コイアイのテーマ †main story†
誰にでも、たった一人、
忘れられない人が居るハズ
※この作品はフィクションです。
プロローグとして書き綴った『コイアイのテーマ』の続編になります。
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>> 150
数日後、CMの最終打ち合わせの為に、
美咲は菅沼と一緒にJNK本社を訪れた。
会議室には、広告代理店の内田がスタッフと共に来ていて、
そこに、いつもはJNKの部長が現れるのだが、
今回は陽介が部下と一緒に現れた。
内田の進行で話しが進む中、
美咲は、あの夜4人で会った日以来の再会となる陽介を
何度も確認していた。
「――それで、今回の撮影には、JNKから鳴海さんと山本さんが
同行して下さいます」
その言葉の後、美咲は顔を上げて陽介を見ると、
陽介も美咲を見て、小さく頭を下げた。
打ち合わせが終わり、美咲は菅沼と共に会議室を出た。
「種元さん」
1階ロビーで美咲が振り向くと、陽介が後を追ってきた。
「少し、お話し宜しいでしょうか」
陽介は、菅沼に向かって頭を下げて言った。
>> 151
陽介は、自販機前のスペースに美咲を連れて行った。
「冷たいの?」
「うん」
陽介は、その返事を聞いて、
冷たいミルクティーのボタンを押した。
「覚えてるんだ」
微笑んで、カップを渡してきた陽介に
美咲は自分の嗜好を覚えていてくれたことも合わせて、
少しだけ胸を熱くした。
「陽ちゃん、撮影に同行するんだね」
「今回はね」
「ふーん・・・」
美咲は少し口を緩ませ、
冷たいミルクティを飲んだ。
「なぁ、美咲」
「ん?」
「彼氏に会いたいんだけど」
美咲は動きを止めて陽介を見た。
「――会いたい理由は何?加世のこと?」
陽介は頷く代わりに、ぼんやりと美咲を見つめた。
自分の知っている陽介はいつも自信に満ち溢れ、
余裕を感じさせた。
なのに、たかが小娘の加世一人のことに、
こんなに憔悴した顔を見せるなんて・・・。
その力のない姿に、美咲の中の陽介への思いが、
引き潮のようにサーと消えていくようだった。
>> 152
仕事の量が増えていく美咲は、ホテルに寝泊りすることも多く、
敦史と会えない日が続いていた。
数日後には海外へCM撮影に向かう7月のある日、
仕事の合間を見て、美咲は荷造りの為にマンションへ戻った。
仕事に行った敦史の姿はなかった。
敦史の部屋を覗くと、いくつものダンボールが重ねられ、
引越しの荷造りを進めているのが分かった。
結局、出て行ってしまうのか・・・。
美咲は敦史に別れないと言ったものの、
引越すことを、強くは引き止めなかった。
それは、仕事が忙しくなるにつれ、
周囲の目が否応なしに自分を認識し、
プライベートな部分が無くなっていることと、
外に出た途端、知らない視線、カメラ目線に晒されるのだと、
事務所の社長や菅村からも注意されていたからだった。
陽介は敦史に会いに行ったのだろうか・・・。
少し、気にはなったが、
それはそれで、敦史が加世子を忘れざる終えない結末になるだろう。
美咲は、冷静なまでに、静観しようと心に決め、
荷造りの為に、奥の部屋へ向かった。
>> 153
家と店の住所、会えるであろう時間帯を
美咲が書いたメモを財布に入れたまま、
陽介は、なかなか行動にうつせないでいた。
一つは仕事が忙しかったのもある。
ただ、もう一つ、加世子からの返事を待っていたからだった。
あの日から8日経つというのに、加世子からの連絡はなかった。
海外に発つ2日前になり、陽介は意を決するように
午後の2時過ぎに、敦史の働くレストランを訪れた。
ランチ時間帯は終了したと伝えにきた、スタッフの女の子に
「薄井敦史さんに会いにきました」
と告げた。
その子は、陽介から受取った名刺を持ちながら、
奥へと消えていった。
そして暫く後に、コック姿の敦史が顔を出し、
陽介の顔を見ると、ジッと凝視したまま、
エプロンをゆっくりと外した。
>> 154
客の居ないオープンテラスに通され、
眩しい夏の日差しを避けるように、
陽介はパラソルの下の席に座った。
すると、私服姿の敦史が現れ、
陽介の背後のウッドフェンスに両肘をかけ、
タバコに火をつけた。
「俺にもくれない?」
敦史はチラリと振向き、
タバコとライターを重ねて渡した。
「若いのに、重いの吸ってんだな」
陽介は、ちょっと笑ってタバコを一本抜くと、
火をつけて口に運んだ。
暫くの沈黙があった。
敦史は背中を向けたまま、外を見ながらタバコを吸っていた。
陽介は、タバコの煙をゆっくりと吐きながら、
敦史の背中を見た。
「頼みがあるんだけど」
その言葉に、敦史は体を返して、
陽介と目を合わせた。
>> 155
「加世子の体の呪縛、解いてくんない?」
「ーー」
「アイツ、
ずっと胸に抱えちゃってんだわ。
『他の男と寝ないで』って言われた言葉」
陽介の頭に、あの晩の事が過ぎった。
加世子を裸にしたあの後、
「陽介さん…ごめんなさい……」
陽介が体を起こして見ると、加世子は泣いていた。
「敦史の言葉が忘れられない……」
そして、
『他の男と寝ないでーー俺ももう寝ないから』と言われた事、
今、何か悪い事をするかの様に胸が締め付けられていると加世子は話した。
「向こうが美咲と寝てないなんて有り得ないよ。分かってる?」
「分かってますーー
でも…私…」
加世子は顔を歪めて泣いた。
「…もう少し、時間を下さい」
「ーー分かったよ」
陽介は体を倒して、加世子に腕枕をして抱き寄せた。
>> 156
呆然と動きを止めた敦史の手元から、
タバコの灰が下に落ちた。
陽介は思い返して自嘲的に笑った。
「俺もとんだ道化だよな。
強引に抱いて、自分のモノにすりゃいいのに」
敦史は、鋭い眼差しで陽介を睨んだ。
「キサマ、加世のこと本気じゃ――」
「本気だよ。
だから、お前みたいに犯せないんだよ」
顔を上げ、同じように強い眼差しで見つめ返して言った陽介に、
敦史は何も言い返せなかった。
「小さな約束を守るとか、側に居たいから居るとか、
加世子は心の底の気持ちに、いつも素直で真っすぐなんだよ」
「・・・・」
「フッ、どういうつもりで言ったか知らないけど、無責任だよな?
