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神社仏閣巡り珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神様、仏様、どうかお導きください。
21/07/02 14:43 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。
21/07/02 15:02 追記
そんな方のためにも、もう少し上手く書けないものかとあれこれ考えたりもしたのですが、なかなかそれはそれで難しく。
結局自分らしく、ありのままに書くのでいいのだと、なかば開き直りにも近い境地に至って、飾らない、思ったまま書くスタイルをつらぬいております。
今後も今まで通りの誤字脱字、おかしな文章表現かと存じますが、おつきあいいただければありがたいと思っております。┉ずうずうしくてすみません。
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今年も早いものでもう半年が終わろうとしています。
本日、六月三十日は【夏越の大祓(なごしのおおはらえ)】という神事の日。
毎年、ちょうどこの頃に神社に参拝いたしますと茅の輪(ちのわ)が設置されているところがありました。初めて茅の輪を見たのは、何年前であったことか。それが夏越の大祓という神事によって設置されたことと知るに至るまでまたまた時を費やして、本日、ようやく夏越の祓に行った次第です。
夏越の大祓とは、心身の穢れ、罪や過ちを祓い清める「大祓」の神事。
全国の多くの神社で、6月と12月の晦日に「大祓式」が行われるのだそうです。
六月の大祓、6月30日・・・夏越の祓または夏越の大祓
十二月の大祓、12月31日・・・年越の祓または年越の大祓
六月三十日に行われる夏越の祓では、一年の前半を無事に過ごせたことに感謝するとともに、半年間の罪や穢れをお祓いし、残り半年も清らかな気持ちで過ごせるよう願う神事だということであります。
うーん、なんとありがたい神事でありましょう。
ちなみに初めて茅の輪をくぐった時、願い事のかなう輪、とかの認識で、それはそれは神妙に願いを込めてくぐりました記憶があります。
夏越の祓の時期、茅の輪(ちのわ)を設置している神社は多くあります。
茅の輪とは、チガヤで作られた輪のことで、この茅の輪をくぐることで更に穢れを祓い、無病息災を願うのだそうです。これを「茅の輪くぐり」「茅の輪神事」などと言うそうです。
茅の輪くぐりの方法は、
①一礼してから茅の輪をくぐり、左に回る
②再び一礼してから茅の輪をくぐり、右に回る
③また一礼して茅の輪をくぐり、左に回る
④最後に一礼して茅の輪をくぐり、そのまま神前へ進み参拝
一般的にこのような手順となっているということ。
簡単に言うと、左右に「8の字」に回るというイメージだとあり、しかと頭に叩き込み、勇んで、事あると(※あくまでも七五三とかの人生儀礼とよばれる、本当に誰もが神社さんに行くであろう時、程度にすぎません)うかがう神社さんに向かいました。
記憶力の低下著しい私、もし忘れてしまっても、きっときっと茅の輪のくぐり方が書いてあるに違いないと、それでもドキドキしながら、雨降る中車を走らせたのでありました。
ところで、なぜ茅の輪をくぐると良いのでしょうか?それはある昔話が起源となっているようであります。
昔、旅の途中で宿が見付からず困っている神様がいました。
神様は、蘇民将来(そみんしょうらい)、巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟に宿を貸してほしいと頼んだそうです。しかし弟の巨旦将来は、裕福な暮らしをしていたのに断ってしまいました。
兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていましたが、神様に宿を貸してもてなしたそうです。
神様はお礼に、「もしも疫病が流行した時は、茅の輪を腰に付ければ逃れられるでしょう」とお教えになりました。
すると数年後、その地域で疫病が流行したにも関わらず、茅の輪を腰に付けた蘇民将来の家族だけは助かったそうです。
その神様こそ「スサノオノミコト」さまであったということであります。(備前国風土記、蘇民将来説話)
それから腰に茅の輪を付ける信仰が広まり、それが時代とともに大きな茅の輪となり、くぐることで罪や穢れを取り除けると考えられるようになっていったようです。
そもそも大祓のはじまりは古代であるということ。
イザナギノミコトが、黄泉の国で受けた穢れを祓うため、水で禊祓(みそぎはらい)をした故事からも、日本人にとって禊がいかに大切な儀式であるか伺えます。
古代・中世を通じて行われてきた大祓ですが、室町時代の「応仁の乱」によって中断されることになったのだといいます。
長い間中断されてきた大祓を再興したのは明治天皇でありました。
明治四年、明治天皇の思し召しで、宮中の賢所(かしこどころ)の前庭で大祓が行われ、翌五年には全国の神社で行うよう布告をお出しになり、400年以上途絶えていた大祓が再興されたそうです。
大祓では、「人形(ひとがた)・形代(かたしろ)」を用いて祓をするようです。人の形に切り抜いた紙に、自分の名前と年齢を書き、その人形で身体を撫でて息を吹きかけます。自分の罪や穢れを人形に移し、その人形を海や川に流したり焚き上げたりすることで、自分の代わりに清めてもらうというものです。神社によって撫で方や息の吹きかけ方・回数が詳しく決まっているところもあるのです。。最近では、車形のものもあるようです。
┉駐車場は満車かなぁ。みえてきた鳥居の奥には、まだ一台も車はないようです。
できるだけ鳥居から離れたところに停めて┉いると一台、また一台と車が入ってまいりました。やはり信心深い方は夏の祓を欠かさないものなのだなぁ。
マスクを着けて。あれ?マスクを持ち忘れた?
大丈夫です、私の車にはもう二十年以上も前からマスクの箱が常備されています。
マスクを着けて。
あれ?
茅の輪が┉茅の輪が┉ない。
そ、そうか。
無いこともあるとGoogle先生に言われていました。昨年はあったよう記憶しているのだけどな。
これもコロナ禍、ということなのでしょうか。
境内には、とりたてて夏の大祓を思わせる何かはなにもありません。
茅の輪は繊維だし、本来は触りながらくぐるものではないけれど、何が感染源となるかはわからないもの。うーん、ちょっぴり残念。
ですが、一番大切なのは、本来の目的は、半年間お守りくださったことに感謝して、半年の穢れを落としていただくというもの。
茅の輪があろうとなかろうと、人形(ひとがた)がなかろうと、感謝と祈りをささげることが大切です。
鳥居をくぐり、神橋を渡って。
こちらの神社さんも手水舎は蓋をされています。
心のなかで身の穢れを取り除いていただくようお願いをいたしました。
神前に向かい、日頃の感謝と半年間お守りくださったことへの感謝を述べ、いま直面している問題にしっかりと向き合うことを誓いました。
その上で、また今後をお守りくださいますようお願い申し上げました。
境内にはいつのまにか車の台数が増えています。
老若男女が参拝に訪れております。
うーん、今まで私、何してたんだろ。┉まあ仕事をしていたんですけどね。
それぞれの方がそれぞれの悩みを抱えて、それでも、神に感謝し祈りながら生きておられるんだなぁ。
そう思ったら、気持ちが明るく、軽くなりました。
紳士が一人、御神木に手を当て額をすりつけ
さあ、あらたな一歩を踏み出そう。
【ハレの日】、【ケの日】
ハレの日、という言葉を聞いたことがあります。なにやら特別な日、それはしかもお祝い事のような特別な日を、「今日は晴れの日」であるとか、「今日は晴れて○○の日」とかいう表現をしておりました気がいたします。たとえば婚礼の日であったり、七五三であったり、入学式や卒業式であったり。
漢字はまさに晴れの日でよいようです。
どうやらそれに対して使われるのがケの日のようであります。
ケの日とは褻の日、と書くようです。
ケは日常で、普段通りの日。普段通りに仕事をして普段通りの食事、普段通りの衣服で過ごす日、なのだそうです。
現代においては少し、そのわけ方に準じていないところがあるのかと思ったりしました。
仕事の休みの日には特別おしゃれをして、あるいは奮発して食事をしたり、レジャー等楽しい特別な日にして、仕事への意欲を高めることもあれば。
お仕事の日はスーツ等ビジネス等、仕事先に向かうに適した服装をしていて、お休みの日はジャージ、とか?
まあ、それでも婚礼とか、お祝い事のような日とはその差は歴然でありますが、ね。
そのケの日。一年のほとんどがケの日でありますが、そんな日常生活を送るうちにケ(褻)が枯れてくるという考え方があるのだそうで、ケが枯れる=ケガレ=【穢れ】であるのだといいます。
ケガレはハレの日を向かえることでケ(気)が回復するという考え方のようで。
一月一日はお正月の始まり、元旦であると同時にかつてはこの日をもって一歳の年齢を重ねたハレの日、であるのだそうです。
そう、数え年というシステムが一般的であった頃においては誰もがみんなお誕生日、というわけなので、特別なハレの日、というわけですね。
で、ハレの日に着る特別なものだから晴れ着。
雨でも雪でも晴れ着であるのです。
私、初詣にも、産まれ落ちてうん十年という年月のなか、数えるくらいしか行ったことがなく、また晴れ着などは持ってもおらず。
これではハレの日を祝っていなかったのだな┉。
まあ晴れ着などは今さら用意はいたしませんが、とりあえず、今後は少しでもおしゃれをして、初詣をさせていただきましょう。
武蔵国二ノ宮 【金鑚神社】に参拝させていただきました。
カナサナ、とお読みするようであります。
埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮に鎮座されています。┉すごくないですか?
神川町字二ノ宮、ですよ。
古くからある神社仏閣はその土地の地名自体になっていることがよくあります。まぁ、私のような者はすぐそういった地名である土地を訪れると、その古くからの歴史を感じ、もうそれだけで感動してしまうのですが。
社名であります、このなかなか読めず、しかも覚えづらい(それは私たち夫婦だけ?)金鑚の由来は諸説あるようです。
神流川周辺ではかつて刀などの原料となる良好な砂鉄が得られ、御嶽山からは鉄が産出したといいます。
社名「金鑚(かなさな)」は、古くは「金佐奈」と記載され、、砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源とする説、
産出する砂鉄が昆虫のサナギのような塊だったため「金サナギ」が語源とも考えられているようです。
また、児玉郡は 1,380基の古墳が確認されており、この地域を 「魏志倭人伝」にある2~3世紀頃の倭人のクニの1つ「華奴蘇奴(かぬそぬ)国」に比定する説があり、そこから転じたという説もあるようです。
金鑚神社の創始は古く、
『景行天皇41年(111)に【日本武尊】が東国遠征の折に、倭姫命より授けられた〖草薙剣〗とともに携えてきた 〖火鑽金(火打金)〗を御霊代として山中に納めて、【天照皇太神】と【素戔嗚尊】の二柱の神を祀ったことによる』と伝えられている。
また、
古くは「金佐奈神社」とも表記された【名神大社】である。 武蔵国の名神大社は【武蔵一ノ宮氷川神社】と当社のみで、他は式内小社である。
金鑚神社は、古代から官社として神階を授かり、他の式内社より格が上位であり、 江戸時代には武蔵国二ノ宮と呼ばれるのにふさわしい祭祀組織が築かれていたと思われる。
と金鑚神社のホームページに書かれています。
ほうほう┉と言いながら半分くらいしか咀嚼されてはおりません。
主祭神さまが、
天照大神 (あまてらすおおみかみ)さま
素戔嗚尊 (すさのおのみこと)さま
であることと
配祀神さまが
日本武尊 (やまとたけるのみこと)さまということと、延喜式内神社のなかでも明神神社さんだということで┉いいかな。
金鑚神社さんの大鳥居が見え、ようやくホッとしたのもつかの間、駐車場が見当たらない。車社会の現代など想定外でしたから、駐車場などの設置は当然後付け。
ただ、神社さんがゆるしても(仕方なく許した経緯は当然ありましょうが)、やはり鳥居を車でくぐること、参道を車で走ることにはいつになっても慣れられない。
ごめんなさいの気持ちいっぱいでそろそろと車を走らせます。┉二の鳥居が見えても駐車場らしきものが、ない!
ええっ?そもそも、それじゃあ大鳥居自体を通ってはいけなかった?
どこか少し離れたところに駐車場があったとか?
二の鳥居の横、ちょうど車が通り抜けするのに十分な幅に道があります。
行くしかないのでそこを進みます。
おっ?!
