神社仏閣珍道中・改

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2024/01/20 11:13(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。





No.3818310 (スレ作成日時)

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No.251

方向音痴で、しかも思い込んだ道をまさに猪突猛進するおばさんしか、〝奥宮へ徒歩6分〟という道しるべを見ていない。

これは…まさに珍道中。
というか、…遭難?

梅林に四阿風の休憩スポットがあります。…奥宮に続く道に?

(やられた…)…とでも思ったのでしょう、「さっきの地図写真撮っておけばよかったな」と、でもあくまでも自分の失態という風につぶやく夫。

「ごめんなさい」
少しでも先に行って、道を確かめたい私。

ん?
まてよ。

ここはそんな困った人間を助けてくださる山狗さま、オオカミさまがおられるお山。
きっと大丈夫。すぐに道はひらける、はず。

梅林が途切れました。
道を隔てて、森のようなよそおいの中に続く細い道があります。

おおっ!
これ。ここはきっとオオカミさんがおられる!

先ほどとは打って変わって、高い木々、薄暗い山の中。
その木々の高枝の隙間から差し込む細い光。

うーん♡

…おばさんは本当に本気でオオカミさまを探そうと、…そう思った瞬間、
「ああ、見えた」と夫。

えっ?!
「えっ?な、なにが?」


「奥宮さんだよ」
…。
……あ、あぁ、お、奥宮さん。

「えっ?どこに?」
まだ私の目には奥宮の建物も鳥居も見えてはいません。

「ほら、その先」
「うわぁ♡本当だ」

またまた走り出すおばさんが一人。


あ、えっ?、あれっ?
大きな白い鳥居が右斜め前方に見えます。
あら?

たしかに。
たしかに参道といった感じは一切なかった。
普通に梅林を抜けて、森のような雰囲気の、わずかな道を抜けて、ここにおります。

私…。
やらかしたわけではないけれど。
たしかに、たしかに、ところどころに小さな
『←奥宮』と書かれた道しるべのある道でありました。

しかしながら、あくまでも抜け道というか、亜流というか。
正統な参道ではなかった、ということ。

珍道中を導く者、冒険へいざなう者、とでも申しましょうか。


見えるのは、白い大きな鳥居です。

No.252

心ならずも〝境内の左横から入れるところ〟から入ってしまった私ども。
目の前に広がる光景は、いかにも昭和レトロな〝茶屋〟兼〝お土産物屋〟さんと社務所、そして目の端に白い鳥居。
……。

白い鳥居をくぐってから参拝する!

ところが。

鳥居の一歩外は下りの石段がずっとずっと続いています。
結構急で結構長い石段です。

実は私、こう見えて(どう見えて?)結構な高所恐怖症。
おおっ。

… この時の私を漫画ちびまる子ちゃんで表現するならば、間違いなく顔に縦線、でありましょう。

いやぁ、下りると決めて下りるのならば、ごく普通に下りられるんです。
鳥居のすぐ外がまさかの階段で、しかも急な上に長い、とか思ってもみなかった光景が眼下に広がり、〝縦線〟が入っただけなんですが、ね。

とにかくは一、二段でも下りてから。
私が内心でそんな大それた葛藤をしていることとは誰一人知ることなく、ようやく〝鳥居をくぐる〟というミッションをクリア。

さあ。
いざ拝殿…奥宮さんへと。



…!!
き、きゃー♡

「可愛い!!」

No.253

目にした瞬間、何も考えず、考えられず走り寄ったのは、『狛狗』さま。

もともと狛犬さまが大好きな私でありますが、駆け寄るほどの狛犬さまは…数えるほど。

声に出して「可愛いぃっ♡」を連発。 するおばさんのそばに夫はありません。
長い付き合いですので、自分の妻がどういう行動を取るか、事前に察していたのでしょう。
さすが、さすが珍道中ペアのかたわれです。


私を遠くから射抜くように魅了した狛狗さまは、あの、日本武尊さまを救い、道案内をした山犬さんです。
その凛々しい横顔、キュートな笑顔。
狛犬さまの周りをしばしうろつくおばさんです。(もちろん、他の方がお越しになれば側を離れておりますので、そこはご安心ください)

しかしながら。
さすが狛狗さま、おばさんの脳内ににそっと伝えます。

そ、そうだ、奥宮さまへのお参りがまだだ!


いつもよりも多く深く、お辞儀をして。
心の中で、すぐにお詣りしなかったことをお詫び申し上げました。

奥宮さまは、そのお社から優しい気が漂うように流れてくるのが感じられる、そんな優しい神さまがおられる社でありました。

社務所からもそんな優しい気を感じます。
そこに飾られた御守やお札からの気でありましょうか。

おわかちいただいた御朱印には、白のオオカミさまと、黒のオオカミさまが印刷されたもの。
うわぁ♡

『吉祥寶守』と書かれ、『寶』と書かれた黒い御守が目を引きます。
おおっ、鯉と龍が刺繍されていました。

ん?
綺麗なストラップの御守りがあります。
いろいろな色がありますが、雫の形をした水琴鈴のようです。
なんて綺麗な…。
…一目惚れです。
「こ、この水琴鈴の御守もおわかちください」
社務所におられる神職の方に、考える間もなく、スッと申し上げていました。

水琴鈴の御守はいくつも持っているというのに。

その水琴鈴を見ているだけで心がすうっと癒されていくのです。


 (奥宮の狛狗 吽形さま)

No.254

本日九月二十九日は【中秋の名月】。

今年の中秋の名月は『十五夜』、『満月』であります。

『中秋の名月』と満月は一致していないことの方が多く、次に中秋の名月と満月が一致するのは実に七年先のこととなります。


今夜は晴れて、日本各地でお月見をできる所が多そうです。
愛しい人、そして離れ住む大切な人と同じ満月を見られる夜となりますように。

なんなら、「月が綺麗ですね」と、伝えましょうか。



ところでこの『お月見』という行事。

『ススキ』や『お団子』や収穫された野菜や果物などをお供えしますが、これは穀物と月の神さまでもある【月読尊(つくよみのみこと)】さまに、
稲穂に見立てた『ススキ』や、
無事に収穫できた感謝の心をこめて、この秋に収穫されたものやお団子などを捧げたことが由来とされています。

『ススキ』は月読命の依り代と言われているといい、十五夜では重要なアイテムとなります。
【月読尊】さまの『月読(つくよみ)』とは〝月を数える〟という意味があり、暦とも関係しているそうです。


ちなみに十五夜は暦の上では必ず『仏滅』にあたり、この中秋の名月は別名『仏滅名月』とも言われているのだとか。


仏教では【月読命】さまや月の神さま【月天】さまは、【大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)】さまが本地仏とされております。
勢至菩薩さまは午年の守護仏。


わが家は子どもたちが小さな頃に、ススキの入手が難しかったり、「十五夜だけお祭りして十三夜をしないのは『片見月』と言って縁起が悪いから、十三夜をしないくらいなら、十五夜もしない方がマシだぞ」
と舅に言われ、それ以降、お月見は特にお祭りをすることなく見上げるだけ。

いまならススキが採れる場所も知ってはいるのですが、うっかり十三夜を忘れそうなことは変わりなく…。

離れて住む子どもたちに、
「今日は満月の十五夜だよ」とLINEでもしましょう。
そのLINEに「月が綺麗」と、添えられますように。
隠されたメッセージとともに…。





No.255

寶登山神社奥宮は、標高468.8メートルの寶登山山頂に鎮座しています。

寶登山ロープウェイ山麓駅から山頂まで歩いて行ったら約一時間と、夫が申しておりましたが、私、そんなことを聞くより前に往復の乗車券を買ってしまっております。

実はこの乗車券、ちょこっと不思議で。
『発売日共2日間有効』
…?
お、お山にお泊まりするって?
な、なんで?
何故、この有効期限?

…。

あっ!
もしかして。
二年参りのときのため?

で、ですよね?

いやぁ、びっくりしました。
でもオオカミさんがお護りくださいますね。

寶登山頂駅までは約五分間の空中散歩。
Time is money。
五分×2で千二百円、たしかに…。
えっ?意味が違う?
…はい、承知してます。


山の上、です。
明るく澄んだ空気です。

それが。
奥宮の鎮座されるところからさらに空気が変わります。
ああ、神域だなぁと、実感します。

奥宮からさらに上へと道は続き…。
山頂となります。

日本武尊さまが見た景色、と思うと自然と身が引き締まります。

遠く秩父の山並みが見えます。
ひときわ高いのが武甲山。
日本武尊さまが見た景色と大きく異なるのがこの武甲山でありましょう。

なんと心地よい場所でしょう。

梅の花の時期には、甘い香りが漂って、桃源郷のようでしょう。

そんな花の頃、また再拝させていただきたいなぁ。

えっ?今度は歩いてか、ですか?
いやいや、きっとまたロープウェイで。

実は、ですね。
寶登山ロープウェイ山麓駅で標高がすでに212.7メートル、らしいのです。寶登山の標高は468.8メートルですので、なんだかんだ半分近く歩いて登ってきていたのです。

それを知ったとき、あのくねくねと長かった登りの道に納得がいきました。

私どもにはこのくらいでちょうど良いので…。



  (カワラナデシコ)

No.256

少し前、秋の七草について書きましたが、書き進めるうちに秋の七草を訪ねてみたくなりました。
群馬県太田市に秋の七草の植えられた七ヶ寺があったように記憶しております。
そして、寶登山神社のあります埼玉県秩父市長瀞町にも。

長瀞町内の七つの寺には、それぞれ「秋の七草」が一種類ずつ植えられており、毎年、今頃の季節になると、秋の七草を訪ねるイベントが開催されます。
その力の入れっぷりと言ったら、国土交通省のもの…というわけでもないのでしょうが道案内の標識にすらその七草寺への入り口、とかが設置されているくらい。

そのうち寶登山の麓にある【長瀞五大院・不動寺】は、撫子寺(なでしこでら)と呼ばれ、ロープウェイの車内で案内のアナウンスで紹介されるほど。
なんでも境内や参道の階段脇などに植えられているナデシコの花が咲くのだといいます。

しかし、私どもが訪れた際にはお世辞にもナデシコが咲いているとは言いがたく。

なんでも、今年は九月に入ってからの日照不足などが影響しているのか、ナデシコの花はあまり見られないということでありました。

そんな中、赤とクリーム色の曼珠沙華が至る所で咲き誇っているではないですか!


お寺さんの方いわく、今年はナデシコが植え替えをしたりしても、どうしてもうまく咲かないのだとのこと。

一方で、裏山に例年では少しだけ見られていたクリーム色の曼殊沙華がどういうわけか、至る所に咲いているのだといいます。

その数といったら!

