タイトルなし
「結局そんなもんだよ」
僕の耳元で誰かがつぶやく。
ピアノ線の切れた鍵盤を、指で軽く叩いたような声だった。真っ黒に輝くグランドピアノが目に浮かんだ。けれどピアノ線は切れているのだ。
高速バスに乗り3時間が過ぎていた。たった3時間バスで移動しただけて、窓から見える景色は秋から真冬へと変化していた。
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高速道路は山の谷間を縫うように延び、バスは緩やかなカーブを繰り返す。道路のすぐ外側は急な山の斜面で、そこを雪が覆っており月明かりで青白く浮かび上がっている。
おそらく空は快晴で星がよく見えるのだろうけれど、窓から見えるのは雪の斜面だけだった。窓枠一杯に青白い雪が起伏を繰り返し流れてゆく。
窓の下に顔を近づけ上を覗き込んで見ても何も変わらない。
漫画本を下から覗き込むようなものだった。
視界が開けるような予感はまったくしない。
僕はしばらく窓の外を眺めた後、携帯電話を取り出し時間を確認した。夜の8時を少し回ったところだ。到着予定時刻よりも遅くなりそうだった。
ついでに、おそらく到着が遅れるだろうという内容の手短なメール文を作り父親あてへ送信した。
「やっぱりね」
耳元で誰かがつぶやいた。
指の間接をパキパキと続けざまに鳴らすようなコミカルな声だった。
僕は車内を見渡した。乗客は僕の他に3人だけだった。それぞれがチケットの指定席とは関係なく好きに散らばって座っている。僕はバスに乗り乗客が少ないことを確認した後、最後部の席へ座った。僕はそういう種類の人間だ。
暖房のきいた車内は体をほどよく温める。窓から見る雪景色は、部屋でくつろぎながら映画を見ているのと同じ感覚だ。
しばらく眠気でうとうととしていると、車内アナウンスの声で起こされた。
「まもなく終着地へ到着します。どなた様もお手荷物お忘れのないようお降りください」
外へ視線を送るといつの間にか視界が開け遠くまで見渡すことが出来る。雪山は道路から遠くへ後退し、その間に暗闇が広がっている。暗闇の中に街の光が所々に灯っている。そのほとんどか民家のものだ。夜空の星が地表に反射しているかのような光景だ。時折車のライトの小さな明かりが移動して行く。
バスは緩やかなループの道をゆっくりと進み高速道路を降りた。
バスはそのままバイパス道路へ入りしばらく走り、街中へと進んで行く。
まだ夜の9時前後なのに車の通りは少なくスムーズに進んでいく。
時折道沿いに大きなショッピングモールや飲食店が見えたが、それ以外は民家や田畑の繰り返しだった。
終着地の駅前へ近づくにつれ景色は徐々に街らしくなっていった。それとは逆に僕は気分が沈んでいくのを感じる。
背丈の低いビル。コンビニの明かり。商店街のような通りは大半の店のシャッターは降りていた。それらの隙間を夜の暗闇が下へ向かって延びている。暗闇が明かりを押さえ付けているようにも見える。人影はまばらだった。みな寒さに凍えるよう身をかがめあるいている。赤信号は血のように鮮やかだ。
外を流れていくその景色は、視覚だけでじゅうぶん静けさを感じ取れる。
それは3年ぶりにみる、見馴れた景色だった。
見馴れたとは少し違うのかもしれない。
ずいぶん前に友人に貸したCDを、その友人の家へ行った時に見つけた時のような気分だ。
僕は自然と上着のポケットに手をいれタバコの箱をにぎりしめていた。
予定よりも30分程遅れ、バスは終着地の駅前の停留所へ到着した。僕は荷物を手に他の乗客に続いてバスから降りた。
外は体が凍るほど寒かった。着てきたダウンジャケットだけでは寒さを凌げそうになかった。
雪は2、3日ほど前に降ったものらしく、路上の雪は踏み固められ凍っている。歩道脇には雪かきの後の雪の塊がつまれている。
僕はタバコを取り出し火をつけた。煙をゆっくり吸い込み吐き出す。煙と自分の白い息とが混ざり合って、辺りを漂いすぐに消えていく。顔は冷蔵庫の中に突っ込んだように寒かった。
僕は身をかがめながら駅へ向かった。凍った道はひどく歩きにくいけれど、自然と足をとられないような歩き方をしている。
昔の習慣は忘れないものだ。
駅の構内に入り時刻表を見ると、ほっと一安心した。都合よくあと10分後に電車が来る。
この時間帯の電車は一時間に一本しか通らない。
僕は切符を買いホームへ行くと、空いているベンチへ腰掛けた。
同じホームには高校生の数人の男女が固まって電車を待っていた。それぞれ寒そうに体を震わせている。けれど表情は笑顔で、楽しそうに喋っている。中でも女の子はとびきりの笑顔だ。笑い声がホームによく響く。
ぼんやりその光景を眺めるうちに、高校生達がだんだん4年前の僕達と重なっていった。
それは康介であったり、美奈であったり、和正であったり、僕であった。
高校生の一人がこちらを向きそうになり、僕は視線をそらした。
「今さら遅いのよ」
誰かが耳元でつぶやいた。僕は首に巻いたマフラーに耳がすっぽり入るまで顔をうずめこんだ。
出掛けにMDウォークマンを置き忘れたことをあらためて後悔した。
ホームに電車が到着した。
僕はそれに乗り、3つ目の駅に着いたところで降りた。
無人の改札口を通り外へ出ると、携帯電話が鳴った。実家からだった。通話ボタンを押し耳にあてる。
「今どの辺にいるんだ?」
かけてきたのは父だった。
その声を聞き、体の芯が急激に冷えていくのを感じた。
「今、歩いてそっちへ向かっている。後少しで着く」
僕はタバコに火をつけ、住宅街をゆっくりと歩きながら話す。雪掻きはされておらず歩きにくい。もう少し時間がかかるかもしれないと思った。
「ご飯は食べたのか?」
「まだだけど。」
