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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣珍道中・改

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旅人
20/03/09 08:54(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。







No.2796560 19/02/13 05:40(スレ作成日時)

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No.301 19/08/22 17:06
旅人 

「ぐるっと近くをまわってみよう」と夫。
しかしやはり近くに駐車場および駐車できそうなスペースはありません。さあ、おばさんの出番です。( =^ω^)b
停車できそうな場所で待機してもらい、矢島七観音のお祀りされているお堂のある境内へ乗り込むおばさん。( ̄ー ̄)
案の定、異質なものに対してそこにおられる方々の目があつまります。
「お詣りですか。ようこそ、お暑い中をわざわざ。」
なんと、ありがたいお言葉でしょう。
「ごていねいにありがとうございます。あの、車で参ったのですが車を置くような場所はございませんでしょうか」と、おばさん。
すると、公民館のような、建物のわきの車1、2台やっとおけそうな、┉おそらく絶対駐車場ではないでしょうに、車を置いてもよいとおっしゃってくださいました。
ありがたい。
走って、夫の待つ車へと戻り、そのスペースに移動し、車を停めさせていただきました。
みなさん、好意的なお顔で私たちを見守ってくださっておられます。
なんと、おやさしい方々でしょう。
まさに善良な老若男女が、七観音さまのお縁日を見守っておられます。
そう、こちらはすでに廃寺となって久しい、お寺跡で、こちらを維持管理されておられるのは、地元の有志の方々なのです。

No.302 19/08/23 06:24
旅人 

公民館のような建物にも十人弱、お堂のなかには八人くらいくらいの方がつめておられます。
お堂に向かって境内をさえぎるように歩きますと、境内のすみに規則的に幟が並んでいるだけではなくて境内のそこここにも幟がたてられ、はためいています。境内は砂利も敷かれていない、むき出しの土なのですが、よく手入れをされておられ、雑草一本見当たりません。
本当に地元の方々に愛され大切に保護し維持された観音様であるようです。
お堂の前にまいりますと。正面の壁いっぱいに七観音さまが安置されておられるのが目に飛び込んでまいります。大きさもさながら、距離が近いのだと思います。
お賽銭を奉納し七観音さまに礼拝させていただくと、「どうぞ中にお入りください」とありがたいお言葉をおかけいただきました。

御本尊は七観音さますべて。 
真ん中の子安観音さまだけ少し大きく、金の貼られた金色の部分がほぼほぼ残っておられます。他の観音さまは、補修なさって金を部分的に施されたのか、お肌の部分と台座、光背の部分にだけ金箔が施されておられます。あとでいただいた資料によりますと、七観音さまが安置なされておられるのは、素朴な白木の壇と、一体一体をそれぞれに区切った、上の部分のない箱状のようなものになります。大正時代に秋田杉を使ってつくられたもののようです。
子安観音さまは座像で、他の観音さまは立像であらせられます。
向かって右から、【千手観音】さま【馬頭観音】さま【十一面観音】さま、【子安観音】さま【聖観音】さま【如意輪観音】【不空絹索観音】さまが並んでおられます。
やはり、もともとは六観音さまであられ子安観音さまは後から安置されたとのことであります。

なんでもこちらは近くにある【極楽寺】さんのご住職の座を退かれた僧の隠居先の庵がもともとの始まりだったとのことであります。妻帯ご法度の時代にあり、世代交代は血筋ではなく、寺を譲るということは住まいをも譲ることとなり、こちらに移り住まれたのがこちらの始まりだったようです。
このお堂にも連名で歴代の和尚の名が記されたお位牌が安置されておりました。境内には無縫搭もあるとのことでありました。

No.303 19/08/24 01:06
旅人 

極楽寺さんの住職のおひとりが、老いて住職の座を譲り隠居後の庵をこの矢島に築かれるにあたって、六観音さまを携えてこちらに移られたのが始まりと言われています。
そして七観音となる由来となる子安観音さまは、人々の子授けと安産、子育てを願って【常盤御前】が作らせた、という説があるのだそうです。
と、常盤御前?なぜこんなところで常盤御前さまが?
常盤御前といえば、かの【源義経】のご母堂であらせられますよね?
え?



No.305 19/08/24 05:55
旅人 

こちらの境内はそれなりの広さです。もともとの廃寺以前の土地はもっともっと広かったようで、さらには隠居された僧侶はさらに土地持ちであったようでその小作料の上がりで生活することができたようです。また、こちらのそばに石川という方がおられ、お坊さまの面倒をみていたようで、こちらにあったお寺も【石川山西福院多門寺】といったようです。
廃寺となったのは、御本堂が火事で焼失してしまったことと、僧侶の妻帯が認められるようになったこと、それが明治維新の頃と重なり、政府のすすめる神仏分離もあり、ぽつんと観音堂だけが残ったということのようであります。
それでも、七観音さまの熱心な参拝者は絶たれることなく現在にいたっています。あくまでも仏事であり、子供が飛び回るようなお祭りでもなく、的屋の屋台が居並ぶわけでもありません。昔からの伝統の行事を伝承者たちが守っているといった御開帳日です。

なんでも前日には大きな長い念数珠玉をみんなでもって回しながら念仏を唱えるような行事を執り行ったということで、御開帳日の夜には紙を貼って作った四角い灯籠に灯をともし、池の水を掛けるといった行事もあるようです。
うーん 現在時刻はやっと二時。その夕刻行われる行事にはあと四時間半もあります。
しかも入院中の母親のところに夕方には行くつもりでこちらに出向いてきております。今年は無理だなあ(*T^T)


また、こちらの近くの川にたどり着いた川流れの方や、天明の浅間の大噴火で亡くなってやはり川で流れてきた方々を、こちらで懇ろに葬ってその方たちの墓を建て、またその方たちの位牌を一つ観音堂のなか、七観音さまたちのお足元に祀ってあります。
こちらの地域にお住まいの方々は、昔から情に厚く、深い信仰心が血として脈々と流れている方々なのかもしれない。
みなさん、穏やかであたたかい笑顔で談笑なされていたのが印象的でした。


 ※ちなみに、こちらには墓所はなく、その歴代の和尚さまと川で亡くなられた方々のお墓があるだけです。江戸の時代にはお寺さんに墓所はなかったのがふつうだったようですし、こちらは隠居された僧侶のお寺なので、もともとがそういったお寺というより庵の要素が強かったので。

No.306 19/08/24 07:35
旅人 

「こちらの観音さまは粘土で造られているんですよ」と、
語り部の一人のかたがポツリ。

えっ?粘土ですか?
そのとき観音さまのお足元に座っていた私は、振り返って、不敬なことに観音さまのお顔やら、絹のなびくさまをまじまじと見てしまいました。粘土で?

相変わらず神社仏閣、宗教についての初心者でありますが、粘土で造られたお仏像をみたことも聞いたこともありませんでした。身の丈一メートル近くの、見事な光背のお仏像であります。
聞いてもビンとは来ず、おそらくは触れさせていただいたところでその手触りでもわからない。
「鎌倉時代の仏像は結構粘土で造られたものが全国にあるんですよ。ただ、こちらのどの観音さまにも年号やら作者やらの記が一切なくて、鎌倉時代に粘土で造られた仏像が多いからおそらくは鎌倉時代のものだろうと云われているだけなんです。本当に鎌倉時代の作であれば重要文化財なんですけど、ね。」
そ、そうですよね。常盤御前が東北に追われた義経のあとを追って、この辺りの知り合いを頼って立ち寄ったとされる説があるので、まさに鎌倉時代ですよね。いや、鎌倉時代の作がどうのより、粘土で造られたお仏像ということだけが衝撃的な私。鎌倉時代の作と言われれば「ほおっ、ありがたい」(。-人-。)
と思うだけで時代云々はあまり関心になかったりするもので。
ちなみにこの金箔を施し化粧直しをされたのは大正の頃、一体、一体を背中に背負って修理修復のできる職人のところまで届けたのだそうです。

「その他に伝えられているものとして、大きく長い念珠と十王図があるんですがね」 
うわぁ、十王図ですか!私、いままで拝見したことがありません。いままでお参りさせていただいたお寺さんにあったとしても、寺宝であったり、涅槃図のように掛け軸を広げる日が定められていたりするのかもしれないし。
こちらの十王図も寺宝として大切に伝え守られておられるのだろうな



「よかったら是非十王図も見ていってやってください」
!!(゜ロ゜ノ)ノえっ?
ど、どこにその十王図が?あ、でも写真とか納められた箱とかでしょうか。それでもありがたい。で、どこに┉?

No.307 19/08/24 23:30
旅人 

【十王図】を知ったのは、ネットでのこと。かっぱ寺として有名な静岡県伊豆の【栖足寺】さんについて調べていて知りました。


【十王】は冥界で死者の生前の行いの裁判をする十名の王で、人間の転生先を決定するとされています。裁判の結果地獄へ堕とされる事態を免れるには、遺族あるいは本人が供養や作善を行うと裁量されると信じられていました。十王信仰は中国で成立し、朝鮮半島、日本にも伝わりました。
【十王図】は、十幅の掛け軸でそれぞれ地獄を豊かに活写しています。生きている間に仏の教えを守り、人の道をはずれることなく生きること、死後はその遺族による供養により救われることを絵解きするものであります。

こちらの十王図は、その公民館でもある建物に、そのすべてが飾られておりました。「うわぁ┉」
思わず声がでました。
年代はやはりわからないとのことで、掛け軸としての保存状態は多少よくはないかもしれませんが、絵自体の保存状態はまずまずのものだと思われます。すごいです。
これを見て地獄の恐ろしさを知り、今これからの生き方を悔い改めようと思うのにこれ以上のものはないというくらいの説得力あるものであります。
これだけのものをお寺としての機能をなくされて後も、大切に保管保護してくださっておられます。


こちらの境内には、お地蔵さまもおられ、そのお地蔵さまは通常と違い西を向いて立てられておられるとのこと。西ははるかインドを向いて立たれているのだそうです。そしてやはり二月と八月の二十四日にお縁日の御祭りをされるのだとか。

No.308 19/08/25 00:17
旅人 

【子安観音】信仰。
何年も子供に恵まれなかった方がこちらの子安観音さまをお参りされた後、すぐに子供を授かることができたということから、近隣の子供を授かりたい方がこぞってこちらの観音さまをお参りされるようになり、さらにその方々が子供を授かったことから、その名を知られることとなり、遠くからもこちらの子安観音さまをお詣りされる方が今なおおられるのだとか。
そして子供を授かったのちは、安産祈願として、こちらで おさご(神仏に捧げられたお米のことをいうようです)・腹帯・おわんを授けていただき、腹帯を身につけ、お米を炊いていただくのだそうです。ほかに授与品として御由来伝記をいただけるそうです。お縁日以外の日に授与を希望される方のために、世話人の方が授与できるよう電話番号を書いたものを境内に貼ってあるのだということです。
かつてはお灯明を上げ、そのろうそくをいただいて持ち帰り、
産気づいたときにお札とろうそくを並べて置き、ろうそくが燃え尽きる間にお産が長引くことなく無事に産まれることを願ったそうです。
安産のお礼として以前は[奉納 大願成就 元号何月何日]と筆書きした暖簾(┉さらしの端?腹帯として使っていたさらし?)を作って納めていたようですが、今は[奉納 矢島七観世音]の幟を納めるということです。腹帯として使っていたさらしは御焚きあげの際に御焚きあげするとのこと。
境内にたくさんはためいていた幟は、安産なさった方々の数ということだったのですね。

