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神社仏閣珍道中・改

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旅人さん
24/01/20 11:13(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。





No.3818310 23/06/23 06:18(スレ作成日時)

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No.351 23/11/10 19:51
旅人さん0 

(光榮寺さんの続き)

光榮寺さんの御住職さま、涅槃図についてのお話、猫のが描かれていない理由、それから猫が描かれている涅槃図のお話をしてくださいました。
前述いたしましたが光榮寺さんの涅槃図には猫はおりません。

その猫からの繋がりから、京都東福寺さんの涅槃図のお話となるのですが…。

京都三大涅槃図の一つと言われています東福寺さんの涅槃図は、室町時代の画聖『吉山明兆』さまにより描かれたものです。
縦約十二メートル、横約六メートルという非常に大きな絵だといいます。

この東福寺の大涅槃図、猫が描かれているといいます。

この度百年ぶりに四年の歳月をかけた令和の大修理が行われ、亀裂や折れが修理され表具も新調されて、色鮮やかな往時の姿が甦ったといい、光榮寺御住職さま、十一月十一日からこの東福寺大涅槃図の特別公開があることをお教えくださいました。

宗派も異なるお寺さんでありますのに、そんな先取り情報までご存知とは、光榮寺さんの御住職さまはもしかしたら代々絵がお好きなのかもしれません。

光榮寺さんの御住職さまは、さらにこの絵をお描きになった明兆さんのお話をしてくださいました。

No.352 23/11/10 22:54
旅人さん0 

(続き)

「明兆さんが涅槃図を描いている時、一匹の猫、どこからか絵具を咥えてはやってきたというんです。

何度も何度もそんなことが続き、明兆さんは、(猫はこの涅槃の時にネズミを追ってしまい、お釈迦さまのために天より駆けつけた摩耶夫人の手にした薬袋が間に合わなくなる事態を招いてしまったというが、今こうして絵具を持ってきているということは、ここに加えて欲しいということなのかもしれない)
そう考えて明兆さんは古来描かれずにいた猫を描き加えてみたんですね。

そうしたところ、猫はぱたっとやってくることは無くなったのだといいます」

明兆さんがこの絵を描いているとき、お母さんが亡くなったという知らせを受けたのですが、明兆さんは今は手が離せないと、自らを描いた絵を葬儀の席に送り届けたといいます。
ただひたすらに絵を描いて過ごしてきており、明兆さんは僧としての位とかには無頓着で、終生、仏殿の管理を務める殿司(でんす)の位にあった人なんですよ。」
と。

ちなみに東福寺のは涅槃図の猫の話は東福寺のHPにも書かれていました。私のあやしい記憶を介してではない方が良いかと思いますので、原文のまま載せたいと思います。


『往昔畫聖兆殿司(おうせきがしょうちょうでんす)、大涅槃像(だいねはんぞう)を描かんとしける時、一匹の猫、何処よりか絵具を咥え来たること度々なり。
殿司、之を憐れみ猫は由来罪業深重(ゆらいざいごうしんちょう)にして、佛の慈悲にも浴し兼ねたるものなるが、今佛涅槃の絵具を持ち来たりし功徳に依り、罪業消滅魔障退散(ざいごうしょうめつましょうたいさん)し、速やかに佛果を成ぜりとて畫中に猫を加へぬ。
世人傅へ聞きて、之を魔よけの猫と称して珍重しけるが、今復ここに其形(そのかたち)を模して、弘く十方に頒ち、世の篤信の人をして悉く魔を除き福を得せしめんとて、二夜三日の祈念を籠め造りし像なりされば、深く念じて其霊験のあらたなるを知るべし』


ということであります。

ちなみにこちらではこの猫を『魔除けの猫』と呼ばれています。


うーん、明日から公開ですかぁ。

No.353 23/11/13 07:44
旅人さん0 

【悲報 寺院火災 2023/11/12】

群馬県前橋市にあるお寺できのう火事があり、本堂が全焼しました。

きのう午後四時半ごろ、前橋市元総社町の釈迦尊寺で、「火災信号を受信した」と警備会社の職員から119番通報があり、消防車など十三台が出動、きのう午後十一時半の時点ではまだ消火活動中だということでありました。


…こちらのお寺さん、かつてのこの地方の豪族である羽鳥連の妻『玉照姫』が、聖徳太子より授けられた釈迦像を崇敬していたことに由来していると伝えられています。

羽鳥連の孫『羊太夫』が、上洛の途中大和国多武定恵和尚にこの話をしたところ、定恵がこの地に来て、
一寺を創建し、【釈迦尊寺】となったという伝説があります。


一寸八分の釈迦如来像は現在、秘仏となっており平安時代末のものと推定されているといいます。

…と、まぁ、これが釈迦尊寺さんのHPに記されたものでありますので、お寺さんにいたしましても、聖徳太子由来の釈迦尊像というのは、あくまでも伝説であると考えておられるといったところではありますが。

全焼の報道もあり、何より通報が警備会社からのものであったことから考えると、この釈迦尊像も無事ではない可能性が高いのかもしれません。

この釈迦尊像の御開帳があるのかないのか、お寺の関係者さんとお会いできたことがないため、そうしたことは一切分からず、いつかお寺さんにお聞きできれば、と思っておりました。


そして。
こちらのお寺さんには、三遊亭圓楽さんのお墓があり、今年一周忌の法要がしめやかに執り行われたばかりでありました。


近隣住宅などへの延焼はなく、けが人もいなかったとのこと、それだけはなによりのことでありました。


No.354 23/11/13 17:49
旅人さん0 

釈迦尊寺さんの火災は出火元は本堂のようで、消防車十三台が出動して消火にあたり、火は、17時間以上たった本日午前十時ごろに消し止められたということでありました。
この火事で、木造瓦ぶき平屋建ての本堂、およそ四百平方メートルが全焼したほか、敷地内のこども園と住職の住居の一部が被害を受けたということですが、不幸中の幸い、けがをされた方はいなかったとのことです。


No.355 23/11/14 04:12
旅人さん0 

【ウクライナ難民支援×禅語御朱印】
【如意山宝珠寺・群馬県伊勢崎市】

群馬県伊勢崎市赤堀今井町にあります【如意山宝珠寺】に参拝いたしました。こちらは再拝となりますが、大好きなお寺さんの一つです。

最初の参拝はまったくの偶然から。
お寺さんの前の道を通りかかって、そこにお寺さんがあったことを知ってのことでありました。
通りからはかなり奥まっており気付かずそれまで何度となく通り過ごしておりました。
決して大きくはない小さな案内板に気付いて、のことでありました。

…それにしてもなんて素敵なお名前でしょう、【宝珠】です。
そんなお名前だけでワクワクしていた私を、さらにワクワクさせてくださったお寺さんでありました。

どこを歩いても空間に程良いゆとりがあって、実に趣のある境内なのです。
侘び寂びとはかくいうものであろう、そう思える境内であります。

山門前には参道をひっそりと見守っておられる石仏さま。
その優しい眼差しにまず癒されます。
この日は今年一番の冷え込みとなった日で、しかも薄曇りでありましたというのに、なぜか温かな気がする空間であります。

山門前には『ウクライナ難民支援・平和への祈りと禅語に親しむ巡礼・御朱印授与』と書かれた幟旗が風に揺れています。
それすらが自然にとけこんでいます。

そんな優しい空間に、ちょっぴり離れがたい思いを抱きつつ、山門をくぐりますと、懐かしさにも似たほっとする空間が広がっているのです。
…二度目の参拝ですし、久しぶりではあったものの決して懐かしさを感じるような分際ではないのですが、ね。
それはきっと御仏が、そしてお寺さんの方々の訪れた全ての者を温かく迎える思いや、姿勢がそうした空間を作りだしているのでしょう。

車を降りた瞬間から…いやこのお寺さんに向かっている車中ですら、癒しの気に包まれています。

山門をくぐると真正面に御本堂。
そこに真っ直ぐに向かいたい思いを抱かせるほどの存在感です。
…決して大きな御本堂ではありません、ごく普通の、いわゆる一般的なお寺さんの御本堂の大きさです。
あちこち目移りしやすいおばさんには全くもって珍しいこと。
それだけお力のある、そして訪れた者を全て温かく迎えてくださる御仏がそこにおられるのでありましょう。

No.356 23/11/14 17:19
旅人さん0 

呟き。

ウクライナ難民支援の御朱印をお授けくださるお寺さんとは一切!無関係です。


一隅を照らすって言葉がありますが…

こ、これ、照らされたら困るでしょ?という、廃寺でもないのに廃寺より大変なことになっているお寺さんに行ってしまいました。

とはいえもちろん御本堂はきちんとされておりますし、墓地もきれいに整備されています。

ただ境内の一部があかんことになっておりまして、そこはまさに歩くのも躊躇われるゴミ捨て場状態。
しかもそれが御住職のお住まいの前。
…決して無住ではありません。
そして一隅というほど狭い範囲ではありません。


こんなお寺さんもあるんだなぁ。

世の中広いものだ。
びっくりした。

いつからこうなんだろう。
誰にも止められないのかなぁ。
そうした疾患があるにはあるけれど。

びっくりした。

No.357 23/11/14 22:22
旅人さん0 

(宝珠寺さんの続き)

宝珠寺さんはその山門をくぐるとすぐみぎてに御堂があります。
〝天満宮〟と書かれた木の板が掲げられています。
それなりの規模の御堂で、中央には菅原道真公の木像が祀られ、左側は石造のお地蔵さまの御像、他にも一体石像が祀られています。

その御堂の前にはアジアンなお顔立ちの金ピカな狛犬風の像が二体。
うーん?

天満宮の前を過ぎると立派な鐘楼があり、こちらの梵鐘は撞いてよいのです。
群馬県で鐘の撞けるお寺さんはそう多くはありません。
鐘を撞くのが大好きな私、ましてや鐘には煩悩を消す力があるとか。
煩悩の権化たる私、なんなら百回くらい撞いたら少しはまっとうになれるかもしれません。

…。

…まぁ、煩悩は減ることはありませんでしたが、鐘を撞いて、御本堂へと向かいます。

ウクライナ難民支援に協賛した御朱印は基本的にはお書き置きのようです。
ただし御住職かお手隙であれば直書きもしてくるとのことで、庫裏ヘお邪魔させていただきました。
副住職さま、でしょうか、前回御朱印をお授けいただきましたときの方とは違う方でありました。
お優しそうなお顔立ちです。

庫裏、ではなく檀信徒の方のための会館のようで、正面には『韋駄天』さまが祀られています。
 「曹洞宗のお寺さんは玄関先にはよ韋駄天さまがおまつりされていますね」
と申し上げると副住職さまは一瞬驚いたようなお顔をされその後大変嬉しそうなお顔をなさったのです。

No.358 23/11/15 01:40
旅人さん0 

(続き)
ます。
「曹洞宗のお寺さんは玄関先にはよく韋駄天さまがおまつりされていますね」
そう申し上げた私に
御住職さまは、
「そうなんです、よくご存知ですね。
韋駄天さまは大変走るのが早いので、万が一泥棒が入るようなことがあってもすぐに追いついて事なきを得ることができるから、ということで玄関を守っていただいているのです。
他にもお台所にもお祀りさせていただいていて、これは出来上がったばかりのお食事を一刻も早く提供して出来たてを食べていただけるようにとお祀りすると、お山で修行中に教わりました」
と、丁寧にお教えくださいました。


こちらのお寺さんの禅語は、

【指月】

『〝指〟は〝言葉(経典)〟、〝月〟は〝真理〟
『人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て月を視ず。
人これに語りて、われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる』
大智度論『指月の譬』

経典に書かれている言葉ばかりにとらわれていると、その先にある本質(真理)を見失ってしまいます。
これを龍起和尚が指と月にたとえて伝えたと言われています。(中略)

一心不乱に進んでいると先を急ぐことにとらわれて、何で歩いていたか忘れてしまいがちです。
一旦立ち止まり、歩んできた道とこれから行くべき先を見つめなおす時間も前に進むためには大切です。』


うーん、なんと私に向け発せられたかの言葉でありましょう。

指月という言葉にとらわれて、本質がみえない…。


やれやれ、道は長そうです。


ちなみにこの巡礼、実に四日でコンプリートした強者がおられるようです。一日に二百キロ車を走らせた日もあったといいます。

…うーん。
…五月末まで期間はあるといえ、コンプリートは無理だな。

しかも電車を使おうとしたら、夫に「車の方がずっと安いよ?」
と言われてしまった。
彼もまた真実が見えていないな。
…妻が車で迷子になったらどうするのだ?



