ダブルス
あなたは私の希望
あなたは私の喜び
あなたを愛してる
……なのに何故
あなたといると私は苦しくなるのだろう
※この小説は基本的にフィクションです
※過激な表現を含む場合がありますので、不快に思われる方は閲覧をお控え下さい
※不定期更新です
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「本当に大丈夫よ。そんなことより、練習がてら押してみて」
建物へ続く通行路を、可南子から指示を受けながら車椅子を押して歩いた。
「…こういう段差は前輪を上げて跨ぐの。ほら、後ろのここを踏むと楽に前輪が浮くでしょ」
「…あ、本当だ。さすがですね」
感心しきりの結子に、可南子は笑って言った。
「テコの原理。なーんて、私も最初は気合いと力任せの我流だったの。
でも、義父が大柄な人でね…これは無理だって悟ってヘルパー講習に行ったの」
結子はコートに包まれた可南子の華奢な体を見やった。
「うちのダンナって、末っ子の次男坊なの。上には義兄と義姉も2人いるのよ」
可南子は歩みのスピードを少し緩めて話し始めた。
「結婚したときは次男の嫁の私が舅の介護をするなんて思いもしなかった…しかも私、義父が苦手だったから」
建物の中に入ってからも可南子の独白は続いた。
可南子は26歳で同い年の男性と結婚した。
初めて義両親に会ったとき、2人が老齢であることにいささか驚いた。
義母は69歳、義父は75歳で可南子の祖母と4歳しか違わなかった。
可南子は義父が苦手だった。
偏屈で仏頂面の老人とどうやって接したらいいのかわからなかったのだ。
夫の兄姉達はみな東京で所帯を持ち、義両親は千葉に2人だけで暮らしていた。
平穏な日々を過ごしていたが、可南子には密かな悩みがあった。
なかなか子供が授からない。
周囲には伏せていたが不妊治療にも通った。
“30までに産みたい”が、毎年1歳ずつ先延ばしになり、“35までに産みたい”になっていた。
その年の正月、例年通り千葉の家に親族が集まった。
酔った夫の叔父の声が、酌をしてまわる可南子のすぐ後ろで聞こえた。
“兄さんとこは孫は打ち止めかい?誠の嫁さん、ありゃイシかな”
誠の嫁さんとは可南子のことだ。
またか…と可南子は辟易した。
こういう席では決まって子供はまだか、と聞かれる。
しかし、イシとは何なのか…
直後、聞こえよがしに発せられた義父の言葉が可南子の心をえぐった。
“仕事やら旅行やら、好きなことしたいから誠らは作らんのだろ。それに俺も、もう孫は要らん”
可南子は平静を装っていたが、ビール瓶を持つ手がぶるぶると震えた。
「…それからは苦手を通り越して、義父を嫌いになっちゃってたなあ」
可南子は唇の端を上げて笑った。
「それなのに介護してあげるなんて…可南子さんて、すごいですね」
まるで打ち明け話のような可南子の語りに結子は聞き入っていた。
もしも自分が可南子の立場なら心が折れてしまうかも、と思った。
「ずーっと、私も義父の言葉に傷ついてたんだけど…」
可南子は遠くを見るような表情で静かに言った。
「義父は私のことを傷つけまいとして言ったんだって、わかったの。
…結子ちゃん、うまずめって言葉知ってる?」
結子は頭を横に振る。
「漢字だと“不産女”…つまり“子供を産めない女”って意味ね。でも、“石女”と書くこともあるの」
可南子は指で空中に“イシ”と書いた。
「あのとき、叔父は私をうまずめだって言ったのね。子供ができないのは全部私のせいだって…
それに対して義父は、私達夫婦の選択で子供を作らないんだって言ったのよ。
正確には私も夫も子供が欲しくて仕方なかったから、全然的外れだったんだけど……でも、あれは義父なりの思いやりだったのかもね…」
「でも、それに気づいたのはずっと後になってからよ」
可南子はコートのポケットに手を突っ込んで目を伏せた。
「それまでは…最低だった。嫌々介護するうちにストレスばかり溜まって、子供ができないのも義父のせいだなんてダンナに八つ当たりして。
その頃は自分だけがすっごく不幸だと思ってたからね」
明るく溌剌とした可南子からは考えられないような重苦しい話だった。
「一度ね、発作的に家出したの、私。全部捨てたくて……私も、消えちゃいたくて…
でも、自暴自棄の私を奈緒美の言葉が救ってくれたの」
伏し目がちの可南子は、まるで懐古の夢を見ているかのようだった。
「2人とも、ちこく」
約束の1時より5分と遅れず病室に着いたが、奈緒美はだいぶ待ちわびていたようだ。
「私の長話のせいよ、ごめんなさい」
可南子は奈緒美に謝ると結子に耳打ちした。
「…実はもう少し為になること話したかったんだけど、横道逸れちゃって…まあ詳しくは来年ね。
じゃあ、奈緒美も結子ちゃんもよいお年を!」
疾風のように帰っていく後ろ姿を、2人は笑い合いながら見送った。
病院からはタクシーを使った。
初老の運転手は手慣れているのか、結子がまごついているうちに車椅子を積み込み奈緒美を座らせた。
奈緒美は車窓から外の景色を見ては、あの家がなくなったとか、新しい店ができたねえ、と感嘆の声をもらした。
「あ、ここも…かわったね」
流れる街並みを目で追う奈緒美の仕草は幼い子供のようだった。
タクシーを降りると、結子は奈緒美を乗せた車椅子を押しながら自宅の方へと歩いた。
「うちだ…」
視界に自宅が入った瞬間、奈緒美は微かに涙声を混じらせて呟いた。
「…到着!」
畳に座り込んだ結子は息が上がっているのをごまかすようにガサガサとコートを脱いだ。
部屋に上がるだけでも予想以上に労力を要したのだ。
まず、車椅子が入ると玄関の中は身動きがとれないほど狭くなり、奈緒美が車椅子を離れるまで10分近くかかった。
そして玄関からたった20歩足らずの距離を、結子は転倒しそうになる奈緒美を半ば抱えるように進むよりなかった。
「…とりあえず、お茶、飲もうか」
そう言ってみたが、結子は居間の畳からしばし離れられなかった。
喉の渇きで結子は目を覚ました。
部屋は暑いくらいに暖房が効いている。
ローテーブルににじり寄り、湯呑みに残った冷えたお茶を一気に飲み干す。
空になった湯呑みを置くと結子は指の腹で瞼を押した。
…疲れた。
指先がアイシャドウで汚れているのを見て溜め息をつく。
慣れないことをすると疲れる。
とはいえこの家に着いてから特別何かをした訳ではない。
むしろ何かをする間もなく、早めの夕食後に奈緒美は早々に就寝してしまった。
味気ない初日の終わり方ではあるが、体力的には妥当だったのかもしれない。
家事が一段落すると結子もいつの間にかソファーで眠りについていたのだ。
…もう少し介護のこと勉強しておくんだったかな……
思うように動けずにいる奈緒美を見ては、一時退院を急ぎ過ぎたかと後悔した。
不慣れな結子の介護では奈緒美も不安はあるだろう。
それに築40年の家の構造にも問題がある。
…でも、お母さんは嬉しそうにしてた。
介護だって慣れたらもっと上手くできるはず。
「大事なのは、気持ちよ…」
結子の呟きはどこか自己暗示めいていた。
白い花が天に向かって咲いている…
あれは……
ハクモクレン……
