神社仏閣珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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群馬県庁の近くに鎮座されます【前橋八幡宮】さんに初めて参拝させていただくことができました。
といいますのも、こちら、古くから鎮座されます神社さんであるが故に、どう検索しても駐車場が見当たらない。
県庁のそば、という土地柄、近くにパーキングがあるかとは思うのですが、実はこちら、一方通行の道路に囲まれでありまして。
もはや才能とすら思われる方向音痴の私、しかもナビのない車でこちらを目指そうものなら、ほどなく「メーデー」「SOS」を夫に向けて発信することが確定しているようなもの。
ナビのある夫の車でならと、ようやくの参拝となったわけでありました。
念のためまず八幡さまを目指してみました。
隣に比較的大きめな公園がありながら、八幡さまのものも、公園のものも駐車場がありません。
うーん、やっぱりそうかぁ。
…実はこの八幡さまのすぐ近くに私の主要バンクがありまして。
平日、こちらでいくばくかのお金を積んで、その銀行の駐車場から歩かせていただこうかとまで思ってまいりました。
でもやっぱり、気の小さい私はそれもできず、もう一回八幡さまの周囲を回り出したその時!
何やら立て看板があるのが目に入りました。
ん?
『前橋八幡宮にお越しの方、駐車場と社務所はこちらにあります』と書いてあるではないですか!
ただ、その地図がだいたんな絵で。
鳥居の絵の下に四角が書いてあるような素朴なもの。
ん?、ちょ、ちょっとこれだと推理が必要なんですけど?…いやきっとそれは私だけ。
鳥居の真正面にある細い道を直進すれば良さそうです。
その通りには昔ながらのたばこ屋さんがあり、しかも昔ながらの販売をしておられるよう。
感動です。
えっとぉ、社務所?駐車場?
駐車スペースのある建物は一つ、でも昔ながらの小さなビル、なんですが…。
間違ったかなぁ、地図(?)の見方。
いや、どうやらこの古い小さなビル…というには小さな、昭和中期にでも商い等のために建てられた建物こそが社務所のようです。
おそらくは元あった建物を神社さんが転用されたのでありましょう。
ごく普通のサッシの入り口を入ります。
建物を入ってすぐの陳列棚に置かれているものが御守り等でなければ、やはりちょっとした商いをされるお店のような佇まいです。
カラカラ。
サッシの戸を開けて社務所へと。
奥からごく普通のいでたちをなさった女性が出てこられ、対応をしてくださいました。
御朱印は数種類。
夏詣とか、前橋福めぐりとか、カラフルな限定御朱印もご用意されておられます。
変わった御守りは今年の干支のうさぎのぬいぐるみ守り。
ぬいぐるみといっても片手にすっぽり乗るくらいの小さなぬいぐるみです。ハンドメイド感のあふれる可愛らしいもの。
…八幡さまってこんな感じ?
私は普通の、通常版とでもいうのでしょうか、御朱印をお授けいただきました。
さあ、今来た道を歩いて鳥居の方へ向かいます。
石の鳥居をくぐると、大きくて、でもとても可愛らしい狛犬さまがおられます。
そしてその先、ひだりてに手水舎が。
高台に社殿が見え、石段を登ります。
こちらの神社さんの社殿は石垣で積まれた小山の上に建っているのですが、なんでもこの小山は『前橋九号墳』という古墳なのだといいます。
群馬県には大変古墳から多い。
この九号墳、古い時代に改修されたもののようで、元がどんな形の古墳だったかはわからないといいます。
現在の山の形からすると方墳…とも思われるのだといいますが、そうだとすればかなり大規模な方墳だったと思われる、そうです。
その古墳から出土したとされる【伯牙弾琴鏡】という銅鏡が宝物になっていると、石垣のところに写真付きで紹介されてありました。
『伯牙弾琴鏡』は、国内で十二枚出土しているとのことで、群馬県でほかに貫前神社にニ面あるといいます。
…まぁ、この『伯牙弾琴鏡』なるもの、私は初めてその名を知ったくらい、でありますが…。
石段を登ると、真正面に鉄筋コンクリート造りの社殿がありました。
前橋風土記によると【前橋八幡宮】さんは天安三・貞観元(859)年に、日本三大八幡宮のひとつである、京都の『石清水八幡宮』から勧請し、『在原業平』の子孫である『長野業重』により創建されたといわれているといいます。
また、『国府八幡宮』という一説もあるとのことで、いずれにしてもかなり古い創建であることがわかります。
戦国時代に越後の地より来た『北条高定・高広父子』がこの地を支配します。
八幡宮に土地寄進状・諸役免許状を出した際、「当地厩橋八幡宮」と記載され、この『厩橋』という言葉が『前橋』の地名の由来となったといわれています。
前橋八幡宮を代々の城主が崇拝し、庶民も同じように崇めてきた神社さんであります。
前レスでの写真は、こちらの境内にあった『サンゴジュ』という木だそうです。
初めて(…たぶん)見たのですが、きれいな紅い実のたわわに実る木でありました。
境内に『達磨御焚上発祥之地』と書かれた石碑がありました。
おお、こちらがダルマのお焚き上げを最初に始めた神社さんでしたか。
前橋の年の初めを飾る『初市まつり』通称『だるま市』はこの八幡さまで行われるもの。
なんでもだるまや縁起物など多くの露店が並び例年多くの人で賑わうといいます。
この初市の起源は元和三(1617)年に開かれるようになった六斎市であるとされているといいます。
日常雑貨の市と正月の生糸の市が融合した市がこの初市の起源と言われているのだそうです。
厩橋(前橋)城主、【酒井重忠】候の時代から四百年以上続く伝統行事なのだといいます。
この祭りの幕開けは八幡宮境内で執り行われる神事で、その後、一年間の役目を果たして持ち込まれた古いだるまを燃やす『お焚き上げ』の供養が始まるといいます。
この火に当たるとその年の一年、無病息災の御利益があるとされています。
八幡宮の公園があまり何もなくただ広い空間に見えたのはこの為でしょうか。
青々とした緑豊かないかにも心地よさそうな、憩いの場といった感じの公園で、この日も熱い日でありましたのに、長いことベンチに座る方もおられ、どちらかというと大人の方たちが多く来られる公園のようです。
拝殿のみぎてに並んで【美保大國神社】さんが鎮座しています。
その手前には、新しそうな『百度石』とされるものが置かれていました。
…お百度参りに使うもの、なのでしょうが、使い方などは一切書かれてありません。
数字が刻まれているわけでもなく、たしか方位が刻まれていたような…。
ここを起点として百度繰り返し繰り返しお参りする石、なのでしょうが、本当に起点でしかないように見受けられました。
石を置くとかいう場所があるわけでもなく、そろばんのような数を覚えておく何かがあるわけでもありませんでした。
私などは十回あたりから何度お参りしたのかわからなくなりそうな…。
お百度石の方位の刻まれた(…たぶん)その中央部には御守りが一体置かれていました。
ただ…。
このお百度石、どちらかというと美保大國神社さんの前に置かれているような…。
八幡さまにお参りするにはこの石を回ってL字にお参りすることになります。
美保大國神社さん用?
うーん、もしかしたらあまり広くはない社殿のあるところに設置にあたり、ここにしか設置できなかったのかもしれません。
こちらは明るい、開けた心地よい気の満ちた、何度も来たい神社さんでありました。
…何度かナビのある車で来れば、覚えられ、来られるようになる気がいたします、…たぶん。
まぁ、この人混みの嫌いなおばさんは、間違いなく初市、ダルマ市には来ないでしょうが、ね。
そもそもがこちらの駐車場、十台は停められなかったし…。
えっ?
そういう時には特設の駐車場があるはず?
いやいや、本当に人混みや、並ぶこととか好きではなくて…。
…再拝、できるといいなぁ。
そうそう、ダルマといえば…。
群馬県はダルマの生産量、出荷量が日本一。
高崎の縁起だるまが有名です。
まぁ、私、そんなダルマで有名な群馬県に住みながら、いまだかつてダルマを購入したことは一度もありませんが。
ちらっと頭をよぎったのは、(達磨さんって、元々は仏教僧なのでは…?)と思ったこと。
まあ、ここでのダルマ市が始まった頃は江戸時代。
神仏習合の時代ですし。
お祭り、で、市、ですからね。
ここで訂正したいことがありました。
社務所の戸はカラカラっと開けるサッシの戸、ではなくて、大きな丸い押し手の付いたガラスのドア、でありました。
お詫びして訂正いたします。
この日はやはり以前から参拝に行きたいと思っていた群馬県前橋市に御鎮座される【飯玉神社】さんへ参拝させていただきました。
実はこちら、団地内にあるかのように見受けられ、団地間の駐車場と駐車場の間に参道があるのです。
その参道もあまり広くはなく、奥に駐車場があるかどうかも、やはり団地に囲まれているせいで、境内の様子がまるでわからない。
路上駐車もむずかしく、近くに大きなショッピングモールやスーパーなどもありません。
前を通るたび、心惹かれつつも参拝できないことを心の中でお詫び申し上げ通りすぎておりました。
こちらの神社さんの存在に気づいてから実に五〜六年。
まさにようやくの参拝でありました。
実はこの辺りに住む方とたまたまお話しする機会があり、「駐車場がなくて参拝したいと思っているのだけれど…」と申しますと、
「ああ、あの入り口から入って行けば駐車場あるんですよ」
とおっしやるではないですか!
実はかつて、すぐそばに路駐してその参道の様子を見てきたこともあったのですが、車一台通れるくらいの感じは見てとれたものの、その先駐車場という感じは無く見え…。
心惹かれるという事はなんらかのご縁があるような気がして、ずっと心に引っかかっておりました。
そうなんだ✨。
と、いうわけでようやくの参拝。
考えてみればここ何年かはさまざまな御朱印を出されていたりで、ということは参拝の方が多い、という事で、なんならお電話差し上げて聞けばよかったのですよね。
教えてくださった方によると「無理やりいく感じで行くと駐車場があるんです」と。
…神社さんに無理やり突入するのもなにかな…とは思ったのではありますが、たしかにちょっと無理やり感がいなめない。
大きな御神木を見上げる形で、ガクンという段差を乗り越えて。
…駐車場とはあまり言えなそうな、停めさせていただいていいのかな?というスペースがありました。
停める位置、方向等、しばし悩みながら、ようやく、…まさにようやく【飯玉神社】さんに。
先日、とある方に言われた一言を引きずり、重い気分で過ごしています。
何日経ってもどうしても気持ちが晴れず、こんな時頼りにしている方を頼ってお電話を差し上げてしまいました。
…他人の愚痴など聞きたくはない、ですよね。
わかってはいても苦しくて…。
『愚痴』の『痴』は〝ヤマイダレ〟に〝知〟。
仏教では凡夫の智慧を仏の智慧と区別して『識』というのだといいます。
ものの道理をわきまえないから、いろんな悶え、悩み、すなわち『煩悩』がうまれ、『愚痴』はものの真理を知らないから起こるのだと、そう説いています。
たしかに。
歩く煩悩おばさん、歳ばかりとってものの道理、わきまえていないなぁ。
でも、その、私が言われてずっと引きずるような一言を夫に伝えたところ、激怒しておりました。
私たち夫婦とはことごとく考え方や生き方が異なる御仁であるようです。
毎日お唱え申し上げている『般若心経』に説かれている『空』。
少しも理解していない証です。
まぁ、理解できてこの世を去るとも思えないのですが、もう少し、素直に、純真に生きたら、その真理に近い生き方となるのだろうなと思うには思うのです。
要は穢れている。
罰があたっている?
