神社仏閣珍道中・改

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2024/01/20 11:13(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。





No.3818310 (スレ作成日時)

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No.451

(続き)

お正月飾りは、お正月に『年神さま(歳神さま)」をお迎え入れるために飾ります。

年神様の「年」は稲の実りを意味するといい、年神様をもてなすことで五穀豊穣を願ったものといいます。

農業が産業の基幹だった昔の日本では、『年神さま』はとても大切な存在でした。

年神さまをもてなし、家内安全や無病息災を願うために正月飾りは生まれ、地方の風習ともあわさって現在まで伝えられてきたものです。

門松や注連飾り(しめ飾り)は年神さまを招き入れる目印であるため、外に飾り、これは子孫繁栄や長寿を願うものだといいます。

鏡餅は年神さまへのお供えとして、床の間飾りは年神さまに鎮座してもらうために飾ります。

う、…そういえば。
わが家にも床の間があるんだっけ。
子どもたちが小さい時分、目を離した際危ないと思って、封印したきりになっていた!
うーん、こ、これは来年の課題、だな。


正月飾りには稲(稲わら)のほか、松竹梅が多く使われています。

稲は年神様の象徴であり、五穀豊穣を祈願します。

松は、一年中落葉せず葉が青いことから「永遠の命」、すなわち長寿の象徴です。

また、松の名は「祀る」に通じることから縁起が良いとされています。

竹は成長が早いことから生命力の象徴、梅は厳寒でも花をつけることから、逆境に耐えて花開く人生になぞらえられ、縁起の良い花とされています。


さて。
このお正月飾り、いつ飾ったら良いのでしょう。

No.452

(続き)

お正月飾りはいつ飾ったら良いか。
…調べてみました。

『二十八日に正月の飾りつけをすると「八」が末広がりで縁起がよくおすすめです』

え。
きょ、今日ですか?

まぁ、今年はシンプルに輪飾りですがすでに用意はしてあります。
よぉ〜し!飾ろう。


また、この話にはさらに続きがあって、
『十二月二十九日は九が「苦」に通じ、〝にじゅうく〟の音が「二重苦」と同じことから一般的に十二月二十九日はお正月の準備をしてはいけないといわれています。
『苦立て』という言葉があるようです。
ただ『二九=ふく(福)』と見なし、縁起が良いと考えることもあるともいいます。

また、三十一日、大晦日もお正月の前日なので『一夜縛り』『一夜飾り』に通じるといって縁起が悪い、不吉だといわれています』

と書かれていました。

実はこれ、この大晦日に飾るのは縁起が悪いというもの、わが家ではかつて苦肉の策で元旦の朝に飾るという裏技で回避を企てたことがありました。
そうしたらな、なんと、今年購入したお正月飾りの説明書きにまさにそう書かれていました。…い、いいの?本当にありなの?
なんだか日本らしくて安心します。


なお、仏滅や友引は関係ないそうです。
たしかにこれだけ限られた中で六曜にこだわったら、飾る日が無くなってしまいます。

二十八日に飾ることが難しかったら三十日、あるいは元旦に飾れば良いようです。


とはいえ、実はお正月の準備を始める【正月事始め】は十二月十三日から始まってあります。
ですので本来そこから飾っても良いようです。

…ですが、ねぇ。
今の日本、クリスマスという大イベントがありますから。
この飾りとお正月飾りが混在するというのはさすがにどうかと思うわけで…。

故にやはりこの年の瀬の押し迫った中の限られた日の中のどこかで飾り付けることとなるのです。


ええ、飾りましたよ〜。
門柱に松を、玄関の戸には稲穂の付いた輪飾りを。

あとはお正月を待つだけ、…なはずはなく、おせち作りが待っています。

かつて息子が注文してくれた宅配のおせち、あれは本当にありがたかったなぁ。

夫はそんな気の利いた配慮のできる人間ではないので、今年もひいこらひいこら作るしかないのであります。

一度楽をすると戻るのが大変なのもまた、人間であります。
ましてや私、歩く煩悩でありますから。



No.453

【今年最後のはねたき道了祭】

群馬県みどり市にあります『光榮寺』さんの境外堂に鎮座されます【はねたき道了尊】の御縁日は二十八日。

毎月毎月この御縁日には御住職さま、副住職さまが揃ってお出ましになり、祈願法要を執り行なっておられ、檀家さんのみならず信徒の方々が集まられています。

この末席を汚すようになり通算で二十回ほどになりましょうか。
五年かけて二十回なので、その出席率はあまり高いものではありませんが、それでも顔見知りの方がだいぶ増えて、すっかり居心地の良くなってしまった私。
ただ、さすがに今までこの年の瀬の最後の御縁日にはなかなか伺うことができず、さらには初の御縁日にも、群馬県渋川市で年一回だけ御開帳される『宮田不動尊』さまの大祭に行ってしまったりとほぼ参加しなかったりと、末席を汚すことも申し訳ないような無礼者であります。

ただ。今年は大掃除もほとんど済んでいることもあり、さらには夫が出社して自宅にいない事もあって、昨夜から気持ちがウズウズしてなりません。

えーい、一年の御礼を申し上げる事は大切であろう。だから気になってウズウズしているのだし、…よし行こう!

ということで今年最後のはねたき道了尊さまの祭日の法要に参列させていただいてまいりました。

この境外堂の境内にはお不動さまもお祀りされていて、二つの御縁日の重なる有難い日ともなります。

道了尊の祈願法要に続き、お不動さまの法要も執り行われます。

昨日もいつものように祈願法要が執り行われ、座をひらいたあと。

「このあと道了さまの一年の汚れを払わせていただきますので、お時間のある方はどうぞ道了さまのお身体をお拭きになってください」


おおーっ!

今まで一度もこの一年の最後の法要に参列した事のないことをあらためて実感いたしました瞬間でありました。

御像にさわれる♡
直接御礼申し上げることができるんだ♡♡


相変わらずそんな煩悩を抱えてはいたおばさんではありましたが、道了尊さまのお身体を拭かせていただいてまいりました。


うーん♡、来てよかったあぁ。
よぉ〜しこれからは毎年、…来年の話どころか今後毎年毎年のことまで言い出す歩く煩悩おばさん。
鬼も呆れて笑うどころかどこかに行ってしまいそうです。

No.454

(続き)

ちなみに仏さまのほこりを掃うことを『御身拭い』というそうです。

さて。

このはねたき道了尊の今年最後の法要で、配られた一枚の紙がありました。何やら円グラフ、…に似た図があります。
『方位図』、と書いてあります。
算数すら危ういおばさん、円グラフというだけで何やら拒否反応が出そうですが、さらにはこの円グラフのような図には、もしかしたら中国語?というような漢字が書かれています。
ん?
一白?二黒?あれ?
これって…占い?

実は私、あまり占いを気にしない部類の人間で、まぁ、だからこそ未だかつて厄除けだのをしたことがないのでしょうし。


副住職さまの法話で、この用紙の解説がありました。
この用紙、実は裏にも印刷されており、この円グラフ様の方位図というものの書かれた面と、『九曜星早繰表』というもののある面と。

「これは…八卦、です」

…おおっ?!
まさか、こんなお若い副住職さまから〝八卦〟をお教えいただくとは思ってもいませんでした。

生まれ年を九つ…〝二黒〟〝一白〟〝九紫〟〝八白〟…〝三碧〟に振り分けて、その年の(この場合は当然来年の)運勢を占うもので。
…なるほどぉ。
九曜星早繰表にその割振りとなる生まれ年を割り振るものも書かれています。

私は…、と書いてしまうと年がバレてしまいます。

この九曜星早繰表によって得られた自分の九星をもって、来年の(あるいはその年の)運勢を占った結果を簡単に表にしたのがあの円グラフのような表。

この円グラフの真ん中に位置している〝三碧〟。
真ん中にあって全ての方角が塞がっている…ということで『八方塞がり』
…おおっ!

なるほどぉ。
八方塞がりとはここからきていたんだぁ。

その説明はあと少し続いていたのですが、この円グラフで理解できたのはそれだけ。
いろいろお話くださっていたのですが…。

八方塞がりだから『方位除』を受ける、ということもわかりました。
…ええ、ようやく。
私とて方位除とは何か、神職の方にお聞きしたりもしたんです。
でも話がちんぷんかんぷんで…。

あとは、来年運勢がいい(盛運)のは〝七赤(しちせき)〟ということと、副住職さまが七赤だということもわかりました。


それから。
それぞれの九曜星(?)になんとなんと!御真言があるということも。



  (2024年の方位図)

No.455

今年最後の日は
『大安』と『一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)』が重なる良い日となりました。


ミクルさんの片隅、おばさんがひとり呟くスレをお読みいただきありがとうございます。
支離滅裂な駄文をあたたかく見守って下さりますこと、感謝しかありません。


寒さ厳しい頃、どうぞお身体にはお気をつけて、良いお年をお迎えください。


今年一年本当にありがとうございました。

No.456

お健やかに新春をお迎えのことと存じます。

ミクルさんの片隅の奇しいおばさんのスレをあたたかく見守ってくださり大変有り難うございました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます




令和六年元旦

No.457

…年明け早々、大変な事態が起こってしまいました。

石川県が、
日本海沿いの地方が、
地震、そして津波など被害が大変深刻なことになってしまっています。

よりにもよってせっかくの年明け、元旦だというのに…辛く、そして今なお怖い思いをされてる方々がたくさんおられることに胸が痛みます。

今朝がた皆さんが幸せでありますようにと書いたばかりでありました。


今なお大きな揺れが続いており、津波警報も解除にはならない状況下、命の危険はもちろんですが、この寒い中で停電していたり、一部地域ではスマホなどもつながりにくくなっているようで、精神的な面も心配です。


祈ることしかできませんが、どうか、どうかご無事でありますよう。

No.458

昨夜遅く、本日予定されておりました皇室一般参賀の中止が発表されました。

日頃の皇室の方々のお言葉や行いから、天皇陛下及び皇室の方々はいち早くこうしたお申し出をなされておられたであろうと推察いたします。

しかしながら、この一般参賀の中止に関して、陛下のお考え一つでは決定することも叶わず、真夜中という時間になっての発表となったことと思います。


天皇陛下は、新年にあたって文書で感想を寄せ、全国で相次いだ災害のほか世界各地で起きている戦争や紛争に触れたうえで、「新しい年が、我が国と世界の人々にとって、明るい希望を持って歩んでいくことのできる年となることを祈ります」と述べておられました。

