タイトルなし
「結局そんなもんだよ」
僕の耳元で誰かがつぶやく。
ピアノ線の切れた鍵盤を、指で軽く叩いたような声だった。真っ黒に輝くグランドピアノが目に浮かんだ。けれどピアノ線は切れているのだ。
高速バスに乗り3時間が過ぎていた。たった3時間バスで移動しただけて、窓から見える景色は秋から真冬へと変化していた。
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※作者です。
この物語を書き始めてから1年以上がたちました。現状は、行き詰まって更新がストップしてしまっています。この先の展開は見えているのですが、目の前の一歩がどうしても書けません。最後まで書き上げるつもりなのですが、とりあえず少し気分を変えて別の短い物語を書いてみようと思います。出来れば2つの物語を同時に更新していければと、調子の良い事を考えてしまっています。
ここまで読んで下さった方には、勝手な申し出になりすみません。まだ読んで下さっている方が居るかわかりませんが、報告までに。
「今日、家に帰ってお父さんと最後の話をするの。壮太にもね、その時にいろいろと決めてもらわなきゃならないの。」
母さんは静かにそう言った。
僕は「なんだよ、それ。」と言った。
「離婚した後ね、……お母さんと一緒に暮らすか、お父さんと一緒に暮らすのか。裕也はまだ小さいから……お母さんと一緒に暮らすの。壮太はもう中学生だし……自分でね、決めた方がいいと思うの。」
母さんは酷く言いづらそうに喋った。
なんだよそれ。と思った。大切な事なんて、僕が知るより先に決まってしまっている。
僕が決められる事なんて……ただの後始末だ。
僕や裕也って一体何なんだろう?
僕は裕也が作る布団の小さな山を見つめた。
もしかしたら、裕也は布団の中で目を覚ましているのかもしれないと思った。目を覚ましているけど、布団の中で縮こまっているだけかもしれない。なんとなくそんな気がした。そうだとしたら、裕也はとても可哀相だと思った。
「……もういいよ。今はもう何も考えられない。だってそうだろ?」
僕はベットに座った。力が抜けてしまった。
「今夜ちゃんと話をするから。」
母さんはそう言い、最後に「ごめんなさい。」と言って泣き崩れた。
「走らなきゃならないんだよ。明後日が最後の大会なんだから。」
「ちょっと座りなさい。最後まで話を聞きなさいっていつも言ってるでしょ。あなたのそういう所がね、お父さんにそっくりで……母さん本当に嫌なの。」
母さんは疲れたように顔を伏せた。
僕は父さんに似ている。
母さんが何度も言う言葉だ。母さんはそんな僕の事が、きっと嫌いなんだろう。だから、昨夜も裕也だけを連れて家から出て行ったんだろう。
そんな風には思いたくなかったけれど、母さんはきっと自分の事で精一杯なだけなんだろうけど、僕だってどうしようもなく精一杯なんだ。
「仕方ないよ。僕は父さんの子供なんだし。そんな風に言うなら、母さんが別の男の人と結婚すればよかったじゃないか。」
口元が軽く震えているのを感じながら、僕はそう言った。
僕はどうしようもなく馬鹿だ。
母さんはいつの間にか、肩を震わせていた。泣いているようだったけれど、表情は影になっていてよく見えなかった。
僕は絶対に泣いたりなんかしないと思った。
少しの間、2人とも黙ったまま時間が流れた。
裕也が布団の中で動く気配があった。まだ起きないでくれと思った。今は起こしちゃ駄目だと思った。
しばらく沈黙が続いた。母さんは黙ったまま僕の言葉を待っているようだった。僕は母さんの視線を横に感じながら、ベットのシーツのシミを探した。けれど、シーツはどこまで行っても真っ白のままだった。
黙っていると、とても静かな朝だと思った。静かで真っ白な朝だと思った。
裕也は寝かしたままのほうが良いだろうと思い、僕は静かに口を開いた。
「今何時?学校行かなきゃならない。」
「今日は休んでいいのよ。学校にはもう連絡してあるから。」
母さんは諭すような口調で言った。優しさを込めたような響きがあった。けれど、全然優しくなんてないと思った。
「部活は休めない。走らなきゃならない。」
そう、僕は走らなければならない。
「今日は休みなさい。これからね……」
母さんがそこまで言った所で、僕はベットから出て立ち上がった。
部屋の中に母さんの姿はなく、僕はもう1度ベットへ横になった。そして恐る恐る右ヒジをなでてみた。何事もない事を祈りながら。けれど、やはりそこは腫れていて鈍く痛んだ。同時に昨夜の父さんの顔が思い浮かんだ。やっぱり昨夜の事は夢でもなんでもない。
この先どうなってしまうんだろう。明後日の駅伝大会、走れるのだろうか。僕は深くため息をついた。
駅伝大会が明後日?
今日はまだ…金曜日。
学校は?
再び起き上がり時計を探していると、部屋のドアが開き母さんが中へと入ってきた。
「起きてたのね。」
母さんはそう言って隣のベットに腰掛けた。昨夜よりはずいぶんまともな顔付きをしているけれど、やっぱり沈みがちな表情だった。僕は黙ったまま、ベットの真っ白なシーツを見つめていた。ほの暗い予感があった。
すると母さんは昨夜の事を話し始めた。おおよその想像通り、昨夜母さんは酔った父さんと口論になった。そして裕也を連れて家を飛び出したそうだった。喧嘩の原因が何なのかまで母さんは話さなかった。僕だけ家において、何も言わずに出て行った理由も。
「離婚するの。」
母さんは最後にそう言った。
翌朝。
僕は気がつくとベットに横になっていた。昨夜から記憶がとんでいて、自分の居場所がよくわからなかった。僕は上半身を起こして辺りを見渡した。真っ白のシーツに厚みのあるベット。僕の寝ている横に、同じ形のベットが1つ。
部屋の中は狭くて、2つのベットが床の上のほとんどを陣取っていた。まるでベットのサイズに合わせて作られたような部屋だった。壁はまるで飾り気がなく真っ白で、目で追っていくと隅っこに小さなテーブルが1つだけ備え付けられていた。きっとどこかのホテルの1室なんだろうと思った。
部屋の中を一通り見渡した後、僕のすぐ隣、同じベットの上に、小さな布団の山がある事に気が付いた。そっと布団をめくってみる。そこには弟の裕也が丸くなって寝息をたてていた。
なんだか長い間裕也の顔を見ていなかったような気がした。実際には昨日の朝顔を合わせているんだけれど、僕は裕也の寝顔を見てホッとした気持ちになった。
母さんはタクシーを降りると、僕の方へ一瞬視線を走らせた。その後すぐに警察官の元へ行き、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。母さんは化粧もしていなかったし表情には疲れの色があった。僕は少しやりきれない気持ちになり、2人に背を向けて、泣いて腫れぼったくなった瞼の辺りを手の平で何度も伸ばした。そして黙って母さんの乗ってきたタクシーに乗り込んだ。
真夜中の街を進むタクシーの中で、母さんは繰り返し「ごめんね」と言った。それが何に対する言葉なのか解りかねたけれど、僕は口を閉じたままタクシーの料金メーターが上がっていく様を見つめていた。母さんには聞かなければならない事が沢山ある。今夜父さんと何があったのか。いや、今まで父さんと母さんの間に何があったのか。そしてこの先どうするつもりなのか。
けれど、今は何も聞きたくなかった。僕は痛みの残る右ヒジをさすりながら、窓の外を眺めた。
心の中がとてもスカスカとしていた。その中に重たく暗い予感が漂っていた。
僕は願った。
明日になれば、今日の事が消えて無くなっていますように。
皆に笑顔が戻り、僕の右ヒジの痛みも綺麗さっぱり無くなっていますように。
警察官に補導されたのは、それからしばらくたった後だった。
僕には行く場所なんてなかったし、この先の事をぼんやりと考えていた。色んな選択肢が思い浮かんだけれど、どれも行動に移せるだけの勇気も無く、自動販売機の前でうずくまっていた。だからパトカーが近づいてきている事も気が付かず、声をかけてきた年配の警察官に対しても、最初は何も答えなかった。家の住所を聞かれても、僕は答える訳にはいかなかった。
警察官は僕をパトカーに乗せると、自動販売機で缶コーヒーを買って僕に渡してくれた。それは冷えきった手には熱すぎたけれど、僕は強く握りしめた。嬉しかった。
パトカーの中は暖かく、缶コーヒーが手を温め、年配の警察官は優しくて……僕は母さんの名前と携帯電話の番号を教えた。
それからしばらくした後、母さんがタクシーに乗って迎えに来た。
しばらく続けて走ってみる。
やっぱり痛い。僕は立ち止まって、右ヒジをなでてみた。間接部分が腫れていて、軽く触っただけでも痛みが広がる。僕はもう一度走り出し、腕を振った。
痛い…痛い…痛い…
最悪だ。父さんに突き飛ばされた時に、床に打ち付けたせいだ。そんなにたいした怪我じゃないと思うけれど、駅伝大会は3日後なんだ。
僕は走り続けた。出来れば気のせいであって欲しい。だけど、やっぱり痛くてリズムがうまく刻めない。呼吸のリズムとまるで合わない。
涙が溢れ出た。最低だ。
走っていてこんなに気分が悪いのは初めてだ。
僕は走るのをやめて、近くの自動販売機の前に座り込んだ。
酷く疲れた。
裕也と母さんは何処へ行ったんだろう。
僕はこんな夜中にどうして1人ぼっちなんだろう。
座っていると体がだんだん冷えてきた。
僕は少し身震いした後、身を小さくして、近くの民間の明かりをぼんやりと眺めた。それは涙でぼやけて、視界の中で広がった。
とても暖かそうな明かりだった。
家の外はとても冷え込んでいた。僕は家を出ると、とにかく走った。夜中の街は真っ暗で、僕は時折道沿いに灯る街頭の明かりを1つ1つ目指しながら走った。父さんにつかまれた胸倉のワイシャツは、ボタンが外れてしまっているのか、そこから冷たい風が胸に流れ込む。
だけど、全然気にはならなかった。体は熱かった。悔しかった。
父さんは昔はあんなんじゃなかった。もっとよく笑ったし、目は優しかったし、僕を優しく抱えてくれた。僕はそんな父さんが好きだった。
胸元から首にかけてが、ヒリヒリと痛んだ。あんなたくましく優しかった父さんの腕が、僕の首を……
父さんはどうしてあんな風になってしまったんだろう。
仕事のせい?
母さんのせい?
僕のせい?
父さんは僕の事を悪魔の様だと言った。
悪魔、悪魔、悪魔……
涙が出そうになった。僕は顔をしかめて走った。
視界が滲む。
涙が出た。視界がどんどん滲んでいく。
考えたら駄目だ。とにかく走ろう。行くあてなんてないけれど、走っていれば忘れられる。
呼吸のリズムと腕のリズム。体全体でリズムを刻もう。
そうやって腕を激しく振った途端、鈍い痛みがはしった。
「俺がどんな思いで働いているか、お前には想像もつかないだろうな。だから親に向かって平気でそんな態度がとれるんだ。金を稼ぐっていうのは、お前が考えているほど生易しいものじゃない。俺がお前達を養うために、今までどれほどくだらない仕事に手を染めてきた事か。」
父さんは僕を見下ろす。それはみくだしている様にも見えた。
憎いと思った。いつも一方的な言い方しかしない。
僕は父さんの胸倉を絞り上げた。ほんの少し手を伸ばせは、顔を殴りつける事が出来る。勢いにまかせて殴ってしまいたかった。
だけど僕は、拳をにぎりしめたままその衝動に堪えた。
殴ってしまったら、父さんと同じ人間になってしまう気がした。
「誰が頼んだんだよ……この家は、偉そうな事が言えるほどちゃんとした場所なのか?そんな風に恩着せがましく言われる筋合いない!俺はもっと普通の家に生まれてきたかった!本当にそれだけなんだ!」
僕はそう叫んで、父さんを突き飛ばした。
父さんだって僕がどんな気持ちでこの家で生活しているか、知りもしないんだ。理解しようとさえ、してくれないんだ。
僕は部屋から飛び出した。
「あんたにそんな事を言える資格があるのか!?もういい加減にしてくれよ!あんたも母さんも互いをけなし合ってて、それを聞かされる俺や裕也の気持ちがあんたに分かるか!?勝手にやってくれよ!俺達を巻き込むなよ!裕也はどこにいった!?まさか裕也に手を挙げていないだろうな!?」
そう言い返すと、首元が更に苦しくなり僕は思わず顔をしかめた。父さんの容赦ない腕力が、僕の胸元でうねりをあげている。
怖いと思った。大人の力に対して、怖いと思った。普段の冷たい目をした父さんからは、想像もつかないほどの逆上ぶりなのだ。
それに比べ僕の力なんて、まるでちっぽけに思えた。悔しくて悔しくてたまらない。涙が滲み出そうになった。僕は顔をしかめて必死に堪えた。
怖いけれど、怖がったりしたらいけないと思った。
「知らん!!出て行った奴の事なんか知った事じゃない!!……お前達は悪魔のような存在だ。お前達の為に働くのがほとほと嫌になった!」
父さんはそう言い、僕の胸倉から手を勢いよく離した。首元が緩まり、僕は荒い息を吐き出した。僕は父さんの胸倉をつかんだまま離さなかった。腕に力が入ったまま動かない。
そう叫んだ途端、父さんが大股で僕に歩み寄り、僕の胸倉をつかんだ。ワイシャツの襟が首に食い込み、そのまま僕は物凄い力で引っ張り上げられた。父さんの歪んだ顔が、僕の目の前に迫った。
「だから出て行けと言っているんだ!気に入らないなら出て行け!お前のその態度は父親に対してするものなのか?普段から人を毛嫌いするように避けて、ろくに話もしない。感謝する気持ちも微塵もない!」
僕は痛みをこらえながら右手を伸ばし、父さんの胸倉をつかみ返した。
「俺が悪いって言うのか?ふざけるなよ。どうやってあんたと話しをしろっていうんだよ!?こんな家庭でまともな会話が出来るわけないだろ!?あんたがこの家を目茶苦茶にしてるんだろ!」
「結局お前は母さんの言いなりか?なぁ?あの女に何か吹き込まれたんだろ。言っておくがな、お前達の母親はろくな女じゃないぞ。」
僕は父さんの胸倉を、力いっぱい引き寄せた。
完全に頭にきた。
あまりの痛さに声が出なかった。痛いのは背中よりも先に床に打ち付けた右ヒジの方だった。僕は声も出せずヒジを抱えてもだえた。
「お前は誰に向かって口を聞いていると思ってるんだ?ここは誰の家だ?なぁ、誰の家か答えてみろ。」
僕はなんとか上半身を起こして、父さんを睨みつけた。
「何を急に訳の分からない事言ってんだよ。皆の家だろ?違うのかよ?」
「そうか、皆の家か。なら、お前が学校へ行けるのは誰のおかげだ?生活をしていけるのは誰のおかげだ?」
父さんはそう言い僕を見下ろす。
僕は言葉につまった。
父さんが働いて、そのおかげで僕が生活出来ているのは事実。だけど、僕は飼われているわけじゃない。いや、飼われているのか?だとしたら僕には何も言う資格はないのか?
そんなの認めたくない。悔しい気持ちで一杯になった。
「なんだよ、感謝されたいのか?」
僕は精一杯の皮肉を込めて言った。
「なんだと?」
「ふざけるなよ…俺だって好きでこんな家に生まれてきたわけじゃないんだ。何なんだよ!この部屋は目茶苦茶じゃないか!あんたはまともな人間じゃない!この家もまともじゃない!それはあんたが一番よく分かっているんだろ!?」
「なんだ、いたのか。」
父さんは顔を上げると、つまらなそうな口調でつぶやいた。そして、のっそりと立ち上がった。いつも綺麗にまとめている髪が乱れている。
「なんだよこれ。」
僕はダイニグを指差す。父さんが僕の前に歩み寄る。僕は少し身構えた。
「お前も出て行け。」
そう言った父さんは、酒の匂いがした。眼鏡の奥は普段と変わらず冷たい目で、僕は声がでない。父さんは僕よりずっと背が高く、体格も良い。目の前で僕を見下ろす父さんを、おぞましいと思った。
「母さんも裕也も出て言ったんだ。お前も黙って出ていけばいい。」
父さんはそう言い、僕の脇を通りすぎていく。
「出ていった?なんだよそれ。ちょっと待てよ!」
僕は父さんの背中を追い、肩に手をかけた。けれど、一瞬でその手を払いのけられた。そうかと思うと、父さんが僕の肩を突き飛ばす。僕はバランスを崩して倒れ、床の上に背中を思いっきり打ち付けた。
薄い暗闇に目が徐々になれていく。
それは間違いなく父さんの姿だった。スーツ姿のまま、ソファーの上でうなだれている。
雰囲気が普通じゃない。そう感じるのはダイニングの惨状を目にしたせいか。
憔悴しきっている?
いや、寝ている?
