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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣珍道中・改

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旅人
20/03/09 08:54(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。







No.2796560 19/02/13 05:40(スレ作成日時)

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No.1 19/02/14 23:32
旅人0 

明日、2月15日は『涅槃会(ねはんえ)』であります。
せっかくあらたな珍道中録を始めるのに、お釈迦さまの亡くなられた日から始める?と思われるかと思うのですが、私、2月15日生まれ、なもので、そんな節目にもあるものですから。

涅槃会とはお釈迦様の命日に、お釈迦様の遺徳を偲ぶ法要を意味し、お釈迦様の最期を描いた「(釈迦)涅槃図」を掲げて、遺教経(ゆいきょうきょう)というお釈迦様の最期の言葉をまとめたというお経を読経するのだそうです。


涅槃会の法要は宗派や、お寺さんのお考えでその規模もだいぶ異なるようです。
涅槃図を掲げ、御住職が朝、遺教経┉正式には「仏垂般涅槃略説教誡教」(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)をあげて終わられるとか、その地区の仏教会の御住職がその年の担当となったお寺さんに集まって、そのお寺の涅槃図を前に遺教経をあげて法要をされるとか、旧暦の3月に行うお寺さんもあるようです。
檀家や一般の方にむけての法要を営まれるお寺さんもあり、涅槃団子とよばれるものをまいたり、配ったりするところもあるようで、せっかく(?)涅槃会という日に生まれたのだから、一生に一度くらいは涅槃会に参列して、涅槃団子というものをいただいてみたい。


と、いうことで昨年はなぜか希望者が多くて休みがとれなかった2月15日、明日、お休みをとって、一般にむけての涅槃会法要を営まれるというお寺さんにうかがう予定であります。
けっして食い意地がはっているからではありません。

そんな珍道中ではありますが、どうかお見守りください。

No.2 19/02/15 16:46
旅人 

涅槃会の法要に参列させていただきました。
念のためあらかじめお電話を差し上げて、一般の参列が可能かどうかを確認し、うかがいました。

お教えいただいた時刻より少し早めにうかがい、御本堂に上がらせていただくと、それは見事な大きな涅槃図が掲げられておりました。
中央にお釈迦さまが横たわれ、それを多くの人たちが取り囲む、┉ 仏教に縁なく育ち、縁なく生きてきた私でも、見たことのある絵であります。

涅槃図を前に机几をおき、御祈祷などに使われる仏具が置かれておりました。その隣に置かれた机几に涅槃団子とよばれるパステルカラーのかわいらしいお団子がお供えされております。
お団子は単色ではなく、金太郎飴のように何色かを合わせて、伸して、包丁で切ったような、そんなお団子でありました。

副住職さまが参列の人たち一人一人に、一般の者向けの振り仮名付きの経本を手渡し「みなさまにも般若心経を一緒に唱えていただきますので」とおっしゃって経本が配り終えるとすぐに、
仏具の置かれた机几の前で御住職が、その斜め後ろで副住職さまがおすわりになり、いくつかの真言を唱えて法要が始まりました。



No.3 19/02/16 00:11
旅人 

(涅槃会の続き)

いくつかの真言を唱え、いくつかのお経を唱えていかれます。
あるときは、副住職の読経の合間、住職が真言をささやくように唱えられ、あるときは御住職と副住職さまが呼び掛けのように御経を合わせられたり。
その間も細く長い┉例えるなら太い箸を伸ばしたかのような杖で金色の聖水の入った容器をかきまぜるような所作などを行いながら、涅槃会の法要儀式を営まれていかれます。
そして、木魚に合わせて一般の参拝の者たちと般若心経の唱和を。
さらにいくつかの真言や御経を唱えられ、立ち上がって踵をそろえて踵をあげると同時に膝を曲げては伸ばしという動作をされて、法要を終えられました。

その後、御住職さまからの講話がありました。
涅槃会、お釈迦さまの最期について。
涅槃図がお釈迦さまの最期の様子を描かれたものでありますので、涅槃図を使ってお話くださるため、大変分かりやすいものとなります。

悟りをひらかれた後も、生きた肉体を持たれているとお釈迦様であられてもどこか煩悩があり┉それは生きていることにより営む衣食住などに基づく、人として当たり前のものではあるのですが┉死を迎えることでようやく真の悟りをひらくことができるのだから、死は悲しむことではないと、集まったものたちすべてに最期の説法をされたという。
お釈迦様の最期を悲しむものは人間だけではなく、動物や植物も悲しみ、お釈迦様が息を引き取ると沙羅の樹は枯れてしまうほどであったという。
お釈迦様の生母マーヤ様が天界から駆けつけておられる姿も描かれております。お釈迦様が不老不死となり、更なる教えを広められるようにと不老不死の薬を持って現れたものの、薬はお釈迦様のもとに届くことなく、沙羅の樹の枝に引っかかってしまい、お釈迦様は亡くなられてしまった。
お釈迦様のような方でも不老不死の身体を与えられることはなく、死は必ず訪れるものである、という真実を、身をもってお教えになられたということになります。

    

No.4 19/02/16 07:01
旅人 

(涅槃会の続き)

そんな涅槃図、
沙羅の樹は足元のものは白く枯れてしまうのですが、
お釈迦様の頭の上には生い茂った沙羅の樹が描かれており、そのうち一本にお釈迦様の生母マーヤ夫人がお投げになった不老不死の薬袋が引っかかっております。

御住職さまいわく、「たくさんの動物が集まるなか、この中に猫とねずみは描かれていないのですよ」
┉?
なんでも、ねずみはその不老不死の薬袋を取ろうと沙羅の樹に登り、そこを猫が追いかけねずみを食べてしまったから、だというのです。
食べられちゃたねずみは当然いなくなりますが、猫は?
┉その場から追放されたとのことでありました。
さらにお話の続きがありまして、あえて猫を描かれた涅槃図もあり、いろいろな涅槃図をみて、猫を探すのを楽しみのひとつにしている方もいるとか!


涅槃図は本当にたくさんの登場人物がおられ、それぞれに逸話があるためかいつまんでのお話となりますが、とお話くださいました。


最後に一人一人御焼香させていただき、「好きなだけお持ちください」とのことで、まんまるな真っ白なごく一般言われるお団子と、
涅槃団子をスプーンですくって、いただいた袋に詰めてまいりました。


いつもお縁日には平日であろうと大勢の人たちで大変賑わうこちらのお寺さん。
涅槃会にお集まりになられていたのは全部で二十名強くらいでありました。一月のお縁日でいただいたお寺の寺報にご案内があったので、存じ上げていたくらいだったのですが、そんなにはお集まりにならないものなのだなぁと思いました。とても心が穏やかになる大変ありがたい法要でありました。
来年も誕生日休暇、とれたらいいな。
┉来年はもしかして土曜日、かしら✨


No.5 19/02/16 07:34
旅人 

(もうひとつの涅槃会、その1)


えぇ?また涅槃会のお話ぃ?
すみません。笑
┉じつは15日、父たち二人の月命日なのであります。休みをとってお寺さんにうかがうのに、父たちの眠るお寺さんにお墓参りに行かないというのはなんとも気が引けるものであったので、お寺さん巡りとなりました。
誕生日にお墓参り。ほんの何年か前には考えもつかなかったことであります。


義父の眠るお寺さん。涅槃会はこれといって一般向けの法要はないとおっしゃっておられたのですが、第1、第2駐車場に車が置けないくらいのたくさんの車で、御本堂でなにやら大勢の人が移動する気配がいたします。
檀家代表の方の涅槃会の法要がちょうど終られたのかもしれません。
私の気配に気づいて、お寺の女のかたがお声をかけてくださったのをいいことに、「月命日でお墓参りにまいりましたが、よろしければこちらのお寺さんの涅槃図を拝見させていただくことはできますか?」
┉義父が生きていたら、頭をこずかれそうな図々しい申し出であります。
それでも、笑顔ですぐに、「どうぞ是非ご覧になってやってください。今しか見られないものですから、せっかくの機会です、どうぞどうぞ」と御本堂にご案内いただき、拝見させていただくことができました。
こちらの涅槃図はコンパクトなサイズで、だからこそ、ひとつひとつに目が届く。┉本当にお寺さんお寺さんでいろいろな涅槃図が伝承されているようです。
こちらにお供えされていた涅槃団子は直径が大きな、すべてが同じサイズに整えられたものだけを並べた、お花の柄を作ったお団子でありました。

冷や汗かいてるだろう義父のお墓にお参りして、
┉お寺さんのはしごであります。


No.6 19/02/16 10:51
旅人 

(もうひとつの涅槃会、その2)


┉「もうひとつの」と銘打ったら、あとひとつはおかしいでしょ。と、みなさん思われるかとは思われますが、神社仏閣の参拝初心者のみならず、日本語もいまいちな情けない人間でありまして。
┉そんなやつの拙い文章でお目汚しをさせて、すみません。


三ヶ所目のお寺さんは、婦人会の方々が毎年涅槃団子をお作りになるという、地元では知る人ぞ知る涅槃会を開かれるということであります。もちろん、私が知らなかったことはいうまでもありません。
こちらのお寺さんはこれで五回目の参拝となりますが、涅槃会のご紹介をいただいたのは、こちらのお寺さんではなく、地元仏教会会長さんの、ちがうお寺の御住職さま。御自分のお寺は涅槃図を掲げて朝方御住職がお一人で読経されるだけだと話しながら、こちらの涅槃会を教えてくださいました。
お電話を差し上げたところ、「写経もありますし、手作りの涅槃団子やお汁粉のふるまいもありますので、どうぞお友だちをお誘いになって、是非お出かけください」とおっしゃってくださいました。
じつは写経も、お寺さんで全文を書かせていただいたことがなく、またとない機会だと、喜びいさんで向かわせていただいた次第であります。
┉ですが、本来涅槃会はお釈迦様の亡くなられた日。決して喜びいさんで出かけてはいけないので、そこはきちんと反省して。

早めに到着したので、写経から始めさせていただくことができました。写経の最後に『為』という文字があり、納経の際は仏さまにお願いしたいことがあればそちらにお願いを記すようであります。決まった文言(四文字)から選ばせていただくことが一般的なようですが、私の隣で写経なさっていた方は、菩提を弔うためとおっしゃっておられました。
みなさん、文鎮やmy筆ペン持参で、お寺さんのおっしゃってくださった言葉通りに手ぶらで気軽に出かけてまいった自分が情けなく恥ずかしかったです。以前写仏させていただいた折に、文鎮の必要性を痛切に感じたのに┉。相も変わらず未熟なままであります。


No.7 19/02/16 18:03
旅人 

(もうひとつの涅槃会、その2)続き


こちらは1600~1700年に建てられたという御本堂や山門、鐘楼などの建築物が残る、由緒あるお寺でありますが、涅槃図についてはいつ頃誰が描いたものかはわかっていないということでありました。大変大きなもので、大きなお寺さんの壁一面すらも超える大きさであります。

納経後、御本堂の涅槃図の飾られているお部屋に行くと、涅槃図の前にお手製とうかがっていた涅槃団子がお供えされています。
やはりまんまるなものではなく、金太郎飴のように切り揃えられた、きれいなピンク色の可愛らしいお花の模様です。
三十年以上前から、こちらの婦人会で考えて作るようになった涅槃団子だそうです。 
こちらのお寺は婦人会の方々の活動が大変活発なようであります。お揃いの支度で、お揃いの仏具をお持ちになって涅槃会の御詠歌(┉こちらのお寺さん独自のものか、曹洞宗のものなのかは、私が素人過ぎてわかりません。「へぇー、涅槃会の御詠歌もあるんだぁ」とただ感心して帰ってきたものですから)を奉詠されていました。
もっとも、私が生まれてはじめての涅槃会への参列でありましたので、すべてが目新しいものであります。御詠歌もはじめてお聴きしたくらいですので (^^;


奥さまお手製のお汁粉もご用意いただき、甘さもちょうどいいおいしいおいしいものでありました。


境内には小さなものではありますが、自然の滝もあり、大好きなお寺さんのひとつであります。



   平成三十一年二月十五日  涅槃会参列







No.8 19/02/17 15:25
旅人 

涅槃図はお寺、お寺でその図柄はさまざまでありました。
どうしてもこの絵におさめなければならない方々や、
例えばお釈迦様の横たわる御姿、
例えば沙羅の樹など、決まりごとはかなりあるとはいえ、猫は描かれない、という点に関してはさしてお釈迦様の終焉において大きな意味をなしてはいないので、描き手によってあえて描いてみたりと、ある程度の自由はあるためかと思われます。

今年、三幅の涅槃図を拝する機会をもつことができ、ふと気づいたのは、そのうち一幅の涅槃図はお釈迦様の真上に満月が描かれていたという点であります。
御住職さまたちが異口同音にお釈迦様が亡くなられた日そのものが、2/15であったということも定かではないこととおっしゃっておられましたし、なにより当時は旧暦であり現在の2/15とは一ヵ月ほども異なることになります。お寺さんによっては三月に涅槃会法要を営まれるところもあるようです。
旧暦は新月を朔日=1日とするため、15日は必ず望月、満月を迎えます。今年の旧暦の2/15は3/21の春分の日に当たり、当然のことながら満月であります。


【願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃】と平安の頃の僧、西行が詠んでいましたが、それはまさに釈迦入滅の日に、ということ。
この寒さの中亡くなられたと考えるより、あたたかな花の頃入滅されたと考えると、お釈迦様が亡くなられる時季までお選びになられて亡くなられたように思えて、少し心があたたかくなりました。

大きな満月が描かれた一幅の涅槃図が、こんなことを私に語りかけ、考えさせてくれました。




ちなみに2/19はスーパームーンのようです。その大きな大きな満月の下、私はなにを思うのかなぁ。

No.9 19/02/17 19:39
旅人 

夫からの誕生日のプレゼントは【ピーターラビットの御朱印帳】でした。
「これ、秩父三十四観音巡礼用?」と聞くと、
「いや、秩父は専用の御朱印帳じゃないと」

 

いったい、いつこの御朱印帳を使うというのだろう?



 

No.10 19/02/20 23:09
旅人 

いつも見守ってくださっている、仕事先のすぐそばの稲荷神社さまに、お昼休みを利用して参拝して参りました。


石段を何段登るのだろう。参道の一番下からでは拝殿は見えません。
見晴らしのよい小高いところに建つお社であります。

こちらの神社さんは、今の勤め先になって知ったのですが、本当に仕事にいく私を見守ってくださっているように感じる神社さんであります。
人間関係に疲れた時や仕事につまずいた時など、まさに困ったときの神頼み、で訪れております。
仕事を終えて前を通るときは、下からで申し訳ないのですが、
心のなかで今日もありがとうございました、とお声がけさせていただくのが日課となっております。
もうずっと拝殿に詣でていないことが気がかりで、昨日から今日は絶対、お参りしようと思って仕事に向かいました。

あたたかで爽やかな風がそよいで、気持ちのよい境内でありました。
よい昼休みにしていただいて、それもまた感謝いたしました。


登りはキツくて息が乱れた┉身体のなまった私でありました。が、お参りのあとは、それが嘘のように軽やかに下ることができ、
バタバタと忙しかった仕事も一つ一つしっかりこなすことができました。



No.11 19/02/22 06:28
旅人 

今日はお休み。

どこか少し遠出をしてみようと、ネットで検索をしてとても風情のある、由緒あるお寺さん┉というより、「行きたい!」お寺さんに出逢うことができました。なんとも便利な時代であります。

前スレをお読みでない方はご存じないことかと思いますが、私、大変な方向音痴であります。
今はこれまた便利な時代で、ナビというものがございます。が、私のクルマ、あえてナビを付けなかったので、あとから簡易ナビを購入したのでありますが、クルマも(私も)年をとり、ナビをつないでも起動しない!のです。自宅で充電して持ち込めば起動するのですが、これがまた、長い時間使うと突然切れる!
それはもう、大変スリリングなお出かけとなるのであります。
しかもナビって、「目的地周辺に着いたので」とか言い出して、目的の建物すら見えない状態で「音声案内を終了します」とか言ったかと思うと同時に、ただの地図に変わるではないですか!
そこが、クルマを停めて周辺をみて歩くことができたり、お店や周辺にお住まいの方に(大変ご迷惑なことではありますが)お聞きすることができたりするようなところでおっ放されたのであればよいのですが┉山のなか、バックするしかないような、辺りに建物一つないようなところで放された日には、もう、パニック難民!!

仕事中の夫に半泣きで電話をかけたことすらある、生粋の方向音痴の者であります。


昨夜、仕事から帰宅した夫におそるおそる、その行こうと企てているお寺さんのある地名を申し、私にも行けるものかと相談いたしましたところ、即刻、
「無理!」
と無情な一言!
┉まあ、千葉に向かおうとすれば反対方向の高速に乗り。
ナビの微妙な案内を間違えて高速道路の変更を間違えて、とりあえず下りられるところまで走って、ガソリンスタンドの方に道案内をしていただいたり。
ディズニーリゾートの駐車場に着いたり。
数々の伝説を築いてきた私を、一番長く見守って(迷惑を被って)きた夫であります、彼の判断することはおそらく、私本人の判断よりも的確にして正しい。

癪にさわるものの、仕事先の、一緒にクルマで出かけたこともない同僚にすら、薄々感づかれている天才的な方向音痴。夫の意見に従って、「行きたい!」お寺さん、今日はあきらめることにいたしました。


┉行けそうな気がするんだけどなぁ。






No.12 19/02/22 06:39
旅人 

ちなみに、
前スレで、行きたいと書くと近いうちに行くことができるというありがたいジンクスがあり、記しておきたいと思います。

獨鈷山 西明寺(益子観音)さん。



千葉に行くよりも全然近いし、一応は地図でイメージトレーニングしてみたんだけどなぁ。

No.13 19/02/22 18:38
旅人 

本日二月二十二日。
昨今流行りのフレーズ、平成最後の二月二十二日であります。
しかも三月を思わせるようなポカポカ陽気、まさに絶好の神社仏閣巡り日和であります。

近隣の群馬県桐生市、太田市、栃木県足利市の【七福神巡り】がどれもみな、六福神さまでとまっていたり、四福神さまでとどまっていたり、三福神さましかお参りしていなかったり。
今日は、どこかの七福神さまをコンプリートさせていただこう。我が家から向かう方角は三つの市どこもが同じ方角であります。
とりあえず、出発してしまおう!こんなにも気持ちのいいお天気、いつ、風が強くなるとも限らない。

結局どちらの七福神さまをコンプリートすることになったか、決め手となったのは、┉なんと私の腹の虫!どうせなら行きたいうどん屋さんを含むコース、┉ということで、桐生市の七福神巡りに決定しました。

桐生市の七福神さまは、福禄寿さま、大黒天さま、弁財天さま、そして毘沙門天さまを巡らせていただいてます。
本日寿老人さま、恵比寿さま、布袋尊さまのお寺さんを参拝いたしました。



さて、本日こそ、単身私のみでまわらせていただいておりますが、いつもは二人三脚の珍道中であります。
┉まあ、私が希代まれなる方向音痴(┉はさすがに言い過ぎ、だと思いたい)であり、運転も好きではなく、と同時にあまり運転技術もかんばしくなく┉そんな妻を見張り、なおかつクルマの運転の大半を引き受けるべく同行してくれている夫と神社仏閣巡りをしております。


夫は祖父母、そして両親、兄弟という家庭で生まれ育ったので、両親が無信心であっても信心深いお祖母さんがおりました。
どこどこのお縁日があると言えばかならず詣でておられたようで、幼いころ、夫はよく、そんなお祖母さんに連れられてあちこちのお寺さんや神社さんに詣でていたようでありました。

それに比べて、私、祖父母との同居がほんの短い期間であり、加えて両親は無信心。お仏壇も神棚もない家庭で育ち、加えて両親が離婚して、父方の祖父母、なにより父親の死に目どころか葬儀にすら参列できず。
ずっとずーっとお盆もお彼岸もなく過ごして何十年、初詣もなく当然厄除けなどもしたことも見たこともなく何十年と過ごしてきた、筋金入りの神社仏閣超初心者でありました。








No.14 19/02/23 02:32
旅人 

神社仏閣珍道中┉それはひとえに私が神社仏閣の超初心者であるが故。夫は両親こそは無信心者でありますものの、祖母さんの存在もあり、初詣も経験者で、お盆の迎え火送り火も行う家に育っておりますし、なによりも夫はかなりの歴史オタクなのでありました。
神社仏閣は歴史と切っても切れない間柄であるようで、初めて訪ねる神社仏閣さんの歴史的な流れにくわしいこと、くわしいこと!伝承されている民話に至るまで、まあ、スラスラと語ってくれるのであります。さながら無料の神社仏閣巡りのガイドさんのようで、運転もするは解説はするは、珍道中には頼もしい、なくてはない存在、なのであります。そんな彼から聞いた話によると、妙音寺さんには変わったお宝があるようで┉。


『妙音寺開運招福秘蔵什物』

〇 人魚のミイラ
世界各地に伝承される人魚。
日本では嵐を起こし漁師を惑わすと恐れられている一方、吉兆との説もある。
人魚の肉を食せば八百歳の寿命を得るとされ、不老長寿や無病息災の信仰対象にもなっている。

〇 雷獣のミイラ
落雷と共に現れると言われる雷獣。
東日本を中心に日本各地で伝説が残る。
中国では「山海経」に、この名が有り、水に入ると風雨を呼び、声は雷鳴の様だとある。
その皮で作った鼓は五百里にまで響くとする。
雷雨の時、空中を飛び地に落ちて樹木を裂き、人畜を害するなどと言われるが、
拝すれば落雷や暴風雨などの災害に遭うことなしとも言われる。

〇 幽霊画
幽霊画と言うと不気味なものとして怖い物見たさで見る物と思われがちであるが、縁起物としての一面も持つ。なぜならば、幽霊は「夜に出る」故に「世に出る」に繋がり、出世すると言われるからである。
幽霊画の作者も、応挙をはじめビックネームが多くいるが、真贋より縁起物として楽しむべきであろう。



┉という秘仏ならぬ秘蔵什物があるようであります。そんなことはお寺さんに行ったところで一切書かれてもなく、御本堂も閉ざされており、まあ、夫にいたっては行ったことのないお寺さんなので二人ともその秘蔵什物を見たことはないのでありますが。

天保の頃に大火にあい、重要な記録のほとんど、そしてなんと百体観音を安置していた栄螺堂を焼失してしまったとのことで、なんとも残念なことであります。
いつか、その秘蔵什物、拝見できたらいいと思ったりもする、私だったりして(*`艸´)



No.15 19/02/24 01:24
旅人 

久昌寺さんは、優しくてあたたかなご年配の御夫婦が
法灯をまもられているお寺さんであります。
この日はご不在。
少し淋しい思いでお参りをして、
七福神の【恵比寿】のスタンプを捺させていただき、
お寺さんをあとにしました。


西方寺さんは桐生市の市街地を抜けて、桐生城のあったという梅田の地にあります。
そしてまさにその桐生氏の菩提寺であります。
ナビ無しでは行けない、というほどではなく、曲がるポイントには分かりやすく看板も出ております。
しかし、もちろん私の場合は、久昌寺さんも西方寺さんもナビ無しではたどり着けない!しかも西方寺さん、道が狭い!!
「えええぇ、対向車来たらどうするんだろ、┉仕方がない、私に道を譲ってもらおう」
と、おばちゃんらしい考え方でおそるおそる道をすすめ、幸いにして対向車には出合うことなく無事に西方寺さんにたどり着くことができました。ほっ❤ 
┉そんなことだから、家族は全員私にハンドルを握らせないんだよなぁ。
たどり着いた┉というより、やはり御仏の御導きかと感謝しつつ境内に向かうと、薄紅の梅がお出迎えしてくれています。六分咲き、といったところでしょうか。参道は枯山水を思わせるような佇まい。
「ん?」
大きな大きな梵鐘です。
┉初めて見るような書き方をしておりますが、御朱印もお受けしてあるお寺さんであります。ですが、まるで記憶になかった。
お参りを済ませて【布袋尊】のスタンプを捺させていただき、ふらふらと梵鐘のところに。「ん、ん?」
どうやらこちら、梵鐘をつかせていただいていいようであります。
┉そう書かれてはいるけれど、聞いてからのほうがよいのかな。
躊躇することしばし。いやいや、迷いの念があってはいけない、つきたいのだ、ならば迷わずつかせていただこう!
またまたおばちゃんは、そう考えて、梵鐘を、
ごーん。
大きな、そして重みのある、心に響き、心洗われるような音色でありました。いつまでも音が長く長く残っておりました。ありがたいという念が自然にわき出る音色であります。
小高い地に建つ西方寺さんからの景色は、いつも心に爽やかな風を届けてくれる、そんな気持ちのよいものであります。
┉大きな梵鐘が記憶になかったのは、きっとそのせいに違いない!


夫には黙っておこうっと。(;-`´-)



    平成三十一年二月二十二日  参拝









No.16 19/02/24 06:53
旅人 

一人神社仏閣珍道中。(┉いやいや、そもそもが夫が一人で神社仏閣を参拝したら珍道中ではなく神社仏閣巡りでしかない。)
七福神巡りの他にも、ずっと気になっていたお寺さんがあり、そちらにも寄らせていただきました。


桐生市の長福寺さん。
七福神巡りの【弁財天】光明寺さんより奥まったところ、
昔からの住宅街にあり、未知の細そうな道を行くこととなります。当然住宅街ですのでクルマは通る、ですが万が一対向が困難な道であったら?
これはもう、歩いて行ってしまおう!

ということで、自らの器を知る私、吾妻公園という公園にクルマを停めて、歩いてまいりました。
どれくらい歩いたのかな?あたたかな春のような日、周りの景色を楽しみながら目には見えない、クルマで来たら感じることもない微かな上り坂を歩くこと10分以上、なのかな、そろそろ本当にこの道でよかったか不安になる頃に、お寺さんの小さな看板がみえました。
(歩いてきてよかったぁ。)┉かなり急な坂を上っていくところに駐車場があるようでありました。対向が難しそうにも感じられます。少なくとも、私に関しては、歩いてきてよかったぁ。

小さな坂を登ると途中遠くでチャイムが鳴るような音。
どうやらセンサーがあって、人が通るとチャイムが鳴るような仕組みになっているようです。そんなことに感心していると!
庫裏の前に、最近の造りと思われる石造のお地蔵さまがおられるのですが、サングラスをかけ、頚には大きな粒のネックレスをつけておられるのであります。驚いたのは、そのサングラスとネックレスは本物であったこと、それがまたあつらえたようによくにあっていたこと。

決して大きくはない境内には明るい日の光が燦々と降り注ぎ、柔らかな気があふれています。御本堂の仏さまから遊園地の観覧車が見えるかと思われます。新しいお寺さんなのかな?
┉いやいや、私の心をくすぐる石仏さまがたくさんおられます!そして御本堂の彫りの見事なこと!!風雨にさらされる外の彫刻が、それはもう細部にまでこだわった薄く薄く削られたところとか、これは新しいお寺さんではなさそうです。


  ┉続きます。


No.17 19/02/24 07:57
旅人 

御本堂の前での参拝をさせていただき、御朱印をお受けしようと庫裏にまいりました。いかにもお優しいといった雰囲気を身にまとわれた女の方が対応して下さいました。
私が、御由緒書などがおありでしたらいただくことはできますか?と聞くと、困ったようにそれはないですとおっしゃられました。私、どうしても気になる石造のお社が御本堂の前にあり、そのいわれだけでもとうかがうと、「お薬師さまなんですよ」と、ばぁと明るい笑顔になり、彫りの見事なことを申し上げると、こちらのお寺の御由緒をスラスラお答え下さいました。

元々は桐生市の中心地にあったこちらのお寺、昭和30年代に入り、桐生市の都市再開発で道路拡張工事の必要性から、移転要請があったのだそうです。そのときお寺の調査にあたった建築家のすすめで由緒ある御本堂を解体移転という形をとったため、姿をそのままに残しておられるのだということでありました。
桐生市の中心地からの距離はなんキロの単位。それはそれは大変な作業であったことでしょう。釘を一本も使っていないとのことで、だからこそ解体移転が可能であったのかもしれませんし、取り壊すには勿体ない造りであった、ということでありましょう。
それにしてもなんともぶっ飛んだお話があったものであります。

そんなことを考えながら、石造のお社のお薬師さま、そして御本堂に再度お参りに向かっていると、先ほどの女性が庫裏から少しあわてるように私を追いかけてお出になり、「こちらの寺のことが載っている新聞があるのでよかったらお持ちください」
とおっしゃられ、御本堂の脇からお入りになり、新聞を一部下さいました。

そこには、こちらのお寺に祀られておられる三宝荒神さまのこと、こちらに移転される前のお寺の歴史が短く書かれておりました。

こちらのお寺さんは、桐生が徳川の支配地となり、桐生新町を創設されたときに桐生の中心地、本町五丁目に建立されたようでありました。そこに合祀された三宝荒神さま。
火伏の霊験あらたかであられ、江戸の大火のおりにちょうどこちらのお寺さんを境に火がとまり、そのことから東日本一帯から信仰を集め、付近には旅館が建ち並び、門前には商い屋などで賑わいをみせたお寺さんだったとのことでありました。
それほどのお寺さんに移転要請をする!
そんな時代があったのだなぁ┉。




No.18 19/02/24 08:14
旅人 

いただいた新聞より。

寺伝三宝荒神縁起等によれば400年以上も前の話。
比叡山の名僧法心上人が諸国行脚のうち、利根川のほとりでうたた寝をしていると夢枕に荒神様が現れ、こう告げた。「その方、いまより私を背負って行脚しなさい。そして私のとどまるところ、艱難の衆人を助け生涯安楽の恵みを与えなさい」と。目覚めると枕元に一体の荒神様があった。お告げに従って諸国を巡り、ある時桐生新宿村雷電原坊主山に立ち寄ると、荒神様はたちまち千貫の重さとなり動かなくなった。そこで、法心上人は土地の者に夢話を語り、その地に荒神様を祀ったという。
其後50数年、戦国の世が去り、桐生郷は由良氏支配地から徳川氏の支配地に変わり、桐生新町創設時に桐生中心地5丁目に新たに建立された中央山多宝院長福寺と併せて荒神様尊像も祀られました。火伏の荒神様の霊験はあらたかで、元治元年の桐生新町の大火の際、この荒神様で火がとまり、以後長福寺イコール荒神様といわれ、東日本一帯からの信仰を集めた。




とのことであります。



   平成三十一年二月二十二日   参拝

No.20 19/02/24 21:24
旅人 

長福寺さんの、(二日)後日談

夫に22日に参拝させていただいたお寺さんのことを話したところ、「俺も長福寺さんに行ってみたいんだけど、いいかな」
やっぱり┉。
私が一人で参拝させていただくと、こうなることが多いから、結局初めてのところに一人で行くのを躊躇しちゃうんだよな(ー_ー;)
と、いうわけで、本日再拝させていただきました。

近くを歩いていると木魚の音が聴こえてきます。日曜日なので法事を営まれているご様子です。そおっとそっと。

 ┉
「これは見事だねぇ」
お寺の彫刻を見て夫がつぶやきます。
「ね。ここのところなんて別にそのままでもいいだろうに、あえてこだわって薄く薄く削ってるんだよね」
「ほんとだ!本当に細かいところまで彫られてるねぇ」
そんな会話をしていると。
奥さまが庫裏から出てこられました。「あ?」奥さまのお口から小さなお声が漏れました。そうですよね、一昨日、ですものね。(^-^; 御朱印もお受けして、御由緒書はないかだの、石造のお社はどういったものかなどの会話をしておりますし。
「先日はご丁寧にいろいろご案内いただいた上に新聞までいただきまして┉」「またお越しいただきましてこちらこそありがとうございます」

このやり取り!なんと心和むことでありましょう。こんな出逢い、こんなふれあいがあるから、御朱印をいただくのがやめられなくなっております。やがて法事が終わられて御本堂から出てこられたご住職に奥さまが「一昨日来てくださった方がまたお越しくださったの」と紹介してくださいました。
ご住職が「よろしければどうぞ(御本堂に)お上がりください」
┉ありがたいことでございます。御本堂の中も見事な彫りが施され、天井には大きな龍が描かれていました。

「こちらの本堂は元々は三宝荒神堂であったので、だいぶ小ぶりなものですけど、造りはしっかりしております」
「荒神さまは生活全般を見守ってくださる仏さまで、特に火伏のお力が強く、今も荒神さまの御札を台所などに貼っておられるお宅もあるかと思いますが┉」
「冬至の日にこちらで御護摩を焚いてお札を配らせていただいています」
と、ご住職がいろいろお話をしてくださいました。本当にありがたいことであります。

┉当然のことながら、我が家には御札もありません

No.21 19/02/25 22:49
旅人 

なにぶんにも神社仏閣、初級どころか超初心者。
三宝荒神さまが仏教の神さまと言われても、その『仏教の神さま』の意味がわからない(・・;)
仏さまが仏教で神さまは神社、みたいな、幼稚園児のようなレベルの者なので┉。

で、ありがたいGoogleさまにおすがりして、三宝荒神さまについて学んでみました。まあ、当然のことながらよくはわからないのですが┉。

【三宝荒神さま】
⚪竈(かまど)の神様。
⚪火伏せの神様。
⚪仏法僧の三宝を守る神様。
⚪暴悪なものをこらしめ、仏法と寺院を守る神様。


荒神様は民家の代表的な屋内神で、不浄をきらうことから、火の神に当てられ、竈の神様とされました。
仏教的には、仏法僧の三宝を守る神様であり、三宝を大切にする人や、法華の修行者を守護すると言われます。

お姿は、「如来荒神」、「麁乱(そらん)荒神」、「忿怒(ふんぬ)荒神」で三宝荒神となります。三面三眼六臂の神様です。お顔が三つ、ひとつのお顔に眼が三つ、手は6本と言うことです。仏様や神様の手を数えるときは臂(ひ)とお数えします。


不浄をお嫌い┉(。´Д⊂)
もともと神さまや仏さまは不浄をお嫌いなものであります。あえて「不浄をきらう」ということは、かなりのきれい好きな神さまであらせられるということ。
┉告白いたします。私は物は捨てられない、すぐ物は買う、片づけは苦手。
これはもう「三宝荒神」さまに叱られる!(・・;)


┉ああよかったぁ。
長福寺さんのご住職が三宝荒神さまの火伏の御札をご厚意でお授けくださることがなくて。
掃除も行き届かず、散らかったウチは三宝荒神さまにとって居心地の悪い家であります。


今度の休みは片付けをしようっと。(^-^;



No.22 19/02/26 06:05
旅人 

「さて、今日はどこに行きますか?」

┉休みの日の朝食が済むと、夫が必ずと言っていいくらいこう聞いてきます。正確に言えば、前日の夜にも。
そんなに出かけてばかりじゃダメだろ、と、思うには思うのですが、天気のよいお出かけ日和だったりすれば、もう「出かけるっきゃない」と思ってしまう未熟者で。(^-^;
そんなわけで、先日の土曜日は「行きたいと思うところに。」と言ってみました。遠出も可能な時刻であります。
「じゃあ┉」
ミステリーツアーのスタートです。夫いわく、「御朱印帳を忘れないでね」┉(^-^; ミステリー性が半減だな。
ちなみに言えば、この日は風も強く、気温も前日と一転して平年並みの、さしてお出かけ日和というわけでもなく。

ま、そんなよぶんな話はさておいて、珍道中録、珍道中録!


向かったのは初めてお聞きするお寺さん、群馬県甘楽町の寳積寺さん東国花の寺の一寺にあたられていました。
到着してお寺のご案内を拝見して初めて知ったのですが、垂れ桜のお寺のようで、当然花の頃はまだまだ先。大変な数の垂れ桜の樹が植えられております。
「もう!ちゃんと調べて来ないから!」
例によって連れてきていただいた恩を仇で返す発言です。
「そうだねー」┉慣れたものでありました。(^-^


 1280年にはすでに天台宗の寺として栄えていたという。1450年、国峰城主小幡実高が中興開基となり曹洞宗の寺として再興。現在の本堂は1793年に再建されたもの。本堂右手前に立つ菊女観音像は小幡信貞の腰元のお菊の霊を慰めるために建てられたもので「子ども授かりの観音さま」として参拝者が絶えない。病気平癒の身替地蔵、ふれ愛観音も信仰を集めている。上州観音霊場第19番札所でもある。

とあります。
おそらくは夫は『群馬県歴史散歩』あたりでこちらのお寺さんを知ったのかと。

それにしても東国花の寺の差し換えタイプの御朱印が存在するものなのだなぁ。
こちらは御朱印はすべてお書き置きで、四種類。御本堂の御賽銭箱に並んでガラスの蓋のある平台に置かれておりました。

No.23 19/02/26 10:55
旅人 

寳積寺さんは修行道場として栄えたお寺さんだったようであります。

境内には大きな、┉直径三メートルくらいでしょうか(┉違っていたらごめんなさい)イビツな半球の、人が手足を広げてゆったり寝られるほどの岩がありました。その岩にはなんとも物騒な【天狗の腹切り石】という看板が掲げられています。
1563年に寳積寺合戦という戦さがあったようで、
そのとき外敵と応戦した僧侶が二メートルを超える巨体であったようで、当時としてはずば抜けて大きなその身体つきから天狗の異名で呼ばれ、そのときその方がこの岩の上で切腹されたということで、そのことから天狗の腹切り石と呼ばれて今なお供養されているようであります。
また、その合戦の折、諸堂に火を放たれたようで、現在の御本堂はそのためその後築かれたものとなるのでしょうか。

その岩はもともと僧侶たちが座禅などを行う、修行の中心の地であったということであります。


また、当時この辺りの城主から寵愛をうけた女性の壮絶な秘話、【お菊さま伝説】。言葉を失うほど壮絶な最期を遂げられておられました。若冠19歳。
その美しさや聡明さ、片時も離さないほどのご寵愛から奥方や他の腰元の妬みをかい、城主の留守に山中で、石で造られたものに毒蛇やムカデとともに閉じ込められて亡くなられておられます。その恐怖たるや、想像を絶するものであります。
そのときの城主は小田原攻めの際行方知れずとなり、小幡家は絶えてしまったようです。
その後織田信長の孫がこちらの城主となったようで、その菩提寺ともなったようであります。

参道石段の脇には【身代り地蔵さま】が優しい笑みをたたえてたたずんでおられます。その昔、薬などない時代に、その身を薬のかわりとして削られて、背部は大きな空洞となっておられ、頚も大きく削られておられました。あまりにも痛々しいお身体の石仏さまであられました。その痛ましいお姿に心痛めた方が、お地蔵さまに三角巾で包帯をされていたのがまた印象に残りました。


そこここに植えられた垂れ桜の頃には早すぎではありましたが、足元に咲く色鮮やかな福寿草の黄色が、心なごませてくれた、寳積寺さんでありました。



   平成三十一年 二月二十三日   参拝

No.24 19/02/27 00:18
旅人 

群馬県に織田家。


ぼーっと生きてる私、おそらく夫が夫にならなければ知らなかった事実┉この場合は史実ですかね┉です。
あの誰もが知っている織田信長の子孫が群馬の地に移り住み、そこ┉群馬県甘楽郡小幡を治めていたなんて!夫に初めて連れてきてもらったときは本当に本当に驚いたものでした。
群馬県民なら誰もが知る【上毛かるた】にすらあつかわれていないのです。まあ、上毛かるたの成り立ちを知った今、それもまた当然だったことのようなのですが┉。


戦国時代のスーパースターとも言える織田信長。
本能寺の変で長男信忠と共に討たれ、信長の孫秀信の死をもって織田家は滅亡したかのように思われますが、フィギュアスケートの織田信成氏の登場で、信長の子孫がクローズアップされましたが、
信長の次男信雄が、信長には縁遠い関東の、世界遺産となった富岡製糸所に程近い、群馬県甘楽町を治めていたということでありました。

秀吉の小田原征伐後の1615年、織田信長の次男・信雄には大和宇陀藩と上野甘楽郡が与えられ、信雄は大和に入り、上野甘楽郡は信雄の四男で信長の孫にあたる信良に任せ、小幡藩を立藩させたということであります。
小幡藩立藩にあたり信雄は藩邸に付属する庭園の築庭を命じましたということで、いま、その跡地が【楽山園】という、その趣を残した庭園となっています。小幡藩の城下町もその当時を偲ぶことのできるところを残した、素敵な昔ながらの町並みであります。



ここに連れてきてもらった時は、もう子供たちが育ち巣だったあとのこと。
たしかに子供にはおもしろくもない庭園ではありましょうが、いずれ大きくなったとき必ずや心に残ったものになったと思うのに、
不器用な夫はそんな自分の知識や興味ある歴史を語ることなく、子育ての頃はまさに企業戦士のごとく仕事優先で、休みの日は全力で(?)休むような人でありました。(あ、いまもまだまだ現役でありますが)

もっと子供たちに伝えて欲しかったな。本当に惜しんでも惜しみきれないことであります。
群馬県に織田信長の子孫が移り住んでいた、なんて知ってることってすごい知識だと思うし、誇らしい史実じゃないのかなぁ。┉凡人、どころかおバカな私にはわからないけど。



    ┉続きます。



No.25 19/02/27 07:50
旅人 

今回参拝させていただいたのがその【織田家七代の墓】のあります、
【崇福寺】さんであります。


┉こうして出来上がった小幡藩は、織田家七代に亘って続き、二代信昌により藩政が固められました。
五代信右の頃藩財政が赤字となり、七代信邦の時に幕府による尊王論者弾圧事件に連座して蟄居され、弟の信浮が家督を相続し出羽高畠藩に移されました。
これにより織田家の小幡藩藩主は実質七代で終わり、その後は松平家が藩主を継ぎ、廃藩置県まで藩は続きます。

「織田家七代の墓」はその後もここ、群馬県甘楽町に残り、奉られてきました。

もともとは、さきに記した旧領主小幡家の菩提寺でもあり格式も高い寳積寺さんが菩提寺でありました。
四代信久が急に廃寺であった崇福寺を三年間で改築し、臨済宗に改めて菩提寺とし、寳積寺から先三代の墓石をここに移したのだそうであります。しかしその後1758年に焼失、再建後の1871年に失火により全焼してしまったようです。墓石の破損はその時に生じたものと言われているようです。
現在の崇福寺さんは墓所に隣接して建っておりますが、元々は墓所の前にある広い土地にあったようであります。

ここ織田家の墓所にはには信長の次男信雄を初代として七代が葬られています。崇福寺境内には二代信良と七代信富を除く十代信美までと、四代小幡藩主信久の実父高長に位牌が祀られた「織田氏位牌堂」もありました。


┉正直、織田宗家にあたる墓所を守るお寺としては小さなお寺さんであります。境内に陸続きに建つお家は何軒かあったのですが、ご住職のお住まいかどうかわかりませんでした。それでもご位牌を祀る位牌堂があるおかげで、参拝させていただくと必ずその立派なご位牌も拝することができます。

元々の寺跡地は現在公園を造る工事をすすめていました。
賑わうことがよいことかどうかはとにかく、公園ができる頃にはお寺さんも少し変わっていかれるのかもしれません。




    平成三十一年 二月二十三日   参拝

No.27 19/02/28 23:49
旅人 

【辛科神社】さん。

神社仏閣珍道中を始めて、何度かお名前を目にしていました。とはいえ、どちらにある神社さんなのかも存じ上げず、このたびの夫が立ててくれたどこに行くのかわからないわくわくのミステリーツアーに組み込まれており、参拝のはこびとなりました。
夫も初めての参拝で、『ナビに牽かれて辛科神社』といった感じであり、「えっ、こんな道行くの? ┉案内の看板ひとつも出ていないし、あまり整備された感じのところではないのかもしれないなぁ」とブツブツ。山道、というほどでもなく、さりとて畑の連なる道でもなく、ただ細い道をはいって、しばらく走っていくと、細い下り坂。神社敷地内につき静かにお通りください、といったニュアンスの文章の書かれた小さな立て看板がありました。さながらひなびた温泉宿に入って行くような、細いそれなりな傾斜の下り坂であります。
「┉駐車場がないんだぁ」  駐車場どころか駐車しておけるようなスペースがありません。
社務所と祢宜のご自宅を兼ねた社務所があり、そこには車を置くスペースはありますが、置いていいものかどうか┉見ず知らずのお宅に突然車で乗りつけるような感があります。「私が車から降りて聞いてみてからにしよう」と、社務所のインターホンを押して、中からおうちのかたが出てくるのを待っているあいだに勝手にそのスペースに車を入れている夫!┉許可をとってからにしてよ、もう!

出て来ていただいたついで┉と申し上げてはなんですが、御朱印をお受けできるかどうかうかがうと、参拝する間にご用意いただけるとのありがたいお言葉で。
そこからいったん廻って通りに出てからの鳥居にむかいました。
通りのすぐそばは畑┉というよりちょうどこんな季節であることもあって、農作物がないことからまるで野原が広がっているようにみえました。なんとも長閑な土地であります。
そんな長閑な風景を見下ろすように随神門があり、随神さまをのぞきみると( ・д・)!金属製の狛犬的な随神さまがおられました。あとで調べて知ったことですが、こちら神獣さまであるとのことでありました。


      ┉続きます。

No.28 19/03/01 01:48
旅人 

随神門には奉納された額が飾られておりますが、古いものであるためどんな絵柄なのかよくわからなくなっております。随神門をくぐってさらに少し高いところに拝殿があり、拝殿のむかって左手には神楽殿があり、拝殿の前には狛犬がおりました。

こちら辛科神社は多胡総鎮守の神社であります。
多胡の地はユネスコ世界遺産の多胡碑があり、何度となく登場する【上毛かるた】で、『昔を語る多胡の古碑』と読まれております
多胡の地は羊太夫という豪族が治めていたということで、羊太夫の伝説があるようです。


昔、羊太夫という者がいて、秩父で銅を発見して和同開珎の開拓をし、その功績を認められ旧多野郡吉井町から富岡市藤岡市にかけての土地を与えられたという。
彼の従者は神通力使う八束小脛(ヤツカコハギ)という者で、その者の神通力で羊太夫は空を飛んで都に日参していた。あるとき、羊太夫が御所での勤めをしている間、昼寝をしている小脛の脇のしたに生えていた羽のようなものを抜いてしまった者がいた。以後小脛は神通力を失い空を飛べなくなってしまったために、羊太夫は毎日参内できなくなってしまった。
朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると誤解して討手をさしむけた羊太夫は釈明も許されず、都の大軍に攻められ、ついに最期を遂げてしまった。そのとき羊太夫は、金の蝶に化して飛び去ったという。


┉このようなことを、うちの専属無料ガイドは何を見るでもなくすらすらと語る根っからの歴史オタクでありまして。なにやらもっともっと語っておりましたが、覚えきれず、聞けばまたさらに多くを語るため、正直めんどくさいので、多胡碑や羊太夫のことはこのへんでおしまいにして。


辛科神社さんの拝殿はさほど大きなものではありませんが、本殿の彫刻の細やかで美しいこと。拝殿と本殿の造りに差違を感じましたが、あとで調べたところによると造られた年が百年ほど異なるようでありました。
参拝を終えて社務所に戻ると、トレイにのせて窓の外に私の御朱印帳が置いてありました。この日途中から体調のすぐれなかった私は、御朱印帳を受けとり車を置かせていただいたお礼を述べると、そそくさと車に戻ってしまい ┉夫はもう少しゆっくり参拝したかったのか、もう一度再拝したいとのことでありました。



    平成三十一年二月二十三日  参拝

No.29 19/03/02 23:35
旅人 

群馬県高崎市の【仁叟寺】】さん。

こちらは、どうしても涅槃会に参列したかった私が、ネットで、
「群馬県内で一般の参拝者に向けて涅槃会法要を営まれるところ」と検索をかけて、ヒットしたお寺さんでありました。
結局、仁叟寺さんは一般に向けて、というよりは、檀家の、御詠歌の会の方々に向けたもののようで、やんわりとお断りされてしまったところでありました。
ですが、その際に、大きな大きなお寺さんであることを知り、いつかこちらに参拝したいと思ったしたいでありまして、このたび、そんな私の夢もかなえる、夢のミステリーツアーを夫が計画してくれたのでありました。

ところが大変残念なことに、私、(ツアー)途中で体調を崩し、せっかくの仁叟寺さん参拝は、トイレの神さま参拝をメインとしたものとなってしまいました。やはり、どこまでも珍道中を繰り広げてしまう私であります。
第三駐車場、だったか、第五駐車場だったかすら記憶に残らない勢いでトイレに駆け込み┉、そんな駆け込み寺は、お寺さんはもちろんのこと、駆け込んだ者もイヤだよなぁ┉。(^-^;

そして、なんとか第一回トイレの神さまの参拝を終え、夫を捜しがてら(!)山門に向かうと、夫が心配そうにかけ寄って来てくれました。ですがそのとき、私の目はすでに山門入ってすぐのトイレをとらえておりました。
心配と、何よりも迷惑をかけている、しかも、私の行きたいと願っていたお寺さんに連れてきてくれた夫を、「捜しがてら」お寺の正規ルートを辿ろうと企てるようなヤツには早速神罰がくだったのでありました。┉そう、もちろん、トイレの神さまの神罰であります。
こもる、こもる!(T^T)
仁叟寺さんが大きくて何ヵ所かに(外に、初めて訪れた私が知る限りでも二ヵ所!)トイレがあり、しかも、そのトイレのなかも一ヵ所ではなくて少なくても二ヵ所、多いと五ヶ所もあるような、大きなトイレを設けてくださっているようなお寺さんであったことが何よりの救いでありました。

┉念のために、これはあくまでも、参拝の記録なのでありますが、
どう思い出してもトイレに通いつめた記憶があまりにも大きくて、このような珍記録となってしまっているだけでありまして┉。
こんな珍道中はさすがに初めてなんですよ、本当に、もう!(T^T)


    ┉続きます。

No.31 19/03/03 17:07
旅人 

せっかく参拝に訪れたというのに、門を一つ見てはまた、(トイレの)神さまに会いに行く私。
このままでは御本堂にたどり着く前に、閉門されてしまうかもしれない。┉さすがにそれは大げさ?とりあえず、門をくぐってから向かうのはまずは御本堂の参拝ですので。

ただ、仁叟寺さんは、総門があって、さらに仁王門=山門になります。入口がわからず、緊急性もあったためお寺の裏にある駐車場に停めさせていただいたため、正反対の方角にある総門に向かう必要があり、その後も総門の真ん前にある山門にストレートに向かうことができずに、横にそれる始末です。最悪、門をくぐってから参拝することにこだわらずに御本堂の参拝に向かうことも考えましたが、参拝の途中で中座するほど失礼なことはありません。
一つ一つミッションをクリアして(トイレの神さまの参拝をしっかり終えて)から、御本堂に向かわないと。
そこで、いつもは私がお受けしている御朱印を夫に御朱印帳を託し、お受けしてもらおうと考え、夫に頼みました。ふたつ返事で引き受けてくれ、夫は御本堂へ、私は(トイレの)神さまのもとに向かいました。
やっと鎮静化の兆しがみられ、御本堂に向かうと夫が御本堂から出てきたところでありました。「お受けできたの?」
「いや、御住職がご不在でお書き置きになるんだけど、御本堂でお待ちくださいっておっしゃってくださっているので迎えに来たところだ」
「あれ、じゃあ急がないと申し訳ないね」
┉そんな会話をしながら御本堂兼庫裏の入口に向かいました。引き戸を開けると御住職の奥さまがちょうどお出になられ、開口一番、
「大丈夫ですか?」と、心配そうに私の顔をのぞきこまれます。
「!」┉何故それを!
夫よ、何故それをばらす?!┉いやいや、しかたないよな。夫にすれば一緒に参拝したいと思ってくれてのことだし。ありがたいことなのだ。( ノД`)…

大きなお寺さんの奥さまでありますのに大変気さくな方で、
「御本尊さまを独り占めして、どうぞゆっくり参拝してください」「写真も自由に撮って大丈夫ですからね」と、御本堂へ案内してくださりながらそう話され、退出してくださいました。


      ┉続きます。

No.32 19/03/03 18:08
旅人 

奥さまのご配慮で、ゆっくり御本尊さま、観音さまに参拝させていただくことができました。
そしてその後は御仏(とトイレの神さま)の御加護で、体調もとりあえずなんとか落ちついて、ゆっくりと境内をまわらせていただくことができました。
大きな大きな見上げる高さの┉さながら舞台のようなところにある御堂、文殊堂にもしっかり階段をのぼって参拝することができました。
そして薬師堂を参拝させていただき、私はとりあえず、もう最低限の参拝をまわらせていただけたことに感謝して、本日何度となくお助けいただいた(トイレの)神さまにもう一度だけお助けしていただくためにお寺の裏に先に向かいました。

まあ、大体私たち夫婦は参拝させていただいたのちはほとんど別行動するので、いつも通りの流れといえばそうなので。
おかげでゆっくりゆったり気を使うことなく存分に参拝し、境内を散策することができたと、夫は大変満足そうでありました。


節分には見上げる高さの文殊堂の舞台のうえから、いろいろな授与の品がまかれるようであります。



    平成三十一年二月二十三日  参拝


 追記)
仁叟寺さんは、地元の領主や地頭などの帰依と手厚い保護を受け、江戸時代においても幕府より寺領及び御朱印二十五石を改めて賜ったとのことで、今よりずっとずっと広く大きな規模のお寺さんであったようであります。
明治の廃仏毀釈のときでさえなんとかその危機を乗りこえたのでありますが、昭和の時代の終戦により、六町を超える広さを誇った地所を手離さざるをえず、いまの境内(それでも充分に広いのでありますが)の広さになってしまったようでありました。
想像もつかない広さだったのだなぁ。


No.34 19/03/04 18:28
旅人 

さて。夫が私に向けてのミステリーツアー(?)に凝ったのかどうかは知りませんが、この土曜日、やけに早めの時刻から、
「今日はどこか行きたいところはありますか?」
「少し遠出するなら、早めに出ないといけないからね」
┉お読みくださっている方はすでにお気づきかもしれませんが、あまのじゃくな私、
「いや、別に行きたいところはないし。いつもいつも休みのたびに出かけていてはダメでしょう?やらなきゃならないこともあるし」
と冷めた顔で言ってみました。外は一足早い春といった感じの、気持ちいい風もさほど強くないよく晴れた朝です。
「そうか。そうだよね」
「もしよかったら少し遠出をしようかと思ったんだけど┉ダメかな?」
「┉そうだね、今日やらなきゃならないことが別にあるわけじゃないし」
┉ダメじゃん!
神社仏閣巡りだけが自分を高める修行じゃなくて、たとえば断舎離とか、ね。ゆきとどいてたことのない掃除をするとか。やること、やるべきことは山とあるのよ。おーい!(;´・ω・`)」

┉そもそも、前日から話そうよ、ね⁉ もう!


と、いうわけで、今回はどんなミステリーツアー┉じゃなくて神社仏閣に参拝させてくれるつもりなのでしょう。
本当はあんまりミステリーツアーじゃないほうが御祭神はどなたであられるのかとか、御由緒とか見所とかがわかって参拝できるからありがたいんだけどなぁ。


「今日は足利から佐野にむかって、賀茂別雷神社さん、そこから満願寺さんに行こうと思うんだ。満願寺さんのあとは参拝を終えて時間に余裕があったら考えるってことで┉ いいかな?」┉はいはい、仰せのままに。


ところで今回は、私に起因しない珍道中となりました。『カモワケイカヅチジンジャ』さんと入力し距離から目的地を設定して。【加茂別雷神社】さんに無事到着いたしました。立派なお社です。ただ、宮司さまがいらっしゃらない。どうやら常駐されないようであります。そこで、『ご用の方は┉』と書かれた電話番号に電話すると「左隣が御自宅なのでお越しください」とのこと。ていねいにお書きくださった御朱印をいただいて┉。
「うーん」┉どうもこちらの神社さまについて調べた記憶がない。夫は夫でイメージしてた神社さんと違うという。うーん?



    ┉続きます。

No.35 19/03/05 02:20
旅人 


┉お気づきになられた方もおられるかもしれません。

『カモワケイカヅチノジンジャ』さんはわずか九百メートルの地に【加茂別雷神社】さんと【賀茂別雷神社】さんが存在していたのであります。
よもや同じ読み方で、しかもそんな近い地点に、異なる神社さんが存在するとは思いもよらずに、距離と栃木県の佐野市のどの辺りか、で、ナビで目的地設定をして、【加茂別雷神社】さんに向かったというだけのことであります。ま、いずれにしても珍道中であります。
怪我の功名、と言ったら失礼にあたるのてしょうか、おかげで【加茂別雷神社】さんに参拝させていただくことができた、ということになります。

ちなみに【加茂別雷神社】さんと【賀茂別雷神社】さんは御祭神も異なるまるで別個の神社さんでありました。


【賀茂別雷神社】さんは佐野市やその近辺の市で立ち寄るようなところ┉観光案内所とか観光センターとか他あちこちにパンフレットが置かれており、私どももそれで御名前が記憶に残っていた神社さんでありました。
ネットではその名は有名なようで、さまざまな限定御朱印がある神社さんであるようで、参拝に訪れてみて、その御朱印をいただく方がほとんどであったよう感じました。たいへん綺麗な、そしてかわいらしい雷ちゃんのイラストが散りばめられたさまざまな御朱印がございました。
百年の歴史のある神社さんでありますが、今なお整備を続けられており、また境内には黒山羊が飼われているような、のどかな高台に鎮座する神社さんでありました。
┉そうそう、その黒山羊ちゃんも御朱印になっておりました。



     平成三十一年三月   参拝




No.36 19/03/05 03:22
旅人 

栃木市の【満願寺】さんは、坂東三十三観音霊場となっております。

山門は1735年の建立とのことで大変立派なものであります。一対の仁王尊像は足利時代の作とのこと、たいへん貫禄のある立派な御像でありました。

御本堂(大御堂)は1368年足利義満公の寄進によって、観音堂として建立されたようですが、1740年の大火により、山門を残すのみで、堂塔はことごとく焼失してしまったとのことで、今の大御堂は1764年に再建されたものであるとのことであります。
三手先竜(みてさきりゅう)というみごとなたくさんの龍の彫刻がほどこされたものであります。
さらに1864年には本堂と書院を焼失し、そのため現在大御堂をもって本堂としているとのことであります。
焼失した本堂は、現在の本彷のあたりにあり、大日如来を本尊としていたと伝えられるようです。
現本堂の大御堂には弘法大師ご敬刻の千手観世音菩薩がご本尊として安置されているとのことであります。

ここで毎日、大護摩修行が行われているとのことで、また、私どもが訪れていた間にも祈願を依頼した信者のために、案内の僧侶が先立ち、さらには僧侶が三人、法螺貝を吹き、鍾を打ちならし列をなして本坊から御本堂に歩いて来られ、四人の僧侶で御祈祷をされていました。見ている者の身も引き締まる思いがするような一場面でありました。


奥之院に向かう道には、女人堂、大悲の滝、大師霊窟、聖天堂がありますが、現在大師霊窟には倒木により道が閉ざされ行くことができません。とにかく、ほぼ天然の山道。石段、というより悪路でありました。砂防ダムまでがあるような場所であります。
運動不足な五十代夫婦は往復で筋肉疲労を感じるほどでありました。

大悲の滝から石段を登ること百余段で奥之院の拝殿に入ります。この拝殿が鍾乳洞の入口になっており、中に鍾乳石で自然に出来た十一面世音菩薩の後ろ姿のご尊像が拝されています。




     ┉続きます。

No.37 19/03/05 10:17
旅人 

前述のとおり、奥の院、じつに鍾乳洞になっておりました。


「開山以前より霊窟の鐘乳石は、自然に生れた[十一面観世音菩薩]の後ろ姿として拝まれておりました。
かつて下野の国司が子宝に恵まれないことから、この鍾乳洞に21日間籠り観音様に祈念したところ男子を授かり、この子が後に出流山を開祖し、日光山の開祖でもある勝道上人であったといわれております。
上人はこの尊像に深く帰依し、二十歳にしてこの霊窟で三か年修行、やがて男体山の登拝、日光山を開創したといわれております。
さらには820年、空海が勝道上人の徳を慕って参詣し、この岩窟への参詣だけでは難儀であろうと当山の銘木で千手観世音菩薩を造立。千手院として称えたのが、今の満願寺といわれている」


縁起から、この十一面観世音菩薩さま、子授け・子育て観音として多くの信仰を集めているとのことですが、奥の院への道のりはじつに1.5km。

以前奥の院が女人禁制だったこともあり、女性の方は山道にある女人堂でお参りをしたといわれております。そうは言っても女人堂までもそれなりに足元が悪く、私などは子授けを希望したとしてもここまでの参拝、考えなかっただろうなぁ。実際、「私は女人だからもうここで参拝させていただくのでいいと思う」と申したくらいでありますし。

無言で私を置いて歩き続ける夫。これは私にもきちんと参拝するようにという意思表示なのでしょう。((;д; ) 私にすれば足腰の悪い夫をいたわっての発言なのでありますが。┉多少は。

やっとたどり着いた奥の院も、本当にまだ見上げる位置にあり、つづら折りの階段を上ってようやくようやく、たどり着くものであります。
奥の院が鍾乳洞であることには本当に驚きました。。┉正直に、正直に申し上げれば、どう目を凝らしても、十一面観音さまだと認識できなかった私でありました。
ただ一つ、これだけのみごとな鍾乳石を崇め奉る気持ちだけは理解できます。本当に長い年月をかけてできた大きな大きな鍾乳石であります。
なんとも申しわけない未熟者の参拝で、正直すまない思いを抱きました。ですが珍道中、素直に今感じたことそのままを綴ることも大切なのではないかと思い、そのままを書き記しておきます。
┉いつの日か、素直に、ありがたい十一面観音さまと拝する日が来るかもしれません。



      平成三十一年三月三日   参拝


No.38 19/03/05 15:19
旅人 

満願寺さんに向かうのにあたって、夫が選んだ道は、杉の林道! 
見るからに花粉まき散らしてますなう! みたいな道であります。しかもヘヤピンカーブが何ヵ所かある、対向車に要注意!みたいな道でありました。
┉ 私には決して無理だな。そんなところに連れてきてもらえる、こんなありがたいことはないな。そんな感謝の気持ちを内面に秘めたままに、流れる景色とたまぁにナビを眺めておりました。

ん?【立木地蔵尊】? 
でも地図のさっぱりわからない私が見ても、ナビに映し出されるその場所は、このままの道を走っても着かない、かなり回り込む必要がありそうです。(ふーん。そんなところが近くにあるんだな) (まあ、無理だな、無理だろうな。)
そう思って、画面から目を離して再び外を見ていると、
「!!」
「ねえ、そこに停めて!」
┉ナビ上ではずっと離れた場所にあった┉しかも左側にあるはずの【立木地蔵尊】が真横にあることになっています!(゜ロ゜)
┉まあ、もっともっとびっくりしたのは運転してる夫ではあるのですが。

『こちらのお地蔵さまは、弘法大師がこの辺りを歩かれた折に、二股の杉の( ┉!。その頃から杉の多いところであったのでしょうか )木立の一方に地蔵尊を刻んだものだと伝承されているようであります。
あるとき付近に山火事が起こり、もはや危険というときに、この土地の人達が、地蔵尊を空しく焼失してはならないとその立木を切り倒して、ようやく焼失を免れたという。その後信者が相談し、浄財を出しあって、この地にこのお地蔵さまを安置する御堂ができた』
とありました。


御堂の中は暗くてよくはそのお姿を拝することはできませんでしたが、思った以上に大きな立像が除き見ると見えました。御堂の隣にも苔むした大きなお地蔵さまと小さな六地蔵さまが、優しい笑みを浮かべて立っておられました。



     平成三十一年三月三日  参拝

No.39 19/03/12 20:02
旅人 

なんだか、いろんなことがうまくいかなくって┉、
仕事が休みな今日、こんなときお邪魔させていただいているお寺さんを参拝させていただきました。

夫は、な、なんと、先日の杉の林を訪れたその日から、咳が止まらず、次の日には熱まで出して!昨日、CTを撮ったところ『肺炎』の診断をされ、仕事を休んでおります。┉厳密に言えば、私に休むよう命令されたからで、昨日、肺炎と言われたその足で、仕事に戻って通常通り仕事をしてきた大馬鹿者でありまして!Σ(×_×;)!


お寺はなんだかにぎわっています。工事の業者さんがおられるせいでしょうか、境内のサンルームではお茶を飲まれる方々がおり、庫裏の玄関も開け放たれています。
こちらは御本堂の中に入っての参拝をおゆるしになっておられるお寺さんであります。今日は鍵がかかっております。
庫裏にうかがい、お声がけすると、奥さまが┉。
「今開けますね」
┉奥さま、なんだか疲れていらっしゃるみたいです。

御住職はお留守のご様子。
「家族に病人ができちゃって」とお疲れの原因を明かしてくれました。さしつかえなければ┉とうかがうと、なんと御住職が御入院されているとのこと。インドから帰ってきてすぐにかかったインフルエンザのあと、咳が出るでもなく熱が続いて、入院となったようでありました。

せっかく御本堂にお通しいただいたのに、肺炎談義で終わった参拝となってしまった、今日でありました。
 

肺炎のお二人が一日も早くよくなられますように(。-人-。)





No.40 19/03/16 15:01
旅人 

肺炎の夫を置いてきぼりにして、神社仏閣を参拝するのもなんなので、珍道中はお休みです。
こんなときだからこそ、病気平癒のお願いに参拝するのがよいのかもしれませんが┉。

自転車で買い物に行くと、ここ二年ほど初詣をさせていただいている、氏神さまの境内の桜が満開を迎えておりました。
白い垂れ梅も満開。
初詣の時と異なり、誰一人いない境内。それはそれは贅沢な、貸し切りの境内で花を愛でるひとときを過ごすことができました。
ただ残念なことに風がそれなりに冷たく強くて、長居をすることはできませんでしたけれど。

神さまが私にお声がけくださったような気持ちになりました。

No.41 19/03/17 18:15
旅人 

わが家の子供たちが小さな頃、私がどうしても行ってみたいと言って行ったところに、【鎌原観音堂】があります。
その【鎌原観音堂】を語るのに欠かせない、【浅間山】の引き起こした悲しい過去があります。


浅間山は上毛三山にこそ入ってはいませんが、(山自体が長野県と群馬県をまたいでそびえるものなので、上毛をうたうことに無理があるのだとも思われます)、車を走らせその山の姿が見えると思わずため息が出るほどに、美しい姿の山であります。長野県の旧軽井沢や信濃追分からみる浅間山も見事ですが、群馬県の北軽井沢からみた山並みの美しさもそれは見事なものであります。
浅間山は現在も活火山、私の小学生の頃にも、埼玉県や東京にまでその火山灰が降り積もったようなこともありました。

そんな浅間山には歴史に名高い大噴火があり、天明三年(1783)、あの歴史の授業でその名が挙げられるほどの飢饉、【天明の大飢饉】を引き起こした噴火であります。
この時の噴火は大規模な火砕流が土石なだれを引き起こし鎌原村を直撃し、村にあった93戸の家屋はすべて押し流されて477名もの命を奪うものだったようでありました。村で唯一残った建物こそが、小高い丘の上にあったこの観音堂だということでありました。

鎌原観音堂は今、杉林に囲まれぽつんと佇む、茅葺きのひなびた建物です。御堂の前には幅1.5メートルほどの石段があり、その石段前には赤い橋がかけられています。その石段は十五段。
噴火前には五十段前後あったことが、1979年に行われた発掘調査で明らかになっています。ここに押し寄せた土石なだれは五メートルほどにも及んだことになるようです。
この時たまたま村を離れていて難を逃れた人を含め、ここ、観音堂に逃げることができた村人93名が生き残ったに過ぎず、村人の8割もの命が失われたということであります。

発掘調査の折、埋まっていた石段に折り重なる二体のご遺体が見つかりました。遺骨の様子から、若い女性が年老いた女性を背負っていたものと推測されています。
発掘調査当時、そのご遺体の様子は大きく新聞記事等で扱われておりました。遺体の発見ということもありますが、それよりも、若い女性は年老いた女性を背負って石段をのぼっていなければ、おそらくは助かったであろうのに、最期のときまでその背に老女を背負っていたということを。


    

   


No.42 19/03/17 19:08
旅人 

ずっと長いこと私の心に深く深く残るこの【鎌原観音堂】に、残された歴史と悲話、どうしても子供たちと共に訪れたくて、
もうかれこれ十五年以上も前に、参拝をいたしました。
子供たちには事前にその鎌原観音堂に伝わる話を伝えて。

あのとき、実際にその石段に立ち、当時助かった村人たちが立ち尽くした境内に立ち、私はそこで子供たちとあえて語ることなく、
「自分だったなら┉」とひとり心の中で長いこと考えておりました。

親子、でなかったかもしれないのであります。
祖母だったかもしれないし、嫁と姑だったかもしれません。
隣の家に住むご近所さんにすぎなかったかもしれないのです。
┉自分だったなら┉



背負うた人を降ろしても、
背負われていた人も、逃げ延びた人も、
誰一人、その女性を責めたりはしなかった状況であったと思うのであります。
それでも、彼女は背負った女性をおろそうとはしなかった。
五十段もの石段を背に老女を背負ったまま、かなりの高さまで登ってきていたようでありました。
登りきれると思ったのかもしれない。背負った女性をおろす時間すらがおしかったほどに緊迫した状況であったかもしれない。
長いこと、長いこと、考えて┉
答などない、生きるということ、生きているということ┉
一人一人の生きざま、死にざまを、
ただただ、ぼんやり考えただけでありました。


昨年、ふたたびこの鎌原観音堂を訪れました。
御堂にはお年寄りたちがあつまって、談笑されておりました。


私はといえば、おんなじように
答などない人の生きること、生きているということ、
これからの自分の生きざま、死にざまなどを
ぼんやりと考えて、御堂を見上げてまいりました。


ここは、そんな恐ろしいときをみつめた、見まもった、
観音さまが今日も静かに村の人たちを見まもっておられます。







No.43 19/03/18 06:07
旅人 

二度目に訪れたとき現地の看板資料を読んでいると、発掘調査の際には皇室の方々もご見学に訪れ、皇太子さまは実際に発掘作業をなさったようでありました。
美智子さまはその際歌を読まれておられ、書き写してきたつもりだったのですがみつからなくなってしまっていて(;_q)

それなので┉ネットで鎌原観音堂について調べたところ、
件の女性ふたりの御遺体は石段の下のほうだった、、という記述がほとんどでした。
私の記憶の中では、だいぶ上まで登られていて、「あと何段登れれば助かったのに」のように語られていたものが残ってしまっていたため、間違った記載をしてしまい、申しわけありませんでした。お詫びして訂正いたします。


観音堂に詰めていた村人の方々は、ご先祖さまのことを語り継ごうとこちらにいらしてくださっていて、御朱印もこちらの方がお書きくださいます。
囲炉裏を囲んで、お茶をお出しくださって、伝えられていることをお話しくださっているようであります。┉知らなかった!
私は、夫のほか息子も待たせていたため、
「よかったら上がってお茶でも飲んでいって」と、おっしゃってくださったのを、残念に思いながらお断りしてしまいました。
上がらせていただけばよかったぁ!(。>д<)


また、参拝にうかがいます。(*_ _)

No.44 19/03/19 05:52
旅人 

今日はお休みのつもりでいたら、
昨日、普通に勤務の日だと知ってがっかり。
未熟だなぁ。働けることに感謝して生きたい、と思うのでありますが、志と心は異なってしまって┉。

神仏を崇め、生かされていることに感謝して、自然の移り変わりにも感謝して、運命を運命と受けとめ、日々をたんたんと生きる┉
古来日本の人々が当たり前に生きてきた生きざまに憧れはするものの、なかなか煩悩を捨てられない。
日々未熟なままに一日を終えている今の私であります。
心のありかたが定まらない。


このお彼岸のとき、わかっている私の欠点、わかっていて逃げている私の課題に、取り組むことこそが本当のご先祖さまの喜ぶ供養なのだよなぁ。それはお墓参りよりも望まれることなのかもしれません。

No.45 19/03/21 03:15
旅人 

肺炎が治った┉かどうか、本当のところは不明なのではありますが、とりあえず熱もでなくなり、夫はようやく仕事復帰をいたしました。

春の彼岸。やっと今日、私はお墓参りができそうであります。
夫も子供たちも仕事なので、私のペースでのんびり両家のお墓をお参りして来たいと思っております。
とはいうものの私の実家のお墓は、離婚した父と祖父母の眠るところでありまして、私はその葬儀にすら参列することがかなわなかった存在ですので、本来お参りしていいものかどうか┉。ただ、御住職にうかがったところ、ほとんど訪れる者もいないようだということで、大手を振って墓参しております。

それにしても、母方のお墓というのは墓参するものなのでしょうか?
あまり墓参すら習慣としていなかった両親のもとに育ったものですので、その辺すらよくわからない。もしかしたら、「嫁したら生家はもう他家」というのが当たり前だった時代の名残で、あまり母方のお墓はお参りしないような感じなのでしょうか。
お墓やらお寺さんといったものに無頓着というか、ともすれば無関心な両家の両親のもとに育った二人でありますものの、さすがに両家の父方の墓所も母方の墓所も、墓参できる私たち。わが家の子供たちもその四ヶ所の墓所がわかっております。ただ夫の母方のお墓は昨年とうとう跡継ぎの方が墓終いをされたようであります。その話がでたとき、長女第一子である義母は烈火のごとく怒り狂ったということでしたが、そもそもがあまり信心深い人ではないので、いざ墓終いをすると「せいせいした」とまでいう豹変ぶりで┉。自分の夫の祥月命日も忘れていて、お墓参りに誘うと「めんどくさいからいいや」「お墓参りなんてえらいんねぇ」と言う人なので、なんだか自分が信心深いような錯覚にまで陥りそうであります。
┉時代、ですかね。ちなみに義母はいたって健脚でして、高尾山も友人たちと毎年訪れ、登りも下りもすべて自分の脚で歩くことが自慢な人なので、価値観が異なるのだと思うのであります。

No.46 19/03/21 09:23
旅人 

花曇り┉というのでしょうか。今日は少し肌寒い曇った天気です。
一人で両家のお墓参りの┉ついで、といってはたいへん失礼にあたりますが、少しお寺さん巡りなどしてみたい気分でおります。

群馬県の桐生市には【山手通り】と呼ばれている通りがあります。最初に申し上げておきますが、東京のそれとはまるで異なる、連なる小山の麓をはしる通り、とでもいうことから名付けられたのか、古くからの通り┉田舎の、よくある対向一車線(┉っていうのでいいのでしたっけ?)の道路であります。
その通り、実にお寺さんが密集しているところであります。どこからが山手通りであるのかはわからないのでありますが、この界隈で有名なえびす講のひらかれる西宮神社さん、境内を共にした延喜式内上野十二社の一社美和神社さんがあり。
神社さんの隣に小さな、藤棚のある広場があって地続きに円満寺さん。その隣に長い坂道を登る寂光院さん。寂光院さんの麓といった位置関係になる妙音寺さん。少し離れて奥まった、小高いところに法経寺さん。さらに少し離れて、その名のとおりに蒼い蓮の花の咲く青蓮寺さん。
本当に短い距離の通りに沿って、それだけの神社仏閣があります。
さらに言えば、少しその通りから奥には光明寺さん。
その辺りには吾妻公園という古くからのひなびた公園があり。桐生が岡公園という無料の動物園、入場料のかからない安い値段で乗れる遊具のある遊園地があって。

先日コンプリートした【桐生七福神】はこの山手通りにほぼ集中していて、そのおかげでこの辺りにこんなにもお寺さんが集中していたことを知りました。


さあ、遅くにかけた洗濯が終了のブザーを鳴らしてだいぶ経ちました。洗濯を干してお墓参りに行って参ります。

そのあとは、桐生?太田?

No.47 19/03/23 06:15
旅人 

花曇りどころか雨すら降りだし、
そんな雨に、ああ、私の日頃を戒めておられるのだなぁ┉とか思う。
それでもお寺さんのある方角は曇ってはいるものの明るく見えます。止みそうな気がする、私の勘は結構当たるので、なんの迷いもなくお寺さん目指して車を走らせます。が、┉。
あと少しでお寺さん、というところまで来て、いよいよの本降り。
確かに止むには止むのではあろうけれど、もしかしたらお参り中はこの雨のなか、ということになりそうです。
明日仕事だしなぁ。もう若くないのに無理して風邪でもひいては仕事先に迷惑をかける。傘を買おう。
コンビニで傘を買ってお寺さんの駐車場に到着しました。お、空いている❤

以前このお寺さんの駐車場で、買って間もない車を当て逃げされてしまいました。一目でわかるくらいにぶつけてありました。
そのときの担当してくださったお巡りさんが、「お寺の駐車場で当て逃げなんて、よくできるよなぁ」と、おっしゃったのが印象的でありました。「バチが当たるよ、きっと」といいながらも、
「こういった当て逃げは目撃者でもいない限り、まず犯人がみつからないと思っていてください」
┉私としてはその方に仏罰など望んではおりませんので、ただ修復していただきたいだけでございましたが、お巡りさんの予想通り、自分で直すしかないこととなりました。
仏罰ねぇ┉。もしかして私に?なのかなぁ。そんなことさえ考えてしまったけど┉いちおう、人の世では私は被害者、落ち込むけど、さらに自虐的になるのはやめよう。そんな風に思って気持ちを切り換えた過去の当て逃げ事件でありました。

今年の初詣でも駐車場内で車同士のぶつかるところを目撃したりいたしました。これはこれで当事者同士はたまったもんではないことでしょうが、このくらいの事故で済むように、仏さまのお力添えがあったのかなぁと思ったりしました。
〖ものは考えよう〗起きてしまったことを、いかに早くいい形で切り換え消化するのかが、楽しく明るく暮らす生き方になのだろうな。それがなかなかできないのが、私、なんだなぁf(^ー^;


┉雨に濡れて、さしたる掃除もしないで済んで、ありがたい、、、はあり?そんなお墓参りとなりました。


予想通り、誰一人訪れてはいない、主人の実家のお墓でありました。

No.50 19/03/23 08:38
旅人 

雨の石段を気をつけながら登っていると、石段の隙間に小さなすみれが咲いているのをみつけたり。いつもは外が明るいためか、なかなかよくは見えなかった観音堂の天井画がはっきり見えて敢闘したり。
雨の日のお寺さんもいいものだなぁなどと考えながらふと周りをみわたすと、周りは家族みんなで、あるいは親子三代四代で訪れる方々がほとんどで、一人で来ているのは私くらい。
私も祖母に連れられて、お墓参りをしたよなぁ。


わが家の子供たちは、わが家が次男の家、分家、ということもあり、祖父母と墓参した思い出はほとんどありません。そういうことは古い考えをもった義両親でありました。跡継ぎでない次男の家は、と差別もありました。
義父の生前から、法事すらも義理の姉と兄の都合だけで日時を決め、「その日の都合がどうしても悪ければ、来なくてもいいけど、、、とにかく法事は最優先だからな!」┉いじめとしか思えない。そんな旧家でもあるまいし!
次男、次男と言われるたびにムカッとする私を尻目に、幼い頃からそんな風に育てられて疑問すら抱かない夫にも不甲斐なさを感じて、なかなかこの嫁ぎ先の家風に馴染むことができなかった私であります。

義父とはよく衝突もしました。納得がいかないとそれは違うとはっきり言い、頑固な義父が「悪かった」と頭を下げたときには、周りから「あの義父に謝らせた嫁」とびっくりされていたようでありました。
そんなぶつかり合いをしてお互いの気心を知った私と義父なので、むしろ晩年の義父と私は、入院先で実の父娘と思われていたくらいに仲良く過ごせていたと思い(込んでい)ます。
そんな義父の私への遺言は、
「うちのやつらはみんな、誕生日とか命日とか忘れちゃうようなやつらばっかりだから、○○頼んだよ」
その時はまだ遺言ってほどの体調でもなくて、「ええぇ?私は次男の嫁でしょ?頼む筋は他でしょ?」と返したのですが。
義父が亡くなって一週間後、初七日の日に、普通に友達と旅行に行ってしまった義母をみて、義父の遺言をしっかり守っていこうと固く心に決めた私でありました。


義母はもちろん、義兄もほとんどお参りしなくなったお墓。
実は次男である祖父と、次男である義父が眠るお墓だったりする。のでありました。┉(;´・ω・`)、じいさん┉。

No.51 19/03/24 14:00
旅人 

車中から托鉢のお坊さまをおみかけしました。何年?いや何十年振りでしょう。子供の頃はよく行脚なさる姿をおみかけしましたし、自宅にもおいでになっていた記憶があります。子供の頃は田舎のとはいえ、駅の近くのメインストリートとも言える場所に住んでおりましたし、商店が多く建ち並ぶ土地柄もあったかもしれません。
夫は、といえば「生まれて初めて見た」(失礼)と。夫のほうが市の中心街の、○○市といえば△△通りというくらいの街に住んでおりましたが、少し通りを入ったところに実家があったため、そこまで托鉢のお坊さまが廻らなかったのかもしれません。

若い女性がちょうど置き看板を出しに外に出て来たところ、托鉢のお坊さまが通りかかり、何やらお話をされました。ほとんど話を聞くそぶりすらみせずに、若い女性は店内に。その待ち時間、お坊さまはずっと深々と頭をさげておられました。女性は二度と外にでてくることはなく、お坊さまは合掌してその場を離れられました。
夫ですら、初めて見たというくらい、異形のいでたちであります。不審に思ってしまったかもしれません。お坊さまは足早にまた歩き始めました。菅笠に草鞋をはいた、本格的ないでたちであります。生憎寒の戻りで昨日もそして今日はさらに寒い一日であります。草鞋は冷たかろうし、アスファルトや石畳の道は足が痛かろうと思います。
しかしその足取りは速くて、しっかりされておられました。

修行。
この世を生きること自体が修行かもしれませんが、なかなか修行になってはいない私であります。

No.52 19/03/24 15:35
旅人 

今日、二十四日はお地蔵さまのお縁日。
群馬県桐生市の観音院さんに参拝いたしました。

真言宗豊山派の寺院で、奈良の長谷寺さんを総本山とされているお寺さんであります。その名の通り、御本尊は聖観音菩薩さま。寺号は詳しくは【諏訪山観音院能満寺(すわさん かんのんいん のうまんじ)】であります。あらためて書くにあたり、そうなんだぁと思ったくらいでありますが┉(^^;
ただ一般には「日限地蔵尊」として有名であり、地元桐生市では【お地蔵さま】と言うだけでここをさすくらいに有名なところで、かつて、信心深いお年寄りたちが健在の頃は、遠くから電車を使ってまで毎月24日の縁日には、多くの参拝者が訪れるお寺さんでありました。その勢いはだいぶ衰えたとはいうものの、いまなお観音院さんを中心とした通りひとつが車を通行止めとして、露店商が軒を並べるものであります。ひと昔┉二昔前くらいまでは、その通りいっぱいに露店商が居並び、セルロイドのおままごとのバラ売りなどもあり、わが家の上の子供を連れてそこでおままごとのおままごとの小物を、┉どちらかといえば私が楽しんで買ったものであります。美味しい方のたい焼き屋さんはどこそこ、というくらいに同じ食べ物の屋台があったくらいでありました。
今はその何分の一、なのでしょうか。子供向けの屋台はなくなり、たい焼き屋さんも一軒のみ。十年くらい前は本当に閑散としてしまっておりました。

いま、┉往年の賑わいこそは取り戻せはしないものの(たぶん)その賑わいを取り戻しつつある観音院さん┉いや、日限地蔵さん。
御朱印のブームであります。
どうやら桐生市のお寺さんは御朱印に大変力を入れているところが多いようで、桐生市のお寺さんに休日出向こうものなら、車はいっぱい、人は行列、といったお寺さんまであるくらいで、ここ、観音院さんもそのお寺さんのひとつになったようであります。私どもが最初にこちらで御朱印をお受けした時にはなかった、お地蔵さまのお縁日限定の御朱印を始められておりました。

その御朱印、大変風雅な季節のお花を直に御朱印帳にお描きくださるものであります。一目見て「わあ、綺麗」と声に出てしまったくらいに綺麗な絵をひとつひとつお描きくださっています。
朝九時半くらいに参拝して御朱印をお願いしてすでに七十~九十番台の受け付け番号になるくらいの人気であります。


   ┉続きます。

No.53 19/03/25 00:49
旅人 

観音院さんは、かつてわが家の子供たちの手を引いて、参拝、というよりは屋台目的のお祭り気分で訪れた頃より、境内にいろいろな参拝するゾーンが増えておりました。

まずは立派な仁王門が建ち、その中心には大きな提灯が提げられています。
弘法大師さまの御像が建ち、その石像の周りには四国のお寺さんの砂が埋められているとのことでその周りを廻ることでお遍路ができるというところがあります。
仏舎利ということで、お釈迦様の石像があり、その石像のもとに仏手、仏足の彫られた石盤があって、そこを目指してあえて石の凹凸を残し裸足で歩く参道があるというゾーンがあったり。
回すとお地蔵さまの真言を唱えたのと同じ効果が得られるというものがあり。
水掛け不動尊の石像があり。
大黒天の御堂があり。
禰宜師大明神がまつられ、背中合わせに金精大明神がまつられた御堂があります。
記憶に間違いがなければ、地蔵堂もなかったような気がするのですが、それはもしかしたら、私が子供を連れてお祭り気分で訪れていたせいで、そんな風に記憶しているだけかもしれませんが(^^;


御本堂には【心の間】という、外陣が衝立で仕切られたゾーンがあり、そこでは自分の悩みや願いを、個別に御本尊さまと向き合うことができるようになされております。
まずは塗香で手を清めて、合掌したのち、心のなかで願ったり、紙に書いて納めることもできるようになっています。紙に書くのも一切書式などなくて、記名もしたければする、したくなければ無記名でと自分の思うようにお参りさせていただくことができます。
私がお参りさせていただく間にも何人か心の間にお入りになる方がおられました。

御住職をはじめ、スタッフのかたもいつも穏やかな笑顔で接してくださる、私の好きなお寺さんのひとつであります。

No.54 19/03/25 06:14
旅人 

群馬県桐生市の文昌寺さんを参拝させていただきました。
看板を見るもののなかなか参拝する機会に恵まれなかったお寺さんであります。今回、観音院さんの参拝にこちら方面に出かけた足で、夫が【小雀観音】さんを参拝したいということで、【文昌寺】さんと【小雀観音】さんの参拝をさせていただきました。


文昌寺さんには、伝承のない石塔(?)があり、縄文時代のものだろうということはわかっているものの、当時は寺院、というものの存在がなく、なんのために建てられていたものかわからない、という石塔があるということを、何かの折りに読んだ記憶がありました。
それは鐘楼の隣の陽当たりのよい場所に、古い石仏さまと一緒に奉られていました。先端の尖った、ちょうど大きなサイズの┉2.5Lのペットボトルくらいの太さでしょうか┉高さは1メートルくらいの┉人造のものか、自然にできたとしたら現代人であっても自然の神秘を感じるような石塔でありました。


┉私どもは神社仏閣の参拝を済ませたあと、境内の散策はおのおの単体でまわります。それは取り決めではないものの、フワァっと興味のあるところへさっさと行ってしまう妻と、ゆっくりひとつひとつの建造物やそのいわれなどを視て歩きたい夫が、自然にたどり着いた、スタイルでありまして。私が興味のあるところを回り終えれば夫のもとへ行き、夫のほうが先に視終われば夫が私を探し回る、という┉f(^ー^;


名ガイドの夫が今回語るところ、こちらの文昌寺さん、
「小雀観音のいわれである小雀とよばれる馬がいて、その馬はこの辺りを治めていた細川内膳が京の八条殿より拝領した愛馬だったんだ。当時、桐生を治めていた桐生大炊介が、ある時細川内膳の館を攻め、細川方は敗れ、内膳は自害してしまったんだ。その後、桐生氏がその名馬小雀をもらい受けようとして乗ろうとすると、一歩も歩かずその場で死んでしまったんだって。主君のあとを追うように亡くなった愛馬小雀を、二君にまみえず死を選んだ名馬ということで、崇め、またその死をあわれみ冥福を祈って祀ったのが小雀観音なんだ。
こちらに細川内膳のお墓があるようだよ」

ほぉー。
時々、この辺りを車で走るたびに「この辺りに小雀観音があるわけなんだけど┉」と言っていたのは、そういう伝承があったのか。

   ┉続きます。

No.55 19/03/26 06:14
旅人 

歴史の教科書に出てくるような、有名な方のことすら名前を聞いたことがある┉程度の薄い知識、薄識?しかないような私は、当然のように、桐生氏さんも細川氏さんも存じ上げないので、「へー」と思うだけなのでありますが、私にすれば超歴史オタクの夫は満足そうでありました。
地元でもないところの、地方の歴史すらも、その当時の日本の歴史と絡めて記憶している人間は、どんなところへ行っても楽しいのだろうな。
知らないことばかりのところへ行けば、新たな知識として今までのものと繋ぎあわせて。知識として知っていた現地に行けば、いにしえのかつてあった歴史を偲んで。
同じくらいの年数生きてきて、私、無駄に過ごしてた時間が多かったのかな?(._.)
覆水盆に帰らず。


閑話休題。


文昌寺さんは、お地蔵さまがそれはそれはたくさんおられるお寺さんでありました。
〖子育て地蔵〗と道案内の看板に掲げられてはおりましたが、地蔵堂があり、そこにお祀りされたいろいろな時代のお地蔵さまが何体かおられて。┉そこには絵本やらお菓子やらが、まるで子供グッズのお店の平台のように綺麗に並べてお供えされておりました。その地蔵堂の前にもいく体かのお地蔵さまがおられ、参道の両サイドにもお地蔵さまが花道を作られておられるように並んでお立ちになっています。仁王さまのおられる入り口のすぐ脇にも、古くからの六地蔵さまが優しい笑みを浮かべておられます。

そして、見たことのない石塔があったり(鳥が二羽と猿かと思われるものが2匹彫られた古いもの)、〖薬師の水〗、という、整備されているわけでもない小さな池があり、境内からは見えないほど雑木林を分け行ったところにあるという百庚申塔やら、いわれをうかがうことができたら、御由緒をうかがうことができたらいいなと思ったお寺さんでありました。
お彼岸の日曜日でありましたので、御朱印をお受けできただけでもありがたいことで、再拝させていただけたらいいなと思ったお寺さんでありました。
ただ┉お寺さんに向かう道はナビを使えばなんとかなるとしても、入り口が狭くて、対向車が来たらアウト!といった難問題を、私が攻略できるかどうか┉(。-ω-)


陽当たりのよい、居心地のよい境内のお寺さんでありました。



    平成三十一年三月二十四日  参拝



           

No.57 19/03/26 11:37
旅人 

小雀観音さんは、文昌寺さんから少し車を走らせて、細い細い住宅街用だけの道路を入り、駐在所と郵便局を通り越し┉てしまうともう車が停められないので、お休みなのをいいことに郵便局に車を置かせていただいて、車では入れない細い道、参道のむこう、小さな御堂がありました。
御堂の前には自然石に馬頭観音と彫られただけの石碑が二体。
なぜか、馬頭観音の石碑に人参が一本お供えされておりました。
┉馬頭観音さまは、小雀観音とはちがうんだけど┉、という言葉は飲み込んで、お参りさせていただきました。
主君細川内膳さんのお墓は御堂もなく、小雀は自分の御堂に居心地悪かったりしていないかな。┉いやいや細川内膳さんのお墓は、陽当たりのいい場所に安置されておりましたし、そんなことを気にするようなお人柄ではなかったような名君であったようでございます。
きっとあの世では内膳さんを背にのせて、雲の上を誇らしげに駆っているのでありましょう。そして、自分をただ一人の主君として勤めあげた名馬小雀を、内膳さんも誇らしく思いながら、雲の上の野を駈けておられることでしょう。

No.58 19/03/31 20:15
旅人 

栃木県鹿沼市の医王寺さんの仏像見学会に参加してまいりました。
元々、行きたいとかねてから思っておりましたお寺さんで、時々医王寺さんのホームページをチェックしており、偶然この見学会のご案内を拝見いたしました。募集が始まって六日が経過しております。
無理かなぁ、と思う私と、
「えぇ?、全然大丈夫じゃない?」と言う夫。
┉1日限定で、午前の部、午後の部、共に先着三十名の募集です。
まあ、なんにせよ申しこまなければ絶対に当選しません。

早速ネットで申し込み、その日のうちに返信いただきました。
そして何日かしてすでに午前の申し込みはいっぱいとのことであります。なんとか午後の部に滑り込むことができました。

仏像展といえば、昨年東京都の上野で開催された【運慶展】が
初めて🔰で、それが最後になります。

どんな仏さまにお会いことでしょう。




No.59 19/03/31 21:28
旅人 

栃木県鹿沼市の医王寺さんは初めての参拝でもあります。

ドキドキで医王寺さんに向かったその日は、花冷えといわれる、寒い寒い日となりました。
到着するとなんと!駐車場が満杯です!
どうしよう⁉困った車が三台、「この区画も大丈夫ですかね」とアイコンタクト。
まあ、臨時駐車場の車の置き方自体がそもそもあまり決まりがなくて、まあ、事故なく置きさえすればどうでもよかったようでした。

石段をのぼっていくと仁王門があり、こちらは比較的新しい御門であります。仁王さまは御門に比して古い時代のもののように思われます。まあ、今日は参拝ではありますが、参拝後仏像見学会ということで、解説をいただけるのかも知れません。

初めてのお寺さんではありますが、見学会ということで境内には案内の立て看板が出ております。一目散に唐門の奥にある御堂に向かうことができました。入り口で受付をしながら、絶句!
┉御朱印帳、忘れた! !Σ( ̄□ ̄;)
何人かの先に御堂に入られた方々の御朱印帳が山に積まれておりました。どこか、参拝させていただく、という感覚が薄れていたのかなぁ。


御堂にはびっしりと人が座られています。まあ、駐車場が満杯になっていたくらいです、さもありなん。
 ! 内陣の境にある欄間の龍の見事なこと。
欄間の彫刻、龍の手が欄間の枠からはずれるように下に軽く下げて彫られています。そのおかげで奥行がでて、なおかつ迫力がでております。もう、龍に釘付けの私の意識。
髭が立体的に欄間から浮き出すように作られているものは数多くありますが┉とは言っても、その繊細さゆえ髭が取れてしまって、しかも紛失してしまっていることが多いのですが、手、であります。
いいなぁ。

そんなことを考えていると、副住職さまのお話が始まりました。
どうやら、見学会、武蔵野美術大学の先生が解説してくださるようであります。




No.60 19/04/01 17:28
旅人 

医王寺さんは、聖徳太子が自ら薬師如来を造立して伽藍を整えられた、というお話が縁起として残されているとのことであります。
さらには日光開山の勝道上人が夢告にしたがい、山中より薬師如来を発見し御堂を建立して尊像を安置したとも伝えられているようです。
また、弘法大師空海が東国を巡礼した際に、ご自身の御影像や不動明王などを納めて道場とし、高野山の開創によって当地を「東高野山」と呼ぶようになったと伝えられているということであります。


しかしながら、ちょっとびっくりしたことに、解説を務められた大学の講師の方は、いとも簡単にそのへんはバッサリと否定しておりました。仏教界における三大スターをあげたい気持ちはわかるけれども、と。

といったぐあいで、医王寺の創建については必ずしも明らかではないようですが、講堂の〖秘仏本尊薬師如来坐像〗が、平安時代後期の作と推定されることから、遅くともこの頃までには寺院としての体裁を整えていたものと考えられるということであります。
鎌倉時代には、金堂の〖本尊薬師三尊像〗を始めとして、数多くの仏像が造立され、そのころに大がかりな造営事業が進められたようだというお話でありました。中世以降、地方における仏教修学の道場としての機能を有していたようで、江戸時代には幕府から朱印地として寺領五十石を下賜されたようでありました。

1624~1644年頃に焼失したとされる多くの堂宇も、当時の住職等の尽力により次々再建されて、現在の伽藍が完成したと考えられているとのことでありました。


さらには近代に入り、明治35年(1902)の足尾台風により仁王門・金剛力士像が倒壊する被害があったとのことで、倒壊した門の下敷きとなって金剛力士はバラバラになってしまい、阿形の金剛力士はお顔を失われてしまうほどであったようです。その後、再建に至る昭和50年代まで、御堂の中に箱詰めにされてしまわれていたのだそうです。
それで、はじめに通らせていただいた仁王門は新しいものであったのだなぁ。平成四年に完成したものだということであり、その際失われたお顔も再建されたとのことであります。お顔にさほどの違和感がないのは、現代人の技術、なのでありました。

No.61 19/04/01 19:35
旅人 

解説にあたられた先生の仏像愛の深いことといったら┉
まあ、それはそうですよね、それを学ぶべく大学にいき、それを教えとくことを生業とするくらいに大好きなことなのですから。

そして┉こういった仏像見学会などで出会う方のなか、仏像や仏教に詳しく、それこそなにも見ずに仏さまのお役目であるとか、仏像の造りであったり作者についてだったり、スラスラと語りながら見学されている方のなんと多いことか。
今回隣に座られた方もお若い方ですが、仏像がたいそうお好きなようで、奈良や京都などあちこち仏像にあいに出向いておられるようなお話を、お仲間に熱く語っておられます。
そして会が始まって、ご住職が般若心経をお唱えになられると、自らの経本をリュックから取りだし唱和されていらっしゃいました。

はあぁ、場違いなんじゃないかな、私。   

解説をききながら、しばし反省した次第であります。
また解説を聞くにあたっても、
メモを取るのにえんぴつやシャーペンを使って記入するものだとか、
小さな単眼鏡を持っているとよいとか、 
いろいろ学ぶことができました。


No.62 19/04/01 22:15
旅人 

今回は参拝、であり、仏像見学会。
大好きな御仏像を像として拝観してもさほど罪悪感を覚えずにいてもいいのであります。
なんともそれがありがたい。
仏教は決して偶像崇拝ではなく、あくまでも私のような仏さまのお教えを必要としながらも、なかなかお教えが伝えにくいような人間のために、お姿が造られているだけ、ではありますが、そうは言ってもやはり〖仏さま〗であらせられ、そのお姿が好きだとか、お美しいとか、細かな細工が素晴らしいとか申し上げるのはなんとも気がひけるものであります。まあ、そうは言っても、いつも結局そう言ってしまっているのではありますが┉

医王寺さんの薬師三尊像の素晴らしいこと!
薬師如来さまはお顔がすっきりとされた、美男子さまであられます。なんとも見るものに安心感をあたえてくださる、お顔であられます。そして月光菩薩さま!薬師如来さまを見守るような視線をお身体を軽く薬師如来さまにむけてお立ちになられておられます。美智子妃殿下が陛下のお側に立たれておられる姿に似ている、如来さまにそっと寄り添うような立ち姿であります。
日光菩薩さまは薬師如来さまの方に微かにお顔を向けておられるような、ほぼ前をお向きになられているような立ち姿で優しい微笑みを浮かべていらっしゃいます。如来さまが何かおっしゃれば、すぐに動けるような構えにも思われます。まるで左右の立ち姿が異なる、日光月光菩薩さまでありました。
薬師如来さまの光背におられる小さな仏さまにもその表情がわかるくらいにまで細かな彫りがほどこされた見事な御仏像であられました。

そして、そのとなりには左右六柱づつ十二神将がお立ちになっております。その表情の豊かなことといったら。聞けば、少し前まで極彩色に塗られており、もとのお姿に戻されたとのことで、以前の極彩色に彩られていたころよりかえって表情が豊かになられたように感じました。お手が失われたりされお痛わしいところもございましたが、細かなところまで細工のほどこされた素晴らしい御像でありました。

No.63 19/04/02 04:53
旅人 

普段は閉ざされた金堂の中、須弥壇のすぐそばまで寄らせていただくことができました。ため息が出るほどにお美しい薬師如来三尊像と、十二神将像であります。

そんな金堂を後ろ髪をひかれる思いで後にして、向かったのは大師堂であります。そちらに安置された弘法大師像に、私は目が釘付けとなりました。まるでマネキン┉というより蝋人形のようにリアルな感じなのであります。色彩もさながら、手の指の折られたときの皺一つ一つにいたるまで、リアルな感じであります。
薄暗い御堂の中に超リアルな男性像。┉なんだか怖いようなイメージでしょうか。いえいえ、決してそんなことなく、凛とした、眼光鋭い御像でありますが、なんとも親しみやすくともすればお優しい表情の、イケメン、といった感じであります。
そして、そんな超リアルな、と私が感じている御像でありますのに、講師の方によると五鈷杵を持つ手が不自然なのだそう。ありえない方向にまでねじられて五鈷杵を持っていると。そう言われてもそう感じない私は、とうてい美術の才がないのだなとあらためて認識いたした次第であります。右手の御数珠は本物が握られており、五鈷杵は本物?┉(;゜゜)?そのくらいリアルな御像でありました。先生いわく、江戸くらいの造りかと思っているとのことでありました。
こちらはこの見学会のために特別に開放していただいたようであります。

そのとなりには地蔵堂もあるのですが、なぜかこちらは素通りで講堂と呼ばれるいわゆる御本堂にもどるようであります。
やはりお優しいお美しいお地蔵さまの御像が安置されておりますのに┉。あとあと調べたら、こちらは他所にあった御堂を移築されたもののようでありました。お地蔵さまの御堂にありがちな犬の像┉ビクター犬とかも一緒に飾られておりました。『絵で見る地獄と極楽』というしっかりとした作りの本が一冊五百円ということで御堂の賽銭箱のところに置いてあり、一冊購入してまいりました。

No.64 19/04/02 05:13
旅人 

┉講堂に戻って、最後のご挨拶かな?

そう、講堂では先ほどすでに内陣前でお焼香をさせていただいております。
まあ、私の場合は(半紙に)御朱印をご用意いただきますことになっておりますので、いずれにしても講堂に戻る必要があり、お美しい仏像を間近で拝観することができてご機嫌な私は足取りも軽く┉夫を置き去りにして┉講堂に戻りました。
席に着席する前に少し屏風等を観させていただこうと、一旦着席しかけてまた立ち上がったその瞬間、内陣の横の間の、私が立つ少し前の襖が開け放たれました。

 !  

