神社仏閣珍道中・改
【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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(続き)
※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。
引導のときに用いられる法語は、宗派によって異なる場合もありますが、最初に仏の教えを説き、故人の戒名、そして生前の徳を称える形式になっている場合が多いようです。
葬儀の前に親族に対して、僧侶が生前のことを聞かれ、法語をつくることが一般的だといい、この場面ではまさに『義母の人生を一言で語るなら』、という『カラオケ』であるとか『旅行』であるとかが織り込まれておりました。
さほどお寺さんと深い繋がりのない家においては、この一般葬において語られる生前の姿は家族から語られた内容に頼るしかなく、旅行が好きで全国各地は元より海外にも何度も旅行した、であるとか、カラオケが好きでテレビに出演したエピソードとかが語られてくるわけで。
…うーん。
一般葬ともなると故人をまるで知らない人物も参列くださるわけで、ここで語られる人物像が全てとなるわけであります。
まぁ、たしかに、夫である義父の初七日の日に、娘や息子にも黙って町内会の旅行に行ってしまっていた強者の義母、それはある意味端的に彼女を表しているかと。
三人の子供たちが揃ってその二つのエピソードを挙げるくらいのことであったくらいで。
知らない方がこれを聞いて想像する彼女はさして実像からかけ離れてはいないことでありましょう。
はて。
私は子どもたちの目にどのように映っていたものか…。
末恐ろしくはありますが、これを当人は聞くことはありませんからね。
さて。
この引導を渡す場において、曹洞宗など禅宗系の宗派では、法語の最後に「喝」や「露」など大きな声を出し、故人の魂を激励することもあります。
亡くなったことを故人に自覚させ、穏やかに仏のもとへ導くための激励とも言われています。
よく通る美しいバリトンのお声のお導師様の〝喝〟。
あの大きな音の〝ジャラン〟以外によもやびっくりするものなどないと思っておりましたが、…甘かった。
(続き)
※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。
さて、仏教にはさまざま宗派があり、それぞれご本尊や使用する経典が違うこともあります。
それでも基本的な考え方は、通じるところがありますが、この〝引導〟の方法などにも少し違いもあるといいます。
臨済宗や曹洞宗など、禅宗系の引導儀式は、古来中国の黄檗希運禅師という禅僧の逸話に由来しているのだといいます。
この黄檗希運禅師と呼ばれる方は帰郷した際に肉親と会ってはならないという戒律を守り、盲目だった母親とも会われなかったといいます。
しかし、禅師の母親は帰郷していることに気づいてしまい、禅師会いたさに、舟で故郷を後にする禅師を追い、川に飛び込み溺死してしまったというのです。
禅師は急いで戻りましたが、母の亡骸は川底に沈んだまま。
禅師は自分の行いを悔い、法語を唱えて喝を発し、持っていた松明を川に投げ入れたのだといいます。
すると、安らかな顔をした母の亡骸が浮かび上がったといいます。
このことから、臨済宗や曹洞宗では松明を使い、それを投げるという行為が行われるのだといいます。
そして、この黄檗希運禅師が発した引導法語で引導を行っておられるのだといいます。
うーん、この由来が全てであるかどうか、…私には少し違和感がありますが…。
さて。
曹洞宗の葬儀についてのあれこれを書いてまいりましたのもここでようやく終わりとなります。
あー疲れた。
期間が開きすぎて、記憶も飛びかけておりました。
とりあえず四十九日法要までに描き終わることができて…よかったぁ。
ここ近年、比較的新しい、背の高い観音さまをあちらこちらのお寺さんの境内で見かけることが増えているよう思います。
その観音さまの石像、【ぽっくり観音】という名が付けられています。
人は必ず死を迎えます。
これは避けようのないことであります。
ならば、出来るだけその死は苦痛な く、周囲の人々に手間をかけさせることなく迎えたいものと、誰しもが考えるのではないでしょうか。
それを『ぽっくり逝く』、あるいは『ピンピンコロリ』などと言われたりします。
そのような利生を得るため神仏に祈願することを【ぽっくり信仰】と言ったりするようです。
つい先日、群馬県みどり市の光榮寺さんのご住職さまの法話で、この『ぽっくり観音』さまのことが語られました。
今は前述したように全国的にもあちらこちらの寺院においてこの『ぽっくり観音』さまを拝むことができるけれど、と話された上で、実はこの『ぽっくり観音』さま、奈良の、それこそほとんど人が訪れることすらなかったようなお寺さんが発祥であったのだのだとお教えくださいました。
この奈良のお寺さん、【吉田寺】といい、別名『ぽっくり寺』としてその名を知られているといいます。
この『ぽっくり寺』が一躍脚光を浴びるようになったのは、昭和四十七(1972)年の、有吉佐和子女史の『恍惚の人』がベストセラーになってからと言われ、この小説は当時の流行語ともなり、映画化もされるなどし、ある社会現象をも巻き起こしたといいます。
当時まだ子供であった私は、さすがにこの小説のタイトルくらいは耳にしていたものの、当然内容までは知らず、それでも聞き慣れないこの『恍惚』という言葉に対してどういう意味なのかと周りの大人に聞いては困らせた(であろう)ことはかすかに記憶にあるような、ないような…。
そうした中、『ぽっくり往生の寺』【吉田寺】さんはテレビなどで紹介されるようになったのだといいます。
それを観た六十~八十歳代の女性たちが中心に、毎日バスでこの吉田寺を訪れるようになったといい、多いときなどは実に二十七台もの大型バスが訪れたのだといいます。
この奈良の斑鳩の地、吉田寺まで行くことのできない人々の声を聞いて、あるいは檀家さんにこの観音さまを招致してほしいと言われ、次第に日本中に広まる事となったのだといいます。
(ぽっくり信仰についての続きとなります)
奈良県斑鳩にあります【吉田寺】さんの創建は古く、天智天皇の勅願によると伝えられ、本堂西側には妹君・間人内親王の御陵と伝えられる清水の古墳があるのだといいます。
その後、平安時代末期、永延元(987)年に【恵心僧都源信】によって開基されました。
恵心僧都は『日本浄土教の祖』と呼ばれ、お念仏を称えることで極楽往生が叶うことを一早く説かれ、著書である『往生要集』は法然上人や親鸞聖人にも多大な影響を与えることになったといわれます。
ぽっくり往生の信仰の由来はこの恵心僧都に由来するものでありました。
吉田寺の御本尊は恵心僧都がお母さまのために発願した『丈六阿弥陀如来』さま。
恵心僧都は臨終が近づいたお母さまに浄衣をお着せになり、お念仏「南無阿弥陀仏」を称えられたところ、お母さまは阿弥陀さまのお迎えをいただかれ、眠るように安らな極楽往生を遂げられたといいます。
恵心僧都はお母さまの大往生に感銘を受けられ、お母さまの三回忌追善供養と末世衆生救済のため、栗の大樹から丈六阿弥陀如来を顕されます。
これが吉田寺さんのご本尊の阿弥陀如来さまであり、この丈六阿弥陀如来の宝前で御祈祷を受けると、与えられた寿命を全うした後に長患いなく穏やかに極楽往生できるという霊験となり「ぽっくり往生」の信仰の礎となっているのだといいます。
おや?
…ぽっくり信仰のご本家といわれる吉田寺さん、観音さまではないようですが?
ま、まぁ、そうしたかたちで変化していくのは、日本という国ではままあることのようで。
なんなら、ぽっくり観音さま以外にもぽっくり地蔵さまもおられます。
それをひっくるめて『ぽっくり信仰』と呼ぶのでありましょう。
実は私、このぽっくり観音さま、あるいはぽっくり地蔵さまと称される石像にあまり好きではないものがあり、それもあってあまり手を合わせることかありません。
それは、いかにも年老いた男女が大きな観音さま、あるいはお地蔵さまにすがりついている、というもの。
私の『ぽっくり観音』さまとの出会いはまさにこの老人が二人すがりついた物でありました。
すがりついてまで長生きを祈り、そしてぽっくり逝くことを祈りたくはないかなぁと、思ってしまったのでありました。
そもそもが私、長生きしたいという思いを抱いたことがないので。
(続き)
今、巷ではあちらこちらに老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅やらが建ち、デイサービスがあり、ショートステイがあります。
ケアマネジャーさんがおられ、訪問看護や訪問介護などのさまざまなサービスが展開されるよとなりました。
ですがほんの少し前まで、この介護と呼ばれる役割は家族であり、家族というより端的に言えば『女』であり、『嫁』であった時代が長く長く続いてきました。
誰にも頼れず、愚痴すら憚られる時代に、描かれたのが有吉佐和子さんの【恍惚の人】であったようです。
私がこれを読んだのはもう恍惚の人という言葉は同世代の人には通じないほど時が経過しておりましたし、私の祖母は老人ホームに入っていたくらい、そうした〝時代〟は改善、改革されてきておりましたが…。(それでも今と比べれば、まだまだではありますが)
そうした、誰にも言えない思いを抱えた女の方が、わずかな隙間時間を作って、顔を隠して、この吉田寺を訪れていた時代があったといいます。
祈願をするというよりは愚痴を聞いていただき、日々をただ穏やかに過ごすことを願ったのだと思います。
今の若い…下手をするともう私たちの世代においてだって、核家族化が進んだ時代で、自分たちがすでに核家族で育っており、祖父母との同居もしたことがなく、老いていく姿やら〝恍惚〟となっていくさま、壮絶な〝恍惚〟を知らずに育ち、生きてきています。
そこにもうすでに〝介護〟の大きな受け皿ができていたからです。
ぽっくり信仰というものに良い印象が持てなかったのは、ひとえにあの〝観音さまに年老いた男女がすがりついてお願いしている像〟のせいであろうかとも思います。
そして私が長生きを望んではいないこともあろうかと思います。
ぽっくり逝きたいのは確かではありますが、今まで生きてきた自分の道のりを考えたとき、それはあまりに図々しい願いな気すらして。
それはもうすでにある程度決められている運命として受け止めるしかないであろうと思ってもおりました。
でも。
この光榮寺さんのご住職さまはこうお教えくださったのです。
「ぽっくり逝きたいと願うことは、なにも自分のため、ということではない。
周りの手を煩わせたくない、そうした優しさからの願いだから」と。
目から鱗でありました。
いや、少し考えればたしかにそうなのです。
自分に当てはめすぎて、そういった考えに及びませんでした。
ただ…。
ぽっくりと逝かれる側としては、心に傷にも近いものが残るような気がいたします。
あのとき体調の変化に私が気づくことができなかったから…、とか。
もっともっとそばにいたかった、とか。
これからようやく蟠りであった溝を埋める時間を持てると思っていたのに…、とか。
人の人生は人の人数分。
人の亡くなり方も人の人数分。
…私はこれからどう生きて、どう死んでいくか。
後悔ばかりの人生ではありますが、後悔してもあとには戻れない。
まさにこれからの生き方。
まぁ、私を取り巻く、私の最期にそばにいてくれる人にとってのとらえ方はその方次第。
人は死から逃れることはできない。
どう死んでいくかも。
それと同時に老いることからも。
誰もが望んでなどいない認知症にかかってしまうことも誰もがありうること。
だから今を自分なりに精一杯生きること。
…まぁ、それもまた言葉で言うほど簡単なことではない。
ましてや、まるでたるみきった筋肉と同じくらいに弛んだ心でいる自分には。
それでも自分なりに頑張ろうと思う。
今日一日頑張ったなって、思えるような一日を過ごすことを目標として。
ここでもう一踏ん張りすると、そうした一日になるぞって自分を鼓舞して。
最近考えたこと。
考えていることを書いてみました。
まあ、相変わらず支離滅裂でまとまっていませんが 笑。
【月々の守り本尊さま】
四月、旧い暦では卯月。
卯月は『ウヅキ』の花からきているそうです。