「母さんがお前のぶんも用意していた。みんなは先に食べたぞ」
父のうしろで母が何か言っているようだった。
「それなら家で食べる。」
「わかった、母さんに言っておく。」
「ああ。」
電話を切り、僕は内心思う。
とある仲のよい親子の会話を、もし機械が必要な言葉以外、全て削除したとしたら、今の僕と父の会話のようになるのだろう。
寒さで足の指先の感覚が無くなってきた頃、実家の前に着いた。
インターホンを鳴らし「ただいまぁ」と3回言うと
「壮太じゃん。おかえりぃ」
と返事が返ってきた。しばらくすると玄関の鍵があいてドアが開き、中から裕也が顔をだした。
僕の顔を見ると、裕也は一瞬目を見開いた。
「なんだよ、邪魔だな」
僕は突っ立たままの弟を押しのけ、中へと入った。
「髪型変わってんね。色も黒くなってるし。」
「そりゃ髪型だって色だって変わるさ。お前は相変わらずだな。」
僕はそう言い、靴を脱いで廊下を進む。
「俺は気に入ってるから変えないんだよ。」
弟の声が後ろから追ってくる。きっと髪の毛をいじりながら喋っている。その癖が変わっていない事も、おそらく確かだ。
気に入っているから変えない。
そんな風に全ての物事がはこんだら、きっと楽しいだろう。いや、そんなことはないかもしれない。
そんな思いが、頭の中を宙ぶらりんに浮かんだ。
リビングのドアの前まで来ると、一瞬、このまま引き返そうかと考えた。
別に嫌な事があるわけでは無い。
良い事も無い。
何も無いのだ。
泊まる場所は他にもある。
けれど冷えた体を温めるのは、とても重要な事なのだ。得に足の指を温めない事には、何も始まらない。
僕はリビングのドアを開け、中へ入った。
「おかえり。遅かったじゃない。」
ダイニングテーブルの前で、母がエプロン姿で料理を並べながらそう言った。
右手のリビングを見ると父が新聞を手にソファーに座っていて、こちらへ目を向けると「おかえり」と言った。
僕は「ただいま」ともう一度言った。
「今、ご飯の準備が出来たところなの。あなた全然連絡して来ないから、何時に帰ってくるのかわからないんだもの。外寒かったでしょ?」
母はキッチンで作業しながら喋った。そのうしろ姿は昔のままなのに、体が一回り小さくなったように見えた。
「雪がすごくてびっくりしたよ。」
僕はそう言い荷物を床に置き、マフラーと上着を脱いでその上に乗せた。手が冷えて固まっていた。部屋の暖房が冷えた顔を心地く包んだ。
「一昨日大雪だったのよ。向こうの方は降らなかったの?」
「寒かったけれど、雪は降らなかったなぁ。山は真っ白だし、街は真っ暗だし。びっくりしたよ。」
「何言ってるのよ。昔からそうでしょ。少し都会で生活してるからってなまいきよ。」
「送って置いた荷物はちゃんと届いてる?」
「届いたわよ。あなたの部屋に置いてあるから。」
あなたの部屋。
どうやら僕の部屋はまだあるらしい。
裕也はいつの間にかソファーに座り、ビールをグラスについでいた。テーブルの上にはビールの空き瓶が2本並んでいる。父の前にもグラスがあった。二人で飲んでいたようだった。
「お前、いつから酒飲めるようになったんだ?」
僕は裕也に向かって言った。
裕也はグラスに口をつけ「俺だってもう大学生だし、酒ぐらい飲むさ。」
と言った。
「早く一緒に飲もうよ。今日は壮太が来るから、わざわざ早く帰って来てやったんだ。」
口調ははっきりしているし、顔色も普通だ。そこそこ飲めるようだった。
「ちょっと飲み過ぎなんじゃないのぉ?」
うしろで母が言う。
「壮太が帰ってくんの遅いからいけないんだよ。いいから早く座れよ。」
裕也はそう言い飲み続ける。
「俺は先に風呂に入りたいんだよ。」
その姿を見ながら僕は言う。
「お風呂も準備できてるわよぉ」と後で母が言った。父は座ったまま動かず新聞を熱心に読んでいる。
僕は突っ立ったまま居心地の悪さを感じた。
浴室で髪と体を丹念に洗った後、湯舟にゆっくりとつかった。冷えきった体には初めお湯は熱く感じたけれど、温まるにつれ心地良くなっていった。
風呂からあがり、リビングへ行くと父と母がソファーに座って、ニュース番組を見ていた。裕介はいなかった。
母が立ち上がり「何か飲む?」と聞いた。
「勝手にやらせてもらうから座ってていいよ」
と僕は言った。
「ビールは冷蔵庫にあるから好きなの飲みなさい。」と言い、母は座り直した。父はテレビを見ている。
「ちょっと上に行ってくるよ。」
と僕は言い、上着やら荷物を手にリビングから出て階段を上がった。
2階へあがり僕の使っていた部屋へ向かった。
ドアを開け明かりをつけた。掃除はされているようで、フローリングの床にホコリは落ちていない。
部屋の中には、ベットとテーブルとソファーが置かれている。他には何もない。殺風景な景色だった。
それらの家具はすべて、僕が気に入っていたものばかりだった。どれもずいぶん時間をかけて選んだ。
だからこそ、引越の時ここへ置いていった。
窓にはカーテンがかかっている。それも気に入っていた。
ベットはすぐに寝れるように準備されていた。そこだけ生活感が漂っている。
僕は旅館へ来たような気分になった。なにもかもが準備されていた。
先に送っておいた荷物がテーブルの上に置かれている。着替えの入ったバックとスーツが2着。その横に持ってきた荷物を置き、ソファーにゆっくりと座わった。体が沈み込み心地良い。
クローゼットが視界に入り、僕は立ち上がり扉を開けた。
クローゼットの中には服が数着かかっている。冬のコートだったり、秋のジャケットだったり。下にはジーンズが、たたんで重ねられている。
奥には段ボール箱がつまれている。引越しの時、一通り整理して、しまっておいた物達。
