神社仏閣珍道中・改

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2024/01/20 11:13(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。





No.3818310 (スレ作成日時)

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No.51

今日は七月十日、七夕からはだいぶ経っておりますが、それでも昨日まで群馬県前橋市で七夕祭りが開催されていたこともあり、調べたことを忘れないように書いておきます。

【星合いの空】=七夕の夜の空

【織女の別名】
・織姫
・朝顔姫
・梶の葉姫
・薫物姫
・遠妻(とおづま)
・一夜妻
・乏妻(ともしづま): 逢うことが稀で珍しく 愛らしい妻

【牽牛の別名】
・彦星
・犬飼星
・遠夫(とおづま)

などなど。

それから七夕の朝、朝顔が咲いていると近いうちに素敵な異性との出会いがある、とかなんとかいう言い伝えもあるようです。

No.52

西日本地方、ことに北九州地方では連日の豪雨で目を疑うような大きな被害が出てしまいました。

心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。


首都圏でも熱中症警戒アラートが出され、私の済む地域でも私の体温をはるかに超えた気温が記録されました。
東京では救急車逼迫アラートも出されたようで、まだ夏はこれから、七月のあたまだというのに、本当に困った事態です。

個人的にも喉のかわきを感じる前に時間で水分補給をするなど、できうる限りの熱中症対策をしていくしか手立てはないかと思います。

みなさんどうかご自愛ください。

No.53

と、いうことで。
頭がお弱いくせに、こだわりは強いおばさんが、次に書かせていただくのは【桐生陣屋】。

天正十八(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐ののち、桐生にいた由良国繁は常陸国牛久へ移され、これ以降桐生の地は徳川家の所領となりました。
徳川氏の代官であった大久保長安の命を受け、桐生領に派遣された手代の大野八右衛門により、桐生領の拠点として桐生新町が造営され、この新町に隣接した丘陵地に陣屋が設置されました。
そののち安永八(1779)年、出羽国松山藩主酒井石見守忠休が五千石の加増を受け、桐生の地を領し、天明五(1785)年に陣屋の屋敷が新築され明治に至ったといいます。

今もこの陣屋で使われていた門や塀、さらには屋敷の一部は移築こそされてはいますが現存するとのことであります。
ただ…、きっとこのぼーっとしているおばさんはその前を何度かは通っているのかもしれませんが、それがどこであるのかはわからずにいます。

陣屋跡と言われるお寺さん【寂光院】さんへは三度ほどお参りさせていただいており、三度目に夫と参拝した折に初めて『陣屋跡』というのがどういうことかを教えてもらい知るに至ったという、なんともお粗末な経緯がありましたが。


夫は夫でそれこそ、私と結婚する前にこの陣屋跡を訪ねていたようで、私と訪ねた折にも熱く熱く語っておりました。
陣屋跡とされるのは寂光院さんの経営する保育園の後方のようで、さらにはトンネル状になったところがあるのだとか。
夫いわく、そのトンネル状となったものは一説によると抜け道(逃げ道)であったとかで、以前そこに入った際には奥に御仏像が安置されていたのだそうで。

今はこの入り口は封鎖されており、御仏像にお会いすることは叶いませんでした。
ちょうど保育園の真裏に当たるところにその入り口があって、これがまっすぐに繋がっているのであれば、おそらくは寂光院さんの庫裏の下辺りになるかと思われます。

陣屋跡にもさらにはこの封鎖されたトンネルにも興味がなかった私は、話半分にしか聞いていないし、夫は名残惜しそうにトンネル上部を見下ろしていました。


今ならもう少しは興味を持って聴くことができるのかしら…、怪しいな、やっぱりあまり関心が持てないかも。

御仏像に会えるならば話は変わるかもしれませんが、謎のトンネル、くぐっていくのはそれはそれで怖いかも。



No.54

「なぜ、口から六体の仏像が出ているんだろう。」
「なぜ、こんなにも粗末な衣で痩せっぽちなんだろう。」


今放映されているJR東海のCM、空也上人像であります。
私がこの空也上人像を初めて知ったのは、忘れもしない、中学校の社会科の教科書であります。

…怖かった。
「えっ。な、なんで?なんで口からこんなもんが出てるの?エクトプラズマ?」
「こんなに痩せこけてやっと歩いているようだけど、生者ではないってこと?」

ええ、言葉に表すと同じ方向性ではあるのですが、ベクトルがまるで違っています。


ちなみにその授業をしてくださった先生は、きちんと、丁寧すぎるくらいに、空也上人の偉業や、空也上人の口から出ているのは仏さまであることまでキチンと教えてくださっています。

…でも怖いものは怖い。
実はいまだに怖い。

CMは、
「己を空っぽにしても人に与える。
空也上人のその生き方までも遺したいと、強く願った仏師がいたんだなぁ」
「ありがたい」
と続きます。

この言葉が何を元にそう語るかもわかっているのだけれど…。


ただ、…この空也上人像を右側から見る横顔は好きになりました。

ちなみにこの「空也上人のその生き方までも遺したいと願った仏師」はあの運慶の四男康勝であります。


康勝さんに問いたい。
「なぜ、口から六体の仏像が出ているような像にしたんですか」
「なぜ、こんなにも粗末な衣で痩せっぽちな像にしたんですか」

No.55

ということで、康勝のつくった空也上人像は正直いまだに怖いと思っているおばさんではありますが、空也上人さまご本人は大変尊敬しております。

そもそもご本人はこの像のように口から仏さまが出ていたわけでもありませんし。

十九歳で出家され、そのときから空也と名乗られていたようです。
在俗の修行者として『南無阿弥陀仏』の名号を唱えながら、諸国をまわり、道路や橋、寺院などを建立、社会事業を行なってこられました。
ちなみにこの『南無阿弥陀仏』が口から出てくるとされた【阿弥陀仏】

二十五歳のとき比叡山で受戒されますが、空也上人はその後も宗派にこだわりを持たずに市中を歩いてまわられていたようです。

京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、『青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶』を病者に授け、『歓喜踊躍しつつ念仏を唱え』て人々を癒し救われたといいます。
ちなみにこの上人が人々に与えたお茶は現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与しているといいます。

現存する空也上人の祈願文によると、応和三(963)年に諸方の名僧六百名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだといい、これが空也上人像の安置されている六波羅蜜寺の起こりであるといいます。

上人没後、六波羅蜜寺は高弟によりその規模は増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えたといいます。
平安後期、平忠盛がこの六波羅蜜寺の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には平家一門の邸館が栄えたといい、その数5五千二百余りに及んだといいますが、寿永ニ(1183)年、平家没落の折に兵火を受け、諸堂は類焼し、本堂のみが焼失を免れたといいます。

源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなったここ六波羅蜜寺はその変遷も甚だしく、
源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉も大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設したといい、徳川代々将軍も朱印を加えられたといいます。

現本堂は貞治ニ(1363)年の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和四十四(1969)年開創千年を記念して解体修理が行われたのだもいいます。






No.56

なかなか寝つけずにいます。

何があったということもなく、むしろ悪いことなど何一つないのに、ただ気持ちが落ちていることを自覚はしておりはするのですが…。

もともとが、自分ではどうしようもないことで悩むようなたちでありますし、起きてもいないことをあれこれ詮索しては悩むといった、ネガティブな思考の持ち主であります。

とはいえ、もともとというのは、〝生来〟という意味からすれば、それはまるで違って、むしろポジティブ過ぎるくらいの人間であったと、自分でも思うのですが。

経験から人は変わるものであると、あらためて思うのでありますが、良い方向に変わるのでなければ、人として生まれて申し訳ないこと…なのでしょうねえ。


まぁ、それもまた自分。
そんな今の自分も受け入れて進めばまた良い方向に進んでゆけるはずでありましょう。


お釈迦さまのが、『六波羅蜜』の五つめに教えられている【禅定】というものがあります。
六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏さまの境涯に至るための六つの修行をいい、波羅蜜とは悟りの世界=彼岸にいたること、といいます。


折しもあのJR東海のCMで出てくる『空也上人像』について書いておりましたが、その空也上人が建てたお寺さんの名こそが【六波羅蜜寺】であり、何よりその空也上人像があるのもまたその六波羅蜜寺であります。

その【禅定】とは、心をしずめ定めること。
心を落ち着けて、冷静に第三者の立場で自分自身を見つめること。

といいます。

上手な〝気持ちの落ち着け方〟を持っておくこと、波立つ心をしずめる自分にあった気持ちの落ち着け方を知っておくことが大切なのだと思います。

うーん。
今日は写経もしたのだけれどなぁ。
枯れてしまった庭の木を切り、枝をきれいにまとめたりと、自然にも触れ、庭も明るくしたのだけれど。


眠れない夜を受け入れるのも一つ、でしょうか。
いやいや、眠れないときにスマホをいじる癖を止めることが何よりなのだけれど。


No.57

花の名にも詳しくないおばさんではありますが花にはいつも癒しをいただいております。

今の時期、緑一色の夏草の中にあって遠くからでもぱっと目立っている橙色の花が咲いています。
それこそ走行中の車の窓からでもとらえられるくらいに目立つこの花の名は『野萱草(ノカンゾウ)』、畑や農道の脇に咲いているので、なかなかそばでは見ることはないのですが…。
野草とは思えないほど美しい、萱草の花です。

ちなみに萱草にはこのノカンゾウの他、『ヤブカンゾウ(藪萱草)』があります。

実はこの萱草の花、結実が難しい、あるいはまったく結実しないものだといい、地下茎を切り取って植えるなど、人間の援助で生育地を広げたものなのだといいます。
そう、あの彼岸花と同じです。

そこまでして増やしたのなら野草ではないのでは?と、おばさんなどは思ってしまうのですが、たしかに彼岸花にしても、萱草にしても、野に咲くのはたしかではあります。

なぜカンゾウは人間に保護されてきたのでしょうか?


