ダブルス
あなたは私の希望
あなたは私の喜び
あなたを愛してる
……なのに何故
あなたといると私は苦しくなるのだろう
※この小説は基本的にフィクションです
※過激な表現を含む場合がありますので、不快に思われる方は閲覧をお控え下さい
※不定期更新です
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「ずっと昔にも同じようなことを言われたわ…」
奈緒美は薄暗闇の先に遠い過去の日を見ていた。
「…確かに楽な暮らしじゃなかったし、寂しい、辛いって思うことも沢山あったよ」
微かな衣擦れの音がした。
「だけどね、その度に、これが私のしあわせなんだって思ったの」
「…それは幸せじゃなくて強がりだよ」
結子には母親が過去の苦労を懸命に肯定しているように聞こえた。
「違うの。結子が言ってる幸せと私が言ってるのは別物よ」
「何、それ」
奈緒美の謎かけのような言葉を結子は頭の中で反芻した。
…シアワセデハナイ、シアワセ…
「続きはまたね。早く寝ないと、おばけが出るよ」
くすくすと母親が笑った。
奈緒美の言葉の真意を聞き出す前に結子は深い眠りに落ちてしまった。
藤沢から戻って以後の結子と一臣は、結婚に向けて慌ただしくも充実した日々を送った。
篠原房江は自分が引き合わせた2人の婚約報告に目を輝かせた。
「嬉しいわぁ、あなた達で成婚10組目なのよ」
挙式はチャペルウェディングで、披露宴はごく少人数のコースを選んだ。
「今はシンプルな式も流行りらしいし、結子さんの希望を取り入れて決めなさい」
一臣の両親は、主役は結子と一臣なんだからと言って一任してくれた。
どうやら一臣が両親に進言していたおかげらしかったが、招待する親類縁者の少ない結子は内心安堵した。
新居は一臣の実家から車で15分のマンションが候補に挙がり、何度か現地に足を運んだ。
間取り図の上に展開される新婚生活のシミュレーションはきらきらとした希望に満ち溢れていた。
やらなければならないことが山積していて、毎週の休日は方々へ飛び回ってくたくたになるほどだった。
…でも、幸せだから。
ダイヤをあしらったエンゲージリングが左手の薬指で光るのを見ていると、結子は疲れも吹き飛ぶ気がした。
まさに至福のときだった。
季節は夏から秋へと移ろい始めていた。
夕食の後片付けを済ませた結子は久しぶりに母親に電話をかけた。
奈緒美はもう仕事を終えて帰宅しているはずなのに、長い呼び出し音が鳴り続けるだけだった。
結子は諦めて電話を切ろうとした。
『もしもし…』
やっと繋がった電話口の奈緒美の声は少し不明瞭に聞こえた。
「あ、お母さん?結子だけど。寝てたの?」
『ん…違う…ちょっと体がおかしくて…腕が痺れて動かなかったの…ああ、でももう平気だから』
「そう?ならいいんだけど。あのね、式の招待客なんだけどさ…」
結子は母親の体調も気にはなったが、自分の結婚準備の話を優先したい気持ちの方が勝っていた。
『…そうね、可南子にはずっとお世話になってきたし、久谷さんの方で差し支えなければご招待したら?』
「うん。それにしても結婚式ってこんなに準備が大変なんて思わなかった。昨日もカズがさ…」
長話になりそうなのろけ半分の愚痴に奈緒美は苦笑した。
夜が、静かに更けていった。
奈緒美は、一瞬何が起こったのかわからなかった。
朝、いつものように朝刊を広げていたはずだった。
窓から差す朝日が眩しくて思わず目を瞑った。
ゆっくり目を開けると、部屋は夜の闇に静まり返っていた。
…何…?夢だったのかな……
暗い部屋で微かに時計の文字盤が見えた。
…やだ、遅刻じゃない。
奈緒美は慌てて玄関を飛び出そうとした。
不意に後ろからスカートの裾を強く引っ張られた。
小さな女の子が泣いていた。
幼い結子だ。
「お母さん、行かないで!」
「結子ちゃん、お母さんお仕事なの。朝には戻るからね、いい子にしてて」
「行っちゃダメッ!ダメッ!」
どんなになだめても、結子は激しく泣いて奈緒美から離れない。
「行っちゃダメなのッ!ゆうこ、独りになっちゃうから…お母さん、いなくなっちゃうから…!」
困り果てて、奈緒美は結子を抱いて外に出ることにした。
腕の中で結子がもがく。
玄関のドアノブはすぐそこなのに、あと少しなのに前に進めない。
…ああ……
また、目が眩む……
「佐伯さん、外線2にお電話です」
後輩の早苗が結子を呼び止めた。
「どなたから?」
「えっと、川崎さんて方です」
川崎という名前に心当たりはなく、結子は訝しげに受話器を取った。
「お待たせ致しました、佐伯でございます」
『ああ、佐伯さんですか?佐伯奈緒美さんのお嬢さんですか?』
川崎と名乗る男性は奈緒美の勤め先の上司だった。
随分と気が急いている話し方だった。
『お嬢さんの連絡先がなかなかわからなくて…あの、今すぐこちらに来てくれますか』
「あのう…」
結子は一向に話がわからず戸惑っていた。
何もわからないはずなのに、何かを察知して結子の心臓は早鐘を打ち始めた。
「母に何かあったんですか」
…何もある訳ない。きっとなんでもないから…
祈りにも似た思いで川崎の返事を待った。
『お母さん、自宅で倒れてたんです。出社しないから様子を見に行ってみたら…』
奈緒美は市内の病院に搬送されていた。
急ぎ駆けつけた結子は、痛々しい母親の姿を目の当たりにして言葉を失ってしまった。
「佐伯さんのご家族の方ですか?」
声のする方へ振り向くと若い医師が結子に近づいてきた。
「脳神経外科の柴田です」
「はい…あの、母は、どこが悪いんですか…」
柴田医師は結子を座らせると病状説明を始めた。
「これがMRI検査の画像です」
結子はパソコンの画面上に展開される色彩のない画像を食い入るように見つめた。
「血腫は認められませんでしたし、他の所見と併せてみても脳梗塞でしょう」
「脳梗塞…ですか」
結子は柴田医師の言葉を短く復唱したが、事態が理解できた訳ではなかった。
「搬送に付き添われた方の話だと、自宅で倒れられているのを発見されたのが11時頃だったそうです」
奈緒美はパジャマ姿でダイニングに倒れていたらしい。
いつも朝は6時前に起床することを考えれば、病院に運ばれるまで6時間近く経過していたことになる。
「今は投薬で脳圧を下げる処置をしています。このまま入院となりますので手続きをお願いします」
結子は力なく頷いた。
結子はICUの前でしばらく茫然自失のまま立ちすくんでいた。
「結子ちゃん、大丈夫!?」
スーツに身を包んだ中年の女性が駆け寄ってきた。
「可南子さん…」
結子は病院に向かう途中で奈緒美の友人 である可南子に連絡していた。
たった1人の身内にこんな一大事が起きた今、結子には可南子の他に頼れる人間はいなかった。
「奈緒美は、容態はどうなの?」
「脳梗塞で倒れて…意識がまだ戻らなくて…」
可南子の顔を見た途端に張り詰めていた心は脆くも決壊した。
こらえていた涙が溢れて結子の頬を濡らしていく。
「…お母さん…」
……助かるよね?