その時の私はまさに「ビックリマーク、絶句!」といった感じでした。
そこにはこれでもかといったくらいに見事な御仏像がところ狭しと収められておりました。何故?
まさかこの見学会のためにここに集結させたわけでもあるまいに。まさに展示、といった感じに安置されておりました。
「どうぞ、お入りになってごらんください」
┉吸い込まれるように、ふらふらとそちらの間にはいる私。


うわぁぁ。



No.65 19/04/02 20:35
旅人 

はいって真正面に、大きな御厨子の中に、大きな、
穏やかでお優しいお顔立ちの、お美しい【弥勒菩薩さま】が安置されておられます。はあぁ┉。
御本尊でこそない仏さまでありますが、これだけの大きさ、この繊細で丁寧な造りは、御堂があったに違いありません。この弥勒菩薩さまは鎌倉時代の作であるとのことで、金堂におわします薬師三尊像と同時代の作であるようであります。手で触れることなどはとうていできはしませんが、撫でたらどれだけすべすべで滑らかであることでしょう。
十二神将像も、そしてこのお部屋に安置されておられる仏像┉
不動明王の脇士(わきじ)として矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制吒迦童子(せいたかどうじ)が祀られておられますがこちらも鎌倉時代の作であるようです。ほかにも聖徳太子や、狛犬、獅子の御像が安置されておりました。

もうため息しかでない。

【弥勒菩薩さま】の右てにやはり大きな┉ちょうど人と同じくらいの大きさの立像、【十一面観音菩薩さま】がすっとお立ちになられています。
こちらもこれだけの大きさの立像、ひとつの御堂があって然るべき仏さまであるかと思うのであります。そんな仏さまが、あまりに無造作に、ぽんぽん並べて置かれているのであります。

十一面観音さまは十世紀の作と伝えられているようで、医王寺さんの秘仏本尊であります薬師如来像(十一世紀)よりも古い仏像で、こちらで一番古い御像と伝えられているとのこと。
さらに平安の作とされている仏像が、不動明王二体と、
おそらく普賢菩薩さまがお立ちになっていた【象像】が安置されております。

凄い数の、御仏像です。
しかも保存状態がかなりよいかと思います。無造作な保存をしていた時代もあったようで、何より火災にあってこの状態!
前に述べたレスがあるかと思いますが、光背部分も本当に繊細であり、よくぞ火の粉を浴びながらこれだけの数の仏像を安全なところに運び出したものであります。
本当に本当に、ありがたいことであります。
重いでしょうし大きさも大きくて、それをお助けどこかにぶつけることもなく!

その先人のお陰で、こうして今日私が胸をときめかせる仏さまたちにお会いできたのでありました。


   平成三十一年三月三十日   参拝

No.66 19/04/03 06:33
旅人 

悲しいニュースを目にしました。

私はそちらにうかがったことはないのですが、夫とふたりで「いつか、暖かなころに必ず行こうね」と言っているところであります、白虎隊のお墓。そちらに御朱印があることも知らず、ただお参りしたいと思っていたのでありますが、全国的に勃発している、御朱印騒動のまさに氷山の一角であるかと思います。
自分は御朱印ブームに乗って御朱印をいただいているわけではない、と思っているのではありますが、そうは申しても納経してお受けした御朱印は数えるくらいで、ややもするとミーハー的な時があることも否定しきれない。群馬県桐生市の観音院さんの日限地蔵さまの縁日限定の御朱印を何度かお受けしたりしていることをミーハーな行動と言われれば否定できないと思っていたので。
ただ、そうは申しても必ず御本堂で御本尊さまと地蔵堂でお地蔵さまにお参りしてから、御朱印の申込みをしております。それだけは必ず自分なりに律しております。
こちらは以前述べたように、九時半で七~九十番代の受付番号となり、四~五時間待ち!ということもあり、お参り前にまず御朱印受付に並ぶ方が多いのですが、その待ち時間にお参りしていらっしゃいますし、なによりも文句をおっしゃる方をみかけたことはないのですが┉。
これだけの数の御朱印をお書きになられたらしんどいだろうな、と思いますし。本来、お昼の時間帯は避けるという決まり事も守られているのかどうか。
基本、お寺は庫裏=御住職の御自宅ですので、ご家族もおられますし、当然一般的な社会生活をそこを基点としておくられています。「お寺に生まれたから」「お寺に嫁いだから」と、当たり前に考えて受けとめられていらっしゃることも多々あるかとは思いますが、生活している自分の敷地に誰ともわからない方が突然前触れもなく侵入してきている、と考えれば一般的な考えでいけばこれはこれで本当にスゴいことであります。
お寺さん、お寺さんでルールを作られているところはよいのです。
正午から一時間はお休み、とか、何時までで門を閉める、とか。あるいは御朱印のためにスタッフがおられて、番号札を用意されているとか、「書き置きの御朱印のみ」とか、御朱印帳を預かっていついつまでに書いておくので取りに来てくださいとか、┉普通に宅配を受け付けているシステムすらあるお寺さんもあるくらいです。

   ┉続きます。

No.67 19/04/03 13:59
旅人 

こちらは白虎隊の墓守りをされている方がご厚意で始めてくださった御朱印であるようです。対応も書き手もすべてをお一人でなさっておられます。

「ただ判を押すだけでは申しわけないような気がして」とおっしゃっておられました。「わざわざ参拝に来られた方々に礼を尽くしたいのでお一人お一人と対話をし、一筆一筆丁寧に書きたいので、時間がかかります」と貼り紙もして、そのスタイルをとっておられたところ、「遅い!」「しゃべってないでさっさと書け!」等を直接言われてしまうことが増え、そのストレスで御朱印自体をお休みしたいと思われたとのことです。どこの神社仏閣でも、一人あたり五分程度は当たり前にかかります。参拝させていただいて御朱印もお受けした数もそれなりにはあるかと思うのですが、いまだかつてそんな暴言を口にする方に出会ったことがないです。
穏やかにその場におられる方と会話を楽しまれたり、御朱印帳を預けてその土地の名物を食して来られたり。
鎌倉などではさすがにそれこそ長い列はできてはおりましたが、外国からの方々や小学生もその列を崩すことなく、不満を口にする方は一人もおられませんでした。

観光の一環で訪れて、たまたま御朱印をお書きになってくださっているのを知り、たまたま御朱印帳をお手持ちになっていて、次の観光地に行きたい思いでもあったのでしょうか。

この女性は、ならばとお書き置きの御朱印で対応なさったところ、ネットで高値で取引されていることを知り、お書き置きを止めたという経緯もあったようです。
たしかにネット上で高値での御朱印の取引があることを、親しくお話くださる御住職からうかがったことがあります。
もはや言葉が悪いけれど御朱印スタンプラリー、ということですらないです。

神社仏閣巡りの初心者がいろいろおこがましく語って申しわけありませんが、その墓守りの女性のお手は、たいそうお心のこもった素晴らしいものでありました。
どうかいま一度、御朱印をお受けになられている方のごく一部の方、心こめた御朱印はもうそこに〖縁〗というものがうまれております。時間がなくてお受けできないのもその時のご縁です。
例えば煽り運転をして、結果人一人の心を深く傷つけたこととなんら変わりがない行動であるかと、私は思います。

No.68 19/04/03 15:51
旅人 

ちなみに、「飯盛山には栄螺堂があるんだよ。いまはお寺ではなくなっているようだけど」 大学生のときにかの地を訪れた夫。
すばらしいところだよとかねてから語っておりました。



この墓守を代々受け継がれておられる女性は、すでに五代目ということで、【飯盛山参道】の記念に御朱印をお書きくださっておられます。
【飯盛分店での白虎隊御朱印の始まり】は、当時の藩主松平容保に頼まれた当時の白虎隊墓守が書いたのに始まり、白虎隊御朱印では一番古く、唯一、容保公の一言で始まったものであるとのことであります。
お店ではありますが、元々が茶屋を営まれていた女性が墓守を始め、徳川将軍家とも深く関わっておられた藩主松平容保に頼まれ始まった歴史ある由緒ある御朱印であります。
また、この御朱印も白虎隊墓守以外の方が記入はなさらないというこだわりもあるもの、お店が御朱印ブームにあやかって始めたものでもありません。
そして、代々収益は全額養護施設や福祉、震災等へ寄付しておられるということであります。

一部の心無い御朱印を求め、暴言を吐かれた方、┉どうやら何年も前からそういった方がおられたと、今回の件に関わることなくかつてネット上で嘆かれていた方もおられました┉あなたの暴言が、こんなに歴史ある御朱印を、心こもった素晴らしいお手の御朱印を、一時的とはいえ途絶えさせたのですよ。


一日でも早くこの貼り紙が取り外され、何よりもこのような暴言を口にする方がなくなりますように(。-人-。)

No.69 19/04/03 22:17
旅人 

二月に、夫によるミステリーツアーで行った、群馬県甘楽郡の小幡の桜まつりに行ってまいりました。とはいえ、ここのところずっと戻りっぱなしの寒の戻りで、桜は二~三分咲き。しかも本来なら三月ではなく四月に行われているこのお祭り、今年は選挙のため一週間早めざるをえなかったということであったようでありました。

織田信長の孫である織田信良公が治め、その後も松平家が明治を迎えるまで治めた小幡の地をいつまでも伝承し周囲にも知らしめるために、武者行列が行われているとのこと、先日参拝の際に寶積寺さんにポスターが貼ってありました。
寶積寺さんの垂れ桜の花はまだまだ早い頃ではあろうかとは思ったのですが、小幡八幡宮の天井画も見事なようで、武者行列の祈願式が終えたあと、天井画が公開されるという┉これは行くしかないでしょう。
現地では駐車場がなく、四キロほど離れた駐車場からシャトルバスが出るとのことであります。
私たちの前で定員数となりバスが発車となりました。
ところが待てどくらせどバスが来ない!三十分以上経ってようやくバスがきたものの、武者行列はとうの昔に出発してしまっている!
走って追うしかありません。


走って走って、それでも武者行列の歩いた形跡すらありません。

涙。

No.70 19/04/04 22:16
旅人 

┉そして結局、シャトルバスが発着駅に到着すらしていなかった頃、号砲の音を合図にスタートしたという武者行列に追いつけるはずもなく、武者行列は休憩地点で休んでいました。泣
シャトルバスの発着地点で、係りの人が「直接会場近くの駐車場に行けばまだ空いてたから、間に合ったのにねぇ」┉はぁ⁉
ネットの案内では会場近くの駐車場はなないということで、こんなに離れたシャトルバスの発着地点しか案内がなかったんですけど。せめて、係りの人はそれを口にしないで欲しかった。

┉復路がある。

すっかり仮装したお祭りムードの人達に戻っている武者行列の方々を、八幡宮の参道でみることとなり、寒さと花曇りの天気も手伝って私はすっかり異邦人、お祭りに参加しきれないでおりました。
それでも気をとりなおして、写真など撮っていると私がたまたまカメラを向けたところにおられた方が優しく笑って写真を撮らせてくださいました。お礼を言っている途中でなにやらその人めがけて何人かの人が集まってきて「わあ、会えた!うれしい」 ┉⁉
地元で人気のある方なのかなぁ┉。
あ!ゲストのお笑いタレントさんだった。私、結構ついてるんじゃないかしら。

No.71 19/04/04 23:53
旅人 

閑話休題

武将に扮した方たちは祈願をするため、八幡宮の拝殿にむかい石段をのぼって行くのが見えます。拝殿を見上げると、慣れた一般の方たちはすでに境内で待機しているのが見えました。行かなくては!
私は石段を一気に駆け上がりました。
境内には神職の方と武将の方の席が設けられていました。祝詞をあげていただき、お祓いを受けて、祈願をし。榊を捧げて、御神酒をいただき祈願式はつつがなく終了。武将たちは再び行列の中央におさまって目的地に向けて出発していきました。

私はといえば┉ 行列を見送ることもなく御朱印所にむかい、御朱印をお受けして、再び拝殿に。八幡宮の天井画を拝見させていただきに拝殿に参上させていただきました。
素晴らしい天井画です。迫力ある龍が描かれその周りには花鳥風月、そして歌人の絵も描かれています。


そこで┉写真撮影が許されているのをいいことに、あろうことか拝殿に寝ころんで写真を撮る女性がおりました!
拝殿の中、中央です。拝殿のしたで鈴を鳴らして拝んでおられる方もいるというのに。しかもスカート!!三十代後半から四十代後半くらいの体格のいい女性が、拝殿のど真ん中、大の字に寝ころぶ図、って┉
あり得ない!┉インスタにでもアップするのでしょうか。
人として、同性としてもたいそう恥ずかしくて情けなくて。


今回の珍道中は、毒を吐いてばかりの私であります。
申し訳ありません。
そんな私自身、未熟で恥ずかしい。

No.72 19/04/05 07:56
旅人 


小幡八幡宮の天井画はこんなにも迫力あるものでありました。
甘楽町指定重要文化財となっております。群馬県指定にはダメですか私は凄いと思いましたし、ひとめで好きになりました。これからもより良い状態で後世に残していっていただきたいと、強くおもうのであります。

No.73 19/04/07 01:32
旅人 

夫と結婚して何年経つのだろう┉覚えてもいないところがなんともがさつな女でありますが、親と暮らしたのが18年間、夫とは30年は越えています。親よりも長く一緒に暮らしていることになりましたが、いまだになかなか『阿吽の呼吸』とはまいりません。軽い冗談に結構なお怒りをかったり、こんなことを私が教えねばならないのかとかむかっ腹をたてたりと、未熟者の似た者夫婦、なのかもしれません。
私がいい歳をして神社仏閣に詣でることが初心者なのはそういった家庭に育ったから他ならないのでありますが、知らなかったことが多くて、かえって新鮮な思いで参拝することができます。

左右二体でおられる狛犬や獅子、金剛力士像のほか、随臣像もみな、【阿吽】の形相をされていることを、実につい最近知りました。そういえば沖縄のシーサーも阿吽の二対の像であります。


信心深いお年寄りがいつものような自然体で、お寺さんや神社にお参りされている姿を見かけると、いつかはああなりたいものだと思うのでありますが、いまだに興味深そうに随臣門を覗きこんだりしている私はまだまだ到底先、なようであります。
お地蔵さまにお供えされた飴などを、ごそっと持っていかれるお年寄りもおられるのですが、あれはお供物をいただいている正式なお参りのひとつの形なのか、よくないお参りなのか、聞くに聞けないでおりまして、未熟者の神社仏閣珍道中は当分珍道中のままのようであります。


No.74 19/04/07 02:25
旅人 

先日、群馬県前橋市の【産泰神社】さんに一人お参りして参りました。産泰道路と呼ばれる道路があるくらいの有名な神社さんでありますが、三年ほど前に夫に連れていってもらうまでは、お名前もうかがったことがなかったほどの神社仏閣超初心者であります。
夫は以前から知っていた様子でありましたが、こちらは安産の祈願をする神社さん、知っていたなら私が妊娠中に一体くらい御守りを授与してきてくれてもいいものを。入退院を繰り返していた初めての子の時すら御守りの一体すらいただくことなく。
時々、安産の御守りを授与していただいている若い男の方をみるといまだに羨ましく思う未熟な精神の持ち主であります。

平日でありましたが、ちらほらと子供連れの参拝の方がおみえになっており、御祈祷をお受けになっている方もおられました。
こちらの主祭神はコノハナサキヤヒメさまであられ、優しい気の満ちたあたたかな雰囲気の神社さんであります。
拝殿の鈴もしゃらしゃらと優しい音のするたくさんの鈴を束ねたものであります。
本殿の右斜め後方には安産祈願の胎内くぐりの岩があり、拝殿脇には抜けびしゃくというやはり安産の祈願をするところがあります。
安産の祈願にご利益のある神社さん。女性の守り神さまでもあらせられ、女守りという御守りを一体お授けいただきました。
綺麗な桃色の御守りなのでありますが、「二十歳まで」「二十歳から四十九歳まで」「五十歳以上」という、年齢によって異なる御守りであり、見る人が見れば年齢がわかってしまうこの御守り、アラフィフのような微妙な年頃の方には、ちょっと持つのにためらいが生まれそうな御守りであります。


  平成三十一年四月一日  令和の元号発表の日に

No.75 19/04/08 04:36
旅人 

今年の一月に初めての参拝をさせていただいた、栃木県足利市の【浄因寺】さんに再拝してまいりました。

四月八日の灌仏会(かんぶつえ、降誕会ともいう)の前にあたる日曜日に、そちらに境内から見上げる位置、巨石の上に少し岩からはみ出すように建てられたお茶室があるのですが、お釈迦様の誕生を祝ってお茶を点てると書いてあり、必ずやその日に再拝をしようと誓ったものですから。それが今年は今日。
ただ、その浄因寺さん、細い細い、車一台がやっとの山道を登っていく、かつて関東の高野山といわれたお寺さんで、私のような運転技術の者では到底参拝できるところではありません。
どなたかに連れていってもらわなければ、片道四時間(!)の道のりをひたすら歩いてようやくたどり着く、といったたいへんな参拝となります。
頼りの夫はちょうど一カ月前に風邪から肺炎を患い、ようやく治ったところで、行けるかどうか、たいへん危ぶまれることでありました。
山道の運転をお願いすることぐらいは容易いところまでに回復したと
はいえ、その後の歩く山道も足元の悪い急傾斜すらある、しかも広い広い境内です。
大丈夫、と言ってくれたので、ありがたくその言葉に甘え再拝にたどり着いたといった、ようやくの実現、だったのであります。



その茶室『清心亭』は、その横にある細い太鼓橋を渡って行くのですが、その景観を葛飾北斎が描いたという『足利行道山雲のかけ橋』と題する画が存在するくらい、ここ浄因寺さんは人々に崇拝され愛されたお寺さんでありました。

いま┉。
私のようないい歳をして神社仏閣の初心者すらが存在する時代、こちら、浄因寺さんはだいぶ衰退をしてしまっております。嘆かわしいことではありますが、御住職が亡くなられて無住の、檀家を持たないお寺さんとあれば、それは悲しいけれど仕方のないこと、なのかもしれません。こちらを兼務される僧はおられるようですが、ご自身のお寺さんの法要があり、法会があり、実際にはこちらのお寺さんを守っておられるのは地元の保護会の方々のような状況であります。



   ┉続きます。

No.76 19/04/09 11:03
旅人 

一説によるならば、浄因寺さんまで駐車場から二キロ。

んなに距離があるかどうか┉なにせ山道を人が登れるだけに加工した細い石段を登っていくものなので、体感的にはさほどに距離があったようには思えませんでした。石仏に癒されながら登っていくので、距離を感じないのかもしれません。一月にはなかった、春の顔をした山道でありました。
二つ山門をくぐり鐘楼が見えてきました。清心亭での景色はどんなでしょう❤



┉戸が締まったままであります。人も数えるほどしかおられません。?気持ちを落ち着けて、落ち着けて。とにかく御本堂にお参りです。ひなたになき住職の形見の四匹の猫が寝ころんでいます。┉まずはお参り!
御本堂も閉ざされたまま、人の気配はありません。ガラス越しに御住職が使われていたままに経本がおかれ座布団が敷かれているのがみえます。遺された猫たちの気持ちと遺した御住職の気持ち、そこには諸行無常の寂しさ、儚さを含んだ空気がとどまっているように感じます。
お参りをすませしばし猫と戯れ、ふと御本堂の脇の入り口付近に貼り紙がしてあるのが見えました。花まつりの行事は今年は中止です。
えっ?┉
たしかに御本堂へのお参りあっての参拝です。それがあってはじめて花まつりの行事はある、かとはおもいます。ですが駐車場にもこの貼り紙、あってもよかったのでは?

修行、でしょうかね。(;´・ω・`)

仕方ありません。

もうひとつ、今日の目標があります。前回あまりにも軽装で来てしまい諦めたさらなる上にある寝釈迦さまの石像のお参りです。今回はパンツスタイルで山道用の杖を持ち、しっかりとした靴を履き岩道を登る支度で来ております。

さぁ、いざ登らん‼



   ┉続きます。





No.77 19/04/09 15:15
旅人 

浄因寺さんの御本堂の横には庫裏があり、そこで猫たちは雨風をしのぎ、ご近所の方がここまでの道のりをひたすら歩いて届けてくれたエサを食べているようです。
さらにその脇に上へと向かう階段があり、そこを登っていくと、境内を一望するところに御堂があります。熊野清心堂。その脇に山に分けいって行く大きな大きな大岩の間をすり抜けるような階段が設けられています。
人一人が通り抜けるだけの階段で、しかもその幅も段差も傾斜もバラバラ。そこに濡れ落ち葉が敷き詰められていた一月、ここから上を断念いたしました。前述した通り、今回は山道を歩く支度で訪れておりますのでここから┉書いてある通りであるならば┉六百メートル、登っていきます。
さっきの階段にケチをつけていた自分を恥じるくらいの、なんとか登りやすいようにと作られた階段とは名ばかりの道を登っていきます。もちろん、ぶーたらぶーたら言いながら┉。修行には一切なっておりません。
お、あっという間に広いところに出ました。
なんだぁ(*´・∀・)

ん?┉違うな、ここは。歴代住職のお墓、でありましょうか。
その向こうに赤い御堂が見えます。「ここはあかずの御堂と呼ばれる開山した僧が入定したところのようだよ」あ、運転手にして無料ガイドの夫が、今日はじめての解説であります。なにやらいろいろ話してくれておりますが、なかなかハードな山道で(もちろん、私たち二人に、ではありますが┉)これから先どのくらい登ればいいものか、そればかりが気になっている私はふんふんと聞き流して、再び先へと続く階段を登りはじめるのでありました。

おぉ、看板です。あともう少し!
山の中腹かな。
展望台があるようです。えっ?ええ
ここを?

ここを登らないと寝釈迦さまを拝することができない?

道は┉あると言えばあり、ないと言えば、ない。
もう杖は捨て置きよじ登ります。

No.78 19/04/09 16:33
旅人 

┉ご想像通り、ブツブツと文句を言いながら、ほんのわずか岩をよじ登ると、
パアァァっ❤ (┉私の心を表した表現です)
石仏さまがそれはそれはたくさん、小高いところにおられるのがみえました。たぶん、普通ならば、目の前に広がる足利市の展望に感嘆するところなのでしょうが、私は正直、それがまるで目に入らなかった。

たくさんのたくさんの仏さまたちがまさに
「不生不滅不垢不浄不増不減」という、般若心経でお説きになられている空間に、石仏像のお姿を借りて、私たちを見おろしてそこにおられるような気がいたしました。

江戸の元号の刻印された石仏さまがほとんどのようです。なかには長い年月の間に、その石の欠けてしまわれたもの、元の形をとどめておられないものもございます。倒れてしまわれた像もございます。その自然のなしたままに、一切石仏に手触るることなく、そこにあるがままに、石仏群は山の頂にございました。
私は、なんとそこに五十分!ただただたくさんの石仏と向き合っておりました。
それはたったいま、カメラで確認した驚愕の事実でありまして。
一言も私に声をかけることなく、夫と息子は、私の心のすむままに付き合ってくれていたのでありました。そして、二人の元に戻った私に、息子が無言で一粒の飴をくれました。

感謝、です。


それでも私はそこを立ち去る際、名残惜しんだことを記憶しております。


私の癒しの空間であります、栃木県足利市の浄因寺さん。
しかしながら、そこは自力だけで到達するには片道四時間の道のりを歩くしかない、近くて遠い遠いお寺さんであります。
これから先、歳を重ねて、努力するとしたら、運転技術をみがくなどと戯けたことは考えてはいけないので。片道四時間の道のりを五時間かけようと登ることなら┉まあ、努力するとしたならば間違いなくそれくらいであります、がね (;´・ω・`)

「いつかまた、私を浄因寺さんに連れていって」┉言えないな、五十分待たせたなんて┉ (;ω;`*)


     平成三十一年四月七日   参拝

No.79 19/04/14 18:56
旅人 

今日は、先日御朱印をいただきましたお寺さんの御住職の奥さまから、
「お祭りがあるの、よかったらどうぞ是非お出かけください」
とありがたいお言葉を頂戴し、ずうずうしくも参加させていただきました。
ただし、この度のお祭り、メイン会場は小高い山の上にあるお社であります。先代の御住職の夢枕に半僧坊さまがお立ちになられたことから、お社を建て半僧坊さまをお祀りするようになったとのことでありました。

半僧坊大権現さまのお社には副住職がおられ、半僧坊さまについて語ってくださいました。立ち話のような気安さでお話しくださったことに、
【半僧坊大権現】さまは【天狗】さま。元はインドの鳥の神様、【ガルーダ】さまであって、その神様が仏教に取り入れられ【迦楼羅】(かるら)・金翅鳥(こんじちょう)となり、さらには日本では神格化され、神道と結びつきさまざまな神様の眷属として親しまれることとなった、ということであります。
さらにそこから【烏天狗】となり、中世には人格として祀られるようになったのが【半僧坊さま】であるということで、
諸悪を退散させ、良きことをかなえてくださる神様として信仰を集めておられると。
【迦楼羅】が火を吐き、悪龍を退治したことから、焔との結びつきを考え、天狗さまの祀られるところには火防稲荷を祀ることにとなっているということで、こちらの半僧坊の下にも稲荷社がありました。

明治の廃仏毀釈以前はもともと寺院内に神様が祀られていたりしたこともあり、鳥居もあるお社でありますが仏教側の神様なので禁忌はないのだということであるようです。


うかがったお話に忠実に書いているつもりではありますが、なにぶんにも書いている私が咀嚼できていないため、わかりづらいことで申しわけありません。
仏教側の神様、というお話はよく耳にするのですが、奥が深く、私にはまだ到底理解にまでは至らないものであります。
そういった仏教にも神様がおられるのだと単純に覚えてしまうのでよいのかな
 (;ω;`*)

No.80 19/04/15 03:31
旅人 

【御朱印】をお受けすることについつい重きをおいてしまいがちになる神社仏閣めぐり。今回半僧坊のお祭りということでお邪魔いたしましたお寺さんでもそういう方が多くて、と御住職がおっしゃっていました。
「それでも寺ってものに興味を抱いてくれてるってことでそれはいいことだと思うんだよね。わざわざこんな片田舎のはじっこにあるような寺に来てくれてるんだ、ほんとありがたいと思うよ。ただ、うちの場合は必ず本堂にあがってお参りをしてから、それならば書きますってことにしてるんだ」
┉ありがたいことであります。
御本堂に入れていただけることだって、お断りされることの方が圧倒的であります。
「御朱印ブームってのかい?だから、1回御朱印をもらったとこにはもう二度と行かないのさね。まあ、月替わりみたいな御朱印を書くお寺さんは別だけど」
御住職のお寺も御朱印がだいぶ増え、いくつかの御朱印があります。御住職のスタイルは御本堂で、目の前に座って、御住職とお話をしながら、といったものであります。
このたびは本来の御朱印の受け方、『納経をしてから』というものもご用意なさっていました。特別な御朱印をご用意され、寄付金をセットしたものなのでそれなりの金額となります。
「それでも、という方や、写経に興味を持つ方が結構いるんだ」

商売!となっているお寺さんもあるし(実際、そういった発言をしていました。「書き入れ時だから頑張ろう」と。)それはお互いの感じ方。
でもやっぱり、最低の礼儀はして欲しいと思っちゃう、生意気な神社仏閣珍道中者であります。┉ 参拝、しようよ。おひるどきや夕方になったら諦めようよ。


No.81 19/04/15 21:02
旅人 

半僧坊で初めてお会いした副住職。
剃髪をまだされていない、法衣を着ていなかったら僧籍におられると思われない方であります。副住職も気さくな方でいろいろ興味深いお話をしてくださいました。

迦楼羅さまやガネーシャさまの絡みから、外国の神様や日本の八百万の神様について語られ、
「神様は死を不浄なものとして忌み嫌うんですよ。だから、神社の宮司さんは神社の敷地内で亡くなるようなことのないように現代でもしてるんですよ。あとは神棚のあるお宅でご不幸があると半紙で目隠ししたり。神様がお怒りになられると恐いですから」
「特に外国の神様は説教をしたくなるほど自由奔放です。ガネーシャという神様は、頭は象、身体は人間というお姿をされているのですが、これは父親であるシバ王がなにかに腹をたててガネーシャの頭を切り落としたところ、母親である妻が怒り狂って抗議をし、あわてたシバ王が首から下となった身体に象の首をすげたところ、母親はその姿で納得したため、今に至るまで全世界でガネーシャの姿は人間、というスタイルが定着されているというんですよ」
「ありえなくないですか?首を切り落としたり、そのあと怒られたからって象の首をすげちゃうって。」
┉はい、びっくりです。

「可愛い牛だと思うとその牛に交尾したゃったり」┉はあぁ?
「説教をしてくれたい!と思っちゃうくらいほんと奔放なんで」はぁたしかに。

まあ、そのあとだから仏教は素晴らしいという話にはもっていかないところはよかった、よかった。

No.82 19/04/16 00:16
旅人 

半僧坊の境内ではお参りをされた方全てにお赤飯をくださり、腕にはミサンガを結んでくださいました。

実はこちらの御住職、何度もインドに出かけ仏跡を訪ねておられ、今年もまたインドに行かれ、ほんの少し前に帰られたところでありました。
御住職が毎回インドに行くと必ず参拝されるのが、お釈迦様が最初に説法をされた聖地の一角にある、仏舎利が奉安されている寺院なのだそうです。その寺院ではお参りすると、住職が左手首にミサンガを結んでくださり、旅の安全と幸せを祈ってくださるのだそうです。
そのインドでのミサンガにあやかって、御住職が厄除開運・交通安全の御祈祷をしてくださった木綿の袈裟色(カラシ色)のものであります。糸が三本なのは仏法僧の三宝をあらわしているそうで、仏教の守護を象徴したものなのだそうです。

寒さのためにまだまだ見頃のさくらをながめながら境内におりると、本堂の斜め前に特設された野点のコーナーがあり、着物を御召しになられた女性がお茶を点ててくださいました。


お赤飯も野点の御茶も、ミサンガも、全てお寺さんのご厚意でありました。なんて贅沢なひとときを過ごしたのでしょうね。檀家の方やお寺の奥さまも「是非来年もお越しください」と口々にお声がけくださいます。なんだか人のあたたかさを感じる、心の豊かな方々に囲まれた、とても素敵な時間でありました。



      平成三十一年四月十四日  参拝



No.83 19/04/16 01:28
旅人 

半僧坊大権現大祭のあと、かねてから気になっていた神社さんにも参拝させていただきました。こちらの神社一ヶ月ほど前から春の大祭があるとのポスターも見かけておりました。
神事もあるとのことでワクワクしながらの参拝であります。
しかしながらこちらの神社さん、気になっていながら今日まで参拝に到らなかった理由が駐車場!どこを見ても駐車場が見当たらないのです。お祭りであれば特設の駐車場を設けたりするかもしれませんし。

んー、こ、ここかぁ(;´・ω・`)
私のクルマ、普通車でもでかいほうでありまして。んー。
交差点のすぐ脇の砂利のしかれたものですが、コンクリートを分厚く敷いたところがありかなりな高低差が見てとれます。切り返しきり返し (  ̄ー ̄)bよしオッケー
車を停めて鳥居を目指して!

(((・・;) ┉みんなお知り合いっぽい方々ばかりです。手には抽選券をお持ちです。 あれ? どちらかというとここらへんにお住まいの方のお楽しみ会的なお祭りみたいです。
まあ、いいか、神様は平等、平等!
で、主祭神様は?┉
御由緒の書かれたような看板は一切見当たらない。
┉。

┉さくらがきれいです。手水舎の鉢は大きな石をくりぬいたもので、流れる水にキラキラと日の光が反射してきれいです。そこにハラハラとさくらの花びらが舞い散っては水面に浮かんでおります。ああ、来てよかった。
そして大きな大きな樫の木が!うわぁ、なんて優しい気に充ちた樹なんだろう。子供たちが樹のまわりでじゃれあったり、話をしています。みんなに愛されている神社さんで樫の木、なんだな。

御朱印はないようですが、初詣と節分追儺、そして今日の春期大祭、秋期大祭にそれぞれこちらで四回朱印をいただいて満願祈願をするという用紙はありました。
抽選券とお菓子の引換券があってお菓子と一緒にお札?御守り?をお受けするようです。
境内では引換券無しでも無料でわたあめ、ポップコーンが配られ、金魚すくいや射的もできるようです。そのほか、焼きそばなどが販売され楽しそうな素敵なお祭りでありました。


お祭りのお礼にもう一度再拝させていただこう。
お祭りの賑やかな雰囲気のなか見逃してしまっていた御由緒が見つかるかもしれない。



No.85 19/04/16 05:44
旅人 

追記) こちらの神社さんで金魚すくいをやっていたことを書きましたが、実は拝殿の横で小さな┉四~五歳の男の子が手に持っていた金魚を袋ごと落としてしまったのです、。
…息子さんの悲しそうな顔を気づかうことすらなく、ご両親がそのまま地面に金魚を放置して立ち去って行ってしまったことに、私が気づいたのはずいぶんとあとになってから。
 
弱々しく体を横たえて、ほとんど動かなくなっている金魚。
私は金魚を手づかみにとかが出来ないので、とりあえず容器を求めて金魚すくいのコーナーに助けを求めに走りました。
すると┉、金魚すくいのそばに立っていた若いお父さんが私と金魚すくいの係の方について来てくれて、「かわいそうに」と一言言うとスッと両の手で金魚をやさしく包むように地面から掬い上げ容器に移してくれました。
優しいお顔だちの優しい眼差しをした、物腰の柔らかい言葉少なな若いお父さん。おかげで小さな命が二つ救われました。

金魚の命を命と思わないような輩、若い親たちに激しい憤りをおぼえたけれど、それを帳消しにしてさらに上回るような働きをしてくださった若いおとうさんのおかげで、本当に心暖まる、優しい気持ちになれたお祭りになりました。




       平成三十一年四月十四日 参拝

No.86 19/04/19 22:03
旅人 

神社仏閣初心者(何年これを名乗るのか 嘆き)は、当然のことながら、神さまのことも、仏さまのことも、存じ上げないままにお参りだけをくりかえしておるのではありますが、このままではいけないなぁと、時折自分の身の丈にあった神さまや仏さまについて書かれた本を読んだりしております。
悲しいくらい、両のまなこから入って直ぐに後頭部から抜けて出ていくような、そんな状況ではあるのでありますが(T^T)
仏教においては宗派などもあり、宮司さまも御住職さまもほんとに専門職であられるとつくづく思うのであります。

まあ、自分の身の丈にあった本、ついついこれから行きたい神社仏閣について書かれた本であったり、はたまた幸いなことに御朱印ブームであることから御朱印について書かれた本などを手に取ることも多くあります。


多種多様な御朱印が存在しており、私、御朱印においても初心者でありますが、たとえば思ってもみなかったところで御朱印をいただけたりいたします。先日述べました白虎隊の史跡の御朱印もその一つであります。
そして、登山。もともと神さまの住まれる霊山として崇められております御山はそもそもが霊場であり、そこに神社が鎮座することがあることはなんら不思議ではないのでありますが。富士山山頂には富士山本宮浅間神社の奥宮があるようで開山期間中には御朱印がいただくことができるようです。朱に富士の赤土が混ぜてあるため独特な落ちついた赤の朱印だということであります。┉今年の元旦に富士山にお参りされた御朱印仲間のご年配のご婦人に見せていただけないかなぁ┉。
そのほかの日本三霊山の、石川県の白山には白山比咩神社の奥宮が、富山県立山には雄山神社峯本社がそれぞれ鎮座しているようです。こと、白山は白山室堂まで約六キロ、四~五時間の本格登山をし、奥宮はさらに四十分ほど登るとか。


んーん、奥が深いなぁ。

No.87 19/04/20 11:49
旅人 

御朱印がブームとなっている現在、限定御朱印というものも数多く存在しております。月替わりの何月限定だったり、正月限定や季節限定であったり。なかには自分の誕生月限定などという限定御朱印まである寺院もあるようであります。絵手紙風の絵が添えられていたり、墨絵や水彩画といった絵が描かれたものもあります。何種類かを集めコンプリートするといただける御朱印もあったり、御朱印のあり方も時代とともに移り変わってきているようです。



限定御朱印が新しい時代のものかといえばそうでもなく。

私は基本限定のものに固執せず、縁あってお受けできたものだけを集めさせていただこうと思っておりましたが、どうしてもどうしてもお受けしたくて、時間ギリギリになってしまい、登り坂を走って走って、到着したときには言葉を発することもできないくらいになってしまい、僧侶の方が驚かれるくらいに息を切らしてお受けした御朱印が一枚ございます。
前スレに書かせていただいた、鎌倉の【円覚寺】さんの国宝舎利殿の御朱印であります。
普段は非公開である舎利殿の貴重な公開日であるのは正月三が日と十一月の三日間宝物風入という行事のとき。さらに、その御朱印をお受けできるのは宝物風入のときだけ、なのであります。
あくまで舎利殿の御朱印であるため、舎利殿でのみお受けすることとなっており、しかも公開の時間が円覚寺さんの閉門時刻よりもさらに早くなっていたため、余裕で御朱印をお受けできると思っていた私は、前述のようなぶざまな有り様での参拝となってしまったのであります。
再拝であるため、舎利殿の参拝自体はスムーズに行え息を整え御朱印の受付に戻ることができましたが、駆け込み寺でもない円覚寺さんに息を切らして駆け込んだおばさんを受付の僧侶の方が覚えていないはずはなく、「息も整って無事ご参拝できてよかったですね」と。
はぁ、すみません。以後気をつけます。
前年は御朱印をお受けするような参拝をしておらず、ゆったりと優雅にお抹茶までいただいたというのに┉一年経っても珍道中なおばさんで申し訳ない。

前スレに書かせていただいてありますが【舎利贍禮】とお書きくださり印を押していただけます。【しゃりせんらい】とお読みし、舎利を礼拝すること、という意味であるようであります。






No.88 19/04/20 12:33
旅人 

いつかは参拝しお受けしたい【限定御朱印】

奈良【興福寺北円堂】
通常は柵の外から国宝のお堂を眺めるのみであるこちら、春と秋に期間を限って公開され、弥勒如来、無著・世親像などの国宝仏を拝観することができるようであります。この開扉期間は御朱印をお受けすることができるというもので、限定御朱印と申し上げてよろしいかと。
さらには四国九番札所の【興福寺】さんには南円堂があるそうで、特に南北で対になっているわけではないようではありますが、こだわる方は南北合わせてお持ちなのかもしれませんね。


【薬師寺】
薬師寺でも定期的に国宝の吉祥天画像が公開され、この期間に吉祥天の御朱印がいただけるようです。印はお美しい吉祥天が忠実に写し取られたものであるようです。玄奘三蔵院が公開されている期間は玄奘三蔵の御朱印がいただけるようです。

京都【仁和寺】も通常も数種の御朱印があり、【阿弥陀如来】門跡寺でありますこちらならではの【旧御室御所】【勢至菩薩】などがあるようです。
限定と申し上げていいかと思うのは毎月二十日の薬師如来の御縁日のみお受けできる御朱印。ただしこちらの薬師如来さまは秘仏で御開帳もないようであります。

【東大寺三月堂】の執金剛神御開帳=十二月十六日。

【法隆寺上御堂】(かみのみどう)の公開日=十一月一~三日。

【祇園祭】七月の一ヶ月間に八坂神社と四条御旅所で【祇園御霊会】という御朱印紙がお受けできるとのことであります。
さらに山鉾巡礼の、前々日の宵々山および、前日=宵山には各山鉾のある各鉾町で御朱印を自分で捺すことができるようです。


そうだ、京都にいこう!
みたいな日が来るといいなぁ( 〃▽〃)


No.89 19/04/20 16:55
旅人 

涅槃会には休みまでとって、お寺さん巡りまでしたくせに、お釈迦様の御誕生された日とされる四月八日は?
私の住むところはちょうど入学式の日にあたり、ちょうど入学式のお子さんをもつママさんや、入学式のために早帰りになる子どもたちをお持ちのママさんがお休みをとっているため、花まつりにはお休みをとることはできなかったのでありました。

そう遠くはない、何年か先になれば好きなだけ神社仏閣巡りができるはず❤なので。

それになにより、涅槃会であらためてお釈迦様のこと、なんにも知らない自分を思い知りました。以前、手塚治虫の描いた〖ブッダ〗、少しだけ読んだはずだったんだけど、な(;´・ω・`)
なんにも残ってなかった。

お釈迦様。ゴータマ・ブッダ。ゴータマって「最勝」と意訳され「人類中最も優れたもの」って意味だそう。ただこれは、姓、にあたるシャカ族の種族名。もともと生まれながらにそういう姓の家であったということのようです。
約2600年前に実在した人物で、人として初めて“悟り”を得、仏となった、仏のなかで唯一実在の人間だった方。
釈迦牟尼”ともいわれこれは「釈迦族出身の聖者」という意味になるようです。お釈迦様は仏となっただけでなく、自分が獲得した真理=悟りを多くの人に、分かりやすく説き、人々の心を「苦」から解放する道筋を示し、これこそが仏教の始まりとなったのだそうです。

実在した方とはいえ、なにぶんにも2600年前も前のことであり、仏となられた方であることから、伝えられているものは宗教的・信仰的な“真実”を語り伝えられておるため、人間としての釈迦よりも、より超人、仏へと変貌させられているところはあるようであります。


そのお釈迦様の誕生はいかにも宗教詩風であります。おかあさまであられるシャカ族小王国の王の妻、摩耶婦人が、白い象が胎内に入るといった夢をみて身ごもり、お産のための里帰りの途中で突然産気づいて、なんと!右脇腹から釈迦をお産みになったということであります。
どこから産んでも痛いけど、それはそれで痛そうな(;゚д゚)
それがそんな異常分娩だったからかどうか、生後まもなくおかあさまの摩耶婦人は亡くなられております。それゆえお釈迦様は実母の妹にあたる継母に育てられたということでありました。

No.90 19/04/21 01:05
旅人 

お釈迦様の誕生された日をなぜ「花まつり」というのかといいますと、お釈迦様がルンビニーという花園で誕生されたからなのだそうで、神々が誕生を祝って大量の花の雨を降らせたとも、竜王が祝福して甘い雨を注いだともいわれているようです。
そのような伝説に基づいて「花まつり」は、誕生仏と呼ばれる釈迦の仏像に花を飾り甘茶を注ぎかけて祝うということであります。


誕生仏と呼ばれる仏像は右手で天を、左手で大地を指さしている、像で、それはお釈迦様が生まれ落ちてすぐに、東に七歩歩んでそのようなポーズをなさり、
『天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)
三界皆苦 吾当安此(さんがいかいく ごとうあんし)』
と話された、という伝説に基づいてのもの。
まあ、いかにお釈迦様でも、生まれてすぐに歩き話されるはずはないでしょうが、とは僧侶も話されてはおられることですが┉。

『天上天下唯我独尊』について、実は「唯だ私だけが尊い」という意味をあらわしているのではない、ということを口々に僧侶が語られます。
世間では「天下においても天下においてもただ一人私だけが尊い」と意訳されているが実は決してそうではないのだと。
「唯我独尊」とは、「唯だ、我、独(ひとり)として尊し」との意味で、それは、天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このいのちのままに尊いという意味で、我とは釈迦本人のことではなく、人として生まれたすべての者のことなのだということであります。

まあ、たしかにその後お釈迦様が歩まれた軌跡をたどれば、一般的に使われる「唯我独尊」と全く異なるということのほうがしっくりきます。
なに不自由ない一国の王子として生まれ、冬用、夏用、雨期用の三つの宮殿を与えられ、裕福で華美な生活をおくられ、17歳で結婚され正妃との間に一子もいた王子が、29歳でほとんど蒸発のように、地位も身分も財産も捨てて出家され、悟りをひらかれるまでに修行されて苦しむ人々に教えを説いて生きられた方ですから。「生まれつき一番偉いんだよ」なんてカリスマ宣言は決してなさらないと思うのであります。



No.91 19/04/21 06:58
旅人 

真田幸村の旗印、一文銭を六個並べた『六文銭』はテレビの影響か見かける機会がだいぶ増えました。あの旗印、【六地蔵】さまに由来するものだという説を説くものを読みました。

お地蔵さまは仏教的世界観【六道】をあまねく巡回されすべての生き物を救う仏さま。地獄や餓鬼道を錫杖をついて(錫杖の上の環がシャリンと音を立てるのはインドで修行者が虎避けとしていたから、だそう)歩き、賽の河原で子どもを助け、閻魔の法廷では罪人の弁護にあたってくださいます。

本来ひとりのお地蔵さまが六道を巡回するところを、六道それぞれに専門のお地蔵さまがおられるとする考えが【六地蔵】さま。
六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、のそれぞれ六道。

幸村の旗印『六文銭』の意味するところは、六地蔵にそれぞれ銭一文を供養として、三途の川の渡し賃とする=死への備え充分という猛虎心を示したもの、ということだと。
死への恐れを感じない武人はただの猪武者、恐れを知りそれを克服して務めを果たすのが真の武士ということで、幸村はそういった機微を知り尽くしているのだという説でありました。

No.92 19/04/21 07:14
旅人 

『おばあちゃんの原宿』といわれる東京巣鴨・高岩寺、おばあちゃんという言葉に抵抗感をもつ年頃の私はなかなか足を向けることができずにおりますが、こちらの御本尊は【延命地蔵菩薩】。広く厄除け招福のご利益があるとのことで、毎月4の日(4、14、24日)は参詣者で賑わっているようですよね。
その起源は、江戸時代。
ある武士の妻が病気にかかり、日ごろからお参りしていたこちらに祈ったところ、夢枕にお地蔵さまが現れて印像(印判)をお授けになられ、それを捺印した一万枚の紙を川に流したところ、妻の病気が全快したこと。
針仕事の女が誤って針を飲み込み苦しんでいたとき、その印の捺された紙を水で飲ませたところ、針を吐き出すことができ、針は紙のお地蔵さまの像を貫いていたという。
そのような言い伝えがあって、【とげぬき地蔵】の功徳が知れ渡って、現在に至るということのようです。


┉いつかは?(^-^;

No.93 19/04/21 13:24
旅人 

お地蔵さまが身近に感じられるのは、圧倒的にたくさんの御像があることからなのだと思っておりました。がそれはどちらかというと後付けで、お地蔵さまがそれだけ身近に感じられ、お地蔵さまを頼り、お願いをしているからなのだと、お地蔵さまを奉るお寺をまわってみてあらためて思いました。

今とはくらべものにならないくらい、昔は、お産は母親にとっても、赤ちゃんにとっても文字どおりの命がけでありました。そんな時代、安産を願い【腹帯地蔵】【子安地蔵】さまを頼り。生まれてきた我が子の無事と健康を祈るとき【子育て地蔵】【乳授け地蔵】【夜泣き地蔵】に手を合わせ。
不幸にもこの世に生を受けることができなかった子には【水子地蔵】。
子どものそばにいつもお地蔵さまがいらっしゃいます。

ひとたび流行り病などあれば、祈ることしかできなかった時代、石仏のお地蔵さまを削った粉を薬としていたこともあり、その削られた石仏のえぐりとられた様は痛々しいことといったらなかったです。
そんな時代は実は私の母親の子どもの時分まで続いたものであり、それを知ったときも大きなショックでありました。
幼くして亡くなってしまった子どもの成仏を祈るときにも、お地蔵さまが寄り添ってくださいます。賽の河原で石を積むといわれる幼児の地獄での様子はさらに子を亡くした親たちにとっては胸の傷むものであります。自分が代わりたいと思うほど悲しんでいるというのに┉
今とくらべものにならない乳幼児の死亡率。
自分のちからではどうすることもできない、多産多死の社会では、喜びも悲しみもお地蔵さまとともにあり、身近の道ばたのお地蔵さまは心の拠り所であったことでした。
古くからお地蔵さまは庶民が費用を負担し願主となったことも多々あり、だからこそ御像がほかの仏さまより圧倒的に数多くあり、彫る人の気持ち、願主の思いがこもって、より親しみやすいお姿に彫られているのだと思いました。


そして現代にあっても我が子の健やかな成長を祈る気持ちは変わることのないものであり、多種多様化した社会のなか、ことあると人はお地蔵さまにおすがりし、手を合わせているのかもしれません。

No.94 19/04/21 13:45
旅人 

【十三まいり】という習慣があることを、私は小説を通して知りました。それも地域的なものだと思っておりましたが、たしかに、私の住まう辺りではそのような風習は定着していないようで、決して私の生まれ育った家が信心深くない家庭だったから、ではないようです。
小説は関西地方を描いたもので、現代においても広く親しまれているのは関西地方のようであります。
数え年十三歳になった子どもが、旧暦の三月一三日、親に連れられて虚空蔵菩薩さまにお参りする行事をいうようです。虚空蔵さんに知恵を授けてもらうため、「知恵まいり」「知恵もらい」などとも呼ばれるようです。
なかでも有名なのが“嵯峨の虚空蔵さん”として知られる京都嵐山の中腹にある【法輪寺】さん。
法輪寺へは渡月橋を渡って行くようですが、お参りの帰り道、「渡月橋を渡り終えるまで、決して後ろを振り返ってはいけない」と言われているようです。振り返るとご利益が失せる、知恵をお返ししてしまうと言われているためなようです。

数えの十三歳、干支が初めて一巡し、こと昔は育ちづらい子ども時代をようやく終え、精神的にも肉体的にも大人への一歩。めでたいめでたい儀礼でもありましょう。


┉私に知恵が足らないのは┉
十三まいりをしなかったせい? (;´・ω・`)

No.95 19/04/21 17:18
旅人 

知恵を授けてくださる【虚空蔵菩薩】さま。
一度見聞きしたものは絶対に二度と忘れないという、驚異的な記憶力を得る〖虚空求聞持法〗という行法があるということで、その行でお祀りするのが虚空蔵菩薩。弘法大師空海がこの修行を成し遂げたことで有名なのだそう。

虚空蔵菩薩像は、虚空蔵求聞持法を行う際の本尊は右手は与願印という印を結び┉というか与えるために開いた掌を相手に向けており、そうした特別な御仏像以外は右の手に剣を、左手には如意宝珠をもち、五仏のついた五智宝冠をかぶられておられるそうで、蓮華座にお座りになられているのが【虚空蔵菩薩像】、ということです。

お寺などをまわって御本堂で一緒になった方ですとか、仏像展に来ている方などはもうその形でどの仏さまであるかわかっておられる方が多く、私のようにお参りの作法からわからずにいる者とはくらべものになりません。


そういった方々はまさに【十三まいり】をしたのかなぁ (;´・ω・`)


暗記することを「そらんじる」とか「そらで覚える」というのは虚空蔵の空から転じたものだとか。
私はすでに覚えるどころか、覚えていたはずのものすら抜け出ていってしまうのですが┉。
虚空蔵菩薩さまに五十代の後半にさしかかった私がお参りして、なんとか認知症を食い止めることはできるのかなぁ(;ω;`*)

No.97 19/04/22 20:26
旅人 

┉鎌倉三十三観音札所巡りをまだまだ道半ばでありますが、お参りさせていただきつつ、御朱印をお受けしております。
が、始めたときに観音札所巡りがどのようなものか、しっかりと理解して始めたわけではなく、お参りのひとつの目標くらいの感覚で巡り始めております。

鎌倉に憧れて憧れて、ようやく鎌倉に行くことが叶い、御朱印の存在くらいは知っていたものの、まだ自分御朱印をお受けするほどの資格がないという自覚は持っていたため、いつか、少しは神社さんやお寺さんにくわしくなったなら❤と、御朱印はお受けせずにお寺さんをまわらせていただいておりました。
まだまだ、資格があるかどうか、甚だあやしいものではあるのですが、とりあえず御朱印をお受けする最低限のマナーくらいはなんとかなりそうだと、再拝となる【杉本寺】さんからスタートいたしました。杉本寺さんが一番札所で、そこから始めさせていただくと、発願印を捺していただけるということで、初めての御朱印、発願印にたいへんワクワクいたしましたものです。

【納め札】を知ったのも、ことし秩父三十四所観音霊場を巡りだせたらいいな、と思って調べて、初めてその存在を知ったくらいでして┉。
杉本寺さんには、鎌倉三十三観音札所用の納め札が置かれているようです。┉気づかなかった(^-^;



鎌倉の観音霊場を巡らせていただくにせよ、秩父の観音霊場を巡らせていただくにせよ、まず、もう少しは観音さま【観音菩薩】さまを、もう少しは知っておきたい、知っておかなくては、と思っております。

No.98 19/04/22 22:14
旅人 

【観音】【観世音菩薩】はその名を唱えるのを聞いて、悩みや悲しみを慈悲の心で救い、願いをかなえてくれるという仏さま。その時、観世音菩薩さまはその者の悩みや祈願に応じて三十三に姿を変えて救ってくださると言います。
例えば柳の枝を持つ【楊柳観音】、白い衣の【白衣観音】籠を持つ【魚籃観音】、【滝見観音】、【施薬観音】、月を眺める【水月観音】、岩に膝をつく【延命観音】、岩戸に座る【岩戸観音】香炉を持つ【瑠璃観音】等々、三十三のお姿があるとされ、三十三観音、というわけです。

実際に三十三のお姿の石仏のあるお寺さんや、洞窟内にたくさんの石仏の彫られた群馬県の高崎市にある【洞窟観音】などは、そのお姿ひとつひとつが素晴らしく、私などはいつまでも見ていたいと思ってしまうのでありますが┉。


三十三観音札所は、実は三十三のお姿の観音さまが三十三ヶ所のお寺さんにそれぞれおられる、というわけではなく、いくつものお寺さんで┉たとえば聖観音さまが奉られていたり、十一面観音さまが奉られていたり、なのであります。
そう、もちろんこの私、三十三のお姿の観音さま巡りなのだと思っておりましたので、そうでないことに気づいてびっくり!

悩みを払い、または現世利益を求めて願をかけ札所をめぐる観音札所巡礼は、鎌倉時代初期には西国三十三観音札所や板東三十三観音札所が開かれたようです。
現代の鎌倉三十三観音札所の歴史ははっきりとした資料がなく成立年代など不明ですが、お寺などで聞くと大正から昭和初期にかけて成立したのではないかと思われるということであります。

No.99 19/04/23 06:56
旅人 

【鎌倉三十三観音札所とそこにおられる観音さま】

一、  杉本寺  十一面観音
二、  宝戒寺  准胝観音
三、  安養院  千手観音
四、  長谷寺  十一面観音
五、  来迎寺  如意輪観音
六、  瑞泉寺  千手観音
七、  光触寺  聖観音
八、  明王院  十一面観音
九、  浄妙寺  聖観音
十、  報国寺  聖観音
十一、 延命寺  聖観音
十二、 教恩寺  聖観音
十三、 別願寺  魚籃観音
十四、 来迎寺  聖観音(子育観音)
十五、 向福寺  聖観音
十六、 九品寺  聖観音
十七、 補陀洛寺 十一面観音
十八、 光明寺  如意輪観音
十九、 蓮乗院  十一面観音
二十、 千手院  千手観音
二十一、成就院  聖観音
二十二、極楽寺  如意輪観音
二十三、高徳院  聖観音
二十四、寿福寺  十一面観音
二十五、浄光明寺 千手観音
二十六、海蔵寺  十一面観音
二十七、妙高院  聖観音
二十八、建長寺  千手観音
二十九、龍峰院(建長寺内)  聖観音
三十、 明月院  聖観音  
三十一、浄智寺  聖観音 
三十二、東慶寺  聖観音
三十三、佛日庵(円覚寺内)十一面観音


三十二のお寺さんを巡って、お会いできる観音さまのお姿は上記いたしましたが、お姿としては限られるものではあるようです。
まだまだ道半ば、お会いできていない観音さまに早くお会いできますように(。-人-。)

No.100 19/04/24 01:44
旅人 

平成の御代がまもなく終わります。
陛下はお生まれになられたときからすでに決められた道を歩むしかなく、終戦とともに【象徴】などという曖昧な存在として生きることとなり、それはどんな存在であるのか、誰にもわからないまま、美智子妃殿下と文字通り手をとり、懸命に、そして誠心誠意、御公務をおこなって来てくださいました。

宮中の行事が、ここ最近テレビで放映されることがあり、国民のためにこんなにも祈りを捧げてくださったことを知りました。そしてその上で、ことあれば一刻も早くにと被災地に出向いてくださいました。


ありがたい。
本当にありがたいことにございます。

私は昭和の生まれですので、さほど平成の終わることに感慨もなくおりますが、陛下にとってお身体にご負担のかかっていた御公務からの解放となられますことは心より嬉しく思っております。

どうかこれからは美智子さまと二人、御公務を離れた楽しい旅行やテニスなどをなさってお過ごしくださいますように。


私はといえば
平成最後の日、どこかのお寺さんで黙想して過ごせたらいいなぁ。

No.101 19/04/24 06:38
旅人 

何度か述べております通り、私の両親は無信心、無信仰であったと思います。神社に連れていくのは七五三のときのみ。お寺さんに詣でるときは父方祖父母が中心で、それにともなう形で母が一緒だったことはありますが、父とは記憶にないくらいであります。

ただ、父と母は教会で結婚式をあげていたようで、私が生まれ記憶に残るくらいの歳になるまでは、もしかしたら教会の日曜ミサに行ったりしていたのかも知れないのですが┉。少なくとも私が記憶している限りは日曜ミサに行くこともなくなっており、自宅に聖書すらも存在しない、キリスト教徒を思わせる、感じさせるような物、雰囲気は一切ありませんでしたけど。 

なんの因果か、私は小学生の四年生くらいから同級生に誘われて隣町の教会の日曜学校に通うことになるのですが、そのくらいの年頃になれば親(特に母親)が、どちらかというと宗教一般によい感情を抱いていなそうなことを感じとっておりますので、遊びに行くと言っては家を出たものであります。
御賽銭の類いも、代表者(父方祖母)があげればいいからとあげなかったり、1円でいいと豪語しているような無信心者!
教会の日曜学校では毎回献金をするのでありますが、お小遣いを与えられておらず、お年玉も全額強制で母親に預けなければならなかったため、日曜日が近づく毎に私は金策に追われるのでありました。それも母親はおそらく理由を言ったところで「もったいない!」と言われ下手をすると日曜学校にさえ行くことを禁じられてしまいます。
なので私の金策の対象は祖父母や父親。おてつだいするからお金をください、と言っては十円、五十円のお金を得て日曜学校に通っておりました。
あるとき父が「毎週毎週お小遣いを欲しがるけどなにに使っているんだい」と笑顔でお金を手渡しながら聞いてまいりました。
父なら秘密を打ち明けてもいいだろう、と日曜学校に通っているので献金のお金が必要なのだと話しました。驚いた父は「献金は十円なんかじゃいけないよ」と当時私がいただいていたお年玉の平均額が五百円だった時代に百円を渡してくれました。驚きの金額です。


「どこの教会だい?」と笑顔で聞く父に少し離れた隣町の教会であることを告げると、父は言葉を発することができないほどびっくりしておりました。「○○先生はおられるかい?」
「?!」┉

No.102 19/04/24 20:19
旅人 

「なんでパパは○○先生を知ってるの?!」
┉父は教えてはくれませんでした。

まあ、好奇心旺盛な私は当然○○先生に直接聞いてしまいます。
「ああ、おとうさんかおかあさんに聞いたのかな?昔二人はこの教会にきていたんだよ。懐かしいなと思って貴女をみていたんだよ。二人はこの教会で結婚式をあげたけど、おかあさん、きれいだったんだよ」
( 。゚Д゚。)はぁーーーー?!
○○先生、誰かと勘違いしているじゃない?

教会の結婚式って、たしかウエディングドレスですよね。あり得ないから!あの母が、ウエディングドレスなんて想像すらできないし。
なんの冗談をいきなり言い出すのでしょ。先生、どうかしてしまったんだ。こんなにも真面目な、○○先生に何が起きたというの?



┉○○先生はまるで信じていない私に、一枚のセピアいろの写真を見せてくれました。似┉ている。

大変なショックをうけた私は(なぜ? 笑)祖父に聞きました。
「ねえじいちゃん、パパとママってさぁ、教会で結婚式をあげたって、ほんと?」「ああ」


絶句。



No.103 19/04/24 22:59
旅人 

よりにもよって、自分の親の結婚式をあげた教会に、なんにも知らず友達に誘われて通っていたなんて!Σ( ̄□ ̄;)

まあ、なんにせよ、両親はすでにその教会に通わなくなっていたくらいに、信仰心を失っていたことだけはたしかな事実であります。
キリスト教を信仰していたなら、神社仏閣のさまざまな行事に関心がないということもありましょう。キリスト教の信仰をやめたところでよほどのことがない限り、神道や仏教には興味を抱かないでしょうね。 
昭和40年代のことではありますが、よくよく考えるとわが家のクリスマス飾りはかなり豪華なものでありました。あくまで、それだけ、なんですけどf(^ー^;


  

No.104 19/04/24 23:24
旅人 

【十一面観音】
文字通りに十一面、十一ものお顔をお持ちの観音さまは、なぜ十一もの顔があるのでしょう?
もともと観音とは『あらゆる方角を向くもの』の意味であるとされています。あらゆる方角とは十方、つまり四方八方の八方に上下の二方を加え、本来の正面のお顔のほかに十の別の顔を持つことになったのだそうです。本来のお顔(本面)の頭部に十面が並ぶというその異相から、人々は強力なお力を感じたようで、十一面観音の尊像は変化観音のなかで最も数多くつくられたようです。

十面のうち正面の3面が温容で静寂をたたえた菩薩面、
左3面が怒りの表情、右3面は菩薩的な表情ではありますが、牙を剥き出すもの、
そして後ろの1面は『暴悪大笑面』という“怒り笑い”の表情をされておられる尊像がスタンダードなようであります。

No.105 19/04/25 02:07
旅人 

【千手観音】
平安期以降、日本人の観音信仰の中心といえば千手観音さまといわれるくらいであります。京都の三十三間堂は正式には蓮華王院といい、千手観音が蓮華王であるとも称されるところからきています。1001体もの千手観音、まさに荘厳でありました。

なんと、初期の像には文字通り1000本の手を有するものがあり、それが正式ではあるようではあります。それでも平安期以降は合掌の二本の手を合わせた42本のものが大多数を占めるようです。その御手には実にさまざまなものをお持ちになられ、御仏をもその手に乗せておられます。千手観音さまを近く拝観できるときは、ついついその御手の数やお持ちになられているものはなんだろうなどと見いってしまうやつであります。
この手の多さは観音さまの救いの手や慈悲が無量、無限なことの象徴なのだということであります。
そして、正式名は【千手千眼観自在菩薩】。この千手に一つづつ眼があり『千眼によってすべてを同時に見守り、千手によりあらゆる衆生を救う』存在であられます。
 

京都の三十三間堂について書いてはおりますものの、高校の修学旅行で訪れただけ。今、神社仏閣の珍道中を始めてからは憧れつつも遠い遠い地であります。
それでもウン十年の年月が流れて(しまって)なお、鮮明にその美しさを思い出せ、さらにはガイドさんのお話までも覚えているくらいであります。この御像の中には必ず自分や自分の身近な人に似たお顔があると。



嗚呼、京都に行きたい!奈良に行きたい!

No.106 19/04/25 08:32
旅人 

【暴悪大笑面】
なかなか御仏の尊像を細かな部分までも拝観できるような機会はなく、ましてや尊像の後ろ=背部は、到底あり得ないので私はまだ『暴悪大笑面』を拝観させていただいたことはありません。
仏像展などは、それこそ手が届くくらいお近くまでに寄らせていただくことができますが、それはそれで尊像は大きく、台の上に展示されておられる尊像の頭頂部は到底身長158cmの私には拝観することはかないません。

どんなだろう、どんなだろう?

一葉の写真が、手持ちの仏像の写真をふんだんに扱った本に、偶然おさめられておりまして、それはそれは可愛らしい、┉言葉を知らない私のあり得ない失礼な言葉をお許しいただき、思ったままを述べさせていただくなら、お茶目な表情、でありました。
慈悲、気高さやお美しさをたたえた観音さまのお顔の後ろに、このようなお顔がある。


ますます御仏の尊像が好きになりました❤

No.107 19/04/25 09:53
旅人 

【准胝観音】
『准胝仏母(じゅんていぶつも)』・『七倶胝仏母(しちくていぶつも)』ともいわれます。
もとはヒンドゥー教の女神で、シヴァ神の妃とされています。とてもお美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神であられます。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあるようであります。
仏教に取り入れられてからは慈悲深い「清浄」をもたらす神とされ、『七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)』ともいわれています。これは多くの仏を誕生させた仏の母という意味だとのことです。
真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられます。
  ※天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。
   不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。


修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があるとのことであります。
京都の【醍醐寺】の開祖自ら霊木を刻んで祀った御像に醍醐天皇の皇子誕生を祈願し、後の村上天皇がお生まれになったことから子授けの仏として信仰されるに至ったようであります。

御手は18本、3つ目の姿であることが多く、中央の手は説法印と施無畏印をとられております。またお持ち物は武器や数珠、蓮華などをお持ちになり、左手に般若経典を持たれています。台座下には二龍王が観音の立つ蓮弁を支えています。┉とのことであります。



あまりお目にかかれる機会のない仏さまではありますが、いつかお会いできますように(。-人-。)

No.108 19/04/25 19:39
旅人 

【如意輪観音】
仏法の象徴である法輪、如意輪がどこにまでも、どこまでも転がっていく、そんな法輪の動きのようにどこにまでも現れてくださり私たちを救ってくださるといわれる仏さまです。

如意輪観音の姿は、実はお釈迦様の王子時代の姿をモデルにしたものといわれているようです。宮中でどうやって苦しむ一切の衆生を救うことが出来るかを、考えておられたお姿であるのだそうです。
それなので如意輪観音さまの尊像は、何か物思いにふける姿になっているわけですね


御仏の本性と法力は、その像の手足や指の形、持ち物などに表現されておるようです。


如意輪観音は左右に三本の御手をお持ちであります。
右の御手の、上から一番目の手は指先を頬に当てています。これはどうやって衆生を救おうか考えているところです。
二番目の手は、如意宝珠という特別な力を持った珠を掌に乗せて胸の中央に置いています。この宝珠は思うがままに財宝を取り出せるものので、如意輪観音は衆生の望むものを全て与えてくれるのです。
如意輪観音の「如意」は、ここからきています。
三番目の手は、下方に伸ばして数珠を持っています。これは、仏界の108の仏の存在を示し、それらへの信仰を勧めています。


左の御手の一番上の手は人差し指を天に向け、その指先に法輪を乗せています。この輪宝を回すと全ての煩悩(心の惑いや悩み)を打ち砕くことができます。如意輪観音の「輪」はここからきています。

輪宝は太陽を図案化したもので、古代インドでは帝王のシンボルマークであり、仏教では釈迦のシンボルマークになっています。
つまり、仏教の信仰をすすめていることになります。
二番目の手は、蓮華を持っています。これは、仏教を信じる者にはこの浄花を与えようということです。
三番目の手は、腕を下に伸ばして掌を下に、抑えるような形になっています。これは、降魔を意味します。また、一番目の手で天を指し、この手で地を示すことで、一切の衆生を救いの対象にしていることを意味しています。

また、右脚はひざを立てて蓮台の上面を踏み、左脚はまげて足裏を天に向けています。
これは足裏でも天地を示していて、同時にすぐにいつでも立ち上がって助けにかけつけてくださる姿勢をとっているというわけです。

No.109 19/04/25 20:43
旅人 

如意輪観音さま。
すぐに助けに立てるようにとあの姿であられたんですね。

┉またしても言葉を知らないおバカなおばさんが失礼にも思ったままを述べさせていただけば┉じつに色っぽいというか、艶っぽいというか。どこをごらんになられていらっしゃるのかといったお顔で、立て膝を崩して頬杖をつかれお座りになられるお姿に、ぽおっとしてしまいます。


そんな如意輪観音さまは、安産や子育て、子供の健康を祈願するための女性の集まり、毎月十九日の夜に行われる十九夜講の御本尊であられ、別名子育て観音さまとも言われているようです。

No.110 19/04/26 05:35
旅人 

【魚籃観音】
『魚籃』と書いて『びく』とも読みますが、『ぎょらんかんのん』とお読みします。文字通りに籠を(魚のはいった籠であることであることも多い)お持ちになられたり、大きな魚の上に乗っておられたりする尊像であるようです。

中国で生まれた仏さまとされ、そのいわれは以下のような言い伝えによるもののようです。


『中国の唐の時代、 竹籠(魚籃)に魚を入れて行商する美しい女がいました。その女は大変美しく若者たちは競って求婚しました。

すると、その女は「経本や経典を諳(そら)んじることが出来た者のところに嫁にまいります」と言い、
経本や経典の難度をだんだんと高め、諳じることを競わせるようにさまざまな経本や経典を提示しました。
最後に出題された経典を暗誦できた若者はたった一人。女はその若者に嫁ぐこととなります。
ところが約束の婚礼の日、女は忽然と消えてしまいました。後に残っていたのは、黄金の観音像だったということです。
結果として、村には経本や経典の普及がすすんだことで、以前と違って仏教を信じる若者が増えました。
この美しい女性は観音さまの化身だったのです。仏教心の薄い村に仏法をひろめ、救済するために、竹籠(魚籃)に魚を入れて売り歩く、魚の行商人に身をやつしていたのです』


このため、【魚籃観音】の尊像は、魚を入れた籠を持ったり、魚そのものに乗る姿であらわされるようです。
岬や港町で、大漁、海上安全を願って祀られることが多く、また、毒を除くご利益もあるとして、ふぐを扱う漁師・調理人・料理屋に信じられています。

さほど数多くは存在しないとされていますが、葛飾北斎がそのお姿を描いたり、筒井康隆が小説に書いているようであります。
絶世の美女というところからか刺青の図柄にされることもあるようです。
あの、まんが日本むかしばなしでも日本に伝承する昔話をもとに取り上げられたことがあったようです。


私が直接拝観しましたのは群馬県高崎の洞窟観音の尊像の一回だけでありますが、観音さまはみなお美しく、魚籃観音さまだけがとりわけ御美しかったという記憶は特にはありません。

No.111 19/04/26 06:28
旅人 

【聖観音】
三十三身のさまざまな変化観音が生まれたため、もともとおられる変化なさらない一面二臂(一顔二手)のお姿の観音さまを【聖観音】とお呼びするようになったようです。【正観音】とも呼ばれることもあるようです。

宝冠の中央に阿弥陀如来の小像を戴いており、この小さな像を【化仏(けぶつ)】というそうです。観音菩薩は阿弥陀如来の化身とされているそうで、そのため【十一面観音】などの変化観音も同じように【化仏】を戴いているのだそうです。
菩薩は出家以前の太子時代の釈迦をモデルとするため、華麗な衣装や宝飾品を身につけた貴族的なスタイルで温和なお顔立ちとふくよかな肢体で表現されます。
左手には未開の蓮華(ハスの蕾)をお持ちになることが多く、未開な蓮華は人々の心が本来仏性を有するのに自覚していないさまを表しているとされ、それを観音さまが慈悲の徳で開かせることを約束するという、救いの象徴であるのだそう。


勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍となる三尊形式も多くみられます。

聖観音さまのこと、今回調べて初めて知ったという情けないほどの超初心者にしてこれまた珍道中、ですよね、これだけお寺さんをまわり、疑問に抱きながら今ごろようやく調べるなどという。


           反省

No.112 19/04/27 14:08
旅人 

群馬県前橋市の赤城山の麓にあります、その名も美しい【珊瑚寺】さんへお参りしてまいりました。東国花の寺百ヶ寺ということでもあり、その花はまさに春、桜、であります。ただ今年の桜の花の時期になかなか都合がつかなかったことと、なにぶんにも運転技術の下手なことも方向音痴も上級レベル(?)、四月になり雪など降ったことなど、いろいろな条件が重なり、散った花びらがかろうじて残るこの時期の参拝となりました。

駐車場に着いた時点で、大きな心字池にかかる赤い橋が目に飛び込んできます。その風情ある上品なたたずまいに、駐車場にいながらすでに「来てよかったぁ~っ」と思った次第でありました。
桜はそれでもかろうじて一枝花が残った樹があったという時期はずれなこととなりましたが、紫菜花が今まさに満開の時期を迎えておりました。
なんて美しいお寺さんでしょう!

山門にちょうどもうひとつの門があるかのように、桜の大振りな枝がかかっております。白壁越しに見える鐘楼も計算された場所に位置して建てられているのでしょう。石段をのぼっていく山門を守る仁王さまは真正面ではなく、少しだけ外を向くようにお立ちになられています。正面の参道をのぼる参拝の者を、外からくる悪しきものから守ろうとしてくださっておられるように思えました。

本堂までの距離は短く、鐘楼も山門入ってすぐにありました。お参りを済ませて、今歩いてきた道を振り返ると!
まもなく夕陽となる空をバックに、山門、そして鐘楼の美しく建つ姿といったらありません。思わず声が漏れます。
そして┉本堂の右手には大きな大きな樹があります。その堂々とした存在感と見守っていただいているような安心感たるや。しばし見上げておりました。その樹下には開山の勝道上人の像があります。あの日光山の開山の師であります。
その対面し対置には、釈迦苦行像がありました。断食してなにかを得ようとしていた頃のお釈迦様のお姿です。目はくぼみ、身体の肉という肉は削げ落ちた、初めて拝観したお姿でありました。



No.113 19/04/27 15:28
旅人 

大きな大きな杉の樹の右手には参道がみえます。さらなる門があり、高台には色鮮やかな御堂が。子育て地蔵尊の奉られた地蔵堂でありました。ここ何年かの間に修復されたのでしょう、本当に色鮮やかな、そう、日光の東照宮を思わせるようなきらびやかな御堂です。
さらにその右手にも参道が連なり、御堂がみえます。

しかし、地蔵堂のすぐそばに、穴のなかに小さな小さなお薬師さまがいらっしゃるのがみえます。可愛らしいお姿が石穴のなかにちょこんとお座りになられています。そこには看板がありました。
〖珊瑚寺七不思議/穴薬師〗
弘法大師の作と言われており、今と同様に石穴のなかに祀られておりました。弘法大師の作と言われる御像を保護しようとでもしたのか、他の場所に移したことがあったようです。薬師さまはその夜のうちにその石穴に戻られてしまうということが何度かあったようで、穴薬師と呼ばれるようになった、ということです。
七不思議、ということは、あと六の不思議があるということになりますが、午後の三時をまわったこの時間から六の不思議を探して境内をまわる時間は残念ながらありません。┉うれしいうれしい再拝決定です。

穴薬師さまのさらに左手の方向から、水音が絶えることなく聞こえます。その音が気になり、そちらに向かうと、人工の滝が見えてきました。地蔵堂のように新しいものではなく、それなりに古い滝であります。こちらも七不思議のひとつであり、看板がありました。
〖珊瑚寺七不思議/不動の滝〗
昔、このあたりに住んでいた男が、あるとき夢で「珊瑚寺の境内に滝を作るべし」というお不動さまのお告げを受けます。信仰深い彼は早速工事に取りかかるものの、難航し思案にくれていたところ、お不動さまがあらわれてあっという間に滝を作ってくださった、というものであるようです。

あと五つの不思議を楽しみに、次は蓮の花咲くころに再拝させていただきたいなぁ。
そのときは境内すべてをまわれるだけの時間をもって参拝したいと思います。御住職から帰り間際に由緒書きと境内見取図、七不思議などの書かれたご案内をいただくことができました。今度はしっかり予習をして。



    平成三十一年四月二十五日  参拝

No.114 19/04/27 16:13
旅人 

【賓頭廬尊者】私が幼い頃はあまり見たことのなかった、お賓頭廬さまは、今、いろんなお寺さんでお見かけするようになってきております。
この方はお釈迦様が存命のころの実に直属のお弟子さんということであります。とても弁が立ち、神通力もきわめて強かったのですが、その力をやたらと誇示してみせたため、お釈迦様のお怒りを買い、「お前は悟りを得て仏の世界に入ることはまかりならん。この世に留まって人々を救いなさい。と言われてしまいます。
そのため今でも他の仏さまとは違い、お堂の外や、お堂の中でも少し離れたところに一人でいらっしゃることが多いのだそうです。
┉たしかにお賓頭廬さまはお堂の外におられることが多いです。

お釈迦様を怒らせた理由はもうひとつあって、それはお酒が好きで、お釈迦様に隠れてしょっちゅう飲んでいたこと。飲酒はお釈迦様が厳格に禁じる戒律のひとつです。

お賓頭廬さまは、いま、「おびんずるさん」と呼ばれしょっちゅう人々に身体を撫でられ信仰されています。撫でる者の悪いところを撫でると治ると言われています。
お釈迦様は賓頭廬さまの神通力をいかすには仏の世界よりこの世におられたほうがいいことを見抜いていらしたのでしょう。

お賓頭廬さまは悟りを得ていないため、姿は普通のお坊さんと同じです。お酒が好きなことからもともとは赤い顔だったようですが、今はそうでもありません。また、最初は赤かった御像も何度も撫でられて、すっかり磨耗し色が消えていることも多いのです。

えぐられたかのように磨耗したお賓頭廬さまをお見かけしたことも、触られ続けてすっかり黒くなられた御像もありました。
医学の進歩した今ですら、列をなしお賓頭廬さまを撫でるのです、祈ることくらいしかなかった時代においては、お賓頭廬さまを毎日のように撫でる信心深い老若男女がいたことでありましょう。

No.115 19/04/27 20:47
旅人 

群馬県桐生市の【宝徳寺】さんの、逆さ紅葉(新緑)と牡丹まつりに行ってまいりました。

こちらは由緒あるお寺さんながら、心機一転といった感じなのでしょうか、本堂も鐘楼も、なんと御本尊も新しく、同じく新しい枯山水の庭も見事なお寺さんであります。
何年か前の〖どん兵衛〗のCMで、お白洲に仕立てた枯山水の庭に、捕らえられた武士に扮した佐藤健が座るといったものを撮影したのがこのお寺だったようです。
本堂での着物を着たモデルの撮影会など、新しい試みの多いお寺さんですが、何よりもこのお寺、御朱印で全国レベルで有名なお寺さんであります。
今日も大きなバスが三台、駐車場に来ておりました。そして三ヶ所ある駐車場は満車、臨時駐車場もほぼ満車の状態でありました。

境内に入っても、もはや自分がどこに来たのかわからないほどに賑わっており、御朱印を求める人はやはり多かったです。四月限定や、さよなら平成とか、さまざまな絵の添えられた御朱印であります。
御朱印帳も何種類かあるのですが、令和の記念という御朱印帳がすでに用意され、何人もの方が購入しておられました。

本堂での逆さ紅葉は床に寝そべっての撮影者も!しかもよりによって御本尊にお尻をむけての撮影になるのですが、お寺の方がそのように案内しております!   Σ( ̄□ ̄;)



境内には大きな花弁を大きく広げた牡丹が、さまざまな色で咲き誇っておりました。爽やかな青い空のもと、涼やかな風に吹かれてゆらゆらと踊るように揺れておりました。

No.116 19/04/28 03:23
旅人 

同じく群馬県桐生市の【龍真寺】さんに参拝してまいりました。

こちらも牡丹まつりを開催されております。牡丹つながりですはありますが、とりたてて牡丹の花が好き、というわけではありません。
昨年もこの牡丹まつりツワーを開催(?!)いたしましたが、実は昨年は夫入院中でありまして、牡丹の花の写真をお見舞にという意図でもあっての参拝でありましたが、昨年は早くより暑い日がつづき、そのため牡丹まつりに入った時分にはもう花が終わっていたという┉残念な牡丹まつりになってしまっておりました。


こちら【龍真寺】さんは東国花の寺百ヶ寺。その花はまさしく〖牡丹〗でありまして、牡丹寺を名乗られているくらいで、その数はじつに数多く植えられております。その数二千五百株以上とのことで、またこちらでは随所随所、牡丹の花の生け花をさりげなく演出されていて、それが大変見事で感動いたしました。
御本堂も例にもれず牡丹の生け花がありまして、ほの暗い御本堂にやさしい柔かな明るさを感じさせる存在でありました。
花の頃を終えた大きな大きな垂れ桜があり、鬱金(うこん)の桜という緑黄色の花が咲く桜の樹があり、来年は桜の花の時期に是非参拝させていただこう。

【龍真寺】さんは古い石仏が多くみられ、私は樹下に奉られた名もない小さな小さなお地蔵さまがいとおしいくらいに好きであります。
如意輪観音様の石の御像もやさしい笑みを浮かべておられます。
門の外には六地蔵の側にはお地蔵さまとしては大きな石像があり、こちらは【鶏亀地蔵】と呼ばれているようで、建立のおり、悪疫が退散し、近所の鶏が一斉に鳴き、亀が側に来たという伝承からそのように呼ばれているようです。
その他にも樹齢四百年を超え、その枝振りから〖龍の手松〗と呼ばれる松や、子抱きの沙羅の木など、境内にはたくさんの花や樹があります。境内の中を散歩させていただくのも気持ちのいい、花のお寺さんであります。



      平成三十一年四月二十七日   参拝

No.117 19/04/28 06:55
旅人 

【御朱印】
一度うかがって御朱印をお受けした神社仏閣に、再拝、再々拝、もっともっと何度もうかがうことがあります。そんなとき、もうこちらでは御朱印をお受けしてあるから、と二度はお受けしないのがほとんどではあるのですが、時としてもう一度お受けしたり、何度も同じ神社仏閣のものをお受けしたり┉、みなさんどうされているかと直接お話できるほどは周りに御朱印をお受けしている方はおらず。
まあ、月替わりの限定御朱印であったり、特別な日限定の御朱印であったりすれば当然同じ神社仏閣のものであってもお受けするでしょう。
発願から結願までの巡礼を再度巡るとかであれば、また同じものをお受けするのだろう┉そう思っておりました、当然新しい御朱印帳を用意して。
憧れの秩父三十四霊場巡りの本を見ていて、〖朱印のみは○○円の志納金となります〗とか書いてあっても、歩きでまわられるのが当たり前だった時代からある巡礼地では、時間がなくて印だけの方がおられるのだろうなとか思いこんでおりました。が、
【重ね印】というのがあるのだそうです。
何度も何度も同じ場所を、拝する度に印だけをどんどん(あえて少しずらして?)上に重ねて捺していただくのだそうです。

御朱印をお書きくださる書き手の方も、重ね印をみると「何度もお越しくださっているのだなぁ」とうれしく思い、言葉をかわすきっかけになることもあるのだとおっしゃっていました。

やはり奥が深い。

巡礼でこそが重ね印が多いのでありましょうが、なにぶんにも一度としてどこの霊場巡りもコンプリートしておりません身としては、まあ、当然、といえば当然ですかね。
気が遠くなりそうではありますけど、ね。何度も巡礼するなどということ。そこが信仰心の差なのですよね、信仰心をもち、札所で札を納めたり、納経されてまわられておられる方と、神さまや仏さまのことを知らないのでまわらせていただいてる私とでは。ふうっ。

No.118 19/04/28 09:03
旅人 

また、夫が今日も「今日はどこに行きますか?」と聞いています。
ぷっ

この間私が一人で行った【珊瑚寺】さんに行きたいくせに。


    ※龍真寺さんの粋な生け花です。

No.119 19/04/29 05:51
旅人 

「令和と元号の変わる五月一日に、一番再拝したいと思う神社仏閣に行きたいと思うんだけど、どこかな」と、私。
世はまさに御朱印ブーム!じつにさまざまな神社仏閣で、『限定の御朱印を先着何名限定で授与します』というお、貼り紙やら、ネット配信やらでお触れが(笑)出されています。
そういう限定御朱印とかでなくても、新しい御世に変わられたその日の記念となる日付の書かれることにはなりますので、どこでお受けしても記念にはなります。
「どこだろう?んー一番は決められないよねぇ、どちらもいいところで┉」
「今まで参拝していただいて、是非もう一度再拝したいと思ったところとか。できうるなら自分たちを御守りしてくださる縁のある神社仏閣かなぁと思うんだけど」

┉そんな会話をしたせいでしょうか。ミステリーツアーは、なんと!すでにお参りさせていただいた群馬県における一之宮、二之宮、に続く、「今日は三之宮に行きます」とのことであります。
仰せのままに┉。
方面をいくつかあげてくれた中から、「○○方面がいい!」という、もっとも重要にして重大な決定をしている者でございますもの、お連れいただくだけで光栄にございますって。

ところが、カーナビに入力するも出てこない!
三ノ宮神社➡ノーヒット、上野国三ノ宮神社➡ノーヒット。住所➡ノーヒットぉ?!、電話番号➡ノーヒットだぁ?!おいおい、どうしたナビ!
仕方がないのでスマホのGoogle先生に道案内をお願いしました。カーナビ!Google先生はちゃんと案内してくれるよ!!
Google先生の指示くださる道、住宅街の細い生活道路やらいわゆる名もない道というところばかりを通ってようやくたどり着きました。
着いたところでカーナビの画面にはしっかりその名が出ているそうな!Σ( ̄□ ̄;)


鳥居の真ん前を、舗装された車がなんとか対面通行できるくらいには広い道路が通っています。「ええぇ、ここを通るの?」と、夫が騒いでいます。┉ 本鳥居、の真ん前であるからなのかなぁ。
時代の流れとともに、神社仏閣が本来であれば譲れないものすらを譲って、道が作られていることは多々ありますが┉境内に車を乗り付けるようになっている時代ですし。
┉彼のこだわりも現代の交通の前には抗えない、というか従わないと神社に行けないですが。

No.120 19/04/29 07:44
旅人 

群馬県吉岡町にありました【上野国三ノ宮神社】さん。
本鳥居の前を道が通っているどころか、なんと! 境内地を、関越自動車道が通ったようであります。
あとからわかったことですが、道路そばに参道入口があり、木々の参道を北上して来る道もあったようですが、なにぶんにも初めて訪れるため、Google先生のおっしゃることしか頼るものがなく、本鳥居の前の道も、それなりに車が通る道路でありました。

一段高い境内は、綺麗に整備され、朱色を基調とした社殿が美しい。やさしいお顔の狛犬が守る境内はやさしい気が充ちていました。拝殿本殿のほか、神楽殿も朱色と黒を基調としている建物で、落ち着きのある神社さん。
火防神社も小さなものではありますが境内内に建てられております。そしてご自宅兼、といった風情の社務所があります。御朱印をお受けできるかどうかお聞きしようと玄関に向かうと!どなたもいらっしゃらない様子であります。あ、それで?それで電話番号の検索ができなかったということなのか。┉寂しさが胸がいっぱいになります。由緒ある、式内神社さんも時代とともにどんどん変えられていってしまうのが、いま現代、なのでありましょう。


    平成三十一年四月二十八日  参拝

No.121 19/04/29 10:30
旅人 

群馬県北群馬郡榛東村にある【柳澤寺】さんに行ってまいりました。

吉岡村の三ノ宮神社さんからはさほど離れてはおりませんでした。とは言うものの、まあ、運転していないので、そう発言するのもなんだかおこがましいのでありますが (^-^;

私のおぼろげな記憶によると、東国花の寺百ヶ所にはいっていた、比較的大きな寺院であったように思うのですが、畑と畑の間だったり、畑と民家の間だったりの細めの生活道路ばかりを走ります。
ナビのなかった頃の家族旅行で、農道を走っていきどまり、左右がギリギリ車幅におまけしたくらいの土の道を、バックしたこともある夫。まさか、ナビがそういう過去まで分析して(どうやって、だ?)好みと思ってこんな道ばかりを選んで誘導しているのではないのだろうか?(;´・ω・`)
そんな疑問すら抱くくらい、本日そんな道ばかりを走っているような?┉ 看板ひとつ見えてこないんだけど┉
そう思った瞬間! あ、ここだ!

柳澤寺さんの入口自体が、民家さんの間に畑のある、そんな道に面していました。明るくきれいな駐車場を、大きな観音様の御像が見下ろしてお守りくださっています。車を停めて石段を登ると、通常門の他に勅使門があります。通常門を通って、勅使門の正面にある参道に向かい、御本堂にお参りさせていただきます。中から法話を語られるお声が漏れ聞こえます。法事中、かな?

┉綺麗なお庭です。三鈷の松が切り揃えられたかのように綺麗に垂れております。三鈷の松の葉で三本ものはお守りとしてご利益があると伝えられていますが、見上げ見るだけでみな、三本のはになっているかに見えます。そのすぐ側には少しだけ花を残した垂れ桜があり、さらには牡丹が咲いております。
そんな花々に目を奪われつつ、庫裏に向かうと、若い若い十代の僧侶が、出ておいでなり。「御朱印をお願いできますか」とうかがうと、「お時間をいただくようなのでどうかお参りをお済ませください。」「あ、お参りは済まさせていただきました」
「本堂ですか?」「はい」
「失礼ですが、庫の境内のなか、すごそこにあるのは客殿になります。本堂はこの門をでていただいた、仁王門をくぐり真正面にあるのが」
 ゚ ゚ ( Д  )

たしかに勅使門の向こう側に大きな大きな五重の塔が見えていました。しかし、ここがまさか御本堂でないだなんて!

No.122 19/04/29 16:22
旅人 

いかにも新しい五重の塔は、平成十年に建立された県内初の五重塔で高さは11メートル。京都から専門の宮大工を呼び寄せ、五年の歳月をかけて建立したもののようです。
若いお坊さん、というよりいずれはあとを継ぐこととなる、一緒に住んでいるお孫さん、なのかもしれません。それくらいに若いお坊さん(わからないので、以後はこのままお坊さんと呼ばせていただきます)いわく、「仁王門を通ってもらって、まっすぐの位置にあるのが本堂になります。よく、勘違いされる方がおられるのです。なんでしたら、この客殿のわきを抜けて、道なりに行っても本堂に出ますので┉」
┉ごていねいにありがとうございます。しかし、 そんなよくできた若者の言うことに耳を傾けることなく、おばさんは仁王門にむかいます。


大きな大きな二階建ての仁王門です。ここを通って、ただでさえ多いかもしれない雑念やら穢れやらを払ってお参りをしないといけません。見事な仁王門です。屋根の上には大きな尾びれがぴんと上向けに立っています。
でもこれが駐車場からは見えなかったんだよなぁ。


本当の御本堂に向かいます。御本堂のある芸大通に向かう途中たくさんの石像があるのですが┉初めて見るお姿であります。
大きな石に彫り出したものなのですが、みな、着物姿の僧形であります。
まるで雨でも降りそうな空を心配そうに見上げるように見えるもの。
何かを大切そうに、それがなくなったりしないかいかにも心配そうに抱いていたり。
短い法具の棒を持つ僧にも見えるもの。
雨宿りしていた洞から空を見上げて手のひらを上に向け、雨のやみ具合を確認しているようなもの。
濡れ縁にでもすわって、横目で空を見上げているように見えるもの。大切に布で包んだ直径にして五センチとか、長さは五十センチ強の長目の荷物に頬擦りするように抱えているもの。などなのですが┉。
みな、それぞれが心なごむお姿です。
どんないわれのある石像なのでしょう。

石僧の像と戯れるかのように過ごしている私に、気づくことすらなく、夫は御本堂のお参りを済ませたようで、こちらに戻る姿が見えます。
右手に大きなお地蔵さまがお立ちになられ、その背後に赤と黒を基調とした鐘楼があります。

落ち着いたたたずまいの御本堂であります。やはり赤と黒を基調とした建物でありますが経年のため、白木のようになっている部分も多々あります。

No.123 19/04/29 20:00
旅人 

あまりに立派なお寺さんのため、御本堂と客殿を間違え、参拝のまえに御朱印をお願いしてしまうといった大失態をしてしまいました。御朱印帳を預けたきり、いつになっても戻らないあやしいおばさんを、若いお坊さんは笑顔で迎えてくれました。
お納めしたお金を募金箱にお入れくださいと爽やかにおっしゃいました。「そのようにするように祖母に言われているので」とのこと。
この立派なお寺のあとを継ぐという覚悟と、それをまた誇りに思っているといった姿勢を感じさせる若者でありました。

できることなら再拝して、あのかわいらしい石像の意味をお聞きしてみたいなぁ。




     平成三十一年四月二十八日 参拝

No.127 19/04/30 15:16
旅人 

夫は三ノ宮、四ノ宮とまわって参拝させていただくようです。

群馬県四ノ宮は【甲波宿祢神社(かわすくねじんじゃ)】さん。
甲波宿祢神社さん、って┉一枚の地図で確認するだけで四ヶ所ありますけど(;´・ω・`)

【行幸田】という地にあります甲波宿禰神社さんは、その三社のある吾妻川から三キロほど離れたところの、住宅の何軒か建つところに鎮座しています。こちらも小さな川ながら柔らかな春の小川といった感じで、さらさらと流れている川の真横に建っています。季節の野の花が風に揺れる気持ちのいいところであります。
鳥居をくぐると、手水鉢にこんこんと溢れるように水が注ぎ込んでいます。キレイに手入れされた手水舎です。これは神社を訪れる人たちのために、毎日毎日、手入れをされている方がおられるはず。
境内もきれいに掃き清められています。
やさしいお顔の、でも大きな狛犬はそれなりに古くからのものであります。社殿自体は新しいものですが、彫りも細かく、おそらくは以前の社殿を再現しようと努力をしたのか、小さいながらも立派な社殿です。本当に柔らかなやさしい気の満ちた神社さんです。


┉と、書いていることはまぎれもない事実で、とても良い気のあふれる神社さんなのですが┉。
鳥居をくぐる前から拝殿前に異様な物影が見えていて、それが、それだけが異質。何体か市松人形が御賽銭箱のそばに置かれているのでありました。その一つだけ大きい上にあらぬ方向を向いているので、少し怖い雰囲気を醸し出しています。明るい昼間だからいいのだけれど。
以前、テレビでやっていた、捨てるに困る、でも要らなくなったものを、自分的には納めたつもりになっている不法投棄にあたるものなのかもしれません。

でも、拝殿のそばまでいくと、怖くない! 拝殿前で童女が遊んでいる風にさえ感じます。こちらの神さまがそんな風に納めた人の思いをしっかり受けとめてくださって、お預りくださっているかのようであります。お優しい神さまでよかったね、お人形さんたち。
この人形を買ってくれた人の思い、いただいたときの思い、手離さざるをえなくなった今を、すべてわかって受けとめてくださっておられます。ありがたい。

ただ、だからといって、お人形さんはあくまでこちらにこんな風に納めてはいけないと思います。やさしい神さまを、だからこそ困らせないようにしたいものです。

No.128 19/04/30 15:29
旅人 

取り乱したレスの連続で申し訳ありません。資料としてみていたものに矛盾があり、調べても結局、四ノ宮であっていたようであり、歴史を経て少しづつずれた情報が入り乱れていることもあるようで、ド素人、神社仏閣初心者であります私は、正直、何が正しいのかわからず、振り回されて、結局何が本当かは、いくつかの資料を比較して多数決のような形をとるしかありません。

ごめんなさい。

これからも、誤字脱字、寝ぼけて打ち込んだまま、決定してしまい送ってしまった意味不明な文章、文章力がなく『なにこれ?』みたいな文章などなど、多々あることかと思います。
ご迷惑をかけ、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。

No.129 19/05/01 09:20
旅人 

【甲波宿禰神社】

はじめは全国にある甲波宿禰神社の一部が渋川にたまたままとまっているのかと思いましたが、調べたところによると、甲波宿禰神社というのはここにしかないらしいのであります。
今回参拝を見送った三カ所の【甲波宿禰神社】、〖川島〗、〖祖母島〗、〖箱島〗いづれも島のつく地名のところに、ほぼ等間隔で並んで吾妻川の川沿いにいることから、なんらかの川の信仰にまつわる神社であるとされています。

川を挟んで雨乞山という山があるようです。この三つの甲波宿禰神社と関係があるのかどうか┉
昭和初期まで雨乞い行事が行われていた記録もあるということですが、関連性はわかっていないようです。夫いわく、本当に近距離で一直線に並んでいるようです。ただ〖川島〗の甲波宿禰神社は、もっと川沿いの、天明の浅間石のある場所にあったものを移築したようであります。


調べれば調べるほど早く参拝したいのですが、私のドライブテクニックと方向感覚に乏しいという条件をもって、そこまで行けるのか┉。
そもそも、絶対行きたがる夫を置いていけば、再拝は必至であります。
いつか、きっと\(_ _)



     平成三十一年四月二十八日 再拝


No.130 19/05/02 07:11
旅人 

「もう一ヵ所だけまわってもいいかな」と夫。御意。
遠出というと頼ってしまっている身としては、連れてきていただくだけでありがたい。 


あ、ちなみに、自分の名誉のために申しておきますが、別にペーパードライバーというわけでもなく、ゴールド免許を更新しております(┉運?) ┉私、運転が基本好きではないんです。殊に急なカーブの連続する山道!これはもう、後続車に迷惑なレベルの遅さかも。
普通の道であればナビさえあれば結構な遠くまで一人ででかけるし、夫と運転を変わることもあります。 



ま、それはさておいて┉。
さらに向かったのは【若伊香保神社】さん。ナビのセットをして向かいます。(夫が、ですが)
えっ?こんな道? 行き止まりじゃないのかな?しかも見えているのはどこからどうみてもお寺さん、だよね?σ(^_^;)?
目的の若伊香保神社さんはもうあと少しのようです。
これはこちらのお寺さんに、縁あってお導きいただいたのであります、ありがたいことです。
駐車場に停めて歩き出してお寺の石段の下に立ちますと┉ ⁉ すぐ横に少し古びた石の鳥居がありました。「┉ここ?」と、私。
「┉違うんじゃないかな?あと少し、みたいな表示だったし」
夫の話はみなまで聞かずにいそいそと石段を登り出す私。く(^_^;)

【泰雙寺】さん、とおっしゃるお寺さんであります。
古い石段。風情のあるお寺さんです。石段の上には山門があり、おきれいなお顔立ちのお地蔵さまがお立ちになり、山門を見守っておられます。御本堂前には大きな大きな獅子が┉無知で言葉も知らないおばさんが畏れもしらずに申し上げれば┉セントバーナードのように大きくて力があり、でも柔らかなやさしいお顔で、御本堂を護っていました。立派な御本堂です。御由緒や御本尊さまをお教えいただけたなら、と、庫裏を訪ねてみました。 
庫裏には人がおられず、隣の建物からお声が漏れ聞こえます。
庭師の方と和尚さんがお話をされていました。こちらは御朱印もなさっておられないということで御由緒書きもないとのことでしたが、こちらのことを書かれた本のページを、わざわざコピーしてくださいました。ありがたいことであります。
大きな、よく手入れされた朱色のツツジが満開の、気持ちのよいお寺さんであります。


      平成三十一年四月二十八日  参拝

No.131 19/05/02 07:48
旅人 

お隣の神社さんに、境内からいく道があります。夫が「こちらからで申し訳ないけど、ここから(入らせていただいて)お参りさせていただこう」と。
縁あってのお導きいただいた神社さん。古い鳥居があります。ようやく読める神社のお名前は┉〖正一位若伊香保大明神〗!!
こここそが【若伊香保神社】さんなのでは⁉
鳥居をくぐって石段を登り、拝殿があります。お参りを済ませ拝殿に掛かる扁額を見ますと【若香保神社】!?
┉ああ、それではこちらは若伊香保神社さまではないのだな。
拝殿の左横には大きな、注連縄の巻かれた石があります。〖子種安産の大石〗という看板があります。
お社の後ろには古い小さな石の社殿が奉られていました。
柔らかな気の神社さんであります。決して広い境内ではないのですが、少しここにとどまりたいと思うような安らかな気持ちにさせてくれます。
お参りを済ませて石段を下まで下ると【村社若伊香保神社】と大きく彫られた石柱のような門。
こちらも同じ若伊香保さまをお祀りしている、ということなのかな?


伊香保神社さんは式内神社さんの一社ですが、こちらはそこに関係した神社さん、ということなのでしょうか?