No.359 23/11/15 22:59
旅人さん0 

呟き。。

今朝ほぼ千字打ったものが消えてしまっていました。
何をしでかしたのか、消えてしまったその事実にも悲しみを覚えますが、何かをしでかしたであろう自分自身が哀しくて悲しいです。

気持ちを切り替えるため、今日のできごと、今日の一コマをつぶやきます。


今日、知人の家に届け物をするためたずねると、知人の車がありませんでした。
(出直そう)そういったんは思ったものの、ふと思い返して呼び鈴を鳴らしてみました。
ご主人がおられるようです。

その知人のお宅の玄関には、大きな油絵がかざられているのですが、聞けばご主人が描かれたものとのこと。
その絵の描かれた背景を知りたかった私は、良い機会を得たとご主人にお聞きしました。
「ああ、これ?これはね、初めて描いたものなんだけど、県展に入賞してね。
思い入れもあってなかなか捨てられなくて、邪魔だからという理由でここにあるだけなんだよ」

その絵は塔のある大きな寺院のようなのですが、何故か馬が描かれています。
「なんかこの空間が寂しく思えて、馬を描こうと思っただけなんだよ」
…なるほど、やっぱり実際にいるわけではなかったんだ。

「これはね永平寺なんだ」
「永平寺に実際に行って、それを元に描いたもの、なんだよ」



…永平寺。
…永平寺、さん、ですか…。

曹洞宗の、総本山ではないですか。





このタイミングで…。

No.360 23/11/16 06:04
旅人さん0 

【ウクライナ難民支援×禅語御朱印】
【田澤山青枩林泉龍禅寺泉龍院】

群馬県桐生市菱町にあります泉龍院さんに参拝してまいりました。こちらは再再拝となります。

こちらは厄除けで有名なお寺さんで、初詣ともなると桐生市はのみならず近隣からも篤信の老若男女が参拝し、広い広い駐車場でありながらそこにすら収容しきれず順番待ちするほどのお寺さんであります。

厄除けは相変わらずいまだしたことが無い私ではありますが、当時は…自分では初詣している自覚なく…初詣もしたことがなかった私。
思い立っての初めての初詣が、こちら泉龍院さんでありました。


(凄っ!)

厄除けのなんたるかも知らずに訪れた泉龍院さんの駐車場で、思わず帰ろうかとすら思ったほどの人出を見、いかに自分が信仰とほど遠い世界にいることをあらためて知ることとなり、さらには境内でもその車の台数から推察できる以上の人の波に揉まれ、初詣とはこういうものか、とただただ驚いたものです。
そして…感動しておりました。
さながら…。

さながら初めて日本を観光し、日本人の信仰の場を初めて訪れた外国人のように。




No.361 23/11/16 08:05
旅人さん0 

(続き)

桐生川にかかる橋を渡るころから、上り坂が続きます。

実はこの日、駅で無料で借りられる自転車で泉龍院さんへと向かっておりました。
(…しまったあぁぁ、バカだった)

深まる秋の気配を感じたい、
などと思った自分をここへ来てそれはそれは恨めしく思いました。
そもそもが今年の秋は九月中旬の陽気からいきなり十二月中旬の気温となり、秋らしい秋など存在しなかったというのに…。
だからこそ秋を感じたいと思ったのもたしかではあるのですが、いやぁ、キツいキツい!
その上り坂の続く道との戦いで、秋の気配や秋の景色など感じる余裕など全くなくしてしまっていました。

おまけに、再拝させていただいた時からかなりの年月が流れており、どう行けばたどり着くかすら、この辺りから不安になってきてしまった私。

どうする おばさん。




No.362 23/11/16 18:36
旅人さん0 

(続き)
しかしながら厄除けで有名な泉龍院さん、そこここに大小の案内の看板が出ております。
よおしっ!
ここで曲がる。
…。

…ほんとにここで良かったです?

細い、ここ周辺の住人の方くらいしか通らないのではないか、というような道であります。
近くに小学校があるようで、高学年と思しき子どもたちが、校外学習のようで、列をなすでもなく、自由に、まるでお散歩のようにゆったりと歩いていました。

その間一台も車が通ることはなく。

本当にこの道で合っている?
…看板の矢印って、結構アバウトだったりしませんか?
もしかして…みまちがえた?

ただ、間違いなく上り坂であること、ひだりてに低山がありそうなのはたしかです。

…とりあえず登って行こう。

しばらくはひたすら上り坂を登ります。


あっ!
あったぁぁ!

大きな石仏さまがお迎えくださっておられます。

が。
…結構斜度のキツイ上り坂です。

そして。
少し登るとまた小さな案内の看板が…。

えっ。
…き、キツい斜度です。

しかもヘアピンカーブ。
自転車を漕いで登るのも、押してあがるのも無理!
絶対、絶対無理です。

で。
邪魔にならないであろう場所を探して自転車を止めました。

ここからは歩きます。

のどかな里山です。


No.363 23/11/17 16:19
旅人さん0 

のどかな里山。
お寺さんの境内地なのはたしかです。

たしかにそうなのですが、景色はまさに里山。
お寺さんといえばそこここにある、石塔や石碑、背の高い木もありませんし、何より石仏さまもないのです。
それどころかショベルカー。
うーん。
こんなだったかしら。

今度は保育園の子供たちが小さな手を繋いで、先生に導かれよちよちと歩いています。
うーん、癒される♡

あ、…あれ?
あんな急坂を?
…先生のあとをついて、ゆるやかな下り坂を下っていきます。
…あったのか、ゆるやかな道。

それでも帰りもまた先ほどの道を戻るしかない私。
何故ならばあまりに急な斜面、途中で自転車を置いてきたから。

さて先へと進みましょう。
朝一度書いたものが、また消えてしまい、前回のものを含めると同じところを実に三度!書いている私です。

おお!

ようやくお寺さんらしい景色が見えてきました。
山門が見えています。
ほっ♡

山門のそばに、カルタの絵札と読み札に解説をつけた看板があります。
その上にはブロンズの坐像。
……どなたでしたっけ?

何年かぶりの再再拝、いろいろ忘れてしまっております。


🎵 歳をとるのは 素敵なことです
  そうじゃないですか?
  忘れっぽいのは素敵なことです
  そうじゃないですか?

かの中島みゆきさんも歌っています。


再再拝でありながら、初めて訪れたお寺さんみたいで、素敵なことです、…そうじゃない!


山門の前には何段かずつに分けて石段があり、立派な狛犬さんがおられます。
狛犬さんがにこやかに微笑みながら向かいあっておられるそのすぐ後ろには、ブロンズの仁王さまが正面を向いて門を守っております。
こちらの山門には葵の御紋の瓦があります。
三代将軍家光公より特使を受け山門を建立した事によるといいます。

扁額には『青枩林』。当時は修行道場であったため、〝竹号〟の額が掲げられているといいます。


その山門をくぐると。

No.364 23/11/18 04:48
旅人さん0 

(続き)

その山門をくぐりますと。

…どこから伝えたらいいでしょう。
そう思うくらいお寺さんらしさ満載の空間です。

目の前には大きな鐘楼門がそびえております。
そしてみぎてには鐘楼。
…えっ?

鐘楼門と鐘楼…。

いかにも古い鐘楼門は梵鐘がなく、新しそうな鐘楼には梵鐘があります。
さては供出をされたか、と思いきや、宝永七(1710)年に建立された鐘楼門が老朽化したため、鐘を新たな鐘楼を建てそちらに梵鐘を下したとのことでありました。
…いかにも古そう、とは書いたのですが、そこま古いものであったとは思えないものでありました。
こちらの鐘楼門にも扁額があるのですが、…読めない。

いつかまた調べてみたいと思います。
…と、いうわけで、珍道中ペアにはすでに申請済み。しかも「来年のお正月の大祭に行きます」と大胆な宣言で。
その時は車で。
たとえ駐車場待ちをしようとも、車で。
コロナ禍における制限が完全に撤廃された初めてのお正月、…混むだろうなぁ。


鐘楼門のひだりてには白山妙理大権現さまのお堂があります。
修行僧の修行中の守り神様であるという白山妙理大権現さまが安置されるこのお堂は、山門と同時期(慶安二(1649)年)の建物と推測されているとのことです。

その白山堂の前には池が。
なかなか風情はある池であります。

No.365 23/11/18 05:45
旅人さん0 

(続き)
こちらの泉龍院さんへは再再拝。
以前にも珍道中録を書いた記憶がございます。
ご記憶されておられる方には同様な内容となりますが、なにぶんにも本人がうろ覚えなので、申し訳ありません。
これから綴ります伝説も、書いたような記憶がございますが念のため。


池の話が出たところで。

【泉龍院】さんは、元の名を『潜龍院』といったそうです。
その昔皎龍が山中の池に潜み、里に出ては旅人は勿論、里人畜類までも害していたといい、たまたま、当地方を旅していた高僧がそのことを聞き、
『…人々の難儀を救わんと山中にわけ入り、池のほとりに坐して背負い来りし薬師如来の像を前にして、薬師如来の真言を一心に唱え三十七日間御祈祷をした結果、今までこの地をあばれ廻っていた龍もこの法力によって池の中より出られず遂に法の悟りを聞いて往生したりと伝えられる。土地の人々はこの大池を埋め、この跡地に小庵を造り名僧としてこの高僧を礼拝し、この庵に住んで頂き、薬師堂を建立、薬師如来像を安置した』
(泉龍院の由来伝承より)

…そうなんです。
この池を見て
(そうかぁ、ここに龍が封じ込められているのかぁ)
とか思いそうなおばさんですが、その池は埋め立て跡地には〝庵〟と〝薬師堂〟を建てておりますので、決してこの池ではないのです。
そもそもこの池は子どもが水遊びをするくらいの小さな池で、ここに仮に龍がいたとしてもあまり大きくは無さそうな…。
…いや待てよ?
神獣だから、池の大きさにはあまり関係はないかもしれません。
それに猛獣というのは大きさには関係ないし。