実はこの萱草、失恋の悲しみや望郷の思いなどの憂いを忘れさせてくれる草だと信じられてきたといいます。

三世紀の中国、三国時代の魏の国に『竹林の七賢』と呼ばれた清貧を旨とする文人たちがいました。

その一人、嵆康(けいこう)が書いた『養生論』に、
「合歓(ネムノキ)は怒りを除き、萱草は憂いを忘れさせる」という記述があるのだといいます。
中国名の「萱草」は元々、カヤやスゲなど細長い葉を持つ草を指しますが、やがて『養生論』の知識が日本にも伝わり、【ワスレグサ(忘れ草)】という訓で読まれるようになりました。


そう、花にも詳しくない私、この野萱草が実は『忘れ草』であったことなどさっぱり知らずに、いかにも儚げな花をイメージして、…とはいえ具体的な花としてのイメージもなく、和歌のなかに咲く〝花〟としておぼろげなイメージを勝手に抱いておりました。


えっ?
この花の鮮やかな橙色を見て、コロっといろいろ忘れちゃうってこと?
そもそも〝忘れ草〟って…。

若いころにはその名に憂いとか儚さとかを感じておりましたが、今〝忘れ〟などというと気が気でなくなる恐怖のワードと化してきておるのですが…。



No.58

カンゾウはとても美味しい野草なのだといいます。
それが、人々が家の周りにカンゾウを植えた第ニの理由だと。

えっ?
私は初耳ですが。
そもそも自宅のそばには野萱草を見ることがない。

春先の若い芽は、おひたしにすると香りがよく、しっかりとした歯ごたえがあるといいます。
乾燥させた蕾は高級スープの具材に。
膨らんだ地下茎は生でカリカリと食べられるのだといいます。


…うーん、野草ならば盗掘しても…。
いや、植えて増やしている人がいる時点で、盗掘は文字通りの盗みとなります。
…地下茎では増えているのかなぁ。

どうも食い意地が張っています 笑。


そして第三の理由をあげるとすれば、やはりこのカンゾウの花の美しさにありましょう。


ヤブカンゾウの花言葉は、「悲しみを忘れる」「憂いを忘れる」「愛の忘却」。
いずれも別称〝忘れ草〟と呼ばれることに由来しているのでしょうね。

ところでカンゾウには、睡眠を促すサポニンが多く含まれるといいます。
憂いを忘れるためには、愛でたり身に着けるのではなく、食べてしまう方が効きめがありそうな…。


…ものの憂いは寝て起きれば落ち着くような、簡単なものではないですが、ね。



No.59

昨日は群馬県高崎市にあります【山名八幡宮】さんに参拝させていただきました。
こちらは二度目のお詣りで、子育てと安産で知られる神社です。

えっ?
子育てと安産はあまり関係はなのでは?ですか?

…ねぇ。

いやいや、娘も嫁もおりますし、孫もおりますばぁばといたしましては、手伝えることは手伝うものの、あくまでもサポーターでしかなく。
ばぁばにできることは祈ることくらいしかないのでありまして、そういったご利益のある神社さんやお寺さんにうかがった際には、ご祈願しているじぃじとばぁば、なのでありました。


それにしても。
〝安産と子育て〟で八幡さま?
すこぉしは神社さんや神さまのことを学ばせていただきましたおばさんといたしましては、ん?と、最初は思ったものでした。

八幡さまって、…〝武運長久〟であるとか、〝勝利祈願〟とか、〝出世開運〟とか、武士の間で信仰された神さまじゃなかったかしら?と。


でも、実際にこちら【山名八幡宮】さんに参拝させていただきますと、心から納得ができるんです。

そもそもが八幡さまを、広く武士が崇敬し信仰すらようになったのって…、あの〝鎌倉殿〟、『源頼朝』が『鶴岡八幡宮』を建て深く信仰したことによるもの、…ではなかったのでしたっけ?

No.60

本日、群馬県の桐生市が日最高気温の高い方から全国一位だったそうです。
私どものところもそれなりに高い気温を記録して、私などは記憶にある中で体温すら及んだことのない温度でありました。

一方で東北では記録的な豪雨に見舞われております。

こんな記録更新はいらないのですが。

…世界は…どうなっていくのでしょうか。

No.61

日本には『八百万の神』という概念があり、全国にはさまざまな神々をまつる神社があります。
そのなかで最も多いのが、『八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)』さまを御祭神とする【八幡神社】【八幡宮】です。

八百万といわれる日本の神さまは、三つのグループに分けられます。

『古事記』『日本書紀』に登場する神さまたちがそのうちの一つのグループです。
ふたつめのグループは『古事記』『日本書紀』の神話とは別に登場し、信仰されるようになった神さまたちです。日本のどこかの集団がいつしか祀るようになった神さまもいれば、外国から入ってきた神さまもいます。
三つめのグループは、実在の人物が神格化されできた神さまたちです。

また、本来は別々だった神さまどうしが習合したり、仏教の仏さまと習合したりすることも珍しくありません。


【八幡神】さまは、もともと九州の【宇佐神宮(大分県)】に祀られる神さまです。
そのルーツの一説に、朝鮮半島からの渡来人から信仰する神さまだったのではないか、という説があります。
地方の神さまだった八幡神さまですが、いつの間にか『古事記』『日本書紀』に登場する【応神天皇】と習合し、【皇祖神】と考えられるようになります。

八世紀、【東大寺】の【大仏】さまが造られた折に、八幡神さまが宇佐から奈良の都までやってきて、大仏造立を助け大仏の守護神になったといわれています。
当時はまだ神道が確立してはおらず、八幡神さまが大仏の守護神となったことで、日本の神さまへの信仰と仏教との融合が進んでいくこととなっていったといいます。

八幡神はやがて武家の棟梁で歩く源氏の氏神とされました。
十二世紀末に【源頼朝】公が『征夷大将軍』となって鎌倉幕府を開くと、八幡神を祀る【鶴岡八幡宮】が鎌倉にたてられました。
八幡神さまへの信仰は、将軍の家来である御家人の間にも広まり、各地に八幡神社や八幡宮が造られていきました。

足利氏の氏神にも、徳川氏の氏神にもなり、武神として信仰された八幡神さまは、現在も
【勝利】や【出世】、【開運】のご利益があるとして信仰されています。

八幡宮の総本社である【宇佐神宮】、【石清水八幡宮(京都府)】、【筥崎宮(福岡県)】または【鶴岡八幡宮】が日本三大八幡宮であるとされます。

No.62

…そうなんです。
やはり八幡神さまのご利益で子育てに関するものや安産などはあまり知られてはいないのです。


社伝によると【山名八幡宮】さんは源氏の一族、新田氏の祖 義重の子、『山名義範』が平安時代後期の安元年中 (1175~77年)、大分県に鎮座する、八幡宮の総氏神の『 宇佐八幡宮』さんより勧請されたと伝わっています。

【品陀和気命 (ほんだわけのみこと - 応神天皇)】さま、
【息長足比売命 (おきながたらしひめのみこと – 神功皇后)】、
そして、神霊を宿す巫女とも言われる 【玉依比売命(たまよりひめのみこと - 比売大神)】さま の三柱を御祭神として祀り、祭祀を絶やすこと無く、 今日に至っているといいます。

応仁の乱の際、西軍の指揮を執った【山名宗全】が、 西国で勢力を誇った影響で、現在も関西を中心に、 全国で約一万人程いると言われている山名姓、及び 血縁関係のある末裔も含め、全ての『山名一族』にとっての『総氏社』でもあるといいます。


その【山名八幡宮】さんが何故子育て・安産の神さまとして信仰されるようになったか。

それは遡ること室町時代、後醍醐天皇の孫『君長(ただなが)親王』が、 山名城に滞在の折、城主『世良田政義の娘』との間に出来た子の安産を願い、この山名八幡宮さんでご祈願をされましたことに由来するといいます。
無事産まれた男の子は『良王(よしたか)』君(きみ)と名付けられ、その後も健やかに成長されました。

このことが広く伝わり「山名八幡宮」は、安産と子育ての神社として永く称えられることとなったといい、現在でもそれはそれは多くのご家族が安産と子育てのご祈願に訪れています。


高崎市や前橋市を車で走行すると、こちらの授与品であります、『Baby on board』『Child on board』のマグネットを付けた車がかなりの数走っております。
そう、あの『赤ちゃん(or子ども)乗せています』のマグネットです。

初めてこちらを参拝させていただきました折には、十一月であったわけでもないのに、二十組はゆうに超える親子の方々が御祈祷の順番をお待ちになっておられましたし、拝殿の中はびっしり親子の方々が御祈祷をお受けになっていました。

群馬の片田舎にある一神社さんであるにも関わらず、その信仰する人の多さにびっくりしたくらいであります。

No.63

山名八幡宮さんはローカル線の『上信電鉄山名駅』のすぐそば。第一駐車場と第二駐車場の間に駅があります。
神門が見える手前にトンネル、アンダーパスがあり、ここから神門を目指します。
なんとこのアンダーパスの上を上信電鉄が通っている!
参道の上を電車が走っているのです。
参道の途中を線路が走っているところは結構ありますが、トンネルを作って参道の真上を電車が通過するというのはなかなか珍しいのではないでしょうか。

神門をくぐるとみぎてに手水舎があります。

こちらの花手水がまたなんとも素晴らしい。
まるでフラワーパークか、はたまた花の展示会にでも来たかのように、新鮮な切り花を惜しげもなく使って参拝の人々のめをたのしませてくれ
ます。
この花手水を生けた方は、お花の心得がある方か、あるいは色彩感覚の素晴らしい絵心のある方でありましょう。
SNSでもたびたびその素晴らしさを讃える声があがっており、三歳の孫娘も感嘆の声をあげて見入っていたくらいです。

ちなみに。
こちら、山名八幡宮さんの記事も以前に書いたものがあります。
今回は孫と一緒。
今回は珍道中ではないかもしれません。

その正面に大きな大きな躍動感あふれる馬の像があります。
なんでもこの馬の像は全国の『山名』の姓を名乗る方たちが奉納されたとうかがっております。

見上げるほどに続く石段をのぼります。石段の途中には大きな狛犬さんが。
こちらの狛犬さんには頭に一本ツノが生えています。
それが怖かったのかどうか、孫娘はおんぶをせがみます。