このウヅキの花の咲く時期は五月から六月とされていますが暦は旧暦、その名残りであります。
花より団子のおばさんは卯の花というと『ウヅキ』の花というより、食べ物の『卯の花』=おからの煮物を思い出してしまいます。
この食べ物の『卯の花』、私は大好きなのですが、夫は一箸を付けるのもイヤというほど嫌いだといいます。
おからというのは、安くて、食物繊維も豊富で、イソフラボンも含まれて、大変良い食品なのですが、一人二人のおからの煮付け『卯の花』を作るには多い量で売られています。
残った半分を冷凍したり、クッキーを作ったり。
『卯の花』の煮付けの惣菜を買ってしまった方が安くつく様な気すらするのではありますが、好物だけあって、こだわりが強い私。
そこは長い年月かけて自分好みにと編み出した自分なりのレシピが外せない。
そうすると冷凍したおからを抱え、好きではない(しかもめんどくさい)クッキーを作ることになるので、私は『卯の花』を食べたくなると密かに葛藤をするのです。
あ、『卯の花』の煮付けのことなど書いてしまったから、この葛藤のループにはまってしまった。
閑話休題。
ええと…、そうそうそもそもが卯月のことではなく、毎月毎月の守り本尊さまについて書こうと思ったのでした。
卯月、四月。
四月、五月の守り本尊は『普賢菩薩』さまであるといい、普賢菩薩さまは辰年巳年の守り本尊でもあられます。
同じ仏教であっても宗派や、お坊さまのお考え一つで、この守り本尊さまという考え方にあまり肯定的でないこともありますが、そこは弱い人間でありますので、守り本尊さまがおられると知れば、やはり知りたくもなりその守り本尊であるという御仏に(言葉に語弊があろうかと思いますが)親近感がわくものであります。
つまり、十二支だけでなく月々に守り本尊さまがおられるということは、誕生月の守り本尊さまもおられるということにもなりましょう。
ということから考えると、前述した辰年巳年に生まれ、四月五月に生まれた方は、守り本尊さまは『普賢菩薩』さま、ということになりましょう。
(せっかくなのでウヅキの花)
(【月々の守り本尊さま】続き)
毎月の守り本尊さまを挙げてまいります。
一・二月 虚空蔵菩薩さま
三月 文殊菩薩さま
四・五月 普賢菩薩さま
六月 勢至菩薩さま
七・八月 大日如来さま
九月 不動明王さま
十・十一月 阿弥陀如来さま
十二月 千手観音菩薩さま
なるほど、辰年巳年生まれの四、五月生まれの方の他にも、一、二月生まれの方で丑年寅年生まれの方の守り本尊さまなどなど、十二支においても、月々の守り本尊さまが同じという方もおられるようです。
四月の守り本尊さまといわれる【普賢菩薩】さまは、『文殊菩薩』さまとともに【釈迦如来】さまの脇侍をつとめ、六牙(ろくげ)と呼ばれる六つの牙をもつ白い象に乗っておられます。
普賢菩薩さまは、その梵語名からは『あまねく勝れた者』という意味をもたれ、仏の功徳をほどこし、仏のもつ「慈悲」を象徴する菩薩とされています。
比叡山では、毎年四月に四箇大法の一つとして、『普賢延命法』が行われ、普賢延命菩薩は延暦寺ではゆかりの深い尊格として知られているといいます。
比叡山において祀られているのは、大きな円相に金色に輝く20臂(ひ)の普賢延命菩薩が描かれています。
頭部には煌びやかな五智宝冠をかぶり、各手には様々な持物を執り、菩薩がのる寒色系の蓮台は、四頭の白象(頭上に四天王が立つ)が支えています。
経典ではとくに『法華経』の信仰者を守護するとも説かれ、また『華厳経』の【普賢行願品】では、
普賢菩薩さまの次のような十の誓願が説かれているといいます。
『まさに十種の広大の行願を修すべし。
なんらをか十となす。
一には、諸仏を礼敬す。
二には、如来を称讃す。
三には、広く供養を修す。
四には、業障を懺悔す。
五には、功徳に随喜す。
六には、転法輪を請す。
七には、仏住世を請う。
八には、常に仏の学に随う。
九には、衆生に恒に順ず。
十には、普くみな廻向す。 』
もうすぐお釈迦さまのお生まれになられた日、灌仏会がまいります。
今年はご本尊さまにお釈迦さまをお祀りのお寺さんを参拝させていただきたいところだけれど…。
まぁ、『誕生仏』と呼ばれる小さなお釈迦さまの像をおまつりし、そこに甘茶をかけるのだから、ご本尊さまはお釈迦さまでなくとも良いのだろうけれど。
群馬県館林市にあります茂林寺さんは知らなくとも、日本昔ばなしの【分福茶釜】はご存知の方が多いことでしょう。
…どうかなぁ。
今って。
そもそもうちの子どもたちが知っているかどうかすら不安になってきた。
でも平成生まれの子どもたち、あの「♪坊や、よい子だねんねしな」の『まんが 日本昔ばなし』は生まれた頃〜生まれる前にすでに終わっていたものの、『ふるさと再生 日本の昔ばなし』を一緒に観たし…。
さすがに知っているかな。
知っているんじゃないかな。
…そう思いたい。
あとで聞いてみるとしましょ。
念のため【分福茶釜】を簡単に書いておきます。
『上野国の茂林寺の和尚さんは茶の湯が趣味で、あるとき茶釜を買ってお寺に帰ります。
和尚さんが居眠りをしていると、茶釜から狸の頭や手足を生やしたのです。
それを見た小坊主たちはびっくり仰天。
ところが、和尚さんはそれをまったく信じようとしませんでした。
そんなあるとき、和尚さんがお湯を沸かそうと、茶釜を炉にかけると、茶釜は頭を生やし尻尾を生やし、足を生やした狸が正体を表しました。
(これはなんと怪しい茶釜だろう)と和尚さんは、屑屋さんに茶釜を売り渡しました。
その日の夜のことです。
茶釜は自ら頭と手足の生えた正体を現し、猟師から逃れるために茶釜に化けたことを屑屋さんに明かし、ぶんぶく茶釜(分福茶釜)と名乗りました。
狸は、火にかけられたり、カンカンと叩かれたりと寺で散々な目にあったことを打ち明け、屑屋さんには自分をもっと丁重に扱って欲しいと懇願します。
『丁重に扱ってくれるなら、軽業や踊りの芸を披露しましょう』と狸が持ちかけ、屑屋さんは見せ物小屋を作りました。
狸は音楽に合わせて踊りを踊ったり、綱渡りをしたりして人気を博しました。
一財を成した屑屋さん、疲れ果てた狸を憐んで、儲けの半分をお布施とするとともに茂林寺に茶釜を返却しました。
それから…もう二度と狸にも戻らなくなったぶんぶく茶釜。
茶釜は茂林寺のお宝として、今でも御本堂に祀られています。』
というもの。
館林の茂林寺のそばには、この絵物語が何話かに分けて看板にされており、館林駅から茂林寺に行く道中の塀に取り付けられています。
(茂林寺 続き)
いかにも〝昭和〟といった感の土産物屋さんの横を通って、総門をくぐると…、参道には狸の像が、ずら~っと置かれています。
前レスの写真がその内の一体です。
総門をくぐり、目の前には大きな茅葺きの総門がそびえる空間だというのに、大勢の狸の像に囲まれて、お寺さんにいることをすっかり忘れてしまうほどです。
でもこの狸さんたちに会いに来ているところもあったりするのが茂林寺さんであります。
というか、茂林寺さんから狸の像をとったらもはや茂林寺さんでなくなるような気がいたします。
茅葺きの楼門。
元禄七(1694)年の建立であるといい、普段の私ならここで茅葺き屋根に心ときめかせ、楼門の閉ざされた扉の中に思いを馳せるのでありますが…。
ここの、ですね。
ここ茂林寺さんの楼門の下、なんとベンチになっているんです!
それでは足らないとばかりに楼門の柱の外にもベンチが置かれているのです。しかもあの駅前とかでよく見かける背もたれにカラフルな宣伝の書き込まれたものが。
いつも、いつ来てもそこに目がいってしまい、こうして参拝を振り返るとき、(あ、せっかくの楼門なのにあまり拝見してこなかった)と毎回毎回思うこととなるのですが…。
ましてや今回など、楼門の先の満開のしだれ桜が目を奪い、…はたから見ると丁寧に頭を下げているかに見えたものでしょうが、気持ちはおおかたが桜に奪われているという、なんとも申し訳ない参拝ぶりでありました。
そう、見えてまいりました。
満開、です。
息を呑んで立ち尽くします。
…普段の私ならさんな気持ちにむちうって御本堂へとむかうというのに。
総門と楼門の前に居並ぶ狸の像に心和まされ、桜をめでて、ようやっと御本堂前に…。
…絶句。
どう考えてもおかしな光景が目に飛び込んできます。
御本堂に背中を向けた集団です。
まぁ単体、もしくはペアが集まっての集団ではあるのですが…。
そうなんです。
しだれ桜をカメラ(スマホを含む)におさめようとしている方たちで、驚くべきは御本堂入り口のど真ん中に三脚を立ててずっと居座る方と、自分としだれ桜とを撮ってもらうために次々とポーズを取り、撮影者(男性)に指示を出し、とれた写真をチェックする女性。
ええ、御本堂に入れやしませんがね。
(茂林寺さんの続き)
正しくは【青龍山茂林寺】。
その開山を『大林正通』法嗣としています。
寺伝によると、正通和尚は諸国行脚の折、 上野国に立ち寄り、伊香保山麓で『守鶴』と出会います。
この守鶴こそがのちに茂林寺に分福茶釜を持ち込んだ老僧です。
応永三十三(1426)年、正通は守鶴を伴い、館林の地に来住し、小庵を結びます。
応仁二(1468)年、青柳城主赤井正光(照光)公は、 正通に深く帰依し、自領地の内八万坪を寄進し、小庵を改めて堂宇を建立し、『青龍山茂林寺』と号しました。
正光(照光)公は、 自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務めたといいます。
その後大永二(1522)年には、『後柏原天皇』から勅願寺の綸旨を賜り、寛永十九(1642)年には、三代将軍『徳川家光』公より二十三石四斗余の朱印を下賜されております。
さて開山の正通和尚に伴われてやってきた僧守鶴は、じつに代々の住職に仕えます。
元亀元(1570)年七世の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。
この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがなかったといい、守鶴は、自らこの茶釜を、
福を分け与える【紫金銅分福茶釜】と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると申したといいます。
さらに時を重ねた十世の代、熟睡してい守鶴は手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまったのだといいます。
これ以上、この寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せたといいます。
人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。
時は天正十五(一五八七)年二月。
守鶴が開山大林正通和尚と小庵を結んでから実に百六十一年の月日が経っていました。
後にこの寺伝が、明治・大正期の作家、『巌谷小波』氏によってお伽噺【文福茶釜】として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になるのです。
(茂林寺さんの続き)
寺伝はお伽話の分福茶釜とは内容はだいぶ異なっていますが、茂林寺さんに【分福茶釜】と呼ばれる茶釜が祀られているのが事実。
とりあえず、この茂林寺さんに祀られている『分福茶釜』は、
〝狸が化けてそのまま戻れなくなり茶釜になってしまった〟ものではなく、
〝僧守鶴さんがどこからか持ってきた、何杯汲もうとも湯がなくなることがなく、コンコンと湯が湧き続ける茶釜〟でありましょう。
とはいえ、守鶴さんがいなくなったのち、今でもこの茶釜がコンコンと絶えることなく湯を湧かすことができるのかどうかは誰にもわかりませんが、とりあえず、立派な茶釜が御本堂のお内陣裏手に祀られていることだけは紛れもない事実です。
さて。
こちら茂林寺さんのご本尊さまは
『釈迦牟尼仏』さま、そう、お釈迦さまであります。
まもなく灌仏会。
先だって私、今年はできたらお釈迦さまがご本尊でお祀りされているお寺さんの灌仏会に参列させていただきたいと、ぶつぶつと申しておりました。
そう、まさに茂林寺さんはそのお寺さん。
調べてみたところ、灌仏会=花まつり、ありました、ありました。
【花祭り】 5月7日、8日開催
於守鶴堂
とあります。
うーん、これは運命、でしょうか?