   平成三十一年四月二十八日  参拝


No.132 19/05/02 21:38
旅人 

思っていたとおり、【珊瑚寺】さんの再拝であります。

〖珊瑚寺七不思議/臥牛石〗
大人が二人で取り囲んでそれぞれの両手を繋ぎちょうど一周するくらい、高さは40センチ┉くらいの石が、〖臥牛石〗と呼ばれているといいます。
この石に願いごとをすると、石が牛に姿を変えて、願いごとをした人の代わりに信州信濃の善光寺にお参りしてくれるといわれているようです。なるほど、赤城山の麓にあるこのあたりの人たちにとって、善光寺詣りは望んでも中々かなわない夢であり、願いであったかと思います。そんなこともあって、こんな伝説が生まれたのかもしれません。
そんなことを思いながらも、臥牛石に長々と願いごとをした私でありました。

〖珊瑚寺七不思議/乳房の銀杏〗
千仏堂と呼ばれる御堂のそばに銀杏の大木があります。産後お乳の出の悪い女性が、この木でつくった箸で食事をすると乳の出が良くなるといわれているようです。なるほど、この木、幹が削れているように見えます。
しかしながらこのお寺さん、特に授与品としてお箸を用意しているような様子はありませんでした。お金儲けに精を出すようなお寺さんであれば、この言い伝えもバッチリ活かして授与品の一つとして箸を用意するんじゃないかなぁ。

〖珊瑚寺七不思議/鏡池〗
地蔵堂の右側にある丸い池は、作物が枯渇するような日照り続きのときも、長雨で大水がでるようなときも、水量が増減することなく一定の水量で清水をたたえているということです。

No.133 19/05/03 01:15
旅人 

〖珊瑚寺七不思議/赤面観音〗
鏡池の中央に祀られている観音様。この観音様にお顔に水をかけながら一心に願いをかけ、観音様のお顔が赤く変わるとその願いがかなうと言われているそうです。
で、実は私、ひそかにこちらの観音様にお願いをしようと思っておりましたんですが┉御池の中央、結構遠いんです。ひしゃくでもあればまだしも、なにもない状態だと┉無理、かな。どういうことだろう?真剣に悩むところが私の欲が深いところ、なのかもしれませんが、なにもない状態で観音様のお顔に水をかけるには、池のなかに入っておそばに行くしかないと思うのです。池のなかに入るほどの勇気はなく、それほどに願いの強い者が願いをかなえていただけるということなのでしょうか。
観音様は立て膝をされてお座りになられ、そのお膝に頬杖をつかれどこをみるでもないようなお顔で御池の中央にたたずんでおられました。


〖珊瑚寺七不思議/涙の梅〗
稲荷堂に向かう石段のすぐそばにある梅の木を“涙の梅”と呼ぶのだということであります。
鎌倉時代の武士梶原景時の女であった女性が『勝道上人開山の寺で景時父子、源頼朝の霊を供養せよ』というお告げを受けて、この珊瑚寺にたどり着き、三人の霊を祀ったのだそうです。その際杖として携えた梅の枝をここに挿したところ根づいたものがこの梅なのだそうです。
あるときのお住職がこの梅の木のすぐそばにある座禅石の上で一心に禅定に入っていると、まるでその姿に感服したかのように梅の木からしきりに露がしたたり落ちたといい、以後この梅の木を“涙の梅”と呼ぶようになったのだそうです。この梅の周りを念仏を唱えながら三廻りすると露がしたたると伝えられているということです。

┉梶原景時さんって誰だっけσ(^_^;)?
実際こちらのお寺に梶原景時父子のお墓と源頼朝のお墓があります。歴史オタクにそのお墓のすぐそばで「ここ(のお寺)に梶原景時のお墓と頼朝のお墓があるよ」と申したところ、すぐにその人物がわかった様子です。ありゃ、これは有名なお方なのだな(^^;)ゞ


No.134 19/05/03 01:38
旅人 

  ◎梶原 景時(かじわら かげとき)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。
石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。頼朝の信任厚く、その一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」とも評せられている。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。


ほほぅ(((・・;)。
石橋山の戦いという言葉は聞いたことがある、かな。 
墓前に「教養がなくて申しわけありません」と手を合わせました。歴史の授業、嫌いだったわけではなくて、サボってたわけでもないんだけどなぁ。┉寝てたくらいはあったかも(^^;)ゞ


そんなことで、珊瑚寺さんの七不思議、コンプリートであります。


こんどは心字池に蓮の花さくころに、再拝したいなぁ。そして桜のころにぜひ。


    平成三十一年四月二十八日  参拝




No.135 19/05/03 12:04
旅人 

平成最後の日をどう過ごすか。御朱印ブームの昨今、ネットで検索すれば、平成最後の記念の御朱印を授与される神社仏閣はかなりの数hitいたしますが┉。
子供たちの成長を、命名からお宮参り、七五三や合格祈願。成人のお参りや就職祈願と、節目節目にお詣りにあがった地元の神社さんに、御礼のお詣りに参拝いたしました。
雨のなか、新緑煌めくような緑のご神木の葉から、ぽつりぽつりと雨の滴がしたたるのも、神々しく、ありがたい光景でありました。

新しい時代もお守りください。

No.136 19/05/03 13:15
旅人 

令和元年の初日にあたります、五月朔日。
やはりこれは群馬県の一ノ宮であります【貫前神社】さんに参拝をしたいと、ここ上州名物かかあ天下の五本の指に入る私の一存で(まあ、本当にはそんなこともないんじゃないかな、たぶん)、貫前神社さん参拝決定、であります。
息子が運転して連れていってくれました。彼が今年こちらの交通安全の御守りを私達二人にお受けしてきてくれています。
御守りを受けてくれた当人と一緒に御礼と祈願の参拝ができるなんて、ありがたいことであります。これこそ、神さまの御導きでありましょう。

雨が降りだしました。
雨に一つの時代が終わり、雨に始まる新しい時代。
恵みの雨でありましょう。

ふとみると、遠くの長く連なる山々に、大きな大きな、そして長い長い一つの雲がかかっています。高い山は頭を出して、低めの山は山頂にかかって。! まるで龍のようだ!
龍が山々に身を休ませているかのようです。
これはまさに吉兆でありましょう!
ありがたい。
若人が夢と希望をもって、生きられる時代となりますように。
そして生まれ来る新しい命がすべて、皆から祝福され見守られる時代でありますように。

あ、ここはまだ走行中の車中だ。、雲にむけての祈りをしていた。(^_^;)ゞ


貫前神社の石門です。急な坂をのぼります。
ああ、大きな赤い鳥居です。これだけでありがたいと感じます。
ん?! ! 
┉やはり考えることはみな同じ、ということでありましょうか。
満杯の駐車場であります。

それでもなんとかクルマを停めることができ、参拝をさせていただきます。こちらは門をくぐるとすぐにくだりの石段です。
下がり宮という造りとなっております。門をくぐるとすぐ、石段があり、石段下まっすぐに随神門が見えております。?!
こちらの神社、随神門をくぐるとすぐに拝殿、本殿とつながっているのですが┉不思議なくらいに拝殿も本殿も見えてこない。高さの関係、なのでしょうか。私にはきちんと計算し尽くして、下り宮という造りである故に、随神門をくぐってはじめて拝殿、本殿におわします神さまに参拝できるように造ったか。あるいは神さまのお力でそのように木々が繁り、見えないようになっているのか。その両方のように思えてならないのですが。

そして、ふとみえる、授与所に連なる長蛇の列!
あれは、!Σ( ̄□ ̄;)

No.138 19/05/03 20:19
旅人 

┉御朱印ブームって、ほんとなんだなぁ。
これから御朱印をお受けする人の列は、軽く石段の三分の一くらいにまで連なっています。御朱印帳をすでにお渡しして待つ人がたむろしています。うーん、どれくらい待つようだろう(;´・ω・`)

そんなことを考えていると、すぐ後ろから、やけに賑やかな声がします。
♀「ねえ、○○の結婚式の写真、ちょうだいっていってるじゃん」♂「えっ?いま?」♀「ずっと言ってるじゃん」♀「早くしろよ、グズ!」
「遅えんだよ、ばか!」
四十代くらいの男女二人。どうでもいいけど、ここ、よりにもよって、随神門の真ん前、拝殿の真ん前なのです。
どうにもイラつく自分に気づき、平常心を取り戻そうと随神門を見やり、うん、落ちついた、と思った瞬間、
♀「ねえ、なんとかいう儀式やってるんかな?」♀「あ、やってるやってる!」
えっ?音、出して観るんですか?
♂「見せろよ」♀「やだね!一人で観るんだもん」
はあぁぁぁ┉⤴💢
いやいや、平常心、平常心。

前の方々は女性二人。「へえぇ、まるで流れ作業だね」「どうでもいいから私のだけはちゃんと丁寧に書いてよね」

(´;д;`)


お願いです、いたらない私にこの二組の会話が気にならない精神力をください。


No.139 19/05/04 02:27
旅人 

┉すごいです。さすが上野国一之宮の神さまであります。いつのまにか、この二組の会話が気にならない自分に気づき、あらためてその霊験あらたかなことに畏れ入りました。

御朱印を求めて並ぶ列も少しずつ前に進んでおります。ほっとして石段の上を見やるとさらに後ろに列が長くなっている!
これでは神職の方々は、お昼を食べるひまもありません。いやなお顔ひとつなさらず、たんたんと、着実にお仕事をなさっておられます。ある方は受付をして、朱印を捺し、御守り等の授与をなさっています。宮司さんは御祈願御祈祷の依頼があれば、拝殿に、あるいははるか石段の上総門の外にある車の祓い所まで幾度となく足を運ばれておられます。書き手の方は本当に黙々とひたすら筆を走らせています。
申し訳なくもありがたいことにございます。

ようやく御朱印をお願いすることができました。待ち時間は不明。一緒に珍道中をしている夫はとにかく、息子に申しわけないなと思っていると
「あれ?○○?」息子に声をかける方がいます。親しそうに嬉しそうに話す息子。一之宮の神さまは本当に細やかな心遣いをしてくださる神さまです。ありがたいことにございます。
それにしても┉息子も親しい方に呼ばれるとき○○って呼ばれかたをするんだな。(≧ω≦。)┉私もおんなじ!
聞けば携帯の故障で連絡が途絶えてしまっていた、高校大学と一緒だった方なのだとか。とても嬉しそうな息子であります。
「神さまが逢わせてくださったのだね」と私がいうと「ほんとそうだな」と息子。

今日もあたたかく包み込んでくださるような気に満ちた境内であります。随神さまの横には天皇陛下の即位を祝う記帳所がもうけられています。
今日は月読神社さまにもお詣りして┉。
ようやく御朱印帳をお受けすることができました。


    平成三十一年五月  再拝

No.140 19/05/04 18:40
旅人 

ネットで、テレビで、“限定御朱印”だったり、元号の変わった初日の御朱印をお受けする人の列だったり、限定数だったり、限定御朱印の画像だったり画像だったり、御朱印にまつわるさまざまなことが取りざたされています。九時間待ちだとか、限定数に対して先着順で○時から並んだ、とか。限定一点などという御朱印もあったようで、それは抽選会が開かれたようです。
御朱印に関心のない方にとっては、まさに異様なことでありましょう。

上皇陛下と新天皇陛下の御誕生というおめでたい形で、迎えた令和という時代。
天皇家所縁の明治神宮が、御朱印を求める人の列で九時間待ちということになったのも、その新しくめでたい御代を祝う人々の気持ちのあらわれでありましょう。


令和でのお参り、少しは珍道中でなくなりますように努力したいと、新しい御代にあらためて思うのであります。

No.141 19/05/05 06:43
旅人 

子どもたちが偶然集まることができ、どうせだからとこかに出かけようかという話になりました。今からだとさほど遠くへはいけないということで、そこはもう言い出したものの勝ち、早い者勝ちとばかりに、「じゃあ赤城山」と私。
【上野国二之宮赤城神社】を名乗る神社┉というか、本宮を名乗る赤城神社さんは三つあるのですが、今回、赤城山山中にある【大洞赤城神社】さんに参拝して参りました。運転は立候補する人たちが何人もいるくらい。大船に乗って、山登りであります。(車で┉ですが)

今は『翔んで埼玉』という映画が大ヒットしているようですが、少し前には『お前はまだグンマを知らない』という映画がありまして、その映画やら原作の漫画でも、「群馬県には赤城神社だらけ」といわれているくらい、赤城神社さんの数は多いのでありまして、群馬県内では約50社を超え、全国的には関東地方を中心に約300社の赤城神社さんが存在するといわれているようであります。
総数からいうと、群馬県内50社しかないなら、赤城神社だらけというほどでもないなとか思ったりしてもみたのですが、実際、この日出かけるときも、
「どこの赤城神社さん?」と確認しあうくらいに、群馬県民、家族間でも、ややこしいことになっていることが判明したくらいでありました。

本宮がどちらであろうと、この三つの赤城神社さん、ちょうど一直線上に位置しておりまして、神輿が渡御するお祭りもあるくらいに結びつきのある神社さんであるのであります。
この内の【二宮赤城神社】さん、【三夜沢赤城神社】さんでの御朱印はすでにいただいておるのですが、赤城山山中にありますこの大洞赤城神社さんには、なかなか参拝する機会に恵まれず、念願の参拝、しかも子どもたちが子供であった時分に参拝したとき以来の記念すべき再拝、であります。
【赤城山】、冬にはスキー場やら氷上魚釣りができて賑わうくらいの雪のお山でありまして、私のドラテクでは不可!なのでありましてσ(^_^;)ゞ でも〖己を知って無理はしない〗は、車の運転に関してさえ言えば、これほど正しいことはないと思っております。ええ、悲しいことに、謙遜でも甘えでもないんです。さりとてまだ五十代、仕事もあり免許返上にはまだまだですが。


この日、半袖でもちょうどいい陽気。「寒くないようにしないとダメだよ、かあさん」「わかってるって」┉わかってなかった

No.142 19/05/06 03:40
旅人 

電光掲示板に〖ただいまの気温 8℃〗 !!(゜ロ゜ノ)ノ

大丈夫、別に今寒くないし。と車内でそっと心でつぶやく、私。まだまだ目的地は遠くであります。もっと寒いのかな?
だって┉せっかく久しぶりに集まった子どもたちと出掛けるのに、ちょっとはオシャレしたいのが母心ってもんじゃないですか?普段はなんだかんだとタンスにしまいこんで、二回くらいしか着ていないニットの長袖ワンピースで、充分大丈夫だと思ったんです。だって、さっきまで20℃超えてたんですもの。
そ、雪が残ってるわけじゃないし、大丈夫、大丈夫。(((・・;)


あ、赤い橋が見えてきました。啄木鳥橋というのだそうです。
息子がすーっと車を駐車場にいれました。
「あ?橋渡れないんじゃん!だから駐車場、空いてたのかぁ」
えっ?橋が渡れないってどういうこと?思わず、息子がふざけて一休さんにでもなったのかと思ったくらいでありました。考えてみればアニメ一休さんは私の子供の頃のものであります。
さあ、降りるぞと、橋の方など見もしなかったのですが、そう言われて橋を見ると鎖で閉鎖してあるではないですか。ここを渡って行くのが赤城神社さんなのに┉涙。
切り換えの速い(あたりまえか)息子はすでにもうUターンしており、私の止まったままの思考をのせて、本殿の裏手にある(らしい)駐車場に向かって車を走らせます。おお、こちらの駐車場は満車であります。でも、神さまが駐車場の誘導をしてくださっているかのように、誘導の係もいないのに、入ってくる車があれば、同じタイミングで一台出る!
さすが本殿の裏手であります、神さまも事故のないように采配してくださっておられるようです。

真っ先に降りて走る母。御朱印をお受けするにあたり、できるだけみんなを待たせたくない一心であります。一足先に参拝をして、授与所に行きました。もう子どもたちも(夫も)拝殿に並んでいます。
あ、そうだ、赤城神社さんの御朱印帳、ずっとずっと欲しかったんだ!┉どうしよう(;´・ω・`)、神社さま用の御朱印帳、まだ半分くらい残ってるんだけど。
いいや、たくさんたくさん神社をお参りさせていただこう。
御朱印帳┉何種類あるんだ! おおまかに言えば二種類。こまかに言えば、神社の風景の絵柄のものが二種類。姫神さまが描かれたものが何種類? 

No.143 19/05/06 04:11
旅人 

「きのうからの新しい限定の御朱印帳がこちらでございます」と巫女さんがご案内してくださいます。
そうだった、こちらの御朱印帳は、以前、御朱印を待つ間にお話させていただいた若い女のかたが「思わず二冊買ってしまいました」と言っていたんだった。そして、そこここでこちらの姫神さまの御朱印帳をお見かけするんだった。
「こちらの御朱印帳をお願いいたします」と、ずっと欲しかった神社の絵柄のものを手にしてお代にあたる奉納をしようといたしますと、
「こちらはいつでもお買い求めいただけるものですが、よろしいですか?」と巫女さん。季節、季節で背景の絵柄が変わる姫神さまの御朱印帳は大変人気なようで、季節が変わる前に終了してしまうほどの人気のようであります。
一瞬、心が揺れたもののそこは初志貫徹!(忘れてたけど、笑)
素敵な赤城神社さんが描かれた御朱印帳を手にいれた私は、巫女さんに「こちらに御朱印をお願い致します」とすかさず申し上げました。
「御朱印は現在お書きしていないんです」
? いま、なんと申されました?( 。゚Д゚。)
┉私、本当に「えっ?」とか「へっ?」とかいう顔のまま、しばし固まっていたんでしょうね。そんな自覚がうっすらあります。
心ここにあらずという状態のまま御朱印紙を授与しておりました。
┉全部印刷だし┉( ´-`)


ちょっとへこんだ私を、湖岸で三人笑顔で戯れる子どもたちがむかえてくれました。完全復活であります。息子が一人一人に使い捨てカイロを渡してくれました。ありがとう❤
写真好きな息子は、時々やっぱりみんなを待たせないようにと、走って絶好ポイントにとんでいきます。みんな、待っててくれるから大丈夫だよ。

さらに移動してトロッコのある見晴台へ。さすがに寒い!風も強い!
でもなんだかんだ景色を楽しんだり、幼くてここへ来たことも記憶していなかった子どもに昔話をしたり。

赤城神社の神さま、そして子どもたち、素敵な一日をありがとうございました。


     令和元年五月二日  参拝

No.144 19/05/06 10:11
旅人 

長野県の【龍顔寺】さんに参拝させていただきました。長男が長野県に連れて行ってくれると言い、こちらのお寺さんにサプライズのように到着いたしました。大きなお寺さんでありますが、なにせ神社仏閣初心者の母をもつ長男は、神社仏閣巡りをするというようなことを聞いたことはないのですが┉。
今回、両親へのサプライズ日帰り旅行でいろいろ調べてくれたのでしょう。ありがたいことです。ただサプライズ過ぎて、御朱印帳は一冊も携帯しておらず。御由緒もわからないので、御朱印は諦めるにせよ庫裏にうかがいました。残念ながら、ワンちゃんがお留守番しているだけのようでお話をうかがうことはできませんでした。

真田の家紋の六文銭のお印が至るところにみられ、【真田宮内之助の墓】の文字が見えます。あとで調べたところ、こちらは真田宮内之助高勝公館跡にして高勝公の菩提寺として開創されたお寺だということでありました。高勝公は信光とも称し、上田城主、真田昌幸公の弟であり、幸村は高勝公の甥に当たります。開山四百年ほどのお寺さんであります。
まあ、この辺は本来夫に聞くと詳しく私に分かりやすい言葉で解説してくれるのですが、あいにく今日は夫も長男も仕事で留守。



話は逸れますが、昨日は朝から日付が変わる直前まで運転だけでなく十キロの山道を歩くというハードなスケジュールでありまして、まさか、今日が仕事とはつゆ知らず、すまない気持ちでいっぱいであります。しかも、美ヶ原、標高二千メートルを超える山の急カーブにして急斜面を往復してくれております。ありがたいけど、そんなに無理をしたスケジュールでなくてよかったのに(*T^T)



山門をくぐるとすぐに大きな池を渡る参道となっており、途中、太鼓橋が架かっております。そしてさらに参道を進むと、大きな御門があります。白塗りの柱が四本、どっしりとした造りで、見上げるとどうやら楼門であります。その屋根の両端に金色に光り輝く鯱のような┉魚の尾のような形状の飾りがあります。鴟尾(しび)というのだそうです。これは、木造建築において最も恐れる火事を防ぐための祈りがこめられ、水中を自由に泳ぎまわる魚は水を自在に操って火を消すことができるという考え方からのものとのことで、鴟尾は火から守ってくれる象徴なのだそうです。

No.145 19/05/06 10:44
旅人 

こちらのお寺さん、もともとの開山されたお寺は川の氾濫により流され、こちらにあらたに寺を創ったものの明治元年に門を残すのみという大火に見舞われたようであります。
しかしながら客殿は皇女和宮が徳川に嫁ぐ際に和田宿においてお泊まりになられたという建物であるようです。今回の参拝では気づかなかった裏門や、十六羅漢堂などもあるようであります。

また、漫画「のらくろ」の原作者である故・田河水泡さんが昭和18年にこちらのお寺のある依田村へ疎開され、先代18世住職と親交があり度々当寺を訪れ、こちらの山門を描いた絵などがあるようであります。

そして目をひかれたのは、庫裏の前に祀られた境内におられる【首つなぎ地蔵】さま。
このお地蔵さまは、300年くらい前、つくられた六地蔵のうちの一体であると推定されているようです。こちらのお寺近隣の二ツ木峠を工事している際、工事関係者によって地中深くから首だけがない状態で発見されたのだそうです。発見当初、工事現場の隅に安置し作業をし、その翌日現場に行ってみると掘り出された元の場所に戻っていたということがあったのだそうです。そのような不思議な出来事があるためもあり、こちらのお寺に運びこまれ、新たに首をつなげてご供養をされているようです。
このお地蔵さまは、「首がつながった」ということから、就職、転職成就のお地蔵さまとして、「首つなぎ地蔵」の愛称で皆様から親しまれ、大勢の方々が訪れるようになって現在にいたるということです。

いつかまた、参拝をさせていただきたいお寺さんであります。



     令和元年五月五日   参拝

No.146 19/05/06 13:15
旅人 

┉もう、今さら削除した上での訂正はできないし。

┉お恥ずかしいミスを発見いたしました。
『平成三十一年五月』です。

御朱印の授与に際して、こんなミスがあったというテレビのニュースを見ても、まあ、慣れもあるし、何時間待ちだったりした大きな大きな神社さんでのこと、お受けした方にはショッキングなことであるかもしれないけれど、こんなこともおきるよな┉とか、思っていたのですが。まさかの自分のミス!
ええ、わたくしは全然忙しくもない、十連休のうちの一日でありました。
令和元年であることを意識して参拝しており、意識してこちらにレスさせていただきました。
なのに、これは┉(*T^T)

神社仏閣でのご祈願させていただくのも大切ではありますが、これは本気で脳トレをしないといけない!


実はそもそもこちらのスレ自体が、
文章を綴る。
文章だけで読んでくださる方にイメージしていただけるような文章を心がける。
関連する写真はできうる限り避ける。
という目標をもって綴らせていただいているはず、なのでした。

もう┉(。´Д⊂)
いつもいつも、怪しいレスばかりではありますが、こんなミスもありましたので、お詫びして訂正させてください。



一応、【れ】と、打ち込んだだけで【令和】と変換されるようになっているので、今後は大丈夫┉かな?【へ】とさえ打ち込まなければ大丈夫かと思われるのですが。

No.147 19/05/07 19:48
旅人 

鎌倉はお寺さんが多くて、歴史もあると思うのですが、鎌倉の御仏像で国宝とされているのは、唯一、高徳院の御本尊、阿弥陀如来さまなのだそうです。そう、あの有名な大仏さまであります。国宝が露坐!雨にさらされ、風に吹かれ、あの近年の体温すら超える暑さにもさらされて(まあ、大仏さまには体温はありませんが┉)五百年以上。
歴史の授業で(?)習ったようにもとは露坐ではなく、大仏殿がありました。現在も大仏さまの周囲に大仏殿の礎石が残されております。

今回、長いお休みではありましたが、混雑したところの苦手な私ども夫婦、明らかに混雑しているだろう鎌倉に、┉行きたい気持ちはやまやまだったのですが┉無理!ぜーったい、絶対無理!
平日ですら、バスがギュウギュウ詰め、もう少しで整理の警備員が必要なのでは?ってくらいの人人、人の、有名寺院。行けません!
平日、有給休暇をとって鎌倉に行く日まで、鎌倉についての本を読んで予習しておこう!ということで、今回の【鎌倉の大仏さま】について、調べてみました。

鎌倉の大仏さまって、二代目、ヘタすると三代目だったらしいんですね。最初に作られた大仏さまは1244年に完成した木造のものだったということです。しかも高さ24メートル!現大仏さまの高さは11メートルほど、二倍以上の規模であります。すごいなぁ!クレーンとかもない、昔のこと。下から作っていって、最後を完成して、てっぺんから降りるとき、どうやって降りたんだろう。
ただこの大仏さまは、大きすぎたためか1248に大風で倒壊しております。
そこで1252年から新たな青銅製の大仏さまの建立となりました。これが現在の大仏さま┉┉だと思われてる。大仏さま二代目説はここにあります。記録ではこの大仏さまは『釈迦如来』となっているらしいのです。前述のとおりこちらは『阿弥陀如来』。
二代目または三代目の説はここからきているこです。ま、そうは言っても単なる記述まちがいかもしれないらしいです。いまとなっては確認のしようもないことであります。

No.148 19/05/08 22:22
旅人 

【鎌倉大仏】
奈良の大仏さまが聖武天皇の勅願による、一大国家事業であったのに対し、鎌倉大仏は一般庶民に呼びかけて造られたらしいのです。発願は源頼朝の侍女〖波多野局〗と言われているとのこと。
当時のものは木造のものだったとはいえ、24メートル!どれをとってもすごいとしか言いようがありません。

そして、今はなき大仏殿。 
1335年、そして1369年には、ともに大風で倒壊。特に1369年のときには風を避けて堂内にいた北条時行の軍勢から500人の死者がでたといいます。さらに再建された三度目の大仏殿も、1495年の地震と津波のため失われたのだという。大仏さまとはよほど相性でも悪かったのでありましょうか。
それにしても、覆っていた建物が地震で倒壊し、さらには津波で流されても、それに耐えてお座りになっておられた大仏さま。御仏のお力を感じます。当時被害にあった人々のどれだけの心の支えになったことでありましょう。
五百年以上露坐でおられ、大仏さまご自身の傷みはいかがなのでしょう?( ;´・ω・`)

大正時代の関東大震災では大仏さまが台座から滑るのを和らげる免震構造を採用したのだそうです。
昭和35年の修理では前に傾いている頭部を支えるために首の部分を強化プラスティックで補強したとのこと。


やっぱり、なにより驚くべきは露坐で五百年も変わらずにおられる御姿なのだと思います。小学生のときの修学旅行のときとさほど変わらないように思えます。


こちらで御朱印をお受けしたときが、今まででは一番並んで時間がかかったところであります。そしてここで、小学生が自分の御朱印帳を持って神社仏閣巡りをしていることとか、諸外国の方度目も御朱印帳をお持ちになっておられることを間近で見かけたのが、こちらでありました。
いつかまた、再拝したいものです。

No.149 19/05/09 21:49
旅人 

┉じつは、
鎌倉の大仏さまが阿弥陀如来さまだったことだって、高徳院の御本尊だったことだって、今回知ったことであります。
奈良の大仏さまは┉、そうだ、廬舎那佛さまだった気がする。廬舎那佛さまって┉?廬舎那という言葉が仏教の教えそのものを神格化した仏のことだ、ということです。

台座は1000の連弁をもち、そのそれぞれが100億の世界を持っているとされています。そして毘盧舎那は1000の釈迦仏を化現し、そのそれぞれがまた100億の釈迦仏を現して世界を説法するとされています。このように仏の智恵のはかり知れない大きさを象徴し、十方諸仏を包括し、広大な仏教世界の中心に君臨する如来が毘盧舎那です。

ご利益は、
現世安穏、所願成就などのご利益があります。

毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)の像容
蓮華台座や光背にはたくさんの釈迦仏が描かれており、教えを説いているとされています。右手は施無畏印、左手は与願印を結ぶのが一般的です。

No.150 19/05/11 23:35
旅人 

群馬県桐生市の【光明寺】さんに参拝させていただきました。大きな垂れ桜もすっかり若葉のまぶしい季節を迎えておりました。
山門をくぐると、なにやら観音堂の前に人だかりができております。? 御住職の低くてよく通るお声がこんなに離れていても聞こえてきます。なんだろう?
はやる気持ちをおさえて、御本堂にお参りをさせていただきます。今日は御本堂の戸が開け放たれています。御本尊のお姿がよく拝観できます。御本堂のなかに御住職の奥さまがおられます。
「こんにちは。今日は観音堂でなにかイベントをしているのでしょうか?」「ああ、なんだかお寺の話をしてほしいって頼まれてお話をしているだけなのよ」「私も一緒にお話を聞いても大丈夫ですか」「ああ、全然大丈夫よ」
とぶようにして観音堂にむかいます。

「┉聖武天皇の勅願で霊地を求めておられた行基さまが、ある夜、観音様からの夢のお告げを受け、「渡良瀬川のほとりの吾妻山景に囲まれたところに聖地がある。そこに観音像を刻んでお祀りすれば、多くの人々を済度することができる」と言う内容のお告げであったんだって。観音様のお告げの土地を訪ねると、これが見事な霊地で、さっそく一宇のお堂を建て、刻み上げた千手観音像を祭祀されたと言われているんだよね。
お堂は、月光が輝くが如くに池に映る荘厳なまでの境内の景観を賞でて「水月庵」の名を付け、永く桐生の護りをと祈願されました。
それが天平十一年、七三九年のことだと言われてるんだよ。まあ、実際に行基がここまできたのか、なぞなんだけど、まあ、天皇の勅願であれば、行基本人でなくても弟子だったかもしれない人物でがこんなとこまできたんだということは間違いない。

九百年ほど経って、徳川時代の初期の寛永元年(一六二四)に、【水月庵】に鳳仙寺七世・儀拈牛把禅師を開山に迎え一寺を建立し、そのときに【水月庵】を【大慈山光明寺】と改めて、曹洞宗の修業道場として発展させたのが現在の光明寺のもとなんだ。」
と、すらすらと御住職が語られていました。

No.151 19/05/12 09:12
旅人 

こちらのお寺の御本尊さまは【千手観音】さま。「千手観音さまの像は三つあって、一番古いのがここ観音堂のまんなかのもの、行基上人の作とされているもの。その次が江戸時代のもので御本堂の御本尊さま。」
「そしてね、実はこの観音堂の向かって右の観音さま。実はよくわかっていないのだけれど、一番造作がよく、細かな細工の施された大変綺麗なものなんだよね。調べたらとても価値のあるものかもしれないなぁと思っていて、いつか調べてみようかと思っているのだけど、」御住職、実に嬉しそうに┉いたずらっ子のような笑みを浮かべながら、語られています。

「桐生市に式内神社がふたつあるのだけれど、神社とお寺は一つだったという時代があって、広沢の【賀茂神社】は【法楽寺】が別当寺で、【三和神社】の別当寺がウチということだったんだよね。それが神仏を分けようという動きの中で、三和神社にあった千手観音さまが光明寺に安置されることとなったわけなんだけど、式内神社というと平安時代くらいだから、この仏さまは下手するとそれ以前からのもののという可能性もあるし┉」
「でも、調べてもらったら┉みたいなこともあるものだから、どうしようかなぁと思って、とりあえず警備を強化して、防犯カメラを配置してセコムを入れてみたいなことはしてるんだけど、笑」
ちなみに天満宮のなかにあったのが、大蔵院で移動して別のところに移ってるんだよね。」


観音堂や、御本堂が開けられておられることも少なく、ましてや檀家の者でもない私などには儚い、かなうことのない夢でしかありませんが、こちらの三体おられる千手観音さまを一度でいいからお側で拝観させていただきたいなぁ┉と、切に思った御住職のお話であります。

No.152 19/05/12 18:45
旅人 

以前、光明寺さんに参拝に訪れた┉冬のあたたかに晴れた日、清んだ青い空に飛行機雲が気持ちよいくらいまっすぐに描かれたのを見上げたとき、光明寺さんのすぐ裏の小高いところに、鳥居があるのが見えました。「あれ?」よくよくみると、墓地のあいだにその鳥居に向けて道があり、石段があるようです。┉ これは神さま、仏さまがこちらにもお参りするようにと飛行機雲で私を導いてくださったにちがいない。行こうっと。
そこは【御嶽神社】さんでありました。境内のなかから参拝させていただいてしまいましたが、上までまいりますとキチンと参道があり、後で知ることとなるのですが、参道に続く一般の道には御嶽橋なる橋の架かった小川が流れておりました。

その御嶽神社さんについても、御住職のお話がありましたので、まずはそちらからごしょうかいさせていただきます。

「光明寺の裏山は〖御嶽山〗言われていて、そこには御嶽神社さんがお祀りされているんだけど、かつてこの山は修験者(山伏)が訪れて修行していた山だったんだよね。御嶽山には大きな岩も現存しているから、この大岩を仏とし、山全体を霊地として日夜修行が行われたのだろうね。
今、外国の人たちに忍者、忍者って騒がれているけど、山伏の流れをくんで忍者が発生してるんだよね。このへんもなんか少し開発してそんなテーマで集客するのもいいなぁなんて、そんなニュース観ると思ったりすることもあるけど。」
と、御住職。


たしかに、この御嶽神社さんの境内には石仏さまがたくさんおられました。そのとき、私は墓地のあいだに造られた参道を通って、石段をのぼり参拝させていただいたのですが、もうひとつ参道があり、後で知ることとなるのですが、そちらからの道は一の鳥居があり、さらにその前には一般の道路に小さな小川が流れており、そこに御嶽橋という赤い橋が架かっていました。
そちらの参道沿いにはたくさんの石仏さまが参道を見守るようにお立ちになられていました。

No.153 19/05/12 23:54
旅人 

群馬県桐生市という街は、徳川家に大切に護られた街なのだそうです。御住職のお話はそんなお話にもおよびました。江戸時代、徳川家が桐生を擁護して桐生新町をつくり整備したということで、それは神社仏閣の配置すら、鬼門に当たる方向を護るようにと移転までしての大がかりなものであったということであります。桐生市に現存する浄運寺というお寺です。
あ、そういえば、そんな話を聞いた気がします。そうだ、まさにその浄運寺さんの参拝をした際に。桐生新町は桐生天満宮から浄運寺までを指しているらしく、浄運寺はその端を護るべく移転をしたと寺伝をお話くださいました。
光明寺の御住職はさらに、栄昌寺というお寺の権現堂と大蔵院というお寺がちょうど二十七度の角度をもって配置されているとおっしゃっていました。
徳川に護られた桐生新町は、整備されたうえで、商人、豪商に土地を提供して町を栄えるように幕府が支援したというのです。徳川にとってそれだけの意味がある土地だったということはなにを意味したのか、御住職はいろいろ調べてみたようです。桐生新町は江戸とちょうど並行して作られていたとか┉、日本平の東照宮と日光の東照宮との位置関係とか┉。おバカな私はメモをとるのが精一杯で、さっぱり理解できないものであり、まさに猫に小判、馬の耳に念仏といったものとなってしまい、せっかくの御住職のお話、聞き間違えや、勘違いなどもあるかもしれません。

そして、徳川家の恩恵を受けたという桐生も、いまはその効力をすっかり失ったように、桐生新町は静かに時を重ねています。豪商の遺した足跡も少しづつ失われていっているようであります。


光明寺さんは、そんな江戸時代よりさらにさかのぼる頃、栄えた時代に創建された、桐生で一番古いお寺だということであります。
今回、偶然、御住職の貴重なお話をうかがうことができ、本当にありがたかったです。御仏の御導きでありましょうか。


      令和元年五月十一日  参拝

No.155 19/05/14 06:03
旅人 

群馬県桐生市の【栄昌寺】さん。
失礼ながら初めてお聞きしました。Googleで調べると光明寺さんからさほど遠くないようです。┉ 便利な世の中であります。
そうと知ったら行くしかありません。山の手通りを桐生新町と呼ばれた町並み、本町通りに向かって少し入ったところにありました。
こじんまり、という言葉は失礼でしょうか。御本堂の大きさも、境内もさほど大きな規模のお寺さんではありません。ただ、明るい穏やかな気に満ちたお寺さんです。
御本堂のならび、少し奥まったところに二つの御堂がみえます。
小さな小川に見立てた池があり、そこに小さな石橋が架かって、弁天堂があります。さほど古いものではなさそうにみえます。
そのとなりにさらに小さな御堂があります。しかしながらその扉には銅板にしっかりと刻印された、直径三十センチ程度の葵の御紋が、左右、一つづつつけられています。【東照大権現】の篇額が掲げられています。ここが先ほど、光明寺の御住職のお話にあった権現堂でありましょう。
庫裏にうかがうと、御住職がお出になられたのですが、こちらのお寺では御朱印の取扱いはなさっておらず、ご由緒書きもないとのことでありました。

お寺の山門を出ると、御住職のお言葉が壁に貼られておりました。

『はるか先の未来と思われたあの日が やがては明日になり それは昨日となって 今日を生きる』
『たとえ本物の宝の地図であったとしても 行動をおこさなければそれは偽物と変わらない  たとえ偽物の宝の地図であったとしても行動を起こすことで何かを見つけられたのなら それは本物と変わらない』

こちらの御住職のお話を、ぜひうかがってみたいと思わせる一文、一文でありました。




     令和元年五月十一日    参拝

No.156 19/05/16 03:50
旅人 

群馬県太田市の【冠稲荷神社】さんに参拝してまいりました。

冠稲荷神社は、平安時代の1125年、新田氏の始祖 新田義重公の父、源義国公創建と伝えられています。
伏見稲荷、豊川稲荷、信田、王子、妻恋、田沼(一瓶塚)とこちら冠稲荷で、日本七社といわれているとのことであります。
1174年、源義経公は奥州下向の折に、当社が源氏ゆかりの社であることを知り、冠の中に勧請してきた京都伏見稲荷大社の御分霊を奉斎。また、時を経て、新田義貞公は1333年、鎌倉幕府討伐の兵を挙げるにあたり、こちらの神社の神前にて、兜の中に神霊の来臨を請い、戦勝を祈願されたと伝えられているようであります。この故事にちなみいつしか冠稲荷大明神と人々から呼ばれるようになったようです。

冠稲荷神社は境内へ入る鳥居がたくさんありますが、一際大きな赤い鳥居があります。本日はこちらからの参拝とさせていただきます。ちなみにそのたくさんある鳥居の一つは、ブラタモリという番組でタモリが扁額に漆を塗っていた鳥居があります。

この一番大きな鳥居の左側には猿田毘古社があります。猿田毘古神を祀る境内社の1つで、交通安全に御利益があります。車の交通安全祈願はこちらでして頂くようであります。
そのすぐ隣にはペット社殿があります。立派なお社であります。
参道を進んでいくと、桜の木の前に鳥居が設置されているのがみえます。こちらは縁結びの木と呼ばれている桜の木です。二手に分かれた木の幹が途中で再び結びついていることから、縁結びの御利益があると言われているようです。
そしてそのすぐそばには大きな大きな木瓜(ぼけ)の木があります。樹齢四百年を超えるといわれ、群馬県の指定天然記念物に指定されている木です。縁結びや子宝伝説があるようで、こちらのシンボルツリーとなっております。

No.157 19/05/16 08:12
旅人 

境内を進んでいきますと、こちらの方角から行くと少し戻る形になりますが┉石の鳥居があり、それをくぐってすぐに手水舎があります。手水舎の水が御神水となっていて、厄除に御利益がある聖水ということであります。そしてなんと、手水舎にペーパータオルが用意されているのです。そこまで至れり尽くせりの神社を私はここしか知りません。

手水舎の向かい側あたりに形代納め処があります。ここに用意されている人の形をした紙(形代)に穢れを移し、お焚き上げをして貰うということで、6月末と12月末に行われる大祓の儀式で主にお焚き上げしてくださるようです。
拝殿の前には義経の使ったと言われる御神水が小さいながらも立派なお社の中に流れており、そこからこの御神水をお分けいただくことができます。百円を奉納し、用意された50CCほど入るプラスチック容器に水を受けて持ちかえることができるようになっております。

そして目の前すぐに豪華絢爛な造りの拝殿が見えます。拝殿には鹿の首の剥製が!初めてそれを見たときの衝撃といったらありませんでした。後々知ることになるのですが、神事として鹿の首を奉納するといったものが近年まであった神社さんがあったくらいなようで、こちらの神社とは御祭神も異なりはしますが、とはいえ、こちらの神社は武将が創建したものであり、狩りをして腕を研いた武将が祈願に訪れていた神社では、狩りでの獲物を貢物として奉納することもあったのかもしれません。そう考えると、さほど不思議はないのかもしれません。


参拝を済ませると、拝殿右手に全面ガラス張りの近代的な建物が唐突にみえてまいります。初めて参拝した折にはありませんでした。再拝の際にみかけたときの衝撃に近い驚き。しかも自動扉!
┉こちら、中はおみくじ売場となっております。リラックマみくじ、トーマスみくじ、ゲゲゲの鬼太郎みくじなどキャラクターものから、かわいらしい狐の張り子のお人形がみくじを口にくわえたキツネみくじなど、まるでキャンディー売場やファンシー小物売場のように、心弾む、実にさまざまなおみくじが並べられております。
そしてさらに大きなガラス張りの建物が隣接して建てられていて、そちらは御守りや、御札、絵馬などの売場となっております。

No.159 19/05/17 04:10
旅人 

拝殿の左手を進んでいくと、あの観光地などでたまに見かける顔出し看板があります。顔を出す部分は持ち上げ式の看板が付いていて、顔を出すときだけ持ち上げるようにします。この絵は稲荷大明神が眷属の狐に乗られる図であります。なにげなく、観光地と同じような気分で夫に顔を出してもらい写真を撮ってまいりましたが、これは罰当たりな行為ではないのかなぁ( ;´・ω・`)


本殿の両脇には高さは1メートル強くらいですが展望台があり、ここに登るとと、本殿の彫刻をよく見ることが出来ます。彫刻の解説もなされていました。本殿の彫刻を拝観したあとの順路は、裏手の塚山竹林をとなっています。ここには小さな稲荷社が並んでいます。
参拝順路によると、次に参拝するの琴平宮、白狐社となります。白狐社にはたくさんの白狐の像が並んでいます。本当にすごい白狐の像の数で、そのすべてが祈りと感謝の証であります。結構大きなお社が二舎、すべてが白狐で埋め尽くされています。       
白狐社の隣に菅原社。言わずと知れた菅原道真公をお祀りしたお社であります。
そのすぐ近くに厳島社があります。橋の架かったお社であります。
この厳島社までが本殿からの参拝順路と言われています。

厳島社の隣に、ステージ状の開かれたお社があり、中央に八坂社があります。諏訪社もあります。
その隣に冠稲荷七福神。中央には大きな彫刻の絵馬が飾られています。こちらでは、十四礼十四拍いたします。なんだか数をかぞえることのほうに気持ちが集中してしまいそうであります。もちろん、私はそればかり気にしておりました。一回でも間違えたら神さまに失礼にあたることになりますものね。



No.160 19/05/17 08:21
旅人 

境内社のひとつ、【寒咲社】はこちらのお社に対して鳥居があります。シンボルツリーの木瓜の木のすぐ真横、手水舎のすぐそばです。鳥居をくぐると左右に小さなお社が並んでおります。
正面に小さな小さなお社があって、チョロチョロと、ちょうど少し開いた水道の蛇口から流れるくらいの水量で水が流れております。
小さな┉50CCくらいのプラスチックの容器が、1つ100円の奉納金で用意されており、この容器に社の手前の水を汲みます。そして左右に並ぶ6つの社の中から、授かりたい御利益のお狐のお社の前に水の入った容器を奉納します。
〖子育てきつね〗、〖安産きつね〗、〖健康諸願成就きつね〗(2体)、〖子宝きつね〗、〖縁結びきつね〗のお社となっており、お社に祀られた像はそれはそれはかわいらしい現代風のキャラクター的な像となっております。容器のキャップ(蓋)の部分は持ち帰り、御守として大切に持ち歩くことで神様とのご縁が続くのだと言われています。こちらへの絵馬の奉納もあります。

御朱印の授与所の近くにもう1つお社があります。やはりこのお社に対しての鳥居があって石段をのぼったさきにあるお社は【聖天宮】であります。
伊邪那岐神、伊邪那美神等をお祀りしている社で、縁結び、夫婦和合、親子和合、災難・ストーカー除けに御利益があるとなっております。正面には伊邪那岐神、伊邪那美神等のリアルに着色された高さ50センチから30センチの御像が祀られております。天井絵や彫刻も大変凝った見事な作りとなっております。
参拝を済ませると、さらに裏に進んでいくよう案内があり、拝殿裏手に災難やストーカー除けに御利益がある【悪縁断大鈴古墳磐座】があります。
長い竹の棒に鈴がついており、それを地中より出ている石に振動を伝え祈願するというもので、祈願には用意された紙をその竹に巻いて、竹を衝くように振り鈴を鳴らし、その後祈願に使った紙を捨てます。



こちらの神社の縁結びのご利益はお力が強いようで、年若い後輩たちからよくその名を聞いておりました。実際、出会いから結婚まで、こちらに詣でてから短期間でトントン拍子に進んだ娘さんが三人もいると、その霊験あらたかなこと、思わずにはいられません。
彼女たちが御祈祷までお受けしたかはわからないのですが┉。



      令和元年五月十一日  参拝


No.161 19/05/17 18:17
旅人 

ひとつきに最低でも1~2度は必ず通る道路沿いに、ずっと気になっている看板があります。
群馬県前橋市の【矢島の七観音】。看板のさきはその道路からすると細い道路で、走行する道路からは寺院を思わせるような建物や屋根は見えません。
昨日もそこを通ることが前々からわかっていて、時間にも余裕があり(どうしよう)と悩んだのですが、珍道中をサポートしてくれている歴史オタクの夫も、一緒にそこを通るたびに気になっているようであり、一人で行ったら残念がるのだろうな┉というか、またまた近いうちに再拝することになる。昨日も横目で看板を見ながら通過いたしました。
で、そちらのこと、Google先生にお教えを請いましたところ、鎌倉時代からの御由緒ある七観音さまのようでありますが、年に二回のみの御開帳のようであります。普段は無人の御堂のようで。
その年二回のうちの二回目の御開帳が、今年はなんと、土曜日であります。駐車場があるのかないのかもわからない情報量ではありますが、これはきっとご縁であります。


カレンダーにしっかり書き込んで、と。



No.162 19/05/19 00:26
旅人 

【群馬県の寺社信仰】
群馬県は山の信仰が色濃いとされています。全スレでお話してきた、上毛三山の赤城山・榛名山・妙義山、そして浅間山、白根山、武尊山など、山々が信仰を集めております。

赤城神社はかつて上野一宮であったと伝え、一宮の座を貫前神社に譲ったのは機織りの生糸を借りた礼との逸話があり、群馬県が古くから養蚕や絹織物が盛んであったことがうかがうことができます。
今も県内各地に、桐生市の織姫神社、伊勢崎市の倭文(しどり)神社(上野九宮)、吾妻郡長野原町の養蚕神社(荒神さん)、富岡市蛇宮神社、安中市の絹笠神社、雲門寺など養蚕や織物の神々が祀られております。

また群馬県は上州三名湯の草津・伊香保・四万(しま)のほか、水上、礒部、老神などを有する温泉国であり、その各地で薬師信仰がみられます。草津の光泉寺、伊香保神社(三宮神社を本宮とし伊香保神社を上野三宮とするようです、本人がよく理解できないでいるまま書いており、申しわけありません)は古くは温泉神社と称し、温泉寺が別当を務めていたようです。

高崎市の少林山達磨寺は日本における達磨信仰の一大拠点であり、ちなみに全国のダルマは8割が高崎市で生産されています。
また、前橋市の産泰神社と板倉町の雷電神社は、それぞれ産泰・雷電信仰の総本社であるようです。

徳川将軍家は、かつて太田市にあった得川郷の出身といわれ、徳川家の祖が創建したとされる長楽寺には日本三大東照宮とされる世良田東照宮が建てられ、その社殿は日光東照宮の古社を移転したものであります。また、この地は新田荘遺跡でもあります。新田荘は鎌倉幕府を倒した新田義貞を輩出した地であり、義貞公を祀る新田神社もあり、太田市には新田触不動と千体不動塔を祀る明王院、呑龍上人を祀る大光院新田寺、今は廃寺ではありますが縁切寺の満徳寺などがあります。


神社仏閣珍道中、まだまだ道中、初めの一歩のようであります。

No.163 19/05/19 07:45
旅人 

今日、栃木県宇都宮市にあります【多気山不動尊】で、火渡り祭があるようでうかがいたいと思っておりましたが、体調がいまひとつ整わず断念したところであります。
残念ですが、そういった決断も大切なことかと思ったので。


とか言いつつ、ご存じのとおり未熟者な私。
起死回生とかいう四字熟語が頭を離れないでおります。

No.164 19/05/19 23:35
旅人 

わが家の玄関には、今年、榛名神社さんでお受けした破魔矢と、亥年ということで亥のかわいらしい置き人形の御守があります。元旦に長男が受けて来てくれたものです。

【榛名神社】さんは私の大好きな神社さんであります。。

上毛三山の一つ、榛名山の神さまをお祀りしております。古くは元湯彦命をお祀りし、春名満行権現と崇められたということであります。また、こちらは【勝軍地蔵】で、【天台宗榛名山巌殿寺】が祭祀しておりましたが、神仏分離で仏教色が廃されて現在に至ります。そのため、瓦棒銅板葺きの八脚門の仁王門を随神門に変えるなどがなされており、一キロ弱の参道の途中には三重の塔があったりします。
境内は巌山とよばれる、標高九百メートルほどの山全体であり、九折(つづら)岩鞍掛岩などと名のつく奇岩があります。
近世には榛名講とよばれるものがあったようで関東一円で盛んだったようです。講の全員が参詣を果たすと、記念に太々講として【榛名神社神代神楽】を奉納したようであり、この神楽は男舞22座・巫女舞14座の演目があり、摺り足を基本とする無言の舞なのだとか。宮廷神楽を伝承するもので、現在も二月神楽始式と五月の端午祭、神輿渡御祭などで奉納されているようであります。

今の時季、さぞや清々しい爽やかな空気がいっぱいでありましょう。
新緑の合間をぬうように射し込むきらきらときらめく日の光が美しい、自然豊かな神社さんであります。こちらも式内社。


ああ、榛名神社さんに行きたい!
 

No.165 19/05/20 18:58
旅人 

【勝軍地蔵】?
最近、その文字を見かけましたが、あのおだやかなお地蔵さまと『軍』という、戦に結びつくような文字が私の中でうまくつながらない。今回も榛名神社さんを調べていて、そのお地蔵さまの御名をお見かけしました。
この勝軍地蔵はそのお名前が示すとおり、祈願することで戦に勝利できるとされているお地蔵さまであるようです。一説に、坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って作ったことからおこったといわれる勝軍地蔵菩薩さま。
なんと甲冑を身に付け、右手に錫杖を左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがっているお姿のようであります。こちらの勝軍地蔵さまを拝むと、戦いに勝利し、宿業・飢饉などをまぬがれるということで、とりわけ戦国時代に武将に手厚く信仰されたようです。

この勝軍地蔵さま、平安時代から鎌倉時代にかけて日本各地に広まっていき、今でも多数現存しているのだそうです。
え?私はいまだかつてお会いしたことがないのですが?!


┉じつはどうやら東京巣鴨にある【巣鴨とげぬき地蔵尊】もその1つであるようなのです。微妙な年齢をむかえた私が、いましばらくあとに参拝させていただこうと、あえて、参拝をさき延ばししている【高岩寺】さん。うーん、お会いしたければ○○の原宿とうたわれる巣鴨に詣でるようなのか┉(;´・ω・`)

京都の六波羅蜜寺には運慶が作ったとされる勝軍地蔵があるようです。さらに、奈良の東大寺、室生寺、神奈川県鎌倉市の建長寺などの勝軍地蔵も大変有名なものとされています。ん?(,,・д・)
え?建長寺さん?
┉たしかに建長寺さんは御本尊がお地蔵さまでありますが┉御本尊には何度もお会い申しあげているのですが。
大きな、大きなお地蔵さまであるため、この迂闊なおばさんは甲冑を身に付け馬にまたがっておられるお姿をされていたことに気づかなかったということ?!!

あわてて御本尊さまのお姿を確認させていただきましたところ、御本尊さまは勝軍地蔵さまではなかったです。ホッ。


┉いつかお会いできるかなぁ。鎧兜を身に付けて、お馬にまたがるお地蔵さまに。



No.166 19/05/21 10:02
旅人 

私自身が住んでいる市も、長い長い歴史の中で、例えば川のそばであれば早くから人が集まり集落ができたり、野の広がるだけのところで畑作をしたり、山のそばで猟をしながら山のめぐみを受けてくらしたり。その小さな集落をたばねるものができ、集落と集落の間での争いや、それで小さかった集落が大きくなったり。
恵まれた土地を我が物にしたいと戦がおきたり┉。
前述のとおり、群馬県は養蚕や織物の盛んな土地であったようで、そこからの商業も発展したような土地がらであったようです。

同じ市内でも全く異なる文化が息づいているのを、神社仏閣を訪ねて町を歩くと、その異なった空気を肌で感じます。
さらには平成の大合併で、成り立ちの全く異なる町と町が一つの市となったこともあり、その以前の町であったり、村であったところは、行政という括りは変わろうとも、自分たちの生活を普通に続けるだけでありますから、その土地その土地のなかで息づいていた伝統はそのままの形で残っています。

その昔、┉そうは遠くない明治、大正、昭和の初期のころまでは、神さまや仏さまがいつも人々の身近におり、神社に詣でること、お寺に詣でることが日々の暮らしに欠かせないほど、大切なものでありました。神棚があり、仏壇があり、神社やお寺さんでお授けいただいた御札が必ずのように貼られ、それは富めるものも貧しきものも同様に崇め奉った存在でありました。
長い長い歴史の中で、その土地にあった、その土地ならではの信仰の形があったりもしましょう。それをできるだけ忠実に残していきたいと思って守るその神社仏閣の、神主さまであったり、御住職であったり、世話人の方々であったりがおられることもあるでしょうし、新しい時代にあわせて永く存続することを願って新しい試みを取り入れるところもあるでしょう。
ですが、やはり長いことその土地その土地にあった特色はなかなか消えはしないのでしょうね。移動が車のせいもあり、降り立ったときの空気がその町、その町で異なるのを肌で感じます。

同じ市内でも異なるこの独特な空気感。
それがまた、新鮮で楽しみな神社仏閣珍道中であります。

No.167 19/05/21 11:02
旅人 

車で道路を走っていると、市と市の境に、走行していた市がそこから変わったことを告げる看板がありますよね。しばらく走行すると、その市その市で空気が異なり、風景や町並みすらが異なってきますよね。

県境はまさにそれが顕著。

群馬県の隣接する県は、福島県、栃木県、埼玉県、長野県、新潟県、です。いやいや、看板が要らないくらい、明らかにすべてが変わります。山の中のなに一つ特徴を見いだせないような道を走っていたとしても、道を整備する県なり市なりが変わるからなのでしょう、路面、道幅が変わっています。
なので、神社仏閣もその土地その土地、その土地その土地の特色がある。

栃木県は世界遺産【日光の社寺】で全国、世界に知られ、東照大権現(徳川家康)を祀った日光東照宮は平日でも参拝の人々が列をなしております。何年か前に改修工事を終えた陽明門は見惚れて日が暮れるのも忘れてしまう美しさということで別名日暮の門とよばれておりますが、ほかの社殿、拝殿もすばらしいものばかり。徳川の一番栄えた時代、その威光を全国に知らしめ、全国の大名に寄進させた贅を極めた、これまた日暮の社寺、日暮の社殿、日暮の彫り物となっております。

日光社寺信仰の中心は、勝道上人が開いた、男体山を観音浄土の補陀洛山として祀る二荒山神社であり、こちらは宇都宮の二荒山神社とともに下野一宮とされています。宇都宮という地名は一宮が転じたものといわれているくらいです。二荒山神社の御祭神の本地仏をお祀りする日光山輪王寺は天台宗三本山の一つだということであります。
勝道上人は、阪東17番出流山満願寺や、中禅寺湖畔にある阪東18番立木観音、日本三大蓬莱の蓬莱山神社なども開いたとされており、その生誕地は真岡市の仏生寺とされています。

栃木県は古くから仏教が栄えたようで、日本三戒壇の一つ、下野薬師寺がおかれたとあります。それは本当に栃木県の寺院を参拝するとひしひしと肌で感じます。

No.168 19/05/21 12:39
旅人 

栃木県の古社とされる寺院を訪ねると、建物うんぬんではなくて、創建うんぬんでもなく、その空気の重厚なことにただただ圧倒されます。なにかを感じとるようなことなどない私のような者が畏怖するような空気の寺院があることが、その古くから栄えた仏教の伝統と歴史、なのかもしれません。

【慈覚大師】という、偉いお坊さまを輩出した土地であることも大きいのかもしれません。
なんて書いてはおりますが、Google先生のお教えをいただき知ったことによりますと、【最澄】の弟子であり、遣唐使として唐に渡り、布教のため東北を訪れ、恐山を霊山し開山された方だとあります。
誰もが知っている「鳴くよウグイス平安京」と、暗記に使ったそのまさに794年に生まれた方だということで、日本ではじめて大師という謚号を授かった方のようでありました。
それもあってなのて、なのでしょう、栃木県には天台宗の名刹が多いようであります。
日本三大岩船地蔵の一つ【高勝寺】、元三大師の信仰で多くの参拝者を集める関東三大大師の【佐野厄除け大師】も天台宗であり、家康を日光に祀った日光山貫主の慈眼大師も天台宗の大僧正であるということであります。

そういった意味合いからなのかもしれませんが、群馬県の天台宗寺院は前橋市と高崎市には多いものの、他の市町村ではさほど多くはないように感じました。
とはいえ、同じ天台宗寺院であっても、高勝寺と佐野厄除け大師は、まるでその雰囲気の異なる寺院ではありますけれど。





No.169 19/05/21 17:17
旅人 

【佐野厄除け大師】は金色の梵鐘という、燦然と輝く大梵鐘の鐘楼が駐車場すぐ脇にあり、また、御守りやおみくじの自動販売機など、私のような凡人には思いもつかない進化をとげたお寺さんでありますが、こちらの歴史は古いもので、平将門の乱を平定した俵藤太藤原秀郷が、開基とされています。
居城跡の唐沢山にある【唐沢山神社】は秀郷を祀っているようであり、こちらの御朱印はブームの御朱印マニアのあいだでは人気のものとなっているようです。

わが家の歴史オタクが怪しげに語る、藤姓足利氏だの、源姓足利氏だの、なんとかの流れを汲む○○氏とかいう話になってくるのですが、秀郷は藤姓足利氏の祖なのだそうで、室町幕府将軍を輩出した足利氏は源姓足利氏になるのだそうです。その足利氏の出身が栃木県であり、その名も足利市には【大日様(だいにちさま)】と親しまれる金剛山鑁阿寺があり、こちらの御本堂と鐘楼は国宝であります。足利氏の館跡として国の史跡ともなっております。


うーん、栃木県ってなにげにすごい。


No.170 19/05/25 00:57
旅人 

みどり市の【神明宮】さんに参拝してまいりました。緑豊かな明るいおだやかな気の満ちた、よく参拝させていただく神社さんであります。

境内入口には石造の大きな鳥居があります。鳥居をくぐると、左手に手水舎。大きめな狛犬は新しそうだと思ってみると八十年は経ったものでありました。
社殿は新しく、木の匂いがしそうな【神明造】と呼ばれる造りのものであるようです。境内の由緒書によると、鎮座六百五十年、中興遷座四百年の記念事業として平成十二年に社殿が新築されたようでようです。総桧造!┉気のせいでなく本当に木の匂いがしていたんだ。

拝殿の扁額には「皇大神宮」とあるが、こちらの正式名はあくまで神明宮。
御祭神は天照大神。
御由緒は、もともとは、南北朝時代の貞和三年(1347)、現在地の東100mほどの渡良瀬川の伊勢ケ淵岩頭に、天照皇大神をお祀りし、黒川郷(渡良瀬川流域の里)の一宮として崇敬された神社であったようです。慶長二年(1597)大間々町の鎮守として、現在地に仮宮をたて、慶長四年(1599)正式に遷座したということです。
境内の左手奥に、貞和三年に祀られた石祠が、【御隠居様】として祀られております。御隠居様って┉なんだかびっくりする表現だと思うのは私だけでしょうか。

その、もともとの神明宮のあったところ、伊勢ケ淵の名は、こちらが鎮座していたためとする説の他に、天正六年九月、金山城主由良成繁が、当社対岸の山頂にあった高津戸城の里見氏兄弟を攻め滅ぼした時、里見勝政の妻、伊勢の方が、殿に殉じて入水自害したことに由来するとする説もあるようです。このへんはわが家の歴史オタクの得意分野でありますので(^_^;)

創建以来、明治十二年まで、二十一年目毎に社殿の建て替え、または修復などの式年遷宮が行われていたようです。なんと豪儀なことでしょう!正徳五年(1715)には、外宮 豊受大神の分霊を合祀し、明治五年、一町十八ケ村の惣鎮守として郷社に列したとのことであります。

しかしながら明治二十年、大間々町の大火で社殿を焼失し、ただちに再建されたものの明治二十三年再度の火災に遭い、社殿を縮小して再建されたようで、なんとかもとの郷社に相応しい社殿をとの願いもむなしくその後の大恐慌などで断念されて、ようやく平成の御代にこのお社が建てられたということのようです。



No.171 19/05/25 02:05
旅人 

神社仏閣初心者の私、神明宮さんによく参拝するなどと言ってはおりますが、まだ日の浅い新参者であります。
ただ実はこの辺り、小さな頃からよく訪れていた地、なのであります。

道路を隔てた神明宮さんのお向かいに、ながめと呼ばれるちょっとした観光の名所となっている場所があり、私も幼稚園の遠足がこのながめであったり、祖父母に連れられてこちらに来たりという記憶があります。
実は┉ながめとその名前、実はすぐそばにある高津戸峡の眺めがいいからということで、その名が付けられたという衝撃の事実を今回調べていて初めて知りました。なんと安直なネーミングだったのでしょう。びっくり、であります。
そのながめ、かつては今で言うならば小さなテーマパークのような行楽地だったらしい。

敷地の一角に「ながめ余興場」という、昭和12年に建てられた木造二階建ての劇場があります。廻り舞台や花道、二階席もある本格的な造りで、玄関は歌舞伎座を模したと言われているとのことで、古い建物ではありますが味のあるものであったと記憶しています。
最盛期、昭和20~30年代には人気劇団や流行歌手が訪れるなどしていた超人気の娯楽施設であったようです。
ただ、私にはすでに古い建物という記憶しかなく、古い映画を上映していたり、もう何も上演することない過去の建物と化していた時期でありました。
今はまた、古きをたずね新しきを知るとでもいうのでしょうか、その良さを見直されて、よくイベントが開催されるようです。

また、こちらで毎年秋に行われる「関東菊花大会」は、菊の花を衣装に散りばめた菊人形や、盆栽菊など、さまざまな菊が会場を彩り、今でも愛好家をはじめとする多くの人々に親しまれているようで


ところが、私、こちらに神社があったという記憶がまったくなくて┉(^_^;)
信心深い祖母をもち、歴史オタクであります夫に連れられて参拝するまで、こちら神明宮さんを知らなかったくらいの迂闊者であります。

境内は林につながり、川のせせらぎや小鳥のさえずりを聴きながらの森林浴ができるといった、素敵な神社さんであります。また、すぐそばの高津戸峡は、ながめというネーミングがされるくらいです(^_^;)


仕事に疲れるとこちらに行きたくなる、私の癒しの神社さんであります。



        令和元年五月  参拝

No.172 19/05/25 08:19
旅人 

追記)
私の幼稚園の遠足が、40㎞くらい離れたながめであったことから考えても、当時の「ながめ」の盛況さをうかがい知ることができますが、いまも秋にその辺を通ろうものなら、道が渋滞して、駐車場が満杯状態です。秋には神明宮さんの参拝がむずかしかったくらいです。

秋は高津戸峡の紅葉も見事なので、いまのようにネットの発達した時代はかえって人が集うのかもしれません。

ちなみに、ながめからは絵手紙風の御朱印で有名な【桐生市】が近いです。絵手紙風の御朱印で有名な桐生市のいくつかの寺院はいま、バスが┉場所によっては数台、県外から訪れる観光スポット化しておりました。





No.173 19/05/25 17:12
旅人 

ずっと気になっていたお地蔵さまに、ようやくお会いすることができました。一年半かけて、やっと❤
群馬県伊勢崎市にある【あかぼり小菊の里】という、小菊が一面に植えられたところに行ったときのこと。秋桜も楽しもうとあえて遠回りをしたところ、標識より小さな、桐生市が設置した道案内の看板が目にはいりました。

←【野の六地蔵幢】

えっ?そんなお地蔵さまのこと、知らなかったけど。

そもそもこの道、実はカリビアンビーチという室内プールがあるため、何度も何度も通った道であります。
もしかしたら、その頃と異なり、道が整備され、当時あった野菜の無人販売所や、ブドウの直売所がなくなって、見通しがよくなったせいかもしれません。
いつからその看板があったのか┉、小さな看板とやや狭い道。方向音痴の私でも迷いこまない道。そこを曲がって行くようわざわざ行政が看板を立てるお地蔵さまがおられる!
もう秋桜の道だの小菊の里だのは頭から消え、お地蔵さまにお会いするためハンドルを左にきりました。
住宅の点在する畑のひろがる道であります。進むにつれて対向車が来たら道を譲り合うような道になってきました。もうひとつ、看板。

ん?看板消失?!

ちょ、ちょっと待って!もう細い細い、民家や業者の営業所の建ち並ぶ住宅街の道でしかないところで、最終案内がない?!┉このまま進んで行き止まりでバックして戻るしかないようなことになったら┉
( ; ゚Д゚)ノno
┉あきらめてあかぼりに向かう道に進路を変えました。


その後もチャレンジしたものの┉同じように最終案内はなく、見放されたように通りかかる地元の方もおられず。
諦めきれない私は市役所に行ってその場所を教えていただこうとしましたが、担当の方がいないとわからないらしく、無駄足におわり┉。
ナビにはでません。
夫に悲しみを訴えると、夫がスマホでGoogle先生にお尋ねしたところ、キチンと案内をかってでてくれていると!!

さすが、困ったときのGoogle先生であります。ちなみに私はいまだにガラケー。Google先生と夫にひかれて、野の六地蔵幢詣りとなりました。
( ;∀;)

いやいやこれは、わからなくて当然!最終案内の看板はなく、民家脇の細く狭い生活道路を入って行くのです。これはムリだ、ムリだった!こんな不親切な案内の看板は最初から立てないでほしい(*T^T)

No.174 19/05/25 17:41
旅人 

写真では拝見しておりましたものの、ようやくお会いすることができたお地蔵さま。

高さ1.82メートルあります、石塔(?)の幢身とよばれる部分に、東西面に1体ずつ、南北面に二体ずつの計六体のお地蔵さまが線刻されておられるものであります。
その塔のそばには何軒かの、現在も守まれ、まつられている墓所となっており、そこに混在して古い石仏がかなりの数、お祀りされていました。
また、初めて拝見する、観音様が膝に(?)子どもを抱いた石仏像がお祀りされていました。女人供養の文字が見てとれます。寛政の時代のもののようです。
そのそばには白色の石で造られたお美しい立ち姿の石仏がお祀りされているのですが、仏さまのみぞおちを中心に斜めに折れて破損してしまっておられ、しかもそのみぞおちの辺りがえぐられ削られているかのようになくなってしまっております。
お美しいお姿だけにことさらに痛々しい御姿で、哀しく切ない思いでいっぱいになりました。

いま、この文を綴りながら、もう一度あの二体の観音さまにお会いしたいと思う自分がおります。
もう道には迷わない。
けれど、駐車する場所がまるでないのです。今回は夫にワガママを言ってその細い狭い道に路駐してもらいました。おそらくはその奥にはお住まいの方はおられないように思えました。
ですが、私の運転テクニック!
この道に車を入れてUターンは┉(;ω;)どうかな?



      令和元年五月二十五日  参拝


No.175 19/05/26 21:15
旅人 

  
  暑くなりました。
  日光の季節です。


┉ということは特にはありません。
暑さの夏も、遅い春の訪れを迎えたころも、
見事に紅葉した木々のころも、雪深い冬すらも、
日光の季節です。
┉熱くなっていたのは、私がこの一週間あたためていた「日光に行きたい!」という思い、であります。
日光を語れるほどにはまだまだ修行が足りませんが、この間、神社仏閣にお参りできないでいた期間に、こちらで栃木県の神社仏閣を少し語ったりしたものだから、もう私のなかが【日光】、【日光】に行きたい。日光に行きーたいっ!となっておりまして。
で、日光。

日光輪王寺の修復が終わり、あとはシートを外すのみ、というくらいに行ったのが最後、まさに「絵にかいた輪王寺」を拝観しておりました。ただ工事・修復作業中の輪王寺もみることができたのも、貴重な経験であります。
そのヴェールがようやくとれたというのに、なかなか参拝することができずにおりました。
さあ、輪王寺、輪王寺っ❤

No.176 19/05/27 12:02
旅人 

あ、暑い。

日光、涼しいだろうとひそかにそんな期待もあっての前回冒頭文。
見事にうらぎっての熱く暑い日光でありました。さもあらん、夕方帰宅して観たテレビのニュースで、北海道でまさかの三十九度超え!
┉もう、いつ、どこがどれだけ暑くてもおかしくないんだなぁ。
(;´・ω・`)

それが、その広い境内の敷地にはいった途端、涼やかで爽やかな気に柔らかく優しく包まれます。
思いっきり深呼吸!身体も心も軽くなります。
┉いや、私、スピリチュアルっていうんですか?そういうのが一切なくて、なんっにも感じないんですよ。だからこそ、こんな歳になって神社仏閣初心者をやっているくらいで。そんな人間であっても、こんな恩恵を賜ることができる、日光山。
実は日光に向かう道中で「救心」飲んだくらいの体調で。そう、あの「動悸、息切れ、めまいに、」っていう救心です。夫に「無理はしないんだよ?!」「大丈夫?」と頻繁にたずねられるくらいだったんです。ま、夫にとって言い出したら聞かないヤツですから、ねぇ。もうしわけない(*`艸´)
それが、石段をのぼっていくにつれむしろ身体が軽くなる!
もう、こうなると小学生┉幼稚園児のように、足どり軽く先へ先へと突き進む。┉今の幼稚園児はおりこうで、さしたる指導もしなくても、おとなしく列をなして歩くように見えるし、それ以下かもしれません。


【輪王寺】! 
大きな布に描かれたものではなくて、どっしりとしたあの落ちついた朱い大きな大きな御堂です。金堂にして三佛堂、でいいのかなぁ?
入口を入りますと、御本尊前の御賽銭箱の前に大勢の人たちがご案内にあたる僧の解説を聞いており、私のはいった入口は少人数の方々に向けてご案内される僧がやはり解説をされています。ん?
私はしゃぎすぎて入口を間違えたのかしら?(((・・;)
正面入口と私の入った入口はコーンなどで隔ててあります。? 
御賽銭箱の前、御本尊の前からの参拝が正しかったよな、申し訳ない。そおっとその隙間から御本尊前の集団に交ざりこむと、「そっちじゃなくて、あなたはもっとお近くで御本尊にお会いできるんですよ。こっちで大丈夫です」と男の方の声。よく、わからない。
まあ、わざわざお声がけいただくくらいなので、隙間をくぐったことはやはり間違いで正しくない行動だったんだな (´-`;)
┉やっぱり幼稚園児以下だった。

No.177 19/05/27 15:04
旅人 

ま、そんなヤツでありますが、まあ、あながち間違いでもない参拝の順路であったはずだと、さっさと自分の失態は切り替えて、切り捨てて┉。(^_^;)


ただ、御堂に入った時点ですでにどちらのグループに対しても、ご案内の方の解説が始まってしまっておりました。私、┉高校時代の修学旅行でも、ガイドさんや案内の方の、一語一句も聞きのがしたくない(聞きのがしたら自己責任)タイプなので、どちらにしても途中からの解説になり、やや、テンションが低めなスタートをきることになりました。
解説は今年の年廻りについてというところまで進んでおります。
厄年ではなくて、九星気学という(らしい、占いの一つのようです)
二黒土星とか五黄土星とか八白土星とかで表現されるもので、
「次の節分までの星回りとなるので、悪い星回りとなってる方は覚えておいてください」と、おっしゃっております。
へぇー、悪いんだぁ。┉覚えておいてください?(((・・;)
何にかかってくるのでしょう。そこには御守りが展示されていますが、そちらについてのコメントは一切ありません。


ご案内いただくままについてまいりますと、御内陣です!
こちらに足を踏み入れられるのは、修復作業中だけだとうかがっておりましたのに!(pq゚∀゚*)
ありがたいことでございます。
改修工事中には自由に中を歩くようなものでありましたので、お側での参拝は可能でありましたが、簡単な説明とどちらかというと御内陣を監督していらっしゃるような僧の方がおられただけでしたので、今日はお側での参拝と解説をうかがうことができるようです。


大きな大きな仏さまでいらっしゃいます。台座から光背頂まで七メートル半ということであります。今回の修復期間にお色直しをなさったようで、今が一番綺麗なお色でおられるとのことです。次は五十年以上後にならないとこのお色の状態での参拝はないとのお話でありました。

向かって右てから、〖千手観音さま〗、〖阿弥陀如来さま〗、〖馬頭観音〗さまになります。
こちらは脇侍というご関係ではなく、日光山の山信仰とも結びついて、〖男体山〗、〖女峰山〗〖太郎山〗、お山を神さまと考え、そしてその神さまが仏さまにお姿を変えられたという形をおとりになられた、御家族であられるとのことでございます。

No.178 19/05/28 01:05
旅人 

三体の御本尊さまにつながる五色の紐。
こちらについての説明は特にありませんでした。┉いつの間にか三~四倍にもなった人数のせいでしょうか。
抜かりのないおばさん=私はしっかりとその紐を握ってお祈りをしてまいりました。
しかも二本。(*`艸´)



その間にもご案内くださいます僧侶は、他の方を連れて次のゾーンへ。千手観音さま、虚空蔵菩薩さまと何体もの御仏像が並んでおられます。守り本尊さまだ。


 子年(ねどし)  = 千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)
 丑年(うしどし) = 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
 寅年(とらどし) = 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
 卯年(うどし)  = 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
 辰年(たつどし) = 普賢菩薩(ふげんぼさつ) 
 巳年(みどし)  = 普賢菩薩(ふげんぼさつ)
 午年(うまどし) = 勢至菩薩(せいしぼさつ)
 未年(ひつじどし)= 大日如来(だいにちにょらい)
 申年(さるどし) = 大日如来(だいにちにょらい)
 酉年(とりどし) = 不動明王(ふどうみょうおう)
 戌年(いぬどし) = 阿弥陀如来(あみだにょらい)
 亥年(いどし)  = 阿弥陀如来(あみだにょらい)

十二支の生まれどしで八尊の守護仏がそれぞれの干支の方をお守りしてくださっているというものであります。それぞれの干支の守り本尊さまを教えてくださり、その前に立つようおっしゃって、合掌するようにうながされました。

┉日光山名物とも言える授与品のご案内はこちらでありました。
守り本尊さまの凡字の書かれた1×2.5cmほどのペンダントトップの御守りであります。┉そうだった、思えばご案内の方の首にずっと光り揺れていたんだ。
そして私、欲しかったんだなぁ┉ずっと肌身離さずつけておける御守りが┉。
そうそう、日光のここでしか手に入らないんですよね。

┉僧侶の方の説明が終わると同時に、授与を申し出たのは私で、そして、あんなにいた人々のなかで唯一、だった。(^_^;)
どうしてわかるかって?
そのすぐあと御朱印の授与所があって、そこにも並んだものですから、御守りの授与所の様子が見てとれたので┉。(^_^;)

日光山に来るたび、なんらかの授与を受けているのは他ならぬ私、なのでした。
┉ちゃんとずっと使っています。本当!(^_^;)



No.179 19/05/28 06:30
旅人 

【鬼門除札】について

日光山では多種多様な御守りが授与されています。その中にも、「限定の御守り(御札)」があります。この御札、日光山の数ある御札の中でも、少し別格の御札となります。
毎日、授与されていますが数に限りがあるようであります。授与される数の決まっている上、すぐに売り切れてしまうといった大変、貴重な御札となっているようなのです。

この御札を「鬼門除札」というのだそうです。

輪王寺で「鬼門除札」の入った封書を授かり、その封書を開けると「鬼門除札」と一緒に同封されている「角大師護符」が納められているようです。
「鬼門除札」の裏側に御札を入れるスペースがあって、「角大師護符」を入れるようになっているのだそうです。「角大師護符」に、家族全員の名前を書いてから、「鬼門除札」の裏側の御札を入れるスペースへ差し込んで納めるようです。

御札自体の有効期限は1年間ですが、なんと三年間1年毎に新しい御札が自宅へお送りいただけるのだそうです。そして、古い御札は、お焚き上げで燃やしていただきます。これは日光まで出向かなくてもよいようであります。

家の鬼門となる方角へお祀りし、家族に降りかかる厄災を御札が身代わりとなっていただけるとのことであります。


こちらはその日の数量限定をうたうだけあって、御守りや御札の授与所でおすすめされることはありません。私の覚え書きとして書かれたものと思ってください。(^_^;)

No.180 19/05/28 11:12
旅人 

三佛堂を出口から出ると、御堂の濡れ縁を歩いて裏手に抜けます。すぐに目の前に【大護摩堂】が見えてまいります。御護摩祈祷をお受けする御堂ですが、こちらは盛り土のない、地面に対してフラットな造りで、護摩祈祷を受けない者でもお詣りすることができます。
御祈祷を受けたことがないので、後込みしてしまうようなところもあるのですが、お願い事が多すぎて一つにしぼれないのも一因かと思ったりもします。そういう者こそが御祈祷を受けるべき、なのかもしれませんが。

護摩堂の正面に五大明王さま、十二天さま、七福神さま、祖始像がずらっとお並びになられ、入った時点では身の引き締まる思いがいたします。ですが、すぐに穏やかにお見守り下さっている視線であることに気づくかのように、自分自身も穏やかな気持ちになれます。
護摩祈祷は毎日三回、行われているようです。
天井には見事な龍が描かれております。【大昇龍】と名づけられているようです。
こちらの授与品は御祈祷をお受けする御堂なため御数珠と御線香が中心となっておりました。梅の木で作られた守り本尊さまが内蔵された御数珠となっています。御数珠は木で作られたものがよいという俗説があるそうで、火葬の際石でできた御数珠は残ってしまい成仏できないということからのようであります。
また、御数珠はお下がりや形見の品を使ってはいけないそうですが、その理由はちょっと聞き逃してしまいました。現世の者によくないのか、旅立たれた方によくないのか、記すことができなくてごめんなさい。


護摩堂を出ますと正面には┉もちろん三佛堂があるのですが、それよりも目につく背の高い塔があります。
こちらは家光公が発願され、あの栃木出身の慈眼大師さまが比叡山の宝搭に似せてお造りになられた高さ15mの青銅製のものであります。空にそびえる、といった表現がぴったりなこちらの搭には千部を超える数のお経が納められているのだそうです。
どちらを廻らせていただいてもみな大きなものが多いです。


No.181 19/05/28 16:52
旅人 

今回は日光輪王寺へやってきた。東照宮は次回、次回。((。。;)
┉どうする?五重塔。
そもそも輪王寺の鳴き龍で有名な薬師堂は東照宮本地堂とも呼ばれ、別個での東照宮拝観が必要です。輪王寺の管轄ではあるのだけれど。

夫は「任せるから。好きにしていいから」を繰り返すのみ。
「わかった。今日は大猷院と二荒山神社で。」


二荒山神社、そして大猷院に向かう参道は大きな木々に囲まれ、小さな川が流れております。その空気の清んだ道を歩くだけで、心が洗われて新たな自分にでもなったかのよう。心だけでなく身体も軽くなります。踊るような足どりで砂利道を歩くと二荒山神社の楼門が見えてまいりました。
大猷院から上ってくると神門をくぐることになるのですが、心よりも身体よりも、頭の中身の軽い私、ご機嫌で歩をすすめ、楼門につながる「上新道(かみしんみち)」という参道を歩いて来たことも頭になかった(^_^;)
鳥居を前にして、今さら大猷院を先に、という理由もなく、嬉しいような楽しいようなワクワクした気分のまま、楼門をくぐりました。



一般的に 楼門 とは2階造りの門で最上階に屋根をかけたもので各階に屋根をかけたものを「二重門」と言います。日光二荒山神社の 楼門 は新しい門で勝道上人の男体山登頂1200年を記念して1982年(昭和57年)に作られました。
踊るような足どりのまま、拝殿に向かうとおしゃれをした可愛いらしい子供がこちらに駆けてきます。それを追う若いおばあさま。
あ、花嫁さんだ!
結婚式が執り行われた直後のようです。うーん、残念。
拝殿のきざはしのしたに設けた腰かけに座り、お嫁さん、角隠しをつけていただきました。
名残惜しいけれど、私は私のお礼を申し上げ、お願い事を申し上げる役割があります。
拝殿に向かって参拝し、置かれたオオヌサと呼ばれる、┉神主さまが行事の際ふさっふさっとお振りになるあの神具をさわるとよいと書かれて┉そのオオヌサをそっと、時間をかけてさわりました。
あまりオオヌサに興味を示される方がおられなかったのもあって、思う存分さわることができました。
さあ、社務所に御朱印を受けにまいります。
こちらの社務所、いくつもの御朱印を扱われておられます。中宮祠の二荒山神社以外の神社の御朱印、お祭りの町内の鉾の御朱印もこちらでお受けします。

No.182 19/05/29 07:51
旅人 

この日、これから参拝せていただく予定となっている【瀧尾神社】さんと、それから御神刀の【太郎丸】、【奉祝天皇陛下御即位 奉拝 日光二荒山神社】の三体の御朱印をお受けいたしました。こちらはみなお書き置きなので、待ち時間なし。
「瀧尾神社さんと┉」と申している時点で、お書き置きの御朱印紙に、こちらを一度も見ることなく、さらさらっと日付を書き込まれる巫女さん、少し寂しかった┉虚しかったです。


気を取り直して!
この日二荒山神社に参拝の折に今度こそ!と、かねてより思っておりましたところへ参拝をいたしました。

No.183 19/05/29 21:39
旅人 

今、日光の社寺は【ユネスコ世界遺産】となり、世界中から人々が訪れています。その景色の素晴らしさから訪れる、外国からの観光客の方もおられるでしょう。でも、なかにはしっかりと歴史背景や日本の神々や仏について調べた上で、神仏を崇め奉るお心で訪れる方もおられます。

正直に申しますと、私は以前日光の社寺を訪れたときには、完ぺきな観光客でした。
「神社では二礼二拍手一礼で、お寺では手を合わせるだけ」くらいの知識と、郷に入れば郷に従えくらいの感覚だけで。手水も知らなかったし、「御賽銭はいつのタイミングであげるんだ?」だし。
いや、そもそもお寺というものは檀家の人しか行かないものという感覚もありました。
そのくせ、修学旅行では神社仏閣に行きまくってたけど、それは日本の文化を修学、学ぶためだから、と思っていたし。歴史の勉強でもあるからなのだろう、と思っていました。
まあ、そのへんはいまもそれに毛が生えたくらいかもしれませんが
(;´・ω・`)
ただ一つ、変わったのは、観光客ではなくなったと、とりあえず言えること。
それは自分の心の持ちよう、なので、まだまだ何一つわからないまま参拝させていただいている点では、あまり変わってはいませんが。


日光二荒山神社さんにはいままでも何度かは参拝させていただいておりましたが、【神苑】と呼ばれる、【本殿】のある、参拝料をお納めするゾーンには、観光客として二度訪れたのみ。本殿と拝殿の違いもわからず、ご神木をみても「デカイ木!」と思うだけ。 



そんな私がどうしてもお詣りせていただきたいと、思ったのは┉
【高天原】です。
以前、訪れたときにも実はこの場所に気づいてはおりました。
でも、そのとき私は「ふーん、神社だから高天原かぁ」と、そばによることもなく通りすぎてしまったのです。






No.184 19/05/31 00:42
旅人 

砂利が敷かれたなかに石がポツンとひとつ。綱で囲まれた空間が、日光二荒山神社【高天原】であります。

その神域を、この文才のないおばさんが表現するとこんなことに┉(;ω;)

その結界のなかの地面=大地ではなく、空間そのものが【高天原】、神のおわす空間であります。何人たりとも足を踏み入れることなく守られ続けている結界のなか。
人々が神さまを崇め奉り建てた社殿も、神さまへの思いが込められておりますが、この場所は、神さまのおわす、人が足を踏み入れることすら許されない神聖な場所として、その結界のうちを長い長い年月守り続けられたことによる、神域としての重みがございました。

こちらは日本書紀にその存在が記されているほどの歴史があるとのことであります。どれだけ長い年月、人が足を踏み入れることなく経過しているか、そこからも知ることができます。


私はここで今まで不遜であったことを御詫び申し上げ、御守りくださっていたことの感謝を申し上げたかったのでありました。
ようやく、その思いを果たすことができました。



春の大祭の神事で、こちらに本社、瀧尾、本宮の三社の御神輿が集結するのだそうです。八乙女が御前神楽を舞うのだそうです。
弥生祭は神事であるため、毎年日時が決められております。なかなか仕事を休むことのできる機会に恵まれず、いまだ奉拝することができずにおります。いつか、仕事をがんばった褒美として神さまがその機会を与えてくださる日まで、仕事をがんばろう。
そんなことも考えるようなお力添えをくださった、日光の神さまでございます。
ありがたいことでございます。




ちなみに ┉ この高天原の真の有りようを知ったのはテレビの番組でありました。テレビにも感謝 (。-人-。)



No.185 19/06/01 07:20
旅人 

日光二荒山神社の【神苑】は、盛りだくさん!であります。


参拝料をお納めしてすぐに、弘法大師お手植えの樫の木があります。そのすぐそばに本殿が拝める場所が設えてあります。こちらで参拝なさる方はさほど多くはないのですが、神さまとお話をされるように、長い祈りを捧げる方が多い気がいたします。並んで待っているような方もほとんどない、祈りの場となっている気がいたしました。
【本殿】はこちらの神社の社殿のなかでは最古のもので、徳川二代将軍秀忠公が寄進したものとのことです。現在本殿は修理中で外観を見ることはできませんが、千円の志納金で小羽板に自身の名前と願い事を記入し、本殿の修理にその小羽板を使っていただけるようです。修理の様子も見ることができるようなっておりました。

神苑にあります末社は、
【日枝神社】
【朋友(みとも)神社】
【大黒殿】
【銭洗い弁天】
末社ではございませんが【神輿舎】、
拝殿ではありませんが、【若子神社遙拝所】【日光連山遙拝所】がございます。


朋友神社さんには、四体のカエルの石像があり、それぞれが「知恵カエル」「福カエル」「一言カエル」「厄カエル」と名前があり、それぞれ役割がございます。
知恵カエルは、知恵を授かるものなのてすが、藁をもすがりたい私は元々少なかった知恵が少しでも戻り、これ以上ぼけが進まないようにと、よーくよくその頭を撫でてまいりました。
ちなみに一言カエルは、一言返ってくる、口の多い誰かを想像してしまいそうですが、一言願った、一つだけの願いをかなえてくれるというものであります。

銭洗い弁天さまのそばには霊水がこんこんと湧き出でておりまして、やはり一口飲むと長寿だったり、知恵だったりを一つだけ授けてくれるものであります。ここでも知恵の水を飲んだのはいうまでもありません、かね。

その他にも子授け安産石があり、良縁の笹があります。

また、古くなって倒木した御神木の中を掘り人がくぐれるようになったものをくぐる、【御神木胎内くぐり】がございました。

No.186 19/06/01 07:35
旅人 

神苑内はさらに多くのみどころがあります(みどころという言葉を神社さんがお使いなのでそのまま使わせていただきますが、私的には失礼な感がああります。が、言葉を知らないおばさんは、これしか頭に浮かばなかった(;ω;))

【化け灯籠と呼ばれる銅製の灯籠】。
【太郎丸と呼ばれる御神刀】。


日光連山遙拝所にあります【良い縁の刀】【祈願石納め】【日光ハート投げ】。
【運試しの輪投げ】【ルーレット型菓子占い】など。
この辺はやや、アミューズメントパーク的なイメージがあるとは思えますが┉。

No.187 19/06/01 19:12
旅人 

神門をくぐり、【大猷院】に向かうと大きな鳥居があります。二荒山神社と大猷院の境界となります。ん?鳥居の向かって右側に大黒さまがおられます。石で彫られた優しい笑顔の大黒さまであります。
以前の参拝のときにはおられなかったような気がいたしますが┉。

大猷院の参拝受付では、参拝の前に御朱印をお願いすることになっております。御朱印をお願いすると今は【大猷院】【金閣殿】がセットになっているようであります。大猷院=金閣殿ですので、「大猷院のものだけで」と申し上げると、怪訝そうなお顔をされました。
実は以前、二天門改修記念として同じ御朱印紙をお受けしてあり、私のなかでは【二天門改修記念の御朱印】なので。今回お受けしてしまうと、記念した御朱印の意味合いが薄れてしまう気がいたします。

さあ、大好きな二天門の持国天さま、広目天さまにお会いする前に手水舎で身を浄めましょう。
こちらの手水舎は湧水がそのままひかれたものであります。木で作られた水の路を受けての手水となります。その手水舎の天井には龍が描かれているのですが、前回の参拝のときよりもさらに傷みが進んでしまい、もう、龍の姿をそこに見いだすことはかないませんでした。
(*T^T)


さあ、大好きな持国天さまと広目天さまです。
まだ塗りたての香りがいたします。
ああ、今日も美しくお袖がひるがえっている。

No.188 19/06/02 01:53
旅人 

持国天さまと広目天さま。
鍛えぬかれたしなやかで美しい肢体と、まとわれた御召し物の美しさ。躍動感あるお体の動きと御召し物の流れるようなさま、彫刻であることを確認してしまうほどの布の薄さとひるがえる布の動き。布の模様の美しさ。凛としたお顔。見るたびにため息が溢れます。

篇額の【大猷院】の文字は後水尾天皇の筆によるものであります。

門をくぐって振り返りますと、雷神さまと風神さまがお守りになられています。雷神さまは太鼓を背負われ両の手にはばちをお持ちです。そのお指は三本で現在過去未来をあらわしているのだということであります。風神さまは袋を背負われ、そのお指は四本。東西南北をあらわしているのだということです。私は知らなかったのですが、足のお指は二本なのだとか!二本であることは天と地をあらわしているのだということで、次に参拝の折にはしっかり拝見してこなくては!

知らなかったことといえば、仁王門をぬけて続く石畳は濡れると赤や青の色に変化する石が使われているのだとか。
雨の日の参拝も良いなあ。


こちら、大猷院はお祖父様であられる家康公を深く尊敬し、なくなる間際に「死んだあとも東照大権現にお仕えする」という言葉を遺されたことを受けて、四代将軍家綱公の命によってわずか一年二ヶ月という年月で造られたものであります。東照宮を見守る位置、見守る向きで建てられているのみならず、決して東照宮を超えることも模倣することもないようにとの工夫の凝らされたものとなっているようです。
いずれにしても、徳川家の威光をあらわした贅の限りを尽くしたものであることはまちがいありません。

大猷院のご案内のなさる僧が、「天にのぼっていく感じがする」という表現をされる上へ上へと上がっていく家光公の廟所でありますが、その美しさに夢中で歩く私は、そのような感覚になったことがありませんが、他の方はそうなのかなあ。(;´・ω・`)



No.190 19/06/02 21:39
旅人 

日光山【開山堂】に向かいます。

初老を自覚する五十代後半の二人。自覚して、復活する努力をするタイプではなく、せめて、神社仏閣巡りではできるだけ歩くように心がければよいものを、ついつい駐車場を探しては近くまで車でいってしまう、困った珍道中コンビであります。
二荒山神社わきを歩いて徒歩25分ほどの案内が出ておりましたが、
やはり、車で向かうことに。( ;´・ω・`)
細い道となります。
いくつもの輪王寺さんの別院が並んでおります。勝道上人の像を曲がって、輪王寺、東照宮の境目の辺りの裏手にある駐車場の道をさらに車を走らせます。

【開山堂】は日光山の開祖、勝道上人が亡くなられたとき荼毘に付された地であります。その後、勝道上人の霊をまつるところとして、御堂を建て、御本尊の地蔵菩薩さまと、勝道上人、勝道上人の弟子十人の像が安置されたとのことであります。開山堂の裏手、上人の墓所には五輪塔がたてられており、脇に弟子の墓もありました。
こちらの境内にはさらに【観音堂】があります。
その観音堂、実に奇異な外観をしており、びっくりしました。
それは建物自体ではなく、お供えされた品とその数であります。大きな将棋の駒が御堂の前を埋めつくし、側面後部にまで大きな駒が飾られています。それはすべてが『香車』の駒、でありました。
こちらは【香車堂】とも呼ばれていて、本当にその名前の方がしっくりくるくらい、香車の駒が置かれています。香車の駒の動きは、前にまっすぐ進むことしかできないから、その動きのようにお産がスムーズに進むように、ということなのですね。無事出産の暁には、お借りした駒に加え、我が子の駒を作成し「お七夜」ごろに奉納(返納)します。
将棋のルールで将来的に「と金」となる、そうなるようにとの親の願いが込められてもいるようです。お礼に納める駒がお借りした駒より少し大きめであること、スギの木素材が多いことから判るように「真っすぐ大きく育って欲しい」親心が伺えます。裏に名づけた名前を書かれる方も多いようです。
奉納する駒は日光市内で購入できるようですが、手作りの駒もありました。【産の宮】とも呼ばれ楊柳観音さまがお祀りされているようです。右手に柳の枝をお持ちの観音さまであります。十月十八日がお縁日で、輪王寺の僧侶が読経に訪れるようであります。



No.191 19/06/02 23:13
旅人 

観音堂の左には陰陽石と呼ばれる二個の天然石が結界のなか祀られています。
陰陽石と呼ばれるその石は、陰が女性、陽が男性を意味しているらしいのですが、凡人である私には石が二つ、地面の離れた位置に埋まっているようにしか見えないのですが、安産祈願に訪れた方はこちらでも祈願するようです。



そして、その陰陽石の向こうには石のゴツゴツした岩肌の絶壁となった小さな山があり、その前に石仏が何体か並んでいるのが目に入ってきます。その岩肌の断崖を【仏岩(ほとけいわ)】と呼ぶようです。もともとは、その岩肌自体に仏に似た岩が並んでいたようですが、地震で崩れたと伝えられています。石仏は六体並んでおられました。長い年月の経過で埋まってしまったのか腰下や膝下を地中に埋めてお立ちになられています。
向かって右から帝釈天さま・持国天さま(?)・梵天さま・不動明王さま・増長天(?)さま・広目天さま(?)で、「六武天像」とよばれているようです。
石仏さまとしては本当に彫りが精巧で、とても端正でお美しいお顔だちであられます。観音さまを思わせるようなお優しい、石であって石での表現ではないように思えるくらい表面はすべすべであり(触らせていただいたわけではありませんが)、御堂におられる御仏像と遜色ないできばえであります。
手が欠損しているため、御尊名が断定できないようですが、肩をいからせた鎧姿の体躯の三体の四天王は大変力強く表現されており、石工だけではなく、仏師、しかも本格的な仏師がかかわった石仏であるように思われます。
腰から下や膝から下が埋まってしまわれてお立ちになるお姿が、より痛ましさを増していました。


静かな、それでいて重厚な気が境内全体をおおっているような空間でありました。

No.192 19/06/03 05:22
旅人 

┉今、ふと思ったのですが┉もしかして、六武天さまがおひざや腰まで土に埋まっておられるのは意味のあることなのかもしれないなぁ、と。
なぜそう思ったのかというと、かなり埋まっておられる。
そして、そこは勝道上人がまさに荼毘に付された場所であり、埋葬されている墓所だから、であります。
根拠などはなにもありません。私がまさに今、そう感じ、思っただけであります。

ただ、そう思ったと、書いてみました。

勝道上人をお守りし、現世の私たちも見ていて下さっているのかなぁ、と思ったりしました。


No.193 19/06/03 06:12
旅人 

開山堂から道に出ると鳥居がみえる位置に、【北野神社】さんが鎮座されています。車を停められるスペースが限られているため、そこから歩いて北野神社さんにお参りさせていただきました。
菅原道真公のお祀りされている神社であります。御社の後方に梅の御紋が、御社の前にはちょこんとそれはかわいらしい牛の石像が座っていました。
実は帰宅してから調べたところによると、北野神社さんのすぐそばに、【手掛け石】という石があって、北野神社さんにお参りしたのち、その石に手を掛け祈ると学問が向上し、字がうまくなるといわれる石があったようです。車で参拝して歩いていたため、気づくことなく通りすぎてしまいました。
認知症がほぼ疑われること間違いない私、学問向上ではないけれど、認知症に少しでも効きそうな御利益にすがりたくなるのでありました。(;ω;)

そして、向かったのは【瀧尾神社】さん。
駐車場に停めて車を降りて、瀧尾神社さんに向かおうと歩を進めたちょうどその時、行者さんが列をなして瀧尾神社を参拝にお越しになっていました。
御真言(だと思ったのですが┉)を唱えては祈りの場を変えられる、早いペースでの御詣りでありました。後ろからひそかにご一緒させていただいて、どこでお参りされておられるかを見させていただき、その後同じ場所場所でお参りをさせていただきました ┉つもりではあるのですが ┉合っていたかなぁ?( ;´・ω・`)

二荒山神社の脇にある道を歩いてくると【行者堂】という御堂があったようです。
日光山は今も行者さんが修行されるお山であることをあらためて感じました。

No.194 19/06/04 14:30
旅人 

この滝尾神社は、二荒山神社と同時に建てられ、二荒山神社の別宮とされています。

滝尾神社は空海が女峰山に滝尾権現を建立し、女峰山を拝むために創られた神社と伝えられております。
山道の奥まったところにひっそりと鎮座しているのですが、ひっきりなしに参拝の方が訪れておりました。

境内に入ると、川の流れる音が絶えず聞こえ、苔むした巨木や巨石などがあり、辺り一帯が神聖な雰囲気に包まれております。
境内に足を踏み入れると同時に滝が左手にみえます。
滝が神社の入口にあるので瀧尾、というのでありましょうか。


瀧尾神社さんは重厚な気が満ちていたという記憶があるのですが、写真を見るとそれは美しい光にみちた穏やかな空間でありました。
写真ひとつひとつにある光に、胸が洗われ、逆に自分の愚かさと向き合えるほどの光が満ちた写真でありました。


私のつたない文章では表せないかな。


【神域】なのだと、実感させていただいた地でありました。


  


       令和元年五月二十六日  参拝
















No.195 19/06/04 21:30
旅人 

何度その名を聞いたことか┉とくに、神社仏閣珍道中を始めてからはそれこそ何度も夫がその名を口にした、栃木県足利市の【大岩毘沙門天】さま。ことに、一日が土日に当たろうものなら、「どうかな?」と毘沙門天さま行きを示唆してきました。

令和元年六月一日、ようやく、夫の念願かなっての【大岩毘沙門天】さま、参拝です。一日にこだわってきたのは、月に一度の御開帳の日だから、でありました。
なぜ、そんなにもったいぶってなかなか参拝にgoサインを出さなかったかといえば、山道だから、です。結構な距離をのぼって行くようだという情報をもともと知っていた上、昨年、入院している夫の体調を考慮してのことでありました。ええ、決して意地悪してたわけではないのです、ほんとに (^_^;)


結局、そのハイキングコースともなっている、長い長い参道を歩くことなく、すれ違い不可!みたいな道を車で向かうことに。
一応、その長い参道の麓にある駐車場には車を停めたのですが、1.7㎞の登り坂を実際に目の当たりにして、(びびった)夫が「車で行く」と。
それならもっと早く来られたんじゃ┉ ( ´д`)
ま、体調が第一ですよ。こんな山道、私じゃ運転できやしないし、お任せしようじゃありませんか。

同じく足利市の行道山浄因寺さんに向かう道もたいへんでしたしね。
┉でも、あとで聞いたところ、側溝はあるは、距離は長いは、片方は崖だは、カーブの連続だはで、毘沙門天さまに向かう道の方が大変だったそうであります。
そうは言っても、何台も車で毘沙門天さまのすぐそばの駐車場や、そこを通り越しての公園┉見晴台の駐車場まで来ている方はおられはするのですがね。ことに後に知ることになる、足をお痛めになられている和尚さまは、毎週土日は参拝のかたのために、こちらの毘沙門天さまにお越しになって御堂を開けて下さっているようですから。┉ん?まさか、歩き⁉なのかなぁ、片道1.7㎞なんですけど┉(((・・;)

No.196 19/06/05 00:00
旅人 

【大岩山毘沙門天】は、天平17年(745年)に行基上人によって開かれ、聖徳太子御作の毘沙門天(多聞天)を祀ったのが始まりと言われています。その後、聖武天皇より、本堂、経堂、山門、鐘楼、三重塔、十二坊の諸堂を賜るとともに、【大岩山多聞院最勝寺】という山号を賜り、御祈祷の一大霊場となるとともに、修験道の修行場として一大霊山となり、足利氏などの名だたる武将から信仰を集めてきました。
人々の厚い信仰によって法灯は受け継がれますが、落雷等によりいくたびも諸堂は焼失、その度に再建を繰り返してきています。
現在の毘沙門天本堂は、江戸時代の宝暦12年(1762年)に再建されたものだそうです。

毘沙門天は、北方を守護する四天王の一天であるとともに、財宝・福徳の神とされ、七福神の一神でもあります。

大岩山毘沙門天は、京都の鞍馬山・奈良の信貴山と共に日本三大毘沙門天の1つといわれております。



この地に行基上人が訪れたのは、夢で「あなたの関東地方へ教えを広めたいという願いは長い年月にわたるものだ。関東の足利に霊山があり、その山に登れば、所願を叶えることができる。私は山王権現である」とお告げを受けたことによるのだそうです。
夢から覚めた行基上人は、この願いが成就した際には、必ず山王権現を一山の鎮守としようと心に堅く誓い、遠い下野の足利郡をめざしました。
上人は夢を信じ、足利郡で修法を続けましたところ、ある夜の夢で、甲冑を纏った武人が現れ、こう告げてきます。
「ここより北にある大岩山という山に登ると衆生済度の為になる。私はあなたが信じる所の多聞天王(毘沙門天)である」と言って、光を放って消えていったということであります。
行基上人が御守りである毘沙門天像を見ると、口が少し開いて幽かに光っていたのだそうです。行基上人はますます信じ、告げられた通り北にある嶺に分け入っていくと、忽ちに金色の光が強く輝き、山の中が明るくはっきり映し出されたのだそうです。
行基上人は喜び、ずっと持っていた毘沙門天像を用い、盤石の上に安置して乾いた茅で堂を作りました。それが大岩毘沙門天の始まりなのだそうです。
行基上人は天平十七年(745年)に大僧正になり、聖武天皇により【大岩山多聞院最勝寺】という山号寺号を頂き、さらに翌年には、本堂・経堂・釈迦堂・三重塔・山門・開山堂・鐘楼堂などを賜ったということです。

No.197 19/06/05 00:23
旅人 

毘沙門天のすぐ下にある駐車場は5台くらいしか車が置けず、その更なる上の公園駐車場に車を走らせました(夫が)
時間的にもうすでに御護摩祈祷には間に合わないので、毘沙門天をめざして歩き出すと、太鼓を激しく打ち鳴らす音が聞こえてくるてはありませんか。
運転して連れてきてくれた夫を置いて、小走りに走りだす、なんとも恩知らずな妻であります。その坂が思っていた以上に急だったようで、小走りは韋駄天走りに!止まらない、止まらない‼

お、車が停まっている、ということは、ここだ!
おお、【大岩山毘沙門天】であります。

さらに聞こえる太鼓の音!
石段すらも駆け上がって、┉下の道を見下ろしましたが、夫の姿はまるで見えません。とりあえず、手水を済ませ御堂に向かいます。
正面からは中のようすは見えません。


右手の戸が開け放たれています。おお、なんと山伏姿の僧侶がおられます。

No.198 19/06/05 23:39
旅人 

おばさんの好奇心はうずくのですが、護摩祈祷中に御堂に入ることは祈りの場の空気を乱すことになりますので、外で待機。
山伏姿の僧侶が法螺貝を吹いておられます。
これは絶対、再拝させていただき、護摩祈祷に参加させていただかなくては(`・ω・´)

夫の姿がようやく見えだしました。
┉ちょうどご祈祷が終わったようです。

大岩山毘沙門天本堂にはそれはそれはたくさんの絵馬・奉納額が掲げられています。本堂に足を踏み入れると、圧倒されるほどその壁面いっぱいに飾られております。

ご祈祷を終えた御住職が、『竜宮玉取り図』という絵馬の解説を、誰に語るでもなく、唐突に始められました。
「この絵馬は、藤原不比等が龍神に盗まれた『面向不背の宝珠』を、竜宮へ海女を潜入させて奪い返す様子を表しているんです。この絵馬は、浮世絵と呼ばれる当時では珍しい遠近法が使われているんですよ」

天井に目を向けますと、巨大な黒龍が天井一面に描かれています。

御本堂の護摩壇(ごまだん)と呼ばれる木製の壇に据えた炉の切られた外陣に入らせていただき、さらには内陣によらせていただき間近で御本尊さまにお参りさせていただくことができました。
大きな毘沙門天さまであります。像高180.0cm  肩幅34.0cm ということでありました。
毘沙門天像は木造寄木造、鎌倉時代の作と言われています。右手に多宝塔を、左手に三つ叉の鉾を備えており、足元では邪鬼を2体踏み付けています。
その脇侍として吉祥天・善膩師童子(ぜんにしどうじ) がおたちになられており、このお二方はそれぞれ、毘沙門天のお妃様、善膩師童子は息子の一人とのことであります。
御住職が一体一体丁寧にご説明くださいました。ありがたいことです。













No.199 19/06/07 00:34
旅人 

以前、【日本の奇祭】が書かれた本を読んだことがあり、そのなかに【悪口祭り(あくたいまつり)】というものがあったのですが、実にこの大岩山毘沙門天でとり行われている伝統行事だったのです。

一言でいえば大晦日の夜に大声で悪口をつきながら列をなして歩くというものであります。


【悪口祭り】は江戸末期、慶応年間より始まったもので、大晦日の夜11時より、ふもとから登山道を出発し、毘沙門天本堂まで歩いて参るといったもののようです。
山頂の毘沙門天本堂までの道中、参加者の皆様が「ばかやろう」等の悪口を言いながら登って行き、一年の厄を落とし、溜まったうっぷんを晴らして、清々しい新年を迎えるという行事なのだそうです。


厄落としの木札に一年間の厄(災いや苦しみ、災難)を書き込み、山頂の毘沙門天まで持ち歩き、お焚き上げで木札を焚き上げ、厄落とすのだそうです。


悪口祭りでは言ってはいけない悪口があって「びんぼう」や「どろぼう」などの「ぼう」のつく悪口は言ってはならないとされています。それ以外であれば何を言ってもかまわないとか。実際に参加したことがないため詳細はわかりませんが、ここに挙げられている「ぼう」がつかない暴言の方が、恐かったりしないかと思ったりするのですが┉。


「悪口祭り」の由来は諸説あるようですが、その一つに架空の動物「獏(ばく)」に関するものがあり、江戸末期、厄病で亡くなる人が多く、厄病退散を願っており、悪夢を食べる架空の動物「獏」にこの悪夢のような現実を食べてもらい、 厄病退散を願ったとされます。「獏」を「ばくさま」と祈っていたものが「ばくやろう」、「ばかやろう」と訛っていったという説。
この他に飢饉などで年貢を納められずに苦しむ農民に粋な計らいで悪口をつく御許しがあった説など、定かではないそうです。
この「獏」に災難や厄を食べて頂き、開運厄落とし祈願をする絵馬がせんだっての参拝の折も授与品としてご用意されておりました。


悪口を言いながら山道を登っていく際、暗い山道を提灯(ちょうちん)で照らして行列を作っていたことから、提灯行列とも呼ばれるそうです。暗くて細い真夜中の山道を提灯を持ってねり歩くだけでも充分に奇祭ですが┉。
希望すると提灯と毘沙門天のお面を授与していただけるようです。
うーん、参加してみたいような、無理なような┉ (・・;)








No.200 19/06/07 01:13
旅人 

【悪口祭り】について調べていると、大岩山毘沙門天さまでは、なんとさらに引き続いて奇祭が執り行われるとのことであります。
【滝流しの式】というもののようです。

大岩毘沙門天における一年最初のお祭り、【滝流しの式】。
江戸時代の寛永年間(1624年~1643年)から始められたと言われているようです。
大晦日の深夜12時(元日0時)より、国家安泰ならびに家内安全、商売繁盛をはじめとした諸願成就の大護摩の祈願をし、その際に行うのが「滝流しの式」なのだそうです。
お神酒を「滝のように」額から受け、大盃で飲み干すことで、福やご利益が滝のごとく尽きることのないように、という縁起で執り行う儀式なのだそうですが┉お神酒を”滝”の如く?(゜゜;)


参加者は毘沙門天さまの前に正座し、直径30cm以上もある大きな朱盃を両手に捧げ、その盃を口にあてがい、そこへご住職がお神酒なみなみとたてた酒器を持ってまいられるのだそうです。
鼻の頭からお神酒を注ぎ、額、頭へと、酒器をだんだんと高くしてお神酒を休まず注いでいき、最後には頭のてっぺんから、額、鼻へと、滝のようにお神酒が朱盃に流れてくるので滝流しというようです。
あ、頭のてっぺんからですか!Σ( ̄□ ̄;)
新年早々、頭からお酒で濡れた髪で山道を下る⁉
┉き、奇祭ですね、はい。
ちなみにお神酒が十分(これ以上はいらない)になったら、左手を上げストップの合図をし、滝流しの式が終わりになるのだそうです。

いま一人がお飲みになる量は多くても二合(0.36リットル)程度なのだそうですが、昔は一升(1.8リットル)くらいは普通で、二升(3.6リットル)以上も飲んだ人がいると伝えられているのだとか。


御住職がお疲れになられる行事であります。(´Д`)

No.201 19/06/07 06:16
旅人 

大岩山毘沙門天本堂にはいく体もの御仏像が安置されております。

日本でここだけといわれる御仏像が御本堂を出て、濡れ縁を歩いてぐるりと裏手にまわると裏手の扉が開けられており、そちらに【氷掲羅天童子(ひょうがらてんどうじ)の像】がひっそりと安置されておりました。
氷掲羅天童子は、鬼子母神の抱いている赤ちゃんの成長した姿です。鬼子母神が500人いる我が子を養うために、人間の子供をさらっては食べてしまうので、釈迦が鬼子母神の500人もいる子供のうち一人を隠したのだそうです。鬼子母神は嘆きその赤ちゃんを探し回るのですが見つからず、釈迦のもとをたずね我が子がみつからないことを訴えると、釈迦が「おまえは500人いる子供の一人が見つからないと嘆き悲しんでいるが、たった一人の子供をおまえにさらわれ亡くした母親の気持ちはいかようか考えてみよ。」と諭されたことにより鬼子母神は自分のしたことを反省して改心します。人間に尽くすようになり、その後仏となったそうです。
氷掲羅天童子こそが、鬼子母神が抱いている子供であり、この時に隠された子供が大人になった姿なのだそうです。

左手にザクロを持つたいへん珍しい仏様で、毘沙門さまのお妃の吉祥天とは、姉と弟の関係になりますそうです。
よその子供を浚ってきては食べていた母、鬼子母神の罪を償うため、救いを求めてくる人には、限りないご利益を与えてくれるといわれています。左手のザクロは子孫繁栄の象徴であるといわれています。
蓮の、花の無い台座に座られた御像は、お優しいお顔立ちで女性かと思うくらいにお美しいです。
さすが美の女神、美、幸運、繁栄、豊穣をもたらす神とされる吉祥天の弟君であります。
ですが、母の犯した罪を償うというその有り様があまりに切なくて、胸がつまる思いがいたしました。安置された場所が、本堂の裏手にひっそりとお祀りされておられることもあったかと思います。
氷掲羅天童子はそんな私の思いなどいらぬものだよとばかりに穏やかに微笑まれておられます。

No.202 19/06/08 06:20
旅人 

と、大岩山毘沙門天本堂についてツラツラ書き綴っておりますが、こちらは最勝寺さんの別当でありますので、これは是非最勝寺さんに参拝しなくてはなりません。

そして、毘沙門天本堂内には叶神社・叶権現の分祀がございます。

叶神社さんのことは毘沙門天参拝で初めてその名を知りましたもので、足場が悪いので分祀なさってお祀りしてあるとおっしゃっていたのを、そうなんだあ、とありがたく聞いて、その内陣にお祀りされた叶権現さまをお参りさせていただいたのですが、実は毘沙門天本堂のすぐそばに叶神社さんはございますようで┉(^o^;)

あらためてまた、毘沙門天さまに参拝し護摩祈祷に参加させていただき、叶神社さんにも是非参拝させていただこうと思います。



その節は、また長々と書き綴るかと思われますが┉どうかご容赦くださいませ。




        令和元年六月一日 参拝

No.204 19/06/11 20:01
旅人 

日光に行ったというお客さまから、お写真をいただきました。
『龍頭の滝』┉の┉看板の写真。お茶目だなあ。(^_^;) お花の咲き具合に合わせて一週間後にもう一度行って撮されたという、数々の写真の中から、一枚選んでくださったのが滝でもなく、花でもなく、「看板」と花。
でも、そのためだけに来てくださった。ありがたいことです。

【日光】行きたいところがたくさんあって、行きたい季節がいっぱいあって、いつか私もお客さまみたいに思い立ったら日光!みたいな生き方ができるのかなあ。

【化地蔵(ばけじぞう)】と呼ばれるお地蔵さまにお会いしに行きたい。
慈眼大師天海の門弟子が彫ったという約七十体のお地蔵さまが一列に並んでおられるという。【百地蔵】【並び地蔵】とも呼ばれるそうですが、そもそもなぜ、化け地蔵、などという名前で呼ばれているのか。
そのお地蔵さまが居並ぶ道、行きと帰りにどんなに真剣に数えても、数があっていたことがないことから、お地蔵さまが化けておられるという伝説があります。
また、仏教用語の【抜苦与楽】の『抜苦』がつまって『化』となったという説もあります。
百地蔵と呼ばれることがあるのは、もともとは百体ほどあったようなのですが、明治三十五年に大洪水があり、その際流出してしまわれたお地蔵さまが何体もおられたようです。流された地蔵群の先頭におられた『親地蔵』と呼ばれていたお地蔵さまも流されたのですが、のちに川床に埋もれていたその御首が発見され、【浄光寺】さんというお寺に安置されておられるのだとか。


日光に行きたいなぁと思っていたところ、また、そのお客さまが仕事先にお越しになり「また(日光に)行ってきたんだよ」と、新しい写真をお見せくださいました。最近、奥さまに内緒で買われたという総額八十万円というカメラ、しっかり使いこなしておられました。(^_^;)

No.205 19/06/12 06:29
旅人 

化地蔵さまの伝説は、よく数の数え間違いをする私に(私だけじゃないんだな)というちょっとほっこりとした安心感をあたえてくれていたりします。

でも、そんないつも迂闊な人間が数えると、かえって数があっているのかもしれなかったりして( ω-、)

No.206 19/06/13 23:41
旅人 

群馬県高崎市の【小祝神社】さんに参拝してまいりました。
群馬県の┉上野國の延喜式内社の七之宮であります。

人気テレビ番組の「チコちゃんに叱られる」の決まり文句のひとつではありませんが、式内社のなんたるかも知らずに、やれ式内社を全部まわらせていただこうだの、令和になった奉祝のお詣りはやはり式内社がいいだろうなどと、知ったかぶりな行動をとっている私なのであります。(^_^;)

本日、お詣りは、私一人での単独行動であります。
ナビだけが頼りという珍道中であります。
が、しかし、私の車、実はナビのない車で、あとから買った簡易式のナビがあるのですが、肝心のナビをつなぐソケットからの電源が故障して使えないのです。家での充電に頼るしかないという、充電がいつまで持つかわからないという、すでにスリリングな珍道中、なのであります。

さて、実は【小祝神社】さん、「こいわい」と読むのではありません。
ナビに入力するのには当然正しい名称を入力しなくてはなりません。「┉ ┉」えっと┉、んー、なんだっけ?(゜゜;)
えっ?( ´;゚;∀;゚;)

今回の参拝、スタート地点が自宅からではなくて、すでに前橋市から高崎市に入ろうかという地点です。



┉しかし、安心してください。電話番号もメモして来ております。入力、入力!○○○-○△-△△△っと。ん?なにやら文字の案内が表記されております。「個人宅の電話番号ですので名称を入力してください」
えっ?((゚□゚;))

No.207 19/06/14 19:46
旅人 

┉安心してください。
住所もメモしてあります。ただ、楽に入力できる電話番号から入力しただけであります。
住所を入力すると┉おお、案内が始まりました!お、ここは駅の裏手の道だなぁ。お、市役所のそばだ。
えっ?なんかずいぶんと走らされている?こんなところは走ったことがないかも(^_^;)
これでナビの電源が落ちたら、┉帰れるのかなぁ(^_^;)しっかり覚えながら走らないと!