……目を開けてくれるよね?
……私を、独りにしないで………
可南子は嗚咽をもらす結子の肩を抱いた。
………………明るい……
目の奥がちくりと痛んだ。
奈緒美はゆっくりと目を開けた。
視界は乳白色にぼやけている。
…誰かの…声……が…
…何…?何て……言ってるの……
……泣いてるの……?
………………ゆ・ う・ こ……?
………………ゆ・ う・ こ………
………………結…子…
『そうか、大変だったな。ごめんな、俺も今すぐそっちに行きたいところだけど…お母さんは今どうなの?』
「ううん、こっちこそ遅くにごめんね。今はまた眠ってるよ」
受話器を通して一臣のじんわりと優しい温もりが伝わる。
「明日の朝に先生からまた説明を受けると思うけど、しばらく入院になりそう」
『わかった。明日は俺だけでもそっちに行くから。結子、ちゃんと休めよ。飯も食べろよ』
「うん…ありがとう。じゃあ、おやすみなさい」
公衆電話の重い受話器を戻すと結子はゆっくり息を吐いた。
消灯時間を回った病棟は間接照明だけが灯り、昼間より無機質な空間に思えた。
「久谷さんと連絡とれた?」
可南子はペットボトルのお茶を2つ買って待っていた。
「はい、明日こちらに来るそうです」
結子は可南子に頭を下げた。
「可南子さん、すいませんでした。お忙しいのにこんな時間まで付き添ってもらって…」
「私のことは気にしないで。仕事も都合つくし、家にはダンナがいるだけだし」
可南子は手の中でペットボトルを転がして思い出したように言った。
「奈緒美が入院するのは、出産のとき以来だわね」
可南子は遠い過去のことを思い出していた。
奈緒美は妊娠中に実家を出て、貯金と臨月まで働いて稼いだお金で出産費用を作った。
出産間近になっても奈緒美は子供の父親とも実家とも連絡を絶っていた。
独りで産むからと頑なな奈緒美を見かねて、可南子は付き添いを申し出た。
しかし予定日よりも早く産気づき、報せを受けた可南子が到着する前に奈緒美は結子を産んでいたのだった。
「母のことだから具合が悪くても入院せず我慢してたのかも…」
結子も過去の日々を思い出していた。
奈緒美は昔から娘のことが最優先で自分のことは二の次にしがちだった。
もし父親がいたら、また違った日常があったかもしれない。
「実は奈緒美に“ずっとシングルマザーでやってくつもり?”って聞いたことがあるの」
「母は何て答えたんですか」
可南子は母親とよく似た結子の目を見て言った。
“片親の大変さはあるだろうけど、私は絶対に結子を孤独で苦しめたりしない。
それに今の私はシングルでも独りじゃないの。私と結子は愛情で結ばれたダブルスなのよ…”
「ダブルス、ですか」
奈緒美の想いに結子は瞳を揺らした。
翌日の午前中に一臣が病院を訪れた。
「結子、少しは休んだ?お母さんの様子はどう?」
「うん…意識はちゃんとしてるんだけどね」
母親の生還と覚醒に安堵した結子だったが、今は気がかりなことがある。
奈緒美が目覚めてから結子は何度も呼びかけた。
おそらく結子の声は聞こえているはずだが、それに対して奈緒美は言葉にならない声を発するばかりだった。
「この後担当の柴田先生からお話を聞くことになっているの。でね、できたらカズも一緒にいてくれる?」
結子は言いようのない不安と微かな畏れを抱いていた。
「いいよ、俺もできたらそうさせてもらえたらって思ってたんだ」
一臣の快諾に結子は胸をなで下ろした。
「佐伯さん、こちらへお入り下さい」
予定の時刻になり、柴田医師がカンファレンスルームに結子を誘導した。
「失礼ですが、こちらは?」
結子に続いて入室した一臣に柴田医師が一瞬驚いた表情を見せた。
「すいません、私の婚約者です。その…私1人では不安で…」
「そうですか。いや、構いませんよ。じゃあ早速ですが始めましょう」
柴田医師は“使用中”の札をかけてドアを閉めた。
「昨日も少しお伝えしましたが」
柴田医師はパソコンを起動させるとモニターを見ながら話し始めた。
「佐伯奈緒美さんはアテローム血栓性脳梗塞です。ええと…これが昨日から撮っているCTとMRI画像です」
結子と一臣はモニターを凝視した。
「脳梗塞は簡単に言うと、脳の血管を血栓が塞いで血流が止まり、その周辺が壊死する病気です」
柴田医師は左の手刀を額に当てながら説明し、右手でマウスを操作した。
「この画像はこうやって頭を輪切りに撮したものですが、右と左で濃淡が違っているのがわかりますか?」
やや歪な楕円形の上をカーソルが行き来する。
結子は曖昧に頷いた。
「佐伯さんは中大脳動脈閉塞を起こしたことで、左脳のこの部分がダメージを受けています」
結子は用意していたメモ帳にボールペンの先を当てたままだった。
柴田医師の説明をつぶさに記しておくつもりだったが、思うようにペンは進まなかった。
「…脳にダメージを受けると、どうなるんですか…」
「脳が壊死しますから、その支配領域において後遺症が出ます。たとえば、手足の麻痺ですね」
柴田医師は手帳の用紙を1枚破って簡素な半円形と人体を描いた。
「人間の体というのは、右脳が左半身を、左脳が右半身をコントロールしています」
カリカリとペン先が紙の上を走る音が響いた。
「だから左脳にダメージを受ければ右半身に麻痺などの後遺症が出る訳です。
まあ、後遺症は麻痺だけではありませんし、症状も個人差がありますが」
話を聞いているうちに結子はまるで自分の右半身が麻痺してくるような錯覚に陥っていた。
「あの、母も麻痺が出ているんですか?それとなんだか喋れないみたいなんですけど…」
結子は恐る恐る訊いた。
「後遺症は治りますか…?」
カルテを見直して柴田医師はうーん、と唸った。
「現段階で上下肢とも麻痺は認められます。
喋れないのは構音障害も考えられるし、左脳のブローカー中枢が損傷していたら運動性失語症の可能性もあるかな…
後遺症はリハビリ次第ですね」
結子が欲しかった答えは難解な言葉の羅列ではなくてもっと単純なことだ。
奈緒美は元の体に戻るのか、否か。
明確な答えがないまま、結子は漠然と奈緒美は元には戻らないのではないかと思うのだった。
奈緒美は経過を見てなるべく早くリハビリを開始することになった。
ではまた1週間後にカンファレンスをしましょう、と言って柴田医師は話を終えると結子に小冊子を手渡した。
「よかったらご覧になってください。一般的なことくらいしか載ってませんけど」
病院を出ると2人は藤沢の奈緒美の家に向かった。
時刻は正午を回っていた。
なだらかな坂の彼方に見慣れた屋根が見えると、結子は運転席の一臣に礼を言った。
「今日はありがとう…遅くなる前にカズは東京に戻って」