お寺でこそありませんが、人々の厚い信仰のもと、大切に大切に守られ続けている伝統の行事は、その信仰と伝統を守り抜こうとする人々の意志で立派なご利益が生まれるのだと思います。
いつまでも続けていっていただけたらいいと願ってやみません。



   令和元年八月十七日  参拝

No.309 19/08/25 07:26
旅人 

七観世音さまの帰り、夫に【極楽寺】さんにも参拝したいと申し出ました。二つ返事で極楽寺さんに向かってくれます。さすが結婚三十┉三十┉何年目だっけかな(・・;) 阿吽の呼吸、のようなときが、ごくまれにあります。ごくまれなところがいかにも私たち。
極楽寺さんは再拝。以前の参拝のおりにはなんと境内に水芭蕉が咲いていた、豊かな自然に恵まれた素敵なお寺さんです。
さあ、昨年購入した車に取りつけられたディーラーの純正ナビに、極楽寺さんの名を入れます。
┉ ┉ あのー。ここ明らかに変ですけど?お寺の裏手、ですよね。しかもこの先、私有地です、お寺さんのではない。もう一方は行き止まり。( ´Д`)=3
バックして、Uターン。もと来た道を戻ってナビの指示しなかった道を進みます。これも修行?

No.310 19/08/26 08:57
旅人 

【極樂寺】さんは、開基とされるのは864年。その後、頼朝公が常盤御前菩提のためにこちらを建立し、さらには頼朝公の所持されていた行基作とされる阿弥陀如来像を下賜され、常盤御前の廟を修営し、御前の冥福を永く祈願したとされています。古くは常盤山と号したとも伝えられているようです。
室町時代には、五輪塔、板碑、宝篋印塔が当時の豪族により建立され、現存する金剛界曼荼羅の存在などから、法儀が盛んに行われ、特に密教の灌頂道場としての役割を担っていたとされています。
徳川時代においては家光公より天下御祈祷の寺として定められ、濠を巡らせた、客殿・万日堂(念仏堂)・薬師堂・山王宮・弁財天堂・鐘楼堂、門三ヶ所の諸堂宇等がある甚だ規模広大な寺院であったようです。
それがかの明治の政令廃仏毀釈により、無住となった時すらあり、往時の建物は荒廃し、寺の什物等が多く散逸してしまったようであります。

現在の御本堂も新しいものであり、当時をしのぶものは何一つ残されておらず、唯一境内に【常盤御前の墓】とされる五輪塔があることが、当時を語るものなのかもしれません。



行基作とされる御本尊【乾漆作り阿弥陀如来像】も、極樂寺さん自体が、時代にはさらには行基作とされている点も、控えめに述べられておられてはおります。
しかし、関東や東北に乾漆像があることは大変めずらしいことなのだそうです。
乾漆像自体が布を漆で張り重ねたり、漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて造るといった、手間もさることながら、高価な漆を大量に用いるために、平安時代以降はほとんど作られなくなったものなのだそうです。
お優しいお顔立ちのそれは美しい肢体をなされた御像であります。


時代であるとか、作者=仏師であるとかは、実は宗教上はさしたる意味を持つものではないのではないのでしょうか。そこに、どれだけの信仰がなされ、大切に守られたかこそが大切なものなのではないのでしょうかね。
私はこちらの阿弥陀如来さまが大好きであります。

No.311 19/08/26 18:12
旅人 

新田義貞公同様(義貞公は御首塚ですが)常盤御前の墓と称される場所は京都市、関ヶ原、栃木県の葛生、埼玉県の飯能などなど┉数多く存在するようです。
そもそも、極樂寺の御住職からいただいた御由緒書きには
>源頼朝公が常盤御前の廟所を造営した。
とされております。
常盤御前は、義経公のご母堂。頼朝公と義経公は異母兄弟であったはず。しかも頼朝公は義経公を殺害するよう指示し、義経はそれで奥州に逃れることとなったはず。常盤御前はその義経公を追って奥州に向かったのがこの旅の始まりであったはず。その明らかに不仲な義経公の母、常盤御前がいかに腹違いの母であったとしても、頼朝公がわざわざ常盤御前の墓を建てるのはなんとも不思議、というか納得することが難しい。
そもそもが、常盤御前がどういうルートをたどって前橋市のここ、極樂寺を訪ねこととなったのか。

No.312 19/08/28 22:13
旅人 

こんなときこそ、かの私専用の名ガイド、夫の出番です。
「ねえ、どうして頼朝公が常盤御前のお墓を建ててるの?」
「さあ、わからないな。頼朝に聞いてみないと」
┉はっ?はあぁ?
そもそもが今回に関しては、彼は極樂寺さんに常盤御前のお墓があったことも知らなかったようです。
まぁ、歴史オタクといえど、そんなになんでもかんでも知っていたら、大学教授か、歴史学者になれちゃうか。


あ、そういえば、矢島の七観音の語り部の方が
「常盤御前が義経を追って東北に向かう途中こちらの親戚を頼ってこの辺りに来たときに、極楽寺に滞在していた」と話されていたんだ。
親戚。┉親戚になにか隠されたキーワードとかがないものかなあ。

No.313 19/08/29 05:44
旅人 

両親については素性が不詳。

源義朝の側室。
今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)、女子の母。
一条長成の妻。
一条能成、女子の母。


義朝公は少年時代に東国に下向しており、このときの縁もあるかもしれません。

【今若】は┉主君が頼朝公。妻は北条政子の妹、阿波局であります。阿波局は頼朝の次男千幡(後の実朝)の乳母となったとあります。
今若=阿野全成は鎌倉幕府の有力御家人として将軍家につかえた方であります。
その子孫は南北朝期までは確実に存在したことが記録に残っていて、後醍醐天皇の寵愛を受け後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔とあります。

一条長成は藤原秀衞の舅。藤原基成と血縁関係にあり、義経はその縁によって奥州に赴いたとも言われている。


わあ、拡げすぎて訳がわからなくなってしまいそう。

No.314 19/08/29 06:08
旅人 

常盤御前は、頼朝公の義理の母でもあり、今若=阿野全成という頼朝公の信頼のあつい臣下であり、異母兄弟の実母。頼朝公の実子の乳母の義理の母。
ということでもあるようでした。

まあ、きっと歴史オタクはこの辺の事実は知ってはいたのでしょうが、だからといって、頼朝公が常盤御前のお墓を建てるのはそれこそ、頼朝公に聞かないとわからない、ということになる。そういうことなのか┉。



血で血を洗うような戦国の時代。やたらと破壊したり、焼きつくしたりで殺伐としているようにしか思えなかったけれど、繋がりをひもといたり、そのなかで結びついた人と人の深い縁(えにし)。
そんなところに少し心が惹かれたりするのは、歴史オタクに影響されてるということなのかな( ;´・ω・`)

でも惜しいかな、私の記憶力は半端なく低下の一途をたどっており、さらには致命的な地理オンチ。
彼と同等に語り合う日はこないし、むしろ、馬の耳に念仏、ねこに小判、豚に真珠。
右の耳にも入らず、風と共に左に流れるという、相変わらない珍道中が続くことになるだけであります。夫よ、ごめんなさい。

No.315 19/08/31 06:10
旅人 

お堀には蓮の花が咲いていました。
以前参拝させていただきました折りには、水芭蕉が咲いておりました。

豊かな自然に恵まれた、居心地のよいお寺さんであります。
少し足を引きずるように歩かれるけれど、手にはサポーターをされておられるけれど、ちょっぴりシャイで笑われるとその笑顔が少年のようにかわいらしい御住職さまにお会いするのも、極樂寺さんを訪れる楽しみのひとつです。
┉今回、この異常な暑さのせいか、御住職に元気がありませんでした。おつらそうに一歩一歩歩かれ、書をお書きになられるのは奥でしたのでご様子はんからなかったのですが、立って朱印を捺せるように庫裏の玄関のわきに朱印を捺すところをつくられたようでした。
ごめんなさい。御朱印ひとつも大変な作業だったみたい。
でも、御住職にお会いするのには御朱印をお願いするくらいしか一般の参拝客には方法がなくて┉(´;ェ;`)

御本堂での参拝もご許可いただき、ありがとうございました。

お盆が終わられたばかりのときでしたものね。
お坊さまはどうしても立ったり座ったり、正座をされたりの日常ですし。お盆は本当にお忙しかったでしょうから┉。

どうか暑さが落ち着いたらまたお元気になられますように。



      令和元年八月十七日  参拝

No.316 19/08/31 16:07
旅人 

群馬県桐生市の【観音院】さんの、日限地蔵さまの御縁日二十四日が土曜日に重なったため、参拝してまいりました。
日限地蔵さまの御縁日には【風雅御朱印】と称された限定御朱印がございます。季節季節の花の絵をあしらわれた美しい御朱印であります。
限定御朱印にこだわるのはやめようと、御朱印をお受けし始めたときに自分で決めたのですが、どうしても心引かれて、休みがご縁日と重なったときだけ、お受けすることという自分ルールをもうけました。
今月はシュウカイドウの花の絵であります。


そんなこともあって、毎月は行かない私でありますのに、副住職さまとその奥さまは、私の顔を覚えてくださっておられ、いつもお越しくださりありがとうございますとお言葉をくださいます。
人との縁を大切になさるこのようなお仕事をされておられる方は、[人]を覚えることの能力も長けておられるのでありましょうか。
父方の┉というよりは父の眠るお寺さんの御住職さまにしろ、エピソードなり、そのとき交わした会話なり、人の特徴を大切に覚えてくださって、次の会話につなげてくださいます。


ありがたい、嬉しいと思う気持ちが、次の参拝につながり、そして、仏の教えをすこしづつ知ることにつながっていく。気の遠くなるような道程でありますが、布教するということは、そんなお坊さまの毎日の敬虔な生き方から始まっているのかもしれません。