今年から〝彼岸花の寺〟と改名するようかも、と思うくらいでありました。


No.257

撫子は約三百種類があるといいます。
【河原撫子】は日本原産の撫子で、全国各地の日当たりのよい草地に育ちます。耐寒性が非常に強いことで知られます
白、そしてたいそう可愛らしいピンクの、小さく可愛い花を咲かせる、『大和撫子』という言葉もあるように女性的な美の象徴とされる花です。

そんな河原撫子の見頃は七月下旬から九月上旬と、調べたものには書かれていましたので、もしかしたら不動寺さんの花の時期には少し遅かったのかと思ったのですが、どうもそうではなくて、今年はどうしても、うまく咲かなかったようでした。

…そういえば。
ネズミの額ほどのわが家の河原撫子もの春にはたくさん咲いたものの、今の時期はほとんど咲いておりません。


不動寺さんには実に約五千本の「河原撫子」が植えられているといいます。
いつかまた、撫子の咲き乱れる不動寺さんを訪れたいものです。

ところで不動寺さんは撫子だけではなく、女郎花も、萩も咲いており、撫子寺というよりも、(彼岸花寺でもなく)百花の寺のようでした。
春には枝垂れ桜や枝垂れ梅が咲くようです。


寶登山神社さん、寶登山神社奥宮さんを訪れるようでしたら、こちらの不動寺さんを訪れるのも良いかと思いました。

No.258

〝萩の花 尾花葛花なでしこの花 をみなへしまた藤袴朝顔の花〟

これは秋の七草を詠み込んだ山上憶良の歌。


〝なでしこが  その花にもが朝な朝な 手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ〟

〝秋さらば 見つつ偲へと妹が植ゑし  やどのなでしこ咲きにけるかも〟
(家持20歳前後。幼い子を残し、妻(正妻ではない)を亡くし、悲嘆にくれる)

〝我がやどに  蒔きしなでしこいつしかも 花に咲きなむなそへつつ見む〟

〝我が宿の なでしこの花盛りなり  手折りて一目見せむ子もがも〟


上は全て大伴家持が詠んだもの。家持はよほど撫子の花を愛したようです。
万葉集に詠まれた撫子の歌は二十六首。そのうち家持作が十二首になるといいます。

『我が宿のなでしこ』と歌われるようにこの花姿は人の心を捕らえ、万葉のころから庭に植えられていたようです。

〝一本の なでしこ植ゑしその心  誰れに見せむと思ひ始めけむ〟

〝なでしこが 花見るごとに娘子らが 笑まひのにほひ思ほゆるかも〟(越中守として単身赴任していた家持が、別れ住む妻大伴坂上大嬢に贈った歌)

『奥の細道』にも〝かさねとは 八重撫子の 名成べし   曾良〟とあります。


『大和撫子』『ナデシコジャパン』。
『枕草子』に、〝草の花は撫子、唐のはさらなり、大和のもいとめでたし〟
とあるところから、「大和」が被さったのでしょうか。


その気品のある色からなでしこ色という色名を付けられたり、平安朝での「襲・かさね」(表が紅、裏が青)の色目になっています。


撫子は、いにしえの昔から日本人の心の片隅に咲く花であったようです。

〝一本の なでしこ植ゑしその心  誰れに見せむと思ひ始めけむ〟
…たしかに。
私がネズミのひたいほどの庭に撫子を植えたのも、人を思ってのことでありました。

No.259

ちなみに。
今朝、庭の草花に水やりをしていたらわが家の河原撫子、二つ、三つのでつほみがついておりました。

閑話休題。

こちらの不動寺さんは新しく創建された寺で、1980年、東京の『品川寺』の第三十一世仲田順和和上を開山として長瀞の地に開かれましたといいます。
品川寺といえば「洋行帰りの鐘」で知られる東京都品川区の旧東海道に面したお寺さんで、真言宗醍醐派別格本山の地位にあり、不動寺はその別院という扱いになっているといいます。
境内にある縁起が記載された立札によると、『秩父鉄道』がこの不動寺を創建したとあります。

開基秩父鉄道。

古来より時の有力者が寺を造るというのはスタンダードなことだったのでその歴史的系譜の一環ということなのでありましょうか。

しかしながら、もともと秩父の山なみは諸仏諸菩薩の雲集するところ。
なかでも寶登山は古くから神に護られ、護摩の法煙絶え間なき霊地、山伏、修験者が多く訪れた地でありました。

そんな地に【五大堂】を建立し、五大明王を勧請したということであります。

不動寺さんはイコール五大堂。
決して大きくはないお堂ではありますが、護摩壇は大きく、丁寧に使われているといった感が伝わるものでありました。
御本尊は『大日大聖不動明王』さま。
大きく目を見開いた立像であります。
制吒迦童子さんは片足を組み、片足を下げた坐像、矜羯羅童子さんはすっとお立ちになっています。

そのお不動さまと脇侍の二人の前に四体の明王さまが祀られていて、御本尊とあわせて五大明王さまとなります。

毎月、不動明王さまのお縁日に護摩修行が、一月七日には新春七草ということで七草粥がふるまわれ、やはりこの日にも護摩修行が執り行われるといいます。

このお寺が有名なのが、三月に執り行われるという【長瀞火祭り】だといいます。
火渡りの荒行が行われ、一般の方も参加できるとかで、私どもも今回お寺の方に是非とお声がけいただきました。

私は以前からこの火渡りの荒行に参加したかった人間でしたが、夫は「ありえない!」と、すれ違い。

…きっと、混雑も嫌う夫のことです、きっとこの火祭りには…来ないだろうな。

でも、私。
実はここまで一人で運転して来られるんですよ。
駅も近いし。

うーん♡

No.260

〝プレバト!!〟という番組はご存知でしょうか。
いろいろなジャンルで作品を発表し、その評価を受けるといった番組ですが、まずは『一般』というランクの中での査定があって、『才能アリ』『凡人』『才能ナシ』という査定があります。

俳句などは、名人クラスになると自分の作品を書籍化できるとのことで、その作品が書籍に載せるに相応しいか否かの査定があって、不合格だとその作品がシュレッダーにかけられるというもの。


今日は木彫りの仏像のご指導を受ける日であったのですが、まさにその、プレバト!!を思い出させる状況となり、テンションも気持ちもだだ下がりで。
それは〝才能ナシ〟の査定な上、さらにその作品をシュレッダーにかけられた感で。

才能ナシなのはわかっていて、ご指導をお願いしております。
人よりも時間がかかることも、なかなか上手くはいかないこともみな承知の上だったのですが…。


今日先生に見ていただいたのは、あとは顔を彫るだけまで仕上げたもので。
まずその頭部の部分を削ぎ落とされました。
その後、いったんは仕上げにかかられた先生でしたが、いきなり頭から下、座っておられる岩座まで、ザザーっと。

うっ。
たぶん、そのとき私の顔を見ている方がいたならば、顔色が変わっていたと思います。

全部を削り取り、残ったのは…表面が削られた木片、ですかね。

ここまで〝才能ナシ〟かぁ。


実はこれでもう三回目。
でも今まではささくれてしまった木を直してくださるといったレベルのもので、私としては、まさにあとは顔を彫って終わりなところまで仕上げていたつもりでした。


うーん。


ご指導を受けるようになって六回。


うーん。


頑張るしかないけれど。
今日はちょっとめげている私であります。

さて。
続きを彫るか。


No.261

…やはり未熟者の私は、プレバトシュレッダーを引きずっていて、続きを彫ることは難しかった。
まぁ、そうは申しましても、お教室ではその後二時間彫り続けましたし、今日は合計して四時間半強彫りましたので、これでよしとし終了することとしました。


ところで。
話は変わりますが。

先日群馬県みどり市の光榮寺さんの境外堂『はねたき道了尊堂』のお縁日に参列しました折、来月の大祭を前に、副住職さまから『道了尊』さまについてのお話がありました。
以前のスレで書いているかと思いますが、初めてお聞きするお話もありました(…たぶん)ので、あらためて書かせていただきます。


道了さまの御像のお姿は、お顔は烏天狗さまで、白狐の背に乗っていらっしゃいます。
このようなお姿ですので、〝想像上の神仏の使い〟と思われがちですが、実際に実在なさったお方でありまして、『相模坊道了尊者』という
室町時代に実在なさった行者さん、だといいます。

奈良県の〝金峯山〟や〝大峰山〟、熊野三山などで修行され、三重県大津市の【三井寺】にもいらしたことがある方です。

三井寺に道了さまのことが伝えられていて、三井寺のHPにも書かれておりました。

『 相模坊と天狗杉 

三井寺の金堂の向かいには天狗杉と呼ばれる樹齢千年と伝えられる 樹高約20メートルの老杉があります。

室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行をしていたとき、 ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、 やがて朝になるや東の空に向かって飛び去りました。

道了ははるか小田原(神奈川県)まで飛び、降りたところが大雄山最乗寺であったといいます。 道了は五百人力と称され、験徳著しく村人から慕われ、最乗寺の道了尊堂に祀られています。 また、道了の修行していた勧学院には「天狗の間」があり、 いまも最乗寺では道了尊を偲び当寺に参詣されています。  』

ちなみにこちらに書かれた『勧学院書院』(= や天狗杉は今なお現存するものであるといいます。


No.262

続いてはその道了尊が突如天狗となって、三井寺の天狗杉から飛んで降り立ったという、神奈川県の小田原【最乗寺】さんのHPより。

『大雄山最乗寺の守護道了大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者として世に知られる。
尊者はさきに 聖護院門跡覚増法親王につかえ幾多の霊験を現され、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行。
三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事、約一年にしてこの大事業を完遂した。その力量は一人にして五百人に及び霊験は極めて多い。

應永十八年了庵禅師七十五才にしてご遷化。
道了大薩埵は
「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」
と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。

以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている 』

とあります。

ちなみに、この最乗寺さんの道了尊 天狗化身像は

『五大誓願文を唱え、
火炎を背負い、
右手には拄状(しゅじょう)左手に縄を持ち、
両手両足に幸運の使いの蛇を従え天狗に化身し、
白狐の背に立ち、
天地鳴動して山中に身を隠された』という伝説をかたどった石像であるといいます。

