ダブルス
あなたは私の希望
あなたは私の喜び
あなたを愛してる
……なのに何故
あなたといると私は苦しくなるのだろう
※この小説は基本的にフィクションです
※過激な表現を含む場合がありますので、不快に思われる方は閲覧をお控え下さい
※不定期更新です
新しいレスの受付は終了しました
- 投稿制限
- スレ作成ユーザーのみ投稿可
「リハビリも大切ですが…まずね、脳梗塞っていうのは再発しやすいんです」
柴田医師はゆっくりと諭すような口調で言った。
「だから必ず再発予防をするんです。佐伯さんにもその為のお薬を服用してもらってますが、それだけで予防できるものではないんです」
結子は黙って主治医の言葉に耳を傾けていた。
「大事なのは日常生活での健康管理です。食事や睡眠、運動、ストレスコントロール…」
柴田医師は再び腕組みをして続けた。
「健康管理ってのは、なかなか難しいものです。これはリハビリにも共通しますが。どんなに自分に厳しい人だって365日続けるのは辛い。
…ましてや、後遺症があって独居という環境ではなおさらです」
「ええ…それは、わかっているつもりです」
消え入りそうな声で結子は応えた。
先だって病院のソーシャルワーカーと面談したときも、奈緒美が単身独居であることを指摘された。
「僕は自宅療養が絶対に不可能だとは言いませんが、現段階でそれを最終目標にするならば、ご家族でもう一度ご相談いただいた方がいいでしょうね」
結子は頭を下げ、そっと小さな溜め息をついた。
2月は駆け足で過ぎていった。
結子はやっとのことでヘルパーの資格を取ることができた。
いよいよ間近に迫った挙式の準備のかたわらで、母親の退院について主治医達と相談を重ねていた。
「つまり、お嬢さんとしては佐伯さんの転院は希望されない、と…」
柴田医師はそう言って腕組みした。
はい、と呟くように答えると結子は上目遣いに柴田医師の表情を窺った。
患者や家族の希望が尊重されると謳われていても、医師という権威に逆らうのは勇気がいる。
「母にリハビリが必要だということは理解しています。でも、在宅でもリハビリを受けるのは可能だとか…」
闇雲にごねていると思われないよう、ヘルパーの講習で得た知識を織り交ぜた。
「…うん…確かにそういう選択肢はありますね」
柴田医師の言葉は歯切れが悪かった。
もしや気を悪くしたのかと結子は不安になったが、柴田は腕組みを解くと穏やかに話し始めた。
「僕は最終的には患者さんとご家族の希望を優先したいと思います。
けれど、佐伯さんの場合は在宅生活に戻るにあたって不安要素を残していますから…簡単には了承しかねます」
…何やってんだよ……
結子の質問にとっさに嘘をついてしまった後味の悪さが一臣を苦しめていた。
…結子を欺くつもりなんてなかった……だけど、あれは嘘ってほど大袈裟なことじゃないだろ……ただ言わなかっことがあっただけで…
…下らない詭弁だな。
心の深奥から一臣を嘲る声が聞こえた。あの冷たい囁きだ。
…まあ、事実を伝える方が結子には酷な結果になってたかもな。結子は真生のことを知らない訳だし……それにこれからも知られずにいた方がいいって思ったんだろ?
………違う!!
激しい動悸を感じて一臣は苛立たしげに舌打ちした。
「どうしたの?」
いつの間にか結子が隣に座っていて、驚いた表情で一臣を見つめていた。
結子の風呂上がりの艶やかに紅潮した頬が痛々しく見えた。
「あ…何か言った?」
一臣は取り繕うような笑顔を浮かべた。
「お風呂空いたよって…」
「ああ…うん」
リビングを出て一臣は寒々とした廊下で立ち止まった。
…俺は結子を傷つけたくなかったんだ。結子を、愛しているから…
そう強く念じると、扉を封鎖するように一切の思考を停止した。
何をしていても心が舞い上がり、目に映る全てが優しい色で彩られて見える。
けれどそれは春の日差しのせいだ、と一臣は思い込んだ。
真生を自宅近くまで送った後、一臣は静かな通りに車を停めるとシートに身をあずけて瞼を閉じた。
考えずとも心に浮かぶのは真生のことだった。
かつて望まない仲違いが元で真生が去ってしまってから、一臣は心の深淵に苦い澱のような感情を抱き続けた。
それは自責の念でもあり真生への恨みでもあった。
だから一臣は真生と再会することを密かに恐れていた。
しかし現実に再会した2人の間には何のわだかまりもないように思えた。
真生に会って笑顔を向けられる度に一臣の心から澱は消え失せ、枷を解かれたような軽やかさを感じた。
……ただそれだけ、か?
…真生のことで、こんなに浮かれている理由はそれだけなのか…?
耳元で冷ややかな囁きが聞こえた気がした。
…そうだよ。
…だって真生は、俺の大切な……友達なんだし。だから単純に嬉しいだけで、他に理由なんて……
ある訳がない。
自分に対しても、結子に対しても、そう断言できるはずだった。
“虫垂炎だったんだけどね。子供ながらに気を遣ってずっと痛いの我慢してたみたいでさ…
救急車の中でも泣かなかったのが、さっき母親の顔見た途端に号泣で…可哀想なことしちゃった”
いつになく弱々しい声を聞くと、まるで真生自身が病床に臥す幼子であるかのように思えた。
“…で、病院はどこ?”
“え?…だから…説明不足で迷惑かけちゃったけど、来てもらう理由は全然ないんだよ…”
真生の当惑した顔が目に浮かんだ。
“いいから。だってお前、もうお役御免なんだろ?迎えに行ってやるよ、ついでだから”
わざと少しぶっきらぼうな言い方をして電話を切ったが、一臣の表情は柔和な笑みを湛えていた。
指示された病院のロビーで真生は缶コーヒーを手に一臣を待っていた。
“これ、お詫びのしるし”
“お詫びがコーヒー1本かぁ?”
そんな軽口をたたきながら、一臣の心は優しく綻ぶ。
“相変わらず綺麗にしてるね。え、今は禁煙車なの?なんだよータバコ吸えないじゃん”
一臣は眩しそうに目を細めた。
愛車の助手席に、あの真生がいる。
5年前までは当たり前だった光景が蘇っていた。
…救急搬送?真生が……?
すぐさま真生の携帯に電話をかけ直したが、どこかと通話中で繋がらない。
何度もリダイアルを繰り返していたが、真生は電源を切ってしまったようだ。
一臣は気を揉みつつ電話口から聞こえた音声を思い出してみた。
……確か…府中がなんとかって…
次の瞬間、何の迷いもなく一臣は財布と車のキーを掴んでいた。
一臣はカーナビを頼りに府中市内の病院を目指した。
最初の病院は空振りに終わったが、一臣が駐車場を出ようとするとポケットで携帯が鳴動した。
真生からの着信だった。
“一臣ごめん!しばらく電源切ってたから…何度も電話くれてたんだね”
真生の申し訳なさそうな声。
“真生!お前大丈夫なのか、病院ってどこなんだよ…俺、今そっちに向かってるから!”
すると真生は更に声を落とした。
“本当にごめん。実は……”
真生は子細を話し始めた。
この日、真生は7歳の姪を連れて府中市内で開催された子供向けイベントに来ていた。
そこで姪が嘔吐と激しい腹痛を訴えた為に真生は慌てて救急車を要請した。
真生はそれに付き添っただけだった。
結子がバスルームに消え、シャワーの水音が聞こえ始めると、一臣は携帯を取り出した。
メール受信のランプが点滅している。
発信者は恐らく真生だろう。
真生とはあの夜以来、会うことも連絡を取り合うこともなかった。
あの夜、振り返りもせず真生が去ってしまい、酔いが醒めていくと一臣の心の中は次第に凪いでいった。
だからあの心の揺れを一臣はずっとアルコールの酔いのせいにしていたのだ。
けれど…
今朝、携帯のディスプレイが真生からの着信を示した瞬間から、一臣の心には漣が立ち始めていた。
くすぐったいような緊張を味わいながら一臣は通話ボタンを押した。
“もしもし”
“あっ、もしもし……あれ!?もしかして一臣?”
“なんだよ、そっちからかけてきたくせに…なんか後ろが騒がしいな”
電話の向こうの真生は緊迫した声を発していて、微かにサイレンの音が聞こえた。
“ごめん、かけ間違いした。これから病院に救急搬送されるところで…え?…ああ、はい…”
背後で救急隊員が真生に何かを言っている。
……病院!?
一臣が事態を理解する間もなく、通話は途絶えた。
「ああ…」
一臣が何かを思い出したような顔をした。
「車に置きっぱなしの物があったのを思い出して取りには行ったけど」
「ついでに乗らなかったの?」
「乗らないよ。なんでそんなこと訊くんだよ」
訝しげな一臣の視線をかわしながら、結子は微笑んでみせた。
「別に…前はお休みの日に、よく乗ってたでしょ」
一臣が何かを言う前に、結子はすばやくその場を立ち去った。
バスタブの縁にもたれるようにして湯に浸かりながら、結子は考えを巡らせていた。
…あの、信号待ちしていたダークブルーのレガシィはカズの車だ。
そう言い切れるのは、ナンバープレートの数字を読み取ることができたからだ。
その数字の並びには結子と一臣しか知らない特別な意味があって、結子は自然と暗記していたのだ。
それとなく様子を窺っていたが、一臣の方は結子があの場所にいたことに気づいていなかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろした結子だったが、今度は一臣の不可解な行動が気になりだした。
…カズは、どうしてあんな所にいたんだろう。
…それに……どうして、それを隠そうとするの…?
ソファーに身を沈めてテレビを観る一臣は、紛れもなく結子のよく知る一臣だ。
わざとダイニングの方から一臣を見ているのは、結子なりの検証をしているからだった。
本当は検証なんてするまでもないことだと、わかっているのだが。
「…ねえ、今日さ…」
結子は意を決して口を開いた。
「カズ、今日…どこか出かけた?」
「えー?別に…コンビニくらいかな」
一臣はテレビから視線を離さず答えた。
結子は思わず目を瞑った。
脳裏に先刻の光景が浮かぶ。
結子が駅に向かう途中の交差点で見たのは、信号待ちの車の列だった。
先頭の車は中年女性が乗った軽自動車だった。
2台目の車が視界に入った瞬間、結子は酷く驚いた。
車に疎い結子だが、その車のことはよく知っていた。
ダークブルーのレガシィ。
「コンビニは、歩いて行ったの?」
「は?そうだけど、なんで?」
結子は動悸を抑えるように冷えたコーヒーを一口啜った。
「だって、車のキーが…ソファーに投げてあったから、車使ったのかなーって思って…」
そう言うと、結子は恐る恐る一臣を見た。
エントリーシートの枚数に反比例して自信や希望がすり減っていく。
自分という存在を否定され続ける為だけに日々が過ぎる。
緊張、焦燥、徒労、嫉妬、喪失、絶望…
暗い話ですいません、と矢島は頭を下げて心情を打ち明け始めた。
一臣にしても母親の奈緒美にしても、結子の周りには苦悩を吐露する人間がいない。
それは心が強いからかもしれないが、ひょっとして結子に心を許しきっていないからではないか、とも思う。
母親はともかく、一臣は…
だから肩を落として辛い胸の内を打ち明ける年下の矢島を見ていると、胸が切なくときめいた。
しかしそれは間違っても恋愛感情ではなく、母性愛から生まれる庇護欲だった。
もしも彼が結子の実の弟だったなら、辛いね、でもね大丈夫だよ、と言って励まし抱き締めていたかもしれない。
「矢島さんならきっと大丈夫。今は焦るかもしれないけど…いつか納得のいく就職ができると思いますよ」
何の根拠もない励ましだが、矢島は照れたように微笑んだ。
結子も、そんな矢島を見上げて微笑む。
しかし交差点にさしかかった瞬間、結子の笑顔は消失してしまった。
「すっげえ疲れた…って、たいしたことしてないんですけどねー」
「そうですね…」
結子と矢島は西日を浴びながら駅に向かっていた。
「私なんて午前中は利用者さんと話しもできないで、ただ一緒にテレビ観てただけ…午後だってタオルたたんでただけだし。1日うろうろして…
あれで実習しましたなんて報告できないですよ…」
「確かに、喋んない人多いですよね。あっ、でも俺は異様に話しかけてくるおばあさんにひっつかれてましたよ。俺のこと孫と間違ってたのかなぁ」
屈託のない矢島に結子は軽い気持ちで質問した。
「矢島さんはどうしてヘルパーの資格取ろうと思ったんですか?」
すると、にこやかな矢島の顔が微かに強張った。
「…俺、就活が上手くいかなかったんです。内定とれなかったけど来月には卒業しなきゃならないし。
友達が高卒でこういう施設に勤めてんですけど、もうフロアー主任とかになってて…それ聞いたら、ヘルパーでも何でも就職浪人するよりマシかなとか…
福祉のこととか、わかってないくせにって自分でも思うし、全然ちゃんとした動機じゃないんですよ…」
夜に爪を切ると親の死に目に遭えない、と教えたのは誰だったか。
両手の指先を見つめながら結子はそんなことを考えていた。
この日の施設実習の為に結子の爪はマニキュアを落として短く切り揃えられていた。
実習先は府中市の特別養護老人ホームだった。
結子の他には若い男性が実習を受けることになっていて、彼は結子を見つけると人懐っこい笑顔で矢島と名乗った。
「…矢島さんはリネン室で清拭タオルの準備、佐伯さんはデイルームで利用者対応ね。午後は入れ替わりしてもらうんで。わかんないことは職員に指示を仰ぐように。何か質問、ありますか?なければ…」
実習担当の女性職員は早口で説明を終えると、結子を12畳くらいのスペースに誘導した。
そこでは6人の老人達がテレビを観ていた。
「はーい、今日の実習生さんでーす」
驚くほど張りのある職員の声に反応したのは僅かに1人だけだった。
「佐伯と申します…今日はよろしくお願いします」
結子の挨拶が終わらないうちに職員は忙しげにその場から離れていった。
物言わぬ老人達の中に取り残されて、結子は途方に暮れていた。
結子が河本に寄せる関心は憧れに近い感情でもあった。
結婚を間近に控え、夫婦同然の暮らしを始めているにもかかわらず、結子には漠然とした不安がつきまとっていた。
カズは本当に私を愛しているのか…
カズにとって私の存在は何にも代え難いような特別なものなのか…
カズがどこかで私の存在を語りながら、愛しさに堪えきれず思わず笑みをこぼす、なんてことはあるだろうか…
私も、河本さんみたいに…なりたい……
漫然と考えているうちに結子は眠っていた。
どれくらい時間が経ったのか。
ふと目覚めると隣で一臣が寝息をたてていた。
闇にぼやけた一臣の額や頬や唇の輪郭にそっと指を伸ばして触れてみる。
一臣の唇が微かに開いた。
今ならカズの本心が聞けるかな…
半ば悪戯、半ば厳かな実験のつもりで結子は眠る一臣に問いかけた。
「私のこと…愛してる?」
一臣は答えを返してはくれなかった。
当然の結果に結子は可笑しくなり、そっと自分の唇を重ねると再び瞼を閉じた。
僅かな時間差で、一臣の唇が悲しい答えを告げていたのも知らずに、結子は深い眠りに落ちていった。
河本の名前がすぐに思い浮かんだのには他に理由があった。
多くの友人達の中で、どうしてか河本のことが気にかかっていたからだ。
きっかけは新年に一臣の実家へ向かう道中で彼から河本の話を聞いたことだった。
一臣と河本は大学で知り合い、卒業後に音信が途絶えてしまっていたが、年末に仕事を通じて偶然に再会したというのだ。
それを聞いたとき、偶然とはいえありがちな話だと思った。
しかし一臣は何故か話しながら時折笑みで緩む口元を懸命に手で覆い隠していた。
それはまるで美しく稀有な体験談をわざと感動を押し殺して語っているようにも見えた。
その様子から、河本という人物との再会が一臣にとって特別な出来事だったのだと悟った。
2人がその後も連絡を取り合い、数回会ったことは一臣から聞いていた。
例にもれず一臣からの“報告”はあったが、そこから結子が知り得た河本の情報は僅かであった。
年齢、職業、一臣と同窓生であることを除けば馴染みの店が恵比寿にあることくらいだ。
一臣は河本について饒舌になることを恐れている気がして、 かえって結子は密かに関心を募らせていたのだった。
結子は帰宅するなりクローゼットを全開にして物色していた。
…やっぱり、これ着るしかないか…
高校時代のネーム入りジャージを引っ張り出して、ベッドの上に放り投げた。
ジャージといえば、ジム通いなどしない結子が持っているのは垢抜けないこの1着だけだ。
着るつもりもなくしまい込んでいたがヘルパー講習の施設実習で急遽必要になったのだ。
改めてところどころ毛玉のついたジャージを手にすると、高校時代の思い出が鮮明に蘇ってきた。
友人達との他愛ない雑談、年季の入った教室の風景、同級生に抱いていた恋心…
くすぐったいような思い出の世界に浸りながら結子はふと思った。
…そういえばカズもお正月の頃から昔の友達とちょくちょく会ってたっけ。
脳裏に河本という名前がすぐに浮かんだ。
結子は一臣の友人達の名前を割とよく記憶していた。
それは公私の区別なく一臣が外で会ってきた相手のことを結子に話すのが常だったせいもある。
いちいち報告しなくてもいいと思うのだが、それは結子に対して隠し事をしないという一臣なりの配慮なのだろうとも理解していた。
及川の背中を見送りながら真生はくつくつと笑った。
「あーあ飲み過ぎだよ。いい歳して自分を律せないのはダメだねぇ」
「何言ってんだ散々飲ませておいて。それより…オイちゃん離婚してたんだ」
一臣は及川の離婚にショックを受けていた。
「前に会ったことあるけど、オイちゃんも奥さんも仲良くて幸せそうだったのに」
感傷的な一臣に真生は少し呆れた表情になった。
「他人の前で一時的に幸せを装うのは普通誰でもするでしょ。真に受けてどうすんの。
それより、オイちゃんの二の舞にならないようにね。幸せな結婚したいでしょ?」
「二の舞って…お前こそオイちゃんの話真に受けてんの?彼女は浮気なんかしてないって」
少し苛立った一臣に、真生は穏やかに諭すように言った。
「そういう次元の話じゃないよ…一臣だってきっと理解してるはずだよ」
刹那、真生の清冽な眼差しとアルコールの酔いが不可思議な化学反応を起こした。
「お前は…、」
感情のベクトルが揺らぎ、もどかしい気持ちで言葉が続かなかった。
一臣は救いを求めるように真生を見つめた。
真生は穏やかに微笑んでいた。
「最初は家計の足しにバイト行くって理由で、実際に働いてもいたんだけどさ。そのうちバイトにしちゃ出かける回数とか時間帯がおかしいなって思って…」
及川の視線は眼前の友人達を通り越し、そこにはない光景に注がれていた。
「で、冗談ぽくカマかけてみたんだよ、“男できたのか?”って。そしたら真顔で“好きな人と、彼の赤ちゃんができた”だと」
及川の独白が続く中、一臣は黙って聞いていたが真生は新しいタバコに火を点けるとさらりと尋ねた。
「浮気した理由は訊いた?」
「当然訊いたよ。そしたら、“私はずっと我慢してたの、でももう限界”って…はあ!?ってかんじだよ。俺がいつ、お前に我慢を強いた?って。
俺は浮気しない、ギャンブルしない、暴力ふるわないし家事も手伝うし…セックスだってこっちが我慢してたくらいだってのに」
大げさに溜め息をついて及川はしみじみと言った。
「一臣…マジで離婚はキツいからな」
「やめろよ、こっちは結婚間近なのに」
一臣は笑い飛ばした。
及川も笑って、しかし意味ありげに呟いた。
「そうだな…でも、案外そうなっても一臣は平気かもな」
「完全に男できてるよ、それ」
がっしりした体格に似合わない甘いカクテルを飲みながら及川が断言した。
「出た!オイちゃんの言い切り癖!一臣もさー、なんでオイちゃんなんかに相談すんの?」
真生がタバコを揉み消しながら茶化す。
「なんでって…オイちゃん呼んだの、お前だろ」
一臣は苦笑してみせたが、内心は楽しんでいた。
「ばーか、俺はなあ、お前らよか人生経験豊富なんだよ。その俺の経験値的セオリー通りなら、一臣の彼女は男つくってる!!」