ばぁばはすぐにおんぶをします。
じぃじが「歩いて登らせようよ」という間にはもうすでに半分ほど登っております。
あとどのくらいおんぶができるものか…、孫にはめちゃくちゃ甘いおばぁであります。

孫娘は神社さんのお参りが好き。

いつもお賽銭を小さな手で握って。スッと滑らすようにそっとお賽銭箱の中にお金を納めます。

「お利口さんだね♡」
ばぁばは婆馬鹿です。
じいじもジジ馬鹿ですが。

No.64

【山名八幡宮】さんの本殿は、江戸時代中期に、前橋藩主『酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)』によって再建されたものといいます。
本殿を飾る彫刻群は、明和六(1769)年、彫刻物師『関口文治郎』の手によって彫られたもの。そう、先日国指定の重文となった『桐生天満宮』さんの彫刻をされた方です。
関東ではここにしか彫られていない神獣がいるとのこと等、いろいろ書いてある表示板があります。
平成三年に一年かけて極彩色の色がぬりなおされています。

そんな彫刻を見上げながら歩いているとひだりてにガラスの風鈴がたくさん吊るされた特設の場所が設えてありました。
広く座れる木の腰掛けが真下にあって、涼やかな風鈴の音をしばし楽しませていただきました。

昨今の住宅事情でなかなか風鈴を軒先に吊るすこともできなくなってきておりますので、孫は大変喜んで手に触れてみたそうにしておりました。
よぉ〜しわが家にあと二つくらい風鈴を吊るして…いやいや家は一つでたくさん。
上州は風の強いことでも知られる地域、風の強い日など一つでも、外さなければ!と思うくらい激しく鳴りますから。

裏手に回って。

本殿の真裏には大きな大きな古い素木の獅子頭が祀られています。
【裏神様】とお呼びしています。
山名八幡宮さんの象徴である『獅子頭』は、古来より『疳の虫』『厄』を喰い切る神獣として伝わっています。
正面からお参りされた後、裏神様をお参りすると陰陽合わせの考えにより、さらにご利益があると伝わるといい、建てられた当初から本殿にもお参りできるよう『唐破風』『千鳥破風』がついていたといいます。

こちらの山名八幡宮さんが子育てにご利益があるとされるところの一つかと思われます。


他にもこちらの御神木は子宝に恵まれると言われる陰陽神木であり、樹齢三百年以上の大木です。
日本神話の中で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が天之御柱(あめのみはしら)を回り、沢山の御子神を授かったとされるところにあやかって、この御神木の周りをまわることによる子授けのご祈願をするといいます。

No.65

平成二十八(2016)年、女性設計士が設計を手がけた『神楽殿』。
こちらには、初宮参りの際、『神さまに一度赤ちゃんを預ける』子安台があるといいます。

神さまに…?。
何かで読んだのですが、神さまに子供の魂を預かっていただく神社さまがあるといいます。
山名八幡宮さんのものとは異なるようであり、こちらはすぐにお返しいただくというもののようですが。

私が読んだものといたしましては、
【預け子祈祷】というもので、子供の魂を神さまにお預けし、神様のもとでその子がより幸せに、あるいはなりたい自分になれるよう、魂に修行をさせるものだとか…。

山名八幡宮さんの子供を神さまに一度お預けする、というのがどういった意味合いのものなのかもわからないのですが、なんだかとてもありがたいもののように感じます。

そもそも神楽殿で、というところが、一体どんな儀式なのか大変関心を抱くものです。

また、この神楽殿には安産と子授けにご利益があるとされ、
〝二股大根の絵〟、
七五三の際に年齢の数を叩いて邪気を払う〝虫切り成長太鼓〟など、山名八幡宮に伝わる『安産、子育て』に関する〝縁起物〟が収められているといいます。

こうしてみますと、まさに『安産』『子育て』に特化した神社さんであるよう感じます。



今回はちょうどタイミングが合わず、社殿のある高いところにいる際に上信電鉄の電車か通ってしまいましたが。
あの参道にあるアンダーパス、手を伸ばせば線路の石に触れるくらい(もちろん触ったりしませんが)まさに〝真上〟を通るのです。

さまざまな絵の描かれた車体。
群馬サファリの動物の写真のものなどもあります。

もしかしたら、これも子どもたちが喜ぶ神社さんというものになるのかも。


こちらの境内、和菓子屋さんがあって、大変見た目の美しいお団子やおはぎで有名です。
神門前には天然酵母のパン屋さんもあります。

老若男女喜んで何度も参拝する神社さん【山名八幡宮】さん、ということで。


No.66

「俺、宗派は違うんだけど、良寛さんが好きなんですよ。だから新潟とかよく行くし」
木彫りの仏像をお教えいただく会に、私と一ヶ月違いで入られた、四十歳半ばの方がポツンとおっしゃいました。

突然のことで気の利いたことも言えず、ただ笑顔で返しましたが、「私も」くらい言えばよかったな。
それにしても…良寛さんの足跡を辿って新潟まで行かれるんだ、よほど良寛さんのことお好きなんだな。


良寛さんは今から約二百六十年ほど前の江戸末期、長岡市のとなりにある出雲崎町の名家、町名主で回船問屋の長男として生まれました。
当時出雲崎は北前船が寄港する港町で、交易が栄えていました。また、佐渡金山の陸揚げ港だったため、幕府直轄の天領でした。

そんな恵まれた家に生まれながらも、親の反対を振り切って十八歳の時に出家します。
当時は政治経済上の争いが絶えず、そのような争いを悲観したことが、出家した理由とも言われています。

良寛さんは出雲崎の光照寺という禅宗のお寺で出家し、二十二の年に出雲崎を出て、備中玉島(岡山県倉敷市)にある円通寺という曹洞宗の禅寺で十二年間修業します。
その後は諸国行脚の旅に出ます。
あちらこちらの高僧を訪ね何年も学問を続けました。
その間は托鉢のみで生計を立て、時には二日も三日も水だけを飲んで歩き続けたこともあり、ある時などは泥棒と間違えられて、散々殴られ土の中に生き埋めにされかけたこともあるといいます。

寛政七(1795)年、良寛さんの父親が京都の桂川に身を投げて自害をします。
それを知ったのか良寛さんは翌年、実家近くに旅の乞食僧として帰郷し、しばらく不定住の時代を過ごします。その後、燕市の国上山(くがみやま)の中腹にある五合庵(ごごうあん)という隠居用の庵に四十八歳で定住し、約十一年間暮らしました。
仮住まい生活が多かった良寛さんの生涯の中でも、五合庵での生活は特別気に入ったようでありました。
ここでの生活は、里におりて托鉢しながら日々の生活を賄うというもので、良寛さんは家々を回り、お経を唱え布施をし、里の家からは米麦などの喜捨をいただいたのです。

五合庵から里への登り下りが辛くなったことから、良寛さんが五十九歳のときに、より麓に近い乙子(おとご)神社の草庵に移り住みます。

No.67

『さみだれの はれまにいでて ながむれば 青田すずしく 風わたるなり』

まさに今時分の、良寛さんの歌です。
田植えが済んで苗の落ちついた、広々とした風景と青い空が思い浮かび、涼やかな風すら感じるような歌です。

町名主で回船問屋の長男として生まれ、何不自由なく十八の年まで暮らした良寛さんが、食べるものに困る日も多く、寒さを凌ぐ衣さえないような生活はことさら身にしみるものだったのではないかと愚かなわたしは思うのです。
しかしながら良寛さんはいつも心は豊かでありました。

今でも愛され、尊敬される良寛さん。

良寛さんのお生まれになった越後出雲崎の橘屋という家はいまはもうないといいます。
しかしながらその生家跡には【良寛堂】というお堂があるといいます。

お堂の裏庭の崖下がすぐ海で、海の向こうには佐渡島がほんのりとみえるのだといいます。

良寛さんのお母様は佐渡の国の方だったといいます。

良寛さんの歌に
『たらちねの 母がみ国と 朝夕に 佐渡が島ベを うち見つるかも』
というものがあります。
お母様の亡くなられた後にお母様を思い偲んで詠んだものだといいます。
十八で家を出て以来、お母様とはお会いになることもなかったようですので、ここ、この生家跡に建つお堂で、良寛さんとお母様がお会いになれていたらいいなと、…思うおばさんでありました。


またそのお堂には
『いにしえに かわらぬものは ありそ海(み)と むかいに見ゆる 佐渡の島なり』
という歌が、良寛さんのお書きになった字のまま、石に刻んであるといいます。

良寛堂の庭は広く、いつ行っても大勢の子供たちが遊んでいるといい、子供と遊ぶことが何よりも好きだった良寛さんが見たらどんなにか喜ぶことでしょう。


良寛さんはお父様もまた大変尊敬されておられ、お父様の書いた掛け物を壁にかけて、なくなるその日まで毎日それを拝んでいたといいます。
その掛け物には
『朝ぎりに 一段ひくし 合歓の花   以南』
と書かれていたといい、以南とはお父様の俳号でありました。
良寛さんはその掛け物の隅に
『水茎の 跡は涙にかすみけり ありし昔のことをおもえば』
という歌を書き添えられていたといいます。



No.68

良寛さん、というと村の子供たちとかくれんぼをしたり手鞠をついて遊ぶ、素朴で優しい姿を連想します。

ですが実際は、師や高祖道元の教えを守り、妻子をもたず、物質的にも無一物に徹して、清貧の思想を貫いた曹洞宗の僧でありました。
七十四歳で逝去するまで、生涯寺をもたず、粗末な草庵に住み、名利にとらわれない生活を送りました。
清貧の中で生けるものへの愛を失わず、子供と戯れ、友と語り、和歌や漢詩を詠み、書に優れた托鉢僧でした。

そんな良寛さん、越後国(新潟県)出雲崎の名主橘屋、山本家の長男としてなに不自由ない家に生まれました。
幼少期は手習いをすることも書物を読むことも激しく拒み、人の注意も気にすることなく、朝寝坊して、気ままに過ごす子供だったようです。