私はこちらの最乗寺さんへは参拝させていただいたことはなく、こちらの尊像は拝しておりませんが、お写真を見ると、群馬県みどり市の御像よりも〝人〟っぽいかも…。


ちなみに、この最乗寺さんのHPにはイラストのキャラクター化した、若いイケメンの〝道了尊〟さまがおられました。
思わず、えっ?と声が出たくらいで。

No.263

最乗寺さんのHPを見ていたら、さらに道了さんのことを詳しく書いたものを見つけました。
それによりますと…。

『了庵慧明禅師さんが、
〝能登半島の總持寺〟にいる時に、大きな身体の山伏の格好をした人が了庵慧明禅師和尚さんを訪ねて来て「弟子にしてください」と、お願いをしました。
弟子にして下さいときた人は名前を、相模坊道了といい、奈良県や、和歌山県の山奥で山伏として修行をして、普通の人では出来ないことを身に付けた修験者でした。
相模坊道了さんは、了庵慧明禅師和尚さんを大変尊敬していてどうしても弟子になりたくて、和歌山県の山奥から石川県の總持寺までやってきました。
了庵慧明禅師和尚さんから、お坊さんになる資格をもらい弟子になりました。弟子になった道了さんは、お坊さんとしての辛い、厳しい修行をかさね、更に修行をするために、滋賀県の大津市にある三井寺と云うお寺に入り、山伏の時の経験を生かした修行をして、たくさんのお弟子さんを育てていました。
お師匠さんの、了庵慧明禅師和尚さんが、相模国足柄にお寺を建てることを知り、弟子たちに別れをつげて、山伏の時に身につけた力を発揮して山を越え、野を走り、一日で了庵慧明禅師和尚さんのもとに駆けつけました。

道了さんはお寺を建てる総責任者として、特に土木工事では五百人力の力を発揮して大活躍をしました。』


と書かれたページもありました。

No.264

◆お名前
「相模坊道了尊者」 山伏時代の名前
「妙覚道了尊者」 お坊さんの時のお名前。

「道了大権現」 最乗寺の守護神 道了さんは、十一面観音菩薩という、仏様が姿を変えてこの世に、現れた・・・との伝説があります。
「妙覚道了大薩埵」 明治時代以降の名前 最乗寺の境内にある、御真殿(妙覚宝殿)という建物に祀られています。中には大きな天狗さんが祀られています。

◆生まれた所
分かりませんが、相模坊と名乗っているので、了庵慧明禅師と同じ相模と言われています。
◆生まれた年
分かりません。
◆得意なこと
土木工事、最乗寺を建てる時、怪力を発揮して、大きな岩を砕き、大きな木を倒し、土地を平にしてお寺を建てるもとをつくりました。
◆性格
身体は大きいが、気は優しく、頭が良く、お寺の決め事を守り、修行するお坊さん達にも守らせていた。


最乗寺の宝物館に、道了さんが書いた掛け軸が残されています。




◆鐘鼓楼
道了さんが、静岡県の神社から杖に架けてもらってきた鐘が架けてある建物。現在の鐘は三代目。
◆金剛水堂
道了さんが、お寺をつくる時に飲み水が必要なので、掘った井戸で、鉄の印鑑が出て来て、その後から水が噴き出した。
◆一擲石
別の名前を道了石という。道了さんが仕事で大きな石を運んでいたらお師匠さんに呼ばれたので、その石を投げてかけつけた石。
◆道了さん天狗化身像
道了さんが、天狗に変身した時の姿を彫った石の像 。


ちなみに。
HPで知ったことは他にもあって。

なんでも最乗寺さん、ガチャみくじなるものがあらようで、しかもすでに第三弾とか。
みくじなのに大当たりがあるようで、その当たりは、当然道了さま。

その他、切り絵御朱印等もあり、イベントもたくさんあるようです。


山の上の天狗寺は、何年かまえに調べたときと打って変わったように、様変わりをしているようです。

No.265

先日、神職の方の祝詞、〝祓詞〟をお聞きする機会を得ました。

それがなんとも独特な節回しで、例えるなら……踊るような?
祓詞は神職の方が必ずといっていいほどにお唱えになるものなので、数えるくらいしか昇殿したことがないような私ではありましても、お聞きする機会はあります。
それはまさに初めてお聴きする節回しでございました。

祝詞はあまり個性ある唱え方をするものではないのだろうと、今までの経験から勝手に思い込んでおりましたが、そうではなかったことを初めて知りました。

よくよく考えてみれば、祓詞の読み方自体が人によって(?)、神社によって異なるもの。
ですので抑揚…節回しとても、違いがあって当然、なのかもしれません。


お経もそうです。
といっても、私には違いがわかるのは【般若心経】ぐらいでありますが、まず般若心経をお唱えしない宗派もございますし。

その般若心経自体が、宗派によって…どころか宗派は大まかな宗派という意味では一緒でも、たとえば〇〇派とかいう形で分かれている同宗派であっても、細かな読み方が異なっています。
濁音、半濁音の差、くらいではありますが、素人の私が聞いていてわかるほどには異なっています。

また、同じ宗派で〇〇派というところまで一緒であっても、節回しが異なったり、速さが違ったりと、たとえばそれは全くの個人差であったりとか、その法要の種類によって変えるとかがあるようです。


祝詞やお経の合間に、赤ちゃんの喃語が、まさに合いの手?と思われるほどピタッとハマったりすると、笑いを堪えるのが大変です。

夫は自分の実家の菩提寺の和尚さんが読経の途中、木魚をたたき損ねたことがあったとかで、それが妙にツボにハマってしまって、子どもながらに笑ってはいけないということはわかっていたので、笑いを堪えるのが大変だったと申しておりました。


たしかに。
祝詞にしろ、お経にしろ、たいそうありがたいもの。
途中で笑うことなどまさに顰蹙もの。

宗教こそ違えど、どちらも厳粛な儀式の最中でありますので、ツボにハマるような突発的なことが起きないことを祈ります。

ん?
そんなことを祈っている場合ではないですよね、はい。

No.266

道了尊さまのことを綴っていて、もともと折にふれ参拝にうかがいたいと思っていた神社さんへどうしても行きたくなり、先日参拝してまいりました。
それといいますのもこちらへの参拝が今年のお正月以来参拝しておらず、その際いろいろお願いごとをしてきておりまして、年に一度しか参拝せずにお願いごとをするなど、ちょっとあまりにも図々しすぎるだろうと常々思っていたからに他なりませんのですが…。

こちらへのお参りは初めての参拝以外は私一人でまいります。
神社さんを参拝するのに〝ついで〟
というのは失礼に当たるであろうと、ついつい先延ばしになっておりましたので、もしかしたら道了尊さまが私の背を押してくださったのかもしれません。

それは同じく群馬県みどり市に鎮座される【貴舩神社】さん。

こちらの御由緒は平安時代の天暦十(956)年、東国(関東地方)がひどい干ばつに襲われたとき、
山城国(京都)の貴舩神社の御祭神が、古来より『祈雨・止雨祈願の神』として信仰されてきた
【高龗大神(たかおかみのおおかみ)】さまで、その御分霊を奉り降雨と五穀豊穣を祈願したところ、それがかなえられたので、関東平野の最北端、渡良瀬川流域の山地に祭られ、現在地に建立されたのは、江戸時代の寛文八(1668)年といわれています。
何度か参拝させていただくたびに書いてはおります。

今回は思い立ってのことなので、朔日でもなく、参拝に向かうであろう車はほぼ無かったのですが、実はこの、貴舩神社さんへと向かう道、住んでおられる地元の方以外はほとんど貴舩さまへ詣でる方の車であるくらいでありまして。
一本道をずっと直進した先に鎮座される神社さんであります。

全国で約四百五十社ある貴舩神社さんのうちの一つ、この地域一帯において信仰深い神社で群馬有数のパワースポットとしても知られております。
私が免許を取った頃など、こちらでおわかちいただく交通安全のステッカーを貼った車がとても多く、前を走る車にこちらのステッカーがあることが当たり前に感じるくらいでありました。
今はこういったステッカーを貼られた車をあまり見かけることはなく、ただそれは車内に御守りを置かれるだけにとどめた方が増えたということだけなのでありましょうが。

ちなみにその頃私は貴舩さまがどちらにある神社さんなのかも知らないような人間でありました。

No.267

こちら群馬県みどり市に鎮座されます『貴舩神社』さんの御祭神さまは

・【高龗大神(たかおかみのおおかみ)】さま

水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの
水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められてきました。

・【大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)】さま

山々の精霊を統括支配し五穀豊穣をもたらす神さま。

・【大穴牟遅大神(おおなむちのおおかみ)】さま

国土を治め守護し、人々の病めるのを治し不幸を救う神さま。


…はて。
天狗さまは…?

そもそも天狗さまは神社さんでもお寺さんでもお祀りされておられます。
この辺りを守護してくださっておられた天狗さまがお祀りされましたこともあるでしょうが、もともと京都の貴船神社さんは鞍馬寺のすぐそば(…とのことで。私は京都の貴船神社さんにも鞍馬寺にも参拝させていただきましたことがないので、あくまでも〝調べた〟情報、でしかありません)、そんなことで、天狗さまとの関係も強いようで。

それも相まって〝貴舩神社〟さんには天狗さまが一緒にお祀りされる…のかもしれません。

こちらでお授けいただく御朱印には天狗の羽団扇に天狗さまがいる朱印が押されています。
ちなみにこの印、見慣れた交通安全のステッカーと同じ図です。

拝殿の正面にも天狗さまが祀られ、境内社にはその建物いっぱいの大きさの大天狗さまと烏天狗さまのお面がお祀りされておりますくらいです。

No.268

高知県香南市で、目の不自由な方に仏像に親しんでもらおうと、手で触って楽しむ催しが開かれたといいます。

香南市夜須町の『長谷寺』さんの山門には鎌倉時代から伝わるとされる仁王像がニ体あるといい、現在その二体を仏師の吉田安成さんが修復作業を進めているといいます。

10月10日の「目の愛護デー」を前に、視覚障害者の方に仏像の魅力を知ってもらおうと、吉田さんらは目の不自由な男性お二人を修繕の作業場に招いて、仏像に触れてもらう体験会を開いたのだといいます。

参加された方々は、修繕の過程で使わなくなった仁王像の足に触れたり、3Dプリンターの技術で作った小さな仏像の模型を実際に手に取ったりして感触を確かめられたといいます。

また、仁王像について、口の形が「あ」と発する像は「阿形」、「うん」と発する像は「吽形」と名前が付けられていることを住職から説明を受けられたといい、ニ体の違いを感じていました。

参加された男性は「ぼんやりと見えていた頃も仏像の全体の形は分かっていませんでしたが、触ることで細かい形や胸板の厚さを想像できました」と話しておられたといいます。

またもう一人の方は「一人で外出できない中、貴重な体験ができました。
またこのような企画を考えてくれたらうれしい」と話されたといいます。

なんと素晴らしい着眼。
そして決して押し付けでなかったからこそ、その発案に対して素直に応じてくださって、貴重な体験をなさることができたお二方。
そこには心を込めて伝えようとした思いがあって、そしてそれがしっかりとお相手に伝わったということ。