お導き?
…狢さんの?
狸さんの?
うーん。
ま、それも私に似つかわしいかも。
そして。
もしこの珍道中録をお読みくださった方の中で、茂林寺さんに参拝したいと思われた方のために、
茂林寺さんの宝物拝観は
■拝観時間
午前9時~午後4時
火曜・水曜・木曜 定休
御守や御朱印をお授けいただく寺務所で受け付けをして(有料)の拝観となります。
十二時から一時までお昼休みとなりますのでご注意ください。
【いざいざ奈良】
JR東海の鈴木亮平さんによる新CMが放映されるようになりました。
「いざいざ長谷寺」
そう、鈴木亮平さんが口にした瞬間から、私の心は地上三メートルくらい舞い上がります。
と言っても私は高所恐怖症ですので、実際にそんなに舞い上がったりしたら、それはもはや恐怖でしかないので、舞い上がるなら数センチ程度にしておきたいところ。
いやそもそも天女でもないので、一ミリも舞い上がることは無い…ってわかっておられる、…はいすみません。
でもそんな無駄口をペラペラと言う、…書くくらいに、ワクワクどきどきしてしまう〝奈良〟。
〝長谷寺〟さん。
長谷寺さんは、私が入り浸るかのようにいつもいつもお邪魔させていただいているいくつかのお寺さんのうちの一つ、『真言宗豊山派』さんの総本山。
いつか必ず!必ず行きたいお寺さんの一つであります。
「天空の御寺(みてら)があると聞き、奈良の隠れ里へやってきました」
ほえぇ、行きたい♡
「願い事よりお礼を言いたくなるほど、私の心は晴れていました」
…ですよねぇ♡
ああ、ほんとそうでしょうね。
「奈良は行くからおもしろい」
…行きたい。
『源氏物語』や『万葉集』にも登場する長谷寺さん。
あの一本のわらしべから長者になる『わらしべ長者』にも長谷寺さんが出てまいります。
しかも!
しかもです。
今春期特別拝観が開催されておりまして、令和六年三月一日より、御本堂と大講堂の二ヶ所において特別な拝観が許されているのです。
〇本尊大観音特別拝観
場 所 長谷寺本堂
期 間 令和6年3月1日~7月7日
国宝である御本堂の中央におられる身の丈十メートルを超える
御本尊十一面観音菩薩のお足もとに入り、観音様のお御足に触れていただくことができるのです。
しかもその記念として、観音様とご縁を結んだ証の『五色線』を授与していただけるのだとか
〇本坊大講堂特別拝観
場 所 長谷寺本坊(大講堂)
期 間 同じく、令和6年3月1日~7月7日
重要文化財に指定されている本坊(大講堂)に入ることができ、ご本尊と同じ大きさを誇る『<掛けられない掛軸>観音大画軸(複製)』と、
長谷寺の縁起を長大な巻物にした『長谷寺縁起絵巻(複製)』をご覧いただけるといいます。
はあぁ…♡
いざいざ奈良♡
【忌中、そして喪中】
義母の四十九日が済むまで、私どもは忌中となります。
そして忌が明けても喪中、喪に服す期間であります。
これについて知人との会話ですれ違ったものがあり、あらためて調べてみました。
【忌中】の読み方は、『きちゅう』です。
仏教において忌中は、亡くなった日を一日目として、『四十九日法要』が執り行われるまでの間を指します。四十九日法要を終えた状態が『忌明け(きあけ)』です。
神道では四十九日法要にあたる『五十日祭』を終えるまでが忌中です。
その間は穢れ(けがれ)の状態であるため、神社への参拝は避けるべきだと考えられています。
実はこの知人、神道の家。
私が「今は神社に行けないから」と言ったことに対して、不思議に思ったようで、
「どうして?」
と聞いてきたのです。
「忌中だから」と答えると、なおも、
「忌中だとどうして神社に行けないの?」
(…えっ?)
…正直なところ、いくら神道の家の方とはいえ、それ知らないものなのかしら、と思ったのは事実です。
死を穢れとするのはまさに神道。
神社に行ってはならないことなど、誰よりも知っているのではないかしらと思ってしまったのです。
今、キリスト教徒の方たちでも、周りの常識とも言える『忌中』に服すのだといいます。
キリスト教では死は決して恐れるものでもましてや穢れなどではない、神のもとへ行ける喜ぶべきことといった考え方。
もちろん教えでそう言われていても、その死は決して喜べたりするものではないのが現実であり、だからこそ自然とその『忌中』を受け入れられることとなったのだと思います。
それなので私は少し言葉を慎重に選びつつ、
「仏教でも忌中は穢れを嫌う神さまのお住まいである神社へは行かないのよ。忌中という言い方が神道で使われるものかどうか知らなくてごめんなさい。
仏教でも五十日祭に当たる四十九日が明けるまでは神社にも詣でてはいけないし、家に神棚のある家では、白い半紙を神棚の前に貼って神さまの目に〝穢れ〟がうつらないようにするんだよ」
と申してみました。
知人は本当に知らなかったようで
「知らなかった。教えてくれてありがとう」
と言ってくれました。
私のような無宗教の人間が、こうした内容をペラペラと語っていいのだろうかと、内心少しドキドキしたりもしたのも事実なので。
(忌中・喪中についての続き)
『喪中』とは、亡くなった家族を偲び、冥福を祈る期間のこと、といいます。
喪に服すことを【忌服】とも言うといいます。
『忌』と『服』の文字は、それぞれ喪に服す期間を示しているといいます。
【忌】は死の穢れが残るとされる期間です。
仏教なら四十九日の法要まで、神道なら五十日祭まで。
これが終わると故人の近親者は「忌明け」となり、死の穢れといった考え方から解放されます。
忌明け以降は、【服】の期間です。近親者は故人の死を悼み、冥福を祈りながら喪が明けるのを待ちます。
『喪中』の中に『忌中』は含まれるよう感じますが、こうした『忌服』という考えですとわかりやすいかもしれません。
あるいは『服』の期間=『喪中』なのかもしれません。
そういえば昔の人は「ブクを着ている」とか「ブクだから」という表現をされていました。
まさにこのことだったのだなあと、今腑に落ちました。
よくものを知らない私は
(方言で喪中のことをそういうのかなぁ)
と思っていたのです。
忌中は死の穢れの残る期間ということで、忌中にやってはいけないことや控えた方が良いことがあります。
故人が亡くなってから四十九日間は次のようなことを控えるのがマナーです。
・神社への参拝
・慶事への参加
・新年のお祝い
・飲み会への参加
…そうなんです。
神さまだけではなく、周りに対してもマナーであるのです。
そもそも、元々は忌中の四十九日間は家族は家の外に出ないことがしきたりでありました。
しかしながら現代は会社や学校には『忌引き』の期間が明ければ、出社や登校いたしますし、それはもう現代においての当たり前の常識となっています。
ただ、上記のことに関しては今なお守るべきこととして残る忌中期間のマナーであるのです。
慶事とはいわゆるお祝いごと。
結婚式はもちろんのこと、七五三、お宮参りなども含まれます。
とはいえあくまでも忌中期間であるならば四十九日間のこと。
今の七五三などは一年中、その姿を見かけます。
注意したいのは・落成祝い・開店祝い・就任祝いといったお祝い事。
これらのお祝い事については不義理にならぬよう、しっかりと口頭で伝え、忌明け後、あるいは喪が明けたのちに何かしらのお祝いを差し上げるのが良いでしょうね。
(忌中・喪中についての続き)
「ねぇ?祖母が亡くなった時の服喪期間はどれくらいだっけ?」
そう私が聞くと、
「は?そんなのみんな同じじゃないの」
と夫。
「ええっ!違うよ」と言いますと、
「何言ってるの、おんなじでしょ」
と、夫は全く取り合わない。
…呆けたな。
以前自分の祖母が亡くなったときにはそんなことは言ってなかった。
まぁ、期間を忘れている私も五十歩百歩、でしょうかね。
たしかに、ネット上で二親等までみんな一年間という表現をする説もありました。
でもたしか、たしか、父母なら一年とか、祖父母なら何ヶ月とかいうものがあったはず…。
それは息子も知っていました。
そうですよね、十八年前とはいえ、祖父を亡くした時に、子どもたちに忌中とか喪中とかを、その間してはいけないことやその期間を伝えた覚えがあります。
ほ〜ら、やっぱり、…ではなくて、調べてみました。
ちょっと衝撃の事実があったり。
そしてまた、時代で変遷してきている可能性もあり。
諸説あるようなところもありました。
少し整理してから、書いてみたいと思います。
【里見の阿弥陀堂】
群馬県みどり市に【里見の阿弥陀堂】と呼ばれるお堂があります。
通りを少し入った所にある、地元の方以外では歴史好きな方くらいしか知らない小さな堂宇です。
そばには高津戸峡と呼ばれる小さな渓谷があり、そこの景色が心癒されるとちょっとした観光スポットになっています。
ただ、どこをどう誇張表現してしまったのか一説に「関東の耶馬溪(やばけい)」称されているようで、これは明らかに言い過ぎで間違いと言っても過言ではありません。
耶馬溪を愛する方々からお叱りを受けるレベルです。
ただ、真っ青な渡良瀬川を挟むようにそびえる渓谷には春夏秋冬それぞれの顔があり、特に秋は川岸から迫るような紅葉が楽しめるスポットになっており、遊歩道が整備され老若男女が訪れて賑わっているのだけは事実です。
その高津戸峡のすぐそばにかかる赤いおしゃれな『高津戸橋』に立って向かって右側にある山が、要害山(高津戸山)といい、かつてここに高津戸城とよばれたお城がありました。
堀河天皇(1086〜1106)の頃、山田氏が在城し子孫が連綿と受け継いでいたものでありましたが、正平六(1351)年に『桐生国綱』に滅ぼされ廃城となっていました。
その後時は流れ、桐生城主九代の頃となると九代に世継ぎが恵まれず、養子をむかえます。
この桐生城主十代親綱(ちかつな)の代に起きたのが里見の悲劇、のちに里見兄弟の悲劇につながっていくのです。
まぁ、地方の、勢力争いと家臣の讒言による悲劇から事を発し、その事で父を失った兄弟が敵討ちに出て更なる悲劇が起こるのですが、この話をしだしますとかなり長くなりますので、出来るだけかいつまんで話したいと思います。
この間に桐生氏は滅び、由良氏の時代となっていました。
敵討ちにでた里見兄弟が、この高津戸にあった古城を居館とし、唯一残っていた人物に対して仇を討とうとしたところ、その動きを見てとり、相手方は足利の地にまで逃げてしまい仇は討てずに終わってしまいました。
さらにはその敵討ちの相手が由良氏の家臣となっており、(…まぁ、それってしっかり寝返っていますよね、イヤだイヤだ)、由良氏としては形だけでもこの里見兄弟を攻めるようにと挙兵させます。
この悲劇はこの戦いで幕を下ろすこととなるのです。
(続く)
(里見の阿弥陀堂の続き、というよりは里見兄弟の悲劇の続き。
結局うまく伝えるにはあまりにも端折りすぎており、加筆します)
そう里見兄弟のお父さまは九代桐生助綱に仕えていたのです。
その養子としてむかえた親綱が、政務を顧みず、養子に来る際連れてきた家臣に任せ桐生家が乱れていく事を憂い、親綱に書面を送っては諌めていました。
それについて、かねてからの家来であった家老たちの讒言が加えられ、親綱に疎まれるようになります。
そうした情勢から、この里見の兄弟の父は子等の行く末を案じ、あの『上杉謙信』のもとに預けたのです。
その父のもとに桐生氏の家老と内応していた者がいました。
その者こそが後に、桐生氏が滅ぼされた際敵方に寝返った、里見兄弟が仇とした者であったのです。
