神社仏閣珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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『お坊さん』。
普段は気にせず使っていても、実際に目の前にすると「この呼び方で合っているのか」「ご本人にお坊さんと呼びかけると無作法ではないか」と不安に思うことも少なくありません。
特にこの珍道中を繰り広げている万年初心者のおばさんにとっては…。
さまざまな宗派のお寺さんを巡らせていただいているため、殊に初めて訪れるお寺さんでしたりすると、緊張感も相まって、いつも以上にしどろもどろに。
…そもそも『お坊さん』とか『僧侶』って違いはあるのでしょうか。
ご本人に向かって『僧侶』と呼びかけたことはないのですが、もしかしたらそう呼びかけても良い?
『お坊さん』ってお呼びして失礼はない?
『ご住職』ってお呼びできるのはそのお寺にお住まいで、しかも複数人僧侶の方がおられれば、その中のお一人、ということになりましょう。
今更感は多分にありますが、お盆を前に調べてみました。
まずは【お坊さん】。
『お坊さん』とは僧侶全般の総称で、『僧侶』とは出家して仏門で修行している人のこと。
『坊主』とも呼ばれることがあります。…とはいえご本人に『坊主』という呼びかけはあまりしないかなぁとは思うのですが。
その『坊主(ぼうず)』という言葉は、僧侶たちが集まる僧房で僧侶を取りまとめていた『房主』が語源だといわれています。
また「坊」という文字は、奈良・平安時代に区画された都の地区を表していたとかで、それが次第に大きな寺院に属する小さな寺院を指すようになり、「一坊の主人」という意味から「坊主」という言葉が生まれたとも考えられています。
髪を剃った状態を「坊主頭」と言うのも、僧侶の多くが剃髪していたことに由来しています。
一般に『お坊さん』は僧侶全般を指し、親しみを込めた呼び方となるようです。
つづいて【僧侶】という呼称。
『僧侶』とは、【出家(しゅっけ)』して仏教の戒律を守り修行をしている人のことで、仏教の修行のために出家した人は、すべて僧侶といえます。
「出家」とは、家庭での日常生活を捨て、修行に没頭すること。
厳密には修行に専念するために一般的な生活をすべて切り離すことですが、僧侶でも結婚をして家庭を持つことが許されていますので、結婚後は自宅を構え、お寺へ通われる方も大勢おられます。
このご自宅が『庫裏』でお寺の境内にあることも多いです。
『在家(ざいけ)』という方もおられます。
会社などで働き、家庭での一般的な生活を営みながら修行をする人のことで、「居士(きょし)」や「在家僧侶(ざいけそうりょ)」ともいいます。
まぁこの辺は殊に初めて訪れたお寺さんで在家の僧侶にお会いする機会があったとしても、なかなかそこまで詳しいことを悟ることは難しいですが。
他にも『和尚(おしょう)さん』『住職』など、さまざまな呼び方を耳にします。
なぜ、数々の呼称があるかというと立場や役職によって、呼び方が違うからだといいます。
【和尚さん】とは
『和尚』とは修行を積んで一人前と認められた、教えを説く僧侶の敬称であるといいます。
戒律を授ける者という意味があり、地位の高い僧侶を呼ぶ場合に使われるといいます。
実は『和尚』は複数の読み方があります。
浄土宗や臨済宗、曹洞宗では、一般に馴染み深い「和尚(おしょう)」という呼び方をしますが、
天台宗では「和尚(かしょう)」、
真言宗では「和尚(わじょう)」と呼ぶなど、宗派によって読み方が異なります。
また浄土真宗では使わない言葉なので、注意する必要がありそうです。
【浄土真宗】では
「ご住職(じゅうしょく)さん」と呼ぶのが一般的であるといいます。お寺の代表者にしか使えないので、他の僧侶は「住職」ではありません。僧侶が複数いらっしゃる場合は、対象者を把握する必要があるでしょう。
和尚とは、宗教上の位で、師匠や先生という意味で、人々に教えを説く僧侶のこと、だといいます。
さらに宗派別に。
【臨済宗】
多くは『和尚(おしょう)さん』と呼ばれるといいます。
他に『方丈(ほうじょう)さん』という呼び方もあるといいます。
【曹洞宗】
「方丈(ほうじょう)さん」と呼ぶことが多いといいます。
曹洞宗は臨済宗と同じく禅宗の一派で厳密な違いはないので『方丈さん』と『和尚(おしょう)さん』どちらを使っても問題はないとのことです。
【天台宗】
一般的に『和尚(かしょう)』さん」と呼ばれています。
『和尚(おしょう)』と呼ぶこともありますが、「和尚(かしょう)」の方がよく使われています。
【真言宗】
『和尚(わじょう)さん』と呼ぶのが慣例だといいます。
同じ読み方で『和上(わじょう)』と表記されることもあるとのこと。
【日蓮宗】
「ご聖人(しょうにん)」または「ご上人(しょうにん)」と、呼び方は同じですが、二つの表記が存在しているとのこと。
【浄土宗】
「和尚(おしょう)さん」と呼びます。由緒ある寺院の場合は「御前様(ごぜんさま)」と呼ばれることともあるといいます。
うーん。
これをみな覚えて使い分けるのですか…。
うーん。
もっと一般的に、簡単に、どの宗派で使っても問題ない呼び方が…ないかしら。
【住職】とは。
『住職』はお寺に住み込みで勤めておられ、お寺の管理や維持運営も行なっている僧侶のことを指しています。
『住職』と呼ばれるのは一つのお寺に一人だけ。
そのお寺の責任者(代表者)です。
住職の補佐や住職見習いを務めている僧侶は『副住職』と呼ばれます。
僧侶が一人だけのお寺であればその方がご住職ですが、
注意が必要なのは、複数の僧侶が働いているお寺です。
住職に当たるのは代表者だけなので、他の僧侶をご住職と呼ぶのは正しくありません。
その他、一度は目にしたことのある『法師』という名称。
それから。
高い位にいる僧侶を「大師」と呼びます。大師とは、朝廷から高僧に与えられる称号のこと。各宗派の開祖ほとんどの方が『大師』の称号を与えられています。
指導する立場にある僧侶は『阿闍梨(あじゃり)』『老師』と呼ばれます。
『阿闍梨』は天台宗と真言宗、「老師」は臨済宗や曹洞宗など、禅宗の宗派で使われています。
そして。
実は修行をしている僧侶のことを〝菩薩〟というといいます。
『菩薩』というと、観音さまやお地蔵さまといった仏さま。すでに悟りを開いている方のように思われがちですが、本来の「菩薩」とは、仏道で修行する人を意味します。
…なるほど…。
たしかに仏道で修行なさっておられるのが『菩薩』さまなのは存じ上げてはおりましたが、人として、僧侶として修行をされる方も〝菩薩〟と申し上げるとは、…存じませんでした。
お坊さんに対して失礼のない呼び方・NGな呼び方というものを見つけました。
…これですよ、これ!
これこそが知りたかったんです!
とっさに「お坊さん」を呼ぶとき、何度言葉に詰まったことか。
何と声をかければよいか考えすぎてしまって、ただでさえしどろもどろなおばさんがことさらにしどろもどろに、まさにドロドロ。
そんなどんな場面でも使える失礼の無い呼び方!
それは三つほどあるといいます。
まず一つ目は、
お寺の名前に様をつけた「〇〇寺(~じ)・(~でら)様」。
宗派や役職に関係なく使えるといいます。
うーん。
たしかにこれを耳にしたことはあります。お寺さん同士だったり、何か…地域の集まりとかで使われていたような気がいたします。
ただ…少し敷居が高い?
そして二つ目は、「僧侶様」という呼び方、だそう。
お坊さんの階級に関わらず使えるのたいへん重宝する呼び方なようです。
三つ目は、近年広まってきている「お坊さま」という呼び方です。書面にはあまり適していませんが、柔らかい雰囲気の場面など、口頭で用いるだけなら問題はありません。
…ほう、広まっていたものかどうかは知りませんでしたが、…よかったんだ。
変な呼び方かも、ってずっと悩んでいたんです。
でも〝近年〟ということは、やはり呼び方、呼びかけ方に悩んでいた方がいかに多かったか、そしてきっとみなさん、そこにたどり着いたんでしょう。
〝お坊さん〟だとちょっと軽めだけれど、それが〝さま〟になったらどうだろう。
みなさんそう考えたのではないかしら。
うーん、でもやっぱりちょっと緊張する。
顔見知りになったお寺さんでちょっと話しかけてみようかしら。
お坊さまの呼び方も困っておりましたが、お寺さんでは結構おうちの方、特に奥さまが対応されることがあり、そもそも奥さまなのか、娘さんやお母さまなのか、お手伝いにお越しの方なのか、はたまたその女性も僧侶であることもあるかもしれません。
むしろこの女性の方への呼称こそが困ったりすることが多いかもしれません。
なぜなら、お坊さまは自分の中で引っかかりはあるものの「お坊さま」という呼称になんとかたどり着いておりましたし。
それでも毎回毎回、失礼はないかと考えて、言葉に詰まって諦めたり、しどろもどろになるくらいですので。
えっ?
とてもエックスキューズミーおばさんの台詞とは思えない?
だって。
道をお尋ねするのとはちょっとわけが違うし。
神仏に関わることなく生きてきた期間が長くて、知らないことばかりですし。
まぁお寺さんですと〝仏道〟という道をお尋ねしているんでしょうがね。
閑話休題。
そんなわけでお寺におられる女性の方の呼称、結構いつも困っているのです。
お寺の奥様をお呼びするのに『坊守(ぼうもり)さん』という言葉があるといいます。
なんでもお寺には『坊舎』という別名があり、この坊舎を守る人という意味で『坊守』さんという呼び方が生まれたといいます。
お寺さんのご住職のご家族を『寺族』といいますが、『寺族の方』とか『寺族さん』よりも『坊守さん』の方がしっくりくるかもしれません。
ただ、そもそもがそれは奥さま限定なのだとしたら、奥さまではない人にそう話しかけるのもまた失礼というもので。
やっぱり今まで通り「あのぉ〜」とかいってその方を直接呼ばなくても良いように話しかけるのが一番なのかもしれません。
また女性のお坊さんも増えてきています。
男女を問わず『ご住職さん』『お坊さま』とか呼ぶので良いのかと勝手に思っております。
ちなみに、女性のお坊さんだけを指す「比丘尼(びくに)」という言葉もありますが、『比丘尼さま』という言い方もなんだかしっかりとこない気がします。
尼寺のご住職さまは「庵主(あんじゅ)」さまとお呼びしてよいようです。
さあ、これでお寺さんに行っても困らな…いかなぁ。
話しかけるのを躊躇するのも、しどろもどろに話すのも何にも変わらない気がいたします。
わが家のキッチンの一番目立つところに貼られたカレンダーは、DAISOの〝月の満ち欠けカレンダー〟。
とはいえ月の満ち欠けを意識して見ることはほとんど…ほぼ無いのですが、月を見上げるのが好きで、毎年これをめがけて購入しています。
私が夜外出することなどほとんどないので、たまにこれを見て、ああ今日は満月なんだなぁとか思って外に出る目安にはなります。
今月の満月は…?