「今日は1日休みを取ったから大丈夫。結子は入院の準備したらまた病院に行くんだろ、送っていくよ」
カーナビをちらりと見ながら一臣は穏やかに言った。
数ヶ月ぶりに上がった奈緒美の家は昨日の朝から時間が止まっているようだった。
奈緒美は朝食の支度をしようとしていたに違いない。
ガスコンロに置かれた小ぶりの片手鍋と保温状態の炊飯器、そして椅子の背もたれにかかったエプロンが結子の目に映った。
すべてがいつもと変わらない風景の中で、この家の主だけが消えていた。
結子は冷蔵庫の食材で簡単な昼食を作った。
「ん、うまい」
美味しそうに食べる一臣の姿を結子はぼんやり見ていた。
昨日までなら、結婚したらきっと毎日こうして食卓を囲むのだろうと想像して微笑んでいたはずだ。
でも、今は……
「どうした?食欲ないみたいだな」
一臣が心配そうな顔をする。
「あ、ううん…ちょっと疲れただけ。昨日はあまり眠れなかったから」
結子は取り繕うように笑って箸を口に運んだ。
食事を終えると入院中に当面必要な衣服と日用品を鞄に詰め始めた。
押入の衣装ケースを開けたとき、ケースの奥に黄色い鳩サブレーの缶が見えた。
結子は鳩の姿を模したこの焼き菓子が好きだった。
小さい頃に奈緒美のお手伝いをしては、お駄賃代わりにこの鳩サブレーを貰ったことを懐かしく思い出した。
缶蓋には油性ペンで“結子”と書かれていて、意外な所で自分の名前に出くわした結子は缶の中身が気になってしまった。
缶を取り出そうとした瞬間ダイニングから一臣の呼ぶ声がして、結局そのまま襖を閉めてしまった。
結子達が病院に戻ったときには、西日が建物の白い外壁を茜色に染め始めていた。
「結子は今日もこっちに残るの?」
「うん…もしも病院から何か連絡があったときにすぐ行けるでしょ」
荷物を車から下ろすと一臣は申し訳なさそうに言った。
「俺ももう少し休みが取れたらいいんだけどさ、明日は出張なんだ」
「そんな、今日来てくれただけで充分だよ。私は明後日まで有給取るつもりだし、病院にはバスで往き来するから」
結子は笑顔でそう言うと一臣の手から荷物を受け取った。
ICUの前で結子は自分と年齢の近そうな看護師に呼び止められた。
「佐伯さん、多分明日には一般病棟に移れそうですよ」
その言葉に結子と一臣は跳ねたいほどの喜びを感じた。
奇跡的な回復ぶりを想像して期待に震えながら病床の奈緒美に駆け寄ったが、奈緒美はまだ眠っていた。
一臣は奈緒美の耳元で、お義母さんまた来ますから、と囁くと名残惜しそうな表情のまま東京に帰っていった。
一臣を見送ると結子は飲み物を買って廊下の長椅子に腰を下ろした。
窓の外を眺めているうちに、不意に柴田医師から渡された小冊子のことが思い出された。
結子は傍らに置いたバッグの中から小冊子を抜き出した。
“脳卒中読本”というタイトルの小冊子は、柔らかな色調に可愛らしい挿し絵が入っていた。
結子は、ぱらぱらとページをめくった。
脳出血や脳梗塞を総称したのが脳卒中ということらしい。
身近に罹患した人がいなかったせいか、内容的には知らないことばかりだった。
勝手なイメージだが高齢者特有の病気だとさえ思っていた。
しかしこの小冊子によれば、奈緒美の年代でも十分にあり得る病気のようだ。
ためになる情報くらいの感覚で斜め読みしていた結子の目が、“脳梗塞の前触れ”という項目で止まった。
“脳梗塞では、大きな発作の前に予兆が見られることがあります。これを一過性脳虚血発作(TIA)といいます”
“TIAは突然始まり、短時間で脳梗塞と同様の症状が現れますが、多くは24時間以内に消滅します”
“症状は、手足が動かない・痺れる・めまい・呂律が回らない……”
結子の目は紙面を離れ、宙を彷徨った。
……これって…
…前に、電話で…お母さんが言ってなかった…?
結子は動揺しながらも記憶を辿った。
おぼろげな記憶が次第に鮮明になってきた。
確か、半月くらい前…
体が痺れて動かない、と電話口で言っていた気がする。
でもしばらくしたら、もう平気、といつもの調子になっていた…
結子はまた小冊子に目を移した。
続きの文章が結子を打ちのめした。
“TIAがみられた場合、その後に脳梗塞を起こしやすいといわれています。症状がすぐに消えても、早めに病院へ行きましょう”
…………私のせいだ。
あのとき私が気づいていたら…
違う…気づいてたじゃない。
気づいてたけど、お母さんの話を聞き流したんじゃない。
お母さんの体のことより、私の結婚準備のことを話したかったから…
あのときにちゃんと話を聞いていたら、お母さんは脳梗塞にならなかったかもしれない。
それに私があの家で暮らしていたら、直ぐに病院へ連れて行けたかもしれない。
こんなことに、ならなかったかもしれない……
私のせいだ………
私が一緒にいなかったから……
………お母さん…ごめんね……
ごめんなさい……………
奈緒美が入院してから最初の日曜日を迎えた。
東京から一臣とその両親が藤沢へ見舞いに訪れた。
「結子さん、この度は大変だったね。こちらに伺うのが遅くなって申し訳ない」
父親の大輔が神妙な顔で詫びた。
「一臣から聞いたけど、こちらからお勤めに通って毎日病院にも来てるんでしょう?結子さんの体が心配だわ」
母親の沙紀子は結子を労った。
「いえ、元々実家から職場に通ってましたし、病院も家からそう遠くないですから」
沙紀子から花束を受け取りながら、結子はぽつりと付け足した。
「…それに母はたった1人の肉親ですから」
遅れて一臣がエントランスに到着した。
「結子ごめんな、なかなか来れなくて…お母さんの病室、変わったんだよな」
奈緒美は先だって一般病棟の4人部屋に移っていた。
結子の案内で3人が病室に入ると、ベッドでは奈緒美が寝息をたてていた。
「すいません、さっきまでリハビリだったんですけど」
結子が母親を揺り起こそうとするのを沙紀子が止めた。
「せっかくお休みになっているのに起こしたらいけないわ…リハビリって大変だっていうから、お疲れになるのね」
「…まあでも、少し安心したよ」
病院のカフェテリアでコーヒーを飲みながら大輔が言った。
「そうねえ、最初に意識がないって聞いたときはどうなることかと心配したけど…」
沙紀子も安堵の表情だ。
「リハビリが始まったらきっと早く良くなられるわよ」
「ええ…そうだといいんですけど」
2人に合わせて結子も微笑んでみたものの、胸中は複雑だった。
奈緒美は未だベッドから離れられない状態だ。
今日は理学療法士が奈緒美の体を支えてベッドの端に座らせようとしていた。
奈緒美は支えがなければ座ることもできない。
手を離した途端に、生気のない表情のまま姿勢を崩してしまった。