その内応していた者からの情報を操作し、里見兄弟の父は反逆者であるとの汚名を着せられ、落人となり、それに逆らった里見の家臣は、桐生氏と一戦をいどむのですが、一族はわずか二十名、すぐに滅ぼされます。
落人となれば許されるはずが、それをも許さなかった家老の画策で、里見の父も切腹させられました。
でも里見兄弟が敵討ちに出たとき、すでに家老の一人は桐生落城の折に死に、もう一人の家老も病気で明日をも知れぬ身となっていたのです。
それで桐生親綱の家老たちに内応していた者を仇としたのですが、この者には逃げられ、この者が桐生氏を倒し、のちの桐生城の城主となる、(太田)金山の由良に寝返って家来となっていたため、由良から形だけでもと攻撃されてしまうこととなるのです。
ただ、形だけとは言いながらも
「反抗するようなら切って捨てよ」とは言われていました。
そこでまた悲劇が起こるのです。
里見兄弟の弟が、「なんの恨みもない方々と戦うのはしのび難い。この陣を引いて頂きたい」と大声で、攻めてきた〝寄せ手〟に伝えたのです。
しかし事情のわからない兵がさらに攻め込んできたため、応戦せざるを得ませんでした。
さらには、本来は形だけ攻め込んできたはずの内情を知らない里見兄弟はこの決戦で覚悟を決めて夜襲をかける手段に出るのです。
そうしてこの決戦で弟は深手を負い亡くなってしまい、兄は自刃することを選びました。
この里見兄弟の墓としたものがこの里見の阿弥陀堂に祀られ、さらには里見兄弟の家臣の墓とされる墓が阿弥陀堂横にあるのです。
(続き)
以前にも里見兄弟のことを書いております。
実はこの、里見兄弟の悲劇は近世期に作られた戦記物語に登場する史話であり、確実に存在したという史実は見あたらないのだといいます。
里見兄弟に関する唯一の遺跡として、この墓地が存在するのであります。
この阿弥陀堂横の五輪塔の数は約三十数基分あり、それ以外にも石仏の阿弥陀如来像、宝篋印塔、永禄年号の石殿等があるのだといいます。
どんなに古くともお墓でありますので、その数を数えたことなどないですが、もう少し少なく見えた気がするのです。
とにかくこの古いお墓はまるで長い馬蹄のような形で並んでいます。
そう…まるで武士たちが、戦場で、上座に主君、それを位の高い順から左右横並びに並んで、一番位の低い武士が下座にいるような…。
それが下座の方で車座とならず、すぐにその座を崩してあらゆる動きができるようにしている姿を彷彿するような形で並んでいるのです。
そう、戦地で会議をもっている姿のようにも見えるような並び方をしているのです。
里見兄弟が実在したか。
少なくとも時代考証にずれが生まれるようではあります。
しかしながら、使われている石などから、中世の武士団の墓地であることは間違いないとされてはいるようです。
里見兄弟の墓と称される五輪塔には、
「逆修 天正六季 随見」
「道壽 八月廿九日」と刻まれているといい、これらの五輪塔は凝灰岩製であり、形式的には鎌倉時代から南北朝時代にかけてのもので、これが時代が一致しないのだといいます。
こういったことから、里見兄弟にまつわる史話は伝承の域を出ないものではあるのです。
しかしながらこれらの戦記史話と高津戸城跡の景観は、歴史的ロマンを充分にかき立ててくれるものがあるのですが…。
(続き)
この里見の阿弥陀堂と呼ばれるお堂で一年に一回、祭典が催され、その際このお堂の扉が開かれ、御開帳されることを知ったのは、私が心の師と慕う方のブログでありました。
実はこの方と初めてお会いしたのがまさに今回のこのお堂の祭典でありました。
この方のブログ無くしてはこのお堂に祭典があることを知ることは無かったのでありました。
今回ご本人に直接お礼を申し上げることができたのは、こちらの阿弥陀さまのお導きでありましたでしょうか。
歴史好きな夫は高校時代に一人でこのお堂を訪ねていたといい、私は仕事でたまたまこの道を通って、このお堂があることを知りました。
でも二人ともこのお堂のあることは知っていても、こうした祭典が催されていることなど知る由もありませんでした。
そして。
初めて拝することのできた【阿弥陀如来】さま。
小さな石の尊像でありました。
お堂のそばにある説明の書かれた立て看板によると、こちらの阿弥陀如来さまは凝灰岩で造られているといい、そのお姿から南北朝以前の形式であるため、高津戸城最初の城主、『山田氏』のものであることがわかっているといいます。
お堂の中、簡素ながらも厨子の中におさめられた阿弥陀さまは、距離もあり、お姿を認識することがやっとでありましたが、弥陀定印を組んでおられるといいます。
あのにっくき廃仏毀釈によって、光背のある坐像でありながら、その首には傷があり、修復された跡があることはお堂の外からでも見ることができました。
この阿弥陀堂の祭典、まずはこの地に祀られている里見武士たちの小さな、いくつもの五輪塔(五輪塔になっていないものもありますか)の並ぶところへと移動して、参列者全員で『般若心経』を二度お唱え申し上げました。
その後再びお堂の前に集まって、こちらを管理されている(まぁ実際はこのお堂のある地区の信徒の方々が管理されておられるのが現実ではありましょうが)、同じくみどり市にある自音寺さんのご住職さまより法話をいただき、この後、大きな数珠が木箱から取り出され、数珠回しが始まりました。
生まれて初めての大数珠回し。
たいそう緊張してその数珠を持たせていただきました。
と。
隣を見ますとやはり緊張した顔つきの夫。
数珠が回せるだけの人数が数珠を持つと、鉦を叩いて、念仏が唱えられはじめました。
(続き)
マイクを使ってお念仏を唱える方に合わせて、何人かの方々がお念仏を唱えておられます。
そう、私の左隣からも…。
…へっ?!
般若心経は見ないと唱えられないのに、何故?
なんでこの人は、夫はこれを唱えられているの?
あ。
…わかった。
これはきっと十三佛のお念仏なんだ。
そう、結婚してまだ間もない頃、隣組でお葬式があって、そのお清めの席で皆さんと一緒に夫が声高らかに何か呪文を唱えているのを見て、(えっ?…何なのこの人?何故こんな不思議な呪文を知っている?というかそらんじることができるの?)
と、正直少し不気味に思ったのをいまだに鮮烈に覚えているので。
きっとそれだ。
今はそれはどうやら十三佛念仏というものらしいことを知ってはいるのですが、その結婚して間もなかった頃に聴いたきり、今まで聞くことが無かったのです。
そう、義祖母の葬儀、義父母の葬儀でも唱えられることはありませんでした。
その、隣組の亡くなられた方は長野県出身の方でありました。
その頃の私はまるで〝ぶっきょうのぶ〟の字も知らぬ存在であったため、宗派等はわかりません。
…何故?
ま、まぁいいや。
大数珠回しも数珠を持てずに遠巻きに見ておられる方がおられたので、私はその数珠を回す場をお譲りし、お堂の中で執り行われているお護摩の様子を拝見しておりました。
その私の立った場所は、マイクの裏手でありました。
鉦が止み、お念仏が止んだと思ったら、そのお念仏を唱えておられた方が
「替わる?」とおっしゃるではないですか!
いやいやいやいや、私人生で二度目に聴いただけです。
聞き取れてさえいませんって。
……なぜ?
私、きっとこの十三佛念仏はきっと一生覚えられないし、覚えることはないと思います。
あとで知ることに、この祭典、コロナ禍前はもっともっと人が集まる、この辺りに住む方がみな集まって、歌ったり、飴すくいをしたりといったお祭りであったようで。
どうやらそんなノリからたまたまそばにいた私にマイクを向けたようです。
お堂の中では、副住職さまが樒の葉を一枚炎にくべておられました。
お護摩の炎が静まる頃、大数珠回しも終わり、地元の和菓子屋さんで作られたどら焼きを一つとサイダーを一本いただき、お開きとなりました。
うーん、お念仏、ねえ。
…覚えませんけど。
【東昌寺】
この日、もう一つのお寺さんへと向かいます。
それはかねてから夫が行きたいと申しておりましたお寺さん、群馬県桐生市の【東昌寺】さんであります。
何でもそこは同じく桐生市にある【正円寺】さんの隠居寺であるとのことで、正円寺さんのご住職さまのお人柄に惹かれた私どもはそうしたことからもいつか必ず参拝させていただこうと思っていたお寺さんでありました。
その正円寺さんにしても、夫が行きたいと申して訪れましたお寺さん。
さもありましょう、こちらは城址に建つお寺さんで、夫はそのことからも、この〝神社仏閣珍道中〟を始める前から、この正円寺さんの存在を知っていたのです。
東昌寺さんへ向かう途中、桐生市で有名な『おかめ櫻』があるといい、そこを経由して向かうこととしました。
桜にも詳しくはない私はてっきり『オカメザクラ』という品種名なのかと思っておりましたが、あまりにも見事な枝垂れ桜に付けられた名前なのだといい、推定樹齢は四百年とも言われる樹高十メートル、根回りも4.5メートルの古木であるといいます。
ここへ来る途中にも枝垂れ桜の名所とされる場所があったのですが、そちらも、そしてこの〝おかめ櫻〟も、個人宅の地内に植えられたもの。
はあぁ、…旧家って凄いなぁ。
これはご先祖さまからのプレゼントだわ。
まぁ、これをきちんと守ってきた子孫であるからこそ、残されているというわけで、そうした人たちの重ねてこられた何気ない、けれどかけがえのない歴史にも心打たれる思いのするお花見となりました。
さて、そのおかめ櫻のある旧家を過ぎると道は狭くなり、そこに住む方々以外は通らないような道となってまいります。
ナビの案内がないので、Google先生にご案内をいただき、東昌寺さんをめざします。
へっ?
ここ、ここを曲がる?
いやナビの案内もそうなのですが、ちゃんと、たいそう小さいながらも案内があるので、そこを曲がるのは間違いないのです。
(いやぁ、ランクルとか無理でしょ?)、と思うくらいに、車幅ちょうどくらいの道幅の道へ、直角に曲がる道なのです。
まぁ、あくまでも慣れの問題で、ランクルも全然大丈夫、なのかもしれませんが。
それまでの道の細さなんて全然可愛いものです。
参道と思えば、なるほどの道幅です。
(東昌寺さん 続き)
道を曲がるときには、運転もしていないのにそのなかなかの狭さと直角の曲がり角にビビっていたものの、
その道を曲がってから続く、まっすぐな一本道に、私は魅了されます。
ぽつんぽつんと離れて建つお宅の間をまっすぐ縫うように伸びた道。
お寺さんの石段が見える頃には、その道の脇に石仏さまのお並びになられるのが見えてきます。
✨✨
大きめな石仏さま、
小さめな石仏さま、
参道の右側に並んで立っておられます。
駐車場と思しき空き地に車を停めると(運転は夫)、走って石仏さまのところへと向かいます。
…ええ、こういう時の私の内心の声は「きゃー♡」。
ワクワクドキドキが止まりません。
おお、青面金剛さまがおられます。
青面金剛さまはその時代時代であったり、土地による違いがあったり、石工による表現の違いがあったりとさまざまな御像があります。
こちらの青面金剛さまは、今まで拝したことのない新バージョン。
…古い石仏さまなので、新バージョンという表現もおかしなものではありますが。
まずはその表情。
困ったような、なんともいえない表情をされておられるのです。
力強い幾つもある手にはそれぞれに何かをお持ちです。
…えっ?神鏡?
