続・彷徨う罪
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彷徨う罪を初めて読む方は「続」ではなく「彷徨う罪」から拝読して下さい。
宜しくお願い致します。
明日、芽衣の父親の社長就任祝賀パーティが帝国ホテルで行なわれる。
「あの人…社長になるんだぁ。」
僕を研究所に幽閉して、その自由を奪った男。
僕は、その記事に載ったwork雑誌を路地裏のゴミ箱へと投げ捨てた。
「おぅ、修也。」
クラブハウスの入り口で僕を手招くのは、柳原の所で働く下っ端の男だった。
「例のブツは持って来たか?」
辺りを警戒して、僕はポケットから小さなジップに入れたクスリを彼に手渡した。
「スゲぇ〜、お前って天才だな。
ボスに手渡したら、絶対にお前を欲しがるよ。」
「いいから、早くしまって。
関口の奴らに見つかったら、僕は殺される。」
僕は、相変わらず裏の世界で小金を稼いでいた。
何故、そんなに金がいるのかって?
答えは簡単だ。
女は愛で服従させられるが、男は金で服従させられるから。
僕は、この世界で新しいドラッグを開発してはそれを売り込んでいた。
関口も、他の組もこぞってそのドラッグを欲しがった。
そうして少しずつ、僕の名前が界隈に知れ渡り不本意にも身の危険に晒される事になった。
僕は客を選ばないし、誰の派閥にも入らない。
関口にしろ、柳原にしろ、僕は彼らをクライアントとしか見ていない。
どちらが、僕により膨大な資金を出すのか…僕の興味はそこだけだ。
そうする事でしか、僕は僕の存在意義を見出せなかったんだ。
狭い路地から空を見上げる。
汚い雑居ビルの間でも、その空は青く澄んでいた。
眩しくて、目を細める…
芽衣に会いたいと思った。
僕の中にある美しいモノ…それは、芽衣と過ごした幼い頃の思い出。
彼女だけが、僕を満たしてくれる。
僕は、ヨレた開襟シャツを着て芽衣のいる帝国ホテルへと赴いた。
もちろん、招待状のない僕は会場の中には入れない。
著名人の集まる厳粛なパーティだ。
警備も半端ない。
さて、どうしようか?
頭を捻って、至極単純な策を思い付いた。
ホテルから出て、近くの高級ブティックに入る。
なるべく、金持ちに見れる様な格好の服を選んで着た。
終始、怪訝そうな顔を浮かべたブティックの店員は、僕がポケットからさし出したボロボロの札束を見るなり態度を一変させた。
深々と頭を下げて見送る姿が滑稽だ。
さて、次は…
ホテルに戻り会場近くのトイレに入る。
そこで、狙いを定めた相手に声を掛けた。
「こんにちは、佐川さん。」
男は、僕の顔を見るなり驚いて身を翻す。
「逃げないでよ。
ボスに言われて来たんじゃないから安心して?」
ニッコリと笑って、彼の顔を見る。
「しゅ…修也…、ここで何を…?」
「友達に会いたいのに、招待状がないんだ。
佐川さんの招待状を僕に頂戴よ。」
「招待状……?」
この男が、僕に怯える理由は、こいつもバカで低脳な人間だからさ。
政界のご子息には、たまにこんな救われないバカもいるんだよ。
友達は、幅広く持っていた方が良い。
こんな時に便利だからさ。
僕は、まんまとパーティ会場に入る事が出来た。
どんなに多勢の人間に囲まれても、僕はすぐに芽衣を見つけることが出来る。
彼女は、上品な白いドレスを身に纏っていた。
想像した通りの美しい少女に成長した芽衣に、僕の鼓動は高鳴る。
薔薇の花の様な華やかな美しさと例えるよりも、芽衣には百合の花の様な聡明な美しさと例える方が合う。
人目を引く程の美しさを放つのに、遠慮がちに佇む姿がまた、いじらしく可憐だと思った。
僕はしばらく、色々な角度から彼女を見つめた。
今の僕の立場では今後しばらく、彼女に会う事はなくなるだろう。
だから、今の彼女を瞳に焼き付けて記憶に留めておきたかった。
そんな穏やかな心情を打ち破る様に、君が怒鳴り声を上げた。
もの凄く悲しいそうな顔して出て行くから、僕は思わず君の後を追ったんだ。
一目、君の顔を見るだけで良かったのに…
話し掛けるつもりなんて無かったのに…
君の声を殺して泣く姿に、僕はこの手で君に触れてしまった。
薄汚れた手で、君の手を…
僕らは互いに手を繋いでホテルを後にしてタクシーに乗り込んだ。
何処に行く当てもない。
「行った事のない世界に行きたい…」
芽衣がポツリと外の景色を見ながら言った。
行った事のない世界…
僕の住む世界は、おそらく芽衣の知らぬ世界だろう。
もちろん、そんな所に芽衣を連れて行けるはずもない。
「そうだ、芽衣。
面白い事をしようか?」
僕がそう言うと、君は瞳を輝かせて「何?」と訊いてきたね。
タクシーは河川敷で止まる。
君を川縁に立たせて、
「ここで少しだけ待ってて…!」
「何をするの?」
不安気な君を置いて、僕は川の反対側の川縁に着いた。
川を挟んで君と向き合う。
拾った瓶の破片を光に当てて、信号を送った。
芽衣、覚えてる?
僕は微かな望みを光の信号にのせて君に送る。
この信号が君に届くだろうか…
すると、芽衣はポケットから手鏡を出して僕に光の信号を返した。
“懐かしい”
“モールス信号ね”
芽衣は覚えていた。
昔、僕が教えたモールス信号の暗号を。
芽衣が昼間、他の誰かと一緒に研究所に来る用事がある時、向かいの研究室から会話が出来る様にと僕が教えたんだ。
キラキラと輝く光に、僕らの会話をのせた。
“覚えてたんだね”
“良かった”
他の人には知られない…秘密の会話。
“修也、また会える?”
『また、会える?』
芽衣からのメッセージに、僕は手を止める。
会って良い事はない。
下手をしたら、芽衣を危険な目に合わせてしまうかも知れない。
会わない方が良いに決まっている。
だけど…。
もう、夕陽が落ちようとしていた。
光が消える前に、僕は最後のメッセージを送る。
“この川縁で、こうして離れて会おう”
“夕陽が沈むまでの少しの時間だけ…”
芽衣が頷くのを確認してから、僕は藪の中へと消えた。
芽衣との接触をギリギリ避けるとしたら、これが限界だろう。
それでも良い…また、君にあえるなら。
この広い川を挟んで、君と語り合えるなら…。
それから毎日、僕は芽衣と会った。
学校が終わり、レイの待つ修道院へと帰る間の平日の数十分だけ。
その時間だけは、僕は普通の16歳でいられた。
芽衣も学校帰りで、いつも制服姿でやって来た。
芽衣の制服は、ブルーのリボンが付いた襟まで真っ白なセーラー服で、彼女はこの制服がよく似合っていた。
“今日の学校はどうだった?”
“僕は学校に寝に行ってるだけだよ”
たわいも無い話。
それでも、僕たちは手元を光のリズムに合わせて動かし続ける。
暫くして、芽衣の動きが急に止まった。
どうしたんだろう…?
疲れてしまったのだろうか?
僕はふざけて光を芽衣の顔に当てた。
彼女は眩しそうに手を顔に翳してその光を遮り、仕返しに僕の顔にも光を浴びせた。
眩しくて目を細める。
芽衣が僕に与えくれる光は暖かく柔らかい。
そのまま…僕はゆっくりと瞳を閉じた。
僕の罪を消して…
君の手で、僕を消して…
芽衣…僕は…君を…
君を…愛してる。
光を避けずに佇む修也の姿。
彼の容姿のせいだろうか?