ああぁ、真正面に高崎観音が見えます。これはありがたい!
ま、とはいえ、高崎観音に自力で来たことがあるわけではなく、帰宅困難者になったときの帰宅の手がかりにできるわけではないのだけれど。(^_^;)
「来た道を覚える、来た道を覚える!」

えっ?案内をそろそろやめようとする発言を、ナビがしだしております。ぜんっぜん、看板やら道案内をみかけません(*T^T)
本当に?
神社さんのお社の屋根や、よくあるご神木や林のような木々なども見当たらないんだけど( ;∀;)

ええぇー?こんな細い道(注:たいした細さではありません)入っていくの?

No.208 19/06/14 20:08
旅人 

わからないとすぐに人に尋ねるというおばさんの得意技も、今回に関しては使えない。だって神社さんの名前の読み方、かなり特殊なのにもかかわらず、その読み方を忘れてしまったのだから( ;∀;)
ナビが案内を続けてくれる限り進もうではないか!みたいな、もうすでに小さな冒険状態であります。

ああ、幼稚園だ。
神社なんて見当たらない。
ん?幼稚園?┉そうだ!神社仏閣さん、幼稚園や保育園を経営なさるところが結構ありました!
もしかしたら、あるのかもしれない、【小祝神社】さん!
お!あった~!!(ノ・∀・)ノ


車がいっぱいです。なにかあるのでしょうか?
一台はかろうじてとめられそうです。 
 
境内に車をいれると、社務所に、正座して筆をふるわれる巫女さんが見えます。梅雨の晴れ間の暑い日です、あのいでたちで正座しているのはさぞ暑いだろうなぁ。などと考えながら車を降りました。


決して広いとは言えない境内であります。赤い拝殿が見えました。


No.209 19/06/15 21:38
旅人 

ようやくその、ヴェールを脱ぐときがやってきました。
【小祝神社】さんの読み方!【おぼりじんじゃ】さんでありました。 
もともとは、九二七年成立の【延喜式】神名帳での当時の読みは「オハフリ」と振られているようです。
「ハフリ」は神さまに人間の言葉を告げること、転じて神祗官の役職名となっているようでもあります。


参道脇には宮司さまのお宅と社務所があり、その反対側に車が六台くらいでしょうか、停められています。そこも車を置かせていただいてよいのでありましたが、あとで鳥居の前にも何台かの車を置くスペースがあったことに気づきました。
私はようやく見つけた神社さん、そしてその駐車場と思われるスペースに車を停めさせていだいていたのではありますが┉いつも思うのですが、鳥居の中まで車で乗り入れたり、参道を車で走行したり、鳥居に向けてバックで車を停めたり、なんともまあ罰当たりな気のする、現代の神社仏閣の参拝の実態であります。


小祝神社さんの参拝をさせていただきます。
手水舎は水が張られておらず、段ボールが鉢底を覆うように乗せられておりました。
手水舎のすぐ斜め裏手には神楽殿があり、鳥居から真正面、三~四十メートルくらいでしょうか┉のところに朱色に塗られた神々しく厳かな拝殿があります。大きな拝殿ではありませんが、神さまを敬い、大切に思って建てられたという、思いの伝わってくるようなしっかりとした造りであります。そしてその彫刻の凝った造りといったら!おじいさんが亀に乗っている彫刻がなんともリアルで、しかも彩色も美しく目を奪われます。ちょうど拝殿の真上に位置して飾られております。屋根の瓦の紋様もなにか不思議なものであります。
拝殿はなんとも神さまを身近に感じさせる、あたたかなものであります。

ただ、拝殿の真横に保育園の裏口が位置していて、保育士さんがなんともドキドキするような大きな声でなんともドキドキするような言葉、罵声が丸聴こえで、どうにも落ち着いて参拝ができなかったのが現実ではありました。

裏手にまわると、本殿の裏にそれは見事な彫刻にきれいに彩飾がほどこされています。その見事な彫刻にあまりそぐわない、平坦なそれでいて色彩の鮮やかな絵が描かれている側面に、多少違和感を抱きながらも、全体的になんだかワクワクするような可愛らしいという印象を受ける社殿であります。



No.210 19/06/15 21:54
旅人 

社務所では、巫女さんが正座され御朱印をお書きくださっています。実はこちらの御朱印をお書きくださる日は、月に何度からしいのですが、今日はたまたまその日にあたっているようです。何種類も御朱印がご用意されています。
【少彦名命】さまの御朱印がございます。
小祝神社さんのものと少彦名命さまのものをお願いいたしました。

ところでこちらの御朱印、【開運】【昇運】という御朱印があったのですが、その御朱印は一度ではひとつだけしかお受けできないということで、さんざん悩んで【開運】をお受けいたしました。聞けばこの御朱印、四連のものとなっているとか。
でも、こちらは、御朱印をすべて集めたいとかでなく、是非再拝させていただきたいと思わせる、やわらかな穏やかな気があふれた心地よい神社さんでありました。

待たせていただくあいだに、見るとはなしに貼り紙を見ていると、貸し腹帯の文字が!びっくりびっくり!
お忙しそうな巫女さんにお声がけするのもなんだか気が引けて、確認はできなかったのですが┉。
いつかまた再拝の折には、【貸し腹帯】確認したいものであります。





    令和元年六月十三日  参拝

No.211 19/06/16 11:19
旅人 

アマテラスオオミカミさま、スサノオノミコトさま、オオクニヌシノミコトさま┉日本の神話に登場する人物の御尊名を耳にされたことはあるでしょう。でも、古事記を実際に読んだことがある人は少ないと思います。え?そんなことはない?そうだったらすみません。

ただ、私が子どもの頃には本屋さんで、日本の神話の絵本や子供向けの神話の本がたくさん売られておりました。「いなばのしろうさぎ」のお話などもまさに神話であります。
ところが、私の子育て中になると、日本の神話の子ども向けの本などはほとんど見かけることがありませんでした。それどころか平成になる頃には日本の昔話の絵本もかなり少なくなっていたよう記憶しております。あの人気番組だった【まんが日本むかし話】も終了し、ディズニーが映画化した【シンデレラ】【ラプンツェル】【ピーターパン】などがあたかもディズニー作品のように誤解され、世に知られるものとなっているように感じるのは私だけ、でしょうか。


私のように神社さんに縁なく育ったような人間でも、特に子どもに本を買い与えるような親でなくても、学校の図書室なり学級文庫で、目にし、読む機会がありました。伝記や日本や世界の名作などももっと数多く出版されていたように思います。

私はどちらかといえば、本の好きな子どもでありました。
オオクニヌシノミコト=大黒さまと少彦名命さまが出会われたシーンを覚えており、少彦名命さまが主祭神としてお祀りされる神社さんに、おそらく初めてお詣りさせていただき、たいへんうれしく思いました。小さな小さな神さまが、大黒さまと国造りに歩かれるさまは、魔法のような、冒険のような胸弾む物語であったものです。
一寸法師のモデル?原型?になったという説もありますが、私のなかでの少彦名命さまは一寸法師とは全然異なる存在です。

小祝神社さんの広くない境内も、もしかしたら少彦名命さまには広いのかも知れませんが境内を走り、地を駆け、天を駆けてあちらこちらで困っている人を助けて歩いてくださるお姿を想像するだけで、心あたたまる、少彦名命さまにございます。

No.213 19/06/16 22:50
旅人 

群馬県高崎市の県立歴史博物館で、【大新田氏展】なるものが開催されていることは知っていたのですが、新田義貞公ゆかりの神社仏閣を実際に歩いて巡っておりましたので、もうそれでいいかなと思っておりました。
が、最終日の前日の昨日、外は雨。室内の展示だし。┉行ってみようかな。それにしても【大新田氏展】の【大】って一体なんなのだろう。

と、いうわけで、今回、神社仏閣珍道中、番外編、であります。



今年、2019年度に開館40周年を迎える歴史博物館の記念展として、新田氏を取り上げてみたとのことです。
群馬県民には、【上毛カルタ】というものを通じて老若男女、幅広い層からその名を知られる新田義貞公ですが、その全国区における歴史的評価は、天皇の忠臣から凡将まで、時代によって大きく変わるらしいのであります。
まあ、私などにいたっては新田義貞公について知っていたことは、上毛カルタの読み札にある文言、『 [れ] 歴史に名高い新田義貞 』程度という、小学生レベルでありますが。
この新田氏展では、新田一族に関わる〖甲冑〗・〖彫刻〗・〖古文書〗などの資料をとおして、南北朝動乱を駆け抜けた新田義貞とその一族の歴史に迫ります。とのこと。私のような者にはお勉強になり、大変有意義ですが。 ┉同行の歴史オタクの夫にはどうなのでありましょう。当然、いろいろ知っていることばかりでしょうし┉。なにせ、いつも歴史上の有名な人物が関与している社寺に行けば、何も見ずにしてそれはそれは分かりやすく歴史の流れから、複雑なその絡みまで語ってくれる人ですので。今回のこの新田展のテーマのひとつ「新田氏から岩松氏へ」も、理解力の大変悪い私が、おぼろげながら記憶の片隅に引っかかっているくらいに語ってくれています。

ま、いいか。またきっと、ポソポソ解説してくれて、それが夫婦の会話になりましょう。


え?入場料六百円~~っ?!!(゜ロ゜ノ)ノ
ちゃんとそれだけの価値のあるものであることを願いたい。
あ、おさいふに一万円札しかない。入場料を買う自販機は千円札しかお札は対応しておりませんでした┉「ごめん、出して」



さあ、大新田氏展の会場の扉を開けます。

No.214 19/06/17 05:33
旅人 

新田氏展の扉を開けるとすぐに、【新田義貞の像】が出迎えてくれます。┉ものを知らないにもほどがあるおばさんが率直に言えばチョコレート色(!)の、四十センチくらいの像です。
義貞公を象徴するといっても過言ではない、『両の手で大刀を額の高さまで掲げ持ち、祈る』姿の像であります。


さて、以前のスレでお話しさせていただいているのですが、私の小学校の修学旅行先は【鎌倉】でありました。まあ、出身校の異なる子どもたちの代になっても鎌倉であったので、この辺り┉かなりの広域にあたる群馬県の小学生は鎌倉に修学旅行にいく確率は高いようですが。
私の頃の小学校の修学旅行は、先生と旅行会社が相談して決めたコースを団体行動┉クラスごとにまわるといったもの。しおりの作成も先生がお作りくださったもので、今の自分たちで調べてオリエンテーリングで班行動するようなものとはかけ離れた、授業の一環で校外学習にでむく出向くといった内容のものでありました。
作られたしおりには鎌倉に関係した歌までが盛り込まれ、♪【真白き富士のね】♪【鎌倉】などがありました。そ、そしてその歌を、みんなでバスの中合唱できるように充分に練習してから、修学旅行にいくんですよね。
その【鎌倉】、八番まであるという歌なのですが、その栄えある一番は
〖七里ガ浜の磯づたい 稲村ガ崎 名将の つるぎ投ぜし古戦場〗
というもの。全員覚えるまで練習して練習して。意味すらわからないまま、歌だけが脳裡に残った状態で大人になりました。まあ、そんなヤツは私だけなのかも知れませんが。

閑話休題。その、名将こそが【新田義貞公】だったわけであります。が、それを知った┉気づいたのは、そんなに昔じゃないんです。
でも、いいわけをさせていただくと、その修学旅行のしおりには、新田義貞の名前は一回出てはくるのですが、年表の中にポツンと
『1333(元弘3) 新田義貞が鎌倉に攻め入り北条高時一族は自刃し、九代110年の北条氏が滅び鎌倉幕府も滅んだ』
と書かれているのみですし、稲村ガ崎には行っていないし。
その後もぼーっと生きてきた私なので、このしおりに書かれた文章を越えることない、知識しか身についていなかったのであります。
だって華々しく語られるのは、源頼朝公や実朝公だし、北条氏だし。後醍醐天皇だし、足利尊氏公だし。
太平記なんて読まなかったし。

No.215 19/06/17 18:45
旅人 

ちなみに、ですね、私、その小学校の修学旅行のしおり、まだ持っていたりするんです。まあ、ずっと手元にあったわけではなくて、最近実家から持ってきたのてありますが。
いやあ、先生方、本当に丁寧に作ってくださっております。
とはいえ、六年生を対象にしている文章とは到底思えず、どちらかというと大人になって懐かしく思って紐解いたとき、思い出とともに役立つ情報を得ることができる、、みたいな内容のものであります。
だって、大仏さまの滞在時間三十分ですし。五クラスがそれぞれ集合写真撮ったら時間切れでしょう?しかもかなりの雨だったし。
どおりであんまり記憶らしい記憶がないはずです。


と、いうわけで新田義貞公が稲村ガ崎で剣を投じたといったことは、六年生の修学旅行では歌を覚えただけだし、その後も歴史の授業では、よほど新田義貞が好きといった教師にかかわっていただかないと教えていただくことはないのじゃないかな?
一般教養?!!(゜ロ゜ノ)ノ
それがあれば、今こんなに苦労はしていないでしょうね┉。
(*T^T)

No.216 19/06/18 15:37
旅人 

群馬県民であります私ではありますが、本当に新田義貞公のことは現在勉強中。歴史博物館がこの企画展のために作成したその名も【大新田氏展】という、九百六十円の冊子を購入してまいりましたくらいです。
福井県で亡くなった義貞公は福井県にゆかりの神社仏閣もあり、鎌倉には北条氏の冥福を祈り、義貞公が建立した九品寺があります。
新田庄においては当然、ゆかりの社寺が数多くあり、あの、上毛カルタの〖は〗にあたる読み札も、義貞公ゆかりの女性、匂当内侍が関与していたようなのです。
内侍がこの地で義貞の菩提を弔ったという説があり、その地に数多く植えられていたつつじ(一説には義貞公が内侍のために植えた)を館林城主が移植したとされるつつじが今なお現存しているとのこと。樹齢八百年を超えるヤマツツジであります。
大変残念なことに、その『[は] 花山公園つつじの名所』と詠われる、花山公園に何度も行きながら、┉ちなみに昨年も二度ほど行きながらそのつつじを見たのか見ないのか┉大きなつつじを見た記憶はあるのですが、それが匂当内侍ゆかりのものであったかどうかわからないまま、公園をあとにしていたのでありました。
そもそも、その伝説を知ったのは、私が少しだけ新田氏について知ることが増えて訪れた、内侍のお墓を参拝したからで、その後、花山公園を訪れてはいないのであります。


福井県の、義貞公の亡骸を安置したとされる寺院から阿弥陀三尊像をお借りすることができ、遠く離れた群馬の地で拝することができました。
両脇侍であられる観世音菩薩さま、勢至菩薩さまはやや前傾姿勢をとられ、堂々とお立ちになられる阿弥陀如来さまにかしづくような印象がありました。
九品寺からは石仏さまがお越しくださいました。薬師如来さまの座像で、お優しい笑みを浮かべ、大変状態のよい、彫りも見事な仏さまであります。ただ、鎌倉時代の1296年の作でありますので、義貞公が建立する以前にすでに造られておられた石仏さまであります。

新田氏ゆかりの地における社寺では、総持寺、金龍寺、長楽寺、円福寺、金剛寺、青蓮寺、明王院、新田神社が、それぞれゆかりの品を出品してくださり、桐生市の青蓮寺からも御本尊の阿弥陀三尊像および新田家の位牌が出品いただいていました。
青蓮寺の阿弥陀三尊像は年に一度の御開帳でありますのに、思いかけず拝することができ大変うれしく思いました。

No.218 19/06/18 15:49
旅人 

ただ┉購入した【大新田氏展】(冊子)、これで本当に勉強するのは夫で┉、私は、写真撮影できないこの新田氏展でお会いさせていただきました御仏像の写真をみるにとどまりそうな気がしてなりません。


No.219 19/06/18 17:32
旅人 

本日、六月十八日は観世音菩薩さまの功徳日であります。この日に観音様にお詣りすると、四百日お詣りさせていただいたのと同じ功徳を受けられるというありがたい日。

さいわい今日は仕事が休みであります。
御本尊が聖観世音さまの、群馬県桐生市の【観音院】を参拝いたしました。御本堂をいつも開放してくださっておられるこちらのお寺は、私の癒しのお寺のひとつであります。

功徳日に参拝させていただいたあかしにと、御朱印をお願いいたしました。日限地蔵さまのお縁日の限定御朱印を希望して御朱印帳を預けていかれる方がほとんどのようで、副住職さまも「お預かりですか?」とお聞きになられます。
「今日は観音さまの日なので参拝させていただきましたので、聖観音さまの御朱印をお願いいたします。」と申し上げました。
「ああ、わかりました」なんだか嬉しそうにかすかに笑みを浮かべたように見えたのは私の気のせいなのかな。

なんだかいつも以上に待つ気がするのは暑さのせい?
朱印を捺しておられる音が聞こえます。受付の窓口近くで待たせていただくと、私の御朱印帳を手に副住職さまがあらわれました。
「観音さまの日なのでいつもと違う御朱印にしてみました。お待たせしてすみませんでした。」
┉なんとありがたいことでありましょう。
おそらくは私のためだけの、世界にたったひとつの限定御朱印であります。
なんとお書きになろうかと、私のために悩んで文言をお考えくださったのであります。

ありがたい。本当にありがたいことであります。

暑い日でありますのに暑さを感じることなく、観音院さんの境内は爽やかな風がそよぎ、心の洗濯をしていただきました心持ちでありました。そう、お日さまにあたってよく乾いた、ふわふわの気持ちのいい洗濯物のようであります。


この心持ちがいつまでも保てますように。



    令和元年六月十八日   参拝

No.220 19/06/21 22:35
旅人 

ニュースで、御朱印帳の盗難を報じていました。本当ににあり得ないことであります。

御朱印は、御守りや御札と同様に神聖なものであります。それだけでなく、そこには行った先々での思い出や、ひとつひとつの御朱印をいただく際に書き手の僧侶や宮司さまとの会話やお教えなどがこめられている、かけがえのないものであります。
他人さまの集めた御朱印、御朱印帳をいったいどんなつもりで盗んでいったのか。
その神社さんで、最後の一頁が埋まるという、まさに感慨もひとしお、という御朱印帳だったようです。
私も同じものを持っておりますが、日光東照宮の陽明門の平成の大修理完成の記念に発行された、いわば限定の御朱印帳であったようです。

番号札をなくしてしまったという申し出をし、それがまさか虚偽の申し出などと思うことなどない、人の好意も踏みにじっての犯行だったようです。
御朱印帳の盗難というニュースが、全国ネットで放送されるほど御朱印がブームだということでもあるのでしょう。
でも、本当に、他人さまが集めてまわった御朱印、御朱印帳になんの価値を見いだそうというのでしょうか。盗んだという時点で、御利益などは望めませんし、転売目的にしても、その御朱印帳を手にいれるまで、どちらをまわられてどんな御朱印を受けておられるものかなどは、わからないものです。高値の取引ができるかどうかなど、わからない。
ましてや、神社さんの社務所で、番号札云々のやり取りをしているときに、真の持ち主があらわれるかもしれないというのに。
四、五十代の連れのない一人の女性が犯人のようですが、大胆不敵というか、なんというか┉。

限定の御朱帳ではありますが、よく見かける=数多く出回っているものでありますので、もしすれ違った女性が同じものを手に持っているなと思うことがあったとしても、まさか自分のものだとは思わない。


情けない世の中であります。
御朱印がブームとなり、ネットで高値取引され、盗難事件まで起きる。それが奇異なことだから┉珍事件だから全国ネットのニュースにまで取り上げられたのであります。


どうか、犯人の女性が良心の呵責に耐えかねて、持ち主に戻してくれますように。



No.221 19/06/21 23:24
旅人 

飯盛山 白虎隊墓守の方が、ネットで御自身の嘆きを、怒りを再度発信されておられました。

狛犬の背にのる中学生を叱るどころか写真を撮る教師がいたそうで、注意をしたところ、不思議そうな顔をし、「えぇ?だめなんですか?」とニヤニヤしながら応え、さらに中学生に対して「怒られちゃったから降りて~っ」と言ったのだとか。
おそろしい時代になったものです。
白虎隊がどのようなものであったのか、そこがどんな地であったのかも知らない教師に、子供を引率などさせてはならないです。
歴史のみならず、文化財(本来文化財ではなく、そこに志を持って散っていった貴い命があり、それを鎮魂するために建てられたものでありますが、教育の場に宗教色を絡ませていけないというならと、あえて文化財、という表現をいたしました)に対しての接し方やら、人としての陳謝のしかた、そのなにもかも教えることができないような人間は、本来教師ではないです。

墓にのぼる子供を注意したところ、母親が「何がいけない?!私たちお客なんだけど!」と逆ギレしてくってかかってきたとかの記述もありました。
そこまで時代は変わってしまったのでしょうか?
お墓ですよ⁉  
ものの善し悪しのわからない子供が、仮にそんな行動をとったら、叱って理由を教えるのが親ですが、ね。
お墓がなんなのかわからないまま、親になったのでしょうか。



来ないでください!と書いておられます。 
当然のお気持ちだと思います。

┉ごくごく一部の方ではありましょうが、なんと情けなくて悲しいことでありましょう。

No.222 19/06/24 23:23
旅人 

埼玉県熊谷市妻沼の能護寺さんに参拝してまいりました。
東国花の寺の紫陽花のお寺さんであります。
小雨がぱらつく日ではありましたが、紫陽花には雨もお似合いかな?と、思い立ったが吉日とばかりに車を走らせました。あ、もちろん、夫が、です。( ´~`)ゞ
紫陽花の花真っ盛りの今、駐車場の誘導係が駐車場入口そばに立ち、雨の日でありますが、駐車場もほぼ満車であります。
山門のなか、真下で入場料の受付が設けられていました。
┉ま、しかたがない、とは思うのです、入場料をとるにはそこでそういうかたちで取るのが一番能率的ですから。ただ、その山門がなかなか趣のあるものなので、開け放った門扉の片側をふさいでテーブルを置いてしまうというのは非常に惜しいなぁと、思ったのであります。

山門をくぐると、境内に色とりどりの紫陽花が咲き乱れております。
紫陽花が見上げる鐘楼のしたのほうをデコレーションしています。
境内に80種類800株をこえる紫陽花が植えられているのだとか。本当にさまざまな種類、色の紫陽花が、おそらくいま、一番美しく満開のときをむかえているかと思われます。
大きな白い観音様が境内をみおろしておられます。そのお足元にも淡い赤紫と紫の紫陽花。
紫陽花に思わず目を奪われがちでありますが、まずは手や口を浄めて御本堂にお参りをいたしましょう。


なんと立派な手水鉢でしょう!おとな三人で両手をつないで周りをやっと取り囲めるほどの大きな大きな石をくりぬいた手水鉢であります。それがまた決して派手でなく趣あるものであります。竹を渡して柄杓を置くようにされているのも風情があります。


御本堂はその戸という戸を開け放ち、中を拝見できるようにしてくださっています。時期外れではありますが、かなりの数の吊るし雛が御本堂の中を飾っています。ご本尊さまがそれを愛でておられるような御本堂のなかであります。福島県の復興を支援するものなのだそうであります。
そして襖絵や天井画もまた、すばらしい。色こそ褪めてきてはいるものの、まだまだそのあでやかな頃を偲ぶことのできる人物であり、鳥であり、花であり。虎や蛇なども描かれています。


No.223 19/06/25 08:54
旅人 

能護寺さんは、もともとは利根川北岸の群馬県大泉町にあり、河川の氾濫などさまざまな理由から、何度か移転をくりかえし、いつの頃かは不明なようですが現在の地に移ったと伝えられています。

現在の御本堂は文化十一年(1814年)に再建されたもののようで、内陣に大日如来さま、外陣には阿弥陀如来さまが安置されています。
回廊などは最近直したものだということでありますが、それ以外は当時のまま。ジャッキアップなどをして、補強や床下などを修理したのみだということでありました。堂内の格天井には、花鳥図が色鮮やかに描かれています。
回廊に座って境内を眺めますと、御本堂の仏さまがご覧になられているのと同じ、さまざまな色の紫陽花に彩られた境内を同じ視線で見させていただくことができます。菩提樹の黄色い花が紫陽花の上に咲いているのも見てとれます。
境内にあります虚空蔵堂には、丑・寅生まれの守り本尊である【虚空蔵菩薩】さまが祀られ、お縁日であります十三日には、十三参りをする親子連れがおられるようです。ま一月、三月、六月のお縁日には御開扉され、虚空蔵菩薩さまに直接参拝できるということでありました。
梵鐘は乳の間に百字真言の梵字が鋳込まれているのが特徴であるとのこと、鐘楼堂自体は明治二十六年(1893年)に再建されたものだということです。大きく高さのある鐘楼堂であります。



境内にはしだれ桜の木などもありましたが圧倒的に紫陽花。特に鐘楼堂の周りは通るのに不自由するくらいの密度でさまざまな種類さまざまな色の紫陽花が植えられていました。お子さんなどは紫陽花に埋もれるという感じでしょうか。かくれんぼができそうなほどであります。御本堂の周りにもプランターなどの紫陽花が置かれております。


納経所でお受けしました御朱印は、【虚空蔵尊】と書されておりました。もともとは虚空蔵菩薩さまをご本尊さまとされていたお寺さんだったようです。参拝の方がお参りをしやすいように虚空蔵堂を造り、虚空蔵さまにお移りいただいたということでありました。

いつか御開扉のお縁日に参拝させていただきたいと思います。




     令和元年六月二十二日  参拝


No.224 19/06/25 19:27
旅人 

「埼玉県に東国花の寺の紫陽花寺があるんだけど┉あとなんだかその近くには国宝に指定されたお寺さんがあるみたい。埼玉県って遠いかなぁ?」
「いや、埼玉県って隣接しているから、場所によっては県内に行くよりも近いよ。どこら辺?」
「えっとねぇ。┉どこだろ」
「┉調べるよ」
┉すみません。だいたいがこんな感じの妻であります。
「川をわたってすぐだから近いよ。行こうか。」

そんな感じでスタートいたしました今回の珍道中。
感謝しなくてはバチがあたりますよね。


能護寺さんに続いて向かいましたのが、国宝であります聖天山さん。
能護寺さんでも何人かのスタッフさんから「お時間がありましたら聖天山さまにも是非お出かけください。」とお薦めをされました。

ところが雨がいよいよ本格的な降りとなり、どうしようかとほんの少しだけ迷ってはみたものの、やはり、最初からの計画どおりに参拝をしたいということで、埼玉の日光とも称される聖天山さんに向かいました。


No.225 19/06/27 06:15
旅人 

【妻沼聖天山】さん。
はて?お寺さんのようでありますが、通称ばかりで正式なお名前をなかなか耳にすることがありません。【聖天山歓喜院】さんが正式な名称なようです。
熊谷市にはいってお話する機会のあった方々が口を揃えて【聖天山】というより【聖天さま】に行くようお薦めをされます。もとより聖天山さんに詣るつもりでこの地を訪れております。
ナビが一つ駐車場を指定し案内をしているのですが、そこを目指す間にもいくつか駐車場をみかけます。いくつも駐車場を通り越していきます。
「もうさすがにここの駐車場でいいんじゃない?」
さらに先の駐車場を指示するナビを無視して車を停めましたところ┉山門さえみえません。少し┉かなり遠めの駐車場でありました。ナビは少しは運動するようにという、なにか意志でももっているのでしょうか。雨なんですけど(-""-;)

境内がみえてきたにはきたのですが、わきからはいりこむような道で参道は目の前を横にのびています。遠回りして門に向かいます。 

ガラガラに空いた駐車場が見えます。( ;-`д´-)
もぉーナビってば。

No.226 19/06/27 23:27
旅人 

総門が見えてまいりました。大変立派な、高さのある大きな門で【貴惣門】と呼ばれる門であるようです。右側に毘沙門天さま、左側に持国天さまの像があり、邪鬼を踏んだ像となっています。大きな御像で、背伸びしてやっとお顔を拝することができるくらいで、どちらかというと私の場合覗きこんだ際踏みつけられている邪鬼と目が合う感じであります。
さらに上にある施された彫刻の立派なことといったら!木そのものの風合いを生かした彩飾のない彫刻なのですが、だからこそより美しい彫り物でありました。
それにしても高さのわりには二階があるような造りではなく、立派な変わった形の屋根があり、それを支えるには奥行きが少ないような総門でありました。

総門をくぐると広い広場のような空間があります。まあ、あくまでも参道でありますが┉ん?やや大きな銅像が見えます。
これがやや変わった御像でありまして、右側に脱いだ兜を置かれて、右手に持った丸いものを遠手に覗き見、左手には何やら筆のようなものを持って、戦地で武将が座るような椅子に座った像、なのであります。【斎藤別当実盛公】という方のようです。
「┉知ってる人?」
聞いた私がバカだった┉。
嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、「斎藤実盛について語ると長くなるけどいいかな」
「┉じゃあいいや」
「斎藤実盛について語ってもいい?」
「┉」
「話せば長いんだけど、斎藤実盛といえば平家物語にも出てくる歴史上有名な人物なんだ」
┉いや、だから語らなくてもいいと申しているのだが。

No.227 19/06/28 22:49
旅人 

夫が延々と語り、私がいつものように右の耳から左の耳へ聞き流した、【斎藤別当実盛公】について。であります。
「長くなるけど」なので、長文であります、念のため。(^_^;)


【斎藤別当実盛公】
平安時代末期、源頼朝の父義朝とその弟である義賢は兄弟で仲が悪く争っていたが、義朝の長男の悪源太義平(長男でありながら嫡男ではなかった)が叔父の義賢を攻めて殺害してしまう。
義賢の息子=後の木曽義仲(駒王丸)はまだ幼く、義平は駒王丸も殺害しろと家来に命じたが、家来がこんな幼子を殺害するのはしのびないと秘かに斎藤別当実盛に頼み、実盛は木曽に住む中原兼遠にたくした。その後、保元・平治の乱で源氏義朝と義平は討死。頼朝は伊豆に流刑となる。斎藤実盛は平家の世となり平家にしたがっていた。
頼朝が伊豆で挙兵し、義仲が木曽(岐阜)で挙兵。平氏に反抗する勢力が力をましていき、義仲は北陸から京都に攻めこもうとし、迎え撃つ平氏と加賀国(石川県)で戦いとなった。
実盛は平氏の軍に従っていた。その時すでに高齢で白髪であったが実盛は若い者に侮られたくないと髪を黒く染めて戦っていたという。戦は平氏が総崩れとなったが実盛は一歩も引かずに戦った。しかし、源氏方の手塚太郎光盛と戦ってついには討ち取られてしまう。
一騎討ちの際名乗りをあげなかった相手の首を光盛が持ち帰ると、首実検で実盛を知る人がおり、髪が黒いのを不審に思いながら首を洗うと白髪であったため実盛だったことが分かった。義仲は命の恩人を知らぬこととはいえ、殺してしまったことを嘆き涙した。
実盛の最期は平家物語で詳しく語られている。

その、戦の前に髪を染める実盛の像が、惣門と中門の間の広場のような空間に建てられていた、というわけであります。



余談ながら手塚治虫は手塚太郎光盛の子孫であると話をしていたようであると、さらにつけ加えた夫であります。

No.228 19/06/29 00:37
旅人 

【妻沼聖天山】は【斎藤別当実盛公】がこちらの地を治めていた際、祖先伝来のご本尊聖天さまを治承三年(1179)にお祀りされたことにはじまるようです。
御本尊聖天さまは、正しくは大聖歓喜天と称せられるようであります。弘法大師が、唐より密教とともに仏法の守護神として請来された福運厄除の神さまであられます。
お寺でありますが、お祀りされておられますのが聖天さま、神さまであられることから、毘沙門天さま持国天さまの惣門、中門、さらには仁王門をくぐって正面にありますのは【御本殿】であります。
国宝【歓喜院聖天堂】であります。
当時の庶民や農民が永年わたって浄財を出し続け、四十四年かかって完成したもののようであります。

拝殿より奥となる、相の間と奥殿より先は入場料七百円志納しての拝観となります。一時間毎にボランティアのガイドの説明があるため、それに合わせて見学することも可能であります。

ガイドさんも受付の方も、それはそれは聖天山を誇りに思い愛していることが伝わる熱のこもったお話をなさいます。
それこそがこちらを開創した斎藤別当実盛公の志した〖庶民の心の拠り所、祈りの場〗としての役割がいまなお立派に引き継がれている、ということでありましょう。

平成二十三年に保存修理を終了した御本殿は、多少色が褪せてきたと受付や案内のボランティアのかたはおっしゃっておられましたが、いまなおたいそうきらびやかで、それは美しい彫り物であり、素晴らしい彩飾でありました。埼玉の日光を名乗るだけのことはあります。
彫刻はその名の高い群馬県の石原吟八郎、彩色は狩野派の絵師があたったということでありました。石原吟八郎の彫りは本当に緻密で見事なもので、いつどこでみてもため息がでるほどのものであります。
ボランティアの方は、ひとつひとつそれはていねいにご案内くださいます。ひとつひとつの絵のいわれについて、歴史について、お話しくださいます。
ボランティアの方のお話を聞いてからもう一周されると、さらにじっくり楽しんでみることができるかもしれません。

No.229 19/06/30 08:25
旅人 

上野國の延喜式内社をお詣りさせていただきたいということで、【倭文(しどり)神社】さんに参拝させていただきました。

相も変わらずナビに牽かれての珍道中であります。看板などは一切なく、住宅地の生活道路といった感の細い道を進み、さらには大きな公園が見えてまいります。上空にはセスナ?と思われるような大きな飛行機がかなりの低空を飛行中だったり。
うーん、と思った瞬間、突然右手に鳥居が現れました。よかったぁと思ったものの駐車場がありません。先ほど見えた公園の方まで行ってそちらにちょっと車を置かせていただいて、いざ、参拝へ。

先ほどの鳥居とは違う位置に赤い小さな神橋が見えます。
のどかな雰囲気で、川のせせらぎが聞こえます。境内に入ると社務所はありますが、みるからにどなたもおられる雰囲気ではありません。大きな木の向こうには神楽殿が見えます。
参拝させていただきます。┉ん?何やら小さな貼り紙がございます。
はやる気持ちを鎮めて、参拝させていただきます。
先ほどの貼り紙は?
御朱印をいただきたい場合は、との内容のもので、総代の方二名のお名前と電話番号が記載された案内であります。申し訳ないような気分ではありましたが、連絡させていただくと快く対応してくださいまして、十分ほどで来てくださるとのことでありました。かっこいい自転車に乗ってお越しくださった総代の方はそれはそれは丁寧にご対応くださり、社務所にあがらせてくださってお話も伺うことが出来ました。


こちらの御祭神は、【天羽槌雄命(あめのはづちのおのみこと)】さま。天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされ、文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物であるのだそうです。天羽槌雄神さまは「機織りの祖神」とされています。
また平絹を織る部民倭文(しどり)氏の遠祖でもあられ、織物の神、機織の神として信仰され、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきました。

創建は、垂仁(すいにん)天皇の御宇三年と伝えられているそうです。戦国時代の争乱にまきこまれ兵火などにより社殿は焼失、社家も離散し一時荒廃してしまいました。









No.230 19/06/30 08:42
旅人 

その後、徳川家康公の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、江戸時代前期の元和年間から寛永年間に入る頃、社殿も再建され、別当寺として、慈眼寺が定められました。
三代将軍徳川家光の慶安元年(1648年)に、御朱印地十石を賜わり、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至り、その後約八十年を経た享保十二年(1727年)、八代将軍徳川吉宗から社殿再建勧進の許可を得て 上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめたようであります。
しかし、この社殿は江戸時代末期の慶応二年(1866年)火災に会い、悉く灰燼に帰してしまったのだそうです。
現在の社殿はその後の明治十三年(1924年)に再建されたものであるのだとか。
御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となりました。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、近代社格制度において郷社に列せられたようです。
第二次大戦後、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っています。

とはいえ、こちらは大きな工場が招致され工場団地となり、住宅の減少にともない、子どもの数も激減。大きな公園もそばにあることから子どもの遊び場であった神社、子どもの楽しみの一大イベントでありましたお祭りは昔とはすっかり変わり果ててしまったと寂しそうに総代が話されておられました。



倭文神社には特殊神事である【田遊び】があるようです。これは毎年一月十四日に行われる田植えの予祝行事なのだとか。

祭員が笹竹を振りながらご神歌を唱え、鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行する。戻ると再び鳥居前に整列し、同様に三往復する。昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあった。この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるといわれた。ご神歌は中世まで遡り、県内に類例が無く大変貴重なものである。

寒くて大変だよ~と総代さん。「暗い夜道をなん往復もするし。まあ、よかったら来てみて下さい」
うーん、お言葉だけちょうだいしようかな。(^_^;)



       令和元年六月二十三日  参拝

No.231 19/06/30 09:12
旅人 


「カライ神社には行ったかね?」と総代の方。
「?」カライ神社?
辛品神社の聞き間違いかな?「ええ、以前」と答える私。
「これからお参りしようと思っているところです」と応える夫。は?カライ神社ってどこよ?私、聞いてないけど?これからお参りするの?
「そうかね。ナビはあるんかね?」「はい」
「ナビがあるなら大丈夫だ。ちょっと細い道を入ってく分かりづらいとこだから」
( 。゚Д゚。)
話が読めない上に、ウチの最新のディーラーお薦めのナビ、全然違うとこに案内することのあるじゃじゃ馬なんです~(;ω;)

「そうか┉」「ここを出て、右に曲がってまた少し行ったら右に曲がって」「駐車場はないんだけど、お隣の農家さんがいい方で停めちゃって全然平気だから。もし出てきてたら、カライさんにお参りに来ましたって言えば、ごくろうさまって言ってくれるよ」

えっ?( -`Д´-;A)


ナビに入力したうえで、総代さんの説明を胸に出発、です。


珍道中の予感、しかない( ´-`)

No.232 19/06/30 12:06
旅人 

「ねえねえ、カライ神社ってなに?これから行くの?聞いてないんだけど。辛科神社さんのことなの?」
「┉火雷神社さんのことだと思うよ。これから行く┉」
「えっ?なになに?ほんとはカライ神社さんって読むの?」
車に乗るやいなや、やつぎばやの質問。
「んーほのいかづち神社さんだと思ってたんだけど、カライ神社さんって読むのかなあ、わからない」
「ま、行けばわかるか」
┉行ければ、です。
早くもナビと総代の方のおっしゃる道が違っています。
「よく行くっておっしゃってたから、総代さんのおっしゃる通り行ってみるか」

違うやーん(;`∀´)


仕切り直して、火雷神社へ。

しかもおっしゃってた農家さんの空き地がわからない。
車が置けそうなところにチョイ置きして、地元の方にうかがうと、「平気、平気」と。
先ほど聞いてきた農家さんの方といい、この辺の方はおおらかなのでしょうか。入口もわからないため、わき道から入っていくと、すでに鳥居の中、境内であります。
そそくさと鳥居のある方に向かい、鳥居の外からあらためて参拝であります。鳥居の横にいかにも農家さんの空き地!があります。


ん?
えっ⁉ ええっ?
や、山羊~?
なんと山羊が好き放題に歩き、空き地に生えた草を食べています。あたりに人影はなく、山羊もたった一頭です。野良山羊?
野生かもしれないというのに、平気で近寄る私。
近づいても驚くようすもなく、ひたすら草を食み、少し移動してはまた草を食む山羊。
神社さんへの参拝は?

No.233 19/07/01 19:26
旅人 

野生の山羊がいるかいないかはとにかく、この山羊はどうやら長い長いリードにつながれて、隣のお宅から、空き地に生えた草を食べたり好きなように歩いたりしている、飼い山羊さんのようです。いつまでも、山羊とたわむれて過ごすわけにもいかない、というか、本来の目的、火雷神社さんへの参拝をしなくては!
参道にふたたび戻って、鳥居をくぐり、花の形の手水鉢で手や口を浄めました。合祀なされている菅原道真公の特に好んだといわれる梅の花を象ったもののようで江戸時代に造られたものであります。(ちなみに山羊を撫でたりはしていませんし、草を与えたりもしておりません)
二足くらいで渡れてしまうくらいの太鼓橋の上にまっすぐに枝を伸ばした松の枝がまるで門のようになっています。太鼓橋の左手には神楽殿があります。かわいらしい、動きのある阿吽の獅子像の間を抜けて参拝させていただきます。
赤を基調としたお社でありますが、どこかかわいらしい色調です。本殿には七福神さまを浮き彫りにした板をはめ込んでいるように思われます。合祀された神々のお社が本殿、拝殿脇にきれいに並んで安置されています。

┉なんということでしょう。( T∀T )
拝殿の貼り紙をあらためて読みますと、「御朱印を希望される方は参道を抜け、通りを渡って、○○さんへのお宅へ」というような内容の文言が!
ふたたび、鳥居をくぐり山羊を横目に参道を抜けて、御朱印をいただけるという○○さんのお宅へ向かいます。
○○さんのお宅はご在宅なのでしょうか?

ありがたいことにご在宅でありました。記帳をしてしばし玄関先でご記入いただくのを待たせていただきました。お書きくださった朱印帳と鈴の御守りを手にふたたびお姿をあらわした○○さん。
もうすぐお昼、お忙しいなかをありがとうございました。
カライ神社さんなのかホノイカズチ神社さんなのか、お聞きするのも申し訳ないような気がして、それについてはネットで調べようと思います。

なん往復すれば用が足りるのでしょう。もう、山羊を見る元気もありません。もう一度拝殿で参拝をして、火雷神社さんをあとにいたしました。


カライ神社さんなのかホノイカズチ神社さんなのか。
┉わからなかった、というご報告であることをお許しください。
自分でもびっくりであります。



    令和元年六月二十三日  参拝

No.234 19/07/02 01:42
旅人 

新田義貞公に関するお勉強は少しも進んでいないのだけれど、本日七月二日は義貞公の亡くなられたとされる日であります。実際には、死没 延元三年/建武五年閏七月二日で、1338年8月17日にあたるようでありますが。

もちろん、偶然なのではありますが、六月最後の土曜日、二十九日に、義貞公ゆかりの神社仏閣に参拝させていただきました。
鎌倉への挙兵で必勝祈願をされたとされる【生品神社】さん。それも称して生品神社巡り、といえるような生品神社さんを三か所と、新田義貞公の館跡とされる【照明寺】さん、別名【反町薬師】さんと【正法寺】さんに参拝をいたしました。
挙兵し必勝祈願したとされる群馬県太田市新田市野井町の生品神社さんと、反町薬師さん、正法寺さんは再拝となります。

太平記という大河ドラマの頃は大にぎわいだったという生品神社さんも、いま普段は無人の神社さんでさびしい思いをしておりますが、宮司さんにたまたま今回お会いすることができ、なんと宮司さん、十か所の神社を兼務なされておられるとか。
そういえば以前読んだ本によると、全国に八万社あるといわれる神社さんに対し神職は二万人、ということが書かれておりました。その本が書かれてからかなりの年月が経っており、その数はだいぶ変動していることかとは思いますが。


わが家の歴史オタクがことあるごとに語ってくれるので、義貞公の最後についてはかなり記憶されているかもしれません。
かいまふと気づいたのですが、普段なら休みの今日、仕事だったことを思いだし、今日はこの辺で。



      令和元年七月二日   合掌

No.235 19/07/03 19:53
旅人 


鎌倉幕府を倒し、【建武の新政】をうちたてた【後醍醐天皇】に反旗ををひるがえした【足利尊氏】は湊川(みなとがわ)に勝利して京都を制圧し、後醍醐天皇は比叡山へと逃れました。

しかし比叡山で籠城を続ける事が不可能と判断した後醍醐天皇は、皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王に皇位を譲り、自らは尊氏とかりそめの和睦します。
恒良親王と異母兄の尊良親王を新田義貞に託して北国へと落ち延びさせます。

敦賀に入り、越前金崎城(福井県敦賀市)で本拠を構える義貞でしたが、翌・延元二年・建武四年(1337年)三月、足利軍の猛攻を受けて、金崎城は陥落してしまいます。
この時、たまたま援軍要請のために杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)にいた義貞と、その弟【脇屋義助】(わきやよしすけ)は難を逃れましたが、留守を預かっていた義貞の長男【義顕】と尊良親王が自刃し、なんとか脱出した恒良親王も、ほどなく捕えられてしまいます。

金崎城の陥落後は、世は足利一色に傾いていきますが、義貞は杣山城に陣取って全軍を再編成し、再起をはかります。

それを受け尊氏は、越前国府(越前市)に攻撃軍を派遣、しばらく、両者のこう着状態が続きますが、延元三年(建武五年・1338年)二月に、ついに、義貞が国府を落とします。

義貞軍は、さらに支城を次々と攻略、たちまちのうちに越前の大半を制圧します。やがて五月に入り、義貞は、足利軍の総司令官である斯波高経(しばたかつね)の籠る足羽城(あすわじょう=福井市)の攻略に取りかかります。

越後(新潟県)に本拠を置く新田勢も越中(富山県)へと侵出し、高経ら足利軍を挟み撃ちの態勢、足羽城の陥落は時間の問題と思われていました。

延元三年(建武五年・1338年)閏七月二日、高経の呼びかけに応じ、足利方についていた平泉衆徒の立て籠る藤島城(福井市)を攻撃中、義貞は全軍の指揮をとりながら、状況などを視察し、一進一退を続ける現状に、苛立ちを感じはじめたのでしょう。
義貞は、藤島城の最前線の現状を確認すべく、わずかに50騎ほどの馬廻りの者を連れて、現地へと視察に出向きます。

しかし、その時、たまたま救援のために藤島城に向かっていた足利配下の300騎と遭遇してしまうのです。






No.236 19/07/03 20:22
旅人 

┉残念ながら、この時出陣ではなく視察であった義貞、その装備はいたって軽い物、弓隊どころか楯を持つ兵すらいなかったのです。
前面の歩兵は矢面に立ち義貞を守ろうとしますが、格好の標的となって、ただただ死んでいくだけ。
この状況に【中野藤内左衛門尉宗昌(なかのとうないさえもんのじょうむねまさ)】は、義貞に「大将たる者が小者を相手にしてはいけない」と退却を勧めます。

しかし、義貞は「士を失(しつ)して独(ひと)り免(まぬ)がるるは、我が意に非(あら)ず」と馬に鞭を当て、敵の中に突進していきます。

義貞の馬は、駿馬の誉れ高い名馬で、普段なら、二、三メートルの掘でも軽々と越えて行くのですが、すでにその体には五本の矢が突き刺さり、泥田に足を取られ、その身を横たえてしまいます。さらに運悪く、義貞の左足が馬の下敷きとなり、身動きが取れない状態でようやく上半身を起こそうとした、その瞬間、白羽の矢が義貞の眉間を貫いたのです。

急所に矢が刺さった事で、意識もうろうとする義貞、「もはや最期の時」と、抜いた刀を左手に持ち替えて、自らの首を掻き切ったのです。義貞三十八歳の夏でありました。

義貞の死を目の当たりにした者たちは、次々と切腹、わずかに残った者も射殺され、視察に出向いた隊は全滅します。

誰ともわからない武将を討ち取った足利方は、その身につけていた物から、「ただ者では無い」と感じつつ、高経の前へその首を献上します。その首を見た高経は、「義貞に似ているが・・・」
と、半信半疑であったものの、左眉の上にあった矢傷、持っていた太刀が源氏の宝刀鬼切と鬼丸であった事から、その首の主が義貞であることを知ります。最後の決め手となったのは、その懐深くに大事に大事にしまい込んでいたお守り袋に、義貞に宛てた後醍醐天皇の宸翰(しんかん=天皇自筆の手紙)が収められていた、ということでありました。


以上歴史オタク夫語ったことを思い出しつつ、確認をとりつつ、書き綴りました。


┉いま=now、さらに南北朝への時代の流れを語っております、夫であります。


No.237 19/07/04 08:35
旅人 

群馬県太田市【円福寺】さんに参拝いたしました。

円福寺は、新田荘の遺跡として国史跡に指定された内の一つともなっております。正式名を゙御室山金剛院円福寺と称し、【新田本宗家第四代新田政義公】が、京都御室の仁和寺から招いた僧侶を初代住職として開基した寺と伝えられています。義貞公のひいひいおじいさんにあたるようであります。
古くは大坊、大日坊、阿弥陀房、その他十二房を持つ大寺だったようですが、いまはそのような面影はありません。


実はこの政義公の代に、鎌倉幕府より預かった囚人を逃がしてしまったり、京都大番役のときに幕府の許可なく出家をしたりと次々と過ちを犯したため、幕府に所領を没収され、上野国由良郷別所の地(群馬県太田市別所町)に蟄居謹慎を申し渡されてしまいます。
このくらいのお咎めで済んだのは政義公の妻が足利氏の出で、朝廷のおぼえのめでたい足利氏のおかげであったのではという説もあるようです。
なお、円福寺は、この謹慎の頃に開かれたと考えられています。義貞公の代に至るまでの新田氏の苦難は、この政義公の幕府内での失脚より始まったようであります。


総門は重厚な造りで古いものと思われます。境内は広く、公園のようになっており、隣接する幼稚園の園庭とは門一つでつながっています。御本堂は見上げるほどに大きな建物で、どこか中国やインドの寺院を彷彿させるような比較的新しいものと思われます。
参拝に訪れる方、トレーニングに訪れた方、小さなお子さんとその子の自転車を手に訪れたおかあさん。参拝中にさまざまな方がさまざまな目的でひきりなしに訪れていました。
ですが、こちらはすでに無住のお寺さんとなっているようで、庫裏と思われます建物は引き戸に蜘蛛の巣が張っていました。

境内には【新田氏累代の墓】があり、囲いのなか、20基余りの層塔と五輪塔が群立しております。義貞公の祖父の基氏公の墓とされる層塔は特定されていますが、開山した政義公の墓はどちらになるのかわかりませんでした。

石段を登ると観音堂があり、鐘楼があります。正面にありますのが千手観音さまの大悲殿、左手に馬頭観音さまの観音堂がございます。
右手にはさらに石段を登り【十二所神社】さんがあります。
こちらは茶臼山古墳に隣接する神社であり、先日の大新田氏展にこちらの神像がお越しくださっておりました。


No.238 19/07/04 17:54
旅人 

歴史ある神社仏閣が、後を継ぐ方がおられず、無人になる┉これは仕方のない事なのかもしれません。後を継ぐ方が生まれなかったり、その家に生まれたというからといって、そういった資格をとり、修行をして後を継ぐことを選ばないという人生の選択をなさることもあります。
先日参列させていただいたご葬儀でも、お寺も存続しお墓もありながら、その菩提寺さんが現在僧籍をお持ちの方がおられないということで、埼玉県の同じ宗派のお寺の御住職が葬儀に駆けつけ、読経をし戒名をお付けになられていました。
そもそも、お墓も後を継ぐ者が絶えてしまうことが近年増加しているのではないかと思ったりいたします。

新しい発想、新しい形をとることとなっても、その歴史ある神社仏閣が、なんとか後世に残されていけますことを願ってやみません。

円福寺さんはいま何名かの世話人さんが管理され、御朱印は【正法寺】さんにお預けになっているようでした。

ほど近いところにあり、新田氏縁のお寺さん繋がりということで、快く引き受けてくださったようであります。
正法寺さんの御住職も学校の先生も兼務しておられると、御住職の御母様がおっしゃっていました。

午年にだけ御開帳される正法寺さんの【聖観音】さま。次の午年に参拝させていただけるといいな。
それから、四月十八日に御開帳される円福寺さんの【千手観音】さまにも、是非参拝できたら、と思います。


     令和元年六月二十九日  参拝

No.239 19/07/06 01:23
旅人 

生品神社巡り。
【生品神社】さんを三か所まわらせていただいたら、巡り、って言っても大げさではないですよね。
生品神社さんが三か所もあること、今年になって知りました。それもなんと、そのうちの一つの情報源は息子。桜のころ、車を走らせていたら目の端に桜の並木が見えたとかで、寄ってみたと言っていたように記憶しています。満開の桜の花と、茅の輪。素敵な写真を見せてくれました。
神社さんの名前をみて、違和感を感じたもののよもや生品神社さんが二つあるとは思わず、「へえ、生品神社さんに行ったんだ。こんなに桜があるんだね。茅の輪もあるんだ。いい時期にお参りできたね」
「私が行った頃は桜の時季じゃなかったから、もう少しさびしい感じだったかな。宮司さんもおられなくてまだ御朱印もお受けできていないんだ。宮司さんはおられた?」
「いや、宮司さんがいるような神社さんじゃなかったけど?」
「ねぇ、さびしいよね。新田義貞が挙兵して必勝祈願した神社さんなのにね」
「あぁ、そっちの生品神社さんじゃなくて薮塚なんだ」
「薮塚?新田の方じゃなくて薮塚なの?」

異常なほど道がわからず、地理オンチ、方向オンチな母親なのを悲しいほど思い知らされている息子は、後日車にカメラを固定して動画で道順がわかるようにしたうえで、道を教えてくれました。これで辿り着けなかったら救いようがないというくらい、至れり尽くせりの道案内であります。
おかげでナビなしで到着できました。というか、ナビを使って迷子になってしまった夫をしっかり道案内できた、が正しいのですが(^_^;)


群馬県太田市藪塚町の【生品神社】さん。
群馬県太田市市野井町の【生品神社】さん。
そして、さらには群馬県みどり市笠懸町にも【生品神社】さんがあることを偶然ネットで知り、今回の生品神社さん巡りとなった次第であります。

【藪塚町の生品神社】さんは、東武沿線の畑のなかに鎮座する、明るくきれいに整備された神社さんでありました。石の鳥居をくぐるとさらに六つの赤の奉納された鳥居が続きます。六つ目の拝殿に一番近い鳥居に茅の輪が設営されていました。
社務所はなくて、電話でやり取りし、お祓いや御祈願をお願いするようでありました。
お電話を差し上げたところ、御朱印はあるのだけれど御正月三が日のみお書きくださるのだとお教えくださいました。

No.240 19/07/07 07:32
旅人 

藪塚町の生品神社さんの境内に、本殿への参道とは別に、鳥居の扁額に「しあわせ」と書かれている赤い鳥居がめにつきます。鳥居の左の石碑には「人生路 山あり谷あり平地あり」と刻まれています。
石段も設けられていますが、狭くて少し歩きづらいです。石段の両脇には、御仏像さまや、招き猫やら思いつく限り縁起物と思われます置物が置いてあります。
石段を上って下りると、しあわせと刻まれた大きな石碑が祀られていて、大黒さまと┉少彦名命さまなのかなぁ、仲よく肩を組んでおられる小さな像と、恵比寿さまの同じくらいの大きさの像とが石碑の前にお祀りされていました。なんだかちょっとしあわせ気分をいただけました。世話人さんたちが建てたものになるのでしょうね。
群馬県桐生市の白滝姫さまの【白滝神社】さんの分社となるのでしょうか、白滝稲荷神社さんもお祀りされていました。
本殿裏、脇に並ぶ末社群。

町指定文化財生品神社敷石住居跡という、石器時代の遺跡もある、神社さん。水路がすぐそばにあるため、水のせせらぎを聞きながら参拝させていただき、おだやかな気持ちになることができました。



      令和元年六月    参拝

No.241 19/07/07 08:08
旅人 

群馬県みどり市笠懸町に鎮座する【生品神社】さんは、大通りから少し入った住宅街にありました。大通りから見える位置でもなく、何度となく近くを通りながら気づくことなく通りすぎておりました。まあ、もっとも、私自身が神社さんにご縁のないような生活をしてきていたので(^_^;)

由来を読んでも新田義貞公が旗揚げの際に立ち寄ったとかではなさそうで、笠懸野の北に位置するこちらは新田氏の地でもなかったようではあります。新田義貞を慕う後生の方がこちらにお祀りなさったのかな。


実はこちらの神社さん、「ゆるキャラ」マスコットキャラクターがいるようです。境内で遊ぶ子どもたちの“守り神”として、地元の住民団体「生品の森クラブ」が生み出したものとのこと。

境内に手づくりの、とはいえ大がかりな本格的なアスレチック遊具が設置され、バスケットゴールなども設置されていました。ゆるキャラは、境内にあったクスノキの大木を彫って制作されたそうで、身長120センチの男の子、という設定であるようです。神社のご神木であるカシのドングリを擬人化。おなかには新田氏の家紋「一つ引」をデザインし、頭にある木の芽は「すべての願いに芽が出るように」との思いを込めた。右手で握手して頭をなでると願いがかなう、という文言が書かれたものも添えられていました。
同神社本殿の横にある子育て杓子(しゃくし)稲荷の前に置かれ、境内を見渡しています。

夫が握手し頭を撫でておりましたのが、こちらの神社さんで一番印象に残っております。┉『願い』にはもうすでに芽が出てるんじゃないかな?と、思った矢先のことでありました。( ;´艸)
そう、夫は純真なのであります。はい。



        令和元年六月   参拝

No.243 19/07/07 11:16
旅人 

群馬県桐生市の【宝徳寺】さんが、風鈴まつりと、逆さもみじのイベントをされているようです。

息子の見せてくれました写真で、色とりどりのガラスの風鈴がそれはそれはたくさん吊るされていました。爽やかな風の吹き抜ける境内です。風鈴の音もさぞや鳴り響き、涼しさをよぶことでしょう。
ホームページもあるようです。関心を持たれた方は確認してお出掛けください。

夜とか、悪天候のときとか、どうされておられるのだろう?と、思ったくらいのたくさんの風鈴でありました。お近くには民家はなくて、山の上に建つお寺さんでありますので、近隣への騒音は心配はないのですが、御住職さまたちはお休み二なれるのかなと。私は写真で見ただけなのであくまで、想像するだけでありますが。
悪天候のときは┉ガラスの風鈴だからなぁ (;´・ω・`)



No.244 19/07/07 17:03
旅人 

子どもが幼い頃、よく行った遊園地。
寺社を珍道中し始めてからも、その名に『寺』がつくことになんの違和感も感じることなく、その目印ともなるほど大きな観覧車のそばを通っても通っても、遊園地、もしくは公園としか思っていなかった、群馬県伊勢崎市にある【華蔵寺(公園)】。
たぶん、群馬県民のかなりの人が、【華蔵寺】イコール遊園地、【華蔵寺公園】を指すと思われます。
ふとした拍子に、まるで老朽化してほとんどつながることのない回線が突然つながったかのように(┉もしかして、華蔵寺というお寺さんがあっての、華蔵寺公園?)
Google先生に教えを請うと、!!!。
ある! やっぱりある!

時はあのまさに暇をもて余した超大型連休のゴールデンウイーク。
入場料のかからない、安価で、しかもそれなりに大きくなった子どもも、小さな子どもも、大人も楽しめる、恋人同士もたぶん楽しめる華蔵寺公園そばにそんな大型連休中に近寄るような無謀な真似はいたしません。
ところが御朱印仲間の八十も近い男性が、遊びにきたお孫さんを連れて華蔵寺公園に行ったのだそうな。
「ねぇねぇ○○さん、華蔵寺公園のどこかにお寺さんがありました?」
「ねえよ、そんなもん。ありゃぁ公園の名前なだけだ。」
「それがねえ、調べたらあるらしいんだけど、○○さんなら場所がわかるかと思ったんだけど知らないかぁ。」
「ふん、なんかどっかと間違えたんじゃねえか?そんなもん聞いたこともねえぞ」
「ええーっ、ちゃんと調べたもん!」
┉すみません、なれなれしいやつなので、目上の方にそんな口をきいております。

なかなか○○さんに立証できないまま時だけは過ぎ┉。


昨日、ちょこちょこあった母親の野暮用も落ちついて、ようやく『いざ、華蔵寺(寺院)』ということになった次第であります。


┉それが、ですね。やっぱり最新式と言われて付けたはずのデイーラーお薦めのナビ、伊勢崎市の華蔵寺は、やれ、【第二駐車場】だの【華蔵寺公園売店】だの、事細かに【華蔵寺公園】の案内はしてくれるのですが、【華蔵寺】は拾わない!
私の携帯型のナビを連れてきてよかった。ちゃんと案内してくれました。

えっ⁉駐車場がない?

No.245 19/07/07 23:34
旅人 

お寺さんは目の前にあるのに、駐車場が見あたらない。
仕方がないのですぐそばの華蔵寺公園の駐車場へ┉やはり満車、ですよね。休日の、梅雨の晴れ間の天下の華蔵寺公園の駐車場ですものね。
┉えっ⁉なに?なに?!
この大きな鳥居はいったい?!お寺さんだけでなく神社さんまであるというのか。
さらなる駐車場への移動。お寺さんが┉鳥居が┉(;ω;)


駐車場に到着と同時に車外へ飛び出す私。おお、鳥居との再会!
鳥居の先には神橋、なのだろうな、小さなコンクリート製の橋が架かり、三百メートルくらい先にはそれなりに長い石段がみえます。石段は逃げも隠れもしないのに、走っちゃうんですよねえ、私。
お、二の鳥居です。これは大きな神社さんでしょうね。ぼん!
目の前に現れたのはなんと銅像!それも近代的なあの偉人さんとかの銅像です。ん?┉おお、さらに階段があるじゃないですか。
銅像さんのうしろの小高い丘を登るように階段らしきものがみえます。そうかぁ、丘の上に鎮座されているんだぁ。
ん?ん?展望台?え?
いやいやこれはあの長い長い滑り台でしょ?!
えっ⁉ええっ?
神社さん、逃げも隠れもしちゃいました?

動揺して、子ども連れの外人さんに「神社はないですかね」とか聞いてしまった。片言の日本語で、「ええっと、神社?ええっと、あっちに、神社?」と、一生懸命答えてくださるイケメンパパさん。「ありがとうございます。あっちにお寺があるんですね」
「はい、そうです。」

神社さんの謎は解けないのですが、ないものはない。当初の目的の【華蔵寺】さんをめざします。神社(?)からはぐるっとひとまわりしないと華蔵寺さんには着かないようです。ファイトo(`・д・´)o

ぐるっと一周して、華蔵寺さんの境内に到着いたしました。
勅使門があります。
境内はさほど広くはありませんが、爽やかな風の吹く心地よい境内であります。いつものように一度門のそとへ出て、門をくぐって参拝を。お墓の上にあの華蔵寺公園のシンボルの観覧車が見えます。ようやく公園との位置関係がわかりました。なるほど、観覧車は公園の端に設置されていました。観覧車の向う側がお寺さんだったんだ。


No.246 19/07/08 20:52
旅人 

華蔵寺(寺院)。開山は872年、御本尊は運慶作と伝えられる釈迦三尊像。大きな大きなお寺であったようですが、一時期┉三百年ほど荒廃してしまっていたようです。
平安時代にはいってから、太田市の世良田長楽寺さんの僧を頼って修復してなんとか旧観に復したと言われているようです。
江戸時代、天保五年(1834)に焼失してしまったものの、同八年には再建され、それが現在の本堂だということです。

第二次大戦戦後、住むところ、土地を失った者に土地を与えて、広大だった境内は今の決して広くはないものとなったということでありました。
お寺の女性に、あの大きな鳥居はどういったものなのかとお聞きしましたところ、明治時代まではお社があったのだそうです。


毎月十七、十八日には聖観音さまのお縁日とし、二十八日にはお不動さまのお縁日ということで護摩祈願をおこなっているということでした。
お歳を召された御住職の御朱印はそれはそれは見事な御手でありました。

桜やつつじ、萩や金木犀が四季折々境内を彩るようであります。
そんな花の頃のお縁日に再拝できたらいいな。



     令和元年七月六日   参拝

No.247 19/07/09 08:48
旅人 

群馬県伊勢崎市に【退魔寺】という、なんとも私の好奇心をくすぐるお寺さんがあって、ずっとずっと参拝させていただきたいと思っておりました。


創立は、室町時代初期の応安四年(1371年)茂呂城主が深く信仰し、念持仏の伝法大師作の「不動明王」を本尊として、城内の一角にあった光円坊を改め香華院とし、足利小俣の鶏足寺より道照上人を開山上人として迎えて開創されたことが、当山の始まりと伝えられているようです。

寺号【退魔寺】の由来は、安土桃山時代の天正十八年(1590年)の頃、豊臣秀吉公の命により小田原城攻略に参戦すべく、石田三成公が当地を通り、この近くに架けられた【土橋】に夜な夜な妖怪が出没すると聞き、兵を遣わしてその妖怪を退治したということであります。
この土地の民はおおいに喜び、感謝して、石田三成公を讃え後世にこの事実を伝えようと【寺紋】を石田三成公の家紋である三階松、【寺号】を【退魔寺】とし広瀬川に掛かる橋を光円橋と名付け今日に至るのだそう。
その後、江戸時代初期の寛文三年(1663年)に火災のため堂宇すべてを焼失してしまいますが、寛文十年(1670年)本堂を再建、その際胎蔵界大日如来を祀ったということであります。さらには延宝五年(1677年)不動堂を再建、合わせて観音堂を建立したということであります。
江戸時代末期の寛政四年(1792年)本堂改築のおり、内陣・外陣の天井に檀徒の狩野派鈴木春山宣得による天井絵を施し、この本堂をはじめ伽藍の数々が現在まで引き継がれているということ。



┉ワクワクします。

かつて妖怪が出たというところ。どんなところかなぁ。
まあ、私が知らないだけで、いたるところに妖怪伝説はあるのかもしれないし。案外自分の住むところにだってかつて妖怪が出たというところなのかもしれなかったりするけど。
退魔寺付近には石田三成公の妖怪退治の跡とか残っているのかなぁ?
ずっとワクワクしていた【退魔寺】さんに、いよいよ参拝の機会がおとずれました。
一人ででも行けたと思われるのですが、そこはほら、例のあの歴史オタク氏がまたすぐに「俺も行きたい」って一週間も経たないうちに再拝することがほとんど、ですので(^_^;)


No.248 19/07/09 22:55
旅人 

妖怪退治伝説にワクワクし、いろいろな妄想して訪ねました【退魔寺】さん。
門の前には私好みの仁王さまがお立ちになられておられました。

門をくぐると正面には聖観音堂と不動堂が建てられていました。御本堂は聖観音堂とL字に┉門からはいった真横、右手に建てられております。あまり広くはない境内に、ちょっと身を小さくして建っているような印象を受ける、御本堂であります。
あとで気づくのですが、真横(西)に川が流れており、その岸を┉堤をまるで護るかのように御本堂が建っているようです。
門の正面に建つふたつのお堂は川を背に建っています。
のちほどいただく【略縁起】に付して書かれていることによると、この隣を流れる川は、その昔『古利根の七里の片土手』と言われていたそうです。今でこそ護岸工事がなされていますが、護岸工事の施される前、危険な箇所に十三仏を配置したと言われているようで、その最初こそがどうやら退魔寺の不動明王だったようです。
なるほど┉。私の推理はあたっていたようです。σ(`・・´)

しかし。

妖怪退治の跡とかもなく、妖怪の遺したなんとかとかもなく┉。石田三成公の何かとかもどうやら残ってはいないようであります。
勝手に妄想して抱いてきた期待はもののみごとに打ち砕かれたのでした。
考えてみればお寺の参拝にまいりますのに、あまりに幼稚で愚かな考えでありました。反省。

No.249 19/07/10 00:31
旅人 

前に書いた寺紋に間違いがありましたのでお詫びして訂正させていただきます。
退魔寺さんの御本堂には、大きく○が二つクロスしている寺紋の布が張られておりました。これは真言宗豊山派の紋のようです。

そもそもが石田三成公の家紋、以前、我が家の歴史オタクに聞いたことがあったのでした(^_^;)
【大一大万大吉】。読み方は、「だいいち、だいまん、だいきち」になるようですが、とても変わったものだったんだ!
しかも、それはあくまでも旗紋で、家紋はいくつかあったようだけどとかなんとか。
そこで歴史オタクに隠れてコソコソGoogle先生にお聞きしましたところ、三階松という説はほぼなくて下がり藤とか九曜紋とかがほとんどでありました。あぁ、そういえば下がり藤、歴オタさんが語っていたような気がするなぁ。

少なくとも、寺紋は石田三成公の家紋ではないようです。
間違いの発信をしてしまい、申し訳ありませんでした。


嫁ぎ先の家紋もわからないようなやつなので、お許しください。
そういえば、実家のは?丸に橘だった?ええっと、なんだったっけ?
関心のないことは頭に残らない、入らない年頃であります。
(≡人≡;)

No.250 19/07/10 22:56
旅人 

浅草に行こうかな (人*´∀`)❤
だって、今日七月十日は、観世音菩薩さまの「功徳日」のなかでもこの日にお参りすれば、四万六千日分の功徳があるとされる日ですもの。いくら方向音痴でも、電車一本です。行ける、行ける!(たぶん)
あの有名な【浅草のほおずき市】も【四万六千日】に由来しているもの、だったし。

それとも去年と同じところに参拝させていただこうかなぁ。やっぱりいつもお会いできる、いつも見守ってくださってる観音さまの方が、よいのかもしれない。



そんなことを昨日からずっとつらつらと考えておりました、今日、七月十日。有給休暇をいただいています。

No.251 19/07/11 17:59
旅人 

観世音菩薩さまの御縁日は毎月18日があてられていますが、室町時代末期頃に、【功徳日】といわれる縁日が設けられるようになったのだそうです。
功徳日とは、〖その日に参拝すると、百日分、千日分などの功徳が得られるという特別な日〗であります。
寺社によって旧暦を使うか、新暦でいくかで功徳日が異なるようではありますが、このうち【七月十日】近辺、もしくは【八月十日】近辺は、その日に観音さまを参拝すると、実になんと!四万六千日分の功徳があるとされ、特に「四万六千日(しまんろくせんにち)」と呼ばれています。
46,000日はおよそ百二十六年に相当し、人の寿命をすら超えており、【一生分の功徳が得られる縁日】ということであります。
ちなみに私、昨年も偶然休みだったため、七月十日の四万六千日の功徳日に、観音さまをお参りさせていただいております。齢(よわい)二百五十二歳! ┉立派に妖怪であります。
 ┉欲をかくと妖怪になるとかいう続きがあったりはしないでしょうか?(;´・ω・`)

┉功徳日だからと山ほどのお願いごととかするわけでもなく、ただただ功徳日という区切りに日頃の感謝をするため参拝をする、ということなのでしょうね。┉信心深い方々は功徳を得られるから参拝する、ということはないのです(^-^;

それでも┉神社仏閣に縁のない人生を送ってきた私には、「今からでも充分まにあうよ」と言っていただいているようで、ありがたく感じます。

No.252 19/07/12 05:11
旅人 

┉と、いうわけで。

四万六千日に私が参拝させていただきましたのは、先月の功徳日に参拝させていただきました群馬県桐生市の【観音院】さん。
そして、去年に引き続きまして四万六千日に御開帳をなさる栃木県足利市の【瑞泉院】さん。であります。


【観音院】さんではいま、まっさらの透明の風鈴が用意されていて、志納金八百円でその風鈴をお受けして、ご用意いただいているペンで絵を書いて、境内に飾るといった催しをひそかになさっておられました。
一瞬心が動いたものの、絵心のない私は、心の準備がないと絵を描くことができず、いくつか飾られていた風鈴の音色に癒されてまいりました。御本堂で持参した塗香で身を清めてから、御本尊さまの聖観音さまに参拝させていただきました。
御本堂を開放してくださっているため、こころゆくまで御仏の御前にいられるという贅沢な空間であります。特に仏教徒でない私のような者でも正座しているだけで心が落ち着く、ありがたいお寺さんなのであります。
【季節の風雅御朱印】は御朱印帳をお預けすると二十四日のお地蔵さまのお縁日に参拝できなくてもお受けできるようになったのですが、参拝の証である御朱印、なので、その美しい御朱印には心ひかれるものの、私はお縁日に参拝して当日お書きいただくと決めています。
今日も【一生観音】と、お書きくださいました。


【瑞泉院】さんは昨年から初めて四万六千日に御開帳を始められたお寺さんです。その日に導かれるように瑞泉院さんのHPを開き、参拝させていただいた、なにかご縁を感じるように勝手に思っておりますお寺さんなのであります。足利市にありながら新田義貞公の開いたとされるお寺さんで、真新しいものではありますが境内には義貞公の墓所もあります。
こちらの御住職は新田の姓でありますが、ご子孫というわけではなさそうです。
禅の心を取り入れなさり、お茶のご用意をくださっています。
御開帳日限定の御朱印をお書きくださる日でもありますので、御朱印を求めての方も何人かお越しになられていました。御朱印で有名なのか、御朱印をお書きくださる日が月に何日かきめられており、オリジナルのこちらの御朱印帳もご用意されています。
御住職が、毎年秋に開催される足利市文化財一斉公開日を教えてくださいました。


No.253 19/07/12 20:28
旅人 

少し前に、【喫茶去(きっさこ)】という禅語を知りました。
「お茶を一杯いかがですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」というような、ほっとさせられる言葉。さらには、気の会わない相手にもお茶を出すことができるような心のゆとりを持って生きる、というような素敵な、含みのある言葉だなぁと心に残りましたものです。

瑞泉院さんでは、それはたくさんのお湯のみ茶碗と茶托をご用意くださり、さらにはその用意くださったお茶も、温かい緑茶のための急須と、冷たい麦茶の入ったポットがご用意されておりました。
いまはエコを心がけることが推奨されております時代ではありますが、このお茶のご用意は結構大変なことだと思うのであります。
【もてなす】という思い、大切な客人としての扱いをしてくださっているお心を感じるものであります。

さりげないおもてなしで、私にはっとするような学びをあたえてくださいました。


お茶をご用意いただくだけでもありがたいことであります。温かいものと冷たいものと用意する配慮。きちんとしたおもてなしであるという気持ちを表す湯飲み茶碗と茶托をご用意くださっていること。
そこにあるあたたかなお気持ち。かたずけが面倒だなどと思わない、生き方等々。


ありがたい、お寺での学びでありました。

No.254 19/07/13 05:13
旅人 

栃木県足利市になぜ新田義貞がお寺を建てたのか。
足利市といえば足利氏の地。
まあ、もとをたどれば同じ源氏の流れを汲むもののようですし、私のように歴史に詳しくないような人間にとっては、「ふーん、それならそういうこともあるか」とか単純に思っちゃったりするのですけど┉。
もとが同じだからこそ生じる、人のさまざまな感情やらは当然あるだろうし、すぐに戦っちゃう時代だったし。なにより領土を巡っての争いこそが戦いの原因というか理由だったりすることが大半。
私ほど簡単に単純には、足利市に義貞公が建立したお寺があるということを考えられはしないのかもしれません。
お寺の御住職も、調べてみてもわからなかったとおっしゃっていました。

このたび、新しい御代となったこともあってか、足利市と新田の郷が寄り添うことを考えたようで、毎年秋に行われる足利市の文化財一斉公開でのサブテーマみたいになりそうなことを御住職がチラッとおっしゃっておられました。
一度参加させていただいたことがあり、大がかりで楽しく、また普段ではみることのできないお寺さんの御本堂にも入らせていただくことのできるありがたいイベントであります。
今年はどうかな?
参加できたらいいな(ーー;)


        令和元年七月十日

No.255 19/07/13 05:48
旅人 

六月にお参りさせていただいた【大岩毘沙門天】の本坊にあたります、【最勝寺】さんに参拝させていただきました。土日には法要がない限り【毘沙門天】の方にお出向きになられておられるとうかがいましたので、平日に是非最勝寺さんに参拝させていただこうと思っておりましたものですから。
最勝寺さんの御住職は、人をひきつける方であります。

ナビを使っての移動、にもかかわらず見事に迷子になりました。(*T^T)
ナビが示す辺りにお寺に入っていくような道を見つけられないまま、毘沙門天のはるか下にある広い駐車場まで行ってしまいました。毘沙門天の長い長い参道の始まりの地点であります。
最勝寺さんにお電話をさしあげ道に迷ったことを素直に申し上げました。┉御住職のお声です。
「どこにいるの?ああ、じゃあ迎えに行ってあげるからそこで待っておられなさい。軽トラで行くから、少し待てば行けるから」
┉さきの毘沙門天の御開帳の日に、足が少し御不自由とおっしゃっておられました。御住職にそこまでしていただけるほどの人間ではありません。(*T^T)
「御住職にそこまでしていただかなくても、なにか目印とかをお教えいただければなんとかうかがいますので」
┉そんなやり取りのあと、戻った道筋、ありました。見事にナビが示していた場所に!はああぁ、ナビが教えてくれてさえ迷子になるおばさんって┉(-`Д´-;A)


え?この道を登るの?(ーー;)
うーん、毘沙門天の本坊にあたるお寺さんだからなぁ。この先、どうなっているか不安だぞ。どうしよう。ぁ、この先に広い空き地があった!よーしあそこに停めてそこから歩こう。

No.256 19/07/13 22:35
旅人 

最勝寺さんの道は思ったより広く傾斜もなだらかでした。
坂の途中は趣のある季節の花が、まるで散りばめられているように咲いています。山寺というのとも違う、自然を愛して山に住まわれている方のお住まい、といった風情の庫裏であります。
お寺は、低めの二階┉といった高さのある、まるで木の香りがしそうな、白木造り!の御本堂であります。

参拝を済ませて庫里に向かい、御住職さまにお詫びを申し上げました。「わかりづらくてすみませんね」と笑顔をむける御住職さま。
「御本堂はどうされますか?」「今、参拝させていただいてきました。」「ご不動さまにおあいになりますか?」
┉ありがとうございます。 ((´д`、)
和尚さんは鍵を持ち、先を歩いて御本堂へと向かいました。庫裏のそばには桔梗。その他にもさまざまな花がさいています。
足下にホタルブクロの花が揺れています。
先ほど一度外から拝ませていただいた御本堂への階段を登りました。
階段下には鯉の泳ぐ池があります。それを目で追ういとまもなく、和尚さんの「どうぞお入りください」というお声が聞こえます。
中はまだ電気もつけていないけれど、思ったより明るい外陣であります。本堂があまり広くない分、お不動さまが身近に拝することができます。大きな迫力あるお不動さまであります。
お不動さまの正面、本堂の扉付近には立って参拝できるように几が置かれ、香炉と、蝋燭の炎が揺らがないようにカバーのついた蝋燭立て、そして信徒のための経本が何冊も山となって置かれておりました。
内陣の蝋燭に灯をともし、やがてその香炉の香に火をつけて、几の上の蝋燭にも灯をともされました。
「般若心経はお唱えになれますか?」
「┉いえ。」正直に答えました。「そうですか。ではその経本に書いてあるとおり一緒に唱えてみましょう。雨音を┉雨垂れの音をイメージしてください。」
「┉せっかくだから、最初から全部唱えてみましょうか」
ええっ?ええー?!

経本丸ごと、ということであります。
和尚さまぁ!それは結構ハードルが高い!!

No.257 19/07/14 07:04
旅人 

仏教徒ではない私。
しかも無信心の家に育ち、無信心に近い家に嫁ぎました者でございます。家で御経を唱える者などない、イコール唱える機会もほとんどなく、家では聞く機会もなかったような生き方の人間でございます。
般若心経は何度か┉やはりお寺さんのご厚意で特別な法要、儀式や、あるいは仏像見学会などで唱える機会もありました。でも文字を追うのがやっとで、時々間違え、そうしたきっかけでつまずき、まともにお唱えできたことなどありません。
それが今回はみたこともない御経や御真言満載の経本丸ごとです。
ひええぇー!
┉頑張る。


┉頑張ってみましたが┉やはり撃沈。
一度でもつまずこうものなら全然ついていけなくなって、どこを唱えておられるのかを探して、部分部分をとばしての読経に終わりました。ごめんなさい、御本尊のお不動さまをはじめとした御仏さま。
┉和尚さん、お気づきになられたよなあ( T∀T)
読経を終え和尚さんはおっしゃっいました。
「土地を護るために十三仏さまにお護りいただけるようお祀りするのんだけど、始まりはお不動さま。修行など山などに入るときは必ずお不動さまをお参りします。そういったことでこちらではお不動さまをお祀りしております。」


最勝寺さんの御朱印をお受けしてお寺をあとにする頃、和尚さんのお飼いになられている猫たちが、「誰が和尚さんのとこに来たんだぁ?」と見に来たように、庫裏の方を見守っていました。



┉もう一度、再拝させていただいてもいいですか?和尚さん。



     令和元年七月十日   参拝

No.258 19/07/14 14:21
旅人 

夫も息子も心身共に疲れているようです。私はといえば、職場でのイライラがおさまらない。
せっかくの二連休。なんとか晴れた休みにみんなでマイナスイオンを浴びて来ようではないか!┉身体の疲れは休息のほうが大切なのことも無視する、自己中な妻と母親に今日も振り回されて、栃木県日光の滝目指して出発です。

今日はあくまでみんなでマイナスイオンを浴びてリフレッシュすることが目的なので、神社仏閣の参拝は考えていません。


┉群馬県にも滝はたくさんあるんですけど、ね。私の気分が日光だったんですもの。


「どこの滝に行きたい?」
え、えっとー。滝?┉いやいやきちんと明確に目的地を決めなければ!日光には滝がたくさんあります。
んー、「裏見の滝とか、華厳の滝とか?それとも龍頭の滝とか?」

┉ちなみにですね。ウチの家族はここで私が「袋田の滝」といっても別段びっくりしたりしないほど、私の馬鹿なところには慣れてはいますが、袋田の滝は茨城県!そのくらいはわかってますって
σ(`・・´ )

で、向かいましたのは【裏見の滝】。
さあ、普通の珍道中のはじまり、はじまり。

No.259 19/07/15 00:25
旅人 

珍道中┉そう、それはひとえに私がいるからそうなってしまうだけ。

写真が趣味の息子といつか日光に行く機会があったら、ここに行こうと思っていた場所があったことを突然思い出しました。
「以前一度行ったところで皇室ゆかりの公園があって、四季折々の植物がある御用邸の跡なんだけど、その時、もしかしたらこういうとこ好きかなって思っていたんだ┉行ってみる?」
【田母沢御用邸記念公園】であります。

以前、日光に突然思い立って行ったとき、特別公開の案内を見かけて急遽訪れた場所であります。「特別」とか「限定」という言葉に弱い私。珍道中には欠かせないキーワードであります。


現人神であられた大正天皇・昭和天皇のお使いになられた御用邸。ある意味、神様のおられた場所、であります。珍道中にふさわしい場所ではありませんか?



滝巡りと言って家を出たのに、一時間も経たないうちに目的が変わっております。しかも御用邸、広いんだよな(^_^;)
ちがう機会にすればよかったかな。┉一時間くらいゆうにかかると思われます。

No.260 19/07/16 01:09
旅人 

【日光田母沢御用邸】は明治32年に嘉仁親王(大正天皇)の静養のため造営され、昭和22年に廃止されるまで、3代の天皇・皇太子によって利用されました。
紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築して中核にしており、江戸・明治・大正の三時代の建築様式を合わせ持つ建物で、栃木県が修復し、2000年に記念公園として蘇らせました。

現人神であられた天皇がご利用された建物でありますので、さりげない工夫がいくつもなされています。立っていて体感はしないもののほんの少しづつ傾斜をつけることによって、外を眺めてご覧になられたとき、より広くご覧になれるようにしてあったり。
柱が天井まで続いているのだけれど、そう見せないように上の方は柱を隠して白くみえるようにしたり。
いたるところに菊の御紋がさりげなくいれられております。

106室、床面積1,360坪!


大正時代に造られた、賓客を迎える公式用の食堂の床はケヤキのまさ目寄せ木張り。まさに「匠の技」で作られ、90年以上経った今もまったく狂いがないそうです。

謁見所は大正天皇が即位後、御用邸での公式儀礼が増えたことから建築されました。柱・天井はすべて御料林で伐り出された最高のヒノキを使用、最高の技術で作られているそうです。

御厠、トイレは衝立があるだけでなぜかオープン。大便用のトイレにはなんと!トイレットペーパーを取りつける金具が!後付けではなく、当然大正天皇がお使いになられたとのこと。トイレットペーパーは三越が外国から輸入し納めていたということであります。

天皇陛下のプライベートスペースは赤坂離宮から移築した3階建ての部分。
当時の日本家屋では直線階段が普通だったそうですが、体が弱くここに住まわれた時にはすでに一息で上がることが困難だった大正天皇のため、途中に踊り場が設けられたのだそうです。
2階は寝室になっています。

剱璽の間(けんじのま)と呼ばれる部屋は皇位の印、鏡、剣、勾玉の「三種の神器」のうち、剣と勾玉を安置した部屋。 
安置される床の間に設置された畳の畳縁は最も格の高い絹の繧繝縁(うんげんべり)になっています。
大正天皇が長期にわたって滞在されたため、このような部屋が設けられました。鏡は最高の神器として重んじ、皇居から動かされることはませんでした。天皇の証とされる神器ってこんな時にも持ち移動させるものだったんですね。




No.261 19/07/16 17:43
旅人 

じ・つ・は。
思い付きで行ったので、当然イベントの情報も知らずに行った【田母沢御用邸記念公園】。
羽織るだけではありますが、打ち掛けと振り袖(┉だったと思うのですが)をほんの少しの間、係りのスタッフさんが上手に羽織らせてくださって、あたかも着ているかのように見えるようにしてくださって、写真を撮らせていただけるイベントをやっておりました。
息子と一緒だし躊躇いもかなりあったのですが、私の結婚式、白無垢だったもので┉気持ちがウズウズ。
後悔するなら、恥をかこう!そうそう、旅の恥はかき捨てっていうじゃないですか!
で、羽織らせていただいて、年甲斐もなく打ち掛けの写真。
その勇気をくださったのは、私の前に打ち掛けを羽織っていた六十代くらいの女性です。ノリノリにいろんなポーズをとって、うちひしがれるポーズとか、まるで大奥のドラマのワンシーンのようで。
このくらい楽しんじゃうほうが人生はきっと愉しいぞ♪と思わせてくださいました。

あ、もちろん、そんな写真は掲載しません。安心してください。笑。

わざわざ演出しなくても、すでに立派すぎるお部屋と計算され造られたお庭です。そんなすばらしい演出で、何枚か写真を撮ってもらいました。┉夫に肩に手を置いてもらい見つめあう┉というおぞましいポーズを提案されたのですが、丁重にお断り┉断固お断りして、束の間楽しい思いをさせていただきました。


そのイベント、実はその日までのものだったようで、あの女性の方に心から感謝です。

No.262 19/07/16 22:39
旅人 

打ち掛けにすっかり気分のよくなった私。 
心身共に疲れがたまっていたところに、悪いものを見せられた息子。
┉ごめんなさい(;A´▽`)


さあ、今度こそ、滝に行こう!
ただ┉もう時間的に滝巡りはムリかな。
どこか一つ。
腰が悪くて歩くことが大変な夫はスマホで駐車場からどれだけ歩くかを検索して吟味しております。┉ねえ?本当は滝巡り、だったんだよ?(;´・ω・`)
「裏見の滝は駐車場からだいぶ歩くようだな」
┉さっきから何度も聞いてますけど?だから、ダメってこと?
「寂光の滝はそんなに歩かないのかなあ」
┉つまりは【寂光の滝】ってことでいいんですかね。

さいわい寂光の滝は田母沢記念公園のすぐそばの道を入っていくようです。

┉細い!
狭い!
対向車来たらどうするの?
ムリムリ、私では到底無理!すれ違う待避するところが無さすぎです。(*T^T)しかも目的地まで結構登るようです。


まあ、当然のことながら、私の運転ではありませんが(^_^;)

No.263 19/07/17 06:27
旅人 

どこまで続く?
と、ドキドキしながらようやくたどり着いた寂光の滝駐車場。おや、一台ワンボックスカーが停まっています。この車がもう少し早く下山(大袈裟)を考えてすれ違うようなことにならなくてよかった。
で、肝心な滝はどちらの方向なのでしょう。あちらこちらから水の勢いよく流れる音がします。
ん?人が。
しかもこんな寂しい山のなか、お若い女性がふたり、白いワンピース姿の方とグリーンのワンピース姿の方が石段を降りて来られます。(あっちか!)┉涼しげな柔らかな笑顔で挨拶に応えてくださいました。これは、ここから先はそれなりに整備されているのだな。そんな風に思わせるおふたりの優雅な足どり。


っ! 神社だ!
石造りのしっかりした鳥居があります!


