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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣珍道中・改

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旅人
20/03/09 08:54(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。







No.2796560 19/02/13 05:40(スレ作成日時)

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No.1 19/02/14 23:32
旅人0 

明日、2月15日は『涅槃会(ねはんえ)』であります。
せっかくあらたな珍道中録を始めるのに、お釈迦さまの亡くなられた日から始める?と思われるかと思うのですが、私、2月15日生まれ、なもので、そんな節目にもあるものですから。

涅槃会とはお釈迦様の命日に、お釈迦様の遺徳を偲ぶ法要を意味し、お釈迦様の最期を描いた「(釈迦)涅槃図」を掲げて、遺教経(ゆいきょうきょう)というお釈迦様の最期の言葉をまとめたというお経を読経するのだそうです。


涅槃会の法要は宗派や、お寺さんのお考えでその規模もだいぶ異なるようです。
涅槃図を掲げ、御住職が朝、遺教経┉正式には「仏垂般涅槃略説教誡教」(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)をあげて終わられるとか、その地区の仏教会の御住職がその年の担当となったお寺さんに集まって、そのお寺の涅槃図を前に遺教経をあげて法要をされるとか、旧暦の3月に行うお寺さんもあるようです。
檀家や一般の方にむけての法要を営まれるお寺さんもあり、涅槃団子とよばれるものをまいたり、配ったりするところもあるようで、せっかく(?)涅槃会という日に生まれたのだから、一生に一度くらいは涅槃会に参列して、涅槃団子というものをいただいてみたい。


と、いうことで昨年はなぜか希望者が多くて休みがとれなかった2月15日、明日、お休みをとって、一般にむけての涅槃会法要を営まれるというお寺さんにうかがう予定であります。
けっして食い意地がはっているからではありません。

そんな珍道中ではありますが、どうかお見守りください。

No.2 19/02/15 16:46
旅人 

涅槃会の法要に参列させていただきました。
念のためあらかじめお電話を差し上げて、一般の参列が可能かどうかを確認し、うかがいました。

お教えいただいた時刻より少し早めにうかがい、御本堂に上がらせていただくと、それは見事な大きな涅槃図が掲げられておりました。
中央にお釈迦さまが横たわれ、それを多くの人たちが取り囲む、┉ 仏教に縁なく育ち、縁なく生きてきた私でも、見たことのある絵であります。

涅槃図を前に机几をおき、御祈祷などに使われる仏具が置かれておりました。その隣に置かれた机几に涅槃団子とよばれるパステルカラーのかわいらしいお団子がお供えされております。
お団子は単色ではなく、金太郎飴のように何色かを合わせて、伸して、包丁で切ったような、そんなお団子でありました。

副住職さまが参列の人たち一人一人に、一般の者向けの振り仮名付きの経本を手渡し「みなさまにも般若心経を一緒に唱えていただきますので」とおっしゃって経本が配り終えるとすぐに、
仏具の置かれた机几の前で御住職が、その斜め後ろで副住職さまがおすわりになり、いくつかの真言を唱えて法要が始まりました。



No.3 19/02/16 00:11
旅人 

(涅槃会の続き)

いくつかの真言を唱え、いくつかのお経を唱えていかれます。
あるときは、副住職の読経の合間、住職が真言をささやくように唱えられ、あるときは御住職と副住職さまが呼び掛けのように御経を合わせられたり。
その間も細く長い┉例えるなら太い箸を伸ばしたかのような杖で金色の聖水の入った容器をかきまぜるような所作などを行いながら、涅槃会の法要儀式を営まれていかれます。
そして、木魚に合わせて一般の参拝の者たちと般若心経の唱和を。
さらにいくつかの真言や御経を唱えられ、立ち上がって踵をそろえて踵をあげると同時に膝を曲げては伸ばしという動作をされて、法要を終えられました。

その後、御住職さまからの講話がありました。
涅槃会、お釈迦さまの最期について。
涅槃図がお釈迦さまの最期の様子を描かれたものでありますので、涅槃図を使ってお話くださるため、大変分かりやすいものとなります。

悟りをひらかれた後も、生きた肉体を持たれているとお釈迦様であられてもどこか煩悩があり┉それは生きていることにより営む衣食住などに基づく、人として当たり前のものではあるのですが┉死を迎えることでようやく真の悟りをひらくことができるのだから、死は悲しむことではないと、集まったものたちすべてに最期の説法をされたという。
お釈迦様の最期を悲しむものは人間だけではなく、動物や植物も悲しみ、お釈迦様が息を引き取ると沙羅の樹は枯れてしまうほどであったという。
お釈迦様の生母マーヤ様が天界から駆けつけておられる姿も描かれております。お釈迦様が不老不死となり、更なる教えを広められるようにと不老不死の薬を持って現れたものの、薬はお釈迦様のもとに届くことなく、沙羅の樹の枝に引っかかってしまい、お釈迦様は亡くなられてしまった。
お釈迦様のような方でも不老不死の身体を与えられることはなく、死は必ず訪れるものである、という真実を、身をもってお教えになられたということになります。

    

No.4 19/02/16 07:01
旅人 

(涅槃会の続き)

そんな涅槃図、
沙羅の樹は足元のものは白く枯れてしまうのですが、
お釈迦様の頭の上には生い茂った沙羅の樹が描かれており、そのうち一本にお釈迦様の生母マーヤ夫人がお投げになった不老不死の薬袋が引っかかっております。

御住職さまいわく、「たくさんの動物が集まるなか、この中に猫とねずみは描かれていないのですよ」
┉?
なんでも、ねずみはその不老不死の薬袋を取ろうと沙羅の樹に登り、そこを猫が追いかけねずみを食べてしまったから、だというのです。
食べられちゃたねずみは当然いなくなりますが、猫は?
┉その場から追放されたとのことでありました。
さらにお話の続きがありまして、あえて猫を描かれた涅槃図もあり、いろいろな涅槃図をみて、猫を探すのを楽しみのひとつにしている方もいるとか!


涅槃図は本当にたくさんの登場人物がおられ、それぞれに逸話があるためかいつまんでのお話となりますが、とお話くださいました。


最後に一人一人御焼香させていただき、「好きなだけお持ちください」とのことで、まんまるな真っ白なごく一般言われるお団子と、
涅槃団子をスプーンですくって、いただいた袋に詰めてまいりました。


いつもお縁日には平日であろうと大勢の人たちで大変賑わうこちらのお寺さん。
涅槃会にお集まりになられていたのは全部で二十名強くらいでありました。一月のお縁日でいただいたお寺の寺報にご案内があったので、存じ上げていたくらいだったのですが、そんなにはお集まりにならないものなのだなぁと思いました。とても心が穏やかになる大変ありがたい法要でありました。
来年も誕生日休暇、とれたらいいな。
┉来年はもしかして土曜日、かしら✨


No.5 19/02/16 07:34
旅人 

(もうひとつの涅槃会、その1)


えぇ?また涅槃会のお話ぃ?
すみません。笑
┉じつは15日、父たち二人の月命日なのであります。休みをとってお寺さんにうかがうのに、父たちの眠るお寺さんにお墓参りに行かないというのはなんとも気が引けるものであったので、お寺さん巡りとなりました。
誕生日にお墓参り。ほんの何年か前には考えもつかなかったことであります。


義父の眠るお寺さん。涅槃会はこれといって一般向けの法要はないとおっしゃっておられたのですが、第1、第2駐車場に車が置けないくらいのたくさんの車で、御本堂でなにやら大勢の人が移動する気配がいたします。
檀家代表の方の涅槃会の法要がちょうど終られたのかもしれません。
私の気配に気づいて、お寺の女のかたがお声をかけてくださったのをいいことに、「月命日でお墓参りにまいりましたが、よろしければこちらのお寺さんの涅槃図を拝見させていただくことはできますか?」
┉義父が生きていたら、頭をこずかれそうな図々しい申し出であります。
それでも、笑顔ですぐに、「どうぞ是非ご覧になってやってください。今しか見られないものですから、せっかくの機会です、どうぞどうぞ」と御本堂にご案内いただき、拝見させていただくことができました。
こちらの涅槃図はコンパクトなサイズで、だからこそ、ひとつひとつに目が届く。┉本当にお寺さんお寺さんでいろいろな涅槃図が伝承されているようです。
こちらにお供えされていた涅槃団子は直径が大きな、すべてが同じサイズに整えられたものだけを並べた、お花の柄を作ったお団子でありました。

冷や汗かいてるだろう義父のお墓にお参りして、
┉お寺さんのはしごであります。


No.6 19/02/16 10:51
旅人 

(もうひとつの涅槃会、その2)


┉「もうひとつの」と銘打ったら、あとひとつはおかしいでしょ。と、みなさん思われるかとは思われますが、神社仏閣の参拝初心者のみならず、日本語もいまいちな情けない人間でありまして。
┉そんなやつの拙い文章でお目汚しをさせて、すみません。


三ヶ所目のお寺さんは、婦人会の方々が毎年涅槃団子をお作りになるという、地元では知る人ぞ知る涅槃会を開かれるということであります。もちろん、私が知らなかったことはいうまでもありません。
こちらのお寺さんはこれで五回目の参拝となりますが、涅槃会のご紹介をいただいたのは、こちらのお寺さんではなく、地元仏教会会長さんの、ちがうお寺の御住職さま。御自分のお寺は涅槃図を掲げて朝方御住職がお一人で読経されるだけだと話しながら、こちらの涅槃会を教えてくださいました。
お電話を差し上げたところ、「写経もありますし、手作りの涅槃団子やお汁粉のふるまいもありますので、どうぞお友だちをお誘いになって、是非お出かけください」とおっしゃってくださいました。
じつは写経も、お寺さんで全文を書かせていただいたことがなく、またとない機会だと、喜びいさんで向かわせていただいた次第であります。
┉ですが、本来涅槃会はお釈迦様の亡くなられた日。決して喜びいさんで出かけてはいけないので、そこはきちんと反省して。

早めに到着したので、写経から始めさせていただくことができました。写経の最後に『為』という文字があり、納経の際は仏さまにお願いしたいことがあればそちらにお願いを記すようであります。決まった文言(四文字)から選ばせていただくことが一般的なようですが、私の隣で写経なさっていた方は、菩提を弔うためとおっしゃっておられました。
みなさん、文鎮やmy筆ペン持参で、お寺さんのおっしゃってくださった言葉通りに手ぶらで気軽に出かけてまいった自分が情けなく恥ずかしかったです。以前写仏させていただいた折に、文鎮の必要性を痛切に感じたのに┉。相も変わらず未熟なままであります。