陛下は、新年にあたって文書で感想を寄せ、去年も全国で災害などが相次いだほか、物価上昇などで苦労した人が多かったとしたうえで、「困難を抱えている人々のことを案じています。その一方で、助けを必要としている人々のために、様々な活動に地道に取り組んでいる人も多いことを心強く思うとともに、そのような支援の輪が広がっていくことを願っています」と述べられました。

さらに、「世界各地で、戦争や紛争により、多数の人々の命が失われていることに心が痛みます。平和な世界を築くために、お互いの理解に努め、協力していくことの大切さを改めて感じています」と記されております。

そして、「今年も、人々がお互いを思いやりながら支え合うことを願い、新しい年が、我が国と世界の人々にとって、明るい希望を持って歩んでいくことのできる年となることを祈ります」とつづられました。


外が明るくなってきました。
余震はまだまだ続いているようで、津波警報こそ津波注意報に変わったようですが…。
一晩明け被災地の全貌が見えてくることでしょう。

輪島の火災も地震も一刻も早く収まってほしい。
祈ります。

No.459

令和六年能登半島地震と名付けられた地震災害による目を覆うような状況が報道されました。
それとて一部に過ぎません。
まだ救出を待つ方々がおられるのが現実です。
昨年の地震の記憶もまだ新しいものであったというのに。

被災地より離れた地におり、心苦しく、極めて悲しい気持ちでいっぱいです。
祈ること、せめてもの募金をすることしかできないない事をもどかしく思います。

亡くなられた方々の御冥福をお祈り申し上げると共に、ご遺族の方に心よりお悔やみを申し上げます。


このような報道を通して、地理に疎い私が訪れたことのなかった地名を知り覚えるのはあまりに切な過ぎます。



そこへまた目を疑うような大きな事故が。
亡くなられた海保の五名の方々の御冥福をお祈り申し上げます。

No.460

東日本大震災の際、仕事もあり、何より自分自身に自信がなくて、ボランティアに行くことができなかった。
そんな母親の内心の葛藤も知らず、息子は大学でメンバーを募り、深夜の道をひた走り、何度も何度も東北へと向かって行った。
我が子ながら心から感謝をした。


そんな思いを抱えておりながら、仕事を辞めたのちも介護であったりとなかなかボランティアに行けない自分が歯痒かった。

仕事を辞めた今こそ自分の持つ資格をこんな時こそ活かせよと、胸がモヤモヤもし熱くもなる。
ブランクが長くなれば使えない人材ともなろうが、そうしたら一般のボランティアとして参加させていただこう。

ただふと気づいた。
仕事を辞めた際、協会から脱退していた。
スタッフとしては参加できないことに今さらながら気づいた。

相変わらずバカなおばさんだった。

協会に電話し災害支援スタッフの研修も受けておこう。
今回の支援スタッフとしては参加できはしないが。

そして何よりも、私のような者の微力すらを必要とする事態が起きない事を心から願う。
そして祈る。


昨日まではボランティアの募集はされていなかった。
ホームページでボランティア募集を確認している。




あとは…家族の理解と協力なんだが…。

No.461

被災地では、たとえば使い捨ての哺乳瓶とか、そんなには備蓄もないのだろうな。

しかしながら個人的な救援物資の輸送はかえって交通の渋滞を招いたり、物資の輸送が速やかにならない原因の一つともなる。

やはり今の私には、確実に被災地に届けてもらえる、あるいは救援物資を購入してもらえる募金を知って、そこに募金をさせていただくことぐらいしかない。

あとは…神仏に祈ることしかできないけれど。

No.462

【貴舩神社】

元旦。
まだ日の昇る前、群馬県みどり市に鎮座される【貴舩神社】さんへ初詣をいたしました。
前年に引き続き一人での参拝。

夫は結婚して以来、大晦日の夕食前から呑み始めて、遠くの除夜の鐘を聴きながら年越しを迎え、新年の挨拶をして眠るのが慣習。
早起きさせてまで一緒にお参りするのもなにかなと、昨年家族らが起きてくる前にと貴舩さんへ一人車を走らせたのが始まりでありました。

R122を走り、その分岐である橋を渡って、わたらせ渓谷鉄道を挟んでR122と川の字を描くように連なる道を走ると突き当たりに貴舩さんがあるので、誰もが間違うことなくたどり着けるのであります…ええ、私であっても。

今年はコロナが感染症の分類が五類へと移行になった初めてのお正月・初詣。
コロナ禍となる前の貴舩さんの人出は有名で、広い臨時駐車場でありますのに、ほぼ満車状態が続いて、行きの車も帰りの車も大渋滞で、参道の階段はぎゅうぎゅうの大行列である、と聞き、人混みの嫌いな私どもはたとえご利益が薄まろうとも決してお正月の三が日の初詣は避けていたものでありました。

そんな貴舩さんの元旦の初詣。

私は道路渋滞に、そして参拝渋滞に巻き込まれるであろう事を覚悟して貴舩さんへと向かいました。


…えっ?

拍子抜けするくらい道が空いています。
去年は流れはあったものの車の行列をなして向かったものでありました。

…あれ?

駐車場はさらに少なくて、昨年の三分の一ほど。
あら、嬉しい。

それでも昨年は見られなかった露天商の出店がいくつもあります。

こちらの御祭神さまは【高龗大神】さま、【大山祇大神】さま、【大穴牟遅大神】さま。

水を司る神さまと、五穀豊穣の神さま、国土を治めお守りくださり病気平癒のご利益もある神さまがお祀りされている神社さんであります。

こちらの神社さん、鳥居の先には石段と、いくつもの鳥居が連なります。
この石段をのぼっていく参道が私は大好きです。

が。

石段の途中にドキッとするような大天狗さまの面が祀られた境内社があります。
薄暗い社殿の中に天狗さまの面が二面、いや二体、ボヤーっと浮かびます。
ビビりの私はこうした人出の多い日の参拝はともかく、平日の日一人で参拝に訪れた時などは、なかなかこちらの社殿に近づいて参拝できず、離れたところから手をあわせるくらいです。




No.463

(続き)

石段をのぼると、明るい境内、そして狛犬さまが見えてまいります。
赤と白を基調にしたお社には赤い大天狗さまの面が高いところから境内を見渡しておられます。
拝殿右側には大きな今年の干支の絵馬が飾られています。

拝殿前で昨年一年間お護りいただいた御礼を申し上げ、本年の無事を祈願申し上げました。

塵一つなく掃き清められた境内、参拝に訪れた方がゆったりとおみくじを引けるよう特設のおみくじコーナーか設けられています。
こちらは水を司る神さまのおわします神社さん、水みくじが有名です。
水に浮かべると御神託が現れる、というものです。
水に浮かべるところが少し手狭なため、そこは軽く渋滞しております。

境内の社務所にはお守りやお札、鏑矢・破魔矢、熊手などが並びます。

今年は初正月の孫がおりますので、小さな卓上でお祀りできる仕様の破魔矢をお授けいただき、それから今年方位除をする年廻りに当たるという子ども二人の絵馬のような札をお授けいただきました。

この絵馬のような、というのは以前私もお授けいただいたものなのですが、絵馬のようにぶら下げる木札で、真ん中に割り線が入っていて下げるための紐は二本付いています。
方位除にあたる人の名前と生年月日を書き、その木札を真ん中の割り線で二つに割り、一本を境内の絵馬掛けに掛け、もう一つは自宅に持ち帰るというものであります。

当人たちが共に参拝をしてもいないのに昇殿して御祈願するのも何か失礼な気もいたしますし、この持ち帰った木札を見るたび、我が子の無事を御祈願できて私にはありがたいもの、なのです。

今まで厄年も方位も全く関係ない生活を送ってまいりましたので、このくらいが身相応かとも思われますし。
今まで神さまも仏さまも敬うことなく無礼をして過ごしてきた分際が、神棚もない家に御札をお祀りするのも図々しすぎる気がいたします。

参拝の方々を拝見していると、若い人、子連れの方々も大勢おられます。
昨年の破魔矢や御札を大事そうに手に、神社を訪れるさまを拝見するに、ああ、なんと不遜でそしてもったいない時を過ごしたものだと反省いたします。

とはいえ、亡くなった義父の反対で家に祀ることのなかった神棚を今さら祀るのも敷居が高く、何よりも自分たちに何かあった時託される子どもたちのことを思うと、それもまた図々しい気がいたします。

No.464

(続き)

今年は二枚の方位除の木札を持ち帰りました。

そうした信心のない生き方、育て方をしてきてしまった身といたしましては、その年廻りに当たる子らに、ああだこうだと伝えるのも烏滸がましいので、本人たちには告げることなく、そっとこの木札を見上げてその子たち、そして他の子たちの無事を日々お祈り申し上げることといたします。


貴舩さんから戻って、今度は自転車に乗り換えて、氏神さまへと参拝いたしました。

こちらの神社さんでは元旦お焚き上げをされております。
昨年一年をお護りいただいた御礼をお焚き上げいただき、新たなる年を迎えた御礼を申し上げ、今年の無事を御祈願いたしました。

こちらの神社さんには神職の方はおられず、氏子さんや祭典委員の方が運営してくださっています。
豚汁や甘酒という神饌をお受けいたしました。
夜中にお詣りいたしますと大根やおみかんをいただけるといういかにもアットホームな感じの神社さんであります。

今年担当されておられる方はまめな…信心深い方々のようでいつ伺っても綺麗な境内であります。
ありがたいことで頭が下がります。

さあ、お雑煮を作りましょう!
…と張り切って帰宅したところ、まだ誰も起きていなかった、相変わらず寝正月な我が家でありました。



能登半島の大震災のニュースを受け氏神さまへ一刻も早く災害が鎮まり、震災に遭われた方々お守りいただきますよう御祈願に再び参拝いたしましたところ、参道の蝋梅が今まさに満開の時を迎えておりました。

良い香りに包まれながら、被災地に早く春が訪れますよう願わずにはいられませんでした。


…能登半島には大雪の予報が出ているようです。
突然の避難生活では暖をとることも思うようにはならない事かと思われます。
せめて天候ぐらい味方していただきたいと強く思うものであります。

No.465

【御神籤】

信仰心とはほど遠い生活をして過ごしてきた私は、当然ながら御神籤とも縁がありませんでした。

旅行などで友だちや同僚と神社やお寺に行くようなことがあって、その人たちが御神籤を引いても、私はそれにつられて御神籤を引くようなことは一切ありませんでした。

唯一駄菓子屋さんで売っていたおみくじは引いたことがあります。
面白がって父か叔父が買ってくれたりもしましたし。


それが近年神社仏閣を巡らせていただくようになって、御神籤を引くようになりました。

ただ…。

その御神籤も昔ながらのものではなくて、おまけがついていたり、張子の可愛らしいお人形の中に仕込まれた御神籤であったりと、そこに付加される何かがあるものに心惹かれてのこと、要はやはり煩悩であるところの物欲が絡んでいるのでありました。
やれやれであります。