そうして、仏師の方の申し出に快く応じたご住職もまたありがたい。
それは一人として漏らすことなく、仏の道を伝えようとする僧としての姿勢の表れでもありましょう。

仏教には、生きている中でつらく思うことから救われる教えがたくさんあります。
心のあり方を説いてくれる…そんな御教えが。
それを伝えてくださる僧籍の方に出会えることは、悲しいかな、なかなか稀なことでもあります。

こうした機会が、…さまざまな視点・さまざまなジャンルで、開かれていきますように。

障害のある方の真に住みやすい世の中となっていけたらいいと、心から思います。

No.269

貴舩神社さんは長い石段をのぼってまいります。
程よく続く鳥居をくぐりながら上へ上へと向かいます。
石段の両脇には朱塗りの手すりが続き、ところどころ一定間隔で設置されている朱色の灯籠が、まるで見守ってくれているかのように感じます。

上へ上へ。

目指す石段の上に、明るく光る空間が見えてまいります。
その光差すさまがなんとも神々しく、そして限りなく優しい気が迎えてくれます。
この石段を登っての景色こそが、
貴舩神社さんを訪れてよかった、また訪れたいと思う瞬間であります。

正面に拝殿。
小さな赤い天狗さまが正面に祀られていて、まるで「よく来たな」と声をかけてくださっているかのように感じます。
護ってくださるお力の強い、お優しい天狗さまがそこここで、訪れている参拝の者たちを見守っておられるような、…そんな感覚を抱く神社さんであります。


こちらは、訪れる方の悩みの数だけ御守りを用意しようと、そう思われたのであろうなと、感じられるくらいに御守りが数多く置かれています。

しかもその思いに寄り添うようなデザインであり、そこがまた心に染み入るのであります。

わが子にお力をお与えいただきたいと願うとき、私はこちらへお参りさせていただきます。
そして…それは本当はそうすることで自らの心のうちにある、わが子を心配している心を鎮めていただいているのだと、気づきをいただけることとなります。

貴舩さまはお優しい神さま方と、お優しい天狗さまが、病める心を癒そうとお待ちになってくださっておられる、癒しの宮であるのです。

そして。
いろいろな気づきをいただくことの多い神社さんでもあります。


〝パワースポット〟という言葉はあまり好きではありませんが、きっと一言で言いあらわすなら、こちらはまぎれもなくパワースポットなのであろうと思います。

No.270

本日十月九日は、語呂合わせから『天狗の日』なのだといいます。

諸説ありますが、天狗は中国において流星を指すとされ、
また『日本書紀』には流星を『天狗(あまつきつね)』としていて、これが日本の天狗の初見とされています。

流星は、星が夜空を飛んでいるように見えますので、そうしたことからのかとかも。

天狗には羽があり、風を操る天狗の団扇を持っています。

天狗さまは、不思議な御力で、運命の風向きを変え、追い風を吹かせる『運命好転』の御利益があるとされています。


現在、太平洋岸において津波が発生しており、徐々にその範囲も広い範囲でのものと変化しております。
誰一人として被害に遭われることなく、津波が収まりますように。
足柄山の天狗さま方が、揃って海に向けて羽団扇を振るお姿が見えるような気がいたします。


また氷雨降る日ともなり、十一月半ばの気温ともいわれております。
どなた様も体調を崩されることなくお過ごしください。

No.271

川を見下ろしながら山を見上げ、その四季折々の景色を楽しみながらの風情ある国道122号線。
とはいえ、休日ともなるとドライブやツーリングを楽しむ車やバイクが増えて、ゆるやかながら坂もあり、なによりカーブの連続で、決して気の抜ける道ではないのですが。

そんな国道122号線はかつて足尾銅山街道と呼ばれた道とも一部合致しており、かつては栄えた街道で、現在でもその名残を花輪宿などに見ることができます。
今はこのR122を『あかがね街道』などと呼んだりもしております。


水沼という地に入り『桐生市黒保根歴史民族資料館』の看板を見かけたら、その水沼の交差点を左折し坂道をのぼるとひだりてに【常鑑寺】さんの案内が見えてきます。

かなりの高台にありますものですから、道を走行していて見えるお寺さんではありませんが、こちらの梵鐘が群馬県の指定文化財にあたっていることもあり、そこここに案内が出ております。

しかしながら、文化財云々ではなく、一度でも訪れた方はご存知かと思われるのですが、こちらのお寺さんさまざまな四季折々の花が咲いておりまして、そして何よりもご住職さまご家族が心からのお迎えをくださる、心安らぐ、癒しのお寺さん、なのであります。
車での坂をのぼってまいりますと、まずは犬さんが吠えてお出迎えを。
そして境内には猫さんがマイペースに歩き、寝そべる姿を見ることができます。

伺う度、奥さまやご住職は境内のお手入れをされておられ、そして毎回その手をわざわざお止めになって、お声がけくださるようなそんなお二人のお守りになっているあたたかなお寺さん、なのであります。

No.272

こちらの、群馬県桐生市黒保根町の【常鑑寺】さんの参道は百八十八段の玉造のかなり急な石段です。
下から見上げてもその先に御本堂は決して見えません。
そもそもこの石段からのぼろうにも下には駐車場はなく、なんだかんだ車の往来があり、路駐した車をやり過ごすにはカーブのところにある上、道もさほどには広いものではなく、これ幸いと(えっ?)車で上にある駐車場をめざします。
車でのぼっても結構急な坂であります。

この石段、上段、中段の百八段は開山当時の造成といいます。
半径が四十センチくらいのまあるい石を(…あ、こうした目算がたいそう雑で、合っている確率は大変低いおばさんの〝見立て〟です)、半分に割った(であろう)ものを踏み石として加工した石段です。
上の方は経年で少しズレてきており、少しのぼりづらいものとなってきてはおります。
まぁ、下から登る方は鍛錬の目的もあろうかと思われる石段です、足に自信のある方しか登っては来ないかと思われますが…。
それでもきちんと整備して、雑草が蔓延ったり落ち葉等で覆われたりもしていない、きちんと管理されている石段であります。

ここを登り切ると正面に荘厳な本堂が現れます。
まぁ、私の場合は車ですでにあがってきておりますので、途中までおりて、上がってきての光景でありますが…。

御本堂の前には大きな鉢に植えられたさまざまな季節の花が並べられ咲き誇っています。

御本堂は高床となっているため、少し段をあがります。

扉は、…閉ざされておりました。

まぁ、たいていのお寺さんがそうであります。
御本堂に上がらせていただけるところなどはそうはありません。

ましてやこちら、実に見事な欄間彫刻のあることで有名なお寺さんです、それは防犯の意味で当然のことだと思います。

御本堂の外から手を合わせて。
こちらは正観世音さまが御本尊さま。
〝聖〟ではなくて〝正〟であります。
その理由はちょっとわからない、とのことでありました。


そして。
前述させていただいておりますが、こちらの梵鐘、群馬県の指定重要文化財です。


ん?
えっ?
撞いていい?


No.274

…どうしよう。

すでに御本堂の前でではありますが、手を合わせ参拝してしまっております。
鐘を撞くのは参拝前と言われています。

…おばさん、鐘を撞くのが好きなんですよね。
しかも〝東日本大震災の慰霊の思いを込めて〟的なことが書いてあるのです。
…撞くしかないでしょう。

鐘の前で一礼し手を合わせて。
〝こーん〟

そう、こちらの鐘の音はよくある重低音ではなくて、少し高くてやわらかな音色です。
なので〝ゴーン〟というより〝こーん〟が近い。

そして鐘の音が再び静まるまで合掌いたします。


こちらの梵鐘は寛延元(1748)に下野国佐野の鋳物師によって鋳造されました。縦帯の撞座の上方には、聖観音の座像が蓮台付きで半浮彫りに鋳出されています。
反対側にも同じように観音さまがおられます。
美術的にも価値の高い梵鐘であるということで、かの第二次大戦の折、すでに文部省のお墨付きを受けていたことから供出を免れたと伺っています。


この梵鐘は第五世住職が発願し依頼、第六世の代になって完成したと、このたびの参拝で、ご住職さまより伺うことができました。

なんでも金属の不足でなかなか仕上がらなかったようで、女の人たちからかんざし等の供出を受けてようやく完成したとのこと。
そうしたことから「この鐘には貴金属も溶け込んで作られており、それゆえ音が柔らかいのです」
とのこと。

〝絶対、音感がない〟(〝絶対音感〟ではなくて、絶対に、まるっきり音感がない、の意。)私にして、その音のやわらかさを聞き取る事ができたということでありましょう。
そのくらいに素晴らしい音色なのだと思います。


鐘のデザインはいたってシンプルで観音さまがお二方半浮彫りされているものですが、その小さな小さな観音さまの見事なことといったらありません。 

鐘そのもののデザインといい、音色といい、私はこちらの梵鐘が大好きなものとなりました。


実は…以前訪れていたときは、鐘に近づいて拝することすらしていなかったのです。

(一体何故?)
自分でもそう思いました。

県の指定重文ということより、かの大戦の供出を免れたほど〝美しい鐘〟と言われる鐘を、何故見ずに退去したのだろう?