奥まったところに数台は置ける駐車場があるではないですか。ホッ。
┉公園、とあります。
まぁ、大きな神社さんともなると公園が隣接というか境内にあることもありました。ここでいいかな。
あ、この日のドライバーも当然のように夫。なので私以上に悩み困ったのも、ここに停める決断も当然夫でありました。
上り坂の境内を歩き出すとすぐに、参道みぎての高台に立つ【多宝塔】が見えてまいります。その神々しさといったら。
「神社さんなのに多宝塔があるんだ」とは夫。
┉そうなんです。もともとはすぐそばにあります大光普照寺さんと一つであったという歴史があるのです。そう、あのしつこいように出てくる神仏分離令によって分けられたがために、お寺さんにあるはずの多宝塔が存在することとなったのであります。
〖多宝塔(たほうとう)は、寺院建築のうち仏塔における形式のひとつである。一般に、平面が方形(四角形)の初層の上に平面が円形の上層を重ね、宝形造(四角錐形)の屋根を有する二層塔婆〗とあります。
神々しさ、とか書いておりますが、本来お寺にあるべきものだということくらいはさすがに覚えられましたのでそこはご安心ください。
ちなみに国の重要文化財に指定されているようであります。
こちらに参拝できたことに感謝を申し上げ。
┉もう、それしかなかったです。
願い事するような気持ちになど少しもならなかったのであります。
それはここを訪れたことで、ただそれだけでこちらの神さまが私の欲や穢れをお祓いくださった証なのだと思い、また神さまへの感謝の思いが私のなかに沸き上がりました。
合わせた手をおろしたとき、夫が小さな声をあげました。
「どうかした?」
「カエルがいるよ。色が周りと似ているし、小さいから、踏まなくて本当によかった」
見ると夫の足元のすぐそばに、小さな黒いカエルがいます。
黒いからだにふたつ丸い模様の入ったカエルです。アマガエルより少し小さいか同じくらいか。
アマガエルとは異なって皮膚にイボのような凹凸があります。
細い足で一生懸命に動く姿がなんとも可愛らしく見え、二人で談笑していると、あとから石段を上がってこられた方が
「なにかありますか?」
とお声をかけてこられました。
「カエルです」
と、二人して拝殿の前を左右にわかれるようにお譲りしながら、夫が答えました。
「ほう、カエルですか。カエルは大好きです」
と、杖をついておられます年配の男性がいかにも嬉しそうにおっしゃいました。
┉こんな、微笑ましい一期一会の場面を、このコロナ禍、マスクが隔てます。
その男性はきっと満面の笑みをうかべておられました。
私どもも笑顔で振り返って答えました。
カエルを大好きとおっしゃった笑顔が拝見したかったです。
たったそれだけのことが叶わないこのときを、私ども地球人はほんの一年半前は思ってもいなかった。
そんな当たり前だったひとこまが、かけがえないことと思えるほどに、
こんな驚くほど短い間に、世界中が変わってしまうなどということを、誰が予測できたでしょう。
もう一匹のカエルがぴょこんと跳ねました。
とはいえ。
心こめて書いたレスNo.7を消してしまってあったこと、これは別にタブレットの不調は関係なくて、おそらくは寝ぼけた自分の所業なのだろうけれど。
あまりにもショックで、筆が止まってしまいました。(っT.T)っ
あらためて書こうか、あきらめて先に進もうか┉。
なんだか人生のようだ。
まあ、人生のひとこまではありますがね。
神橋の向こう側から見えた、手水舎と神楽殿のある空間は、それは神々しく、白く靄のかかった、幻想的なものでありました。
拝殿は。
神職のかたは一人もおられないにも関わらず、四方の、開けられる戸すべてを開け放った状態でありました。
そこを抜ける清らかな、つつみこんでくださるようなやわらかな風が、まるで見えるかのようなありがたい社殿でありました。
拝殿と、中門、と呼ばれる社殿の神々しい明るさといったら!
とてもとても居心地のいい空間であります。
こちらの拝殿は四方が開けられる造りであることは述べました。
一般には拝殿に連なって【幣殿】と呼ばれる建物があって、本殿へとつながっていることが多いのかと思います。
こちらには幣殿がありません。幣殿があるべきスペースにはなにもありません。そして、拝殿の奥に、こちらでは中門と呼ばれている社殿があります。
そして┉。本殿は、ありません。
こちらは社殿後拝の御室山を御神体、神体山としてお祀りされているのです。
〖主要社殿は拝殿・中門からなり、中門の背後には一般の神社に見られる本殿がなく、 神体山とする御室山(御室ヶ獄)を直接拝するという形式を採っている。 旧官幣社・国幣社でこのように本殿を設けない古例を採るのは、他に 長野県の諏訪大社・奈良県の大神神社のみである。〗
と、金鑚神社さんの公式HPに書かれております。
ん?本殿がなくて岩や山を御神体としてお祀りされている神社さんは他にもあったんじゃ?
いやいや、よく読むと「〖旧官幣社・国幣社〗で」とあります。式内神社さんというのはよく聞くことでありますが、なにぶんにもいつになっても初心者のまま珍道中をしております私なので、知らないこと、覚えられないことばかりで。
┉調べてみました。
官幣大社・国幣社、これは、まあ予想通り神社の「社格」を示す言葉でありました。
六十年ほど前までは、神社ごとに社格が決められていたようで。つまりは、神社が格付けされていたわけであります。
社格制度とは私にとっては耳慣れない言葉でありますが、簡単にいえば神社の“格付け”のよう。
今では神社本庁の下、〖規模の大小はあっても、すべての神社は平等〗ということになっているようですが、第二次世界大戦が終わった六十余年前まで、神社の世界には「社格」という名のランク付けがあったのだそうで。
「近代社格制度」と呼び習わされる社格ができたのは、1871(明治四)年。政府が国内すべての神社を対象に、大きく官社(官幣社と国幣社)、諸社(府県社と郷社と村社)、無格社に等級分けしたのだそう。
なんでも上位の官社のなかでも官幣社は国幣社より格上とされたとかなんとか。
ただし、皇室の祖神・天照大神を祀る伊勢の神宮だけは「別格」として、社格の枠外に据えられたようです。
うーん。調べて余計分からなくなるあたりがこの困ったおばさんであります。
まあ、明治政府の政策の一環のようで、あの神仏分離令とセットだったのかどうか┉いろいろやりたかったんですかね?
調べてみましてわかったことは、群馬県にはその認定を受けていた神社は、一社のみだったということ。
聞きなれなかった理由はそこ?
拝殿のあります境内のさらに奥へと向かう道があります。
そちらにまいりますと、ふたつ末社がお祀りされていました。ひとつは横に長いお社であります。
そこを通らせていただきますと二てに別れた道があり、1つは池へ、1つは【鏡岩】へと向かう道であります。
鏡岩とはこちらの境内にあります岩肌のことで、なんでも特別天然記念物に指定されているとのことであります。
その鏡岩、伝説によると、上州の高崎城が落城した際には火災の炎が岩面に映ったといいます。
また、この辺りを【御嶽山】というようで、かつてそこには山城があり、 月明りが反射して敵の標的とならないよう 松明でいぶして赤褐色にしたとも伝えられているようです。
その鏡岩をのぞむ遥拝所がこの二股の分かれ道の分岐点にあり、そこでしっかりと遥拝したくせに、┉やっぱりその鏡岩を拝見したくてついつい登ってしまうのでありました。
登っていく道々には、一般の方々がご自身の歌を刻んだ歌碑をお納めしたようで、かなりの歌碑が建てられていました。
カエルの石像やら幼少期の義経公の石像もあり、また道もチップが敷かれて歩きやすい道となっていました。
もう少しで鏡岩、とか書かれた小さな案内があり、そのそばにチェーンで仕切っていたりするところに大きめの岩肌などがあったりするものだから、珍道中夫婦はそのなんでもない岩肌を鏡岩かと思って写真など撮ったりしたのですが。さらに進むと、説明の書かれたしっかりとした案内板があって、先ほどの岩はただの岩肌だったことを知るのです。ああ、恥ずかしい。
そこは神社から約400メートルほど登った御嶽山の中腹で、幅5メートル 高さ9メートルの平らな岩肌でありました。
〖紅鉄変岩スレ肌という およそ9000万年前の岩断層活動の跡で、断層面が出来るときに強い摩擦力で 岩面が鏡のように磨き上げられた 貴重な地質学資料である。昭和31(1956)年に国の特別天然記念物に指定された。〗とのことです。
そうですね、どのくらい鏡のようだったかといえば、顔はおろか人がいることすら映らないものではありましたが┉確かに月を反射してそこにこの岩肌があることはわかるであろう、といったものでありました。
私でも美人に見える、というネタもちょっと使えない鏡岩でありました。
【金鑚神社】さんの創始は
「景行天皇41年(111)に【日本武尊】が東国遠征の折に、〖倭姫命〗より授けられた〖草薙剣〗とともに携えてきた 〖火鑽金(火打金)〗を御霊代として山中に納めて、【天照皇太神】と【素戔嗚尊】の二柱の神を祀ったことによる」と伝えられております。
そんないわれを持つこちらの神社では、授与品に火打ち石があるとのこと。
私、実はこの火打ち石なるものが長いこと欲しくて欲しくておりましたのでありまして。それはまだ神社仏閣をお参りさせていただくようになる前からのことでありました。
〖火〗というものに神力を感じて、〖災禍防除〗のために外出時に火打ちすることを、今どれだけの方がご存じかどうか┉。
┉毎週のように連続時代劇が放映されていた時代の方々であれば、おかみさんが出がけに、「ちょいとお前さん!」とか言って、火打ち石で火を打ちかけていたのをご覧になられたことがあろうかと思うのですが、今はなかなか時代劇自体を放映しておらず┉。
そんな毎週のように連続時代劇が放映されていた時代であれば、あるいはご自宅でも、何かの折に火打ち石を打っていたお宅があったのではないでしょうか。
私の祖父母も何の時にかは今となってはわからないのですが、火打ち石を打つことがあったのです。
かつて┉イヤなことつらいことが続いていた頃、災難除の清め火として火打ち石がいいとネットか何かで知ったんですよね。
神社さんでお分かちくださるところがあるという情報をもとに、授与品をいつも拝見させていただいていたのですが、なかなか火打ち石をお分かちされている神社さんに出向くことができず、ようやくこちらに参拝させていただき、念願かなってようやく火打ち石を手に入れることができました。
これはずうずうしくお導きと思ってもよいのでしょうか。いやいや、それはやっぱりずうずうしいな。
ともあれ。
その火打ち石。
なんだかもったいなくて、いまだ箱に入ったまま、なんです。
宝の持ち腐れ?
猫に小判、豚に真珠、私に火打ち石、でしょうかね。
金鑚神社さんに向かう際、一度通りすぎた【金鑚山大光普照寺】さん。
【金鑚の大師さま】、【金鑚元三大師】という通称の方が伝わるようです。
こちらは迷うことなく着ける立地と、大きな看板、大きな駐車場が目印となります。
通りから斜めに建つ赤い瓦葺きの大きな門も目を引きます。
その赤い門をくぐると、ゆったりとしたなんとも贅沢な広さの空間がひろがっており、林の中に鐘楼が見えます。
そのゆったりとした、上品な公園をすら思わせる空間の左側にある、やはり瓦葺きの門をくぐると目の前に大きな御本堂が。
はやる気持ちをおさえて手水舎で手と口を浄め、香炉にお線香を手向けました。
向拝を美しい彫刻が彩っています。その見事なことといったら!
まずはお参り、お参り。
御本堂のなかは横に広く広がっています。
うわぁ。
なんて見事な彫刻が。なんと見事な絵が。
が、御本堂内では写真撮影は禁止されています。
こちらは、聖徳太子の創建で舒明天皇(629~641)の勅願寺と伝えられているとのことです。
平安初期に【伝経大師最澄】の高弟、後の第三代天台座主【慈覚大師円仁】が入山、本尊に十一面観音を安置して天台宗の寺とし、金鑚山一乗院大光普照寺と名づけて開基となられたのだそうです。
その後平安中期になると第18代天台座主の【元三慈恵大師】の御溜錫があり、ご自作の尊像を安置されたので元三大師の寺として世に知られるようになるのでありました。
武将による信仰もあり、源義家公の東北征伐の戦勝祈願に霊験あり、寺領3千石と諸珍宝(現在神社々宝)を賜わったようです。
戦国末期には地元御嶽城主や鉢形城主の寺領寄進があり、
また徳川家康公からも御朱印30石の寺領を賜わったようで、大いに隆盛を見たようでありました。
しかしその反面戦火もあり、天文21(1552)年、小田原城主北条氏康と上杉傘下の安保氏との合戦で、御嶽城が落城し、全山が焼失、唯一残ったのが天文3年(1534)建立の邦の重文多宝塔であったといいます。
さらに失火で七堂伽藍を焼失し、文化5年(1808)再建されたのが現在の御本堂なのだそうです。
もっとずっと新しく思えたのだけれど┉。
金鑚大師さんの御本堂のなかは、横に長い土間(靴のままでOKだったけれど┉土間だったか板の間だったか記憶が曖昧となっております)が続く造りで、外から見たよりも広さのある建物でありました。
入ってすぐの正面には御賽銭箱が置かれており、きらびやかな外陣と内陣が見え、閉ざされた御厨子がお祀りされておりました。
横に長い御本堂、畳の間であります外陣と地続きでいくつかの祭壇が並んで祀られています。右にひとつ隣には護摩檀がきられています。奥にお祀りされておられる御像は暗くて拝することができませんでしたが、不動明王さまがお祀りされておられるようです。
そのお隣はお地蔵さまであるようです。やはり暗くてよくは拝することができないのですが、こちらは関東百八地蔵尊の霊場となっており、その冊子を見るにおそらくお祀りされておられるのは将軍地蔵さまでありましょう。
そしてそのまたお隣には千手観音さまがおられます。
目を凝らしてもよくは拝することができなくて、なんとも歯痒い思いでその畳の間を見ておりますと、それはそれは見事な彫刻がほどこされ、美しい画が描かれているのであります。
敬虔な祈りの場をそのような目で見ていてはいけないのであるのはわかっているつもりなのですが、煩悩の塊はついつい気がつくとそんな見方をしてしまっているのであります。
畏れ多くもそんな間にあっても千社札が貼られております。
まあ、霊験あらたかな元三大師さまゆかりのお寺さんでありますからこそ、すがりたい思いで貼られたものなのでしょうが、ね。
御本堂の、畳の間の地続きの形はここで途切れるのですが、土間続きには続きがあってお社にお祀りされたそれはそれはお美しくてかわいらしい弁天さまがおられます。まるで愛でるために作られたかのような、両の手でお抱き申しあげられそうな大きさと上質で品のあるひな人形を思わせるような美しさであります。
こちらは毎週日曜日には御護摩修行が行われているようなのですが、この日は土曜日。さらにはこの日はご住職がお留守で、同じ宗派のお坊さんがお手伝いに来られていたくらいであり、やはり一日ずらせばよかったのかなぁ、と小さなため息をついてしまった私なのであります。
金鑚大師さんへは、最初私一人で来る計画を立てていました。
でも調べれば調べるほど、夫が「俺も行きたかったな」「行こう!」と近々の再拝になりそうな予感しかなくて。
~えっ?金鑚大師さんって、埼玉県って言ってなかった?