あ、今日ではないですか♡
ん?
月初めの満月ということは…?
おおっ、やはり!
今月は満月がニ回あるようです。
今日と八月三十一日(木)。
調べてみたところ八月の満月はアメリカで別名「スタージョンムーン」と呼ばれているとのこと。
チョウザメの収穫が最盛期を迎えることに由来しているそうです。
おおっ!しかもニ回とも地球との距離が最も近い【スーパームーン】だというではないですか♡
厳密に言うと、最も距離が近いのは三十一日の方 だといい【ウルトラスーパームーン】となるといいます。
うーん♡
すでに満月。
さっそく早起きな私、朝の月を見に行ってみたのですが、見当たらない。
……。
しかしめげずに涼しいうちにと、草むしりをしてまいりました。
今朝もメダカは元気いっぱい。
エサをあげると飛びついくように食べだします。
涼やかに泳ぐメダカたちも、外メダカなので日中は大変で。
すぐにひなた水なってしまう昨今の灼熱の日差し、おばさんは三つのメダカの棲家を移動する日々を送っております。
ところで。
今月には旧暦のお盆があります。
現在の暦が使われる前の太陰暦では、月の満ち欠けを重要視していて、昔のお盆は『満月』だったのです。
月の満ち欠けカレンダーは旧暦何日かも記されていますので、それを見るとまさにそのウルトラスーパームーンがお盆に当たっております。
仏典では、お釈迦さまのお弟子の目連尊者さまが、餓鬼道(一説には地獄)に堕ちているお母様を救うために、雨季の安居(あんご)という修行が終わる
『七月十五日の満月の日』に僧達を集め飲食を供養し、餓鬼道に堕ちた母を救ったことに習いお盆が執り行われるようになったと伝えられています。
かつてのお盆の行事は、七日の七夕盆から始まり、十五日の満月に行われていました。
昔の人たちは月や星を見ながら亡くなられた方々を偲んでいたのです。
なんだか少し羨ましいような気がいたします。
夏の風物詩の一つに、花火大会があります。
この間は隅田川の、そして今日、明日と新潟県長岡市の花火大会が開催されます。
夜空を彩る花火はそのほとんどが夏で、他の季節に行われることもありますが数は少ないです。
なぜ、夏のものなのか、一説によるとお盆が関係しているといいます。
お盆の入りには、家の軒先で、迎え火を焚いて先祖の霊を迎え、お盆のしめくくりには、迎え火を焚いて先祖霊を送り出しますが大文字焼きのように、巨大なものもあります。
火は、霊の送り迎えには欠かせないものなので、お盆のある夏に花火をする、ということのようです。
隅田川の花火大会もその始まりは、
死者の霊を弔うためのものであったといいます。
江戸中期の享保十七(1732)年、西日本の広い範囲が凶作となり、かの有名な享保の大飢饉となりました。
一説によると、約九十六万人が餓死をしたとされており、さらに江戸では、疫病のコロリ=コレラが猛威を震いました。
事態を重く受け止めた徳川八代将軍吉宗は、死者の霊を弔うために
【川施餓鬼(かわせがき)】を行いました。川施餓鬼とは水死した人の冥福を祈り、有無縁者の亡者のために、川で行う施餓鬼供養です。
さらに翌年、両国川開きには、『川施餓鬼』と合わせて水神さまを鎮めるために『水神祭』も実施します。
これは、かつて都市部の河川が、疫病を流行させる要因となっていたから、だといいます。
その際に、花火師の六代目鍵屋弥兵衛が、慰霊と疫病の退散のためにと、花火を打ち上げたのが『隅田川花火大会』のルーツだといいます。
私の祖父母の代には花火を観ては
「たまや〜っ」
「かぎや〜っ」
という合いの手を入れる人がおり
「花火を見るときは『たまや〜っ、かぎや〜っ』って言うんだよ」
と教える人もおりました。
ええ、私にそんなことを教えてしまった大人は、「何故?」「どうして?」としつこいくらいに聞かれたものです。
そんなとき大人は、
「そういう決まりなんだよ」とか言う人もいたりします。
でもとりあえず私に教えた…記憶によると父だったか、父方の叔父だったか…は、
「これは花火屋の屋号ってやつだよ、花火を作る『かぎや』さんと『たまや』さんがあってね、花火が見事だったときに、褒めたりありがとうって思いを込めて言うんだよ」
とほぼ正解な説明をしてくれました。
江戸時代、鍵屋と玉屋、二つの花火屋が技術を競っていました。
花火が、夜空に咲くときの
「たまや~」「かぎや~」という掛け声のもとになった業者です。
ところが、玉屋さんは、天保十四(1843)年に火事を起こしてしまい、玉屋は財産を没収され、江戸から追放されてしまいました。
一方の鍵屋さんは、現代の十五代目まで、続いているということです。
…というところまではさすがに教えてもらったわけではありませんが、この父か父方の叔父だったかは、このあと、
屋号って何かとか、花火屋さんってどこにあるのかとか、花火を売っているお店とは違うのかとか、なんで玉屋とか鍵屋とかって名前にしたのかとか、玉って何とか、鍵って何とか、それはそれは超うるさくて超しつこい質問責めにあったことと思われます。
…今私がこれを小さな子供に聞かれたらどれだけを即答できるのか考えたら、…恐ろしいこと、恐ろしいこと!
父か叔父さんごめんなさい。
閑話休題。
長岡市の花火大会は明治十二(1879)年千手町八幡様の祭りに花火350発を打ち上げたのが始まりとされているといいます。
その後本格的な花火大会となったのは明治三十九(1906)年からといいます。
ちなみに現在の『長岡まつり』は長岡空襲からの復興を願い、昭和二十一(1946)年八月一日、長岡大空襲からちょうど一年後に行われた戦災復興祭が始まりだといいます。
そんな長岡市を含む中越地方を平成十六(2004)年十月、大きな地震が襲います。
新潟県中越大震災です。
長岡市を含め中越地方に甚大なる被害をもたらし、多くの方々が被災されました。
長岡まつりでのフェニックス花火の打ち上げは、大震災に負けずに頑張っている中越地方をはじめとする新潟県全体の大勢の人々を元気付けるために、また、一日も早い復興を祈願して、世界一の誇れるような壮大な花火を打ち上げたい、という思いからスタートしたといいます。
更には、世界中の人々の復興とご支援頂いた多くの方々への感謝のシンボルとして、『新潟県中越大震災復興祈願花火フェニックス』をあげているのだといいます。
テレビで拝見するだけでも心弾み心躍る長岡の花火。
一度でいいから行ってみたいと…画面をみると思うには思うのですが…出不精で人混みが苦手な私ども、まぁテレビで鑑賞するのがちょうどいいのかと。
再三再四にわたり申し上げておりますが、出不精で人混みが苦手な私ども。
それでもお祭りは好き♡であります。
ただ…コロナ禍となって、全国の様々なお祭りがことごとく中止を余儀なくされてまいりましたのがここ数年。
今年はそれが制限のない状態で開催されることができるとあって、それぞれのお祭りが大いに盛り上がっているようです。
本来なら神事であるため、中止とかはありえないはずで、ひそかに関係者のみで純粋な神事のみを執り行ってつないでこられた〝お祭り〟も多々あったとお聞きします。
しかしながらコロナ禍であることには変わりなく、複雑な思いがよぎらなくもないお祭りとなってはおります。
加えて殺人的な暑さに襲われ、さらにはそれに伴って襲いくるゲリラ豪雨があり、…結局、お祭りに心馳せながら、なかなか出向くことのできないおばさん、珍道中ペアであります。
中でも今年は神馬が走ると噂された群馬県みどり市の【大間々まつり】には、行きたくて行きたくてしかたなかったおばさんでしたが、泣く泣く諦めた状況で。
が!
…行きました。
とうとう、満を侍して!
とは言っても、実際には宵祭りとなるのですが、…群馬県桐生市の【宵の出御】という神事に参列したのですが…。
正式には桐生祭り、正式名称『桐生八木節まつり』の行事としてはカウントされていないもののようではあるのですが。
そもそも昔の人であるおばさんは、かつての【桐生まつり】を知っている人間でありますので、年々派手にはなるものの、なにか、そこにあった侘び寂び(?)を感じられないただのイベントとなってしまったことを憂い、わざわざ出向くことなくなって久しいものとなっていました。
そのきっかけはきっと、名称に「八木節」の文字が加わり「桐生八木節まつり」となったこと、開催日程が8月上旬の金・土・日曜日に変更されたあたりにあるのかと思っています。
それでも子どもたちが小さな頃には浴衣を着せて連れて行ったものではありますが…。
最後に行ったのは…。
それでも平成三十(2018)年、第五十五回の節目を記念して航空自衛隊の飛行隊「ブルーインパルス」の展示飛行が、桐生市中心街上空で行われたとき。
この時ばかりは金・土・日という〝私の〟休みの日に開催日程が変更されたことに感謝したことを覚えています。
あゝ、なんと自己中なおばさんですこと。
とりあえず。
宵の出御に参列して、すっかり桐生まつりの…【桐生祇園祭】の虜になった私。
今回の当番町である(本町)二丁目では四年ぶりの開催ということで大変力を入れて準備をなさっておられました。
行きたい、行きたい、行きたい!
が、こんな出不精で人混みが苦手なおばさんですらそう思った今回の桐生まつり、絶対人出は爆発的なものでありましょう。
ならば人出の少ない昼間の内に…と思っていたのですが、今日は私の扶養をしてくださっている夫が在宅勤務。
お昼ごはんを用意せねばなりません。
そして今現在の、誰もいない…とはいえありとあらゆる戸や窓を開け放ってある、四方が全て開けてある部屋の室温が36℃!
外に出ればほんの少しだけ出ただけで頭が熱い。
曇ってくればきたで、ゲリラ豪雨、雹が怖い。
くそぉ。(出た!下品なおばさんの本性が!)
