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22430( ♂ AtBM )
10/03/31 09:30(更新日時)

「結局そんなもんだよ」

僕の耳元で誰かがつぶやく。
ピアノ線の切れた鍵盤を、指で軽く叩いたような声だった。真っ黒に輝くグランドピアノが目に浮かんだ。けれどピアノ線は切れているのだ。


高速バスに乗り3時間が過ぎていた。たった3時間バスで移動しただけて、窓から見える景色は秋から真冬へと変化していた。

No.1158956 08/12/23 14:25(スレ作成日時)

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No.51 09/04/02 05:25
22430 ( ♂ AtBM )

「許せません。」

涙をぬぐう事なく麗奈さんはもう一度言った。
そこに先ほどまでの仮面のような冷たい表情はなかった。感情のかよった女性の表情だった。

彼女はいま悲しんでいる。いや、僕を憎んでいるのか。
彼女は僕に対してこんな表情しかできないのだろうか? 親父の再婚相手?それが僕と何の関係がある。僕と親父の何がわかるというのか。

この女は一体何なんだ…

瞬間、僕の中で張り詰めていたものが、切れた。
僕はポケットから手を出して、握り潰した煙草の箱をテーブルの上に投げ捨てた。箱は音を立てて転がり、蓋が空いて中から折れかかった煙草が飛び出した。

僕は麗奈さんの頬に出来た涙の線を、目で追いながら喋った。

「わかっています。麗奈さんは僕を許せない。あなたは僕があの日、何をしていたのかが聞きたいんじゃない。つまり、こう言いたいんです。僕があの日、約束通りあの人と会ってさえいれば、あの人は死なずにすんだ。まわりくどい質問などせずに、最初からはっきりとそう言えばいい。」

No.52 09/04/17 02:54
22430 ( ♂ AtBM )

麗奈さんは唇を噛み締め、涙の溜まった目で僕を睨んだ。

死なずにすんだ…

あの日から今まで、その言葉がどれほど僕の頭の中を駆け巡った事か。それは耳元で誰かに囁かれた様に、不意に頭の中をかすめていくのだ。夜、寝る前だったり、仕事の休憩で煙草を吸っている時だったり、なにげなく夕焼けを見ている時だったり、そういうほんの少しの時間の隙間に。そのたびに僕は何か他の事に意識をそらすために必死になった。今までそういう風に生活してきたはずなのに、まさか自分から言葉にして出す事になるなんて考えてもみなかった。

こんな事を言うつもりなど、全くなかったはずだ。自分が理解できない。胸はひどく苛立ち、頭の中は混乱し始めている。

麗奈さんは僕を睨み続けている。人からこんな顔を向けられたのは初めてだ。

苛立ちはつのる。煙草が吸いたい。

「麗奈さん、あなたは僕があの人…柏木義治さんを殺したようなものだと、そう言いたい。そうでしょう?」

僕は更に続けてそう言った。

No.54 09/04/19 22:55
22430 ( ♂ AtBM )

「私が許せないのはあなたのそういう態度です。」

麗奈さんはそう言い、指先で涙を軽くぬぐった。その仕種がやけに女性らしく、僕を更に苛立たせる。

「僕の態度?言っている意味が解りません。そうやって話をはぐらかさずに、言いたい事は、はっきりと言ったらどうですか?麗奈さんは僕の態度じゃなくて、僕の存在自体が許せないんでしょう?」

「どうしてそうなるの?壮太さんは何を一人でむきになっているんですか?あなたの方こそ私の存在が許せないんじゃないですか?私はただあの日の事を聞いているだけなのに、あなたは何一つ答えてはくれません。それが許せないと言っているんです。あの日の事を覚えていないはずありませんよね?義治さんはあなたの…父親なんですから。」

「父親?麗奈さんにそんな事を言われたくありません。僕はあの人を父親とは思っていませんから。あの人はあなたの家族でしょう?」

僕はそう言い、視線を落として溜め息をついた。

瞬間、僕の頬に衝撃がはしった。僕の視線は、一瞬宙をさまよった。頬が急激にひりひりと痛み、熱を持ちはじめる。

殴られたのだと気が付くのに、少し時間がかかった。それほど唐突な痛みだった。

No.55 09/04/19 22:57
22430 ( ♂ AtBM )

僕は視線を彼女の方へ戻した。麗奈さんはソファーから立ち上がっていて、酷く悲しそうな顔付きで僕を見下ろしていた。僕を殴ったであろう彼女の細く白い手が、行き場を失った様に漂っていた。甘ったるい香りが鼻をかすめてゆく。

僕達は黙ったまま、しばらく見つめ合った。

「まともな会話は出来そうにありませんね。」

僕は彼女の顔を見上げたまま言った。頬に痛みが広がっていくかわりに、体中の熱がさめていく感覚がした。

「麗奈さんは僕を許せないんでしょう?でも、さっき麗奈さんに言われて気が付きましたよ。僕もあなたを許せないんです。話になりませんよ。」

僕はそう言い、ソファーから立ち上がった。

「どうして?私はただ知りたいだけなのに…あなたはどうして…」

麗奈さんの目に涙が一気に滲んでいった。

嘘だ。彼女は結局、僕に何一つ、はっきりとは言ってくれないのだ。

「4年前、病院で麗奈さんに言われた事、僕は覚えてますよ。しっかりと、今でも。あなたはあの時、僕にこう言いました。葬儀には参列しないでくれ、と。それなのに今更僕に何を聞きたいというのですか?」

No.56 09/04/22 02:43
22430 ( ♂ AtBM )

僕の言葉はもう彼女の耳に届いていそうもなかった。麗奈さんは右手で前髪をかきあげ、そのままソファーに座り込んだ。

彼女は声を押し殺して泣いていた。

卑怯だと思った。僕の言葉にならない想いは、やり場なく胸の中に留まった。まるで川を流れる水を急にせきとめた時のように、僕の感情は今にもあふれかえりそうになった。
けれど同時に、うなだれる麗奈さんの姿を見ながら罪悪感も感じていた。そんな自分を馬鹿らしく思う。僕の頬は彼女に殴られ、ひりひりと痛んでいるのだ。
麗奈さんが鼻をすする音が、静かな部屋の中に小さく響く。その音はまるで無防備で、僕は言うべき言葉が見つからない。

その時、携帯電話の着信音が部屋の中に鳴り響いた。聞き慣れた洋楽の着信音で、場違いに部屋の中に鳴り続ける。
僕はポケットに手を入れて携帯電話を握りしめたまま、しばらくその曲に耳を傾けた。誰かと話せる気分じゃない。着信音は数秒間流れた後で切れた。

再び着信音が流れ始める。聞き慣れた曲が耳障りに聞こえるのはなぜだろう?
僕は携帯電話を取り出し、電話を切ろうと画面を開いた。けれど着信画面見て指の動きが止まった。

それは郁美からの電話だった。

No.57 09/04/26 03:47
22430 ( ♂ AtBM )

僕は通話ボタンを押した。着信音が鳴りやむ。携帯画面が通話中に切り替わり、時間が1秒、2秒…とカウントされていく。咄嗟に電話に出たはいいけれど、戸惑った。

電話、切るべきだったか?

