神社仏閣珍道中・改

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2024/01/20 11:13(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。





No.3818310 (スレ作成日時)

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No.301

醫光寺さんに『赤城山小沼 赤堀道元姫 遺品』と表書きされた一本の帯が伝えられているといいます。
その赤堀道元の娘についての言い伝えも。
それについて、いろいろ調べていてどうしても知りたくなり、
そうだ、醫光寺さんへ行こう!
となった次第で。

その赤堀道元の娘についての言い伝えはいくつかの説があるようですが、とりあえず、そのうちの一つを。


『昔、赤堀道元という豪族がおりました。
大変裕福でありましたが子供がありませんでした。
赤城の明神さまへ祈願したところ女の子が生まれました。
しかしながらこの娘、子供の頃から変わったところがあって、夜になると髪の毛がわさわさと鳴る音がしたといいます。

その娘が十六歳になったとき、「赤城山に参拝に行きたい」と言い出します。
そこでしかたなく道元はお供の者を付けて娘を赤城山に行かせました。
赤城山の小沼まで来ると、娘は急に
「水が飲みたい」
と言い出します。
供の者が「水を汲んでまいりますのでしばしお待ちください」と言うのも聞かず、娘は沼に入っていってしまったのです。

道元はなんとしても娘の亡骸を沼から引き上げようと土方を千人雇って沼を掘り切りました。(その跡は今でも用水の水門となっている、といいます)

すると娘は大蛇か龍かという姿で現れて、
「私はこんな姿になりました。どうぞ諦めてください」
と言ったといいます。

そこで道元は沼を掘ることをあきらめ、娘の遺品をあちこちの寺に納めたといい、その一つが桐生市の黒保根町の醫光寺さんに納められた帯であったといいます。
醫光寺さんではその帯を四月(あるいは五月)八日に飾ってお祀りするのだといいます。
また、このことから赤城山麓一帯では「十六歳の女の子は赤城山に登ってはいけない」、
「やたらに神様に申し子をしてはいけない」と言い伝えられているといいます。
そして、その後はどうしても十六歳の娘が小沼のそばを通らなければならないときには、引き込まれないよう身代わりに鏡を投げ入れるようになったということです。


赤堀道元は藤原秀郷(俵藤太)の子孫で、娘の名は『白百合姫』というと、伝えられています』


『群馬県史 資料27 民俗3』より要約

No.302

そんな醫光寺さんのレスを膨らませ膨らませ、膨らませ過ぎて、今日は桐生市川内町五丁目に鎮座されます【赤城神社】さんへ参拝してまいりました。
御祭神は【赤城大明神】さまです。

こちらへは以前仕事で前を何度か通ったことがありましたが、なにぶんにも仕事中で、次の仕事が押しており通りすがりに心の中で
(前を通らせていただきます。参拝できず申し訳ありません)
と申し上げるにとどまっておりました。

ただ。
その仕事の際に前を通って、路駐以外には車を停めるスペースがないことだけはチェックしてありましたので、本日は夫と二人で、なんなら一人づつ参拝して、片方は路肩に路駐していつでも移動できるようにしようかと申しながらまいりました。

ちなみにこの辺り夫は未踏の地であり、私が運転してまいりました。

えっ?
…できますって!
だって仕事で来ていたくらいです。


参拝を終えて。
隣にも御堂がありましたので、そちらへも参拝をさせていただきました。

覗き見ペア参上、です笑。

こちらはどうやら観音堂のようです。
お祀りされた御仏の御像のお顔を拝することはできませんでしたが、中に赤い奉納幡があり、そちらに『観音菩薩』と書かれていましたので。

大きな立像です。

うーん。
…あまり法要をされているようには感じられません。


その参道となっている緩やかな斜面には庚申塔と青面金剛さまが二体。
観音さまと如意輪観音さまが一体ずつ。道路の路肩近くには小さなお地蔵さまがお立ちになられていました。

石仏さまをあれこれ拝見させていただいていると、観音堂のお隣にお住まいの方がバイクでどこからかお帰りになられたのが見えました。

さあ、エックスキューズミーおばさんが走ります!

その方にお聞きしたところ、赤城神社さんは毎月五月の第一日曜日に大祭が開かれるとのことでありました。

そして。
観音堂はどちらのお寺さんも関わることのないお堂となってはいるものの、毎月十七日に御開帳しているとのこと。

「よかったらぜひ来てみてください」と、何度もおっしゃってくださいました。

(きっと来月には観音堂の御開帳にきております)と、心の中でつぶやいたおばさんが一人。

うん、来月の十七日は金曜日、大丈夫そうです♡。



…あれ、日付が変わって昨日になってしまっていました。

No.303

昨日醫光寺さんのご住職さまはお留守で、今日はどなたも電話にお出になりませんでした。

まぁ、急ぐことではありませんので、なんならあと少しすれば紅葉の美しい季節をむかえますし。

醫光寺さんのすぐ近くには桐生市黒保根地区の三奇石の一つ、『亀石』なるものもあるようですし、ゆっくり秋の景色の中を歩いてみるのも良いかもしれません。


さて。
昨日二十三日は勢至菩薩さまのお縁日。

勢至菩薩さまは、智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救うとされています。
智慧とは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味します。
正しくは大勢至菩薩というのだとあります。

阿弥陀如来の右脇侍として観音菩薩と共に三尊で表され、独尊で祀られることはほとんどありません。

…そうなんです。
勢至菩薩さまは午年の守り本尊とされる御仏でありますので、勢至菩薩さまの御像のあるお寺さんをお参りさせていただこうといたしますと、…ほぼ見つからない。

最近守り本尊の石仏さまを境内に並べてお祀りくださるお寺さんも増え、そういったお寺さんへお参りすれば別ですが、御本堂にお祀りされているとすれば、阿弥陀如来さまがご本尊のお寺さん、ことに阿弥陀三尊さまがご本尊のお寺さん、となります。

うーん、
智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救ってくださる勢至菩薩さま…。


…行く!

阿弥陀三尊像がご本尊のお寺さん。
ぱっと頭に浮かんだのは群馬県桐生市の【青蓮寺】さん!


…実は九月二十三日、毎年秋のお彼岸のお中日が青蓮寺さん年一回の御開帳、だったのですが、どうしてもどうしても外せない用事ができてしまい、今年は御開帳に行くことができなかったのです。

青蓮寺さんが大好きな私。
御開帳にはうかがうことはできませんが、せっかくのお彼岸、お前立ちの阿弥陀三尊像さまに参拝いたしました。

よぉ〜し、勢至菩薩さまのお縁日、青蓮寺さんへ行くぞぉ〜。


…ということで、昨日は青蓮寺さんへ参拝してまいりました。



(菊の花。
今年は菊の開花が遅れていると聞きますが、わが家は通年通りです。ただ、今年は菊の花のつぼみが半端なくついており、一輪摘めばまるで一束の花束のようです)

No.304

まずは【勢至菩薩】さまのこと。

勢至菩薩さまは智慧の光で、六道に迷う衆生を照らし、救いの道を示してくださる御仏。

…あれ?
知恵。
智慧。
智慧の仏さま…?

お釈迦さまの智慧を持つ文殊菩薩さま、
記憶の智慧を持つ虚空蔵菩薩さま。

うーん…。

勢至菩薩さまの智慧はもっと実戦的なものだといいます。
勢至菩薩さまは人を救う強い智慧でピンポイントに無知な衆生が地獄道・餓鬼道・畜生道に落ちないように救ってくださっておられるのですから。

私のような危なっかしい無知な人間を放っておけないという菩薩さまということで。



ちなみに勢至菩薩さまは残念ながら私の守り本尊さまではありません。

…本当は私の年齢に触れる発言ともなりますので、この辺は避けたいところではありましたが。
ただ…すでにアラカンを匂わせてしまってはおりますので、この〝アラカン〟近辺の午年は、…ちがうんです。す

なぜならば、このアラカン〝午年〟は異常なまでに出生率が低かった年、なんです。
そう、六十年に一度の丙午、ひのうえうまの年。

この年に産まれた女子は、異様に少ないのです。
…たとえば江戸の大火を引き起こした『八百屋お七』が丙午の年の生まれ。
気性が激しいとか言われたり、男を食い殺すだのいう迷信があり、そうした、根拠のない迷信とはいえ、言い伝えられるものがあって。
丙午年生まれの女性に対する偏見をさけるため丙午年の出生とならないように妊娠出産をさけるということにつながっているのです。

今と違って、そうした迷信にもこだわりますし、今では考えられないくらいに結婚しない女性は肩身が狭かった時代のことですから、そうしたことが実際にあったのです。

それが昭和の時代においても、そうした出生率の低下する現象は見られたのです。

つまり、この年生まれの人口は少なかった、ということです。

…丙午に産まれた女性は気性が激しくで男を食い殺す。


「なるほど、丙午だからか!」
今までお読みくださった方が思わず納得しそうな私。
…違うんですって。

…たしかに気性は激しいですが、丙午年生まれのせいではないのです。
言いかえると、丙午年生まれの方は別に気性が激しくはないのです。


ただ、〝危なっかしい無知な人間〟なので、勢至菩薩さまは「守らなければ!」と思ってくださっているかもしれませんが、ね。

No.305

おはようございます。

私のすっ飛び思考は、長年連れ添った夫をも未だに惑わすものであるようですが…、この、ここ数レスの流れから、普通の人であれば、青蓮寺さんの話となる、のでありましょう。
そういかないのが、この奇しいおばさん。


えっ?

おばさん的には繋がるにはつながっているんですが、…ほら、〝お縁日〟ということで青蓮寺さんをお訪ねしているではないですか?

お縁日に触れたのであれば、
今日、二十五日はどなたのお縁日なのかをお知らせしたら、気づきのある方もおられるのではないか?
というおばさんの老婆心、からなのであります。
…そう解説をつけると、繋がりが見えてくるのでは?


前解説が長くなりました。

本日、二十五日は
【文殊菩薩】さま
【法然上人】さま、
【天神】さまのお縁日でございます。

殊、文殊菩薩さまは卯年の方の守り本尊さま。

もしかしたらこの稚拙にして奇しいスレをお読みくださる方のなかに卯年の方がおられるかもしれません。


ん?
守り本尊を気にかけておられる方なら、お縁日もご存知なのでは…ですか?

ま、まぁ…。

そ、そうかもしれませんが…。


老婆心、老婆心♡


しかも、です。
『三人寄れば文殊の智慧』といわれるくらいの智慧の御仏、文殊菩薩さまと、
『学問の神様』道真公、天神さまのお縁日です、
おばさんのような痴愚な者でもなんだか賢くなれそうな♡


…そうはならなかったことは、お読みくださっているミクルの方々も、悲しいかなわが子が、そして夫も、なによりも私本人がわかることではありますが、ね。


でもありがたいではないですか。
智慧の御仏と学問の神様のコラボレーション♡

それだけでも心が弾んできません?


今日はきっと良い日になります♡

No.306

と、いうことで本日二十五日は、
【文殊菩薩】さま
【法然上人】さま
【天神】さま
のお縁日であります。

ところで。
かねてから抱いております素朴な疑問なのですが、なぜ十二支の干支のうちのいくつかが、二つがひとつにまとめられてしまっているのだろうか、という件。

【守り本尊】というのは、十二支に八つの仏をあてがっていて、お寺さんによってはその八仏の石像を境内に並べてお祀りしていたりいたしますが、
そうなんです。
十二支に対して八尊、なんです。

…何故?

丑年と寅年
辰年と巳年
未年と申年
戌年と亥年

…何故?

まぁ、年廻りによっては、一学年でこの干支がちょうど当てはまる学年はあったりするでしょう、たとえば四月生まれの丑年から始まって三月生まれの寅年まで、とか。
ですが、その次の学年になれば、寅年と卯年、です。
さらには卯年と辰年。

この辺は守り本尊さまはかぶりません。

…何故?