一見、意外な気もいたしますが、逸話を読むに、ああ、と頷ける、いかにも良寛さんらしいと思われることばかりで…。

あるとき朝寝坊して父親に叱られて上目づかいで父親を睨んだとき、「父母を上目で睨むような者は鰈(かれい)になってしまうぞ!」と父親が叱りつけたといいます。
気がつくと良寛さんはいつのまにか家を出て行方不明になっており、家人が懸命に探し回り、夕方になってようやく海礁にたたずむ良寛さんを見つけたといいます。
何をしていると尋ねると
「まだ自分は鰈になっていないか?」と尋ね、いつ鰈になってもすぐに海に飛び込めるよう態勢を整えていたと言ったといいます。

そんな手習いをすることも書物を読むことも激しく拒み、人の注意も気にすることなかった良寛さんがある日、父親のところにやってきて読書がしたいと言い出してきかなかったといいます。
しぶしぶ『論語』や『孟子』が入った十三経の巻を与えたところ、淀みなく早口に読み出し、驚いた父親が理由を尋ねると「昨夜自分の枕元に白髪白髭の老翁がやってきて、心を込めて諭された」と答えたといいます。

さてこの白髪白髭の老翁、いったい誰だったのか…。
私のところにも来てくださればよかったなぁ。
…訪れても変わらない、見込みのない者のところにはお越しにならない老翁さんだったようですね。



No.69

白髪白髭の老翁さんに諭されたのちはひたすら読書にふける少年となった良寛さん。
ある年の盆の夕暮れ、毎晩毎晩薄暗い行燈の前で読書にふけっている良寛を心配した母親は、「少しは外へ出て、盆踊りでも見てきなさい」と言ったといいます。
それを聞き良寛さんは、黙って部屋から出て行きます。
しばらくたって、母親が何気なく中庭を見ると、石灯篭の陰に人影がある。
盗人だと思った母親は、なぎなたを持ってそっと近づいたといいます。そこでよく見るとその人影は、石灯篭の光をたよりに「論語」を読みふけっている良寛さんの姿であったといいます。


橘屋の長男として生まれた宿命に従って、いったんは家督を継いで、十八歳で名主見習いの職につきます。

が、学問で人間の理想を学んだ良寛さんにとって、現実は厳しいものでした。
わずか四十六日目で出雲崎の隣町尼瀬の光照寺に駆け込んで出家しています。
その原因として、
盗賊の処刑に立ち会わされ、人の世のむごさ、命のはかなさを感じたおと。
代官と漁民の争いの仲裁に『人間が正直さを失ったり、人をだますことが賢いというのでは、人間でなくなってしまう』と思ったこと、などが挙げられもいたしますが、奉行を怒らせるような問題をおこしたとも伝えられています。
代官と漁師の間に争いごとが起きたときに調停するのが名主の立場、ですが、噓や二枚舌を使って争いごとをまとめるやり方はできず、双方の悪口をそのまま伝え、一層混乱に陥ったというもののようです。


こうして家督を継がず、父母の強い反対を押し切って十八歳で出家、隣町の尼瀬にある禅寺『光照寺』に入ります。

禅寺の修行は厳しいもの。隣町とはいえ実家に帰るようなことは年一回許されるかどうか、といったものであったことでしょうし、なによりこういった形で家を出た良寛さんはおそらくこの時以降父母に会うことは無かったのではないでしょうか。

そして良寛さんが二十歳のとき、越後を訪れた国仙和尚に自ら弟子入りを志願し、備中(岡山県)玉島にあった曹洞宗の禅寺「円通寺」に入ります。
そこで十年余り修行をしたのちに、三十四歳で吉野・高野山・伊勢など諸国行脚の旅へ。
三十九歳で越後に帰郷した時には、お父様はもうこの世の人ではありませんでした。


No.70

良寛さんが十八の年、全国各地で米騒動が頻発し、越後でも天災・悪疫・凶作によって餓死者を出した頃。
そんな中、村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ちあい、世の無情さを知り、両親の説得にもかかわらず出家されています。
光照寺で良寛さんが自ら名乗った名は『大愚』でありました。

二十ニ歳の時、良寛は故郷を捨てますが、
「この世にあらん限りは父母の言葉を身に包み生きよう」と誓ったといいます。
実際、そう生きた方であったろうと、私は思います。


円通寺の格式は高く、入門には厳しい戒律を通過しなければなりません。
経を学ぶことより勤労に励むことを第一としており、「一日作らざる者は、一日食わず」と師は日を変え言葉を変えて良寛に説いたといいます。
その教えは後の良寛の生き方に強い影響を与えることとなったといいます。

修行四年目の春、良寛は母の訃報に接したが帰郷は許されず、円通寺での修行は十二年に及びました。

この世の無情、無常を悟り、家を捨て親を捨てて、ただひたすらに仏の教えを乞うた良寛さん。
その仏の教えを説法することはなかったといいます。

ただただ、笑顔で。
ただただ優しさで。
ただただ生き様で。
仏の教えを人に示した良寛さん。

良寛さんは亡くなる四、五日前に、

『かたみとて 何かのこさむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじば』

という歌を詠まれています。

人の死というものは必ずややってくるもの。
残される者の心構えを歌にそのまま詠っています。


うーん、良寛さんの足跡。
新潟は出雲崎の地に密集していそうです。
新潟かぁ。

うーん、新潟。

No.71

おばさん、最近遠出をしないんだ…。

…そうなんです。

孫も小さく、年寄りは入退院、忙しいお年頃、なのであります。

先日も、なんだか日光にはあまり行きたがらない夫をようやく説得して、はれて日光に!と思い(夫が)車を走らせていると四分の一ほど走らせたところで、LINEのメール着信音。
義姉からなもので、義母が救急搬送されたとのことでUターン。


そうでなくても、どうも夫が最近デブ症…ではなくて、あっデブ症も確かなんですが、出不精で。
男性の更年期、でしょうかねぇ?

秩父に行きたいも、川越に行きたいもみんな上手にいつのまにかそんな話などなかったことにされております。
これも口車に乗ったことに…はならないんでしょうが、ケムにまかれるとはまさにこのことかと。

まぁ、鎌倉に行きたいをいつも却下している私、おたがいさま、ということでしょう。


なので。
地図を見てもあまりイメージもわかず、ちんぷんかんぷんなおばさんが、地図を見ながら計画を妄想するようになりました。
これはスマホにしたことで、ひとえに地図が身近になったことによるものかと。


良寛さんの足跡を訪ね、新潟の神社仏閣を参拝する。…そんな妄想をしてみました。

そうそう、ずっと行きたいと言いながら、実行されない(それはおばさんが主体性を持って動かない、動けないせいでもあるのですが…)佐渡島の神社やお寺さんをまわる、妄想上の計画でも立ててみましょうか。

No.72

少し前になりますが、栃木県佐野市にあります【磯山弁財天】さんと出流原弁財天池に行ってまいりました。

こちらは二度目。

夫がとても良いところがあるんだと常々申しており、ようやく行きましたところ、夫の言う百倍くらいに良い所でありまして。
「だからすごく良い所みたいだから行こうってずっと言ってたじゃない」と、夫は申すのですが…。

すごく良い所みたいだから、ってただそれだけ言われてもなかなか私の心は動かないって、いい加減覚えてくれてもいいのでは?
なんならシークレット的に連れて行ってくれた方が…。
…いや、夫が言うことに素直に耳を傾ける妻になれって、そうそう、そういうことなんですよね。
すっごく修業しないと、なかなかその域にはいけそうにないけれど。

まぁ、一度行って子どもたちにも薦めたくらいすっかりお気に入りの場所となった私。

ただ、おじさん、…なんだか一度行った所って、どうも「よし、行こう!」ってなりにくいみたいで…。

(愛)妻が「もう一度行きたい!」と言っても、その腰の重いこと重いこと。
秩父三十四観音霊場巡りももう一度と言っても「うん、行きたいね」と言いつつ叶わず。
大洗磯前神社さんに行きたいと言っても、「そうなんだ」と一言返すだけ。

秩父はたしかに三十四カ所全て、となると、一人ではちょっと無理な所もあるにはあるのですが、大半一人でも回れそうですし、そう、この出流原の磯山弁財天さんに至ってはナビ無しで来られるくらい、なんですけれど、ね。

ただ、野生動物やら毒虫やら毒ヘビやらを考えるとできるなら一人ではない方がいいのかなぁと思われる場所でもありまして。

ま、基本が(大変)出不精な夫婦ですので、要は折り合いを付ける攻防戦、ということになりましょうか。


閑話休題。


こちらの磯山弁財天さんは『北関東自動車道路』の佐野田沼ICの次の『出流原PA』の下が、ほぼこの弁天沼のある場所となります。…私にとってはかなり耳の痛い思い出のある『出流原PA』ではありますが…。(※ 珍道中東北路編に詳しく…書いてあったかなぁ)
しかし残念ながら出流原PAから降りてゆくことはできません

No.73

足利市の、足利氏ゆかりの樺崎八幡宮をひだりてに見て、なお直進しのどかな国道を通過しているとき、注意してみていると、山麓に赤い小さな建物が見えます。
それが【磯崎弁財天】さん。

街道から見ると、赤いお堂は見えて来るのですが、すぐ物陰に隠れてしまいます。
道路標識では、赤見温泉経ゆく道路標識があるだけです。
「ここか?」と思う小さな交差点で曲がって、直進すると突き当たり、その道を左に折れてさらに直進するとみぎてにそっと見えてくるのが、…小さな手作りの藤棚のような通路。
そこが磯崎弁財天さんへの入り口、石段へと続く道であります。

ただしその直前にある、小さな駐車場を見逃すとUターンすることに。


この駐車場の辺りからすでに空気が変わります。

この磯山弁財天と出流原弁天池は、実は開設から千年以上も続く名所であり、平安時代の武将藤原秀郷が開いたともいわれているれ歴史的な場所なのです。

No.74

この【磯崎弁財天】さんは天暦ニ(948)年唐沢山城主である藤原秀郷公の勧進によるものとされています。
弘法大師が相州江ノ島辨天にて護摩修行時の護摩の灰にて造られたものと伝えられているといいます。
建立当時は一帯に七宝伽藍が林立し、隆盛を極めていたといいます。 しかしながらその後、幾度かの火災により寺宝はことごとく焼失してしまいました。