それに言葉も流暢に話せなくなったままだ。
そんな奈緒美の姿を一臣の両親に見せずに済んだことに、結子は内心ほっとしていた。
「報せを聞いたときは2人の結婚式も延期することになるのかと思ったよ」
「今はいいだろ、その話は…」
大輔をとっさに一臣がたしなめた。
……そうだ、本当なら今日も式の打ち合わせだったんだっけ…
奈緒美が倒れてから、すっかり結婚のことを考える余裕をなくしていた。
「俺はもう少し結子と話があるから」
一臣はそう言って両親を先に東京に帰した。
「話ってなあに?」
両親を見送った後に再びカフェテリアの席に着くと、結子は一臣に聞いた。
「うん…あのさ、さっき父さんが言ってたことだけど」
「結婚式のこと?…そうだね、もうあと半年ちょっとだもんね」
奈緒美の入院で結婚式の準備はすっかりストップしている。
結子はバッグから手帳を出して言った。
「ごめんなさい、来週からはちゃんと時間作るから。招待状も印刷頼まなきゃだね。あとは…」
「そんなにあれもこれもじゃ、次は結子が倒れるよ」
数日ぶりに会う結子は少しやつれて見え、全身から疲労感が漂っていた。
「私なら大丈夫だよ。あっ…ごめん、そろそろ戻っていい?家に洗濯物干したままなんだ」
時計を見て慌てて席を立とうとする結子の手を一臣が掴んだ。
どうしたの、と結子が訊ねる前に一臣の唇が動いた。
「…なあ、いっそ式を延期しないか?」
「なんで…どうしてそんなこと言うの?」
全く訳がわからない、という顔で結子は逆に訊ねた。
「結子さ、無理し過ぎだよ。すっげえ疲れてるのがわかる」
一臣は伏し目がちに答えた。
「仕方ないよ…仕事はしょっちゅう休んでられないし、お母さんには私以外に家族はいないもの」
「だったらやっぱり式を先に延ばそうよ。俺がすぐに協力できるとしたら、そんなことだけだし」
結子は一臣の言葉に目を見張った。
「準備が遅れたのは私のせいだから謝るよ。でも、だからって式を延ばさなくてもいいじゃない」
挙式の日取りは、そもそも結子の強い希望で決めた経緯があった。
「けど、お義母さんのことだってあと半年でどれだけ回復されるかわからないだろ」
一臣の言うことはもっともで、そして結子にとって一番触れてほしくないことでもあった。
「お母さんは大丈夫。必ず式のときまでには元気になって出席できるよ。」
結子はそう言い切ると、まだ何か言いたげな一臣の視線から逃れるように立ち上がった。
大丈夫、私がついてるから…
お母さんが元気になるまでずっとそばにいよう…
…それが私の精一杯の贖罪だもの。
入院から8日が経ち、2回目のカンファレンスが行われた。
柴田医師の他に理学療法士も同席していた。
「佐伯さん、経過は良好ですよ」
柴田医師医師の言葉に結子は安堵の笑みをこぼした。
「それで今後の佐伯さんの治療方針ですが、これからは再発予防の薬を使いながらリハビリメニューも変えていきましょう」
柴田医師が隣の理学療法士に目配せをした。
「佐伯さんのリハビリを担当する濱口です」
自己紹介をするとファイルを開いて結子に説明を始めた。
「佐伯さんは今までベッド上でのリハビリが主でしたが、今後はリハビリ室に移動して午前と午後に行いましょう」
「あの…知識がないのでよくわからないんですが、母の体はリハビリでどこまで元に戻るものなんでしょうか」
リハビリが始まったばかりなのに気の早い質問かと思いながらも、結子は聞かずにいられなかった。
濱口は、あくまで可能性の域を出ませんが、と前置きして答えた。
「断定的なことは言えませんが、佐伯さんはまだお若いですし、全く元通りとはいかないまでも…例えば、杖や装具の使用で独立歩行は可能だと思います」
「お母さん、調子はどう?今日はちょっと冷えるね」
結子が病室のカーテンをそっと開けた。
奈緒美はベッドでまどろんでいたが、娘の声を聞くと重たそうな瞼を開いた。
「あ…あ…あ、た、ま…」
「頭がぼんやりするの?眠かったのに起こしてごめんね。リハビリで疲れたかな?」
奈緒美の言葉はまだ聞き取りにくいが、結子は毎日接しているうちに何となく言いたいことがわかる気がしていた。
「お母さん、さっき柴田先生と理学療法士の濱口さんと話してきたよ。あとね、リハビリ室も見学してきた」
「れ、ん、す…の、せん…せ」
「そう、練習の先生、リハビリの濱口先生ね」
微かに奈緒美のひび割れた唇が震えた。
そんな母親の唇を見ていて、結子は先刻リハビリ室で濱口と交わした会話を思い出していた。
「…一見難しいことをしているようには見えないかもしれませんが、リハビリというのは患者さんにとってはかなり大変なことなんです」
濱口はすれ違った患者に会釈しながら結子に語りかけた。
「それに、リハビリは長期に渡って継続しなくてはならないので、患者さんがモチベーションを保てなくなることもあるんです」
「モチベーションですか…」
「例えばお孫さんと散歩に行きたいから歩行訓練を頑張るとか、“この事の為”“この人の為”という目標がリハビリの動機になるんですよ」
…お母さんの場合はどうだろう。
早く家で元通りの生活を送りたい、というのは当然思っているだろうな。
仕事に復帰したいとか、旅行に行けるようになりたいとか…
…半年後の私の挙式を笑顔で迎える為、という動機はあり得るだろうか……
結子は奈緒美の胸中を推し量ったつもりでいたが、そこには自分自身の希望も刷り込まれていた。
「それと、誰か1人でも心の支えになる人がいることも大きいかなあ…って言ってもこれは結構難しいことなんですけどね」
「私が母の支えになります。他に頼るつてもないですし」
強い意志を滲ませた結子の言葉に濱口は戸惑いの表情を見せた。
「あの、語弊があったかな…お嬢さんが1人で抱え込む必要はないんですよ。むしろサポート役は多いにこしたことないですから」
結子はそれ以上話すことなく、ただにっこり笑って頷いた。
…大丈夫。
私とお母さんなら、きっと大丈夫。
「明日の式場の打ち合わせって何時からだっけ?」
土曜日の夜に2人が結子の部屋で過ごすことは奈緒美が倒れて以降久しくなかった。
「ねーえ?カズってば…」
「聞いてる、2時からだよ」
結子の少し痩せた首筋を見ていると、不意に軽い欲情を覚えた。
一臣は結子を後ろから抱き、うなじにキスをした。
「明日のことはいいから……」
早く結子を愛したいという気持ちが気だるい熱となって一臣の体を支配した。
ベッドに倒れ込んで部屋着をたくしあげると乳房を柔らかく揉んだ。
「やだ…シャワー浴びてないよ」
秘部の茂みの奥に舌を這わせようとすると結子は反射的に脚を閉じかけた。
そんな小さな抵抗はかえって一臣の熱を増幅させた。