生まれた干支の占いとかもありますが、干支が異なるとずいぶんとその、…たとえば性格とか?…異なって書いてあるわけですよ。

まぁ、性格なんて干支が同じだからといって同じわけなどありませんし、それを申しましたら干支が異なっても守り本尊さまが同じでなんら支障などあるはずもない。
御仏は迷える衆生を救ってくださる存在でありますゆえ。


そんなことで、(ま、いいか)。

子どもたちはみんな当然干支が異なっております。
たまたまわが家は守り本尊さまがかぶる子どもはおらず、みなそれぞれが異なる守り本尊さまにお護りいただいております。

今年生まれた孫は卯年、まさに今日がお縁日の文殊菩薩さまが守り本尊さまであります。

ばぁばはそんなことで、孫は賢くなれそうでひそかに喜んでいたりもいたします。


でもやっぱり、…何故?と疑問がわくことがあります。

昨日がお縁日であられる、ほとんどの人がその名を知っているだろう『地蔵菩薩』さまは守り本尊にはなられていません。
『観音菩薩』さまも。

無理に組み合わせて八つにしぼらなくとも、御仏はまだまだたくさんおられます。
十三佛という形でも御仏が一つの括りになっておる例もあります。

十三佛にしろ、守り本尊にしろ、
さまざまな〝階級〟の仏尊が当てはめられており、悟りをひらかれた如来さまから、菩薩さま、十三佛では明王さまもおられます。

No.307

これを円グラフにすると、四隅にあたる干支だけふたつペアになっていることに気づきます。


これをわかりやすく解説している方がおられました。

…結論からいうと、十二支じゃなくて別のものがベースになっているのだといいます。
それは、『九星』というもの。

九星は、中国由来の東洋占星術「星占い」のベースになる思想です。


『九星』は、古代中国で考え出された、この世の森羅万象を捉えるための考え方のひとつで、その原理は1~9の数字なのだそうです。
1~9は、偶数(陰)と奇数(陽)に分かれ、その組み合わせで宇宙の摂理を捉えようとするらしいのです。

全天を、中央と八方位の9つのエリア(宮)に分割し、地球(陰)と太陽(陽)の運行をこの9エリアに当てはめている…のだそうで、もうこのあたりからすでにおばさんはついて行けてはおりません 笑。

物事の状態が九種類あって、それを我々の運命とか方位の吉凶とかの判断に用いたもの、だということで、
これが東洋占星術に用いられて「八卦」にも応用されました。
「こっちの方角は吉」とかいう、もっと言ってしまえば「当たるも八卦当たらぬも八卦」といわれるアレであります。

つまりはインド発祥の仏教とはぜんぜん別のところ、しかもはるか古い時代に発祥した中国の世界観なようで。
それがいつのまにか仏教と一緒に日本で取り入れられ、広まっていったもののようです。

とはいえ真言密教系では東洋占星術が色濃く影響しているようであります。

『守り本尊』は九星が考えのベースにあって、だから「守り本尊」は八尊しかいない、ということのようです。

人の生まれ年は十二支で捉えるので、それを八尊の守護仏に十二支を当てはめた、ということになるようです。


…なるほど。
わかったようなわからないような…。
だとすると〝九〟という捉え方はどこへ?

…まぁ、割り振るには八の方がまとめやすい?


…そんなことのようでありました。


わかりやすい図、円グラフを載せておきます。




(守り本尊さま)

No.308

話が飛び飛びになりますが、今日大変嬉しい、そしてありがたいことがありました。

月曜日に留守番をされていた方が、醫光寺のご住職さまに伝言してくださったようで、それをまたご住職さまはご住職さまで、わざわざ着信履歴をご覧になって私のところへお電話をくださったのです。


…すごくないですか?

檀家でも無い、一参拝客がかけた電話にわざわざかけ直してくださるなんて!

嬉しさと緊張で、本来なら
「伺ってお聞きしたいことがあるのですが、いつならよろしいでしょうか」
とお聞きするはずだったのに、そうするつもりでお電話したのに、すっかり舞い上がった私は、な、なんと!

控えておいた質問を全部電話でお聞きしてしまったのです。


…なんて図々しい。
……。



そしてそれで今になって落ち込んでいるおばさんが一人。
もっと地面深く落ち込んでしまえ!


…。
……もう。

ほんっとうに、自分で自分が嫌になります。

それに対して嫌な顔一つなさらず(お電話ですのでお顔は見えてはいませんが)、一つ一つ丁寧にお答えくださいました。

…修行をされると、こんなことにも笑顔で(お顔は見えていませんが)丁寧な応対ができるのですかね。

本当に本当にありがたかった。


とりあえず。
まだ落ち込んでおりますので、まずは醫光寺さんのご住職さまへの感謝をここに。






No.309

昨日お電話くださった醫光寺さんのご住職さま。

思ってもいなかったことで、すっかりあがってしまった私は、ご住職のでご都合をお聞きして、お寺にうかがっていくつかお聞きしたいことをお聞きしようと思っていたのにも関わらず、お電話で直接質問してしまいました。


そんな私がお聞きしたこと。

① 毎年一月四日はお薬師さまのお護摩法要が営まれる。

② 以前は年一回、赤堀氏の娘さんの遺品の帯を御本堂に飾る日を設けていたが、コロナ禍となって以来中止している。

年一回の日というのは、四月八日がその娘さんの誕生日であったため、四月八日であったこともあるのだが、黒保根地区の春は遅くて、四月だとまだ雪が残っていたりして、足元が危なかったりすることもあり、五月の八日になっていった。
また、黒保根地区は養蚕が盛んだったこともあって、五月八日は八十八夜の頃にも当たり、五穀豊穣等の祈願や養蚕がうまくいくように祈願することと併せての、娘さんの霊を弔う日としたという。

③ 屋根の大棟の三つの紋について
江戸時代に建てられた時は茅葺きであったため、屋根の紋等は無かったのだが、先先代のご住職の代に屋根を瓦葺きとした際、三つの紋を掲げたのだそうで。

・一つは新田の紋である『一つ引き両紋』まぁ、丸に太い横線のあるもの。
これは醫光寺さんのそばにある…とはいっても標高七百五十メートル以上の山中にあるのですが…、
『栗生神社』さんの御祭神となっておられる『栗生左衛門頼方=新田義貞の功臣』にまつわるもの。

・一つは徳川の紋である『三つ葉葵』。
徳川園より御朱印をいただいていたことによるもの。

、一つは、二つある高野山真言宗の宗紋の一つ『三つ巴』。

この二つある高野山真言宗の宗紋についても、どうして二つあるのか、というところまできちんとお教えくださいました。
…これについては少し長くなるので、次レスで書いていこうと思います。


…すごくないですか?
よどみなく、すらすらと、全ての質問に即答してくださった、だけでなく、きちんと私がわかるところまで掘り下げてお話しくださったのです。

本当に本当にありがたいことです。



(散ってもなお美しい金木犀)

No.310

醫光寺さんの屋根の大棟の三つの紋、『三つ巴』について。

前レスでこの紋は高野山真言宗の宗紋であることを書きましたが、それについてもご住職さまが詳しくお教えくださったので、『三つ巴』について、そしてもう一つの宗紋について書かせていただきます。


『【高野山真言宗】は、平安時代初頭に弘法大師(=空海)が入唐し、唐の長安の青龍寺 (西安市)で師僧恵果から密教を学び、日本に帰国後、開いた真言宗の一宗派。

総本山は【高野山金剛峯寺】。

寺号の金剛峯寺の金剛峯の名称は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祗経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』の最初の3文字『金剛峯』を引用して、空海が名付けたもの。


高野山(和歌山県伊都郡高野町)は弘仁七(816)年に嵯峨天皇より空海に下賜された。
空海が、若い時に修行したこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというものが史実とされている。


平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。

空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白ニ匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。
この説話に出てくる『丹生明神』は山の神であり、『狩場明神』は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されている。

高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇し、壇上伽藍の御社(明神社)において現在でも祀られている。

また【丹生都比売神社】(和歌山県)でも、丹生明神と狩場明神が祀られており、そのため金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている』




…この、『丹生都比売神社』の社紋が『三つ巴』なのであります。

高野山の山の神さまにお山を譲り受けた恩を忘れず、この神さまの祀られる社紋を寺紋に掲げている、というのがこの寺紋の一つ、【三つ巴】であるといいます。





No.311

醫光寺さんの屋根の大棟の三つの紋は『一つ引き両紋』と『三つ葉葵』と『三つ巴』の三つ、でありますが。

醫光寺さんの総本山であります【高野山金剛峯寺】さんの宗紋は
『三つ巴』と『五三桐』の並んだもの。
紋が二つというのはなかなか珍しいものの気がいたしますが、私はここ醫光寺さんのご住職さまからその由来をお聞きして知ったくらいなので、その宗紋をあらためて見て驚くことはありませんでしたが…。

これは『豊臣秀吉』拝領の青厳寺の寺紋、であるといいます。

そこにも高野山の長い歴史があって、この『金剛峯寺』の〝宗紋〟が成り立っていました。

これは、
文禄二(1593)年に豊臣秀吉が母・大政所の追善菩提のために高野山に建立した【青厳寺】と、
天正十八(1590)年に建立された興山寺を
明治二(1869)年に合併して、寺号を【高野山金剛峯寺】とした際、定められたもののようです。

ちなみに合併以前は、寺号の金剛峯寺は高野山全体を指す名称で、現在のように特定の寺院を指して寺号とすることはありませんでした。


そんな長い歴史の中、空海さんの開かれた高野山、真言宗という宗派は、いくつもの派に分かれていき、高野山真言宗は成り立ち、その一つのお寺として醫光寺さんがある、ということでありました。

五三桐は【高野山金剛峯寺】の寺紋の意味合いが強いため、【高野山真言宗】の宗紋のうちの一つ、『三つ巴』を屋根の上に冠した、ということのようになるのでありましょうかね。

No.312

恒例となりつつあります、〝今日は何の日〟。

暦を見ると本日は『後の月』とも呼ばれる【十三夜】となります。

古くから『十五夜』のあとは『十三夜』の月も見ないと『片見月』となり縁起が悪いと言われています。
そんなこともあり、わが家ではこの十五夜も十三夜もお祀りせずに、お月さまを見上げるだけの日として久しいのでありますが。

十三夜は、旬である大豆や栗が供えられるため『栗名月』『豆名月』とも呼ばれるそうです。


仏教では月待ちといい『十五夜』や『十三夜』などにそれぞれ仏さまが当てられていて、十三夜の本尊は【虚空蔵菩薩】さまとなります。

虚空蔵菩薩さまは、十三という数字に縁があり、毎月の縁日は13日で、十三夜の月待ちの本尊、十三参りの本尊、十三仏信仰では十三番目・三十三回忌の本尊となり、まさに十三づくしの菩薩さまです。

虚空蔵菩薩さまの司る『虚空』は、そのまま宇宙へ繋がるので、私たちと宇宙の仏さま【大日如来】さまとの間を繋げてくださる菩薩さまとして密教では重要視されているのだといいます。

虚空蔵菩薩さまは、福徳と知恵を授け、災難を虚空の彼方へ消し去ってくださるありがたい御仏です。

今宵がみなさまに良い十三夜となりますよう、お祈り申し上げます。



…今日の月が私にほんの少しでいい、お知恵をお授けくださいますように。

No.313

「月待ちってなに?」
まだ五時台の、大きな美しい十三夜のお月さまを見上げながら、夫が聞きました。

「庚申のように仲間が集って、念仏などを称え,飲食をしながら月の出を待ったり、月の出ている間をともに過ごす信仰行事みたいだよ。
十三夜や十五夜は今はお月見として有名だけれども、昔はやっぱりそういった信仰的な行事だったんじゃない?
その他に十七夜、十九夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜とかもあるんだって。
二十二夜講とか、二十三夜講とかの石塔はよく見るし、十九夜って石塔も見たことがあるじゃない」

