこと言ってどうするんや~ まぁ、今度の三者懇談で担任の先生とよく話して高校を決めなさい。」
当たり前のことを言う高田先生。
なんか、物足りない。
でも、何て言ってもらえたら満足する? これ以上の言葉があるか?
きっと、ストーブの前で落ち込んでいたのが他の生徒でも、高田先生は同じことを言っただろう。
それが気に入らない。
私の中で、抑えが効かなくなっていく…
やはり、高田先生には私を特別な目で見てほしい! 今ここに先生と2人きりだったら、後ろから抱きしめて「大丈夫だよ。がんばれ。」って言ってほしい!!
先生、好き!!
ぎゅーっとしてみたい!!
……
始業のチャイムと共に、冷静になり席に着いた。
三者懇談では、やはりY高校を受けたいという意志を担任の先生に伝えた。
私がY高校に行きたいのには、高田先生の家の前云々の以前に、きちんとした理由があった。
私は小学生の頃から理科が好きで、子どもの頃から植物を研究する仕事をしたいと思っていた。
Y高校は理科教育に力を入れている高校であり、それが私にとって一番の魅力であった。農学や生命工学を学ぶ大学に進学するために、これほど適した高校はなかったと思った。
その意志を、担任の先生は理解して下さった。 しかし、今回数学だけでなく英語も成績が下がり、先生は快く推してはくれなかった。
母も心配して、
「Y高校をやめて、S高校にしなさい。」
と言う。うちには、滑り止めの私立に通わせてもらえるほど経済的に余裕がない。
S高校はY高校の1ランク下、かつY高校より近い。
(高校をランクとか上下とか個人的にはあまり好きな表現ではないが、他に分かりやすく伝えられる言葉が見あたらず… すみません。)
でも、Y高校に行きたい。
この時、校舎の改築工事とかで放課後の教室が使えなかった。その為に、だだっ広いホールで、同時にすべてのクラスが懇談を行っていた。企業の就職説明会のような感じだった。
私は3組。
高田先生は5組の担任。
声はきこえなくても、この距離なら様子は伝わるだろう。
高田先生は、ちょうどこの時誰もいなくて、こちらの様子を気にしているように感じた。
気にしていて欲しいという願望がそうさせたかもしれないが。
…高田先生だって自分の学級の生徒の進路で一生懸命なのに、私のことまで心配する余裕あるわけないよね。
心にブレーキ。
結局、希望通りY高校を受験することにした。
冬休みに入ろうとしていた。勉強や受験の悩みは続くものの、私はかねてから楽しみにしていたことがあった。
それは、高田先生に年賀状を書くこと。
姉の卒業アルバムには、最後のページに教職員の住所と電話番号が載っていた。
大きな牛の絵を描き、プリントゴッコで刷っていく。
刷り上がった年賀状に、色鉛筆で色を塗っていく。
勉強に追われる日々の中、絵を描くことが好きな私には息抜きになった。
その中の一枚を取り、ペンを持って深呼吸。
スゥー ハァー …
○○市△△町1丁目…
スゥー ハァー …
高田 浩之 先生
宛名を書くだけで、こんなに緊張するなんて、笑えた。
裏面の牛の横に、
「高校入試、合格できるようにがんばります。」
と、一言添えた。
さんざん考えて紡ぎ出した言葉だった。まさか家族が見るかもしれない年賀状で、愛の告白できるわけないしね。
普通の生徒を装って(笑)
…先生、まさか私から年賀状が来るとは思っていないだろうな。
ビックリするかな。
喜んでくれるかな。
でも、大人の人って、たかが年賀状で嬉しいとか思うかな。…
様々な想いと共に、そっとポストに投函した。
冬休みに入ると、受験モードが一気に上昇! 塾の冬期講習は正月三が日も休みは無い。
元日に勉強している自分が、いかにも受験生~!!って感じで妙にワクワクしていた。
1月3日、塾から帰宅してポストの中を見ると、年賀状が届いていた。
この日に届く年賀状は、出してない人から届いた年賀状に返信している物が多い。
…高田先生からの年賀状がありますように!!…
祈る気持ちで、家族ひとりひとりに振り分けながら一枚ずつ見ていく。パソコンで作成する年賀状が今ほどメジャーでなかった時代だ。ほとんどの宛名が手書きである。
その中に一通、パソコンで書かれた、
安藤 カナ 様
目が止まる。友達からではない予感。
差出人は…
高田 浩之
…来た!
すぐ隣にいる父に動揺を悟られないよう、残りの年賀状を振り分けた。
「はい、これおとーとおかーのやつ。こっちは姉ちゃん。」
私は自分宛ての年賀状を持って自分の部屋へ。
心臓が高鳴る。
あえて、友達から来た年賀状から先に見ていく。
最後に残った、高田先生からの年賀状。
ドキドキ…
そっと、裏面を見た。
そっと年賀状の裏面をめくる。
宛名と同じく、パソコンで作成してある牛と雪だるまのイラスト。
…けっこう、かわいい。
その下に、分が添えられていた。
『笑顔のステキな君だから 今年はきっと素晴らしい年になるでしょう!
悔いのないようがんばって下さいね。』
見覚えのある、高田先生の字。
全身がくすぐったくなり、思わず体をよじる。
嬉しくて自然と笑顔がこぼれる。
何度も何度も読み返した。
最後は、年賀状を胸に当てて抱きしめた。
…大丈夫。私は絶対にY高校に合格するんだ…
受験に立ち向かう勇気が出てきた。
三学期が始まった。
私立の推薦入試を受ける子が欠席していたりして、いよいよ受験ムードが高まってきた。
入試まで、あと2ヶ月。そして、卒業も近い。どの教科書も、残りのページがわずかだ。男子は給食の懇談表を見て、「今日でアゲパン食い納めかもしれねぇー!」とか言ってる。
私とハルミちゃんは、2学期の終わり頃から一緒に帰るようになっていた。お互い部活が終わって、学校を出るタイミングが同じになったからだ。
一学期からハルミちゃんは中島君と付き合っていたが、この頃もアツアツで、「卒業したくなぁーい!!」と言っていた。でも中島君はバリバリの不良くんなので、まず学校で見かけない。どこで2人は会ってるんだか不思議なくらいだった。ハルミちゃんによると、彼は給食時間には学校に姿を現しているらしい。
…私も、卒業したくないよ。高田先生と離れたくないんだよ。…
仲良しのハルミちゃんにも言えない。
話題は、受験のことが中心。ハルミちゃんと私とは、受ける高校が違う。卒業したら、ハルミちゃんとも離れてしまう。
そんなある日の帰り、ハルミちゃんがこう切り出した。
「カナちゃん、好きな人いるでしょ。」
突然のハルミちゃんの質問に、一瞬ビビる。が、そこは冷静に。
「え?いないよ。」
「嘘だぁ。カナちゃん高田先生が好きなくせに。」
ほほえむハルミちゃん。
…バレてる!?
「何でそう思うの?」
「だって、理科の時間をすごく楽しみにしてるし。毎日高田先生の所へノート出しに行く時も、嬉しそうにおしゃべりしてるし。」
…あちゃー。私って分かりやすいんだなー…
「高田先生とは気が合うし、話してて楽しいんだよ。理科話で盛り上がるしね!」
「はいはい。良かったねー。」
ニコニコするハルミちゃん。
「うん、良かったよ。理科が高田先生で。」
開き直っているのかはぐらかしているのか、自分でもよく分からなかった。
ハルミちゃんは、変に冷やかしたり、まわりに言いふらしたりする子じゃない。でも、やはり高田先生への本当の気持ちは話せなかった。
それでもハルミちゃんは、帰りに私が職員室へ寄り高田先生とおしゃべりしている間、廊下で待っていてくれた。
「ゆっくり話しておいでよ。もう少しで卒業なんだし。」
とまで言ってくれた。
優しい彼女の心遣いに甘えっぱなしだった。
三学期の期末テストが、1月中に行われた。三学期の成績が、2月から始まる私立高校の一般入試に必要な為だと説明された。
期末テストと言っても数週間しか進んでいない授業のテストである。簡単だった。
おかげで、三年間のテストの中で、最高点がとれた。この点数が、高校入試に挑む自信に繋がった。
いつものように、ノート提出のついでに高田先生と話す。
「アンカナなら、Y高校大丈夫だろ。いつものお前の実力を出せば、合格するよ。」
明るく優しくそう言ってくれた。
理科は98点だし、他の教科の点数を高田先生は知らないからそう思ったのかもしれないが。
でも、大好きな人から一番言ってほしい言葉を言ってもらえるのは幸せだった。
「はい。Y高校受かるようがんばります。」
その会話を聞いていた、高田先生の隣の先生が、
「安藤さんY高校受けるんだ。高田先生の出身もY高校でしたよね?」
と、ナイストス!
…えっ!?高田先生もY高!
すかさず高田先生。
「いえ、僕はN高校です。」
…なーんだ。違うんだ。でも、高田先生N高出身なんだ。頭いいんだ…
ひょんな事から、高田先生の出身高校が聞けた。
この日の収穫は多かった。
※いろいろな高校がでてくるので整理します。
偏差値高い順です。
F高 ナオヤレベル
(東大京大レベル)
N高 高田先生出身校
K高 タッチの志望校
Y高 私とナオヤの志望校
2月になった。いよいよ卒業を意識するようになる。
三年間の感謝をこめて、三年生全員で校舎内のすべての廊下のワックスがけをすることになった。
ワックスをかける前に、洗剤とタワシで汚れをゴシゴシ落としていく。それほど大きな中学校ではないが、それでもすべての廊下に洗剤をまいて、みんなでゴシゴシする光景は、なかなか迫力のあるものだ。
私の班の担当は、職員室前から三年生の教室に上がる階段の前まで。ゴシゴシしながら、様々な思い出が蘇る…
三年生になった4月、新鮮な気持ちで初めてこの階段を上ったこと。
横川達の喫煙を先生に報告するためダッシュしたこと。
応戦するため駆け上がる高田先生の姿がカッコ良すぎたこと。
この一年間で、休み時間に高田先生と何度もすれ違ったな。
友達関係のいざこざから、たえられず授業中に教室を飛び出し、この階段の踊場で泣いたこともあった。
感傷にひたっていたら、悲劇がおきた。
廊下は塩ビが張ってある。そこに液体の洗剤をぶちまけて磨いている。
そう、廊下はとても滑りやすくなる。
そこで、誰からともなく暗黙のルールが出来上がる。一気に全面に洗剤をまくのではなく、飛び石のように所々洗剤を塗らない場所を作っておく。私たちは、この洗剤を塗らない乾いた場所を『島』と呼んだ。
『島』は50cm四方ほどの大きさで、1~2mおきの間隔で作った。
廊下を通る人は、この『島』をぴょんぴょん渡っていくシステムだ。
洗剤スペースはツルッツルである。
私たちの最大の失敗は、この『島』を階段が終わった所に作らなかったことだった。階段を下りてくる人は皆、滑らないよう慎重に下りてくる。が、階段が終わった所で油断するようだった。
ちょうどこの場所が若干くぼんでいたようで、液体の洗剤が溜まっていた。
条件は最悪である。
階段を下りてきた人の5人に1人はここでしりもちをついていた。
受験のストレスが溜まっている中学生である。誰かが転ぶたびに異様なテンションで喜んだ。
それが先生だとなおさらだった。
いつも怒ってばかりのオバサン先生が、
「きゃあぁあ~!!」
物静かな男の先生が、
「うおおっ!!」
叫びながらしりもちをついていく。
良いストレス発散になった。
そして、誰しも思うのである。
…絶対自分は転ばない。
私も例外ではなかった。
私は洗剤の入ったバケツを二階に届けるため、バケツを手に持ち、慎重に『島』を渡り階段へ向かう。
ピョン
…あっ、階段の上から高田先生が下りてきた!
いちいちドキドキする私。
ピョン
一歩ずつ先生に近づく。先生とはどこかの島ですれ違いそうだ。
ピョン
高田先生は階段を下りきる。洗剤溜まりの危険地帯に入った。
ピョン ツルーッ!!!
あっ と思った時には手遅れ。
「ひぃやあぁー!!」
高田先生に気をとられて『島』を踏み外した私は、思いっきり滑ってひっくり返った。
楽し○ごのギャグかと思うほどの見事な開脚と、その先にものすごく驚いた顔の高田先生。
カラララ~ン
転がるバケツと飛び散る洗剤。
「…っ」
爆笑じゃなくて失笑。
唯一の救いは、スカートでなくジャージだったことくらい。
穴があったら入りたいと思った。
「大丈夫か?」
高田先生が笑いをこらえながら話しかけてくれた。
別の意味で大丈夫じゃない。
よりによって…高田先生の前で全力開脚を披露しなくても…
顔から火を噴きそうになりながら立ち上がり、おもむろにバケツを拾い上げると、私はもと来た道を後戻りした。新しい洗剤を取りに行くために。
「ごめん。洗剤こぼしちゃったね。」
私が撒いた洗剤のせいで、いくつかの『島』が水没した。
それからのことはよく覚えていないが、帰る頃には笑いながらハルミちゃんに一部始終を話した気がする。
帰宅して、洗剤でパリパリになったジャージを見て、母が驚いたので、一連の出来事を報告した。
「高田先生にバッチリ見られちゃってさぁ~。」
さりげなく高田先生の名前を出す。
「高田先生って理科の男の先生だっけ?」
「そうだよ。」
「あんた、まさかあの先生のこと好きなんじゃないでしょねぇ? やめてよ~、何十歳も年上のオジサンなんかー。」
グサッ
…私の顔のどこかに、『高田先生love』とか書いてあるんだろうな。
土日をはさみ、月曜日に登校した。2日間で、廊下のワックスは乾きピカピカになっていた。
月曜日は選択理科の日である。2日間あっても、こちらはなかなかサッパリとはいかない。高田先生と顔を合わせるのが恥ずかしかった。
照れ隠しだったのか、何だったのか… その日、私は真面目に授業に向かう気持ちになっていなかった。 実験レポートを作成する日だったのだが、集中できず、周りの子とペチャクチャおしゃべりをしていた。
土日のテレビ番組のネタで盛り上がり、授業が終わる頃になってもレポートはほぼ白紙だった。
…まぁいっか。来週までに家で書けばいいんだし。
終業のチャイムが鳴る。
「起立 」
当番のかけ声で立ち上がる。
その時だった。高田先生が、
「安藤は残れ」
と、厳しい口調で言った。
…やばい。さすがに今日の態度は叱られても仕方ない。
私は白紙のレポート原稿に目を落とした。
「礼 ありがとうございましたー」
理科室から出て行くみんな。
「安藤さん、ごめん…」
私がおしゃべりに巻き込んだにもかかわらず、申し訳なさそうに小声で謝ってくれるみんな。
やがて、理科室は高田先生と私の2人だけになった。
このあとは掃除の時間。高田先生は廊下へ出て行き、理科室の掃除に来た生徒に何やら話し、追い返してしまった。
ドアを閉める先生。
再び2人きりになり、理科室に静寂が訪れた。
理科室の机は実験台であり、6人で座れるようになっていた。
高田先生は無言で私の向かいの椅子に座り、腕組みをした。
………
何も言わない先生。
うつむいていても、すごく怒っているのが分かる。
怖くて顔を見られない…
私から何か言うべきなのか…
何も言い出せない代わりに、レポート原稿を開き、筆箱からシャーペンを取り出した。
原稿に書く内容は頭の中に入っている。何も見なくても、ペンはスラスラ進んだ。
掃除の音楽が流れている。よく聴くクラッシックだが、曲名は知らない。
カリカリカリ…
緊張で、自分でも驚くほどのスピードでレポートは進んでいく。
やがて、15分間の掃除時間が終わった。 次はホームルーム。 高田先生だって担任を持っているから、さすがにこのあたりで解放してもらえるはずだ。
B4の原稿用紙が完成に近づく。いいタイミングで終われそうだ。
その時、高田先生が冷たい声で言い放った。
「それ完成させて終わりじゃねぇぞ。」
ピタリ と、私の手が止まった。
どうしよう…
授業中におしゃべりしていたこと。
レポートを書かなかったこと。
先生が何か言う前に、自分から謝らなくてはいけない。
…ごめんなさい。
喉の奥が震えて、言葉が出ない。
かわりに、涙が溢れてきた。
怒る先生がめちゃ怖い。
アホな自分が情けない。
高田先生からは特別な生徒と思われたくて一生懸命がんばってきたのに、今日のこれで私のイメージは台無しだ…。
一度涙がこぼれだすと止まらなくなってしまい、しまいにはしゃっくり上げて泣いていた。
「お前、行きたい高校があるんだろ? それに向けて一生懸命だったじゃないか。いつものアンカナはどうした?お前そんなんでいいのか!」
怒った口ぶりだが、こんなに優しい言葉をかけてもらったこと、親以外の大人からは初めてだった。
小学生の頃から学級委員をやったり授業中も積極的に発言したり、勉強面でもそれほどひどく先生に迷惑をかけたことのなかった私は、教師からすれば『多少のことは目をつぶってやれる』子どもだったのだろう。
受験頑張るとか言ってるのに、どこかで気を抜いている自分を見抜いた高田先生。
そこをスルーしないで、きちんと叱ってくれた高田先生。
掃除に行かせなかったり、ホームルームの時間も削ったり、そこまでする指導の仕方はどうであれ、この日、彼からこうして叱られた事が今後の私の人生に影響していくことになる。
ちなみに…
2人きりの理科室であらぬ展開になれなどという、腑抜けた妄想をする余裕など無いほど、この時の高田先生は恐ろしかったのです。
「1人で教室に入れるか?」
教室に向かう廊下で、高田先生が優しく声をかけてくれた。
「はい‥。」
すでに帰りのホームルームの時間で、廊下は静かだ。
「そうか。 がんばるんだぞ!」
軽く肩をポンと叩いて、ほほ笑む高田先生。そのまま先生は5組の教室に行き、私はその先の3組の教室へ向かう。
高田先生は、自分の教室にすぐには入らず、私を見てくれていたのだろう。私が3組の教室の前に着いた時、ようやく背後でドアを開ける音がした。
教室では、担任の先生が話をしていた。そっと後ろのドアから入ったつもりだが、静かな教室では目立ちすぎた。全員の視線がワッとこちらへ向けられた。
「安藤どうしたんだよー。 掃除さぼってよぉ。」
「カナちゃんどこ行ってたん?」
同じ班の仲間から質問攻め。
「安藤さん、何かあったの?」
担任の先生も。
…伝わってなかったのかよ!?
「カナちゃん泣いたの?まさか高田に変なことされたとか!!?」
…そんなわけないし。
「違うよ…掃除行かなくてゴメンね。」
班長が言った。
「生徒指導の三浦先生が、『帰りに俺の所に来い』だって。掃除サボってたからな。」
あの怖い三浦先生が!?
何でこうおおごとになるんだよ~
放課後、理科ノートの提出と、三浦先生と話す為に職員室へ向かった。
幸い、高田先生は机に…
いた。
気まずい。
三浦先生の席は、高田先生の隣の隣である。
生徒指導の三浦先生は、とにかく怖い。不良達も恐れていた。
班長の北川にによると、掃除の見回りをしていた三浦先生が、階段掃除をしている私達の班の人数が少ないことに気付き、班長に声をかけたそうだ。
班長は素直に安藤カナが行方不明であると答えた。掃除をサボっている疑いをかけられた私は、ようするに呼び出されたのである。
私は高田先生の後ろを通り過ぎ、三浦先生に恐る恐る声をかけた。高田先生といい、どんな風に叱られるのだろう。泣きっ面に蜂とはこのことか。
「あの、3-3の安藤です。」
「おお。安藤さんか。掃除の時間はどこにいたんだ?」
三浦先生は意外にもにこやかに問いかけてきた。
高田先生をチラ見する。
…笑いをかみ殺してしている! くそー
開き直った私は、わざと高田先生に聞こえるように、
「あの… 高田先生に叱られていました。」
と答えた。
「ぇえ?高田先生に?」
驚いて高田先生の方を向く三浦先生。
「何して叱られたの?」
「授業中、おしゃべりをして集中していなかったからです。」
本人がすぐそこにいるのだ。何も隠すことはない。
それまで笑いをこらえていた高田先生が、我慢できないと言った感じで続けてきた。
「すみません。掃除に行かせなかったのは僕です。コイツ、あまりにも気ィ抜いてたんで、叱ったんです。」
三浦先生は納得して、
「いやぁ、僕も職員室でよく見かける安藤さんが、掃除をサボるとは思っていなかったけど、同じ班の生徒が事情を知らなかったから、何かあったのかと思ってね…」
三浦先生とは直接関わりはない。いつの間にか私の顔と名前を覚え、掃除に見かけなかっただけで、心配してくれるなんて。驚いた。
その後は和やかなムードになり、私も少しずつ気持ちが晴れてきて、最後には笑顔で職員室を後にした。
…私を気にかけ、見てくれている先生がこんなにいる。
この日のことは、今でもはっきり覚えている。
そして、今の私に深く繋がっていくのである。
卒業まであと1ヶ月を切った。高校入試は卒業式の翌日に控えている。
…高田先生の授業を受けられるのも、残りわずかだな。
初めて高田先生が教室に入ってきた時から、私は恋してたんだな…
何で好きなのか、恋に落ちるのに理由なんて無い。カッコいいから好きなんじゃない。好きだからカッコよく見える。恋ってそういうものだ。
私は、黒板に字を書く高田先生の背中を見つめるのがたまらなく好きだった。
スッと伸びた背中、時々寝ぐせのある髪、左手は真っ直ぐ下に下ろして軽く拳をにぎるのが先生の癖だ。黒板を見てノートをとる振り(っていうか実際そうしている)をすれば、不自然ではない。
…この恋、終われるのかな?
ぼんやり考えていることがナオヤにバレると面倒くさいので、そのあたりは気を配っていた。
ある日の学年集会で、志望校別に別かれて受験票が配られた。Y高校を受けるメンバーが分かる。
『Y高校』の札が貼られた場所に向かった。嫌でもナオヤと連れ立って。
あれ?他に誰もいない。
担当の先生から受験票を受け取る。
「2人とも、がんばるんだぞ!」
「2人だけですか?」
ナオヤが聞く。
「そうだよ。Y高2人だけ。しかも普通科と理数科でお前ら別々だしな。受験当日は、俺が付き添いで行く。○時に正門横の石碑の所に集合だ。」
…ナオヤと2人だけかよ。つまんない。
教室に戻ると、ナオヤは信じられない行動に出た。
「おー安藤。お前と2人だけかよー。」
かったるそうに、ナオヤが言う。
「受かっても、あんたしか知り合いがいないなんて嫌だ。」
私も、同じ調子で答える。
「安藤お前受験番号何番だ?」
「△△△番だよ。」
受ける科が違うので、ナオヤとは全然違う番号のはず。
「ちょっと受験票貸せ」
「ん?なに?」
ナオヤは私から受験票を受け取ると、そのまま床にポトリと落とした。そしてあろうことか、上履きを履いた足でグリグリ踏みつけた。
「あ゛ーーっ!!」
ナオヤを突き飛ばして受験票を拾い上げる。
幸い破れてはいなかったが、足跡がバッチリついてしまった。
「何すんのよ!!」
「お前が落ちるように。お前と2人なんて嫌だからな。」
ナオヤはこういうわけの分からない男だ。
私は受験票の汚れを、消しゴムで丁寧に消した。
当日は小室哲哉全盛期。安室奈美恵、TRF、globe… 勉強の合間によく聴いていた。お小遣いは少ないので、CDは買わずにレンタルショップで借りてカセットテープにダビングした。
私が一番好きだったのは華原朋美。太っ腹な友達がいて、ある日突然「カナちゃん聴くならあげるよ~。」とシングル2枚をタダでくれた。
I belive
I'm proud
有名な2曲だ。カセットと違っていちいち巻き戻さなくてよいので、リピートして何度も聴いていたっけ。
中でも、I'm proudは大好きな一曲だった。
『I'm proud いつからか
自分を誇れるように
なってきたのはきっと
あなたに会えた夜から』
愛とか誇りとかよく分からないけれど、大好きな高田先生の励ましが、私に受験に向かう勇気ややる気をくれたこととダブらせて聴いていた。
今でも、歌詞を見ないでフルコーラス歌えそうだ。
いよいよ、卒業式&高校入試がやってくる。
卒業式2日前。
高田先生の授業は今日で終わった。
最後の授業は、教科書の巻末に載ってある『エネルギー資源特集』みたいなページだった。ようやく世の中に『リサイクル』『再利用』なんて意識が定着してきた頃だったのかな?
最後の終業の挨拶を終えて、高田先生が教室から出て行く。
…終わっちゃったな。
ハァーっと、ため息が出た。何だか力が抜けて、私はそのまま机に突っ伏した。ナオヤが何か思うかもしれないけど、どうでもよかった。
やがて、卒業式当日。
卒業証書授与、在校生代表送辞、卒業生代表答辞…
あぁ、義務教育終わるんだな…
やがて『卒業生による、卒業記念合唱』
フィナーレを迎えた。
『過ぎし日 思い出して
涙があふれてきた
いくつもの場面が
心を かけめぐる』
あちらこちらですすり泣きが聞こえてきた。
…三年間、本当にいろいろあったな。 ハルミちゃんとも、離れ離れになるな。
ラストの一年間は、やはり高田先生との思い出がいっぱい。
恋、友情、勉強…
泣いた日も悩んだ日もあったけど、中学校生活楽しかったな…
そして、卒業生退場。
在校生のリコーダーによる『マイウェイ』がBGMだった。
5組からの退場。先頭は、高田先生。
黒の礼服姿が凛々しい。その後ろ姿を目に焼き付けた。
好きで好きで、毎日見つめていた背中も、見納めだな。
泣きながら、高田先生への恋の卒業を思った。
これが、この恋の序章に過ぎないことなど、この時の私には思いもしなかった。
翌日、いよいよ高校入試の日だ。
約束通り、正門横の石碑で担当の先生、ナオヤと落ち合う。
「2人とも、健闘を祈るぞ!!」
体育の先生だけあって、熱いオーラで声援をいただいた。
…いよいよ、この日がきたんだ。
頭の中ではドリカムの『決戦は金曜日』が流れていた。実際は金曜日じゃなかったけれど。
ナオヤとは試験を受ける教室が違うため、さっさと別れて会場に向かった。
歩きながら、カバンの外ポケットに手を当てた。中には、高田先生からの年賀状が入れてある。
…先生、私がんばるよ。応援もらったから、前向きに立ち向かえるよ!絶対合格するから!!
緊張で朝食が少ししか食べられなかった為、席についた途端お腹がグゥ~っと鳴った。
…やばい
試験は順調に進んだ。苦手な英語と社会は勘に頼り、得意な数学と理科はスラスラ解いていく。
…なんか、手応えないな。
入試の問題って難しいと思っていたのに、ポンポン解けていくのが逆に不安だった。どの教科も30分くらいで終わってしまい、残りの20分間はひたすら見直しをした。
合間の休憩時間には、カバンを開けてコッソリ高田先生からの年賀状を見た。
こうして、筆記試験が終わった。
翌日は面接と小論文。
面接は持ち前の物怖じしない性格をフルに発揮してハッタリをかまし、作文は昔から苦手だったから小論文はテキトーに。
試験の合間に他中学の子何人かと仲良くなり、弁当も一緒に食べ、せんだみつおゲームまでして過ごした。
緊張感まるで無し。
試験って、いざ始まると緊張しなくなるもんだと思った。
入試の2日後に合格発表があった。
結果が張り出される前からたくさんの受験生とその親が集まっていた。
しばらく後、窓ガラスに一斉に結果が張り出された。
どよめきや歓声で辺りは騒然となる。この日は雨が降っていたので、前の人の差す傘でなかなか結果が見えない。
徐々に人がはけていき、ようやく見える所まで来た。
三桁ゾロ目のわかりやすい受験番号はすぐに見つかった。
「あった!!」
叫ぶ私。
試験当日に仲よくなった子とも一緒に抱き合って喜んだ。母のもとにも駆け寄り、合格したことを告げた。
しばらくして、雑踏の中からナオヤが現れた。
「お前も受かったなー。」
こいつは私の受験番号を知っているからわざわざチェックしたみたい。 私の母もいるので、いつものような憎まれ口は叩かず、少しの会話の後そのまま去っていった。
「カナの友達?」
母が聞く。
「今のがナオヤだよ。」
「今のがナオヤかー。けっこうイイ男やん♪」
…イイ男か?
その後、入学説明に教科書や体操服の購入手続き。
昼ご飯も食べずに、終わったのは午後3時近く。さすがに疲れた。
帰宅した私は、すぐに中学校に向かった。合否の報告を、可能な限り直にすることになっていた。
「失礼します。」
職員室に入ると、他校に合格した同級生が何人かいた。
担任の先生、他の三年生の先生、教頭先生や生徒指導の先生… もちろん高田先生もいる。
「Y高校合格しましたー!!」
湧き上がる拍手。
同級生とも喜び合う。
次から次へとそんな生徒が来るので、なかなか高田先生に近づけなかった。
しばらく友達や先生と雑談し、帰る頃ようやく高田先生と話すことができた。
「先生、今までありがとうございました。」
月並みな言葉しか出てこない。こうして話せる機会は、明日から無くなるのに…
気になっていたことを聞いた。
「先生、4月から学校変わるの?」
「ううん。来年度もココ。」
そう来たら返す言葉は用意してあった。
「じゃあ、また中学校に遊びに来てもいいですか?」
「おぅ。来いや。」
その言葉を聞き、また高田先生に会えることを楽しみにして私は校舎を後にした。
春休みに入った。高校からは宿題がどっさり出されていたが、憧れの高校に進学できる喜びに心が踊っていた。
両親からは、通学用の自転車を買ってもらった。4月からは、これに乗って片道約10キロの道のりを通うことになる。
暖かくよく晴れたある日、私は高校まで自転車で行ってみることにした。夏休みの高校見学の時は、迷わないよう大通りを選んで行ったから、かなりの大回りだった。
今回の目的は、近道を見つけること。そして…
そう、高田先生の家を見つけること。
おそらく、高田先生の家の前を通るとけっこうな近道になる。
「行ってきまーす!」
「はいー。気をつけてねー。」
母は、私の元気の良さの理由を、半分は分かっていなかっただろう。
私はピカピカの自転車にまたがると、颯爽とこぎ出した。
高田先生の家は、家族でよく行くショッピングセンターから少し奥に入っただけの所なので、土地勘はあった。
地図も頭に入っている。
ショッピングセンターへ向かういつもの大通りを、バイクショップを目印に右折する。
入ったことのない道。大通りと違い、静かな住宅街が広がる。
ドキドキしてきた。
「しばらく道なり。郵便局を目印に左折。三つ目の交差点を過ぎたら三軒目が先生の家…」
頭の中で何度も反唱しながらゆっくり自転車を走らせる。
…バッタリ高田先生に会ってしまったらどうしよう。
そう思うと、このまま違う道にそれようかと逃げたくなった。
でも、勇気を出して進む。
ドキドキドキドキ…
鼓動はどんどん速くなる。
郵便局を曲がる。
あとはまっすぐ行くだけ。
ドキドキドキドキドキドキ…
交差点を過ぎる。
一つ目、二つ目、そして三つ目。
三軒目の家…ここだ!!
そこには、明るいベージュの外壁の、新築のようにキレイな家があった。
姉の言う通り、一階の半分はガレージになっている。ガレージに車は停まっておらず、がらんとしていた。
…ここが、先生の家…!!
胸の高鳴りは最高潮を迎えた。
表札は名字だけ書かれた物ではなくて、家族全員の名前が載っていた。
『高田』の名字は見えたが、名前まで読むには自転車から降りて玄関まで近づかないといけない。
さすがにそこまではできない。
が、4人の名前が書かれていることだけは見てとれた。
…4人家族なんだ。両親と、先生と、あとは…まさか結婚しているわけじゃないよね!? 先生の兄弟でありますように。
ご近所さんに怪しまれないよう、何食わぬ顔してその場を立ち去った。
「おかえりー どうだったー?」
帰宅した私に母が聞いた。
まさか高田先生の家を見つけたことなんて知っているはずもないのだが、「どうだった?」の一言に一瞬ぎくっとなった。
「う、うん。10キロは遠いわ。さすがに往復は疲れたー! でも、わりと近い道を見つけたから。」
当たり障りない返答をして部屋に戻った。
さて…と。
私は机の引き出しからサイン帳を取り出した。サイン帳って今でもあるのかな?1ページずつバラして友達に配れるようになっていて、プロフィールとかメッセージとか書いてもらうやつ。
今みたいにケータイなんて無かったからプロフのサイトなんて存在しなかったのよ。
卒業前にみんなに書いてもらったサイン帳をペラペラめくる。ピンクのウサギちゃんにイチゴが散らばった、女の子すぎるデザイン。
その中に、ちゃんとしまってある大切な一枚。
なまえ★高田 浩之
先生の、やや丸みを帯びたくせのある字が、ウサギイチゴとマッチしている。
生まれた日 4月○日
せいざ☆ ○座
血液型 ○型
すきな子はいる?