No.7 19/02/16 18:03
旅人 

(もうひとつの涅槃会、その2)続き


こちらは1600~1700年に建てられたという御本堂や山門、鐘楼などの建築物が残る、由緒あるお寺でありますが、涅槃図についてはいつ頃誰が描いたものかはわかっていないということでありました。大変大きなもので、大きなお寺さんの壁一面すらも超える大きさであります。

納経後、御本堂の涅槃図の飾られているお部屋に行くと、涅槃図の前にお手製とうかがっていた涅槃団子がお供えされています。
やはりまんまるなものではなく、金太郎飴のように切り揃えられた、きれいなピンク色の可愛らしいお花の模様です。
三十年以上前から、こちらの婦人会で考えて作るようになった涅槃団子だそうです。 
こちらのお寺は婦人会の方々の活動が大変活発なようであります。お揃いの支度で、お揃いの仏具をお持ちになって涅槃会の御詠歌(┉こちらのお寺さん独自のものか、曹洞宗のものなのかは、私が素人過ぎてわかりません。「へぇー、涅槃会の御詠歌もあるんだぁ」とただ感心して帰ってきたものですから)を奉詠されていました。
もっとも、私が生まれてはじめての涅槃会への参列でありましたので、すべてが目新しいものであります。御詠歌もはじめてお聴きしたくらいですので (^^;


奥さまお手製のお汁粉もご用意いただき、甘さもちょうどいいおいしいおいしいものでありました。


境内には小さなものではありますが、自然の滝もあり、大好きなお寺さんのひとつであります。



   平成三十一年二月十五日  涅槃会参列







No.8 19/02/17 15:25
旅人 

涅槃図はお寺、お寺でその図柄はさまざまでありました。
どうしてもこの絵におさめなければならない方々や、
例えばお釈迦様の横たわる御姿、
例えば沙羅の樹など、決まりごとはかなりあるとはいえ、猫は描かれない、という点に関してはさしてお釈迦様の終焉において大きな意味をなしてはいないので、描き手によってあえて描いてみたりと、ある程度の自由はあるためかと思われます。

今年、三幅の涅槃図を拝する機会をもつことができ、ふと気づいたのは、そのうち一幅の涅槃図はお釈迦様の真上に満月が描かれていたという点であります。
御住職さまたちが異口同音にお釈迦様が亡くなられた日そのものが、2/15であったということも定かではないこととおっしゃっておられましたし、なにより当時は旧暦であり現在の2/15とは一ヵ月ほども異なることになります。お寺さんによっては三月に涅槃会法要を営まれるところもあるようです。
旧暦は新月を朔日=1日とするため、15日は必ず望月、満月を迎えます。今年の旧暦の2/15は3/21の春分の日に当たり、当然のことながら満月であります。


【願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃】と平安の頃の僧、西行が詠んでいましたが、それはまさに釈迦入滅の日に、ということ。
この寒さの中亡くなられたと考えるより、あたたかな花の頃入滅されたと考えると、お釈迦様が亡くなられる時季までお選びになられて亡くなられたように思えて、少し心があたたかくなりました。

大きな満月が描かれた一幅の涅槃図が、こんなことを私に語りかけ、考えさせてくれました。




ちなみに2/19はスーパームーンのようです。その大きな大きな満月の下、私はなにを思うのかなぁ。

No.9 19/02/17 19:39
旅人 

夫からの誕生日のプレゼントは【ピーターラビットの御朱印帳】でした。
「これ、秩父三十四観音巡礼用?」と聞くと、
「いや、秩父は専用の御朱印帳じゃないと」

 

いったい、いつこの御朱印帳を使うというのだろう?



 

No.10 19/02/20 23:09
旅人 

いつも見守ってくださっている、仕事先のすぐそばの稲荷神社さまに、お昼休みを利用して参拝して参りました。


石段を何段登るのだろう。参道の一番下からでは拝殿は見えません。
見晴らしのよい小高いところに建つお社であります。

こちらの神社さんは、今の勤め先になって知ったのですが、本当に仕事にいく私を見守ってくださっているように感じる神社さんであります。
人間関係に疲れた時や仕事につまずいた時など、まさに困ったときの神頼み、で訪れております。
仕事を終えて前を通るときは、下からで申し訳ないのですが、
心のなかで今日もありがとうございました、とお声がけさせていただくのが日課となっております。
もうずっと拝殿に詣でていないことが気がかりで、昨日から今日は絶対、お参りしようと思って仕事に向かいました。

あたたかで爽やかな風がそよいで、気持ちのよい境内でありました。
よい昼休みにしていただいて、それもまた感謝いたしました。


登りはキツくて息が乱れた┉身体のなまった私でありました。が、お参りのあとは、それが嘘のように軽やかに下ることができ、
バタバタと忙しかった仕事も一つ一つしっかりこなすことができました。



No.11 19/02/22 06:28
旅人 

今日はお休み。

どこか少し遠出をしてみようと、ネットで検索をしてとても風情のある、由緒あるお寺さん┉というより、「行きたい!」お寺さんに出逢うことができました。なんとも便利な時代であります。

前スレをお読みでない方はご存じないことかと思いますが、私、大変な方向音痴であります。
今はこれまた便利な時代で、ナビというものがございます。が、私のクルマ、あえてナビを付けなかったので、あとから簡易ナビを購入したのでありますが、クルマも(私も)年をとり、ナビをつないでも起動しない!のです。自宅で充電して持ち込めば起動するのですが、これがまた、長い時間使うと突然切れる!
それはもう、大変スリリングなお出かけとなるのであります。
しかもナビって、「目的地周辺に着いたので」とか言い出して、目的の建物すら見えない状態で「音声案内を終了します」とか言ったかと思うと同時に、ただの地図に変わるではないですか!
そこが、クルマを停めて周辺をみて歩くことができたり、お店や周辺にお住まいの方に(大変ご迷惑なことではありますが)お聞きすることができたりするようなところでおっ放されたのであればよいのですが┉山のなか、バックするしかないような、辺りに建物一つないようなところで放された日には、もう、パニック難民!!

仕事中の夫に半泣きで電話をかけたことすらある、生粋の方向音痴の者であります。


昨夜、仕事から帰宅した夫におそるおそる、その行こうと企てているお寺さんのある地名を申し、私にも行けるものかと相談いたしましたところ、即刻、
「無理!」
と無情な一言!
┉まあ、千葉に向かおうとすれば反対方向の高速に乗り。
ナビの微妙な案内を間違えて高速道路の変更を間違えて、とりあえず下りられるところまで走って、ガソリンスタンドの方に道案内をしていただいたり。
ディズニーリゾートの駐車場に着いたり。
数々の伝説を築いてきた私を、一番長く見守って(迷惑を被って)きた夫であります、彼の判断することはおそらく、私本人の判断よりも的確にして正しい。

癪にさわるものの、仕事先の、一緒にクルマで出かけたこともない同僚にすら、薄々感づかれている天才的な方向音痴。夫の意見に従って、「行きたい!」お寺さん、今日はあきらめることにいたしました。


┉行けそうな気がするんだけどなぁ。






No.12 19/02/22 06:39
旅人 

ちなみに、
前スレで、行きたいと書くと近いうちに行くことができるというありがたいジンクスがあり、記しておきたいと思います。

獨鈷山 西明寺(益子観音)さん。



千葉に行くよりも全然近いし、一応は地図でイメージトレーニングしてみたんだけどなぁ。

No.13 19/02/22 18:38
旅人 

本日二月二十二日。
昨今流行りのフレーズ、平成最後の二月二十二日であります。
しかも三月を思わせるようなポカポカ陽気、まさに絶好の神社仏閣巡り日和であります。

近隣の群馬県桐生市、太田市、栃木県足利市の【七福神巡り】がどれもみな、六福神さまでとまっていたり、四福神さまでとどまっていたり、三福神さましかお参りしていなかったり。
今日は、どこかの七福神さまをコンプリートさせていただこう。我が家から向かう方角は三つの市どこもが同じ方角であります。
とりあえず、出発してしまおう!こんなにも気持ちのいいお天気、いつ、風が強くなるとも限らない。

結局どちらの七福神さまをコンプリートすることになったか、決め手となったのは、┉なんと私の腹の虫!どうせなら行きたいうどん屋さんを含むコース、┉ということで、桐生市の七福神巡りに決定しました。

桐生市の七福神さまは、福禄寿さま、大黒天さま、弁財天さま、そして毘沙門天さまを巡らせていただいてます。
本日寿老人さま、恵比寿さま、布袋尊さまのお寺さんを参拝いたしました。



さて、本日こそ、単身私のみでまわらせていただいておりますが、いつもは二人三脚の珍道中であります。
┉まあ、私が希代まれなる方向音痴(┉はさすがに言い過ぎ、だと思いたい)であり、運転も好きではなく、と同時にあまり運転技術もかんばしくなく┉そんな妻を見張り、なおかつクルマの運転の大半を引き受けるべく同行してくれている夫と神社仏閣巡りをしております。


夫は祖父母、そして両親、兄弟という家庭で生まれ育ったので、両親が無信心であっても信心深いお祖母さんがおりました。
どこどこのお縁日があると言えばかならず詣でておられたようで、幼いころ、夫はよく、そんなお祖母さんに連れられてあちこちのお寺さんや神社さんに詣でていたようでありました。

それに比べて、私、祖父母との同居がほんの短い期間であり、加えて両親は無信心。お仏壇も神棚もない家庭で育ち、加えて両親が離婚して、父方の祖父母、なにより父親の死に目どころか葬儀にすら参列できず。
ずっとずーっとお盆もお彼岸もなく過ごして何十年、初詣もなく当然厄除けなどもしたことも見たこともなく何十年と過ごしてきた、筋金入りの神社仏閣超初心者でありました。