夫「ふーん。で、なんで十三夜は虚空蔵菩薩さまなの?」

私「虚空蔵菩薩さまは十三に縁のある仏さまだからなんじゃないの?十三日がお縁日だし、十三佛でも十三番目の仏さまだし」

夫「十三夜でも?」

私「だって二十二夜講の仏さまだって如意輪観音さまで、二十二日は如意輪観音さまのお縁日だよ?」

…実は十九夜講の仏さまも如意輪観音さまのよう記憶していたのですが、面倒なので黙っておりました 笑。
十九夜も、二十二夜も、ともに女の人のものだったと記憶しており、女人講つながりで如意輪観音さまなのでありましょうか?
これはあくまでも私の推測であります。


…夫のこの『なんで?』攻撃はイラっとくることが多いのです。
自分で調べればいいじゃんと思うことしかり。

そもそも『ふーん』というのは信じていない時の反応で、しかも記憶しようともしていないその場限りの会話でしかないのは、長い付き合いで分かりきっているので、この〝ツッコミ〟に対していかに誠心誠意答えてもまるで不毛なのがわかっているのでイライラするのです。

この〝月待ち〟が、
戸主の集りである場合は村寄合と近いものであり、
講仲間の集まりであれば念仏等を唱える宗教行事となります。

十九夜や二十二夜のような主婦や嫁の集まる女人講は話合いの場や安産祈願の場となることが多いようで、群馬県の高崎市に住む知人は、今でもこの二十二夜講と称する集まりがあって参加されているとおっしゃっていました。

青年たちが集まるときは酒盛り行事になることもあり、菓子でも出ると子供も集ってくる、と、一般的傾向としては次第に信仰的な色彩が薄れ、娯楽としての要素が強くなり、そしてそれも衰退していったのが現状なようです。



あら?遠雷…でしょうか?

No.314

この〝月待ち〟から始まり、…横に逸れるというか、よく言えば発展させて、調べてみたところ、〝日待ち〟というものもあることがわかりました。

日待ち?
月待ちが月の出を待つ事なのだから、日待ちは…日の出を待つ事?
単純に考えるとそうなのだけれど、だとしたら『庚申』のように夜通し寝ないで過ごすことは〝日待ち〟になるということ?

…調べてみたところ、
『人々が集まり前夜から潔斎して一夜を眠らず、日の出を待って拝む行事。』
(コトバンクより)
とあります。
おぉ、まさに聞くところによる庚申そのもの、ではないですか。
なるほど。


そして日待ち・月待ちについて調べたところ、詳しく調べてくださっている方がおられました。


信仰の概要や由来について
・『日本石仏事典』(庚申懇話会/編 雄山閣出版 1995)参照

「日待塔総説」について
「十月十五日が日待のアタリ日で(略)
『実隆公記』によれば、庶民の間で行われていた日待と呼ぶ徹夜の習俗が文明年間(1469〜1487)ごろから(略)宮中の行事となっていった様子がうかがわれる。(略)

室町時代建立の月待や庚申待板碑が多数あるのに、日待の青石板碑が一基も見当たらないのは日待が神事として行われていたためと考えられる。(後略)」とあります。

「月待塔総説」
「月待塔は、特定の月齢の夜に集まり、月待の行事を行った講中で、供養のしるしに造立した塔である。月待塔で最も普遍的なのが二十三夜塔である。」とあります。

「十三夜塔」
「十三夜の月見は九月十三夜が有名であるが、十三夜待は十三日の夜、虚空蔵菩薩を本尊として礼拝・勤行した行事で(略)三十日仏説では虚空蔵菩薩の有縁日は十三日なので(後略)」とあります。

「十五夜塔」
「十五夜塔には文字塔と刻像塔とがある。刻像では大日如来と聖観音などを刻むものがある。」とあります。

「十六夜塔」
「『下野の野仏』によれば、栃木県下には十六夜塔が九基ある。(略)栃木県で最も古いものは元禄十四(1701)年のものが芳賀郡にあり、ついで正徳四(1714)年と五(1715)年造立の塔が真岡市にある。」との記述があります。

「十七夜塔」
「長野県西筑摩郡田立村の十七夜待について『民間伝承』には、九月十七日に餅をついてお月様に供える習俗が報告されている」との記述があります。

(続く)

No.315

(続き)
「十八夜塔」
「十八夜の民俗で特徴的なことは、正、五、九、十一月の十八日に行われ、餅をついて月に供えることである。」とあります。

「十九夜塔」
「十九夜の月待講といわれるが婦人たちの念仏講でもある。十九日の夜当番の家あるいは寺院や堂に集まって、多くは如意輪観音の軸を掛け、その前で勤行が行われる。」とあります。


またさらに、
『群馬県史 資料編 民俗2』からとして 
「第五章 民俗信仰 十九夜待・二十二夜待」の項があり、
「十九夜講はもと子安信仰に発している。
日本古来の子安神は、仏教の影響を強くうけて子安地蔵とか子安観音となった。それらの祭日が月々の十九日であったので十九夜講とよばれるようになったらしい。」とあります。

さらに栃木県内の信仰について
・『栃木県民俗事典』からとし、
「ジュウクヤシンコウ(十九夜信仰)」
「本県の代表的なものである。」との記述があると書かれていて
「県南と県北で「十九夜をなぜ重要視するかははっきりとしない。
女性の厄年である十九歳から、とも言われるが、十五夜と二十三夜との中間とも考えられる。」とあります。その他、「十五夜」、「十三夜」の項もあります。


…凄くないですか?

調べるって、こういうことだったよな、と、ネットでちょぼちょぼ調べて調べた気になっていた自分が情けない。
〝国立図書館のリファレンス協同データベース〟、とあります。

これは良いサイトに出会えました♬



…つい数行前に、「調べるということはかくあるべきであった」的なことを発言していたくせに。

さすが、さすがな煩悩おばさんでありました。

そして追記するならば、たしかに十九夜の石塔を初めてみたのも栃木県でありました。
なるほど、栃木県の代表的なもの、でありましたか。



一晩中雷の鳴る音を聞いていましたが、一時間程前から本格的なものとなりました。
ちなみに。
今日って群馬県民の日、なんです。
四年ぶりに各地でさまざまな記念行事、及び賛同してくださった民間の施設によるイベントやら入場割引などが予定されているんですけど…。

とりあえず…くわばらくわばら。

No.316

…決してシリーズ化しているつもりはないのですが、〝今日は何の日〟。

本日二十八日は
【大日如来】さまと
【不動明王】さまの
お縁日であります。

守り本尊さまの考えによりますと、
午年、未年、申年のお縁日、ということになります、かね。

そ、そうか…。
お縁日という見方をすると、こんな現象も…。

No.317

夜通し聞いていた遠雷は、一時間半ほど前から私の住まう町に近づいて、地響きと、窓ガラスを揺らすほどの大暴れぶりであります。

落雷による故障を恐れてエアコンや、テレビなどのコンセントプラグを抜いたのですが、その消す直前のテレビのニュースで、
「昨夜から今朝にかけて、全国各地で落雷による被害が相次ぎました」と。


…そんな中でも爆睡できる夫が心底うらやましい。

No.318

世の中というのは、光があって、…光あるところに必ずある影、闇があることを、あらためて深く知らされたことがありました。
それはそれはいやというほどに。


先日、四年前の東京 池袋の暴走事故に対し、事故を起こした高齢ドライバーに対して損害賠償を求めた裁判で、東京地方裁判所は「一方的で重大な過失による凄惨な事故だ」として、被告側に合わせて1億4600万円余りの賠償を命じました。

…四年も経ちましたか。

まだ記憶に新しいものな気がするほど、まさに凄惨な事故でありました。


2019年4月、東京 池袋で当時87歳のドライバーが運転する車が暴走し、自転車に乗っていた女性とその娘さんが亡くなられたほか、九名が重軽傷を負った事故です。


この事故について、亡くなられた女性の夫の松永拓也さんなど遺族九人は、過失運転致死傷の罪で禁錮五年の実刑判決が確定した飯塚幸三受刑者とその保険会社に対し、賠償を求めていました。

27日の判決で東京地方裁判所裁判長は
「ブレーキと間違えてアクセルを踏み、異常な走行をした。一方的で重大な過失による凄惨な事故で、亡くなった2人の恐怖や無念さは察するに余りある」

「事故のあと謝罪もせず、みずからの過失を認めずに不合理な弁解を続けたことは刑事手続きでの被告の権利を踏まえても遺族の心情を逆なでする行為で、これらも慰謝料の算定に考慮する必要がある」と指摘し、被告側に合わせて1億4600万円余りの賠償を命じました。


それに対して、なんと!
被害者の夫の方に対して誹謗中傷、はては殺人予告まで突きつけられているというのです。

…ありえない。

誹謗中傷って、一体全体どこからの発想でしょう。

もともとこの裁判の前からこの男性は誹謗中傷をされており、警察が動いていました。
それを知った時も、なぜ、何故に?と、非常に驚いたものであります。


今回の判決に対して一体なぜ?

どこをつついて誹謗中傷?
どこを取り殺人予告?

No.319

交通事故の損害賠償を求める民事裁判では、相手が任意保険に加入している場合、事実上、保険会社と争うことになるといいます。

そう言われてみれば確かにそうです。
そんなことを言われるまで気づかずにいる私は、いかに深く物を考えずに生きていることをあらためて知り、反省いたしました。

そして。
今回の判決に対しての誹謗中傷は、ほかならぬ、誤った認識に端を発しているものが多いようです。


『民事裁判の損害賠償は加害者の方本人がが支払うのではなく、加害者の方が加入していた損害保険会社が支払います。
非常に勘違いしている方が多く、誤った認識で批判、誹謗中傷、また言葉に出来ないほどの、それ以上のご連絡が来ており、身の危険を感じております』


と、被害者の家族の方がSNS上で発信されておられました。
この〝それ以上のご連絡〟〝身の危険を感じる〟とおっしゃるものが、殺害予告であるようです。


『加害者が自賠責・任意保険に加入しており、民事裁判確定し報道された金額は保険会社から支払われ、加害者より直接金銭のやり取りはありません』

任意保険対人賠償が『無制限』でかけられておれば、このようなケースは裁判で賠償額を決めてそれを保険会社が支払うことがほとんどだといいます。
そしてたいていが任意保険の対人賠償は『無制限』でかけられていることがほとんどといいます。


被害者の方がどうしてこうも何度もつらい思いをされなくてはならないのか…。
賠償がどう決まったところで、被害者のご遺族が本当に望んでおられる尊い命は戻ってはこないというのに。


誹謗中傷、それ以上の事。
本当になぜなのでしょう。

No.322

ということで、秘仏のご本尊さまに代わり、御内陣には黄金に光り輝く御前立ちの阿弥陀如来さまが観音菩薩さまと勢至菩薩さまを侍仏とされお立ちになられております。

この阿弥陀さまは、寛永十二(1635)年に、江戸浅草の浄土宗正覚寺二代住職でありました栄感上人様が、近在の多くの人々の寄進を受けて、仏師運慶の末流・鎌倉の仏師宗意により造られましたものでありました。
しかしながらその後この阿弥陀さまは火災に遭い傷んでしまい寺の蔵にしまわれてしまいます。