胸が締め付けられる程にその姿が美しくて、泣きたくなってしまう。
初めて行った、フィレンツェのドゥオモから一望した夕陽に溶け合う美しい街並みを見た時にも同じ様に泣きたくなった。
それは、その景色に感動したからなんだ。
今、私は目の前の光の少年に感動しているんだ。
修也は不思議な子。
いつも優しい笑顔を向ける。
楽しい時も、悲しい時も、寂しい時も…
その微笑みは、いつだって儚い。
修也は、私の全てを受け入れてくれる…そんな気がした。
だから、もう一度、私は彼に言葉を送ったの。
彼がどう応えても構わない。
私は彼に聞いてもらいたかっただけ。
秘密の共有をしてもらいたかっただけだった。
“私、死んだ人間のクローンかも知れない”
修也はちゃんと見ていただろうか…?
声に出せない私の秘密。
送った後に手が震えた。
チカチカ…直ぐに修也からの返信が届く。
暗号を文字に変換する。
“僕もだよ”
涙が頬を伝う。
瞬きすら忘れた瞳から、ポロポロと流れる。
気付いた時には、走り出していた。
額に汗が滲んで、息切れがした。
時折咳き込みながら、懸命に走った。
そうして辿り着いた修也のいる川縁。
彼は、いつもの様に柔らかくて儚い笑顔で私を待っていた。
「僕もだよ、芽衣。」
修也に抱き付いた。
こうして抱き締め合うのは、これで2回目。
私達は近すぎる関係と言うよりも、ほぼ一体化したような関係だった。
修也は私の一部で、私は修也の一部。
私は修也の影で、修也は私の影。
あるで…同じ運命を辿る様に私達は何度でも巡り合う。
「本当にクローンなの…?」
修也の頬に触れて、彼の瞳を覗く。
真っ直ぐに見つめるその揺るぎない瞳が、真実だと語る。
「それでも僕らは生きてる…」
ずっと、抱えてきた罪悪感や後ろめたさの理由が分かった気がした。
そして、新たに生まれた喪失感。
別に、何かを失った訳じゃない。
だけど…造られた命だという事と、誰かの代わりという概念。
私自身の人生は、他の誰かが歩むものだったのかも知れない。
そう思った時に、将来の希望も薄れて行った。
「修也…私の出生の秘密を知ってる?」
修也が私について、どこまで知ってるのか知りたい。
「それと、修也の秘密も私に教えて。」
もちろん、修也の事も知りたい。
「天使の正体を明かしたら、とてもつまらない結果が待ってるかもよ?」
良いの…
修也…貴方の、その…
「泣きそうな笑顔の理由を教えて…」
生まれてきた罪を共有する事が、私達を破滅に追い込んで行くとしても…
私達は、うぅん…私は、修也からは離れられない。
事実を聞いて、幼い頃から修也が研究所にいた理由が理解出来た。
そして、私が生まれた理由も分かった。
それを聞いて、両親に対しての哀れみと同情が芽生えた。
それと同時に、怒りも芽生えた。
失った我が子を再生するという、あまりにも自分勝手な行為で修也の様な犠牲者が出た事…。
それだけじゃない、亮もその為に私と婚約させられているのだ。
両親が犯した罪を、私が生まれた罪を正当化させる為だけに亮は…。
いつか暴かれるかも知れないその日…亮は、私を守ろうとするのだろう…。
そんなの…そんな事は耐えられない!
私…亮に自分の秘密を知って欲しくない!
真っ直ぐで正義感に溢れる彼を、私の闇に触れさせて落とす様なマネは出来ない。
嘘…そんな事は全部、私の偽善だ。
亮の為?違う…。
もっと単純に言えば良い。
ただ、彼に嫌われたくないのだと…。
嫌われたくない。
私…亮には嫌われたくないの…。
「芽衣、大丈夫?」
修也が心配そうに私の伏せた顔を覗き込んだ。
私は、ふっ…と作り笑を浮かべて彼に「うん」と頷いて見せた。
その時に思った。
今、私が浮かべた笑みは、修也がいつも浮かべている笑顔と一緒だと。
彼は、そうやっていつも傷付いた心を隠す為に笑っているのだと。
はたから見たらとても穏やかなその微笑みは、哀しみを含んだ切ない微笑みなのだと初めて知った。
「修也…」
貴方って…
なんて心の寂しい人なの…?
この人には、心を温めてくれる人も、甘えられる場所も無いのだと思った。
「修也…」
私は修也を抱きしめ、耳元で彼の名前を呼んだ。
私の背中に、彼の手が力強く絡まる。
伝わるだろうか…私の体温が。
同情なんかじゃない。
ただ、私が彼の…修也の心を温めてあげたいと心から思ったのだ。
偽りじゃない、彼の笑った顔が見たい。
私が、彼の甘えられる場所になりたい。
力強いその腕が、私を圧迫する…。
その痛みと、少しの苦しみが、私を安心させてくれる。
修也…私、貴方を満たしてる…?
感じる…芽衣の体温と香り。
髪の柔らかさ…愛おしさ。
汚れた僕に、神が与えてくれた天使が芽衣だ。
そんな至福の時を味わえる僕は何と罪深い事か…。
「芽衣、もう遅い…日が暮れるとこの辺りは人通りがなくなる。
危ないから、もう帰ろう…」
後ろ髪を引かれる思いで彼女を引き離した。
僕は、芽衣を送っては行けない。
人目のある場所で彼女と並んで歩く訳にはいかないのだ。
だから、少しでも明るい内に彼女を家に帰したかった。
「修也…気を付けて…。
誰かが、貴方を傷つけようとしているわ…。
もしかしたら、命に関わるかも知れない…」
「誰かって?」
一瞬、驚いた。
まさか、芽衣が僕のしているヤバイ事を知っているのかと思った。
だが、『誰?』と訊いた僕の視線を避けて俯いた彼女を見てその心配はなさそうだと胸を撫で下ろした。
いや、ホッとしてる場合じゃないな。
僕は馬鹿じゃない。
組織関連でなければ、僕を消そうとしている相手はあいつしかいない。
芽衣の反応からしても間違いないだろう。
それは、藤森 龍生…芽衣の父親だ。
藤森だとしたら、狙いは僕だけではなくレイも標的になるだろう。
クソっ…レイの存在を知られたのは失態だった。
まだ幼かった僕は、レイの誕生に驚きうろたえる藤森を、勝ち誇った様に笑ってみせた。
見下したんだ…奴を。
それが、仇となったか…。
「芽衣、大丈夫だよ。
僕は、逃げるよ…しばらく会えないかも知れないけど、無事でいるから安心して?」
あの修道院にはいられない。
近いウチに、レイを連れて逃げよう。
どの道、組織から離れれば僕は追われる身になる。
なるべく遠くへ行き、生活を立て直そう。
幸い、僕には其れなりの蓄えがある。
その為に貯めた金だ。
「会えなくなるなんてダメ!
どこに行くのか私には教えて!
また修也と離れ離れになるなんて嫌よ…!