日常生活ではこれといって使い道のない物だ。
ここで過ごした18年間で形として残った、鑑賞することでしか価値をみいだせない物。
僕は少し迷った後、クローゼットを閉め、部屋を出た。
ダイニングテーブルの上には料理が並んでいる。サラダと焼き魚と炒め物、煮物…
僕は椅子に座りそれらを眺めた。
まともな手作り料理を食べるのは久しぶりだ。
「今日はありあわせの物しかないわよ。明日買い物行くけれど、何か食べたいものある?」
母が向かい側の椅子に座って喋る。
僕はビールを飲みながら料理をつまんだ。
「明日は家で食べないかもしれない。何時に帰ってくるかもわからないしね。」
「そっか、そうだよね。もし家で食べるなら早めに連絡してよね。あなたいつも急なんだから。」
「食べられればなんでもいいよ。」
僕はそう言いながらも、何か食べたいものはないかと考えた。
母は自分のグラスを用意してビールを少しづつ飲みながら、僕に、一人暮らしはどうかだとか、仕事は順調なのかとか、立て続けに聞いてきた。
僕はそれに簡単に答えながら、料理を食べる。
料理を食べ終わり、僕はリビングのソファーに移動した。
「父さんと裕也はどうしたの?」
そう言いながらタバコに火をつける。
「裕也はウイスキー少し飲んだら急に気分悪くなったみたいで、部屋に戻ったわよ。お父さんも明日仕事だからもう寝るって。あなたはこっちにはいつまで居られるの?」
母は後片付けをしながら喋った。
「一応4日間休みをとったんだけど。明後日までは確実にいるけどね。」
「そうなんだ。お父さんがあなたにね…」
母がそう言いかけた時、テーブルの上の携帯電話が鳴った。
手にとり画面を見ると、番号の上に「伸治」と表示されていた。
僕は通話ボタンを押し、電話にでた。
「よう、伸治。久しぶりじゃん。どうした?」
「おう、久しぶり。元気だったか?たしか壮太も郁美の結婚式出席するんだよな?」
かすかに元気のない声に感じた。作り笑いの顔みたいな声色だ。
「ああ、出席するよ。今日帰ってきたところ」
「ほんとか?当日に来るのかと思ってた。今どこにいる?」
「実家だよ。本当は当日に来る予定だったんだけど、他に急な用事ができて今日来たんだよ。伸治も結婚式でるんだろ?」
「俺も出るよ。そうかもう来てんのか。じゃあさ、今からちょっと出てこれない?」
僕は壁の時計を見た。午後11時をまわっていた。
「出て行けないこともないけど、どこへ?」
また寒い外へ出て行くのは少し気が引けた。
「いや… 今みんな集まって飲んでいるんだよ。郁美の…独身最後っつうことでさ。」
郁美。僕は郁美の顔を頭の中に思い浮かべようとした。けれど顔をはっきりと思い浮かべる事はできなかった。
かわりに鮮明に思い浮かんだのは、桜の木と草の香だった。
桜の花は薄いピンク色で、黒い枝の上にとてもよく映えていた。
「でも郁美は来てないんだ。昨日は来れたら来るみたいな事を言ってたんだけど、まだ来てない。」
「連絡したのか?」
「携帯にかけたんだけど、でないんだよね。」
「そうか…じゃあ少し顔を出すよ。どこへ行けばいい?」
「俺は酒飲んでないから車で迎えに行くよ。」
「わかった。準備して待ってる。」
僕はそういい電話を切った。
2階にあがり部屋へ行くと荷物を開けて着替えを取り出す。
細身のデニムパンツをはき、シャツの上からカーディガンを着て、その上からライダースのロングジャケットを羽織る。首にマフラーを巻いたけれど、やはりもっと厚手の服を選んでくるべきだったと後悔した。
ポケットから携帯電話を取り出しアドレス帳を開く。
郁美の番号はまだ残っている。携帯電話を買い替えるたびに、消そうとして結局は消さずに残してしまう。
僕は郁美に電話をかけた。しばらく呼び出し音が鳴り、留守番電話に切り替わった。
僕はそのまま何も言わずに電話を切った。いつもより胸の鼓動が早くなっているのを感じた。
母に出掛けてくると伝え、少し頭を冷やそうと家の外へ出ると、門の前にシルバーのセダンが止まっているのが見えた。
ドアが開き、中から男が降りてきた。男はこちらに向かって手を上げた。伸治だった。
「おー、壮太久しぶり。」
伸治はそう言い目を細めて笑った。
「久しぶり。早かったな。」
僕はそう言い伸治の元へ歩み寄り、その姿を眺めた。
パーマをかけていた長い髪は跡形もなく切られ、茶色い坊主に変わっていた。耳にはピアスが小さく光っている。
スマートな服装を好んでいたはずが、太めのジーンズをはき、緑のダウンジャケットを着ていた。指にはシルバーのリングがいくつかはめられている。
「伸治なんか変わったな。」
僕がそう言うと
「いつの時の俺と比べて言ってるんだよ。」
伸治はそう言って笑った。
「これ伸治の車か?」
僕は助手席に乗り、車内を見渡しながら聞いた。
「親父のだよ。たまに借りているんだ。」
伸治はそう言い、ゆっくりと車を走らせる。雪道の運転はなれているようだった。
「ほんと久しぶりに会うな。何年ぶりだろ?」
「壮太が大学進学でこの街を出ていく時に一度集まってるよな。あ、いやその後に成人式で会ってるか。お前こっちに帰ってくんの成人式以来だろ?」
ハンドルをきりながら伸治は喋る。
「ああ。あの時以来だな。そうは言っても3年ぶりくらいか。もっと昔の事に感じるけどな。今日は誰と飲んでる?」
「最初は中学ん時のクラスの奴がそこそこ集まって同級会みたいになったんだけど、郁美が来ないからもうほとんどの奴が帰ったよ。だから場所を変えて、卓也とまさ君と飲んでる。」
「なんだよ、二人だけ?だったらこんな時間にわざわざ呼ぶなよ。どうせ結婚式で会うんだし。」
僕はそう言いながらも、嫌な気はしていなかった。