時は流れ。
正覚寺の九代住職となられた念徹上人様は、桐生のご出身でありました。そんな上人さまはある時ご自分の生まれ故郷に近い久方村にある『青蓮寺』の話がその耳に届きます。
「桐生には檀家わずかに15軒の貧乏寺があり、やっとの思いで本堂を大改修した。
しかし、ご本尊様が秘仏のため本堂に入ってもがらんとした空間だけで拝む仏様もないと檀家が嘆いている」というもの。
上人様はこの話を聞いて身が切られるような思いがいたしました。
それならばと、蔵に入っていた阿弥陀さまを修理して青蓮寺に納め、八十五歳で亡くなられたご自身のお母さまの供養にしようとお考えになり、文書とお母さんの遺髪、形見の念珠を阿弥陀さまの胎内に納め、青蓮寺に寄進したということであります。

平成7年秋にこのお前立ちのご本尊さまの修復をして初めてそれがわかったとのことで、それまでは青蓮寺に代々伝わる浄土宗のお坊さん(念徹上人さま)の立派な御位牌の意味がわからずにいたといいます。

青蓮寺さんの大恩人であった、ということでありました。



(青蓮寺さんの欄間彫刻のうちの一つ。唐子遊びの図柄となりましょう)

No.323

『青蓮寺は大変な貧乏寺でありました。これは明治まで続きます。そのためでしょう、寺には住職が不在の期間が多くあったようです(無住寺)。
ある時などは、流行病のための隔離場所にもなっていたようです。ですから文書類はほとんど失われていて寺にはありません。
そんな寺に不釣り合いとも言えるのが、欄間彫刻と総ケヤキ造須弥壇です。

欄間の彫刻には『延享元歳(1744)甲子九月吉日 東上州 花輪村 彫物師 石原吟八郎義武 彫之』と銘文があります。内陣、下陣の内側にある彫刻類は同時期の作ではないかと考えられています。

須弥壇には『武蔵国妻沼町大工 林兵庫 門弟作 小林武助 内田清八 四月朔日丈八 今村勘六 内田惣助 源内 延享二乙丑天八月吉祥日当山十三世但阿良山代』と銘文があり、近在の一連の彫刻群の中でも古いものであります。共に大変素晴らしい彫刻で、驚かれる方が多いようです。』


…。

実際、目で見てみるとほんとうにそう思われます。

その彫りの素晴らしいことといったら♡

なお、欄間彫刻に銘記されている【石原吟八郎】は、日光東照宮や大猷院の彫刻でその名を知られる【高松又八】に師事した高弟の一人で、師の又八譲りの技を磨き『上州の名人』と謳われた人物で、【関口文治郎】の師であります。

石原吟八郎の作品は、実に緻密で、まさに生き人形のよう。
立体的なのはもちろんなこと、唐子の頬のすべすべしたさままで忠実に再現されているのです。
そして実に表情が豊か。

さほど数は多くはありませんが、いつまでも見上げ眺めていたい、そんな素晴らしい彫刻であるのです。

唐子の彫刻も素晴らしいのではありますが…。
それ以上に圧巻なのが内陣のご本尊さま正面にあたる欄間の龍。

まさに今にも動き出しそう!
裏から見てもリアルな鱗の刻まれた尻尾が大きくうねっている様の素晴らしいことといったら!


まさに言葉では言い尽くせません。
(殊に私ではことさら…)

ここもまた青蓮寺さんが大好きなところの一つです。





No.324

群馬県みどり市にあります【自音寺】さんの境内には『自音寺の四国遍路』として【自音寺八十八霊場』があります。

これは、群馬から遠い四国まで行かずとも、境内で四国八十八カ所遍路を巡れるようにと、先代の住職と現住職が、四国八十八カ所霊場を巡礼した際、各所から砂をいただいてきたものとのこと。

境内の墓地の一部に全長にして五百メートルの石仏を巡る通路を作り、踏み石の下と石佛の下にそれぞれのご住職かいただいてきてくださった砂を敷き詰め、『境内四国遍路』をとしたものです。
一つ一つの石仏さまはたいそうお美しく、これは各霊場のご本尊を丁寧に書き写したものを石像化したものといいます。

今回秋の大祭に参列させていただき初めて知ったことだったのですが、実はこの自音寺ので四国遍路を作る事となったきっかけは、こちらのお寺さんの檀家さんのお一人が、八十八ヶ寺を巡礼しながら、一ヶ所一ヶ所のお寺のご本尊さまを書き写して来られたことに端を発していたのだといいます。

この全ての御仏の画を奉納され、深く感銘を受けた先代のご住職が、まず四国巡礼をされ、その各所からお砂を頂戴して来られ、その後現在のご住職ものまた同じくお砂を頂戴してきたのだといいます。

私も言葉にならないくらい深い感動をおぼえました。
八十八ヶ所、総巡道は実に千四百キロに及びます。
けもの道のような山中を歩くコースもあるといいます四国巡礼を歩かれるというだけで凄いことだと思うのです。
それをさらに一つ一つのお寺さんのご本尊さまのお姿を絵に写しとるとは…。

今回ご住職が新聞社の方にその実物をお見せになっているところに居合わせ、そのうちの数枚を拝見することができましたが、実に心打つ、丁寧に描かれたものでありました。

一枚一枚が、筆ペン、あるいは筆で、同じタッチで八十八枚。

…凄くないですか?

しかもたまたまその方に少しお話を伺うことができました。

なんでも六十歳を過ぎたころに四国を訪れ、絵を描いて廻られたということでありました。
絵も特に習ったわけでもなく、全くの自己流なのだとおっしゃっていました。
一枚描くのに四、五時間かかる、とおっしゃっていましたが、そんな短い時間で描いたものとは到底思えない、素晴らしい出来でありました。


 (咲き始めた山茶花)

No.325

この群馬県みどり市の自音寺さんの『自音寺八十八霊場』は、大祭の時に限らず、いつでも、特にお寺さんにお断りする必要もなく巡らせていただくことができます。

ただ。
大祭の際には御本堂に上がらせていただくことができるとのこと。
前回大祭にうかがった時はそういった内情を知らずに行ったため、御本堂には入ることができなかったので、今回はきちんとあらかじめお寺さんに問い合わせて、何時からのものか確認した上でうかがいました。


御本堂前で香炉にお線香をあげて。
靴を持って御本堂へ。


?!
キ、キーボード?!


えっとぉ〜。
私、大祭にうかがったんですが?
違った?

御本堂に上がる際に渡された紙を開くと、
?! …ど、童謡?唱歌?
しかも唄、だけが書かれたものです。

墨色の衣を身に纏ったお坊さんがキーボードの椅子に腰かけました。

うーん?

大祭…?


始まった演奏は【里の秋】。
歌詞が配られるくらいですので、当然みんなで歌います。

えっとぉ…。

困惑した私は皆さんの歌を聞きながら御本堂の中を見回しました。
新しそうなものでありますが美しい彩色の施された欄間彫刻です。
あ。
あの『雪山童子』の『施身問偈』であります。

他にも唐子の描かれたさまざまな彫刻が欄間として掲げられています。


…こうして美しい欄間彫刻を見上げながら、そして御内陣の煌びやかなさまを拝しながら聴く、童謡もなかなか乙なものであります。

『夕焼け小焼け』
『もみじ』

そして『赤とんぼ』
…私、この赤とんぼ、ダメなんです。
聴いても歌っても、胸がつまって、涙が出そうになるのです。
歳をとったから…ではなくて、若い頃から、というか子供の頃からダメだったよう記憶しております。

(背)負われて赤とんぼを見たような、そんな美しい記憶は全くないのですが、ね。

この日本の原風景を描いた詞と、郷愁をいざなう旋律が、私の中の何かを揺さぶるのでありましょう。

とにかく、唐突に赤とんぼを聴くのはひそかに動揺するくらいに、〝ダメ〟なんです。

そんな赤とんぼの曲が終わると、

〝いろはにほへどちりぬるを〟


へっ?
【高野山真言宗】の『宗歌』とあります。

…さすが大祭、学びの場です。

もしかしたら、ここに至るまでの前段階として四つの歌を皆で歌うという流れにしたのでしょうか?


No.326

『いろはにほへと ちりぬるを  わがよたれぞ つねならん
ういのおくやま けふこえて  
あさきゆみじ ゑひもせず」

いわずと知れた、いろは歌、実は真言宗の宗歌にもなっているのです。

一字一句同じ言葉をつかわず、かつ仏教的な意味が含んでおり、宗祖弘法大師の御作として伝えられているといいます。


…最初にそれを聞いたときの驚きといったらありませんでした。
学校にあがる前から唱えていた〝いろは〟
ただただ唱え言葉としてとらえていた〝いろは〟。
実はそれが流れある〝歌〟で、どなたが詠ったものかを知ったのは中学生の時でありました。


それでもその時はまだ、真言宗の宗歌であることなどは知る由もなく。双方の親の家の宗派など知らずに育ち、親の離婚によって父方とはずっとそのまま連絡すらとれない状態のまま。嫁ぎ先もまた真言宗ではなかったため、それを知ったのはこのお寺さんを訪ねて歩く〝珍道中〟を始めてから、のことでありました。


中に含まれている仏教的な意味は『諸行無常 
 是生滅法 
 生滅滅已 
 寂滅為楽』

仏教経典涅槃経(この世にあるものすべて仏であると説く)の中の言葉を『いろは歌』で表現されているものとされます。


『色は匂へど散りぬるを=諸行無常、
我世誰ぞ常ならん=是生滅法、
有為の奥山今日越えて=生滅滅已、
浅き夢見じ酔いもせず=寂滅為楽』と詠ったのだといいます。

世の中のものは常に変化しています。
桜の花が綺麗でいつまでも見ていたいと思っていても、それはすぐ散ってしまいます。
自分がずっと若くあり続けたい、世界に対してこのままであってほしいと思っても、全ては変化していく。

そんな深い教えを歌に詠みあげる。

中学生だった私にも、この歌の奥深さは伝わって、こんな歌を詠むことのできる弘法大師という方の素晴らしさに感動したことを覚えています。

…とはいえ、そこから仏教へ、とは行かないのが凡人の私、なんですがね。

だからこの〝いろは歌〟が高野山真言宗の宗歌であることなど知る由もなく、ましてやこの歌を歌として聴く機会など、まさにこの時まで皆無、でありました。



No.327


『色は匂へど散りぬるを
 我世誰ぞ常ならん
 有為の奥山今日越えて
 浅き夢見じ酔いもせず』


人は物への執着、自分への執着がありますが、この世のものは全て変化していくものだと感じなければなりません。

生まれては滅するといった真理を身に付けることで、死の嘆きや物事に執着して苦しむ事からはなれ、いつも明るい心で、頂いたご縁(いのち)を精一杯生きることができる。それが大きな安楽、幸せへとつながっていく、という教え。

有為転変(ういてんぺん)のこの苦悩の奥山をきょうこそ越えて、
…「生じた 滅したとか、生れた 死んだとか、損した 得したとか、そのたびごとにものごとにとらわれる心」を滅すればすべてのものをありのままに素直に受け入れる、安らかな心が開かれてくる。


いろは歌は『四句の偈』という四句の詩を、四十七のかな文字で歌ったものです。
『四句の偈』とは
諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
生滅滅已(しょうめつめつい)
寂滅為楽(じゃくめついらく)
というもので、
『諸行は無常である
 是れ生滅の法なれば
 生滅、滅しおわって
 寂滅を楽となす』


煩悩の塊であります私。
まさに『生じた 滅したとか、生れた 死んだとか、損した 得した』といった、そのたび毎に物事ににとらえられ、日々過ごしております。

なかなかそういった、『物事にとらわれない心境』に到達するのは難しい人物であります。

法話をお聞きする機会もそう多くはありません。



ですが。


実は私、あの昨年話題となり一大ブームを巻き起こした【鎌倉殿の十三人】をいま、時間があくと鑑賞しております。
初見の回が大多数という、今更感満載な人物で。

そんな鎌倉殿。

頼朝が世を去り、新たなる動乱の時を迎えたところまで回を進めました。

昨日は比企氏の乱。
かつて鎌倉の寺社を巡った際参拝した妙本寺に想いを馳せました。


(続きます)