絶対に嫌…っ」
掴まれたシャツの胸元が、芽衣の涙で濡れた。
困る…めんどくさいという感情は色々な場面で常に感じていたが、困るという感情を抱いたのは初めてだった。
僕は困っていた。
芽衣を邪険に扱えない。
だからと言って、わざわざこんな厄介事に巻き込みたくもない。
宥める…僕は、芽衣を宥める言葉を探した。
幼いレイを宥めるのとは訳が違う。
芽衣を納得させる説得力のある言葉を…
「芽衣…君は家族を捨てて、婚約者も裏切って僕の処へと来れる?」
「ぇ…?」
濡れた瞼が揺れる。
何も、彼女に対して離れる言い訳など考えなくても良かった。
僕の叶わぬ願望を、そのまま彼女にぶつけてしまえば簡単にカタが付くのだから。
「もし、僕と一緒に来てくれるなら明日の16時に渋谷のスクランブル交差点中央で会おう。
僕は東横線側から、君は109側から渡って来て。」
それだけを告げると、動揺して固まった君を置いて僕は去った。
絶対に来るはずが無いのに、人混みに紛れて逃げようと考えてる辺りに淡い期待を抱いていたのだろう。
僕も、ただのつまらない男だな。
自分に失笑しながら、藪を掻き分けてレイの元へと急いだ。
翌日、最後になると決めた仕事を片付けて新宿から山の手線に乗って渋谷に向かった。
深くパーカーのフードをかぶった。
16時まであと15分…僕は地下鉄乗り場の階段脇から109側に視線を向ける。
しばらくして、芽衣を視界に捉えた。
「来た…!」
僕の心臓は飛び跳ねた。
足を一歩踏み出した所で、僕は立ち止まる。
芽衣の隣には、高瀬 亮がいた。
彼女の幼馴染で婚約者だ。
どんなに人混みに紛れても、僕は芽衣しか見えない。
だから、ハッキリと見えてしまうんだよ…
君が、彼の隣でニッコリと微笑んでいるのが。
踵を返して、またJRのホームに向かった。
足を進める度に浮かぶ、二人の親密さ。
彼女の手を取って握る彼の手。
彼女の頭をクシャクシャと撫でる大きな手。
彼女の柔らかい髪が、それで大きく絹糸の様に揺れる。
その後の彼女の笑顔。
優しい笑み。
背の高い彼が、かがんで彼女の顔を覗き、その頬に触れる。
数秒前に見た映像が、そうやってゆっくりと瞼に浮かんだ。
痛みを感じて、握った拳を開いてみた。
真っ赤な血が滲んでいる。
嫉妬と憎悪が流した鮮血だ。
僕は、彼の様に背は高くはない。
芽衣より一つ頭が出ているだけ。
僕は、彼の様にゴツくて男らしい手を持ってはいない。
僕は、彼の様に芽衣を笑わせてはあげられない…。
そんな陳腐で馬鹿げた下らない感情で流れる痛み。
…バカバカしい。
普通の人間に成り下がりたいのか?
自問自答を繰り返す。
そして、何度でも出ている答えに僕は落胆するんだ。
『普通に生まれていれば…』
この暖かい太陽の下、君と肩を並べて歩けたかもしれない。
普通に…
だから僕は…
『普通の人間になりたかった。』
下らない感情。
それは、芽衣を求めるのと同じくらいに恋い焦がれた切ない思いだった。
携帯が鳴る…。
眠たい目を擦って目覚まし時計に手を伸ばす。
AM5時30分。
こんな時間に電話をかけて来る無神経な人は一人しかいない。
渋々、スタンドライトの脇に置いた携帯をとって耳に当てた。
何やら周りが騒がしい。
「おい、芽衣。
お前、今日暇か?」
友だちと朝まで遊び通していたのだろう。
亮の電話の先で、数人がじゃれ合う声がしていた。
その中に、猫なで声で「りょう〜、早く電話切ってよー。」という女の子の声も入って来た。
起こされた挙句、気分を激しく害された私は冷たく「暇じゃない。」と吐き捨てる様に電話を切った。
その後も、携帯は鳴り続けたが出る事はしなかった。
修也との約束を守りたい。
今日、私は彼に会わなければならない。
“家族と婚約者を捨てて…”
正直、その覚悟は出来ていない。
だけど今日、修也に会わなければ一生、彼には会えなくなりそうで怖かった。
いつも通り学校へ行き、授業が終わると急いで教室を出た。
中庭を過ぎた辺りから校門まで、生徒達がザワザワと群がって騒がしい雰囲気だ。
何だろう…
顔を紅潮させながらヒソヒソ、そわそわした女の子達。
不思議に思いながら、校門を抜けてその理由が分かった。
「芽衣!」
彼が私に手を振りながら近寄って来る。
生徒たちの注目を浴びて、私は肩を竦めながら小さく周りを見渡す。
『藤森さんの彼氏かな?
カッコ良いよね。』
『良いなぁ〜、藤森さん。』
『可愛いくてお金持ちだから、遊ばれてんじゃない?』
色々なコソコソ話しが耳を掠める。
亮には聞こえないのかな?
「おい、お前!
電話無視してんじゃねーよ!」
ムスッとした態度で、亮は私のおでこをピンと弾いた。
私は無言でおでこを摩って早歩きで駅に向かう。
早く学校から離れたかった。
早歩きの後を亮が付いて来る。
修也との待ち合わせ場所までに、亮をまかなくては。
「なぁ、シカトすんなよー!」
「付いて来ないで。」
電車に乗りこんでも、そんなやり取りを繰り返していた。
原宿を過ぎると駆け足で後部車両まで行って、渋谷で慌てて降りた。
ドキドキと緊迫する胸を押さえて、後ろを振り返る。
亮の姿は無かった。
「良かった…」
上手く振り払えた…そう思っていた。
ところが、ホームを抜けて階段を上がった所で、腕を組んで壁に凭れ掛かって不機嫌に立ちつくす亮の姿が目に入った。
「俺を撒こうとするなら、もっと上手くやれ。」
「一人になりたいの。
今日は勘弁して…」
そう言って亮の横を掠めると、強く腕を掴まれた。
「代官山か青山でしか買い物しないお前が、渋谷でショッピングか?」
皮肉をいう時も、亮はこうして人を小馬鹿にした笑みを浮かべる。
「私だって、渋谷で買い物するわ。
神南辺りでね。」
「なら、原宿で降りた方が近いだろ。
マルキューでギャルファッションでも探すのか?」
不意に、亮の彼女が頭に浮かんだ。
茶色い髪にルーズソックス。
大きな花の付いた通学カバン。
短すぎる制服のスカート。
ダボダボのベスト。
あの紺色のベストは、亮の物だ。
都立一の男子校に通う彼氏を持つ女の子が、それを自慢する為にわざわざ彼氏の学校指定のベストを着る。
下らない流行りの風習。
「私も短いスカートを履いて、頭に大きな花でも咲かせようかしら?
亮好みのギャルメイクもしてね!」
腕を振りほどいて、吐き捨てながら走った。
嫌味のつもりで言った吐きセリフ。
…ホントは、ただのヤキモチ。
亮のベストを着たあの子を見る度に、胸を焦がした。
ズキズキと痛む。
羨ましくて仕方なかった。
亮が、あの子の頭を撫でる度に
亮が、あの子の腰に手を回す度に
亮が、あの子に優しい笑みを送る度に…
私は、自分の気持ちを押し殺して微笑んだ。
まるで、気にしていないように振舞って気丈なフリをしていた。
今、私は修也の元へと行こうとしている。
直前になっても、それが正しいのかは分からない。
ただ、亮にはない私への優しさが修也にはあるから…
亮から逃げたいだけなのかも知れない。
だけど、確実に分かる事が一つだけあるの。
亮には私が居なくても大丈夫だけど、修也は私が居ないとダメなんだという事。
自惚れた考えだけど、確信している。
修也には私が必要なんだと…
109に出て、スクランブル交差点で信号待ちをする。
人が多くて、向こう側の様子が見えない。
修也はもう来ているのだろうか?