現在の本殿は鎌倉時代に再建されたもので、釘を使わない『懸造り』。
石灰岩の斜面に張り出して造られています。

弁財天さまというと水のある所、池やら沼といったところの中洲にお祀りされていることがほとんどでありますが、磯山弁財天さんは山の中程に祀られています。

その昔磯山弁財天さんも弁天池の小島に祀ってあったものを、この弁天池の霊泉の不変の恩恵に浴した出流川沿岸の住民たちの感謝の総意により現在地に奉安したと言われています。
弁天さまを山腹に安置しているのはこの磯山弁財天さんだけだと言われています。


こちらのご本尊さまは梵名を【薩羅摩伐底】と云い、インドの神話より生じた『薩羅摩伐底河』を神格化したもので、 羽衣風の衣装をまとう八本の手を有する天女風の辨財天で頭上に宇賀神像を拝しています。

一説には、歴史の一頁をかざる三城禁止令の発端となった時の唐沢城主が江戸の大火を発見し、早馬にて馳せ参じ一番乗りで殿への御見舞いを言上の際、この火事が眼下に見ていたという一事に依り、殿よりの不信を受け山城廃城の憂目を見たといいます。その際、領民は一丸となり城主の胸中を慰め、また殿への忠誠と不信を取り戻す為に、辨天堂を江戸城鎮護の守り神として山腹に江戸城向きに安置したものともいわれ、御本殿は現在の東京都の方向を向いています。

右側に大黒天さま、左側に毘沙門天さまの二福神、
その他、印鑰童子・管帯童子・筆硯童子・金財童子・愛敬童子・生命童子・従者童子・牛馬童子・船車童子・善財童子・稲紐童子・計升童子・飯櫃童子・衣装童子・蠶養童子・酒泉童子(以上辨財十六童子と言う)が、
弁財天さまにお仕えするかのような姿で安置され、五穀豊穣、商売繁盛など、あらゆる信仰の対象の神として今日に至ります。

No.76

ちなみに。
御本尊の梵名、『薩羅薩伐底(サラスヴァティ)』の『サラス』は水を意味し、『ヴァティ』は富むの意味で、川や池や湖な ど水を神格化したものとされています。

磯山弁財天さんは十二年に一度の巳年に御開帳の年となるのだといいます。
昭和五十二年(1977年)丁巳には御開帳を記念して社殿拝殿の大改修及び復元がなされました。
最近では平成二十五年(2013年)の巳年に御開帳され、祭典では稚児行列が行われだということです。

普段は無住であり、御朱印はこの近くにありますホテルのフロントでお書き置きのものを購入することとなっています。


山門前の参道にかけられた藤棚のような棚には私どもがうかがったときには風車がたくさん飾られていましたが、七月の半ばにはこれが風鈴に替えられたそうです。

参道を歩く前にも、手前のところに磯崎地蔵尊のお堂があり、またそのそばには水の張られた石の手水鉢があり、二度とも美しい生花の花手水が活けられていました。

また少しずつ水が流れ込んでいる小さな池のには大きな、生きているかのような動きのある白蛇の像が崖のところに這うように祀られています。

No.78

さて。

これは再拝となりますので以前も磯崎弁財天さんについてのレスがあります。前回のレスをお読みくださった方におかれましては、内容が重複したものとなるところもあり、申し訳ありません。(書いております本人は書いた記憶しか残っておらず、前回のレスを見ることなく書いているため、重複している度合いもわからず、本当にすみません)


この磯崎弁財天さんの楼門が変わっております。
赤い楼門の間に装飾として、…なのかもしれまさんが赤い太鼓橋がかけられています。大柄の方でなければあるいは実際に渡れるものなのかもしれません。渡って左右の建物を行き来できる…のかもしれませんが、こちらは一般に開放はなされてはおりません。



また楼門は障子の貼られた建物となっていてとても上品な感じがいたします。いかにも女神さまであります弁財天さまをお祀りする御堂だなぁと思われます。

その楼門をくぐると蛇の像(磯山の大蛇)がお出迎えくださり、その大蛇の像越しに御堂が見えます。

さてその像の左手には可愛い弁財天像があります。
さらにその隣には『風穴洞』があり
、四季を通してその穴から冷風を感じることができます。

蛇の像の右手の階段をのぼって行きます。



ごめんなさい。
暑さのためか(それはどうか…?それもあるか)何度もミスが続いており、削除して書き直しております。都度お読みくださった方におかれましては大変申し訳ありません。

No.79

御本堂へ至るまでの間に、銭洗弁天さまの祠もあります。
清水で手水をつかい、身を清めるところもあります。

石段は百八十段と聞いています。

懸造りの御本堂の舞台からは関東平野の広がる見晴らしの良いのどかな景色を堪能できます。


今後も折にふれてはこちらを訪れることと思いますが、二年後となる巳年の御開帳に参拝できればと思っておりますので、その際に参拝が叶えばその参拝録を記させていただこうと思います。


弁天池に向かいました。
まずは弁天池の高台に御鎮座する『湧釜神社』さんを参拝し、その後弁天池へと向かいます。湧釜神社さんも宮司さまはおられません。

ちなみに。
なんとこの湧釜神社さんの御朱印は弁天池のほとりの駄菓子と軽食のお店で購入します。
このとても懐かしい駄菓子と軽食のお店の方はどなたもフレンドリーで優しい方ばかりで、そして、なんと!お店の裏手にはヤギを飼われています。


さて。
この弁天池、栃木県指定の天然記念物で日本名水百選にも選定される湧水池であります。
びっくりするほど清らかに澄んだ池には大きな鯉が優雅に泳ぎ、豊かな緑と清涼感を感じる憩いの場として親しまれています。
豊かな樹木に覆われた周囲138mの丸い池は池底が見えるほど水は透き通っており、池に映る青空に鯉が泳ぐさまは、まるで空を飛ぶようにさえ見えます。
この湧水池は利根川水系「出流川」の水源でもあります。

秩父古生層と呼ばれる石灰岩質の地層を通った湧水で、炭酸水素カルシウムを多く含み、硬度は平均76.5mg〜92.5mg/Lの飲みやすい軟水だといいます。

ちなみにこの水は磯崎弁財天さんの御朱印を購入できるホテルの前で無料で汲むことができます。

水温は年間を通して16℃を保ち、水量は約2,400t/日と豊富で飲用のほか、鯉やマスなどの養殖や農業用水にも使用されています。


この磯崎弁財天さんも、そしてこの弁天池も隠れた名所であります。
すぐ近くには釣り堀やボートのある池もありますので、隠れた、というよりは知る人ぞ知る、でしょうか。
かなり遠くの都(道)府県のナンバーの車を見かけます。

ああ、また行きたいなぁ。




No.80

なんだか暑い気がして、それでも暑さに弱くなったかと自分を疑ってみましたが、念のため室温計見るとな、なんと!驚きの三十六℃。

エアコン、エアコン!

全国の気温も『うなぎのぼり』ってやつなのだろうなぁ。

そんな今日の気温、またも群馬県が全国一、ですか。
一位 群馬県 伊勢崎市 39.5 ℃
二位 群馬県 桐生市 39.2℃
しかも一位、二位独占、ですか。

…私、体温もこんな値になったことがありませんが。
こんな日本一はごめんです。


群馬県知事選では自民・公民推薦の無所属現職が再選しました。
自民・公民推薦の『無所属』って、…もはやそれだけでも『嘘をつく人物』、立派な嘘つきでありますが。

彼は自分に甘い。
県民の暮らし、苦しみが見えない。

でも当選しちゃう、それが群馬県。


おお、あっという間に室温三十℃。
ありがたや、ありがたや。

No.81

「とざい とうざい。
かるわざしの そうべえ。
いっせいいちだいの かるわざでござあい。
こちらの松のえだから、
むこうに見えまする 酒ぐらのやねまで、
みごと わたりおおせますれば、
ごかっさいを。

そうれ。

ベベン ベンベン ペーン」


上方落語の『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』を題材に、関西弁を駆使して描く、スケールの大きな落語絵本、
【じごくのそうべい】の出だしです。

田島 征彦さんという方が書かれた、内容も、絵も、大変独特で、初めて目にした時はまさに度肝を抜かれた作品でありました。

童心社さんから発行され、な、なんと発行は1978年だったというから、さらにびっくり。
子供の時、この本に出会っていた…かもしれない可能性すらあったのだから。

ま、子供の時分はさすがに〝夢みる少女〟、この本を目にしたところで手にはとらなかったかもしれませんが。

ロングベストセラー作品で、シリーズ化もされておりますので、ご存知の方も多いのかもしれません、この作品。


地獄の、というくらいですので、当然地獄の様子も描かれていますが、ユーモラスな内容に、その恐さとかはほぼ伝わってはこないものかと思います。
まぁ、〝落語絵本〟ですし。


でもあらためて、地獄ってどんなところなんだっけ?、と思ってみても、せいぜい「嘘をつくと地獄で閻魔さまに舌を抜かれる」とか、『血の池地獄』とか『針の山』とかぐらいしか思い出せず。

地獄ってこういうところだから悪いことはしてはいけないんだよって、子どもたちに伝えるには大変良いもの…なんじゃないかな、と思ったりもするおばさんは、大人になってから…それこそ自分のみならず、自分の子どもたちまでも大人になってから思ったものでありまして、『天国と地獄』という絵本を買ったのでありました。




…これは怖い。
これは恐い。


ま、怖くなければ、そうした心に刻まれるように残るものとはなりませんがね。


あらためて地獄ってどんなとこだろう、と図書館で子供向けの本を手にした私。

…やっぱり笑っちゃうんですけど。

No.82

死後の地獄には、なんでも、『八熱地獄』、『八寒地獄』、『孤地獄』というものがあるといいます。
『八大地獄』といわれるのは、八熱地獄のことだとのこと。

『八大地獄』とはどんな地獄か。
お釈迦様が『長阿含経(じょうあごんきょう)』にこのように説かれているといいます。

『八大地獄あり。(中略)
第一の大地獄を想と名づけ
第二を黒縄と名づけ
第三を堆圧と名づけ
第四を叫喚と名づけ
第五を大叫喚と名づけ
第六を焼炙と名づけ
第七を大焼炙と名づけ
第八を無間と名づく。』