┉そう思って下さった方、本当にいつもお読みくださりありがとうございます。
そうです、埼玉県。
~車の運転が苦手で助手席で威張ってるおばさんが?
そうなんですよね。
山道とか細い道とか、まずまずダメだと思っておりまして。
~そんなん免許返上した方がいいんじゃない?
なんか自分でもそう思ったりもするんですけど、まずまず日常生活ではそんな道は走らないのですよ。
言い換えるとカーブの連発する山道、片側か崖のようなしかもすれ違い不可!みたいな道でなければ、結構どこまででも行けちゃうんですよ。
ナビがあることは必須ですけれど、ね。
~高速も苦手って言ってたじゃない?
┉そうなんですよ。自分の車以外だと、なんですけどね。
つまり旅行とかなると自分の車でなければまさに戦力外!
と、私のドラテク(すでにテクニックはないと思われるだけだけれど)はこの辺で置いておき。つまり、そういったすべての条件を充たしたとき、私一人で、あるいは私の運転で目的地まで行ける、ということなのです。
埼玉県と群馬県は隣接した県でありまして、金鑚大師さんや金鑚神社さんを地図で見ると、本当にすぐ近く、なんです。私の住むところから高速を使うこともなく、思い立ったら行けちゃうくらいのところにあるのです。
そう、遠くの県内よりも近くの埼玉県、みたいなところなのであります。
実際に行ってみまして、本当に近い。
なので、金鑚大師さんでは群馬県から来た、などと言われても驚きもしない。県を越える移動にもあたらないくらいだと笑って話されるくらい、群馬県からの参拝者は多いのだそうで。
実際県境のところなど標識があるから県を跨いだと思うだけだと思いますし、この辺りで先祖代々暮らして来られた方々には県を跨いだ感覚などない生活圏なのだと思われました。
┉まあ、悲しいかな、国力というか、県の財力の違いが所々に感じられるところはあるのですが。
金鑚大師さんでも御朱印をお願い申し上げました。
その時の会話で、実は留守番を頼まれた近隣のお寺のお坊さんでありますことを知るのですが。
こちらの御朱印。
なんとも刺激的な墨書書きがなされておりまして、いつまでも神社仏閣初心者の私、目が点になりました。
【生身元三大師】とあるのですが、生身って?なまみ?
生身の身体とか言いますけれど、生身って、血肉の通った生きた身体ってことじゃなくて?
えっとぉ┉(´д`|||)
元三大師さまの神通力はすごかったようですが、今なお生身、┉ってわけにはいかないだろうし┉。
お聞きすればお答えくださったでしょうが、さすがに御朱印帳を開いたのは車に乗ってからだったもので、さすがにこれを聞きにだけ戻るのも┉。
きっとこれは私のような無学の者は知らない仏教用語だったりするのだろう。
そこまでは考えついたのですが、生身=なまみっていう、勝手に思い、勝手にいろいろ妄想した初動の脳みそがなかなかそのショックから脱け出せないのでありまして。
ほら。空海さま、弘法大師さまも、今なお高野山で生きておられるってことじゃないですか。
元三大師さまもぉ?いやいや、だって元三大師さま、って寛和元年正月三日に亡くなられたから〖元三〗とお呼び申し上げているのでしょ?
生身(なまみ)って┉。
うーん。
はい、Google先生にお訊ねしました。
しかも生身=なまみという言葉の衝撃と妄想から立ち直れない妻の代わりに夫が調べてくれました。
生身=しょうじん、と読むようです。その意味も、
特に仏 菩薩が衆生を救済するために化現(けげん)する化身(けしん)としての身体と同一視される┉とかなんとか。
仏像⇔生身みたいなところから発しているようです。
そ、そういえば、御本堂の平台に並べられていた授与品の中にあった護符にも〖生身元三大師○○〗と書かれたものがありました。自分の視線をスライドさせて見なかったことにした気がする┉。
元三大師さまが法力で姿を変じたお姿を写したといわれるあのよく見るお札に描かれたあのお姿が生身なまみって┉想像してたりした星5つクラスのおバカなおばさんを、元三大師さまも苦笑いされるしかないだろうな。
世も末と現在をはかなんで、なおいっそう救いの手を差しのべてくださりそうな気が┉しません?
その後、埼玉県本庄市の【成身院百体観音堂】へ参拝いたしました。
こちらは【日本三大さざえ堂】の一つと言われています。
栄螺(さざえ)堂とは巻き貝のサザエのような螺旋状の構造を持つお堂で、こちらの成身院百体観音堂は外から見ると2階建てですが、中は3階建てになっている不思議な建築となっています。
実際にはらせん構造を持つ仏教のお堂は各地にあるようですが、【福島県会津若松市の栄螺堂】、【群馬県太田市の栄螺堂】、そしてこちら本庄市の百体観音堂は特に有名で、日本三大さざえ堂と言われます。
ことに昨年秋に訪れた福島県の栄螺堂は外側からも渦巻くような構造が見られた建築でありました。
こちらは浅間山噴火犠牲者の供養として建立されたものだといいます。群馬県に住まう私はそれを知り、大きな衝撃を受けました。
天明三(1783)年、浅間山の大噴火による火砕流やなだれ、大洪水で1500名以上の人が亡くなりました。それはまさに歴史に残る大災害であります。浅間山のふもとにあった鎌原村では火砕流にのまれ村全体が埋まり、村民466名が亡くなられています。生き残った村民の方は91名であったといいます。鎌原村は日本のポンペイとも称されるほどです。
さらに岩なだれは浅間山の北側にある吾妻川に入り、大泥流となって村々を襲い、田畑や家屋、人々をのみ込んで利根川に流れ込んだというものであります。この災害では1500名もの人が犠牲となりましたが、その亡骸は江戸川の川岸にまで流れ着いたといいます。
そうか┉ここにも┉。
見知らぬ人々の亡骸┉、その数も四百を超えたといいます。
まさに地獄絵図のような光景でありましたでしょう。
その亡骸を一体一体、葬ってくださったのがこちらの成身院の僧、元映さまであったといいます。川のほとりに壇を設け、僧徒を集め、法華萬経を誦読くださったといい、さらにはその冥福を祈るために百体観音堂を建てるべく奔走してくださったのだといいます。
なんとありがたいことでしょう。
そのお話をお聞きしながら、胸がいっぱいになり、両の手を合わせ拝んでおりました。
そんな百体観音堂、実は明治時代の1888年に火事で消失してしまいます。その際こちらの大きな鰐口(わにぐち)だけは奇跡的に火災をまぬがれたのだといいます。
大きさは直径180cm、厚さ60cm。重さは750kgもある大きなもので、1795年に鋳造されたものといいます。
火事で焼失後、明治四十三(1910)年に百体観音堂は再建されます。その入仏式の時に安置された観音像は六十体だったといいます。
しかし、大正八(1919)年に今度は花火が元で本堂を全焼され、そのショックでご住職がおなくなりになられ無住寺になったのだといいます。
太平洋戦争中には供出命令で梵鐘や灯籠も失ってしまい、さらには戦後のどさくさで半数以上の観音像が盗まれてしまったのだといいます。
貴い発心から建てられた百体観音堂だというのに、なんという不運続きなことでありましょう。
そう、そうなんです。
今は無住となられてしまったこちらの成身院さん。
こちらの管理をされ、入場料を納めますのが、本庄市観光農業センター、なんです。
珍道中トリオ(含むナビ 笑)はその情報を持ってしても、案内板を目にしても、なかなかそこにたどり着くことができず、車を降りてそこを目指し、ようやくたどり着くことになるのでありまして。
まあ、そんなわけでようやくたどり着いた、蜂蜜やら工芸品やら、鉢植えやらの売られる観光農業センターで、そのありがたいお話を聞くこととなるのです。
御朱印もこちらで。うーん┉。
栄螺堂であります百体観音堂へは、特に案内されることはなく、自力でそちらを目指し、自力でそこの鍵を開け、自分で電灯を点します。
まずは鰐口を撞いて。
野性動物が入り込まぬようやけに重たい金属製のドアに差し込むだけの鍵を開け、電灯を点けて歩きだします。
階段を登ると、回廊がぐるりと建物の中をまわっています。まあ、当然ながら狭いんですけれど。それでも綺麗に整備されており、さらには綺麗に掃き清められています。そこは本当にありがたいこと。
第一層は聖観音さまをお祀する護摩堂を中心に秩父三十四観音が並んでいました。造られた仏師の方が、自分なりの観音像をお造りになられるため、いろいろな造りの観音さまがお並びです。
これが盗まれてしまった観音さまを補充された悲しい結果をものがたっているということなのでしょう。
栄螺堂の二層目は〖坂東三十三観音〗さまが、三層目は〖西国三十三観音〗さまがお祀りされています。
細くて天井が低く頭をぶつけそうな階段ですが、通路は比較的広く、通路であり観音さまの祀られた堂(?)の前はゆったりお詣りができます。
また市指定の有形文化財の三仏、〖阿弥陀如来像〗、〖釈迦如来像〗、〖薬師如来像〗もお祀りされています。
百体観音堂には文字通り100体の観音像が並んでいるのですが、お堂を時計回りに歩いたり登ったりしながら観音様に参拝し、別の通路を通って外に出るという一方通行の構造になっています。まさにソーシャルディスタンスで、すれ違わない造りの建物であります。
このような構造の礼法を【右繞三匝(うにょうさんぞう)】と言うようです。
仏教において時計回りに三巡りするのは、死者に対する鎮魂の意味があるのだそうです。さざえ堂はどれも一方通行なので他の観光客と鉢合わせすることがない、不思議な構造になっています。
実際のところ百体観音堂は、折り返し地点が三層部の中心部の部屋の中央にあるので、他の参拝客と顔を合わせることもあるのですが、一方通行なので道をゆずる必要がない作りになっています。
ただ┉三巡りは┉なかなかできないかなあ。
三層目の天井には、それは美しい花鳥風月の日本画が描かれています。江戸時代に建てられた元の観音堂は火事で焼失してしまっているので、それほど古い時代ものではありませんが色合いも鮮やかで丁寧に描かれた美しい天井画です。これはお薦めのものであります。┉農業センターの方も、ですが、私たち夫婦もお薦めいたします。
狭い通路をぐるぐると何度も曲がって歩き、同じ道を歩くことなくいつの間にか外に出る不思議なお堂は、神秘的な信仰体験につながるのかもしれません。
最後に戻るのは、聖観音さまとお不動さまが祀られ護摩壇のきられた、観音堂正面にあたる仏間となっておりました。
電灯を消して鍵を掛けるのは夫。
拝観者に全幅の信頼をおき、参拝をさせてくださる方式であります。
〖百体観音堂は、生物のすべての鎮魂の塔で、高さは約二十メートルある。外観は二層となっているが、内部は三層で回廊をめぐらし、合わせて百観音をまつっている。
階段を順次登ると、中央にまつられた阿弥陀如来さま・釈迦如来さま・薬師如来さまを三巡りし、仏を礼拝する作法として、最も丁寧な礼拝をすることができるように造られている。〗
(本庄市の案内板より、一部改めさせていただいてあります)
ほ、ほほう。
なるほど。
栄螺堂のなかを三回ぐるぐる廻らなくても、一度三層の栄螺堂をめぐっているだけで中央におられた阿弥陀如来さまやお釈迦さま、お薬師さまを三巡りする造りになっているということだったんだぁ。
なんとありがたい造りの建物でありましょう。
たしかに、百観音さまということでまわっていた御堂のなかで、突如如来さまがお祀りされていましたので、ん?と思ってはいたのです。
少なくとも二度はそのお姿を拝することができたよう記憶しております。
実際、群馬県の者の鎮魂のために造られた観音堂を、感謝の意を込めて三回ぐるぐるしようかと一瞬は思っていたくらいでした。
追記)
百体観音堂建立の起因となったのは、天明の浅間の大噴火であって、この時溶岩が山麓の村をひとのみにし、吾妻川、利根川流域沿岸三十数か村の人馬を埋めた。焼死、溺死する者数知れず、川辺に近づくとうめき声が聞こえ、それに周辺の者たちはただ怯えるのみで、誰一人弔う者がいなかったという。
これを知るや成身院第七十一世元映上人は、利根の川原に壇を築いて修僧を集め一人一人を救い、一体一体を弔って、七日七晩法華経一万部を読誦
し、死者の冥福を祈った。
さらに上人は、永代にわたって供養するため慰霊堂建立を思い立ち、近郷に呼びかける一方、自ら江戸に上って辻辻で寄付の呼び掛けを行ったところで、上人の悲願は多くの人々の協力によって実り、ここに百体観音堂が建立されたものである。
(本庄市案内板より)
┉ありがたいことにございます。
この三大さざえ堂と称される三カ所をみなまわることができました私ども。
その一つであります福島県会津若松市にあります飯盛山に建つさざえ堂【円通三匝堂(えんつうさんそうどう)】。
正宗寺(しょうそうじ)の僧・郁堂(いくどう)が1796(嘉慶元)年に建立したもので、飯盛山一帯を神域とした厳島神社(明治以前は宗像神社)の別当だった正宗寺は、明治のあの廃仏毀釈で廃寺となり、円通三匝堂だけが現存しているという現状であります。
かつてはそのスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるとされていたのですが、明治の神仏分離、廃仏毀釈で、残念ながら三十三観音像は取り外されてしまっております。
現在、さざえ堂(円通三匝堂)の所有者はさざえ堂脇の「山主飯盛本店」さん。廃寺という形をとらざるおえなかった正宗寺、そしてそこに建てられていたさざえ堂は運命の歯車は大きく変えられてしまいました。
とはいえ、山主飯盛本家は、さざえ堂建立以前から飯盛山を拝領した名家。廃寺以来円通三匝堂を守り続けているのであります。
円通三匝堂は、高さ16.5mの円柱状のお堂ですが、よく見ると六角形三層という不思議なものでありました。他の二カ所とは異なり、内部には階段がなく、右回りの螺旋(らせん)状のスロープを上ると頂上に太鼓橋があり、橋を渡ると今度は左回りの下り坂で背面の出口に出るといった仕組みでありました。
こちらは外観までもがサザエ(栄螺)を思わせるフォルムで、まさに「さざえ堂」の完成形といえるかもしれません。
くー!