No.317 19/09/01 23:15
旅人 

栃木県足利市の大岩山毘沙門天さまに再拝してまいりました。
今日は月に一度の御開帳日にあたり、御護摩修行が行われます。前回初めて参拝させていただきました折りには、御護摩修行の時間にタッチの差で間に合わず、「始まって間もないのでどうぞ」とおっしゃっていただけたのですが、大切な仏事の中断は失礼ですし、なによりも私がそんな参列の仕方をすることがイヤだったので、本堂の廊下で待機して過ごしました。今回は場所もわかりましたし、離れた駐車場からどのくらいの距離があって時間がどのくらいかかりそうなものなのか、余裕をもって出向くことができましたので、晴れて御護摩修行に参列することができました。


護摩(ごま)とはサンスクリット語で”火に注ぐ、捧げる、供物”などを意味する語を語源に持つ「ホーマ」という言葉を音訳したものです、この「ホーマ」はアジア一帯にみられ、3000年以上の歴史をもつと言わているとのことであります。

御護摩修行は、御本堂のなかに護摩壇(ごまだん)と呼ばれる木製の壇に据えた炉が造られており、真言を唱えながら火を焚き、香木や五穀などを捧げ、御祈願を行う修行です。大岩山毘沙門天では、毎朝5時半、そして毎月一日、正月一日~三日に御護摩修行を行なっておられます。
山伏の姿をされた副住職さまが、吊るされた鐘を打ちならして、その後御住職、副住職さまがともに法螺貝を吹きながら登場されました。炉の前には香炉や金剛杵などが置かれ、さらに御護摩に必要な仏具が置かれております。炉には四角く護摩木が何段かに積み上げられています。
ひれ伏すように礼をなさった後、真言を唱えながら、長い数珠を一粒づつ撫でるようにさわられておられました。そして塗香で身をお清めになりお焼香をされました。副住職が太鼓を打ちならし最初は一定の速度でそのうち早打ちとなる打ち方を三度なされました。その間も住職さまは鐘を打ちならし数珠をこすり、長い棒状の仏具で鐘を打ちます。また、数珠を一粒づつ拝み、副住職の吹く法螺貝の音とともに紙に火をつけそれを掴む仏具で火を炉にくべました。長い匙のような仏具で液体をかけますが、だからといって火が大きくなるような様子はありません。液体をつけた長い棒状の仏具でも液体を火にかけるようなしぐさをなさっています。
その後、細い棒を火にくべ、手では九字切りのような手の動きをなされています。



No.318 19/09/02 06:29
旅人 

御護摩修行、続きます。

般若心経を皆で唱えるのですが、そのスピードの速いこと速いこと!御住職や副住職は距離があるために声が遠く、太鼓や鐘を打ちならしていたりするため、どこを読経なさっておられるのかを探すのも至難の技。
そのとき、私を助けて導いてくれたのは、7~8歳くらいの男のお子さんでした。大きな澄んだ声で、しっかりと御住職、副住職について一字一句間違うことなく般若心経を唱えています。
そのスピード、本当に本当にかなり速いのです。独特のリズムもあります。そのお子さんはしっかりと自分のものにして唱えているということです。

山伏姿をされた副住職が御札、御守り、御朱印帳を次々と炎にかざし祈ります。その後、副住職が参拝者に一本一本小さな木の角材を手渡して歩かれました。
えっ?これをいったいどうするのだろう。
慣れた方ばかりなのでしょう。説明もないままに御内陣にむかい、一体一体の御仏像やお社、御神体に手を合わせながらお賽銭をあげていかれます。
私はといえば、先程座っていた場所にお財布のはいったバッグを置いてきてしまっており、みなさまがお賽銭をあげていかれるなか、手だけを合わせて御内陣を巡らせていただくしかありませんでした。
どおりで、読経中隣に座っていた三人の女性たちが、読経そっちのけで小銭をいじっておりました。御安置されている御仏像に過不足なくお賽銭をあげられるよう、準備していたのてすね。
読経中に不遜なことだと、少し不快に思っておりましたが、お賽銭も持たず手を合わせるだけの私も不遜な御参りとなってしまいました。


ただ、この三人の女性、こちらの護摩修行に来慣れてはいるのかとは思いますが、御護摩修行が始まってから、護摩行をなされている座のすぐそばを立って、しかも私語を話ながら横切って席につき、その後も、やれ自衛隊がどうの、誰々がどうのと普通の声の大きさでの私語がたいへん多くて、ともすればイラつく自分を鎮めるのがたいへんなくらいでした。
お寺で用意なさった御経の用紙も畳に直置き、どころかバッグまでのせている始末。一体、何をしにこちらにお越しなのか?
ただその中の年輩なかたはお経や真言にはしっかりとそのスピードについて唱えておられました。
こんな失礼な方に負けないよう、読経できるようになりたいと思う心も煩悩です、よね(^_^;)
でも、その時の正直な気持ちです。

No.319 19/09/03 05:38
旅人 

御住職は少し足が不自由なようであります。前回そうおっしゃっておられましたし、少しびっこをひかれるように歩かれます。腰も痛めておられるのか、少し前こごみで腰に手をあてるように後ろ手を組んで歩く様子が時おり見られます。お歳がおいくつなのか┉、七十代くらいでしょうか。
ですが毎日この山道を軽トラで上ってきて、朝五時半からの御護摩修行をなさっておられます。

そして、この御護摩修行で御住職がなさる太鼓!力強く、早いペースでかなり長いこと、本当に長く長く打ちならします。
これは仏事でありますので、そんな例えを申し上げてはいけないのかも知れませんが、和太鼓の名奏者のソロのようであります。
毘沙門天さまに私どもの願いが届くようにとの太鼓なのかとは存じますが、本当に人の心を惹き付ける、すばらしい太鼓捌きでありました。

仏の道を伝えていく。そんな使命を日々生きていく生きざまで伝えることのできるようずっとずっと修行を重ねた方であろうなと思います。
最勝寺さんにうかがったときも、綺麗に花が咲き、さりとて雑草ひとつない境内であり、「これから草むしりに行こうと思っていたところだからタイミングがよかったんだよ。あとちょっとずれたらいなかった」とおっしゃっておられました。
そんなお忙しいお時間を割いて、私だけのために御本堂を開けてくださり、灯をともし読経をしてくださいました。嫌な顔ひとつせず御朱印もお書きくださいました。
何より、そもそも最勝寺さんにうかがうにあたり、道に迷った私を迎えにいくとまでおっしゃってくださいました。

お寺を二か所おまもりになられるのは大変なことだと思います。
不動明王さまをお祀りし、毘沙門天さまをお祀りし。

私の器は未熟で、しかも小さなものですが、御住職からお教えいただいたお教えはしかと心に焼きつけることができました。┉と思います。┉と思いたい。欲を捨てることは難しいけれど、ひとつひとつ、一歩一歩。煩悩を打ち消すことは難しいけれど、ひとつひとつ。
そして、その気持ちを持ち続けること。┉忘れかけたら、そこに戻ろう。

そう思わせてくださった御住職さまであります。

No.320 19/09/03 22:39
旅人 

日本では、【独尊】で祀られる場合には【毘沙門天】と呼ばれ、【四天王】として祀られる場合には【多聞天】と呼ばれています。




【毘沙門天】さまは仏教を悪から守る護法善神と呼ばれる守護神の一人で、北の方角を守る神様です。また、北方の守護神であるとともに、財宝の神様であると言われています。
【仏説毘沙門天王功徳教】というお経には毘沙門天の住む天敬城では財宝や福が湧き出しており、一日に三度も焼き捨てるほどであると書かれています。



【毘沙門天さまのご利益】
毘沙門天さまは、鎮護国家、心願成就、必勝祈願、開運招福、商売繁盛などをはじめ、数多のご利益があるとされています。

[鎮護国家]
毘沙門天は東西南北を守護する四天王の一であります。そのため、毘沙門天は鎮護国家のご利益があるとされ、信仰されたと言われております。
大岩山毘沙門天も、745年の開山当時、蝦夷を睨む要衝であったと言われております。現在も鎮護国家の御祈願を行っております。
[必勝祈願]
聖徳太子をはじめ、武田信玄や上杉謙信などの数多くの武将も毘沙門天を信仰し、必勝祈願、武運長久を祈願していたと言われています。
「開運招福、商売繁盛]
毘沙門天は七福神の一神でもあり、一日に三度も焼き捨てるほどの福をお持ちだと言われており、その限りない福を惜しみなく分け与えると言われています。


そして┉この欲深きおばさんはといえば、また懲りもせず、いろいろなお願い事をしたのでありました。
ただ、鎮護国家とのことでありますことから、異常気象や自然災害、さらには煽り運転やら児童虐待などの人心の乱れを御鎮めくださるようにということもお願いいたしました。


    令和元年九月一日   参拝

No.321 19/09/10 01:15
旅人 

少彦名命さまを主祭神とされている群馬県高崎市の【小祝神社】さんに再拝してまいりました。前回は一人で参拝いたしましたが、今回は歴史オタクが一緒であります。

お優しい少しシャイな感じの女性が神職をお勤めなさる神社さんは、御朱印でも今人気の場所となりつつあるようです。

こちらはさほど広くはない境内なのではありますが、少彦名命さまがそこをちょこちょこと(失礼な不敬な表現なのですが)一生懸命お巡りになられて参拝の者をお見守りくださっているような、心弾むようなそれでいて柔らかな、穏やかな気の流れる神社さんであります。
神社さんにありがちな樹木がほとんどなく、明るい空間であります。
十月の十九日が大祭のようで、「平日なのですがよろしければ是非お出かけください」とおっしゃってくださいました。

十九日かぁ┉えっ?土曜日みたいだけど?o(*゚∀゚*)o



台風の近づくなか、小祝神社さんは穏やかな青い空の広がる風景でありました。



     令和元年九月八日(大安) 参拝

No.322 19/09/10 08:38
旅人 

青い蓮。
群馬県桐生市の【青蓮寺】さんは、なんと、この時期その名の通りに青い蓮が花開きます。
初めて見た青い蓮の花。凛とした美しさです。
まもなく年に一度の御本尊様の御開帳の日です。
そのときに合わせるように、咲く青い蓮の花。
今年も御本尊さまにお目にかかりにうかがいたいものです。

No.323 19/09/13 23:53
旅人 

今日は十五夜。

子どもたちが小さな頃はすすきを手にいれるのに苦労したり、お団子やら、果物をお供えしての一般的なお月見のお供えをしたものです。
それをしなくなったのは、舅に「十五夜のお供えをしたら、十三夜もお供えしないと片観月って言って縁起が悪いものなんだぞ」と言われたから。忘れんぼうの私が十三夜を忘れてしまいそうで、ならば縁起が悪くないようなにもしなければ間違いはない、そんななんとも味気ない理由でありました。

「月にうさぎがいる」という話も、伝説として伝えたには伝えたというくらいでしょうか┉星を見上げるのも、月を愛でるのも好きな私ではありましたが、望遠鏡でのぞいたらそんなことは嘘になってしまうし。物語の読み聞かせとして話したものです。
「月にはうさぎがいてお餅をついているんだよ」なんて月を見上げてやさしく語った母親ではありませんでした。