(あっ!…もしかしたら)
一つだけ思いあたる(かもしれない)理由がありました。

No.275

鐘楼の前に、
この鐘は戦争に供出することなく美しい音を響かせてきたため『平和の鐘』と呼ばれること。またかの東日本大震災の折にこの鐘も被災した経緯もあって、このような悲劇が二度と起こらないことを願い、鎮魂の意を込めて是非お撞きくださいといった内容の書かれたものがありまして。

『東日本大震災でこの鐘も被災した』…。

どのような被災状況であったかは今回ご住職さまにお聞きすることができたのですが、
「修復に十年かかった」とおっしゃっておられました。

私どもが訪れたのは間違いなく、震災後。修理中であったのかもしれません。
そう考えると合点がいきます。

東日本大震災の折、この鐘楼の土台の石が割れてしまったと、おっしゃっておられました。

その他にも参道の脇にある石垣の〝隅石〟が落ちてしまい、倒壊の危険もあるようなこととなっていたとか、先代のご住職が直されたばかりの歴住塔がみな崩れてしまったとか、庫裏の屋根瓦が三分の一落ちてしまったと、おっしゃっておられました。

「地震にはその地震、地震で〝筋〟があるようで。
実は二十年ほど前の中越地震では、西側の墓地が大きな被害を受けたのですが、今回西側はまるでなんともなくて、東側に集中して被害が出ているんですよ」

…こんな身近なところに、そんな被災をされたところがあったなんて。
特に中越地震による被害まであったことなど、知りもしないでおりました。

「すぐ近くのお宅や、すぐそばのお寺さんは何も被害がなかったといいますので、やはり地震の筋があるのだなぁと思ったものです」とご住職。

東日本大震災からちょうど十二年の年に、思いたってこちらのお寺さんをお訪ねしたことに、意味は無かったのだとは思います。

ただ、私の心にあらためて慰霊の思いが強くわきあがったことは確かなことです。


日本各地の災害による大きな被害による爪痕はまだまだ残るものであります。
日本を取り巻く環境は大変厳しいものではありますが、他者への思いやりを決して失うことなく、人が人らしく生きられる世であるよう、常に心に置きながら、生きていたいと思います。

一人一人の力は微力ではありますが、一人一人の思いは小さいものかもしれませんが、その一つ一つが築いていくものは決して小さくはないと思うのであります。


No.276

こちらの草創は、室町時代初期の応永年間(1394-1427)頃に小庵が結ばれたと伝えられています。しかし、その後は廃寺となっていたといいます。

その後の室町時代末期の元亀二(1571)年、荻原與惣左衛門が開基として、春翁慶陽大和尚(現 前橋市粕川町膳 龍源寺五世)が開山となり、それ以降【赤城山感心院常鑑寺】と称することとなったといいます。

実際に住職としては二世がここに住み、この寺を興したといい、それから今年がちょうど三百五十年に当たるといいます。

四世の時に観音堂が建てられ、五世が前述しております梵鐘を造るべく発願されたのですが、諸事情から梵鐘が出来上がったのは六世のときであったといいます。


現在の本堂は、安永元年(1772年)二月、八世の代に発願し、九世の代に再建されたものといいます。

この頃、当寺を菩提寺とする檀家である星野家第六代星野七郎右衛門が再建に際し多大な貢献をしたといい、常鑑寺の中興開基となっているといいます。

この本堂は、間口八間半奥行七間半で屋根は往時より茅葺でありましたが昭和三十七(1962)年にトタン葺きに、さらに昭和六十一(1986)年に銅板に葺き替えられ現在に至るといいます。


明治時代に入り、地元水沼の名主であった星野家の星野長太郎は、稼動したばかりの官営『富岡製糸場』でいち早く技術を学び、明治八年、輸入機械を購入し屋敷内に水沼製糸場を建設したといい、さらには生糸組合をつくだだと言います。
高品質の生糸生産は一年後には弟の新井領一朗が、ニューヨークに販売の拠点を作る勢いで大きく発展していったといいます。
そのような中で、教育の重要性を認識していた彼は、明治政府が欧米諸国の学校制度を取り入れた学制を明治五年に公布した学制施行の翌年二月に、星野家の菩提寺であった常鑑寺に寺子屋を開設したといいます。


常鑑寺の御本堂内に置かれる駕籠は、〝女駕籠〟であるといい、その星野家から納められたものといいます。

また、そしてその隣に置かれている長持には巴の徳川紋が入り、それは桐生が徳川家の直轄天領であったことと、この辺りがあかがね街道であったこと、などからのものであろうとおっしゃっておられました。

No.277

こちらの彫刻欄間。

同じく群馬県桐生市の【医光寺】さんの彫刻欄間の彫師の一門の手によるものと考えられると伝えられています。

実はここ桐生市黒保根町は、同じく桐生市に鎮座する【桐生天満宮】さんの彫刻を手がけた【関口文治郎】の出身地であります。

関口文治郎の記録というのはほとんど残されていないといいますが、以前桐生天満宮さんのところで書いておりますが、国宝となった埼玉県熊谷市の『妻沼聖天山』さん他、同じく埼玉県の『三峰神社』さん、桐生市の栗生神社さんや榛名神社さんなどの彫刻を手がけた人物であります。

上州の甚五郎とも称されることのある優れた彫刻職人です。

実はこの常鑑寺さんの欄間彫刻にしても、医光寺さんの欄間彫刻にしても、おそらくは関口文治郎の作品であろうとされているだけで、確認のとれるものが今のところ何一つ存在しないため、確定はされていません。

お寺さんの場合、依頼によってはめ込み欄間を納めてもらうということらしく、(これは桐生天満宮さんの場合もはめ込みのものであるのですが、あちらには棟札が残されており、そこに『関口文治郎』の名が残されています)もしかしたら銘がどこかにあるかもしれないが確認が出来ていないということで、『みごとな欄間彫刻のあるお寺』にとどまってしまっているのです。

「あるとしたら、屋根裏とかに密かに記名してあるかもしれないですね」と、さほど残念そうではないご住職さま。

誰の手によるものであろうと、こちらのお寺さんの彫刻はそれはそれはみごとなものだから、でしょう。


実際、嘆息がこぼれるくらい、素晴らしいものです。

常鑑寺さんはご住職さまか奥さまがおられれば、御朱印などを希望しておらずとも、お時間が許す限り、御本堂の戸を開けてくださいます。

それがまた本当に本当にありがたい。


御本堂に入ってすぐの欄間彫刻は三枚で七福神さまを表現されています。
欄間中央は、布袋尊さまが袋の上に乗り、それを唐子が引いています。
それをまるで綱引きの応援でもしているかのように、中央に大黒さまが軍配を手にして踊るように笑顔で立っておられます。

欄間左側は、弁財天さまが白い顔の髭の男性と碁(?)をうたれており、それを寿老人が観戦しているのですが、この弁天さまと相手の人物の表情が実にリアルで、そしてなんとも楽しそうなのです。
寿老人は気だるそうで。

No.278

欄間右側では、恵比寿天さまが太鼓を叩き、福禄寿さまが踊り、後ろ姿の女性が笛を吹き、毘沙門天さまが…?、楽器、ではないなぁ、少しだけ物のはいった大きな袋?を手にしてそばにおられます。

どなたさまもたいそう楽しそうな、素敵な図案です。
彩色もまだしっかりと残っており、表情豊かで、背景や小物も丁寧に彫られております。

御内陣の正面には火伏せの龍、左右には孔雀が彫られていました。

左右の欄間は四枚の彫刻がはめ込まれており、それぞれ飛天が彫られていました。
その優雅で美しいことといったら。

こちらの飛天はそれぞれが楽器を奏でており、ご住職さまがおっしゃることに、この飛天に関しては裏から見てもその後ろ姿がしっかりと彫りこまれ衣の裾の流れるさままでが美しく彫られていると。
「是非ごらんになってください」

うーん♡
たしかに。
これは美しい、素晴らしい彫刻です。
裾の流れ、髪の流れ、香るかのような花々。
うーん。


実はご住職さま、この日御本堂で夏使っておられた扇風機を拭き清め、お片づけをされておられ。
扇風機のファンの部分を手にその天女のうしろ姿を見上げておられ、なんと贅沢なお掃除であろうと、そのお姿を見て思ったものです。

そうそう、御内陣の、前に置かれたつくえにも彫刻が施されており、こちらはさすがに彩色はなく、茶色一色ではあります。
遠目でよくは見えなかったのですが、なんとこちらの図柄は波頭と〝ラクダ〟、なのだそう。
ラクダを見たことのない人が、その口伝えに聞いた動物を想像して彫ったのだろうと思う、あきらかにラクダとは異なる動物が彫られているといいます。

なんでも、ご住職さまもまさかラクダであろうとは思わずにいたところ、彫刻に詳しい参拝の方からそうご指摘を受けたのだとか。

実は他にも欄間彫刻があったのですが、これ以上ご住職さまのお手を止めることか申し訳なく、いつかまた、の機会をと、お礼を申し上げ、御本堂をあとにしました。


瓔珞草(イコール秋海棠)やホトトギス、その他もろもろの満開の花々が咲きほこる境内を歩くだけでも幸せな気分になる常鑑寺さん。

是非またお邪魔させていただきたいです。

No.279

群馬県桐生市の黒保根地区にはお寺さんはいくつもございますが、残念ながら無住となってしまっているお寺さんが多いのです。

そんな中、この常鑑寺さん、医光寺さん、そして正圓寺さんの三寺は、それぞれ別の宗派さんではありますが、同じ黒保根地区のお寺ということであるのでしょうか、連絡を密にお取りになられているようなお話を伺います。

そして。
必ずといっていいほど、
「〇〇寺さんには行かれましたか?(〇〇には上記の三寺のどちらかのお名前が入ります)〇〇寺さんは…」
と、他宗派のお寺さんをお誉めになるのです。

他宗派のお寺さんともなると、下手をすると悪口を口にされるお坊さんもおられるくらいですのに、この桐生市の黒保根地区の方々のお人柄がこうなのか、よそのお寺さんへの理解も深く、そしてその、他のお寺さんへの参拝もお勧めになられます。

そのどのお寺さんもおもてなしのお気持ちを持たれたご住職とそのご家族ばかりで、アポ無しで訪れる参拝者を快く受け入れてくださり、御本堂の戸を開けて、丁寧な説明や法話をしてくださいます。

桐生市黒保根地区のお寺さんを参拝して歩くと、心癒され、何物にも変え難い尊いものをお授けいただいたような…満ち足りた気持ちになるのです。

この日も常鑑寺さんのご住職さまは他のお寺さんへの参拝をお勧めになられました。

とりあえず。
もともと医光寺さんへは参拝させていただこうと思っておりましたので、常鑑寺さんの駐車場でわが家のじゃじゃ馬ナビに〝医光寺〟さんと入力いたしました。

のどかな景色が続きます。
常鑑寺さんですでに満ち足りたと思っていた心に、さらにやわらかな、温かなものが流れ込んでむくむくと胸が膨らむ思いです。

No.280


心洗われ、豊かにしてくださるお寺さんもあれば…、悲しいかな、悪い気を受けて、気持ちの重くなるお寺さんがあるのもまた事実であります。

お坊さんも人間です、当然煩悩もありましょうし。

ただ…そこに、その場所、お寺さんに御仏はおられるのだけれど。


…本当に?