ガタガタッという大きな落下音で結子は夢から醒め、思わず飛び起きた。
呻くような声も聞こえ、結子は恐る恐る廊下に出た。
しんと冷えた暗い廊下の先に座り込む人影が見えた。
「…え……お母さん!?どうしたの!?」
駆け寄る結子に、奈緒美は消え入りそうな声で答えた。
「トイレ……これ、おとした…」
奈緒美はいざりながらトイレへ向かっていた。
途中で脱衣場の前に置かれたラックに手をかけて立とうとしたが、合板の華奢な棚は体重を支えきれず倒れてしまったようだ。
床に散らばった雑貨を奈緒美はかき集めていた。
「そんなの後で拾うからいいよ…それより、トイレ行こう」
結子は奈緒美を抱き起こしてトイレに連れて行った。
「声かけてくれたらよかったのに」
居間に戻って熱いお茶を淹れながら結子は奈緒美に言った。
「ねてたから…」
奈緒美は寝入っている娘を起こすのが忍びなかったのだろう。
「でも、おこしたのね…だめね、わたし」
立ちのぼる湯気が奈緒美の溜め息で揺れた。
それからの奈緒美は意気消沈したままで、日が高くなっても居間でぼんやりしていた。
「お母さん、お昼は年越しのお蕎麦にしよっか?…あ、その前に散歩しない?」
奈緒美を気遣ってあれこれ誘いの言葉をかけたが、奈緒美は力なく首を横に振るばかりだった。
気詰まりな空気が流れたが、結子は根気よく話題を変えながら話しかけた。
「今日はお風呂入るでしょ?もう沸かしちゃおうか」
「いい…たいへんだから。せまくて、2人はむり」
確かにこの家の浴室は狭く、浴槽は深くて跨いで入るのも容易ではない。
「そうだよね、無理して怪我しても困るしね…」
結子の語尾が切なく聞こえたのか、奈緒美が慌てて話を繋いだ。
「むかしは、ちいさいときは、はいれたけどね」
「…そうだね、2人で入ったね。
私がちっちゃいときはシャワーがまだなくて、湯船に浸かりながらお母さんにかけ湯したね」
母親の滑らかな肌の上を石鹸の柔らかな泡が流れていく様を、結子は今でも覚えている。
「あと、お風呂屋にも行ったよね。保育園に行く途中にあった…」
そう言いながら結子は不意に今朝の夢を思い出した。
「保育園の…ハクモクレン…」
結子が通っていた保育園の門の脇にはハクモクレンが植樹されていた。
結子はその花の下で写真を撮ったことがある。
そして、花を見上げながらあの人が泣いていた…
夢の中の風景と記憶の中の風景が螺旋状に甦る。
「お母さん覚えてる?あのハクモクレン…夢に出てきたんだよ。
ねえ、昔の写真まだとってある?」
奈緒美は一瞬だけ躊躇うような表情を見せたが、こくりと頷くと隣室を指差した。
「カン、サブレーの…」
いつぞや見つけた鳩サブレーの缶は、持ち上げると両手にずしりとした重みを感じさせた。
結子は微かに緊張しながら自分の名前が書かれた黄色い缶蓋を開いた。
10冊以上あるフォトブックのうちNo4と書かれたものには4、5歳当時の結子の写真が収められていた。
「…あった」
写真の中のハクモクレンは夢で見たような大樹ではなかったが、白い花が咲き誇っていた。
ハクモクレンを挟んでピースサインをする結子と20歳代半ばの奈緒美が写っている。
もう1枚、同じアングルで撮った写真にはぎこちない笑顔で結子を抱く人物が写っていた。
「…あのときの……」
奈緒美は差し出された写真に視線を落とすと静かに言った。
そこに写っているのは結子の祖母、千絵子だ。
「これ、中野にいた頃に撮ったんだよね。この頃のお祖母ちゃんて、今のお母さんくらいの歳かなあ」
質問半分の結子の言葉を奈緒美は黙って聞いていた。
そんな母親を横目でちらっと見ながら、結子はあの日のことを思い返していた。
あの日、彼女はいつから門の脇に佇んでいたのだろう。
砂埃の舞い上がる春の園庭には幼い歓声が響き渡っていた。
結子は遊具の順番待ちを諦めて列を抜けると、門扉に駆け寄った。
そこによじ登って遊び始めた結子を見て、女性は強い口調で制止した。
“そんなことしたら危ないよ!お転婆さんね”
いきなり咎められた結子は驚いて女性の方を見上げた。
2人の視線が合ったのも束の間、結子は口を一文字に結んで俯いてしまった。
“ごめんね、でもね、おばさんの子も昔高い所から落っこちておでこ切ったことがあるの…すごーく痛くていっぱい泣いたのよ”
俯いたままの結子は、女性が奈緒美とよく似た声をしていることに気がついた。
“結子、お待たせ!帰ろ!”
奈緒美が迎えに来るのは午後4時15分と決まっていた。
母親に手を引かれて保育園を出ると、結子は先刻の出来事を話した。
門扉を登って注意されたくだりは端折ってしまい、見知らぬ女性に声をかけられたとだけ言った。
娘の話を聞いて奈緒美は眉をひそめた。
“やだあ…今度知らない人に話しかけられたら、すぐ先生に教えるのよ。ねえ、それってどんな人だった?”
どんな人、と言われても顔の特徴を伝えるのは難しい。はっきり覚えているのは奈緒美と声が似ていたことだけだ。
それを言うべきか考えている結子の目に、数メートル先のバス停に列ぶ人の姿が映った。
“あっ…お母さん、あの人!”
“ちょっと、結子ったら…人に指差さないの…”
娘をたしなめながら、その方向を目で追った奈緒美は、息をのんで歩みを止めた。
同時にバス停の列から1人の女性が躊躇いがちに歩み出た。
結子の手を握る奈緒美の力が強くなる。
怪訝に思った結子は奈緒美を見上げた。
言葉を失ったままの奈緒美の表情には、驚きだけではない感情が入り混じっていた。
“……どうして、ここがわかったの?”
“タエ子から聞き出したの…”
その女性は結子の前にかがみ込むと、名前は?と訊いた。
“さえき、ゆうこ”
“結子ちゃん…また会えたわね。私はね、佐伯千絵子……あなたの…”
女性は言いかけて口をつぐみ、奈緒美の顔を見上げた。
“…結子のお祖母ちゃんよ”
代わりに奈緒美が抑揚のない声で言葉を繋いだ。
その夜、千絵子は奈緒美達の住む中野のアパートに招かれた。
人見知りの強い結子は、祖母といえども初めて会った千絵子に打ち解けられずにいた。
一方的に千絵子が話しかけ、結子は言葉少なに頷くだけだった。
食事が終わると結子は奈緒美の膝枕で眠ってしまい、夢うつつに母親と祖母の会話を聞いていた。
“…タエ子も事情を知ってて黙っているなんて酷いわよ。自分の店でホステスなんかさせといて、私には5年も隠していたなんて!”
千絵子は憤っていたが、奈緒美は結子の髪を撫でながら穏やかに言った。
“タエ子叔母さんは悪くない。私が頼んで黙っててもらったのよ。
それに…もし居場所がわかったって、お母さんに何ができたの?”
艶やかな娘の髪を指先で梳きながら奈緒美は続けた。
“お金がない妊婦の私に住む部屋と仕事をくれたのはタエ子叔母さんよ。
ホステスっていっても、私にお酒飲ませたことなんてなかったよ。お腹の子に障るからって…
お金貯めて、ちゃんと結子を産むことができたのは叔母さんのおかげ…”
“なによ、タエ子タエ子って!”
堪えきれず千絵子は声を荒げた。
“今まで私がどれだけ心配したか…子供は産んだのか、ちゃんと暮らせてるのかって…母親として辛い5年だったわよ。
あんたも母親になったなら少しはわかるでしょ?