日本で語られている月とうさぎの話、実はインドの【ジャータカ(ブッダの前世による因縁を明かし、現世や来世についての説話をおさめたもの)】の中に納められている話が起源だと言われているのだということを知りました。


むかし、さるときつねとうさぎの3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢いました。3匹は老人を助けようと考え、さるは木の実を集め、きつねは川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えました。ところがうさぎだけ、どんなに苦労しても何も採ってくることができませんでした。自分の非力さを嘆き、何とか老人を助けたいと考えたうさぎは、さるときつねに頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだのです。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、うさぎの捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、うさぎを月へと昇らせました。



たしか、私が子どもたちに読み聞かせたお話は具体的に帝釈天さまとではなく、神さまとなっていたよう思うのですが、いずれにしても月のうさぎはブッダの前世だったということとして伝えられていたものが元のお話だったとは。



今、外に出ても残念ながら月は雲のかげでありました。

どうかせめて、このたびの台風で電気の復旧が今なお立ち遅れている地域にお住まいの方々の上にはやさしい十五夜の月が明るく照らしてくれていますように。

No.324 19/09/14 22:29
旅人 

御朱印を集めて、年月だけは経ちました。

ご年配でやはり御朱印を集めておられる知り合いのご年配のご婦人は、まさに正当派で毎日般若心経をお唱えして、写経をし、霊場を順番に巡礼されておられます。
毎日写経をされておられますから、御朱印本来の姿であります、納経しその印として御朱印をお受けになる、というまさに【納経帖】。秩父は二回、板東は今、二度目を廻られている途中で、この夏は西国三十三カ所観音霊場に訪れておられます。七十代後半か八十代。ご主人を亡くされてから始められたことだとおっしゃっていました。ことしの元旦は富士山で御朱印を受けてこられたとか。息子さんと二人の行脚だそうです。息子さんは毎週毎週、土日の休みのたびにどこかしらにお連れになっておられるようで、本当に仲のよい、そして親孝行な息子さんであります。

まだまだ雑念だらけな上に、しがらみも多くて自由にあちこちに出かけられる歳には至らないのが、私の現状。
ですが、そもそもが自分探しのクエストであります。
あせらない、あせらない。
仕事もいま、焦らない、焦らないを胸のなかで唱えながら仕事をしております。

No.325 19/09/18 18:19
旅人 

「いつなら行ける?」
「十和田の秋を見せたいんだよ」

そう言ってたじゃない。

なんで、十日に亡くなってるの?
初七日も終わって、もう空に行っちゃったんじゃない!
知らなかったよ、全然。
奥さん、焦躁しきってたよ。
買ったばっかりの八十万円のカメラで、まだそんなに写真とってないじゃない。


そっか┉息子さんの待つところに旅立ったんだね。
息子さんの眠るところに添い寝に行ったんだね。


お疲れさまでした。
どうか安らかにおやすみください。


寂しい秋になりました。

No.326 19/09/19 06:03
旅人 

┉取り乱したレスを申し訳ありません。

私、葬儀に参列したことはさすがに何度もございますが、中には亡くなられたご本人とは面識もなかったり、お付き合いのなかったご近所さん等、どうしても亡くなられたご本人さまを偲ぶ術のないご葬儀も多くあることも事実であります。

そして、両親の離婚により大好きだった祖母、祖父、何よりも実の父親の病んで入院したことところも知ることすらなく、最期のときに立ち会うことも、葬儀・告別式に参列したことがないという、人と異なる歩みかたをしてきた者です。

慕っていた方、親しかった方が亡くなられたときの、心のもちようを学習せずに、その度に取り乱し、引きずって今に至っていたことを改めて思い出しました。



人には出会いがあり、必ずや死という形での別れがあります。
送り方、送られ方を学ぶのも大切な修行であるようであります。

No.327 19/09/20 22:25
旅人 

よく晴れた暑いくらいの昨日、群馬県前橋市の【前橋東照宮】に参拝いたしました。


【東照宮】といえば、【東照大権現さま】=徳川家康公を祭神とされた神社で、言わずと知れた世界遺産日光東照宮があり、江戸時代には全国に五百を超えた東照宮が存在していたようです。群馬県にも、【前橋東照宮】、【世良田東照宮】、【徳川東照宮】と三社の東照宮が現存しており、中でも世良田東照宮は、元をただすと徳川二代将軍秀忠公が日光に最初に建てたお社で、それを移築したとされる由緒あるもののようであります。

前橋東照宮は【徳川家康公の孫にあたる松平直基公】が建立したものです。直基公を初代とする松平大和守家は、前橋東照宮と前橋市朝日町にある【孝顕寺】を伴い、実に12回もの転封をしていることから「引越し大名」という呼び名でも知られています。
まさに今、映画化され公開中の【引越し大名】のモデルであります一族が建立して共に引越しをしてきた神社であります。
二年前【前橋四公祭】というイベントに参加し、その松平大和守家について、かなり詳しいお話を【孝顕寺】さんの副住職さまに伺う機会をもたせていただくことができました。実際に前橋に在位していた期間はさほど長いものではなかったようです。



前橋東照宮は日光のものとは異なり、質素な白木の造りのお社が年を経たお社であります。

訪れたときはちょうど十一時くらいだったかと思います。社殿横を歩いておりましたとき、拝殿からなにかを手に掲げ持つ宮司さまが本殿に向かう姿がみえました。平日ではありましたが、どなたかがご祈祷をお願いでもされたのでしょうと思っておりました。
三方に御供物を捧げて、太鼓をたたく様子が見てとれました。
しかし、拝殿には宮司さまの姿しかありません。これは┉。日々毎日行われている神事のようです。
生まれて初めて、日々行われている神事を拝することができました。
感動、です。無人になってしまった神社さんも多いなか、この東照宮では毎日毎日欠かさず行われている神事があるのです。
拝殿前には穂を垂れた新米が陽の光を浴びてキラキラと光っています。
その後、宮司さまは竹ほうきのゴミを手で除き、お掃除を始められました。
くるくると動き回り、あちこちを浄めておられます。
この方のお書きになられる御朱印のお手の美しいことといったら!



No.328 19/09/21 17:39
旅人 

前橋東照宮さんの社務所は、大変近代的です。
フロントのような御朱印や御守り等の授与所、御守りや御朱印帳はガラス張りのショーケースの中にあります。

ロビーがあり、ソファーやローテーブルがあり、天然水のウォーターサーバーがあります。授乳室もあります。思わず、ここはどこだっけと思うくらいに美しく立派なトイレがあります。
ロビーには大型画面のテレビがあり【徳川家康公】のアニメーションDVDが映し出されています。そのテレビを囲むように、映画引越し大名の主人公【松平直矩公】の陣羽織と軍扇や、絵画や文芸に大変造詣のあった十一代の所持していた能面が展示されています。

テレビの大画面の大きさをも超え、その展示物を含むガラス張りの展示棚には、御手杵(おてぎね)の槍のレプリカが飾られています。
レプリカであるのは、東京大空襲で本物が焼失してしまったためであるようです。
御手杵の槍は「天下三槍」と呼ばれた名槍の1つであったようです。室町時代に下総国結城の大名・【結城晴朝】が作らせ、その養嗣子・【結城秀康(実父・徳川家康)】に伝わり、【秀康の五男で結城氏の名跡を継いだ直基】の子孫、【松平大和守家(前橋・川越松平家)】が受け継いだものでありました。
駿河国嶋田の刀工、五条義助が鍛えた大身槍であったとのことであります。実際、レプリカ、たいそう大きい!これを槍として使える?と思うくらい大きく長いものであります。
ちなみにこのレプリカ、松平大和守家現当主が依頼作成したものを寄贈したものであります。
さらにはロビー反対側にはたいそう立派な神輿が飾られています。徳川の紋が数えきれないほどについた大きくて立派な神輿であります。

歴史って、すごいなぁ。
徳川家康公の子孫、現存しておられますし、こんな身近の神社さんやお寺さんに普通に参拝されております。



ちなみに、前橋東照宮は前橋城のあったところのすぐそばにあります。明治四年に川越から移築してきたそうです。


境内には祓川という小さな川の流れがあり、人形を流すようになっていたり、日本で最初の車のお祓い所を設けた神社さんということで新しくて立派な車のお祓い所もあります。
古来よりのものは大切に、そして新しさも採り入れて、何よりも一生懸命神事に勤しむ宮司さまのおられる前橋東照宮、私は大好きであります



      令和元年九月十九日  参拝

No.329 19/09/21 18:57
旅人 

お彼岸をむかえ、両家のお寺さんにお墓参りに行きました。
嫁ぎ先のお墓は一番乗り┉なのか、今回私どもしかお参りするものがいないのか┉大掃除をさせていただきました。

私の祖父母や父の眠る墓は、お寺さんがいつも定期的にお掃除してくださっていて、いつ行ってもきれいに草がむしられ、枯れた花は撤去してくださってあります。
いつものように祖父母や父の名前の戒名の彫られた墓石の面をタオルで拭こうとして、新しい戒名が彫られていることに気づき、思わず声をあげました。
「あ、俊おじさんが亡くなっている。」
┉今はもう見かけることもなかった新しい卒塔婆が立てられています。普通ならそこから気づくようなものを、まるで卒塔婆に目がいかなかった。
優しくておもしろい、芸達者な叔父さんでした。時々、今どうされているか気になっていた方でした。
自分の父の葬儀にすら出ることがかなわなかった私に、叔父の亡くなった連絡などくるはずもなく。とうとう中学生の時別れたのが、最後となってしまいました。祖父母と私を、遠くの親戚の家まで運転して連れていってくれた人でした。
「今までこのお墓を守ってくれていてくれたんだね。ありがとう、お疲れさまでした」声に出してお礼を述べました。
┉そしてもう一つ、このお盆にお墓参りしたときには刻まれていなかった名前が一つ、父の戒名のとなりに並んで彫られておりました。
誰?
心当たりがありません。名前も年齢にも┉。

┉父の再婚相手の方?