一臣はいつぞやの恵比寿の店で学生時代からの親友と会っていた。
結子が毎週末家を空けると一臣が何気なく話したところに、及川が食いついてきたのだ。
「でも結子は…彼女はそういうことできるタイプじゃないんだけど」
すかさず及川が反論する。
「俺のカミさんだってそうだったよ。だいたいさ、俺が初めての相手で、結婚してからも、その…レス気味だったのが…突然さ…」
及川が急にうなだれた。
「…妊娠したから別れたいって…いや、妊娠は結局間違いだったんだけどさ…」
そう言って及川は苦々しい顔をしてみせた。
肌が離れても気だるい熱が結子の下腹部に残っていた。
「今度の土曜日なんだけど…」
脱ぎ捨てた衣類を拾い集めて身に着けている一臣に話しかけた。
間接照明の灯りが一臣のしなやかな筋肉の陰影を浮かび上がらせる様を見ながら、結子は言葉を探していた。
土曜日に家を空ける理由を考える。
奈緒美の病院のことはとっさに避けた。
友達と会う、というのもそぐわない。
唾を飲み込んで頭の中の台本を読んだ。
「…っていうか来月の初めくらいまで土曜日に出勤してくれって言われてるの。あの、新年度から新しい講座を開設したりとか、先生方との調整とかね…仕事がね、結構増えちゃったから…」
…仕事で、が一番もっともらしい理由かな………でも、所詮は、嘘だけど…
言いようのない罪悪感と虚無感が押し寄せる。
「わかった…年度末はどこも大変だよな」
一臣はあっさりと了承した。
疑問も非難もないことに結子は拍子抜けしたが、安堵の方が大きかった。
「うん…」
欲していないはずなのに、下腹部の熱は増して潤みが溢れ始めた。
照明を落とすと、結子は再び一臣にすり寄った。
小さな包みを前にして、結子は頬杖をついて時計を見た。
一臣の帰宅は相変わらず遅い。
ヘルパー講習が始まった頃から一臣の帰宅を待つことも少なくなっていた。
平日は夕食を一緒にとることも減り、1日のうちで共に過ごす時間はごく僅かだ。
…今日くらいは起きて待ってよう。
重い瞼をこすっていると玄関のドアが開く音がした。
「おかえり。遅くまで大変だね…」
出迎える結子に一臣は驚いた表情を見せた。
「なに…起きてたの?なんで?」
結子ははにかんだように笑って包みを渡した。
「今日バレンタインでしょ」
「ああ…ありがとう」
一臣の笑顔はバスルームの前で消えた。
その夜はどちらからともなく求めあった。
2人は久々の快感に溺れていた。
一臣は果ててなお貪欲に挑み、結子も恥じらいを捨て一臣の熱の塊を求めた。
けれどそんな激しい交わりは、愛情の表現ではなかった。
小さな秘密と些細な嘘という罪。
相手へ明かすことのできない罪悪感から結子も一臣も無意識に逃げようとしていた。
快楽という逃げ道で、2人は必死に贖罪の祈りを捧げていた。
厳密には、主治医の柴田医師が勧めたのは他の医療機関への転院だった。
退院と聞いて自宅へ帰って療養できると思った結子は肩を落とした。
柴田医師によれば、奈緒美は介助なしには身の回りのことができないし、もう少しリハビリ専門の施設で機能回復を目指した方がよいだろうとのことだった。
そんな結子の落胆ぶりを見て柴田医師はこう付け加えた。
“まあ、現段階の選択肢のひとつとして申し上げたまでですから…”
“あのう、私も介護の勉強してるんです。多分、母の面倒くらいは見られると思うし…
何よりも、母を早く…自宅に戻してあげたくて…”
話していると不意に涙がこみ上げてきて、結子は慌てて口を噤んだ。
“そうしたらね、ソーシャルワーカーとも相談してもらってどうするか決めましょう”
そんなやり取りを思い出すだけで結子はやるせない気持ちになる。
…でも、可能性ゼロってことじゃないしね。
顔を上げてすうっと息を吸い込む。
…お母さんのことも、一臣のことも、みんな…幸せになるように…頑張ろう。
結子は自分を奮い立たせるように雑踏の中に突き進んで行った。
「そっか、そうですよねー。あと1ヵ月くらいですよねー」
「うん、なんかね、考えてはいたんだけど、やっぱり今年は結婚式の方が比重大きくなっちゃって。でも、ちっちゃなチョコぐらいはあげるよ」
改札を通って早苗と別れた途端に溜め息が出た。
…今日がバレンタインデーだなんて、忘れてた。
そんなイベントを忘れさせるほど結子の頭の中は別のことで占領されていた。
けれどそれは結婚式のことではなかった。
ひとつはヘルパー講習について。
本来は連日受講で早々と修了となるものを、結子は仕事を休めず毎週土曜日だけ講習を受けていた。
毎週土曜日に何かと理由をつけて家を出る後ろめたさで、結子は一臣の顔をまともに見られなくなっていた。
あと3回は気まずい思いをしなくてはならない。
そしてもうひとつは奈緒美の退院についてだった。
先月のカンファレンスで初めて主治医の口から退院の話が出たのだ。
それも早ければ2月末ぐらいに、という具体的な期日まで提示された。
奈緒美は完全に回復した訳ではないが急性期治療の対象ではない、というのが退院を勧める理由だった。
「佐伯さーん」
会社を出る結子の後ろから後輩の早苗が声をかけてきた。
「駅まで一緒にいいですかぁ?」
語尾が甘く跳ね上がる。いつもよりフェミニンな装いの早苗は結子に追いつくとにっこり微笑んだ。
「いいよ…今日どっか遊びに行くの?」
早苗はバス通勤なので駅に用はないはずだ。
「そうなんですー。…ってゆうか実は、彼氏できたんですよー、私。で、今日は初デートってゆうか、デートは今度のお休みが本番なんですけど、一応今日のうちに渡したいなぁー、って」
嬉々として話す早苗に軽く圧倒されながら結子は良かったね、と微笑んだ。
「佐伯さんは?どんなのあげるんですか」
「どんなの…って?」
「あ、もしかして逆にもらえちゃったりするんですか?佐伯さんの彼氏、優しいからー」
結子は質問の意味が理解できずに困惑した。
早苗もまた反応の薄い結子に困惑していた。
「やだぁ…佐伯さん、今日ってバレンタインですよー。もしかして佐伯さんてイベント興味ないとか?」
「そうでもないけど…ほら…今、式の準備で頭いっぱいだから」
とっさに笑ってごまかした。
一臣は店員に空のグラスを差し出し、同じものを、とオーダーした。
真生にはとっさに否定したが、悩みがない訳ではなかった。
厳密に言えば“気がかりな事”であって、今はそんな胸の内をうち明けるつもりもなかった。
なぜ真生に会おうと思ったのか、わからない。
明確な理由もないまま、けれど突き動かされるように一臣が懐かしいアドレスを開いたのは3日前のことだ。
「年末に再会して、懐かしくてまたゆっくり話したいって思っただけだよ」
「…そう……あ、タバコ、いい?」
チキン南蛮の皿を脇に押しやり、真生はタバコに火を点けた。
「キャスター…相変わらずオヤジみたいな銘柄吸うんだな」
形のいい唇から吐き出された仄白い煙が照明の下にたゆたうように広がる。
「いいの、これが好きなんだから」
一臣は、タバコを吸う真生の美しい所作を昔から好ましく思っていた。
漆黒の灰皿に灰を落としながら真生が呟いた。
「一臣ってさあ……変わってないね」
その言葉は砂地に落ちた水滴のように一臣の心に沁みた。
そして同時に、真生に会いたかった理由がわかったような気がした。
「一臣、いつの間にか飲めるクチになったね」
「飲めるってほどじゃないよ」
空のグラスに添えられた指先を一臣はぼんやりと眺めて言った。
「ふーん…あ、これ食べてみてよ。ここの裏メニューなんだけど絶品でさ、ビールに合うんだよ」
チキン南蛮を一切れ食べながら、真生は一臣に屈託のない笑顔を見せた。
真生はかなりの常連らしい。
つられて一臣も一切れつまんでみた。
「旨い…あれ?この味…」
「“しみず”のチキン南蛮の味に激似なんだよねー」
“しみず”は学生時代に度々通った大学近くの定食屋だ。
一臣は思わず笑った。
「まさか恵比寿のカフェバーで“しみず”の味に再会するとは驚きだね」
一臣を見ながら真生も笑ってグラスを傾け、そしてさらりと言った。
「ついでに一臣から会いたいなんて言われたのも驚きだけど」
2人の視線がぶつかった。
「どうしたの、何かあった?お悩み相談ならいつでもどうぞ」
「悩みなんて…別に何も」
一臣は口ごもった。
「別に何も、ですか」
一臣の言葉を復唱しながら真生は二切れ目の肉を噛んだ。
「意外と続いてるなぁ」
シンクに向かう結子に一臣が声をかけた。
「そんなに手の込んだ物作ってないし…まだ体重も戻ってないから頑張らないと」
そう言って結子は小ぶりの弁当箱を洗い始めた。
「でもそんなに太ったか?正月太りなら俺の方がヤバいよ」
一臣の言葉にシンクの水音が重なる。
結子は正月太りのダイエットを理由に手弁当を持参するようになっていた。
けれどそれは表向きの理由だった。
奈緒美に誓ったヘルパー資格の取得にはおよそ10万円が必要なのだ。
結子達はお互いの収入を折半して家計をやりくりしていた。
生活費と挙式の費用やマンションのローンに加えて、余計な出費を増やすのには心苦しさがあった。
経済的な理由だけではない。
結子の心には大輔の言葉がこびりついていて、万が一にも母親の介護の為に一臣の稼ぎを充てたと思われることが嫌だった。
かくして結子は毎日の昼食代をプールし、受講料に充てることにしたのだ。
…こんなの、嘘のうちに入らないよね…
本当の理由を明かさないでいる後ろめたさを掻き消すように、結子は一臣に笑顔を向けた。
「佐伯さん、来週の初めにカンファレンスをしたいんですが、ご都合はよろしいですか」
病棟の廊下で理学療法士の濱口が訊いた。
正月休みが終わり、また自宅と会社と奈緒美の病院を往き来する日々に戻っていた。
「月曜日なら来れます…6時は過ぎちゃうけれど」
濱口はボードに挟んだ用紙にペンを走らせながら話し始めた。
「最近の奈緒美さん、すごく調子がいいんですよ。心配もあったけど一時退院してみて良かったんですね」
年が明けてからの奈緒美は精神的にも安定してリハビリにも臨めているようだ。
…お母さんなりに頑張ってくれてるんだ。
結子は元旦の朝のことを思い返していた。
再び病院へ戻る支度をしている間、奈緒美は名残惜しそうに畳を撫でていた。
そんな母親の背中越しに結子はこう言ったのだ。
“お母さん私ね…今年はヘルパーの資格取ろうかなって思うの。介護のこと何にも知らないから…
私、頑張るから…だからお母さんも…
早く退院して、またこの家で暮らそう”
奈緒美は目を見張って、そして黙って頷いた。
その瞳から、ぽたり、と一滴の涙が畳に落ちた。
結子は一臣の友人達に何度か会ったことがあった。
一臣と彼らに共通しているのは、明るく清爽として自信に満ち、若いなりの気品と謙虚さを備えていることだ。
それは彼らの個性をさらに輝かせ、そして居合わせた結子までもが洗練されていく錯覚に陥らせた。
けれどいつも何かの拍子に結子は錯覚から醒めるのだ。
彼らの輝きに比べ、自分は日和見がちな自信のなさと脆弱な虚栄心でくすんでいる気がしてならなかった。
……この河本という人はどうだろう…
数ある友人達の年賀状の中で、河本からのハガキに結子はなぜか惹きつけられていた。
それにあくまでも結子の勘だが、河本と一臣とは特別に強い繋がりがあるような気がしていた。
結子は一瞬寝室の方を見やるとハガキを翻した。
どこの風景だろうか。
朝焼けか夕焼けか、太陽が山の稜線に半分隠れている写真だ。
仄明るい空の部分にメッセージが書かれていた。
【あけましておめでとう。思いがけなく年末に会えてよかった。昔に戻れたみたいで、すごく懐かしかったよ】
ただ整っているのではなく、伸びやかでやや躍動感のある文字だった。
「カズ、そろそろお昼だよ!」
ドア越しに声をかけたが返答はなかった。
正月休みも残り2日となり、予定のない一臣は寝室で惰眠を貪っているようだ。
もう、と溜め息をひとつついて結子はリビングで年賀状の束を自分と一臣宛てのものに選別し始めた。
圧倒的に一臣宛ての年賀状が多く、改めて豊富な交遊関係を持っていることがわかる。
…カズは、どうして私を選んだんだろう。
そんな素朴な疑問が結子の心に浮かぶ。
卑下するのではないが自分はとりたてて美しい訳でもなく、何か秀でたものがある訳でもない。
一臣なら、あまたの出逢いもあっただろうし、結子よりも“ランクの高い”女性と付き合うこともあっただろう…
ずっと前にそんな疑問を一臣にぶつけたときは、
“なんでかな…上手く言えないけど、でも結子のことは全部好きだよ”
そんな答えが返ってきたが抽象的過ぎて素直に喜べなかった。
気を取り直してハガキに目を移す。
手にした年賀状は一臣宛てだった。
…河本真生…コウモト、マサキ?マサオかな?
差出人は恐らく一臣の友人の河本だろう。
「夜も昼もないって参ってたな。施設入れたいけど、えらい順番待ちだとか…」
「うちもね、義母が最近ボケてきちゃったのかなって思うこと多いの。もし介護するようになってもうちの人はあてになんないし…ああ、考えたくないわ」
溜め息混じりにこぼす叔父や叔母達の話を大輔が締めくくった。
「まあ、だからな、俺と母さんは一臣達の世話にならないように老後に備えるつもりだよ。
年取っても健康第一で、いつまでも自活できるぐらいじゃないとなあ。
親子だからってね、子供の負担になって当然てことはないからね」
大輔の言葉に皆が頷いた。
結子も黙ってそれに倣ったが胸中は複雑だった。
恐らく大輔に他意はないのだ。自分は子供の手を煩わせる老い方をしたくないと言いたいだけだ。
かたや、奈緒美は病に倒れてから少なからず娘の手を借りている。
大輔の言葉になぞらえると、奈緒美は娘に負担をかけるダメな母親だと言われているようだった。
話題が舜の学校生活のことに変わって再び笑いが起きた。
結子も周りに合わせて笑っていたが、大輔の言葉は小さな棘となって結子の心に微細な傷を刻み続けた。
1ダースほどの空になったビール缶をすすいでダストボックスに捨てる。
「久谷の家系はみんな飲んべえよ。一臣は私に似たのか、下戸のくちだけど」
一臣の容姿は沙紀子譲りだと思っていたが、どうやら体質も似ているらしい。
「わあ、美味しそうですね」
「煮しめも多めに作ったの。一臣は結構好きなのよ…さ、リビングに戻りましょ」
結婚したら、こんなやりとりが恒例行事になるのだろうし、沙紀子とキッチンに立つ機会も増えるに違いない。
今はお互いに遠慮がちな姑や舅との距離ももっと縮まっていくだろうか。
そんなことを考えながらリビングの入口で結子はそっと背筋を伸ばした。
「…でもいいわぁ、若いって。結婚生活に希望が溢れてる感じで。私達なんか親の介護の不安ばっかりだもん」
話題がいくつか変わって、一臣の叔母がしみじみと言った。
そうだなぁ、とグラスを傾けながら大輔も応える。
「うちの両親は介護する間もなく逝っちまったからな。ああ、でも健輔兄さんのところは義姉さんの親を介護してるんだよな」
健輔というのは一臣の伯父なのだそうだ。
「明けましておめでとうございます」
2人がリビングに入ると賑やかな宴が一瞬中断されて、皆の視線が結子に注がれた。
リビングには一臣の父親と末弟の舜、そして2組の夫婦がいた。母親の沙紀子はダイニングの方から顔をのぞかせた。
「ああ、いらっしゃい。寒かっただろ、2人とも早く座りなさい」
一臣の父親である大輔は頬を紅くして上機嫌だった。
「はじめまして…」
結子の挨拶が終わらないうちに、大輔の隣にいた男性が話し始めた。
「私はね、一臣の叔父です。いやしかし綺麗な人だなあ、一臣よかったなー」
一臣の叔父は豪快に笑ってグラスのビールを飲み干した。
叔父の言葉に座は盛り上がって結子もつられて照れ笑いを浮かべた。
「あの、ビールお持ちしますね」
ひとしきり挨拶が済むと、結子は小さな紙袋からエプロンを取り出してキッチンへ向かった。
「あのう、お義母さん、お手伝いします」
料理を盛りつけていた沙紀子が振り返る。
「あら結子さん、いいから座ってて。お客さんなんだから」
沙紀子はそう言ってくれたが、結子は袖をまくってシンクの前に立った。
「3日間どうだった?」
元旦の都内は車も少なく、一臣は愛車を心地よく走らせていた。
一臣はいつにも増して優しい口調で3日間の様子を訊いた。
「うん、慣れないこともあって戸惑ったりもしたけど、でも楽しかった」
結子は運転席をちらりと見た。
全く会わなかったのはたった1日なのに、一臣の横顔がやけに懐かしく思えた。
「カズは、ちゃんとご飯食べてたの?」
「ああ…まあね」
藤沢の家にいる間、結子は日に何度かメールを送信したが一臣の返信は遅れがちだった。
「どこか出かけた?」
「昼は家で寝てたな。一昨日の晩は河本達と飲んだ」
河本は一臣の友人であるが、結子は面識がない。
取り留めのない会話を続けているうちに一臣の実家に着いた。
もう少し華やかな服を選ぶべきだったかなどと思いながら、結子は髪を整えた。
「ふぅ…緊張するなー」
玄関ドアを開けようとする一臣の後ろで結子は囁いた。
一臣は笑っただけだったが、結子の心臓は徐々に拍動を速めていった。
この玄関から先では、結子はただの客人ではなくなるからだ。
その物件について、常連客から譲り受けたということ以外タエ子は詳しいことは言わなかった。
東京に比べて恐ろしくひなびた土地で奈緒美と結子は新しい生活を始めた。
それから23年。
奈緒美は継父や妹と音信不通のままだ。
タエ子は数年前に店を閉めたという報せを最後に音沙汰なしである。
千絵子の生家跡地は他人に売却された。
小さかった結子は成長し、奈緒美はもうすぐ亡母の年齢に並ぶ。
庭が見たい、と奈緒美が言ったので結子はカーテンを開けて窓の結露を拭いた。
庭の一角に結子の背丈ほどの細い庭木が見えた。
「ねえ、あんな庭木あった?」
「うん…あれ、ハクモクレン」
結子の結婚が決まったとき、思い立って植樹したのだ。
「へえ…花が咲いてないと何の木だかわかんないわね」
結子が苦笑した。
「さくよ、はるに」
その頃に結子と一臣は式を挙げる。
冷たい風に揺れる細い枝は、千絵子の痩せた指を連想させた。
不意に結子は、奈緒美が亡き祖母を想いながらこのハクモクレンを植えたのでは、と思った。
「咲くといいね…」
結子は祈りを込めて呟いた。
「お祖母ちゃん、ハクモクレンの花が好きって言ってたっけね」
結子は写真を元に戻しながら言った。
千絵子とはこの写真が撮られた年の冬にもう一度会ったきりだ。
…この花、花嫁さんの着物みたいでしょう。いつか結子ちゃんの花嫁姿も見たいわぁ…
何もない枝に向かって伸ばした千絵子の指は痩せて節くれだっていた。
その翌年、ハクモクレンの花が散り落ちた頃に千絵子は逝去した。
進行の早い胃癌だったと奈緒美は叔母のタエ子から聞いた。
遺骨は夫方の墓に埋葬されていたが、そこに奈緒美が足を運ぶことはなかった。
結子が祖母の死を知ったのはもっと後のことだが、千絵子が亡くなった年から彼岸時に奈緒美に連れられて湘南の浜に赴くようになった。
千絵子の生家は茅ヶ崎にあった。
すでに棲む人のない朽ちた建物の片隅に母娘は春と秋に花を手向けた。
二度目の春を目前にして、奈緒美は中野のアパートを引き払った。
貯金も目標額に達し、夜の仕事を辞める心づもりができた。
タエ子叔母にそのことを伝えると、退職金代わりよ、と笑いながら藤沢の中古物件を紹介された。
奈緒美は眩しそうに目を細めた。
“でも今は結子がいてくれるから…だから、もういいの”
先刻と同じ言葉は今度は穏やかに響き、
奈緒美の瞳は凪のように落ち着いていた。
千絵子は、奈緒美が辛い過去と訣別しようとしているのだと悟った。
そして、自分とも。
“…わかった…ただ、これからもあなた達の幸せを願わせてね。
帰る前に…ひとつだけお願いがあるの”
千絵子はおずおずとカメラを取り出した。
“タエ子に借りてきたの。あなた達の写真を撮らせてもらえないかしら。
後生だから…お願い…”
奈緒美はこくりと頷くと娘の頭を撫でて言った。
“結子、写真撮るよ”
“なんで?”