一臣は結子の全身を丹念に愛撫した。
最も敏感なポイントを強めに吸い上げられた結子は最初の絶頂を迎えた。
「上に…なって…」
促されるままに、放心の結子は一臣の熱の塊に向かって腰を沈めた。
「…ハァ…ッ…奥…まで、きてる…ッ」
突き上げられる度、結子の内部に甘い疼きが広がる。
潤みの中心から湧き出す快感を味わいながら、一臣と結子は同時に果てた。
夜の冷気が火照った体と心の熱を奪う。
「なんか今日は違うみたいだった」
眠気を堪えた声で結子が言った。
「…ごめん」
一臣は自分の強引さを指摘されたと思い、とっさに謝った。
「ううん、そうじゃなくて…よくわかんないけど」
でも気持ちよかった、 と結子は囁くと満ち足りた表情のまま瞼を閉じた。
結子の裸の肩まで毛布を引き上げてやると、一臣は心の中で呟いた。
…違うとしたら、それは俺の気持ちかな。
この夜の一臣は純粋な愛情だけで結子を抱いた訳ではなかった。
このところ結子は生活の全てを奈緒美の看護に捧げていた。
一臣にしても、母親の為に奔走する結子を応援したい気持ちは当然ある。
けれど、ふとした瞬間に微かに苦い感情が心に湧くことがある。
嫉妬と焦りと、もしくは不安か畏れなのか。
結子と奈緒美の絆が妬ましいのかもしれない。
そんな負の感情を抱く自分が汚く思えた。
しかし先刻も、結子の体に臨みながら密かに思ってしまった。
…結子を快感に悶えさせられるのは俺しかいない。
それは奈緒美への“対抗心”と結子を“征服”したいという捻れた感情に他ならなかった。
翌日、式場の打ち合わせを終えた2人は近くのカフェに立ち寄った。
結子が話すことはもっぱら奈緒美の近況報告で、一臣は聞き役に徹していた。
「…でね、お母さんは私とその若い看護師さんをよく間違えるの。この前も…」
「あのさ、マンションのことだけど」
一臣が結子の話を遮って話題を変えた。
「そろそろ契約したいんだ。もう他は入居者がだんだん決まってるみたいだし」
結子と一臣は結婚したら新築のマンションで暮らすことに決めていた。
東京の市部に建築中のマンションは一臣の実家からは程よい距離で、私鉄沿線にあるから都心へのアクセスも悪くない。
賃貸ではなく分譲で話が進んでいるのは、一臣の両親との同居の可能性がゼロに等しいことを意味していた。
しかしマンションの件は完成の後に契約する予定だった。
契約を急ぐ理由がわからず結子は即座に賛同しかねていた。
「頭金は準備できてるし、マンションも完成間近だし、それに…」
思案顔の結子を見つめ、一臣は言葉を繋いだ。
「…結子も今は自分の家にほとんど帰れてないんだし、早いうちに2人でマンションに越した方が何かと都合がいいんじゃないかな」
一臣自身、この提案が計画性を欠いていることはわかっていた。
それでも結子の目を自分だけに向けさせたいという子供じみた欲求が一臣をせき立てたのだ。
「けど、引っ越しの準備なんかまだしてないし、それにお母さんのこともあるし…」
結子は今ひとつ乗り気にならない。
…また“お母さん”か。
どうして結子は素直に賛同しないのか。
好条件で結婚前から2人だけで過ごせる環境が手に入るというのに。
俺との新生活よりも今は母親の方が大切ってことか。
一臣は心の中でため息をついた。
「でもさ、今の家賃分は捨ててるようなものだろ」
言ってみてから説得の材料としては物足りないことに一臣は気がついた。
今の結子の心を最も揺さぶるのは……
「それにお義母さんの為にもなるかもよ」
結子の反応が明らかに変わった。
「そう?」
「うん、一緒に暮らせば俺も少しは家事を手伝えるし、式の準備も家でできることが増えるだろ。
今よりも時間ができて、結子はお義母さんのお世話がしやすくなるかなあ、って思うんだけど」
一臣は、己の発言によって自分の首を真綿で絞めていくような息苦しさを感じていた。
結子の毎日は目まぐるしく過ぎた。
多忙を極めながらも、精神的にはこの大変な状況を前向きに受け止める余裕すらあった。
しかし新たに引っ越しの準備まで加わると、どのように時間をやりくりしても手が回らなくなった。
「すみません、来週水曜日から金曜日までお休みしたいのですが…」
結子は上司に有給休暇の申請をした。
奈緒美の入院以来、度々休暇を取るようになっていた。
「佐伯さん、連休作って彼氏とどっか行くんですか」
トイレの洗面台の前で後輩の早苗がそっと耳打ちしてきた。
「違う違う、引っ越しの準備。新居に移るのが早くなったの」
結子の返答に早苗はあからさまに驚いてみせた。
「えーッ、同棲しちゃうんですか」
「うん、まあ…彼が早く一緒に暮らそうって」
結子は小声で答えた。
「佐伯さん幸せですねぇ。すっごい愛されてるって感じします」
早苗はきれいに巻いた髪とアイメイクを鏡でチェックしながら羨ましげに言った。
…そうだよね、幸せだよね、私って。
鏡の中の自分を見つめて思った。
人が幸せを自覚できるのは、他人に“幸せ”だと認められたときなのかもしれない。
晩秋の日暮れは早い。
仕事を終えて藤沢の病院へ向かうという生活も2ヵ月を超えた。
結子が訪れるのは大抵が夕食後の時間だ。
「お母さん、着替えは棚にあるからね」
食事用のエプロンをつけたまま奈緒美がこくりと頷いた。
そのエプロンを外しながら結子は引っ越しの話をし始めた。
「ばたばたしてたけど、どうにか荷造りもできたし、新しい家具も揃えられたよ」
「にもつ、たくさん?」
「私の荷物はそんなにないよ。大半は処分したしね」
一臣はずっと実家住まいだし、結子にしても1Kの部屋に収納できる量はたかがしれていた。
そのうえ家具や家電は新しく揃えよう、という一臣の意見で結子の持っていた小型で安価な物品はリサイクル店に運ばれることになったのだ。
「カズって家電オタクなんだよ。炊飯器とか炊ければどれでもいいじゃないって言ったら、“馬鹿だな全然違うんだよ”って怒んのよ」
買い物のエピソードを結子は笑いながら話した。
つられて奈緒美が左頬をくくっと上げて微笑む。右側の表情は麻痺があるせいか変化に乏しかった。
少し変わってしまっても、結子にとっては大好きな母親の笑顔に違いなかった。
「でね、明後日の日曜日に引っ越すから、その日はこっちに来れないんだ…ごめんね」
結子は少し上目づかいに母親を見た。
「いいいの、てじゅないないで、ね…」
“いいの、手伝えないで、ごめんね”
奈緒美が小さく頭を下げる。
「いいって、それよりほら見て」
結子は手帳に挟んであった間取り図のコピーを広げて見せた。
「リビングには、この向きでソファーを置こうかなって考えてるの。こっちは私達の寝室で、これは当面カズの書斎になる予定」