可愛らしいお狐さんであったり、八咫烏さんであったり、鯛であったり、自分の生まれた干支であったり。
キャラクターの根付けの付くものもあったりいたします。

そうして持ち帰ったその張子の小さな人形はみな、並んで飾られているのであります。
ただ、もうこれ以上増やしてはいけないからと、この手の御神籤を引くのはこれでおしまいと思ってはいるのですが…。

当然ながら御神籤にも詳しくはありません。
大吉が一番良くて、大凶が悪いことくらいは分かるのですが…。

『御神籤』というくらいです、御神託を聞かせていただくものだととらえていますが、この御神籤、神社ではもちろんのことお寺さんでも引くことができます。

なんとも不思議なお姿の絵で有名であります【元三大師】さまが『おみくじ』を考案された、とされています。
不思議なお姿の絵は、平安の昔、大師が鬼の姿となり疫病神を退散させたときの姿を写し取ったもの、といわれています。

この大師さま=良源さまが書いた【元三大師御籤帳(がんさんだいしみくじちょう)】によると「吉凶の八十パーセントは〝大吉〟〝吉〟〝凶〟。
あとの二十パーセントは各自自由に設定してもよい」
と記されているためといいます。

なので、大吉よりもさらに良い〝大大吉〟や中には凶よりも悪いという〝恐〟があるのだそう。


新年早々〝凶〟だの〝恐〟だのはやはり引きたくはないものですが…。

No.466

(続き)

『大吉』が最も良い運勢なのはわかりやすいですが、『吉』や『中吉』『小吉』や『末吉』の順番はどうなのか。


…実は、おみくじの吉凶について縁起の順番に明確な正解はないといいます。社寺によっておみくじの内容は様々で、順位に関する見解も異なるからです。

社寺によって異なるものの、
>『大吉』『吉』『中吉』『小吉』『末吉』『凶』『大凶』
という順番が多いそうです。

>『大吉』『中吉』『小吉』『吉』『末吉』『凶』『大凶』
としているところもあるようです。

どうしても正確な運勢の順番を知りたい場合には、おみくじを引いた際に尋ねるしかないようですが、初詣ともなるとそこまでをご存知な方を探して尋ねることはかなり大変そうです。
そこに書かれた内容こそが大切、ということなのだと思います。

では、おみくじの吉凶の意味は?

・大吉:おみくじの中で最も運勢が良いもの。最高の運気ですが、「これから運勢が下降していく」ともいわれています。現状維持の努力が求められます。

・吉:大吉に次いで良い運勢。大吉に見られる下降の可能性が低いため、当面は安心です。

・中吉:吉の半分を表す運勢。自分の努力次第で今後の運勢が上がります。

・小吉:中吉と末吉の間とあって、可もなく不可もない運勢です。ささやかな幸せで停滞するともいわれているので、あまり多くを求めないほうが良さそうです。

・末吉:「吉」の最後の運勢であるため、吉の中では最も劣ります。ただ、末広がりの意味があるといわれ、これからに期待が持てるでしょう。

・凶:運勢は良くありません。けれど、必ずしも悪いことが起きるわけではなく、気を引き締めるための注意喚起と捉えましょう。自分の行いを見つめ直して改善すれば、運勢は上昇します。

・大凶:最悪の運勢。ですが、さらに落ちる恐れも否定できません。挽回のチャンスが来るまで、静かに待つのが良いでしょう。


…きびしい。

実に厳しい。

大吉を引いても「これから運勢が下降していく」ともいわれている?
そう言われるとなんだか良かったはずの運気があまり良くなく感じそうです。
大凶を引いて落ち込んだところへ「最悪な運勢」「さらに落ちる恐れも否定できない」とかいわれた日にはまさに最悪です。

No.467

(続き)

おみくじを引いた後は、ついつい吉凶の結果ばかりを気にしてしまいがちですが、大事なことは細かい部分に書いてあります内容。

おみくじは吉凶だけにとらわれず、指針とすることが大切で、細部の内容から対処法を学んだり、自分を見つめる材料にしたりすることこそが大切なのだ、と思うのです。

また、大吉や大凶が出るとその反対になりやすいという説は「陰陽道」的な考え方で
『陽極まれば陰生ず、陰極まれば陽生ず』
という言葉に由来し、大吉や大凶など対極にあるものはその逆方向に転じやすいということをあらわしています。
吉であっても気をつけよ、凶であっても用心して誠実に事にあたれば必ず御加護がある、といわれています。


引いたおみくじを結ぶか持ち帰るのか、持ち帰った後はどうするべきかについても、社寺によって様々な見解があります。大別すると次の2つになります。

・ おみくじには神や仏からのありがたいメッセージやパワーが秘められているので、吉凶にかかわらず記されている教訓を戒めるつもりで持ち歩き、後にお礼を込めて納める。

・良くない内容のおみくじはその場で結びつけ、さらなるご加護を願う。良いおみくじは持ち帰り、後日境内に結ぶ。

…もともとおみくじは教訓、御信託として、持ち歩くものだったといわれています。

そのため、その場で結ぶのは『凶をとどめて吉に転じるようにお願いする』場合のみという見解が多いようです。
たとえ凶であっても自分への戒めとして持って帰っても決して間違いではないのです。
最近は、おみくじを入れて持ち歩くための、おみくじ入れなるものもあるのだとか。…何事もアイデア(商法)ということで。


いずれにせよおみくじはむやみに捨ててはいけないとのことです。
持ち帰った場合も最終的には、神や仏と縁を「結ぶ」ため境内に結んだり、納札所に納めるのが基本だといいます。
それは必ずしもおみくじを引いた社寺でなくとも構わず、神社のものは神社へ、寺のものは寺に納めたほうが良いとされています。

No.468

(続き)

ちなみに。
おみくじを木々の枝に結ぶのは、木々のみなぎる生命力にあやかり、願い事がしっかり結ばれますように、という祈りを込めてのことといいます。

ただし、むやみに境内の木々に結びつけると、木々を傷めてしまいますし、景観を損なう心配もあるでしょう。『おみくじ結び所』が指定されている場合には、必ず指定された場所へ結ぶことが重要です。

寺社によってはおみくじは神さまや御仏からのお言葉であるため、結果にかかわらず持ち帰り、日々の戒めといたしましょうと書いてあるところもあったくらいですので、おみくじを引いた寺社の指示に従うこと、です。


夫はそれこそ何年も前のおみくじもいつも持ち歩くバッグに入れてあるそうです。
これはこれで、その時その時の自分に対する御神託であったのだから、古いものまで持つ必要はなく、そもそも持ち歩くにしても見直すことなく入れっぱなしでは意味が無いよう思うのですが…。

私はもっとダメで。
実は昨年末、今までに引かせていただいたおみくじを、過去のものだからと普通に捨ててしまいました。
あ〜〜っ、何故昨年のうちにこうしたことを調べなかったのか。
…以後は必ず神さま仏さまに感謝の意を込めてお納めいたします。


なお、凶のおみくじを利き手と反対の手で結ぶと、困難な行いを達成することによって凶が吉に転じる、という説があるといいます。
まぁ、この点に関しては大変不器用な私、普通にくくろうとしても大切な木の枝を傷めてしまいそうですし、簡単にスルッと落ちてしまう縛り方しかできそうにありません。

なので、今後もおみくじを引いたならば、持ち帰る選択でまいりたいと思います。

No.469

お正月に限らず、夜派の夫と、早朝どころか未明から起き出す私は元々がすれ違い。

私がすっかりお正月気分を満喫した頃、ようやく起きてくる夫と合流し、二人揃って初詣へ。
まずは総鎮守の神社さん。
そして夫の産土神社さんへ。
それから私たちそれぞれの父親の眠るお寺さんへと向かいました。

そんな夕方、あの音が鳴り響きました。
緩やかな横揺れがゆっくりといつまでも続きます。
そして次第に大きくなり。
私どものところで震度3の揺れが記録されました。

「これは大きな地震だね」

そう、想像をはるかに超えた、おそろしい震災でありました。


今、次々と明らかになる、思っていたよりもずっとずっと大きな大きな被害状況。

そこへ雪が積もる光景。

目を覆いたくなる光景ですが、紛れもなくそれを体験している方々のおられる現実であります。

そして今の私はいくばくかの寄付をすることと、祈ることぐらいしかできない。
しかしながら何も持たない私は、それが一番、被災地に向けての最善の行動。

No.470

(続き)

このお正月休み、まさに巡るという言葉通りに、いつも参拝する神社さん、群馬県内で何度も訪れている神社さんへと出向きました。


群馬県前橋市に鎮座します【産泰神社】さん。

こちらの主祭神は『木花之開耶比賣』さま。
女性をお護りくださるあたたかな気をお持ちの女神さまです。
被災地で女性があらぬ、あってはならない被害に遭うことのなきよう、子どもたちができるだけ早く過ごしやすい環境に移り、食糧でつらい思いをせずに済みますよう。
また火難除けのご利益もお持ちであられます。

そして、こちらの神社さんには摂社・末社がたくさんあり、金刀比羅宮には『大物主命』さまをお祀りしており、家内安全・運気向上のご神徳があります。

秋葉神社さんと愛宕さまのお社があり、こちらはともに火防の神さまであらせられます。
稲荷神社さんは衣食住をお護りくださるとお聞きします。

七福神さまも祀られています。



同じく前橋市に鎮座する【飯玉神社】さん。
こちらは保食神さまが主祭神であり、摂社には淡島社があり、ご祭神は『少彦名命』さまで、医療・医薬の神さまであられます。
怪我をなさった方、寒さの中体調を崩された方が少しでも早く良くなられますように。
また、こちらにも末社に秋葉神社さん、愛宕神社さんがお祀りされています。


やはり前橋市に鎮座します【二宮赤城神社】さん。
こちらは上野国の二ノ宮の〝一つ〟であります。
群馬県には赤城神社さんがそれこそ三桁を超える数ありますが、こちらはこの赤城神社さんの本宮を名乗る一社であります。
名前からすると〝二宮〟を冠しておりますくらいですので、こちらが二ノ宮とも思えたりするかと思いますが、赤城山の麓にある『三夜沢赤城神社』さんと、それから山の上に鎮座する『大洞赤城神社』さんとが、どちらも本宮であると主張されていて、この三社を以て赤城神社における本宮ということになっているのです。

こちらの主祭神は『大己貴命(オオナムチノミコト)』
『豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)』さまです。

No.471

【二宮赤城神社】

先のレスで触れましたが、上野国の二ノ宮は『赤城神社』、なのですが、ここ【二宮赤城神社】さんは関東地方を中心として全国に約三百余社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社、となります。

この二宮の赤城神社さんは赤城山麓真南に位置し、赤城山の稜線がよく見える絶好の位置に鎮座されています。

この地域は古くから開けていた場所のようで、この社の東北方には四基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測されています。

上野国二之宮という位置付けにある神社さんが三つあるというのもおかしな気がいたしますが、この三社、それなりに離れた地にあり、それぞれがそれぞれの特色を持つ神社さんで、いずれかの神社さんから分かれた、というものとは考えられず、おそらく元々別々に祀られた神社さんなのではないかと思います。

現在、赤城神社の本宮は、三夜沢赤城神社というのが主流の考え方となってきているようですが、こちらの赤城神社さんが〝二宮〟を冠していることから考えても、少なくともある時期、上野国一之宮が貫前神社、赤城神社が二之宮として定められたどこかの時期、赤城神社の本宮がこちらであったこともあったのではないのかなぁ?