その方と出会うべくして出会っている?
嫌な思いをして何かを学ぶ?という事なのでしょうか。
うーむ。
修行、だな。
あー、でもやっぱり嫌だぁ。
その方の理不尽な言葉も、その方も。
煩悩おばさんの独り言、でありました。
煩悩から生まれた愚痴という名の…。
などと。
前レスを書いてしばらくして。
仕事の休み時間の息子から電話がありました。
「宅配、届いた?あれ、開けてみて」
と、それだけ。
開けてみると。
だいぶ前に欲しいと言っていた南部鉄の風鈴でありました。
息子にはそんな私の内情など一切伝えたりはしていないのですが、どこか暗い様子を感じとったのでしょうか。
その音色がまたなんとも素晴らしい。
私の心の憂さなど洗い流すかのような澄んだ高い音色です。
しかしながら本日はあいにくの無風。
手に持って鳴らし仕事から帰宅した息子にその音色でお出迎えしました。
いまだに30℃を超える室温でありますが、今日は心地よい眠りにつけそうです。
あらためまして、群馬県前橋市に御鎮座されます【飯玉神社】さんに話を戻します。
…と申しましても、実は【飯玉神社】さんは前橋市だけでも六社ある神社さん。
飯玉神社さんは【保食神】さまを祭神とする神社であります。
この飯玉神社の総社は群馬県伊勢崎市堀口町にあり、正式には『那波総社飯玉神社』と言うといい、上野国(群馬県)・武蔵国(埼玉県・東京都)などに存在する『飯玉神社』・『飯福神社』の総本宮であるといいます。
と申しましても、群馬県内でも飯玉神社さん、あるいは飯福神社さんの鎮座されている地域は限定されているようで、伊勢崎市、佐波郡玉村町、太田市、前橋市、高崎市、藤岡市と限られた地域にお祀りされているようです。
ナビに入力しても前橋市だけで六社あるため、どちらの飯玉神社さんをお参りしたいのかを明確にしないと、参拝先で(…?)ということになるかもしれません。
とはいうものの、私の場合、いつもそばを通りながら、車を停めるスペースの問題でなかなか参拝できずにおりました、前橋市広瀬町に御鎮座される飯玉神社さん、ですので、場所に迷うことは(滅多なことでは)ありません。
ここになら車を停めていいであろう。
境内の片隅に車を停めて。
車を停めたところから右側に鳥居がみえ、正面には御神木が見えます。
鳥居を目指します。
鳥居の前で深く一礼し、…ん?
ん、ん〜っ?
…大きな狛狐さまが参道左右におられます?
こ、狛狐さまって…どういうこと?
私は軽くパニックです。
私、長いこと神仏に関わることなく生きてまいりましたばちあたりなおばさんですので、神さまのこと、仏さまのこと、存じ上げないことがほとんどで。
なのでせめて、今日これからここ、こちらの神社さんに参拝させていただこう、という時には、ネット等を使って主祭神さまは調べていくこととしております。
…とはいえ、あまり調べてしまいますと、なんだかその初めての参拝に心弾むものが少し削がれてしまいそうで、場所と主祭神さまを調べるにとどめるようにしてはいるのですが。
えっ?
飯玉神社さんって稲荷神社さんなの?
いやいや、こちらの前橋広瀬町の飯玉神社さんのホームページを開いたのです。
間違いようがありません(…たぶん)
もう一度見上げ直します。
…やっぱり狛狐さまで。
しっかりしたガタイの、大きなおキツネさまであります。
ええっ?!
ま、まぁ、飯玉神社さんの主祭神は保食神さまであることは間違いなくて(おそらく)、そもそもが主祭神さまがどなたでも、私のお参りの仕方が変わるわけでもなく。
いざ、ゆかん、飯玉神社さんの拝殿へ。
こちら前橋市広瀬町の『飯玉神社』さんは、四世紀頃の東日本最古の『前橋天神山大古墳群』の中心に位置し、こちらの社殿自体も一古墳上に鎮座しております。
古代、この地方一帯は大豪族『上野毛』氏の領地であり、豊かな田園が広がり、東国の一大文化圏でありました。
平安時代、朝廷により記録された『上野国神名帳 』にある『毛野明神』とはこちらであったであろうと言われています。
この辺りは『後閑郷』と呼ばれ、非公田の土地であったといいます。
『後閑』とは有力豪族が都に上り、朝廷に仕え、退官後、郷里に帰り先祖の墓所の近くの土地で、閑に暮らす地名と云われています。
それゆえ、こちらは【後閑飯玉神社】ともいわれます。
室町時代初期、関東地方を襲った台風による大洪水及び、幾多の天候不順のため凶作が続いたといいます。そんな困窮の中、藤原氏一門の所領地(利根庄)に祀まつられている『五穀豊穣の神』【保食命(うけもちのみこと)=宇気母智命(うけもちのみこと)】さまを新たに合祀して、稲魂(いなだま)を語源とする【稲玉明神】と改称されたといいます。
以上が広瀬町の飯玉神社さんのホームページに書かれた御由緒であります。
いつの頃から〝飯玉神社〟を名乗るようになったかはその御由緒では触れられておらず、その辺りは不明であります。
境内社としてお祀らされている【霧島稲荷神社】さんは飯玉神社を名乗る以前から御祀りされていたようです。
というわけで、たしかに、古くから境内社には〝稲荷社〟がお祀りされていたようです。
さらには、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)さまが食物神であらせられることから習合するようであります。
また、伊勢神宮の外宮に祀られる豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)さまとも、食べ物の神さま、農作物の生成を助ける力をお持ちであることから習合される=同一視されることがあるといいます。
そして。
やはり穀物の女神『宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)』さま=稲の神さまということから、稲荷神と習合、同一視されることもあるといいます。
なるほど。
それで狛狐さまでありましたか。
社殿は石段をのぼった先になります。
こちら前述したように一古墳の上に建ち、天神山大古墳群と呼ばれる古墳群の中央に位置しています。
その様子が石碑にされて境内に建てられていますが、実際、この辺りは少し移動するだけで、(ああ、ここも古墳だな)と、こんな歴史オンチなおばさんでも一目でわかる、大小の小高い丘があちこちにあります。
こちらの北には国の史跡である『八幡山古墳』。
そしてここ辺りが市の史跡である前橋天神山古墳。
南にはいずれも市の史跡である『亀塚山古墳』と『金冠塚古墳』、そして『文珠山古墳』があります。
吉永小百合さんが出演したJR東日本『大人の休日倶楽部』のテレビコマーシャルに登場した『大室古墳群』も前橋市にあるものであります。
この飯玉神社さんへと訪れる前に参拝させていただいた、前橋八幡宮さんもやはり古墳の上に。
前橋市もですが、太田市なども古墳が多くて、なんでも昭和十(1935)年に行われた悉皆調査では、県内全体で実に八千四百を超える古墳が記録されているといい、吉永小百合さんのCMでは一万三千基とおっしゃっていました。
CM内で「古墳王国群馬」という台詞があったくらいですので、全国的にみても数の多い方なのでしょう。
今は…全国的には知名度の低い群馬県ですが、かつては栄えた時代もあったようです。
石段をのぼった先には、明るくてとても穏やかな気持ちになる気があふれる、明るい拝殿がありました。
明るい、といっても照明で明るい、という意味ではありません。
…まぁ、照明もつけられていて明るく拝殿の内をすみずみまで見渡せる社殿ではあるのですが…。
そうそう、拝殿前にも先ほどの狛狐さんよりは小ぶりの狛狐さんがおられました。
初めて参拝させていただいたお礼を申し上げて。
みぎてに回って、本殿を横から拝して手を合わせました。
ここでいったん石段を降り、いったん社務所を目指します。
…そう、御朱印のお授けをお願いするため、です。
神社さん自体は二十四時間敷地に入る事ができますが、御朱印は早いところだと十五時には閉めておられる所もあったので。
御朱印の種類は多そうです。
夏ということもあり『夏詣』のもの。
前橋福めぐりという八ヶ所の神社さんを巡るというイベント用のもの、等々。
限定御朱印もあるようです。
ここはシンプルに通常のものを。
さて再び石段をのぼり、他の境内社をお参りいたします。
拝殿ひだりてにまわると赤い鳥居があり、この鳥居の先にあるのは『霧島稲荷社』です。
全体が赤い可愛らしい気を醸し出す社殿であります。
なんでもホームページによりますと飯玉神社の御本殿を守り、悪いものが外から入ってくるのを防ぐため北東(⻤門)の位置に鎮座しているのだといいます。
そして古墳で使われていた岩の間に神の使いである狐が住み着いていたこともあって、今現在の位置にお祀りしたと伝えられます。
ちなみに稲荷社本殿の中に岩が当時のまま残っているのだとか。
再拝の折にそおっと覗いて見させていただきましょう。
そうそう、お授けいただける御朱印の中にはこちらの『霧島稲荷神社』さんの御朱印もありました。
【宇迦御魂神】さまが祀られており、農業・商工業・諸産業繁盛の守護神、家内安全・諸願成就・開運の守護神とされています。
と、いうわけで。
『飯玉神社』さんはあくまでも主祭神は『保食神(うけもちのかみ)』さまであり、境内社の『霧島稲荷神社』さんに『宇迦御魂神』さまはお祀りされています。
【保食神】さまは食物等の農耕の神さま。
『日本神話』には、食物の起源と農耕濃の起源の話が多くあります。
この中に保食神さま、大宜都比売神(おおげつひめのかみ)さま、和久産巣日神(わくむすびのかみ)さまなどが登場されます。
人間が生きていくのに食べ物は欠かせないもの。
まぁ、当然といえば当然であります。
ところで。
実は保食神さまは『日本書紀』にのみ登場された神さま。
そこにえがかれたエピソードが酷似していることから、大宜都比売神さまと同一視されることもあるということのようです。
保食神さまの〝ウケ〟と大宜都比売神さまの〝ゲツ〟は、食べ物の意味。
この共通点からもこの二柱の神さま、同一の神さまとされるようです。
その、日本書紀に、しかもただの一度だけ登場される保食神さまの神話について。
天照大御神に命じられた月読命が保食神さまのもとを訪ねてきた時に、保食神さまはその能力を使って食べ物をご馳走されました。
その能力というのが、
ご自身のお口から大地に向かってご飯を、
海に向かって魚を、
山に向かって獣類を出す、というもの。
これを食卓に盛り付けてもてなしたのでありましたが、月読命さまは口から出した汚らわしいものを食べさせるのかとお怒りになられ、保食神さまを切り殺してしまわれました。
この話を受けた天照大御神さまはたいそうお怒りになられ、月読命さまを決別することになります。
これが、一日に昼と夜が訪れるようになったという神話となっています。
天照大御神さまは太陽神で昼の世界を表し、月読命さまは月の神さまで夜の世界を表します。
太陽が隠れないと月は出ない、月が隠れないと太陽は出ないので、今でも二人は決別されたまま、ということになります。
宇宙レベルの兄弟喧嘩、とでも申しましょうか。
そんな『保食神』さまのご利益についてでありますが、保食神さまは食べ物やお蚕の起源であるとされていることから養蚕や農耕などのご利益があるとして知られます。
同様に穀物についてのご神格があるとされている宇迦之御魂神さまと同一の神様と考えられることもあり、稲荷神社に祀られていることも多いようです。
ご利益
農業・漁業・養蚕・狩猟守護、航海安全、出世、開運招福、厄除けなどがあげられています。
飯玉神社さんの御本殿の左横に建てられております『淡島神社』さん。
白木のような色の塗られた鳥居と、可愛らしい雰囲気の社殿であります。
…はて?