「待てよ、芽衣!」
肩を引かれた反動で、振り返る。
薄っすらと額に汗を滲ませて亮が私を睨んだ。
私達は、いつもそう…。
顔を合わせれば、可愛くない態度で接して喧嘩になる。
互いに素直になれないまま、想いは空回る。
亮に会うのも、これが最後かも知れない。
そう思うと、急に淋しく、そして愛おしさが込み上げて来た。
少なくとも、必死で追いかけて来てくれた事が嬉しかった。
「お前…俺の好みを分かってねーよ!」
「え?」
亮の手が私の頬に触れる。
「俺は、ギャルが好きなんじゃない。
本気で好きな女には、短いスカートなんて履いて欲しくない。
素顔が可愛い子なら、化粧なんて皆無だ。」
日に照らされた亮の髪の一部が、輝いて金髪に見える。
「亮、髪の毛また染めたの?」
「メッシュいれたんだよ、カッコイイだろ?」
あの子と同じ…。
その空いたポロシャツの胸元で揺れるネックレスも、彼女とのペアだって知ってる。
「亮は、黒髪のままの方がカッコ良いのに…」
背伸びして、亮の髪に触った。
「お前は、そのままの髪でいろよ?」
そう優しく微笑んで、私の髪を撫でる。
彼のたまに見せるその笑みは、私の宝物だ。
「私は、何も変わらないわ。」
そう…きっと、何があっても…
亮への気持ちは変わらない。
「お前…俺だけにそうやって笑えよ?」
胸が痛むのは、それを守れそうにない罪悪感から?
それとも、別れが辛いから?
「りょ…っ」
名前を呼び掛けた時、亮の携帯が鳴った。
亮はポケットから携帯を取り出して、私は口を紡いだ。
「あぁ、美香?」
美香…彼女からだ。
「うん、後で行くから。」
彼女の所に行くんだ…。
行って何をするんだろう…。
邪な考えが浮かぶ。
会話を弾ませる亮と、交差点を交互に見る。
亮の白い歯が覗いた時に、信号が青に変わった。
私は、亮に繋がれた手をそっと放して彼に笑って見せた。
そして、そのまま人混みに紛れて交差点を渡る。
もう…亮には私を見つける事は出来ないだろう。
私の決して気持ちは変わらない。
だけど…修也への想いは高まる一方だった。
彼を愛してるの?と訊かれれば、そうだとは答えられないだろう。
ただ…愛おしい。
矛盾にも聞こえるだろうが、そうだった。
その感情を上手く説明するには難しい。
修也がいなくなって、2年が経った。
この春から私は、大学の二回生になった。
「今朝方未明に、荒川区足立の河川敷で若い女性の遺体が発見されました。
警視庁は、この女性の身元の確認を急ぐと共に事件の概要を…」
「物騒な事件だな。」
早朝の痛たましいニュースに、父が眉を顰める。
「芽衣も大学が終わったら早めに帰宅しなさい。」
母が、朝食を運びながら私に言った。
「はい…。」
私は空返事を返してテレビに映る遺体発見現場を見つめていた。
ブルーシートの周りで慌ただしそうに動く警官達が映る。
別に、ニュースの内容に釘付けになってる訳じゃない。
私が視線を離せないのは、その現場の方だ。
河川敷…
その蒼く茂る草原と、流れる川に修也が浮かんだ。
キラキラと輝く光の会話。
遠くで優しい笑みを浮かべる、彼のそよぐ柔らかそうな髪。
あの美しく儚い思い出が、胸をチクリと刺す。
「芽衣?」
ハッと、慌ててダイニングを見ると父が心配そうに私の名前を呼んでいた。
「不安なら、亮君に送り迎えしてもらおうか?」
「大丈夫よ。
亮も色々と忙しいみたいだから悪いわ。」
かぶりを振っ て答えた。
「そうか…?」
釈然としなそうな父に、私は微笑む。
そうした偽りの作り笑いが、私の癖になっていた。
あの日…内心で亮と決別したあの日から、私達の距離は一ミリの変わりもなかった。
ただ、あの翌日から亮は黒髪に戻して茶色く染める事はなくなった。
それでも代わる代わる恋人を作っては別れを繰り返す習性は治らない。
心の奥底では、もう亮とは結ばれないだろうと諦めていた。
いや、諦めなければいけないのだ。
大学に入ってからは、会う回数も自然と減った。
もちろん、それは亮を避けていたから。
上手く逃げてる方だと思う。
亮を諦めて、修也とも会えない。
毎日、気が狂いそうな孤独に襲われた。
そのうち、生きている事の疑問も浮かんだ。
自分は何の為に生まれたのか…
いくら考えても、その答えは両親の慰めでしかないような気がしてならなかった。
まるで人形。
いっそう、感情なんて無くしたい。
でも、そう強く望み過ぎたのか…私の心は日々、少しずつ壊れて本当に全ての感情が薄れて行った。
どす黒い無の影が、心を蝕む。
もう、元の私には戻れない。
醜い自分を愛する事などできない。
寂しい、苦しい…助けて…
お願い…このどうしようもない孤独から私を救い出して…
お願い…助けて…
修也…
もう一度、この手を握って
私を連れ出して…
僕は、SEXをしても快楽は得られない。
それでも、自然の摂理なのか、事が済めば虚しさの含んだ白い液体は出る。
そのドロドロとした欲望が出ると僕はホッとするんだ。
それは、いつも終わりを告げるシグナルだった。
いつだって苦痛でしかない、この行為の終焉の合図。
幼い頃、灯の相手をさせられた時は涙と共にそれは流れた。
だけど、成長する度に僕の涙は枯れて汚ない濁白色の液体だけが女のカラダを塗りたくる。
僕には、意味のない行為。
だから、例え相手が何であろうと関係ない。
生身の女でも、男でも、それが冷たく硬い肉の塊でも…
無感情に出来る。
僕は、もう人間ですらない。
息を吸って吐くだけの…名前すらない生命体が僕だ。
痛む心なんて無いんだ。
唯の冷たい肉玉になった元・人間の君を侮辱しても、僕には単なる面倒な作業にしか思わない。
「ごめんね…」
そう、呟いたのは罪悪感でも慈しみでもない。
そんな人間らしい感情を持ち合わせていない事を謝っただけ。
それだけなんだ。
事を済ませてズボンのベルトを締める。
河のせせらぎと虫の声しか聞こえない。
「本当にバカだな…」
僕の跡を残した所で、最初の体液が消えるはずも無いのに。
それでも、彼奴らはこれを証拠隠滅だと浅はかな自信を持っているのだから。
冷めた目で、持っていたナイフを見つめた。
光る刃先に映る僕。
歪んだ顔が滑稽だ。
僕はその刃先を蒼白い肌に当てて、その皮膚を割いた。
言付けにはない行為。
星型に印を付け、ナイフの汚れをシャツで拭う。
こんな行動に出たのは自分でもよく分からない。
何と無く…
あの忌まわしい僕の痕跡ではない、他の痕を残したかった。
命令されたからじゃない。
僕自身の、罪の痕を…
組織の人間に、どうすれば遺体を簡単に運び出せるか訊れた。
『ドラム缶に入れてコンクリート詰め?』
僕は首を横に振る。
腐敗が進んだ遺体から発するガスは、固まったコンクリートを割る威力がある。
亀裂が入って空気が入れば、例え海に投げ棄てたとしても浮かんでくる。
運ぶにしても、ドラム缶を転がした痕が現場に繋がるだろう。
『バラバラにするか?』
それにも、首を振る。
人間をバラすのに、どれだけの時間と体力を要すると思うのか…。
そもそも、血液反応は消せない。
運び出す間に、血痕が付いたらそれで足がつく。
バラバラになった遺体を数カ所に分けて棄てるという事は、それだけ多くの証拠を残すという事だ。
遺体になる人間には、目立つ傷を付けないのが得策だ。
銃殺、絞殺、撲殺、毒殺、どれもがナンセンス。
「運び出すのに足がつかない様な方法で、尚且つ簡単にって事なら…全身の血液を抜けば良いよ。」
僕は男達にこう教えた。
彼女達の血液が無くなるまで献血をしろと。
これは、言葉の通り…医療用のパックに血液を溜め込むと言うもの。
傷痕は、針を刺した痕が小さく残るだけ。
そして水分の無くなった人間は、硬直後も軽くて運びやすい。
そうして、実行された一番最初の犯行。
僕はその犯行を目の前で見ていた。
中年肥りの脂ぎった変態男の慰め物になった彼女は、もう既に廃人と化していた。
瞳は灰色がかり、生気を失っている。
そんな彼女の視線はただ一点…僕に向けられていた。
僕は膝を抱えて、3人掛けのソファーに腰掛ける彼女を見上げる。
時々、彼女の口元が動いたが何を言っているのかは読み取れなかった。
きっと、意味のある言葉など発してはいないのだろう。
だから、僕は微かに微笑んだ。
すると、彼女の口角が小さく上がった。
その瞬間、彼女は身体が大きく跳ね上げて苦しそうに呻き聲を響かせた。
暴れてパニックを起こす彼女の手足を男達が力任せに押さえ付ける。
体内の血液が少なくなって、ショックを起こしている。
意識とは反対に、身体は死を拒んで抗うのだ。
僕は、散乱する医薬品の中から茶色い瓶を手にとってガーゼにその液体を含ませた。
「どいて…。
手首を強く握らないで…締めた痕が残って傷になる。」
怯える彼女の瞳から、一雫の涙が流れた。
彼女の口元にガーゼを当てて、その雫にキスをする。
力が抜けた身体と、ゆっくり閉じて行く瞼…。
君は僕と同じ。
薄汚い大人に利用されて弄ばれた人形だ。
犯されるって、痛くて苦しくて惨めだろ?