No.328

北条時政に謀殺された比企能員の屋敷跡に、その子能本(よしもと)が一族の菩提を弔うために建てたお寺であります【妙本寺】さん。

歴史に(も)詳しくはない私ですので、そうした歴史も妙本寺さんを訪ねて初めて知ったことばかりでありましたが、このお寺さんの醸し出す寂しさ、儚さを境内を歩いて肌で感じたものでありました。


洗濯物をたたむと称してテレビの前に座り、おもむろにつける『鎌倉殿』。
比企を討ち滅ぼしたのち、義時が見せた切なそうな、それでいて確固たる意志を滲ませた横顔を観て、ふと天啓に打たれたように、諸行無常を感じたのでありました。


こうして、戦って地位を得ていった者も、いずれ滅びている。

歴史が動くほどの人物が、自他共にその死を止めたいと願いながらも天命に抗うことはできず死んでいく。

人は必ず死んでゆくもの。


…。


テレビのドラマを観ながら、さながらさとったかのような思考がおばさんの中に降ってわいたのです。


それは難しすぎて未だにその説かれているものを覚ることのできない『経』からでもなく、ありがたい僧の法話からでもない、一大河ドラマの一場面から…。


ま、当然、さとりを開いたわけではありません。
こんな煩悩だらけのおばさんが、ちょっとテレビを観ていてパッと開けるようなものならば、誰も苦労はいたしません。

お釈迦さまとても悟りを開くまで、いくつも、いくたびも、死んでしまうかの修行をなされてようやく到達した境地であります。

いくら図々しいおばさんであっても、そんな烏滸がましい、あり得ないようなことは思ったりはいたしません。



でも、これ…、これこそが仏教の説く教えの一つであるのも事実ではありましょう。


鎌倉殿を全て観て、観た上で、鎌倉の地を巡りたい。
途中で止まっている鎌倉三十三観音霊場巡りも、十三佛巡りもあります。

もっともっと鎌倉を知りたい。


夫のように歴史を知った上で、鎌倉の地を巡りたい。


…どのくらい時間を要するのでしょう。
しかもコロナが第五類扱いとなって、鎌倉はかつての賑わいを取り戻しつつあるといいます。

うーん。


鎌倉に行きたいぞぉー!
鎌倉を思う存分堪能したいぞぉー!

No.329

いろは歌から脱線して、何故か鎌倉にまで話が…。
さすが曲がりくねった思考回路の持ち主で。
どこへ着地をいたしましょうか、もはや風に飛ばされた風船状態です。

今になってマイブームとなっている鎌倉殿にまいりましょう。


今までに観たところは比企の乱まで。
その少し前には阿野全成の回がありました。

全成は流刑のはずが誅殺されてしまいます。
その殺害のシーン、捕らえられた僧全成は、僧侶らしく真言を唱えております。
全成は父である源義朝が敗死したため、幼くして真言宗醍醐派の総本山【醍醐寺】にて出家させられ、僧侶となります。
故にこうした局面で御仏にすがるべく、御真言を唱えることもあるかと思います。

ただ、…鎌倉殿の十三人、やたらと御真言が出てきております。
しかもそれをまるでおちょくったような感覚すら覚える回まであり、自分は、あまり詳しく宗教的な面にふれるのはいかがなものかと思っておりました。
そして。
なによりもなによりびっくりいたしましたのが【オンベレブンビンバ】というサブタイトルの回の存在。

おまじないや魔除けに凝っていた大姫がかつて祖父時政に教えた〝元気になるおまじない〟が、実は御真言。
しかしながらだいぶ前に教えられたものであったため、時政の記憶では『オンベレブンビンバ』になっており、〝良いことがあるおまじない〟に変換されていた、というもの。

酒を飲みながら『オンベレブンビンバ』と繰り返し唱える時政に、政子がなんと言っているのかと尋ね、
そうではなかったと、思い出し合戦が始まるのだが、誰一人として合っている者はいなかった。
決して楽しい集いではなかったのだけれど、久々に北条家の面々が顔を揃え、
『ウンダラホンダラゲー』だの『ピンタラポンチンガー』だの。

結局五人で唱えたのは『ボンタラクーソワカー』。

…どれも合ってはいなくて、ナレーションで訂正が入るというもの。

…こんな史実はなかったはずです。
御真言を遊んでいるようで、ビビリの私はこの回を夫と観たとき、一人憤慨したものです。



(続きます)






No.330

(続き)
殺される恐怖に慄く僧侶にリアリティをもたせる演出も、同じくビビリゆえに、(あまり好ましくないのでは…)とドキドキしてその場面を見守りましたが、そのうち、その迫力あるシーンにすっかりのまれ、
(これぞ全成!)と思ってしまうのでしたが…。

全成は、引き立てられる時、
今にも刃をおろされようかという、風雨が激しくなった時、それぞれ異なる御真言を唱えていました。

一つはその場で分かったのですが、もう一つは初めて聞く御真言。…まぁ、そもそもが聞いてすぐにそれとわかる御真言自体が多くはないので、むしろわからないことの方が多いのですが…。


知らないとなると調べてしまう私。
なんでもこのもう一つの御真言は、疫病を除き、魔事を遠ざける神とされている深沙大将のものだとか。

不安を取り除く御真言とも紹介されていました。


それにしても鎌倉殿の人気は本当に凄いものだったようで、『オンベ』と入れただけで『オンベレブンビンバ』と出てくるほど!
これは原作者の創作に過ぎない言語ですので、本来検索しても出てくるはずはないもの。
それが『オンベ』と入れただけで全文出てきて、それが鎌倉殿で使われたものであることが書かれています。
…まぁ、もちろんこの回が放送されるまでは、この意味不明なサブタイトルは何かを探ろうとした人たちがどんなに検索してもhitしなかったものではありましたが。

もう一つのだけれど御真言にしてもしかり。
その御真言を入れて果たして出てきたものかどうか…、まぁ正確な御真言ですので『オンベレブンビンバ』とは違って、正確に入力できれば、きっとすぐにhitしたことでしょう。

まぁ…。
こんなビビリのおばさんだから、正確な御真言は載せられないのですがね。

No.331

『阿野全成』が刃の恐怖、人が人を襲い殺そうとする絶望から救っていただこうと(…これはあくまでも私が想像した全成の心情に過ぎません)
唱えた御真言。


【真言】は〝御仏の言葉を音写したもの〟といい、御仏や菩提の誓いや教え、功徳などを秘めているといわれています。

般若心経の
『羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーてーぎゃーてー はらぎゃーてー はらそうぎゃーてー ぼーじーそわか)』

という一節(数節?)もまた御真言であります。

御真言は浄土真宗を除く様々な仏教の宗派で用いられる呪文的な語句であるといい、日本では真言宗や天台宗、修験道などの宗派で唱えられているものです。

御真言の一字一字には多くの意味が含まれていて深意を訳すことは難しいため、サンスクリット語のまま翻訳されず漢字で音写されているといい、御真言の中には見たり聞いたりするだけでも、利益があるとされているものもあります。


真言の起源は仏教成立前までさかのぼるといいます。

古代インドでは言葉に魂が宿って言霊となり、神聖や霊妙な働きを持つと考えられていました。
アーリア人は火神(アグニ)に真言を捧げて敵を退け、病を癒す際に唱え祈っていました。

バラモン教時代に入ると神に祈る時も唱えるようになり、神々への帰依、祈願、讃仰の聖句などの儀式で唱えられたのが真言の始まりであるとされます。

その後、大日経や金剛頂経など密教の経典が成立すると、真言は悟りを求め成仏するための手段として修行で用いられるようになります。

そして中国で道教の呪禁の法と融合され、空海上人が日本に持ち帰り【真言】として定着しました。


真言の奥義は、長く厳しい修行を積んだ僧侶が、師と仰ぐ僧侶より一対一で伝承されるため、一般の者が理解するのは困難です。
しかしながら真言は、意味を理解するよりも声に出して唱えることで、現世利益や功徳が得られるとされています。


仏教にはさまざまな仏さまがいらっしゃいますが、それぞれに真言も異なります。
また、一尊の仏さまが長さの異なる三つの真言をもつ場合もあります。

そしてそれぞれの真言ごとに得られる利益や功徳が異なるといい、一尊の御仏の真言であっても、唱える真言によって功徳が異なるようです。


No.332

さて、鎌倉殿の十三人で阿野全成が捕えられ今際の際ともいえるその時、唱えた御真言が【深沙大将(じんじゃだいしょう)】さまのものでありましたが、御真言もですが深沙大将さまのことも存じ上げませんでした私。


中国からインドに経典を求めて旅をした僧、玄奘三蔵が旅の途中、砂漠で一滴の水を得ることができず、息絶えようとしている時、流砂の中より現れて護ったのが、深沙大将さまであるといわれています。

そう、あの『西遊記』のモデルとなった『三蔵法師』さまです。
『西遊記』の登場人物に深沙大将をあてはめるとすると、カッパ姿の沙悟浄ではないか、といわれているといいます。

!? 

さ、沙悟浄って…。
妖怪じゃないですか!
よりにもよって仏教における神さまを妖怪扱い?
ビビリの小心者はドキドキです。

西遊記の中で沙悟浄は、時には三蔵法師の手足となって働き、また逆に困らせたりしながら旅を続けます。(まぁ、それは沙悟浄に限ったことではありませんが 笑)
そんな様子は、一筋縄では行かない天部神そのものを感じさせる、…とおっしゃる方もおられます。

テレビなどで映像化された沙悟浄はどの作品においても髑髏を首にかけた、何やら怖く怪しい雰囲気を醸し出しています。

しかしながらこの髑髏の首…胸飾り、実は深沙大将さまの特徴でもあるのだといいます。
深沙大将さまの場合、七つの髑髏を胸飾りとされているとされ、それは玄奘三蔵が七度生まれ代わった、それぞれの頭蓋骨であると伝えられています。

ん?

一緒に旅した玄奘三蔵の?

今(今、ではないか 笑)の、経を求めてインドへと旅する玄奘の、前世、前前世、・・・前前前前前前前世分の頭蓋骨、ってことですかね。

さすが神さま!!


…って、うーん。

しかしながらこの髑髏を身につけておられる仏さまは実は他にもおられ、『大威徳明王』さま・『伊舎那天』さま・『降三世明王』さま・軍荼利(ぐんだり)明王さまなどがおられ、いずれも仏教化される以前の姿を色濃く残しているものといいます。

そ、そうでしたか。

うーん。
御仏の世界も奥が深いです。


しかしながら、これもまた
『諸行無常 
 是生滅法 
 生滅滅已 
 寂滅為楽』
を表した一つの表現、でありましょうか。

No.333

深沙大将さまへの信仰は、砂漠の熱風や悪疫の難を除く、『旅人の守護神』として、また玄奘三蔵がインドから持ち帰った『「般若経」の守護神』とされます。

ところで。

深沙大将さまのお姿で少し触れました髑髏の胸飾りがありますが、実はそのお姿は大変奇異なお姿であると高野山霊宝館の解説に書かれています。
髪を逆立て、眼を見開き、顔の半分もあろうかと思われる大きな口を開け、物凄い形相をなさっていると書かれています。
そしてその姿で最も特徴的なところは、膝頭から象の顔が出ていること、だといいます。

これは『象皮(ぞうひ)の面』といって、象の顔が付いた皮の半ズボン、(もしくは膝当てとも)らしいのです。

象というのは、人の心を理解するといわれ、インドでは聖獣としてあがめられてきました。
また時にはジャングルを切り開き、またある時は荒野を突き進み、賢さと力強さを兼ね備えているので、神聖視されてきたようです。
なによりもあの大きさは、人間にそうした心理を生ませましょう。

さらに腹部には人面が表わされているといいます。
一説には、中国での深沙大将は、別の姿が「童子」であったということで、このことから童子の顔が腹部に表われているらしいのです。

うーん。

たしかに。
たしかにこのお姿は、奇異と申し上げてもよろしいかと。

しかも七つの髑髏を胸飾りとして首にかけておられるのでしょう?