こちらのさざえ堂のなかに江戸の頃のように観音さまがおならびになられていたら、どんなに見ごたえあるものであったか。
悔やまれてなりません。
明治時代の廃仏毀釈さえなかったら┉(T^T)
┉何度そう思ったかしれません。
江戸時代に建てられた「さざえ堂」のうち、現存しているのは
円通三匝堂(福島県会津若松市)
長勝寺栄螺堂(青森県弘前市)
長禅寺三世堂(茨城県取手市)
曹源寺さざえ堂(群馬県太田市)
成身院百体観音堂(埼玉県本庄市児玉町)
西新井大師三匝堂(總持寺/東京都足立区)などがあるようです。
青森、かぁ┉。
全制覇は無理かと思われます。
久しぶりに地元のさざえ堂へも行きたいと思って、実はこの埼玉県本庄市のさざえ堂へ行く前に何度か訪れていたのですが、二度訪ねて工事中とかで参拝することが叶わず。
ただ境内のあちらこちらに色とりどりの紫陽花が咲き誇っていて、それはそれで楽しめたのでありますが┉。
本庄市のさざえ堂を訪れた翌週に、それこそ三度目の正直で、群馬県太田市のお寺、曹源寺さんに参拝することができました。
こちらの御本尊さまは魚籃観音さま。
百観音をお祀りされているのは本庄市のさざえ堂と同じなのですが、一階の向拝正面にあたる部分に御本尊が祀られた内陣が設けられていて、その左右からすでに秩父三十四カ所の観音さまが祀られているので、秩父の十カ所近くが拝することができないのであります。
うー。
残念!!
秩父三十四カ所をまわった今、ことさらご尊顔を拝したかったなぁ。
このような造りとなったのは、おそらくは過去二度の火災にあります。
1852年の火災によって御本堂は焼失し、観音堂であったさざえ堂のみが残り、それ以降このさざえ堂を御本堂とされるようになったといいます。
御本堂から遷された御本尊をお祀りするスペースを無理矢理設けざるおえなくなり、現在のようになったのだと推察されます。
こちらは平成二十七年から二十九年まで大規模な保存修理をいたしました。この修理中に壁を覆っていた化粧ボードや塗料を除いたところ、な、なんと!参詣者の残した落書きが発見されたのだと言うのです!
しかもその落書きを、壁の塗り直しを施したあと、元あったあとに戻したのです!!
かなりの数の落書きの墨書が残されていました。
そもそもがここお寺さんですよ?
どうして落書きしちゃう?
なんてなんて罰当たりな!!
ええ、住んでいる所から名前から、参拝日時まで。
絵だってあります。
びっくり、しかありません。
まあともあれ。
進みましょう。
こちらは三つのさざえ堂のなかでは通路が狭く、階段などはかなり急なうえに頭をぶつけそうなくらいのところを通る、ある種胎内的なイメージもあります。
秘密基地的にも思えるのかなあ。
┉ですが、たまたま子供さんと一緒の参拝になったときなど、子供さんたちはやはりほの暗い古い建物の中、あまり興味を抱けないようで、さっさと通りすぎて行くばかりでありました。
たしかに、うちの子どもたちが小さなころにここへ連れてきていたら、と思うと┉やっぱり同じようにさっさと通りすぎてあっという間に外へと出て終わった気がいたします。
私とて、その当時は寺院とかに縁もなく、畏れ多いことに感心も持たずに過ごしていましたから、同じようにさっさと外に出て終わったのだと思われますくらいですし、ね。
今回の参拝、じつは、関東百八地蔵尊霊場にもあたっておられるこちらの魔除け地蔵尊さまを拝したかったのでありまして。
悲しいくらいにその魔除け地蔵尊さまの記憶がない。
本当にもうしわけないくらいであります。
なかなか魔除け地蔵尊さまという存在は他に類がない┉のではないかと思うのでありまして。しかも魔除けといったありがたい御利益。
この煩悩の塊がそこを訪れないはずもなく。
魔除け地蔵尊さま、三階の回廊におられました。
金や赤、青、緑の模様のついた衣をお召しになられ、小さな、子どもくらいの背丈の赤鬼の手をつないだお姿をされていました。
その赤鬼のなんとも言えないばつの悪そうな、照れくさそうな、嬉しそうな表情がなんとも可愛らしく、その手を引かれたお地蔵さまの表情がまた本当に慈悲深いもので。
御祈願申し上げることすら忘れて見入っておりました。
色彩も美しいままで、特に金の錫杖の素晴らしさといったら。
そのお隣にはお不動さまがおられました。
うーん、魚籃観音さまと百観音さまだけではなかったのだな。
この三つのさざえ堂では唯一ご住職がおられるお寺さんにありますこちら。
いずれにせよ維持管理も大変なこととは思いますが、是非とも後世に残していっていただきたいと思うのでありました。
曹源寺さんの魔除け地蔵尊さまは、大正期のご住職さまが万民安楽を祈念して造顕されたのだといいます。なるほど彩飾も綺麗なはずです。
┉神社仏閣における大正時代とかって、なんだか新しい時代のもののように錯覚してしまいますが、かれこれ100年とかになる、立派に(?)古い物なのですよね。
他にも、【賽の河原地蔵尊】さまとかおそらく他に類のないお地蔵さまが奉られていたりもしました。
賽の河原を再現したかのような空間とそこにおられるお地蔵さまと何十体かの小さな子どもたちの石像のジオラマ的なものであります。
うーん、┉少し遊び心を感じてしまうのは、信仰心からはるか離れたところにいる邪念のかたまりのような私だからでしょうか。
最近はこちらも月替わり御朱印ですとか限定御朱印、コラボ御朱印等、御朱印に力をいれだしたご様子です。季節感あふれるきれいな御朱印にリピーターも多いようです。
紫陽花が境内のあちこちに植えられていてたいへん見事なもので、群馬の紫陽花寺と呼ばれているとのことでありました。
また、こちらは太田市の七福神さまのお寺でありまして、その七か寺が秋の七草を配しており、曹源寺さんは女郎花(おみなえし)のお寺となっております。
その女郎花、すでに紫陽花のころから咲いており、紫の紫陽花に黄色を添えて美しいコラボレーションが見られていました。
そういえばわが家の桔梗も春咲きであります。
最近の異常気象で花々も季節がわからなくなっておりますかね。
┉でもわが家の菊はみな頑固者で、秋のお彼岸が終わるまで絶対に咲いてくれないのだよなぁ。
家計に優しくしてほしい、欲のかたまりの私に対抗してのことかしら。
百観音霊場の巡礼や四国八十八カ所のお遍路は、思い立って行けるものではありません。
強い強い決意と、そこをまわるのに費やす潤沢な時間と。
しっかりとした体調の管理を行うためにも欠かせない、衣食そして寝るところを確保するだけの金銭が必要であります。
定年退職後、というタイミングは、たしかに時間をたっぷりとることは可能なのかもしれませんが、果たしてそこに体力面がついていくものかどうか┉。それこそ潤沢なお金が用意できれば、良い宿に泊まり、食べるものも用意していただけるような旅もできましょうし、宅急便などでできる限り荷物を少なくして、なおかつできうる限りの交通機関を駆使して┉
それでもなお、大変な旅路であります。
それでもかつて、馬や駕籠くらいしか交通機関がなく、出先で簡単に物を手に入れることなどできなかった時代においても、死を覚悟しても人はその旅を切望し、数えきれない人たちがその巡礼や遍路を成し遂げてきました。
今でさえなかなか行けるものではない、巡礼あるいは遍路。
それをせめて思いだけでも、ということで遠隔地に住む人たちはお砂踏みであったり、このさざえ堂のように同じ御仏を拝することができるようにとさまざまな努力をしてきたようです。
また、鎮魂の意を込めて造られた百観音も多いようで、先日うかがわせていただいた埼玉県の百観音堂のように百観音をまつったところもあるのでしょう。
その一つ。
群馬県みどり市の浅原というところにも百観音さまがまつられています。
そこはお寺ですらなく、僧侶でもない一人の人が近郊に住む人に働きかけて、一人の石工に西国、坂東の観音さまを二年かけて彫らせ、さらにそのあと秩父三十四カ所の観音さまを彫って百観音とし完成したものなのだといいます。
その年代は天保年間。
そう。
天保の大飢饉であります。
こちらは天保の大飢饉の折、信心深い願主が西国そして坂東の観音霊場をまわり、各霊場で御姿をお受けし、常陸國の石工を自らの家によんで住まわせ、願主の呼び掛けで集まった寄進者が108人。まずは六十六体を彫り、その後、浅原在住の者たちがお金を出しあって秩父三十四カ所の観音さまを彫ってできた百観音さまのようです。
願主もさながら、三年かけて百観音を彫り上げた石工もまたすごいと思うのであります。
浅原の百観音さまは、かろうじて屋根こそはあれ、風雨や夏の暑さ、直射日光にさらされてそのお姿は少し薄らいでしまっておられました。
光背右上には○番 左下には○○観音、と文字が刻まれているのですが、そのすべてを読むことができるのはいったい何体おられることか。
それでも特記すべきは、百体の観音さまのすべてがお姿そのままに残っておられる奇跡でしょう。
山に分け入るような小さなお寺さんですら、そのお頚が落とされた痛々しい変わり果てたお姿となっておられたり、明らかに、後からすげられたお顔であったりと、あの憎むべき明治の悪政、廃仏毀釈による被害の爪痕はいたるところに残されています。それが一体も欠けることなく揃ってお並びびになられているのです。
村人の方々がどれだけこの百観音さまをまもろうと必死の努力をなされたかを物語るものです。
百観音さまは石の種類でありましょうか、さまざまな色の石がありました。それが建てる方の好みであったか、石の入手が困難だったかは知るよしもありませんが。
いくつかは番号の読めるものがあるので秩父の観音さまなのかそれとも西国、あるいは坂東のものなのかと見て歩いては見たのですが┉。
なにぶんにも暑い!暑くて、薄れて読めない文字との格闘がつらい!
馬頭観音さまのように特徴的な観音さまを見つけてもその番号が読み取れなかったり。
┉もう少し穏やかな陽気のころに再拝させていただいて、百体の観音さまのご尊顔をゆっくり拝したいと思います。
ちなみに。
こちらは駐車場などない道の端に、屋根だけがあるといったところに百体の観音さまが肩寄せあっておられます。それでも路肩に一~二台は停められるでしょうか。
ただ、私どもが着いたとき、百観音さまのまん前にでーーんと一台占拠してよけようともしない車がありまして。
あとから来る人のことなどまるで考えもしない停め方であり、あとから来た車が駐車スペースに困っていようが一切お構いなしで、こちらをみてはなにやら大きなペットボトル(三リットルとかの大きなサイズ)を手から手へ渡し車に詰め込んでいます。
┉なんだぁ?
浅原観音堂の前にでーーんと停められた車は、後部シートをも倒して荷台として、積める限りのペットボトルを積んでいて、そのペットボトルにこのそばにある水源から水を汲んでは車に積み込んでいるようです。
温泉?
私が先に降りて、車をなんとか停めようと誘導しようとすると。
「水、汲みに来たん?」
と、若干の敵意を感じるような声がかけられました。「ちがいます。おまいりにうかがわせていただいただいたので」
すると突然、うって変わったように笑顔で
「ふーん、そうなんだ。今日はもう水、出ないから」
?、は?、はあぁ。「お水が出るんですか?」
すると少し小馬鹿にしたようにふっと笑い、
「観音さまの水だよ。今日はもう出ないからね」 は、はぁ。
内心少しムカッと来ながらも、観音さまの御前、観音さまのお水のこと。
笑顔で「お飲みになられるんですか?それともお風呂とかにされるんですか?」
「何にしてもいいんだよ。コーヒーいれると美味しいよぉ。もう出ないけどね」キーっ。「一度沸かしてから飲むんですか?」
「そのまんまで飲めるよぉ、おいしいから。今日はもう出ないからまた来な」と言いながらも水を汲んではいるのですがね。
┉本当に出ないと思ったのか、その後しばらくしてサッサと立ち去ったご夫婦らしい二人組。お水の情報ありがとうございましたぁ。
夫はにこやかななごやかな会話だとずっと思っていたようで。
うーん、大人の対応できてたんだな。
私が怒っていたことに気づいたのは、私が「観音さまのお水じゃないじゃん!お薬師さまのお水って書いてあるじゃない。お水いただくならそのくらい知っておこうよ、もう」とつぶやいたから。
観音さま、ごめんなさい。やっぱり私、未熟者でしたね。
御霊水は、ここから700mほど山中にある水元薬師堂そばに湧き出す湯の入り鉱泉から引かれているようです。600年ほど前に発見され、皮膚病に
いいと伝えられている鉱泉のようです。
たらたらとしか出なくなったお水をさわると、!?。
さらっさらのてざわりです。
水が乾いたあとの手はずっとサラサラとした感じが残っています。
そんじょそこらの温泉に入った時よりも良い感じ、かも。
飲料水としての調査も行われていました。
これはたしかにいい!