(↓コロナ禍以前の桐生まつり)
※もちろん私どもは行かなかった。
宵の出御は八時からと、期間前の問い合わせ先に電話して確認をいたしました。
なんとも心躍るではありませんか♡
相も変わらず夫の運転する車の助手席でワクワクしながら目指す駐車場に到着するのを待つだけのおばさん。
思ったよりも同じ方向を目指す車は無いし、私たちの停めた駐車場はガラガラ。
よし!
乗せてもらってきた恩をドアを開けた瞬間から…厳密に言うと夫に虫除けスプレーをかけてあげたのち、スッカリ忘れて、スタスタと闇雲に歩き出す私。
もちろん土地勘など皆無で、ただただ野生の感のみです。
一方の夫はスマホでナビを。
あゝ夫なくしてはどこに到着していたものか。
…まぁ、一応方角も合ってはいたのですがね。
歩くこと数分。
…。
……愕然とする二人。
これをなんと言うんだっけ?…そうそう黒山の人だかり。
ひえぇー、凄い人!!
しかぁし!これに怯むようなおばさんではありません。
〝出御〟、というのだから御神輿が神社さんから出るということで、ところがなぜかみなさんは鳥居の外、…どころか石段の下のさらに道路を隔てた所にいます。
そうまるで出待ち。
!。そうか、出待ちなんだ!
よぉ〜し、もっと近くに、行けるだけ行こう。
えっ?夫はどうした?、ですか?
大丈夫、ついて来ています。
鳥居の前で一礼して、一気に駆け上る私、必死で追いかける夫。
…そもそも、なんで【美和神社】さんなんだ?
〝祇園祭り〟なのだから『八坂神社』さんなのでは?
そうなんです。現地に着いてからムクムクと湧いてきた疑問、なんとのん気なおばさんでしょう。
〝宵の出御〟は美和神社さんからと書いてあったのを見ても、なんら疑問を抱かずに現地まで来てしまう…なかなかいないんじゃ無いかなぁ、まぁ、打ち込みミスとかで無いことはあの人だかりを見れば一目瞭然、…でも一体…何故?
そもそも昼間に行われた安全祈願祭は『桐生天満宮』さんで執り行われています。うーん。
などと無い頭を捻ったところで仕方ないこと。
一気に美和神社さんの拝殿前まで駆け上がってまいりましたおばさん、そのいつもとは一変した光景に…ワクワク♡
法被の男衆たちが出御の時を今か今かと待っており、その人垣の向こうに金色の御神輿が!
ん?
あれ?
美和神社さんの拝殿は堅く閉ざされていますが?
あゝそ、そうかぁ。
〝出御〟が八時ならば当然その前に神さまにはお神輿にお乗りいただいているわけかぁ。
…どこまでもどこまでも迂闊極まりないおばさんでございます。
ああ、なるほど、…おばさん、御神輿の御霊入れを見たかったわけか。
そう思われたあなた、…正解です。
おばさん、まさにその御霊入れ、この桐生祭りにおいては【八坂大神 素戔嗚尊】さまの御霊を御神輿にお入れする儀式に参列…拝見したかったのです。
しかしながらもうすでに御神輿に素戔嗚尊さまはお遷りいただいており、御神輿を担ぐ法被の男衆たちがその〝時〟を静かに待つだけでありました。
美和神社さんの社殿のある境内はさほど広くはありません。(神社さんの敷地という意味での境内はたいそう広いのでありますが)
そこには男衆たちと世話方の方々、そして私どもを含む見物人たちでいっぱいで。
ですが、ほとんど口を開く方はおらず、大勢であるのに静かに静かに時は流れています。
連日の異常なまでの暑さがここでは嘘のように、肌に汗をかく程ではないほどよい、心地よい、…かつての夏の爽やかな暑さです。
はあ…御神域というのはかくも異なるものなのか…。
しばし時が流れて…。
世話方の方(…たぶん)が「あと○分」とカウントを始めましたが、誰ひとりそれに応じる声すら発しません。
拍子抜けした世話方の方が思わず声に出されたほどです。
いよいよカウントダウンとなっても、ざわつくことなく、「ゼロ!」という声となっても静かにスッと動き出す男衆。
私はそれに深い感動を抱きました。
ただ一人拍子抜けしたのは先ほどの世話役の方。
おそらくは鬨の声ぐらいあがるものと思われていたのでしょう。
担ぎ出してまもなく大きくカーブして、そしてけっこうな下り坂となります。
ゆっくり、ゆっくり。
そしてその先には石の鳥居があります。
美和神社さんの参道は坂道と石段。その途中に石の鳥居があります。
その石の鳥居、普通に見上げてみると高いもの。
ですが御神輿がくぐるにはそのてっぺんに祀られた鳳凰の飾りものがぶつかってしまうようです。
慎重に、慎重に。
「もっと!もっと下げて!」
見守る世話役さんたちから声がかかります。
かなりの時間をかけてようやく鳥居をくぐり抜けました。
この御神輿、どう見てもかなりの重量がありそうです。
石段の前には長い竿の先に提灯をつけた物を持つ二人が先導役を務めていました。
その先導役の後ろに横一列に男衆の数名が腕組みをしたポーズで、…カメラに向かってなのか…しばしそのポーズで立っていました。
そして。
さらにその石段を御神輿が降りて、…直進しました。
ここは、この道は本町通りと呼ばれる桐生市のメインストリートから美和神社さん、そして秋に行われる『桐生えびす講』のお宮『西宮神社』さんへと向かう参道です。
ちなみに明治三十四(1901)年に、美和神社さんの境内に西宮神社さんが勧請建立されています。
この参道を抜けた左斜め正面に桐生市では有名な矢野商店さんがあります。
本町通りと呼ばれる道を…『左』に。
この桐生市、本町というのは六丁目まであり、その六つの町会が順番で当番制でその年の祭典の中心となる係を受け持つとのことで、その当番町を『天王町』と呼ぶようです。
どうやら今年の当番町は『本町二丁目』のようです。
天王町の二丁目には御假屋(おかりや)もしくは御旅所と呼ばれる、祭りの期間中、御霊の入った御神輿がお休みになる建屋が設置されていて、そこを目指して行くようです。
…なるほどぉ。
ギャラリーも御神輿と共にその御假屋を目指します。
掛け声とかは一切ない静かな神輿渡御です。
この厳かな渡御を『瓔珞付き巡行』、と呼ぶようです。
ようやくたどり着いた一向。
休む間もなく長い、御神輿のかつぎ棒を外し、御假屋に納めます。
はああ。
すごいなぁ。
(↓ 近年、桐生まつりのシンボル的な存在、素戔嗚尊さまの象。鉾と呼ばれる山車の上に立つ)
今から七十八年前の八月六日月曜日の朝八時十五分、一発の原子爆弾により、街は焦土と化し、人々の夢や明るい未来が一瞬にして奪われ、一命をとりとめた方々も、言葉で言い表せない苦難の日々をもたらしました。
毎年八月六日八時より広島市の平和公園で平和記念式典が開催されますが、昨年、そして今年と、広島市の松井市長による平和宣言が私の心を強く打ちます。
この平和宣言を聞くかぎり、真に人の心に寄り添う為政者はかくあるものかと思い、広島市は良い方を市長とされているとつくづく思うのであります。
昨年に引き続き、今年も被爆者の方の証言から松井市長の平和宣言は始まりました。
『七十八年前の原爆投下の日を、まるで生き地獄のようだったと振り返る当時八歳の被爆者は、「核兵器を保持する国の指導者たちは、広島、長崎の地を訪ね、自らの目で、耳で、被爆の実相を知る努力をしていただきたい。あの日、熱線で灼(や)かれ、瞬時に失われた命、誰からも看取られず、やけどや放射能症で苦しみながら失われていった命。こうして失われた数え切れない多数の人々の命の重さを、この地で感じてもらいたい。」と訴えています。』と。
冒頭から一気に聴く人の心をつかみます。
全世界へ、そして日本の政治を行う政府に、政治家に向けて、広島市民を代表して切々と訴えます。
私はこの方の平和宣言をリアルタイムでお聴きし、そのあともその全文を読んで心に刻みます。
この平和宣言の中で、今年も松井広島市市長は日本政府に向けて、
『日本政府には、被爆者を始めとする平和を願う国民の思いをしっかりと受け止め、核保有国と非核保有国との間で現に生じている分断を解消する橋渡し役を果たしていただきたい。
そして、一刻も早く核兵器禁止条約の締約国となり、核兵器廃絶に向けた議論の共通基盤の形成に尽力するために、まずは本年十一月に開催される第二回締約国会議にオブザーバー参加していただきたい。』
と訴えておられます。
〝国〟としての広い視野での政治であれば、簡単には実行に移せないこともあるかもしれません。
しかしながら世界で唯一の原爆被曝国〝日本〟が、【核兵器禁止条約】の締約国でないことの不自然さといったら…。
そしていまだに核兵器禁止条約には署名されてはいません。
全世界に向けて発信されているこの言葉、岸田総理は現場で聴いているのですがね。
桐生まつりの源流は、桐生新町三丁目(現在の桐生市本町三丁目)にあった衆生院の境内に併設された牛頭天王社の祭りであるとされています。
天正十九(1591)年の桐生新町造営から約六十年後、新町の商家が百四十戸程となった明暦二(1656)年に、本場京都の祇園会に倣い、牛頭天王を祀り、疫病退治を祈願する子供の手踊りが行われ、これが桐生祇園祭の起源とされています。
さらにこの衆生院の隣接地に商売繁盛を願い市神社を造営したといい、その後衆生院の境内には神輿蔵が造られたといいます。
また神輿蔵が造られた頃から、祇園屋台や山車が登場するようになったといいます。
飾り物や祇園屋台で行われる狂言などが年々派手になっていき、桐生の祇園祭は一気に賑やかになったようです。
当時のもので一番古いものが四丁目の屋台だといい、安政元(1854)年のもので廻り舞台になっているといいます。
あの素戔嗚尊を収めている鉾座に、鉾と一緒に常設されていますが、高さ9.2メートルあるという鉾の横に並んでもその大きさ、その豪華さは圧倒されるほどのものでありました。
この素戔嗚尊を祀る鉾を『四丁目鉾(しちょうめほこ)』というようですが、これより先に本町三丁目町会で頼朝公を祀った鉾を造っています。
三丁目の鉾は頼朝公が翁の面を付けていることから『翁鉾』というといいます。
三丁目鉾が文久二(1862)年に造られたのを受けて四丁目鉾が造られたのは明治の時代を迎えてから。明治八(1875)年といいます。
そう。
明治の時代を迎え、神仏分離令を受けて、祇園祭の主祭神である牛頭大王はその地位を失い、素戔嗚尊がこれに取って替わったことをうけて、明治八年に造られた四丁目の鉾は素戔嗚尊を祀ることとなったようです。
明治三年には神仏分離令によりこの祭りの中心であった三丁目の衆生院は廃寺となり、残った牛頭天王社は『八坂神社』となったといいます。
(続き)
明治三(1870)年に祭りの正式名称も『牛頭天王祭礼』から『八坂祭典』へと変わります。
今、その衆生院の跡地には六階建くらいの市営住宅が建っており、当時の面影はありませんが、新しそうな『八坂神社跡』と刻まれた小さな石碑が建てられていました。
ただ、その市営住宅の隣に小さな御堂があり、衆生院と関係があるのかどうか。
『新田不動堂』という不動堂のようでした。
太田市に『新田不動尊』で有名な『大慶寺』さんというお寺があるのですが、そちらとの関連性も、この御堂を管理されているお寺さんも何もかも不明であります。
隣にある八百屋さんも八百屋としてはもう営業をほとんどされていなそうで、お声をかけるのが憚られてしまいました。
明治中期には屋台は全て桐生天満宮の方向に向けて設営され、さらにはその屋台を動かして曳き違いもされていたようでしたし、二基の鉾も巡行もしていたようです。
しかしながらその後は電柱が増え、巨大な屋台や鉾の曳き廻しが難しくなり祭典への出番がそこでストップしてしまったようです。
明治四十一(1908)年、衆生院跡にあった八坂神社は町の整備で移転することとなり、美和神社さんに合祀されることとなり、美和神社の社殿の傍に八坂大神の神輿蔵が建造されます。
…そうなんです、だ・か・ら!美和神社さんから出御なされるのです。
戦後の昭和三十九(1964)年に
『八坂祭典』と『七夕祭り』、『商工祭り』が統合され【桐生まつり】となったのだといいます。
その後桐生まつりに吸収されてしまったかのようになってしまった『八坂祭典』ではありましたが、平成の時代となりふたたび動きが見られるようになります。
本町通りの電柱の電線が地中化されたことにより、百二年ぶりに【四丁目鉾】が復活したのだといいます。
…そういえばそう、私、それを見に行った記憶があります。それが平成七年だったといいます。
たしかその時はレプリカではなく、明治に作られた、生き人形と呼ばれる素戔嗚尊さまが鉾のてっぺんにお立ちになったのだった…と思います。
…おばさん…ずいぶんと力が入ってる?