淡島神社さんの御祭神は…どなたでしたでしょう。
淡島神社という名称の神社さんへはいまだかつてお詣りしたことがないと記憶しておりますが、『淡島さま』というお名前には覚えがあります。
同じく前橋市にあります徳蔵寺さんの境内に祀られていた女神像が〝淡島さま〟と呼ばれているものであったと記憶しております。
たしか、女のひとの…婦人の病とかに御利益があるとかで、近隣の女の方たちが建てた物だと記憶しています。
その淡島さま?
ブ、ブーっ。
こちら飯玉神社さんのホームページによりますと淡島神社さんの御祭神はあの【少彦名神】【少彦名命】さまであるとのことでありました。
あの大国主命さまと国づくりの旅をなされたあの少彦名命さま。
お身体がたいそうお小さい、けれどたいそう知恵に富み、病を無くされるためにご尽力なされたという神さまであります。
私、子供の頃、この国づくりの旅をなされたくだりのお話が大好きでありまして。
ガガイモの実の舟に乗ってお越しになるところとか、楽しそうにお二人で(…二柱さんで?)旅をされるご様子とか、今でも当時読んだものを思い出すことができるくらいです。
なので、神仏に関わることなく生きてきたおばさんではありますが、この少彦名命さまは大好きでありまして、…なのに『淡島神社』といえば少彦名命さまを祀る神社さんだということ、こちらに詣でるまで知らずにおりました。
こちらのホームページに書いてありますことに
少彦名命さまは安産、子育て、縁結びの信仰が深い女性の守護神であるとされています。
そしてさらに、
『少彦名神は医療の神様としても知られおり、神話の中で国⺠や家畜の病気を治すための方法を定めたとされ、医療・医薬の御利益があるともいわれています』
と書いてあります。
…女性の守護神であらせられたんですね。
私がいつもこちらの前を通っては、気になっていたのは…神さまがそのことをお教えくださるため、だったのでしょうか。
これからこの道を通ることがあったらぜひ飯玉神社さん、参拝させていただきます。
今、続きを綴ろうと、過去レスを見直していて、大きな間違いに気づきました。
それは『霧島稲荷神社』さんの位置。
拝殿むかって〝ひだり〟と書いていますが、〝みぎ〟〝右〟であります。
お詫びして訂正いたします。
拝殿むかって左側の手前にあるのは『天満天神社』、天神さまでありました。
語るまでもなく管原道真公が祀られております。
道真公だけに私に間違いを正す機会を与えてくださったので気がいたします。
神さま方にまことに申し訳ない。
これは再拝のあかつきに、あらためてしかとレポートいたしたいと思います。
これだけ書いておきましょう。
飯玉神社さんの境内に入ってすぐのところに、御神木である推定樹齢五百年の二本のクスノキが力強く根を張り、空に向かってそびえ立っています。
見るだけで、そばを通るだけでパワーを与えてくれます。
寄り添うように聳そびえ立つ木々であることから、夫婦和合、良縁成就の御利益があると言い伝えられ、その間を通れば御神木のパワーがお頒かちされ運が開けて大成するという御利益が得られるそうです。
私は今回、この木の間をくぐることはしなかったのですが、再拝の折に、くぐらせていただきましょう。
…夫の前で夫婦和合のご利益のあるという御神木のくぐるのもなんだなぁ。
ひ、一人でだな、次回の参拝は。ウンウン。
ちなみに。
こちらの神社さんのホームページで毎日一回、御神籤をひくことができます。
昨日初めてひいてみました。
神社さんの御神籤だけあり、〝大吉〟〝吉〟とかの結果だけでなく、そこに書かれた御神託がたいそうありがたかったです。
毎日無料で…。
…なんだか申し訳ないようです。
昨日は二十四日ということで、お地蔵さまの御縁日。
ですが、その地方のお盆の月に当たる御縁日は【地蔵盆】と呼ぶのだそうで、お寺さんでいただく暦にもしかとそう書かれています。
しかしながら、私の住まう辺りではとりたてて地蔵盆という行事をすることはありません。
そもそもがどういった行事であるかも知らないくらいです。
ただ…。
昨年、群馬県桐生市にあります『日限地蔵』で有名な【観音院】さんに参拝した際、そのワードを聞いた記憶がありまして。
今年も桐生市の観音院さんの御縁日にうかがってみました。
…いつも通りの御縁日です。
とくだん変わりは無いように見受けられます。
ただ、昨年に引き続き今年もお子さんに向けてのスタンプラリーを開催しておられ、ゴールは御本堂内、というのも昨年と同じ。
夏休みということで、お子さんに向けてのイベントもされるのだなぁと、こちらのお寺さんの入り口の広さにあらためて感動いたしました。
ん?
「今日は地蔵盆なので、スタンプを集めると御本堂でお菓子がもらえるよ」
仁王門の内側でお子さんにスタンプ用紙を渡しながら、係の方がそうおっしゃっています。
えっ?
…境内で、その他に変わったことといえば、きれいな『地蔵盆』と書かれた提灯が地蔵堂の前に掲げられていることと、小さな短冊になにかを書くようなコーナーがあったこと。
地蔵盆って…なんでしょう?
観音院さんのInstagramを覗いてみましたところ、
『地蔵盆とは、子どもたちの健やかな成長を願う特別な縁日』
と書かれていました。
なるほど、そういう…。
だから子供限定のスタンプラリー、というわけなのですね。
別に夏休みだから…というわけではないようです。
でも、これだけだとあまりよくわからない。
さあ、困ったときはGoogle先生。
【地蔵盆】とは。
京都を中心とした近畿地方で盛んな、お地蔵さんを祭る行事。
地蔵盆は地蔵祭、地蔵会(じぞうえ)とも呼ばれ、地蔵菩薩さまの縁日と関連する行事のこと。
子どもたちの健やかな成長を願う行事として、京都を中心とする近畿地方で盛んに行われ、他に北陸地方の一部や九州地方の一部などでも見られます。
…おおっ!