コピー紙の上をなぞる結子の指を目で追って、奈緒美はひとつずつ頷いた。
「2人で住むのに3LDKはどうかと思ったけど、カズが子供は2人は欲しいからって…でもしばらくこの部屋は使わないかな」
「ゆうこ、は?」
「私も欲しいけど…いつになるかわからないもん」
しばらくして面会時間の終了を告げる館内放送が流れた。
「じゃあ私帰るね、おやすみ」
自分を見送る母親は笑顔でいても寂しげな目をしている。
その表情に、仕事に行く母親を見送っていた幼い頃の自分の寂しさが蘇って重なる。
目が合えば切なくなるから、結子はいつも振り返らずに病室を後にした。
引っ越しの当日は晴天に恵まれた。
荷物の搬送と搬入はほぼ業者まかせとはいえ、業者に混じって動く一臣もてきぱきとした働きぶりを見せた。
日が暮れる前に荷解きもほぼ終わり、結子と一臣はソファーに腰を下ろしてお茶を飲んだ。
「はあ…思ったより早く終わったね。カズが段取り良くやってくれたからだね」
結子の賛辞に一臣は少しはにかんだ笑みを見せた。
「そうかな…まあ、父さんが転勤ばっかりだったから引っ越しは何度もしてるし。慣れだよ、慣れ」
一臣は中学卒業までに数回の引っ越しをしていた。
「子供のときは転校するのが内心嫌でさ。でも親にも言えないで、しょうがないって諦めてたかな」
結子は前に見た一臣の子供時代の写真を思い出した。
年齢の割に大人びて見えたのは、そうした心の陰影が表情に出ていたからなのか。
「ボクの辛い経験も、今日の引っ越しで活躍する為に必要だったってことですな」
おどけた一臣の口調に結子は笑って、そして改まって言った。
「今日からよろしくね」
一臣もぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく」
いつしか夜の訪れが窓の外の世界を濃紺に染めていた。
新しい生活が幕を開けた。
2人の朝は6時にセットされたアラームの鳴動とともに始まる。
簡単な朝食の後に急いで身支度をする。
一臣も結子も通勤時間は以前よりも長くなって、朝の慌ただしさは3割増といったところである。
「うわ、さっむーい」
マンションのエントランスを一歩出ると初冬の清冽な空気が頬を撫でた。
「はあ…指先が、ほらこんなにかじかんでる」
結子は手を開いて見せた。
「手繋ごう。あっためてあげるよ」
一臣が結子の冷えた指先をぎゅっと握った。
学生じゃあるまいし、と照れた結子だったが、手を振りほどくことはしない。
デート気分で歩く最寄り駅までの道のりを、結子は内心楽しんでいた。
新生活は独りで暮らしていた頃よりも細かな制約は多い。
好きな時に好きなことをできる自由はないし、常に一臣の都合を考える必要がある。
しかし、この家に帰れば一臣との蜜月の時間が待っている。
今感じている指先の熱と甘い疼きは昨夜の余韻だが、きっと今夜にも引き継がれるはずだ。
結子はこの生活に酔っていた。
「佐伯さん、今日少し残業頼めるかな」
上司の高島が結子に声をかけた。
「はい、わかりました」
そう答えながら結子は素早く頭の中で計算した。
仮に1時間の残業をして退社すると午後6時半を回る。
それから藤沢の母親の病院へ行けば、到着は7時半。
その後マンションへ真っ直ぐ帰っても8時には間に合わない。
9時近くに夕食を作って食べて、片付けて…
…病院、今日は行かなくてもいい、かな。
無意識のうちに奈緒美と一臣を天秤にかけていた。
というより、この頃の結子は既に疲労のピークに達していて、自ずと楽な選択肢に心が傾いていたのかもしれない。
無論、奈緒美のことは常に気になっている。
だから結子は後味の悪さを打ち消そうと、自分の決断に必死になって理由付けをした。
…お母さん、元気になってきたもの。
この前は自分で車椅子に座り換えるのも楽そうにしてたし、リハビリも順調だし。
私だって仕事しなくちゃいけないし、今日だけ行けないのは仕方ないよね。
こうして結子の病院通いは、毎日だったのが1日おき、2日おきと間遠になっていった。
数日おきになった娘の来訪を待ちながら、奈緒美は独りベッドの上で物思いに耽る日々を送っていた。
結子も実質的に結婚したような状況であることを考えれば、以前のように足繁く通えるはずもない。
結子が母親である自分のことで手一杯になるよりは、ずっといい。
結子が幸せならば、それでいいじゃない…
そう思いながらぼんやりと見やった窓の外はすっかり冬景色になっていた。
「奈緒美、ご無沙汰しちゃって悪かったわ。あら、顔色もいいじゃない」
見舞いにやって来た親友の顔を見て、奈緒美の表情がぱっと明るくなった。
「はい、これ生キャラメル。花畑のじゃないけどレシピもらって私が作ったの。案外簡単なのよ」
可南子は手荷物を置くとベッドの横にあった丸椅子に座った。
「結子ちゃん達、もう引っ越しちゃったのよね」
可南子の言葉に奈緒美は小さく頷いた。
「なんだかもうお嫁にいっちゃったみたいね。
…ねえ、娘が嫁ぐときの母親ってどんな気持ちなの?」
奈緒美は“えッ?”という表情で可南子を見つめた。
可南子の質問に何と答えるべきか、奈緒美の視線はシーツの上を彷徨った。
結子の結婚が決まったとき、奈緒美は掛け値なしに嬉しいと思った。
独りで育てた結子が久谷家に望まれて嫁いでいく。
半ば誇らしげな気分でいたが、結子が新生活を始めた頃から奈緒美の心情に微かな変化が起こった。
奈緒美の心をささやかな喪失感が侵食する。
それは満ちた月が僅かずつ欠けていくのに似ていた。
今もシーツの波間に“結子の為に”生きてきた日々が蘇る。
「ゆうこが、しゃーわせなのが、うれしい」
“結子が幸せなのが嬉しい”
可南子の問いに無難な答えを返し、奈緒美はまた記憶の海に戻っていく。
お腹に宿った結子を死守する為に英明と家族を捨てた。
可南子が就職先を選り好みしていた頃、生活の為に昼夜を問わず働いていた。
男性との付き合いを避け、幼い結子の為に孤高の母であり続けた。
でも……
…本当は…現実はそんなに綺麗なものじゃない。
私を捨てたのは英明で、あの家に私の居場所がなかったから飛び出した。
可南子みたいに短大を卒業して私も憧れの仕事に就きたいと思った。
人肌の温もりが欲しくて、独りの切なさに震えて泣いた夜もある。
自分の選択に微塵の躊躇もなかったと言えば嘘になる。
“結子の為に”諦めたものは少なくないけれども、今は何の悔いもない。
私と結子を繋ぐ絶対的で永久的な絆に勝るものはなかったから。
愛情と信頼という糸からなる絆こそ、私がずっと欲しかったもの…
それをくれたのは結子だ。
私は幸せだった。
“幸せ”……
…私は、今も幸せなはずよね…?