…そ、そうですか。
お釈迦さまが。
お釈迦さまが説いておられるくらいのものでありましたか…。

とはいえキリスト教の教えでも〝地獄〟は存在しますし、神道でも〝黄泉の国〟が存在します。

今回はこのうちの仏教における地獄についてを書いていこうと思います。


No.83

「八大地獄』といわれる『八熱地獄』。

八大地獄とはどんな地獄かというと、
【等活地獄】
【黒縄地獄】
【衆合地獄】
【叫喚地獄】
【大叫喚地獄】
【焦熱地獄】
【大焦熱地獄】、
【阿鼻地獄(無間地獄)】
の8つの地獄となります。

No.84

【八大地獄】は八つのフロアに分かれており、下層に行くほど罪が重く、受ける責めも厳しいものとなるといわれています。
八大地獄の別名、八熱地獄という読んで字のごとく、〝熱い〟責めを受けます。

地獄の責めというのは『殺される』ことなのですが、一回では終わらずすぐに蘇生して延々と同じことを繰り返されます。


八大地獄は八階建てのビルに例えるとわかりやすいといわれ、生前に犯した罪によって落とされるフロアが変わってきます。

主な罪状は五つです。
これは仏教で守るべき【五戒】の順守状況が大きくかかわっています。

【不殺生戒(ふせっしょうかい)】:生き物を殺さない
【不偸盗戒(ふちゅうとうかい)】:盗みをしない
【不邪淫戒(ふじゃいんかい)】:性愛をしない
【不妄語戒(ふもうごかい)】:嘘をつかない
【不飲酒戒(ふいんしゅかい)】:酒を飲まない


【等活地獄】

八大地獄の最上階に位置するのが『等活地獄』です。
等活地獄は最も罪の軽い人が落ちる地獄の中では一番ラクなはずの地獄ですが、その刑期はなんと


…一兆六千億年です!


人間の世界(人道)で死んだあと等活地獄に落ちたら、次の転生までに一兆六千億年かかるのです。気の遠くなるような期間です。

さらに恐ろしいのは、そのあいだ受け続ける責めです。等活地獄の責めにはどんなモノがあるのでしょうか?

等活地獄では、同じフロアの人間同士で殺し合いをしなければなりません。参加を拒むこともできますが、その場合は獄卒(鬼)によって殺されます。

しかしながら(地獄で)死んだあともすぐに生き返り、これを一兆六千億年続けなければなりません。

【等活地獄の中の小地獄】

・【屎泥処(しでいしょ)】
動物を殺生した人が行く小地獄。
糞尿を釜で煮て沸騰させた中に落とされる。
…これ、これが『じごくのそうべいらに出てくる『糞尿地獄』、なのでありましょうか?

・【刀輪処(とうりんしょ)】 欲望のために殺生した人が行く小地獄。
火の粉が舞う鉄の囲いの中に入れられ、空からは両刃の剣が降ってくる。

・【瓮熟処(おうじゅくしょ)】 生き物を殺生して煮て食べた人が行く小地獄。ビンに詰められ、ぐつぐつと煮込まれる。
…えっとぉ、…煮て食べてます、数えきれないくらいに…。

あ、必要以上に、ともいわれています。
ほっ。

No.85

(等活地獄のつづき)

・【多苦処(たくしょ)】 動物を虐待して殺生した人が行く小地獄。その名の通り、十千億もの苦が用意されているという。
自分のした虐待と同じような、しかもさらにひどい暴力をふるわれるとも。


・【闇冥処(あんみょうしょ)】 同じく動物を虐待して殺生した人が行くものだが、動物を窒息させたり、押し潰したりして殺すといった具体的な内容が。
暗闇の中、唯一見つけた炎に焼かれ、鋭い風に体を切り刻まれるといったもの

・【不喜処(ふきしょ)】 大きな音で動物を追い立て、殺生した人が行く小地獄。
火を吐く鳥、犬、狐がいて、食べられる。

・【極苦処(ごくくしょ)】 憂さ晴らしで動物を殺生をした人が行く小地獄。獄卒(鬼)に崖から落とされ、下で燃えている炎で焼かれる。

・【衆病処(しゅうびょうしょ)】 感染症が蔓延している小地獄。

・【両鉄処(りょうてつしょ)】 鉄の雨が降り注ぐ小地獄。

・【悪杖処(あくじょうしょ)】 あらゆる拷問道具が用意された小地獄。

・【黒色鼠狼処(こくしょくそろうしょ)】 黒い鼠と狼に少しずつ食べられる小地獄。

・【異異回転処(いいかいてんしょ)】 体の形を保てないほどの遠心力を加えられる小地獄。

・【苦逼処(くひつしょ)】 肉体と精神を同時に苦しめる小地獄。

・【鉢頭麻鬢処(はちずまびんしょ)】 蓮華の花のように体を裂かれる小地獄。
陂池処(ひちしょ) 沸騰した池で泳ぐ小地獄。

・【空中受苦処(くうちゅうじゅくしょ)】 宙づりのまま責めを受ける小地獄。

などなど。


刑が一番軽いとされる等活地獄ですらこれ。
…。


闇冥処に堕ちるという罪状、動物を窒息させたり、押し潰したりして殺すという内容。
一見すると「そんなことはしていない」と思ったりするのですが、たとえば…〝蚊〟。

…押し潰して殺しているんですが…。


No.86


…ちょっとまてよ?

このおばさん、もしかして地獄の…八大地獄=八熱地獄の種類全てを書いていく気なの?


うーむ…。
まぁそれもありかと思うのですが、お読みになられる方には必要もないだろうし、何よりも私の文章力では面白くもないし。
そして書いているおばさん本人も少し重たく、…何より飽きてきた(おい!)。

ここでいったんまとめますと…。



地獄道は輪廻転生における六道、
地獄道
餓鬼道
畜生道
修羅道
人道
天道
のうちの一つ。

地獄には数多くの種類が存在しており、全部で百三十五もあるといわれている。
その中でも有名なのは八熱地獄と八寒地獄。

八熱地獄の種類はその名の通り八つあり、『八大地獄』とも呼ばれる。

八大地獄の中にある
『等活地獄』は1兆6千億年も刑期を受ける。
『黒縄地獄』は13兆年も刑期を受ける。
『衆合地獄』は106兆年も刑期を受ける。
『叫喚地獄』は852兆年も刑期を受ける。
『大叫喚地獄』は6,821兆年も刑期を受ける。
『焦熱地獄』は5京4569兆年も刑期を受ける。
『大焦熱地獄』は恐ろしく長い期間かかる。
『無間地獄(阿鼻地獄)』はもうよくわからないくらい長い。

その八つの中にも小地獄がある。



…ですかね。

普通…かどうか、大きく疑問符のつくおばさんではありますが…、普通に生きていると(たぶん)あまり見かけない『京』って数字の桁、…私はおそらく生まれて初めて見ました。
中身が小ちゃい人間なので小ちゃい世界で生きてるんです、はい。

No.87

というわけで、地獄についてのまとめの続き…というか、まだ書いてもいないし、今後描くかどうかも迷っているのでありますが。


八大地獄のそれぞれの罪状について。

【等活地獄】:殺生
【黒縄地獄】:殺生+窃盗
【衆合地獄】:殺生+窃盗+邪淫
【叫喚地獄】:殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒
【大叫喚地獄】:殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒+嘘
【焦熱地獄】:殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒+嘘
      +仏を信じない
【大焦熱地獄】:殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒+嘘
      +仏を信じない+強姦
【無間地獄(阿鼻地獄)】
      :殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒+嘘
      +仏を信じない
      +強姦
      +親or聖者を殺害


このうちの等活地獄についてはさらに細かな小地獄の内容まで書いてみました。

小地獄、堕ちたらどれもそれはそれは苦しみしかない内容であります。
それは確かなこと、…なのですが、最初に、〝じごくのそうべい〟のくだりで、そうべい以外の子供向けの地獄について書かれた本を手に取り「やっぱり笑っちゃうんですけど」とか書いておりますおばさん。

笑ってる場合ではないだろう、とは思うのです。

ですが、ですね。

黒縄地獄にあるという、仮病を使って薬をだまし取った人が行く小地獄。
…これって、なんだか笑っちゃいません?

しかしながらその責苦の内容は、さすが、the地獄。
怪鳥が現れて、目や舌を引き抜いていく。最終的には全てを食べられるが、獄卒が怪鳥の糞を集めて元の体に戻され同じ責めを受け続ける、といった大変ハードなものなのですが。

衆合地獄には『覗き』をした人が行く小地獄があります。
えっ、人間ってその気はなくとも覗きになってしまうシーンってなくはないかなあ。
あ、でもあくまでも〝邪淫〟、でしたね。
この『覗き』をした人の行く小地獄は、熱く焼けた鉄の串を何本も突き刺されるのだといいます。
身動きが取れないほど串を刺された後、生殖器を引きちぎられる。
…これは…。
…絶句です。
しかもこれもまた再生させまた同じ責苦を受けることとなる。
衆合地獄ですからその間百六兆年です。

牛と馬を獣姦した人が行く小地獄、羊とロバを獣姦した人が行く小地獄、というものがそれぞれ別にあるといいます。

…えっ?はっ?