私が知らないだけ、ではなくて、主に京都、近畿地方で盛んな行事、なのですね。
なにかいわれでもあるのでしょうか。
地蔵盆が関東地域に定着しなかったのはなぜかについても、きちんと書かれておりました。
それは地蔵信仰の歴史の違いから、とのこと。
京都ではすでに室町時代から地蔵盆が大流行していた一方、東京では江戸時代になってようやくお地蔵さんがつくられるようになだだということで。
観音院さんのようにお寺さんが主催なさる行事であればいざ知らず、地域の人たち主体で行われるとなると、たしかに既存のお祭りがあり、なかなか新たなお祭りを立ち上げるのも大変なことでありましょう。
また、関東ではお稲荷さんの信仰が流行っていたために地蔵盆が定着しなかったという説もあるようです。
地蔵盆は 子供が主役、というのはどの資料を見ても同じです。
ただ、京都ではお地蔵さまは町内ごとにあり、古くから街角におかれたお地蔵さんがその町を守ってくれると強く考えられていたといいます。
ということで、地蔵盆というのは町内や地域ののお地蔵さまを供養するお祭りであるようです。
地蔵盆でお地蔵さまを供養することで、
・子供の健やかな成長を祈る
・町内に悪いものが入り込まないようにする
・町内の火災などが起こらないように祈願する
そういった〝お祭り〟であるようです。
お地蔵さまは、子どもの守り佛として古くから信仰されております。
それは「西院の河原稚児御和讃(さいのかわら おさなごごわさん)」 というものに言い伝えられています。
親よりも先に亡くなった子供は、三途の川のある賽の河原で石を積み上げるのですが、そこに鬼がやってきて棒や鞭を使って子供が積み上げたが子供たちを見守り、鬼から守ってくださるされています。
そのことから 「地蔵菩薩さまは鬼から子供を守る」 と、されているのです。
また、地蔵盆のはじまりとして、小野篁が関係しているという説もあります。
小野篁とは平安時代に京都に住み、宮廷に使える役人でした。
才知に富んだ優秀な人材であるにもかかわらず、かなり苦労を強いられてきた人でもあったといわれます。
そんな小野篁ですが、実は夜にはあの世に行き、閻魔大王の補佐を務めていたといわれています。
京都市東区の六道珍皇寺というお寺にある井戸からあの世へと行き来したとされています。
その井戸は今もお寺の一角にあります。
ある日、いつものように井戸からあの世にいった小野篁は、閻魔大王が死者の代わりに自ら炎に包まれ苦しんでいる姿をみて、たいそう心を打たれました。
そして そんな閻魔大王を救済するためにせめてもの供養をと行ったのが地蔵盆の始まり という説です。
どうして閻魔大王の話から地蔵盆になるかと言いますと、 実は閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされているから、なのです。
地蔵盆ではそんな閻魔大王の化身であるお地蔵さまを供養しているのです。
なお、小野篁は地獄で会った地蔵(閻魔大王の化身)を再現し、六体の地蔵を作り、六地蔵という地域のお寺に安置したあと、京都市内の六つの寺に安置したと言われています。
地蔵盆はそんな 慈悲深い閻魔大王の化身であるお地蔵さまを供養するため ともされているのだといいます。
地蔵盆の主役は子どもたち。
そのため、地蔵盆は大人ではなく子どもが主体となって催され、お地蔵さまをさまざまな方法で供養するのだといいます。
地蔵盆は地域によって独自の風習があるといい、たとえば子どもがいない地域などでは、年配の方だけで開催しているところもあるといいます。
…これは昨今の事情からは考えられることでありましょう。
古き良き慣習が踏襲されていることが何よりありがたいことと感じます。
まず地蔵盆が近づくと、お地蔵さまを洗い清め、前掛けを新調するといいます。
ちなみにお地蔵さまの前掛けが赤いのは、あの世で子供が迷子にならないようにと言われているといいます。
お地蔵さまに白く化粧を施したりすることもあるようです。
お地蔵様のお清めは、子どもたちだけで行う地域や、町内のみんなで協力して行う地域などさまざまなのだといいます。
お供えの食べ物や花のほか、子どもの名前が書かれた提灯などは大人が用意することがほとんど、ですが、子どもたちにいろいろ計画させ実行させるといった地域もあるようです。
紅白の提灯を飾るのだといい、その提灯には子どもの名前が書かれているといいます。
提灯に書かれた子どもと地蔵菩薩との縁を結ぶ という意味です。
その年に生まれた子どもの名前を書いた提灯を作り、それを毎年地蔵盆に飾るといった地域もあるといいます。
…観音院さんの地蔵盆にも提灯が飾られていましたが、名前が書いてあったかどうかまではみなかったなぁ。
あ、そもそも赤白青の三色の提灯だったような気が…。
お地蔵さまの赤い前掛けが新調されていたかどうかも、全く記憶しておりませんでした。
うーん、これは来年の課題です。
スタンプラリー以外はいつも通りの御縁日だったような…。
むしろ歩行者天国となる沿道に、たった二つ、乾物の露天商の屋台しか無くて、閑散としていて、とても寂しかったです。
少し前まで平日でも鯛焼き屋さんやベビーカステラ屋さんくらいは出ていたのに。
…夏休み、なのになぁ。
それでも。
スタンプラリーに参加していた小学校中学年〜高学年の男の子が御本堂に入らんとするとき、誰にいわれることも無く、被っていたキャップを外して深く一礼してから御本堂の敷居を跨いだことに、私は深い感動をおぼえました。
この子には仏心が確実に育っているのだなぁ。
群馬県みどり市の『はねたき道了尊』さまの月の御縁日に参列させていただきました。
だいぶ記憶力の低下している私ではありますが、年に六回ほど伺っていると顔見知りの方ができるもので。
そんな中、毎年学校の休みの日が当たるとお母さんと一緒に参列する小学生の男の子のご兄弟がいます。
お母さんはいつ参列してもおられるくらいに熱心にこちらに通われておられる方です。
(また大きくなったなぁ)
別段とりたてて話しかけるわけでもないので、お子さんたちは私のことなど覚えてはいませんが、遊びたい盛り、しかも暑い最中に、嫌がることなくこうした法要に参列することを嫌がることなく、素直に参列する姿を見ていると心洗われるような清々しい思いがするのであります。
きっと光榮寺さんの檀家さんなのでありましょう。
お母さんの仏心がお子さんの仏心を育んでいるのです。
仏という目には見えない存在を信じる心、敬う心。
それがどれだけ子どもの心の成長を育むことか…。
私にはできなかった子育てのかたちで、なんともありがたく、そしてちょっぴり(だいぶ)羨ましく思うのであります。
参列者皆で『般若心経』を御唱えするのですが、二人ともしっかりと御唱えできていました。
ぽつんとこうした行事にだけ参列しているわけではなく、毎日のお勤めが家族みんなで行われている何よりの証です。
わが家の子どもたちは親から一切そうしたことを教えられることなく育ちましたが、人として知るべきこととして自分の力で学んだのでありましょう、たまに神社仏閣に一緒に参拝しても、しっかりとお参りの仕方、作法を身につけていました。
…ありがたかったです。
本来、こうした育て方がしたかったと、今さら思っても詮ないことで、でもそうした思いを持って生きてきてくれていたことに感謝しかありません。
相変わらず仏教徒でもなければ神道でもない私ではありますが…。
頼るでなく崇めたい。
いつも神さまや御仏を崇め敬う心を持っていたい。
そう思い日々を暮らす私ではあります。
こちらのはねたき道了尊堂は、群馬県みどり市の光榮寺さんの境外堂。
毎月の御縁日にはご住職さま、副住職さまが揃ってお越しになられ法要を営まれます。
私が知る限り(決して皆勤で参列できているわけではないので、あくまでも参列したとき、ですが)、ただ一度だけ、ご住職さまが欠席なさったことがありました。
それは今年、ご住職さまが大僧正になられ、真言宗智山派の大本山に行っていらしたとき。
仏教に(も)詳しくはない私ではありますが、大僧正というのが位の高いものであることくらいは知っております。
その大僧正の授与式に同行されていた副住職さまから、『阿闍梨餅』なるお土産をいただきましたことも記憶に新しいことであります。
阿闍梨もたしか偉い僧侶を指すことばだったと記憶しております。
でも実際にどう使うものであるかは、さっぱりわからず。
そういえば副住職さまも昨年か今年かに、衣の色が緑から紫へと変わっておられます。
これは副住職さまも位が上がられた?
まぁ、きっと宗派宗派できまりが異なるものでありましょうが、ほんの少し調べてみました。
(高崎市の花火大会で)
…ま、まぁ。
大僧正さまというのが一番偉い僧位であることは間違いないようです。
衣の色で僧位がある程度わかるというのも間違いなくて。
なにしろ十五とか僧位があるようですので、それをいちいち書いても仕方ないことですし、何より私が、私本人が覚えきれない。
赤色 [緋色(ひいろ)] 大僧正
紫 色 僧 正
緑 色 [萌黄] 僧 都(そうず)
黄 色 律 師
とんでもないくらいに端折って書くとこのようになるようです。
はねたき道了尊の御堂で。
ご住職さまと副住職さまは、黒の衣でお越しになられ、そののち、お二人とも紫の衣にお着替えになられます。
毎回毎回そうされます。
…紫の衣で直接ここに来てはいけないのかなぁ。
毎回毎回こちらの境内にある四阿で、持ってきた風呂敷から取り出してお着替えになり、法要に臨まれます。
うーん。
…今度お聞きしてみようかしら。
ちなみに大僧正さまになられてもご住職は紫の衣であります。
どうやら緋色の衣は管主さまがお召しになるもののよう。
さらには。
木蘭(茶木蘭)は他寺に出向いて助法を行うために準備するもの。
黒衣は得度式、加行、寺院関係者の葬儀や法事で親族にあたる場合に準備する。
その他自分のお寺で着るのであれば、自身のものと異なる僧階色でなければ、原則として何色を使っても良いとのことで。
うーん。
お坊さん、衣一つとってもいろいろ決まりがあって、衣も多く大変です。
しかも夏の衣は絽と紗のものとか着物の決まり事もあるだろうし。
なにか下世話なことを口走りそうなので、今日はこんなところで。
前橋市の飯玉神社さんの『開運招福デジタル御神籤』をひかせていただくのがいつしか習慣になっておりました。
未熟者なので〝凶〟が出るとへこみます。
実はデジタル御神籤、凶は出ない設定なのでは、と勝手に思っておりましたが、いやいや、どうしてどうして。
しっかり凶も出ました。
凶が出たからといってひき直しはできません。あくまでも一日一回、であります。
この御神籤の御神託が、デジタルでありながら心に響く、響く。
ちなみに昨日が〝凶〟。
…たしかに夫と全てが行き違い、すれ違いで、あまり良い日でありませんでした。
夫は言い出したら聞かないし、曲げないし、何より謝ることが大嫌い。
最近はまず私に対しては絶対謝らない。
何かもう的外れな言い訳で押し通そうとする。
感謝の言葉も口にしなくなり、密かに認知症では?と疑い、心配もしているのですが…。
閑話休題。
本日は〝大吉〟。
いきなり気分上々の私であります。
このデジタル御神籤の〝大吉〟の画面をスマホに保存して、飯玉神社さんの社務所に提示いたしますと、
なんと、特典としてさらにその場にてデジタルおみくじ特製『開運招福くじ』を引くことができるのだといいます。
大吉の出た今日、その勢いのまま、飯玉神社さんへ参拝した方が良いかしら。
私は檀那寺を持たない者でありますので、僧侶のお唱えになるお経をお聞きする機会もそうは多くありませんし、法話をお聞きすることも同様で。
そんな中、群馬県みどり市のはねたき道了尊の御縁日は、お経をそして法話をお聞きできる大変貴重な機会であります。
葬儀や法要というと、般若心経を御唱えになることはあまり多くなく、こうして考えると私はあまり僧侶の方が御唱えになる〝般若心経〟をそうは多くお聞きしてはいないのかもしれません。
とはいえ、今はネットで検索すれば、簡単にいろいろな方の〝般若心経〟を聴くことができます。
そんな中で、いつもいつも心に響く般若心経を御唱えくださるのが、みどり市の光榮寺さんのご住職さまであります。
声の高さ、抑揚。
御唱えになられる速さ。
声を作ることもなく、ごくごく自然なお唱えになられるその般若心経は、ご唱和せずこのままお聴きしていたいと思うものであります。
いつまでも、何度でもお聴きしていたい、そう思う〝般若心経〟であります。
コロナが感染症予防法の第五類となってから、ご唱和することになり、このはねたき道了尊の御縁日には実に三回、ご住職さま・副住職さまの般若心経をお聴きすることができます。
私の幸せなひとときであります。
とらわれない こころ
かたよらない こころ
こだわらない こころ
ひろく ひろく
もっとひろく
これが般若心経
空(くう)のこころなり
これは、薬師寺の管主であった故・高田好胤(こういん)師がおっしゃったもの。
お経の題名のことを『経題(きょうだい)』といいます。経題が分かれば、そのお経が分かるというくらい重要なものといいます。
【摩訶(まか)】……大いなる(すぐれた)
【般若(はんにゃ)】……智慧(ちえ)
【波羅蜜多(はらみた)】……彼岸にいたる
【心経(しんぎょう)】……大切な教え
『大いなるすぐれた智慧によって彼岸にいたるための大切な教え』が般若心経であるということです。
『般若経』600巻をまとめたとされ、大乗仏教の真髄が説かれている、とされます。
文末は、サンスクリット語をそのまま音写した「咒」(陀羅尼)で締めくくられていますが、漢字で書かれており、ほとんどの宗派で読誦され、写経されることも多いお経であります。
お経はお釈迦さまの御言葉ですので、インド地方の言葉で書かれているはずですが、これには理由があります。
はるか唐の時代、玄奘(げんじょう)という若い僧侶が仏教の本場であるインドから経典を持ち帰るため、旅をしたことは有名な話であります。
のちによく【三蔵法師】と称され、かの【西遊記】のモデルともなった人物であります。
インドに着いた玄奘は、ぼう大な数の経典をそのまま書き写して唐の都に戻り、その後自分の国の言葉に翻訳しました。
その後、中国語に翻訳されたこれらのお経が遣唐使などで日本に伝わったため、漢字で書いてある、というわけであります。
…などと端折って書きましても、その内容がいかに大変なことであるかは想像できますが、実際にはもっともっと、数々の苦労があっての旅でありました。
まぁ…とはいえ西遊記のように妖怪が出てきたわけではありませんが…。
『大いなるすぐれた智慧によって彼岸にいたるための大切な教え』
それが般若心経であるということ。
ところで、前レスで、お経は翻訳されたものだと書いています。
しかし実際には経題の中で『心経』以外の部分は、「マハー・パンニャ・パーラミター」という古代インドの言葉(サンスクリット語やパーリ語)を、同じ読みをする漢字で当てたもので、漢字そのものに意味はありません。
文末もまた同様であります。
翻訳してしまうと意味が限られてしまったり、本来の意味がそこなわれてしまう恐れがあるため、もとの言葉をそのままにしておく必要があったから、だといいます。
ところで。
般若心経には『空(くう)』や『無』という文字が実に多く見られます。
これは、文字どおりに「空っぽ」とか「何もない」という意味であります。
『空っぽ』『何もない状態』というのは、『何かが生まれる状態』でもあります。
容器に何かを入れるためには『空っぽ』にしなければならない、というわけです。
今まで自分をしばりつけていた価値観や経験から自由になるための心のはたらきをこそ、仏教でいう【智慧】というのだといいます。
ところで。
般若心経には人物が登場しています。
『舎利子』さんです。
舎利子さん、などと馴れ馴れしく書いておりますが、お釈迦さまの教えを直にお受けになったお弟子さんのお一人であります。
そしてもうひとかた、観世音菩薩さまの名が拝見できます。
いろいろ日本語に訳したものを拝見してまいりましたが、舎利子さんに観世音菩薩さまが修行されて学んだことをお伝えする、そんなふうにとれる内容であります。
実は私、こうした日本語にしたものを見たとき、実は大変驚いたものです。
一個人に対しての教え?