訝る結子を抱き寄せて奈緒美は笑ってカメラを指差した。
“記念撮影よ…はい、チーズ!結子、次はお祖母ちゃんとね”
カメラに向かって祖母と孫はぎこちない笑顔を作った。
“じゃあ…”
千絵子は何か言いたげだったが、結子が園庭へと駆け出した為に奈緒美も慌てて後を追って門の向こうへ消えてしまった。
娘と孫が去った後も、ハクモクレンの下で千絵子はいつまでも別れを惜しんでいた。
2人に気づいた千絵子は、バッグの持ち手を緊張気味にぎゅっと握った。
ちょうど登園者の一陣が去って、門の前には奈緒美と結子、そして千絵子だけが残された。
“帰らなかったの?”
奈緒美の問いに千絵子は目を伏せて頷いた。
“…あの後タエ子の所に寄って、新宿のホテルに泊まったの。思いきって無断外泊よ”
自嘲気味に笑うと千絵子は続けた。
“昨日は一方的に怒ってしまったけど、タエ子に色々と話を聞いて…奈緒美に謝らなくちゃって…
お父さんとのことも、あなたが出て行く前にきちんと向き合えば良かったのよね。
そしたら、たとえ衝突したって今とは違う結果になってたかもしれない…”
“いいよ、もう”
短く応える奈緒美の声は強張っていた。
“言い訳みたいだけど…私は奈緒美に両親揃った家庭を作ってあげたかったの。あの人も奈緒美を俺の娘として大事に育てるって言ってくれたから…
本当に、あなたを幸せにしたかったの”
“私の、幸せ?”
結子は白い花を見上げた。
“あの家ではそんなのずっと昔に消えてたよ?
それを知っててお母さんは気づかないふりしてたのよ…”
母親の温もりは毛布よりも優しく体を包み、結子の眠りは深くなった。
結子は夢の淵で誰かが泣く声を聞いた気がした。
“…結子、ちゃんとお布団で寝よう”
奈緒美に揺り起こされて結子は目を覚ました。
“…お祖母ちゃんは?”
見渡した部屋の中には千絵子の姿はなかった。
“帰ったよ。それより早くお風呂入って寝よう”
奈緒美の後れ毛を見つめながら、さっき泣いたのはお母さんかもしれない、と結子は思った。
…お祖母ちゃんは嫌いじゃないけど、お母さんが泣くのは、いちばん嫌…
なぜか急に切なくなって結子は母親に甘えるようにまとわりついた。
翌朝の奈緒美はいつもと変わらない様子だった。
2人はいつも通りに支度をして定時に家を出た。
昨日、千絵子と歩いた道を逆に辿る。
…お母さんは、お祖母ちゃんが嫌いなのかな。お母さんのお母さんなのに…
結子は色々と訊きたい衝動に駆られながらも、奈緒美がそのことに触れないので口をつぐんでいた。
交差点を過ぎて角を曲がると保育園は間近だ。
門の脇ではハクモクレンが咲き誇り、その花を仰ぐように千絵子が立っていた。
艶やかな娘の髪を指先で梳きながら奈緒美は続けた。
“お金がない妊婦の私に住む部屋と仕事をくれたのはタエ子叔母さんよ。
ホステスっていっても、私にお酒飲ませたことなんてなかったよ。お腹の子に障るからって…
お金貯めて、ちゃんと結子を産むことができたのは叔母さんのおかげ…”
“なによ、タエ子タエ子って!”
堪えきれず千絵子は声を荒げた。
“今まで私がどれだけ心配したか…子供は産んだのか、ちゃんと暮らせてるのかって…母親として辛い5年だったわよ。
あんたも母親になったなら少しはわかるでしょ?
それに今でもタエ子の店で働いてるって…水商売で子供を育てていくつもり?”
“心配かけたのは悪かったと思うけど後悔はしてない。
私を愛してくれない人達のことは忘れて、子供と新しい人生歩みたかったから…
ねえ、それと、水商売の何が悪いっていうの?”
そう言うと奈緒美は目を伏せ唇を噛んだ。
“純粋にお金を貯める為にしてるだけ…今まで色恋沙汰なんか一度もなしよ。
だって、お母さんみたいに子供を犠牲にしてまで男の人と一緒になりたくないもの。
…私は、母親なんだから”
“……どうして、ここがわかったの?”
“タエ子から聞き出したの…”
その女性は結子の前にかがみ込むと、名前は?と訊いた。
“さえき、ゆうこ”
“結子ちゃん…また会えたわね。私はね、佐伯千絵子……あなたの…”
女性は言いかけて口をつぐみ、奈緒美の顔を見上げた。
“…結子のお祖母ちゃんよ”
代わりに奈緒美が抑揚のない声で言葉を繋いだ。
その夜、千絵子は奈緒美達の住む中野のアパートに招かれた。
人見知りの強い結子は、祖母といえども初めて会った千絵子に打ち解けられずにいた。
一方的に千絵子が話しかけ、結子は言葉少なに頷くだけだった。
食事が終わると結子は奈緒美の膝枕で眠ってしまい、夢うつつに母親と祖母の会話を聞いていた。
“…タエ子も事情を知ってて黙っているなんて酷いわよ。自分の店でホステスなんかさせといて、私には5年も隠していたなんて!”
千絵子は憤っていたが、奈緒美は結子の髪を撫でながら穏やかに言った。
“タエ子叔母さんは悪くない。私が頼んで黙っててもらったのよ。
それに…もし居場所がわかったって、お母さんに何ができたの?”
“結子、お待たせ!帰ろ!”
奈緒美が迎えに来るのは午後4時15分と決まっていた。
母親に手を引かれて保育園を出ると、結子は先刻の出来事を話した。
門扉を登って注意されたくだりは端折ってしまい、見知らぬ女性に声をかけられたとだけ言った。
娘の話を聞いて奈緒美は眉をひそめた。
“やだあ…今度知らない人に話しかけられたら、すぐ先生に教えるのよ。ねえ、それってどんな人だった?”
どんな人、と言われても顔の特徴を伝えるのは難しい。はっきり覚えているのは奈緒美と声が似ていたことだけだ。
それを言うべきか考えている結子の目に、数メートル先のバス停に列ぶ人の姿が映った。
“あっ…お母さん、あの人!”
“ちょっと、結子ったら…人に指差さないの…”
娘をたしなめながら、その方向を目で追った奈緒美は、息をのんで歩みを止めた。
同時にバス停の列から1人の女性が躊躇いがちに歩み出た。
結子の手を握る奈緒美の力が強くなる。
怪訝に思った結子は奈緒美を見上げた。
言葉を失ったままの奈緒美の表情には、驚きだけではない感情が入り混じっていた。
「…あのときの……」
奈緒美は差し出された写真に視線を落とすと静かに言った。
そこに写っているのは結子の祖母、千絵子だ。
「これ、中野にいた頃に撮ったんだよね。この頃のお祖母ちゃんて、今のお母さんくらいの歳かなあ」
質問半分の結子の言葉を奈緒美は黙って聞いていた。
そんな母親を横目でちらっと見ながら、結子はあの日のことを思い返していた。
あの日、彼女はいつから門の脇に佇んでいたのだろう。
砂埃の舞い上がる春の園庭には幼い歓声が響き渡っていた。
結子は遊具の順番待ちを諦めて列を抜けると、門扉に駆け寄った。
そこによじ登って遊び始めた結子を見て、女性は強い口調で制止した。
“そんなことしたら危ないよ!お転婆さんね”
いきなり咎められた結子は驚いて女性の方を見上げた。
2人の視線が合ったのも束の間、結子は口を一文字に結んで俯いてしまった。
“ごめんね、でもね、おばさんの子も昔高い所から落っこちておでこ切ったことがあるの…すごーく痛くていっぱい泣いたのよ”
俯いたままの結子は、女性が奈緒美とよく似た声をしていることに気がついた。
「保育園の…ハクモクレン…」
結子が通っていた保育園の門の脇にはハクモクレンが植樹されていた。
結子はその花の下で写真を撮ったことがある。
そして、花を見上げながらあの人が泣いていた…
夢の中の風景と記憶の中の風景が螺旋状に甦る。
「お母さん覚えてる?あのハクモクレン…夢に出てきたんだよ。
ねえ、昔の写真まだとってある?」
奈緒美は一瞬だけ躊躇うような表情を見せたが、こくりと頷くと隣室を指差した。
「カン、サブレーの…」
いつぞや見つけた鳩サブレーの缶は、持ち上げると両手にずしりとした重みを感じさせた。
結子は微かに緊張しながら自分の名前が書かれた黄色い缶蓋を開いた。
10冊以上あるフォトブックのうちNo4と書かれたものには4、5歳当時の結子の写真が収められていた。
「…あった」
写真の中のハクモクレンは夢で見たような大樹ではなかったが、白い花が咲き誇っていた。
ハクモクレンを挟んでピースサインをする結子と20歳代半ばの奈緒美が写っている。
もう1枚、同じアングルで撮った写真にはぎこちない笑顔で結子を抱く人物が写っていた。
それからの奈緒美は意気消沈したままで、日が高くなっても居間でぼんやりしていた。
「お母さん、お昼は年越しのお蕎麦にしよっか?…あ、その前に散歩しない?」
奈緒美を気遣ってあれこれ誘いの言葉をかけたが、奈緒美は力なく首を横に振るばかりだった。
気詰まりな空気が流れたが、結子は根気よく話題を変えながら話しかけた。
「今日はお風呂入るでしょ?もう沸かしちゃおうか」
「いい…たいへんだから。せまくて、2人はむり」
確かにこの家の浴室は狭く、浴槽は深くて跨いで入るのも容易ではない。
「そうだよね、無理して怪我しても困るしね…」
結子の語尾が切なく聞こえたのか、奈緒美が慌てて話を繋いだ。
「むかしは、ちいさいときは、はいれたけどね」
「…そうだね、2人で入ったね。
私がちっちゃいときはシャワーがまだなくて、湯船に浸かりながらお母さんにかけ湯したね」
母親の滑らかな肌の上を石鹸の柔らかな泡が流れていく様を、結子は今でも覚えている。
「あと、お風呂屋にも行ったよね。保育園に行く途中にあった…」
そう言いながら結子は不意に今朝の夢を思い出した。
白い花が天に向かって咲いている…
あれは……
ハクモクレン……
ガタガタッという大きな落下音で結子は夢から醒め、思わず飛び起きた。
呻くような声も聞こえ、結子は恐る恐る廊下に出た。
しんと冷えた暗い廊下の先に座り込む人影が見えた。
「…え……お母さん!?どうしたの!?」
駆け寄る結子に、奈緒美は消え入りそうな声で答えた。
「トイレ……これ、おとした…」
奈緒美はいざりながらトイレへ向かっていた。
途中で脱衣場の前に置かれたラックに手をかけて立とうとしたが、合板の華奢な棚は体重を支えきれず倒れてしまったようだ。
床に散らばった雑貨を奈緒美はかき集めていた。
「そんなの後で拾うからいいよ…それより、トイレ行こう」
結子は奈緒美を抱き起こしてトイレに連れて行った。
「声かけてくれたらよかったのに」
居間に戻って熱いお茶を淹れながら結子は奈緒美に言った。
「ねてたから…」
奈緒美は寝入っている娘を起こすのが忍びなかったのだろう。
「でも、おこしたのね…だめね、わたし」
立ちのぼる湯気が奈緒美の溜め息で揺れた。
喉の渇きで結子は目を覚ました。
部屋は暑いくらいに暖房が効いている。
ローテーブルににじり寄り、湯呑みに残った冷えたお茶を一気に飲み干す。
空になった湯呑みを置くと結子は指の腹で瞼を押した。
…疲れた。
指先がアイシャドウで汚れているのを見て溜め息をつく。
慣れないことをすると疲れる。
とはいえこの家に着いてから特別何かをした訳ではない。
むしろ何かをする間もなく、早めの夕食後に奈緒美は早々に就寝してしまった。
味気ない初日の終わり方ではあるが、体力的には妥当だったのかもしれない。
家事が一段落すると結子もいつの間にかソファーで眠りについていたのだ。
…もう少し介護のこと勉強しておくんだったかな……
思うように動けずにいる奈緒美を見ては、一時退院を急ぎ過ぎたかと後悔した。
不慣れな結子の介護では奈緒美も不安はあるだろう。
それに築40年の家の構造にも問題がある。
…でも、お母さんは嬉しそうにしてた。
介護だって慣れたらもっと上手くできるはず。
「大事なのは、気持ちよ…」
結子の呟きはどこか自己暗示めいていた。
病院からはタクシーを使った。
初老の運転手は手慣れているのか、結子がまごついているうちに車椅子を積み込み奈緒美を座らせた。
奈緒美は車窓から外の景色を見ては、あの家がなくなったとか、新しい店ができたねえ、と感嘆の声をもらした。
「あ、ここも…かわったね」
流れる街並みを目で追う奈緒美の仕草は幼い子供のようだった。
タクシーを降りると、結子は奈緒美を乗せた車椅子を押しながら自宅の方へと歩いた。
「うちだ…」
視界に自宅が入った瞬間、奈緒美は微かに涙声を混じらせて呟いた。
「…到着!」
畳に座り込んだ結子は息が上がっているのをごまかすようにガサガサとコートを脱いだ。
部屋に上がるだけでも予想以上に労力を要したのだ。
まず、車椅子が入ると玄関の中は身動きがとれないほど狭くなり、奈緒美が車椅子を離れるまで10分近くかかった。
そして玄関からたった20歩足らずの距離を、結子は転倒しそうになる奈緒美を半ば抱えるように進むよりなかった。
「…とりあえず、お茶、飲もうか」
そう言ってみたが、結子は居間の畳からしばし離れられなかった。
「でも、それに気づいたのはずっと後になってからよ」
可南子はコートのポケットに手を突っ込んで目を伏せた。
「それまでは…最低だった。嫌々介護するうちにストレスばかり溜まって、子供ができないのも義父のせいだなんてダンナに八つ当たりして。
その頃は自分だけがすっごく不幸だと思ってたからね」
明るく溌剌とした可南子からは考えられないような重苦しい話だった。
「一度ね、発作的に家出したの、私。全部捨てたくて……私も、消えちゃいたくて…
でも、自暴自棄の私を奈緒美の言葉が救ってくれたの」
伏し目がちの可南子は、まるで懐古の夢を見ているかのようだった。
「2人とも、ちこく」
約束の1時より5分と遅れず病室に着いたが、奈緒美はだいぶ待ちわびていたようだ。
「私の長話のせいよ、ごめんなさい」
可南子は奈緒美に謝ると結子に耳打ちした。
「…実はもう少し為になること話したかったんだけど、横道逸れちゃって…まあ詳しくは来年ね。
じゃあ、奈緒美も結子ちゃんもよいお年を!」
疾風のように帰っていく後ろ姿を、2人は笑い合いながら見送った。
「…それからは苦手を通り越して、義父を嫌いになっちゃってたなあ」
可南子は唇の端を上げて笑った。
「それなのに介護してあげるなんて…可南子さんて、すごいですね」
まるで打ち明け話のような可南子の語りに結子は聞き入っていた。
もしも自分が可南子の立場なら心が折れてしまうかも、と思った。
「ずーっと、私も義父の言葉に傷ついてたんだけど…」
可南子は遠くを見るような表情で静かに言った。
「義父は私のことを傷つけまいとして言ったんだって、わかったの。
…結子ちゃん、うまずめって言葉知ってる?」
結子は頭を横に振る。
「漢字だと“不産女”…つまり“子供を産めない女”って意味ね。でも、“石女”と書くこともあるの」
可南子は指で空中に“イシ”と書いた。
「あのとき、叔父は私をうまずめだって言ったのね。子供ができないのは全部私のせいだって…
それに対して義父は、私達夫婦の選択で子供を作らないんだって言ったのよ。
正確には私も夫も子供が欲しくて仕方なかったから、全然的外れだったんだけど……でも、あれは義父なりの思いやりだったのかもね…」
可南子は義父が苦手だった。
偏屈で仏頂面の老人とどうやって接したらいいのかわからなかったのだ。
夫の兄姉達はみな東京で所帯を持ち、義両親は千葉に2人だけで暮らしていた。
平穏な日々を過ごしていたが、可南子には密かな悩みがあった。