…。
あ、ちゃんと理解しております、この池ではないこと。

かつての池はどうやら御本堂の裏手にあったようで。
そちらへは行ったことがないので、良き季節になりましたら、御本堂の裏手に行ってみようかと思います。
…それは寒い時期?
とりあえず熊等の有害生物の活動が鎮静化している時期に。

そんなおバカなおばさんを正しい道へと導くかのように道元さんの御像が鐘楼門の前にお立ちになられております。


新しい鐘楼に付け替えられた梵鐘は誰が撞いてもよいようです。
何故かこの鐘好きなおばさん、再再拝でありながら一度も鐘を撞いておりません。
次回、…はお正月、ですので、次の次くらいにはぜひこの鐘を撞かせていただきましょう。

そしてみぎてには地蔵堂があります。

No.366 23/11/20 10:41
旅人さん0 

(続き)
鐘楼門をくぐり、真正面に御本堂がございます。
が、まずは手水舎へ。

石段を登って右側に手水舎があるのですがその手前に『願かけ地蔵』さまがおられさらにそのお隣には『撫で仏』さまがおられます。
この撫で仏さまが実にイケメンで。初めてお会いしたときにはポーっとなったくらい。半跏坐の、仏さまというよりは僧の姿をされておられるブロンズ像であります。

さあ、こういった穢れを浄めなければ。

さあ、御本堂へ。
…。

ん?
手を合わせてふと目を上げて、以前参拝したときと趣が異なるような?
…どうだったろう。

たしかに建物としては変わっていないのです。
扁額も同じ。
濡れ縁も同じ。
うーん。

そ、そうだ!窓の感じがこうではなかった…気がいたします。

…どうだろう。
そう思って見てみると花頭窓が新しいような気のせいなような…。
どうだろう。

しかしながらこの日はお手伝いの方しかおられなかったこともあり、そうした確認はできませんでした。
「御朱印をお授けいただけますか」と申しあげただけで、スッとウクライナ難民支援の禅語御朱印が出されたくらいに、あまり慣れてはおられない方のようです。

…まぁ、本日の目的はそうなので、それはそれで正しいことなのですが。

御本堂の扉も閉ざされておりました。


御本堂ひだりてにも見覚えがないような、忘れてしまっただけなのかわからない、新しそうな六角堂がありました。
うーん。
記憶力テストのようです。

薬師堂でありました。
やはり新しそうなお薬師さまが、両脇侍の日光月光菩薩さまとお祀りされております。
小さなお堂ではありますが十二神将さまも祀られていました。壁にも十二神将さまの絵が掲げられています。

うーん、このお堂、以前参拝させていただいたときにはなかったのでは?
少なくとも扉が開いていたならば必ずやここにも詣でましたでしょうし、忘れたりは…しないんじゃないかなぁ、たぶん、おそらく。


No.367 23/11/20 13:38
旅人さん0 

(続き)

薬師堂を出て、山門の方へ向かうと右側に『百度巡礼』、左に『一遍百薬』と刻まれた小さな門碑があり、そこから数歩歩いたところに『薬壺之石』と刻まれた石碑の上部に四角くくくられたところがあって、そこにまさに薬壺の石が安置されています。
百度はまわれず、そっと薬壺の石を撫でさせていただきました。

その隣には四方竹という珍しい竹の竹林があります。

そして石段の、御本堂に向かって左側には石造のお薬師さまの像が祀られています。

そのまま石段を降りてしまうことなく、みぎてを見上げますと大王松という大きな松の木があります。
普通の松よりも背が高く、葉の部分も大変長いものであり、前々回初めての参拝の時に、大変縁起の良いものだと伺っております。

そのまた向こうにはそれはそれは立派な門があります。
長屋門で、このあたりの戦国時代の領主であった細川内膳の屋敷門を移築したものとされているといいます。
屋根は萱葺で、二階建てになっており、二階の窓は菱形の格子窓で俗に鉄砲窓と呼ばれているものだといいます。
格子窓は内側からは相手がよく見え、外側からは中にいる人が見えないので武家造りの門になっているようです。

まあ、そのあたりは夫はやたらと感心しておりましたところでありますが、今回は一人ですし、何やら手入れをされておられるご様子でしたので、遠巻きに拝見するにとどめました。

そしてまた来た道を戻ります。



…実は、ですね。

まぁ元々まずは御本堂をお参りすることを旨としておりますので、どんなに気になる石仏さまがおられようと、御堂もなにも通り過ぎて御本堂へ向かうのですが…。
こちら、泉龍院さんには閻魔堂があるんです。

それは山門のですすぐ左側。ひっそりと、あるんです。

ぼーっとしていれば行きには山門に目を取られ気付かない、そんな隅の方に、あるんです、閻魔堂が。

ええ、ビビりですから、一人ではちと怖い 笑。
しかも閻魔堂へは橋が小さな橋が架けられていて、(えっ、で、ではここは三途の川?)みたいな。
すみません、いい歳をしたおばさんですのに。
あ、でもこのお堂の前にはちゃんとお地蔵さまがおられます。

そして…覗くんです。
そこは抑えられない、やめられない。

中央には大きくて立派な閻魔さま、ひだりてにも奪衣婆さんがおられます。



No.368 23/11/21 05:39
旅人さん0 

(続き)

泉龍院さんのお堂におられる閻魔さまは実に迫力のある閻魔大王さまです。
ただ、決して威圧するような迫力ではなく、
「悔い改めるのだ」
と諭してくださるような威厳のある御像であります。


そう。
怖いと言いつつ覗いたおばさん、お気づきの方もおられるかもしれませんが、閻魔大王さまの御像、好きなんです。

えっ?
怖がってたくせに?


…神仏に関わることなく生きてきてしまった私ではありますが、やっぱりそこは日本人の端くれ。
地獄は恐ろしいところ、閻魔さまは恐い存在という意識は根底に植え付けられているのだと思います。
少なくとも幼少期までは祖母や叔父が関わってそうしたことを教えてくれていましたし。
だからやっぱり畏怖という感覚は抱くもの。

で、何故閻魔さまのお像が好きということになるのか?、と言われますと、まぁそこは…感覚?

閻魔大王さまは間違ったこと、あやまちには大変お厳しいお方です。
そこにはそれを根本から正そうとなさる強さも厳しさもございます。
でも、根本はお優しい、そんな気がしてならない、能天気なおばさんだから、かもしれません。
それだけの罪を犯してしまったこと、それはそれでもはや取り返すことはできません。

私がむしろ怖いのは…奪衣婆さんのお像かもしれません。

彩色のあるお像にしろ、石像にしろ、お顔もお召しもなんとも怖い、…怖くはないですか?

なかなか一人で向き合うには勇気がいるのです。
変なおばさんですかね 笑。



No.369 23/11/21 07:31
旅人さん0 

山門のそばにはたいそう上品なお顔立ちをされた石仏さまがおられます。
それから青面金剛さまが三体と庚申塔がいくつか。

いつものようにおそばに寄らせていただきそのご尊顔を拝して。
私の幸せなひとときです。


さて、あの山門のそばに案内の立て看板のある、ブロンズ(かなぁと思われる)坐像のお方ですが、ここまで戻ってきてその説明を読み始めて、…思い出しました。

そう、お医者、下山昌伯先生の像と碑であり、墓所でありました。

『 下山昌伯先生は、文化三年、武州小前田村の医師森元貞の長男として生まれ、幼名を元達という。
十五歳の時、江戸に出て旧幕府の典医高野長英の親友、人見氏の門に入り医術を学び、文政九年(1826年)二十一歳の時、下野国菱村の医師下山勝伯が名医なることを聞き、江戸より帰り勝伯の門に入り医術を研究し、遂に勝伯の嗣子となり、下山昌伯三重と改名した。
昌伯は、公の医業は勿論、更に西洋医学をも研究し、治療に精進したため、安政年間にこの地方に天然痘なる病気が流行した際、西洋医学により人々に種痘を接種し、天然痘を治したことで有名』

そう、そんな素晴らしいお医者さまがかつてこの地におられ、今ここに眠られているということ、実はあまり知られておらず、私などは忘れてしまっていたくらいですし 汗。

それというのもかつてこの菱町というところが、〝下野国〟であったことも関係しているのかもしれません。
これだけの偉業でありながら、…もしかしたら桐生市在住の人たちにもあまり知られていない存在なのかもしれません。

安政の時代、日本における種痘はまだ人から人へと植え繋ぐしかなかった時代であったように記憶しております。
種痘に対して得体の知れないものへの恐怖、迷信、噂なども大変強かったのではないかと思います。

蘭学、西洋医学がか許されていたかどうかもあやしい時代に、人々の信頼を集めていた下山昌伯先生はこれを接種することに成功し、この地域においての天然痘の流行を鎮めたという、まさに偉業というしかない偉業です。


…これだけ感動してこんな文章を書いているのだから、もう二度と忘れません。
子どもたちにも伝えよう。



ただ…やはり墓所は恐くて…。
お参りはできませんでした。
やれやれ。

No.370 23/11/21 08:25
旅人さん0 

(続き)

こちらのお寺さんの禅語は

【自灯明】

お釈迦さまが涅槃に入られる直前に、弟子からお釈迦さま亡き後、何を拠り所として生きていけばよいかという質問を受け、
「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして、他のものをよりどころとせず」
とお答えになられたといいます。

「誰かの言葉や教えに左右されることなく、これまで積み重ねてきた行いを信じ、自らの心に従い正しい教えを拠りどころとして、この先も精進していきなさい」という教えです。

人はとかく誰かに頼ろうとします。特に自信のない時ほど、その傾向は顕著になり、判断を委ねます。
独りよがりの判断は勿論のこと、他人任せの判断はよくありません。

自らの心で考え、判断する力を養い、自分で自分に責任を持って、
より善く生きようと努力し、
困った時には他者に助言を求め、
そして何よりも正しい仏様の教えを拠りどころにして、毎日を過ごしなさいという、お釈迦さまの尊い最期の教えであり、お言葉でありました。



No.371 23/11/22 10:44
旅人さん0 

【ウクライナ難民支援×禅語御朱印】
【赤城山天正院常廣寺】

群馬県桐生市新里町にあります常廣寺さんに参拝させていただきました。
こちらは何度か目の参拝であり、今年も二度、いや三度目の参拝となります。

常廣寺の創建は不詳とされますが、院号が天正であることから天正年間(1573〜1591)前後に山上郷右衛門顕将が開基となり開かれたと云えられています。

山上郷右衛門顕将がどのような人物かは不詳ですが、姓から山上城の城主を歴任した山上氏の関係者と推定され、北条氏が没落した後は徳川家康に仕え、慶長五(1600)年の関ケ原の戦いでは伝令役として活躍したようです。

常広寺境内は山上城の城内にある為、山上城が廃城となる天正十八(1590)年以降とも考えられるとされています。
当時山上城は小田原北条氏の支配下にありましたが天正十八年の小田原の役の際、豊臣秀吉の家臣片桐且元らによって攻められ落城しています。