お薬師さまありがとうございます。┉。
群馬県桐生市にある桐生川は避暑には最適と、最近では県外ナンバーの車も多い人気のスポットとなっています。
避暑と自然のなかでのんびりと何もせず何も考えずに過ごそうと、その桐生川の上流をめざして走行しておりましたところ、なにやら小さな立て看板にお寺の名前があるものを一瞬目がとらえました。
【長泉寺】、とあったように思えます。
参拝させていただいた記憶はありません。しかも〖六三大士〗とも書かれていたような┉。
とはいえ、今日の目的はあくまでも森林浴の日本百選、水源の森百選に選ばれたという桐生川上流。
そのまま車を走らせました。
だいぶ走ったところで長泉寺という、やはりあまり大きくはない看板と石標を目にしました。うん?
結構な距離離れていたものですから、同じお寺さんかどうかすら自信がないくらいで、とりあえずそのまま目的地を目指しました。
九時半くらいというのに、車でいっぱいです。
しかもそれは駐車場などではなく路駐された車。
あくまでも川とそれに沿った、決して太くはない道路の端に路駐された車でいっぱいです。まあそれでも路駐された車さえなければ、対向車とすれちがうことはじゅうぶん可能です。
川にはすでに水に入って遊ぶ親子の姿があちらこちらに見受けられます。
うーん、早いとは言えないけれど、決して遅くはない時刻に出てきたはずなのだけれどなぁ。
それでもなんとか車を停めて、アウトドアチェアを持って河原へとおりました。
うああぁ!
水しぶきをあげてざぁざぁと音をたてながら、流れる川の水の透明なことといったら!
ここの空気をマイナスイオンといわずに何をマイナスイオンというのだというくらいに清んだ空気が辺り一面にひろがっています。
木漏れ日が水面をキラキラと輝かせています。
最高っ!
ああ、珈琲でも持ってくればよかったなぁぁ。
そんな避暑地からの帰り道。
珍道中ペアはお寺さんへの入り口の石標をしっかり見逃し、通りすぎたときに気づくというお約束通りの失態をし、Uターンしてふたたび石標をめざしました。
この石標の間の道がこれまたお約束通り狭い。なので結構曲がるのがたいへんです。うーん、これは一人で来るのはムリだな。
路地、といったら失礼ですが、その道沿いのおうちの生活道路としか思えない参道を走行して、結構な広さの駐車場につきます。
どこに停めようか迷うくらい広い駐車場の、石段のよこには【六三大士(ろくさんだいし)】の看板がありました。
お、記憶はあっていたようです。
〖梅田の民話〗とあります。
〖六三除けで重病人を救ったという為雲(いうん)和尚さまの話。この和尚さまはお酒が大好きでお礼はお酒でしたものだという。
長泉寺境内にある六三大士堂には、今でも竹筒に入ったお酒が供えてある〗と、書いてあります。
ちなみに、梅田というのはこのだいぶ手前の辺りから、避暑地と称した桐生川の水源のあたりまでの一帯の地名であります。
六三、という言葉は聞いたことがあります。
六三除けといった気がいたします。
もちろん、そのようなお祓い(?)を受けたことはありませんが。
簡単にいうと年齢による身体の部分的な厄除け、だそうです。
今年どこが六三に当たるかは、数え年を9で割り、余った数字で判断するそうで、そして、六三に当たる場所と、具合の悪い場所とが一致する場合六三除けの祈祷をする、といったもののようです。
今でもこの六三除けをされる方はおられるようで、とくに、病気の原因がはっきりしないとき、薬の処方を受けても効果が現れなかったり、といったとき、このお祓いを受けるようです。
こと、医学の発達してなかった時代には、六三大士さまはありがたい存在だったのでしょう。
さぞ御礼のお酒がいっぱい届いたことでしょうが、ただ┉。
こちらのお寺さん、曹洞宗でありまして、〖不許葷酒入山門〗と彫られた大きな石碑がしっかりと建てられておりまして。
うーん。(*-ω-)
ま、まあ、お酒の飲み過ぎで体を壊したりなんてことはなかったと思いたい。
長泉寺の創建は室町時代の文明8(1476)年に、この地を支配した桐生氏の位牌所として開かれたのが始まりと伝えられています。
寺号の「長泉寺」は桐生家4代目当主桐生在義(在俊)の法名である「長泉菴殿竜宕性白大禅定門」にちなむとも云われ、桐生氏との関係が深かったことがうかがわれます。
その後一時衰退しますが室町時代末期から江戸時代初期に再興したであろうとされ、その再興にあたった人物については二つの説があり、それゆえ年代に幅があるようです。
(※再興では無く創建説もあります)
御本堂は再興時である室町時代末期から江戸時代初期に建てられた推定されています。
御本堂の前に立つと、┉カメラでもあるのでしょうね、「どうぞお入りください」とどこからか声がしました。
「よろしければ御本堂に入ってお参りしてください。お時間は大丈夫でしょうか?」
(*゚∀゚)*。_。)*゚∀゚)*。_。)うんうん、もちろんです。
御本堂の醸し出すなんとも懐かしい感じといったら!
広い御本堂、正面も側面もそのほとんどがガラス張りであるため、晴れた、そう、ちょうどこの日のような天候であれば、電灯がついていなくても充分に明るく採光が得られています。
好き!
こちらのお寺さん、私の心をつかんで離さないです。
欄間の彫刻がまた、なんともいえない素晴らしい彫りです。正面の彫刻は龍ですが、なんとも生きているかのような立体感と眼光です。鱗の1枚1枚がまさに鱗、という感じです。
石原吟八、の銘があるようです。
なるほど。
この見事さも、石原吟八ならうなずけます。
私がその名を覚えるくらいの宮彫物師で、国宝であります妻沼の聖天堂の彫刻もこの人の作品であります。
そして御本堂自体も当時の曹洞宗方丈形式本堂が見られるものとして平成に桐生市指定重要文化財に指定されているようです。
御本尊さまは釈迦牟尼佛さま。小さなお姿でありますがきれいな優しそうなお顔をされておられました。
六三大士堂は御本堂の手前左側にありました。
覗いてみると、昔のおみくじが見えました。
あとはよくは見えませんでした。そう、竹筒に入っているというお酒も。( *´艸`)
夏の切り花は傷みやすい。
一週間もたないことが多い。
この時期咲く庭の花もなく、(そもそもが手入れをしないので飾れるほどよく育ったものもないのですが)「スーパーに行ったら忘れずに買わなくては」と声に出して記憶しようと涙ぐましい努力をいたします。
母も、姑も、もうずっと長いこと一年通して造花を飾るようになっていました。
母は花をたむけられる存在となり、姑は老人施設に入居して早二年。
誰もいない家であっても、枯れない花が仏壇に色を添えています。
ただ、なんともわびしいのであります。
とはいえ、たまに誰もいないその家に行ったところで、生花を一時お供えしたところで、持ち帰らなければ痛んで悪臭を放つお仏壇になってしまいます。お供えしてすぐに取りあげるような真似もなんだか申し訳なくて、「ごめんね」とつい声に出して、お線香をあげるだけで、夫と居心地の悪い思いを残してそこを去るのがいつとのパターンであります。
そもそも、お供えする花は私たちの方を向いていますが、あるときふと、それでいいのか?という疑問が浮かんで頭から離れなくなりました。
でも、どこのお宅でも、お寺さんでさえそう飾られています。
いいのか┉。
いいのだそうです。
花により綺麗に飾られた仏壇、仏さまに向き合うとき、自然に浄土を想い、私どもの心が清浄になる、それだからいいのだそうです、それでよいのだそうです。
今お供えしてある花は、一目惚れしたグラデーションのある菊の花を含めた五種類の花です。
仏壇もどきのそばに行くと、菊の花の香りがその辺りを清らかなものにしてくれています。
夫の定年後、節約生活を送ることになっても、できる限り生花を飾れるよう、季節季節で咲く花を植えておこう、かな (*`艸´)
そもそもが、今庭には、仏さまにお供えしてあった花から根が出たために植えた菊がいくつも大きく育っています。
ただ┉ほんと、お盆はもちろん、お彼岸にも、秋の、舅や父の祥月命日にも咲かないんだよなぁ。
群馬県桐生市というのも広いところのようで、先日避暑に行った梅田町というところもかなり奥深いところでありましたが、川内町というところも川に沿ってかなり奥深いところだと聞きます。
平成の大合併以外にも、過去に何度となくあった合併によるものでもあるのでしょうか。
御朱印で全国にその名をとどろかせる宝徳寺さんというお寺がこの川内の地にあります。
その川内町に白瀧神社という神社さんがあります。
宝徳寺さんを通り越して、さらにさらに奥へと向かい、通り過ぎてしまったのではないかと不安になる頃白瀧神社という案内が見えてきます。
さほど広くはない、坂になっている生活道路を入っていくと、これまた風情ある小川が流れていて、小さな橋がかかっています。
その橋を渡るとまもなくひだりてに石の鳥居が見えてきます。
鳥居をくぐって十メートルほど行くと石段があって、その石段をのぼると明るい居心地のいい、光あふれる境内となります。
さほど広くはない境内ですので、すぐ真正面に拝殿が見えます。
かわいらしい狛犬さまが二体、お社をお守りになっておられます。こちらは神職のかたのおられない無人の神社さんでありますので、お役目は大変なのでしょうが、なんとも穏やかなお顔をされています。
お賽銭箱には糸巻き(?)の焼き印(?)があります。
そう、こちらにお祀りされている神様は天八千々姫命(アメノヤチヂヒメノミコト)さまでありまして、織物、紡績の神様であります。
さらにこちらに白瀧姫さまの霊を合祀したものということで、白瀧神社さんというのであります。
白瀧姫さまは横萩右大臣豊成公の二女として京でお生まれになり、御所に白瀧の前と称し官女として奉仕していた方であります。
郡役として御所に来ていた仁田山の住人山田舎人と申す若者と出会います。山田は低い身分でありながら、和歌の素養があり、しばしば催されていた御歌の会の歌合せで思いを通わせるようになり、二人の歌には思慕の情が表れるようになっていったようです。
それが帝の耳に届き、御前の歌合わせで山田が勝てれば二人の結婚をゆるされることとなったのだそう。
白瀧神社さんの例大祭は今年開催されるようで、川内の、かつて仁田山と言われた辺りのそこここに、ポスターが貼られておりました。
┉時間の記載はないんです。
地元の、神社の世話人をお務めの方々や御神楽を舞われる方々、そしてこの辺りに住む方々のみで集まられ、ずっと受け継がれてきた祭りをなさるのでしょう。
昨年はコロナ禍ということで全国で軒並みお祭りが中止されています。
そして。
今年、ここに来て日本全国、今までにない勢いで感染者数が増えています。
お祭りというのは、開催される期日、あるいは期間は短くとも、それはそれは長いことかけて準備してくるものであります。
通年であれば前の年の祭りが終わったその日から、次の年の準備を始めるところすらあるようです。┉まあ、それが楽しみであり、生き甲斐であるのでありましょうが。
群馬県みどり市の【大間々祇園まつり】がまさにそれで、昨年コロナで中止が決定されたとき、まさにそのおぎょんを楽しみとし生き甲斐でもある町のお年寄りたちがまるで腑抜けのようになってしまったのでありました。
生まれてこのかた毎年毎年八月の一日二日、三日と、必ず必ず行われていたおぎょんが生まれて初めて、それがない八月となったのです。
お祭りのために集まっていた会合も当然開かれず、毎年毎年、顔を合わせていた人たちとも会えない日々となり、それはもうみなが元気を失って当たり前でありましょう。
今年、規模を縮小し、日数も三日から二日に減らして開催される、はずでした。
もう今日は七月三十日、八月一日まで秒読みであった、今日。
今から二時間ほど前に中止が発表されたようです。
群馬県の警戒度がレベル2から3に上がったら中止すると決まっていたことではあったようです。
今年も関係者のみで神事が執り行われることとなりました。
そもそもがこの大間々祇園まつり、疫病退散を願う祭りであります。
なんとも皮肉なものです。
新調された提灯や緞帳、修繕を終えた山車の人形。
もうほとんどの準備はできていました。
今年の喪失感は昨年の比ではないでしょう。
そして┉前橋市の月田近戸神社さん。
昨年うかがった際、よかったら是非見に来てよと言っていた宮司さま。
そのあと、絞り出すように、来年は絶対中止にはできないと言っていた姿が忘れられません。
群馬県前橋市の近戸神社さんの令大祭は、【月田のささら】と呼ばれており約600年の歴史がある伝統芸能です。〖ささら〗は神社に奉納される獅子舞に由来するといいます。
八月の最終土曜、日曜に開催されています。
〖群馬県重要無形民俗文化財〗に指定されている獅子舞は、土曜日にも行われますが、日曜日の〖本祭り〗では天下泰平・五穀豊穣を祈念して社頭での奉納後、神輿(市重要文化財)の渡御に従がって粕川対岸の【外宮】まで道中を連ねるのだといいます。
【外宮】は〖獅子山〗とも呼ばれ、獅子舞が奉納されたのち、神官により粕川への濁酒(糟酒)流しが行われるのだそうです。これら一連の神事は「御川降り(おかおり)」神事と呼ばれ、【粕川】というこの辺りの地名のの名の由来といわれているそうです。
獅子舞奉納の始まりは室町時代との記録も残されていて、口伝により舞いの所作が連綿と受け継がれてきたものだといいます。
獅子舞は〖獅子掛り〗少年三人、〖笛掛り〗青年六人、〖歌掛り〗壮年四人の〖獅子連〗によるもので、数種類の舞や舞曲(笛)はすべて【口伝】で、昨年までは一度も絶えることなく奉納されてきたものだったようです。
伝承者たちは子供の頃から生涯をかけて伝承しているものなのだといいます。
宮司さまの絞り出すようにおっしゃった「中止はできない」という言葉。
重い重い、長きにわたって絶えることなく受け継がれてきた〖伝統〗を担う方の重い重い言葉でありました。
神職の方だけでは決して伝承できないものであります。
今年はどうなのであろうか。
今日見た前橋市のホームページには昨年の中止が告げられているのみでありました。
すべてが口伝であるこの月田のささらは伝え手の記憶のなかにすべてがあります。伝えていくことができない状態が続けば、室町の世から続いた伝統が途絶えてしまうこととなってしまうのであります。
無観客でもいい。今年こそ開催がなされますよう、祈ります。
ただ、獅子舞以外にも多くの方々が参加する神事であるようです。
無観客として開催できるものなのか┉。
宮司さまの笑顔が見たいです。
群馬県前橋市の東壽寺さんに参拝いたしました。
月田近戸神社さんにほど近いところにあり、かつての神仏分離令の際、近戸神社さんにおられる虚空蔵菩薩さまをお遷ししたお寺さんであります。
寺標をくぐると、参道の両サイドに対となって、五重塔と等身大のお地蔵さまがお出迎えくださいました。
すぐそばに桜が植えられていて、緑の葉が五重塔とお地蔵さまの日傘のようになっていました。
青面金剛さまのお足元には紫の紫陽花がまだ咲いており、まるでお供えしてあるかのようでありました。
正面に瓦葺きの山門が見えます。
薄桃色のツツジがチラホラと咲いていて、なんとも心地よい参道であります。
山門をくぐって正面には庫裏があり、そのひだりてに御本堂がありました。向拝には細かな彫りが施されています。
境内にもお地蔵さまがおまつりされているお堂があり、お乳をあげる石仏さまもおまつりされておりました。
御朱印をお願いしようと庫裏に向かいますと、あちらこちらの戸すべてが気持ちよく網戸にされて開け放たれています。
呼び鈴等が見当たらないため、少し大きな声でお声がけしてみたのですが、まるで反応がありません。
私の大きな声は工事中の駐車場にまで聞こえたようで、(作業中、ではありませんよ、念のため┉)作業をされている方が何か教えてくださっています。
うん?こちらからでは聞こえないところにおられるということなのかな?
