タイトルなし
「結局そんなもんだよ」
僕の耳元で誰かがつぶやく。
ピアノ線の切れた鍵盤を、指で軽く叩いたような声だった。真っ黒に輝くグランドピアノが目に浮かんだ。けれどピアノ線は切れているのだ。
高速バスに乗り3時間が過ぎていた。たった3時間バスで移動しただけて、窓から見える景色は秋から真冬へと変化していた。
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僕とまさ君は並走しながら校門の前を通過し、3周目に突入した。校門の前では監督がストップウォッチを持って立っていて、2周目通過タイムを読み上げる。
「6分06秒!」
ここまでの2Kmのタイムとしては出来すぎと言って良いほどの好タイムだ。
まさ君の3Kmの自己ベストタイムは9分18秒。県内でもトップクラスのタイムだ。それを更新してもおかしくないペース。僕の自己ベストは9分25秒。
残り1Kmをまさ君は、おそらく3分10秒あたりのペースで走るはずだ。問題は僕がどこまでそれについていけるかだ。
グランドのフェンス外側の直線道路を、僕とまさ君は肩を並べて走る。通学してくる生徒達をかわしながらひたすら前へ。僕は真っ直ぐ前を見つめたまま、まさ君の様子をうかがった。軽快なのに力強い走りが、横からひしひしと伝わってくる。少しでも気をぬけば、直ぐに置いていかれてしまいそうだ。やっぱりまさ君は強い。
けれど、僕には思いの他、余力がある。もちろん息は上がってきているし、鼻で呼吸を続けるのも苦しい状況だ。だけど、足の回転も腕の振りも悪くない。
今行くしかない。行くべきだ。
僕は道路のカーブを利用して、前へ出た。
そのまま僕はスピードに乗って先頭を走る。視界を遮るものは無い。まさ君が後ろをピッタリとついて走ってきているのを背中に感じた。僕とまさ君の走る足音が混ざり合い、まさ君にどの程度余裕があるのかなんて、分かり様もない。
僕は自分の呼吸のリズムに集中した。空気を吸い込んで吐き出す音が頭の中を流れる。
そう、先頭を走っていて後ろを気にしたら駄目だ。僕が闘わなくちゃならないのは、まさ君じゃない。それは他にある。
僕は前を見つめる。カーブをいくつか曲がる。空気をたたきつけるように、反動をつけて腕を振る。アスファルトを蹴りあげ、その衝撃を体で受けながら前へ進む。僕は揺れる視界の中、遠くの1点を見つめる。視界の端を景色が流れる。
他には何も頭の中に浮かんでこない。それでも体は分かっている。
ただ、速く走る為だけにするべき事。
僕は最後のカーブを曲がって、校門前の直線道路へ入った。残り200m。もうスピードを上げる力はない。だけど、この瞬間が1番速く走れているような感覚がある。
この瞬間があれば、僕はやっていける。
僕は先頭で校門の前を駆け抜けた。
タイムは9分18秒だった。まさ君の自己ベストと同タイム。それは僕にとっても自己ベストタイムだ。ここへ来て自己ベストを出せた事に、僕は興奮と満足感で、深く息を吸い込んだ。朝の新鮮で少し甘い空気が胸の中を満たす。
「今日めちゃくちゃ速かったね。」
校門からグラウンドに戻る途中、まさ君がそう言って笑った。息はまだ少し荒い。僕も呼吸を整えながら言った。
「自己ベスト出ちゃった。まさ君はタイムどうだった?」
「9分28秒だった。いい感じだったけど、壮太君について行くので精一杯だったよ。」
まさ君は特に悔しそうな表情も見せずに笑う。僕はまさ君のそういう部分が良い所だと思う。
今日の放課後、大会のメンバー発表がある。今朝の走りがそれにどう影響してくるのかは、分からない。他の部員達も今日はソワソワとした雰囲気で、放課後まで待ちきれないって感じだ。