御仏は見捨てない、…ですかね。

なんの教えを受けて、なんの教えを説いておられるのか。


マスコミは大切なようで、イベントに記者を招待して、県内で知らない者はないくらいの有名なお菓子の手土産まで持たせていた。

「今日はありがとうございました。それではこれで…」と切り上げた記者さんを、その後も事あることに探しては、あれこれ話す老住職。
記者さんは本当は参拝者のインタビューが取りたい様子なのだが、お構いなしにそのインタビューに突撃して中断している。

「記事になると集客につながるんでほんと、〇〇新聞さんには感謝してますよ」


集客、かぁ…。


本山でもいろいろ自慢してきたんだと平然と話すお坊さん。

自慢って…、煩悩…だよね。


なんだかとても疲れてしまった。

No.281

読み返してみてふと不安になったので、これだけ。

上記のレスは決して【医光寺】さんのことを書いたものではありません。


あるお寺さんで感じたことを、あまりに引きずっている自分に気づいてつぶやいた〝愚痴〟であります。


医光寺さんではありませんことを明記しておきます。

No.282

水沼の信号を曲がって入る坂は急坂ですが、常鑑寺さんから先はゆるやかで、くねくね道とのどかな田園風景が広がります。
ひだりてに古い横長の二階建ての古い建物があり、なんでも移築した旧水沼第二小学校のようです。

そこからさらに河川沿いに医光寺方面にひたすら向かっていくと橋があり、なんとものどかな小川…よりは少し大きな川が流れています。
この川を眺めるだけでも、ここまで来てよかったと思えるような、まさにザ・日本の風景であります。

ちょうどその橋を渡ってすぐのところにも医光寺への案内板が出ています。
…なのですが。
気になる案内板があと二つ。

『虚空蔵菩薩像』と『虚空蔵菩薩経』、とあります。
しかも、その案内板に示されている距離が、若干、医光寺さんと異なって表記されているのです。

路傍、とか?
お経、経文まで?
それはちょっと考えにくいけれど?

いったいこれは…?

No.283

医光寺さんへはあと少し。
ナビの案内は続きます。

川沿い(…とは言ってもかなり下を流れていますので車の窓からは川自体は見えません)の上りの道を進むと、おぉ〜見えてきたではないですか、医光寺と書かれた小さな案内が。


えっ!
通り過ぎちゃうんかい!

「医光寺さん、あっちって書いてあったけど?」
「えっ?ちょうどこの辺で曲がるのかなってナビで確認してて見てなかった」

…ぁ、そ、そうかい。

しかも決して太くはない道な上、後ろから車が来てしまうという、絶悪なタイミング。

「ほ、ほら、またあったよ、医光寺さんの曲がるとこの案内」
「えっ…あれは無理だ。あの角度はちょっと曲がれない」

む。
ま、まぁそうだったな。
間違いなく私では無理だ。


…って、じゃあどうするのよぉぉ〜!

なおも直進を続ける夫。

ナビ、がんばって!


「ほらあそこ!あそこ医光寺さんの曲がるとこって!今度は曲がれそうだよね」

…ナビ、信じてるか?という発言を繰り返す私。
まぁ、じゃじゃ馬ナビですし…。
田舎道ではUターン不可、行き止まり、…みたいな道はザラですからね。

ともあれ、今度こそその案内に従ってようやく右折することができました。
…私が運転していて、隣の助手席の人間がこんなにうるさかったら、さぞストレスだろうな。それが夫だった怒鳴り散らしてるだろうな。

…じゃじゃ馬なナビと、その上をいく妻。
夫は…毎日が難行苦行?



えっ?
曲がってすぐ、農家さんの畑の納屋みたいなとこなんですけど?
これ、農家さんの私道じゃないの?

畑を突っ切って、生活道路を走って、ようやく、ようやく医光寺さんの…段差のやたらきつい駐車場です。

ああ、朝でもないのに鶏のにぎやかな鳴き音が響き渡ります。
番犬ならぬ番鶏?

烏骨鶏の鶏小屋がすぐそこにありました。
が、あきらかにこれは医光寺さんのものではない、ご近所の農家さん。

どうやらここから歩くようです。
(? 以前はもっとお寺のすぐそばが駐車場だったような…?)


No.284


…どうにも気持ちが沈むことばかりで、なかなか立ち直れずにおります。
秋だから?…でしょうか。

そんな自分を払拭し、鼓舞しようと、いつもとは違う言葉を使って前スレを書いてはみたものの、…そんなことで払拭できるものでもなく、むしろ読む返すたびに自分でびっくりするし、続きが書けないほどに、前回の言葉使いに違和感を感じて戸惑い、困ってしまっています。

お笑い系の芸能人の方の口ぶりを真似てみたつもり…だったようなのですが、そもそもがお笑いをほとんど観ないから、思い込みで書いていて。

「パワーっ!!」
と大きな声でおっしゃるのがトレードの方の話し方を真似したつもり、なんですが、後で調べたらまるで違っていましたね。

「〇〇するのかい、しないのかい、どっちなんだ〜いっ!」
というんでしたか。

あわよくばその方のパワーももらえたらと思ってのことだったのですが…。


まぁ、とりあえず。
こんな駄文でも書いておけば、勢いがついて続きを綴れる、かもしれないと思い、つらつらと書きつらねてみました。





No.285

【医光寺】さんの山門が見えてまいりました。

道を歩いて山門の正面に来る。

…当たり前のことなのですが、このクルマ王国とも呼ばれます群馬県民、まずまず電車・バス等の公共交通機関を使うことがあまりなく。(と、いうか公共交通機関がないがために車を持たざるをえなかった?)
まず目指すのが駐車場。
ところが、車などなかった時代からありますのが神社仏閣。
駐車場をどのように設置するか、悩みに悩んで、本来ならば設置などしたくはない場所に設置せざるを得ないことが多々あり、鳥居の内、山門の中に駐車場があることなどザラであります。
ビビりの私どもなどは、そのたびに(ひぇ〜っ、ごめんなさい)と思いながら敷地内にある駐車場に車を停めているのですが。

医光寺さんは大きな駐車場をお持ちで、山門の斜め前に、…もう一つの駐車場があり、そこに停めると先ほど申しました『道を歩いて山門の正面に来る』といった光景に出会えないのであります。

うーん♡

これは良かった♡

医光寺さんの山門は決して大きなものではありません。
ごくごく普通の山門、なのですが…。

竹林と、六地蔵さまと、見上げるほど大きなお地蔵さまと、そして見上げるほど大きな宝篋印塔がその山門を見守るという、なんとも風情ある山門なのです。

ああ、しあわせ♡


No.286

こちらの山門の前におられる六地蔵さまが、まず私の心を鷲掴みになさいます。

お優しいお顔。
お座りになられた御像なのですが、そのお召しになられたお着物の袖や裾の流れるさまの優美なことといったら♡

そして、こちらのお地蔵さまの光背は少し変わっていて、円光、…なのですがドーナツ状とでも申しましょうか(語彙力がなくて申し訳ない)、内側が抜かれた円であります。『輪光』ということになりましょうか。

石仏がお好きな方は、その像の背面や台座等に刻まれた製作年をご覧になられる方がほとんどなのですが、私は基本的に簡単に見られる位置にある時だけ見させていただいております。
御仏として拝するか、
その御仏を作るに至った背景を含めて、…依頼者や石工や、時代や時代背景やらといった諸々を含めて拝するかという違いがあるのかもしれませんが、…私の場合、要はビビりに端を発しているかと。

…自分に自信がない私は、何か失礼をしでかさないかとドキドキしてしまうのです。知らないうちに何か失礼な事をしでかしでもして、バチが当たることを畏れているのです。
…御仏なので、よほどのことをしでかさない限り、お許しくださる気はするのですが、なにせ〝私〟ですから。

そ、そんなわけで、この六地蔵さまがいつ造られたものかはわからないのではありますが、輪光を作ることは手彫りではかなり大変なのではないか、と思われ、新しいものなのではないかと思うのではあります。
石もどこか新しそうな気がするものであります。
ただ、私の場合、そう思って見ていたら江戸時代のものであった、などということがありましたので、それもあてにならないのですが…。

違う場所にも六地蔵さまがおられ、そちらはいかにも古いもののよう感じますので、たぶんこちらは新しい?


そしてそんな(たぶん)新しい六地蔵さまを含めてこの山門を見守るようにお立ちになられている、大きな大きなお地蔵さまが。
こちらはだいぶ古くからお立ちになっておられるかと思われます。
がっしりとした体躯の宝珠と錫杖をお持ち…にみえる御像です。
たいそう立派な台座で、お立ちになっておられる蓮の花弁が八重を通り越した、薔薇や菊のように花びらがたくさんあります。

No.287

ところで。


先日たいそう寒かった十一月中旬並みともいわれた日に、こたつをたて、ただ火入れはまだの状態でおりましたが…。

…こたつをたてると、寒くはないのに火が入っていないとなんだか少し寂しい気がするものであります。
しかしながら吉日を待とうと、今日まで火入れをせずにおりました。


昔から「亥の子の日」に火を入れると火事にならないといわれているといい「こたつ開き」をする習わしがあるといいます。

亥は陰陽五行説で火を制する水にあたるため、亥の月亥の日から火を使い始めると火事にならないとされました。
そこで、「亥の子の日」にこたつや囲炉裏に火を入れるようになり、「こたつ開き」と呼ばれて親しまれたといいます。
(私の実家ではどこをどう間違えていたのかずっと『戌の日の大安』とされていましたが…)

実際には「亥の子の日」は、亥の月(旧暦10月)の亥の日をさします。亥は十二支の数え方なので、亥の日というのは12日ごとにやってきますが、一般的には亥の月(旧暦10月)の最初の亥の日のことをいうのだといいます。


…『亥の日』じゃ、だめ?

自分に甘い、煩悩おばさん、暦を調べて亥の子の日が十一月十三日であることを知ります。


うーん…。
しかもこの日は仏滅です。
うーん。


今日なら亥の日の友引です。


…いいんじゃない?亥の日の友引。
と、まるでUber EatsのCMみたいなノリで、本日朝、こたつの火入れをいたしましたおばさんであります。


いやぁ、こたつのある幸せ。

沈んでいた気持ちがこのくらいでちょっとでも浮上するなら、まだまだ軽いもの。



今日一日がみなさまに良い一日でありますように、お祈り申し上げます。

No.288

群馬県桐生市にあります【医光寺】さんに話を戻します。

こちらは御本堂の見事な欄間彫刻で有名です。

ずっと『医光寺』さんと書いておりますが、正しくは〝醫光寺〟さんのようで、まぁ、旧字体なだけですので〝医〟の字であっても決して間違いではありません。

御本堂の戸は、…閉ざされています。

ただ、…こちらのお寺さんは、法要などがなければ、基本御本堂へ上げていただけると伝え聞いております。

うーん、…どうしよう。

だからこそ躊躇してしまうところもあるような、ないような。

しかしながら、煩悩の塊エックスキューズミーおばさん、そんな躊躇もうほんの数分で。
スタスタと庫裏へと向かって歩き出しました。

庫裏に向かう途中、修行時代の弘法大師さまの御像がお立ちになっておられました。
ひざまづいて手を合わせてのち、まだ少し躊躇している自分を鼓舞して。
ピンポーン。

「突然お邪魔しまして申し訳ございません。よろしければ御本堂で参拝させていただきたいのですが」

まだ年若いご住職さまが笑顔で
「ああ、それでは本堂の前でお待ちになっていてください。今鍵を開けますね」


…ありがたい。

以前も書きましたが、ここ桐生市の黒保根地区にありますお寺さんはどちらも、突然参拝に訪れた者を笑顔でお迎えくださいます。


鍵を開けていただき御本堂内へ。
一歩足を踏み入れた瞬間、見事な彫刻がズラリ!