僕も君と同じ。
ただ…僕には生まれつき欠落している物がある。
だから、君の様にはなれない。
僕はさ…辱められた自分が許せなくて壊れた君みたいに純粋な生き物じゃない。
だからかな…
僕は君が羨ましいんだ。
こんなにも美しい涙を流せる君が…僕には羨ましいよ。
人が犯される事…殺害される事…それに加担する事に、僕は何の感情も持たなかった。
嫌悪感や、恐怖心…ましてや罪悪感など微塵も感じなかった。
逆に、同情心や哀れみも。
僕は元からそういった感情に乏しい。
無感情に近い。
ただ…感情が無いのとは違う。
僕の場合は、芽依に関してだけが通常の人間と同じ様に感情が働く。
喜び、哀しみ、怒り、楽しみ…
芽依と一緒にいる時だけ、僕は普通の人間になれた。
普通の…恋をする男になれた。
芽依は、僕が生まれ堕ちる時に失くした“心”そのものだった。
だから、彼女が居ないと僕の“心”は動かないのだ。
凍て付く氷は、溶ける事なく深い眠りについたまま…
もう二度と、目覚めたりはしないのだ。
組織と契約しているクライアントは、社会地位の高い奴か金にモノを言わす成金風情が殆どだった。
紹介制か、柳原の目に適った奴だけがクライアントとして選ばれていた。
わざわざ素人の女を攫わなくとも、女が買える場所なんて腐る程あるのに。
スリルを味わいたいが為に大金を払って誘拐した女を弄ぶのは、変態の成せる技だろう。
下衆だ。
「修也、警察の捜査がどこまで進んでいるのか探れ。」
柳原の命を受けた幹部の一人が、僕にそう言ってパソコンを投げてよこした。
「これ使って妙なマネをしたら、あのガキを殺すからな?」
パソコンの画面脇に、ライブカメラが捉えたレイが映る。
目隠しをされた頭に、銃口が向けられた。
「警視庁のデータバンクに侵入しろってこと?」
「ハッキングっていうのか?
お前、得意なんだろ?」
薄笑いを浮かべる男の横で、僕は指の関節を鳴らした。
一息付いて、キーボードを打ち込んだ。
「はぇー、指の動きが見えねー!」
幾つものダミーコードを使って、厳重なセキュリティーを突破していく。
少し時間はかかる作業だか、上手く侵入出来るはずだと思った。
「誰だ…?」
僕は指を止めた。
「何だ、どうした?」
先に、データベースに侵入したハッカーがいる…
このまま続ければ真新しい足跡で、真っ先に僕が警察に追跡される。
ご丁寧に、追跡される事を計算して詮索されないようにウィルスを仕込んである。
僕を撒き、警察の追跡もブロックして一人逃げするつもりだろう。
「お手上げだ。
このままハッキングを続ければ、発信源を追跡される。
警察にこの場所がバレるよ。」
「何とかしろ!」
「それは無理。
一足遅かったみたいだね…先客がいるよ。」
用心深い臆病者の天才か。
ただの性格の悪い天才か…。
「へぇ〜、こんな狭い世の中に僕を手こずらせられる人もいるんだ…。」
「どうすんだよ〜…!」
ボスの命を遂行出来ない事に頭を抱える男の横で、僕は久しぶりに胸を高揚させていた。
僕は、僕以外の人間を低脳だと思って今まで生きて来た。
少なくとも、僕に張り合える人間など存在しないと…
「でも…」
パソコン画面に写る無数に並んだアルファベットや数式化した暗号を見て、そうでもないかも…と期待を募らせた。
この先にいる顔の見えない相手と、いつか巡り合う事が出来たなら…
チェスでも、将棋でも良いから崇高なパズルゲームをしてみたい。
どちらがより計算力があるのか勝負してみたいと思った。
気が向いたら、世間話をしてもいい…
ねぇ、君は誰?
その日の夜に、二度目の犯行が行われた。
血を抜いてる間を見守って、パックを交換するのは僕の仕事になった。
一人目の子とは違って、この子は意志の強い女の子だった。
瞳の輝きも失せないまま、強い眼差しを僕に向けている。
「怖くはないの?」
僕は彼女に問いた。
「あんた達なんか、地獄に落ちれば良い…!」
地獄なら、とっくに落ちている。
「君なら、きっと天国に行けるね。」
「何故、こんな事をするの?
あなたの目的は何…?」
怯えているのに、勇敢な姿勢を見せる彼女の隣りに座る。
「僕の目的は、妹の命を守る事。
その為なら何でも出来る…君の命が犠牲になろうと関係ない。」
「妹…?
ここに、貴方の妹が捕らわれているの?
貴方はあの男達に脅されているの?」
僕は頷いた。
彼女の瞳が、敵意から哀れみに変わる。
「妹を助ける代わりに、人を殺せと…?」
「それだけじゃないよ。
高濃度なドラックの作り方や殺害方法を教えたり、遺体を遺棄したり、それを侵したり、ハッキングもやったよ。」
「酷い…っ!」
「酷い?
僕は、別に苦じゃない…それで妹が助かるなら喜んでやるよ。」
僕にとっての諸悪の根源は、柳原や幹部達ではない。
レイや僕の人権を奪い、侮辱し、闇に葬った男…
憎むべきは、藤森 龍生…ただ一人。
「大切…なのね。
妹だから。」
儚く俯いた瞳が揺れる。
愛おしい人を想う時に、人はその瞳を揺らす。
「君にもいるんだね…キョウダイが。」
「弟がいるの。」
「弟?