自分は元の彼女の親友と付き合ったり、好き勝手やっててさ。
――どれだけ、自分が加世子に相応しくないか、身に沁みて分かるだろ?」
陽介は目を逸らさずに敦史を見て言った。
敦史はただ黙って、目線を合わせられずにいた。
陽介はゆっくりと席を立ち、敦史に向かい合った。
「話すにしても、会うにしても、あと1回きりだ。
その後は、二度と加世子の前に姿を見せるなよ」
そう静かに言うと、その場を去っていった。
>> 157
翌日、敦史は仕事を休んだ。
昨日、オーナーに休みたいと話したら、
「お前の有給たまりまくり。消化するにも日が足りないよ」
と、笑って了承してくれた。
9月のオープン前に、8月には新店の準備に入り、
この店には、出向する形で通うことになっていた。
7月も残り1週間――
だからと言って、有給を消化しようとは考えていなかった。
だけど、今日一日だけ・・・
敦史は、自分の部屋の引き出しを開け、一枚の名刺を出した。
そして、その番号に携帯から発信した。
出版社名、部課名、土田の名前――
表紙を見つめている内に電話が繋がった。
「真中加世子さん、お願いします。薄井といいます」
『お待ちください』
その合間、少なからず、敦史は緊張した。
『――お電話かわりました。真中です』
「もしもし」
『・・・敦史?』
すぐに名前を言い当てられ、敦史の胸にくるものがあった。
「今日、時間作れない?」
『えっ・・・』
「会いたいんだけど」
敦史は表情も声も平静を保ったまま、
昼休みに加世子と会う約束をして電話を切った。
>> 158
電話を置いた加世子は、暫くそのまま動けないでいた。
「真中さん?」
「は、はい」
花に顔を覗き込まれて、やっと我に返った加世子は席に戻った。
だが、午前中の仕事は上の空だった。
今日、陽介に返事をしようと考えていた。
それもあって、ここ数日、敦史を思い出すことが多く、
会って話したいとさえ思っていた。
その思いが通じた様に、電話が掛かってきて、
加世子の胸は否応なしに高まっていた。
待ち合わせは、加世子の会社近くの石畳の公園にした。
敦史は場所が分かるだろうか?
昼休みになり、加世子は少し心配しながら、足早に会社を出た。
噴水前――と伝えた。
加世子が、公園の中央にある噴水を見つめながら歩いていくと、
遮られた水の先に、私服姿の敦史を見つけた。
加世子は胸の鼓動を抑えるように、
何度も小さく深呼吸をしながら近づいていった。
>> 159
噴水の周りを伝うように、敦史の隣へ行った瞬間、
敦史は加世子の方を見て、加世子は立ち止まった。
眩しい太陽の日差しが、噴水の水しぶきを輝かせ、
敦史の澄んだ瞳にキラキラと反射し、吸い込まれる様に加世子は見つめた。
敦史は、そんな加世子を無表情のまま見つめ返した。
「まだ、俺に気があるんだ?」
「!――」
「昨日、アイツが『もう会わないように』って、情けなく言いにきたよ」
敦史はそう言うと、思い出し笑いをするように、口元を緩めた。
加世子は立ち尽くして、敦史を見つめた。
敦史は、少し笑ったまま、加世子を見た。
「いつまでも、ガキな考えのままなんだな」
加世子は顔が熱くなるのを感じたが、
敦史から目を逸らさなかった。
敦史も口元を緩めたまま、加世子をみつめていた。
「フフ、俺の体が忘れられないとか?」
「!」
敦史は一歩踏み出して、加世子の耳元に顔を近づけた。
「やってやろうか?」
加世子は咄嗟的に、敦史の頬を平手で叩いた。
>> 160
敦史は叩かれたまま、顔を横にそむけていた。
加世子の目から、涙がこぼれた落ちた。
「わざと言ったの、分かってる」
「フフ、嘘じゃないって。いくらだって、抱いてやるよ」
敦史は横を向いたまま、笑って言った。
「じゃあ、敦史の言葉を信じるから――」
敦史はゆっくり振り向き、加世子を見た。
「――陽介さんと、結婚していいのね?」
本当に小さな賭けだった――
敦史の瞳を見つめながら、答えを待った。
敦史は冷静な表情で、加世子を見つめ、口を開いた。
「・・・俺には関係ねぇよ」
加世子はゆっくりと視線を落とし、
そして、区切りをつけるように頷いた。
「分かった」
顔を上げたとき、又涙がこぼれたが、
すぐに手で拭って、微笑んで敦史を見た。
「――元気で」
沢山言いたい事があったのに、その言葉しか出てこなかった。
敦史は加世子がときめく程の表情で、見つめ返してきた。
「じゃあね」
加世子は、敦史に背を向けて歩きだした。
決して振り返らずに――
あふれ出す涙を見られないように・・・。
>> 161
日が落ちた公園の噴水前のベンチに、
敦史は前かがみに座ったまま、加世子が去って行った道をずっと見ていた。
会社帰りの大人たちが、行き来しだした中、
一人のサラリーマンが携帯ラジオを調整しながら、
敦史の斜め背後に腰掛けた。
『――次のナンバーは、風さんリクエストで《TSUNAMI》』
耳に入ってきたその曲に、敦史は鼻で笑って俯いた。
そして、小刻みに何度も頷くようにして顔を上げると、
その目は涙で濡れていた。
敦史は振り切るように立ち上がり、噴水の周囲の水辺に両腕を入れ、
バシャバシャと叩き切るようにし、自分にも掛けた。
周囲の人が、奇妙な目を向ける中、びしょ濡れになったまま、
言い知れぬ気持ちを抱え、
ふらつくようにその場を去っていった。
その晩陽介は、空港近くのホテルで接待を受けていた。
途中、席を立ち、部屋の外に出た。
離れたところで携帯を開きみると、留守電が1件入っていた。
『陽介?元気?