よく見ると、父さんの手にはグラスが握られていた。テーブルの上には、なにやらビンのような物が並んでいて、ヌルリとその輪郭が浮かび上がっている。
僕は何が起こったのかを少しだけ理解した。
父さんは酒を飲んだ。そしてダイニグのテーブルをなぎ倒したんだ。
以前、父さんがリビングの戸棚のガラスを割った時の事が頭を過ぎった。
ガラスが割れ落ちる音。母さんの悲鳴。絶望的な気分。
胸がドクリと鼓動した。
母さんと裕也はどこにいる?
鼓動がどんどん大きくなっていく。それと一緒に、胸に熱いものが流れ込んでくる。
「なんだよこれ……何してんだよ!」
僕は暗闇の先の父さんに向かって声を上げた。
酷い景色だった。
部屋の中に入って直ぐ、僕の足元に食卓用の椅子が転がっている。
椅子が転がっている?
明かりがついているのは左手のダイニングの方だった。リビングは明かりが消えていて暗い。
僕はダイニングを見渡す。
テーブルが横倒しになっていた。床には、食器や食べ物が散らばっている。きっとテーブルの上に並べられていた状態で、テーブルごとひっくり返ったんだ。ほとんどの皿が割れていた。煮物やら鶏の唐揚げやらご飯やらが、ごちゃまぜに散乱している。
僕の白い茶碗も真っ二つに割れていた。ご飯が床に乗っかっている。
ご飯が床に?
一体何が起こったのか。普段と全く異なる景色。
ここは本当に僕の家なのか?
それに、どうしてこの部屋には誰もいないのか。
皆は何処に?
あれ?今何時だっけ?
僕は混乱する。
しばらく呆然と立ちつくしていると、僕は異様な気配を感じて咄嗟にリビングへ視線を向けた。ダイニング側の明かりが微かに届いているももの、薄暗くて不気味だ。
その薄暗い室内に、黒い人影。僕は瞬間、後退りをする。
それはソファーに腰掛けた父さんの姿だった。
物凄く大きな音がした。そんな気がした。
僕は目を開ける。部屋の中は真っ暗で何も見えない。いつの間にか寝てしまっていた様で、ぼんやりとした意識のまま、暗闇に視線を送る。
時間の見当がつかない。
僕はベットから起き上がり部屋の電気をつけた。学生服を着たままなので体がだるい。
机の上の時計を見て目が点になる。
11時?
11時っていうのは夜11時って事なのか?
僕は頭がうまく回らないまま、部屋のドアを開ける。どうして誰も起こしにこないんだろう。いつも寝てしまっていても、夕食の時間までには母さんが起こしにくる。そういえば今日は帰ってきてから母さんの顔を見ていない。
階段を下りて1階へ行く。廊下も玄関も真っ暗だった。リビングのドアから明かりがもれている。
僕はリビングのドアノブに手をかけた。同時にもの凄くお腹が空いているのに気が付いた。
今夜の夕食は何だろう。風呂にも入らなきゃいけないし、受験勉強だってやらなきゃならない。まったく大誤算だよ。
そんな事を考えながら、リビングのドアを開ける。
中の様子を目にした瞬間、僕は体が固まった。
僕は家に帰ると真っ先に自分の部屋に入り、鞄からユニフォームを取り出してベットの上に並べた。やっぱり大会用のユニフォームは格好良い。色んな角度から眺めたりしてみる。試しに着てみようかな、なんて思ったけれど、大会当日に着た方が気合いが入る気がして我慢した。
大会はいよいよ3日後だ。監督は3位以内が目標だと言っていた。選ばれたメンバーの総合タイムからいって、皆が自己ベストの走りが出来れば十分狙える順位だと思う。
僕がゴールテープを切る瞬間が頭に浮び、胸が高鳴る。
僕達の中学校は決して駅伝の名門校ではない。3年前の大会で8位になったのが過去最高順位らしい。名門校は、僕達の中学の名前なんか、気にもとめていないと思う。でも高校とは違い、中学生の大会では、無名校がいきなり上位入賞したりもする。今年は僕達が台風の目になってみせる。
僕はベットに横になり、あれやこれや想像しているうちに、自然と意識が遠のいていった。
放課後の練習は軽目に終わり、僕達は部室で着替えをした。
「やっぱり、まさ君と卓也がポイントだよね。」
美男子の酒井君がシャツを脱ぎながら言った。
「去年は1区で勝負が決まっちゃったしね。」
まさ君が制服のボタンをとめながら答える。
昨年は1区を走った3年生が59位と出遅れた。僕は昨年3区を走った。僕にタスキが渡った時点で41位。結局6区の選手は29位でゴールした。
「問題は卓也だよ。」
僕はそう言いながら脱いだシャツの匂いをかいだ。ホコリっぽくて少し汗くさい。
「まかせとけ!まさか俺がキャプテンにタスキを渡す事になるなんてなぁ。」
卓也は得意げに笑う。さっきの神妙な表情はどこへ行ってしまったのだろうか。僕はなんだかイラッとして、手に持ったシャツを卓也の顔に押しつけた。
卓也はニヤリと笑って、自分の脱いだシャツを僕の顔に押し付けてきた。もの凄く酸っぱい匂いが僕の鼻を襲った。卓也は夏場なんかは、シャツを絞ったら酸っぱいジュースが出来上がるくらい汗っかきだ。涼しくなったこの季節でも酷い。
卓也の笑い声が耳に届き僕は頭にきて、そのシャツをつかみ取り窓の外へ投げ捨てた。
「そして最後に6区、柏木壮太。」
監督が僕を見て言った。
僕は卓也同様、「はい!」と返事をして立ち上がった。1区に選ばれなかったのだから、きっと6区に選ばれるだろうと思っていた。陸上部のキャプテンとして、アンカーを走るのは悪くないと思った。
名前を呼ばれた選手達は監督の前に並び、1人ずつユニフォームを受け取った。上下が青色の光沢のあるユニフォームで、受け取るとツルツルとした感触がある。胸の部分に白色の校名が刻まれている。昨年の苦い思い出が蘇った。
「今年は十分上位を狙える力があると思っている。目標は3位以内。もちろん優勝も視野に入れている。選手に選ばれなかった部員の皆も、大会当日は選手のサポートを行い、チーム一丸となって参加するように。いいな!」
監督は最後にそう言い、僕達は体育館中に響き渡るよう「はい!」と声を上げた。
放課後。
陸上部の皆が体育館へ集合し、そこで県中学校駅伝大会のメンバー発表がおこなわれた。
体育座りで並んだ僕達の前で、監督が1区を走る選手から順番に6区までのメンバーの名前を読み上げる。
まず最初に名前を呼ばれたのは、まさ君だった。これは想像通りだった。1区は各校がエースの選手を投入する。1区で好位置につけられるかどうかが勝負のカギで、逆にそこで遅れをとったら巻き返しは苦しくなる。そういう点では県でもトップクラスで、なおかつ安定感があるまさ君が1区を走るのは当然だ。
2区は副キャプテンで美男子の酒井君。
3区と4区は2年生の名前が呼ばれた。
残りは5区と、アンカーの6区。部員全員が黙って監督の顔を見つめる。
5区に選ばれたのは卓也だった。卓也は名前を呼ばれると、張りのある声で「はい!」と返事をした。よほど嬉しかったのだろうと卓也の顔を見てみると、意外にも神妙な表情だった。
卓也は初めて駅伝メンバーに選ばれたのだから、その表情も納得出来る。メンバーに選ばれるのは嬉しい事だけど、それだけ責任も一緒についてくる。全員がタスキを繋げない限りゴールは出来ないのだ。
残りはアンカーの6区。
朝のHRが終わると、今日一日の授業は模擬テストの予定だった。といっても最近の授業のほとんどが、過去の高校入試の試験問題ばかりをやっている。クラス皆が黙って試験用紙に向き合い一日を過ごす。
僕の隣の席には伸治が座っていて、熱心にノートに書き込みをしている。この街でトップクラスの高校を志望している伸治は、ここの所勉強ばかりで、あまり僕に話かけてこない。
僕はななめ前の席に座っている郁美の背中を眺めた。郁美は伸治と同じ高校を志望している。僕はそこまでレベルの高い高校は目指していない。だから伸治や郁美とは少し距離のようなものを感じる。それに、勉強一色のこのクラスの雰囲気にもあまり馴染めない。1年生の頃の騒がしかった教室を懐かしく思う。
僕の志望している高校は、勉強のレベルは普通より少し上くらい。だけど、陸上部の強豪校だ。だから僕はその高校を目指している。でもそれが建前にすぎない事は自分でも分かっていた。高校入試に落ちるって事は物凄く怖い。落ちたくないから僕は勉強をしている。
「よし、机の上の物をしまいなさい。」
教壇の上で教師が声を上げ、問題用紙を配りはじめる。僕は問題を解く事に集中した。
「俺ついに10分の壁を突破しちゃったんだよ。凄くね?」
卓也は大声を出して僕の肩を叩く。僕は本当に驚いた。
「え?何秒だった?」
まさ君も驚いた様子で尋ねる。
「9分52秒。いやぁ10分の壁はホント厚かった。これで大会走れるかもしれないよな。」
卓也は更に上機嫌で喋る。
卓也の今までの自己ベストは10分02秒だった。大幅な更新だ。陸上部に3Kmを9分台で走れる部員は、僕とまさ君を入れて5人だけだった。これはひょっとすると卓也もメンバーに選ばれるかもしれない。僕もなんだか嬉しくなって、3人で騒ぎながら教室へと入った。
タイムは9分18秒だった。まさ君の自己ベストと同タイム。それは僕にとっても自己ベストタイムだ。ここへ来て自己ベストを出せた事に、僕は興奮と満足感で、深く息を吸い込んだ。朝の新鮮で少し甘い空気が胸の中を満たす。
「今日めちゃくちゃ速かったね。」
校門からグラウンドに戻る途中、まさ君がそう言って笑った。息はまだ少し荒い。僕も呼吸を整えながら言った。
「自己ベスト出ちゃった。まさ君はタイムどうだった?」
「9分28秒だった。いい感じだったけど、壮太君について行くので精一杯だったよ。」
まさ君は特に悔しそうな表情も見せずに笑う。僕はまさ君のそういう部分が良い所だと思う。
今日の放課後、大会のメンバー発表がある。今朝の走りがそれにどう影響してくるのかは、分からない。他の部員達も今日はソワソワとした雰囲気で、放課後まで待ちきれないって感じだ。
朝練習が終わり、部室で着替えを済ませると、僕はまさ君と卓也と一緒に教室へ向かった。
「俺の今日のタイムを教えてやろうか?」
卓也が満面の笑みで言った。僕もまさ君も卓也のタイムを聞かないもんだから、卓也はきっと我慢出来なくなったのだ。
そのまま僕はスピードに乗って先頭を走る。視界を遮るものは無い。まさ君が後ろをピッタリとついて走ってきているのを背中に感じた。僕とまさ君の走る足音が混ざり合い、まさ君にどの程度余裕があるのかなんて、分かり様もない。
僕は自分の呼吸のリズムに集中した。空気を吸い込んで吐き出す音が頭の中を流れる。
そう、先頭を走っていて後ろを気にしたら駄目だ。僕が闘わなくちゃならないのは、まさ君じゃない。それは他にある。
僕は前を見つめる。カーブをいくつか曲がる。空気をたたきつけるように、反動をつけて腕を振る。アスファルトを蹴りあげ、その衝撃を体で受けながら前へ進む。僕は揺れる視界の中、遠くの1点を見つめる。視界の端を景色が流れる。
他には何も頭の中に浮かんでこない。それでも体は分かっている。
ただ、速く走る為だけにするべき事。
僕は最後のカーブを曲がって、校門前の直線道路へ入った。残り200m。もうスピードを上げる力はない。だけど、この瞬間が1番速く走れているような感覚がある。
この瞬間があれば、僕はやっていける。
僕は先頭で校門の前を駆け抜けた。
僕とまさ君は並走しながら校門の前を通過し、3周目に突入した。校門の前では監督がストップウォッチを持って立っていて、2周目通過タイムを読み上げる。
「6分06秒!」
ここまでの2Kmのタイムとしては出来すぎと言って良いほどの好タイムだ。
まさ君の3Kmの自己ベストタイムは9分18秒。県内でもトップクラスのタイムだ。それを更新してもおかしくないペース。僕の自己ベストは9分25秒。
残り1Kmをまさ君は、おそらく3分10秒あたりのペースで走るはずだ。問題は僕がどこまでそれについていけるかだ。
グランドのフェンス外側の直線道路を、僕とまさ君は肩を並べて走る。通学してくる生徒達をかわしながらひたすら前へ。僕は真っ直ぐ前を見つめたまま、まさ君の様子をうかがった。軽快なのに力強い走りが、横からひしひしと伝わってくる。少しでも気をぬけば、直ぐに置いていかれてしまいそうだ。やっぱりまさ君は強い。
けれど、僕には思いの他、余力がある。もちろん息は上がってきているし、鼻で呼吸を続けるのも苦しい状況だ。だけど、足の回転も腕の振りも悪くない。
今行くしかない。行くべきだ。
僕は道路のカーブを利用して、前へ出た。
僕の目の前には、まさ君が走っている。僕はまさ君のすぐ真後ろを走る。今日の朝練習は学校の外周を3周。1周が1Kmなので合計3Km走り、タイムをはかる。
朝の空気は肌寒い。こんな日は気持ちの良い秋晴れになるはずだ。
まさ君は先頭を軽快に走る。まさ君の走りはピッチが小刻みで、見た目にも走りが軽く見える。僕は長めにストライドをとって走る。後ろの他の部員の足音は、少し遠くに聞こえる。でも後ろは関係ない。今は、まさ君を追い抜くことだけを考える。
僕は体全体でリズムを刻む。上下に揺れる視界の中を、景色が流れて行く。まさくんの背中だけが、変わらずに僕の前を進んでいく。
今日は地面を蹴り上げた時の体の反応が抜群に良い。いけるかもしれない。
僕にはこの瞬間しかないんだ。走っているこの時だけは、全て忘れる事が出来る。荒くなった息遣いと一緒に、嫌な事は全て吐き出す。
毒が抜けていくような感覚。
僕は足の回転をあげ、まさ君にの横に並びかけた。
「ちょっと待ちなさいよ!義治さんはいつもそう!最後まで話しをしようとしない!いい加減にしてよね!」
母さんが父さんを追い掛けて出て来た。
廊下で僕は、2人と向き合う恰好になった。2人はすぐに僕に気がつき、その途端そろって表情を歪めた。急に辺りが静まり返る。
「何をしているんだ。」
父さんは一呼吸あけたあとそう言った。眼鏡の奥の目は鋭くて冷たい。何をしているんだと言われても、それは僕のセリフじゃないかと思った。母さんはバツが悪そうに僕から目をそらす。
僕は何て言うべきか迷った。言いたい事は山ほどある。だけど、それを言葉にして出したら、色んな感情が一気に溢れ出てしまいそうで怖い。
「そういうの迷惑なんだよ。」
僕はそれだけ言って早足に廊下を引き返す。父さんも母さんも後ろから声をかけてこない。
どうせ僕が何か言った所で、どうにもならないんだ。また喧嘩の続きが始まるだけだ。
僕は階段をのぼって自分の部屋へ戻り、力まかせにドアを閉めた。
休憩するほど勉強してないけれど、気分転換は必要だ。コーヒーでも飲んで、それからまたやればいい。部屋を出ると階段をおりる。
リビングから話し声が聞こえ、僕は廊下の途中で立ち止まった。
父さんと母さんの声だ。
話し声っていうより、激しい言い争いだ。
母さんの声が、いつもより甲高く響く。父さんの口調も激しい。
またか…と思った。だけど、いつもの事なんだけど、僕は慣れることができない。胸が圧迫されてるみたいになる。自分がとても不安定な場所に立っているような気持ち。僕は廊下で立ち止まったま動けなかった。
弟の裕也の事が気になった。まさかリビングにいるなんて事はないと思うけど。
裕也はまだ小学生なんだ。もちろん両親が仲が悪い事は分かっていると思う。僕よりもやり切れない気持ちだろう。
どうして…なんで…僕の家はこんなんなんだろう。僕はどうしたらいいんだろう。
「もういい!話にならない!」
急に父さんの声が大きくなった。リビングのドアが開き、中から父さんが出てきて、僕は体が固まった。
僕は風呂から出ると、2階へのぼって自分の部屋へ入った。そのまま勉強机についてノートをひらく。しばらく国語の問題いくつか解いていく。けれどうまく集中できなかった。
そろそろ父さんが帰ってくる頃だろうか。
僕の父さんは建設会社に勤めている。課長だか部長だか知らないけど、仕事が忙しいみたいでいつも帰りは遅い。
僕が幼い頃、父さんとよく遊んだような覚えがある。あの頃の父さんはよく笑っていた。今は笑わない。今は父さんと何かをすることもない。それだけ父さんは仕事で手一杯になったからなのか、僕が成長したせいなのか、理由はよくわからない。
父さんと母さんが頻繁に喧嘩している理由も僕にはわからない。分かりたくもない。そういえば、母さんもあまり笑わなくなった。大人になると皆、笑わなくなるのだろうか。
大人の世界の事は僕にはわからない。
けれど僕もいずれ大人になる。
高校受験をうけて、受かれば高校に通うようになる。その先の事はまだよくわからない。将来どんな職業についているかなんて想像もつかない。
それなのに高校受験をうけようとしている。
なんのために?