ちなみに現在も続く神事に、年に二回、『御神幸』と称したものがあり、三夜沢の赤城神社へ二宮赤城神社の御神体が渡御されるといい、少なくともこの二社はそうした関係性を以て関わりあう社であるようです。

二之宮を名乗る争いというのは実際、寛政年間に、大洞赤城神社と三夜沢赤城神社東西両宮が「本宮」「総社」「正一位」などの名称使用を巡って訴訟沙汰となっているようで、その決着はつかぬまま今に至る、…というかつけないまま今の形をとっている、のだと思われます。

赤城神社という名称は『続日本後記』にすでに見られるといいますが、この赤城神社がどこにあったものか自体がわからないといいます。
つまりはそれほどに歴史があり、言い換えると何処の赤城神社さんが本宮であるか、もはやわからなかなっているくらいの時が流れているということで、この決着は永遠につかないものとなっているのです。



No.472

(続き)

この【二宮赤城神社】さんは、群馬県民から『五十号』と呼ばれ親しまれる国道五十号線から少し入った二宮町に鎮座している。
この前橋市二宮町は赤城山南面にあり、赤城信仰の上で絶好の地点にあります。
西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて、この二つは共に赤城山を水源としております。
(ちなみに。
粕川の流れる粕川町には赤城信仰の色濃い今戸神社さんがあり、こちらの神事が粕川の語源となっているくらいです)

前述の通りほど近いところに大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳や遺跡が存在し、この辺り一帯上野国の名族『上毛野氏』の本拠地と推定されています。

この後、延喜式神名帳に二之宮として赤城神社の名が記されますが、この辺りは前述した通りの事情があり、ここでは重複することもあり割愛します。

第七十代後冷泉天皇の永承四(1049)年に、日本全国の諸社の中から五十五社が選ばれ、神仏習合の勅願神社となりこちらの二宮赤城神社さんもその一社として社域内に造塔のおり心礎(根巻石)内に仏舎利(釈迦尊の骨片 現存)が奉納されたといいます。

鎌倉時代に【源頼朝】公の崇敬を受け、建久五(1194)年には守護職安達盛長に修築を命じ、その後も二宮太郎浅忠・岡部九内忠成(平家物語にも名が見える)らが修築をしたり百石を寄進したという記録も見られるといいます。

戦国時代になり小田原城主北条氏政の軍勢によって数多くの建物は打ち壊され壊滅的な被害を受け、さらに宝物類の多くも失いこの二宮赤城神社さんも微衰してしまいます。

しかしながら、天正十八(1590)年北条氏滅亡後、領主として大胡城へ入城した牧野駿河守忠成・康成父子を始め、その後厩橋(前橋)藩主となった歴代の酒井氏、江戸時代幕府の天領代官、藩主松平氏はもとより住民にも篤く尊崇され、赤城南面地域関連の神社の中心的役割を果たしてきたほど再び隆盛し、現在に至る、ようです。


No.473

(続き)

こちらの周囲には濠と土塁が巡り、こんもりとした鎮守の森には大きな杉の木が繁り、神社の古い歴史を感じます。

赤い鳥居をくぐると参道のみぎてに鐘楼にあります。
あの明治の悪令にも屈することなく、さらには太平洋戦争の供出も逃れてよくぞここに…。
何度訪れてもここで必ず足が止まり、感謝や畏敬の思いで胸が熱くなります。
今はただただ密やかにそこに鎮座しています。

元は『舞台』の側にあったといいます。
梵鐘は高さ 127センチ、直径72センチ、下半部がややふくらみ均整のとれた美しい姿です。
今、毎年四月と十二月に『三夜沢赤城神社』との間を神体が往復する【御神幸】の時だけ、この梵鐘は撞かれるといいます。

近くに寄って見ることはできませんが、銘文には『元和九暦(1623)年』とあり、寄進した伊勢崎・佐波の村名、三体の本地仏や『赤城山神宮寺』などの文字が刻まれているそうです。(境内の案内板による)

ただ…鐘楼の段をのぼり、囲いの外から寄れるところまで寄ってみても、もはやその文字などは一切見ることはできず(もはや読み取れる云々は超えてしまっています)、撞座もすり減って元の形はわからなくなってしまっていました。

それが…なんとも物悲しい。

参道の高くて深い緑の森を歩いていくと、神橋が見えてきます。
その手前には大きな灯籠が二基。
灯籠の四つの足の下には、それぞれに邪鬼がおります。
それぞれの足を持ち上げる役割をずっと果たしている邪鬼たちは、もはや悪い気はすっかり抜けて、その与えられた仕事に誇りを持っているように感じられます。…それでもやっぱり重いので顔を顰めてはおりますが。

神橋を渡ると随身門があります。


この神社さん、この随身門をくぐった辺りからさらにさらに空気が変わります。
と言ってもあくまでも明るく、訪れた人間を歓迎してくださっておられるのが伝わる、優しい、そしてなんとも清らに穏やかに澄んだ気であります。




No.474

(続き)

随身門をくぐると、みぎてに手水舎があります。
手水舎自体は古く手水鉢も古いもので直接水道が引かれており、まるで洗面台のように水道があって蛇口をひねるような手水舎です。
…なのですが、この手水舎、可愛らしい手作りの吊るし飾りが飾られており、小さな手水鉢には溢れんばかりに花が飾られた花手水となっています。
いかにも可愛らしい手水舎、手水鉢、…なのに、昭和の時代の水道の蛇口が。
それがなんとも残念な。


そして。

参道の狭さからは意外なくらい広い空間に、舞台、神楽殿、宝物庫、日枝神社さん、天満宮、茅葺き屋根の十二社等、さまざまな建物が目に入ってまいります。
しかもそれらはみな、ゆったりとした空間を保って建てられています。

さまありましょう、境内地約二万平方メートル、六千坪の広さといいます。

あちこち気になるのはやまやまですが、まずは拝殿へとお参りです。

こちらは素木のままの拝殿です。

社伝では1900年程前に創建されたとしていますが、允恭天皇の頃ではないかというのが今言われている説であるようです。
ちょうどこの地域を支配していた上毛野氏が六世紀に最盛期を迎えていて、上毛野氏の祖神である豊城入彦命を祀って創建し、後に朝廷によっり祭神を大国主命に改めたのではないかともされています。
ちなみに允恭天皇は十九代目の天皇です。

二宮赤城神社の扁額があるのですが、二宮の字だけ少しずれ大きさも少し違っているような…。
私の気のせいかもしれませんが。

No.475

(続き)

拝殿前での参拝を終え、本殿の裏での参拝をいたします。
本殿は覆屋につつまれています。

見上げてその全貌が見渡せるほどの本殿!
拝殿前とは打って変わって凛とした、そして堂々と威厳ある本殿であります。

圧倒されしばし時が止まり、その場に立ち尽くす私。

なんと凄いお力でありましょう!

拝殿前とは打って変わった大きな力強い気を感じます。


本殿の向かって左側には『赤城塔』と呼ばれる宝塔がありました。
南北朝時代に造られたと推定され、全体に漆の塗られた跡が残っているといいます。
…ええ、もちろん、そんな漆の跡などかけらも見いだせなかった私であります。

拝殿・本殿右側には石製の小さなお社がたくさん並んでおります。
ただ一つだけ鳥居を設け、祀られたお社がありました。
秋葉さまでありました。

石のお社は近年に並べたものでしょうか、均等に並んで祀られており、それが実に清々しいのです。
三十を超える数の石の社の列です。

後に宮司さまにお話を伺うことができ、なんでもこの辺りにあった神社さんや、道端に祀られた小さなお社を、統廃合ということで全てこちらに集められお祀りされたものが含まれているとのことでありました。

拝殿の横に日枝神社さんのお社があり、その横に案内板があって、その奥手にはかつてあったという鎌倉時代の舎利孔をもつ塔身の礎があるのだといいます。

そして宝物庫。県の重文指定の『納曽利面』という竜の面といわれる能楽面がここに収められているようです。
なんでもこの面、外に出すと雨が降るといわれているとのこと。
裏の朱書から享徳元(1615)年に造られたものであることがわかっています。

雨が降って欲しい時には出す、…ならば止んでほしい時には?

どこまでの範囲でその力が及ぶものかはわかりませんが、ならば今、彼の地の雪を鎮めてほしいものです。

No.476

(続き)

本殿をお参りして、再び境内の広い場に戻ったところ、その真ん中辺りで宮司さまがお焚き上げの準備、なのか、直径十センチには満たない木をノコギリで切っておられました。

こちらの神社について伺える滅多ないチャンスです!

たくさんの小さな石のお社が並ぶ端に、一体石仏さまと思しき像が祀られておりましたので、その像がどなたであるのかと、そのすぐそばの社殿は何さまが祀られておられるのかをお聞きしたくて、小走り、…になりそうなのをこらえて、宮司さまのもとへ。

すると、「かなり以前になりますが、この辺りにあった神社さんを統廃合したりして、この境内に移築したり、あらためてお祀りしたものがあって、わからなくなってしまっているものが多いのです。
その像もわからなくなってしまったものの一つなのです」
と。
拝殿横の社は日枝神社さんとのこと。

茅葺き屋根の社殿もやはりここに移築してきたものなのだそうで、
「中には何も祀られてはおらず、物置きのように使っている建物なのですが、茅葺きが珍しいということでここに保存しているのです。
もともとはこの辺りにあった十二天社といい、仏教における十二天を祀っていた場所だったのですが…」
…ああ、あの悪令のせいか。
十二天さまは何処に。
それは伝えられていないとのことでありました。
きーっ!