白紙
すきなタイプは?
白紙
すきな芸能人は?
△△ □子
・
・
・
好きな食べ物
ハンバーグ
…誕生日まであとわずかだ!好きな食べ物ハンバーグって、なんかかわいい。
あのキレイな高田先生の家で、キッチンに立って先生のためにハンバーグをジューっと焼いている姿を想像して、にやけた。
そして高校の入学式を迎えた。
初対面でも以前からの知り合いのように話しかけられる私は、とりあえず後ろの橋本ミナミさんに声をかけた。
「中学校どこ?」
「家はどのあたり?」
「自転車?それともバス?」
他愛もない会話から、彼女は私とほとんど同じ道を通って通うこと、そして高田先生の近所に住んでいるということが分かった。
その日から、ミナミと私は一緒に帰ることになった。
変な所で小心者の私は、朝は高田先生の家の前の道を避けて通ることにした。
万が一、出勤する高田先生とすれ違ったりしたら大変だ。Y高校に行ける道はいくらでもあるのに、わざわざこの道を選んでいることがバレたら恥ずかしくて消えたくなるだろう。
なので、帰りだけ通ることにした。先生は帰りが遅いので、夕方に通れば出会うことはない。
では高田先生の家の前を通る意味があるのか?
………
好きな人の家なら、たとえ本人が不在でも通るだけでワクワクするものだ。
ミナミとは途中まで一緒に帰る。
「じゃあ私はここで曲がるねー バイバーイまた明日~!」
ミナミと別れ、高田先生の家の前の道に入っていくのがお決まりとなった。
あぁ、面倒くさいので、『高田先生の家の前の道』をこれからは『高田ロード』と言うことにします。
入学して半月ほど経った。ミナミの他に、ユキ、ユカリとも仲良くなり、4人でいることが多かった。
ある日の休み時間、4人でわいわい話していた時だった。
バチン!!
後頭部に衝撃を感じた。 この感覚、身に覚えがあった。すぐに分かった。
「ナオヤこのやろう!!」
確認もせずにそう叫んで振り返ると、予想通り、私の頭を平手打ちした男が立っている。
「おー、カナ、久しぶり。お前英会話の教科書あるか?オレ次古典なんやけど忘れた。貸せ。」
「英会話?残念。今日はありません。」
「使えねーな。」
「私の知ったことじゃないし。」
ナオヤはそのまま廊下へ消えた。
向き戻ると、唖然としている3人。無理もないよなぁ…
「カナ大丈夫?今の男だれ?」
ユキが聞く。
「唯一、同じ中学校から来た奴だよ。こういうの慣れてるから心配しないで。」
はぁーっ とため息が出た。
ナオヤは翌週の同じ時間に同じ要件で現れた。この時は叩かれる前に気づいたので助かったが、
「だから木曜日に英会話は無いの!」
と言うと、また頭をバチン。
その後、ナオヤは自分の担任の悪口やら、同じクラスの面白い奴の話やら、女4人の私達の間に割って入ってきた。
ほんと、ナオヤって変な奴だ。話術は天才的で、ミナミ達3人を一通り笑わせて教室に戻っていった。
それからしばらくは、私は木曜日は英会話の教科書を持ってくるようにした。
ナオヤのため?
違う違う!!
ナオヤに叩かれないためさ…
5月の連休が明けて、高校生活にも慣れてきた。高校の授業は難しい。中学校とはまるでちがう。生徒に考える余地なんて与えられない。先生がガンガン教えてくることを必死で聞き、とりあえず黒板の内容をノートに写し、理解をするのはその後だった。
私はすぐに、授業について行けなくなった。
英語はもちろん、得意だった数学も分からなくなってきた。英語だけでも英文法、英会話。数学も数学Ⅰと数学Aに分かれている。
そしてこの頃から、私は毎日頭痛に襲われるようになった。(病気ではなく、いわゆる頭痛持ちの体質が、この頃から始まったのです。)
頭痛は決まって、夕方帰宅してから起こった。だから、帰ってくると勉強の前にまず布団で休む日々が続いた。
予習はおろか、宿題もできずに登校するようになった。授業はますます分からなくなっていった。
5月末にあったテストの結果は悲惨だった。クラス内順位は、恥ずかしながら…最下位だった。
高校の勉強は難しいから、みんなこんな感じかと思っていたら、ついて行けないのは私くらいだと知った。
一気に、勉強にやる気を無くしてしまった。
勉強についていけなくなり、夢と希望でワクワクしていた高校生活は、なかなか厳しいものだと思い知らされた。
暗く落ち込む毎日。
頭痛薬が手放せなくなってきた。
…高田先生の声が聞きたいな。
教師としての高田先生にビシッと喝を入れてほしいのか。
好きな人としての高田先生に甘えたいのか。
憂鬱な気持ちを恋する気持ちで紛らわしたいのか。
たぶん、全部。
頭痛と憂鬱な気持ちでベッドに横になっていた体を起こし、机の引き出しからサイン帳を出す。
高田先生のページをめくる。
メッセージ欄には一言
『夢に向かってガンバレ!』
夢…? 見失いそうだよ。 先生、私フニャフニャだよ。なんのやる気もしないよ。先生… 助けて!!
電話の子機を握りしめ、何度も電源ボタンを入れたり切ったりしながら、ついに私は高田先生の家の電話番号を押した。
時計を見ると、子機を持ち出してから1時間以上経っていた。
プルルル プルルル …
受話器を握る手にじっとりと汗を感じた。
プルルル プルルル
緊張しすぎて、息苦しくなってきた。このまま電話を切ってしまおうか…
プルルッ ガチャ
「はい、高田です。」
高田先生の声!
「あっ、 あのっ、第二中学校で高田先生にお世話になった、安藤カナです。」
口から心臓が飛び出しそうだ。
「おぉ。アンカナか。久しぶり。元気か?」
明るい先生の声に、緊張が吹き飛んだ。職員室の『アンカナ』に戻った。
「先生!お久しぶりです。実はあまり元気じゃなくて… 」
私は、なかなか勉強で苦労していること、テストの結果に落ち込んでいること、
すっかりやる気を無くしてしまったことなど話した。 先生は「うん、うん。」と相づちをうちながら聞いてくれた。
「そうか。そういう事よくあるぞ。」
さらっと言う高田先生。
同じレベルの生徒が集まっているんだから、その中で最下位になるのも仕方ない。逆に挽回することだってそれほど難しくないと言ってくれた。
確かにその通りかもしれない。
見失っていた自分は、「ガンバレ!」とか「こんなんじゃダメだ!」とか自分を精神的に攻めることしかできなかったが、こうして理屈で言われると、冷静になれた。
「先生ありがとう。がんばる元気出てきた!」
「ははは、単純なヤツだなー。 がんばるんだぞ。」
最後にお礼を言い、笑って電話を切った。
ずいぶん前向きになり、元気がわいてきた。私って単純だ!
近況を交えて、30分間くらい話していたと思う。
好きな人と電話で話すって、こんなに緊張するもんだなんて初めて知った。受話器が汗で濡れていたのには驚いた!
でも、高田先生と話せて元気が出てきた。気付けば頭痛も治まっていた。
「カナー ごはんだよ。起きられる?」
母が声をかけてきた。
「うん、大丈夫だよ!」
元気な私に母も安心していた。
翌日の学校の帰り、私はミナミに高田先生のことを話した。友達に、高田先生が好きなことを話すのはこれが初めてだった。
「えー、先生が好きとか、マンガやドラマの話だと思ってた。すごーい!カナがんばって。応援するよ~」
ミナミは、私が昨夜先生に電話で話せたことを自分のことのように喜んでくれた。
ミナミはこの先、私と高田先生の恋をずっと応援し支えてくれることになる。三十路を迎えた今でも、無二の親友だ。
ミナミに高田先生のことを話した帰り道、ミナミも高田先生の家を一緒に見たいと言い出した。
2人で高田ロードを自転車で走る。
先生の家の前まで来た。
「ここがカナの好きな高田先生の家かぁ。キレイな家だね。」
「ミナミーっ!声でかいよ!!」
ミナミは普通の声だが必要以上に大きく聞こえてあわてた。
「誰にもきこえないから大丈夫だよ~。」
ミナミは笑いながらさらに続けた。
「表札の名前、浩之のとなりは玲子って書いてあったね。武之と敏子は高田先生のお父さんとお母さんかな。玲子って誰だろ?嫁さんじゃないよね。妹いるのかな?」
…ミナミあんたどんだけ視力いいんだよ。しかも通り過ぎる一瞬でそこまで。
ともあれ、ミナミに感謝したのは言うまでもない。 高田先生のプライベートを知れば知るほど好き度が上がっていく。
私は完全な高田浩之マニアとなっていた。
勉強は相変わらずだったが、友達も増え、高校生活を楽しく過ごしていた。絵を描くことが好きな私は美術部に入った。
初夏の陽気が感じられるようになった頃、コンクールに出品する作品のデザイン画の製作に取りかかっていた。絵を描くことに夢中で、気付けば夜の8時を回っていることもあった。
そんな遅くなった日の帰り、いつもは空っぽの高田先生の家のガレージに、車が停めてあるのを初めて見た。
…あぁ、先生帰宅してる。この家の中にいるんだ。
いつもよりドキドキした。
…ん?でも車が違う!
高田先生の車は黒のスポーツカーで、車高が低めでホイールは赤。でも、停めてあるのはベージュのセダン。暗いので分かりにくいが、何だかオジサンが乗りそうな感じの車。車が好きな高田先生の趣味ではなさそうな気がする。
…先生の車じゃないのかな?それとも車変えたのかな?
ガレージは車一台が停められるほどの広さしかない。謎は深まる。
真相を確かめたくなった私は、翌日から朝の登校の時も高田ロードを使おうと決心した。明るい中なら何か分かるかもしれないと思った。
登下校がより楽しみになってきた。帰りも部活で遅いので、ひょっとしたら行きか帰りに偶然高田先生に会えるかもしれない。
でも、私が高田先生を好きなこと、本人にはバレたくない。だから私がここを通っていることを知られたくない。
かなり複雑だったが、このドキドキ感がたまらなかった。
「カナー!やるねぇ!高田先生に会えるといいよね!!」
朝も高田ロードを通って来ることをミナミに話すと、励ましてくれた。
「先生に好きなのバレてもいいやん。それより会えることの幸せのほうが大切じゃない?」
ミナミなかなかナイスなことを言う。単純な私はその通りだと思った。
…高田先生に会いたい!登下校の時にすれ違いますように!
それからというもの、私の研究が始まった。帰宅時刻はまちまちだが、出勤する 時刻はだいたい決まっている。
すれ違うチャンスは、家から大通りに出るまでの道だけ。車で走れば、時間にすれば1分あるかないか。
その時間を狙って通るのは至難の技だった。
早くだとまだ車が停めてある。
遅くだとガレージは空っぽ。
毎日、「今日こそ高田先生に会えますように!」と祈りながら走った。
研究の結果、私が7時22分に家を出ると、先生の(ものと思われる)車がある時と無い時の割合がほぼ半々であることを突き止めた。
しかし…
結局、一度も高田先生とすれ違うことなく夏休みに入ってしまった。ベージュのセダンは誰の車か分からずじまいだ。
夏休みに入った。私は部活と補習で毎日学校へ通っていた。
その日の朝も、いつも通り高田ロードを自転車でゆっくり走る。
その時、向こうから見覚えのあるベージュのセダンがやってきた!
…あっ、高田先生かな!!!?
どんどん近づいてくるセダン。
運転席を見つめる。
逆光にメガネのシルエット…
見覚えのあるヘアスタイル…
…高田先生にまちがいない!!
私は、恥ずかしいやらドキドキするやら、暑くて心臓バクバクでとにかくもう息をするのも大変な状況で、全てを開き直って運転席に向かって手を降った。
この時、セダンは私の先20mくらいの所へ来ていた。
先生は減速し、
ニッコリ笑い、
手を振ってくれた。
うれしいぞー!!!!!
車と自転車がすれ違うほんの数秒間が、私にはドラマに感じた。
「高田先生好きーっ!!」
自転車をこぎながら朝日に向かって叫ぶ日焼けした女子高生が一人、そこにいた。
こうして、ベージュのセダンの持ち主が高田先生本人であることが判明した。
人間とは勝手なものである。ベージュのセダン=オジサンと思っていたのに、それに乗る高田先生には大人の魅力を感じるようになり、ますます高田先生が好きになっていった。
高田先生とすれ違ったことをミナミに報告すると、とても喜んでくれた。
不思議なことに、一度すれ違うと、それから度々高田先生とすれ違った。
もちろん、いつも笑顔で手を振ってくれる。嬉しくて、幸せで仕方なかった。
やがて8月もお盆にさしかかる。地元では有名な花火大会があり、ミナミと一緒に見に行くことになった。
「カナ、どうせなら高田先生の家に行こうよ!」
「ほんと!?ミナミ付き合ってくれるの!?」
花火大会の会場へは電車で行くが、そこから高田先生の家へは歩いて行ける。
どうせなら浴衣で行こうということになった。
花火大会の日がやってきた。朝からソワソワしっぱなしだった。
ミナミとの計画はこうだ。
まず、私とミナミで高田先生の家の最寄り駅で待ち合わせる。
そこから高田家へ行く。
高田先生の車があれば、インターホンを押す。車がなければ、そのまま花火大会へ行き、帰りにもう一度訪問。
運良く高田先生に会えた時は、ミナミの家が近くだから、そのついでにちょっと寄ってみましたという小細工を忘れない。
今思えばアポ無しで何て迷惑なプランだと言いたいが、頭にお話咲いてる女子高生には分からなかったんだろうなぁ。
ともあれ、どのような結果になるかは状況次第。私は母に浴衣を着せてもらい、夕方家を出た。もちろん母にはミナミと行くことしか言ってない。
駅まで歩く。慣れない下駄に動きにくい浴衣、息苦しいのは帯だけのせいじゃない。
…高田先生に会える。直接話ができる。浴衣カワイイって思ってもらえるかな。
電車の中は花火のお客さんでいっぱいだった。目的の駅まで2つ。あっという間だった。
先に着いていたミナミと合流。花火までは時間があるし、まだ明るい時刻だった。
「ミナミぃー!!ドキドキするよぉおぉーっ!!」
「カナー、私も自分のことのようにドキドキする!」
2人で呼吸困難になりそうで、顔を真っ赤にしてハーハー口で息をしながら歩いた。
ほどなくして、高田家に到着した。
ガレージに先生の車が停めてあった。
…よし!先生いる!
しかしそれとは別に、白い軽自動車が玄関前に停めてある。
…お客さんかな?
このままインターホンを押すものかどうか…
予想外の展開に、ミナミと顔を見合わせた。作戦練り直しだ。
とりあえず様子を見ることになった。お客さんだとしたら、すぐに帰るかもしれない。
……30分経過……
すぐに出てくる気配は無い。きっとこれは、セールスマンとかの類ではない。だいたいお客さんかどうかも分からない。
日が暮れてしまわぬうちに、私達はインターホンを押すことにした。
ミナミは隣の家の塀の影で見守ってくれた。
ゆっくり玄関前まで行く。
インターホンを押すには階段を二段上らなくてはいけない。
勇気が出ない!!
階段前まで来ては、「やっぱりダメだー」と言ってミナミのもとへ引き返してしまう。
…次こそ!
階段前まで来る。
勇気が出ない。
引き返す。
何度それを繰り返しただろう。さらに30分ほど経った。
その時だった。
『ガチャリ』
玄関のドアが開いた!!
驚きのあまり、急いでミナミと塀の影に身を潜める。
塀の隙間からうかがっていると、玄関から2人の女性が出てきた。ひとりは60歳くらいで、もうひとりは30歳くらいに見える。
…先生のお母さん!?それと、正体わからないけど玲子さん!?
2人は玄関前まで出てきて、怪訝そうな表情で辺りをキョロキョロしている。
きっと、私たちがキャアキャア言って騒がしくしていたので、それに気付いて出てこられたのだろう。
もう、腹を決めるしかないと思った。
私は塀の影から出ると、2人に近づいた。
2人の女性は、近づく私を不思議そうに見ていた。
思い切って話しかけた。
「こんばんは。突然すみません。私、第二中学校で高田先生にお世話になった安藤と申しますが…。」
ここで詰まった。
『高田先生にお会いしたくて。』
が、恥ずかしくて言えない。
すると、お母さんと思われる方が、
「ちょっと待ってね。」
と言って、玲子さんと思われる女性と2人で家の中に入っていった。
ついに…
ついに…
ここまで来てしまった!!
もう緊張しすぎて心臓バクバク、全速力で走ってきたかのように息が上がっている。
玄関ドアを見つめる。
ここからもうすぐ高田先生が出てくる!
やっと会える!直接話せる!
嬉しすぎて、ジッと立ってられない。下駄を履いた足でチョコチョコ足踏みしてしまう。
「カナ、やったね。もうすぐ先生に会えるね。」
いつの間にか、ミナミが側まで来てくれていた。
『ガチャリ』
ゆっくり玄関ドアが開く。
そこに現れたのは、まぎれもなく高田浩之先生本人だった。
「おー、よく来たな。」
高田先生はニッコリ笑いながら玄関から出てきた。
目の前にいる高田先生は、小麦色とか浅黒いとかいうのだろうか、日焼けした肌に白い歯がまぶしい。松岡修造みたいなのをイメージすると分かりやすい。
しかも、学校とは違い、白いポロシャツにジーパンというラフな格好。
ズキューン…!!
何かに胸を射抜かれた。はぁ~、カッコよすぎる。
「先生。 お久しぶりです。今日花火大会で、友達のミナミの家が近いから、ちょっと寄ってみようと思って…」
さっそく言い訳から入る。素直に「先生に会いたくて」なんて言えない。
それからしばらく、立ち話を続けた。
高校の勉強のことや、コンクールにむけて部活動に勤しんでいること。
先生も、自分の高校時代の話をしてくれた。
同じように勉強で苦労し、がむしゃらに頑張ったこと。野球部だったこと。
その他いろいろ…
今は夏休みの部活動(野球部)の指導で、毎日グランドへ出ているせいで、日焼けしたらしい。左手はグローブをはめているせいで、手首から先は白い。ミナミも一緒に笑っていた。
「あのー、先ほど出てこられたのは先生のお母さん?」
「そうだよ。あと妹。」
先生の話では、妹さんは隣町にお嫁に行き、今日はお子さんを連れて実家である先生の家へ帰省していたらしい。先生の家のベランダから花火が見えるので、一緒にみるのだと。
「家族だんらんの時に、ごめんなさい。」
「いやいや、かまわないよ。」
そして、失礼しようとした時に先生が言った。
「帰りにもう一度寄って行きな。家まで送ってやるよ。」
願ってもない展開に、先生の家を後にしてからミナミと抱き合って喜んだ。
この日の花火のことは、まるで覚えていない。花火大会は盛大で、決してしょぼいものではないのだが、もっと眩しくきらびやかな何かが胸の中ではじけてたから、記憶に残らなかったのかも。
花火大会が終わり、駅へ向かう人の流れから外れて2人で高田家を目指して歩いた。 ミナミとは途中で別れた。ミナミの家はそこからすぐ。
「じゃあ、カナがんばってね。送ってもらえるなんてホントに良かったね。また学校で聞かせてね。」
ミナミにありがとうをいっぱい言って、私はひとり高田家に向かった。
時刻は9時半になろうとしていた。暗い住宅街の道は少し怖かったが、これからまた高田先生との時間が待っていると思うと心は躍っていた。
ほどなくして高田家に到着した。妹さんの軽自動車は無くなっていた。今度は迷わず階段を上り、インターホンを押した。
パッと玄関灯がつき、すぐに先生が出てきた。
「よろしくお願いしまーす!」
「おう、乗れや。」
ドキドキしながら助手席のドアを開ける。浴衣で動きが制限されて、車に乗るのに一苦労した。
バンッ!!
先生の車のドアはうちのより重く、力を込めたら勢いがつきすぎて大きな音が響いてしまった。
「おいこら!もっと優しく閉めんかい。」
指導が入る。
あちゃー
そのまま車は走り出した。いつも自転車ですれ違う道を、反対に自動車目線で走る。不思議な感じ。
「先生、甘えちゃってすみません。本当にありがとうございました。」
「こんな夜中に、女子生徒をひとりで帰すわけにいかないからな。」
…そういうことね。
ちょっと彼女気分だった自分が恥ずかしかった。たぶん、今日の訪問が私でなくとも先生は送り届けただろう。 我が家へは10分ほどで到着した。
先生の車を見送りながら、中学生の時の、心のブレーキの感覚が蘇った。
夏休みが終わった。私は7時22分に家を出る癖がついていた。
それから、たびたび高田先生とすれ違うようになった。この頃には、先生か私からかどちらともなく手を振るのが当たり前となっていた。
…あの隣に乗せてもらえたんだよね。
すれ違う先生の車の助手席に目をやり、花火大会の暑い夜のことを思い出していた。
あの日のことを思い出すと、何度でも幸せ感で胸がいっぱいになることができた。
まだ残暑厳しい9月、ミナミに好きな人ができた。同じクラスの中田くん。
中田くんは私の前の席なので、いつも彼の背中が私の目の前にあった。
「カナいいなー。いつも中田くんの背中見てられて、うらやましいよぉ。」
嘆くミナミ。
私も中学生の時、いつも高田先生の背中を見て、後ろからそっと抱きつくのを想像していたから、ミナミの気持ちは痛いほどよく分かった。
私は、今までに高田先生のことでミナミに感謝したいことがいっぱいあったから、ミナミの恋に協力したかった。
授業中、中田くんを監視し、ミナミに情報提供した。
その一例を挙げると…
消しゴムを使った回数
カッターシャツから透けて見える中のTシャツの柄
首筋にあるホクロの位置
そんな感じである。
バカな高校生の私たちは、そんなちっぽけなことでソワソワしてキャーキャー行ってテンションを上げていた。
ミナミと私は似たような考えがあり、好き→告白→付き合う ということは願っていない。ただ、本人に気付かれないように胸を焦がしていたいタイプだった。
朝は高田先生に会えたか会えなかったかの報告に始まり、授業の合間は中田情報の提供が私たちの日課だった。
あと、お昼休みは中田くんはちがうクラスへ行ってしまうので、ミナミは私の机で一緒にお弁当を食べた。もちろん、中田イスをちゃっかり拝借するのが狙いだった。
ユキやユカリとも恋バナをしたが、ミナミは2人には中田くんへの気持ちは話さなかった。私は高田先生の話を少しだけしていたが、これが大きな間違いだった。
「そういえば、最近ナオヤが教科書を借りに来ないな…」
ふと、気が付いた。 ちょっかいも出しに来ない。
やっと教科書を持参するようになったか。話す友達もできたか。やれやれ。
ホッとしたのと同時になんだか寂しかった。すぐに寂しい気持ちを否定したけど。
…ホント、来なくなってありがたい。
と安心していたが、裏でまずいことが起きていた。
ナオヤはユキとくっついていた。
「あ、カナ、でも気にしないでねー」
と言いながら、ユキは続けた。
ユキによると、2人は付き合ってはいないそうだが、ナオヤは私の所に来るうちにユキを気に入ってしまい、仲良くするようになったそうな。
「カナのナオヤとっちゃってごめーん!」
「別に私のものじゃないし、ナオヤのこと好きでもないし。いいよー。」
「あ、でもナオヤの方から私の所に来るの♪」
得意気に話すユキ。
…ふーん、そう。
「ナオヤに言っておくわね。カナが寂しがってるって。カナの所にも行ってあげるようにって♪」
…ムカつく。
「あ、でもカナが好きな人は高田先生だっけ?ナオヤにどんな先生か聞いたよ。」
「はぁ!!!!?ちょっとやめてよ!!なんでナオヤに話すんだよ!!」
私はユキに対して本気で腹が立った。
確かに、口止めをしなかった私もいけないが、まさかユキとナオヤに繋がりができると思っておらず、ガードの甘さを後悔した。
帰り、ミナミは、
「私、いまいちユキのこと…信頼できないというか… 悪い子じゃないんだけど、なんか、前から『うーん』と思う所があったんだ。」
だから中田くんの事、ユキのいる前では話さなかったんだ。
モヤモヤした言い方だけれどミナミの気持ちはよくわかる。
「うん。私もさすがに今日のユキにはムカついた。ナオヤのことと、高田先生のことも。」
表面では仲良しでも裏で悪口を言っている気持ち悪さに、2人で言葉が少なくなる。
かと言って、明日からユキと話さないとか、絶交するとか、そこまでしたいわけじゃない。
とりあえず、ユキの前で高田先生のことを話すのはやめよう。 あとは、ナオヤとどう接するかだ。
ナオヤは中学生の時から、私が高田先生が好きなことに気づいていたが、これで確定してしまったわけで…
はぁー…
乙女の悩みは深刻だ。
それからしばらくは、何事もなく過ぎていった。
結局、それ以来ナオヤは私の所へ来なかった。顔を合わせないので、特に高田先生のことでいじられることもなかった。
ユキにはちょくちょく会いに来ていたそうだが、何とも思わなかった。
それよりも、ミナミと中田くんの話をしている方が楽しかったので、自然とユキと距離ができていった。ユキと仲良しのユカリともあまり一緒にいることがなくなった。
「そうだミナミ、2人で中田くんの家に行ってみようよ。」
「ええーっ、カナ本気で言ってくれてるの!?うれしー!! ありがとー!!」
だって高田先生の家までついて来てくれたもん。お安いご用だ。
なぜ私たちが彼の家を知っているかというと…
入学式の次の日くらいに、個人調査書を提出した。氏名、保護者名、住所、電話番号など、学校が管理する個人情報満載の書類だ。
たまたまミナミは、机上の中田くんの調査書を見たそうな。特別中田くんを意識する前だったので、ホントまたまた目がいったらしい。
調査書には自宅周辺の地図を描く欄があった。その地図がミナミの目を留めさせた。
中田くんの地図には道路が一本と、建物を表す四角形が2つ。片方の四角形に『自宅』と書いてあった。
たったそれだけ。
しかし、『自宅』の隣の四角形は、この辺では誰もが知る有名な繁華街の有名なデパートだった。
…ふざけてんのか?
と思ったミナミは、それが強烈に印象に残っていた。
「○△デパートって… あんな街中に人が住む住居あるの?」
不思議で仕方ない。
行ってその目で確かめなくちゃ。
私たちは、その日の帰りに中田家の捜索をすることにした。自転車通学の成せる技である。
○△デパートは、私たちの自宅とは真逆の方角だが、恋する気持ちをエネルギーに変換できる高校生には関係なかった。
学校を出発し、ウキウキハイテンションで○△デパートを目指す。
「あーもうどうしよう!!息が苦しいくらいドキドキするよー!」
と叫ぶミナミ。
うんうん、ミナミの気持ちはすごーく良く分かる。
私たちは何がおもしろいのか、ゲラゲラ笑いながら街中を疾走した。
20分くらい走って、○△デパートが見えてきた。地図によると、この東隣が中田家のようだ。
じわじわと○△デパートに近づく。西側から走ってきた私たちは、デパートの建物が大きくその向こうがなかなか見えない。
ドキドキ ドキドキ…
2人並んで、無言でデパートを通り過ぎる。
見えた。
……!!!?
>> 84
今回の作戦はこうだ。
まず○△デパートを目指す。そのまま中田家の前を通り過ぎる。
視力の良いミナミは表札チェックを、私は洗濯物チェックを担当する。
洗濯物の中に、うちの高校の体操服とか干してあったら確実だからね。
決して、家の前で騒いだり立ち止まったりしないこと。家の人が見ていたら困る。
今回の目的は中田家を見つけることに絞ってある。
で、いざ本番。
○△デパートを通り過ぎ、東隣の家を2人無言で通り過ぎた。
さらに50mくらい過ぎた所で自転車を停め、ミナミと顔を見合わせた。
「今の…?」
「えっ…あそこが?」
2人で言葉を失う。
デパートの隣は、茶色の古いビルだった。
住居なのか、店舗や会社などのテナントが入っているのか、それすら不明。 表札もなければ看板もない。もちろん洗濯物も見える範囲には無かった。っていうか干すスペースあるのかな?
「もう一度行ってみようか。」
今度は東側から。先ほどと反対から行けば、何か新しい発見が…
無かった。
「なんか…よく分からないね。」
「うん…帰ろうか。カナ付いて来てくれてありがとう。」
「何もできんかったね。ごめん。」
「カナがいてくれたからここまで来れたんだよ。一人じゃムリだった。」
私たちは自宅方向へ走り出した。
結局中田家はよく分からずじまいで終わった。
中田家の謎は謎のままだったが、お互いに高田先生と中田くんの話題で盛り上がる毎日を送っていた。
私は毎朝とはいわないが、一週間に2~3回は高田先生とすれ違っていた。すれ違う時に、お互いバイバイをするだけで、その日1日は幸せだった。
そのため、雨の日ももちろん自転車である。本当は道路交通法違反になるそうだが、傘を差しながら自転車をこいだ。
40分間こぐのだから、学校に着く頃にはスカートはずぶ濡れである。もちろん帰りも。見かねた親が車での送迎を提案したが、丁重にお断りした。
1日たりとも、高田先生と会えるチャンスを減らしたくなった。
こうした努力のおかげで、玄関を出た所へ私がやって来るというベストタイミングが生まれることもあった。
(手を振りながら)
「先生!」
「おはよう~」
こんな感じで、言葉を交わせたこともあった。
高田先生
部活動
勉強
この頃の私が一生懸命だったものの順位である。
やがて冬がやってきた。この地域はそれほどたくさん雪は降らないが、時々積もることがあった。
雪が積もってしまっては、さすがに自転車では通えない。
私は雪が嫌いになった。
年末近くのある日、高田先生が車を変えた。ベージュのセダンから、白いクーペのスポーツカーに変わった。
今度の車はかっこいい!
以前はいていた赤いホイール、後部座席窓ガラスにはスモーク、ごつ過ぎないエアロ付き。サスペンションもいじってあるっぽい。
いかにも車好きな先生が乗る感じだ。
高校生でサスペンションまで見抜けるのも珍しいかもしれないが、私も車好きだったから…
…これに乗りたい!また高田先生の車に乗れる機会あるかな?
勝手に想像がふくらんでウキウキした。
やがて白クーペに乗った高田先生とすれ違うようになるのだが、それからは以前よりカッコ良さが三倍くらいアップした。
時は師走。教師も改造スポーツカーで疾走する時代らしい。
そして私の高田浩之中毒は進んでいく。
今現在、この型の車はずいぶん姿を消してしまいましたが、それでもまれに見かけることがあります。そんな時、全力で高田先生に恋をする気持ちが未だにブワァーっと蘇ってきます。
冬休みに入った。今年も高田先生に年賀状を書くつもりである。
もちろんプリントゴッコで(笑)
…来年は寅年か。思いっきりかわいいイラストにしよっ!
さらさらさら~っと思いつくまま描いた一枚がなかなか可愛く描けたので、そのまま年賀状に採用。
雄トラと雌トラが、それぞれ着物を着て、火鉢を囲んでお餅を焼いている構図である。
…このトラが高田先生と私だったら…ぐふふ。
気持ち悪い笑いと共に妄想が膨らんだが、年賀状にはまともな言葉で文を添えた。
『夢に向かってがんばります!』
すごくすごく悩んだけれど、長々ダラダラ書くよりは、簡潔な言葉でサクッと書いた方が印象が良いと思った。
根底には常に『好きだと気づかれたくない。うっとうしいとか思われたくない』という考えがあった。
だから、あくまでアッサリと。
あとで後悔することになるんだけどね。
この冬休みは、ミナミと郵便局でアルバイトをすることになっていた。
うちの高校はアルバイト禁止である。いわゆる進学校なので、バイトしないで勉強しろという理由だ。
が、場合によっては認められる。いくつかの条件があったが、そのうちのひとつが『定期テストでクラス内順位が真ん中より上であること』だった。
勉強の得意なミナミは何の問題もない。常にクラスで5位以内だ。私は…(汗)
話は遡るが、11月にあった中間テストの結果でバイトの可否が判断されるので、必死だった。どうしても、バイトしてお金を稼いでみたかった。
12月の三者懇談で結果が知らされた。
40人中18位。
ギリギリセーフ!!