┉息子よ、今日は神社仏閣巡りではないといいながら、結局神社に来ているけれど、母は知らなかったんだ。決して嘘をついたわけではない。
でも、御導きなのかな。

わあっ、お不動さまだ!
お不動さまがお座りになられて、お護りくださっている!
ああ、だから、あの細い道で一台の車とも出会うことなくこちらまで登って来られたのだな。ありがたいことです。
少し、お疲れでしょうか?この滝を目指す方は多そうですものね。
ありがとうございます。
一人でしばしお不動さまに向き合っておりました。振り向くと夫が、いかにも手持ちぶさたといったていで立っていました。ごめんなさいね。


鳥居には【若子神社】という扁額。そうかぁ。ここが若子神社さんだったんだ。二荒山神社さんではたくさんの御朱印をお授けくださっていますが、そこに若子神社さんの御朱印が合ったのを記憶しております。寂光の滝、だから若子、なのかな。

参道脇には太くはないけれど、豊かな水量の川が流れております。

No.265 19/07/19 23:50
旅人 

寂光の滝も弘法大師空海が修行したと言われています。

その昔明治時代の神仏で【若子神社】となるまでは、こちらは【寂光寺】というお寺さんであったということで、弘法大師が【滝尾神社】を建立した後、寂光の滝で修業していた際、夢の中で女神のお告げを受けて、この地に【寂光寺】を建てたのが始まりと言われています。

室町時代には七堂伽藍が立ち並び、修験道場として修行の山伏などでにぎわったお寺のようです。弘法大師空海が彫ったという不動尊が御本尊。その像が納められている【不動堂】や寂光権現堂「求聞持堂(ぐもんじどう)」が、江戸時代まであったのだそうです。
今回、若子神社さんに初めて参拝をいたしましたが、そのような賑わいを感じさせる面影は一切ない、山のなかのひなびた神社さんであります。江戸時代まで続いたという寂光寺さんは、明治時代にはいって若子神社さんになり、その後間もなく、火災にあい全焼してしまったようであります。
しかしその後再建され、今なお、女体さんの入り口を護る大切なお役目をはてされております神社さんです。


また、寂光寺は「釘念仏」のお札を求める人で大変賑わったお寺だそうです。
これには、【地獄巡り】という言い伝えがあり、かつてかなりの視聴率を誇ったテレビ番組、【まんが日本昔ばなし】でも取り上げられた伝説であります。


覚源上人(かくげんしょうにん)という僧が、寂光寺で修業しているとき、ある日突然仮死状態になってしまいます。覚源上人はじつに地獄の閻魔大王に呼び出され、地獄めぐりをした、ということでありました。その頃の地獄は、毎日毎日、死者が地獄に堕ち、人が溢れていたとかで、閻魔大王は覚源上人に娑婆(しゃば)の人間に地獄に来るとどんなに大変な目に遭うか、地獄の様子を娑婆の人々に伝えてほしい。そして地獄に来ることのないように、これから授ける御札をもって念仏を唱え、人々が地獄に来ないようにしてほしい。とお願いされます。
覚源上人が仮死状態から目覚めると手には一枚の御札を持っていました。その御札には49の穴が空いていだそうです。
地獄に落ちると49日間毎日節々に生前の業の深さの分釘を打たれるそうで、生きているうちに49万遍念仏を唱えればそれを免れることが出来る┉というのがこの釘念仏の教えなようであります。




No.266 19/07/20 08:32
旅人 

寂光の滝は、さほど大きくはありませんが、ほとんど人の手を加えていない自然な道を歩いて、目の前に見えだした滝を目指すといったなんとも言えない風雅な気分を味わうことができます。
その滝を本当に愛する人が、その、自然な感じを考慮して作った道を、滝を目指す人たちが歩いて踏み固めて道を保っている、といった感の道であります。
そして、何よりありがたいことに、五十メートルといわれる滝がおちてくる滝壺すぐそばまで行くことができます。
それは、迫力というより、むしろ心静める音と水量の、なんとも至福の空間であります。そう、そばにいるだけで心を癒してくださる┉、それでいて凛としておられる、そんな女性のような雰囲気のある滝であります。
心が穏やかに癒される空間。
いつまでもそこにいたいと思わせる空間でありました。


寂光寺の跡は、本殿の裏のハイキングコースの道をさらに登っていくとほんの少しではあるようですが残っているようです。観音様の石像は今なおその地でしずかに土地をお護りくださり、訪れる人を見守って下さっているようです。
┉行きたいなあ。
行きたい。

でも、まずはここまでの、林道に近いすれ違い困難な道を登ってくるという難題があるのです。( ω-、)
クルマの運転は、クルマの運転だけは無理してはいけないし。五十の齢を迎えた人間が、これだけは努力して上達できるものではありません。
下から歩く?(^_^;)
┉上に登っていく体力、気力がすでにうばわれてしまう気がいたします。


祈 再拝!
どうかお不動さま、私の運転で無事に登下山できますよう、お護りください。
どうか観音さま、御前に参拝できますようお導きください。



      令和元年七月十三日  参拝



No.267 19/07/20 22:02
旅人 

【若子神社】さんの御祭神【下照姫命(したてるひめ)】さま。


国や家庭、事業の安泰を司る神さまであられるようであります。
八百万といわれる神さま、子供の頃子供向けの古事記などを読みはしましたが、畏れ多いことでありますが┉御名前を少しも覚えられず、神さまたちのご関係や、どのようなご利益をお与えくださる神さまでおられるのか、御名前を拝してもさっぱりわからない者であります。
本当に申し訳ない。
神社に詣でるときは、御祭神だけは調べてから伺おうと思ってはいるのですが、御導きいただいたかのように参拝となりましたときなどは、本当に申し訳ないくらい何もわからない状態で参拝させていただいております。

で、帰ってから、Google先生にお教えを乞いました。


下照姫命さまは、大国主神と多紀理毘売命(たきりびめのみこと)の娘であり、
阿遅須枳高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)の妹。
天稚彦(あめのわかひこ)の妻であります。

美人の誉れ高く、父神の国土経営を助け偉大な功績を立てられ、また和歌の祖神とあがめられている、容姿端麗・才色兼備の女神さまです。
天界から国譲りの使者として来た天雅彦でしたが、下照姫の美しさに心惹かれ、天から与えられた使命を放棄し、下照姫と結婚なさいます。
結婚後、二人は幸せな家庭を築き、仲睦まじく暮らしながら、父神の国土経営を助け、偉大な功績を残します。
しかし、天雅彦は神の放った矢に当たり亡くなってしまうのであります。


【和歌の祖】【芸能上達】【悪疫退散】【火難防除】の御利益をお授けくださるようであります。
十月三十日に大祭を行われるようであります。

No.268 19/07/21 06:43
旅人 

以前から行ってみたいと思っておりましたお寺さんに、ようやく参拝することができました。
群馬県前橋市にあります【魚游寺】さん、であります。
┉変わったお名前でありますでしょう?そこには昔から伝わる伝説があります。その伝説をずっと覚えてはいたもののお寺の名前が出てこない。(*T^T)
子供の頃に聞いた昔ばなし、とはいえ絶対実在するはず。
ということで、ネットで検索してようやくたどり着いたのが二年くらい前。行きたいお寺さんがあってということから、魚游寺さんの伝説について歴オタ氏に話したところ、興味を示していたので、一人で参拝せずに我慢してあたためておりました。

先週、魚游寺さんの周囲を囲むお堀に植えられた古代ハスが見頃を迎えているというニュースを目にし、矢も盾もたまらず「魚游寺さんに行きたい!」と叫ぶように話しました。┉ところが、ですね。歴オタ氏のなかでは歴史と結びつきのない伝説イコール昔ばなしは、記憶に残らないものらしくて、初耳のような反応です。
(-""-;)┉ヤツなど待たずに一人で参拝してしまえばよかった。何度そのそばを通ったことか。毎月最低でも一回、今月などはすでに二回もそばを通っていたものを。


まあ、長い前置きはとにかく、ようやくたどり着いた魚游寺さん参拝、であります。

No.269 19/07/21 08:36
旅人 

魚游寺さんは寺院的には乗明院と呼ばれることが多いようであり、実際、門には魚游寺の文字はありませんでした。承和年間(834~48年)に慈覚大師が、自ら彫った釈迦如来像を安置するお堂を作ったのが始まりとされているようです。

魚遊寺という寺名の伝説。
建長2年(1250年)のこと。この地の郡司┉お役人がお堂の脇に池を作り、魚を放して釣りを楽しもうとしたところ、池の水が一瞬にして熱湯になってしまったのだとか。驚いたお役人は僧を招き、殺生の罪を詫び一心に祈ると、池の水は元の水になり、魚も群れをなして泳ぎだしたということであります。お役人は大変喜び、寺を再興し魚遊寺と名付けたという。

さすが、伝説。昔ばなしでしょう?子供心に「なんで熱湯になった池の魚たちが、池が水に戻ると泳ぎだすの?」とその伝説を話してくれた大人に聞いた覚えがあります。当然、答は納得のいくものではありませんでしたけど。
「それは仏さまの力で熱湯になっていただけだから、術が解かれれば魚たちが泳ぐんだよ」
「だって熱湯になったら魚は死んじゃうでしょ」
「それは仏さまの術だから。仏さまは無駄に命を奪うようなことはしないんだよ」
┉ 大の大人になるまで無信心、無信仰(この点はいまも変わっていないかな。胸を張って言える宗教徒になっておりませんので)でありました私は、到底納得できませんでしたが、この質問はこの方を困らせるだけだな、と判断してそこで打ちきりにしたことも覚えております。


立派な仁王門があります。早くももう、嬉しさで胸が膨らむ私であります。楼門であります。仁王門脇には新しそうなお不動さまの大きな石像があります。さらにはそのうしろにひっそりと、┉おそらくはお地蔵さまが二体と、祠があってそのなかにはおそらく薬師如来さまがおられました。
その楼門の中に四方を取り囲むお堀があり、そこにいっぱいの古代ハスが根を張ってお堀の水面を覆いつくして蓮の葉と桃色の蓮の花が咲いています。





No.270 19/07/21 08:41
旅人 

御本堂にお参りして、早速境内のなかを散策させていただきました。
本堂裏手の向かって右側にある不動堂や、宝塔のひとつは、もともとは乗明院の末寺である覚動寺(昭和大橋の建設に伴い廃寺)にあったものだということであります。宝塔には南北朝末の永和4年(1378年)の銘がありました。橋が架かるという理由で歴史あるお寺のひとつが廃寺となってしまったのは、なんとも切ないことであります。
しかし、昭和大橋ができる前は渡し舟で対岸に渡っていたようで、流れも早く深いところもあり、また何度もその流れを変えてきたその利根川では水難事故も多かったようで、橋の架かったことによる利便は大きな大きなものであります。

閑話休題。
境内には阿弥陀三尊画像板碑というものが、覆屋に納められておりました。高さはなんともりっぱで私の背よりも高く感じます。
建立は弘安年間(1278~88年)で、その板碑には、[極楽往生を願って読経した人を阿弥陀三尊が雲に乗って迎えに来る図]が描かれているとのことであります。残念ながら、ガラス張りのお社、覗きこんでも覗きこんでも、まるでその絵は見ることはできません。

蓮見会というものがあったようで、僧侶がお二人散華しながらという始まりだったようであります。この日は、お寺さんはお留守で、お話を伺うことはできませんでした。
新聞にも紹介されたようで、なん組も蓮見の方がお見えになっていました。


かわいい猫が自由に境内や駐車場を散策していたのが留守中のお寺を訪れた者たちの心苦しいような思いを、優しく取り去ってくれました。
今度写経会があるようです。そのときあらためて参拝させていただけるといいな。




      令和元年七月二十日  参拝

No.271 19/07/23 18:15
旅人 

今朝、目覚める直前に夢を見ていました。
夢だな、とわかっていての夢。

なんと、男性のどアップの笑顔です。何を語るでもなく、満面の笑顔。┉お坊さまです。お顔に見覚えのある、八十近いかたで、目覚めてからしばらく「どちらのお寺のご住職だっただろう┉」しばらく考えて、考えて、ようやく思い出せました。
前職でお世話になったお客さまのご住職でありました。もっとも、そのご住職のお寺さんには一度だけ、しかも偶然参拝させていただいただけで、袈裟やら作務衣のお姿は一度も拝見したこともないのですが。夏の絽の衣をお召しになって、ニコニコ笑って真っ直ぐに私をごらんになっていました。



ただ、それだけ、であります。
ただ、不思議で、┉なんとなくお坊さんの満面の笑顔の夢なんて、吉夢みたいに思えたりして、書いておこうと思った次第であります。

No.272 19/07/28 00:03
旅人 

短い期間に、二度目の群馬県前橋市【魚遊寺】さんへの参拝となります。
今日は写経会。

駐車場に到着したときには、すでに御本堂から木魚の音が聞こえてきています。御本堂に到着したときは、みなさまが声を合わせて開経偈(かいきょうげ)を唱えております。開経偈は、「お経をこれから唱えさせていただきます」という文言のようであります。
私、般若心経は読み上げるのもまだしどろもどろなくらいで、両の手のひらを合わせ無言で座っていることしかできませんでした。
読み上げるのにしても他の方々とテンポが合わず、しばし無言となって、また途中から声を合わせる、といったことばかり。まだまだ未熟なヤツであります。
お経は、やはり唱えたかった。まあ、ひとえに遅刻しちゃった自分がいけないので、それで大切な読経ができなかったことにも繋がり、本当に申し訳なく情けないことでありました。

写経を始めると、静かな御本堂に優しい風が流れているのがよくわかります。蓮の咲く堀の水に牛蛙でも住んでいるのか、ぶぉーぶぉーという声(?)が時折聞こえ、またひぐらしのカナカナカナという声が聞こえたり。
筆をとめて外を見やると、夏の空が広がっています。青い空にもくもくとした入道雲。
そして┉そんな自分が不思議でありました。
いつも写経の時は一心不乱に書くことに集中しているのに、なぜ、こんなに途中途中、手を休め、空間を楽しんだりしているのか┉。
飽きてしまったのともちがうのです。まあ、写経をしに来て写経することに飽きていたら、情けなさ過ぎでありますが。
写経することを楽しんでいるような、その文字のなかに今の自分が感じる思いを織り込むような感覚であったような気がします。
いつか墨を擦り、毛筆で写経をしてみたいと思うのでありますが、なかなかそこまでには至りません。殊に写経会などでは形だけは一人前でも読経もろくにできないようではちょっと恥ずかしすぎるので。



写経を終えるとご住職の尼僧さまがお菓子やお茶を振る舞ってくださいました。夫はおいしい珈琲大福に感動しておりました。群馬県では有名なお菓子屋さんのものです。さすが尼僧さま、おいしいものをご存じでいらっしゃる( 〃艸〃)



夫は写経を終えての帰り道、痛かった肩がだいぶ楽になったと申しておりました。



   令和元年七月二十七日  参拝

No.273 19/07/28 21:23
旅人 

それは七月二十六日、偶然目にしたテレビのニュース。

「【世良田祇園まつり】、明日だって。台風直撃かねぇ?」
以前からなかなか行けずにいた、【群馬県太田市世良田の八坂神社】さんのお祭りです。 
「うん、実は知ってたんだけど、台風だし、風邪ひいてるじゃない?だから黙ってたんだけど┉」
えっ?もしかして私、風邪ひいてても「ぜ~ったいお祭りに行きた~いっ!」って駄々でもこねるとおもわれているわけ?いや、さすがにそれはないから!
えっ?本当ですってば。(;´・ω・`)


大変な人出となるお祭りのようです。風邪くらいで仕事を休むわけにはいかないのであきらめました。┉半分┉




半分あきらめて、残りの半分って何?ってなりますよね。
夜の祇園まつりの屋台やら花火やらはあきらめたものの、翌日の八坂神社さんの御神輿ならば、昨日ほどの人出ではないのじゃないかなってことで、一夜明けた祇園まつりの本拠地(?)八坂神社さんに参拝してまいりました。

No.274 19/07/30 11:25
旅人 

世良田に入り、八坂神社さんに近づくにつれて┉あ、れ?
お祭りの雰囲気は一切ありません。┉ なにかまちがえた?いやいや、テレビで、少なくとも昨日は屋台巡業があると言っていました。しかも、かつては夜通し行われていた世良田祇園まつりです。少なくとも、なにか、その残りの気配とかくらいあるのでは?
まさか、場所が違う?
それでも近づくにつれピンクと白の提灯が連なる町内になりました。でも、一軒としてあのわたあめ屋さんだの、お好み焼き屋さんだのといった屋台はありません。非日常なのはその提灯だけです。八坂神社さんの参道すぐ脇の役場まで来ても、役場は役場のまま、一切ポスターや飾りといった類いはありません。その角を曲がって、八坂神社さんの鳥居真ん前に行って┉ようやく屋台(祭の)がありました。
でも┉人も疎らで、お囃子の子供とその親、それに指導者の方が一人いるくらいです。
あとは(おそらくは)普段どおりの境内と、開け放たれたお社に、参拝の方がチラホラ。
お祭り真っ最中というより、前々日とかに屋台を屋台庫から出してみてお囃子の練習をしているといった感じにしか見えない!

なんで?

三つある屋台も、一台だけが稼動しているだけです。
今日は御隠居さまと呼ばれる御神輿の渡御があるはずなんですが┉。


┉おかしい。
┉会場が違う?
まあ、いいでしょ。ずっと来たかった世良田八坂神社さんです。参拝させていただきましょう。

No.275 19/07/30 15:28
旅人 

あかるい、清々しい気に満ちあふれた神社さんです。昨日の御祭に神さまもお喜びになられている、ということでしょうか。
お天気は曇っているのに、あかるくて、初めて訪れた私まで楽しい気持ちになるくらいです。
手水舎のお水のでるところは亀の口となっております。尻尾のたいそう長い、いかにもおめでたそうな亀であります。
鳥居をくぐった真っ正面、拝殿正面はすべて上から下まで開け放たれております。拝殿のなかに入るまでもなく、すべてが見通せる状態です。真正面にお祀りされているのはおそらく御神体、本殿の扉まで開け放たれているということでしょうか。
こんな神社さんは初めてです。


御朱印や授与品をお受けする社務所に、境内の中一枚だけ貼られたポスターに、今日十三時から御隠居さまの御神輿が境内から町内中を練り歩くように書かれております。うん、ちょうどいいくらいの時刻に到着させていただくことができました。
御朱印はお祭りのためすべて書き置きでの対応であります。実はこちらの神社さん、御朱印も有名でありまして、御朱印帳も三~四種類があるようです。
季節の御朱印のほか、毎月22日の猫の日限定の御朱印や、雨の日限定御朱印等もあるようです。私は御祭限定の御朱印のほかに、勇ましい龍のイラストに御朱印の入ったものをお受けしました。
水槽の中には生きた白蛇さまがお休みになられていました。
御守りは、ゲゲゲの鬼太郎やドラゴンボールの悟空や悟天、ぐてたまやキティちゃんなど流行りの図柄がありました。

御神輿が動くまでまだ一時間ほどかかるようです。


ちなみに、
この文章力のない私が、御祭の屋台、わたあめやお好み焼きなどの屋台をちゃんと使い分けて、お読みくださる方に混乱なくお読みいただけているかどうか┉(^_^;)

No.276 19/07/30 16:07
旅人 

境内をまわらせていただきますと、神楽殿のほかに、大神楽殿とでも言いたいような、大きなステージのような建物があります。その側面の壁一面となるほどの大きな大きな扁額がありました。書かれた文字などは薄れておりますが、見事な彫りが施されています。
今現在の鳥居の扁額はいわゆる一般的な大きさのものですが、やはり見事な龍が二頭彫られております。これは拝殿の扁額だったのでしょうか。これほど大きな扁額を掲げられていたような大きな拝殿だったということでありましょうか。
その他にも壁にかつて使われていた神社の壁に掲げられていたような物が収められています。

拝殿の横を通り、裏に向かうとやはり見事な彫りの施された本殿であります。色はだいぶあせてはおりますが、屋台の色を修復したせいで、その屋台を見たあとなせいも多少ある┉のかなぁ。

裏には一段高く盛り土され、古くからあったお社がたくさんありました。白蛇弁天さまであったり、十二社ほどの小さな古いお社があったり、国作りの神イザナギさまとイザナミさまの二柱をお祀りしたお社や永寿大明神という御名前でお祀りされた少彦名命さまのお社がありました。御神輿が四基収められた御輿殿と、御神木であります杉の根がお祀りされたお社があり、また天王獅子という大きな表札(?)が立て掛けられた、お社が一つ、ありました。

そして本殿の横に引き車にお社がのったような、立派な屋根のついた┉お雛様の雛壇にある高貴な方が乗られる牛車のような車が一台あります。
御神輿と一緒に引かれる車でしょうか。
それにしても、御神輿四基はしっかり御輿殿に収められています。あの担ぎ棒がついておりません。あと少しで、御隠居さまの御神輿が渡御されるはずなのに┉?

御祭を守る会の方の一人が教えてくださいました。
なんと、今年は御隠居さまの御神輿渡御は行われないことになったというのです。理由は担ぎ手がいない!
世良田の者でないと担ぐことができないからねとおっしゃいました。
そして重さが半端なく、とても世良田の者でこの御輿を担げる若いもんが居ないんだと、淡々とおっしゃっていました。
ポスターを作成した時分にはなんとかしたいという思いでおられたけれど結局ダメだったということなのでしょうか。

No.277 19/07/30 18:37
旅人 

かつての【世良田村】が【境町】と【尾島町】に分割編入される以前の祭礼は本当に賑やかだったそうです。全部で十二台の屋台があり、その分割編入によって、太田市世良田町には八台の屋台が残り、残りの屋台はその土地とともに『境』にあるのだそうです。なんだか切ないお話であります。

そして、そのかつての世良田村の頃の【世良田祇園まつり】といえば、東武伊勢崎線が夜通し運行し参詣人を運び、群馬県内、埼玉県各地から臨時のバスが出るほどの大祭だったそうです。屋台は八坂神社周辺を一晩中運行され、それを見る人で国道沿いの民家の2階まで人で埋め尽くされたそうです。当時を知る方にとってはなんともかなしいくらいの縮小でしょう。
そしてその時代も古く、織田信長の時代からとも伝えられているものなのだということであります。
現在の太田市がそれを大切に思い、屋台の修理修復に助成金をあて、
見事な屋台に復元されたのだそうです。屋台は大門、上町、上新田、下町、新町、今井、南八、下新田の八台があるそうで、八坂神社さんの参道脇に三台の屋台庫があり、翌日に行った私たちもその三台を拝することができました。

本当に豪華絢爛な大きな大きな屋台であります。天井画が描かれているものもありました。多少の差はあるようですか彫りも細かく、なによりもいまは、色彩鮮やかに甦っておりますのでこれは本当に見物だと思います。屋台の中には仕切りだったり、小部屋だったりが設けられていて、その中で雅楽などの楽器の演奏を行うようだったとか、おっしゃっていました。
屋台の牽き違いや、お囃子の掛け合いなど、来年こそは是非観たいものです。
ただ、今年こそ台風がおさまってくれたものの、世良田の祇園は雨祭りとも言われるくらい雨にたたられるようで┉
私が風邪さえひいていなければ┉、悔やまれるばかりであります。


No.278 19/07/30 20:35
旅人 

そんなお話をうかがいながら境内にいると、宮司さまが足早に歩いて来られ、天王獅子のお社に入って行かれました。
しばらくして、宮司さまがなにやら大切そうに抱えて┉、また足早に歩いて向かった先は、あの例の屋根のある立派な牛車のような車です。そして、車にそのなにかを載せると、また足早にどこかに歩いて行かれました。(┉何だろう)。その車のそばには誰一人おりません。
まあ、どなたも見張り番に立ったりしていないのだから、何を置かれたのか見に行ってもいいのだろう。そんなことを考えながら、車を覗くと「?!┉えっ⁉」


┉こちらの神社でお祀りしている牛頭天王さまのお頭?
角がひとつある、獅子頭といえば獅子頭。
こちら┉御神体なんじゃ?
なんでこんなに無防備に!
そうこうしている間に、またまた足早に宮司さまがなにかを手に持ち、そのお頭のそばに置きました。そして何人かの男の方たちが集結してその車を牽きます。
拝殿横から本殿横に左回りに歩かれます。おお、戻ってこられた┉
さあ、いよいよ出発┉と思いきや、もう一周!
さらにもう一周、もしかしたらもう一周?┉当たり~っ
時計回りに拝殿・本殿を3周すると、鳥居を抜けて参道へ。一つだけ山車でお囃子が演じられています。その音色に見送られながら参道を歩き、五百メートルくらい続く門へ歩いて行かれました。

No.279 19/08/03 07:43
旅人 

「┉まるで御獅子さまがお伴を従えて散歩にお出になったようだね」と、夫。まさにそんな感じです。
そんなうしろ姿を見送りながら、「せっかく世良田まで来たんだから総持寺さんに行こう」と夫が申します。
【総持寺】さんは、前回参拝の折、鐘楼が修復工事中で拝見することができなかったのですが、工事の足場の骨組みのすき間から、茅葺きの屋根が見えます。これは、絶対、工事が終えた頃再拝させていただこうと、夫と二人思っておりましたお寺さんです。

立派な彫刻の山門をくぐると、広い広い境内で、しかも樹木やら石仏などがあまりないお寺さんであります。きっとかつては大きなお寺であったのだろうと思わせる広さです。そしてそれに見合う大きな御本堂。広い境内にそびえ立つといった感じです。御本堂は、扉が閉ざされ、さらに障子が閉められて外陣も御本尊さまも拝見できないのですが、その障子の上に細かく繊細な彫り物が施されている欄間が連なっており、右手奥には襖でしょうか、これまた立派な武将の画が描かれているのが見えます。
外観は新しいもののようではありますが、中は古くからの建物が活かされているようです。


さて、まずは御朱印をお受けできるかどうか、うかがってまいりましょう。
インターフォンの応答がなかなかないので諦めかけたとき、若い女の方の応答がありました。出てこられたのは赤ちゃんを抱っこされた若いおかあさんでした。申し訳なさでいっぱいになりながらしどろもどろに御朱印をお受けできますかともうしあげると、快い御返事をいただけました。ありがたいことです。
しばらくして御朱印帳をお持ちくださいましたのはまた赤ちゃんを抱っこされたおかあさんでありました。
なんだか、小さな赤ちゃんのいるお宅に長居してはいけないような感覚になり、さあ、前回色々見させていただいたので、今回はこれでと、そそくさとお寺をあとにしようとしたところ、
「鐘楼、こんなことになっちゃったんだね」
えっ⁉ ┉いやいや、別に普通の立派な鐘楼でしょう、失礼な。
ん?┉あ、ああぁ!!どうしてこんなことに。
そう、茅葺きの屋根の鐘楼は、普通の銅板の屋根に葺き変えられておりました。 (*T^T)



No.280 19/08/09 02:27
旅人 

茅葺き屋根の維持は大変なことのようです。かつては一番安価な屋根と言われた茅葺きは、今、一番高価な屋根と言われているのだそうです。材料の調達も大変なことのようですが、なによりもその茅の屋根を葺く技術者がいないのが現状のようです。
こちらのお寺さんも苦渋の決断、しかたなかったことなのでしょう。

【総持寺さんの梵鐘】は、かつて、世良田祇園の宵宮に、普門寺の梵鐘(市重文)と呼応して屋台の町内引き廻しの合図にも使用されていたということであります。
この寺の梵鐘は、江戸時代中期に青銅で造られており、その特色として乳の間には乳がなく、梵字の金剛界五仏(大日如来・阿閦如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来)があるのだそうです。撞座(しゅざ)には梵字の胎蔵界五仏(大日如来・宝幢如来・開敷華王如来・無量寿如来・天鼓雷音如来)があるとのことであります。
ただ、こちらの鐘楼は他の寺院にくらべ高さがある部類のもので、その何一つ、下から見ることはできなかったのですが。


この総持寺さんは西側の早川を背に、三方を堀にした【館跡】であると言われ、東と西の一部に堀の跡が残っています。
居住者は新田荘の立荘者で、新田一族の祖新田義重居館説、総元家新田政義の失脚後一時期新田氏を代表した世良田頼氏(徳川義季の子)居館説、新田義貞居館説などがあります。
┉それにしてもいつも思うのでありますが┉、歴史に名高い武将の館の跡のようなものでも、長い年月がすぎると誰のものであったかすらわからなくなってしまうものなのですね。私のように無知無学な者にはなにか不思議に感じてしまうのであります。

No.281 19/08/09 02:40
旅人 

こちらにかつておられたとされる、【木造不動明王立像】は新田氏の祖とされる新田義重が館の一隅に建立した護摩堂の本尊であったといわれていますが、これを証する資料は残っていません。
一材から彫り出して、内刳を施さない一木造りですが、左ひじ前から先、及び左足先は別材で、はぎつけられています。
眉根を寄せ、両眼とも大きく見開き、忿怒の表情を示しています。像の前面で裳裾(もすそ)を膝までたくし上げて、両膝から下を露出しています。
この像は覚鑁上人が自ら刻んだものと伝えていますが、信憑性に乏しいと判断されています。平安時代後期(11世紀後半)の作と推定され、県内では十一世紀まで遡る木彫像は極めて少なく貴重な像で、現在県立歴史博物館寄託となっています。

【総持寺の木造伝新田義貞倚像】は、総持寺本堂に安置され、像高87.1cmのサクラ材を使用した一木造りの倚像です。巾子冠(こじかん)を被ぶり、袍(ほう)を着けて腰で締め、袴をはいて膝下で括り、脛甲(すねよろい)を当て沓(くつ)を履いています。
両目を吊り上げ、口を大きく開いて上歯・下歯及び舌をあらわし、顎鬚(あごひげ)が長く伸びています。彩色の大部分が剥落し、全面的に木地がむき出しになっています。
さきの【大新田氏展】に出展してくださっていましたが、その際「新田義貞像と伝えられていますが、一木から彫出しほとんど内刳しない造法、彫法も簡略で素朴な造形であり、【神像彫刻】の一般的な特徴に通じていることから、〖随身ないし何らかの神像〗とみるのが妥当と思われます」と解説の方が述べておられました。制作年代は鎌倉時代であるとされています。
八月一日にはこちら総持寺さんにおいて【義貞様】(新田義貞の木造と伝えられた神像)を祀る行事があるとのことであります。
┉たしかに、ほかの像や、肖像画とくらべると小さくて、やや貧弱(失礼!)であるのは私の目から見ても明らかなのではありますが、
義貞様をお祀りする日とかがあると知って、嬉しく思ったのではあります。あくまでも作品ではなく、御像であります。そこに伝わる伝承は伝承として、大切にされるべきものであります。できうるなら、いつかの八月一日の日に参列できるといいな、と思う私なのであります。

No.282 19/08/10 23:28
旅人 

【総持寺】さんをあとにし、向かったのは【世良田東照宮】さん。お近くまでまいりましたのでと、御挨拶をさせていただきました。明るく、穏やかな気であります。訪れる方がみな笑顔であります、そんな神社さん。
今回は拝殿前での御挨拶のみで参拝を終え、隣にあります、新田庄歴史資料館へとまいりました。新田氏のものだけではなく、新田氏ゆかりの神社仏閣の御像や、狛犬などもお預けになられていると知ってのことです。ずっと炎天下を歩いていての資料館は、身体全体を一気にしかもやさしく冷やしてくれる効果もありました。こちらの施設は入館料がかかります。

さて、そのあとは【普門寺】さんの参拝に。そう、かつてのあの世良田祇園の際、総持寺さんと合図の梵鐘を鳴らしていたというお寺さんであります。
普門寺さんに到着する、という超直前、もう一台の屋台庫があり、屋台庫の扉が開け放たれ屋台が見えるではありませんか!路駐が難しそうな道なので、普門寺さんの駐車場に車をいったん停めて、屋台庫を目指すと、なんと!だいぶ前に世良田八坂神社で出発を見送ったあの御獅子頭様の御一行が休憩されているではありませんか!
こんなに時間をかけてようやくここまでたどり着かれたのですね。

いつも思うことでありますが、伝統のお祭りを守っていかれるということは地道ではありますが、大変なこと。そして膨大な時間をかけてひとつひとつを着実に、決まりごとをこなしていく。それが守っていくということなのだなぁとつくづく感じさせられる一瞬があります。そしてそこにいたく感動いたします。
お祭りが実はそんな意味合いをもっているものでありますことを、知らないまま大人になり、ずいぶんと長いこと知らないままの大人でありました。
住んでいた土地のお祭りがそういった現代的な神仏との関わりのないものであったこともあるにはあります、また、親が無信心な家であったこともあります。でもだからこそ、いまありがたくも大きな感動をさせていただいております。


No.283 19/08/11 22:49
旅人 

┉実は、普門寺さんに向かう前に夫が行きたいと申しますお寺さんに寄らせていただいておりました。

源頼朝の兄【悪源太義平公の墓】があります世良田町の【清泉寺】さんであります。

通りからすぐにわかるよう看板が建てられていました。┉が、駐車場といった感じのものはなく、耕す前の畑のような土地があって、その奥に風情のある山寺の山門のような門が見えているのであります。そこに停めさせていただいてよいものかどうか判断に困るものでありました。
いったんその土地に置かせていただいて、中に入って確認してこようと、その空地スペースに車を停めるべくハンドルをきった途端、しずむ、しずむ!
なんだか本当に畑みたいな気がいたします。(・・;)

風情のある山門┉ですが、山名が消えてしまっています。門前にはやさしいお顔立ちの石仏さま。門をくぐると┉
┉庫裏┉どうやら長いことどなたもお住まいではないようです。無住のお寺さんでしょうか。
境内は一般家庭のお庭くらいの広さです。
ですが、そこはやはりお寺さんでありますので、形よく松の木が枝を伸ばし、そのかげに宝篋印塔がみえます。


清泉寺説明板に書かれた御由緒書きによると、創立はつまびらかでないがようですが、平安末期に悪源太義平の妻がここに庵を結んだのがこの寺の起源だといわれているようでありました。

【悪源太義平】は義朝の長男で鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄であります。十五歳の時叔父義賢(木曽義仲の父)を討ち、それ以降悪源太といわれたようであります。
このあたりの話は、いつぞやの車中の移動中、スイッチが入って止まらなくなった夫から、イヤというほど聞かされたくだりであります。ここで使われる【悪】とは『善悪』の悪ではなく『勇猛』という意なのだそうです。
平治の乱で父義朝と共に平清盛と戦い、待賢門の戦いでは平家の嫡子重盛と一騎打をしたことで有名。┉なんだそうです。
戦局は源氏に不利な結果に終わり、父義朝は討たれてしまいます。
義平は京に潜入し清盛父子の命をねらったのですが捕らえられ、六条河原で斬首されたといいます。享年弱冠二十歳であったそうであります。義平の妻は新田義重の娘で、夫の死を知り京に上ってその首を秘かに持ち帰りこの地に埋葬し、剃髪して妙満尼と称し夫の菩提を弔ったということであります。山号を義平山というのもそれゆえなのだそうです。


 

No.284 19/08/11 23:04
旅人 

無住のお寺さんで、確認のしようもありませんが、このお寺さんの境内の感じから想像するに、夫の菩提を弔う女性が、御仏とともに御本堂からすぐに見ることのできる夫のお墓。
いかにも一人の女性が、少ないお付きの者と過ごした庵といった広さのお寺さんでありました。

看板は市の案内としてわかりやすいよう立てられておりましたが、なにぶんにも小さな庵といった風情の無住のお寺さんでありますため、どこか寂しい雰囲気のただよう清泉寺さんでありました。



           

No.285 19/08/12 09:00
旅人 

【清泉寺】さん、実はその無念の最期を遂げた若い夫の菩提を弔ったという小さな小さなお寺が、無住であるがために、まるで廃寺であるかのような寂しい佇まいが、なんとも切なくて、書こうかどうかを迷っておりました。

ですが、【普門寺】さんにも悲話があり、ふたつのお寺さんのこと、書こうかこのまま私のなかにおさめておこうか、悩んだまま、筆が止まったままになっておりました。


でも、
┉私の認知症がすすんだら、この記録は消え失せてしまうのだな
と思ったとき、ふたつのお寺さんの記録もキチンとしておこうと思った次第であります。

普門寺さんは思った以上にネット上に資料がなく、できうる限り正しい記録をできるよう、キチンと調べて書いていこうと思います。

No.286 19/08/13 06:17
旅人 

群馬県太田市の【普門寺】さん。
かつて総持寺さんとこちらの梵鐘を合図に、世良田祇園が行われていたという歴史と由緒あるお寺さんであります。


こちらのお寺は平安年間に開山されたと伝えられ、南北朝時代には関東天台の名刹とされていました。
下って室町時代には、宗門僧徒子弟の研修道場の談議所として、二百余の末寺を有する大寺であったとされています。
また、戦国時代の頃太田金山城主由良氏の祈願所として金山に小屋場と称する出張所もあったと記録にあるとのことです。

また、源氏ゆかりの寺として、堂内に安置されていたとされる【八幡神像】は正元元年(1259年)の背名があり、【新田政氏造立】と云われ、【三代将軍家光】はその子【長松(後の甲府宰相綱重)の守護神】に定め、厨子を新調し御朱印地八石四斗を祭祀料として寄進したようであります。

寛永年間(1624-1645)に天海大僧正が長楽寺に入山するに際し、末寺と共に長楽寺末寺となったようであります。
元和元年(1681年)には【下田島に居住した旗本岩松家】より梵鐘が寄進され、境内には岩松家三代の廟所があったが元禄二年(1689年)に長楽寺に移されたようです。

享保二年(1717年)の失火により、本堂・客殿・庫裏・堂宇・宝蔵・一切経堂を悉く焼失したことが記されており、什物、古文書等の諸記録は灰燼に帰してしまったようであります。
その後九十年あまりの年月をかけて、文化文政年間に至りようやく再建されたようです。この火災の前にも一度火災にあったことが略記により確認されているようです。


【普門寺】さんは入口の石柱門、駐車場、山門はまだ整備して間もないようで非常にきれいであります。歴史あるお寺さんであっても、その維持に莫大な費用と手間がかかったり、すきま風やら雨漏り等などがあったりとさまざまな理由で、建てかえをされるお寺さんは多いのかなぁと感じます。
その山門をくぐるとすぐに目に付くのが【忠犬もん】の像。云われ等は案内はありません。右手に鐘楼があります。鐘楼に目をとられしばし、┉振り向くとなにやら不思議なコンクリートの箱のような┉何かの封印された蓋のような物がありその上に小さな小さな像が三体。
┉こ、これは┉まさか┉ゴ、ゴジラ?(・・;)
いやいや、そんなはずはない!┉もし、お聞きできたらお聞きしよう。忠犬もんとゴジラ?について。

No.287 19/08/13 06:55
旅人 

さらに境内を進みますと、御本堂や庫裡も大変新しそうでした。御本堂前にて合掌し、庫裡へ向かいました。高校野球の中継のアナウンスの声が聞こえます。呼び鈴を押しますと、御住職さん、なんと玄関すぐそばで小さな画面のテレビで高校野球を観戦されておられたようでありました。参拝させていただきましたこととと御朱印の件を申し出ますと、快く御朱印をお書きくださるとお返事くださり、さらには御朱印をお書きくださる間、本堂内で参拝をさせてくださるとのこと。
ありがたい。
御本堂も新しいだけでなく、御本尊も金色に輝いておられます。御本堂の建てかえに合わせて御本尊も修理修復をなさったのでしょうか。
その後少しお話をさせていただき、忠犬もんとゴジラの話をいつのタイミングでお聞きしようかと図りながら、そうそう、御由緒書きをお受けできないかもお聞きしないととまず、申し出ました。
?なにやら┉御住職さんが困ったような寂しそうなお顔を一瞬なさいました。(・・;)?

しばらくのちお持ちくださったのは、【普門寺 本堂・客殿再建報告書】?

「実はね、ここ、平成十六年に火事でみんな燃えちゃったんだよね。」!!(゜ロ゜ノ)ノ
こんなときに気の利いた台詞が言えるようなら、少なくともこんな珍道中だけはしておりません。行脚とか参拝録とかになるでしょう。
寂しそうな御住職がボツりボツりと話されるお話を聞くのがやっとであります。
御住職のお話が途切れたときに、(おつらい思いを思い出させるようなマネをすみませんでした)と、心中で語りながら、お寺を後にしました。


なんでも┉真夜中の零時五十五分ごろの出火で本堂と庫裏を全焼なさったとあります。漏電の疑いが強いとの見解だったようです。
御本尊のお釈迦様も薬師如来様も、十一面観音様もみな、新たに仏師が彫りおこしたようです。御本尊さまは御寄贈されたよう。

No.288 19/08/13 18:49
旅人 

普門寺さんの新しい御本尊様も、位牌檀中央に安置なさっておられる薬師如来様も、みな、寄贈なさった方の御名前が記されております。また、京都のお寺さまが十一面観音様を御寄贈くださったようです。

お寺さんの再建は長い年月をかけてようやく形が整ったようで、それまでは大般若転読会なども野外で行っておられたとおっしゃっていました。


御住職が誇らしそうに古いお寺の地図を見せてくださいました。そして、その地図を掲げた新しい庫裏の、自然な仕草で、その床をいとおしそうに撫でておられたのが印象的でした。



     令和元年八月三日  参拝

No.289 19/08/13 20:15
旅人 

┉話が前後します。
でも、今日あったことを書かずにはいられないので。



今日、いつものように離婚した父親と、祖父母の眠るお墓のあるお寺さんに墓参りにまいりました。
いつものように、御本堂に参拝して。
御住職さんが、「迎え火をお持ちになりますか?」と声をおかけになりました。「私は、離婚した父親の墓参なので」と申し上げると、
「ああ、そうだった。いつも来てくださっているんだった」
そう、おっしゃって奥に向かわれました。
覚えていてくださって、来てくださっているなんておっしゃってくださって┉ありがたい。お寺さんとしては檀家でもなんでもない私ですのに。
いつものように御本尊に感謝の参拝をして、御本堂をあとにしようとしたとき、また、御住職さんが出て来られました。真っ直ぐに私を見ながら、両の手で白い封筒をお持ちです。
「これ、御供物、お持ちください。中身は金平糖なんですけど」
「えっ?」( 。゚Д゚。)

「私、いただいてしまっていいんですか?」
「ぜひ。いつも来てくださっておられます。お寺としてもありがたいご縁です」



私は、なんにも宗教のことわからない人間です。
ですが、このような言葉をおかけ下さり、御供物まで下さってもてなしてくださる御住職さまは、本当にお心の美しい、しっかりと御仏の教えに従った生き方をなさっておられる方だと心から思いました。
これが、修行をなさっておられるということなのでしょう。



ありがたい。



父や祖父母の結んでくれたこちらのお寺さんとの縁にも感謝した、入り盆の日でありました。




No.290 19/08/14 15:53
旅人 

それでは、時をさかのぼってのお話になります。

大好きな榛名神社さんに参拝してまいりました。もう一つの珍道中で、榛名神社さんがどれほど大好きかを熱く語っていたか┉

まずは前回の珍道中録です。




┉立派な石の鳥居をくぐって、小川にかかる橋を渡ると、随神門が見えます。

さらに歩を進めると、みそぎはしと書かれた赤い橋があります。この橋を渡ると、凄いです、がらっと空気が変わりました。
清んでいるというのでしょうか。
凛としているというのでしょうか。
まさにこれを聖域、神域というのでしょう。神さまのお力とはかくも偉大なものであります。
しばらく続く登り坂も、軽やかに楽しんで登って行ける、そんな空気であります。
高いお山にいらっしゃる神様のもとに、老若男女誰もが軽やかな足取りで訪れることができるようにという神さまの優しさを感じます。


石段を昇りながら見えてくる三重の搭。参道のわき、山肌に沿って遠慮がちに建っています。参道を見守る大きくて苔むす狛犬さんが、実に可愛いらしい。左手に落ちついた朱の搭。右手には川が流れ、いくつか滝もあります

そして神橋を渡ってようやく手水舎。
大きな杉の脇を抜け、大きな大きな岩に囲まれる石段を昇り、一つ門をくぐって、振り返って見上げる位置、続く石段の上に見える、
岩を守るかにも見える門。
  「双龍門」
それはそれはみごとな龍が描かれ彫られております。
ため息がこぼれます。

さらに続く短い石段の先、拝殿が見えてきます。大きな大きな岩を従えて建つ拝殿、本殿。落ちついた、みごとな彩りのそれは神々しいお宮です。
こちらにもまた、みごとな龍。
拝殿、本殿を支える建物の下にもほどこされたみごとな彫り物。
お参りさせていただくことができたことを、本当にありがたいと心から思う美しさです。


向かい合う神楽殿には、雲を従えた雷神さまなのか、可愛らしい彫り物がほどこされています。

┉夫は、あまのじゃくと思ったようで、言われてしばらく私もあまのじゃくと思っていたのですが、落ちついて考えると、あまのじゃくはちょっと考えられない。
┉そんな相も変わらない夫婦の珍道中で、神さま、仏さまには本当に申し訳なく思います。







┉と、綴っておりました。

No.291 19/08/15 15:02
旅人 

【榛名神社】さんは、榛名湖畔からは三キロほど離れています。榛名富士と呼ばれる山頂にもたしか神社さんがありましたが、そちらではない榛名富士とは反対のお山自体が神さまであります、神社さんです。そのお山を目指しての道のカーブを曲がると、すでに空気が変わります。あとで知ったのですが、その道から見える土地からがすでに榛名神社さんの境内なようです。まあ、お山自体が神さまでありますので、考えてみればそうなのでしょう。
カーブを曲がると、やわらかな、おだやかな、それでいて凛とした、澄んだ空気がそこにあります。
男根岩という、お祀りされた大きな岩を過ぎたあたりから、心が浮き立つようなそれでいて引き締まるような不思議な感覚になります。

No.292 19/08/17 20:10
旅人 

今回、榛名神社さんの参道にありますお店がみな、無料解放をしてくださっていました。ありがたいことです。腰と脚に持病のある夫も榛名神社さんまでの参道を少し短くさせていただくことができました。参拝の前からもう、御利益があったかのようであります。

今回のお詣りは随神門の前からすでに空気が変わり、凛としたそれでいて包み込むようなやさしい空気に包まれます。上り坂にもかかわらず駆け登れそうなくらいに足取りも軽く歩けます。
参道わきにも側溝があり、やわらかに水が流れております。名も知らぬ紫の花が、その水の流れに彩りを添えています。
そして参道の右側には川がながれ、小さな滝がいくつかあります。その川の流れる上に、【鞍掛岩】というなんとも不思議な不思議な岩があるのが見えます。自然にできた岩がまるで細い細い太鼓橋のようにアーチ状に上にむかってのびているのです。神様がお作りになられたとしか思えない。おバカ丸出しのおばさんが一人でしきりに感心しているわきを何人もの人が通りすぎ追い越していきます。

参道の両わきには大きく育った何百年ものの杉の木々が林のように連なっています。そして石段が見えたら、そののぼりつめたさきに、それはかわいらしい狛犬さんがお出迎えくださっています。大きな狛犬さんなのですが、本当にかわいらしい表情としぐさをなされています。
そして狛犬さんが御守りされているのが三重の塔。神社なのに三重の塔。榛名神社さんの長い長い歴史が、そんな不思議な光景を違和感なくしておられます。


もともとは上野國式内社であります神社であります榛名神社さん。霊験あらたかでこのような山中にあっても参拝の人々が多い神社さんでありました。
ですが、戦国時代には一時期座主(独自性のある榛名山の進行のあり方でそのように呼ばれていたようです)すらいない衰退した時代もあったようで、それを復興させたのが近世、天海僧正の手によると言われています。
慶長十九年(1614年)に[上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事]が出され、以降、寛永寺の支配を受けるようになり、寛永寺末の中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当に任命されたといいます。後には両職とも光明寺が兼務となり、【榛名山光明寺】など と書かれることもあったとか。つまりはこの時代にあっては榛名神社さんは寺院であったのです。

No.293 19/08/17 20:55
旅人 

お寺であった榛名神社さんが、神社に戻ったのはあの慶応四年(1868年)の神仏分離令が出されたことによります。

榛名神社の神仏分離として、堂塔、仏像、仏具の取り片付けの言い渡しが岩鼻役所からあって、光明寺さんに什物等の受け渡しが行われ、榛名神社として復活することになるのです。
明治三年に岩鼻県から神仏分離取締が赴任して、仏教的なものをすべて破壊するよう指導し、実行させました。(*T^T)
明治時代のかの悪法令のせいで、どれだけ多くの歴史ある寺院が壊滅的な破壊を受けてしまったのか。
このとき、榛名神社から仏教色は一掃されたといわれています。
ただ、現存している三重塔も実は神仏分離取締は壊すと書いていますが、なんとか残されることができたようです。



神仏分離令に引き続き、明治五年には修験宗廃止令がだされ、呪術、祈祷が禁止され、榛名神社さんがもっていたもう一つの顔も削ぎとられます。支配構造がくずれ、求心力を失っていた榛名神社を立て直すために、なんと一同協議の上で、「榛名神社教会」を開設することとなり、その旨内務卿と群馬県令に願書を提出し、明治十四年一月十一日認可され、教会が設立されました。
一月十一日はそれを記念して現在も「教会開き」という祭典を執行しているのだそうです。
昭和二十七年(1952年)にはさらに宗教法人「神道大教榛名大教会」と改称された榛名神社さん。ほんの六十数年前のことです。
榛名神社さんの長い長い歴史は、実は目が点になるほど翻弄されたものであったようです。


私がこちらに参拝したところで、違和感があるとしたら三重の塔があることくらいなのですが、それも実を言えばさしたる違和感を感じてはいないのです。お寺さんの中に神社があったりすることも多々あり、そのくらいの違和感も感じないくらいなのであります。


思うに、歴史のうえでその時代その時代の人間の考え方一つでねじ曲げられたものがあったとしても、お祀りされておられる榛名の山の神さまは不偏であったということ。
神さまがおられて、そこに仏さまが寄り添われた時代もあれば、修験という形で、人が祈ることもあって┉。
ただ、ずっと変わらぬ視線で神さまは、愚かな人間を見守ってくださっていた、ということなのだと。

No.294 19/08/18 02:44
旅人 

そんな過去があり、遺された三重の塔。塔の中には何が納められているのでしょう。


三重の塔を過ぎると岩肌がむき出しの、少し囲まれたような感覚になる通路を通ります。岩肌からも、そっと包んで見守られているようなやさしい気を感じます。岩肌の通路がまもなく終わろうかとする頃、岩肌につつまれるように【塞神社】さんが鎮座されています。そして、その岩肌の通路を抜けるとまもなく神橋があります。神橋を渡って行くと奥まって続く岩肌に扉があります。まさに岩肌に扉。【東面堂】というようです。
「扉の上に彫られてるのは、扉にたいしての屋根なんだろうね」と、夫がポツリ。?(・・;)?
!まさに岩肌にあります扉の、扉に屋根があるとしたらこの辺りかというところに屋根のようにも見える彫りが施されています。夫に言われなければ、扉にしか気づかなかったなぁ。修験のものでしょうか。
そして、御休み処が。なにもここに?と思うのはここに来るまで車で登っただけの私だから。ここまで登っていよいよ参拝の前に、足を休め、喉を潤し、あるいは腹ごしらえをする必要のある、高い山を登って登ってやっとここまでたどり着かれる、かつての参拝者たちには必要不可欠な御休み処であったことでしょう。
梅干し等のほか、キュウリの塩漬けやら、スイカやらが本当に良心的な値段で売られておりました。気持ちが揺らぐ一瞬です。
でも、車で来た私が参拝の前から休む理由などあるはずもなく。
┉進みます。夫はもとより参拝前に休む気などありません。
f(´・ω・`;)
萬年泉があります。日照りの続く渇水の時など、ここの水を持ち帰ると雨が降ったという霊験あらたかな泉であります。

手水舎が見えてきます。右手には細い細い滝が見えております。心が沸き立つような、踊るような、それでいて身の引き締まる、不思議な感覚です。矢立ての杉と呼ばれる杉のわきを通って、さらに登っていきます。

No.295 19/08/18 08:36
旅人 

石段の途中には【神幸殿】という建物があります。こちらは御神輿を納められているようです。そして、新しそうな【神門】という身の引き締まるような名前の門をくぐって、振り向き様に見上げる先には、大好きな【双龍門】が見えます。岩を山を護る龍の門、です。白木のままの門です。だからこそ、その技の巧みさがわかる、素晴らしい彫りが施されています。双龍の門の辺りでうろうろうろうろしているおはさんを、同じ日に榛名神社さんを参拝に訪れた方の何人かが記憶しているのではないかというくらい魅いられ見いってしばしこちらで過ごしていました。
さらに登ってまもなく、拝殿が真正面に見えてまいります。「四列でお願いいたします」と神社のスタッフさんが声をかけておられます。
正面にある本殿の左側は、建物の実物大の写真の写ったシートの掛けられた国祖社・額殿があります。
昨年8月から始まった補修修理工事は順調に進んでいるとのことで、国祖社は半解体状態・額殿は全解体され、木部の腐朽部分も取り換えられたようです。

四列で並ぶ列に二人並ぶ形で並ぶことができました。
柔らかなきよらかな気が拝殿の扉からあふれるように流れてきます。
うっすらと灯るのは灯明でしょうか。
拝殿の前での参拝を、二頭の紅白の龍が見守っています。
以前にも書かせていただいていますが、素晴らしい彫りが施されている拝殿、本殿であります。
本殿は、岩に直接連なって┉つながっています。その岩の高い、かなり高い位置に、どうやってつけたというのか、白い、神事のなにか(梵天?)が奉られています。これを拝見しただけで、もう、神のお力があってこその作業ではないかと思ってしまいます。榛名神社さんの神さまの人に寄り添ってくださるおやさしい御心とお力を感じます。


No.296 19/08/19 02:43
旅人 

今回、御朱印はお書き置きの御朱印紙のみとの貼り紙がありました。お盆前ではありますが、お盆休みの期間中の対応策のようです。榛名神社さんの御朱印の書き手の方は、それはそれはお美しい書、手をされています。少しだけ残念。お受けした御朱印紙はその方のお書きになられたものが印刷されたものか、それともパソコンソフトによるものなのか、判別がつかないほど、それほどまでに丁寧で整った書なのであります。
御朱印紙をお受けし、下山してまいりました。
御休み処で、今度こそなにか食べようと夫に声をかけると、「いいんじゃない?」┉日本語って、こうして文字で表すとどう考えても肯定なのに。彼が発したのは否定のアクセントのほう!「えっ⁉」
落胆が手に取るようにわかる私の返しに、「俺はいいから食べたければ食べれば?」(*T^T)
夫が手持ちぶさたに立って待つそばで、スイカにかぶり付くことに抵抗をおぼえた私は心で泣きべそをかきながら(おおげさな 笑)手頃な価格のスイカにそっと別れを告げました。
こんなとき素直に食べたければ食べて、あとに引きずらないほうがきっとお互いのためなんでしょうね。私は意地っ張りなのかな。気にしすぎ、なのかな。

そんな雑念をまだ境内、どころか神域にありながら抱く私はまだまだ未熟者。相も変わらぬ珍道中、榛名神社編、となってしまうのでありました。


     令和元年八月十一日   参拝

No.297 19/08/19 04:30
旅人 

榛名神社さんに向かう途中、群馬県高崎市箕郷町というところを車で走っていると【松之沢百観音入口】という小さな看板が目に入りました。!(*´・∀・)゚+.

みさと芝桜公園という大きな看板を通りすぎ、しばらく走行した、左側にややもすると見落としそうな小さな看板です。┉えっ⁉畑ですけど?(・・;)奥の方に車の一台停まっているのが見えます。その車は私たちの車とすれ違うように走り去りました。軽トラック。
木が生い茂り水の流れる音が聞こえます。うーん、百観音さまがおられそう。
┉百観音さま、おられません(・・;)
たしかに看板の案内通りに細い道を入ったのに┉。来た道を戻りながら、Google先生に教えを乞うと、細い道を入ってまもなく、ヘヤピンのように曲がった細い坂道を進んで行くようです。ええっ?ほんとに?何軒かの民家の私道ではないかとしか思えない道を進んでいくと、小高い丘に出ました。
あっ!ここだ。ここにあった!でも、駐車場どころか駐車スペースもない。道の端に寄せて寄せて┉まぁ、運転しているのは夫なんですけど(^-^;

入口の正面には六地蔵さまが並んでいて、中央には立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)が奉られています。



その奥に!たくさんの観音立像ずらーっと並んでおられる!
うわあ、何体おられるのだろう!?
蝉時雨です。車も通らないので、ただただ、蝉時雨の中、圧倒されるくらいの観音さまが静かに静かに黙想なされておられます。
おやさしいお顔立ちです。それぞれの観音さまがみな、表情もお顔立ちも異なっておられます。一体として同じと思われる観音さまがおられない。
いつ?どなたが、こちらの観音さまを┉?
一体一体が表情もお顔立ちも異なる、だけではなく、どうやら彫られた方も異なるように見受けられます。そんな信仰がこの辺りにあったということなのでしょうか。
お一人お一人のお顔を拝観させていただくと、どれだけの時がかかることでしょう。ですが、しばらく時を忘れて手を合わせ、お顔を拝観させていただいてしまっていました。
とんぼが止まり、小さなカエルがお身体にしがみつき、セミの脱け殻がついておられたり。
観音さまの慈愛に満ちた空間であります。
夏の代表的な風景の中にありながら、しかもこの猛暑、酷暑のなかにありながら、不思議なことに暑さも感じない、穏やかで、涼やかな空間です。 

No.298 19/08/19 04:34
旅人 


ここ、長さ30メートル奥行10メートルの敷地内に、十一面観音さま・千手観音さま・聖観音さま・如意輪観音さま・馬頭観音さまなど、実に合計133体の観音像が並んでおられるのだそうです。
造立の年代ははっきりしないようでありますが、一部に江戸時代後半の安永・寛政・享和の年号が見てとれました。

写し巡礼の目的があったかどうか。最初はそんな目的を持って観音さまの御像を納めた方がおられたかもしれません。ですが、百体を超える観音さまです。年代もお顔立ちや表情も異なる、造り手がそれぞれに異なっておられます。どちらかと言えば、時代をこえて、ここに手を合わせて生活される方々や、巡礼でここを通過された方が、なんとか自分も観音さまの御像をお納めしたいと考えて、それぞれが異なる石工に大きさだけを伝えて、どんな観音さまの御像にしてほしいか自分なりの思いを伝えて造らせ、納めた┉のではないかなぁ? 
なんて、あくまでここは私の推測にすぎないので。


偶然目にして、訪れた百観音さま。
癒され、穏やかな気持ちにしていただくことができました。
すべて御導きくださったのかもしれません。ありがたいことです。 



    令和元年八月十一日  参拝

No.299 19/08/21 22:29
旅人 

群馬県前橋市の県道40号線を走っていると、細い道を入る角に立てられた【矢島七観音】の小さな看板が見えてきます。
この珍道中を始めていなければ、走り去る景色の一コマに過ぎず、きっと目にも止まらなかった看板です。
いつか参拝させていただきたいとそこを通るたびに思っておりました。ネツトで調べると、年に二回の御開帳があるようです。二月十七日と八月十七日がこちらの観音さまの御縁日と定められているようです。そして今年の八月十七日は土曜日!
これはもう、ご縁を結んでくださるというお導きに違いありません。
┉と勝手に決めこんで。


【矢島七観音】さまに参拝させていただきました。 

大きな県道40号線=駒高線からくらべ一気に細い道になります。住宅街?お、少し大きめな食堂があります。んー。
ん?ここ?
ここ?
公民館みたいだけど?あ、お堂がみえます。
┉たくさんの赤い幟がはためいています。

No.300 19/08/21 22:46
旅人 

群馬県前橋市の県道40号線を走っていると目につく、細い道を入る角に立てられた【矢島七観音】の小さな看板があります。
この珍道中を始めていなければ、走り去る景色の一コマとして、目にも止まることすらなく流れ去っていたことでしょう。
いつか参拝させていただきたいと、そこを通るたびに思っておりました。ネットで調べると、年に二回、二月十七日と八月十七日に御開帳があるようです。そして今年の八月十七日は土曜日!
これはご縁を結んでくださるというお導きに違いありません。┉と勝手にきめこんで、行って来ました。【矢島七観音】さまの御縁日。

県道40号線=駒高線とくらべると、細い道を入っていきます。くねくねとした道、住宅街?大きな食堂が見えてきます。
ん?ここは公民館?いやいやたくさんの赤い幟がはためいています。赤い幟に書かれた文字こそが矢島七観音、であります。あ、お堂がみえます。え?駐車場がない?(;´・ω・`)

No.301 19/08/22 17:06
旅人 

「ぐるっと近くをまわってみよう」と夫。
しかしやはり近くに駐車場および駐車できそうなスペースはありません。さあ、おばさんの出番です。( =^ω^)b
停車できそうな場所で待機してもらい、矢島七観音のお祀りされているお堂のある境内へ乗り込むおばさん。( ̄ー ̄)
案の定、異質なものに対してそこにおられる方々の目があつまります。
「お詣りですか。ようこそ、お暑い中をわざわざ。」
なんと、ありがたいお言葉でしょう。
「ごていねいにありがとうございます。あの、車で参ったのですが車を置くような場所はございませんでしょうか」と、おばさん。
すると、公民館のような、建物のわきの車1、2台やっとおけそうな、┉おそらく絶対駐車場ではないでしょうに、車を置いてもよいとおっしゃってくださいました。
ありがたい。
走って、夫の待つ車へと戻り、そのスペースに移動し、車を停めさせていただきました。
みなさん、好意的なお顔で私たちを見守ってくださっておられます。
なんと、おやさしい方々でしょう。
まさに善良な老若男女が、七観音さまのお縁日を見守っておられます。
そう、こちらはすでに廃寺となって久しい、お寺跡で、こちらを維持管理されておられるのは、地元の有志の方々なのです。

No.302 19/08/23 06:24
旅人 

公民館のような建物にも十人弱、お堂のなかには八人くらいくらいの方がつめておられます。
お堂に向かって境内をさえぎるように歩きますと、境内のすみに規則的に幟が並んでいるだけではなくて境内のそこここにも幟がたてられ、はためいています。境内は砂利も敷かれていない、むき出しの土なのですが、よく手入れをされておられ、雑草一本見当たりません。
本当に地元の方々に愛され大切に保護し維持された観音様であるようです。
お堂の前にまいりますと。正面の壁いっぱいに七観音さまが安置されておられるのが目に飛び込んでまいります。大きさもさながら、距離が近いのだと思います。
お賽銭を奉納し七観音さまに礼拝させていただくと、「どうぞ中にお入りください」とありがたいお言葉をおかけいただきました。

御本尊は七観音さますべて。 
真ん中の子安観音さまだけ少し大きく、金の貼られた金色の部分がほぼほぼ残っておられます。他の観音さまは、補修なさって金を部分的に施されたのか、お肌の部分と台座、光背の部分にだけ金箔が施されておられます。あとでいただいた資料によりますと、七観音さまが安置なされておられるのは、素朴な白木の壇と、一体一体をそれぞれに区切った、上の部分のない箱状のようなものになります。大正時代に秋田杉を使ってつくられたもののようです。
子安観音さまは座像で、他の観音さまは立像であらせられます。
向かって右から、【千手観音】さま【馬頭観音】さま【十一面観音】さま、【子安観音】さま【聖観音】さま【如意輪観音】【不空絹索観音】さまが並んでおられます。
やはり、もともとは六観音さまであられ子安観音さまは後から安置されたとのことであります。

なんでもこちらは近くにある【極楽寺】さんのご住職の座を退かれた僧の隠居先の庵がもともとの始まりだったとのことであります。妻帯ご法度の時代にあり、世代交代は血筋ではなく、寺を譲るということは住まいをも譲ることとなり、こちらに移り住まれたのがこちらの始まりだったようです。
このお堂にも連名で歴代の和尚の名が記されたお位牌が安置されておりました。境内には無縫搭もあるとのことでありました。

No.303 19/08/24 01:06
旅人 

極楽寺さんの住職のおひとりが、老いて住職の座を譲り隠居後の庵をこの矢島に築かれるにあたって、六観音さまを携えてこちらに移られたのが始まりと言われています。
そして七観音となる由来となる子安観音さまは、人々の子授けと安産、子育てを願って【常盤御前】が作らせた、という説があるのだそうです。
と、常盤御前?なぜこんなところで常盤御前さまが?
常盤御前といえば、かの【源義経】のご母堂であらせられますよね?
え?



No.305 19/08/24 05:55
旅人 

こちらの境内はそれなりの広さです。もともとの廃寺以前の土地はもっともっと広かったようで、さらには隠居された僧侶はさらに土地持ちであったようでその小作料の上がりで生活することができたようです。また、こちらのそばに石川という方がおられ、お坊さまの面倒をみていたようで、こちらにあったお寺も【石川山西福院多門寺】といったようです。
廃寺となったのは、御本堂が火事で焼失してしまったことと、僧侶の妻帯が認められるようになったこと、それが明治維新の頃と重なり、政府のすすめる神仏分離もあり、ぽつんと観音堂だけが残ったということのようであります。
それでも、七観音さまの熱心な参拝者は絶たれることなく現在にいたっています。あくまでも仏事であり、子供が飛び回るようなお祭りでもなく、的屋の屋台が居並ぶわけでもありません。昔からの伝統の行事を伝承者たちが守っているといった御開帳日です。

なんでも前日には大きな長い念数珠玉をみんなでもって回しながら念仏を唱えるような行事を執り行ったということで、御開帳日の夜には紙を貼って作った四角い灯籠に灯をともし、池の水を掛けるといった行事もあるようです。
うーん 現在時刻はやっと二時。その夕刻行われる行事にはあと四時間半もあります。
しかも入院中の母親のところに夕方には行くつもりでこちらに出向いてきております。今年は無理だなあ(*T^T)


また、こちらの近くの川にたどり着いた川流れの方や、天明の浅間の大噴火で亡くなってやはり川で流れてきた方々を、こちらで懇ろに葬ってその方たちの墓を建て、またその方たちの位牌を一つ観音堂のなか、七観音さまたちのお足元に祀ってあります。
こちらの地域にお住まいの方々は、昔から情に厚く、深い信仰心が血として脈々と流れている方々なのかもしれない。
みなさん、穏やかであたたかい笑顔で談笑なされていたのが印象的でした。


 ※ちなみに、こちらには墓所はなく、その歴代の和尚さまと川で亡くなられた方々のお墓があるだけです。江戸の時代にはお寺さんに墓所はなかったのがふつうだったようですし、こちらは隠居された僧侶のお寺なので、もともとがそういったお寺というより庵の要素が強かったので。

No.306 19/08/24 07:35
旅人 

「こちらの観音さまは粘土で造られているんですよ」と、
語り部の一人のかたがポツリ。

えっ?粘土ですか?
そのとき観音さまのお足元に座っていた私は、振り返って、不敬なことに観音さまのお顔やら、絹のなびくさまをまじまじと見てしまいました。粘土で?

相変わらず神社仏閣、宗教についての初心者でありますが、粘土で造られたお仏像をみたことも聞いたこともありませんでした。身の丈一メートル近くの、見事な光背のお仏像であります。
聞いてもビンとは来ず、おそらくは触れさせていただいたところでその手触りでもわからない。
「鎌倉時代の仏像は結構粘土で造られたものが全国にあるんですよ。ただ、こちらのどの観音さまにも年号やら作者やらの記が一切なくて、鎌倉時代に粘土で造られた仏像が多いからおそらくは鎌倉時代のものだろうと云われているだけなんです。本当に鎌倉時代の作であれば重要文化財なんですけど、ね。」
そ、そうですよね。常盤御前が東北に追われた義経のあとを追って、この辺りの知り合いを頼って立ち寄ったとされる説があるので、まさに鎌倉時代ですよね。いや、鎌倉時代の作がどうのより、粘土で造られたお仏像ということだけが衝撃的な私。鎌倉時代の作と言われれば「ほおっ、ありがたい」(。-人-。)
と思うだけで時代云々はあまり関心になかったりするもので。
ちなみにこの金箔を施し化粧直しをされたのは大正の頃、一体、一体を背中に背負って修理修復のできる職人のところまで届けたのだそうです。

「その他に伝えられているものとして、大きく長い念珠と十王図があるんですがね」 
うわぁ、十王図ですか!私、いままで拝見したことがありません。いままでお参りさせていただいたお寺さんにあったとしても、寺宝であったり、涅槃図のように掛け軸を広げる日が定められていたりするのかもしれないし。
こちらの十王図も寺宝として大切に伝え守られておられるのだろうな



「よかったら是非十王図も見ていってやってください」
!!(゜ロ゜ノ)ノえっ?
ど、どこにその十王図が?あ、でも写真とか納められた箱とかでしょうか。それでもありがたい。で、どこに┉?

No.307 19/08/24 23:30
旅人 

【十王図】を知ったのは、ネットでのこと。かっぱ寺として有名な静岡県伊豆の【栖足寺】さんについて調べていて知りました。


【十王】は冥界で死者の生前の行いの裁判をする十名の王で、人間の転生先を決定するとされています。裁判の結果地獄へ堕とされる事態を免れるには、遺族あるいは本人が供養や作善を行うと裁量されると信じられていました。十王信仰は中国で成立し、朝鮮半島、日本にも伝わりました。
【十王図】は、十幅の掛け軸でそれぞれ地獄を豊かに活写しています。生きている間に仏の教えを守り、人の道をはずれることなく生きること、死後はその遺族による供養により救われることを絵解きするものであります。

こちらの十王図は、その公民館でもある建物に、そのすべてが飾られておりました。「うわぁ┉」
思わず声がでました。
年代はやはりわからないとのことで、掛け軸としての保存状態は多少よくはないかもしれませんが、絵自体の保存状態はまずまずのものだと思われます。すごいです。
これを見て地獄の恐ろしさを知り、今これからの生き方を悔い改めようと思うのにこれ以上のものはないというくらいの説得力あるものであります。
これだけのものをお寺としての機能をなくされて後も、大切に保管保護してくださっておられます。


こちらの境内には、お地蔵さまもおられ、そのお地蔵さまは通常と違い西を向いて立てられておられるとのこと。西ははるかインドを向いて立たれているのだそうです。そしてやはり二月と八月の二十四日にお縁日の御祭りをされるのだとか。

No.308 19/08/25 00:17
旅人 

【子安観音】信仰。
何年も子供に恵まれなかった方がこちらの子安観音さまをお参りされた後、すぐに子供を授かることができたということから、近隣の子供を授かりたい方がこぞってこちらの観音さまをお参りされるようになり、さらにその方々が子供を授かったことから、その名を知られることとなり、遠くからもこちらの子安観音さまをお詣りされる方が今なおおられるのだとか。
そして子供を授かったのちは、安産祈願として、こちらで おさご(神仏に捧げられたお米のことをいうようです)・腹帯・おわんを授けていただき、腹帯を身につけ、お米を炊いていただくのだそうです。ほかに授与品として御由来伝記をいただけるそうです。お縁日以外の日に授与を希望される方のために、世話人の方が授与できるよう電話番号を書いたものを境内に貼ってあるのだということです。
かつてはお灯明を上げ、そのろうそくをいただいて持ち帰り、
産気づいたときにお札とろうそくを並べて置き、ろうそくが燃え尽きる間にお産が長引くことなく無事に産まれることを願ったそうです。
安産のお礼として以前は[奉納 大願成就 元号何月何日]と筆書きした暖簾(┉さらしの端?腹帯として使っていたさらし?)を作って納めていたようですが、今は[奉納 矢島七観世音]の幟を納めるということです。腹帯として使っていたさらしは御焚きあげの際に御焚きあげするとのこと。
境内にたくさんはためいていた幟は、安産なさった方々の数ということだったのですね。

お寺でこそありませんが、人々の厚い信仰のもと、大切に大切に守られ続けている伝統の行事は、その信仰と伝統を守り抜こうとする人々の意志で立派なご利益が生まれるのだと思います。
いつまでも続けていっていただけたらいいと願ってやみません。



   令和元年八月十七日  参拝

No.309 19/08/25 07:26
旅人 

七観世音さまの帰り、夫に【極楽寺】さんにも参拝したいと申し出ました。二つ返事で極楽寺さんに向かってくれます。さすが結婚三十┉三十┉何年目だっけかな(・・;) 阿吽の呼吸、のようなときが、ごくまれにあります。ごくまれなところがいかにも私たち。
極楽寺さんは再拝。以前の参拝のおりにはなんと境内に水芭蕉が咲いていた、豊かな自然に恵まれた素敵なお寺さんです。
さあ、昨年購入した車に取りつけられたディーラーの純正ナビに、極楽寺さんの名を入れます。
┉ ┉ あのー。ここ明らかに変ですけど?お寺の裏手、ですよね。しかもこの先、私有地です、お寺さんのではない。もう一方は行き止まり。( ´Д`)=3
バックして、Uターン。もと来た道を戻ってナビの指示しなかった道を進みます。これも修行?

No.310 19/08/26 08:57
旅人 

【極樂寺】さんは、開基とされるのは864年。その後、頼朝公が常盤御前菩提のためにこちらを建立し、さらには頼朝公の所持されていた行基作とされる阿弥陀如来像を下賜され、常盤御前の廟を修営し、御前の冥福を永く祈願したとされています。古くは常盤山と号したとも伝えられているようです。
室町時代には、五輪塔、板碑、宝篋印塔が当時の豪族により建立され、現存する金剛界曼荼羅の存在などから、法儀が盛んに行われ、特に密教の灌頂道場としての役割を担っていたとされています。
徳川時代においては家光公より天下御祈祷の寺として定められ、濠を巡らせた、客殿・万日堂(念仏堂)・薬師堂・山王宮・弁財天堂・鐘楼堂、門三ヶ所の諸堂宇等がある甚だ規模広大な寺院であったようです。
それがかの明治の政令廃仏毀釈により、無住となった時すらあり、往時の建物は荒廃し、寺の什物等が多く散逸してしまったようであります。

現在の御本堂も新しいものであり、当時をしのぶものは何一つ残されておらず、唯一境内に【常盤御前の墓】とされる五輪塔があることが、当時を語るものなのかもしれません。



行基作とされる御本尊【乾漆作り阿弥陀如来像】も、極樂寺さん自体が、時代にはさらには行基作とされている点も、控えめに述べられておられてはおります。
しかし、関東や東北に乾漆像があることは大変めずらしいことなのだそうです。
乾漆像自体が布を漆で張り重ねたり、漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて造るといった、手間もさることながら、高価な漆を大量に用いるために、平安時代以降はほとんど作られなくなったものなのだそうです。
お優しいお顔立ちのそれは美しい肢体をなされた御像であります。


時代であるとか、作者=仏師であるとかは、実は宗教上はさしたる意味を持つものではないのではないのでしょうか。そこに、どれだけの信仰がなされ、大切に守られたかこそが大切なものなのではないのでしょうかね。
私はこちらの阿弥陀如来さまが大好きであります。

No.311 19/08/26 18:12
旅人 

新田義貞公同様(義貞公は御首塚ですが)常盤御前の墓と称される場所は京都市、関ヶ原、栃木県の葛生、埼玉県の飯能などなど┉数多く存在するようです。
そもそも、極樂寺の御住職からいただいた御由緒書きには
>源頼朝公が常盤御前の廟所を造営した。
とされております。
常盤御前は、義経公のご母堂。頼朝公と義経公は異母兄弟であったはず。しかも頼朝公は義経公を殺害するよう指示し、義経はそれで奥州に逃れることとなったはず。常盤御前はその義経公を追って奥州に向かったのがこの旅の始まりであったはず。その明らかに不仲な義経公の母、常盤御前がいかに腹違いの母であったとしても、頼朝公がわざわざ常盤御前の墓を建てるのはなんとも不思議、というか納得することが難しい。
そもそもが、常盤御前がどういうルートをたどって前橋市のここ、極樂寺を訪ねこととなったのか。

No.312 19/08/28 22:13
旅人 

こんなときこそ、かの私専用の名ガイド、夫の出番です。
「ねえ、どうして頼朝公が常盤御前のお墓を建ててるの?」
「さあ、わからないな。頼朝に聞いてみないと」
┉はっ?はあぁ?
そもそもが今回に関しては、彼は極樂寺さんに常盤御前のお墓があったことも知らなかったようです。
まぁ、歴史オタクといえど、そんなになんでもかんでも知っていたら、大学教授か、歴史学者になれちゃうか。


あ、そういえば、矢島の七観音の語り部の方が
「常盤御前が義経を追って東北に向かう途中こちらの親戚を頼ってこの辺りに来たときに、極楽寺に滞在していた」と話されていたんだ。
親戚。┉親戚になにか隠されたキーワードとかがないものかなあ。

No.313 19/08/29 05:44
旅人 

両親については素性が不詳。

源義朝の側室。
今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)、女子の母。
一条長成の妻。
一条能成、女子の母。


義朝公は少年時代に東国に下向しており、このときの縁もあるかもしれません。

【今若】は┉主君が頼朝公。妻は北条政子の妹、阿波局であります。阿波局は頼朝の次男千幡(後の実朝)の乳母となったとあります。
今若=阿野全成は鎌倉幕府の有力御家人として将軍家につかえた方であります。
その子孫は南北朝期までは確実に存在したことが記録に残っていて、後醍醐天皇の寵愛を受け後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔とあります。

一条長成は藤原秀衞の舅。藤原基成と血縁関係にあり、義経はその縁によって奥州に赴いたとも言われている。


わあ、拡げすぎて訳がわからなくなってしまいそう。

No.314 19/08/29 06:08
旅人 

常盤御前は、頼朝公の義理の母でもあり、今若=阿野全成という頼朝公の信頼のあつい臣下であり、異母兄弟の実母。頼朝公の実子の乳母の義理の母。
ということでもあるようでした。

まあ、きっと歴史オタクはこの辺の事実は知ってはいたのでしょうが、だからといって、頼朝公が常盤御前のお墓を建てるのはそれこそ、頼朝公に聞かないとわからない、ということになる。そういうことなのか┉。



血で血を洗うような戦国の時代。やたらと破壊したり、焼きつくしたりで殺伐としているようにしか思えなかったけれど、繋がりをひもといたり、そのなかで結びついた人と人の深い縁(えにし)。
そんなところに少し心が惹かれたりするのは、歴史オタクに影響されてるということなのかな( ;´・ω・`)

でも惜しいかな、私の記憶力は半端なく低下の一途をたどっており、さらには致命的な地理オンチ。
彼と同等に語り合う日はこないし、むしろ、馬の耳に念仏、ねこに小判、豚に真珠。
右の耳にも入らず、風と共に左に流れるという、相変わらない珍道中が続くことになるだけであります。夫よ、ごめんなさい。

No.315 19/08/31 06:10
旅人 

お堀には蓮の花が咲いていました。
以前参拝させていただきました折りには、水芭蕉が咲いておりました。

豊かな自然に恵まれた、居心地のよいお寺さんであります。
少し足を引きずるように歩かれるけれど、手にはサポーターをされておられるけれど、ちょっぴりシャイで笑われるとその笑顔が少年のようにかわいらしい御住職さまにお会いするのも、極樂寺さんを訪れる楽しみのひとつです。
┉今回、この異常な暑さのせいか、御住職に元気がありませんでした。おつらそうに一歩一歩歩かれ、書をお書きになられるのは奥でしたのでご様子はんからなかったのですが、立って朱印を捺せるように庫裏の玄関のわきに朱印を捺すところをつくられたようでした。
ごめんなさい。御朱印ひとつも大変な作業だったみたい。
でも、御住職にお会いするのには御朱印をお願いするくらいしか一般の参拝客には方法がなくて┉(´;ェ;`)

御本堂での参拝もご許可いただき、ありがとうございました。

お盆が終わられたばかりのときでしたものね。
お坊さまはどうしても立ったり座ったり、正座をされたりの日常ですし。お盆は本当にお忙しかったでしょうから┉。

どうか暑さが落ち着いたらまたお元気になられますように。



      令和元年八月十七日  参拝

No.316 19/08/31 16:07
旅人 

群馬県桐生市の【観音院】さんの、日限地蔵さまの御縁日二十四日が土曜日に重なったため、参拝してまいりました。
日限地蔵さまの御縁日には【風雅御朱印】と称された限定御朱印がございます。季節季節の花の絵をあしらわれた美しい御朱印であります。
限定御朱印にこだわるのはやめようと、御朱印をお受けし始めたときに自分で決めたのですが、どうしても心引かれて、休みがご縁日と重なったときだけ、お受けすることという自分ルールをもうけました。
今月はシュウカイドウの花の絵であります。


そんなこともあって、毎月は行かない私でありますのに、副住職さまとその奥さまは、私の顔を覚えてくださっておられ、いつもお越しくださりありがとうございますとお言葉をくださいます。
人との縁を大切になさるこのようなお仕事をされておられる方は、[人]を覚えることの能力も長けておられるのでありましょうか。
父方の┉というよりは父の眠るお寺さんの御住職さまにしろ、エピソードなり、そのとき交わした会話なり、人の特徴を大切に覚えてくださって、次の会話につなげてくださいます。


ありがたい、嬉しいと思う気持ちが、次の参拝につながり、そして、仏の教えをすこしづつ知ることにつながっていく。気の遠くなるような道程でありますが、布教するということは、そんなお坊さまの毎日の敬虔な生き方から始まっているのかもしれません。

No.317 19/09/01 23:15
旅人 

栃木県足利市の大岩山毘沙門天さまに再拝してまいりました。
今日は月に一度の御開帳日にあたり、御護摩修行が行われます。前回初めて参拝させていただきました折りには、御護摩修行の時間にタッチの差で間に合わず、「始まって間もないのでどうぞ」とおっしゃっていただけたのですが、大切な仏事の中断は失礼ですし、なによりも私がそんな参列の仕方をすることがイヤだったので、本堂の廊下で待機して過ごしました。今回は場所もわかりましたし、離れた駐車場からどのくらいの距離があって時間がどのくらいかかりそうなものなのか、余裕をもって出向くことができましたので、晴れて御護摩修行に参列することができました。


護摩(ごま)とはサンスクリット語で”火に注ぐ、捧げる、供物”などを意味する語を語源に持つ「ホーマ」という言葉を音訳したものです、この「ホーマ」はアジア一帯にみられ、3000年以上の歴史をもつと言わているとのことであります。

御護摩修行は、御本堂のなかに護摩壇(ごまだん)と呼ばれる木製の壇に据えた炉が造られており、真言を唱えながら火を焚き、香木や五穀などを捧げ、御祈願を行う修行です。大岩山毘沙門天では、毎朝5時半、そして毎月一日、正月一日~三日に御護摩修行を行なっておられます。
山伏の姿をされた副住職さまが、吊るされた鐘を打ちならして、その後御住職、副住職さまがともに法螺貝を吹きながら登場されました。炉の前には香炉や金剛杵などが置かれ、さらに御護摩に必要な仏具が置かれております。炉には四角く護摩木が何段かに積み上げられています。
ひれ伏すように礼をなさった後、真言を唱えながら、長い数珠を一粒づつ撫でるようにさわられておられました。そして塗香で身をお清めになりお焼香をされました。副住職が太鼓を打ちならし最初は一定の速度でそのうち早打ちとなる打ち方を三度なされました。その間も住職さまは鐘を打ちならし数珠をこすり、長い棒状の仏具で鐘を打ちます。また、数珠を一粒づつ拝み、副住職の吹く法螺貝の音とともに紙に火をつけそれを掴む仏具で火を炉にくべました。長い匙のような仏具で液体をかけますが、だからといって火が大きくなるような様子はありません。液体をつけた長い棒状の仏具でも液体を火にかけるようなしぐさをなさっています。
その後、細い棒を火にくべ、手では九字切りのような手の動きをなされています。



No.318 19/09/02 06:29
旅人 

御護摩修行、続きます。

般若心経を皆で唱えるのですが、そのスピードの速いこと速いこと!御住職や副住職は距離があるために声が遠く、太鼓や鐘を打ちならしていたりするため、どこを読経なさっておられるのかを探すのも至難の技。
そのとき、私を助けて導いてくれたのは、7~8歳くらいの男のお子さんでした。大きな澄んだ声で、しっかりと御住職、副住職について一字一句間違うことなく般若心経を唱えています。
そのスピード、本当に本当にかなり速いのです。独特のリズムもあります。そのお子さんはしっかりと自分のものにして唱えているということです。

山伏姿をされた副住職が御札、御守り、御朱印帳を次々と炎にかざし祈ります。その後、副住職が参拝者に一本一本小さな木の角材を手渡して歩かれました。
えっ?これをいったいどうするのだろう。
慣れた方ばかりなのでしょう。説明もないままに御内陣にむかい、一体一体の御仏像やお社、御神体に手を合わせながらお賽銭をあげていかれます。
私はといえば、先程座っていた場所にお財布のはいったバッグを置いてきてしまっており、みなさまがお賽銭をあげていかれるなか、手だけを合わせて御内陣を巡らせていただくしかありませんでした。
どおりで、読経中隣に座っていた三人の女性たちが、読経そっちのけで小銭をいじっておりました。御安置されている御仏像に過不足なくお賽銭をあげられるよう、準備していたのてすね。
読経中に不遜なことだと、少し不快に思っておりましたが、お賽銭も持たず手を合わせるだけの私も不遜な御参りとなってしまいました。


ただ、この三人の女性、こちらの護摩修行に来慣れてはいるのかとは思いますが、御護摩修行が始まってから、護摩行をなされている座のすぐそばを立って、しかも私語を話ながら横切って席につき、その後も、やれ自衛隊がどうの、誰々がどうのと普通の声の大きさでの私語がたいへん多くて、ともすればイラつく自分を鎮めるのがたいへんなくらいでした。
お寺で用意なさった御経の用紙も畳に直置き、どころかバッグまでのせている始末。一体、何をしにこちらにお越しなのか?
ただその中の年輩なかたはお経や真言にはしっかりとそのスピードについて唱えておられました。
こんな失礼な方に負けないよう、読経できるようになりたいと思う心も煩悩です、よね(^_^;)
でも、その時の正直な気持ちです。

No.319 19/09/03 05:38
旅人 

御住職は少し足が不自由なようであります。前回そうおっしゃっておられましたし、少しびっこをひかれるように歩かれます。腰も痛めておられるのか、少し前こごみで腰に手をあてるように後ろ手を組んで歩く様子が時おり見られます。お歳がおいくつなのか┉、七十代くらいでしょうか。
ですが毎日この山道を軽トラで上ってきて、朝五時半からの御護摩修行をなさっておられます。

そして、この御護摩修行で御住職がなさる太鼓!力強く、早いペースでかなり長いこと、本当に長く長く打ちならします。
これは仏事でありますので、そんな例えを申し上げてはいけないのかも知れませんが、和太鼓の名奏者のソロのようであります。
毘沙門天さまに私どもの願いが届くようにとの太鼓なのかとは存じますが、本当に人の心を惹き付ける、すばらしい太鼓捌きでありました。

仏の道を伝えていく。そんな使命を日々生きていく生きざまで伝えることのできるようずっとずっと修行を重ねた方であろうなと思います。
最勝寺さんにうかがったときも、綺麗に花が咲き、さりとて雑草ひとつない境内であり、「これから草むしりに行こうと思っていたところだからタイミングがよかったんだよ。あとちょっとずれたらいなかった」とおっしゃっておられました。
そんなお忙しいお時間を割いて、私だけのために御本堂を開けてくださり、灯をともし読経をしてくださいました。嫌な顔ひとつせず御朱印もお書きくださいました。
何より、そもそも最勝寺さんにうかがうにあたり、道に迷った私を迎えにいくとまでおっしゃってくださいました。

お寺を二か所おまもりになられるのは大変なことだと思います。
不動明王さまをお祀りし、毘沙門天さまをお祀りし。

私の器は未熟で、しかも小さなものですが、御住職からお教えいただいたお教えはしかと心に焼きつけることができました。┉と思います。┉と思いたい。欲を捨てることは難しいけれど、ひとつひとつ、一歩一歩。煩悩を打ち消すことは難しいけれど、ひとつひとつ。
そして、その気持ちを持ち続けること。┉忘れかけたら、そこに戻ろう。

そう思わせてくださった御住職さまであります。

No.320 19/09/03 22:39
旅人 

日本では、【独尊】で祀られる場合には【毘沙門天】と呼ばれ、【四天王】として祀られる場合には【多聞天】と呼ばれています。




【毘沙門天】さまは仏教を悪から守る護法善神と呼ばれる守護神の一人で、北の方角を守る神様です。また、北方の守護神であるとともに、財宝の神様であると言われています。
【仏説毘沙門天王功徳教】というお経には毘沙門天の住む天敬城では財宝や福が湧き出しており、一日に三度も焼き捨てるほどであると書かれています。



【毘沙門天さまのご利益】
毘沙門天さまは、鎮護国家、心願成就、必勝祈願、開運招福、商売繁盛などをはじめ、数多のご利益があるとされています。

[鎮護国家]
毘沙門天は東西南北を守護する四天王の一であります。そのため、毘沙門天は鎮護国家のご利益があるとされ、信仰されたと言われております。
大岩山毘沙門天も、745年の開山当時、蝦夷を睨む要衝であったと言われております。現在も鎮護国家の御祈願を行っております。
[必勝祈願]
聖徳太子をはじめ、武田信玄や上杉謙信などの数多くの武将も毘沙門天を信仰し、必勝祈願、武運長久を祈願していたと言われています。
「開運招福、商売繁盛]
毘沙門天は七福神の一神でもあり、一日に三度も焼き捨てるほどの福をお持ちだと言われており、その限りない福を惜しみなく分け与えると言われています。


そして┉この欲深きおばさんはといえば、また懲りもせず、いろいろなお願い事をしたのでありました。
ただ、鎮護国家とのことでありますことから、異常気象や自然災害、さらには煽り運転やら児童虐待などの人心の乱れを御鎮めくださるようにということもお願いいたしました。


    令和元年九月一日   参拝

No.321 19/09/10 01:15
旅人 

少彦名命さまを主祭神とされている群馬県高崎市の【小祝神社】さんに再拝してまいりました。前回は一人で参拝いたしましたが、今回は歴史オタクが一緒であります。

お優しい少しシャイな感じの女性が神職をお勤めなさる神社さんは、御朱印でも今人気の場所となりつつあるようです。

こちらはさほど広くはない境内なのではありますが、少彦名命さまがそこをちょこちょこと(失礼な不敬な表現なのですが)一生懸命お巡りになられて参拝の者をお見守りくださっているような、心弾むようなそれでいて柔らかな、穏やかな気の流れる神社さんであります。
神社さんにありがちな樹木がほとんどなく、明るい空間であります。
十月の十九日が大祭のようで、「平日なのですがよろしければ是非お出かけください」とおっしゃってくださいました。

十九日かぁ┉えっ?土曜日みたいだけど?o(*゚∀゚*)o



台風の近づくなか、小祝神社さんは穏やかな青い空の広がる風景でありました。



     令和元年九月八日(大安) 参拝

No.322 19/09/10 08:38
旅人 

青い蓮。
群馬県桐生市の【青蓮寺】さんは、なんと、この時期その名の通りに青い蓮が花開きます。
初めて見た青い蓮の花。凛とした美しさです。
まもなく年に一度の御本尊様の御開帳の日です。
そのときに合わせるように、咲く青い蓮の花。
今年も御本尊さまにお目にかかりにうかがいたいものです。

No.323 19/09/13 23:53
旅人 

今日は十五夜。

子どもたちが小さな頃はすすきを手にいれるのに苦労したり、お団子やら、果物をお供えしての一般的なお月見のお供えをしたものです。
それをしなくなったのは、舅に「十五夜のお供えをしたら、十三夜もお供えしないと片観月って言って縁起が悪いものなんだぞ」と言われたから。忘れんぼうの私が十三夜を忘れてしまいそうで、ならば縁起が悪くないようなにもしなければ間違いはない、そんななんとも味気ない理由でありました。

「月にうさぎがいる」という話も、伝説として伝えたには伝えたというくらいでしょうか┉星を見上げるのも、月を愛でるのも好きな私ではありましたが、望遠鏡でのぞいたらそんなことは嘘になってしまうし。物語の読み聞かせとして話したものです。
「月にはうさぎがいてお餅をついているんだよ」なんて月を見上げてやさしく語った母親ではありませんでした。


日本で語られている月とうさぎの話、実はインドの【ジャータカ(ブッダの前世による因縁を明かし、現世や来世についての説話をおさめたもの)】の中に納められている話が起源だと言われているのだということを知りました。


むかし、さるときつねとうさぎの3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢いました。3匹は老人を助けようと考え、さるは木の実を集め、きつねは川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えました。ところがうさぎだけ、どんなに苦労しても何も採ってくることができませんでした。自分の非力さを嘆き、何とか老人を助けたいと考えたうさぎは、さるときつねに頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだのです。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、うさぎの捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、うさぎを月へと昇らせました。



たしか、私が子どもたちに読み聞かせたお話は具体的に帝釈天さまとではなく、神さまとなっていたよう思うのですが、いずれにしても月のうさぎはブッダの前世だったということとして伝えられていたものが元のお話だったとは。



今、外に出ても残念ながら月は雲のかげでありました。

どうかせめて、このたびの台風で電気の復旧が今なお立ち遅れている地域にお住まいの方々の上にはやさしい十五夜の月が明るく照らしてくれていますように。

No.324 19/09/14 22:29
旅人 

御朱印を集めて、年月だけは経ちました。

ご年配でやはり御朱印を集めておられる知り合いのご年配のご婦人は、まさに正当派で毎日般若心経をお唱えして、写経をし、霊場を順番に巡礼されておられます。
毎日写経をされておられますから、御朱印本来の姿であります、納経しその印として御朱印をお受けになる、というまさに【納経帖】。秩父は二回、板東は今、二度目を廻られている途中で、この夏は西国三十三カ所観音霊場に訪れておられます。七十代後半か八十代。ご主人を亡くされてから始められたことだとおっしゃっていました。ことしの元旦は富士山で御朱印を受けてこられたとか。息子さんと二人の行脚だそうです。息子さんは毎週毎週、土日の休みのたびにどこかしらにお連れになっておられるようで、本当に仲のよい、そして親孝行な息子さんであります。

まだまだ雑念だらけな上に、しがらみも多くて自由にあちこちに出かけられる歳には至らないのが、私の現状。
ですが、そもそもが自分探しのクエストであります。
あせらない、あせらない。
仕事もいま、焦らない、焦らないを胸のなかで唱えながら仕事をしております。

No.325 19/09/18 18:19
旅人 

「いつなら行ける?」
「十和田の秋を見せたいんだよ」

そう言ってたじゃない。

なんで、十日に亡くなってるの?
初七日も終わって、もう空に行っちゃったんじゃない!
知らなかったよ、全然。
奥さん、焦躁しきってたよ。
買ったばっかりの八十万円のカメラで、まだそんなに写真とってないじゃない。


そっか┉息子さんの待つところに旅立ったんだね。
息子さんの眠るところに添い寝に行ったんだね。


お疲れさまでした。
どうか安らかにおやすみください。


寂しい秋になりました。

No.326 19/09/19 06:03
旅人 

┉取り乱したレスを申し訳ありません。

私、葬儀に参列したことはさすがに何度もございますが、中には亡くなられたご本人とは面識もなかったり、お付き合いのなかったご近所さん等、どうしても亡くなられたご本人さまを偲ぶ術のないご葬儀も多くあることも事実であります。

そして、両親の離婚により大好きだった祖母、祖父、何よりも実の父親の病んで入院したことところも知ることすらなく、最期のときに立ち会うことも、葬儀・告別式に参列したことがないという、人と異なる歩みかたをしてきた者です。

慕っていた方、親しかった方が亡くなられたときの、心のもちようを学習せずに、その度に取り乱し、引きずって今に至っていたことを改めて思い出しました。



人には出会いがあり、必ずや死という形での別れがあります。
送り方、送られ方を学ぶのも大切な修行であるようであります。

No.327 19/09/20 22:25
旅人 

よく晴れた暑いくらいの昨日、群馬県前橋市の【前橋東照宮】に参拝いたしました。


【東照宮】といえば、【東照大権現さま】=徳川家康公を祭神とされた神社で、言わずと知れた世界遺産日光東照宮があり、江戸時代には全国に五百を超えた東照宮が存在していたようです。群馬県にも、【前橋東照宮】、【世良田東照宮】、【徳川東照宮】と三社の東照宮が現存しており、中でも世良田東照宮は、元をただすと徳川二代将軍秀忠公が日光に最初に建てたお社で、それを移築したとされる由緒あるもののようであります。

前橋東照宮は【徳川家康公の孫にあたる松平直基公】が建立したものです。直基公を初代とする松平大和守家は、前橋東照宮と前橋市朝日町にある【孝顕寺】を伴い、実に12回もの転封をしていることから「引越し大名」という呼び名でも知られています。
まさに今、映画化され公開中の【引越し大名】のモデルであります一族が建立して共に引越しをしてきた神社であります。
二年前【前橋四公祭】というイベントに参加し、その松平大和守家について、かなり詳しいお話を【孝顕寺】さんの副住職さまに伺う機会をもたせていただくことができました。実際に前橋に在位していた期間はさほど長いものではなかったようです。



前橋東照宮は日光のものとは異なり、質素な白木の造りのお社が年を経たお社であります。

訪れたときはちょうど十一時くらいだったかと思います。社殿横を歩いておりましたとき、拝殿からなにかを手に掲げ持つ宮司さまが本殿に向かう姿がみえました。平日ではありましたが、どなたかがご祈祷をお願いでもされたのでしょうと思っておりました。
三方に御供物を捧げて、太鼓をたたく様子が見てとれました。
しかし、拝殿には宮司さまの姿しかありません。これは┉。日々毎日行われている神事のようです。
生まれて初めて、日々行われている神事を拝することができました。
感動、です。無人になってしまった神社さんも多いなか、この東照宮では毎日毎日欠かさず行われている神事があるのです。
拝殿前には穂を垂れた新米が陽の光を浴びてキラキラと光っています。
その後、宮司さまは竹ほうきのゴミを手で除き、お掃除を始められました。
くるくると動き回り、あちこちを浄めておられます。
この方のお書きになられる御朱印のお手の美しいことといったら!



No.328 19/09/21 17:39
旅人 

前橋東照宮さんの社務所は、大変近代的です。
フロントのような御朱印や御守り等の授与所、御守りや御朱印帳はガラス張りのショーケースの中にあります。

ロビーがあり、ソファーやローテーブルがあり、天然水のウォーターサーバーがあります。授乳室もあります。思わず、ここはどこだっけと思うくらいに美しく立派なトイレがあります。
ロビーには大型画面のテレビがあり【徳川家康公】のアニメーションDVDが映し出されています。そのテレビを囲むように、映画引越し大名の主人公【松平直矩公】の陣羽織と軍扇や、絵画や文芸に大変造詣のあった十一代の所持していた能面が展示されています。

テレビの大画面の大きさをも超え、その展示物を含むガラス張りの展示棚には、御手杵(おてぎね)の槍のレプリカが飾られています。
レプリカであるのは、東京大空襲で本物が焼失してしまったためであるようです。
御手杵の槍は「天下三槍」と呼ばれた名槍の1つであったようです。室町時代に下総国結城の大名・【結城晴朝】が作らせ、その養嗣子・【結城秀康(実父・徳川家康)】に伝わり、【秀康の五男で結城氏の名跡を継いだ直基】の子孫、【松平大和守家(前橋・川越松平家)】が受け継いだものでありました。
駿河国嶋田の刀工、五条義助が鍛えた大身槍であったとのことであります。実際、レプリカ、たいそう大きい!これを槍として使える?と思うくらい大きく長いものであります。
ちなみにこのレプリカ、松平大和守家現当主が依頼作成したものを寄贈したものであります。
さらにはロビー反対側にはたいそう立派な神輿が飾られています。徳川の紋が数えきれないほどについた大きくて立派な神輿であります。

歴史って、すごいなぁ。
徳川家康公の子孫、現存しておられますし、こんな身近の神社さんやお寺さんに普通に参拝されております。



ちなみに、前橋東照宮は前橋城のあったところのすぐそばにあります。明治四年に川越から移築してきたそうです。


境内には祓川という小さな川の流れがあり、人形を流すようになっていたり、日本で最初の車のお祓い所を設けた神社さんということで新しくて立派な車のお祓い所もあります。
古来よりのものは大切に、そして新しさも採り入れて、何よりも一生懸命神事に勤しむ宮司さまのおられる前橋東照宮、私は大好きであります



      令和元年九月十九日  参拝

No.329 19/09/21 18:57
旅人 

お彼岸をむかえ、両家のお寺さんにお墓参りに行きました。
嫁ぎ先のお墓は一番乗り┉なのか、今回私どもしかお参りするものがいないのか┉大掃除をさせていただきました。

私の祖父母や父の眠る墓は、お寺さんがいつも定期的にお掃除してくださっていて、いつ行ってもきれいに草がむしられ、枯れた花は撤去してくださってあります。
いつものように祖父母や父の名前の戒名の彫られた墓石の面をタオルで拭こうとして、新しい戒名が彫られていることに気づき、思わず声をあげました。
「あ、俊おじさんが亡くなっている。」
┉今はもう見かけることもなかった新しい卒塔婆が立てられています。普通ならそこから気づくようなものを、まるで卒塔婆に目がいかなかった。
優しくておもしろい、芸達者な叔父さんでした。時々、今どうされているか気になっていた方でした。
自分の父の葬儀にすら出ることがかなわなかった私に、叔父の亡くなった連絡などくるはずもなく。とうとう中学生の時別れたのが、最後となってしまいました。祖父母と私を、遠くの親戚の家まで運転して連れていってくれた人でした。
「今までこのお墓を守ってくれていてくれたんだね。ありがとう、お疲れさまでした」声に出してお礼を述べました。
┉そしてもう一つ、このお盆にお墓参りしたときには刻まれていなかった名前が一つ、父の戒名のとなりに並んで彫られておりました。
誰?
心当たりがありません。名前も年齢にも┉。

┉父の再婚相手の方?