宝輪なのでしょうが、神鏡のようにしか見えません。
しかも両手持ち、両手に高く掲げています。
それから一鈷杵?
巻物?
何よりもある意味特徴的なのは腕組みをされているところ、でしょうか。
光背部分、お腰の辺りには両サイドに鶏が彫られています。
邪鬼を踏みつけ、というよりは邪鬼の上に立ち、その邪鬼の下には、邪鬼の下に笑顔でその全てを支える存在がおられる。
えっ?
お猿さん、ではないと思えます。
前後、右方から見てもお猿さんではない。
すごく良い笑顔です。
これこそがまさに初めて。
…とはいっても、今までもそういった尊像を拝しながらも気づいていなかったことは充分あり得る私ではあるのですが…。
(東昌寺さんの続き)
実はどうやらこの一番下で、誇らしそうに嬉しそうに、邪鬼ごと青面金剛さまを持ち上げ支えているのは、『贔屓(ひいき)』らしいようです。
中国にはじまり、朝鮮半島や日本に伝えられたものとのことで、石碑等の土台を〝亀のような贔屓(ひいき)〟が支える台が作られた時代があるようで、このような台においては『亀趺(きふ)』と呼ばれるのだといいます。
中国において、贔屓は伝説上の生き物とされていて、それは、竜が産んだ『竜生九子(りゅうせいきゅうし)』の一つだといいます。
体は亀、頭が龍の姿をしています。
そう、確かにこの一番下のこの石造物、横から見るとまさに〝亀〟であります。
どうやらこの子は『贔屓』で間違いなさそうです。
また、この贔屓を親龍がとても大切にしたそうで、
「えこひいき」とか「ひいきにする」などの語源となっています。
…なるほど。
この〝ひいき〟がひとり歩きをして、本来の『贔屓』は忘れられていってしまったようです。
…とすると。
むしろ私が今まで〝亀〟だと思っていた石造物が実は〝贔屓〟であった可能性もあるということでありますか。
うーん。
石造物は難しい。
けどとてもおもしろくてやはり大好き。
こちらの参道、他にもたくさんの石仏さまが並んでお祀りされています。
草が覆うような事なく、あまり苔むしたりもしていないことから、大切にされているのが伝わってまいります。
お地蔵さまが多くおられるよう感じますが、六地蔵のように大きさが同じ像はないよう思われます。
時代も異なり、いろいろな願主さんが奉納されたのでありましょう。
…また来たいなぁ。
はて、私の八人乗りの車、ここを曲がって来れるでしょうか。
車の大きさより、〝腕〟でしょうがね 笑。
駐車場と思しき空き地にはかなり大きな害獣捕獲の罠が置かれています。
うーん。
やっぱ、一人で来るのはやめておいた方がよいのかしら。
(東昌寺さんの続き)
深沢郷(桐生市黒保根町)正円寺さんの隠居寺だっというこちら。
かなり遠いように思えます。
私の(!)感覚では大きな山を隔ててた反対側に位置しているよう感じます。
でも、本来の足尾銅山街道は、現在の国道122号線より西を走り、瀬戸ヶ原で奥沢に向かえば、さほどの距離ではないそうです。
…と言われても、それをイメージすらできない私。
よくわからん、どころか全くわからない。
さて。
駐車場から見上げるところにあります東昌寺さんの御本堂。
このところ、めまいほどではないのだけれど、ずっとふわふわとした浮遊感があって、ふとした拍子にすぐによろける私。
うーん、とちょっとだけ思うような石段と、ゆるやかな坂道の二通りがあります。
それでもよく整備され、欠けたかもない石段です、石段を登ることといたしました。
本当によく整備されて、草などがまったく、と言っていいくらい生えていないのです。
二段階に分かれた石段。
上の段をのぼりきると…両サイドに石燈籠、真正面に御本堂があります。
無住のお寺さんで間違いなさそうです。庫裏は無く、寺務所が御本堂に隣接しています。
それにしても。
本当に綺麗に手入れされ、管理されています。
ご近所に管理を任されておられる方でもおられるのでしょうか。
現在のこの堂宇も、正円寺さんが手を入れたそうです。
『ぐんまのお寺 天台宗(上毛新聞社)』によれば、
『…本尊と寺の創建について次のような伝承がある。
「当寺の子安観音は大昔天智天皇の発願で刻まれた三体の観音像のうちの一体である。
延暦年間(782~806)に坂上田村麻呂は征夷大将軍となって蝦夷を討つため軍を率いて奥州へと向かった。
その折、田村麻呂は天智天皇の発願の三観音のうち一体をもらいこれを祀り戦勝を祈願して東征し蝦夷地を平定して帰京した。
その後、八幡太郎義家が後三年の役で奥州への出兵にあたって、坂上田村麻呂が戦勝祈願した観音を護身仏として持参して戦った。
戦乱を平定した義家は帰京するとき奥沢の地を通り休んだ。
その折義家は護身仏の観音を奥沢の地に置いて行った。村人達は堂を建てて観音を祀った。
義家の護身仏の観音が本尊の子安観音である。
観音堂が当寺の始まりである。』
…『八幡太郎義家』公の護身仏の観音さまが、御本尊さまなんですか?!
(東昌寺さんの続き)
こちらのお寺さんの情報はほとんどない。
ネットにもほぼ無く、わが家にある資料をひっくり返してみたものの、無い。
わが家レベルでは…と思われましょうが、わが家には歴史オタクがおり、結構オタッキイな資料があるのだ。
桐生市文化財調査報告書の『桐生市黒保根地区石造物調査報告書』とか、旧新里村教育委員会の『文化財要覧』なんてものまである。
みどり市の大間々地区に至っては、まずまず自宅で済みそうなくらいの資料がある。
まぁ、神社仏閣、石造物に関するものが多い、…というよりはほとんどなのだが。
ただ、とりあえずこの東昌寺さんのことに関する限りは、全く無かった。
まずは文化財指定になっていないのであろう。
ゆえにそういった方面からの資料がない。
だが、東昌寺さんにどうしてもその謎を少しでも解きたい石仏さま、石塔があるのだ。
これは、正円寺さんをお訪ねしてご住職さまに伺ってみるしかなさそうだ。
だが正円寺さんはその電話番号を公にはされていないのだ。
行っていらっしゃらなければ、出直すしかない。
でも知りたいのだ。
正円寺さんのご住職さまはそれはそれは丁寧に生きておられる方。
群馬県内の同じ天台宗のお寺さんでも、そのお人柄をお褒めになられるお方がいらっしゃるくらい。
そして丁寧に、ご自分のお寺を訪ねた人に静かに伝道なさる。
またお会いしたいと思ってもいたところだ。
行こう。
お訪ねしよう。
そしてもし東昌寺さんの石仏さま、そして石塔の謎が解けたならば、またその続報を書かせていただこうと思います。
今わかっているのは、…おそらくは庚申に関する石仏像であろうことと、やはり庚申塔と思しき石塔。
一人で行くので、もう少し体調が整ってから。
四月八日はお釈迦さまのお生まれになられた日。
【花御堂(はなみどう)】という小さなお堂の屋根をたくさんの花で飾り、中にお釈迦さまのお姿【誕生仏】を納め、甘露(かんろ)に見立てた甘茶をかけてお祝いします。
【灌仏会(かんぶつえ)】、
【降誕会(ごうたんえ)】、
【花まつり】とも呼ばれます。
お釈迦さまの誕生には次のような伝説があります。
お釈迦さまのおかあさまの摩耶さまは、王子が生まれる用意や、ご両親に会われるために、里帰りをされます。
その旅の途中、ルンビニ(藍毘尼園)というところにさしかかった時、この場所で一休みなされました。
そして木の下でお釈迦さまをお生みになられたのです。
それは右脇からと伝えられます。
その時の伝説では、お生まれになったお釈迦さまを、梵天と帝釈天の二人が、お釈迦さまを受け止めたと伝えられるといいます。
そして、二人の竜王がそのお釈迦さまに甘露水を注いで清めます。
その時、ハスの花が忽然と咲き、その上にお釈迦さまが立たれると、七歩歩いて立ち止まり、四方八方を見られてから、右手を天に向け、左手を大地に向け、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと伝えられています。
花御堂の中のお釈迦さまの仏像に甘茶をかけるのは、この竜王にならってのこと。
このお釈迦さまの誕生を祝う祭典はインドや中国では古くから行われていたようで、日本でも推古天皇の時代には伝わっていたようです。
今年、東博の金色堂展に行った際、法隆寺の宝物館にも寄らせていただきました。
古い時代の御仏の尊像がいったいいく体こちらに納められているのだろうと思うほど実にたくさんの仏像が飾られています。
たぶん、軽く見積もっても百はゆうに超えています。
そんな中に摩耶夫人の像が片隅にひっそりと飾られていました。
まさにそのお釈迦さまのお生まれになられるときを表した摩耶夫人の尊像です。
お寺にあったらこんな至近距離で拝することなどありませんし、そもそもこれだけの仏像をこちらに収めて置くくらいたくさんの御仏の像がおありなお寺さんです。
こうした宝物殿であればこそ拝することができたかと思います。
思わず声が出たくらいに感動の出会いでありました。
この目でこの摩耶夫人の尊像を拝することができようとは思ってもいなかったので。
【浄因寺さんの】
このところ、耳閉感はひどいわ、ふわふわしてまっすぐ立ててすらいないわ、今日などは頭痛までして、
(春なのに)などと歌のタイトルのようなことを思うのですが、春だから、なのかもしれません。
まぁ、これは自分の身の内からの声。
その声にちゃんと耳を傾けて、うまく操作、操縦していくしかないのです。
ええ、お風呂掃除も、買い物も、食事の支度も、この辺はもう毎日のこと、当たり前のことで、うま〜く自らを操縦して。
週一階段の雑巾がけと窓拭き、月一換気扇掃除もしちゃう。
以前はこの症状と闘いながら仕事をして、おんなじように家事をしていたのだから、屁みたいなもの…なはずなんだけど…なぁ。
去年はこの換気扇掃除で、バランスを崩して、足の脛の皮がズザザ〜っとえぐられる怪我をしたし。
バランスが悪いから、この間の義母の葬儀では、普通の人ならありえない、ただのお焼香で倒れそうになるし、本当は正直、階段掃除は恐い。
ただ。
それを言い訳にして、安静と称してスマホで神社仏閣やら仏像やらを検索して過ごす時間がある。
スマホいじってたらダメじゃん?