No.14 19/02/23 02:32
旅人 

神社仏閣珍道中┉それはひとえに私が神社仏閣の超初心者であるが故。夫は両親こそは無信心者でありますものの、祖母さんの存在もあり、初詣も経験者で、お盆の迎え火送り火も行う家に育っておりますし、なによりも夫はかなりの歴史オタクなのでありました。
神社仏閣は歴史と切っても切れない間柄であるようで、初めて訪ねる神社仏閣さんの歴史的な流れにくわしいこと、くわしいこと!伝承されている民話に至るまで、まあ、スラスラと語ってくれるのであります。さながら無料の神社仏閣巡りのガイドさんのようで、運転もするは解説はするは、珍道中には頼もしい、なくてはない存在、なのであります。そんな彼から聞いた話によると、妙音寺さんには変わったお宝があるようで┉。


『妙音寺開運招福秘蔵什物』

〇 人魚のミイラ
世界各地に伝承される人魚。
日本では嵐を起こし漁師を惑わすと恐れられている一方、吉兆との説もある。
人魚の肉を食せば八百歳の寿命を得るとされ、不老長寿や無病息災の信仰対象にもなっている。

〇 雷獣のミイラ
落雷と共に現れると言われる雷獣。
東日本を中心に日本各地で伝説が残る。
中国では「山海経」に、この名が有り、水に入ると風雨を呼び、声は雷鳴の様だとある。
その皮で作った鼓は五百里にまで響くとする。
雷雨の時、空中を飛び地に落ちて樹木を裂き、人畜を害するなどと言われるが、
拝すれば落雷や暴風雨などの災害に遭うことなしとも言われる。

〇 幽霊画
幽霊画と言うと不気味なものとして怖い物見たさで見る物と思われがちであるが、縁起物としての一面も持つ。なぜならば、幽霊は「夜に出る」故に「世に出る」に繋がり、出世すると言われるからである。
幽霊画の作者も、応挙をはじめビックネームが多くいるが、真贋より縁起物として楽しむべきであろう。



┉という秘仏ならぬ秘蔵什物があるようであります。そんなことはお寺さんに行ったところで一切書かれてもなく、御本堂も閉ざされており、まあ、夫にいたっては行ったことのないお寺さんなので二人ともその秘蔵什物を見たことはないのでありますが。

天保の頃に大火にあい、重要な記録のほとんど、そしてなんと百体観音を安置していた栄螺堂を焼失してしまったとのことで、なんとも残念なことであります。
いつか、その秘蔵什物、拝見できたらいいと思ったりもする、私だったりして(*`艸´)



No.15 19/02/24 01:24
旅人 

久昌寺さんは、優しくてあたたかなご年配の御夫婦が
法灯をまもられているお寺さんであります。
この日はご不在。
少し淋しい思いでお参りをして、
七福神の【恵比寿】のスタンプを捺させていただき、
お寺さんをあとにしました。


西方寺さんは桐生市の市街地を抜けて、桐生城のあったという梅田の地にあります。
そしてまさにその桐生氏の菩提寺であります。
ナビ無しでは行けない、というほどではなく、曲がるポイントには分かりやすく看板も出ております。
しかし、もちろん私の場合は、久昌寺さんも西方寺さんもナビ無しではたどり着けない!しかも西方寺さん、道が狭い!!
「えええぇ、対向車来たらどうするんだろ、┉仕方がない、私に道を譲ってもらおう」
と、おばちゃんらしい考え方でおそるおそる道をすすめ、幸いにして対向車には出合うことなく無事に西方寺さんにたどり着くことができました。ほっ❤ 
┉そんなことだから、家族は全員私にハンドルを握らせないんだよなぁ。
たどり着いた┉というより、やはり御仏の御導きかと感謝しつつ境内に向かうと、薄紅の梅がお出迎えしてくれています。六分咲き、といったところでしょうか。参道は枯山水を思わせるような佇まい。
「ん?」
大きな大きな梵鐘です。
┉初めて見るような書き方をしておりますが、御朱印もお受けしてあるお寺さんであります。ですが、まるで記憶になかった。
お参りを済ませて【布袋尊】のスタンプを捺させていただき、ふらふらと梵鐘のところに。「ん、ん?」
どうやらこちら、梵鐘をつかせていただいていいようであります。
┉そう書かれてはいるけれど、聞いてからのほうがよいのかな。
躊躇することしばし。いやいや、迷いの念があってはいけない、つきたいのだ、ならば迷わずつかせていただこう!
またまたおばちゃんは、そう考えて、梵鐘を、
ごーん。
大きな、そして重みのある、心に響き、心洗われるような音色でありました。いつまでも音が長く長く残っておりました。ありがたいという念が自然にわき出る音色であります。
小高い地に建つ西方寺さんからの景色は、いつも心に爽やかな風を届けてくれる、そんな気持ちのよいものであります。
┉大きな梵鐘が記憶になかったのは、きっとそのせいに違いない!


夫には黙っておこうっと。(;-`´-)



    平成三十一年二月二十二日  参拝









No.16 19/02/24 06:53
旅人 

一人神社仏閣珍道中。(┉いやいや、そもそもが夫が一人で神社仏閣を参拝したら珍道中ではなく神社仏閣巡りでしかない。)
七福神巡りの他にも、ずっと気になっていたお寺さんがあり、そちらにも寄らせていただきました。


桐生市の長福寺さん。
七福神巡りの【弁財天】光明寺さんより奥まったところ、
昔からの住宅街にあり、未知の細そうな道を行くこととなります。当然住宅街ですのでクルマは通る、ですが万が一対向が困難な道であったら?
これはもう、歩いて行ってしまおう!

ということで、自らの器を知る私、吾妻公園という公園にクルマを停めて、歩いてまいりました。
どれくらい歩いたのかな?あたたかな春のような日、周りの景色を楽しみながら目には見えない、クルマで来たら感じることもない微かな上り坂を歩くこと10分以上、なのかな、そろそろ本当にこの道でよかったか不安になる頃に、お寺さんの小さな看板がみえました。
(歩いてきてよかったぁ。)┉かなり急な坂を上っていくところに駐車場があるようでありました。対向が難しそうにも感じられます。少なくとも、私に関しては、歩いてきてよかったぁ。

小さな坂を登ると途中遠くでチャイムが鳴るような音。
どうやらセンサーがあって、人が通るとチャイムが鳴るような仕組みになっているようです。そんなことに感心していると!
庫裏の前に、最近の造りと思われる石造のお地蔵さまがおられるのですが、サングラスをかけ、頚には大きな粒のネックレスをつけておられるのであります。驚いたのは、そのサングラスとネックレスは本物であったこと、それがまたあつらえたようによくにあっていたこと。

決して大きくはない境内には明るい日の光が燦々と降り注ぎ、柔らかな気があふれています。御本堂の仏さまから遊園地の観覧車が見えるかと思われます。新しいお寺さんなのかな?
┉いやいや、私の心をくすぐる石仏さまがたくさんおられます!そして御本堂の彫りの見事なこと!!風雨にさらされる外の彫刻が、それはもう細部にまでこだわった薄く薄く削られたところとか、これは新しいお寺さんではなさそうです。


  ┉続きます。


No.17 19/02/24 07:57
旅人 

御本堂の前での参拝をさせていただき、御朱印をお受けしようと庫裏にまいりました。いかにもお優しいといった雰囲気を身にまとわれた女の方が対応して下さいました。
私が、御由緒書などがおありでしたらいただくことはできますか?と聞くと、困ったようにそれはないですとおっしゃられました。私、どうしても気になる石造のお社が御本堂の前にあり、そのいわれだけでもとうかがうと、「お薬師さまなんですよ」と、ばぁと明るい笑顔になり、彫りの見事なことを申し上げると、こちらのお寺の御由緒をスラスラお答え下さいました。

元々は桐生市の中心地にあったこちらのお寺、昭和30年代に入り、桐生市の都市再開発で道路拡張工事の必要性から、移転要請があったのだそうです。そのときお寺の調査にあたった建築家のすすめで由緒ある御本堂を解体移転という形をとったため、姿をそのままに残しておられるのだということでありました。
桐生市の中心地からの距離はなんキロの単位。それはそれは大変な作業であったことでしょう。釘を一本も使っていないとのことで、だからこそ解体移転が可能であったのかもしれませんし、取り壊すには勿体ない造りであった、ということでありましょう。
それにしてもなんともぶっ飛んだお話があったものであります。

そんなことを考えながら、石造のお社のお薬師さま、そして御本堂に再度お参りに向かっていると、先ほどの女性が庫裏から少しあわてるように私を追いかけてお出になり、「こちらの寺のことが載っている新聞があるのでよかったらお持ちください」
とおっしゃられ、御本堂の脇からお入りになり、新聞を一部下さいました。

そこには、こちらのお寺に祀られておられる三宝荒神さまのこと、こちらに移転される前のお寺の歴史が短く書かれておりました。

こちらのお寺さんは、桐生が徳川の支配地となり、桐生新町を創設されたときに桐生の中心地、本町五丁目に建立されたようでありました。そこに合祀された三宝荒神さま。
火伏の霊験あらたかであられ、江戸の大火のおりにちょうどこちらのお寺さんを境に火がとまり、そのことから東日本一帯から信仰を集め、付近には旅館が建ち並び、門前には商い屋などで賑わいをみせたお寺さんだったとのことでありました。
それほどのお寺さんに移転要請をする!
そんな時代があったのだなぁ┉。




No.18 19/02/24 08:14
旅人 

いただいた新聞より。

寺伝三宝荒神縁起等によれば400年以上も前の話。
比叡山の名僧法心上人が諸国行脚のうち、利根川のほとりでうたた寝をしていると夢枕に荒神様が現れ、こう告げた。「その方、いまより私を背負って行脚しなさい。そして私のとどまるところ、艱難の衆人を助け生涯安楽の恵みを与えなさい」と。目覚めると枕元に一体の荒神様があった。お告げに従って諸国を巡り、ある時桐生新宿村雷電原坊主山に立ち寄ると、荒神様はたちまち千貫の重さとなり動かなくなった。そこで、法心上人は土地の者に夢話を語り、その地に荒神様を祀ったという。
其後50数年、戦国の世が去り、桐生郷は由良氏支配地から徳川氏の支配地に変わり、桐生新町創設時に桐生中心地5丁目に新たに建立された中央山多宝院長福寺と併せて荒神様尊像も祀られました。火伏の荒神様の霊験はあらたかで、元治元年の桐生新町の大火の際、この荒神様で火がとまり、以後長福寺イコール荒神様といわれ、東日本一帯からの信仰を集めた。