わき水が山の中を徐々に染みたっていくかのように、懐かしさが体中をめぐっていく感覚がした。
15分ほど走り街中まで来ると、伸治は車を道路の端へと寄せ停めた。
辺りの建物のほとんどは明かりが消えていて、街灯が道路をオレンジ色に照らしている。
車を降り、少し歩いたところで「ここだよ」と伸治は言い、一軒の店の前で立ちどまった。
白いコンクリートの四角い無機質な建物だった。
扉を開けて中へ入ると、店内は落ち着いた雰囲気のJazzバーだった。間接照明の柔らかな明かりが、ホタルの光のように所々でぼんやりと灯っている。
入ってすぐ正面にカウンターがあり、椅子が7つほど並んでいる。
右手に通路がのび、その先は床が2段あがっていて、そこにテーブル席が3つ並んでいる。さらにその奥のスペースにはグランドピアノが置かれていて、下から照明の光で照らされている。
さほど広くない店内にJazzが控えめに流れていた。
カウンターの内側には30代くらいの女性の店員が立っていた。
立ち襟の真っ白なシャツを着ていて、あいた胸元から見える肌は白く、その上にネックレスが輝いている。
綺麗な黒髪は後ろで束ねられていて、まとめた髪が左肩から胸元へと流れている。
上品な目つきをした、とても綺麗な女性だった。
前に座っている1人の男性客と話をしている。
僕達が店の中へ進むと女性はこちらを向き「いらっしゃいませ」と丁寧にあいさつをした。
「こいつ中学の時の同級生なんです。」
伸治は僕の肩を叩きながらその女性に言った。親しみのこもった口調だった。
「こんばんは」
そう言って女性は僕を見て微笑んだ。
僕はとりあえず軽く頭をさげた。
「壮太!こっちだこっち!」
大声で呼ばれ振り向くとテーブル席に男性客が2人座っていて、こちらを見て手をあげている。卓也とまさ君だった。
2人のもとへ行き椅子に座るとまさ君が「久しぶりだね」と笑顔で言った。幼く見られがちだった顔はすっかり年相応のものになっていた。
「随分大人っぽくなったじゃん。髭まではやして。ようやく成長期が来た?でも相変わらず背は小さいね。」
僕が茶化すように言うとまさ君は照れ笑いした。
「おいキャプテン!」
卓也が僕の肩を叩いて声をあげる。かなり酒臭い。
「なんだよ。お前酔っ払いすぎだろ。顔が真っ赤だぞ。それにキャプテンて呼ぶなよ。」
僕は肩に置かれた手を払いのける。
「久しぶりだなぁ。こっちへもっと頻繁に帰ってこいよ、キャプテン!」
「うるさいんだよお前は。声がでかいし、酒臭いし、それに顔もでかいから近付くなよ。」
「壮太…、顔は許してやってくれ」
伸治がしみじみと言う。
「どうして自分の顔をお前達に許してもらわなきゃならないんだ。」
卓也は怒って伸治の頭を叩き、隣でまさ君が笑っていた。
「キャプテンさんは何を飲みますか?」
カウンターに立っていた女性が僕達のテーブルへくると笑顔で聞いた。卓也の大声が彼女に聞こえていたようで、キャプテンと呼ばれ僕は苦笑いした。
「絵美さん、キャプテンにビールを!」
卓也が大声で女性に言う。女性は尋ねるような目つきで僕を見た。絵美という名前は彼女にとても似合っていると思った。
「すみません、こいつうるさくて。生ビールください。」
僕は卓也を睨みながら頼んだ。
「卓也君はいつもにぎやかだから慣れてますよ。それに今、カウンターのお客さんが帰って他にお客さんはいませんから、騒いでもらって全然構いませんよ。生ビールすぐお持ちしますね。」
絵美さんはそう言いカウンターへ戻る。
「ここは絵美さんの店なんだ。元々旦那さんと2人でやってたらしいんだけど、何年か前に亡くなったらしくて、今は絵美さん1人でやってるんだよ。」
伸治が絵美さんの後ろ姿を眺めながら喋る。
彼女はとてもそんな風には見えなかった。
1人で店を経営していくのは大変な事だと思う。
けれど「苦労」といった類の言葉と無縁の存在に見えた。
僕は生ビールを一気に飲み干し2杯目を注文した。卓也はウイスキーをロックで飲んでいて、まさ君は綺麗な水色のカクテルを飲んでいる。伸治は烏龍茶だった。話しは中学の頃の事で盛り上がった。
「だいたい卓也は昔から空気読めないよな。修学旅行の時まさ君がせっかく愛美さんと2人きりで居る時に、散々邪魔しに入った事あっただろ。」
伸治がタバコを吸いながら喋る。
「なにそれ、全然覚えていない。なんで俺が邪魔なんだ?」
卓也は目がすわっている。
「まさ君が愛美さん好きだった事くらい見ていればわかるだろ。」
「え、まさ君。ほんとか?ほんとなのか?そうだったのか?」
まさくんは「よく覚えていないや」と笑ってごまかす。
「まさ君、はっきりと迷惑だったって言った方がいいよ。その方が卓也のためになるんだから。」
僕はタバコに火をつけながら言った。
「おいキャプテン!今日はずいぶん俺に厳しいじゃないか。昔は優しかったのに変わっちまったなぁ。」
「変わったのは卓也のほうだろ。悪いけどその髪型全然似合ってないからね。卓也は一生くせっ毛のままでいればよかったんだ。」
「それは言えてる。」
伸治とまさ君が同時にそう言い、顔を見合わせ大笑いした。
話しはつきなかった。卓也は酒を散々飲んで馬鹿げた事を言い、僕と伸治は卓也に冷たくあたり、まさ君はよく笑った。
この場の空気をとても懐かしく思う。僕達は思ったほど大人になってはいない。
戻れるのかもしれない。
少し酔った意識のなかにそんな感覚を感じながら僕は喋る。
「それにしても、この中でまさ君が1番変わったよね。今仕事は何してるの?」
「大学卒業して中学校の教師をやってる。教員採用試験受かったからさ。なりたての新米教師だよ。」
まさ君は照れ笑いを浮かべ、カクテルを一口飲む。
「うそ、本当に?」
僕は驚いて声をあげた。