仲が良いの?」
彼女はフッ…と微笑んで、首を横に振った。
「弟…もう、何年も引きこもりなの。
部屋からはあまり出ないし会話らしい会話もしない。
それでも、私は弟が可愛いし必死にコミュニケーションを図るけどダメで。」
「何故、引きこもってるの?」
「小さい頃から頭の回転が早い子で、人よりも頭が良すぎたのね…周りとの温度差を感じ取ってしまったの。
それでいて、人に媚びたりするのが嫌いだし可愛気も無いから孤立してね。
もう、中学からは学校に行ってない。」
「へ〜…何と無く分かるよ、弟さんの気持ち。」
そう返しながら、血液パックを交換する。
200mlのパック5つ目…もうじき、しんどくなる頃。
そろそろ、眠らせてあげないと可哀想だ。
「あの子が、パソコンだらけの部屋から出てくれるなら…私も何でもするかもしれない。」
パソコン…?
「せいじ…」
彼女は、意識を朦朧とさせて呟く様にその名前を呼んだ。
愛しき弟の名前だろう。
『多分…』
冷や汗の滲む彼女の額を撫でて、僕は彼女の耳に囁いた。
『君の弟は、その狭い部屋の中で君を懸命に捜している…』
彼女に僕の言葉が届いたかどうかはもう…分からない。
なぁ、レイ。
約束してくれ…。
何時か、君が僕を救って…僕を自由にして欲しい。
君の手で、僕を解き放ってくれ…
この闇から、終わりのない孤独から…
彷徨い続ける泥の中から僕を救って欲しい。
レイ…君は僕が作った傑作品なんだよ。
僕は君を零とは呼ばない。
標識番号『零』が君の本当の名前ではないから…
君の核を移植した日、その日は美しい三日月が出ていたんだ。
見上げた夜空から、水滴が落ちてきた。
夜には珍しい、天気雨だった。
月明かりに反射した雨粒がキラキラと輝いて、まるで宝石の様だった。
レイン…僕が君に付けた本当の名前だ。
君は、ゼロなんかじゃない。
僕の手から生まれ出たもっとも美しい命がレイ…君だった。
僕は、二度とそんな美しいものは作れない。
だから
君が、最後の願いを叶えてね。
僕を…楽に眠らせてくれ…
約束だよ…?
流れるその血は、誰の…?
僕の?それとも君の…?
高瀬 亮に抱かれる、君の手に触れた。
君は死んだの?
動かないその指先に、僕は安堵し笑みを零す。
そして、その瞬間に感じたんだ。
堪らなく…耐え難い後悔が押し寄せた。
レイ…君を失う恐怖。
深い哀しみ。
その波が押し寄せた。
「ダメだ…レイ…死ぬ…な…」
掠れた声が肺から漏れる空気と一緒に出た。
僕との約束はどうした?
君は、僕より先に逝ってはダメなんだよ?
さぁ…レイ。
この指を動かして…僕を殺してくれ…。
そして、どうか…
どうか…君だけは生きて…。
僕は、あと少し。
芽衣と歩んだ…僕らの人生の記憶。
それが今、走馬灯の様に蘇るんだ。
その記憶を辿り終わる前に…君は…
「蛍…」
季節外れの淡い光が、僕の肩に止まる。
優しく点滅を繰り返す光。
「他に仲間は居ないのか…?」
当たりを見渡しても、他に緑色の光はない。
「君も一人だな…」
なのに、君は…仲間を求めて懸命に光を送るんだ。
気付いて…僕はここにいる。
気が付いて、愛おしい人よ…僕はここだ。
だから、お願い。
側に来て…僕と一つになって君に命を与えたい。
「そんな感じ?」
僕は肩に乗った蛍を捕まえて掌に握る。
「見ろよ、お前の仲間はとっくに全滅したぞ。
虚しく、愛を求めて何になるって言うの?
命を削って呼び掛けても、お前の求めているものは来ない。
無駄なんだよ。」
それは、バタバタと手の中で抗う蛍に向けて言った言葉だった。
なのに、芽衣が浮かぶのはどうしてなんだ?
哀れな蛍と自分が重なる。
「孤独は寂しくて辛いだろ…?」
掌に力を込める。
「今、楽にしてあげるよ…。」
ギチギチと身体が潰れる感触。
グッと一握りしてしまえば簡単にゴミと化す小さな命。
僕は、拳を開いた。
蛍は、弱々しくも未だに光を放ち続けていた。
「そうか…」
そう呟いて、空に蛍を放った。
フラフラと飛び立つそれは、明日には命尽きる定かも知れない。
それでも、あの蛍は死を拒絶し生き抗う事を望んだのだ。
最愛を求めて朽ち果てるまで、生きる希望を棄てない。
「羨ましいな…」
僕は、あんなちっぽけな虫にですら勝てない。
そんな生き方を…選べない。
「どこか遠くへ行きたい…」
ため息と一緒にでた言葉に、僕は思った。
“この世界ではない、別の世界へ…”
だから、あんな子供じみた空想を広げたんだ。
木の棒を片手に、タイムマシーンや宇宙船から降り立った冒険家を気取って未知の世界を闊歩する。
直ぐそばに河がある事など忘れて夢中で妄想の世界へと入り込んだ。
河に落ちて水を浴びると、覚めたように僕は我に返った。
また、虚しい現実が僕を支配する。
「もう…良いか…」
何もかも疲れてしまった。
身体に染み付いた汚れた魂を浄化したい。
僕自身の存在が罪だと言うなら、今ここで消してやるよ。
消えてやるよ…
それでもう…赦してよ。
肩まである水かさじゃ足りない。
僕は頭を沈めた。
息を止めて、僕は僕を殺そうと決めたんだ。
きっと、これが正しい…
「修也っ!」
悲鳴の様に僕を呼ぶ声と、腕を掴まれた。
肩を持ち上げられ、酸素が一気に肺へと送られる。
「うっ…ごほ…っ。
はぁ…はぁ…う…っ⁈」
立ち上がり、咳き込む苦しさで目を細め見たもの…。
驚いた。
僕の目に飛び込んだのは、芽衣の顔だった。
びしょ濡れで、今にも泣き出しそうな顔の芽衣だった。
「め…い?
どうして…?」
震える手で、彼女の頬に手を伸ばす。
だが、彼女は僕の手がたどり着く前に僕の身体を強く抱き締めた。
「ばかっ!!
何してるの⁈一体、何をしようとしてたの!!」
芽衣の肩と声が震える。
泣いている…僕を想い、彼女は泣く。
僕は、芽衣の身体を抱き締め返して小さく「ごめん…」と囁いて泣いた。
一雫の涙が頬に伝うと、堰を切った様に涙は溢れた。
それから何度も僕は「ごめんね」と繰り返して彼女の肩に顔をうずめた。
互いに水に浸かりながら、僕らはただただ泣いたんだ。
「良かった…修也…。
生きててくれて、ありがとう…」
君が、泣きながら優しい言葉を言うから、僕はもう…もう…壊れた様に泣いた。
ほらね、僕は感情が無い訳じゃないんだよ。
君が泣くと僕も涙が流れる。
君が笑うと僕も笑う。
君と一緒なら、僕は自分を出せるんだよ。
芽衣…それは、君が僕の心臓だからなんだ。
ほら、君がいると僕の心臓が活発に動くだろ?
「生きてる…」
「うん…」
「芽衣、僕は…生きてるよ」
君が、望むなら僕は死なない。
どんなに忌まわしい命でも、君が生き絶えるまでは…僕は死なない。
良いんだろ?
君が僕の世界だから
君が僕の神様だから
それで良いんだよね…?