僕は勉強机の上に広げた問題集をいったん閉じた。
夕食はいつも3人で食べる。僕と母と弟の裕也。裕也はまだ小学校6年生で、さっさとご飯を食べるとリビングでテレビを見はじめる。僕は母さんと向き合ってご飯を食べる。特に喋るような事はない。裕也の見ているアニメ番組のやかましい音を耳に、僕は母さんの刻んだキャベツを口に運ぶ。最近は肉類を食べるのを控えている。陸上部の監督は消化の良いものを食べるようにと言っただけで、それ以上細かく食事について指示しなかった。
食卓に並んだ鳥のから揚げを僕は1つだけ食べた。それから、いくつかの天ぷらの中からサイマイモの天ぷらを選んで食べた。
以前母さんと食事について喧嘩をした。それ以来、母さんは僕が何を食べようと食べまいと口出ししてこない。
「ごちそうさま」
僕は箸を置く。
「先にお風呂に入りなさい。」
母さんはそう言って1人でご飯を食べる。僕は「うん」と答えて立ち上がる。
最近母さんが何を考えているのか分からない。やたら僕のする事に口出しする時もあれば、黙ったまま静かになったりもする。
父さんは今日もまだ帰って来ない。きっと今日も僕は父さんと顔を合わせずに終わる。それはそれで有り難いけど…。
リビングで母さんは夕食の準備をしていた。僕はダイニングテーブルの椅子へ腰掛ける。
「あまりね、うるさくは言いたくないんだけどね…」
母さんはキャベツを刻みながら喋る。揚げ物の臭いが辺りを漂い、僕のお腹が反応する。
「ちゃんと受験勉強してるの?部活も大切なのはわかってるけど、入試までもう時間ないのよ?」
「してるよ。」
「周りの子達が塾に行ってる時間に、あなたは走ってばかりでしょ?」
「学校でもやってるし、家でも夜やってる。成績も下がってないし。」
どうして大会間近に受験の話になるのだろう。母さんは僕の走りが気にならないのだろうか。
母さんはキャベツを刻むのをやめて、僕の顔をまじまじと見つめる。
「もういいよ。」
僕は立ち上がりリビングを出ようとした。
「ちょっと待ちなさい。壮太はいつも最後までちゃんと話しをしようとしないわね。そういう所がお父さんにそっくり。良くないわよ。」
僕は立ち止まる。
父さんにそっくり…
僕は父さんの子供だ。それは変えられない事なんだと思う。だけど、僕は父さんとは違う。
「そういう言い方やめてくれないかな。」
僕はリビングのドアを乱暴に開けた。
「それじゃあまた明日。」
「朝練遅刻するなよ。」
僕は家の前で2人と別れた。走って遠ざかっていく卓也とまさ君の姿を見送った後、玄関のドアをそっと開ける。しばらく家の中の様子に耳を澄ませてみる。変わった様子がないのにのにホッとして、僕は靴を脱いで中へあがった。父さんがこんな早い時間に帰って来ているはずないけれど、僕は家に入る時に自然と中の様子をうかがってしまう。
階段を上がって2階へ行く途中で、リビングのドアが開く音がした。母さんの声がして僕は立ち止まった。
「帰ったなら1度リビングに来なさいっていつも言ってるでしょ。」
母さんは階段の下までくると顔をしかめる。
「別にそっちに用事はないから。」
僕は母さんを見下ろす。
「ただいまくらい言いなさいって言ってるのよ。」
「……ただいま。」
僕は壁に向かってつぶやき、階段を上がる。
「待ちなさい。ちょっとリビングに来なさい。」
「何?疲れてるんだけどさ。」
そう言って振り返ると母さんはもうそこに居なかった。
……「おかえり」は言わないのかよ。
僕はしぶしぶ階段をおりる。
家までの道のりを、僕と卓也とまさ君はのんびりと歩いた。話題は間近に控えた県中学校駅伝大会の事で、僕達はお互いの走りについて語り合った。
僕は頭の片隅で図書室の2人の事がずっと気になっていた。郁美の事が気になりだしたのはいつの頃からだろう。最近郁美の事を考える時間が増えた気がする。
やっぱり伸治と郁美は付き合っているのかな、なんて考えてみるけれど、僕には付き合うって事がまだよく分からない。ただ、2人が仲良くしているのを見るのはいい気がしない事は確かで、僕はそんな事ばかり考えていると思いっきり走り出したくなる。
「キャプテン、急激にテンション下がってるし。」
卓也の声で僕は我にかえった。
「別に下がってないし。大会の事考えてて気合いが溜まってきてるし。」
僕はそう言ってごまかした。
「壮太君は卓也みたいにヘラヘラしないんだよ。」
まさ君がそう言い、卓也が「なんだって?」と大声を上げてまさ君に飛び掛かった。
まさ君は笑いながら走り出す。卓也が足でまさ君に敵うはずがない。僕も2人を追い掛けて走り出した。
そうだ。今の僕には付き合うとか必要ないさ。なんたって最後の大会が目の前に迫っているんだ。
「壮ちゃん、部活終わったところ?」
女の子はニコニコしながら喋りかける。同じクラスの橘郁美だ。
「そうだよ。てか、押すことないじゃん。」
僕がそう言うと、郁美は「だって邪魔なんだもん。」と言って、図書室の中へ入り、伸治の隣の椅子へ腰掛けた。
「郁美も勉強してたんだ?」
僕は2人の姿を眺めながら尋ねた。
「うん。伸治君に教えてもらってたの。ねっ」
郁美はそう言って伸治の肩にそっと手を乗せた。伸治は気にする事なくノートに書き込みをしている。
最近2人がやけに仲が良くなった様に見えるのは気のせいだろうか。
そんな2人の姿を見ていると、僕はモヤモヤとした気持ちになる。
「伸治、ホントもう帰るぞ。」
僕は少し声を強めて言った。
「もう少しで終わるから待ってあげようよ。」
郁美が代わりに答える。
「卓也達が待ってるから、俺先に帰るから。」
僕は2人に向かってそう言っていた。
僕は本当は郁美と一緒に帰りたいと思っている。それは自分でもわかっている。だけど、そんな事は口に出せないし、そんな風に考える事がなんだか恥ずかしかった。
伸治が顔を上げたのと同時に、僕は図書室を出て駆け足で校門へ向かった。
伸治は放課後になると図書室で受験勉強をしている。テニス部のキャプテンとして、夏の県大会でベスト8まで勝ちあがったのだけれど、準々決勝で惜しくも負けてしまい全国大会まで進む事は出来なかった。その大会で引退した後は、放課後の時間をいつも受験勉強にあてている。
まだ部活動を続けている僕としては、図書室へ行くのは少し気が引ける。
受験勉強…
僕もそろそろヤバイかな。
僕は図書室のドアをそっと開けた。
伸治はいつもの席に座っていた。まだ勉強に集中していて、ノートに熱心に書き込みをしている。
「伸治、帰るぞ。」
僕は少し声をおとして言った。伸治は顔をあげ、僕の方を見た。
「ちょっと待って。きりの良いとこまでやっちゃいたいんだよ。」
伸治はそう言うとまたノートにむかった。
「もう下校の時間だよ。残りは家でやればいいじゃん。」
「駄目だよ。予定が崩れるし。ちょっと黙ってて。」
相変わらず融通がきかない性格をしている。
僕は少しあきれて、ドアに寄り掛かろうとした。すると突然誰かに背中を押され、僕はバランスを崩してよろけた。
「そんな所に立ってると邪魔だよー。」
後ろから女の子の声がして、僕は振り向いた。
県中学校駅伝大会は1区間が3Km、全6区間で行われる。そこで優勝した学校だけが全国大会へ進むことが出来るのだ。
優勝出来なければ、僕達はそこで引退となる。
陸上部の中で長距離走が1番速いのは、まさ君だった。特に3~5Kmの距離は、ここ1年でまさ君より速いタイムで走った部員はいない。
まさ君は間違いなくメンバーに選ばれる。まさ君の次に僕が速いので、僕はきっとメンバーに選んでもらえると思っている。
卓也は2年生の時までは、あまりパッとしなかったけれど、3年の夏頃から力をつけはじめ、選ばれるかどうか微妙な所だ。
僕達は更衣室へ行くと、ふざけ合いながら制服に着替えをすませ、校門へ向かった。
「あ、壮太君。伸二君帰ったかな?」
まさ君が思い出したように尋ねた。
「たぶんまだ図書室で勉強してると思う。呼んでくるから、先に校門で待ってて。」
僕はそう言い、図書室の方へ向かった。
「早く来いよ。先に帰っちゃうぞ。」
後ろで卓也が叫んだ。
僕は背中のカバンを揺らしながら、駆け足で廊下を進んだ。始めはただの駆け足だったのが、次第に体がリズムを刻みはじめる。
今の僕には走る事が全て。
放課後のグラウンドは部活動の生徒達で溢れている。冬間近のこの季節は、夕方5時でどの部も一斉に練習が終了になる。野球部やサッカー部の3年生は夏の大会で引退したため、今は2年生が主体で活動していた。どの部の生徒達も、ジャージを汚してクタクタになりながら後片付けをしている。
僕は卓也とまさ君と一緒に更衣室へ向かって歩いた。
「僕達ももうすぐ引退だね。」
まさ君が他の部の2年生達を眺めながら言った。
「何言ってるんだよ。まだ全国大会が残ってるだろ。」
卓也がまさ君の肩を叩く。小柄なまさ君は少しよろけた。
「全国は厳しいよ。県大会で優勝なんて想像もつかないし。でも入賞はしたいよね。」
僕は笑いながら言った。
「キャプテンがそんな事言ってどうするんだよ。俺は本気で狙ってるよ。」
卓也が僕を睨む。
「その前に卓也は大会で走れるのかな?」
まさ君が遠慮気味にそう言い、僕も頷いた。
「良いよなぁ。キャプテンとまさ君はメンバーにほぼ決定してるもんなぁ。あと4人の中に俺入れるかなぁ。」
卓也は遠い目をして言った。
「キャプテン、今日調子良さそうじゃん。」
走り終わって息を整えていると、後ろから声がして僕は振り向いた。卓也がフラフラになりながらやって来ると、僕の肩に手を置いてうつむいた。卓也はまだ息が荒く、唾を飲み込みながら呼吸を整えている。
「卓也も調子良さそうじゃん。最後の大会メンバーに選ばれるかもよ?」
僕がそう言うと、卓也は苦しそうに目をつむりながらも、口元に笑みを見せた。
「メンバー狙っちゃってるよ、俺。」
「卓也はこの練習だけだったらトップクラスだよ。」
僕は本心で言った。
200mのトラックを1周40秒以内のペースを維持しながら10周走るというのが、今日の最後の練習だった。
後半になるにつれ、かなりキツイ練習。
卓也は道路の長距走はそれほど速くないけれど、この練習は得意だった。
「明後日がメンバー発表だし、最後のアピールってやつ。」
卓也は僕の肩をポンポン叩く。
県中学校駅伝大会。
僕達陸上部3年生は、最後のその大会を1週間後に控えていた。
「おーい!柏木!柏木壮太!何やってる、終わりにするから早く集合かけてストレッチだぁ!」
監督のその声で、僕は部員達へ「集合!」と声を上げた。
僕は走っていた。
放課後のグラウンド。1周200mのトラック。夕日でオレンジ色になった地面…
気温が下がったこの季節でも自然と汗がにじみ出てくる。粒になった汗が、おでこから目のすぐ横を流れて落ちる。
けれど、汗の1粒や2粒どうってことない。
体全体でリズムを刻むように走るんだ。
鼻から小刻みに2回、息を吸い込む。
それにあわせて腕を振る。
少し長めに息を吐く。
その間にまた腕を振る。
リズミカルに繰り返す。それが大切。
そうすると自然と足が回転して前へ進む。
前へ、前へ。
足の指の付け根で、グラウンドの土を弾くように蹴って、蹴って、蹴って…。
白と青のシューズが僕の相棒。今日も履き心地は抜群だ。
もうこのトラックを何周走ったのだろう。後何周走るのだろう。分からない。
当たり前だ。いちいち数なんかかぞえない。そんなつまらない事はしない。
太ももが疲れて足が重く感じても、呼吸するのが辛くなっても、そんなのは少しも問題じゃない。
僕は走る事が好きだ。
「柏木!ラスト1周だ!」
監督の先生の大声が響き、僕はグランドを力強く蹴りあげた。
けれど今日は違う。この運転手のおかげで、僕は自分では知り得なかった事をこの手に掴む事が出来た。それはほんの些細なきっかけだけれど、その先には可能性がある。
窓の外は暗闇で、今どの辺りまで戻って来たのかわからなかった。運転手は黙って運転に集中していたが、しばらく進んだ所で口を開いた。
「もうすぐ着きますよ。夜なんで、少し時間がかかってしまいました。」
「公園の前で停めてください。」
僕はそう言いポケットの中の財布へ手を伸ばした。すると煙草の箱が手に当たり、僕はそれを取り出した。
急激に煙草が吸いたくなった。けれど、昼間このタクシーに乗った時に、運転手に車内禁煙と言われていた。
「煙草吸わせてもらう訳にはいきませんか?」
僕は遠慮気味に尋ねた。
「……特別ですからね。窓を開けてなら良いですよ。」
そう言った運転手の横顔に少し微笑みが浮かんでいるような気がした。僕は礼を言い、窓を開けた。冷たい風が顔へ吹き当たる。身を屈めて煙草に火をつけると、先端が風を受けて赤々と燃え始めた。
僕は早まる気持ちを抑えながら煙を吸い込んだ。
「なんだか、かえって申し訳なかったですねぇ。」
運転手は本当に申し訳なさそうに言った。
僕は「なんの事です?」と尋ねた。
「いや、あの時公園で私が声をかけなければ、こんな風に無駄に動かずに済んだのにと思いまして。」
「無駄なんかではありませんよ。少なくとも何も知らずに帰ってしまうよりは良かったと思っていますから。」
「吉岡さんが待っていらした女性なら良いんですがねぇ。もしも別人だったら、ただ余計な事を言ってしまっただけですし…」
「別人だったら諦めもつきますから。もし僕が待っていた相手だったら感謝しなければなりませんよ。」
たしかにあの時公園に運転手が来なければ、こんな風に動きまわる必要はなかった。けれど、運転手が来なかったとしても、僕があのまま公園に居たかどうかは分からない。それに彼が話しをしてくれた事で、僕は再び郁美に会えるかもしれないのだ。
ほんのわずかな差で、何も知らないまま終わってしまう事もある。今までも、僕は目に見えない所で色んな機会を取りこぼしてきたのだろう。
僕の知らない所で僕にとって重要な事柄が変化している。4年前もそうだった。
あの時も知った時には遅すぎた。
運転手は空き地を見つけると、車を方向転換させて公園へと引き返し始めた。
しきりに「別人かもしれない」と気にする運転手に、僕はそれでもかまわないからと急いで戻るよう頼んだ。
腕時計を見ると公園を離れて20分がたっていた。同じ道を戻り再び僕が公園に辿り着くまでには、40分の時間がたっている事になる。
僕は少し焦った。仮に郁美が来ていたのだとしても、公園に誰もいなければ当然帰ってしまう。タクシーを使っているのだからすぐにその場を離れられる状況ではないはずだ。けれどきっと迎えの車を呼ぶだろう。おそらく《彼》に頼んで。
「出来る限り急いで下さい。」
僕はそう言い窓の外を見つめた。この雪道、さらに視界の悪い夜とあっては、それが無理な注文なのは当然だった。運転手は困ったように「はい」と返事をした。
郁美に電話をかければ、すぐに確認が取れる。けれど僕にはそれが出来なかった。
もしも《若い女性》が郁美ではなかったとしたら…
それを考えると、僕は電話をかける事が出来ない。
僕は何を分かったつもりになっていたのだろうか。
結局そんなもの?
今とは結び付けようもない?
僕はまだ何も分かってはいないんじゃないのか?