こちらには、太々神楽・雅楽・式三番叟が伝えられ、演じられ奉納されています。
この式三番叟、というのは、農村歌舞伎・地芝居・神楽が融合したものなのだそうで、神社の古式神事と結びつく貴重なものであり、市の重要無形民俗文化財に指定されているとのことです。
今なお伝承されているものなので、いつか拝見できたら、と思っております。


No.477

(続き)

もう一つ、ぜひいつか拝見したいと思い続けて果たせずにおりますのが、先にも述べました『御神幸』という伝統行事。

毎年四月、十二月の上旬の初辰日に行われているというこの御神幸は、ここ二宮赤城神社さんと三夜沢赤城神社さんの間を御神体が往復する行事のことであります。

御神体(神輿)は、神鉾・神衣(かむみそ)といい、娘神である二宮が、父神である三夜沢赤城神社へ衣替えのため渡御するという伝承で、古くは『神衣祭(かむみそさい)』と呼ばれていたのだといい、現在は『御神幸』または『オノボリ』と呼ばれているといいます。

当日、氏子総代が集まり祭典を行い道中の無事を祈り出発し、拝殿から神輿を三夜沢までの十二キロの道のりを徒歩で担ぐ…ものであったのですが…。
現在は車を使用しているのだそう。

えっ?!
いつから?
最近のこと?
憧れだったのになあ、御神輿が山道を練り歩くさま…。
まぁ、山道ですし、距離も距離ですし。
…コロナ禍も一因していたりしたのだろうか。
だとしたら余計に憎いコロナであります。

その徒歩での御神幸の際は、途中、『大胡神社(旧近戸神社)』と柏倉町の『お輿懸(阿久沢家)』のニ箇所で休憩し、接待を受けていたもののようですが。
車だとあっという間のこと。
行事的に立ち寄るくらいは残されているのかしら。

この神事は、山宮と里宮の関係を示す行事で、古代の信仰を考える上で重要である行事であるといわれます。

このことから三夜沢の赤城神社さんが本宮説が重視されるようになっているのでは?

でも、私はここが二宮を名乗るのにはやはりそれなりの理由があってのことだと思うのですよ。

上野国二之宮を名乗る三社のうち、控えめな立ち位置なのがここ二宮赤城神社さんなよう、感じられます。
〝二宮〟を冠しているというのに。

三社の、どの赤城神社さんもみんな違っていてそれぞれが素晴らしいのです。
三社とも二之宮説で、私は良いかと思うのです。

よく通る道、五十号から少し入ったところにあります、ここ二宮赤城神社さん。
またゆっくりお参りさせていただきたいです。

そう、舞の奉納の時や、御神幸の時とか。
桜の花のころとかにも。





No.479

【薬師神社】

埼玉県川越市といえば、小江戸と呼ばれ蔵造りの街並みを代表するシンボルとなっている【時の鐘】が有名です。
…などと私が今さら言うこともないほどの多くの観光客で賑わっている街ですが。

その時の鐘の奥にこぢんまりと鎮座している神社さんを見つけました。

えっ?
こちらの神社さんも有名ですか?

まぁ、迂闊な私でも目に入ったくらいですし、多くの人が引っ切りなしに訪れては手を合わせておられましたし、有名な観光地であります、ガイドブックなどにも掲載されているのかもしれません。


実は私、今までずっと川越は未踏の地だったのです。

子どもたちが小さな頃にはお菓子横丁などを含めて行きたい、行きたいと騒いでいたのですが、夫があれこれ言っては実現に至らず。子どもたちが巣立ったら、もう、人混みの嫌いなおばさんですので、川越の〝か〟の字も口にすることがなくなってしまい、今に至っておりました。

「川越に行こうよ」
「ええ?テレビで見てもあんなに混んでるじゃない。そしてテレビでするとまた人が行くし」

そんな会話を二人で何度も繰り返してていたのですが、ある時息子が誘ってくれまして、ようやく川越入りを果たせた次第でありました。


閑話休題。


神社仏閣巡りが目的、なので、特に時の鐘を目指していたわけでもなく、まさに偶然みかけた神社さんであったというわけであります。






No.480

(続き)

川越市の【薬師神社】さんは元は薬師堂であり、元町市場の市神として常陸国から元和年間に勧請されたものがはじまりであるといいます。

その後、市場内が手狭となったために元和九(1623)年、城主酒井備後守が薬師堂を現在地へ遷座し、『瑞光山医王院常蓮寺』と称する天台宗の寺になったといいます。

神仏分離により常蓮寺は廃寺となり、薬師堂は薬師神社と改称し無格社となりました。

御祭神は大己貴命・少彦名命である。
御内陣には往時の本地仏として薬師如来像、脇士として日光菩薩像・月光菩薩像を安置しているといいます。

この像は『風土記稿』に「長二尺、行基菩薩の作なり」とあるといいます。
ほかに十二神将像・聖徳太子像・青面金剛像があったのだといいます。

明治二十六(1893)年に起きた川越大火で、時の鐘と共に焼失。その際かろうじて薬師如来さまの像のみ運びだされたものの、その他一切焼失したといいます。
現在の社殿は翌年の明治二十七年 (1894)年に、時の鐘と共に再建されたものといいます。

ちなみに観光名所になっている『時の鐘』は、元は川越藩主により常蓮寺(現・薬師神社)の山門として建立されたものだといいます。

地元では時の鐘を『鐘撞堂』と呼ぶ方もいらっしゃるようで、その呼び名からも寺院時代を思わせます。

火災後の再建の時は、地元の川越商人を始めとする市民の方々が主導して募金を募り、川越に縁のある政治家や実業家、さらには明治天皇の下賜金など、多額の援助金が集まったため、翌年に再建できたというエピソードがあり、川越市民にとっていかに大切な存在だったかが窺えます。

こちらは現在は【川越氷川神社】の兼務社となっているため、例大祭の日は『川越氷川神社』の神職さんが来て執り行われるとのことです。

薬師神社さんだけに病気平癒のご利益があり、特に眼病に霊験あらたかとされているため【め】の字が2つ向き合って並んだ「むかいめ」の絵馬が奉納されていました。

この絵馬は、境内にほぼ隣接している和菓子屋さんで購入するのだということです。

No.481

(続き)

川越という街がいかに魅力的なものであるかテレビなどではよく取り扱われておりましたが、私にとって〝子どもたちが小さな頃一緒に行きたかったところ〟でしかないまま、もはや旬が過ぎてしまっていたので、行きたいところは神社仏閣ばかりが頭にあり、それ以外にはもはや目も気持ちもいかなくなっておりました。

それがいかにもったいなかったか、今回川越に行かせていただいてあらためて思った次第です。

【時の鐘】にしても、〝川越のシンボル〟とだけインプットされていたため、実はそれが鐘楼門であったことなど、行かなければ知りもしなかったことでありました。

江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきた鐘楼であった『時の鐘』は、今から約四百年前、当時の川越藩主だった酒井忠勝公によって創建されたといいます。

度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失し度々建て替えられたといい、現在建っているのは四代目に当たり、明治二十六(1893)年に起きた川越大火の次ぐ年に再建されたもの。
町の三分の一が焼失した中で、暮らしに欠かせない『時』を告げる大切なものとして、自らの店も再建していない川越の商人達によって、いち早く建て直されたといいます。

かつては鐘つき守りという人間がいたという『時の鐘』は今では機械仕掛けへと変化しております。
その響きの良い音色は平成八年、環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に認定されています。
木造で三層のやぐらで、高さは約十六メートル。
午前六時・正午・午後三時・午後六時の一日四回鳴るといいます。

そういった情緒のかけらもない夫婦二人はさっさと次の場所に向かって歩き出してしまいましたが、誘ってくれた息子はこの鐘の音を聞きたかったのではないかと、今ごろになって反省しております。
あとほんの数十分、この辺りのお店を冷やかして歩いていればこの音を聞けたタイミングであったというのに…。
まぁ、それはまたの機会に、ということで。

自動的に鳴る機械化がなされる前は、この鐘撞堂まで登ることができたといいます。
…そうした頃ならきっともっと関心を持って『時の鐘』を見ようと思ったのでしょうが、ね。
まぁ、時の流れ、いた仕方ないことで。…〝時の鐘〟だけに。

No.482

ニュース【大分元町石仏の劣化防止へ和紙貼り付け】

大分県大分市元町の磨崖仏「大分元町石仏」(国指定史跡)の劣化を防ごうと、市教委がユニークな対策に取り組んでいる。石仏本体に和紙を貼り付けて原因物質を吸い取る独自の手法で、国内外の研究者が注目している。昨年11月、より効果的な保存処理を探る実地試験が始まった。
市教委文化財課によると、劣化の主な原因は、石仏が吸い上げた地下水に含まれる塩類(硫酸ナトリウム)。塩類は体表で結晶化。その衝撃が積み重なり、石仏が崩れていく。
地下水は過去の対策工事で遮断したが、石仏内部に塩類がたまっている。同課は2014年度、和紙による処理を本格的に始めた。
 和紙の効果が分かったのは「偶然」という。もともとは傷んだ箇所を補強する目的で貼り付けたが、表面に結晶ができているのを発見。同課に協力する奈良文化財研究所の研究者らが調査し、「脱塩」効果を確認した。
同課の手法に海外からも関心が寄せられている。13年はバングラデシュ、昨年はドイツの研究者が石仏を訪れ、和紙を含めた対策事業を学んだ。
同課は和紙の活用を当面続ける予定。一方、処理を施す間隔は検討中だ。保存継承の機運を高めるため、「何も貼っていない本来の姿を見てもらうことも大切」。頻繁な張り替えは石仏を傷める危険もある。
近年は年1回、2カ月ほど貼り付けてきたが、21~22年は休止。昨年10~12月、3年ぶりに実施した。今後、結晶の付着量などを調べ、適切な間隔を考える。
同課の河野史郎参事補は「塩類対策は今後の保存整備の第一歩。より良い方法を探りたい」。
奈良文化財研究所埋蔵文化財センター保存修復科学研究室の脇谷草一郎室長は「各国の遺跡などが塩類の被害を受けている。研究の意義は大きい」と話す。


<メモ>
大分の摩崖仏は、大分市の市街地にほど近い上野台地東側に位置。平安後期の作とされる。中央の薬師如来坐像(台座含む高さ3・84メートル)は定朝様式の流れをくみ、切れ長の目や優しい顔立ちが特徴。古くから両腕を欠損し、腹部などが大きくはがれ落ちている。近年は肩や膝の劣化が目立つ。市教委は1971年以降、継続的に保存整備を実施。86~95年は排水ボーリングやトンネルなどを設け、地下水を遮断した。