濡れたスカートの裾を絞りながら、芽衣は前を進む。
「どこにあるの?」
そう、訊ねる背中に強い覚悟が伺えた。
「その先の茂み…。
芽衣、引き返すなら今だ。
君が背負うにはこの闇は暗くて重過ぎる。」
引き返してくれ。と祈る反面、僕と共に堕ち果ててくれと言う望みもあった。
これで3度目…
僕にはもう芽衣を手放す正義などなかった。
高瀬 亮から、彼女を永遠に奪う機会はこれで最後なんだ。
返すものか。
「修也…私、もう貴方としか生きていけないわ。
二度と、貴方と離れるつもりはないもの。」
振り返る眼差しが、揺るぎなく僕を刺す。
返すもんか。
芽衣は、僕のものだ。
茂みの奥を指差して、僕は芽衣に残酷な正体を明かそうと決めた。
茂みに入った彼女の後に続いて僕も進んだ。
純真無垢な彼女だ。
きっと、遺体を目のあたりにした事などないだろう。
しかも、ただの遺体じゃない。
そこにあるのは、死体なのだから。
物凄いショックを受けて、倒れてしまうんじゃないかと思った。
「芽衣…?」
同じとし頃の女の子の無残な慣れ果てを前に、芽衣は立ち竦んでいた。
僕は心配になって、彼女の顔を覗き見た。
驚いたのは、僕の方だった。
芽衣は顔色…いや、眉一つ変えずに真っ直ぐに“それ”を見つめていた。
「綺麗ね…まるで、眠ってるみたい。」
意外なセリフだった。
「血を抜いてあるから遺体が綺麗なんだよ。」
「そう…。
修也、持ってるナイフを私に渡して。」
「何をするの?」
「まだ、この娘の身体には傷がないわ。
前の娘には付けてたでしょ?」
ニュースか何かで観たのか。
芽衣は、河川敷の殺人事件と僕が関連しているのでは無いかと思って都内近郊の河川敷を巡り僕を探していたと話した。
だから、僕は洗いざらいを芽衣に話したんだ。
「芽衣にナイフは似合わないよ。」
秘密を共有してくれれば十分。
僕は、彼女の手を汚したくはない。
「いいから、早く頂戴。」
こんな瞳の芽衣を見たのは初めてだった。
優しく澄んだ瞳の彼女が、今は鋭く妖しい光を放いる。
とても美しい光だった。
ナイフを手渡すと、迷いもなく芽衣は死体に星形の傷を付けた。
ナイフは震える彼女手から放たれて落ちた。
「これで…私も共犯よ?」
張り詰めた気が揺るんだ様に悲しみの涙を浮かべながら、芽衣は僕に微笑んだ。
僕は落ちたナイフを拾って汚れと、芽衣の指紋を拭き取り彼女を抱き寄せた。
「もう…離さない。」
「約束して…」
「離さないよ…一緒に堕ちよう。」
どこまでも深い深い闇の底まで…
君と堕ちよう。
こんなに幸せな事は他にないだろう?
君と一緒に誰も届かぬ闇の底へ…
東の空が朱くなると、芽衣は「準備があるから。」と言って土手を登りはじめた。
「後で、必ず貴方の所へ行くから待っていて。」
僕は芽衣の言葉に頷いて、彼女を見送った。
芽衣を信じていた。
そして言葉の通り、数時間後に芽衣はあの湿った薄暗い倉庫に現れた。
「パパの書斎にあった柳原の名刺を見て、彼に連絡したの。」
幹部等に手厚い歓迎を受けて、僕とレイの監獄に芽衣はやって来た。
「柳原と契約したわ。
修也の妹を解放する代わりに、私もこのクラブの商品になる…って。」
柳原は、藤森製薬の令嬢なら相当な高値が付くだろうと踏んだのだろう。
万が一、芽衣が殺害されたとしても柳原と関わりのある藤森は柳原を咎められない。
柳原にとって、芽衣はかっこうの餌食だ。
「お嬢ちゃんは3ヶ月後に、上得意のお客さんに売り出される。
それまで、そこのガキの子守がお嬢ちゃんの仕事だ。」
幹部が、眠っているレイを指差して芽衣に告げた。
僕は、無関心を装って幹部にも芽衣にも視線を向けなかった。
芽衣への気持ちがバレたら僕の弱みは二つになり、厄介な事が増える。
芽衣も、その事は十分に理解していた。
幹部が見回りに来るのは、仕事の指示も含めて一日に3回だ。
その時は、僕と芽衣は互いに目を合わせる事も無く無関心を装った。
「修也に妹がいたなんて知らなかった…」
河川敷で再再会した時に、僕は芽衣にレイの話をした。
だが、その時には単に僕の妹と介して詳しい内容は省略したんだ。
「厳密には、レイは僕の妹じゃない…。」
「え…?」
眠るレイの髪を撫でる芽衣の手が止まった。
「その子の顔に見覚えはない?」
伸びた前髪を分けて、芽衣は戸惑う様にレイの頬を一撫でする。
「まさか…これって…」
芽衣の指先が震える。
僕は芽衣の隣に座ってレイの頬に触れた。
「この子は、君の妹だ。」
「修也…なに…どういう事…?」
怒り?戸惑い?
芽衣の瞳が、僕を静かに責めている。
僕は、芽衣に全てを話した。
レイを作った理由や経緯を…。
芽衣に双子の妹がいた事は、研究所の直也の記録に載っていた。
その記載通りに、零の核細胞はフリーザーに保管されていた。
二人が結合双生児だと知った時、僕は「零」を創り出さなければならないと妙な使命感を感じたんだ。
芽衣と零は、肉体をも結合された強い絆がある。
ならば、僕が零を再生したい。
芽衣、僕は君に訊いたよね?
「きょうだいが欲しいと思った事があるかい?」
確かに君はこう答えた。
「妹が欲しいわ。」
やっぱり、潜在意識的に君は妹を覚えていたのだと、僕は確信した。
去る時に一緒に持ち出した零の核細胞は、液体窒素の入ったクーラーボックスに保管していた。
それを、灯に移植するのはとても簡単だった。
既に精神を病んでいた灯は、僕の提案を喜んで受け入れた。
以前、直也がした行いを僕がする事で彼女は僕を直也だと再確認したからだ。
3日間にも及んだ難産の後、零を産み落とした灯は、満足そうに微笑んで命尽きた。
零を抱き上げ、僕は力強く泣く彼女を一生守って行こうと誓った。
そして、いつの日か零を芽衣に会わせてやろうと思った。
二人の絆を、もう一度繋ぎ合わせてやりたい…そう願った。
それが、芽衣…僕が唯一、君を幸せに出来るたった一つの事だと信じていたから。
修哉の告白は、まるでお伽話の様に現実味がない。
私が双子?
それも、結合双生児?
母の日記にはそんな事、一切書かれていなかったのに。
だけど、子の顔…確かに家にある幼い頃の私の写真とよく似ている。
それが、本当なら…
「なぜ、生まれたのが私だけなの?」
父や母なら、私だけでなく双子の妹も創るはずよ。
私は修哉を見ない様に視線を逸らす。
「君の方が健康な細胞だと判断したからだよ。
リスクを避ける為に、君が選ばれた。」
修哉の瞳は、真実を残酷に語る。
大好きだった両親を憎んでしまう。
それほどまでに…
「酷い人達ね。」
最低な人間だから。
そして、その事実を知らぬまま、のうのうと生きてきた自分も最低だった。
何も知らないって罪深い。
その影で、修哉と零はどれだけ苦しんで来たのか…
鉄球に繋がれた脚の痣は私達、親子がつけてしまったんだ。
「零を自由にしてあげたい…」
小さな頭を撫でて、私は決心した。
起きていると怖いと言って、一日の大半を眠りに費やす彼女に、私がしてあげられる事…。
「修哉…」
本当は、ここに来た事に絶望してた。
知らぬフリをしていれば、亮と幸せになれたかも知れない。
あの朝に、亮と結ばれたかった。
あの日の夜を待って、亮と結ばれれば良かった。
だけど、自分の罪を無視出来なかった。
どうしても…出来なかった。
「約束の3ヶ月が経った。
明後日、クライアントがお前を迎えに来る。
タイの大富豪だ、一生お前は玩具として可愛がってもらえるよ。」
「良かったな。」と醜い笑みを浮かべて、男が私の頬を撫でる。
「そう睨むなよ、お嬢様…。
ブタみたいに太った脂ギッシュなおっさん相手に、お前は何度も抱かれて弄ばれるんだ。
美しく生まれんのも不幸だよなぁ?