でも、自分でこのお寺に墓所を買って、父の亡骸を葬っていたじゃない?だから、このお墓には本当は父の遺骨はないということであったし。

動揺。
┉まあ、父の妻であります。本来そこに入るのは当然でありましょう。ですが、父の遺骨をここに納めることに納得されず、新しい墓所を作りそこに納骨したと、叔母から姉が聞いています。叔母は悔しくて、喉仏をとって祖父母の眠る墓に納めて、長男である父の名を戒名を墓石に彫らせたと聞きました。
私は骨を分けられてしまった父が不憫でありました。
なのに、何故今さら?
その方は亡くなられて五年以上が経過されておられるように、墓石に彫られておりました。


私は動揺した心を納めるすべが見当たらず、その再婚相手の方の建てた父の墓所を見に行きました。┉墓じまいされていました。 

ようやく一つの身体になれた父を喜ぶとしよう。





No.330 19/09/21 19:07
旅人 

なんとも落ちつかぬ気持ちを自分なりに懸命に鎮めながら境内を歩きます。
私は、もうこちらのお墓参りには来ないほうがいいのかな
そんなことすら考えながら┉。

そんな帰り道、御本堂前で、御住職が満面の笑みでご挨拶くださいました。
「またお参りくださったんですね。ありがとうございます。」
┉ああ、もう私の顔を覚えてくださっておられるのだ。ありがたい。
「叔父が┉○○が八月に亡くなっていたのですね、その節はお世話になりました」
「ああ┉そうなんです。┉連絡がいかなかったんですか」
「私は父の葬儀にも出ていないので」
「┉そうでしたか┉。ですが、こうしてお参りくださる。是非またお参りにお越しください」
お互いが深々とお辞儀して、御住職は本堂に向かわれました。

御仏は、波立つ私の心を落ち着かせるために、御住職をつかわしてくださいました。

私の幼い頃から私を見守ってくださっていた御地蔵さまが、あの頃と同じように、やさしいお顔でお立ちになられておられました。



     令和元年九月二十一日  参拝

No.331 19/09/23 22:39
旅人 

上毛三山のひとつとされる【赤城山】。
赤城山を御神体とされる【赤城神社】さんは、群馬県だけでも51、全国でも約500社あると言われています。
その本宮はどこかということで山頂にある【大洞赤城神社】さん【三夜沢赤城神社】さん【二之宮赤城神社】さんのそれぞれが、上野國二之宮の赤城神社であると言われているようで┉(・・;)


それに対して大洞赤城神社の宮司さまがおっしゃられたというのが         
「すべての神社が、一つの本社から分かれたという訳ではありません。
お寺の場合ですと、本山があり、そこから分かれて分院が造られます。
赤城神社のような山岳信仰の場合、その信仰変遷過程から「本社」は存在しません。
自然崇拝の信仰がまず生まれ、神社という建物は後から造られたのです。本社から神様を分けて神社が造られたのではなく、神様が先で建物が後なのです」


ご神体自体が山なので、さまざまなところで赤城山への信仰が発生し後に赤城神社になったということのようです。
群馬県内に赤城神社が多いのはいろいろな地点から山が見えるところが多いからなのだそうです。
赤城神社のご神体は【赤城山】ですから。
なるほど┉

そして【山岳信仰】は最も古い信仰のひとつで、原始信仰とも呼ばれているようです。縄文時代もしくは弥生時代には、すでに信仰されています。弥生時代には農耕が広まり、山そのものに加え、水に対する信仰が加わります。水は山から里に流れ、米作り、何より生きて行くために必要ですから、水、湖も山岳信仰の重要な一部なのです

ご神体は赤城山。山であり、木であり、岩であり、湖であり、赤城山の全てがご神体。


はじめ、神社という建物はありません。神様は空の上に住まわれ、地上に一番近いところ、山に降りて来られると信じられていました。
お祭りの度に、人々の住む里にお招きし、祭りが終わると再び神様の住む聖地にお送りしたのです。

農耕が盛んになると、豊作を願い、そして、感謝のお祭りを行います。祭典が多くなるにつれて、次第にお祭りをする場所が特定されるようになります。この祭場が後に『神社』に発展して行きます。

No.332 19/09/24 01:33
旅人 

そして神様の住む山頂の神社『山宮』と集落の神社『里宮』の関係が出来ます。集落の安全を護っていただくために、人々は里宮にお祀りしたのです。
そして神様は『山宮』と『里宮』を往来するという信仰が生まれます。


赤城山頂にある赤城神社は、昭和45年に現在の場所に遷宮されたそうですが、以前は大洞にあり、806年(大同元年)に建てられたといいます。というより赤城山のあちこちにいくつもの神社があり、そのすべてが合祀されたのが今の赤城山山頂にある赤城神社さんのようです。

まぁ、あくまでも大洞赤城神社さんのおっしゃったお話ですけれど。


そんな【赤城神社】さんに参拝いたしました。
社殿は遠くからでもすぐにわかる真っ赤なものであります。沼というよりは湖の中に、せり出した土地に建てられています。
こちらは、御朱印というよりは御朱印帳で有名な、というよりは人気のスポットとなっています。

十二単の姫ぎみが見返るように舞う姿の刺繍のほどこされた、それはそれは美しい図柄のものと、社殿を真正面からとらえた図柄に啄木鳥橋と呼ばれる美しい長く赤い太鼓橋を描いた表紙のものが二種類、朝焼けの中にそびえるような金色のものと、春の青空の中にそびえるような淡い青色のものがあります。
さらにすごいところは、四季折々に、十二単の姫の表紙のものが背景の色と図柄を変えての限定御朱印帳が頒布されるのです。
また、御守りも、その十二単の姫ぎみの四季折々のものや、四季折々の赤城神社や赤城山の景色のもの。流鏑馬を描いた図柄のものや、弓をかまえた女官の姿の図柄のものなどたくさんの美しい図柄の御守りがあるのです。
授与所は常に並んでいる状態。
その限定御朱印帳を手にされている方がほとんどです。

No.333 19/09/24 08:39
旅人 

実は、このところ体調がいまいちであります。鈍痛がずっと続いていて、ロキソニンを一日三回飲んでおります。

それが赤城神社さんに参拝を済ませた時分から、ふと気づくとその鈍痛が鎮まっています!
赤城神社さんは他の神社さんのようにたくさんの神さまがたがお祀りされておられます。ただ、女性の願いはかなえていただけるということが言い伝えられている神社さんのようであります。たしかに私、原因のわからない鈍痛が不安でその病の平癒をお願いいたしました。
久し振りに鈍痛から解放され、たいへんありがたかったので、感謝の念からなかなか境内を去りがたくおりました。まあ、実際には赤城山自体が神域でありますので境内におらなくてもよかったのかとは思うのですが┉。実際、下山して赤城山からかなり離れると、昼に追加のロキソニンを飲んだにもかかわらず鈍痛が戻ってまいりました((*T^T)



赤城神社さんにおられる赤城大明神さまは女神さまであられるようでありました。流鏑馬や徳川の御紋があるため、御祭神をあまり詳しく知らぬまま、参拝をさせていただいておりました。
帰宅して、さきに書かせていただいたように赤城神社について今さらながら調べました。
長い長い歴史ある神社さんでありますので、御由緒も伝説もいくつも存在しておりました。

No.334 19/09/27 17:47
旅人 

赤城神社さんは赤城山に点在していた神社を合祀なさったということもあり、いく柱もの神さまがお祀りされておられます。

神さまがたのことを少しでも理解できたらと、本を読んだりするのでありますが、振ればコロコロという音が鳴りそうな脳みその私には記憶することができず、脈々と続く神代の流れのなかでのつながり、神さまがたの長い御名前、次々と難題のみが立ち塞がる状態であります。


今回、赤城大明神さまについて何度も何度も読み返し、自分なりに解釈してみたのですが、いま、おられます赤城大明神さまは二代目になられるようであります。
それにもまた、長い長い伝説があるのですが、そもそもの初代であらせられる赤城大明神さまは、当初、上野國の一之宮でありました赤城神社の立ち位置を、他国(日本ではない、狗留吠國)から故あってお越しになった財(宝)の神であられる抜鉾大明神さまにぜひとも上野國に末長くおとどまりいただきたいと、抜鉾大明神さまにお譲りしたという伝説があります。

また、二代目となられる赤城大明神さまにその居場所を譲られた経緯も、本当にお優しい御配慮からでありました。
初代も二代目も、ともに女神さまであられるようであります。


なおこの上野の國は、赤城大明神が一之宮でしたが、赤城は二之宮と成り、他国の神である抜鉾大明神が一之宮となりました。 

あるとき赤城大明神が絹の機織りをするうちに、生糸が足りなくなってしまいました。その折「抜鉾大明神は財(宝)の神なので、生糸をお持ちであろう」と「貸して頂けないか」と頼みます。抜鉾大明神は快く承諾してくださいました。
赤城大明神は、たいそう喜ばれて絹を織り終え、
「これ程に豊かな財(宝)の神を他の國に移らせてはならない」と、赤城大明神は一位の座を抜鉾大明神に譲り、当國に末永く留まり頂くために、二位の座についたという言い伝えがございます。

民にとって何が大切なものであるかを冷静にとらえ、ご自分の立ち位置さえ下に下げることも厭わない。


そんな神さまであられました。

No.335 19/09/27 18:00
旅人 

これは現赤城大明神さまの伝説であります。


高野辺大将家成という公家がおりました。
ある時、無実の罪で、上野國勢多郡深栖という山里に流されてしまいます。
そこで、年月を過ごすうちに、若君一人、姫君三人を儲けました。
若君が成人された折、都に上がり母方祖父と共に、帝にお目通りする事が叶い仕官を許されたのです。

三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたのですが、母君が三十一歳の春に亡くなってしまいます。
姫たちは、それぞれ十一歳、九歳、七歳でした。
父高野辺の大将は、世間の慣習もあり、人々の世話でその年の秋、信濃国更科郡の地頭・更科大夫(宗行)の娘(更科の後妻)を後添えにしました。容姿は前妻ほどではなかったものの、十人並みに綺麗な人でした。
後妻にもやがて女子一人が生まれます。それが三歳の頃、都から勅使があり、高野辺の大将は帰京を許されます。

高野辺の大将は昼夜を問わず忠勤に励んだので、帝は感心して、上野国の国司とした。
任国に下る前(京にいる間)に……と、前妻の三人の娘に、公家や大臣との縁組を決めましたが、帝が秋の間だけ都に留まるよう命じたので、高野辺の大将は三人の娘のそれぞれ乳母に、「秋には姫たちも都に上るように」と、装束の準備なども命じる手紙を出します。

こうした動きに対し、更科の後妻は、「先妻の娘の方が格が上になる」と思いこみ、継母と継子の仲が悪くなりました。
(仲が悪くなったからか、婚儀の支度の都合か、既に高野辺の大将が都に行った時からか、この後、三人の娘たちは各々養母(乳母)の家に住まいして出て来る)

後妻は、「三人の娘を殺し、自分の娘を都に上らせ、太政大臣か関白の妻とすれば、自分の一門が繁昌する」と考えます。
そこで、弟の更科次郎(兼光)に、
「前妻の三人の姫君たちは、何れも楊貴妃や李夫人のように美しい。あなたに嫁がせようとしたが、『田舎のきこり男で、姿も山猿。見るのも聞くのも嫌』と言われて悔しい」と言いました。

