神社仏閣珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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備後国風土記に牛頭天王にまつわる話として有名なものが書かれています。
武塔神(むとうしん・むとうのかみ)(=牛頭天王・素戔嗚尊)がお忍びで旅に出た際、いかにも裕福な家に宿を請うたところ断られてしまいます。
それが〝巨旦将来〟という人物の家でありました。
しかし貧しい兄である〝蘇民将来〟は武塔神を丁重にもてなしました。
恩義を感じた武塔神は正体を明かし、今後災害や疫病が流行ることがあれば、蘇民将来の子孫であることを明らかにし腰に茅の輪をつけると災厄から逃れることができると伝えたという、茅の輪くぐりや疫病除けの祭の起源となった、あの、『蘇民将来』の話であります。
牛頭天王は素戔嗚尊さまと同一視されており、京都の祇園祭や岩手の蘇民祭が有名でありますが、いずれも疫病除けの祭であります。
疫病などの災厄は人間を超えた存在によってもたらされるととらえられてきました。
如何ともしがたい絶望的な状況に置かれても、それを耐え忍び、未来に向けて、希望の光に向かって一歩一歩進んできた…それが長い歴史の中人類が歩んできた道でありました。
今、コロナ禍と呼ばれる時代となって、社会の歪みが表面化し、ニンゲンの汚い部分が表出している時代となっています。
困難ゆえのあきらめも出ているのが現実で。
これこそが本当の〝禍〟なのではないかと常々思うのでありました。
『禍福は糾える縄の如し』
『禍も三年経てば用に立つ』
【禍転じて福と為す』
などという慣用句があります。
ことに若い世代の方には困難ゆえのあきらめの心に負けずしたたかに耐え忍び、やがて来る春を楽しんで過ごして欲しいと、切に思うおばさんでありました。
「いくつになっても子どもは子ども」
いくつになっても親は子どものことを心配するのだと…思うのであります。
それが私はちょっと強い、いつまで経っても子離れできていない母親な気がいたします。
そんなお母さんが増えているともネットで読んだりもいたしますが、さすがにいつまでもこれでは良くないと思う思いもあり、どうにかせねばと思ったり。
そんなことを思いながら、ふとある神さまが頭に浮かび、それがどんどん心の中で大きく大きくなってまいりました。
その神さまのお名前は…。
【鬼子母神】さま。
鬼子母神さまは仏教の守護神で、子授けや安産、子育ての神として知られています。
しかしながら鬼子母神さま、元々は人間の子を食べるという鬼でありました。お釈迦様に諭されて改心し、仏法の守護神となったという経緯のある神さまであります。
鬼子母神さまは、もともとは古代インド神話に登場する悪鬼で、元の名は可梨帝母(ハーリーティ)といいます。
王舎城(おうしゃじょう)の夜叉(やしゃ)神の娘で、八大夜叉大将の一人である散支夜叉(パンチカ)の妻でありました。
夜叉といえば、鬼神の総称。阿修羅と言われることもある他、金剛力士の元の姿であったということをも合わせて鑑みれば、とても恐ろしい存在であったことが想像できましょう。
この可梨帝母がパンチカと結婚した後、五百人とも千人ともいわれるほど多くの子供を産んだといいます。
そして、当然ながらこれだけの子供を自らのお乳で育てるとなると、想像を絶するほどの栄養が必要であります。
そのためかどうか、可梨帝母は多くの人、それも子供をを殺して食べたという、悪鬼の権現のような存在で人々から恐れられていました。
これを危惧されたのがお釈迦さまでありました。
お釈迦さまは彼女の末子である嬪加羅(ピンガラ)を托鉢に使う鉢の中に隠してしまわれます。
大切な大切なわが子の姿が忽然と消えて、七日間にわたって世界中を半狂乱になって探し回るも見つからず、放心する可梨帝母を見て、頃合い良しとばかりに、お釈迦さまが優しく語りかけたといいます。
「多くの子を持ちながらも、ただ一人の子を失うだけで嘆き悲しむお前、子を失う親の苦しみをわかったであろう」
涙ながらに頷き、可梨帝母は自らの罪を悔い、三法に帰依したことで、隠されていた子も無事元に戻った…というお話であります。
そして、人肉を食べないことを約束する代わりとして差し出されたのが吉祥果(ザクロの実)であったことから、吉祥果を手にする姿が描かれるようになったともいわれています。
鬼子母神は、自分の欲望や執着を捨てて、真の愛に目覚めた女神となり、さらに、子供と安産の守り神として、多くの人々から信仰されるようになりました。
この神は日本にも伝わり、法華経の守護神として日蓮宗や法華宗の寺院で祀られることが多くなりました。
日蓮宗では、鬼子母神は十羅刹女と共に法華信仰者を守り、法華経の普及を妨げる者を罰することを誓っているとされています。
名前も鬼子母神と改め、仏教の守護神に転じました。
以降、大乗仏教の初期に成立したとされる法華経の信者の擁護や、
布教を妨げる者を処罰する役割を、
十柱の鬼神である『十羅刹女(じゅうらせつにょ)』とともに与えられたといいます。
鬼子母神さまを信仰する者、全ての人間がもれなく救済されると言いながらも、信じる者には優しいが、そうでないものには制裁を加えるという、恐ろしい神さまでもあるのです。
お釈迦さまが彼女の最も愛する末子を隠すという策を用いて、彼女に人間の親の苦しみを理解させました。
これによりは改心し、釈迦さまの教えを受け入れ、仏法の守護神となりました。
鬼子母神さまは、自分の欲望や執着を捨てて、真の愛に目覚めた女神となったのです。
煩悩の塊である私。
そんな私がそう簡単に欲望や執着を捨てられるともあまり思えていないのですが、心から悔い改めれば欲望や執着を捨てることができるのだ、という希望はありがたいものであります。
心から悔い改めれば、人を喰らっていた鬼ですら、対極にある立場の神になる。
残りの人生、いくらでもやり直しがきくのだと思えるではないですか。
鬼子母神さまはそんな希望でもあり、
わが子のことを溺愛していた女性も、わが子から離れて修行をし神となったことも私のひとすじの希望であります。
そんな子沢山である鬼子母神さま。
鬼子母神さまのお子さんの中には【吉祥天】さまがおられます。
あの【毘沙門天】さまの奥さまとなられた女神さまであります。
また、お釈迦さまによりその身を隠された末のお子さんは【氷掲羅天】さまといわれるお方で、優しげな鬼子母神さまの御像の腕に抱かれているのがこの氷掲羅天童子さまであります。
吉祥天さまとは、姉と弟の関係になります。
氷掲羅天さまはよその子供を浚ってきては食べていた母、鬼子母神の罪を償うため、救いを求めてくる人には、限りないご利益を与えてくれるといわれている御仏…神となられました。
氷掲羅天童子さまの像は全国でも大変数が少ないといわれ、その貴重な一体が栃木県足利市の大岩山毘沙門天さまにおられます。
優しげな、女の方にしか見えないような美しいお顔をされた氷掲羅天さまの御像であります。
右手に柘榴の実をお持ちになられていることでも珍しい御像です。
それにしても。
いつもこの話題になりますと、なんともいえない切ない気持ちになります。
なんの罪もない、鬼子母神の子であるというだけで、その罪を一身に受けて、一生かけて母の罪を償うということに。
私は氷掲羅天童子さまを思うたび、氷掲羅天童子さまの心が救われますよう祈ってしまいます。
氷掲羅天童子さまは、仏教においての神さまであるといいますのに。
母は、親というものは、子に誇られるような者ではなくとも、決してその罪を償うような立場にしてはならないという、身の引き締まるような教えがそこにあります。
『恐れ入谷の鬼子母神』
という言葉を聞いたことがあるという方も、今はもう少なくなっていますでしょうか。
わが家の子どもたちに聞いても〝知らない〟と言われそうです。
私とて知っているというだけで、使ったことはもちろんありませんし、実際このフレーズを口にされるのを直接は聞いたことがないくらいです。
そもそもがこの言い回しを使う機会があろうとも思えず、ただ耳に残っていただけですので、この言葉自体にあまり関心が無く、文字で表すと〝入谷〟となることなどもそういった文を読んで初めて知ることとなったくらい、非日常の言葉ではあります。
こういった節回しを持つ駄洒落(だじゃれ)を地口(じぐち)というのだといいます。
落語で話の終わりを駄洒落で締めるのを『地口落ち』というのだとか。
この『恐れ入谷の鬼子母神』の場合、「恐れ入りました」の「入る」を東京台東区の『入谷』に掛け、『入谷』にある【真源寺】さんの『鬼子母神』に掛けた洒落言葉、地口であります。
これに似た節回しの言葉で思い出すものが『あたり前田のクラッカー』。
直接テレビCMを観た記憶はありませんが、これは実際に使っているシーンを見たことが幾度となくあり、先日も某テレビ番組で、実際の商品を紹介し、この言葉を取りあげていました。
閑話休題。
関東には特に有名な鬼子母神を祀るお寺さんが三つあり、これらは【江戸三大鬼子母神】と呼ばれ、多くの人々が参拝に訪れるといいます。
その一つが東京台東区の入谷にある『真源寺』さんの鬼子母神さまであり、
東京豊島区雑司ヶ谷の『法名寺』さんの境外堂の鬼子母神さま、
千葉下総中山の『法華経寺』の鬼子母神さまとなります。
…おや?