でも、自分でこのお寺に墓所を買って、父の亡骸を葬っていたじゃない?だから、このお墓には本当は父の遺骨はないということであったし。

動揺。
┉まあ、父の妻であります。本来そこに入るのは当然でありましょう。ですが、父の遺骨をここに納めることに納得されず、新しい墓所を作りそこに納骨したと、叔母から姉が聞いています。叔母は悔しくて、喉仏をとって祖父母の眠る墓に納めて、長男である父の名を戒名を墓石に彫らせたと聞きました。
私は骨を分けられてしまった父が不憫でありました。
なのに、何故今さら?
その方は亡くなられて五年以上が経過されておられるように、墓石に彫られておりました。


私は動揺した心を納めるすべが見当たらず、その再婚相手の方の建てた父の墓所を見に行きました。┉墓じまいされていました。 

ようやく一つの身体になれた父を喜ぶとしよう。





No.330 19/09/21 19:07
旅人 

なんとも落ちつかぬ気持ちを自分なりに懸命に鎮めながら境内を歩きます。
私は、もうこちらのお墓参りには来ないほうがいいのかな
そんなことすら考えながら┉。

そんな帰り道、御本堂前で、御住職が満面の笑みでご挨拶くださいました。
「またお参りくださったんですね。ありがとうございます。」
┉ああ、もう私の顔を覚えてくださっておられるのだ。ありがたい。
「叔父が┉○○が八月に亡くなっていたのですね、その節はお世話になりました」
「ああ┉そうなんです。┉連絡がいかなかったんですか」
「私は父の葬儀にも出ていないので」
「┉そうでしたか┉。ですが、こうしてお参りくださる。是非またお参りにお越しください」
お互いが深々とお辞儀して、御住職は本堂に向かわれました。

御仏は、波立つ私の心を落ち着かせるために、御住職をつかわしてくださいました。

私の幼い頃から私を見守ってくださっていた御地蔵さまが、あの頃と同じように、やさしいお顔でお立ちになられておられました。



     令和元年九月二十一日  参拝

No.331 19/09/23 22:39
旅人 

上毛三山のひとつとされる【赤城山】。
赤城山を御神体とされる【赤城神社】さんは、群馬県だけでも51、全国でも約500社あると言われています。
その本宮はどこかということで山頂にある【大洞赤城神社】さん【三夜沢赤城神社】さん【二之宮赤城神社】さんのそれぞれが、上野國二之宮の赤城神社であると言われているようで┉(・・;)


それに対して大洞赤城神社の宮司さまがおっしゃられたというのが         
「すべての神社が、一つの本社から分かれたという訳ではありません。
お寺の場合ですと、本山があり、そこから分かれて分院が造られます。
赤城神社のような山岳信仰の場合、その信仰変遷過程から「本社」は存在しません。
自然崇拝の信仰がまず生まれ、神社という建物は後から造られたのです。本社から神様を分けて神社が造られたのではなく、神様が先で建物が後なのです」


ご神体自体が山なので、さまざまなところで赤城山への信仰が発生し後に赤城神社になったということのようです。
群馬県内に赤城神社が多いのはいろいろな地点から山が見えるところが多いからなのだそうです。
赤城神社のご神体は【赤城山】ですから。
なるほど┉

そして【山岳信仰】は最も古い信仰のひとつで、原始信仰とも呼ばれているようです。縄文時代もしくは弥生時代には、すでに信仰されています。弥生時代には農耕が広まり、山そのものに加え、水に対する信仰が加わります。水は山から里に流れ、米作り、何より生きて行くために必要ですから、水、湖も山岳信仰の重要な一部なのです

ご神体は赤城山。山であり、木であり、岩であり、湖であり、赤城山の全てがご神体。


はじめ、神社という建物はありません。神様は空の上に住まわれ、地上に一番近いところ、山に降りて来られると信じられていました。
お祭りの度に、人々の住む里にお招きし、祭りが終わると再び神様の住む聖地にお送りしたのです。

農耕が盛んになると、豊作を願い、そして、感謝のお祭りを行います。祭典が多くなるにつれて、次第にお祭りをする場所が特定されるようになります。この祭場が後に『神社』に発展して行きます。

No.332 19/09/24 01:33
旅人 

そして神様の住む山頂の神社『山宮』と集落の神社『里宮』の関係が出来ます。集落の安全を護っていただくために、人々は里宮にお祀りしたのです。
そして神様は『山宮』と『里宮』を往来するという信仰が生まれます。


赤城山頂にある赤城神社は、昭和45年に現在の場所に遷宮されたそうですが、以前は大洞にあり、806年(大同元年)に建てられたといいます。というより赤城山のあちこちにいくつもの神社があり、そのすべてが合祀されたのが今の赤城山山頂にある赤城神社さんのようです。

まぁ、あくまでも大洞赤城神社さんのおっしゃったお話ですけれど。


そんな【赤城神社】さんに参拝いたしました。
社殿は遠くからでもすぐにわかる真っ赤なものであります。沼というよりは湖の中に、せり出した土地に建てられています。
こちらは、御朱印というよりは御朱印帳で有名な、というよりは人気のスポットとなっています。

十二単の姫ぎみが見返るように舞う姿の刺繍のほどこされた、それはそれは美しい図柄のものと、社殿を真正面からとらえた図柄に啄木鳥橋と呼ばれる美しい長く赤い太鼓橋を描いた表紙のものが二種類、朝焼けの中にそびえるような金色のものと、春の青空の中にそびえるような淡い青色のものがあります。
さらにすごいところは、四季折々に、十二単の姫の表紙のものが背景の色と図柄を変えての限定御朱印帳が頒布されるのです。
また、御守りも、その十二単の姫ぎみの四季折々のものや、四季折々の赤城神社や赤城山の景色のもの。流鏑馬を描いた図柄のものや、弓をかまえた女官の姿の図柄のものなどたくさんの美しい図柄の御守りがあるのです。
授与所は常に並んでいる状態。
その限定御朱印帳を手にされている方がほとんどです。

No.333 19/09/24 08:39
旅人 

実は、このところ体調がいまいちであります。鈍痛がずっと続いていて、ロキソニンを一日三回飲んでおります。

それが赤城神社さんに参拝を済ませた時分から、ふと気づくとその鈍痛が鎮まっています!
赤城神社さんは他の神社さんのようにたくさんの神さまがたがお祀りされておられます。ただ、女性の願いはかなえていただけるということが言い伝えられている神社さんのようであります。たしかに私、原因のわからない鈍痛が不安でその病の平癒をお願いいたしました。
久し振りに鈍痛から解放され、たいへんありがたかったので、感謝の念からなかなか境内を去りがたくおりました。まあ、実際には赤城山自体が神域でありますので境内におらなくてもよかったのかとは思うのですが┉。実際、下山して赤城山からかなり離れると、昼に追加のロキソニンを飲んだにもかかわらず鈍痛が戻ってまいりました((*T^T)



赤城神社さんにおられる赤城大明神さまは女神さまであられるようでありました。流鏑馬や徳川の御紋があるため、御祭神をあまり詳しく知らぬまま、参拝をさせていただいておりました。
帰宅して、さきに書かせていただいたように赤城神社について今さらながら調べました。
長い長い歴史ある神社さんでありますので、御由緒も伝説もいくつも存在しておりました。

No.334 19/09/27 17:47
旅人 

赤城神社さんは赤城山に点在していた神社を合祀なさったということもあり、いく柱もの神さまがお祀りされておられます。

神さまがたのことを少しでも理解できたらと、本を読んだりするのでありますが、振ればコロコロという音が鳴りそうな脳みその私には記憶することができず、脈々と続く神代の流れのなかでのつながり、神さまがたの長い御名前、次々と難題のみが立ち塞がる状態であります。


今回、赤城大明神さまについて何度も何度も読み返し、自分なりに解釈してみたのですが、いま、おられます赤城大明神さまは二代目になられるようであります。
それにもまた、長い長い伝説があるのですが、そもそもの初代であらせられる赤城大明神さまは、当初、上野國の一之宮でありました赤城神社の立ち位置を、他国(日本ではない、狗留吠國)から故あってお越しになった財(宝)の神であられる抜鉾大明神さまにぜひとも上野國に末長くおとどまりいただきたいと、抜鉾大明神さまにお譲りしたという伝説があります。

また、二代目となられる赤城大明神さまにその居場所を譲られた経緯も、本当にお優しい御配慮からでありました。
初代も二代目も、ともに女神さまであられるようであります。


なおこの上野の國は、赤城大明神が一之宮でしたが、赤城は二之宮と成り、他国の神である抜鉾大明神が一之宮となりました。 

あるとき赤城大明神が絹の機織りをするうちに、生糸が足りなくなってしまいました。その折「抜鉾大明神は財(宝)の神なので、生糸をお持ちであろう」と「貸して頂けないか」と頼みます。抜鉾大明神は快く承諾してくださいました。
赤城大明神は、たいそう喜ばれて絹を織り終え、
「これ程に豊かな財(宝)の神を他の國に移らせてはならない」と、赤城大明神は一位の座を抜鉾大明神に譲り、当國に末永く留まり頂くために、二位の座についたという言い伝えがございます。

民にとって何が大切なものであるかを冷静にとらえ、ご自分の立ち位置さえ下に下げることも厭わない。


そんな神さまであられました。

No.335 19/09/27 18:00
旅人 

これは現赤城大明神さまの伝説であります。


高野辺大将家成という公家がおりました。
ある時、無実の罪で、上野國勢多郡深栖という山里に流されてしまいます。
そこで、年月を過ごすうちに、若君一人、姫君三人を儲けました。
若君が成人された折、都に上がり母方祖父と共に、帝にお目通りする事が叶い仕官を許されたのです。

三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたのですが、母君が三十一歳の春に亡くなってしまいます。
姫たちは、それぞれ十一歳、九歳、七歳でした。
父高野辺の大将は、世間の慣習もあり、人々の世話でその年の秋、信濃国更科郡の地頭・更科大夫(宗行)の娘(更科の後妻)を後添えにしました。容姿は前妻ほどではなかったものの、十人並みに綺麗な人でした。
後妻にもやがて女子一人が生まれます。それが三歳の頃、都から勅使があり、高野辺の大将は帰京を許されます。

高野辺の大将は昼夜を問わず忠勤に励んだので、帝は感心して、上野国の国司とした。
任国に下る前(京にいる間)に……と、前妻の三人の娘に、公家や大臣との縁組を決めましたが、帝が秋の間だけ都に留まるよう命じたので、高野辺の大将は三人の娘のそれぞれ乳母に、「秋には姫たちも都に上るように」と、装束の準備なども命じる手紙を出します。

こうした動きに対し、更科の後妻は、「先妻の娘の方が格が上になる」と思いこみ、継母と継子の仲が悪くなりました。
(仲が悪くなったからか、婚儀の支度の都合か、既に高野辺の大将が都に行った時からか、この後、三人の娘たちは各々養母(乳母)の家に住まいして出て来る)

後妻は、「三人の娘を殺し、自分の娘を都に上らせ、太政大臣か関白の妻とすれば、自分の一門が繁昌する」と考えます。
そこで、弟の更科次郎(兼光)に、
「前妻の三人の姫君たちは、何れも楊貴妃や李夫人のように美しい。あなたに嫁がせようとしたが、『田舎のきこり男で、姿も山猿。見るのも聞くのも嫌』と言われて悔しい」と言いました。

更科次郎は前後を顧みない命知らずの荒武者で、何でもすぐ腹を立てる者でありました。姉の言葉に地団太し歯がみして、復讐を口にした所に、さらに姉(更科の後妻)が入れ知恵してそそのかしました。



続きます。

No.336 19/09/28 05:30
旅人 

更科次郎は、「国司からの使い」と称して、赤城山で巻狩りをすると触れ回り、川より東の男を集めました。
その中から射手を選ぶふりをして、長女・淵名姫の乳母の家の淵名次郎(家兼)と、次女・赤城姫を預かる乳母の家の大室太郎(兼保)を捕らえて縛り上げ、黒檜嶽の東、大滝の横枕、藤井の谷で切り殺してしまいます。

その晩、淵名の宿に押し寄せ、乳母、淵名の女房と淵名姫を捕え、利根川の倍屋淵に沈め、殺してしまいました。
淵名の姫君は、神無月の初めに十六年の命を落とされてしまったのでした。

その後、大室の宿に押し寄せたのですが、大室の女房は、取るものも取りあえず姫君を肩にかつぎ、後ろの赤城山に逃げました。
しかし大室の女房は、山に入ったものの道に迷ってしまいます。
大室太郎の宿に押し寄せた賊は、三方に火を懸け、南に開けられた一方より逃れ来る人々を、次々に切り殺し、打ち殺したのでした。

山へ逃げ入った大室の女房は、男の従者も連れずに、夫の切り殺された黒檜の嶽を尋ね、岩の間を伝わり石の細道を登りつづけました。峰に上り、呼べど叫べど、答えはなし。谷に下りて、赤城の姫君と共にさ迷いました。
「大室殿、どうか昔の声を今一度お聞かせください。」と悲しく叫ぶも、聞こえるのはこだまのみ。大室の女房につづき、姫君もか弱き声にてつづけた。「あなたに、この様な不幸に会わせてしまい、悲しい限りです。山の護法神・木々の神々よ、私たちの命をお召しください。」と。
すると、大瀧の上、横枕の藤井という所で、美しい一人の女性が、谷の方角よりやって来ました。
「驚くことはありません。あなた方に会いに参りました。」と、懐より菓子を取り出し二人に勧めました。
口に含むと、その味は、今までに食べた事のない味わいでした。これで、疲れも癒されたのです。
山に逃げ入ってから、五、六日が過ぎ大室の女房は亡くなってしまいます。
墓に葬ることも出来ませんでした。


続きます。



No.337 19/09/28 06:33
旅人 

姫はその屍に「どうか私もお連れください。」と添え伏して泣いておりました。
そこへ、赤城の沼の龍神が現れました。その姿は美しい女性でした。 
「この世は、命はかなく夢、幻のようであります。竜宮城という素晴らしい処へと姫君を案内します。」と姫君をお連れになりました。
┉そしてその後姫君は赤城の沼の龍神の跡を継ぎ、赤城大明神となったのです。大室太郎夫婦も、従神となりました。


一方、伊香保太夫のもとに預けられていた伊香保姫は、太夫が九人の子供たちと三人の婿で挙兵し、伊香保にはいるすべての道を守ったため、更科二郎の賊と化した者たちは伊香保の地に入ることすらできず、事なきを得ます。


継母の更科と次郎とは、伊香保姫の殺害こそかなわなかったものの、予定通り事を終えたと、のうのうと月日を送っていました。


一方大将は上野の國の国司に赴任することになっておりました。
上野國数千騎の軍勢は大将を迎えに赴き、駿河の國で落ち合います。その夜、国での様子が詳しく伝えられ、国司は大変驚かれ、嘆き、その後は、何事も話さず、ふさぎ込んでしまいます。

深栖の城に到着した国司は広縁に伏して「淵名姫は何処に、赤城姫は、おられるか、私を残し三人の子は、どこにいったのか。」
「知らぬ山道に、赤城の姫君は迷い、獣の餌食になったかも知れぬ。
行って見ても辛かろう。」と、淵名姫が、倍屋淵に沈められたという倍屋淵に、旅装束のまま向かい、河岸に下り立ちました。
「淵名姫は居らぬか、私だよ、昔の姿を見せておくれ。」と叫ぶ。
すると、波の中から姫君が、父と別れた時のいでたちで淵名の女房と手を取って現れました。姫は、
「継母から恨みを受け、淵の底に沈められてしまいました。
しかし、亡くなられた母が、日に一度、天上界より下り、この淵と赤城山に通ってくださいます。
また、私も神仏の御導き、御法を説いていただき、前世の罪や穢れも消えて、赤城御前も私も共に、神となりました。」
「必ず父上もお導きいたします。」と云うと、赤城山の上より紫雲が倍屋淵を覆い、美しい音楽が奏でられてまいり、姫君は父上に別れを告げ、多くの仏さまに交じり、その雲に入って行ったのでした。
国司はこれをご覧になり「わが子よ、私も連れていってくれ」と倍屋淵に飛び込んでしまったのでした。




続きます。

No.338 19/09/28 07:15
旅人 

群馬郡の地頭伊香保大夫は、河の西の足早で知れた羊大夫を呼び、二人の姫君と大将の自害の事を都に知らせました。
この羊大夫とは、午の刻(11:00~13:00)に上野国の多胡の荘を出て都に上がれば、羊の刻(13:00~15:00)には用向き終え、申の刻(15:00~1700)には国元に帰るという神業をもつ者でありました。
16:30頃にに上野国群馬郡有馬郷を立ち、日没には三条室町に到着しました。

大将殿の嫡子、左少将殿は中納言の職にありました。
二人の姉の死、父親の大将の自害の知らせにただただ驚き、取る物も取り敢えず、その夜の丑の刻中半(真夜中2:30頃)に、三条室町の館を出発し、東国へ下ったのでした。

急な事であったので、主従七騎だけでの出立でした。
帝は此の事を聞き、中納言の慌ただしい出発を、不憫に思われました。
帝に知らせずに出発したため、何もしてやれなかったと、都で一番の早足の者を呼び、「東海・東山道諸国の軍兵は、高野辺中納言が、東国へ下る道中を護衛するように」と命じたのでした。
また、帝は中納言を新たな国司に命じたのでした。
都一の足早の者は、中納言より先に走りおふれを知らせ廻りました。
中納言が都を出る時は七騎でしたが、美濃の国青墓宿に到着した時は、その数、一千騎になっておりました。
参河国八橋に到着した時には、三千騎余りに。
駿河の国神原宿に着いた時には、一万騎余りに。
足柄山を越え武蔵の国府に着いた時には、五万騎余りにもなったのです。

一方上野國国司、義理の息子の下行を知った、更科次郎と継母の女房は、信濃へ逃げようとしたのですが、伊香保大夫が碓氷と無二の峯に関を設け、周りを固め守っていたので、逃げ出すことも出来ませんでした。



続きます。

No.339 19/09/28 08:02
旅人 

中納言は深栖の御所に入るや、兵に命じ、更科次郎父子三人を捕え、庭先に引きたて子細を問いただしたのでした。
その後、子供二人は、赤城山黒檜岳東の大瀧の上、横枕、藤井の谷で切り殺し、首を古木の枝に懸け、淵名次郎家兼・大室太郎兼保、二人の後生の修羅の身代わりとして手向けました。
更科次郎を戒めようと倍屋淵に引き連れ、船より下ろしては挙げ七十五度も挙げ沈めし責めたてました。
命知らずの荒くれ者も大声を挙げ、首を落とせと叫ぶ有り様でありました。
国司は、「淵名の姫・淵名の女房もさぞ悲しくつらい思いをした事だろう。更科よ、我を恨むこと無かれ。」と首に石を付けて淵底に沈めさせました。「継母の女房も同じ淵の底に沈めようと思ったが、父が思いを寄せ、義理の妹の姫もいることだから、無情なことも出来まい」と、女房と娘を国許の信濃の国に追いやったのでした。
信濃の人々も皆、継母を爪弾きにし、疎まぬ人はおりませんでした。
継母の女房は、泣く泣く更科の父のもとに行きました。そこで更科の女房の親たちは、親子の仲であればと、疎みながらも面倒を見ておりました。

信濃國の国司は、上野國の国司とは大変親しい間柄でした。
「中納言は不思議な事をする。父・姉妹の仇の命を助け、わが信濃國へ追い払うとは理解できぬ。また、このような極悪人を養う親も鬼である」と、親である夫婦共、殺してしまいました。
しかし、肝心の女房は何処ともなく消えてしまい、その後、甥の更科十郎家秀を頼って現れたのです。女房は、
「父母を始め、一門は一体何故に破滅させられたのか」
甥は「お前のためだ」と言い放ち、編駄という物に乗せ、女房と娘二人を更科の山奥の宇津尾山に捨ててしまいます。
おりしも、その夜、夕立が起こり、母子ともに雷に打たれ死んでしまいます。
このときから、この宇津尾山は、彼が伯母を捨てた事により、伯母捨山と云うようになったのでありました。


上野國の国司は、父と妹が亡くなった跡を崇め神社を建てました。
次に、赤城の沼に行き山に登ります。黒檜山の西麓の大沼の岸に下りて、祭祀を斎行しますと、大沼の東岸、障子返しという山の下より、鴨が向かって来ました。
その左右の翼の上には、煌びやかな御輿があり、妹の淵名姫と赤城御前が乗り、その後ろに淵名の女房と大室の女房が、御輿の左右には淵名次郎と大室太郎が立っておりました。



続きます。

No.340 19/09/28 08:38
旅人 

国司は涙に咽び、二人の姫君も兄御前の袂に飛び込んで、「私たちは、この山の神となって神通の徳を得ました。妹の伊香保姫も神道の法を得て、現生の人々を導く身となりました。」と語り涙を流せば、国司もまた声を上げて泣きました。
そこへ、母御前が紫の雲に乗って三人の子供たちの処へ下りて参ります。母は「皆嘆く事はありません。何事も前世からのさだめです。今は、この世の人々の幸福を願いなさい。」と言って天に上がって行きました。
二人の姫も帰り、国司は姫たちを乗せてまいられた鴨に「どうかこの湖に留まり、神様の御威徳を現し、後の世の人をお導きください。」と懇願したのです。
鴨は国司の願いを聞き、大沼に留まり島となったのです。
これが小鳥ヶ島です。

 その後、国司は大沼を出て、小沼の岸を歩くと父の大将が現れ「子供たちの行く末を見守るために、ここに留まっている。」と語り続けて泣いておりました。国司も涙の袖を絞り、共に泣きます。
国司はここに留まり、数千人の大工たちを集め、大沼と小沼の畔に神社を建て、神々をお祀りしたのです。


赤城山を下り、国司は群馬郡の地頭、有馬の伊香保の大夫の宿に到着します。
妹の伊香保姫は、急いで国司の元に走り寄り、兄の膝に額を付けると、そのまま気を失ってしまいます。
国司も共に気を失いますが、伊香保大夫の女房が慌てて近寄り、左右に呼び動かせば二人とも目を覚まし、国司が仰いました。
「今は、私たち二人だけになってしまいました。私は都に戻るので、この国の国司職を姫に差し上げましょう。伊香保大夫を後身として、すべての政治を正して、この国を平和に治めなさい。」
伊香保大夫と女房も「この姫君のお世話は、十分にいたします。他でもない、妻の弟の高光中将殿を婿に取り、国司職は伊香保姫と共に行いましょう。」

その後、国司である兄は都に戻り、伊香保大夫は国司の後見、その後代理職を務めたのでありました。



赤城の山に残された悲しい切ない伝説であります。
赤城大明神さまはお辛い思いをなさり亡くなられた若き姫君であらせられました。それを救ってくださった初代の赤城大明神さまと、天上人となられた母君、神仏のお教えをしっかりと受け継いだお優しい神さまであらせられます。

参拝の折、私の痛みを取り除き、赤城山の初秋の景色を楽しませてくださいました。


    令和元年九月二十二日  参拝

No.341 19/09/28 21:38
旅人 

平日のお休み。まだまだ暑い今年であります。
それでも真夏の暑さでもなく、寒さの頃もまだ先の今、片づけには最適な季節です。「これを捨てて、んーこれはどうしよう」
バタバタと片づけごとをして掃除機をかけて一息ついたとき、ふと今日が二十四日であることに、いまさらながら気づきました。

「お地蔵さまの御縁日だ」時計をみると、十一時。
┉どうしよう。午後からは病院の検査の予定があります。もちろん御朱印さえお受けしなければ、充分間に合います。一瞬のためらいののち、やはり参拝にうかがうことに決めました。
副住職さまの奥さまの「あ、こんにちは」という笑顔と会うために、御本堂で心を静めて、またいい方向へいい一歩を歩みだすために。
日限地蔵さまとつながった五色の紐を手にかけ、地蔵堂で日頃の感謝をお伝えし、今困っていることが上手く解決できますようにお祈りさせていただきに。


御本堂で御焼香し、御朱印の受付にふと目を向けると[待ち時間二十分]と書かれています。「に、二十分?!」
四時間町と言われ、実際には五時間近くかかったことがあったくらいです。ありがたい。
日限地蔵さまの御縁日限定の風雅御朱印は、それはそれは綺麗な絵手紙風の御朱印であります。「ワクワク❤」
二十分あれば心の間で般若心経をお唱えすることも可能であります。
なんと、タイミングよくことが運ぶ日でありましょう。

塗香を手にとり、身を浄めて、心の間に置いてあります経本を手に覚束ない読経をいたしました。


この日、癌の精密検査をいたします。
そんなドキドキを鎮めるにはまさにお導きとしか思えないタイミングで御縁日であることに気づくことができました。御本堂でご本尊さまに一番近いところで読経をし、日限地蔵さまには御灯明をあげて。
ゆったりとした御本堂のなかでゆっくりとした豊かなときを過ごすことができました。
ありがたいことであります。
おかげで、ゆったりとした気分で検査にのぞむことができました

結果は┉十月にはいってから。
今は静かに、結果をまちます。



    令和元年九月二十四日  参拝


あ、ちなみに八月の風雅御朱印はアザミ、でありました。

No.342 19/10/01 00:32
旅人 

とりあえず、二ヵ所の誤字、誤りがありました。お詫びして訂正させてください。

町❌→待ち
八月の風雅御朱印❌→九月の風雅御朱印

です。申し訳ありません。



昨日の九月の最終日、御朱印の先輩であります、八十代の女性のかたにお会いすることができました。
秩父三十四観音霊場巡行に行くときにはと、アドバイスをいただくことができました。今年はとうてい行けそうもありませんが、秩父巡行は基本、納札・写経を納めるので、その三十四枚の写経をしておいて、いつでも秩父に行けるよう準備をして思いをはせることといたしましょう。
納札は現地でお求めになったとのこと。事前にインターネットで購入しておかなくても大丈夫だとお教えくださいました。

いつ行けるかなぁ。午年が秩父の御開帳に当たる年であります。まさか、そんな先にはならないことを願いたい、ちょっと体力に不安な私ども夫婦でありました。
その方はころころと鈴を鳴らすようにお笑いになられ、「この私が、八十代になってから二回秩父霊場巡りをしているんだから、全然大丈夫よ」
運転される息子さん、私たちより若かった気がする┉(^_^;)

また、四国に行きたいとおっしゃっていました。
とりあえず、彼女の元気、あやかりたいものです。

No.343 19/10/02 23:00
旅人 

地域版の新聞に、【阿字観】という聞いたことすらなかったことを、体験しませんかという案内が小さく載っていました。
それが目についたのは、見慣れない文字の羅列であったことと、他ならぬお寺さんでの行事であったからであります。「高野山真言宗の寺に伝わる瞑想法とのことで、姿勢や呼吸を整えて自分の心と向き合うもの」と書かれています。

行ってみたい。
向き合うほどのものではないというより、向き合うことがこわいような自分の心ではありますが、向き合うことで変えていく方向性を見いだすことができるかと。
座禅も体験したことはありませんが、難しい座りかたや警策で叩かれるようなものでもなくただ瞑想するもののようです。

ただ、なにぶんにもズボラで怠け者で、面倒くさがりな私ですので、なかなか重い腰をあげられるかどうか┉。そこからのスタートでありますが、実は何度か参拝させていただいている地元のお寺さんでのものでありました。職場から休み時間に参拝できるくらいの地元中の地元であります。
見事体験できましたら、こちらに体験談を書かせていただきます。



夜のお寺さんかぁ(((^_^;)
どうかなぁ┉

No.344 19/10/04 05:05
旅人 

つい先日、一人でお墓参りをしてきた母の実家のお墓を守る叔母から、墓終いをしたいと申し出があったようです。
もともと、最後の跡継ぎであった叔父が亡くなる前に、「この墓に入るのは俺が最後だな」と言っていたと伝え聞いてはおりました。
叔父が亡くなって十三年経ってもおらず、なんだか中途半端な時期の申し出に、叔父のことが大好きだった私はモヤモヤした気分であります。
なぜ今?叔父はまだ六十代で亡くなっていて、しかもさほど病むことなく亡くなってしまい御見舞いにすら行けず、寂しい思いをずっとどこかで引きずっておりました。┉叔母は同じお墓には入らないんだ。
なんだか、最後に叔父が突き放されたようで、悔しさもあります。まあ、もともと叔父はそれでよいと思っていたようではあります。それも叔母から伝え聞いただけですので、真偽のほどは定かではありませんが、それはいかにも叔父らしいことではありました。

先日行ったときも、お彼岸過ぎてまもなくの墓参であったのに、そこだけ草が生え、寂しい気がしておりました。まあ、片道二時間くらいはかかるところからの墓参であります。生きていればいろいろ事情もあり、忙しいことではあるかと思いますし。まあ、仕方ないことかとは思ってはおりました。
でもお子さんも大きくなった娘さん二人、父親のお墓参りに行こうとは思わないものなのかな。一人の娘さんはお父さんである叔父と同居していたくらいなのに、なぁ。お孫さんを目にいれても痛くないくらいの可愛がりかたをしていた叔父なのに。

まあ、叔父がおそらくは望んでいたことであります。母の妹が墓終いを望まなかったため、叔父が生前には墓終いを済ませることはできなかったのだと思われます。でも、たとえば十三回忌とかの節目であれば┉納得もできたのになぁ。┉旧家でありました。母の言うことには、終戦のラジオ放送を自宅に近所の方々が集まって聞いたとか。


今年は父の後妻の方が亡くなって六年経って、父とその方の墓終いをして祖父母たち先祖の眠る墓に合祀されたのを知り、ショックを受けたり、墓終いにかかわることの多い年であります。

墓終いの前に今一度お墓参りに行こう。

No.345 19/10/06 07:40
旅人 

墓終いするという母方の実家の墓参りに行ってきました。周りの墓所に比べて草ぼうぼうになってしまっておりました。


祖母はまるでマグロように、何かしら働いていないと(収入を得る労働ではなくとも)いられない人でした。

三人の子供を亡くし、ことに三歳と一歳というかわいい盛りの子供を、わずか十六日という短い間に次々亡くしたときには泣き暮れ、放心し、かと思うととりつかれたような早足でお墓のある方角に突然歩いて行ってしまうような、深い悲しみに気がおかしくなってしまっていた時期もあったと、母が申しておりました。
そんな思いからようやく立ち直り、普段通り笑顔で過ごす祖母に戻った頃、突然、祖父が病に倒れ、入院したその日に亡くなってしまったようです。わずか五十一歳。
遺された子供たちは嫁いだばかりの母を除いて、一番下の叔母はまだ小学生だったようです。
子供を育てあげて、ずいぶんと長いこと一人暮らしをしていましたが、私が高校を卒業した頃、転倒して大腿部頸部骨折で入院し、運び込まれた先が、ヤブ医者で、まるっきりの放置。何ら固定すらせず、ベッドに放置していました。当然、歩けるようにはなれませんでした。
そんな中でも、祖母は認知症の症状も発症することなく、いざって室内を動き回り、とうとう自力で(引き取っていた)我が家の猫の額ほどの庭の草むしりをするまでに回復するのです。お風呂場からお風呂のイスを持ち出して、それに座って黙々と草をむしり、それこそ根こそぎに、┉雑草が生えていたことがウソのようにきれいにするのです。


そんな祖母のお墓回りが草ぼうぼうでは、いくら墓終いをするにしてもかわいそうで、草むしりをしておきたいことと、戒名を書き写しておこうと思ったのでありました。
残念ながら、祖母の血はほとんど私には伝わっておらず、夫のほうがよほど草むしりを真剣に丁寧にしてくれておりましたがf(^ー^;


墓終いの法要には私には声もかからないものとなるでしょう。(そもそもが人伝のそのまた人伝の人伝で伝わってきた情報でした)
私なりの墓終いをしてまいりました。
お墓にむかって初めて唱えた【般若心経】。不思議と一度もつかえることなく最後の一文字まで読み上げることができました。


       令和元年十月五日

No.346 19/10/15 23:39
旅人 

父の祥月命日です。
二十八年忌に当たります。けれど今回、毎年訪れていたお墓参りに行くことができませんでした。

もちろん毎年、父の祥月命日に休みをとって墓参しているわけではなく、命日直前の土日にお参りをしておりました。祥月命日の前日に当たる昨日、夫が言いました。
「お墓参りに行こうよ」
私は絞り出すように答えました「行けない。行きたくない。」


台風のさしたる被害も受けることなく、無事に過ごせていることへの感謝の思いを込めて、ご先祖さまにもお礼を言わなくては┉とも思っていたのです。なのに┉口に出た言葉に、自分でもびっくりいたしました。
「行きたくない。」
自分で言った言葉に思わず「えっ?」と心の中で問い返したくらいです。でも、自分で自分の気持ちを繙いてみて、納得するとともに、あらたに強い寂しさに包まれました。強い空しさを感じました。
親が離婚するということ。さらには親が再婚し新たな家庭を築くということは、こんなにも無情に親子の縁を絶ってしまえるものなのだなぁと。

もちろん、離婚した両親とも再婚してそれぞれの家庭をもっても両方の親夫婦とよい関係を築いている方もおられます。
けれど、私の場合二度と大好きだった祖父母に会うことができなかった。祖父母の死は知らぬまま、父が亡くなったという便りとともに知らされたくらい。
それでも、お墓参りに行くたびに心の澱は鎮められて、いつしか心の拠り所のようになっておりましたのに。
見ず知らずの、血の繋がりのない方がそこに名を連ねたとき、ここは私の居場所ではないことをあらためて思い知らされました。打ちのめされたようなショックと悲しみをおぼえたのです。


いつか┉きっとまた、そんな心の澱も沈み、また墓参する日がくると思います。けれど、もう心の拠り所として愚痴をこぼす場所にはもどらない。
大切な場所をまたあらためて失った、寂しい秋となりました。


そんな私の気持ちを受け止めてくださるような御住職のお寺さんでよかった。
私のお墓もこちらのお寺さんがいいかなぁと思っていたくらいに┉。


あの秋のお彼岸に新たな墓碑銘を見つけて以来、すっかり珍道中も出かける気力をうしなっていたのは、こんなに傷ついていたからだったんだなあ。


       令和元年十月十五日

No.347 19/10/16 06:51
旅人 

お墓参りはどこまでお参りするものか。


私は親が離婚したものですから、義父から父の亡くなった年の瀬に、「離婚しているんだから、喪に服す必要などない。」と年賀状を出さないことを咎められ大変傷ついたことを忘れられません。まあ、とはいえ同居ではないのでそこはどうとでもなったことなのですが、その後も離婚した父の墓参りをしていることを咎められたりし、間でヘラヘラしているだけの夫にもふがいなさを感じたある時、我慢強くない私は義父と大喧嘩いたしました。
「離婚、離婚と離婚した母子を馬鹿にした言動が多いけれど、それならば私と縁を絶ってください。私はこの家に合わないようなのでもうこちらには来ません。」くらいの発言をいたしました。
さすがにこのときばかりは夫も義父に意見したようで、義父はまもなく電話で謝ってくれました。その後に夫の実家を訪れた際、義母はさらにへそを曲げており、口すらきかなかったことは、その後さらに大きな影響を及ぼすこととなるのですが┉。それはとりあえず義父の死後のこと。
その後、義父とは真の親子のように相談しあい、義父が病に倒れたときは毎日お見舞に行き、ポンポン好きなことを言い合い笑い合う姿をみて、周りはまさに娘と父だと信じて疑わなかったと、義父が亡くなったときびっくりされたくらいでした。



┉それでは義父母たちはどこまでの血縁者の墓にお参りをしていたのかというと、義父の親の眠る自分の家の墓、その親の代の墓(同じお寺さんの二つあけたくらいのすぐそばの墓)。義母の親の墓までが、お彼岸お盆にお参りしていたお墓でありました。
祥月命日を気にしていたのは義父のほうで、義母はそういったことにも関心のない人ですので、夫(義父)の初七日に、計画していた(?)旅行に行ってしまうようなお人ですので、自宅の仏壇のお花すら枯れて義父に言われてようやく徒歩五分の花屋さんに出向く人でありました。



それでは私は嫁ぎ先と母の実家の墓参りに行くだけでいい?
母は嫁ぎ先に遠慮していたのか足がなかったからなのか、実家の墓参りは法事の時だけでありました。そんな行きなれてもいないお墓でありました。


作法もわからない私ども夫婦は、いつしか夫の実家の墓参りだけになっていました。

No.348 19/10/17 01:40
旅人 

転機は私が再度自分の車を手に入れたこと。

子供も小さくて一人では自分の父の眠るお墓参りに行く自信がなかった三年くらいは、夫の実家の墓参りだけだった私ですが、そのうちむくむくと、二年間だけ身内となってから過ごしただけの夫の祖母しか知らない、夫の実家のお墓に手を合わせていても、なんだか違和感が生じて来ました。
一緒に住んで、可愛がってもらった、大好きだった存在の眠るお墓参りに行かずに、夫と子供たちのご先祖さまだけに手を合わせているだけの自分はおかしいだろう。
義父母がよく思わなかろうと、私にとっては大切な人たちの眠るお墓なんだ。私と子供たちは血の繋がりのある人たちの、先祖のお墓なんだ。ならば、夫と一緒に行かなければいい。
子供たちとの自分の父や祖父母の眠るお墓参りは、いつしか自分の子供の頃のようにピクニック気分のような楽しいものになっていました。男の子に恵まれなかった祖父母や父、生前会えなかったのは、あなたたちも悲しいでしょうけど、私はもっと悲しくてつらかったよと、恨み言を心の中でつぶやいたり。

その後、義父が亡くなり、夫に告げました。
貴方と私が離婚して、こちらのお墓に私はもちろん子供たちがお参りしなくなったら、どう思う?と。義父母がどう思おうと、あなたたちが禁じた私の離婚した父の墓参りは、裏を返せばそういうことなんだよ?と。
それでも夫が自分から、私の父の墓参りに行くというまで私と子供たちだけのお墓参りは続きました。子供たちが大きくなって学校の部活やサークル、アルバイトで時間がとれなくなってからは少しづつ人数が減って、私一人のお墓参りのことも増えました。



今、夫婦ふたりで行くことが多い両家の墓参り。夫の実家のお墓参りに行くと、草がむしられていたり、花がたむけられていたりいたします。遠く離れて住む義姉以外は訪れることのないこの墓に参ったのはうちの子供の誰かであります。
義父、義母の実家、父たち、母の実家の墓所を、わが家の子供たちは今も覚えていると言います。
そこにお参りするかどうかは本人の心の持ちようではありますが、ルーツ、ご先祖さまたちの墓を伝えることは成功したようでありました。

No.349 19/10/18 06:13
旅人 

自分自身のルーツにあたるお墓。

義父母には離婚したのだからと否定されたものの、父の眠るお墓。
父の後妻の方が入られたということは、もしかしたら跡を継いだのはその後妻の方のお子さん=半分血の繋がった、けれど一度も会ったこともない妹にあたる方が跡を継いだのかも知れません。叔父は私が知る限り、離婚したようでしたので。
叔父が亡くなった連絡すら来なかった私には、もはや知る術もありません。
妹にあたる方が跡を継いでくれているにしても、叔父の身内の方が跡を継いでくれているにしても、遠からずこのお墓も墓終いを検討されることとなるのかも知れません。

義母の実家の墓はすでに墓終いをされ、共同墓地に残された名前は義母の弟のものだけでありました。もう、夫の母方の祖父母の眠るお墓はこの世に存在していません。

義母の実家の墓は墓終いをすることが決まったようです。片道二~三時間かかるこのお墓を、娘の代になる前に墓終いを済ませておきたいと思った叔母の、娘への強い思いやりを感じます。


お墓も新しい形を考える時代がきているのだと、あらためて思いました。
私ども夫婦はかねてから、複数の子供たちがいる以上、誰が墓を守らねばならないというような墓をもたない方向を考えておりました。

御朱印のことでよくお話をさせていただきます年配の女性は、ご主人が跡を継いでいたお墓を弟さんに継いでいただいて、ご主人のお墓を建てるにあたり、お寺さん探しから始めたのだそうです。結婚していないお子さんが二人おられ、その四人で入れるような形のお墓を建てることができるお寺さんを探して、そんな事情を含めてのお墓を認めてくださったお寺さんなのだそうです。

子供のいなかった姉は、離婚したのち着々と自分の亡くなった後のことを考えて、葬儀から埋葬まで考えて実績をすでにつくっています。お寺さんも決めて個人葬できるところに話がしてあるようです。
保険の受取人を私に変更したと先日、事後承諾ということで謝りの電話がありました。それで自分の死後の一切を何とかしてほしいということで。


お寺さんもいろいろ考えておられて、新しい形のお墓を提案した広告や貼り紙をみかけるようになりました。

自分で自分の墓を考え探してから死ぬ時代が訪れているのかもしれません。

No.350 19/10/19 18:03
旅人 

仏壇もやはり跡を継ぐ者を考えなければ持つことができません。


老人ホームにあっても、小さな仏壇をきちんと持参され、電池式の灯明と御線香を灯して、お花は枯れはじめるころにはご家族やら花屋さんに依頼されて、きちんと御供養されておられる方々がおらます。
火事や地震の際に、いまなお御位牌を持って避難される方々が、私などのような無信心の者にとってはびっくりしたくらいたくさんおられました。

私はそもそもが仏教徒でも神教徒でもなく、先祖のお墓こそあれ(そのうち二か所は墓終いを、そのうちの一か所は離婚して縁が切れていると舅に言われた、父方の墓)、どこの檀家でもない、宙ぶらりんな存在です。


さらには夫の実家から、「死んだ者もいないのに仏壇を持つなんておかしい」だの、「商売もしていないのに神棚なんていらない」など、強い干渉がありました。私の、子供たちに日本古来の大切なものを伝えていきたいと思い、つらいことや悲しいことがあったときのよりどころであったり、畏れを抱くことで戒めの心を育てたいと思った、子育ては断念せざるをえませんでした。

神教の方の、毎日拝んでいるご自宅でお身内のまつられたところも、仏壇と呼ばれる商品をお使いになっておられました。
ただ、神教の場合は御線香をあげずにお米を捧げておられました(炊飯されたごはんではない)。
キリスト教徒の方のお宅ではさすがに仏壇と呼ばれる商品をお使いになられることはないのではないかと思いますが。


そんな子育て時期にこそ持ちたかった御仏壇や神棚を、誰かに継いでもらうことすら考えなければならない年頃となったいまさら、と考える反面、やはり自分の心のよりどころが欲しくて、仏壇もどきのところを設けました。
珍道中で御朱印を受けた際に、御影や御札を収めるにもそれに相応しい場所が必要だったこともあります。


御仏壇にはお寺さんで開眼供養を受けた御仏像をお納めして初めて御仏壇になります。どんなに立派な御仏壇を購入して御位牌を納めようと、【御霊壇】といわれる物なのだそうであります。それぞれの宗派の御本尊を最上段の中央にお祀りして初めて御仏壇と呼べるようです。
ちなみに母がやはり自分の心のよりどころとして購入して、先祖代々霊の位牌をお納めして拝んでいたものは、御霊壇でありました。

No.351 19/10/19 18:45
旅人 

どちらのお寺の御住職も、先祖がおられる以上、亡くなった方がおられない分家だからと言って御仏壇をもたないというのであれば、それは違うと申されます。

ですがやはり、御仏壇を継ぐ者を一人にしぼるには宗教の自由もありますし、気が引けるところがあります。何よりも住宅事情で御仏壇をお祀りできるところもないのですが(T-T)。
それゆえ、仏壇もどき。香炉と御花立、御鈴にアロマキャンドル(火災予防のためにガラス容器に入った蓋つきの物)を置き、毎日お花とお水とお茶を替えています。
トチってばかり、雑念だらけのこともありますが、般若心経を御唱えすることも増えました。御御影がおられる以上、宗派のない私にはもどきであっても仏壇を冠してもよいのではないかと密かに思っております。

檀家にはおそらくはならないと思います。それこそ、子供たちの誰かが継いでいくことになってしまう。
神道になるやも知れぬ、宙ぶらりんな弥次喜多であります。


お香の香りはこだわりがあり、値段は高くても気に入ったものは即購入いたします。今の物は本数も少ない上に二千円という、貧乏なくせに破格な値段の御線香であります。風邪をひいた者がある時期は煙の少ない御線香をあげます。
そんな私の仏壇もどき。
御鈴も仏具店を何軒も廻り、音色を選んで購入いたしました。
どうにもお願い事の多い、未熟な私の大切な大切な空間であります。

No.352 19/10/20 14:52
旅人 

ところで、私の大切な空間であります仏壇もどきの香炉。ホームセンターで買い求めたものではありますが、それなりの値段がいたしました、陶器製のものであります。
これが、灰の部分になると御線香の火が消えてしまうのです。
一週間に一度くらいは、灰を振るったり、燃え残りの御線香をピンセットで取り出したりしております。

両実家の香炉はどうだったろうか。あまり前回の御線香ののこりに当たって挿しづらいという記憶はありません。ちなみに両家の香炉は金属製。そんな関係なのか?
そうかといって両家の仏壇は埃が積もったり花が枯れていたりすることもあり、香炉の灰を小まめにふるっているとも思えません。両家の香炉、私の仏壇もどきの香炉と異なる点はもうひとつ、大きさが違いました。そして案の定、場所によっては御線香の燃え残りがあり、挿しづらい。どうやら、遠慮がちに人の挿さないあたりを選んで御線香を立てていたために、偶然そういったところにあたらなかっただけだったようです。
そうなると、お寺さんは毎日毎日お手入れをなさるからなのか。
いや、そうではなさそう。知人宅の香炉はスッと御線香の立つ香炉がありました。とりたてて手入れをしてはいないとおっしゃっていた。

そもそもが、灰。
御線香の燃え残りが灰になっていったと思っていたくらいです。灰を捨てることはあっても灰を買い足すことなど考えてもいなかった。


灰?
購入しております灰は、なんだかしっとりした灰です。
お寺さんの灰はサラサラとしております。御線香をたくさんたくさんあげている香炉だから、御線香の灰が溜まるとサラサラになるのか?

困ったときのGoogle先生。
手入れを怠っていると書かれていることがほとんどでした。(∩_∩;)
それから、御線香の種類が原因という説。様々な配合で香りを作り、香りも様々、色も様々。煙の少ない配合など、時代と共に変わってきた多種多用の御線香のせいだという説。

ですが、実はその多種多用の御線香を日によって使い分けている私、どの御線香も同じように燃え残っています。┉そう、灰の部分になるととたんに火が消えてしまう。

やはり灰に問題が?
御線香の灰、という商品を購入しております。百均でダメならとホームセンターのものに変えてみましたがやはり同様です。もう三袋購入して、灰を継ぎ足して、灰をふるっております。


No.353 19/10/20 18:10
旅人 

┉などと香炉の灰のなか燃え残った御線香について、やたら長きにわたって書いておりますが┉。

正直、お祀りするにはあまりに粗末であるため、どなたかのお怒りをかってのことではないかと、心穏やかではなかった時期がありましたのが本当のところである、無知でビビりなヤツでございます。


No.354 19/10/22 02:51
旅人 

即位礼正殿の儀ということで祝日🎌であります今日。
正式に天皇陛下が即位され、名実ともに令和になる日、ととらえればよいのでしょうか。

身も心も立派な初老のおばさんで、脳に至っては認知障害がだいぶ進んではおりますが、生まれたときにはもう戦後も戦後で、すでに豊かな時代をむかえておりました世代であります。
天皇陛下が現人神であらせられたことは歴史としては知っておりましたものの、すでに陛下御自身が象徴としての道を歩まれておられ、陛下が神であったといった感覚のない世代であります。

この度、生前に御退位なされて平成から令和に代わる際は、あらかじめの準備期間がたっぷりとあったこと、なによりも昭和天皇崩御の悲しみのうちに即位された上皇陛下の時と異なり明るいおめでたいムード一色の即位でありますこと。
そして奇しくも神社仏閣に縁のない人生をおくってきた私が、珍道中ながらも、神社に詣でる機会をもつようになっていったため、天皇陛下と神社の深い繋がりを肌で感じることとなったのであります。

今年、神社に詣でますと、天皇陛下の御即位を祝う【奉祝】といった貼り紙がなされ、記帳所が設けられておったりもいたします。それが伊勢神宮、明治神宮とかであればさもあらんと思うのでありますが、近所の普段はほぼほぼ無人の神社であっても、キチンと【奉祝】の貼り紙があるのです。
天皇陛下は日本国を創られた神の子孫であらせられたのだなぁと、こんなおばさんがあらためて感じたことでありました。
即位礼の特別な御朱印も用意されているようで、群馬県でも御朱印で名を知られたような神社仏閣ではすでに特別御朱印がネットで発表されておりました。

どこでどんな風に御即位をお祝いさせていただこう。
今日は雨、午後からは晴れの予報もありますが┉テレビ、かなぁ?
体調の今一つ悪い弥次喜多は、雨の日、テレビの前で過ごしそうな即位礼正殿の儀の今日であります。🎌

No.355 19/10/22 21:06
旅人 

┉即位礼正殿の儀。さて、どちらの神社に参拝させていただこう。などと思いながら、そろそろテレビで宮中三殿での儀式の時間だ、だの、眞子さまと佳子さまのおすべらかしと十二単のお姿がもっとみたいだのと、結局予想どおり、だらだらとテレビの前で過ごしておりました。(((^_^;)
「雨があがったね。どこか行こうかね」
「うーん、だって即位礼が始まるよ」
お互い体調が悪いのでなかなか動こうとはせず、とうとう私にいたっては庭からすら一歩も出ずにごろごろと過ごしておりました。



閑話休題。



【天孫降臨のとき、天照大御神さまは孫であらせらるニニギノミコトさまに稲穂をお渡しになり、「この稲を育て、葦原中国を治めなさい」と仰せになりました。
さらに八咫鏡をお授けになり、「この鏡を私の御魂としてまつり、国の繁栄を祈念するように」とお命じになりました。
ニニギノミコトさまが葦原中国に降臨される際にお持ちになられたのが、天皇家に伝わるあの【三種の神器】であります。
ニニギノミコトのひ孫にあたる第一代神武天皇をはじめ、代々の天皇はこの教えのまにまに、お住まいの中に八咫鏡をおまつりされ、国の平安と発展を祈念されました。やがて、
「八咫鏡を宮中でおまつりするのは畏れ多い」として、伊勢の地におまつりするようになりました。これが伊勢の神宮の始まりなのだそうです。
宮中では伊勢におまつりするようになった八咫鏡に代わる御鏡をおつくりし、おまつりされました。これが現在の賢所のはじまりとなりました。
賢所とは、「天照大御神様がまします、畏れかしこむべき御場所」という意味であるといわれているのだそうです。


今年は、天皇陛下の退位と即位があり、御代が平成から令和へと代わったことをうけ、神社が天皇家の奉祝をするその意味を広く伝えようということで、様々な資料や小冊子が作られていました。これはその中の一冊に書かれた一文であります。




No.358 19/10/23 05:57
旅人 

平成の御代の幕開けの前回のときは子育て真っ最中。
とてもゆっくりテレビなど観てはいられず、即位礼正殿の儀とか言われても正直記憶がない。
今回は子育ても終了し、朝からの雨、たっぷりあり余る時間。テレビでは上皇陛下のときの映像も流れ、平成の御代の儀式のご様子もとくと拝見することができました。


まずは午前九時からの【即位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀】。

午後から行われる【国の儀式・即位礼正殿の儀】に先立ち、
九時から皇居・宮中三殿で、天皇陛下が即位礼を行うことを神前に奉告する【即位礼当日賢所大前の行事が執り行われました。
皇居の森の奥、宮中三殿と呼ばれるところであります。

皇室皇祖とされる天照大御神さまの御霊代として御神鏡をお祭り申し上げます【賢所】。
歴代天皇・皇后、皇族の御霊をお祭り申しあげます【皇霊殿】。
天神地祇をお祭り申し上げます【神殿】。
この御三殿に附属してさらに、【神楽殿】、【綾綺殿】(天皇・皇后が祭典出御の際にお着替えなさる御殿)、また【神嘉殿】(新嘗祭が行われる御殿)などの建物があるのだそうです。
 
神事服の純白の束帯(天皇や公家の平安以降の正装)を着た陛下が賢所に拝礼し、御告文(おつげぶみ)を読み上げられました。
そのご様子はさすがに神事でありますのでカメラはそこまで入らず。
続いて、しばらくの間ののち、同じく神事服の白い十二単(じゅうにひとえ)姿の皇后さまが拝礼されました。初めて見る全てが白の十二単は、私はあまり好みではなかったです。
この後、モーニング姿の秋篠宮さまとローブデコルテの女性皇族方と、安倍晋三首相はじめ三権の長らといった参列者が、賢所の前庭から拝礼しておられました。

音が聞こえそうなくらい横殴りの雨が降っておりました。
それが奇跡のように雨があがり、しかもうっすらと日のさした空に、それは大きな、見事な虹がかかっていたのだそうです。
これぞ吉兆の印でありましょう。

どうか、数々の災害で多くの民が苦しんむ今のこの国の未来にさした明るい日の光であり、幸せへの架け橋の虹となりますように。

No.359 19/10/26 21:29
旅人 

さほど遠くないのに、なかなかそこにたどり着けない。
それは縁がないのだと、その神さま、神社に呼ばれていないからだとと書かれているのを、目にすることがありました。
それでは、今回、お呼びいただけたのかと、うぬぼれてしまいそうな、出会いでありました。

群馬県前橋市にあります、【岩神稲荷神社】さん。
飛石と呼ばれる岩があるということで、心ひかれておりました。 
ただ、前橋市にはひとつきに何度も出向くのに、お参りという形で向かうことができず、今日も違う用事で前橋市に向かったのでありました。ナビを操作する際、ふと画面をスライドする動きをしてしまい、岩神稲荷神社さんの名前が一瞬映し出されました。
「あ、岩神稲荷神社さん、あれ?どこにあったんだろう。岩神稲荷神社さん、いつかお参りさせていただきたい神社さんなんだけど┉」
結局、画面にはもう一度の偶然はなく┉。
用事を終えて、前橋市で薔薇で有名な敷島公園に向かうことにしました。クルマで移動しながら(してもらいながら 笑)ふと外を見ると、街中の景色のなかに突然、目を疑うほどの大きな岩が現れました。
「ここだ!ここだよ!岩神稲荷神社さん!」
隣にはスーパー。ここに停めてもいいということ?
なんという御導きでありましょう!

見上げてため息がもれるような、大きな大きな、大きな岩であります。しかも、よく見ると大きな岩がいくつかの岩と、バランスよく支えあいながら立っているのです。
「はあぁぁ┉」❤

拝殿があって、本殿にあたるところがこちらの大きな大きな岩、御神体となっています。
榛名神社さんは本殿が御山に寄り添わせていただくように建てられていますし、妙義にある中之嶽神社さんは本殿はなく御山の上に鎮座する轟岩が御神体でありました。
ですがこちらは山の中であったり、山の山頂であったりすることない、街中にそびえ立つ岩となります。
神社さんでいただいた資料によりますと、地表露出部分は高さ約9.65m、周囲60m、地表下の約10mは広瀬川砂礫層に埋没しているのだということであります。
浅間の活動期に山頂付近にあった岩塊=火砕岩が前橋泥流によってこの地に押し流されて現在地にいたったのではないかという説が有力なようです。


No.360 19/10/27 07:45
旅人 

鳥居や拝殿は新しく、おそらくは元々は拝殿のない形のままお祀りされていたのだろうと推測されます。岩神さま自体にも篇額が設けられた小さな石造りのお社がお祀りされておりますし、岩神岩さま、のお足元にも稲荷社が設営され、お稲荷さまがお祀りされています。

崇め奉らなければいけない、といった威圧感のあるものではなく、そんなにも大きな岩であるのに、街並みにあって当たり前といった自然な雰囲気を醸し出しておられる御神体であります。
先にも述べましたが、大きな大きな岩が奇跡のバランスで支えあいながら立っている岩。これは神さまのなされた奇跡、と現代人の端くれの私が思う、そしてここに優しい神さまがおられる、と感じさせていただけるお力をお持ちの御神体であります。

主祭神さまは倉稲魂命さま、木花咲耶姫命さまであります。
上野厩橋藩初代藩主酒井重忠公が稲荷大神を勧請されましたことから、岩神稲荷神社と称されました。
崩れることなく組合わさって立つ岩に、崩れ落ちないことから験を担いで、合格祈願をされる方も多いと聞きます。


その昔、石工が石材に使おうと岩神の飛石にノミをいれたところ岩から不気味な声がして血が流れ出したという伝説が伝わっております。


時代の移り変わるなかで、大きな自然の力┉榛名山の大きな岩なだれであったり、大洪水であったりで、坂東太郎と呼ばれる坂東一の利根川の流れは流路を変えて、旧利根川と現利根川の流路に挟まれた前橋台地の最上部に位置するのがここ岩神の飛石があるということです。
町を呑み込む大きな災害のあとにあって、川の流れすら変わってしまったあとにあっても、形を変えずに凛と立つ岩神さまはどれだけ当時の人の心を癒やしてくださったことでしょう。




このたびの大きな災害に、言葉を失うばかりであります。
一日も早い復興をと思う最中に追い討ちをかけるような大雨。自然の力は本当にはかり知れず、度重なる被災をされた方のなんと多いことか。
どうかどうか、一日も早く復興できますよう願い祈るばかりであります。


No.361 19/10/29 16:36
旅人 

四年越しの夢がかない、群馬県みどり市のはねたき道了尊さまの大祭に参列することができました。
そもそもがこちらの場所にたどり着いたのが四年前。偶然目に入ったお社のような風景。クルマの置くところもわからないために、歩いて歩いてたどり着いたのが、ここ、はねたき道了堂でありました。

【はね瀧道了尊】さま?
近くにはねたき橋と呼ばれる橋がかかっております。そこからのお名前なのでしょうか?道了尊さま? 
本当にいつまで経っても初心者でありますが、その頃こそがまさに神社仏閣珍道中を手探りで始めた頃。道了尊さまの御尊名を初めて目にいたしました。そもそもが読めない。道了┉どうりょう?
そろりそろり入った境内には大きな赤い高下駄が祀られ、その隣には古びたねじれたような木?根っこ?が納められたお堂があります。
その隣に、はねたき道了尊さまの像がまつられておりました。

 
【はね瀧道了尊のお姿は、烏天狗のお顔をしており、子どもの心に宿ろうとする悪鬼を睨みつけさらに悪鬼を懲らしめる為に右手にねじり木を、左手に網を持ち、煩悩を焼き尽くす火焔を背負い、疾風より早く駆ける白狐に乗っていらっしゃいます。】┉まあ、御像がブロンズ(?)のため白い狐だということはこの文を読まなければわからないことでありますが。
【往昔、心のねじれた子どもを立ち直らせる為に道了尊に詣で、ねじり木一本を持ち帰り、『拗ねた心の子どもは【すなほなれかし】』と朝夕お唱えし、大願成就のあかつきには、ねじり木を二本にしてお礼参りをしたということが古い記録にあります。
近時、不登校や引きこもりなどの心の悩み、万引きや麻薬などの非行が、大きな社会問題となっていることは周知の通りです。未来を担う子どもらがすなおに育って欲しいという親の願い、人々の様々な願いを叶えてくださる道了様をここに改めてお祀りいたしました。道了様の霊験は、その昔には、養蚕守護・水難除・盗賊除・火災除・鼡口止などにその功徳を発揮されてきました。時代が変わった今も、開運・家内安全・身体健全・交通安全・所縁吉祥・五穀豊穣。災厄消除、特に、非行防止など、心願成就を願う方々に多くの御利益が享受されますよう期待いたします。】
と、立派な金属製の真新しい立看板に書かれておりました。



毎月28日祈願法要
10月28日大祭日

十月二十八日、群馬県民の日であります。

No.362 19/10/29 17:15
旅人 

 さらに御由緒として
【『どうりゅうさん』の呼び名で親しまれております『はね瀧道了尊』は、諸願成就、子育ての仏様として江戸時代から現在に至るまで、時代を越えてたくさんの信仰を集めてまいりました。
道了尊は、宝暦二年(1752)5月、光栄寺第十世寿賢の代に、
【神奈川県足柄市大権現最乗寺】より、ここ大間々の渡良瀬川沿岸にお迎えされたと、記録に残されています。
以前は、現在地よりも北側およそ100メートルの斜面を下がった所にありました。当時、縁日は毎月27日、28日の2日間で、道了堂参道には『滝の湯』という湯屋や茶店が並び、たいへん賑わっていたそうです。
また、天保二年(1831)には、かの渡辺崋山も当地を訪れ、要害山から高津戸一帯を描いたことが『毛武游記』に記されています。しかし、昭和二十二年(1947)のキャサリン台風による水害で、渡良瀬川沿岸にあった道了堂は、周辺の滝の湯、茶店もろとも一瞬のうちに濁流に飲まれ、跡形も無く流されてしまいました。その後、災害復旧は果したものの、道了堂の再建が叶わなかったこともあり、残念ながら道了尊信仰は衰微して行きましたが、参拝は、数少ない篤信者の方方により続けられてきました。
しかし、落石、崩落の危険は絶えず、参詣が困難となり、また、再建に対する地元民の強い要望もあり、平成十五年(2003)十一月一日、光栄寺開山400年を記念して、道了尊をこの地に移転、勧請いたしました。】
とあります。こちらのお堂、同みどり市内にある【瑠璃光山医王院光栄寺】さんの境外仏堂になります。


道了は『どうりょう』ではなく『どうりゅう』と読むようで、もともとは実在の人物であったようです。修験僧であり、師と慕う僧が亡くなった際に伝えられるお姿に変化され、白い狐に乗って山のなかに入っていったと伝えられているそうであります。

ここからお借りしていくというねじり棒はかなり大きな天然のねじれた枝であり、子供のねじれた心がまっすぐになり大願成就のあかつきには、二本にして奉納していくということ。┉無理だわ。
そんなねじれた木の枝を探すことが大変であります。
それほどにねじれた心を治すのは容易いことではないということなのかなぁ?( ´-`)
ましてや私、齢五十余年。筋金入りのひねくれ、ねじれたハートであります。道了尊さまのお力を持っても治すのは困難かと。



No.363 19/10/29 23:59
旅人 

毎月のお縁日も大祭も、十一時からということで、少し前から現地入り。本
堂とか、扉のしまるお堂はなく、小さめの児童公園くらいの広さです。その境内にすでにもう人がたくさん集まっています。道了尊像の前には保育園児がお行儀よく、体育座りをしています。入り口では無料でポップコーンとわたあめが配布されています。
さらに御守等を授かる、仮設の授与所が。
御守りは、通常、【御守り】といったときに誰もが思い浮かべるあの御守り。それから、木の棒に凹凸をつけさらにはその木の棒を真ん中からたてに切れ目を入れてそこに御札が差し込んである御守りがありました。
それから道了尊さまのお姿の入った祈願書。A4の紙に道了尊さまのお姿が描かれ、そこに自分のお願い事を書き、名前を書くというもの。
聞けばここで祈願していただき、自宅に持ち帰る。そしてその紙を来月のお縁日に持参してそこに押印していただく、というもの。
「来月のお縁日には来られないから無理だなあ」と言うと、「来られるときのお縁日で大丈夫」と言われました。そもそもがそのA4のお姿を持ち帰る、ということが難しい。
┉とりあえず、御朱印をお受けしよう、と。

No.364 19/10/30 19:38
旅人 

光栄寺の副住職さまは、子どもが大好き。
そして、目端のきく┉常にピンとアンテナをたてておられ、人の動きや、物品の減り具合・補充のタイミングをいち早くお気づきになり、また、行事のスケジュールの流れもきちんと全体をご覧になっておられ、なにかをすっと察知したと同時に身体が動いているお方であります。こまめに動くことを厭うことなく、そして優しい笑顔の絶えないお方です。

今回もその様子が見て取れ、本当に頭が下がると同時に、あれが修行をなされた僧侶のお姿なのかと、同じ人間として恥ずかしくもなる、私がひそかに尊敬している人物の一人であります。
いつもお参りをされている方のお顔をきちんと覚えておられ、ご自分から声をかけてくださる方であります。

副住職さまが今回御朱印をお書きくださっておられました。尊敬する方のお手によるものは格別なものであります。
御朱印を求める方の列が途切れたかと思うと、韋駄天のごとくにその場を離れ、作務衣姿で自転車に乗られたかと思うや、全速力だろうスピードで漕いで┉おそらくは光栄寺さんにお戻りになられたのかと思いましたが┉。
気づくと、緑色の衣姿になっておられました。もちろん、さすがにそのお姿で自転車で戻られた訳ではないでしょうけれど。
そのお姿でまた御朱印をお書きになられ、マジックショーが終わったタイミングで、今度は法要の準備に取りかかられました。御住職をたてて脇役にまわりながら、呼吸をぴったり合わせて、法要を進めておられます。

御祈願書に書かせていただいた、願い事と名前をひとりひとり読み上げたうえで、御祈祷くださいました。
交通安全や、家内安全、商売繁昌被災者の方々の復興等、たくさん、たくさんの祈願をしてくださっていました。

三人の僧侶で子供たち全員にひとりひとり、頭にそっとねじり木をあてられ祈祷してくださったあと、あの木で作られたお札のついた御守りを手渡してくださいました。


ねじり木では私の年期の入ったひねくれた心根は治らないような気がいたしますが、副住職さまをみていると、なんだか心が洗われたような気がして。
ありがたい大祭に参加することができました。


   令和元年十月二十八日   参拝

No.365 19/11/06 00:09
旅人 

はね瀧道了尊様の大祭で、道了尊のねじり木に御札がついた御守りを、お受けてしても、仏壇がないため購入を考えていると、檀家の代表の一人のかたが「神棚は?」と聞いてくださり、「神棚もないんです」と話したところ、目の高さにおまつりするようにおっしゃってくださいました。

そんな話の流れから、仏壇も神棚も、この年になって持とうとしても、跡を継いでくれる者がいないときびしいから、なかなか持つことができないという話をいたしました。すると、その檀家代表の方から、私にとってはきびしい一言をいただきました。「きちんと子どもが小さいときからそういう教育をしてこなかったからいけないんだよ。仏壇があって、神棚があって、先祖を親を大切にするような教育をしてこなかったから」
┉私としてはそれを望んでいたんだけど、な。畏れを抱く存在をもち、自分を律することを覚えてほしかったし、つらいとき悲しいときの心の拠り所にさせていただきたかったし、子供たちにもしてほしかったから、御仏壇や神棚のある生活をしたかった。
ただ、そもそもが私自身が神様や仏様のもとに詣でることすらないような育ちをしてきた存在だったから、どうお祀りをすればよいかわからなかったし、義父の反対があってその理由を疑問に思いながらも、反論したところで、ほとんど知識もなかったし、実際にそのお祀りのしかたの教えを乞う存在が嫁ぎ先くらいしか考えられず、いつの間にかあきらめてしまっていたことであります。
義父母は宗教にたいしてクールな存在で、親から伝えられたことは伝承してはいるものの、懐疑的に思っているといった発言が多々聞かれていましたし。
いずれにせよ、反対されようが強い意思を持って挑めば、叶った望みであったのだから、すべて自分の選んだ道でしかないのです。そんな過去のことは後悔してももう取り返しはつきません。そもそもいまだに正しくお祀りできる自信がないという、未熟者であります。



No.366 19/11/06 00:11
旅人 

ただ、御仏壇や神棚を持ちながら、それを次の世代に受け渡すことができない悩みもお聞きします。お墓すらがそうなってきている時代であります。
五十代。そろそろそんなことを真剣に話し合う私どもではありますが、いまだに菩提寺さんすら決まったところがないくらいであります。
私どもの住むところは共同墓地のような宗教にとらわれない墓地はなく、菩提寺さんを考えようとするとき、後継者がいないと断られるというお話もお聞きしたりして、私どもが珍道中を重ねたうえでこちらに帰依したいと思うところがあっても、お寺さんに後継者問題をお聞きするほどにはまだ考えたくもないところもあって、実際には宗教すら定まらず、今後、神道にと思うことがあることもあろうし、キリスト教となるかもしれません。当然、お墓問題もふわふわと浮いた状態となっているのが現状であります。

お墓問題も御仏壇も、すでに新時代を迎えております。
もう少しその流れを見守って考えていこうと思う、私どもであります。


No.367 19/11/06 00:55
旅人 

群馬県みどり市の光栄寺さんの【柿薬師大祭】は十一月三日。
毎年新聞の折り込み広告に案内をいれるほどのイベントとなっております。
お寺さんはどうやらむしろ場を提供して協賛しているような立ち位置にあるようで、毎年異なる寺宝を展示してくださるのと、人形供養の御祈祷をしてくださるというお役をなさっているくらいで、あとはすべて檀家の方々がそれぞれ役割を担って祭りを進行されています。
綿あめ、ポップコーン、柿茶などの無料配布や、輪投げ大会、柿の種飛ばし大会などが催されています。
毎年、参拝者全員に柿を一つ、御札を一枚お授けくださいます。昨年お受けした御札をお返しして新たな御札をお受けするのと、写経のために朝一番に参拝いたしました。
昨年は自分の守り本尊さまの写仏をさせていただいたので、今年は写経をいたしましたが、こちらの写経の紙は裏側に鏡字で印刷されているもので、文鎮等がいらない作りになっていました。
昨年写仏の際にマイ筆ペンと文鎮の必要性を痛切に感じましたので、最近私のバッグには筆ペンが常に入っており、今回はしっかり文鎮も持参してきておりましたが、これなら下に敷いた経文がずれることがないので文鎮も要らず、私のような初心者には大変ありがたい写経の紙であります。時間が早かったせいか昨年のようにマイ書道セットや、マイペンセット、マイ水彩絵の具を持参された方々にはお会いできませんでした。
ちょうど内陣にほど近い、目をあげればお前立ちの仏さまが拝見できるような特等席で写経することができました。
写経のあとはお灯明をあげて、書かせていただいた般若心経を御本尊さまの前におかれたお盆にお納めする前にあらためて読経させていただき、納めてまいりました。
今年の寺宝は十二天の掛け軸十二幅と涅槃図でありました。古いもののようですが保存状態がよいようで、どちらもお美しいお姿であられます。いつもは閉じられた襖の奥に安置された不動明王さまにも参拝させていただけました。
写経をお納めし、特等はディズニーリゾートペアチケットというイベントには参加することなく帰宅いたしました。
孫を連れて来るようになったら、そのときはばあちゃんも一緒に輪投げやら柿の種飛ばしをしてみようかな。



     令和元年十一月三日  参拝




No.368 19/11/10 05:58
旅人 

このところよいことがなく、こんなときお祓いをするのかな?などと考えて、ふと気づきました。「お祓いってどこでお願いするものなのだろう?」
┉いやはや相も変わらず初心者のままでありました。
「どこの神社さんで┉」というレベルの問題ではなく、神社さんなのかお寺さんなのか?といった、初歩の初歩の段階であります。
車のお祓いをする祓い所があるのは神社さんです。地鎮祭も神社さん。以前ならばお祓いといった行為は神社さんが執り行うところと思っていました。
少し珍道中をし、加持祈祷や厄除けをなさるお寺さんの在り方を知り、そこのスタート地点に立った、ということなのかもしれません。どれだけ初心者であったかをあらためて思い知りました。(^-^;

そして困ったときのGoogle先生にお聞きしました。



【お祓いとは】
お祓いとは、簡単にいうと罪や穢(けが)れ、災厄などのよくないものを取り払う行為。お祓いは「不浄のものを清浄に、不完全なものを完全に、不良なものを善良に」することを目的とし、災厄や汚れを取り除いて「理想の状態」にすることができるとされています。

そもそもは日本古来の宗教である神道において行われる儀式であり、神道における罪の概念「天津罪(あまつつみ)・国津罪(くにつつみ)」などの罪や穢れ、また不浄のものを除くための呪術や神事のことをあらわしていました。

穢れとは「気枯れ」ともいい、これは「気=生命力」が失われた、あるいは枯渇した状態を意味します。

神道で死を穢れとするのは、この生命力が失われた状態に該当するからとなっています。同じように血液を嫌うのも、「血を流している=生命力が減少している」状態であると考えられるためで、そのため出血を伴う出産も穢れとなるわけです。

また神道では罪についても日常私たちが考えるような罪のことではなく、「包み」といって私たちの本質を覆い隠してしまうものと考えられています。「心の垢」とも表現されるものです。罪や穢れは生命力が減少する、あるいは本質が失われた状態であり、「心のバランスを崩した状態」であるともいえます。

そのような淀みがたまれば大きな負の塊となって災いをもたらすかもしれないということから、身を清め、また災厄を防ぐために罪や穢れを取り除く「お祓い」が行われるのです。


No.369 19/11/10 06:34
旅人 

なるほど、やはりお祓いは神道、神社さんなのか。
と読み進むと!さらに私の求める答が書かれているではありませんか!
Google先生も拝みたいほどありがたい存在であります。




「お祓いをしてもらおうと考えたとき、神社?それともお寺?どちらなの?という人がいるでしょう。どちらでも、同じようなものがありますので、本当に迷ってしまいますよね。」(┉はい、まさに私です。)

身近な例として厄年に行う【厄払い】【厄よけ】があります。
お正月などにお参りに行った先々で、[前厄]、[本厄]、[後厄]と分けて厄年の人の年齢が書かれています。

[厄払い][厄よけ]ともに同じものと考えますが、厳密にいうと本来は【厄祓い】か【厄よけ】に分かれるのです。
諸説ありますが、「厄払い」は厄年の人の厄を祓(はら)い、「厄よけ」は祓(はら)った厄を寄せないようにするというのが有力な説と考えられています。

そもそものお祓いという考え方で行けば神道の考え方ですので、お寺ではなく神社で行ってもらうものです。しかしお寺でも「厄よけ」といって、祈祷を受け付けているところもあり、現在はそれほど厳密に分けられていないと考えて問題ないでしょう。




【お祓い】と【加持祈祷】の違い
【お祓い】は神社で行うものであり、罪や穢れを祓うことで身を清め、正常な状態に戻す儀式のことを指しています。

神社とは異なりお寺で行われるのは「お祓い」ではなく、密教とされる天台宗や真言宗が行う【加持祈祷】という儀式になります。
これは手印を結んで呪文を唱(とな)え祈祷し、不動明王や観音様の力で災厄(さいやく)を遠ざけてもらう加護を受けることが目的です。
一般的には神社では厄祓い、お寺では厄よけというイメージを持つと覚えやすいのではないでしょうか。


Google先生、ありがとうございました。


ん?では、神社さんでお祓いを受けてのち、お寺さんで加持祈祷をしていただいたほうがよいの?(・・;)
そんな欲張りなやつのたわ言には、さすがにGoogle先生もお答えくださいませんでした(^^;


No.370 19/11/10 07:01
旅人 

【お祓いや加持祈祷を受けるにあたってしてはならないこと!】

おお、Google先生はやはり読みが深い。迷える愚者へ更なる助言がありました。


お祓いや加持祈祷をお願いするときに、どこの神社やお寺に行こうかと悩んだり、あるいはたまたまみつけた神社やお寺でやってもらおうと決めたりしてはいけません。

お祓いや加持祈祷は、どこで行ってもらってもよいというのはちょっと違います。(・・;))

信仰していない、自分にあっていない場所でお祓いや加持祈祷をしても余り効果は得られません。例えば仏教徒がキリスト教会でお祈りをするというのはちょっと違和感があるでしょう。
お祓いや加持祈祷も、信仰している宗教に合わせるのがおすすめです。

また、スピリチュアルな物や場所が好きな人というのはいますが、だからと言って「有名だから」「御利益があるから」といろいろな場所へお祓いに行くというのはおすすめできません。!Σ( ̄□ ̄;)

いろいろな場所へ行くということは、多くの神様や仏様に願いをかなえてもらおうということになってしまいます。

信じる者は救われると聞きますが、信じすぎてあちこちに頼るのはよくありません。(._.)
お正月で毎年お参りにいっている神社やお寺や、あるいはお墓があって檀家となっているお寺など、縁がある神社仏閣にお願いしてみるとよいでしょう。
もし、特に信心しているところがなければ、安心して任せられるところにお願いして見ましょう。


┉私の場合、毎年お参りにうかがっていたような神社仏閣がなく、さらにはどちらの檀家ともなっておらず、自分探しという目的で珍道中をさせていただいておりますので、いろいろな神社仏閣にお参りさせていただくのはお許しをいただくにして(そういうのは身勝手な自己判断という、やはり忌むべき行為かもしれませんが)、たとえば居心地のよい神社さんやお寺さん、その立ち居振舞いや修行をなさる姿勢に感銘を受けた宮司さま、御住職さまがおられるところはございました。
ある意味、まっさらな状態であったからこそ、自分の信じる道を探求できたのかもしれません。
だとしたら、親に感謝すべきなのかもしれません。( ´ー`)

No.371 19/11/13 05:56
旅人 

加持祈祷の意味も知らずに、お寺さんがいいかなとか神社さんがいいのかなとか言っているとチコちゃんに叱られてしまう。
まさに私、お寺さんが行うお祓いに当たる行為を加持祈祷と呼べばいいのだと思っていました。

【加持祈祷】

「加持祈祷」はひとつの言葉のように捉えられがちですが、実際には「加持」と「祈祷」は別の意味を持っています。

仏様の信者に対する働きかけの力を「加」といい、信者がその仏様の力を受け止めることを「持」といいます。つまり「加」と「持」のふたつが相互に作用して「加持」となるわけです。
一方で祈祷は文字通り、仏様に願いをかなえてもらうために祈りをささげることですから、加持を行うための手段と考えることができるでしょう。
自分の能力を開発する三密加持(さんみつかじ)から、葬儀のときに行われる土砂加持(どしゃかじ)、安産を祈願する帯加持(おびかじ)などで、何を願うかによって加持の方法も変わってくるのです。

手印や真言呪(しんごんじゅ)、観想などの方法で加持をすることが多いのですが、宗教によっても方法は変わってくる場合もあります。
火の中に供物を入れ、護摩木(ごまき)を投じて祈祷する方法や、自分の心の中にある煩悩や業を仏の智慧(ちえ)の火によって焼き払ってもらう方法など様々です。


祈祷は国家で行われるものと、個人で行うものがあります。

国家の場合は「修正会(しゅしょうえ)」「修二会(しゅにえ)」「節分会(せつぶんえ)」のように、行事として定期的に行われるものが多く、五穀成就や除災与楽(じょさいよらく)などの目的で行われます。
「修正会」は正月に仏教寺院で行われている、世の中の人が平穏に暮らせるように幸福を願う法要であり、修二会とは昔は旧暦の正月に行われていた、最近では新暦の3月などにもされている法要で、特に東大寺二月堂の「お水取り」や、薬師寺の「花会式」が有名であります。
「節分会」とは節分に行われ、テレビのニュースにもなる、仏教寺院での「豆まき」として知られているものです。

個人で行うものには、家内安全や商売繁盛、諸願成就(しょがんじょうじゅ)などがあります。



修行をしているわけではないにしても、いつまでたっても初心者レベル。「加」「持」「祈祷」、なのですね。 


No.372 19/11/19 15:28
旅人 

さて。その悩み多き私。
さんざ、お祓いや加持祈祷について調べて、いったいどうしたかといいますと┉。
毎日、ふもとの本坊から、お山にある本堂の毘沙門天さまに出向いて朝の五時半から加持修行をなさっておられる、ある御住職のことが頭に浮かんで、ぜひ御住職にお願いしたい思いが胸にいっぱいになってしまいました。
加持祈祷をなさっておられるのはお正月の三が日と毎月一日とされております、【栃木県足利市の最勝寺】さんの大岩毘沙門天さま。

ですが、その毎月一日、は過ぎたばかり。藁をもすがる思いで┉ある意味図々しく、最勝寺さまに電話をいれさせていただきました。
「一日でなくても加持祈祷をお受けすることはできますでしょうか。護摩檀を焚かれてのご祈祷でなくてのご祈祷はお受けいただけますでしょうか。」
「何かお悩みがありますか。┉私にはお話をうかがうことぐらいしかできませんが、それでよろしければどうぞお越しください。午後になれば毘沙門天さまのところに向かう予定でおりますので。」
┉図々しさにもひるむことなく、すでにお電話口で私の悩みを受け止めてくださっておられる御住職さま。
「毘沙門天さまをお頼りくださり、私を頼ってくださるのもありがたいご縁であります。どうか気をつけてお越しください」

ありがたい。
なんとありがたいお言葉でありましょう。
お聞きすれば、去る十月の巨大台風でお山の毘沙門天さまの御本堂に向かう道が崩れてしまい、遠回りして毎日お山にむかい、途中から歩いてくる日もくる日も加持修行に向かわれておられるとのこと。なんと尊くありがたいことなのでありましょう。

ただ┉ただひとつ問題なのは┉ただでさえ方向音痴で最勝寺さんの本坊に初めて参拝に向かった折りにも迷子になり、御住職に電話で道案内をしていただいた私。そんなことよりも、さらにさらに問題なのは、山道の、ほぼ車一台しか通れない初めての道を私にはとうてい走ることができない!ということ。
そうであれば、と、本坊の最勝寺さんでとさらにさらに図々しい申し出をお引き受けくださいました。


ご祈祷にうかがう前から、すでにもう感謝しかございません。

No.373 19/11/23 08:40
旅人 

御住職さまは、内陣のご本尊様の不動明王さまの前で、祈るようにたたずんでおられました。
思わずその神々しさに、声をかけることすら躊躇われ、お気づきになられるまでのほんの少しの時間だけ、私はそのお姿にみとれておりました。そしてそんな私にまもなく

お気づきになられた御住職さまは、ご本堂正面の扉を開け放たれて、「今しばらくお待ちください」とおっしゃって、ご本堂を出ていかれました。
最勝寺さまのご本堂は正面からではなく、脇のきざはしを昇ってそのまま脇から入堂するスタイルであります。ご本堂正面の扉を開け放たれると!それはそれは見事な、名勝地の景観に優るとも劣らない景色が広がっていました。紅葉の枝が開けられた扉をまるで額とした名画のように、本当にバランスよく枝を広げています。
ああ、こうして私の心を鎮めてくださっておられるのだなぁ。
境内も季節の花が咲いています。

それなりの時が流れました。心を穏やかにするために、わざとそうされておられたかとさえ思われる時間でした。
やがて私の目の前にお座りになられて、今一度、「何かお悩みがおありですか?」
よくとおる、穏やかなお声でお聞きくださいました。


No.374 19/11/23 21:12
旅人 

御住職さまは、何を何から話せばよいのかわからずにいる心の内を、一つずつほぐすように、優しく優しく声をかけてくださいました。
いま、どんな環境にあるのか、どんな職についているのか、職の尊さをお誉めくださり、心に寄り添おうと努めてくださいます。ご自分のなさっておられる日々の修行をお話しくださり、般若心経の言葉の意味をお教えくださったり、この世に生まれた者の宿命である四苦八苦についてお話しくださいました。

人が生きるということは、そのなかでどうしても避けられない【四苦八苦】の苦しみがあるのだと、お釈迦さまが修行された結果得られたことなんだけどね。四苦とは生病老死であって、【生苦】、生まれること。【老苦】は 老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる苦しみ。
【病苦】はこの世のなかには様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる、病の苦しみ。
【死苦】は死ぬことへの恐怖、その先の不安とかいったもので。
その他に
【愛別離苦(あいべつりく)】、愛する者と別れたくなくとも別れなければならない苦しみがある。
人の苦しみの中でも、とりわけ重いのは、愛する人と別れねばならない苦しみで、これを「愛別離苦」と言うが、人は必ず死ぬ。生きる者すべての人が背負わなければならないものだね。

それから、【怨憎会苦(おんぞうえく)】、これは怨み憎しみ合う同士が会うこと。互いに頼ることができないので、ともにいて苦しむことになり、これは本当に苦しいことだね。でもどうしてもそういう相手に出会ってしまうのが与えられた宿命、なんだね。
なんとかうまく付き合えればいいんだけど、どうにもうまが合わないっていうか、顔をあわせば「このやろう」って内心思っちゃうような出会いがあるって定められているんだね。

それでも人間関係はうまくいってるってことだから、まあ、それは良かった。あとは┉真面目なんだろうね。自分のことを追いつめてしまうんじゃないかな。それとやっぱり会社がおかしい。そんな働きかたじゃあ、疲れて集中力も何もなくなって失敗して当たり前だ。そこを改善してもらわないと身体をこわしてしまうよ。今回をきっかけにして、改善してもらわないと。つらかったね。頑張りすぎちゃったね。真面目はいいことだけど、このままじゃあ自分が壊れてしまうよ?
じゃあ、仏さまに御祈願しよう。


No.375 19/11/23 23:49
旅人 

ああ、その前にあと二つの苦しみを話しておこうかね。

【求不得苦(ぐふとくく)】というのは求めるものを得ることのできない苦しみだ。
「求めるものが得られないから苦しい」という文字通りの意味だけではない、求めて念願のものを手に入れても、それを喜べず、さらに他のものを求めてしまう。人の欲というのは際限がないからね。


【五陰盛苦(ごおんじょうく)】


これは仏教的な見方で、仏教では、人間の体は五つの要素が集まってできているんだ。
【地水大風空】

「地」は大地のように固い骨。
「水」は液体。
「火」は熟。
「風」は呼吸。
そういう四つのものが集まって、これが「空」であると考えられています「地水火風」と四要素を列記して、その全体を集めて「空」とします。
この空をも合めた五つが苦しみになるというわけだ。
般若心経にもあるんだけど、五陰は「空」
五陰とは、色受想行識の五つを指して、この五陰が盛んであれば健康な証拠ですが、この健康が苦しみになるという意味、なんだな。

いわば、「元気を持て余す」という苦悩、かな。

現代の若者にいろんな乱暴な行いがあるのは、精力が盛んで元気を持て余してしまっているからです

だから人間は「求不得苦」で苦しみ、「五陰盛苦」でも苦しむ。どっちに転んでも苦しみになっていくんだね。


No.376 19/11/25 06:26
旅人 

御住職さまは、「それでは仏さまに御祈願していきましょう」とおっしゃって、住所、氏名、生年月日を記入するようにおっしゃって静かに席を立たれました。
内陣にお入りになり、灯明され、外陣の私の前に置かれたろうそくを新しいものに変えて内陣から灯を遷されました。焼香用の香炉の、残っていた香の燃えかすを処分されると、また綺麗に灰をならされてのち、新たに焼香用の香を整えてくださって火をお付けくださりました。
塗香をお持ちになり、私の手にお乗せになり塗香の作法を手解きくださいました。焼香をするようおっしゃったのち、私の目の前でいくつかの印を組まれました。そうして、┉ご本尊様の不動明王さまの御前ではない、もう一つ設けられた読経の席に座られると、高らかによく通るお声で読経を始められました。
【錫杖経】という御経。(前回の毘沙門天さまの御護摩修行に参列した際、そういった御経であることを初めて知った次第であります。護摩供養の際によく耳にしていた御経であります)
そして、そのあと、住所、生年月日、氏名を仏さまに申し上げてくださり、御祈願くださいました。
そのあと、般若心経と毘沙門天さまの真言を一緒に唱えるよう促され、しどろもどろではございましたが、心込めてお唱えいたしました。御真言は数珠をお使いになられ、百八回唱えたのだと、あとで知りました。

私の心に寄り添うように、終始お優しい対応をしてくださいました、御住職さま。心が乱れたとき塗香を手元に持っているとよいとおっしゃられ、高野山から届いたばかりだという塗香をおわけくださいました。
また、生まれ年の念珠も持っているとよいとおっしゃったのですが、そのお数珠は毘沙門天さまの御本堂にあるので、あとで受けに来るように、とおっしゃられました。
「今度お越しになるときは、本堂への道が直っているかどうか電話で問い合わせてからお越しになるといい。」とおっしゃって、長いこと、私のためにお時間を割いていただいた時を解かれました。

本当にありがたい。
信頼をおいた御住職さまに出逢え、お頼り申し上げて、こんなによくしていただきましたこと、まさに御仏の御加護であります。
私はいま、毎日般若心経と毘沙門天さまの御真言をお唱えしております。


       令和元年十一月

No.377 19/11/26 09:03
旅人 

小雨降るなか、【群馬県桐生市の観音院】さんの日限地蔵さまのお縁日に行って参りました。
あまり広くはない境内にかなりの人です。御本堂に上がらせていただき、御焼香をさせていただいたのち御朱印を求め列に並びました。そう、お縁日には限定の風雅御朱印がお受けできます。季節のはなが見事に描かれた、しかも直書きの御朱印で、ついつい、欲が出てしまい何度もお受けしてしまっておりました。
『明日より通常御朱印を五百円とさせていただきます』『来月より風雅御朱印は見開き千円とさせていただきます』
なんだか、少し寂しい気持ちがいたしました。
御朱印ブームの過熱で、殊にこの風雅御朱印を求める方が増えたニーズにお寺さんがお応えするにあたり、少しでもセーブする思いがあったのでしょうか。一日で何枚の花の画を描かれ、御朱印をお書きくださっているのかを考えると、以前から気が遠くなる思いがするほど、でありました。
一年間で一万二千円の御寄進をさせていただく、と考えれば別段寂しくもないことかもしれません。
人の欲を戒めるための改善策なのだと思います。

お寺さんの姿勢はいつも開かれた本堂で、こころゆくままに仏さまと向き合う時間を持たせていただくことができるという、ありがたく、
大好きなお寺さんなのであります。

御朱印を求めることがすでに欲であることを私は少しづつ悟りつつ、それでも捨てられない欲との葛藤でありました。
この度、自身の御朱印を求める在り方を原点に戻そうと思った機会を与えていただいた気がいたしました。


この日も心の間で、般若心経をお唱えし、参拝を終えました。
最後にしようかどうか、思案しながらの御朱印を胸に┉。


      令和元年十一月二十四日

No.378 19/11/26 09:37
旅人 

一部のお寺さんでは、明らかに収入のための御朱印となっていることも気づかされる場面に出会うこともありました。
そんな会話が駄々漏れしてきてしまった場面に出くわしてしまったことがあったり。
御朱印で有名なお寺さんで、護摩木が本堂前に用意されていて、『毎日、護摩木を焚きあげ御祈願しております』と書いてあるのにも関わらず、御朱印休みとされる平日に参拝したところ、山のようになった護摩木が午後になっても放置されていたこと、何よりそこの御本堂には、なんと、護摩壇がないこと、などなど。
お寺さんの存続をかけた収入のためかとも思われますが、悲しい現実に出会うこともありました。
私は仏教徒でもなく、お寺さんの正しい在り方などは何一つ存じ上げません。
新しい、人々のニーズに応えるスタイルのお寺さんがあることで、仏教への興味やら、関心やらが広まり深まっていくことも大切なのかと思います。それが御朱印であったり、イベントであったり。

そこに違和感を持つならば、それはそのお寺さんとの相性の問題、なだけなのだと思います。
それがお寺さんの欲でなければ、┉それはすべて新しい時代の流れとして、とらえられるものだと思っております。

No.379 19/12/02 03:49
旅人 

大好きだった神社さんが今年にはいって、なにやら大きな建物を造っておられました。鳥居の外。
人気のある神社さんなので、御祈祷待ちの方々の待機所を造ってくださっているのかな?そんな風に思っておりました。

こちらの神社さん、参拝にうかがうと拝殿の扉はいつも開け放たれ、神さまにより近いような気持ちにさせていただいておりました。
明るくて柔かな和かな気に満ちた、訪れる方の絶えることのない神社さんで、いつかここでお祓いとか御祈祷とかうけたいなと思っていた神社さんでありました。優しい気のあふれでてくる拝殿にあがって、いま一歩神さまに近いところで、神さまにお会い申しあげたいと思っておりました。
やがて完成した建物はなんと、祓い所。
鳥居の外でのお祓い、御祈祷となっておりました。その祓い所、たくさんの人で溢れかえっていました。こちらで御朱印もいただくことになっていました。御守や絵馬はこちらと、境内の中のいままでと同じところでお受けすることができます。
なんとも言えない残念な気持ちになってしまいました。

ですが、神さまはそんな人間たちのいろいろな思いなどちっぽけなことには少しもお気になさらずそのまま御鎮座くださっておられる御様子で、明るくやわらかな優しい気が拝殿から溢れるように流れて、境内全体をそんな気で包んでくださっておられました。


No.380 19/12/02 04:48
旅人 

一日。
栃木県足利市の【大岩山毘沙門天】さまの月に一度の御開帳と、御護摩祈祷をなされる日。
行きたくて、でも諸事情であきらめていたのですが、そこは未熟で我が儘な私のこと。どうしても行きたくて、諸事情一切を棚にあげて、しかも自分では運転困難な道を夫に頼みこんで┉参拝させていただきました。
先だっての台風で土砂崩れが多発し、御本堂への道が遮断されていて、大回りしてそれでもなお、途中からは歩いて毎日の護摩修行をなされていると御住職がおっしゃっていたのが十一月上旬のこと。「十二月にお越しになられるときは電話してからお越しになってください」と、おっしゃっていました。
その、大回りとなるルートも調べてくれた夫。この人と結婚できたことを感謝しなくてはいけません。折しも、十二月一日、結婚記念日。
感謝しなくては┉がプレゼントと思って、に変換されていた、どこまでも身勝手で自己中心なやつであります。こんなやつの願いを聞いては下さらないかもしれません。(ー_ー;)
ですがその善良な市民、夫の願いと私の願いが一つであることは実に明白な事実で、私がダメでも夫の願いとしてなら毘沙門天さまが叶えてくださるに違いない。
あくまでも計算高い私、でありました。

時は晩秋。いや冬でありますが、紅葉の真っ盛り。
車中からの紅葉狩りを楽しみながら(┉運転手の夫はほとんどそれも叶わず(´。-д人)゙)大岩山毘沙門天さまに向かいました。

No.381 19/12/03 17:22
旅人 

今回は大岩山毘沙門天さまのシステムが変わられたのか、【家内安全】【病気平癒】【諸願成就】【交通安全】【心願成就】などの願い事が印刷された護摩木に、住所、氏名を書いて納めることが護摩修行に参列する必須条件となっておりました。
靴を脱いで階段を登るとすぐに、御朱印や御札、御守り等の受付があり、そちらで護摩木に記名いたしました。
内廊下とでも言うのでしょうか?たくさんの奉納された額絵が飾られた空間と本堂は障子で隔てられております。本堂正面の内側となりますので、灯明立ての前、御本尊さまのちょうど前にあたる位置に焼香のお線香立てが障子の手前に置かれています。
「お線香は三本立てること」と書かれております。過去、現在、未来にむけての三本になるのだそうで、ご先祖さま、自分たち、そして子孫のために、ということにもつながっているのだそうです。

お線香の本数の論議は宗派によって異なるだの、一~三本の好きな本数をあげればいいだの諸説ありますが、私は特に決まりのないところでは必ず三本あげさせていただいておりました。その三本の意味はわからないまま、一本は葬儀の際にあげる本数と記憶しておったものですから、これを読んで以来、三本あげることにこだわりをもつようになりました。


障子を開けて本堂に入ると、椅子と座布団が用意され、なんと、護摩壇正面の、御本尊さまを拝しながら御護摩修行に参列することのできるVIP席が空いておるではないですか!
前に席につかれた方々はもっと御本尊さまに近い席を選ばれていたり、椅子をご希望されておられたりと、たまたまそこが空いていたにすぎないのですが、私は、その席をご用意くださっていたようななんとも図々しい錯覚に陥り、迷うことなくその席につかせていただきました。塗香で身を清め、用意された御経の印刷されたものを二部お受けして、その時をまちました。夫は隣の席。これもまた、足腰の悪い夫のためにそう用意下さったかのように椅子の席となっておりました。座布団の隣になぜか椅子の席。私たち夫婦がそこに座るための席をご用意くださっていたかのようでありました。もちろん、それは図々しい私の思い込み、にすぎないののではありますが(^_^;)



No.382 19/12/05 18:38
旅人 

山伏の姿をされた副住職さまが、吊るされた鐘を打ちます。ゆっくりと、その音色が途切れるまで余韻を響かせ、徐々にそのスピードをあげて、その繰り返しを三回。この鐘の音だけで、すでに心が洗われるような思いがいたします。
その後いったん退室され、御本堂を半周まわって、御住職と副住職さまがともに法螺貝を吹きながら登場されました。
炉の前には香炉や金剛杵などが置かれ、さらに御護摩に必要な仏具が置かれております。炉には四角く護摩木が何段かに積み上げられ、その上に常緑樹の葉が置かれています。
御住職はひれ伏すようにお辞儀をなさった後、真言を唱えながら、長い数珠を一粒づついとおしむかのように、撫でさわられておられます。そして塗香で身をお清めになりお焼香をされました。
副住職が太鼓を打ちならし最初は一定の速度でそのうち早打ちとなる打ち方を三度なされました。その間住職さまは鐘を打ちならし数珠をこすり、長い棒状の仏具で鐘を打ちます。また、数珠を一粒づつ撫でながら拝み、副住職の吹く法螺貝の音とともに紙に火をつけそれを掴む仏具で火を炉にくべました。
長い匙のような仏具で液体をかけますが、だからといって火が大きくなるような様子はありません。液体をつけた長い棒状の仏具でも液体を火にかけるようなしぐさをなさっています。細い棒を火にくべつつ、印を組む動きをなされています。副住職さまは身体全体で、焔にむかって九字切りをなされています。
その後、焔は勢いを増し、火の粉が天井の梁にあたっては消えていきます。焔の高さは二メートルほどにもなったでしょうか。

副住職さまが参列者のもとに説明に来られました。「御本尊さまにお参りいただいたあと、お渡しする木を焔にくべてください。その際、お荷物等を火かざししていただいてかまいませんし、難しければ私に声をかけてください」その間御住職さまは般若心経をお唱えなられて
とおっしゃって、細い二十センチほどの木の棒をお渡しください。
内陣まで入らせていただき、参拝させてたただきました。

No.383 19/12/06 06:05
旅人 

内陣を出ると、目の前に囲炉裏がきられているのがみえました。毘沙門天さまを見上げながら、暖をとり、人の悩みをきく空間であるのでしょう。
加持祈祷の焔が人の祈りを捧げる厳かにして勢いあるものであるのに対し、おそらくは囲炉裏の炎は柔らかく人の心を癒すものであるでしょう。御本堂に囲炉裏は初めて見た光景であります。

後ろから列をなしての参拝ですので、そんな感傷に浸っていてはなりません、歩を進め護摩壇に向かいます。護摩壇にくべる木片をくべた後、前のお二人はご自分の手で手荷物を火かざしされています。うーん、どうしよう。(・・;)
少し辺りを見回すと副住職さまがそばにおられます。そうそう、私は図々しいおばさん、そこが直すべき点だとしても、先ほど副住職さまが難しければ申し出てくださいとおっしゃって下さった!┉申し出よう。
いつもいつも持ち歩いている、りらっくまのマスコットまでついたバッグを、恥ずかしげもなく副住職さまにお願いすべく声をかけました。副住職さまは笑顔で受け取ってくださると、バッグに手で言葉でご祈祷くださって火かざしをしてくださいました。
ありがたいことです。ありがたい光景に胸がいっぱいになり、再び笑顔でお返しくださった私のバッグは、先ほどの自分のバッグではない、なにかとても神聖なものになり、私はそれを胸に抱えて副住職さまとバッグを拝んでおりました。

バッグの中にはこちらの御守りも、普段腕にしている数珠もみな入っておりました。
新たな御加を、お力をいただき、また、このバッグを手に毎日を毘沙門天さまに恥じない生き方を努力をしていこう、と深く胸に思いました。

御住職はその間も護摩壇に木をくべ、般若心経をはじめ読経を続けておられます。

No.384 19/12/07 07:24
旅人 

「般若心経をご一緒にお唱えいただき、御本尊さまの毘沙門天さまの御真言をお唱えいただきます。」
┉ついていけるかな?(・・;

配布された書面二枚。錫杖経は、どうやら御住職様のみがお唱えする文言があって、御唱和させていただく部分とがあるよう、途中で気づきました。ついていくのがやっとで、フリガナがついているにも関わらず、ボロボロと途中が抜けたり、私個人のお経としては、成り立っていないものとなってしまいました。
般若心経は早いペースでありますが、今回はなんとかご一緒にお唱えすることができたように思えむした。如何せんそんなレベルでありますので、本格的に長い数珠と経本を持たれての参列者の方には足元にも及びません。それが修行であります。さらに続く御経は、配布されたものにはないものでありますが、ご一緒にお唱えできる方が何人もおられました。
不心得ものの私は、あの数珠はどうやって入手されるのだろう?とか、チラッと思っては反省をいたした次第であります。

さらに続けて、まるでパフォーマーのような達人技の太鼓さばきとともに、御住職さまは読経を続けられます。

そして┉堂内に灯りがともされ、御住職さまがご挨拶をなさって修行が終了いたしました。一時間強、でしょうか。
その後、山伏姿の副住職さまに御身のお祓いをお願いされる方が何人かおられました。私も最後に並ばせていただいておそるおそるお願いをしてみました。
副住職さまは笑みを浮かべて、
「覚えておりますよ。ようこそお参りくださいました」とおっしゃってくださいました。
お祓いをしてくださったあとも、「おつらいこともありましょうが、大丈夫、きっと毘沙門天さまの方からお訪ねくださいますよ。」
と優しい笑顔、優しいお声でおっしゃってくださいました。
来てよかった。
本当に来てよかった。

ありがたさに深くお辞儀をして、生まれ年の数珠と御札をお受けして本堂をあとにいたしました。


すると┉先に靴を履いた夫が、嬉しそうに「あ、猫だ」と声をあげています。かわいい猫が参拝のお見送りをするようにちょこんとすわっています。人に慣れた猫であります。よくみると本堂の下に市販の猫の寝床がおいてあります。【猛猫注意】の貼り紙もありました。猫を愛するお寺さん、猫好き夫婦はさらに足しげく通いそうであります。


       令和元年十二月一日

No.385 19/12/10 05:55
旅人 

追記)
今回の参拝時、大岩山毘沙門天本堂の裏手をひっそりとお護りになっておられました、【氷掲羅天童子(ひょうがらてんどうじ)の像】が本堂の中に安置されておりました。お厨子の中にちょこんと、何となく居心地が悪そうに、まだこちら、┉御本堂の中ににおられることに慣れていらっしゃらないのかな。裏手におられたときは下から見上げて拝見していたお顔が、目の前で同じ目の高さで拝することができます。日本でここだけといわれる御仏像であります。

氷掲羅天童子像は、鬼子母神像が抱いている赤ちゃんの成長した御姿であります。
五百人、一説には千人いるという我が子を養うために、人間の子供をさらっては食べていた鬼子母神。釈迦が鬼子母神を戒め、諭されるために鬼子母神の子供のうち最愛の末っ子である子供を隠したというお話は有名ですが、氷掲羅天童子こそが、この時に隠された子供が大人になった姿なのだそうです。
毘沙門さまのお妃の吉祥天とは、姉と弟の関係であります。
こちらの御本尊さまは毘沙門天さま、妻であられます吉祥天さま、お二人のご長男禅膩師童子(ぜんにしどうじ)の三尊でありますので、
お姉さまと甥ごと、ご一緒にお過ごしになられるようになられた、ということになります。
そもそもが、鬼子母神の夫である散脂大将は、毘沙門天さまに仕える方であるようです。いろいろなつながりのある神さまたちでありますようです。

よその子供をさらってきては食べていた母、鬼子母神の罪を償うため、救いを求めてくる人には、限りないご利益を与えてくれるといわれています氷掲羅天童子。
鬼子母神もいまは改心され仏となり、仏の教えを広める役割をもたれておられます。どうか、母の犯した罪をいつまでも背負うことなく御自身の優しさだけで充分であります。


仏の道には人の世とは異なる決まりがありましょうが、罪深い母である私は、子供がそこまで罪を背負う姿につい胸を痛めてしまうのであります。

No.386 19/12/11 17:07
旅人 

かねてより行きたいと思っていた、群馬県太田市の【青蓮寺】さんに参拝いたしました。太田市、ではありますが、市町村合併前は尾島町、であったようです。

【岩松山義国院 青蓮寺】と称し、新田氏や足利氏の祖となる源義国の開基とされているお寺さんです。公安年間に一遍上人関東布教の影響を受けて時宗に改めたとのことで、群馬県には珍しい時宗のお寺さんであります。
天正三年(1575年)桐生氏を滅ぼした金山城主由良成繁が桐生入部の際に、桐生(現桐生市西久方)に青蓮寺を移したために一時期寺運は衰えたとのことでありました。
もともとのお寺はさらに東方に建てられていたようですが、江戸初期村人によりここに移建されたということであります。境内地は義国の居住跡と伝えられ、岩松氏館跡といわれるようです。新田岩松家の崇敬が厚く、また、徳川氏発祥の地として将軍家より寺領二十五石を与えられ、以降、寺運も再び盛んになったようでありました。


桐生市の【仏守山義国院 青蓮寺】の御本尊、阿弥陀如来三尊佛を、高崎市の県立歴史博物館の新田氏の歴史展で拝することができ、その後、年に一度の御開帳でまたその三尊像を拝観することができて以来、是非、元々の青蓮寺である太田市の【岩松山義国院 青蓮寺】に参拝させていただこうと思っていたのであります。
信州善光寺の秘仏本尊を模したとされる善光寺式阿弥陀如来三尊佛も、もとは太田の青蓮寺から寺が移設された時に、阿弥陀如来像も移されたものだったようです。ちなみにこの阿弥陀如来三尊像は、平成19年(2007年)に「銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三軀」として国指定重要文化財に指定されています。


いつものように、ナビに翻弄されながら道を進むと『◀青蓮寺』という、かなり立派な道路標識が見えてまいりました。
その方向を車窓からのぞくと!大きさこそは小振りではありますが、立派な山門が見えました。古い歴史を感じさせる山門であります。ワクワクする気持ちを落ち着かせ、山門の前に立つと、二体の御像がお護りになっておられます。


No.388 19/12/12 04:48
旅人 

こちらは┉金剛力士さま?でありましょうか?
小振りながらも表情豊かな、筋肉隆々、血管の隆起した素晴らしい御像であります。そして、なにより、思わずぽおっとしてしまう、それはそれは素敵なお顔だちであります。
ただ、歴史ある古いものであればあるだけ、なんの被いもなく外に立たれておられます二体の御像は風雨に曝され傷んでおられ、なんとも胸が痛みました。
特記すべきは、なんの意味があるものなのか、山門の前に台が置かれ、どうやら『靴』が奉じられているようです。いわれの書かれたものなどはなく、理由はわかりませんでしたが、女物、男物、靴の種類も様々に十足ほど納められて(?)おりました。うーん(・・;)

山門前には大きさの異なるお地蔵さまが二体、向き合ってお立ちになられておられます。

山門をくぐると、みぎてに鐘楼がみえました。しかし、そこには鐘はなく┉戦争の際の供出、でしょうか?その鐘のない鐘楼が、なんとも哀しいような寂しいような、なんともいえない雰囲気を醸し出しておりました。ただ決して荒れているわけではありません。
いちょうの葉が黄色い絨毯となって境内を敷きつめている、秋の光景がそう思わせているのかもしれません。
そして、御本堂。扉が開け放たれているのが見えます。