僕はすぐには言葉が出てこなかった。運転手は見開いた目で僕を見つめている。
「別人なのかもしれませんがね。一応話しておいた方が良いかと思いまして。」
「どの辺りでその女性を降ろしたんですか?」
僕はようやくそう尋ねた。
「えっとですね……、昼間、吉岡さんが降りた場所ありますよね?あそこから公園を通り過ぎて少し進んだ場所なんですがね。まぁ民家もちらほらありましたから、単に家に帰る女性だったのかもしれませんが…。ただ、それにしては中途半端な場所だった気もしましてね。」
運転手はそう言ったけれど、その言葉を僕はうまく飲み込むことができなかった。ハザードランプのカチカチとした音が酷く耳障りで、頭が上手く回らない。
ただ、自然と1つの景色が頭の中に浮かんだ。それはあの公園のベンチに座る郁美の姿だった。
それと同時に、理屈抜きに郁美に会いたいという感情が沸き起こった。理屈など考える余裕もなく、率直に。
若い女性が、あの公園の近くへ来ていた。
ただその事だけでも、僕がとるべき行動は決まっていると思った。
「引き返してください。」
僕はそう言い、運転手を見つめ返した。
「いや、そうじゃないんですよ。お客さんをね……えっと、お客さん名前はなんて?」
突然名前を聞かれ、僕は「吉岡ですが」と答えた。
自分の名字を口にしたにもかかわらず、微かに後味の悪さを感じた。
それはきっと今日麗奈さんに会い、「柏木」という名字を目にしたからなのだろうと思った。
僕はもう「柏木壮太」ではない。
そう、僕は「吉岡壮太」なのだ。
「吉岡さんですか。実はですね、吉岡さんに乗っていただく前に、別のお客さんをあの公園の近くで降ろしたんですよ。」
運転手はそう言いながら、真っすぐ僕の目を見つめた。シワの寄った目が大きく見開いていた。
僕は短く「ええ」と答えた。その事は乗る前に聞いた記憶があった。
「いやね、そのお客さんっていうのが、女性の方だったんです。」
「女性…ですか?」
「はい。若い女性の方なんですが。その女性を降ろした後に、吉岡さんをあの公園で乗せたわけなんです。」
「若い女性ですか?」
僕はもう1度聞き返した。
「ですから…吉岡さんの話を聞いていて、ひょっとしたら吉岡さんが待っていらした女性っていうのは、そのお客さんだったのかなって、そう思ってしまったわけなんです。」
運転手は車を停めると、ハザードランプを点滅させた。
「あの…街中まで戻って欲しいんですが。」
僕は少し慌てて言った。
運転手はシートから身を乗り出して、酷く狭苦しい恰好で僕の方を振り向いた。
「すみません。いやね、運転に気をとられていて、話を途中で聞き逃しちゃったもんだから…」
「はい?その為にわざわざ停まったんですか?」
僕は少し驚いて言った。
「いやいや、そうじゃなくてですね、要するに、お客さんは女性の方をあの公園で待っていたと、そういう事ですか?」
「ええ、簡単に言えばそういう事になります。」
簡単に言えばそういう事だった。けれど僕は運転手の言葉に味気なさを感じていた。何かを期待していた訳ではないけれど、喋りすぎた事を少し後悔した。
「たいした話ではないんです。すみません、急に訳のわからない話をしてしまって。街中まで戻ってもらえますか?」
僕がそう言うと、運転手は首を横に振った。
運転手は黙ったまま、僕の次の言葉を待っているようだった。
「女の子なんです、僕が以前付き合っていた。明日結婚式で会うことになるんですけど、その前にね、会っておきたかったんです。別に会ったところで何か意味があるわけでもないし、どうこうしたいわけでもないんですけど。」
「女の子ですか?」
「ええ。僕がこの街から離れる時に別れたんです。今日電話で話す機会があって、かなり強引に誘ったんです。心のどこかで来てくれると思ったんですけど、4時間も待って結局ダメでした。当然ですけどね。」
僕はそこまで喋って口を閉じた。自分から話しておきながら、馬鹿馬鹿しいと思った。
けれどこの運転手と会う事も2度とない。こうやって話してしまうのも悪くない。
「感傷的になっていたんだと思います。今日も午前中に少し気分の悪くなる事があって、それも重なって。4年ぶりの里帰りだっていうのに、なんだかろくな事がありませんよ。」
僕がそこまで話すと、運転手はスピードを落としながら車を路肩に寄せた。
僕は窓の外を見た。まだ丘を下りきっておらず、暗闇で何も見えない。
やがて車はゆっくりと停車した。
「明日、同級生の結婚式があるんです。それで帰ってきたんですよね。今日は身内の…用事があって、その後あの公園で人と待ち合わせをしていたんです。」
「そうですかぁ。いや、こう言っちゃなんですけど、私もああいった場所にお客さんを乗せて行く事があまりないもんですから、少し気になってたんですけどね。」
運転手はそう言って短く笑った。
「そうですよね。あの公園は少し思い入れのある場所なんです。まぁ結局待ち合わせの相手は来なかったんですけどね。」
僕はそう言い、自嘲気味に笑った。自分で言葉にして出すと、照れ臭くもあり、惨めな気分にもなる。それでも僕は話したくなっていた。
運転手は少し驚いたように「そりゃまたどうして?」と尋ねる。
「いや、その待ち合わせの相手っていうのは、明日結婚式をあげる同級生なんですよね。僕が強引に会いたいって誘ったんです。きっと準備なんかで忙しかったんでしょう。」
「それは残念でしたねぇ。あの公園は景色は良いんですけど、やっぱりこの時期は寒かったでしょ?」
「ええ、4時間近くも待ってましたからね。まぁ相手の子が来てくれなかったのは他にも理由があるんですけどね。」
「本当に寒くて驚いていますよ。僕は4年ぶりにこの街へ帰ってきた所なんですよね。」
「あぁ、そうだったんですか。という事は…今はどこか別の街にお住まいで?」
運転手はのんびりとした口調で尋ねる。
「18歳までここで暮らしていて、今は少し遠くの街に住んでいるんですよ。この街よりはまだ暖かい方です。雪も降りませんしね。」
「そうですか、それは結構な事ですよ。雪が降るっていうのは本当に嫌なものですから。今日はお仕事の関係で戻って来られたんですか?」
運転手は昼間よりもゆっくりと車を走らせながら喋る。夜の雪道は走りにくそうで、車は小刻みに揺れていた。
「仕事という訳じゃなくて…ちょっとした用事がありまして…」
僕は少し言葉を濁した。
「そうですか。いやね、スーツを着てらっしゃるものですから、てっきりお仕事かなと思いましてね。」
僕はどう答えれば良いのか迷った。明日の結婚式に出る為に帰って来たのだけれど、今僕がスーツを着ているのはまた別の話だ。
それにスーツ姿で、ひとけの無い公園のベンチに1人で座っていたというのも、あまり自然な行為とは言えない。
あれこれ考えているうちに、僕は自然と口を開いた。
「もう少し暖房を効かせてもらえますか?」
僕は運転手にそう頼んで、冷えきった手を首に当てた。足の指先も革靴の中で冷えきっていた。
「はいはい、今日も夜はいちだんと冷え込むみたいですねぇ。」
運転手は暖房を強める。窓の外はもう暗闇に包まれていた。冬は日が沈むのが早い。腕時計を見ると5時30分をまわったところで、このまま家に帰るには少し早すぎるなと思った。
僕はあの公園に4時間近く居た事になる。そんな実感はなかったけれど、自分でも呆れてしまうほどの時間だと思った。
郁美は今どこにいて、何をしているのだろうか?少しでも僕の事を考えたりしたのだろうか?
そんな事を考えているうちに溜め息が出た。自分がとても女々しい存在に思えた。
郁美との事は、もう過去の事なのだ。今とは結び付けようもない。
不意に麗奈さんの泣き顔が頭をよぎった。
なぜだろう?僕が望まない事ほど、今の僕を捕らえて絡まり、結び付いてくる。
「今年の冬はいちだんと冷え込みますねぇ」
気が付くと運転手が喋っていた。
「有り難いんですけど、今は遠慮しておきます。」
僕は軽く微笑んで言った。
「そうですか。いやね、お困りでなければ構わないんですよ。余計なお世話でしたかね。それじゃあ。」
運転手は会釈した後、そそくさとタクシーに乗り込んだ。
さえないな、と思った。僕はこの場所で郁美を待っていて、でも目の前に現れたのは今日初めて会った白髪頭の運転手なわけで、彼は直ぐにこの場を去っていく。
結局そんなものなのだろう。
急に現実に引き戻された気分だった。
なんだろう…酷く感傷的になりすぎていた気がする。
タクシーにエンジンがかかった所で、僕は運転席の窓をノックした。運転手は窓を開ける。
「すみません、やっぱり乗せていただけますか?」
僕が遠慮ぎみに頼むと、運転手は「はいはい、全然構いませんよ。」と微笑み、後部席のドアを開けた。
僕は一度後ろを振り返った。公園の雪に僕が残した足跡、そしてその先に僕が座っていたベンチが、薄暗くなった景色の中でひっそりとその輪郭を浮かび上がらせていた。
感傷的になりすぎていたんだ…
僕はタクシーに乗り込み、ここへ来た道を引き返してもらえるよう頼んだ。
近づくにつれ、僕はその運転手に見覚えがある事に気がついた。
ここへ来る時に乗ってきたタクシーの、白髪頭の運転手だった。
「やっぱりさっきのお客さんだ。」
僕がタクシーの元まで行くと、運転手は笑顔で言った。
僕は「どうも」と言い、タクシーの中を横目で見た。
後部座席には誰も乗っていなかった。そこに郁美の姿を期待していた僕は、一瞬頭の中が混乱した。
「僕、何か忘れ物でもしましたか?」
思いつきで尋ねてみる。
「いやいや、そういう訳じゃないんです。ちょうど他のお客さんを近くまで乗せて来てましてね。通りかかったらあなたが居たもんだから。」
僕は彼の言っている意味がよく分からず、ただ彼を見つめる事しかできなかった。
「いやね、ひょっとして帰る足がなくて困ってらっしゃるのかと思って寄ってみたんです。ほら、ここからだと駅に行くにも、歩くのじゃ距離があるしねぇ。」
運転手はそう言い、尋ねるような目つきで僕を見た。
そんな事か、と思った。肩透かしをくらったような気分だった。
単に暇で客が欲しかっただけなのか、運転手の人柄からくる気遣いなのかは分からないけれど、僕は彼の行為を有り難いとは思わなかった。
それは1台のタクシーだった。タクシーは公園の前まで来ると、ゆっくりと停車した。
僕の胸は自然に高鳴った。
タクシーの中はよく見えない。太陽は沈みかけていて辺りは薄暗く、公園中央の街灯が、か弱い光を燈していた。
僕はベンチから立ち上がった。そして中から誰が降りてくるのかを、期待をこめて見つめた。もしかしたら僕の全く知らない客が、全く別の目的でここへ乗って来ただけかもしれない。けれど、僕は期待をこめて見つめないわけにはいかなかった。こんな場所に、僕が居るこの時に、郁美以外の人が現れるはずがない。そう思いたい。
胸の高鳴りに寄り添うかのような不安も抱えつつ、僕は後部席のドアが開くのを待った。
けれど予想に反して、開いたのは運転席のドアだった。制服を着た運転手が出てきて僕の方を向くと、ぎこちなく頭を下げた。
僕はその意味が飲み込めず立ちすくんだ。運転手が僕に会釈したのは間違いない。中に乗っている客が僕を呼んでいるのだろうか?そしてそれは郁美なのか?
仮にそうだったとしても、それはいささか不自然な事に思えた。
ただ、運転手が僕に用がある事は間違いなさそうで、僕はとりあえずタクシーの元へ歩き始めた。
僕は耳を澄ませた。積極的にその声を聞き取ろうとした。そんな事をするのは、これが初めてだった。目を閉じて神経を耳に集中させる。けれどもう誰もつぶやく事はなかった。何も聞こえる事はなかった。
「結局」「そんな」「ものよ」
僕は声に出してみた。
そして「結局そんなもの」について考えた。煙草の煙を吐き出しながら想いをめぐらせた。
それは今の僕にとって、全ての事柄にあてはまる言葉だと思った。同時に僕自身を表現する言葉でもあると思った。
確かに「結局そんなもの」なのかもしれない。けれど僕は本当に遅すぎたのだろうか?4年という月日はそんなに圧倒的なものなのか?
もっと《誰か》につぶやいてもらいたかった。語りかけて欲しかった。
僕は再び目を閉じて耳を澄ませた。僕の耳は無音を感じていた。静寂を感じていた。そしてその中に微かな物音を聞き取った。それは雪を踏みつけるようなカサカサとした音だった。その音は徐々に大きくなっていく。僕の後方から近づいて来るように徐々に大きくなっていく。それは間違いなく何かの《音》で、僕は目を開けて後ろを振り向いた。
1台の車が細い道の中、こちらへ向かってゆっくりと進んできていた。
僕はぼんやりと物思いにふけりながら時間を過ごした。気まぐれに色々な物事へ想いをめぐらせ、過去の記憶の中をさまよったりもした。
気が付くと、西の空は微かにオレンジ色に色付きはじめていた。どれほど時間がたったのだろうか。腕時計は見ないようにしていた。そのため時間の見当がつかなかった。1ヶ所に留まっていると、動き回っている時よりもかえって時間の感覚がなくなる。ただ、今が3時をまわっている事は間違いなさそうだった。気温が下がっているのを肌で感じられる。
郁美は時間に正確な女性だった。それを考えると溜め息が出た。
僕はベンチに座ったまま背伸びをして、辺りを見渡した。公園に積もる雪には僕の足跡しか残っていなかった。目の前の雪の斜面や遠くの街並は何1つ変わる事はなく、時間が止まってしまったかのようにも思えた。けれど空は確実にその色を変えている。
僕がどれほどその場に留まっていたくても、時間は確実に流れているのだ。
僕は足元に落ちた煙草の吸い殻の数をかぞえた。そして新しい煙草に火をつけ煙の行方を見つめた。
「結局そんなものよ」
僕の耳元で誰かがつぶやいた。雪を踏みつけた時のようなサクサクとした声だった。
来る確証のない相手を待つという事は、僕の今までの人生の中で滅多になかった。人を待つという行為は、そのほとんどが約束の元に行われていた。約束があるのと無いのとでは、一言に「待つ」と言っても、それはまるで別物だと思った。
確かなよりどころが無い今、僕の心はまるで天秤が左右に振れるように、期待と不安で揺らめいた。僕の心には確かに期待する気持ちがあった。
けれど僕は何を期待しているのだろうか?期待できるような事実は1つも無いのだ。
僕は冷たくなった指先を首に当てて温めた。首に冷たさが広がるかわりに、指先に温もりが伝わった。
辺りは静けさを保っている。目の前の雪景色が音を飲み込んでしまっているかのようだった。頭の中まで澄み渡っていく感覚がした。
僕は一体何を待っているのだろうか?
会いたいという気持ちに嘘はない。僕は今この場所で郁美を待っている。やはりそこには、期待する気持ちがある。
自分の気持ちが、よく分からなかった。
けれど、来るのか来ないのかは別として僕が今この瞬間、郁美を待っている事に間違いないのだ。そして期待をしている。僕はただ、その事に少なからず居心地の良さを感じているのかもしれない。
郁美はきっと来ないだろう。
そう思った。明日、郁美は結婚式をあげるのだ。僕と会う時間はないだろう。
仮にもし郁美がここに来たとしても、僕が彼女に言える言葉は1つしかない。 例えそれをどんなに口にしたくないとしてもだ。
腕時計を見ると、ここに来てまだ5分程しかたっていなかった。時間がたつのが長く感じる。僕はベンチから立ち上がってあたりをうろついた。
郁美とここで待ち合わせをしていた当時の事が頭の中に浮かんだ。僕と郁美は中学を卒業すると、別々の高校へ進学した。この場所その2つの高校の中間の位置にあり、僕達は学校帰りによくここで待ち合わせをした。僕がこの場所に来ると、いつも郁美の方が先に来て待っていた。ベンチに座って景色を眺めている郁美の姿を僕は好きだった。
僕の方が先にここへ来るのは今日が初めてだ。
僕はベンチに座って景色を眺めた。小高い丘の上なので、街を見下ろすかっこうになる。眼下に小さな町並みが広がっている。駅周辺にビルが集まり、その周りに民家が広がっている。
郁美はいつもこの景色を眺めながら僕を待っていたのだ。
この景色を眺めながら、何を想っていたのだろう?