それに今でもタエ子の店で働いてるって…水商売で子供を育てていくつもり?”
“心配かけたのは悪かったと思うけど後悔はしてない。
私を愛してくれない人達のことは忘れて、子供と新しい人生歩みたかったから…
ねえ、それと、水商売の何が悪いっていうの?”
そう言うと奈緒美は目を伏せ唇を噛んだ。
“純粋にお金を貯める為にしてるだけ…今まで色恋沙汰なんか一度もなしよ。
だって、お母さんみたいに子供を犠牲にしてまで男の人と一緒になりたくないもの。
…私は、母親なんだから”
母親の温もりは毛布よりも優しく体を包み、結子の眠りは深くなった。
結子は夢の淵で誰かが泣く声を聞いた気がした。
“…結子、ちゃんとお布団で寝よう”
奈緒美に揺り起こされて結子は目を覚ました。
“…お祖母ちゃんは?”
見渡した部屋の中には千絵子の姿はなかった。
“帰ったよ。それより早くお風呂入って寝よう”
奈緒美の後れ毛を見つめながら、さっき泣いたのはお母さんかもしれない、と結子は思った。
…お祖母ちゃんは嫌いじゃないけど、お母さんが泣くのは、いちばん嫌…
なぜか急に切なくなって結子は母親に甘えるようにまとわりついた。
翌朝の奈緒美はいつもと変わらない様子だった。
2人はいつも通りに支度をして定時に家を出た。
昨日、千絵子と歩いた道を逆に辿る。
…お母さんは、お祖母ちゃんが嫌いなのかな。お母さんのお母さんなのに…
結子は色々と訊きたい衝動に駆られながらも、奈緒美がそのことに触れないので口をつぐんでいた。
交差点を過ぎて角を曲がると保育園は間近だ。
門の脇ではハクモクレンが咲き誇り、その花を仰ぐように千絵子が立っていた。
2人に気づいた千絵子は、バッグの持ち手を緊張気味にぎゅっと握った。
ちょうど登園者の一陣が去って、門の前には奈緒美と結子、そして千絵子だけが残された。
“帰らなかったの?”
奈緒美の問いに千絵子は目を伏せて頷いた。
“…あの後タエ子の所に寄って、新宿のホテルに泊まったの。思いきって無断外泊よ”
自嘲気味に笑うと千絵子は続けた。
“昨日は一方的に怒ってしまったけど、タエ子に色々と話を聞いて…奈緒美に謝らなくちゃって…
お父さんとのことも、あなたが出て行く前にきちんと向き合えば良かったのよね。
そしたら、たとえ衝突したって今とは違う結果になってたかもしれない…”
“いいよ、もう”
短く応える奈緒美の声は強張っていた。
“言い訳みたいだけど…私は奈緒美に両親揃った家庭を作ってあげたかったの。あの人も奈緒美を俺の娘として大事に育てるって言ってくれたから…
本当に、あなたを幸せにしたかったの”
“私の、幸せ?”
結子は白い花を見上げた。
“あの家ではそんなのずっと昔に消えてたよ?
それを知っててお母さんは気づかないふりしてたのよ…”
奈緒美は眩しそうに目を細めた。
“でも今は結子がいてくれるから…だから、もういいの”
先刻と同じ言葉は今度は穏やかに響き、
奈緒美の瞳は凪のように落ち着いていた。
千絵子は、奈緒美が辛い過去と訣別しようとしているのだと悟った。
そして、自分とも。
“…わかった…ただ、これからもあなた達の幸せを願わせてね。
帰る前に…ひとつだけお願いがあるの”
千絵子はおずおずとカメラを取り出した。
“タエ子に借りてきたの。あなた達の写真を撮らせてもらえないかしら。
後生だから…お願い…”
奈緒美はこくりと頷くと娘の頭を撫でて言った。
“結子、写真撮るよ”
“なんで?”
訝る結子を抱き寄せて奈緒美は笑ってカメラを指差した。
“記念撮影よ…はい、チーズ!結子、次はお祖母ちゃんとね”
カメラに向かって祖母と孫はぎこちない笑顔を作った。
“じゃあ…”
千絵子は何か言いたげだったが、結子が園庭へと駆け出した為に奈緒美も慌てて後を追って門の向こうへ消えてしまった。
娘と孫が去った後も、ハクモクレンの下で千絵子はいつまでも別れを惜しんでいた。
「お祖母ちゃん、ハクモクレンの花が好きって言ってたっけね」
結子は写真を元に戻しながら言った。
千絵子とはこの写真が撮られた年の冬にもう一度会ったきりだ。
…この花、花嫁さんの着物みたいでしょう。いつか結子ちゃんの花嫁姿も見たいわぁ…
何もない枝に向かって伸ばした千絵子の指は痩せて節くれだっていた。
その翌年、ハクモクレンの花が散り落ちた頃に千絵子は逝去した。
進行の早い胃癌だったと奈緒美は叔母のタエ子から聞いた。
遺骨は夫方の墓に埋葬されていたが、そこに奈緒美が足を運ぶことはなかった。
結子が祖母の死を知ったのはもっと後のことだが、千絵子が亡くなった年から彼岸時に奈緒美に連れられて湘南の浜に赴くようになった。
千絵子の生家は茅ヶ崎にあった。
すでに棲む人のない朽ちた建物の片隅に母娘は春と秋に花を手向けた。
二度目の春を目前にして、奈緒美は中野のアパートを引き払った。
貯金も目標額に達し、夜の仕事を辞める心づもりができた。
タエ子叔母にそのことを伝えると、退職金代わりよ、と笑いながら藤沢の中古物件を紹介された。
その物件について、常連客から譲り受けたということ以外タエ子は詳しいことは言わなかった。
東京に比べて恐ろしくひなびた土地で奈緒美と結子は新しい生活を始めた。
それから23年。
奈緒美は継父や妹と音信不通のままだ。
タエ子は数年前に店を閉めたという報せを最後に音沙汰なしである。
千絵子の生家跡地は他人に売却された。
小さかった結子は成長し、奈緒美はもうすぐ亡母の年齢に並ぶ。
庭が見たい、と奈緒美が言ったので結子はカーテンを開けて窓の結露を拭いた。
庭の一角に結子の背丈ほどの細い庭木が見えた。
「ねえ、あんな庭木あった?」
「うん…あれ、ハクモクレン」
結子の結婚が決まったとき、思い立って植樹したのだ。
「へえ…花が咲いてないと何の木だかわかんないわね」
結子が苦笑した。
「さくよ、はるに」
その頃に結子と一臣は式を挙げる。
冷たい風に揺れる細い枝は、千絵子の痩せた指を連想させた。
不意に結子は、奈緒美が亡き祖母を想いながらこのハクモクレンを植えたのでは、と思った。
「咲くといいね…」
結子は祈りを込めて呟いた。
「3日間どうだった?」
元旦の都内は車も少なく、一臣は愛車を心地よく走らせていた。
一臣はいつにも増して優しい口調で3日間の様子を訊いた。
「うん、慣れないこともあって戸惑ったりもしたけど、でも楽しかった」
結子は運転席をちらりと見た。
全く会わなかったのはたった1日なのに、一臣の横顔がやけに懐かしく思えた。
「カズは、ちゃんとご飯食べてたの?」
「ああ…まあね」
藤沢の家にいる間、結子は日に何度かメールを送信したが一臣の返信は遅れがちだった。
「どこか出かけた?」
「昼は家で寝てたな。一昨日の晩は河本達と飲んだ」
河本は一臣の友人であるが、結子は面識がない。
取り留めのない会話を続けているうちに一臣の実家に着いた。
もう少し華やかな服を選ぶべきだったかなどと思いながら、結子は髪を整えた。
「ふぅ…緊張するなー」
玄関ドアを開けようとする一臣の後ろで結子は囁いた。
一臣は笑っただけだったが、結子の心臓は徐々に拍動を速めていった。
この玄関から先では、結子はただの客人ではなくなるからだ。