とのことであります。



   平成三十一年二月二十二日   参拝

No.20 19/02/24 21:24
旅人 

長福寺さんの、(二日)後日談

夫に22日に参拝させていただいたお寺さんのことを話したところ、「俺も長福寺さんに行ってみたいんだけど、いいかな」
やっぱり┉。
私が一人で参拝させていただくと、こうなることが多いから、結局初めてのところに一人で行くのを躊躇しちゃうんだよな(ー_ー;)
と、いうわけで、本日再拝させていただきました。

近くを歩いていると木魚の音が聴こえてきます。日曜日なので法事を営まれているご様子です。そおっとそっと。

 ┉
「これは見事だねぇ」
お寺の彫刻を見て夫がつぶやきます。
「ね。ここのところなんて別にそのままでもいいだろうに、あえてこだわって薄く薄く削ってるんだよね」
「ほんとだ!本当に細かいところまで彫られてるねぇ」
そんな会話をしていると。
奥さまが庫裏から出てこられました。「あ?」奥さまのお口から小さなお声が漏れました。そうですよね、一昨日、ですものね。(^-^; 御朱印もお受けして、御由緒書はないかだの、石造のお社はどういったものかなどの会話をしておりますし。
「先日はご丁寧にいろいろご案内いただいた上に新聞までいただきまして┉」「またお越しいただきましてこちらこそありがとうございます」

このやり取り!なんと心和むことでありましょう。こんな出逢い、こんなふれあいがあるから、御朱印をいただくのがやめられなくなっております。やがて法事が終わられて御本堂から出てこられたご住職に奥さまが「一昨日来てくださった方がまたお越しくださったの」と紹介してくださいました。
ご住職が「よろしければどうぞ(御本堂に)お上がりください」
┉ありがたいことでございます。御本堂の中も見事な彫りが施され、天井には大きな龍が描かれていました。

「こちらの本堂は元々は三宝荒神堂であったので、だいぶ小ぶりなものですけど、造りはしっかりしております」
「荒神さまは生活全般を見守ってくださる仏さまで、特に火伏のお力が強く、今も荒神さまの御札を台所などに貼っておられるお宅もあるかと思いますが┉」
「冬至の日にこちらで御護摩を焚いてお札を配らせていただいています」
と、ご住職がいろいろお話をしてくださいました。本当にありがたいことであります。

┉当然のことながら、我が家には御札もありません

No.21 19/02/25 22:49
旅人 

なにぶんにも神社仏閣、初級どころか超初心者。
三宝荒神さまが仏教の神さまと言われても、その『仏教の神さま』の意味がわからない(・・;)
仏さまが仏教で神さまは神社、みたいな、幼稚園児のようなレベルの者なので┉。

で、ありがたいGoogleさまにおすがりして、三宝荒神さまについて学んでみました。まあ、当然のことながらよくはわからないのですが┉。

【三宝荒神さま】
⚪竈(かまど)の神様。
⚪火伏せの神様。
⚪仏法僧の三宝を守る神様。
⚪暴悪なものをこらしめ、仏法と寺院を守る神様。


荒神様は民家の代表的な屋内神で、不浄をきらうことから、火の神に当てられ、竈の神様とされました。
仏教的には、仏法僧の三宝を守る神様であり、三宝を大切にする人や、法華の修行者を守護すると言われます。

お姿は、「如来荒神」、「麁乱(そらん)荒神」、「忿怒(ふんぬ)荒神」で三宝荒神となります。三面三眼六臂の神様です。お顔が三つ、ひとつのお顔に眼が三つ、手は6本と言うことです。仏様や神様の手を数えるときは臂(ひ)とお数えします。


不浄をお嫌い┉(。´Д⊂)
もともと神さまや仏さまは不浄をお嫌いなものであります。あえて「不浄をきらう」ということは、かなりのきれい好きな神さまであらせられるということ。
┉告白いたします。私は物は捨てられない、すぐ物は買う、片づけは苦手。
これはもう「三宝荒神」さまに叱られる!(・・;)


┉ああよかったぁ。
長福寺さんのご住職が三宝荒神さまの火伏の御札をご厚意でお授けくださることがなくて。
掃除も行き届かず、散らかったウチは三宝荒神さまにとって居心地の悪い家であります。


今度の休みは片付けをしようっと。(^-^;



No.22 19/02/26 06:05
旅人 

「さて、今日はどこに行きますか?」

┉休みの日の朝食が済むと、夫が必ずと言っていいくらいこう聞いてきます。正確に言えば、前日の夜にも。
そんなに出かけてばかりじゃダメだろ、と、思うには思うのですが、天気のよいお出かけ日和だったりすれば、もう「出かけるっきゃない」と思ってしまう未熟者で。(^-^;
そんなわけで、先日の土曜日は「行きたいと思うところに。」と言ってみました。遠出も可能な時刻であります。
「じゃあ┉」
ミステリーツアーのスタートです。夫いわく、「御朱印帳を忘れないでね」┉(^-^; ミステリー性が半減だな。
ちなみに言えば、この日は風も強く、気温も前日と一転して平年並みの、さしてお出かけ日和というわけでもなく。

ま、そんなよぶんな話はさておいて、珍道中録、珍道中録!


向かったのは初めてお聞きするお寺さん、群馬県甘楽町の寳積寺さん東国花の寺の一寺にあたられていました。
到着してお寺のご案内を拝見して初めて知ったのですが、垂れ桜のお寺のようで、当然花の頃はまだまだ先。大変な数の垂れ桜の樹が植えられております。
「もう!ちゃんと調べて来ないから!」
例によって連れてきていただいた恩を仇で返す発言です。
「そうだねー」┉慣れたものでありました。(^-^


 1280年にはすでに天台宗の寺として栄えていたという。1450年、国峰城主小幡実高が中興開基となり曹洞宗の寺として再興。現在の本堂は1793年に再建されたもの。本堂右手前に立つ菊女観音像は小幡信貞の腰元のお菊の霊を慰めるために建てられたもので「子ども授かりの観音さま」として参拝者が絶えない。病気平癒の身替地蔵、ふれ愛観音も信仰を集めている。上州観音霊場第19番札所でもある。

とあります。
おそらくは夫は『群馬県歴史散歩』あたりでこちらのお寺さんを知ったのかと。

それにしても東国花の寺の差し換えタイプの御朱印が存在するものなのだなぁ。
こちらは御朱印はすべてお書き置きで、四種類。御本堂の御賽銭箱に並んでガラスの蓋のある平台に置かれておりました。

No.23 19/02/26 10:55
旅人 

寳積寺さんは修行道場として栄えたお寺さんだったようであります。

境内には大きな、┉直径三メートルくらいでしょうか(┉違っていたらごめんなさい)イビツな半球の、人が手足を広げてゆったり寝られるほどの岩がありました。その岩にはなんとも物騒な【天狗の腹切り石】という看板が掲げられています。
1563年に寳積寺合戦という戦さがあったようで、
そのとき外敵と応戦した僧侶が二メートルを超える巨体であったようで、当時としてはずば抜けて大きなその身体つきから天狗の異名で呼ばれ、そのときその方がこの岩の上で切腹されたということで、そのことから天狗の腹切り石と呼ばれて今なお供養されているようであります。
また、その合戦の折、諸堂に火を放たれたようで、現在の御本堂はそのためその後築かれたものとなるのでしょうか。

その岩はもともと僧侶たちが座禅などを行う、修行の中心の地であったということであります。


また、当時この辺りの城主から寵愛をうけた女性の壮絶な秘話、【お菊さま伝説】。言葉を失うほど壮絶な最期を遂げられておられました。若冠19歳。
その美しさや聡明さ、片時も離さないほどのご寵愛から奥方や他の腰元の妬みをかい、城主の留守に山中で、石で造られたものに毒蛇やムカデとともに閉じ込められて亡くなられておられます。その恐怖たるや、想像を絶するものであります。
そのときの城主は小田原攻めの際行方知れずとなり、小幡家は絶えてしまったようです。
その後織田信長の孫がこちらの城主となったようで、その菩提寺ともなったようであります。

参道石段の脇には【身代り地蔵さま】が優しい笑みをたたえてたたずんでおられます。その昔、薬などない時代に、その身を薬のかわりとして削られて、背部は大きな空洞となっておられ、頚も大きく削られておられました。あまりにも痛々しいお身体の石仏さまであられました。その痛ましいお姿に心痛めた方が、お地蔵さまに三角巾で包帯をされていたのがまた印象に残りました。


そこここに植えられた垂れ桜の頃には早すぎではありましたが、足元に咲く色鮮やかな福寿草の黄色が、心なごませてくれた、寳積寺さんでありました。



   平成三十一年 二月二十三日   参拝

No.24 19/02/27 00:18
旅人 

群馬県に織田家。


ぼーっと生きてる私、おそらく夫が夫にならなければ知らなかった事実┉この場合は史実ですかね┉です。
あの誰もが知っている織田信長の子孫が群馬の地に移り住み、そこ┉群馬県甘楽郡小幡を治めていたなんて!夫に初めて連れてきてもらったときは本当に本当に驚いたものでした。
群馬県民なら誰もが知る【上毛かるた】にすらあつかわれていないのです。まあ、上毛かるたの成り立ちを知った今、それもまた当然だったことのようなのですが┉。


戦国時代のスーパースターとも言える織田信長。
本能寺の変で長男信忠と共に討たれ、信長の孫秀信の死をもって織田家は滅亡したかのように思われますが、フィギュアスケートの織田信成氏の登場で、信長の子孫がクローズアップされましたが、
信長の次男信雄が、信長には縁遠い関東の、世界遺産となった富岡製糸所に程近い、群馬県甘楽町を治めていたということでありました。

秀吉の小田原征伐後の1615年、織田信長の次男・信雄には大和宇陀藩と上野甘楽郡が与えられ、信雄は大和に入り、上野甘楽郡は信雄の四男で信長の孫にあたる信良に任せ、小幡藩を立藩させたということであります。
小幡藩立藩にあたり信雄は藩邸に付属する庭園の築庭を命じましたということで、いま、その跡地が【楽山園】という、その趣を残した庭園となっています。小幡藩の城下町もその当時を偲ぶことのできるところを残した、素敵な昔ながらの町並みであります。