得意な化学は1位
苦手な英語は40位
母は絶句していたけれど、まぁいいや。自分の中では想定内だ。
で、堂々と学校の許可を得てバイトを申し込んだのである。
私たちが働く郵便局は、学校へ行く途中にある郵便局だ。一番近い所にある局なのでここに決めた。
そして、この局が管轄する地域に、高田家があった。
にやり。
冬休み初日から、郵便局に通い始めた。
同じ高校生のバイトでも、男子は配達、女子は年賀状の仕分けと分かれている。
私たち高校生は、局員の方が『○○町△丁目』まで分けた年賀状の束を、家ごとに分けて輪ゴムで束ねていく作業を任された。
ミナミとは班が違うため勤務中は会えない。 休憩時間にはどちらかの所へ行き、いろいろおしゃべりをした。
この年頃の女子って、会話のネタが尽きないのが不思議だ。
仕事にも慣れてきたある日の休憩時間こと。
「ねえミナミ… 私… すごく誘惑と闘っているんだけど。」
「高田先生の年賀状が見たいんでしょ?」
お見通しのミナミちゃん。
「でもさすがに、そんなプライベートな所、見ちゃいけない気がするんだよね。」
「そうだよね。さすがにねぇ…」
「………」
「………」
ひょっとしたら、配属が高田家エリアだった可能性だってある。何も高田先生宛ての年賀状を取って盗んでしまえというものじゃない。私が見たこと、高田先生は知るわけではない。
さんざん正当化して、ついに高田先生宛ての年賀状を覗き見することにした。
年賀状仕分け作業は、同じフロアをエリアごとに棚で仕切ってあるだけなので、自分の担当でないエリアの棚を見ることは容易だった。
私は高田先生の家のある○○町一丁目の棚を探した。
「○○町一丁目は…と、あった!この棚だ。」
高田先生の住む○○町一丁目は住宅街なため、家がたくさんある。並べられた年賀状の束の数も膨大である。
「一丁目五番地の13だから…」
記憶している住所を頼りに、棚に書かれた番号を確かめながら探す。
「10、11、… 13 あった!」
いくつかの年賀状の束を棚からそっと取り出した。
その2つ目に、高田家の束があった。束の一番上は家主の名前にしておくのが決まりだったため、一番上の年賀状は先生のお父様宛てだった。
周りを見渡すと、少し離れた所に局員さんがいたが、こちらに気を留めている様子はない。
多少の罪悪感と共に、そっと輪ゴムを外す。
上から一枚ずつ見ていくと、『高田浩之様』の年賀状が次々と出てきた。
私の知らない人からばかりの中で、時々生徒からと思われるものも混ざっていた。
その中に、見覚えのある名前を見つけた。
『山内 陽子』
『森下 和則』
2人とも、中学校の同級生で中三の時は高田学級だった。
ちなみにこの2人、私とは幼稚園からずっと同じで、森下君とは一緒に学級委員をやったこともある。
しかも2人は今、同じ高校に進学していた。トップ校のF高校だ。学年を代表するような模範生徒だった。
そんな2人の年賀状が、立て続けに出てきたのである。ビックリしたというか、あの2人なら恩師に年賀状を出すことくらい常識なのかと思い妙に納得した。
…あの2人が揃って高田先生に年賀状!?見たいじゃねぇかー!!
一応、年賀状の裏面は見ないでおこうというギリギリブレーキを用意していたが、そんなものいとも簡単に破られた。
山下さんのから裏面をチラリ。
『高田先生、お久しぶりでございます。昨年度は大変お世話になりました。先生のご指導のお陰で、今は充実した高校生活をうんぬんかんぬん… 』
…なるほど、彼女らしい。国語の教科書の抜粋のような美しい字と文章でつづられていた。
続いて森下君。
……… ………
内容は忘れた。というか読む気が失せるほど細かい字で、一面ビッシリと近況報告がなされていた。トラの絵はあったかな?それすら記憶に無い。
…なるほど、彼らしい。彼のノートはいつも、虫めがねが必要なほど細かい、アリンコの字で埋め尽くされていた。
ちょっと面白かった。
で、次に出てきた年賀状の差出人は
『安藤カナ』
裏面をめくれば、
アホッぽいトラさんに、『夢に向かってがんばります~!』
まるで小学生だ。
…しまった…
次の日、私は職場にボールペンを持参した。もちろん、高田先生宛ての年賀状に書き加えるためである。
夢に…の文の前に、
「勉強、部活、苦手なことも好きなことも一生懸命の毎日です。」
と、追加しておいた。
…あまり変わらないか。
山内森下組にかなうわけないが、張り合う必要もない。 とりあえず何か手を打たないと気持ちが済まなかった。
余談だが、ミナミは自宅に届く束を見つけ出し、自分宛ての年賀状をフライングして見てから、出していない人宛に書いていました。
そして正月を迎えた。1月1日の朝、出勤すると棚はがらんとしていた。私の年賀状をはさんだ束は無事に高田家へと配達されていったようだ。
ちなみに裏事情です。
年賀状の仕分け作業に休日はありません。年末は28日くらいから一気にワッと増えて、31日の夕方までがんばっても消化できません。
年明けは元日からです。持ち越した年賀状+その日にポストに投函される分をザクザクさばいていかないと、山のようになります。
局員さんも大忙し!バイトが間に合わない時は、局員さんもバイトの手伝いをしてくれました。
(あ、31から2日までは、交代でお休みがもらえました。)
皆様、年賀状はお早めに✋
1月3日、高田先生から年賀状が届いた。
今では当たり前の、パソコンで作成された年賀状だった。トラのイラストも、ネットかCDから引用したものだと思う。しかし、当時はまだインクジェットはがきも見かけない時代。(あったのかもしれないが、見ていない。)私のまわりは手書きや既成の年賀状が多かった。
パソコンで作成してあるだけで、いちいち高田先生がカッコ良く感じてしまう。
が…
『自分の目標に向かってファイトだ!』
先生からも、サラッとしたコメントだった。
…なんか、がっかり。
いつものパターンだ。じゃあ何て書いてあったら嬉しいか、聞かれても思いつかないけれど、この、当たり障りない感じが物足りなかった。
自分だってアッサリコメントで出してるのに勝手だよな。
…山内さんや森下君のように丁寧な年賀状には、もっと違うこと書いて送ってるんだろうな。
せっかく高田先生から年賀状がとどいたのに、いまいち嬉しくなかった。
ミナミにも、この気持ちを話した。
「そうだよね。高田先生の中ではカナはただの教え子の一人なんだもんね。カナはこんなに好きなのにね。」
でも、『高田先生が好きです』アピールがしたいわけじゃない。
想いを伝えたり、付き合ったり、具体的な行動に移したいわけじゃない。
ただ、好きでいたいだけ…
先生と結婚して、お嫁さんになる妄想はしょっちゅうしてたけど。
先生に料理を作ったり、先生の服を洗濯したり、「お帰りなさ~い。お疲れさま!」って出迎えたり…
この先、この恋がどうなっていくのか、この時の私には想像ができないでいた。
それからは、特に何事もなく平穏な毎日を過ごした。登校中、高田先生とすれ違ってバイバイするのは続いていた。
やがて、春休みに入った。3月の末に、新聞で教職員の人事異動が載る。
どれだけ探しても高田先生の名前が無いので、来年度も残留することが分かった。
…はぁー 高田先生と話がしたいなぁ。
と思いつつも、勇気が出なくて、遊びに行くことも電話をかけることもできなかった。
モヤモヤと春休みをすごし、4月を迎えた。一年生の時に同じクラスだった女子のほとんどが文系へ進み、理系に進んだ私は新しいクラスでほぼ全員初対面というスタートだった。ミナミとも離れた。
理系クラスは女子が少ないため、3日かからず全員と仲良くなった。この、後腐れないタイプの女子の集まりは、大人になった今でもよく遊ぶメンバーだ。
仲も雰囲気も良すぎた女子メンバーのお陰で、私はすっかり男子と仲良くなる必要が無くなり、男子ばかりの理系クラスにもかかわらず男子と話した記憶が無い。
高校生活が楽しく、友達にも恵まれ、やがて私の頭の中から高田先生への思いが薄らいでいった。
それでも高田先生が好きな気持ちはあったため、高田ロードの通学は続いていた。
会えたら会えたで嬉しかった。
二年生の夏が、高校生活で一番楽しかったかもしれない。この頃の私は『今しかできないことを。』をテーマに生きていた。
美術部と理科クラブの兼部、某テレビ局主催高校生クイズへの出場、実は趣味だった服とアクセサリーの制作…
勉強なんて来年になりゃ嫌でもやるんだから、とにかくこの時期は楽しむ事に全力だった。
クラスで男女一名ずつ選出する体育祭の応援団も買って出た。
応援団の練習は夜遅くまで続き、学校の門が閉まってからは近くの公園で練習した。近隣から学校へ苦情がきて叱られたり、夜のパトロール中のパトカーがやってきて、なぜか皆で一目散に逃げたり。
とまぁ、朝から晩まで楽しかった。
そして、あんなに高田浩之中毒だった私が、一緒に応援団をやっていた三年生の戸倉先輩に恋をした。
戸倉先輩は、やんちゃな感じが集まる応援団の中で異色な、真面目で物静かなタイプ。小柄で優しい雰囲気の先輩だった。
心の中で高田先生に操を誓っていた私には、他の人を好きになるなんて自分が絶対に許せなかったが、やはり好きになっちゃったものは仕方ない。
でも、この時も、先輩と付き合いたいとか告白したいなんて思ってなかった。
そんなある日。
休み時間にエリコ達と恋バナで盛り上がっていると、
「安藤さんいるー?」
と、戸倉先輩が教室にやって来た。
…戸倉先輩が私を呼んでる!?
急いで先輩のもとへ駆け寄る。
要件の内容は忘れたが、応援団の連絡だったことは覚えている。
「カナー、今のが気になる戸倉先輩?」
「優しそうでカッコイいいじゃん!」
「高田先生みたいなオジサン諦めて、先輩に乗り換えなよ~!!」
エリコ達に冷やかされた。
その日の放課後の練習でも、つい、目で戸倉先輩を追ってしまう。
団長が、私と一年生2人を指で指し、
「お前ら、ちょっと『白虎隊コール』の振り付けやってみろ!」
と指示を出した。
…あれ~?なんかおかしな所あったかな?
不思議に思いながら、団長の笛に合わせて踊る。
「おい安藤!!ズレてるんだよ!」
3人で顔を見合わせた。実は3人とも『安藤』だ。
「団長ー、どの安藤ッスか?」
一年生の安藤君が聞く。
「お前ら全員だよ!!」
誰かのフリがズレてるとかじゃなく、団長はただこのギャグをやってみたかっただけなのだそうだ。
くだらなさすぎてツボにはまる私達応援団員。戸倉先輩も大ウケしている。
…キャー!笑う先輩も素敵!!
戸倉先輩への片思いが急上昇していった。
その日の帰りのこと…。
その日は天気が下り坂で、空は今にも雨が降り出しそうになっていた。そのため、練習を早く切り上げて帰ることになった。
「解散~!お疲れっしたー」
皆でカバンを持って歩き出したその時、1人の女子生徒が戸倉先輩のもとへやって来た。
そのまま体をくっつけるようにして校門に向かう2人。
…戸倉先輩、彼女いたんだ…。
私はあっさりと恋に敗れた。
しょんぼりとしながら自転車をこぎ出した時、ポツリポツリと雨が降り出した。
それから10分もしないうちに雨は本降りとなり、傘を持っていない私はずぶ濡れになった。
カッターシャツは濡れて、ブラジャーが透け透けである。
バチバチと地面を叩きつけるような強い雨が、失恋の痛みを紛らわせてくれた。
ちょっと恥ずかしい透け透けブラのまま高田先生の家の前にさしかかった。もちろん高田先生の車は無い。
…もしここでバッタリ会って高田先生がこの姿を見たら、先生だってドキドキしてくれるのかな?
40分間の雨に戸倉先輩への熱はすっかり冷まされ、乾いていた高田先生への想いがふたたび息を吹き返したようだった。
家に着き、玄関でびしょ濡れの制服を脱ぎ、ブラとパンツだけの姿で風呂場に向かった。
再び高田先生へ熱を注ぐように、頭から熱いシャワーを浴びた。
応援団の練習や、美術部のコンクールの作品制作に明け暮れ 、気がつけば夏休みは終わっていた。
この夏は花火大会へは行かなかった。
残暑厳しい9月、暑さをガマンできない男子生徒が、靴下を脱いでほぼ全員裸足になった。
それでもガマンできず、今度はズボンを脱ぎだす奴も出てきた。机の上は普通だが、その下はパンツ一枚で授業を受けていた。
さらにその中の数名は、カッターシャツも脱ぎだした。
女子の視線も気にせず裸族があふれ、それはそれは気持ち悪い光景である。
慣れとは恐ろしいもので、そのうち私達女子も平気になってしまい、ウルトラマン柄とか永○園のお茶漬け柄とか男子のパンツの柄を楽しむまでになっていた。
その現象は文系より男子の割合が高い理系クラスでのみ起きていた。
そのため、久々にうちの教室まで遊びに来てくれたミナミにはかなり衝撃的だったらしく、しばらくフラフラしていた。
残念ながら、中田くんは文系クラスなのでそんな恥ずかしい姿は晒さなかったが、私たちの興味はやがて『すきなあの人のパンツ』に向かっていった…
ミナミと2人で、パンツを見てみたいという話になった。
ミナミは中田くんの、
わたしは高田先生の。
女子だって、好きな人の下着姿を想像するとワクワクする。
が、パンツなんてどうやって見られるものか。文系クラスにも裸族ブームが広がらない限り、中田くんの下着姿は見られそうにない。
諦めかけたある日、私は中田くんが理系クラス(私のクラスとは別)の友達の所へよく来ていることに気が付いた。
さらに、そこに来ている間は、中田くんはやや裸族になることも。やや裸族とは、ズボンは履いたままでカッターシャツのボタンを全開にし、胸と腹を露出させる種族である。
急いでミナミに報告した。
やや裸族の中田くんを見たミナミは、今度は別の意味でフラフラしていた。
「カナも高田先生の下着姿、見てみたいよね。」
「でもムリでしょ!どこでお目にかかるのよ。」
「高田先生の家、洗濯物は干してないの?」
…!!!!!
その手があったか!!
かくして、この日の帰りミナミについてきてもらって、高田家に干してある洗濯物(できればパンツ)をみてみようということになった。
犯罪ギリギリである。
年賀状をこっそり見た時よりも、さらに罪悪感というかスリルというか…
応援団の練習がお休みだったある日、今度こそ犯罪に手を染めるような際どい感覚で私とミナミは一緒に学校を出た。
高田家は道路に面している側から洗濯物は見えない。両隣は隣家がくっついているので、おそらく裏側に干してあるのだろう。
住宅密集地な為、裏に回るには、人ひとり通るのがやっとなくらいな細い路地を進むしかない。
地元の人しか通らないようなそこを、自転車の女子高生が走り抜けるのはとても不自然なので、かなりためらった。
「ミナミ、ちょっとやばくない?あんな道、家の人に見つかったらどうするの?」
高田先生のお母さんには一度お会いしている。顔を覚えられているかもしれない。
「じゃあ、やめる?」
…それも嫌だ。
さんざん悩みながら、いよいよ高田家にさしかかった。
そのまま高田家を素通りしてしまった。
「カナ、なんで通り過ぎたの?」
しばらく行った所で私たちは自転車を止めた。
「ミナミごめん、ミナミはこのまま帰りなよ。私ひとりで行くから!」
万が一、家の方に見つかっておかしな事になった時、ミナミを巻き込むわけにはいかなかった。第一、ミナミは高田先生の下着を見たいわけじゃない。
ミナミは了解し、そのままバイバイして別れた。
私はもう一度高田家に向けて自転車をこぎ出した。アホらしいことだと分かっていても、やはり欲には勝てないし(汗)
高田家の二軒となりの家の横から細い路地へ入った。そこからすぐに、家の裏側へ通じる道を曲がった。
…ドキドキドキドキ
見上げた先に、高田家のベランダがあり、洗濯物が干してあるのが見えた。
そして…
あった!!
クルクル回るタオルを干すハンガーと言えば伝わるだろうか。
あれのひとつに、紺色のトランクスが!!!
興奮しながら逃げるように路地を通り抜け、いつもの道に出た。
…きっと、誰にも見られてないよね!?
私は紺色トランクス一枚の高田先生を想像して、心の中で
「イヤァーッ!!!」
と叫び、ニヤニヤ笑いながら自宅へとばした。
今でも思う。
どうかあのトランクスが、先生のお父さんの物ではありませんように…と。
高田先生への熱がすっかり戻り、またいつものように朝の登校で会えるか会えないかが1日のうちの楽しみのひとつになった。
月日も過ぎていき、やりたいこと最優先にしていた二年生が終わった。
三年生の春。
相変わらず、ミナミは高田先生との恋を一番応援してくれていた。
三年生になると、いよいよ進路について悩むようになった。
親から出された大学進学の条件は、自宅から通える国公立であること。下宿が必要な地方の大学も、私立の大学も、金銭的にゆとりがなく認めてもらえない。
私は、地元の国立A大学の農学部を第一志望にした。ここに合格するには、今の成績ではまず不可能である。かといって他に行きたい所が無い私には、がんばるしか道はない。
三年生になった年のGWが過ぎた頃、私たち家族は隣の市に引っ越すことが決まった。引っ越しは秋になる予定だ。
「えーっ、じゃあ秋からは高田先生に会えなくなるじゃん!!」
引っ越しの話を聞いて、真っ先に高田先生のことを心配してくれたのは、やはりミナミだった。
引っ越す予定の場所から高校までは30キロくらいあるかもしれない。幸い、近くに駅があるので、1時間くらいあれば通えそうだがギリギリの場所である。
とても、高田先生の家どころではない。
それに、この4月からは高田先生は別の中学校に転勤になっていた。
…きっと、このまま会えなくなって終わるんだ。
そう思ったら、急に怖くなった。会えなくなってもまだ好きで好きで仕方なかったら、私はその苦しさから逃れられないのでは…
そんな不安を忘れるかのように、私は「夏休みまで」と言い聞かせて美術コンクールの作品制作に没頭した。勉強に本腰入れるのは、もうちょっと先にしたい。
そんな時、ミナミが提案してきた。
「カナ、今年の花火大会も高田先生に会いに行こう!秋になったら会えなくなるんだから、会って話せる最後のチャンスだよ。」
断る理由は無かった。
……………
梅雨の蒸し暑い夕方、私は薄暗い美術室でデザイン画を描いていた。
友達と過ごす楽しい時間、勉強や成績の悩み、やりたい事に夢中になる瞬間… 高校生活を彩ってきた様々なシーンを、それぞれのイメージに合う色彩を用いて、大好きなフルーツのモチーフで表現していく。
私は油絵の具や水彩絵の具より、アクリルガッシュが好きだ。色紙を切って張ったようなパキッとした色使いから、繊細なグラデーションまで思いのままになる。
カナの世界が、パネル一面に開花していく。
集中して、瞑想して、時にはちまちまと、時にはざくざくと、作品は完成へと向かっていく。
高田先生とのこの先の不安など考える隙もないほど、私は絵に没頭した。
古い校舎の窓枠は木でできていた。湿気を吸ってその体積を大きくさせる窓枠は、雨の日にはてこでも動かない。
締め切った空間は、外部の風も音も全てを遮断していた。
締め切った美術室のこもったような独特な匂いは、今でも覚えている。私は、勉強や高田先生への思いや、いろいろ悩むことがあるとここへ来ては絵を描いた。
高校生活の事を思い出す時、必ずこの美術室の匂いも蘇ってくる。今は改築され、あの開かない窓も、湿った空気も、こもった匂いも、記憶の中にしか存在しない。
三年生の夏、私はこれ以上描けないと思うような、繊細な作品を仕上げた。筆の毛一本までにも集中した。
渾身のデザイン画は、傷や汚れから守るためにフィルムを張る。巨大な食品用ラップのようなものだ。
古い美術室にはゴ○ブリが住んでいた。黒い絵の具が好きで、翌日になると黒く塗った部分だけ紙がかじられていることもあった。せっかく完成したのに、また喰われてしまっては大変である。
作品は、コンクールに出品されるのを待つだけとなった。
…高校ではこれを最後に、絵から離れよう。あとは勉強に集中し、大学受験に挑むのみ。
そして、高田先生への恋にも見切りをつける覚悟をした。
そして、花火大会の日がやってきた。
この日は、素直に高田先生に会える嬉しさで朝からワクワクした。二年前と同じだ。
ひとつ違っていたことは、花火大会の一週間前。
私は汗ばむ手で受話器を持ち、何度も深呼吸して、高田先生の自宅の番号をプッシュした。
プルルル プルルル…
「はい、高田です。」
女性の声。おそらくお母さんだ。
「こんにちは。安藤と申しますが、高田浩之先生はいらっしゃいますか。」
意外と落ち着いて話せた。私も大人になったのかも。
「はい、お待ち下さいね。」
♪♪♪~
保留の音楽が、うちの電話と同じで少し驚いた。
「はい。」
高田先生の声!
「先生、安藤カナです。お久しぶりです。っていうか、よく朝お会いしますね。」
緊張で少し早口になる。
「ああ。安藤ってお前かぁ!」
急に砕けた雰囲気になる先生。
…やはり、高田先生の声を聞くだけで、すごく好きな気持ちが溢れてくる!
他愛もない話をしたあと、本題に突入した。
「先生、来週の花火大会の時、また会いに行ってもいいですか?」
「おお、いいぞ。たぶん家にいるから。」
…やった!また先生に会える!!
二年前と違い、アポイントメントをとっておいた。
先生はこの時35歳。
彼女は…いないようだ。
浴衣を着て、高田家の最寄りの駅で降りた。今年はミナミには付いて来てもらわず、1人で先生に会いに行った。
高田先生の家が見えてきた。いつもは自転車ですぃーっと走り抜ける道を、下駄を履いた足でちょこちょこ歩く。
…あぁ、やはりドキドキする。早く先生に会いたい!
二年前と違ってゲリラ的に突入するわけではないので、息が苦しくなるほどではなかったが、やはりインターホンを押すときは勇気がいった。
ピンポーン
……っ!!
待っている間の緊張感は何ともいえない。
そのうち、階段をトントンと降りてくる足音が、玄関ドア越しに聞こえた。
『いいよ。オレが出る。』
先生の声も聞こえた。
…お父さんかお母さんと話しているのかな?ああ、もう、ドアの向こうにいるんだ!
『ガチャリ』
ゆっくりドアが開き、高田先生が現れた。
「せんせぇ!! アンカナが会いに来たよ~!!」
おどけて手を振る。
「お前っ… 相変わらず元気なヤツやなぁ~」
先生も満面の笑みで迎えてくれた。
グレーのTシャツに膝丈のハーフパンツ姿。そこから伸びるスラリとした脚は、引き締まって美しい。
…やっぱり、めちゃカッコいいわぁ~!!
裸族の男たちに見慣れた私でも、好きな人の生足は別格だった。そのセクシーさにドキドキした。
「今年も浴衣で来たかぁー。」
いきなり注目してほしいポイントを突いてくる高田先生。
「どう?」
嬉しくてニコニコしながら、両腕をすこし広げて浴衣の柄がよく見えるようにした。青地に黄色いユリがいっぱい咲いた、自分のイメージにはピタリとくる柄が気に入っている。
「どうって…
お前少し太っただろ。」
グサッ!!
そう来るか!?
確かに私はぽっちゃり体型だ。しかも往復20キロの自転車通学で、太腿には競輪選手並の筋肉がついている。浴衣も、お尻から膝あたりまでピチピチである。
「先生ひどい!」
「お前、部活動何だった?」
「美術部だよ。」
「やっぱり。運動しろ、運動!」
………
体型のことを指摘された上、美術部まで否定されているようで、悲しくなった。
「私、絵を描いてる時がすごく好きなんだよ。この前もコンクールの絵を仕上げたばかり。
もう、引退っていうのかな? 受験だから、最後と思って、すごく時間もかけて描いたの。」
「そうか。あと半年で大学入試だもんな。」
私も話を入試にもっていきたかった。
「A大の農学部目指しているけど、今のままでは難しくて。」
「勉強しろ、勉強。俺が高校生の時はなぁ、… … 」
…あれ?高田先生ってこんな人だったっけ?中学生の時は、もっと心に響く励まし方をしてくれたような…
けなされているような、自慢されているような、なんだがとても惨めな気分になった。
…こんな所で浴衣でチョロチョロしてないで、勉強してろってことかな。
しかし、高田浩之中毒の基本ドMな私は、そんな気分にさせられたことすら快感だった。
実際、高田先生にこんなふうに言われて勉強を頑張れたのも事実だ。
30分間くらい話をしてから、私は高田家を後にした。今年も帰りは送ると言ってくれた事は素直に嬉しかった。
でも、気にしている体型をズバッと言われた事は、かなりこたえた。
「カナー、どうだった?高田先生と話せた?」
待ち合わせ場所に着くなり、ミナミに聞かれた。
「うん、話せたよー!今日の高田先生もカッコ良かった~。帰りも送ってってくれるってさ。」
「やったじゃんカナ!もうー、幸せ者だなぁ。」
…体型のこととか指摘されたなんて、言えないな。
自分のことのように喜んでくれているミナミの気持ちに水を差すようなことはできなかった。
ミナミは一年生の時に好きだった中田くんへの気持ちは冷め、今は好きな人はいなかった。その分というか、私の恋を全力で応援してくれていた。
「今日もぱぁーっと花火楽しもう!! カナ、かき氷でも食べようよー。」
「うん!!たこ焼きもね~」
気兼ねない女2人で、ワイワイと屋台をまわった。
「いつか高田先生と一緒に花火を見たいなー…」
私は本心からつぶやいた。やはり、高田先生を好きな気持ちに終わりが来る気がしなかった。
「そうだよ!高校卒業したら高田先生と付き合いなよ!!さすがに高校生では先生も相手にできないけれど、大学生なら大丈夫じゃないかな?カナは大学も地元で決めるんでしょ?」
…高田先生と付き合う…
今まで、そんなことは考えないようにしてきた。でも、ミナミの言うとおり、大学生であれば問題無い気がする。あと二年経てば私も成人だ。
夜空に打ち上がる花火を見ながら、私はこれからの高田先生との関係が夢だけで終わらない予感がしていた。
「じゃあカナ、がんばってね~」
「うん、がんばるわ~」
何をがんばれかよくわからないけれど、ミナミと笑顔で別れた。 私はそのまま高田家へ向かう。
インターホンを押すとすぐ、高田先生が表へ出てきた。
「よし、乗ってけ。」
『ガチャ』
先生がロックを解除する。
以前から、この助手席に乗りたいと思っていた白のスポーツカーだ。
「先生、車かっこいいね。ホイールは前の黒い子と同じやつだよね。」
「そうだよ。よく気づいたな。エンジンも変えてあるんだ。この型にしては珍しく、燃費がいいんだ。」
「やはりMTだね。私も乗るならMT車憧れるよ。」
車のことを語り出したら、まるで少年のようになる先生。私は車に詳しくはないけれど、車は好きなので聞いていて退屈ではなかった。話に乗っかってくる私のことを、高田先生も
面白い奴だと思っていたであろう。
しばらく車ネタで盛り上がった後、私は話題を変えた。
「先生、うち秋に引っ越すんです。◇◇市に。」
「そうか。遠くなるけれど学校通えるのか?」
「駅の近くだから、なんとかね。1時間半くらいかかるかも。今までのように自転車ですぃーっとはいかないけどね。」
…『会えなくなって寂しくなるな』くらい言ってほしいけれど、高田先生が言うわけ無いか。
高田先生は以前、◇◇市の中学校に勤めていたことがあるそうで、引っ越し先の住所を伝えると「あぁ、あの辺か。」と納得していた。
自宅近くになり、私はあることを聞こうかどうしようか迷い、そわそわしてきた。
でも、聞かなかったら後悔する!
私は意を決して、高田先生にお願いをした。
「先生、よかったら携帯電話の番号教えて下さい。メールアドレスも。」
今の時代なら当たり前なのだが、当時はまだ高校生はポケベルが主流だった。(ちなみに私はポケベルも持っていなかった)
だから、番号やメアドを聞くなんて生まれて初めての経験だった。
「春になって大学が決まったら、連絡したいから…」
「仕方ないなぁ~」
先生はそう言って、口頭で番号とメアドを教えてくれた。
あわてて車のダッシュボードからボールペンと紙を探してメモをとった。
自宅前で降ろしてもらい、先生の車を見送った。
…ケータイの番号もアドレスも、聞いちゃった!! やったー!!
引っ越しで、登校中に会えなくなる寂しさと引き換えに、高田先生と繋がるパイプができたことで安心した。
…もう、高田先生を諦めるなんて無理。私、先生と付き合って、それから… …結婚したい。
大きく深呼吸をひとつしてから、家の中に入った。
「お帰り。誰かに送ってきてもらったの?」
母が聞いてきたので、かなり焦った。車の音で気づいたらしい。
「うん。ミナミのお父さんが送ってきてくれたんだよ。」
平静を装って嘘をついた。
母は「良かったね」と納得したようだ。
…私が先生と付き合ったりしたら、親に話せるのかな。なんか、悪いことしてるみたいに感じるけど…
親の反応、姉の反応、なんだか、憂鬱な気持ちになる。それでも高田先生を諦めることはできそうにない。
…まぁ、今悩むことじゃないか。だいたい付き合えるって決まったわけじゃないし。高田先生が私のこと彼女にしてくれるか、なるようにしかならないもんね。
私は帯を解いて浴衣を脱いだ。汗びっしょりになっていた。
高田先生への恋に見切りをつけようと思った数日後には、高田先生の彼女になりたい、あるいは結婚したいとまで思っている。
私の気持ちは不安定だった。
花火大会の日のことも、先生のラフな格好や車ネタの会話を思い出すたびにニタニタ笑えてくるかと思えば、やはり体型のことをからかわれたことを思い出して悲しくもなった。
たぶん、高田先生のことが好きでなければ、『気にしてる体型のことを言ってくるなんてホント最低!』とか思ったのだろうが、惚れた弱みというのだろうか、高田先生のことを悪く思うことができなかった。
この先、同じ事で何度も同じ思いをすることになる。
宇多田ヒカルがデビューし、『Automatick』をよく耳にした。
『7回目のベルで
受話器をとった君
名前を言わなくても
すぐ 分かってくれる
… 』
…そんな日がくるのかな。
私は高田先生の携帯電話の番号とメールアドレスを書いたメモを、大切に引き出しにしまった。
大学生になり、私もケータイを買ったら、真っ先に登録しようと決めた。
やがて季節は秋になり、私は家族と新しい家に引っ越した。
高田先生とは会えなくなった。
そして、本格的に受験のシーズンになった。もっと勉強しておけばよかったと、後悔しても後の祭りだった。
模試の結果は、ことごとく
『A大学 農学部 E判定』
と出た。
合格の可能性が高い順にA~E判定が出されるので、つまり合格の可能性はまるで無いことを意味していた。
「カナ、受ける大学決まった?」
二年生の頃から仲良しのエリコが聞いてくる。
「ぜーんぜんダメ!数学が致命的やわ。」
「あんた合格して高田先生に報告したいんでしょ?がんばらなー」
「ムリなものはムリ~ うち浪人させてもらえないし。予備校なんてもってのほか。」
かなりなげやりである。
「そういうエリコはどうなんだよ?」
「私、そもそも行きたい大学が日本にない。」
エリコも滅茶苦茶である。 2人とも、春にはどこで何をしているかさっぱり想像がつかない。
私は現実を受け止め、進路変更を余儀なくされた。理系クラスの女子は、看護師や検査技師を目指す子が多く、実際クラスの女子のほとんどが医療系へ進学希望だった。
私も、医療短大を受験することにした。四年制大学は、センター試験の結果からどの大学を受けるか決めることにした。最後まで希望は捨てないことにした。
高田先生へは、大学に合格するまで連絡しないと決めていた。
そして、センター試験を迎えた。
センター試験の結果はほぼ予想通りだった。A大農学部はさっさと諦めた。
すぐさま担任の川口先生と懇談である。
「先生、私、四年制大学諦めます。医療短大が受かったらそちらへ進学します。」
「早まるな安藤!!お前のセンターの点数なら行ける大学はいっぱいある!教育学部はどうだ?十分合格圏内だぞ。お前しゃべるのうまいし教員向いてるぞ。一緒に教員やろうじゃないか!!お前化学が得意だったよな?理科の先生なんてどうだ?」
まくし立てるようにしゃべるのは川口先生の癖である。社会科の授業でもこんな感じだ。
川口マシンガンから放たれた言葉の弾丸は、一瞬空中に留まってから、私の耳に、いや脳みそに入ってきた。
「教育学部ですか!?」
まるで選択肢になかった。
しかし、運命ってこんなことなのかもしれない。不思議なことに、私の中で教員がしっくりきてしまった。
…教員、私ならできるかもしれない。やってみたい!