「明けましておめでとうございます」
2人がリビングに入ると賑やかな宴が一瞬中断されて、皆の視線が結子に注がれた。
リビングには一臣の父親と末弟の舜、そして2組の夫婦がいた。母親の沙紀子はダイニングの方から顔をのぞかせた。
「ああ、いらっしゃい。寒かっただろ、2人とも早く座りなさい」
一臣の父親である大輔は頬を紅くして上機嫌だった。
「はじめまして…」
結子の挨拶が終わらないうちに、大輔の隣にいた男性が話し始めた。
「私はね、一臣の叔父です。いやしかし綺麗な人だなあ、一臣よかったなー」
一臣の叔父は豪快に笑ってグラスのビールを飲み干した。
叔父の言葉に座は盛り上がって結子もつられて照れ笑いを浮かべた。
「あの、ビールお持ちしますね」
ひとしきり挨拶が済むと、結子は小さな紙袋からエプロンを取り出してキッチンへ向かった。
「あのう、お義母さん、お手伝いします」
料理を盛りつけていた沙紀子が振り返る。
「あら結子さん、いいから座ってて。お客さんなんだから」
沙紀子はそう言ってくれたが、結子は袖をまくってシンクの前に立った。
1ダースほどの空になったビール缶をすすいでダストボックスに捨てる。
「久谷の家系はみんな飲んべえよ。一臣は私に似たのか、下戸のくちだけど」
一臣の容姿は沙紀子譲りだと思っていたが、どうやら体質も似ているらしい。
「わあ、美味しそうですね」
「煮しめも多めに作ったの。一臣は結構好きなのよ…さ、リビングに戻りましょ」
結婚したら、こんなやりとりが恒例行事になるのだろうし、沙紀子とキッチンに立つ機会も増えるに違いない。
今はお互いに遠慮がちな姑や舅との距離ももっと縮まっていくだろうか。
そんなことを考えながらリビングの入口で結子はそっと背筋を伸ばした。
「…でもいいわぁ、若いって。結婚生活に希望が溢れてる感じで。私達なんか親の介護の不安ばっかりだもん」
話題がいくつか変わって、一臣の叔母がしみじみと言った。
そうだなぁ、とグラスを傾けながら大輔も応える。
「うちの両親は介護する間もなく逝っちまったからな。ああ、でも健輔兄さんのところは義姉さんの親を介護してるんだよな」
健輔というのは一臣の伯父なのだそうだ。
「夜も昼もないって参ってたな。施設入れたいけど、えらい順番待ちだとか…」
「うちもね、義母が最近ボケてきちゃったのかなって思うこと多いの。もし介護するようになってもうちの人はあてになんないし…ああ、考えたくないわ」
溜め息混じりにこぼす叔父や叔母達の話を大輔が締めくくった。
「まあ、だからな、俺と母さんは一臣達の世話にならないように老後に備えるつもりだよ。
年取っても健康第一で、いつまでも自活できるぐらいじゃないとなあ。
親子だからってね、子供の負担になって当然てことはないからね」
大輔の言葉に皆が頷いた。
結子も黙ってそれに倣ったが胸中は複雑だった。
恐らく大輔に他意はないのだ。自分は子供の手を煩わせる老い方をしたくないと言いたいだけだ。
かたや、奈緒美は病に倒れてから少なからず娘の手を借りている。
大輔の言葉になぞらえると、奈緒美は娘に負担をかけるダメな母親だと言われているようだった。
話題が舜の学校生活のことに変わって再び笑いが起きた。
結子も周りに合わせて笑っていたが、大輔の言葉は小さな棘となって結子の心に微細な傷を刻み続けた。
「カズ、そろそろお昼だよ!」
ドア越しに声をかけたが返答はなかった。
正月休みも残り2日となり、予定のない一臣は寝室で惰眠を貪っているようだ。
もう、と溜め息をひとつついて結子はリビングで年賀状の束を自分と一臣宛てのものに選別し始めた。
圧倒的に一臣宛ての年賀状が多く、改めて豊富な交遊関係を持っていることがわかる。
…カズは、どうして私を選んだんだろう。
そんな素朴な疑問が結子の心に浮かぶ。
卑下するのではないが自分はとりたてて美しい訳でもなく、何か秀でたものがある訳でもない。
一臣なら、あまたの出逢いもあっただろうし、結子よりも“ランクの高い”女性と付き合うこともあっただろう…
ずっと前にそんな疑問を一臣にぶつけたときは、
“なんでかな…上手く言えないけど、でも結子のことは全部好きだよ”
そんな答えが返ってきたが抽象的過ぎて素直に喜べなかった。
気を取り直してハガキに目を移す。
手にした年賀状は一臣宛てだった。
…河本真生…コウモト、マサキ?マサオかな?
差出人は恐らく一臣の友人の河本だろう。
結子は一臣の友人達に何度か会ったことがあった。
一臣と彼らに共通しているのは、明るく清爽として自信に満ち、若いなりの気品と謙虚さを備えていることだ。
それは彼らの個性をさらに輝かせ、そして居合わせた結子までもが洗練されていく錯覚に陥らせた。
けれどいつも何かの拍子に結子は錯覚から醒めるのだ。
彼らの輝きに比べ、自分は日和見がちな自信のなさと脆弱な虚栄心でくすんでいる気がしてならなかった。
……この河本という人はどうだろう…
数ある友人達の年賀状の中で、河本からのハガキに結子はなぜか惹きつけられていた。
それにあくまでも結子の勘だが、河本と一臣とは特別に強い繋がりがあるような気がしていた。
結子は一瞬寝室の方を見やるとハガキを翻した。
どこの風景だろうか。
朝焼けか夕焼けか、太陽が山の稜線に半分隠れている写真だ。
仄明るい空の部分にメッセージが書かれていた。
【あけましておめでとう。思いがけなく年末に会えてよかった。昔に戻れたみたいで、すごく懐かしかったよ】
ただ整っているのではなく、伸びやかでやや躍動感のある文字だった。
「佐伯さん、来週の初めにカンファレンスをしたいんですが、ご都合はよろしいですか」
病棟の廊下で理学療法士の濱口が訊いた。
正月休みが終わり、また自宅と会社と奈緒美の病院を往き来する日々に戻っていた。
「月曜日なら来れます…6時は過ぎちゃうけれど」
濱口はボードに挟んだ用紙にペンを走らせながら話し始めた。
「最近の奈緒美さん、すごく調子がいいんですよ。心配もあったけど一時退院してみて良かったんですね」
年が明けてからの奈緒美は精神的にも安定してリハビリにも臨めているようだ。
…お母さんなりに頑張ってくれてるんだ。
結子は元旦の朝のことを思い返していた。
再び病院へ戻る支度をしている間、奈緒美は名残惜しそうに畳を撫でていた。
そんな母親の背中越しに結子はこう言ったのだ。
“お母さん私ね…今年はヘルパーの資格取ろうかなって思うの。介護のこと何にも知らないから…
私、頑張るから…だからお母さんも…
早く退院して、またこの家で暮らそう”
奈緒美は目を見張って、そして黙って頷いた。
その瞳から、ぽたり、と一滴の涙が畳に落ちた。
「意外と続いてるなぁ」
シンクに向かう結子に一臣が声をかけた。
「そんなに手の込んだ物作ってないし…まだ体重も戻ってないから頑張らないと」
そう言って結子は小ぶりの弁当箱を洗い始めた。
「でもそんなに太ったか?正月太りなら俺の方がヤバいよ」
一臣の言葉にシンクの水音が重なる。
結子は正月太りのダイエットを理由に手弁当を持参するようになっていた。
けれどそれは表向きの理由だった。