朝練習が終わり、部室で着替えを済ませると、僕はまさ君と卓也と一緒に教室へ向かった。
「俺の今日のタイムを教えてやろうか?」
卓也が満面の笑みで言った。僕もまさ君も卓也のタイムを聞かないもんだから、卓也はきっと我慢出来なくなったのだ。
「俺ついに10分の壁を突破しちゃったんだよ。凄くね?」
卓也は大声を出して僕の肩を叩く。僕は本当に驚いた。
「え?何秒だった?」
まさ君も驚いた様子で尋ねる。
「9分52秒。いやぁ10分の壁はホント厚かった。これで大会走れるかもしれないよな。」
卓也は更に上機嫌で喋る。
卓也の今までの自己ベストは10分02秒だった。大幅な更新だ。陸上部に3Kmを9分台で走れる部員は、僕とまさ君を入れて5人だけだった。これはひょっとすると卓也もメンバーに選ばれるかもしれない。僕もなんだか嬉しくなって、3人で騒ぎながら教室へと入った。
朝のHRが終わると、今日一日の授業は模擬テストの予定だった。といっても最近の授業のほとんどが、過去の高校入試の試験問題ばかりをやっている。クラス皆が黙って試験用紙に向き合い一日を過ごす。
僕の隣の席には伸治が座っていて、熱心にノートに書き込みをしている。この街でトップクラスの高校を志望している伸治は、ここの所勉強ばかりで、あまり僕に話かけてこない。
僕はななめ前の席に座っている郁美の背中を眺めた。郁美は伸治と同じ高校を志望している。僕はそこまでレベルの高い高校は目指していない。だから伸治や郁美とは少し距離のようなものを感じる。それに、勉強一色のこのクラスの雰囲気にもあまり馴染めない。1年生の頃の騒がしかった教室を懐かしく思う。
僕の志望している高校は、勉強のレベルは普通より少し上くらい。だけど、陸上部の強豪校だ。だから僕はその高校を目指している。でもそれが建前にすぎない事は自分でも分かっていた。高校入試に落ちるって事は物凄く怖い。落ちたくないから僕は勉強をしている。
「よし、机の上の物をしまいなさい。」
教壇の上で教師が声を上げ、問題用紙を配りはじめる。僕は問題を解く事に集中した。
放課後。
陸上部の皆が体育館へ集合し、そこで県中学校駅伝大会のメンバー発表がおこなわれた。
体育座りで並んだ僕達の前で、監督が1区を走る選手から順番に6区までのメンバーの名前を読み上げる。
まず最初に名前を呼ばれたのは、まさ君だった。これは想像通りだった。1区は各校がエースの選手を投入する。1区で好位置につけられるかどうかが勝負のカギで、逆にそこで遅れをとったら巻き返しは苦しくなる。そういう点では県でもトップクラスで、なおかつ安定感があるまさ君が1区を走るのは当然だ。
2区は副キャプテンで美男子の酒井君。
3区と4区は2年生の名前が呼ばれた。
残りは5区と、アンカーの6区。部員全員が黙って監督の顔を見つめる。
5区に選ばれたのは卓也だった。卓也は名前を呼ばれると、張りのある声で「はい!」と返事をした。よほど嬉しかったのだろうと卓也の顔を見てみると、意外にも神妙な表情だった。
卓也は初めて駅伝メンバーに選ばれたのだから、その表情も納得出来る。メンバーに選ばれるのは嬉しい事だけど、それだけ責任も一緒についてくる。全員がタスキを繋げない限りゴールは出来ないのだ。
残りはアンカーの6区。
「そして最後に6区、柏木壮太。」
監督が僕を見て言った。
僕は卓也同様、「はい!」と返事をして立ち上がった。1区に選ばれなかったのだから、きっと6区に選ばれるだろうと思っていた。陸上部のキャプテンとして、アンカーを走るのは悪くないと思った。
名前を呼ばれた選手達は監督の前に並び、1人ずつユニフォームを受け取った。上下が青色の光沢のあるユニフォームで、受け取るとツルツルとした感触がある。胸の部分に白色の校名が刻まれている。昨年の苦い思い出が蘇った。