結子は優しい。一臣さんも優しい。
この前も2人揃ってお見舞いに来てくれたっけ。
仲睦まじい2人の姿を見ていると、心底嬉しいのに不意に虚無感でいっぱいになった。
目の前にいるのに、結子が遠い存在になってしまった気がしてならない…
結子は私の娘から一臣さんの妻になっていく。
私の傍から離れていく。
それは当然のことなのに、寂しくて堪らない。
なんだか……私だけが置き去りにされていくみたい…
…ああ…私は、いつからこんなに弱い人間になってしまったんだろう。
最近、嫌になるくらい涙もろくなった…
予期せずこぼれそうになる涙を可南子に見られまいと、奈緒美は顔を背けた。
「明日は俺、課の忘年会。遅いから先に寝てて」
ベッドに入った結子に一臣が話しかけた。
12月になると、付き合いの多い一臣は帰宅が遅くなりがちだった。
「そう…飲み過ぎないでね」
結子はそう言うと一臣の方へ向き直って続けた。
「ねえ、お正月のことだけどね…」
「今からそんなに気負うなよ。年始の挨拶も俺の実家は元旦にちょっと顔を出すくらいでいいよ」
一臣は、結子が早くも“妻”として来たる正月に臨もうとしていると早合点した。
「気楽なもんだよ。集まる親戚も、だんだん少なくなってきたしなあ…」
「あのね、そうじゃなくて、お母さんの一時退院のこと……」
結子の話が奈緒美のことだとわかり、一臣は少しばかり鼻白んだ。
けれど、すぐに笑顔を見せた。
「そうか。お義母さん、お正月に戻ってこられるのか」
「うん…もう入院生活もだいぶ経つし、三が日くらいは藤沢の家で過ごしたいかなって。あ、もちろん先生と相談してだけど…ね」
「ああ…うん、そうだよな…」
一臣の言葉は夜の闇に吸い込まれていき、2人の間に沈黙の時が流れた。
チェストに置いた時計が無機質な電子音で零時を告げた。
一臣は眠っているのか黙ったままだ。
結子は先だって病院で交わした濱口との会話を思い返していた。
「佐伯さん、少しお時間いいですか」
奈緒美を見舞って帰りかけたとき、理学療法士の濱口に声をかけられた。
「はあ…はい」
結子は時間が気になりつつ頷いた。
濱口と時間をとって話すのは久しぶりだった。
「母のことで何かあったんですか?」
結子が見たところ良くも悪くも奈緒美に大きな変化はないように思えた。
「ええ…佐伯さん、このところリハビリをお休みされることが度々あるんです」
濱口の話によれば、奈緒美は冬になってから体調不良を理由にリハビリを休むようになったという。
「体調不良って…脳梗塞の再発ですか?」
「それはありません。ご本人が体がだるいと訴えられるのと、まあ微熱があるくらいですが」
結子はひとまず安心して濱口の話の続きに耳を傾けた。
「毎日って訳じゃないんですけどね、それにこちらが心配になるくらい頑張られるときもあるし…」
濱口は声のトーンを少し下げて言った。
「精神的に少し不安定になっているみたいで…もしかしたら、軽度の鬱病かもしれません」
鬱……
お母さんが……?
「そんな、私にはいつもと変わらない様子に見えますけど……」
結子は言葉を失い、テーブルの上で組まれた濱口の指先に視線を落とした。
「脳血管性の病気はメンタルな部分にも後遺症が出ますし、一過性のものかもしれませんが…
何か、お嬢さんの目から見てお気づきのことがあるかと思ったもので、失礼しました」
結子は奈緒美の変化を見落としていた自分を情けなく思った。
気落ちした様子の結子を気遣って、濱口は話題を変えた。
「あの、ところで年末年始はどうされますか?先生の許可があれば一時退院もできるんですが」
「一時退院…」
秋の初めから奈緒美はずっと病院にいる。
早まった引っ越しや式の準備に追われて、あっという間に3ヵ月が過ぎようとしていた。
認めたくはなかったが、忙しさを理由に奈緒美のことはいつの間にか二の次になっていた。
濱口の指先から視線を外すと、結子は静かに言った。
「できるなら…一時退院させてください」
⚠『ダブルス』をお読みくださっている皆様へ⚠
はじめまして、作者のtie(タイ)です
日頃より私の小説をお読みくださっている方がいらっしゃることに感謝しています
このところ私生活で時間をとられることが増え、小説の更新はもとより携帯を開くことも減ってしまいました
誠に勝手ながら次回更新は年明け4日頃になる予定です
拙い小説ですが、春までの完結を目指して更新していきたいと思います
皆様良いお年をお迎えください
日を改めて結子は担当医の柴田に一時退院の相談をした。
二つ返事で快諾してもらえると思っていたが柴田医師の表情は複雑な色を呈した。
「そうですね…確かに一時退院した方が佐伯さんには気分転換になるでしょうね」
そう言って、初めて見たときよりも厚みを増したカルテを開いた。
「そうしていただきたいけれど、ただね、このところリハビリが少し遅れ気味で…外泊となると…」
柴田医師はカルテの文字を黙読しながら左の人差し指でこめかみを掻いた。
「無理なんですか」
結子は少し身を乗り出すようにして訊いた。
「今の佐伯さんにはあらゆる場面で介助が必要です。病院とご自宅では環境も違いますしね。ご家族のご負担は少なくないですよ」
柴田の心配が奈緒美の介護にあるらしいことはわかったが、結子にはピンとこなかった。
奈緒美の半身が自由にならないといっても、病院で見る限り周囲の手を煩わせる様子はない。
「年末年始は私も仕事は休みで終日母の面倒を見られますし、いざとなれば協力のあてもありますから」
このままでは承諾が得られないと察した結子は少し強い語調で言いきった。
結子の粘り勝ちで一時退院は許可された。
30日から帰宅し、新年を自宅で迎えるということになった。
「今回は2泊が限度かな。いきなり無理しても二次的な事故に繋がりかねないですし」
柴田医師は外泊届にペンを走らせながら言った。
「ありがとうございます」
結子は礼を言って深々と頭を下げた。
「もしも何かあったら一時退院の期間内でも病院に戻ってくださいね。じゃあ、30日にこの届けを窓口に出してください」
手渡された外泊届をバッグにしまって、結子はもう一度柴田に頭を下げると足早に奈緒美の病室へと向かった。
病室の入口から、車椅子に座って窓の外を眺める奈緒美の姿が見えた。
少し猫背気味の背中と痩せた肩のラインが年齢以上にくたびれた印象を与える。
濱口に指摘されてから、奈緒美の衰えが急に目につくようになった。
そのせいか同い年の可南子と比べると10歳は違って見えて、その現実に結子は人知れず胸を痛めた。
「…お母さん!聞いて聞いて!」
結子ははしゃぐように奈緒美に声をかけた。
努めて明るく振る舞うのは、奈緒美の為でもあり結子自身の為でもあった。
仕事納めの日も一臣は深夜の帰宅だった。
一臣は付き合いで飲みに行く機会は多いが、酒が強い質ではなかった。