(大分合同新聞より、一部略)

No.483

(薬師神社さんの続き)

境内の中の様子を書いていなかったことに気づいて、どうしようかと思っても見たのですが、やはり書いて残しておきましょう。

時の鐘の前に立つと、お社が見えるくらいの大きさの小さな境内です。
しかしながらそこを訪れる参拝者は途切れることが無いくらいの盛況ぶりです。
時の鐘の下をくぐって、境内に入ると短い参道の右側にはきちんとした手水舎があり、手水鉢には清らな水がたたえられていました。
その手水舎の並びには石碑の金比羅さまなどが祀られていました。

まずは拝殿へ。

この拝殿がわたしの心を鷲掴みにしたくらいに、懐かしさを憶える建物なのでありました。

瓦葺きの屋根、全面に細かな格子がはめられた正面、その前に濡れ縁。
日本昔ばなしに出てきそうな建物なのです(あくまでも私のイメージです)。

境内もそう広くは無いですし、何しろ大きな時の鐘のすぐ後ろといった立地条件です、本来なら薄暗くなりがちなはずなのに、明るくて、心がうきうき浮き立つような明るい気に満ちています。

またすぐ隣に隣接して摂社もあり、石の鳥居ともう一つ赤い鳥居があり、敷石もされています。
コンパクトながらこうしてこだわった造りをされたのを見るに、ここを再建した方々がこちらの神社さんをいかに大切に思っておられるかが痛いほど伝わってまいります。
川越の大火と呼ばれる火災でご本尊で御神体の薬師如来さまの御像以外全て焼失して、わずか一年後にこれだけ立派なものが再建されたということだけで本当に凄いことなのに、決して妥協した造りにはしなかった心意気が本当に本当にありがたい。

それにしても以前の時の鐘の鐘楼がどれだけの高さであったかはわからないのですが、ひしめき合うように建つ商店街の中にある十六メートルの高さの塔が焼け、梵鐘までも焼き尽くしたというのです、どれだけ怖かったことでありましょう。
今の塔の高さから想像するに、あの高さから梵鐘が落ちているのです、火災は本当に恐ろしいものです。

焼失前のこちらには十二神将像・聖徳太子像・青面金剛像が祀られていたといいますので、社殿はもう少し大きなものであったことが想像されます。

境内には青面金剛と刻まれた石碑もありました。




…人の力、立ち直る力はこれほどにも大きなものだと、川越の町が教えてくれています。

…祈ります。

No.484

【成田山川越別院】

川越の「お不動さま」の名で親しまれている、【成田山 川越別院 本行院】さんへ参拝いたしました。

こちらは、江戸時代の末に開創されました。
千葉県成田市の【成田山新勝寺】を本山に持ち、その本山から初めて別院になったものであります。


こちらの開山は照温師さまという方です。
照温師さまはある時、両目を失明し、命を絶とうと何度も自殺をしようとされたほど絶望にくれていました。

しかし何度も死のうとしても生き残り、これは天がまだ自分を見捨てていないのではないかと思うようになります。
照温師さまは『成田山新勝寺』で苦しい修行を続け、遂には失明した両目が見えるようになったといいます。

照温師さまは不動明王の御慈悲に心から感謝し、一生を仏道に捧げる覚悟を誓い、川越通町の八幡神社の境内に不動堂を建て、『成田山新勝寺』の不動明王さまのご分霊を安置しました。

その後嘉永六(1853)年に、当時廃寺になっていた久保町本行院を再興し、明治九(1876)年に『成田山新勝寺』さんの末寺となり、翌十年に管理一切を成田山に移し、【成田山川越別院本行院】として現在に至る、というのがこちらの御由緒でありました。


こちらの山門は思いのほか小さく感じられ、すぐそばに立つ寺号標を確認したほどでありました。

山門を入ると御本堂が真正面にそびえ立っています。

普段ですとまずは御本堂へお参りをしてから境内を巡らせていただくのですが。
山門をくぐってすぐみぎてに大きな金色の五鈷杵が置かれているのが目に入ってまいりました。

こちらは成田山新勝寺さんの分院、真言宗智山派のお寺さんですので、弘法大師さまの五鈷杵にまつわるものでありましょう。
思わずそちらに引き寄せられます。

こちらは平成二十七年に奉納された【大師堂】ということでありました。
御堂には成田山新勝寺より勧請した宗祖『弘法大師』さま・『興教大師』さま・『理源大師』さま、
三大師御尊像がお祀りされていました。

大きな声では申せませんが、こちらの弘法大師さま、ハッと息を呑むくらいイケメンでありまして、しばし目が釘づけとなったおばさんがここに…。

この大師堂は、こちらの開創百六十年記念事業の一環として建てられたといい、この大師堂を囲む形で四国八十八ヶ所霊場お砂踏み、この霊場入口にあるのがあの大五鈷杵でありました。

No.485

(続き)

五鈷杵に両の手を添えて、弘法大師さまに御礼を申し上げて、四国八十八霊場のお砂踏みをし、ふと横を見ますと、こちらの大師堂が建つ前からおられたでありましょう行脚姿の弘法大師さまの御像が、お砂踏みの場の横、塀との隙間にひっそりと立たれておられました。

なんともそれが切なくて、行脚されるお姿のお大師さまに手を合わせ…その場を去りました。

さあ、あとはもう脇目を振らず、御本堂へお詣り…あ、大きなお不動さまの石像だ♡
…やっぱりしっかりと脇目を振っておりますおばさんでありました。

さあ、手水舎で身を清めましょう。これで(きっと)脇目も振らず御本堂へと向かえましょう。
手水鉢は花手水、お正月の装いがなされていました。

コロナ禍で感染対策の一環として封鎖した手水鉢を、きれいな形で活用したことであちこちでこの花手水が見られるようになりました。
コロナの扱いが感染症の五類扱いとなってからも、その花手水の習慣は無くなることなく。
その美しさに心奪われはするものの…本来の目的は?と思わずにはいられないおばさんであります。


ゆるやかで昇りやすい、広くて長い階段を登って御本堂。

御本堂の前でもお参りを済ますことはできますが、こちらは御本堂へと入ることができます。
土足のまま御本堂へと入らせていただきお線香をあげることもできます。
御内陣も参拝した全ての者からよく見えるようにされており、ご本尊の不動明王さまを直接拝することができます。
大きなお寺さんでありますのに、まことにありがたいことでございます。

ご本尊のおられる御内陣は外陣もありますので、さほどおそばに寄れるわけではありませんが、四明王さまにはすぐそばまで寄って拝することができるのがなんともありがたい。

ご本尊さまにお参りをいたしますと、ひだりてに木像の御仏の坐像が見えます。

あ、守り本尊さまだ!
八体の生まれ年ごとの守り本尊さまが奉安されています。
美しい木像がさらに美しくやわらかな光でライトアップされています。
そして、この八体の御守り本尊さまに向けた梵字と守り本尊さまの御尊名の入った立派な願い札が置かれておりました。
その願い札に願いごとを書き、守り本尊さまの前に直接願い札をおさめるようになっており、それぞれの御仏の前に願い札が置かれていました。

No.486

(続き)

この八体の御仏の像の御前を歩いてまいりますと、細い通路があって、その先にあった息を呑むようなまばゆく煌びやかな空間が広がる間となります。
成田山川越別院さんが開創されてから百五十周年の平成十五(2003)年を記念として建てられた【内仏殿】【大日堂】でありました。
併せて【密厳殿】と呼ぶようです。

息を呑むような、と書きましたが本当に息を呑みました。
まさに煌びやかでまばゆい空間であります。
広い壁面には淡い色調で描かれた、とはいえそれはかえって神々しい、鳳凰が悠々と舞うように翔ぶさまが描かれています。
その下段には蓮の葉が描かれていて、それぞれが光で照らされているのです。
もしかしたら裏面から?
そう思われたほど全てが平等に照らされています。

はああぁぁぁ。

気を取りなおすまでに時間を要したくらいです。

そして大日如来さまの梵字を中心に、『胎蔵界曼荼羅』と『金剛界曼荼羅』がやはり壁に描かれており、こちらも淡い光で浮かび出されていました。

その対面の壁はと見ますと。


仕切りがあって。

正面の壁の中央に、大日如来さまの木像が祀られて。
その周囲をお護りするようにたくさんの、実にたくさんの不動明王の木像が祀られているではないですか。


圧巻です。

大日如来さまを中心に信徒の方から奉納された木彫りの不動明王さまが五百体お祀りされているといいます。
さらに左右の壁面に金色のプレートの不動明王さまが五百体、銀色のプレートの不動明王さまが五百体ずつ納められているといいます。


もう貧乏人の私には眩しすぎる間でありまして、この内仏殿、仕切りの中は撮影禁止ということで、言い換えると鳳凰の描かれた壁や曼荼羅の壁は撮影してもうよかったのですが、もうそんな気すら起きない、神々しい間でありました。

大日堂にも大日如来さまが祀られており、こちらの壁にはやはりまばゆく煌めくクリスタルが祀られていて、なんとこのクリスタル、お位牌なのだそうです。

貧乏人の私は近寄ることも憚られ、何がお祀りされているのか見ることもできずにおりましたので、あとで帰ってから調べてみたところ、永代供養をなされたお位牌だとのことでした。

こ、こうした形の永代供養もありましたか。

眩すぎて私はここに供養されたりしたら、ここには近寄ることもできず浮遊霊になりそうです。








No.487

(続き)

こちらの御本堂に赤い経本が一部置かれておりました。
受付で二千円で購入できると添え書きが貼られております。
ぱらぱらと開かせていただくと、『九条錫杖経』や『聖不動経』、そして諸仏の御真言が記されており、私が持つ経本にはないものが記されています。

お授けいただこう!
赤い経本を手から離すとき、強く思った私。…まぁ、単なる物欲に過ぎないのですが、ね。

密厳殿を出た瞬間、「受付ってどこだろう」と唐突に口にする妻、そして母。
まぁ、そんなことは日常茶飯事、すっかり慣れきっている夫と息子です。
「あっちにそう書いてあったと思うけど」という息子の言葉を聞いたと同時に小走りにそちらに向かうのも見慣れた後ろ姿でありましょう。

そそっとついてきてくれる息子。
ゆっくりと、ついてくるでもなくあちこちを眺めながら同じ方向に歩いてくる夫。
それも又いつものことであります。


受付を発見して、御本堂にあった赤い経本をお授けいただきたい旨伝えるのですが、何故かまるで伝わらない。

これを求める方がそれほど少ないということ?
それとも私の説明が拙くて伝わらない?