江戸といいながら、その一つは千葉なんだ。
と思いましたら、江戸時代には本所(現 梅里)本佛寺さんであったとか。
いずれにしても、私、このどちらにも参拝したことがございませんが…。
ただこのどちらのお寺さんも法華経であったり、日蓮宗であったりと、鬼子母神さまと関わりのあるお寺さんであるのだなぁと思いました。
私が群馬県で鬼子母神さまをお祀りしているお寺さんを思い浮かべてみたところ、そこは臨済宗の建長寺派のお寺さんでありましたので。
まぁ、迂闊な私のこと、他にもたくさんお祀りされておられるお寺さんがあったのかもしれません。
初めて拝見した鬼子母神さまの像は、鬼の頃の御像。
その後は女神の御像を拝することがほとんどでありました。
通常は幼子を抱く女神の姿で表現されることが多いといいます。
これは、改心され三法に帰依し、法華経の守護神となり、さらには母性と子供の保護という役割によりこのお姿をとられることが多いということなのだと思います。
しかしながら初めて拝見したときの鬼形のインパクトが強かったこともあり、なんとなく女神のお姿をされた鬼子母神像に違和感を覚えることは否めません。
鬼子母神さまの具体的な信仰形態や表現は、地域や宗派によって異なることがあるといいます。
それゆえ、同じ鬼子母神さまでも、地域や寺院によっては、さまざまな形やイメージで表現されることがあるようです。
一般的には、女神形か、鬼形の表現であるといいます。
改心される前であっても鬼子母神さまの我が子に対する愛情は深いものであり、優しく幼子を胸に抱く姿の鬼子母神さまの御像であっても、そこはそのままのお姿であるのかもしれません。
一方、鬼形、鬼の姿であられたとしてもそれは法華信仰者を守り、法華経の普及を妨げる者を罰するということから考えれば、恐いお姿であってもよいのかもしれません。
そして、大切なわが子を守ってくださる御仏、鬼子母神さまのお姿が恐いものであっても、そこは悪しき者から全力で守ってくださるにはその方が迫力があって、そういった意味では安心してお任せできる、…という考え方もありましょう。
私はまだ参拝をさせていただいたことはないのですが、群馬県のある地域には、七歳になるまで鬼子母神さまに子どもを預ける、という信仰があるといいます。
そのお寺さんをまだ一度も訪れていないため、どういった風習で、どのように行われるものなのかはわからないのですが…。
そのお寺さんは鬼子母神信仰が大変盛んなようで、鬼子母神さまの大祭には大勢の参拝者が訪れるといいます。
うーん。
…もうすでに子育ては終わったおばさんではありますが、…できたらこの大祭の日にこちらのお寺さんに参拝させていただきたいなぁ。
鬼形のお姿をネットで調べておりましたところ、リアルな毛髪のある鬼子母神さまの御像があるようです。
お写真で拝見してもかなり怖く思えた私。
お堂の覗きというあまりお行儀の良くない癖のあるおばさんであります私、なにも知らずに薄暗いお堂の中
、この鬼子母神さまの御像を拝見したりしたら…。
考えただけでも背筋がぞぉっとし、思わず身震いいたします。
とりあえず、このリアル毛髪の鬼子母神さまのおられますお寺さんはしかと記憶いたしましたので、この鬼子母神像のあるお寺さんを訪れる機会を得ましたら、とりあえず…とりあえず、…どうしよう。
拝見したいような、やめておきたいような。
うーん。
とりあえず、夫にも教えておこう。
なにも知らずに覗いて夫が腰を抜かしても困るし、…私が忘れてしまっていたら教えてもらえるし。
困るのは…。
二人ともすっかり忘れてお堂を覗くこと、だなぁ。
追記)
まだまだ暑い今日、いつもいつものわけのわからない文章がありましたため、とりあえず気づいたところだけ直して一レス削除しております。
一度お目汚しをされてしまわれた方には誠に申し訳なく、お詫び申し上げます。
ほんとーうに、本当にいつもいつも誤字脱字、誤表記、誤表現、等々ばかりで申し訳ありません。
(咲き始めた萩の花)
今日も午前中から三十℃超え。
そんな中、生垣の刈り込みをしていると、前を通りかかる方々からお声がけをいただきます。
「暑い中えらいねぇ。自分ちだってえらいよぉ〜。
熱中症には気をつけてね」
「マメだよねぇ、いつもきれい」
「おっ、やってるね。…かぼちゃいる?今採ってきたんだけど、九個もあるから」
…等々。
八人もの方が足を止め、車を停めてお声をかけてくださいました。
ありがたいことです。
自分の家の生垣ですので、決して誰かのためにとかいう高尚な行いではないのですのに。
コロナ前は、こうして声をかけ合って、人と人がさりげないふれあいをしてきたものでありました。
そうそう、末娘の同級生の男の子も車で通りかかって深いお辞儀をしていきました。
嬉しいこと♡
本当に嬉しい。
今、コロナはエリスという新たな株で、大きな大きな広がりを見せているようです。
この暑さの中、インフルエンザも流行しているようで、あちこちの学校で、さまざまな年齢層で、学級閉鎖がなされているといいます。
感染は嫌です。
でも、この人と人との繋がりは、もう途切れさせたくはない。
コロナという病を知ったあの時から、毎日毎日お薬師様のご真言をお唱えして、コロナの終息を祈願しております。
今日も、仏壇もどきに向かってお唱えした私であります。
先日、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座されます【大宮氷川神社】さんへ再拝させていただきました。
この日は日曜日とはいえ、前回の初めての参拝のときのようにお正月の献詠祭にあたる十五日といった特別な日でもなく、また、祭儀の執り行われる日でもないため、行きたい方向へ向かうこともままならないようなことはなく、何よりスムーズに神社さんの駐車場に駐車することもできました。
とはいえ、広大な境内は約三万坪、一の鳥居からは約二キロあるという氷川神社さん。
さすがに一の鳥居をくぐって、…というわけにもいかず、車を停めた駐車場からほど近い三の鳥居からの参拝となりました。
明治天皇と氷川神社御親祭の長い長い年表が立て看板となっています。
三の鳥居をくぐると。
ひだりに戦艦武蔵の碑があります。
戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦であり、こちらの氷川神社さんは武蔵国一之宮。
船にはなぜか山の名前、…なのか神社さんの名前なのか…が使われています。
昭和十七年に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社さんより六名の神職が出向し、式が厳しく執り行われたのだといいます。
艦内神社には『氷川神社』さんが分祀され【武蔵神社】と命名されています。
昭和十九年「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指しました。
武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に受けて、十一月シブヤン海に没したといいます。
同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名が戦死、生存者1329名もマニラ防衛戦等に投入され最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われています。
この碑は戦艦武蔵で亡くなられた方々の鎮魂慰霊の意味があるといいます。
大きなさざれ石があります。
右側には向かって額殿・神楽殿があります。
あれ?
たしか、楼門をくぐってすぐに舞殿もあったはず。
大きな神社さん神楽殿と舞殿は別物、のですね。
そして額殿の隣りには奉納酒樽が三段に積まれ飾られています。さらにはその奉納された埼玉県内の酒蔵の場所を示したマップまでも。
消毒用のアルコールと、料理酒以外のお酒を全て愛する夫がまじまじと眺めています。
そんなおのぼりさんたちがぽーっと歩いていると、おお、摂社・末社があちこちにございます。
その一社一社の大きなこと。
しかし、まずは拝殿・本殿へ。
…いつもそう自らを律して真っ直ぐ拝殿へと向かうのですが、この日、どうしても心惹かれる摂社がありました。
それは奉納酒樽の並びにある、赤い鳥居と赤いお社でありました。
赤いから目を引いたのではありません。
なぜなら小道を挟んではいるもののその並びにも赤いお社があるからです。
気になって気になって、なかなか歩が進められません。
ならば。
ならばいっそ、そのお社の前に立とう。
立ってまずは拝殿・本殿にお参りしてくる旨お伝えして、参拝せず前を通ることをお詫び申し上げよう。
その気になってしかたなかったお社とは…。
『天津神社 少彦名命』さんと書かれています。
…少彦名命さまであられましたか。
なるほど気になってしかたないはずです。
私が子どもの時分から好きな神さまにございます。
心のうちで
「いつもお守りくださりありがとうございます。これよりまず拝殿へとお参りさせていただきます。お参りせず御前を通りますことお許しください」
と申し上げると、すっと心が軽くなり、天津神社さんの前を通ら先へと進むことができました。
あ、れ…?
あれぇ?
『少彦名命さま』ぁ?
たしか…。
たしか拝殿・本殿のある境内を向かって左手にあります門を抜けますと、やはり少彦名命さまをお祀りしたお社があったはず…。
同じ神社さんの境内内に比較的大きめな摂社末社さんとして同じ神さまをお祀りすることがあるんだぁ。があるんだぁ…。
さあ、いよいよ。
…いよいよ前回渡ることが叶わなかった神橋です。
鳥居をくぐることも、目の前に見える神橋に人の波に隔てられて、手を伸ばせば届きそうな距離とも思える距離なのに到達することも叶わなかった一月献詠祭の日。
あの日のを思うと感慨もひとしおです。赤い橋の上には澄んだ青い空が広がっています。
美しい朱色の橋の下に広がるのは『神池』。
ここにはなんと龍神さまが棲んでおられると言われているのです。
昔、氷川神社周辺は『見沼』という巨大な沼でした。
もともと氷川神社は、見沼の水神さまをお祀りしていたという説があります。
神池はその見沼の一部。
見沼には多くの龍伝説が残っているといいます。
龍神さまはいずこかに…、そう思って見た水面には青い空と白い雲、神社境内の木々の葉か映っていました。
こんな小さな沼だというのに。
龍神さまは水に住みながらにして、雲のまに間を渡っておられるのだなぁ。
そんな思いに浸りながら、初参拝の際に渡れなかった分を取り戻すようにゆっくりと歩いて…。
あの日その大きさに驚いた朱色の楼門が近くに見えてまいりました。
ああ、やっぱり大きな、そしてなんと美しい。
朱色によく合う緑がかった大きな瓦屋根が葺かれています。
青い空がなんと似合うこと♡
あの日は全体像を見ることも叶わなかったくらい、人、人、人の波、だったなぁ。
今日は手水舎も水を使うことができます。
いざ。
「こんなに広かったんだね」
と夫。
えっ?
こんなに狭かったんだと思った私。
人があんなにいたものだから、もっともっと広いと思っていましたが、楼門から真っ直ぐの舞殿、そして拝殿との距離って、こんなに近いものだったんだ。
そして、なんと心地よい空間でありましょう。そしてなにより、知らず知らずに襟を正すような、お力を感じる拝殿前、でありました。
この日は、一月の参拝の折には御朱印をお授けいただいてもいただけなかった神社さんの〝略記〟のほか、社報もいただくことができました。
その社報のなかに、興味深い記事がありました。
それは関東大震災の折の氷川神社さんの被害状況でありました。
関東大震災からちょうど百年ということで取り扱われた記事でありましょう。
『当社においては、石造の明神鳥居であった一の鳥居が損壊したため撤去、また手水舎が倒壊、神橋が破損するなどの被害がありました。
参道入り口は十年ほど鳥居がありませんでしたが、昭和九年に三の鳥居が奉納された事から、それまで三の鳥居であった鳥居を移築し一の鳥居としました。
尚、この時の一の鳥居は老朽化が進んだため、昭和三十年に新しく建て替えられました。
神橋は全体が大きく歪み、橋と石垣の間にできた隙間に応急処置を施しました。
現在の神橋は昭和初期に架けられたものです。』
(氷川神社社報 武蔵一宮 より)
うーん、やっぱり次に来るときは、一の鳥居から、だな。
そこから二キロ、往復四キロ以上。
ウォーキング、始めようかしら。
埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社さんは、北海道から鹿児島まで約二百八十社ある『氷川神社』の総本社であります。
『荒川』の流域に多く御鎮座されているといいます。
第五代孝昭天皇の御代の創建と伝えられ、それは今から二千四百有余年となるといいます。
无邪志国造(むざしのくにのみやつこ)が祖神を祀って氏神としこちらを奉崇したのが始まりとされていますが、氷川神社さんの略記には、
『上代のことを詳かにすることは出来ませんが』と書かれています。
しかしながら大宮を中心に埼玉県、東京、神奈川等に広がる氷川神社は民族的政治的に武蔵国造の子孫が著しい発展をしたことを物語ると考えられるとも述べてもおります。
御祭神は
須佐之男命さま
稲田姫命さま
大己貴命さま
須佐之男命さまとその奥さま、そのお子さまのお一人大己貴命さま、でございます。
島根県の斐伊神社もしくは杵築神社(出雲大社)から勧請されたと伝えられており、
大宮の地に須佐之男命をお祀りした理由に、このようなお話がありました。
大宮の一帯は川が多く何度も氾濫したため、何本もの川をヤマタノオロチに例え、それを退治した須佐之男命をお祀りしたのだそうです。
「荒ぶる川」と書く荒川は、過去に幾度となく氾濫を繰り返した記録があり、氷川神社が荒川流域に多く点在するのは、このような背景があったのですね。
ちなみに、『氷川神社』という社名は、出雲平野を流れる『斐伊川(ひいかわ)』が由来といいます。
氷川神社さんのホームページには御祭神 須佐之男命さまと稲田姫命さまの神話、【八岐大蛇退治】についても記されています。
『須佐之男命が出雲の国の簸の川の辺りにくると、娘が一人、年老いた両親と泣いていました。
娘の名前は稲田姫命。
親の名は大山祇命の子で、足摩乳命、手摩乳命といいました。
そこで須佐之男命が理由を聞くと、この山奥に八俣の大蛇という頭が八つもある怪物が住み、一年に一度この里にでてきては、娘を一人ずつ食べるというのです。
そのため八人もいた娘も、今では稲田姫命だけになってしまいました。
話を聞いた須佐之男命は、大蛇を退治することにし、まず、家の周囲に垣根をつくり、そこに八つの入り口をつけ、入り口ごとに強い酒を入れた大きな甕を置きました。
しばらくすると辺りが急に暗くなり、不気味な物音とともに、大蛇がやってきました。
それはそれは恐ろしい姿で、八つの頭にはギラギラと真っ赤な眼が気味悪く光っていました。
大蛇は甕をみるや、ガブガブと勢いよく酒を飲みはじめました。須佐之男命は大蛇にそっと忍びよると、次々と切り倒して見事退治しました。最後にシッポを切ったとき、りっぱな剣がでてきました。
須佐之男命は大蛇のシッポから出てきた剣を天照大御神さまに奉り、その後長く稲田姫命とこの地で暮らしました』
そう、あの八岐大蛇の退治により結ばれた神さま方であります。
拝殿・本殿のある境内の東門を出てすぐにあります摂社『門客人神社』には稲田姫命の御親神である『足摩乳命』さまと『手摩乳命』さまがお祀りされています。
漫画家の土田よしこさんが十五日に死去されたことをSNSを通じて知りました。
わが家の子どもは、少なくとも土田よしこさんの絵だけは見たことがあります、あるはず、です。
なぜならば、本棚の結構目立つところに、彼女の作品の一つ、【東海道中膝栗毛】が並べられていたから、です。
そもそもが私、子どものころ、東海道中膝栗毛が大好きで、駄々をこね、父や祖父母とねだる先を変え、手を変えて、なんとか買ってもらった、初めてのマイブックだったくらいでありました。
私が子育てする頃には、こういった書が子ども向けとして発売されることが激減した頃で、ぜひ読んでほしい、読ませたいと思っていたところ、この作品と出会ったのでありました。
とは申せ、私が彼女の作品と出会ったのは小学生の頃。
姉の買っていた週刊少女まんがで、異色な画風、異色な内容として私の目を引き、いつしかその作品の主人公、ヒロインに惹かれてしまった私でありました。
型破りでしかないヒロインが『つる姫』さま。
そのタイトルはその名も【つるひめじゃ〜っ!】
ハゲマス城のお姫さま、つる姫さまは寺子屋小学校の5年生でありました。
小さい時に母を亡くされ、時々寂しい思いをしていました。
幼い時はかなり内気な性格だったが、幼い時の高熱の治療がもとで、姫君でありながらな、なんとも見事な『カッパ禿』になってしまい、性格も激変してしまいます。
繰り返しますが元は内気な、可愛らしい姫君であったのです。
ブスで(えっ?)、不潔で、ずうずうしく、周りに迷惑ばかりかけている、それがつる姫さまでありました。
いつも着ている着物は、井桁模様の寺子屋のテストはいつも0点ばかり。彼女の手料理を食べた者は下痢をしたし、裁縫をすると布は全て雑巾になるというなんとも破天荒な姫君でありますが、そもそもが、姫君であればさようなことはご自分でなさることもないはず、なので、まぁ別によいのでは?