結子はリビングで音量を下げてDVDを観ていた。
玄関の鍵が解錠される音を聞いて、結子はリビングから顔を覗かせた。
「お帰りなさい」
「あれっ、まだ起きてたんだ」
時刻は深夜1時を回っていた。
「明日から休みだしね…お風呂沸いてるよ」
結子は瞬時に一臣がさほど酔っていないことを確認した。
浴室の水音を聞きながら、結子はそそくさとリビングを片付けてベッドで一臣を待った。
しばらくして風呂上がりの一臣が寝室にやって来た。
「先に寝てて良かったのに」
「うん、でも……ねえ、ちょっと話してもいい?」
話とは言わずもがな奈緒美のことで、この為に寝ずに一臣を待っていたのである。
「お義母さんの一時退院のこと?」
一臣はベッドに入ると手にしていた携帯を開き、画面を見ながら言った。
結子は一臣の勘の良さに少し驚きつつ話し始めた。
「うん、外泊許可が30日から元旦まで取れたの。でね、その間は私も藤沢の家に泊まろうと思うんだけど…」
一緒に暮らし始めてから結子が家を空けることはなかった。
一臣も家事を手伝ってはいるが、それはあくまで補足的にである。
それに2人でまとまった休みが取れるのにも限りがある
2日も家事に追われて留守番では、さすがにいい顔はしないのではないかと思った。
「行ってきなよ。元旦の午後に戻れるなら別に問題ないよ」
一臣は携帯を枕元に置くと、あくびをかみ殺して言った。
「…本当に?2泊していいの?」
拍子抜けするほど簡単に一臣が承諾したので、結子は思わず聞き直した。
「いいよ…俺はここで適当にやるから大丈夫」
「ありがとう!ごめんね、またカズに迷惑かけちゃうね…」
結子は一臣の寛大さに感謝した。
「藤沢まで迎えに行こうか…」
一臣は結子の額に唇を寄せて呟いた。
結子は見上げるようにしてその唇にキスをした。
…この人と出会えて良かった。
重なり合う肌の温かさと熱い吐息に包まれて結子は瞼を閉じた。
吐息をもらす結子を見つめる一臣の瞳は揺らいでいた。
全てがうまくいくと信じて疑わなかった結子は、微々たる綻びにも気づかなかった。
晦日の朝、結子はいつもより早く起きて家事に取りかかった。
「…早いな、いつ起きたの?」
一臣がリビングに顔を出した。
「おはよう。先食べてて…洗濯機回してきちゃうから」
ダイニングテーブルには朝食が並び、作り置きの料理がタッパーに詰められていた。
「冷凍庫におかずを小分けにして入れておくから、悪いけどあっためて食べてね」
「今日、何時の約束だっけ?」
朝食の卵焼きに箸をつけて一臣が訊いた。
「お昼の1時。でもね、一度向こうの家に寄ってから病院に行こうかと思って…できたら」
できたら藤沢まで送ってくれない?と結子が言いかけたときだった。
マナーモードの一臣の携帯が震えた。
一臣は携帯を横目で見ただけで箸を休めることなく結子の話を遮って言った。
「…俺も今日出かけるから。会社に忘れ物してきたの思い出してさ」
「そう、わかった」
結子は言葉を飲み込み、代わりに微笑んだ。
「気をつけて行っておいで。明後日は迎えに行くから…お義母さんによろしく」
一臣もまた、柔らかな笑顔で言った。
窓からは冬の日差しが淡く差し込んでいた。
町田の駅前は賑わいを見せていた。
通勤でも利用する駅だが、今日はまるで違った印象だ。
年末の、しかも10時過ぎの電車は乗客が少なかった。
座席の中央に腰を下ろし、結子は一息ついて車内を見渡した。
向かい側の座席に母親と座っていた3歳くらいの女の子は、結子と目が合うとはにかんで母親の腕に顔をすり寄せた。
車内の暖房が眠気を誘う。
結子は眠気を振り払うように重い瞼を開き、携帯を取り出すとメールを打った。
【結子です お忙しいところ無理を言って申し訳ありません 予定通り藤沢に着けそうです】
乗り換えの駅に差しかかる頃、バッグの中で携帯が小さく鳴動した。
【こちらも遅れず着けそうです では、後ほど病院で】
返信メールを一読すると、結子は軽やかな足取りで電車を降りた。
藤沢の家に着いたのは11時を過ぎた頃だった。
人気のない家には冬の冷気とは別の寒々しさが漂う。
結子は家中の雨戸と厚手のカーテンを開けた。
荷物を自室に置き、休む間もなく病院に向かった。
病院前の停留所でバスを降りると、結子は建物には入らず病院の駐車場へと歩いて行った。
結子は駐車場の出入り口が良く見える場所に佇んで、往き来する車を目で追った。
車が結子の前を通る度に、冷たく乾いた風が吹き抜けていく。
軽自動車に続いて黒いエルグランドがゲートを通過したのが見えた。
運転席の人影は結子に向かって手を振り、空きスペースに車を停めた。
「ごめんなさい、待ったでしょ?」
降りてきたのは奈緒美の友人である可南子だった。
「私も少し前に着いたところで…あの、本当にすいませんでした。本来ならこちらが伺うべきなのに」
結子は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいのいいの。それに今日ね、ダンナを鎌倉に送る用もあって…あはは、久々にドライブデートしちゃったわ。
…さて、あれを下ろしちゃおうか」
可南子は明るく笑って車の後方に結子を回らせた。
リアハッチを開けると折りたたんだ車椅子が現れた。
「ちょっと古いタイプだから重いんだけど、病院のと変わらないはずだから」
よいしょっ、と言いながら車椅子を下ろすと可南子は慣れた手つきで座面を広げた。
「本当に…助かります」
目の前の車椅子を見ながら結子は安堵のため息をついた。
一時退院の間は病院の備品である車椅子が使えないということを、結子はほんの2日前に知った。
なんとか使わせてもらえないかと病院の職員に頼み込んだが、職員の返答は“規定は曲げられない”の一点張りだった。
奈緒美の体では、移動するには車椅子が必要だ。
こうなれば購入するより他はないと思ったが、どこで買えるのかも、いくらするかも見当がつかなかった。
どうしたものかと頭を痛めていると不意に記憶の糸が繋がった。
以前、可南子が義父の介護をしているという話を奈緒美から聞いたことがあった。
何か有為な助言がもらえたらと、迷いながらも可南子に連絡してみた。
『車椅子を買うの?急ぎなら、とりあえずうちにあるのを貸すわよ』
図らずも可南子の厚意で問題は解決し、今日を迎えられたのだった。
「…一応メンテナンスもしておいたからね」
可南子はグリップを軽く叩いてみせた。
「私、本当に馬鹿ですよね。先にちゃんと確認しなかったから……あの、本当にお借りしても大丈夫なんですか?」
今更そんなことを訊いても仕方ないのだが、心苦しさの消えない結子はおずおずと問いかけた。
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