僕はそんな事を考えた。
少し進んだ場所で僕は立ち止まった。そこには昔と変わらない景色が広がっていた。
こじんまりとした神社と、垣根を挟んで小さな公園。
神社は背の高い杉の木に囲まれていて、入口に小さな鳥居がたたずんでいる。中の方は日陰になっていてよく見えない。公園には遊具などはなく、屋根付きのベンチが2ヶ所に設けられているだけの、取り柄のない公園だ。
最後にこの場所へ来たのはいつだったか思い出せなかった。けれど昔と変わった様子はない。懐かしさが込み上げる。
変わらないものだってあるのだ。それは今の僕にとって喜ばしい事に思えた。
公園に積もる雪に、足跡は1つもなかった。普段からここを訪れる人間はあまりいないのだろう。
僕は足跡を残しながらベンチの元へ行き、座ってから煙草に火をつけた。頭上の屋根から小さな氷柱がいくつも垂れ下がり、日の光を受けて輝きながら水滴を落としていた。太陽は少し傾き始めている。腕時計を見ると2時30分になっていた。
約束の時間まであと30分。というより、僕が勝手に押し付けた時間まで、と言った方が正しい。郁美は約束はしてくれなかった。
普段僕が過ごしている世界とはまるで別物だった。ここには無機質なビルもないし、派手な看板もないし、車の騒音もない。人混みの中を縫うように歩く必要もない。
僕一人が絵本の中の世界にほうり込まれたような気分だった。けれどその一方で、ここには現実的な世界を感じさせるものがあった。ここには自然の緑があり、雪があり、自然の香りが満ちている。
不思議な気分だった。ここは初めて来る場所ではない。4年前まで当たり前に歩いていた道だ。
《この4年の間で、僕の中で一体何がどう変わったのだろうか。そしてそれは僕自身、変わってほしくなかった事なのだろうか…》
そんな想いが頭の中に浮かんだ。たしか、昨夜も同じ事を考えたはずだ。
僕は立ち止まって深呼吸をしたり、景色を眺めたりした。静けさが胸の中にまで染み渡っていく。そうしているうちに先程までの苛立ちはどこかへ流れ、僕は落ち着きを取り戻していた。けれど哀しみに似た感情は、湖に揺らめく水のように胸の中で静かに溜まっていた。
林道をぬけると、僕はさらに細い横道へとそれた。
僕は窓の外を眺めた。街中から少し離れた、小高い丘の辺りまで来ていた。民家は数える程しかなく、時折林道の中へ入ってゆく。林道の中は日中も日当たりが悪く雪が溶けずに残っていた。運転手は口数が減りスピードと落として慎重に走りぬけてゆく。林道をぬけると畑や民家が姿をあらわし、また林道へ。繰り返しながら少しずつ丘の上へ進んでいった。
丘の上まで来ると、僕は運転手に車を停めてもらい、料金を払った。運転手は少し怪訝そうな顔をしたけれど、愛想よく「ありがとうございました。」と言い、僕は少し微笑んでタクシーから降りた。
腕時計を見ると2時を少し回っていた。郁美と電話で話してから1時間程が過っていた。
僕は細い脇道に入り、緩やかな上り坂を歩いた。しばらく歩くと林道へ入り、辺りの空気がいっそう冷たさを増した。道が真っ直ぐに伸び、その両脇には杉の木が立ち並び視界を遮った。杉の木には雪が積もり、緑の葉がその隙間からわずかに顔をのぞかせている。当然、僕意外に人影はなく、ひっそりとした静けさが満ちていた。木漏れ日が微かに差し込み、杉や道路に積もる雪をあちこちで白く浮かび上がらせている。
運転手は喋り続けた。雪がどうとか、道が走りにくいとか、そんな他愛もない話ばかりだった。僕は適当にあいづちをうちながら彼の話しを促した。決してうっとうしいとは思わなかった。むしろ彼の楽しげな喋りが有り難かった。
僕は運転手の白髪の混じった頭を後ろから眺めながら、物思いにふけった。
4年前、もしこの街を離れる事なくここで暮らし続けていたら、僕は今頃どんな人間になっていたのだろう。
……僕と郁美はどうなっていたのだろう。
けれどそれはあまりにも無意味な想像だった。少なくとも4年前の僕にはこの街を離れる事しか頭になかったのだし、それが最善の選択だったはずだ。
今となっては、それが最善の選択だったと思う事しかできないのだ。
「お客さん、この辺りですよね?」
運転手がこちらへ少し首を傾げて尋ねた。
「ええ、もう少し道なりに進んでもらえますか?」
僕が答えると運転手は「はいはい」と言いハンドルを握りなおした。
しばらく歩いた所で自動販売機を見つけ、僕は煙草を買った。火をつけ、努めて何も考えないよう煙を吸い込んで吐き出す。
駅に着くと空車のタクシーを見つけ乗り込んだ。白髪頭の男性の運転手へおおまかな行き先を告げると、彼は「はいはい、わかりました。」とひょうきんに返事をして車を走らせた。
「車内禁煙ですか?」
窓に禁煙のステッカーが貼ってあるのを知りつつ、僕は一応運転手に尋ねた。
「そうなんですよ。全面禁煙になってしまってねぇ。いやね、私も前までお客さんを待っている間なんかは中で吸ってたんですよ。けど、車内禁煙になったもんだから困っちゃってね。これもいい機会だと思って私は煙草をきっぱりやめちゃいましたよ。」
運転手は楽しげに喋り、かわいた笑い声をあげた。僕は「そうなんですか。」とあいづちをうった。
「やっぱり私もいい歳だから体の心配もしとかなきゃならないからねぇ。いや、お客さんはまだ若い方だから、吸いたいだけ吸っていいと思うんですよ。でも今は我慢していただけますかね。」
運転手はまたひょうきんに笑った。地元の人間らしい人の良さそうな雰囲気に、僕は「大丈夫ですよ、我慢できます。」と軽く微笑んだ。
腕時計を見ると、針は1時30分を少し回ったところだった。僕は駅に向って歩き始めた。歩きながらネクタイを首から外して内ポケットへしまった。黒いネクタイだけでも外しておきたかった。
コートのポケットへ手を入れて煙草を取り出そうとした。けれどそこに煙草はなかった。他のポケットを手で探っているうちに、僕はようやく思い出した。麗奈さんの目の前でテーブルの上へ投げ捨てて、そのまま置いてきてしまったのだ。
麗奈さんはあの煙草の箱を、今頃ごみ箱に捨てているのだろと思った。
僕が握り潰した煙草の箱を、彼女はテーブルの上から拾いあげるのだ。
その姿が目に浮かび、再び目頭が熱くなった。
あれから4年たった今でも僕達の間には生々しい感情しか残っていなかった。まるで傷口に出来たかさぶたを爪で無理矢理はがした時のように、そこには相変わらず赤々とした傷口が広がっているのだ。
僕は期待していたのか?あるいは、かさぶたの下に新しい皮膚が出来上がっている事を。
いや期待とは違う。それは期待なんかではない…
そこまで考えた所で僕は思考を断ち切った。
麗奈さんの顔は、泣いたせいで化粧が落ちてしまっていた。手で涙を拭ったためか、マスカラが目のふちを黒く滲ませ、頬には涙で化粧が落ちた線が出来ていた。それは決して美しい表情ではなかった。けれど僕は、一瞬彼女のその化粧崩れした顔に魅入ってしまった。
彼女は本来ならもっとスマートに泣く女性に見えた。ハンカチを使い、涙をそっと拭うようなそんな女性に。結局、僕が彼女をこんな風にしてしまったのだ。僕のせいで麗奈さんは柏木義治という人間を失い、取り乱しているのだ。
僕の目頭に熱いものが込み上げた。
もう、うんざりだ。
「とても大切な用事が出来たんです。時間に遅れるわけにはいかないんです。」
僕は言った。
「私はあなたに渡したいものがあると、そう言ったはずです。」
麗奈さんはソファーから立ち上がった。
忘れていた。僕はその何かを受け取るために、この家へ連れてこられたのだ。けれどもう、そんな事はどうでもよかった。
「僕はあなたから受け取るような物は何一つありませから。」
僕は麗奈さんを無視して、リビングの扉を開け部屋から出た。
もう二度とこの家に来る事もない。僕はそんな思いを胸に、柏木義治の家を後にした。
携帯電話をポケットへしまった後も、郁美の余韻が僕をつつんでいた。電話を切ってもなお、僕の耳は静寂の中に郁美の声を探していた。郁美が僕の指定した場所へ来るかは、正直わからない。会いたいという気持ちはある。けれど、来るか来ないかは、あまり問題ではないように思えた。
今、僕の目の前にはソファーに座り泣いている女性がいる。それはとても堪え難い事だ。
「急に用事ができました。」
僕はソファーでうなだれる麗奈さんへ声を投げかけた。彼女は顔をあげようとしない。
「もう麗奈さんと話せるような事もありません。僕はこれで失礼します。」
僕はそう言い残し、リビングを出ようとした。こうするしかないのだと思った。結局、色んなものをぶちまけ、散らかして、後片付けなんて出来もしないのだ。
「ちょっと、待って下さい。」
鼻をすすりながらの切れ切れな言葉が背後から届く。子供が泣きながら駄々をこねているような、無防備な声。
「こんな、中途半端な形で帰られたら、一体なんの為に今日あなたを呼んだのかわからないじゃないですか。」
僕は振り向くと、麗奈さんは顔を上げていた。
何の為にここへ来たのか、僕の方が聞きたかった。
「えっ、今から?壮太君、今どこにいるの?」
「昨日の夜、実家に帰って来たんだ。それで今、駅の近くにいるんだけど…会えないかな?」
「あ、もうこっちに帰って来てたんだ。明日の結婚式の為に来てくれたんだよね。昨日の夜に不在着信があったから、急に来られなくなったのかなって思った。」
僕は郁美の口から出た「結婚」という言葉をなんとか胸の中に取り込んだ。
「明日、出席させてもらうよ。」
「うん、招待状の返信、出席になってて嬉しかった。来てくれてありがとね。」
「……郁美は今どこにいる?」
「今?今ね…ちょっと用事があってね…」
戸惑ったような声。
「会う時間作れないかな?」
「うん、今は…ちょっと…」
「何時でも構わないんだ。会えないかな?」
「…」
再び沈黙。無理もない。自分でもわかっている。無理は承知で言っているのだ。
「2時間後によく待ち合わせしてた、あの場所で待ってる。」
僕は返事を待った。郁美の戸惑っている息づかいを感じる。
会っておきたい。そう思った。
「待ってるから。」
僕は返事を待たずに電話を切った。
「いや、俺の方こそ突然ごめん。元気してた?」
「うん、壮太君は?元気だった?」
郁美の何気ないその声は、爽やかな風が吹き抜けていくように僕の心をなびかせる。
「俺は…それなりに元気だよ。」
「そっか…良かった。」
「うん…」
僕は意味なく呟いた。昨夜、郁美に電話をかけたのは、本当に衝撃的なものだった。何を話していいのか分からない。けれど、何かを話したい。
隙間風の様な電話のノイズだけが耳に届く。僕は突っ立ったまま、その音に耳を傾けた。
会話が続かない。沈黙…
僕と郁美の過ぎ去った時間の長さを感じた。ノイズの奥に、郁美が何かを言いあぐねているような、そんな息づかいをかすかに感じる。それは気のせいなのかもしれない。けれど、郁美は今、確実に電話の向こう側にいるのだ。
僕は麗奈さんを横目で見た。麗奈さんはソファーに座ったまま泣いている。
僕に一体どうしろというのか。
「今から会えないかな?」
僕は郁美にそう聞いた。
僕は通話ボタンを押した。着信音が鳴りやむ。携帯画面が通話中に切り替わり、時間が1秒、2秒…とカウントされていく。咄嗟に電話に出たはいいけれど、戸惑った。
電話、切るべきだったか?
そんな思いが頭をよぎった。けれど僕は…止まらない。
麗奈さんに視線をはしらせながら携帯電話を耳にあてる。麗奈さんはうなだれたまま動かない。
「もしもし…」
女性の声が耳に届く。
僕は「もしもし」と返事を返す。
「壮太君?」
女性は尋ねた。少しくぐもったような、それでも、甘い声。
「…郁美だよね?久しぶりだね。」
「うん、久しぶり。」
女性は言った。郁美の声だ。郁美の声だと思った。
僕は言葉が出ない。
「昨日ごめんね。電話…出られなかった。」
そう言われて僕は思い出した。昨夜、伸治達と会う前に郁美に電話をかけていた事を。
僕の言葉はもう彼女の耳に届いていそうもなかった。麗奈さんは右手で前髪をかきあげ、そのままソファーに座り込んだ。
彼女は声を押し殺して泣いていた。
卑怯だと思った。僕の言葉にならない想いは、やり場なく胸の中に留まった。まるで川を流れる水を急にせきとめた時のように、僕の感情は今にもあふれかえりそうになった。
けれど同時に、うなだれる麗奈さんの姿を見ながら罪悪感も感じていた。そんな自分を馬鹿らしく思う。僕の頬は彼女に殴られ、ひりひりと痛んでいるのだ。
麗奈さんが鼻をすする音が、静かな部屋の中に小さく響く。その音はまるで無防備で、僕は言うべき言葉が見つからない。
その時、携帯電話の着信音が部屋の中に鳴り響いた。聞き慣れた洋楽の着信音で、場違いに部屋の中に鳴り続ける。
僕はポケットに手を入れて携帯電話を握りしめたまま、しばらくその曲に耳を傾けた。誰かと話せる気分じゃない。着信音は数秒間流れた後で切れた。
再び着信音が流れ始める。聞き慣れた曲が耳障りに聞こえるのはなぜだろう?
僕は携帯電話を取り出し、電話を切ろうと画面を開いた。けれど着信画面見て指の動きが止まった。
それは郁美からの電話だった。
僕は視線を彼女の方へ戻した。麗奈さんはソファーから立ち上がっていて、酷く悲しそうな顔付きで僕を見下ろしていた。僕を殴ったであろう彼女の細く白い手が、行き場を失った様に漂っていた。甘ったるい香りが鼻をかすめてゆく。
僕達は黙ったまま、しばらく見つめ合った。
「まともな会話は出来そうにありませんね。」
僕は彼女の顔を見上げたまま言った。頬に痛みが広がっていくかわりに、体中の熱がさめていく感覚がした。
「麗奈さんは僕を許せないんでしょう?でも、さっき麗奈さんに言われて気が付きましたよ。僕もあなたを許せないんです。話になりませんよ。」
僕はそう言い、ソファーから立ち上がった。
「どうして?私はただ知りたいだけなのに…あなたはどうして…」
麗奈さんの目に涙が一気に滲んでいった。
嘘だ。彼女は結局、僕に何一つ、はっきりとは言ってくれないのだ。
「4年前、病院で麗奈さんに言われた事、僕は覚えてますよ。しっかりと、今でも。あなたはあの時、僕にこう言いました。葬儀には参列しないでくれ、と。それなのに今更僕に何を聞きたいというのですか?」
「私が許せないのはあなたのそういう態度です。」
麗奈さんはそう言い、指先で涙を軽くぬぐった。その仕種がやけに女性らしく、僕を更に苛立たせる。
「僕の態度?言っている意味が解りません。そうやって話をはぐらかさずに、言いたい事は、はっきりと言ったらどうですか?麗奈さんは僕の態度じゃなくて、僕の存在自体が許せないんでしょう?」
「どうしてそうなるの?壮太さんは何を一人でむきになっているんですか?あなたの方こそ私の存在が許せないんじゃないですか?私はただあの日の事を聞いているだけなのに、あなたは何一つ答えてはくれません。それが許せないと言っているんです。あの日の事を覚えていないはずありませんよね?義治さんはあなたの…父親なんですから。」
「父親?麗奈さんにそんな事を言われたくありません。僕はあの人を父親とは思っていませんから。あの人はあなたの家族でしょう?」
僕はそう言い、視線を落として溜め息をついた。
瞬間、僕の頬に衝撃がはしった。僕の視線は、一瞬宙をさまよった。頬が急激にひりひりと痛み、熱を持ちはじめる。
殴られたのだと気が付くのに、少し時間がかかった。それほど唐突な痛みだった。
麗奈さんは唇を噛み締め、涙の溜まった目で僕を睨んだ。
死なずにすんだ…
あの日から今まで、その言葉がどれほど僕の頭の中を駆け巡った事か。それは耳元で誰かに囁かれた様に、不意に頭の中をかすめていくのだ。夜、寝る前だったり、仕事の休憩で煙草を吸っている時だったり、なにげなく夕焼けを見ている時だったり、そういうほんの少しの時間の隙間に。そのたびに僕は何か他の事に意識をそらすために必死になった。今までそういう風に生活してきたはずなのに、まさか自分から言葉にして出す事になるなんて考えてもみなかった。
こんな事を言うつもりなど、全くなかったはずだ。自分が理解できない。胸はひどく苛立ち、頭の中は混乱し始めている。
麗奈さんは僕を睨み続けている。人からこんな顔を向けられたのは初めてだ。
苛立ちはつのる。煙草が吸いたい。
「麗奈さん、あなたは僕があの人…柏木義治さんを殺したようなものだと、そう言いたい。そうでしょう?」
僕は更に続けてそう言った。
「許せません。」
涙をぬぐう事なく麗奈さんはもう一度言った。
そこに先ほどまでの仮面のような冷たい表情はなかった。感情のかよった女性の表情だった。
彼女はいま悲しんでいる。いや、僕を憎んでいるのか。
彼女は僕に対してこんな表情しかできないのだろうか? 親父の再婚相手?それが僕と何の関係がある。僕と親父の何がわかるというのか。
この女は一体何なんだ…
瞬間、僕の中で張り詰めていたものが、切れた。
僕はポケットから手を出して、握り潰した煙草の箱をテーブルの上に投げ捨てた。箱は音を立てて転がり、蓋が空いて中から折れかかった煙草が飛び出した。
僕は麗奈さんの頬に出来た涙の線を、目で追いながら喋った。
「わかっています。麗奈さんは僕を許せない。あなたは僕があの日、何をしていたのかが聞きたいんじゃない。つまり、こう言いたいんです。僕があの日、約束通りあの人と会ってさえいれば、あの人は死なずにすんだ。まわりくどい質問などせずに、最初からはっきりとそう言えばいい。」
「覚えていない…ですか。4年前、病院で会った時もあなたは答えてくれませんでしたね。」
病院…
彼女は余計な言葉ばかりを口にする。僕の記憶の蓋を強引にこじ開けるような事ばかり。
当時の景色が頭の中に浮かび始める。
柏木義治…霊安室…柏木麗奈…
痛みを伴う景色。
僕は咄嗟に口を開いた。
「そうです、4年も前の事です。覚えていません。病院で何を話したかも覚えていません。ですから僕が話せるような事は何もありません。僕は今日、墓参りに来ました。それだけです。」
一気にそう喋ると、麗奈さんは顔に苛立ちの色を浮べた。それは僕が初めて見る、彼女の人間らしい表情だった。
麗奈さんは溜め息をつき、ゆっくりと窓の方へ顔を向けた。髪がなびいて、甘ったるい香りが漂う。彼女はもう一度肩で溜め息をついた後、再び僕を見つめて言った。
「私はあなたを許せません。」
涙が落ちた。
泣いていた。麗奈さんの目のふちから小さな涙の粒がこぼれ、頬の上を一筋の線を作りながら落ちていった。
何かに意識をそらして落ち着きたかった。僕は一息ついて口を開いた。
「すみません、煙草を吸いたいのですが。」
引っ込めた手をポケットへ入れて煙草の箱を握りしめる。
「灰皿がないので遠慮していただけますか?」
台詞を読み上げるかのような心のない返事。まるで用意されていたかのような即答だった。きっと麗奈さんは僕の頼みなど、何一つ聞き入れるつもりはないのだろう。
手に力が入り煙草の箱が潰れていく。箱が潰れるかすれた音が、沈黙の中で不自然に音をたてた。
「麗奈さんは僕を許せない。そうですよね?」
言葉に力が入った。そうしなければ唇が震えてしまいそうだった。
「許せない?私はただ聞いているだけです。あの日、あなたがどこで何をしていたのかを。」
「僕がそれを答える事に何の意味があるんですか?」
「意味ですか?あなたにはなくても、私にとっては意味のある事です。」
刺のある喋り方だった。手に力が入り、握りしめた煙草の箱が手の平に食い込んでいく。
「あの日の事は覚えていません。」
僕はそう言い、初めて彼女の目を真っ直ぐ見つめ返した。目をそらし続ければ、彼女はきっと僕の中へ土足で足を踏み入れてくる。
「その前に壮太さんに1つ聞いておきたい事があります。」
麗奈さんはそう言い珈琲を一口飲んだ。彼女の茶色い髪がなびく度に甘ったるい香りが辺りを漂い、僕はその都度顔をしかめた。
まるで人と向かいあっている気がしなかった。そもそも僕は目の前に座っている女性が親父の再婚相手という事以外、何も知らないのだ。彼女が普段何をしていて、何に興味があって、どんな顔をして笑うのか。何も分からない。
僕が分かる事と言えば、彼女は僕に対してどこまでも冷たい表情になれるという事くらいだった。
僕は顔をあげ次の言葉を待った。
「義治さんが逝ってしまってからもう4年以上がたちました。私も気持ちの整理をつけながら過ごしてきましたけれど、どうしてもひっかかっているんです。あの日…彼が倒れた日に壮太さんはどこで何をしていたんですか?」
彼女の視線は揺るがない。
親父が倒れた日?僕が何をしていたかだって?