No.88

【叫喚地獄】は852億年もの刑期。

ここはお酒にまつわる罪で堕とされる地獄です。
852億年もの刑期です、重い罪を犯した者であり…ましょうが。
…私は実はこのあたりのところからちょっと笑えてしまうのですが…。

・【大吼処(だいくしょ)】 仏教を学んでいる人に酒を飲ませた人が行く小地獄。溶けた熱い蝋を流し込まれる。

…あのぉ〜、葬儀や法事の際のお清めのお酒は?
これはお清めだからいい?
そもそもこの答えってどなたにお聞きすれば良いのでしょう。
お酒好きのお坊さんにお聞きしたら、「全然オッケー」とか言われそうですが。

・【普声処(ふしょうしょ)】 仏教を学んでいるとき、欲にくらんで酒を飲んでしまった人が行く小地獄。
大きな杵でつかれる。

・【髪火流処(はっかるしょ)】 五戒を守ろうとしている僧侶に、酒を飲ませた人が行く小地獄。罪人は空から降ってくる炎の雨に焼かれる。

・【火末虫処(かまつちゅうしょ)】 酒に水を混ぜ、量をごまかして販売した人が行く小地獄。
四百を超える病気が用意されており、感染し何度も死ぬ。

あれ?
…水割りのお酒は良いんですよね?注文されて提供してるんですものね。

・【熱鉄火杵処(ねつてっかしょしょ) 獣に酒を与え、動けなくなったところを捕まえた人が行く小地獄。
杵で打たれたり、刀で体の肉をちょっとずつ剥がされたりする。

・【雨炎火石処】 象に酒を与えて暴走させ、周囲に迷惑をかけた人が行く小地獄。
火炎に包まれた像の鼻でひたすら叩かれ踏まれる。空からは焼け石の雨が降り注ぐ。

…ぞ、象に?
まぁ、お釈迦さまはインドですから象もおりますよね。
お釈迦さまの生きておられた時代には象に酒を盛り暴走させるような人物がいた、っていうこと、ですよね。
しかもこの地獄、今もある。…ということは…?

・【殺殺処(せつせつしょ)】 女性を酒で酔わせて、性愛をした人が行く小地獄。まずは、男根を引き抜かれる。すぐに再生するので、また引き抜かれる。
永遠ともいえる期間の苦痛。

…。
……。
…気をつけろ!男性陣。

・【鉄林曠野処(てつりんこうやしょ)】 毒入りの酒を飲ませた人が行く小地獄。
鉄の車輪に縛りつけられて回転させられる。鉄のヘビに食べられる。




No.89

(【叫喚地獄】続き)

・【普闇処(ふあんしょ)】 安酒を高額で売りつけた人、量に見合わない値段で売った人が行く小地獄。
見えない火で焼かれ、殴られたり、ノコギリで頭から真っ二つに切られる。

…だそうですよ。

・【閻魔羅遮曠野処(えんまらこうやしょ)】  病人や妊婦に薬と偽って酒を飲ませ、窃盗をした人が行く小地獄。
体に火を付けられ焼かれた状態で、足先から頭の先に向かって少しづつ千切りにされる。

…薬と称して自ら酒を飲む夫は?
効能を語れればオッケーとしますか 笑。

・【剣林処】 泊まりにきた旅人に酒を飲ませ、窃盗した人が行く小地獄。
燃えた石がたくさん落ちてきて、切りつけられたようなケガをする。

・【大剣林処】 水のない、人里離れたところで酒を大量に売りさばき、利益を得た人が行く小地獄。
人気(ひとけ)の無いところで酔っ払うと野生動物や山賊に襲われることとなるため、といいます。
刀の林を彷徨い、体が傷つきます。

・【芭蕉烟林処(ばしょうえんりんしょ)】 女性に酒を飲ませて暴行をしようと企んだ人が行く小地獄。
熱い鉄の棒で叩かれ、最後は尿道から毒を注入される。また目が見えなくなり熱い鉄板の上を歩かされる。

…いいですか、企んだ、だけでですよ。

・【煙火林処】 政治家に酒を振る舞い、仕事の融通をきいてもらった人が行く小地獄。
熱い風に吹き飛ばされて罪人同士がぶつかり合う。

・【火雲霧処】 酒を使って人を酔わせて、馬鹿にした人が行く小地獄。
熱い風に吹かれて、体が少しづつ細くなる。

・【分別苦処】 目下の人間に酒を無理やり飲ませ、猟をさせたり、殺生させた人が行く小地獄。
この小地獄は獄卒(鬼)から説教を受けたり、暴行も受ける。いろんな苦しみにあう。



…なんだか、無さそうでありそうな、ありそうで無さそうなことばかりが罪状です。
もちろんあってはいけないことではあります。ありますが…。
…なんでもありません。

ちなみに私はここ何十年と飲酒しておりませ…あ、養命酒を飲んだくらいです。
本当です。

No.90

【大叫喚地獄】ともなるとその刑期は実に6,821兆年にもおよびます。
しかしながらその罪状は、…なにやら世間話で往々にして聞く内容だったりするのです。
笑えちゃうような、恐いような…。
そう、大叫喚地獄は嘘をついた人が堕ちる地獄だと言われます。

・【吼々処(くくしょ) 】
自分に良くしてくれた人に嘘をついた人が行く小地獄。
嘘をついた舌に毒を塗られ、口の中に火を付けられる。

・【受苦無有数量処(じゅくむうすうりょうしょ)】
嫉妬や欲望を抑えられず、嘘で相手を貶めた人が行く小地獄。
えらい人にゴマをすることもそこに含まれるようです。
どこということなく体中いたるところから虫が発生して、毒を注入される。
また打たれてできた傷口に植物を植えられそれが体に根をはる。そしてその植物が大きくなると、根こそぎ引き抜かれる。

…受苦、無有数量、という場所の名前一つ取っても、その内容が知れるものですが、これが延々と6,821兆年続くと考えると、まさに地獄としか言いようがないです。

・【受堅苦悩不可忍耐処】
管理職なのに、責任を部下に押し付けた人が行く小地獄。
立場を利用したり、自分の地位を守るためにウソをついたりすることも含まれるもののようです。

体の中に毒蛇が生まれ、毒に犯されながらしかも内側から食べられる。

…なるほど〝不可忍耐〟です。

・【随意圧処】
不動産をだまし取った人が行く小地獄。
刀鍛冶のように、体を焼かれ金槌で叩かれて延ばされ固められる。

…よく…聞きません?
そんなことは無い?

・【一切闇処】
他人の配偶者を無理やり性愛し、誘惑されたと嘘をついたり、しらをきる人が行く小地獄。
頭を割られ、舌を引っ張って足まで割かれる。

・【人闇煙処】
お金があるのに無いと嘘をついて騙しとった人が行く小地獄。
体を裂かれ続ける。

・【如飛虫堕処(にょひちゅうだしょ)】
僧侶の持ち物を盗んだ人、粗末なものを騙して高く売った人などが行く小地獄。
熱く焼けた鉄の犬がたくさんおり、追い掛け回され、最終的には食べられる。

・【死活等処】
出家したふりをした人が行く小地獄。
目が見えなくなり、また逃げられないように手足を切られ、炎の中に放り込まれる。
…現代では珍しいことかもしれませんが、かつては日本でもそうする人間が多くいた時代があったようですよね。






No.91

(【大叫喚地獄】続き)

・【異々転処】
商いをする人に嘘をついて、大損失をさせた人が行く小地獄。また、嘘をついて他人の財産を奪った人もここに堕ちる。
精神的な苦痛を与える責めで、家族や愛する人が溶岩で溶かされ、自身も全身を刻まれる。

・【唐悕望処(とうきぼうしょ)】
助けが必要な人を見過ごした人、弱者を助けると言いながら行動しなかった人が行く小地獄。
鉄を溶かした釜に入れられる。

…あらあら、この釜って政治家の人が多くいそうな気がするのは私だけですか?

・【双逼悩処(そうひつのうしょ)】
仲間内の悪口を言って、輪を乱した人が行く小地獄。
熱い牙の生えた虎またはライオンに食べられる。

・【迭相圧処(てっそうあつしょ)】
遺産相続でもめた人、家族からお金を騙し取った人が行く小地獄。
その家族のまぼろしに刃物で肉を切り取られ、食べさせらたり、食べられたりする。

・【金剛嘴烏処(こんごうしうしょ) 】
病人を治療しなかったり、薬をあげると言いながらもあげなかった人が行く小地獄。
熱いくちばしをもった怪鳥に食べられる。

・【火鬘処(かまんしょ)】
裁判で嘘をついた人が行く小地獄。体中をすりおろされる、または鉄板に挟まれ潰されるとも。

・【受鋒苦処(じゅほうくしょ)】 お布施の額にケチをつけた人、お布施をごまかした人が行く小地獄。
獄卒(鬼)によって、隙間がないほど体に暑い鉄の針を刺される。

・【受無辺苦処】
教えを説く人間が間違いを教えた、あるいはリーダーなのに他のメンバーに間違ったことをさせた人が行く小地獄。
熱く焼けた鉄の箸を使って、目と舌を引き抜かれる。

・【血髄食処】
ウソをついて税金を多く取った政治家の堕ちる小地獄。
逆さ吊りで鳥に肉を啄まれ、流れてくる血が口に入り、飲み込むこととなる。

…もはや政治家限定です。

・【十一炎処】
えらい立場を利用してものを盗んだり、人を騙したりすると堕ちる小地獄。
他の亡者が吐いた火で体を焼かれる。

…。
…あれ?これ今話題の…?