何年か前、ご住職さまから頂いた【常廣寺縁起】がございますのでそのまま書き写します。


【常廣寺縁起】

本橋院殿寶輪廣與大居士、天正年間に、赤城山天正院常廣寺を開基す。山上城付近にて落命せしあまたの人々の冥福を祈らんが為なり。本橋院殿、俗名は山上郷右衛門顕将(やまかみごうえもんあきまさ)、小田原の利け者の異名を持ちたる戦国武将なり。東上州活動の途次、ここ山上を父祖の地と勘違し、山上に並々ならぬ執着を抱く。戦乱の世静まりて後、父祖の地山上に常廣寺を建立す。寺号は、かつて寺の裏の高台に草庵を結びし僧・常廣にちなむ。常廣は戦乱で失われし人々を弔い、村人にも深く慕われたりといふ。常廣については、委細つまびらかならず。ただ、俗名を牛蒡帯刀(ごぼうたてわき)といふとのみ伝ふ。

本橋院殿、自家の菩提寺として、長安寺を建立す。以来末裔は帰農し、本橋院殿にちなみ改姓す。

常廣寺、順調に世代を重ね、八世覚通呑應大和尚に至る。時に元禄元年九月三日、失火により堂宇を焼失す。開基家をおとない、再びの堂宇建立を願うも、あえなく拒絶さる。八世怒りに燃え、開山・明巌監察大和尚を開基になし、子孫を探さんことを思いいたる。これ、開基常廣院殿明巌監察大居士の誕生なり。



No.372 23/11/22 15:03
旅人さん0 

(続き)

…可愛いらしくないですか?
東上州を訪れた際、山上の地を自分の先祖代々の地であると勘違いして…って。

そうして、この山上という土地を愛し、
〝戦乱の世静まりて後、父祖の地山上に『常廣寺』を建立〟されるなんて。

おそらくはきっと、遠く離れた地に自分の姓と同じ地名を見、そこがいかにものどかで、心安らぐ土地であったものだから、そう周囲に話しただけ、なのではないかと私は思うのです。
仮にも武家の者が、自分の先祖代々の地を間違うことなど滅多にないことであろうし、仮に本当に間違えたとしても、途中で絶対に気づいたであろうし、臣下の者が指摘するに違いありません。

しかもこの常廣寺という名にしても、
〝かつて寺の裏の高台に草庵を結びし僧・常廣にちなむ。常廣は戦乱で失われし人々を弔い、村人にも深く慕われたりといふ〟んです。

その地で人々の信頼を得、慕われていたという僧の名にちなむなんて、山上郷右衛門顕将というお人は、なんとそこに住む民の心に寄り添った方でありましょう。


そのあとも常廣寺さんの縁起はユーモラスな語り口で綴られています。

〝(世代を重ねたある年)失火により堂宇を焼失す。開基家をおとない、再びの堂宇建立を願うも、あえなく拒絶さる。八世怒りに燃え、…〟

お坊さん、怒りに燃えちゃってます 笑。
お寺さんも代を重ねればいろいろあるように、開基の家でだって代を重ね、そこにはいろいろな事情もありましょう。
堂宇の再建って、普通に家を建てるのとは比較にならないほどにお金がかかるもの、それを引き受けられない事情だってあるんですよ。

…まぁ、そのあとに続く新たなる開基ってところが、凡人で貧乏人の私にはさっぱりわからないんですがね。

まぁ、そんなこんなで常廣寺さんは今に至るようですが、この縁起には実は続きがあって、


【常廣寺縁起・続き】

ある夜、八世の夢枕に本橋院殿立つ。
「御房よ、吾は本橋院殿なり。ゆめゆめ吾を忘るることなかれ。将来、京より竜骨を持ちたる商人至る。必ず買うべし。さすれば、堂宇の再建もかなうべし。」
「買いたきはやまやまなれど、先立つものなし。」
「焼けし堂宇の後ろに墳丘あり。そこに幾ばくかの埋蔵金有り。使うべし。」
「ありがたきご教示なり。」

と。


(続きます)

No.373 23/11/22 15:22
旅人さん0 

(続き)

(【常廣寺縁起】続きの続き)

…時は過ぎ、九世和尚の正徳四年、本橋院殿の予言通り田中藤左衛門なる近江商人、竜骨を持ちて至る。

…中略…

当時、竜骨は万病に効く薬とさる。
人々常廣寺に殺到し、五年後、めでたく堂宇の再建かなふ。



…実はその竜骨、今も常廣寺さんにあるんです。
御本堂の横に渡り廊下で結ばれた御堂に納められていて、今もお祀りしているんです。

竜の骨は確かに珍しいもの。
今これを求めたところで入手することは難しい。
けれど当時は珍しいものではあるものの、なんだかんだ大金を積めば手に入るものでもあったようで。

初めての参拝の際にはそんな話をされながら、この竜の御堂にまで入れてくださったのでありました。

そんな温かなお寺さん、おばさんが好きなわけでしょう。

でもその後はお寺のどなたともお話しすることはおろかお会いすることもできず、御本堂の前、そして竜のお堂の前で手を合わせるだけの参拝であったのです。


そんな常廣寺さんが、今回ウクライナ難民支援御朱印に名乗りをあげられた。
いかにも常廣寺さんらしいなと、すぐに思ったものです。


そして。
…実は。
常光寺さんの副住職さまの書、大変お美しいんです。

いつかまた御朱印をお願いしてそのお手を拝したいと思っていたんです。

だからもう嬉しくて嬉しくて。


あたたかな秋の日、特にご連絡も差し上げず、常廣寺さんを訪れた私でありました。

No.374

削除されたレス (自レス削除)

No.375 23/11/23 05:24
旅人さん0 

(続き)※すみません、削除して書き換えておりますが、内容はほとんど変わっておりません。


常廣寺さんの山門近くまで来るとわくわくします。
私の大好きなお地蔵さまのお像がおられるから。

ただ…どうしてそんな向きでそんな位置におられるのかと、毎回毎回不思議に思うし不満でもあるのですが、門の端も端、人によっては見落としてしまうくらいの隅っこなのです。

お優しいお顔立ち。
しかも小首をちょっと傾げておられるお姿、あまり他では見ない実に可愛らしい仕草なのです。


山門も趣のある古いもの…のように感じます。

すっかり軽く、あたたかなもので包まれたかのようになった心となった私は、足取りも軽く御本堂へと向かい、御本堂の内におられる御仏さまに手を合わせて。
ふと振り向くとちょうどお車から降りてこられたのか男の方がおられました。
「お寺の方ですか?」
「ええ」

…副住職さまでした。

お帰りになられたばかりでありましたのに、御朱印の直書きにも快く応じてくださり、しかもこちらの御朱印にはこのたびのウクライナ難民支援のために作られた〝鶴〟のしるしがあるのですが、そのスタンプを捺してくださっているようなのです。
そのスタンプも、センスある五(…六だったかしら)の色のスタンプ台をご用意くださっていて、好きな色が選べるという♡

どれも甲乙付け難い、素敵な色でしばし迷って、私は水色を選ばせていただきました。

御朱印は三百円から。
寄付ということもあって四百円を用意しましたところ、
「あれ、三百円でいいんですよ。百円多いです」と手渡され、さらにはお茶の缶を一本くださいました。

…これでは全然寄付にならないんでは?


やっぱり変わらず優しい、あたたかな常廣寺さんでありました。



  (シクラメン)

No.376 23/11/24 04:27
旅人さん0 

(続き)

こちらの…群馬県桐生市の常光寺さんの禅語は、


【清寥寥 自的的】


 「清」とは、すがすがしいこと、「白」とは、よごれがない、やましくないこと。
「寥々」とは寂しいさま、空しいさま、静かなさま。
「的々」とは明らかなさま。

言ってみれば無欲恬淡(てんたん)として、真正直、何のてらいも、わだかまりもない清々しい感じを「清寥々、白的々」というわけです。


【先入観にとらわれることなく、真っ白な心で接することで、自分の視野も広くなり、心のわだかまりも軽くなります。
意見や考え方をぶつけ合うのではなく、互いに接点を見つける心を持つことが大切です。

誰もが、自分の意見や考え方が正しいと信じています。
『自我』を大事にすることは悪いことではありません。しかし『大切にする』と『執着する』ことは違います。
時には真っ白なこころをめざして、ストレスのない毎日を!】

とお寺さんでいただいた解説にはそう綴られています。

…うーん。
あまりに穢れ多き身ゆえか、さっぱりわからない。
しっかりとこないというか、まるでこなれない。

もう少し調べてみることにしました。…調べてどうこうよりも、何より人間修行が大切なのだとは思うのですが。


『碧巌録』第三十四則より
唐の時代、徳宗の御代。
南岳山中の衡山の石窟に隠れ済む懶瓚和尚の所にある日、参内を求める勅使が来ます。高徳の噂が都に達していたのです。
使者が懶瓚の石室に行ってみると、和尚は牛の糞を燃やして暖をとりながら、中で芋を焼いて食べている最中です。
顔を見ると、涙やら鼻水やらが垂れて、芋と一緒になって口へいく様子です。使者は笑って、
「天子よりお召しです。速やかに都へ上るのが好よい。しかし、まず、その洟を拭いてはどうですか」と言うと、
懶瓚「俺は今、一大事因縁のために工夫中である。洟をぬぐう手間が惜しい、俗人に法を説く暇もない」
とあっさり断ります。使者の報告を聞いて、徳宗は満足します……。

この懶瓚和尚、本名は名瓚(みょうさん)と言います。
この話から、ものぐさ瓚(さん)さん、なまけもの和尚という意味で〝懶(らん)〟(おこたる、なまける)という字が上について、懶瓚和尚というあだ名がつけられたといわれます。


『碧巌録』の編者、圜悟(えんご)和尚はこの話を引いて、懶瓚和尚を【清寥々 白的々】と讃えています。

No.377 23/11/24 04:52
旅人さん0 

(続き)

『清寥寥 自的的』…よけいわからなくなった気がいたします。
…たしかにこの懶瓚(らんさん)和尚、真正直だし、執着が…あるようなないような?