まずはご本尊さまへ。
「奥へどうぞ」

ありがたいことです。


こちらのご本尊さまは千手観音さま。
金色の大きなそれはそれは美しい御像であります。
その彫りの一つ一つの細やかなことといったら♡


これでもか、というくらいの数の欄間についつい目を奪われがちになりましょうが、私はこのご本尊さまにまたまた心を鷲掴みにされました。

ずっと座っていたいくらいに。
本当に胸がキュッとなりました。

ご住職さまはなにもおっしゃいませんでしたが、こちらのご本尊さまも実は室町時代の作とのことです。


いつの時代の作品であるとか、どんな仏師の作品だとか、そういったことには一切興味を持たれることなく、ただただ生まれた時からこのお寺を、そしてご自分をお守りくださっている大切な大切なご本尊さま、御仏のお像という認識でしかないのでありましょう。




No.289

醫光寺さんの彫刻欄間は、厚肉の透かし彫りで両面図柄が施されており、中国の『二十四孝(にじゅうしこう)』の物語を中心に故事を題材にした彫物であります。
極彩色を施し、それがほとんど褪せることなく原色が保たれているのです。
それといいますのも、同じく桐生市黒保根地区にあります『常鑑寺』さんのご住職さまがおっしゃっておられましたが、神社の彫刻は建物の外に施されているためどうしても劣化が早いですが、お寺さんのそれはお堂の中であるため、日にも当たらず、風雨にさらされることもないため、劣化が大変ゆるやかなのでありましょう。

その常鑑寺さんのレスでも書かせていただきましたが、この欄間彫刻の彫物師は、地元上田沢出身で、数多くの社寺彫刻を手がけ、当時上州の左甚五郎と称された稀代の彫物師【関口文治郎有信】と伝えられているのです。
ただやはりこちらも誰が作った、といった記述のあるものが一切なく。
作風や生まれ育った地、というこの黒保根という土地との深い繋がりからおそらく間違いなく関口文治郎の作品であろう、としか言いようが無いのが現実ではあります。
ただ、この寺の欄間彫刻に使われた木材は文治郎の父が醵出したものであるということは記録にあるようです。


ところで。
よく神社仏閣の彫刻の題材として使われる【二十四孝】は、
中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物であります。
元代郭居敬が編纂した。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目としました。
中には、四字熟語や、関連する物品の名前として一般化した物もあります。
それが日本に伝来し、神社仏閣等の建築物に人物図などとして描かれているのです。
また、二十四孝は御伽草子や寺子屋の教材にも採られています。
孝行譚自体は数多く、ここに採られたものだけが賞されたわけでは決してありません。

神社は教育の場として使われ、お寺はまさに寺子屋として使われたため、儒教という異教ではありますが、孝行を教える題材としてはまさに最適なこの二十四孝が、建物にあって目を引く〝彫刻〟のテーマとして選ばれることが多かったようです。

No.290

この流れからいって、普通なら二十四孝の彫刻へと話を進めるのが普通の人であろうとは思うのです。
とは思うのですが。

私の目をとらえて離さない、彫刻は御内陣前の欄間の左側にあるもの、でありました。

どう見ても悪鬼のようなモノが描かれているのです。

片手で充分なくらいしか、ひと目見て「ああ、これは何を題材とした図」と、わかるものの少ない私です、当然ですがここに掲げられた彫刻が二十四孝であるのか無いのかすらわかってはいませんでした。

ですが、よりにもよって御内陣を、さらにいえばご本尊さまをお護りするような位置に掲げている彫刻として、〝悪鬼〟?
わざわざここに?
それは悪鬼が護るなら、それよりも弱い悪きモノからは守護するに値しましょうが、改心していたとしてもわざわざ悪鬼にまもらせましょうか?

うーん、これは…。



…エックスキューズミーだ!

「ご住職さま、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「あの(指を指しては失礼なので手のひらを斜めにそちらの方向へ向けてみました)、正面から向かって左側にある彫刻には鬼のように見える者が彫られていますが、あれはどういったものになるのですか?」

ご住職さまいわく、
「ああ、あれは羅刹です」

私「羅刹…」

「羅刹というのは鬼のような存在なのですが、実はこれは経文の一節から取られた題材を描いたもので。
この羅刹の斜め上のところに子どもが合掌して立っていますよね」

私「はい、それがまたなんとも不思議に思われて、どうしてもお聞きしたいと思ったのです」

「あの子どもはお釈迦さまの前世のお姿なのです。
そして羅刹も実は帝釈天という仏教で説かれている神さまのお一人が羅刹に姿を変えられているお姿なのです」

No.291

あの童子は、衆生を救うための法を求めて、さまざまな難行苦行を続けていました。
その修行の姿を、天上から、じっと帝釈天が見ていたというわけで。

昔から、インドでは、悟りを開こうとする求道者は数多くいましたが、固い意志で、難行苦行に最後まで耐え抜き、悟りに至る人は、ほとんどいません。

帝釈天は、童子もまた、そのような意志の弱い修行者の一人ではないかと思ったのです。
そして、童子の苦行が本物かどうか、試してみようと、帝釈天は恐ろしい形相の羅刹に姿を変えました。羅刹というのは、インドの食人鬼です。

羅刹の姿となって、天上から雪山まで降りてきた帝釈天は、雪山童子の近くまで来ると、過去の仏が説いた教えを詩句にして、その前半を、声高らかに唱えました。

『諸行無常(作られたものは、すべて無常である)』

『是生滅法(これは生じては滅することを本性とする)』

これを聞いた童子は、これこそが長い間求めてきた真理の言葉だ、どうしてもこの後の句も聞きたいと思ったのです。

けれども、そこにいたのは、恐ろしい形相の羅刹だけ。
よもや、とは思ったが、雪山童子は、声のした方向にいる羅刹に尋ねてみました。

「今の言葉は、過去、現在、未来の三世にわたる仏の教えで、真理の言葉です。この続きがあるはずですが、ご存知でしたら、是非、教えてください」

羅刹は答えます。

「私は幾日も食べ物が手に入らず、飢えている。お前の体を食べさせてくれるというのなら、教えてやってもよい」

童子は静かに答えました。

「分かりました。残りの言葉を聞くことが出来たら、私の体は貴方に差し上げましょう。
悟りの道を求めるために、この体は捨てることに致します」

それを聞いた羅刹は、童子の固い決意に迷いがないのを見届けると、やがて、ゆっくりと、後半のことばを唱えました。
羅刹の口からとは、思えないほどの美しい声で。

『生滅滅己』

『寂滅為楽』

こう説いてから、羅刹は約束通り童子の体をくれるように、と詰め寄ります。



【施身問(せしんもん)偈(げ)】という図になるのだといいます。

羅刹に化けた帝釈天が【雪山偈】の前半部分「諸行無常、是生滅法」を唱えると、それを聞いた雪山童子(せっせんどうじ)は偈の後半部分を是非聞きたいと、空腹の羅刹に自らの身を与えることを約束しそれを聞く、という場面です。

No.292

雪山(せっせん)童子は、覚悟の上のことでありましたから、体を捨てることには何の躊躇もありません。

ただ、後世の人々のために、この言葉は残さなければならないと考えて、周りの岩や木に、その言葉を書き留めたといいます。

その上で、近くの高い木に登り、一気に地上へと身を投げたのです。



描かれたのはまさにこの、身を投じる直前、合掌されたお姿でありましょう。


しかしながら。
雪山童子が身を投じた瞬間、童子の体がまだ地上に着かないうちに、羅刹は、さっと帝釈天の姿に戻り、空中で、雪山童子の体を受け止めたといいます。

そして、恭しく地上に降ろし、雪山童子にひれ伏して礼拝したといいます。


この雪山童子こそが、実は、お釈迦様の前世の姿であるというのはもう納得でしかありません。
というか、何故その後もまた転生してあのような過酷な修行を積まねばならなかったのか。
なんなら雪山童子のままに修行させて悟りを啓く、というのではだめだったのでしょうかね。


この雪山童子が羅刹から聞いた真実の言葉は、雪山にちなんで、仏教では、「雪山偈」(せっせんげ)と呼んでいるといい、偈というのは、仏の教えや、徳を称えたりする時の言葉を、詩句の形であらわしたものであります。


この話は、日本文学の中にも取り入れられ、さらに、それが、戦前の小学国語読本でも、六年生用の巻十二に「修行者と羅刹」という、タイトルで取り上げられてきたといいます。

うーん?
そういわれると聞いたことあったような、なかったような気がしてまいります。

あ、もちろん戦前生まれではありませんが、ね。

もうこの彫刻だけで胸がいっぱいです。(胸ではなくてキャパ?)


いやいやまだまだ、たくさんの欄間彫刻が。

…そしてもう一つ。
あの、来る途中に見た『虚空蔵菩薩像』のこともぜひお聞きしたいことでございます。

No.293

醫光寺さんは赤城山の東部に位置し、赤城山小沼の東にもあたります。

【赤城山】は、すぐれた山容で上州のシンボル的存在であり、それだけに昔から信仰の山として精神的にも重きをなしていました。

かの『上毛かるた』には『す 裾野は長し赤城山』と読まれています。

話が長くなりますので簡単に述べたいと思いますが、赤城山には前述通り赤城信仰があり、
大沼には赤城大明神が祀られその本地仏は『千手観音』さま。
小沼には小沼大明神が祀られ本地仏は『虚空蔵菩薩』さま。
覚満渕には覚満大明神が祀られその本地仏は『地蔵菩薩』さまであるとされています。

そんな赤城山の小沼の東に位置する醫光寺さんには、高さ二十センチメートルほどの銅製の虚空蔵菩薩像が伝えられているのだといいます。
これがあの道案内板にあった虚空蔵菩薩さまであります。

こちらの御像はもともとは赤城山の山頂小沼の東、小地蔵岳の堂宇内に安置されていたといいます。

しかぁし!
あの、明治のはじめに出された悪令により、御像を壊されてしまったり、あるいは盗まれてしまうことを恐れ、また安置されていた堂宇の荒廃もあり、このお像を背負いおろして、医光寺に納められた。といいます。

「こちらへ来る途中にあった、案内板にあった虚空蔵菩薩さまの御像はこの近くに安置されておられるのでしょうか?」
とお尋ね申し上げますと、
「ああ」
と一言おっしゃって、
「どうぞ」
と、御内陣の左隣にある垂れ幕の内へとご案内くださいます。

「えっいいんですか?」

ビビりな私はびっくりです。
一つはそんな大切な空間に一参拝客をお入れくださるということに。
もう一つはおそらくは寺宝でありましょうそんな貴重なものを、いとも簡単にお見せ下さることに。


その『虚空蔵菩薩』さまは。
小さな厨子の中に安置されておられました。
厨子の扉も閉ざされておりましたのに、スッと開けてくださるのでありました。
(えっ、…いいんですか?)
もはや言葉も出ません。



おおっ!!