まあ、実はそれはお釈迦さまを学ぶとむしろ「あり」なことで、お釈迦さまは生前、相手に合わせてその教え方を変えていたといいます。
ただ…。
そもそもお経というのはお釈迦さまがお亡くなりなられてから、その教えを絶やさぬようにと弟子たちが作成したもので。
般若心経に至っては、主に元となる経典は【般若経】であるようですが、他の経典からもいろいろな教えを合わせて凝縮したもの、だともいいます。
ならば、何故あえて?
あえて舎利子さんに向けてのもののように編集している?
…そんな疑問を抱くような私はまだまだ、ということだな。
『三蔵法師』の「三蔵」は、『経蔵』『律蔵』『論蔵』のことです。
『経蔵』とはお釈迦さまの説かれたお経を集めたもの、
『律蔵』とはをお釈迦さまの説かれた戒律を集めたもの、
『論蔵』とはお経の解説を集めたものであり、それらの三蔵に精通した僧侶を三蔵法師と言われました。
やがて、インドの仏典を中国の言葉に翻訳した翻訳者を三蔵法師というようになります。
玄奘といえば、そんな三蔵法師中の三蔵法師。
三蔵法師といっただけで玄奘のことを指すこともあるくらいで。
三蔵法師の玄奘ということで、玄奘三蔵ともいわれます。
私の世代ですと、どうしても故夏目雅子さんが演じられた美しい玄奘三蔵が心に浮かび(『西遊記』)、…場合によってはザ・ドリフターズの故いかりや長介氏に似せた人形劇(『飛べ!孫悟空』)の三蔵法師だったりいたしますが…、では実際の玄奘三蔵さまは、…いったいどんなお方であったのでしょう。
あまりにも西遊記人気が高いため、三蔵法師というと玄奘さまより、玄奘さまがモデルとなった西遊記に登場する三蔵法師が頭に浮かんでしまいますし、そもそも、玄奘三蔵さまのことをよくは知らない事実に気づくのです。
…まぁ、どちらも好きな〝三蔵法師さん〟、なんですけれどね。
なんなら私が生まれる前に手塚治虫さんがお描きになった『ぼくの孫悟空』という漫画もあります。
ブラックジャックから手塚治虫さんにハマった息子のおかげで、この本も家にありますし、この三蔵法師さまもまた愛すべき人物であるのですが…。
閑話休題。
実は知っていた気になっていた三蔵法師、もとい玄奘三蔵法師さまを調べてみました。
玄奘は、西暦600年に生まれました。
日本では聖徳太子が活躍中で、遣隋使を派遣していた頃。
五歳のときに母を、十歳のときに父を亡くし、十一歳のときに、すでに出家していた兄をたよりに洛陽の浄土寺に身を寄せ、お経を学び始めます。
十三歳のとき正式に僧侶となり、仏教の学問の研究に没頭します。
洛陽で五年間学びますが、洛陽で隋に対する反乱が起き、戦火に包まれたので、これから唐の都となる長安や蜀の都、成都などで仏教の学問に励みます。
中国中のあらゆる経典を学び尽くすと、漢訳された経典内の矛盾や、各地の高僧の解釈の違いに、中国での学問に限界を感じ、仏教の説かれたインドへ行って、もっと詳しく学びたいと思うようになりました。
しかし、当時唐は建国のまっただ中の戦乱の時であり、国を出るのに許可が必要でありました。
何度も嘆願書を出して申請しますが、すべて却下され、ついに、二十八歳のとき、国の法律を破って旅立つことにします。
まず中国北西部の涼州に行き、お経の講義をしていると、非常にすぐれた講義だったので、たくさんのお布施が集まりました。
と、同時に「インドへ法を求めに行こうとしている僧侶」の噂が広まって涼州の責任者の耳にも入ることとなり、帰るように命ぜられます。
しかしこの時、玄奘に共感を覚えた地元の僧侶が、西の瓜州へ逃がしてくれました。
そこからは、深くて流れの速い河を渡り、五つののろし台のある峰を過ぎたあと、ゴビ砂漠を越えなければなりません。
語学を学びながら情報を集めていると、違法出国しようとする玄奘を連れ戻すよう通達が出されたのを知り、馬一頭と、地元の人一人を雇い、出発します。
ところが。
深くて流れの速い河を渡ったところで、これ以上とてもついていけないと、地元の人は引き返してしまいます。
そして、のろし台を通るときには矢が飛んできて捕まってしまいます。しかしここでもまた、たまたま仏教を信じていた責任者に見逃してもらい、ゴビ砂漠を一人で横切っていきます。
ゴビ砂漠では食糧も水も底をつき、魑魅魍魎に襲われますが、奇跡的にゴビ砂漠を抜け、二十八歳の暮れに高昌国(トルファン)へたどりつきます。
うーむ。
…このゴビ砂漠で魑魅魍魎に襲われた、というあたりから、のちの世で描かれることとなった【西遊記】にやたらと妖怪たちが現れることにつながっているのだろうか?
ここで、今私たちに大切なメッセージがありますことに気づきます。
それは〝魑魅魍魎〟です。
はあぁ?
そう思われた方、今この異常な暑さに見舞われている私たちに本当に大切なメッセージなのです。
【脱水によって、場合によってはせん妄が起こる】
ということです。
『せん妄』って何?
せん妄とは意識混濁に加えて、奇妙で強迫的な思考や『幻視』『錯覚』が見られるような状態(Wikipediaより抜粋)です。
脱水がせん妄を起こす理由は、体内の電解質濃度が異常になるためです。
電解質濃度は、体内の水分と塩分のバランスです。
電解質は常に最適な濃度に保たれることで、神経伝達をサポートします。
しかし、電解質の濃度が異常になると、全身の神経伝達がスムーズに進まなくなります。
脳機能に支障をきたすことも多く、幻覚や意識障害などの不調があらわれます。
つまり、せん妄は体内の電解質バランスが崩れたときに発症します。
脱水状態になると、身体の水分が不足し電解質の濃度が非常に濃くなります。
電解質濃度が高くなると、神経伝達に支障が生じるため、せん妄の発症リスクが高まります。
また、電解質濃度が薄くなりすぎてもせん妄は起こります。
例えば、大量に汗をかくと、水分とともに塩分も体外に失われます。
『塩分を大量に失った状態で水だけを補給すると、体内の塩分濃度はさらに薄まります。
体内の塩分濃度が薄くなることでせん妄の発症リスクは高まります』
つまり、『電解質のバランスが崩れると、脱水やせん妄が起こりやすくなります』
また、脱水によるせん妄は、意識障害や問題行動により適切な水分補給が難しくなるため、症状が悪化しやすいことが特徴です。
さらに、せん妄の状態になると理解力や理性が失われるため、周囲の方が水分補給を促しても本人が拒否する場合があります。
水分補給ができなくなると、脱水症状が進行し、せん妄の悪化につながります。
したがって、脱水によるせん妄は、悪循環に陥る可能性が高くなるのです。
そのため、脱水によるせん妄の悪化を防ぐには、脱水そのものを予防・改善することを心がけましょう。
〝魑魅魍魎〟に襲われた玄奘三蔵は、砂漠という陽を遮ることのできない暑さの中で、食料も水も底をつきたという最悪な状況に陥っていました。
完全な脱水症でありましょう。
…あらぬものを見る前に。
食糧も水も底をつき、魑魅魍魎に襲われても、奇跡的にゴビ砂漠を抜けることができた玄奘三蔵。
まさに奇跡でしょう。
今現代の医療を以てしても、脱水・熱中症に栄養不良が加わっては、その命を助けることは難しいことがあると思われます。
しかもそれは医療の知識とさまざまな医療機器や薬剤を用い、電解質やカロリーを補って、のこと。
やはり、これは…玄奘の強い思い、志と、それを助けようとする御仏のお力添えがあったから、…そうとしか思えません。
二十八歳の暮れに高昌国(トルファン)へたどりついた玄奘は王から大変な歓待を受け、
「国民全員が帰依するから国師として一生留まって欲しい」
と懇願されたといい、ついには一室に閉じ込められます。
しかしながら玄奘の何としても旅立つ決意は変わらず、断食する姿に根負けして、帰りに三年間高昌国に立ち寄るという約束で、出発を許します。
出立に際し王は莫大な旅費を布施し、玄奘を抱きしめて泣きながら見送ったといいます。
しかしこの約束は果たされることはなかったといいます。
玄奘がインドで学びを終え、帰ろうとする一年前に、高昌国は唐に滅ぼされてしまったのです。
やがて玄奘は、遡ること二百五十年前の偉大な三蔵法師、【鳩摩羅什(クマラジュウ)】の故国、亀茲(キジ)国に入ると、ここに二ヶ月間滞在します。
亀茲国は色々な人が往来する、インドの原典で仏教を学び、語学学習に適したところであったといいます。
その次に現れた難所は、テンシャン山脈、夏でも雪がとけない極寒の氷山だといいます。
強風が吹けば、砂や石が飛んで来る、眠ろうにも渇いたところのない山で、この山を越えようとする者の三分の一は死亡したという、遭難覚悟の旅であるといいます。
七日間で命からがらこのテンシャン山脈を通り抜けた玄奘は、イシク・クル湖(現在キルギス共和国)に出ました。
それからシルクロードを西へ進み、タシケント・サマルカンド(現在ウズベキスタン)を通り、バーミヤン、ガンダーラ(現在アフガニスタン)を通って、インダス河を渡り、カシミールに入りました。
…うーん。
日本の地理とてもおぼつかないようなおばさん、必死に世界地図を見てみますが、さっぱりわからない。
うーん。
…貼り付けよう。
わかる方にはわかるから。
(玄奘の旅したルート)
で。
おばさん思ったんですよ。
そもそも…玄奘三蔵はどこを目指して旅を始めた?