はい。
そうなんです。
じつはあの、四日の日の、女子にあるまじき台詞を書き込んだわずか十分後、おばさん、熱さにも負けず、ゲリラ豪雨の危機にも負けず、煩悩の赴くままに車に飛び乗っていたんですよね。
…はい、桐生まつりに行ったんです。
まだ完成されていなかった屋台を見に、見落とした(であろう)天王町、本町二丁目お宝を見に。
しかも、です。
四日の夕方に行き、さらには五日の夜にまで。
…地元のお祭りには行きもしなかったというのに…。
正確に言わせていただくと、あくまでも【桐生祇園祭】に特化して。
八木節の盛んな櫓の立つあたりには寄り付きもせず、露天商の屋台には目もくれずに、ひたすら桐生祇園祭を堪能してまいりました。
今まで知らなかった桐生祇園祭。
(…というか一時はほぼ町会役員や祭典委員だけで行われていたようでした)
楽しかったぁ〜っ♡
(↓今年は花の勢いが良く、いつもよりより綺麗にたくさんの花をつけて咲く百日紅の花)
まずは【大幟(おおのぼり)】と呼ばれる幟旗を。
昨夜は安全と防犯のためにと降ろされていました。
高さ二十メートルの切り出されてきた支柱に、長さ13.5メートル、幅1.8メートルの大幟。てっぺんには神さまの依代として【榊】が取り付けられています。
高ければ高いほど神さまに近く目印となるということでありますが、と同時に近郷に祭りの開始を知らせる合図でもあるといいます。
本町通りをはさんで二対立てられます。
その大幟のはためくたびに鳴る音といったら!ギシギシとかなり遠くからでも聞こえます。
これも電柱の地中化により再び掲揚されるようになったものであります。
六つの町会にそれぞれ六つの大幟があるといい、それぞれ書かれている言葉が異なります。
本町二丁目の大幟には
【護国錫盈豊】【臨民降福澤】
と書かれています。
明治七(1874)年に制作されたものとのことですが「これはレプリカだよ」とおっしゃっておられた方もおられました。
『国を護りてはみなぎる豊かさをもたらし』『民に臨んではあふれる幸福をあめふらす』
と読むとのことで、意味は『国からあふれる恵みを護り、人々が豊かに安心して暮らせるようにのぞむ』とのこと、…よ、よくわかりませんが。
歩いているとそろいの浴衣を方々が手に花傘を持って二丁目の会所を訪ねていきました。
口上を述べると会所におられた紋付の方々がお言葉をかけて、…一丁目の方へ向かって行きました。
さ、エックスキューズミー。
なんでもそろいの支度で各会所を訪ねて本番開始の挨拶をする『付け届け』という儀式だそうです。
あ、特に付け届けの品を届けるようなことではありませんでしたよ。
そういう言葉を使うのだとおっしゃっていました。
私がいろいろ関心を持って質問したことに対し「祇園祭に関心を持ってくださってわざわざお越しくださりありがとうございます」と、深々お辞儀をされて、百個限定で作られたという祇園屋台の扁額の文字『縱樂』という文字の缶バッチをくださいました。
…この缶バッジ、印籠から出され、おそらく個人でいただいた物だったと思われましたので、何度もご遠慮申し上げたのですが、「わざわざ来ていただきいろいろ二丁目のことに関心を持ってくださったのが嬉しいから。お礼の気持ちとしてぜひ受け取っていただきたいからお持ちください」と。
…申し訳ない。
そしてありがたい。
(続き)
人と人との関わりとはなんと心に染み入るものでありましょう。
一期一会である出会いです。
この缶バッジにしても私のような者が持つよりも、会所におられた、このお祭りの開催にご尽力なされたこちらの方の方がずっとずっと持つ意味があり、一生の宝とすらなったやもしれない物となりましたでしょうに。
ありがたい、本当にありがたい。
大切にとっておくべきか?
いやいや、お祭りに着けて歩いてこそ、天王町二丁目の方々が喜んでくださいましょう。
さっそく着けて歩き出しました。
『縱樂』の意味は『思う存分楽しむ』だそうで、まさにこの時の私の心そのものです。
おおっ!
祇園屋台に襖絵が飾られ、2階部分には御簾が掛けられました。
昨日観た彫り物も立派でしたが、御簾や襖絵が入るとまた趣がガラッと変わります。
正面だけでなく舞台裏にも、屋台の裏、後ろ手にも襖があって、計三十六枚、波が描かれ、松があり船が浮かび、広がりのある絵でありました。
前夜の宵の出御の際に拝見した龍の描かれた金の屏風絵がもう一度見たくて、もう一つの会所(?)に寄らせていただきました。
ああ。だいすき♡
怪しげに屏風を見つめるおばさんにここでも優しくお声がけくださる方が一人。
こちらは女の方で、この屏風について説明をしてくださいました。
なんでもこの屏風、かつて桐生で有名な藥問屋『玉上家』の襖絵だったのだといいます。
え。
こ、こんなキンキラキンの襖、ですか?
しかも見事な龍の描かれた?
なんでも文化十一(1818)年の狩野派の方の絵で、唐紙として使われていたとのこと。
し、しかも、です、この屏風『六曲一双』とのことで、もう一対があるとのこと。
ええぇっ!