城の誰かによくたかる。
夏休みの宿題は大抵終わっていない。
どこをどうとっても良い子ではない姫さまでありました。
そんな姫君、つる姫さまではありましたが、足袋を作って家老にプレゼントをしたり、家老の悪口を言った乳母(…だったかな?)のイネに意見したりする等、ほろっとする優しさを垣間見る、そんな大好きな作品の一つでありました。
高校生になってすぐにアルバイトをし、その何回目かのバイト料で(一回目は家族一人一人にプレゼントをして終わってしまいました)【つる姫じゃ〜っ!】を買ったくらいに、好きでした。
(高校を卒業して大部屋である学生寮に入った際に、母の手により処分されてしまいましたが…涙)
そんな土田よしこ先生の、さらには大好きな東海道中膝栗毛という作品に、私が飛びつかないわけがありません。
今でこそ本棚の目立つところからは外れはしましたが、すぐ手に取れるところにあることは変わりません。
その訃報にふれたとき、絶句いたしました。
つる姫じゃ〜っ!の当時は、自分が小学生の低学年であったこともあり、子どもがよく思いがちな、『すでに社会に出て作品を残したり、テレビに出ている人は、大人、=自分よりかなりの年上、年配者である』という、誤った思い込みのせいで、かなり年上の方と思っておりましたが、まだまだお若い享年七十五歳であられたとか。
歳を重ねての作品もたくさんお書きになれたことかと、残念でありません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
埼玉県春日部市に御鎮座されます、【春日部八幡神社】さんに初めて参拝させていただきました。
春日部市と言ったら、…すみません、ご想像通り『クレヨンしんちゃん』しか思い浮かべられないようなおばさんです。
そんなおばさんでありますので、今回春日部の総鎮守【春日部八幡神社】さまにお詫びを申し上げに、…まぁそれが決してメインではありませんが…参拝させていただきました。
春日部八幡神社さんは、実は群馬県出身の武将『新田義貞』公とほんの少しだけ(ええ、本当にほんの少し、です。名前が出てくるか来ないかくらいの、ものであります。春日部市民の方がお読みになっておられたら、あるいはびっくりされるかもしれないくらいのご縁であります)縁のあるところであったようで、それを知って、群馬県のおばちゃんは俄然親近感を抱いたものでありました。
とはいえ、新田義貞公について詳しいかと言ったら、〝さっぱり〟でありまして、小学生の時分に行った修学旅行で訪れた鎌倉で、海岸を訪ね、ここに剣を投じた武将かいたという話しを聞いたものの、それが新田義貞公であったことを知ったのは、なんと子どもが生まれてからだったくらい。
子どもが例の『上毛かるた』を手にする頃となって、はじめて、
「♬七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎 名将の 剣投ぜし古戦場』
という歌に歌われる名将というのが、新田義貞公であったと知ったくらい、ぼーっと生きてきていた人間でありました。
…たぶんね、小学校の先生は教えておられたと思うんですよ。
ただ、今の子供達と違って、昔の修学旅行は全て受身。
資料も先生方が作り、下調べ学習も一切なしで、私の頭に入っていたのは、『持っていくもの、持って行ってはいけないもの、持っていくおやつの上限の金額』といったものでありましたし、修学旅行先の蘊蓄を語るような親でも、祖父でもなかったし。
海無し県群馬から修学旅行で砂浜に行った子どもが、ガイドさんや先生の話にどれだけ耳を傾けるかといったら、…まぁ、私は友達とはしゃいで、そうでなければ砂の感覚やら海風やらを楽しんでいた子どもでありました。
なので子どもたちが修学旅行で鎌倉に行く下調べ学習で一番学んだのは私だったかもしれません。
春日部八幡神社さんの御由緒は、
【今から約八百年前、源頼朝が鎌倉に幕府をおいていた頃、粕壁の浜川戸に『春日部重実』という人がおり、大袋、大沢、桜井、新方、増林あたりを領地としていました。
この重実の子に実景、そしてこの実景の孫に『重行(春日部治部少輔時賢)』という人がいました。
彼は長い間、相州(現在の神奈川県)にある【鶴岡八幡宮】を敬信していて、しばしばの合戦にもその霊護を蒙ったので、遥拝(はるかに礼拝すること)のため鎌倉時代元弘年間(1330年代)に鶴岡八幡宮を模してこの八幡神社を造営したと伝えられており、森の一部は彼の館跡と言われています。
(春日部八幡神社 御由緒書きより)
えっ?
こ、このどこに新田義貞の名が?
『吾妻鏡』には文治元(1185)年の壇の浦の戦いで、甲斐前司実景(春日部)の名が記されています。
また元久ニ(1202)年の項で、『畠山重忠の乱』に応じて『北条時政』が『北条義時』に討伐の大手の大将を命じた時、「春日部などの者ども、皆鞭を揚ぐる」とあるといい、
前後の軍兵雲霧のごとくにして、山に列なり野に満つとの記述があります。
宝治元(1247)年の『三浦泰村』と『北条』との『宝治合戦』では、
実景と子息三人が三浦方で討死したと記されています。
実景の孫の重行は、建武三(1336)年の『新田義貞』の挙兵では南朝方で『足利尊氏』と戦い、春日部郷と上総国山辺南郡の地頭職を安堵され、治部少輔に叙任しています。
ええ、そうなんです。
この辺りを治めていた【春日部重実】公の孫【重行】公が、新田軍の武士であったのです。
えっ、それだけ?と思われるかもしれませんが、群馬県民のソウルかるた(?)『上毛かるた』で【れ 歴史に名高い新田義貞】とうたわれる名将の名を見出すだけでテンションが上がろうかというもので。
…ま、まぁ、私に至っては、稲村ヶ崎を歩いても、知らずに歩いていた子どもでありましたが、ね。
そしてこちら八幡神社さんを鎌倉の鶴岡八幡宮を模して造営した人物こそが春日部重行公と伝えられており、なによりここ、この八幡神社さんの森の一部は彼の館跡と言われているものであります。
うーん、歴史はこうして刻まれているのだなぁ。
(菊の原種とされる野路菊)
駐車場に停めると二の鳥居の辺りとなります。
一の鳥居までは結構な道を戻るようになります。
石の鳥居の扁額には『新方荘總社』と書かれていました。
新方荘とはこの辺り一帯の総称のようで、このあたり一帯の總社ということで、こう刻したのでしょうか。
参道は真四角な石を敷き詰め整備された気持ちの良い真っ直ぐな道で、左右に同じ背の高さの木々が並んで植えられています。
ところどころに石灯籠やたいそう可愛らしい狛犬さんがおられました。
この参道を歩くだけで、心が安らぎ、浄められる気がいたします。
ようやく先ほどの鳥居のところに戻ります。
こちらの鳥居の扁額には『春日部社』と刻まれています。
!?
鳥居のすぐ先に狛犬さんの背中の上に大きくて立派な石灯籠が乗っている、というものが一つ立っています。
対ではなくて一つ。
参道を遮るかのごとく、真ん中に立っています。
な?なんなのでしょう。
初めて見た形です。
そんな大きな石灯籠を載せられた狛犬さんですが、にこやかに寝そべってまるでくつろいでいるような表情です。
その狛犬石灯籠の向こう側にはひらけた境内が広がって、真っ直ぐ前に拝殿が見えます。
狛犬石灯籠の真後ろには大きな大きな木が立っています。
御神木でありました。
ひだりてに手水舎があります。
手水鉢には二羽の向き合って仲睦まじく並んだ鳩が刻まれています。
…ああ、そうか、八幡さまだから、な。
一見するとシンプルにみえますが、結構リアルに彫られた鳩で、羽もしっかりと彫り込んであり、しかも鳩の上部に松の枝まで描かれ、どうやら鳩は太い木の枝にいるよう描かれているようです。
こんなに見がいのある手水鉢も珍しいものかと思いました。
再び参道へと戻ります。
本当に明るくて気持ちの良い境内です。
お社から光を感じるくらいの明るくて心地よい気が満ちた拝殿でありました。
やわらかな笑顔で初めて参拝した私どもをお迎えくださっておられるような、そんな気に包まれます。
なんと心地よい、居心地のよい神社さんでありましょう。
拝殿のすぐそばにも木が植えられています。
八幡さまってこんな神さまなんだ…。
拝殿はいたってシンプルですが、これが神さまのお力なんですね。
お?
おお!
向拝部分に長い長い龍の体が見てとれます。
う?
うーん?えっとぉ。
り、龍のお顔はどこだろう?
おおっ!
柱を越えて柱の脇から参拝者を覗いて見ておられる!