No.294

…なんと美しくて、そして全身からその智慧がみなぎるようなお姿でありましょう。
こちらの虚空蔵菩薩さまは左手に如意宝珠はお持ちなものの、右手は印を結んでおられるかにみえます。

頭には宝冠。
蓮華座の上で結跏趺坐をとられています。
この蓮華座、見事な花弁となっていて、銅で作られたものであるようですので、さぞ優れた技術ある方が造られたものではないかと思いました。
衣の流れるさまも大変美しいものであります。

そしてなにより。
凛としたシャープなお顔つき。見透かされるような両の眼。
…お美しい。

実にお美しい虚空蔵菩薩さまであります。

見ているだけで賢くなれそうな気までする虚空蔵菩薩像でありました。

虚空蔵菩薩さまの御像は剣をお持ちのことが比較的多いのですが、こちらの虚空蔵菩薩さまは、剣を持たずしても全身が研ぎ澄まされた鋭さがみなぎっておられです。


造立は永禄元(1558)年で、総高は36センチ、厨子からお出になられると背一面に銘文が陰刻されているといいます。

在銘の仏像が希少な時代において貴重であるとともに、銘文により虚空蔵が赤城山小沼神の本地仏であることも明らかで、神仏習合時の典型的な遺物として「神道集」などの伝承を如実に証明しているものといいます。


明治の初頭にこの御像の損壊や紛失を憂いて、背負って醫光寺さんへと納めてくださった全ての方に感謝しかありません。

そのお姿にふれただけでは、稀代稀なる痴愚な私はそうそう簡単には賢くはなれませんでしたが、こうしてお会いできたのは、この御像を守ってきてくださった方々がおられるおかげでございます。

その方々にも感謝の意を込めて合掌し、ご住職さまに深く一礼し、その御前をあとにしました。


…いつの日にかまたお姿を拝することが叶いますように。

No.295

【施身問偈】の図の欄間の下を通って、再びたくさんの欄間彫刻に囲まれたとき、ご住職さまが振り向いて、
「あちらにもお釈迦さまのお姿が描かれた欄間彫刻があるのですが」
と、施身問偈の欄間と対になる、御内陣の右側の欄間彫刻を見ながらおっしゃいました。

なるほど、後光も眩しいお姿でお立ちになられているお姿です。
なにやら他にも人物が二人。
二人の人物はごく普通の昔の位ある人、といった姿をしています。
そこに光り輝くお釈迦さまが、なにやら親しげにも見えるくらいに近くお立ちになって、真ん中にある何かを囲んで三人で立つ、という構図です。
遠くから見ただけなので、よくは見えなかったのですが、なにやら橋の真ん中、池の真ん中でのことに見えました。

これは中央に甕を配し、お釈迦さま〔=仏教〕・孔子〔=儒教〕・老子〔=道教〕の三聖人が瓶に入った酢を舐めて、すっぱいと顔をしかめている様子を描いたものだとご住職さまが教えてくださいました。
【三聖吸酸】というものだそうです。

「宗教、教えが違っていても、酢がすっぱいという真理は一つだ、という「三教一致」を風刺した中国の故事からのものです。まぁ、お寺の御本堂にわざわざ飾るのもどうかとも思えますが、ね」

そう話しながらまるでいたずらっ子のようにニコッと笑って首をすくめたのが、なんともチャーミングなご住職さまでありました。


(醫光寺さんの【三聖吸酸】の
欄間彫刻) 
※一枚も写真に収めなかったのでお借りしました

No.296

【二十四孝】のいくつかを書いておきます。
これがその彫刻や画なりを見て、パッとソラで言えるになれたら…。


【王裒(おうほう)】
雷が鳴ると、生前、雷を怖がっていた母の墓に急いで行った、王裒という人物の話。

【郭巨(かっきょ) 】
中国では子よりも親が大事。
食料が足らず、老母を養うために3歳の我が子を埋めに行ったところ、掘っていた地中から黄金の釜が出てきて一家助かった、という話。

【老萊子(ろうらいし)】
我が子がこんなに年をとったと、老いた両親が悲しまないよう、いつも子供のように振る舞い、これは舞を踊る図。

【楊香(ようきょう)】
父と山に行くと、虎に襲われてしまいました。
楊香が自分が食べられるように祈ると、虎は逃げていった、という話。

【大舜(たいじゅん)】
舜は大変孝行な人でした。
父は頑固者で、継母はひねくれ者、弟は奢った能無しでした。
三人は舜を何度も殺そうとしましたが、それでも父を尊敬し家族を愛しひたすら孝行を続けました。
そんな舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けてくれました。
舜の美徳の力は多くの人を動かし、一年で人が集まり、二年で町になり、三年で都市になったと言われています。時の天子、堯(ぎょう)は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ天子の座を舜に譲りました。舜は理を以って政を行い国を治め広く徳を示したため、人民は舜に従い世は平和であったそうです。後世ではその功績を称えられ、中国神話の五帝に列せられています。


【孟宗(もうそう)】
真冬に竹の子が食べたいという病気の母のため、雪を掘っていると、土の中から筍が出てきた、という話。

【漢文帝(かんのぶんてい)】
皇帝自ら老母の世話をしたという話。
親孝行だった文帝の世は豊かで、民衆も住みやすかったといいます。

【董永(とうえい)】
漢の時代、幼いときに母を失い、父を養うために、人の使い走りや、農作業を手伝って生計を立てていた菫永という人がいました。
その父が亡くなったとき、葬儀をするお金がないため、自分の身を売り葬儀を出しました。
この親孝行の話が、天女を感動させ、天女は地上に舞い降りて、董永と結婚して妻となります。
そして、董永の身代金を返すために、他家の手伝いをしたり一ヶ月の間に絹織物を六百反も織り上げて、董永の身柄を引き取った、という話。

No.297

(【二十四孝】の続き)

【姜詩(きょうし)】
いつも長い距離を歩いて母のために水と魚を手に入れていた姜詩という人物の家のそばに、ある日突然川が湧いた、という話。

【閔子騫(びんしけん)】
継母にいじめられ、閔子騫だけが寒い冬の日にも薄い服しか与えられなかいような日々を送っていました。
自分だけが寒さを我慢すればいいと言うと、継母はそれ以後かわいがってくれるようになった、という話。

【庾黔婁(ゆきんろう)】
病いに侵された父を救わんと、北極星に身代わりになることを祈り続けた人物の話。

【丁蘭(ていらん)】
死んだ母の木像を作って尽くした丁蘭という人物が、その像を焦がした妻に3年間詫びさせたところ、木像は元に戻った、という話。

【剡子(ぜんし)】
鹿の乳が眼の薬になると聞き、両親のために鹿の皮をまとって、群れに紛れ、鹿の乳をなんとか採ろうとした剡子という人物の話。


これは醫光寺さんの欄間彫刻に、タイトルが貼られていたものだけ調べてみたもの、となります。
なにぶんにもタイトルがないとその図がどういったものなのかすらがわからない者で。

ノートに全てそのタイトルを写してきたのですが、中国からのものなので、難しい漢字がほとんど。
後でわからない、読めないということがないよう、急ぎつつもできるだけ略さず、振り仮名込みで書き写してまいりました、…つもりだったのですがやはり一つ読めない…。

…リベンジ、ですかね。

再拝までしておきながら、御朱印のお授けもまだお受けしておりませんし、ね。


うーん、山道の細いカーブ、かぁ。

No.298

この日は二時から法要とのことで、
「まだまだゆっくりご覧になってくださって大丈夫ですよ」
とご住職さま。
しかし私どもが申し訳なくて、どうにも落ち着いていられない。

「またお参りさせていただきますので」
と申し上げて御本堂をあとにしようとしたそのとき、夫が
「山門からまっすぐ続く石段の先にある、高台のお堂はどんな仏さまがお祀りされているのですか?」
と。

「ああ、あちらへはお薬師さまがお祀りされているんですよ。もともとは山門をくぐったらまずまっすぐに石段をのぼって、まずお薬師さまをお参りしていたようです」

それもそのはずです。
こちら醫光寺さんは、平安時代初期の嵯峨天皇の弘仁十一年(820年)弘法大師が東国遊化の折に薬師仏を刻み開創したと伝えられている由緒あるお寺さんです。
霊験あらたかな薬師如来の御手から丸薬が湧き出し、病む人々を救ったというお大師さんにかかわる伝説から、寺の山号もこの地区の呼び名も【涌丸】とされているくらいです。

室町時代後期(戦国時代)の永禄六(1563)年、火災のため、堂宇、古記録等悉く焼失してしまった折にも、まず江戸時代中期の正徳五(1715)年に現在の薬師堂を建て、その後延享四(1747)年に現在の本堂を再建したくらいであります。

奥の院ともよばれる薬師堂には秘仏であります『涌丸薬師(木彫座像、伝弘法大師作)』が安置されているのだといいます。
往古から無病息災、特に眼病治癒に効験ありとして篤い信仰を受けてきたといいます。

醫光寺さんの正式な名称は
【湧丸山 瑠璃院 醫光寺】。

全てが薬師如来さまに由来しているくらいであります。


前回の参拝の際は、こちらの欄間彫刻を見にこられた方とご一緒になり、二十四孝のお話をお聞きいたしました。

今回は私どもだけでしたのでいろいろご質問させていただき、それに応えてくださったため、いろいろ新たに知ることができました。
これが御朱印をお願いしていたら、ご住職さまはそれにお時間を割くこととなり、こんなにお話を伺うことはできなかったことでしょう。

御朱印をお授けいただくことでお話しさせていただくきっかけを作っておりましたが、こういったこともあるのだなぁと、しみじみ思ったものであります。



No.300

醫光寺さんの魅力にとりつかれてしまった私は、明日醫光寺さんへ向かう気満々であります。

とりあえず、お電話差し上げて。

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