僧形の方がそっと近寄ってきて、受付の方にそっと耳打ちをしてくださいました。
「あ、わかりました」と、奥に向かって歩いていかれました。

と、同時にそばについてきてくれていた息子が私のそばを離れました。
いつもとっぴな行動ばかりの母でごめんね。


…そのあと。
先ほどの受け付けて下さった方がなかなかお戻りにならない。先ほどの僧形の方がその方が向かった方へと向かいます。

先ほどの受け付けした方が晴れやかなお顔でお戻りになりました。
「これでいいです?」
「あ、はい♡」
赤い経本の入った袋を胸に抱いて、息子のそばに行きました。

「ありがとう、買えたよ」

まあ、無言です。
特に返す言葉も無いですよね。
ほんと、とっぴな行動の多い母であります。


そのあと御朱印をお授けいただきました。
通常のものと、弘法大師さまの生誕1250年記念の御朱印を。

お正月だったらいろいろなことが到底、こうはいかなかったことでしょう。

それでも、人混みが苦手な珍道中ペアには十分過ぎる人混みでありましたが。


No.488

(続き)

それにしても。
こちらの授与所の大きいこと!
御守りの種類の多いこと、多いこと!

例えがあまり良くはないかもなのですが、市場のように広い通路の左右両サイドに、平台に並べて置かれた御守りがまさにずらり。
それも、どこでも求められるようにと同じ御守りをブロックに分けて、繰り返して並べてあるとかではなくて、平台の全てに異なった種類の御守りが置かれています。

うわあぁ。

少しだけ見てはみたものの、あまりの多さに頭が回らなくなってしまったおばさん、一体もお受けすることなくそちらをあとにしました。
まぁ、もともとほとんど回ってはいないのですけれど 笑。

さあ、境内にある通り過ぎてきたお堂をお詣りさせていただきましょう。


鐘楼の横、高台から石造りの大きな不動明王さまが境内を見下ろしておられます。
鐘楼の横に御堂が三つほどあるようです。
すぐお隣の御堂は…?
…中に入れるようです。
これにはびっくりいたしました。
御堂ってそのほとんどがその戸が閉ざされたままで、覗いてみてもどなたがお祀りされておられるか分からないくらいですのに、その戸が開けられているのみならず、中に入っても差し支えないというのです。

もちろん上がらせていただきます。

ん?
御仏さまの御像ではありません。
坐像の、人の姿をなされた御像です。
えっこのお方は?…『開山堂』とあります、照温さまでありました。
まるで…まるで御賓頭盧さまのように周りを一周できるようです。

そして、な、なんと!
絵馬まで奉納されているではないですか!
その絵馬の絵は、先ほど薬師神社さんで拝見したばかりの『むかいめ』の図柄であります。

…ああ、こちらの開山さまはかつて両眼を失明されておられたものが、成田山新勝寺さんで厳しい修行をなされたところ、両の目に再び光が戻ったのでしたね。
たしかにあやかりたいものです。


…しかしながら。
厳しい修行あってのこと、です。
苦しい修行まであやかってしまうとそれはそれで大変ですが。


貼らせていただいた画像は、こちらでお授けいただいた御朱印です。
目のところがくり抜かれていてまるでお面のようになっています。
さすがにこれをお授けいただいてお面のようにして目のところから覗いてみる方はおられな…いんじゃないかな。どうかな?

私はしませんでした。…本当です。

No.489

尊いのは頭ではなく手ではなく、足の裏である。

一生人に知られず、一生きたない処と接し、黙々として、その務めを果たしてゆく。

足の裏的な仕事をし、足の裏的な人間になれ。

頭から光が出る。額から光が出る。まだまだいかん。足の裏から光が出る。

そのような方こそ、本当に偉い人である。

        (坂村真民)

No.490

雪の予報などまるで無かった地域なのに、雪はどんどん降り積もって、しかも横なぐり。
音は完璧に吹雪です。

群馬県各地で今日はそんな雪の便りを聞きます。
などというと言葉は綺麗ですが、私の住むあたりなどは雪に不慣れな地域ですので、五センチ積もれば結構なダメージです。

このスレによく出てくるR122では朝九時台には除雪車が出動したようです。

除雪車が稼働しているのを見たことがないと言えば、その、雪に不慣れなレベルが伝わるでしょうか。


No.491

(続き)

あれほどまでに大騒ぎをしてようやく手に入れたあの赤い経本。

帰っていそいそと経本を開いて。

…。

唖然。
…呆然。

そして…未熟者の私はやはり少しだけ立腹いたしました。


この経本の一番はじめに『九條錫杖(経)』というお経が記載されており、それがあったから、
「ぜひこの経本が欲しい」と買い求めたわけでありまして。

真言宗のお護摩のときや大般若祈願のときに、よく読まれるお経なのですが、清めの効果があるといい、…煩悩の塊の私はどうしても穢れ多き身、少しでも清められるならばと、常々お唱えしたいと思っておりましたものなのです。


これが。

これが、ですね。


驚いてください。


突然唐突に 【後略】 と書かれているのですよ。

お経の〝後略〟など、ど素人の私には理解できない。
素人がお唱えしてはいけないとか、何か大きな決まりごとでもあるというのでありましょうか。


一体どんな理由で〝後略〟と、お経が断ち切られているというのでしょう。

正直申しましてもやもやが止まらないのです。
…問い合わせる?
それは川越別院さん?
それとも真言宗智山派さん?


ネットで調べれば続きはわかります。
でも略された意味までは分からない。
略したところまで読めば良いのか。
最後まで読まないと清めの意味がなかったりはしないのか否か。

とはいえ、いくらエックスキューズミーおばさんでも、そんなことをうまく質問できるかどうか。
口下手な上、日本語もおぼつかないおばさんですから。


うーん。

No.492

【星野山 無量寿寺 喜多院】

※この『星野山(せいやさん) 無量寿寺 喜多院』 という書き方、…一般的には 『〇〇山〇〇院〇〇寺』と称されることがほとんどなので、これが正しいものかどうか、喜多院さんのHPを確認したりもしてみたのですが、網やざるよりも荒い私の目ではそれを見出すことができず、Wikipediaに正式名称とありますものをそのまま引用いたします。

今後再拝させていただきました折りにお聞きして確認させていただきたいと思います。


〜*****〜*****〜*****〜


川越成田山・本行院さんの次に参拝させていただきましたのは、厄除けで有名な【喜多院】さん。
関東圏の初詣の参拝客数でランキングに入るようなお寺さんのようです。
…当然のことながら、そのような日には到底参拝できない二人であります。今回は息子と一緒、ではありますが、両親のそういったところは察してのお誘いでありますので、そのような日は避けての参拝であります。

どうやら息子は下調べをしてあるようで(…まぁ、当然私どもを案内するため訪れたわけではありません。一度訪れている寺院を案内してくれているという意味です)、
「ここを行くとすぐだよ」とスタスタと先導してくれました。

たしかに。
山門も通ることなく、まるで同じ寺院の分院であるかのように隣接しておりました。

「でもねぇ、ここまで来てあまりにも混んでいるんで、ここはここまでで実はお詣りはできてはいないんだ」

えっ?
そ、そんなに?

しかしながら息子が訪れたのは彼が免許を取って一年間くらいの、自分の手であちこち行ける楽しみ、運転の楽しさを味わった、コロナ禍以前のこと。
でもなぁ、それは決して初詣の頃ではなかったと記憶しているのだけれどなぁ。

うーん。

…あまり混んでいたらやめておく?

しかし息子はそんな母の心の動きには気づくことなく、さっさと道を進んでいきます。

…行くか。

No.493

…そうだ、ちょうどこんな時だった。
一人で過ごせる唯一の時間、少し早めの朝にテレビをつけて、目を疑い、息をのんだニュースが流れたのは。

今日一月十七日は「阪神淡路大震災」の起こった日。あれから二十九年経つ。
そう娘が生後三ヶ月の時だった。


平成七(1995)年一月十七日午前五時四十六分に発生。
近畿圏の広域が大きな被害を受け、犠牲者は6434人に達した。


当時戦後に発生した地震災害としては最大で、この災害を教訓として「DMAT」や「災害用伝言ダイヤル」などが生まれました。

ご冥福をお祈りいたします。


No.494

【喜多院さんの続き】

山門をくぐることなく境内に入って、目についたのは…『国指定重要文化財 川越大師 開運厄除 喜多院』と白地に黒字で大きく文字の書かれたブリキ板で作られた(←私の主観)四角柱の大きな看板(…看柱?)
それがおそらく境内のほぼ中央にあります。


う、うーん。
…そ、そうだったか。

実は夫、『〇〇大師』と銘打った寺院であまり良い印象を抱いていないようなのであります。

私はそのような先入観を抱いてはおらず、そもそもがこちらに今日伺うことも知らなかったし、こちらが『川越大師』と呼ばれていることも知らなかったこと。
…ですがこの境内中央にも思われる位置にあったこの大きな看板(柱)に、一気に意気消沈したのは隠しようのない事実であります。

まぁ、とりあえず。
その看板(柱)のことは私の中ですぐさま封印して、御本堂を見上げました。

大きな大きな建物です。
その建物と同じ幅の広い、しかしながらさほど段数のない階段があります。
大きな大きな屋根はカーブを描いた美しいもので、五色の垂れ幕が御本堂前面を飾っていました。

こちらは正式には【慈恵堂】、喜多院の御本堂として使われます。
大師堂として親しまれ、『潮音殿』とも呼ばれるといいます。
たしかに。
この御堂には『潮音殿』と書かれた額が掲げられていました。
(これについて、こちらのH Pに七不思議として書かれておりましたので、後であげていきます)

何故か吸い込まれるような感覚で御堂へと入った私。
本当にこの感覚はなぜなのか、いま思い返すと不思議でしかありません。
なぜならば、この日、その御堂の前の広い広い階段には人一人居ず、御堂に入るときも私どものペースで入れたのにも関わらず、なのです。

そして、お堂を入った瞬間。

口があっと開き、そのまましばし立ち尽くしてしまいました。

そこはまさに慈恵上人さまの空間とはかくあろうという空間だったのです。

天台宗慈恵大師良源さま、別名元三大師さまに対して私が抱いていた印象が具現化されたかのような空間でありました。



No.495

毎月十八日は観音さまの日。
昨日は今年最初のご縁日でした。【初観音】といわれています。

群馬県でいぼ観音と呼ばれるお寺さんがあり、当初こちらの参拝を考えておりましたが、急遽、一昨日そして今日と孫を預かることとなり、体力温存と人混みでの感染リスク回避を考えて、その計画は今回は封印。