やはり私では穢れが多すぎて、未熟ゆえ理解できない〝世界〟なのかなぁ。

うーん。


もう少しだけ理解しやすい例を紹介してくださっている方がおられました。


『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』(細川景一著)

『…寛政の三奇人の一人、『海国兵談』の著者として有名な林子平(1738〜1793)は、罪を幕府から得て、禁錮に処せられ、伊達藩にあずけられます。
そして一室に幽居したままで、一度も室から出たことがありませんでした。
「禁錮の命は幕府から受けたことで、この伊達藩には関係がない。ことに年月もすでに長く経っていることゆえ、たまには外出せられても、かれこれ言うものは誰もなし、また幕府へ知れようはずもござらぬ。少しは近くのご友人でもお訪ねになり、お心を晴らされてはいかがでござるか」
 ある人が気の毒に思ってこう勧めると、子平はその厚意を謝しながらも、
「いや日月(じつげつ)が天にござる。人は欺むくことができても、天を欺くことはできませぬ」
と言って、ついに一生涯、室を出ることがなかったといわれています。


終戦直後、ヤミ米を食べるのを拒否して、栄養失調で亡くなった、ある大学教授の話と思い合わせて、天は欺くべからず、自己を欺くべからず、と徹底的にすじを通した生きざまもまた、「清寥々 白的々」ではないでしょうか。』



ああ、これなら私にも理解できる気がいたします。
ただ並大抵では到底真似できないことであるのもたしかではありますが。


細川氏はこう締め括っておられます。
『…名声欲、権勢欲、利欲、色欲、物欲、あらゆる欲望の渦まく昨今、静かに坐して【清寥々 白的々】心静かに念じたいものです。』

と。


うーん。
【清寥寥 自的的】

…とりあえず、この言葉を覚えるところから、だな。

No.378 23/11/25 05:32
旅人さん0 

【緑野寺(みどのじ)】
【廣巌山 般若浄土院 浄法寺】


「藤岡にね、すごく古いお寺さんがあってね。そのお寺さんが地名になっているくらいのところでね。一度参拝したいんだよ」

もう何年も前から、それこそこの〝神社仏閣珍道中〟を始める以前から、折に触れては夫が申しておりましたお寺さんがありました。
おそらくは彼の中では結婚前からとか、勤め始めてまだ間もない頃からといった四半世紀以上前からあたためていた思いであったものかと思われます。
大学を出たその年に結婚し、その次の年には子供が生まれて子供中心の生活となって、なかなかその思いを果たすことができないでいた、そんなお寺さんが、その群馬県藤岡市にあります【浄法寺】さんでありました。

今、こうして珍道中を始めてからもそれなりの年月が経つにも関わらず、彼はなかなかその思いを果たせずにおりました。
…ひとえに恐くて気の強い、言い出したら聞かない妻を娶ったせいでありましょう。
まぁそれはさておき(置くんかい!)

このたび、彼の長年の願いでありました、【浄法寺】さん、かつて『緑野寺』と呼ばれたお寺さんへようやく参拝することができました。

この浄法寺さん、同じ群馬県でありながら、まぁそれなりに遠い。
それもいったん埼玉県へ入り、再び群馬県へと戻るという。(…ちなみにそうした方が近い地点があるということで、たまたまこの浄法寺さんはまさにそういった地点にあるという)
少し行ったらまた埼玉県。
武蔵二ノ宮であります【金鑽神社】さんなど実にすぐそば、といっても過言ではない位置関係であります。


そんな【浄法寺】さん。
実は今年、もう一方、こちらへぜひ参拝するようにとお勧めになられた方がおられました。
三度しかお会いしたことはございませんが、私が信頼し尊敬しております群馬県桐生市の【正圓寺】さんのご住職さまであります。


この正圓寺さんの客間に今年、ポスターが一枚貼られました。

それは群馬県の〝天台宗〟の決起大会(のような集まり)のポスターであったのですが、金色に輝くお像が青空を背景に凛とお立ちになっておられる、そんな構図のものでありました。

いわんやそれは伝教大師さまのお姿であるのですが、その像が撮られた場所こそが、【浄法寺】さんでありました。

No.379 23/11/25 15:28
旅人さん0 

(続き)

この浄法寺さんはもともとは『聖徳太子草創の寺』と伝えられており、境内には聖徳太子の墓と伝承される『聖徳太子供養塔』があります。
これがまた実に古い石であり、この供養塔がいつの時代のものであるか等をこのたび調査されることが決まっていると、ご住職さまがお話しされておられました。

また、その供養塔の隣にお祀りされる石造りの地蔵尊も、かつて聖徳太子が庵を結ばれたというこの近くにある地蔵山に建立されたものだといいます。
その名も『彰徳地蔵尊』。
こちらは文化十二(1815)年に建立されたお地蔵さまではありますが、この地蔵山にゴルフ場が建設されるため、こちらの境内に移設されたものといいます。


開基はあの【鑑真和上】第一の高弟【道忠(どうちゅう)禅師(735〜800年頃)】。
嵯峨天皇から緑野(みどの)一郡を賜ったことから【緑野寺(みどのじ)】と呼ばれたといいます。

現存する江戸時代初期のものとされる山門に掛かる扁額には【緑野教寺】と(正確には寺教野緑)と書かれています。

道忠禅師は鑑真和上が請来した教典の写しをこの寺にもたらしたといわれ、【一切経】と呼ばれる経典を所蔵する寺として中央にも名を知られる寺であったといいます。
一切経とは『経』『律』『論』の三蔵からなる仏教聖典の総集であるといいます。

道忠禅師は来日した鑑真和上に『具足戒』を受けて律宗を学び、持戒第一の弟子とされ、関東に下って人々に菩薩戒を授け、仏教を広めることに尽力、東国の化主と呼ばれる人物でありました。


つまりはこの浄法寺さんは日本に天台宗が伝来する以前からあったお寺さんでありました。


時は流れ、伝教大師最澄が八百四(延暦23)年から翌八百五年にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を本場で学びます。
同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広めんとし、当時比叡山になかった五百巻の一切経の書写の願いを発したといいます。最澄は繋がりのあった道忠禅師にも協力を求め、その願いに応えんと道忠禅師は二千巻の一切経を写して比叡山へ送り届けています。








No.380 23/11/26 06:53
旅人さん0 

(続き)

まず辿り着いたのは、この浄法寺さんの現在のシンボルでありましょう金色に輝く『伝教大師』さまの大きなお像の前。
そこに広い広い駐車場があります。

広くて区画のない駐車場で、細かなところに神経を使う夫はまたまた
「どこにどう停めたらいいかなぁ」

…後からお越しになる方のお邪魔でない、なおかつ、たとえばこのようなシンボル的なものの前であればその景観の邪魔にならなくて、かつ、排気ガスがかからないような向きで、お墓がそばであればそこにもまた排気ガスがかからぬような位置と向きであれば、どうだって構わないと思うのですが、ね。

…えっ?
結構気にして考えてるじゃない?
それは人として当たり前なレベルでなら。
お決まりのような夫のこの発言、これだけ考えてればどこだって良いと思うんですが、これだけは相変わらずオロオロするらしい。

…なんなら私がタブーであろうと思う全てを注ぎ込んだ場所を指定してみようかしら。
その時彼はどう考え、どう行動するのだろう。
…ま、そんな時が来ても、私自身が忘れてしまっていて、いつものような思考で、「ここら辺でいいんじゃない?」
って答えてしまうに違いないんですけれどね。

金色に輝く旅姿の伝教大師さま。
そのお姿にふらふらと近づいて行く妻を見て、
「門から行かないの?」
…。

…そのありがたいお姿についつい寄せられてしまいました。


相変わらず無宗教な二人。
檀家寺があるのもそれは大きな憧れではありますが、決まった宗教、決まった仏教の宗派が無いが故に、こうしたお寺さんとの出会いがあるのかも知れないと思うと、無宗教、無宗派(そも、仏教徒ですら無い)も良いのかなぁと思ってしまう私。

これだからいつまで経っても無宗教なままなんだよな。


閑話休題。


夫が(珍しく)先に向かいます、山門へと歩きます。
駐車場を出て、いったん公道へと出ます。
さして広くはないこの公道、車が通ること、通ること!
いつもだと「もっと端に寄って!」と夫に叱られるのですが(…えっ?)、この日は目的に向かって歩いているため、無チェックな夫。
私なりの端を歩いて、山門にたどり着いたのでありました。(さして離れてもいないのですが)



No.381 23/11/26 12:46
旅人さん0 

(続き)
かつては古そうな建築物、と一括りにしていた古い建築物が、すこぉしだけわかるようになったのは、あの群馬県桐生市の桐生天満宮さんに鎮座する春日社のおかげでありました。

嬉しさのあまり、私なりにいろいろ調べて、〝懸魚〟や〝蟇股〟の建築された時代におけるある特徴を学んだおかげで、この山門もそういった部位に目を向けることができるようになり、またちょうど時代的にも春日社さんと同じくらいのものではないかという特徴がみられたため、(もしやこの山門は江戸時代初期とかそれよりももう少し前?)
などと考えることができたのでありました。
まぁ、その謎解きは答えが出ないところが寂しいのですが、ね 笑。

今回はご住職さまからいただいたパンフレットに山門についての記述があり、まさにその時代であろうと言われていると書かれていて、なんだかとても嬉しくなりました。
ええ、たまたま同じくらいの年代のものだったことが幸いしただけ、なんですけれど、ね。

この山門の石垣がまたあまり大きくはない横長の石を使っていて、なんとも特徴あるもので、こうしたものを建築を専門的に学んだ方はとても嬉しくご覧になられるのだろうなと、しげしげと拝見しておりました。
そんなにしげしげと見ていたはずなのに、〝左甚五郎〟作と伝えられるという彫刻は見逃してまいりました。
こういう迂闊さが、珍道中を繰り広げる人物に相応しい行動と言えるのでしょうね、やれやれです。

山門の先は、石段といえば石垣、雪が降り積もった時とかの滑り止めとも思われるような、段差も幅も奥行きもあまり石段らしくない石段となっていました。

その石段を登り切ると、御本堂が。
ご本堂の手前には立派な青銅製の幢(?)が高く形よく積まれた石の台の上にありました。
古いものだと思われますが、背の高さの関係と日の当たるせいで影ができて、年代は読めませんでしたが。

御本堂はうーん、江戸時代後期くらいのもの?あるいは明治?
古い板ガラスと板塀の建物であります。
扁額は。
…読めない。
篆書で書かれていて、うーん、篆書は(は、ではなくて〝も〟ですけれど 笑)まるでわからない。

五文字、です。
四文字目は土?士?
五文字目は院でありましょうか。

これはご住職さまにお聞きしないとわからない。

では、御本堂前での参拝も済みましたことですし、庫裏の方へ♡




No.382 23/11/26 12:50
旅人さん0 

(続き)

ブーまたはピンポーン。
…。

あれ?

ブー(またはピンポーン)。
……。

あら?
ご不在。でしょうか?

庫裏の横には軽トラックが一台。
他には車はありません。
うーん。

えっ?
戸が…戸が開いてますけど。

でも土間、かなぁ。
作業をされる別の戸口のように見えます。

…そ、そうかぁ、ご不在でありますか。


うーん、残念!
それでもエックスキューズミーおばさんは、諦めきれず声を張り上げ
「すみませーん」と二度ほど。

どなたもお出にはなられませんでした。

…縁がなかったということだなぁ。

No.383 23/11/26 14:29
旅人さん0 

(続き)

遠かろうが、近かろうが、ご縁がない時はこんなものです。

スパッと気持ちを切り替えて、御本堂の前で再び合掌し、一礼し、お隣にあるお堂を目指します。

瓦葺きのお堂、扁額には『大師堂』と書かれています。お堂とはいえ、小さなお寺さんでは御本堂もこのくらいの規模か、というくらいの大きさのもので、御本堂へ太鼓橋のような渡り廊下で繋がっています。
うーん♡感動!

こういう外廊下で繋がっている建物も、ましてやそれが太鼓橋様のものだったりしますと、テンションがかなり上がります。

裏手はどうなっているのだろう…。

罰当たりなおばさんはこのありがたいと思った渡り廊下をくぐって裏手へと。
そうしないと迷子になってしまうという極めて特異的な能力を持つおばさん故の哀しさというか。

おおっ!