西遊記の三蔵法師は…たしか仏教発祥の地、〝天竺(てんじく)〟だったと記憶しています。
玄奘三蔵は?
玄奘三蔵法師が実際に目指したのは、天竺の中でも仏教研究の中心地、ナーランダであったといいます。
玄奘は行く先々の国で食べ物や通訳などの補充をしながら、天竺への道を進んでいきました。
標高4000メートルを越えるテンシャン山脈の峠を越え、
当時は金色に輝いていたという、アフガニスタンの今は無きバーミヤンの巨大石仏を通り…、
いよいよ天竺の入り口、ガンダーラへと到達しました。
そんな中、玄奘は最も訪れたかった場所として、最終目的地・ナーランダの前に立ち寄っている場所があります。それが、ブッダガヤ。
仏教の開祖、仏陀が悟りを開いた場所で、いまも仏教徒にとっては最大の聖地です。
この地に玄奘は九日間もの間止まり、仏陀の足跡を偲んだのでありました。
そして。
旅を始めて実に三年後、玄奘はようやく、目的地ナーランダに到着します。
五世紀の中ごろ、当時の王によって初めての伽藍が建てられ、以来、ナーランダには多くの寺が集まるようになり、やがて仏教の教えを伝えるための大学が建てられました。
玄奘が訪れた当時、ここには一万人もの僧侶が学んでいたといわれています。
玄奘は、このナーランダの印象をこう記しています。
『宝台のような建物が星のごとくつらなり、玉にもたとえられる 美しい塔のような建築が山嶺となってたちならぶ。天竺の伽藍の数は千万をもって数えるほどあるけれども、実に壮麗崇高という点でこれはその極致である』
ようやくナーランダに到着した玄奘は、この地に五年もの間とどまり、さまざまな経典についての講義を受け、その心を取得したのです。
それから、さらに五年間学問を深め、インドの王たちにも玄奘の名が知れ渡るようになったといいます。
『ナーランダ』とは蓮の花を意味する「ナーラ」と、与えるという意味の「ダー」というふたつの言葉が組み合わさったものだといいます。
インドでは蓮の花は知識や知恵の象徴、つまり知識が開花する場所、というのが名前の由来だといいます。
四十一歳になった玄奘は、学び終えた大乗の教えを中国に広めたいと、帰国を決意します。
玄奘が仏教を学んだとされる場所には、 かつて九百万冊の書物が所蔵され、一万人の学僧と二千人の導師たちが日々勉学に励んでいたといいます。
修行を終えた玄奘は、六百五十七部もの莫大な経典を象に積み、再び祖国への道を歩みだしました。「西遊記」では三蔵法師ら一行は、仏の力で雲に乗り、あっという間に長安に戻っていますが、玄奘はもちろん徒歩。
行きとは違い、帰りは重い荷物があったため、長安に戻るのに、なんと九年もの歳月がかかったそうです。往復、実に十七年にも及ぶこの旅で訪れた国の数、実に百二十八。その距離は三万キロを越えていたといいます。
集めた経典を運ぶのに、馬が二十二頭必要でした。
インダス川を渡る際に一隻の川船が転覆し、五十巻の経典が失われ、そこで玄奘は五十日間滞在して失った経典を書写するというトラブルもありました。
そしてついに645年、玄奘が四十五歳のとき十七年ぶりに中国の都・長安へ帰り着きます。
玄奘はまず唐の太宗皇帝に面会を申し出ます。
玄奘は持ち帰った経巻の訳業を皇帝の太宗に願い出たのですが、これには理由があります。国家事業として行えば、支配者が仏教徒であるなしに関わらず公式なものとなるから、だといいます。
もともと頭の良い玄奘が、お金もない状態で言葉の壁もありながら百を超える国をわたり歩いて、仏教以外にも学んだことでありましょう。
そしてまた、その経典の数たるやとても国で行わなければならないほど膨大の量で、訳経には膨大な紙をはじめとする文房具、場所と人員などの費用がかかり、これを成し遂げるためには政府の絶大な援助が必要だったのです。
太宗皇帝は、玄奘と会い、この僧侶の冷静さと現地経験と情報量に驚きます。
これをもってすれば、周辺諸国とのこれからの外交にいかほどの力となるであろうかと
「還俗して片腕として働いてほしい」
と言われたといいます。
しかしながら玄奘が、命をかけて持ち帰った経典を翻訳し生涯を仏教に捧げたいという断固たる決意を表明すると、皇帝は、長安に翻訳所を設置します。
経典の翻訳の傍ら、皇帝に請われ、インド旅行記である『大唐西域記』(十二巻)を口述し、弟子の弁機が筆記しました。
これが後に『西遊記』のもとになっていくのです。
帰国後は、玄奘三蔵が翻訳した経典は
『大般若経』六百巻、
「瑜伽師地論」百巻
「成唯識論」十巻
「大毘婆沙論」二百巻
「倶舎論」三十巻など、
合計七五部、一三三五巻に達するといいます。
この分量は、中国歴代の訳経総数の四分の一にあたり、いかに玄奘三蔵が偉大な翻訳者であったかがわかります。
特に『大般若経』六百巻の翻訳については、玄奘三蔵は、晩年の生命力のすべてをかけて顕慶五(660)年正月から翻訳に取り組みまれたといい、その達成には四年に近い年月がかかりました。
途中を略したり、意味だけにせず、もとに書かれているとおりに訳したからといいます。
…いやいや、玄奘三蔵法師はインドで原文を全て写しとってきているのです。
お金のない旅、おそらくはその作業は人に頼むことなく玄奘一人の作業であったことでしょう。
六百巻の経典を写しとり、もちろん誤りがないか確認もされたでしょう。
六百巻ですよ、六百巻。
それをさらに翻訳する。
…考えただけで気が遠くなる作業です。
私のような未熟者はわずか二百七十八文字の般若心経を写経するだけで一時間弱かかり、その長さを感じて途中筆が止まる日もあるくらいです。
そんな大般若経。
…六百巻は膨大です。
数あるお経の中でも大般若経は最もありがたい、霊験あらたかなお経であるといいます。
ご祈祷、ご祈願に読まれるのは当然のことなのですが、何しろ六百巻という膨大なものですから、ほかのお経のように一字一句を飛ばさずに読む真読というわけにはなかなかいかない。
そこで転読といって、大勢のお坊様に集まっていただき、お経を高く掲げて、偈文を唱えながら一巻一巻パラパラと転飜(てんぽん)し、読誦した功徳を得る方法が生まれたようです。
私などは初めて見たとき、なにごとかとドキドキしたことを今でも鮮明に覚えているくらいです。
手にした経本を高らかに手に持ち、風を含んでパラパラパラっと開いて閉じる。
(えっ?えっ?ええっ?)