なかなか子供が授からない。
周囲には伏せていたが不妊治療にも通った。
“30までに産みたい”が、毎年1歳ずつ先延ばしになり、“35までに産みたい”になっていた。
その年の正月、例年通り千葉の家に親族が集まった。
酔った夫の叔父の声が、酌をしてまわる可南子のすぐ後ろで聞こえた。
“兄さんとこは孫は打ち止めかい?誠の嫁さん、ありゃイシかな”
誠の嫁さんとは可南子のことだ。
またか…と可南子は辟易した。
こういう席では決まって子供はまだか、と聞かれる。
しかし、イシとは何なのか…
直後、聞こえよがしに発せられた義父の言葉が可南子の心をえぐった。
“仕事やら旅行やら、好きなことしたいから誠らは作らんのだろ。それに俺も、もう孫は要らん”
可南子は平静を装っていたが、ビール瓶を持つ手がぶるぶると震えた。
「本当に大丈夫よ。そんなことより、練習がてら押してみて」
建物へ続く通行路を、可南子から指示を受けながら車椅子を押して歩いた。
「…こういう段差は前輪を上げて跨ぐの。ほら、後ろのここを踏むと楽に前輪が浮くでしょ」
「…あ、本当だ。さすがですね」
感心しきりの結子に、可南子は笑って言った。
「テコの原理。なーんて、私も最初は気合いと力任せの我流だったの。
でも、義父が大柄な人でね…これは無理だって悟ってヘルパー講習に行ったの」
結子はコートに包まれた可南子の華奢な体を見やった。
「うちのダンナって、末っ子の次男坊なの。上には義兄と義姉も2人いるのよ」
可南子は歩みのスピードを少し緩めて話し始めた。
「結婚したときは次男の嫁の私が舅の介護をするなんて思いもしなかった…しかも私、義父が苦手だったから」
建物の中に入ってからも可南子の独白は続いた。
可南子は26歳で同い年の男性と結婚した。
初めて義両親に会ったとき、2人が老齢であることにいささか驚いた。
義母は69歳、義父は75歳で可南子の祖母と4歳しか違わなかった。
一時退院の間は病院の備品である車椅子が使えないということを、結子はほんの2日前に知った。
なんとか使わせてもらえないかと病院の職員に頼み込んだが、職員の返答は“規定は曲げられない”の一点張りだった。
奈緒美の体では、移動するには車椅子が必要だ。
こうなれば購入するより他はないと思ったが、どこで買えるのかも、いくらするかも見当がつかなかった。
どうしたものかと頭を痛めていると不意に記憶の糸が繋がった。
以前、可南子が義父の介護をしているという話を奈緒美から聞いたことがあった。
何か有為な助言がもらえたらと、迷いながらも可南子に連絡してみた。
『車椅子を買うの?急ぎなら、とりあえずうちにあるのを貸すわよ』
図らずも可南子の厚意で問題は解決し、今日を迎えられたのだった。
「…一応メンテナンスもしておいたからね」
可南子はグリップを軽く叩いてみせた。
「私、本当に馬鹿ですよね。先にちゃんと確認しなかったから……あの、本当にお借りしても大丈夫なんですか?」
今更そんなことを訊いても仕方ないのだが、心苦しさの消えない結子はおずおずと問いかけた。
結子は駐車場の出入り口が良く見える場所に佇んで、往き来する車を目で追った。
車が結子の前を通る度に、冷たく乾いた風が吹き抜けていく。
軽自動車に続いて黒いエルグランドがゲートを通過したのが見えた。
運転席の人影は結子に向かって手を振り、空きスペースに車を停めた。
「ごめんなさい、待ったでしょ?」
降りてきたのは奈緒美の友人である可南子だった。
「私も少し前に着いたところで…あの、本当にすいませんでした。本来ならこちらが伺うべきなのに」
結子は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいのいいの。それに今日ね、ダンナを鎌倉に送る用もあって…あはは、久々にドライブデートしちゃったわ。
…さて、あれを下ろしちゃおうか」
可南子は明るく笑って車の後方に結子を回らせた。
リアハッチを開けると折りたたんだ車椅子が現れた。
「ちょっと古いタイプだから重いんだけど、病院のと変わらないはずだから」
よいしょっ、と言いながら車椅子を下ろすと可南子は慣れた手つきで座面を広げた。
「本当に…助かります」
目の前の車椅子を見ながら結子は安堵のため息をついた。
町田の駅前は賑わいを見せていた。
通勤でも利用する駅だが、今日はまるで違った印象だ。
年末の、しかも10時過ぎの電車は乗客が少なかった。
座席の中央に腰を下ろし、結子は一息ついて車内を見渡した。
向かい側の座席に母親と座っていた3歳くらいの女の子は、結子と目が合うとはにかんで母親の腕に顔をすり寄せた。
車内の暖房が眠気を誘う。
結子は眠気を振り払うように重い瞼を開き、携帯を取り出すとメールを打った。
【結子です お忙しいところ無理を言って申し訳ありません 予定通り藤沢に着けそうです】
乗り換えの駅に差しかかる頃、バッグの中で携帯が小さく鳴動した。
【こちらも遅れず着けそうです では、後ほど病院で】
返信メールを一読すると、結子は軽やかな足取りで電車を降りた。
藤沢の家に着いたのは11時を過ぎた頃だった。
人気のない家には冬の冷気とは別の寒々しさが漂う。
結子は家中の雨戸と厚手のカーテンを開けた。
荷物を自室に置き、休む間もなく病院に向かった。
病院前の停留所でバスを降りると、結子は建物には入らず病院の駐車場へと歩いて行った。
晦日の朝、結子はいつもより早く起きて家事に取りかかった。
「…早いな、いつ起きたの?」
一臣がリビングに顔を出した。
「おはよう。先食べてて…洗濯機回してきちゃうから」
ダイニングテーブルには朝食が並び、作り置きの料理がタッパーに詰められていた。
「冷凍庫におかずを小分けにして入れておくから、悪いけどあっためて食べてね」
「今日、何時の約束だっけ?」
朝食の卵焼きに箸をつけて一臣が訊いた。
「お昼の1時。でもね、一度向こうの家に寄ってから病院に行こうかと思って…できたら」
できたら藤沢まで送ってくれない?と結子が言いかけたときだった。
マナーモードの一臣の携帯が震えた。
一臣は携帯を横目で見ただけで箸を休めることなく結子の話を遮って言った。
「…俺も今日出かけるから。会社に忘れ物してきたの思い出してさ」
「そう、わかった」
結子は言葉を飲み込み、代わりに微笑んだ。
「気をつけて行っておいで。明後日は迎えに行くから…お義母さんによろしく」
一臣もまた、柔らかな笑顔で言った。
窓からは冬の日差しが淡く差し込んでいた。
一緒に暮らし始めてから結子が家を空けることはなかった。
一臣も家事を手伝ってはいるが、それはあくまで補足的にである。
それに2人でまとまった休みが取れるのにも限りがある
2日も家事に追われて留守番では、さすがにいい顔はしないのではないかと思った。
「行ってきなよ。元旦の午後に戻れるなら別に問題ないよ」
一臣は携帯を枕元に置くと、あくびをかみ殺して言った。
「…本当に?2泊していいの?」
拍子抜けするほど簡単に一臣が承諾したので、結子は思わず聞き直した。
「いいよ…俺はここで適当にやるから大丈夫」
「ありがとう!ごめんね、またカズに迷惑かけちゃうね…」
結子は一臣の寛大さに感謝した。
「藤沢まで迎えに行こうか…」
一臣は結子の額に唇を寄せて呟いた。
結子は見上げるようにしてその唇にキスをした。
…この人と出会えて良かった。
重なり合う肌の温かさと熱い吐息に包まれて結子は瞼を閉じた。
吐息をもらす結子を見つめる一臣の瞳は揺らいでいた。
全てがうまくいくと信じて疑わなかった結子は、微々たる綻びにも気づかなかった。
仕事納めの日も一臣は深夜の帰宅だった。
一臣は付き合いで飲みに行く機会は多いが、酒が強い質ではなかった。
結子はリビングで音量を下げてDVDを観ていた。
玄関の鍵が解錠される音を聞いて、結子はリビングから顔を覗かせた。
「お帰りなさい」
「あれっ、まだ起きてたんだ」
時刻は深夜1時を回っていた。
「明日から休みだしね…お風呂沸いてるよ」
結子は瞬時に一臣がさほど酔っていないことを確認した。
浴室の水音を聞きながら、結子はそそくさとリビングを片付けてベッドで一臣を待った。
しばらくして風呂上がりの一臣が寝室にやって来た。
「先に寝てて良かったのに」
「うん、でも……ねえ、ちょっと話してもいい?」
話とは言わずもがな奈緒美のことで、この為に寝ずに一臣を待っていたのである。
「お義母さんの一時退院のこと?」
一臣はベッドに入ると手にしていた携帯を開き、画面を見ながら言った。
結子は一臣の勘の良さに少し驚きつつ話し始めた。
「うん、外泊許可が30日から元旦まで取れたの。でね、その間は私も藤沢の家に泊まろうと思うんだけど…」
結子の粘り勝ちで一時退院は許可された。
30日から帰宅し、新年を自宅で迎えるということになった。
「今回は2泊が限度かな。いきなり無理しても二次的な事故に繋がりかねないですし」
柴田医師は外泊届にペンを走らせながら言った。
「ありがとうございます」
結子は礼を言って深々と頭を下げた。
「もしも何かあったら一時退院の期間内でも病院に戻ってくださいね。じゃあ、30日にこの届けを窓口に出してください」
手渡された外泊届をバッグにしまって、結子はもう一度柴田に頭を下げると足早に奈緒美の病室へと向かった。
病室の入口から、車椅子に座って窓の外を眺める奈緒美の姿が見えた。
少し猫背気味の背中と痩せた肩のラインが年齢以上にくたびれた印象を与える。
濱口に指摘されてから、奈緒美の衰えが急に目につくようになった。
そのせいか同い年の可南子と比べると10歳は違って見えて、その現実に結子は人知れず胸を痛めた。
「…お母さん!聞いて聞いて!」
結子ははしゃぐように奈緒美に声をかけた。
努めて明るく振る舞うのは、奈緒美の為でもあり結子自身の為でもあった。
日を改めて結子は担当医の柴田に一時退院の相談をした。
二つ返事で快諾してもらえると思っていたが柴田医師の表情は複雑な色を呈した。
「そうですね…確かに一時退院した方が佐伯さんには気分転換になるでしょうね」
そう言って、初めて見たときよりも厚みを増したカルテを開いた。
「そうしていただきたいけれど、ただね、このところリハビリが少し遅れ気味で…外泊となると…」
柴田医師はカルテの文字を黙読しながら左の人差し指でこめかみを掻いた。
「無理なんですか」
結子は少し身を乗り出すようにして訊いた。
「今の佐伯さんにはあらゆる場面で介助が必要です。病院とご自宅では環境も違いますしね。ご家族のご負担は少なくないですよ」
柴田の心配が奈緒美の介護にあるらしいことはわかったが、結子にはピンとこなかった。
奈緒美の半身が自由にならないといっても、病院で見る限り周囲の手を煩わせる様子はない。
「年末年始は私も仕事は休みで終日母の面倒を見られますし、いざとなれば協力のあてもありますから」
このままでは承諾が得られないと察した結子は少し強い語調で言いきった。
⚠『ダブルス』をお読みくださっている皆様へ⚠
はじめまして、作者のtie(タイ)です
日頃より私の小説をお読みくださっている方がいらっしゃることに感謝しています
このところ私生活で時間をとられることが増え、小説の更新はもとより携帯を開くことも減ってしまいました
誠に勝手ながら次回更新は年明け4日頃になる予定です
拙い小説ですが、春までの完結を目指して更新していきたいと思います
皆様良いお年をお迎えください
「精神的に少し不安定になっているみたいで…もしかしたら、軽度の鬱病かもしれません」
鬱……
お母さんが……?
「そんな、私にはいつもと変わらない様子に見えますけど……」
結子は言葉を失い、テーブルの上で組まれた濱口の指先に視線を落とした。
「脳血管性の病気はメンタルな部分にも後遺症が出ますし、一過性のものかもしれませんが…
何か、お嬢さんの目から見てお気づきのことがあるかと思ったもので、失礼しました」
結子は奈緒美の変化を見落としていた自分を情けなく思った。
気落ちした様子の結子を気遣って、濱口は話題を変えた。
「あの、ところで年末年始はどうされますか?先生の許可があれば一時退院もできるんですが」
「一時退院…」
秋の初めから奈緒美はずっと病院にいる。
早まった引っ越しや式の準備に追われて、あっという間に3ヵ月が過ぎようとしていた。
認めたくはなかったが、忙しさを理由に奈緒美のことはいつの間にか二の次になっていた。
濱口の指先から視線を外すと、結子は静かに言った。
「できるなら…一時退院させてください」
チェストに置いた時計が無機質な電子音で零時を告げた。
一臣は眠っているのか黙ったままだ。
結子は先だって病院で交わした濱口との会話を思い返していた。
「佐伯さん、少しお時間いいですか」
奈緒美を見舞って帰りかけたとき、理学療法士の濱口に声をかけられた。
「はあ…はい」
結子は時間が気になりつつ頷いた。
濱口と時間をとって話すのは久しぶりだった。
「母のことで何かあったんですか?」
結子が見たところ良くも悪くも奈緒美に大きな変化はないように思えた。
「ええ…佐伯さん、このところリハビリをお休みされることが度々あるんです」
濱口の話によれば、奈緒美は冬になってから体調不良を理由にリハビリを休むようになったという。
「体調不良って…脳梗塞の再発ですか?」
「それはありません。ご本人が体がだるいと訴えられるのと、まあ微熱があるくらいですが」
結子はひとまず安心して濱口の話の続きに耳を傾けた。
「毎日って訳じゃないんですけどね、それにこちらが心配になるくらい頑張られるときもあるし…」
濱口は声のトーンを少し下げて言った。
「明日は俺、課の忘年会。遅いから先に寝てて」
ベッドに入った結子に一臣が話しかけた。
12月になると、付き合いの多い一臣は帰宅が遅くなりがちだった。
「そう…飲み過ぎないでね」
結子はそう言うと一臣の方へ向き直って続けた。
「ねえ、お正月のことだけどね…」
「今からそんなに気負うなよ。年始の挨拶も俺の実家は元旦にちょっと顔を出すくらいでいいよ」
一臣は、結子が早くも“妻”として来たる正月に臨もうとしていると早合点した。
「気楽なもんだよ。集まる親戚も、だんだん少なくなってきたしなあ…」
「あのね、そうじゃなくて、お母さんの一時退院のこと……」
結子の話が奈緒美のことだとわかり、一臣は少しばかり鼻白んだ。
けれど、すぐに笑顔を見せた。
「そうか。お義母さん、お正月に戻ってこられるのか」
「うん…もう入院生活もだいぶ経つし、三が日くらいは藤沢の家で過ごしたいかなって。あ、もちろん先生と相談してだけど…ね」
「ああ…うん、そうだよな…」
一臣の言葉は夜の闇に吸い込まれていき、2人の間に沈黙の時が流れた。
自分の選択に微塵の躊躇もなかったと言えば嘘になる。
“結子の為に”諦めたものは少なくないけれども、今は何の悔いもない。
私と結子を繋ぐ絶対的で永久的な絆に勝るものはなかったから。
愛情と信頼という糸からなる絆こそ、私がずっと欲しかったもの…
それをくれたのは結子だ。
私は幸せだった。
“幸せ”……
…私は、今も幸せなはずよね…?