ここに連れてきてもらった時は、もう子供たちが育ち巣だったあとのこと。
たしかに子供にはおもしろくもない庭園ではありましょうが、いずれ大きくなったとき必ずや心に残ったものになったと思うのに、
不器用な夫はそんな自分の知識や興味ある歴史を語ることなく、子育ての頃はまさに企業戦士のごとく仕事優先で、休みの日は全力で(?)休むような人でありました。(あ、いまもまだまだ現役でありますが)

もっと子供たちに伝えて欲しかったな。本当に惜しんでも惜しみきれないことであります。
群馬県に織田信長の子孫が移り住んでいた、なんて知ってることってすごい知識だと思うし、誇らしい史実じゃないのかなぁ。┉凡人、どころかおバカな私にはわからないけど。



    ┉続きます。



No.25 19/02/27 07:50
旅人 

今回参拝させていただいたのがその【織田家七代の墓】のあります、
【崇福寺】さんであります。


┉こうして出来上がった小幡藩は、織田家七代に亘って続き、二代信昌により藩政が固められました。
五代信右の頃藩財政が赤字となり、七代信邦の時に幕府による尊王論者弾圧事件に連座して蟄居され、弟の信浮が家督を相続し出羽高畠藩に移されました。
これにより織田家の小幡藩藩主は実質七代で終わり、その後は松平家が藩主を継ぎ、廃藩置県まで藩は続きます。

「織田家七代の墓」はその後もここ、群馬県甘楽町に残り、奉られてきました。

もともとは、さきに記した旧領主小幡家の菩提寺でもあり格式も高い寳積寺さんが菩提寺でありました。
四代信久が急に廃寺であった崇福寺を三年間で改築し、臨済宗に改めて菩提寺とし、寳積寺から先三代の墓石をここに移したのだそうであります。しかしその後1758年に焼失、再建後の1871年に失火により全焼してしまったようです。墓石の破損はその時に生じたものと言われているようです。
現在の崇福寺さんは墓所に隣接して建っておりますが、元々は墓所の前にある広い土地にあったようであります。

ここ織田家の墓所にはには信長の次男信雄を初代として七代が葬られています。崇福寺境内には二代信良と七代信富を除く十代信美までと、四代小幡藩主信久の実父高長に位牌が祀られた「織田氏位牌堂」もありました。


┉正直、織田宗家にあたる墓所を守るお寺としては小さなお寺さんであります。境内に陸続きに建つお家は何軒かあったのですが、ご住職のお住まいかどうかわかりませんでした。それでもご位牌を祀る位牌堂があるおかげで、参拝させていただくと必ずその立派なご位牌も拝することができます。

元々の寺跡地は現在公園を造る工事をすすめていました。
賑わうことがよいことかどうかはとにかく、公園ができる頃にはお寺さんも少し変わっていかれるのかもしれません。




    平成三十一年 二月二十三日   参拝

No.27 19/02/28 23:49
旅人 

【辛科神社】さん。

神社仏閣珍道中を始めて、何度かお名前を目にしていました。とはいえ、どちらにある神社さんなのかも存じ上げず、このたびの夫が立ててくれたどこに行くのかわからないわくわくのミステリーツアーに組み込まれており、参拝のはこびとなりました。
夫も初めての参拝で、『ナビに牽かれて辛科神社』といった感じであり、「えっ、こんな道行くの? ┉案内の看板ひとつも出ていないし、あまり整備された感じのところではないのかもしれないなぁ」とブツブツ。山道、というほどでもなく、さりとて畑の連なる道でもなく、ただ細い道をはいって、しばらく走っていくと、細い下り坂。神社敷地内につき静かにお通りください、といったニュアンスの文章の書かれた小さな立て看板がありました。さながらひなびた温泉宿に入って行くような、細いそれなりな傾斜の下り坂であります。
「┉駐車場がないんだぁ」  駐車場どころか駐車しておけるようなスペースがありません。
社務所と祢宜のご自宅を兼ねた社務所があり、そこには車を置くスペースはありますが、置いていいものかどうか┉見ず知らずのお宅に突然車で乗りつけるような感があります。「私が車から降りて聞いてみてからにしよう」と、社務所のインターホンを押して、中からおうちのかたが出てくるのを待っているあいだに勝手にそのスペースに車を入れている夫!┉許可をとってからにしてよ、もう!

出て来ていただいたついで┉と申し上げてはなんですが、御朱印をお受けできるかどうかうかがうと、参拝する間にご用意いただけるとのありがたいお言葉で。
そこからいったん廻って通りに出てからの鳥居にむかいました。
通りのすぐそばは畑┉というよりちょうどこんな季節であることもあって、農作物がないことからまるで野原が広がっているようにみえました。なんとも長閑な土地であります。
そんな長閑な風景を見下ろすように随神門があり、随神さまをのぞきみると( ・д・)!金属製の狛犬的な随神さまがおられました。あとで調べて知ったことですが、こちら神獣さまであるとのことでありました。


      ┉続きます。

No.28 19/03/01 01:48
旅人 

随神門には奉納された額が飾られておりますが、古いものであるためどんな絵柄なのかよくわからなくなっております。随神門をくぐってさらに少し高いところに拝殿があり、拝殿のむかって左手には神楽殿があり、拝殿の前には狛犬がおりました。

こちら辛科神社は多胡総鎮守の神社であります。
多胡の地はユネスコ世界遺産の多胡碑があり、何度となく登場する【上毛かるた】で、『昔を語る多胡の古碑』と読まれております
多胡の地は羊太夫という豪族が治めていたということで、羊太夫の伝説があるようです。


昔、羊太夫という者がいて、秩父で銅を発見して和同開珎の開拓をし、その功績を認められ旧多野郡吉井町から富岡市藤岡市にかけての土地を与えられたという。
彼の従者は神通力使う八束小脛(ヤツカコハギ)という者で、その者の神通力で羊太夫は空を飛んで都に日参していた。あるとき、羊太夫が御所での勤めをしている間、昼寝をしている小脛の脇のしたに生えていた羽のようなものを抜いてしまった者がいた。以後小脛は神通力を失い空を飛べなくなってしまったために、羊太夫は毎日参内できなくなってしまった。
朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると誤解して討手をさしむけた羊太夫は釈明も許されず、都の大軍に攻められ、ついに最期を遂げてしまった。そのとき羊太夫は、金の蝶に化して飛び去ったという。


┉このようなことを、うちの専属無料ガイドは何を見るでもなくすらすらと語る根っからの歴史オタクでありまして。なにやらもっともっと語っておりましたが、覚えきれず、聞けばまたさらに多くを語るため、正直めんどくさいので、多胡碑や羊太夫のことはこのへんでおしまいにして。


辛科神社さんの拝殿はさほど大きなものではありませんが、本殿の彫刻の細やかで美しいこと。拝殿と本殿の造りに差違を感じましたが、あとで調べたところによると造られた年が百年ほど異なるようでありました。
参拝を終えて社務所に戻ると、トレイにのせて窓の外に私の御朱印帳が置いてありました。この日途中から体調のすぐれなかった私は、御朱印帳を受けとり車を置かせていただいたお礼を述べると、そそくさと車に戻ってしまい ┉夫はもう少しゆっくり参拝したかったのか、もう一度再拝したいとのことでありました。



    平成三十一年二月二十三日  参拝

No.29 19/03/02 23:35
旅人 

群馬県高崎市の【仁叟寺】】さん。

こちらは、どうしても涅槃会に参列したかった私が、ネットで、
「群馬県内で一般の参拝者に向けて涅槃会法要を営まれるところ」と検索をかけて、ヒットしたお寺さんでありました。
結局、仁叟寺さんは一般に向けて、というよりは、檀家の、御詠歌の会の方々に向けたもののようで、やんわりとお断りされてしまったところでありました。
ですが、その際に、大きな大きなお寺さんであることを知り、いつかこちらに参拝したいと思ったしたいでありまして、このたび、そんな私の夢もかなえる、夢のミステリーツアーを夫が計画してくれたのでありました。

ところが大変残念なことに、私、(ツアー)途中で体調を崩し、せっかくの仁叟寺さん参拝は、トイレの神さま参拝をメインとしたものとなってしまいました。やはり、どこまでも珍道中を繰り広げてしまう私であります。
第三駐車場、だったか、第五駐車場だったかすら記憶に残らない勢いでトイレに駆け込み┉、そんな駆け込み寺は、お寺さんはもちろんのこと、駆け込んだ者もイヤだよなぁ┉。(^-^;

そして、なんとか第一回トイレの神さまの参拝を終え、夫を捜しがてら(!)山門に向かうと、夫が心配そうにかけ寄って来てくれました。ですがそのとき、私の目はすでに山門入ってすぐのトイレをとらえておりました。
心配と、何よりも迷惑をかけている、しかも、私の行きたいと願っていたお寺さんに連れてきてくれた夫を、「捜しがてら」お寺の正規ルートを辿ろうと企てるようなヤツには早速神罰がくだったのでありました。┉そう、もちろん、トイレの神さまの神罰であります。
こもる、こもる!(T^T)
仁叟寺さんが大きくて何ヵ所かに(外に、初めて訪れた私が知る限りでも二ヵ所!)トイレがあり、しかも、そのトイレのなかも一ヵ所ではなくて少なくても二ヵ所、多いと五ヶ所もあるような、大きなトイレを設けてくださっているようなお寺さんであったことが何よりの救いでありました。

┉念のために、これはあくまでも、参拝の記録なのでありますが、
どう思い出してもトイレに通いつめた記憶があまりにも大きくて、このような珍記録となってしまっているだけでありまして┉。
こんな珍道中はさすがに初めてなんですよ、本当に、もう!(T^T)


    ┉続きます。

No.31 19/03/03 17:07
旅人 

せっかく参拝に訪れたというのに、門を一つ見てはまた、(トイレの)神さまに会いに行く私。
このままでは御本堂にたどり着く前に、閉門されてしまうかもしれない。┉さすがにそれは大げさ?とりあえず、門をくぐってから向かうのはまずは御本堂の参拝ですので。