そんな思いが頭をよぎった。けれど僕は…止まらない。

麗奈さんに視線をはしらせながら携帯電話を耳にあてる。麗奈さんはうなだれたまま動かない。

「もしもし…」

女性の声が耳に届く。

僕は「もしもし」と返事を返す。

「壮太君?」

女性は尋ねた。少しくぐもったような、それでも、甘い声。

「…郁美だよね?久しぶりだね。」

「うん、久しぶり。」

女性は言った。郁美の声だ。郁美の声だと思った。

僕は言葉が出ない。

「昨日ごめんね。電話…出られなかった。」

そう言われて僕は思い出した。昨夜、伸治達と会う前に郁美に電話をかけていた事を。

No.58 09/05/01 03:56
22430 ( ♂ AtBM )

「いや、俺の方こそ突然ごめん。元気してた?」

「うん、壮太君は?元気だった?」

郁美の何気ないその声は、爽やかな風が吹き抜けていくように僕の心をなびかせる。

「俺は…それなりに元気だよ。」

「そっか…良かった。」

「うん…」

僕は意味なく呟いた。昨夜、郁美に電話をかけたのは、本当に衝撃的なものだった。何を話していいのか分からない。けれど、何かを話したい。

隙間風の様な電話のノイズだけが耳に届く。僕は突っ立ったまま、その音に耳を傾けた。

会話が続かない。沈黙…

僕と郁美の過ぎ去った時間の長さを感じた。ノイズの奥に、郁美が何かを言いあぐねているような、そんな息づかいをかすかに感じる。それは気のせいなのかもしれない。けれど、郁美は今、確実に電話の向こう側にいるのだ。

僕は麗奈さんを横目で見た。麗奈さんはソファーに座ったまま泣いている。

僕に一体どうしろというのか。

「今から会えないかな?」

僕は郁美にそう聞いた。

No.59 09/05/03 04:22
22430 ( ♂ AtBM )

「えっ、今から?壮太君、今どこにいるの?」

「昨日の夜、実家に帰って来たんだ。それで今、駅の近くにいるんだけど…会えないかな?」

「あ、もうこっちに帰って来てたんだ。明日の結婚式の為に来てくれたんだよね。昨日の夜に不在着信があったから、急に来られなくなったのかなって思った。」

僕は郁美の口から出た「結婚」という言葉をなんとか胸の中に取り込んだ。

「明日、出席させてもらうよ。」

「うん、招待状の返信、出席になってて嬉しかった。来てくれてありがとね。」

「……郁美は今どこにいる?」

「今?今ね…ちょっと用事があってね…」

戸惑ったような声。

「会う時間作れないかな?」

「うん、今は…ちょっと…」

「何時でも構わないんだ。会えないかな?」

「…」

再び沈黙。無理もない。自分でもわかっている。無理は承知で言っているのだ。

「2時間後によく待ち合わせしてた、あの場所で待ってる。」

僕は返事を待った。郁美の戸惑っている息づかいを感じる。

会っておきたい。そう思った。

「待ってるから。」

僕は返事を待たずに電話を切った。

No.60 09/05/08 01:11
22430 ( ♂ AtBM )

携帯電話をポケットへしまった後も、郁美の余韻が僕をつつんでいた。電話を切ってもなお、僕の耳は静寂の中に郁美の声を探していた。郁美が僕の指定した場所へ来るかは、正直わからない。会いたいという気持ちはある。けれど、来るか来ないかは、あまり問題ではないように思えた。

今、僕の目の前にはソファーに座り泣いている女性がいる。それはとても堪え難い事だ。

「急に用事ができました。」

僕はソファーでうなだれる麗奈さんへ声を投げかけた。彼女は顔をあげようとしない。

「もう麗奈さんと話せるような事もありません。僕はこれで失礼します。」

僕はそう言い残し、リビングを出ようとした。こうするしかないのだと思った。結局、色んなものをぶちまけ、散らかして、後片付けなんて出来もしないのだ。

「ちょっと、待って下さい。」

鼻をすすりながらの切れ切れな言葉が背後から届く。子供が泣きながら駄々をこねているような、無防備な声。

「こんな、中途半端な形で帰られたら、一体なんの為に今日あなたを呼んだのかわからないじゃないですか。」

僕は振り向くと、麗奈さんは顔を上げていた。

何の為にここへ来たのか、僕の方が聞きたかった。

No.61 09/05/09 01:32
22430 ( ♂ AtBM )

麗奈さんの顔は、泣いたせいで化粧が落ちてしまっていた。手で涙を拭ったためか、マスカラが目のふちを黒く滲ませ、頬には涙で化粧が落ちた線が出来ていた。それは決して美しい表情ではなかった。けれど僕は、一瞬彼女のその化粧崩れした顔に魅入ってしまった。
彼女は本来ならもっとスマートに泣く女性に見えた。ハンカチを使い、涙をそっと拭うようなそんな女性に。結局、僕が彼女をこんな風にしてしまったのだ。僕のせいで麗奈さんは柏木義治という人間を失い、取り乱しているのだ。

僕の目頭に熱いものが込み上げた。

もう、うんざりだ。

「とても大切な用事が出来たんです。時間に遅れるわけにはいかないんです。」

僕は言った。

「私はあなたに渡したいものがあると、そう言ったはずです。」

麗奈さんはソファーから立ち上がった。

忘れていた。僕はその何かを受け取るために、この家へ連れてこられたのだ。けれどもう、そんな事はどうでもよかった。

「僕はあなたから受け取るような物は何一つありませから。」

僕は麗奈さんを無視して、リビングの扉を開け部屋から出た。

もう二度とこの家に来る事もない。僕はそんな思いを胸に、柏木義治の家を後にした。

No.62 09/05/13 23:34
22430 ( ♂ AtBM )

腕時計を見ると、針は1時30分を少し回ったところだった。僕は駅に向って歩き始めた。歩きながらネクタイを首から外して内ポケットへしまった。黒いネクタイだけでも外しておきたかった。

コートのポケットへ手を入れて煙草を取り出そうとした。けれどそこに煙草はなかった。他のポケットを手で探っているうちに、僕はようやく思い出した。麗奈さんの目の前でテーブルの上へ投げ捨てて、そのまま置いてきてしまったのだ。

麗奈さんはあの煙草の箱を、今頃ごみ箱に捨てているのだろと思った。

僕が握り潰した煙草の箱を、彼女はテーブルの上から拾いあげるのだ。

その姿が目に浮かび、再び目頭が熱くなった。

あれから4年たった今でも僕達の間には生々しい感情しか残っていなかった。まるで傷口に出来たかさぶたを爪で無理矢理はがした時のように、そこには相変わらず赤々とした傷口が広がっているのだ。

僕は期待していたのか?あるいは、かさぶたの下に新しい皮膚が出来上がっている事を。

いや期待とは違う。それは期待なんかではない…


そこまで考えた所で僕は思考を断ち切った。

No.63 09/05/14 00:29
22430 ( ♂ AtBM )

しばらく歩いた所で自動販売機を見つけ、僕は煙草を買った。火をつけ、努めて何も考えないよう煙を吸い込んで吐き出す。

駅に着くと空車のタクシーを見つけ乗り込んだ。白髪頭の男性の運転手へおおまかな行き先を告げると、彼は「はいはい、わかりました。」とひょうきんに返事をして車を走らせた。

「車内禁煙ですか?」

窓に禁煙のステッカーが貼ってあるのを知りつつ、僕は一応運転手に尋ねた。

「そうなんですよ。全面禁煙になってしまってねぇ。いやね、私も前までお客さんを待っている間なんかは中で吸ってたんですよ。けど、車内禁煙になったもんだから困っちゃってね。これもいい機会だと思って私は煙草をきっぱりやめちゃいましたよ。」