聖観音さまをご本尊としてお祀りされているお寺さんにお詣りいたしました。
こちらは別段初観音さまのお祭り等はされていないため、春の日を思わせるようなあたたかく、よく晴れた境内をほとんど独り占めすることができました。

手水舎で清めたのち、鐘を撞いて、御本堂へ。
御本堂では法要が営まれていました。

御本堂前で手を合わせておりますと、ご住職さまがちょうど戸を開けられました。
中へ入っても良いとのこと。

おおっ✨

観音さまのお導きでしょうか。

御本堂では法要の直後ということで、お焼香の火もおこっております。
ありがたい。

お焼香をし、般若心経をお唱えして、昨年一年お守りいただきましたことを感謝申し上げ、能登半島地震の被災地の人々の暮らしが一日でも早く正常化に向かいますこと、地震が終息いたしますことを御祈願申し上げ、今年の無事をお祈りしました。

境内には能登半島地震の義援金の募金箱が設置されておりましたので、わずかではありますが募金をいたしました。


それにしても。
孫を預かるくらいで体力の温存を図るほど体力がないのかと自分でも呆れ情けなくなるのではありますが、
孫と遊ぶのはまさに最高のトレーニング。
なにしろ三十分は軽く走り続けるし。
疲れるとおんぶをねだられるし。
言葉かけも良い言葉を選び、一つでもいいから良い経験になるよう考えて計画するし。

まさに脳も身体も最高のトレーニングとなります。

自分の子育ての時は若さもあり、トレーニングなどと思うことすらありません。
ただただひたすらでありました。


今、孫の面倒でひいこらして思うことは、保育士さんの偉大さであります。
複数の子供を連れてお散歩させてくださる姿には感謝で自然と頭を下げお辞儀をしてしまいます。


さあ、今日もばぁばはお弁当を作って、一時間かけて孫のところへ参ります。

お散歩の途中で氏神さまにご挨拶を申し上げたり、お不動さまに娘一家の無事と幸せを御祈願申し上げます。

良いでしょう?婆婆ライフ♡

No.496

【喜多院さんの続き】

慈恵大師良源さま、別名元三大師さま。

私は度々ここにも書いておりますが、大人になるまで神仏にほとんど関わることない人生を送ってきてしまった者でありますので、〝慈恵大師さまについての印象〟などといかにもよく存じ上げているような口をきいてはおりますが、深く学んでなものでもないのに軽口をたたく愚かな者の戯言とお思いください。


子どもの頃から時々、お邪魔したお宅に貼られている、ムーミンの世界に出てきてもおかしくないような、ハリーポッターの世界でも活躍していそうなキャラクターの姿を、黒一色で描いた札を見かけていました。

それが『降魔札(ごうまふだ)』と呼ばれるものであること。

しかもその絵の姿は、天台宗の高僧が平安の昔、すぐれた霊力をもって鬼の姿となり疫病神を退散したときの姿を写し取ったものであり、『角大師(つのだいし)』と呼ばれること。

その天台宗の高僧の名は【良源】さま(919〜985)といい、荒廃していた比叡山諸堂の復興など数多くの功績を上げられたことから比叡山中興の祖として崇められておりますお方だということ。

良源さまが今も全国のお寺や神社で引かれている、おみくじの創始者であるということ。

良源は生前の名で、元月(がんげつ)三日に入滅されたことから、元三大師の通称で広く親しまれておられること。

…等々。全て、この珍道中をすすめていて知ったことであります。


良源さまを存じ上げなくとも、天台宗と縁がなくとも、おみくじを引いたことのある人は大勢おられますことでしょうし、降魔札を目にしたこともありましょう。

私などはまさにそちらの代表者のような、…いやむしろおみくじをすら引くことのなかったほど、
まさに宗教から離れたところに生きる人間でありました。



No.497

【続き】

こちら喜多院さんの御本堂は本来『慈恵堂』であります。
まさに慈恵上人良源さまをご本尊として祀る御堂でありました。

入った瞬間、お祀りされた御像がいわゆる『仏像』ではないことにも違和感を感じるところではありますが、それだけではない良源さまの気を感じ取って私はしばし立ち尽くした、というのが正しいのかもしれません。

御堂の中の雰囲気もまた、なんとなく、ではありますが、良源さまらしさというものを感じたのであります。
おみくじを作られたり、
ご自身の変身したお姿を写し取らせた降魔札を信徒に配らせたりなさり、信徒の心を掴まれた良源さま、=元三大師さまの
〝降魔札〟や『豆大師札』と呼ばれる御札を御本堂内でお授けされているところなども、『慈恵大師堂』であることにこだわっての〝スタイル〟であろうと思えたのであります。
また、こちらはお姿を描いた御守り札、それを入れる御守りの袋をお授けになっておられます。
他ではシークレットである御守の中身をあえて見せて、そしてその御守りの中身を収める御守りの入れもの、模様や柄も選べるという、粋な御守であります。


民衆に向けての布教の努力の形、とでも申しましょうか?
そういった精神を受け継いでいるというように、私は感じたのであります。

あくまでも〝私の〟であります。

No.498

命日が正月の三日であることから『元三大師』の通称でも親しまれるようになっていった良源さま。

良源さまは呼称が実に多い方で、諡号が慈恵(じえ)さまであることから慈恵大師さま。
元三大師さま。
角大師(つのだいし)・豆大師・厄除け大師。
その他、魔滅大師・降魔大師・御廟(みみょう)大師・木葉(もくよう)大師・本朝大師など実に様々な呼び方があります。


霊力に優れておられた良源さまは亡くなられたのち、次第に比叡山の護法神のような立ち位置になっていったといいます。
やがては良源さまをお祀りすると『外敵調伏に効果がある』、『飢饉や疫病の根絶に力を発する』とされていき、「元三大師信仰」は広まっていったといいます。

こうして平安時代末期から鎌倉時代にかけては画像や彫像の良源像が数多く作られます。
三十三体等身木像が作られ、六十六体像や九十九体像まで作られるようになっていきます。
こうして叡山三塔十六谷どこでも必ず良源の画像か彫像があるほど「元三大師信仰」が広まっていき、それは民間にも広まっていきました。

その信仰の形の一つとしてあるのが、角大師札、豆大師札、厄除大師札、なのだと思います。
いずれも魔除けの護符として現代に至ってなお広い信仰を集めており、ことに角大師の護符は天台宗の有名な寺院で販売されているといいます。
また天台宗の檀那寺においては檀家さんのお宅にその護符を配るところもあるといいます。


この角大師の護符、実に良源さまの生前にすでに作られていたものといいます。

この、…私が不敬にもムーミンだの、ハリーポッターだのの世界に出てきそうな愛すべきキャラのような絵、などと称した角大師の御札の絵は、良源さまが疫病神を退散させるべく請願した際、鏡に映った姿がこの角大師、夜叉の姿であったといい、これを弟子が描き写したものだといいます。

しかも、その鏡に映った夜叉の姿を描き写すように指示されたのは他ならぬ良源さまご本人であったといい、「その絵を御札にして映し置くところには疫病神は近づかず、永く厄災を除く」と弟子に言われたのが始まりであるといいます。


…ただ一つ、思うにたまたま側にいたお弟子さんはもしかして画力が無かったのか、あるいはすでにデフォルメするという優れた才能をもっていたのか。

はたまたあまり人々が怖がることのないよう監修されたものなのか。



No.499

(続き)

『角大師』が元三大師の第一変身形態だとすれば、それを補完するのが『豆大師』に当たるといえます。

などとまたまたトランスフォームのような表現をいたしますなんとも不敬な私でありますが…。

この豆大師というのは、以前のレスで貼付いたしました踊るような角大師さまの護符の隣に挙げました三十三人の座る僧をピラミッドのように描いた護符に描かれている僧のこと。

この三十三という数、ユダヤ教でも聖数と言う概念がありますが、仏教においても三十三は聖なる数字と考えられています。

京都にある有名な『三十三間堂』は【蓮華王院本堂】の内陣柱間が三十三あることから命名されておりますが、いわんやそれはそう意図的に造られたということであります。
『西国三十三所』、『坂東三十三観音巡礼』もみな、その聖なる数字に基づいてのものであります。

これは『観音三十三応現身』と言われ、観音菩薩はあらゆる衆生を救うため、その身を三十三通りの姿に変じるという法華経の教えが由来となっています。

豆大師の三十三人は、鎌倉時代に書かれた『愚管抄』に、
「観音ノ化身ノ叡山ノ慈恵大僧正」と記載があるように、実は元三大師良源さまは観音菩薩の化身と考えられていたのでありました。

実は、伝記によると元三大師さまの母君は観音さまに御祈願をして大師を授かったことから、幼名を『観音丸』(日吉丸ひよしまるとも云う)と名付けたといいます。
このこともあってか、ただただその人並外れた霊力によるものか、大師さまは観音さまの化身・生まれ変わりと信仰され、ご本躰は観音さまの中の如意輪観音とされている、といいます。

No.500

この豆大師についての逸話に次のようなものがあります。


『寛永の初期、河内の国の或るお百姓が、田植も無事済んだ、今年もどうか洪水、ひでり、大風の緒難を逃れて豊作を与え給えと、日頃から信奉する元三大師を、此の堂に詣でて時の経つのも忘れて祈願していた。

その日、昼頃からの小雨が次第に激しくなり、夕頃には山をゆるがすような暴風雨となった。

帰るに帰られぬこのお百姓は、〈水びたしになり、やがて濁流に呑まれる我が田を脳裡にえがいて・・〉

「お助け下さいお大師さま」とひたすらに祈り続けた。

晩近く風雨は止み、お百姓は我が村へ急ぎ走った。

予想通り村の田は皆流され人々は茫然と立ちすくんでいた。

「やっぱり駄目か・・」と力も抜けた足で自分の田に近づいてみると・・「あ、これは?・・」一面濁水のなかに我が田だけは無事無難、苗の姿もそのままである。

村人の話では
「三十余人の子供上がりの若者が、その田の周辺に堤を築き水をかい出して必死懸命豪雨と濁流から守った」といいます。


元三大師は観音さまの化身、ゆえに三十三身に做えて三十三人の若者となりこのお百姓をお救いになった、というお話です。


この角大師と豆大師の御札は二枚セットで授与されることがほとんどであるといい、
角大師の札は『降魔札』、
豆大師の札は『利生札』として玄関の内・外面に貼るように説明をされるといいます。

また、豆大師の護符は、田植が終ると田に立てて、稲の虫よけ、病よけを祈ることとされているといい、今でも全国にわたって行われているといいます。


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