「教育学部にします!!」
私はふたつ返事で地元のK大学の教育学部を受験することに合意した。
教科はもちろん、理科専攻学科。
両親へは願書を書いた後に事後報告である。 かなり驚かれたが、とりあえず応援してくれた。
まだ冬の寒さの残る3月のある日、私はK大学教育学部棟の掲示板に向かって歩いていた。
合格者の受験番号が貼り出されている。すれ違う受験者の表情は、明暗ハッキリしていた。
遡ること2日前、医療短大の合格の通知が届いていた。
クラスの仲間の影響で、私は看護師も考えていた。教育学部に合格すれば教員に、不合格なら看護師に、私の行き先は目の前の所で真っ二つに分かれていた。
(私の受けた学校の場合であって、看護師と教師の差に上下を意味付けたいわけではありません。また、純粋に看護師、あるいは教師を目指している方から見たら、とても不純な印象をもたれるかもしれませんが、そこは仕方なく思っています。不快な思いをされましたら申し訳ありません。実話なので、ありのまま書かせて下さい。)
遠目に、掲示板が見えてくる。心臓の鼓動が早く、大きくなる。が、歩む速さはあえて変えなかった。
…私の進む道は、どちらにのびているの?
答えはすぐ目の前まで迫っていた。
コンタクトレンズをつけていても大して視力の良くない私は、掲示板のギリギリまで近づいた。
『教育学部 理科専攻 合格者』
合格者は15人。下2桁を見れば分かるので、目を向けた瞬間に結果は分かった。
… … !!!!
ふたつのびていた道のは、迷うことなくひとつに絞られた。
春休みに、私は念願の携帯電話を手に入れた。もちろん、真っ先に登録したのは高田先生だった。
その日の夜、私は高田先生のケータイに電話をかけた。
…プルルル プルルル
「はい もしもし…」
知らない番号からだろうか、訝しがる様子が感じられた。
「先生、安藤です。」
「あぁアンカナかー。久しぶりだな。」
このやりとりは何度 目だろうか。今日、私の番号を登録してもらえば、次からは名乗らなくとも私だと分かってくれるはずだろう…。
「先生、私、大学決まったよ。」
「おめでとう。どこだ?」
「K大学の教育学部の理科専攻学科だよ。私も、中学校の理科の先生になります!!」
3月のあの日、私は、教師になる決心をした。理科が大好きなので、そのおもしろさを教えられるような先生になりたい、と思った。
決して、高田先生と同じ仕事がしたいからとか、恋愛感情で決めた訳ではない。高田先生に出会っていなくても、私はこの道を選択していたと断言できる。
ただ、目指す教師像に、高田先生の授業熱心な姿は含まれていた。
だからこそ、胸を張って、先生に報告ができた。
「お前、K大理科って言ったら、俺の出身じゃないか。後輩だぞ。」
「えっ、本当に!?」
地元の教員養成大学、しかも教科が理科ならその偶然は不思議ではないが、言われるまで考えもしなかった。
…私が…高田先生の後輩に…!!
今まで、先生と私は全く違うレールを走行していると思っていた。その2つのレールが、ここから合流し、一本に重なるような気がした。
そして、私はK大学に入学した。
理科専攻クラスは12人。うち4人が女子。会ったその日に4人は仲良くなり、男子とも和気あいあいとやっていけるメンバーだった。この12人、馬が合うというのだろうか。今でもよく飲みに行ったり旅行に行ったりするほど仲が良い。
教室の中はというと、予算キツキツの国立大だからだろうか…
備品は骨董品級の古さの物が多かった。机は木、実験台も木、備品の管理シールに書かれた購入年は昭和ひと桁のものもある。ガラス器具を包んである新聞紙によると、為替レートが1$=360円らしい。天秤に至っては『島津製作所』が右から読むように書いてあった。
なんなんだここは。
パソコンの電源を入れてから3分間くらい待たないとWindows98が起動しなくても、それが最先端の時代である。『所作製津島』は無いでしょ。
ともあれ、ノスタルジックな教室にいると、「あぁ、十何年前には、高田先生もここで勉強していたんだな。」と思い、私はよく机をスリスリ撫でたりした。おそらく高田先生も使ったであろうその机は、2人用で隣と繋がっている、よく戦後のドラマとかで見かけたようなやつだった。
教師を目指すようになった3月のあの日から、私は人が変わったかのように勉強が面白いと感じるようになった。
大学の講義は、つまらないイメージがあったけれど、実際は教育論や理科の専門的な内容で、『無駄な感じがしない』ものばかりだった。
そして何より、古ーい体質の残るこの大学で、今私が学んでいる事は、高田先生も同じ事をしてきたはずだった。それを思うと、難しい講義も苦ではなかった。
高校の頃の友達のミナミとエリコとは、連絡は取り合っていたが遠く離れて会えなくなった。
ミナミの夢は特殊な職業なので、それを叶えるために東京の専門学校へ。
『日本に行きたい大学がなーい!』と言っていたエリコはアメリカの大学へ。
それぞれ、散らばっていった。
大学で仲良くなった4人組は、性格も男性の好みもまるで違ったメンバーだったが、それがかえって良かったのか、話題に事欠くことはなかった。その中でも、私の『中学校の時の恩師と付き合いたい』発言は、他の3人の度肝をぬいたようだった。
「その先生、歳はいくつなの?」
4人の中で一番美人のさっちゃんが聞く。
「今は、36。」
「まじでぇ~!? おっさんやん!!」
4人の中で一番恋愛経験豊富なみーちゃんが叫ぶ。
「アンちゃんやるねぇ。ドラマみたいやん。」
なぜか感心している、ボーイッシュな岩田ちゃん。
反対するヤツ、応援するヤツ、困惑するヤツと反応はそれぞれだが、意見が一致しないので面白かった。ただ、私を含めこの4人組で共通していたのは『この先安藤と高田Tがどうなるのか』だった。
そんな私達の思いとは裏腹に、私と高田先生とはまるで接する機会が無かった。
『大学生になったら付き合いたい』
と思ってはみたものの…
電話でいきなり告る?
デートに誘う?
また自宅まで訪ねて今度は交際申し込み?
どれもあまりに突飛で、現実的ではない。何より、そんな勇気は無かった。
とは言いつつ、このK大学、以前住んでいた家と高校の中間地点にあり、高田家が近いのだ。利用しているバスは高田ロードを走る路線とは違うバスだが、行こうと思えばバスを途中下車していくらでも会いに行ける距離だった。
大学では、演劇サークルにも入った。毎日の練習や合宿など、仲間達との交流が楽しくて、1日の講義が終わるとサークルの部室に入り浸っていた。
学科でもサークルでも、私は本当に仲間に恵まれたと思う。
仲が良いだけではなく、時には本音でぶつかり合い、ケンカもした。泣いたり笑ったり怒ったり…
大学生活を思い出せばそれだけで熱い小説が書けそうだが、ここではあまり掘り下げないようにしておきます。
今でも、大学で知り合った仲間は大切な友達だし、この仲間に会えたから今の私がいるような感じです。
高田先生のことを忘れる日は無いにしろ、会えないことが辛くないくらい充実していた。
それでも私の口癖は、
「はぁー、高田先生に会いたいなぁ。」
だった。
「そんなオッサンやめとけって!! うちのサークルにも男はいっぱいおるやん!!」
とは、サークルの同回生の女3人。
「だって、同回生の男も先輩達もみんな平気でエロビデオ見貸し借りしてるやん。いやだ~」
とボヤく私に対して、
「あんな、カナ。男だったらエロビの1本や2本みんな持ってるって。」
「大学生にもなって見たことない男はほとんどいないでしょ。」
と説明。
高校生でほとんど男子と関わってない私には、全く男子の生態が把握できていなかった。
下ネタトークなんてもってのほか!意味分からないし気持ち悪いし。ついていけない。
高校の友達とはエッチな話をしたことは無かったから、セックスってどうやるのかイマイチ分からない中学生のままここまできてしまった。
だから、エロビデオは変態が見るものだと思っていた。
『健全な男はエロい本やビデオを見て抜いてるんだよ』
とサークルの友達が教えてくれたにもかかわらず、
「抜くって何を?」
と答えた私。
私は大学四年間で、サークルの仲良し女3人から、エロスのいろはを教わることになる。
エロビトークの続き。
「あんな、カナ。男の生理現象やねん。抜かんとな、溜まる一方やねんから、手からと目からでな、…」
一生懸命説明してくれる関西出身のマーコ。
「高田先生だって家でエロビ見てヤッてるよ。きっと。」
いつもさらっと言うのは同県出身のネコ。
「高田先生独身でしょ?ヤってない方が不自然なの。女に興味無い男、嫌でしょ?」
イヤーっとなり否定する私をフォローしてくれたのは北陸地方出身のレイコ。
私は本当に良い仲間を得たもんだ。(笑)
3人は、何も知らない私を教育することを心底楽しんでいた。
ちなみに、まだDVDが普及する前の、VHSが主流のお話です。
教育学部とはいえ、理科の専門的な講義や実験、実習など、やっていることは同じ大学内の工学部とほぼ変わらない。
一年生の学生実験でも、かなり専門的な知識や技能が求められ、お昼から始まっても実験の後片付けまで終わると夜の9時10時は当たり前であった。
そんな日々が続いていたある日、いつもの女子4人で、物理学実験を終えてくたくたになってバス停に向かっていた。時刻は9時少し前。残すところ最終バス一本となっていた。
「疲れたねー。」
「おなかすいたわー。」
夕方にサンドイッチを食べた後、何も口にしていないから腹ペコだった。
「でもさー、実験やってて夜遅くに帰宅するとかって、何か大学生になったーって感じじゃない?」
「うんうん。」
「同じ教育学部でも、一年生でこの時間までやってる教科って他にないよね。」
口では疲れたと言いながらも、何だかハイな気分になっていた。
当然お酒など入っていないのに、なぜか妙なテンションになる4人…
なぜこの展開になったかはうろ覚えだが、バスを待つ間に高田先生に電話をかけてみようという事になった。よく飲み会とかで、『好きな子に電話しちゃえ~』とかいうノリに似ていた。
そして、ただ話すだけでなく、『最終バスがなくなったので、迎えに来て欲しい』とお願いするシナリオまでできた。
そんな無茶なこと…
端から見たら罰ゲームだが、ランナーズハイのような状態になっていた私は乗り気だった。
要するに、恋愛に関しては引っ込み思案な私は、何か『理由』とか『後押し』がないと電話一本かけられなかったのだ。
カバンからケータイを取り出す。
でもやはり躊躇する私…
「カナちゃん、早くかけないとバス来ちゃうよ。」
このバスを逃したら本当に帰る手段がなくなるので、乗らないわけにはいかない。
いや、そうなったら本当に高田先生にお願いする理由になるのだけど。
ドキドキドキドキ…
やはり、緊張する。 まだ仕事中かもしれないし。
画面は高田先生の番号が表示されている。
何度も深呼吸し…
発信ボタンを押した。
プルルルル プルルルル…
ガチャ
「はい、もしもし。」
当たり前だが高田先生の声!一気に顔がカァーッと熱くなった。
「先生ー、お疲れ様です!」
「どうしたんや~?」
笑い声混じりで聞かれる。もう、名乗らなくても、私だと分かってくれている。
体が汗ばむのは、7月の暑さのせいだけではなかった。
先生はすでに帰宅しており、夕飯も終えていた。私は大学生活が楽しいことや、実験で遅くなってこの時間になったことを話した。
「俺の時もそんなんやったなぁ。今日お前がやった実験、俺も記憶にあるぞ。」
話に花が咲く。
遠くで3人が見守っている。
…よし、本題に入ろう。
「先生、実は遅くなって、バスがなくなっちゃったんです。先生、私を家まで送ってください。」
…言った!!
「お前、俺を足につかうのか~!?」
…そりゃ驚くわよね。
「えへ。ごめんなさい(汗)」
さすがにまずいと思い、断って電話を切ろうとしたら、
「しゃーねぇなぁ。迎えに行ってやるよ。今どこだ?大学のロータリーか?」
…!!!!!
来てくれるの!?
「はい。お願いします!!」
「よし、待ってろ。すぐ行くからな。10分くらいで着くぞ。」
電話を切るなりガッツポーズをした私を見て、他の3人は、
「まじでぇ!? よかったねー」
などと喜んでくれた。
高田先生をからかうつもりではなかったけれど、こんなお願い聞いてもらえると思ってなかった。
…先生に迎えを頼み、送って行ってもらうなんて、私は何様だ?
冷静になると、お願いしたことの無茶さに冷や汗タラリだ。
まもなくバスがやってきて、3人は帰って行った。 ロータリーのバス停には私ひとりが残された。
この時間でも、夜行性の学生の車がけっこう出入りする。私はロータリーの入り口からやってくる車を一台一台注意深く目で追っていた。
…私、高田先生の車を待っているんだよね。なんか、信じられないな…
ロータリーに入ってくる車はすべて、駐車場へつながる道を曲がっていく。私の立っているバス停付近まで入ってくる車は無かった。
時計を気にしながら、今か今かと待ちわびる。
やがて…
一台の車がロータリーの中に入ってきた。
駐車場へは行かずに、こちらへ向かってくる。
ヘッドライトが眩しく確認しにくいが、白のスポーツカーだと分かった。
…高田先生だ!!
高田先生は私の目の前で車を停めてくれた。
私は助手席のドアをあけた。
「先生、ありがとう!!失礼しまーす。」
そう言って、シートに座った。
「しゃあねぇなぁ。ったくこの娘は…」
夢のようだった。
「先生、こんな時間に…すみません。」
私は半分照れながら謝った。
「どうってことないさー。明日は休みだし。」
…嬉しいな~
「本当に助かります。○○駅までお願いしたいです。」
駅までは車で15分くらい。そこからはまだ電車が走っている。
「えっ、駅でいいのか?」
少し意地悪っぽく聞く先生。
「うっ… あ…。」
まさか自宅まで送ってくれるってか!? でも… 自分から言えない。
「駅まででいいならいいけど~。」
ニヤニヤする先生。
「自宅まで… いいんですか?」
「しゃあねぇなぁ。」
…くそぉ~ からかわれてる!! でも、それが楽しかったりもする。
「でも、うち遠いですよ。」
車で1時間弱ってとこかな。
「遠いったって、○○市だろ?全然平気だよ。」
意地悪な口ぶりと優しい態度に、私はもう高田先生にメロメロだった。
高田カーは○○市へ向かって走り出した。
車中では、大学で演劇サークルに入ったことや勉強のこと、来月から回転寿司屋でバイトすることが決まったことなど、楽しくて仕方ない話をした。
高田先生も自身の大学生活を思い出したようで、会話は盛り上がった。
共に同じ学科の出身。一学年十数名たらずの狭い世界である。共通の話題は尽きなかった。
高田先生の今の学校での話もいろいろ聞いた。教員同士の人間関係や校務分掌など、悩みは尽きないらしい。
「先生、お仕事大変ですよね。」
心からそう思った。
「他人事のように思うなよ。お前だって将来中学校に勤務したら、きっとこうなるから。」
「そうなれるように頑張るよ。高田先生とどこかの学校の職員室で机を並べていられるようにね。」
「おっ、なかなかいい心構えだな。楽しみだな~。」
当時は教員採用が少なく、その採用試験の倍率は10倍近い狭き門だった。現実はなかなか厳しそうだ。
しかし先生はこの時、私が教員になること前提で話をしてくれた。信じてくれているのが伝わり、嬉しかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。自宅近くに差し掛かった時だった。
「お前が大学に入ったお祝いに、今度メシでも食べに行こう。」
…何だって!!!
先生の方からお誘い!!?
一瞬耳を疑った。
「ほ、本当に?やったー!!」
願ったり叶ったりとは、こういうことか。
翌週の日曜日、私は朝から落ち着かなかった。この日は夕方から高田先生とお食事だ。
…人生初デート!!
いや、デートとは言わないかもしれないが、好きな男性と2人で食事なんて、初めてだった。
部屋に服を並べて、アレコレ合わせてみる。が、どれも決まらない。
私は、今でもそうだが、太い脚がコンプレックスだった。
上半身は普通なのに、お尻から下はお肉がたくさんついている。スーツも、上は9号、下は13号というアンバランスな体型。
とくにふくらはぎから足首が太く、履けるブーツに出会ったことがない。量販店で『筒口超ゆったりタイプ』というブーツでも、足首からチャックが上がらない。典型的な下半身デブというやつだった。
だから、本当はスカートが履きたいのに、あまりにも太い脚でどうしてもためらってしまう。
制服を着ていた中~高校生の頃はもちろん、大学生になってからも『安藤、お前って脚太いよな~』と男たちによく言われた。
ナオヤにも言われたし、電車の中で見ず知らずの男子高校生にも言われた。ちなみに、就職してからも上司に言われたこともある。
とにかく、珍しいくらい太い脚なのだ。
だから、着る服が決まらなかった。
大学生になってからは、脚をかくす為に常にジーパンだった。本当は、フレアスカートやワンピースなど、カワイイ系が好きなのに…
もちろん、ジーパンでも工夫次第でカワイイ系の着こなしはできる。でも、足が大きくて甲高幅広の私に履ける靴は、この時スニーカーしか持っていなかった。
パツパツの太脚ジーパンでメンズ用スニーカー…
おしゃれとは無縁の女子大生だった。
大学三年生の姉はスタイル抜群だった。身長は私より5センチくらい高いのに、体重は10キロ以上少ない。タイトスカートやヒール高いのパンプスなど、絶対に私が身につけられない物をたくさん持っていた。もちろん、サイズが合うはずもないので、姉からはバックだけ借りた。
衣装選びは、『どれにしよっかな~♪』なんて楽しい気分でなく、カワイくできず、逆にカッコイイ雰囲気にもなりきれず、憂鬱な気分で涙とため息しか出なかった。
さんざん悩んだ末、いつものジーパン&スニーカーに、花柄のシャツを合わせた。バッグは姉から借りた、ビビットなライムグリーンのショルダー。シャツの花柄と色が合っていた。
デートという格好ではないが、デニムに花柄を良く言えば当時流行りだした『甘辛テイスト』という感じだ。
しかし、垢抜けない感じは否めない。せめてと思い、慣れないメイクに挑戦した。
ファンデーションの上に、お気に入りのイエローのアイシャドウ。ピンクのチークに赤の口紅。
… 私はピエロか。
アイシャドウを落とそうと思い、ゴシゴシと瞼をこすった。イエローの主張はやや抑えられた気がした。口紅もティッシュで拭った。皮がめくれ、唇は荒れた。せめてと思い、グロスを塗った。ツヤツヤしたが、見た目が気持ち悪い。
何をどうしても、決まらない。
時間が迫り、仕方なく家を出た。
駅まで小走り。汗でメイクが崩れないか心配だった。途中で目にゴミが入り、ハードコンタクトを入れているため激痛が走った!!涙がダァーっと出てきて、目の周りはグチャグチャになった。
田んぼに囲まれた田舎の無人駅にトイレはない。私は電車の中では終始うつむいて、高田先生と待ち合わせをしている駅で下車するやいなや、トイレに駆け込んだ。
メイクを直す。ファンデーションにアイシャドウを塗り直し…
ピエロに戻った。
もう、いやだ…
駅の階段を下りる。高田先生とは、そこから歩いてすぐの黄色いビルで拾ってもらう約束をしていた。
…待ち合わせって、こんなにドキドキするんだ!
約束の時間の10分前。高田先生が来るであろう方向をずっと見ていた。
ドキドキ ドキドキ…
高田先生を好きになってから丸四年が過ぎた。その間、何度このドキドキを味わっただろう。
心臓の音が聞こえる。
呼吸が苦しくなるほどだ。
…これはデートじゃない。私は彼女じゃない。だからデニムでカジュアルに決めて、大学入学祝をしてもらうただの元教え子。何も気負うことは無いんだから!!
自分に必死に言い聞かせた。
そうしないと、呼吸困難でぶっ倒れそうだった。
やがて視線の先に、特別なオーラをまとった白のスポーツカーが見えてきた。
私はわざと視線をそらす。まだ気付いていない振りをしていたかった。
深呼吸をする。
ぐんぐん近づいているのが横目に見える。
…高田先生、私に気付いたかな?
おもむろに、高田カーに目を向けた。20メートルくらいの所まできていて、すでに減速し路肩に寄せるところだった。
私は満面の笑みを浮かべ、フロントガラスの向こうの高田先生に軽く手を振り、小走りに駆け寄った。
停車した高田カーの助手席ドアを開け、飛び乗った。
「先生、今日はよろしくお願いしまーす!」
「おう!何か食いたい物あるか~?」
先生は薄いブルーのシャツに、ベージュのチノパン。カジュアルさでは私と同じくらいかな?
スーツとかでキメすぎてなくてホッとした。
私が翌週から、駅前の回転寿司屋でバイトすることが決まっていたので、高田先生は『予習だ』と言ってバイト先とは違う回転寿司屋へ連れて行ってくれた。
とてもありがたかった。
というのも、この時あまりの緊張に気持ちが悪くて、とても食欲などわかなかったからだ。回転寿司なら、自分で食べる分を調節できる。
私たちは、カウンターに並んで座った。
…変な感じ。高田先生の隣に座って、一緒に食べるなんて。
嬉しいとか楽しいとかじゃなくて、違和感というのか、2人で一緒にいることが不思議でならない。例えるなら、憧れの芸能人と2人でお忍びで食べに来ている、そんな感じだった。
あんなに好きで好きで仕方なくて、こんな日がくることを夢に描いていたのに、現実になると、緊張して楽しむどころではなかった。
今思いだそうとしても、私は何を食べたか思い出せない…
覚えているのは、高田先生が鉄火巻きを注文したことくらいかな。
緊張し、味も分からない状態で、3皿食べてギブアップした。
「お前、そんだけでいいのか。」
ビックリする先生。
そりゃ、普段の私ならこれの二倍は頂きますが。 …今はムリ。
その時すでに、高田先生は7皿くらい平らげていたかな?まぁ、男性なら普通の量だが、次の一言に驚いた。
「このあと家帰って夕飯食うから、俺はこれくらいにしておくわ。」
「え?これ夕飯じゃないの?」
現在午後6時半ですが。少し早めではあるがおやつの時間でもないだろう。
「いつも夕飯もっと遅いから、これだけじゃもたないからな。」
家の人には、食べてくるとは言ってないらしい。どんな胃袋してるんだ。痩せ型の体型からは全く想像できなかった。
レジで清算し(もちろん先生のおごり)、先生にお礼を言って店を出た。
そのまま車は自宅へ向かう。
…あのー、まだ外明るいんだけどなぁ。だからと言って、このあと何するとか分からないし。付き合ってるカップルじゃないから、このまま帰宅で当然かなぁ。
何ともいえないもの足りなさを感じた。それ以上何も求められないと思っていたら、先生が口を開いた。
「お前、化粧ヘンだぞ。(笑)」
…グサッ
「ちょっと失敗しちゃったのー!!」
いつものアンカナらしく明るく返したが、その後は唇を噛み締めて、溢れ出しそうな涙を必死でこらえた。
自宅へは午後7時前に着いた。
「おかえり~ あら?今日友達と食べてくるんじゃなかった?」
不思議そうに母が聞いた。
「うん、そうだったんだけど、ちょっとお腹の調子がおかしくて、私だけ先に帰ってきたんだよ。」
母にはサークルの仲間で遊びに行くことにしてあった。
「あらあら、どうしたのかな?何も食べない?」
「うん。今はちょっと…」
私は部屋に引っ込んだ。
…『化粧ヘンだぞ』
私、バカみたい。こんなメイクバカみたい、バカみたい…
私はもう一度階段を下りると、洗面所へ行って顔を何度も洗った。
それから、高田先生にメールを送った。
『今日はごちそうさまでした。いろいろ話を聞いてもらえて嬉しかったです😊』
・・・ 返信
『大学でも勉強がんばれよ=』
最後の = は、きっと絵文字が文字化けしている。どんな絵文字だったのだろう。
きっと今ごろ、高田先生は自宅で夕飯を食べているのだろう。
嬉しいはずのお食事だったのに、いろいろな意味で『何だったんだろう…』と思った。
ひどく疲れた。
「えーっ、何それ!?」
月曜日、教育学部の女子組3人に高田先生とのお食事の様子を話した。真っ先にこう声を上げたのは、恋愛経験豊富なみーちゃんだった。
「メイクをバカにするとか有り得ないよね!!」
美人のサッちゃん。
「それで夕方には帰宅でしょ?アンちゃんの期待外れもいいとこだよなー。」
ボーイッシュの岩田ちゃん。
みんなで慰めてくれた。
私の心の中でモヤモヤしていた高田先生への不満を、こうして言葉にしてもらうと、逆につらくなった。
3人が私を味方してくれるということは、逆にとれば高田先生を非難することであり、それはそれで耐え難いものだった。
「でも、高田先生は私の大学入学祝いをしてくれたから、文句言っちゃいけないよね。メイクだって、実際下手くそだったんだし。」
キレイゴトを言いたかったのではなく、大好きな高田先生を悪者にしたくなかった。
みーちゃん:
「アンカナがいいならいいけど、アタシはなんか納得いかんわ~。高田先生ってアンカナの気持ちに気付いてるでしょうに。」
カナ:
「んなこたぁないだろう。ただの元教え子だと思ってると思う。」
岩田ちゃん:
「でもアンちゃんは顔に出やすいからなぁ~ ハハハ!」
サッちゃん:
「私も、高田先生は気付いてると思うよ。それに、この前も大学まで迎えに来てくれたし、入学祝いしてくれたし、向こうもカナちゃんのこと好きなんじゃない?」
みーちゃん:
「いや、アンカナのこと好きならメイクのダメ出しとかしないでしょ。」
岩田ちゃん:
「元教え子だから、手ぇ出せないと思ってるとか。」
カナ:
「先生は私のこと… 好きじゃないよ。そりゃ、好きになってくれたら嬉しいけど、そんなことあるはずない。」
私はすっかり自信をなくしていたが、高田先生が好きな気持ちが収まることはなかった。
高田先生が私のことを好きかどうか、意見は分かれていた。
私と岩田ちゃんは否定派。
サッちゃんは肯定派。
みーちゃんは、肯定派寄りだけど『そうだとしたらかなりのS』だと思っている。
正解は、高田先生本人しか知らない。
聞く勇気もない。
普通、いくら連絡を取っているからと言っても、元教え子を2人きりの食事に誘うだろうか?
それか、あくまで大学合格祝だから、こちらが考えすぎなのだろうか。
どちらともとれる先生の行動は、私に諦めと期待の両方を抱かせた。
私は勇気や自信がなくて、どうしても高田先生に告白できずにいた。中学生の時と何も変わらず、好きな気持ちを絶対に知られたくなかった。
でも、高田先生への思いが募り、声を聞きたくて仕方なくなる時があったから、2~3ヶ月に一度くらいの頻度で先生に電話をかけた。
ドキドキしながら電話をかけても、出ないことが多かった。
出てくれる時の第一声は必ず、
「暇なヤツやなぁ~ 何の用や?」
だった。
…やはり、迷惑なのかな?
そう思って、
「先生忙しそうだから、電話とかかけない方がいいかな?」
と聞くと、
「そんなことはないぞ~」
と言ってくれた。
高田先生の本心はよくわからないまま、気付けば大学生活も一年が過ぎようとしていた。
大学に入学して、2度目の春がやってきた。
勉強もだけれど、サークル活動もとても充実していた。演劇の練習は、実験が長引いて行けない時を除いて毎日夜までやっていた。
大学の合宿所に泊まり込むこともあった。
そんな日々なので寿司屋のバイトは長続きせず、家庭教師(短時間で高収入)でちびちびとお小遣いを稼いだ。
4月の終わり、この日も5月の連休初日に行われる『チビッコフェスタ01』の準備のために合宿所に泊まっていた。
少しお酒が入っていたこともあり、気持ちが大きくなった私は、高田先生に電話をかけた。
プルルッ
「もしもし」
すぐに出たから驚いた!
「あ、先生~ こんばんはー!」
「相変わらずヒマそうやなぁ~」
「ヒマじゃないよー。めちゃ忙しいって。今日も泊まりで『チビフェス』っていう子ども向けのイベントの準備をしててさ…」
私はザッと近況を報告した。高田先生は時折笑いながら話を聞いてくれ、自分のこともたくさん話した。
20~30分くらい話しただろうか。高田先生がいきなり切り出した。
「5月の連休、暇な日あるか?」
「えっ、 連休?初日のチビフェス以外は空いてるけど…」
休日の予定を聞かれるなんて… 素敵な予感がした。
「よし、では5日空けとけ。どっかドライブでも連れてってやるよ。」
…ほんとに!?
思いもよらない高田先生からの誘いを、断る理由はない。私は驚きながらもすぐさまOKした。
行き先は、隣県との県境にある山のドライブウェイに決まった。
「途中から山頂までは結構険しい道だから、それなりの服装で来いよ。」
そうアドバイスをもらい、電話を切った。
…いやったあぁあぁ~!!
前回のような、『大学合格祝』なんていう名目ではない。普通に遊びのお誘いじゃないか!!
合宿所を出て外で話していた私は、ケータイを握り締めて夜空に何か吠えた記憶がある。
そして、約束の5月5日を迎えた。
朝、大学で済ませたい用事があったので、そのまま大学で拾ってもらうことにした。
約束の時間の少し前にロータリーに着いた。私は待っている間、というかドライブの予定が決まった時からずっと考えていた。
…どうして高田先生は私を誘ったのだろう?
遊びに誘う=彼女候補?気があるってやつ? それとも先生から見たら私はまだまだ子供で、遊びに連れて行ってやるだけの感覚?