ねえぇ。
閑話休題。
この花まつりの頃になると、なんなら秋の紅葉もそうなのだが、行きたくなる、だけれど行くのがとてもつらいお寺さんがあります。
それは。
…栃木県足利市の浄因寺さん。
実はこちらは無住となって久しいお寺さん。
しかしながら。
かつては『関東の高野山』と称されたお寺さんであり、かの葛飾北斎が描いた清心亭という懸け造りの茶室ヘ掛かる『天高橋』があります。
そして秋ともなると赤や黄色に紅葉する木々、そこからの木漏れ日。
それはもう風光明媚なところであります。
そして三万三千といわれる石仏。
…おばさんが好きな理由がここでもうバレましたね。
そして。
かつてもう一つ、ここのお寺さんといえば、といわれた優しい風景がありました。
それは…四匹の猫たち。
ご住職が亡くなられ、世話をする人がいなくなったことを憂えた方が、ここの猫たちを保護してご自宅に連れて行ったのですが、ご住職を慕う猫たちは、かなりの道を歩いて歩いて、山道をのぼって、こちらの庫裏に戻って来てしまったのだと言うのです。
そんな猫たちに、毎日食べ物をあげにきてくださる方がおられ、猫たちはここで四匹仲良く住んでいました。
(浄因寺さんの 続き)
私どもがこちらを初めて訪れたときはもうすでに無住で。
それでもこのお寺さんをなんとか維持したいと有志がいろいろしてくださっており、その中の一つに年に一回、花まつりの四月八日に『一杯飯』といわれる筍ご飯を提供してくださる行事がありました。
もともとご住職さまがご存命の頃からあった行事であったようで、『厄除け一杯めし』と称されるものであったようです。
参拝者にお斎(おとき)として振る舞われ、これは誰でもいただくことができたものの、いかなる理由があろうと、誰であろうと一杯だけと定められていたものだったようで、それで『一杯めし』と呼ばれたようです。
この一杯めしを食べると、現世での災難を逃れ、死後、極楽へいけるという言い伝えがあるようです。
それを知って、かなり前の四月八日に、勇んで浄因寺さんへと出かけたのですが…それこそ無住ならぬ無人でありました。
まだまだコロナ禍はほど遠かった時期ではあったのですが、ボランティアの方々がその作業があまりに大変なため、その年は取りやめてしまわれたようでありました。
極楽へ行けないことは承知しておりますが、災難くらいはよけたいものだとひそかに思ってもおりましたし、つい何か月前にその行事を他ならぬボランティアの方に教えていただいたものだったので、ショックは大きく。
関東の高野山と称されるだけあって、かなりの奥まったところにあり、そしてさらに山をのぼるというお寺さんですし、ね。
そんな傷心のおばさんを癒してくれたのが四匹の猫でありました。
本当に人慣れしていて、…でも案内してくれるのが無人となった庫裏であり、御本堂で。
それがなんとも物悲しくて。
猫たちに会いにせっせこ通ったものでした。
…それが一匹欠け、また一匹欠けて。
二匹となって。
最後の猫となった茶トラの子を、自宅に連れ帰ってくださった方がおられ、その近況も貼り紙で伝えてくださっていたのです。
本当にありがたいことで。
それが、さき一昨年、だったか。
すっかり行かなくなってしまった浄因寺さん。
それでも春、花まつりの頃となると、思うのです。
その、最後の猫のことを今日、YouTubeでたまたま見つけました。
…昨年、亡くなっていたようです。
なんだかいろいろな感情が入り混じって、べそべそしております。
【光前寺】さん
長野県伊那市にある高遠町の【高遠城址公園】は日本有数の桜の名所。
以前から行ってみたいとは話しておりましたものの、
「でもねぇ、…遠いんだよねぇ」
…それを言われると二の句がつげない。
いやそもそもが、だったらその情報いらないんだけど。
そんな話を繰り返してすでに数年。
コロナ禍もあり、もう一生涯行かない場所として頭から外しておりました。
そんな今年の、まさに桜の時期を迎えた今。
「明後日行きたいところあるんだけど、なんか予定ある?」
と長男が言い出しました。「特にないよ」
どこかは言わず、
「じゃあ、善光寺に行った時くらいには家を出るからね」
…、おぉ、サプライズで♡
「じゃあ、めまいの薬飲んでめまいなんとか落ち着かせておく」
それがまさに何年も前から行きたいけれど無理だとされていた長野県の『高遠城址公園』でありました。
『高遠城址公園』ですから、当然お城の跡、夫はそうしたこともあって行きたいと思っていたようで、もう車中ルンルン。
…そうね、いつもなら自分が運転、今日は息子が運転手。
なんか息子や私を置いて、あれこれ妄想している様子。
「〇〇っていうお寺もすぐそばだから行けるね♡」
…はあぁ。
神社仏閣にあまり興味がない人が一緒な、…というよりその神社仏閣にあまり興味がない人がメインで動いているのに?
勝手に計画を上乗せしようと妄想をしている様子。
(この人はこういうところがあるからなぁ)
まぁ、息子はそういうことも想定の範囲の人間。
現地に着いてあまり暴走するようなら、なんとか上手く立ち回ろう。
そんな高遠に近づいた道中、ナビでおかしな情報が出る。
あと三キロ無いのに、予想到着時刻が一時間先。
「ナビの情報が終了するとか言ってたから、そのせいで、かなぁ」
とは夫。
「いや。…これ渋滞なんじゃない?」
時は八時半になろうかとする時刻。
「えっ、そっかぁ。…桜の満開情報が出ているからなぁ。それも考えて早く出てるんだけどなぁ」
どうやらその公園までは一本道なようです。
それでも遠くに見える町に桜色の景色が重なっています。
すごい!
高遠に無事入って。
高遠に着くとまずは駐車場探し。
息子は下調べをしてきてはいるものの、こうした人の集まるところの駐車場情報は現地に行っての運。
さあ、…どうなる?
(光前寺さんの続き)
この花真っ盛りの桜の時期の桜の名所。
九時前というのに渋滞も半端なく、スマホで情報を仕入れていると目の前に、
『この先満車。こちらの無料駐車場をご利用下さい』
と書いてある立て看板が。
そしてその無料駐車場の入り口でさえ『満車』と書かれたプラカードを持つ係の方が。
町に入ってすぐの第一駐車場です。
先をみると渋滞。
町に入って一番最初の駐車場であるので、どう考えても公園はほど遠い。
桜色に染まった小高いこんもりとしたところ、…おそらくはそこが高遠城址公園で、そこははるか見上げるようなところに見えています。
「ここでいいんじゃない?この先満車だとしたら、もっともっと満車が解消される可能性は低いし、そしたらUターンだってできないけど、ここなら、…Uターンも可能だし」
エビデンスがない、おばさんの発言です。
しかしこの妻、この母が言い出したことは従っておいた方が後々面倒臭いことがないことを(いやと言うほど)知っている二人。
おばさんが係の方にお尋ねしたところ、「満車ではありますが、お待ちになると言うのでしたらお通ししています」と。
「…行こう」
前に二台、車が待っています。
この二台、いや三台がいつ捌けるかは、…神のみぞ知る。
などと思っていたところ、実に四台、対向車が。
ん?
地元車ではありません。
大阪とか名古屋とかの県外ナンバーです。
も、もしや?
…ええ、そうなんです。
こんな時刻ではありますが、もうこの駐車場を後にする車が、しかも四台。
…ありがたい!
実にありがたい!
無事に車を停めることができた息子が一言、
「でもこの先、長いだけじゃなくて、だいぶ登るようだよ?平気?」
「平気!」
平気かどうかは、…神のみぞ知る?
(光前寺さんの続き)
…高遠城址公園はまさに城址でありました。
…のぼることしばし。
道道を歩きながら、おじさんは語ります。
「ここを信長の兵が攻め登ったと思うと感慨深いよなぁ」
…はぁ、さようで?
急坂であること、見晴らしがたいそう良いこと、そのぐらいからの感想でしかないおばさんなので、そこにかつて城があった面影などはついぞ浮かんではおりませぬが…。
まぁ、夢見る夫など放っておいて、さっさと先へと進みましょう。
入場券を買い求めるにも凄い列です。
はあぁ…。
ん?
ガチャポンの機械が一つ。
おっ!
石仏のものであります!
これは是非ともガチャガチャせねば!
しかも!
しかもです。
高遠の石工、守屋貞治のもののようです!
信州信濃の石工は関東信越では有名であります。
石神仏の好きな者であれば、みな知ることであるくらい。
その中でも高遠の石工はことに有名で、その中でも守屋氏といえば名工で名高い一族。
おばさんが桜の時期で無くともこの地を訪れたかったのは、ひとえにその石仏ゆえ。
信州信濃はそうでなくとも日本でも指折りの石神仏の宝庫であります。
三人のお財布の中の百円玉をかき集めて、ようやく六百円、…二回分です。
ガチャポンの丸いケースは赤いものとオレンジ色のもの。
これは少なくとも二種類でありましょう。
ん?
だ、台座〜っ?
よりにもよって台座です。
いやしかしもう一つがある!
もう一つは?
…だ、台座だ。
しかもともに准胝観音さまの台座です。
つまりは同じもの。
あ、あんまりだぁぁ。
高遠町の建福寺というところの守屋貞治作の准胝観音さまの蓮華台。難陀竜王と、跋難陀竜王の兄弟が保持しているといった、…台座です。
「いいじゃん、ここの後そのお寺さんに寄れば」
と息子。
…なんとよくできた息子でありましょう。
(次はお寺さん♡)
(次は憧れの石工さんの石仏さまに会える♡)
…夫もその時、たしかにそばにいて、その建福寺さんの話を聞き、なんなら建福寺さんのポスターまで見ていたのです。
…見ていたのですが。
聞いていたのですが…。
(天前寺さんの続き)
高遠城址公園の桜はまさに満開で、語彙力に乏しい私でなくとも、まさに筆舌に尽くし難い素晴らしさでありました。
そして城址ということも加わって、その眺望の素晴らしいこと。
遠く見える雪山の山並みが、長野県ならではの美しさ。
絶景かな、絶景かな。
今まで見ずに生きてきた分の桜を全部ここが補ってくれたかのような、そんな気すらするほどの桜尽くしの時を過ごした気がいたします。
お城の殿様はかくあろうかと思うほど素晴らしいものでありました。
大奥最大のスキャンダルとして知られる『絵島事件』の絵島が流され、大奥の情報を外に漏らさぬようにと幽閉され二十六年間過ごした屋敷『絵島囲み屋敷』の復元されたものまで見て、さて次へ行こうかとなりました私ども一行。
人熱れ(ひといきれ)もあって少し疲れたわたしどもは言葉少なに車へと戻って、次なる目的地となった『建福寺』さんの場所を確認いたしました。
どうやら今来た道を歩いて戻った方が早そうです。
きちんと確認しないで車へと戻ってしまったのはやはり疲れと、群馬県民の『車は足代わり』という文化からでもあったでしょう。
…それが私の敗因となってしまうとは。
その時は思ってもいなかったのです。
『高遠城址公園』
長野県伊那市のホームページより
武田信玄の五男仁科五郎盛信が織田信長の長男信忠と戦い、壮絶な死を遂げた高遠城は、明治四(1871)年の廃藩置県で、城が取り壊され、明治八(1875)年に公園となりました。
高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から桜を移植したことにより、今では全国でも有数の桜の名所となりました。
本丸の老木はこの時植えられたもので、四月には、130年生以上の古木二十本、50年生以上のもの五百本などに若木を加えた約1,500本の【タカトオコヒガンザクラ】が、淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつけます。
また、秋にはタカトオコヒガンザクラ独特のほとんど紅葉せずに落葉した公園に、およそ250本のカエデがきれいに色づき紅葉が楽しめます。
公園内には、国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓、新城藤原神社のほか、高遠公園碑、無字の碑、靖国招魂碑などの碑文等、古きを偲ぶ歴史的資料がたくさんあります。
春の桜のほかに、夏の新緑、秋の紅葉など年間を通じて多くの観光客がこの城址公園を訪れています。
(光前寺さんの続き)
「なんでそんなとこに行く話をしてるの?次に行くとこはすぐ近くだから、発車しよう?あんまりぐずぐずしていると時間がもったいない」
は?
は?
息子と私はもはや目が点です。
次行くとこって?
どこかに行くって話してましたっけ?
むしろ高遠城址公園で、ガチャポンしながら、そして今日明日ライトアップされるというポスターを見て、『建福寺』さんに行こうって、…話してただけでしたけど?
たしかにポスターも一緒に見てたし。
ただ、夫はそのとき、
「ライトアップまではいられないよ」
って言ってはいましたけれど。
それに対して私「もちろんライトアップまではいないよ、…怖いし」って笑ったけれど…。
まさか『いないよ』を『行かないよ』に聞き間違えてた?