運転手は楽しげに喋り、かわいた笑い声をあげた。僕は「そうなんですか。」とあいづちをうった。

「やっぱり私もいい歳だから体の心配もしとかなきゃならないからねぇ。いや、お客さんはまだ若い方だから、吸いたいだけ吸っていいと思うんですよ。でも今は我慢していただけますかね。」

運転手はまたひょうきんに笑った。地元の人間らしい人の良さそうな雰囲気に、僕は「大丈夫ですよ、我慢できます。」と軽く微笑んだ。

No.64 09/05/14 00:39
22430 ( ♂ AtBM )

運転手は喋り続けた。雪がどうとか、道が走りにくいとか、そんな他愛もない話ばかりだった。僕は適当にあいづちをうちながら彼の話しを促した。決してうっとうしいとは思わなかった。むしろ彼の楽しげな喋りが有り難かった。
僕は運転手の白髪の混じった頭を後ろから眺めながら、物思いにふけった。

4年前、もしこの街を離れる事なくここで暮らし続けていたら、僕は今頃どんな人間になっていたのだろう。

……僕と郁美はどうなっていたのだろう。

けれどそれはあまりにも無意味な想像だった。少なくとも4年前の僕にはこの街を離れる事しか頭になかったのだし、それが最善の選択だったはずだ。

今となっては、それが最善の選択だったと思う事しかできないのだ。

「お客さん、この辺りですよね?」

運転手がこちらへ少し首を傾げて尋ねた。

「ええ、もう少し道なりに進んでもらえますか?」

僕が答えると運転手は「はいはい」と言いハンドルを握りなおした。

No.65 09/05/15 01:21
22430 ( ♂ AtBM )

僕は窓の外を眺めた。街中から少し離れた、小高い丘の辺りまで来ていた。民家は数える程しかなく、時折林道の中へ入ってゆく。林道の中は日中も日当たりが悪く雪が溶けずに残っていた。運転手は口数が減りスピードと落として慎重に走りぬけてゆく。林道をぬけると畑や民家が姿をあらわし、また林道へ。繰り返しながら少しずつ丘の上へ進んでいった。

丘の上まで来ると、僕は運転手に車を停めてもらい、料金を払った。運転手は少し怪訝そうな顔をしたけれど、愛想よく「ありがとうございました。」と言い、僕は少し微笑んでタクシーから降りた。

腕時計を見ると2時を少し回っていた。郁美と電話で話してから1時間程が過っていた。

僕は細い脇道に入り、緩やかな上り坂を歩いた。しばらく歩くと林道へ入り、辺りの空気がいっそう冷たさを増した。道が真っ直ぐに伸び、その両脇には杉の木が立ち並び視界を遮った。杉の木には雪が積もり、緑の葉がその隙間からわずかに顔をのぞかせている。当然、僕意外に人影はなく、ひっそりとした静けさが満ちていた。木漏れ日が微かに差し込み、杉や道路に積もる雪をあちこちで白く浮かび上がらせている。

No.66 09/05/15 18:57
22430 ( ♂ AtBM )

普段僕が過ごしている世界とはまるで別物だった。ここには無機質なビルもないし、派手な看板もないし、車の騒音もない。人混みの中を縫うように歩く必要もない。

僕一人が絵本の中の世界にほうり込まれたような気分だった。けれどその一方で、ここには現実的な世界を感じさせるものがあった。ここには自然の緑があり、雪があり、自然の香りが満ちている。

不思議な気分だった。ここは初めて来る場所ではない。4年前まで当たり前に歩いていた道だ。

《この4年の間で、僕の中で一体何がどう変わったのだろうか。そしてそれは僕自身、変わってほしくなかった事なのだろうか…》

そんな想いが頭の中に浮かんだ。たしか、昨夜も同じ事を考えたはずだ。

僕は立ち止まって深呼吸をしたり、景色を眺めたりした。静けさが胸の中にまで染み渡っていく。そうしているうちに先程までの苛立ちはどこかへ流れ、僕は落ち着きを取り戻していた。けれど哀しみに似た感情は、湖に揺らめく水のように胸の中で静かに溜まっていた。

林道をぬけると、僕はさらに細い横道へとそれた。

No.67 09/05/17 02:10
22430 ( ♂ AtBM )

少し進んだ場所で僕は立ち止まった。そこには昔と変わらない景色が広がっていた。

こじんまりとした神社と、垣根を挟んで小さな公園。

神社は背の高い杉の木に囲まれていて、入口に小さな鳥居がたたずんでいる。中の方は日陰になっていてよく見えない。公園には遊具などはなく、屋根付きのベンチが2ヶ所に設けられているだけの、取り柄のない公園だ。
最後にこの場所へ来たのはいつだったか思い出せなかった。けれど昔と変わった様子はない。懐かしさが込み上げる。

変わらないものだってあるのだ。それは今の僕にとって喜ばしい事に思えた。

公園に積もる雪に、足跡は1つもなかった。普段からここを訪れる人間はあまりいないのだろう。
僕は足跡を残しながらベンチの元へ行き、座ってから煙草に火をつけた。頭上の屋根から小さな氷柱がいくつも垂れ下がり、日の光を受けて輝きながら水滴を落としていた。太陽は少し傾き始めている。腕時計を見ると2時30分になっていた。
約束の時間まであと30分。というより、僕が勝手に押し付けた時間まで、と言った方が正しい。郁美は約束はしてくれなかった。

No.68 09/05/19 04:51
22430 ( ♂ AtBM )

郁美はきっと来ないだろう。

そう思った。明日、郁美は結婚式をあげるのだ。僕と会う時間はないだろう。
仮にもし郁美がここに来たとしても、僕が彼女に言える言葉は1つしかない。 例えそれをどんなに口にしたくないとしてもだ。

腕時計を見ると、ここに来てまだ5分程しかたっていなかった。時間がたつのが長く感じる。僕はベンチから立ち上がってあたりをうろついた。

郁美とここで待ち合わせをしていた当時の事が頭の中に浮かんだ。僕と郁美は中学を卒業すると、別々の高校へ進学した。この場所その2つの高校の中間の位置にあり、僕達は学校帰りによくここで待ち合わせをした。僕がこの場所に来ると、いつも郁美の方が先に来て待っていた。ベンチに座って景色を眺めている郁美の姿を僕は好きだった。

僕の方が先にここへ来るのは今日が初めてだ。

僕はベンチに座って景色を眺めた。小高い丘の上なので、街を見下ろすかっこうになる。眼下に小さな町並みが広がっている。駅周辺にビルが集まり、その周りに民家が広がっている。

郁美はいつもこの景色を眺めながら僕を待っていたのだ。

この景色を眺めながら、何を想っていたのだろう?

僕はそんな事を考えた。

No.69 09/05/21 01:35
22430 ( ♂ AtBM )

来る確証のない相手を待つという事は、僕の今までの人生の中で滅多になかった。人を待つという行為は、そのほとんどが約束の元に行われていた。約束があるのと無いのとでは、一言に「待つ」と言っても、それはまるで別物だと思った。

確かなよりどころが無い今、僕の心はまるで天秤が左右に振れるように、期待と不安で揺らめいた。僕の心には確かに期待する気持ちがあった。
けれど僕は何を期待しているのだろうか?期待できるような事実は1つも無いのだ。

僕は冷たくなった指先を首に当てて温めた。首に冷たさが広がるかわりに、指先に温もりが伝わった。
辺りは静けさを保っている。目の前の雪景色が音を飲み込んでしまっているかのようだった。頭の中まで澄み渡っていく感覚がした。

僕は一体何を待っているのだろうか?