奈緒美に誓ったヘルパー資格の取得にはおよそ10万円が必要なのだ。
結子達はお互いの収入を折半して家計をやりくりしていた。
生活費と挙式の費用やマンションのローンに加えて、余計な出費を増やすのには心苦しさがあった。
経済的な理由だけではない。
結子の心には大輔の言葉がこびりついていて、万が一にも母親の介護の為に一臣の稼ぎを充てたと思われることが嫌だった。
かくして結子は毎日の昼食代をプールし、受講料に充てることにしたのだ。
…こんなの、嘘のうちに入らないよね…
本当の理由を明かさないでいる後ろめたさを掻き消すように、結子は一臣に笑顔を向けた。
「一臣、いつの間にか飲めるクチになったね」
「飲めるってほどじゃないよ」
空のグラスに添えられた指先を一臣はぼんやりと眺めて言った。
「ふーん…あ、これ食べてみてよ。ここの裏メニューなんだけど絶品でさ、ビールに合うんだよ」
チキン南蛮を一切れ食べながら、真生は一臣に屈託のない笑顔を見せた。
真生はかなりの常連らしい。
つられて一臣も一切れつまんでみた。
「旨い…あれ?この味…」
「“しみず”のチキン南蛮の味に激似なんだよねー」
“しみず”は学生時代に度々通った大学近くの定食屋だ。
一臣は思わず笑った。
「まさか恵比寿のカフェバーで“しみず”の味に再会するとは驚きだね」
一臣を見ながら真生も笑ってグラスを傾け、そしてさらりと言った。
「ついでに一臣から会いたいなんて言われたのも驚きだけど」
2人の視線がぶつかった。
「どうしたの、何かあった?お悩み相談ならいつでもどうぞ」
「悩みなんて…別に何も」
一臣は口ごもった。
「別に何も、ですか」
一臣の言葉を復唱しながら真生は二切れ目の肉を噛んだ。
一臣は店員に空のグラスを差し出し、同じものを、とオーダーした。
真生にはとっさに否定したが、悩みがない訳ではなかった。
厳密に言えば“気がかりな事”であって、今はそんな胸の内をうち明けるつもりもなかった。
なぜ真生に会おうと思ったのか、わからない。
明確な理由もないまま、けれど突き動かされるように一臣が懐かしいアドレスを開いたのは3日前のことだ。
「年末に再会して、懐かしくてまたゆっくり話したいって思っただけだよ」
「…そう……あ、タバコ、いい?」
チキン南蛮の皿を脇に押しやり、真生はタバコに火を点けた。
「キャスター…相変わらずオヤジみたいな銘柄吸うんだな」
形のいい唇から吐き出された仄白い煙が照明の下にたゆたうように広がる。
「いいの、これが好きなんだから」
一臣は、タバコを吸う真生の美しい所作を昔から好ましく思っていた。
漆黒の灰皿に灰を落としながら真生が呟いた。
「一臣ってさあ……変わってないね」
その言葉は砂地に落ちた水滴のように一臣の心に沁みた。
そして同時に、真生に会いたかった理由がわかったような気がした。
「佐伯さーん」
会社を出る結子の後ろから後輩の早苗が声をかけてきた。
「駅まで一緒にいいですかぁ?」
語尾が甘く跳ね上がる。いつもよりフェミニンな装いの早苗は結子に追いつくとにっこり微笑んだ。
「いいよ…今日どっか遊びに行くの?」
早苗はバス通勤なので駅に用はないはずだ。
「そうなんですー。…ってゆうか実は、彼氏できたんですよー、私。で、今日は初デートってゆうか、デートは今度のお休みが本番なんですけど、一応今日のうちに渡したいなぁー、って」
嬉々として話す早苗に軽く圧倒されながら結子は良かったね、と微笑んだ。
「佐伯さんは?どんなのあげるんですか」
「どんなの…って?」
「あ、もしかして逆にもらえちゃったりするんですか?佐伯さんの彼氏、優しいからー」
結子は質問の意味が理解できずに困惑した。
早苗もまた反応の薄い結子に困惑していた。
「やだぁ…佐伯さん、今日ってバレンタインですよー。もしかして佐伯さんてイベント興味ないとか?」
「そうでもないけど…ほら…今、式の準備で頭いっぱいだから」
とっさに笑ってごまかした。
「そっか、そうですよねー。あと1ヵ月くらいですよねー」
「うん、なんかね、考えてはいたんだけど、やっぱり今年は結婚式の方が比重大きくなっちゃって。でも、ちっちゃなチョコぐらいはあげるよ」
改札を通って早苗と別れた途端に溜め息が出た。
…今日がバレンタインデーだなんて、忘れてた。
そんなイベントを忘れさせるほど結子の頭の中は別のことで占領されていた。
けれどそれは結婚式のことではなかった。
ひとつはヘルパー講習について。
本来は連日受講で早々と修了となるものを、結子は仕事を休めず毎週土曜日だけ講習を受けていた。
毎週土曜日に何かと理由をつけて家を出る後ろめたさで、結子は一臣の顔をまともに見られなくなっていた。
あと3回は気まずい思いをしなくてはならない。
そしてもうひとつは奈緒美の退院についてだった。
先月のカンファレンスで初めて主治医の口から退院の話が出たのだ。
それも早ければ2月末ぐらいに、という具体的な期日まで提示された。
奈緒美は完全に回復した訳ではないが急性期治療の対象ではない、というのが退院を勧める理由だった。
厳密には、主治医の柴田医師が勧めたのは他の医療機関への転院だった。
退院と聞いて自宅へ帰って療養できると思った結子は肩を落とした。
柴田医師によれば、奈緒美は介助なしには身の回りのことができないし、もう少しリハビリ専門の施設で機能回復を目指した方がよいだろうとのことだった。
そんな結子の落胆ぶりを見て柴田医師はこう付け加えた。
“まあ、現段階の選択肢のひとつとして申し上げたまでですから…”
“あのう、私も介護の勉強してるんです。多分、母の面倒くらいは見られると思うし…
何よりも、母を早く…自宅に戻してあげたくて…”
話していると不意に涙がこみ上げてきて、結子は慌てて口を噤んだ。
“そうしたらね、ソーシャルワーカーとも相談してもらってどうするか決めましょう”
そんなやり取りを思い出すだけで結子はやるせない気持ちになる。
…でも、可能性ゼロってことじゃないしね。
顔を上げてすうっと息を吸い込む。
…お母さんのことも、一臣のことも、みんな…幸せになるように…頑張ろう。
結子は自分を奮い立たせるように雑踏の中に突き進んで行った。
小さな包みを前にして、結子は頬杖をついて時計を見た。
一臣の帰宅は相変わらず遅い。
ヘルパー講習が始まった頃から一臣の帰宅を待つことも少なくなっていた。
平日は夕食を一緒にとることも減り、1日のうちで共に過ごす時間はごく僅かだ。
…今日くらいは起きて待ってよう。
重い瞼をこすっていると玄関のドアが開く音がした。
「おかえり。遅くまで大変だね…」
出迎える結子に一臣は驚いた表情を見せた。
「なに…起きてたの?なんで?」
結子ははにかんだように笑って包みを渡した。
「今日バレンタインでしょ」
「ああ…ありがとう」
一臣の笑顔はバスルームの前で消えた。
その夜はどちらからともなく求めあった。
2人は久々の快感に溺れていた。
一臣は果ててなお貪欲に挑み、結子も恥じらいを捨て一臣の熱の塊を求めた。
けれどそんな激しい交わりは、愛情の表現ではなかった。
小さな秘密と些細な嘘という罪。