って言うか、この『建福寺さんに行く』って話自体、耳からも脳からも消え失せている感しかないんですが?
なに?次に行くお寺って?
息子が何かを言い返そうとしています。しかしながらそれは困惑しつつも穏やかに説明をしてくれようとしている感じで。
…とりあえずもう建福寺さんを私があきらめよう。
今来た道をまた戻るようで、片道三百メートル、歩いて行ける距離だけれど。
夫が近いと言っているお寺、よほどの思い入れがあるのだろうから。
しかし運転席には息子。
謎のお寺に行こうと言うのならば、運転はあなた(=夫)がするべきなんじゃ?
せめてそのくらいは言い返してみたものの、ナビに入力していて、…なのか聞いてもいない様子。
はあぁぁ?
少しイラっとする。
「少し走って高速に乗ったらすぐだから」
はああぁぁ?!!
…なにそれ?
高速って、なに?
近いんじゃないんかい!
もはや怒りで言葉が出ない。
私が行きたいって言ってるとこは、三百メートルなんですが?
謎のお寺は高速(利用)ですかっ??
…息子はあまりの急展開と、二百数キロずっと一人で運転してきて、しかも山城の城址公園を時間をかけて歩き回った疲れから、その謎のお寺に着いたときには、かなりぐったりしていて、口も聞けずにおりました。
暑い日でもあったし。
元気に颯爽と車を降りて歩き出す夫を睨みつけたものの、そんなことに気づくタマではないので。
夫はもうすっかりご機嫌で景色を見て写真を撮っています。
はあぁ、これだからこいつは…。
(光前寺さんの続き)
私ども二人の神社仏閣珍道中では、御本堂の参拝までは基本共に行動いたします。
そしてその後は何を語ることもなく、各々が自分の関心のあるところへと移って行くのが普通であります。
それでもあまり広くない境内の神社さん、あるいはお寺さんで夫の姿を見失って、かなり長いことその姿を見かけないとかなどは、よもや神隠しにでも?とドキドキ不安になるビビりな私。
一方の夫はまず私を探したりはせずに、マイペースに境内の中を探索しております。
しかしながらこの光前寺さん、駐車場に入る前から桜と水仙が咲き乱れている様が観てとれ、それはちょっとした桜の名所など足元にも及ばない素晴らしさで。
しかもこちらもまさに満開の時。
気持ちがついついそちらへといってしまいがち。
山門前からすでに別行動。
ま、どうでもいいのですが、ね。
それだけこちらのお寺さんに来たかったのでしょうし。
でもこちらが桜の名所であることは到着するまで知らなかったようで。
来たかった理由は?
…まぁそのうち、聞きたくなくとも語り出すでしょう。
スタスタと山道を歩き出す私にようやく夫は追いつきました。
「ここね、あの『まんが日本昔ばなし』にもなった伝説のあるお寺さんなんだよ」
あ、ああ、そういえば来る時チラッと言っていたな。
でもそれ、行けたら行ってみようってくらいのノリで、確定ではなかったよね。
しかも『まんが日本昔ばなし』って…。
それ、あなた、子どもたちほったらかして一人で観てたんですよね。
子どもたちはまだそれが理解できるかどうかという歳でしかなくて。
私、一緒に観たのかしら?
あとで聞いたところ、やはり息子もそんな話に記憶はないと申しておりました。
「昔早太郎って犬がここに住んでいてね」
…はあ。
彼が熱く語る『まんが日本昔ばなし』の
【猿神さま】というお話の回の拾い画像です。
(光前寺さんの続き)
その『早太郎伝説』がこちらとなります。
【霊犬 早太郎伝説】
今よりおよそ700年程も昔のこと。
ある時、山犬が光前寺の縁の下で子犬を生みました。
和尚さんが手厚く世話をしてやると、母犬は子犬の1匹を寺に残していったのだといいます。
残された子犬は大変賢く、動きが俊敏であったため、『早太郎』と名付けられました。
その頃、遠州府中(静岡県磐田市)見付天神社では田畑が荒らされないようにと、毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、生け贄として神様に捧げる人身御供という悲しい習わしがありました。
ある年、村を通りかかった旅の僧である『一実坊弁存(いちじつぼうべんぞん)』は、神様がそんな悪いことをするはずがないと、その正体をみとどけることにしました。
祭りの夜にようすをうかがっていると、大きな怪物が現れ、
『今宵、この場に居るまいな。
早太郎は居るまいな。
信州信濃の早太郎。
早太郎には知られるな』
などと言いながら、娘をさらっていきました。
弁存はすぐさま信州へ向かい、ようやく光前寺の早太郎をさがし当てると、早太郎を借り受けて急ぎ見付村へと帰りました。
次の祭りの日。
生贄となる娘の代わりに早太郎が箱に入って、夜を待ちました。
やがて夜になると、化け物たちが現れ、歌い踊りながら箱を開けたのです。
一散に飛び出す早太郎。
不意を突かれて慌てふためく化け物。
しばらく凄まじい戦いの物音がしいたといい、その後やがてその音も小さくなっていったといいます。
夜が明けて村人がおそるおそる見に行くと、巨大な狒狒が三匹、噛み殺されていたといいます。
早太郎は化け物との戦いで傷を負いましたが、光前寺までなんとか帰り着くと、和尚さんに怪物退治を知らせるかのように一声高く吠えて息をひきとってしまいました。
現在、光前寺の本堂の横に、早太郎のお墓がまつられています。
また、早太郎を借り受けた弁存は、早太郎の供養にと《大般若経》を写経し光前寺へと奉納いたしました。この経本は現在でも、光前寺の宝として大切に残されています。
…ちなみに。
夫は光前寺さんから帰って二日ほど、
「信州信濃の早太郎。早太郎には知られるな」
と折に触れてはご機嫌で口ずさんでいました。
【見仏記】
私はかつて「本さえ預ければ静かになる」と言われるほど本の好きな人間で、そんな人間なので、イライラむしゃくしゃすると本屋さんに行くし、そしてそんな時はもうタイトルだけでバンバン本を買うのであった。
そういった時は自然、新刊や平台に置かれた話題になっている本などからが多くなる。
BOOKOFFなるお店ができてからは、そこで買うこともあるのだが、ストレス解消にはあの新しい本の匂いと、まだ誰にも開かれていない本を手にすることが欠かせない条件の一つであることを知るきっかけともなった。
なのでBOOKOFFに行くときは、冷静なときが多い、…はずなのだが、安価に買えること、絶版の本に出会えることもあって、やはりお財布の紐はユルユルである。
というか、むしろ本当にお財布に紐を巻くタイプの方が良いのでは?と思うくらい、本に関しては気前が良い人間である。
今回のタイトルとなっているのは、比較的冷静な(はずの)私が、BOOKOFFで購入した本のタイトル。
神社仏閣巡りを始めてもいない頃のことである。
つまりはこの本を手にした頃からすでにそうしたことに関心があった、ということになる。
修学旅行で神社仏閣をまわれば、ガイドの方のお話を一言たりとも聞き逃さぬよう、先頭で聞いていたし、先頭で入って最後に出てくるくらい、拝観に時間をかけていたのだから、それは確かなこと。
ただ個人的にそうした神社仏閣を巡ることにはなかなか頭も回らなかったし、何よりも時間が無かった。
学生時代は寮に入って休日もレポートを書き、人生で一番自分を褒められるくらいに勉強したし。
独身時代は昼夜問わない仕事漬けの仕事でもあり、しかも休日といえば母の店の手伝いに呼ばれ、デートすら許されなかったくらいであった。
閑話休題。
この本は、仏像に魅せられたみうらじゅん氏と、仏友・いとうせいこう氏が国内外の仏像を訪ね歩くといったエッセイである。
一作目の末尾で「三十三年後三月三日三時三十三分、三十三間堂で会いましょう」と約束した二人。
その約束の〝時〟が来年2025年に迫っているのだという。
そんなにあの本が書かれてから時が経過していたのかとびっくりした。
たしかに列車の旅などに詳しい人であれば、こんなダイヤは今はもう無いとか、そこからいつ頃書かれたものであるかまでもわかるのであろうが…。
(見仏記の続き)
この『見仏記』、たしか〝2〟があって、これも購入して読んだのだが、最初に読んだものとテンポが異なっていたり、〝1〟ほど私の心を湧き立たせてはくれず、この〝2〟は手離してしまっている。
つまりはこの三十三年後を待たずして、二人はその後もこの見仏の旅を重ねていたし、本も書いていたのである。
そして、その〝時〟を前にして、またエッセイが書かれ始めているようで、夢みる私としては三十三年後に〝ぽんっ〟と会って欲しかった。
それでもその〝約束〟の時が近いことを知らされて、ワクワクしているのも事実である。
とはいえ。
「新薬師寺の十二神将は走りながら見ると凄いよ。神将が次々に現れて、もう仏像メリーゴーラウンド状態」
「平等院鳳凰堂は合体ロボ」
などというぶっとんだ内容であるこの見仏記、今の私どもの参考になっているかというと、それは微塵もない。
夫はこの本を読んではいないし、いまだに京都・奈良には出向けていないし、正直、こんな見方をしようとも思わないし、思えないし、できない。
神社仏閣ではない、仏像展に行ったところで、やはり御仏でしかありえず、たしかに言葉にすれば〝見仏〟という行為ともいえるのだろうけれど、合体ロボとして見ることはない。
でも、この本、いまだに手離さずにいるくらい〝好き〟なのである。
テンポがよくて、絵も素晴らしいし、その解釈や解説もたいそう面白いのだ。
来年、この三十三間堂での再会は、よほどのことがない限り果たされることであろうし、できたらその瞬間をYouTubeなどで見守りたいと思う。
そう、やっぱり私はその時、その瞬間に期待している私がいるのだ。
…その時がいつなのかも今まで知らなかったくせに 笑。
それにしても今年の春はまさに百花繚乱の春である。
昨日参拝させていただいたお寺さんの境内には、桜の花もまだ残るというのに、藤が満開であった。
皐月やつつじも咲いている。
そんなお寺の境内で、奈良の空海展に行きたいと、青いどこまでも続く空を見上げて和尚さまと語らったのだ。
そう、奈良へと続いている大きな空の下…。
クリスマスローズも咲いているし、ふきのとうの花も咲いていた。
わが家の猫の額よりもさらに狭い、まさにネズミの額のような庭は三色のネモフィラがまさに満開で風に揺れているが、その横には白と濃いピンク色のカワラナデシコが咲いている。
ビオラなどはアスファルトとコンクリートの隙間から芽を出したものが、ブーケのように咲いているのがなんとも美しくて、そしてその力強さに勇気をもらっている。
そして昨日つぼみだったオダマキが咲き、ミヤコワスレがきっと今日そのつぼみをひろげるであろう。
そうそして、アッツザクラが勢いよく葉を張り出して、日に日にスズランの芽も葉に変わりつつある。
うーん♡
春は良い。
おかげで夜、花粉症に苦しんだのはちょっと、…かなり困ったものだが。
(光前寺さんの続き)
駒ヶ根インターチェンジから車で十分弱。
見えてきたのは畑の間を走る道路の突き当たりの、山を背にした山門。
そして、見事な見事な満開の桜でありました。
桜の時期であることからでありましょう、交通整理の人が何人か立っています。
桜の根元にはこれまた花の盛りを迎えた水仙の花。
駐車場に車を停めると雪を頂に残す南アルプスの山々がかなり大きく見えています。
いらかの向こうには中央アルプスが。
凄い。
…これが見せたくて一人先走っていたのか。
と、夫を見直しかけた瞬間、
「凄いなぁ…。光前寺さんって桜の名所なんだ、知らなかった」
は?
…そ、そうでしたか。
では何ゆえに?