会いたいという気持ちに嘘はない。僕は今この場所で郁美を待っている。やはりそこには、期待する気持ちがある。
自分の気持ちが、よく分からなかった。
けれど、来るのか来ないのかは別として僕が今この瞬間、郁美を待っている事に間違いないのだ。そして期待をしている。僕はただ、その事に少なからず居心地の良さを感じているのかもしれない。

No.70 09/05/28 01:31
22430 ( ♂ AtBM )

僕はぼんやりと物思いにふけりながら時間を過ごした。気まぐれに色々な物事へ想いをめぐらせ、過去の記憶の中をさまよったりもした。

気が付くと、西の空は微かにオレンジ色に色付きはじめていた。どれほど時間がたったのだろうか。腕時計は見ないようにしていた。そのため時間の見当がつかなかった。1ヶ所に留まっていると、動き回っている時よりもかえって時間の感覚がなくなる。ただ、今が3時をまわっている事は間違いなさそうだった。気温が下がっているのを肌で感じられる。

郁美は時間に正確な女性だった。それを考えると溜め息が出た。
僕はベンチに座ったまま背伸びをして、辺りを見渡した。公園に積もる雪には僕の足跡しか残っていなかった。目の前の雪の斜面や遠くの街並は何1つ変わる事はなく、時間が止まってしまったかのようにも思えた。けれど空は確実にその色を変えている。
僕がどれほどその場に留まっていたくても、時間は確実に流れているのだ。
僕は足元に落ちた煙草の吸い殻の数をかぞえた。そして新しい煙草に火をつけ煙の行方を見つめた。

「結局そんなものよ」

僕の耳元で誰かがつぶやいた。雪を踏みつけた時のようなサクサクとした声だった。

No.71 09/06/03 04:03
22430 ( ♂ AtBM )

僕は耳を澄ませた。積極的にその声を聞き取ろうとした。そんな事をするのは、これが初めてだった。目を閉じて神経を耳に集中させる。けれどもう誰もつぶやく事はなかった。何も聞こえる事はなかった。

「結局」「そんな」「ものよ」

僕は声に出してみた。
そして「結局そんなもの」について考えた。煙草の煙を吐き出しながら想いをめぐらせた。
それは今の僕にとって、全ての事柄にあてはまる言葉だと思った。同時に僕自身を表現する言葉でもあると思った。

確かに「結局そんなもの」なのかもしれない。けれど僕は本当に遅すぎたのだろうか?4年という月日はそんなに圧倒的なものなのか?

もっと《誰か》につぶやいてもらいたかった。語りかけて欲しかった。
僕は再び目を閉じて耳を澄ませた。僕の耳は無音を感じていた。静寂を感じていた。そしてその中に微かな物音を聞き取った。それは雪を踏みつけるようなカサカサとした音だった。その音は徐々に大きくなっていく。僕の後方から近づいて来るように徐々に大きくなっていく。それは間違いなく何かの《音》で、僕は目を開けて後ろを振り向いた。

1台の車が細い道の中、こちらへ向かってゆっくりと進んできていた。

No.72 09/06/04 02:04
22430 ( ♂ AtBM )

それは1台のタクシーだった。タクシーは公園の前まで来ると、ゆっくりと停車した。
僕の胸は自然に高鳴った。

タクシーの中はよく見えない。太陽は沈みかけていて辺りは薄暗く、公園中央の街灯が、か弱い光を燈していた。
僕はベンチから立ち上がった。そして中から誰が降りてくるのかを、期待をこめて見つめた。もしかしたら僕の全く知らない客が、全く別の目的でここへ乗って来ただけかもしれない。けれど、僕は期待をこめて見つめないわけにはいかなかった。こんな場所に、僕が居るこの時に、郁美以外の人が現れるはずがない。そう思いたい。
胸の高鳴りに寄り添うかのような不安も抱えつつ、僕は後部席のドアが開くのを待った。

けれど予想に反して、開いたのは運転席のドアだった。制服を着た運転手が出てきて僕の方を向くと、ぎこちなく頭を下げた。
僕はその意味が飲み込めず立ちすくんだ。運転手が僕に会釈したのは間違いない。中に乗っている客が僕を呼んでいるのだろうか?そしてそれは郁美なのか?
仮にそうだったとしても、それはいささか不自然な事に思えた。
ただ、運転手が僕に用がある事は間違いなさそうで、僕はとりあえずタクシーの元へ歩き始めた。

No.73 09/06/06 05:07
22430 ( ♂ AtBM )

近づくにつれ、僕はその運転手に見覚えがある事に気がついた。
ここへ来る時に乗ってきたタクシーの、白髪頭の運転手だった。

「やっぱりさっきのお客さんだ。」

僕がタクシーの元まで行くと、運転手は笑顔で言った。
僕は「どうも」と言い、タクシーの中を横目で見た。
後部座席には誰も乗っていなかった。そこに郁美の姿を期待していた僕は、一瞬頭の中が混乱した。

「僕、何か忘れ物でもしましたか?」

思いつきで尋ねてみる。

「いやいや、そういう訳じゃないんです。ちょうど他のお客さんを近くまで乗せて来てましてね。通りかかったらあなたが居たもんだから。」

僕は彼の言っている意味がよく分からず、ただ彼を見つめる事しかできなかった。

「いやね、ひょっとして帰る足がなくて困ってらっしゃるのかと思って寄ってみたんです。ほら、ここからだと駅に行くにも、歩くのじゃ距離があるしねぇ。」

運転手はそう言い、尋ねるような目つきで僕を見た。

そんな事か、と思った。肩透かしをくらったような気分だった。
単に暇で客が欲しかっただけなのか、運転手の人柄からくる気遣いなのかは分からないけれど、僕は彼の行為を有り難いとは思わなかった。

No.74 09/06/09 02:01
22430 ( ♂ AtBM )

「有り難いんですけど、今は遠慮しておきます。」

僕は軽く微笑んで言った。

「そうですか。いやね、お困りでなければ構わないんですよ。余計なお世話でしたかね。それじゃあ。」

運転手は会釈した後、そそくさとタクシーに乗り込んだ。

さえないな、と思った。僕はこの場所で郁美を待っていて、でも目の前に現れたのは今日初めて会った白髪頭の運転手なわけで、彼は直ぐにこの場を去っていく。

結局そんなものなのだろう。

急に現実に引き戻された気分だった。
なんだろう…酷く感傷的になりすぎていた気がする。
タクシーにエンジンがかかった所で、僕は運転席の窓をノックした。運転手は窓を開ける。

「すみません、やっぱり乗せていただけますか?」

僕が遠慮ぎみに頼むと、運転手は「はいはい、全然構いませんよ。」と微笑み、後部席のドアを開けた。
僕は一度後ろを振り返った。公園の雪に僕が残した足跡、そしてその先に僕が座っていたベンチが、薄暗くなった景色の中でひっそりとその輪郭を浮かび上がらせていた。

感傷的になりすぎていたんだ…

僕はタクシーに乗り込み、ここへ来た道を引き返してもらえるよう頼んだ。

No.75 09/06/17 00:39
22430 ( ♂ AtBM )

「もう少し暖房を効かせてもらえますか?」

僕は運転手にそう頼んで、冷えきった手を首に当てた。足の指先も革靴の中で冷えきっていた。

「はいはい、今日も夜はいちだんと冷え込むみたいですねぇ。」

運転手は暖房を強める。窓の外はもう暗闇に包まれていた。冬は日が沈むのが早い。腕時計を見ると5時30分をまわったところで、このまま家に帰るには少し早すぎるなと思った。