随分顔を見せないけど、彼女と順調なのかしら?
――お店で待ってるわね』
百合絵からだった。
百合絵に電話を掛けようとした時、携帯が鳴った。
>> 163
その言葉を耳にした瞬間、陽介の顔は
パッと生気を帯びた。
「加世子、マジで!?」
『はい』
みるみる内に、陽介の顔はほころんでいった。
「あー!側で聞きたかったよぉ。
なのに、今空港近くのホテルで接待受けててさぁ。
帰ったらすぐ、式場見に行こうな!
その前に、両家に挨拶か!」
『フフフ』
陽介の興奮した様子が可笑しいようで加世子は笑っていた。
陽介は込上げる喜びを制して、電話口に加世子を強く思った。
「受けてくれて嬉しいよ」
『・・・はい』
「今すぐ会って、抱きしめたい」
『・・・・』
陽介は固まっている加世子を想像して、少し笑った。
「タイムリミットを昨日までにすりゃ良かったよ」
『フフ』
その時、山本が陽介の方へ近づいてきた。
接待の場をそう長くも離れてはいられない。
「帰ったら加世子のマンション行くな」
『待ってます』
その言葉を聞いた陽介は、電話を切って、
弾むような気持ちで部屋へと戻っていった。
>> 164
電話を切った加世子は、陽介との会話の余韻で微笑んではいたが、
その心は切なさに覆われていた。
加世子は、ベッド上の棚の引き出しをあけた。
そして、中から、オルゴール、写真集と手紙、ストラップを取り出し、
ベッドの上に並べた。
陽介と結婚することを決めたからには、
持っていることは出来ない・・・。
加世子は小さな段ポールを持ってきて、
その中に一つずつ片付けていった。
最後に老女からの手紙を開いて読んだ。
『このキーホルダーに込める願いがあるなら、それも叶う気がします。
毎日探し続けた貴方の真っすぐな思いさえあれば・・・』
真っすぐな思い――
その時の加世子には、
それがどういうものなのか分からなかった。
>> 165
その日の日中、美咲は仕事の合間をみて
敦史の携帯に電話をかけたが、
数回コールの後、いつも留守電に繋がってしまった。
「美咲。
明日から海外なの。
帰ってきて、引っ越した後だったら嫌だから
会いたいの。
連絡ちょうだい」
「これからのこともちゃんと話したいし、
連絡待ってるから」
いくつも留守電にメッセージを入れたが、
敦史から着信もメールも無かった。
日が沈んで、仕事を終えた美咲は、空港近くのホテルへ向かうため
菅村と共にタクシーを待っていた。
少し離れて、敦史の職場でもあるレストランに電話をかけた。
『今日、薄井は休みです』
その返事に、電話を切るとすぐ、
又敦史の携帯に電話を掛けたが、やはり留守電に繋がってしまった。
「敦史?今どこ?連絡ちょうだい」
美咲の心は苛つきと不安が入れ混じっていた。
菅村がタクシーに乗り込むと、外で、美咲は立ち止まった。
「家に帰る」
「朝早くに出発なのよ」
「ちゃんと遅れないように行くから」
そう言うと、ドアを閉めて歩き出した。
>> 166
玄関を開けると、中は真っ暗だった。
美咲は中に入り、玄関近くの敦史の部屋をノックしてドアを開けた。
壁のスイッチをつけると、
この間見た時より、ダンボールの箱が増え、
部屋の隅に積み重ねられていた。
まだ残ったままの机の前に立ち、
ポツンと置かれた一枚の名刺を手に持った。
そこに書かれてある出版社名を見て、
美咲の心はざわめいた。
そして、携帯を取り出し、敦史にかけた。
――すると、呼び出し音が家の中から聞こえてきた。
美咲は驚くように振り向き、部屋を出て、
リビングへ続くドアを開けた――
その瞬間、美咲は血の気の引く感覚に襲われた。
混ざりあった酒の匂いが充満していた。
「・・・あつし」
動揺した気持ちのまま、電気をつけた。
「敦史?」
ウイスキーやワインの瓶が床に転がっている中を、
怯えるように美咲は敦史の姿を探した。
そして、愕然と立ち尽くした。
「敦史ー!!」
ソファーの陰に倒れた敦史の顔は青ざめ、
駆けつけた美咲の言葉にも反応しなかった――。
>> 167
4.感情
病室の前のベンチに座る菅村の元へ、
帽子を深くかぶり、メガネをかけた美咲は俯き気味に美咲はやってきた。
「急性アルコール中毒ですって。大丈夫よ」
美咲の泣きはらした目から、又涙がこぼれた。
あの後、美咲は救急車を呼び、その後菅村へ泣きながら電話を掛けた。
『玄関の鍵は開けて、アナタは外へ出なさい』
その指示通り、美咲は敦史を残して、部屋を出た。
救急車が来て敦史を運んでいくのを、
マンションの前で、やじ馬に交ざって祈るような気持ちで見送った。
その後、菅村が病院へ駆けつけ、
落ち着いた頃に美咲に連絡が入り、病院へやってきたのだ。
「彼、誰か看てくれる人他に居ないの?」
美咲はただ首を横に振った。
「職場の人とかにお願いするしかないわね。
――とにかく、美咲は残れないんだからね。明日は出発するの」
美咲は頷くように、厳しい菅村の目から目線を外した。
「・・・顔、見てきていい?」
「あまり、長居しないでね」
美咲は、静かに病室のドアを開け、中へ入った。
>> 169
翌日の早朝。
加世子は頭の上に置いた携帯の着信音で目を覚ました。
「――はい」
『加世?』
起きたばかりの頭は働かず、それが誰か分からなかった。
『美咲だけど』
「美咲?」
『うん。朝早くにゴメンね』
「う、ううん・・・大丈夫」