胸がまた1つ激しく鼓動した。同時に頭へ一気に血がのぼる感覚が襲った。胸は鼓動の余韻から小刻みに脈打ちを続ける。僕は珈琲を飲もうとテーブルの上へ手を伸ばした。けれど、その手が震えそうですぐに引っ込めた。
墓参りだけのつもりがこんな場所にまで来てしまうとは。
麗奈さんに怪訝そうに見つめられ、僕は仕方なく重い足どりで家の中へ入った。
リビングへ通されソファーへ腰掛けると、僕は部屋の中を見渡した。家具は白と黒のモノトーン調で統一されている。床には黒いカーペットが敷かれ、その上に白のテーブルや白いソファー。壁際に設けられた棚も白や黒の物だった。どこか冷たさを感じさせる洗練された部屋。
自然と溜め息が出た。今の僕にはこの白黒の部屋の景色は葬式をイメージさせる。なによりも、僕自身が白黒の喪服姿なのだ。
この家のどこかで親父は死んでいった。それは考えたく無くても頭の中から離れず、親父の存在を部屋の中のいたる所に感じた。家具の隙間からであったり、天井の隅からであったり、棚に並べられた小物からであったり、または部屋の扉の向こう側から。
麗奈さんは珈琲を運んで来ると向かい側のソファーへと座った。
「それで、僕に渡したい物というのは?」
珈琲には手を付けず視線だけそこへ落として尋ねた。とにかくこの家から早く出て墓参りをすませる。それがたとえ形式的なだけのものになっても構わないとさえ思い始めている。
「左手に見える白い家が私達の家です。」
隣で麗奈さんが唐突に口をひらき車を停めた。
僕は麗奈さんに続いて車から降りた。
建てられて10年は経っていないと思われる2階建ての白い家。それほど大きくないけれど外観は洋風で清潔感のある家だ。
僕は表札を確認した。そこには「柏木」の文字が彫られている。
懐かしい名字だった。頭の中に自分の名前が2つ浮かぶ。
柏木壮太
吉岡壮太
僕が今「吉岡壮太」なのは間違いない。けれど「柏木壮太」は間違いなく僕だった。
「この家に来るのは初めてですか?」
麗奈さんが玄関の前で振り返り、門の前で立ちどまっている僕を見て尋ねた。
「ええ、初めてです。あの人とは別の場所で会っていましたから。この家は…あの人が建てた家ですか?」
僕が聞き返すと麗奈さんは頷いた。
「義治さん、あなたの母親と離婚した後しばらくの間はアパートに住んでいたんですけれど、私と結婚が決まった時にこの家を建ててくれたんです。どうぞ中へ入って下さい。」
麗奈さんはそう言い玄関のドアを開けた。
「どうぞ」と言われても簡単に足を踏み出すことは出来ない。
ここはあの人の…僕の実の父、柏木義治が死んだ家。
車は街の中心地へと進んで行き、昨夜高速バスを降りた駅の近くまで着ていた。
昨夜同様、休日の昼間でも人通りは少ない。この街も空洞化が進んでいるようだった。バイパスなどの広い通り沿いに大型のショッピングモールが立ち並ぶ様になり、道幅の狭く駐車場の少ない駅周辺には人が集まらないようになってきている。
僕がこの街にまだ住んでいた頃から徐々にその傾向はあったのだけれど、ここまで進行している状況を見るとやはり物悲しい気持ちになる。
「形あるものは全て壊れるものだ。だから気にするな。」
昔、親戚の叔父さんの大切にしていた万年筆を僕が壊してしまった事があった。その時、叔父さんが僕に言った言葉。当時幼かった僕は怒られなかった事にほっとしただけだったけれど、今その言葉を思い出すと心を寂しくさせる響きがある。
楽しい思い出はいつまでもそのままに
そんな風にはいかないものなのだろうか?
「急に呼びだすような真似をしてしまいすみませんでした。」
麗奈さんはそう言い車を走らせ始めた。僕は彼女の顔を横目で見た。言葉とは逆で、こちらに気を使うような雰囲気は全くない。彼女の喋り方はまるで独り言を言っているような冷たさがある。僕は自然と助手席のシートに姿勢を正して座っていた。
「いえ、丁度他にもこっちへ帰ってくる用事があったところなので…」
僕は無性にタバコが吸いたくなった。けれどそんな事を言い出せる空気ではない。
「先に渡したい物がありますので、義治さんの所へ行く前に一度家に戻りたいのですがいいですか?」
「ええ、それは全然構いませんが…」
渡したい物。電話でもその事は聞いていた。けれど、それが何なのかを尋ねるのは気が引けた。
それ以上会話は続かず彼女黙ったまま車を走らせ、しばらく気まずい沈黙が続いた。
もしかしたら気まずいと感じているのは僕の方だけかもしれない。僕は車内に流れる音楽に耳を傾け気を紛らわせた。
「麗奈さん…ですよね?お久しぶりです。」
僕は彼女の元へ行くと向かいあって立ち、なんとか言葉をしぼりだした。
「お久しぶりです。」
麗奈さんは僕の目を真っ直ぐ見つめたまま言った。
さっきの胸の鼓動が蘇りそうで、僕は彼女の眉や鼻筋の辺りへ視線をそらした。眉は綺麗に整えられていて鼻筋には作り物のような鋭さがある。そこから彼女の意志の強さみたいなものが伺える。
「寒いのでとにかく車に乗りましょう。」
麗奈さんは僕の返事を待たずにステーションワゴンのドアをあけ運転席に乗り込んだ。僕は言われるままに助手席へ乗った。
そして当然のように僕と視線が交わった。女性は僕を見つけると一瞬目を大きくさせ、徐々にその目の色を変えていく。
その目を見た瞬間、僕の胸が急激に波打った。それはまるで胸の内側から殴られたような衝撃で、視界までもが揺れた気がする。
間違いない。彼女がそうだ。
あの時と同じ目の色をしている。それが憎しみからくるものなのか悲しみからくるものなのかは分からないが、僕の感情を揺さぶる目。
彼女は手に持った携帯電話をポケットへしまい、姿勢を正して柔らかくお辞儀をした。
僕は固まったままその姿を見つめ、彼女が顔をあげた後軽く頭を下げた。
体中の筋肉が張り詰めている気がする。それは決して寒さからくるものではない。
たまに立ち止まってはまた歩き、そうやって進むうちに結局駅前に着いたのは11時丁度だった。僕は辺りを見渡し待ち合わせ相手の女性を探した。
駅に人影はない。駐車スペースに視線を送ると空車のタクシーが1台と、白のステーションワゴンが停まっている。
ステーションワゴンの前に一人の女性が立っている。背が高く細い足がすらりと伸びた女性。うつむき加減で携帯電話を触っている。
この女性かもしれない。
僕は頭の中にかすかに残っている記憶の映像を探った。けれど数えるほどしか会った事がないため確信はもてない。
たしか4年前に会った時は20代後半だったはずだ。けれどそこに立つ女性の姿は僕の想像よりも若く見える。
白いロングのダウンコートを着ていて、黒のデニムパンツに茶色のブーツを履いている。ブーツインしているためか、足元がすっきりとしていて足がより長い印象を受ける。
茶色く染められた長い髪は毛先へいくにしたがって軽くウェーブしていて、派手過ぎず自然な感じで胸元まで流れている。その髪のせいで表情は見てとる事ができない。
人違いかもしれない。そう思った時女性が不意に顔をあげ、髪をなびかせながら周囲を見渡しはじめた。
待ち合わせは家の近くの駅前に11時。
僕は家を出て足早に駅へと向かった。
空を見上げると太陽は青空の高い位置にあり、それは輪郭をとらえられないほどの圧倒的な光の放射線で、僕は思わず目を細めた。けれど見た目の力強さとは裏腹に、顔へ当たる日差しは弱々しい。
僕はそんな冬の太陽を毎年見る度にとても綺麗だと思う。
弱々しい光とはいえ、路上の凍った雪は徐々にとけはじめていた。革靴の底が凍った路面の上を滑り、何度か転びそうになった。
まだ高校生だった頃も毎朝駅までのこの道を通っていた。革靴をはいて通学していたので、当時は下り坂の凍った路面を少し助走をつけた後、スノーボードをするような姿勢で一気に滑り降りたものだった。
今はとてもそんな事をする気にはならない。当時は電車の時間にぎりぎりだったためそんな事をやっていたけれど、今は得に急がなければならないわけでもない。時間には余裕もある。
そもそもそんな思いとは関係なく始めから足どりは重いのだ。
僕はベットの上に座りこみ、ぼんやりと天井を見つめた。
「また」ではない。
あの日から「今まで」目を背けていた。わかっている。
今さらどうなる。今さら遅い。今さらどうにもならない…
「今さら」ばかり。
それならば、喪服に着替えまでしておいて、今さら会いに行くのをやめるのか?
わからない。理屈じゃないし、考えてたところで答えはでない。
けれど今さら引き返せないのは確かだ。
僕はベットを殴りつけて、その反動で立ち上がった。
そしてスーツの上からコートを羽織り、部屋から出た。
今さらこの恰好になる事自体に意味はあるのか。別に私服でもかまわないのだ。
そして、今さら会いに行って一体何がしたいのか。
後悔している?けじめをつけたい?
それともこれは自己満足なのか?
いや、ただ後悔しているだけだ。
けれど後悔しているからといって今さら喪服を着て会いに行ってどうなる。
けじめをつけたい?
それは自己満足と何が違う?
さまざなな言葉が頭の中に浮かんでは絡まり、それは止まる事なくループして胸の中の感情を激しく揺さぶりはじめた。
僕は思わず鏡の中の自分の姿から目を背け、頭の中を真っ白にすることに専念した。
心なしか小刻みに早くなっている呼吸を元に戻すために、深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。
頭の中で絡まった言葉や胸の中で高まる感情を、吐き出す息と共に体の外へ押し流す。
窓の外の景色を眺めながらしばらくその作業に専念した。
真っ白になった頭の中に1つの言葉が浮かぶ。
また目を背けようとしているのか?