「今年は十分上位を狙える力があると思っている。目標は3位以内。もちろん優勝も視野に入れている。選手に選ばれなかった部員の皆も、大会当日は選手のサポートを行い、チーム一丸となって参加するように。いいな!」
監督は最後にそう言い、僕達は体育館中に響き渡るよう「はい!」と声を上げた。
放課後の練習は軽目に終わり、僕達は部室で着替えをした。
「やっぱり、まさ君と卓也がポイントだよね。」
美男子の酒井君がシャツを脱ぎながら言った。
「去年は1区で勝負が決まっちゃったしね。」
まさ君が制服のボタンをとめながら答える。
昨年は1区を走った3年生が59位と出遅れた。僕は昨年3区を走った。僕にタスキが渡った時点で41位。結局6区の選手は29位でゴールした。
「問題は卓也だよ。」
僕はそう言いながら脱いだシャツの匂いをかいだ。ホコリっぽくて少し汗くさい。
「まかせとけ!まさか俺がキャプテンにタスキを渡す事になるなんてなぁ。」
卓也は得意げに笑う。さっきの神妙な表情はどこへ行ってしまったのだろうか。僕はなんだかイラッとして、手に持ったシャツを卓也の顔に押しつけた。
卓也はニヤリと笑って、自分の脱いだシャツを僕の顔に押し付けてきた。もの凄く酸っぱい匂いが僕の鼻を襲った。卓也は夏場なんかは、シャツを絞ったら酸っぱいジュースが出来上がるくらい汗っかきだ。涼しくなったこの季節でも酷い。
卓也の笑い声が耳に届き僕は頭にきて、そのシャツをつかみ取り窓の外へ投げ捨てた。
僕は家に帰ると真っ先に自分の部屋に入り、鞄からユニフォームを取り出してベットの上に並べた。やっぱり大会用のユニフォームは格好良い。色んな角度から眺めたりしてみる。試しに着てみようかな、なんて思ったけれど、大会当日に着た方が気合いが入る気がして我慢した。
大会はいよいよ3日後だ。監督は3位以内が目標だと言っていた。選ばれたメンバーの総合タイムからいって、皆が自己ベストの走りが出来れば十分狙える順位だと思う。
僕がゴールテープを切る瞬間が頭に浮び、胸が高鳴る。
僕達の中学校は決して駅伝の名門校ではない。3年前の大会で8位になったのが過去最高順位らしい。名門校は、僕達の中学の名前なんか、気にもとめていないと思う。でも高校とは違い、中学生の大会では、無名校がいきなり上位入賞したりもする。今年は僕達が台風の目になってみせる。
僕はベットに横になり、あれやこれや想像しているうちに、自然と意識が遠のいていった。
物凄く大きな音がした。そんな気がした。
僕は目を開ける。部屋の中は真っ暗で何も見えない。いつの間にか寝てしまっていた様で、ぼんやりとした意識のまま、暗闇に視線を送る。
時間の見当がつかない。
僕はベットから起き上がり部屋の電気をつけた。学生服を着たままなので体がだるい。
机の上の時計を見て目が点になる。
11時?
11時っていうのは夜11時って事なのか?
僕は頭がうまく回らないまま、部屋のドアを開ける。どうして誰も起こしにこないんだろう。いつも寝てしまっていても、夕食の時間までには母さんが起こしにくる。そういえば今日は帰ってきてから母さんの顔を見ていない。
階段を下りて1階へ行く。廊下も玄関も真っ暗だった。リビングのドアから明かりがもれている。
僕はリビングのドアノブに手をかけた。同時にもの凄くお腹が空いているのに気が付いた。
今夜の夕食は何だろう。風呂にも入らなきゃいけないし、受験勉強だってやらなきゃならない。まったく大誤算だよ。
そんな事を考えながら、リビングのドアを開ける。
中の様子を目にした瞬間、僕は体が固まった。
酷い景色だった。
部屋の中に入って直ぐ、僕の足元に食卓用の椅子が転がっている。
椅子が転がっている?