(続き)
それはまさに先程、缶バッチをいただきましたもう一つの会所の中に飾られているといいます。
「帰りがけに見せていただいていくといいわ。もう一つの屏風を見てそう言われたと言ってみて」
と。
そして、さらにはその会所を離れて、個人所有で保管されている鳶(とび)の棟梁のハレの日の衣装、祭礼の際に羽織るものが飾られているところと、大幟の装飾としてかつて使われていたという木鼻、木の彫刻の龍の飾られたところまでご一緒くださってそれぞれを説明してくださいました。
なんと優しい、人を大切にする方々がお住まいになっておられるところでしょう。
そして何より、自分のお住まいになられる地を心から愛しておられます。
こんなふうに生きたいな。
こんなふうに暮らしていたいな。
「夜になるとまた趣が一変して、毎日住んでいる私がぽぉっとするくらいきれいなの。もしお時間が許すならぜひお越しになって」
そう、屋台を守っておられた方もそうおっしゃっていました。
屋台もライトアップするといい、そうするとまた違った感じになるとのこと。
たしかに。
他の町会では提灯が下げられていたのですが、二丁目はリリアンの糸のような、…それよりも繊細で細い糸で作られた吹き流しのような飾りが吊るされており、その一つ一つに電球が入っていて、ほの明るい優しい灯りで辺りの…重伝建の建物を照らしています。
古い建物が多いので提灯も似合う街並みでありますが、この飾りはこの街並みに大変似合うものだと思います。
桐生の祇園祭は夜を徹して楽しんだといいますので、夜にも美しい飾りというものを考えた経緯もあったのでしょう。
この桐生市本町二丁目の祇園屋台前に、二丁目屋台の歴史が書かれた垂れ幕がかけられていました。
なんでもこの二丁目の祇園屋台は明治三十五年に完成したものとのこと。
他の屋台は一丁目のもの以外、三丁目から五丁目までが安政年間に、六丁目のものが慶応三(1867)年、大政奉還の年に造られていました。
つまりは三丁目から六丁目の屋台は安政元年以降の十三年間に集中して造られていたこととなります。
それに比して二丁目は明治も終わろうかという頃になって造られており、一丁目のものに至っては昭和十三(1938)年に造られています。
一丁目の屋台は江戸期、六町会の屋台の先駆けとして造られたものであったであろうと推察されています。
その根拠は現存する屋台の襖絵が文化十一(1814)年に造られたものだから、であります。
今の屋台に使われる襖絵は明治三(1870)年に制作されたものとのことですが、…昭和十三年に屋台は完成した、ということ、ですかね。
一方の二丁目のものはというと、やはり初代のものは江戸期に造られたものでありました。
しかしながら明治十二年の当番町の時、屋台を引き回していた際に大きな事故が起きてしまったといい、その頃ちょうど建造中であった同じ桐生市の『寂光院』さんに譲渡され、御本堂の彫刻として転用されたといいます。
…桐生市の寂光院さんといえば、…以前書かせていただいた桐生陣屋跡でもあります。
なるほど。
歴史は新たなる形で江戸から明治へと繋がれていった、というわけでありましたか。
秩父でも古い屋台の一部を使って建てられたお寺さんがありました。
今日八月九日は長崎に原爆が投下された日であります。
今年の平和祈念式典は台風六号の接近に伴い、会場を平和公園から屋内施設に変更し、岸田文雄首相や各国代表などの招待を見送って縮小し開催されました。
鈴木史朗市長ら市関係者が参列されましたが、長崎県知事は参列せず、ビデオメッセージを送っていました。
たしかに、県知事は県内での台風被害に対策を講じる必要があるのかもしれない。
だけれど。
戦後七十八年、原爆被災者は最年少者で七十八歳となられています。
決して忘れてはならない、そして何より忘れてほしくない思いを胸に抱えて生きてこられた方々にとって、何ができるかをもう少し考えてみてもよかったのではないかと思わずにいられませんでした。
お気持ちに寄り添う形はビデオメッセージだったのだろうかと。
もちろん、台風による規模の縮小はやむを得ないことと捉えていらっしゃることとは思います。
ですが、規模縮小というのはやはり寂しさの伴うものだということを察しなければなりません。
県知事さんが無理なら、代理の誰かとかは、…無理だったんでしょうか。
たしかに長崎では五島列島に避難指示か出ている状況であるようで、風雨もだいぶ強そうです。
全国的にみたら今回の台風の被害はすでに甚大なものが起きており、しかも起きている真っ最中でありますので、今回の長崎市の判断は適切であったと私も思い、納得してはおります。
ただ…。
そんなモヤモヤした思いが残るものであったのも事実でありました。
そしてあらためて。
ここをお借りして長崎の原爆被害者の方々のご冥福をお祈りいたします。
台風六号の猛威、そして依然衰えない勢い、進むスピードの遅さ、遠く離れた地からでもその脅威を感じ、その地域にお住まいの方たちのご無事を祈るばかりです。
そしてゲリラ豪雨や命を脅かすような危険な暑さ。
そんな自然の脅威、自然の凄まじい力。(地球の温暖化は私たち人類の知らずして歩んでしまった道によるものではありますが)
しかしながら。
ふと見上げた空に。
人知れず咲く花に。
癒されるのもまた事実です。
恐かったり、美しかったり。
そんな自然の現象を見るにつけ、…生かされているのだなぁと気づかされます。
桐生祭りの天王町に、店舗一軒の正面全てを覆うように、飾られた大きな…布製の展示物がありました。
【坂口安吾】
さかぐち・あんご
1906-1955
あ。
ああ、そうだった。
坂口安吾はここ桐生市の本町二丁目に住み、その自宅で亡くなっているんだった。
今はリノベーションして花屋さんになっているのだけれど、その建物は今も残っているのだった。
ただ、無学無教養の私。
坂口安吾の作品は読んでいないのです。
当然坂口安吾について語ることはできません。
が、ここに書かれていた内容を記しておき、今読みかけとなっている一作品を読み終わったら、あらためてこれをみて振り返ろうと思います。
以下は本町二丁目に展示されていた展示物のものとなります。
【坂口安吾】
第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する小説家
『すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。
坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない by川端康成』
とありました。
これは青山斎場で行われた葬儀の席で川端康成氏が読んだ弔辞のようです。
しかしながら、坂口安吾は生前、葬式は退屈で不要だから
「バカ騒ぎを一晩やりなさい。あとは誰かと恋をしてたのしく生きて下さい。遺産はみんな差しあげます。お墓なんか、いりません。」
「告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。」と語っていたといい、
墓は故郷の新潟県新津市大安寺(現・新潟市秋葉区大安寺)の坂口家墓所に葬られたといいますが、墓には安吾の名や戒名は一切印されていないといいます。
新潟市寄居浜の護国神社境内に『ふるさとは語ることなし』の詩碑が建立されているといい、毎年二月十七日には【安吾忌】が催されているといいます。
(続き)
(そのあとに続けて貼ってあった展示内容)
『私の住む本町二丁目はその都市ができた時からの中心地で、そこの横町は四百年前からの歴史ある横町だ。』
…(この間はかなりの間を空けて、布も変えてありました)
『とにかく迎え火だの先祖の霊がもどってくるなぞという怪談じみた行事は敬遠いたしましょうという桐生の氣風はアッパレで、陰にこもったことは一切やりたがらない代わりにお祭りとくると目がないのである。
七月にやるギオン祭はこの市のメーンストリート本町通の祭禮だ。祭禮の数日間は、このメーンストリートが道路でなくて祭禮の会場となる。
さて、この祭の神社であるが、これが何より珍しいのである。
「桐生のギオン祭は何神社のお祭だい」
「祭禮のチョウチンにちゃんと書いてあるだろう。八坂神社のお祭だ」
ところが私がいくら探しても八坂神社というのが近所に存在しない。
よってミコシのあとをつけたところが、すぐ私の家の裏の神社へ御神体を迎えに行き、祭の終わりにもまたそこに納めに行った。その神社は美和神社というのである。大国主のミコトの神社だ。八坂神社ならスサノオのミコトである。この美和神社は平安朝の神名帳にも記載のあるユイショある神社であった。そこで私はチリメンのおそろいをきているダンナにきいた。
「これは八坂神社じゃないぜ」
「八坂神社とよぶことになっているんだ」
「ちゃんと高札をたてて名のある美和神社だと断り書きまであるじゃないか」
「社が三ツあるから一ツが八坂神社だろう」
「美和神社の隣はコンピラサマ、そのまた隣はエビスサマだ」
「うるせえな。とにかく八坂神社とよぶんだよ。だから八坂神社だ」
(続きます)
(続き)
『このギオン祭は今から二百四、五十年前に京都のギオン祭をまねて盛大にやりだしたものらしい。祭はギオンにかぎるというので祭に目のない連中が新規ににぎにぎしくやりだしたのはよかったが、あいにく神社がなかったのである。大国主のミコトはスサノオのミコトの孫子だか弟だかで、また物の本によると同一神の表と裏で、キゲンの良い時が大黒サマ、怒っている時がスサノオだという説もあるから、美和神社で間に合わしちまえ、ということになったのかも知れない。
神サマだの神社なぞはなんでもかまわねえ、大事なのはお祭でいゝというのが桐生のギオン祭発祥の縁起ではないかと私は結論するに至ったのである。
とにかく神社がないのに底ぬけのお祭をやってるところは、ほかに類がないように思う。』
…。
いやぁ、坂口安吾、痛いところを突く。
私などは宵の出御の際、美和神社さんに向かったことに疑問を抱いたものの、(ああ、たしかに美和神社さんの向かって左に神輿舎があった、かも。そこが今の桐生市本町の八坂神社さんなんだな)で完結してしまいました。
実は結構神社さんでは、神輿舎を以て八坂神社と称してそれを境内社とする所があったものだから、ここもその一つかと、思ってしまいました。
それにしても「うるせえな。とにかく八坂神社とよぶんだよ。だから八坂神社だ」、って…。
そう思っていた方にたまたま坂口安吾が聞いてしまったんでしょうね。
うーん、なんとも残念な。
ただ…。
私もこれを書き写してみて思ったことに、神輿舎を以て八坂神社としているのなら、御霊入れ、御霊移しはいらないのでは?
なぜなら、御神輿にお乗りいただいた状態のままお祀りしているから八坂神社と称するのでありましょうから。
うーん。
…うーん。
ま、桐生八木節まつりだし、桐生祇園祭だし、桐生の人のお祭りなのだから、…これで良いのだ。
そうそう、なにより【美和神社】さま、素戔嗚尊さまも御祭神としてお祀りしておられますので。
よかった、よかった。
今日は旧盆。
通りすがりの家々や街路樹として植えられたいろいろな色の百日紅を楽しみながら、お墓まいりをしてまいりました。
百日紅(サルスベリ)はミソハギ科サルスベリ属の落葉高木。
結構大きな木になるようです。
中国南部が原産といい、日本には江戸時代に渡来したといわれています。
明るく丸い葉っぱやつやのある白い幹が美しく、花は七~九月に新しい枝の先端につきます。
次々と新しい枝が成長し百日間ほど花が咲き続けることから『百日紅』という名前がついたといわれています。
花の色は赤、濃いピンクや薄いピンク、白があり、真夏の暑い日にも負けずに咲いて目を楽しませてくれる私の大好きな花の一つです。
百日紅は散った花びらすら可愛らしく思われます。
とはいえ、ネズミの額ほどの庭、植えられる木も限られておりますので、自宅には百日紅の木はないのですが。
今日お参りいたしましたお寺の境内にも百日紅の花が咲いておりました。
実は百日紅は、一説に仏縁のある花とされていて、お寺に植えられるようになったそうです。
なんでもお釈迦さまが誕生された時に咲いていた『無憂樹』(ムユウジュ)別名・アショーカ樹の代用として寺院に植えていたと伝えられています。
インドの無憂樹は、赤~橙色の花を沢山咲かせ、花の姿がサルスベリに似ているのだといいます。
インドにおいて無憂樹は、恋愛や結婚、出産にまつわるおめでたい木で、『幸福の木』とされているのだとか。
恋する乙女が無憂樹の根元に口づけをして、花が開くと恋が実るといういい伝えもあります。
また、お釈迦さまが妻であるヤショーダラに出会った時も無憂樹が関係していたそうです。
お寺に咲く木には、色々な伝説が宿っているように思います。
それにしても。
一見ロマンチックな気がいたしますが、無憂樹の根元に口づけって…うーん…私にはムリかな。
それはきっと私がまだ本当の恋を知らないせい、かしら。
ちなみに、毎年毎年、「あの花の名前はなんていうの」と聞いていた夫、やっと覚えることができたよう。
百日紅記念日、でしょうか。
いまさらながらお盆ってと調べたところ、お盆の迎え方について丁寧に書かれたものがありました。
とはいえ私ども珍道中ペアは祭祀承継者ではないので、そこはあくまでも一般知識として知っておくと良いと思うものであり、地域によって異なる点等もあるのではありましょうが。
【お盆の迎え方】
七日
『盆始め』
七日は、七日盆(なぬかぼん)とも盆始めともいい、盆の仕度にかかる日。
七日~十二日
『墓掃除』
草を抜き取り、墓石を洗い浄めます。
掃除した後は、お線香を上げても良いのですが、お迎えに来るまでにお墓をきれいにしておくというもので、上げなくともよい。
十二日(あるいは七日)
『棚つり』
まず、仏壇を掃除し、仏具を浄めます。
地域によって、お仏壇でご先祖の精霊を迎える所と、精霊棚を設けてお迎えする所があります。精霊棚を作って飾り付けをすることを『棚つり』といいます。
この精霊棚は、仏壇の前や座敷などに飾りますが、向きは南向きか、あるいは東向きが良いといいます。
十一~十六日
『棚経(たなぎょう)』
お盆の時期に菩提寺のご僧侶が、檀家や信徒の家を一軒一軒訪ね、精霊棚の前でお経を読むことを棚経といいます。
この時は家族全員が集まり、一緒にお参りをします。
十三日(あるいは十二日)
『迎え盆』
十三日の夕方、ご先祖の精霊をお迎えします。まず、提灯を持ってお墓にお迎えに行きます。
新盆は白い無地の提灯、ご先祖は模様入りの提灯、家紋入り提灯なら両方に兼用できます。
家からはお供え物と花を持って行きます。
お墓でお花を立て、お供え物を供え、お線香を上げてお参りをします。そして、提灯に灯をともして、その灯と共に精霊を家にお連れします。
家に着いたら、庭先か玄関でその提灯の灯で迎え火を焚きます。
家に入って、提灯の灯を精霊棚に移し、お線香を上げて家中皆でお参りします。
十三日~十六日
『お盆の供養』
お盆の間は、親戚の家、過去に大変お世話になった家などをまわり、ご挨拶をし、仏壇にお参りをします。
しかし、自分の家が新盆の年は、余り出歩かないようにしましょう。
十六日(あるいは十五日)
『送り盆』
十六日の夕方、迎え火を焚いた同じ場所で送り火を焚き、精霊を送ります。
…そうなんです。
この迎え火、私ども夫婦は親からの教え等無く過ごしてきておりましたが、一度夫の兄(次期祭祀承継者)に頼まれてお寺さんに迎え火をもらいに行ったことがありました。
お納めするお金は?