程良い高さの木と、心地よいくらいに生えた草、それがなんとも自然に広がっている空間へと出ました。
これはなかなかの手入れをされておられる。
造られた庭園ではなく、こういった贅沢な空間は、センスのある方がこまめに手入れをされている、ということであります。
…ご住職さま、でありましょうか。

まあ、当然のことながら御本堂の裏手、であります。

そして何やらありがたいオーラの満ちた空間があります。
石を組み、積んだような…ここが神社の境内ならばまさに祭壇であるとか、聖なる空間でありましょう。

えっ!
ええぇえっ?!

【伝教大師護摩修行跡】ぉ〜っ?!

そ、それはそれは間違いなく聖域で。

鳥居と言って良いのかどうか、鳥居に似た門に守られ、石段を三、四段組んだ高さに、あまり大きくはない、高さ三十センチほどの自然石が置いてあります。

ここで。

ここでお護摩を…。

この石段を登ること憚られ、遠巻きな位置からスマホを掲げてその石を上から見る形で写真を撮らせていただきました。

! たしかに!
たしかにこれはお護摩が焚ける。
直径二十センチくらいに人工的にあけられた穴があいております。

ここで?
ここで伝教大師さまが。


…天台宗の信徒でもないのに、この外での護摩壇におばさんはいたく感動しておりました。

No.384 23/11/27 04:44
旅人さん0 

(続き)

ここで訂正がございます。

先ほど通り抜けてきた太鼓橋様の渡り廊下で御本堂と結ばれた建物を、『大師堂』と書いておりましたが、
正しくは【大師殿】でありました。
ここでお詫びして訂正させていただきます。

その大師殿の裏手に朱に塗られた建物が一堂ありました。
大変気になりながらも、祭壇のように見える不思議な空間がさらに気になってしまい、あえて自ら意識を封印し、〝伝教大師護摩修行跡〟へと向かっておりました。

あらためてその大師殿の裏手にある建物の方へと戻りました。
大師殿と物理的にはつながっていないものの、どう見ても深い関わりのある建物にしか見えません。
そう…まるで、まるで大師殿が拝殿で、幣殿のない〝本殿〟であるかのような位置づけに見えてなりません。

しかしながら。
こちらは古くからのお寺さんでありますし、それこそ鑑真和上さまの伝えた律宗が基となるお寺さんでありますので、神仏習合思想の影響を受け難い位置づけにあったと思うのです。
聖徳太子の草創されたお寺とも伝えられています。

とはいえ、結構早い時期から『天台宗』へと宗派を変えていたお寺さんではあったかとも思われるのですが…。

鳥居を思わせる建築物ばありましたが、見逃していなければ境内には神道を思わせるような建築物は一切見かけませんでした。

だからこその…違和感?

大師殿の真横を抜けてきたから余計にそう感じた?

離れて見てみてもやはり大師殿が拝殿で、幣殿の無い本殿のように見える建築物でありました。

建物と建物の間隔からも、そしてなにより、この建物、大師殿よりも一段高くなっているのです。
とはいえ建物としては決して本殿のような神社の建物の建築様式で建てられたものではありません。
例えるなら…経殿のような、宝物を納めた建物のような。とはいえ〇〇庫といった建て方でもありません。
やはりお堂はというとらえ方が一番近い建物であります。


…。

…【伝教大師御廟堂】でありました。




No.385 23/11/27 05:05
旅人さん0 

(続き)

のちに知ることとなるのですが、この『伝教大師御廟堂』は五十年に一度御開帳されているとのこと。
木造の伝教大師さまのお姿が御開帳されるようです。
…五十年に一度、かぁ。
私たち珍道中ペアに残された人生の中、この御開帳に立ち会うチャンスはあるものなのか無いのか…、これこそご住職さまに伺う他ありません。
うーん、いつなんだろう。

…。

あ、こうしてまた一つ、煩悩が生じてしまった。


こうして…伝教大師さまの御廟や護摩修行跡をあらためて振り返ったとき、雲一つない青空に、黄金色の、まだあまり葉を散らしていない大きなイチョウの木が光り輝いていました。
なんと美しい光景でありましょう。


伝教大師さまがお越しになられ、こちらの護摩壇で護摩修行をされた頃にはまだこうした大きな木々はなかったかもしれません。
このイチョウの木にしてもまだここに存在すらしていなかったものでありましょう。

でも…。
伝教大師さまや、その大師さまの教えを聞きに集まった聴衆も、今と同じような青空をここで見上げていたかもしれない、そんなふうに思えて、ことさらこの空の青さが感慨深いものとしてとらえられました。

そして振り向くと、見上げるほどに大きな大きな伝教大師さまの黄金の御像。




…。




…。
…あれ?
年配の女性が銀杏を拾っています。

お寺の方?

お話をうかがうことができるかもしれない。



No.386 23/11/27 06:12
旅人さん0 

(続き)

「ご住職さまはご不在のようですが、お話をうかがっても…」
…エックスキューズミーおばさんがお声がけし、ここまで話したところで、
「あれ?まだいると思うんだけど、いなかった?」

私「軽トラックばあったんですが、呼び鈴を二度ほど押させていただいたのですが、どなたもお出にならなかったですが」

「あれ?まだいるんじゃないかな、ちょっと見てみます」

銀杏を拾われていたのを中断して、庫裏へと向かって歩いていって下さいました。

決して早い歩みではないのに、あっという間に庫裏へと入っていかれたようで、私どもはどこで待てばよいものやら、鐘楼の辺りをウロウロとしておりました。
結構な時が過ぎて、もしかしたら先ほどのお家の方自体が幻だったのではないかとふと不安に思いはじめた頃、庫裏の玄関が開き、普通の服装をされた男の方がお出ましになりました。
「すみませんねお待たせして。何か気づかずにいたみたいで申し訳なかったです」と。

あ、ご住職さまなんだ。
…おられたぁ♡

「御朱印ですか?」
私「お願いしてよろしいですか」
「少しお時間をいただきますがよろしいですか?
これからどちらかまわられますか?」
私「いえ、今日はこちらをお参りさせていただこうと参りましたので特に予定はありません」
「そうですか。それはわざわざお越しいただきありがとうございます。
あともう少し遅かったら出かけていたところでしたので、良かったです。ご縁がありました」

「どこからお越しになられました?」
私「〇〇〇〇です。
実は桐生市の正円寺さんというお寺のご住職さまが、ぜひこちらのお寺を一度参拝されるようにとおっしゃられ、ようやく今日参拝することができました」
「〇〇さんのところですか、それはそれは」

…そんな会話をしばししたのち、御朱印帳をお渡しいたしました。
私「こちらに」

「あれ?」
私「ああ、その御朱印がまさに正円寺さんでお授けいただいたものです」
偶然開けたほんの数ページ前のところが、まさに正円寺さんの御朱印でありました。…ご縁、ですかね。


さて。…どこで待てば良いだろう。

そう考えておりましたところへご住職さまが再びお出ましになられ、思ったよりも早いと思ったところ、その手にお持ちだったのはこちらのお寺さんのリーフレットでありました。


No.387 23/11/27 15:23
旅人さん0 

(続き)

ご住職さまはこれからお出かけのようですので、御朱印がお書きになれたらすぐに渡していただけるようにと、庫裏のそばからつかず離れずして待っておりました。

二人で待っていなくとも良いかと、いただいたパンフレットを夫に渡し、境内をまわらせていただくように伝えたので、待っていたのは私だけ。
うーん、なかなか時間がかかっています。お出かけのご予定は大丈夫なのかなぁ。

そんなことを考えつつ、少し移動して境内にある冬桜を見に行ったり。

すると。
御本堂とからの間にある戸の開く音がして、さらには箒で掃く音が聞こえます。

えっ?

ご住職さまがさの建物の上がり端を掃いておられます。

「あ」
ご住職さまと私、ほぼ同時にそう口にしました。
この辺りに御朱印帳が置いてあるのかしら?
「ああ、気が利かずにすみませんでしたね、どうぞお上がり下さい」

いえいえ、ご住職さま、お出かけなんじゃ?
でもそこから見える範囲に私の御朱印帳は見当たりません。
「上がらせていただいてしまってよろしいんですか?お出かけのご予定と伺ったので、すぐに御朱印帳をお渡しになれるようここにおったのですが…」
「いやいや、どうぞお気になさらずお入りください」

慌てて夫にLINEで連絡をいたしました。境内を見てまわらせていただいていた夫もすぐそこまで戻って来ていたようでした。

上がらせていただくと、客間、でしょうか。
お茶のペットボトルが二本と、お茶受けまでご用意されていました。

(えっ)

「どうぞおかけください」

…御朱印帳はどこにも見当たりません。

ご住職さまはゆったりとこちらのお寺さんの縁起というか、歴史というか、御由緒を話しはじめました。

私「お出かけになるご予定と伺っておりますので、御朱印をお授けいただけただけでもう充分でございますので、どうぞお出かけになってください」
と申しますと
「いや、何時に行かなくてはならないという用事ではないんで大丈夫ですよ」

そうおっしゃって。

こちらのお寺さんがかつて聖徳太子がお建てになられたと伝承されていること、かつては緑野寺と呼ばれたことなどをわかりやすい言葉でお話しくださいました。

No.388 23/11/27 16:00
旅人さん0 

(続き)

こちらの御由緒をお話しくださったご住職さま。
おもむろに立ち上がって、
「さあ、どうぞこちらへお越しください」

スッと戸を開けると、うわぁ…。

…なんと風情ある中庭でしょうか。

よく日の当たる中庭です。
色づいた木々から落ちた枯れ葉すらが美しく感じます。

そんな中庭を見ながら渡り廊下をほんの少しだけ歩くとそこは…。

…御本堂でありました。

ええっ!
この後に及んで御本堂まで?!

「どうぞおかけください」

見ると焼香用の香炉にはすでに炭が起こしてあり、その前に椅子が二つ。

ありがたくて申し訳なさすぎて、もったいなくて、思わず椅子の前に正座してしまいました。
夫も椅子の前に座っています。
「どうぞご焼香なさってください」

「どうぞ椅子にお掛けください」

ようやく椅子にかけたところ、ご住職さまはな、なんと読経してくださいました。
さらには私どもの苗字を入れて、家内安全や諸願成就を御祈願してくださっておられるではないですか。

なんと、なんとありがたいことでしょう!