体を起こした加世子は、壁の時計に目をやった。
6時だった。
『敦史が入院したの』
その言葉に、加世子の頭は一気に冴えた。
「・・・どうして?」
『急性アルコール中毒。昨日家で、お酒にまみれて、倒れてて』
「敦史大丈夫?!」
加世子は強く電話を握り締めていた。
『――大丈夫だよ。
でも、私これから海外で、付き添えないの。
――加世しか、頼る人居ないの』
「――」
『敦史を、お願い』
美咲の少し震えた声に、
加世子は何も言い返せずに、
教えられた病院名をメモした。
>> 170
加世子は、午前の面会時間すぐに病院へと向かった。
入口で目にしたポスター通りに、
携帯の電源を切って、美咲に教えてもらった病室へと向かった。
廊下で、回診中の医師に会った。
敦史の付き添いだと話し、容態を聞くと、
意識を失くしていた時間が短く、脳にも異常はみられない。
明日には退院できるだろうと言われ、ホッとした。
病室の前に着き、加世子は小さな深呼吸をして、
ノックしてドアを静かに開けた。
敦史はベッドの上で眠っているのか、身動きしなかった。
ゆっくりと近づいていく――
傍らに立つと、敦史の寝息が聞こえた。
その、懐かしい、大好きだった寝顔を見ながら、
加世子の目から涙が流れた。
止めようとするが、感情をコントロール出来ず、
溢れ続ける涙に、声だけは出さないように口を押さえた。
そして耐え切れずに、病室を出た。
涙が落ち着くまでベンチに座っていた。
『こんな風に、敦史の前で泣いてはダメだ――』
加世子は強く心に思い、席を立って、
買い物をしに、外へ出て行った。
>> 171
陽介は空港の搭乗口の前で、携帯で加世子へ発信した。
朝から何度もかけているが、今回もまた、直留守になってしまった。
最後に声が聞きたかったが、仕方がないと、留守電の開始音を待った。
「加世子。今から発つよ。
帰り5日後って、長いけど、待っててな。
じゃ、行ってきます」
陽介は電話を切ると、そのまま電源を落とした。
フイに顔を上げると、サングラス姿の美咲がこちらを見て、
やってくるところだった。
「今日からよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「――元気ないんじゃない?」
「ちょっと寝不足で・・・」
「仕事、忙しそうだもんな。あまり、無理するなよ」
そう言うと、後からやってきた菅村に頭を下げ、
先に搭乗口へ入っていった。
美咲は複雑な思いを抱えながら、
陽介の後姿を見ていた。
>> 172
色々と買い揃え、最後に病室に飾る花を購入した加世子は、
午前の面会時間ギリギリに病院へ戻ってきた。
また、病室の前で深呼吸をし、ドアをノックした。
「――はい」
小さく答えたその声に、ドキンと胸が鳴り、
再度、小さく深呼吸をして、加世子はドアを開けた。
ベッドの上の敦史は、驚いた顔で加世子を見た。
その時、面会時間終了を知らせるアナウンスが流れた。
加世子は救われた気持ちで、ベッドの横に立った。
「下着とTシャツ・・・それと、洗面道具、用意してきたから」
敦史は唖然としたまま、それらを並べる加世子を見ていた。
「・・・なんで?」
「美咲から電話があって・・・」
そう言って、加世子は初めて敦史の顔を見た。
目を合わせているだけで、心が揺さぶられ、
加世子は、目線を外し、花と花瓶を手に持った。
「お花、いけてくるね」
そう言って、病室を出て行った。
>> 173
花瓶に水を注ぎ入れながら、加世子は
敦史が大事に至らなくて、本当に良かったと、安堵していた。
だが、心は波打ったまま、決して冷静では居られなかった。
「午前の面会終了ですので」
通り過ぎた看護士に声を掛けられ、
「はい」と、答えた加世子は、小さく何度も深呼吸をしながら
病室へと戻っていった。
中へ入ると、さっきとは違い、
落ち着いた表情の敦史がいた。
加世子は淡々と、花瓶をサイドテーブルに置きながら、
口を開いた。
「面会時間終了で、もう行くけど・・・
何か必要なものはある?」
「・・・いや」
「今日は、これから仕事で、もう来れないけど、
明日、また来るね」
「・・・・」
加世子は、ソファに置いたバッグを持った。
「じゃあ」
最後に敦史の顔を見た。
敦史は切ない表情で真っすぐに見つめ返し、
その眼差しに、加世子は胸が締め付けられ、
足早に入口へと向かった。
「――苦しかったんだ・・・ずっと」
その言葉に、加世子はドアの前で立ち止まった。
>> 174
「そのままでいい――
出たら忘れていいから・・・」
加世子は敦史に背中を向けたまま、
ドアの前を動かなかった。
「加世のことを、忘れた日はなかったよ」
「!――」
「・・・でも、あんな風に傷つけて、
加世を想うだけでも、罪悪感が浮かんだ・・・。
加世に会うのも怖かった・・・。
でも、1年前に実家に帰った日、
ストラップを渡された時に、
もしかしたら加世もまだ、俺のことを・・・って――
一瞬夢見たんだ・・・」
「――」
「自分のした事や、過去や、今の現実を考えたら、
ありえないことだって・・・。
加世に俺は相応しくないんだって――
最後には、そこに行き着くのに・・・」
「・・・・」
「酒が、抜けきれてない男のたわ言だって・・・忘れて」
力ない最後の言葉に、
加世子は込上げる涙と感情を抑えるので精一杯だった。