結子は優しい。一臣さんも優しい。
この前も2人揃ってお見舞いに来てくれたっけ。
仲睦まじい2人の姿を見ていると、心底嬉しいのに不意に虚無感でいっぱいになった。
目の前にいるのに、結子が遠い存在になってしまった気がしてならない…
結子は私の娘から一臣さんの妻になっていく。
私の傍から離れていく。
それは当然のことなのに、寂しくて堪らない。
なんだか……私だけが置き去りにされていくみたい…
…ああ…私は、いつからこんなに弱い人間になってしまったんだろう。
最近、嫌になるくらい涙もろくなった…
予期せずこぼれそうになる涙を可南子に見られまいと、奈緒美は顔を背けた。
結子の結婚が決まったとき、奈緒美は掛け値なしに嬉しいと思った。
独りで育てた結子が久谷家に望まれて嫁いでいく。
半ば誇らしげな気分でいたが、結子が新生活を始めた頃から奈緒美の心情に微かな変化が起こった。
奈緒美の心をささやかな喪失感が侵食する。
それは満ちた月が僅かずつ欠けていくのに似ていた。
今もシーツの波間に“結子の為に”生きてきた日々が蘇る。
「ゆうこが、しゃーわせなのが、うれしい」
“結子が幸せなのが嬉しい”
可南子の問いに無難な答えを返し、奈緒美はまた記憶の海に戻っていく。
お腹に宿った結子を死守する為に英明と家族を捨てた。
可南子が就職先を選り好みしていた頃、生活の為に昼夜を問わず働いていた。
男性との付き合いを避け、幼い結子の為に孤高の母であり続けた。
でも……
…本当は…現実はそんなに綺麗なものじゃない。
私を捨てたのは英明で、あの家に私の居場所がなかったから飛び出した。
可南子みたいに短大を卒業して私も憧れの仕事に就きたいと思った。
人肌の温もりが欲しくて、独りの切なさに震えて泣いた夜もある。
数日おきになった娘の来訪を待ちながら、奈緒美は独りベッドの上で物思いに耽る日々を送っていた。
結子も実質的に結婚したような状況であることを考えれば、以前のように足繁く通えるはずもない。
結子が母親である自分のことで手一杯になるよりは、ずっといい。
結子が幸せならば、それでいいじゃない…
そう思いながらぼんやりと見やった窓の外はすっかり冬景色になっていた。
「奈緒美、ご無沙汰しちゃって悪かったわ。あら、顔色もいいじゃない」
見舞いにやって来た親友の顔を見て、奈緒美の表情がぱっと明るくなった。
「はい、これ生キャラメル。花畑のじゃないけどレシピもらって私が作ったの。案外簡単なのよ」
可南子は手荷物を置くとベッドの横にあった丸椅子に座った。
「結子ちゃん達、もう引っ越しちゃったのよね」
可南子の言葉に奈緒美は小さく頷いた。
「なんだかもうお嫁にいっちゃったみたいね。
…ねえ、娘が嫁ぐときの母親ってどんな気持ちなの?」
奈緒美は“えッ?”という表情で可南子を見つめた。
可南子の質問に何と答えるべきか、奈緒美の視線はシーツの上を彷徨った。
「佐伯さん、今日少し残業頼めるかな」
上司の高島が結子に声をかけた。
「はい、わかりました」
そう答えながら結子は素早く頭の中で計算した。
仮に1時間の残業をして退社すると午後6時半を回る。
それから藤沢の母親の病院へ行けば、到着は7時半。
その後マンションへ真っ直ぐ帰っても8時には間に合わない。
9時近くに夕食を作って食べて、片付けて…
…病院、今日は行かなくてもいい、かな。
無意識のうちに奈緒美と一臣を天秤にかけていた。
というより、この頃の結子は既に疲労のピークに達していて、自ずと楽な選択肢に心が傾いていたのかもしれない。
無論、奈緒美のことは常に気になっている。
だから結子は後味の悪さを打ち消そうと、自分の決断に必死になって理由付けをした。
…お母さん、元気になってきたもの。
この前は自分で車椅子に座り換えるのも楽そうにしてたし、リハビリも順調だし。
私だって仕事しなくちゃいけないし、今日だけ行けないのは仕方ないよね。
こうして結子の病院通いは、毎日だったのが1日おき、2日おきと間遠になっていった。
新しい生活が幕を開けた。
2人の朝は6時にセットされたアラームの鳴動とともに始まる。
簡単な朝食の後に急いで身支度をする。
一臣も結子も通勤時間は以前よりも長くなって、朝の慌ただしさは3割増といったところである。
「うわ、さっむーい」
マンションのエントランスを一歩出ると初冬の清冽な空気が頬を撫でた。
「はあ…指先が、ほらこんなにかじかんでる」
結子は手を開いて見せた。
「手繋ごう。あっためてあげるよ」
一臣が結子の冷えた指先をぎゅっと握った。
学生じゃあるまいし、と照れた結子だったが、手を振りほどくことはしない。
デート気分で歩く最寄り駅までの道のりを、結子は内心楽しんでいた。
新生活は独りで暮らしていた頃よりも細かな制約は多い。
好きな時に好きなことをできる自由はないし、常に一臣の都合を考える必要がある。
しかし、この家に帰れば一臣との蜜月の時間が待っている。
今感じている指先の熱と甘い疼きは昨夜の余韻だが、きっと今夜にも引き継がれるはずだ。
結子はこの生活に酔っていた。
引っ越しの当日は晴天に恵まれた。
荷物の搬送と搬入はほぼ業者まかせとはいえ、業者に混じって動く一臣もてきぱきとした働きぶりを見せた。
日が暮れる前に荷解きもほぼ終わり、結子と一臣はソファーに腰を下ろしてお茶を飲んだ。
「はあ…思ったより早く終わったね。カズが段取り良くやってくれたからだね」
結子の賛辞に一臣は少しはにかんだ笑みを見せた。
「そうかな…まあ、父さんが転勤ばっかりだったから引っ越しは何度もしてるし。慣れだよ、慣れ」
一臣は中学卒業までに数回の引っ越しをしていた。
「子供のときは転校するのが内心嫌でさ。でも親にも言えないで、しょうがないって諦めてたかな」
結子は前に見た一臣の子供時代の写真を思い出した。
年齢の割に大人びて見えたのは、そうした心の陰影が表情に出ていたからなのか。
「ボクの辛い経験も、今日の引っ越しで活躍する為に必要だったってことですな」
おどけた一臣の口調に結子は笑って、そして改まって言った。
「今日からよろしくね」
一臣もぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく」
いつしか夜の訪れが窓の外の世界を濃紺に染めていた。
「でね、明後日の日曜日に引っ越すから、その日はこっちに来れないんだ…ごめんね」
結子は少し上目づかいに母親を見た。
「いいいの、てじゅないないで、ね…」
“いいの、手伝えないで、ごめんね”
奈緒美が小さく頭を下げる。
「いいって、それよりほら見て」
結子は手帳に挟んであった間取り図のコピーを広げて見せた。
「リビングには、この向きでソファーを置こうかなって考えてるの。こっちは私達の寝室で、これは当面カズの書斎になる予定」
コピー紙の上をなぞる結子の指を目で追って、奈緒美はひとつずつ頷いた。
「2人で住むのに3LDKはどうかと思ったけど、カズが子供は2人は欲しいからって…でもしばらくこの部屋は使わないかな」
「ゆうこ、は?」
「私も欲しいけど…いつになるかわからないもん」
しばらくして面会時間の終了を告げる館内放送が流れた。
「じゃあ私帰るね、おやすみ」
自分を見送る母親は笑顔でいても寂しげな目をしている。
その表情に、仕事に行く母親を見送っていた幼い頃の自分の寂しさが蘇って重なる。
目が合えば切なくなるから、結子はいつも振り返らずに病室を後にした。
晩秋の日暮れは早い。
仕事を終えて藤沢の病院へ向かうという生活も2ヵ月を超えた。
結子が訪れるのは大抵が夕食後の時間だ。
「お母さん、着替えは棚にあるからね」
食事用のエプロンをつけたまま奈緒美がこくりと頷いた。
そのエプロンを外しながら結子は引っ越しの話をし始めた。
「ばたばたしてたけど、どうにか荷造りもできたし、新しい家具も揃えられたよ」
「にもつ、たくさん?」
「私の荷物はそんなにないよ。大半は処分したしね」
一臣はずっと実家住まいだし、結子にしても1Kの部屋に収納できる量はたかがしれていた。
そのうえ家具や家電は新しく揃えよう、という一臣の意見で結子の持っていた小型で安価な物品はリサイクル店に運ばれることになったのだ。
「カズって家電オタクなんだよ。炊飯器とか炊ければどれでもいいじゃないって言ったら、“馬鹿だな全然違うんだよ”って怒んのよ」
買い物のエピソードを結子は笑いながら話した。
つられて奈緒美が左頬をくくっと上げて微笑む。右側の表情は麻痺があるせいか変化に乏しかった。
少し変わってしまっても、結子にとっては大好きな母親の笑顔に違いなかった。
結子の毎日は目まぐるしく過ぎた。
多忙を極めながらも、精神的にはこの大変な状況を前向きに受け止める余裕すらあった。
しかし新たに引っ越しの準備まで加わると、どのように時間をやりくりしても手が回らなくなった。
「すみません、来週水曜日から金曜日までお休みしたいのですが…」
結子は上司に有給休暇の申請をした。
奈緒美の入院以来、度々休暇を取るようになっていた。
「佐伯さん、連休作って彼氏とどっか行くんですか」
トイレの洗面台の前で後輩の早苗がそっと耳打ちしてきた。
「違う違う、引っ越しの準備。新居に移るのが早くなったの」
結子の返答に早苗はあからさまに驚いてみせた。
「えーッ、同棲しちゃうんですか」
「うん、まあ…彼が早く一緒に暮らそうって」
結子は小声で答えた。
「佐伯さん幸せですねぇ。すっごい愛されてるって感じします」
早苗はきれいに巻いた髪とアイメイクを鏡でチェックしながら羨ましげに言った。
…そうだよね、幸せだよね、私って。
鏡の中の自分を見つめて思った。
人が幸せを自覚できるのは、他人に“幸せ”だと認められたときなのかもしれない。
一臣自身、この提案が計画性を欠いていることはわかっていた。
それでも結子の目を自分だけに向けさせたいという子供じみた欲求が一臣をせき立てたのだ。
「けど、引っ越しの準備なんかまだしてないし、それにお母さんのこともあるし…」
結子は今ひとつ乗り気にならない。
…また“お母さん”か。
どうして結子は素直に賛同しないのか。
好条件で結婚前から2人だけで過ごせる環境が手に入るというのに。
俺との新生活よりも今は母親の方が大切ってことか。
一臣は心の中でため息をついた。
「でもさ、今の家賃分は捨ててるようなものだろ」
言ってみてから説得の材料としては物足りないことに一臣は気がついた。
今の結子の心を最も揺さぶるのは……
「それにお義母さんの為にもなるかもよ」
結子の反応が明らかに変わった。
「そう?」
「うん、一緒に暮らせば俺も少しは家事を手伝えるし、式の準備も家でできることが増えるだろ。
今よりも時間ができて、結子はお義母さんのお世話がしやすくなるかなあ、って思うんだけど」
一臣は、己の発言によって自分の首を真綿で絞めていくような息苦しさを感じていた。
翌日、式場の打ち合わせを終えた2人は近くのカフェに立ち寄った。
結子が話すことはもっぱら奈緒美の近況報告で、一臣は聞き役に徹していた。
「…でね、お母さんは私とその若い看護師さんをよく間違えるの。この前も…」
「あのさ、マンションのことだけど」
一臣が結子の話を遮って話題を変えた。
「そろそろ契約したいんだ。もう他は入居者がだんだん決まってるみたいだし」
結子と一臣は結婚したら新築のマンションで暮らすことに決めていた。
東京の市部に建築中のマンションは一臣の実家からは程よい距離で、私鉄沿線にあるから都心へのアクセスも悪くない。
賃貸ではなく分譲で話が進んでいるのは、一臣の両親との同居の可能性がゼロに等しいことを意味していた。
しかしマンションの件は完成の後に契約する予定だった。
契約を急ぐ理由がわからず結子は即座に賛同しかねていた。
「頭金は準備できてるし、マンションも完成間近だし、それに…」
思案顔の結子を見つめ、一臣は言葉を繋いだ。
「…結子も今は自分の家にほとんど帰れてないんだし、早いうちに2人でマンションに越した方が何かと都合がいいんじゃないかな」
夜の冷気が火照った体と心の熱を奪う。
「なんか今日は違うみたいだった」
眠気を堪えた声で結子が言った。
「…ごめん」
一臣は自分の強引さを指摘されたと思い、とっさに謝った。
「ううん、そうじゃなくて…よくわかんないけど」
でも気持ちよかった、 と結子は囁くと満ち足りた表情のまま瞼を閉じた。
結子の裸の肩まで毛布を引き上げてやると、一臣は心の中で呟いた。
…違うとしたら、それは俺の気持ちかな。
この夜の一臣は純粋な愛情だけで結子を抱いた訳ではなかった。
このところ結子は生活の全てを奈緒美の看護に捧げていた。
一臣にしても、母親の為に奔走する結子を応援したい気持ちは当然ある。
けれど、ふとした瞬間に微かに苦い感情が心に湧くことがある。
嫉妬と焦りと、もしくは不安か畏れなのか。
結子と奈緒美の絆が妬ましいのかもしれない。
そんな負の感情を抱く自分が汚く思えた。
しかし先刻も、結子の体に臨みながら密かに思ってしまった。
…結子を快感に悶えさせられるのは俺しかいない。
それは奈緒美への“対抗心”と結子を“征服”したいという捻れた感情に他ならなかった。
「明日の式場の打ち合わせって何時からだっけ?」
土曜日の夜に2人が結子の部屋で過ごすことは奈緒美が倒れて以降久しくなかった。
「ねーえ?カズってば…」
「聞いてる、2時からだよ」
結子の少し痩せた首筋を見ていると、不意に軽い欲情を覚えた。
一臣は結子を後ろから抱き、うなじにキスをした。
「明日のことはいいから……」
早く結子を愛したいという気持ちが気だるい熱となって一臣の体を支配した。
ベッドに倒れ込んで部屋着をたくしあげると乳房を柔らかく揉んだ。
「やだ…シャワー浴びてないよ」
秘部の茂みの奥に舌を這わせようとすると結子は反射的に脚を閉じかけた。
そんな小さな抵抗はかえって一臣の熱を増幅させた。
一臣は結子の全身を丹念に愛撫した。
最も敏感なポイントを強めに吸い上げられた結子は最初の絶頂を迎えた。
「上に…なって…」
促されるままに、放心の結子は一臣の熱の塊に向かって腰を沈めた。
「…ハァ…ッ…奥…まで、きてる…ッ」
突き上げられる度、結子の内部に甘い疼きが広がる。
潤みの中心から湧き出す快感を味わいながら、一臣と結子は同時に果てた。
「モチベーションですか…」
「例えばお孫さんと散歩に行きたいから歩行訓練を頑張るとか、“この事の為”“この人の為”という目標がリハビリの動機になるんですよ」
…お母さんの場合はどうだろう。
早く家で元通りの生活を送りたい、というのは当然思っているだろうな。
仕事に復帰したいとか、旅行に行けるようになりたいとか…
…半年後の私の挙式を笑顔で迎える為、という動機はあり得るだろうか……
結子は奈緒美の胸中を推し量ったつもりでいたが、そこには自分自身の希望も刷り込まれていた。
「それと、誰か1人でも心の支えになる人がいることも大きいかなあ…って言ってもこれは結構難しいことなんですけどね」
「私が母の支えになります。他に頼るつてもないですし」
強い意志を滲ませた結子の言葉に濱口は戸惑いの表情を見せた。
「あの、語弊があったかな…お嬢さんが1人で抱え込む必要はないんですよ。むしろサポート役は多いにこしたことないですから」
結子はそれ以上話すことなく、ただにっこり笑って頷いた。
…大丈夫。
私とお母さんなら、きっと大丈夫。
「お母さん、調子はどう?今日はちょっと冷えるね」
結子が病室のカーテンをそっと開けた。
奈緒美はベッドでまどろんでいたが、娘の声を聞くと重たそうな瞼を開いた。
「あ…あ…あ、た、ま…」
「頭がぼんやりするの?眠かったのに起こしてごめんね。リハビリで疲れたかな?」
奈緒美の言葉はまだ聞き取りにくいが、結子は毎日接しているうちに何となく言いたいことがわかる気がしていた。
「お母さん、さっき柴田先生と理学療法士の濱口さんと話してきたよ。あとね、リハビリ室も見学してきた」
「れ、ん、す…の、せん…せ」
「そう、練習の先生、リハビリの濱口先生ね」
微かに奈緒美のひび割れた唇が震えた。
そんな母親の唇を見ていて、結子は先刻リハビリ室で濱口と交わした会話を思い出していた。
「…一見難しいことをしているようには見えないかもしれませんが、リハビリというのは患者さんにとってはかなり大変なことなんです」
濱口はすれ違った患者に会釈しながら結子に語りかけた。
「それに、リハビリは長期に渡って継続しなくてはならないので、患者さんがモチベーションを保てなくなることもあるんです」
入院から8日が経ち、2回目のカンファレンスが行われた。
柴田医師の他に理学療法士も同席していた。
「佐伯さん、経過は良好ですよ」
柴田医師医師の言葉に結子は安堵の笑みをこぼした。
「それで今後の佐伯さんの治療方針ですが、これからは再発予防の薬を使いながらリハビリメニューも変えていきましょう」
柴田医師が隣の理学療法士に目配せをした。
「佐伯さんのリハビリを担当する濱口です」
自己紹介をするとファイルを開いて結子に説明を始めた。
「佐伯さんは今までベッド上でのリハビリが主でしたが、今後はリハビリ室に移動して午前と午後に行いましょう」
「あの…知識がないのでよくわからないんですが、母の体はリハビリでどこまで元に戻るものなんでしょうか」
リハビリが始まったばかりなのに気の早い質問かと思いながらも、結子は聞かずにいられなかった。
濱口は、あくまで可能性の域を出ませんが、と前置きして答えた。
「断定的なことは言えませんが、佐伯さんはまだお若いですし、全く元通りとはいかないまでも…例えば、杖や装具の使用で独立歩行は可能だと思います」
「なんで…どうしてそんなこと言うの?」
全く訳がわからない、という顔で結子は逆に訊ねた。
「結子さ、無理し過ぎだよ。すっげえ疲れてるのがわかる」
一臣は伏し目がちに答えた。
「仕方ないよ…仕事はしょっちゅう休んでられないし、お母さんには私以外に家族はいないもの」
「だったらやっぱり式を先に延ばそうよ。俺がすぐに協力できるとしたら、そんなことだけだし」
結子は一臣の言葉に目を見張った。
「準備が遅れたのは私のせいだから謝るよ。でも、だからって式を延ばさなくてもいいじゃない」
挙式の日取りは、そもそも結子の強い希望で決めた経緯があった。
「けど、お義母さんのことだってあと半年でどれだけ回復されるかわからないだろ」
一臣の言うことはもっともで、そして結子にとって一番触れてほしくないことでもあった。
「お母さんは大丈夫。必ず式のときまでには元気になって出席できるよ。」
結子はそう言い切ると、まだ何か言いたげな一臣の視線から逃れるように立ち上がった。
大丈夫、私がついてるから…
お母さんが元気になるまでずっとそばにいよう…
…それが私の精一杯の贖罪だもの。
「俺はもう少し結子と話があるから」
一臣はそう言って両親を先に東京に帰した。
「話ってなあに?」
両親を見送った後に再びカフェテリアの席に着くと、結子は一臣に聞いた。
「うん…あのさ、さっき父さんが言ってたことだけど」
「結婚式のこと?…そうだね、もうあと半年ちょっとだもんね」
奈緒美の入院で結婚式の準備はすっかりストップしている。
結子はバッグから手帳を出して言った。
「ごめんなさい、来週からはちゃんと時間作るから。招待状も印刷頼まなきゃだね。あとは…」
「そんなにあれもこれもじゃ、次は結子が倒れるよ」
数日ぶりに会う結子は少しやつれて見え、全身から疲労感が漂っていた。
「私なら大丈夫だよ。あっ…ごめん、そろそろ戻っていい?家に洗濯物干したままなんだ」
時計を見て慌てて席を立とうとする結子の手を一臣が掴んだ。
どうしたの、と結子が訊ねる前に一臣の唇が動いた。
「…なあ、いっそ式を延期しないか?」
「…まあでも、少し安心したよ」
病院のカフェテリアでコーヒーを飲みながら大輔が言った。
「そうねえ、最初に意識がないって聞いたときはどうなることかと心配したけど…」
沙紀子も安堵の表情だ。
「リハビリが始まったらきっと早く良くなられるわよ」
「ええ…そうだといいんですけど」
2人に合わせて結子も微笑んでみたものの、胸中は複雑だった。
奈緒美は未だベッドから離れられない状態だ。
今日は理学療法士が奈緒美の体を支えてベッドの端に座らせようとしていた。
奈緒美は支えがなければ座ることもできない。
手を離した途端に、生気のない表情のまま姿勢を崩してしまった。
それに言葉も流暢に話せなくなったままだ。
そんな奈緒美の姿を一臣の両親に見せずに済んだことに、結子は内心ほっとしていた。
「報せを聞いたときは2人の結婚式も延期することになるのかと思ったよ」
「今はいいだろ、その話は…」
大輔をとっさに一臣がたしなめた。
……そうだ、本当なら今日も式の打ち合わせだったんだっけ…
奈緒美が倒れてから、すっかり結婚のことを考える余裕をなくしていた。
奈緒美が入院してから最初の日曜日を迎えた。
東京から一臣とその両親が藤沢へ見舞いに訪れた。
「結子さん、この度は大変だったね。こちらに伺うのが遅くなって申し訳ない」
父親の大輔が神妙な顔で詫びた。
「一臣から聞いたけど、こちらからお勤めに通って毎日病院にも来てるんでしょう?結子さんの体が心配だわ」
母親の沙紀子は結子を労った。
「いえ、元々実家から職場に通ってましたし、病院も家からそう遠くないですから」
沙紀子から花束を受け取りながら、結子はぽつりと付け足した。
「…それに母はたった1人の肉親ですから」
遅れて一臣がエントランスに到着した。
「結子ごめんな、なかなか来れなくて…お母さんの病室、変わったんだよな」
奈緒美は先だって一般病棟の4人部屋に移っていた。
結子の案内で3人が病室に入ると、ベッドでは奈緒美が寝息をたてていた。
「すいません、さっきまでリハビリだったんですけど」
結子が母親を揺り起こそうとするのを沙紀子が止めた。
「せっかくお休みになっているのに起こしたらいけないわ…リハビリって大変だっていうから、お疲れになるのね」
おぼろげな記憶が次第に鮮明になってきた。
確か、半月くらい前…
体が痺れて動かない、と電話口で言っていた気がする。
でもしばらくしたら、もう平気、といつもの調子になっていた…
結子はまた小冊子に目を移した。
続きの文章が結子を打ちのめした。
“TIAがみられた場合、その後に脳梗塞を起こしやすいといわれています。症状がすぐに消えても、早めに病院へ行きましょう”
…………私のせいだ。
あのとき私が気づいていたら…
違う…気づいてたじゃない。
気づいてたけど、お母さんの話を聞き流したんじゃない。
お母さんの体のことより、私の結婚準備のことを話したかったから…
あのときにちゃんと話を聞いていたら、お母さんは脳梗塞にならなかったかもしれない。
それに私があの家で暮らしていたら、直ぐに病院へ連れて行けたかもしれない。
こんなことに、ならなかったかもしれない……
私のせいだ………
私が一緒にいなかったから……
………お母さん…ごめんね……
ごめんなさい……………
結子は傍らに置いたバッグの中から小冊子を抜き出した。
“脳卒中読本”というタイトルの小冊子は、柔らかな色調に可愛らしい挿し絵が入っていた。
結子は、ぱらぱらとページをめくった。
脳出血や脳梗塞を総称したのが脳卒中ということらしい。
身近に罹患した人がいなかったせいか、内容的には知らないことばかりだった。
勝手なイメージだが高齢者特有の病気だとさえ思っていた。
しかしこの小冊子によれば、奈緒美の年代でも十分にあり得る病気のようだ。
ためになる情報くらいの感覚で斜め読みしていた結子の目が、“脳梗塞の前触れ”という項目で止まった。
“脳梗塞では、大きな発作の前に予兆が見られることがあります。これを一過性脳虚血発作(TIA)といいます”
“TIAは突然始まり、短時間で脳梗塞と同様の症状が現れますが、多くは24時間以内に消滅します”
“症状は、手足が動かない・痺れる・めまい・呂律が回らない……”
結子の目は紙面を離れ、宙を彷徨った。
……これって…
…前に、電話で…お母さんが言ってなかった…?