相手へ明かすことのできない罪悪感から結子も一臣も無意識に逃げようとしていた。
快楽という逃げ道で、2人は必死に贖罪の祈りを捧げていた。
肌が離れても気だるい熱が結子の下腹部に残っていた。
「今度の土曜日なんだけど…」
脱ぎ捨てた衣類を拾い集めて身に着けている一臣に話しかけた。
間接照明の灯りが一臣のしなやかな筋肉の陰影を浮かび上がらせる様を見ながら、結子は言葉を探していた。
土曜日に家を空ける理由を考える。
奈緒美の病院のことはとっさに避けた。
友達と会う、というのもそぐわない。
唾を飲み込んで頭の中の台本を読んだ。
「…っていうか来月の初めくらいまで土曜日に出勤してくれって言われてるの。あの、新年度から新しい講座を開設したりとか、先生方との調整とかね…仕事がね、結構増えちゃったから…」
…仕事で、が一番もっともらしい理由かな………でも、所詮は、嘘だけど…
言いようのない罪悪感と虚無感が押し寄せる。
「わかった…年度末はどこも大変だよな」
一臣はあっさりと了承した。
疑問も非難もないことに結子は拍子抜けしたが、安堵の方が大きかった。
「うん…」
欲していないはずなのに、下腹部の熱は増して潤みが溢れ始めた。
照明を落とすと、結子は再び一臣にすり寄った。
「完全に男できてるよ、それ」
がっしりした体格に似合わない甘いカクテルを飲みながら及川が断言した。
「出た!オイちゃんの言い切り癖!一臣もさー、なんでオイちゃんなんかに相談すんの?」
真生がタバコを揉み消しながら茶化す。
「なんでって…オイちゃん呼んだの、お前だろ」
一臣は苦笑してみせたが、内心は楽しんでいた。
「ばーか、俺はなあ、お前らよか人生経験豊富なんだよ。その俺の経験値的セオリー通りなら、一臣の彼女は男つくってる!!」
一臣はいつぞやの恵比寿の店で学生時代からの親友と会っていた。
結子が毎週末家を空けると一臣が何気なく話したところに、及川が食いついてきたのだ。
「でも結子は…彼女はそういうことできるタイプじゃないんだけど」
すかさず及川が反論する。
「俺のカミさんだってそうだったよ。だいたいさ、俺が初めての相手で、結婚してからも、その…レス気味だったのが…突然さ…」
及川が急にうなだれた。
「…妊娠したから別れたいって…いや、妊娠は結局間違いだったんだけどさ…」
そう言って及川は苦々しい顔をしてみせた。
「最初は家計の足しにバイト行くって理由で、実際に働いてもいたんだけどさ。そのうちバイトにしちゃ出かける回数とか時間帯がおかしいなって思って…」
及川の視線は眼前の友人達を通り越し、そこにはない光景に注がれていた。
「で、冗談ぽくカマかけてみたんだよ、“男できたのか?”って。そしたら真顔で“好きな人と、彼の赤ちゃんができた”だと」
及川の独白が続く中、一臣は黙って聞いていたが真生は新しいタバコに火を点けるとさらりと尋ねた。
「浮気した理由は訊いた?」
「当然訊いたよ。そしたら、“私はずっと我慢してたの、でももう限界”って…はあ!?ってかんじだよ。俺がいつ、お前に我慢を強いた?って。
俺は浮気しない、ギャンブルしない、暴力ふるわないし家事も手伝うし…セックスだってこっちが我慢してたくらいだってのに」
大げさに溜め息をついて及川はしみじみと言った。
「一臣…マジで離婚はキツいからな」
「やめろよ、こっちは結婚間近なのに」
一臣は笑い飛ばした。
及川も笑って、しかし意味ありげに呟いた。
「そうだな…でも、案外そうなっても一臣は平気かもな」
及川の背中を見送りながら真生はくつくつと笑った。
「あーあ飲み過ぎだよ。いい歳して自分を律せないのはダメだねぇ」
「何言ってんだ散々飲ませておいて。それより…オイちゃん離婚してたんだ」
一臣は及川の離婚にショックを受けていた。
「前に会ったことあるけど、オイちゃんも奥さんも仲良くて幸せそうだったのに」
感傷的な一臣に真生は少し呆れた表情になった。
「他人の前で一時的に幸せを装うのは普通誰でもするでしょ。真に受けてどうすんの。
それより、オイちゃんの二の舞にならないようにね。幸せな結婚したいでしょ?」
「二の舞って…お前こそオイちゃんの話真に受けてんの?彼女は浮気なんかしてないって」
少し苛立った一臣に、真生は穏やかに諭すように言った。
「そういう次元の話じゃないよ…一臣だってきっと理解してるはずだよ」
刹那、真生の清冽な眼差しとアルコールの酔いが不可思議な化学反応を起こした。
「お前は…、」
感情のベクトルが揺らぎ、もどかしい気持ちで言葉が続かなかった。
一臣は救いを求めるように真生を見つめた。
真生は穏やかに微笑んでいた。
結子は帰宅するなりクローゼットを全開にして物色していた。
…やっぱり、これ着るしかないか…
高校時代のネーム入りジャージを引っ張り出して、ベッドの上に放り投げた。
ジャージといえば、ジム通いなどしない結子が持っているのは垢抜けないこの1着だけだ。
着るつもりもなくしまい込んでいたがヘルパー講習の施設実習で急遽必要になったのだ。
改めてところどころ毛玉のついたジャージを手にすると、高校時代の思い出が鮮明に蘇ってきた。
友人達との他愛ない雑談、年季の入った教室の風景、同級生に抱いていた恋心…
くすぐったいような思い出の世界に浸りながら結子はふと思った。
…そういえばカズもお正月の頃から昔の友達とちょくちょく会ってたっけ。
脳裏に河本という名前がすぐに浮かんだ。
結子は一臣の友人達の名前を割とよく記憶していた。
それは公私の区別なく一臣が外で会ってきた相手のことを結子に話すのが常だったせいもある。
いちいち報告しなくてもいいと思うのだが、それは結子に対して隠し事をしないという一臣なりの配慮なのだろうとも理解していた。
河本の名前がすぐに思い浮かんだのには他に理由があった。
多くの友人達の中で、どうしてか河本のことが気にかかっていたからだ。
きっかけは新年に一臣の実家へ向かう道中で彼から河本の話を聞いたことだった。
一臣と河本は大学で知り合い、卒業後に音信が途絶えてしまっていたが、年末に仕事を通じて偶然に再会したというのだ。
それを聞いたとき、偶然とはいえありがちな話だと思った。
しかし一臣は何故か話しながら時折笑みで緩む口元を懸命に手で覆い隠していた。
それはまるで美しく稀有な体験談をわざと感動を押し殺して語っているようにも見えた。
その様子から、河本という人物との再会が一臣にとって特別な出来事だったのだと悟った。
2人がその後も連絡を取り合い、数回会ったことは一臣から聞いていた。
例にもれず一臣からの“報告”はあったが、そこから結子が知り得た河本の情報は僅かであった。
年齢、職業、一臣と同窓生であることを除けば馴染みの店が恵比寿にあることくらいだ。
一臣は河本について饒舌になることを恐れている気がして、 かえって結子は密かに関心を募らせていたのだった。
結子が河本に寄せる関心は憧れに近い感情でもあった。
結婚を間近に控え、夫婦同然の暮らしを始めているにもかかわらず、結子には漠然とした不安がつきまとっていた。
カズは本当に私を愛しているのか…
カズにとって私の存在は何にも代え難いような特別なものなのか…