お迎えしたの迎え火はどうしたら?
…わからないことだらけでありました。
やはり長男で次期祭祀承継者は教えられていたのでしょうか。
…どうやらあまり正しくは伝わっていなかったよう。
私たちに頼むくらいですので、お墓参りやお仏壇に手を合わせる等、あまり熱心ではなく、いわゆるお盆休み=レジャーの時であった長男は、父親から直接の伝授を受けることなく、やはり熱心ではない上に自分でやったことのない母親からの伝授となったため、提灯の在処だけしか伝えられてはいなかったよう。
夫の菩提寺さんは自分でお寺に設けられた精霊棚から火種をお受けする方式なのですが、その際お寺さんにお金をお包みすることなく、火種=迎え火をいただいてきていたようで。
それで通っていたなら良いのでは?…いやいや皆さんきちんとお寺さんにお包みしたものを渡しています。
そうでない方は本堂前で手を合わせてお墓参りしてご先祖さまをお連れするようです。いわゆる住宅事情で火を焚くことが出来なくなってからの新しいやり方です。
提灯とかもなく、お墓の前でお灯明をあげて、その蝋燭を以てお仏壇、もしくは精霊棚へ供え火を灯し迎え火とするようです。
「提灯て迎えに行ってその後はどうしたらいいの?」
夫が聞くと、
「提灯の火は危ないからすぐお寺で消しちゃってるし、(実家に)着いたら仏壇でお線香あげればいいんじゃないん?」
…へっ?
そ、そうなんだ。
私どもはさすがにお包みはさせていただきましたが、知らなければやはり母親から聞いた通りにするでしょう。
義父の生前、お盆のお迎えは義父一人でやっていましたし、その間義母はまだ寝ているような人でしたし。
なにしろ義母は義父の初七日の日、私たちに告げずグループ旅行に行ってしまってたような人でしたから。
まあ、初七日法要はたしかに葬儀の際に済ませてしまってありましたが、ね。
子どもたちに誰一人にも告げずに旅行に行ったあたりは、多少の罪悪感くらいはあったのでしょうが…。
やはり義理堅くお線香をあげに来た方がおられて、私どもはただただオロオロするばかりでありました。
…うーん。
前スレで、義兄のことをお墓参りやお仏壇に手を合わせる等、あまり熱心ではなく、いわゆるお盆休み=レジャーの時であった、などと書いておりますが、私どもとて大差はなく。
ただお墓参りや親戚やお世話になった方宅への(主に親世代の、…要は運転手)お線香あげなどをしていたというだけで、私どもにとっても、特に子どもたちの小さな頃は夫と私の夏休みのような位置付けになっていた〝お盆〟でありました。
本来お盆は浄土(あの世)亡くなられた方やご先祖様の霊が現世(この世)に戻ってくるのでお迎えし、家族とともにひと時を過ごし、再び戻られてからの浄土(あの世)での幸せ、つまりご冥福を祈る行事で、仏教徒日本に古来よりある祖霊信仰という風習とが結びついて成り立った行事で、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいます。
まぁ、お墓参りをして、仏壇に手を合わせたので、よしとしよう的な、自己満足な考えで、お盆という名の家族全員の夏休みを過ごしていた私ども。
舅などは「お盆に墓参りに行ったって、中は空だからな」
などと言っておりましたが、それはそれ、子どもたちに伝えるべき日本の慣習としてなんと言われようと墓参りも欠かさなかった嫁でありました。
ところで。
お盆の期間中には昔から「やってはいけない」と言われていることがあるのだといいます。
…えっ?
そ、そんなぁ。
お盆の期間中には昔から「やってはいけない」と言われていることがあると言います。
…いまさらお盆の期間にしてはいけないこととか言われても…困りますが。
どれだけの年数、しでかして生きてきてしまったことか。
困ったなぁ。
恐ろしいなぁ。
【お盆にやってはいけないこと】
1.海や川などの水辺に行ってはいけない。
そ、そういえば聞いたことがあるような、ないような…。
お盆に海水浴や川遊びをしてはいけないということ。
たしか土用波という高い波が起きやすく、潮の流れも変わりやすく、水温低下などの変化がみられる時期だから、…だったではないでしょうか。
また、毒を持つクラゲも増える時期であるため、海水浴は避けたほうがよいという説もあります。
川であれば水温が低くなる頃でもあり、豪雨が多く急な増水も多い時期であることから、海、川に限らず、あらゆる水の事故に注意が必要な時期、ということになります。
そして。
昔からよく言われているのが、霊に足を引っ張られるというもの。
これは供養してもらえない霊が寂しさのあまり、水辺に来た人間の足を引っ張るという言い伝えです。
う、うーむ。これは、怖い。
2.魚釣り・虫捕り
お盆の時期は殺生を避けて命を大切にするため、魚釣りや虫捕りなども避けたほうがよいと言われているといいます。
これらの理由には仏教の教えが関係していましょう。
仏教では『十善戒』において、一番初めに不殺生(あらゆる生命を尊重しよう)」が挙げられています。
お盆は仏教の行事ですので、不殺生の教えは守りたいもの。
供えするお膳(霊供膳)も、精進料理となっていますよね。
(続き)
また、「ご先祖様は虫(トンボ)に乗って戻ってくる」と言われているともいい、そうしたことからも、虫捕りは避けたほうがよいとされるのでありましょう。
【お盆にやってはいけないこと】
3.魚や肉を食べる
前レスの「不殺生」に通じるところで、本来はお盆に魚や肉を食べるのも避けたほうがよいと言われています。
しかしこの現代で、ずっとお供え膳のように全てを精進料理、というのはなかなか難しい。
お魚やお肉をいただく時「私たちのために差し出された、すべてのいのちに感謝いたします」という気持ちがあればよいのではないでしょうか。
4.仏前に適さない花をお供えする
お盆にはお墓やお仏壇にお花をお供えしますが、適さない花もあるといいます。
まぁ、これはお盆だから、ということではなく、いわゆる仏前にお供えするのに適さない花、ということになりましょうが、
◎お供えに適さない花の例
①とげのある花・バラ、アザミ、など
②毒のある花:ヒガンバナ、スズラン、スイセン、など
③香りが強い花:キンモクセイ、など
④花粉が落ちやすい花:ユリ、など
※ただしユリは花粉を取って使われることも多いです。
⑤つる性の花:アサガオ、クレマチス、つるバラ、など
などだそう。
まぁ、お花屋さんやスーパーなどで仏花を求めればまず間違いはない、のでしょうが、ね。
5.他所のご先祖様にお参りする
お墓参りとは本来、故人や先祖に対して供養をすることや感謝を伝えたり会話をしたりすることです。
ゆかりのないお墓にお参りするのは好ましくないこと、といいます。
まぁ親類の家ならばお参りやお花のおすそ分けくらいは…良いのでしょうね。
6.お見舞い
お盆は亡くなった方やご先祖様の霊を供養するための時期であるため、入院している方へのお見舞いは地域によっては縁起が悪いとされています。
たしかに、これも聞いたことがあります。
ただ、…たしかにお盆時期のお見舞いは避けた方が無難ではありますが、「帰省した時しか行けれない」等の理由がある場合は、ご家族やご本人にお見舞いをしてよいか確認してからお見舞いするとよいでしょう。
もちろんこれには身内の方への通常化しているお見舞いは含まないと思われますが。
(続き)
【お盆にやってはいけないこと】
7.結婚式や入籍
結婚式や入籍などのいわゆる慶事もお盆の期間中は避けた方がよいことのひとつだといいます。
一般的に慶弔では「弔」の方が優先されます。
結婚式や入籍などのおめでたいことは、日にちをずらすなどした方が縁起的にもよい、ということでしょうか。
…これは私も親から言われたことであります。
そうした事をほとんど言わない、伝えてこなかった母から、であります。
それほど、世間一般の常識となっているものであった、という事でありましょう。
…現代ではどうなのでしょう。
結婚式などでプロに相談しつつ、ということであれば、その方たちからそういった話が伝えられることとは思いますが。
入籍ともなると二人の休みのタイミングか合ったからと、役所に出向くこともありそうな…。
でも…ご先祖さま、良い報告を喜んでくださりそうな気が致しますが、…どうかな?
私のようにお寺さんとも無縁で生きてしまう人もおられるかと思うのです。
そうした知識もないことって増えていくかと思います。
うちの子どもたちもそのうちの一人です。
仏教国でない国籍の違う方との婚姻も増えていると思います。
えっ?
言い訳?