結子は動揺しながらも記憶を辿った。
結子達が病院に戻ったときには、西日が建物の白い外壁を茜色に染め始めていた。
「結子は今日もこっちに残るの?」
「うん…もしも病院から何か連絡があったときにすぐ行けるでしょ」
荷物を車から下ろすと一臣は申し訳なさそうに言った。
「俺ももう少し休みが取れたらいいんだけどさ、明日は出張なんだ」
「そんな、今日来てくれただけで充分だよ。私は明後日まで有給取るつもりだし、病院にはバスで往き来するから」
結子は笑顔でそう言うと一臣の手から荷物を受け取った。
ICUの前で結子は自分と年齢の近そうな看護師に呼び止められた。
「佐伯さん、多分明日には一般病棟に移れそうですよ」
その言葉に結子と一臣は跳ねたいほどの喜びを感じた。
奇跡的な回復ぶりを想像して期待に震えながら病床の奈緒美に駆け寄ったが、奈緒美はまだ眠っていた。
一臣は奈緒美の耳元で、お義母さんまた来ますから、と囁くと名残惜しそうな表情のまま東京に帰っていった。
一臣を見送ると結子は飲み物を買って廊下の長椅子に腰を下ろした。
窓の外を眺めているうちに、不意に柴田医師から渡された小冊子のことが思い出された。
結子は冷蔵庫の食材で簡単な昼食を作った。
「ん、うまい」
美味しそうに食べる一臣の姿を結子はぼんやり見ていた。
昨日までなら、結婚したらきっと毎日こうして食卓を囲むのだろうと想像して微笑んでいたはずだ。
でも、今は……
「どうした?食欲ないみたいだな」
一臣が心配そうな顔をする。
「あ、ううん…ちょっと疲れただけ。昨日はあまり眠れなかったから」
結子は取り繕うように笑って箸を口に運んだ。
食事を終えると入院中に当面必要な衣服と日用品を鞄に詰め始めた。
押入の衣装ケースを開けたとき、ケースの奥に黄色い鳩サブレーの缶が見えた。
結子は鳩の姿を模したこの焼き菓子が好きだった。
小さい頃に奈緒美のお手伝いをしては、お駄賃代わりにこの鳩サブレーを貰ったことを懐かしく思い出した。
缶蓋には油性ペンで“結子”と書かれていて、意外な所で自分の名前に出くわした結子は缶の中身が気になってしまった。
缶を取り出そうとした瞬間ダイニングから一臣の呼ぶ声がして、結局そのまま襖を閉めてしまった。
奈緒美は経過を見てなるべく早くリハビリを開始することになった。
ではまた1週間後にカンファレンスをしましょう、と言って柴田医師は話を終えると結子に小冊子を手渡した。
「よかったらご覧になってください。一般的なことくらいしか載ってませんけど」
病院を出ると2人は藤沢の奈緒美の家に向かった。
時刻は正午を回っていた。
なだらかな坂の彼方に見慣れた屋根が見えると、結子は運転席の一臣に礼を言った。
「今日はありがとう…遅くなる前にカズは東京に戻って」
「今日は1日休みを取ったから大丈夫。結子は入院の準備したらまた病院に行くんだろ、送っていくよ」
カーナビをちらりと見ながら一臣は穏やかに言った。
数ヶ月ぶりに上がった奈緒美の家は昨日の朝から時間が止まっているようだった。
奈緒美は朝食の支度をしようとしていたに違いない。
ガスコンロに置かれた小ぶりの片手鍋と保温状態の炊飯器、そして椅子の背もたれにかかったエプロンが結子の目に映った。
すべてがいつもと変わらない風景の中で、この家の主だけが消えていた。
柴田医師は手帳の用紙を1枚破って簡素な半円形と人体を描いた。
「人間の体というのは、右脳が左半身を、左脳が右半身をコントロールしています」
カリカリとペン先が紙の上を走る音が響いた。
「だから左脳にダメージを受ければ右半身に麻痺などの後遺症が出る訳です。
まあ、後遺症は麻痺だけではありませんし、症状も個人差がありますが」
話を聞いているうちに結子はまるで自分の右半身が麻痺してくるような錯覚に陥っていた。
「あの、母も麻痺が出ているんですか?それとなんだか喋れないみたいなんですけど…」
結子は恐る恐る訊いた。
「後遺症は治りますか…?」
カルテを見直して柴田医師はうーん、と唸った。
「現段階で上下肢とも麻痺は認められます。
喋れないのは構音障害も考えられるし、左脳のブローカー中枢が損傷していたら運動性失語症の可能性もあるかな…
後遺症はリハビリ次第ですね」
結子が欲しかった答えは難解な言葉の羅列ではなくてもっと単純なことだ。
奈緒美は元の体に戻るのか、否か。
明確な答えがないまま、結子は漠然と奈緒美は元には戻らないのではないかと思うのだった。
「昨日も少しお伝えしましたが」
柴田医師はパソコンを起動させるとモニターを見ながら話し始めた。
「佐伯奈緒美さんはアテローム血栓性脳梗塞です。ええと…これが昨日から撮っているCTとMRI画像です」
結子と一臣はモニターを凝視した。
「脳梗塞は簡単に言うと、脳の血管を血栓が塞いで血流が止まり、その周辺が壊死する病気です」
柴田医師は左の手刀を額に当てながら説明し、右手でマウスを操作した。
「この画像はこうやって頭を輪切りに撮したものですが、右と左で濃淡が違っているのがわかりますか?」
やや歪な楕円形の上をカーソルが行き来する。
結子は曖昧に頷いた。
「佐伯さんは中大脳動脈閉塞を起こしたことで、左脳のこの部分がダメージを受けています」
結子は用意していたメモ帳にボールペンの先を当てたままだった。
柴田医師の説明をつぶさに記しておくつもりだったが、思うようにペンは進まなかった。
「…脳にダメージを受けると、どうなるんですか…」
「脳が壊死しますから、その支配領域において後遺症が出ます。たとえば、手足の麻痺ですね」
翌日の午前中に一臣が病院を訪れた。
「結子、少しは休んだ?お母さんの様子はどう?」
「うん…意識はちゃんとしてるんだけどね」
母親の生還と覚醒に安堵した結子だったが、今は気がかりなことがある。
奈緒美が目覚めてから結子は何度も呼びかけた。
おそらく結子の声は聞こえているはずだが、それに対して奈緒美は言葉にならない声を発するばかりだった。
「この後担当の柴田先生からお話を聞くことになっているの。でね、できたらカズも一緒にいてくれる?」
結子は言いようのない不安と微かな畏れを抱いていた。
「いいよ、俺もできたらそうさせてもらえたらって思ってたんだ」
一臣の快諾に結子は胸をなで下ろした。
「佐伯さん、こちらへお入り下さい」
予定の時刻になり、柴田医師がカンファレンスルームに結子を誘導した。
「失礼ですが、こちらは?」
結子に続いて入室した一臣に柴田医師が一瞬驚いた表情を見せた。
「すいません、私の婚約者です。その…私1人では不安で…」
「そうですか。いや、構いませんよ。じゃあ早速ですが始めましょう」
柴田医師は“使用中”の札をかけてドアを閉めた。
可南子は遠い過去のことを思い出していた。
奈緒美は妊娠中に実家を出て、貯金と臨月まで働いて稼いだお金で出産費用を作った。
出産間近になっても奈緒美は子供の父親とも実家とも連絡を絶っていた。
独りで産むからと頑なな奈緒美を見かねて、可南子は付き添いを申し出た。
しかし予定日よりも早く産気づき、報せを受けた可南子が到着する前に奈緒美は結子を産んでいたのだった。
「母のことだから具合が悪くても入院せず我慢してたのかも…」
結子も過去の日々を思い出していた。
奈緒美は昔から娘のことが最優先で自分のことは二の次にしがちだった。
もし父親がいたら、また違った日常があったかもしれない。
「実は奈緒美に“ずっとシングルマザーでやってくつもり?”って聞いたことがあるの」
「母は何て答えたんですか」
可南子は母親とよく似た結子の目を見て言った。
“片親の大変さはあるだろうけど、私は絶対に結子を孤独で苦しめたりしない。
それに今の私はシングルでも独りじゃないの。私と結子は愛情で結ばれたダブルスなのよ…”
「ダブルス、ですか」
奈緒美の想いに結子は瞳を揺らした。
『そうか、大変だったな。ごめんな、俺も今すぐそっちに行きたいところだけど…お母さんは今どうなの?』
「ううん、こっちこそ遅くにごめんね。今はまた眠ってるよ」
受話器を通して一臣のじんわりと優しい温もりが伝わる。
「明日の朝に先生からまた説明を受けると思うけど、しばらく入院になりそう」
『わかった。明日は俺だけでもそっちに行くから。結子、ちゃんと休めよ。飯も食べろよ』
「うん…ありがとう。じゃあ、おやすみなさい」
公衆電話の重い受話器を戻すと結子はゆっくり息を吐いた。
消灯時間を回った病棟は間接照明だけが灯り、昼間より無機質な空間に思えた。
「久谷さんと連絡とれた?」
可南子はペットボトルのお茶を2つ買って待っていた。
「はい、明日こちらに来るそうです」
結子は可南子に頭を下げた。
「可南子さん、すいませんでした。お忙しいのにこんな時間まで付き添ってもらって…」
「私のことは気にしないで。仕事も都合つくし、家にはダンナがいるだけだし」
可南子は手の中でペットボトルを転がして思い出したように言った。
「奈緒美が入院するのは、出産のとき以来だわね」
………………明るい……
目の奥がちくりと痛んだ。
奈緒美はゆっくりと目を開けた。
視界は乳白色にぼやけている。
…誰かの…声……が…
…何…?何て……言ってるの……
……泣いてるの……?
………………ゆ・ う・ こ……?
………………ゆ・ う・ こ………
………………結…子…
結子はICUの前でしばらく茫然自失のまま立ちすくんでいた。
「結子ちゃん、大丈夫!?」
スーツに身を包んだ中年の女性が駆け寄ってきた。
「可南子さん…」
結子は病院に向かう途中で奈緒美の友人 である可南子に連絡していた。
たった1人の身内にこんな一大事が起きた今、結子には可南子の他に頼れる人間はいなかった。
「奈緒美は、容態はどうなの?」
「脳梗塞で倒れて…意識がまだ戻らなくて…」
可南子の顔を見た途端に張り詰めていた心は脆くも決壊した。
こらえていた涙が溢れて結子の頬を濡らしていく。
「…お母さん…」
……助かるよね?
……目を開けてくれるよね?
……私を、独りにしないで………
可南子は嗚咽をもらす結子の肩を抱いた。
奈緒美は市内の病院に搬送されていた。
急ぎ駆けつけた結子は、痛々しい母親の姿を目の当たりにして言葉を失ってしまった。
「佐伯さんのご家族の方ですか?」
声のする方へ振り向くと若い医師が結子に近づいてきた。
「脳神経外科の柴田です」
「はい…あの、母は、どこが悪いんですか…」
柴田医師は結子を座らせると病状説明を始めた。
「これがMRI検査の画像です」
結子はパソコンの画面上に展開される色彩のない画像を食い入るように見つめた。
「血腫は認められませんでしたし、他の所見と併せてみても脳梗塞でしょう」
「脳梗塞…ですか」
結子は柴田医師の言葉を短く復唱したが、事態が理解できた訳ではなかった。
「搬送に付き添われた方の話だと、自宅で倒れられているのを発見されたのが11時頃だったそうです」
奈緒美はパジャマ姿でダイニングに倒れていたらしい。
いつも朝は6時前に起床することを考えれば、病院に運ばれるまで6時間近く経過していたことになる。
「今は投薬で脳圧を下げる処置をしています。このまま入院となりますので手続きをお願いします」
結子は力なく頷いた。
「佐伯さん、外線2にお電話です」
後輩の早苗が結子を呼び止めた。
「どなたから?」
「えっと、川崎さんて方です」
川崎という名前に心当たりはなく、結子は訝しげに受話器を取った。
「お待たせ致しました、佐伯でございます」
『ああ、佐伯さんですか?佐伯奈緒美さんのお嬢さんですか?』
川崎と名乗る男性は奈緒美の勤め先の上司だった。
随分と気が急いている話し方だった。
『お嬢さんの連絡先がなかなかわからなくて…あの、今すぐこちらに来てくれますか』
「あのう…」
結子は一向に話がわからず戸惑っていた。
何もわからないはずなのに、何かを察知して結子の心臓は早鐘を打ち始めた。
「母に何かあったんですか」
…何もある訳ない。きっとなんでもないから…
祈りにも似た思いで川崎の返事を待った。
『お母さん、自宅で倒れてたんです。出社しないから様子を見に行ってみたら…』
奈緒美は、一瞬何が起こったのかわからなかった。
朝、いつものように朝刊を広げていたはずだった。
窓から差す朝日が眩しくて思わず目を瞑った。
ゆっくり目を開けると、部屋は夜の闇に静まり返っていた。
…何…?夢だったのかな……
暗い部屋で微かに時計の文字盤が見えた。
…やだ、遅刻じゃない。
奈緒美は慌てて玄関を飛び出そうとした。
不意に後ろからスカートの裾を強く引っ張られた。
小さな女の子が泣いていた。
幼い結子だ。
「お母さん、行かないで!」
「結子ちゃん、お母さんお仕事なの。朝には戻るからね、いい子にしてて」
「行っちゃダメッ!ダメッ!」
どんなになだめても、結子は激しく泣いて奈緒美から離れない。
「行っちゃダメなのッ!ゆうこ、独りになっちゃうから…お母さん、いなくなっちゃうから…!」
困り果てて、奈緒美は結子を抱いて外に出ることにした。
腕の中で結子がもがく。
玄関のドアノブはすぐそこなのに、あと少しなのに前に進めない。
…ああ……
また、目が眩む……
季節は夏から秋へと移ろい始めていた。
夕食の後片付けを済ませた結子は久しぶりに母親に電話をかけた。
奈緒美はもう仕事を終えて帰宅しているはずなのに、長い呼び出し音が鳴り続けるだけだった。
結子は諦めて電話を切ろうとした。
『もしもし…』
やっと繋がった電話口の奈緒美の声は少し不明瞭に聞こえた。
「あ、お母さん?結子だけど。寝てたの?」
『ん…違う…ちょっと体がおかしくて…腕が痺れて動かなかったの…ああ、でももう平気だから』
「そう?ならいいんだけど。あのね、式の招待客なんだけどさ…」
結子は母親の体調も気にはなったが、自分の結婚準備の話を優先したい気持ちの方が勝っていた。
『…そうね、可南子にはずっとお世話になってきたし、久谷さんの方で差し支えなければご招待したら?』
「うん。それにしても結婚式ってこんなに準備が大変なんて思わなかった。昨日もカズがさ…」
長話になりそうなのろけ半分の愚痴に奈緒美は苦笑した。
夜が、静かに更けていった。
藤沢から戻って以後の結子と一臣は、結婚に向けて慌ただしくも充実した日々を送った。
篠原房江は自分が引き合わせた2人の婚約報告に目を輝かせた。
「嬉しいわぁ、あなた達で成婚10組目なのよ」
挙式はチャペルウェディングで、披露宴はごく少人数のコースを選んだ。
「今はシンプルな式も流行りらしいし、結子さんの希望を取り入れて決めなさい」
一臣の両親は、主役は結子と一臣なんだからと言って一任してくれた。
どうやら一臣が両親に進言していたおかげらしかったが、招待する親類縁者の少ない結子は内心安堵した。
新居は一臣の実家から車で15分のマンションが候補に挙がり、何度か現地に足を運んだ。
間取り図の上に展開される新婚生活のシミュレーションはきらきらとした希望に満ち溢れていた。
やらなければならないことが山積していて、毎週の休日は方々へ飛び回ってくたくたになるほどだった。
…でも、幸せだから。
ダイヤをあしらったエンゲージリングが左手の薬指で光るのを見ていると、結子は疲れも吹き飛ぶ気がした。
まさに至福のときだった。
「ずっと昔にも同じようなことを言われたわ…」
奈緒美は薄暗闇の先に遠い過去の日を見ていた。
「…確かに楽な暮らしじゃなかったし、寂しい、辛いって思うことも沢山あったよ」
微かな衣擦れの音がした。
「だけどね、その度に、これが私のしあわせなんだって思ったの」
「…それは幸せじゃなくて強がりだよ」
結子には母親が過去の苦労を懸命に肯定しているように聞こえた。
「違うの。結子が言ってる幸せと私が言ってるのは別物よ」
「何、それ」
奈緒美の謎かけのような言葉を結子は頭の中で反芻した。
…シアワセデハナイ、シアワセ…
「続きはまたね。早く寝ないと、おばけが出るよ」
くすくすと母親が笑った。
奈緒美の言葉の真意を聞き出す前に結子は深い眠りに落ちてしまった。
布団を並べて母娘は横になった。
天井の板目を見上げながら結子は幼い頃のことを思い出していた。
奈緒美は幼い結子に、夜になったらあの天井からおばけが出てくるよと話して聞かせていた。
怖かったら目を瞑りなさい、おばけは行っちゃうから…
結子は布団に入ると言いつけ通り目を瞑り、そのまま眠りについてしまうのだった。
「あれって早く私を寝かしつける為だったんだよね」
奈緒美はふふっと笑った。
「あの頃は夜遅くの仕事もしてたからね。結子が起きてると行くなって泣くから」
枕元の時計は午前0時を差している。
「お母さんさあ…」
結子は奈緒美の方へ寝返りを打った。
「これからは私に気兼ねしないでいいから、お母さんも第二の人生楽しみなよ」
「なあに、急にそんなこと言って」
笑って取り合わない奈緒美に結子はなおも続けた。
「だってずっと独りだったじゃない。老け込む前に誰かいい人がいたら結婚して幸せになってよ」
結子は自分の結婚が秒読み段階に入り寛容な気持ちになっていた。
そんな幸せな自分と比べ、苦労を重ねて若く美しい時代を謳歌できなかった母親が不憫にも思えた。
その日の夕食は結子と奈緒美にとって本当に楽しい時間だった。
初めは緊張を解すためにビールを早いピッチで飲んでいた一臣も、酔いがまわるにつれて陽気に喋りだした。
そして結子は一臣以上によく飲んで楽しそうに喋る母親を初めて見た。
母親と2人の食卓が当たり前だったから、こうして一臣という男性が加わった家族団欒は結子には新鮮なものだった。
「明日お休みでしょ?部屋は空いてるんだし、久谷さん泊まっていきなさいよ」
酔って眠たそうな一臣に声をかけると奈緒美はさっさと四畳半に布団を敷いた。
「結子の布団もここに敷く?」
いたずらっ子のような目でそんなことを言う母親を、結子は可愛い人だと思った。
「…ううん」
結子は奈緒美を見つめて微笑んだ。
「今日はお母さんの隣で寝るよ」
「…まあ、それより食べましょうよ」
奈緒美は曖昧に笑って話を終えた。
初めての顔合わせで親に結婚の話をされては一臣も困るだろうと思ったのだ。
そんな奈緒美の様子を見て、一臣はひとつ咳払いをして口を開いた。