私どもはご案内のままに御本堂に来ただけですので、御祈祷をお願い申し上げたわけではないのです。

それなのに私どものために、お経をお読みくださり、御祈願までしてくださったのです。

「ご本尊さまは阿弥陀如来さまです。
この御本堂が建てられたときにお授けいただいてからずっとここにお祀りさせていただいております」

そしてお話は鑑真和上さまが日本を訪れるまでのご苦労から始まり、やがてなんとか日本にお着きになられ、日本の僧に戒律を伝え、受戒なさったこと。
その内の一人の高弟、道忠禅師さまが布教のため東国を訪れ、いくつかの寺を開いたこと。
その道忠さまが鑑真が請来した経典の写しをこのお寺にもたらしたことなどを、何もごらんにならず、澱みなくお話しくださいます。

そんな頃最澄さまが唐にわたり、唐でさまざな修行をなされたこと。
帰国後天皇に願い出て比叡山に寺を開いたこと、比叡山には一切経が無く、開山に際し一切経五千巻を納めたい旨、各所、さまざまな知人に願い出たといいます。



No.389 23/11/27 17:29
旅人さん0 

(続き)

道忠禅師は来日した鑑真(688~763)より具足戒を受けて律宗を学び、持戒第一の弟子とされ、師亡き後のことと考えられますが関東に下って人々に菩薩戒を授けて周り東国の化主と呼ばれる人物でした。

鑑真が亡くなってから四年後の767年に生まれ、延暦十六(797)年には三十一歳となっていた最澄の写経事業を道忠が助け、そこには道忠の弟子であった法鏡行者(後の第二代天台座主となる円澄(宝亀二~承和四年・771〜836)も加わります。

比叡山寺での写経事業により最澄と道忠に深い絆が生まれたとされます。
武蔵・上野・下野にあって民衆教化の菩薩行を展開した道忠、その門弟らと最澄の交流は比叡山寺の人材を育てることになり、東国の化主たる道忠と弟子の広智、徳円らに学び、付法された青年僧が、初期天台教団の座主を務めるようになります。

ところで。
最澄と空海が同時代の僧であり、同時期に唐へと渡り、帰国してそれぞれが天台宗と真言宗を開いたのちも、最澄が空海に本を借りては勉強をしていたことは知られていますが、あるとき空海から密教伝授を中断されてしまいます。
さらには信頼していた弟子も空海のもとから戻らず、落ち込んで過ごされていた時期が、この偉大な天台宗の始祖最澄にもあったと推察されています。

そんな折、道忠らに熱望され東国へ、関東地方へと旅に出ることを決意したとされています。
最澄五十歳の歳であったといいます。
当時比叡山からの旅はほぼ歩き。
五十歳という年齢も、今現在とは比べものにならないくらい、旅も厳しいものであったとされています。

そんな大変な思いをして、わざわざとお越しいただいています。



No.390 23/11/28 04:01
旅人さん0 

(続き)

今の五十歳といったらまだまだ働きざかりで、体力もある年ごろでありますが、それでも短く見積もっても五百キロ離れたところまで、それも山越えもあり、川を渡るにしても今ほどの橋がかかっているわけでもない歩くとなったら…。

しかも夜となって体を休めようと思っても、ホテルや旅館があるわけでもない、宿のようなものはあったにしても、そもそも当時平安時代、東国は…関東地方は今とはまるで趣きが異なる田舎でありましたから、宿らしい宿もないところもありましょう。

そもそも食事、食糧事情も今とは段違いであります。
…とはいえそれが貴族ともなると、すでに一日三食食事をしていたようですし、野菜中心とはいえ、魚や鳥やクマ・いのししなどの肉も食べていたようで、デザートやらお菓子まであり、私などより良い食事をされていますが、ね。

それが庶民となると一日二食、野菜中心というか粟や稗などを漬物で食べるというような食事であったと書いてあります。

それが…旅ともなれば、たとえ普段は良い食事をされていても、旅先では必ずそういった食事が提供されるわけではなかったでしょう。


当時のお坊さまは生涯が修行でありましたでしょうから、一般の庶民の方に比べて体力がない、というようなことはありませんでしょうが、平安時代の平均寿命を調べたところ、三十歳って出てきますから、五十歳というのが、当時にしたら高齢であった、ということは間違いないことらしいのです。

しかもこの平安時代の平均寿命、貴族のものであり、一般庶民を加えたらさらに下がる可能性があると書いてあります。

そんな時代であったことを考えてみたら…。
五百キロの距離を徒歩で旅すること、しかも平均寿命をはるかに超えた歳であることを考えたら、…考これはもう本当に凄いことなのですよね。

私などは五百キロはおろか、この日自宅からここまで歩くことだって考えたくないし、考えられないし、だったら行かないという一択です。

しかも、この五百キロという距離は、浄法寺さんと比叡山延暦寺とのかなり短めな距離で計算されたものを選んでおりますうえ、その計算してくれたアプリ、普段なら出てくる〝自転車で〟とか〝徒歩で〟とかいう計算なんてしてくれていませんから。
機械とて考えない、考えたくないものなんですよね。

No.391 23/11/28 04:38
旅人さん0 

(続き)

地図を見てときめく夫とは異なり、私が地図を見るときは自らの力で移動する時、だけですし、最近ではそうした機会はほぼ皆無、つまりは地図を見ることすら無くなっています。

そんな地理とか地図とかに(も)疎いおばさん、五百キロもの距離の移動を想像することなど頭の中に資料すら皆無であります。

ただ。
本を読むことは好きだったので、そこに出てくる土地などは調べる人間ではありました。
なんだかんだで風土すらが異なり、そうした背景を知らないと理解できない内容すらもありますので。

当時、滋賀県から関東を目指すとき、今とはルートが違う気がいたします。
今考えるルートとしたら江戸時代の主要街道、東国へ向かう中山道に沿っている?のではないかと思うのです。(…どうかな?)

それ以前。
それ以前、滋賀県から関東を目指すとしたら…?


それより前の時代は、奈良時代に開設された【東山道】が東国へ向かうルートだったといいます。
ここで無知を晒せば、(東山道ってなんじゃらほい)の世界に住むおばさんです。
きっとこれを聞いたら、夫も子どもも大層悲しむことでしょう。

地理さえなければ私の社会科の評価点は飛躍的に高かったかもしれないくらい(嘘です)地理がわからない人物です。
しかしながら、たとえ一緒に暮らしていようと、実生活でそこまでの地理音痴はあまりバレません。
方向音痴はバレバレですが、ね。
だから、この『東山道』を知らないという事実は、たとえ家人であっても知らないのです。

そんな超人的な、能力の欠損したおばさん。
ある意味、日々新たなことを学ぶ機会を持つものです。

そう、なんです!
伝教大師さまは東山道というルートを通って、東国、関東地方へとやって来られたのです。

ええ、そこで(…どこやねん)となります。
普通の人なら調べずにしてパッと頭に浮かぶルート、調べなければわからないんです。
やれやれ、です。

でもこうして調べることで、伝教大師さまのたどった道を地図上で確認しながら想像する機会は得られます。
そしてこれで東山道という言葉も覚えました。

まぁ…人とレベルが違いすぎても、日々勉強とはなります、はい。

No.392 23/11/28 06:13
旅人さん0 

(続き)

東国へ向かう主要街道が東山道から中山道へ変わった理由を考えてみますに、それはきっと〝大変だから〟。
…ですよねえ?


戦国の世が終わり、天下泰平である江戸時代ともなると、国と国…まぁ、今でいう県と県の移動も規制がなかったわけではありませんが、庶民もお伊勢さん詣りをする時代となりますし。
戦国の世を経て、平安時代とは段違いに日本という国が国家統一されていますし、江戸を中心に物流もあって、人や物の移動が盛んになっています。

だから道だって新たに作るだろうし、それは今までに比べれば多少なりとも楽だろう道を考えるだろうし、そうして新たに主流となった道は、最澄さん=伝教大師さんの歩まれたルートよりは楽?、なんじゃないのかなぁ、それでも絶対歩こうとは思わないけれど。


そう、調べてみました。

夫に聞いてレクチャーしてもらえば楽なんですが、それは自分で調べてわからなかった時に。
なにしろ人並みの知識すらがない妻なので、どこまでも風呂敷を…地図を広げなくては説明がつかないだろうし…。
でもそういった意味でも、夫は誰よりもわかりやすい解説を私にしてくれる最高で最良の師、なんでしょう。
ここでしか言いませんが。


閑話休題。



東国へ向かう主要街道が東山道から中山道へ変わった一番大きな理由とされるのが、中津川宿から高低差約1200m、標高1585mの
『神坂峠(みさかとうげ)』を越えるのが、あまりに過酷だったため、と言われているといいます。

その険しい道程から、東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として『神の御坂』【神坂峠】と呼ばれるのだといいます。

『神坂峠』は、急峻で距離も長かったため、峠を越えられずに途中で死亡する者や、盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、古典に書かれているといいます。

これは…。
五百キロを超える道のりというだけでは無く、まさに命がけの、途中で息絶えるかもしれない旅だったのではないですか!







No.393 23/11/28 08:04
旅人さん0 

(続き)

『神坂峠は信濃と美濃の国境で、海抜1585m。
縄文時代から通行のあった峠であり、特に古代・中世には東山道最大の難所として有名であった。
峠の頂上からは、石製模造品(神に備えたぬさ)をはじめ、須恵器・土師器・灰釉陶器・鏡・刀子などの遺物が数多く発見され、古代祭祀遺跡として全国的に有名になり、国の史跡として指定された。

文献でも、「古事記」に日本武尊が東征の後、
「科野(しなの)の坂の神をことむけ給ひて尾張の国に還り来ましこ」
をはじめとし、日本書紀、続日本(後)紀など多くの古典にその険しい峠の名を留めている』

(神坂峠の案内板より)

…。
日本武尊ですよ、日本武尊!

はあぁ。

で。
特記すべきは。
平安時代、伝教大師最澄さまは、この峠のあまりの急峻さに驚き、旅人のために峠を挟んで両側に二カ所の
お助け小屋(布施屋・仮設避難所)を設けられています。

さすが、だ。

ただ東国へと向かったりしていない。
そんなところが
「上野国(群馬県)・緑野寺で9万人」「下野国(栃木県)・小野寺で5万人」(元亨釈書)と伝わります、多くの人々を集めるお力であったのかもしれません。

お助け小屋は、現在、峠近くに建つ立派な万岳荘に姿を変えてはいるということですが、今なお必要にして大切な峠の拠点なのであります。

それを考えただけでもまさに偉業であります。

No.394 23/11/28 13:29
旅人さん0 

(続き)

話を道忠禅師に戻します。

道忠は武蔵国出身とも伝わり、鑑真の高弟にして大乗的見地に立ち民衆を教化する菩薩行を重んじた人物でした。

延暦十六(797)年、最澄の写経事業を道忠が助け、そこに道忠の弟子・法鏡行者(=第二代天台座主・円澄)も加わります。
この際道忠は二千巻を写して送り届けています。

以来、西国の比叡山最澄一門と東国の道忠一門の親交は深まり、道忠一門が最澄一門の活動と展開を支えました。
そしてこの東国の、道忠一門から、第二代を筆頭とし『天台座主』を次々と輩出しました。


最初の写経事業からおよそ二十年後の、最澄の東国巡錫。


実は道忠は生没年が不詳であります。
師の鑑真は天平宝宇七(763)年に入寂されておりますので、その高弟であります道忠は、
最澄が弘仁八(897)年に東国巡錫として武蔵、上野、下野に在った時、おそらく存在していなかったと思われます。


しかしながら彼の愛弟子と法弟たちが最澄に仕え案内し、
その際緑野寺では法華経一千部、八千巻の写経を完成させて最澄を迎えたといいます。

この際最澄は緑野に三月ほど滞在しています。
前レスで書かせていただきましたが、この際法華経等を講説していますが、最澄の教えを聞くために集まった人たちは実に累計ではありましょうが九万人といわれます。
当時の上野国は人口十万人に満たないところであったことからも、その集人の凄さが計り知ることができます。

道忠の愛弟子や法弟たちが最澄に仕え、その教えを広めるために尽力したかは、第七代に至るまでの天台座主としての人材輩出に裏付けられることかと思われます。

また、この最澄の東国巡錫を終えたであろうとされる次ぐ年の弘仁九(818)年、全国六ヶ所の法華経納経の所在地に宝塔(=相輪塔)を建てていますが、その一つがここ、浄法寺にあります。