う、うれしい♡
なんて、なんて素敵なデザインでしょう♡
太いしめ縄が掲げられているため、龍のお顔が見づらくなっているのですが、それさえが考えられたデザインのような。
うーん素敵♡
これは。
これは何度でも行きたい。
何度も参拝したい神社さんであります。
この居心地の良さだけでもすでにご利益をいただいております。
ただ…群馬県から春日部って、それなりに離れているのだよなぁ。
高速道路の運転も好きではない私。
電車かぁ。
電車だな。
十月十五日がこちらの例大祭なようです。おお、ち、ちょうど日曜日ではないですか!
ど、どうかな。…無理かな。
薪能も隔年であるようで、今年はちょうどその年にあたるようです。
お。おおぉ、野村万作氏の狂言もあるではないですか!!
題目は…おおこれは。
『蝸牛』ではないですか!
私、中学時代に国語の授業で狂言を習って、「大人になって自分でお金を稼ぐようになったら、いつか狂言を生で観たい」と思った者で、実はまだこの夢を叶えていないのであります。
『蝸牛』だよ、『蝸牛』。
「雨も風も吹かぬに 出ざ釜打ち割ろう でんでんむしむし」の。
うわぁ♡
…待てよ?
『薪能』だよ?
夜からのものだ、下手すると泊まりだな。
夫は…許してはくれないだろうな。
薪能だけでも七千円だ。
この間地元で開かれる【声明】の、二千円のコンサートに、
「二千円かぁ」とため息をつかれたくらいだからなぁ。
…ダメだな。 シュン。
春日部八幡神社さんの【御祭神】さまは、
・誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)さま
・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)さま
・武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)さま
・豊受姫命(とようけひめのみこと)さま
ん?
は、八幡神さま、では…?
そんな、いつまでも少しも神仏に詳しくなれないおばさんの大事な本があります。
ん?
あ。
習合だ。
本を開く直前に気づいたものの、実はこの本にはこの御祭神のうち、実にお一柱の神さましか書かれていなかったという衝撃の事実。
…そ、そうかぁ。
やっぱり本とネットの二本立て、だな。
さて。
拝殿の奥に奥宮があると書いてあり、順路もきちんと示されています。
拝殿前にはカラー印刷された神さまたちのお祀りされたお社の境内地図が置かれています。
当然のことながら、珍道中ペアはぜひぜひ参拝させていただきたい。
スキップでもし出しそうな心で、順路を進みます。
拝殿ひだりてへ進んでいくと、まず境内社鹿島社と愛宕社がありました。
鹿島社には
武甕槌命(たけみかづちのみこと)さまがお祀りされていること、そのご利益は『勝負運・開運』が立看板に書いてあります。
愛宕社には火産霊神(ほむすびのかみ)さまが祀られており、防火(火除)に御利益があります。
更に進むと香取社があります。
香取さまのすぐ右隣に奥の院があります。
…あれ?
奥の院、なにやら結構新しそう。
こちらの奥の院、旧本殿であったはずでは?
地図…マップを見ますと…。
!
へ、平成七年焼失、と書かれています。
しょ、焼失したんだ。
あまりにショッキングな〝焼失〟という事実にしばし立ちつくします。
旧本殿が建っていた当時の案内板がいまだに残されていることに、春日部市民の悲しみがうかがわれます。
『…本殿後方の高地にある旧本殿は、萱葺き、柱間一・六メートルの流れ造りで、室町期の流れをくむ桃山時代ごろのものと推定され、市内では最も古い建造物…』
(春日部八幡神社の案内板より一部抜粋)
『…この旧本殿は、手斧(ちょうな)造りという特徴的な構造に当時の神社建築の様式をそのままに残していて、市内では最も古い建造物として春日部氏の動静を伝える貴重な文化財です。
また、この神社の境内を含む一帯は春日部氏の館跡ともいわれ、奈良・平安時代から中世までの複合遺跡の浜川戸遺跡として知られています』
(春日部八幡神社旧本殿の案内板より一部抜粋)
新たに建てられた、旧本殿を模して造ったという〝奥宮〟の復興記念碑がありました。
ここに詳しく記されていました。
『奥の院復興記念碑
御本殿裏のこの地には、これまで春日部市最古の建造物として市の文化財指定を受けた旧本殿がありました。
この建物は、室町時代の建築様式で桃山時代の作といわれ、朱塗りの桂壱間社で向拝を付けた萱葺屋根の流れ造りのものでした。
しかし、去る平成七年十一月五日夕刻、不審火により焼失しました。
その後、氏子崇敬者の方々より旧本殿復興への強いご要望があり、神社役員一同そのお心をうけ、奉賛活動を開始しました。
この結果、多くの御浄財を戴き、平成八年四月御社殿等の復興事業が始まり、同年十月十五日に竣工式を斎行致しました。
新しく建立された御社殿は、旧来の形を模したもので、安全のため銅板葺となっています。今後は、これまで親しまれてきた「奥の院」という名称を以て大切に保存継承して参りたいと存じます。
後世のため之を記します。
平成八年十月吉日』
不審火。
不審火、ですか…。
奥宮というだけあって奥まった、狭い道を入ったところにあったことも禍したことでありましょう。
それは消火活動の点でも言えますが、不審火に気づくという点でも不審火を防ぐという点でも言えることであったでしょう。
茅葺きという燃えやすい小さな建物はそれこそあっという間に燃え尽きてしまったのかもしれません。
…茅葺き屋根を愛するおばさんの落胆も大きかった。
奥宮さんを参拝し、順路に沿って進みますと、拝殿のみぎてへと出ました。
?!
なんと、拝殿右側の壁面一面に大きな干支の絵馬が十二枚並んでいるのでした。
神社さんでよく見かける、その年の干支の描かれた、あの、大きな絵馬を思っていただければ、その一枚一枚の大きさは伝わるでしょうか。
それが壁一面を覆い尽くしているのです。
どれも画風が同じタッチなので、おそらく絵を描いた人物は同じ方かと思われます。
御奉納なさったのでしょうか?
毎年毎年のものを掛けていったにしては経年の程度がほぼ同じであります。
初めて見る光景に驚きが隠せません。夫は嬉しそうにパシャパシャと写真を撮っています。
それよりも目を引いたのは、垣に囲まれた幣殿の横、本殿の前におられる狛犬さんでありました。
左側におられた狛犬さんは可愛らしい狛仔犬、といった感じに見えたのですが、左側におられる狛犬さんは今まで見たことのないポーズをとっているのです。
それはまるで、虎とかのネコ科の猛獣が高いところから周りを見下ろすような、ともすれば相手を威嚇するような…そんなふうに見えるのです。
さらにスマホで撮った写真をアップにして見ると、縞柄が見て取れるではないですか!
虎?
虎なのかしら。
うーん、そういう目でみると、群馬県の藤岡市に鎮座される諏訪神社さんにおられる狛寅さんに似ているように思えてきます。
でも何故なんだろう。
🐅だとしたら、何故?
わー、ワクワクしてしまいます。
この謎解きのためにもぜひぜひ再拝させていただかなくては。
(春日部八幡神社さんの本殿そばにおられる狛犬(?)さま)
春日部八幡神社の『鎮守の杜の神様たち』
①八幡さま
(応神天皇・神功皇后・武内宿禰命・豊受姫命)
春日部の総鎮守。毎日の生活を守って下さる神さま。
文武を導く神。長寿・安産の神。
②奥の院
旧本殿。平成七年焼失、平成八年再建
③鹿島さま
(武甕槌命 たけみかづちのみこと)
強い心身をはぐくみ邪悪を断ちきり運勢を開く神。
④愛宕(あたご)さま
(火産霊神 ほむすびのかみ)
防火の守護神。
⑤香取さま
(経津主命 ふつぬしのみこと)
強い心身をはぐくみ邪悪を断ちきり運勢を開く神。
⑥天神さま
(菅原道真)
福岡県の太宰府夭満宮が本宮。学問の神。
⑦弁天さま
(大国主命 おおくにぬしのみこと・市杵島姫命 いちきしまひめのみこと)
出雲・宗像社。
人を助ければ人に助けられる「道」の神。
⑨氷川さま
(須佐之男命 すさのおのみこと・稲田姫他 いなだひめ)
邪気を祓い人々の苦を除く神。
武蔵国の総鎮守。
⑩御獄(みたけ)さま
(櫛真知命 くしまちのみこと)
火災・盗難除け神。
⑪稲荷さま
(倉稲魂神 うかのみたまのかみ)
豊作豊漁、商売繁盛。
⑫浅間さま
(木花之開耶姫命 このはなさくやひめのみこと)
霊峰富士山の神。子供たちの健康成長を御守護。
拝殿前に置いてあったマップに書かれたものであります。
順路をたどってまいりますと、小さいながらも立派なお社が建っていて、いろいろな神さまにご挨拶させていただくうちに、なんだか楽しい気分になりました。
すこぉし暗くてちょっぴりだけ怖い気もするお社がないわけでもなかったですが。
高台の細い道を歩くところもあるのでちょっとだけ注意も必要です。
私どもはお隣の別々の神社さんだと思っていたのですが境内社なのか、このマップには〝稲荷さま〟として一緒に記されていました。
境内社なのだとすると特に規模の大きなお社となり、いくつかの鳥居を通る参道が、八幡さまと別にあります。
今回は知らずに行かなかったのですが、この春日部八幡神社さんと稲荷神社さんの隣に八幡公園があって、マップに〝浅間山〟と書かれていました。
どうやらこれ…人口の山のようで…。
…浅間山?
どうやらこちら浅間神社としての人工の山で、ご存知の方もおられるかと思いますがあの富士山講であるような。
『富士塚』ならぬ『浅間塚』、なんです。
富士塚というのは富士山を模して築いた人工の山のことで、頂上には石碑があってそれを拝むと富士山と同じ御利益が得られるという富士山信仰。
この春日部にある浅間山も一種の富士塚ということのようで。
うーん、こちらへは行かなかったなぁ。
よしよし、こちらも再拝時の楽しみにいたしましょう。
さて、この春日部八幡神社さん、大きな銀杏の御神木が参道の中央にそびえております。
この大銀杏には、元弘年間に飛来した銀杏の枝が一夜のうちに大樹となって参詣人を驚かせたという伝説があるといいます。
また、次のようなお話もありました。
元禄七(1694)年の「武州春日部八幡宮略縁起」「村鏡類諸事物留書」(中島家文書)によれば、
新田義貞の家臣『春日部治部少輔時賢』は日ごろから鶴岡八幡宮を厚く信仰し、弓馬の武運を祈っていた。
元弘元(1331)年に、鶴岡八幡宮に参籠して祈願していたところ、満願の日の夜明けに不思議な姿形をした老翁が現れ、奇特の信心に対し加護を与えるとし、
「汝の城の近辺に清浄な地があるので、彼の地に鎮座して汝の繁栄を守るであろう。よって、その土地を示す霊木を生やそう」
と教示した。
時賢は早速に城へ帰り、探したところ城の南の広い草地に銀杏の大樹を見つけ、この地に社殿を建立して八幡宮を勧請した。
社殿の造りは、本殿と五間の拝殿を備え、更に鳥居に至るまで選び抜かれた材料で仕上げられた荘厳のものであった。
それ故、新方四十余郷では、春日部八幡宮に対して憚り、五間の草屋を建てなかったという。』
いずれにしても、この大銀杏がこちらの神社の氏子の方々にとって、ひいては春日部市民にとっても大切な、愛する木でありますことはたしかなことで。
そして…こちらの、見事な銀杏の刺繍の施された御朱印帳に一目惚れして、おわかちいただいてしまった私でありました。
はじめは御朱印のみをお授けいただこうと思って、持参した御朱印帳を社務所でいったんはお出ししたくらいだったのです。
その受付を対応してくださった方の対応がとても丁寧で親切だったことといったら。
しっかりとこちらの目を見て、笑顔で対応してくださるのです。
たまたま御朱印の説明をなさる際、その銀杏の御朱印帳をお出しになられ、そこで私が一目惚れをしたということになるのですが…。
この方の対応が、終始笑顔で丁寧であったことも、この御朱印帳の購入に関係していたかもしれません。
長々と綴りましたが、この春日部八幡神社さんの珍道中録は続編があること、間違いなし、で…ありたいです。
狛寅さんのいわれ(勝手にもう狛寅さんにしている)をお聞きしたり、浅間山にも、お参りしなくては!