ふと見るとはなしに目にはいったテーブルに、大きな白黒の何かがデーンと乗っています。よく片づけられたお部屋に不似合いな大きな何か┉。猫?
でも猫ちゃんにしても大きいしな。┉おい、これじゃ覗きじゃないか。
違う入口、違う入口。
あ、ありました。コの字に折れたところにちゃんと呼び鈴のついた玄関がありました。
呼び鈴を押すと、どうぞとの声があり、戸を開けるとお若いお坊さんがお立ちになられておりました。お、お若い!
御朱印をお受けしたい旨告げますと、あ、わかりましたとお答えくださり、
「本堂のお参りをされますか?」と続けておっしゃってくださいました。
ありがたいことでございます。
コロナ以前であっても、なかなか御本堂へ上がらせていただけるところはありませんでしたのに。
ましてやこのコロナ禍、どこから来たかもわからぬ者を、何のためらいもなく、御本堂へとご案内くださいました。
前橋市粕川町月田にある【東壽寺】さんの、かつてのご住職は昭和の初期においての児童歌謡の作詞者だったようで、その作品はレコード化されたものも多かったのだといいます。
著名な、同じく童謡詩人である【野口雨情】とも親交があり、そのご住職がこの村において開催していた、夏期児童学園の講師として雨情を招き、その際雨情は何日かこちらのお寺に滞在もしているのだとか。
その際雨情はいくつかの作品を残し、その歌碑が近戸神社に建立されておりました。
┉ようやく、謎が溶けました。
何故雨情が?どうして雨情が群馬県の、決して有名でも観光地でもない近戸神社さんをおとずれることになったのか、ずっと謎ではありました。松尾芭蕉でもない、童謡の作詞者が、ネットもない時代にこの地を知り、訪れようと思ったかが謎でしかありませんでした。
なるほどぉ。
雨情というと私がまっ先に思うのは〖しゃぼんだま〗であります。
とはいうものの、平成、そして令和の時代をむかえ、その当時の童謡を知らない世代が増えているように感じます。
なんとも寂しく哀しいことではあります。
この日、【近戸神社】さんへもお参りさせていただきました。
広い境内にはどなたもおられません。┉そう、宮司さまのお姿もありませんでした。
前回は落ち葉を掃き集め、落ち葉焚きをされていた宮司さま。
たしかに、落ち葉の時期でもないですし。
お参りをさせていただき、御朱印をお受けしたい旨お電話いたしますと、宮司さまがお出になられ、「それでは(ご自宅に)お越しください」
とのこと。┉コロナウイルスの爆発的感染拡大となるほんの少し前のことであります。
今はもう、あり得ないことでしょう。
┉本当にほんの少し前でしかないのです。新形コロナウイルスの変異株の感染力の凄まじさを如実に物語るものであります。
御朱印をいただき、近戸神社さんの〖虚空蔵菩薩〗さまがどこにおまつりされておられるのかと、〖奥宮〗への道をお聞きいたしました。
虚空蔵菩薩さまは秘仏であるとのことで、まあそれには特に驚きはしなかったのですが、な、なんと!
本殿におまつりされておられるのだということでありました。
道理で、境内をくまなく歩いたところで御堂などが見当たらないはずであります。
そして、奥宮への道をお聞きしたところ、
「橋が使えなくて、回り道をするようなんだけど」とのことで、ん?だとしたらお祭りのときも大変だろうに、┉でもまあ、橋の工事って大変なんだろうな。
お教えいただいた道は、
「粕川大橋を渡ったら少し行くととうもろこし畑があるからその真ん中の道を道なりに行くと駐車場があるから。そうしたら案内板もあるしすぐにわかると思うよ」
と、とうもろこし畑の真ん中の道、ですか?
こ、これは運転を代わってもらうようかなぁ。あ、そうそう、この日は私の運転でありました。
で、結局いつものように夫が運転手を務め奥宮へと出発!
おおっ、とうもろこし畑だ!
背の丈が私の二倍はあろうかというとうもろこしが両サイドにズラァとい並ぶ風景の中車を走らせると、お、なんということなくすぐに駐車場があるではないですか。これなら私の運転でも来られたんじゃない?と思った瞬間、トラックが一台停まっているのが目に飛び込んできました。
これか対向車で今来た道ですれ違う事になったなら┉うーん夫の運転で正解だったな。
ここで訂正をさせてください。奥宮、ではなくて【外宮】でありました。
お詫びし、訂正をいたします。
近戸神社さんの外宮の駐車場というよりは、川に沿ってある公園のもの、であるかもしれません。というよりはやはり奥宮に公園を設けたのでしょうか。
どこに外宮があるのでしょうか。
奥宮と思い込んでいた私はその言葉から、他の神社さんの奥宮のありますような場所を想像し山深いところだとばかり思っておりました。そもそもが奥宮ではなくて外宮で、近戸神社さんの外宮は川に近い小高い丘、といった場所でありました。
川沿いに歩いてみることにしました。きっとどこかに案内標示板があるにちがいありません。
あ。
橋が見えます。
大きな立派な吊り橋であります。近づいて見ました。
【さらさはし】と書かれています。
えっ?!
遠くから見たときは立派な吊り橋としか見えなかったさらさはしは、そのほとんどが木製で、どこが、といえばたぶん全体的な老朽化を指摘されてなのかもしれないし、よく見ると手すりの基の部分が一部傷んでいるのが確認されたのでその部分だけなのか┉。
その名も〖さらさ〗。
橋の向こうには鳥居が見えます。
ここを渡ってのお参りができないのは、なんとも哀しいことであります。
宮司さまの無念なお気持ちを思うとなんとかならないものかと思わずにはいられません。
┉その上、六百年の伝統を誇る獅子舞(ささら)は、昨年まで一度とて途切れることなく奉納されてきたものでありましたというのに、新形コロナウイルス感染症のために昨年に続き、今年も規模を縮小しての開催が決定しているようです。
半年前初めてお会いしたときより、一回りも二回りも小さくなられたように感じられた宮司さま。
橋の修復はともあれ、来年こそは月田のさらさを例年通り奉納できますよう、祈らずにいられません。
渡れないさらさはしを後に、外宮へと向かいました。
外宮はここからさほど登ることもないところに、おまつりされていました。
獅子舞とお神輿が列をなし、この外宮まで来るという神事、宮司さまのおっしゃられるようにさぞや見ごたえあるものでありましょう。
いつか、必ず、皆が笑顔でそのお祭りを楽しめる日が来るように、今、私にできることは、不要不急の外出をせず、その日が一日も早く来るよう祈ること。そして心豊かに過ごすこと。
群馬県前橋市粕川町月田の東壽寺さんのかつてのご住職さまであり、童謡詩人の青柳花明は、近戸神社さんの月田ささらを、こんな歌にしています。
【お祭り獅子舞】
うぶすなさまのひろ庭で
お祭り獅子が舞い躍る
笛に合わせて首を振り
唄に合わせて足を踏む
高い万燈花万燈
ゆらりゆられて灯がともる
そうかぁ。そうだ。
月田に住まう方々は、皆、月田近戸神社さんがうぶすな神社にあたるのだなあ。
そうして自分の生まれるはるか昔から行われてきた、月田ささらが大好きなんだ!
この歌詞にあるように、高い花万燈もあるお祭りなのでありましょう。
さすがの(?)私もこの唄は知らないのですが、獅子舞のようすが目に浮かぶような歌詞であります。心がはずむ、そんなお祭りの描かれた歌詞であり、歌詞を読むだけで心がはずんでまいります。
外宮まで獅子連に神輿が、列をなしこの外宮まで訪れたのち、獅子舞が奉納され、さらに御川降(おかおり)という神事が執り行われるようであります。粕流しと呼ばれる神事は、外宮であります石祠の裏手で、実際に川に粕酒をなごすのだとか。他に例を見ないお祭りであると思われます。
しかも六百年、中止されることなく続いてきたというこのお祭り、月田ささら。
お神輿もたいそう立派なものと聞きます。
神さまも神事のみならず、欠かさず奉納されてきていた舞や、川を渡っての外宮まてのお散歩も、さぞお楽しみになされていたことと存じます。
ぜひ来年こそは!
口伝でのみ伝えられているというささらは、伝承者に何ごとかあっては未来につなぐことができなくなってしまいます。
医療崩壊が目前に迫っています。
もしかしたらもうすでに起きてしまっているかもしれません。
日本国に住むすべての民が皆、もうコロナに罹患してはならない、そんな局面をむかえています。
想像すらできなかった未曾有の世界に、あっという間に世界中が飲み込まれてしまいました。
今だかつてない不安でいっぱいです。
どうか、神さま、仏さま、
世界をお救いください。
人々をお救いください。
新形コロナワクチンについて、思うことはいろいろありました。
けれども、この爆発的感染拡大を受け、考え方を変えざるをえませんでした。
正直、治験に参加しているという認識が強く、その効果がどうあろうと、一応現段階唱われている新形コロナウイルス感染症に効くであろうというその効果が得られたならば、ひいては及ばずながら感染の抑止力になれるという認識のもとに接種したに過ぎません。
あまりにも早いスピードで拡大しているため、本来ならば三~七年かかる治験をすっ飛ばしての全国民対象の接種にふみ切っているだけだという認識であります。
私は人生を折り返し地点にたった人間で、その一つの布石になろうではないかと思ってのこと、正直、異物を受け入れるという感覚は強かったですし、残りの人生で、ワクチンの副反応がどんな形で現れるかという不安を抱きつつの接種に過ぎなかったです。
ここへ来て変異株、殊にデルタ株の発現により更なる急拡大となっているため、本来ならば決して勧めることなどない子供たちに、ワクチンを勧める発言をしてしまいました。
感染力も大きく、重症化をする事例がかつて重症化しないようだと言われていた若い世代にも急増しているだけでなく、医療崩壊しつつある中、罹患しても中等症化しても、入院できない現実を見せつけられてのことだ。
政府は方針を変えたのではなく、感染拡大についていけず医療崩壊しかけている現実をああいう形で発表したにすぎないのだと思っています。
対象年齢である全国民分のワクチンはすでに確保しているという発表も嘘。
配付できないくらいに供給量がないことがそれを裏づけていると思います。
だから、せめてその機会を得た私は受けよう、そう思っただけです。
なにも生活は変えません。
ワクチンをさほどは信用はしていないからです。
マスクもします。
コロナが日本に発現して以来、外食は三回ほどしておりますが、今後もある程度の収束がみられるまで外食はしないと思います。
外出をすれば今まで通り、一番外に着ていた衣服はすべて洗濯し、あるいは外に干して一定時間経過しなければ室内に入れないマイルールも変えません。
私の大切な存在を守ることになることだけを信じて。
接種後、初めての排尿は今まで嗅いだことのない臭いがしました。
うーん、効いているらしい。
夜寝る前の排尿は腹圧をかけてもかけても出せず、しぼりだすようなものでありました。
夫には一切見られなかった症状であります。
自分では治験を受けている認識を持っているため、少しの症状でも書いておこうと思います。
腕の痛みは結構強くて、水平の高さまで挙げるのがやっとでそれ以上には挙がりません。寝る前に冷湿布を貼りました。
頭痛は同程度で変化なし。
ちなみに┉蚊に刺されて痒くて目が覚めただけです。(*´∀`*)ゞ
一応、新形コロナウイルスワクチン第一回接種後の最終報告を。
接種後、48時間を経過した時点ではまだ軽い痛みがありましたが、54時間後の今は、挙上時に重い感じと、触るとまだ痛いかもな、程度です。
次回ご報告するかどうかは┉そのときの体調と気分で(`・ω・´)ゞ
群馬県桐生市の【東方寺】さんへ参拝してさせていただきました。
こちらのお寺さんは彦部出雲秀昌さんという方が建立したもののようです。
桐生市で彦部家というのはなんでも、さかのぼると天武天皇の長子、高市皇子を祖としているとのことで、鎌倉時代に陸奥国斯波郡彦部郷に移った際より、彦部姓を名乗ったのが始まりという、由緒あるお宅のようで。
室町時代に足利将軍家に仕え、永禄四(1561)年に、桐生市広沢の地に屋敷を構えたと伝わるようであります。
その屋敷は今も現存していて、建物は江戸時代初期のものから後期の物が残っており、彦部家住宅と称して一般にも解放されているようです。
彦部出雲秀昌さんとおっしゃる方が、その何代目に当たられる方なのか、あるいは分家筋の方なのか、ごめんなさい、わかりませんでした。
こちらの近くに福厳寺さんというお寺さんがあり、そちらは彦部屋敷の彦部家の方が建てられておられ、こちらの東方寺さんが曹洞宗のお寺であるのに対し、福厳寺さんは真言宗豊山派であり、関連性はあまりないようであります。
その辺曖昧でわからないままの記述のままでごめんなさい。
どちらも今なお続く家柄のお家であります。
そして東方寺さんも法灯約400年に亘り継承され現在に至る由緒あるお寺さんであります。
長い歴史の中で栄枯もあった様ですが、時の檀信徒の方々と歴代の住職の信心と報恩の浄行によって支えられ、現在の堂宇が整備されたようです。
こちらのお寺の紹介文をご住職さまがお書きになられたものがあるのですが、
『宝物は、文化財として価値のある物はございませんが、寺にあるもの全てが宝物であり、何よりも承継がれた仏法こそが当山の宝でございます。
観光としてお出で頂くには適さない寺ですが、安心を求めてお参り下さい』
と書かれていて、なんとも謙虚でかわいらしく好感が持てました。
そして実際にお会いしましたご住職さまも、
「あんまり字がうまくなくて申し訳ないんだけど」
とおっしゃっておられましたが、大変お美しい手で如是とお書きくださってありました。
やっぱり謙虚なお人柄のようであります。
【東方寺】さんは桐生市の広沢町といわれるところにあります。
この広沢町というのがまた広いようであります。
そのなかの一寺に、やはり東という文字が使われた【東沢寺(とうたくじ)】さんというお寺さんがあるようです。
ナビの示す道がなんだかどうにも狭そうな┉。
夫は急がばまわれと訴えたのですが、運転もしないくせに、ナビがせっかく教えてくれているのだしという私の一存で、┉ナビと私の意見という多数決で、細くてグニグニとした道を行くことに。
想像を絶する細さ。
その細さのまま、急に鋭角に曲がる道。
片側崖ではないものの、タイヤが少しでも踏み外したら、そのまま横滑りで倒れるか一回転しそうな道。
おーい、冒険したい訳じゃないんだよ~っ!