緑野寺全盛期が、この伝教大師最澄の東国巡錫の頃であったのです。

No.395 23/11/28 17:00
旅人さん0 

(続き)

その後、浄法寺は関東地方の天台宗の拠点の1つとして寺運も隆盛しましたが、戦国時代の天文二十一(1552)年、上杉・北条の戦に巻き込まれ、侵攻の兵火で多くの堂宇、記録、寺宝がことごとく焼き尽くされてしまいます。
さらには寺領も北条氏に没収されてしまい衰微してしまいます。
弘治二(1556)年に舜祐和尚により再興が図られました。

しかしながらなかなか本堂の建造に至らず、仮の本堂として建てられたのが現在の庫裏だとご住職さまがおっしゃられています。
現在の本堂はそれから二百五十年も経った文化元(1804)年に建造されたものとなっています。
この御本堂、江戸の名工といわれ、谷中天王寺に五重塔を造った『八田清兵衛』の手によるものとのこと。
八田清兵衛は、幸田露伴の小説『五重塔』の大工十兵衛のモデルといわれる人物です。

古い御本堂ですが、よく掃き清められた実に美しい御本堂でありました。
欄間彫刻もかなり腕の良い彫り師の手によるものと思われます。
二つあるうちの一つは【楊香(ようきょう)】。
父親と山に行ったところ、虎に襲われてしまい、楊香は(自分が食べられますように)と祈ります。
すると虎は逃げていってしまった、というお話です。
「まぁ、これは中国の古いお話で、親孝行を伝え教える教材的な役割でよくお寺などに施されるものですがね」
とご住職。

「実はこの寺は未だに新たな発見がありまして。
それがお地蔵さまの像なのですが…。
地震で手が取れてしまい、それを直そうと修理を依頼したんです。
この、お地蔵さまなのですが…どうぞすぐそばまでお越しになってご覧ください」

「修理を依頼して、修復の際に表面の塗膜を除去したところ、実は平安期作のものであることがわかったんです。
安置された場所が、阿弥陀如来さまの像よりも真ん中にあるということから、何かいわれのあるお地蔵さまなのだろうと思ってはいたのです。
でもそうした言い伝えは何もなく、先代からも何も言われてはいなかったんです」
「光を当てるとよく見えますので、よくご覧になってください」

それはそれは穏やかな表情のお顔をなされています。


No.396 23/11/28 17:16
旅人さん0 

(続き)

昨年春に寺から修復を依頼された地蔵菩薩像(像の高さ約1メートル)は右手が取れた状態で、体の欠損部分からは、表面の黒く変色した塗膜の下にグレー色の下地、その下に金箔が確認されたといいます。

一方、頭部については金箔を施した形跡は無く、木地の上に和紙が貼られていたといい、江戸期に修復された跡とみられるとのこと。

体は江戸時代に作られたものだが、何らかの理由で平安期の頭部と組み合わせられたとみることができるといいます。

頭部の制作年代を判定した群馬県立女子大学美学美術史学科の塩澤寛樹教授は、「平安時代後期に制作された仏像の特徴である穏やかな顔立ちで、繊細な彫りが、その時代の雰囲気を感じさせる」としているとのこと。

実際にこの仏像の修理にあたられた守谷仏師は、
「800~900年前に制作され、長年塗り込められていたお像が、再び世に出現なさる瞬間に出会えたことを、仏師としてこの上なく幸せに思います」と話されたといいます。

緑野智彦ご住職は、「長い歴史の中で多くの方に守られてきた。ありがたさをしみじみと感じます」と。


実はこの日たまたま二十四日。
「今日はお地蔵さまのお縁日ですので、そういったご縁も感じて実に感慨深いです」
と私が申し上げましたところ、
ご住職はにこっと微笑まれ
「全てご縁あってのことですね」とおっしゃられました。





No.397 23/11/29 03:23
旅人さん0 

(続き)

御内陣の隣の間の、正面の壁には備え付けのように見える、初めて見るような大きな御厨子がありました。
その前にはちょうど使いやすい高さに棚が備え付けてあり、その前に白い箱がいくつか置かれています。
よほど不思議そうに見ていたのでしょう、
「こちらにはお不動さまをお祀りしています」

と、なるとこちらのお不動さまは秘仏、ということなのだろうか?
そんな私の内心のつぶやきにはお気づきにはならず、その白い箱に手をかけて
「この本堂の隣に、お大師さまをお祀りした大師殿がありまして、毎日勤行しております。
その裏手に御廟堂があって、五十年に一度御開帳しているのですが、今度の御開帳に法華経を納経したいとしばらく前から準備をしてきているのです。
道忠さまのように二千部などとはまいりませんが、できたら百巻を目標に、ご賛同いただいた方に一行十七文字二十四行のお写経をしていただいて、それでもそれがもう百巻分となってはいるのですが。

コロナ禍となってしまい、それでも今はもう五類に移行しておりますが、なかなか御開帳という形で人を集めるにはまだ難しいかと…」

法華経のお写経、でしたか。

開けられた箱には経本が何段かに束ねられ、ちょうどあの〝大般若経転読〟の時に用意される大般若経の折本の束のように綺麗にまとめられていました。
「これはお手本の方なんですが」
(お手本?)

それをまた綺麗にしまわれたあと、今度は少し茶色みがかったもう少し大きな箱をお開けになられました。
大きな太い巻物が出てまいりました。
こちらも綺麗に装丁されたものであります。
「これがお写経いただいたもので。
ただこの封を解いてしまうと広がってしまい再び封をすることができなくなってしまうので、開いてお見せすることはできなくて申し訳ないのですが…」

お手本の上に写経用の和紙を置いて書き写し、お手本はお手本で折本として装丁し、写経されたものは薄紙の和紙であるため、順番通りに並べて糊で繋ぎ合わせて巻き物として装丁し、御開帳の際に御廟堂に奉納される、ということだそうです。

法華経を順番に一枚ずつ写経して、全部で二百十三枚、これで一つの巻き物になるのです。
「中にはお一人で一巻お書きになられた方もおられます」


うわぁ、すでに気が遠くなってしまう心地ですが…。

No.398 23/11/29 03:51
旅人さん0 

(続き)

すでに気が遠くなりかけているわりに、それを聞いたおばさんの口をついて出た言葉は
「私もお写経させていただくことはできますか?」

「ああ、それは誰でも参加いただいておりますので。…見てみますか?それでは用意してまいりましょう」
「あちらのお部屋に移動して掛けてお待ちください。すぐにお持ちします」

…それでも。
この時はまだ、般若心経ではありますもののすでに何十枚か写経しており、自分でもなんとかなるのではないかと少し軽い気持ちでいたのが、正直なところでありました。

…しかしながら。

ご住職さまがお持ちになったその写経のセットを見て、さらにはすでに奉納された写経を見て、とんでもないことを申し出てしまったと、その重みにビビってしまいました。
どのお写経も、一文字一文字、そっくりそのまま写しとって書かれているのです。
一切、自分のクセなどない、まさにそのままを写しとる写経であったのです。

ひえぇぇぇ〜っ!

ご住職も何か感じるところがあるのか、サッサと渡そうと準備するでなく、何人分かの仕上がった写経を見せたり、手本を見せたりするにとどめておられます。
きっとここで辞退された方もおられたのでしょう。
それと、私どもが群馬県内とはいえ遠方から来ていることもあったのでしょうか。

そう、この写経事業、手分けして一つのお経を写しとり、一巻の巻き物とするため、お手本にしろ写経した和紙にしろ、一枚たりとも欠けては全てが無駄になってしまうという、地道ながらも大事業であるのですから。
製本するためお手本も折ったりされてもいけないし、普通のお写経に比べ制約がかなりあるものとなっているのです。

う、う〜ん…。

(引くなら今だ)
内心の、そんなつぶやきが自分自身を揺らしております。


う〜ん。



「お預けください」


…お、おい!


何が不安って、それは書き終えたものを無事お届けするまでの責任とかでもなく、…たとえば決して折らないとかいう制約も含め、書き終えこちらに再び届けるとか、…そういったものではなくて…。

この、皆さんがされたように、一字一句をずれることなく写すことが自分にはできるのか?…という全くの技術面の問題で。


ご住職さまは意を決したように(そう見えただけです 笑)一部(、)分の法華経を丁寧に愛おしそうに、紙袋に入れてくださいました。

No.399 23/11/29 04:03
旅人さん0 

(続き)

「墨と筆で書くのが一般的ではありますが、それは別に構いませんので。
筆ペンで書いていただいても、万年筆でもボールペンでも、なんなら鉛筆でもかまわないので、気楽に参加していただければと皆さんにお話ししていますので」

その納められたお写経が一字一句同じように写しとっていることに衝撃を受けて、そこまではよく見ていなかったのですが、言われてみて落ちついて思い出せば、たしかに筆と墨で書かれたものは無かったかもしれません。
ペンで書かれたものもあったよう記憶しております。

なるほど…。
ようやくここへきてどういうものであるか、全貌が見え、(おいっ?)自分がどうあるべきかが見えてきました(ええぇっ?)。

「一日で全てを写す必要もありません。一日一文字であっても良いのです」

うんうん。

要するに、…頑張る!



さて。
私は今日までの日々に、どれだけ法華経を写したでしょうか。


No.400 23/11/29 04:30
旅人さん0 

(続き)

ご住職さまはお出かけになると言いながら、実に二時間の時間をおかけくださり、お話くださったり、お経をお読みくださったり。
お願いした御朱印もお書きくださっていますし、お焼香の香もご準備くださっています。

ありがたいことです。
そうまさに〝有難い〟こと。

決して時に追われ焦ったりなさらずに、私どもとの一期一会を大切にしてくださいました。

これが修行された方、ということなのでしょう。

かつて緑野と呼ばれた地、緑野寺と呼ばれた寺をお護りになるご住職さま。
その苗字が〝緑野〟さんであることを知った時の衝撃といったらありませんでした。

護るべくしてここにおられる方、なのでありましょう。

まさにこの地をずっとずっと、それこそ道忠さまがここを建てた頃から護ってこられた道筋を見た気がいたしました。

凄いなぁ。



…。

えっ?
お写経の進み具合、ですか?
それはもう、


…一文字も書けていません。

前にすると緊張して、やれ(やはり筆で書くべきだろうが、私では到底、一文字そのままに書き写す技量がないよなぁ)とか、
(筆ペンでは後々インクが劣化してしまうのではなかろうか?)とか。
(それならばペンが良いだろうか?そのままの形、字体ごと書き写すということであれば、ペンの方がまだ書きやすい気がする。そうしたら黒いインクで書けば良いのだろうが、それにはペンを買って来なければ…)とか。

ええ、まさに千々に乱れる私の心。
つまりはこれはまだ書くべき時ではないのであろうと、勝手な解釈をして…。

ちなみにこの〝巻〟はまだ始めたばかりとのことで、あと百人弱の方がこの後の写経をされるので、今年中に、とかいう時間的な制約は無いので、そこだけは安心していられるのです。



うーん。

…涅槃会までには仕上げることといたしましょうか。

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