ただ、仁叟寺さんは、総門があって、さらに仁王門=山門になります。入口がわからず、緊急性もあったためお寺の裏にある駐車場に停めさせていただいたため、正反対の方角にある総門に向かう必要があり、その後も総門の真ん前にある山門にストレートに向かうことができずに、横にそれる始末です。最悪、門をくぐってから参拝することにこだわらずに御本堂の参拝に向かうことも考えましたが、参拝の途中で中座するほど失礼なことはありません。
一つ一つミッションをクリアして(トイレの神さまの参拝をしっかり終えて)から、御本堂に向かわないと。
そこで、いつもは私がお受けしている御朱印を夫に御朱印帳を託し、お受けしてもらおうと考え、夫に頼みました。ふたつ返事で引き受けてくれ、夫は御本堂へ、私は(トイレの)神さまのもとに向かいました。
やっと鎮静化の兆しがみられ、御本堂に向かうと夫が御本堂から出てきたところでありました。「お受けできたの?」
「いや、御住職がご不在でお書き置きになるんだけど、御本堂でお待ちくださいっておっしゃってくださっているので迎えに来たところだ」
「あれ、じゃあ急がないと申し訳ないね」
┉そんな会話をしながら御本堂兼庫裏の入口に向かいました。引き戸を開けると御住職の奥さまがちょうどお出になられ、開口一番、
「大丈夫ですか?」と、心配そうに私の顔をのぞきこまれます。
「!」┉何故それを!
夫よ、何故それをばらす?!┉いやいや、しかたないよな。夫にすれば一緒に参拝したいと思ってくれてのことだし。ありがたいことなのだ。( ノД`)…

大きなお寺さんの奥さまでありますのに大変気さくな方で、
「御本尊さまを独り占めして、どうぞゆっくり参拝してください」「写真も自由に撮って大丈夫ですからね」と、御本堂へ案内してくださりながらそう話され、退出してくださいました。


      ┉続きます。

No.32 19/03/03 18:08
旅人 

奥さまのご配慮で、ゆっくり御本尊さま、観音さまに参拝させていただくことができました。
そしてその後は御仏(とトイレの神さま)の御加護で、体調もとりあえずなんとか落ちついて、ゆっくりと境内をまわらせていただくことができました。
大きな大きな見上げる高さの┉さながら舞台のようなところにある御堂、文殊堂にもしっかり階段をのぼって参拝することができました。
そして薬師堂を参拝させていただき、私はとりあえず、もう最低限の参拝をまわらせていただけたことに感謝して、本日何度となくお助けいただいた(トイレの)神さまにもう一度だけお助けしていただくためにお寺の裏に先に向かいました。

まあ、大体私たち夫婦は参拝させていただいたのちはほとんど別行動するので、いつも通りの流れといえばそうなので。
おかげでゆっくりゆったり気を使うことなく存分に参拝し、境内を散策することができたと、夫は大変満足そうでありました。


節分には見上げる高さの文殊堂の舞台のうえから、いろいろな授与の品がまかれるようであります。



    平成三十一年二月二十三日  参拝


 追記)
仁叟寺さんは、地元の領主や地頭などの帰依と手厚い保護を受け、江戸時代においても幕府より寺領及び御朱印二十五石を改めて賜ったとのことで、今よりずっとずっと広く大きな規模のお寺さんであったようであります。
明治の廃仏毀釈のときでさえなんとかその危機を乗りこえたのでありますが、昭和の時代の終戦により、六町を超える広さを誇った地所を手離さざるをえず、いまの境内(それでも充分に広いのでありますが)の広さになってしまったようでありました。
想像もつかない広さだったのだなぁ。


No.34 19/03/04 18:28
旅人 

さて。夫が私に向けてのミステリーツアー(?)に凝ったのかどうかは知りませんが、この土曜日、やけに早めの時刻から、
「今日はどこか行きたいところはありますか?」
「少し遠出するなら、早めに出ないといけないからね」
┉お読みくださっている方はすでにお気づきかもしれませんが、あまのじゃくな私、
「いや、別に行きたいところはないし。いつもいつも休みのたびに出かけていてはダメでしょう?やらなきゃならないこともあるし」
と冷めた顔で言ってみました。外は一足早い春といった感じの、気持ちいい風もさほど強くないよく晴れた朝です。
「そうか。そうだよね」
「もしよかったら少し遠出をしようかと思ったんだけど┉ダメかな?」
「┉そうだね、今日やらなきゃならないことが別にあるわけじゃないし」
┉ダメじゃん!
神社仏閣巡りだけが自分を高める修行じゃなくて、たとえば断舎離とか、ね。ゆきとどいてたことのない掃除をするとか。やること、やるべきことは山とあるのよ。おーい!(;´・ω・`)」

┉そもそも、前日から話そうよ、ね⁉ もう!


と、いうわけで、今回はどんなミステリーツアー┉じゃなくて神社仏閣に参拝させてくれるつもりなのでしょう。
本当はあんまりミステリーツアーじゃないほうが御祭神はどなたであられるのかとか、御由緒とか見所とかがわかって参拝できるからありがたいんだけどなぁ。


「今日は足利から佐野にむかって、賀茂別雷神社さん、そこから満願寺さんに行こうと思うんだ。満願寺さんのあとは参拝を終えて時間に余裕があったら考えるってことで┉ いいかな?」┉はいはい、仰せのままに。


ところで今回は、私に起因しない珍道中となりました。『カモワケイカヅチジンジャ』さんと入力し距離から目的地を設定して。【加茂別雷神社】さんに無事到着いたしました。立派なお社です。ただ、宮司さまがいらっしゃらない。どうやら常駐されないようであります。そこで、『ご用の方は┉』と書かれた電話番号に電話すると「左隣が御自宅なのでお越しください」とのこと。ていねいにお書きくださった御朱印をいただいて┉。
「うーん」┉どうもこちらの神社さまについて調べた記憶がない。夫は夫でイメージしてた神社さんと違うという。うーん?



    ┉続きます。

No.35 19/03/05 02:20
旅人 


┉お気づきになられた方もおられるかもしれません。

『カモワケイカヅチノジンジャ』さんはわずか九百メートルの地に【加茂別雷神社】さんと【賀茂別雷神社】さんが存在していたのであります。
よもや同じ読み方で、しかもそんな近い地点に、異なる神社さんが存在するとは思いもよらずに、距離と栃木県の佐野市のどの辺りか、で、ナビで目的地設定をして、【加茂別雷神社】さんに向かったというだけのことであります。ま、いずれにしても珍道中であります。
怪我の功名、と言ったら失礼にあたるのてしょうか、おかげで【加茂別雷神社】さんに参拝させていただくことができた、ということになります。

ちなみに【加茂別雷神社】さんと【賀茂別雷神社】さんは御祭神も異なるまるで別個の神社さんでありました。


【賀茂別雷神社】さんは佐野市やその近辺の市で立ち寄るようなところ┉観光案内所とか観光センターとか他あちこちにパンフレットが置かれており、私どももそれで御名前が記憶に残っていた神社さんでありました。
ネットではその名は有名なようで、さまざまな限定御朱印がある神社さんであるようで、参拝に訪れてみて、その御朱印をいただく方がほとんどであったよう感じました。たいへん綺麗な、そしてかわいらしい雷ちゃんのイラストが散りばめられたさまざまな御朱印がございました。
百年の歴史のある神社さんでありますが、今なお整備を続けられており、また境内には黒山羊が飼われているような、のどかな高台に鎮座する神社さんでありました。
┉そうそう、その黒山羊ちゃんも御朱印になっておりました。



     平成三十一年三月   参拝




No.36 19/03/05 03:22
旅人 

栃木市の【満願寺】さんは、坂東三十三観音霊場となっております。

山門は1735年の建立とのことで大変立派なものであります。一対の仁王尊像は足利時代の作とのこと、たいへん貫禄のある立派な御像でありました。

御本堂(大御堂)は1368年足利義満公の寄進によって、観音堂として建立されたようですが、1740年の大火により、山門を残すのみで、堂塔はことごとく焼失してしまったとのことで、今の大御堂は1764年に再建されたものであるとのことであります。
三手先竜(みてさきりゅう)というみごとなたくさんの龍の彫刻がほどこされたものであります。
さらに1864年には本堂と書院を焼失し、そのため現在大御堂をもって本堂としているとのことであります。
焼失した本堂は、現在の本彷のあたりにあり、大日如来を本尊としていたと伝えられるようです。
現本堂の大御堂には弘法大師ご敬刻の千手観世音菩薩がご本尊として安置されているとのことであります。

ここで毎日、大護摩修行が行われているとのことで、また、私どもが訪れていた間にも祈願を依頼した信者のために、案内の僧侶が先立ち、さらには僧侶が三人、法螺貝を吹き、鍾を打ちならし列をなして本坊から御本堂に歩いて来られ、四人の僧侶で御祈祷をされていました。見ている者の身も引き締まる思いがするような一場面でありました。


奥之院に向かう道には、女人堂、大悲の滝、大師霊窟、聖天堂がありますが、現在大師霊窟には倒木により道が閉ざされ行くことができません。とにかく、ほぼ天然の山道。石段、というより悪路でありました。砂防ダムまでがあるような場所であります。
運動不足な五十代夫婦は往復で筋肉疲労を感じるほどでありました。

大悲の滝から石段を登ること百余段で奥之院の拝殿に入ります。この拝殿が鍾乳洞の入口になっており、中に鍾乳石で自然に出来た十一面世音菩薩の後ろ姿のご尊像が拝されています。




     ┉続きます。

No.37 19/03/05 10:17
旅人 

前述のとおり、奥の院、じつに鍾乳洞になっておりました。


「開山以前より霊窟の鐘乳石は、自然に生れた[十一面観世音菩薩]の後ろ姿として拝まれておりました。
かつて下野の国司が子宝に恵まれないことから、この鍾乳洞に21日間籠り観音様に祈念したところ男子を授かり、この子が後に出流山を開祖し、日光山の開祖でもある勝道上人であったといわれております。
上人はこの尊像に深く帰依し、二十歳にしてこの霊窟で三か年修行、やがて男体山の登拝、日光山を開創したといわれております。
さらには820年、空海が勝道上人の徳を慕って参詣し、この岩窟への参詣だけでは難儀であろうと当山の銘木で千手観世音菩薩を造立。千手院として称えたのが、今の満願寺といわれている」