いくら考えても大人の男性の思考は全くわからない。
やがて、ロータリーに見慣れたスポーツが入ってきた。何度見てもドキドキする。
私の前で停車した高田カーの助手席に乗り込む。
第一声は、いつも悩む。
「先生、どうもこんにちは~! うふふ」
妙な挨拶になった。
「よし、では目的地に向かいますか!!」
高田先生は、楽しそうに車を発進させた。
道中、どんなことを話したか緊張して覚えていない。一通り近況を話した後は、なかなか話題に困ったのは覚えている。
沈黙するのが苦手で、何を話そうかといろいろ考えてとても疲れた。
やがて道は山のドライブウェイに入った。景色が一変し、テンションが上がる。
お互い理科人。
見慣れない植物や山の気候の特徴、溶岩でできた独特な地形などのネタで盛り上がった。
こういうマニアックな会話の時、なんとも言えない幸せを感じた。そして改めて高田先生の博学さに感心し、惹かれた。
面と向かっては緊張するので先生の顔を直視できないが、運転する高田先生の横顔を見るのは大好きになった。
ここのドライブウェイは山頂近くまでのびており、駐車場から山頂までは登山というほどの距離ではないにしろ岩がゴツゴツして険しかった。
5月と言えども標高2000mを越えているため、快晴ではあったが肌寒く雪も残っていた。
ハァハァ…
空気が薄いせいか、息が切れた。
「お前、若いのにこれくらいで息切らしてどうするんや~。」
あきれて笑う高田先生は全く呼吸を乱していない。日頃の運動不足を痛感した。
「◇◇中で勤務していた時、宿泊研修でココに登ってな、歩けなくなった生徒を俺がおんぶして山道を降りたぞ。中学校の教師目指すならそれくらいの体力はいるぞ。」
イタい所を突かれた。
私は、超がつくほどの運動オンチ。個人プレイでは鈍さが際立ち、チームプレイでは足を引っ張る。そんなもんだから運動なんて極力避けて生きてきた。
だから、体力もない。
…教員目指すなら体力か。
(余談だが、私はこの翌年から地元のスポーツジムへ通い出す。)
ともあれごちゃごちゃ考えているうちに山頂に着いた。
「うわぁー!!気持ちいい!!」
すっきりと晴れ渡り、ひんやりとした空気を胸いっぱい吸い込むと疲れがぶっ飛んだ。
「いい眺めやなー」隣で先生も深呼吸していた。
山頂といっても険しく尖った場所ではなく、開けた広場のようになっていた。連休で、たくさんの人がいる。
先生はその広場ギリギリ端っこの、柵も何もない所に立っていた。一歩先は岩ゴツゴツの斜面である。
私はおもむろに先生の背後に回り、
「わっ!!!」
と叫んで背中のシャツをつかんだ。(押したら危険だと思って。)
「うぉうわっ!!」
先生はバランスを崩してよろめいた。
「お前っ、このやろう~」
「えへへっ」
「俺が落ちて怪我したら、どうやって帰るんや?」
「私があの子(車)もらうから♪先生はそのまま斜面をゴロゴロ下山してね。」
「お前なぁ~~」
…こんなやりとり、してみたかった♪
それからも、冗談を飛ばしたり近くに残っていた雪で雪玉を投げつけあったりもした。
端から見たら、付き合っている彼氏彼女に見えただろうか。
親子にしては歳が近すぎるし、カップルにしては歳が離れすぎている。
周りの人が私達に気を掛けたかどうかは分からないが、少なくとも教師と元教え子には見えなかっただろう。
帰りの車ではほどよい疲れもあり、シートに体重をあずけてリラックスしていた。
先生のカーステからは、絶えず流行りの最新曲が流れていた。
平井堅、宇多田ヒカル、小柳ユキ、ELT…
「先生、これCD?でもアルバムじゃないよね。いろんな歌手の歌が入ってるけど…?」
「パソコン使って自分で作ったんだよ。」
CDーRに焼くという作業があることを、私は知らなかった。今では当たり前でコピーコントロール機能がついているので簡単にはできないが、当時はダビングし放題だったようだ。高田先生は少なくとも二年以上前からやっていたそうな。
そんな所から、高田先生はかなりのパソコン通だと分かってきた。家には3台のパソコンがあり、休日はもっぱらパソコンいじりをしているそう。
それ以外にも、高田先生について分かってきたことがいくつかある。
映画をよく見に行く事。
20代後半の時、婚約していた彼女がいた事。
本当は理科ではなく数学の先生になりたかった事。
二年前に亡くなったお父さんは、何十年も病気で大変だった事。
「なかなか人生は思い通りにはいかないな。」
と、ポツリと漏らした。初めて聞く弱音だった。
…高田先生らしくないな
と思った。
私に本音を話し出した先生の心境の変化に少し戸惑った。
自宅近くなって、高田先生が言った。
「お前、来週の土日は予定あるか?」
…えっ…!?
先生が次に会う約束をしようとしているのは、鈍感な私でも分かった。
「残念ながら、来週は演劇の公演があるんだ。再来週なら大丈夫だけど…」
「再来週か。俺は日曜日なら空いてるから、一緒にボウリングでも行かないか?」
「ボウリング? うん、好き!私運動オンチだけどボウリングは人並みにできるから。」
「よし、決まりだ。空けとけよ。」
「はい!!」
自宅まで送ってもらい、部屋に戻ってからも、嬉しくて笑みがこぼれた。
…先生から、こんなに誘ってもらえるなんて!!! でも先生は私のこと、どう見ているんだろう。この状況、付き合ってるって言うのかな?それとも大人からしたら、こんなのただの遊びなのかな?
いつも同じ疑問ばかり頭をぐるぐる巡った。
そして2週間が経ち、ボウリングの約束の日曜日になった。
この日も大学で拾ってもらった。
サークル活動の用事を済ませたいという理由もあったが、それ以上に自宅まで迎えに来てもらうことに気が引けた。
…高田先生と遊んでいること、家族には知られたくない。
親が知ったらと思うと憂鬱だった。悪いことをしているわけではないが、先生に対して良い印象は持たないのは目に見えている。
高田先生と会えるのは幸せだったが、後ろめたいような気持ちがあり、複雑だった。
ともかく、この日は楽しくボウリング! ボウリング場に着き、高田先生が受付用紙を書き始めた。
投球者の名前をカタカナで書くようになっていた。先生は迷わず鉛筆を走らせていた。
やがて、指定されたレーンへ移動すると、頭上のモニターに
ヒロユキ
カナ
と、2人の名前が並んでいた。
これはもう、付き合っている男女にしか見えないんじゃないかと思った。
ボールを選び、靴を履き替える。いつの間にか、そういった『教諭 高田浩之』では有り得ない行動を見慣れている自分がいた。
準備を終え、先生から投げ始める。
パカーーン!
5本倒れた。
…何だ、大したことないじゃん(笑)
「久々だからこんなもんか~」
苦笑いの高田先生。
2投目も1本しか倒せず、スコアは6で終了… ヘボいぞ。
…何だ、自分はスポーツ全般得意だと言っていたわりにはこれか!!
勝てる気がして、闘志が湧いた。
不調な高田先生をよそ目に、私はスペアの連発だった。なかなかストライクをとれない所が私なのだが。
十代の女子と三十代の中年一歩手前男性では、なかなかいい勝負になるようだ。お互いに追いついたり追い越したりしながらゲームは進んだ。
…次こそストライクを!!
何度祈りをこめて投げたことか。
ゴロゴロゴロ…
パカーーーン!!!
ついにボウリングの神が降りてきたようで、私にストライクが出た。
「やったー!!」
ガッツポーズのまま高田先生を振り返ると、両手を挙げて待っていた。
「イェーイ」
パチィン☆
そのまま自然な流れでハイタッチ。
…高田先生とハイタッチできるなんて…嬉しい。
先生の手に触れたのは、中学生の時ガスバーナーで火傷をした時以来、二度目だった。
「アンカナなかなかやるなー 」
先生に珍しく誉めてもらえた。
「でしょ!?普段みんなでよく焼き肉賭けてボウリングしてるから。」
「まったく… 暇な学生やなぁ」
こういう一言も忘れないのが高田先生だ。
それに快感を覚えるのが私だ。
結果は数ピンの差で高田先生の方が勝ったのだが、正直ここまで接戦になるとは… 2人とも思っていなかったようで、それはそれで盛り上がるネタとなった。
ボウリングの後は近くのラーメン屋さんへ。 そう言えば以前の山ドライブの時も、帰りはラーメン屋さんだった。
…ラーメン好きやなぁ。
ともあれ、あまり気取ったお店は緊張するし、はっきりデートなのかもよく分からないので、ラーメン屋さんくらいの気楽さが私には良かった。
でも、ここまで来ると、高田先生がどういうつもりで私を誘ってくれるのかはっきりさせたい気持ちが強くなってきた。
でも…
どう切り出したらよいか分からない。
「私のこと、どう思っているの?」
単刀直入に?
勇気なし。
今日も聞けずじまいで自宅へ。次の遊ぶ約束を期待したが、今回それはなかった。
すべて受け身。
優柔不断。
はぁ…
高田先生との関係はなんとも中途半端で疲れる。
でも、相手が自分のことをどう思っているかモヤモヤしていたのは、高田先生も同じだった。
>> 145
「もうさー、それ付き合ってるって言うんじゃないの!?」
恒例になってきた高田先生とのお出かけ報告会で、恋愛経験豊富なみーちゃんが叫んだ。
みーちゃん:
「あー、なんか腹たってきたわぁ。付き合う気でいるならハッキリ言って欲しいよね。」
カナ:
「付き合う気がないから言わないんじゃないかな?」
余計な期待はしないでおきたい。
サッちゃん:
「それはそれで高田先生ヒドいよね。カナちゃんの気持ち知らないわけないだろうし。」
岩田ちゃん:
「安ちゃん半殺しやなあ~ ハハハハ」
カナ:
「笑い事ちゃうわー」
みーちゃん:
「あーもう、その高田先生とやら?教師以前に人として終わってるわ。」
なかなか厳しいみーちゃん。
サッちゃん:
「面と向かってがダメならメールで聞いてみたら?」
カナ:
「それも勇気出ない。」
煮え切らない私たち2人に、ギャラリーはイライラ気味だった。
結局、お互いの気持ちを確認するきっかけすら掴めぬままだったが、それからも高田先生とは2週間に一度くらいのペースで、メールをやりとりをしていた。
そして、7月も半ばを過ぎ夏休みがやってきた。
これが、一生忘れられない劇的な夏休みになる。
7月下旬
もう、どちらから誘ったかも覚えていない。当たり前のごとく、8月の最初の土曜日にある花火大会に、私と高田先生は一緒に行くことになった。
当日の予定をメールでやりとりしていた。
高:お前の家まで迎えに行くよ
カ:ありがとう。
高:4時頃迎えに行くよ。早めじゃないと混むからな。夕飯どっかで済ませて、それから行こう。
カ:分かった。会場まではそこから歩いて行くの?
高:そうだな。当日は何を着てくるの?
(浴衣を期待しているのだろう。)
カ:歩く距離が長いから、浴衣やめようかな。
(そんなつもりは全く無いが、少し意地悪してみた。)
高:浴衣姿が見たいけどな。
(意外と素直じゃないか!)
カ:下駄で歩ききれるかな?
高:疲れたらおんぶしてやるよ
(キャアアアァー!!)
カ:重いよ
高:平気だ
好きで好きで仕方ない高田先生。
プライドの高い高田先生。
その先生に「浴衣が見たい」だの「おんぶしてやる」だの言われて、幸せすぎて私が花火で打ち上がってしまいそうだった。
翌日、計画が少し変更された。
高田先生は映画が大好きだから、花火大会の前に映画を観ることになった。
実は、映画はあまり気が進まなかった。というのも、この頃の私は偏頭痛に悩まされており、頭痛薬が手放せない生活だった。映画館での大きすぎる音声や画面は頭痛を引き起こす。
それに、私は人の顔や名前を覚えるのが苦手で、映画やドラマを観ていても「あれ?この人は主人公の兄だっけ?恋人だっけ?」などと人間関係がいつも分からなくなる。芸能人の名前も極端に分からない。
なので、よほど単純なストーリーでない限り、映画は三回以上見ないと理解できないのだ。
しかし、高田先生の誘いを断ることはできなかった。それよりも、浴衣姿で先生の隣で映画を観るシチュエーションにうっとりし、一緒に映画を観に行きたい欲望が勝ってしまった。
当日は先生が学校で済ませたい仕事があるらしく、時間の関係で映画館で待ち合わせすることになった。
花火大会の日が待ち遠しかった。
花火大会当日がやってきた。
その日、家で留守番だった私は、浴衣の着付けをひとりでやらなくてはならなかった。
地元の図書館で着付けの本を借り、鏡と本を交互に見ながら20分間ほどで着られた。
…私、なかなかやるじゃん。
簡単にメイクをして、セミロングの髪を二つに分けておだんごを二つ作った。
いつだったか、先生に言われたことがある。
「化粧は好きじゃない。スッピンの方がいい。」
普段、ノーメイクでいることも多い私だけど、花火デートにスッピンはさすがにマズいと思った。ファンデーションとチークをうっすら。色付きグロスをつや出し程度に塗った。
…うん。これくらいが私も落ち着く。
巾着と下駄、背中の帯には団扇を差し、家を出た。
まだ日は高く、学校のプールに行く子どもたちが田んぼ脇の用水路に足をザブザブ入れて遊んでいた。
駅まで下駄でちょこちょこ歩きながら、考えていた。
…今日なら、聞ける気がする。私のことを、正直どう思っているのか。『ただ遊んでいるだけ』でも、私はそれでもいいから、先生の本当の気持ちが知りたい。
高田先生はよく、私をからかって
『変なヤツ~』
『おもしれぇヤツ~』
『困ったヤツ~』
などと言う。
周りには、そうやって彼女をいじって可愛がる男の子もいるけれど、果たして30代後半の大人もそんな発想するのか…
その時の私には分からなかった。
電車を降りると、駅前には浴衣姿の人がちらほら歩いていた。テンションが上がる。
駅前商店街から歩いて映画館へ向かう。周りにはカップルも多い。途中、中田くんの自宅らしきビルの前を通った。ミナミと一緒に自転車で走り抜けたあの日、まさか高田先生と映画を観たり花火デートをする日がくるなんて、夢にも思っていなかった。
やがて映画館の前に着いた。先生はまだ来ていない。
『お先に着きました。映画館の前で待ってるよ。』
と、メールを送った。
今までは迎えにきてもらうばかりだったから、初めての待ち合わせだ。高田先生はどこからやってくるか分からないから、キョロキョロ見回していた。
なかなか来ないから、映画のポスターを見ていたら、
ドンッ
背中から体当たりされた。
…そう来るか。
「行くぞ。」
高田先生はスタスタと中に入っていく。
…先生も、照れてるのかな? いい歳したオッサンが、もぅ。
「ちょっと先生!私そんなに早く歩けないんだけど~!!」
ちょこちょこ必死で追いつこうとする私を振り返って、高田先生はようやく『照れ隠し』を止めた。ニコニコ笑いながら、私の隣に来てスピードを合わせて歩いてくれた。
映画のタイトルはお任せしてあった。先生はエレベーターに乗るとボタンを押した。降りる階ごとに違う映画を上映しているから、先生の押した③は、
『パールハーバー』
テレビでCMが流れているのをちらっと見たことがある。
パールハーバー = 真珠湾攻撃
…戦争モノですか?
映画館は薄暗く(当たり前だけど)、2人並んで座るとドキドキした。車に乗っている時より近いし、油断したら手が触れてしまいそうだ。
『パールハーバー』は、第二次世界大戦を舞台にした友情×ラブストーリーで、幸いなことに私でも理解できる内容だった。ラストは涙があふれた。
ただ…
2時間以上、浴衣で椅子に座り続けるのは疲れた。帯が気になって安心してもたれられないし、膝をピッタリつけてないと裾は乱れるし… 軽い筋トレになっただろう。
先生と思わず手がアッ… なんてことも起こらなかった。残念!
映画館を出た私達は、映画の感想を話ながら高田カーを停めてある駐車場に向かった。
「最後、自ら死を選ぶことは無かったのにね…」
「でもな… 俺があの立場なら、同じ事考えるだろうな。」
映画の余韻を残しながら、イイ感じで花火大会の会場へ向かって車は進んだ。日は西に傾き、街には浴衣姿の人々が溢れていた。
「何か食いたい物あるか?」
「うーん、帯が苦しいからいっぱいは食べられない。(笑)」
飲食店はどこもいっぱいで、結局、花火大会の会場から距離のある漫画喫茶に入った。当時はまだネットカフェという言葉ば存在していませーん。
マン喫で食事を済ませた後、私達は花火大会の会場まで歩いて向かった。距離は3キロくらいあった。
あたりは夕闇に包まれ、花火大会に向かう人々で溢れ、遠くからは時折『ドドン!』と号砲が聞こえてきた。雰囲気は最高である。
私と高田先生は、河原の遊歩道を歩いた。何の話をしたか覚えていないほど興奮していたが、キャアキャア笑いながら、3キロの道のりもあっという間に感じるほどだった。
…幸せ…!!
まわりはカップルも多い。私達も、そんなカップルと何ら変わりなく見えたはずだろう。
しかし、多少の緊張感は消えなかった。と言うのも、この花火大会には、中学校の同級生もたくさん来ているはずである。『あっ、高田先生と安藤カナ!?』なんて目撃されてもおかしくない。
かなりスリリングなデートだった。
やがて花火鑑賞エリアに着き、私達は土手の上から敷物が敷けそうな場所を探した。人でいっぱいだが、2人分のスペースならすぐに見つけることができた。
「あそこにしよう。」
先生が指を指した場所は、土手のすぐ下。階段は近くに見あたらないので、斜面を下りなくてはいけない。
下駄で下草ボーボーの斜面を駆け下りるのは至難の技だ。
躊躇しながら一歩を踏み出した時、先生が
「大丈夫か?ほら。」
と手を差し出した。
照れながら、その手につかまる私。 だが、浴衣に下駄では思った以上に動きにくく、私はよろめいた拍子に高田先生の腕に体重を預けるようにしがみついてしまった。
「あっ…!!」
「おっと…」
ここで勢いで体に抱きつくくらいのことができたらカワイイのに、私からすぐにふり解いてしまった。
恋愛初心者は、何をするにもいちいち勇気がいる。
2人でゴザに腰をおろし、空を見上げた。夕暮れの明るさをほんの少し残して、空は確実に夜に近づいていた。
熱を帯びた夏の夜空の下で、私の体も熱くなっていった。
二年前の夏の花火大会で、私は高田先生の彼女になりたいと願った。胸が破裂しそうなほどつのる高田先生への想いを、花火と重ねながら見ていた。
…それが今、現実になろうとしている…
高田先生とは、ギリギリ触れるか触れないかの距離。今の2人の心と同じ。ギリギリ寄り添う気持ちが、あと一歩の所で足踏みしていた。
ヒュゥゥゥーー…
ドォォーーーン!!
花火大会の開始を告げる、一発目の花火が打ち上がった。
「きれーーい!!。」
「すげぇ迫力やなあ!」
目の前で打ち上がる花火は、真上から降り注いでくるようで、私も高田先生も歓声を上げた。
次から次へと、大輪の花が夜空を彩る。
時間が経つのを忘れてしまう。
しばらく花火をみていたら…
高田先生が、私の腰に腕をまわし…
ギュウっと抱き寄せてきた。
私はそのまま、高田先生にもたれかかるようにして夜空を見上げていた。
高田先生は今度は私の肩に手を回し、優しく撫でてくれた。
…大好きな人にこうして体に触れられるって、こんなに幸せなんだ…!
私は高田先生の肩に頭をもたげて、うっとりしていた。
花火はどんどん上がっていく。
夢のような時間が過ぎていった。
しばらくその姿勢でいたが、クライマックスの超大型の花火がドッカンドッカン上がる頃には、2人とも体を離して興奮しながら手を叩いていた気がする(笑)
「もう、『きれい』とか『すごい』なんてもんじゃないけど、それしかでてこないよね!」
「そうだなー。俺も子供の頃から見てるけど、いつ見ても感動するな。」
こうして、感動を共有しているのも素敵だった。
やがて最後の花火が打ち上がり、大会は終了した。人々は次々と立ち上がり、荷物をまとめはじめた。私が立って浴衣の裾を直している間に、先生はゴザをたたんでくれた。
大勢の人の波に流されるように、私達は帰路を進んだ。行きと違い、一気に人が動くため、はぐれそうになった。
私と高田先生は互いにぶつかるほど近づいて歩いていたが、手と手がぶつかった瞬間、先生が私の手をつかんだ。
それでもまだ恥ずかしさをふりきれない私は、なかなかギュッと力を入れられない。
駅の方へ人が流れていく中で、私達だけ大通りを外れて細道に入り車に向かっていた。人通りが少なくなってくる頃には、繋いでいる手の指と指がからまるようになっていた。
生まれて初めて、好きな人と手を繋いだ。
高田先生の車に乗り、私の家へ向かった。道はそれほど混んではおらず、車はスイスイと進んだ。
…もっと高田先生と一緒にいたいけれど、この調子ではけっこう早く着いちゃうなー
なんて少々残念に思いながらも、先生の横顔を見てはいちいち胸をキュンキュンさせていた。
やはり、車を運転する姿って、特別カッコいい。
以前、恋愛経験豊富なみーちゃんから、『ドライブの間、手を繋ぐのオススメだよ』とアドバイスをもらった。憧れたが、高田カーはMT車でしょっちゅうシフトレバーをかき回す為、これまた手を繋ぐのは難しく残念だった。
そのかわり、先生の『はいっ』の合図に合わせ、私がギアチェンジをして楽しんだ。(もちろん私も運転免許はMT車可である)
先生のクラッチを踏むタイミングを見て、そのうち合図はいらなくなった。すると今度は、シフトレバーに置いている私の手の上に先生は自分の手を重ねて運転しはじめた。
…温かい。
先生の手の温かさは、本当に心地よい。
ふと時計を見ると、
『10:23』をさしていた。
「あ、私の誕生日。」
さりげなく、自分の誕生日を教えた。
それから10分ほどして、自宅に着いた。
「先生、ありがとう。映画も花火もすごく楽しかった!」
車を降りるのが惜しい。せめて、次の約束があれば嬉しいけれど…。
「おう。楽しかったな。」
先生は笑顔で手を降った。私もそれに応えて手を振ってから車を降りた。
私は玄関の前で、高田カーが見えなくなるまで見つめていた。
…先生、大好き。
私は、先生に撫でられた左肩を、自分の右手でそっと触れた。まだ、先生の手の感覚が残っていた。
「ただいまー!」
「お帰りー。 あんた、ひとりで浴衣着れたの?」
「うん、なかなか上手いでしょ?」
母とは、いつもと変わらない会話を心がけた。『友達と行く』としか言ってない。
浴衣を脱ぎ、お風呂に入り、布団に入る頃には11時半をすぎていた。
ケータイを見ると、メール受信ランプが点滅していた。
すぐに高田先生からだと確信し、メールを開けた。
『今日の花火は楽しかったな。今度、海水浴に行かないか?』
今日は何度、幸せな気持ちになれるのだろう!!
…海で泳ぐって、当然水着だよね!? やだ、恥ずかしい!! 脚太いの隠せないし。
誘いは嬉しくて仕方ないのだが、なかなか勇気がいる。
しばらく悩んだけれど、一緒に海デートしたい気持ちが勝った。
『うん、行きたい!連れてって!!』
すぐに返事が来た。
『了解。考えておくよ。おやすみ。』
…くうぅ~っ、幸せすぎーっ!!
私は叫びたくなるのをかみ殺し、枕に顔をうずめた。
嬉しさと興奮で眠気はぶっ飛び、高田先生からのメールを何度も読み返し、繋いだ手の感触を思い出し、目を閉じた。
翌日、さっそく水着を買いにいくことにした。
翌日、さっそく私は駅前のデパートへ水着を買いに行った。
脚の太さをカバーできる水着なんて、あるわけない。思い切ってビキニを試着すると、ウエストの肉はショーツに乗っかり、お尻の肉は醜くはみ出した。
せめてと思い、ヒラヒラの腰に巻くタイプのパレオをつけてみた。太股から下の太さが際立った。
2時間ほとアレコレ試着して、キャミソール+ミニスカートタイプの水着に決めた。脚の太いのは諦めた。とりあえず尻肉のはみ出しはカバーできていた。
…脚は太いけれど、私はまだ19歳のピチピチの肌!38歳から見たら綺麗にうつるだろう。
持ち前のポジティブ思考で、開き直った。
その日の夜、高田先生からメールが来た。
『8月14日はどうだ?』
『大丈夫!空いてるよ。』
『よし決まり。場所は◆◆湾の海水浴場に行こう!』
『わーい、楽しみ!』
今夜もしばらく眠れないだろう。
…ちょっと待てよ。◆◆湾って、日帰りできるのか?
隣の隣の県にある◆◆湾は、高速道路を使っても車で3時間から4時間はかかるだろう。往復で六時間以上。なかなか厳しいプランだ。
…まさか… お泊まり… なわけはないよね?
とりあえず翌朝、父に聞いてみた。
「ねぇ父さん、今度サークルの先輩が『みんなで海行こう』って誘ってくれたんだけど、行き先聞いたら◆◆湾だって。すごく遠いよね?」
父は仕事であちこち飛び回っているので、こういう質問には的確なアンサーが期待できた。
「ああ、三時間か四時間。下手したらそれ以上だぞ。泊まりか?」
やはり父も私と同じ事を考えていた。
「泊まりとは聞いてないけど… とりあえず14日でお盆の最中だから、かなり大変だよね。」
「そうだな。何でそんな遠くにしたんだ?近くの○○浜でじゅうぶんだろ。」
「決めたの私じゃないから…。」
「だよな。その先輩に○○浜って提案したらどうだ。」
「そうしてみるよ。」
私は部屋にもどり、高田先生にメールを送った。
『先生、◆◆湾ってとても遠いよね?そんなに遠くまで連れて行ってくれるの?』
先生がどういうつもりなのか知りたかった。
…『泊まりで』なんてきたらどうしよう!!
間もなく返信がきた。
『間違えた。◇◇湾だ。』
◇◇湾は、父の勧めた○○浜のある海だ。このあたりの人は、たいてい近場のこの浜へ行く。
◆◆湾と◇◇湾。ひらがなにすると、一文字違い。
本当に、ただの打ち間違いor変換ミスらしい。
…あーびっくりした。
そのまま海デートについてのやりとりが続いた。
『お前の家に8時ごろ迎えに行くから。時間に余裕持って行くぞ。』
近場と言っても、ここは海から離れている内陸の為、かなりの距離がある。
『分かった。2時間くらいで着くかな?』
『そうだな。昼前に着けるぞ。』
『お昼はあっちで食べるんだね。またラーメン?(笑)』
『ラーメンもいいけど、お前の手料理が食いたい。』
…イャアァアァァ~ッ!!
体の中からくすぐられるような感覚で思わず小躍りした。
『うん、頑張ってお弁当作るよ。』
『楽しみにしてるよ(^-^)』
どんどん、私を『彼女』扱いしていく高田先生。きっとこれは… 信じていいよね?
14日まであと一週間以上ある。ダイエットを決意した。
そこで、食事の量を減らした。炭水化物抜き。これはさほどつらく無かったが、うちは必ずお菓子が常備してある家だった。ごはんを減らした分、ついついお菓子に手が伸びてしまった。 両親が甘い物やスナック菓子大好き人間なので、目の前で食べられると、なかなか意志を貫けなかった。
弱っ…
…どうせ一週間ガマンしたところで、脚が細くなるとは思えないし。
そんな諦めがあったから、我慢が続くはずなかった。
そして海デート前日。
…なんで一週間ガマンしなかったんだろう。たとえ一週間でも、頑張れば少しは変わったかもしれないのに…
自称アホカナ。
とりあえず、気を取り直してスーパーへ向かった。明日はいよいよお弁当!初めての手料理、がんばらなきゃ!!
作る予定のおかずと材料が書かれたメモを片手に、食品売り場をうろうろした。
…こんなふうに、愛する人に食べてもらう料理を考えたり作ったりできるの、幸せだぁ。
高田先生に手料理なんて、夢のよう。妻になった気分だった。
その日は明日の朝に備えて早く布団に入ったが、嬉しくてなかなか寝付けなかった。
海パン姿の先生の背中に抱きついたり、あらわになった胸にもたれてみたり、妄想に忙しかった。
そして海デート当日。朝6時から起きてお弁当作りを開始した。
エビフライ、イカリングフライ、タコさんウインナー、卵焼き、おにぎりは梅と鮭と昆布。野菜が足りないのでレタスとプチトマトも使って彩りよくレジャー用お弁当箱に詰めた。 あっさりしたおかずが欲しくて、チンゲンサイのしょうがじょうゆのおひたしも作ってタッパーに入れ、梨も切って皮をむいた。
こうして文章にしてみると、なかなか良い出来に見えるのだが、実際はイマイチだった。
エビフライはくるんと丸まってちっこいし、タコさんは脚を8本忠実に作ったものだから、炒め中に細い脚から順に取れていった。
卵焼きは傷まないようによく火を通さなきゃと思い、焼きすぎてボソボソになった。
…おいしそうに見えないな。
料理なんて普段やってないから、段取りも悪く、時間はどんどん迫る。キッチンは激しく散らかり、揚げ物後の後片付けを母に頼んで行くことになってしまった。
お茶くらいコンビニで買えばいいのに、一生懸命で頭が回らなかったのだろう。家にある一番大きい水筒に麦茶をいっぱい用意した。
レジャー用の弁当箱に大きい水筒、おひたしと梨を入れたクーラーバック、そして水着にバスタオルに普段のバッグ。
…なんちゅう大荷物だよ。
両肩にかけ、両手に持ち、肝っ玉母ちゃんのような出で立ちで私は玄関を出た。
高田先生に家の前で待っていてもらうのは気が引けたので、家から200mほど離れた所で待っていてもらった。
「遅くなってごめんなさ~い!!」
約束の時間から20分近くもオーバーしていた。
「お前なぁ~遅刻だぞ。」
「お弁当に手間取っちゃって…ごめんなさい。」
肝っ玉母ちゃん風の私が遠くから歩いてくるので、高田先生はかなり面白かったらしい。
先生は笑いながら私から荷物を受け取ると、トランクに入れた。
「よし、出発だ!」
高田カーは勢いよく発進した。私はシートに座った途端、ドッと疲れが出た。
…はぁー。なんで私はこうなんだろ。お弁当はあまりキレイじゃないし、遅刻だし。
高田先生に会うときは、いつも空回りしている気がした。高田先生のことは大好きだけど、先生の助手席はいつまでたってもソワソワ落ち着かないことが多い。いや、大好きだから緊張したり気取ったりして、いちいち疲れる。
カーステからは、宇多田ヒカルのアルバム「Distance」が流れていた。
『近づきたいよ
君の理想に
大人しくなれない
can you keep a seclet? 』
私の大好きな『can you keep a seclet』だ。
…先生の理想って、どんな女性なんだろう?こんな、はちゃけた子どもみたいな私、女としてみてくれているのかな? 空回りばかりで、スマートに振る舞えない自分が嫌になった。『大人しくなれない』そうだね。もう少し、落ち着いた女性になりたい。 けど… 今の私は程遠い。
自分の思いと重なり、思わず熱唱した。私の気持ちが先生に届くように。
「ねぇ先生、今度カラオケ行こうよ。」
ドキドキしたけど、さりげなく誘った。
「俺、歌は苦手なんだよ…」
あっさり却下された。残念!
海水浴場までは、予定どおり2時間ほどで着いた。ここの湾はリアス式海岸で小さな入り江がいくつもある。なので、小さな海水浴場が点在している感じだ。
私たちは、更衣室とシャワーがあるだけの、さほど混んでいない小さな浜に決めた。
車を停めて外に出ると、潮の香りが漂っていた。
「うわー、海来たねぇ!!」
「天気もいいし、気持ちいいなぁー。 よし、荷物運ぶぞ。」
先生はトランクを空けると、お弁当やパラソル、ゴザなどを次々出した。
物品の運搬なら日頃の演劇サークルで慣れている。しかも足が大きい私に履けるミュールなど無く、歩きやすいサンダルを履いていたので、砂浜も苦労なく歩けた。
「重いの持ってぇ~」
とか甘えたらカワイイかもしれないが、キャラがそれを許さなかった。
さすがに重いものは先生が持ってくれたが、2人でガッツリ荷物を持ち、砂浜をザクザクすすんだ。
荷物を下ろし、ゴザ&パラソル設営を終えると、先生が言った。
「水着に着替えて来いよ。」
先生はすでに海パンにTシャツなので、上を脱ぐだけの格好だ。
「はい。行ってきます。」
更衣室に入る。
汗ばんだ体で水着を着るのは大変だった。どう整えても、はみ出し気味の肉と歩く度に揺れる太股はどうにもならない。
…今さらどうにもならない!行くぞ!!
意を決して更衣室を出た。パラソルの下の高田先生のもとへ向かう。
先生は、すでに上半身裸で、こちらに背中を向けて座っていた。
中学生の時、黒板に字を書く高田先生の背中を、何度見つめたことか。
その背中が、あらわになってそこにある。
「お待たせしました~。」
後ろから声をかけると、先生は振り返りながら立ち上がった。
アツい夏がキター!!!!!
上半身裸の高田先生を、直視できずに目をそらした。そして同時に、水着姿を見られていることも恥ずかしくて、私はゴザにストンと座ると肩からバスタオルをかけた。
…やばい。ドキドキしすぎて、先生と何をしたらいいのか分からない。
すると、先生が
「日焼け止め、塗ったか?」
と聞いてきた。
…あっ、日焼け止め持ってくるの忘れた!!