まっすぐに本堂にむかいます。みぎてに手水鉢がぽつんと置かれています。手水舎もなくむき出しのまま┉これは┉もうしばらく手水の役割を果たしてはいないのでしょう。
そしてひだりてには小さな御堂が建っています。

御本堂に入ってよいものなのか否かをお聞きするために、庫裏を目指して歩いて行くと、自転車が無造作に置かれています。いらっしゃるのかな?と思ったのも束の間、回覧板が玄関先の地べたに置かれています。そもそもが呼び鈴がない。
もうひとつ、奥に玄関がみえます。そちらに向かうと呼び鈴があったので┉押してはみましたが、あまり最近開けられていないのではないか?と思われる印象を受けました。そして、呼び鈴の音は空しく中から響いてはくるものの人の気配を感じることはありませんでした。いまは先ほどの玄関だけをお使いになられているのかもしれません。

お留守のようです。



No.389 19/12/14 05:24
旅人 

昨今のお寺さんとは趣の異なる、古いまま、時代の流れに任せておられるような御本堂でありました。
┉あの3・11のときにできたものでしょうか、壁に大きなクラックが入っています。江戸時代に村民が移建した際の建物がそのまま残っている┉わけではないのだとは思うのですが、本堂入ってすぐの壁面に江戸時代に奉納絵とともに壁に掛けられた昭和の終わり頃の物と思われる時計が、時を止めたままであるのが、なんとももの悲しく思われました。
内陣のむかって左側には、日限地蔵さまがお祀りされているようです。こちらは、毎月四日が御縁日のようです。

般若心経をお唱えして御本堂をあとにいたしました。小さな御堂はお祀りされておられるのがなんであられるのか等の案内が一切なく、小さく手を合わせてまいりました。

比較するものではありませんが、桐生市の青蓮寺さんも古いものではありますが、本堂には見事な彫刻がほどこされ、桐生市に移した際にこちらに安置されることとなった御本尊の三尊像は国の重要文化財の指定を受けたようであります。また、御朱印を求めて参拝客が全国から訪れていると御住職がおっしゃっておられました。
世が世であれば┉つい、そう思わずにはいられなかった、太田市の青蓮寺さん。
そんな私の愚かな思いを戒め叱りつけ、大切な青蓮寺さんを今日もお護りくださる金剛力士さま。
どうかこれからも永きに渡り、この由緒あるお寺をお護りください。



     令和元年十二月

No.390 19/12/15 08:00
旅人 

【お香】についての小冊子をお分けいただきました。
そこにはお香のみならず、知らなかったことが数々書かれており、一枚の紙を三つに折っただけの小冊子に、たくさんの教えが詰まっておりました。

仏さまや亡き方に、御供物を捧げおもてなしをすることを供養ということは存じ上げておりましたが、お坊さまたちは六種の御供物を基本とされ、それを特に【六種供養】と呼ぶのだそうです。それが六種であるのは、【六波羅密(ろっぱらみつ)】という悟りに通ずる、六つの修行に掛けているようであります。

六種供養は【水】【塗香】【花】【焼香】【飲食(おんじき)】【灯明】が供物の基本とされており、それぞれに、

【水】は【布施】┅独り占めしない
【塗香】は【持戒】┅決めたことを守る
【花】は【忍辱(にんにく)】┅怒ったり妬んだりしない
【焼香】は【精進】┅努力する
【飲食】は【禅定(ぜんじょう)】┅心を落ち着かせる
【灯明】は【智恵】┅物事を正しく認識する

という修行に通ずるとして、御供物を捧げておられるのだそうです。私は何の意味も知らずに、仏教の決まり事として花と水を捧げて、お灯明を灯しお線香をあげておりました。こんなに深い意味を持つものだったのだと、身が引き締まる思いがいたしました。

No.391 19/12/18 02:08
旅人 

お香の原料には、香気に富んだ樹脂・木片・根・葉などの様々な種類があり、インドやインドネシアで多く生産されている【白檀】、香辛料としても広く使われている【丁子】。防虫剤や防腐剤としても古くから使われている【龍脳】、などがあります。
代表的な香木として【沈香】があり、なかでも特に質の良いものを、【伽羅】と呼び、最高級のお香とされています。

もともとお香は、その原料となる香木を直接火にくべて焚いていたのが、時代を経て、いまのお線香が生み出されたようです。
最近では、ラベンダー、桜、といったものから、珈琲、ワンカップ、イチゴミルク、ミルキー、佐久間ドロップの香りといったものまであり、先日、なんとリラックマのお線香を見かけたほどであります。ちなみにへがリラックマのお線香はホットケーキの香りとトロピカルジュースの香りの二種類が入っておりました。

日本に仏教の伝来とともに伝わったお香のなかでも、天下一とされるのが【蘭奢待(ぐしゃたい)】。このお香は東大寺正倉院に納められている、重さ約十一キロある巨大な【沈香】で、もともとはもっと大きかったようですが、時の天皇や将軍が、手柄のあった臣下に分け与えたため、徐々に小さくなってしまったようです。実際に足利義政、織田信長、明治天皇が切り取った跡が残されているそうです。


マッコウクジラの体内で生成される【竜涎香】も古くから貴重なお香として用いられてきたもののようです。マッコウクジラの腸内でできる結石なのだそうです。海上や海辺などでごくまれに採れていたものではありましたか、その正体がわからないものの、そのあまりにもよい香りに、中国では竜のよだれが固まったものと考え、竜涎香と名付けたそうです。
そして、『お香』を体内で生成するクジラであるため、日本では『マッコウクジラ(抹香鯨)』と呼ばれるようになり、そのまま生物名として定着したのだそうです。
クジラの結石をお香にと考えたり、竜のよだれが固まったものとして竜涎香と呼んでみたり、昔の方の発想や想像力はスゴいものです。


No.392 19/12/19 05:32
旅人 

お線香について調べていると、あの細い、ともすればすぐに折れてしまう脆い物が、仏教においてはいかに大切な物かがみえてきます。
それはそうですよね、お墓参りにしろ、葬儀にしろ、お縁日にしろ、欠かさず使われているものですから。

『身は華とともに落つれども
        心は香とともに飛ぶ』  弘法大師空海
「咲いた花がいずれ散りゆくように、私たちの身体もいつかは滅んでしまいますが、心はお香の煙とともに浄土に昇ることができます」
ということだと書かれておりました。
真言宗という一つの宗派を築いただけでなく、全国を自ら行脚して教えを広めた弘法大師さまがそのようにおっしゃるくらいに、長きにわたり大切なものとして扱われてきたお(線)香。

一度火をともせば、一定速度で急がず、遅れず燃え続け、お線香が燃え尽きても、馥郁たる香りはいつまでも立ちこめて、朝に手向けたお線香の香りは、殊にこの季節の閉めきった状態の部屋には、夜になろうともその香りは先ほど燃えつきたばかりのような香りが残っております。なるほど、たしかに神秘的、であるかもしれません。
まっすぐに上に向かってたちのぼる煙もまた、心を鎮め浄めるように思われます。

Wikipediaにあるお線香のページに、お線香の本数について、次のように記述がありました。


仏教では香煙によって使用者や周囲の環境を浄化したり、瞑想などの意識を集中させる修行に使われるもの。
線香の供え方は立てるのが一般的だが浄土真宗系では火をつけて寝かせる。ただしお墓によってはこれに限らない。
また、仏教系のお供え(特に真言密教)では、線香を立てる数は3本である。
理由としては、身と口と心(身・口・意)の三業(身業・口業・意業)を浄化し、大日如来の三密(身密・口密・意密)に同化する。
また、もう一説には、三宝(仏・法・僧)と、衆生と、我に供養する為3本立てるとの説がある。
また、真言密教では弘法大師の「三信条」に報いる為、3本立てて香煙の行き渡る功徳によって、相互礼拝に報いる。
                   (Wikipediaより)

ほぅ、あの、たまにお仏壇で見かける寝かせるタイプの香炉は、宗派によるものだったのか。香炉一つにしても奥が深いのだなぁ。

No.393 19/12/22 08:59
旅人 

私どもには菩提寺がありません。と、言うと語弊があるようで、先祖代々のが奉られているお寺さんはあるものの、そのどちらのお寺の檀家でもないからです。
お寺をまわらせていただいて思うことは、檀家でない寂しさであります。檀家でないことの身軽さ、気軽さは確かにあるのだろうと思います。お布施も、卒塔婆だったりも、┉金銭的な感覚だけで言ってしまえばそれなりの出費だと、お墓を守っている方々のなかには宗派を問わずに話しておられる。
ですが、お墓の数から言ったらそれこそ何百もの檀家さんをお持ちのお寺さんであるのに、一目見ただけでどこのどなたかがわかっていただけて、その方その方に合わせた世間話をし、お身体を気づかっていただくお話をなさっている御住職さまをお見受けするたびに、死しても孤独、みたいな寂しさが心の片隅で小さな波を立てるのです。
子供たちによけいな苦労をかけたくない、という思いは変わらないものの、菩提寺がイコール旦那寺ではないことは百も承知しておりますので、葬儀、とかいうことになれば、もう、仏式なのか、神教なのか、果てはキリスト教なのか、┉信仰する宗教すらありません。

自己満足に過ぎない仏壇擬きはありますが、そもそもそこにご本尊がおられない。なぜならば宗派でご本尊さまは異なるから。
護り本尊とされる虚空蔵菩薩さまの御像をお祀りしようか、と思ったこともあったのですが、それこそ、自分たちがまるでまもってもこなかった仏壇を守っていってもらう義務を、子供たちの誰かに託すことになってしまいます。
幸い、私たち夫婦は二人で神社仏閣の珍道中、そのなかでここのお寺さんは好きだな、いいなという感覚が同じ、であります。そのお寺さんにこういった考えでこういったお墓のあり方をお許しいただけるものなのかどうかを、問い合わせていったうえで、檀家となっていくのもあり、なのかもしれません。

神道は私の周りににそういう方がおられず、亡くなったときのお墓って?という疑問からしてどこにどう問い合わせていくものなのかすらわからないし。


人はいくつになっても学び、悩むものなのだなぁ。ましてや未熟で軸がブレブレな私は四十どころか六十すら目の前にぶら下がってきているというのに、惑いっぱなしで生きているから。でも、それでもそこに学んでいくことがおりこんであれば良しとするか。
┉甘いな、自分に対して。ダメだなぁ。

No.394 19/12/23 06:31
旅人 

嫁ぎ先と、自分の父方のお墓にお参りをしてきました。その後のご報告とお礼のために。
嫁ぎ先の卒塔婆立てに比較的新しそうな卒塔婆があり、誰かあげたものかと見やると十三回忌のときのものでした。二年前のものになります。見慣れていたもののはずなのにそんなに古いものに見えず、首をかしげてしまいました。むしろ、今年の年明けにあげられた卒塔婆のほうが古く見えるくらいです。まあ、当然錯覚でしかないのですが┉。

そんなことから昨日は卒塔婆につい目がいくようになって、失礼ではあるのでしょうがよそさまの墓所の卒塔婆にもつい目がいってしまい、はじめて知ったことがありました。
卒塔婆に書かれている文字は、一本一本異なるということ。
いや、それは戒名だったり、何回忌供養とかだったりと個々に異なる部分ではなくて、その上に書かれた文言であったり、裏に書かれた文字であったりが、異なっていたのであります。
もちろん、まじまじと何本も何本も見て歩いたわけではなく、たまたま隣り合わせたお墓のものや、すぐ間近のお墓に供えられた卒塔婆と、実家のものに過ぎないのですが┉。
当然、二ヶ所のお寺さんにお参りしておりますので、宗派も異なっており、そこでの違いもまたあるのではありましょうし、まじまじ見るのも失礼かと、同じお寺さんのものでも目についた違いがあったことに気づいたことと、たまたま裏に書かれた文字が見える卒塔婆があってそこに書かれた文字を読んだにすぎないのですが┉。
両家のお寺さんは、地元では名の知られた古くからのお寺さんで、両寺ともにお墓の数も多いのですが、一本一本を御住職さまが自ら手書きされておられます。(御朱印をいただいた御手による文字でありますので┉)
一本一本にそれぞれの御霊に対しての文言を選んでお書きになられているのだなぁ、と本当に感動しあらためて感謝いたしました次第です。
ちなみに裏に【勢至菩薩】さま、と書かれていた卒塔婆があったお寺さんは、ご本尊さまは【虚空蔵菩薩】さま。なので余計に胸に残りました。
何故あえて勢至菩薩さまの御名前をお書きになられたのか。御住職さまにお聞きできれば早いのでしょうが、檀家でもない者がそんなことでお話をお聞きする機会もなくて┉Google先生にお聞きしてみましたが、さすがに専門的過ぎるようで、今回はこれといった答を得ることができませんでした。

No.395 19/12/25 05:15
旅人 

もしかして┉十三仏さま?
いまだに初心者の域を出ることなく珍道中を繰り広げる私ではありますが、古都鎌倉を巡った際に【十三仏巡り】なる言葉をしりました。本来、知っていて当たり前なことすら知らずに、やみくもに神社仏閣を自分探しのために巡らせていただいております者でありますので、【十三仏】さま、という響きすらが初めて耳にしたくらいのレベルでありました。
とりあえず三十三観音さまの霊場巡りと合わせて、一緒に十三仏巡りをさせていただこう!┉そのくらいの軽い乗りで、そうして巡っている間にはわかってくる、みえてくるものがあって、得るものもあるであろうと、始めた【鎌倉十三仏巡り】┉いまだに未完であります。

その十三仏さま。

十三仏さまは、あまたの御仏さまの中でも、私たちにもっとも身近で、古くから信仰される十三の尊い仏さま。この世に生きる我々のお守り本尊であると同時に、来世の、つまり先祖供養の仏さまでもあり、年忌の際には必ず御本尊として拝まれているのだそうで。
十三の御仏たちは、それぞれに違った徳(特性、役割)を持ち、それぞれの働きを以て私たち一切衆生を救済されておられます。そして、私たちの心が真に救われ、すべての世が浄土となることを願って精進されてくださっている、十三の明王さま、菩薩さま、如来さまです。

私たちが冥土へ旅立った時、自力では浄土へは行けません。そのため、仏さまに浄土への道を導いてもらうという、十王信仰からうまれた考えのようです。


人が亡くなって次に生まれ変われる事が仮に決まる49日まで、あの世で死後七日ごとに7回、十王の裁きを受ける際、それぞれの仏さまが弁護をして下さる、という考えの信仰です。
七七日(四十九日)目に最後の裁きを受け、浄土へ行けるかどうかが決まります。 この日を"忌明け"といい、ご先祖さまの仲間入りをします。百日忌、一周忌から三三忌までは仏さまに感謝を申し上げ、導いて頂き、来世の生まれ変わり先を決めていただくと言われています。

【勢至菩薩-せいしぼさつ】さまは一周忌、往生浄土、滅罪のため、
無限の光明と知恵によって、人々の苦しみを取り除くために努めてくださっておられる仏さま。

もしかしたら、そういったことに由来していて、お寺のご本尊さまではない御仏の御名が書かれていたのかもしれません。

まぁ、私の推測に過ぎないのですが┉。




No.396 19/12/25 05:43
旅人 

十三の明王さま、菩薩さま、如来さまに浄土への道を導いてもらう、十三仏信仰は、宗派を越えてほとんどの宗派、お寺さんで行われる供養となります。

中陰(人が亡くなって次に生まれ変われる事が仮に決まる49日まで)の私たちはあの世で死後七日ごとに7回、十王の裁きを受けるときに、それぞれの仏さまが弁護をして下さいます。
七七日(四十九日)目に最後の裁きを受け、浄土へ行けるかどうかが決まります。 この日を"忌明け"といい、ご先祖さまの仲間入りをします。
さらに百日忌、一周忌から三三忌までは仏さまに感謝を申し上げ導いて頂き、来世の生まれ変わり先を決めていただきます。

【十三仏さま】

【不動明王尊-ふどうみょうおうそん】初七日-しょなのか・・・(行者守護、悪魔退散、除災招福)
亡くなった亡き人自体、遠い冥界へ旅立つ覚悟もまだ不十分ですし、残された者もその人の死を認められず、現世への未練が残っている時期です。
死後の世界へと旅立たなければならない者が、再び現世に未練を持たないように不動明王尊の持つ右手の剣で迷いを切り払い、左手の縄は迷いの信者を縛って救いとり、 冥界へと引き込む役目をして下さいます。

【釈迦如来-しゃかにょらい】二七日-ふたなのか・・・(仏智悟入)
実在の人物であり、その大いなる力は、全ての人々を救うための仏として存在しています。 そのために葬儀のときにあわてて戒律を授けなければならぬ者、修行をしていない者に冥界への旅立ちに際して、仏教の祖である釈迦如来が祖の本来の教えを説いて下さるのです。 

【文殊菩薩-もんじゅぼさつ】三七日-みなぬか・・・(智恵、天変地異、降状)
文殊菩薩は知恵の仏さまであり、釈迦が前世で子供時代に教えを受けた仏だと言われます。 また、釈迦如来を中心とし両脇侍に、文殊菩薩、普賢菩薩としてこれを"釈迦三尊仏"といい、この釈迦三尊仏が二七日から三七日を経て四七日迄の間に、 仏教徒として身につけるべきことを教え込んで下さるのです。

No.397 19/12/25 05:44
旅人 

【普賢菩薩-ふげんぼさつ】四七日-しぬなのか・・・(仏智悟入、滅罪、大根清浄)
普賢菩薩は慈悲門を司る、すなわち情を担当する仏さまで女性的なやさしい表情をしています。 たくさんの功徳を備えていて、私たちの煩悩を打ち砕き悟りの世界へと導いて下さるのです。

【地蔵菩薩-じぞうぼさつ】五七日-ごしちにち・・・(滅罪、先亡成仏、無仏時代の守護)
釈迦の入滅後から弥勒菩薩が現れるまでの間、人々を救うための救世主です。四七日まで冥界への旅をしてきた亡き人が、六道へ落ちてしまった時に地蔵菩薩が救いの手を差し伸べ極楽浄土へ導いて下さいます。

【弥勒菩薩-みろくぼさつ】六七日-むなのか・・・(未来の救済)
弥勒の力と如来の力を併せ持って、人々を救ってくれると信じられています。弥勒菩薩には釈迦の入滅した五六億七千万年後に、釈迦に代わってこの世を救う「未来仏」としての役割があります。

【薬師如来-やくしにょらい】七七日-しちしちにち・・・(四九日)
四九日で現世とのつながりが終わりますが、まだ次の世界までは完全に入れない中間の道中の苦しみを乗り越え、極楽浄土への道を歩むための薬を与えて下さいます。


【観世音菩薩-かんぜおんぼさつ】百ヶ日・・・(除災滅罪、施餓鬼本尊)
観音様は三十三に身を変え慈悲の面で亡き人を救って下さり、阿弥陀如来まで導いて下さいます。

【勢至菩薩-せいしぼさつ】一周忌・・・(往生浄土、滅罪)
無限の光明と知恵によって、人々の苦しみを取り除くために努められています。

【阿弥陀如来-あみだにょらい】三回忌・・・(往生浄土、敬愛)
阿弥陀とは「無量寿」「無量光」という言葉のサンスクリット語を訳したもので、寿命は限りなく、阿弥陀さまの光はあらゆる国々や人々を照らして下さいます。
四八の誓願の一つに「阿弥陀如来を信じる者は、みな極楽浄土へ往生させる」があります。

【阿閦如来-あしゅくにょらい】七回忌
発菩提心、悟りをめざす心をおこすことを意味します。
発心を託す強い力を持った阿門さまが着ている衣を握っているのはその決意の強さを表しています。

No.398 19/12/25 06:07
旅人 

【大日如来-だいにちにょらい】十三回忌~二七回忌・・・(一切成就、即身成仏)別名は、昆盧流遮那如来とも言われ、天地あらゆる者、宇宙生命そのものの仏さまで太陽の様に輝いていることから、大日如来と名付けられています。これまで導いて下さった十一人の仏さまに教え導かれどれだけ悟りが深まっているかを観て下さり、その上にさらに導いて下さいます。

【虚空蔵菩薩-こくうぞうぼさつ】三十三回忌・・・(仏智悟入、福徳)
虚空(天界・法界)のような蔵(知恵・功徳)を持ち合わせ、広大ではかり知れないお力ですばらしい記憶力と知恵を表す剣を持ち、左手には福徳を表す蓮華の上に宝球をのせて持っています。 どんな人にも仏さまになれる仏性があることを虚空蔵菩薩が教えて導いて下さり涅槃へ到着できると言われています。





この十三仏信仰。信仰のあつい檀家さんでは、今でも忌み明けまでの毎週を法要をなさっておられるようですが、今は葬儀の際に併せての法要を済ませることが増えているようです。それなので、義母は法要を営んだという考えのもと、予定していた旅行に、いつものように私ども夫婦に特に告げることもなく出かけて留守にしていた、ということなのであります。それでもやはり義理がたい方々は何人かお線香をあげにお越しになられており、法要云々ではなく、そこは信仰心の違い、ということになるのでしょうか┉(^_^;)



義父の十三回忌の卒塔婆の中ほど、上部に、小さく並べて【一切成就・即身成仏】と書かれておりました。なるほど、さきにGoogle先生にお聞きして挙げた十三回忌のところに書かれてあります文言であります。いろいろな意味を込めて書かれていた卒塔婆に、今さらながら感心し感動し、感謝しておる次第であります。



また、十三仏巡りは、先祖の供養にこの上ない功徳をもたらすものとされているようです。なかなか行けない鎌倉。いつになれば【結願】となるのやら┉(^-^;


No.399 19/12/26 22:18
旅人 

【四無量心】 
たまたまネットで見つけた四文字の言葉に心惹かれました。
四無量心は「心(気持ち)」のあり方、とあります。常に意識をしなくてはいけない心のあり方なのだそうです。この心を意識し実践することにより功徳が積めるのだそうです。
【無量】とは「この上ない」「計り知れない」と共に、「自分と関係のあるものだけではなく、全てのものに対して平等に」という意味があるのだそうです。では、4つの無量とは?

1【慈無量心(じむりょうしん)】
人々に無量の情愛の心を起こすこと。【与楽(よらく)】といい、相手に喜びや楽しみを積極的に与え、共に喜んだり楽しんだりすること。

2.【悲無量心(ひむりょうしん)】
人々に無量の同情の心を起こすこと。「抜苦(ばっく)」といい、相手の悲しみや苦しみを抜き取ってあげ、共に悲しみ苦しむこと。

3.【喜無量心(きむりょうしん)】
人々の幸せな姿を見て、無量の喜びの心を起こすこと。慈無量心と似ているが、慈無量心は自分から積極的に相手に喜びや楽しみを与えることだが、喜無量心は自らが何かをするのではなく、相手が幸福になっている姿を見て、自らも同じように幸せを感じること。他者の喜び幸せをねたまないことも含まれる。

4.【捨無量心(しゃむりょうしん)】
好き嫌いによる差別の心を捨てること。同時に全てのものに対する執着を捨てること。必要以上の執着は苦しみを生むだけである事を知る。どんなに莫大な財産でも、愛情をかけた者でも死後の世界には連れて行けないように、失うまいと思うが故に苦しみを味わうことを知る。


簡単にいうと
「分かち合う喜びは二倍にも三倍にもなり、分かち合う苦しみは半分にも三分の一にもなる」ということ、のようです。


┉捨無量心。そうだなぁ┉。
四無量心こそは、私のめざすべき生き方、なのかもしれません。

No.400 19/12/28 06:54
旅人 

ミクルではない、いわゆるブログでは、神社仏閣のブログのコーナーがあって、みなさま本当に詳しくお書きになられており、掲載されている写真もため息がこぼれるくらいに素晴らしいものがございます。
みなさま本当にさまざまなところに出向かれておられ、御縁日でありますとか、大祭でありますとか、一年に一回の御開帳日であったり、何年かに一回、○○記念しての特別な御開帳に、しっかり出向かれておられます。
神社仏閣さまのホームページをこまめにチェックされたり、ブログのフォロワー同士での情報交換などで情報を得られるのか┉うかつな私などはそのブログを拝見して、終わった情報を得てため息をついているくらいなのですが┉。



私、日光東照宮の境内(輪王寺、大猷院、二荒山神社さんを含める大きな意味でのもの)の気が、たいへんよい波動を与えてくださるようで、落ち込んで沈んでいた気持ちが嘘のように晴れたり、すぐれなかった体調が治ってしまったりと、私には体感的にも大好きな神社仏閣であります。忙しかった今年、なかなか参拝にうかがうことが出来ずにおりましたが、今年はちょうど世界遺産に登録されて二十周年の年にあたる年であったようであります。
輪王寺さんではそれを記念して、限定の御朱印帳を授与されておられるようで、さらには一年間で五回、期間限定で護摩堂の五明王さまの御朱印の授与がおこなわれているようです。しかもなんとかその一回目の期限内の情報を得られたのではありますが┉。

行きたい気持ちがすでに日光に向いているのですが、なにぶんにもこの年の瀬にきて大掃除がかろうじて着手したくらいの状況、やるべきことは歳神さまをお迎えする準備=大掃除、であります。


また、日光東照宮さんの御神籤には、なんと!当たりが入っているのだとか。
長い間生きてきて、御神籤をひいた記憶がないくらいの人物ではありますが、当たりとか、限定、とかにたいへん弱い、浅ましい人間でありまして┉(^-^;
大好きな大好きな鳴き龍の描かれたという御朱印帳を、なんとか得られますように(。-人-。)

No.401 19/12/30 04:18
旅人 

結婚以来、ずっと夫の実家のいうがままに元旦には必ず行く、2日も3日も呼び出されたら必ず行く、┉といった悪しき慣習が出来上がっています。それをもう変えてもいいのではないかと。わが家自体が実家になった今、行けるときに行くでよいのではないかと、一年かけて夫に提唱して参りました。
義母は今はもう施設に入り、義姉の来られる都合にあわせ、義母を空き家(留守宅?)となっている義実家に連れていきそこで宿泊する、といった形に変化している。義姉が滞在中、それに合わせて呼び出されたら行く、といったものになっているのはどうかと。
義兄は自分のサークルの集まりがあればそちらを優先するし、娘が帰京すればそれを優先しているのに、なぜうちは(夫は)今まで通りに予定を組めず待機しなくてはならないのだと、長年の不満を変革していこうと思っての妻の抵抗でした。
予定を組んでしまえばいい!
二年参りはどうだ。
義姉一家が義母と水入らずの時間をもっていくのだっていいのではないか。
そこに義兄がどうからもうと、わが家の正月をつくっていきたい。

元旦が休みでない子供もいて、元旦しか休みでない子供がいて、わが家自体がみんなで集まることができない正月ではあるけれど、せっかく一日しかない休みをわが家に顔を出してくれているというのに、義実家最優先はもうやめたい、というのが本音です。私が行かないでもいいのではないか?それは角がたつ? そして顔を出せばあがって少しゆっくりして行けば?となり、結局宴会となり、洗い物までして帰宅することになる。結局、今まで通りになってしまう。
義実家が実家となった頃、義親たちはどうだったか?
お年始回りでいない時間帯あり、ショッピングでいない時間帯あり、それを留守番する係としての私たち夫婦の役割が確立していき、今にいたっていたのだなあ。
私の実家に行っていようと呼び出しがあれば(┉携帯電話もない時代に私の実家に電話してくること自体がそもそも凄まじい支配だ)夫は脱け出して自分の実家へと行くことすらありました。不満もたまるものです。義兄の元妻は、暮れから自分の実家に泊まり込み、暮れと正月の挨拶にすら来ないというのに。

さあ、令和初めての正月。
わが家の正月のスタートですよ~。
┉なれ!

No.402 20/01/03 05:30
旅人 

元旦に、近所の神社に初詣をし、花を携えて両家の先祖代々が眠るお墓参りをして参りました。ここまではもう何年か(夫は一昨年から)続けてきたことであります。 
今年は、元旦家にいた子供たちと初詣に参ることができました。
そう、ごく普通のお正月の風景であります。それがようやく形となった、結婚して三十四年目でありました。


夫は実家にいたときの習慣をずっとここまで引きずっていました。
姉や兄はそれぞれの家庭に合わせた形に変えてのお正月を早くから確立して、それがすでに当たり前のお正月の風景となっていたというのに。
結婚前、家族でお酒を飲みかわしながら【紅白】を観て、【ゆく年くる年】を観ながら明けましておめでとうを言い、眠くなったものから寝ていく。目が覚めたらおせちを食べ、その後は親がお年始まわりをするのについて歩ったり、友だちと出かけたりしたのち、家族揃っておせちをいただく。
それを自分の家庭を築いてからも実家に合わせてのスタイルをずっと今まで続けてきた人であります。
三、四年前まではたった一人自室で【紅白】を観ながらたった一人でお酒を飲み、新年を迎えた時がくると「明けましておめでとう」とだけ言いにきて、「寝ます」と宣言して自室に戻るということをくりかえして。知っている歌手の方が少ないかもと言いながら┉。

私は┉夕飯要らないと早くから友だちと出掛ける子供があったり、その成長成長で個々いろいろな動きをする子供たちに合わせながら、新年を迎える準備の最終仕上げをしつつ。
一人減り二人減りしていく子供たちではありましたが、最近はずっと【ガキの使いやあらへんで】を観ながら、お菓子を食べたり、ジュースや缶チューハイを飲み、笑ってガキつかが終わると明けましておめでとうを言って自由解散するというパターンに定着しておりました。

夫は朝、おせちを食べると実家に向かう準備に取りかかり、初詣もお墓参りもなにもしない、元旦はずっと実家で過ごす。たとえそれが実家の留守番でしかなくても。
その流れによっては二日も実家に入り浸り、三日はうちの実家に出向くけれど、早々に抜けて自分の足で実家の親の年始まわりの運転手を務めたり。
ずっと形こそ変われど、夫は実家に共依存しておりました。

まあ、私の不満はたまに大噴火しておりましたが。


わが家なりのお正月の過ごし方があってもいいだろう。

No.403 20/01/03 06:29
旅人 

このところずっと、元旦は雲ひとつない静かな穏やかな年が続いております。今年も同じように、青い空がひろがっておりました。
仏さまやご先祖が、空の上から見守ってくださっているような清んだ空であります。

何年か前、「正月にお墓参りするなんて聞いたこともない!」と豪語したことなどすっかり忘れたように、神妙な面持ちで手を合わせる夫の横顔をみて、思わず小さく笑ってしまう私でありました。
今年も、両方のお寺さんは家族でお墓参りをされる方々で賑わいをみせておりました。ここは私どものお寺さんではないけれど、子供たちとこんなお正月を過ごして来たかったなと思わずにいられない光景であります。
去年はすっかり花のことを忘れて、どこのスーパーも花屋さんも開いておらず、花のないさびしいお墓のお参りにしてしまったので、今年はそれだけは避けねばと暮れの買い出しに一番にカートに入れました。
今年はお線香が残りわずかだったというオチはありましたが、なんとか間に合い、帰宅後すぐに補充いたしました。


反逆者となったような気分で、『わが家の、わが家なりの正月』『実家としてのわが家』の確立を試みた令和初めての正月。
お墓参りを済ませて、なんだかそんな気持ちが薄れていることに気づきました。頑固爺だった舅が「そうあるべき」、と背中をおしてくれたのかなぁ。もちろんそれは私にとって勝手によい解釈をしたに過ぎませんが。(^_^;)


わが家の確立は結婚三十四年目にして、まだまだこれから。
新たな時代、変化している時代に合わせて、私たちなりのわが家を確立して次世代に渡していくこと。
すでに固定していることもまずは破っていくことにもなりますが、次世代の子供たちによい形でバトンを渡したい、渡すために、頑張っていかねばならないことであります。



No.404 20/01/04 05:54
旅人 

息子二人と夫と私で、初詣に向かったさきは、群馬県前橋市の【三夜沢赤城神社】さん。一人暮らししている息子はこちらへは何度かお詣りに訪れているのだとか。ふとした拍子に新たな一面が見られるものです。

そこにはいつもと趣の異なる、風景が┉。さすがパワースポットとして有名な神社さんでありました。
信じられないくらいの場所からの渋滞でありました。しかもまるで微動だにしない。
運転手を務めてくれた息子と助手席の息子が、「さっき通りすぎてきた駐車場に入ればよかったかな」とポツリ。うかつな私は当然ながらそんな駐車場など目にもはいっておりませんでした。
「あ、なんとかあそこでUターンできるかも」
「いや、Uターンしなくても道自体は繋がっているから、そのまま抜けられそうだよ」
運転席と助手席の息子たちが話しています。助手席の息子は渋滞を見るや、即座にiPhoneで地図を出して周囲の道を検索していたようです。阿吽の呼吸だな。

細い細い道を進めて行くと、! そこは急なカーブをなして曲がる、さらに細い、通常は人のためだけに使われているだろうような細い道であります。しかも片側には天然の小さな小さな川が! 軽自動車一台やっとの車幅の未舗装の道で、サイドの川は自然なまま、昔ながらの土の道にそのまま川が流れているといったもの、ガードレールはおろか被いすらありません。
「無理だよ、やめておこう」
三人が異口同音に話しかけるなか、
「いや、大丈夫だろ、行ける行ける!」 !!(゜ロ゜ノ)ノ
ちなみにこの車、彼はこの日二度目の運転で、彼の愛車とは車高も車幅も全く異なる、親のものなのであります。へ?
ひょいひょいひょいといとも簡単そうにハンドルを操って、あっという間にその道に入って、あっという間その道を走り抜け、あっという間にショートカットして元来た道に出たのでありました。

私にはもはや神業。いや、夫からも感嘆の声。
さすが幼少の頃から車好きだった息子で┉関係あるかどうかはとにかく、車が好きで好きで、走ることはもちろん、メンテナンスにいたるまで自分で手がけるお人であります。m(_ _)m


問題はあの混雑ぶり。この駐車場までいっぱいなこともありえます。
しかしそこは問題なく停めることができました。







No.406 20/01/06 04:58
旅人 

【三夜沢赤城神社】さんは、たいへん水の豊かな、そして緑豊かな、静かな神社さんであります。
しかし、さすがにお元日の初詣。前述したように、初詣渋滞を起こすほどで、普段の静けさはどこへやら、鳥居の外には何軒かの屋台が並んでおります。

こちらの神社さんの特記すべきは手水舎。豊かな御神水でできた、いつ行っても水位の変わらない神池にせり出すように建てられているのです。池の水は本当に澄んだもので、池を囲んだ常緑でしかもいつの季節も新緑のような美しい緑の木々をその水面に映しており、大変幻想的な、それはそれは美しいものなのであります。
そちらで柄杓を使うとき、神さまにお水をお分けいただいているように感じるくらい、本当に神々しいものです。ですがさすがに、この日のその手水舎にできた長蛇の列では、いつもの雰囲気は味わうことはできなかったです。

それでも、この時間帯は空いているはずなのであります。なぜなら、十二時から催されていたお神楽が終え、さらにこの日この時間帯には、ニューイヤー駅伝が行われているから(?)

拝殿に向かう石段はさほど混雑しておらず、拝殿前もほんの少し並べば済みそうです。そして┉不思議と私の後ろに列はできず、ゆっくりと参拝することができました。

参拝を終え、本殿脇に向かいます。不可能でない限り、私たちの珍道中では暗黙の了解となっており、どちらともなく自然とそちらに足が向かいます。普段一緒に来ない子供たちも、何度か一緒に珍道中に同行するうちに私どもが次に向かう先がわかっているようで、自然についてまいります。

参拝後本殿の造りを見させていただいたり、神社さんによっては本殿裏に裏神さまがおられるのでそちらの参拝をするためなのですが┉。今回ふと本殿裏のさらなる山の上に目をやると、立入禁止の貼り紙があり、山の斜面に無数の小さなお社があるのが見えました。真の神域ということなのでしょう。
目にしてしまったことすら申し訳なく思えて、私は静かに頭を下げてその場を去りました。

この日もさらさらと音をたて、神水が境内の人の歩かない辺りを流れる音が聞こえます。神水をお分けいただいく場ではざーざーと音をたて勢いよく水が流れ続けております。

人々が多く訪れようと、静かな日であろうと┉神さまは変わらずに土地を人々をお護りくださっておられました。



         令和二年 元旦

No.407 20/01/06 06:04
旅人 

参拝できる限り参拝させていただいている、栃木県足利市の【大岩山最勝寺毘沙門天堂】さんに参拝いたしました。

こちら本坊まではなんとか私一人でも行けるのですが、毘沙門天本堂は、本堂を過ぎてから細い細い┉対向車が来たらすれ違うことが困難な箇所がほとんどというカーブの連続する山道を数キロ登っていく、という場所にありまして。さながらテレビの『ポツンと一軒家』に向かう道のような道を走るため、ただでさえ運転技術に自信のない私には、連れていっていただいてはじめて参拝できるといったお寺さんなのであります。
今回も、本堂は連れていっていただいくにもかかわらず、まるでそうすることが当たり前、のような自分に内心反省しながらも、夫に運転させて(!)の参拝であります。(┉反省)

途中、大晦日に年中恒例行事として行われている【大声コンクール】の会場のあとが残っておりました。こちらはどちらかというとあと付けされたもので、本来の年中行事として伝承されているのは【悪態祭り】であります。江戸の時代からのもので、一年間溜めた鬱憤を大声を出して払い出しながら山道を歩いて本堂に向かい、よい年を迎える、といった行事のようであります。実はまさにこの悪態祭りに参加し年越しをさせていただきたくて計画を練っておりましたのでありましたが、昨年末に限って寒波と強風となり、さらには子供の晴れ着の着付けという重大任務をおおせつけられたため、いともあっさり諦めてしまったという経緯があったのですが┉。
悪態祭りに引き続き行われるのが滝流しの行と言われ、大盃を口につけて座り、その目の前に立たれた御住職さまが盃にお酒を滝のように注ぎ続けるといった行事が行われ、早朝まだ日の昇らないうちの五時半から御護摩修行が行われるという長い長い二年参りになるのがこちらの最勝寺さんの年越しの行事であります。
今年こそ!と年明け間もなく心に思うのでありましたが┉(^_^;)

年明け三日間はさらに初詣の人々のために回数を増やして御護摩を焚いてくださっておられます。息をつく暇もないように思われますが、境内にたまたまおられました御住職さまはいつもと変わらない笑顔でお迎えくださって、御丁寧なご挨拶を頂戴いたしました。
まさに日ごろの修行のたまものにありましょう。
心から信頼し尊敬しているお方です。


心躍る思いを鎮めながら本堂の階段を昇ります。




No.408 20/01/07 23:06
旅人 

いつもと変わらない本堂。
いつもと違うのは、副住職が居られないこと。御住職には三人の息子さんがおられるので、今日は一番下の息子さん、でしょうか。若いお坊さまが護摩壇を整えておられます。
こちらのお寺さんは真言宗豊山派。黒の空衣=うつおと呼ばれる法衣をお召しになり、護摩壇の支度が整うと五条袈裟(ごじょうけさ)と呼ばれる袈裟をかけました。そしていつもは山伏姿の副住職がお打ちになる戸口の側の柱に吊り下げられた鐘を鳴らされます。最初はゆっくりと、徐々に早く、それを繰り返すと、堂内の灯りがうす暗くされ、法螺貝を吹く音が近づいてまいります。いつもとは異なりご本尊の真正面の障子を開けて、御住職さまの入場です。

御住職さまは紫の空衣に、首もとには白いマフラーのような布を衿に沿うようにお付けになっておられます。僧網襟と呼ばれるもののようです。やはり五条袈裟をかけ、空衣の下には裳を着け、指貫=さしぬきと呼ばれる袴を裳の下に履いておられます。
これが真言宗の僧侶の装束のようです。たしかに宗派によって、だったかまではわかってはおりませんでしたが、装束に違いがあることは気づいておりました。知れば知るほど逆に奥が深く、いつまでも初心者の域を出ることができない気がいたします。

護摩壇の前に少し高めの高さの座壇が設けられています。そこに伏すように礼を三回なされたあと、若いお坊さまが後ろから裳を整えて席に着かれ、御護摩の始まりとなります。

ついついみとれてしまうのが、まだ珍道中の域にいる私。
御数珠の使い方一つにしてもいく通りもいく通りもあって、数珠を棒のような法具で掻き鳴らしたり、折り畳みおしいだいたり、両の手に持ち擦り合わせたり、珠の一つ一つをいとおしむように触れて百八つを回したり┉。
真言を唱えながら次々と手印を組み、袖の中で組むこともあり。
かなりの長い時間にわたって行われる護摩修行、経本をご覧になることはなく、ほぼずっと読経されたり、真言を唱えたりなされておられます。こちらの御護摩修行ではもうひと方の僧侶は途中で護摩壇横から護摩壇に向かって九字切りをされます。

流れるように行が行われるのは、毎日毎日朝の五時からなんキロも離れた本坊からお山を登って、御護摩を焚いて修行されておられるから。
御護摩の焔は天井近くまで火の粉を舞いあげて、あたりを浄めます。

No.409 20/01/08 05:27
旅人 

大岩山毘沙門天さまの新春の御護摩修行は、月に一度の御開帳のときよりもさらに回数を増やしてくださっておられます。そのせいでなのか、いつものものとは少し異なっており、参列した者が一緒に錫杖経や般若心経を読経するべく経の書かれた紙が用意されてはおりませんでした。
当然ながら書かれたものをようやく読んで読経している私はただただ聞いているしかできない。最近はお寺さんを訪ねるときはほぼ携帯するようになっていた般若心経の書かれた小冊子も、今日はあえて置いてきてしまって┉。つたない読経ですが、本堂でご本尊さまに向けての読経はまた格別なものであり、少し残念に思いながら読経に耳を傾けていると┉(゜ロ゜)!
錫杖経をご一緒に御唱えになっておられる女性の声が聞こえます。錫杖経はそれなりに長いものでありますのに、信心されている信者さんは、そらで御唱えすることができるものなのだなぁ。
般若心経は何人かがそらで御唱えされておりました。仏教に帰依したというわけでないといえ、最近においては心の拠り所ともなってもおり、もう少しだけ、努力したいと思った私でありました。まぁ、読経ですら、いまだにつかえつかえなので、せめて般若心経の書かれた小冊子は必ず携帯しようと思ったのでありました。


御護摩を終えて、最近気に入って使っているこちらのお線香をお譲りいただき帰宅の途につくと間もなく功徳があり、娘が今から自宅に来るという朗報が飛び込んでまいりました。言い換えると相も変わらず子離れできない母、という未熟な私、という事実が浮き彫りになっただけでありますが┉娘に会えるのがうれしいのはどんな母も同じでしょう。
ありがたいご利益であります。
こちらの毘沙門天さまは、奥がたの吉祥天さまとご長男の善膩師童子さまとでお祀りされておられ、ご家族の絆を感じさせる三尊像であられます。どうか、私どもの家族が絆を深めたよい年でありますように。



        令和二年 一月三日

No.410 20/01/09 21:03
旅人 

お正月三が日も終え、神社仏閣巡り珍道中の本格的始動のときです。

私は、体調が悪いときでも、そこに着くと、先ほどのだるさ、先ほどまでの痛みはどこへいったのだろう、という、まさに魔法のような、私にとってありがたい土地があります。それが、輪王寺、日光東照宮の、その広い意味での?┉中くらいの意味での境内。市営駐車場からの階段を登りきったあたりからのところであります。
いざ、日光へ! 

遠足にいく子供のようにワクワクしている私とは明らかにテンションの異なる夫は、約束の時刻を過ぎても起きてこない。えっ?┉体調でも悪いのかなぁ?夫の寝室の襖をガラッと開けて、「もう、七時過ぎたんだけど、体調でも悪いの?」┉妻は具合ではなく、確実に機嫌が悪いです。がばっ!!!夫はすごい勢いで飛び起きました。

「そんなに早く行くと思ってなかったんだよ」
は?
「八時に開くって言ったよねっ!私、開くと同時に入場して、その日なん体かしか授与することかできないっていう御守りをお受けしたいって言ってたよね」
「わかった悪かったよ、でもそんなこと言ってる間に、一刻でも早くご飯食べてでかけようよ」 (; ・`ω・´)

新年そうそう、朝の早い時間帯、よりにもよって神社仏閣に向かうというのに┉。

No.411 20/01/10 06:42
旅人 

夫の寝坊、だと知って、私の怒りはあらためて炎上しつつあるというのに、「聞いてないよ」だの「いいから早く食べてでかけようよ」とのたまう夫。もちろん、そこは未熟にして修行の足らない私の怒りはさらにヒートアップする、という悪循環に、彼はいつになったら気づくのか(´_`。)゙ おそらくは一生涯このままな二人?
いやいや、それを直していくための神社仏閣珍道中であります。
とりあえず、しゃべらないで!自分に都合のいいように話を持っていくな!ひーひーふぅ、ひーひーふぅ。

なんだかんだと支度をし、┉とはいっても私はすでに、食事以外の準備は、保温ボトルにコーヒーをおとしてあるくらいに準備ばんたんなので、ひーひーふぅと食後のお茶を飲んで、怒りを鎮め、心を整え┉ま、なかなかこの行、私には難しいのですがね(^-^;
なんだかんだと出発です。すっかり昇っているお日さまに、三たび夫にイラッとしそうな気持ちを抑えて、助手席にどすんと座りこむ私でありました。


うーん、風もなく穏やかな一日でありそうです。

┉風もなく穏やかな┉だったのはある曲がり角を曲がるまで。曲がり角を曲がり、川沿いの道を走り出したと同時に、細かい白い小さな物がちらほらフロントガラスに向かって舞っています。?┉なに?
えっ?まさかの雪~っ?
さらに進むと道こそは路面が濡れているくらいですが、道沿いに枝をひろげる木々の枝にはうっすら白い物が飾られており、さらに進むともうそこは雪景色。フロントガラスに向かって舞っているのは雪だと、誰もがわかるレベルのふりかたに変わりました。
「この路面なら大丈夫でしょ。早く行って早く帰るようにすれば大丈夫」と夫。そ、そうかぁ?明日から仕事だよ?なにかあったら大変です。何年か前の関東に降った大雪で高速道路から閉め出しをくらい、その影響で大渋滞した道路で、何時間も何時間も同じ路上にずっと停車せざるをえなかった過去を持つものとしては、降りだした雪に不安しかありません。二十四時間かけてもまるで自宅はおろか、地元にすら戻れず、車中から仕事先に休ませてくださいと電話した苦い過去。
雪国の方からみたら、鼻で笑うくらいの積雪でありました。雪に不慣れな地方の泣き所であります。



No.413 20/01/10 19:17
旅人 

窓の外は完璧な雪景色となりながらも、路面はあくまでも濡れている程度。これならば、と内心思いながらも、「今日無理をおしてまでの参拝を神さまも仏さまも望んではおられないから、少しでも無理だと思ったらすぐに引き返すんだよ」
┉はい、助手席で威張っているかわいげのかけらもないおばさんであります。今年の目標、[女子力をつける]にしようかな (^_^;)

それでも道路はずっとウエットな路面のまま。ただ、対向車がそれなりの積雪を最低限払ったくらいの状態で走って来ます。あたりは幻想的な風景となっています。ほうっ❤、と思ったのもつかの間。!シャーベット状態の路面が。
「じゃあ、そろそろUターンしようかね?」と私。
「俺もそう思ったとこ」と夫。

┉実際にUターンをし、かなりの距離戻りかけて夫が、「やっぱり、行けちゃう気がする」
?┉対向車にライバル心でも抱いたのか?日光は大雪注意報が出ています。でも、実はこう言い出したときの夫は結構な頑固者。そこは多少なりとも取扱いを学習している私は、「じゃあ行ってみれば?また無理だと思ったらまた戻るのもありだから」と述べて、彼におまかせ。だって助手席の女に過ぎないのだから(^_^;)

もう、すでに本降り、ボタン雪。先ほどのシャーベット状態の路面の箇所を再び通り抜け、日光を目指します。

もう駐車場はいっぱいかな?

No.414 20/01/11 06:31
旅人 

日光東照宮のそばまで来ても、車はウソのようにまばらで、いつも利用する市営駐車場もがら空きな状態でありました。
信心深い方々は正月三が日中に参拝を済まされておられ、賢い方々はネットで天気予報をチェックするなどして、今日わざわざ無理をして参拝することを選択されなかった┉ということなのかもしれません。日光でも路面は湿っている程度。
夫の言うように、ポイントをしぼっての参拝をさせていただけば雪の積もる前には帰宅できそうです。

ポイントをしぼるとしたら┉
はい、除夜の鐘も虚しく煩悩のかたまりの私が求めております限定御朱印帳の授与、そして一日の授与数が限られていて10分足らずで終了してしまうという御守りの授与、であります。正直、御守り自体はもう、お寺の授与所が開いてすでに二時間近く経過しておりあきらめております。それなので御朱印帳の授与、が第一の目標、向かう先は【護摩堂】であります。

┉?いつもとは異なり、静粛にして厳かな参道に、明るい聞き慣れた音楽が流れています。ええ、たしかにお正月松の内でありますので、いつも、ではありません。が、あまりにもそぐわない賑かな歌が、エンドレスに流れています。
♪~ 福ーよ来い来い、福よ来い 年のはじめに福よ来い┉ ♪
テレビで毎年暮れにお正月は聞いている、聞き慣れた歌であります。つい最近まで神社仏閣にほぼほぼ縁のない生活を長年続けておりました私は、そもそもがこの手のCMにまるで関心がなく、┉正直、今現在にいたってもこの手のCMに興味を示すことがなくて、ともすれば嫌悪感さえ感じるくらいであります。
なんでこんな静粛な場所にこんな賑かな歌を流し続けているのだろう! と不思議に思いながらも、とりあえず、私の心は護摩堂に参拝して限定御朱印帳の授与をお受けすることにほとんどが占められておりますので、いつものように聞き流しながら濡れた参道を走るように一路護摩堂へ。

夫はとりあえずトイレに行きたいとのこと。
お参りを先に済ませるのもイヤなので、御守りや数珠を見て過ごすことにいたしました。
御朱印はお参りを済ませてから、が決まりでありますが(これも神社仏閣によっては先に御朱印帳をお預けするところがありますので、一概には言えませんが、)つい最近、御守りは先にお受けして、拝殿なり、御本堂に向かう方がよいのだと本で読んだりテレビで観て知りました。御守り┉

No.415 20/01/12 09:25
旅人 

御守りを見ることで、一日の授与数に限りのあるとネット上で知った御守りのことが、またむくむくと私の心のなかで大きくなってまいりました。
何度も参拝しておりますが、どこをお参りさせていただいてもここのどちらの授与所においてもその御守りを目にしたことはなく、だからこそ、その日に数体限定というネット上の情報に信憑性の高さを感じました。その御守りには元三大師さま=角大師さまの御札が収められているということから考えるに、それは間違いなく輪王寺さんでのお取り扱いをしていらっしゃるはず。ここ、護摩堂は輪王寺さんの御堂であります。
ただ、今日はすでに十時になろうかという時間、次回のためにどちらでお受けできるのかを伺っておくだけでも意味があると、おそるおそる授与所の方にお声をかけました。
私、「一日に何体か限定でお分かちいただけるという御守りはこちらでお受けできるのですか?」
係の方「御守り┉ですか?どのようなものでしょう、御守りはこちらにあるものだけなのですが」
私「ネットで知ったものなのですが、大きなもので、その日に数体限定でお分かちいただけるもののようで、葉のような、羽のような円形のもののようなのですが┉」
係の方「ああ、鬼門除けのことでしょうかね」と、おっしゃると同時に後ろを向いて何かを取り出す動作を!

私「そう、それです、それです!┉今日はもう、終わられてますよね┉」
「いえ、ありますよ。こちらでよろしいですか?」
私「は、はいっ!❤」
「こちら、本来はこちらの七福神の縁起扇とセットでお受けいただくのが正式なものなのですが、どうされますか?」
私「┉うーん」
私「┉そちらはとりあえずお参りをしながら考えてからでもよろしいですか?」

やったぁ!
御守り┉ではなかったけれど、長いことお受けしたかった御札をお受けすることができましたぁ。これはお正月そうそう縁起のよい❤
トイレから戻っていた夫は、飛び上がって喜びそうな妻を温かく見守っておりました。
護摩堂の中ではその七福神の縁起扇の説明をしておられました。
お目当ての御札をお分かちいただけ、さらに欲張るのもかえって良くない気がして、今回はやはりこの【鬼門除け】と呼ばれる御札だけにすることにいたしました。
護摩木に心願成就を願い、護摩堂をあとにいたしました。

もうひとつの、【限定御朱印帳】も手にいれることが叶いました。

No.416 20/01/12 18:57
旅人 

ステップをふみそうな軽やかな足取りの私は、もう帰ってもいいかの勢いでありますが、初詣、そういうものではありません。

そして┉ステップをふみそうなわりにはふと気づくとあいも変わらず境内に流れている
♪~福よ来い来い、福よ来い、年のはじめに福よ来い♪の歌が再び気にかかり出しました。
「ねぇ、なんでこの歌がここで流れているの?」と夫に聞きました。
「え?、輪王寺だから」
「は?」
「毎年毎年、テレビで流れてるじゃない。これ、輪王寺の初詣のCMで流れてる輪王寺の初詣の歌なんだけど」
「┉?!」
ああ、なるほど、納得いたしました。先ほど護摩堂で説明を受け、鬼門除けの御札とセットだと言われた七福神の扇が、福を呼び込むものだと係の方がおっしゃっておられました。その扇で♪福よ来い来いの歌ができたということか┉。

輪王寺さんはその他にも、九星気学に基づいた御守りや、生まれ年の守護仏さまの首にかける御守りなど、毎年新たな御守りをお見かけいたします。それはそれで私の首にはすでに昨年からかけられているくらいなので、それをどう信じ、どう祈るかは個々の心によるものであります。七福神の扇の御札(?)は、その歌がために私に受け入れられなかったものとなったかもしれません。


さて、どちらをお参りさせていただくのかなぁと考えていると
「東照宮をお参りさせていただく?」と夫。 へ? そ、そうなんだ。┉きっと顔に出たのでしょう、
「やっぱり、初詣だし、東照宮でしょ?次に来たときは今度こそ東照宮のお参りをさせていただこうと言ってたんだし」
そ、そうでしたそうでした。
東照宮の拝観料は┉うーん一人千三百円かぁ。今日は早く帰るって言ってたからなぁ。┉参拝に来ているくせに、拝観料をみてびびっている、根っからの貧乏人、貧乏性であります。

こちらは東照大権現さま、家康公を神として崇める神社、神域となります。家光公廟大猷院が寺院であるのと異なり、その門、東照宮表門も、┉に、仁王門?でありますが┉。?





No.417 20/01/12 23:59
旅人 

日光東照宮は、家康公の孫にあたる三代将軍家光公が建てられたものでありますので、当然江戸時代のもので、明治の世をむかえての【廃仏毀釈】以前のものでありますから、そのようなことも当然ありましょう。それでも明治時代にはいったんはこの仁王像さま、大猷院のほうに移動されていたことがあったようであります。

表門のそばには石垣があり、その石垣には阿房丸という名前まである巨石があります。
表門をくぐるとすぐに見えるのがきらびやかで立派な┉倉庫が三棟。こちらには春と秋のお祭りの際行われる千人行列の際の装束などが収められているのだとか。正倉院と同じ校倉造であります。
神厩の長押には三猿で有名な猿の物語の彫り物がめぐらされております。塗り直しをされてしばらく経ちますがそろそろもう鮮やかな色彩が落ちついてきているように思われました。
塗り直されてから三猿の御守りやマスコットなどのみやげ物がだいぶ増えました。この授与所も江戸時代の建物であり、もともとは警備の役人が詰めていた番所なのだとか。
この日は悪天候のため神馬はおらず。動物好きな私どもは少しがっくり、であります。

手水舎も豪華絢爛な立派な建築物でありまして、見上げる位置にある陽明門との調和を計ってか、白を基調としたものであります。いまはきちんと手や口を浄めるということが一般常識とされて、ほとんどの方がこちらに立ち寄って手や口を浄めてから参拝されております。
そこここに、歴史の教科書に出てくるような人物たちの名前が惜しげもなく残されております。寄進した物に名前が残されているということであるということであります。

陽明門まではあと少し、であります。

陽明門は修復から四年目くらいになりましょうか。相変わらずの人だかりであります。まさに日暮しの門、といったことなのでありましょう。遠巻きに見上げる方、近くで彫刻をじっくり眺める方、それぞれがさまざまに楽しまれておられます。
陽明門で有名なものとなった逆さの柱でもみんな集まって記念撮影をされていました。

さあ、東照宮さんの御朱印は┉?どこでありましょう。

No.418 20/01/13 05:02
旅人 

雪はいよいよ本降り。
境内に、足元注意の放送が何度か流れます。御朱印はいつもの場所で行列ができていました。整理する係の方がおられます。雪とお疲れからか無愛想でつっけんどん。まあ、なんとかパークではないのだから、そんな見事なパフォーマンスを求めているわけではないのですが、少し敵意すら感じるような対応はやはり神域である以上慎むべきかと思いました。
御朱印をお書きいただくのにほんの少し┉15分ほど待つようです。そう伝えると夫は、「じゃあその間に奥宮にお参りしてこよう」
へ?
【奥宮】ってそもそもが15分では到底往復できないでしょ?
それに┉前回、退院してから初めて昇ったこともあったけれど、すごい大変そうだった記憶しかないんだけど┉。それはいくらかは体力は戻ってるかもしれないけれど、最近また咳がひどくてつらそうなんだけど?大丈夫なの?
「大丈夫だよ。それに東照宮に来て肝腎の奥宮にお参りしなければ申し訳ない」
┉ 出た、歴オタ。そう言われれば反論できないくらいの正論でありますが┉。東照大権現さまの墓所でありますところの奥宮ってなんだかんだ直線五百メートルくらいの距離を、石段を昇って昇っていく、呼吸器の持病、足腰に持病をあわせ持つあなたには結構な難所なんじゃない?あ、でも、言い出したら聞かない、退かない。なぜならば正論であります。
左甚五郎作の国宝、【眠り猫】の彫り物の下をくぐり、門をくぐって奥宮をめざします。大きな杉の林の間を参道が続きます。傾斜も急で私自身がけっこうな息切れをして、やっとやっと昇っていきます。下りてくる対向の人に笑われそうな息の切れ方で、夫の様子など見る余裕すらありません。
ようやく、ようやく見えてきた青銅の鳥居。いろんな意味でありがたく合わせる手にも汗がにじんでおりました。今年の目標に体力向上もあげるようかも( -`Д´-;A)

青銅の鳥居の脇にはなにやらやはり、倉庫のような建物があります。鳥居正面には休憩所が❤┉、休んだらいけないと自らを律してさらに石段を昇ります。数段昇ると拝殿があります。
拝殿で手を合わせ、右回りにさらに石段を昇ります。拝殿の真後ろには【鋳抜(いぬき)門】があり、その門は当然そばによることもできない、本殿であります墓所につながっている門であります。狛犬がいたのを本で読んで知ったくらい、門にしか目がいかない重厚な見事な門であります。

No.419 20/01/13 06:37
旅人 

拝殿の横を歩をすすめますと、鋳抜門をぬけた先にはさほど広くない空間に青銅色の金属製の宝塔があります。東照宮全体の金蘭豪華なイメージからはほど遠い、厳かにしてともすれば質素な宝塔が砂利を敷いた奥に建てられております。家康公の神柩、であります。
宝塔がともすれば質素な造りであるのに反し香炉や花立の側にある鶴が若干の違和感を感じます。調べたところ、こちらは朝鮮国王の寄贈であるということでありました。雑草も苔も一切ない、聖域、神域であります。

奥宮のお参りを終え、御朱印所となっている倉庫に再び立ち寄ると、当たり前でありますが、新たな行列ができております。さて、番号札を持った私はどの様に御朱印帳を受け取れば良いのかと思案し┉出したと同時に、先ほどの係員が怒鳴りつけます。「ちゃんと並んで!」
新年そうそう、御神域で怒鳴られるのはなんとも気落ちするものであります。どう並んだらよいのかわからないほど、いくつもの窓口があり、並んでいる列さえないというのに┉。仕方がないので、少し離れて立っておりました。御朱印をこれからお受けする方も、御札をお受けする方も、御朱印帳を受け取りにきた者も、どうやら一列に並ぶということのようで、窓口には先頭からそれぞれの窓口にはけていくという方式のようです。なれば、そのようにロープを張るなり、線を引くなりしたほうがよほどわかるというもの。
列が入り乱れているのにそれは正さず、あとから来た者を怒鳴りつけて、畏縮させるだけの係員はいらないと思います。並ばないで横入りしている方に注意をされるくらいならとにかく、新年そうそういきなり怒鳴りつける方は配備しないほうがいいですよ、東照宮さん。

こうして書くことで再度の怒りを覚えておりますが、その場では神域であり、新年そうそうであり、悪天候のなか連れてきてくれた夫のために何事もなかったかのようにその場を立ち去りました。本当は塩でも撒きたいくらい、その場が、その方の繰り返し怒鳴りつける行為と私のモヤモヤする思いで穢れたかもしれませんが。そこは神職の方が大勢おられる神域でありますから、大丈夫でしょう。



さて、帰るのかな?┉ぼたん雪が降りしきります。

No.420 20/01/13 12:33
旅人 

「どうします?そろそろ帰りますか?」と内心の、係員への怒りを抑えて話すためか、いつもと異なり、丁寧で低調な私。
「奥にも上がってお参りしようよ」
えっ?早めに帰るって言ってたじゃない?┉ま、いいか。
神域は心を穏やかにするのが早いようです。

奥に┉というのは唐門の奥にあたる、回廊を通って入らせていただく拝殿であります。拝殿に上がって、巫女装束のかたに従って、二礼二拍手一礼をしたのち、石の間と呼ばれる少し下がった本殿前にあたる間でさらに拝ませていただいて、拝殿をあとにいたします。ここ、石の間は私の好きな空間であります。心が厳かになって、無になる瞬間が持てる気がするのであります。
また、冷たくて長く感じる回廊を歩いて、外にでます。あらためて唐門からお礼を申しあげ、陽明門をくぐる前に、逆さ柱を夫に伝えると気づいていなかったようで、抜ける前に気づいて伝えることができてよかったぁ。

ここまできたら、もう譲らない。
「ねぇ鳴龍の薬師堂に行くでしょ?」
えっ?と夫。どうやらひさしぶりの東照宮で、鳴龍の存在を忘れていた?というかもうすでにスタスタとそちらに向けて歩きだしている私。鳴龍はもういまは自分では手をたたいて鳴き声を確認することはできません。一定の人数が揃うと、係の方が案内し、拍子木で鳴き声を楽しむという、何度行ってもどの係の方があたられても同じフレーズの説明をなさる、ねずみの国のテーマパークのようになっています。ですが、私こちらの御堂に漂う空気が好きなのであります。
御朱印をお受けする辺りからは、龍の全体像が眺めることができるのであります。ここを訪れた何人の方がそれを知っておられるのか┉もったいないばかりであります。
御朱印をお書きくださる方に、「冷たいところお手をわずらわせまして申し訳ありません」と申しあげたところ、「あたたかいお言葉をありがとうございます」と笑顔で御朱印帳をお渡しくださいました。パンフレットを添えてくださったようで、こちらこそありがとうございます。

雪は降りしきるものの積もるほどには至らない。東照大権現さまならびに大猷院さまが、参拝者に気を配ってくださっておられるように思えてなりません。

No.421 20/01/13 17:36
旅人 

そして┉東照宮の五重塔のすぐ前のテントで、例の当たりつきのおみくじが用意されています。どうする?
これを引けば生まれて初めてのおみくじとなります。「ひけばいいじゃない」と夫。生まれて初めてのおみくじ、いわば神さまの助言を、当たりつきということに惹かれてひくのでは、なんとも賤しい気がして気がとがめております。┉こちらの神さまはそんなことはもう百も御存じでおられるか。そんな私と知りながらも、身体の不調をあっという間にいやしてくださる神さまにございます。
神さまの助言をお伺いしよう!

生まれて初めてのおみくじは、【中吉】。東照公御遺訓として、[善悪は皆手前の覚悟にあり]とあります。うーん、深いお言葉を頂戴いたしました。
夫は【小吉】とだけ言い、中は見せてはくれませんでした。
ハズレのないおみくじの景品は、私がペットボトルのお水で、夫は御守りを。やっぱり当たりつきって少し楽しいかもしれない。
すぐあとにひいた方は鐘を鳴らされ、御神酒の瓶をいただいておられました。


やっぱり、日光、好きだなぁ。


夫はさらに、やれ、【化け地蔵】さんのほうへ行ってみないかだの、果ては霧降高原に行ってみないかだの、何かにとりつかれたかのように行動を拡げようとしておりましたが、頑として帰宅をうながす妻にあきらめて自宅に向けてハンドルをきったのでありました。


        令和二年一月五日

No.422 20/01/13 23:01
旅人 

一月八日。令和初の初薬師さまであります。
この日はどうしても仕事を休むことができなかったため、昨年、一昨年と参列させていただいておりました、群馬県みどり市【光栄寺】さんの厄除け大護摩に、朝一番の六時からの座に参列してまいりました。
まだ日の出前の薄暗い中を車を走らせてまいります。朝ごはんの支度を済ませて来たため駐車場はすでに満車で、一番遠い駐車場を指示され、そこからひた走りに走って光栄寺さんに到着いたしました。
ちょうど法要が始まったところでありました。朝の六時からの法要であるのにすでに本堂の中はほぼ満員で、なかには登校前の小学生┉高学年くらいのお子さんもいます。寒くて暗いなかを嫌がることなく、お寺さんの行事に参加するなど、私には考えたことすらなかったことで、人生でのスタート地点の差を感じ、少し情けなくも恥ずかしく思うのでありました。

こちらのお寺さんは真言宗智山派であります。同じ真言宗ではありますが、御護摩にはやはり違いがあるように見受けられます。お薬師さまの御護摩であることも関係しているのでしょうか。
こちらでは御護摩を焚かれるのはこの初薬師のお縁日のみ。護摩の炉の上には大きな換気扇が取りつけられておるようです。
般若心経をお唱えし、さらにはいくつかの真言を声を合わせてお唱えされています。私にわかる真言は不動明王さまの【のうまくさまんだばざらだんかん】と、薬師如来さまの【おんころころせんだりまとうぎそわか】だけでありました。ご唱和させていただいている間に御護摩の焔がいつのまにか点されておりました。
家内安全、交通安全、学業成就、商売繁盛、病気平癒、世界平和、災害復興、諸願成就、心願成就、などをご祈願くださると、副住職さまが布加持のご案内をなさいます。

No.423 20/01/14 19:05
旅人 

【布加持(ぬのかじ)】とは、衣類やバッグなど身に着けるものを、炎にかざして厄を落とすというもので、人によっては家族の身につけるものを風呂敷につめて持参し、風呂敷につめた一式をお坊さまにお渡しして、火かざしをしていただいています。
昨年は仕事が休みだった事もあって、今は一緒に住んでいない者の物も何かしらつめて持ってきたものでしたが、なにぶんにも今日はこれから仕事であり、なおかつその前にも食事のしたく┉はしてあるものの、食事をして、洗濯を干して仕事に向かわねばなりません。前日、用意しておけばよかったのですが、仕事の前に行って仕事に間に合うかどうか、と、なかばあきらめていたもので┉。それでもどうしても、二年続けて参列させていただいていたものを途切れさせることに抵抗があって、食事を抜いてでも、仕事先に直行すればなんとかなるかと思い直して参加したものですから┉。

バッグのほかに、自分自身の頭をも御加持いただき、さらに布加持だけでなく、御本尊に近づいて参拝する【内陣参拝】をもさせていただいて、これでもう、今日本日の任務を遂行した気分になりました。
いやいや、これからお食事を食べ洗濯を干して、仕事をすることが私の任務であります。(*゜ー゜)ゞ


      令和二年一月八日



No.424 20/01/15 18:29
旅人 

突然、同居の息子が「どこかに出かけるなら一緒に行きたいな」と、うれしい、うれしい申し出を❤
とはいえ本日、娘のところへ届け物をするのがメインイベント、というか、それしか決まっていることは何一つなく、どこへ行くとも┉ (;`・ω・)どうしよ、どうしよ?!

「(群馬県高崎市の)観音さまはどうだろ?」
夫「観音さまってどこのだよ」
「そりゃあ、びゃくいかんのん(白衣観音)さまだろう」┉参道沿いの店で飼われているふくろうもいるし、自然豊かだし┉。
ただでさえ少ない引き出し、そこへ持ってきてその引き出しは神社仏閣の情報くらいしか入っておらず、とりあえず早めのお昼を食べて、まずは本日の外出の目的の娘のところへ向かうことにいたしました。


娘宅をあとにし、気まぐれな妻にして母親は「┉榛名はどうかな」と、いとも簡単に変更を発案する。「大丈夫だけど?少なくとも赤城よりは┉雪がないかな?」あくまでも雪を怖れる、平地民夫婦。
後部シートに座る息子からも「榛名がいいかな」と賛同の声。夫は元地元である高崎市から何度も何度も通ったという榛名へと向かいます。┉のわりに、ナビなどセットし、挙げ句の果てには
「こんな道なかった!」「こんなところに道なんかなかった」とうるさいこと。はいはい、あなたが住んでいたのはもう三十年以上も昔の事ですよ。元号はその間、昭和から平成、平成から令和へと変わっているんですよ~。

榛名神社が近づくと、「ここまで来たのだから榛名神社にお参りしようよ」
┉憎いなぁ❤ 夫とちがって人間ができている!

榛名神社さんもまた、かなりの山を登って行くのに、軽い足取りで息もきれることなくお参りできる、お山全体に人々を歓迎してくださる優しくて、それでいて凛と引き締まった気の充ちた素敵な神社さんであります。息子は昨年ひとりで(?)ここに初詣に訪れておるものの、私どもとは初めての参拝となります。
「へえぇ、こんな景色なんだね」┉へっ?
あぁそうか。昨年は暗いうちからの初詣で、しかも初めて来たものだから、明るい参道の景色なんかみたことすらなかったのですね ( ´~`)
ゆっくり景色を楽しんでもらおう。

No.425 20/01/16 05:21
旅人 

参道わきに流れている川も、暗い夜道を参拝客の波に流されるように歩いただけの息子にとっては、初めて目にしたもののようで。
「あそこ、見てごらん」┉さっそくよけいな案内を始める母親に、素直にしたがってくれる息子。
「ほら、あそこに」指さす先にはなんとも不思議なアーチ状の岩。この岩ひとつとっても、信仰の対象となるであろう、本当に不思議で奇跡のような岩であります。そんなに太いものではなく┉とはいえ、川向こうの高い位置にそびえ立つものでありますから、実際の太さはわからないのですが、おそらくは小動物がようやく渡れるくらいの幅でしかなく、それでいてかなりの長さを┉アーチ状のものですが直線で軽く七、八メートルくらいありそうな(┉数字のつくものすべてに弱い者の申す、根拠もなくあてにもならないものであります 苦笑)大きな、そして一見か細い岩であります。
「ほおぉ」と、感嘆の声をあげる息子に、「┉あれ?な、なんていう岩だったかなぁ」
無言で立て看板を指さす息子。そ、そうね、【鞍掛岩】だった(^_^;)
┉これが言えればかっこよかったのにね。

大きな高い杉並木が参道わきに連なっております。ですが、古くからの信仰の場、人が歩くのにほどよい明るさを保つように並んでおります。明るく、心はずむような気に満ちた空間であります榛名神社さんの神域は、仕事で疲れた息子にもお力を与えてくださっておられます。やわらかい笑顔で参道を歩いています。


そんな息子に見せたかった【双龍門】。残念ながら修復工事中で、そのすべてがシートに覆われておりました。私の大好きな建築物のひとつ。放っておけばいつまでもそこに居すわりそうなくらい、大好きな門は

竣工は安政2年(1855)。
一間一戸四脚門で総欅造り。
入母屋造、銅版葺、正面と背面に千鳥破風、四面に軒唐破風をつける。
4枚の扉にはそれぞれ丸く文様化された龍の彫刻が施されていることから双龍門と呼ばれるようになった。
羽目板の両面には「三国志」にちなんだ絵柄が彫られており、天井の上り龍、下り龍とともに双龍門の風格を高めている。

と、榛名神社さんの公式ホームページに書かれております。
「いつか、必ず修復を終えたこの門をくぐってね。私たちと一緒じゃなくてもいいから、ね。一緒ならもっと嬉しいけど、ね」と、心のなかでつぶやきながら、門、であろうところを通ります。


No.427 20/01/16 17:55
旅人 

こちらの本殿は御姿岩に接しており、岩奥に御神体をお祀りされているのだそうであります。見事な彫刻が数多く、下部にいたるまで細かな彫刻が施されております。
そびえ立つ御姿岩は高さ大きさ共に大きく、特記すべきはその、御姿岩のかなり上の方にしっかりと取りつけられた【紙垂(しで)】であります。足場も悪い、かなり高い位置に、雨風などでも飛ばない強度でしっかりとつけられているのですが、初めて目にしたときは我が目を疑うものであります。どうやって┉?
答えはまだ得られてはおりません。本当に天狗が取りつけたような気がするくらい、どうやったらあんなところに取りつけられるものなのか、凡人というよりお馬鹿な私には見当もつきません。

本殿のわきにあります建物は初めての参拝の折りには修復工事中でありました国祖社・額殿であります。
もと榛名山西部の御祖霊嶽にあったものを、本社のそばに摂社として祀るようになったと伝えられているようです。神仏分離以前は本地仏を安置し、本地堂とも呼ばれていたとのこと。
御祭神は豊城入彦命さま(とよきいりひこのみこと・崇神天皇の皇子。
上毛野国君・下毛野国君の始祖)、
彦狭島命さま(ひこさしまのみこと・豊城入彦命の孫)、
御諸別命さま(みもろわけのみこと)。
額殿とよばれる建物は北面は国祖社に接続しており、本来は神楽の拝見所であるが、大小の「太々御神楽」の扁額を揚げてあることから額殿とも呼ばれているのだということです。

神楽殿は、北側が吹き放ちの舞台となっていて、南側は楽屋としているのだそうです。とはいえ、高さがかなり高く、その様子はよくは見えません。神に奉納する神楽を演じる場所であるため、こちらの神楽殿は本殿と向かい合うように建てられ、本殿とちょうど高さを同じにしてあるのだそうであります。まさに神さまに捧げる舞、雅楽、ということになっております。

こちらの御神楽、実に二月十五日に奉納されるのだとか。
うーん、涅槃会の法要にも参列させていただきたいし、こちらの御神楽も拝見したい。
今年は二月十五日は土曜日。榛名神社さんの参拝客の多さは群馬県で屈指のものでありますが┉。ちなみに。
この日の御朱印はお書き置きの御朱印紙、五百枚限定でありましたが、すでに終了しておりました。
御朱印を求めた参拝客の方だけでも五百人超えということになります。はあぁ(|| ゜Д゜)




No.428 20/01/17 18:57
旅人 

本来の目的地、榛名湖畔に着いたのはすでに四時四十五分くらい。
ちょうど空が夕焼けに変わりつつある、山のきわは桜色に、見上げる空は空色に、見事なグラデーションをなしています。
山と湖の景色を、うつりゆく空の色とともに楽しむことができる、なんとも贅沢な時間帯に到着することができました。

家から持参した温かい飲み物と、息子がコンビニで買っておいてくれた生チョコクレープをいただきながら、少しづつ変わりゆく空を眺めておりました。
やがて空には月齢16日の大きな月が顔を出します。
なんとありがたい、幸せな時間でありましょう。
身体を取りまく空気は冷たいものなのに、幸せな気持ちが寒さすら感じさせません。

昨年末┉ほんの少し前まで、ここではイルミネーションが施されライトアップされた、まるで異なる景色がありました。ですが、私たち三人はこの、自然のままの景色がありがたかった。うれしかった。
そんな思いもまた共有できたひとときでありました。
よい新年であります。
この、すべてのものに感謝するような思いをいつまでも持ち続けていたいと、心から思いました。
これも榛名神社の神さまのおくりものでありましょうか。






              2020,01,11


No.429 20/01/18 04:23
旅人 

榛名からの帰り道。


「ここで拓海は百キロ出してたんだから、スゴいよな」
?( ・-・)?
「藤原拓海だよ、イニDの。」┉知らんがな!
そういう夫のスピードも別に遅くないと思うんですけど。そぉーとスピードメーターを見ると四十キロ程度、なるほどぉ、ここで百キロはあり得ない。
それは走り屋さんの世界のことだから、って言うか【イニシャルD】は漫画ですから。そもそもあの漫画では【榛名】は出てこないでしょ?
┉知ってるんやん。かつてデートとおぼしきドライブをしたときとはずいぶんと道も異なって、情緒もへったくれもない、ガッコンガッコン、ブアンブアンとスピード抑制のための加工の施された路面となっておりました。初めてみる伊香保、渋川の夜景はそれはそれは綺麗なのに┉。さらには時々カーブの加減で顔を出す月齢16日の大きなお月さま。┉運転手の夫には申し訳ないのだけれど。

やがて高速道路のごとき上武道路をしばらく走行し、トイレ事情で前橋市で一般道に下りたときのこと。日輪寺さんというお寺さんがふと目に入りました。初めてきくお名前であります。┉まぁ私の場合、行ったことがあってもすっかり失念していることが多々ある者ですから、それはともかくとして、お寺センサーの発動と同時にそのお名前をインプット。
こうやってインプットしてきたお名前を自宅に帰ってからネット検索かけて、参拝させていただく寺社候補にあげるのであります。
さらに走行すると(運転手は夫)、道路標識に日輪寺通りとあります!これは由緒ある古くからのお寺さんなのでありましょう。

すっかり遅くなったので、本日お夕飯も外食であります。地元で有名な中華料理屋さんに私の独断で寄りこみます。┉とはいえ一応、みんなの希望は確認しておりますが、ここ群馬県は[かかあ天下と空っ風]で有名な土地。夫唱婦随の奥さまも大勢おられますが、私はどうにも大人しくはない性分でありまして(^_^;)
大好きなこのお店の看板メニューを頼んで、「おいしい、おいしい」を連発し完食し、大満足のうち帰宅いたしました。

【日輪寺】さん、日輪寺さん、さっそくネット検索です。

No.430 20/01/19 00:28
旅人 

群馬県前橋市の日輪寺さんについてネット検索をして、衝撃の事実が発覚いたしました!

なんと、日輪寺さんの秘仏であります十一面観音さま、まさにこの日、一月十一日が御開帳の日であったとのこと。
これはきっとこの十一面観音さまが「来年は会いにお越しなさい」と、お声がけくださったにちがいありません。┉と身勝手な解釈をして、来年の勤務の休み希望をすでに思い描く私なのでありました。


No.431 20/01/19 01:56
旅人 

日光輪王寺護摩堂でお分かちいただいた【鬼門除札】。やっと手に入れることが叶い、帰宅してすぐに御札を掲げるべく開封いたしました。
お分かちいただくときに「御札の中に元三大師さまの御札が納めてあるので、そこに家族の名前と生年月日を記入して再度納めてから、居間等の壁や柱にお掛けください。こちらに返信していただくハガキが同封してありますので、同様に御家族の名前と生年月日を記入して投函してください。こちらで毎日御祈祷させていただきます」と説明をお受けしましたので、そのようにして、次の日にはハガキも送らせていただきました。
[星回りが変わりましたときにご案内を差し上げます]の一文が同封の説明書に書かれており、新年早々に手にすることができてよかったと思っておりました。
が、┉ネットでさらに調べるに、節分を境に買いかえる、といった記述が多く、お分かちいただくときにはそのような説明は一切なく、まさかあと半月足らずで買いかえることになるの?と一転悲しい思いになってしまいました。一言おっしゃっていただければ、その頃にまたお詣りに参りますものを┉(*T^T) ┉夫の運転で。
やっぱり一大テーマパークの商品に過ぎないの?
そんな悲しい思いにまでなっていたとき、そんな気分を一新してくれるブログの一文に出会いました。




ありがたくて
嬉しくて
泣いちゃいましたよ。

今の家を建てた17年前から
日光山輪王寺の鬼門札を
鬼門となる場所に
掛けさせていただいていたんです。
一年に一度、節分がくると
掛け替えるんです。
我が家にとっては
毎年恒例のこと…


先程、郵便屋さんが来て
現金書留って言うんです。
依頼主を見ると
日光山輪王寺って書いてあります。

???

なんだろうと思いながら
開封してみると…

見舞金が入っていました。

[このたび台風十五号により、貴家の地域一帯が甚大な被害に逢われたとの事。一日も早い復旧を遠方よりお祈りするとともに誠に些少ながら心ばかりのお見舞いをお送りいたします。(一部抜粋)]

そのお心遣いに
涙が溢れました。   (一部抜粋)




すごい!
こんなことまで送らせていただくハガキ一枚から管理し、ご配慮いただけるなんて!これはもう檀家寺のようです。
ありがたいことであります。


これは間違いなく、最高の御札でありました。



No.432 20/01/19 10:14
旅人 

日光輪王寺さんのお見舞いの手紙の書き出しは、やはりここ、日光はこうあって良いと、以前書いた自分の文章を思い出させる一文で始まっておりました。
「貴家におかれましては当山の○○を受けていただき、『世界文化遺産護持の一助を担っていただいております』」


そう、歴史あるお寺さん・神社さんの維持には、たいそうなお金がかかるもの。求める者があってそれに応える形で御守りなり、御朱印、御朱印帳なり、お線香なり、御数珠なりを御用意され、納得した者がそれをお分かちいただく、あるいは購入する。
今回私は、鬼門除けの御札を受けたいと申し出た。それが例えあと半月足らずで買いかえる時期が来ることを知らなかったとしても、ネットで調べてやって来たと言われて、受付の方はそこを知っていてあえて授与したいと思われたのかもしれないのです。あと半月でこの御札の期限が来るかもと知り、悲しいと思ったのも、ひとえに私の未熟さであります。その御札をお受けできたときの喜びこそを大切に思えばよかったのであります。

御札も信心であります。それをお受けしたところで、台風などの被害をこうむることはある。でも、それをお受けした際、気持ちを引き締め、心新たになることができたらそれはそれでもう、御札の役割は発動しているのであります。
期限がある、あるいは期限はない。そんな御守りや御札。
それはそれで個々の心の有り様であるのだと思います。
御札をお受けしたから、このくらいの被害で済んだと思うか、御札をお受けしたのにこんな目に遭ってしまったと思うか┉それはすべて自分の心の有り様なのであります。
あいも変わらず未熟でありました、私であります。

No.433 20/01/21 05:34
旅人 

群馬県太田市の【冠稲荷神社】さんに、新年の御挨拶と御礼の参りに行ってまいりました。
冠稲荷神社さんをイメージするとき、カラフルな┉色とりどりな雰囲気を持つ、柔らかなあたたかな、女性的な気のあふれる神社さん、と私は思うのでありますが、こちらの主祭神さまが
【宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)】さまであらせられ、女神さまでありますから、なのでありましょう。


【宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)】さまについて

宇迦之御魂大神さまは『古事記』と『日本書紀』で系譜が異なっております。
『古事記』では「素蓋鳴神(スサノオノカミ)」と「神大市比売(カムオオイチヒメ)」との間に生まれた神様です。
『日本書紀』では神産みの際に「伊邪那岐神(イザナギノカミ)」と「伊邪那美神(イザナミノカミ)」が飢えて気力がないときに生まれた神様です。飢えたときには食べ物を必要とすることから、穀物の神様が誕生したとされています。

名前の「ウカ」は穀物・食物の意味であり、同じ意味の「ウケ」「ケ」を名前に持つ食物の女神と同一視され、「宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)」は女神と考えられています。



こちらは平安時代に、新田義重公の父、源義国公が創建された神社で、そののち、源義経公が奥州下向の折、源氏ゆかりの社であることを知り、しばらく滞在し、冠のなかに勧請してこられた京都伏見稲荷大社の御分霊を鎮祭されたことから【冠稲荷】と呼ばれるようになった社であります。
さらに新田義貞公が1333年の挙兵にあたり、戦勝を祈願しお手植えされたとされる金木犀の樹が今なお青々と境内に繁っております歴史ある神社さんでありますようです。
お社の色調が色鮮やかな状態で、どこも手入れの行き届いた一見新しく感じる神社さんのように思える神社さん。時代のニーズに応えたかわいらしい御朱印あり、おしゃれなフリンジと花の御守りあり、心華やぐ神社さんであります。
神社さんになかなか縁のなかったような初心者が、神社さんの参拝について自然に学び、またお詣りに来たいと思えるような神社さんであります。



     令和二年一月十九日

No.434 20/01/22 05:50
旅人 

相も変わらず珍道中。
微々たる知識はついたものの、生まれたときから自然に神さまや仏さまと暮らし、敬い、その法要やら祭事に参加されてこられた方の足下にも及びません。
それは仕方のないことと、いろいろな神社仏閣を相も変わらずまわらせていただいて勉強させていただき、視野を広げております。もともとそれが目的で、そこで自分を見つめなおし、直すべきを知るためのものであります。 

ただ┉最近、ほんとうに偶然にまわらせていただくお寺さんの、宗派がビックリするほど合致していて、戸惑うほどであります。その宗派が日本で圧倒的に多い仏教┉というわけでもありません。そうしたことが続いていると知恵のない愚か者は、御導きか?とかつい考えがちでございます。
しかし、あくまでもただの偶然に過ぎないことは火をみるよりも明らかで、例えば、どこかに行く→その土地のお寺さんに行く→着いたらまた同じ宗派であった、ということであります。
そこで私がそれではと、その宗派が説く教えなりを理解し、最低でもその宗派の他の宗派との違いを知り、それを活かせて初めて【縁(えにし)】となるのだと、その程度のことは理解しておるつもりであります。
今まだまだ未熟な珍道中のさなかにある私は、宗派を越えた十三仏霊場巡りやら、三十三観音霊場巡りをさえ、道半ば。
お坊さまたちでさえ、今なお修行の道半ばであるとおっしゃいます。
道を究めた方は、お釈迦様ただお一人であるとも言われている仏教で、ほんの一つ、一かけらでも、なにかを得、自分を高めることができれば、珍道中は成功への一歩となるのだと思うのであります。
出家しておらない、仏教徒ですらない私。
道ははるかであります。
でも、五十代も半ば過ぎて、時間は限られておりますこともたしかであります。日一日一日を大切に生きねばならないと、あらためて思った今朝であります。

No.435 20/01/24 13:34
旅人 

群馬県桐生市の【観音院】さんの初地蔵の御縁日。
仕事は休み、静かな穏やかな日でありますのに、どうしようかと迷う私がおりました。
今日は、私の大好きな御本堂は御祈祷にお使いになられるので、ごった返した境内の内外での露店商の屋台を見て歩くだけになりそうであります。うーん。

昨年は初めてのことでなにも知らぬまま、「お入りください」と言われなんの疑いもなくそのまま普通に参列しておりました。終盤に入り、どうやらこの日は御祈祷を申し込んだ方のみ入場できるようだったようだと気づいてそのあとからはたいへん居心地が悪かったのは記憶にあらたなものであります。
他のお寺さん以上にいつもはオープンなこちらの御本堂、疑うことすらありませんでした。ましてや他のお寺さんですら普段は扉すら閉ざされた御本堂に、御祈祷をお頼みしなくてもあがってよいところがいくつもありますものですから。

ですが、結局、日限地蔵さまの御縁日に参ることにいたしました。案の定境内は人、人、人、でいつも以上の賑わいであります。
御祈祷と御祈祷の合間に御本堂に上がることができました。いつもより明るい?と感じるのは気のせいなんでしょうね。今日はいつもは香炉が置かれている場所に、シンプルな長机に御祈祷に使う仏具がいくつか置かれており、真ん中には五鈷杵(ごこしょ)が置かれていました。当然ながらいつも設けられている【心の間】は取り払われておりました。
少し寂しい気持ちで、御本堂をあとにいたしました。せめて日限地蔵さまにお灯明をと思い財布を開けると百円玉がひとつ。係りの方に声をかけようとすると、〖お灯明 二百円から〗との貼り紙が目に入りました。ふぅ(〃´o`)=3
それではと特設の御守りや御朱印の授与所でありますテントに入ったのですが、そこもまたごった返した状態で。すっかり気落ちして、日限地蔵さまに先ほどの百円玉をお賽銭にあげ、お寺をあとにいたしました。
御縁日でない日にゆっくり参拝させていただくこととしましょう。



        令和二年一月二十四日

No.436 20/01/25 16:15
旅人 

群馬県太田市の七福神巡りの最後を飾りましたのは【長念寺】、【恵比寿】さまであります。

長念寺は応永元年(1394年)に、この地にあった朽ち果てた地蔵堂を修繕し、その脇に草庵をかまえ、浄土宗の念仏の教えを広めていったのが始まりと伝えられています。
【足利義満】全盛の頃で、南北朝の動乱も収まり、この周辺では【新田氏の末裔、岩松氏】が台頭し、金山南麓に蛇行する八瀬川の水利があるこの周辺に人家が定着し始めた頃、と考えられているようです。

浄土宗の元祖、法然上人の念仏の教えは、1250年代以降、関東地方各地に広まっていったようで、六流派に分かれて法燈が伝えられましたが、長念寺はそのうちの一派の流れをくむものであるとのことです。

長念寺は何度も火災に見舞われ、残念ながら古い資料は残っていないそうですが、橋本本陣家の墓地に並ぶ国筐印塔や、江戸中期以降の年代が刻まれた墓石から、江戸時代中期以降に太田の街の発展とともに寺院規模が拡大安定したものと考えられるようです。

現在の山門は文政4年(1821年)の建立で、総けやき造のものです。
同時に本堂も建立されており、現在のものより一回り大きく、その本堂で明治30年(1897年)4月11日に『群馬県尋常中学校新田分校』が開校されます。
翌31年4月5日に『尋常中学校新田分校』は現在の『県立太田高等学校』の地に移り、『県立太田中学校』となり、現在の『太田高等学校』に至っております。太田高校は群馬県内でも有数の進学校であり、その発祥の地ということで、受験シーズンには合格祈願に長念寺さんを訪れる方もいるのだとか。

その本堂も明治32年に全焼し、大光院別当の内野俊亮上人が25世となり、明治38年に再建されたのだそうです。上人は広く地域の為に活躍した方で、貧困家庭に医療無料券発行等の福祉事業を展開、また、教育方面では子女のために『太田女子実業補習学校』を開校、常見ろく女史の『常見裁縫伝習所』と合併し『太田裁縫女学校』を設立、初代校長となられたそうで、その学流は現在の『私立常盤高等学校』となっているのだそうです。

そして、今、境内には幼稚園が併設され、参道脇にはかわいらしい遊具と遊具のそばにはお寺の飼い犬がおりました。今日は園児がいないせいか、うなだれ寂しそうにしておりました。

こちらは教育と深く関係した歴史があるようであります。 


No.437 20/01/26 00:13
旅人 

長念寺さんではお正月のみの限定で恵比寿さまの御朱印をお書きくださっておりました。たいそうきれいなそのお手を拝見すると、お正月のみなのがなにやら勿体ない気がいたしました。
こちらのお寺の恵比寿さまは、鯉を掲げもっているとかで、拝見する機会があればいいと思いました。
毎年太田市の主催する七福神巡りの行事に参加すれば拝見することができるのかも知れませんが、なにぶんにもスタートの時刻が早くて、
毎年くじけている私であります。暖冬、温暖化となっているのだから、一度くらいは頑張ってみればいいのに┉。太田市の七福神巡りは距離も長くて、それもあって、ついつい車で自分のペースでまわれる七福神巡りとなってしまうのでありました。


今朝、NHKで放送されていた【新田ベーカリー】さんが近くにあるようです。【健康パン】という看板メニュー、久しぶりに食べたいなぁと思い立ち寄ったところ、本店さんはお休み。太田市の学校給食のパンを提供しているパン屋さんだから、土日はお休みなのかもしれません。工場も稼働していないようでした。明治生まれの初代の方が建てた建物のままなのでしょうか、大きくて高い【新田パン】と書かれた白い煙突が青い空に誇らしそうにそびえているのが印象的でした。



       令和二年一月二十五日

No.438 20/01/26 01:07
旅人 

長念寺さんのすぐそば、新田ベーカリーさんの裏手には【東光寺】さんというお寺さんがありました。寄らせていただきますと、新しい近代的で斬新な御本堂であります。建てられてさほど経過していないだろう仁王さまの石像が門をお守りになっておられます。端整なお顔だちのしばし立ち止まって見とれるほどのイケメンさんです。
入ってすぐには見上げるほどの大きな聖観音様の石像が優しく微笑んでおられます。
その合い向かいには不動明王さまを真ん中にひだりてにお地蔵さま、みぎてに観音様のやはり新しそうな石像が並んでおられます。こちらの石像はどちらも顔立ち、お姿のお美しいものばかりであります。干支の守り本尊さまの石像もこざいます。
御本堂前にも手前に馬頭観音さまの石像と虚空蔵菩薩さまの石像がおられ、御本堂入り口を護るように四天王の石像がおられます。
どちらの石像もみな真新しいもののようで、お寺さん自体が新しく開山されたものなのかと思っておりましたら、鎌倉時代の創建の歴史ある新田家ゆかりのお寺さんでありました。

【東光寺さんの伝説】
新田義貞の息子、義興の秘話が伝えられている。義貞死後も弟の義宗とともに宗良親王を奉じ挙兵、転戦するが、正平13年(1358年)10月10日、武州矢口の渡しに於いて、よりどころとしていた竹澤右京亮、江戸遠江守に欺かれ自害して果てる。義宗が竹澤らの手に取り囲まれ、一命危うき折、その魂は鬼神となってこれを助け、雷電を巻き起こし敵方をことごとく苦しめた。義興の死体は「新田に持ち来たりたる」とされている。その場所が太田市の「東光寺」であり無縫塔が岡家墓所内にある。
東光寺よりの法名と高野山蓮花院の法名がそれぞれあり、また義興の霊を鎮めるため、矢口の畔に社を建て、新田大明神と号す。鬼神義興の話は、芝居になり、知る人ぞ知る。「義興」の名は、新田家を「興す」という意味から天皇より授かりしものであった。

と、御住職からいただいた御由緒書きにありました。
それを車中で読み出すと、ほぼ同じ内容を諳じて語る歴史オタクの夫。堅い文面の御由緒書きよりわかりやすいので、ありがたいといえばありがたく、あり得ないといえばあり得ない。まあ、知る人ぞ知るとあるくらいですから、知っている一人であったということでありましょうが、行く予定になかったお寺さんの伝説がすぐに語れる、歴史オタクは、スゴい!