「実は俺はさぁ…」
卓也が何か言おうとし、僕は「卓也の話しはいいよ。」と後に続く言葉を遮る。
「今、隣町の中学に勤めてるんだよ。この辺りの中学生はわりと純粋っていうか、かわいげがあるから良いよ。中学生って本当まだまだ子供なんだよね、当たり前だけど。でも自分も中学の時あんなに子供だったのかと思うと、ちょっと信じられないっていうか。」
「いやいや、まさ君は十分子供だったよ。」
伸治がそう言い、まさ君は「そっか」と言って苦笑いした。
「伸治は浪人してるからまだ大学に通っているんだよな?」
「ああ、春から就職活動だ。このまま地元で就職しようかと思ってる。本当はもう動いた方がいいんだけどな。髪の毛も少し伸ばして、色も黒くしなきゃならない。」
伸治は坊主頭を撫でながら言った。
「壮太は今むこうで何しているんだよ。大学卒業して就職したんだろ?」
伸治の問い掛けに僕は少し言葉がつまった。
「いや、大学は2年目の冬で辞めたんだ。成人式のすぐ後くらいだったかな。」
僕は一口ビールを飲む。口の中がやけに苦く感じた。
「本当かよ?何で辞めたんだ?かなり勉強して入ったんだろ?」
「まぁ…理由はあるような、無いような…」
辞めた理由はうまく言葉にはできない。
伸治は僕の顔を見て「そうか…」とつぶやいた。
「それじゃあ今は何をしているの?」
まさ君が遠慮ぎみに聞く。卓也は酔いがまわってテーブルにひじをついてうつむいている。
「むこうの知り合いで飲み屋をやってる人がいて、今そこで働いてる。丁度絵美さんがやってるこの店みたいな感じのところ。一応正社員っていう形になってるけどね。」
「そうなんだ…なんか意外だね。見た目は入社1年目の社会人って感じなのに。」
まさ君が言い、僕は苦笑いした。
場の空気は徐々に静かなものになっていく。店内に流れるJazzはまったく聞いていなかったのに、今になって耳に届いて気分を静めさせる。
「なんだよキャプテン。じゃあこっちへ戻ってくればいいじゃないか。俺はてっきり向こうで仕事をばりばりやってるのかと思ってたぞ。」
卓也が顔をあげて喋る。ひどく酔っていて舌がうまくまわっていない。
「卓也は黙ってろ。」
伸治が言う。
「だいたいキャプテンは高校終わりぐらいの頃からなんか変だったよ。そうだ、郁美と別れたのだってその時ぐらいだった。久しぶりに会ったけど、やっぱり昔とは違う。大学も辞めたなんてらしくないよ。」
卓也は頭をふらふらさせながら喋る。
「おい、卓也!お前は少し寝てろ。調子に乗って飲み過ぎなんだよ。」
伸治が卓也の頭を軽く叩く。自分がそんな風に見られているとは知らなかった。伸治は明らかに僕の顔色を伺っている。
「なんだよ伸治。お前だって郁美が結婚するって聞いた時は最初キャプテンとよりが戻ったんだと思っただろ。」
「お前本当いい加減にしろ。馬鹿みたいに喋りやがって。だからお前は…」
伸治は言いかけて口をとじる。
「だからなんだよ。なぁ伸治、何なんだよ。無神経だって言いたいのか?いやぁ…たしか俺は空気が読めないんだったか?なんなんだよ空気って、俺は思った事は言わないと気が済まないんだよ。」
「そうだよ、お前は無神経すぎるんだよ。酔っ払ってるからって言って良い事と悪い事くらい区別つけろ。ガキじゃないんだからよ。」
伸治は険悪な目つきをしている。
「そうやってなんとなくやり過ごしてればいいのか?なぁ?別に酔ってるから言っているんじゃない。俺はなぁ、会社で先輩に嫌み言われても言いたい事は言ってるんだよ。悪いかよ。伸治のそういう態度の方が卑怯じゃないのか?そうだろ?」
卓也は伸治を睨みかえした。
「なんだよその目は。おい。」
伸治が立ち上がろうとし、僕は伸治の肩をおさえた。
「拓也と伸治が揉める必要ないだろ。」
僕がそう言うと伸治は僕を見て睨んだ。そして何も言わずにタバコに火をつけた。拓也はまたテーブルにひじをつき、うつむいた。
それからしばらくの間、誰も喋らなかった。
まさ君はカクテルのグラスを眺めたり触れたりしていて、伸治は鋭い目つきでタバコを吸い続け、拓也はうつむき、たまにグラスに口をつける
聞こえるのは店内に流れるJazzだけだった。
僕が何かを言うべきなのは分かっている。けれど何をどう話せば良いのか。
きっと卓也の言うように、僕は「なんか変だった」のだ。そして、その事については「触れてはならない話」という漠然とした共通の認識が3人の中であったのだろう。
そうでなければ、この程度の事で皆が沈黙するはずがない。
この数年の間で、まさ君は教師になり、伸治は大学へ通い、拓也はどこかで働いていて、そして郁美は結婚する。
月日がたてば色んな事が変わっていくのは当然だ。そのほとんどが取るに足らない事や、喜ばしい事なのだけれど、中には変わってほしくなかった事も含まれている。
ならば僕の中では一体何がどう変わって、それは僕自身、変わってほしくなかった事なのだろうか。
酔いのさめつつある意識の中でそんな事を考えた。
時計の針は午前2時をさしていた。
卓也は結局テーブルの上で寝てしまい、まさ君が絵美さんに声をかけタクシーを1台よんでもらう。
伸治が送っていくと言ったのだけれど、まさ君は遠回りになるからと遠慮した。
「卓也は一緒にタクシーに乗せて家まで送って行くから、2人は先に帰っていいよ。」
「そう?なんか悪いね。もし卓也起きなかったら殴ってやりなね。寝る奴が悪いんだから。」
「それじゃあまた明後日。結婚式で。」
僕と伸治は2人を残し、会計を済ませて店を出た。
伸治は黙ったまま運転し、僕も窓の外を眺めながら車に揺られた。
家の前まで着くと僕は礼を言って車から降りた。
運転席の窓が開き、伸治が顔を出す。