更科次郎は前後を顧みない命知らずの荒武者で、何でもすぐ腹を立てる者でありました。姉の言葉に地団太し歯がみして、復讐を口にした所に、さらに姉(更科の後妻)が入れ知恵してそそのかしました。



続きます。

No.336 19/09/28 05:30
旅人 

更科次郎は、「国司からの使い」と称して、赤城山で巻狩りをすると触れ回り、川より東の男を集めました。
その中から射手を選ぶふりをして、長女・淵名姫の乳母の家の淵名次郎(家兼)と、次女・赤城姫を預かる乳母の家の大室太郎(兼保)を捕らえて縛り上げ、黒檜嶽の東、大滝の横枕、藤井の谷で切り殺してしまいます。

その晩、淵名の宿に押し寄せ、乳母、淵名の女房と淵名姫を捕え、利根川の倍屋淵に沈め、殺してしまいました。
淵名の姫君は、神無月の初めに十六年の命を落とされてしまったのでした。

その後、大室の宿に押し寄せたのですが、大室の女房は、取るものも取りあえず姫君を肩にかつぎ、後ろの赤城山に逃げました。
しかし大室の女房は、山に入ったものの道に迷ってしまいます。
大室太郎の宿に押し寄せた賊は、三方に火を懸け、南に開けられた一方より逃れ来る人々を、次々に切り殺し、打ち殺したのでした。

山へ逃げ入った大室の女房は、男の従者も連れずに、夫の切り殺された黒檜の嶽を尋ね、岩の間を伝わり石の細道を登りつづけました。峰に上り、呼べど叫べど、答えはなし。谷に下りて、赤城の姫君と共にさ迷いました。
「大室殿、どうか昔の声を今一度お聞かせください。」と悲しく叫ぶも、聞こえるのはこだまのみ。大室の女房につづき、姫君もか弱き声にてつづけた。「あなたに、この様な不幸に会わせてしまい、悲しい限りです。山の護法神・木々の神々よ、私たちの命をお召しください。」と。
すると、大瀧の上、横枕の藤井という所で、美しい一人の女性が、谷の方角よりやって来ました。
「驚くことはありません。あなた方に会いに参りました。」と、懐より菓子を取り出し二人に勧めました。
口に含むと、その味は、今までに食べた事のない味わいでした。これで、疲れも癒されたのです。
山に逃げ入ってから、五、六日が過ぎ大室の女房は亡くなってしまいます。
墓に葬ることも出来ませんでした。


続きます。



No.337 19/09/28 06:33
旅人 

姫はその屍に「どうか私もお連れください。」と添え伏して泣いておりました。
そこへ、赤城の沼の龍神が現れました。その姿は美しい女性でした。 
「この世は、命はかなく夢、幻のようであります。竜宮城という素晴らしい処へと姫君を案内します。」と姫君をお連れになりました。
┉そしてその後姫君は赤城の沼の龍神の跡を継ぎ、赤城大明神となったのです。大室太郎夫婦も、従神となりました。


一方、伊香保太夫のもとに預けられていた伊香保姫は、太夫が九人の子供たちと三人の婿で挙兵し、伊香保にはいるすべての道を守ったため、更科二郎の賊と化した者たちは伊香保の地に入ることすらできず、事なきを得ます。


継母の更科と次郎とは、伊香保姫の殺害こそかなわなかったものの、予定通り事を終えたと、のうのうと月日を送っていました。


一方大将は上野の國の国司に赴任することになっておりました。
上野國数千騎の軍勢は大将を迎えに赴き、駿河の國で落ち合います。その夜、国での様子が詳しく伝えられ、国司は大変驚かれ、嘆き、その後は、何事も話さず、ふさぎ込んでしまいます。

深栖の城に到着した国司は広縁に伏して「淵名姫は何処に、赤城姫は、おられるか、私を残し三人の子は、どこにいったのか。」
「知らぬ山道に、赤城の姫君は迷い、獣の餌食になったかも知れぬ。
行って見ても辛かろう。」と、淵名姫が、倍屋淵に沈められたという倍屋淵に、旅装束のまま向かい、河岸に下り立ちました。
「淵名姫は居らぬか、私だよ、昔の姿を見せておくれ。」と叫ぶ。
すると、波の中から姫君が、父と別れた時のいでたちで淵名の女房と手を取って現れました。姫は、
「継母から恨みを受け、淵の底に沈められてしまいました。
しかし、亡くなられた母が、日に一度、天上界より下り、この淵と赤城山に通ってくださいます。
また、私も神仏の御導き、御法を説いていただき、前世の罪や穢れも消えて、赤城御前も私も共に、神となりました。」
「必ず父上もお導きいたします。」と云うと、赤城山の上より紫雲が倍屋淵を覆い、美しい音楽が奏でられてまいり、姫君は父上に別れを告げ、多くの仏さまに交じり、その雲に入って行ったのでした。
国司はこれをご覧になり「わが子よ、私も連れていってくれ」と倍屋淵に飛び込んでしまったのでした。




続きます。

No.338 19/09/28 07:15
旅人 

群馬郡の地頭伊香保大夫は、河の西の足早で知れた羊大夫を呼び、二人の姫君と大将の自害の事を都に知らせました。
この羊大夫とは、午の刻(11:00~13:00)に上野国の多胡の荘を出て都に上がれば、羊の刻(13:00~15:00)には用向き終え、申の刻(15:00~1700)には国元に帰るという神業をもつ者でありました。
16:30頃にに上野国群馬郡有馬郷を立ち、日没には三条室町に到着しました。

大将殿の嫡子、左少将殿は中納言の職にありました。
二人の姉の死、父親の大将の自害の知らせにただただ驚き、取る物も取り敢えず、その夜の丑の刻中半(真夜中2:30頃)に、三条室町の館を出発し、東国へ下ったのでした。

急な事であったので、主従七騎だけでの出立でした。
帝は此の事を聞き、中納言の慌ただしい出発を、不憫に思われました。
帝に知らせずに出発したため、何もしてやれなかったと、都で一番の早足の者を呼び、「東海・東山道諸国の軍兵は、高野辺中納言が、東国へ下る道中を護衛するように」と命じたのでした。
また、帝は中納言を新たな国司に命じたのでした。
都一の足早の者は、中納言より先に走りおふれを知らせ廻りました。
中納言が都を出る時は七騎でしたが、美濃の国青墓宿に到着した時は、その数、一千騎になっておりました。
参河国八橋に到着した時には、三千騎余りに。
駿河の国神原宿に着いた時には、一万騎余りに。
足柄山を越え武蔵の国府に着いた時には、五万騎余りにもなったのです。

一方上野國国司、義理の息子の下行を知った、更科次郎と継母の女房は、信濃へ逃げようとしたのですが、伊香保大夫が碓氷と無二の峯に関を設け、周りを固め守っていたので、逃げ出すことも出来ませんでした。



続きます。

No.339 19/09/28 08:02
旅人 

中納言は深栖の御所に入るや、兵に命じ、更科次郎父子三人を捕え、庭先に引きたて子細を問いただしたのでした。
その後、子供二人は、赤城山黒檜岳東の大瀧の上、横枕、藤井の谷で切り殺し、首を古木の枝に懸け、淵名次郎家兼・大室太郎兼保、二人の後生の修羅の身代わりとして手向けました。
更科次郎を戒めようと倍屋淵に引き連れ、船より下ろしては挙げ七十五度も挙げ沈めし責めたてました。
命知らずの荒くれ者も大声を挙げ、首を落とせと叫ぶ有り様でありました。
国司は、「淵名の姫・淵名の女房もさぞ悲しくつらい思いをした事だろう。更科よ、我を恨むこと無かれ。」と首に石を付けて淵底に沈めさせました。「継母の女房も同じ淵の底に沈めようと思ったが、父が思いを寄せ、義理の妹の姫もいることだから、無情なことも出来まい」と、女房と娘を国許の信濃の国に追いやったのでした。
信濃の人々も皆、継母を爪弾きにし、疎まぬ人はおりませんでした。
継母の女房は、泣く泣く更科の父のもとに行きました。そこで更科の女房の親たちは、親子の仲であればと、疎みながらも面倒を見ておりました。

信濃國の国司は、上野國の国司とは大変親しい間柄でした。
「中納言は不思議な事をする。父・姉妹の仇の命を助け、わが信濃國へ追い払うとは理解できぬ。また、このような極悪人を養う親も鬼である」と、親である夫婦共、殺してしまいました。
しかし、肝心の女房は何処ともなく消えてしまい、その後、甥の更科十郎家秀を頼って現れたのです。女房は、
「父母を始め、一門は一体何故に破滅させられたのか」
甥は「お前のためだ」と言い放ち、編駄という物に乗せ、女房と娘二人を更科の山奥の宇津尾山に捨ててしまいます。
おりしも、その夜、夕立が起こり、母子ともに雷に打たれ死んでしまいます。
このときから、この宇津尾山は、彼が伯母を捨てた事により、伯母捨山と云うようになったのでありました。


上野國の国司は、父と妹が亡くなった跡を崇め神社を建てました。
次に、赤城の沼に行き山に登ります。黒檜山の西麓の大沼の岸に下りて、祭祀を斎行しますと、大沼の東岸、障子返しという山の下より、鴨が向かって来ました。
その左右の翼の上には、煌びやかな御輿があり、妹の淵名姫と赤城御前が乗り、その後ろに淵名の女房と大室の女房が、御輿の左右には淵名次郎と大室太郎が立っておりました。



続きます。

No.340 19/09/28 08:38
旅人 

国司は涙に咽び、二人の姫君も兄御前の袂に飛び込んで、「私たちは、この山の神となって神通の徳を得ました。妹の伊香保姫も神道の法を得て、現生の人々を導く身となりました。」と語り涙を流せば、国司もまた声を上げて泣きました。
そこへ、母御前が紫の雲に乗って三人の子供たちの処へ下りて参ります。母は「皆嘆く事はありません。何事も前世からのさだめです。今は、この世の人々の幸福を願いなさい。」と言って天に上がって行きました。
二人の姫も帰り、国司は姫たちを乗せてまいられた鴨に「どうかこの湖に留まり、神様の御威徳を現し、後の世の人をお導きください。」と懇願したのです。
鴨は国司の願いを聞き、大沼に留まり島となったのです。
これが小鳥ヶ島です。

 その後、国司は大沼を出て、小沼の岸を歩くと父の大将が現れ「子供たちの行く末を見守るために、ここに留まっている。」と語り続けて泣いておりました。国司も涙の袖を絞り、共に泣きます。
国司はここに留まり、数千人の大工たちを集め、大沼と小沼の畔に神社を建て、神々をお祀りしたのです。