次から次へと経本を変え、山のように積まれた経本を左から右へ積み替えていくのですから。
僧侶の性格もありましょう、あまり丁寧に扱っているとは思われない、…なかにはそんな所作の方もおられます。
まぁそんな転飜、私のような仏教徒でもない人間は、そうは参列させていただく機会もありはしないのですが、それでも、今でもドキドキいたします。
唐の国家プロジェクトとして始まった翻訳事業は、沢山のアシスタントのもと、大変な勢いで進められました。
二年間で
『大菩薩蔵経』二十巻
『仏地経』一巻
『六門陀羅尼経』一巻
『顕揚聖教論』二十巻、
そして、
『瑜伽師地論』百巻が翻訳されます。
こうして平均五日に一巻の離れ業で翻訳が進められますが、玄奘の起床は早朝五時、消灯は深夜一時です。
寸暇を惜しんで翻訳し、やがて時間がなくなってくると、起床は早朝三時になります。
歳を過ぎ、余命いくばくもないことを自覚すると、常に無常を見つめて、弟子達にこう言ったといいます。
「この玄奘は余命長くはない、必ずこの寺に命を終えるであろう。
いまだ翻訳すべき経典ははなはだ多く、訳し切れないことを恐れる。
いよいよ奮励努力して苦労を惜しんではならない」
このように翻訳作業はますます速度を上げ、二日に一巻の驚異の速度となります。
こうして『大般若経』六百巻や、天親菩薩の『倶舎論』、『唯識二十論』、『唯識三十頌』 なども翻訳し、十七年間で最終的に翻訳したお釈迦さまの経典や、菩薩の論の総数は、千三百三十五巻になりました。
そしてこの際に【般若心経】も翻訳しており、現在日本で多く読まれているものは、玄奘訳であります。
その人間離れした、ともいえる迅速な翻訳にもかかわらず、クオリティも高く、それまでの翻訳に対して『新訳』といわれるようになったといいます。
こうして三蔵法師といえば玄奘、玄奘といえば三蔵法師を思い出す、三蔵法師の代表のようになったのです。
この玄奘の伝えたかった仏教は弟子の一人【慈恩大師】により、【法相宗】として形を成しし、飛鳥時代の『道昭僧都』などにより日本に伝来しました。
現在、法相宗の大本山は【薬師寺】と【興福寺】ですが、 今も玄奘三蔵は法相宗の始祖として仰がれています。
昨夜、二夜連続放送のNHKスペシャル【映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間】を観ました。
関東大震災は、百年前の大正十二(1923)年の九月一日に発生した関東大地震によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害のこと。
私が小学生のころにも、毎年九月一日をむかえると、
「九月一日は関東で大きな地震があって、たくさんの人が亡くなられた日です」
と、必ずこの日近辺で避難訓練が行われていました。
ただ…大きな地震を体験したこともなく、火災というものも間近に見たこともない私は(そうだったんだぁ)くらいの思いで避難訓練に参加する、そんな子どもでありました。
おそらくは他の同級生たちも、似たかよったか、であったことと思います。
私は黙って先生の話を聞いていましたが、先生にバレないように小声でヒソヒソおしゃべりしていた同級生たちは間違いなく私の同類項であったと言ってよいでしょう。
歴史の授業を受ける年頃となり、関東大震災の被災状況を言葉と数字で学んでも、(すごい地震だったんだなぁ、怖いなぁ)と思う程度で、どこか他人事であったのが現実でありました。
それでも子供を授かると、防災グッズを備えるくらいにはなりましたし、子ども何学校に通うようになると、「万が一の時はどこに集まる」といった話までするようにはなりましたが、やはりその地震の恐ろしさを実感したのは、あの阪神淡路大震災の刻々と送られてくる生々しい映像でありました。
やはり映像というのは、私のように想像力に乏しく、数字にも弱い人間にも、強く働きかけてくれるものです。
そして。
東日本大震災。
私の住むところでも震度五を超えた揺れで、地震の怖さを体感いたしました。
それでもさらにそれを大きく上回る被災状況をテレビで知ることとなりました。
私は関東大震災について、小さなかけらのような知識しか無いな。
今は『防災の日』と呼ばれるこの関東大震災の起こった日を迎えるたびに思うようになっていました。
このNHKスペシャルのあることを知り、ぜひ観なくてはと、珍しく予約をしたくらい。
津波被害の大きかった東日本大震災の記憶が生々しい私は、火災による被害の大きかったと伝えられる関東大震災では津波がなかったのだなぁと思い込んでもいました。
…あったんだ。
百年目にして知った事実でありました。
このNHKスペシャル【映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間】では、
混乱の中で撮影された貴重な記録映像を高精細・カラー化し放映されています。
…残されていたんだ。
もう、それだけでも驚く私。
あの混乱の中にありながら、たくさんの映像、写真が残されていました。
場所すら特定しがたい写真もワンカットずつ撮影場所と時間を調査して、さらには現代の姿と比較されていました。
生々しい画像…。
映像。
高精細化し、さらにはカラー化して、よりリアルに心に突き刺さるものとなって、届けられていました。
そしてそこに生存者の方の証言音声が織り込まれます。
どれも心に刺さるものばかりでありましたが、中でも故黒澤明監督の、
「兄と二人、周りはみな死んでいる人ばかりで。そんな中にいて、自分も実は死んでいるのではないかと思うような感覚…(おばさんのおぼろげな記憶による文章で、黒澤明監督の言葉どおりではありません)」という言葉に、胸がえぐられる思いがしました。
この番組の中では科学的知見も駆使して百年前の巨大災害を追体験しています。
何を言いたいか、言いたかったか、さっぱりわからなくなったおばさんです。
今日の後編。
この番組を通して、しっかりと受け止めるべきものがあると思う私であります。
関東大震災で亡くなられた方・行方不明の方は十万五千人のうち、九割弱の約九万二千人の方が地震直後に起きた火災に巻き込まれて亡くなられておられます。
東京では特に下町における大火災はすさまじく、両国にあった陸軍被服廠(しょう)跡の空き地では、殺到した避難者のうち三万八千人が、炎や熱風が渦巻いて立ち上がる現象『火災旋風』で命を落としたといいます。
生存者の方はその光景を人が飛ばされたと表現されておられました。
どこに逃げたらよいのか、わからないまま懸命に避難するものの、あちこちで火の手が上がり、大きな被害が起きていたようですが、この陸軍被服廠での悲劇は亡くなられた方の人数の多さだけでなく、その火災旋風の被害があり、まさにこの世の地獄であったようです。
地震が昼食時に起こったこともあり竈(かまど)、七輪から同時多発的に火災が発生し、水道が断水したため最新の装備も役に立たず、おりからの強風によって火災は四方八方で大きく広がっていってしまったようでした。
また横浜市においても市街地全域が焼失し、石油タンクの火災は実に十二日間も続いたといいます。
関東南部、特に神奈川県西部及び千葉県の房総地域においては、この地震前に台風が来ていたこともあって、さらにそこへ地震が起き、その直後の大雨により、崩壊や地すべり、土石流などによる土砂災害が多数発生し、特に今の小田原市根府川では土石流により埋没六十四戸、死者四百六人という被害が発生したといいます。
東京湾岸部の干拓地や埋め立て地、相模川、荒川、古利根川などの河川沿いの低地においては地盤の液状化が起こり、地盤の陥没や地割れ、建物の沈下、傾斜、地下水や砂の噴出などの現象が起こったといいます。
津波に関しては相模湾周辺と房総半島の南端では熱海で最大高さ十二メートル、館山で九メートルの津波が起こったのだといいます。
津波による死者は三百二十五名おられたといいます。
これだけ大きな被害を出した震災であっても、被害のほとんどなかった群馬県においては、五十年経過した頃子どもにはそのほとんどが伝わってはいなかったのが現実でありました。
風化させないことは、亡くなられた方の鎮魂ともなりましょう。
しかしながらそれは尊き犠牲によって得た教訓でもあります。
忘れないこと。
風化させないこと。
胸に刻んだ二日間でありました。
今日も群馬県勢がランキング上位を占めていますのは、決してありがたくない本日の気温ランキング。
桐生市が37.4 ℃で全国一位。
続く二位も群馬県伊勢崎市の37.3℃。
三位に長野県上田市が入って、四位が群馬県前橋市。
暦の上ではすでに秋。
この八日には『白露』、野草に白露の宿るころという意味なはず…。
…なんですが、いまだに庭に置いたホースからは程よい湯温のお湯が出て、夕方には草花が暑さと土の渇きで息も絶え絶えな日々。
台風もまた発生しており、昨日はテレビの速報で、栃木県で記録的短時間大雨情報が出されているという発表がありました。
もともと九月は日本で最も雨の多い時期ですが、ここ近年の降り方はまさに災害レベル。
その原因は私たち人間によってもたらされたもの、ではあるのではありますが…。
ことに戦争が今、空と海と大地を、空間的にも時間的にも壊滅的に汚染しています。
弘法大師さまのお言葉に
『仏法遥かにあらず。心中にして即ち近し』
というものがあります。
自らの内なる仏、ととる意味もあるようですが、人間は仏さまの一部という解釈もあるようです。
生かされている、ということでしょうか。
…人として生きることをゆるされ、この世で修行している、ということでしょうか。
うーん。
明恵さんという方は
『人は常に浄玻璃の鏡に日夜の振る舞いの映ることを思うべし』
とおっしゃっておられます。
そ、そうだった。
彼の国は、仏教国ではなかったな。
『群馬県は、竜巻などの激しい突風が発生しやすい気象状況になっています。空の様子に注意してください。雷や急な風の変化など積乱雲が近づく兆しがある場合には、頑丈な建物内に移動するなど、安全確保に努めてください。落雷、ひょう、急な強い雨にも注意してください』
…雷はすごい、雨は洗車機レベル、
風が強くて激しく雨粒を叩きつけるような感じが一時間くらい。
でもまだこの辺はそのくらいで。
仕事から帰った息子によると帰路、ほぼ、ほとんど冠水していたと。
映像がすごかった。
【正五九参り】の時期となりました。
正五九参りとは、忌み月とされていた正月・五月・九月に寺社へ参拝し、厄災を祓い清めたり、参拝させていただいた寺社におられる神さまや御仏とより強いご縁を結んでいただける、といったもののようです。
今の時点、いつも朔日参りをさせていただいております、地元の総鎮守さまへお参りさせていただいただけであります。
最近、珍道中ペアは考え方にすれ違いが見られ、夫はまだ参拝させていただいていない神社仏閣にお参りしたいと考え、私はというといつもお参りさせていただいている神社さんやお寺さんに詣でることや、以前お参りしてまた再拝させていただきたいなと思ったところへお参りしたいと考えており。
新たなところに、というと、運転技術もさながら、致命的ともいえる方向音痴で地図も読めない私は、なかなか運転手を務める自信がなくて、ついつい夫に頼ることとなります。
いつもいつもですと、夫婦といえども不公平感を感じ、申し訳ないと(ひそかに)思うものであります。
また夫は事前に計画を立てておくことをしないで、前日、あるいは当日になって
「どこからへ行こう」
というタイプでありまして。
彼には彼なりにいくつか行きたいところのピックアップがされていて、そこへ行くには…という計画は立ててあるらしいのですが、私はその計画を立てる段階から話して欲しいタイプでありまして。
前日、ならともかくも、当日、彼がいつもよりも遅く起きてそう言われても、行けるところは限られてしまうわけで。
私からも行きたい所はそれこそいくつも伝えてありますし、そこからの消去法で当日行き先を決めるというのがなんとも嫌で…。
神社仏閣に限らず、です。
その割にはいつも天気の週間予報などは綿密にチェックしているようで、だったら
「今度の週末は天気も良いようだし、〇〇へ行きたいと思うのだけれど」とか、
「行きたいところがあるのだけれど」とか言えないものなのかと思うわけです。
先日も九時過ぎてから
「じゃあ日光にでも行こうか」
と言われて、内心(だったらもっと早くから家を出たかったよ)と思った私。
このガソリン代高騰の折、一人で行くにはちょっと気が引ける、無職のおばさん。
ずっとずっと行きたかった日光とあれば、もっと早くから家を出て、あれこれしたいこと行きたいところもあったというのに。
今日はほぼ二ヶ月ぶりの握り仏を彫るご指導をいただく日でありました。
普通は遅くとも多少なりとも進歩するもの、でありましょうが、私の場合、退化しているのではないかと思われるくらいでありまして。
一ヶ月遅れで入られた方は、お若いこともあり、早くもお顔を彫らんとしており、私はといえばまだ腕の彫り方がわからないとそこで停滞している始末。
それでも。
一体だけ、あとはお顔を彫るだけ、というところまで作ってあり、先生にそれを見ていただきました。
「うん、大丈夫。しっかり彫れているよ」
今のまでお見せしてきたものはどこかしら失敗したところのあるものばかりだったし、先生にお見せしていない失敗作もあるくらいです。
その日彫ったところを元に戻すべく全て削られたことが、実に二回もあったくらいです。
えっ。
ほ、本当に?
あとは顔だけ、というところまで私が彫った木像を、彫刻刀を細かに動かして、先生がお不動さまのお顔を彫ってくださったではないですか!