よぉ〜し、…祈る。
…衝撃的な事実を知りました。
このスレの冒頭で、
> 速報であります。
>吉報であります。
>朗報であります。
>私ども(夫婦)が大好きな大好きな群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんが、【国指定重要文化財】に指定されましたぁぁ。
と、私、大層舞い上がったレスをしておりましたが、これが誤っていたことをごくごく最近知ったのであります。
しかしながら、この文に続く、
> 六月二十三日、国の文化審議会が開催され、群馬県内の寺社建築の重要文化財指定が答申されました、
という文面に関しては正しいのです。
どういうことか、と言いますと。
実はこの群馬県桐生市の桐生天満さん、今現在においてはまだ、『国指定重要文化財』ではないというのです。
えっ?
…そうなりませんか?
取り消されたとかではなくて、あくまでも、
>六月二十三日、国の文化審議会が開催され、群馬県内の寺社建築の重要文化財指定が答申された、
ということだったようなのです。
そう、まだ『指定されていない』というのが正しいこと。
あくまでも答申された、だけだというのが現状なようです。
いやぁ、…嘘でしょ?!
ただ答申されれば、ほぼ百パーセント指定となるということらしいのですが、それにしても…まだ?
私がそのお祝いの気持ちを込めて、七月一日に参拝させていただいた時には、拝殿前に『国指定重要文化財』って貼り紙がありましたので、私のような無知なおばさんが今の今まで知らなかったことは仕方ないことかと…。
とはいえ、(衝撃の)事実を知ったからにはお詫びして訂正をしなくてはならないと、思った次第でありまして。
あらためてお詫びして訂正をさせてください。
『今年六月二十三日に国の文化審議会か開催され、群馬県桐生市の桐生天満宮二棟の重要文化財指定が答申された』
が今現在の状態だそうです。
ちなみに、県の文化財指定、並びに桐生市の文化財指定は〝解除〟されたそうです。
…つまりは今、桐生天満宮さんは…無冠?
何気に桐生天満宮さんの公式HPを開きましたところ、トップに
「国指定重要文化財」に決定のおしらせと入っておりました。
まぁ、前レスでご報告申し上げました通り、〝まだ〟なんですが、よくよ〜く、深く読めば、
「…この度、令和5年6月23日付にて、国の文化庁文化審議会が文部科学大臣に答申を行い、下記の建造物並びに所蔵品が『国指定重要文化財』となりますので、ここにお知らせいたします。…」
そ、あくまで『…となりますので』。
なったとは書かれてはいないのです。
今年中にはなるんですかね。
国全体でみますと、あれこれと問題は山積み。
それで後回し、というわけでは決してないことはわかっているんですが、時代の流れが速くて、国が急いて事を仕損じていることの多い今、こうした事案はゆっくり、間違いやもれなく進めれば良いかと。
ちなみに。
1、天満宮本殿・幣殿・拝殿 一棟
附(つけたり)
宮殿(くうでん) 一基
本社幣殿拝殿妻之図
(社殿絵図) 一枚
御社殿棟札札 四枚
御注文書(古文書) 一冊
2、末社春日社殿 一棟
附
末社機神神社本殿殿 一棟
が国重文指定となることが決まっています。
かつては末社の春日社殿などは『桐生市指定重要文化財』でしかなかったといいますのに、いきなり国指定。
こうした指定は段階を踏む必要はないとのことで、調査に入った際に『歴史的価値の高いもの』であると思われると、国の文化審議会が文科省に答申するという流れのようです。
ちなみに、附(つけたり)というものは、『重文等に指定する際に、文化財本体に関連する物品や資料を本体と併せて文化財指定とすること。文化財の価値を証明するもの、その根拠となるもの』ということだそうです。
たしかに、棟札であったり、計画資料にあたる絵図であったり、注文書であったりは、指定された文化財の価値を証明する貴重な資料であります。
まぁ…、こうしたお役所仕事で、しかも文化的価値とか、しち面倒くさかったり、ややこしかったりは、…私にとって…はありますが、知るとなかなかおもしろい、興味深いものであります。
知るとなかなかおもしろいもので…。
実はまたまた、この桐生天満宮さんについて学び、新たなことを知ったもので、追記…というにはずいぶんと時を経てはおりますが、その新たに知ったことを記しておきます。(本人が忘れちゃうから)
…とは言ったものの、どこから書いていこう?
ま、まずはやっぱり本殿・幣殿・拝殿について、だな。
こちらの建物、まず本殿・幣殿を先に造ったことは以前も書いたかと思うのですが、これが寛政元(1789)年の上棟。
そして遅れること十四年の時を経て拝殿の起工となるのですが、この拝殿の工事、途中中断を挟んだもので、建設に二十五年間かかって享和二(1802)年の上棟となっています。
この拝殿の工事の中断についてはさまざまな理由があったようで、世の中が乱れて神社建築をしている状況でなくなってしまった、とか、全てを寄付により建てているため、資金に底がつき建てられなかったとかいわれているようです。
まぁ、それらが複合的に絡み合っての理由となったのではなかったのかなぁ、…というのはあくまでも私の見解ですが。
そんなわけで本殿・幣殿の棟上から結構時を経てできた拝殿は、本殿・幣殿が建物全体見事な彫刻で埋め尽くされているのに対し、そういった装飾性の少ない簡素な造りに仕上がっています。
それは金銭面での中断ともいわれたくらいですので、資金の問題もあったかもしれません。
しかしながら、実はその、歳月の経った事により、本殿・幣殿を建てた頃とは神社建築の主流がこうした装飾性を抑えたものに変化していた、ということもあったようです。
ま、まぁ当初の完成予定図と異なっていることだけは確かなこと、なので、やっぱり資金的なものの方が大きかったのかなぁ。
そうそう、もう一つ。
この桐生天満宮さん、『岩の上の天神』という異名があるというのは知っていたのですが(まぁ、それもそんなに前のことではありませんが…)、この岩について、かねてから私が疑問に思っていたことがわかったので、書いておきます。
実は桐生という土地は活火山からは遠く、大きな岩が飛んできただの、流れてきただのということが考えにくい土地ではなかろうかと思っていたのです。
それが…岩の上の天神?
辺りにもそんな大きな岩がある所は無さそうです。
ここだけ?
岩がここにだけ飛んできた?
それこそ神話になります。
この『岩の上の天神』ともいわれる桐生天満宮さんの土台にある岩は、他所から運んだものだということもわかっているようです。
ただ、それがいつのことなのかは、まだ私にはわかっていません。
その記録はあるのかどうか。
この社殿を建てるにあたって、のものなのか、
あるいは『桐生新町』の町立てに際して、桐生市内の旧下久方村梅原という所にあった『梅原天神』さまをこの地に御遷座した時のことなのか。
…誰に聞けばわかるのだろう。
宮司さま?
桐生市の図書館の閉架図書室に資料があるだろうか?
…今回の課題といたしましょう。
いずれにしても岩の上に建てることは耐震性を上げる効果はあるようです。
さて。
この桐生天満宮さんは複合建築の【権現造】。
こういった建築様式にはとことん弱い私には、本殿ができてから十四年経って着工し、途中中断して二十五年もかかっているという建物なのに、…権現造って、屋根、繋がっているのではないのだろうか?
えー、だとしたらその途中経過、大変じゃないんですかね?
いったん幣殿までで御開帳しているようですし、しかもここから拝殿の棟上までに十四年かかるわけで。
十四年経過することが想定内のものだったのか、そうではなかったかわかりませんが…ここで少なくとも崩れたりしないような形にまとめるわけ…ですよね?
建物の建て増しとかはよくあることですが、神社さんの大きな屋根、って大きなものじゃないですか。
新たな建物と接続するためにはまた葺いてある屋根を調整する必要が当然あるだろうし…手間もお金もかかるじゃないですか?
ま、まぁその辺はもうプロの範疇だと思うのでこのくらいにしておきます。
ここ桐生市は徳川家のおぼえがめでたい地で、江戸時代になってからは江戸幕府の直轄領であったようで、この桐生天満宮さんはその直轄領のメインの町、桐生新町の北の起点であり、そこを護る神社さんでありますので、当然のように日光東照宮からの影響もあったりもしましょう。その東照宮の彫刻に携わった彫刻師たちは日光へと続く街道沿いに住まい精進していたといい、その街道は桐生にほど近い場所にもありました。
東照宮の完成を受けて、腕のある職人たちが次なる仕事をした時期でありました。
(秋の七草)
…またまた、誤字を見つけました。
誤)今回の課題
正)今後の課題
お詫びして訂正いたします。
桐生天満宮さんについて、新たに知ったことを記しています。
こちらの本殿・幣殿の彫刻は今でこそその色は落ちてしまっておりますが、元は極彩色の彩色が施されていたといい、実はその一部、赤の彩色は残っているようです。
私のようなザルのようなまなこではさっぱりわからないのでありますが…。
そしてその色の保存、剥離止めを含めた保存修理工事が、平成十五〜十七年にかけて実施されていたといいます。
えっ、(あ、あれで?)。
ああ、あくまでも保存修理、だからですかね?
素人はどうしても、埼玉県にある【歓喜院 聖天堂(国宝)】のように、誰が見てもそれとわかる彩色をほどこすようなものを思ってしまいます。
桐生天満宮さんは…これ以上損傷か進んでいかないよう、今ある色が落ちないよう、あくまでも保存するため手を加えただけ、ということのようです。
実は色(赤)が残っていること、すでにもう『保存修理』は行われていたこと、今回学習したことであります。
また、本殿・幣殿に施された彫刻は、最初は上の方だけであったということ。
それから壁面に、最終的には腰と呼ばれる下部に至るまで、彫刻をし、彩色していったと考えられているとのこと。
このように段階を追って彫刻を施したため、江戸時代の彫刻の流行、流行の移り変わりが見て取れる点も、重文指定指定に重要だったといいます。
『濃密な装飾が施された近世後期の北関東を代表する神社建築』であることが、今回国重文指定を受けることとなった条件の一つ、…なようです。
拝殿について、ですが、建てられて四十年ほどの天保十二(1841)年に、大木が倒れて拝殿が大破したようです。
その修理の際、屋根瓦の差し替えが施されたといいます。
ちなみに本殿・幣殿は銅板葺きで、その後、拝殿の屋根は瓦葺きを改め、現在の屋根は『瓦棒型銅板葺き』というものになるそうです。
そうそう、拝殿を真正面から見たときに見られる軒唐破風の上にある三角の屋根『正面千鳥破風』は昭和になってから、…昭和二十七年以降、昭和三十六年以前に取り付けられたものだといいます。
えっ?、昭和の時代の、そんな目立つ工事を行なった記録が残されていないってこと、ですか?