買って机の上に置いたまま忘れてきたことを今思い出した。
「おいおい、日焼け止め持ってこないって、お前っ…」
先生は呆れて笑った。結局、日焼け止めは先生に借りて、体に塗った。
「先生は塗ったの?」
「あと背中だけ。塗ってくれ。」
そう言って、私に背中を向けた。
…うそーっ、見るだけで精一杯なのに、素手で塗るんですかー!?キャーッ!!
「オッケー!」
動揺に気付かれないように、明るくサラッと返事をした。私は手のひらに日焼け止めクリームを取ると、思い切って、先生の背中にペタッと手のひらを当てた。
ぬりぬりぬり…
…うわぁ、先生の背中って広い…
少しザラザラして引き締まった先生の背中に、男を感じてドキドキした。
「はい、できたよ。」
バチン!!
「いってぇー!! コノヤロー、お前も背中出せ。」
「いいよ。自分で塗る!」
「塗れてないだろ(笑)。いいのかそのままで。」
「う…っ」
「ハハハ。早く背中出せ。」
私は大人しく先生に背中を向けた。
先生の手が、私の肩、首すじ、背中となでていく。ものすごくくすぐったい。キャミソールの肩紐をひょいと上げて、そこにも塗ってくれた。
何事もないかのように大人しくしているのが精一杯だった。 いつまでもぬりぬりしていて欲しかった。
「はい、完了!」
バチン!!
「いったぁ!!」
仕返しを忘れない高田先生も大好き。
日焼け止めを塗り合ったことで、緊張感がほぐれた。すると今度は、急に眠気がやってきた。
夜中に寝る前に最後に時計を見たのは1時。6時には起きてそれからバタバタ動いていたから、寝不足と疲れがやってきたのだ。
ふわぁ~
あくびがでた。
「お前、眠いのか!?」
笑いながら高田先生が聞いていた。
「うん。だって…」
私は事実を話した。
「そうか、朝早くがんばったんだもんな。少し寝てもいいぞ。」
…先生の隣で寝るなんて!? そっ、そんな!!
ためらったが、本当に眠かったのでこのまま海に入ったら溺れる自信があった。
私はゴロンと横になると、腰から下にバスタオルをかけた。やはり、太脚は隠したい。
… …
5分ほど経過。
先生は隣に座ったまま動かない。
… …
「眠れないよ」
私はガバッと起き上がった。めちゃくちゃ眠いのにこのシチュエーションで安眠できるほど、神経太くはないようだ。
「やっぱり泳ごう!」
「忙しいヤツやなぁ」
先生も立ち上がる。
2人でフロートに空気を入れ、2人で担いで海に入った。
「キャーッ!! 冷たい!」
「気持ちいいなぁ~!!」
私は子どものようにはしゃいだ。先生も楽しそうにしていた。
「先生、それ~!」
先生めがけて水をかけた。
「こいつ!やったな~」
「イヤーっ!!」
やり返してくる先生。
…あぁ、夢にまで見た恋人同士の海での水のかけ合いっこ!
ベタな展開にテンションは上がりっぱなしだった。そのうち、先生とつかみ合いになり、沈め合いに。もう、互いの素肌にふれ合うことにためらいはなくなっていた。
私はひどい近視で、コンタクトレンズが手放せない。当時は今ほど使い捨てレンズが流行っておらず経済的ではなかったので、私はハードレンズを使用していた。
着用したまま海に入って、流されたらウン万円がパーになり何も見えなくなる。
仕方ないので、大学の体育の授業で使っていた度入りのゴーグルをつけた。しかもレンズは濃いグレー。かわいいブルーのチェックの水着にはあまりにもミスマッチだったが、このハズし具合が高田先生のツボにはまったらしい。
「お前、なんだそれ!!」
「教員たるもの、いつ何時目の前で生徒が溺れるが分からない。そんな時いちいちコンタクトレンズ気にしてられないでしょ。外れたら足元すら見えないし。」
大学の授業では、こう習った。
「これつけてないと、先生溺れても助けられないでしょ。」
「そうだな。お前が溺れるなよ。」
「溺れたらどうしよう。」
「しゃーねーで助けてやるよ。」
『しゃーねーで』=
『仕方ないから』
高田先生の口癖だ。仕方ないとかいってるくせに、それが本心だと思うと、私はこの『しゃーねーで』が好きだった。素直に言えない高田先生も、かなりシャイな性格だ。
私たちは、フロートに捕まり沖まで泳ぐことにした。
高田先生持参のフロートは、2人が横に並んでビート板のように使えるような形と大きさだった。私達は両腕をのばしてつかまり、首から上だけをフロートに乗せ、体は海の中。パーマン×2人のような格好で進んでいた。
「足が付かなくなってきたね。」
「ああ。まだ少ししか進んでないのにな。」
私達は進のを止めて、波に乗ってプカプカ浮いていることにした。
私はゴーグルをつけた顔で海の中を覗いた。海底は私の足のはるか下にあり、小さな魚がたくさん泳いでいるのが見えた。
「魚!魚!魚がたくさんいるよー!」
私は童心にかえってはしゃいだ。海に来るのは小学生の時に家族で来た時以来だ。
先生はゴーグルをつけていないので海中が見れない。私は何度も潜っては見える物を先生に報告した。
何度か潜り、少し休憩したくなった。フロートの上に腕組みをし、その上に頭を乗せた時だった。高田先生が突然、
「溺れるなよ」
と言って、私の肩に腕を回してきた。私は先生に包み込まれるような格好だった。
花火大会の時とは違う。素肌と素肌が直接触れ合い、高田先生の肌のぬくもりが直に感じられる。
私は先生にされるままに体を預けた。顔を先生の方に向けると、先生の顔がすぐ近くにあった。
…こんな状況じゃ目を開けてられないよ~!!
私は目を閉じた。
そのまましばらく、私達は波に揺られていた。
程なくして突然高田先生が、
「うわぉう!!」
と叫んで私から離れた。
目が点になる私。
…いい感じだったのに、何!?
先生はフロートを離して1人立ち泳ぎしながら、驚いた顔をしていた。
「どうしたの?」
「はぁーっ、びっくりした… クラゲかと思ったらお前のヒラヒラだったよ。」
どうやら、海の中で体が近づいた時に、私の水着のスカート部分が先生の脇腹か腿かどこかを『さわっ』と触れたらしい。
「なんだそれー!!」
…クラゲと間違えるか!!
私は笑いが止まらない。
「お前なぁー 本気でビビったぞ。」
高田先生も大ウケしている。
「ビビったのは私もだよ。突然私を突き飛ばすみたいにするから、私何かしたかと思ったわ~。」
2人でケラケラ笑った。
私はこっちの雰囲気のほうがいい。しっとりしたムードはドキドキするけど、なかなか慣れない。
私たちは浜に上がり、お弁当をたべることにした。
海から上がり、バスタオルで体を拭いた。
「さぁ~、メシだメシだ!腹減ったー!!」
「うん、食べよう。」
私はお弁当箱の蓋を開けた。あまり上手くできなかったから、先生の反応が心配だった。
「おー、うまそうだな。いただきまーす。」
ウインナー、エビフライ、おにぎり… 先生はパクパク口に運んだ。
見栄えはイマイチでも、味はそれほど悪くないだろう。ウインナーは焼いただけだしフライは揚げただけだから。
… … …
先生は何も言わずに食べている。
…あんまりおいしくないのかな?「どう?」って聞けないや。
先生が卵焼きを口にした時だった。
「お前… これ… 自分で食ってみたか?」
「え? 食べたよ。」
「そうか…。」
…何!? 何なの?
そりゃ確かに少しパサついて舌触りは良くないけれど。絶句するほど不味いとは思えない。
「俺、初めて食う味だ。」
「へ?」
…至って普通の卵焼きですが。
実は、この地方の卵焼きは、砂糖やみりんを入れた甘い味が主流である。しかし、うちの父の出身地方では塩味の卵焼きだそうで、それに合わせて安藤家の卵焼きは塩味が定番だった。
うちが例外だったことをこの時は知らなくて、給食やお店で食べる卵焼きが甘いのは、単に子ども向けに作ってあるからだと思っていた。
甘い卵焼きしか食べたことのなかった38歳には、かなり衝撃的で口に合わなかったようで、高田先生は「ごめん。」と言って卵焼きを一切れしか食べなかった。
高田先生が食べられない理由がよく分からなかった私はかなりショックを受け、ヤケクソ気味に卵3個を使って作った残りの卵焼きを全部食べた。
そのかわり、残りのおかずとおにぎりを、全部高田先生に渡した。
「アンカナも食えって(笑)」
「卵焼きでお腹いっぱいになったから、いらない。」
大食いの高田先生は、苦笑いしながらもお弁当を全部食べた。
…きっと、おかずも大しておいしいと思ってないんだろうな。
アホだと思いながらも、卑屈になっていった。気分を変えようと、クーラーバッグから梨のタッパーを取り出した。
「うまい!梨うまいよ!」
高田先生はムシャムシャ食べた。
「梨ヒットやなぁ~!!」
フォローのつもりだろうけど、梨は切って剥いただけですから。
そんなこんなでお弁当が終わった。片づけようとしてクーラーバッグを開けた時に見つけた。
…あ、チンゲンサイのおひたし忘れてた。
しかし、『梨ヒット』で終わっている高田先生に、今さらおひたしを出す気にはなれず、そのままバッグの蓋を閉めた。しかも、おひたしの汁がバッグの底に漏れ出していたのもチラッと見えて、さらに気分はしぼんだ。
…はぁーっ、スーパー空回りだよ。
初めての手料理は、ほろ苦い思い出となった。
…次、先生に食べてもらう時は、絶対『うまい』と言わせるぞ!
心に誓った。
それから私達は、一休みしてから再び海で泳ぎ、午後2時頃には引き揚げることにした。まだ昼のうちから帰らないと、道が混んで遅くなってしまう。
シャワーと着替え、荷物の積み込みを終え、車に乗った。
「楽しかったね。疲れたと思うけれど、帰り道もよろしくね!」
「じぇ~んじぇん疲れておりません。まだ山登れるくらいの元気はあるぞー。」
全く疲れ知らずの先生をよそに、再び眠気がやってきた私は、シートにもたれてそのままウトウト眠った。
ふと目を覚ました時には、1時間半ほど経っていた。
「あ、こんなに寝ちゃってた…。今どのあたり?」
私は窓の外を見た。
「まだ○○。なかなか進まないなー。」
お盆の真っ最中、どこの道も混んでいるようで渋滞にはまっていた。
それから2時間くらいノロノロ走行が続き、まったーりとした時間が流れていた。
CDは再び宇多田ヒカルに戻っていた。その間、先生は仕事について話した。
私は、自分からは先生の仕事のことを聞くのは避けていた。大変なのはわかっているし、たとえ先生が仕事の悩みを吐露しても私はどうしたらよいか分からない。アドバイスなどできるわけもないし、苦労を知らない私に励まされた所で先生の心が軽くなるとも思えない。
相づちをうちながら、黙って聞くだけだ。
それでも、時々
「大変なんだね。」
と共感したくなる。すると先生は、
「他人事みたいに言うなー。」
と言う。
…他人事じゃないよ。大事な、大好きな高田先生のことだもん。
私は、高田先生の心の支えになりたいと、ずっと考えていた。
でも、今の私は子供すぎて、高田先生を支える存在など程遠い。先生も、私の支えなんて求めていない気がした。
「他人事じゃないよ。そりゃ、学生の私に教師の大変さを本当に理解なんてできないけれど…。」
「そうか…。」
沈黙。
…先生は、私に何か求めているの?こうして側にいていいのかな?
車がすいーっと走るようになった頃には、夕方になっていた。自宅まではまだまだあったので、夕飯も一緒に食べることにした。
「もう少し先に、うまいラーメン屋があるんだ。」
「やっぱりラーメン?(笑)」
「嫌かー?」
「嫌じゃないです(笑)是非ともラーメンを。」
やがて一軒のラーメン屋さんに入った。海で泳いだ疲れと、ほとんど卵焼きしか食べていないせいでお腹はぺこぺこだった。
高田先生はいつも大盛り。それをあっという間に平らげる。
「速いなー!」
「教師になればお前も早食いするようになるから。」
「そうそう。先生達ってみんな速いよね。なんで?」
「のんびり食ってたら生徒が逃げる。」
…?
「給食食い終わった奴が廊下出たりするだろ。それを食い止める。」
…そんな事もあるのか。
私はゆっくりラーメンをすすっていた。
食事を終えると辺りは暗くなっていた。
「ねえ先生、順調にいけばあと1時間くらいかな。」
「まっすぐ帰れば…な。」
この時先生が何を考えていたか、私は気付いていなかった。
再び車を走らせた所で、高田先生が、
「お前、これからまだ時間大丈夫か?」
と聞いた。
「うん。大丈夫だよ。親には遅くなるって言ってあるから。」
…まだ、どこか連れて行ってくれるの!?
期待でワクワクした。
「お前、□□山の展望台行ったことあるか?」
「ない。」
□□山は、私達K大生なら知らない者はいないほど有名な近場の夜景スポットだ。下宿生の友達や彼氏がいる子は夜な夜な行っているが、私はまだ行ったことがなかった。
「行くか!□□山。」
「やったー!!」
…一度は行ってみたかった!それが大好きな高田先生と一緒だなんて。
先生はカーナビの目的地を□□山の展望台にセットした。田舎の田んぼ道を突っ切り、気づけば山道に入っていた。
くねくねのカーブ、ガタガタの舗装、常識的なスピードで走っても遊園地のアトラクション並に面白かった。
やがて展望台に着いた。しかし、お盆ということもあり、カップルや若者の集団でごった返していた。
かろうじて人の間から見えた夜景は、息をのむほど美しかった。想像以上だった。
「うわー、きれい…。」
それ以外に言葉がでない。
ただ、人が多くて見えにくいし、ギャーギャー騒がしくて、ムードがいまいちなのが残念だった。
高田先生によると、展望台ではないがもうひとつ夜景がよく見える場所があるというので、私達は場所を変えることにした。
展望台から5分くらい車を走らせた所で、先生は車を停めた。
路肩をすこし広くしてあって、車が5台ほど停められるほどの場所だった。
…『知る人ぞ知る』って感じかな。相当行き慣れてるぞ。昔の彼女と来てたのかな?
なんて考えながら、車を降りた。
が、あたりは雑木林で夜景は見えない。
「先生~、見えないよ。」
そう言って先生を振り返った拍子に何気なく空を見上げた。
そこには、満点の星空が広がっていた。多少星座や星の名前を知っている私でも、どれがどの星か分からないほどだった。
「星が… すごい…」
高田先生は、言葉を無くしている私の隣に来て優しく肩を引き寄せた。
「こんな夜景もいいだろ?」
私は無言で頷いて、うっとりと夜空を眺めた。
すると、肩を抱く先生の腕に力が入り、私の視界が遮られた。
目の前に、高田先生の顔…
…キスだ!!
私は、目を閉じた。
先生の唇が、そっと私の唇に重ねられた。
生まれて初めてのキス。
高田先生を好きになって、6度目の夏だった。
私はそのまま、初めての感触に頭の中からとろけそうになった。
唇の優しさ。
触れ合う温かさ。
抱きしめられている腕の力強さ。
…ついこの間まで、手と手を繋ぐことさえドキドキしていた高田先生と、こんなふうに、キスしているなんて!!
先生好き!!大好き!!
愛してる!!!
…
満ち足りた時間が過ぎていった。
10秒なのか、1分なのか、3分くらいなのか、どれくらいの時間が経ったのか… 先生が唇を離した。
私は、何か言うことも、先生を見つめることも、離れることもできずに、そのまま先生の胸に顔を埋めるようにして抱きついた。
先生は私を抱きしめ、何度も何度も背中を優しく撫でてくれた。
そのまま、またどのくらいの時間が経ったのか… やがて先生は体を離し、
「車に戻ろうか。」 と言った。
私は黙って頷くと、高田カーに乗った。
走り出した車のなかで、不意打ちのファーストキスに頭がしびれていた私は、何も話せず無言だった。
今思い出そうとしても、この後先生とどんな会話ややりとりがあったのか、真っ白だ。次の記憶があるのは、帰宅した自分の部屋。どんな別れ方をしかのかも、全然覚えていない。
自室で我に返ってから、私は高田先生にメールを送った。
『今日は、楽しい1日になったよ。ありがとう。私のファーストキスでした。幸せです。』
先生からも、返信が来た。
『俺も楽しかった。オプションツアーも思い出に残りそうだな。』
まだ、先生の唇の感触が残っている。お風呂で顔を洗っても、その感触は消えない。
…私も、ついに…キスしちゃった。しかも相手は高田先生。本当に、高田先生とキス…
湯船につかりながら、ひたすらキスの余韻にひたっていた。片思いが長すぎたせいか、信じられない思いでいっぱいだった。
お風呂からあがると、再び高田先生からメールが届いていた。
『次、映画見に行こう。明日行けるか?』
…会いたくて一緒にいたい気持ちは、先生も同じなんだ。
幸せすぎる。
先生は、言葉では『好き』も『付き合って』も言わない。一緒にいて分かってきたが、先生は生徒の前では熱いが、恋愛ではその真面目な固い性格が邪魔をして、甘い言葉の一つも言えないようだった。
残念ながら翌日は家族と予定があったので、翌々日に映画を見に行くことにした。
『了解!ではあさって、映画見てからおいしいもの食べに行こう。』
今度はラーメンじゃないと思った。 黙っていたが、初めてのキスは…
塩ラーメンの味でした。
そして2日後。
この頃にはバイトでお金もあり、服のレパートリーも増えていた。
高田先生の好みも把握していた。先生は、派手な服や化粧は好きじゃない。フリフリやドット柄などの女の子すぎるのも好きじゃない。
今年のバーゲンで買ったばかりの、ノースリーブの赤いカットソーに、ブーツカットの黒パンツを合わせた。カットソーの両脇はレザーの紐で編み上げのデザインで、カッコカワイイ感じ。靴はやっと探して見つけた3Lサイズの、ラインストーンの細ストラップ使いのミュール。
ジーパンにスニーカーの、垢抜けない頃のアンカナではない。
茶髪は嫌いなので、私は髪をカラーリングしたことはなかった。宇多田ヒカルの影響かもしれなかったし、高田先生も茶髪は好きじゃないはずだ。
先生と映画館前で待ち合わせして、当たり前のように手をつなぐ。
今回も、戦争が舞台の映画だった。タイトルは忘れたけれど、今回は友情や人間の愚かさがテーマだった。(ちょっと難しかったけど)
映画館を出た頃には日が暮れていた。
「今日は何食べに行くの?」
「◎◎公園のレストラン行かないか。」
「◎◎公園って、あの河川敷にできた、新しい所だよね?レストランもあるんだ!」
「俺も行ったこと無いんだ。行ってみようぜ。」
「うん!!」
高田カーは、◎◎公園にある光るタワーを目指して進んだ。
一生忘れられない夜の始まりだ。
着いた先の公園は、公園というよりレジャー施設に近い。敷地が広く、アスレチックやバーベキュー場もある。夜でも家族連れやカップルなど大勢の人で賑わっていた。
私達は、レストランに入った。水族館も併設されていて、お魚を見ながら食事ができる雰囲気抜群のレストランだった。
カウンターに並んで座り、正面の魚たちを指差して会話を弾ませながら、楽しく食事をした。
…高田先生と一緒にいると、本当に楽しい。
2日前のキスを、私は何度も思い出していた。今日も、先生とキスできることを願っていた。
レストランを出た後、先生と公園の敷地内を散歩した。所々に街灯があるだけの薄暗い遊歩道を、手を繋いでいっぱい歩いた。
「ちょっと疲れてきただろ、ベンチあるぞ。」
「うん、少し休もう。」
ヒールの高めなミュールでの散歩は、確かにちょっと疲れていた。
2人で並んでベンチに腰掛けた。座るや否や体を向け合うと、私達はきつく抱き合った。そのまま、唇を重ねた。
長い長いキス…
初めは優しく、徐々に激しく。
もう、言葉はいらなかった。私達はお互いの気持ちを確かめ合うように、むさぼるようなキスをした。
私の頭の中では、
「高田先生愛してる!!」
が爆発していた。
どのくらい経ったか…
先生は顔を離すと、体勢を直して再び私の体を抱き締めた。
「なぁ、星を見に行かないか?」
先生が耳元で囁く。
「でも、今日は曇っているよ。星見えないよ。」
「見える所があるんだよ。」
「屋外じゃない。」
「あ、分かった。プラネタリウム?」
「いや、違う。」
…?
「カラオケもあるぞ。」
…!!!!!
「えっ、もしかして…」
「嫌か?」
びっくりして体を離すと、先生はニコニコして私を見つめた。
一昨日初キスを経験したばかりで、心の準備ができていなくて、かなりビックリしてるけど…嫌じゃなかった。
私は先生の首に腕を巻き付けるようにして抱きつくと、無言で首を振るのがやっとだった。
…嫌じゃありません。
「行く?」
「うん。」
私達は立ち上がると、車に向かって歩き出した。
…ついに、ついに、私も経験するんだ。
不安と、嬉しさと、
緊張と、愛しさと…
様々な気持ちは言葉では表せず、その代わりに繋いでいる手に力を入れて、ギュッと握った。
車に乗ると、先生はすぐに高田カーを発進させた。
「まさか、お前とこういう関係になるとはな(笑)」
「本当だね。私も自分のことながらビックリするよ!」
車は、来た道とは反対方向に進んでいた。来たことのない知らない場所を走っている。
私が中学生の時、橋本先生という男性の先生がいた。歳は、高田先生より10歳ほど上だと思う。
「お前、橋本先生の奥さん知っているか?」
「顔も名前も知らないけれど、噂で聞いたことあるよ。元教え子の方なんだってね。」
「そうだよ。あの堅物の橋本先生がだよ。奥さん15歳下なんだぞ。」
「うちら18歳… 私誕生日まだだから、今は19歳差だよね。橋本先生以上だよね!」
「そうだな。ハハハ!!」
…でも、妻と彼女は違うじゃないか。
「俺の妹の旦那は、俺と同い年なんだ。」
「普通だよね。」
「でもな、俺は義理の兄にあたるだろ?歳は同じでも、俺のこと『お兄さん』って呼んでくれる。」
…ふむふむ。
「もし、俺が結婚したら、俺の奥さんのことを『お姉さん』って言うんだろう。例え、どんなに歳下でもな。」
…先生、まさか… 私とのこと、そこまで考えてくれているの?
高田先生は遊びで女の子と遊ぶ歳ではない。きっと、結婚のことを、真剣に考えているはずだ。このタイミングで話すのも、軽い気持ちで私と関係を持とうとしてるのではないと伝えたいからだろう。
私はそう捉えた。
…先生は、私との結婚まで考えている?
ついこの前まで、私のことを好きかどうかさえ疑問だったので、めちゃくちゃ嬉しい反面、思考が追い付いていかなかなった。
車は夜の街を疾走していった。
やがて、窓の外は煌びやかなネオン街に変わっていた。
先生は、目立つ大きなホテルではなく、こぢんまりとしたホテルの駐車場に迷うことなく入った。まるで、前からここに決めていたような感じだった。
…ここが、ラブホテル…
もう、会話を交わす余裕はなくなっていた。
私は車を降りた。先生は私の手をとると、ホテルのドアを開けた。そこは駐車場と部屋が直結している造りのホテルで、ドアの向こうはすぐにその世界が広がっていた。
…やだ。恥ずかしい。こんな大きなベッドに、スリガラスの奥はシャワー? 私、本当にここで、高田先生とセックスするの…!?
緊張と怖さで、うつむいた。
「怖い?」
先生は優しく抱きしめながら聞いた。
私は黙って頷いた。
「大丈夫だよ。少し座ろうか。」
2人でソファーに腰を下ろした。そのままキス。先ほどのベンチのように、体をひねり、向かい合う形で抱き合った。
優しく、長いキス。
「大丈夫?」
「うん。」
すると今度は、先生の手が服の裾から中に入ってきた。ブラをめくり、優しく私の左胸をさするその手は熱い。
くすぐったいのと、なんとも言えない初めての感覚に、私は身をよじった。
「んっ…」
喉の奥から、息とも声ともとれない音が洩れる。
…恥ずかしい!でも、嫌じゃない!!
私はうっすら目を開けて天井を見上げた。 そこにはブラックライトで光る星空が描かれてていた。
どれほど時間が経ったか、分からない。
「シャワー浴びてくる?」
「うん。」
「先に浴びて来いよ。」
私は立ち上がると、バスルームへ向かった。
…あれ? あれれ?
脱衣場って無いの?
焦った。正確には、部屋から脱衣場が丸見え。壁も目隠しも無い。そりゃこれから裸でいちゃいちゃする者が、いちいちコッソリ服を脱ぐ必要は無いわけで。
「ここで… 脱ぐの?」
…先生から丸見えじゃないか!?
「恥ずかしいか?」
「うん、ムリだよ~」
「見てないから、そこで脱げって(笑)」
結局、恥ずかしさに勝てなかった私は、バスルームの中で服を脱いだ。
先生のいる向こうの部屋とはスリガラス一枚。
…バスルームを明るくしたら見え見えじゃないか!?
私は何とかバスルームを暗くしたくて、いろいろ照明スイッチを押した。
「何やってるんだよ~」
笑っている高田先生。
結局、一番薄暗い、必要以上にムーディな照明を選んでしまった。
…ラブホって、すごい(汗)
私は頭からシャワーを浴びて、全身ゴシゴシ洗った。もちろん、肝心な所は念入りに。
バスルームにバスタオルを持ち込んでおいたおかげで、裸体で登場は免れた。
私は体にバスタオルを巻き付け、部屋に出た。
「お先です。」
「よし、俺も入る。」
先生はシャツを脱ぎ、ベルトに手をかけた。ズボンを下ろす所から、恥ずかしくて直視できなかった。
私は布団にもぐると目を瞑った。
…こんなんで、私は本当に高田先生とHできるの!?
先生が1秒でも長くシャワーを浴びてくれることを願った。
『ガチャ』
バスルームの扉が開く音がした。バスタオルのパタパタという音も聞こえた。
…あぁ すぐそこに全裸の高田先生が居るんだ。
ふとんの中で、ハーハーと息が荒くなった。興奮してるんじゃなくて、緊張で。
先生がこちらに近づき、ふとんを少しめくった。私は観念して頭だけふとんから出した。もちろん、視界に入ってくる物を慎重に選びながら。
「バスタオル取ったのか?」
コクンと頷いた。
「じゃあ、俺も。」
先生は腰に巻いていたバスタオルを取ると、ふとんの中に入ってきた。すぐ目を開けていられなくなった為、先生の上半身しか見ていない。
私はこの歳まで、エロ本、エロビデオの類を見たことが無かった。男性の下半身は、写真ですら見たことがない。子供の頃一緒にお風呂に入った時に、父親のを見たことがあるだけ。
それしか知らない。
だから、高田先生の下半身を想像しようにも脳裏に浮かぶのは父の姿なわけで…
気持ち悪くて考えられない。
緊張で固くなっている私の体を、先生がそっと抱きしめてくれた。
初めて肌で感じる、男性の体…
温かくて、固くて、脚のあたりはザラザラする。
…これが、大好きな高田先生の体!!!
私は目を瞑ったまま高田先生の胸に顔をうずめ、これから起こる全てを先生に委ねる覚悟をした。
緊張で強ばらせる私に対して、先生はどこまでも優しかった。
「大丈夫?」
「怖くない?」
「ここはどう?」
…
中学生の時、授業でずっと聞いていた声と同じ声で、先生は今は信じられないような言葉を発してくる。
高田先生の中に教師ではない大人の男を感じて、私は体が火照っていくのが分かった。
恥ずかしさから徐々に解放され、自分の中の女があらわになっていく。
…先生愛してるーーー!!!
爆発するように溢れ出す感情。何か言ったかも知れないし、何も言えなかったかもしれない。言葉になっていなかったかもしれない。
『初めてのセックスってねぇ、すっごく痛いんだって』
『膜が破れてね、血がいっぱい出るんだって』
…それが高田先生なら、私は耐えられるわ!!
私は恐怖心を抑えた。
「入れるよ…」
「うん。」
先生のが入ってくる…
でも無理!!
「あっ、待って!痛いっ!!」
…本当に痛い!! なんだこれ!!
「痛いか!?ごめん。」
痛がる私に、もっと優しくなる先生。
再び焦らず、丁寧に、優しく優しく刺激される。
「先生、大丈夫。もう一度。」
「よし、いくよ…」
ゆっくり、ゆっくり圧迫感が迫ってくる。
…今度は、さっきよりいくぶんマシ…だけどやっぱり痛ーい! ってか耐える!
「全部入ったよ。動いていい?」
私は頷いた。
気持ちいいとはほど遠いけれど、大好きな高田先生と繋がっていると思うと、幸せだった。
私は、終始目を瞑っていた。先生は途中、笑いながら「見る?」と聞いた。
…むり~!
私は首をブンブン振った。
ここまできたにもかかわらず、まだ勇気が出ない。見られるのも恥ずかしいから、照明は暗めにしてある。
目を閉じている分、肌のぬくもりや息づかい、声、手… 高田先生の全てを敏感に感じ取れた。
…なんて幸せなんだろう。
ふと、先生の動きが止まった。腕を立てて私に覆い被さるような姿勢のまま。
…先生?
うっすら目を開けると、目の前に先生の顔があった。青くて暗めの照明の中で、先生は、寂しそうな悲しそうな、何ともいえない表情をして私を見つめていた。
…先生!?どうしたの?
切なくて、胸が締め付けられそうになった。
あの一瞬の表情を、今でも鮮明に覚えている。いつも笑うか、熱く語るか、真剣に指導するイメージからはほど遠い弱々しい表情だった。
あの時の先生の気持ちを想像する余裕は、あの時は無かった。
私は再び目を閉じた。高田先生の動きは激しくなり、私は痛みを我慢するあまり険しい表情になった。
ウワサに聞くようないやらしい声を出す余裕は全くなく、心の中で
『早く終わってぇえぇ~っ』
と叫んだ。今だから分かるけれど、決してこの時の先生が長かった訳じゃない。どちらかというと、早く終わらせてくれていた。
やがて先生は私から離れ、ゴロンと横になった。
「よかったよ。すごく***た。」
恥ずかしさをごまかす為、私はクスクス笑って体を先生の方に向けた。先生も私のほうに向き直った。
「キレイだよ。」
そう言って、首筋から背中、ウエストとゆっくり指を這わせていく。
ウエストからお腹、そして乳首。指先でこちょこちょされた時、体がのけぞった。
「んっ…」
「感じるの?」
私は頷いた。自分は乳首が弱いことを、この時高田先生に教えられた。
しばらくしてから、私達はホテルを後にした。
車の中でも、余韻で頭がぼーっとしていた。鈍く残る痛みが、何度も何度もあの時の感覚を呼び覚ました。
キスをした時と同じように、この日の帰りの車のこともよく覚えていない。やはり、記憶があるのは自分の部屋で休んでいるところから。
お風呂から上がり、ベッドに入ってからも、疲れているのに目が冴えて眠れなかった。
時刻は0時を過ぎていた。
…先生、今ごろ何してるかな?先生も寝たかな?
時間が遅いから、メールは送らなかった。私は全身に残る先生の感覚をひとつひとつ思い出しながら、とても幸せな気分で目を閉じた。
先生のお盆休みは今日までで、明日から通常勤務に戻るそうだ。夏休みに先生がどんな仕事をしているか想像できなかったが、会議や出張、部活動の指導なんかで忙しいらしい。
…明日から、なかなか会えなくなるんだろうな。でも、お仕事がんばって!
仕事が大変でも、精神的に支えられる存在になりたいと願った。
夏休みも残りわずかとなった8月の下旬、高田先生からのメールで、勤務する中学校に卒業生が夜中に不法進入するという事件があったと知った。
そこで翌日から、男性の先生たちで夜間の張り込みをすることになったそうだ。
高田先生は体育館の担当になった。夜の真っ暗な体育館でたった1人、現れるかどうか分からない犯人を待つのだという。
夕方ごろ、メールが届いた。
『いったん自宅に帰ってきてた。これからまた学校にむかうよ。ヤレヤレだ。』
『ほんとにヤレヤレだね。お疲れさま。気を付けてね。』
…本当は一緒にそばについていてあげたい。
そんな気持ちをストレートに文で伝えることも、照れくさくてできない。
8時ごろ、再びメール。
『配備完了!真っ暗だぜ。』
『メールはしていて大丈夫なの?』
『ああ。バレなきゃ大丈夫だろ。』
緊急事態に備えて、全員片手に携帯電話を握りしめておく指示が出ているそうだ。
たった1人で真っ暗な体育館に身を潜める先生の姿を想像すると、切なかった。
10時ごろ、再びメール。
『疲れた、眠い、腹へった。』
…ああ!おにぎりのひとつでも持って、駆け寄ってヨシヨシしたい!!