その繊細なこと。
ため息しかでません。
私もいつかこんなふうに彫れる日が来るかなぁ。
ここ二日ほど、群馬県は嵐のような天候に見舞われております。
また台風十三号が関東を直撃するとの予報が出ていたり。
こんなとき神さま、仏さまを頼りたくなるおばさん。
長いこと神社仏閣に関わることなく生きてきたくせに全くもって図々しい。
…はて。
天候を司る神さまや仏さまって…。
日本は八百万の神々が得意分野を持ち、役割分担して様々な事物・自然などを司っておられます。
「気象」を司る神さまというと、その名も【気象神社】にお祀られている【八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)】さま。
思兼命さまは、天照大神さまが天の岩戸に引きこもって世界が暗闇に覆われてしまった時に、知恵をしぼって作戦を練り、他の神々と力を合わせて日の光を引き出すことが出来たことから、『気象の神さま』という事らしいです。
気象神社は、昭和十九(1944)年、大日本帝国陸軍の陸軍気象部(東京都杉並区)の構内に造営されたのが始まりといわれます。
軍にとって気象条件は戦略・作戦を講じるのに大切な要素であり、もちろん科学的根拠に基づいた予報がされていましたが、
予報的中を祈願するなど、気象観測員の心のよりどころとされていたといいます。
その後、戦後の神道指令で撤去される
それで八意(やごころ)とは、
雷、風、霜、霧、曇、雨、晴れ、雪の八つの気象条件を司っている事を意味するそうです。
知恵の神であり、天候をも司るという八意思兼さま。
埼玉県秩父市の秩父神社さんの主祭神のお一柱でもあります。
…どうかこの地球をお守りください。
古墳に神社仏閣が建てられてきたことを、群馬県でもたびたび目にしてきましたが、なんとあの世界遺産・【法隆寺】さん(奈良県斑鳩町)の参道脇の観光バス用の駐車場にある円形の植え込みが、六世紀後半につくられた古墳だったことが、同町教育委員会と奈良大学の発掘調査で確認されたといいます。
内部からは横穴式石室が見つかったといい、石が抜き取られていたことから、寺の建設などに利用された可能性もあるといいます。
しかしながら、何故今ごろ?
植え込みは直径約8・5メートル、高さ約1・5メートル。
駐車場の隅にあるものといい、調査前は樹木に覆われ、裾は石垣で囲まれているものだといい、一見すると普通の植え込みにしか見えなかったといいます。
ただ、地元には『クスノキの舟』が出土したとの言い伝えがあり、町の教育委員会は木棺が埋葬されていた可能性があるとして「舟塚古墳」と呼んでいたが、本当に古墳かどうかは確認はされていなかったのだといいます。
…言い伝えだけで、本当に古墳かどうか確認しないで町の教育委員会が〝古墳〟と呼んでいた?
そんなことってある?
…ま、まぁ、あったんでしょうね、新聞記事ですから。
『…町教委と豊島直博教授(考古学)が率いる奈良大文化財学科の学生らが2022年春、測量と実態解明のための発掘調査を実施。その結果、石室の石材や土器が出土し、古墳である可能性が高まった。今年2~3月の調査で横穴式石室が見つかり、8月から内部を発掘していた。
石室は全長約3・8メートル、幅約1・6メートル。壁の石積みは1メートル前後の高さが残っていたが、天井石は抜き取られ、入り口から延びる幅約1・2メートルの羨道(せんどう)(通路)は失われていた。床からは鉄刀2本や矢じり、馬具、琥珀の玉、須恵器など、多数の副葬品が出土した。』
(朝日新聞より一部抜粋)
まぁ、神社仏閣あるあるではありますが、〝国宝〟というところと、いかにもごくごく普通の植え込みにしか見えなかったところからの発掘ということで話題になったのでありましょうが。
ちなみにいつこのような植え込みの形になったかは不明なようです。
法隆寺さんだと、さもあらんと不思議にも思えず、むしろ隠された謎があるのではないかと…昨今のテレビ番組にすっかり毒されているおばさんでありました。
…ビビりなおばさん、群馬県目指してやってきている台風情報が怖くて、テレビがつけられずにおります。
ビビりだからこそ観ておかなくてはならないのは重々承知してはいるのですが。
スズムシの鳴く音で始まった朝は、台風が来ることを伝えてるんだよな。
いつもは台風対策とかに口だけ出して手は出さない夫が何かしていたからだ!
今日も未熟なおばさんのつぶやきであります。
ああ、明日は【重陽の節句】だなぁ。
などとぼんやりと考えていて、はたと気づいたことが。
…昨日って結婚記念日だったぞ。
まぁ、もはや何年経ったかもわからないくらいなので、思い出せただけでも良しとしようか…などと言ってはいけない、いけない。
自分に足りないのは夫への感謝の念。
せめて一年に何回かくらいは(おい!)、夫への感謝を口にする日を設けなくてはいけません。
それにしても結婚記念日よりも重陽の節句が先に頭に浮かぶ辺りがもはや老域、とでも申しましょうか。
しかも『重陽』といって思い浮かぶのが、『雨月物語』の『菊花の約(ちぎり)』という辺りがなんともいえない。
というわけで九月九日は、五節句のひとつ【重陽の節句】。菊を用いて不老長寿を願うことから別名『菊の節句』ともいわれます。
五節句とは、江戸時代に定められた5つの式日(今でいう祝日)をいいます。
1月7日 人日の節句(七草粥)
3月3日 上巳の節句(桃の節句/雛祭り)
5月5日 端午の節句
7月7日 七夕の節句
9月9日 重陽の節句
古来、奇数は縁起の良い陽数、偶数は縁起の悪い陰数と考え、その奇数が連なる日をお祝いしたのが五節句の始まりで、めでたい反面悪いことにも転じやすいと考え、お祝いとともに厄祓いをしていたといいます。
中でも一番大きな陽数〝九〟が重なる九月九日を、陽が重なると書いて「重陽の節句」と定め、不老長寿や繁栄を願う行事をしてきました。
今では五節句の中でも影が薄くなりましたが、五節句を締めくくる行事として、昔は最も盛んだったといわれています。
古来、菊は薬草としても用いられ、延寿の力があるとされてきました。
菊のおかげで少年のまま七百年も生きたという『菊慈童(きくじどう)』伝説などがあります。
また、菊は他の花に比べて花期も長く、日本の国を象徴する花としても親しまれています。
…仏花の代表格でもありますか。
重陽の節句は中国由来の行事で、日本では平安時代ごろに貴族の宮中行事として取り入れられたといわれます。
中国から伝来したばかりの珍しい菊を眺めながら宴を催し、菊を用いて厄祓いや長寿祈願をしたといいます。
…たしか連続テレビ小説『らんまん』で菊の原種が扱われた章がありました。
なるほど、菊の原種が日本に来たのはこのころのこと、だったのですね。
菊といえば『晩秋の花』という印象です。
お彼岸の頃に咲いてくれれば、お墓にお供えできるのに…などと毎年毎年思うおばさん。
しかしながら旧暦の九月九日であれば新暦の十月中頃、まさに菊の美しい季節であります。
この重陽の節句のころは農繁期であることや、新暦に替わって季節感が合わなくなったことから次第に廃れ、収穫祭に吸収されたりしましたが、寿命を延ばすと信じられていた菊を使い、さまざまな風習が伝えられています。
この重陽の節句、「お九日(くんち)」と呼ばれて親しまれている地域があるといいます。
あ、〝くんち〟、聞いたことがあります。
そうそう「長崎くんち」。
長崎くんち、唐津くんちはその名残で、新暦の十月に開催されているようです。
重陽の節句の前日に菊の花に綿をかぶせておき、翌朝、菊の露や香りを含んだ綿で身体を清めると長生きできるとされていました。
また、重陽の節句には、「後の雛」という風習もあるといいます。
『桃の節句(雛祭り)』で飾った雛人形を、半年後の重陽の節句で虫干しを兼ねて再び飾り、健康、長寿、厄除けなどを願う風習で、江戸時代に流行したといいます。
秋に菊とともに雛人形を飾るので、別名『秋の雛』『菊雛』とも呼ばれるといいます。
最近は、”大人のひな祭り”として女子会などを楽しむ方もいるのだとか。
うーん、さすがにそれは面倒くさいかな。
というか、こんな秋の頃にお雛さまを飾ったりしたら…夫にもの忘れ外来の予約を入れられそう。
まぁ、いずれにしても、この時期、少なくともわが家の庭の菊はつぼみすら持っておらず、新暦の九月に菊の節句を祝うことは菊の花を買ってくる以外むずかしい。
この台風の雨風の中、わざわざ菊を買いには行かないかな。
重陽の節句(菊の節句)の楽しみ方として、菊酒・菊湯・菊枕・菊合わせ・茱萸嚢(しゅゆのう)などがあるといいます。
■菊湯
湯船に菊を浮かべて入ります。
■菊枕
菊を詰めた枕で眠り、菊の香りで邪気を祓うものといいます。
今年菊のポプリでも作ってみようかしら。
■菊合わせ
菊を持ち寄って優劣を競うもの。
たしかに菊の時期になると、菊まつりや菊人形展が各地で開催されます。
■茱萸嚢(しゅゆのう)
呉茱萸(ごしゅゆ)というものの実を緋色の袋に納めたもので、身に着けたり、飾ったりし厄除けをするのだといいます。
恨み深き新型コロナウイルス感染症。
いつからか〝コロナ禍〟と呼ばれるようになり、私のスマホなどは〝コロナ〟と入れただけで〝禍〟の字が予測変換して出てくるくらい。
が。
そもそも〝禍〟って…なに?
〝禍〟という字の語源は、祭壇や神さまを表す『示・ネ』に骨の関節のくぼみを表す『咼』が組み合わさった文字だということだ。
これは『神のたたりを受け、思わぬ穴に入り込む』という意味を持つといい、つまり〝禍〟とは『神さまが与える罰』のことを意味するといいます。
語源からもわかるように、人は人智を超えた悪しき現象を、神や悪魔の力によるものであると捉えてきたのであります。
中世ヨーロッパにおける魔女裁判。
これは社会になんらかの災厄が生じた際、その原因を悪魔のせいであるとし、悪魔の使いとみなされた女性たちが魔女として処罰することによって解決を図ろうとした典型的な例であろう。
日本においても、【禍津日神(まがつひのかみ)】などが災厄をもたらす神々が存在し、それを祀る神社も全国各地に見ることができます。
その中でも最も有名な存在が【牛頭天王】でありましょうか。
牛頭天王は日本においては疫病をもたらす存在でありその霊力が強大であるがゆえに、逆に丁重にお祀りすれば災厄を防いでくださるそんざいであると考えられました。
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