可哀想になぁ…くっくっ!」
「約束は守って。」
男の手を振り切って、強く低い声で言った。
男は凍える程、冷たい視線を私に送る。
「お前が無事に売られたらガキを解放するよ。」
「明日、解放して!
その後、あの鉄球に私を繋げば良いわ!」
「大事な商品に傷は付けらんないな。
お前は、俺たちに大人しく従えば良い。
修也みたいにな…!」
男が、修也を指さして高笑いで檻を出る。
「あ、それからコレはボスからのプレゼントだ。
コレを来てブタ嫁に行くんだとよ!」
鉄格子の間から投げ入れられたのは、真っ白なワンピースだった。
男の姿が消えると、身体が震えた。
異国の地で、見ず知らずの…しかも麻薬王と名のしれた男に私は…
「あいつら、零を解放するなんて気はないよ。
芽衣…君も、商品になる必要ない。
僕が…君を守る。」
ワンピースを握りしめた私を修也が抱き寄せる。
武器を持たない私達に、一体何が出来るのだろう…。
どうやって、零を守れるのだろう…。
夕刻を過ぎ、漆黒の闇に包まれた中で眠る修也を見つめた。
そして、ゆっくりと彼に近づいた。
肩に触れると、条件反射でピクリと彼は目を開ける。
きっと、穏やかに深く眠りにつく事など出来ないのだろう…。
いつから、彼はそうなってしまったのだろう…?
碧い瞳の奥に、微かな怯えを感じる。
だから、触れている手が私のだと分かると安堵した様に微笑む。
少し離れた場所でグッスリと眠る零を横目で確認して、意を決める。
私は修也の手を取り、自分の胸に当てた。
「芽衣…?」
キョトンとする修也の眉が、嫌悪感で歪むのが分かる。
「何をするの?」
その声は怒っているみたいで、覚悟が歪んでしまいそう。
それを振り払いたくて、私は背を向き服を脱いだ。
全裸になってもう一度、修也の手を取る。
「芽衣、なんのつもり?」
修也は、怒りに満ちた瞳で私を刺す。
「修也に抱かれたいの。」
「何で?
君の心には、いつだって大切な幼馴染がいるんだろ?」
修也の言葉に、私は微かな笑みを零した。
「僕は、彼の代わりじゃない。
君の心の淋しさを、こんな形で受け入れる事はしない。」
修也…貴方は分かってない。
私は、貴方を亮の代わりだと思った事など一度だってない。
淋しさを埋めたいんじゃない。
ましてや、身体を売られる前に貴方と…なんて浅ましい考えもないわ。
「修也、私のここ(胸)は温かいでしょう?
感じる?ドクドクと鼓動を打っているでしょ?」
貴方は冷たい身体を抱き、その度に少しずつ生を嫌ってきた。
生きている心地などしなかったでしょう?
罪悪感なんて無いと言っていたけど、本当は苦しかったでしょう?
貴方は、河に流された子猫の死骸を拾いあげて埋葬していた。
子猫の冥福を祈って野花を手向けた貴方は、とても優しくて心の清い人。
私には分かる…
貴方は、誰よりも誰かの死を悲しむ。
そして…嘆く。
「芽衣、僕は君を抱けない。
ダメなんだ…セックスは、僕にとって苦痛でしかないんだ。」
「それは、貴方が本当に愛する人と喜びを分かち合えなかったからよ。
私となら、きっと大丈夫…」
そうして、私は修也の唇にキスをした。
修也の唇は硬く閉ざしたまま。
「修也…私を受け入れて…。
人の身体って、とても温かいのよ?」
涙が溢れた。
これが最後になるなら、修也に人の温もりを感じさせてあげたいと思った。
貴方がセックスを嫌うのは、幼い頃に受けた性的虐待のトラウマもあるけど、それ以上に怖いのでしょう?
自分と同じ遺伝子を残してしまう事が…。
快楽を味あわなければ、射精はしないと幼い頃に調べた本に載っていたのね。
でも、それは嘘だった。
だけど、意識的に残ったそれが貴方の身体と心を縛りつけてしまった。
「修也は初めてでしょう?」
彼の首筋に唇を這わせて、私は囁いた。
「僕は、何度もして来たよ。
だから嫌なんだ。」
それでも、強引に私を引き離さないのは貴方の優しさ?
それとも、女のクセに誘う私に呆れてる?
「本当に好きな人とするのは初めてでしょう?」
「それを言うなら、君は違うだろ?」
だから…修也、貴方は分かってないのよ。
「私の大切な幼馴染…。
それは、貴方もそうなのよ?」
「…え?」
忘れないでよ…
私達が出会った時の事…。
私達はまだ、5才と7才だった。
「私達も、立派な幼馴染でしょ?」
「幼馴染…?
僕と芽衣が…?」
「そうよ…貴方は、私の大切な幼馴染。
だから私は今、貴方の側にいるの…。
亮ではなく、貴方を選んだから…。
修也…私…貴方が愛おしい。」
溢れた涙が、冷たい床に幾つもの雫を落とした。
彼は、頬に流れる涙を唇ですくいながら私をゆっくりと押し倒した。
私達が一つになった、最初で最後の夜だった。
何度も何度もキスをして、身体をよじりながら絡み合った。
時折、修也と目が合うと互いにはにかんで微笑みながら…
修也が「温かい…」と私を感じてくれた。
幸せだった。
こんな幸せに満ちた夜は、二度とないだろう…それでもいい。
修也…好きよ…
それから15時間後、私は血を浴びた顔の零の鎖を外していた。
震える手で、南京錠を外す。
「お姉ちゃん…っ。」
自由になった零が、私に飛び込む。
「大丈夫よ…もう、大丈夫…!
零、あなたは私が守ってあげる…。
だから、何も心配しないで…。」
零の頭を撫でながら、私はこの場をどうするべきかを懸命に考えていた。
修也は、遺体の側に落ちた銃を拾い上げて指紋を拭き取っている。
明らかに、彼の顔にも動揺が浮かんでいた。
こんな…こんなのを望んでいたんじゃない。
私達は、零の解放を見届けた後で心中するつもりだった。
まさか…こんな…
私は、零に小さな声で懇願した。
「いつか、いつか…貴女が亮に会うことがあれば伝えて欲しいの…っ。
お願い!亮に伝えて…「愛してる」って。
お願い…!」
そして、修也にも懇願した。
「私を殺して…」
彼は、首を横に振り「嫌だ」と拒否した。
だけど…
「零を守れるのは貴方だけよ?
それに….」
続けて言った台詞に、彼は苦痛の判断をして私の首に手を掛けた。
額に汗を滲ませて力任せに締め付ける。
修也の涙を浴びながら、私は逝く事ができた。
最後の約束が、二人を新たな苦しみへと縛りつけるとは知らずに…
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。
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酉肉威張ってマスク禁止令
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ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
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アザーズ🫡 ここは楽しくな〜んでも話せる「憩いの場所🍀」となっており〜ま〜す🤗 日頃の事…
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交通機関のターミナルでの事です。 待合所の座席にほとんどお客が座っている中、通路側の端の席に荷物が…
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