『大変だね。まだまだかかるの?』
『まだ上からの退去命令は出てない。』
もちろん、残業手当てなど付かない。お金が全てではないけれど、大変な仕事だ。 でも、この状況で私にメールで弱音をこぼしてくれるのが嬉しかった。
今までは、『先生好き好き!』で一直線だったのが、こういう関係になってからは自然と『先生の心の支えになりたい。』に変わっていった。
…辛いことや苦しいことがあった時、どうか、私を求めてくれますように…。
夏休み最後の日曜日、私のリクエストで水族館に連れて行ってもらうことにした。
二学期が始まると、土日も部活動でゆっくり時間がとれなくなる。貴重な一日をムダにしないように、午前中から出掛けた。
魚たちを見てからレストランでランチ、港へ続く遊歩道を散歩した。
…こんなふうにゆっくりデートできるのも、しばらくお預けかぁ~
そんなことを思いながら、ペンギンコーナーへやってきた。
たくさんのペンギンが、岩の上で休んだり、水に飛び込んだり、スイスイ泳いだり、とても楽しそうにしていた。
そんな様子を、2人で並んで椅子に座り、ぼんやり見ていた。
…先生、退屈なのかな?
先生がほとんど喋らないのが気になって、ペンギンを楽しめない。
…さっきから、キレイな魚たちを見てキャアキャア歓声を上げていたの、子供っぽいと思われたのかな。
気になり出したら不安になってきた。
「先生、そろそろ行こう。」
「もう行くのか。見ていて飽きなかったのにな。」
…え、そうだったの!?
「それならもう少し見ていようよ。」
慌ててそう言った時には、すでに先生は立ち上がって歩き出そうとしていた。
…なんか、怒らせた?
慌てて先生の後を追いかけた。
そのままの流れで、私達は水族館を出た。先生が怒ったかもしれないのは思い過ごしのようで、あれからも普通だった。
水族館の駐車場を出たのは4時頃だった。まっすぐ帰れば、1時間半くらいでうちに着く。
私は、先日の先生と過ごした、ドキドキの夜を思い出していた。
…今夜も、素敵な夜になるといいな。この後、どこか連れて行ってくれるのかな?
期待は口には出せず、当たり障りない会話を続けていた。
しばらく行ったところで、先生が、
「少し早いけれど、メシにするか?」
「うん。」
時刻は5時過ぎ。お腹はすいていなかったけれど、先生の頭の中にあるこの後のプランを重視すべきと判断した。
…何を食べるのかな?
とワクワクしていたら、
「ヤマ吉でいいか?」
と聞いてきた。ヤマ吉とは、このあたりにしかないカレーライスのチェーン店。
「うん。いいよー」
とは言ったものの、ロマンチックさゼロの選択に、少々ガッカリした。かと言ってお腹すいていないから、どこか行きたい所も思いつかない。
…まぁ、カレーライスなら食べられるか。
と納得させて、2人でヤマ吉に入った。
ついさっき昼ご飯を食べた気がする中で、お皿いっぱいのカレーライスはかなりヘビーだった。にもかかわらず、先生は大盛りをペロリ。
「先生… もう… 食べられない。」
お皿に残ったご飯をスプーンでつつきながらつぶやいた。
「こら、残すな。お前、教師になったら生徒が給食ホイホイ残すの注意するんだろ。」
けっこう強い口調で叱られた。どうやら、やはりご機嫌斜め…なのかもしれなかった。
半泣きになりながら、カレーライスを完食した。
ヤマ吉を出て、再び車に乗った。
…この後は、先生何か考えているのかな?
期待とは反して、車は真っ直ぐ自宅のある方向へ向かって行く。
…先生、今日はキスもしてないよ。
だんだん不安になってきた。そして、もっと一緒にいたいと言えない自分にイライラしてきた。気づけば車内は無言である。
すると先生が、
「俺、あのカレーライスは夕食じゃない。」
と言い出した。
「えっ、まさか、まだ食べるの?」
「ああ。家帰ったら夕飯食うぞー(笑)」
「どんなお腹してるの!? と言うより、そんなに食べて、どうしてそんなにスリムなの? うらやましい~!!」
ちょっと会話は盛り上がったが、先生の夕飯発言はこの後帰宅することを意味していることに気づき、心の中でため息をついた。
「お前、人のこと羨ましいと思ってないで、努力しろよ。その太い脚を何とかしろ~」
「ひっどーい!!」
私は窓の外を見る振りをして、下唇を噛み締めた。喉の奥が震え、こぼれる涙に気付かれないようにするのが精一杯だった。
そのまま自宅へ到着。
「先生、今日もありがとう。新学期からもお仕事頑張ってね!」
「おう!」
先生の車を見送ると、ドッと疲れが出てきた。
…「その太い脚を何とかしろ」
先生はどこまで冗談で行ってるのか分からない。一番気にしている太い脚を指摘され、キスもないまま帰された。
…今日は何だったの?
その太い脚を何とかしろ
その太い脚を何とかしろ
その太い脚を何とかしろ
…
やがて、新学期が始まった。忙しいから時間のゆとりはないだろうと思い、電話は控え、メールを送った。
『今日もお仕事お疲れ様。まだまだ暑いから体調気を付けてね!』
返信はない。
『今日は大学でね、物理の講義に苦戦したよ~ もうすぐテストだから頑張るよー!!』
返信はない。
…忙しいんだよね。
煩わしいと思われたくないから、返信しなくてもいいような当たり障りない内容のメールしか送れなかった。
それでも一週間、そんな状態が続くと、さすがに寂しく辛くなった。土曜日の晩に電話をかけた。
プルルルル プルルルル…
なかなか出ない。
プルルルル ガチャ
「はい、高田です。」
「あ!先生、こんば…」
「只今電話に出ることができません。ご用件を…」
私はそのまま電話を切った。
待てども待てども、先生から折り返し電話がかかってくることはなかった。
…お風呂とか夕飯で、着信に気付いていないのかな?
胸が張り裂けそうに痛かった。
その日、夕飯を終えて、私は自分の部屋で雑誌を見たりしてくつろいでいた。
すると、一階のリビングから、
「おーい、カナ!!ちょっと降りて来い!!大変なことが起きたぞー!!」
という父の叫び声が聞こえた。
「なにー?」
階段を下りてリビングに入るや否や、信じられない光景がテレビに映し出されていた。
…ビルに飛行機が突っ込んだ!?
9.11 アメリカ同時多発テロである。
「何…これ… 事故なの?」
「分からない。いきなり速報が流れて画面が変わったんだ。」
父と2人でテレビに食いついていたら、飛行機がもう一機、ビルに突っ込んだ。
「うわーっ!!」
父と2人で叫んだ。
「えっ、えっ…!? これ、事故じゃない?なんで!?」
「何だこれ… 何で立て続けに?」
父と2人で呆然と画面を見つめていた。テレビでは、リポーターかアナウンサーかが、見たままの光景を言葉にしているだけで、詳しいことは何ひとつ伝わってこない。
お風呂から上がってきた母も、呆然としていた。
しばらく後、私は部屋に戻り、高田先生にメールを送った。
『何これ。信じられない。まるで映画でも観ているみたい…』
あえて主語を入れなかったり、『映画』という言葉を使ったり、気を引きたい度バリバリな文章である。
数分後、高田先生から返信がきた。
『ああ。信じられない。何が起こったんだ?』
まるで、今までの2週間近くの空白など無かったような感じだった。
不謹慎ながらこの時、先生からメールが来たことがめちゃくちゃ嬉しかった。
高田先生とのメールのやりとりはその日だけで、翌日も調子に乗ってメールを送ったが、やはり返信は来なかった。
大学では、相変わらず仲良しのみーちゃん、さっちゃん、岩田ちゃんに高田先生とのいろいろを相談していた。夏休み中もメールで経過報告はしていた。
「高田先生、なんでメールくれないんだろうね?カナちゃんつらいよね。」
「ちょっと、高田先生何なの?手出すだけ出してあとは無視ってひどいやん!!」
「高田先生忙しいんだろうけど、メールの返信もできないほどってワケは無いよなぁ。」
忙しい先生からメールが来ないのを寂しく思うのは、どうやら私のワガママではないようだ。誰が見ても不思議な状況だと分かり、少し安心した。
週末、私は再び高田先生に電話をかけた。
…うっとうしいと思われるかな?でも、やはり声が聞きたいよ。疲れきっていないか、心配だよ~
私は勇気を出して、通話ボタンを押した。
プルルルル プルルルル…
ガチャ
「もしもし」
…やった!出てくれた。
「先生、こんばんは。元気?」
「 ああ。なんとかな。ハハハ!」
思ったより普通だ。 私達はいつものように、他愛もない話をした。
そして、気になっていたことを聞いた。
「ねぇ先生、私からメール送ったり電話かけたりするの… あまり良くない?」
「そんなことないぞ。」
「だって… いつもメールの返信こないからさ。」
「お前なぁ… 俺が忙しい最中にメールくれても返せないって。それにお前が話したいことって、どうでもいい内容だろ?」
「うん、そうだけどさ…」
ちょっとふてくされた感じで言った。
「『そうだけどさ…』、何だ?」
意地悪っぽく口調を真似してくる。
…あぁ、先生ってこういう感覚なんだ。『どうでもいい内容』か。会えないからメールしたいとか声を聞きたいとか思わないんだ。
「もぅ、いいもん!」
「ハハハ!変なヤツ~」
…また出たよ、『変なヤツ』。
いつも、へこんだ時はおちゃらけてしまう自分が嫌だ。
でも、高田先生が私を嫌いになったとか、メールや電話をうっとうしく感じているわけではないと分かり、少し安心した。
…うちら学生では彼氏彼女とメールのやり取りは普通だけれど、大人の男の人って、きっとこういう感覚無いんだろうな。世代が違うもん。仕方無いよね。
自分に言い聞かせた。
たしかつい4~5年前までは携帯電話でのメールなんて全てカタカナだった。それが日本語入力が可能になり、最近ではなんと画面がカラーになった。2つ折れタイプが主流になりつつ、2年ほど前から着信音が単音から4和音になって驚き、今は16和音に驚愕!階名を入力して何時間もかけて着信音を作曲した。本体からはアンテナが生えていた。
今の30代後半の人とは感覚が違いますから。
それでもやはり連絡が無いのは寂しいので、一週間のうちメールは二回、電話は週末に、と自分で制限した。
それでもメールに返信があるのはごくたまに。電話がつながるのはまれだった。たいていは留守電になるか、ひどいと呼び出し音の途中で『ブツッ』と切れた。
寂しかったが、そう思う自分がワガママだと思っていた。
…先生は忙しいんだから。
…重荷になっちゃいけないから。
…うっとうしいと思われないように!
この頃の私は、誰がどう高田先生を非難しようと、
「自分の我慢が足りない」、「ワガママなのは自分」と思い込み、誰の言葉も聞こえていなかった。
細々と繋がった状態で、私の誕生日が近づいた。そんなある日、高田先生からメールが来た。
『お前の誕生日、お祝いにご馳走するよ。予定明けておけよ。』
めちゃくちゃ嬉しかった。
…ほらやっぱり!先生はちゃんと私の誕生日を覚えてくれていたし、お祝いもしてくれる!!
2ヶ月近く連絡の乏しい日々が続き、自信を失いかけていた私は、この誕生日の約束で不安はリセットされた。
普段は、メールを我慢して、電話も我慢して、返信やかけ直しは期待はせず、ひたすら先生の邪魔にならないことだけを考えていた。約束ができると、一気に喜びが爆発して、舞い上がった。私のハイ&ローの激しさに、周りは困惑していった。
一応、友達は、
「カナちゃん、良かったね。」
と言ってくれるが、冷静に見ているからこそ、
「普段ほっといて誕生日だけ誘うなんて、アンカナの気持ちを弄んでいるとしか思えん。」
とも言ってくれた。
私は、
「違うよ!高田先生は忙しいの。それなのに、誕生日の予定入れてくれたんだよ。しかも平日だよ!!めっちゃ感謝だよ~!!何が弄んでいるの?」
と言い返した。
どんどん周りが見えなくなっていった。
そして、誕生日を迎えた。
そして誕生日。
その日は、先生は仕事を早めに切り上げてくるそうで、6時半に大学まで迎えに来てくれた。
到着した高田カーの助手席に乗ると、会えなかった2ヶ月間の積もった感情が溢れてきた。
「先生、今日はありがとう!お仕事大丈夫だったの?」
「ああ。大丈夫だよ。今日はもう学校にはもどなくていい。」
夜まで一緒にいられると分かり、期待が募った。8月のあの夜のことを私は何度も思い出し、会えない寂しさを埋めてきた。
…今夜もどうか、幸せな時間を共有して下さい。
車は、おしゃれなイタリアンのお店に着いた。
「俺、ココしか知らないけれど…」
照れくさそうに言った。
「おしゃれなお店だね。私、イタリアン大好き!」
私達は並んでお店に入った。
お互いにパスタを注文し、先に出てきたセットのサラダをつついた。
「私、今日から二十歳だし、ワインとか飲んでみたい。」
ちょっと甘えてみたら、
「ダメだ。」
と叱られた。
…残念。怒られたよ。
私達は、おいしいパスタを頂きながら、これまでの空白など感じないような自然さで会話が続いた。
お店を出て、車に乗った。普段は履かないスカートに、買ったばかりの七分袖のカーディガン、全体的に秋らしいベージュ&ボルドーで合わせて少し大人っぽい雰囲気を心がけた。
…この後、どこか連れて行ってくれるかな?
時刻は7時半。
高田カーは夜の街に走り出した。
赤信号で停まっている時、先生は体をねじるように後部座席に手を伸ばし、
「はい。」
と言って小さな包みを手渡してきた。
…誕生日のプレゼント!?
「ありがとう!ねぇ、開けていい?」
「俺こういうの慣れてないんだ。選ぶの苦労したよ。気に入るかどうかボソボソ…」
照れくさそうに、視線を窓の外に向けていた。多分、プレゼントを渡すシチュエーションも悩んで、振り向いてすぐ手の届く所に置いておいたのだろう。
普段、生徒の前では、熱くて堅くて真面目な面しか見せない先生だから、本当に照れくさいんだと思った。
…ふふっ、イイ歳した大人なのに、もぅ…
私はにやけた。
プレゼントは手のひらに乗るくらいの、四角い箱だった。青い包装紙で包んであり、リボンがかけてあった。振ると、カタカタと音がした。
私はリボンをほどき、包装紙をゆっくりはがした。
「わあ…!!」
生まれて初めての男性からの誕生日プレゼントは、某有名ブランドの香水だった。
…なんて大人っぽいんだろう。
「きれいだね。嬉しい。先生、ありがとう。」
私は、香水のビンを外の明かりにかざして、キラキラ光る様子をうっとり眺めた。
私は香水は持っていない。映画と同じく、強い香りも刺激となって頭痛を引き起こすからだ。過去二回の先生との映画でも、その後の楽しさで紛れているものの、頭痛を感じていた。
…どうか、頭痛を起こさない、スッキリ系の香りでありますように。
と、いただいたばかりのプレゼントに心の中で注文をつけていた。
高田カーは夜の街を走り抜け、そのまま通り過ぎていく。
…あれ?
夜のエンターテイメントを期待していたが、車はすでに田んぼの中を走っている。
ザ・田舎道の先に見えるのは、自宅かラブホテルかのどちらかだ。うちの周りは、田園地帯に住宅が点在し、その一角にまばゆい光を放つラブホ街がある。田舎なので、ラブホ街といっても4、5件しかホテルは無いのだが。
もう少しソフトに表現したいところだが、自宅かラブホか、希望するならどちらかはハッキリしていた。
誕生日。
この後の予定は無し。
ブランドの香水。
約2ヶ月ぶりのデート。
究極の選択肢が並ぶ前で、高田先生の中では決まっていたようだ。
夕食を終えてそのままラブホへ直行!! っていうのは何だかイヤだけれど、そのまま自宅も寂しい。
…夜景が見たいとか、お茶を飲みながら食後のデザートとか、何かお願いしようかな。
いつも言えない自分に苛立つ。
そうこうしているうちに、高田カーはまっすぐ自宅へ向かった。 時刻はまだ8時前だった。
…だよね。なんかそんな予感してた。
キスもしていない。
手も繋いでいない。
会いたくて会いたくて2ヶ月間我慢してきて、もっと一緒にいたい、くっついていたいと願う気持ちは、またも肩透かしを食らった。
もっとストレートに言うと、キスして抱いて欲しかった。
やがて自宅前に到着した。
「それじゃあな。」
「うん、先生、今日もありがとう。」
もっと何か言いたいけれど、先生にその気がないのだ。求めれば、自分が惨めになる。
車を降りようとドアを開けた時…
私の気持ちは歯止めがきかなかった。
私は運転席を振り返って高田先生に抱きつくと、先生の視界を遮るように、半ば強引にキスをした。
まるっきり、受け身の先生。アクションは返ってこない。
…こんなの…私バカみたい。
私は自分からそっと離れた。
「何だよ。今日はずいぶん積極的だな。」
照れるでも、ノってくる感じでもない。あきれたような、乾いた言い方だった。
私は逃げるように車を降りた。そのまま、振り返ることなく玄関に向かった。
玄関まで20メートルくらいある。そこまでに、背後で高田カーが走り去る音が聞こえた。
玄関に入ろうとしたら、先月うちに来た子犬のモンちゃんが走り寄って来た。
「モンちゃんただいま。」
モンちゃんはタイツを履いた私の脚に飛びついてきた。私はしゃがんで、モンちゃんを抱きしめた。
…あぁ。タイツ台無しだ。もう履けないや。
にじむ涙は、もちろんびりびりタイツのせいではない。モンちゃんは私の腕のなかでもがいていた。
部屋でぼんやり考えていた。
…先生は私のこと、女として好きじゃないのかな?
普段の連絡の少なさ、今日の物足りなさ。
大人の人って、付き合うとキスやセックスを普通にするものだと思っていたけど、違うのかもしれない。
もちろん、キスやセックスだけが愛情表現ではないけれど、少なくとも私が先生に想うような、精神的に求めている様子は無い。
私は香水のビンを見つめた。
…どういう意味なんだろう。
本当にもう好きではないなら、高そうなブランド物の香水なんて贈らないし、誕生日を祝う為に仕事を早めに切り上げてくることもないだろう。
「ハァ…」
考えても考えても分からない。ため息ばかり。私はケータイを取り出した。
『先生は、私のことどう思っているの?私は先生のこと好きだけれど、先生はそうではないのかな?』
送信ボタンは押せず、メール作成画面で止まったまま。
もし、『好きじゃない』って言われたらと考えると送信できなかった。
…今はまだ、私を彼女扱いしてくれている。自分から幕をおろすことはないじゃないか…
私はその文章を消去した。
それからも、相変わらずメールの返事はなく、電話も出てくれない日々が続いた。
…先生は忙しいし、メールや電話が好きじゃないだけ。誕生日もお祝いしてくれたんだから、私のことはちゃんと彼女にしてくれているの!
初めは自分に言い聞かせていたつもりが、催眠というか、そう思い込むようになっていた。
演劇サークルの仲間でよく行く居酒屋で、カウンターの隣に座っていた見ず知らずのオジサンに、
「そんないい加減な男、やめとけ!一度きりの遊びに決まっとる。」
と言われ、
「ちがいます~先生はそんなんじゃないでずぅ~」
と、梅酒ロックを飲みながら大泣きした。
またある時は、わらをもすがる思いで、ショッピングモールにいた怪しげな占い師の爺さんに占ってもらったりもした。言われた内容は居酒屋のオジサンと同じで、なぜか最後にケータイの番号を聞かれたので逃げるように帰ってきた。
友達も、
「もう、高田先生はやめとけって。」
と、何度も言ってくれた。
…別れるのはいつでもできる。少しかも知れないけれど、先生が私のこと好きな気持ちがあるんだから、今別れなくてもいいじゃない!
踏ん切りがつかないまま、だらだら月日は流れた。気が付けば、季節は冬になっていた。
メールや電話が全く無い訳ではなく、諦めた頃にポツリとメールの返事があるくらいで、このころの私はよく、この状況を「首の皮一枚で繋がってる状態でさぁ~」と周りに言っていた。
切り離さない先生。
切り離せない私。
どっちもどっちだが、『さ』と『せ』が逆かもしれなかった。
あたりがクリスマス一色になった12月中旬、高田先生からメールが来た。
『25日、空いてるか?昼だけなら時間作れるぞ。』
…やっぱり!! イベントは絶対、私と約束してくれる。
またも、不安はリセットされた。私はその日、午前中は塾の講師のアルバイトがあったため、ランチだけ一緒に食べる約束をした。
前日、私は高田先生へのクリスマスプレゼントを選んだ。男性にプレゼントするのも初めてだから、すごく悩んだ。でも、悩めていることが幸せだった。
結局、ネクタイを選んだ。ネクタイならいくらあってもいいし、これを身に付けて仕事をする先生を想像すると、頑張る先生の側に寄り添っていられるような気がした。
柄もさんざん悩んだ。先生の好きな濃いブルー地に、ぱっと見ドット柄に思えるほど細かな小花柄。固い先生のイメージとギャップがあって、似合いそうだった。
先生へのプレゼントが入った紙袋を見て、ふと、これが最後かもしれないと思った。
25日には、別れを告げられるかもしれない。
先生は私に、プレゼントなど準備していないかもしれない。
昼間だけっていうのも、夜を避けたいからかもしれない。
張り切ってプレゼントなんか買って、私
バカみたい!
考えれば考えるほど、ネガティブになっていった。
それでも25日の朝には、会える嬉しさでウキウキしていた。今回もまた、2ヶ月ぶりである。
塾でバイトを終えて、私は車で待ち合わせ場所の本屋さんへ向かった。(この頃には、親の車を時々借りて乗っていた。)
先生より早く到着したので、車から降りずに駐車場で待っていた。
『先に着いたよ😃車で待ってるね。』
間もなく、私の車の隣に、高田カーがすっと停まった。 私は自分の車から降りて、高田カーの助手席に乗った。
「ここまで来てくれてありがとう。」
「おう。腹へったなぁ~ さっそくメシ食いに行くか!!」
「うん。私も腹ペコ~」
…本当に先生は、会えなかった2ヶ月間は何とも無いんだなぁ。
感心した。
たまにはリクエストも必要だと思い、私の知っているリーズナブルでおいしいハンバーグのお店に連れて行ってもらった。
今日から冬休みなので家族連れも多く、店内は賑わっていた。
メニュー表を見ながら、その価格のお得さに先生は驚いていた。
「いつも払ってもらってばかりだから、今日は私が払うよ。ビンボー学生の支払いだから、この程度で許してねー。」
「ハハハ!サンキュー。」
ウエイトレスのお姉さんを呼んでオーダーをお願いした。
「私、デミグラハンバーグセット。」
「粗挽きビーフのハンバーグセットひとつ。大盛にできる?」
お姉さん
「申し訳ございません。大盛は…」
高田先生ガッカリ。
…しまった!先生には少なすぎるんだ!!
私は焦って
「他に何か頼む?」
と聞いたが、先生は
「まぁいいや。」
と断った。
先生はゆっくりを心掛けて食べたそうだが、運ばれてきたハンバーグセットを5分でたいらげてしまった。
結局、支払いは先生がしてくれた。
先生は言葉や顔には出さないが、物足りないのが分かった。なんだか落ち込んだ。
お店の駐車場を出ると、高田カーは迷わず元来た道を戻り始めた。
…今日は何も期待していなかったから、これでいい。
私は車を置いてある本屋さんへ向かう途中の高田カーの中で、そう言い聞かせた。
と、途中で道を外れた。
「どこ行くの?」
ワクワクしながら聞いた。
行き先は、新しくできたショッピングモールだった。 ここもまた、冬休み初日で混んでいた。私たちはブラブラとウィンドウショッピングを楽しんだ。
でも、手を繋げなかった。私の中の、先生を信じるのが怖い気持ちが踏みとどまらせた。
…先生は私をどう思っているの?好きなの?好きなら手を繋いでよ。このままでいいの?
一緒に歩けて、ショッピングモールまで連れてきてもらえて、めちゃ嬉しいんだけど、複雑な気持ちが私を黙らせた。
…仲のいいカップルなら、「これ買って♪」とかおねだりできるんだろうな。
ほとんど会話は無いまま、何も買わず、私達は1時間もしないうちにショッピングモールを出た。
…ひょっとしたら、先生は私がプレゼントに何かねだるのを待っていたのかな?
そっけないぶりをしている私も悪い。
走る車は、今度こそ本屋さんに向かっていた。
駐車場に着くと、先生が、
「はい。プレゼント。」
と、ノート大の厚みのある包みをくれた。
「わぁ!!ありがとう。何かな?開けていい?」
テンションを上げながらリボンをほどき箱を開けた。
「わぁ!かわいい~」
中から出てきたのは、鮮やかな水色のふわふわなマフラーだった。誰もが知っているブランドのロゴが刺繍してあった。
何度も「もうダメなんだ」と思えば、こうしてまた「大丈夫なんだ」に引き戻される。
私は高田先生がくれたマフラーを巻いてその暖かさに埋もれると、どうしようもなく切なくなった。
マフラーの暖かさと高田先生の肌の温もりが、どうしても重なってしまう。
…最後に先生の温もりを感じたのは夏だよ。もう季節が2つも巡ったんだけどな。今、この寒い季節に先生に抱きしめられたら、どんなに幸せだろう。
マフラーに顔をうずめて寂しさを埋めるしかできなかった。
やがて、お正月を迎えた。高田先生からの連絡は、クリスマスの日以来無い。
私は冬休み中、友人と泊まりでスノボへ行ったり、家庭教師のバイトを増やしたりして、それなりに充実していた。高田先生との約束は諦めていたから、1日たりとも予定ナシの日を作らなかった。
3日になって、高田先生から年賀状の返信が届いた。躍動感溢れる馬のイラストが全面に印刷されているだけの裏面に、私への個人的なメッセージは何も書かれていなかった。
『旧年中は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いします。』
行書体で印刷された無味乾燥な文章。
…ふざけるな!!
私の心の中で、初めて高田先生に悪態をついた瞬間だった。
冬休みが終わり、またいつもの日常に戻った。
高田先生のことをゴチャゴチャ悩みたくなくて、学生実験で遅くまで実験室にいることもあった。しかし皮肉なことに「先生も同じことをしてたんだな」と余計に考えてしまう結果になった。
そんな一月のある朝、私は大学に向かう電車に乗っていた。通学の時はいつも先生からもらった水色マフラーを巻いていたが、車内は暖かいのでマフラーを外し、手提げバッグに入れていた。入れたと言っても、教科書やお弁当でパンパンなので、持ち手の間に挟む感じでちょこんと置く感じだ。
終点の駅に着き、電車を降りた。定期券を出そうとして、バッグの中のマフラーが無いことに気が付いた。
…えっ!!マフラーどこ!?
落としたかと思い慌てて振り返ったが、マフラーは見当たらない。車両の中まで戻って見たが、どこにもなかった。
…そんな!高田先生からのプレゼントなのに!!
私はパニックになりそうだった。慌てて改札口の駅員さんに聞いたけれど、マフラーの落とし物は届いていないらしい。
仕方なくそのまま大学へ行き、帰りにもう一度落とし物を問い合わせたが、やはり無いとのことだった。
唯一の心の寄りどころにしていたマフラーは、突然、手の中から消えてしまった。
マフラーを無くしたことを先生に言えるわけはなかったが、それでも先生に会いたいし話がしたかった。
それから3日ほどして高田先生に電話をかけた。
…はぁ…今日も出てくれないだろうなぁ。
いつものように諦めながら(そう言い聞かせながら)発信ボタンを押して耳に当てた。
プルルル プルルル ガチャ
「はい」
珍しくつながった。
「あ、こんばんは。」
「どうしたぁ お前ホント暇なヤツやなぁ~」
いつものセリフだ。暇人ですみませんね。
「三学期始まったね。相変わらず忙しい?」
「当たり前だ。」
「忙しいのにかけちゃってごめんね。じゃあ切るわ。」
「おいおい、何だそれ(笑)」
内心、「わかった。じゃあな」とか言われたらどうしようかと思った。
…なんだかんだ言って、いや何も言ってないけれど、私と電話で話すのは嫌ではないのか?