「――陽介さんに、昨日、プロポーズの返事をしたの・・・」
ベッドの上の敦史は、加世子の背中を強く見つめた。
>> 176
美しい海に囲まれた南の島で、美咲のCM撮影は順調に進んだ。
休憩の合間には、陽介につい目が行ってしまうが、
こちらに来てからの陽介は、常に陽気で、笑顔が絶えなかった。
お昼時間になり、予約指定されたレストランへ向かう途中、
美咲は一人で歩く、陽介と肩を並べた。
「おう、お疲れ」
そう言って、サングラス姿の陽介は優しく微笑んだ。
「おつかれさま」
「美咲、すっかり女優の顔だね。
今回もいいCMが出来そうで、感謝するよ」
美咲は陽介の笑顔を横目に、
抱えた秘密を思い出し、苦しくなった。
「・・・陽ちゃん、何だか楽しそう」
「そっかぁ?」
「うん。何かいいことでもあったの?」
「フフ・・・」
陽介は少し照れながら微笑んだ。
「どうせ知るだろうから、話すけど――
加世子にOKしてもらったんだ」
「・・・・」
「プロポーズの答えをね」
「!・・・」
驚きと、少なからず襲ってきた寂寥感に、
美咲は固まったまま、幸せそうな陽介を見つめた。
そして、その笑顔に嫉妬した。
「・・・陽ちゃん」
>> 177
立ち止まった美咲に合わせて、陽介も立ち止まった。
「敦史が入院したの」
「――なんで?」
「急性アルコール中毒・・・
無理にたくさんお酒を飲んで、家で意識を失くしてたの。
――その日、加世に会ったんだと思う」
「――」
「ここに発つ日の朝、
その事を、加世に知らせたの」
陽介の顔からは笑顔が消えていた。
美咲はサングラスの奥の瞳を探るように、
真っすぐ見つめていた。
「――そうか」
陽介は少し俯いてから、
口元に笑みを浮かべ、背後のレストランを指差すと、
背を向けて歩き出した。
美咲は暫くその場に立ち止まったまま、後姿を見送り、
陽介の姿が店の中へ消えると、ゆっくりと歩き出した。
>> 178
翌日の午後、加世子は病院に入る前に、
陽介の留守電を再生して聞いた。
『加世子。今から発つよ。
帰り5日後って、長いけど、待っててな。
じゃ、行ってきます』
加世子は目を閉じ、心に沁み込ませるように
目を閉じて聞いた。
昨日から敦史のことが頭から離れなかった。
だが、自分はしっかり自覚しなければいけない――
陽介の存在を・・・。
目を開けた加世子は、
少し意気込む感じで、敦史の病室へと向かった。
病室のドアを開けると、中に敦史の姿は無く、
看護士が、新しいシーツを敷いていた。
「薄井さんなら午前中に退院されましたよ」
加世子は呆然とため息をついた。
その後、出先での仕事を予定より早く済ませた加世子は、
地下鉄のホームで考えながら、会社とは別方向の電車に乗った。
そして、記憶に残る駅で降り、タクシーに乗って行き先を告げた。
10分ほどで着いたマンションの入口で部屋番号とインターフォンを押した。
「はい」
「――加世」
「・・・・・」
>> 179
その後、暫くしてドアが開き、
加世子はエレベーターを使って、
部屋の前まで行くと、
見計らった様に静かにドアが開いて、敦史が姿を現した。
加世子は波打つ心とは反対に、平静を装った。
「退院したって聞いたから・・・大丈夫?」
「――大丈夫だよ」
敦史は穏やかに答えた。
「仕事は?ちゃんと休めそう?」
「引越し準備があるから、
今月いっぱい、有給消化することにした」
加世子は、敦史の背後の廊下に、
引越し業者のダンボールを見つけた。
「――出ていくの?」
「・・・来月から、働く店が変わるから」
「そう、なんだ・・・」
――美咲とは?と思わず聞きたくなった加世子は、
その気持ちを飲み込み、バッグから名刺入れとペンを取り出した。
「何か困ったことはない?
――あったら、連絡して」
そう言って、名刺の裏に個人の携帯番号を書いて渡した。
受取った敦史は、その名刺からゆっくりと目を上げ、
加世子を見つめた。
>> 180
「アイツは、もう会うなって・・・」
敦史は落ち着いた眼差しで加世子を見つめた。
「・・・結婚するなら、その方がいい」
加世子の心は一気に切なさに包まれた。
きっと表情にも表れたのかもしれない――
敦史はそっと目線を落とした。
「体・・・まだ本調子じゃないだろうから、
無理しないでね」
敦史は最後にまた加世子を見た。
「・・・じゃぁ」
加世子は消え入るように微笑むと、
切なさを湛えたまま、その場を後にした。
雑踏の中を会社へ戻りながら、
敦史の静かな眼差しと言葉を受けるように、
加世子は、静かに
敦史への気持ちを封印しなくてはいけない――
と考えた。
だが、いつまでも残る切なさだけは、
どうしても消すことが出来なかった。
>> 181
撮影の休憩に入った時、菅村が美咲を呼びに来て、
ホテルのロビーに連れて行くと、日本へ電話をかけた。
『美咲?!』
「はい。・・・社長?」
『おめでとう!ドラマ決まったわよ!』
「えっ!――」
美咲は呆然と菅村を見ると、満面の笑みで少しなみだ目になっていた。
美咲も胸に込上げてくるものがあった。
このドラマの仕事は、美咲自身が是非やりたいと、
配役のオーディションや面接に、新人や顔の知れた女優に交ざって、
足繁く通ったものだった。
そして、この役を貰えれば、女優としての未来も約束された様なものだった。
『帰ってきたら、忙しくなるから、覚悟しておきなさいよ』