No.439 20/01/26 06:37
旅人 

東光寺さんも新田氏ゆかりのお寺さんでありました。さすが新田の郷、太田であります。ただ、本当に新しいものばかりが目について歴史を感じさせる風情は一切ありません。
新しい見事な造りの石仏も心はずむものではありましたし、御本堂には古くから伝わるものが納められているのかも知れませんが、古い石仏ひとつなく、あくまでも現代的なお寺さんに少し寂しさをおぼえたものです。
寺院を建て直すという一大プロジェクトには、それはそれは莫大なお金がかかります。新築でなくとも瓦を葺き替えたり、いまの耐震基準を満たす改修なども何千万のお金がかかるそうです。
その費用は、宗教法人と住職個人の他はすべて檀家さんの寄付によるものになっていくのですから、まず資金繰りが大変であります。五千万円を檀家さん百人で支えるとなれば、単純計算で檀家さんの寄付のみでとなれば一軒五十万円の寄付をお願いする計算となります。
なにをお寺の関係者でもない者がさもしいことをとお思いになられましょうが、ごく最近、そのようなお話を御住職ご本人からお聞きする機会があり、また、とある僧侶のお書きになったエッセイを読んだのですが、そこには事細かにその内情が書かれておりましたものですから。

平成に入って、葬儀ホールが普及し、一般宅で通夜・葬儀を行うことがほとんどなくなりました。
一般宅での葬儀しか私の数少ない経験と記憶にはなかったのですが、御本堂での葬儀というものもありますようで、それが地域性なのかはわからないのですが、葬儀社を舞台とした推理ドラマではたしかにお寺さんでの葬儀がよく執り行われるシーンが多くみられました。それは意識的にこれが葬儀だ!ということを視覚的に視聴者に理解させる効果を狙ってのものかとばかり思っておりましたが、実際御本堂を葬儀に使っての葬儀ということもあるようです。
ただ、そうした葬儀を営むには御本堂を葬儀ホールに準ずる整備が必要となってくるのだそうで┉通夜・葬儀となると駐車場もかなりのスペースを確保しなくてはならず、通夜振舞いとしてかなりの人数が食事をされる場所も必要となるのだそうです。
そうした御本堂として建て替えていく必要性を問う檀家さんもおられますよね。
お寺さんも大変そうであります。

No.440 20/01/26 16:07
旅人 

お寺さんの御本堂の話。


私の父、そして祖父母の眠るお寺さんは鉄筋コンクリートの御本堂であります。いかにも鉄筋コンクリート、といった感じの建物であります。とはいえ、瓦葺きの、誰がみても日本の寺院といった外観であります。こちらのお寺さんが鉄筋コンクリートの御本堂にされたのは、火災で御本堂を焼失し多くの寺宝を失なったことから、そういったことが二度とないよう、火災に強い造りの鉄筋コンクリート製にされたのだそうです。
ある僧侶のエッセイによると、鉄筋構造や鉄骨構造にすると木造より三割ほど価格が下がるのだそうです。しかも、現在の工法は見た目が木造と変わらないものを造ることができるほどに進化しており、木造のものに比べ、掃除、メンテナンス、空調なども快適になる。新築とするか、改修とするか、いずれにしても、莫大なお金がかかることには変わりはありませんが┉。

日本仏教を後世にまで伝えていくという、使命も担っているお寺さん。
私の個人的な意見といたしましてはやはり古くからの伝統あるものを改修維持していただけることを望むものでありますが、癒しの空間を伝えていくといった意味では、古くからのものであれ、新しいものであれ、その空間を作り上げるお寺さんの御努力に大きなお力があるのだと思います。
境内地に入って御本堂に向かって手を合わせたとき、静かな、おだやかな、自然に恵まれた美しい空間がそこにあれば、それはお寺さんの御努力によるものでありますでしょうが、私は、み仏がそう努力しているお寺さんの思いにほんの少しお手を貸してくださって、そうあるのではないかとよくそんな風に感じ、思っています。


掃き清められた境内。手入れの行き届いた木や草花。
そこに行くだけで心が洗われるような空間であります。

No.441 20/01/26 20:52
旅人 

仏教の教えでは、人は亡くなると四十九日の旅に出掛けるといわれています。暗く、細く、険しい山道を歩いていくのだそうで、この山を死出の山と呼ばれているそうです。そして七日ごとに死者の裁判が執り行われます。
そうあの【十王図】に描かれた世界です。裁判官は不動明王、釈迦如来、普賢菩薩などの諸仏諸菩薩です。生前の故人の生き方が問われ、善行、悪行の度合いによって来世が決定します。仏教に深く帰依した人は極楽などの仏さまの国へ、悪行を犯した者は地獄へ落ちていきます。
一番厳しい審査が、亡くなって三十五日目、五七日(いつなのか)の地蔵菩薩=閻魔王によるものであります。場合によってはその場で処罰も受けることから、「嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれる」という言葉も生まれたくらいであります。ただし、公平を期するため合計十回の裁判があり、しかもその間に、遺族の供養も裁判に影響を与えるのです。
「遺族がこのように合掌し故人の救いを求めています」
そう報告をされると裁判官も情状酌量して、仏さまの国へ往くことができるというもの。
そして通常七回目の四十九日で結審、これが四十九日忌であります。
仏さまの国へ迎えられたことを感謝する法要です。
その間、遺族も供養、という仏道修行をしてまいります。
その四十九日であっても、仏さまの国へ往くことが許されない人がいて、その後さらに再審が行われます。これが百ヶ日忌、一周忌、三回忌の法要で、すでに仏さまの国へ往った者にとっては追善供養となります。
百ヶ日忌のことを別名、【卒哭忌(そつこくき)】といいます。泣くのを卒業する日、であります。
義父の百ヶ日忌で御住職が、「これからは私は仏の道にはいります。あなた方もいつまでも悲しんでいないで泣くのはやめて、私が生きていたときと同じように日常生活を送ってください。それがなによりの供養です。そう言って、いよいよ仏さまの国へ旅立つあらたな別れの日であります。」とおっしゃっておられました。
そして一周忌、その翌年が三回忌となります。
亡くなった日が一回目の忌日、一周忌は二回目の忌日、その翌年が三回目の忌日、三回忌、となるのだそうです。



No.442 20/01/28 17:01
旅人 

お通夜や葬儀の儀礼の行い方は、各宗派によって異なりますよね。どうにもそれがなかなか覚えきれない。それがコンプレックスとなり、前に御焼香をされる方の手もとを一生懸命にみさせていただいて、それを真似て御焼香する┉なんとも格好の悪い大人であります。
そうは言ってもそもそもがお通夜・葬儀にうかがうまで┉それどころか、いざお通夜・葬儀となってもどちらの宗派であるのか、わからないまま御焼香のときを迎えることすら多々あります。
それどころか、なんと!同じ宗派であっても、隣の市で異なることすらあるようで┉。これは未熟者にして覚えの悪い私などはもう太刀打ち出来ません。
天皇家であればいざ知らず、庶民の葬儀は鎌倉時代くらいから始まったとされ、それが変化しながら今日に伝えられたもので、江戸時代においてはお寺の境内にお墓すらなかったもののようです。

お葬式に参列させていただいて、僧侶の方のいでたちが異なっていることに気づいたりすることはございますが、御経が宗派で異なっていることとかなどは、さっぱりわからない。何経をお唱えになられているのかすらわからない私であります。
ただ、共通している点があることに最近気づきました。
それは、
一、亡くなられた方が仏さまの弟子となる儀式を行うこと。
二、仏さまの弟子となった証としてあらたな名前=戒名を授かる。
三、仏さまのおられる世界へと旅立たせる。
といったことです。

┉実は、戒名、戒名とずっと言っていた仏さまの弟子となった証の名前も、宗派でその呼び名が異なるようです。
天台宗、真言宗、禅宗では【戒名】といいますが、
浄土宗、浄土真宗では【法名】、
日蓮宗では【法号】というのだそうです。
初めて知りました。
きっとそんな会話になったとき、謙虚な方々は(一般的に【戒名】と呼ばれているから、意味合いは同じことだし、まあいいか)と、私に話を合わせてくださっていたのでしょう。
ああ、恥ずかしい。





No.443 20/01/28 19:13
旅人 

檀那寺を持たない、それどころか無宗教な私┉ではありますが、珍道中で参拝させていただいたお寺さんのなかで、尊敬するお坊さまが何人かいらっしゃいます。

そのなかのお一人、栃木県足利市の【大岩山多聞院最勝寺】さんの御住職さまは、毎日、毎日何キロか離れたところに建つ大岩山毘沙門天の御本堂に通っては朝の五時半から御護摩修行をされ、一日に何度も本坊であります最勝寺さんと、毘沙門天本堂を往復して、【毘沙門天さま】と【不動明王さま】それぞれに、水と仏飯(ぶつぱん)を捧げ、お花やくだもの、お菓子などのお供物を点検され、ろうそくに火を灯しお線香をあげ、お経をあげられています。まあ、これはどちらのお寺さんであっても同じようになさっておられるお勤めでありましょう。
ただ、こちらのお寺さんは、離れて二ヵ所にあります、最勝寺本堂と毘沙門天本堂、それぞれの本堂、境内のお掃除もあります。御住職は足が少し不自由でありましょうに、そんな毎日のお勤めや修行、お掃除も『ありがたいこと』と受けとめておられ、いつもニコニコされ、また、どんなに短い時間接するのであっても、きちんと目をみて一言二言ご挨拶くださいます。檀家でもない私の悩みを聞いてくださったこともございます。
一ヶ月に一度の御開帳とその日に合わせて執り行われる御護摩修行では何も見ずにお唱えになる御経の長さ!御真言の多さ!修行のたまものにございましょう。


┉お寺の和尚さんたちは、いったいどのように毎日を過ごされておられるのでしょう。    

No.444 20/01/29 09:47
旅人 

お坊さまは厳しい修行をなされて僧侶となられておられます。それぞれの宗派で本山とされるお山に行かれ、御経の伝授やさまざまな儀式を経て、試験もあるようです。
ある宗派では、朝の三時半に起きて掃除をし、読経をし座禅をくみ、厳しい作法のもと食事をし、また掃除をし、読経、境内の樹木の手入れなどなされて、読経し、眠るまでがひたすら修行といったドキュメント番組を観たことがあります。睡眠時間も四時間あるかないか┉。
そもそも入山の際、一時間以上門すら開けてもらえず、門が開いてもそのまま「帰れ!」と怒鳴られるシーンからすでに衝撃的でした。

普段の行いが怠惰にして、いいかげんで、我慢強くもない私は、その門にたどり着くまでのお山を上る行すらがすでに厳しい。お坊さまってスゴいんだな。とひたすら嘆息しながらその番組を観ました。

得度し、その宗派の僧を名乗ることがはれて許されてお山を下りてこられて、さらに修行させていただいている師のおられるお寺に戻られそのお寺での修行をなさり、お山におられるときほどではなくても毎日が修行であります。
ご自分がお寺の跡継ぎであり、ご自宅であるお寺の庫裏に戻られたところで、やはり毎日が修行であられることは最勝寺さんの御住職さまをみても明らかであります。
いろいろなお寺さんにうかがうことがありますが、作務衣どころか作業服でショベルカーを自ら動かしておられる御住職さんも、梯子をかけ樹の剪定を自ら行う御住職さんもおられました。まあ、これは修行かどうかは不明でありますが。
御住職さんがお留守のときもほとんどどなたかご家族が留守をまもられ、あとどのくらいでご帰宅の予定、ですとか、今日は○○に呼ばれているから夜にならないと帰らないとか、御住職のご予定をお伝えくださることも多々あります。何泊ものご旅行とかに行かれることもありますが、檀家の方々とご一緒であり、ご家族はお留守をまもられておられました。お坊さんのご一家はなかなか大変そうです。
一日中、見ず知らずの方が突然ご自宅の=お寺の敷地内に侵入し、ともすればご自宅の呼び鈴を押されて、「御朱印をお受けしたいのですが┉」などと言ってくる。はたからみてのお寺さん像であります。

No.445 20/01/29 16:48
旅人 

修行僧の朝は三時半。それほどではないにしろ、栃木県足利市の最勝寺の御住職は、本坊から細い山道をクルマで、何キロか離れた毘沙門天さまのおられる御本堂に向かわれ、五時半には御護摩修行をなされています。着の身着のまま向かえるわけではありません。僧侶として身を清めて身支度を整えてお出向きになりますし、その後もすぐにすぐ御護摩修行にかかられるわけではありません。まずは御本堂の掃除をされて、お花の水をかえ、ご飯とくだもの、お水やお茶をお供えし、それからろうそくを灯します。塗香で身を清めて、お線香をあげ、はじめて御本尊であります毘沙門天さまに対座されます。その際、はじめて目にしたとき深い感動をおぼえた、【三拝】をなさります。
【拝】とは、両肘、両膝と頭を地につけて行う礼拝(らいはい)【五体投地】のことで、これを三回繰り返すのが、三拝です。そう、平伏すようになさる礼拝であります。
お勤めはお経と回向文を読まれるようです。宗派により読むお経は異なるようですが、共通しているお経はいくつかあり、【般若心経】や【観音経】は宗派を超えて唱えられているお経のようです。
私が悩みを聞いていただいたときも、御護摩修行の際も最勝寺の御住職は【錫杖経】をお唱えになられていました。毎日の朝のお勤めの際のお経まではうかがったことはないので、そこまでは存じ上げないのですが┉。最勝寺さんは真言宗豊山派のお寺さんですので、真言もお唱えになられます。
釈迦如来さま、観世音菩薩さまなど、各如来さま、菩薩さまに。不動明王さま、毘沙門天さま、吉祥天さま、善膩師童子さまに。
お釈迦さまの法を継いだ高僧、インドの高僧、弘法大師さま、本山の開山さま、その教えを受け継いだ僧侶、ご自分のお寺の開山さまにむけて、お経を読みます。
それから、日本を守護する八百万の神さまにお経を読まれる宗派もあります。仏教は伝来してかなりの年月を経てはおりますものの、仏教が伝播したとき、すでに日本の神さまたちがこの国に住まわれていました。仏教はあくまでもその場所をお借りしてお寺を建て教えを広めてきた、そういった感謝の気持ちを神さま方にお伝えし、神さまたちの守護を願うためなのだそうです。

No.446 20/01/29 18:06
旅人 

そして、日本人のご先祖さま、日本国全体、檀家のご先祖さまに感謝のお経を読まれます。

回向文で『このお経を釈迦如来さま、各如来さま、各菩薩さま、御本尊さまのために捧げます。どうぞ次の願いをかなえてください』と仏法の興隆。国家の安泰と繁栄。国民の生活が豊かになり、さまざまな災難がなく、また消えていきますように。┉この功徳が現在、過去、未来にわたり、伝わっていきますように。仏さまの御加護をお願いいたします。』と『~のために~というお経を唱えました』と、読経の目的を明らかにします。

臨済宗のお坊さんのお勤めでは、【般若心経】【消災呪】【大悲呪】というお経を読まれるのだそうです。

宗派により異なるお経が読まれるのではありますが、どの宗派にあっても、日本国の安泰と繁栄、国民の生活が豊かになること、交通安全や家内安全。病気平癒や諸願成就等々が毎日毎日、日本全国のお寺さんで、お坊さまによって祈られているのであります。




No.447 20/01/30 05:04
旅人 

【天海上人】という方は、私の大好きな日光に東照宮をと唱えた方であります。死後、慈眼大師という号を受けておられ、日光東照宮・輪王寺の広い広い境内のなかに慈眼堂という廟所があります。
徳川家康から家光にいたるまでの三代将軍に深く関与された上人であります。

元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年4月に大僧正となった天海らに託したとされています。
家康の死後、神号を巡り、以心崇伝、本多正純らと争い、天海は【権現】として自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を【明神】として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張しました。二代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は【東照大権現】と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬したのであります。
その後三代将軍・徳川家光に仕え、寛永寺を創建し、江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想したとされます。

寛永20年(1643年)に108歳で没したとされ、その五年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈されます。
天海は前半生に関する史料がほとんど無いものの当時としてはかなりの長寿であります。

その天海、秀忠と家光にそれぞれ長寿の秘訣を歌に詠んで送っています。
秀忠に対しては「長命は、粗食、正直、日湯(毎日風呂に入ること)、陀羅尼(お経)、時折、ご下風(屁)あそばさるべし」、
短気で好色な家光に対しては「気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ」というものであります。
将軍を前にして、「時折おならをあそばさるべし」だの、色薄く、だの、なんとも大物であったようであります。


たしかにお坊さんの毎日の暮らしぶりは規則正しく、健康的であるといえますよね。

No.448 20/02/01 00:26
旅人 

キリスト教では食事をいただくときに、お祈りをいたします。
キリスト教は両手の指を交互に合わせた合掌です。
「主よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と身体の糧としてください」そして合掌を解き顔の前から胸にかけて十字を切り、「アーメン」とのみ言ったり、「父と子と精霊との御名において、アーメン」だったり。キリスト教もカトリックとプロテスタントではお祈りも異なりますし、私が日曜学校に通ったのは四年生から六年生までの短い期間で、さらにはウン十年経っておりますので、記憶が曖昧なものとなっておりまして┉。

仏教で、とか、神道で、とか(特に神道は)あまり機会もないのですが、通夜振るまいや葬儀のお清めなどで、特にお坊さんがお祈りをなさっていた記憶はないのですが、仏教にも実はお祈りがあるのだそうです。【食事五観文】というお経があるのだそうです。


  一つには、功の多少を計り、彼(か)の来処を量る
一つ、この食事は自然や多くの方々のおかげによるものです

  二つには、己が徳行の全欠をはかって供(く)に応ず
二つ、この食事は自分の務めを成し遂げるためにいただきます
 
  三つには、心(しん)を防ぎ、過貧(とがとん)等を離るるを宗
  とす
三つ、この食事は不平や不満を抱かせないための心の修行です

  四つには、正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり
四つ、この食事は命を保つための最善の薬としていただきます

  五つには、同業を成ぜんが為に、将にこの食(じき)をうくべし
五つ、この食事は物道修行を成就するためにいただきます


うーん、感謝するとともに食事もまた修行ですか┉。
たしかに食堂(じきどう)への出入りのしかた、座りかた、給仕、食器の扱い方など細部にわたるまで修行道場では作法が決められていました。
食器は持鉢(じはつ)といい、五枚一組で大きさが順番に小さくなっていて、重ねると一つに収納でき、全体を持鉢包みという布で包み、布巾と箸も効率よく、きちんとキレイにセットします。これはテレビの特別番組で観たことであります。持鉢の持ち方、食器の出し方、並べ方、片付け方にもそれはそれは細かな作法かありました。
仏教では食事を作ることも仏道修行だと考えます。


焼き芋にかぶりついたりはダメ?

  

No.449 20/02/02 04:32
旅人 

キリスト教、仏教と書いておいて、神道のことに触れないのはいけないなと調べてみました。

神道では、亡くなったご先祖様やご家族に対して、仏教のようにお線香をあげるのでなく、お米をあげるくらいですし、神社さんでは毎日食べ物を捧げる時間があるくらい、神さまのお恵みで実り、生きるために必要な糧を得ることができたことに日々感謝して過ごす、古来から日本人の生活の基盤となってきた教えであります。
いただきます。という言葉がそもそもまず神さまへの感謝から生まれているのだと考えたとき、神社さんでは当然、神道のお宅でも毎日毎食唱える言葉があるに決まっています。
神道のお宅につながりがなくて、お葬式に参列したことすらないので、知識を得る機会がなく生きてきた私。なにより神社さんへのお参りも、年に一度も行かないで過ごしていた時代が長いことあったくらいの不届き者でありますので、幼稚園児ですら知っているようなことも知らないで生きているかもしれません。

【食前感謝】
静座  一拝一拍手
「たなつもの百の本草(ほんぞう)もあまてらす日の大神のめぐみえてこそ」
いただきます


【食後感謝】
短座  一拝一拍手
「朝よいに物くふごとに豊受(とようけ)の神のめぐみを思へ世の人」
ご馳走さま


これは一例なのかもしれません。なにぶんにも神道の方との縁がなく、お忙しそうな神職の方に、わざわざ唐突にそんな質問もできないものですから(^-^;

No.450 20/02/02 05:28
旅人 

一日。栃木県足利市の【大岩山最勝寺毘沙門天堂】の毘沙門天さまの月に一度の御開帳の日であります。とはいえ、なにぶんにも自分の運転技術では到底行くことのできないところにございますので、夫にお願いするしか手段がありません。
体調はどうだろ?(´・ω・`;)
おそるおそる聞いてみると、快諾してくれました。

ところがアクシデントが!
でかけなければならない時刻がきても、いっこうに動いている気配のない夫。?(´・ω・`;)?
┉お腹をこわしたもようです。ムリかな?
「平気だよ。痛くなかったし、もう落ち着いたから」


四台しか置けない駐車場は当然一杯。さらに上にある展望台の駐車場まで行き、一キロ以上離れた本堂目指してひた走りました。それでもなんとか御護摩修行に間に合いました。
本堂に入ると、以前一緒になった方が何人かおられます。一組はおそらくどこかのお寺のお坊さんと奥さまで、普通のいでたちでお越しになられていますが、ご主人が剃髪されておられ、手には正式な使い込まれた御数珠をお持ちになっておられ、なにより読経となると、どのお経もそらでお唱えになっており、真言もすべてそらで唱えておられたので。
┉今回、何やらテープででしょうか?堂内にずっと御経のような効果音が流れています。私は静寂と、法要の鉦なり太鼓の音やかすかな数珠をならす音などの、いわゆるONとOFFのほうが有り難くもあり、効果的だと思うのですが┉。これは好みの問題かなぁ。少し残念。法要、御護摩修行が始まったら切ったほうが良かったと思うのですが┉。

御住職と山伏姿の僧侶の方が法螺貝を吹きながらのご入場であります。何度か修行させていただいている、いつものスタイルであります。今回の席はななめに座るとご本尊様がかろうじて拝することができ、御住職のお手元も拝見できる私にとっての特等席であります。夫はその後ろの椅子の席。
いくつかの真言をお唱えになり、手印を組まれ、さまざまな法具を使って、御護摩を炊くまでの手技を次々と繰り出されています。やがて御護摩の火が点されると山伏姿の僧侶が九字切りをされます。
御護摩の炎はやがて天井まで届かんばかりに舞い上がります。

No.451 20/02/02 08:35
旅人 

初めての方がいようがいまいが、いつものスタイルで進められる御護摩修行。説明とかは一切なく、御住職が中央の御本尊さまの前から席をはずされて、太鼓の前に行かれたら、錫杖経が始まる合図です。今度こそとの意気込みとは裏腹に、独特の抑揚と独特の間に相変わらずついていけません。┉やはり修行していないものには難しい。
般若心経は、絶対にしっかりとお唱えしたいと、一生懸命にお唱えいたしましたところ、なんとか珍しく(苦笑)三回の読経をご一緒にお唱えすることができました。
続いて読経されるのは、用意されています用紙にはないお経となります。今回は、以前御住職さまにお授けいただいた経本を持参してみました。┉字を追うことすらできずに終了しました。((;д; )
毘沙門天さまの真言こそはせめて絶対にすべてお唱え申し上げよう!┉それが意地とかなら、かえって失礼になるのでしょうに、その感情がなんなのか、考えるいとまも与えず、
「毘沙門天さまのご真言」とおっしゃると同時に唱えられるご真言。もう無心にひたすらお唱え申し上げました。百八回のご真言は、御護摩修行においてもなかなかお唱えすることはありません。御住職が区切りをお付けになるまでひたすらお唱えつづけます。私のなかでやりきった感があったのでしょう、続けてお唱えする吉祥天さまのご真言は、実にボロボロで申し訳ないこととなってしまいました。

内陣に再び入らせていただき、毘沙門天さまのお足元から御礼とご祈願をさせていただき、大好きな慈母観音さまに手を合わさせていただきます。

山伏姿の僧のかたに加持祈祷をお授けいただこうとお願い致しましたところ、
「私に手を合わせてお願いしてください」と厳しいお顔でおっしゃいました。手に荷物を持ってお願いしましたので、頭を下げるにとどまっておりました。申し訳ない。
「これは命がけの行いですので、真剣にお願いする方にしかいたしませんので」とおっしゃると、加持祈祷をしてくださいました。
失礼を詫びてお正月にお会いできなかったのでと申し上げましたところ、「私は看護師だから、毎年三十日から一月二日までお休みをもらって山に来させてもらっているので、三日には山をおりているから」とおっしゃるではありませんか!
御住職のお身内なのかどうかうかがうこともできず、ただただ呆然と立ち尽くしている私をあとにさっそうと御本堂を後にされました。

No.452 20/02/03 04:29
旅人 

山伏姿の看護師さん?!
小刀を手に手印を結び、九字切りをする姿、ともすれば厳しい(今回の件に限らず 笑) いかにも山伏、といった方であります。僧侶の衣姿を見たこともなく、ここ、毘沙門天本堂での御護摩修行には山伏という存在が欠かせないいわれとかがあってそういったいでたちでいるのだろうかと思っていたくらいでありました。
ところが正月三日の日には僧侶の衣を身にまとった若い優しいイケメンの僧侶が、御護摩修行のお手伝いをされており、えっ?山伏の存在は必ず必要な行ではないの?と思ったくらいでありました。
たしかに真言宗は山伏の修行をされる方もおられるようですし、なにしろここは山伏が修行して当然といった趣のお山ではあります。
うーん、この方の好みであえてこの山伏、といったいでたちでおられるのでしょうか?
同じ白の服ではありますが、看護師さんの白衣姿がまるで想像すらできない。申し訳ないけれどあまりに山伏姿が似合いすぎていらっしゃる。剃髪されておられるし┉。

ですが、現代ではそういった兼業のお坊さんはたくさんおられるのが現実であります。一つには跡継ぎさんであってもなりたい職業があり、いったんはその道を歩まれるパターン。もうひとつは、やはり檀家数等の関係から、専業では生計を立てることが厳しいパターン。
実際、学校の先生という方も二人ほどお会いしたことがありますし、普通に夫と同じ会社には普通に会社勤めをされてもおられ、つい最近までその方が僧籍にあることを知らなかったと夫が申しておりました。

いま、洋服を買うに辺り実際に試着するのではなく、CGでイメージできるような時代になっております。いろいろな組み合わせを鏡に映った姿に投影できる┉。私は古い人間で、頭のなかで山伏➡看護師の白衣の衣装チェンジを試みてみましたが到底ムリなくらい、この方は山伏姿が強烈で鮮明であります。
うーん。固定観念が┉頭が固いということですよね。もう若くない自覚はあるのですが、あまりにセンセーショナルな事実でありました。
山伏の方って何度かお会いしたことがありますが、剃髪されておられない方がほとんどでしたし┉。剃髪されている看護師さんにもお会いしたことがなくて┉。
どうでもいいことでずっと混乱している愚かでひまな人間、という証明をしているようなものですね。


        令和二年二月一日

No.453 20/02/04 20:19
旅人 

神社仏閣珍道中というタイトルなのに、どうも仏教に偏っていない?┉はい、自分でもそう思いますし、夫からもそう指摘されます。とはいえ、ミクルのことは家族は誰も知らないこと、なのではありますが。

御仏像が好きなのであります。
苔むした石仏さま、お優しいお顔立ちの仏さま、厳しいお顔をされた仏さま、なめらかなまでに彫られた木造の御像。躍動感あるお姿、みているだけで身の引き締まるようなお顔、心が洗われ、心癒されるお姿。┉ついつい、お寺にむかってしまう私であります。
一方、夫はどちらかと言えば、しいて言うならば、神社のほうが好きなよう。

今年は生まれて初めてのおみくじを、神社さんでひかせていただきました。発祥は仏教、元三大師=角大師さまと言われておりますが、私のなかのイメージがおみくじは神社さん、みたいなものがありまして。

神さまからのお言葉として、時々ひらいてはそこに書かれている言葉をかみしめております。

【善悪は皆手前の覚悟にあり】
『禍を転じて福とし凶を去って吉を招くは自分の覚悟次第である。外部の誘惑に心を動かしてはならぬ。難局にひるまずにこれを克服するように努力せよ。一陽来復の好機も遠くない。』

【中吉】という良い結果であったこともあるのかもしれませんが、私はおみくじって良いものなのだなぁと今さらながらのデビューで思いました。
きっとこれからも、いろいろなところでおみくじをひくようなことはなく、きっとどこか一ヶ所で勇気を出して神さまからのお言葉をお受けすることと思います。


┉出産は、安産間違いなし。だそうで。うーん。

No.454 20/02/05 09:53
旅人 

私の未熟さは、ここに書かれている夫と私のやり取りやら、考え方。さらに言えば文章力もなく、あえてその未熟さをいまさら書くこともないとは思うのでありますが、実際にはここに表されている、自然に滲み出た人間性よりも、もっともっと未熟な人間です。

『四十にして惑わず』は有名な孔子の言葉でありますが、五十をとうに過ぎて、『五十にして天命を知る。六十にして耳順う』という、孔子の歩んだ道でいきますと、惑わないどころか、天命=自分の生涯における指命を見極めていなくてはならないというのに、私は現時点、やっと学に志すに至ったくらいであります。

『吾、十五にして学に志す』の、十五歳の時に学問に志したとは、いろはを学ぶのではなく、自分の求める分野の専門的な勉強を始めたことを意味するとのことでありますので、この珍道中を始めた目的がそうであるのではないかと思うのです。

『三十歳にして立つ』とは、自分の精神の立場を確立したということであるとされ、まだまだグラグラな私。後の世に名を残した孔子に並ぼうとすることがすでにおこがましいことでありますが、┉三十かぁ。

残念ながら、物への執着や欲はどちらかというと強いように思えてなりません。欲しいと思ったとき、考え、我慢しているつもりで大した我慢ではないし、手に入れた物はなかなか捨てることができない者であります。
さらには認めたくなくてもふと、冷静に自分の感情を振り返ってみると、思い込みであったり、偏見であったり、見栄であったり、まるで心のメタボの状態であるように思えてきます。


目指すところはなにか。


┉とりあえず、おぼろげなものではありますが、日本人が長いことそうであった、神仏に手を合わせ、神仏をあがめ、他人の目がどうのではなく、日々生きていられることに感謝し、働けることに感謝して毎日を積み重ねて生きていきたい。┉そのように思う、今現在であります。

毎日、その思いを心のなかで反復して、行動の前、言葉を発する前に、その目指す自分を思い起こしていくことができれば、その道に近づくことはできるのではないか、と。

いつか退職したときに、毎日、どのように生きるか。
まだまだその日を思い描くことすらできずにおりますが、できたら毎日、お寺さんや神社さんに出向いて手を合わせていられたら幸せだなぁと思うのでありますが┉。





No.455 20/02/06 06:32
旅人 

神社仏閣を相も変わらず珍道中しているようなところも未熟でありますが、何より私は人として未熟であるなぁと。

すぐに何かに腹をたて、夫や子供たち、さらには同僚に対して愚痴を並べたて、そのうえ人の悪口を口にする。┉若いときのほうが、そういったところがほとんどない、今よりも大人であったような気すらするくらいであります。若いときはいろいろなことにもっと真摯であり、人の悩みや愚痴を聞く方の人間でしたし、愚痴をこぼしている暇すらないくらい忙しかった。
┉いつ、なんのきっかけで私は退化したのかなぁ?┉まあ、そうは言っても別にそんな善人であったということではなく、仕事も忙しかったし、覚えることもいっぱいでしたが、向上心、向学心に満ちていた、ところはあったと思います。

結婚して、その仕事を辞めなくてはならないとなったときの絶望感、喪失感は大きかったけれど、子育てと夫の事故やら病気やらで、なんとか頑張る、頑張るしかないと、やはりただただ忙しく過ごしておりましたし。そしてそんな私を、ご近所のかたや、子育てサークルのお仲間さん、かかりつけのお医者さまが見守ってくださり、優しいお言葉をおかけくださり、手助けをしてくださいました。

いつから私はこんなに愚痴をこぼすようになったのだろう。夫ともよくケンカをするようになった時期はいつ?

まあ、私の言い分は私本人の思考でありますので、何度省みたところで間違ってはいないという結論に到達するのですが、その対応に間違いがあったのではと思うようになりました。
特に同僚に対して愚痴をこぼし、ともすれば悪口をいう自分を反省するようになりました。それはいつから?
┉それはそんな自分に嫌気がさして神社仏閣珍道中を始めたころから、かもしれません。

そうは言っても相変わらず気分の浮き沈みも激しいし、「なんで私ばっかりこんな目に遭うの?」と嘆くし、理不尽なことがあれば、即座に愚痴やともすれば陰口が口をついて出てしまう、イヤなやつ、未熟なやつであります。

No.456 20/02/08 06:46
旅人 

私の実家に、十センチ×三十五センチほどの黒地に塗られた五ミリほどの厚さの木の板に、金色の文字で、宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』が書かれたものがあります。
それは物心ついた頃から飾るともなく置かれており、文字の読めない頃からずっと生活のなかに存在していたものでした。片仮名が読めるようになり、簡単な漢字が読めるようになり、その全容がとりあえず読めるようになったのは小学校中学年、の頃だったでしょうか。
ところどころは読めないところがあり、父親に聞いてようやく読めたところがあったことも記憶しています。
それは「雨ニモ負ケズ」から始まり、「サウイフモノニワタシハナリタイ」で終わるもの。
小学生の私、中学生の私、それぞれに感じかたは異なったものの基本的に、私はこういう人になりたい部分となりたくない部分とある、不遜な言い方をすればどちらかと言えば好きではない詩でありました。
私だったら┉と、パロディではないものの、真剣にその詩のなかに自分なりの理想を折り込んで、自分なりの雨ニモ負ケズを仕立ててみたりしたりもしました

高校生の頃、実はこれは亡くなる前に書かれた、賢治の死後に発見された詩かどうかもわからないメモだったこと、さらに続きがあることを知ります。

【雨ニモマケズ】 宮沢賢治

風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」で覚えるともなく覚えてしまった私には、今更感も強く、さらには正直違和感も強く感じてしまい、心のなかで封印しておりました。


No.457 20/02/08 07:23
旅人 

今、この【雨ニモ負ケズ】は、すべてが素直に心に入ってくる、まさに私のめざす生き方がここにあるかのような気すらするものになっていたことに気づき、驚きとともに喜びを感じました。
違和感でしかなかった、最後の仏さまのお名前や御経の一文が、欠かせないものであったことにようやく気づくに至りました。

正直に言ってしまえば、宮沢賢治の世界┉【銀河鉄道の夜】も、【風の又三郎】【やまなし】もその独特の世界がいまだに理解はできておらず、それは生まれ育った環境のちがいもあり、住んでいる地域の┉気候の差もあり、時代も異なり、何よりがさつな私の感性と、繊細な賢治との差もあるので、ここはきっと理解できないままに終るのかもしれませんが。

サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
『サウイフモノニワタシハナリタイ』


┉強いて言うなら、寒さの夏は来ないんじゃないかな( >Д<;)





No.458 20/02/08 17:24
旅人 

サフイフモノニ ワタシハナリタイ
に続く、仏さまのお名前や御経は今なお読めず、ついでといってはなんですが、調べてみました。するとさらにこの【雨ニモ負ケズ】続きがあることを知りました。仏さまのお名前と本当の全文を記しておきます。

南無無辺行菩薩(なむむへんぎょうぼさつ)
南無上行菩薩(なむじょうぎょうぼさつ)
南無多宝如来(なむたほうにょらい)
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)
南無浄行菩薩(なむじょうぎょうぼさつ)
南無安立行菩薩(なむあんりゅうぎょうぼさつ)

なんでも宮沢賢治は三歳から聞き覚えたお経を毎日お唱えしていたとか。
さらに続く一文は

[スベテニウへノオコナヒヲチカフ]
全てに上の行いを誓う、ですか┉。日本人のほとんどが知る、この有名な雨ニモ負ケズは、仏さまに全ての言葉、全ての行いを誓った、本気の宣誓書でありました。


No.459 20/02/09 05:58
旅人 

先日、職場に来られたお客さま。いつもはご夫婦でおみえなのに、その日お一人でいらしたので、「今日はめずらしくお一人ですか?(ご主人は)ごかげんでもお悪いのですか?」とお声がけしましたところ、「主人は今日、デイサービスなの」。
 
はたから見ても、頑固でマイペースなご主人に、やさしく上手に意見なさっておられ、悩みごとは包み隠さず私どもスタッフに打ち明けて、明るくていつも前向きな方でいらっしゃいますが、この一年でご主人に認知症の症状がみとめられ、夜も眠れないほど苦しんで来られた方でもありました。

介護認定をお勧めし、いまはデイサービスなどでご主人との距離を作って、もとの明るさを取り戻したかに見えておりましたが、
「最近、何をするのもイヤになっちゃって┉。何かあったわけじゃないんだけど、お食事の支度するのすらイヤでイヤでたまらないの」「でも主人がいるしお食事作らないわけにはいかないでしょ?もうね、ほんとに苛々して時々大声で叫びたくなっちゃうくらい。┉実際にはやらないわよ?でも本当にそんな感じなの」
他のスタッフが一人カラオケなどを勧めてみましたがなにやらそれはお嫌な様子。
ひとしきり愚痴をこぼされて「すごく楽になったわ、ありがとう」とおっしゃって帰っていかれました。


そこで私は最近本で知った、【阿息観】という瞑想法を思い出しておりました。
その本は特に僧侶やら宗教研究家の書かれた本ではないのですが、初めて目にした修行法であり、またそのやり方にたいそう心惹かれるものがありました。真言宗の寺院で行われることのある修行のようです。

簡単に述べると、あぐらに似たかたち(半跏坐といわれる座りかた、他にもありますようですがとりあえずはこの一つにさせていただきます)で座り、呼吸を静かに整えたのち、『阿ー(あー)』という声を出し続ける、というもののようです。
呼吸を整え、静かに「阿」という言葉を口にするこの修行に、すごく心惹かれるものがありました。考えただけでも無心になれるような気がいたします。

家でもできそうな修行に思えて読み進むと、『一見簡単なようでも瞑想しているうちに違った世界に入ってしまうこともないとは言えないのでまずは初心者の方は僧侶の方の指導を受けてからにしましょう』と書かれておりました。
以前書かせていただいた【阿字観】【月輪観】なども真言宗の修行であります。


No.460 20/02/10 06:39
旅人 

【阿息観】にかなり惹かれるものがあった私は、『一見簡単なようでも、瞑想しているうちに違った世界に入ってしまうこともないとは言えないのでまずは初心者の方は僧侶の方の指導を受けてからにしましょう』と最後の最後に書かれていた一文に、けっこうなショックをおぼえました。

実にそれはそれは丁寧に、どのような形で座り、目の開けかたはこうで、手はどのような形で、とか、呼吸を整える方法とか、一つ一つが具体的に、解りやすい文章で書かれているのです。
気の早い人など、その場で読みながら実践しそうな書き方であり、しかも、そのやり方が全て書かれて、完結したあと、いろいろな瞑想法があるけれど、【阿息観】は具体的なイメージがあるため精神統一しやすいとかまで書かれていて、そのあとにすらすらとその一文が添えられているのです。泣。

そこがやはり僧侶の方が書かれたものとの違いでありましょう。
違った世界に入ってしまうことがあるっていうこと自体が想像すらできない、超初心者の私などが手軽に手にしちゃってる本では、そういった具体的なやり方を本当の危険をご承知されている、実際に指導をされている僧侶の方は絶対に書いたりなさらないので。


諦めきれない私は、実際に自分のうかがえる範囲のお寺さんで、御指導いただけるところをGoogle先生に調べてもらいました。なかなかないようで、そもそもがお寺さんもそのようなことをネット配信されておられるところもほとんどありません。
東京の高輪の高野山別院が一番近いのかな。

その本に具体的なやり方を書く前に書かれていた文章だけは転記しておきます。



┉「阿」は、密教でもっとも大事な文字であり音です。密教の世界ですべての根源とされる仏さまを大日如来と言い、その大日如来をサンスクリット語で表すと「阿」という文字になるのです。阿は命の根源であり、その音を唱えながら宇宙の根源と一体化していくのが阿息観です。┉


いつか【阿息観】に出会えるときのために、そういった行があるとお知恵をいただいたと思って、やり方は忘れることとします。┉忘れることは得意ですから。┉というより、覚えることも難しい年頃なので、実際に【阿息観】をお教えいただけるとき、御指導される僧侶の方が、大変かなぁ(;`・ω・)
ま、僧侶の方はそれがまた修行になりましょうかね。

No.461 20/02/11 06:40
旅人 

本日は祝日【建国記念日】。しかしながら、本日仕事が休みなのは私だけ。夫や子供たちより、確実に多い休日、なんとも申し訳ない気分になるのであります。
私ども夫婦は【建国記念日】=「けんこくきねんび」と長いこと言い続けておりましたが、正確には【建国記念の日】。今さらどちらでもよいような気すらしてしまういいかげんな人間でありますが、『建国をしのび、国を愛する心を養う日』として、1966年に【建国記念の日】として制定されておりますから、誤った表現で実に長いこと生きてきたということになります。しかしながら、すでに記憶すらも曖昧となりつつあります私どもですが、学校の先生も「明日はけんこくきねんびでお休みです」と言っていたような気がするのですが┉。


もともとは、神武天皇が即位した日を日本の建国された日として祝うこと(紀元節〔きげんせつ〕)であったもので、それが戦後、占領軍の意向で祝日ではなくなります。「紀元節を認めることは、天皇を中心とする日本人の団結力が高まり、再び米国の脅威となるのではないか」というGHQの意向で廃止されました。
しかしその後、紀元節を復活させようという動きが高まります。
それでも「日本の正確な起源などわかっていないのに建国記念など定められない」など専門家による多くの議論があったようです。そんな反対する動きを抑え建国を記念するための祝日を設けることとなり、その際「紀元節」から「建国記念の日」に改正され、1966年に国民の祝日に認められ、翌年から適用されています。

「建国記念の日」が「建国記念日」ではないのは、史実に基づく建国の日とは関係なく、建国されたという事実そのものを記念する日だからだと言います。

神社とほぼ無縁で生きてきた私などは、建国記念の日が如何様なものかも当然知らずに、過ごして参りました。しかしながら、ここ平成から令和に移り変わるというころにようやく神社に足を運ぶようになった私は、天皇家と日本中の神社が深い関わりを持つことに気づきます。あ、天皇家は現人神であられたくらいだったし、そもそも神話の世界から天皇家は存在しているんだっけ。(;`・ω・)



No.462 20/02/11 06:44
旅人 

そもそも日本の起源を祝日にしようという動きは、明治時代になってのこと。神武天皇(初代天皇)即位の初日を日本の紀元(歴史が始まる最初の日)としたことから始まります。この、日本の紀元の日を「紀元節」といい、紀元節には全国の神社で「紀元節祭」と呼ばれ祭事が催されていたほか、庶民の間でも「建国祭」として祭典が行われていたもののようです。
日本書記に、『日本国を統一したカムヤマトイワレビコノミコトとは、初代天皇になった神武天皇である』と書かれています。
イワレビノミコト(神武天皇)は、現在の建国記念の日にあたる、辛酉元旦(現在の暦に直すと紀元前660年2月11日)に、大和の橿原〔かしはら〕の宮で即位したとされ、そこから2月11日を「建国記念の日」に定めたとされているようです。


建国記念の日って、紀元節ほどではないにしろ神社さんにとっては大切な日で、国民も神社にお詣りする日、なのかもしれない?(・・;)

No.463 20/02/13 05:07
旅人 

以前にも書きましたが、『神社仏閣珍道中』どう考えても仏閣の比率が高く書かれております。

まあ、かかあ天下といわれる土地柄をフルに活用し、自分の持ち味(⁉┉自分中心で威張り散らしてるという欠点のこと?)をフルに活かして、自分の好きな御仏像のおられるお寺さんを巡るように仕向けているようなところがあるのは事実であります。
あとはやはり、五十過ぎての立志で、さらには祖父母、何より両親からに至っては受け継ぐものが何一つなく、基礎知識もないままに始めた珍道中に過ぎないことがあだとなっているところもあるのであります。

いわゆるネットによる情報に頼るしかなく、ネットの情報が正しければよいのですが、誤ったものも含まれていたり、誤った解釈をしてしまったりということが多々起こりうるということ、であります。加えて、記憶力の著しい低下。もともと低かった自己能力は日に日に衰えるばかりで、記憶し考察することが難しくなっております。
大雑把でいいかげんな私が、勝手な解釈をするほど危険なことはないのでありますが。

神様はともすればお怒りになられることもあり、キチンとした知識が必要で、どのような神様がお祀りされている神社さんなのかをちゃんと前もって調べた上で、その神さまの御神徳に合わせての御祈願を申し上げるべきだし、御礼のお参りを欠かしてはならないと、現時点で思い込んでおるので、ついつい敷居が高いというか、ハードルを上げすぎてなかなか気軽に参拝できない呪縛を自ら作ってしまっております。
そのくせ、遠くにある神社さんにはけっこう気軽に参拝させていただいて、参拝させていただけたお礼を申し上げて参拝とさせていただいていたりするのですが┉。

そもそも神社さんは合祀されておられることが多く、お祀りされておられる神様がたくさんおられることもあり、なかなか予習もむずかしいのでありますが、八百万といわれる神様のお一方お一方の御神徳を覚えるのが難しい。いやいや、八百万の神様のお一方お一方のお名前すらが覚えられない。
こうして、なかなか神社さんを詣でることがなくなっていく現状があります。


それでは仏様はキチンと御尊名を覚えたのか?と問われれば、うーん、ほんの一部の仏様にすぎません。仏様はお怒りにならないのか?と問われれば決してそうではないようなのでありますが┉。

No.464 20/02/16 14:46
旅人 

涅槃会で書きはじめさせていただきました、小説枠での珍道中も早いもので一年が経ちました。こんな駄文で稚拙な文章でありますが、お読みくださる方がおられるようで、本当に感謝しております。

そう、そして涅槃会で、実父と舅の月命日で、自らの誕生日であります、二月十五日。



今年は土曜日ということもあって、どちらに伺おうか思案しておりましたところ、息子が前々日に、「朝には着けるから、どこか一緒に出かけよう」と言ってきてくれました。仕事終えた足でそのまま向かってくれるとのことで、ほぼ眠っていない状態です。
どうしよう(((((゜゜;)

前日の夜、夫と二人で会議です。
息子の疲れをとってから出かけよう。┉とすれば八時から始まるという【榛名神社さんの代代御神楽奉納】はそれこそ寝入ったら起こして出かけるようです。これはまたの機会ということで┉。涅槃会も午前中か午後一で、疲れた息子と一緒に出かけるところではないだろうし。
そうなると、どうしたものか┉。答えのないまま、早朝まだ日の昇らない四時半に息子が帰ってきました。
「おとうさんと色々相談したんだけど、┉榛名神社は八時に始まって十一時には終わってしまうようなんだよね。いったんここは寝て、起きてから梅でも見に出かけようかね」
すると、
「寝ちゃうと起きられないから、なんならこのまま出かけてもかまわないよ。そのかわり、車で寝ちゃうけど」と息子。
「えっ?」
私「じゃあこのまま出かけたほうがいいってこと?」
息子「そうだねぇ」
私「┉じゃあ、もしあれだったら、いつか行きたいって言ってた、茨城県の海の中に鳥居のある神社さんに行っちゃおうか?」
息子「┉いいんじゃない?」


息子との会話を伝えるべく、夫の寝室に向かうと、目は覚めしていたものの、まだ寝ぼけまなこの夫に、会話の内容を一応伝えると、「あ、そう、じゃあ行こう!」
「えっ?」Σ(・ ・)ノ?



と、いうことで、ほぼ冗談のように口をついて出た、茨城県の【大洗磯前神社】さんに急遽参拝させていただくこととなりました。



No.465 20/02/16 20:23
旅人 

海の中の鳥居。私のつたない表現からでは、竜宮城をすら想像してしまう方がおられそうです。
裏技(?)で写真を載せておきます。

突然、唐突に私の思いつきだけで、参拝させていただくことになった【大洗磯前神社】さん、ここ、海の中の鳥居しか私の予備知識にはありません。社殿はなく、この側にある岩場が御神体であるのかと、正直思っておりました。
ナビで茨城県大洗に向かうこと一時間半、大洗に入ると交通標識の道案内に【大洗磯前神社】の文字がそこここにあります。もうナビはいらないくらいです。「さすが!」
最終段階は【大洗磯前神社大鳥居前】を左折。
ん?えっ?┉海に向かってないと思うけど?そう、斜めに坂を上がっていく道であります。

それでも明らかに神社さんの敷地に入ったような様相ではあるのですが┉「ねぇ?違うもうひとつの磯前神社さんに着ちゃったりしてない?」
「いや、そんなことはないよ」と夫。当然、半信半疑┉どころかほぼ信じてはいない私。まあ、行ってみるしかない。
駐車場に着きました。神社さんの拝殿どころか、鳥居ひとつ見えてきません。「はあぁ┉」連れてきていただいている立場、声に出さないため息をつきつつ車から降りました。海も見えません。ですが、先ほどまで私自身が道案内の道路標識で【大洗磯前神社】に向かう道である案内を見ております。うーん。

「とりあえず、私、先に行って様子を見てくる!」夫と息子の軽い制止などまるで聞く耳を持たず、走り出すおばさん(=私)。
うーん、なんだろう?立派な西洋風の待合所(?)があります。なんなんだろう。
さらに歩を進めると、大きな大きな一枚板の石碑があります。【軍艦那河忠魂碑】と書かれていました。追いついた夫が感嘆の声をあげています。出た出た!夫は軍艦だの戦闘機だの好きなんだよなぁ。┉そういえば、ここ、大洗ってガールズアンドパンツァーの聖地なんじゃなかったかな?( ;-`д´-)

そんな夫は無視して、さらに進むと!┉ありました。陸地の神社さん。うーん。神社の名前は間違いなく大洗磯前神社さんであります。



No.466 20/02/17 07:10
旅人 

すると、まもなく手水舎が目の前に、右手に鳥居、左手に随神門が見えてまいりました。またまた、走り出す私。夫と息子は、もはやついてきてもおりません。

まずは随神門に目をやり、次にさほど大きくはない鳥居に視線を移すと、石段が下へと続いて┉。その石段の向こうに、道路で隔てられた向こう側、建物と建物の間に、昇って一時間半ほどの朝日をあびてきらめく海の水面と、水平線、あかるい空とが見えるではありませんか。
┉いい歳をしたおばさんが、口に手をあてて小さくぴょんぴょん跳ねる様ったら┉(;^_^A
すぐに気づいて自粛いたしましたが、海無し県民の哀しい性で、海を見るとテンションが上がってしまうのであります。┉もちろん個人差がありますし、その表現もさらにさらに個人差がございますので、海無し県、群馬県民の名誉のために、きちんとそこは明記しておきましょう。
夫の姿が見えてきました。すると再びテンションがあがって(私の名誉のために書いておきますが、夫が来た嬉しさでは決してありません)その場でぴょんぴょん跳ねながらおいでおいでの合図をしてしまう、怪しい怪しいおばさんが一人。
「見て見て!♥」
┉再び自らの怪しさに気づき、気持ちを落ち着かさせるためにも、手水舎で心身を浄めました。普通人の夫は、「ほおぉ」と小さな声をあげて海に向けてスマホで写真を撮っておりました。息子にいたっては表情も変わらず、しばし、建物のすき間からみえる小さな海を見つめております。
いつもなら、┉鳥居や、せめて随神門は、まずは夫を一歩でも先にくぐってもらうよう努めております。まあ、そのときの私のテンションによっては、そうでないことがありますのも事実ですが┉。今回はまるで、まったく待つ気になれない。一歩でも一秒でも早く門のうちに入って、神さまにお会いしたい思いでいっぱいです。
大国主命さまと少彦名命さまを主祭神とされておられるこちら【大洗磯前神社】さん。日本国の国造りをなさって諸国をお巡りくださったお二方であります。(二柱と申し上げるのは存じ上げておりますが、あえて親しみをこめて、お二方と述べさせていただきます)
お二方の神話は子供の頃から慣れ親しんだお話であります。そのお名前を拝見するとテンションが上がってしまう、私。
もう、誰も止められない。 

No.467 20/02/18 04:03
旅人 

┉誰にも止められないおばさん、ですら、やはり、神さまには止めるお力がございます。
随神門におられるお二方のお美しいお顔立ちといったら!まるで雛人形のような端整なお顔立ちで、思わずぽおっとみとれてしまいます。
そして随神門に書かれた文字が、さらに胸の高鳴りを高めつつも、夫を待つように、と、私の足をとめました。


【月次祭のご案内】
【大洗磯前神社では毎月一日と 十五日 午前十時より 月次祭という祭典を斎行しております
どなたでもご参列いただけますので 参列を希望される方は社務所までご連絡ください】


夫を待って、「見てみて見て!」
┉すでに鳥居のなか、境内であり、神域であるというのに、いくら小さな声でといってもなんともにぎやかなおばさんであります。そして夫の反応も返答も一切見ず聞かず、随神門をくぐるべく低頭する最強クラスのおばさんでありました。

そして、随神門を胸ときめかせようやく潜らせていただきますと♥、
巫女さんがそこここで、しずしずと、黙々と、朝の仕度をなさっております。
真正面に拝殿。拝殿の扉という扉、すべてが開け放たれております。拝殿の前、左手に大きな大きな絵馬が飾られております。磯前神社さんらしく、「ネズミが磯にある鳥居に詣でる」といった絵柄であります。右手にはどういったいわれか、蛙の石像が三体並んで座っています。
そして梅の花。白梅が七分咲き┉散りだす花もない、一番きれいなときかも知れません。
ずっとぽおっとしているおばさんに、いつの間にか息子が追いついてきております。ようやく気を取り戻し、拝殿に参拝しようとすると巫女さんが、お祓いのふさふさ、祓い串を拝殿前に設置しました。自分で自分の穢れを祓うように、と書かれています。ばっさんばっさんと自分で自分を祓って、いよいよ拝殿にお参りです。

二礼二拍手一礼をし、三回、「祓え給い、清め給え、神かむながら守り給い、幸さきわえ給え」(お祓い下さい、お清め下さい、神様のお力により、お守り下さい、幸せにして下さい)とお唱え申し上げました。

No.468 20/02/18 18:24
旅人 

拝殿前での参拝を済ませ、振り返ると目に入ってくるのが、絵馬を掛ける台がふたつと、やはり大きなもう一枚の絵馬が!
┉ガールズ&パンツァーの絵であります。うーん┉。
私じつはガールズ&パンツァーというものがなんたるか何も知らないのです。
大洗が舞台のアニメ?なのかゲーム?なのか。どうやらここもそういう世界においてのいわゆる聖地だったらしく。┉神社さんとしては奉納された絵馬でありますし、もしかしたら大洗という街の町おこしとして重要な任務も担う存在なのやも知れず┉。
まあ、それでも私はガールズ&パンツァーという存在を知っているだけでも、この神社さんにこの絵馬があることに大きな違和感は感じずにいられたかもしれません。
そして絵馬を掛ける台には、私のように画才のないものには『プロ』のイラストレーターさんが納めたのではないだろうかといった、それぞれおもいおもいのイラストが描かれた絵馬が掛けられていました。
一枚一枚、みとれるくらいの上手さです。なかには立体の女の子の顔のイラストが貼られた絵馬もあり、本当に、絵馬を見ることでも別の意味で感動を得ることができました。

夫は絵馬に時間をさいている私を置いて、本殿に向かったようです。
私も本殿にもお参りしなくては!末社もあるかもしれません。
奥に向かおうとすると壁に沿ってずっと、大きさもさまざま、種類もさまざまな像が置かれています。大黒さまだったり、ひょっとこだったり、ずらーっと並んで置かれていました。その先に三社が一体化した社殿があり、そのみぎて、拝殿の奥に(当然でありますが)本殿が。┉茅葺きの大きな本殿です。茅葺きの屋根によく合う、色彩のない白木が時代を経た落ちついた、立派な彫刻の施された社殿であります。
私はその本殿裏でも神さまに参拝いたします。

そしてその本殿のちょうど左右にあたる、先ほどの社殿と同様に三社が一体化している社殿がありました。
そのみぎてにあります社殿に参拝していると、拝殿の方から太鼓の音が聴こえてきます。まだ、十時には早い時間かとはおもうのですが┉。

No.469 20/02/19 07:42
旅人 

急いで拝殿のほうへ戻ります。

十人ほどの参拝の方々が、神妙な面持ちで拝殿に向かって立っています。その中の一人は息子。一瞬目が合いましたが、すぐに拝殿に目を戻しました。なんだろう。
皆さんの後ろを通って、拝殿に向かうと┉。

ほおぉ┉。(・о・)

烏帽子を着けた神官さんと巫女さんが拝殿内に座っておられます。
神さまに捧げるいくつかの所作をされ、一人の方が祓詞(はらえことば)を唱えたのち、皆さんで二礼二拍手一礼をされておられました。その後、楕円形に向かい合った形で座を組み直し、ミーティングとでもいうのか、朝の挨拶と申し送りをされ、退出して社務所に向かって行かれました。
なるほど、朝の神社さんではこのようなことをされておられるのかぁ。
先ほどまで参拝させていただいていた末社の神さまの御前には、すでに白い陶磁器や、新鮮な野菜などのお供えがされており、紙垂のつけられた榊も置かれておりました。
神さまに仕える方の朝も早いです。朝日の昇るまえから、毎日毎日途絶えることなく執り行われる神事は大小多岐にわたるものなのでありましょう。

爽やかな気持ちであります。

いよいよ鳥居の間にみえた海をめざして、石段をくだります。
大きな鳥居がもうひとつ。
道路を渡って、お店のわきの細い道を通って行くと、水面のきらめく海と、明るい青空がひろがっています。そして┉。
ひだりてにあの、本やネットで何度となく見、いつか必ず!と願った海の岩場に立つ鳥居がみえます。

落ちつけ!落ちつけ、私。
海は静かに静かにきらめいている。
┉すべてが神域だ!
 
┉鳥居は足場の悪い岩場に立ち、岩場自体に注連縄が巡らせてあります。一目で立ち入れるところではないと思われます。
ここは神さまが降り立った場所である。
そう一目でそう理解できるところでありました。



『文徳天皇の斉衡3年(856)12月29日に常陸国鹿島郡大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨になりました。里人の一人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」と託宣され、ここに当社が創建されました。』

とあります。
ああ、あの国造りをしてくださった、神話では一度お別れになられたお二方が、こちらに再び私たちをお救いくださるために降り立ってくださったのか。


No.470 20/02/19 15:18
旅人 

一波、一波、変化する海。寄せる勢い、寄せる向き。
夏の海とちがって、むせるような磯のにおいはしません。海辺はごみひとつなくて、美しい海であります。


あの日、あの東日本大震災の際、この大洗にも津波は押し寄せたと聞きます。五メートル近い高さの津波は多くのものを飲み込み、流し、連れ去っています。
今、その爪痕を見ることはありませんでしたが、この高台にある磯前神社にも多くの人が逃げたことかと思うと、胸がしめつけられる思いがいたします。
【神磯の鳥居】と呼ばれる海の中の鳥居は、当然のことながら、あの時、津波に飲まれ津波に翻弄されたものであります。昭和34年(1959年)にご鎮座1100年の記念事業として建立されたという、この鳥居にも、あの日の爪痕は残ってはいないようにみえました。


この日の海はあくまでも静か、穏やかな、ものでありました。

No.471 20/02/19 20:30
旅人 

どれだけ海で過ごしたのか┉。

私たちは神社仏閣では、基本時計を見ないで、時間を気にせず、過ごします。ゆっくり参拝し、心ゆくまで、咲いている花を愛で、大きな木を見上げ、風を感じ、水音を聞き、石仏に語りかけ過ごします。

今回は月次祭といった時間で始まる神事がありますが、おそらくはゆっくり境内に戻ってもまだまだ時間には余裕があるかと。
「車にに戻って温かいコーヒーでも飲んできますか?」
┉息子はそのまま車で休んでいるとのこと。仕事を終えて長い道のりを寝ないで私に付き合ってくれていたので、ほんの少しでも眠れるといいなぁ。

境内にもどり、社務所にうかがって手続きをすると、待合室に案内されました。そこでは大洗磯前神社の歴史などのビデオが流れていました。観ようとすると、巫女さんが「それではご案内しますので、こちらにお越しください」とのこと。
結婚式場の廊下を思わせるような通路を通って行くと、拝殿に続く扉があり、数段の階段をのぼるとそこは拝殿への通路。
┉ここまで珍道中をお読みくださったかたならご存じのことかと思いますが、私、生まれてこのかた、神社の拝殿にはいったことがありません。
「どうぞお入りください」と言われて、右足と右手を揃えて歩きそうなほど緊張しておりました。居並ぶ神官さま方。そして御神前。
┉ところがそのまさに御神前に目を向けたとたん、安心感に包まれ、緊張していた気持ちなど嘘のように消え失せてしまいました。

やがて拝殿正面から、白い神官の装束の方々が四人列をなして入ってこられ静かにお座りになりました。そしてその中のお一人が、
「どうぞそちらにおかけください」と。
結婚式場でつかうような和風の椅子が並べられています。
私たち、先頭でご案内いただいたものですから、そのまま上座に座ることに!夫を立てるつもりも確かにあるにはあるのですが、おそれ多くて上座につけないので押しつけた感もあります。神さまの御前であるというのに( ;-`д´-)

太鼓をたたくのは若い女性の神官さま。三人女性のかたがおられますが、お一人だけが桜色の巫女の装束で、あとのお二人は男のかたと同じ白い神官の装束で黒い烏帽子をつけています。

何から何まで初めてのことなので記憶していることも飛び飛びで、ここから先は、たぶんこうだった、ということが書かれているとお思いください。

No.472 20/02/20 07:43
旅人 

女性の神官さんが太鼓をたたいては何人かの神官の方が祝詞をあげて、たった一人で参列していた巫女さんが舞を奉納されました。その後、巫女さんが紙垂のくくられた榊の束を移動してきました。
ん?( ;-`艸´-) 榊の┉束?

宮司さまが祝詞をあげ、榊を奉納なさいました。進行役をされておられる神官の方が
「皆さん、続けて榊を奉納なさってください」

┉や、やっぱり?((((;゜Д゜)))
よりにもよって神社さんの拝殿に上がることさえ初めてだというのに、所作をカンニングする存在が夫だけなんて!

それでも夫はためらう様子すらなく、スッと立ち上がり巫女さんが差し出す榊を受け取っています。へぇー、結構すごい人だったんだぁ。
と、夫を見直しつつ、その所作をカンニングして少しでも真似できるように凝視している私に、
「ご夫婦でどうぞ」と進行役の方が。
へ?どうして私たちが夫婦だってわかったの?
┉というか、夫婦だって個々に神さまに御挨拶を申しあげたいし、お願い事も違うかも知れないでしょ? と、突然の展開に内心千々に乱れながら立ち上がり、夫の隣に立ちました。
┉それでもやはり神さまの御前に立つと、その瞬間にスッと気持ちが落ち着き、私の中のすべてが神さまに向かって立っている感じになるのです。神さまのお力にございます。ほんの一瞬で、ありました。

榊を御前に奉納する所作なんて夫はわかるのだろうか。またまた神さまに一番近い神聖な場所に座しながら、無心でなくなる私。夫婦になって三十五年の時が過ぎている私たちであります。その間、神事に関わらなかっただろうことを、誰より私が知っているはず。
((((;゜Д゜)))
┉大丈夫だぁ、すごいんだなぁ、夫って。

そんな超初心者の私のあとに続かれた方々は、落ちついたご様子で、慣れたご様子で、榊を奉納されていました。

そのあと、宮司さまが神前に奉納されていた御神酒の入った瓶子をお下げになり、巫女さんに渡すと、急須のような銚子のような容器に移し、巫女さんが几を運び、陶磁器の杯を置きました。
おお、三三九度以来であります。

御神酒をいただき、神官の方々が拝殿正面から下がられて、
「これにて月次祭は終了です」と、進行役の神官の方がおっしゃって私たちも元来た通路から社務所に戻っていきました。



No.473 20/02/21 06:08
旅人 

その通路からちょうど、本殿の左右に鎮座しておられる、向かって右の末社がみえ、先に退座された神官さんたちがそこを参拝されておられました。夫を呼び止め二人で一緒に拝見させていただいていたら、あとから拝殿から下がられた方も一緒にご覧になっておられました。

このあと、左の末社の参拝にまわられる?

右の神さまの儀式で窓越しとはいえ、手を合わせ二礼したならば、左の神さまの儀式にも同じように手を合わせ二礼しなければ!
神事の知識がほぼない私の、とりあえずの自分なりの考えで、急いで靴を履き、拝殿前で短く手を合わせ通らせていただいて、左の末社に駆けつけました。┉本当に落ちつきのない、いつまでたっても子供染みた行動ばかりの困ったおばさんです。
神官の方々が左の末社にちょうど到着されました。
そこに神官の方が来られることをご存じの方なのでしょう、私がそこに着く前から、末社を参拝するでなく、末社の方を向いて神妙な面持ちでたたずんでいる女性がおられました。
神官の方々が末社の境内でもすでに準備されておられました瓶子や、榊をあらためて奉納されて、二礼二拍手なさり、神事を終えられるとスッと、まるで絹が風になびくように、そう思えるほどさらさらと歩かれて、拝殿の前を通って、随神門から出て行かれたのでありました。
┉実は随神門前で、小さな二~三歳ほどの子供が道をふさいでいたのですが、その親は「だめだよ~、通り道をふさいじゃ」と軽くいなす程度で、子供はなかなかそこをどきませんでした。
その歳も、一切困ったそぶりなく、かといって子供の方をみることもなく、まっすぐ随神門のそとを見ておられました。子供の親は相変わらず声をかけるだけで、そのうち、声すらかけなくなるのですが┉(怒)、子供が自分で納得してそこを退くまで、ずっとまっすぐ前を見て、静かに時が流れるままに立っておられたのが、とても心に残りました。
神に仕える方々は、この世に起こりうることを静かに受けとめ、静かに待つといったことが、日常のなかで身に付いておられるのでしょうね。

いずれにしても、相変わらず、未熟で気持ちの起伏の激しい私でありました。ひとつひとつ反省させていただく機会を、境内で神さまがお与えくださいました。

No.474 20/02/21 16:51
旅人 

帰宅して、榊を正しく奉納する方法を調べて、未熟な私の心はまたまた、さざ波が┉(T.T)


【玉串奉奠】

正式参拝やご祈祷など昇殿のお参りの際は、玉串を捧げて拝礼します。これを玉串奉奠(たまぐしほうてん)といいます。
玉串とは、榊などの常緑の小枝に白い紙を切った紙垂(しで)を付けたものです。
作法は、次の通りです。
①神職から手渡された玉串を、右手で根元を上から持ち、左手で榊の中程を下から支え、胸の高さに持ちます。

②神前に置かれた案(机)の前に進み、一礼をして玉串を立て、左手を下げて右手にそろえ、玉串に祈りをこめます。

③右手で玉串の中央を下から支え根元を時計回りに神前に向けお供えします。この後、二礼二拍手一礼の作法でお参りします。



た、玉串に祈りを込めて~?
私、榊、いやいや玉串に触りもしなかったし、夫と一緒にだったから、祈りを込めることもなく、ただ神前で御挨拶を述べて終わってしまった┉(´;ω;`)
ど、どうして、夫婦ご一緒にって言われたんだろう?
というか、どうして一言も口も聞かなかった私たちを、どうして夫婦だと見破ったので?

お願い、私にも祈らせてほしい、┉欲しかった。
リベンジ月次祭!


ですが┉ 拝殿の御神前で私は、「いつもお護りいただき、ありがとうございます。感謝しております」と、二礼の際に心のなかで申しあげておりました。だから、とりあえずの御挨拶を申し上げることはできたし、今回はこれでよかったのかもしれない。
そう、リベンジ月次祭♥
┉そのときまでに少しでも成長した私で。


      令和二年二月十五日


No.475 20/02/22 07:32
旅人 

私の手もとに今、【良寛さんの戒語】という一冊の本があります。

【良寛さん】というと、『子どもたちとよく遊んでくださる優しいお坊さん』、『(私の好きな)すばらしい歌や俳句を詠まれた方』といったイメージがあり、誰もが知っているお坊さんなのかと思います。そしてそんな良寛さんに好感を持っております私でありましたが、┉良寛さんって、何宗のお坊さん?という大変に失礼な疑問につきあたりました。
同様にして、やはり誰もが知っているお坊さん【一休さん】もまた、何宗の僧であるのか、記憶していないことに気づきます。
あれ?(苦笑)。

私の世代は、児童書が大変多く出回っていた時代で、今のような創作童話、創作小説もたくさんありましたが、伝記(いまのような漫画ではありません)や、世界の名作、日本の名作、歴史など、本のジャンルが多岐にわたっておりました。本さえあずけておけば静かにご機嫌にすごしている子どもだった私は、本をたくさん読んだほうだとは思います。そして、そのなかで伝記も何冊も読みました。良寛さんも一休さんもそのなかに含まれているのですが、子ども向けの本だったためか、子どもの頃から記憶力に欠けた者だったせいか、まったく記憶にありません。
困ったとき、今、現代は、Google先生が、まさに数秒で教えてくれるありがたい時代であります。
さらに哀しいことに、昔と違って、あとで○○について調べよう!と、思っても、そう思ったことすら、かなり短時間で記憶していられない、┉脳のなかで沈澱して、まるで無きもののようになってしまい、あるとき不意に、その澱からそのキーワードが突然浮上してくるような、完全に老い衰えたおばさんと化しておりますので、Google先生は先生であり、神のような存在であります。


閑話休題。

一休さんは室町時代の、【臨済宗】の僧。
良寛さんは江戸時代の、【曹洞宗】の僧、でありました。

良寛さんのうた、俳句はたくさん素晴らしいものが遺されていますが、
【この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし】
この歌は、良寛さんらしさにあふれた、私の好きなものの一つであります。

No.476 20/02/23 01:17
旅人 

良寛さんは1758年に越後国(新潟県)名主橘屋、山本家の長男として生まれました。幼少期は手習いをすることも書物を読むことも拒み、人の注意も気にすることなく、朝寝坊して、気ままに過ごす子供だったようです。
ところがある日、父親のところにやってきて読書がしたいと言い出してきかないため、しぶしぶ『論語』や『孟子』が入った十三経の巻を与えたところ、淀みなく早口に読み出したのでした。父親が理由を尋ねると「昨夜自分の枕元に白髪白髭の老翁がやってきて、心を込めて諭された」と答えたそうです。

良寛さんは橘屋の長男として生まれた宿命に従って、いったんは家督を継いで、18歳で名主見習いの職につきます。が、学問で人間の理想を学んだ良寛さんにとって、現実は厳しいもので、代官と漁師の間に争いごとが起きたときに調停する立場でしたが、噓や二枚舌を使って争いごとをまとめるやり方はできず、双方の悪口をそのまま伝え、町は一層混乱に陥ったといいます。結局、名主見習いはわずか1か月でおしまい、家督を継がず親の反対を押しきって18歳で出家し、隣町の禅寺「光照寺」に入ったのでした。

良寛さんが20歳のとき、越後を訪れた国仙和尚に自ら弟子入りを志願し、備中(岡山県)玉島にあった曹洞宗の禅寺「円通寺」に入ります。そこで10年余り修行をしたのちに、34歳で吉野・高野山・伊勢など諸国行脚の旅へ。
39歳で越後に帰郷。国上山の中腹にある五合庵や乙子神社の草庵に住みました。74歳で逝去するまで、生涯寺をもたず、粗末な草庵に住み、名利にとらわれない生活を送ります。清貧の中で生けるものへの愛を失わず、子供と戯れ、友と語り、和歌や漢詩を詠み、書に優れた托鉢僧でありました。


と、Google先生に教えていただいたものを、簡単ですが記してみました。やっぱり、読んだはずの良寛さんの伝記もほとんど覚えておりませんでした。




曹洞宗といえば、あの永平寺。私がテレビで観たのは永平寺の修行でありました。
テレビで観ただけでもその厳しさが伝わるくらい厳しいもので耐えきれず脱落する者もあるとテレビでも淡々とナレーターが語っておりました。袈裟と食器とともに涅槃金(修行中に万一死んでしまったときの弔い金千円)を荷物に、厳しく冷え込む二月後半から三月頭、ちょうどいまごろの早朝に雪道を歩き上山するといいます。

No.477 20/02/23 02:20
旅人 

その修行の厳しさはいまなお続くものではあり、良寛さんも、寺に入って何年か後、母の死を知らされても帰ることなく、その後の父の死にも帰らずに修行したと書かれておりました。
それでもその後の生き方をみるに、生来の良寛さんらしい生き方をなさって生涯を終えられておられたようで、寺の跡取りではなかった良寛さんではありますが、当時のお寺は世襲性ではなかったので、希望すれば住職の道もあったかと思われるのに、生涯を托鉢僧で終えられています。

そんな良寛さんが、戒めの言葉を遺された?説法じみたことをされた方のようには思えませんでしたので、なんだか不思議な思いがして、【良寛さんの戒語】という本を手にいたしました。

この良寛さんの戒語、やはり良寛本人が残した箴言集があって、それを良寛さんの死後弟子が歌集とともに取りまとめ本にするのにあたって【戒語】という言葉を使ったようです。

一、ことばのおほき
二、物いひのきはどき
三、くちのはやき
四、はなしのながき
五、とはずがたり
六、かうしゃくのながき
七、さしでぐち
┉┉┉
四十、おのが氏すじゃうのたかきを 人にかたる
四十三、あしきとしりながら いひとをす 
四十四、ことばとがめ
四十五、ものしりがほにいふ
┉┉┉
と、九十までの戒語が連ねてあるものであります。
現代にも通ずる、未熟者の私などは思わずハッとすることしばしばの箴言の数々でありました。
中でも、一際私の心に深く刻まれたのが、

補遺一、
すべてのことばは をしみをしみいふべし
いひたらぬことは又つぎてもいふべし
いふたことはふたたびかへらず

すべて言葉は惜しみ惜しみ言ふべし
言ひ足らぬことは又継ぎても言ふべし
言ふたことは再び返らず

という言葉でありました。うーん、確かに┉。


そんな良寛さんの生前の姿を記したものに、「師常ニ黙々トシテ動作閑雅ニシテ 余有ルガ如シ」とあるようで、口数は少ないもののたちいふるまいはゆったりとして雅に見えたようです。さらに、良寛さんが泊まると、家の者がみな仲むつまじくなり、家中に和やかな空気が満ちたといいます。良寛さんと一晩語り合うと、心の中が清らかになるような気がしたとも書かれておりました。
この本のおかげて、良寛さんがますます好きになりました。

No.478 20/02/23 09:48
旅人 

良寛さんというと村の子供たちとかくれんぼをしたり手鞠をついて遊ぶ、素朴で優しい姿を連想します。
ですが実際は、曹洞宗の托鉢僧で、師である大忍国仙や、高祖道元の教えを守り、生涯寺を構えず、妻子をもたず、物質的にも無一物に徹して、清貧の思想を貫いた人でした。

それでも、やはり良寛さんは、愛すべきエピソードがたくさんあり
、幼少期朝寝坊して父親に叱られ、上目づかいで父親を睨んだとき、
「父母を上目で睨むような者は鰈(かれい)になってしまうぞ!」と父親が叱り上げるとそのまま行方不明になります。夕方の海礁にたたずむ少年を家人が見つけると、「まだ自分は鰈になっていないか?」と尋ね、いつ鰈になってもすぐに海に飛び込めるようにしていたといいます。

寛政2(1790)年に、国仙和尚から修行の修了証明書ともいうべき「印可の偈」と共に杖をいただいた良寛さん。ところが、なんとその大切な杖を出先に忘れたことがあったそうです。
また、托鉢には人々から喜捨(きしゃ)される米や銭を入れる鉢を必ず手に携えていましたが、野の花摘みに夢中になって、鉢を忘れてしまうこともあったようです。「道のべの菫(すみれ)摘みつつ鉢の子を 忘れてぞ来しその鉢の子」と、和歌にも詠んで悔やんでいます。
良寛さんは、あまりに忘れ物が多いので、自身で「携帯品リスト」をつくり、出立のときには持ち物チェックをしていたようです。

かくれんぼをしていて、いつまでも見つからない良寛さんを置いて子供たちが帰ってしまったその次の日、畑仕事に訪れたお百姓さんに発見されたり、なんとも良寛さんらしい愛すべきエピソードであります。

そんな良寛さんの書もまた、後世において大変高い評価を得ておるようであります。

夏目漱石は「心の純なところ、気の精なるあたり、そこに摺れ枯らしにならない素人の尊さが潜んでいる」と、良寛さんの書を高く評価し、北大路魯山人は「良寛様の書は質からいっても、実に稀にみるすばらしい良質の美書であって、珍しくも、正しい噓のない姿である」。そして「書には必ず人格が反映しているもの」と。
その書は、微笑みを湛えて人々と接し、清貧の生活でも強い精神をもって民衆とともに歩んでいた良寛さん自身の生き方を反映しているようです。


そんな良寛さんの書を展示した施設が、群馬県みどり市にあります。
【陶器と良寛書の館】┉行ったことはないけど

No.479 20/02/23 17:15
旅人 

茨城県笠間市にあります【笠間稲荷神社】さんに参拝させていただきました。ひとめで懐かしいという感情のわく、心弾む、心和む門前通りであります。門前通りにも心うばわれながら、まずはお参り、お参り。
鳥居をくぐりますと、今度は参道の両脇に仲見世。うーん。
見ないように見ないように進むと、可愛らしいお狐さまたちが参道をお護りになっています。可愛らしいお狐さまにいつまでも語りかけそうな自分をさらに律して、進むと大きな門が見えてきます。┉いかによそ見ばかりしながら歩いているかがわかりますよね。(^-^;
楼門、随神門であります。立派なものであります。 


こちらの主祭神さまは【宇迦之御魂神】さまであります。
『古事記』によると、宇迦之御魂神は須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)の間の御子とされています。
生命の根源を司る「いのち」の根の神で、農牧、水産、養蚕を始めあらゆる殖産興業の神、蘇生(よみがえり)の神、生成発展の神、産霊(むすび)の神、火防の神として霊験あらたかな御神徳が普く全国の人々より崇敬されています。

かつてこの地には胡桃の密林があり、そこに稲荷大神さまがお祀りされていたことから、「胡桃下稲荷」(くるみがしたいなり)とも呼ばれ、御神木は胡桃の樹。
境内には大きく立派な藤棚がありますが、胡桃の樹は大きさはさほどではないものの、その扱いは別格でありました。

創建は、第36代孝徳天皇の御代、651年と伝えられています。

その後幾星霜を経て、時の笠間城主、井上正賢により社地社殿が拡張され、さらにまた牧野貞通が城主となるや祈願所と定められます。境内地・祭器具等が寄進され、以来歴代藩主の篤い尊崇を受けました。
日本三大稲荷のひとつとして広く人々に親しまれ、霊験あらたかな御神徳を慕って多くの参拝者が全国より訪れています。 

拝殿は色鮮やかな朱塗りの比較的新しい社殿であります。大きな絵馬がそこここに掲げられ、拝殿両サイドにそれぞれ小さな木彫りの白虎、玄武。朱雀、青龍が高い台の上で楼門方向の空をみつめています。

拝殿のみぎてを歩いていきますと、様相のガラッと異なった重厚して色調は木そのものの本殿が見えてまいります。空気すらが変わる空間です。とはいえ、あたたかな穏やかところは同じなのですが┉。

No.480 20/02/23 22:44
旅人 

こちらの御本殿は江戸時代末期安政・万延年間(1854~1860)に再建されたもののようです。昭和63年に国の重要文化財に指定されています。
御本殿周囲の彫刻は、「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」、「蘭亭曲水の図」と呼ばれる当時の名匠によるものということで、実に精巧を極めています。
┉が、こちらの御本殿、彫刻の施された位置が結構高いところであり、さらには鳥の糞害除けなのでしょうか、金属製の目の細かい網が取りつけられていて、よく見えないというのが正直なところでありました。車に戻れば簡易双眼鏡があるというところがまた、私のうかつなところで┉以前、あるお寺さんの仏像見学会に参加した折に、こういったところを訪ねる際は双眼鏡があるとよいと学習し用意したものが、車までどまりという、なんとも情けなくも悲しいことであります。
とはいえ、神さまや仏さまのおられる神聖な場所、仏像見学会でお寺を訪ねた時とは状況が異なります。
お参りに双眼鏡は失礼、な気がいたします。

そしていつものように本殿のちょうど中央辺りで、今一度神さまに手を合わせようとすると┉ちょうどそのあたりに大きな岩がお祀りされていて、その周りにたくさんのお狐さまがおられます。
どういった経緯からそのようになったのかは、わからないまま、なのでありますが。      

ともあれ、本殿のお参りをおえ、もと来た道にもどります。
こちらの境内も穏やかなやわらかい気が流れています。

藤棚のわきを抜けていくと、大黒天さまがお祀りされているようです。大黒天さまにお参りをさせていただきます。
それにしても大きな藤棚であります。というか大きな藤、なのであります。これが咲いたらそれはそれは見事なことでありましょう。


仲見世には、さすが日本三大稲荷と呼ばれる稲荷神社であります。狐さまのお店がありました。そう、あの陶でできたお狐さまであります。ところが、次々とシャッターを閉める音が隣近所のお店から聞こえてまいります。あ、四時?
悲しい音がひびきわたります。


     令和二年二月十五日

No.482 20/02/25 18:58
旅人 

比叡山には死をかけた修行が今なおあるということを知り、衝撃を受けました。えっ?今も?

回峰行と呼ばれるもののようです。
『行不退』。一度始めたならば、いかなる理由かあろうと行を中断してはならない。行に挫折したならば、死出紐で首をくくり、自ら命を絶たねばならないのだと。え、ええっ?今も?

今も?┉と問うことが、僧侶のに対してこの上なく失礼なことなのかもしれませんが、私は人生の半分以上を神仏と繋がりを持つことなく生きてきてしまった愚者であります。
今の世の中で、挫折したら自死しなければならないといったことが決められているということにショックを受け、かつ今なおその決まりは絶対のものなのか、とにわかには信じられないでおります。

ブッタ=ゴータマ シッダルータが、歩んだ道もまた命がけの行でありました。その上で悟りをひらかれ、釈迦如来となり、いまこんにちの仏教があるのは存じあげております。
そんな仏教の成り立ちからして、厳しい行があって然るべき、なのでしょうか┉。
命がけで唐に渡り、インドに渡り、その地で修行をし、教えを学び、認められてお経を授かり、そしてまた命がけで日本に戻り、更なる修行をし、諸国を行脚してその教えを説いて歩いた先人が、開基となり、現在に至る教えとなっている仏教。

その教えを、真に知ろう、極めようとした者が、その死をかけた行を行うのは、自然の流れなのでしょうか。
┉私のような愚かな凡人にはわかろうとしても芯のところで理解できないことなのだと思います。
ビデオで観ただけのごくごく一部の修行の様子とて、充分に厳しいものでありましたというのに。それが┉命がけの修行に挑み、行に挫折したならば自らの命を絶たねばならない?まあ、それは究極の修行なのではありましょうが。



ただ、仏教が時代と共に変遷してきたことも学校の授業で学んでいます。
さらには今、思うところあって神社仏閣の珍道中を始め、ごく一部に過ぎないお寺ですが、御本堂でモデルの撮影会を行い。また御本堂のなか、よりにもよって御本尊さまにお尻を向けて寝そべり、御本堂で写真を写すようなお寺があることを実際この眼で見てきてもいます。


仏教とは。
まあ、それは、そんな簡単に答えの出せるものではない┅、ということがわかれば、私のような愚かな者にはちょうどよいのでありましょう。

No.483 20/02/26 06:04
旅人 

仏教における究極の、決死の行は私のような者には縁なきことでありますが、現在、グローバル化した世の中で、まさに全世界が、全世界の人類が、命のかかった行を望まずして強いられております。

人々はいま、未知のウイルスに侵食されつつあり、いにしえの人々が苦しんだのと同じように、防ぐ術も持たず、翻弄され、その命さえ危機的状況におかれております。
それでも、かつて、いにしえの人々が何度も乗り越えたその苦しみよりは、栄養状態も、衛生面もよく、何よりも発達した科学の力はその頃とは格段に異なるスピードで収束し、終息することであると信じております。


それにしても┉この春の┉うららかな陽の頃に。
白や桃、紅の梅が満開をむかえようとし、桜の花も咲こうかという、私の一番好きなこの時季に。やわらかな黄色の菜の花。
その葉の形が仏様の台座(蓮座)のように見えるというのが名前の由来のホトケノザ。近年流行(?)しているネモフィラに似たオオイヌノフグリ。
花々が春がきたと告げているこの時季に┉(;ω;`*)


子年、だからというわけではありませんが、ねこの額(ひたい)よりも狭いという意味で、ねずみの額(ひたい)と呼んでいるわが家の庭にも春が訪れております。
春を愛でる思いは、コロナウイルスになどに負けません。
花粉症に苦しみながら毎日庭に立ち、花と語らう私であります。

No.484 20/02/27 05:54
旅人 

いま、コロナウイルス感染症で、人々すべてが不安で、疑心暗鬼で、
心に余裕をなくしているかもしれません。
それでも、それもやはり生きている環境、おかれている状況、その人の性格によって、そのとらえかた、感じ方は大きく異なるでしょうが。


すべての方々がそれぞれの置かれたところで、今日の一日を、毎日の日々を、少しでも穏やかな気持ちで過ごせますように祈ります。
すでに闘病中の方の一日も早い回復を祈ります。



No.485 20/02/28 05:38
旅人 

きのうの朝、仕事に向かう車の窓に、家並みや山並みに添うように、大きな大きな雲が横たわっておりました。まるで優しく包み込むように、寄り添うように。それがあまりに大きいために、見ようとしなくても目に入ってくるので、見ていると┉ おお!こ、これは龍みたいだ!
大きな龍が地球に┉まあそれはおおげさでしょうが、遠くの家並みや山並みにふんわりと優しく、安心して身をやすめているようにうつ伏せで寝ているように見えます。

あ、神さまや仏さまが、見守ってくださっている。この地球で起きているコロナウイルス感染症のパンデミック状態を憂いて、なんとかしてくださろうとしてくださっておられる。┉単純な私はその雲をみて、安心してしまったくらいでした。
雲ひとつ見て、なんとも単細胞な、楽天的な考えだなぁと、自分自身ですらそう思います。

楽観視できない現実は私のような者の耳にも入っております。地元でも地元の病院で、コロナウイルス感染症に罹患された方が陰性化したとのことで一般病棟に移ったという話が伝わっております。そして、時をおなじくして、一度陰性化された方が再び陽性となったと報じられていました。


┉でも、世界中の医師にも、その道の研究をされている方にも、未知のウイルス、未知の病であります。騒いでも心配しても、私のような者にはわかることはなに一つなく、気をつけることも限られていることが現実です。ありがたいことに食べるものはなに一つ不自由なく入手できております。よく食べ、よく寝る。┉そして祈る。
私に今できることはそんなこと。
もちろん家族がおりますから、心配は尽きません。

ニュースを観ても、毎日、感染者の拡大を報じることと、それに付随して国やWHOがどう発表したかを報じ、さらにはあれが効くかも、これを買っておくとよいといった怪情報も合わさって、不安が高まるばかりです。ついにはマスクの取り合いをしている画像も撮されていました。

そんなニュースは嫌でも入ってくるのだから、自らテレビのニュースを観なくてもいいかもしれない。夫が朝、仕事に行く前にネットのニュースを伝えてくれますし。
私のような愚者は愚者のままでいよう!雲ひとつ見て、笑顔になる、それでいいんだ。
罹りたくて罹った方など一人としていないのです。

No.486 20/02/29 14:02
旅人 

【堅香子(かたなご)】

あと少しすると、堅香子の季節がやってきます。堅香子とは、【カタクリ】の古語で、私はカタクリの少し群生しているところを毎日歩くことができるところに住んでいます。カタクリの花をご存じでしょうか。座りこんで花と語らって、はじめて良さが伝わるような、正直、少し地味な花とおもわれます。

カタクリは、「春の妖精」(スプリング・エフェメラル)と呼ばれる植物の一つで、エフェメラルとは、「はかない命」という意味だそうです。
カタクリが1年のうちで地上に出ている期間は、春先の2か月ほど。葉で光合成をして栄養分を鱗茎に蓄えて、夏には葉を枯らし、翌年の春まで土中の鱗茎のまま休眠状態で大半を過ごしているといった花のようです。光合成ができる期間が、1年のうちでわずか2か月ほどしかないため、種子から発芽して花を咲かせるまでに8、9年ほどの歳月を必要とするのだといいます。
個体が大きく成長した後は複数年に渡り開花が継続し、カタクリの平均寿命は40から50年ほどと推定されているのだといいます。



そのカタクリの群生する土地をお守りくださるように、稲荷神社があります。カタクリの群生するのは、稲荷神社のある小高い山の、神社とは反対側にあたるふもとになります。神社はそのほぼ頂きにありますが、不思議なくらい神社の境内には、カタクリは一輪も咲いていないのです。まるで、カタクリが自分の咲く場所をわきまえているかのようにさえ思えるくらいです。
稲荷神社さんは、一の鳥居からはそのお社が見えないくらいのところにあり、急な石段をそれなりに昇っていきます。私などは息がかなりあがるくらいです。お参りを済ませ昇ってきた方角をかえりみると、集落が一望でき、「ああ、お守りいただいている」と心からありがたいなぁと思える┉風景がひろがっています。

今、一の鳥居の前を毎日二往復している私でありますのに、なかなか鳥居をくぐって石段を昇ることをついつい躊躇し、鳥居の外からお参りしているくらいであります。
カタクリが咲く前に、是非必ずお詣りを済ませおかなくてはなりません。がんばる!(^-^;





No.487 20/02/29 14:56
旅人 

今日は、四年に一度の二月二十九日。

群馬県太田市で、本日までの期間限定で、コラボ御朱印をお書きくださるお寺さんがあるという情報を得ることができました。
【曹源寺】さんと【玉巌寺】さんであります。二つのお寺さんは車での移動であれば十分かかるかどうかという距離です。私でもナビなしで行けるという好条件、┉行くしかないな♪
朝からワクワクして、朝食を用意し、二回の洗濯もしっかり済ませ、なぜかやはり一緒に行くことになっている夫が、今回も運転手を勤めます。

風一つないおだやかな春の日。道すがら咲いている梅の花が香ってくるような気がするくらいに心が浮き立っています。
相変わらずの珍道中、慣れたはずの道を間違い、狭い、八人乗りの車がやっと通れるくらいの道から入ってしまったアクシデントはありましたが、十時ちょうどに曹源寺さんに到着いたしました。
駐車場には車が一台。?
あ、そうだ、どちらかというとこちらはサブ的な駐車場、もう一つ駐車場があるんだった。┉境内に女のかたがお参りをされています。
スキップでもしそうな気分で、仁王門をくぐります。夫はトイレに行ってくるとの伝言を残して、まさにその、もう一つの駐車場にあるトイレに向かいました。
うーん、青空に映える!

曹源寺さんは、さざえ堂と呼ばれることが一般的です。文字どおり、さざえ堂という造りの建物で、国の重要文化財に選ばれています。

新田氏の祖義重が京都から迎えたという養姫である祥寿姫の菩提を弔うため、1187年に開基したと伝えられています。
江戸時代に本堂が火災に遭い、その後、造られた観音堂が栄螺堂(さざえどう)と呼ばれる造りの物で、その観音堂をそのまま本堂としてたようです。江戸時代中期に普及・発展した三十三観音・百観音信仰を背景に、関東・東北地方に限って建造された三匝堂(さんそうどう)のひとつです。 
正面は東向きで、外観は重層の二階建に見えますが、内部は三層になっています。
堂内には秩父、坂東、西国の観音札所計百ヵ寺の観音像を安置し、右回りに堂内を一方通行で巡拝できることから「栄螺堂」の名があります。
現在、埼玉県本庄市の成身院、福島県会津若松市の旧正宗寺、茨城県取手市の長禅寺などがありますが、曹源寺の栄螺堂が最大だということです。
さあ、お参りを。

ん?なにやら貼り紙がされています。

No.488 20/02/29 23:56
旅人 

【新型コロナウイルス感染症の拡大のリスクを抑える為、しばらくの間、拝観・御朱印の受付けをお休み致します。期間 2月27日〜未定】
 
え? お、お寺さんが?そ、そんなぁ。衆生救済は?


┉コラボ御朱印、とかいってるくらいのところには、それだけ人が集まるか。そして、賢い御朱印巡りの方々はWebサイトで確認済み、ということなんだなぁ。
まあ、本堂に入れないお寺さんの方が断然多いくらいであります。
┉夫よ、賢くない妻でごめんなさい。

曹源寺さんは以前一度拝観させていただいております。珍道中を始めた頃にはまだちょうど修復中で、一般公開を今か今かと待っていたことを思い出します。修復を終えたばかりの栄螺堂が、あまりに古いままのもので、どこを修復したのかと不謹慎な私はそっと内心で思ったものでありました。

堂内はらせん状に三階建てとなっていて、1階正面に本尊の魚藍観世音菩薩が祀られています。御本尊さま以外は写真撮影もオッケーということで、拝観者はそれぞれのペースで中を進みます。
左側の通路より右回りに進んで2階3階と上がっていき、また回りながら同じ道を通らずに1階に戻ってくるといった造りになっています。

回廊の内壁に、1階に秩父三十四観音、2階に坂東三十三観音、3階に西国三十三観音、計百札所の観音菩薩さまを模した観音像(寄木造)が安置されています。また、それぞれの観音様の頭上にはその観音様の奉安されている各お寺の風景画・御詠歌が掲げられています。さざえ堂を一回りすれば百箇所の札所を巡った功徳を得らるといわれている大変ありがたいもので、いまのように交通の発達していない時代においては、たくさんの善良な老若男女が訪れたものと思われます。

仏さまの前を右に回って退出するという【右繞三匝(うにょうさんぞう)】という仏教儀礼を建築構造に採り入れた、大変珍しい建築様式で、これを【三匝堂】というのだそうですが、この【さざえ堂】という呼び名は、貝のサザエに似ているからとも、三匝堂の呼び名が変化したものとも言われています。
江戸時代後期に盛んに建築されましたが、現存しているの中ではここ曹源寺が最大の規模だということです。




No.489 20/03/01 00:50
旅人 

┉コラボ御朱印をお書きくださるというもう一つのお寺さん、【玉厳寺】さんもきっと御朱印はお休みされてはいるのでしょう。それでも玉厳寺さんのホームページは今朝確認しているのだけれど、なぁ。

まあ、いずれにせよ、参拝が目的で、御朱印集めではないのが信条である珍道中。┉今日は四年に一度の日付の入った限定御朱印という魅力に惑わされてのものでありましたのが本当のところでありましたが(^-^; そんな私への戒めであったのでしょう。


玉厳寺さんは、車で五分するかしないかで到着するところにあります。┉が、道が狭い。対向車が来たらどうしよう、と思う道幅です。はじめて玉厳寺さんを参拝したときは、私一人で八人乗りのワンボックスで、ひーこら言いながら行ったものであります。本日三回目の参拝は、やはり八人乗りのワンボックスですが、今回は夫の運転なので安心です。┉やっぱり狭い。

こちらは古い石段をほんの少し、昇ったところにあるお寺さんです。秋にはフジバカマという花が咲くお寺さんで、七福神巡りの一つとしても知られているお寺さんです。
境内には今、何本もの沈丁花がちょうど盛りをむかえていました。
案の定御朱印はお休みと書かれた紙が御本堂の扉に貼られています。

その時、庫裏の方から声がかけられました。「扉開いてるから御本堂入れるよ」出入りの業者さんでしょうか。ありがたい。
御本堂に入るのは今回が初めてです。ドキドキわくわくしながら御本堂にはいると、! 御本尊さまや脇侍の御仏像、すっぽりときれがかけられております。(*T^T)

参拝をさせていただき、境内にある虚空蔵堂に向かいます。こちらも新田氏ゆかりのお寺さんですのでそこここに新田の家紋がはいっています。こちらの参拝をし、しばし境内の沈丁花の香りを楽しんでから┉ お寺をあとにしました。
やはりここから車で二、三分のところに【永福寺】さんという、七福神巡りのお寺さんがあるのでそちらへもお参りさせていただきました。

御住職はご不在でしたが、満開の河津桜や梅が私たちを出迎えてくれました。里、といった風情の景色に、感動し、しばしそこで春の陽日を楽しませていただきました。よいお寺巡りができました。


      令和二年二月二十九日

           

No.491 20/03/03 01:27
旅人 

今日は栃木県足利市の大岩山毘沙門天さまの月に一度の御開帳、そして御護摩修行の日であります。

昨日のお寺さんの拝観中止の件を考えると、ホームページのチェックは欠かせません。
おお、三月一日、開催する旨明記されております。┉いかにもこちらの御住職らしいことであります。 

こちらで御護摩修行が終わったあと、御住職に悩みをお聞きいただいたり、以前ご相談されたことのその後をご報告しようと、それぞれの思いを持って御住職のもとに人々が遠巻きに集まっては、御住職に話しかけられるタイミングを見計らっております。

こちらの御住職は本当にすばらしいカウンセラーでいらっしゃいます。
よくよく傾聴なさったうえで、きちんとその一つ一つの問題に真摯に向き合ってくださいます。
今日も御住職がお手隙になられるのを待ってお話しなさっている方がおられました。
いつもキチンと耳を傾けお話を聞いて下さっているので、時を経てその後の経過をお伝えするところからお話ししてもすぐに話がつながりますし、「心配してたから、よかった」とか「それを聞いて安心した。話してくれてこちらこそありがとう」といった、お言葉をお返しくださる、┉ありがたいことでございます。


さらに今日は御住職自らお手製の、麹からお作りになった甘酒をご用意くださっていました。┉すごいなぁ、本当にありがたい。ことことと、寒い中を参拝に訪れる人を思って、手間隙かけるお姿を想像しただけで胸温まる思いです。

No.492 20/03/03 02:13
旅人 

御護摩修行の折、最勝寺さまの毘沙門天御本堂に今回、【阿字観(あじかん)】の掛け軸が置かれておりました。初めてのことであります。
【阿字観】を単純に一言で掛軸の前に座って瞑想をする┉などというと本来の深い意味からかけ離れてしまうのかもしれません。
なにぶんにも私は【阿字観】をおこなったこともない、何より掛け軸を見たことすら初めてな者ですので、ここで知ったかぶって阿字観について語ることはできません。ただ阿字観という行を知ってから、いつかおこなってみたいと思っておりましただけの存在なだけであります。
もしかしてこちらで阿字観の行を一般向けにもおこなっておられる?もしくは始めようと考えておられる?
「こちらで阿字観をなさるのですか?」と浮き立つ気持ちを一生懸命おさえながらうかがいますと、
御住職は一瞬の間を置いて「阿字観をなさるのですか?」と私にお聞きになりました。
「いえ、阿字観というものがあることを最近知っただけの者で、したことはないです。こちらでなさっておられるなら、ぜひにと思ったものですから」とお答えいたしました。

が┉こちらでは阿字観をなさることはなく、御住職がかつて小山市の方に出向かれて御指導されていたことがあったけれど、こちらでは特には行う予定はないとのことでありました。
御住職にご指導いただけたら、最高の形で初めての阿字観の行となったでしょうに ┉ 残念。

何度かこの御護摩修行に参列させていただいて初めて目にしたこの【阿字観】の掛け軸。┉ もしかしたら御住職の毎日の御護摩修行の際に阿字観の行もなさっておられるのかもしれません。



私は寺を持たない者でありますので、このように一般にも開かれた法要に参列したり、御朱印をいただく時くらいしか、僧侶の方とお話をさせていただく機会はありません。
ですが、昨今の、いわゆる儲け主義となってしまっているお寺さんの御住職とは異なり、毎日の御護摩修行をされ、檀家であろうとなかろうと悩める者の話を聞いてくださるこちらの御住職を、私は心から尊敬しております。
毘沙門天さまのありがたいお導きでありました。


         令和二年三月一日

No.493 20/03/06 06:01
旅人 

御朱印ブームとなり、御朱印帳もまた、様々な神社仏閣でお分かちいただけるようになり、書店文具店でもたくさんの種類が並ぶようになりました。それでもまだ驚くことはあるようで、昨日購入した漫画の本、にその漫画のオリジナル御朱印帳の折り込み広告が入っておりました。

なにもわからない、知らない状態からのスタートだった私の御朱印帳デビューは、ある意味ありがちな、ある意味特殊な、ネット通販での【ピーターラビット】のものであったくらいですので、神社仏閣でお分かちいただくのが正統でほぼ主流だった当時においては、書き手の方にもびっくりされることがあったくらいでありましたが、この溢れんばかりの御朱印帳が世にはなたれ、今度は私がびっくりすることがあるのかもしれません。

ネットで検索するだけでも、すでにびっくりしておりまして、『ポケモン』『プリキュア』辺りもびっくりでありましたが、『名探偵コナン』の種類の多さや『鬼滅の刃』の御朱印帳がすでに販売されていること、『ルパン三世』『NARUTO』『魔法少女まどかマギカ』『ウルトラセブン』『竹宮恵子の地球へ┉』などなど。
『鬼灯の冷徹』『千と千尋の神隠し』『ゲゲゲの鬼太郎』などは地獄の鬼だったり妖怪が題材のもの、┅なんでもありの世界になりつつあるのかなぁ。

うかがった先の神社さんの風景写真のもの、お寺所蔵の日本画などは私の欲望という名の邪念をかなり刺激いたします

No.494 20/03/07 04:59
旅人 

カタクリの咲く山の頂にある稲荷神社さんに参拝してまいりました。

その後特に運動するでなく、いきなり思い立ってのことでありましたので、歩き始めてまもなく息が荒くなる自分を情けなく思いながら、一歩一歩登っていきました。┉息が荒いのは、マスクをしているせいだと思い込もうとしながら┉。
この参道は石段と坂の繰り返しであります。参道わきはまさに山の木々が生い茂っただけのもので、季節の花なども咲かないところであります。反対側の麓には今、何本もの白梅が咲き誇っておるというのにのに、なぜ?
神さまが質素を希望されたかのような、木々の間を縫うような参道をひたすら登って行きますと、鳥居が多いことに気づきます。そのなかの朱塗りの鳥居をくぐった辺りで山門がみえてきます。
するといきなり強めの風が。私が登って来るまで風をおさえてくださったかのようでありました。

山門をくぐるともう、すぐに拝殿が目の前であります。呼吸を整えてからでないと、神さまにごあいさつも申しあげられません。深呼吸、深呼吸。
拝殿には立派な彫りをめぐらせた立派な扁額がかかげられております。その扁額を見上げ呼吸を整え、拝殿の扉の窓に手を入れられるだけの穴を開けたところからお賽銭をお入れして、二礼二拍手。
いつもお守りいただいているお礼を申し上げ、この度の全世界を震撼させているコロナウイルス感染症の一日も早い鎮静を御祈願申し上げました。

No.495 20/03/08 06:38
旅人 

以前書いたとおり、小心者の私はある文章を読んで、神さまに御祈願させていただくのならばきちんとその神様の叶えてくださる御利益を知った上でお参りし祈願申し上げなけらばならないのだと知り、それ以降、一時期はきちんと事前にその神社さんについて調べたうえでしかお参りしないことがあったくらいでありました。
今は、ご縁あって参拝の機会を得た神社さんには、どんな神さまがお祀りされていらっしゃるかは知らないままであっても、日ごろお守りいただいている感謝の気持ちをもって感謝の言葉を述べにお参りさせていただいております。

そんな相変わらない初心者珍道中でありますが、以前ある神社さんに合祀されていたお社に畏怖の念を抱いたことがありました。

【疱瘡神社】さまであります。疱瘡という疫病を神格化し、崇めることでその怒りを鎮めようとした、疱瘡神さまが祭られているお社であります。
私のような者が御参りして大丈夫だろうか。いい歳をしていつまでも未熟で穢れた心根の私がお参りなどして、御気分を害されたらどうしよう。いにしえの人々が懸命に祈りお鎮まりいただいた神様であられます。私のような者は御前を通させていただく際に、「御前を通らせていただきます。失礼いたします」くらいがちょうどいいように思い、そうして前を通らせていただくにとどめたことがありました。

No.496 20/03/08 07:25
旅人 

【疱瘡】はいつ頃からか長いこと人類を苦しめた病でありました。
聖徳太子の頃にも『疱(もがさ)』は天皇の命を奪い、源氏物語にもその病が出てきていたように記憶しております。
天然痘であります。
ワクチンが作られ予防する方法を発見するまでは、ひとたび流行すると次々に感染し猛威を振るう、致死率20~50%ともいわれた病でありました。天然痘に感染すると高熱が出、全身に膿疱が生じ、治癒してもその膿疱のあとが瘢痕として残る、恐ろしい病です。
現在では、天然痘はWHOにより根絶宣言されて久しい病となっております。
天然痘の撲滅に貢献した人として、世界的にはジェンナーの名が知られていますが、実は日本においてはジェンナーに先駆けて1790年に、筑前秋月藩医緒方春朔が、天野甚左衛門の二児に人痘種痘実施しておりました。1793年に長崎にて五児に種痘を実施し、その効果を認められ、1795年には藩主に伴って江戸に赴き、求めに応じ多くの人に種痘法を実施し、各藩侍医に種痘法を伝授しています。
1796年イギリスの医師ジェンナーが牛痘苗による種痘実施し、それが認められて、世界中に広まり、種痘が廃止されるまでジェンナーにより開発された種痘が広く行われたことで、あまり緒方春朔の名が日本において知られていないのかもしれず、悲しく思ったことを思い出しました。
とはいえ、撲滅宣言されて久しい病となったのはありがたいことです

No.497 20/03/08 08:05
旅人 

今回の新型コロナウイルスの感染力は、まだ不明で、感染の仕組みも解明されていないものであります。このウイルスが突然変異を起こし、SARSと同様に感染力も弱まれば、自然消滅ということもあるのかもしれませんが、それはあくまで希望的なものに過ぎず、このウイルス感染症は、SARSやMERSとは発現から感染に至るまでのスピードも全く異なる速さのものであるようで、素人の私ではなく、最先端にいる研究者や医師においても分からないことが多過ぎる病気であるのが悲しい現実であります。

今回の感染拡大によって、既に観光業や貿易、経済全般が打撃を受けています。政府機関への信頼も大いに揺らいでいます。


そんな状況下、私にできることは、やはり祈ること。でありました。

家族の免疫力を高める食事を作ろうにも、独立して住んでいる子供たちの食事は各々に任せるしかなく、マスクの効果さえ疑いの声が上がるなかではありますが、その肝腎のマスクが入手すらできません。
ちなみに備蓄を嫌う夫がなにげなくマスクを買い控えよう言った直後のことでありました。花粉症から肺炎までおこす当の本人の決めたこととはいえ、あまりにも大変な事態に、夫は恐怖すらを抱いているようですが、マスク不足は解消される兆しはみられず、地元でも朝一番にマスク(トイレットペーパー?)を求めて長蛇の列ができていると聞かされました。


私はいま、毎日祈っております。

No.498 20/03/08 21:35
旅人 

今日は【石打こぶ観音さま】で有名な群馬県邑楽郡邑楽町の【明言寺】さんに参拝させていただきました。二度目の参拝となります。

こぶ観音さまは瘤願成就という特有の御祈願があります。不要なものを【瘤〔こぶ〕】として取り除くという御祈願であります。
また【子生〔こぶ〕】と読むことで、子宝、安産、子育てといったご利益があるということでもあります。

今日は小雨ちらつく日でありましたにも関わらず、ひきりなしに参拝の方々が訪れていました。その年齢層はまさにさまざまで、若い女の人がお一人であったり、ここにいつも訪れている風なお子さん連れがなん組も来ていました。年配のご夫婦や、ちょうどお孫さんを授かろうかという年頃のご夫婦などなど、参拝の方が途切れることがありませんでした。子供たちが楽しそうに、手慣れたようすで参拝しているのがひどく印象的でした。
山門をくぐると正面に大悲殿があります。こぶ観音さまのおられる建物であり、奥の院と呼ばれているようです。その隣に御本堂?佛殿があります。大悲殿の手前右手には茅吹きの手水舎。
コロナウイルスの影響はこのお寺にもありました。手水舎にはひしゃくがなくなり、大悲殿は鰐口の紐がなくなっておりました。けれど参拝の方々が訪れることに関しての規制は一切なく、御本堂は無人のままはなたれていて、お焼香をすることができるようになっています。ありがたいことです。


No.499 20/03/08 23:14
旅人 

こぶ観音さまの瘤願祈願として、コロナウイルス感染症(=瘤こぶ)の一日も早い終息をお願いいたしました。

こぶ観音さまは本当に人々に愛されて親しみをもって信仰されていらっしゃるとその境内の様子で感じます。あたたかな気に満ちた境内であります。
そして、御朱印をお書きくださったのがイケメンの和尚さまであられたことを、どうしても書きたくなってしまうあたりが、まだまだ未熟な私であります。

午年に御本尊のこぶ観音さま、千手観音さまが御開帳となるようです。うーん、まだ先だなぁ。
私どもが珍道中をはじめる少し前に御開帳になった秘仏の仏さまの多いことといったら┉そんなことを思っていたら、夫も同じことを言っておりました。再びの御開帳まで元気に珍道中を続けていたいものであります。いやいや、立派な巡礼とかになっていることを祈りましょうね。



     令和二年三月八日

No.500 20/03/09 08:54
旅人 

こぶ観音さまの大悲殿の壁面に、『谷中の観音さまもお参りしないと片参りとなると云われているような話があるようですが、全くそのようなことはありません。谷中の観音さまは歴史ある立派な観音さまですので、参拝された方のご自身の判断でお参りしてくださるといいと思います。』といったのが貼られていました。

明言寺さんは以前よりこのような貼り紙が多く、初めての参拝ではそんなところに驚いたものです。
今回も手水舎には『新型コロナウイルス対策のため、水は直接、手でお受けください。たまり水は使用しないでください』という貼り紙がありました。

よし、両参りとか関係ないにしても、これは行くしかないだろう!勇んで車に乗り込んだもののナビに出ない。仕方ないのでもう一度、明言寺さまにうかがって谷中の観音さまの場所を教えていただきました。
「門を出ると直進してくださると看板が出ていますので」イケメンでおだやかなお坊さまが、イヤな顔ひとつせず丁寧にお教えくださいました。ありがたいことであります。


【谷中の観音さま】は土地の突き当たりに、ひっそりと建つ小さなお堂でありました。お姿は厨子のなかで拝観はできません。
ん?お堂のなかからは、なにやら聞き慣れた音声が┉。テレビだ┉。お漬物とりんごの匂いが混じった匂いが、猫一匹分くらい通れそうなすき間から漏れてきています。年配のご婦人が二人、楽しそうに雑談しています




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