明かりがついているのは左手のダイニングの方だった。リビングは明かりが消えていて暗い。
僕はダイニングを見渡す。
テーブルが横倒しになっていた。床には、食器や食べ物が散らばっている。きっとテーブルの上に並べられていた状態で、テーブルごとひっくり返ったんだ。ほとんどの皿が割れていた。煮物やら鶏の唐揚げやらご飯やらが、ごちゃまぜに散乱している。
僕の白い茶碗も真っ二つに割れていた。ご飯が床に乗っかっている。
ご飯が床に?
一体何が起こったのか。普段と全く異なる景色。
ここは本当に僕の家なのか?
それに、どうしてこの部屋には誰もいないのか。
皆は何処に?
あれ?今何時だっけ?
僕は混乱する。
しばらく呆然と立ちつくしていると、僕は異様な気配を感じて咄嗟にリビングへ視線を向けた。ダイニング側の明かりが微かに届いているももの、薄暗くて不気味だ。
その薄暗い室内に、黒い人影。僕は瞬間、後退りをする。
それはソファーに腰掛けた父さんの姿だった。
薄い暗闇に目が徐々になれていく。
それは間違いなく父さんの姿だった。スーツ姿のまま、ソファーの上でうなだれている。
雰囲気が普通じゃない。そう感じるのはダイニングの惨状を目にしたせいか。
憔悴しきっている?
いや、寝ている?
よく見ると、父さんの手にはグラスが握られていた。テーブルの上には、なにやらビンのような物が並んでいて、ヌルリとその輪郭が浮かび上がっている。
僕は何が起こったのかを少しだけ理解した。
父さんは酒を飲んだ。そしてダイニグのテーブルをなぎ倒したんだ。
以前、父さんがリビングの戸棚のガラスを割った時の事が頭を過ぎった。
ガラスが割れ落ちる音。母さんの悲鳴。絶望的な気分。
胸がドクリと鼓動した。
母さんと裕也はどこにいる?
鼓動がどんどん大きくなっていく。それと一緒に、胸に熱いものが流れ込んでくる。
「なんだよこれ……何してんだよ!」
僕は暗闇の先の父さんに向かって声を上げた。
「なんだ、いたのか。」
父さんは顔を上げると、つまらなそうな口調でつぶやいた。そして、のっそりと立ち上がった。いつも綺麗にまとめている髪が乱れている。
「なんだよこれ。」
僕はダイニグを指差す。父さんが僕の前に歩み寄る。僕は少し身構えた。
「お前も出て行け。」
そう言った父さんは、酒の匂いがした。眼鏡の奥は普段と変わらず冷たい目で、僕は声がでない。父さんは僕よりずっと背が高く、体格も良い。目の前で僕を見下ろす父さんを、おぞましいと思った。
「母さんも裕也も出て言ったんだ。お前も黙って出ていけばいい。」
父さんはそう言い、僕の脇を通りすぎていく。
「出ていった?なんだよそれ。ちょっと待てよ!」
僕は父さんの背中を追い、肩に手をかけた。けれど、一瞬でその手を払いのけられた。そうかと思うと、父さんが僕の肩を突き飛ばす。僕はバランスを崩して倒れ、床の上に背中を思いっきり打ち付けた。
あまりの痛さに声が出なかった。痛いのは背中よりも先に床に打ち付けた右ヒジの方だった。僕は声も出せずヒジを抱えてもだえた。
「お前は誰に向かって口を聞いていると思ってるんだ?ここは誰の家だ?なぁ、誰の家か答えてみろ。」
僕はなんとか上半身を起こして、父さんを睨みつけた。
「何を急に訳の分からない事言ってんだよ。皆の家だろ?違うのかよ?」
「そうか、皆の家か。なら、お前が学校へ行けるのは誰のおかげだ?生活をしていけるのは誰のおかげだ?」
父さんはそう言い僕を見下ろす。
僕は言葉につまった。
父さんが働いて、そのおかげで僕が生活出来ているのは事実。だけど、僕は飼われているわけじゃない。いや、飼われているのか?だとしたら僕には何も言う資格はないのか?