…それは結構びっくりです。
ところで。
あの附(つけたり)と称する、〝文化財の価値を証明したり、その根拠となるもの〟、というものの一つに
『宮殿(くうでん)』というものがあります。
『本殿内部に安置された小建築』と、群馬県の地域創生部文化財保護課の作成した『国重要文化財の新規指定について』という書面には、そう添え書きされています。
その書面の、桐生天満宮の本殿の平面図に、点線で囲って『附・宮殿』と記されています。
文字通り、小さな〝お宮〟で、ずっと本殿奥に安置されたまま、こういった調査でもなければ、神職以外見ることのない神聖な建物、お宮であるため、ほぼできた当初のまま保存されているのだといいます。
細かな彫刻と極彩色の美しい彩色が当時のままの状態で安置されているといいます。
…私など知らないはずです。
今まではそこまでの調査も入らずにいたのでしょう、群馬県の指定重文であったときには附として挙げられておらず、今回が新規の指定であります。
…もしかして?
もしかして御開帳って…この宮殿をってこと?
そ、そうなんでしょうか?!
拝殿の扉を開けたところで、この宮殿までは見えはしません。
あ、でも幣殿のどこかが開けば見られるってこと?
うーん♡
御開帳。
はれて国指定重要文化財となったら、御開帳、してくださらないかしら。
あ、御開帳がこの宮殿を指すのかどうかはわかってはいません。
まあ、昭和三十六年とかが、たしか最後の御開帳だったと記憶しているので、御開帳の様子を見た人はたくさんいると思うのですが、ねえ。
いまだにそういった方にお会いできていないんです。
宮司さまにお聞きする機会があれば、お教えいただけるかしら?
…でも今、御朱印も御書置きだしなぁ。
そもそもそういった対応はお二人おられる女の方がなさるし、なぁ。
うーん、昇殿して御祈願お願い申し上げる?
…うーん。
続いて桐生天満宮さんの末社春日社について、…語ろうかと思っていたのですが、専門的な知識もない人物が、無い頭をフル回転するものですから、ちょっと脳が疲労してしまっております。
なので春日社さんについては日を改めて記して行こうと思います。
ああ、そうそう。
これは忘れてしまわないうちに書いておかないと、…忘れます。
拝殿の左横辺りにあります神楽殿。
この神楽殿、どうやらあの桐生新町の祇園祭で使われていた『屋台』の可能性が高いのだといいます。
一丁目から六丁目まである、どこの屋台かはわからないとはいいますが、おそらくは一丁目、二丁目、三丁目のいずれかなのでは、といいます。
三丁目説を推す方がおられるようですが、否定的な意見もあり、不明であることがたしかなこと、のようです。
おそらくは造りから1800年前後のものと推察されるといいます。
まぁ、不思議はないです。
初めて見たとき、今まで見たことのない神楽殿だなぁと思ったことを鮮明に覚えておりますくらいですので。
それにしても、ずいぶん桐生天満宮さんのことを深く知ることができました。
ま、まだまだ、なんですけれどね。
先日、おバカなくせに張り切って脳を使い、すっかり脳が疲弊した折に、自らを癒そうとあげました〝秋の七草〟の画像。
『春の七草』が厳しい冬を乗り越えるために粥にして食べるのに対して、『秋の七草』は初秋を彩る秋草を愛でるものであり、秋の訪れを知らせてくれる万葉植物であります。
初秋の山や野や川原に七草が咲き秋風に揺れている風景。
古の万葉人の自然を愛でる心は、時代を経ても今なお私たちの心を抒情豊かにしてくれます。
まぁ、初秋、というのは少し違うかもしれませんが、暑さがいつまでも続くここ数年においては、今まさにこの秋の七草を見ることが増えたかと思われます。
以前もレスしておりますが
『萩の花 尾花葛花 撫子が花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花』
奈良時代の歌人『山上憶良』が詠んだ万葉歌です。
この歌に詠まれる秋の七草、萩(ハギ)と尾花(ススキ)を除いて、秋の七草は薬用としても用いられています。
萩とススキを除くので、五草?
ちょっと違和感が強いですね。
濁音なのと三文字であることから、なのでしょうか。
この秋の七草で、なんとも力強い勢いある植物があります。
それが〝葛(くず)〟です。
以前〝ブラタモリ〟で紹介された前橋市の『広瀬川低地』と『前橋台地』にある『ヘリ』を利用して栄えたかつての豪族による『華』。
先日、その広瀬川沿いにある前橋台地の段丘涯を上がった先にある【八幡山古墳】に行ってまいりましたが、その八幡山古墳を囲うようにめぐらされた細い道路を隔て、葛がその一帯を覆い尽くしまるで高さの低い森のようになっていました。
思わず「うわぁ」。
葛強し!
しかしながら、この葛は、根の乾燥したものが、
生薬【葛根(かっこん)】で、
風邪、扁桃腺炎、急性中耳炎、肩こり、蓄膿症などに用いる有名な漢方処方の
【葛根湯(かっこんとう)】の主薬であります。
葛は身近な薬草の代表格でもありますが、雑草の王様でもあります。
日本全国の山野のいたる所に分布し、どこにでも生え広がり根が太く蔓が地中をのたうってはびこっているのです。
八月下旬ごろ、花が咲き、その赤紫色の花は、マメ科の特長を備えていて密に穂をつくっています。
美しく見えるときと、…少しグロテスクに見えるときとがある、神秘的な花、かもしれない花であります。
続いては【桔梗】。
えっ?桔梗?
そうなんです。秋の七草、『朝貌(アサガオ)』は、私たちが〝アサガオ〟といって思い浮かべるあのヒルガオ科の〝朝顔〟ではなくキキョウ科の桔梗が定説となっているのです。
薬用としてのキキョウは、根の乾燥品が生薬『桔梗』であるといい、サポニンを含む生薬として『鎮咳去痰薬』の代表であります。
韓国ではこの根をトラジと云い、水で晒してサポニンをぬき、漬物にします。薬用にも食用にもなる、しかも可憐で美しい桔梗。
実はこの桔梗の花が咲くころになるとどこからともなく飛来する、頭部がオレンジ色で体長5〜7ミリくらいの黒い羽虫がおります。
それはもう庭を歩けば顔に当たるくらいの大量の数で、毎年毎年一体どこから嗅ぎつけるのかと感心するくらい大挙してやってきます。
こいつが、花も葉も食べてしまう。
まさに桔梗の大害虫!
桔梗全体に害虫退治の薬を噴霧するとその姿は瞬く間に消失します。
(おっ、効くじゃん)などと思ってもつかの間のことで、次ぐ日には何事もなかったように歯や花をむしゃむしゃと食べている〝強者〟であるのです。
その名は〝クロウリハムシ〟。
言い換えると、桔梗、花も葉もそんなに〝美味しい〟ということに…。
私は食べませんよ。 …本当です。
…今のところは 笑。
そして、桔梗と同じく紫の花を咲かせる【竜胆(リンドウ)】
あ、桔梗も竜胆も白やピンクの花もありますが、いわゆる一般的な色というと紫かと思います。
リンドウ科のトウリンドウであります。
ところで。
竜胆って漢字、なんかものものしいというか、なんというか…。
だって〝龍〟の〝肝(きも)〟ですよ?
…凄くないですか?
これが〝薬草〟というのですから、いかにも貴重な感がいたしますが、実際は良く見かけるリンドウ、であります。
漢方薬の世界では、その根及び根茎を乾燥したものを『竜胆』と云うのだといいます。
苦味健胃薬であるといいます。
ヨーロッパ産のキバナリンドウの根及び根茎は『ゲンチアナ根』と云われ、あの〝ヒポクラテス〟の時代から苦味健胃薬として用いられているといいます。
竜胆とゲンチアナは、同じリンドウ属植物に由来する〝類似生薬〟なのだそうです。
なるほど。
…覚えられてないだろうな、と思われた方、 …正解です 笑。
お次は、私どもの〝ネズミの額(ひたい)〟ほどの庭に咲く【撫子(ナデシコ)】ナデシコ科のカワラナデシコです。
ナデシコというのは、
『小さい子供のように愛らしく、撫でたくなるような花』という意味、なのだそうで、その可憐な姿から、『大和撫子』はしとやかな日本女性を表す言葉として用いられています。
…私とは無縁な言葉であります。
多年草で、高さ30~80センチになり、その名の通りに可愛らしいピンクまたは白色の花です。
薬用としては、カワラナデシコの他、エゾカワラナデシコ及び中国に分布するセキチクの全草を乾燥したものが生薬「瞿麦草(くばくそう)」、
種子が「瞿麦子(くばくし)」。
消炎、利尿、通経薬とされ、多量に用いると流産の恐れがあることから妊婦には禁忌とされるものです。
まぁ、この花をちょっと触ったくらいなどはまるで影響ありませんので、この〝小さな子供のように愛らしく撫でたくなる〟撫子の花、どうぞ御安心してたくさんたくさん愛でてください。
狭い我が家の庭にこの花を迎えたのは、あの東日本大震災から何年か経ったとき。
お寺さんの大祭で境内にお店を広げていた花屋さんで花を見ていた時、この花を見て泣き出してしまった一人のおばあさんの言葉にありました。
「福島の河原にはこの時期一面にこの花が咲くんだよ。…帰りたいよ、帰りたいよ」
…その花を見て、泣いてしまうほどの思いを抱えて、ここ群馬に避難しておられる方のお話をたまたまお聞きしたのです。
そんな思いで見ておられる方がおられることを、この花を見るたび胸に刻もうと思ったり。
この花を見て癒される日が来ますようにと、祈る思いも込めて。
庭に植え、早十年、十年経ちました。
まだ福島はつらい思いをされています。
また福島がつらい思いをされています。
私は子どもの頃、よく祖父母に、叔父に、福島へ連れて行ってもらっていた人間です。
福島は子どもながらにとても心豊かになり、おだやかで、大きな自然豊かなところであると、強く心に残った、大切な大切な地であります。
撫子の花は儚く見えますが、花の咲いている期間も長くて、何よりプランターに植えても、そのそばへと次々と増えていくような強さを持つ植物であります。
福島は撫子のように強いと、私はこの花を見るたび思っております。
あらためて…がんばれ福島。
【女郎花(オミナエシ)】はオミナエシ科のオミナエシ。
日当たりのよい草原や丘陵地にみられ、人里や山間部では同属の花の白いオトコエシの方が多くみられます。
薬用としては、オミナエシもオトコエシも地下部もしくは全草を乾燥したものが生薬『敗醤(はいしょう)』で、漢方処方には入れられてはいないといいます。
ただ、民間的に消炎、化膿止めに用いられてきました。
醤油が腐ったような臭気が生薬名の由来とされているといます。
【藤袴(フジバカマ)】はキク科のフジバカマ。
フジバカマは、河原などやや荒れた地に生え、生長すると高さ1メートルほどになり、秋に枝先に多数の淡紅色の花を咲かせます。
派手さがなく、秋の七草に数えられたのは葉に含まれる香気(クマリン:桜餅の匂い)によるようです。
中国では「蘭草」と云い、その芳香により弱った脾の機能を覚醒させるのだそうです。
鎌倉時代に戦場にのぞむ武士が兜の中にたき込めた香りもこのフジバカマの香りだったようです。
なかなか七つ覚えている人のいない秋の七草の覚え方があるといいます。
ハ…萩
ス…薄
キー…桔梗
な…撫子
お…女郎花
ふ…藤袴
く…葛
ろ
であったり、
お…おみなえし
す…すすき
き…ききょう
な…なでしこ
ふ…ふじばかま
く…くず
は…はぎ
うーん、この覚え方を覚えられるかどうか…。
でもね、大丈夫です。
秋の七草は、全部言えるんですよ、意外なことに 笑。
さて。
縮小しシワも減っている、コロンコロンと音でも鳴りそうな脳みそを駆使したせいで、すっかり疲労困憊している私の脳みそではありますが、使わないとこれまた退化いたします。
ここらでまた、桐生天満宮について学んだことを追記してみましょう。
疲れたら休めばいい。
休み休みでも前を向いて、また歩き出せばいいので。
とはいえ、この重要文化財がらみのものについて調べると、苦手な建築の用語がたくさん出てきます。
それをいちいち調べて。
それでも専門的な知識が皆無なので、どこがなんという名称なのかがわかったところで、どことどこがつながっているかとか、その枠割は何かとか、結局のところは何一つわかってはいないので、そのときそのとき、この名称のものはどこら辺にあるものかを理解してするだけでとどまっています。
とどまっているのみなので、すぐに忘れる。
悲しい自己間イタチごっこであります。
特にこの桐生天満宮さんの【末社 春日社本殿】に関しては、棟札等建築年代のわかる資料が何一つ無く、あくまでもその建築様式を同年代の建物の特徴からいつ頃建てられたものがを推察していっての重要文化財指定なものですから、書いてあることがみな、そうした専門用語。
漢字も特殊で日常ではほとんど見ないような漢字が出てまいります。
資料の字が読めないところから始まるのです。
ただ…。
今はスマホ♡
読めない字をピーっとして、〝調べる〟ってとこをピッとするだけで、その字をなんと読むかがわかるのですから、便利なものです。
とはいえ…。
〝蟇股のプロポーション〟〝幅に比べて成が高く、足に鰭状の装飾がつく〟…って、なんですかぁ?