この車のナビにはぜひ、安全安心な道を案内する学習をしてほしいと、切に切に思うのであります。
そんな冒険をさせられて(被害者はあくまでも夫)、這々の体でようやくたどり着いた、東沢寺さん。
『はじめ、唐沢にありしゆえ唐沢寺と称せしが、一本木に移してより、東沢寺と改む』とあります。
慶長二年に、一本木村(今の広沢七丁目)の村民が、栃木県足利市の光泰寺二世を招いて開かれたのが始まりといいます。
なので開基は一本木村民となっています。
唐沢というところがどこなのか、わからないのでありますが、ともあれ、村民の方々が自分の住む村にもお寺さんが欲しいと熱望して建てられた、という、なんとも心があたたまるお話であります。
そう言われてみれば、桐生市の反対の端より、よほど太田市や、栃木県の足利市のほうが近いかもしれない位置関係です。
それにしても広沢町というのは少なくとも七丁目まであるのですね、道理で広いわけです。
いま来た道よりもだいぶ高台にお寺さんも墓所もあるようであります。
道に立ってもお寺さんの建物はまるで見えません。
石段があります。
何段か登った辺りの横の土地に、六地蔵さんが安置されていました。
お顔は、赤いお掛けが風にあおられて、みんな隠されてしまっておりました。
この日はまだお盆というわけでもない平日の月曜日だというのに、四組ものご家族連れがお墓参りにおみえになっておられました。
コロナ禍の新しいお盆の在り方、なのでしょうか。
まあ、とりあえず、平日ではなくて、今年特例の祝祭日であったようでしたが、ね。
なので、私がここでお盆について語るなどということは、まさに笑止千万、であります。
子供の頃から当たり前のようにお盆さまの行事に参加されてこられた方々にはなにを今さらそんなことをわざわざ書いているんだ?となることと思われます。
で、まあ、私の覚書と思っていただければ。
お盆はサンスクリット語で【ウラボン】、漢字に置き換えると【盂蘭盆】となります。
意味は【倒懸(とうけん)= [逆さ吊り]】という意味なのだとか。
?
お盆は逆さ吊りって┉?
【盂蘭盆会】といえば【逆さ吊りになった者を救う法会】ということになるというのです。
逆さ吊りになった者?
実はこの逆さ吊りになった者とは、餓鬼道に堕ちてしまった、お釈迦様のお弟子さんの目連尊者という方のおかあさんだというのです。
目連尊者は、過去・現在・未来のできごとなどを見通すことのできる神通力をお持ちであった方だといいます。
目連さんはその力を人々のために活かされ、多くの人々から尊敬されていました。
有る夏の暑い日のこと。
木陰で休んでいる目連尊者の前を楽しそうに話ながら母子が通っていきました。その姿に、何年も前に亡くなってしまった母親を思いだした目連尊者は、神通力の一つ天眼を利して死後の世界へ会いに行くことにしたのだそうです。
母を探し探して、とうとう地獄の入り口にたどりついた目連尊者はまさかと思いながら入ってみました。
地獄にはいろいろあるそうです。
お湯が煮えたぎって人間が苦しんでる地獄。 針山地獄。血の池地獄。楯刀を持たされて争っている地獄。人間が切り刻まれる地獄。
そんな地獄が際限なく続くそうです。
焦熱地獄を覗いた時です、そこに横たわっている者こそが目連尊者お母さんであったのです。
目連尊者に気づき、駆け寄る母親は一杯の水を頼みました。
しかし、器で運んだ水は熱さで煮えたぎり、持ち寄った食事は火と化してしまいます。
大泣、悲号し目連尊者はお釈迦さまの前に進み出て、ことの子細を話しました。
が、そこで仲間から聞かされたことは目連尊者の母親の悪業だったのです。
目連尊者の母親は目連を大変かわいがりましたが、そのあまり、道理がわからなくなってしまっていたようです。
夏のある日、目連尊者の家の前を通りかかった人が一杯の水をめぐんでくれるように頼みました。
水瓶の水はあふれんばかりでしたが、母親はふたを取ろうとしません。何度も乞う声に母親は「この水は目連の水!」とこたえたのだといいます。
インドは暑く、特に水はどこにでもあるというわけではありません。
お釈迦様は、布施(物を施すこと)は執着心を離れることとして奨励されましたが、それは「心」の問題ばかりでなく、社会の貧困を解決することを考えておられたこともあるのでしょう。
目連を思うあまり施しを忘れ、道理を見失った母親は、その死後地獄行きとなるのでした。
目連尊者にとって、自分のため地獄に堕ちてしまった母親の姿はおどろきであり、この上なく辛く苦しいことであります。
悲しみに打ちしおれる目連尊者は再びお釈迦様をたずねました。
お釈迦様は過去を取り返すことはできないが、母親が生前できなかったことをすることはできると話されました。
「七月十五日(八月に行う地方も多い)は雨期もあがり僧侶も夏の修行に一段落つく日である。人々も町に出てくる。この人たちに母親の出来なかった施しをするがよい」と示されました。
目連尊者は飲み物の他、百味百果の食べ物を用意し、衣服をも用意されました。修行僧のほか、そこを通る全ての人々へ、母親ができなかった施しをし、母への供養としたのだといいます。
目連尊者は再び神通力で母親を訪ねました。
白い雲に包まれた母親がうれしそうに空に登っていくところであったといいます。
目連尊者はその後毎年供養を続けることを誓ったのです。
この行いが二千数百年経た今も、お盆という行事となって伝えられ、行われているのだといいます。
鎌倉時代末期の正中二(1325)年に開創されたお寺さんのようです。
群馬県太田市世良田にある長楽寺から来錫した南海宝州さんという方が、釈迦堂を建て庵を結び、郷民の摂化伝道に勤め、後に堂宇を建立し、縁師仏乗禅師を勧請し開創されたもののようです。
世良田の長楽寺は、その昔臨済禅の名刹であり、常に数多くの雲納、僧侶が参集し、修行伝道の大道場でありました。
建武三(1336)年、新田義貞公は、出兵に当り、園田七郎秀成の実子園田四郎左衛門尉秀澄を家臣に加え、一族の戦勝を祈念して東禅寺へ「毘沙門天像」を寄進し、寺領を奉納したのだといいます。
しかし武運つたなく建武五(1338)年七月、両者共に戦死されています。現存する市指定文化財「建武の碑」は、その供養塔と思われるとのことであります。
その後、天文(1532-1555)年間、永禄(1558-1570)年間は戦国の世となり、上杉・武田、及び桐生・由良両氏の交戦の戦禍に巻かれ総ては灰燼と化し、開創以来二百余年の歴史に空白を生じるのだそうです。
安土桃山時代の天正元(1573)年、東禅寺開創者の子孫の帰依を受け、再興され今にいたるようです。
現存する東禅寺本堂は、江戸時代前期の寛永八(1631)年現在地へ移築したものだそう。
江戸時代中期の宝永八(1711)年には梵鐘も鋳造し鐘楼も建立して名実ともに臨済寺院としての形容も整えられます。
しかしこの梵鐘は第二次世界大戦の時応召され鐘楼のみが残され、現在の梵鐘は昭和四十八(1973)年に再鋳奉納されたものなのだそうです。
そして平成に入り、本堂・禅堂・庫裏の整備を行い、平成七年(1995年)秋に落慶大法要を厳修したといいます。
先に述べた「建武の碑」とされる供養塔は、「東禅寺角塔(角塔婆)」と呼ばれています。
高さ87cm、底部の一辺が28cmの上部がやや細くなった角柱で、材質は疑灰岩でできています。四面には「南無阿弥陀仏」、左側面下部に「建武五年七月三日」と制作日が陰刻されているそうです。
閏七月三日は新田義貞が戦死した次ぐ日であり、さらに東禅寺が新田氏所縁の寺であるとの伝承もあることから、この角塔が新田義貞と関係があると推察されているようです。
桐生のお寺という冊子と角塔の案内板を参考に書かせていただいきました。
ニュースをみて愕然とした。
激しい怒りをおぼえた。
五輪で未使用に終わった医療用マスクやガウンなどを、実に五百万円分を廃棄したのだという。
医療関係者への譲渡は手続きに時間がかかり、保管場所がないため捨てたのだと。どうして他に相談できないのだ。
しかもそれはパラリンピックで活用しようと確認して廃棄が判明したのだといいます。それは本来一枚岩であるべきであろうに、何故?
お弁当の廃棄量の凄さも怒りをおぼえたものだが、この暑さで食中毒の危険もあり、それはそれで納得する材料があった。
だが今回はまるでみつけられない。
五百万円分という金額ではない。
このコロナ禍、それがどれだけ需要のあるものであるかを、これっぽっちも考えられない人がいるのか。その廃棄を止めようとした人は何人いたの?
その声ってやっぱり届かないものなんだ。
これは┉。
日本っていう国はここまで腐敗しているのか。
吐き気すらする。
夫が桐生市立図書館で手続きをしてまで借りてきた【ふるさと桐生の民話】の本。
私はパラパラっとまくって、面白そうな、あるいは参拝させていただいたお寺さんや神社さんのところだけ読んでいるにすぎませんが、夫は、桐生市の白地図を購入して、さらにはなにやらいろいろと調べて資料を作製している模様。
同じ書を手にしても、これだけの差があること。
これが彼の知識と私の徹底的な差であったのだなあと、今さらながら反省し、夫のそのあくなき探求心に感心した次第であります。
さて。そんなふるさと桐生の民話のとある一冊の目次を見るに、桐生市にも【道了尊】さまがまつられているような。
道了尊さまとの初めての出会いは群馬県みどり市大間々にあります、【はね瀧道了尊】さま。
何やらお堂があるようだと訪ねたのが初めての参拝でありました。そこで初めて道了尊さまのお名前を知りましたくらいで、そもそもが読めず。
ようやく参列叶った道了尊大祭で、【どうりゅう】とお読みすることを知ったくらいでありました。
道了尊さまは神奈川県足柄市の最乗寺さんよりお招きされたとのこと。
最乗寺さんの建立に際して尽力された実在された人物、┉神通力をお持ちであったようで、天狗さまのお姿になられることがあったとか。
お姿は背中に羽をお持ちであり、両手両足に幸運の使い蛇を従え、白ぎつねに乗られたもので、右手にはしゅ状(ねじり棒、もしくはねじり木)を左手には縄をお持ちであります。
願をかけるに際しては、ねじり棒をお借りし、願いが叶ったあかつきには、お借りしていたねじり棒を返すとともに、天然にできたねじり木をお供えするということでありました。
桐生市の道了尊さまは、梅田町四丁目というところにおまつりされているようです。
そもそもが梅田町というところへあまり行くことがなくて、桐生の民話という本には地図も写真も載せてくださってはおりますが、地図も白地図に著者が矢印を付けたものを拡大しているものに過ぎず。当然のことながら、ナビには出なそうで┉。
さて。
桐生市の道了尊さまへの参拝はかないますものかどうか┉。
もともと頭の許容量がたいそう少なく、これだけ珍道中を重ねながらなかなか理解するのが難しかったり、記憶したつもりがいつのまにやら抜け出ていたり。
仏教においては青少年向けという資料をいただけるお寺さんがあり、これを読んでみればあるいは?と思ってみたものの、やはりそんなものではなかった。
第一章の、お釈迦様の御教えの基本というところからつまずく有り様です。
でもそのつまずいた中にキチンとヒントがありました。
┉煩悩のせい?柔軟性を欠いた脳みそのせい?