僕はあの公園に4時間近く居た事になる。そんな実感はなかったけれど、自分でも呆れてしまうほどの時間だと思った。
郁美は今どこにいて、何をしているのだろうか?少しでも僕の事を考えたりしたのだろうか?
そんな事を考えているうちに溜め息が出た。自分がとても女々しい存在に思えた。
郁美との事は、もう過去の事なのだ。今とは結び付けようもない。

不意に麗奈さんの泣き顔が頭をよぎった。

なぜだろう?僕が望まない事ほど、今の僕を捕らえて絡まり、結び付いてくる。

「今年の冬はいちだんと冷え込みますねぇ」

気が付くと運転手が喋っていた。

No.76 09/06/18 02:21
22430 ( ♂ AtBM )

「本当に寒くて驚いていますよ。僕は4年ぶりにこの街へ帰ってきた所なんですよね。」

「あぁ、そうだったんですか。という事は…今はどこか別の街にお住まいで?」

運転手はのんびりとした口調で尋ねる。

「18歳までここで暮らしていて、今は少し遠くの街に住んでいるんですよ。この街よりはまだ暖かい方です。雪も降りませんしね。」

「そうですか、それは結構な事ですよ。雪が降るっていうのは本当に嫌なものですから。今日はお仕事の関係で戻って来られたんですか?」

運転手は昼間よりもゆっくりと車を走らせながら喋る。夜の雪道は走りにくそうで、車は小刻みに揺れていた。

「仕事という訳じゃなくて…ちょっとした用事がありまして…」

僕は少し言葉を濁した。

「そうですか。いやね、スーツを着てらっしゃるものですから、てっきりお仕事かなと思いましてね。」

僕はどう答えれば良いのか迷った。明日の結婚式に出る為に帰って来たのだけれど、今僕がスーツを着ているのはまた別の話だ。
それにスーツ姿で、ひとけの無い公園のベンチに1人で座っていたというのも、あまり自然な行為とは言えない。

あれこれ考えているうちに、僕は自然と口を開いた。

No.77 09/06/19 01:44
22430 ( ♂ AtBM )

「明日、同級生の結婚式があるんです。それで帰ってきたんですよね。今日は身内の…用事があって、その後あの公園で人と待ち合わせをしていたんです。」

「そうですかぁ。いや、こう言っちゃなんですけど、私もああいった場所にお客さんを乗せて行く事があまりないもんですから、少し気になってたんですけどね。」

運転手はそう言って短く笑った。

「そうですよね。あの公園は少し思い入れのある場所なんです。まぁ結局待ち合わせの相手は来なかったんですけどね。」

僕はそう言い、自嘲気味に笑った。自分で言葉にして出すと、照れ臭くもあり、惨めな気分にもなる。それでも僕は話したくなっていた。

運転手は少し驚いたように「そりゃまたどうして?」と尋ねる。

「いや、その待ち合わせの相手っていうのは、明日結婚式をあげる同級生なんですよね。僕が強引に会いたいって誘ったんです。きっと準備なんかで忙しかったんでしょう。」

「それは残念でしたねぇ。あの公園は景色は良いんですけど、やっぱりこの時期は寒かったでしょ?」

「ええ、4時間近くも待ってましたからね。まぁ相手の子が来てくれなかったのは他にも理由があるんですけどね。」

No.78 09/06/20 04:13
22430 ( ♂ AtBM )

運転手は黙ったまま、僕の次の言葉を待っているようだった。

「女の子なんです、僕が以前付き合っていた。明日結婚式で会うことになるんですけど、その前にね、会っておきたかったんです。別に会ったところで何か意味があるわけでもないし、どうこうしたいわけでもないんですけど。」

「女の子ですか?」

「ええ。僕がこの街から離れる時に別れたんです。今日電話で話す機会があって、かなり強引に誘ったんです。心のどこかで来てくれると思ったんですけど、4時間も待って結局ダメでした。当然ですけどね。」

僕はそこまで喋って口を閉じた。自分から話しておきながら、馬鹿馬鹿しいと思った。
けれどこの運転手と会う事も2度とない。こうやって話してしまうのも悪くない。

「感傷的になっていたんだと思います。今日も午前中に少し気分の悪くなる事があって、それも重なって。4年ぶりの里帰りだっていうのに、なんだかろくな事がありませんよ。」

僕がそこまで話すと、運転手はスピードを落としながら車を路肩に寄せた。
僕は窓の外を見た。まだ丘を下りきっておらず、暗闇で何も見えない。

やがて車はゆっくりと停車した。

No.79 09/06/26 23:14
22430 ( ♂ AtBM )

運転手は車を停めると、ハザードランプを点滅させた。

「あの…街中まで戻って欲しいんですが。」

僕は少し慌てて言った。
運転手はシートから身を乗り出して、酷く狭苦しい恰好で僕の方を振り向いた。

「すみません。いやね、運転に気をとられていて、話を途中で聞き逃しちゃったもんだから…」

「はい?その為にわざわざ停まったんですか?」

僕は少し驚いて言った。

「いやいや、そうじゃなくてですね、要するに、お客さんは女性の方をあの公園で待っていたと、そういう事ですか?」

「ええ、簡単に言えばそういう事になります。」

簡単に言えばそういう事だった。けれど僕は運転手の言葉に味気なさを感じていた。何かを期待していた訳ではないけれど、喋りすぎた事を少し後悔した。

「たいした話ではないんです。すみません、急に訳のわからない話をしてしまって。街中まで戻ってもらえますか?」

僕がそう言うと、運転手は首を横に振った。

No.80 09/06/30 00:24
22430 ( ♂ AtBM )

「いや、そうじゃないんですよ。お客さんをね……えっと、お客さん名前はなんて?」

突然名前を聞かれ、僕は「吉岡ですが」と答えた。
自分の名字を口にしたにもかかわらず、微かに後味の悪さを感じた。
それはきっと今日麗奈さんに会い、「柏木」という名字を目にしたからなのだろうと思った。

僕はもう「柏木壮太」ではない。

そう、僕は「吉岡壮太」なのだ。


「吉岡さんですか。実はですね、吉岡さんに乗っていただく前に、別のお客さんをあの公園の近くで降ろしたんですよ。」

運転手はそう言いながら、真っすぐ僕の目を見つめた。シワの寄った目が大きく見開いていた。

僕は短く「ええ」と答えた。その事は乗る前に聞いた記憶があった。


「いやね、そのお客さんっていうのが、女性の方だったんです。」

「女性…ですか?」

「はい。若い女性の方なんですが。その女性を降ろした後に、吉岡さんをあの公園で乗せたわけなんです。」

「若い女性ですか?」

僕はもう1度聞き返した。

「ですから…吉岡さんの話を聞いていて、ひょっとしたら吉岡さんが待っていらした女性っていうのは、そのお客さんだったのかなって、そう思ってしまったわけなんです。」

No.81 09/07/01 00:07
22430 ( ♂ AtBM )

僕はすぐには言葉が出てこなかった。運転手は見開いた目で僕を見つめている。

「別人なのかもしれませんがね。一応話しておいた方が良いかと思いまして。」

「どの辺りでその女性を降ろしたんですか?」

僕はようやくそう尋ねた。

「えっとですね……、昼間、吉岡さんが降りた場所ありますよね?あそこから公園を通り過ぎて少し進んだ場所なんですがね。まぁ民家もちらほらありましたから、単に家に帰る女性だったのかもしれませんが…。ただ、それにしては中途半端な場所だった気もしましてね。」