そんなの認めたくない。悔しい気持ちで一杯になった。
「なんだよ、感謝されたいのか?」
僕は精一杯の皮肉を込めて言った。
「なんだと?」
「ふざけるなよ…俺だって好きでこんな家に生まれてきたわけじゃないんだ。何なんだよ!この部屋は目茶苦茶じゃないか!あんたはまともな人間じゃない!この家もまともじゃない!それはあんたが一番よく分かっているんだろ!?」
そう叫んだ途端、父さんが大股で僕に歩み寄り、僕の胸倉をつかんだ。ワイシャツの襟が首に食い込み、そのまま僕は物凄い力で引っ張り上げられた。父さんの歪んだ顔が、僕の目の前に迫った。
「だから出て行けと言っているんだ!気に入らないなら出て行け!お前のその態度は父親に対してするものなのか?普段から人を毛嫌いするように避けて、ろくに話もしない。感謝する気持ちも微塵もない!」
僕は痛みをこらえながら右手を伸ばし、父さんの胸倉をつかみ返した。
「俺が悪いって言うのか?ふざけるなよ。どうやってあんたと話しをしろっていうんだよ!?こんな家庭でまともな会話が出来るわけないだろ!?あんたがこの家を目茶苦茶にしてるんだろ!」
「結局お前は母さんの言いなりか?なぁ?あの女に何か吹き込まれたんだろ。言っておくがな、お前達の母親はろくな女じゃないぞ。」
僕は父さんの胸倉を、力いっぱい引き寄せた。
完全に頭にきた。
「あんたにそんな事を言える資格があるのか!?もういい加減にしてくれよ!あんたも母さんも互いをけなし合ってて、それを聞かされる俺や裕也の気持ちがあんたに分かるか!?勝手にやってくれよ!俺達を巻き込むなよ!裕也はどこにいった!?まさか裕也に手を挙げていないだろうな!?」
そう言い返すと、首元が更に苦しくなり僕は思わず顔をしかめた。父さんの容赦ない腕力が、僕の胸元でうねりをあげている。
怖いと思った。大人の力に対して、怖いと思った。普段の冷たい目をした父さんからは、想像もつかないほどの逆上ぶりなのだ。
それに比べ僕の力なんて、まるでちっぽけに思えた。悔しくて悔しくてたまらない。涙が滲み出そうになった。僕は顔をしかめて必死に堪えた。
怖いけれど、怖がったりしたらいけないと思った。
「知らん!!出て行った奴の事なんか知った事じゃない!!……お前達は悪魔のような存在だ。お前達の為に働くのがほとほと嫌になった!」
父さんはそう言い、僕の胸倉から手を勢いよく離した。首元が緩まり、僕は荒い息を吐き出した。僕は父さんの胸倉をつかんだまま離さなかった。腕に力が入ったまま動かない。
「俺がどんな思いで働いているか、お前には想像もつかないだろうな。だから親に向かって平気でそんな態度がとれるんだ。金を稼ぐっていうのは、お前が考えているほど生易しいものじゃない。俺がお前達を養うために、今までどれほどくだらない仕事に手を染めてきた事か。」
父さんは僕を見下ろす。それはみくだしている様にも見えた。
憎いと思った。いつも一方的な言い方しかしない。
僕は父さんの胸倉を絞り上げた。ほんの少し手を伸ばせは、顔を殴りつける事が出来る。勢いにまかせて殴ってしまいたかった。
だけど僕は、拳をにぎりしめたままその衝動に堪えた。
殴ってしまったら、父さんと同じ人間になってしまう気がした。
「誰が頼んだんだよ……この家は、偉そうな事が言えるほどちゃんとした場所なのか?そんな風に恩着せがましく言われる筋合いない!俺はもっと普通の家に生まれてきたかった!本当にそれだけなんだ!」
僕はそう叫んで、父さんを突き飛ばした。
父さんだって僕がどんな気持ちでこの家で生活しているか、知りもしないんだ。理解しようとさえ、してくれないんだ。
僕は部屋から飛び出した。
家の外はとても冷え込んでいた。僕は家を出ると、とにかく走った。夜中の街は真っ暗で、僕は時折道沿いに灯る街頭の明かりを1つ1つ目指しながら走った。父さんにつかまれた胸倉のワイシャツは、ボタンが外れてしまっているのか、そこから冷たい風が胸に流れ込む。
だけど、全然気にはならなかった。体は熱かった。悔しかった。
父さんは昔はあんなんじゃなかった。もっとよく笑ったし、目は優しかったし、僕を優しく抱えてくれた。僕はそんな父さんが好きだった。
胸元から首にかけてが、ヒリヒリと痛んだ。あんなたくましく優しかった父さんの腕が、僕の首を……
父さんはどうしてあんな風になってしまったんだろう。
仕事のせい?