「まぁ…なんだ…卓也は馬鹿だけど、わかりやすい奴で助かるよ。あれだけ酔っ払ったら、目を覚ました時には今日の事もすっかりわすれているだろ」
目元から鋭さは消え、むしろ少し笑っているように見える。
「また明後日迎えに来るよ。連絡するから」
伸治はそう言い車を動かし走り去った。
僕は玄関のカギを静かに開け家の中へ入り、そのまま部屋へ向かった。
せめて結婚式には笑顔で出席しよう。そんな事を思いながら眠りについた。
翌朝、目が覚めると僕はぼんやりとした意識のまま起き上がり目をこすった。
窓にかかる白いカーテンが朝の光を受けて、部屋の中はうっすらと明るい。
冷えきった空気が部屋の中にはりつめていた。朝は一段と冷え込む。
僕は冷たくなったフローリングの床を早足で歩き部屋を出た。
階段を降りリビングへ行くと母がソファーに座り、テーブルの上に広告を広げて読んでいた。
「おはよう。」
「あら、起きるの早いじゃない。」
母は僕を見て目を丸くする。
「そうかな。父さんと裕也は?」
「お父さんは会社へ行ったわよ。土曜日だけど今仕事忙しいみたいで、最近はずっと休日出勤しているの。裕也は休みだからまだ寝てるんじゃないの。ご飯は食べるの?」
「そうだね、もらう。」
母は朝食を用意してくれると買い物へ出掛けると言い、準備に長いこと時間をかけた後出ていった。
昨夜の酒が胃をだるくさせている。いざご飯を目の前にすると食欲がわかない。僕はみそ汁とサラダだけを食べて、残りは元通りになおして片付けた。
その後シャワーを浴びて歯をみがき、再び階段をのぼった。
部屋へ戻るとカーテンを開けて、光を中へ取りこんだ。
僕は思い切って窓をあけた。
冷たい新鮮な空気が頬へ当たり、息を吸い込むとその冷たな空気が鼻の奥を鋭く刺激する。けれど全く不快な気にはならず、かえって気持ちを少し清々しくさせた。
良く晴れた1日になりそうな予感がする。
透明度の高い冬の青空が広がっており、民家の屋根や道脇に積っている雪が太陽の光を受けて白く輝いている。雪が光を反射しているせいか、景色はより鮮明で明るいような気がした。
遠くに見える山にも雪が積もっているけれど、少し霞みがかっているせいか、山全体は白というより薄い青色に目に映る。
土曜日の朝なので車の通りも少なく、まだとても静かだった。
そこには昨夜ここへ帰って来た時に感じた重々しさはない。
刹那的な景色と言うべきか、ワイングラスのように透明ではかない物のように見えた。
何年もの間、毎朝同じ景色を見て育ったはずなのに、そんな風に感じるのは初めてだった。
目の前に広がる景色と、過去に見た同じ景色とが頭の中でだぶり、僕は今目にしているのが本当はそのどちらの映像なのか一瞬混乱した。
それは昨夜から何度も僕の中で起こっている現象だ。
しばらく外の景色を眺めた後窓を閉めた。そろそろ10時になるころだろうか。
僕はクローゼットを開け、昨夜かけておいた2着のスーツのうち片方のスーツを手にした。こちらへ送る前にクリーニングに出しておいたので、シワ1つなくスマートにハンガーにかかっている。
それは純黒のスーツだ。
ハンガーから上着とスラックスをはずし、シワのできないように優しくベットの上に置く。
その後、服を脱いで白のワイシャツを着る。襟や袖が肌にひやりと冷たく当たる。
ベットの上からスラックスを手にとり、足を通してベルトをしめた。
テーブルの上には黒革のケースが置いてあり、ファスナーを開けると中には3本のネクタイが並んでいる。
青と白の線が斜めに入ったストライプ柄のネクタイ。
無地の白ネクタイ。
無地の黒ネクタイ。
僕はその中から無地の黒ネクタイを手にとり首に巻いてしめた。
最後に上着の袖に腕を通してボタンをとめる。
スーツは着慣れていないいないため、体を動かす度に硬さを感じた。そのせいか自然と気持ちが引き締まる。
クローゼットの中から全身鏡を取り出し、僕はその前に立って映る自分の姿を見つめた。
純黒のスーツ姿に黒のネクタイ。ワイシャツだけが白く浮かび上がっている。
喪服姿になるのはこれが初めてだ。
本当なら4年前にこの喪服を着ているはずだった。いや、当時はまだ高校生だったので、あるいは学生服で参列していたのかもしれない。
どちらにせよあの日僕は葬儀には参列せず、4年後の今になり喪服姿になっている。
今さらこの恰好になる事自体に意味はあるのか。別に私服でもかまわないのだ。
そして、今さら会いに行って一体何がしたいのか。
後悔している?けじめをつけたい?
それともこれは自己満足なのか?
いや、ただ後悔しているだけだ。
けれど後悔しているからといって今さら喪服を着て会いに行ってどうなる。
けじめをつけたい?
それは自己満足と何が違う?
さまざなな言葉が頭の中に浮かんでは絡まり、それは止まる事なくループして胸の中の感情を激しく揺さぶりはじめた。
僕は思わず鏡の中の自分の姿から目を背け、頭の中を真っ白にすることに専念した。
心なしか小刻みに早くなっている呼吸を元に戻すために、深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。
頭の中で絡まった言葉や胸の中で高まる感情を、吐き出す息と共に体の外へ押し流す。
窓の外の景色を眺めながらしばらくその作業に専念した。
真っ白になった頭の中に1つの言葉が浮かぶ。
また目を背けようとしているのか?
僕はベットの上に座りこみ、ぼんやりと天井を見つめた。
「また」ではない。
あの日から「今まで」目を背けていた。わかっている。
今さらどうなる。今さら遅い。今さらどうにもならない…
「今さら」ばかり。
それならば、喪服に着替えまでしておいて、今さら会いに行くのをやめるのか?