赤城山を下り、国司は群馬郡の地頭、有馬の伊香保の大夫の宿に到着します。
妹の伊香保姫は、急いで国司の元に走り寄り、兄の膝に額を付けると、そのまま気を失ってしまいます。
国司も共に気を失いますが、伊香保大夫の女房が慌てて近寄り、左右に呼び動かせば二人とも目を覚まし、国司が仰いました。
「今は、私たち二人だけになってしまいました。私は都に戻るので、この国の国司職を姫に差し上げましょう。伊香保大夫を後身として、すべての政治を正して、この国を平和に治めなさい。」
伊香保大夫と女房も「この姫君のお世話は、十分にいたします。他でもない、妻の弟の高光中将殿を婿に取り、国司職は伊香保姫と共に行いましょう。」

その後、国司である兄は都に戻り、伊香保大夫は国司の後見、その後代理職を務めたのでありました。



赤城の山に残された悲しい切ない伝説であります。
赤城大明神さまはお辛い思いをなさり亡くなられた若き姫君であらせられました。それを救ってくださった初代の赤城大明神さまと、天上人となられた母君、神仏のお教えをしっかりと受け継いだお優しい神さまであらせられます。

参拝の折、私の痛みを取り除き、赤城山の初秋の景色を楽しませてくださいました。


    令和元年九月二十二日  参拝

No.341 19/09/28 21:38
旅人 

平日のお休み。まだまだ暑い今年であります。
それでも真夏の暑さでもなく、寒さの頃もまだ先の今、片づけには最適な季節です。「これを捨てて、んーこれはどうしよう」
バタバタと片づけごとをして掃除機をかけて一息ついたとき、ふと今日が二十四日であることに、いまさらながら気づきました。

「お地蔵さまの御縁日だ」時計をみると、十一時。
┉どうしよう。午後からは病院の検査の予定があります。もちろん御朱印さえお受けしなければ、充分間に合います。一瞬のためらいののち、やはり参拝にうかがうことに決めました。
副住職さまの奥さまの「あ、こんにちは」という笑顔と会うために、御本堂で心を静めて、またいい方向へいい一歩を歩みだすために。
日限地蔵さまとつながった五色の紐を手にかけ、地蔵堂で日頃の感謝をお伝えし、今困っていることが上手く解決できますようにお祈りさせていただきに。


御本堂で御焼香し、御朱印の受付にふと目を向けると[待ち時間二十分]と書かれています。「に、二十分?!」
四時間町と言われ、実際には五時間近くかかったことがあったくらいです。ありがたい。
日限地蔵さまの御縁日限定の風雅御朱印は、それはそれは綺麗な絵手紙風の御朱印であります。「ワクワク❤」
二十分あれば心の間で般若心経をお唱えすることも可能であります。
なんと、タイミングよくことが運ぶ日でありましょう。

塗香を手にとり、身を浄めて、心の間に置いてあります経本を手に覚束ない読経をいたしました。


この日、癌の精密検査をいたします。
そんなドキドキを鎮めるにはまさにお導きとしか思えないタイミングで御縁日であることに気づくことができました。御本堂でご本尊さまに一番近いところで読経をし、日限地蔵さまには御灯明をあげて。
ゆったりとした御本堂のなかでゆっくりとした豊かなときを過ごすことができました。
ありがたいことであります。
おかげで、ゆったりとした気分で検査にのぞむことができました

結果は┉十月にはいってから。
今は静かに、結果をまちます。



    令和元年九月二十四日  参拝


あ、ちなみに八月の風雅御朱印はアザミ、でありました。

No.342 19/10/01 00:32
旅人 

とりあえず、二ヵ所の誤字、誤りがありました。お詫びして訂正させてください。

町❌→待ち
八月の風雅御朱印❌→九月の風雅御朱印

です。申し訳ありません。



昨日の九月の最終日、御朱印の先輩であります、八十代の女性のかたにお会いすることができました。
秩父三十四観音霊場巡行に行くときにはと、アドバイスをいただくことができました。今年はとうてい行けそうもありませんが、秩父巡行は基本、納札・写経を納めるので、その三十四枚の写経をしておいて、いつでも秩父に行けるよう準備をして思いをはせることといたしましょう。
納札は現地でお求めになったとのこと。事前にインターネットで購入しておかなくても大丈夫だとお教えくださいました。

いつ行けるかなぁ。午年が秩父の御開帳に当たる年であります。まさか、そんな先にはならないことを願いたい、ちょっと体力に不安な私ども夫婦でありました。
その方はころころと鈴を鳴らすようにお笑いになられ、「この私が、八十代になってから二回秩父霊場巡りをしているんだから、全然大丈夫よ」
運転される息子さん、私たちより若かった気がする┉(^_^;)

また、四国に行きたいとおっしゃっていました。
とりあえず、彼女の元気、あやかりたいものです。

No.343 19/10/02 23:00
旅人 

地域版の新聞に、【阿字観】という聞いたことすらなかったことを、体験しませんかという案内が小さく載っていました。
それが目についたのは、見慣れない文字の羅列であったことと、他ならぬお寺さんでの行事であったからであります。「高野山真言宗の寺に伝わる瞑想法とのことで、姿勢や呼吸を整えて自分の心と向き合うもの」と書かれています。

行ってみたい。
向き合うほどのものではないというより、向き合うことがこわいような自分の心ではありますが、向き合うことで変えていく方向性を見いだすことができるかと。
座禅も体験したことはありませんが、難しい座りかたや警策で叩かれるようなものでもなくただ瞑想するもののようです。

ただ、なにぶんにもズボラで怠け者で、面倒くさがりな私ですので、なかなか重い腰をあげられるかどうか┉。そこからのスタートでありますが、実は何度か参拝させていただいている地元のお寺さんでのものでありました。職場から休み時間に参拝できるくらいの地元中の地元であります。
見事体験できましたら、こちらに体験談を書かせていただきます。



夜のお寺さんかぁ(((^_^;)
どうかなぁ┉

No.344 19/10/04 05:05
旅人 

つい先日、一人でお墓参りをしてきた母の実家のお墓を守る叔母から、墓終いをしたいと申し出があったようです。
もともと、最後の跡継ぎであった叔父が亡くなる前に、「この墓に入るのは俺が最後だな」と言っていたと伝え聞いてはおりました。
叔父が亡くなって十三年経ってもおらず、なんだか中途半端な時期の申し出に、叔父のことが大好きだった私はモヤモヤした気分であります。
なぜ今?叔父はまだ六十代で亡くなっていて、しかもさほど病むことなく亡くなってしまい御見舞いにすら行けず、寂しい思いをずっとどこかで引きずっておりました。┉叔母は同じお墓には入らないんだ。
なんだか、最後に叔父が突き放されたようで、悔しさもあります。まあ、もともと叔父はそれでよいと思っていたようではあります。それも叔母から伝え聞いただけですので、真偽のほどは定かではありませんが、それはいかにも叔父らしいことではありました。

先日行ったときも、お彼岸過ぎてまもなくの墓参であったのに、そこだけ草が生え、寂しい気がしておりました。まあ、片道二時間くらいはかかるところからの墓参であります。生きていればいろいろ事情もあり、忙しいことではあるかと思いますし。まあ、仕方ないことかとは思ってはおりました。
でもお子さんも大きくなった娘さん二人、父親のお墓参りに行こうとは思わないものなのかな。一人の娘さんはお父さんである叔父と同居していたくらいなのに、なぁ。お孫さんを目にいれても痛くないくらいの可愛がりかたをしていた叔父なのに。

まあ、叔父がおそらくは望んでいたことであります。母の妹が墓終いを望まなかったため、叔父が生前には墓終いを済ませることはできなかったのだと思われます。でも、たとえば十三回忌とかの節目であれば┉納得もできたのになぁ。┉旧家でありました。母の言うことには、終戦のラジオ放送を自宅に近所の方々が集まって聞いたとか。


今年は父の後妻の方が亡くなって六年経って、父とその方の墓終いをして祖父母たち先祖の眠る墓に合祀されたのを知り、ショックを受けたり、墓終いにかかわることの多い年であります。

墓終いの前に今一度お墓参りに行こう。

No.345 19/10/06 07:40
旅人 

墓終いするという母方の実家の墓参りに行ってきました。周りの墓所に比べて草ぼうぼうになってしまっておりました。


祖母はまるでマグロように、何かしら働いていないと(収入を得る労働ではなくとも)いられない人でした。

三人の子供を亡くし、ことに三歳と一歳というかわいい盛りの子供を、わずか十六日という短い間に次々亡くしたときには泣き暮れ、放心し、かと思うととりつかれたような早足でお墓のある方角に突然歩いて行ってしまうような、深い悲しみに気がおかしくなってしまっていた時期もあったと、母が申しておりました。
そんな思いからようやく立ち直り、普段通り笑顔で過ごす祖母に戻った頃、突然、祖父が病に倒れ、入院したその日に亡くなってしまったようです。わずか五十一歳。
遺された子供たちは嫁いだばかりの母を除いて、一番下の叔母はまだ小学生だったようです。
子供を育てあげて、ずいぶんと長いこと一人暮らしをしていましたが、私が高校を卒業した頃、転倒して大腿部頸部骨折で入院し、運び込まれた先が、ヤブ医者で、まるっきりの放置。何ら固定すらせず、ベッドに放置していました。当然、歩けるようにはなれませんでした。
そんな中でも、祖母は認知症の症状も発症することなく、いざって室内を動き回り、とうとう自力で(引き取っていた)我が家の猫の額ほどの庭の草むしりをするまでに回復するのです。お風呂場からお風呂のイスを持ち出して、それに座って黙々と草をむしり、それこそ根こそぎに、┉雑草が生えていたことがウソのようにきれいにするのです。


そんな祖母のお墓回りが草ぼうぼうでは、いくら墓終いをするにしてもかわいそうで、草むしりをしておきたいことと、戒名を書き写しておこうと思ったのでありました。
残念ながら、祖母の血はほとんど私には伝わっておらず、夫のほうがよほど草むしりを真剣に丁寧にしてくれておりましたがf(^ー^;


墓終いの法要には私には声もかからないものとなるでしょう。(そもそもが人伝のそのまた人伝の人伝で伝わってきた情報でした)
私なりの墓終いをしてまいりました。
お墓にむかって初めて唱えた【般若心経】。不思議と一度もつかえることなく最後の一文字まで読み上げることができました。


       令和元年十月五日

No.346 19/10/15 23:39
旅人 

父の祥月命日です。
二十八年忌に当たります。けれど今回、毎年訪れていたお墓参りに行くことができませんでした。

もちろん毎年、父の祥月命日に休みをとって墓参しているわけではなく、命日直前の土日にお参りをしておりました。祥月命日の前日に当たる昨日、夫が言いました。
「お墓参りに行こうよ」
私は絞り出すように答えました「行けない。行きたくない。」