母さんのせい?
僕のせい?
父さんは僕の事を悪魔の様だと言った。
悪魔、悪魔、悪魔……
涙が出そうになった。僕は顔をしかめて走った。
視界が滲む。
涙が出た。視界がどんどん滲んでいく。
考えたら駄目だ。とにかく走ろう。行くあてなんてないけれど、走っていれば忘れられる。
呼吸のリズムと腕のリズム。体全体でリズムを刻もう。
そうやって腕を激しく振った途端、鈍い痛みがはしった。
しばらく続けて走ってみる。
やっぱり痛い。僕は立ち止まって、右ヒジをなでてみた。間接部分が腫れていて、軽く触っただけでも痛みが広がる。僕はもう一度走り出し、腕を振った。
痛い…痛い…痛い…
最悪だ。父さんに突き飛ばされた時に、床に打ち付けたせいだ。そんなにたいした怪我じゃないと思うけれど、駅伝大会は3日後なんだ。
僕は走り続けた。出来れば気のせいであって欲しい。だけど、やっぱり痛くてリズムがうまく刻めない。呼吸のリズムとまるで合わない。
涙が溢れ出た。最低だ。
走っていてこんなに気分が悪いのは初めてだ。
僕は走るのをやめて、近くの自動販売機の前に座り込んだ。
酷く疲れた。
裕也と母さんは何処へ行ったんだろう。
僕はこんな夜中にどうして1人ぼっちなんだろう。
座っていると体がだんだん冷えてきた。
僕は少し身震いした後、身を小さくして、近くの民間の明かりをぼんやりと眺めた。それは涙でぼやけて、視界の中で広がった。
とても暖かそうな明かりだった。
警察官に補導されたのは、それからしばらくたった後だった。
僕には行く場所なんてなかったし、この先の事をぼんやりと考えていた。色んな選択肢が思い浮かんだけれど、どれも行動に移せるだけの勇気も無く、自動販売機の前でうずくまっていた。だからパトカーが近づいてきている事も気が付かず、声をかけてきた年配の警察官に対しても、最初は何も答えなかった。家の住所を聞かれても、僕は答える訳にはいかなかった。
警察官は僕をパトカーに乗せると、自動販売機で缶コーヒーを買って僕に渡してくれた。それは冷えきった手には熱すぎたけれど、僕は強く握りしめた。嬉しかった。
パトカーの中は暖かく、缶コーヒーが手を温め、年配の警察官は優しくて……僕は母さんの名前と携帯電話の番号を教えた。
それからしばらくした後、母さんがタクシーに乗って迎えに来た。
母さんはタクシーを降りると、僕の方へ一瞬視線を走らせた。その後すぐに警察官の元へ行き、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。母さんは化粧もしていなかったし表情には疲れの色があった。僕は少しやりきれない気持ちになり、2人に背を向けて、泣いて腫れぼったくなった瞼の辺りを手の平で何度も伸ばした。そして黙って母さんの乗ってきたタクシーに乗り込んだ。
真夜中の街を進むタクシーの中で、母さんは繰り返し「ごめんね」と言った。それが何に対する言葉なのか解りかねたけれど、僕は口を閉じたままタクシーの料金メーターが上がっていく様を見つめていた。母さんには聞かなければならない事が沢山ある。今夜父さんと何があったのか。いや、今まで父さんと母さんの間に何があったのか。そしてこの先どうするつもりなのか。
けれど、今は何も聞きたくなかった。僕は痛みの残る右ヒジをさすりながら、窓の外を眺めた。
心の中がとてもスカスカとしていた。その中に重たく暗い予感が漂っていた。
僕は願った。
明日になれば、今日の事が消えて無くなっていますように。
皆に笑顔が戻り、僕の右ヒジの痛みも綺麗さっぱり無くなっていますように。
翌朝。
僕は気がつくとベットに横になっていた。昨夜から記憶がとんでいて、自分の居場所がよくわからなかった。僕は上半身を起こして辺りを見渡した。真っ白のシーツに厚みのあるベット。僕の寝ている横に、同じ形のベットが1つ。