それも神社の建物の各名称と入力して、図解してくださっている物を拝見させていただき、なんとか自分なりの理解をするのです。
遠い道のりなようですが、でも学生の時分のように期限も締め切りもテストもな〜んにもあるわけではないので、牛歩の如く、ナマケモノの移動の如く進めばよいのです。
しかも自分の関心のあること〝だけ〟です。
調べて結局わからなくて、途中で投げても、なーんにも困らない。
幸せな学びです。
…あれ?
こんなことを綴っていたらもう九百字を超えてしまっているではないですか。
次回こそ桐生天満宮さんの末社春日社さんについて書いてまいります。
末社春日社は、本殿の後方に南面して建つもので、一間社流造りの小規模な社殿である。
社殿は、身舎、庇の軒桁や垂木に見られる反り増しをはじめ、要所に用いられている彫刻の装飾に、室町時代後期の建物の特徴をよく残している。一部に菊と唐草・流れに紅葉などの文様が描かれており、各部には彩色が施されていた痕跡が見られるが、ほとんどは不明である。
県内における類似する建物としては、板倉町の雷電神社末社稲荷社社殿があり、象鼻彫刻が発生した早期の建築と考えられる。
このことから、建築年代は天正(一五七三)から慶長(一六一五)年間と推定され、現存する桐生市内の建造物としては、最古のものであるとともに、当地方における古建築の遺例として貴重である。
以上は天満宮末社 春日社について桐生市が作成した案内板より抜粋したものであります。
今回、市指定からいきなりの国指定へ、ということとなっています。
群馬県内における十七世紀初期以前の寺社建築として、板倉町の雷電神社末社 八幡宮稲荷神社(国指定重要文化財)に次ぐ古さであろうといわれます。
まぁ、棟札がありませんから、その特徴から推測してのこと。
そこで出てくるのが、あの〝蟇股〟。
その他、
・母屋、軒桁及び垂木に反り増しが見られる。
・貫頭木鼻の形状と唐草絵様の渦の巻き込み具合。
・海老虹梁の形状。
などが室町時代後期の建築と類似している、のだそうです。
また、江戸時代初期のものと一致する点もあり、それが
・虹梁の端に入り八双が見られる。(唐草絵様を付けていない)
・象鼻が丸彫である。
等々。
ちなみにこの春日社にも彫刻が施されているのですが、どうも後からの可能性もあり、もとは絵だったのではないかとも考えられているのだそう。
…ちなみに、私ここの彫刻も好きなんですよね。
あまり他に見たことのない図案でして、扉に大きな鹿の浮き彫りがあったり、扉の脇の柱との境の部分には龍の巻きついた倶利伽羅剣が彫られていて、剣の下には蓮の花があるのです。
…なるほど、あとから彫ったものをはめ込んだ…。
ちなみに屋根は銅板に漆を塗った瓦葺きだそうです。
これまたなかなか聞いたことのない珍しそうなものであります。
こちらの春日社さんは、群馬県下における希少な遺構にあたるようです。
『蟇股(かえるまた)』。
名前だけ聞くと「なに?」と思われるこの部位。
実はどの古建築にも必ずあるものだといいます。
たぶん見ればわかる方たくさんいると思います。
しかも特徴的なものばかりなので、これだけをねらって古建築を見にいく人が実はたくさんいるといいます。
その代表格が…あの【日光東照宮】の『眠り猫』、なんですよ。
まぁ、私もこの蟇股という部位について調べていて気づいたのですけれどね。
世界遺産に登録される前から、日本中にその名を知られていた、この国宝でもある『眠り猫』。
そもそもなんでわざわざこんなところにまで彫刻を?
…まぁ、彫刻の宝庫、これでもかというほど彫刻がありますので、そんな疑問もすぐ「まぁ、日光だし」「東照宮だし」と思って流れてしまうくらいのものでありますが。
眠り猫は、徳川家康公の墓所のある奥社への参道の入り口、東回廊潜り門に掲げられています。
つまりはそこに設置された蟇股という部位に対して、かの【左甚五郎】さんが彫った『平和の象徴』といわれる彫刻が嵌め込まれている、というわけであったのですが、私などは蟇股という物を調べていて、初めてあの日光東照宮さんの眠り猫もまた、蟇股であったことに気づいたくらい、優れた彫刻、という見方かしかしておりませんでした。
梁や頭貫などの横部材の上に置かれ、カエルが足を広げて踏ん張っているようにみえることから「蟇股(かえるまた)」といわれるようになりましたこの部位。
仏教伝来のとき、寺院建築の建築様式として入ってきたものといいます。
当初は「蟇股(かえるまた)」という呼び名はなくて、平安時代になってからそう呼ばれるようになったようです。
建築構造上必要部材の一つでしたが、やがて日本人好みで装飾化されていったといいます。
ちなみに、現在では建築技術が進歩したため、必要ないものとなり、形だけが残されているといいます。
日本の蟇股は時代ごとに特徴があるといいます。
奈良時代:とにかく分厚くがっちり
平安時代:ちょっと飾り的な要素が出てくる
鎌倉時代:透かし彫りなどの加工がされる
室町・安土桃山:彫りと曲線が特徴
江戸時代前期:きらびやかな彩色と彫刻
江戸時代後期:彫刻技術が飛び抜ける
現在:どれも曖昧・融合・良いとこどり
なのだそう。
こういった特徴から時代を知ることができるようです。
『海老虹梁』。
寺社建築に『虹梁』と呼ばれる梁(はり)があります。
この呼び名は梁が虹のように湾曲した形に由来します。
虹梁を更にS字型に湾曲させたものが『海老虹梁』で、主に側柱(かわばしら)や本柱(ほんばしら)など高低差のある場所に用いられ、彫刻や装飾がなされております。
元来は禅宗様(ぜんしゅうよう)のものでありましたが、南北朝期以降神社本殿などにも盛んに使われたものといいます。
室町時代後期の海老虹梁の形状は比較的太く、反りが少なく段違いにかけられていないといいます。
この特徴が見られることから、室町時代後期建築の可能性がある、という一つの可能性がうたわれます。
『木鼻』
社寺建築を初めとする伝統建築の特徴的な部分の一つに
『木鼻(きばな)』と呼ばれる部位があります。
木鼻とは柱を貫通する【頭貫(かしらぬき)】・【肘木(ひじき)】・【虹梁(こうりょう)】の柱から突き出た部分の名称です。
名称の由来は、「木の端→木端」から漢字が変わり「木鼻」と呼ばれるようになったものといわれています。
もとは頭貫や肘木、虹梁の柱から飛び出る部分を直接加工していましたが、
江戸時代以降、装飾目的が強くなるにつれ、頭貫や肘木、虹梁とは分けて、独立した部品とすることが主流となりました。これらは柱に引っかけて固定する事から、掛鼻(かけはな)とも呼ばれます。
木鼻の誕生は、鎌倉以降に中国大陸から伝わった建築様式(大仏様・禅宗様)によって確立されたと言われています。
そのため、木鼻の様式にも
「大仏様(だいぶつよう)」
「禅宗様(ぜんしゅうよう)」
と明確な違いが見て取れるといいます。
『大仏様木鼻』
初期の物は彫刻も猪の目があしらわれる程度のシンプルな質実剛健ものでしたが、次第に象や獅子、獏など動物のシルエットを模したものに形状が複雑化していきました。
『禅宗様木鼻』
渦門の彫刻が禅宗様木鼻の大きな特長です。
彫刻は植物や雲を模した物が主流です。より複雑な形状、滑らかな曲面が際立っています
つまりはこの『大仏様木鼻』の一つが【象鼻】。
この象鼻にも時代による変遷が如実にみられるといいます。
ちなみに、この桐生天満宮さんの末社 春日社さんに残される象鼻は、〝象らしさ〟はかけらもありません。
例えるなら…猪に近い、…妖怪?
『木鼻』と呼ばれる部位の建築的にみた役割は、縦の柱を貫通し突き出た横部材の先端部分です。
実はなくてもいい部分なので、建築構造上の役割はあまりないとされます。
強いていえば、設置した柱の頭部が開かないように木鼻を残したとも言われています。
鎌倉時代以前は『木鼻』という技法が伝来していないためそもそも木鼻がありません。
柱を突き抜けた横材、突起が無かったら、それは木鼻の技法が伝わる鎌倉時代以前のもの、となります。
鎌倉時代以降、縦柱の上部を刳り抜いて、そこに横部材を置きました。
これによりただ木の切り口を残すより、装飾を施そうと「木鼻」の装飾化がはじまります。
木鼻は中国や韓国の建築物にもありますが、これだけ装飾に特化したのは日本独特の発展でありました。
伝来当初は一本の横部材を利用し、その両端に装飾の彫刻を彫っていましたが、江戸時代になると、木鼻は木鼻、横材は横材と分けて設置されるようになります。
この桐生天満宮さんの末社 春日社の木鼻は横木の先端に直接象(?)を彫ったものであります。
…象という生き物を知らない彫り師が、鼻が長い動物と聞いて、鼻先の長い(猪様の)動物を彫った、…のでありましょうか?
前レスでも書いたようにこの部分を『掛鼻(かけはな)』と呼ぶこともあります。
この頃彫られた彫刻は木鼻だけという部位に彫られており、それゆえに大変転用がし易く、寺社を再建するときにこの木鼻の彫刻を再利用するところも多いのです。
さて。
この木鼻、実は大変さまざまな種類の彫刻となっております。
動物系では〝獅子〟〝象〟〝龍〟〝麒麟〟〝獏〟、さらには植物もあります。
実は以前からこの木鼻の彫刻も好きでありまして。
さまざまな彫刻が施されているおもしろさと、そこにはどんな意味があるのかという興味と…。
木鼻の彫刻をあちこちで写真撮って、それを保存したものを作りたい、とも思ったことがあるくらいです。
あまりにも数が多すぎてあきらめたものではあります。
たとえば花ならば何故?
獏ならば何故?