…ですね。
まぁ、かろうじて親から伝えられてはいましたが。
お盆の時期にお見舞いに行こうとして、とか、慶事を行おうとしてとか、のタイミングでないと伝えられないことではありました。
そうでない時って…どんなタイミングでそれを伝えていくのかなぁ。
そのほかにも、引越し祝いに含めて、なのか、引っ越しであるとか、納車であるとかを避ける、という説もあるようです。
まぁ、車のディーラーも近年は結構長いお盆休みをとるので、お盆の期間中の納車はどのみち難しいものとなっていますが…。
こうしてみると会社のお盆休みを夏休みととらえていると、してはいけないこと、避けたほうが良いことを知らずしてして過ごしていた気がしてなりません。
海は土用波だとか、クラゲだとかを考えて、お盆の時期には行かなかった気がしますが、川やプールは行っていた気がしてなりませんし、虫捕りだってどうだったか…。
うちの子どもは、とりたてて虫好きな子どもという子はおりませんでしたが、たくさんの経験をさせてあげたいと思った母=私が率先して虫捕りをしていたかもしれません。
…知らないというのは恐ろしいものです。
そしてあと一つ。
お盆期間中にやってはいけないことのひとつに、『針仕事』も挙げられるのだといいます。
針仕事がなぜだめなのかというと、お供え花で避けたい花の例にあった『棘』と少し意味合いが似ていて、死や怪我を連想させたり殺生を連想させたりするためです。
あるいはダイレクトに『地獄の針の山』、とかも、でしょうか。
また、針を刺すと血が出ますので、仏教では血を『穢れ』として捉えるため、ご先祖様を迎えるにあたって失礼になるためとも言われているのだかとか…。
えっ。
針仕事、してますけど…。
それこそ今、Now。
仕事に着る服の直しとか、時間に余裕をもってできる良い機会なので…。
ほーら、しでかしてる。
しかも現在進行形で!
まぁ…ご先祖さまも慣れた…諦めた?もので、
「ああ、この孫娘は仕方ないよね」とか、思って見守って…くださってる気がしますが。
おっ?
そもそもわが家はお仏壇もないし祭祀承継者でもないからな。
…そういう問題ではない!
はい、反省いたしました。
今後は気をつけたいと思います。
…できるだけ。
昨日、前が見えなくなるくらいの雨が降ったり晴れたりと、目まぐるしく天気の変わる中、群馬県太田市細谷町の【冠稲荷神社】さんに参拝させていただきました。
久しぶりの参拝です。
どうも息子はこちらの神社さんが好きなよう。
姉の初めてのお産の時も、こちらで安産祈願の御守りをおわかちいただいてきたくらいですし、今私が使っております御朱印帳も息子がこちらの神社さんのオリジナルのものを買い求め、プレゼントしてくれたものです。
こちらは大きな規模の神社さんで、境内は桜や紅葉、木瓜の花など、季節によって様々なお花を楽しむことができ、明るい気に満ちた居心地よい神社さんであります。
特に木瓜の花は有名で、樹齢四百余年、なんでも五百株が叢生しているのだといい、花の時期には真っ赤な大きな大きなブーケのようです。
日本七(稲荷)社の1つになっている神社で、京都の伏見稲荷大社から御分霊を受けているといいます。
こちらのご由緒は天治二(1125)年 新田氏の始祖 『新田義重』公の父である『源義国』公が創建したと伝えられるといいます。
承安四(1174)年、【源義経】公が奥州下向のおり『冠稲荷神社』が源氏ゆかりの社であることを知り、
冠の中に勧請してきた京都の伏見稲荷大社の御分霊を奉斎。
また、時を経て元弘三(1333)年には新田義貞公が鎌倉幕府討伐のおり冠稲荷神社の前で兜の中に神霊の来臨を願い戦勝を祈願したと伝えられているといいます。
この故事にちなみ、いつしか【冠稲荷大明神】と人々から呼ばれるようになったといいます。
冠稲荷神社は境内へ入る鳥居がたくさんありますが、中でも朱塗りの大鳥居は一番立派で、王道のルートになっています。
この鳥居は高さ12.5メートル、幅18メートル。甲(きのえ)の鳥居と呼ばれ、甲の方角にあり、甲の方角とは寅卯の間、ほぼ東北東を示し、日が昇る東の「神の座」への門となるのだといいます。
朱塗りには魔除けの力があるとされます。
この甲大鳥居をくぐると、鳥居の左側に猿田毘古社があります。
猿田毘古神を祀る境内社の1つで、交通安全に御利益があり、ここで乗用車、トラック、オートバイなどの交通安全祈願はこちらでしていただくこととなっているようです。
そのすぐ隣にはペット社殿があります。
御祭神は『薬師菩薩明神』さま、今なお仏さまを神さまとしてお祀りしています。
家族の一員である犬や猫などのペットを健康長寿や病気治癒、交通安全などの諸願成就に御利益がある神社(境内社)と位置付けられています。
今回は息子と二人、相変わらず助手席のおばさんであります。
私どもはこの甲の大鳥居ではなくて辰巳の鳥居から。
こちらの鳥居は朱色ではないコンクリート製。
こちらは辰巳参道と呼ばれる道で、この道を進んでいくとみぎてに白木の綺麗な鳥居があります。
こちらの神社は朱色の鳥居が多いので、このような色の鳥居は珍しいのです。
この鳥居を進むと月夜見宮がありました。
あれ?いつからだろう。
この道から入らないとなかなか気づかないかもしれません。
どうやら群馬県千代田町にあった月夜見宮をこちらに移転したようです。
新しい社殿。ガラス張りの拝殿。
残念ながらこちらの中は暗く、よくは拝見することはできませんでした。
参拝を済ませて、先ほどの道、辰巳の参道を歩いていきますと、大きな大きなボケの木が。
この木瓜の木は群馬県の指定天然記念物に指定され、縁結びや子宝伝説のあるものとされます。
【冠稲荷さんの子宝伝説】
境内にある聖天宮が創建されたと伝えられる永禄年間のころ、子供のない婦人が子宝を授け給えと毎朝日参していたそう。
ある朝、宮の前にいた老修験者に祈願の理由を問われ、理由を答えると
修験者は、木瓜の実を採って、これをきざみ煎じて飲めば効験があるだろうと教え、立ち去ったといいます。
婦人は修験者の教えを守り実行し、日参も怠らず過ごしていました。
そのうち効験が現れ、夫婦相和し、数多くの子を授かることができ、またその家も冨に栄えるようになったのだといいます。
夫婦は大願成就のお礼として神苑に木瓜のの木を植えたのだといいます。
冠稲荷さんの木瓜の木はまさにその時植えられたものだと伝えられ、爾来、里人たちにより、縁結びや子宝祈願・子育てにと厚く信仰されているのだといいます。
…木瓜の実って煎じて飲むことができるんだ。
……まてよ?
わが家の木瓜の木には実がなったことがないけれど。
うーん。
ボケたおばさんのお手植えのボケ、だから?
主にあわせてボケている?
…毎年毎年きちんときれいな花を咲かせてくれてはいるのだけれど、なぁ。
そうそう、縁結びといえば、こちらの毎月十五日の月次祭では、縁(えにし)結び幸福祈願祭とし、人と人、幸福や健康などあらゆる良き縁を結ぶ祈願をなされています。
そう、まさに今日。
ただしこの祈願祭、朝7時50分頃~8時25分まで受付な上、8時30分には参殿開始、定員も三十名ということで、定員に達した時点で受付は終了するといいます。
うーん、なかなかハードルの高い。
良き縁を結ぶには努力も必要ということですね。
ちなみに、この冠稲荷さんの木瓜は三月中旬から四月上旬、全樹が緋紅色の花で染まる開花最盛期には『春の花まつり』、
九月下旬には木瓜の実りに感謝する『木瓜の実収穫祭』が開催されているといいます。
例によって人混みの苦手な珍道中ペアはこれに参列したことはございません。
またこの木瓜の戌亥(北西)の方角【実咲社(みさきしゃ)】が祀られています。
鳥居の内には六つのお社がありますが、鳥居正面に鎮座されるお社には
『宇迦之御魂神』をお祀りし、このお社が護っておられるように木瓜の木があります。
ちょうど花の時期にはまるで孔雀が羽を広げたかのようにお社の中央を中心に紅い花が咲いているのです。
かつてのスレにも書かせていただいておりますが、こちらはまずその中央の社へ参拝します。
このお社のすぐ近くに小さなボトルが販売されていてこのボトルを持って、社の手前の水を汲みます。
そして左右に並ぶ六つの社の中から、得たい御利益のお狐さまの前にボトルを奉納するのですが、このお狐さまの可愛らしいこと、可愛らしいこと♡
あらゆる良き縁を導く神の使いの神狐たちが見守っています。
ちなみに、このボトルのキャップ(蓋)の部分は持ち帰り、御守として大切に持ち歩くことで神様とのご縁が続くと言われています。
ただこの木瓜の木からは直接『実咲稲荷社』には行けません。
また、木瓜の木の周囲には柵が巡らされているのですが、これがまたただの柵ではなく、ひいた御神籤をくくりつけるようになっているのです。
それがまた干支ごとにくくる柵がある。
至れり尽くせりな冠稲荷さん、であります。
木瓜の木をみぎてに見ながら進むと、また別の参道へぶつかります。
五つある(あくまでも外からのもの、境内の中にあるものはとりあえず含みません)鳥居のうちの一つ『南鳥居』からの参道となります。
ちなみにこの南鳥居からはまっすぐ拝殿前へと連なる参道が敷かれていますので、正しくはこちらから詣でるのでしょうか。
この南鳥居の扁額は以前タレントのタモリ氏が、何かの番組で日光を旅していたとき、立ち寄った、神社仏閣の修理をされる工房で、たまたまこちらの南鳥居の扁額の塗装を依頼されていて、扁額に筆を添えたのが放映されていました。
こちらの参道には二の鳥居があり、甲大鳥居や辰巳の鳥居から来た場合にはほんの少しだけ、二の鳥居のところまで戻るかたちになります。
二の鳥居をくぐるとすぐ手水舎があります。
…辰巳の参道から参りますと、みぎてにこの手水舎があるので、二の鳥居にこだわらなければ、ここで身を清めます。
コロナ禍以前はこの手水舎、ペーパータオルと塵箱まで用意されていました。至れり尽くせり、です。
この参道にもまだお参りするポイントが二つあるのですが、拝殿を目の前にしておりますので、私はこちらに詣でたとき、まずは拝殿・本殿をお参りすることを心がけています。
ちなみに拝殿前には義経公由来の御神水の湧き出ずるところがあって、ここも小さなお社が建てられています。
そして狛犬ならぬ狛狐さまは、あの山伏が頭につけてある冠のような帽子をかぶっています。
ちなみに、こちらはどちらの社殿も色美しく鮮やかな色が塗られています。
古びてしまう前に塗装をされているのでありましょうか。
拝殿前にある小さな義経公由来の御神水を祀る社に至っても、です。
ようやく拝殿前に。
赤い朱塗りがメインの色鮮やかな様々な彫刻のほどこされた社殿です。
どこから語ったらいいか悩むくらいに見どころがたくさんあります。
あ、まずは参拝を 苦笑。
こちらで何が最初に目につくか。
濡れ縁…などと言ったらお叱りを受けるのでしょうが、まぁ、拝殿前にある濡れ縁のようなものにはいつも必ず美しい生花がいけられています。
これが私はたまらなく好きです。
神社さんに生花が、それも外に活けられているのってそうはお見かけしない…気がするのです。
それでも地元の小さな神社さんでもお花がいけられているところがあるのですが、そこを管理されておられる方のお気持ちがとてもありがたくて、それだけでその神社さん自体が好きになる。
両社ともいつ詣でても萎れた花などないのです。
朝に夕に神さまにお供えしたお花一つにもきちんと心を配っておられるその心意気。
その気持ちを受けて
神さまがお喜びになられ、その花がいつも美しく咲いているようになさっておられることもありましょう。
そして同じく拝殿の濡れ縁(笑)、拝殿への入り口にも小さな石造りの狛狐さまがおられること。
これがもう可愛らしくて、愛おしくてたまらないのです。
社殿が高床であるためちょうど目の高さなこともあるかもしれません。
見上げると、…いつもですと扁額が目につくのですが、今回なぜか拝殿の中がハッキリと見えるのです。
より明るくなった?