わからない。理屈じゃないし、考えてたところで答えはでない。
けれど今さら引き返せないのは確かだ。
僕はベットを殴りつけて、その反動で立ち上がった。
そしてスーツの上からコートを羽織り、部屋から出た。
待ち合わせは家の近くの駅前に11時。
僕は家を出て足早に駅へと向かった。
空を見上げると太陽は青空の高い位置にあり、それは輪郭をとらえられないほどの圧倒的な光の放射線で、僕は思わず目を細めた。けれど見た目の力強さとは裏腹に、顔へ当たる日差しは弱々しい。
僕はそんな冬の太陽を毎年見る度にとても綺麗だと思う。
弱々しい光とはいえ、路上の凍った雪は徐々にとけはじめていた。革靴の底が凍った路面の上を滑り、何度か転びそうになった。
まだ高校生だった頃も毎朝駅までのこの道を通っていた。革靴をはいて通学していたので、当時は下り坂の凍った路面を少し助走をつけた後、スノーボードをするような姿勢で一気に滑り降りたものだった。
今はとてもそんな事をする気にはならない。当時は電車の時間にぎりぎりだったためそんな事をやっていたけれど、今は得に急がなければならないわけでもない。時間には余裕もある。
そもそもそんな思いとは関係なく始めから足どりは重いのだ。
たまに立ち止まってはまた歩き、そうやって進むうちに結局駅前に着いたのは11時丁度だった。僕は辺りを見渡し待ち合わせ相手の女性を探した。
駅に人影はない。駐車スペースに視線を送ると空車のタクシーが1台と、白のステーションワゴンが停まっている。
ステーションワゴンの前に一人の女性が立っている。背が高く細い足がすらりと伸びた女性。うつむき加減で携帯電話を触っている。
この女性かもしれない。
僕は頭の中にかすかに残っている記憶の映像を探った。けれど数えるほどしか会った事がないため確信はもてない。
たしか4年前に会った時は20代後半だったはずだ。けれどそこに立つ女性の姿は僕の想像よりも若く見える。
白いロングのダウンコートを着ていて、黒のデニムパンツに茶色のブーツを履いている。ブーツインしているためか、足元がすっきりとしていて足がより長い印象を受ける。
茶色く染められた長い髪は毛先へいくにしたがって軽くウェーブしていて、派手過ぎず自然な感じで胸元まで流れている。その髪のせいで表情は見てとる事ができない。
人違いかもしれない。そう思った時女性が不意に顔をあげ、髪をなびかせながら周囲を見渡しはじめた。
そして当然のように僕と視線が交わった。女性は僕を見つけると一瞬目を大きくさせ、徐々にその目の色を変えていく。
その目を見た瞬間、僕の胸が急激に波打った。それはまるで胸の内側から殴られたような衝撃で、視界までもが揺れた気がする。
間違いない。彼女がそうだ。
あの時と同じ目の色をしている。それが憎しみからくるものなのか悲しみからくるものなのかは分からないが、僕の感情を揺さぶる目。
彼女は手に持った携帯電話をポケットへしまい、姿勢を正して柔らかくお辞儀をした。
僕は固まったままその姿を見つめ、彼女が顔をあげた後軽く頭を下げた。
体中の筋肉が張り詰めている気がする。それは決して寒さからくるものではない。
「麗奈さん…ですよね?お久しぶりです。」
僕は彼女の元へ行くと向かいあって立ち、なんとか言葉をしぼりだした。
「お久しぶりです。」
麗奈さんは僕の目を真っ直ぐ見つめたまま言った。
さっきの胸の鼓動が蘇りそうで、僕は彼女の眉や鼻筋の辺りへ視線をそらした。眉は綺麗に整えられていて鼻筋には作り物のような鋭さがある。そこから彼女の意志の強さみたいなものが伺える。
「寒いのでとにかく車に乗りましょう。」
麗奈さんは僕の返事を待たずにステーションワゴンのドアをあけ運転席に乗り込んだ。僕は言われるままに助手席へ乗った。
「急に呼びだすような真似をしてしまいすみませんでした。」
麗奈さんはそう言い車を走らせ始めた。僕は彼女の顔を横目で見た。言葉とは逆で、こちらに気を使うような雰囲気は全くない。彼女の喋り方はまるで独り言を言っているような冷たさがある。僕は自然と助手席のシートに姿勢を正して座っていた。
「いえ、丁度他にもこっちへ帰ってくる用事があったところなので…」
僕は無性にタバコが吸いたくなった。けれどそんな事を言い出せる空気ではない。
「先に渡したい物がありますので、義治さんの所へ行く前に一度家に戻りたいのですがいいですか?」
「ええ、それは全然構いませんが…」
渡したい物。電話でもその事は聞いていた。けれど、それが何なのかを尋ねるのは気が引けた。
それ以上会話は続かず彼女黙ったまま車を走らせ、しばらく気まずい沈黙が続いた。
もしかしたら気まずいと感じているのは僕の方だけかもしれない。僕は車内に流れる音楽に耳を傾け気を紛らわせた。
車は街の中心地へと進んで行き、昨夜高速バスを降りた駅の近くまで着ていた。
昨夜同様、休日の昼間でも人通りは少ない。この街も空洞化が進んでいるようだった。バイパスなどの広い通り沿いに大型のショッピングモールが立ち並ぶ様になり、道幅の狭く駐車場の少ない駅周辺には人が集まらないようになってきている。
僕がこの街にまだ住んでいた頃から徐々にその傾向はあったのだけれど、ここまで進行している状況を見るとやはり物悲しい気持ちになる。
「形あるものは全て壊れるものだ。だから気にするな。」
昔、親戚の叔父さんの大切にしていた万年筆を僕が壊してしまった事があった。その時、叔父さんが僕に言った言葉。当時幼かった僕は怒られなかった事にほっとしただけだったけれど、今その言葉を思い出すと心を寂しくさせる響きがある。
楽しい思い出はいつまでもそのままに
そんな風にはいかないものなのだろうか?