縁起から、この十一面観世音菩薩さま、子授け・子育て観音として多くの信仰を集めているとのことですが、奥の院への道のりはじつに1.5km。

以前奥の院が女人禁制だったこともあり、女性の方は山道にある女人堂でお参りをしたといわれております。そうは言っても女人堂までもそれなりに足元が悪く、私などは子授けを希望したとしてもここまでの参拝、考えなかっただろうなぁ。実際、「私は女人だからもうここで参拝させていただくのでいいと思う」と申したくらいでありますし。

無言で私を置いて歩き続ける夫。これは私にもきちんと参拝するようにという意思表示なのでしょう。((;д; ) 私にすれば足腰の悪い夫をいたわっての発言なのでありますが。┉多少は。

やっとたどり着いた奥の院も、本当にまだ見上げる位置にあり、つづら折りの階段を上ってようやくようやく、たどり着くものであります。
奥の院が鍾乳洞であることには本当に驚きました。。┉正直に、正直に申し上げれば、どう目を凝らしても、十一面観音さまだと認識できなかった私でありました。
ただ一つ、これだけのみごとな鍾乳石を崇め奉る気持ちだけは理解できます。本当に長い年月をかけてできた大きな大きな鍾乳石であります。
なんとも申しわけない未熟者の参拝で、正直すまない思いを抱きました。ですが珍道中、素直に今感じたことそのままを綴ることも大切なのではないかと思い、そのままを書き記しておきます。
┉いつの日か、素直に、ありがたい十一面観音さまと拝する日が来るかもしれません。



      平成三十一年三月三日   参拝


No.38 19/03/05 15:19
旅人 

満願寺さんに向かうのにあたって、夫が選んだ道は、杉の林道! 
見るからに花粉まき散らしてますなう! みたいな道であります。しかもヘヤピンカーブが何ヵ所かある、対向車に要注意!みたいな道でありました。
┉ 私には決して無理だな。そんなところに連れてきてもらえる、こんなありがたいことはないな。そんな感謝の気持ちを内面に秘めたままに、流れる景色とたまぁにナビを眺めておりました。

ん?【立木地蔵尊】? 
でも地図のさっぱりわからない私が見ても、ナビに映し出されるその場所は、このままの道を走っても着かない、かなり回り込む必要がありそうです。(ふーん。そんなところが近くにあるんだな) (まあ、無理だな、無理だろうな。)
そう思って、画面から目を離して再び外を見ていると、
「!!」
「ねえ、そこに停めて!」
┉ナビ上ではずっと離れた場所にあった┉しかも左側にあるはずの【立木地蔵尊】が真横にあることになっています!(゜ロ゜)
┉まあ、もっともっとびっくりしたのは運転してる夫ではあるのですが。

『こちらのお地蔵さまは、弘法大師がこの辺りを歩かれた折に、二股の杉の( ┉!。その頃から杉の多いところであったのでしょうか )木立の一方に地蔵尊を刻んだものだと伝承されているようであります。
あるとき付近に山火事が起こり、もはや危険というときに、この土地の人達が、地蔵尊を空しく焼失してはならないとその立木を切り倒して、ようやく焼失を免れたという。その後信者が相談し、浄財を出しあって、この地にこのお地蔵さまを安置する御堂ができた』
とありました。


御堂の中は暗くてよくはそのお姿を拝することはできませんでしたが、思った以上に大きな立像が除き見ると見えました。御堂の隣にも苔むした大きなお地蔵さまと小さな六地蔵さまが、優しい笑みを浮かべて立っておられました。



     平成三十一年三月三日  参拝

No.39 19/03/12 20:02
旅人 

なんだか、いろんなことがうまくいかなくって┉、
仕事が休みな今日、こんなときお邪魔させていただいているお寺さんを参拝させていただきました。

夫は、な、なんと、先日の杉の林を訪れたその日から、咳が止まらず、次の日には熱まで出して!昨日、CTを撮ったところ『肺炎』の診断をされ、仕事を休んでおります。┉厳密に言えば、私に休むよう命令されたからで、昨日、肺炎と言われたその足で、仕事に戻って通常通り仕事をしてきた大馬鹿者でありまして!Σ(×_×;)!


お寺はなんだかにぎわっています。工事の業者さんがおられるせいでしょうか、境内のサンルームではお茶を飲まれる方々がおり、庫裏の玄関も開け放たれています。
こちらは御本堂の中に入っての参拝をおゆるしになっておられるお寺さんであります。今日は鍵がかかっております。
庫裏にうかがい、お声がけすると、奥さまが┉。
「今開けますね」
┉奥さま、なんだか疲れていらっしゃるみたいです。

御住職はお留守のご様子。
「家族に病人ができちゃって」とお疲れの原因を明かしてくれました。さしつかえなければ┉とうかがうと、なんと御住職が御入院されているとのこと。インドから帰ってきてすぐにかかったインフルエンザのあと、咳が出るでもなく熱が続いて、入院となったようでありました。

せっかく御本堂にお通しいただいたのに、肺炎談義で終わった参拝となってしまった、今日でありました。
 

肺炎のお二人が一日も早くよくなられますように(。-人-。)





No.40 19/03/16 15:01
旅人 

肺炎の夫を置いてきぼりにして、神社仏閣を参拝するのもなんなので、珍道中はお休みです。
こんなときだからこそ、病気平癒のお願いに参拝するのがよいのかもしれませんが┉。

自転車で買い物に行くと、ここ二年ほど初詣をさせていただいている、氏神さまの境内の桜が満開を迎えておりました。
白い垂れ梅も満開。
初詣の時と異なり、誰一人いない境内。それはそれは贅沢な、貸し切りの境内で花を愛でるひとときを過ごすことができました。
ただ残念なことに風がそれなりに冷たく強くて、長居をすることはできませんでしたけれど。

神さまが私にお声がけくださったような気持ちになりました。

No.41 19/03/17 18:15
旅人 

わが家の子供たちが小さな頃、私がどうしても行ってみたいと言って行ったところに、【鎌原観音堂】があります。
その【鎌原観音堂】を語るのに欠かせない、【浅間山】の引き起こした悲しい過去があります。


浅間山は上毛三山にこそ入ってはいませんが、(山自体が長野県と群馬県をまたいでそびえるものなので、上毛をうたうことに無理があるのだとも思われます)、車を走らせその山の姿が見えると思わずため息が出るほどに、美しい姿の山であります。長野県の旧軽井沢や信濃追分からみる浅間山も見事ですが、群馬県の北軽井沢からみた山並みの美しさもそれは見事なものであります。
浅間山は現在も活火山、私の小学生の頃にも、埼玉県や東京にまでその火山灰が降り積もったようなこともありました。

そんな浅間山には歴史に名高い大噴火があり、天明三年(1783)、あの歴史の授業でその名が挙げられるほどの飢饉、【天明の大飢饉】を引き起こした噴火であります。
この時の噴火は大規模な火砕流が土石なだれを引き起こし鎌原村を直撃し、村にあった93戸の家屋はすべて押し流されて477名もの命を奪うものだったようでありました。村で唯一残った建物こそが、小高い丘の上にあったこの観音堂だということでありました。

鎌原観音堂は今、杉林に囲まれぽつんと佇む、茅葺きのひなびた建物です。御堂の前には幅1.5メートルほどの石段があり、その石段前には赤い橋がかけられています。その石段は十五段。
噴火前には五十段前後あったことが、1979年に行われた発掘調査で明らかになっています。ここに押し寄せた土石なだれは五メートルほどにも及んだことになるようです。
この時たまたま村を離れていて難を逃れた人を含め、ここ、観音堂に逃げることができた村人93名が生き残ったに過ぎず、村人の8割もの命が失われたということであります。

発掘調査の折、埋まっていた石段に折り重なる二体のご遺体が見つかりました。遺骨の様子から、若い女性が年老いた女性を背負っていたものと推測されています。
発掘調査当時、そのご遺体の様子は大きく新聞記事等で扱われておりました。遺体の発見ということもありますが、それよりも、若い女性は年老いた女性を背負って石段をのぼっていなければ、おそらくは助かったであろうのに、最期のときまでその背に老女を背負っていたということを。


    

   


No.42 19/03/17 19:08
旅人 

ずっと長いこと私の心に深く深く残るこの【鎌原観音堂】に、残された歴史と悲話、どうしても子供たちと共に訪れたくて、
もうかれこれ十五年以上も前に、参拝をいたしました。
子供たちには事前にその鎌原観音堂に伝わる話を伝えて。

あのとき、実際にその石段に立ち、当時助かった村人たちが立ち尽くした境内に立ち、私はそこで子供たちとあえて語ることなく、
「自分だったなら┉」とひとり心の中で長いこと考えておりました。

親子、でなかったかもしれないのであります。
祖母だったかもしれないし、嫁と姑だったかもしれません。
隣の家に住むご近所さんにすぎなかったかもしれないのです。
┉自分だったなら┉



背負うた人を降ろしても、
背負われていた人も、逃げ延びた人も、
誰一人、その女性を責めたりはしなかった状況であったと思うのであります。
それでも、彼女は背負った女性をおろそうとはしなかった。
五十段もの石段を背に老女を背負ったまま、かなりの高さまで登ってきていたようでありました。
登りきれると思ったのかもしれない。背負った女性をおろす時間すらがおしかったほどに緊迫した状況であったかもしれない。
長いこと、長いこと、考えて┉
答などない、生きるということ、生きているということ┉
一人一人の生きざま、死にざまを、
ただただ、ぼんやり考えただけでありました。


昨年、ふたたびこの鎌原観音堂を訪れました。
御堂にはお年寄りたちがあつまって、談笑されておりました。


私はといえば、おんなじように
答などない人の生きること、生きているということ、
これからの自分の生きざま、死にざまなどを
ぼんやりと考えて、御堂を見上げてまいりました。


ここは、そんな恐ろしいときをみつめた、見まもった、
観音さまが今日も静かに村の人たちを見まもっておられます。







No.43 19/03/18 06:07
旅人 

二度目に訪れたとき現地の看板資料を読んでいると、発掘調査の際には皇室の方々もご見学に訪れ、皇太子さまは実際に発掘作業をなさったようでありました。
美智子さまはその際歌を読まれておられ、書き写してきたつもりだったのですがみつからなくなってしまっていて(;_q)