クローゼットの中から全身鏡を取り出し、僕はその前に立って映る自分の姿を見つめた。
純黒のスーツ姿に黒のネクタイ。ワイシャツだけが白く浮かび上がっている。
喪服姿になるのはこれが初めてだ。
本当なら4年前にこの喪服を着ているはずだった。いや、当時はまだ高校生だったので、あるいは学生服で参列していたのかもしれない。
どちらにせよあの日僕は葬儀には参列せず、4年後の今になり喪服姿になっている。
しばらく外の景色を眺めた後窓を閉めた。そろそろ10時になるころだろうか。
僕はクローゼットを開け、昨夜かけておいた2着のスーツのうち片方のスーツを手にした。こちらへ送る前にクリーニングに出しておいたので、シワ1つなくスマートにハンガーにかかっている。
それは純黒のスーツだ。
ハンガーから上着とスラックスをはずし、シワのできないように優しくベットの上に置く。
その後、服を脱いで白のワイシャツを着る。襟や袖が肌にひやりと冷たく当たる。
ベットの上からスラックスを手にとり、足を通してベルトをしめた。
テーブルの上には黒革のケースが置いてあり、ファスナーを開けると中には3本のネクタイが並んでいる。
青と白の線が斜めに入ったストライプ柄のネクタイ。
無地の白ネクタイ。
無地の黒ネクタイ。
僕はその中から無地の黒ネクタイを手にとり首に巻いてしめた。
最後に上着の袖に腕を通してボタンをとめる。
スーツは着慣れていないいないため、体を動かす度に硬さを感じた。そのせいか自然と気持ちが引き締まる。
部屋へ戻るとカーテンを開けて、光を中へ取りこんだ。
僕は思い切って窓をあけた。
冷たい新鮮な空気が頬へ当たり、息を吸い込むとその冷たな空気が鼻の奥を鋭く刺激する。けれど全く不快な気にはならず、かえって気持ちを少し清々しくさせた。
良く晴れた1日になりそうな予感がする。
透明度の高い冬の青空が広がっており、民家の屋根や道脇に積っている雪が太陽の光を受けて白く輝いている。雪が光を反射しているせいか、景色はより鮮明で明るいような気がした。
遠くに見える山にも雪が積もっているけれど、少し霞みがかっているせいか、山全体は白というより薄い青色に目に映る。
土曜日の朝なので車の通りも少なく、まだとても静かだった。
そこには昨夜ここへ帰って来た時に感じた重々しさはない。
刹那的な景色と言うべきか、ワイングラスのように透明ではかない物のように見えた。
何年もの間、毎朝同じ景色を見て育ったはずなのに、そんな風に感じるのは初めてだった。
目の前に広がる景色と、過去に見た同じ景色とが頭の中でだぶり、僕は今目にしているのが本当はそのどちらの映像なのか一瞬混乱した。
それは昨夜から何度も僕の中で起こっている現象だ。
翌朝、目が覚めると僕はぼんやりとした意識のまま起き上がり目をこすった。
窓にかかる白いカーテンが朝の光を受けて、部屋の中はうっすらと明るい。
冷えきった空気が部屋の中にはりつめていた。朝は一段と冷え込む。
僕は冷たくなったフローリングの床を早足で歩き部屋を出た。
階段を降りリビングへ行くと母がソファーに座り、テーブルの上に広告を広げて読んでいた。
「おはよう。」
「あら、起きるの早いじゃない。」
母は僕を見て目を丸くする。
「そうかな。父さんと裕也は?」
「お父さんは会社へ行ったわよ。土曜日だけど今仕事忙しいみたいで、最近はずっと休日出勤しているの。裕也は休みだからまだ寝てるんじゃないの。ご飯は食べるの?」
「そうだね、もらう。」
母は朝食を用意してくれると買い物へ出掛けると言い、準備に長いこと時間をかけた後出ていった。
昨夜の酒が胃をだるくさせている。いざご飯を目の前にすると食欲がわかない。僕はみそ汁とサラダだけを食べて、残りは元通りになおして片付けた。
その後シャワーを浴びて歯をみがき、再び階段をのぼった。
時計の針は午前2時をさしていた。
卓也は結局テーブルの上で寝てしまい、まさ君が絵美さんに声をかけタクシーを1台よんでもらう。
伸治が送っていくと言ったのだけれど、まさ君は遠回りになるからと遠慮した。
「卓也は一緒にタクシーに乗せて家まで送って行くから、2人は先に帰っていいよ。」
「そう?なんか悪いね。もし卓也起きなかったら殴ってやりなね。寝る奴が悪いんだから。」
「それじゃあまた明後日。結婚式で。」
僕と伸治は2人を残し、会計を済ませて店を出た。
伸治は黙ったまま運転し、僕も窓の外を眺めながら車に揺られた。
家の前まで着くと僕は礼を言って車から降りた。
運転席の窓が開き、伸治が顔を出す。
「まぁ…なんだ…卓也は馬鹿だけど、わかりやすい奴で助かるよ。あれだけ酔っ払ったら、目を覚ました時には今日の事もすっかりわすれているだろ」
目元から鋭さは消え、むしろ少し笑っているように見える。
「また明後日迎えに来るよ。連絡するから」
伸治はそう言い車を動かし走り去った。
僕は玄関のカギを静かに開け家の中へ入り、そのまま部屋へ向かった。
せめて結婚式には笑顔で出席しよう。そんな事を思いながら眠りについた。
それからしばらくの間、誰も喋らなかった。
まさ君はカクテルのグラスを眺めたり触れたりしていて、伸治は鋭い目つきでタバコを吸い続け、拓也はうつむき、たまにグラスに口をつける
聞こえるのは店内に流れるJazzだけだった。
僕が何かを言うべきなのは分かっている。けれど何をどう話せば良いのか。
きっと卓也の言うように、僕は「なんか変だった」のだ。そして、その事については「触れてはならない話」という漠然とした共通の認識が3人の中であったのだろう。
そうでなければ、この程度の事で皆が沈黙するはずがない。
この数年の間で、まさ君は教師になり、伸治は大学へ通い、拓也はどこかで働いていて、そして郁美は結婚する。
月日がたてば色んな事が変わっていくのは当然だ。そのほとんどが取るに足らない事や、喜ばしい事なのだけれど、中には変わってほしくなかった事も含まれている。
ならば僕の中では一体何がどう変わって、それは僕自身、変わってほしくなかった事なのだろうか。
酔いのさめつつある意識の中でそんな事を考えた。
「そうだよ、お前は無神経すぎるんだよ。酔っ払ってるからって言って良い事と悪い事くらい区別つけろ。ガキじゃないんだからよ。」
伸治は険悪な目つきをしている。
「そうやってなんとなくやり過ごしてればいいのか?なぁ?別に酔ってるから言っているんじゃない。俺はなぁ、会社で先輩に嫌み言われても言いたい事は言ってるんだよ。悪いかよ。伸治のそういう態度の方が卑怯じゃないのか?そうだろ?」
卓也は伸治を睨みかえした。
「なんだよその目は。おい。」
伸治が立ち上がろうとし、僕は伸治の肩をおさえた。
「拓也と伸治が揉める必要ないだろ。」
僕がそう言うと伸治は僕を見て睨んだ。そして何も言わずにタバコに火をつけた。拓也はまたテーブルにひじをつき、うつむいた。
「なんだよキャプテン。じゃあこっちへ戻ってくればいいじゃないか。俺はてっきり向こうで仕事をばりばりやってるのかと思ってたぞ。」
卓也が顔をあげて喋る。ひどく酔っていて舌がうまくまわっていない。
「卓也は黙ってろ。」
伸治が言う。
「だいたいキャプテンは高校終わりぐらいの頃からなんか変だったよ。そうだ、郁美と別れたのだってその時ぐらいだった。久しぶりに会ったけど、やっぱり昔とは違う。大学も辞めたなんてらしくないよ。」
卓也は頭をふらふらさせながら喋る。
「おい、卓也!お前は少し寝てろ。調子に乗って飲み過ぎなんだよ。」
伸治が卓也の頭を軽く叩く。自分がそんな風に見られているとは知らなかった。伸治は明らかに僕の顔色を伺っている。
「なんだよ伸治。お前だって郁美が結婚するって聞いた時は最初キャプテンとよりが戻ったんだと思っただろ。」
「お前本当いい加減にしろ。馬鹿みたいに喋りやがって。だからお前は…」
伸治は言いかけて口をとじる。
「だからなんだよ。なぁ伸治、何なんだよ。無神経だって言いたいのか?いやぁ…たしか俺は空気が読めないんだったか?なんなんだよ空気って、俺は思った事は言わないと気が済まないんだよ。」
「いや、大学は2年目の冬で辞めたんだ。成人式のすぐ後くらいだったかな。」
僕は一口ビールを飲む。口の中がやけに苦く感じた。
「本当かよ?何で辞めたんだ?かなり勉強して入ったんだろ?」
「まぁ…理由はあるような、無いような…」
辞めた理由はうまく言葉にはできない。
伸治は僕の顔を見て「そうか…」とつぶやいた。
「それじゃあ今は何をしているの?」
まさ君が遠慮ぎみに聞く。卓也は酔いがまわってテーブルにひじをついてうつむいている。
「むこうの知り合いで飲み屋をやってる人がいて、今そこで働いてる。丁度絵美さんがやってるこの店みたいな感じのところ。一応正社員っていう形になってるけどね。」
「そうなんだ…なんか意外だね。見た目は入社1年目の社会人って感じなのに。」
まさ君が言い、僕は苦笑いした。
場の空気は徐々に静かなものになっていく。店内に流れるJazzはまったく聞いていなかったのに、今になって耳に届いて気分を静めさせる。
「伸治は浪人してるからまだ大学に通っているんだよな?」
「ああ、春から就職活動だ。このまま地元で就職しようかと思ってる。本当はもう動いた方がいいんだけどな。髪の毛も少し伸ばして、色も黒くしなきゃならない。」
伸治は坊主頭を撫でながら言った。
「壮太は今むこうで何しているんだよ。大学卒業して就職したんだろ?」
伸治の問い掛けに僕は少し言葉がつまった。
話しはつきなかった。卓也は酒を散々飲んで馬鹿げた事を言い、僕と伸治は卓也に冷たくあたり、まさ君はよく笑った。
この場の空気をとても懐かしく思う。僕達は思ったほど大人になってはいない。
戻れるのかもしれない。
少し酔った意識のなかにそんな感覚を感じながら僕は喋る。
「それにしても、この中でまさ君が1番変わったよね。今仕事は何してるの?」
「大学卒業して中学校の教師をやってる。教員採用試験受かったからさ。なりたての新米教師だよ。」
まさ君は照れ笑いを浮かべ、カクテルを一口飲む。
「うそ、本当に?」
僕は驚いて声をあげた。
「実は俺はさぁ…」
卓也が何か言おうとし、僕は「卓也の話しはいいよ。」と後に続く言葉を遮る。
「今、隣町の中学に勤めてるんだよ。この辺りの中学生はわりと純粋っていうか、かわいげがあるから良いよ。中学生って本当まだまだ子供なんだよね、当たり前だけど。でも自分も中学の時あんなに子供だったのかと思うと、ちょっと信じられないっていうか。」
「いやいや、まさ君は十分子供だったよ。」
伸治がそう言い、まさ君は「そっか」と言って苦笑いした。
僕は生ビールを一気に飲み干し2杯目を注文した。卓也はウイスキーをロックで飲んでいて、まさ君は綺麗な水色のカクテルを飲んでいる。伸治は烏龍茶だった。話しは中学の頃の事で盛り上がった。
「だいたい卓也は昔から空気読めないよな。修学旅行の時まさ君がせっかく愛美さんと2人きりで居る時に、散々邪魔しに入った事あっただろ。」
伸治がタバコを吸いながら喋る。
「なにそれ、全然覚えていない。なんで俺が邪魔なんだ?」
卓也は目がすわっている。
「まさ君が愛美さん好きだった事くらい見ていればわかるだろ。」
「え、まさ君。ほんとか?ほんとなのか?そうだったのか?」
まさくんは「よく覚えていないや」と笑ってごまかす。
「まさ君、はっきりと迷惑だったって言った方がいいよ。その方が卓也のためになるんだから。」
僕はタバコに火をつけながら言った。
「おいキャプテン!今日はずいぶん俺に厳しいじゃないか。昔は優しかったのに変わっちまったなぁ。」
「変わったのは卓也のほうだろ。悪いけどその髪型全然似合ってないからね。卓也は一生くせっ毛のままでいればよかったんだ。」
「それは言えてる。」
伸治とまさ君が同時にそう言い、顔を見合わせ大笑いした。
「キャプテンさんは何を飲みますか?」
カウンターに立っていた女性が僕達のテーブルへくると笑顔で聞いた。卓也の大声が彼女に聞こえていたようで、キャプテンと呼ばれ僕は苦笑いした。
「絵美さん、キャプテンにビールを!」
卓也が大声で女性に言う。女性は尋ねるような目つきで僕を見た。絵美という名前は彼女にとても似合っていると思った。
「すみません、こいつうるさくて。生ビールください。」
僕は卓也を睨みながら頼んだ。
「卓也君はいつもにぎやかだから慣れてますよ。それに今、カウンターのお客さんが帰って他にお客さんはいませんから、騒いでもらって全然構いませんよ。生ビールすぐお持ちしますね。」
絵美さんはそう言いカウンターへ戻る。
「ここは絵美さんの店なんだ。元々旦那さんと2人でやってたらしいんだけど、何年か前に亡くなったらしくて、今は絵美さん1人でやってるんだよ。」
伸治が絵美さんの後ろ姿を眺めながら喋る。
彼女はとてもそんな風には見えなかった。
1人で店を経営していくのは大変な事だと思う。
けれど「苦労」といった類の言葉と無縁の存在に見えた。
「壮太!こっちだこっち!」
大声で呼ばれ振り向くとテーブル席に男性客が2人座っていて、こちらを見て手をあげている。卓也とまさ君だった。
2人のもとへ行き椅子に座るとまさ君が「久しぶりだね」と笑顔で言った。幼く見られがちだった顔はすっかり年相応のものになっていた。
「随分大人っぽくなったじゃん。髭まではやして。ようやく成長期が来た?でも相変わらず背は小さいね。」
僕が茶化すように言うとまさ君は照れ笑いした。
「おいキャプテン!」
卓也が僕の肩を叩いて声をあげる。かなり酒臭い。
「なんだよ。お前酔っ払いすぎだろ。顔が真っ赤だぞ。それにキャプテンて呼ぶなよ。」
僕は肩に置かれた手を払いのける。
「久しぶりだなぁ。こっちへもっと頻繁に帰ってこいよ、キャプテン!」
「うるさいんだよお前は。声がでかいし、酒臭いし、それに顔もでかいから近付くなよ。」
「壮太…、顔は許してやってくれ」
伸治がしみじみと言う。
「どうして自分の顔をお前達に許してもらわなきゃならないんだ。」
卓也は怒って伸治の頭を叩き、隣でまさ君が笑っていた。
カウンターの内側には30代くらいの女性の店員が立っていた。
立ち襟の真っ白なシャツを着ていて、あいた胸元から見える肌は白く、その上にネックレスが輝いている。
綺麗な黒髪は後ろで束ねられていて、まとめた髪が左肩から胸元へと流れている。
上品な目つきをした、とても綺麗な女性だった。
前に座っている1人の男性客と話をしている。
僕達が店の中へ進むと女性はこちらを向き「いらっしゃいませ」と丁寧にあいさつをした。
「こいつ中学の時の同級生なんです。」
伸治は僕の肩を叩きながらその女性に言った。親しみのこもった口調だった。
「こんばんは」
そう言って女性は僕を見て微笑んだ。
僕はとりあえず軽く頭をさげた。
15分ほど走り街中まで来ると、伸治は車を道路の端へと寄せ停めた。
辺りの建物のほとんどは明かりが消えていて、街灯が道路をオレンジ色に照らしている。
車を降り、少し歩いたところで「ここだよ」と伸治は言い、一軒の店の前で立ちどまった。
白いコンクリートの四角い無機質な建物だった。
扉を開けて中へ入ると、店内は落ち着いた雰囲気のJazzバーだった。間接照明の柔らかな明かりが、ホタルの光のように所々でぼんやりと灯っている。
入ってすぐ正面にカウンターがあり、椅子が7つほど並んでいる。
右手に通路がのび、その先は床が2段あがっていて、そこにテーブル席が3つ並んでいる。さらにその奥のスペースにはグランドピアノが置かれていて、下から照明の光で照らされている。
さほど広くない店内にJazzが控えめに流れていた。
「これ伸治の車か?」
僕は助手席に乗り、車内を見渡しながら聞いた。
「親父のだよ。たまに借りているんだ。」
伸治はそう言い、ゆっくりと車を走らせる。雪道の運転はなれているようだった。
「ほんと久しぶりに会うな。何年ぶりだろ?」
「壮太が大学進学でこの街を出ていく時に一度集まってるよな。あ、いやその後に成人式で会ってるか。お前こっちに帰ってくんの成人式以来だろ?」
ハンドルをきりながら伸治は喋る。
「ああ。あの時以来だな。そうは言っても3年ぶりくらいか。もっと昔の事に感じるけどな。今日は誰と飲んでる?」
「最初は中学ん時のクラスの奴がそこそこ集まって同級会みたいになったんだけど、郁美が来ないからもうほとんどの奴が帰ったよ。だから場所を変えて、卓也とまさ君と飲んでる。」
「なんだよ、二人だけ?だったらこんな時間にわざわざ呼ぶなよ。どうせ結婚式で会うんだし。」
僕はそう言いながらも、嫌な気はしていなかった。
わき水が山の中を徐々に染みたっていくかのように、懐かしさが体中をめぐっていく感覚がした。
母に出掛けてくると伝え、少し頭を冷やそうと家の外へ出ると、門の前にシルバーのセダンが止まっているのが見えた。
ドアが開き、中から男が降りてきた。男はこちらに向かって手を上げた。伸治だった。
「おー、壮太久しぶり。」
伸治はそう言い目を細めて笑った。
「久しぶり。早かったな。」
僕はそう言い伸治の元へ歩み寄り、その姿を眺めた。
パーマをかけていた長い髪は跡形もなく切られ、茶色い坊主に変わっていた。耳にはピアスが小さく光っている。
スマートな服装を好んでいたはずが、太めのジーンズをはき、緑のダウンジャケットを着ていた。指にはシルバーのリングがいくつかはめられている。
「伸治なんか変わったな。」
僕がそう言うと
「いつの時の俺と比べて言ってるんだよ。」
伸治はそう言って笑った。
2階にあがり部屋へ行くと荷物を開けて着替えを取り出す。
細身のデニムパンツをはき、シャツの上からカーディガンを着て、その上からライダースのロングジャケットを羽織る。首にマフラーを巻いたけれど、やはりもっと厚手の服を選んでくるべきだったと後悔した。
ポケットから携帯電話を取り出しアドレス帳を開く。
郁美の番号はまだ残っている。携帯電話を買い替えるたびに、消そうとして結局は消さずに残してしまう。
僕は郁美に電話をかけた。しばらく呼び出し音が鳴り、留守番電話に切り替わった。
僕はそのまま何も言わずに電話を切った。いつもより胸の鼓動が早くなっているのを感じた。
「出て行けないこともないけど、どこへ?」
また寒い外へ出て行くのは少し気が引けた。
「いや… 今みんな集まって飲んでいるんだよ。郁美の…独身最後っつうことでさ。」
郁美。僕は郁美の顔を頭の中に思い浮かべようとした。けれど顔をはっきりと思い浮かべる事はできなかった。
かわりに鮮明に思い浮かんだのは、桜の木と草の香だった。
桜の花は薄いピンク色で、黒い枝の上にとてもよく映えていた。
「でも郁美は来てないんだ。昨日は来れたら来るみたいな事を言ってたんだけど、まだ来てない。」
「連絡したのか?」
「携帯にかけたんだけど、でないんだよね。」
「そうか…じゃあ少し顔を出すよ。どこへ行けばいい?」
「俺は酒飲んでないから車で迎えに行くよ。」
「わかった。準備して待ってる。」
僕はそういい電話を切った。
「よう、伸治。久しぶりじゃん。どうした?」