強く言った社長の言葉にも、喜びと安堵の気持ちが汲み取れて、
美咲は言葉にならず頷き、菅村に受話器を返して、
涙が落ちないように頭を振った。
すると、ロビーのソファーに座る陽介の姿を見つけた。
陽介は、昨日の昼食後から、一度も撮影現場へ姿を現していなかった。
ぼんやりと座り、深くため息をついたり、悲愴感を漂わした陽介の姿を、
仕事の充足感に満たされた美咲は、
ロビーの空間以上に距離を感じて見つめた。
>> 182
日が暮れても、陽介はホテルのロビーのソファーに座ったままだった。
今、加世子はあいつと居るのか?――
遠く離れた場所に居て、何も出来ない歯がゆさと、
加世子を信じたいという気持ち、
何よりも、プロポーズの返事は貰えたとはいえ、
常に加世子の心を独占してきたアイツへ嫉妬する自分が嫌で、堪らなかった。
「課長・・・大丈夫ですか?」
頭を抱えうな垂れていた陽介は、顔を上げた。
「山本、か・・・」
山本は向かいに座って、心配気に見つめた。
「体調、悪いですか?」
「イヤ・・・。
山本、俺な、明日帰国しようと思う」
「仕事ですか?」
陽介は自嘲的に笑った。
「仕事――と言いたいが、プライベートで気になることがあってね。
フフ、課長失格だな」
「イイエ――」
山本は少し微笑んだ。
「――こんなこと言ったら失礼かもしれませんけど・・・
課長も、普通の男なんだって、安心しました――嬉しいです」
山本の目に陽介を尊敬する気持ちは消えてはいなかった。
陽介は気恥ずかしさもあって、笑っていた。
おかげで、緊張した気分が和らぎ、
いい部下を持ったと、心に沁みて感じていた。
>> 183
家に帰宅した加世子は、そのまま寝室へと向かい、
座りこんで、ぼんやりとベッドに寄り添った。
自分は陽介と結婚するんだ――
頭ではちゃんと分かっているし、
否定したい気持ちも無い・・・。
だけど今、会ったばかりの敦史の姿を消せずにいた。
このずっと包まれている切なさも、
敦史を思っているからだと分かっていた。
敦史は、いつ引越しをするのだろう・・・
新しいお店は、どこにあるのだろう・・・
ただの友達なら、簡単に聞くことのできる
そんな小さな事も、気になっていた。
加世子は、ぼんやりとした目線を
部屋のカレンダーに向けた。
陽介が帰ってくる3日後に○印がしてある。
そのカレンダーを見つめながら、
加世子はハッとした――
そして一つの思いに支配されていった。
>> 184
陽介は帰国予定2日前の、夜9時過ぎに日本へ到着した。
携帯電話の電源を入れると、一気に複数のメールを着信した。
それらを見る前に、加世子のアドレスを開いて、
発信しようとしたが、直接行って驚かせるかと、少し考えた。
その時、携帯が着信し、
ディスプレイに『田神健二』と表示され、陽介は電話に出た。
「もしもし」
『おう!やっと繋がった!』
田神は、少し高い声で返した。
「仕事で日本離れてたよ。
今成田着いたとこ」
『やっぱ、そうか。――なぁ』
田神は、話を続けた。
『百合のことで、何か知ってる?』
「百合?――イヤ」
『そうかぁ・・・』
田神はため息をついた。
「百合がどうしたの?」
『イヤさ、今日もだけど、ずっと店に出てないんだよね。
ママに聞いたら、4日前から無断で休んでて、
百合の携帯は直留守で、連絡もつかなくてさ・・・』
「・・・・・」
『お前が知らないとしたら、ホントどうしたかなぁ・・・』
陽介は胸をざわつかせながら、
自分も探してみると言って、電話を切った。
>> 185
タクシーに乗った陽介は、行き先に、
百合絵のマンションを告げた。
百合絵の携帯に何度も発信するが、
田神の言った通り、全て直留守になってしまった。
陽介は、百合絵の痕跡を辿るように
自分の携帯に残っていた留守電を、再生した。
『陽介?元気?
随分顔を見せないけど、彼女と順調なのかしら?
――お店で待ってるわね』
この伝言は、日本を発つ日の前日
――ちょうど、4日前だ。
いつもと変わらないその口調の中に、
何か違うところは無いか、
陽介は注意深く、何度も繰り返し聞いた。
陽介の心は、次第に不安と焦燥に支配されて行った。
百合絵のマンションに着き、
インターフォンを押すも、応答は無かった。
陽介は嫌な予感に急き立てられながら、
自分の持つ合鍵で、玄関のドアを開けた。
>> 186
中は暗く、人の気配はなかった。
電気をつけ、部屋という部屋を探してみるが、
百合絵の姿は見当たらなかった。
キレイに片付いた、いつもと変わらない部屋を見渡し、
百合絵の居場所に全く検討がつかない陽介は、
更に不安な気持ちを募らせた。
そして、その不安を払拭するかのように、
タンスや押入れを開け、百合絵の居所のヒントを探し求めた。
「百合、何処にッ!・・・」
噴出す汗を拭いもせず、部屋から部屋へと移動し、
しまわれた荷物を開け放って、一つずつ目を通していった。
まるで、泥棒にでも入られたように、
床に荷物が散乱していく中、
陽介は、寝室の鏡台の引き出しの中から
ある物を見つけ動きを止めた――。
―病院の薬の袋―
中は空っぽだった。
もう夜の11時を過ぎていたが、
陽介はその袋の表に載った総合病院の番号に携帯から電話をかけた。
すると、夜間救急の受付に繋がった。
>> 187
「そちらに、白井百合絵という女性が入院していると思うのですが?