おおかたの子どもはこのお姿をみたら泣きだすことでしょう。
御仏の画や仏像好きのおばさん、ではありますが、このお姿を一人で博物館なり御本堂で拝したら、怖いと思うと思います。

しかしながらこの深沙大将さま、不安を取り除いてくださるとのこと。


うーん。
煩悩と背中合わせの不安、私にはいつも付きまとうものでもあります。

…真言宗のお寺さんには深沙大将さまのお姿を祀られているところがあるのかしら。

拝したいような、ちょっと怖いような、…ビビリなおばさんでありました。




No.334

…膝に象。

日光にもおられます。

象が膝に刻まれた青い仏像、
『烏摩勒伽(うまろきゃ)』さまです。

家光の墓を守る『夜叉門』には四つの仏像があり、そのうちのお一方がこの烏摩勒伽さまです。

今、この烏摩勒伽さま、実は日光で注目度の高い御像であります。

それは。
烏摩勒伽さまも深沙大将さまと同じようにお膝に象、…こちらは象の膝当てをされておられ、この膝に象がいることが『ひざ小僧』の語源になっている、とされていますこと。

そしてもう一つ、この烏摩勒伽さまの右手にお持ちになられている矢。

これは【破魔矢】、お正月によく目にする、あの矢であります。

この日光【大猷院】におられる烏摩勒伽さまが握っている矢こそが、『破魔矢の発祥』とされているのです。

十年ほど前から、ここ大猷院では、昇り龍が施されたされた『黄金の破魔矢』をお授けいただけます。
飾る際に矢の先を上に向けておくと龍が願いを天に届けてくれるとされ、他の破魔矢の祀り方とは異なっています。
またよくないことが続くときには、玄関に置き、外に矢の先を向けて置くとよいとも説明がありました。

日光ではこのような縁起物を紹介されるのが常であり、その説明を聞いた方々がこぞってその縁起物を買い求める光景をよく目にいたします。

この破魔矢もご多聞に漏れず、何度もこの矢を買い求める方が群がるような光景を目にしたものでありました。

それに拍車をかけたのが、某テレビ番組。
占い師の方がここ日光を訪れて、「この破魔矢は凄い力がある」と言ったのだとか。

翌日から前にもまして、まさに飛ぶように売れ、わずか数日で品切れとなったとか。

今は潤沢に用意されて、大猷院の御朱印をお願いする受付でもお授けいただけるようになっていました。


烏摩勒伽さまは青いお身体。
お膝に象がある以外は、特段変わった装束でもなく、〝夜叉〟ではありますが、どこか可愛らしいお顔立ちをなされています。


…深沙大将さま、案外お会いしたら可愛らしかったりなさるかも。

だって不安を取り除いてくださる御仏でありますもの。



No.335

鎌倉へ飛び、そこから鎌倉殿の十三人、そして日光へ。
お次は一体?…とは当人が一番思っていたりします。

群馬県へと戻ります。

かねてよりずっと参拝したいと思っておりました、群馬県桐生市の【新宿八幡宮】さまへようやく参拝することができました。
実に何年越し。
まあ、今年に至っては、個人の方のSNSからではありますが修復工事が行われていると知ったから、というのもありましたが。

…実はかつてこちらの神社さんへ参拝したいと言い出しましたのは夫。

桐生市にお住まいの方でも、もしかしたらあまりご存じではない神社さんとなるかもしれない、そんなこちらではありますが、実は大変美しい彫刻であると、SNSの片隅で語られているのでありました。

しかしながらわが夫にして珍道中のペアは、どうやら群馬県の伝承、民話から、こちらを知ったようでありました。
まずは順を追って。(…果たしてそれができる人物が書いているのでありましょうか?)


元亀年間(1570〜1572)年創建と伝えられるここ新宿八幡宮さん。

もともとは桐生氏家臣・新居豊前守宗俊が天文二(1533)年に〝男山八幡宮〟の分霊を勧請し元宿に創建されたものであったといいます。
〝男山八幡宮〟は、京都の『石清水八幡宮』の旧称であります。

ところが、元亀二(1571)年に、大洪水により元宿が流出してしまったのだといいます。

そこで新たに開拓した新宿の地に遷座され今に至っているとのことでありました。

ところが。
文政六(1823)年にあったという〝新宿大火〟で社殿と古文書、全てを焼失してしまい、その歩は知る由もないとのことでありました。
しかしながら焼失直後に社殿が再建されており、こちら『新宿八幡宮』さまは実に深い信仰心にうらうちされた神社さんでありました。

この八幡宮さん、実は変わった伝承があり、今も地元民によって固く守り続けられているといいます。

そんな伝承をまず。


かつてはこの八幡宮境内には、大きな美しい池と水神宮とが見れれたと記録されているのだといいます。
けれど、今はそのどちらも名残さえとどめてはいないといいます。
そればかりか町内どこにも池の姿はないのだといいます。
実はこのことにこちら新宿八幡宮さんの伝承がかかわっているのだといいます。


No.336

この桐生市新宿町には、池つくり禁忌の伝説があり、人々がそれを守っているといいます。

むかし、何のまえぶれもなく応神天皇がここ放光村(新宿の旧名)わずかのお供を連れただけという、乗馬姿のお忍びで訪れられたといいます。
応神天皇はかなりの遠乗りをされてお越しのご様子で、すでに 晩秋というのに、うっすらと額に汗を光らせておられたといいます。

放光村へ入ってすぐに目についた大きな池に、応神天皇はホッとした表 情をうかべられそのほとりへと愛馬を進ませました。
池の表を渡ってくる風が、汗ばんだ肌に心地よかったのかも知れません。
またほどよく色づいた木立や山々も、天皇の心をなごませたことだったでしょう。

そんな時、静かな晩秋の日には、まったく思いもよらない一陣の突風が巻き起こり、砂塵を舞い上げて天皇を襲ったといいます。

黄色い砂ほこりとなって襲った突風が、前垂れを吹き上げ、お顔を覆うと、応神天皇は一瞬たじろがれます。
そのはずみで手綱さばきをあやまられ、愛馬もろともドウッと池中に落ち込まれてしまわれたというのです。
幸い天皇はどこにもおケガはなかったのですが、愛馬は前の足を骨折して 、二度と天皇を背にすることができなくなってしまったといいます。

 
はるかに遠いむかし、この地でこんな事件があったという、そんな伝承から、里人は応神天皇の霊(みたま)をむかえ、村の総鎮守・八幡宮を 創建しました。

ところが、信奉とはうらはらに池を作ると病人やケガ人が出るという いまわしい事が持ち上がるようになったのだといいます。
それは八幡宮境内だけでなく、 村のどこにつくっても、同様で、里人は
「八幡さまは、まだ、むかしのできごとがお忘れになれないのだろう」とそう解釈して、境内はもちろん、氏子の家々の池を残らず埋め立ててしまったのだといいます。
そして「今後は氏子は池をつくることを禁忌とする」とし、あわせて 前垂れに似た〝おかけ〟も使わないことを申し合わせたそうです。

やがてこの申し合わせを新宿全域の禁忌とし今日に至ったといいます。
他市から転居してきた池好きの方が、禁忌を知らずに池をつくり、何事かが起こったという事実もまた言い伝えられているといいます。

No.337

『当社は桐生家重臣新居豊前守宗俊が天文二(1533)年八月十五日 男山八幡宮のご分霊を請うて元宿に遷座せしも 元亀二年の大洪水にて元宿流出し 此の年三ッ塚及び奉行原にかけて新宿を開拓し鎮守として八幡宮を遷せり
当時の社殿は文政六年新宿大火にて焼失し 現在の社殿は其の直後に造営せしものなり』


新宿八幡宮さんの案内板に書かれた御由緒であります。

道路に面した新宿八幡宮さん。
鳥居の横に案内板がありました。

ちなみに〝新宿〟は〝しんしゅく〟と読むようで、この桐生市の新宿町自体も〝しんしゅく〟と読むといいます。

その案内板の横に、そびえ立つ塔がありました。
…この塔はいったい?

気になってしまって仕方ない気持ちを抑えて、抑えて。
鳥居をくぐって、手水舎へと向かいます。

たいそう立派な龍が、清らかな水を絶え間なく注いでくれています。
その誇らしそうなお顔といったら。

大変明るい境内で、真っ直ぐに拝殿へと参道がつづいています。

よ…う幼稚園?保育園?
そんな建物が境内左側にありますが、その建物は古びていて、かつて何に使われていた建物なのか、今何に使われているのかもわからないものとなっています。

たまに、そうした建物を残した神社さんやお寺さんがあります。
…なんともそれがもの哀しい。

かつてはそこで小さな子どもたちが声を上げて、駆け回っていたのだろうに、今は見る影もない。
そうした建物が残されていることが、神社さんやお寺さんをうらぶれたものに見せることがあります。

でもこちらの八幡神さんの社殿はそんなものに一切左右されることなく、明るく、参拝に来た私どもを迎えてくださっていました。

拝殿の扁額には『鳳岡殿』と書かれていました。
うーん、どういった意味なのだろう。〝鳳〟の字には『天子に関する物事に冠する語』という意味があるとされます。
やはり、この新宿八幡宮さんに伝わる伝承が関わっているのでありましょうか。

八幡宮は八幡さま、八幡神さまをお祀りする神社さんであり、『誉田別命』さまとも呼ばれ、まさにこの地を訪れたという『応神天皇』と同一とされています。

拝殿のみぎてには『琴平神社』さんがお祀りされています。
この琴平神社さんの前に立つ狛犬さんのユニークなお顔といったら。
なんと可愛らしいことでしょう♡





No.338

御由緒の書かれた五角形の…絵馬のような形で屋根のついた案内板には、御本殿にお祀りされた御祭神、そして数ある境内社のそれぞれの御祭神が書かれ、祭事がいつであるかも書かれていました。

・八幡宮 品陀和氣命(ホンダワキノミコト)さま・第十六代 應神天皇さま
・琴平神社 大國主命さま
・八坂神社 須佐之男命さま
・貴船神社 闇龗神さま
   (クラオカミノカミさま)
・織殿神社 たく(てへんにに孝)機千々姫命さま
(タクキチヂヒメノミコトさま)
・塩釜神社 塩土老翁神さま
(シオツチノオジノカミさま)

この案内板には記されていませんでしたが、伏見稲荷大明神の石のお社、他にも石のお社がいくつかお祀りしてありました。


八坂神社さんはコンクリートの建物に大きな引き戸でありましたので、もしかしたら御神輿の形でお祀りされているのかもしれません。


織殿神社さんという神社さんの名は初めて拝見いたしました。
『織殿神社』で検索しましたところ、三重県に御鎮座されているとのこと。
ただ、御祭神が『天八千々比賣命』さまとお名前が異なっておりました。
神さまのお名前が異なっていてもあるいは同じ神さまであられることもございます。もしかしたらそうなのかもしれませんが、この三重にあります織殿神社さんの記述によれば、別名は『天棚機姫神』さまと記載されており、こちらとの関係は分かりませんでした。

どちらの神社さんの神職の方が兼務されておられるのか、…あるいは普段はまるで異なる職業にお付きになっていてお祭の時にだけ神職をお勤めなのかもしれませんが…、お会いできる機会があれば、お聞きすることもできるかもしれませんが。

しっかりとした石の鳥居もある立派なお社でありますので、こちらに訳あってお越しいただいたのだと思いますので、出来うるなら知りたい、知りたがり屋のおばさんでありました。

そしてそのお隣の塩釜神社さんはおそらくは覆屋。
あまり大きくはない建物となりますので、中にあります(であろう)お社はさほどは大きくないのではないかと…。
そしておそらく宮城県塩釜市の塩釜神社さんからお迎えしているのであろうかと思うのですが、群馬県という海無し県に何故?