カズがどこかで私の存在を語りながら、愛しさに堪えきれず思わず笑みをこぼす、なんてことはあるだろうか…
私も、河本さんみたいに…なりたい……
漫然と考えているうちに結子は眠っていた。
どれくらい時間が経ったのか。
ふと目覚めると隣で一臣が寝息をたてていた。
闇にぼやけた一臣の額や頬や唇の輪郭にそっと指を伸ばして触れてみる。
一臣の唇が微かに開いた。
今ならカズの本心が聞けるかな…
半ば悪戯、半ば厳かな実験のつもりで結子は眠る一臣に問いかけた。
「私のこと…愛してる?」
一臣は答えを返してはくれなかった。
当然の結果に結子は可笑しくなり、そっと自分の唇を重ねると再び瞼を閉じた。
僅かな時間差で、一臣の唇が悲しい答えを告げていたのも知らずに、結子は深い眠りに落ちていった。
夜に爪を切ると親の死に目に遭えない、と教えたのは誰だったか。
両手の指先を見つめながら結子はそんなことを考えていた。
この日の施設実習の為に結子の爪はマニキュアを落として短く切り揃えられていた。
実習先は府中市の特別養護老人ホームだった。
結子の他には若い男性が実習を受けることになっていて、彼は結子を見つけると人懐っこい笑顔で矢島と名乗った。
「…矢島さんはリネン室で清拭タオルの準備、佐伯さんはデイルームで利用者対応ね。午後は入れ替わりしてもらうんで。わかんないことは職員に指示を仰ぐように。何か質問、ありますか?なければ…」
実習担当の女性職員は早口で説明を終えると、結子を12畳くらいのスペースに誘導した。
そこでは6人の老人達がテレビを観ていた。
「はーい、今日の実習生さんでーす」
驚くほど張りのある職員の声に反応したのは僅かに1人だけだった。
「佐伯と申します…今日はよろしくお願いします」
結子の挨拶が終わらないうちに職員は忙しげにその場から離れていった。
物言わぬ老人達の中に取り残されて、結子は途方に暮れていた。
「すっげえ疲れた…って、たいしたことしてないんですけどねー」
「そうですね…」
結子と矢島は西日を浴びながら駅に向かっていた。
「私なんて午前中は利用者さんと話しもできないで、ただ一緒にテレビ観てただけ…午後だってタオルたたんでただけだし。1日うろうろして…
あれで実習しましたなんて報告できないですよ…」
「確かに、喋んない人多いですよね。あっ、でも俺は異様に話しかけてくるおばあさんにひっつかれてましたよ。俺のこと孫と間違ってたのかなぁ」
屈託のない矢島に結子は軽い気持ちで質問した。
「矢島さんはどうしてヘルパーの資格取ろうと思ったんですか?」
すると、にこやかな矢島の顔が微かに強張った。
「…俺、就活が上手くいかなかったんです。内定とれなかったけど来月には卒業しなきゃならないし。
友達が高卒でこういう施設に勤めてんですけど、もうフロアー主任とかになってて…それ聞いたら、ヘルパーでも何でも就職浪人するよりマシかなとか…
福祉のこととか、わかってないくせにって自分でも思うし、全然ちゃんとした動機じゃないんですよ…」
エントリーシートの枚数に反比例して自信や希望がすり減っていく。
自分という存在を否定され続ける為だけに日々が過ぎる。
緊張、焦燥、徒労、嫉妬、喪失、絶望…
暗い話ですいません、と矢島は頭を下げて心情を打ち明け始めた。
一臣にしても母親の奈緒美にしても、結子の周りには苦悩を吐露する人間がいない。
それは心が強いからかもしれないが、ひょっとして結子に心を許しきっていないからではないか、とも思う。
母親はともかく、一臣は…
だから肩を落として辛い胸の内を打ち明ける年下の矢島を見ていると、胸が切なくときめいた。
しかしそれは間違っても恋愛感情ではなく、母性愛から生まれる庇護欲だった。
もしも彼が結子の実の弟だったなら、辛いね、でもね大丈夫だよ、と言って励まし抱き締めていたかもしれない。
「矢島さんならきっと大丈夫。今は焦るかもしれないけど…いつか納得のいく就職ができると思いますよ」
何の根拠もない励ましだが、矢島は照れたように微笑んだ。
結子も、そんな矢島を見上げて微笑む。
しかし交差点にさしかかった瞬間、結子の笑顔は消失してしまった。
ソファーに身を沈めてテレビを観る一臣は、紛れもなく結子のよく知る一臣だ。
わざとダイニングの方から一臣を見ているのは、結子なりの検証をしているからだった。
本当は検証なんてするまでもないことだと、わかっているのだが。
「…ねえ、今日さ…」
結子は意を決して口を開いた。
「カズ、今日…どこか出かけた?」
「えー?別に…コンビニくらいかな」
一臣はテレビから視線を離さず答えた。
結子は思わず目を瞑った。
脳裏に先刻の光景が浮かぶ。
結子が駅に向かう途中の交差点で見たのは、信号待ちの車の列だった。
先頭の車は中年女性が乗った軽自動車だった。
2台目の車が視界に入った瞬間、結子は酷く驚いた。
車に疎い結子だが、その車のことはよく知っていた。
ダークブルーのレガシィ。
「コンビニは、歩いて行ったの?」
「は?そうだけど、なんで?」
結子は動悸を抑えるように冷えたコーヒーを一口啜った。
「だって、車のキーが…ソファーに投げてあったから、車使ったのかなーって思って…」
そう言うと、結子は恐る恐る一臣を見た。
「ああ…」
一臣が何かを思い出したような顔をした。
「車に置きっぱなしの物があったのを思い出して取りには行ったけど」
「ついでに乗らなかったの?」
「乗らないよ。なんでそんなこと訊くんだよ」
訝しげな一臣の視線をかわしながら、結子は微笑んでみせた。
「別に…前はお休みの日に、よく乗ってたでしょ」
一臣が何かを言う前に、結子はすばやくその場を立ち去った。
バスタブの縁にもたれるようにして湯に浸かりながら、結子は考えを巡らせていた。
…あの、信号待ちしていたダークブルーのレガシィはカズの車だ。
そう言い切れるのは、ナンバープレートの数字を読み取ることができたからだ。
その数字の並びには結子と一臣しか知らない特別な意味があって、結子は自然と暗記していたのだ。
それとなく様子を窺っていたが、一臣の方は結子があの場所にいたことに気づいていなかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろした結子だったが、今度は一臣の不可解な行動が気になりだした。
…カズは、どうしてあんな所にいたんだろう。
…それに……どうして、それを隠そうとするの…?
結子がバスルームに消え、シャワーの水音が聞こえ始めると、一臣は携帯を取り出した。
メール受信のランプが点滅している。
発信者は恐らく真生だろう。
真生とはあの夜以来、会うことも連絡を取り合うこともなかった。
あの夜、振り返りもせず真生が去ってしまい、酔いが醒めていくと一臣の心の中は次第に凪いでいった。
だからあの心の揺れを一臣はずっとアルコールの酔いのせいにしていたのだ。
けれど…
今朝、携帯のディスプレイが真生からの着信を示した瞬間から、一臣の心には漣が立ち始めていた。
くすぐったいような緊張を味わいながら一臣は通話ボタンを押した。
“もしもし”
“あっ、もしもし……あれ!?もしかして一臣?”