――家族の者です」
百合の居場所を突き止めたい一心で、
陽介はかまをかけた。
「お待ちください」という言葉の後、
保留音を聞きながら、陽介はずっと薬の袋を見つめていた。
そして、保留音が切り替わった。
『内科病棟です。
白井百合絵さんのご家族の方ですか?』
―内科病棟?―
「はい」
陽介は返事をした。
『良かったです。ご親族の方に連絡がつかず困っていました』
「あの・・・白井百合絵はそちらに居るんですね?」
『はい。手術をされて、今、入院されています』
陽介は、百合絵の居場所が分かって安堵したのと同時に、
電話口の看護士が告げた手術内容に、呆然と立ち尽くした。
『明日で結構です。
担当医から詳しくお話しいたしますので、病院にいらしてください』
電話を切った後も、
陽介はその場からしばらく動けなかった。
>> 188
翌日の休日、加世子は鏡の前で、私服に迷い、何度も着替え直した。
そして、窓から差し込む、晴天の日差しに誘われるように部屋を出た。
途中、人気のチャイニーズレストランに立ち寄り、
テイクアウトボックスに入ったランチを買った。
そして、地下鉄を乗り継ぎ、
美咲のマンションへと向かった――。
波打つ心を抱え、加世子は、緊張したまま
ドアの前に立っていた。
ゆっくりとドアが開き、敦史が姿を現した。
「――お昼、食べた?」
「・・・・」
「買ってきたんだ。ここね、凄く人気のある中華料理屋さんで、
・・・一緒に食べない?」
加世子の胸は張り裂けそうな位だったが、頑張って笑顔で話した。
少し戸惑ったように加世子を見つめる敦史に、加世子は俯き、
意を決するように気持ちを口にした。
「今日だけ・・・今日一日だけ、一緒に居ちゃダメかな?」
「あいつに――」
「言われたのは、敦史でしょ?――私から会いに来たんだもん」
敦史の言葉を遮り、ゆっくりと目を合わせた。
「今日で、おしまいにするから」
その言葉に、敦史は身を引くようにして、加世子を家の中に入れた。
>> 189
加世子はダイニングテーブルに買ってきたランチを並べ、
すぐに食べられるようにセッティングした。
「ここのお粥が、すごく美味しいの。
料理人の敦史に薦めるのも、何だけど・・・」
立ったまま眺めていた敦史は、
椅子に座って、そのお粥から手をつけた。
「・・・うまいね」
「良かった」
加世子は小さく微笑み、向かいに座って、
一緒に買ってきた中国茶を、敦史の前に置いた。
敦史は、お腹が空いていたのか、黙々と食べ続けた。
「朝、食べてなかった?」
食べながら、敦史はコクリと頷いた。
「やっぱり。・・・ダメだよ、退院したばかりなんだから」
チラッと上目遣いで見た敦史に、
加世子はドキッとして、目線を外して話題を変えた。
「――引越しは、いつなの?」
「明日」
「えっ?――大丈夫なの?」
「荷物まとめるのは、もうすぐ終わる」
「私も手伝うね」
そう言って加世子は、持参したエプロンと軍手をバッグから出した。
食べながら、敦史はフフっと笑った。
「もう、やる気満々じゃん」
笑顔で食べる敦史につられて、加世子も、笑顔で食べ始めた。
>> 190
食べ終えた2人は、敦史の部屋へ移動した。
部屋の隅にダンボールが積み重なる中、
敦史の言ったとおり、後は
本棚の本とDVDや音楽CDを移すだけだった。
「へぇ、敦史って、こんな本読むんだね」
加世子は、難しいタイトルの厚い本を持って、中を開いてみた。
「フフ、働けよ」
「働いてるよぉ!」
そう言って、その本をダンボールの中へ移しながら、
加世子は思い出し笑いをした。
「――フフフ」
「ん?」と言う感じに、敦史は目を上げて加世子を見た。
「何だか・・・図書委員の、夏休みの作業を思い出すね」
高校の図書館で、加世子と敦史が2人きり、
色んな話をしながら、本をダンボールに詰めていった。
あの時は二人の間を遮るものが何もなかった。
けど今は、こんなに近くに居るのに、
手を伸ばしてお互いに触れることも出来ない・・・。
加世子が切ない思いに包まれ、敦史を見ていると、
フイに敦史も加世子を見て、
目が合って、ドキンと胸が締め付けられた。
その後は、2人何となく黙って、片付けを続け、
あっという間にダンボールの中に収まった。
>> 191
「今日って・・・これから、何か用事ある?」
加世子は静かに敦史に聞いた。
敦史は小さく首を振った。
「・・・いいや」
「表に出ない?――凄く、いい天気だし」
「・・・・」
戸惑いの表情で俯いていた敦史は、
ゆっくりと顔を上げ、答えるように加世子を見つめた。
加世子はマンションの表に出て、
着替えてくるといった敦史を待った。
美咲と一緒に暮らしていた部屋に、
長く居るのは辛かった。
何よりも、今日だけは、敦史と居る間、
美咲のことも陽介のことも胸の奥に封印しようと決めていた。
今日一日だけ・・・。
今日で最後・・・。
胸の思いを改めて、確認していた時、
マンションの表玄関の自動ドアが開いて、
敦史が現れた。
高校時代、幾度となく、私服姿にときめいたが、
その感情が呼び起こされる様に、
加世子の胸はまた静かに波打ち始めた。
「・・・ごめん」
やってきて、小さく呟いた敦史に、加世子は笑んだ。
「ううん。行こっか」
2人は、肩を並べるように、
駅方向へ歩き出した。
>> 192
駅に向かいながら、敦史は、常に車道側を歩き、
日陰の多い所を加世子に歩かせたりと、
さりげない気遣いに、加世子の心は、ときめきを増していった。
大きな映画館の歩道沿いに、上映中の映画ポスターが並べられ、
敦史は、ぼんやりと、それらを見ながら歩いていった。
加世子も同じように眺めて、ある一枚のポスターの前で足を止めた。
加世子は上映時間を確認して、腕時計を見た。
「ねぇ・・・」
先を歩いていた敦史は、チラリと振り向いた。
「映画、観よっか?」
加世子は、観たいと思っていたその映画のポスターを指差した。
敦史はそのポスターに目をやると、加世子に向かって頷いた。
休日ということもあって、席は殆どが埋まっていた。
先に席に着いた加世子は、敦史の為に隣の席を下ろした。
そこに、飲み物2つとポップコーンを買ってきた敦史がやってきた。
トイレかと思っていた加世子は、面食らった。