部屋の中は狭くて、2つのベットが床の上のほとんどを陣取っていた。まるでベットのサイズに合わせて作られたような部屋だった。壁はまるで飾り気がなく真っ白で、目で追っていくと隅っこに小さなテーブルが1つだけ備え付けられていた。きっとどこかのホテルの1室なんだろうと思った。
部屋の中を一通り見渡した後、僕のすぐ隣、同じベットの上に、小さな布団の山がある事に気が付いた。そっと布団をめくってみる。そこには弟の裕也が丸くなって寝息をたてていた。
なんだか長い間裕也の顔を見ていなかったような気がした。実際には昨日の朝顔を合わせているんだけれど、僕は裕也の寝顔を見てホッとした気持ちになった。
部屋の中に母さんの姿はなく、僕はもう1度ベットへ横になった。そして恐る恐る右ヒジをなでてみた。何事もない事を祈りながら。けれど、やはりそこは腫れていて鈍く痛んだ。同時に昨夜の父さんの顔が思い浮かんだ。やっぱり昨夜の事は夢でもなんでもない。
この先どうなってしまうんだろう。明後日の駅伝大会、走れるのだろうか。僕は深くため息をついた。
駅伝大会が明後日?
今日はまだ…金曜日。
学校は?
再び起き上がり時計を探していると、部屋のドアが開き母さんが中へと入ってきた。
「起きてたのね。」
母さんはそう言って隣のベットに腰掛けた。昨夜よりはずいぶんまともな顔付きをしているけれど、やっぱり沈みがちな表情だった。僕は黙ったまま、ベットの真っ白なシーツを見つめていた。ほの暗い予感があった。
すると母さんは昨夜の事を話し始めた。おおよその想像通り、昨夜母さんは酔った父さんと口論になった。そして裕也を連れて家を飛び出したそうだった。喧嘩の原因が何なのかまで母さんは話さなかった。僕だけ家において、何も言わずに出て行った理由も。
「離婚するの。」
母さんは最後にそう言った。
しばらく沈黙が続いた。母さんは黙ったまま僕の言葉を待っているようだった。僕は母さんの視線を横に感じながら、ベットのシーツのシミを探した。けれど、シーツはどこまで行っても真っ白のままだった。
黙っていると、とても静かな朝だと思った。静かで真っ白な朝だと思った。
裕也は寝かしたままのほうが良いだろうと思い、僕は静かに口を開いた。
「今何時?学校行かなきゃならない。」
「今日は休んでいいのよ。学校にはもう連絡してあるから。」
母さんは諭すような口調で言った。優しさを込めたような響きがあった。けれど、全然優しくなんてないと思った。
「部活は休めない。走らなきゃならない。」
そう、僕は走らなければならない。
「今日は休みなさい。これからね……」
母さんがそこまで言った所で、僕はベットから出て立ち上がった。
「走らなきゃならないんだよ。明後日が最後の大会なんだから。」
「ちょっと座りなさい。最後まで話を聞きなさいっていつも言ってるでしょ。あなたのそういう所がね、お父さんにそっくりで……母さん本当に嫌なの。」
母さんは疲れたように顔を伏せた。
僕は父さんに似ている。
母さんが何度も言う言葉だ。母さんはそんな僕の事が、きっと嫌いなんだろう。だから、昨夜も裕也だけを連れて家から出て行ったんだろう。
そんな風には思いたくなかったけれど、母さんはきっと自分の事で精一杯なだけなんだろうけど、僕だってどうしようもなく精一杯なんだ。
「仕方ないよ。僕は父さんの子供なんだし。そんな風に言うなら、母さんが別の男の人と結婚すればよかったじゃないか。」
口元が軽く震えているのを感じながら、僕はそう言った。
僕はどうしようもなく馬鹿だ。
母さんはいつの間にか、肩を震わせていた。泣いているようだったけれど、表情は影になっていてよく見えなかった。
僕は絶対に泣いたりなんかしないと思った。
少しの間、2人とも黙ったまま時間が流れた。