「おう、久しぶり。元気だったか?たしか壮太も郁美の結婚式出席するんだよな?」
かすかに元気のない声に感じた。作り笑いの顔みたいな声色だ。
「ああ、出席するよ。今日帰ってきたところ」
「ほんとか?当日に来るのかと思ってた。今どこにいる?」
「実家だよ。本当は当日に来る予定だったんだけど、他に急な用事ができて今日来たんだよ。伸治も結婚式でるんだろ?」
「俺も出るよ。そうかもう来てんのか。じゃあさ、今からちょっと出てこれない?」
僕は壁の時計を見た。午後11時をまわっていた。
料理を食べ終わり、僕はリビングのソファーに移動した。
「父さんと裕也はどうしたの?」
そう言いながらタバコに火をつける。
「裕也はウイスキー少し飲んだら急に気分悪くなったみたいで、部屋に戻ったわよ。お父さんも明日仕事だからもう寝るって。あなたはこっちにはいつまで居られるの?」
母は後片付けをしながら喋った。
「一応4日間休みをとったんだけど。明後日までは確実にいるけどね。」
「そうなんだ。お父さんがあなたにね…」
母がそう言いかけた時、テーブルの上の携帯電話が鳴った。
手にとり画面を見ると、番号の上に「伸治」と表示されていた。
僕は通話ボタンを押し、電話にでた。
ダイニングテーブルの上には料理が並んでいる。サラダと焼き魚と炒め物、煮物…
僕は椅子に座りそれらを眺めた。
まともな手作り料理を食べるのは久しぶりだ。
「今日はありあわせの物しかないわよ。明日買い物行くけれど、何か食べたいものある?」
母が向かい側の椅子に座って喋る。
僕はビールを飲みながら料理をつまんだ。
「明日は家で食べないかもしれない。何時に帰ってくるかもわからないしね。」
「そっか、そうだよね。もし家で食べるなら早めに連絡してよね。あなたいつも急なんだから。」
「食べられればなんでもいいよ。」
僕はそう言いながらも、何か食べたいものはないかと考えた。
母は自分のグラスを用意してビールを少しづつ飲みながら、僕に、一人暮らしはどうかだとか、仕事は順調なのかとか、立て続けに聞いてきた。
僕はそれに簡単に答えながら、料理を食べる。
クローゼットの中には服が数着かかっている。冬のコートだったり、秋のジャケットだったり。下にはジーンズが、たたんで重ねられている。
奥には段ボール箱がつまれている。引越しの時、一通り整理して、しまっておいた物達。
日常生活ではこれといって使い道のない物だ。
ここで過ごした18年間で形として残った、鑑賞することでしか価値をみいだせない物。
僕は少し迷った後、クローゼットを閉め、部屋を出た。
2階へあがり僕の使っていた部屋へ向かった。
ドアを開け明かりをつけた。掃除はされているようで、フローリングの床にホコリは落ちていない。
部屋の中には、ベットとテーブルとソファーが置かれている。他には何もない。殺風景な景色だった。
それらの家具はすべて、僕が気に入っていたものばかりだった。どれもずいぶん時間をかけて選んだ。
だからこそ、引越の時ここへ置いていった。
窓にはカーテンがかかっている。それも気に入っていた。
ベットはすぐに寝れるように準備されていた。そこだけ生活感が漂っている。
僕は旅館へ来たような気分になった。なにもかもが準備されていた。
先に送っておいた荷物がテーブルの上に置かれている。着替えの入ったバックとスーツが2着。その横に持ってきた荷物を置き、ソファーにゆっくりと座わった。体が沈み込み心地良い。
クローゼットが視界に入り、僕は立ち上がり扉を開けた。
浴室で髪と体を丹念に洗った後、湯舟にゆっくりとつかった。冷えきった体には初めお湯は熱く感じたけれど、温まるにつれ心地良くなっていった。
風呂からあがり、リビングへ行くと父と母がソファーに座って、ニュース番組を見ていた。裕介はいなかった。
母が立ち上がり「何か飲む?」と聞いた。
「勝手にやらせてもらうから座ってていいよ」
と僕は言った。
「ビールは冷蔵庫にあるから好きなの飲みなさい。」と言い、母は座り直した。父はテレビを見ている。
「ちょっと上に行ってくるよ。」
と僕は言い、上着やら荷物を手にリビングから出て階段を上がった。
裕也はいつの間にかソファーに座り、ビールをグラスについでいた。テーブルの上にはビールの空き瓶が2本並んでいる。父の前にもグラスがあった。二人で飲んでいたようだった。
「お前、いつから酒飲めるようになったんだ?」
僕は裕也に向かって言った。
裕也はグラスに口をつけ「俺だってもう大学生だし、酒ぐらい飲むさ。」
と言った。
「早く一緒に飲もうよ。今日は壮太が来るから、わざわざ早く帰って来てやったんだ。」
口調ははっきりしているし、顔色も普通だ。そこそこ飲めるようだった。
「ちょっと飲み過ぎなんじゃないのぉ?」
うしろで母が言う。
「壮太が帰ってくんの遅いからいけないんだよ。いいから早く座れよ。」
裕也はそう言い飲み続ける。
「俺は先に風呂に入りたいんだよ。」
その姿を見ながら僕は言う。
「お風呂も準備できてるわよぉ」と後で母が言った。父は座ったまま動かず新聞を熱心に読んでいる。
僕は突っ立ったまま居心地の悪さを感じた。
「今、ご飯の準備が出来たところなの。あなた全然連絡して来ないから、何時に帰ってくるのかわからないんだもの。外寒かったでしょ?」
母はキッチンで作業しながら喋った。そのうしろ姿は昔のままなのに、体が一回り小さくなったように見えた。
「雪がすごくてびっくりしたよ。」
僕はそう言い荷物を床に置き、マフラーと上着を脱いでその上に乗せた。手が冷えて固まっていた。部屋の暖房が冷えた顔を心地く包んだ。
「一昨日大雪だったのよ。向こうの方は降らなかったの?」
「寒かったけれど、雪は降らなかったなぁ。山は真っ白だし、街は真っ暗だし。びっくりしたよ。」
「何言ってるのよ。昔からそうでしょ。少し都会で生活してるからってなまいきよ。」
「送って置いた荷物はちゃんと届いてる?」
「届いたわよ。あなたの部屋に置いてあるから。」
あなたの部屋。
どうやら僕の部屋はまだあるらしい。
リビングのドアの前まで来ると、一瞬、このまま引き返そうかと考えた。
別に嫌な事があるわけでは無い。
良い事も無い。
何も無いのだ。
泊まる場所は他にもある。
けれど冷えた体を温めるのは、とても重要な事なのだ。得に足の指を温めない事には、何も始まらない。
僕はリビングのドアを開け、中へ入った。
「おかえり。遅かったじゃない。」
ダイニングテーブルの前で、母がエプロン姿で料理を並べながらそう言った。
右手のリビングを見ると父が新聞を手にソファーに座っていて、こちらへ目を向けると「おかえり」と言った。
僕は「ただいま」ともう一度言った。
寒さで足の指先の感覚が無くなってきた頃、実家の前に着いた。
インターホンを鳴らし「ただいまぁ」と3回言うと
「壮太じゃん。おかえりぃ」
と返事が返ってきた。しばらくすると玄関の鍵があいてドアが開き、中から裕也が顔をだした。
僕の顔を見ると、裕也は一瞬目を見開いた。
「なんだよ、邪魔だな」
僕は突っ立たままの弟を押しのけ、中へと入った。
「髪型変わってんね。色も黒くなってるし。」
「そりゃ髪型だって色だって変わるさ。お前は相変わらずだな。」
僕はそう言い、靴を脱いで廊下を進む。
「俺は気に入ってるから変えないんだよ。」
弟の声が後ろから追ってくる。きっと髪の毛をいじりながら喋っている。その癖が変わっていない事も、おそらく確かだ。
気に入っているから変えない。
そんな風に全ての物事がはこんだら、きっと楽しいだろう。いや、そんなことはないかもしれない。
そんな思いが、頭の中を宙ぶらりんに浮かんだ。
ホームに電車が到着した。
僕はそれに乗り、3つ目の駅に着いたところで降りた。
無人の改札口を通り外へ出ると、携帯電話が鳴った。実家からだった。通話ボタンを押し耳にあてる。
「今どの辺にいるんだ?」
かけてきたのは父だった。
その声を聞き、体の芯が急激に冷えていくのを感じた。
「今、歩いてそっちへ向かっている。後少しで着く」
僕はタバコに火をつけ、住宅街をゆっくりと歩きながら話す。雪掻きはされておらず歩きにくい。もう少し時間がかかるかもしれないと思った。
「ご飯は食べたのか?」
「まだだけど。」
「母さんがお前のぶんも用意していた。みんなは先に食べたぞ」
父のうしろで母が何か言っているようだった。
「それなら家で食べる。」
「わかった、母さんに言っておく。」
「ああ。」
電話を切り、僕は内心思う。
とある仲のよい親子の会話を、もし機械が必要な言葉以外、全て削除したとしたら、今の僕と父の会話のようになるのだろう。
駅の構内に入り時刻表を見ると、ほっと一安心した。都合よくあと10分後に電車が来る。
この時間帯の電車は一時間に一本しか通らない。
僕は切符を買いホームへ行くと、空いているベンチへ腰掛けた。
同じホームには高校生の数人の男女が固まって電車を待っていた。それぞれ寒そうに体を震わせている。けれど表情は笑顔で、楽しそうに喋っている。中でも女の子はとびきりの笑顔だ。笑い声がホームによく響く。
ぼんやりその光景を眺めるうちに、高校生達がだんだん4年前の僕達と重なっていった。
それは康介であったり、美奈であったり、和正であったり、僕であった。
高校生の一人がこちらを向きそうになり、僕は視線をそらした。
「今さら遅いのよ」
誰かが耳元でつぶやいた。僕は首に巻いたマフラーに耳がすっぽり入るまで顔をうずめこんだ。
出掛けにMDウォークマンを置き忘れたことをあらためて後悔した。
予定よりも30分程遅れ、バスは終着地の駅前の停留所へ到着した。僕は荷物を手に他の乗客に続いてバスから降りた。
外は体が凍るほど寒かった。着てきたダウンジャケットだけでは寒さを凌げそうになかった。
雪は2、3日ほど前に降ったものらしく、路上の雪は踏み固められ凍っている。歩道脇には雪かきの後の雪の塊がつまれている。
僕はタバコを取り出し火をつけた。煙をゆっくり吸い込み吐き出す。煙と自分の白い息とが混ざり合って、辺りを漂いすぐに消えていく。顔は冷蔵庫の中に突っ込んだように寒かった。
僕は身をかがめながら駅へ向かった。凍った道はひどく歩きにくいけれど、自然と足をとられないような歩き方をしている。
昔の習慣は忘れないものだ。
終着地の駅前へ近づくにつれ景色は徐々に街らしくなっていった。それとは逆に僕は気分が沈んでいくのを感じる。
背丈の低いビル。コンビニの明かり。商店街のような通りは大半の店のシャッターは降りていた。それらの隙間を夜の暗闇が下へ向かって延びている。暗闇が明かりを押さえ付けているようにも見える。人影はまばらだった。みな寒さに凍えるよう身をかがめあるいている。赤信号は血のように鮮やかだ。
外を流れていくその景色は、視覚だけでじゅうぶん静けさを感じ取れる。
それは3年ぶりにみる、見馴れた景色だった。
見馴れたとは少し違うのかもしれない。
ずいぶん前に友人に貸したCDを、その友人の家へ行った時に見つけた時のような気分だ。
僕は自然と上着のポケットに手をいれタバコの箱をにぎりしめていた。
暖房のきいた車内は体をほどよく温める。窓から見る雪景色は、部屋でくつろぎながら映画を見ているのと同じ感覚だ。
しばらく眠気でうとうととしていると、車内アナウンスの声で起こされた。
「まもなく終着地へ到着します。どなた様もお手荷物お忘れのないようお降りください」
外へ視線を送るといつの間にか視界が開け遠くまで見渡すことが出来る。雪山は道路から遠くへ後退し、その間に暗闇が広がっている。暗闇の中に街の光が所々に灯っている。そのほとんどか民家のものだ。夜空の星が地表に反射しているかのような光景だ。時折車のライトの小さな明かりが移動して行く。
バスは緩やかなループの道をゆっくりと進み高速道路を降りた。
バスはそのままバイパス道路へ入りしばらく走り、街中へと進んで行く。
まだ夜の9時前後なのに車の通りは少なくスムーズに進んでいく。
時折道沿いに大きなショッピングモールや飲食店が見えたが、それ以外は民家や田畑の繰り返しだった。
高速道路は山の谷間を縫うように延び、バスは緩やかなカーブを繰り返す。道路のすぐ外側は急な山の斜面で、そこを雪が覆っており月明かりで青白く浮かび上がっている。
おそらく空は快晴で星がよく見えるのだろうけれど、窓から見えるのは雪の斜面だけだった。窓枠一杯に青白い雪が起伏を繰り返し流れてゆく。
窓の下に顔を近づけ上を覗き込んで見ても何も変わらない。
漫画本を下から覗き込むようなものだった。
視界が開けるような予感はまったくしない。
僕はしばらく窓の外を眺めた後、携帯電話を取り出し時間を確認した。夜の8時を少し回ったところだ。到着予定時刻よりも遅くなりそうだった。
ついでに、おそらく到着が遅れるだろうという内容の手短なメール文を作り父親あてへ送信した。
「やっぱりね」
耳元で誰かがつぶやいた。
指の間接をパキパキと続けざまに鳴らすようなコミカルな声だった。
僕は車内を見渡した。乗客は僕の他に3人だけだった。それぞれがチケットの指定席とは関係なく好きに散らばって座っている。僕はバスに乗り乗客が少ないことを確認した後、最後部の席へ座った。僕はそういう種類の人間だ。
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運命0レス 65HIT 旅人さん
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九つの哀しみの星の歌1レス 69HIT 小説好きさん
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夢遊病者の歌1レス 85HIT 小説好きさん
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カランコエに依り頼む歌2レス 89HIT 小説好きさん
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神社仏閣珍道中・改
(続き) この日の鑁阿寺さんの行事は、正式には『観音経一千巻読誦…(旅人さん0)
271レス 9393HIT 旅人さん -
私の煌めきに魅せられて
私の初恋の続き、始まったかもしれません。。。 「それにしても玲ち…(瑠璃姫)
55レス 588HIT 瑠璃姫 -
北進ゼミナール フィクション物語
勘違いじゃねぇだろ飲酒運転してたのは本当なんだから日本語を正しく使わず…(作家さん0)
15レス 186HIT 作家さん -
仮名 轟新吾へ(これは小説です)
想定外だった…て? あなた達が言ってること、 全部がそうですけ…(匿名さん72)
196レス 2918HIT 恋愛博士さん (50代 ♀) -
タイムマシン鏡の世界
そこで、私はタイムマシン作ること鏡の世界から出来ないか、ある研究所訪ね…(なかお)
4レス 101HIT なかお (60代 ♂)
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🌊鯨の唄🌊②4レス 131HIT 小説好きさん
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人間合格👤🙆,,,?11レス 136HIT 永遠の3歳
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酉肉威張ってマスク禁止令1レス 147HIT 小説家さん
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今を生きる意味78レス 515HIT 旅人さん
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黄金勇者ゴルドラン外伝 永遠に冒険を求めて25レス 968HIT 匿名さん
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🌊鯨の唄🌊②
母鯨とともに… 北から南に旅をつづけながら… …(小説好きさん0)
4レス 131HIT 小説好きさん -
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人間合格👤🙆,,,?
皆キョトンとしていたが、自我を取り戻すと、わあっと歓声が上がった。 …(永遠の3歳)
11レス 136HIT 永遠の3歳 -
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酉肉威張ってマスク禁止令
了解致しました!(小説好きさん1)
1レス 147HIT 小説家さん -
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おっさんエッセイ劇場です✨🙋🎶❤。
ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1398HIT 檄❗王道劇場です -
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今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 515HIT 旅人さん
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どっちの妻がいい?
A子 いつもニコニコ 優しくて謙虚 旦那を立てる 愚痴や悪口を言わない 料理上手で家庭的 …
12レス 547HIT 教えてほしいさん -
海外の人に原爆について教える。
こんにちは 自分は今海外の学校に通っていて一人の日本人として原爆について他の生徒の前で少しだけ発表…
100レス 1704HIT 悩みが多い高校生 (10代 男性 ) -
離婚し30年会ってない父親に会う場合
離婚しもう30年も会ってない父親に会う場合、 どうやって会います? 私は35父親は67 父と母…
7レス 247HIT おしゃべり好きさん -
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女性の友達ってどうやって作れば良いですか? 僕は筑波大学附属駒場高校から慶應義塾大学に進学し…
7レス 228HIT 相談したいさん ( 男性 ) -
独身、恋愛経験なし。これから何を目標に生きたらいいか?
44歳でこれまで、一度も恋愛してこなかった女です。片思いは15年以上してきました。それから人を好きに…
10レス 217HIT ちょっと教えて!さん (40代 女性 ) -
予想でいいのですが...
幸せになりそう?予想でいいので回答お願いします。 友達で浮気をめっちゃ嫌う子がいてて、独身の時…
11レス 269HIT おしゃべり好きさん - もっと見る