それなので┉ネットで鎌原観音堂について調べたところ、
件の女性ふたりの御遺体は石段の下のほうだった、、という記述がほとんどでした。
私の記憶の中では、だいぶ上まで登られていて、「あと何段登れれば助かったのに」のように語られていたものが残ってしまっていたため、間違った記載をしてしまい、申しわけありませんでした。お詫びして訂正いたします。


観音堂に詰めていた村人の方々は、ご先祖さまのことを語り継ごうとこちらにいらしてくださっていて、御朱印もこちらの方がお書きくださいます。
囲炉裏を囲んで、お茶をお出しくださって、伝えられていることをお話しくださっているようであります。┉知らなかった!
私は、夫のほか息子も待たせていたため、
「よかったら上がってお茶でも飲んでいって」と、おっしゃってくださったのを、残念に思いながらお断りしてしまいました。
上がらせていただけばよかったぁ!(。>д<)


また、参拝にうかがいます。(*_ _)

No.44 19/03/19 05:52
旅人 

今日はお休みのつもりでいたら、
昨日、普通に勤務の日だと知ってがっかり。
未熟だなぁ。働けることに感謝して生きたい、と思うのでありますが、志と心は異なってしまって┉。

神仏を崇め、生かされていることに感謝して、自然の移り変わりにも感謝して、運命を運命と受けとめ、日々をたんたんと生きる┉
古来日本の人々が当たり前に生きてきた生きざまに憧れはするものの、なかなか煩悩を捨てられない。
日々未熟なままに一日を終えている今の私であります。
心のありかたが定まらない。


このお彼岸のとき、わかっている私の欠点、わかっていて逃げている私の課題に、取り組むことこそが本当のご先祖さまの喜ぶ供養なのだよなぁ。それはお墓参りよりも望まれることなのかもしれません。

No.45 19/03/21 03:15
旅人 

肺炎が治った┉かどうか、本当のところは不明なのではありますが、とりあえず熱もでなくなり、夫はようやく仕事復帰をいたしました。

春の彼岸。やっと今日、私はお墓参りができそうであります。
夫も子供たちも仕事なので、私のペースでのんびり両家のお墓をお参りして来たいと思っております。
とはいうものの私の実家のお墓は、離婚した父と祖父母の眠るところでありまして、私はその葬儀にすら参列することがかなわなかった存在ですので、本来お参りしていいものかどうか┉。ただ、御住職にうかがったところ、ほとんど訪れる者もいないようだということで、大手を振って墓参しております。

それにしても、母方のお墓というのは墓参するものなのでしょうか?
あまり墓参すら習慣としていなかった両親のもとに育ったものですので、その辺すらよくわからない。もしかしたら、「嫁したら生家はもう他家」というのが当たり前だった時代の名残で、あまり母方のお墓はお参りしないような感じなのでしょうか。
お墓やらお寺さんといったものに無頓着というか、ともすれば無関心な両家の両親のもとに育った二人でありますものの、さすがに両家の父方の墓所も母方の墓所も、墓参できる私たち。わが家の子供たちもその四ヶ所の墓所がわかっております。ただ夫の母方のお墓は昨年とうとう跡継ぎの方が墓終いをされたようであります。その話がでたとき、長女第一子である義母は烈火のごとく怒り狂ったということでしたが、そもそもがあまり信心深い人ではないので、いざ墓終いをすると「せいせいした」とまでいう豹変ぶりで┉。自分の夫の祥月命日も忘れていて、お墓参りに誘うと「めんどくさいからいいや」「お墓参りなんてえらいんねぇ」と言う人なので、なんだか自分が信心深いような錯覚にまで陥りそうであります。
┉時代、ですかね。ちなみに義母はいたって健脚でして、高尾山も友人たちと毎年訪れ、登りも下りもすべて自分の脚で歩くことが自慢な人なので、価値観が異なるのだと思うのであります。

No.46 19/03/21 09:23
旅人 

花曇り┉というのでしょうか。今日は少し肌寒い曇った天気です。
一人で両家のお墓参りの┉ついで、といってはたいへん失礼にあたりますが、少しお寺さん巡りなどしてみたい気分でおります。

群馬県の桐生市には【山手通り】と呼ばれている通りがあります。最初に申し上げておきますが、東京のそれとはまるで異なる、連なる小山の麓をはしる通り、とでもいうことから名付けられたのか、古くからの通り┉田舎の、よくある対向一車線(┉っていうのでいいのでしたっけ?)の道路であります。
その通り、実にお寺さんが密集しているところであります。どこからが山手通りであるのかはわからないのでありますが、この界隈で有名なえびす講のひらかれる西宮神社さん、境内を共にした延喜式内上野十二社の一社美和神社さんがあり。
神社さんの隣に小さな、藤棚のある広場があって地続きに円満寺さん。その隣に長い坂道を登る寂光院さん。寂光院さんの麓といった位置関係になる妙音寺さん。少し離れて奥まった、小高いところに法経寺さん。さらに少し離れて、その名のとおりに蒼い蓮の花の咲く青蓮寺さん。
本当に短い距離の通りに沿って、それだけの神社仏閣があります。
さらに言えば、少しその通りから奥には光明寺さん。
その辺りには吾妻公園という古くからのひなびた公園があり。桐生が岡公園という無料の動物園、入場料のかからない安い値段で乗れる遊具のある遊園地があって。

先日コンプリートした【桐生七福神】はこの山手通りにほぼ集中していて、そのおかげでこの辺りにこんなにもお寺さんが集中していたことを知りました。


さあ、遅くにかけた洗濯が終了のブザーを鳴らしてだいぶ経ちました。洗濯を干してお墓参りに行って参ります。

そのあとは、桐生?太田?

No.47 19/03/23 06:15
旅人 

花曇りどころか雨すら降りだし、
そんな雨に、ああ、私の日頃を戒めておられるのだなぁ┉とか思う。
それでもお寺さんのある方角は曇ってはいるものの明るく見えます。止みそうな気がする、私の勘は結構当たるので、なんの迷いもなくお寺さん目指して車を走らせます。が、┉。
あと少しでお寺さん、というところまで来て、いよいよの本降り。
確かに止むには止むのではあろうけれど、もしかしたらお参り中はこの雨のなか、ということになりそうです。
明日仕事だしなぁ。もう若くないのに無理して風邪でもひいては仕事先に迷惑をかける。傘を買おう。
コンビニで傘を買ってお寺さんの駐車場に到着しました。お、空いている❤

以前このお寺さんの駐車場で、買って間もない車を当て逃げされてしまいました。一目でわかるくらいにぶつけてありました。
そのときの担当してくださったお巡りさんが、「お寺の駐車場で当て逃げなんて、よくできるよなぁ」と、おっしゃったのが印象的でありました。「バチが当たるよ、きっと」といいながらも、
「こういった当て逃げは目撃者でもいない限り、まず犯人がみつからないと思っていてください」
┉私としてはその方に仏罰など望んではおりませんので、ただ修復していただきたいだけでございましたが、お巡りさんの予想通り、自分で直すしかないこととなりました。
仏罰ねぇ┉。もしかして私に?なのかなぁ。そんなことさえ考えてしまったけど┉いちおう、人の世では私は被害者、落ち込むけど、さらに自虐的になるのはやめよう。そんな風に思って気持ちを切り換えた過去の当て逃げ事件でありました。

今年の初詣でも駐車場内で車同士のぶつかるところを目撃したりいたしました。これはこれで当事者同士はたまったもんではないことでしょうが、このくらいの事故で済むように、仏さまのお力添えがあったのかなぁと思ったりしました。
〖ものは考えよう〗起きてしまったことを、いかに早くいい形で切り換え消化するのかが、楽しく明るく暮らす生き方になのだろうな。それがなかなかできないのが、私、なんだなぁf(^ー^;


┉雨に濡れて、さしたる掃除もしないで済んで、ありがたい、、、はあり?そんなお墓参りとなりました。


予想通り、誰一人訪れてはいない、主人の実家のお墓でありました。

No.50 19/03/23 08:38
旅人 

雨の石段を気をつけながら登っていると、石段の隙間に小さなすみれが咲いているのをみつけたり。いつもは外が明るいためか、なかなかよくは見えなかった観音堂の天井画がはっきり見えて敢闘したり。
雨の日のお寺さんもいいものだなぁなどと考えながらふと周りをみわたすと、周りは家族みんなで、あるいは親子三代四代で訪れる方々がほとんどで、一人で来ているのは私くらい。
私も祖母に連れられて、お墓参りをしたよなぁ。


わが家の子供たちは、わが家が次男の家、分家、ということもあり、祖父母と墓参した思い出はほとんどありません。そういうことは古い考えをもった義両親でありました。跡継ぎでない次男の家は、と差別もありました。
義父の生前から、法事すらも義理の姉と兄の都合だけで日時を決め、「その日の都合がどうしても悪ければ、来なくてもいいけど、、、とにかく法事は最優先だからな!」┉いじめとしか思えない。そんな旧家でもあるまいし!
次男、次男と言われるたびにムカッとする私を尻目に、幼い頃からそんな風に育てられて疑問すら抱かない夫にも不甲斐なさを感じて、なかなかこの嫁ぎ先の家風に馴染むことができなかった私であります。

義父とはよく衝突もしました。納得がいかないとそれは違うとはっきり言い、頑固な義父が「悪かった」と頭を下げたときには、周りから「あの義父に謝らせた嫁」とびっくりされていたようでありました。
そんなぶつかり合いをしてお互いの気心を知った私と義父なので、むしろ晩年の義父と私は、入院先で実の父娘と思われていたくらいに仲良く過ごせていたと思い(込んでい)ます。
そんな義父の私への遺言は、
「うちのやつらはみんな、誕生日とか命日とか忘れちゃうようなやつらばっかりだから、○○頼んだよ」
その時はまだ遺言ってほどの体調でもなくて、「ええぇ?私は次男の嫁でしょ?頼む筋は他でしょ?」と返したのですが。
義父が亡くなって一週間後、初七日の日に、普通に友達と旅行に行ってしまった義母をみて、義父の遺言をしっかり守っていこうと固く心に決めた私でありました。


義母はもちろん、義兄もほとんどお参りしなくなったお墓。
実は次男である祖父と、次男である義父が眠るお墓だったりする。のでありました。┉(;´・ω・`)、じいさん┉。

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