運転手はそう言ったけれど、その言葉を僕はうまく飲み込むことができなかった。ハザードランプのカチカチとした音が酷く耳障りで、頭が上手く回らない。



ただ、自然と1つの景色が頭の中に浮かんだ。それはあの公園のベンチに座る郁美の姿だった。
それと同時に、理屈抜きに郁美に会いたいという感情が沸き起こった。理屈など考える余裕もなく、率直に。

若い女性が、あの公園の近くへ来ていた。
ただその事だけでも、僕がとるべき行動は決まっていると思った。

「引き返してください。」

僕はそう言い、運転手を見つめ返した。

No.82 09/07/03 01:29
22430 ( ♂ AtBM )

運転手は空き地を見つけると、車を方向転換させて公園へと引き返し始めた。
しきりに「別人かもしれない」と気にする運転手に、僕はそれでもかまわないからと急いで戻るよう頼んだ。
腕時計を見ると公園を離れて20分がたっていた。同じ道を戻り再び僕が公園に辿り着くまでには、40分の時間がたっている事になる。
僕は少し焦った。仮に郁美が来ていたのだとしても、公園に誰もいなければ当然帰ってしまう。タクシーを使っているのだからすぐにその場を離れられる状況ではないはずだ。けれどきっと迎えの車を呼ぶだろう。おそらく《彼》に頼んで。

「出来る限り急いで下さい。」

僕はそう言い窓の外を見つめた。この雪道、さらに視界の悪い夜とあっては、それが無理な注文なのは当然だった。運転手は困ったように「はい」と返事をした。

郁美に電話をかければ、すぐに確認が取れる。けれど僕にはそれが出来なかった。
もしも《若い女性》が郁美ではなかったとしたら…
それを考えると、僕は電話をかける事が出来ない。

僕は何を分かったつもりになっていたのだろうか。

結局そんなもの?
今とは結び付けようもない?

僕はまだ何も分かってはいないんじゃないのか?

No.83 09/07/05 01:58
22430 ( ♂ AtBM )

「なんだか、かえって申し訳なかったですねぇ。」

運転手は本当に申し訳なさそうに言った。

僕は「なんの事です?」と尋ねた。

「いや、あの時公園で私が声をかけなければ、こんな風に無駄に動かずに済んだのにと思いまして。」

「無駄なんかではありませんよ。少なくとも何も知らずに帰ってしまうよりは良かったと思っていますから。」

「吉岡さんが待っていらした女性なら良いんですがねぇ。もしも別人だったら、ただ余計な事を言ってしまっただけですし…」

「別人だったら諦めもつきますから。もし僕が待っていた相手だったら感謝しなければなりませんよ。」

たしかにあの時公園に運転手が来なければ、こんな風に動きまわる必要はなかった。けれど、運転手が来なかったとしても、僕があのまま公園に居たかどうかは分からない。それに彼が話しをしてくれた事で、僕は再び郁美に会えるかもしれないのだ。

ほんのわずかな差で、何も知らないまま終わってしまう事もある。今までも、僕は目に見えない所で色んな機会を取りこぼしてきたのだろう。
僕の知らない所で僕にとって重要な事柄が変化している。4年前もそうだった。

あの時も知った時には遅すぎた。

No.84 09/07/07 01:43
22430 ( ♂ AtBM )

けれど今日は違う。この運転手のおかげで、僕は自分では知り得なかった事をこの手に掴む事が出来た。それはほんの些細なきっかけだけれど、その先には可能性がある。

窓の外は暗闇で、今どの辺りまで戻って来たのかわからなかった。運転手は黙って運転に集中していたが、しばらく進んだ所で口を開いた。

「もうすぐ着きますよ。夜なんで、少し時間がかかってしまいました。」

「公園の前で停めてください。」

僕はそう言いポケットの中の財布へ手を伸ばした。すると煙草の箱が手に当たり、僕はそれを取り出した。
急激に煙草が吸いたくなった。けれど、昼間このタクシーに乗った時に、運転手に車内禁煙と言われていた。

「煙草吸わせてもらう訳にはいきませんか?」

僕は遠慮気味に尋ねた。

「……特別ですからね。窓を開けてなら良いですよ。」

そう言った運転手の横顔に少し微笑みが浮かんでいるような気がした。僕は礼を言い、窓を開けた。冷たい風が顔へ吹き当たる。身を屈めて煙草に火をつけると、先端が風を受けて赤々と燃え始めた。

僕は早まる気持ちを抑えながら煙を吸い込んだ。

No.85 09/07/11 04:16
22430 ( ♂ AtBM )

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

No.86 09/07/11 04:19
22430 ( ♂ AtBM )

2002年11月

No.87 09/07/12 17:50
22430 ( ♂ AtBM )

僕は走っていた。

放課後のグラウンド。1周200mのトラック。夕日でオレンジ色になった地面…

気温が下がったこの季節でも自然と汗がにじみ出てくる。粒になった汗が、おでこから目のすぐ横を流れて落ちる。
けれど、汗の1粒や2粒どうってことない。

体全体でリズムを刻むように走るんだ。

鼻から小刻みに2回、息を吸い込む。
それにあわせて腕を振る。

少し長めに息を吐く。
その間にまた腕を振る。

リズミカルに繰り返す。それが大切。

そうすると自然と足が回転して前へ進む。

前へ、前へ。

足の指の付け根で、グラウンドの土を弾くように蹴って、蹴って、蹴って…。
白と青のシューズが僕の相棒。今日も履き心地は抜群だ。

もうこのトラックを何周走ったのだろう。後何周走るのだろう。分からない。
当たり前だ。いちいち数なんかかぞえない。そんなつまらない事はしない。
太ももが疲れて足が重く感じても、呼吸するのが辛くなっても、そんなのは少しも問題じゃない。
僕は走る事が好きだ。

「柏木!ラスト1周だ!」

監督の先生の大声が響き、僕はグランドを力強く蹴りあげた。

No.88 09/07/14 00:27
22430 ( ♂ AtBM )

「キャプテン、今日調子良さそうじゃん。」

走り終わって息を整えていると、後ろから声がして僕は振り向いた。卓也がフラフラになりながらやって来ると、僕の肩に手を置いてうつむいた。卓也はまだ息が荒く、唾を飲み込みながら呼吸を整えている。

「卓也も調子良さそうじゃん。最後の大会メンバーに選ばれるかもよ?」

僕がそう言うと、卓也は苦しそうに目をつむりながらも、口元に笑みを見せた。

「メンバー狙っちゃってるよ、俺。」

「卓也はこの練習だけだったらトップクラスだよ。」

僕は本心で言った。
200mのトラックを1周40秒以内のペースを維持しながら10周走るというのが、今日の最後の練習だった。
後半になるにつれ、かなりキツイ練習。
卓也は道路の長距走はそれほど速くないけれど、この練習は得意だった。

「明後日がメンバー発表だし、最後のアピールってやつ。」

卓也は僕の肩をポンポン叩く。

県中学校駅伝大会。
僕達陸上部3年生は、最後のその大会を1週間後に控えていた。

「おーい!柏木!柏木壮太!何やってる、終わりにするから早く集合かけてストレッチだぁ!」

監督のその声で、僕は部員達へ「集合!」と声を上げた。

No.89 09/07/14 01:50
22430 ( ♂ AtBM )

放課後のグラウンドは部活動の生徒達で溢れている。冬間近のこの季節は、夕方5時でどの部も一斉に練習が終了になる。野球部やサッカー部の3年生は夏の大会で引退したため、今は2年生が主体で活動していた。どの部の生徒達も、ジャージを汚してクタクタになりながら後片付けをしている。