「僕は結子さんと結婚したいと思っています。ですから、今日はお母さんに結婚のお許しをいただきたくて参りました」
一瞬、3人は静寂に包まれた。
「久谷さん…」
奈緒美は凪のように穏やかな口調で一臣に話した。
「結子からお聞きになっているでしょうが、この子は父親がなくて育ちました。
片親の子でも世間様に恥ずかしくないようにと育てたつもりです。親の欲目かもしれないけれど実直で優しい子だと思います。
勿論、至らないところも沢山あると思いますが」
母親の独白に結子は胸が熱くなるのを感じた。
奈緒美はゆっくりと一臣に頭を下げた。
「ふつつかな娘ですが、どうぞよろしくお願いします…久谷さんと一緒に幸せな家庭を築かせてやってください」
2人が奈緒美の待つ家に着いたのは夜の7時になる頃だった。
築40年のこの家は外観こそ年季の長さを感じさせるが、陽当たりも良くて住み心地は申し分ない。
玄関前に立つと急に懐かしさがこみ上げてきた。
東京で独り暮らしを始めた3年前まで結子もここに住んでいたのだ。
呼び鈴を鳴らすと母親の奈緒美が出迎えてくれた。
「結子、お帰りなさい。まあ久谷さんも遠いところお越しくださって、ありがとうございます」
「はじめまして、久谷一臣と申します。結子さんとお付き合いさせていただいてます…」
やや緊張の面もちで頭を下げる一臣を結子は笑いながら促して部屋へ上げた。
食卓には料理がずらりと並んでいた。
「すごい!お母さん、この刺身盛り随分と豪勢じゃない」
「娘が彼氏連れて来るんですって言ったら魚成のおじさんがサービスしてくれたの」
幼い頃、魚成の店先でよく遊んでいた。優しい店主は結子にとって祖父のような存在だった。
「結子ちゃんがお嫁にいく前祝いだって…」
言ってから、結婚を示唆する言葉だったと気づいた奈緒美は“しまった”という顔をした。
夕刻になって結子が更衣室を出たときに一臣からメールがきた。
【俺はもうすぐ退社できるよ 結子は大丈夫?】
【お疲れさま~私も着替えてきたとこだよ】
結子は素早くメールを返した。
2人は品川で落ち合い電車に乗り込んだ。行き先は、結子の母親が暮らしている藤沢。
車内は帰宅ラッシュですし詰め状態だった。
結子が押し潰されないようにと一臣が気を遣ってくれるのが嬉しかった。
「藤沢って江ノ電の駅だよね。海沿いを走ってるんだっけ」
藤沢駅が近づくと一臣が瞳を輝かせて言った。
「そうだけど、残念ながらうちは北部の方だから江ノ電じゃないよ」
「そうかあ…子供んときに乗ったきりだけど、今日また乗れるかと思ってたんだ」
残念そうに言う一臣は本当に少年のようで、結子は心がくすぐったくなった。
そうして2人の交際が始まった。
一臣との蜜月で、結子はえもいわれぬ幸福感に包まれていった。
相性が良いというのはこういうことか、と結子は思った。
それは結子という型に一臣という存在が寸分違わず滑らかにはまる心地良さだった。
一臣といると結子の心は柔らかく解きほぐされ、一臣と抱き合うと2人の体が融け合っていく快感を覚えた。
…運命の人。
結子はそう思った。そしてそれは一臣も同じだと思った。
「お母さんに会わせたい人がいるの」
結子が奈緒美に一臣との交際を打ち明けたのは、奈緒美の誕生日の夜だった。
結子は過去の恋人を母親に紹介したことがない。
それは気恥ずかしさのせいもあったが、所詮は親に会わせるほど深い関係でもなかったからだ。
しかし一臣は別格だった。
それから約1ヵ月が過ぎ、奈緒美と一臣の初顔合わせの日を迎えた。
職場に戻る途中で結子の携帯電話が鳴った。
【わかりました 私の方が帰りが早そうだから 待ってます】
母親からの返信メールだった。
30近い平凡な自分にあてがわれる相手のレベルを想像したが、期待の余地は微塵もなかった。
しかし結子の予想は良い方に裏切られた。
久谷一臣の姿を見つけた瞬間、結子は胸の奥がざわつくのを感じた。
「はじめまして…」
一臣の声が心地良く結子の耳をくすぐった。
涼しげな目元と笑うと浮かぶ片えくぼの愛らしさがアンバランスな魅力を作り出していて、結子は一臣の笑顔に惹かれた。
「佐伯さん、あの人に無理やり連れて来られたんでしょう」
房江が席を離れると一臣はため息をついて言った。
「あの人は遠縁なんですが、僕の父はどうも篠原の家に頭が上がらないみたいで…」
その言い方からして一臣にしても気に染まない“見合い話”だったようだ。
結子は浮かれていた気持ちに冷水をかけられた気分だった。
「今日はありがとうございました」
別れ際、結子は努めて明るく言った。
少し間を置いて一臣が返した言葉は、半ば諦めかけていた結子の心臓を射抜いた。
「次は…いつお会いできますか」
2人を引き合わせたのは、結子が勤めるスクールの受講生だった。
話を持ちかけた受講生の篠原房江は陶芸コースに通う60歳代の専業主婦だ。
いつものように受講生のはけた教室へ備品チェックに行くと、房江が結子を待ち構えていた。
房江は自他共に認める世話焼きおばさんだ。
今の若い人にはお節介なだけかもしれないけどねえ、と房江は一応の前置きをして話を切り出した。
「主人の従姉妹の義弟の息子さんなんだけどね、とってもいい子なの。お勤め先も確かだし、年だって佐伯さんとそう変わらないし」
要するに見合い話だった。
房江は目尻を下げて話し続けた。
「佐伯さんて清楚だし優しいし素敵なお嬢さんだから、もうお相手がいるかもしれないんだけど、もしそういう方がまだなら一度お会いしてみない?」
房江は明らかに結子が独身で男の存在がないことをわかって言っていた。
結子にしてみたらあまり気分のいいものではなく、ええまあ…と適当に言葉を濁していたが、房江の押しの強さに負けて結子は承諾してしまった。
奈緒美とのストイックな暮らしは結子の恋愛観にも影響を及ぼした。
結子は恋愛の延長上には必ず結婚を考えていた。
そして結婚とは母親の言う“幸せな”ものでなくては意味がないとも思っていた。
奈緒美が成し得なかったことを託されているという気負いもあったのかもしれない。
だから情熱のままに恋愛を楽しんだり、まして軽い気持ちで男性遍歴を重ねることなどできる訳もなかった。
その結果、気づけば学生時代の恋愛が終わってから5年が過ぎていた。
30歳に近づくと結子は徐々に焦りを感じ始めたが、5年のブランクは恋愛の糸口を掴む方法さえ忘れさせていた。
ただ時間が虚しく流れて、結子は恋愛から完全に遠ざかっていった。
しかし28歳の秋に、まるで予期しない形で一臣と出会うことになる。
奈緒美は優しい母親だが娘の躾には厳しかった。
そして奈緒美自身も慎ましい生き方を自らに課しているようだった。
“母子家庭だから”“若い親だから”という色眼鏡で見られることを嫌がったからかもしれない。
結子が年頃になると奈緒美は娘に避妊について教えた。
「そんなことしないから必要ないよ」
お仕着せの性教育ではない生々しい話に照れてしまった結子に、奈緒美は真剣な表情で言った。
「好きな人とセックスするのは悪いことじゃないよ。でも、避妊しないと結子の心も体も傷つけることになるの……結子にはいつか幸せな結婚をして母親になってほしいから」
このとき、結子は母親が何か事情があって未婚で自分を産んだのだと直感した。
母親の奈緒美は若くして結子を産んだ。
娘の目から見て奈緒美はストイックな質だと思う。
子育ても文字通り“女手ひとつ”を貫徹し、まるで人を頼ることを良しとしないようにも見えた。
どういった経緯で奈緒美が独りで結子を産み育てたのか、結子自身よく知らなかった。
結子は子供の頃に奈緒美に訊ねたことがある。
「お母さん、どうして私達2人きりなの?私のお父さんはなんでいないの?」
「お父さんは、ずうっと前に死んじゃったの」
どんな問いにも納得のいく答えをくれる母親が、この質問には答えにくそうにこう言ったきりだった。
父親が他界していたとしても遺品ひとつ写真1枚ないのは不自然で、結子の疑問は膨らむ一方だった。
しかし母親の表情が曇るのを見て、子供心に父親のことは二度と聞いてはならないと感じた。
一臣は結子より2歳下で商社に勤めていた。
結子はすでに一臣の実家への挨拶を済ませていた。
息子ばかり3人も育てて、ずっと娘が欲しかったという彼の母親は結子を温かく迎えてくれた。
「俺も結子の親御さんにお会いしたいな」
一臣にそう言われて嬉しかった。
結子は母子家庭で育った。
結子には父親の記憶はおろか写真の1枚すらなかった。
母親以外で身内と呼べるのは祖母くらいだったが、結子は祖母とも数えるくらいしか会ったことがない。
だから結子にとって母親の奈緒美は唯一無二の家族と言っても過言ではなかった。
【今日 予定通りでよろしくね】
送信完了を確認すると結子は小走りで職場に戻った。
結子は都内にあるカルチャースクールで事務の仕事をしている。
大学生の頃はいわゆる氷河期の真っ只中で、就職浪人の末に今の職場に採用された。
結子にとってやりがいのある仕事ではなかったが、あの絶望的な就活を再び繰り返すよりはましだった。
そんな消極的な動機でも5年も勤めている。
そして、結子には一臣という恋人がいた。
まだ付き合って半年だがお互い結婚を意識するようになっていた。
「ごめん、先に戻ってて」
佐伯結子は同僚に断ると街路樹の木陰に入った。
休み時間は残り10分。
結子は昼時の雑踏を気にしながら携帯電話を開いた。
…プルル…プルル…プルル…
『もしもし』
その声を聞くと結子は自然と笑顔になった。
「カズ?お昼食べた?」
『今から食うよ。今日はコンビニの弁当だな』
「もしかして今日忙しいの?」
『まあね…でも今日だけは残業したくないからな。午前中だけでもかなり仕事はかどったよ』
「そっか…ありがとね」
『うん、じゃあまた退社前にメールするよ』
通話が終わると結子は短いメールを打った。
奈緒美は家を出た。
その日の深夜、奈緒美はぬるい風呂の湯に浸かった。
幼い頃そうしたように、浴室のタイルのひび割れを指でなぞった。
風呂から上がるとボストンバッグに着替えを詰めて、奥底に通帳と印鑑を入れた。
荷物を持って階段を下りると奈緒美は封書を台所にそっと置いた。
朝一番でこれを見つけるのは母親だろう。
そして音をたてないようにそっと玄関を出た。
誰にも告げず、
後ろを振り返りもせず、
奈緒美は駅を目指した。
始発前の駅には誰もいない。
しんと静まるホームは、まるで世界の果てのようだった。
お腹を優しく撫でながら奈緒美は思った。
私には、この子がいる。
この子の為に生きよう…
ベンチに座って瞼を閉じる奈緒美の頬を朝日が照らしていた。
ずっと前から聞きたかった。
どうして真奈美と同じように接してくれないの?
私を疎ましく思うのはなぜ?
私を愛せない理由は何?
しかしその問いはパンドラの箱の鍵に違いなかった。
決定的な答えを聞き出してしまったら、奈緒美は自分の心を保つことなどできないと思っていた。
だからこそ今日のこの瞬間まで口にしなかった。
「お父さん……そんなに私が嫌い?」
「嫌いだね」
父親は奈緒美の視線から逃れるように顔を背けた。
「お前も、お前を憎らしく思う俺自身も嫌いだ」
どうして、と奈緒美の唇が動く。
…コタエハ、スグソコダ…
奈緒美の心臓は早鐘を打つ。
父親は固く拳を握って言った。
「お前が、俺の子じゃないからだ。血の繋がらないお前とは、家族になれない」
……あぁ………
…………そうか……
刹那、奈緒美は靄に包まれるような感覚に陥った。
靄が奈緒美の五感を鈍らせた。
お母さん……泣いてるの…?
視界がぼやけているのは……涙のせいなんかじゃないよ……
「ふざけんな!」
奈緒美の父親は低く唸るように言った。
「産むならこの家から出てけと言っただろッ!」
「でも、奈緒美には他に行く処なんてないんですよ!」
「未婚でガキを産むような奴が家にいちゃ真奈美の将来にキズがつくだろうが!お前それでも母親かッ!」
「真奈美も奈緒美も大事な娘よ!」
父親は、なおも食い下がる母親を蹴り飛ばした。
「やめてよ!」
倒れた母親の体に奈緒美が覆い被さった。
「…俺にとっちゃ娘は真奈美だけだ!」
奈緒美が顔を上げた瞬間、父親と視線がぶつかった。
奈緒美は父親を見据えたまま掠れた声で訊ねた。
「お父さん……そんなに私が嫌い?」
「遅いじゃねえか」
先に帰っていた父親が不機嫌そうに2人の顔を睨んだ。
「ごめんなさい、ねえ、今日の夕食は簡単な物でいいですか」
忙しく冷蔵庫を開ける母親の言葉に舌打ちして、父親はビールをあおった。
夕食後、真奈美が自室に戻るのを待って母親が昼間の子細を父親に話した。
「要するにこいつは、男に孕まされて捨てられた訳だ」
父親の言葉は錆びた刃のようだ。
奈緒美の心を斬りつけては塞ぎようのない歪な傷を残す。
「もう、あちらとは縁を切るつもりで考えなくちゃならないんですけど…」
言うやいなや母親は床に手をつき土下座した。
「奈緒美に子供を産ませてやってください。ここで育てさせてやってください!」
頭を下げる母親の姿に奈緒美は涙がこみ上げてきた。
その日は結論が出ないまま、奈緒美と母親は帰路についた。
夕暮れ時に母親と連れ立って歩くのは十数年振りだ。
「…お母さんはどう思う?」
奈緒美は力なく母親に訊ねた。
「お母さんは私が赤ちゃん産むのに反対する?」
「子供を産むって幸せなことよ」
でもね、と奈緒美の母親は続けた。
「産んで育てて生きていくのは楽なことじゃあないよ」
母親は前を向いたまま、遠くを見るような目をして言った。
「産ませてあげたいと思うけど、女が独りで子供を大きくするのはあんたが考えている以上に過酷なんだから」
母親の言うことは正論だった。
でも英明と家庭を持つことは到底無理な話に思えた。
たとえできたとしても、もはや愛情と信頼を欠いた関係で子供を育てられるものだろうか。
「でもね……赤ちゃん産みたいの………殺したくないの……………」
また涙声になった奈緒美の肩を、母親はそっと抱きしめた。
英明の母親は怒りに震えていた。
「この女が英明をたぶらかしたのよ!挙げ句に妊娠したから責任を取れって詰め寄ったんじゃない!」
「そんな…違います!」
奈緒美は大きく頭を振った。
「英明はね…英明は優しい子だから断り切れなかったのよ!!それに英明の子供かも疑わしいのに…産んで一生英明を苦しめる気!?」
英明の母親は恐ろしい形相で奈緒美に掴みかかった。
「うちの娘を侮辱しないでッ!!」
奈緒美の母親が立ち上がって盾になる。
「あんたなんかに英明はやらない!あんたなんか死ねばいい!お腹の子も死ねばいい!」
泣きわめく母親を英明が応接間から引き摺るようにして連れ出した。
怒号の嵐の中で、奈緒美は耳を塞ぎ声を殺して泣いていた。
「聞けば間もなく4ヵ月になるそうだから早めに手を打った方が良い。無論、費用はこちらが持ちます」
つまり…
堕胎しろってこと……
「確かに、英明さんとは結婚の予定はありませんでしたし、妊娠にも正直戸惑いました」
奈緒美は震える声で言った。
英明は何の反応も示さない。
「でも、今はお腹の子が愛おしいです」
奈緒美の頬を涙がつたって落ちた。
「だから私は退学して産みます。働いて子供を育てます。英明さんにも、お父さんやお母さんにも迷惑はかけません」
泣きながら訴える奈緒美の背中を母親が優しく撫でた。
「……嘘よ!」
突然、英明の母親がヒステリックに叫んだ。
奈緒美は話し続けた。
そして英明の両親の前で、お腹の子を産みたいと言い切った。
「…あなたのお気持ちはよくわかりました」
英明の父親は顔色を変えずに言った。
「ですが、あなたのご希望に応えることは難しい」
そして父親は淡々と続けた。
2人の交際を双方の親に明かさなかったのは将来を誓った関係ではなかったからだ。
2人にとって妊娠は望んだものではなく、したがって出産も望ましいとは考えられない。
英明も奈緒美も学生の身であり今は学業に専念すべきだ。
若いのだから、やり直しはきくのだから……
広々とした応接間は見るからに高価な調度品でしつらえてあった。
「この度は愚息がご迷惑をおかけしました」
英明の父親は深々と頭を下げた。
その隣には青白い顔に泣きはらして眼の縁が赤くなった母親と、憔悴した表情の英明がいた。
英明は両手を固く握りしめて、うつむいていた。
奈緒美は英明の父親に問われるまま、これまでの経緯を話した。
父親は時折英明の方を見て、話の真偽を確かめていた。
そのときも英明は顔を上げることなく小さく頷くだけだった。
…まるで尋問みたい。
奈緒美は居たたまれない苦痛を感じていた。
日曜日の午後、奈緒美の自宅前に黒塗りのハイヤーが2台停まった。
1台目には例の秘書が乗っていた。
英明と彼の両親は自宅で奈緒美達を待っているという。
「なんでこっちが出向かなきゃならないの」
奈緒美の母親は不満そうだった。
「俺は行かない。貴重な休みをそんなことで潰されたくないからな」
父親はそう言ってパチンコ店に行ってしまった。
結局奈緒美と母親が英明の家族と会うことになった。
同じ学区域にある英明の実家は車で10分程度の距離だ。
奈緒美の自宅の3倍はありそうな白亜の建物と広い庭。
子供の頃、遠巻きに見るこの建物は奈緒美の憧れだった。
高い門扉が開き、敷地の中へと車は進んだ。
奈緒美が妊娠したことを告げた日から英明とは連絡がつかなくなった。
奈緒美は不安を押し殺して毎日をやり過ごしていた。
そして英明と音信不通になってから5日後、英明の実家から謝罪があった。
実際には英明の父親の秘書だという女性が菓子折りを持って訪ねてきたのだった。
「1週間近く経ってから遣いをよこすだけだなんて、ちょっと酷いんじゃないの」
母親は憤慨した。
秘書は母親の剣幕にもたじろぐことなく、次の日曜日に双方が会って話し合う場を設けたいという英明の父親の意向を伝えた。
奈緒美は唇を噛みしめて二階へ駆け上がった。
自室のドアを勢いよく閉めるとベッドに倒れ込んだ。
しばらくして玄関のドアが開く音がした。
「ただいまぁ」
妹の真奈美が塾から帰ったようだ。
「真奈美お帰り。遅くまでご苦労さんだな」
真奈美を出迎える父親の声は優しく柔らかだ。
「あっ、お父さんにお願いがあるんだけどぉ。今度ね、友達と新しい鞄買いに行く約束したんだ」
真奈美も自分が父親に可愛がられているのを承知している。