お参りされる誰もが拝殿の中も見ていただけるようにと配慮なさったのでありましょうか、拝殿の中全てが見てとれます。
ありがたい。
昇殿して御祈祷をお願いしなくとも、拝殿の中にいるかのようです。神さまをより身近に感じることができる気すらいたします。
拝殿の内部、外陣の欄間に唐子遊びの彫刻が三枚。
こちらも色鮮やかに塗られたものです。
唐子遊び--獅子舞
唐子遊び--竹馬
唐子遊び--…舞?
白狐のお面をつけた子供を中央に、左の子供は行司の手に持つ軍配のようなものを持つ子と、両の手を頭の上で合わせるように手を挙げている…例えるなら、…古いですが、テレビ『笑っていいとも』の『友だちの〝輪〟』のポーズ。
…相変わらず変な感覚とセンスの持ち主ですみません。
彫刻に色を塗ると変な感じに見える事が多いのですが、こちらの彫刻は素晴らしい色使いです。
中央に祭られた祭壇の横、左右には隋神さまたちがおられます。
壁には奉納された算額や、豊蚕を祝って奉納されたという明治時代の繭を飾って作られた額などが飾られていました。
…算額の奉納って結構見うけられるものでありますが、算数の苦手なおばさんには何やらさっぱりわからない。
〝和算〟というのが存在することは、かの〝上毛かるた〟で学び知ってはおりますものの、算数のレベルでつまづくような者にはとうてい理解できるものではありません。なにが書かれているかさえ…。
まぁ、奉納するほどの算式を見出せたってこと、なのでしょうかね。
『和算の大家 関孝和』のお膝元群馬にありながら、もうしわけない。
ここで御祈願をすると巫女舞も奉納されていたような…。
以前偶然参拝した際、中で御祈願していた方々がおられ、少しだけ昇殿祈願の様子を垣間見たことがあったのですが、かなり前の記憶なので間違っていたらごめんなさい。
そうそう、三色の獅子頭も祀られていました。
なんでもこの獅子頭、天保五(1834)年に作られたものだといい、無形民俗文化財の獅子舞の際使用されているもののようであります。
参拝を終えてあらためて社殿を見上げますと、懸魚とよばれる部分には白い龍。
その下の部分、唐破風に下は緑色の龍。そしてまた色鮮やかな中国の故事を彫った彫刻が。
なんでも生涯官に仕えず暮らした詩人、とかで西湖のほとり孤山に庵を編んで、妻のかわりに梅の木を、子のかわりに鶴を愛でていた人物を描いたという、…ものだと思うのですが。
ただこの彫り物には人物が三人描かれています。…どうかなぁ?
間違っていたらごめんなさい。
そして拝殿の正面みぎてにはなぜか鹿の首の剥製が祀られています。
左側には三つのお面を飾った額が…この辺はもはやどういった意図でこの額を作り奉納されたかは想像すら出来ずにおります。
…まぁ、おばさんはこのお面の額、好きだったりするのですがね。
…何度かレスさせていただいております神社さんなので、今回は視点を変えて(…あまり変わってはいないかもしれませんが 苦笑)
おばさんが見た冠稲荷さん、というスタンスで書いてみました。(…以前もそうだったような…)
ちなみに。
こちらは稲荷神社さん。
御祭神は宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)となりますが、こちらの社殿・本殿ではさらに
大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)
太田神(おおたのかみ)
大宮能売神(おおみやのめのかみ)
保食命(うけもちのみこと)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
品陀和気神(ほむだわけのかみ)
菊理日売神(くくりひめのかみ)
市杵島毘売神(いちきしまひめのかみ)
大物主神(おおものぬしのかみ)
菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)
健御名方神(たけみなかたのかみ)
素盞鳴神(すさのおのかみ)
奇稲田比賣神(くしいなだひめのかみ)
天照大御神(あまてらすすめおおみかみ)
祓戸四神
薬師菩薩明神(やくしぼさつみょうじん)(厨子内)
といった神さま方が実に十八柱、お祀りされているといいます。
うーん、す、すごい。
ですが…。
実はこの広い冠稲荷さんの広い境内、社殿・本殿を含めて実に十三もの境内社かあり、それぞれの社でそれぞれので神さまがお祀りされているのです。
本殿は荘厳な三間社流れ造り建築(…というのだそう)は、元禄三(1690)年に再建され、随所に施された極彩色の彫刻とともに元禄文化の粋を集めた貴重な建造物、となっております。
両脇には拝観台があり、その彫刻をよりよく観られるようになっております。…すごくないですか?
しかも彫刻の解説も立て看板にしてあるという〝至れり尽くせり〟ぶり、であります。
まずは左面の胴羽目:『虎渓三笑』
儒、仏、道の三賢者が一同に合して話をしたところ、意気投合して、自分たちのいる場所もわからなくなってしまったという故事。
中国での浄土教の開祖である慧遠法師は来客を送る際、精舎(精進する者たちの舎宅)の下の虎渓という谷川で足を止め、川を渡ることをしない戒律「安呉禁足の掟」を守っていました。ところが詩人の陶淵明と道教の大家である陸修静が来訪して、三者でそれぞれの専門分野について話していた時、興が乗じて慧遠法師は思わず、虎渓を越えてしまいました。虎の吠える声を聞いて、それに気づき、三人とも大笑いをしたとのことです。
とのことです。
こちらの本殿は本当に至る所に彫り物。
やはり稲荷神社さんということで狐が多い。
それがもう今にも動き出しそうなリアルで立体的なものなのです。それとなぜかヤギが多く感じられます。おしどり、山鳥、ウグイス、錦鶏、鸞…。
背面の胴羽目:『琴棋書画』
琴棋書画は東洋で古くから教養ある人々に必須の教養とされた四つの芸のこと。
左側が「書」「画」、中央「棋」、右側が「琴」の彫刻となっています。
右面の胴羽目:『商山四皓(しょうざんしこう)』
「商山」は中国にある山の名前。「四皓」はあごひげと眉が白い四人の老人のこと。東園公・綺里季・夏黄公・角里先生生が乱世を避けて商山に隠れた4人の賢者。前漢の初代皇帝・劉邦は自分に仕えなかった彼らが長男に仕えているのを見て長男を皇太子に決めたという内容のものとのことです。
左面の脇障子には降り龍、右には登り龍。
こちらの彫刻は江戸時代のものとは思われないくらい、現代的なセンスで彫られている気がいたします。
こちらの境内社十三社とは、それぞれが屋根が葺かれ、鳥居もある社殿であります。
石造りの末社を含めると何社あるか…。
その一つ、聖天宮さん。
正式には聖天宮日高社といいます。
御祭神は、伊邪那岐神さま・伊邪那美神さま・神倭伊波礼毘古神(カムヤマトイワレヒコノカミ)さま・火雷神さま・水分神さま伊邪那岐神さまと伊邪那美神さま、神倭伊波礼毘古神さまの像が三体並んで祀られています。
こちらの像はリアルな色で彩られたものであります。
とにかく明るくて優しい心地よい気が社殿の中からあふれてくるような、私の大好きなお宮であります。
こちらは安政四(1857)年に再建されたもので、造建は、宮中の菊紋を彫った天下一の名工、弥勒寺音八とその父、音次郎によるものといいます。
内部の格天井には優麗な十二面の花鳥画が描かれ、中央には金龍の彫刻が、 また正面欄間には三龍の彫刻が施されています。
この聖天宮正面左側には『李白観瀑』を題材にした彫刻が施されています。
李白は唐代を代表する詩人ですが、流浪の旅の途中で訪れた盧山の瀧を目の当たりに、自然のあるがままの様子に心打たれてただ立ち尽くしたという、その様子が描かれています。
さらに、左側から裏にまわると側面の脇障子に白木のままの彫刻があります。
これが『西王母』
中国の西方にあるという崑崙山に住む仙女。仙女の世界の女王的存在る。
不老不死の薬をもつ神仙といわれ、三千年に一度実る桃(蟠桃)の木を持っており、その実を食べると長寿を得るとされています。
その裏面にあるのが『黄初平』を題材にしたもの。
これがまた表裏が上手く組まれていて実に自然です。
そしてその彫りがまた美しい。
左下に山羊がいます。
黄初平とは葛洪『神仙伝』に載る仙人の一人である。少年の頃、羊を牧していたが、ある時道士と出会い、金華山石室の中にいたり、四十年間にわたり姿を隠していた。
その兄が山中を探し再会した時、羊はどうしたかと尋ねると、山東にいると答えた。兄が出かけてみると白石だけがあった。次に黄初平と一緒に出かけ、黄初平が「羊よ起て」と声を掛けると白石が全て変じ、数万頭の羊になったという。
…ま、まぁ不思議。
仙人さんだから…。
四十年間の間、姿を隠す弟もすごいけれど、その間ずっと探していたのか、四十年目にあらためて探す気になったのか。
そこもまた不思議。
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