108といわれる煩悩が、私だけ特別仕様で216あるのでは?と思ったりするくらい、歩く煩悩で。
なんでも、
人生は快楽のみを求めるのはもちろん、心身を痛め苦しめる苦行も実は自己満足でしかなく、その両端でないところ、中道という柔軟な自由な立場に立つことをお釈迦様は説いておられるといいます。
そして、
世の中のすべてのことは〖因〗と〖縁〗によって変化し、連続した変化の流れとして考え、すべての結果にはなんらかの原因があるという〖縁起〗という思想があるといいます。┉この辺ですでに立ち止まる私。
そう、まさに柔軟でない頭が作動しているせい。
縁起がいいとか悪いとかの縁起という言葉がひらひらと脳内を舞ってしまう。
なるほど、これも仏教語で、要はすべての現象は原因や条件が相互に関係しあって成立しているってことですね。
そして、そんな原因とか因縁とかを悟って、中道を歩くということを説いておられるということでしょうか。
そしてその中道を歩む具体的実践法として四つの真理〖四諦〗というものを説いておられるという! よぉし(*>∇<)ノ
四諦とは〖苦諦〗、〖集諦(じったい)〗、〖滅諦〗、〖道諦〗というものがあるようです。
〖苦諦〗とは、
楽しみがあってもまた悲しみがあり、人生の本質は苦である。
( 。゚Д゚。) えっ┉
┉この苦諦のなかに【四苦】と【八苦】があり、これにとらわれないことと説いておられるようです。
四苦とは、〖生〗・〖老〗・〖病〗・〖死〗。
八苦とは〖愛別離苦〗・〖怨憎会苦〗・〖求不得苦〗・〖五陰盛苦〗。
┉ああ、このお話はお坊さまのお話にありました。
人として生まれたら決して逃れられない苦しみというものがあり、それが上記されたものであるという。
そ、そっかぁ。
そ、そうですかぁ。
人生の本質は苦であるとか言われると、やっぱりそうだったか、そうだよなぁ、と落ち込んじゃうとこがすでに煩悩人間。
ちょっと前に、お釈迦様がいろいろ苦しみ、苦行をして、そしてようやく悟りをひらかれたことを思って、悟りをひらけないという末法の世であっても、お釈迦様も苦しんで生きておられたのだから、そこは同じ。
お釈迦様のおられた時代に生まれようと、私は間違いなく悟りをひらけるだけの生き方ができたとは思えないし。
だからいつの世に生まれても苦しいことはおんなじだ、┉みたいなことを書いたくせに。
でも┉。
いつも笑顔で過ごしておられる方も、少なくとも前述した四苦八苦からは逃れられない。すべての人間が負う苦しみなわけで。
そこをどう生きるか、というわけですかね。
そこを苦しい苦しいとあがいているだけでは中道というところには立つことができないということ。┉かぁ。
不惑といわれた歳をとうの昔に過ぎているくせに、苦行をするわけでもないのに苦しい苦しいとへいこら言って生きている私。
このコロナ禍という有事の時に生きている意味を考えたなら、もう少しいい生き方をしていたい。
この緊急事態宣言下。
ほんの少しでいいから、あがいてもいいから、少しいい生き方をしたいと考える、おばさんが一人。
栃木県足利市は、豊かな自然と数多くの寺社仏閣が残る歴史ある街であります。
郊外に名草と呼ばれる地域があり、螢の生息する里としても有名なようですが、名草といえば巨石群というくらい神秘的な巨石群のある景勝地となっています。ここは古くから磐座(神様が宿る岩)として信仰されており、巨石群のなかに厳島神社、弁財天さまがおまつりされています。
ナビに引かれて厳島神社参り。
うーん、山道。細い道。
足利市、結構そんなところが多いです。
で。
案内された先に唖然。
えっ?ここは神社じゃないよね。
ええ、誰が見てもここは┉観光地にありがちなかき氷だとか焼きそばだとかおでんとか売ってる売店と、噴水や見晴台などがあるおしゃれな子供たちの喜びそうなつりぼり。マスのつかみ取りもできバーベキューのできるところもあるようで┉。いやいや、そうじゃなくて、巨石群に!厳島神社さんにお参りに来たんですってば!
とりあえず、停めるしかありません。
うーん、楽しそう。
孫と来たら娘が喜びそうです。娘、マスのつかみ取り大好きなんです。
お?
あ、あれ、あります、ありました、鳥居があります。
ここでよかったんだね、ありがとうナビ♡
赤い鳥居がそびえています。
明るく楽しそうな空間のすぐそばでありますが、そこからは一転空気が凛としております。
参道はすぐそばを小川が流れ、なんとも澄んだ空気です。
が、結構な傾斜で未舗装な道。すぐに息があがります。マスクがキツい。
歩けども歩けども、道、道。
巨石と呼ばれるものにしては、まあ結構いろいろなところで見かけるくらいの大きさでしかありません。うーん。
歩く、歩く、登る、登る。
ええぇっ、まだ登るのぉ?
┉当たり前です、神社、見えてきませんから。
ウソでしょ~。
♪登って登って登って登る~っ♪
おおっ!何やら建物が見えてきたではないですか!
┉ト、トイレだ。
進んで進む。
おおっ!今度こそあづま屋です。
ここまでどのくらいのぼったのだろう。
さらにようやく巨石が見えてきた。
石造りの鳥居をくぐると【弁慶の手割石】と書かれた立札があります。なんでも弁慶がこの上に仁王立ちになって錫杖で石を割ったと書かれています。
うーん、弁慶かぁ。
弁慶、こんなところを通ったのかしら?
まあ、伝説にありがちなものでありましょうか。とはいえ、最近ちょこちょこ話題として登場している【ふるさと桐生の民話】という本にも、桐生の山を義経公の一行が山越えした伝説があるとかないとか。前橋市にも“ここで義経公と静御前が別れた„と言われているところがあるようで。
それだけ義経公や弁慶が愛されていた、ということでありましょう。
通ったといえばまるっきりあり得ないわけではないですが。
そして、そんなことより!
この巨石、私の背丈よりも高いほど大きな石なのですが、上から下まで実に真っ二つ!
こ、これは!
あの鱗滝さんの竈炭治郎が最終選別に出ることができるか否か課した、課題の石そのもののようです。炭治郎が全集中の呼吸を修得した時の!
┉わからない方、ごめんなさい。
要はあの空前の話題作〖鬼滅の刃〗の1シーンのようだ、ということが言いたいのです。
きっとここも今で言われるところの聖地、なのでしょうね。
そういえば、足利市にはもう一つ〖鬼滅の刃〗の聖地がありました。
藤の花が咲き乱れる藤襲山にちなみ、藤の聖地┉ではなくて全国的にも有名な【足利フラワーパーク】です。
おかげでこのコロナ禍、警戒レベル2まで下がっていたフラワーパークに、今年は人が全集中しそうで行くことが出来なかったくらいです。
閑話休題。
その弁慶の手割石のわきにある、でこぼこと不揃いな石段の先を見上げると、ようやく拝殿の屋根が見えてきたではないですか。
登っていくとみぎてには神楽殿、そしてひだりてには、巨石!
巨石です緑の苔が生えた大きな大きな石であります。その手前に小さな┉あ、別に小さくはないですね、普通の大きさの弁財天さまの石像がまつられてあります。台座には安産子宝弁財天と彫られています。
そして、胎内くぐりという小さな立看板が!
胎内くぐり、ぜひともしたい!
┉規制線が張り巡らされています。
出来ない┉。
そうかもしれない。
だって参道すらが水が流れるほどになっています。
石と石の隙間をくぐるということは、予期せぬ事故が起こることだってあります。(T^T)
胎内くぐりができないことに気落ちしたものの、ようやくの参拝となりました厳島神社さん拝殿に向かいます。
石段をのぼるのも拝殿が巨石群の上に建てられているから。
巨石群最大の御供石と、巨石の上に建てられた厳島神社。
落ちついた、装飾は一切ない建物が、巨石の上にまるで意志をもって座っておられるかのような┉ここを護ってくださっていることに喜びと誇りを持ってくださっておられるような威厳を持って、そこに鎮座されていました。
周りのいくつかの巨石の肌を静かに静かに、清らかな水がきらめきながら、岩肌を撫でるように流れています。その神々しさといったら┉。
厳島神社は、伝承によると、平安時代初めの弘仁年間(810年~824年)、空海上人が、水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりといわれているようです。白い蛇の道案内により、清水の流れる大きな岩の前に出た上人は、岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勘請し、前に祠を建てられたといいます。
元禄六(1693)年、このそばにあります金蔵院住職が、領地検分の家老に、弁天宮の再建を願い出て、下附金三両でお舟石上に石宮を建立したのが本宮であるといいます。
明治の神仏分離令により厳島神社となっています。
一番大きな御供石は高さ約11m、周囲約30mといわれています。一見小さく見える上の三角状の笠石ですら、およそ3mもの高さがあります。
こう書けば少しはその大きさが伝わるでしょうか。その御供石の岩の隙間を通り抜けることを「胎内くぐり」と言っているようで、ここを通り抜けると子宝や安産に御利益があると信じられています。
┉子宝には恵まれたし、なんだかんだ安産だと言い切れるほどではなかったけど難産だったとまではいかないだろうし。
そういったご利益であれば、そもそもがくぐる必要もないってことかぁ┉。
まぁ、再拝させていただいたときに胎内くぐりが可能なら、絶対にするおばさんですがね。
名草の巨石群は国の天然記念物となっているそうです。花こう岩の大きな塊が外から風化していったもので玉ねぎ状に風化し、水に洗われた節理間の核心の部分が球状に残り巨岩を積み重ねた形になったものなのだとか。境内の立看板に書かれていました。
まるで理解していない書き写しですがね。
とりあえず言えることは足元たしかな靴と、水分補給の飲物必携、ということでありましょう。
群馬県桐生市の白瀧神社さん。
宮司さまも常にはおられず、例祭のときにしかおみえにならない神社さんですが、こちらの落ちついた、やわらかな、明るい雰囲気が好きで、何度か参拝させていただいております。┉私一人でも。(*`艸´)
何やら文化遺産になっているようで、小さな山里にあります神社さんですが、いろいろなところで記事として扱われているようです。
でも、どなたにもお会いすることなく(例大祭のときは別です┉って書くまでもないことですね)一人で心ゆくまで神さまとご一緒させていただけております。
私の穢れを浄めてくださろうと神さまが寄り添ってくださっておられるのでしょうか。┉それはちょっとずうずうしい考えでありますかね。
ただひとつ。
こちらにおまつりされておられる白瀧姫さまは元々は都から山田奴の妻としてお越しになられたお方とされています。
姫さまはこちらにおまつりされ、山田奴さんはどうされたのだろう┉。
姫さまも山田奴もお寂しい思いをされてはおられぬだろうか。
たいへん仲むつまじかったお二人であられたようなのに、一説には姫さまはこちらに埋葬されたとまであるのです。
山田奴さんはいずこへ?
まあ、こんな煩悩だらけの凡人の私とはもともとの考え方すら違うのかもしれません。姫さまが神として祀られたことを純粋に〝喜び〟と考えたかもしれません。そしてご自分はあくまでも村人、里人の一人であると自覚されていたのかもしれません。┉周りの人たちもそうだったかも知れず。
だとしたら山田奴さんのお墓とかはどこか別のところへ?
┉そんな山田奴さんのこと、【ふるさと桐生の民話】という本に、しっかりと書かれておりました。
白瀧姫さまと山田奴のお話。
時の帝から許された二人も、避けては通れぬ別れがあります。
〖愛別離苦〗。死がこの二人を別つ時がやってきます。
姫さまが病の床に着かれたのが先であったようです。
山田奴は懸命に看病したのですが、やがて姫さまは息をひきとられます。その悲しみようは見る者の涙を更に誘うものであったようでありました。
葬儀後。
山田奴は姫さまの葬られた境内にあります【降臨石】のそばで、ある時は泣き崩れ、またある時は放心し、食事もとらずに日がな過ごしていたようです。
そして┉ある時、ふいに姿を消してしまったのだといいます。
村人たちはその悲しみの深さを知っていたため、山田奴の行方をたいそう心配したようでした。
その後。もう一度山田奴は、見る影もない姿で戻ったものの、再び姿を消しその後の行方は誰も知らないということのようでありました。
┉山田奴が葬られたところが無いわけです。
┉┉。
群馬県桐生市の白瀧神社さんの境内には【降臨石(こうりんせき】と称する周囲30~40mともいわれる大岩があります。
この岩が、大きいからというのではない存在感あるもので┉なんだかそこで微笑んでいるかのような、おだやかな、あたたかな気を放出しているかのようなものであります。
苔が生え、木の芽が芽生えた、この石の存在が〝神„のようです。
なんでもこの石、七夕の夜に突如として星が落下して岩となったと伝えられています。さらには岩肌に耳をあてると白瀧姫の機音と糸を繰る音が響くと近隣に知られたものの、ある不心得者が雪駄を履いて岩に上がって以来機音が止まってしまったとの言い伝えがあります。
秋の日を迎えまた参拝させていただきたいと思う、神社さんです。
なんでも近年は、身分の差を乗り越えて夫婦になった事から縁結びの御利益があるとも云われているようですよ。
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