「そうか、じゃあ小遣いやろうな」
階下から聞こえる楽しげな話し声を、奈緒美は目を閉じて聞いていた。
…私にはお小遣いをくれたことなかったな。
学校で使うノート1冊買うのだって、いい顔をしなかった。
それに私のことは名前で呼んだりしない。いつも『お前』だし…
私はお父さんに愛されていない。
そう思うようになったのは、いつからだったっけ……
奈緒美は涙をこぼしながら眠りに落ちた。
奈緒美がソファーに座っても父親はテレビを観たままだった。
「話なら手短にしてくれ」
そう言って煙草に火を点けた。
妊娠した、産みたい。
奈緒美が告げると父親は不愉快そうに顔を歪めた。
「親の金で短大に通って、覚えたのはガキの作り方か」
お父さん、とたしなめた母親に対しても憤った。
「だから俺の言うように信金あたりに勤めさせときゃ良かったんだ!それを、こいつのしょうもない口車に乗せられやがって」
父親は奈緒美の短大進学に難色を示していた。
早く社会に出て、ついでにこの家からも出ていけと言わんばかりだった。
しかし奈緒美はそれに反発し、高校の担任教師を交えて父親をなんとか説得したのだった。
「とにかく、私は産むから」
奈緒美はそれだけ言って席を立った。
「勝手にしろ。ただしこの家から出てってからにしろよ。真奈美の受験の邪魔になる」
父親は奈緒美の背中に吐き捨てるように言った。
翌日、父親は夜の9時過ぎに帰宅した。
自室で横になっていた奈緒美は階下から聞こえる両親のやりとりに耳をそばだてた。
「飯はいい。風呂に入ってくる」
「お疲れのところ悪いんだけど、上がったら奈緒美の話を聞いてやってね」
「…わかったから後にしてくれ」
父親の声は尖って聞こえた。
…赤ちゃん、ママ頑張るよ。
奈緒美はそっとお腹を撫でた。
しばらくして母親が奈緒美を呼びに来た。
リビングでは湯上がりの父親がテレビを観ていた。
「とにかく、あんたの彼氏とそちらのご両親とも会って相談しなきゃね」
英明も今頃両親に告げているだろうか。
「それとお父さんには明日にでも奈緒美から話しなさいね」
「…わかった」
奈緒美の父親は半年前から遠方の子会社に出向していた。
そのために残業のあった日は帰宅しないことが常だった。
父親に打ち明けるのは気が重かった。
奈緒美と父親は折り合いが悪い。
幼少期から妹の真奈美ばかりを可愛がり、奈緒美には冷たい父親だった。
奈緒美はこの半年間、会話らしい会話を父親と交わしていなかった。
少しずつ冷静さを取り戻した母親は低い声で言った。
「もう一度始めから聞くわ。相手は誰?」
奈緒美は英明のことを話した
母親は時折聞き返すことはあったが静かに奈緒美の話に耳を傾けた。
「それで一番聞きたいのは、あんたがお腹の子をどうするつもりかってことよ」
奈緒美の独白が終わると母親が聞いた。
奈緒美の心は決まっていた。
この子の存在を知ってから、他の選択肢はなかった。
奈緒美は臆することなく言った。
「私は、この子を産みたい」
「話ってなあに?ここの片付けしてからでもいい?すぐだから」
「…うん」
奈緒美は湯呑みに冷えた麦茶を注ぎ、リビングで母親を待った。
緊張を和らげようと麦茶をひとくち飲んだ。
「はいはいお待たせ」
母親はリビングのソファーに座った。
「奈緒美、話って何なの」
「お母さん…」
奈緒美は深く息を吐いた。
お腹がじんわりと熱くなった気がした。
「私、妊娠してる」
母親はショックのあまり言葉をなくしていた。
そんな母親の様子に胸を締めつけられながら、奈緒美はもう一度ゆっくりと言った。
「私、半年前から付き合ってる人がいるの。でね、先々月から生理がなくて今日お医者さんに診てもらったの…そしたら…」
「ちょっと待って」
母親が奈緒美の言葉を遮った。
「何…付き合ってる!?相手は誰なの?妊娠したってあんた…赤ちゃんができたってこと!?」
興奮気味にまくしたてていたが、うなだれる奈緒美を見て、はあっとため息をついた。
奈緒美は妊娠したことを、まず母親に話そうと思った。
「ただいま…」
「あら奈緒美だったの?夕食まだなら、残してあるわよ」
キッチンの方から母親の声がした。
「ありがと…でもいいや」
奈緒美は流し台の前に立つ母親の隣に列んだ。
そして水仕事をする母親の手を見つめた。
少しシミが浮き始めた手の甲と、爪が短く切りそろえられた指先。
その手を見ながら奈緒美は話を切り出した。
「お母さん…話したいことがあるの」
帰りの車中でも2人の会話はなく、FM放送が大音量で流れているだけだった。
「雨止んだね。あっ!もう星が出てるよ」
奈緒美は何度か努めて明るく話しかけたが、英明は黙って車を走らせた。
いつものように自宅の1ブロック手前に車を停めた。
「送ってくれてありがとう」
そう言って車を降りかけた奈緒美に英明が問いかけた。
「奈緒美は俺に責任取ってほしいのか?」
責任……
奈緒美が欲しいのは陽向のように暖かい愛情だ。
責任という堅く冷徹な言葉で片付けられたくなかった。
しかし英明が自分とお腹の子の為に負うのなら、責任もひとつの愛の形かもしれないとも思った。
「私はただ、英明に赤ちゃんのことを知ってほしかったの」
奈緒美は英明の目をまっすぐに見つめて言った。
「英明は、父親なんだから…」
奈緒美の言葉に、英明は激しく動揺した。
「嘘だろ…」
「嘘なんかじゃないよ。今日診てもらったの」
背中越しに絶句した英明の表情が見て取れるようだった。
奈緒美はたまらなく悲しくなった。
妊娠を告げたところで英明が泣いて喜ぶはずはなかった。
でも、万に一つでもそんな反応が返ってくるのでは、という期待もあった。
しかし今のうろたえた英明の様子に、淡い期待は打ち砕かれた。
「赤ちゃんね…もう手も足もあるんだよ。人のかたちしてて…爪もできて……」
奈緒美はお腹を抱えるようにかがみ込んで喋り続けた。
「少し考えさせてよ」
英明はそれだけ言うと、再び黙り込んでしまった。
2人はベッドの両端に座って沈黙していた。
2人きりになれる所がいい、という奈緒美の言葉を英明は勝手に深読みした。
高速道路のインター近くにあるラブホテルに直行したのだ。
奈緒美は黙ってついて来た。
しかし部屋に入って英明がキスをしようとするのを身をよじって拒んだ。
「やめてよ…話があるって言ったでしょ」
「なんだよ」
予想外の態度に英明は驚いた。フライングしたときのようなバツの悪さで、つい語気が強くなる。
奈緒美は無言でベッドに腰を下ろした。
仕方なく英明も背を向けて反対側に座った。
気まずさに耐えられず英明が奈緒美の方に向きかけたときだった。
奈緒美の凛とした声が沈黙を破った。
「私、妊娠したよ。3ヵ月だって」
「どこ行く?」
英明は助手席にちらりと目をやりながら聞いた。
雨足が強くなってきた。
「…静かな所」
奈緒美はフロントガラスに滲む信号機を見つめて言った。
「2人きりで、ゆっくりできる所がいい……話したいことがあるの」
信号は、青。
進め、の青。
奈緒美は決心した。
英明と落ち合う少し前から雨雲が空を覆い始めた。
約束の時間から20分が過ぎた。
また遅刻…
奈緒美がため息をついたときだった。
後方からクラクションが鳴り、磨き上げられたフェアレディZが横付けしてきた。
「わりぃな、道が混んでた」
英明は時間にルーズな質だ。
時間だけでなく、あらゆる面で緩慢なところがある。
奈緒美はそれも優しさのうちと思っていた。
奈緒美が助手席に乗り込むと同時に雨粒がフロントガラスに落ちた。
「やっぱり降ってきたか。昨日洗車したばかりだよ」
英明は暗い空を見上げて忌々しげに言った。
バスを降りてしばらく歩いていると、商店街に行き着いた。
そして書店を見つけると中に入っていった。
店内には奈緒美の他に5人ばかりの客がいて、それぞれが立ち読みをしていた。
奈緒美は店内をぐるりと廻って、『はじめての妊娠・出産』と書かれた本を手に取った。
書店を出ると、斜向かいの肉屋では揚げたてのコロッケが売られていた。
奈緒美は無性にそのコロッケが食べたくなり、衝動的に3個も買った。
…揚げ物って苦手だったのにな。
奈緒美は自分の行動に驚いた。
公園のベンチに座ってコロッケを食べながら奈緒美は買ったばかりの本を読み始めた。
小原医師は奈緒美が落ち着くのを待って、最後にこう言った。
「あなたは未成年で独身だからすごく戸惑うと思う。でも、しっかり考えて結論を出してね」
バスに揺られながら奈緒美はお腹にそっと手を添えた。
…ここに赤ちゃんがいる。
ごめんね、今まで気づいてあげられなくて…
自分の掌の温もりを感じながら奈緒美はまた目を潤ませた。
その日の午後に英明と会う約束になっていた。
待ち合わせの場所に向かっていたが、約束の時間までまだかなりある。
腕時計をちらりと見て、奈緒美は途中下車した。
「それと、少し立ち入ったこと聞くわね」
小原医師は奈緒美と向き合うようにして、ゆっくり話し始めた。
「あなた独身ね。今は学生さんかしら」
「はい…」
「本当なら、今日にでも母子健康手帳が受け取れるように妊娠届を出すんだけれど…きっとあなたもまだ妊娠したことを受け止めきれないんじゃないかな」
奈緒美は黙って頷いた。
奈緒美だって、性交で妊娠することぐらいわかっていた。
ただそれが自分の身に起こるなんて思っていなかったのだ。
「早いうちにあなたのパートナーには妊娠したことを伝えて、今後のことを話し合ってください」
それとね、と小原医師は付け足した。
あなたはこの数日で赤ちゃんの存在に気づいたばかりだろうけれど、赤ちゃんは50日以上あなたと一緒にいたのよ。
ごく初期に流産することも少なくないのに、今日まで無事育ったのは実は奇跡みたいなものなの…
小原医師の言葉に奈緒美は泣きだしていた。
30分ほどして診察室に呼ばれた。
「そちらの椅子にかけてくださいね」
見たところ50歳代の女性医師はデスク横の椅子を勧めた。
「結論から言いましょうか。おめでとうございます。妊娠されてますよ」
…やっぱり。
うつむいたまま奈緒美は聞いていた。
「最終月経から計算すると、今は11週目くらい。3ヵ月目の中間かな」
翌朝、可南子に教えられた小原産婦人科に向かった。
自宅から私鉄とバスを乗り継いで1時間かかった。
玄関のガラスドアを押し開くと、中の待合室にいた妊婦と目が合った。
奈緒美は思わず目を伏せてしまった。
「えーと、初診ですね。こちらに記入して、また窓口にお出しください」
窓口の女性が問診表を渡した。
氏名や生年月日の欄の下に【本日はどうされましたか】とあり、選択肢が続いていた。
【妊娠の可能性】という項目でペン先が止まった。
奈緒美は躊躇しながら、時間をかけて丸をつけた。
生理が来ない、と言っただけで可南子はおおよそのことを察したようだった。
「どれくらい遅れてるの?」
「2ヵ月…くらい」
可南子は驚いたように続けて聞いた。
「それ、彼氏に言った?」
奈緒美は黙って頭を横に振った。
なぜか英明には言いづらかった。
「そっか…でも、ちゃんと病院に行かないとダメだよ」
可南子は余計な質問はせずにしばらく何かを考えていた。
そしてその場に奈緒美を待たせて電話をかけに行った。
可南子は戻ってくるなり奈緒美にメモを手渡した。
「私のお姉ちゃんが出産した産婦人科。確か女医さんだったって聞いてたから」
そこには小さな字で、住所と電話番号が記されていた。
奈緒美は生理不順ではなかった。
それでいて生理が来ない理由は明白だった。
英明は大丈夫だって言ってた…
外に出すから大丈夫って…
英明は避妊具を嫌がった。奈緒美もまた、英明の嫌がることは避けていた。
悩み続け、眠れない夜を過ごした。
憔悴した奈緒美は思い切って可南子に打ち明けることにした。
半年が経った。
「最近顔色が良くないね」
友人の可南子が心配そうに言った。
「うん…貧血気味みたい。このところ立ち眩みがよくあるの」
「生理が重くなったんじゃない?私も前より生理痛が酷くてさ」
そう言って可南子はため息をついた。
そういえば、私……
奈緒美は、もう2ヵ月近く生理が遅れていることを思い出した。
英明の実家は、彼の祖父が興した地場産業に携わる会社を経営していた。
英明には8歳上の姉と6歳上の兄がいた。
姉はすでに嫁ぎ、兄が実家の跡を継ぐことが決まっていた。
母親は末子の英明を溺愛していた。
英明が奈緒美の短大に乗りつけた新車も、母親が誕生日に買い与えたものだった。
英明は奈緒美との交際を、この母親に隠していた。
言えば面倒なことになる。
なんとなくそう思ったのだ。
付き合い始めてすぐに体を重ねた。
奈緒美は初めての痛みと恥ずかしさに終始目を閉じていた。
英明は奈緒美の柔らかな肢体を抱きながら、愛してるよ…と譫言のように繰り返した。
数を重ねていくうちに奈緒美も少しずつ慣れていった。
快感はなかった。
ただしがみついていたに過ぎない。
そしていつも避妊のことは英明任せだった。
奈緒美は短大に入った年に英明と付き合い始めた。
中学時代の同窓会で再会したのがきっかけだった。
「なんか雰囲気変わったなあ…」
3年ぶりに会った英明は眩しげに奈緒美を見つめて言った。
中学時代の奈緒美は地味な女の子だった。
中身はその頃と大して変わりないが、短大に通うようになってから外見は随分と垢抜けていた。
昔から軟派な印象の英明に対して、奈緒美はやや警戒していた。
その警戒を解いたのは、二次会帰りに英明がした不意打ちのキスだった。
「好きになった。付き合ってよ…」
そう言う英明の目は真剣だった。
翌日から頻繁に英明は連絡をよこした。
2人の交際は奈緒美が英明に半ば押し切られる形で始まった。
「あぁッ……!!」
腰骨を砕かれるような痛みに思わず叫び声をあげた。
「佐伯さん、まだよ。ゆっくり息を吐いてね…」
一昼夜続いた陣痛の間隔が短くなってきていた。
フーッと息を吐く。
激痛に耐え続けていた体は痙攣し始めた。
分娩台を取り囲む医師達の動きがせわしなくなった。
息が…
赤ちゃん……
「頭出るよ…息んで!」
目の前が真っ白だ…
フ…ギャァ…
新しいレスの受付は終了しました
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。
- レス新
- 人気
- スレ新
- レス少
- 閲覧専用のスレを見る
-
-
君は私のマイキー、君は俺のアイドル9レス 156HIT ライターさん
-
タイムマシン鏡の世界5レス 128HIT なかお (60代 ♂)
-
運命0レス 78HIT 旅人さん
-
九つの哀しみの星の歌1レス 91HIT 小説好きさん
-
夢遊病者の歌1レス 94HIT 小説好きさん
-
私の煌めきに魅せられて
「やっぱ歌和井さん良くね?」 「な、普通に可愛い美女って感じ。」 …(瑠璃姫)
67レス 775HIT 瑠璃姫 -
神社仏閣珍道中・改
(続き) 鑁阿寺さんの御本堂におられる胎蔵界大日如来さま。 そ…(旅人さん0)
287レス 9976HIT 旅人さん -
北進ゼミナール フィクション物語
いいかお前らは明らかに労基違反なんだよ労働基準法に違反してるんだそして…(作家さん0)
20レス 289HIT 作家さん -
西内威張ってセクハラ 北進
性被害や詐欺に遭った被害者が声を上げることを愚痴とは言わないだろお前ら…(自由なパンダさん1)
99レス 3280HIT 小説好きさん -
喜🌸怒💔哀🌧️楽🎵
爽やかな風 背に受け 内に秘めた想い叫ぶ キラキラ光る海原…(匿名さん0)
39レス 877HIT 匿名さん
-
-
-
閲覧専用
🌊鯨の唄🌊②4レス 142HIT 小説好きさん
-
閲覧専用
人間合格👤🙆,,,?11レス 149HIT 永遠の3歳
-
閲覧専用
酉肉威張ってマスク禁止令1レス 154HIT 小説家さん
-
閲覧専用
今を生きる意味78レス 526HIT 旅人さん
-
閲覧専用
黄金勇者ゴルドラン外伝 永遠に冒険を求めて25レス 981HIT 匿名さん
-
閲覧専用
🌊鯨の唄🌊②
母鯨とともに… 北から南に旅をつづけながら… …(小説好きさん0)
4レス 142HIT 小説好きさん -
閲覧専用
人間合格👤🙆,,,?
皆キョトンとしていたが、自我を取り戻すと、わあっと歓声が上がった。 …(永遠の3歳)
11レス 149HIT 永遠の3歳 -
閲覧専用
酉肉威張ってマスク禁止令
了解致しました!(小説好きさん1)
1レス 154HIT 小説家さん -
閲覧専用
おっさんエッセイ劇場です✨🙋🎶❤。
ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1409HIT 檄❗王道劇場です -
閲覧専用
今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 526HIT 旅人さん
-
閲覧専用
サブ掲示板
注目の話題
-
子ありと子なしはどちらが老後安泰?
子あり夫婦と子なし夫婦は、どちらが老後安泰? 子どものデキにもよるけど…
38レス 1314HIT おしゃべり好きさん -
昭和時代の方々に質問!
スマホやネット、SNSが普及した平成後期から令和の時代に産まれたかったと思ったことはありますか? …
25レス 671HIT おしゃべり好きさん -
女前の画像見つけた 女性の方意見求む
この子めっちゃ女前じゃないですか かわいいです~
24レス 587HIT 恋愛好きさん (30代 男性 ) -
子どもができたら
付き合って1年半の年上の彼氏がいます。 彼氏30代、私は20代後半です。 私の友人が子どもが…
16レス 339HIT 恋愛中さん (20代 女性 ) -
マッチングアプリで知り合っていきなりお泊まりを誘われました
マッチングアプリで知り合って、会うことになったのですが、1回目から泊まりでの旅行と言われました。 …
16レス 372HIT 恋愛好きさん (20代 女性 ) -
以下の点に留意していれば、女性にモテやすくなれるでしょうか?
僕は女性の方と接する際、主に以下の3点を意識しています。 1. 女性の方が髪型を変えた際…
7レス 299HIT 学生さん (20代 男性 ) - もっと見る