僕は卓也とまさ君と一緒に更衣室へ向かって歩いた。

「僕達ももうすぐ引退だね。」

まさ君が他の部の2年生達を眺めながら言った。

「何言ってるんだよ。まだ全国大会が残ってるだろ。」

卓也がまさ君の肩を叩く。小柄なまさ君は少しよろけた。

「全国は厳しいよ。県大会で優勝なんて想像もつかないし。でも入賞はしたいよね。」

僕は笑いながら言った。

「キャプテンがそんな事言ってどうするんだよ。俺は本気で狙ってるよ。」

卓也が僕を睨む。

「その前に卓也は大会で走れるのかな?」

まさ君が遠慮気味にそう言い、僕も頷いた。

「良いよなぁ。キャプテンとまさ君はメンバーにほぼ決定してるもんなぁ。あと4人の中に俺入れるかなぁ。」

卓也は遠い目をして言った。

No.90 09/07/15 00:25
22430 ( ♂ AtBM )

県中学校駅伝大会は1区間が3Km、全6区間で行われる。そこで優勝した学校だけが全国大会へ進むことが出来るのだ。
優勝出来なければ、僕達はそこで引退となる。

陸上部の中で長距離走が1番速いのは、まさ君だった。特に3~5Kmの距離は、ここ1年でまさ君より速いタイムで走った部員はいない。
まさ君は間違いなくメンバーに選ばれる。まさ君の次に僕が速いので、僕はきっとメンバーに選んでもらえると思っている。
卓也は2年生の時までは、あまりパッとしなかったけれど、3年の夏頃から力をつけはじめ、選ばれるかどうか微妙な所だ。

僕達は更衣室へ行くと、ふざけ合いながら制服に着替えをすませ、校門へ向かった。

「あ、壮太君。伸二君帰ったかな?」

まさ君が思い出したように尋ねた。

「たぶんまだ図書室で勉強してると思う。呼んでくるから、先に校門で待ってて。」

僕はそう言い、図書室の方へ向かった。

「早く来いよ。先に帰っちゃうぞ。」

後ろで卓也が叫んだ。

僕は背中のカバンを揺らしながら、駆け足で廊下を進んだ。始めはただの駆け足だったのが、次第に体がリズムを刻みはじめる。

今の僕には走る事が全て。

No.91 09/07/16 02:22
22430 ( ♂ AtBM )

伸治は放課後になると図書室で受験勉強をしている。テニス部のキャプテンとして、夏の県大会でベスト8まで勝ちあがったのだけれど、準々決勝で惜しくも負けてしまい全国大会まで進む事は出来なかった。その大会で引退した後は、放課後の時間をいつも受験勉強にあてている。
まだ部活動を続けている僕としては、図書室へ行くのは少し気が引ける。
受験勉強…
僕もそろそろヤバイかな。
僕は図書室のドアをそっと開けた。
伸治はいつもの席に座っていた。まだ勉強に集中していて、ノートに熱心に書き込みをしている。
「伸治、帰るぞ。」

僕は少し声をおとして言った。伸治は顔をあげ、僕の方を見た。

「ちょっと待って。きりの良いとこまでやっちゃいたいんだよ。」

伸治はそう言うとまたノートにむかった。

「もう下校の時間だよ。残りは家でやればいいじゃん。」

「駄目だよ。予定が崩れるし。ちょっと黙ってて。」

相変わらず融通がきかない性格をしている。
僕は少しあきれて、ドアに寄り掛かろうとした。すると突然誰かに背中を押され、僕はバランスを崩してよろけた。

「そんな所に立ってると邪魔だよー。」

後ろから女の子の声がして、僕は振り向いた。

No.92 09/08/28 03:19
22430 ( ♂ AtBM )

「壮ちゃん、部活終わったところ?」

女の子はニコニコしながら喋りかける。同じクラスの橘郁美だ。

「そうだよ。てか、押すことないじゃん。」

僕がそう言うと、郁美は「だって邪魔なんだもん。」と言って、図書室の中へ入り、伸治の隣の椅子へ腰掛けた。

「郁美も勉強してたんだ?」

僕は2人の姿を眺めながら尋ねた。

「うん。伸治君に教えてもらってたの。ねっ」

郁美はそう言って伸治の肩にそっと手を乗せた。伸治は気にする事なくノートに書き込みをしている。
最近2人がやけに仲が良くなった様に見えるのは気のせいだろうか。
そんな2人の姿を見ていると、僕はモヤモヤとした気持ちになる。

「伸治、ホントもう帰るぞ。」

僕は少し声を強めて言った。

「もう少しで終わるから待ってあげようよ。」

郁美が代わりに答える。

「卓也達が待ってるから、俺先に帰るから。」

僕は2人に向かってそう言っていた。
僕は本当は郁美と一緒に帰りたいと思っている。それは自分でもわかっている。だけど、そんな事は口に出せないし、そんな風に考える事がなんだか恥ずかしかった。
伸治が顔を上げたのと同時に、僕は図書室を出て駆け足で校門へ向かった。

No.93 09/08/29 01:50
22430 ( ♂ AtBM )

家までの道のりを、僕と卓也とまさ君はのんびりと歩いた。話題は間近に控えた県中学校駅伝大会の事で、僕達はお互いの走りについて語り合った。
僕は頭の片隅で図書室の2人の事がずっと気になっていた。郁美の事が気になりだしたのはいつの頃からだろう。最近郁美の事を考える時間が増えた気がする。
やっぱり伸治と郁美は付き合っているのかな、なんて考えてみるけれど、僕には付き合うって事がまだよく分からない。ただ、2人が仲良くしているのを見るのはいい気がしない事は確かで、僕はそんな事ばかり考えていると思いっきり走り出したくなる。

「キャプテン、急激にテンション下がってるし。」

卓也の声で僕は我にかえった。

「別に下がってないし。大会の事考えてて気合いが溜まってきてるし。」

僕はそう言ってごまかした。

「壮太君は卓也みたいにヘラヘラしないんだよ。」

まさ君がそう言い、卓也が「なんだって?」と大声を上げてまさ君に飛び掛かった。
まさ君は笑いながら走り出す。卓也が足でまさ君に敵うはずがない。僕も2人を追い掛けて走り出した。

そうだ。今の僕には付き合うとか必要ないさ。なんたって最後の大会が目の前に迫っているんだ。

No.94 09/08/31 21:03
22430 ( ♂ AtBM )

「それじゃあまた明日。」

「朝練遅刻するなよ。」

僕は家の前で2人と別れた。走って遠ざかっていく卓也とまさ君の姿を見送った後、玄関のドアをそっと開ける。しばらく家の中の様子に耳を澄ませてみる。変わった様子がないのにのにホッとして、僕は靴を脱いで中へあがった。父さんがこんな早い時間に帰って来ているはずないけれど、僕は家に入る時に自然と中の様子をうかがってしまう。
階段を上がって2階へ行く途中で、リビングのドアが開く音がした。母さんの声がして僕は立ち止まった。

「帰ったなら1度リビングに来なさいっていつも言ってるでしょ。」

母さんは階段の下までくると顔をしかめる。

「別にそっちに用事はないから。」

僕は母さんを見下ろす。

「ただいまくらい言いなさいって言ってるのよ。」

「……ただいま。」

僕は壁に向かってつぶやき、階段を上がる。

「待ちなさい。ちょっとリビングに来なさい。」

「何?疲れてるんだけどさ。」

そう言って振り返ると母さんはもうそこに居なかった。

……「おかえり」は言わないのかよ。

僕はしぶしぶ階段をおりる。

No.95 09/09/01 00:47
22430 ( ♂ AtBM )