息子は口も聞けぬくらい疲れている様子であるのに、さっさと車を降りて、外の景色を堪能しています。
息子が手で(行ってて)と合図をしています。
「大丈夫?」の言葉くらい言ったのかどうか。
キーっ。
ここは繰り返して語っても怒りがこみあげるだけなので、先に進みましょう。
山門前には見事なしだれ桜。
こちらはしだれ桜の木が多いようです。
山門は仁王門。
修復をされたのかどうかは不明ですが、身体や顔の朱の色はしっかりと残っております。
お顔はやや庶民的で、(こんなお顔をしたおじさん、いそうかも)と思われ、像は二メートルくらい、でしょうか。
瓦屋根葺きのしっかりとした造りの山門であります。
この門自体は結構新しい?
御像よりもだいぶ新しいもののように思われます。
御像は大永八(1528)年のものと首の部分に残されているといいます。
その山門をくぐると、ひだりてに大きな建物が見えてきます。
こちらは御本堂、ではなく大講堂、とあります。
そこから先の参道は背の高い杉の並木が続いています。
樹齢数百年とも言われ、杉並木の下には石垣が連なっています。
この石垣が連なります。
なんでもこの石垣の石の間には、【光苔】がみられるのだといいます。
ただし。
この光苔、四月中旬くらいから見頃だということで、今は普通の緑の苔だけが見られます。
みぎてに寺務所があり、こちらで御朱印をおさずけいただけるあようです。
(光前寺さんの続き)
この日は出立時においてはお寺さんの珍道中の予定は無かったため、御朱印帳は持参しておらず。
しかしながら、このコロナ禍以降、お書き置きの御朱印のみの神社仏閣が増えております。
そっと覗いてみると、御朱印帳が何冊か重ねて置いてあります。
(あ、直書きしてくださるんだ)
…ということは、逆に御朱印帳が無いとおわかち下さらないこともあるのです。
…などとごちゃごちゃ書いておりますが、そこはエックスキューズミーおばさん、係の方に
「今日御朱印帳を持参していないのですが、お書き置きのものはお授けいただけますか?」と、さっさとお聞きしております。
おわかちくださるそうで、早速お授けいただきました。
その受付の前は小さな丁字路となっていて、そこを曲がると【国の名勝 光前寺庭園】となっています。
まぁ、まずは御本堂へのお参りです。
そこを過ぎると。
より一層杉並木の木陰が色濃くなって、その隙間からの木漏れ日さえあまりありません。
仄暗い杉並木の参道を歩いて行くと、背後からの日の光を受けて、まるで後光でも射しているかのような二階建ての三門が見えてまいります。
高さのある三門で二階の様子はわかりませんが幾重にも組まれた組木の見える、荘厳な門であります。
あとで調べたところ、この二階には
お釈迦さまと脇侍の迦葉・阿難尊者さまの三尊と、十六羅漢像が祀られているといいます。
うーん、…こちらの御開帳はあるのだろうか。
さてさて、いよいよ御本堂であります。
橋を渡って、石段の上にもくもくと煙に包まれ、なんとも神秘的な御本堂の屋根が見えます。
※ 前レスをふと読み返して、
> 石段の上にもくもくと煙に包まれ、なんとも神秘的な御本堂の屋根が見えます。
…たしかに、見たままを書いています、間違ってはいません。
間違ってはいないのですが、屋根がもくもくと煙に包まれていたら、それは緊急事態をも思わせる表現であります。
おバカなおばさんの書いた文章に慣れた方は、(あぁ、またおかしな文章を)と思って流してくださっておられましょうが…。
ええ、ご想像通りに、危険な緊急事態ではない、た・だ・の・香炉から昇る『お線香』の煙です。
またそこを直した文章にすり替えようとも思ったのですが、お忙しい中お読みくださっておられるのに、
ほぼ同じ文章を、『お線香の』という四文字だけ書き足しただけの同じ文章を再レスしても、それはもうご迷惑でしかなく…。
すぐにでも気づいて、ものの数分ですり替えて削除するならいざ知らず、これだけ時間が経っていると、もしかしたら複数の方がお目を通してくださっていたかもしれないわけで…。
表現がおかしなこととなっており、申し訳ありませんでした。
こちらのスレはボケたおばさんがボケの進行予防のために綴っておりますので、そこはチャットGPTを使うわけにもいかず、さらには文章力のないおばさんが、ミクルの中でお目汚しでしかないスレをただただ延々と続けさせていただいているというわけなのであります。
本当に申し訳ありません。
そして。
いつもお読みくださっておられる方におかれましては感謝の言葉もないくらい、有り難く思っております。
このおボケでおバカなおばさんのスレをこれからもお読みくださる方がいてくださるならば…、それはもうこの上なく嬉しくありがたいことでございます。
お詫びを申し上げるとともに、日ごろのお礼を申し上げたく、一レスさせていただきました。
(光前寺さんの続き)
石段を登ると、大きな香炉。
御本堂へはさらに数段の階段があり、そこを登ると小さなステージくらいに広い板張りの空間があります。
御本堂の扉は開いておりますが、中へは入れません。
勇ましくて躍動感のあるお不動さまと、矜羯羅童子さんと制吒迦童子さんがお祀りされているのが拝見できます。
御本堂は撮影禁止。
目に焼き付けようと必死に御本堂の中を見るのですが、やはり距離もあり、そしてやはり仄暗いこともあり、正直ほぼ妄想上のお姿。
しかもどうやらこちらのご本尊さまは秘仏とのことで、私が穴があくくらい見つめたお不動さまは御前立ちであったようでした。
帰ってから調べたところ、こちらのご本尊さま、七年に一回御開帳されるとのことで、自分では運転して行けないくせに、次の御開帳は…?などと調べてみたところ、平成二十八(2016)年に御開帳があったことはわかったのですが、その後の記事はなく…。
そもそもが予定通りであれば昨年が前回から七年目。
うーん、なかなか御開帳のタイミングは難しいものです。
御本堂前の少し広くなった板張りの空間のみぎてには木彫りの〝早太郎〟の像が飾られていて、こちらだけは写真撮影オッケーとのこと。
…この像がまた凛々しくて、そして可愛らしい。
私はどちらかというと大型犬が好きなものなので、この大きめな木彫りの像がとても気に入り、しばらく像の周りをウロウロしておりました。
聞こえてくるのは、…カエルの鳴く音?
見ると御本堂の右側には小さな小さな水の流れがあるようです。
お。
カ、カエルだ。
両手のひらを合わせた上にすっぽり乗りそうな大きさの、黒っぽいカエルが悠々と泳いで石の上に乗りました。
綺麗な水です。
い、いやカエルはいい。
視線をそらすと、おお!
復活した息子がちょうど御本堂前に来ていました。
で。
なにを思ったのか、母である私、
「カエルがいるよ」と伝えます。
自分でカエルはいいやって思ったくせに。
しかしながら、こちらのお寺さんには急遽訪れたため、私から彼に伝えられるようなことは何一つなく、早太郎のことにしても、夫が熱く語っていたとき、彼は車で休んでいたので、早太郎伝説も知らないだろうし。
で、よりにもよってカエル情報?
…それでも息子は思いの外嬉しそうにカエルの写真を撮っておりました。
(光前寺さんの続き)
私はそのすきに、御本堂前の左側にある御守や御札の授与所へと移動いたしました。
おお!
あの可愛らしい木彫りの早太郎を模した土鈴があります。
蓋つきの香炉もあり、その蓋には三重塔がついています。
ええ、おばさん、またまた煩悩のかたまり、物欲の権化が表面化してまいりました。
しかし!
最近は心の中で自問自答することを覚えたのです。
(香炉はすでに家にある。我慢できるぞ)
(早太郎以外にも土鈴はたくさんある。これも我慢できる)
この香炉、蓋があるということは普段のお線香を立てる香炉ではありません。
お寺のお坊さんも
「そうですね、どちらかと言うとお焼香なさるような香炉になるかと思います」
とおっしゃっています。
我慢、我慢!
よし我慢できたぞぉ〜。
晴れ晴れとした気持ちで三重塔へと歩き出しました。
振り返ると。
息子が今まで持っていなかった手提げ袋を持っています。
…は、箱だ。
そう、ちょうど香炉の大きさの箱が入っているではないですか。
「…香炉、買ったね?」
「うん、欲しそうだったから」
いやいや、気持ちはたいそうありがたい。
しかし母は我慢をする訓練をしておってだねぇ…。
「ありがと」
…母は香炉をゲットした。
息子は親孝行のレベルが上がった。
母は煩悩のレベルが上がった。
我慢するレベルが大きく下がった。
(光前寺さんの続き)
光前寺さんの御本堂の階段を降りました左側になにやら人だかりができています。
『延命水』と書かれた立て看板があります。
「飲む?」と夫。
「いや、私はいい。延命でしょ?ボケ防止の水なら持ち帰るくらい飲みたいけどね」
効き目はたしか、かもしれません。
何故ならここ、駒ヶ根にはあの〝養命酒〟さんの工場があるのです。
早太郎の墓がありました。
お墓自体は小さな、丸石を積んだだけの簡素なものですが、高く積み上げた石の立派な台と、同じく立派な囲いに囲まれています。
早太郎は本当に実在したと私は思います。
早太郎のために奉納された大般若経も実在しますし、遠州府中の見付天神社さんにも早太郎の伝説が残っていて、今、この二つの市は姉妹都市となっているとか。
早太郎の墓は御本堂の…方は向かずに歴代和尚さまのお墓と向き合って建てられています。
…なんとも早太郎らしい、賢い忠犬の墓、という感じのお墓ではないですか?
(早太郎の石像と三重塔)
(光前寺さんの続き)
その先を下ると、どっしりという表現がぴったりくる三重塔があります。
色彩は無く、白木のままの塔であります。
この三重塔、ありがたいことにすぐそばまで行くことができます。
初層にはたいそう彫りの細やかな、美しい彫刻が施されています。
仙人のよう感じられるものや唐子なもの、波の寄せるさまなどが彫られていました。
龍の丸彫りもあります。
はあぁ♡
この塔の中にも御仏の尊像が納められているはずです。
どなたがおられるのでしょう。
こちらの御開帳はあるのでしょうか。
秘仏というのはありがたさが増すようにも思われます。
しかしながら、この仏像好きのおばさんはついつい、御開帳はあるのだろうかというところに思考がいってしまいます。
この秘仏という取り扱いによっては、お寺さんの方たちすら拝見したことがないという絶対秘仏という存在があり、誰の目にも触れぬまま朽ちてしまっている可能性すらあるのです。
ここは至る所に水の流れがあって、言わんや湿気の多い土地ということになります。
とすると、中におられる御仏の尊像が木製であれば傷みが加速されもしましょうし、カビなどが生えることもありましょう。
虫喰いなども懸念されます。
…そうした自然にまかせた形を以ての〝秘仏〟なのでありましょう。
人の欲とか一切関与しない、あくまでも仏界と考えて。
そう、御仏の尊像がどれだけ立派であろうとも、秘仏としたからにはあくまでも秘仏で、その像の存続とかは〝像〟という実体にとらえられた煩悩、…なのかもしれません。
…がね。
この三重塔を下にくだるとすぐ先に小さな池がありました。
あ、石幢!
立派な笠のある、御仏の浮き彫の立像が彫られた石幢です♡
そばへ…、は行けない。
行けないのです。
くぅー。
参拝客のこの池への転落事故を考えて、なのでしょうか、縄が張り巡らされているのです。
目を凝らし、さらにはスマホで写真を撮って拡大してみますが、どなたの尊像かよくわかりません。
四面にそれぞれ御仏が彫られているようです。
うううぅ…。
こちら光前寺さん、なかなか御仏の像が遠かったり、拝観できなかったりであります。
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