裕也が布団の中で動く気配があった。まだ起きないでくれと思った。今は起こしちゃ駄目だと思った。
「今日、家に帰ってお父さんと最後の話をするの。壮太にもね、その時にいろいろと決めてもらわなきゃならないの。」
母さんは静かにそう言った。
僕は「なんだよ、それ。」と言った。
「離婚した後ね、……お母さんと一緒に暮らすか、お父さんと一緒に暮らすのか。裕也はまだ小さいから……お母さんと一緒に暮らすの。壮太はもう中学生だし……自分でね、決めた方がいいと思うの。」
母さんは酷く言いづらそうに喋った。
なんだよそれ。と思った。大切な事なんて、僕が知るより先に決まってしまっている。
僕が決められる事なんて……ただの後始末だ。
僕や裕也って一体何なんだろう?
僕は裕也が作る布団の小さな山を見つめた。
もしかしたら、裕也は布団の中で目を覚ましているのかもしれないと思った。目を覚ましているけど、布団の中で縮こまっているだけかもしれない。なんとなくそんな気がした。そうだとしたら、裕也はとても可哀相だと思った。
「……もういいよ。今はもう何も考えられない。だってそうだろ?」
僕はベットに座った。力が抜けてしまった。
「今夜ちゃんと話をするから。」
母さんはそう言い、最後に「ごめんなさい。」と言って泣き崩れた。
※作者です。
この物語を書き始めてから1年以上がたちました。現状は、行き詰まって更新がストップしてしまっています。この先の展開は見えているのですが、目の前の一歩がどうしても書けません。最後まで書き上げるつもりなのですが、とりあえず少し気分を変えて別の短い物語を書いてみようと思います。出来れば2つの物語を同時に更新していければと、調子の良い事を考えてしまっています。
ここまで読んで下さった方には、勝手な申し出になりすみません。まだ読んで下さっている方が居るかわかりませんが、報告までに。
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迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 526HIT 旅人さん
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この人はやめるべき?
文章に誤りがあったため訂正します。 アプリで知り合った人に初めてドタキャンをされすごくショックです…
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女子校に通ってた人は恋愛下手?
高校生の頃女子校に通っていて恋愛はしませんでした。 異性とあまり喋る経験がないまま社会人になりまし…
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17歳年上の男性(独身)を好きになりました。年齢やお互いの環境を気をしにしながらも周囲に内緒で付き合…
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例えば、13時頃待ち合わせの場合。 電車で行くとして、12:40着と13:05着の便があるとします…
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2歳の娘がいます。 月2回の2時間〜4時間ほど、ファミサポを利用しています。用事がたくさんある時や…
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食後。 お茶で、 お口ブクブク、 その後、ごっくん! 何が悪い? 何が汚い? それを指…
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