「ごめん!私出したのに」
そう言ってそれらが乗った紙トレーを受取った。
「フフ、いいよ」
敦史の顔は、素直に楽しそうだった。
加世子も何だか嬉しくて、つられる様に微笑んだ。
>> 193
照明が落とされ、映画が始まると、
加世子の心はトタンに緊張を増した。
画面に集中しようとしても、
隣に敦史が居るということが気になり、
映画どころではなかった。
敦史は、飲み物を飲んだり、
ポップコーンを口に運んで、映画を楽しんでいるようだった。
早まる鼓動と熱くなる体を気付かれまいと、
加世子は、静かに席を立った。
そして、映画館出口向かいの長いすに腰をかけ、
大きく息を吐いた。
こんなに緊張してしまう自分が恨めしかった。
今日は普通の友達みたいに、
気軽に楽しく過ごせたら――なんて考えていた。
敦史を意識しすぎている自分に、加世子は又ため息をついた。
するとその時、中から敦史が出てきて、
加世子の元にやってきた。
>> 195
「私がこの映画って言ったとき、がっかりしたんじゃない?」
「まぁね。2時間の拷問かよ~ってね、フフ」
「もう・・・フフ、良かったね、免れて」
映画の出来事で、抱えていた緊張が解けたのか、
2人の会話は弾んだ。
その後、大型ショッピングモールに行った。
人で溢れかえっている中、2人は、
ウインドウショッピングを名目にたわいない会話を続けていた。
加世子は、敦史と自然に会話できることが嬉しかったが、
すれ違うカップルが、皆、仲良く手を繋いでいて、
少し羨ましく見えた。
そんなとき、敦史が、インテリア雑貨店の前で足を止めた。
加世子は、敦史の隣に立ち、
敦史の目線の先の、シンプルでスタイリッシュなソファーを見た。
「素敵だね」
「引っ越した先で、色々揃えなきゃいけないから」
そうか・・・マンションの家具は、
美咲の為に殆ど置いていくんだ・・・と加世子は思った。
「敦史はこういう感じが好き?」
「シンプルなのがいいけど、もっと、
ウッディな感じでもいいかな」
「ナチュラルな感じ?」
「うん」
加世子は、少し考えるようにしてから敦史の顔を見た。
>> 196
「渋谷にある輸入家具のお店なんだけど、
良かったら、これから行ってみない?」
加世子の誘いに、敦史は笑顔で頷いた。
電車を乗り継ぎ、加世子は、
北欧家具を扱うお店に敦史をつれてきた。
加世子が学生時代に夢中になっていたインテリア雑誌で
よく取り扱われていたお店で、加世子も、プライベートで
何度かやってきていた。
店内を歩きながら、並ぶ家具を見た敦史は、
「いいね」
と、加世子に振り向いて言った。
加世子は、自分が好きな家具を、
敦史が気に入ってくれたのが嬉しかった。
「ある程度の収納家具と、ソファーと、
いいのがあればベッドも・・・」
「今、選んじゃう?」
「明日、引っ越すけど、向こうには何も無いし・・・」
「そっかぁ・・・」
「加世が選んでくれない?」
「え?」
「加世がイイって思ったやつ、きっと俺も気に入るから」
その言葉に、加世子の胸が高鳴った。
そんな気持ちにしているとも知らず、
楽しげに家具に触れている敦史の横に立ち、
「じゃあ、一緒に選ぼう」
と、横目で微笑んだ。
>> 197
それから、2人は店内を回り、相談しあいながら家具を選んでいった。
加世子が「いいな」と思うものを、敦史は笑顔で殆ど否定しなかった。
「本当にいいの?敦史が住む部屋なんだよ」
あまりにもイエスマンすぎる敦史に、
加世子は途中で、何度も確認した。
「マジでいいと思ってんの。驚く位、フフ」
敦史はそう言って、嬉しそうに笑った。
加世子も、大好きな家具を、自分ではないが購入する喜びと、
敦史と趣味が合うことが分かって、嬉しくて、
楽しい時間を過ごした。
あれも、これもと購入していったら、
多額の買い物になってしまった。
カードで支払う敦史を横目にみながら、
加世子は落ち着かず、申し訳ない気持ちになった。
「大丈夫?こんなに買っちゃって・・・」
「必要経費だよ」
「でも・・・」
「俺、もう働いて、4年以上だよ。
このくらい、痛くないって」
敦史は笑みを浮かべた落ち着いた表情で
支払いを済ませた。
その後、敦史が配送先の住所を記入するのを眺め、
「うちから、近いね」
と、加世子は思わず呟いた。
>> 199
時間は夜の7時を回っていたが、
真夏のまだ明るい空の下を、歩いて、
15分ほどで、目当てのフレンチレストランへ着いた。
「俺、格好・・・」
「そんなに堅苦しくないの。
個室だし、大丈夫」
加世子は、取材で訪れて以来、
女性のオーナーシェフと親交を深め、
人気の店だったが、昨日の夜に予約を取っていた。
個室に通され、敦史と加世子は向かい合って座った。
重たい表情のまま、メニューに目線を落としている敦史を見て、
加世子は、切なくなりながらも、笑顔を作った。
「好きなの頼んでいいよ。ご馳走するから」
敦史はチラリと加世子を見た。
「カードのブラックリスト、載せたくないし」
「・・・フフ」
敦史はメニューを見ながら、少し笑んだ。
加世子は心がとける様に、心から微笑んだ。
「もし、良かったら、オーダーを任せてもらってもいい?」
今度は、優しい目で加世子を見つめた。
- << 201 運ばれてきた料理は、どれも美味しくて、 2人の気持ちと会話を弾ませた。 高校時代のように、たあいない会話を交わし、 敦史の話し方、時折見せる無邪気な笑顔や 仕草の一つ一つに、加世子の胸はときめいていた。 食事の皿を下げに来た知り合いの店員に、 加世子は笑顔で目配せをして、小さく頭を下げた。 暫くして、小さなホールケーキが運ばれてきた。 ケーキには、長いロウソクが2本と、短いロウソクが3本立っていた。 敦史は「あっ」という顔をして、 テーブルの中央に置かれたケーキを見つめた。 「7月29日――。 今日は23歳の誕生日でしょ?」 ―だから、一緒に居たいって、思ったんだよ― 加世子は、心で呟きながら、 横に置かれたライターでそのローソクに火をつけ、 部屋の照明を一つ消して、席に戻った。 「プレゼント、残らないものがいいと思って・・・」
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