台風のさしたる被害も受けることなく、無事に過ごせていることへの感謝の思いを込めて、ご先祖さまにもお礼を言わなくては┉とも思っていたのです。なのに┉口に出た言葉に、自分でもびっくりいたしました。
「行きたくない。」
自分で言った言葉に思わず「えっ?」と心の中で問い返したくらいです。でも、自分で自分の気持ちを繙いてみて、納得するとともに、あらたに強い寂しさに包まれました。強い空しさを感じました。
親が離婚するということ。さらには親が再婚し新たな家庭を築くということは、こんなにも無情に親子の縁を絶ってしまえるものなのだなぁと。

もちろん、離婚した両親とも再婚してそれぞれの家庭をもっても両方の親夫婦とよい関係を築いている方もおられます。
けれど、私の場合二度と大好きだった祖父母に会うことができなかった。祖父母の死は知らぬまま、父が亡くなったという便りとともに知らされたくらい。
それでも、お墓参りに行くたびに心の澱は鎮められて、いつしか心の拠り所のようになっておりましたのに。
見ず知らずの、血の繋がりのない方がそこに名を連ねたとき、ここは私の居場所ではないことをあらためて思い知らされました。打ちのめされたようなショックと悲しみをおぼえたのです。


いつか┉きっとまた、そんな心の澱も沈み、また墓参する日がくると思います。けれど、もう心の拠り所として愚痴をこぼす場所にはもどらない。
大切な場所をまたあらためて失った、寂しい秋となりました。


そんな私の気持ちを受け止めてくださるような御住職のお寺さんでよかった。
私のお墓もこちらのお寺さんがいいかなぁと思っていたくらいに┉。


あの秋のお彼岸に新たな墓碑銘を見つけて以来、すっかり珍道中も出かける気力をうしなっていたのは、こんなに傷ついていたからだったんだなあ。


       令和元年十月十五日

No.347 19/10/16 06:51
旅人 

お墓参りはどこまでお参りするものか。


私は親が離婚したものですから、義父から父の亡くなった年の瀬に、「離婚しているんだから、喪に服す必要などない。」と年賀状を出さないことを咎められ大変傷ついたことを忘れられません。まあ、とはいえ同居ではないのでそこはどうとでもなったことなのですが、その後も離婚した父の墓参りをしていることを咎められたりし、間でヘラヘラしているだけの夫にもふがいなさを感じたある時、我慢強くない私は義父と大喧嘩いたしました。
「離婚、離婚と離婚した母子を馬鹿にした言動が多いけれど、それならば私と縁を絶ってください。私はこの家に合わないようなのでもうこちらには来ません。」くらいの発言をいたしました。
さすがにこのときばかりは夫も義父に意見したようで、義父はまもなく電話で謝ってくれました。その後に夫の実家を訪れた際、義母はさらにへそを曲げており、口すらきかなかったことは、その後さらに大きな影響を及ぼすこととなるのですが┉。それはとりあえず義父の死後のこと。
その後、義父とは真の親子のように相談しあい、義父が病に倒れたときは毎日お見舞に行き、ポンポン好きなことを言い合い笑い合う姿をみて、周りはまさに娘と父だと信じて疑わなかったと、義父が亡くなったときびっくりされたくらいでした。



┉それでは義父母たちはどこまでの血縁者の墓にお参りをしていたのかというと、義父の親の眠る自分の家の墓、その親の代の墓(同じお寺さんの二つあけたくらいのすぐそばの墓)。義母の親の墓までが、お彼岸お盆にお参りしていたお墓でありました。
祥月命日を気にしていたのは義父のほうで、義母はそういったことにも関心のない人ですので、夫(義父)の初七日に、計画していた(?)旅行に行ってしまうようなお人ですので、自宅の仏壇のお花すら枯れて義父に言われてようやく徒歩五分の花屋さんに出向く人でありました。



それでは私は嫁ぎ先と母の実家の墓参りに行くだけでいい?
母は嫁ぎ先に遠慮していたのか足がなかったからなのか、実家の墓参りは法事の時だけでありました。そんな行きなれてもいないお墓でありました。


作法もわからない私ども夫婦は、いつしか夫の実家の墓参りだけになっていました。

No.348 19/10/17 01:40
旅人 

転機は私が再度自分の車を手に入れたこと。

子供も小さくて一人では自分の父の眠るお墓参りに行く自信がなかった三年くらいは、夫の実家の墓参りだけだった私ですが、そのうちむくむくと、二年間だけ身内となってから過ごしただけの夫の祖母しか知らない、夫の実家のお墓に手を合わせていても、なんだか違和感が生じて来ました。
一緒に住んで、可愛がってもらった、大好きだった存在の眠るお墓参りに行かずに、夫と子供たちのご先祖さまだけに手を合わせているだけの自分はおかしいだろう。
義父母がよく思わなかろうと、私にとっては大切な人たちの眠るお墓なんだ。私と子供たちは血の繋がりのある人たちの、先祖のお墓なんだ。ならば、夫と一緒に行かなければいい。
子供たちとの自分の父や祖父母の眠るお墓参りは、いつしか自分の子供の頃のようにピクニック気分のような楽しいものになっていました。男の子に恵まれなかった祖父母や父、生前会えなかったのは、あなたたちも悲しいでしょうけど、私はもっと悲しくてつらかったよと、恨み言を心の中でつぶやいたり。

その後、義父が亡くなり、夫に告げました。
貴方と私が離婚して、こちらのお墓に私はもちろん子供たちがお参りしなくなったら、どう思う?と。義父母がどう思おうと、あなたたちが禁じた私の離婚した父の墓参りは、裏を返せばそういうことなんだよ?と。
それでも夫が自分から、私の父の墓参りに行くというまで私と子供たちだけのお墓参りは続きました。子供たちが大きくなって学校の部活やサークル、アルバイトで時間がとれなくなってからは少しづつ人数が減って、私一人のお墓参りのことも増えました。



今、夫婦ふたりで行くことが多い両家の墓参り。夫の実家のお墓参りに行くと、草がむしられていたり、花がたむけられていたりいたします。遠く離れて住む義姉以外は訪れることのないこの墓に参ったのはうちの子供の誰かであります。
義父、義母の実家、父たち、母の実家の墓所を、わが家の子供たちは今も覚えていると言います。
そこにお参りするかどうかは本人の心の持ちようではありますが、ルーツ、ご先祖さまたちの墓を伝えることは成功したようでありました。

No.349 19/10/18 06:13
旅人 

自分自身のルーツにあたるお墓。

義父母には離婚したのだからと否定されたものの、父の眠るお墓。
父の後妻の方が入られたということは、もしかしたら跡を継いだのはその後妻の方のお子さん=半分血の繋がった、けれど一度も会ったこともない妹にあたる方が跡を継いだのかも知れません。叔父は私が知る限り、離婚したようでしたので。
叔父が亡くなった連絡すら来なかった私には、もはや知る術もありません。
妹にあたる方が跡を継いでくれているにしても、叔父の身内の方が跡を継いでくれているにしても、遠からずこのお墓も墓終いを検討されることとなるのかも知れません。

義母の実家の墓はすでに墓終いをされ、共同墓地に残された名前は義母の弟のものだけでありました。もう、夫の母方の祖父母の眠るお墓はこの世に存在していません。

義母の実家の墓は墓終いをすることが決まったようです。片道二~三時間かかるこのお墓を、娘の代になる前に墓終いを済ませておきたいと思った叔母の、娘への強い思いやりを感じます。


お墓も新しい形を考える時代がきているのだと、あらためて思いました。
私ども夫婦はかねてから、複数の子供たちがいる以上、誰が墓を守らねばならないというような墓をもたない方向を考えておりました。

御朱印のことでよくお話をさせていただきます年配の女性は、ご主人が跡を継いでいたお墓を弟さんに継いでいただいて、ご主人のお墓を建てるにあたり、お寺さん探しから始めたのだそうです。結婚していないお子さんが二人おられ、その四人で入れるような形のお墓を建てることができるお寺さんを探して、そんな事情を含めてのお墓を認めてくださったお寺さんなのだそうです。

子供のいなかった姉は、離婚したのち着々と自分の亡くなった後のことを考えて、葬儀から埋葬まで考えて実績をすでにつくっています。お寺さんも決めて個人葬できるところに話がしてあるようです。
保険の受取人を私に変更したと先日、事後承諾ということで謝りの電話がありました。それで自分の死後の一切を何とかしてほしいということで。


お寺さんもいろいろ考えておられて、新しい形のお墓を提案した広告や貼り紙をみかけるようになりました。

自分で自分の墓を考え探してから死ぬ時代が訪れているのかもしれません。

No.350 19/10/19 18:03
旅人 

仏壇もやはり跡を継ぐ者を考えなければ持つことができません。


老人ホームにあっても、小さな仏壇をきちんと持参され、電池式の灯明と御線香を灯して、お花は枯れはじめるころにはご家族やら花屋さんに依頼されて、きちんと御供養されておられる方々がおらます。
火事や地震の際に、いまなお御位牌を持って避難される方々が、私などのような無信心の者にとってはびっくりしたくらいたくさんおられました。

私はそもそもが仏教徒でも神教徒でもなく、先祖のお墓こそあれ(そのうち二か所は墓終いを、そのうちの一か所は離婚して縁が切れていると舅に言われた、父方の墓)、どこの檀家でもない、宙ぶらりんな存在です。


さらには夫の実家から、「死んだ者もいないのに仏壇を持つなんておかしい」だの、「商売もしていないのに神棚なんていらない」など、強い干渉がありました。私の、子供たちに日本古来の大切なものを伝えていきたいと思い、つらいことや悲しいことがあったときのよりどころであったり、畏れを抱くことで戒めの心を育てたいと思った、子育ては断念せざるをえませんでした。

神教の方の、毎日拝んでいるご自宅でお身内のまつられたところも、仏壇と呼ばれる商品をお使いになっておられました。
ただ、神教の場合は御線香をあげずにお米を捧げておられました(炊飯されたごはんではない)。
キリスト教徒の方のお宅ではさすがに仏壇と呼ばれる商品をお使いになられることはないのではないかと思いますが。


そんな子育て時期にこそ持ちたかった御仏壇や神棚を、誰かに継いでもらうことすら考えなければならない年頃となったいまさら、と考える反面、やはり自分の心のよりどころが欲しくて、仏壇もどきのところを設けました。
珍道中で御朱印を受けた際に、御影や御札を収めるにもそれに相応しい場所が必要だったこともあります。


御仏壇にはお寺さんで開眼供養を受けた御仏像をお納めして初めて御仏壇になります。どんなに立派な御仏壇を購入して御位牌を納めようと、【御霊壇】といわれる物なのだそうであります。それぞれの宗派の御本尊を最上段の中央にお祀りして初めて御仏壇と呼べるようです。
ちなみに母がやはり自分の心のよりどころとして購入して、先祖代々霊の位牌をお納めして拝んでいたものは、御霊壇でありました。

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