「ねえ先生…」
「んー?」
ドキドキする。初めて先生に電話をかけた時に似ていた。
「あのさ…」
「ハハハ、何だよ。変なヤツやなぁ。」
…また『変なヤツ』かよ。
「私、そんなに変なの?」
…茶化さないで。
誤魔化さないで。
もう、いい加減なこと言わないで。
不真面目さゼロの口調で聞いた。
間髪入れずに先生が、
「うん。フルパワーで変。」
…フルパワーって…
私は黙り込んだ。
先生が何か言うまで何も話すまいと思った。
「ハハッ どうした何だよ。」
…何だよじゃないよ。
「あのさ、先生…」
「何?」
「私はいつも、先生と一緒にいたいって思ってるの。先生のこと好きだからさ。でも、先生は…
先生は私のこと、どう思ってるの?」
やっと、言えた。
「…私のこと、どう思っているの?」
ここまで言えば、さすがの高田先生も私の聞きたいことが分かったのだろう。
「…っ …好きだよ。」
小さく、呟くようにそう答えた。
「良かったー。」
思わず、安堵の声が漏れた。
いっそのこと、「好きじゃない」とかバッサリ斬ってくれたほうが、楽だったのかもしれないが。
「俺、ホントこういうの苦手なんだよ~!そこまで言わせないでくれ~」
すぐに先生はいつもの調子に戻った。
先生の口から初めて「好き」と言ってもらえて、私は疑うどころか、またも舞い上がった。
誕生日やクリスマスのプレゼント。
「好き」の言葉。
先生は極度の照れ屋なだけで、私を彼女として好きなのは本当かもしれない。
ただ、私のように「一緒にいたい」とは思わないようだし、仕事で辛い時もあるだろうに、それを私に打ち明けたりして精神的に頼ろうとは思わないのだろう。
その時の私には、そこのところが理解できなかった。
…でも、私のことは好きなんだなぁ。
相当言いにくそうに、照れながら「好きだよ」と言った先生の姿を想像すると、嘘でそんなこと言ったとは思えなかった。
やはり私には、我慢するしかないようだった。とは言え、当時はそれを我慢とは思っていなかったのだが。
…先生の重荷になるなら、メールも電話もいらないよ。
先生が私のことを好きだと思ってくれているだけで良かった。
そうして、1月は過ぎていった。2月になれば、今度はどちらを向いてもバレンタインデーだ。
もちろん、先生には手作りのチョコレートを作るつもりだった。生チョコ、ブラウニー、クッキー… 何を作ろうか何日も前からワクワク考えた。好きな人に手作りのチョコのお菓子なんて、これまた生まれて初めてだった。
作ることより、バレンタインを口実に先生に会えるのが何よりの楽しみだった。
…前に会ったのはクリスマス。やはり私たちは2ヶ月に一度しか会えないんだわー(涙)
立場も年齢(世代か?)も違う2人なんだから、周りの学生カップルのような付き合いはできないことくらい、この半年でじゅうぶん思い知った。もう、これ以上の要求も不満も考えないようになっていた。
バレンタインデーが近づいた土曜日、私は高田先生に電話をかけた。ラッキーにも電話に出てくれた。
「明日だけど、先生家にいる?」
「ああ。午後ならいるぞ。」
「分かった。じゃあ夕方ごろ寄っていいかな?」
「おう、いいぞー」
デートとかお食事なんて言わないから、チョコレートを渡せるだけでいい。もう、キスだの何だの、求める気すら無かった。要求して、拒まれるくらいなら、初めから求めまい。
親からの追及が予想されて面倒くさい為、チョコレートのお菓子を自宅で作れなかったから、同じ演劇サークルの仲間のヨッシー(♂)のアパートを借りた。
材料を買って、昼過ぎにヨッシー宅へ向かった。
「ヨッシー!すまんねぇ」
「おぅカナ!カナの好きなように使っていいぞー 大好きな高田先生の為に腕をふるえや~」
「サンキュー!ヨッシーの分もできるからね。」
ヨッシーは同じサークル仲間のマーコと付き合っている。マーコからは「カナの愛が詰まったチョコ、ヨッシーに味見させて美味しいの作れよぅ」なんて言われているほど、気心の知れた仲だ。
私は準備に取りかかった。トリュフに挑戦する。
チョコを刻み、湯せんで溶かす。牛乳を混ぜて氷水で冷やし、形を作ってココアパウダーをまぶす…
「あれ?」
「カナどうした?うまくできたか?」
作業は氷水で冷やし固める段階でストップしていた。
「トロトロで固まらない」
「えー、なんでぇ?」
「分からん。」
ボウルの中のチョコレートは、冷やしても冷やしても液状である。
「おかしいな。ラップでくるんで丸く形づくれって書いてあるんだけど。」
ヨッシーと2人でレシピを見る。
「どういうことだ?」
私たちはボウルの中の、マヨネーズくらいの柔らかさのチョコレートを呆然と見つめた。
約束の時間は夕方。材料を買って作り直している時間は無い。
大ピンチだ。
トロットロのチョコレートを前に、ヨッシーと2人で呆然としていた。
ずっと後になってから知るのだが、チョコレートを溶かすときの温度が高すぎると、固まらなくなるらしい。
そんなこと知る由もないが、とにかく形にしないと進まない。そこから私たちの試行錯誤が始まった。
作戦①
まず、まぶすためのココアパウダーを混ぜ込んで、固さを出す。
作戦②
冷凍庫で冷やし固める。
ココアパウダーを混ぜ込んだ段階で、マヨネーズから練りワサビくらいの固さに進歩した。
手で丸めることは出来ないが、スプーンですくってそれらしい形にすることはできた。そこで2本のスプーンで丸くすくってココアパウダーのなかに落とし、ユサユサしてまぶした後、トリュフ用の小さなアルミカップにポトンと落とした。
アルミカップには収まったが、トローッと広がって丸い形は崩れた。
とりあえず全てのチョコをカップに入れて、ダメもとで冷凍庫に入れた。
…約束の時間まであと30分。どうか固まりますように。
ヨッシーと冷凍庫の前で拝んだ。
ヨッシーはそれから間もなくバイトに出かけて行った。私が戸締まりをして、カギは指定された場所に置いておくことになった。
ひとりになった部屋で、高田先生にメッセージカードを書いた。
『先生のことが大好きで、想いを込めたらトロトロにとろけてしまいました。非常に食べにくいと思うけれど、頑張って食べてくれたら嬉しいです❤』
ギャグかと思われそうだが、ポジティブ思考で行かなきゃ。
私は祈る気持ちで冷凍庫からチョコを出した。予想通り、チョコはトロトロのままである。
私はチョコをラッピングして、戸締まりをしてからヨッシー宅を出た。
車に乗り、高田先生の自宅には10分ほどで到着した。
『着いたよ。』
メールを送る。
2ヶ月ぶりに会えるのは嬉しい。この前、電話で「好きだ」と言ってくれた先生を、私は心から愛していた。「好き」というのは追いかける想いで、「愛している」は相手を尊重する想いだと解釈していた。
…私のことを好きだと言った高田先生は、きっと私の気持ちを尊重してはいない。自分本位だ。それでもいい。私は先生を愛している。先生が良いなら、私は何でも待つし我慢もするつもり。
誰かを愛することは、自分自身を大事にした上で成り立つことを、この時の私は気付いていなかった。
メールを送ると間もなく、玄関から高田先生が出てきた。
「あ、先生久しぶり!はい、これプレゼントだよ。」
先生が何か言う前に、目的を果たしたかった。
「ちょっと失敗しちゃったんだけどね~ 良かったら食べてね。」
ラッピングを見れば、中身は何か分かる。
「おお、ありがとう。俺、甘いもの苦手なんだよ~。」
「そんなこと言わんと食べてよ!ちょっと食べにくいんだけどね、ハハハ~」
そのまま車に乗り込み、発車させた。
付き合っている男女がこのやりとりだ。明らかにいびつな状況を、私はまだ冷静に客観的に受け止められなかった。
一番自分本位なのは、私だったかもしれない。
その日の夜、高田先生からメールが届いた。
『今日は来てくれてありがとう。チョコおいしかったよ。』
何度も何度も読み返し、幸せな気分になった。
…今はチョコくらいしか渡せない。でも、そのうちモノじゃなくて、もっと温かくて安らぐような何かを与えられる存在になるからね。
私は幸せだった。
学生であるうちは、私が先生にできることは限られている。先生が求めてくる事も少ない。
…でも、大学を卒業して教師になったら?私も先生の辛さや悩みを分かってあげられる。 もちろん、それが目的で教師を目指しているわけじゃないけど、早く、同じフィールドに立ちたい!
そのために私が頑張ることは、教養や技術を身につけることだと思った。恋ボケして恋愛に狂っている場合じゃないし、そんな私を先生がカワイイなんて思う訳がない。
今は自分がすべきことに一生懸命になって、その時がきたら堂々と自分の想いを先生にぶつければいいんだ。
教師になるまで、最短であと2年。
こうして私は、目線の先を高田先生から少しずらした。
…本当に目指したいものがハッキリしているのだから、ブレずに進めばいいんだ。
このバレンタインデーを境に、私は高田先生にメールを送らなくなった。と言っても、それまでも一週間に1~2回と控えめだったのだが。
この3月で卒業する先輩10人のうち、教員採用試験に合格したのは2人。決してヤワな道じゃないことは、大学に入学した時から分かっていた。
「そう言えばカナー、高田先生にチョコ渡せたか?」
バレンタインデーから2週間ほど経った演劇の練習の時、キッチンを貸してくれたヨッシーが聞いてきた。
「うん、何とかね。余った分、冷凍庫に入れっぱにしてきたけどヨッシー食べた?」
「あははは!あれトロトロのままやんな!うん、味はおいしかったよ~」
周りのみんなも全ての状況を知っているため、ゲラゲラ笑いながら話していた。
「でも、俺、カナのチョコ食べた後に頭が痛くなったぞ。」
「嘘や~!? なんじゃそれ!」
一同に笑いが起こる。
「高田先生も頭痛くなったんちゃう?カナ、先生から何か言われてないか?」
「いやー、別に何も。」
練習の始まりと共に会話は終了した。だが、私は気になって仕方なくなってしまった。
…先生と、話がしたいな。
2週間、私からも先生からもメールも電話もやりとりはない。強がっていても、このまま自然消滅しないか不安で仕方無かった。
その日の帰り、先生にメールを送った。
『最近、メールしてないよね。受信箱に先生からのメール無くなっちゃったよ。このまま、送信箱からも消えてしまうの?』
本当は先生からのメールは全て保存してあるのだが、もし保存してなければバレンタイン以前のメールは本当に消えていただろう。
『送信箱からも消えてしまうの?』は、暗に、この関係を終わらせるという意味だ。
… … …
待てども待てども、先生からの返信は無かった。
もうこの頃には、私にとって高田先生がどういう存在なのか分からなくなっていた。
大好きな人。
愛してる人。
甘えたい人。
甘えられない人。
信じたい人。
信じられない人。
憧れの人。
自分の全てを賭けてもいいと思う人。
・
・
・
挙げればきりがないが、ひとついえることは、高田先生は私の心の一部になっていたことだ。
たった三度のキスと、たった一度のセックス。
『たった』で片付けてしまうには、私の片思いはあまりに長く重かった。
…そろそろ潮時かな。
とも思う。
「はぁ~ どうすればいいんだー!!」
思わずリビングで寝転がりながら叫んだ私に、何の事情も知らない姉が一言。
「どうしていいか分からん時は、何もしん(な)ければ?」
ハッとした。
そうだ、何もしなければいい。
私たちが将来結ばれる運命ならきっとそうなるし、分かれるのが運命ならどこかで分かれるんだし。
ジタバタ、モヤモヤは疲れるだけだと気付き、私は流れに身を委ねてみる気になった。
…高田先生、あんた次第だからね。私は逃げこそすれしがみついていくこともないよ。
ひとりで小憎たらしくなってみた。
何日かして、高田先生からメールが届いた。
3月も半ばになっていた。
『…このまま送信箱からも…』メール以来、本当にメールを送らなかった為、それから更に2週間は経っていた。
そんな頃の高田先生からのメールである。明暗どちらの意味のメールなのか。なかなか開けられない。「未読メール 1件」が気になって仕方ない。
先生からメールが届いて数十分は経っていた。私は思い切って開けた。
『今度の日曜日会えるか?』
…きっと、ホワイトデーだ。
すぐに分かったが、なかなか返信が送れない。断る理由は無いのだが、素直にOKを出せなかった。
…私はこんなに待って、我慢して、諦めて、言い聞かせて毎日を過ごしているのに、向こうからメールが来たらシッポ振って返信するってか? いつもほったらかしなのに、そんなに都合よく返事が来ると思うなよ!
怒りに似た感情が湧いてきた。
「ハァ… 何なんだよ!!」
イライラに任せてケータイをソファーに投げつけた。
…もう、高田先生のこと好きじゃない?
NO
…日曜日会うの断る?
NO
…やはり、会いたいか?
YES
悔しいけれど、会いたい気持ちに逆らえない。
私達は今度の日曜日の夕方、先生が指定した喫茶店で待ち合わせる約束をした。
高田先生に対しての怒りや疑問が沸いてくるのに、それでも先生を好きでいる自分にさらに苛立った。
でも、日曜日に会えるのは楽しみで仕方なかった。
そして日曜日。私は久々にウキウキしてメイクをした。買ったばかりの三色セットのグロスを重ねづけした。ネイルもグロスの色に合わせてた。ワインレッドにシルバーを重ねてフレンチネイルに。
鏡を見て、ヨシと頷いた。自分の好きな感じのメイクに仕上がった。
先生が指定した喫茶店は、大学の近くの大きなショッピングセンターの近くで、さほど迷わず到着した。車を駐車場に停めると、ほぼ同時に高田先生の車も停まった。
やはり、先生の白のスポーツカーはいつ見てもカッコ良くてドキドキした。
車を降りるタイミングもほぼ同時だった。視線が合った。
「…」
何て言えばいいのか分からない。 もう、無邪気にはしゃぐフリをする気にはならないし、「こんにちは。久しぶりだね」なんて挨拶も白々しい感じがする。
何も言わない私を先生はすこし不思議に思ったようだった。
「どうした?元気ないなぁ~」
(クスッと笑って)
「そんなことないよ。お店、入ろう。」
…先生は、何を考えているんだろう?
私は先生の後に付いてお店に入った。
お店の中は、棚やテーブル、カーテンや食器にいたるまでアンティークな雰囲気で統一されていた。「お洒落」とか「綺麗」とか月並みな言葉しか出てこない自分の語彙力を残念に思う。
「素敵なお店だね。」
「俺が学生の時から変わってないよ。よく来たからな。」
意外だった。先生とこの中世ヨーロッパみたいな雰囲気はまるで似合わないのだが…。
聞けば、何度か通ううちマスターとも仲良くなったらしい。そんなお店に私を連れて入るのは、やはり先生の中で私はいい加減な存在ではないのだろうか?
とりあえず、私はホットレモンティーを注文した。
「お前、この店は本格的なコーヒーが飲める店だぞ。ここへ来て紅茶はないぞ。」
「そうなんだ。でも私、コーヒー苦手で一口も飲めないの…」
コーヒーの美味しさは全く理解できないが、カウンターからは先生の言う「本格的なコーヒー」の意味が分かる気がした。きっと本当に美味しいコーヒーなんだろう。
…先生は行きつけのお店で、私に美味しいコーヒーをご馳走する気満々だったのか…
申し訳ないのと残念な気持ちで、さらに口数が減ってしまう。
やがて、コーヒーと紅茶が運ばれてきた。一目で高価な物と分かるカップだった。
「このカップ、すごくかわいいね。」
「お客の雰囲気に合う柄のカップを選んで煎れてくれるんだよ。」
確かに、先生と私でカップの柄が違った。先生は紺、私はボルドーに近いピンク。苺の柄だった。今日のメイクや服に雰囲気がピッタリだ。よく見るとカウンターの後ろの棚に並んでいるカップは、同じ柄のものが2つと無かった。
お店のセンスの良さ=先生のセンスの良さと思われて、目の前の高田先生をますます好きになってしまいそうだった。
それから間もなくして、胃がキリキリと痛み出してきた。
…どうしたんだろう?
私は子供のころから胃が弱く、自分でそうと思っていなくても些細な事がストレスになり胃痛を起こす。
…高田先生と一緒で緊張してるのかな?まさか。
そんなはずは無いと思いながらも、いつの頃からか高田先生の前で心から明るく振る舞えていないことに気付いた。
先生の好みに合わせようとか、こう言ったら嫌われるかなとか、ベッタリして重い女に思われないようにとか。後から思えば、探ったり我慢したり裏腹な行動を取ったりと、私の心は休む間が無かったのかもしれなかった。
「かわいいアンカナに、はい。」
突然だった。私は耳を疑った。
…かわいいだと!?
驚く私の前に、先生はかわいくラッピングされた陶器の器を差し出した。器の中にはキャンデーのようなお菓子がいっぱい詰まっている。
「わぁ。ありがとう!!」
高田先生の「かわいい」発言にすっかりテンションが上がり(単純)、私は自然と笑顔になった。 ホワイトデーのプレゼントということは言わずと分かった。
「でもお前、その爪… そういうの好きじゃないな。ケバいぞ。」
私は思わず両手をグーにして、フレンチネイルを隠した。
悔しかった。
「いいじゃない。キレイでしょ?今こういう塗り方流行ってるんだよ。」
くらい言ってやりたかった。
「あなたの好み通りばかりとはいきませんよーだ!」
ってね。
実際は言えるわけもなく…
胃がキリキリ痛む。
レモンティーはおいしかったが、それでも三分の1を残して飲めなくなった。
相変わらず胃はキリキリする。紅茶が刺激になっているのかもしれなかった。
1時間くらいのお茶で、私達はお店を出た。当然その後は… 何もない。
「じゃあね。新しい学校でも高田先生らしく頑張ってね!」
先生はこの3月いっぱいで転勤する予定なのだそうだ。
「おう。ありがとな。お前もがんばれよ。」
お互い車に乗り込んだ。私はシートにもたれると、痛む胃をさすった。先生が先に車を発進させて、駐車場を出て行ったのを見届けてから、私は体を丸めるようにして身を縮めた。
…痛い…
じっとしていれば、この胃痛はそのうち治まる。だから平気だった。
その時、自分がひどく疲れていることに気が付いた。この後夕飯や遊びに誘われなかったことに内心ホッとしていた。
…もう、ワケ分かんないよ。
私は意識を胃の痛みに集中させて、泣きそうになるのを紛らわせた。
もうそろそろ、私の中で答えが出てくる頃だった。
…この先、この関係を続けていても、きっと私の欲求は満たされないな。
私が教員になって、その時にまだ繋がりがあったとしたら、また向き合ってみてもいい。縁があれば、また男女の仲になるだろう。
…でも先生は?
別れるにしろ付き合い続けるにしても、今、先生がどう考えているのか知りたかった。
『好きだよ』
『かわいいアンカナ』
別れようと思うたび、何度もこの言葉に振り出しに戻される。
悔しいが、高田先生を嫌いになれない。 先生が望めば、関係を続けたいと思う。
「………。」
要するに、ひとりで答えを出すことはできない。
私は携帯を取り出すと、高田先生の番号を表示した。
…これが、最後の電話になるかもしれない。
意を決して、発信ボタンを押した。
ホワイトデーのプレゼントをもらった一週間後の土曜日の夜だった。
…留守電になるかな?ブチって切られるかな?それとも出るかな?
高田先生に電話をかけるときはいつもこう思う。多い順に3択だ。
プルルルル プルルルル …
…今日は逃げない。ちゃんとはっきりさせるんだ。
プルルルル プルルルル …
…先生出て!今を逃したら言いたいことも言えない気がする!!
プルルルル ガチャ
「はい」
…出た!
「もしもし先生?こんばんは」
「何や~?ヒマな奴。」
…そのリアクションでどれほど私の心が傷ついたか、分からないんだろうな。
「先生、先週はありがとう。かわいいプレゼント…」
「ああ。」
…何て言おうか。
「って、それだけかよ!ハハハ!お前なぁ~ ホント変わった奴やなぁ。」
…じゃあ何を話たら『まともな奴』とか思ってくれるの?
「あのさ、先生。変な奴ならもう、側にいなくてもいいよね。」
「………。」
「私はさ、先生のこと好きなんだよ。好きだけど… 何か… 意味ないよね。」
長い沈黙があった。実際は長くない気もするけど。
先に口を開いたのは、先生だった。
「お前は… 考え方も趣味も違う俺と居て楽しいか?」
これで、決定的だ。
もう、彼女でいる意味はない。
「そうだね。じゃあ、もう会うこともないね。」
ヤケになってそう言ったのではなく、心から納得して出た言葉だった。
…考え方も、趣味も違う。確かにその通りだね。
心にストンと落ちた。
「先生、今までありがとう。」
「…そんな事言うなよ。」
「だって、すごく楽しかったからさ。ホントに…」
「そうか…。」
「うん。それじゃあね。先生お仕事大変だけど、体に気をつけて。」
「ああ。お前もがんばれよ。」
「先生、私が採用試験に受かったら、また連絡していい?」
「ああ。待ってるよ。」
「じゃあね。」
私から電話を切った。
もっと泣けるかと思ったけれど、拍子抜けするほどスッキリしていた。
…案外平気みたい!
私はそのままお風呂に入った。
「ハァーーーッ」
湯船に浸かり、ため息をついた。その拍子に涙がこぼれた。 涙は後から後から落ちてきた。
…これでもう、悩むことも苦しむこともない。
悲しいのではなく、安堵の涙だった。
こうして私は高田先生の彼女を辞めた。
分かり易い言い方をすれば『別れた』『振った(になるのか?)』なんだけれど、それはしっくりこなかった。 そもそも夏休み以降は付き合っていたと言えるのかさえ怪しい状況だったから、別れる以前に終わりきっていたのかもしれない。
ただ、自分の中では『高田浩之の彼女』だったから、それを辞めたのである。
どれだけ考えても、高田先生の本心は分からなかった。
体の関係を持ってからは、私に興味を無くしたように見えた。
まさか本当はあれでも高田先生なりの愛し方だったのか?
教師と元教え子だから、距離を保っておきたかったのか?
ただのキープだったのか?
そこはもう、どうでもよかった。 ただ、愛せないならさっさと切ってくれた方が良かったのに…とは思った。
電話の翌日には心はスッキリ晴れ上がっていた。またいつもの、明るくて、アホで、そそっかしくて、知的を装うアンカナに戻った。
憑き物が取れたどでもいうのだろうか。その日からは空の色が違って見えたのを覚えている。
4月になり、大学三年生になった。三年生は、教育学部最大のイベント、教育実習がある。実習以外にも、小学校の全ての教科の教育法、人権や道徳、苦手な体育の実技など、専門の理科から離れた授業がメインとなった。
教員になる意識や意欲がより高まっていくにつれ、恋愛モヤモヤは無縁となった。と同時に、教員になった自分を想像すると高田先生の姿とかぶった。
高田先生は、理想の教師像として切り取っておきたい部分だけ持っておくことにした。
それ以外の彼は、元カレとしての思い出だ。片思いが実り、大好きな人と結ばれた事実は素敵な思い出だ。
心の整理に、苦労はしなかった。
教職過程にどっぷりの三年生はあれよあれよと言う間に過ぎた。
四年生は逆に教職から離れて教科の専門の研究になる。私は化学を専攻し、毎日、朝から晩まで白衣を着て薬品と化学反応に明け暮れた。
子どもの頃から理科が好きで、中学生の時には漠然と「将来は研究する人になりたい」と思っていたため、この研究の日々はめちゃくちゃ楽しかった。
この頃の私のヘアスタイルは、ショートカットを明るいオレンジに染め、全体にパーマをかけてワックスを揉み込みもじゃもじゃにしていたため、白衣を着て、
「うっ… ゴホッゴホッ… 実験は… またしても失敗だ…」
とか言って廊下をすれ違う後輩を脅していた。
迷惑な先輩である。
(余談ですが、薬品と薬品を混ぜたらボンっ!!なんていうベタな展開、実際に数回経験しました。もちろん、理論上起こりうる化学反応を想定してやってるから、手当たり次第に混ぜたって訳じゃないですが。激しく反応すると一瞬で高温になったりするんです。
私が使っていた薬品は、空気に触れると爆発する性質があったから、それはそれは厄介でした。一度、先生が講義で研究室にいないときに爆発し、慌てて隣の研究室の先生に助けを求めに行きました…)
そんな楽しい日々の中で、忘れちゃいけない『教員採用試験』がやってくるのである。
一次試験に合格した者が二次試験に望み、それを通った者だけが採用内定となる。
そして、一次試験初日を迎えた。ジリジリと日が照りつける、暑い7月のことであった。
一次試験は、教養と専門に関わる筆記試験と小論文、集団面接だった。
筆記試験はマークシートなので「?」な問題には勘で。
小論文は勢いで。
面接は多少の思考とラブ&ピースな精神で。
通過した。
二次試験はお盆過ぎ。理科実験の実技と水泳、個別面接×3種 2日間の日程だった。
残暑厳しくクーラーも無い公立中学校の校舎では、試験官も受験者も汗だくである。できれば二度と受けたくなかった。
二次試験の結果は、10月にならないと分からない。試験が終わった翌日からは、また何事も無かったかのように研究室での生活が始まった。
一次試験を通過した段階では、高田先生に連絡はしなかった。二次試験の結果を伝えるまで、楽しみは先延ばしにした。
10月に入ったある日、一学年上の先輩からメールが届いた。
『教採の結果出てるよ~』
先輩は昨年度の試験で不合格だったので、今年私達と一緒に受けていた。
先輩の言う『結果出てる』とは、県庁の掲示板のことだ。ネットでは明日以降の発表になるので、待ちきれない者達は県庁へと足を運ぶ。私もその1人だ。
そわそわを抑えながらその日の研究を切り上げ、大学を出たのは8時過ぎだった。
車に乗り、県庁へ向かう。と言っても県庁は自宅への帰り道なので、大通りを途中で曲がって寄り道するだけだ。
夜の県庁は閑散としていた。駐車場に停車し、街灯にぼんやり照らされた掲示板に向かって歩いた。
…合格者は十数名。二次試験の段階では倍率が2倍になるようにふるいにかけられたから、五分五分だ。 五分五分なら、勝てる!!
私は、負ける気がしなかった。理由や根拠は無い。ただ、そんな気が止まらなかった。
「ふふっ…」
緊張と、期待と、スリル感がたまらない。私の夢が叶うのか否かはもう決まっていてそこで待っているのだ。
私は掲示板の中の、何枚か貼られたA4コピー用紙の中から『中学校 理科』を探した。
県庁から帰る車の中で、私は高田先生にどんな言葉で結果を伝えようか考えていた。
とりあえず掲示板で結果を知った後、電話で両親に伝えた。20分もすれば直に伝えられるのだが、「もし帰りに交通事故とかで私が死んだら、結果分からずじまいになってしまう。」とか言う妙な心配から、結果は伝えておいたのだ。
帰宅し、両親からそれなりの声をかけてもらってから、いそいそと部屋に入った。
ベランダに出ると、夜空に光る星がキレイに見えた。
私はケータイを取り出し、画面に高田先生の番号を表示した。
…最後の電話から、もう一年半経つんだな。
なかなか、発信ボタンを押せない。
…あの時に、最後「結果を連絡する」と行ったこと、先生は忘れているかも。着信表示見て「今さらアンカナから?」って変に思われるかな?それとも…私の番号なんて消去されてるかな。
考えるほど、滅入ってきた。
…そう言えばこのドキドキ感、なんか以前にいっぱい経験したな~
ちょっと笑えたりもした。
笑えた勢いで、発信ボタンを押した。
今はもう先生は彼氏でも何でもないのだ。どう思われようがかまわない!
プルルルッ
「おう、もしもし」
まるで電話がかかってくるのをまっていたかのように、高田先生はすぐに電話に出た。口調からするに、相手は私だと分かっているようだった。
…私の番号、消去されてなかったんだね。
安心した。
「先生、こんばんは。お久しぶりです。お元気でした?」
「おう、お前も相変わらず元気そうだな。」
「おかげさまで。研究楽しいから、毎日遅くまで頑張ってるよ。」
他愛ない会話が続く。
一年半振りに聞く高田先生の声は、やはりカッコいいと思ってしまう。
好きで好きで仕方がなかった頃、ケータイに録音していた先生の「おやすみ~」を、何度も何度も再生しながら会えない寂しさを埋めていた。その頃の感覚が蘇る。
「先生、あのね、教採の結果出たよ。」
「おっ、どうだった?」
「来年度から私も教員。合格しましたー!!!」
この瞬間をずっと夢見ていたのだ。高田先生に、採用試験に受かったと報告できる時を。
「本当か!? すごいなーお前。うちの学校の講師の子たちはみんな一次試験でダメだったのに。さすがだな、アンカナ。」
「うん、めちゃ嬉しい!私も、自分のことながらよくやったと思うわ(笑)」
「本当やな。いやぁ~、おめでとう!!」
先生がおちゃらけ感ゼロで、素直に喜び祝福してくれているのが分かった。まるで、中学生に戻り、先生と生徒で話しているようだった。
…男女として付き合っていなかったら、ずっとこんなふうに恩師と元教え子でいられたのかな?
とも思った。
4月からは、私も中学校の理科の教師だ。
高田先生と同じ土俵に立つ。
電話を切った後も、しばらくベランダから夜空を見上げていた。
高田先生との会話の余韻に浸っていた。そして、もう二度と高田先生のことを異性として付き合うことはないのだと納得した。
高田先生は結婚していた。
お相手の方の歳や職業なんかは聞いてないし、興味もない。ただ、先生が結婚したことを知ってホッとしている自分がいた。
「先生、お幸せにね!」
「ありがとう。お前も、4月から頑張れよ。大変だからな。」
「うん。嬉しいけれど、自分が教員やってる姿が全く想像できない。不安だよ。」
「誰だってそうだよ。でも、お前なら大丈夫だよ。」
もう軽々しく甘えちゃいけないと思いながら、最後にこう言うのを止められなかった。
「つらくなったら、また電話していい?」
「ああ。いいぞ。」
この先また先生に電話をかけるかどうかは分からない。でも、完全に繋がりが断たれてしまうようで、このまま切るなんてできなかった。
高田先生に未練はない。顔も名前も知らない奥さんに嫉妬する気持ちもない。
でも、高田先生はそれだけの存在ではなかった。憧れであり、理想の先生であり、目標でもある。この先何十年続くであろう私の教員人生の一部となる人だ。
数年後---
時計を見て席を立ちつと、私は職員室を出た。歩きながら白衣を身につけ、理科室へ向かう。
キーンコーン カーンコーン…
「起立 礼!
お願いしまーす」
「はい、では始めましょう。」
私の前には、あの頃のアンカナと同じように制服を着た中学生が大勢いる。
「大変寂しがり屋で、絶対に誰かと一緒でないといられなくて。
でも、相手は誰でもいいわけでなくて、たくさんの人と同時に仲良くするのも苦手で。2人か3人でないとダメなんです。」
「安藤先生のこと?結構ワガママやね。」
「違います。でもいるでしょう?あ、自分の事だと思う人。」
あちこちで小さな笑いが起こり、ざわつく理科室。
「で、先生結局誰の話?」
「酸素原子よ。」
安藤の理科は鬱陶しい。私に酸素原子を語らせたらそれだけで1時間終わってしまう。ある程度セーブしないと。
中学生とのやりとりは楽しい。私が楽しいと生徒も授業が面白いようで、嬉しい反応が返ってくる。
が、期末テストを採点すると、自分の授業力の無さにガッカリする。
その繰り返しだ。
授業をしていると、よく高田先生が教壇に立つ姿を思い出す。生徒の気持ちを引きつけるための授業の第一声、生徒への意見の求め方、的確な説明。
私の理想だ。今の私はまだまだだ。
…こうしている今も、高田先生もどこかの教室で熱弁してるんだろうな。
恋愛感情のなくなった今も、時々そう思っては胸が熱くなる時がある。
さらに何年かが経過した。
教員も6年目をむかえたある日、私は久々に高田先生に電話をかけた。
実はこの6年間の間に、私は三回ほど高田先生に電話をかけていた。学級経営がうまくいかない時、教科指導で悩む時、誰かに聞いてもらいたい時、高田先生に聞いてもらっていた。
未練はないし、奥様と幸せでいてほしいと思っていた。が、恋愛感情が全くないとは言い切れなかったかもしれない。
でも、この電話が最後になる。
プルルルル プルルルル…
「はい、もしもし?」
「先生、お疲れさまです。こんばんは。」
「こんばんは。アンカナ久しぶりだなぁー!!どうしたよ?」
お互いの近況を伝え合う。年齢も経験もそこそこいってる高田先生は、三年生の担任であり学年主任。進路指導主事も兼ねていた。なかなか厳しい校務分掌である。
平のぺーぺーの私とは雲泥の差だ。
「先生、私、『アンカナ』じゃなくなります。」
少しの沈黙の後、先生はすぐに意味を理解してくれた。
「そうか。おめでとう。」
「ありがとう。」
私はその翌月に結婚した。
遡ること1年前、紹介で今の夫と知り合った。それまでに何人かの男性とお付き合いしたが、会った瞬間に「あ、結婚するのはこの人だ」とピンときたのは初めてだった。
今は、子どもに恵まれて私も一児の母である。
教員の激務から離れ、穏やかな育児休暇中の身だ。
かわいい子どもの相手をし、夕飯の準備をして愛する夫の帰りを待つ。
こんな幸せな日常は他に無いと思う。
高田先生は私の青春そのものであり、今は教員としての目標である。今でも私の一部分だ。
高田先生と出会わなければ、また違った人生だったかもしれない。男女の関係でなければ、考え方も違ったかもしれない。
高田先生の本心は、今でも分からない部分が多い。でも、それで良かったとも思う。
最後に、もう伝える機会も無いと思うけれど、心から言いたい。
「私は青春時代、あなたを愛せて本当に楽しかった。あなたから得た物事の見方や考え方は、今でも私の生き方を支えています。
あなたに出会えたことを、心から感謝します。ありがとう。」
-完-
読者の皆様へ
最後まで読んでくださり、ありがとうございました😃
私がこの小説を書こうと思ったのは、単に青春時代を懐かしく思うからだけではなく、気持ちを整理したいからという思いがあったからです。
仕事で悩む時、今でも高田先生に話を聞いてもらいたいと思うことが度々あります。弱っちい私が弱みを見せられる唯一の人です。
強がりな私は、仕事の悩みは同僚にも上司にも打ち明けません。
サラリーマンの夫には、10話しても2くらいしか分からない世界なので、
「私はダメだ~」
「理不尽だ~」
「腹が立つ~」
という漠然とした言葉で愚痴を聞いてもらっています。
一方、2話せば10分かってくれた高田先生の存在は大きいのです。
互いに家庭を持った今、高田先生とどうこうなりたいとはまるっきり思いません。しかし今、高田先生は我が家から車で五分くらいのすぐ近くの学校に勤務しており、私の大学の同級生(♂)が同じ学校で理科教師として勤務しています。私と高田先生との関係を知らないはずですが、その同級生から仕事の話を聞くと、高田先生の名前も聞きます。
アパートの窓から見える範囲で高田先生の存在を感じると、なかなか忘れることもできずにいます。
そこで、小説で綴ることにしたのです。
青春時代のアホで熱くて全力だった頃、関係を持ってから悩み続けた頃、しがらみから解放され心から感謝できるようになった頃。
思い出しながらその時々の思いを文章にすることで、私の中に溜まっていた想いが形となりました。
締め切っていた胸の内が整理され、爽やかな風が吹き抜けるようになった感じです。
感想はそれぞれお持ちでしょうが、私自信は清々しい気持ちでまた前を向いて歩いて行けます。
長い時間、本当にありがとうございました。感想スレに寄せて下さった方にも、お礼をさせていただきます😊
安藤カナ
追伸:安藤カナ 高田浩之
その他出演者は皆仮名です。
身近に高田という理科教師がいてもその人ではないので、ご迷惑をおかけしている事がありましたらお詫びいたします。
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