うーん。

この塩土老翁神さまは古事記・日本書紀に出てこられる神さまで、航海の神さまであるとか、潮流を司る神さまであったような…。




No.339

『塩土老翁神』さま、宮城県の塩釜神社のHPの御祭神のところを拝見いたしましたところ、『博識の神』さまとしても古事記・日本書紀に登場しておられるとのこと。
そうそう、塩土老翁神さまが人々に製塩法を教えてくださったのでした。

…博識の神さまは、私のような痴愚魯鈍な者にはお側にいていただけますと大変ありがたいことでございます。


そして。
こうした境内社は拝殿、本殿を取り囲むように建てられております。

境内社をお参りさせていただきながら、本殿の彫刻を拝見させていただきますと。


…素晴らしい♡♡

構図も素晴らしくて美しくて、その立体感といったら!


幣殿・本殿を囲う玉垣にべったりと張りつくかのような怪しい男女二人 笑。

本殿の床部分を支えるところには、四色の龍。その眼差しがお優しいのです。

そして。

右面の胴羽目には
【俵藤太の大百足退治】
のようすを表した彫刻が施されていました。

瀬田の唐橋の下に棲む竜神に三上山の大百足退治を頼まれた『秀郷(俵藤太)』は、見事に大百足を討ち取ります。
竜神は喜び、取れども尽きぬ米俵、
切れども減らぬ絹一疋、
薪なしで煮える釜、
慈尊出世を告げる名鐘を
秀郷に贈ったとされます。


秀郷はその龍から贈られた名鐘を『三井寺』に奉納したと伝えらています。

まず目につくのは、もちろん俵藤太、なのですが、その側に実に存在感のある青銅色の大きな鐘でありました。

寄せる波も水飛沫が見事に表現されており、松と竹のリアルなことといったらありません。


背面の胴羽目は【応神天皇誕生】

応神天皇の御母堂であられる神功皇后が、お産を終えられ、身支度を整えになられて、わが子でありながら将来の天皇、皇子である応神天皇をご覧になっておられるようすであります。

神功皇后は仲哀天皇の妃。
仲哀天皇が熊襲征伐で敗北し戦死された後、熊襲征伐を取り止め、朝鮮半島に出兵(三韓征伐)し服属させたというお方であられます。
実はその時、神功皇后は応神天皇を身籠っておられたといい、お腹に石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされます。
そしてその帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産したと伝えられています。


(続きます)







No.340

神功皇后の右手には芭蕉扇、左手には大弓を持っておられ、背にはたくさんの矢を背負われています。

こうした形で身支度を整えられたということは、まだ敵がいるやもしれない状況下でのお産であったのでありましょうか。

そんな物々しい支度をされておられます皇后さまのお顔は、何故か戸惑っておられるような…?
初めて会うわが子に、そうした表情をされる一瞬もあるような気がいたします。

そして神功皇后の右側、向かって左側には生まれたばかりの応神天皇を布で絡んで、愛おしそうに満面の…まるで恵比寿さまのような笑みを浮かべる髭をたくわえた者がおります。
この者片膝をついて、神功皇后に赤ちゃんを見せているのですが、そのリアルなことリアルなこと!
ひざまづいたときのズボンの皺、立てた片膝の前にかかる上着の流れる様、上着の紐の縛られている様子、凄い、としか語彙力のない私には表現できません。
また、この者もまた甲冑こそ外してはあるものの、それを外して頭に、…あのお内裏さまが被られる帽子、冠をつけただけで、あとは戦支度であります。

…この彫刻の凄さは、こうした様子がきちんと伝わるだけにリアルに彫られているということ。


これって凄いことですよ。

しかもこの彫刻、神社でありますので、風雨にさらされる外の装飾であるにも関わらず、まだしっかりと色も残っているのです。


神功皇后の左側、向かって右側に中腰で座るもの者は幢を持つのでありますが、その風にたなびく様のリアルさといったらありません。


凄い、凄いです。

珍道中ペアはくぎづけです。

No.341

桐生市の新宿八幡宮さんの左面の胴羽目は【雨乞小町】という題材のようです。

天下旱魃の時、小野小町が勅命を受けて、平安京の神泉苑で雨乞いの和歌

『千早ふる神もみまさば
 立ちさばき
 天のとがはの樋口あけたまへ』

(ちはやぶる神も、この日照りを御覧になられたなら、大急ぎで天の川の水門を開けて下さい)

と詠んだところ、この歌の徳でたちどころに大雨が降ったというものだそうです。

小野小町、そんなに凄い人だったんだ…。

そんな小野小町に負けずとも劣らないこの彫刻の凄さ。

…凄くないですか?
こんな動きのある彫刻。

横殴りの雨を彫刻で表せるなんて、思ってもみなかった。

傘のリアルなこと、リアルなこと!

横殴りの豪雨を受けて、小野小町を濡らさんとする男の人の雨に立ち向かう表情といったらありません。


…一体、どんな方がこれを彫られたのでしょう。
それがわかる資料が今のところ見当たりません。
というか、この神社さんの彫刻、桐生市の文化財指定にすらなっていなそうです。

ええぇぇー?!



この八幡宮は、かつては壮大な森林に囲まれた神社であったといいます。
今はあまり人通りのない、昔ながらの商店と民家、小さな町工場などのある町の一角に、二階建ての…幼稚園とか公民館といった風情の、それも今は当初の使用方法ではなく、倉庫として使われているような感じの建物が境内に共に建つようなところとなってしまっています。


しかしながら。
こちらは規模こそ小さいものですがすぐれた技法を残す総彫りの本殿に、往時の面影が偲ばれるといえましょう。
さらに境内には、信州・高遠の石工の作、石灯篭、卍紋入りの珍しい庚申燈篭、 貴重な『庚申阿弥陀石仏』といった石造文化財も多く見受けられました。


うーん、これは大祭等の時に再拝して然るべき人にお話を伺うしかない!


(桐生市新宿の八幡宮さんの【雨乞い小町】』 ↓

No.342

桐生新宿八幡宮さんの鳥居を入ってすぐ左側にそびえ立つ、石塔。
これは一体?

四角い石を積み重ね、徳利少し途中でくびれをつくった均整のとれた石塔です。あ、もしかしてこれ、燈篭、なのかもしれません。

高さは三メートル強、というところでしょうか。

いつ頃作られたものなのか、この石塔?燈篭?を作るのに関係した方々の名前は刻まれているのが見てとれたのですが、浅く彫られているのと、一面しか見ることができず。

道路に出て見上げて初めてなんの塔(燈篭?)かがわかりました。
【立太子記念】と刻まれています。

立太子!
さすがは天皇家とゆかりのあるという伝承の残る八幡宮さんです。

でも…どなたの?
おそらくは大正、昭和、あるいは上皇さまかもしれません。
それ以前のものとは思われず、今上天皇のものだとしたら六十三年前、…もう少し古いもののようにも思われます。

これだけのものを、桐生市の中心からは外れた神社さんの境内に造る。

天皇家の繁栄を心から喜び祝してのものでありましょう。

是非また参拝させていただきたいものであります。

No.343

【桐生市新宿八幡宮さんの庚申阿弥陀如来像に寄せて】

群馬県桐生市の【新宿八幡宮】さんの境内の片隅に石造の阿弥陀如来さまの御像がぽつんとお立ちになられておりました。

神仏分離令以前の時代の名残りであろうかとそこは気にならなかったのですが、庚申塔と並んでお立ちになられていたことに少し違和感に近い感覚を覚えました。
後にそれが『庚申阿弥陀如来像』という大変に珍しいものだと知りました。

庚申講の人々が、庚申待の供養のために造立したものに庚申塔があります。
ほとんどは石造物で、形も実にいろいろな種類がありますが、江戸時代になると定型化し、青面金剛さまの刻像塔や庚申の文字を刻んだ文字塔が主流になってまいりました。


庚申の供養塔で阿弥陀如来さま。
…初めて拝見いたしました。

でもこの、神仏にほとんど関わることなく生きてきたようなおばさんが知らないことなど星の数よりも多いし、しかもぼーっと生きておりますので、今までだって本当は庚申で建てられた阿弥陀如来さまの像を、
「ああ、ここにも石仏さまがおられる」
くらいの感覚で手を合わせて、そうした背景に気づかずに過ぎていたかもしれません。
『石仏さまがお墓であることもある』、ということも、珍道中をかなり進めて初めて知ったところもあるくらいの人物です。

しかしながら、ネットで調べてみる限りにおいて、この、阿弥陀如来さまを彫った庚申塔というのは全国的にみても大変珍しいもののようなのです。
…あくまでもネットで調べた限り、ですが、ね。


三重県の一志町というところにあるという『誕生寺』さんというお寺さんに伝来している庚申塔には、戦国時代の年号が刻まれているといい、こちらがやはり『庚申阿弥陀如来像』だといいます。
  
こちらの庚申塔は砂岩に阿弥陀如来の立像を半肉彫にあらわし、像の両側に「庚申待衆八人」「天文十六丁未十二月十三日」の刻銘があるのだといいます。
このことから天文十六(1547)年に庚申待を行った八人が制作したことがわかるといいます。
もともとは近くの道端にあったと伝えられ、それがお寺さんに安置されたようです。

誕生寺さんの『石造阿弥陀如来立像』は、庚申塔の中でも比較的早い部類に属するものだといい、三重県内はもちろんのこと、全国的にも注目される例だと、三重県の県史編さん班の方が書かれておりました。


No.344

【令和五年 柿薬師大祭】

コロナ禍で中止とされていた群馬県みどり市の【光榮寺】さんの『柿薬師大祭』が今年ようやく開催されました。

大祭は約三百年続いていたものといい、このコロナ禍ということでの中止が初めてだったようです。

こちら『光榮寺』さんは慶長八(1603)年、柿の木で作られた薬師如来さまの像を携え、このお薬師さまを安置する地を探してちょうど桐生市の黒保根辺りを訪ねて歩かれておられた良瑜上人の噂を聞いた大間々六人衆の一人が、
「実は大間々という土地に新たに寺を建てる計画があり、ぜひそのお薬師さまをご本尊としてお迎えさせていただきたいのです」と懇願し、良瑜上人が開山となって開かれた、というお寺さんであります。

良瑜上人が携えてこられた薬師如来さまの御像は柿の木で造られている為、別名柿薬師といわれております。


この『柿薬師大祭』は毎年十一月の第一日曜日に開催され、御本尊薬師如来さまの功徳にあずかろうと多くの善男善女で賑わいます。

渋柿が太陽の光を浴びると、渋みが取れ、甘柿になることから、人間を柿に見立てて御本尊の光を浴びることで、知らず知らずに犯してい悪(アク)を取り除き、きれいな心と身体になって、来る寒い冬を乗り超えるというものであります。


大祭では参拝者全員にお札と柿が配布されますのもありがたいことでございます。

コロナによる中止以前は、この大祭、御本堂を開放して『寺宝展』、『写経・写仏会』が開かれており、こちらの写仏会が私にとって生まれて初めての写仏体験でありました。

この大祭ではまた、人形供養が盛大に執り行われ、またかつては子どもも大人も楽しめる『柿の種飛ばし』大会や『輪投げ大会』が盛大に開催されておりました。
この大会、たしか優勝者はディズニーリゾートペアチケットがいただけるものだったと記憶しており、その景品の豪華さに全国ネットのテレビ局が取材に訪れていたとも。