“なんだよ、そっちからかけてきたくせに…なんか後ろが騒がしいな”
電話の向こうの真生は緊迫した声を発していて、微かにサイレンの音が聞こえた。
“ごめん、かけ間違いした。これから病院に救急搬送されるところで…え?…ああ、はい…”
背後で救急隊員が真生に何かを言っている。
……病院!?
一臣が事態を理解する間もなく、通話は途絶えた。
…救急搬送?真生が……?
すぐさま真生の携帯に電話をかけ直したが、どこかと通話中で繋がらない。
何度もリダイアルを繰り返していたが、真生は電源を切ってしまったようだ。
一臣は気を揉みつつ電話口から聞こえた音声を思い出してみた。
……確か…府中がなんとかって…
次の瞬間、何の迷いもなく一臣は財布と車のキーを掴んでいた。
一臣はカーナビを頼りに府中市内の病院を目指した。
最初の病院は空振りに終わったが、一臣が駐車場を出ようとするとポケットで携帯が鳴動した。
真生からの着信だった。
“一臣ごめん!しばらく電源切ってたから…何度も電話くれてたんだね”
真生の申し訳なさそうな声。
“真生!お前大丈夫なのか、病院ってどこなんだよ…俺、今そっちに向かってるから!”
すると真生は更に声を落とした。
“本当にごめん。実は……”
真生は子細を話し始めた。
この日、真生は7歳の姪を連れて府中市内で開催された子供向けイベントに来ていた。
そこで姪が嘔吐と激しい腹痛を訴えた為に真生は慌てて救急車を要請した。
真生はそれに付き添っただけだった。
“虫垂炎だったんだけどね。子供ながらに気を遣ってずっと痛いの我慢してたみたいでさ…
救急車の中でも泣かなかったのが、さっき母親の顔見た途端に号泣で…可哀想なことしちゃった”
いつになく弱々しい声を聞くと、まるで真生自身が病床に臥す幼子であるかのように思えた。
“…で、病院はどこ?”
“え?…だから…説明不足で迷惑かけちゃったけど、来てもらう理由は全然ないんだよ…”
真生の当惑した顔が目に浮かんだ。
“いいから。だってお前、もうお役御免なんだろ?迎えに行ってやるよ、ついでだから”
わざと少しぶっきらぼうな言い方をして電話を切ったが、一臣の表情は柔和な笑みを湛えていた。
指示された病院のロビーで真生は缶コーヒーを手に一臣を待っていた。
“これ、お詫びのしるし”
“お詫びがコーヒー1本かぁ?”
そんな軽口をたたきながら、一臣の心は優しく綻ぶ。
“相変わらず綺麗にしてるね。え、今は禁煙車なの?なんだよータバコ吸えないじゃん”
一臣は眩しそうに目を細めた。
愛車の助手席に、あの真生がいる。
5年前までは当たり前だった光景が蘇っていた。
何をしていても心が舞い上がり、目に映る全てが優しい色で彩られて見える。
けれどそれは春の日差しのせいだ、と一臣は思い込んだ。
真生を自宅近くまで送った後、一臣は静かな通りに車を停めるとシートに身をあずけて瞼を閉じた。
考えずとも心に浮かぶのは真生のことだった。
かつて望まない仲違いが元で真生が去ってしまってから、一臣は心の深淵に苦い澱のような感情を抱き続けた。
それは自責の念でもあり真生への恨みでもあった。
だから一臣は真生と再会することを密かに恐れていた。
しかし現実に再会した2人の間には何のわだかまりもないように思えた。
真生に会って笑顔を向けられる度に一臣の心から澱は消え失せ、枷を解かれたような軽やかさを感じた。
……ただそれだけ、か?
…真生のことで、こんなに浮かれている理由はそれだけなのか…?
耳元で冷ややかな囁きが聞こえた気がした。
…そうだよ。
…だって真生は、俺の大切な……友達なんだし。だから単純に嬉しいだけで、他に理由なんて……
ある訳がない。
自分に対しても、結子に対しても、そう断言できるはずだった。
…何やってんだよ……
結子の質問にとっさに嘘をついてしまった後味の悪さが一臣を苦しめていた。
…結子を欺くつもりなんてなかった……だけど、あれは嘘ってほど大袈裟なことじゃないだろ……ただ言わなかっことがあっただけで…
…下らない詭弁だな。
心の深奥から一臣を嘲る声が聞こえた。あの冷たい囁きだ。
…まあ、事実を伝える方が結子には酷な結果になってたかもな。結子は真生のことを知らない訳だし……それにこれからも知られずにいた方がいいって思ったんだろ?
………違う!!
激しい動悸を感じて一臣は苛立たしげに舌打ちした。
「どうしたの?」
いつの間にか結子が隣に座っていて、驚いた表情で一臣を見つめていた。
結子の風呂上がりの艶やかに紅潮した頬が痛々しく見えた。
「あ…何か言った?」
一臣は取り繕うような笑顔を浮かべた。
「お風呂空いたよって…」
「ああ…うん」
リビングを出て一臣は寒々とした廊下で立ち止まった。
…俺は結子を傷つけたくなかったんだ。結子を、愛しているから…
そう強く念じると、扉を封鎖するように一切の思考を停止した。
2月は駆け足で過ぎていった。
結子はやっとのことでヘルパーの資格を取ることができた。
いよいよ間近に迫った挙式の準備のかたわらで、母親の退院について主治医達と相談を重ねていた。
「つまり、お嬢さんとしては佐伯さんの転院は希望されない、と…」
柴田医師はそう言って腕組みした。
はい、と呟くように答えると結子は上目遣いに柴田医師の表情を窺った。
患者や家族の希望が尊重されると謳われていても、医師という権威に逆らうのは勇気がいる。
「母にリハビリが必要だということは理解しています。でも、在宅でもリハビリを受けるのは可能だとか…」
闇雲にごねていると思われないよう、ヘルパーの講習で得た知識を織り交ぜた。
「…うん…確かにそういう選択肢はありますね」
柴田医師の言葉は歯切れが悪かった。
もしや気を悪くしたのかと結子は不安になったが、柴田は腕組みを解くと穏やかに話し始めた。
「僕は最終的には患者さんとご家族の希望を優先したいと思います。
けれど、佐伯さんの場合は在宅生活に戻るにあたって不安要素を残していますから…簡単には了承しかねます」
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11レス 149HIT 永遠の3歳 -
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酉肉威張ってマスク禁止令
了解致しました!(小説好きさん1)
1レス 154HIT 小説家さん -
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おっさんエッセイ劇場です✨🙋🎶❤。
ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1409HIT 檄❗王道劇場です -
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今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 526HIT 旅人さん
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子あり夫婦と子なし夫婦は、どちらが老後安泰? 子どものデキにもよるけど…
38レス 1371HIT おしゃべり好きさん -
昭和時代の方々に質問!
スマホやネット、SNSが普及した平成後期から令和の時代に産まれたかったと思ったことはありますか? …
25レス 773HIT おしゃべり好きさん -
女前の画像見つけた 女性の方意見求む
この子めっちゃ女前じゃないですか かわいいです~
25レス 665HIT 恋愛好きさん (30代 男性 ) -
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17レス 394HIT 恋愛中さん (20代 女性 ) -
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マッチングアプリで知り合って、会うことになったのですが、1回目から泊まりでの旅行と言われました。 …
16レス 436HIT 恋愛好きさん (20代 女性 ) -
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7レス 299HIT 学生さん (20代 男性 ) - もっと見る