「左手に見える白い家が私達の家です。」
隣で麗奈さんが唐突に口をひらき車を停めた。
僕は麗奈さんに続いて車から降りた。
建てられて10年は経っていないと思われる2階建ての白い家。それほど大きくないけれど外観は洋風で清潔感のある家だ。
僕は表札を確認した。そこには「柏木」の文字が彫られている。
懐かしい名字だった。頭の中に自分の名前が2つ浮かぶ。
柏木壮太
吉岡壮太
僕が今「吉岡壮太」なのは間違いない。けれど「柏木壮太」は間違いなく僕だった。
「この家に来るのは初めてですか?」
麗奈さんが玄関の前で振り返り、門の前で立ちどまっている僕を見て尋ねた。
「ええ、初めてです。あの人とは別の場所で会っていましたから。この家は…あの人が建てた家ですか?」
僕が聞き返すと麗奈さんは頷いた。
「義治さん、あなたの母親と離婚した後しばらくの間はアパートに住んでいたんですけれど、私と結婚が決まった時にこの家を建ててくれたんです。どうぞ中へ入って下さい。」
麗奈さんはそう言い玄関のドアを開けた。
「どうぞ」と言われても簡単に足を踏み出すことは出来ない。
ここはあの人の…僕の実の父、柏木義治が死んだ家。
墓参りだけのつもりがこんな場所にまで来てしまうとは。
麗奈さんに怪訝そうに見つめられ、僕は仕方なく重い足どりで家の中へ入った。
リビングへ通されソファーへ腰掛けると、僕は部屋の中を見渡した。家具は白と黒のモノトーン調で統一されている。床には黒いカーペットが敷かれ、その上に白のテーブルや白いソファー。壁際に設けられた棚も白や黒の物だった。どこか冷たさを感じさせる洗練された部屋。
自然と溜め息が出た。今の僕にはこの白黒の部屋の景色は葬式をイメージさせる。なによりも、僕自身が白黒の喪服姿なのだ。
この家のどこかで親父は死んでいった。それは考えたく無くても頭の中から離れず、親父の存在を部屋の中のいたる所に感じた。家具の隙間からであったり、天井の隅からであったり、棚に並べられた小物からであったり、または部屋の扉の向こう側から。
麗奈さんは珈琲を運んで来ると向かい側のソファーへと座った。
「それで、僕に渡したい物というのは?」
珈琲には手を付けず視線だけそこへ落として尋ねた。とにかくこの家から早く出て墓参りをすませる。それがたとえ形式的なだけのものになっても構わないとさえ思い始めている。
「その前に壮太さんに1つ聞いておきたい事があります。」
麗奈さんはそう言い珈琲を一口飲んだ。彼女の茶色い髪がなびく度に甘ったるい香りが辺りを漂い、僕はその都度顔をしかめた。
まるで人と向かいあっている気がしなかった。そもそも僕は目の前に座っている女性が親父の再婚相手という事以外、何も知らないのだ。彼女が普段何をしていて、何に興味があって、どんな顔をして笑うのか。何も分からない。
僕が分かる事と言えば、彼女は僕に対してどこまでも冷たい表情になれるという事くらいだった。
僕は顔をあげ次の言葉を待った。
「義治さんが逝ってしまってからもう4年以上がたちました。私も気持ちの整理をつけながら過ごしてきましたけれど、どうしてもひっかかっているんです。あの日…彼が倒れた日に壮太さんはどこで何をしていたんですか?」
彼女の視線は揺るがない。
親父が倒れた日?僕が何をしていたかだって?
胸がまた1つ激しく鼓動した。同時に頭へ一気に血がのぼる感覚が襲った。胸は鼓動の余韻から小刻みに脈打ちを続ける。僕は珈琲を飲もうとテーブルの上へ手を伸ばした。けれど、その手が震えそうですぐに引っ込めた。
何かに意識をそらして落ち着きたかった。僕は一息ついて口を開いた。
「すみません、煙草を吸いたいのですが。」
引っ込めた手をポケットへ入れて煙草の箱を握りしめる。
「灰皿がないので遠慮していただけますか?」
台詞を読み上げるかのような心のない返事。まるで用意されていたかのような即答だった。きっと麗奈さんは僕の頼みなど、何一つ聞き入れるつもりはないのだろう。
手に力が入り煙草の箱が潰れていく。箱が潰れるかすれた音が、沈黙の中で不自然に音をたてた。
「麗奈さんは僕を許せない。そうですよね?」
言葉に力が入った。そうしなければ唇が震えてしまいそうだった。
「許せない?私はただ聞いているだけです。あの日、あなたがどこで何をしていたのかを。」
「僕がそれを答える事に何の意味があるんですか?」
「意味ですか?あなたにはなくても、私にとっては意味のある事です。」
刺のある喋り方だった。手に力が入り、握りしめた煙草の箱が手の平に食い込んでいく。
「あの日の事は覚えていません。」
僕はそう言い、初めて彼女の目を真っ直ぐ見つめ返した。目をそらし続ければ、彼女はきっと僕の中へ土足で足を踏み入れてくる。
「覚えていない…ですか。4年前、病院で会った時もあなたは答えてくれませんでしたね。」
病院…
彼女は余計な言葉ばかりを口にする。僕の記憶の蓋を強引にこじ開けるような事ばかり。
当時の景色が頭の中に浮かび始める。
柏木義治…霊安室…柏木麗奈…
痛みを伴う景色。
僕は咄嗟に口を開いた。
「そうです、4年も前の事です。覚えていません。病院で何を話したかも覚えていません。ですから僕が話せるような事は何もありません。僕は今日、墓参りに来ました。それだけです。」
一気にそう喋ると、麗奈さんは顔に苛立ちの色を浮べた。それは僕が初めて見る、彼女の人間らしい表情だった。
麗奈さんは溜め息をつき、ゆっくりと窓の方へ顔を向けた。髪がなびいて、甘ったるい香りが漂う。彼女はもう一度肩で溜め息をついた後、再び僕を見つめて言った。
「私はあなたを許せません。」
涙が落ちた。
泣いていた。麗奈さんの目のふちから小さな涙の粒がこぼれ、頬の上を一筋の線を作りながら落ちていった。
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