麒麟や、龍、象、獅子などはたくさんありますが、それが寺社の別なく装飾された木鼻。
…実に興味深いんですが、おそらくは私ごときではその謎は一生解けないのだろうな。
本当は、附の『末社 機神神社本殿』についてを綴っていくのが流れなのでありますが…。
これを書いているさなかにも、いくつかの神社仏閣を参拝をしておりまして。
できれば感動も新たなうちに綴っておきたく。
と、いうわけで、いったん桐生天満宮さんについて調べたことについては中断して、…何から書こうかしら。
私は、御朱印帳は神社さん用とお寺さん用の二通りを用意して珍道中…神社仏閣を参拝させていただいております。
現在神社さん用として使っておりますのが寶登山神社さんでおわかちいただきましたもの。
満開の桜の描かれた美しい春バージョンのもので、寶登山神社さんを初めて参拝させていただきました折の記念すべきものでもあります。
その日付は 令和三年五月二十三日 登拝 と記されています。
その後いくつもの神社さんを参拝させていただき、御朱印もだいぶ増えておりますが、その最初のページからずっと空けてあった二ページ目に、ようやく新たな御朱印が入りました。
それは寶登山神社さんの奥宮のものであります。
以前、奥宮までの登頂を先に伸ばし、必ずや奥宮さんを参拝させていただくことを誓ってから、…実に二年以上の年月が流れてしまっておりました。(https://mikle.jp/thread/2982625/493/)
…でも結局、ロープウェイを使ったのですがね 笑。
【寳登山神社(ほどさんじんじゃ)】さんは埼玉県秩父郡長瀞町に鎮座する神社です。
山麓に里宮が、寶登山山頂に奥宮が鎮座します。
寶登山神社は今からおよそ千九百年の昔、日本武尊が東征のとき、寶登山山頂に皇祖の神武天皇、山の神、火の神を祀ったのが始まりとされています。
登山の途中では、山火事に遭ったところを神の遣いである山犬たちに助けられたという伝説があります。
尊はこの山を火止山(ほどやま)と名づけられ、〝神をお祀りするのにふさわしい立派なお山〟とされて、『神籬(ひもろぎ)』をお立てになり、
神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと=桓武天皇)
大山祗神(おおやまづみのかみ)
火産霊神(ほむすびのかみ)
の三柱をお祀りになりました。
これが寶登山神社の始まりで、その後『火止山』は霊場として栄え、弘仁年中に『宝珠の玉が光り輝きながら山頂に飛翔する』という神変が起こり、この吉祥事により山の名と神社の名が【寶登山】に改められ今に至るということであります。
現在の宝登山という名前の由来になっています。
寶登山神社さんの奥宮は、日本武尊が三柱の神さまをお祀りになったまさにそのお山に鎮座されているのであります。
いつものように運転してきてくれた夫が、シュッと駐車場の一区画に車を停めました。
目の前には寶登山神社斎館が見えています。
そして車の真後ろには『ロープウェイ駅登り口』(…とかなんとか)と書かれた立て看板があるではないですか!
「この前来たとき、そう書いてあった場所を覚えていて、ここがたまたま空いていたから」
…天才ではないだろうか?
我が夫ながらその記憶力に感動いたしました。
…それなのに何故、私が真剣に覚えていてと伝えたことは、すっぽり記憶から消えているのだろう、と今、これを書いていてふと思ってしまいましたが…。
…?
ほんの数歩登って、
「ほんとにこの道?」と思わず声に出してしまいました。
しかしながら、数歩しか登っていないため、先ほどの看板を見直せるくらい。(…間違い無いのか)
続いているのはそれなりに急な、しかも細い山の斜面であります。もちろん舗装とかはされていない土の道。
間違えてはいないことも確認したので、黙ってその道を進んでまいります。
…ただのハイキングコースとしか思えない道が続きます。
くねくねとした細い道です。
「ちょっとおかしくはない?」
「うん、間違ってはいないようなんだけど、おかしいと思う」とは夫。
「だって、ハイキングコースを登れない人が使うロープウェイって考えたら、あきらかにこの道はおかしいでしょ。老若男女、この道を歩いて登るの?」
「うん、そう思う」
珍しく意見があいました。
登って、登って。
曲がって登って。
しかも登っても登ってもロープウェイの駅は見えてはきません。
そんなに登ってのロープウェイの駅?
あきらかにこれハイキングコースでしょ?
…そもそも一番おかしいと思ったのは、ただの二人としかすれ違わなかったこと。
しかも、そのお二人、小さなロープウェイ駅への案内板の示めす方角ではない、もっと低地の横道から歩いて来ています。
いくら平日とはいえ…、ロープウェイ駅から降りて来る人も、後から来る人もいないって…変、なのでは?
うーん。
でもところどころ、小さいながらも案内の札があるのも確かな事実。
もう信じて行くしかない!
でも登っても登ってもロープウェイの駅らしいものの片鱗すら見えてきません。
く〜っ!
…いや別にハイキングコースを歩こうと思って登っているならば、不安も文句も浮かんではこないのですが、あくまでもロープウェイに乗ろうと駅に向かっているもので。
ヘアピンのように曲がりくねった道ということは、急な坂道を緩和したってことで、なんだかんだ結構登って来ていますよ?
うーん…。
おっ?
やっと山道の景色が変わりました。
なんだかやたらと狭い、そして結構な斜めな土地に何台も車が縦列駐車しています。
えっ?
ここまで車で来られたってこと?
やっぱり?
…でもそれにしては狭いし、この縦列駐車で交通整理の人もいないのはあまりに不自然です。
もしかして、従業員専用の駐車場?
で、でも、たとえ従業員の駐車場にしても、ロープウェイのお客様向けの駐車場にしても、これが合ったということは、間違いなくロープウェイ駅に向かっているということ。
よぉ〜し!
それはいきなり現れました。
ただ…観光地のロープウェイ駅にしてはその駅名等を表した文字等も見当たらず、入り口も小さな…なんだか質素な建物です。
入って行くとロープウェイの駅だけあって天井は高くて明るいものの、小さな、切符を購入する窓口とその横に少しだけ置かれた商品とがある、例えるなら小さな路線の昭和レトロな有人駅。
…まぁ、ロープウェイの駅ですしね。
ここ最近利用したロープウェイの駅が、平成にできたものだったから、比較対象が新しすぎたことが間違いなだけで。
…って。
寶登山ロープウェイの名誉のために、先に書いておきましょう。
ロープウェイで往復したのちに知ったことなのですが、珍道中ペア、正面入り口ではなくて、横からの入り口から入っていましたぁ。
…それは駅名も入っていなくて当然だし、入り口が狭くて当たり前。
さっすが珍道中ペア!
のっけからやらかしておりましたぁ。
切符は片道と往復があり、夫に聞くまでもなく〝往復〟を購入したおばさん。
…だって、熊とかイノシシとか、恐いじゃないですか。
マムシとか、スズメバチとか、マダニとか、恐ろしいじゃないですか。
とか言っておりますが、たぶんあのハイキングコースに、もはや歩いて下山する気力も削がれてしまっていたから、が一番の理由。
そもそもこの時点で、13時となろうというのに、私たちお昼ごはんがまだなのでありまして。
ま、正しい判断でしょう。…たぶん。
それでもおばさん、おそるおそる夫に事後報告いたしましたことから考えると、少しは〝歩いての下山〟も考慮すべきだったか?という反省もあったようで。…ほんの少しだけ。
ロープウェイは三十分おきに発車しているようで、あと十分で発車するという良いタイミングで到着したよう。
あと五分もないというタイミングになってようやくゲートが開きました。
思ったよりも小さな車両です。
(三十人乗りくらいかしら?)
座席自体は二十席もありません。
ところが。
何気に車内にある表示を見てびっくり!!
ご、五十人乗りぃ〜っ?
そ、それって、結構なギュウギュウ詰めなんじゃあ?
昭和の基準そのままなんでは?
いやいや、ましてコロナ禍、そんなには乗せないだろう。
…そう思いたい。
……ほんとに?
コロナ、もう第五類だし。
ま、平日だし。
発車時刻もあることだし。
ロープウェイの車内には次から次とお客さまが乗ってきます。
ほぼ立っての乗客を乗せ、運行開始。
五十人乗りに四十…数名くらいだったでしょうか、結構ギュウギュウです。
…平日でも観光客は多いものなのだなぁ。まだ秋の行楽シーズンでもないし、紅葉の季節にもなってはいないのだけれど、…考えることは同じってことかしら?
うーん、コロナ禍にあって、人の少ない…であろう平日を狙って来たという方々では無さそうで。
ただ単に今日がお休みであった方々とか、単に人の少ないだろう平日に訪れた方々であったようで、マスクを着用されている方はごく少数。
こんなに閉鎖され、しかも密着する空間なのに…今は、今はこうなんだなぁ。
もう、コロナ禍以前の光景にすっかり戻っているようです。
〝田舎のネズミ〟は、久しぶりに訪れた観光地という〝まち〟にびっくりです。
車両には、宝登山小動物公園にちなんで〝ばんび号〟と〝もんきー号〟という名前がつけられておりました。
可愛いサルの絵をパウチしたものが、後部の窓の中央下部に貼られています。
私はもんきー号に乗って宝登山山頂へ。
それでも私は車両の一番後の席に座って景色をたのしみながら乗車することができました。少し天気悪くて霞んでます。
春の花のころ、秋の紅葉のころには窓の下には絶景が広がっていることでしょう。
ちなみにロープウェイの乗車時間は5分ほどで、ちょうど真ん中辺りで、下車して来る〝ばんび号〟とすれ違います。
今眼下に見られるのはススキ。
まだ若い私の好きな頃のススキです。
高い樹はとにかく、このロープウェイの下は定期的に草刈りに入っているのでしょう、ちょうど良い景色を織りなしていました。
到着です。
出迎えのスタッフさんと搭乗スタッフさんがそれぞれ両サイドの扉を開けました。
下の駅よりほんの少しだけ小さな駅舎ですが、目の前に広がる明るい緑豊かな景色のせいでしょうか、なんだか下の駅よりも明るく、新しくさえ見えます。
広々とした広場のむこうには、日本武尊のお山が見えます。
…ま、まぁ、半ばまで登って来てるんですけれどね、ロープウェイで、ですが。
山頂駅の向かって左側には『宝登山 梅百花園』があります。
関東で最も梅の品種が多く、約170種・470本の梅が見られるそうです。
その梅百花園の看板の横には階段があり、寒桜・ロウバイと書かれた素木のいかにもこういったところに似合う小さな案内板が丸木の柱に打ち付けられており、その下に『宝登山神社奥宮 徒歩約6分』という案内も。
ずっと案内地図を見上げている夫に
「奥宮、ここを行くんだって」
と声をかけます。
名残惜しそうに地図板を見上げる夫。
私はといえばもう「奥宮、奥宮🎵」と声に出して歩きそうなくらい、テンションが上がっています。
(もちろん、決してそんなことを口に出したりはしておりません)
他の方々は舗装された見晴らしの良さそうな道を歩いていきます。
(いやぁ、まずは奥宮でしょ♡)
しかしながら…。
ここへ来てテンションがおかしいことになっている…わけではなくて、機嫌さえ良ければこんなテンションかもしれない、ごくごく奇しいおばさんで。
孫とお散歩するときなどはまずこんな感じで、川原など歩くときは歌まで歌って歩くくらい。
これ…そろそろ、改めないと孫にうるさがられるなぁと、最近はおとなしめに散歩するおばさんではあります。
閑話休題。
いやぁ♡、絶景かな絶景かなぁ。
秩父?長瀞の町が眼下に広がり、遠くには山々が連なっています。
いいねぇ♡
この風景、ひとりじめ、ですよ。
…なぜかまた、私ども以外に歩く人がはるか遠くに二人若者がいるだけ。
夫は遅れて歩いてくるので、まさにひとりじめの風景をしばし堪能します。
が…。
な、なんかですね、奥宮へとつながる道に行けども行けども出ないような光景か続いているんですけど…。
奥宮へ徒歩約6分って、書いてあったよなぁ…。
…実はこの案内の板、〝私しか〟見ていないんです。
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