No.92

八熱地獄の上から8番目のフロア、最下層に位置するのが無間地獄(阿鼻地獄)です。

最下層の刑期はもやは不明です。『一中劫』という言葉で表現されますが、仏教用語でとにかく長いという意味があります。

お坊さんや尼さん、修行者を殺害した人が堕ちるところであり、そのほかに、

・【野干吼処】
世のために働く賢い人の〝悪口を言う〟と堕ちる小地獄。
火吹きキツネに食べられる。

・【黒肚処】
お供え物を食べたり盗んだりするとこの小地獄へ。
空腹で自分の肉を食べる。

・【身洋処】
仲間と一緒に何度もお供え物を盗んだ罪で堕ちる。
燃える葉っぱで体を削られ、鋭い嘴の鳥につつかれる。

・【閻婆叵度処(えんばはどしょ)】
環境破壊で人や動物の命を奪うと堕ちる小地獄。
おなかが空いてフラフラになったところを大きな鳥に持ち上げられて、落とされる。

・【星鬘処(せいまんしょ)】
お腹が空いて修行をあきらめ人の食べ物を盗むと堕ちる。
ひたすらグツグツ煮られたあと、刀で刺される。

・【一切苦旋処】
教科書を隠して、他人の勉強を邪魔すると堕ちる小地獄。
溶けた熱い銅を目に注ぎ込まれ、さらに指の爪を剥がされ、手足を切られる。

・【十一焔処】
仏像やお寺を燃やした罪で堕とされる。
棒を持った獄卒に追われ、毒ヘビに噛まれる。

…などなど。

こんなのが永遠ともいえる期間続いてやっと次に転生できるわけです。昔の人々が地獄を恐れ、仏様を信仰したのもよくわかります。



No.93

【地獄の釜の蓋も開く】という言葉があります。

正月の十六日と、お盆の十六日は、
旧暦の、正月十六日と、お盆の十六日は、地獄で鬼が罪人を煮るための釜の蓋を開けて休んでいる日れています。
昔は、この両日を 「十王詣」、または、「やぶ入り」と呼んで、商売をしている家では、使用人に休暇を与え仕事を休ませていたようです。

仏典によると、地獄では、いろいろな釜があり、いろいろな罪を犯した人が、それぞれの罪状でそれぞれの釜の中で長い間、煮られて苦しみを受けるようです。
昔は、悪いことをしないようにと地獄という世界を使って、戒めに用いたのではないかと思います。

お盆は新暦でするところの方が少なくて、日本国中ほとんど旧暦で執り行われますが、はて、この新暦だ、旧暦だという人間界の事情に、地獄界では…ま、当然、旧暦でのこととなるのでありましょうが、かといって正月十六日といえば新暦で。
実は地獄界、人間界の諸事情に合わせて下さっている?

昨日の法話は、ご住職さまが子供の頃に聞いたお話で、
「お盆が暑いのは地獄な釜の蓋が開くからだよ。だからお盆が終わるとまた釜の蓋が閉まるので涼しくなっていくんだよ」
というものがあったというものでありました。

その後続くお話は地獄にまつわる訓話ではなく、この今までに経験したことのない暑さがくると言われているこの夏を健康で乗り切るために努力して過ごしてください、というものでありましたが…。


なるほど、そういう考えもありますか。
ちなみにこの十六日というのはお盆の最終日であります。

そして十六日閻魔大王のお縁日、なのであります。
ご本尊が【閻魔大王】であることで有名な鎌倉の【圓應寺】さんでは一月十六日には【大般若会】が、八月十六日には【水施餓鬼会】が執り行われるとのこと、であります。

No.94

ところで。
この【地獄の釜の蓋も開く】という言葉が最近、ネット上で頻繁に見かけられるようになったといいます。 「災いが起こるぞ!」
「収拾がつかなくなる」
「混乱が起こるに違いない」といった意味合いで使う人が多いといいます。
まぁ、こうしたことわざとか慣用句というものも、使っているうちに、年代とともに変化する例は多々ありますので、正しい、正しくはないということに言及するのはやめておきます。

中には「地獄の釜の蓋が開いたような暑さだ」と暑さの度合いを表す人もいるようです。
これはお寺のご住職さまが子供の時分に聞いた話にも共通しそうですが、…ということは、釜の蓋の開いている期間が以前に比べて伸びている、ということですか?

うーん…。

No.95

その他にも〝地獄〟のつくことわざや慣用句はいくつもあり、

『板子一枚下は地獄』
『聞いて極楽見て地獄』
『地獄絵図』
『地獄で仏に会ったよう』
『地獄の一丁目』
『地獄の沙汰も金次第』

などなど。

地獄の沙汰も金次第、かぁ。

今、物価も上がり、電熱費も高く、生活することが苦しい庶民を、救うフリをして、その実はただ言葉巧みなだけの政治家さんたちは高額なお給料をもらっている。
…。

地獄の沙汰くらい、その罪状に合わせて、平等であってほしいですが。


No.96

本日は土用の丑の日。
土用の丑の日と言えば、鰻を食べることで知られています。
ここ連日、鰻コーナーが特設され、鰻が苦手だったり、土用にあまりこだわりのない人間でも、
「ああ、今年の七月三十一日が土用の丑の日か」
と知るくらいです。

また、以前にも書きましたが、鰻に限らず、土用の丑の日には「う」のつく食べ物を食べるとよいと言われているとのこと。

今年は連日の記録的な暑さのせいでしょう、丑の日の前から鰻コーナーには人が多く集まっており、それを受けて、鰻コーナーは拡張までされる始末。
まさに鰻様様、平賀源内様様、でありましょう。

ところで。
そんなスーパーの一角『土用餅』なるものを見つけました。
初めて見るものですが、かの有名な赤福餅そっくりなもの。
珍しい物好きの私と、赤福好きの夫、手に取らないはずはありません。

しかしながらこの〝土用餅〟、なにも謂れ等は描かれておりません。
さぁ、Google先生の出番です。

なんでもこの〝土用餅〟、土用の期間の行事食だといいます。
…私.生まれて初めて見ましたが?それは神仏に関わることなくいきてきていたせい?
夫も初めて見るといいます。
さもありなん、関西~北陸地方での土用の期間の行事食だといいます。

なるほどぉ。


Google先生に教えていただきましたところ、土用餅とは、土用の期間に食べる〝あんころ餅〟のことだといいます。

その昔、宮中では、夏の暑さに負けないようにガガイモの葉を煮出した汁で練ったお餅を味噌汁に入れ、土用の入りに暑気払いとして食べる習慣があったといいます。

これが江戸時代になってあんころ餅へと変わり、現在のような土用餅の風習になったと言われています。


あんころ餅はお餅を小豆の餡で包んだもので、小豆には古くから厄払いの効果があると言われていました。

また、餅は力持ちに通じることから、夏の暑さが本番となる土用の入りにあんころ餅を食べることで、暑気や厄を祓い、無病息災を願ったと言われています。





No.97

(土用餅の続き)

ところで。
お餅を小豆の餡で包む和菓子には、ぼたもちやおはぎがありますよね?

ぼたもちとあんころ餅の違いは?と思いますが、
あんころ餅はもち米のみから作られ、なおかつ完全につきあがったお餅であるのに対し、
ぼたもちはうるち米を混ぜてあったり、半殺しと言って米粒が半分程度残っているものを使っているものもあります。

あんころ餅とぼたもち(おはぎ)を、大きさや形状で区別している地域もあるようです。

なるほど、たしかに。
たしかに中のお餅は粒のないしっとりとしたお餅でしたし、大きさはぼたもちよりもだいぶ小さめの、形はまさに赤福にそっくりなものでありました。


えっ?
もう食べたのか?ですか?

もちろん!
だって今日も茹だるほどの暑さです。
縁起物の食べ物に頼ってでも、この暑さ、なんとか乗り越えねば。

えっ?
食い意地のせいでは?ですか?

…当たりです。

No.98

明日から八月。

私どもの住まうところは旧暦のお盆。
〝お盆〟があることもあったのか、〝じごくのそうべい〟繋がりから〝地獄〟について延々と書き連ねました。
まぁ、それ以前から閻魔堂巡りなどをしていたりもしましたが…。

そんなお盆。
お盆ともなりますと、仏教徒の方、あるいは代々のお墓がお寺さんにある方々はお寺さんに出向き、お墓参りをされたり、施餓鬼会に参列されたりと何かとお忙しいのでありましょう。
私どもは次男坊の家、分家ということで、先祖代々のお墓はあっても檀家ではなく。
お寺さんとの繋がりはまぁほとんど無いに等しいものであります。

だからこそ、と言っては大袈裟ではありますが、困るのが僧侶の方の呼び方、だったりするのです。

代々続く檀家さんですと、それこそ代々続くお付き合いをされてこられた間柄。
子供の頃から知っている方が僧侶になられ、その頃からの呼び名で「○○ちゃん」「○○くん」と呼ばれる様子を見ることもあります。

でも私たちは、子供の頃から通っている先祖代々のお墓があっても、お寺さんには認識されてはおらず、せいぜいお会いすることがあれば会釈してお墓参りして帰るくらい。
…まぁ、私の父方の檀那寺のご住職さまは、一目で私がどの家の筋の者かわかるくらいに覚えていて下さる本当にありがたい、そして本当に本当に稀な方なのだと思うのですが…。

檀家でもなんでも無い私にいつも変わらない笑顔で接してくださるこの父方のお寺のお坊さまを、一体なんとお呼びしていいのか、私はいつも悩むのであります。

またお寺さんを巡らせていただいている私ども、珍道中ペアは、初めて訪れるお寺さんがたくさんあります。そういった先でお話させていただく機会を持てたとき、なんとお呼びしたら良いのか…。
いつも悩んでます悩んではしどろもどろになり、「お坊さま」とお呼びしたり、「ご住職さま」とお呼びしたり。
何が正しくて失礼がないのか、いまだにわからずにいるのです。

実は私の父方の檀那寺さん、どうも庫裏だと思っていた建物が実は庫裏ではなかったようで。
しかも他に庫裏らしい建物は無く。
… だとしたら。
だとしたら〝ご住職さま〟と申し上げるのは正しくはないのだと思うのです。

「お坊さま」って、お呼びしていいもの?
というか…なんだか少し呼びづらい。
正しいならばそれで良いのですが、…正しい?


No.99

実際にお坊さまを目の前にいたしますと、どのようにお呼びすればいいか困ってしまいます。
「お坊さん」と呼ぶのもなれなれしい感じがいたします。

またお坊さんの呼び方にはいくつかの種類があり、正しい呼び方は宗派や役職によって違うといいます。

うんうん、そう、そうなんだよぁ。
だからややこしい。

No.100

…やられた。

昨日、群馬県ので局所、…とはいえ、人口の密集し、なおかつ企業や県庁所在地だったりと仕事でも人の集まる所で、しかも結構農業も盛んな群馬の大都市に今年二度目の雹が降りました。
前回も、だけれど、場所によってはかなり大粒で、それこそゴルフボール大の物で、このクラスの雹の被害は甚大です。
まさに被弾。

無数の弾丸を撃ち込まれたレベルです。

無事故で過ごしてきた車がありえないくらいボコボコに…。
しかもそれはその時まだ仕事中の息子の車。

年老いても母腐っても母。我が事よりも胸が痛い。


胸が痛いです。




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