リビングで母さんは夕食の準備をしていた。僕はダイニングテーブルの椅子へ腰掛ける。

「あまりね、うるさくは言いたくないんだけどね…」

母さんはキャベツを刻みながら喋る。揚げ物の臭いが辺りを漂い、僕のお腹が反応する。

「ちゃんと受験勉強してるの?部活も大切なのはわかってるけど、入試までもう時間ないのよ?」

「してるよ。」

「周りの子達が塾に行ってる時間に、あなたは走ってばかりでしょ?」

「学校でもやってるし、家でも夜やってる。成績も下がってないし。」

どうして大会間近に受験の話になるのだろう。母さんは僕の走りが気にならないのだろうか。

母さんはキャベツを刻むのをやめて、僕の顔をまじまじと見つめる。

「もういいよ。」

僕は立ち上がりリビングを出ようとした。

「ちょっと待ちなさい。壮太はいつも最後までちゃんと話しをしようとしないわね。そういう所がお父さんにそっくり。良くないわよ。」

僕は立ち止まる。
父さんにそっくり…
僕は父さんの子供だ。それは変えられない事なんだと思う。だけど、僕は父さんとは違う。

「そういう言い方やめてくれないかな。」

僕はリビングのドアを乱暴に開けた。

No.96 09/09/01 01:58
22430 ( ♂ AtBM )

夕食はいつも3人で食べる。僕と母と弟の裕也。裕也はまだ小学校6年生で、さっさとご飯を食べるとリビングでテレビを見はじめる。僕は母さんと向き合ってご飯を食べる。特に喋るような事はない。裕也の見ているアニメ番組のやかましい音を耳に、僕は母さんの刻んだキャベツを口に運ぶ。最近は肉類を食べるのを控えている。陸上部の監督は消化の良いものを食べるようにと言っただけで、それ以上細かく食事について指示しなかった。
食卓に並んだ鳥のから揚げを僕は1つだけ食べた。それから、いくつかの天ぷらの中からサイマイモの天ぷらを選んで食べた。
以前母さんと食事について喧嘩をした。それ以来、母さんは僕が何を食べようと食べまいと口出ししてこない。

「ごちそうさま」

僕は箸を置く。

「先にお風呂に入りなさい。」

母さんはそう言って1人でご飯を食べる。僕は「うん」と答えて立ち上がる。
最近母さんが何を考えているのか分からない。やたら僕のする事に口出しする時もあれば、黙ったまま静かになったりもする。
父さんは今日もまだ帰って来ない。きっと今日も僕は父さんと顔を合わせずに終わる。それはそれで有り難いけど…。

No.97 09/09/02 01:59
22430 ( ♂ AtBM )

僕は風呂から出ると、2階へのぼって自分の部屋へ入った。そのまま勉強机についてノートをひらく。しばらく国語の問題いくつか解いていく。けれどうまく集中できなかった。

そろそろ父さんが帰ってくる頃だろうか。
僕の父さんは建設会社に勤めている。課長だか部長だか知らないけど、仕事が忙しいみたいでいつも帰りは遅い。
僕が幼い頃、父さんとよく遊んだような覚えがある。あの頃の父さんはよく笑っていた。今は笑わない。今は父さんと何かをすることもない。それだけ父さんは仕事で手一杯になったからなのか、僕が成長したせいなのか、理由はよくわからない。

父さんと母さんが頻繁に喧嘩している理由も僕にはわからない。分かりたくもない。そういえば、母さんもあまり笑わなくなった。大人になると皆、笑わなくなるのだろうか。

大人の世界の事は僕にはわからない。
けれど僕もいずれ大人になる。
高校受験をうけて、受かれば高校に通うようになる。その先の事はまだよくわからない。将来どんな職業についているかなんて想像もつかない。
それなのに高校受験をうけようとしている。

なんのために?

僕は勉強机の上に広げた問題集をいったん閉じた。

No.98 09/09/03 02:04
22430 ( ♂ AtBM )

休憩するほど勉強してないけれど、気分転換は必要だ。コーヒーでも飲んで、それからまたやればいい。部屋を出ると階段をおりる。

リビングから話し声が聞こえ、僕は廊下の途中で立ち止まった。

父さんと母さんの声だ。
話し声っていうより、激しい言い争いだ。
母さんの声が、いつもより甲高く響く。父さんの口調も激しい。
またか…と思った。だけど、いつもの事なんだけど、僕は慣れることができない。胸が圧迫されてるみたいになる。自分がとても不安定な場所に立っているような気持ち。僕は廊下で立ち止まったま動けなかった。
弟の裕也の事が気になった。まさかリビングにいるなんて事はないと思うけど。
裕也はまだ小学生なんだ。もちろん両親が仲が悪い事は分かっていると思う。僕よりもやり切れない気持ちだろう。

どうして…なんで…僕の家はこんなんなんだろう。僕はどうしたらいいんだろう。

「もういい!話にならない!」

急に父さんの声が大きくなった。リビングのドアが開き、中から父さんが出てきて、僕は体が固まった。

No.99 09/09/04 01:45
22430 ( ♂ AtBM )

「ちょっと待ちなさいよ!義治さんはいつもそう!最後まで話しをしようとしない!いい加減にしてよね!」

母さんが父さんを追い掛けて出て来た。

廊下で僕は、2人と向き合う恰好になった。2人はすぐに僕に気がつき、その途端そろって表情を歪めた。急に辺りが静まり返る。

「何をしているんだ。」

父さんは一呼吸あけたあとそう言った。眼鏡の奥の目は鋭くて冷たい。何をしているんだと言われても、それは僕のセリフじゃないかと思った。母さんはバツが悪そうに僕から目をそらす。

僕は何て言うべきか迷った。言いたい事は山ほどある。だけど、それを言葉にして出したら、色んな感情が一気に溢れ出てしまいそうで怖い。

「そういうの迷惑なんだよ。」

僕はそれだけ言って早足に廊下を引き返す。父さんも母さんも後ろから声をかけてこない。
どうせ僕が何か言った所で、どうにもならないんだ。また喧嘩の続きが始まるだけだ。
僕は階段をのぼって自分の部屋へ戻り、力まかせにドアを閉めた。

No.100 09/09/09 02:04
22430 ( ♂ AtBM )

僕の目の前には、まさ君が走っている。僕はまさ君のすぐ真後ろを走る。今日の朝練習は学校の外周を3周。1周が1Kmなので合計3Km走り、タイムをはかる。

朝の空気は肌寒い。こんな日は気持ちの良い秋晴れになるはずだ。

まさ君は先頭を軽快に走る。まさ君の走りはピッチが小刻みで、見た目にも走りが軽く見える。僕は長めにストライドをとって走る。後ろの他の部員の足音は、少し遠くに聞こえる。でも後ろは関係ない。今は、まさ君を追い抜くことだけを考える。
僕は体全体でリズムを刻む。上下に揺れる視界の中を、景色が流れて行く。まさくんの背中だけが、変わらずに僕の前を進んでいく。
今日は地面を蹴り上げた時の体の反応が抜群に良い。いけるかもしれない。

僕にはこの瞬間しかないんだ。走っているこの時だけは、全て忘れる事が出来る。荒くなった息遣いと一緒に、嫌な事は全て吐き出す。

毒が抜けていくような感覚。

僕は足の回転をあげ、まさ君にの横に並びかけた。

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