今年は大祭開催の声を聞いた方たちから、人形供養の問い合わせが殺到しているといい、午前・午後の二回に分けて執り行うということは、事前に副住職さまからお聞きしておりました。

でも、さすがに、あの目玉ともなっていたであろう『柿の種飛ばし大会』はお聞きするまでもなく中止、であろうな。
というか今後は一切開催されることはないのだろうな。


No.345

【柿薬師の由来】

群馬県みどり市の『光榮寺』さんの山号は薬師如来さまのおられる瑠璃光浄土にちなんだ『瑠璃光山』であります。
幾度となく参拝させていただいておりますのに、今回初めて光榮寺さんは東京都港区の『真福寺』さんの末寺であることを知りました。

今回、御住職さまから直々に寺宝のご説明から始まり、光榮寺さんの御由緒をお聞きする機会を得ました。


こちらの柿薬師如来像は、行基菩薩玉躯安穏平癒を祈って造られた薬師仏像一千体のうちの一つと伝えられているといいます。

開山の良瑜上人さまが、天正年間、讃州屏風ヶ浦の巖頭において阿字三昧を修行されておられたとき、毎夜海浜に光るものがあるのを見て、その光を尋ねて行ったところ、御丈九寸五分(台座を含め二十九センチ)の薬師如来さまの御像を得たといいます。

良瑜上人さまはこのお薬師さまは東国有縁の仏であると確信され東国に流遊を思い立たれます。
『一片の布帆に万頂の広范たるを凌ぎ鳴門海峡を渡り舟を尼ヶ崎につなぎ難波、伊勢尾張、木曾から諏訪、浅間、榛名、赤城を過ぎ、』(昭和三十年代に先代の御住職がまとめられた略縁起より)
現在の桐生市黒保根町涌丸の医光寺さんにたどりつかれたといいます。

当時大間々の六人衆と呼ばれた人たちが、たまたまこの地に寺建立を請願しており、良瑜上人の噂を聞いたそのうちの一人が黒保根町の涌丸まで出向き、「現在寺を建立すべく請願しており、良瑜上人さまのありがたいお薬師さまの御像をその寺のご本尊に迎えさせていただきたく、お願いにあがりました」と申し、良瑜上人の了承を得られ、開山に当たっていただくことができた。

…というのが、光榮寺さんの始まりのようです。

開山当時は『高栄寺』と称していたようですが、のちに現在の光榮寺に改めたといいます。

寛文年間に火災にあい、元禄二年に再建、弘化四(1847)年に建てられたものが現在の御堂であるようです。

このご本尊の薬師如来さまは眼病の治癒に霊験あらたかで、厄除けの効験があるとされ、柿の木でできていると伝えられています。

大正時代までは開帳しお祀りしていたようですが、眼病が流行したとき、『薬師さまをみだりに公開しているために(眼病が)起こったのだはないかという風聞が流れ、それ以来厨子の中に納められるようになったのだといいます。


(続きます)




  (寒桜)

No.346

(続き)

…大正時代まで、「眼病が流行しているのは、お薬師さまをみだりに公開しているために起こったのでないか」などという風聞が流れること、しかもそれ以来厨子の中に御本尊さまを納められるようになる、そんなことが普通に起きていたんだ…。

少しびっくりしました。

それでも、それはそれだけ光榮寺さんが、地元の方たちとそれだけ密に寄り添うお寺さんだという証し、なのかもしれません。


柿薬師大祭も実に古くから続く行事でありますが、江戸時代は信州上田、水戸の方までPRし、関八州から参詣人があったという記録が残っているようです。

先代の御住職の頃には、人形供養と柿薬師大祭は別々の日に執り行われていたようで、人形供養は十一月三日の文化の日に、そして柿薬師大祭はお薬師さまのお縁日である八日を含んだ十一月七日・八日にそれぞれ開催されていたようです。

その当時は柿を御本尊さまにお供えし、御住職が二座の『薬師作法』を行われていたといいます。
また、現在では参詣者に柿が一人に一つずつ配られていますが、当時は『大間々柿薬師如来』と書かれた赤い紙の旗が配られていたとのこと。
この赤い紙を畑にさしておくと作物に虫がつかないといったといいます。

かつて門前から境内に至るまで露天商が出て、とりわけ昭和三十年代までは大通りや裏通りにいたるまで柿を売る露店であふれていたといいます。
しかしながら時代の流れで平成元年頃を境に柿が売れなくなってしまい、柿を売る露店は出なくなってしまったといいます。
うーん、たしかに私などは以前から柿を食することは滅多にありませんし、かつてのように人から柿をいただく機会も無くなりました。

みどり市の笠懸地区の道を少し入ると柿農家さんが何軒もあり、季節になると柿の産地直売所が開かれています。
農家さん自体が減ったというわけでは…それもあるのかもしれませんね、どの農家さんにしても後継者問題で頭を悩ませている話を聞きます。


ただ柿を懐かしむ声も強いということで、現在はお寺で柿を用意して参詣者に振る舞っておられるといいます。

…どおりで。
どおりでどの柿もまるで売り物のように形の整ったものでありました。

ただ御本尊さまの前に山のようにお供えされた柿は、粒の揃ったものだけでなく種類の異なる様々な柿が供えられているので、こちらは奉納された物、なのでありましょう。


No.347

(続き)

近年、お寺さんでキッチンカーが出店したり、ライブが開かれたりと、時代に合わせたお祭りが開催されるのを見聞きします。
夜ともなればライトアップしたり。

お寺の御本堂でヨガやピラティスなども行われているようです。

父方の菩提寺からはLINEでそうした様々な行事予定や近況が送られてまいります。
SNSのアカウントを持ち、配信される神社さんやお寺さんの多いこと、多いこと。

かろうじてついていけているのか、いないのか、その辺はさておき。

そうした一連の動きというのは、新たなる時代に向けて、そして若い世代に対して開かれた場所であろうという〝試み〟なのであろうと思っておりました。

しかしながら。
『大間々町誌・資料[大間々町の社寺』の光榮寺さんのページを読んで、決してそれは今に始まったことではないことをおもいしらされるのでありました。

それは…。
『…昔は余興として境内に組み立てた舞台で芝居やサーカスをやったり、戦後になると本堂の前に幕を張って映画を上映したこともあったが、最近は夜になってカラオケ大会を開催するようになった…』

境内で…。
本堂の前に幕を張って映画…。

うーん。

…『御本尊さまを公開しているから、眼病が流行ったのではないか』、などと非科学的な風聞が流れる頃とそうは変わらぬ時代において、…舞台を設置し、芝居やサーカス…。
御本堂前に幕を張って映画を上映…。
…バチが当たるとか、言い出す人っていなかったんですかね?
長いこと神仏に関わらず生きてきたおばさんは、ようやく神さまのことや仏さまのことを学び始めたところで、知らないがゆえ…なのか、『バチが当たる』といった思考になりがちです。

まぁまぁ、過ぎたこと、過ぎてきたこと。

それにしても。

人の世というのはそうは変わらない、ということでしょうか。


うーん。

No.348

(光榮寺さんの寺宝)

この柿薬師大祭では寺宝公開もされ、毎回前年のものとは違うものを展示してくださいます。…といっても、私自身は毎回行けていたわけではないのですが、ね 笑。

今回展示されていたのは〝涅槃図〟、〝十六羅漢〟の掛け軸二幅(ふく)、〝開山良瑜上人を描いた掛け軸〟、中国のお寺にある弘法大師さまを彫られた板絵の拓本、…等々。
今年が弘法大師さまがお生まれになって1250年の記念の年てあったこともあって、遣唐使の唐へ渡る海の画や、当時の中国やインドの地図なども掲示してありました。

その寺宝の飾られた間で、大祭の行事の合間を縫って、御住職さまがご説明くださいました。
寺宝のありがたみがことさら増すようなありがたいことでありました。

弘法大師さまの生涯をかいつまんでわかりやすくお話しくださいましたが、その澱みない語りに、弘法大師さまへのあふれるような恭敬の念を感じました。
お大師さまのことからほんの少しだけご自身の高野山での修行中のこともお話くださり、その中で、高野山での行事のときには、実際弘法大師さまがお手にされていたという『五鈷杵』を用意することがあり、それを手に持ったことがあるとお話くださいました。

〝あの〟五鈷杵が実在するなんて。
…こともなげに話されておられたのですが、私にしたらもう驚きと感動で「あの五鈷杵が…、あの五鈷杵を」とつぶやいたのち、しばらくは絶句していたくらいで。

あんな、〝弘法大師さま〟といったら欠かさず、必ず描かれる五鈷杵、お大師さまの身体の一部のような、分身のような、シンボルともいえる五鈷杵が、今なお伝えられている、それだけではなく実際に使用されているとは!

…実際にはそんなにいつも手に持っておられたわけではない、ということ、なのでしょうかね。
御入定の際、手に持たれていなかったということでしょう。
持って御入定されたものであれば、お大師さまのところから引き上げてくるようなことはないと思われるので。

はあぁぁ、さすが高野山だぁ。


(また少し話が逸れたところではありますが、戻したところへ続きます 笑)

No.349

涅槃図を拝して、まずはそのお釈迦さまの御尊顔が苦しそうでないかどうかを見てしまいます。
穏やかなお顔がほとんどではありますが、中にはそうでない描き方をされる作者もおられるのです。

そのあとは、やはりその描き手描き手で、どこに重きを置いて描きたかったかが、こんな絵心の全くないようなおばさんにも伝わってくるもので、自然とそこに目がまいります。

そういった思い入れなく、その情景を素直にお描きになる描き手さんの絵では、まず全体を見て、そのあとは下の方に描かれる動物たちに目がいくことがほとんどです。
それは動物が好き、ということもありますが、やはり注目してしまうのが猫が描かれているかどうか、であります。

ちなみに光榮寺さんの涅槃図には…猫はおりませんでした。

振り返ってみるとこんなに足繁く通わせていただいている光榮寺さんでありますが、涅槃図を拝見したのは今回が初めてでありました。

何か意味があるのか、妙にお釈迦さまの肌だけが黒く描かれています。
変色?
しかしながら、どの部位を見ても肌の色は同じように黒い。
なので光榮寺さんの涅槃図はお釈迦さまに目がいって、なかなか他へとはいきませんでした。

私は気になったものの、そういったことをお聞きするのは苦手でありまして、とうとうそのお釈迦さまの肌の色についてはお聞きせずじまいでありました。

えっ?エックスキューズミーおばさんなのに?

…そうなんです。
どうお聞きしたら不快感をお与えせずに質問できるか、を考えると、その場でどうにも答えが出せず、結局何も触れずに帰ることが結構多いのです。

光榮寺さんの涅槃図でもお聞きできずに帰ってまいりました。

さて御住職さまはこの涅槃図についてはさして語られることなく、猫が描かれているもの、描かれていないものがある理由についてを詳しくお話くださいました。


(続きます)

No.350

【ウクライナ支援の御朱印 IN群馬】

続きます、と書いておいて、続けないおばさんをお許しください。


実は今、群馬県内の一部の曹洞宗のお寺さんで、ウクライナ支援の御朱印に賛同した三十六ヶ寺で〝禅語〟御朱印が期間限定で授与されています。

今月の一日から来年の五月いっぱいまでの期間で県内の参加寺院三十六ヶ所を御朱印拝受巡りすることで支援と限定のコラボ御朱印が頂けるという企画です。

以前にも同様の企画があったのですが、たまたまその企画終了直後に気づいたため、支援こそできましたものの、御朱印拝受にはいたらなかったという、なんとも珍道中ペアらしい結末だったのですが…。

今回はまだ開始されたばかり。
よぉ〜し、巡礼だ!
とりあえず、自分一人で参拝できるところへ。

今回、禅語御朱印とのことで、なんだか賢くもなれそうな…。

まぁこればかり(賢くなる)は、無理でしょうが。


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